...

No.83 常 盤 橋 と 山 寺 産 石 材

by user

on
Category: Documents
20

views

Report

Comments

Transcript

No.83 常 盤 橋 と 山 寺 産 石 材
No.
83
No
.
83
平20.9.1 発行
山形市霞城町1番1号 山形市郷土館
〒990-08
26 TEL 02
3
(6
44)
02
53
常 盤 橋 と 山 寺 産 石 材
~ 祖父 の話に 基づい て ~
山寺郷土研究会
新 関 孝 夫
「馬車牽きならねが・・・・」
「先生、先生だの給料、なんぼや?」
「〇〇円ぐらいだな。
」
「これっぽっちか。先生辞めて、馬車牽きした
ほうが、金になるなあ。」
こんな会話が交わされるほど、明治から大正に
かけ山寺(山形市大字山寺)の石材が売れに売れ
た。地区民の殆んどが石材に関係する仕事を生業
とし、山寺地区が「石材の好景気」に沸き立 っ
た。かく言う私のところでも、明治から大正、昭
和にかけ三代が石工を生業とした。
しかし、大正に入りセメントが使われるように
なると、山寺の石材の需要が衰微し始め、昭和30
年代以降激減し、今、その面影は全 く見られな
い。現在、山寺地区内で、石工を生業とする方は
たった一人になってしまった。
使用された石材(通称、あま石、凝灰石)の殆ん
ど全てが山寺産だったと伝えられている。これを
契機に、山寺が石材の好景気に沸いた。この橋の
架橋後も、山寺の石材は建築・土木工事に活用さ
れ続けた。
慈覺大師開山当時以来、山寺は寺領、御領、私
有地の区別なく、山寺村内一同が申し合わせの上、
採石を禁止してきておったが、この掟が破られ、建
築・土木資材として採石されていったのである。
明治20年10月旧国道13号線(現県道22号線)に
完成した「天童めがね橋」
(現在愛知県明治村に復
原移築)
「上山市楢下の橋」も、山寺石が用いられ
たという。また、旧県庁、旧刑務所にも用立てら
れたと伝えられている。
山寺石材の「常盤橋」景気
山寺の石材は、主として、
「あま石(凝灰岩)
」、
「おまた石(棹石・柱状節理)」、
「御メ石(板状節
理)」の三種であった。あま石は主として土木工
事の資材石積、石垣、石段、庭の敷石など。おま
た石は屋敷囲い、鳥居、標柱など。御メ石は柱の
土台石、庭の飾置石、踏石などに利用された。
明治9年、三島通庸が県令として着任し、明治
11年4月、山形南の坂巻(須川)に常盤橋(写真
参照:通称、めがね橋、水路5門、明治中期洪水
で跡形も無く流失)の架橋が着手された。架橋に
明治11年 坂巻 常盤橋
こうして、山寺の石材の販路は、山形、天童は
勿論のこと、寒河江、谷地、左沢、庄内方面まで
広がっていった。
これに伴ない、当時、山寺地内の地蔵堂、宮崎、
芦沢、川原町・南院のほとんどの住民が石工、採
石、石材運搬を生業とした。特に、地蔵堂、宮崎
集落で石工、採石、石材運搬の仕事に従事しない
家は一軒もなかったと伝わっている。
― 1 ―
No.
83
また、荻野戸、荒谷地区(現天童市)の方も、
採石、運搬に関わるようになっていったという。
山寺石きり唄
このような山寺石材の好景気の中で、石工の仲
間で唄い育まれてきたのが「山寺石きり唄」であ
る。唄は、単なる仕事唄ではなく、開山慈覺大師
や霊山に鎮まる石神への鎮魂・感謝、石工の心意
気が唄い込められている。
石きり唄
1 私しゃ羽前のヨーエ 山寺育ちヨーエ
石もかたいが 手もかたいヨーエ
※ヤレサ ヨーイ ヨーイ ヨーイ
ハー ドッコイ ドッコイ
2 見たか聞いたかヨーエ 山寺名所ヨーエ
慈覺大師の開山だヨーエ
※繰り返し
3 山寺街道に 山椒の木 二本ヨーエ
あがらさんしょに のまさんしょヨーエ
※繰り返し
4 石屋 福の神 大黒顔でヨーエ
槌を振り振り 金たたくヨーエ
※繰り返し
その代わりの採石場として、川原町・南院には
立岩の東の字宮の沢、下山寺(芦沢、宮崎、地蔵
堂)には小高次山、日向袖山が払い下げられた。
その後も、
山寺の石材の
販路は拡大を
続けた。この
大量需要に伴
い、採石運搬
に荷馬車(牛
採石運搬荷馬車
車、馬車)が
登場。1日に20輛以上にのぼる馬車牽き姿は、山
寺の活気を示す風物詩の一つだったと言う。
その一方で、静かな需要の広がりを見せた山寺
石材に、庭を飾る置き石、踏み石等の「御メ石」
(産:紅葉川上流、所部萱小屋川、田代川等)、屋
敷囲い、標柱、神社仏閣の鳥居等に「おまた石」
(産:所部山等)があった。
セメント の流行と山寺石材の衰微
景観破壊、乱採石の差し止め
常盤橋架橋を契機にした山寺地内での採石(主
にあま石)は、地区内の官地、民地を問わず運搬
に便利なところから乱採りされた。遂には、宝珠
山立石寺の境内にも及び、姥堂前の慈覺大師ゆか
りの笠置石に手をかけるまでに至った。
見るに見かねた宝珠山立石寺住職代理金乗院住
職栄田和尚が「山寺には他に採石できるところが
ある。御山(宝珠山)からの採石は止められたい」
と陳情し、ようやく宝珠山立石寺境内参道での採
石は止まった。
当時の山寺石ブームにより失われた名岩石は数
多い(大石沢の滝の前岩、泣岩、根本中堂前駐車
場の文殊岩、対面岩に並んでおった神供岩等な
ど)。かろうじて宮崎の硯石、川原町の不動岩、対
面石等が残った。
その後も、宝珠山での採石は続き、山寺の景観
を壊すと憂慮されるまでに至った。明治33年末、
山寺を訪れた末松謙澄氏は名勝地山寺の採石乱掘
でその景観が損なわれるのではと憂い、農商大臣
及び宮城大林区署長に「直ちに官地での採石を禁
止する」訴状を送った。その結果、大石沢、根本
中堂東(現在の山寺霊園付近、峯の浦)採石が停
止された。
しかし、大正時代の初め頃から普及し始めたセ
メントと、良質の石材を採り尽くしてしまったこ
ともあり、山寺石(あま石:敷石、凝灰石)需要
は衰微の一途をたどることになる。
山寺地内での採石は昭和30年代後半、完全に終
焉した。現在、採石場は山崩れかと見間違えられ
る姿を晒している。
山寺の石工
山寺に何時の頃から石工がおったかは、全く定
かではない。確かなことは、日枝神社(山王社、
立石寺の守護神:山王権現)の石の鳥居を奉納す
るために、正保元年(1644年)に信州から呼び寄
せた石工吉田長兵衛が細工したことが記されてい
る。その後、この石工は地蔵堂に住み着き、代々
石工を生業としたとのことである。
最後に、
「あま石」の意外な利用があったことを
紹介しておきたい。それは、
「あま石」を刳り貫い
て造られた石風呂
桶だ。
今は、屋敷の片
隅に捨て置かれ、
かろうじて風呂桶
だと連想できる姿
を止めていた。
石 風 呂 桶
参考文献:原著伊澤不忍・編集伊澤貞一
「山寺百話」
「
、続山寺百話」
:写真集「山寺の歴史」
― 2 ―
No.
83
千 歳 山 大 仏 堂
滝山地区郷土史研究会
副会長 佐 藤 久
千歳山は、遠い昔から山形城の東の名勝地とし
て親しまれ、奈良・平安の時代から京の都まで知
られ、宮廷歌壇の「歌枕」として有名な伝説を秘
めた山である。
この千歳山の南麓に高僧行基菩薩が草創、慈覚
大師が中興した大日如来を本尊とする大日堂があ
る。最上時代には、代 々二百七十石の寺領を賜
り、大日如来は、川東三十三ヶ村の総鎮守に定め
られた。毎年、4月28日の大祭には、代々の山形
領主の参詣があり、遠近の村々からの参詣は群集
したと伝えられている。
寛文8年(1668)九万石で山形に入部した奥平
昌能の跡目を継いだ甥の美作守昌章は、一代守護
仏が大日如来のためか特に信仰が篤く、わけても
平清水の大日堂への祈願が多く三十四回の参詣が
あったことが平泉寺の文書に残っている。その大
日堂内に、高さ六尺三寸余(1.
92m)の釈迦如来
の仏頭が安置されている。
この仏頭は、千歳山公園にあった大仏堂の再建
後の本尊であった。平泉寺32世良田和尚は、大仏
堂の再建を発願。4年にわたる勧化に努力したが
浄財が集まらず、大仏堂は遂に再建ならず仏頭だ
けで終わったと伝えている。その「大仏勧化帳」
奉加帳が平泉寺に保存されている。その勧化帳の
巻頭に大仏の法量が次のように記されている。
千年山大佛尊像 御丈 壱丈六尺
臺座御光共三丈二尺
総高三丈二尺というから約9.
7mに及ぶ巨大な仏
像である。さらに同帳には、
御堂六間四面・
御建立 山形前大守奥平美作守昌章侯
御再建 堀田伊豆守正虎侯
とあり、大仏堂の建立は、奥平昌章と伝えてい
る。その後、堀田正虎が修造再建していたことが
わかる。同帳の序文には、
「洛陽東山の遮那の大殿
を移し、山形府内の莊りとなし給ふ精舎」とあ
り、奥平昌章が大仏建立に至る、発願の心情を記
している。昌章は、山形城と大日堂を往復する間
に、千歳山周辺の景観に心がひかれ、山麓に大仏
堂を造営し、人々が賑わう山形の「かざり」にす
ることを願ったものであろう。
大仏堂は、山形両所宮護摩堂(天台宗)の支配
下で別当寺鷲峯庵に管理させていた。堀田正虎が
城主時代に一度修造されたが、堀田氏の移封後は
無住などで大仏堂は放置されるままで、次第に荒
廃していった。文化年間(1804~17)の頃は、
「屋
根等少も無御座候ニ付」とあり、さらに「尊像も
風雨に犯される」ほどに荒廃したと同帳は記して
いる。
この大仏堂の荒廃を嘆いていた平泉寺31世良賢
和尚は、山形の青山治右衛門(大坂屋)を大施主
に頼み、文化9年(1812)に大仏堂を修造再建し
平泉寺が大仏堂の管理者となった。ようやく再建
したのも束の間、天保3年(1832)に火災となり、
大仏堂、別当寺鷲峯庵もすべて灰燼に帰したので
ある。
良賢和尚の子32世良田和尚は、父の意志を継ぎ
大仏堂の再建を志し、天保10年大仏堂再建の儀を
柏倉役所へ差し出し、天保15年(1844)再建が許
可された。大仏勧化は、弘化3件(1846)から始
まり、嘉永2年(1849)
まで4年がかりで、山形
城下及び近郷の寺院を始
め、米沢、村山、庄内の
寺院及び名主など、広範
囲に勧化したが浄財が集
まらず仏頭だけで終わっ
たのである。仏頭の作者
は、明和の頃山形の仏師
で名工と云われた後藤新
吉と同系で後藤藤吉と伝
えられ、仏頭は、千歳山
大日堂内の大仏・仏頭
の松で造られた。
大仏堂への道標が二か
所残っている。一つは、あこや町一丁目、旧追分
と云われた所にある。六字名号の石塔に「右は大
仏道六丁、左仙台海道」と刻まれている。もう一
つは、千歳山こんにゃく店の敷地に建つ普賢菩薩
を祀るお堂の裏にある。自然石に「右ハ大仏路四
丁・海道ちか路」と刻まれ、当時の賑わいと信仰
の深さが偲ばれる。二基とも残しておきたい文化
財である。
千歳山大仏堂の土台石が平泉寺に保存されてい
る。大仏堂跡地(千歳山公園内)に交通安全地蔵
尊が昭和47年建立された。
― 3 ―
No.
83
市郷土館からのお知らせ
本や雑誌等で紹介された
市郷土館の記事の紹介
【全国版での紹介】
煙実行之日本社発行のブルーガイドてくてく歩
きシリーズ「東北」08の中で、本館のことが
紹介された。
煙東日本放送をキー局にテレビ朝日系列のローカ
ル番組『週間ことばマガジン』で本館と本館の
展示品が東北と新潟の7局で放送された。
煙昭文社発行のマップル情報及びガイドブック
に本館のことが紹介された。
煙旅行出版社発行の旅行会社向け専門誌の中に
本館のことが紹介された。
煙出光発行のMOCO4月号の中で本館のこと
が紹介された。
煙日本経済新聞社発行の夕刊広告掲載企画とし
て、
『日本の近代遺産50選』の中で旧済生館本
館のことが紹介された。
煙交通新聞社発行「ジパング倶楽部8月号」の
中で、
『ニッポンの名建物を旅する』として、
本館のことが紹介された。
煙秋田放送のローカル番組『木づかいの宝』で
本館が紹介され、8月2日に放送された。
煙J
TBパブ リッシング発行の『るるぶ.com.
J
TB』の中で本館のことが紹介された。
【地方版での紹介】
煙YTS放送『やまがた近代化遺産を歩く』の中
で、当館の魅力、それを手がけた職人達の技
術、建造物の時代背景などを映像化し、夕方
ニュースのハイビジョン特集及び特別番組と
して放送された。
煙山形新聞連載≪
『バードの道』
は今≫に、イギリ
ス人の女性旅行家イザベラ・バードの足跡をた
どった東京のまちづくりグループの踏査隊が当
館を訪れたことと、本館のことが掲載された。
煙山形県の事業『子育て応援マップ』の中で本
館のことが紹介された。
煙旅行情報誌『るるぶ』発行の『るるぶ山形』
の中で本館のことが紹介された。
薄荷栽培製法図絵馬展
が開催されました
この『薄荷絵馬』は、平成13年に市民の方か
ら寄贈されたもので、山形市郷土資料収蔵所で
収蔵保管に努めてきました。平成17年12月に山
形市の「有形民俗文化財」に指定されました。
その後、損傷の修復と汚れの除去等を行い、明
治23年以来117年の年月を経て、奉納当初の『薄
荷絵馬』に近い姿に回復した機会に、市民の共
有財産である収蔵資料を広く紹介するため、4
月25日から5月18日までの約3週間にわた っ
て、この企画展を開催しました。開催期間中に
1,
600人を超える見学者がありました。
山形城主秋元氏藩政の偉業と
種痘の普及に尽した蘭方医長澤理玄展
のご案内
期 間 9月5日(金)~10月31(金)
場 所 山形市郷土館
休館日 月曜日:但し月曜日が祝日の場合翌日
展示品 茨 秋元氏の藩政に関する遺品・古
文書・写真・古地図など
芋 蘭方医長澤理玄に関する遺品・
古文書・写真など
江戸時代、最上氏改易後、秋元氏は、涼朝か
ら永朝・久朝・志朝の四代78年の最も長期にわ
たって藩政を担い在城しました。しかし、郷土
の人々には、秋元氏の藩政の偉業やその時代の
出来事があまり知られていないので、それらの
歴史をたどって紹介しています。
また、蘭方医の長澤理玄は、山形城主秋元藩
の藩医の家に生まれ、藩主の転封とともに館林に
移りました。江戸で蘭方医学を学び、種痘法を
知った理玄は、父周玄の多くの門弟達がいる秋
元氏旧領の山形へ行き、熱心に種痘の効果を説
き、その方法を伝授し、種痘の普及のために奔
走し、山形地方の民衆を疱瘡から救った先駆者
であり、郷土を育んだ功績を紹介しています。
その時代の歴史と文化に触れて、先人の偉業
に理解を深める機会にして頂きたいと思いま
す。
医学資料と郷土資料の収集をしています
本館の展示内容をさらに充実していきたいと
思っています。医学・医療資料をはじめ郷土に
関する資料を収集しています。お手許の地図、
絵図、古文献、古文書、写真など、ぜひ本館に
お譲り下さい。ご協力お願いいたします。
電話 023-644-025
3
山形市郷土館
― 4 ―
Fly UP