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Page 1 Page 2 1 はじめに 本特集は「国際関係の中の日本語研究」で
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国立国語研究所設置をめぐる二、三のことども
安田, 敏朗
国文論叢(43): 118(17)-101(34)
2010-12
Journal Article
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/22257
Right
Hitotsubashi University Repository
国立国語研究所設置 をめ ぐる二、三のことども
安
田 敏
朗
1 は じめに
本特集は 「国際関係の中の 日本語研究」である。言語研究 としての 日本語研究が形 を
なして くるのは明治以降のことと考 えてよいだろうか ら、近代 国民国家 ・日本が国際関
係に参入 してい く状況 と言語研究 とは直接 間接 に関係があった とみるのはそ う不 自然で
はない。 この点は、国民国家形成の必須要素 としての 「国語」 を構築することに、言語
学 (
者)や国語学 (
者)が関与 していったことを考 えれば了解 しやすい。 また、異なる
言語 との接触や対照 によって研究が深 まることも、 ままあることである。
少 し乱暴 にいって しまえば、国際関係のなかで 日本語研究がなされるのはむ しろ当然
のことであって、 日本語研究 とは国際関係のなかで しかなされない、 と挑発的にいって
しまって もよいか もしれない。 とすれば、あえて 「国際関係の中の 日本語研究」 を設定
する必要があるほど、 日本語研究がなん らの外的影響 をこうむることな く純粋 におこな
うことがで きる、 といった考えが根深い ともいえる。
本稿であつか うのは、「国語及び国民の言語生活 に関す る科学的調査研 究 を行 い、あ
9
48年
わせて国語の合理化の確実 な基礎 を築 く」 (
国立 国語研究所設置法第-条 1項 、1
1
2月2
0日、法律第25
4号) ことを目的 とした国立国語研究所の設置の経緯である。「
言語
生活の研究」 という敗戦後の 日本語研究のひとつの流れをつ くっていったのはこの研究
所であ るが、研 究所設置 に、国際 関係 (
当時 は占領下 で あ ったので、GHQか らの影
響)をみることは、 さほ どなされていなかったように思われる。研究所設立三十年 を記
念 して刊行 された F
国立国語研究所三十年のあゆみ-
研究業績の紹介」 (
国立国語研
究所 、1978年) にも、明治以降の文部省の国語政策史 をまとめた文化庁 r国語施策百午
史j (ぎょうせ い、2006年) に も、 こうした話 は出て こない.最 も詳細 に設置過程が記
」(
r
国語学」 3碑、1949年1
0月、国語課長
されている 「国立国語研究所の設置について
釘本久春1
)
執筆)で も、「
民 間の有織者 ・国会の関係議員 は もとよ り、文部事務 当局 も、
占領下の事情ではあるが、 自主的な態度 と方針 をもって、それぞれ国立国語研究所設立
の努力 をつ ゞけて来たのであるが、連合国最高司令部民間教育情報部が、 この間題 につ
いて終始好意 と理解 とを表わ しつ ゞけていたことは、われわれ 日本国民にとって幸福 な
- 11
8(
1
7
)-
事実であった」2)とやや唐突に記 されるのみである (
釘本がわざわざこう記 した理由は
本文で明 らかにしたい)0
SCAP (
連合 国最高司令官総司令部)の C
I
&E (
民間
そ こで、国会議事録3)や GHQ/
情報教育局)文書4)などを使って、国立国語研究所設置法での研究所設置理念や研究内
容への G
HQの影響、釘本のいうように 「自主的な態度 と方針」が貫徹で きたのか をみ
てい くことにしたい。
2 研 究所 設置 にい た る時期 区分
まず、国立国語研究所設置 までの時期 を三段階にわけてみる。
第一段階は、第一回国会 (
片山哲内閣)の衆議院文化委員会 ・参議院文化委員会それ
ぞれにおいて、安藤正次ほか五名か ら出された請願 「国字国語問題の研究機関設置に関
する請願」が検討 され (
衆議院文化委員会は1
9
47年 9月23日お よび1
0月 3日、参議院文
化委員会は1
9
47年 8月2
6日、 9月23日お よび1
0月 2日)、それぞれの本会議で採択 (
衆
議院は1
9
47年1
2月 9H、参議院は1
9
47年1
1月26日)、内閣総理大臣に送付 し、文部大臣
に回付 されるまで 5)0
第二段階は、研究所の構成が具体化 してい く段階で、国立国語研究所設置法の草案が
作成 されるまで。1
9
48年 4月 2日、文部省は採択 された請願について閣議 を求め、政府
として実現に極力努めるとい う閣議決定6)が同 日に出された (
発表 は1
0E
日。 これをふ
。 この間、文部省 と
まえて、文部省は国立国語研究所創設委員会 を設けることとした7)
GHQの CI
&Eとの間でさまざまなや りとりがあ り、創設委員会 にかける設置法の草案
を作成、創設委員会で原案 をつ くり、G
HQとの間でさらに修正があ り、法案が完成す
る。1
9
48年11月ごろまで。
第三段階は、1
9
48年11月1
7日に国立国語研究所設置法が第三回国会 (
第二次青田茂内
閣)に提出され、衆参文部委員会での審議 を経て、本会議で可決 (
衆議院11月25日、参
議院11月26日)、1
2月20日に法律 として公布 ・施行 されるまで。
3 先行研 究 の問題 点 か らみ る本稿 の論 点
3.1
.GHQ との交渉 とい う視点の欠如
上記の三段階区分は筆者の便宜的なものであるが、国会議事録を使った先行研究には、
研究所第六代所長であった甲斐陸朗の ものがある8)。 これは主に、研究所所長室に保管
されていた 『
国立国語研究所設置法案衆議院参議院 議事録』 という 「
万年筆で筆写 さ
れた原本 とその複写版」の うち、「
貸与 された複写版」 を用い、関連する資料 を紹介 し
なが ら解説 したものである。 しか しなが ら、この資料は、設置法を審議 した第三回国会
の委員会議事録の筆写 (
本稿でいう第三段階に相当)が中心であ り、第一段階にあたる
請願の検討に関する資料は一件だけである9)。それゆえ、第-回国会の文化委員会で示
された、研究所の文部省案 (
後述)への言及がない。 また、関連資料 として、国立国語
研究所の設置25
周年 を記念 した F
言語生活』の特集号 (
1
973年1
2月号)の 「(
座談会)
- 11
7(
1
8)-
国語研究所創立の頃」 (
以下、「
座談会」
)をあげている。 これは研究所創立に何 らかの
形で関わった、江実 ・斎藤正 ・沢登哲一 ・林大 によるもの (
司会は、r
言語生活」編集
那 -研究所所員)で、研究所創立 をめ ぐるさまざまな力関係が描かれてお り、興味ぶか
い。座談会の内容 は、第二段階に関わるもの もあ り、G
HQとの関係、国語課長釘本久
HQの CI
&Eのアブラハム ・マイヤー ・ハルパー ン10)がこの間よく連絡 をとりあ
春 とG
い、「国語課長は、ハルパ ン 〔
ハルパー ン〕博士の助言 を受け、法案の原案 を作成 し」
)のだか ら、このあた りの事情 をさらに調べ るべ きであろ
たとい う貴重な証言 もある11
う。 しか し、甲斐はこの 「
座談会」 を資料 として用いなが らも、そこで明示 されている
占領政策 との関連についてはふれずに、戦前の第一回国語対策協議会の建議 (
1
9
3
9
年6
月2
3日)や、敗戦後の国語審議会における研究所設立を求める決議 (
1
9
4
6
年 9月2
1日)
などへ と話 をず らしてい く12)。第三段階の資料の補完 という位置づけだか らなのか、
元研究所長の見識なのかはわか らない。 しか し、 日本語の研究機関の始発点が占領政策
と無縁ではなかったことをあえて忘却する必要はない。そ もそも、 日本の法律の制定過
HQが関与するのは国立国語研究所設置法に限ったことではない。r
GHQ日本占
程に G
領史 2 占領管理の体制』(
1
9
5
1
年 ごろ作成)にはこうある。
〔
1
9
4
5
年〕1
0月2
2日には、 日本政府 は議会に提 出された法案の英文写 しの提 出を
求め られるようにな り、立法過程のすべての段階を通 じてあらゆる立法の進行状況
を報告するよう命 じられた。〔
GHQの〕民政局は監視 を行い、立法過程お よび立法
手続に関 して政府 と議会に助言する責任 を負った。国会が唯一の立法機関であるこ
とを規定 した憲法が公布 されたため、1
9
4
7
年 3月2
0日には表現 こそ改め られたもの
の、民政局のこのような任務は事実上継続 していたのである。民政局 との調整なし
には最高司令官はいかなる部局による立法提案 も承認 しなかった013)
これを経なければ法律の制定がで きなかったのである (
のちにふれるが、国立国語研
HQの資料 となっている)0
究所設置法の全文 も英訳 され G
3
.
2
.山本有三のみに焦点をあてる論調一一 複合的要因を
第一段階については、参議院文化委員会長をつ とめた作家 ・山本有三の役割が強調 さ
れている。戦前か らルビ廃止を唱えるなど国語問題に関心の深かった山本は、敗戦直後
に ミタカ国語研究所 を作 り、国語審議会委員 とな りG
HQか らの助言 を受 けつつ、「国
民の国語運動連盟」の結成 に動 く (
1
9
4
6
年 4月)。山本は1
9
4
7
年 4月に第一回参議院議
貞選挙全国区に立候補する。第九位で当選後、撫所属議員を集めた緑風会の結成に関わ
」
」「文化財保護法」制定に尽力 してい くのである
り、「国民の祝 日 「
満年齢
1
4)が、山本
自身がいうように 「〔
選挙に〕出た時に、ぼ くはもちろん国語研究所 こしらえることが
主要で した」 と述べ、「
研究所 だってj
a、 うま くいったのは、一つ には緑風 会が人数
持ってたか らで しょう」 という15)。なにぶん議会構成 とも関連 していた ようではある。
- 1
1
6(
1
9
)-
山本の女婿 で国立 国語研 究所 の所 員 で もあった永野賢 (
の ち東京学芸大学) は 「〔
1
9
46
年1
1月の〕 当用漢字表制定公布か ら国立国語研 究所設立 までが短時 日の うちに成就 した
のは、時流 に乗 った との見方 もで きな くはなか ろう。 しか し、その間にあって山本有三
の果 た した役割 は どんなに高 く評価 して も過大 とい うことはない と信 じる」 と述べ、 さ
らに 「国立 国語研 究所 は、昭和二十一年三月の 『
米国教育使節 団報告書』 に基づ いて設
立 された との説 をなす者があるようだが、それが錯誤 であることは本稿 によ り明 らかで
あろう」 と付記す る16)0
米国教育使節 団 とは、 日本の教育 に関す る問題 について 日本 の教育者 に助言 と協議 を
す るために GHQ が派遣 を要請 し、27名が 1
9
46年 3月一杯派遣 された ものであ る。使節
団の報告書 の要請 に従い、日本政府内に教育刷新委員会が設置 され、文部省お よび GHQ
とともに、報告書の勧 告の方向の うえに、戦後教育改革 を行 なってい く。そのなかで教
育基本法 (
1
9
47年)や六三制、教育委員会制度 な どが実施 されてい く。
こうした重要 な報告書 の La
n
gu
a
g
e Re
f
o
r
m と題 された章で 日本語 の ローマ字化が提
案 されているのは有名である17
)。 同時 に、n
a
t
i
o
n
a
ll
a
ng
u
a
g
ei
n
s
t
i
t
u
t
eの必要性 も唱 え
られてお り、 これが永野のい う 「
錯誤」の もととなる。 しか しなが ら、二度 目に派遣 さ
1
950年 8月末) あて に提 出 され た r日本 にお け る教 育改 革 の進
れた米 国教育使節 団 (
展j (
1
950年 8月O第一次使節 団報告書以降の 日本 の教育状況 を文部省が解 説) は、以
下の ように記す。
国語改革 は、米国教育使節 団 も言 うように、 まさに 「
大事業」 である。それ を推
進す るためには、改革計画の学問的基礎 を堅固にす るために も、 また改革計画 を民
主的に効果的に作成す るために も、有力 な専 門的研 究機 関 と、国民の衆知 を集めた
民主的な審議機 関 とが確立 され なければな らない。
この ような見地か ら、文部省 は、一九四六年以来、国立国語研 究所 の創設計画 を
進めて きたのであるが、国語審議会 を初め、民 間に も、大規模 な国語研 究機関設置
の必要 は、強烈 に提唱 されたのである。18)
もちろん、教育使節 団向けの報告書であることを考 えねばな らないが、研究所 の設立
は、国語審議会か らの建議、国会での請願の採択、そ して使節 団の勧告が複合 的に作用
している とみ るべ きだろ う。 山本有三が政策的にはた らきかけたことは事実であ るに し
9
48年11月2
0日の第
て も、具体 的 な研 究所 の案 を もって いたわ けで はない19)。 また、1
三 回国会衆議院本会議で答弁 に立 った下催康麿文部大 臣は、「匡Ⅰ
家 的 な国語研 究所 を設
けたい とい うことは、非常 に前か ら問題 になっ ておった ところであ りま して、特 に終戦
後、その必要が強 く要望 されておったのであ りますが、すでに第- 回国会 にお きま して
も、 これに関す る請願が通ってお ります る し、 さきに来朝 いた しましたアメ リカの教育
0
)と使節 団か らの影響 を
使節団か ら、非常 に強 くこの点の要望が あっ たのであ ります」2
認識 している。 さ らに国語課の釘本久春 も、「いわゆ る国語改革 の名 で よばれ る主張 と
- 1
1
5(
2
0)-
理想は、一九四五年初秋 を境 として、一九三〇年以来の 日本 における反動期 において殊
に圧服 され ようとした困難の状態 を脱出 し、アメリカ教育使節団の 日本に対す る勧告の
影響か らも大いなる力 を得て、今やいち じる しく、 日本の社会的事実 として実現 されて
いるのであ ります。
」
2
1
)と述べ ている。 また、「
座談会」で江実 (
言語学者)は、当時の
メモ書 きに 「
研究所 を設けようとす る文部省の努力は、昭和二一年九月の国語審議会の
勧告」 と参議院の 「
文化お よび教育の常備委員会か らの要請に基礎 を置いている」 もの
で、「
以上の処置は、アメリカ教育使節 団の勧告の線 に沿 うものであ り、 とくに昭和二
Eの主任 に よって承認 された言語簡易化方策の流れに沿 うものである
二年一一月の CI
とい うことが注意せ らるる」 とあると述べた (
言語簡易化方策 を江は具体的に記憶 して
&Eの嘱託の仕事 を してお り
いない)22)。江実は、チベ ッ ト語学の青木文教 とともに CI
(
青木は1
9
47年11月か ら連合国籍司令部民 間情報教育局顧問、約 四年 間チベ ッ ト事情調
査2
3
)
)、CI
&Eのハ ルパー ンの仕事 を手伝 うことになった とい う。のちにみ る文部省の
釘本たちとハルパー ンとの会合 に江 も出席す ることが多 く、 メモ書 きはこうした ときの
もの と考え られ る。つ ま りは、同 じ 「
座談会」で斎藤正がい うように、「国語審議会で
も、なんか知 らんけど、当時か ら批評があって、言 ってみればてっとり早い改革があっ
て、そ うい う状況の中で、 もっとしっか り土台を固めるべ きだとい う考えが出たんだろ
うと思 うのです よ。 占領軍の方 も、当初か ら見れば実態 とかいろいろ正確 なこ とが わ
かって きて、司令部のほ うも、研 究所 を作 る態度 をアブループす る方 向に動 いてい っ
た」 とい う流れをみ るべ きだろう24)。そ もそ も、山本有三 は第二段 階、第三段 階に登
場 しない。 山本だけに焦点 をあてて も、設置 までの流れはつかめないのである。
4 第 一段 階 で の構 想-
文 部 省 案 と 「国語 合 理 化 」
上でみて きた文部省関係者の資料 などか らは、第一次米国教育使節団報告書か らの直
接的な影響があったか どうかはともか く (
そ して また戦前 にまでさかのぼれるか もとも
か く)、釘本 によれば文部事務 当局は、1
9
46年以来 「国語 に関す る研究調査機 関の設立
を図ろ うとす る意志 を部内において決定 し、関係各方面 と折衝 し、極力 その実現 に向
5
)とい う。 したがって、第- 回国会での 「
国字国語 問題の研究機
かって努力 し始めた」2
関設置 に関する請願」採択以前か ら、研究所 の構想があったことは明白である。
具体的な文部省案は、第一段階、つ まり請願が参議院文化委貞会 (
1
9
47年 8月26日)
で検討 されているときに姿 をあ らわす。永井一夫 (
文部政務次官)の発言 に よれば、
「匡l
民の国字国語使用の実際、現代語の実態並 びに国語の歴史的発展 に関す る調査研究
を行い得 る研究所 の設置」 を図 りたい として、1
9
48年度に約400万 円の予算 を計上す る
文部省教科書局長) は、研 究所 の構
予定だ とい う26)。 さ らに永井 に続 き、稲 田清助 (
成 と研究内容 を述べ る。「
総務部 は大体総括的事務乃至全般的企画 を扱 う仕事」、「
第部 といた しましては国語国字の合理化、純化 とい うような問題 に関 します る調査研究」、
「
第二部 にお きましては現代語 の実態 に関す る調査研 究、及 び現代語辞典の編輯」、「第
三部にお きましては国語の歴史的発達 に関 します る調査研究及び歴 史的国語辞典 の編
)- 1
1
4(
21
輯 」27)である。そ して、衆議院文化委員会において、国語課長釘本久春 は、第二部 は第
-部の研究のための基礎資料 を提供するものであ り、第三部は第二部の研究のための基
礎資料 を捷供す る、 と三部門を関係づける。そ してまた 「国語研究所設立準備委員会 と
い うような委員会 を設けまして、政界、学界、教育界、その他各方面の権威者 によって
構成 される委員会 によって、 この機構運営 をさらに練っていただ くようにいた したい」
との展望 を述べ、研 究所 は国立 とし、文部省が運営 をお こないたい とす る28). この構
成 は、のちにみ るように、ハルパー ンの意見によって再編成 され、追加事項 も受け入れ、
国立国語研究所設置法の第二条に記 される研究所の調査研究項 目に反映 されてい く。
また、参議院での請願の検討 に際 して森戸辰夫文部大臣が説明をする機会があった。
そ こでは 「
我が国が民主国家 として、殊 に文化国家 として将来国を立てて行 きまする上
においては、文化の基礎 であ りまする国語、国字が民主化 され、又簡易化 されるとい う
ことは、民主主義の基本的な重要な条件であ りまして、人間教養の上 にも、又実用の面
か ら見 まして も、極 めて必要 なことは今更 申す まで もないのであ ります」 と述べ る29)0
これが敗戟後の言語政策の理念 といってよいが、森戸 はさらに、上記釘本の答弁 を保証
す るかの ように、研究所が国立で文部省の所管 となるべ きこ と、創設委員会が 「
民主
的」 に選ばれ、研究所の運営 も外部か らの意見 を多 くとりいれることで、官僚化が防げ
る、 と擁護 してい く。 しか し、歴史家の羽仁五郎 は、「
果た して 日本の新 らしい民主的
な国家 とい うものは、文部省 とい うものの存在 を必要 とするか どうか」 とい う問題が ま
ず解決 されねばな らない とし、研究所が 「
基礎研究 をやるものであるとすれば、これは
絶対 に行政官庁 である文部省の管轄の下 に置か るべ きもので はない」 との正論 を述べ
る30)。 しか し、参議院文化委員会では羽仁 をのぞいた賛成多数 で この請願 を採択す る。
ともあれ、研究所の 目的は 「国語国字の合理化」におかれたのであるが、 これは具体
的にはどうい うことなのだろうか。釘本 は参議院文化委員会で 「
研究所 を作 る目的は、
とにか く義務教育 を終った者な ら誰で も、社会人 として何で も読め、何で も綴れる。そ
ういう状態 に国語、国字 を置 くにはどうした らいいか とい う具体案 を得 る」 ところにあ
)
。 また、別の答弁では 「国語の民主化」の ことを、「
言葉が非常 に
る、 と述べている31
むずか しいことと、 また非能率的なこと、そ うい う点 を除去いた しまして、国語 を真 に
国民全体の ものにする」 ことだ、 と述べている。つ まり、非能率的なことを除去す るの
が合理化であ り、その先 にあるのが民主化、つ ま り合理化 は手段で民主化が 目的 とい う
とらえ方である32)。 ちなみに、「国語の合理化」 といった表現 よ りも 「国語の簡易化 」
の方が一般的であ り、正直なところ、見慣れた ものではない。それに、戦前 にあっては
「
合理化」 は精神主義の対極 にある ととらえ られてお り、釘本 自身 も戦時中に 「
合理的
性格が高遇であると考へ る近代的凡庸主義な ら、言語がそ もそ も本質的に非合理的実在
であることを反省 して もらへば よか らう」33)な どと記 していた ように、否定すべ き観点
であった。
9
4
8
年 8月 6日の 日付がある 「
は じめに」 をもつ 「きわめて短い期間の間に
しか し、1
r
1
9
4
9
年 2月) とい う単著 を釘本 は1
9
4
9
年 2月1
0日
書 きあげ られた」34) 国語教育論」(
- 1
1
3(
2
2
)-
に発行 したが、そのなかには、 ことば と文字 を 「
簡易に し、合理的にする」 ことがい ま
実践すべ きことだ、 といった表現がみ られる (
たとえば1
72頁など)。 もちろん、別の と
ころでは 「
終戦以来文部省 を原動力 として進め られて来た国語政策の線、いわゆる国語
の民主化 ・平易化の線」3
5
)とも述べてお り、そ う深 い使 い分けがあるようで もない。た
だ、国立国語研究所設置法 には 「
合理化」 はあって も 「
民主化」はでてこない。
ここでは詳 しく論 じる暇がないが、敗戦後における 「国語民主化」 とい うのは、ひと
しなみに簡易化 を意味 していたので、 どち らで もよい といえば よいのだが、「
民主化」
を論 じて国語 とい う統合原理の もつ問題 に深 く切 り込んでい くような観点 をもつ ものは
ご くわずかであ り、釘本はそこにはふ くまれていない。
5 第二段階での変化-
Cl
&Eの影響
ところで、CI
&E課員には、1946年 4月か ら1
951
年 3月まで、 カンファレンス ・リポ
ート (
Co
n
f
e
r
e
nc
e Re
po
r
t
)の作成が義務づけ られていた。 これは 「
報告者が個別に、
日時、場所、出席者、議題、討議 内容、資料 な どを明記 し、署名 した 日報」であ る36)。
したがって、アブラハ ム ・マイヤー ・ハルパー ンの署名があるカンファレンス ・リポー
トか ら、文部省図書局 (
国語課が属す る) とハルパー ンとの討議の内容がわかるわけで
SCAP文書 にお さめ られたハルパー ンのカ ンファレンス ・リポー トには、
ある。GHQ/
本稿でいう第二段階、つ ま り請願が国会で通過 してか ら、議題 を Na
t
i
o
na
lLa
ngua
geRe
-
s
e
a
r
c
hl
ns
t
i
t
ut
eとした ものが登場 しだす (これは、国立言語研究所 と訳すのが正確 で
あるはずだが、国立国語研究所 としてお く)。以下、 日を追 って概要 を記す。 なお文書
xno.
535
9 Sh
e
e
tno
.
CI
E(
A)029830
は特記 ないか ぎりBo
◆ は筆者 (
安 田)の補足。
く1
94
8年 1月 8日 議題 国立国語研究所)
出席
&Eハルパー ン ・江 〔
実〕
文部省 釘本 〔
久春〕・斎藤 〔
正〕/ CI
J
a
pa
ne
s
eLa
ngua
geI
ns
t
i
t
ut
e
)設立のための概算要求の翻訳 をもって
① 日本語研究所 (
きた釘本たちとハルパー ンの議論。
②研究所の計画はだれが作 ったのか というハルパー ンの質問に、釘本は、文部省国語課
の仕事だ、 と答 えた。ただ、参議院で研究所設置に前向 きな決議が されたのは、山本有
三のはた らきに多 くを負 っている、 とも。釘本は、国会で予算が認め られた ら設立準備
委員会 を組織する、 と述べたが、ハルパー ンはそれは逆ではないか、 と疑義 を呈する。
しか し釘本は 日本の習慣だ、 と答 えた。
③ この研究所 は、国語審議会にとってかわるものではないが、文部大臣が国語審議会 を
再編 したい と考 えていることがわかった、 とハルパー ンは記す。釘本 は、 日本の国語問
題 をあつか う部門を、再編 される国語審議会、 自立 して研究 をす るが予算 を文部省か ら
交付 される研究所、行政的な仕事 をす る文部省国語課 と三部門にわけて考えている、 と
述べた。
- 1
1
2(
23)-
◆ この国語審議会 ・研究所 ・国語課の役割分担 は、「
三位一体論」 として釘本が好 ん
)
。国語審議会再編 につ いては、釘本がハ ルパ ー ンとは
で用いていた ものだ とい う37
9
4
6
年1
0
月1
4日のカンファレンス ・リポー トにあ らわれる。
じめて会った と思われる1
Na
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u
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eCo
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ハルパー ンによれば釘本が文部省では国立言語委員会 (
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)をつ くりたい と述べている (
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3
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9
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3
0
0
6
)
3
8)
。既述
の 「
座談会」で斎藤正が述べていたように、研究所設置 と国語審議会再編 とは関係が
あるようである。
④研究所の事業予定 リス トをみて、ハルパー ンは他の機構 との重複があ り、 また長期事
業 と短期事業 をわけるべ きだ との指摘 を した。
≪
1
9
4
8
年 1月1
5日 議題 国立国語研究所》
出席
文部省 釘本 ・中村 〔
鎮〕・斎藤
&E ハルパー ン ・江
/ CI
①前回の研究所 の計画 をつ くったのは、ほか に安藤 〔
正次〕・時枝 〔
誠記〕や新 聞社 の
5日ごろまでに衆参両院文化委
人間であった と、釘本が訂正。設立 までの予定は、 2月1
5日ごろに大蔵省か ら予算の内示 を受け、それか ら3月
員会の特別委員 との会議、 2月1
末 までの間に創設委員会 を組織、 4月初めに国会に法案提 出の予定だ との報告 を釘本か
ら受けたハルパー ンは、前 回同様、 順番が逆だと意見す る。創設委員会の議論が予算の
影響 を受けることを心配す るハルパー ンに釘本は、そんなことはない、 と述べ る。
◆ 1月 8日に も出た議論。1
9
4
8
年度予算は社会党片山哲連立内閣の退陣 (
1
9
4
8
年 2月。
9
4
8
年の 7
翌月、民主党芦田均連立内閣成立) などがあって、前年度内に成立せず、1
月 4日に もなって、 ようや く成立 した39)。研 究所の任務お よび創設委員会 を選ぶ た
9
4
8
年 6月1
2日と 7月1
3日であ り、創設
めのメンバーが選ばれて会合 を開いたのが、1
1
9
4
8
年 8月1
7日か ら1
9日) された。釘本 もここまで遅
委員会で設置法の草案が検討 (
れるとは思わなかっただろうが、ハルパー ンの意見は通 らなかったことになる。その
6日、2
0日、2
9日)。
後、予算 については逐次報告がなされる (4月1
②研究所の構成 について釘本が説明。第-部門は 「国語の合理化」。第二部門は現代 日
本語の現状の研究。第-部門へのデー タ捷供0第三部門は歴史的研究。第二部門へのデ
ー タ提供。ハルパー ンは、第一 と第二部門の機能が重複 してお り、第一部門は文部省図
書局国語課でなされている事業 と重複 していると指摘。ハルパー ンはむ しろ、マス ・コ
ミュニケーシ ョンと言語教育の研究の部門を設けること、現代 日本語辞書、歴史的辞書、
そ して方言辞書の編纂 と民話収集事業 を提示。
◆第一回国会で示 された文部省案 と同様 の研究所構成。 また、「
国語の合理化」 は原
r
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とある。一般
文ではカッコつ きでわざわざ"
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i
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nが用 い られているので、ハ ルパー ンに とって もやや聞 き慣 れな
的には s
い表現であったか らか と思 われ る。 また、マス ・コ ミュニケー シ ョン40)、言語教育、
方言辞書編纂 は文部省の計画にはなかった ものであるが、のちのE]
立国語研究所設置
法の 「第二条 研究所 は、次の調査研究 を行 う。」の 「
三
- 1
1
1(
2
4
)-
国語教育の 目的、方法、
及び結果に関す る調査研 究」「四 新 聞における言語、放送 における言語等、同時に
多 人数 が対 象 とな る言語 に関す る調 査 研 究」41)
、そ して 第 二 条 2項 の 「
事 業」の
「
三」 に 「
現代語辞典、方言辞典、歴 史的国語辞典その他研 究成果の編集及び刊行」
とい う形で反映 されてい く42)。 なお、創設委員会 にかけ られた草案では、「同時 に多
人数が対象 となる言語」が 「
公衆に対す る言語」 とあ り、創設委員会の服部四郎委員
が 「
公衆 をいや しめているみたいに誤解 される」 として、議論の結果変更 された とい
言語生活」
う43)。のちに国立国語研究所 では、現代 日本語 の現状 の研 究、つ ま り 「
の記述 という形で、各地方言の記述、方言地図、談話資料の作成 もなされていったの
だが、方言辞書 (
この場合の 「
方言」の もつ意味 はお くとして) については、r
沖縄
語辞典j (
1
963年)のほかはまとめ られていない。
③現在提示 されている予算のなかで、た とえば1
5
0名の外部作業員の協力 を通 じた方言
研究の計画について、 この分野で本 当に能力 のある人間の数が1
5
0名近 くもいるのか と
いう批判 をハルパー ンがする。 こうした誇大な考 えが計画の多 くの部分 にみ られるとい
う。
j
◆同年 4月に T
謹責新 開 F
時事新報Jで報道 される国立国語研 究所の計画内容 (
徳
述) に外部研究委嘱者200名が掲げ られている。国立国語研究所設置法 に明記 はされ
なかったが、のちに地方調査員 という制度が設け られた。 しか し、1
5
0名 ましてや200
名 とい う規模ではなかった。
④釘本 らが辞去 したあ と、江が 「
批判の本質をかれ らが理解で きたか疑わ しい」 と述べ
た。
《1
9
4
8年 2月 2日 議題 国立国語研究所≫
出席
文部省
釘本 ・斎藤
&E ハルパー ン ・江
/ CI
ハルパー ンは、研究所 は純粋 に客観的な手法で研究 をおこなうべ きであ り、そ うしな
いと文部大臣の立てた計画 に沿 うような研究結果 を出 しかねない、 と念 を押 している。
《1
9
4
8年 2月2
4日 議題 国立国語研究所》
出席
文部省
釘本 ・斎藤
/ 参議院文化委員会特別顧 問 岩村 〔
忍 ?〕 / CI
&E ハルパー ン ・江
①釘本のい う 「
三位一体論」 (
文書 にはこの用語 はないが)の重要性 をハ ルパー ンも認
める。
②ハルパー ンは、国語審議会再編 (
内閣直属 は望 ましくない とする) と関連 して、研究
所の所長お よび各部長が国語審議会の委貞 を兼任す るように規則 を定めるべ きだ とした。
◆ハルパー ンが研究所の成果が政策に反映 されるシステムをつ くろうとしていたこと
がわかる。国語審議会は、1
9
49年 5月の文部省設置法公布 にともない改組 されるが、
こうした規則 は もりこまれなかった。ただ当初 は国立国語研究所評議員、のちに所長
もしくは所長経験者が審議会委員に慣例 として入 るようになる。
- 11
0(
25
)-
《1
9
48
年 4月1
6日 議題 言語簡易化問題≫
出席
文部省
釘本 ・中村 ・斎藤
&E ハルパー ン
/ CI
300万円の予算が必要
釘本 は、閣議で国立国語研究所の事業 について議論がなされ、1
とされた と報告。ハルパー ンによれば、事業の概要は讃責 と時事の記事 と類似 している
とい う。新聞社 に文部省か ら漏れてはいない、 と中村 はいっていたではないか、 と不満
00万円にまで減額 されそ うとのこと。
を示す。大蔵省 との折衝では、予算 は7
』『時事新報』の1948年 4月13日付 で報道 されている
◆ F
謹責新 聞
(
予算 1
300万 円、
6月発足 とも報道)。ハルパー ンの不満 は、情報が漏れている とい うことであろ うが、
報道 された事業内容 自体 にまだ満足 していないのに、 とい う側面 もあろう。両紙で示
された内容 は若干異 なるものの、当時の計画 を知 る資料のひとつで もあるので引用 し
、
第一部】現代語 の実態調査研究①全 国各地の国語、国
てお く。 『
謹責新 聞』では 「【
字使用の実態②性別、年齢別の言葉の調査③現代語辞典の編纂④ 国語造語法の研究①
国語の表現能力の研究⑥外来語の調査 【
第二部】国語、国字の合理化、純化お よび改
良に関す る調査研究(
丑各層、各職場、各地域の国民の読書 きの能力調査②印刷能率事
務能率の向上 についての研究③漢字、かな、 ローマ字 についての能率の研究④ 国字お
よび書記体系の研究⑤活字 々体の研究①標準語桑の制定 (
各種専 門用語 を含 む)⑦標
。
時事新報』は、「
第-部が全国各地 におけ
準語法、標準文法、標準音 いんの制定」 F
る国語、国字使用の実体調査 と性別年齢別教育程度お よび職業別などによる言語の調
査あるいは外来語 に関す る調査研究、国語の表現力 などの研究に当 り、第二部は国民
の読解力、書記能力の調査、国字国語の心理学的研究等である、なお国語の歴史的発
達に関する調査研究 を目的 として設置 されることになっていた第三部は予算のつ ごう
で明年度に持 ち越 される」。 この時点で も、「
方言辞書」は盛 り込 まれていない。所員
約7
0名 との報道だが、実際は51名で発足 。 6月に発足 とあるのは第二回国会での法案
9
48年度予算成立がずれこ
審議 を予想 したためだろうが、すでにふれたように 7月に1
み、ハルパー ンの意見 をきくことな く予算成立後の法案作成 とい う手 順 を重視 したた
めか、第三回国会での審議へ とさらにずれこんでい く。
≪1
94
8年 4月29日 議題 言語簡易化問題》
出席
文部省
釘本
&E ハルパー ン ・江
/ CI
1
)
文部省か ら予
ハルパー ンは、研究所 に関 して以下の点が受け入れ られると述べ る0(
2)
国語審議会再編 と関連する点。(
3)
所長 と各部長が国語
算 を受けるが独立 している点。(
4
)
創設委員会で研究所構成、長期 目標、
審議会委員を兼任す る点 (しか も永続的に)。(
5
)
活動 を分散化 し、大学やその他研究所ですでにお
一年 目の作業計画が検討 される点。(
6)
質の高い研究 をお こなう点。
こなわれている研究 と補完 しあ う点。(
2)
お よび(
3)
は設置法 に もりこまれなか った。ただ し、「
座談会」
◆ この六点の うち、(
によれば、おそ らく創設委員会に出された草案 に 「国語研究所の長は、国語審議会の
4
4
)
0(
5
)
は、
委員長 をもってこれに充てる」 とい う文言があった とい う (
斎藤正の メモ)
- 1
09 (
26)-
設置法の 「
第三条 研究所の事業は、他の研究機関又は個人によって既 に行われ、又
は現 に行われている同種の調査研究 と重複 しないことを原則 とする」 とい う形で反映
1)
は重大 な点である。「
座談会」 によれば、 8月1
7日か ら1
9日にかけて
された。 また(
開かれた創設委員会 (
ハルパー ンも出席) にかけた草案にはこの点が明示 されてお ら
研究所 は文部大臣の管轄 と
ず、創設委員会の原案 として最終 日に第一条 2項 として 「
座談会」で斎藤正がい うには、創設委員会の原
す る」が くわえられた45)。 しか し、「
案を 「
行政管理庁法制局 と協議 して、閣議 に提 出する案 を作成 し、九月下旬 にハルパ
I
Eのアブルー ブ」 をと り、 9月29日に閣議 にか け
ン博士 のアブルーブを得 てか ら C
0月1
5日にハルパー ンを通 じて民政局の修正
た。それを GHQ民政局に提出す るが、1
意見が伝 え られ、文部省側 は修正意見 に応 じた修正 を施すが通 らず、結局法案修正 は
l
本側 はハ ルパ ー ンを通 じて
ハ)
I
,
パ ー ンが直接民政局 と折衝す ることになった46). E
関与 で きた とはいえ、蚊帳の外 になって しまった。その修正の結果 出て きたのが、
「
研究所 は、文部大臣の所轄 とす る。文部大 臣は、人事及 び予算 に関す る事項 に係 わ
るものを除 くほか、研究所 の監督 を してはな らない。
」 とい う設置法第一条 2項 とな
る文言であった。 こうして、ある意味では書かず とも明確 な (
それだけに書いていな
い と不安 な)文言が明記 されたのである。 この ように、 日本側が完成 させ た もので
あって も、不満があれば修正 をさせたわけであ り、 日本側 は占領下にあることを痛感
必要でない限 り日本人に命令 を下 さない とい う、
したであろう47)。ハルパー ンは、「
SCA戸) の方針 を貫 いていた」48)とされ、た しか に対話 を重 ねて
連合 国最高司令部 (
きてはいるが、最後で通すべ きものは通 した、 とい うことになる。江 は 「
ハルパ ンさ
んたちの考 えの反映か もしれ ませ んね」 と推測 してい るのであ る4
9
)
。ただ、残念 な
が ら、 9月か ら11月にかけての修正は GHQ/SCAP文書で具体的に確認で きていない。
く
1
9
4
8
年 7月1
3日 議題 国立国語研究所)
出席
文部省 釘本 ・斎藤
&E ハルパー ン ・江 ・青木 〔
文教〕
/ CI
2日に開かれ、本 日も
①釘本が、創設委員会のメ ンバーをきめる打 ち合 わせ会議が 6月1
開かれる旨報告50)0
②cI
&Eの見方 として、純粋 な科学的研究 と、標準の設定 とを区別す ることを強調 し、
釘本 も理解 を示 した。
く
1
9
4
8
年 7月1
6日 議題 国立国語研究所)
出席
文部省
&E ハルパー ン ・江
釘本 ・斎藤 / CI
3
名。
①前 出の打 ち合 わせ会議で決 まった創設委員会の推薦 リス トが提出される。全部で2
8
名51
)
。興味ぶかいことに、ハルパ ー ンは、「
委員会の多 く
◆正式 に委嘱 されたのは1
は、言語問題 に対 して保守的な観点をもつ人物で構成 されている」 という指摘 を残 し
ている。「
多い」 とまではいえないが、一部 をのぞけば、革新 的 とまではいえない構
成である。
- 1
0
8(
2
7
)-
以上の ように CI
&Eの意見 を きいて修正 を くわえた草案 (
1
9
4
8
年 8月1
6日省議 に提
&E
出、決定52)) をもって 8月に釘本は創設委員会 にのぞんだのであるが、公的には CI
か らの影響 について述べ ることはなかった。た とえば、r
文部時報」には、 8月 6日の
日付入 りで、
国立国語研究所の設立については、近 く各界の権威 を集めた創設委員会が設置 さ
れ、その委員会によって、研究所の性格、事業等が十分 に検討 されて後、設立の運
びに至 ることとなっている。 〔
・
--〕国立国語研 究所 の全 ほ うは、 まだここで詳 し
く述べ ることはで きないが、 とまれ、その設置 によって、国語政策がその立案の基
礎 をよ り堅確 に し得 ることは確実であると思 う。
HQ
と記すのみである53)。創設委員会で草案 を検討 して原案が作 られたが、それが G
民政局 との折衝で変化 していったことについては、すでにふれた。 この とき創設委員会
の原案の第一条に追加 されたのは、実 はもう一点あった。原案の 1項が 「国語及び国民
の言語生活 に関す る科学的調査研究 を行 い、文化 の発達 をはか るために、 この法律 に
よって、国立国語研究所 を設置す る」 とあったのが
、「〔-・-〕科学的調査研究を行い、
あわせて国語の合理化の確実な基礎 を築 くために、国立国語研究所 を設置する」 となっ
。「国語の合理化」 とい う表現 は、すでにみ
た点である (
こち らが設置法の文言 となる)
た ように (
1
9
4
8年 1月1
5日カ ンファレンス ・リポー ト)、釘本が もちこんだような もの
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r
e
by
である。それ よ りも問題は、「
座談会」で江実は 「あわせて、の ところの英文は、t
ですが、青木文数先生 なんかが苦心 なされたことを記憶 しています」 と述べている点で
ある5
4
)
.法律の制定にいたるまで英訳が なされて G
HQがチェ ック していた とい う点 は
すでにふれたが、当然、英語で修正 された ものを日本語に翻訳 してい く作業 もなされる。
江はそのことをいっている。そ して、「
苦心 なされた」 とい うのは以下の ようなことだ
ろう。つ まり、t
he
r
e
b
yは、「それによって」 とい う意味であるか ら、「国語及び国民の
言語生活に関する科学的調査研 究」は、「国語の合理化 の確実 な基礎 を築 く」ための も
の となる。 しか し、それ を 「あわせ て」 と訳せ ば、「
科学 的研究」 と 「国語の合理化」
とは並置 されることになる。微妙ではあるが、大 きな違いである55)0
た とえば、G
HQ編纂 r
GHQ日本 占領史Jの教育の巻の末尾で言語研究所 (原文は Lan-
gua
geRe
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hl
ns
t
i
t
ut
e
)の設立 にふれ、設立 目的をこう記す (
3
3
0
節)
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Thei
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5
6
)(
下線部引用者)
「
言語改良の強固な基盤 をつ くりだすために」研 究が なされる、 となっている。 ここ
ppe
nd
l
X4
8に示 されている。それ は、国立 国
には注があ り、執筆者が参照 した資料が a
- 1
0
7(
2
8
)一
語研 究所設置法の英文全訳 で、 ここでは第一条 1項 を引用す る。
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ngua
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.
5
7
)
この法律 の英文の t
he
r
e
bypr
o
vi
di
ngを先 の引用 の ように t
opr
o
vi
deとしたのである。
科学的研究 に専念すべ きだ、 としていたハ ルパー ンが この 「
合理化」のための研 究 に限
定 させ ていった と考 えるのは、やや席捲す る。あ るい は、「
座談会」でいわれ た ように、
GHQ民政局 の意 向が反映 されたのか もしれ ない。おおげ さにい えば、CI
&Eの 日本 人
研究者が 「あわせ て」 と訳す ことで、研 究所 の 目的の一元化 を避 けた、 とい うことにな
a
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O
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ngua
geは、l
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ngua
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o
ve
ろうか。同様 に、法律 の英文 r
me
ntの こ とと理解 されているこ ともわか る。おそ ら く 9月以降の さらなる修正 の際 に
he
r
e
by
もちこまれた 「国語 の合理化」の文言が あ って、それが英訳 されたのだろ う。t
とは翻訳 の方 向が逆 と考 えるこ とがで きる。
ここか ら先 は まった くの推測 であ るが、G
HQ民政局 には、米 国教育使節 団報告書 の
記憶があ り、そ こで提起 された La
nguage Re
f
o
r
m の理念が法案 に反映 されていない、
と難 じたのか もしれない。そ こで釘本が もちこんだのが、 どうして もある傾 向性 を帯 び
て しまう 「
簡易化」で も 「
民主化」 で もな く、やや耳慣 れない、それだけに手垢 に まみ
れていない と判断 した 「
合理化」 とい う単語 だったのではないだろ うか58)0
6 お わ りに-
第 三 段 階 にふ れ つ つ
こうしてで きあが った国立 国語研 究所設置法案 は、第三 回国会衆参両院の文部委員会
で審議 され る。案の定、文部大 臣が研 究所 の監督 を してはな らない、 とい う点やすでに
なされている研 究 との重複 を避 け る、 とい う点へ の疑義が集 中す る59)。 しか し、G
HQ
の承認 を得 た もの を簡単 にか えるわけにはいか ないか らか、下催康麿文部大 臣は 「
実は
0
)と議論
会期 も切迫 してお ります し、で きます な らば原案 でお願 い したい と思 い ます」6
を打 ち切 り、委員会 を通 し、本会議での可決 に もちこんだ。 こうして国立国語研究所設
)
0
置法 は成立 した61
最後 になるが、F
思想 の科学 J1
9
48
年 11月号 は 「きいてわか る学 問言葉 を作 る会」 の
9
4
8年 1月
座談会 を掲載す る。 この座談会 にハ ルパー ンが 出席 している。 これ 自体 は、1
2
0日にな された ものなので、研 究所 の計画 を釘本か らきいた直後のことになる。 日本語
だけでな される座談会 に出席 で きるほ どの 日本語能力 はあったが、発言 は二回だけであ
る62)0
ともあれ、座談会では出席者 の川 島武宜 (
法学者、東京大学教授)が、参加 していた
- 1
06 (
2
9
)-
ハ ルパ ー ンに向 けて以下 の ような希 望 を述 べ た。 「
私 か ねが ね ローマ ナ イゼ- シ ョンを
希望 してい るが 日本 の ガヴ ァメ ン トで はそれが 出来 ない。 これはハ ルパ ー ンさんの方 か
ら日本 の ガヴ ァメ ン トに対 してプ レッシャー を加 えて戴 きたい。 それで ない限 りは結局
議論 に終 る と思 い ます」 と。戦後民主主義 の代 表者 の ひ と りとい える川 島の この こ とば
は、 は しな くも、 この国の言語政策のあ りようを示 した もの とい えるだ ろ う。上 か らの
「善導」 を求 め る、敗 戦 になったか らには 「
善導」 をお こな う主体 は G
HQで一 向 に構
わない、 とい った ような。 さすが にこの川 島発 言 に対 して は、大久保息利 (
言語学者)
が 「それ は東 条式 です」 と忠告す る。 しか しなが ら、 この忠告 は、宮 崎音弥 (
心理学)
の 「いい え、 日本 の民主主義革命 が行 れたの と同様 に、外 の力が必要 です。 もしそん な
力 を否定す れ ば、 この民主主義 をすっか りや り直 して人 々の教 育が あ る程 度 に完成 して、
初 めて プアツ シズムの瓦解 が可能 です」 とい う緊急避難 的要素 ゆ えの肯定 を強調 す る論
調 にか きけ され て ゆ く6
3
)
。ハ ルパ ー ンは このや りと りに口 を挟 まなか ったが、本 稿 で
み た ように、 その後 の国立 国語研 究所 設置法 の制 定過程 で多少 な りとも、ハ ルパ ー ンは
影響力 を行使 す る こ とになったのであ る。
本稿 は、 おおげ さなこ とを述べつつ も、結局 は 「
座 談会」 の内容 を別 の資料 (
それ も
十分 で はない) か らあ とづ け る、 とい うやや 中途半端 な中身 に終 わ って しまった。 ただ、
国語 審議 会の再編 問題 もふ くめて、敗戦後 の言語政策 を論 じる際 の GHQ/SCAP 文書 な
どの さ らなる活用 の可 能性 が示せ たので はないか と思 う。
注
1) 釘本久春 (
1
9
08年∼1
96
8年)は東京生まれ。1
9
32年に東京帝国大学文学部国語国文科卒業。
.中学校教諭、陸
専攻は中世の歌論 (
専著に r
中世歌論の性格j(
古今書院、1944年)など)
軍予科士官学校教授などを経て1939年文部省図書監修官。財団法人日本語教育棟興会常任理
語課の課長。1949年に文部省調査普
事を兼ねつつ、1947年には再設置された文部省図書局B]
及局調査課長。文部大臣秘書官などを経て、1952年から日本ユネスコ国内委員会事務局次長。
1
960年から東京外国語大学教授 (
以上は、「
釘本久春年譜
日本語- 釘本久春追悼」(
国語
。作家中島敦の第一高等学校以来の友人としても
を愛する会) 8巻 7号、1968年、 4貢より)
川村湊 r
狼疾正伝- 中島敦の文学と生涯j河出書房新社、2009年など)
.業績に
知 られる (
日本語教育j60号、1986年1
1
月も参照Oまた、釘本
ついては、山口正 「
釘本久春氏の業績
」r
」r
の戟中の言語観、言語政策論を論 じたものに、桜井隆 「日本語教育史上の中島敦- または
992
年10月、駒井裕子
イデオローグとしての釘本久春 猫協大学教養諸学研究J27巻 1号、1
「
「E
l
本譜」誌上における釘本久春の 「
言語精神論」と 「
言語道具論 F日本語 ・日本文化研
究j(
京都外国語大学) 7号、2000年などがある0
2) 「
条報 国立国語研究所の設置について 国語学j第 3輯、1
9
49年1
0月、1
22頁。
3) 国会議事録検索システム (
ht
t
p:
/
/ko
kka
l
.
ndl
.
go
.
j
p/c
gl
bi
n/
KENSAKU)で検索、画像確
認をおこなった。
4) GHQ/SCAP文啓は、国立国会図書館および立命飽大学図書館所蔵のマイクロフィッシュ
ht
t
p:
/
/
を利用 した。立命館大学図書館の GHQ/SCAP文書データベース検索は便利である (
www.
ghqr
i
t
s
ume
i
a
c
J
p/
db/)
0
5) F
国立国語研究所三十年のあゆみ- 研究業績の紹介j国立国語研究所、1978年、 4頁
6) 閣議決定事項の内容は、「
桑報 国立国語研究所の設置について F
国語学j 3頼、1949年
1
0月、1
2
6頁を参照。
」r
」
」
」r
」
- 1
05 (
30) -
7) r
国立Bl
語研究所三十年のあゆみ- 研究業績の紹介J国立国語研究所、1
9
7
8
年 、 4頁。
8) 甲斐陸朗 「
終戦直後の国語国字問題 第二十九回 国立国語研究所の創設 (
上) 日本語
7
巻1
0号、2
0
0
8
年 9月、「
終戟直後の国語 国字問題 第三十 回 国立 国語研 究所 の創設
学12
(
中)
」rE
l
本語学12
7
巻1
2
号 、2
0
0
8
年1
0月、「
終戦直後の国語Bl
字間題 第三十一回 国立 国
」r日本語学12
7
巻1
3
号、2
0
0
8
年11月.
語研究所の創設 (
下)
」r
9) しか も、「国会の議事録等 との照合 を行 っていない」 とい うことなので、蟹写ゆえか 日時
が記 されていないこの一件 「
第一回国会 参議院 会議録 第五十七号」の 日時 を添付資料
9
4
7
年 9月2
3日として しまっている (
甲斐睦朗 「
終戦直後の国語国字問題 第二十九回
か ら1
国立国語研究所の創設 (
上)
」r日本語学12
7
巻1
0
号、2
0
0
8
年 9月、7
6頁)。 しか し、議事緑
9
4
7年11月2
6日の参議院本会議の議事録である。
と照合すればす ぐにわかるが、 これは1
1
0
) Abr
aha
m Me
ye
rHa
l
pe
r
n(
1
9
1
4年∼1
9
85
年)はボス トン生 まれ。1
9
3
3
年にハーバー ド大
学卒業、博士論文執筆のため シカゴ大学で研 究、1
9
4
0年文化 人類学 の Ph.
D取得。1
9
41
年か
9
4
3
年か ら助教授。同年か ら CI
Vl
lAf
f
a
l
r
STr
a
l
ni
ngSc
ho
o
l〔
民
らシカゴ大文化人類学講師、1
政訓練学校 (
米国 ミシガ ン州)〕での 日本語教育顧 問 (
∼45
年)、1
9
4
6
年か ら GHQの CI
&E
言語改革 (
La
ngua
geRe
is
v
i
on)担当顧問 〔
のち言語簡易化 (
La
nguageSi
mpl
i
f
l
C
a
t
l
O
n)担当
顧問〕 (
以上は、Dr
.A.M Hal
pe
r
n 「近年におけるアメリカ言語学の発達」r
言語研究」1
3
号、
1
9
49
年に付 された服部四郎による 「附記」
、6
4貢 より。 ちなみにこの論文はローマ字表記の 日
9
4
8
年後半 までこの職にあ り、その後は、
本語で、服部が漢字かな交 じりに した ものである)。1
「カーネギー財団、ラン ド・コーポ レー シ ョン (
シンクタンク)、外交評議会へ と順 に席 を移
した。評談会に在職中には中国に関す る沓物 を数冊 出版 した」 とい う (
以上お よび没年 は、
J・マーシャル ・アンガー (奥村睦世訳) 占領下 日本の表記改革- 忘れ られたローマ字に
0
01
年、1
0
0頁。 ラン ド・コーポ レー シ ョンの履歴番 に よった とい
よる教育実験 j三元社 、2
う)。 アンガーによれば、ハルパー ンはローマ字の重要性 を認識 していた。従来の表記法は当
分の間維持 されるであろうが、 ローマ字 との並立は可能であるとし、 日本語の ローマ字化で
はな く、ローマ字教育の導入 を主張 していた。 また、「アメリカのヘ イタイコ トバ- ゲ ンゴ
1
9
4
9
年1
0月)に寄稿
のカイダンテキ コオゾオ」 とい うエ ッセイを r
思想の科学1 5巻 1号 (
9
46
している。 これは鶴 見俊輔が依頼 した ものだ とい う (
rr
思想の科学J ダイジェス ト1
1
9
9
6
1思想の科学社 、2
0
0
9
年、1
7貢)。余計な情報だが、CI
&Eで ともにはた らいた言語学者
江実によれば、「
ハルパ ン 〔
ハルバー ン〕 という人はアメリカで年に一人だけきまる天才児 と
いわれた人で、ちゃんと言語学 もやった人で、 しっか りした人で した。奥 さんはメア リー と
かい う二世ですね」と評価が高い (
「(
座談会)国語研究所創立の頃」r
言語生活12
6
7
号、1
9
7
3
年1
2月、5
5貢)。
l
l
) 「(
座談会)国語研究所創立の頃」r
言語生活12
6
7
号 、1
9
7
3
年1
2月、5
6
頁。
1
2
) 甲斐睦朗 「
終戦直後の国語 国字問題 第三十 回 国立国語研 究所 の創設 (
中) 日本語
学 12
7
巻1
2
号、2
0
0
8年 1
0月。
1
3
) 高野和基解説 ・訳 r
GHQ 日本 占領史 2占領管理の体制J 日本図督セ ンター、1
9
9
6
年、
1
0
0頁 (
原著は、GHQ/SCAPH̀I
STORYOFTHENONMI
uTARYACTI
VI
TI
ESOFTHE
。GHQ/SCAP機
OCCUPATI
ON OFJ
APAN1
9
45-1
9
5
1
Admi
nl
S
t
r
at
i
o
no
ft
heOc
c
upa
t
i
o
n'
)
構 図やその変遷などもわかる。
1
4
) 緑風会の活動 に関 しては、r
緑風会十八年史J緑風会編碁委員会、1
9
71年を参照。
1
5
) 「山本有三 国語研究所設立 までの歩み」r
言語生活12
1
6
号、1
9
6
9
年 9月、9
3
頁。
1
6
) 永野賢 「当用漢字表の由来 と国立国語研究所設立の経緯」r日本語学1 8巻 7号 、1
9
8
9
年
7月、1
0
2
貢。
1
7
) 土持ゲ- T
)一法- r
米国教育使節団の研究1玉川大学出版部、1
9
81
年が全般的な研究書で、
言語改革についても章が割かれている。 日本語 ローマ字化 は、言語学者がいなかった使節団
&Eの側では、ローマ字教育の導入が 目指 されていたとす る.言語改革
の先走 りであ り、CI
に特化 した研究書には、茅島偽 r国語 ローマ字化の研究】風 間書房 、2
0
0
0
年があるが、 とも
t
i
ona
ll
a
ngua
gei
ns
t
l
t
ut
eのその後については論 じていない。英文は、
に報告番 にでて くる na
r
」r
- 1
04 (
31)-
国際特侶社編輯局翻訳 r
マックアーサー司令部公表 米国教育使節団報告書j国際特信社、
1
9
4
6
年掲載の ものを参照。手に入れやすい翻訳 は、全訳解説村井実 rアメリカ教育使節団報
告書」講談社学術文庫、1
9
7
9
年がある。
1
8
) 「El
本 における教育改革の進展」、伊 ケ崎晩生 ・吉原公一郎編著 r
戦後教育の原典任)
- 米
国教育使節団報告書他j現代史出版会、1
9
7
5
年、2
3
5
頁.
1
9
) 本稿でみてい くように、国語課長釘本久春のはたらきも大 きい。初代研究所長 となった西
尾実はのちに、「当時の釘本課長の熱意 と活躍ぶ りはまことにめざましいものであった」 と述
べている (
西尾実 「
釘本君 とわた し 日本語- 釘本久春追悼」 (
国語 を愛す る会) 8巻 7
号、1
9
6
8
年、3
1
頁)0
2
0
)r
官報号外 第三回国会衆議院会議録第十七号」1
9
4
9
年11月2
1E
]
、1
4
2
頁。
2
1
) 釘本久春 r
現代の 日本語」古今書院、1
9
5
2
年、1
1
0
頁。 この点 に関 していえば、ハルパー
ンと釘本の1
9
4
7
年 2月2
6日の会談で も、国語審議会 を米Bl
教育使節団報告書の命令 による国
立言語委員会 (
Na
t
i
o
na
lLa
ngu
a
g
eCo
mmi
s
s
i
o
n)への再編が話題 となっている (
Bo
xno
.
5
3
5
9
」r
She
e
tn
o
.
CI
E(
A)0
3
0
0
5
)
0
2
2
) 「(
座談会)国語研究所創立の頃」r
言語生活j2
6
7
号、1
9
7
3
年1
2
月、5
5
頁.1
9
4
7
年11月の言
語簡易化方策が どうい うものなのか、GHQ/
SCAP文書で探 し出せ なかった。今後の課題 の
ひとつである。
2
3
) 「青木文教師 年譜」r
国立民族学博物館研究報告別冊j 1号 、1
9
8
3
年 3月、2
5
0
頁.
2
4
) 「(
座談会)国語研究所創立の頃」r
言語生活」2
6
7
号 、1
9
7
3
年1
2
月、5
5
頁。
2
5
) 「桑報 国立国語研究所の設置について」r
国語学」第 3輯、1
9
4
9
年1
0月、1
2
2
頁.
2
6
)r
第一回国会参講院文化委員会会議録第三号J1
9
4
7
年 8月2
6日、 3頁 (
実際の初年度 [
1
9
4
8
年度]予算は八 ケ月分で8
1
7
万 5千円だった。F国立国語研究所三十年のあゆみ- 研究業績
の紹介」国立国語研究所、1
9
7
8
年 、1
2
2
頁)。
2
7
)r
第-回国会参議院文化委員会会議録第三号』1
9
4
7
年 8月2
6E
l
、3頁0
2
8
) F第一回国会衆議院文化委員会議録第七号 」1
9
4
7
年 9月2
3日、4頁。ちなみに、創設委員
会の設置については、江実が 「匡ほ吾研究所がで きることになって、スキャップ (
総司令部)
側 としては、それがいったいどう動 くかについて、創設諮問委員会 を作 った らいい じゃない
か というふ うにア ドバ イス していると思 うんです」 と述べているが (
「(
座談会)国語研究所
創立の頃」r
言語生活J2
6
7
号、1
9
7
3
年1
2
月、5
6
頁)、引用か らあさらかなように、文部省は当
初か ら創設委員会の設置 を考えていたことがわかる。
2
9
) r
第-回国会参議院文化委貞会会議録第四号 j1
9
4
7
年 9月2
3日、 1頁.
3
0
) 同前 、4頁。羽仁五郎は戦前 と体質の変わ らない文部省を嫌悪 してお り、後年になるが、
r
教育の論理- 文部省廃止論」 ダイヤモ ン ド社 、1
9
7
9
年 とい う著作 もあ らわ している。
3
1
) F第一回Bl
会参議院文化委員会会議録第三号」1
9
4
7
年 8月2
6日、6頁。
3
2
)r
第一回国会衆議院文化委員会議録第七号j1
9
4
7
年 9月2
3E
]、4頁.
3
3
) 釘本久春 r戦争 と日本語」龍文書局、1
9
9
4
年、2
1
9
頁。
3
4
) 釘本久春 r国語教育論j河出書房、1
9
4
9
年、はしが き、3頁。
3
5
) 釘本久春 「国語政策の展開」F文部時報18
5
2
号、1
9
4
8
年 9月、5-6頁.
3
6
) 小久保美代子訳 ・解説 r
CI
Eカンファレンス ・T
)ポー トが語る改革の事実- 戦後El
語教
育の原点」東洋館出版社、2
0
0
2
年、3
2
0
頁。本番は、題名の通 り、国立国会図書館所蔵の GHQ
/
scAP文書か ら、国語教育にかかわるカ ンファレンス ・1
)ポー ト約3
0
0
通 を翻訳 し解説 した
貴重なものであ り、ハルパー ンの もの もい くつか翻訳 されている。
3
7
) 「(
座談会)国語研究所創立の頃」r
言語生活」2
6
7
号、1
9
7
3
年1
2
月、5
9
頁。
3
8
) 国語審議会の再編問題については、1
9
4
7
年 2月26E
]の釘本 とハルパー ンだけの会合で も話
題 とな り、ハルパー ンは、 しかるべ き学者たちによって 日本の言語遺産を守 り、一方で新聞、
ラジオ、映画などを通 じて発展 させ る役割 をもたせ るべ きだ とす る。 さらに、1
9
4
7
年 3月 5
日の両者の会合では釘本は当用漢字1
8
5
0
字が安定 した ら、国語審議会の再編 を図る、 とハ ル
パー ンに伝 えている (ともに Bo
xn
o.
5
3
5
9
She
e
tnoCI
E(
A)0
3
0
0
5
)
。
- 1
03 (
32)-
3
9
) 敗戦後の政治史は、五百旗頭真 r占領期- 首相たちの新 日本j講談社学術文庫、2
0
0
7
年
などを参照。
4
0
) のちに研究所創設委貞会の委貞 となった沢登哲-は、1
9
5
2
年に 「
戦後最 も目に立った問題
は、マス ・コンミニケ- ションだ と思 う」 と述べている (
「
言語生活の現状 と今後
言語生
活j4号、1
9
5
2
年 1月、3
6
頁)
.必ず しもハルパー ンひとりの見解 とはいえないだろうが、文
部省案に欠けていた見解であったことはまちがいないだろう。
4
1
) ほかは 「
- 現代の言語生活及び言語文化に関する調査研究 二 Bl
語の歴史的発達に関
する調査研究」。そ して、 2項 「
研究所 は、前項の調査研究に基 き、次の事業を行 うO- 国
語政策の立案上参考 となる資料の作成 二 国語研究資料の集成、保存及びその公表」 (
三は
本文に引用) とある。
4
2
) この経緯 については、安 田敏朗 F(
国語) と (
方言)のあいだ- 言語構築の政治学j人
文書院、1
9
9
9
年で論 じることがで きなかった。
4
3
) 「(
座談会)国語研究所創設の頃 言語生活」2
6
7
号 、1
9
73年1
2
月、5
7
頁。
4
4
) 同前 、5
6
頁。
4
5
) 同前、5
7
頁。
4
6
) 同前 、5
7-5
8
頁。斎藤正 は 「
GS
」 とだけ述べてお り、編集部が 「
GS(
参謀部)
」 と注釈 を
入れて しまっている。 しか し、G
Sは Go
v
e
r
n
me
n
tS
e
c
t
i
o
nの略で 「民政局」のことである。
4
7
) 沢登管- (
当時都立五中校長)は 「オーダー じゃない、 と二言 目にはす ぐ言 った。あ とで
考えてみたんだけれど、ちょうど詰将棋 です よ。駒 は 自由に使 っていい。お前 たち考えろ。
必要ならア ドバイスはすると言 うのですがね。だけ ど、勝手 に打 ったん じゃ詰 まないんだ」
と言い得て妙である (
同前 、5
8
頁)0
4
8
) J・マーシャル ・アンガー (
奥村睦世訳) 占領下 日本の表記改革- 忘れ られたローマ字
による教育実験」三元社 、2
0
0
1
年、1
0
2
頁。
4
9
) 「(
座談会)国語研究所創立の頃 F
言語生活」2
6
7
号 、1
9
7
3
年1
2
月、5
8
頁0
5
0
) 安藤正 次 (
国語 審議 会会長)・古垣哲郎 (日本放送協 会専務理事)・川越博 (
衆議 院議
貞)・若木麟蔵 (
参議院談貞)・有光次郎 (
文部事務官)・稲 田晴助 (
文部省教科書局長)。 な
お、F国立国語研究所三十年のあゆみ- 研 究業績 の紹介』 (
Bl
立 国語研 究所 、1
9
7
8
年、4
頁)では若木勝蔵のかわ りに金子洋文参議院議員の名前があげられている0
5
1
) 安藤正次 ・古垣哲郎 ・沢登哲- (
都 立第五高等学校長)・伊藤正徳 (日本新 聞協 会理事
長)・高木貞二 (
東京大学教授)・海後宗臣 (
東京大学教授)・土居光知 (
東北大学教授)・金
田一京助 (日本言語学会会長)・土岐善麿 (
ローマ字運動本部委員長)・倉石武四郎 (
京都大
学教授).時枝誠記 (
東京大学教授)・現田琴次 (
東京大学附属医学専門部長)・中島健蔵 (
東
京大学講師)・西尾実 (
東京女子大学教授)・松坂忠則 (
カナモジカイ理事長)・服部四郎 (
東
京大学助教授)・柳 田国男 (
民俗学会会長)・山崎匡輔 (
教育刷新委員会副委員長) F
国立国
語研究所三十年のあゆみ- 研究業績の紹介」国立国語研究所 、1
9
7
8
年、4-5頁)。 この う
ち、安藤は委嘱当時国語審議会の会長、土岐 ・時枝 は委員、古垣 ・沢登 ・海後 ・土居 ・金田
一 ・倉石 ・西尾 ・松坂 ・服部は臨時委員で もあった ように、1
2
名が国語審議会 と関係があっ
た。
5
2
) 「(
座談会)国語研究所創設の頃 F
言語生活」2
6
7
号、1
9
7
3
年1
2
月、5
6
頁。 また、省議では、
文部大臣か ら 「
立派な国語が近代国家を作 るのだか らそのために慎重 な学問的研究 を積 まね
ばならない」。だか らよろしく協力 を、 と挨拶があ り、安藤正次を座長に決め、ハルパー ンか
らの挨拶 もあった とい う。「
研究所が純粋 に科学的研究調査 を行 う機 関であるべ き」「
従来の
言語研究の通念にとらわれず 〔
-・・
・
〕広い分野にわたって研究をひろげるべ き」「
言語の実態
調査 を尊重 し、 また長期間継続 さるべ き性格 を持つべ き」 ものとされた (
同前、5
7
頁)0
5
3
) 釘本久春 「国語政策の展 開 文部時報』8
5
2
号、1
9
4
8
年 9月、7頁。ただ、「は じめに」
で述べた ように、研究所設置後の 「
桑報 国立国語研究所の設置 について」 (
釘本久春筆)
F国語学j3輯、1
9
4
9
年1
0月では、GHQ の CI
&Eが 「
好意 と理解 とを表わ しつ ゞけた」 との
記述 もある (
1
2
2頁)0
」r
」r
r
」
(
」
」r
- 1
02 (
33)-
5
4
) 「(
座談会)国語研究所創設の頃」r
言語生活12
6
7
号、1
9
73年1
2
月、5
7
,
5
8
頁。
5
5
) 研究所の文化庁への移管にともない、1
9
8
3
年1
2月に国立国語研究所設置法は廃止 となる。
旧法の第-条第 1項は、1
9
8
4
年の文部省組織令 (6月2
8日政令2
2
7
号)の第1
0
9
条に同文であ
らわれるが、文部大臣は予算 と人事以外 に研究所の監督 を してはな らない、 とい う第 2項 に
相当する文言はひそかに消 えていった。 また、「国語の合理化」については、独立行政法人国
1
9
9
9
年1
2
月2
2日法律第1
71
号)の第三条で、「匡ほ吾の改善」 とかわる。
立国語研究所法 (
5
6
)r
HI
S
TORYOFTHENONMnI
TARYACTI
VI
TI
ESOFTHEOCCUPATI
ONOFJ
APAN1
9
4
5
-1
9
5
1 E
l本 占領 GHQ正 史 第2
0
巻 数 育j 日本 図書 セ ンター、1
9
9
0
年、3
2
0
頁
9
5
1
年 ごろ)
。 この巻は、解説 と訳 を土持法-が担 当 して、r
GHQ日本 占領史 2
0
教
(
作成は1
9
9
6
年) として刊行 されている (
資料編は割愛 されている部分 もあ
育] (日本図書セ ンター、1
る)0
5
7
) 同前、付録、3
3
0
頁。
5
8
) こうした事情 を知ってか知 らずか、国立国語研究所設置後の第二次米国教育使節団報告書
には、「かれ らは国立国語研究所 を設けて、いっそ うの研究 と改革に対 し刺戟 を与 えた。 この
研究所 は、国語 ならびに国語 と国民生活間の関係 を科学的に研究す るために設立 された。〔
・
・
・
〕現在の改革は、国語その ものの真の簡易化、合理化 には触れないで、かなや漢字文の単
「
第二次訪 E
]アメリカ教育使節団報告書」、伊
純化 に終わろうとしている」 と指摘 している (
ケ崎晩生 ・吉原公一郎編著 T
戦後教育の原典②- 米国教育使節団報告書他」現代史出版会、
1
9
7
5
年、1
4
0
頁。
5
9
)r
第三回国会衆議院文部委員会議録第E
E
l
号 j1
9
4
8
年1
1
月1
8日、r第三回Bl
会衆議院文部委員
会議録第五号j1
9
4
8
年1
1
月1
9日0
6
0
)r
第三回Bl
会衆議院文部委貞会議録第五号j1
9
4
8
年1
1
月1
9日、6貫。
6
1
) 発足後 も国立国語研究所は GHQ/
SCAP文香にあ らわれる。 しか し、 日本語に達者 なハル
パー ンはその地位 を去 ったあとであ り、研究所長西尾実、釘本 らと会談す る CI
&E教育課高
等教育係のス トルネ- カー (
L.
W.
S
t
a
l
n
a
k
e
r
)は 日本人通訳 をともない、会談内容 も、一年
次 目の研究概要などの概括的なものであ り、ハルパー ンの ときの ようにあれこれ意見 をつけ
9
4
9
年 6月 9日、Bo
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5
6
4
6
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CI
E(
C)0
3
6
5
0など)0
た りは していない (
たとえば1
6
2
) 他の出席者 (
紙上出席 も含む)は、南博 ・小林英夫 ・大久保忠利 ・池田弘子 ・江実 ・宮城
音弥 ・今野武雄 ・宮崎博 ・石黒修 ・川島武宜 ・布留 武郎 ・柳 田為 正 ・松坂息則 ・三浦つ と
む ・望月衛 ・鶴見俊輔。ハルバー ンの発言は、「きいてわかる学問用語」について、学問用語
自体 についてよくわか らないが 「
大和言葉」では附難であろう、 とい うこと。 もう一回の登
場場面は最後の方で、「こうい う運動の進み方を統察 したいと思ってお ります」 という程度の
「きいてわかる学問言葉 を作 る会」r
思想の科学13巻 9号、1
9
4
8
年1
1月、4
4
ものであった (
-4
5
、6
0
貢)
。座談会への出席は鶴見俊輔が要請 した (
鶴見俊輔 「あとが き」、同前、6
5
頁)
0
6
3
) 同前、6
1
頁。
文中敬称略、〔 〕内は筆者補足
(
やすだとしあ き/一橋大学)
- 1
01 (
3
4
)-
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