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表紙題字 は神戸市 長 宮崎辰雄
表紙写真は昭和54年 1月 撮影
序
文
処 女塚古墳 は 、古 く万葉 の 時代 か ら悲恋 の主人公 の
墓 として語 り伝 え られて い る有名 な古 墳 であ ります 。
大正 11年 に 国 の史跡 に指定 され ましたが 、近年 にな
って墳 丘 の傷 みが 激 し くな って きたため 、昭和 54年 度
か ら国 の補助金 を得 て整備事業 に とりかか りました。
整備 は 、築造 当時 の姿 にで きるだ け近 づ けた い と努
力 い た しましたが 、墳 丘 の 流失 が著 し く復 元整備 をす
るこ とはで きませ んで した 。
しか し、調 査 の結果 か ら神戸市 内唯― の前方後方墳
であ る こ とがわか ったこ とは 、大 きな成果 とい えま し
ょう。
市街地 の 中の遺跡 として整備 が完了 しました史跡処
女塚古墳 を、一 人で も多 くの方 々 に活用 して いただ け
れば幸 いです 。
終 りに 、 この事業 のために 多大な ご支援 を賜 った文
化庁 、奈良国立文化財研 究所、 ご指 導 をいただ きまし
た諸先生 をは じめ 、 ご協力 いただ きました関係各位 に
厚 くお礼 申し上 げます 。
昭和60年 3月
神戸市教育委員会
教育長
山 本
治 良Б
整備 事業概要
所 在 地
兵 庫 県神 戸市 東 灘 区御影 塚 町 2丁 目10
整備 期 間
着手
総 工 費
6040万
昭和 54年 4月 1日
昭和60年 3月 31日
完了
円
整備事 業 は 、文化 庁 、奈 良 国 立文化財研 究所 、史跡処 女塚 古墳 整備
委 員会 の指 導 に よ り、神 戸市 が 実施 した。発掘調 査 は 、神 戸市教 育 委
員会社会教 育部 文化財 課 が 行 な い 、 整備工事 に 関す る設 計 、 監督 は 、
神 戸市住 宅局 営繕 部 学校 建 設課 が 担 当 した 。
整備 体 制
指導 。監督
事務局
文 化 庁 文化 財保護 部 記 念物課
主任 文 化 財 調 査 官
牛川
文化財調査官
高瀬
(昭 和54、
55、
文化財調査官
56、
(昭 和54、
55、
56年 度 )
山本
要一
57年 度
(昭
)
允彦
59年 度)
匠
安好
長
育
喜幸
加藤
(昭 和58、
史跡
教
和57、
社 会教育部長
(昭 和54、
58、
治郎
59年 度 )
畑岡
55、
56、
瑞夫
57年 度 )
大田
処 女 塚 古墳整備 委 員
神 戸 大 学 名誉 教 授
野地
脩左
京都 大学 名誉 教授
小林
行雄
神 戸 市 立博 物館 副館 長
檀上
重光
修治
(昭 和58、 59年 度 )
安田
文化課長
(昭 和54、
55、
博司
56年 度 )
入尾
文化財課長
明
(昭 和57、 58年 度 )
奈 良 国 立文化 財研 究所
平 城 宮跡 発掘 調査 部
考 古 第一 調査 室長
増川
工楽
奈 良 国 立 文化財研 究所
平 城 宮 跡発掘調 査部
計 浪I修 景調査 室長
善通
修三
(昭 和59年 度 )
文化財係長
藤井
建治
(昭 和54年 度 )
田中
哲雄
主査
喜谷
美宣
(昭 和54年 度 )
整備 工 事設 計 。監督
埋蔵文化財係長
喜谷
美宣
(昭 和55年 度 )
神 戸 市住 宅 局 営繕 部
学校 建 設課 長
勝原
正彦
(昭 和54、 55年 度 )
杉下
(昭 和56、
57、
英治
奥田
(昭 和56、
調 査 担 当者
58年 度 )
修
学 校 建 設課 土 木係
山下
和秋
口野
哲通
59年 度 )
博 史 、西 岡 巧 次
)(昭 和54年 度 )
千種
浩
(昭 和56、 57年 度 )
)
九尾
58、
(昭 和54年 度
下河内 晃
(昭 和59年 度
学校 建 設課 土 木係 長
57、
事 務 担 当者
前 田 真一 、 中村 善 則
(昭 和54年 度 )(昭 和54年 度 )
丸山
潔 、渡 辺
福田
信 安 、沢 田
伸 行 、宮 本
郁雄
(昭 和55、 56年 度 )(昭 和57年 度 )(昭 和58年 度 )
剛 、菅 本 宏 明
)(昭 和59年 度 )
(昭 和58年 度 )(昭 和59年 度
整備 後 の 処 女 塚 古 墳 (昭 和 60年 1月
1
)
処女塚古墳 と東 。西求女塚古墳
処 女塚 古 墳 は 、石 屋 川 に よって形 成 され た扇状 地上 に造 られ た古 墳 で あ る。
古 くか ら処 女塚 古 墳 は 、東 灘 区住 吉 宮町 一 丁 目に所 在す る東求 女塚 古 墳 (全
長約 80m)と 灘 区都 通 三丁 目に所在す る西求女塚 古墳 (全 長約 100m)に まつわ
る悲恋 の伝 説 が 言 い伝 え られ て い る。 この伝 説 は 、 二 人 の 男性 が一 人 の 女性 を
慕 ったが 、女性 は 身 を処 しか ね て海 に 身 を投 じた。 そ こで二 人 の 男性 も悲 しん
で後 を追 ったため 、女性 の墓 を中に して 、 男性 の墓 を造 った とい う物 語 で あ る。
処 女塚 古墳 に 前方部 を向け て造 られ た二基 の 古墳 を見 た古 代 の 人 々 は そ こに何
らか の 意味 を見 出 そ う とした もの で あ ろ う。
『古 の小竹 田壮士 の妻問 い し苑原処女 の奥津城ぞこれ』
9
10POm
│
処 女塚 古 墳位 置 図
2
万葉集― 田辺福磨
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東求 女塚 古 墳 (昭 和 59年 4月 南 か ら )
西 求女塚 古墳 (昭 和 59年 4月 南 か ら)
前方部
前方部 は 、 ほIF全 域 を発掘 調査 したが 、墳 丘 の 流失 が 著 しい うえに
攪 乱 が 多 く原形 を とどめ て い る部分 は少 なか った 。
今 回 の調査 で 、東側 斜 面上段 の葺石 と小段 、東側 斜 面 お よび西側斜
面 の 下段 の 葺石 の一 部 が確 認 され た 。
これ らの 調査結 果 か ら、前方部 は 二段 築成 で 、幅 32メ ー トル 、高 さ
4メ ー トル で あ った こ とが わか った 。
ま た 、 くびれ部 に近 い前 方部 東側斜 面上段 の 小段 で 、箱 式石 棺 1基
が 検 出 され た 。 この石棺 は 、古墳築 造後 埋 葬 した と考 え られ 、上段 の
斜 面 を一 部切 り込 ん で造 られて い た 。棺 内か らの 出 土遺 物 はなか った
が 、蓋石 直上 か ら滑石 製勾 玉 1個 が 出土 した 。 ま た 、墳 丘 上 か ら壷 形
土器 片が 出上 した 。
東斜面上 段 と小 段
(手 前 は箱 式石棺 )
箱式石構 (北 か ら)
東側下段 (南 か ら)
西側 下段 (北 か ら)
後方部
後方部 も前方部 と同様 に 、墳 丘 の 流失 、攪 乱 が著 し く原形 を残 して い
る部分 は 、 ほ とん どなか った 。特 に北側 、東側 は周 囲 の 道 路 に よって
大 き く削 り取 られ て い る。下段 まで の調査 が 可能 であ ったの は 、西側
だけ で あ った 。 ここで確 認 され た下段 の葺石 は 、前 方部 ほ ど明瞭 では
なか ったが 、墳 丘 の裾 が 直線 的 に検 出 され た ため 、前方 後方墳 で ある
と判 断 した 。
また、西側 斜面 中段 の 葺石 は 、検 出 で きなか ったが 、斜 面 に傾 斜 変
換 す る ところが認 め られ 、墳 丘 の 断害1り 調 査 で も盛 上 の 方法 が 変 わっ
て い るな ど小段 が 存在 して い た と考 え られ た 。 そ の ため 、後 方部 は 、
三段 築 成 で あ った と考 え られる 。
後 方部 墳頂 南側 では 、埋 葬 施 設 の一 部 と考 え られ る石 組 みが 検 出 さ
れ たが 、 どの よ うな構 造 を した ものか は 、確 認 で きなか った 。
遺 物 は 、墳頂 か ら鼓 形器 台が 出土 した 。 また、 くびれ部 の 東 西両下
段 か ら壷 形 土器 が 出 土 した。
西側 斜 面 (西 か ら )
西側 下 段 (北 か ら )
墳頂 (南 か ら )
墳頂 石 組 (南 か ら )
β岳
│
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れ
Ч二
鴻μ
l.、 ● :「
│
整備 前 (昭 和 55年 8月
)
整備 中 (昭 和 59年 7月
9
)
史跡処女塚古墳
昭和60年 3月 1日
昭和60年 3月 31日
昭和 61年 9月 30日
編集・ 発行
印
刷
印刷
発行
第 2届 1発行
神戸市教育 委員会
―
納町 6丁 目 5番 1号
神戸市中央区力Π
神戸 オール出版印用J株 式会社
神戸市兵庫区新開地 4丁 目 6-19
神戸市広報印刷物登録 昭和61年 度第177号 (A-6類 )
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