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王公族としての認定基準と構成人員の増加

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王公族としての認定基準と構成人員の増加
王公族としての認定基準と構成人員の増加
王公族としての認定基準と構成人員の増加
一冊立詔書・王公家軌範・「王族譜」「公族譜」を手掛かりとして一
新城 道彦
九州大学大学院比較社会文化学府博士課程
はじめに
日本は韓国併合時に「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」および「李塒及李憂ヲ公ト
為スノ詔書」(以下、両詔書を合わせて冊立詔書と略記する)を公布し、純宗皇帝(李垢)
およびその妃伊氏)、高宗太皇帝(李璽)、皇太子(李壌)の4名を王族として、李堰お
よびその妃(金氏)、李葵およびその妃(李氏)の4名を公族として冊立した(40頁の「王
公族関係図」参照)。王公族とは韓国の統治階級である韓国皇室を日本に編入するために創
設したこの2つの階級を指す。王公族には「皇族ノ礼」が保障されて「殿下」の敬称が用
いられるだけでなく、年間150万円にも及ぶ歳費や不動産および漁業権による収入の確保
が図られたため、王公族として認定されることは旧韓国皇室の各人にとって重要な事柄で
あった1。そこで本稿では、上記8名の他に旧韓国皇室の誰がいつ何を基準に王公族として
認定されたかを明らかにし、韓国併合から朝鮮の解放までの王公族の構成人員とその増加
を提示することとする。
韓国併合を主導した寺内正毅統監は韓国皇室の処遇を「朝鮮統治上ノ最大要件」として
重要視し、王公族が皇族ではないにもかかわらず彼らを皇族のように処遇して韓国民を懐
柔しようとした。そして最終的に統監府と日本政府は皇族とも皇族でないとも見倣せる王
公族の日本における法的位置付けを避け、曖昧なままとした。この王公族の法的位置付け
1韓国併合当時の首相の年俸が1万2千円であったことから考えると、15◎万円(1921年に30万円増額さ
れて180万円)の歳費がいかに巨額であったかがわかる。この他、李王と李王妃には毎月御親用金が支払
われ、その金額は1924年頃で年間9万円であった。9万円は月割りにし、毎月李王に5千円、李王妃に
2,500円が渡された。王族の歳費であるこの150万円から国王職の経費も捻出された。
一方、公族は韓国併合時に供与された恩賜公債(李珊に84万円、李憂に84万円、李註記に16万8千円)
と漁業権、不動産収入によって家政を維持した。不足分は王族の歳費の中から補給金が支給され、その額
は1933年で16万円、1934年で18万1千円、1935年で19万5,961円であった。
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韓国言語文化硬究第16号
の先送りは大正7年に至って皇室典範の改正問題を引き起こすこととなる。それゆえ王公
族は朝鮮統治や戦前の皇室制度を考察する上で無視することのできない重要な研究対象と
いえる。
だがこれまで王公族に関する研究が十分になされてきたとはいえず、王公族の全体像は
いまだ不明瞭である2。王公族の全体像が不明瞭な理由は、誰がいっ王公族になったのか、
またその構成人員がどこまで及んだのかという基本的な部分が解明されてないからだとい
える。それゆえ本稿の主題を明らかにすれば王公族の全体像を捉えるための基礎を固める
ことができるであろう。
ところで王公族の構成人員を考察する上で注意が必要なのは韓国併合から王公家軌範制
定までの期間(191◎年8.月∼1926年12月)にいかなる認定基準で誰がいっ王公族になっ
たかという点である。王公家軌範とは王公族の継承順位や身位などの事項を定めた皇室令
である。この王公家軌範の制定以前に王公族として法的に認定する基準は存在せず、唯一
王公族に言及したものは冊立詔書があるのみであった。しかしこの冊立詔書も王公族にF皇
族ノ礼」を保障することや王および公の隆錫(栄錫)3を世襲する権利を謳っているだけで、
誰がいつ王公族になるのか、すなわち王公族の子がいつ王公族として認定されるのかにつ
いては規定していなかった。それゆえ王公家軌範の制定以前における王公族の子は、皇族
の子や華族の子が生まれながらに皇族や華族になるのとは異なり、誕生と同時に王公族に
はなるとは限らなかったのである4。だが、これまで王公族の子でありながら生まれながら
2大正7年の皇室典範の改正問題に関する研究として、高久嶺之介「大正期皇室法令をめぐる紛争(上)」(『社
会科学』32号、1983年2月)、同「大正期皇室法令をめぐる紛争(下)」(『社会科学』34号、1984年3
月)、島善高「大正七年の皇室典範増補と王公家軌範の制定」(『早稲田人文薄墨科学研究』第49号、1996
年3月)をあげることができる。高久氏の研究は王公家軌範制定過程に王公族と皇族の婚儀問題や皇室典
範の改正といった皇統とかかわる問題が内在し、帝室制度審議会と枢密院の政争を引き起こすことを初め
て論じた研究である。また島氏の研究は平沼験一郎文書を新たに提示し高久氏の成果を補足したものであ
る。王公家軌範の制定に関しては西川誠「大正後期皇室制度整備と宮内省」(近代日本研究会編『宮中・皇
室と政治』山川出版社、1998年、所収)でも言及されている。この他、王公族の法的身分に関する研究と
して、坂元es 一一「益起磐翌寿舎暑叫ユ司を孔門暑調一四号香三唱司杢1駐斗ユ号昇921}Ngg一」
(『刈{}号刈唱望子』第6巻1号、1999年)、金英達「朝鮮王公族の法的地位について」 (『青丘学術論
集』第14集、1999年3月)をあげることができる。しかし王公族の構成人員の全体像やその増加を明ら
かにした研究は管見の限りない。尚、小田部雄次『華族一近代H本貴族の虚像と実像一』(中央公論新社、
2◎06年)、177−178頁で王公族の構成人員は王族が8名、公族が15名だったと書かれているが、これが
いつの時点の構成人員を表しているかは明記されていない。王公族が一度にこの人数に達した年は存在し
ないので、1910年から1945年の延べ人数を述べていると思われるが、この人数は本稿の調査結果と異な
る。本稿では、1910年から1945年の王公族の延べ人数とともに、各年代ごとの構成人員の変化を提示す
る。
3王族は隆錫とされ、公族は栄錫とされた。錫は賜うの意。
4皇室典範の制定までは天皇や皇族の子が生まれながらにして皇族になるわけではなく、宣下親王によって
初めて皇族になるとされていた。また、坊世一剰の思想を維持するために天皇の直系の子はすべて天皇
の養子・猶子とされた。しかしこれらは皇室典範の制定とともに廃止された。
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王公族としての認定基準と構成人員の増加
に王公族になれなかった者がいることに関して、あたかも王公族としての認定のあり方に
差別があったかのように論じられてきた5。それは冊立詔書の文言を考慮していないために
生じた誤解だといえよう。そこで本稿では冊立詔書の文言を念頭に入れ、特に王公家軌範
制定以前の王公族としての認定基準に注意して論を進めていくこととする。
1.韓国併合と王公族の創設
本章では韓国併合時に韓国皇室がどのように日本の中に編入され、どのような経緯で王
公族という新たな階級が創設されたのかをみていぎだい。
1910年5,月30日、胃癌の二二荒助統監に代わって第三代統監に陸軍大臣の寺内正毅が
就任し、韓国併合の機運が一気に高まることとなる。これ以前に「適当ノ時機二二テ韓国
ノ併合ヲ実行スルコト」と大まかな方針を策定した「第一号方針書及施設大綱書」や「王
家ヲ大公殿下トナスコト」6と初めて韓国皇室の処遇方針について言及した「第二号方針書」
が作成されていたが、これらは執筆者である二二鉄吉の説明によると「韓国併合をさう早
急に実現する積りはなく、ゆっくり研究する真の意味の基礎案」7であったという。ところ
が統監就任直後の寺内統監は1910年6,月下旬から7.月上旬にかけて永田町の首相官邸で併
合準備委員会を開催し、韓国併合の大綱のみではなく細目の調整に着手した。柴田家門内
閣書記官長(官房長官の前身)が議長を務め、安広伴一郎法制局長官、中西清一法制局書
記官、後藤新平拓殖局副総裁、江二二拓殖局書記官、若槻礼次郎大蔵次官、児玉秀雄統監
府会計課長、中山成太郎統監府参事官らが参加し、小松緑統監府外事局長と認知外務省政
務局長が原案の作成を担った。委員会では併合後の国称、朝鮮人の国法上の:地位、朝鮮に
おける外国人の権利、韓国の債権債務、官吏の任命、韓国皇室の処分などが議論された8。
小松が併合準備委員会でまず議題に上ったのは「韓国皇室及功臣の処分」であったとして
5本馬恭子『徳恵姫一李氏朝鮮最後の王女一』(葦書房、1998年)や小田部雄次『李方子一一韓国人として
悔いなく一』(ミネルヴァ書房、2◎07年目などでこのような説明がみられる。具体的な内容に関しては本
文第3章にて提示する。
6小松緑『朝鮮併合之裏面』(中外新論社、1920年)、15−17頁に掲載されている倉知から小松への覚書(1913
年3月10H作成)。本稿で引用する史料は、原則的に漢字の旧字体を常用漢字に改め、適宜句読点を付す
こととする。
?倉知鉄吉噸1国併合の経緯」(外務大臣官房文書課、195◎年)〈影印:『明治人による近代朝鮮論影印叢書』
16巻、ぺりかん社、1997年として復刻〉、6頁。
8海野福寿『韓国併合』(岩波新書、1995年)、217頁。
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韓国言語文化研究第16号
いることから、この問題がいかに重視されていたかがわかる。そしてこの問題に関しては、
くママラ くママラ
「現帝の尊称を太公(グラン・デュック)として、世襲とし、先帝は、其一代限り太公と
くママう
すること、及太公家の経費として一年百五十万円を支給する」9という方針が立てられた。
7.月23日、寺内統監は併合準備委員会で練られた案を携えて仁川に上陸した。そして8
月4日から李完用首相の私設秘書である李人植と小松緑の間で予備交渉が行われ、16日に
は統監官邸で寺内統監と李完用首相による併合談判が開始された。ここで寺内統監は、李
乱用首相が他の閣員と協議するときの便宜を図るために韓国併合の趣旨を書いた覚書を手
渡した。覚書の内容は韓国併合に至った概要と条約の詳細説明で構成されていたが、大部
分は併合準備委員会の決定に則した韓国皇室の処遇方法に割かれていた。その概略を記せ
くガかう くママう
ば、韓国皇帝には「太公殿下」、皇太子にはr公殿下」、太皇帝には一代に限って「太公殿
下」の尊称を授け、「三方トモ日本皇族タル礼遇ヲ賜ハルヘシ」「現皇帝、太皇帝両陛下及
皇太子殿下ノ受ケ居ラルル宮廷費ハ毫贅モ減少スルコトナク其ノ全額ヲ右三方二供給セラ
ルヘキ」となっていた10。寺内統監の説明を聞き、覚書を一読した李応用首相は、唯一の希
望として「国号ハ依然韓国ノ名ヲ存シ皇帝ニハ王ノ尊称ヲ与ヘラレタキ灘ト」を申し入れ
た。李小用首相が国号と二号の2つを守ろうとしたのは、併合後においても韓国の「国家j
としての「名」を維持しようとしたからであったため11、当然のことながら寺内統監はこの
申し入れを拒絶した。対する李完用首相は、いったん趙重応農商工部大臣と協議した後に
同大臣を介して韓国側の出方を伝達するとして、わずか30分で統監官邸を退出していった。
趙重応農商工部大臣が国号と二号に関する韓国側の考えを伝えるために統監官邸を訪問
したのは、同日午後9時のことであった。ここで趙重応は、「大体二於テハ異議ナキモ」と
前置きした上で「国号迄モ失フニ至リテハ著シク韓国上下ノ感情ヲ害シ紛擾ヲ来スコトナ
キヲ保シ難シ、王称口止リテモ古来ノ歴史日照ラシ襲二清国二隷属シタル時代二用ヒタル
称号ヲ其ノ儘踏襲セムトスル鳳声ナラス」と申し出た。その上で「若シ此二点ニシテ双方
ノ意思一致スルヲ得サルニ於テハ妥協ノ途ナキニ苦シム」12という李完用首相の言葉を伝え、
臼本側がこの点に関して譲歩しないならば条約締結には応じないと強気に出た。一方の寺
内統監は13日に桂首相に対して翌週末までの「時局解決」を伝えていたため13、この時点
9小松前掲書『朝鮮併合之裏面』、90頁。
10寺内正毅「韓国併合始末」〈影印:海野福寿編『韓国併合始末関係資料』、不二出版、1998年として復刻〉、
13−19頁。
ll木村幹『朝鮮/韓国ナシssナリズムと「小国」意識』(ミネルヴァ書房、2◎◎2年〉、268頁。
ま2寺内前掲書、3◎一31頁。
ユ3『韓国併合二関スル書類着電』(191◎年作成、国立公文書館所藏)、8月13H午後4時40分発一14日
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で併合談判を反故にするわけにはいかなかった14。そこで「韓国ノ国号ヲ自今朝鮮ト改ムル
=ト」「皇帝ヲ李王殿下、太皇帝ヲ太王殿下及皇太子ヲ王世子殿下ト称ス」15という2件を
筆記し、これを日本政府に稟議してみるという譲歩案を提示した。趙重応農商工部大臣は、
国号に関しては「北海道」をもじった「南海道」に変えられるのではないかという点を心
配していただけであり16、嘲鮮ノ名ヲ存セラルル目今テハ誠二幸ナリ」17と答えて統監府側
の案に理解を示した。一方二号に関しては、小松緑が『明治外交秘話』の中で「趙〔重出〕
は李王といふのが気に入らない様子であったが、それを:朝鮮王殿下と直したいとも言ひ兼
たらしい」18と記しているように、「李王」という名称が寺内統監と趙重応農商工部大臣の
間のぎりぎりの妥協点であったことがわかる。
こうして韓国皇室の処遇方針は転換を余儀なくされ、日本は論宗皇帝(馬面)を李王、
高宗太皇帝(李喫)を李太王、皇太子(李堤)を嘉世子として冊立することとなった。た
だし、傍系の李綱および李夷はそのまま公として冊立されることとなった。このことを記
した冊立詔書は韓国併合条約が施行された8月29日に以下の内容で公布された19。
「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」
朕天壌無窮ノ 基ヲ弘クシ国家非常ノ礼数ヲ備ヘムト欲シ前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為
シ昌徳宮李王ト称シ嗣後記ノ隆錫ヲ世襲シテ以テ其ノ宗祀ヲ奉セシメ皇太子及将来ノ
世嗣ヲ王世子トシ太皇帝ヲ太主ト為シ徳寿宮面恥王ト称シ各其ノ催匹ヲ王妃太王妃又
ハ出世子妃トシ並二級ツニ皇族ノ礼ヲ以テシ特二殿下ノ敬称ヲ用ヰシム世家玉壷ノ道
二至リテ目遣ハ二二別二其ノ軌儀ヲ定メ李家ノ子孫ヲシテ変葉之二頼リ福履ヲ増纈シ
永ク休祉ヲ享ケシムヘシ藪二有衆二宣示シ用テ殊典ヲ昭ニス
f李燗心添奏ヲ公ト為スノ詔書」
訴訟フ門馬鋼及李嘉ハ李王ノ酪親ニシテ令問夙直鎖ハレ模域ノ面一タリ宜ク殊遇ヲ加
午前1時5◎分着、寺内統監から桂太郎首相宛。この史料は公文三哲『韓国併合二関スル書類』と名称が似
ているが、「公文別録」ではなく「単行書jという別の分類の公文書ある。『韓国併合二関スル書類発電』
には日本政府が発した電報が収録されており、『韓国併合二関スル書類着電』には日本政府へ発せられた
主に統監府からの電報が収録されている。以下『発電』『着電』と略す。
14「保護及併合」(市川正明編『日韓外交史料』第8巻、原書房、1980年)、331頁。
15寺内前掲書、33頁。
16小松緑『明治外交秘話』(千倉書房、1936年)、463頁。
17寺内前掲書、32−33頁。
18小松前掲書『明治外交秘話』、464頁。
19井原頼明『皇室事典』(冨山房、1938年)、192頁。
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錫シ其ノ儀称ヲ豊田スヘシ菰二特廃盤ト為シ其ノ配転ヲ公妃トシ並田鼠ツニ皇族ノ礼
ヲ以テシ殿下ノ敬称ヲ用ヰシメ子孫ヲシテ此ノ栄錫ヲ世襲シ永ク寵光ヲ享ケシム
この詔書が示しているように、王公族の「世家率循ノ道」に関しては別に定めるとされ、
韓国併合時に彼らを規定する法令は何も制定されなかった。これは韓国政府閣僚のために
創設した朝鮮貴族という階級が「朝鮮貴族令」(明治43年皇室令第14号)によって明確に
規定されたのとは対照的であった。
また冊立詔書で王公族には「皇族ノ礼」が保障されたため彼らが皇族のどの班位(序列)
に位置するかについて定める必要があったが、これも結局定められることなく終わった。
統監府は条約締結前日の8月21日に日本政府に対して電報を送り、藩王および三太王は日
本皇太子の次に、王世子および親族たる霜気と李夷は宣下親王の次に列するというように、
韓国皇帝を皇族のほぼ最上位に位置付ける案を伝えていた20。この問題は宮中でも重視され
ており、徳大寺実則内大臣は23日に渡辺千秋宮内大臣に対して「王の席順等は急激に改む
るの必要も無記、却て感情を害する事急なしとも申難く、由て席順を定むる必要生せし時
にて可然御沙汰に品品、御出迄に申虚心候」21という書簡を送っている。王公族の皇族に対
する温位規定が見送られた明確な理由はわからない。しかし条約公布前Hの28日に柴田内
閣書記官長が児玉統監府秘書官に対して「是ハ単二急グ必要ナシト云フノミニアラズ、(御
思召)ノ次第モアルニ晶晶レ克ク首相統監ノ間協議ヲ要セラルルヲ以テナリ、右ノ次第故
韓国側ヘノ〔影〕響モアルベク御注意相成タシ、右為念」22と電報していることからもわか
るように、王公族の爵位が規定されなかった理由は単に時間的な余裕がないときに無理し
て定めるべきではないと考えられたからだけではなく、何らかの「御思召」があったから
だといえる。
以上、韓国併合時に韓国皇室が法的規定を持たない曖昧な王公族として日本に編入され
た過程をみてきた。ではそのように法的に規定されない王公族の構成人員はその後どのよ
うに変化していったのであろうか。それを次章でみていく。
29『着電』、8月21日午後0時4◎分発一午後3時57分着、児玉統監府秘書官から柴田内閣書記官長宛。
21長井純市編『渡辺千秋関係文書』(山川出版社、1994年)、149頁。
22『発電』、8月28日午前9時40分発、柴田内閣書記官長から児玉統監府秘書官宛。
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王公族としての認定基準と構成人員の増加
2.王公家軌範制定以前に婚姻や襲系によって王公族になった者たち
前章でみてきたように、韓国併合によって創設された王公族の処遇は曖昧なままとされ、
日本における法的位置付けは先送りにされた。そのことが問題視されたのは1916年9月に
伊東巳代治が大隈重信首相に提出した「皇室制度再審議」の中においてであった。これを
契機として11月4日に宮内省内に帝室制度審議会が設置され、伊東が総裁となって王公家
軌範の制定に着手することとなる23。
帝室制度審議会作成の王公家軌範案は前文に「王公族ハ国法上皇族二準シテ其ノ待遇ヲ
享クルハ条約及ビ詔書二之ヲ観ルヘク、一般臣民ノ遵由スヘキ法規ヲ以テ王公族ヲ律スヘ
カラサルハ疑義ヲ容レス」24と明記されていることからわかるように、王公族を準皇族と見
倣して一般法令を適用すべきではないとしている点に特徴があった。それゆえに、枢密院
審査委員会への上馬において「不忠不義」との反発を受け、審議は頓挫することとなる。
結局、王公家軌範の制定は困難となり、9.月23日に波多野敬直宮内大臣から寺内首相に王
公家軌範案撤回の照会がなされると、25日には枢密院から正式に撤回された。これにより
王公家軌範の制定はさらに先送りされ、その制定は1926年12 .月まで待たなければならな
かった。
では韓国併合から王公家軌範制定までの16年の間に誰が王公族になったのであろうか。
たとえ王公族の子が王公族であることを規定した王公家軌範が制定されなくても、冊立詔
書には王族および公族の妃をそれぞれ王妃および公妃にすることや王公族の隆錫(栄錫)
を世襲することが明記されていたので、この期間であっても婚姻もしくは襲系によって王
公族になる者が存在した。そこで以下に、王公家軌範の制定以前に婚姻もしくは襲系によ
って王公族になった4名についてみていくこととする。
まず婚姻によって王公族になった者としては、王族の王世子李壌に嫁いだ皇族梨本宮方
子をあげることができる。方子は19◎1年11,月4H午前7時40分、梨本宮守正と伊都子
妃の長女として生まれた。19◎8年に学習院女子部小学科第一年級に入学し、1914年には中
学科に進学、そしてその2年後の1916年に新聞を通じて滋強との婚約を知らされることと
23F皇室制度再査議jは王公家軌範制定の必要性を訴えるだけでなく、帝室劇度調査局にて起草・上奏した
皇室令を含む法案のうち18案がいまだ制定されていないので、それを制定する必要性を訴えるものでもあ
った。ただし、その結果として編成された特別委員の人的配置をみると、「第一特別委員」となった「李王
家関係ノ諸案起草」に重点が置かれていたことがわかる。高久前掲書「大正期皇室法令をめぐる紛争(上)]、
184頁。
24『枢密院会議議事録』第2◎巻(東京大学出版、1985年〉、139頁。
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韓国言語文化研究第16号
なる。しかし皇族は皇室典範第39条の規定職こよって皇族もしくは華族にしか婚嫁できな
いことから、この縁談はなかなか現実のものとならなかった。そこで李堤と梨本宮方子の
婚儀を実現するtcめに皇室典範を改正することとなり、1918年11月1日の臨時枢密院本
会議と翌2日の皇族会議を経て皇室典範第39条に「皇族女子ハ王族又ハ公族二二スルコト
ヲ得」の一文が増補されることになった。これにより婚儀計画は前進し、12月8Hには納
すもも
采の儀i(=結納)が行われて、李壊から梨本宮方子へ李(李王家の紋章)をかたどったダ
イヤの婚約指輪が贈られ26、13日には告期の儀が行われて婚儀の期臼が翌年の1月25日で
あることが告げられた。これでやっとのこと婚儀が実現されるかと思われたが、挙式直前
の1月21日に李二王が急逝したことによってこの計画はさらに先延ばしとなり、1年後の
1920年4月28Hに挙行された。これと同時に方子は王世子妃となり、皇族を離れて王族
に属することとなったのである。
次に襲系によって王公族に属することになった者として、まずは李蔓の息子である謡言
鋸があげられる。彼は1870年6月25日に李爽と洪氏の間に生まれた。冊立詔書には、李
葵と李埆および彼らの妃を公族として冊立するがその子を公族とするという記述はどこに
もなかったため、李竣鋸は韓国併合とともに公族とはならなかった。ただし公族に関する
冊立詔書には「子孫ヲシテ此ノ栄錫ヲ世襲シ永ク雷光ヲ享ケシム」ということが明記され
ていたので、1912年9月9日に李憂が墓記すると同時に李竣鋸が公を襲漏して公族となっ
た。また、李竣鋳は1894年に金在鼎の二二氏と結婚していたので、彼女も李竣鋳の襲系と
同時に公妃として公族に属することになった。
ところが李竣鋸は公を襲系した5年後の1917年3.月22日に莞乱してしまう。このとき
李竣鋳と金氏の問に嗣子がいなかったので、李堰の次男である李鋼(当時5歳)を養子に
迎えて公を継がせることとなった。二項は1912年11月15日に李鋼と金興信の子として生
まれたが、李山鼠と同様、1917年5,月25日の公の襲系までは公族ではなった。彼が公族
になったのは公の風系以後である。
以上、韓国併合時に王公族として冊立された8名以外で、1926年の王公家軌範制定以前
に王公族に属することになった4名をみてきた。ただし王公家軌範制定以前は王公族とし
て認定する法律が存在しなかったため、この12名は法的に王公族なのではなく、冊立詔書
25「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨二由リ特二認許セラレタル華族二限ル」
26この他に頭飾り、髪飾り、首飾り、腕輪が三越にて謹製された。頭飾りには純金製の台にダイヤ、真珠等
が無数に散りばめられ、周りには月桂樹が巻かれて駝鳥の白毛が配されていた。『京城日報』1918年11月
22日
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王公族としての認定基準と構成人員の増加
の解釈において王公族であったに過ぎなかった。では、1926年の王公家軌範制定によって
王公族の認定基準はどのように規定されたのであろうか、そしてその規定によって王公族
の構成人員にいかなる変化が生じたのであろうか。それを次にみていぎだい。
3. 「王族譜」「公族譜」による王公族の構成人員の確定
1918年に枢密院審査委員会への諮詞で否決された王公家軌範案は、1926年10,月29日
に再び枢密院に回され、11月5日に審査報告が行われた。そして10日にすんなりと原案通
り可決され、12月1Hに皇室令第17号として公布された。1918年当時との違いは第22
条「王公族淫薬其ノ皇族ト相渉ル事項野付テハ皇族二関スル規定ヲ適用ス王公族ト人民ト
ニ渉ル事項:二付テハ王公族二関スル規定二依ル」、第n2条「皇族女子王公族二嫁スルトキ
ハ結婚ノ礼ヲ行フ前賢所皇霊殿神殿二謁シ且天皇皇后太皇太皇后太后二朝見ス」および附
式第3「皇族女子王公族二才スル場合二丈ケル式j「賢所皇霊殿神殿二謁スルノ儀」がすべ
て削除された点にあった27。このことから王公家軌範制定の障碍は第112条のように王公族
を皇族と同様に取り扱う条文にあったことがわかる。
王公家軌範の中で王公族に関する規定は以下のようになっていた28。
王族:「王家」に属し、①王と王妃、②王の子、③隠居した王およびその子、④王の長
子孫の系統に在る者およびその子、⑤前項に掲げた者の配偶者、のいずれかの条件を
満す者。(第14条)
公族:「公家」に属し、①公と公妃、②公の子、③隠居した公およびその子、④公の長
子孫の系統に在る者およびその子、⑤前項に掲げた者の配偶者、のいずれかの条件を
満す者。(eg 15条)
前2条に定める王公族の子で「王家」もしくは「公家」にある女子。
27島前掲書、46頁。
28坂:元前掲書、180頁。
一 27 一
韓国言語文化研究第16号
ここで新たに「王家」「公家」という用語が出てきているが、これは王および公を戸主と
して、王族および公族を家制度に当てはめたものと考えればよい。つまり家(「王家」「公
家」)への出入りに連動して王族・公族といった身分の得失がなされることになったのであ
る29。たとえば、王公族は成人した後に請願によって朝鮮貴族になれるが、朝鮮貴族になっ
た者は「王家」もしくは「公家」を離れて朝鮮内に「一家創立」をしなければならなかっ
た(第61条)。そして配偶者、直系卑属、直系卑属の配偶者はすべてその家に入るとされ
た。また女性が王族または公族の男性と結婚した場合、彼女はfEE家」もしくは「公家2
に入り、王族もしくは公族の身分になるとされた(第14、15条)。もし未亡人になった場
合は許可を得て実家に復籍できたが、そのときは王公族の身分を喪失するとされた。この
他、「王公族ヨリ内地ノ三二入リタル三三内地ノ家ヲ去り王公家二入リタル者ノ戸籍等二関
スル法律」(法律第51号)および「王公族ヨリ朝鮮ノ二二入リタル者及朝鮮ノ家ヲ去り王
公二二入リタル者ノ戸籍等二関スル法律」(制令第12号)によると、王公族の者が婚姻や
養子によって内地もしくは朝鮮の家に入り、その後離婚や罷養によって内地もしくは朝鮮
の家を離れることになっても、再び「王家」「公家」に戻ることはできず、「一家創立」す
ると規定されていた。このように王公族身分の得失は家制度に連動した形で規定されるこ
とになったのである。
しかし、王公家軌範には王公族であるための最低条件たる「王家」「公家」に属する者が
誰なのかという明確な規定が設定されていないため、これだけで王公族の構成人員を確定
することはできない。そこでこの問題に一定の解決策を提示するのが、1927年に制定され
た「王公族譜規定」(宮内省令第10号)によって作成された「王族譜」および「公族譜」
である。「王族譜」および「公族譜」とは王公族の系譜が登録されたいわゆる戸籍簿のよう
なもので、その体裁は天皇および皇族の系譜が登録された「皇統譜」に似ている。坂元氏
が指摘しているように、王公家軌範によって確定した王公族の名が「王族譜」および「公
族譜」に記載されているとするのが論理的な順序であるが、王公家軌範から王公族を特定
できない以上、fEE族譜jおよびf公族譜」の記載から誰が王公族なのかを探し出すのも一
つの方法として可能であろう3e。ただし、坂元氏はこの有益な方法を提案しているだけで実
際に「王族譜」および「公族譜」の調査はしておらず、それゆえ王公族の構成人員を確定
してはいない。
29坂元前掲書、180頁。
3◎坂元前掲書、181−182頁。
一 28 一
王公族としての認定基準と構成入員の増加
f王族譜」およびf公族譜」は、大きく分けて①「王族譜」②「李太王王族譜」③「李堰
公二二族譜」④「高等晶系公族譜jの4つで構成されており、これがそれぞれ「王家」(①
②)と「公家」(③④)を表していた31。この①から④を利用して以下に王公族に属した人
物の一覧表を作成した。Aには誕生年月日および両親の名を、 Bには王族もしくは公族の身
分になった年月日を、Cには婚嫁などによって王族もしくは公族の身分を喪失した年月日を、
Dには「王族譜」および「公族譜j間の移動があった年月日を記した。圧族譜」および「公
族譜」からは明確に判断できない場合は、横に(推測)と書き、推測した理由を併記する。
尚、「王族譜」および「公族譜」には「皇統譜」と同様名のみが記されたので一覧表におい
ても名のみを表記することとした。また名前のフリガナはf王族譜」およびf公族譜」の
記載のままとした。
王族譜
第一世
セキ
(1> 柘
イン
(2) 歩氏
A1874年2月8日
李喫(高宗)と闘氏(明成皇后)の間に生まれる。
B1910年8月29日
韓国併合の際、王として王族となる。
A1894年8月20日
歩沢栄と楡氏の間に生まれる。
B1910年8月29日
韓国併合の際、王妃として王族となる。
A1897年10月20日
李喫(高宗)と厳氏の間に生まれる。
B191◎年8月29日
韓国併合の際、王世子として王族となる。
A1901年11.月4日
梨本宮守正と伊都子の間に生まれる。
B1920年4月28日
李堤への婚嫁により王世子妃として王族となる。
第二世
ギン
(3) 壊
マサお
(4) 方子
31f王族二戸李二王王族譜」「李堰公系公族譜jf李憂公二三族譜」はさらに「第三世王族譜jf第戴世王族
譜」「李太王族譜jf高幡公系第壷世李綱公族譜」「李埆公系第戴世簿記公族譜」「亡羊公系懇親世李喪公族
譜」「李葵公系第武世李竣公族譜」「李夷公系第参世李鋼公族譜」で構成されていた。これらは旧李王職図書
館である韓国中央研究院の蔵書閣に所蔵されている。
一 29 一
韓国言語文化研究第16号
(5)警
A1921年8月18日
B
蝶理と方子の間に生まれる。
(推測:王公家軌範制定以前の1923年に早世し
ているので、当時は王族とは見微されなかった
が、王公家軌範制定後に遡及して王族と見倣さ
れ、王族譜に記載されたと推測される。それゆえ
王族となった年月日は不明。)
キウ
(6) 玖
A1931年12月29日
李壊と方子の間に生まれる。
B 1931年12月29日
王の子として王族となる。
A1852年7,月25日
獣慾書院王(露呈応)と純穆大院妃(関氏)の間
李太王王族譜
ケイ
(7) 騨
に生まれる。
堤
B 1910年8月29B
韓国併合の際、太王として王族となる。
D1926年4,月26日
平平の響町によって王を襲平したことにより、王
族譜第二世に移動する。王族譜第二世(3)参照。
トクケイ
(8) 徳恵
A1912年5.月25日
李襲と三春基の間に生まれる。
B1926年12,月1目
王公家軌範の制定とともに王族となる。(推測:
李国王王族譜にはこのような記述はないが、王公
家軌範の規定から推測)
C1931年5,月8日
伯爵宗武志への婚嫁により王家を離れて王族で
はなくなる。
方子
D1926年4月26日
李坂が王を襲系したことにより、王族譜第二世に
移動する。王族譜第二世(4)参照。
晋
D1926年4.月26日
李堤が王を襲系したことにより、王族譜第二世に
移動する。王族譜第二世(5)参照。
李増公系公族譜
第一世李燗
カウ
(9) 燗
A1877年2月16日
李喫と二王の間に生まれる。
B191◎年8月29欝
韓国併合の際、公として公族となる。
一 30 一
王公族としての認定基準と構成入員の増加
キン
(10) 金氏
ケン
(11) 鍵
A1880年1月21日
金中手と黒氏の問に生まれる。
B1910年8月29日
韓国併合の際、李堰公妃として公族となる。
A1909年10月28日
李綱と鄭氏の問に生まれる。
B1926年12,月1日
王公家軌範の制定とともに公族となる。(推測:
李塒公系公族譜にはこのような記述はないが、王
公家軌範の規定から推測)
D1930年6.月12日
李鋼の隠居により李鋼公系第二世李鍵公族譜に
移動する。
グ
(12) 鋼
A1912年11月15日
李塒と中興仁の問に生まれる。
B1917年5月25日
李竣鋳の継嗣となって斜影公家を襲系したこと
により、公族となる。
D1917年5.月25日
李竣公家を襲系したことにより、李嚢公系第三世
李鋼公族譜に移動する。
第二世李鍵
野堰公男節族譜第一守手堰(11>参照。
(1 3)
キ折
(15)
砂沖
(14)
ノ ノレコ
(16) 沃子
A1911年10,月6日
松平絆と俊子の間に生まれる。
B1931年10,月5日
李鍵への婚嫁により公妃として公族となる。
A1932年8月14日
李鍵と誠子の間に生まれる。
:B1932年8月14日
李鍵の子として公族となる。
A1935年3月4日
李鍵と誠子の間に生まれる。
B 1935年3.弓4日
李鍵の子として公族となる。
A1938年12,月19日
李鍵と誠子の間に生まれる。
B1938年12,月19日
李鍵の子として公族となる。
A1845年7月20日
二丁ミ大二王(三巴応)と純二大院妃(閲氏)の間
李奏公系公族譜
第一世李奏
キ
(17) 夷
に生まれる。
一 32 一
韓国言語文化研究第16号
韓国併合の際、公として公族となる。
A1883年6.月7日
李高話と李氏の間に生まれる。
B1910年8,月29日
韓国併合の際、李憂公妃として公族となる。
A1870年6,月25日
李夷と洪図の間に生まれる。
B1912年9,月9日
李喪の亮去によって公を襲系したことにより、公
ジ
B1910年8月29日
(1 8)
沁竣
ン
帥鋳
(19)
李氏
族となる。
D1912年9月9日
公を襲豪したことにより、李夷公系第二世李竣公
族譜に移動する。
(20)
キン
金氏
A1878年6月19日
金在鼎と禁氏の間に生まれる。
B1912年9,月9日
李竣鋸が公を襲系したことにより、李竣鋸公妃と
して公族となる。
D1912年9月9日
李竣鋳が公を襲系したことにより、李獲公系第二
世李竣公族譜に移動する。
キン
(21) 金氏
1879年8.月18H
金座日と李氏の問に生まれる。
不明
1917年12 .月12日
二二敢鋸の継嗣として一家を創立した李海明の
家に入ったことにより、公族ではなくなる。
学
(22)
園氏
Al. 871年2.月3日
B
挙手と李氏の問に生まれる。
(推測:王公家軌範制定以前の1912年8月29
日に莞下しているので、当時は公族とは見倣され
なかったが、王公家軌範制定後に遡及して公族と
見倣され、公族譜に記載されたと推測される。そ
れゆえ公族となった年月日は不明。)
第二世李竣公族譜
鋸氏#碗
竣金汐辰
(23)
李夷公系公族譜第一世李奏(19)参照。
李蔑公表公族譜第一世息急(20)参照。
A1916年5月18日
李竣鋸と全順嚇の間に生まれる。
B1926年12月1日
王公家軌範の制定とともに公族となる。(推測:
李夷公系公族譜にはこのような記述はないが、王
公家軌範の規定から推測)
C1934年12月20H
サ出漁の六男素面への婚嫁により、公家を離れて
公族ではなくなる。
一 32 一
王公族としての認定基準と構成人員の増加
第三世李進駐族譜
勃涼
(26)
一清
(25)
甑珠
鋼妙三
〈24)
李尊公系公族譜第一世李塙(12)参照。
A1914年12.月U日
朴H緒と朴元込の間に生まれる。中本孝の孫娘。
B1935年5月3臼
橘湾への婚嫁により李鍋公妃として公族となる。
A1936年4.月23日
李鋼と朴賛珠の間に生まれる。
B1936年4月23欝
李鍋の子として公族となる。
A1940年11月9臼
李鋼と朴念珠の間に生まれる。
B1940年11.月9目
李鋼の子として公族となる。
上記表に関して、数箇所補足しておきたい。まず、(5)李晋、(8)李徳恵、(11)李鍵、(22)
李氏、(23)李辰碗の5名は王公族の子として生まれているが、王公家軌範の制定までは王公
族ではなかったと考えられる。これは先にも記した通り、冊立詔書には韓国皇帝(李妬)、
太皇帝(李製)、皇太子(李壌)、李塒、李夷とその妃の計8名を王公族として冊立しさら
にその隆錫(栄錫)を世襲する権利が明記されていたが、彼らの子が生まれながらに王公
族になるとは書かれていなかったからである。つまり王公族の子も王公族になることが規
定された王公家軌範の制定(1926年12月1H)以前に生まれた王公族の子は、李竣鋳や
李鋼のように親の栄錫を世襲した瞬間においてのみ王公族になりえたのである。上記5名
のうち李晋、李氏は王公家軌範制定以前に早世しているので、実際は王公族ではなかった
と考えるべきであろうが、「王族譜」「李嘉公系公族譜」には2人の名前が記載され、王公
族として扱われている。その理由は「王族譜」「李葵公葬公族譜」を作成する過程で、すで
に亮去している李晋と李氏に、王公族の子は王公族であるという王公家軌範の規定を遡及
して適用したからであろうと考えられる。
1912年5月25日に駅馬王と回春基の問に生まれた李徳恵に関してはさらに注意が必要
である。本馬恭子氏は『徳恵姫一李氏朝鮮最後の王女一』の中で、李徳恵が生まれながら
に王族になれなかった理由として、①徳恵の出生時、砲撃が退位して李太平の地位であっ
たから、②母の梁貴人が高貴な身分の出ではなかったから、それゆえ梁貴人も王族になれ
なかった、③日本が王族の増加を望んでいなかったから、の3つをあげている32。また小田
32本馬前掲書、41・一・42頁。
一 33 一
韓国言語文化研究第16号
部雄次氏も『李方子一一韓国人として悔いなく一』の中で①と②の理由をあげている33。し
かしすでに説明しているようにこの3つの理由で李徳恵が王族になれなかったわけではな
いことは明らかである。①のように李徳恵は出生時にすでに高州が退位して李太王の地位
であったから王族になれなかったのではなく、王公家軌範制定以前に生まれたために李晋、
李鍵、李氏、李辰碗、李竣鋳、李鋼と同様、単に冊立詔書に王公族の子が王公族になると
いう規定がなかったから王族になれなかったといえよう。また②の梁貴人が高貴な身分の
出ではなかったから李徳恵も王族になれなかったという説明は推測でしかなくそれを裏付
ける史料はない。王族の冊立詔書に李太王の妃は太王妃として王族になるという規定があ
りながら梁貴人が王族になれなかった理由は、身分が低かったからではなくむしろ正室で
はなかったからだと考えるのが妥当であろう。脚病の母厳儀や李埆の隔年氏が王族となっ
ていない理由もこれによって説明できる。李徳恵や李坂の父である李太王の正室は関氏(明
成皇后)だけであり、唯一彼女のみが太王妃になる権利を有していたのである(ただし関
氏は1895年頃暗殺されて韓国併合時には存在していなかったので王族にはならず、それゆ
え王族譜に載せられていない)。③の理由に関しては、冊立詔書に隆錫(栄錫)を世襲する
権利を明記したり、わざわざ寒極を李竣鋸の家に入養させて公を継がせたことと矛盾する。
また、もし日本政府が王公族の増加を望んでいなかったのならば、わざわざ王公家軌範を
作成して王公族の子が王公族になるという規定を設けなかったはずである。
『李王宮秘史』には、李太王が晩年にできた愛児徳恵を王族にするために苦心していた
というエピソードが書かれている。そしてこの問題は李太王が寺内総督に働きかけたこと
で、「暫くして一切の問題は芽出たく解決し、徳恵姫は完全に王家の籍に入りて李糠蝦の王
女として宮内省にも明らかに達せられた」34と説明されている。しかしこの「暫く」がいつ
なのかは明記されていない。『李王宮秘史』の出版が1926年8月なので12.月の王公家軌範
制定以前であることは明らかだが、「李太王王族譜」には李徳恵が王公家軌範制定以前に王
族になったことを示す記述はない。また王公家軌範第213条には「故駅太王ノ子ニシテ王
家二在ル者ハ之ヲ王族トス」と明記されているが、これは明らかに李徳恵を想定し、李徳
恵を王族にするために設けられた条項である。それゆえ、李徳恵が王公族となったのは王
公家軌範制定時と考えるのが妥当であろう。
次にf平字公憤公族譜第一世李夷」に記載されている(2D金管であるが、先行研究におい
33小田部前掲書、172頁。
お4権藤i四郎介『李王宮秘史』(朝鮮新聞社、1926年)、286頁。
一 34 一
王公族としての認定基準と構成人員の増加
て彼女の存在に言及したものはない。それゆえ「李寒剤系公族譜第一世李夷」の調査によ
って新たに発見された公族といえよう。彼女は李裏の子である李敢鋳と1891年に結婚した
が、畑谷鋸が1901年に蔓忘したため未亡人となっている。王公家軌範第68条には「婚嫁
膿血リ王公無二入リタル女子其ノ夫ヲ亡ヒタルトキハ王又丸公ノ許可ヲ得テ実家二復籍ス
ルコトヲ得但シ妃ナルトキハ尚勅許ヲ受クヘシ」という規定があり、王公族の妃はたとえ
未亡人になってもそのまま王公族としてあり続けることができたことがわかる。それゆえ、
あくまで推測でしかないが、李晋や李氏に王公家軌範が遡及して適用されたように金鉱に
も王公家軌範が適用され、その結果「李夷公系公族譜第一世李蓑」に記載されたのではな
いかと考えられる。夫の李敢鋸が「李夷公自公族譜第一世李憂」に記載されていない理由
は、李喫の正室関心と同様、韓国併合以前に莞逃しているからであろう。
この金氏に関しては不明な点が多い。たとえば「李直面心心族譜第一世世動には彼女
が公族となった年月日が記載されていないため、その期Hを特定することができない。ま
た彼女は王公家軌範制定以前の1917年12,月12日に公族を離れて雲海明の家に移っている
が、李敢鋸の継嗣である島陰明がなぜ公族ではないのかも不明である。これらの点は今後
の課題としたい。
以上のことから王公族の構成人員を導き出すと次のようになる。まず1926年に制定され
た王公家軌範の規定を韓国併合当時まで遡及させて適用する場合、すなわち「王族譜2f公
族譜」に名前がある者をすべて王公族と見倣した場合、王族8名、公族18名の合計26名
となる。次に王公家軌範の規定を遡及させない場合、すなわち韓国併合時に冊立された8
名の王公族の血縁者でも王公家軌範制定以前に莞去もしくは離籍した者は王公族と見倣さ
ない場合、上記の26名から李晋、金氏、李氏の3名が除外されるので、王族7名、公族
16名の合計23名となる。
上記26名が王公族に属していた期間を表にすると以下のようになる。王公家軌範の規定
を遡及して適用した李晋、金氏、李氏の3名は白抜き線とし、それ以外は黒線とした。こ
の表から王公族の構成人員は、韓国併合時の1910年8月29日現在で8名、王公家軌範制
定時の1926年12月1日現在で11名、朝鮮が解放された1945年8月15日現在で16名35
と増加していったことがわかる。
35李鍋は1945年に陸軍中佐として広島に赴任していたため、8月6日に本川橋西詰所付近で原子爆弾に被
爆した。その後、似島の臨時救援所に収容されたが翌7日に莞目した。それゆえこの人数は8月6日現在
で17名であった。在日大韓民国居留民団広島県本部が韓国人原爆犠牲者慰霊碑を建立したのは李鋼が被爆
した本川橋西詰所北側である。尚、公は9Hに息子の李清が第四世として襲系した。
一 35 一
韓国言語文化研究第16号
⋮︸ 亭
噸⋮⋮
$ ⋮ =紗 匿 , 唱9 嘘 5 貞 = の
◎ 婚 婁 , ⋮ 影 ρ 夢 P ,
⋮⋮⋮ ● , ◎
≡ 猛 ⋮⋮⋮
竃肇⋮⋮韮⋮硬q 磯含◎ 硬 曹 Q 鰭 零鯨鯨 脅 簿艶身
ぞ ,
⋮⋮蔀 ⋮蜜 ⋮ ε毒
⋮⋮一 ρ9・ ◎ ‘ ‘⋮Gま蓬3⋮一華30⋮奮⋮ ひ;
⋮韮⋮重重奎 儂 硫 9; ◎ ‘茎 ¢ 蓬⋮蓼⋮雲⋮3撃,; ⇒ ○ 葬;g
吟 = ψ ぐ ψ 7
⋮⋮ 霊⋮⋮⋮ 3⋮⋮韮⋮⋮⋮§
; 審; 書 5 蓼 塾 町︸ ひ
藍 暫 暫 レ 妻 塞 ひ ≧ 盲韮書 ⋮ 御璽蓼 ︸濫
職 6 曹驚 蟹 修 監嚢曹 ⋮ 魯 濫程 ζ い 学 P
量⋮⋮⋮ 翫 し 監 ぴ ︸
恵徳
● ■ ・●
=⋮ ⋮ ⋮葦︷≡ , ,
ユ置⋮竃累町壽⋮‘ == 嵩 募巨
4 嵩 , = =阜 3脅 ﹁ 3
互ξ⋮
凧 零 翼 駄 替 賦 巳
垂 の ユ ⋮雷
= = = 一⋮董一
監甕⋮垂仁蓼 箏 ◆ 嵩 辱 辱 ㌻= =︸ 身◆ 翠
=⋮≡ ⋮3⋮ 呼 → ⋮
︸−奎苫 ⋮3 装甲 蓄争 蓄 α暫 呂
ご昆6⋮ 降6 = = ⋮ =二ひ 3 書躍 匿
⋮⋮≡ ;亀器 茜亀 阜 ● 竃 累
3 塞 ⋮墨 言⋮⋮= 富 諄
雪 − =⋮ 累 雲 ・ ⋮=韮蓄 甕藍き
=匿 匿 也 魯 = 8 8
﹂ε 書⋮= 書 霊署呈置皇B 塞 富劉
=
蓄 竃 艦 象 ● = も象⋮匹⋮ 監 聾
憧− 書 書 §⋮=
3 言 2 = 2 才 監監葬 一:墨 置 ︻ =
し 匿 、
8 ●
職し 職 ・ 職 二巴 監 監 監 ≧ 尊 脅
轟 脅 脅 =’ 虞 Ψ =置
箏 , = 裂 喚 再喜置 = 量 目 ‘
⋮⋮言書重肇. 6 摯 ⋮嘗蓬⋮=垂⋮一
婁⋮︸⋮︻⋮奪
⋮ = =
呈⋮霊 ⋮‘ ⋮ 4一甕富一芸︸
⋮ ⋮と 量蓬⋮韮窩 §
⋮ 3圭⋮ ⋮齢 , , ・ ● 撃 = 診 ﹂⋮3 = = = ⋮ ≡
● , 9 9 ’ = 霊 3 ● ● 置 . ●
監 馨 亀 O ε ・ 霊 , = = 8
謬 B B ⋮監筆産 二
一⋮量 巳茎 垂◆ 阜 阜星 呂曜 自事
奮 ‘ 監 監3 ⋮ ●
ミ些濫 ︻ 唇⋮奪 ε⋮⋮⋮
氏金
::⋮⋮﹁置 ◎ 紀= と 色 ヒ§言巨匠監B監乙
累 ‘ 菖 ‘ =⋮ .量轟 ひ
童⋮ ⋮監 ⋮蓬 =
≡⋮ ⋮⋮⋮ξい
蓄 霊 = ε 蚕 富 ●
鑑 重量 蓄 鼠 , ≧露
一︸;!置
圭⋮⋮⋮⋮⋮馨⋮⋮:匿書ε⋮, 霊3些 ,韮韮藩臣曇匪 言書⋮言,ぢ韮
璽⋮⋮ε⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮&置診 し し =、 設を輩£⋮
韮 ・ ‘・
盲 盲 ひ ・ ○ 茎⋮ O
⋮︸⋮一葦⋮言⋮一叢書⋮ a 薯;オ 霊 ・3ひ 3 ゆ⋮⋮⋮⋮⋮β
監B=韮⋮t 蔓⋮⋮⋮ し し 整 量 と 曹
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韮聖芒⋮‡監 輩蓼ミー⋮ =⋮と監監tと 設監gt⋮監直⋮監⋮
虞 e 食 ︽ 5‘ ξ 妻琴監 ‘⋮ 茎ゆ まβ 吟 ■ び ■ 撃 o 段ひ
t 9 魯 雲華 監 ヒ
3 茎
響 霊 = 2 裏 2 蓼
笠董⋮ ⋮蓬 窪⋮
﹁ 監 ⋮韮 藍 一 凸
・ 置 :蓄 ま 垂彦 準
O , 骨 φ 鷺 職 邑盤 置 9聾 脅 警 富
嘘 ・ ゆ ゆ 辱 時 → 垂⋮塗ぢ 野 = :
b ⋮ =塞 =⋮婁⋮⋮⋮⋮⋮⋮葦⋮⋮葦葦⋮ ⋮二雲呈凧聾辱時聾奮⋮●監⋮⋮
⋮ ・ 蓬 重董一 5 ∼ 嚢 ⋮薯茎3 ⋮⋮蓄 葦 ⋮霊茎⋮⋮ 享
鯨 茎 準 睾 竃 ; ひ 二 濫 亀 2
茎肇8 三重 膨; 富 霊 脅 , ・, ﹂; ;曹↑ 脅 ■ 昏 蓄。 。 長喜 凄3
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韓国言語文化研究第16号
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おわりに
以上、王公族の認定基準がどのように設定され、その結果王公族がどのように増加して
いったかをみてきた。
韓国併合を前にした寺内統監は韓国側に併合条約の締結に応じてもらうために、李韓国
首相が最も懸念していた韓国皇室の処遇に関して、「日本皇族タル礼遇ヲ賜ハル」ことを約
束した。李完用首相はこの条件に加えて王号を残すことを要求したため、最終的に韓国皇
室の正統である純宗皇帝(李柘)は李王、高宗太皇帝(李喫)は事事王、皇太子(韓国)
は王世子の:尊称を持つ王族として、傍系の李綱および李葵は公の尊称を持つ公族として日
本に冊立されることとなった。このように王公族に日本皇族の礼遇を保障することは韓国
側を懐柔して併合を成立させるために重要な措置であったが、だからといって明確に皇族
と規定することはできないので、彼らの日本における位置付けは曖昧なものとされた。た
とえば徳大寺内大臣は併合条約の公布前に渡辺宮内大臣に対して「王の席順等は急激に改
むるの必要も無之、却て感情を害する事之なしとも申難く、由て席順を定むる必要生せし
時にて可然御沙汰に候」という内容の書簡を送り、王公族の皇族における班位規定を先送
りにするよう告げていた。この班位規定の先送りに加えて王公族を規定する法令(王公家
軌範)の制定も先送りにされたため、韓国併合当時に王公族に言及したものは唯一冊立詔
書のみとなったのである。
しかしその冊立詔書にも誰がいつ王公族になるのかという認定基準が明記されていなか
ったため、王公族の子が必ず王公族になるとは限らなかった。それゆえ、たとえば李太王
の娘李徳恵や李埆の息子李鍵はたとえ王公族の子であっても誕生と同時に王公族になれな
かったのである。だが、それによって王公族が消滅していったわけではなかった。冊立詔
一 38 一
16
王公族としての認定基準と構成人員の増加
書には王および公の隆錫(栄錫)を世襲する権利が明記されていたため、李葵が1912年に
麗去したときには息子の李竣鎗に公を襲系させ、1917年に李竣鋸が嘉去したときには李燗
公家から李鋼を養子に迎えることで公を襲系させて李憂公家を存続させたのであった。
さらに1926年12.月1日に王公家軌範が制定されたことで、王公家に属する王および公
の子が王公族であると法的に規定された。こうした王公族としての認定基準の整備によっ
て、韓国併合時8名であった王公族の構成人員は1926年12月1日現在で11名となり、
その後も1945年8月15日現在で16名と着実に増加していった。つまりH本は併合相手
国の皇室を滅亡させるのではなく、むしろ養子による藁履や法令の制定によって構成人員
の増加と安定を図っていったのである。その理由は、日本にとって併合条約に調印した旧
韓国皇室たる王公族が韓国併合の「合意性」を担保する生き証人だったからといえよう。
王公族に皇族の礼遇を保障してその階級を存続させることは、日本が韓国併合とその後の
朝鮮統治の「正当性」を確保する一つの方便だったのである。
植民地化する相手国の王を日本に編入するという措置は琉球処分のときにもみられた。
しかし琉球処分のときには琉球王尚泰を非皇族である既存の華族とし、特別な制度を設け
て尚一族の安定的な襲系を図ることはなかった。この点に韓国併合と琉球処分の明確な違
いがあるといえる。
最後に今後の課題について二つ記しておきたい。一つは李面素とその妃金氏の詳細であ
り、もう一つは李鋼公家に関することである。前者に関しては本文で述べたので繰り返さ
ない。後者の李堰公家に関してであるが、李鋼は多くの妾を作り、わかっているだけでも
22名の子(13男9女)を儲けた。李鍵や七二以外に、たとえば解放後に韓国政府の機関で
ある旧皇室財産事務総局長に就任した李寿吉や、2005年7.月の李玖の死去にともなって彼
の養子となり全州李氏第30代の当主となった李源の勾画鐸や、大韓帝国皇位請求者として
甥の李源と全州李言忌30代当主の地位を争っている李六宮などがあげられる。彼らは「公
族譜」に名前がないことから公族と見倣されていなかったことがわかるが、その理由は結
婚の結果生まれたわけではない妾の子が「公家」の人間として認知されなかったからでは
ないかと推測される。この点は史料調査を通じて解明していきたい。
一 39 一
韓国雷語文化研究第16号
王公族関係図
(◎は王族、○は公族)
興宣大院君李罷応
麗興府大夫人聞氏
洪氏
○奏
○金氏
○竣鋳
全書嚇
敢鋳
○金氏
○李氏
◎タ氏
◎拓︵李王︶
◎徳恵
金興仁
O丁
鄭氏
◎坂
◎方子
○鋼
0清
○涼
0沖
○折
0沃子
◎晋
◎玖
一 40 一
○李氏
明成皇后関氏
張氏
厳氏
◎襲︵李太王︶
回氏
部である。ここに感謝申し上げたい。
〉
鋼
。 入養
(付記)本稿は韓国国際交流財団の助成(韓国学専攻大学院生奨学制度)による成果の一
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