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「1945 年の聖学院中学校
「1945 年の聖学院中学校 - 学校日誌から」
日付・日誌の内容
解説
1月1日
当時、日本は国力の全てを戦争につぎ込む「総力戦」の状態でした。
「五学年勤労動員」
そのために国民全てが「月月火水木金金」(土日返上で、全ての曜日を勤労・訓練
に費やす)だったと言われています。
中高生も例外ではなく、「正月三が日」の休みもなく、1月1日から勤労動員され
ている様子が見て取れます。
勤労動員とは…1938 年に国家総動員法が定められ、学徒を動員する法令が幾つも
作られました。この日誌の前年、1944 年 4 月に文部省内に学徒動員本部が作られ、
8 月、学徒勤労令が公布、軍需工場などへの勤労奉仕が行われました。
1月4日
始業式があったこの日、警戒警報が出されたことが記録されています。
「十九時十分警戒警報発
令」
警戒警報とは、敵機の侵入を発見した時点で発令される警報です。
この敵機が、空襲を目的としたものと判断されると空襲警報が出されました。
つまり、
「警戒警報」 → 「空襲警報」という流れになります。
1942 年 4 月 18 日に、東京は初めて空襲に見舞われましたが、これは、米軍が航空
母艦から陸上爆撃機を無理やり発進させるという冒険的な作戦で、民間人にも被害
が出、日本に大きな衝撃を与えたものの、爆弾を落とした時間は 30 秒しかない小
規模な空襲でした。
初空襲の後、約 2 年半、東京は空襲を受けることはありませんでした。しかし、こ
の日誌の前年 1944 年 11 月に、マリアナ諸島(サイパン・グアム等)が占領され
たことで、本格的な本土爆撃が始まりました。
なお、日誌には記載されていませんが、12 月 31 日・1 月 1 日の年末年始も空襲が
ありました。
1月8日
この日、大詔奉戴式(たいしょうほうたいしき)が行われています。
「大詔奉戴式挙行」
これは、宣戦布告した「12 月 8 日」に合わせ、毎月 8 日を、戦争への決意を確認
する日とし、「天皇のご真影を前に『宣戦の詔書』を奉読する」というものです。
2月11日
紀元節とは、初代天皇(神武天皇)が即位した日と考えられた日です。祭日ですが、
「紀元節祝賀式挙行」
造兵廠・東京塗料の勤労奉仕は休みであるものの、理研への勤労奉仕は行われてい
たことが分かります。
なお、この紀元節は、現在、「建国記念日」となっています。
2月16日
静岡県の浜松市は、東京・名古屋への爆撃ルートの直下に当たるため、残った爆弾
「敵機動部隊本土に接近」 は浜松で投棄するよう定められていたとされています。
「静岡関東地区を空襲せ
また、静岡は関西圏と関東圏の中間にあるため、産業地帯として重要な位置にあり、
り」
1942 年 4 月 18 日の本土初空襲の際にも襲われました。
2 月 15 日の静岡空襲(日誌の記載は 16 日)は、150 人が亡くなったとのことです。
2 月 17 日
2 月 16 日(日誌の記載は 17 日)に、宇都宮市や太田市にあった中島飛行機の製作
「本日も敵機約六百我が
所や飛行場を目標とした爆撃がありました。
軍事施設を爆撃せり」
2 月 25 日
連日、空襲が続いていますが、この空襲では、生徒にも被害が出たと記録されてい
「艦載機約六百 B29 百三
ます。
(記録では、この日の空襲で 195 人が亡くなっています)
十機帝都盲爆せり」
「生徒被害を蒙りたるも
の数名あり」
3月4日
この日の空襲は、豊島・滝野川・城東・向島と、本校近隣が爆撃対象となり、死者
「八時三十分空襲警報発
も 660 名と、それまでの東京への空襲で、最大の人数となりました。
令 B29 大編隊帝都を空襲
せり(百五十機)
」
3月5日
前日の空襲被害が、駒込中学校に及んでいました。
「校長(中略)駒込中学校
駒込中学校・高等学校 HP の「学校沿革」には「昭和 20 年(1945) 戦災で本館を残
空襲被害視察に行かる」
して校舎を焼失する」とあります。
3月9日
いわゆる「東京大空襲」です。
「B29 百三十機帝都市街
この空襲により、死者7~10万人(戸籍焼失・一家全滅などのため、正確な人数
を盲爆せり」
は不明)
、罹災者百万人以上という大きな被害を受けました。
「大火災数個所に起り罹
災者相当数ある模様なり」 ここまで被害が大きくなった理由として、空襲の方法が変わったことと、防空演習
が挙げられます。
爆撃部隊の司令官だったヘイウッド・ハンセルは、日中、高高度からの軍事施設へ
の精密爆撃を行わせていましたが、戦果が出ませんでした。
後任のカーチス・エマーソン・ルメイ司令官は、「日本の民家は軍事工場である」
との信念に基づき、夜間・低空・焼夷弾による無差別爆撃を行うようになりました。
その嚆矢となった空襲が、この日の東京大空襲でした。
一方、空襲に備えた防空演習では、
「退くな、逃げるな、必死で消火!」
「退避は待
機、焼夷弾には突撃だ!」
「消せば消せる焼夷弾!」などの標語で戦意を高揚させ、
さらに「防空法」は、空襲時の避難を認めませんでした。しかし、油脂を含んだ焼
夷弾は容易に消すことができず、また想定をはるかに超える焼夷弾に、演習は役に
立たず、多くの人が火災に巻き込まれることになりました。
なお、カーチス・エマーソン・ルメイ司令官は、戦後、航空自衛隊設立の立役者と
して「勲一等旭日大綬章」を与えられています。
3 月 15 日
米軍は、3 月 16 日に「硫黄島における日本軍の組織的抵抗は終了した」と公表しま
「硫黄島周辺に敵艦船の
した。事実上、日本軍は硫黄島で敗北していますが、日誌上では左記の表現にとど
動きあるため」
まっています。
3 月 18 日
天皇による空襲被害の視察が行われました。
「聖上陛下恭くも戦災地
侍従長に「胸が痛む、悲惨だね、東京も焦土となったね」と語ったとのことです。
を親しく御見舞賜ふ」
3 月 22 日
3 月 25 日には、硫黄島守備隊は最後の総攻撃を実施し、指揮官・栗林中将は重傷
「硫黄島全員戦死・発表あ
を負ったのち、自決しました。
り」
栗林中将が最後に打電した辞世の歌「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て
散るぞ悲しき」は、戦意高揚のため、「散るぞ口惜し」と改竄されて発表されまし
た。
3 月 27 日
この前後から、特に沖縄周辺での住民の集団自決が相次いでいきます。
「恵良間列島に敵上陸す」
3 月 29 日
3 月 31 日には、沖縄師範学校男子部生徒が「鉄血勤皇隊」として動員されていき
「西南諸島方面敵艦隊勢
ます。
力増強
沖縄本島へ砲爆
撃激化す」
3 月 31 日
おそらく、
「建物疎開」でしょう。
「家屋倒壊作業す」
防空法では「防空上必要ある時は命令の定むる所により」「建築物の除去」すると
していました。通告から 10 日以内に建築物を明け渡すことが求められ、10 日目に
は指定建築物を「除去」しました。
勤労動員によって、本校の生徒も作業に従事したのでしょう。
4月2日
4 月 1 日、いよいよ沖縄本島に米軍が上陸します(日誌では 4 月 2 日)。
「敵沖縄本島に上陸開始
す」
この後、沖縄では、住民を巻き込んでの悲惨な地上戦が展開していきます。
4 月 13 日
ここでの「疎開」手伝いは、
「学童疎開」でしょうか。
「二、三、B 組疎開手伝い
空襲の被害を避け、また都市部の食糧難のため口減らしを兼ね、学童を農村部へ移
に A 校庭開墾」
す政策がとられました。
「二十三時ごろより警戒
縁故疎開ができない学童は集団疎開を行いましたが、疎開先でも食糧難に悩みまし
警報発令
間もなく B29
た。
大挙来襲
大空襲となる
疎開は保護者の申し出によって行われたので、費用負担ができない家庭の児童、病
火災猛烈
学校も一時危
弱な学童などは疎開から外され、「残留組」と呼ばれました。
険なりれも火災をまぬか
る
(中略)
なお、疎開には他に「建物疎開」「物資疎開」
「人員疎開」があります。
次いで付近
罹災者・収容所となる」
食糧難は極めて深刻で、食べられる野草が記された「決戦生活のしおり」が各家庭
に配布されたほどです。そのため、校庭のように少しでも空き地があれば、菜園へ
と姿を変えました。
4 月 13 日の空襲は、先の 3 月 10 日とほぼ同等の爆撃が行われましたが、3 月 10
ほどの被害は出ませんでした。これは、3 月 10 日の空襲の教訓を生かし、消火を
あきらめて避難したためとされています。
しかしそれでも、この日の空襲で約 2,500 人が亡くなりました。
3 月 10 日には焼け残った本校周辺も、この空襲では大きな被害を受け、日誌にも
「学校も一時危険」
「罹災者・収容所となる」と書かれています。
当時警備召集され、女子聖学院の部隊に配属されていた方は、「聖学院に戻る道筋
は、家並はすっかり焼けおち、電線が道を横切って垂れ下がり、煙があたりにこめ、
行く時と全く様相が一変している。
(中略)聖学院は焼け残って全く無傷であった。
プール周りの桜が煙の中に美しく満開であった。
」との手記を残しています。
また、池袋に居を構えていた推理小説家・江戸川乱歩も、当日の体験について手記
を残しています。
4 月 14 日
学校周辺での空襲被害が、いかに大きかったかが想像できます。
「罹災者約四千名収容す」
4 月 29 日
天長節は、今上(きんじょう)天皇(当時は昭和天皇)の誕生日を祝う日です。
「校庭にて天長節祝賀式
戦後、この日は、
「天皇誕生日」と名称を変え、昭和天皇崩御後は「みどりの日」
、
挙行」
その後「昭和の日」となり、今に至っています。
5月8日
P51 は「陸上戦闘機」に分類される飛行機です。
「P51 凡百機来襲」
これまで日誌に度々出てきた B29 は、大型長距離爆撃機で、6600km の航続距離
を持っています。この長大な航続距離のため、グアム・サイパンといったマリアナ
諸島の航空基地から日本全土を攻撃圏内に収めることができました。
また、日誌には「艦載機」についても述べられています。艦載機は航空母艦に載せ
て進出することで、日本本土を攻撃圏内に収める事ができました。
しかし、P51 を飛ばすには陸上の飛行場が必要です。P51 が来襲したということか
ら、この時点で P51 が到達可能な日本近海の陸上飛行場(おそらく硫黄島)をア
メリカ軍が確保・整備した、ということが分かります。
5 月 22 日
この法律により、戦争遂行に必要な作業を最優先とするため、国民学校初等科(今
「本日戦時教育令公布さ
の小学校)を除く、全ての学校が授業を停止することになりました。
る」
5 月 26 日
日本軍は、アメリカ軍が制圧した沖縄の読谷・嘉手納飛行場を奇襲攻撃すべく、重
「特攻義烈空挺隊敵中降
爆撃機 12 機が発進したものの、4 機は故障で引き返し、7 機は撃墜され、1 機のみ
下す
読谷飛行場に強行着陸し、アメリカ軍機 8 機を破壊しましたが、全員戦死しました。
北中飛行場敵機施
設を爆砕す」
6月8日
実際には、
「逐次戦線を整理」
「敢闘中」どころではなく、海軍沖縄根拠地隊司令官
「沖縄本島南部地区の我
太田少将は、6 月 6 日に「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜
部隊は其後敵に打撃を与
らんことを」と、決別電を打電しています。
(太田少将は 6 月 11 日に自決)
えつつ遂次戦線を整理し
また、6 月 23 日には沖縄守備軍牛島満司令官が自決し、組織抵抗は終わりました。
優勢なる敵に対し敢闘中
なり 大本営報表」
4 月 1 日の米軍沖縄上陸から 3 カ月に満たない期間で、沖縄は大きな被害を被るこ
とになりました。
7 月 18 日
砲撃可能な近距離まで敵艦を近づかせてしまっているところから、海軍が事実上機
「敵艦艇房総南端を砲撃
能しておらず、制海権が無くなっていることが分かります。
す」
7 月 30 日
「清水市砲撃さる」
8月6日
この日、日誌には警戒警報と空襲警報が発令されたことと、P51 が「茨木」
(ママ)
に来襲したことのみが記載されており、広島の原子爆弾投下をうかがわせる記載は
ありません。
8月9日
この日、日誌には警戒警報が発令されたことのみが記載されており、長崎の原子爆
弾投下をうかがわせる記載はありません。
8 月 15 日
7 月 28 日に要旨を掲載するともに「受諾せず」と新聞で報じていた「ポツダム宣
「ポツダム宣言受諾の旨」 言」の受諾を、正午に天皇の肉声で放送(玉音放送)しました。
長崎に原爆が投下され、ソ連軍が満州に侵攻を開始した 8 月 9 日、ポツダム宣言受
諾の可否を決める(天皇を前にする)御前会議が開かれ、天皇はポツダム宣言を受
諾することに賛成しました。
しかし、ポツダム宣言を受諾すると国体護持(天皇制を維持)できないとし、軍・
政府が紛糾、日誌にあるように、その後も戦闘による被害が継続していきます。
8 月 14 日に再度御前会議が開かれ、改めて天皇がポツダム宣言を受諾することを
聖断し、天皇自らがマイクに向かい終戦詔書を吹き込みました。
このレコードの原盤が、今年(2015 年)70 年ぶりに再生され、従来よりもクリア
な音声が、宮内庁によって公開されました。
8 月 30 日
連合軍最高司令官・マッカーサーが、厚木から都内へ移動する車列から撮られた映
「マッカーサー
到着
厚木に
海兵隊も横須賀へ
上陸す」
像が、
「映像の世紀 最終巻 – JAPAN : 世界が見た明治・大正・昭和」に収録さ
れています。
沿道で立哨している警備の日本兵が、一切車列には顔を向けていないのが印象的で
す。
9月3日
この時の写真や映像が多く残っています。
「九月二日午前九時四分
詔書渙発(かんぱつ) 降
この降伏文書調印により、1941 年 12 月 8 日の真珠湾攻撃から始まり、200万人
伏文書に調印す(中略)ミ
とも300万人ともされる多くの日本人が犠牲になった戦争が終わったのです。
ズーリ艦上にて」
【参考文献】

川弘文館編集部編 (2012) 「日本軍事史年表 : 昭和・平成」 吉川弘文館

早乙女勝元著 (2003) 「図説東京大空襲」 河出書房新社

横山恵一著 (2014) 「名言・迷言で読む太平洋戦争史」 PHP 研究所

学校法人駒込学園駒込中学校・高等学校
学校沿革
www.komagome.ed.jp/annai/enkaku.html
(Access 日:2015/7/16)

東京大空襲・戦災誌編集委員会編 (1975) 「東京大空襲・戦災誌 第 2 巻」 東京空襲を記録する会

早乙女勝元,土岐島雄編 (1984) 「母と子でみる日本の空襲」 草土文化

太平洋戦争研究会編著 (2003) 「図説アメリカ軍の日本焦土作戦 : 太平洋戦争の戦場」 河出書房
新社

玉木研二 (2005) 「ドキュメント沖縄 1945」 藤原書店

安斎育郎 (2008) 「語り伝える空襲 : ビジュアルブック 全 5 巻」 新日本出版社

大田昌秀 (1983) 「これが沖縄戦だ : 写真記録」改訂版 琉球新報社

講談社 (1989) 「廃墟からの出発 (昭和 : 二万日の全記録 第 7 巻)」講談社
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