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PSATS Report62
PSATS report
記憶に残る私の仕事,
そしてあの街 「昭和30年代の建築とプラスティック」 鶴田 裕
01 職 後 一 考 「植物工場の発展を顧みて」 太田 統士
02 特 集 「優良建築長寿命化への期待 1 」 泉 潤一・加藤 晋平・駒田 信行
06 就 任 Vol.
062
2014 AUTUMN
「日本免震構造協会会長就任のご挨拶」 和田 章
07 報 告 1 「内田祥哉先生の松井源吾特別賞受賞式に出席して」 08 報 告 2 「サーツ・モンゴル訪問」
10 報 告 3 「国重要文化財「明治丸」修復工事見学会」
11 建築余話 「建築生産における施工計画書の位置つけ」 柳川 裕
12 大江戸自転車散歩 「龍ノ口から両国橋へ(後編)
」 野村 信之
13 Book Review 松村 秀一
13 観 想 考 伊藤 誠三 14 建築部会報告・戸建住宅部会報告
15 集合住宅部会報告・LLB研究会便り
16 タウンハウス研究会便り・マンション管理組合支援事業部便り・会員情報
サーツカレンダ・サーツ界隈・編集後記 趣味COLUMN
「フルートを友として」 伊藤 誠三
内田祥哉先生 松井源吾特別賞
記念講演会
「明治丸」
修復工事見学会
サーツ・モンゴル訪問 建築技術シンポジウム集合写真 PSATS Report Vol. 062 AUTUMN
昭和 30 年代の建築とプラスティック
鶴田 裕
大仰な表題を付けてしまったが、去る8月 29 日付け朝日
来ており、既に油性コーキング材の JIS 規格は出来ていた。目
新聞夕刊の 1 面トップに3段抜きで 「これが初代ユニット
地幅は、冬季はパネル類は収縮して拡大、逆に夏季は縮小す
バス ニューオータニで発見」
更に 50 年前 東京五輪に
る。しかし目地材料そのものは冬季は伸び能力は劣り、夏季
合わせ開発という小見出し付きで報道されていた。この開発
はその逆で、多分自然環境の中で最も痛めつけられている材
の極く初期に設計や現場の方々に “FRP とは” というような
料である。従って昔のガラスパテの延長線上にあったコーキ
感じで説明をしたことを思い出したからである。昭和 31 年
ングではひとたまりもない結果が暴露される。昭和 36 年
大学の3年になったとき、当時まだ助手だった建築材料の先
ころと記憶しているが、四日市火力発電所の鉄骨に外壁パネ
生が合成樹脂にややかぶれていて、MIT の ALBERT G.H.DIETZ
ルを取り付けるに際し、アメリカのジョンマンヴィル社製の
教授の著書であった「PLASTICS IN BUILDING」を文献研究
ポリサルファイド(通称チオコール)が指定され、商社を
に選んだらどうかと推薦された。その中にはロスアンジェル
通じて搬入された材料を米国の規格に準じて性能評価を行っ
スのディズニーランド内に建てられた2階建ての FRP(FIBER
た。この材料は第2次大戦中アメリカの航空機用に開発され
REINFORCED PLASTICS) だけの「HOUSE of TOMORROW」と
た材料だったので、目を見張る性能を持っていた。オータニ
名付けられたかわいらしい写真があり、行く末は構造材とし
の場合もなんとか国産化が間に合った材料を使用したいとい
ての可能性があることを示していた。そして、2 年先輩で
うことになり、横浜ゴムが開発したばかりの製品をオータニ
大学院修士 1 年だった難波連太郎先生(後に工学院大学教授)
の随所に使用した。JIS 規格ができたのは昭和 44 年のことで、
の修士論文のごく一部を分担する感じで、建築分野ではまだ
この時の試験データを委員会に提供した記憶がある。
実用化されていなかった FRP の基礎的物性評価試験を行った。
オータニというキーワードでもう一つの仕事があった。
ポリエステル樹脂は大船に研究所があった東洋高圧から、
竣工後しばらくの間は現場事務所が残っていたが、しばらく
ガラス繊維は旭硝子から提供を受け、ガラス繊維の含有量の
して工事係の伊藤庄助氏から連絡があり、出向くと、
「実は俺
多少、環境温度の違い、更には大学の実験室に届いたばかり
は富士山頂レーダー基地の所長をすることになった。シーリ
のウエザーメーター(紫外線による促進劣化試験装置)など
ング材の- 20 ~ 30℃の物性を試験してくれないか」との相談
でごく初歩的な物性を探る実験研究を行っていたことから、
を受けた。当時、大成の技研は豊洲にあり、手作りの恒温槽
新入社員が始球式を行うような気分で、それまでの知見を諸
の低温保持のためにしばらくの間築地の魚市場へドライアイス
先輩に報告した。しかしこの時点では環境温度の変化で物性
を求めに行き,後刻 “業務” で富士山頂に立つ機会を得た。
が大きく変動することを察知していたので、実用化
する際の注意点として強調した記憶がある。
その後技研を 1 年ほど離れていたので、現場へ
の適用の具体策についてはタッチできず、現在、
サーツメンバーの大成建設 OB の吉田宏、橋本
博 和 氏 ら 数 人 が 工 期 短 縮 と 品 質 向 上 を 求 め て、
技研内あるいは現場で FRP の浴槽そのものとの、
あるいは今日言うところのユニットバスとコンク
2014 年 8 月 29 日 朝日新聞夕刊
リートとの組み合わせ方法などの研究を行った。
そのようなわけで、この新聞記事は 53~54 年前の
ことを突然思い出させるきっかけにはなったもの
の、いかにしてユニットバスとスラブや壁を現場
内の地上部分で一体化するか、さらにいかにして
これを釣り上げて鉄骨の構造体の間にはめ込むか、
すぐには記録類が見つからなかった。
当時、既にプレファブ化の動きは進んでおり、
パネルや仕上げ材料間の防水の必要性が高まって
1964 年 10 月 7 日撮影
植物工場の発展を顧みて
太田 統士
つい先日、職後ならぬ食後のひと時、テレビを見てい
コネが付かない。GMI 社は韓国と提携話が始まったとのこと
ると植物工場の話が出てきた。数年前から植物工場付き
でこれも見学不可。また折からの三井東圧の廣瀬氏の視察団
のレストランなどが出現していることは承知していたが、
に合流して視察予定でいた WA 社は、ロス到着後視察拒否
LED 照明の発明によって、ついに家庭用のポータブルな植
となり、一団は急遽ロス郊外の種苗業とサンノゼのグリー
物工場まで売り出されているということで、早速ヨドバシ
ンハウス視察に切り替えざるをえなかった。ただし教育施設
カメラへ実物を見に行った。私にとっては遂にここまで
プランナー国際会議の会場であったオーランドのディズニー
来たかと感慨深い思いであった。
ワールド (DW) の呼び物展示であった植物工場が、前もって
思えば 30 年余りも前のことであるが、当時は技術開発部
見られたことは幸であった。なお DW の人工栽培のトマト
門を担当していてシステム建築・工法開発・新分野開発など
の木と同じようなのが、
’ 85 年の「つくば万博」政府館でも
を手がけていた。鋼管立体トラス、
学校システム建築、
FRPプー
展示があったので、ご覧の方々も多いのではと思っている。
ルなど商品化され企業として成功したモノも数多いが、実ら
何やかや企業としては時期尚早であるとして、それ以上
なかったモノも数多い。その中の一つが植物工場であった。
の開発活動は行われなかった。
戦後、駐留した米軍用に水耕栽培の農園が各地に開設
それから 30 年経った今になって、LED の発展と共にやっ
され、それがやがて人工照明や空調を取り入れた植物工場
と花を咲かせる時代になった植物工場は、政府の補助金も
に発展して行くのであるが、米国では 1970 年第初頭から
加わりまた外食産業や商社からの資本投下も増え、今や
GE( ジェネラル エレクトリック社 )、GMI( ジェネラル ミルズ INC)、CDC( コイン
400 ヵ所になろうとしている。
トロール データー社 )、WA( ホイタッカ アグリシステム社 ) などが研究を始め、
以上の事を考えれば、なるほどあの当時我社にとっては
中でも GMI は日本等への進出を狙い、1982 年に週間ダイ
時期尚早であったかと思うと同時に、人工的装置の研究
アモンド誌に「植物工場世界初公開」と云う記事を紹介し
開発者、それと先進的農業への取組努力をされてきた農業
ていた。我が国の植物工場は 1980 年前後から日立製作所
関係者の長年の艱難辛苦に思いを馳せ、我々が装置産業と
の高辻正基氏により研究が始められた。正木氏は今もこの
して開発しようなどとおこ
道の第一人者であることは云うまでもない。
がましかったかと反省もし
植物工場は建屋を含む装置産業であることに目を付け、
きりの反面、残念なことで
1983 年に「農業の工場生産に関する展望」という目論見書
もあったという思いも残る
を作成し研究を始めた。人工照明の波長スペクトルの成長へ
今日この頃である。
の影響、CO2 濃度の調整や温湿度管理など難しい課題が山積
これから先、葉先の開い
みで、前述の正木氏のセミナーに参加したり、当時の GMI
たレタスばかりでなく私達
社日本支社長の小林氏や三井東圧生物工学研究所の廣瀬主幹
が常食している玉レタスや
へも訪問し研究を始めた。そして同年 11 月にはフロリダで
茄子などの果菜類、タマネギ
の教育施設プランナー国際会議のついでに、米国植物工場視
の様な茎菜類、人参などの
察に赴いた。三井物産を通してコンタクトしていた GE 社か
根菜類にも発展しくことを
らは既に権利を CDC 社に売却したので見学不能、CDC には
祈っている。
ロス郊外 Monrovia Nursery 工場
ロス郊 Monrovia Nursery クローン栽培
D.W 植物工場展示
つくば万博トマトの木
1
PSATS Report Vol. 062 AUTUMN
優良建築長寿命化への期待 - 1 昭和初期,更に戦争による荒廃後の日本現代建築の興隆時期に建てられたものが早や解体され始めています.3,40 年,
あるいはそれ以下の短寿命で終焉となるものの中にはその時代を画した優れたものがあります.それらを改めて再評価
し,維持保存に力を与えることができないでしょうか.会員の皆さんの建築への夢,実務で得られた感動,長年の職務
の立場から記憶に残り,次世代に伝えたいと思われる建物を取り上げていただき,長寿命化への指針を探りたいと思い
ます.多くの方々のお話を伺いたく,数号に亘り連載したいと思っております.(編集担当)
「戦争による荒廃後の日本現代建築の興隆時期」
泉 潤一
表題のテーマで第一回目の執筆依頼を
頂戴した。すぐに頭に浮かんだのは「代々
木体育館( 丹下健三)」である。代々木体育
館は言わずと知れた我が国モダニズム建
築を代表する作品であるが、自分の中で
はかねてより近代から今日に至る我が国の建築の最高
傑作であると思っていた。
ただこの企画の趣旨がこのまま
記憶から遠ざかり解体されてしまう恐れもある名建築
をいま一度記憶から呼び起こし、維持保存に力を与える
一助と為すものであるとすると、次の東京オリンピック
代々木第一体育館外観
でも競技施設として利用されることが決まっているこ
の建築には無縁であり、全く私などの出る幕はないので
ある。それでも敢えて推すのは1964 年に開催された東京
オリンピックは我が国が戦後の復興期から脱却し新し
い時代を迎えたことを広く内外に宣言した極めて大き
なイベントであったことを考えると、
「 戦争による荒廃
後の日本現代建築の興隆時期」を語る上で避けることは
できまい。ただ東京オリンピックは私がまだ小学校に
上がったばかりの時であり、競技の幾つかは覚えてい
るものの、当時の私はまだ代々木体育館自体には触れ
ておらず、それはずっと後のことであった。建築学科の
学生となり色々な建築を体験したが、中でも代々木体育
代々木第一体育館内観
館は構造と機能と形態が完全に融合し、屋内外が純粋な
形態として芸術そのものに昇華していることに大きな
感動を覚えた。
もうひとつは「つくばセンタービル( 磯崎新)」であ
る。1983 年に完成したこの建物は世界の建築界のムー
ブメントとなったポストモダン建築の代表作のひとつ
である。機能至上主義であったモダニズムに対抗し、単
純な価値観では測れなくなった時代に対する一つの解
であった。つくばセンタービルではローマのカンピドリ
オ広場のモチーフが反転して引用されたり、だまし絵的
仕掛けが随所に散りばめられている。磯崎自ら分裂症的
と評し中心を持たないこの建築に対し、当時つくばで生
2
代々木第二体育館天井部
活していた者でなければ分からない親しみ( 共感) を感
「開東閣」
加藤 晋平
じていた。私は1985 年から約3 年間つくばで暮らした。
つくばは我が国では珍しい人工的に都市計画された研
私が、今までに手掛けた改修設計の中
究学園都市であった。当時のつくばには国家的理念に基
で最も印象に残る建物の一つは開東閣で
づいて計画された近未来都市像はあったが、完成にはほ
す。関東閣は、岩崎家の高輪別邸として、
ど遠く、また自然発生的に形成された都市につきものの
英国人ジョサイア・コンドルが設計した
裏側の部分がなかった( 今では想像もできないが)。移り
英国の建築様式を取り入れたれんが造の
住んだ当初は美しい街並みに感激したものの、ほどなく
建物です。
街には新たな発見が無いことに気付いたのである。また
ジョサイア・コンドルは、イギリスのロンドン出身の
学園都市内部には鉄道も通っておらず、いわゆる都市
建築家で、お雇い外国人として24 歳という若さで来日
のへそに当たる部分がなかった。つくばセンタービルは
し、工部大学校(現東京大学工学部建築学科)で教育に
ポストモダンの手法を用い、つくばという都市の有りよ
あたるかたわら、鹿鳴館などの政府関係の諸施設を設計
うにも鋭い視線を投げかけているようであった。磯崎は
し、独立してからはニコライ堂、三井倶楽部、古河庭園等
1985 年につくばセンタービルが廃墟となる未来像の絵
手掛けています。
を発表している。つくばセンタービルの存在意義がなく
開東閣は、岩崎彌之助の高輪別邸として、伊藤博文の
なり廃墟となった時こそがつくばという人工都市が完成
屋敷があった高輪の高台にジョサイア・コンドルによる
する時であるというメッセージだったのだろうか?
設計・施工監理により明治41 年に竣工したが、
完成を待ち
丹下はポストモダン全盛期に「ポストモダンに出口
望んでいた彌之助は病に倒れ実際には住むことが出来
はない」という文章を発表しながら、晩年、東京新都庁舎
ませんでした。彌之助の無念を知るコンドルは、後に心
ではゴシック様式を模したポストモダンとも取れる作
をこめて玉川に岩崎家の霊廟を設計しています。
品を残している。一方で丹下門下生でありながらポスト
このような歴史を持つ開東閣ですが、大正12 年の関東
モダンを唱えた磯崎。今ではポストモダンの潮流も耳に
大震災時には軽微の被害を受け部分的に補修がされ、
昭和
しなくなって久しい。モダニズムとポストモダン建築論
20 年の東京大空襲によって屋根及び内部が焼失してし
争とは何だったのか? 答えを探る上でも生き証人とし
まいました。その後昭和36 ~39 年にかけて三菱地所建
てこれらの建築は次世代に残したいものである。
築部で、外観の原型を残し内部を従前の住居から特定集
会室へ全面改装し、その際に別館の一部をRC 造で増築
して、現在は三菱グループの倶楽部として利用されてい
ます。
平成7年の阪神淡路大震災後に耐震診断を行った結
果、耐震補強が必要であることが判明しました。各種補
強方法を検討し、現存するジョサイア・コンドルが設計
した数少ない建物として、できるだけ内外観を損なわな
い耐震改修目的として、
主要施設である本館は免震レトロ
フィット工法を採用し、
別館はRC耐震壁を増設する補強
工法を採用しました。
開東閣は、約100 年の間に震災及び戦災を受けている
こと及び一部図面は現存するが不明な点も多々あった
ことから、耐震性能及び耐久性能を把握し、耐震改修の
ための基礎的資料を作成することを目的とし、各種の調
査(①コア抜き調査、②建物寸法調査、③常時微動測定、
④れんがの積み方調査、⑤地盤の平板載荷試験、⑥非構
つくばセンタービル
造部材、仕上材の劣化調査、設備機器の耐震調査)を行
い、建物データ及び地盤状況等を把握しました。
耐震改修計画は歴史的建築物の内外観損なわないよう
3
PSATS Report Vol. 062 AUTUMN
に免震化するものとし、免震層位置については、既存基
全体工程としては、建物用途が特定集会所で会食・会
礎幅はそれほどないものの1階下部の基礎れんが壁の
議などに利用されるため全館閉館10 ヶ月を含んで約
高さが充分あったことより、建物重量を免震装置を介し
16 ヶ月で完成しました。
て基礎に伝える為に、基礎れんが壁両側に鉄筋コンク
ジョサイア・コンドルが約100 年前に設計した歴史的
リート造の補強梁を設け、それらをPC鋼棒にて締め
建築物が内外観ほとんど変わらずに免震レトロフィッ
付けることにより壁と一体化させる補強を行いました。
トされ、充分な耐震性能を確保して後世に残る建築物と
また、屋根面には水平剛性確保のため、れんが壁頂部の
してよみがえることができたことは、私にとっても大き
鉄筋コンクリート補強部に鉄骨ブレースを新設しまし
な喜びでした。
た。免震装置として、天然ゴム系積層ゴムアイソレータ
は主にれんが壁交差部直下に600φ 計37 基、弾性すべ
り支承は地震時に軸力変動の少ない部分に計14 基設置
し、減衰装置として鉛ダンパー(U-180)を計24 基設置
しました。
施工方法としては 平板載荷試験結果より、地耐力に
は充分期待できるものと判断し、鋼管杭等の仮受け杭を
設けずに免震化を行う工法を採用しました。平面を細か
く分割し範囲を限って、順次、掘削・既存壁撤去、免震装
置の据付け、基礎梁施工を行い、仮受支柱から免震装置
への荷重の移行は、上部建物の沈下量を計測しながら、
ジャッキにより行いました。
関東閣外観
平面図
立面図
4
秋ノ宮役場 稲住温泉浮雲 松井田町役場 善照寺本堂
「独自の建築美を追求した白井晟一の建物」
駒形 信行
呉羽の舎 親和銀行本店 茨木キリスト教大学(サン・
戦後活躍した建築家の中で、白井晟一は
セバスチャン館・サンタ・アキラ館) ノアビル 親和銀
異色の存在である。
行懐霄館 渋谷区立松濤美術館 等
まず、
白井の青年期の経歴を述べる。
何れも特徴のあるデザインの作品なので存続を願う
白井は京都工芸学校(現在の京都繊維
が、
どうしても一つだけ残すとしたら親和銀行本店(懐霄
工芸大学)を卒業後、カール・ヤスパースに
館も含む)を選ぶ。
直接師事し実存主義を学び、
ハイデルベルヒ大学で美学を
壮大な孤高のデザインの思いが親和銀行に結実し、
記念碑
専攻し、ベルリン大学で建築史を学んでいる。左翼運動に
的作品となっている。
外装の石材の使い方によって、
ある所
参加している。
では見る人を威圧し、
ある所は不可解な形で驚きを与える。
上記の特異な経歴と、白井自身が自分の作品に対して
内部空間でありながら、内側から刻み込むような石の
は多くを語らなかった事により、作品を巡っては様々の
表現もある。建物が銀行という用途の為、この建物を残す
憶測と解釈がなされている。
スキーム作りは大変難しいと思える。
異端の建築家であるとか、哲学的な建築といった表現
ただ一つの可能性の案として、この建物の建て替えが
が多いが、哲学的という言葉は非常に不明瞭な形容詞で、
決まった時に、国又は地方公共団体あるいは法人が建物
抽象的概念を想起させるだけで、なんら説明する力がな
を買い取り、白井晟一記念館として保存するという案は
い言葉である。白井の作品を、哲学的という言葉を使わず
どうだろうか。
表現するとしたら、どの様に説明したら良いのだろう。
建物自体を見てもらうだけでなく、
白井は本の装幀デザ
その答えを探す事によって、
白井の建築の本質に迫るよう
インも行っていたので本の装幀作品や書の作品も展示し、
に思えてくる。
主要な作品の図面・写真・模型等を見てもらう事も出来る。
自分の作品の説明について、寡黙な態度をとってきた
親和銀行本店と懐霄館の建築を見てインスパイアされ
白井が、
建築について次のように述べている。
ない人はいないはずだ。ましてや建築設計を志す人は、
「建築とは建築を超えるものを作る事だ」
この言葉
現物を見ておく価値は十分あると思える。
も、
先ほど述べた哲学的という言葉と同様あいまいな表現
白井晟一は、
自分が設計した建物はいずれ壊される運命
である。私なりに解釈すると建築を設計する時、建物とし
にあると、予想していた向きがある。その為か作品の図面
ての機能と要求される性能を満たすのは自明なことで
の保存に力をいれていた。しかしその図面をもとに、解体
あって、
それ以上の何かが必要であると言っている。
された建物が復元される可能性は極めて低いだろう。
それ以上の何かとは、
その建物を見た人や、
その中(住宅)
上記のスキーム以外でも、
様々なアイデアでの親和銀行
で生活する人に対して建築物が働きかけるエネルギー
本店の存続を願って止まない。
(気)だと思う。その建築を見た時に、心
を動かすさまざまな思い、気持である。
美しさに対する感動だけでなく、
驚きや、
戸惑いや、
不可解さであったりする。
何れ
も見る者の心に強い印象を残す。
白井の建築の美しさは明快な美しさ
ではなく、ただ美しいだけで終わらない
魅力がある。完全な球形の真珠ではな
く、バロック真珠の様な少し歪んだ形
から発する独特な美しさである。これら
は、白井にしか出来ない唯一無二の世界
であって、それゆえ作品を保存する価値
があると思える。
白井の作品を厳選して年代別に並べ
てみる。
親和銀行本店 親和銀行懐霄館
5
PSATS Report Vol. 062 AUTUMN
日本免震構造協会会長就任のご挨拶
和田 章
大きな地震が起こるたびに建築物と地盤の縁を切っておけ
ば地震で壊れないのではないかというアイディアは、トルコ
など世界中に見られます。我国における免震構造の歴史は
相当古く、奈良の正倉院の校倉造りの建物を支えている
40 本の独立丸柱(直径 60cm)の傾斜復元力の仕組みに
まで戻ることができます。さらに昔にもあったかもしれま
せん。正倉院の免震構造は、地震時の水平変形が 60cm を
越えなければ、元の位置に戻ることができ、今の免震構造
とほぼ同じ能力を持っていると言えます。
戦後、我国で本格的な免震構造の建築が建てられたのは、
1980 年代のはじめに多田英之先生と山口昭一先生が設計
された 2 階建て鉄筋コンクリート住宅であり、6 つの積層
ゴムで支えられています。多くの関係者のご努力により、
兵庫県南部地震の起こる前の 1993 年 6 月に日本免震構造
建築物の耐震設計はこの経験と考え方によって行われて
協会は創立され、日本の免震構造と制振構造の発展に寄与
いるといえます。しかし、これは構造物や部材を塑性化
してきました。本年 6 月より、5 代目のこの協会の会長に
つまり犠牲にして耐震設計を成立たせていると言えます。
就くことになりました。建築技術支援協会の会員の皆様に
“Ductility is Damage” とも言われるように、構造設計者
もご支援して戴けるよう、よろしくお願い致します。
だけでなく建築家も、建築主も市民も、本来望むものでは
建築物を構成する基礎、基礎梁、柱、壁、梁、床などを
ありません。技術として可能であれば、構造物そのものを
鉛直荷重だけでなく地震時や強風時の水平力の抵抗要素と
地震のあとに健全なまま残したいと考えているはずです。
しても活用し、これらに必要な剛性と強さ、そして塑性変形
東日本大震災の起きた 2011 年 3 月 11 日の半月ほど前
能力を持たせて構成することにより通常の建築構造物は作ら
にニュージーランドのクライストチャーチで大地震が起き、
れています。地震時の応答がその構造物や部材の弾性限強
市内の建築物が大きく揺れました。富山県からの留学生な
さを超えようとすると、構造物の水平抵抗力の増加は鈍り、
どが亡くなられた建築を含め 2 つの建築物が完全に倒壊し
応答変形は塑性域に入ります。地震時の挙動はもちろん振動
ました。耐震設計の先進国でもあり、上で述べた考え方で
現象であり、何回もの繰返し塑性変形を受けますが、構造
設計されたほとんどの建物は倒壊を免れました。日本の関
物や部材が適度な塑性変形能力を有していれば、構造物は
係者はその後の東日本大震災の惨状があまりに甚大であっ
即座に倒壊することはありません。
たため、注目していませんでしたが、クライストチャーチ
強度型で設計される壁式構造などを除けば、ほとんどの
の建築物には多くの損傷が残っていたとのことで、この
ニュージーランドに 2011 年の地震が襲う前、
緑多く美しいクライストチャーチ
6
直径60cm の40本の独立柱で支えられる正倉院の校倉造り
2011 年 2 月に起きた地震のあと、
多くの建物が取り壊され更地になっている
3 年半の間に 1700 棟もの建築物が取壊され、2 枚の写真を
発揮させ、地震時のエネルギー吸収はこれらのダンパーに
比べて分かるように、更地が増えています。多額の地震保険
頼り、柱・梁構造は塑性化させない方法です。このようにし
が支払われたとも言われています。この状況は建築を建て
て設計した建築物は免震構造と同様に地震後にも続けて使う
ている我々や市民の望むことではないことはあきらかです。
ことができます。地震後にダンパーの吸収エネルギーの残に
日本免震構造協会が取り組んでいる免震構造と制振構造
心配があると判断されれば、部分的な修繕、ダンパーの入れ
はこの従来の考え方を基本的に見直したものです。免震構造
替えで構造物を長く続けて使うことができます。
では積層ゴムやすべり支障によって建築物の重量を安定的
今では、政府の建物、銀行、計算センター、病院、学校、
に支え、地震時の水平変形をこの部分に集中させ、地震時
住宅、倉庫など、ありとあらゆる建築物に免震構造が採用
のエネルギー吸収を目的に各種のダンパーを配置した仕組
され、高層建築から低層建築まで制振構造の利用もますま
みであり、上部構造に塑性変形を生じさせないのが基本的
す増えています。この傾向は、日本だけでなく米国、中国、
な考えです。要するに、大地震後も建築物を続けて使うこと
台湾、イタリアなどでも同様であり、日本免震構造協会の
ができます。建物内部に生じる加速度が小さいことも大き
役割はますます大きくなっています。免震構造および
な特徴です。
制振構造に関する技術の発展と社会へのますますの普及
制振構造には色々な方式があり考え方も多様ですが、望ま
に、日本免震構造協会の皆様とともに努力したいと考えて
しい制振構造は、柱・梁構造による骨組本体にはある程度
います。免震構造および制振構造に関する技術の発展と
十分な弾性変形域を持たせ、各種のダンパーを柱・梁構造と
社会へのますますの普及に、建築技術普及協会の皆様の
並列に建物全体に分散設置し、小さな変形域から減衰効果を
協力も得て努力したいと考えています。
内田祥哉先生の松井源吾特別賞受式に出席して 名称:日本構造家倶楽部 第 9 回日本構造デザイン賞受賞
記念講演会 日時:2014.8.29 15:30~18:30
会場:東京デザインセンター B2F ガレリアホール
○日本構造デザイン賞 早部安弘氏 ( 大成建設 ) 受賞作品「高崎市総合保健
センター・高崎市立中央図書館」
森部康司氏 ( 昭和女子大学准教授 ) 受賞作品「熊本県立
球磨工業高等学校管理棟」
この度,内田先生が松井源吾特別賞を受賞されること
○日本構造デザイン賞 松井源吾特別賞
になり,授賞式に出席しましたので,表記受賞講演会に
内田祥哉氏 ( 東京大学名誉教授 ) 「構造部材の形態に
ついて報告します.
よる建築デザインへの貢献」
開会に際し,日本構造家倶楽部播繁会長より 1990 年
高橋青光一氏 ( 大阪芸術大学名誉教授 )「構造との融合が
に発足した松井源吾賞は 15 回の終了後,31 名の受賞者
図られた一連の建築デザイン」
が松井先生の御意志を継承して日本構造デザイン賞を発
10 分間休憩の後,播繁会長の司会で,「共同作品で
足させ,更に今回の松井源吾特別賞の選考に至った経緯
ある佐賀県立博物館をとおして」のテーマで内田,高橋
を説明された.
両先生との記念鼎談が始まりました.鼎談は司会者がお
日本構造デザイン賞につい
ては,選考委員長の新谷真人
氏から選考経過報告及び,選
考委員の紹介があり,その後,
各選考委員からそれぞれの賞
に対する理由,評価について
説明があった.
日本構造デザイン賞の授賞式
と受賞者の記念講演、松井源吾
特別賞の授賞式が行われた.
7
PSATS Report Vol. 062 AUTUMN
二人の作品を映像で紹介しながら,両先生が当時のこと
「東京電気通信学園宿舎」,「 中央電気学園講堂 」 等も紹介
を語られるかたちで進められました.
され,特に,旧NTT中央学園図書館,武蔵大学 8 号館等
高橋青光一先生は,1924 年青島 ( 中国 ) 生まれで,幼少
のプレテンションの屋根,旧NTT霞が関電話局のポスト
時に近くにお住まいの建築家三井幸次郎宅で素晴らしい
テンションの庇,マルセル・ブロイヤーの作品にヒント
建築に日常接し,東京大学第二工学部では坪井善勝先生
を得たフイレンデ―ル構造の階段等,印象深い話をお聞
の薫陶を受けられ,建物のバランスには気をつけてきた
きし,技術伝承にはこの思い入れと心掛けが大事と教えて
と構造の基本を語られたのが印象的でした.当日配布の
いただきました.佐賀県立博物館は,高橋先生 ( 当時 46
紹介記事によると,内田祥哉先生の 2 年後に逓信省に入ら
歳 ) にほとんどやっていただいたが,構造設計は故木村俊
れ,1960 年第一工房を設立され,その後,大阪芸術大学
彦先生で,現在,耐震補強で苦労しておられるとのこと
教授,くまもとアートポリス第2代コミッショナーなど
もお話しになり,1981 年より以前の建物を多く設計した
つとめられ,建築作品には芸術院賞等多くの賞を受けら
小生にとっても印象深いでした.また設計に関わられた
れています.内田先生とは,「佐賀県立博物館」をご一緒
釣り構造免震の清水建設技術研究所「安心安震館」(2006)
に設計される等,参加者にはお二人の深いお付き合い・
については和田章先生に説明をまかされ,和田先生の登場
友情が感じられ,感動しました.
となるハプニングもありました.
内田祥哉先生は,1925 年生まれで,高橋先生より 1 歳
18 時 30 分閉会の後,3 階のイタリアン・レストラン
年下とのことですが,更に若々しく見え,高橋先生の作品
で懇親会が行われ,初代会長の川口衞先生,第 2 代会長
説明にも設計,施工当時の事情を切れの良い,細かな考察
斉藤公男先生,第 3 代会長佐々木睦朗先生の挨拶があり
も加えた説明を追加されていました.
ました.(安部重孝)
内田先生は,サーツの 2014 年総会のご講演にもあった,
サーツ・モンゴル訪問
サーツとして初めての海外シンポジウムが実施の運び
ウランバートルでは北京から先着の松村秀一先生と
となり,
8/22 ~ 27 の日程で講師の会員 7 名でウランバー
数日前から来ておられた松本年史氏と合流,マイクロ
トルを訪れた.シンポジウムの内容,建築現場見学,PC
バスで,宿泊先,フラワーホテルへ向う.このホテル
工場,プロジェクト見学については改めて報告の機会を
は日本語が通じ便利である.
設けるが,その概略を報告する.
この企画は会員の松本年史 ( 構造 ) 氏の発案で始まった.
学生)を加え,近郊のゲル地区へ向かった.ゲル地区は
氏の 4 年前以来のモンゴル科学技術大学との交流から,
700 ㎡程度と聞くが,敷地は板塀で囲まれ,ゲルと簡
モンゴルの日本の建築技術への期待を受けたものである.
略な木造戸建が点在する.その後,ジンギスカンパーク
また,国交省住宅局はモンゴルへの技術協力,耐震セミ
に行く.ジンギスカンパークは,2 階建ての円形建屋 ( 博
ナーを行っているが,今後も国交省と情報交換を行う
物館・展示場・レストラン ) の上に,高さ 40 mの馬上
予定である.
のジンギスカン像(ステンレス製)が輝いていた.丘
7 月 2 日,実施に先立ち,松本氏旧知のモンゴル・ヌ―
には騎馬像が数体並んでいたが,これから寄付により,
デルチン社シュウ社長一行が来日し,参加者一同で事前
数百体の騎馬像が並ぶ予定とのこと.モンゴル各地から
打ち合わせ,歓迎会を行った.なお,松村秀一先生が
の見学者が多い,次いで 13 世紀村に向かう.ゲートか
北京より合流一部参加,非会員だが,強い関心を持って
ら正面には,おどろおどろしい飾り竿が並び,その奥に
おられるJSCAの中野時衛氏(NTTF 総合研究所,構造
は数棟の大きなゲルが威容を誇っていた.右手に,数
設計)の特別参加があった.
棟のゲルがありそこが我々の一夜を過ごす宿であった.
訪問の日程,行事概略は以下の通りです.
昼食は民族楽器・馬頭琴の演奏付きで肉のにおいが強い
8/22(金)
:岡本直 ( 構造 ),向野元昭 ( 設備 ),向野嬢 ( 都
8
8/23(土):現地探訪.一行に共立女子大生 3 名(松本氏
うどん等であった.食後は 13 世紀村の歴史保存施設の
市・環境 ),筒井勲 ( 施工 ),吉田一空 ( 設備・防災 ),
ゲルめぐりをした.シャーマンゲル,遊牧民キャンプ,
中野時衛 ( 構造 ),安部重孝 ( 構造 ) の 7 名は,ほぼ定
職人キャンプ,教育キャンプ等に分けられていた.オゴ
刻 14 時 40 分 OM502 便 で ウ ラ ン バ ー ト ル へ 出 発,
タイハーンの守衛所が最後にあった.夕食の後,水平線
の丘に沈む夕日が素晴らしい眺めを満喫した.180 度
21 時 30 分過ぎにホテル着.
8/25(月):8 時 30 分ホテル出発,モダン社の鉄筋コン
見渡せる,満天の星空の眺めは素晴らしかった.
8/24(日):さわやかな朝,草原の空気を思い切り吸い
クリート中層集合住宅の建築現場見学.午後から,モン
こみ,シューさんの SUM( モンゴル全土で 360 あると
ゴル科学技術大学において,「建築技術シンポジウム」
いう集落 ) を訪問.SUM の会議場で,女性議長の SUM
開催.女性の学長の挨拶,松本さんの司会,サーツ 3 名
についての説明を受けた.次に,羊毛工場を見学,昼
の講師による講演,質疑を受けた.終了後,レストラン
となり,長老の待つゲルを訪問,モンゴル遊牧民歓迎
にて懇親会
料理,羊 1 頭の丸焼,そして,馬乳酒の回し飲みと宴
8/26(火):午前より引き続きシンポジウム,4 名の講師
は盛り上がった.長老の娘さんは日本留学の経験があり
の講演の後,相互の質議,意見交換は有意義であり,
流暢な日本語で会話.食後,乗馬体験,次いで酪農工
モンゴル側の次回への期待が大きい.
場訪問.フランス牛の輸入で,1 年中牛乳が飲めるよ
8/27(水):岡本,向野,向野嬢,筒井,吉田,中野の
うになると政府期待の酪農工場とのことでした.次は,
6 名 は 早 朝, 帰 国. 安 部 は 8/28. 松 本 さ ん は 8/31
軽量骨材工場視察です.中国製の錆びた機械があった
帰国して,2014 年度夏のサーツモンゴルプロジェクト
が,日本の技術指導を期待していた.帰路は渋滞となり,
は無事終了した.
(安部重孝)
モンゴル行ミヤット・モンゴル機上からモンゴルの広い大地を見下ろす
ゲルで宿泊
青い空と草原そしてゲル一望
馬頭琴を聴き食事
シンポジウム会場風景
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国重要文化財「明治丸」修復工事見学会
10
日時:2014 年 9 月 8 日
今回の修復は腐食した甲板,上部木造構造物の修復,
場所:東京海洋大学越中島キャンパス
マスト及びヤードの修復に限られる(マストへの結索スケッ
大林組による明治丸修復工事の見学会が文建協・賀古
チ等も復元のため作業所事務所壁に掲示).甲板が 65 ㎜
唯義氏のご紹介を得て実現し,大林組:宮本工事長、海洋
厚のチーク材で復旧されるが,マストが栗材から鋼製に
大施設課:城山係長の案内により、会員 14 名が参加した.
なったのは材料入手の点からやむを得ないことであろう.
事前に配布された資料によれば,明治丸は明治 6 年(1873)
船内は次期工事であるが,見学は許され,往時の明治天皇
工部省が燈台視察船として英国に発注したもので,同 8 年
御座所の船室内装を偲ぶことができた.修復完了後は一般
に横浜に回航された.明治 9 年には明治天皇の東北御
への再公開が予定されているが,多くの関心を呼ぶ工夫が
巡航に際し,帰路,青森から函館経由で横浜までご乗船に
求められている.
なった.又,小笠原諸島の領有に関して調査船として英国
なお,構内には登録有形文化財としての建造物が 5 棟
船より先着し,領有化に力を発揮した.その後,多難な経
あり,2棟の小型天文観測所が見学できた(詳細は WEB
過を経て,現在,三菱商船学校を祖とする東京海洋大学の
SITE で,「文化庁月報 平成23年8月号(№ .515)東京
構内に定置されている.建造時は 2 本マストのスクーナー
海洋大学越中島キャンパスの西洋建築執筆者:海洋大財務
型補助帆付汽船だったが,その後,各部の改造,改修をへ
部施設課 城山美香氏」,参照の事).関東大震災後に再建
て,昭和 29 年,陸上に定置されて生徒の練習施設となった.
された本館1号館は今回,講義中とのことで内部は見学で
当時の日本が保有した鉄船として最大のもので,100 年
きなかったが,外装タイルの精緻な仕上がりは外装タイル
以上保存されている鉄船の例は世界でも珍しいという.
工事の上質な見本として評価されよう.(伊藤誠三)
建築生産における施工計画書の位置つけ
(計画条件の設定とその必須管理事項との関係)
柳川 裕
はじめに
2.
「施工計画」設定条件の設定とその管理
建築生産においては、発注者ニーズが含まれる設計者の
以上のごとく、施工計画書類は、工事規模や必要に応じて
狙いの品質「設計図書」と共に、施工者の合致の品質を示す
作成されるが、種々の条件でともすればカタチだけの形式的
「施工計画書」は、必須作成書類であるが、これに関する情
内容になる場合が多い。しかし、計画の担当者は、各種法令
報は工事関係者以外殆ど公表されていないのが実状である。
などでの具体的設定値があるもの以外は、設定・判断に悩み
これは法的な問題は別として設計図書や施工者側の見積書・
ながら条件設定をし、管理を行いながら作業を進めているの
契約書だけでは読み切れない生産段階での各種ノウハウや
が実情であろう。しかし、
この「設定条件」や「設定条件外」
特殊事情などが含まれているためとも考えられる。その現状
に相当する内容について、担当技術者は以後の計画・実施
と問題について検討を行った。 段階で、どの様に認識・管理を行っていくかの情報を関係
1.施工計画書作成の現状(その基本と現実)
する実施担当者に伝達することが重要であるが、これが徹底
一般に、日本における建築は設計図や仕様書に示されるも
されていない例が、最近の各種事故例やクレーム事例では
のだけでは生産・施工は困難であり、それを具体的に実施す
不十分になっているように感じられる。
るものとして設計図を補足する「施工図」や「施工計画」の
・
「計画条件」具体的実施にどのように反映しているかがポイン
作成が必須である。その作成は、現場担当技術者や施工に
トとなる。担当技術者の今までの実地を含めた経験、実績、
関わるスタッフが、一般共通的な事項を基に現場のもつ特殊
判断が重要であるが、実施担当者との情報伝達、連携もさ
条件などを考慮して、施工方法や手順、工程、費用など総合
らに重要な要素である。そのほか設計変更についても検討の
的に判断して具体的に計画し準備するものが少なくない。
段階で説明の難しい判断も含まれるが明確にしておきたい。
また法規制の面では、各種の法規制があるが、本設構造物の
・
「設定条件外」
:計画・実施管理がなされない(想定外と言
設計とは計画上の自由度がやや異なるという面がある。以上
われるものの一つ)が、関連情報に関する認識不足、調
は一般的な計画の基本であるが、実際の施工計画は当該プロ
査不足と合わせて注意・緊急対策の検討も必要である。
ジェクトに応じて個々に計画され担当技術者の経験に基づく
表 - 施工計画書の内容
ノウハウが計画の巧拙を左右することもある。この計画で本体
構造を構築する上で必要となる一時的な構造物や施設・機械
設置等に関する仮設計画は、労働災害に直結するため、その
安全性は計画する上で最も意識すべきことである。また、こ
れら施設等の構築(仮設)と撤去は繰り返えされるという性
格もあり、また使用材料の廃棄も多くその計画にはリサイク
ル・リデュース・リユースといった環境問題への配慮も求め
られる。一方で経済性も強く求められるため、本体構造物が
出来上がるとカタチとして残らないものであり、極力経済性
3.まとめ
を抑えられる一面もある。しかし、施工者が自信をもって計
施工計画段階では、計画条件をもとに計画者・実施担当者
画し、実行できるバランスの取れた内容とすべきものである
が一般によく言われる現地現物の確認徹底すなわち PDCA の
が、建物の内容によっては施工困難や工期的に対応できない、
管理を前提としているが、計画変更対応等の処置が必要な場合
品質と密接な関係を持つなどの問題もある。
もある。現状の業務委託や人手不足の現状では、この辺りの
建築に限らず一般に仕事を始める前には、何らかの方針や
情報共有や意識を忘れた管理実施が行われていなければ幸い
目標値を設定し、
その計画のもとに進めていくと考えるが、
「施
である。そしてこれらの問題を克服し工事を完了させた暁に、
工計画」としては、予定工期内の各種条件に対して、経済性、
計画立案、実施完成に関与した工事関係者の努力が「目に見
安全性、さらには環境に対する目標を設定し、品質を確保した
えるカタチ」として記念に残る建物、思い出になる工事とし
建物を構築するわけであるが、これらの計画は、すべてが
て記憶に残るものとなる。最後に、
「施工計画書」等になじみ
標準に沿ったものでなくバランスや経験則を考慮して設定さ
の薄い発注者や設計者にも、このような施工者側の施工基本
れており、そのまま他のプロジェクトにも通用するものでは
姿勢や仮設構造物等の重要性を示す施工計画書や関連書類等
ないため、第三者に公表するレベルでないのが現状である。
を是非とも正しく認識して協力頂きたいところである。
<参考文献>下記筆者共著より一部引用追記。
1) 日本建築学会「仮設構造物計画の手引き」2009.2 2) 彰国社「施工計画ガイドブック」工事編 1985.7 11
PSATS Report Vol. 062 AUTUMN
龍ノ口から両国橋へ(後編)
野村 信之
家康入府に伴い東京駅と皇居の間にあった千代田村は
に入ったところの神田川最下流の橋が柳橋(①:写真)で
図1左端の現小伝馬町に移され、村の千代田稲荷神社は
す。関東大震災での復興橋ですが、同時期の隅田川の橋に
江戸城内に移されました。旧村民は同じ名前の神社を別途
較べて劣化の進行が少ないようです。橋の周囲は江戸中期
図1①↑先 × に勧請しました。その後家光が城内のを城外
以降料亭街で、「柳橋」は街の名でもありました。神田川
渋谷に再移転したので、現在都内に二つの千代田稲荷神社
河口部が隅田川下流での川遊びの舟溜りだったこと、江戸
があります。
時代から両国橋西詰めの広小路に芝居小屋、髪結い床など
神社の東を南に向かう通りは「大門通り」です。新吉原
各種のサービス業がひしめいていたこと、両国橋東からの
が設けられるまで吉原遊廓が 600 m南にあり、この名が
人や物の流入があったことが街の繁栄の要因でした。一日
残っています。本町通りに戻って図1②の下の街区に洒落
がかりの料亭での遊興や接待は大正になると減少し、交通
本筆禍事件の山東京伝などのスポンサーをしていた蔦屋
至便な新橋にその座を奪われました。舟溜りは残っていま
が、上の街区には錦絵の鶴屋があり、江戸の出版物センター
すが、地上は写真で橋の向こう(北詰:写真中央左)に写っ
でした。
ているビル一階の料理店が唯一の当時の名残です。
図2の文マーク(日本橋中学)の北のグレー部分には、
薬研堀が掘られていました。日本橋中学を含む図 2 下部
に設けられた大名下屋敷や武家屋敷を整備するための資材
陸揚げ用の短期目的だったので埋め戻しやすい薬研型に掘
り、その名が付きました。その後隅田川寄りの部分は小さ
い舟用の溜りになりました。川遊びが盛んになり堀の周辺
に遊興地帯が形成されて江戸の名所でした。広重は対岸の
図 1 現江戸通り周辺
回向院からの錦絵に堀の入口の上に架かった橋と大きな柳
江戸名所図会は、蔦屋の事件に配慮して屋号抜きで錦絵
を描いています。この橋は
を名所として描いています。
当時「元柳橋」と呼ばれて
図1②から 100m ほどの左右の密集街区は、浜町川の埋
おり、柳の大木は明治末の
立て跡です。図 1 ③←先 × の竹森神社の北(現龍閑公園)
堀の完全埋め立て後も残さ
で神田堀(龍閑川)の水を受けていました。前号紹介の神田
れていました。
堀と同様流路の中心が通路(図の破線)として残っています。
江戸名所図会は薬研堀の
竹森神社東南の道路を神田川のほうに進み、郵便局の
街並みの一部になっている
手前までの 100 mほど(図1のグレー部分)に、家康開
寺社を描いていますが、存続
設の馬場がありました。地名馬喰町はここに群がった職業
しているのは図2③←先 ×
由縁です。
にある不動院だけです。
浅草御門は、神田川の手前(図1④、図2左上)にあり
不動院近くの都営浅草線
ました。現在では江戸通りと清澄通りとが合流して靖国通
東日本橋駅を終点とすると前号から通して 7km 弱の街中
りを渡る広
ウォーキングになります。改めての後編分はもの足りない
い交差点と
という方は、隅田川河川テラス、浜町公園、明治座などを
して整備さ
訪れてメトロ線の人形町や水天宮を終点とすると後編だけ
れ て、 何 の
で 4km を越えられます。
痕跡もあり
ません。
図2の両
国 橋( ② )
の手前を北
12
図 2 柳橋など
(お詫びと訂正)
前号掲載の図2本町通周辺部での誤った表示で読者の皆さん
に混乱等のご迷惑をおかけして申し訳ありません。前号図2
中央部の(靖国通り)は間違いで、正しくは(現江戸通)です。
本号の図1の左端に繋がるものです。
「自著によせて」・・・松村 秀一
「場の産業 実践論 『建築-新しい仕事のかたち』をめぐっ
て」/松村秀一編(2014 年 7 月刊)
見交換会の様子をとりまとめたものです。私一人では考え
切れなかった事柄、すなわち、「場の産業」にはどのよう
昨年 11 月に「箱の産業 プレハ
な人材が求められるのか、そういう人材はどうすれば育て
ブ住宅技術者たちの証言」
、12 月
られるのか、場の産業の担い手は経済的・事業的にはどの
には「建築-新しい仕事のかたち
ように成立し得るのか、そもそも産業が大転換する背景に
箱の産業から場の産業へ」を上
はどのような社会変化があるのか等々について、それぞれ
梓しました。今回出版しました
の方の貴重な経験に基づく傾聴すべき意見が多く出されま
「場の産業 実践論」はこれらに
した。私自身はこれらの意見交換会によって「場の産業」
続く、いわば3部作の完結編に
が見えた気がしております。
あたります。
それにしても、同じような意識を持って新しい試みを
前著「建築-新しい仕事のかた
する人たちが、同時多発的に各地で活躍し始めている事実
ち」において、これからの建築関係・住環境関係の仕事の
には、改めて驚かされます。これが「時代」というもの
力点が大きく変わるだろうこと、それが「場の産業」と
なのだと実感しているところです。具体的な内容は本書の
呼び得るものになるであろうこと、そして「場の産業」に
方に譲りますが、もし読んで頂けたら、皆様にもそういう
はどうやら 7 つの重要な構成要素があることを述べまし
「時代」を感じて頂けるのではないかと思っております。
た。今回の「場の産業 実践論」は、この前著の内容を
■ 発 行 彰国社 めぐって、時代の波頭で飛沫をあげている先駆的な実践者
■ 四六判 208 頁
の方々計 15 名と行った、東京、大阪、北九州での公開意
■ 定 価 1,852 円+税
「古代史へのお誘い」・・・伊藤 誠三
もう 10 年来,古代史に関心を持って,或る研究会にも
いる.最も驚異的と思ったのは世界中の DNA 研究家が共同
属している.もとは,近代建築の始まりとして明治の「お
して,各地に出土した古代人の骨の DNA 分析をして現代
雇い外国人」の業績を確認することを始めたのであった
の人類の祖が 6 万年前,アフリカを出発,世界各地に移動,
が,それ以前の状況はというと,室町時代をピークとす
展開したことを突き止めたという報告だ.金属の分析会
る大工,棟梁の世界であり,プロジェクトマネージャー
社の専務さんが,銅鏡を分析,銅の成分からその鋳造
たる勧進職にたどり着く.その舞台である寺院建築の由
地等を確認した報告など聞くと,史家,考古学者の文献,
来は一挙に仏教伝来の古代史に遡ってしまう.日本古来
観察による推定などはふっとんでしまう.その専務さん
の建物といえば,掘立柱,棟持ち柱が残された神社建築
に素人が古代史に取り組むには自分の専門分野から入る
であり,それらは弥生の高床建物に遡り,更に稲の伝来
のがよい,とアドバイスをされた事があり,私はもっぱ
に基づく雲南省にその源流が求められる,という事になっ
ら建築に視座を置いて考察している.例えば,平城京・
てしまった.
平安京の碁盤目都市は中国,長安・洛陽に範を求めたこと
歴史というもの,過去の事象の記録として変わらない
が定説になっているが,その長安・洛陽の碁盤目は亀の
ものと思っていたことがあったが,内実はまったく異な
腹甲の模様にその淵源があることが中国資料で分かった.
り,妙なことだが歴史は年々更新される.我々が高校で
現在,日本の藤原京に始まる碁盤目は宮処(都)の成立
記憶したものは 60 年も前の事でその知識は殆ど間に合わ
事情から長安のものとは異なるという仮説を進めている.
ない.その後のより客観的な考察や考古資料の発見など
定説を覆すことになれば嬉しいが.皆さんも推理の構築
で絶えず改訂され,修正が加えられているからである.
を楽しんでみてはいかが?
近年はいろんな分野の専門家が古代史研究に参入して
13
フルートを友として もう20数年も前のことになるが,海外出張が多かった.或る
カー・ムラマツのレッスン
年,ロンドン出張の長期化で週末の過ごし方に倦んで,ハムス
センターを見つけ,そこで
テッドの林を散策していた時,奥の方から妙なる調べが聞こえ
紫園香先生のレッスンを受
伊藤 誠三
てきた.尋ねてゆくと,初老の人が悠々とフルートを吹いてい
けることになった.演奏は
るのだった.
「あっ,
これにしよう」,その場で,余暇の過ごし方
若い人のようにどんどん進
を決めた.当時,単身の出張が多かったが,週末はゴルフかパブ
歩するというわけには行か
めぐり,時に美術館という過ごし方に飽き足らなかったからで
ないが,耳は鍛えられた.
ある.
何しろ国 際 級 の 音 質を毎
翌日,電話帳でフルート専門店を探し出し,楽器購入に向かっ
週,耳元でたっぷり聞かせ
た.物を買うのに手間はいらぬと考えていたのに,店主は「先
てもらっていたのだから.年々,いろんな行事にも参加して,楽し
生は誰か?」
と訊き,
「まず先生を決めて,一緒にいらっしゃい」
みも増えた.
とあしらわれてしまった.押し問答の末,買うことのできたのは
国の内外,業務,余暇に関わらず,旅行の殆どにフルートと暗譜
ヤマハであった.後になって,
「ロンドン土産にヤマハを買って
が不得手なので譜面台を携行する.
ワイキキでは朝に吹き始め
きた」
と笑い話にされることになった.
ると,いつも部屋の中まで入り込んできて耳を傾けてくれるペア
帰国後,自宅最寄りの駅に「フルート教えます」の看板を見
の白い鳩がいた.夕刻には夕陽を楽しむ浜辺の人たちのバック
つけ,早速に電話を入れると,
「五十歳過ぎでは難しい」
とやん
グラウンド・ミュージックになっていたに違いない.いつも数曲
わり断られた.それでも結局,
「やってみますか?」
ということに
の繰り返しなのではあるが.
して貰った.上達はともかく,初めての習い事というので心が
日本での聴衆は主に小鳥たち.軽井沢の林ではいろんな声で
弾んだ.3か月程たって,初めての曲,スメタナの「モルダウの
合わせてきてくれる.夕暮れ,今日は妙に静かだなぁと思ってい
流れ」
(一部)がまとまりそうになった頃,今度はホノルル転勤
ると,遠くから「ケッコー,ケッコー」
と響いてくる.そうか,天井
ということになってしまった.
桟敷にいたのか,
という感じである.箱根の休日では老鶯のソロ
ホノルルでは,落ち着くとすぐ,音楽教室を探したが,
フルート
が始まると,
こちらは暫く休符として,そのカデンツァに耳を傾け
専門の人は不在で,ピアノ専門の日系婦人に習う事になった.
る.蜩の大合唱がこちらのもたつきを助けてくれる時もある.
「赤色のシャツを着る事」
という決まりを守り,子供達に混じっ
ロンドンで受けた忠告を守り,ずっと先生についている.現在
て,親御さん達の温かい声援を受けた.
「自分もやってみよう
は黒田聰先生,若手のホープ.繰り返し同じアドバイスを受ける.
かな」
と声をかけてくれる人が2,3いたから,中年の「初心者振
折角,修正できても次のレッスンでは元の木阿弥,苦笑して謝る
り」が受けたのかも知れない.
ことしばしば.辛抱強い指導に感謝しながら,日々の生活リズム
帰国後は西新宿在の在籍設計事務所の近くにフルートメー
の基本要素の一つとなっている.
ハープの伴奏で トリオ演奏 某サロンにて
三鷹市 風のホールでの合奏
P a r t n e r s i n S u s t a i n i n g A r c h i t e c t u r a l Te c h n o l o g y a n d S k i l l s (サーツ)
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