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播磨国風土記を通してみる古代地域社会の復元的研究
(課題番号)19520571
平成 19 年度~平成 21 年度科学研究費補助金
基盤研究(C)研究成果報告書
22 年 3 月
平成 21
研究代表者 坂江 渉
神戸大学大学院人文学研究科
平成 1
9年度∼ 21年度科学研究費補助金 ・基盤研究 (C)
播磨国風土記を通 してみる古代地域社会の復元的研究
一 目 次第 1部
研 究概要
1
、研 究 の 目的 と課題 ----------------------------- -1
2、研 究組織 と研 究協力者 --------------------------- -2
3
、交付配分額 ---------------------------------3
4、研 究経過 -- --- -----------------------------3
5、研 究成果 の概要 と研 究成果 の発表 ---------------------- -6
第 2部
論考
古代 の地域社会 と農 民結合
一 風 土記 ・歌垣 民謡研 究 か らみ えて くるもの- ----------坂江
石作氏 の配置 とその前提 ---------------------中林
渉
1
0
隆之
34
明裕
49
晃
5
7
道昭
66
『播磨 国風 土記』 の説話理解 と古代 の地域社会
一 風 土記 の文学研 究 の成果 と古代史研 究- ------------高橋
山 口県 山 口市 出土の古代石文
一 いわゆる秦益人刻 苦石 について- ---------------古市
粒 丘 と揖保 里 の再検討 ----------------------岸本
第 3部
『
播磨 国風土記』揖保都条 証論
凡 例 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7
3
(
1
) 上 岡里条
高橋
明裕
73
(
2)林 田里条
高橋
明裕
75
(
3) 邑智駅家条 ----------------------- -毛利
憲一
7
9
(
4)枚方里佐 比 同条
----------------------坂江
渉
81
--------------------------坂江
渉
85
道昭
8
6
(
5) 家 島条
(
6)神 島条 (
韓浜条)
坂江
渉 ・岸本
(
7) 韓荷 島条
坂江
渉
92
(
8) 荻原里条
古市
晃
94
--------------------- -毛利
憲一
96
(
1
0)桑原里琴坂条 -----------------松 下 正和 ・岸本
道昭
9
7
(
9)少 宅里細螺川 条
第 4都
関連資料 (
研 究 に関わ る新 聞報道記事)
唐荷 島 (
韓荷 島) と上 島 (
神 島)調査
「
秦益人」刻苦石 の調査発表
------------------- -1
01
------------------------ -1
0
2
第1
部
研究概要
「
播磨国風土記を通 してみる古代地域社会の復元的研究」
1
、研究の 目的 と課題
本書 は、平成 1
9年 (
2
0
0
7)度∼ 21年 (
2
0
0
9
)
度科学研究費補助金 ・基盤研究 (
C) 「
播磨
国風土記 を通 してみ る古代地域社会 の復元的研究」 によるものである。
本研 究は、坂江渉 (
神戸大学大学院人文学研究科地域連携セ ンター研 究員) を研究代表
者 とし、 中林 隆之 (
新潟大学人文学部准教授)・古市晃 (
神戸大学大学院人文学研 究科准
教授 )・松 下正和 (
神 戸大学大学院人文学研 究科特命 講師)・毛利 憲一 (
平安女学院大学
国際観光学部准教授)・高橋 明裕 (
立命館大学文学部非常勤講師) の 5名 を研究分担者 と
した。以下、科研 申請時 (
2
0
0
6年 1
0月) の書類 内容 にもとづ き、本研 究の 目的、学術的
jヒ_
良
目ノ
甲、
、設定 した課題等 について記す。
研究の 目的
本研 究は、徹底的な史料校訂 と現地調査 を踏 まえた 『
播磨 国風土記』の逐条
分析 をお こな うことによ り、古代 の地域社会 の構造 について、その当時の村落生活や信仰
のあ り方、他地域 との交流実態 の解 明にまで踏み込んで復元す ることを 目的 とす る。
研究の学術的背景
かつて戸籍 ・計帳 の綿密 な史料調査、考古学の発掘成果 にもとづ く集
落遺跡研究な どによ り、古代地域社会研究 は大 き く進展 し、活発 な議論 が されてきた。 し
9
9
0年代以降、一部 を除き、研 究その ものは停滞的 になった。新 たな分析視角 によ
かし 1
る研 究 も、ほ とん ど試 み られていない。全体 として、古代地域社会 に対す る研究者 の問題
関心は希薄 になってい る とい える
。
その中で、現存す る古代風土記 の史料群 について も、個別 の 自治体史研究な どで、史料
中の郷名 ・里名 の現地比定や氏族分布研究な どは、ある程度お こなわれ てきた。 しか し歴
史学の立場 か ら、風土記 の地名説話 の中身その ものにまで踏み込んだ総合的な村落研 究 は
試み られていないのが現状 である
。
ところがその一方、国文学の立場か ら、風土記 に対す る史料論的研 究が、着実 にすす め
られ てい る (
風 土記研 究会編 『風土記研 究』、上代文献 を読む会編 『風土記逸文注釈』 な
ど) また考古学 の分野での集落遺跡研 究 は一段 の進展 をみせ 、 とくに各地 の地方官街 の
。
調査事例 は膨大な数 になった。 これ によ り古代 の地域 の支配構造 の実態解 明に迫 りうる研
究 も数多 く生まれつつ ある。 さらに歴史学 と隣接学問 との共 同研 究 によ り、風土記 に対す
る綿密 な本文校訂研究がすす め られてい る (
沖森卓也 ・佐藤信 ・矢嶋泉編著 『出雲国風土
記』、 山川 出版社 、2
0
0
5年。 同 『播磨 国風土記』、 山川 出版社 、2
0
0
5年 な ど)。 また関和彦
民 らによる、景観や民俗調査 を踏 まえた 『出雲国風土記』研 究は、近年 の研 究の中で とく
に注 目すべ きもの とい える (
『古代文化研 究』第 4号∼ 1
0号、『島根県古代文化セ ンター
調査研 究報告書』 1
5、2
2な ど)
。
さらに研 究代表者 と研 究分担者 を中心 とす る研 究 グループに関 してい うと、2
0
0
0年 の
初頭 頃か ら、研 究協力者 の今津勝紀氏 (
協力承諾済み)が、 コンピュー ターの統計的処理
S にもとづ く景観調査 に取 り組 み始 めた。 これ によ り古代 の世帯請
による戸籍研究や、GI
・婚姻論 ・景観論 が、新 たな段階 を迎 える可能性 が出てきてい る (
今津勝紀 「
大宝二年御
-1-
野国加 毛郡半布里戸籍 をめ ぐって」、岡山大学学内共 同研 究 『自然 と人間の共生』報告書、
2
0
0
3年。今津勝紀 ほか 『シ ミュ レーシ ョンによる人 口変動 と集落形成過程 の研 究』く科学
研究費補助金萌芽研究 ・研 究成果報告書〉、2
0
0
5年 な ど)
。
また研究代表者 の坂江渉 は、 旧来 ほ とん ど取 り上げ られ て こなかった記紀所収 の歌垣民
謡 の中身 をもとに して、その当時の婚姻像や共同体の構造 を明かす研 究 に着手 した。 その
ほか風土記 の動物説話等 を素材 に した新 たな動物祭配研究 もお こなってい る (
坂江渉 「
古
代女性 の婚姻規範
EX ORI
ENTE (
大阪外 国語大学言語社会学会
一美女伝承 と歌垣- 」、『
誌)』 1
2号、2
0
0
5年。 同 「
古代 の大阪湾 にや って来ていた もの - ウミガメの上陸 ・産卵
- 」、神戸大学文学部 『歴 史文化 に基礎 をおいた地域社会形成 のための 自治体等 との連携
事業』く平成 1
6年度事業報告書〉、2
0
05年 な ど)
。
課題 の設定 と研 究 フィール ド
これ らの研 究動 向 を踏 ま える と、 (
1
) 今 い ち ど風 土記本
2) その上 で、風 土記 に書 かれ る説話 ・神話 の 中身 に
文 の正確 な史料校訂 をお こない 、 (
3) さらに積極 的 に地域社会 の 中に足 を踏 み入れ 、
まで立 ち入 った逐条解釈 の重要性 、 (
地元 の歴 史史料 ・民俗資料 (
聞き取 り調査 も含 む)・埋蔵文化財 ・自然景観等 を重 ん じた
風土記研究 をお こな うことな どの重要性 が浮 かび上がって くる。 そ こで本研 究では、 ここ
に掲 げた 3つの項 目の分析 を研究課題 として設定 し、3年 間の調査分析 に従事す ることに
した。
具体的な研 究 フィール ドの場 については、『播磨 国風 土記』 には、里 ・村 ・丘 ・川 ・島
な ど、合計 1
0郡、3
5
0件以上の地各 情報 が載せ られ てい る。 この うち本研 究では、 これ
まで研 究 グループがある程度 の実績 をつんできた揖保川流域 の 2郡、す なわち揖保郡 と宍
粟郡 を主た る研 究 フィール ドとして設定 した (
約 80件 の地各 情報)。風土記 による と、 も
ともとこの 2郡 は、歴史的 に一つ にま とまった地域 だ とい う (
宍粟郡条)。 その よ うな歴
史的な世界 の実像 を明かす ことは、研 究史上、大 きな意義 をもつ ことになるだろ う。
研 究では、まず この 2郡 に関す る史料校訂 をお こない、原文記述 の復元 を試みた。それ
と並行 して、これ らの地域 の現地調査や GI
S等 も利用 した地形復元分析等 をお こなった。
これ らの作業 を通 じて、古代地域社会 の景観 の復元、お よび信仰 ・祭配 ・儀礼 を中心 とす
る地域生活史や共 同体像 の復元 を視野 にいれ た報告書 (
逐条解説書) の完成 をめ ざす こと
とした。
2
、研究組織 と研究協力者
4年 (
2
0
0
2)前後か ら、『加西市史』
本研 究では、上記 の 目的 と課題 を遂行す るため、平成 1
や 『播磨新宮町史』な ど、兵庫県内各地の 自治体史 (
古代史編) の編纂 ・執筆 に関わ り、
また平成 1
9年 (
2
0
0
7
)
3月の 『風土記 か らみ る古代 の播磨』 (
坂江渉編著、神戸新 聞総合 出
版 セ ンター)の刊行 ・執筆 に関与 した研 究者 を集 め、また神戸大学大学院人文学研 究科地
域連携セ ンター を拠点的な研究施設 とした。
本研 究 に従事 した研 究者 の役割分担 は、以下の通 りである。
■研 究代表者 :坂江
渉
(
神戸大学大学院人文学研 究科地域連携セ ンター研究員)
「
研 究プ ロジェク トの総括お よび神話、伝承研 究」
■研 究分担者 :中林
隆之 (
新潟大学人文学部准教授)
「
風土記 の史料校訂 、播磨 の古代寺院の研 究」
-2-
■研 究分担者 :古市
晃
(
神 戸大学大学院人文学研 究科准 教授 )
「
風 土記 の史料校訂 、 出土文字資料 の考古学的研 究」
■研 究分担者 :松 下
正和 (
神 戸大学大学院人文学研 究科特命 講 師)
「
風 土記 の動植 物記事 の研 究」
■研 究分担者 :毛利
憲一 (
平安女学院大学 国際観 光 学部准 教授 )
「
地方制度研 究 、出土遣物 の考古学的研 究」
■研 究分担者 :高橋
明裕 (
立命館 大学文学部非 常勤講 師)
「
古代祭 配研 究」
また 『播磨 国風 土記』 の故地 の フィール ド ・ワー クに際 しては、地元研 究者 との連携 な
しに研 究 はあ り得 ない と考 え、主 た る研 究対象 地 で あ る旧揖保郡 ・宍粟 郡 ・佐用郡 内の 自
治体 (
たっ の市 ・太子 町 ・宍粟 市 ・佐用 町 ・姫 路市家 島町 な ど)の文化財 担 当職員や 地域 史
研 究家 の協力 を仰 ぎなが ら調査 をすす め るこ とに した。 3 年 間の多 くの巡見調査 は、 こ う
した地元研 究者 との共 同調査 とい う形 で実施 で き、い くつ かの点 で問題 意識 や課題 点 の共
有 をはか る こ とがで きた。
この うちたっ の市教 育委員会 の文化財課課長補佐 の岸本道 昭氏 か らは、 とくに多大 な援
助 を賜 る とともに、本 書 の論考編や註論編 に対 して も、共 同調査 で得 られ た知見や氏 自身
の研 究成果 の一端 を投稿 してい ただい た。岸本氏 をは じめ として、本研 究 に協力 してい た
だい た多 くの方 々 に、 この場 をか りて厚 く御 礼 申 し上 げたい。
3
、交付配分額
直接経費
間接経費
合計
9年度
平成 1
1
,
300,
000円
390,
000円
1
,
690,
000円
平成 20年度
600,
000円
1
8
0,
000円
780,
000円
平成 21年度
700,
000円
21
0,
000円
91
0,
000円
4、研 究経過
9
年度 (
2
0
0
7
)
平成 1
2007年 4月 1
3 日に内定通知 を受 けた後 、4月 27 日に、坂江 ・古市
・高橋 の 3名 が会 い、今後 の方 向性 につい て簡 単 な打合せ。 5月 11 日には、研 究協力予
定 のたっ の市 ・太子 町 ・宍粟 市 の 自治体文化財担 当者 に挨拶廻 りをお こない、 5 月 27 日
播磨 国風 土記研 究会) を開催。 その後 、具体的 な活動 を開始
には第 1回 目の分担者 会議 (
し、 1年 間 を通 じて次 の よ うな成果 が あがった。
① 2007年 7月 7 日、研 究分担者 や協力者 同士 の研 究会 を催 し、風 土記 の各 地名 説話 の 中
身や現地比定地等 に関す る問題 点や課題 につい て洗 い 出 し、相 互討論す る こ とがで きた
(
科研 チー ム全員参加 の ほか、たっ の市教 育委員会 の岸本道 昭 ・義則敏彦 ・芝香寿人 、
宍粟 市教 育委員会 の 田路正幸 、 島根 県教 育庁文化財 課 古代文化 セ ンター専 門研 究員 の森
田喜久男 、前神 戸 大学文 学部講 師 の井 上勝博 の各 氏 が研 究協力者 と して参加 ) そ の成
。
果 の一端 を、坂 江渉 「
風 土記 の時代 の河合 地 区」、 同 『本庄村 史』歴 史編 に発 表す る こ
とがで きた。
-3-
② 2007年 5月 1
7日と 7月 8日に、風土記 (
揖保郡条)に地名説話が載 る 「
韓荷 島」 (
現在
現在 の姫路市家 島町上 島)を訪れ た。 両無人 島の現地調
のたっ の市唐荷 島)と 「
神 島」 (
査 をお こな うこ とによ り、 「
韓荷 島」では島内各地 の沿岸部 で多 くの古代∼ 中世 の土器
片 を採集 し、本 島が漂着物が流れ着 きやすい環境 にあること、また大潮 の時、島っなぎ
(
海割れ)現象 が起 きる島であることを確認 できた (
坂江 ・古市のほか、義則敏彦 ・広
岡磨璃 ・堂野能伸氏 の 5名参加)。 また 「
神 島」では、風土記 の中で 「
顔 面に五色 の玉
を埋 め込 んだ石神 」 に相 当す る と思われ る巨石 (
地元漁師の間で 「
人面石」 とも呼ばれ
る高 さ約 1
3
m の岩)の存在 を確認 し、風土記伝承 の実態解 明に近づ くことができた (
料
研 チーム全員 のほか、岸本 ・義則 ・田路 ・森 田 ・井上 ・広 岡 ・山 口純子 の各氏が参加)。
③ 2008年 3月 31日には、風土記 の揖保郡枚方里条 にみ える 「
神尾 山」の交通妨害神伝承
に関わ る太子町北部 の笹 山の現地踏査 をお こない、 「
神尾 山」や 「
佐比 岡」の現地比定
地 に関わって、従来 とは異なる認識 を得 ることができた (
坂江 ・古市 ・高橋参加)。
④たっの市教育委員会 の義則敏彦氏か ら情報提供 のあった山 口県小郡文化資料館蔵 の 「
秦
仮称)の実地調査作業 を断続的にお こなった。同石文 には 『播磨 国風土記』
益人刻苦石 」(
に地名 が載 る 「
飾磨郡因達郷」の文字がみ え、その用途や石 の性格 を明 らかにすれ ば、
研 究史上、画期的な意義 をもつ可能性 がある。2007年 8月 1
0日と 1
0月 1
9日に現地調
4日には専門家 を交 えた現地調査検討会、2月 26日∼ 28日、3
査、1
2月 7日と 2月 1
月 1
7 日に専門家 による実測 と写真撮影等 を実施 した。 その詳細 な分析 については次年
度以降の調査 にゆだね ることになった。
0
年度 (
2
0
0
8
) 本年 は各 自が分担す る研究テーマの現地調査 と分析 をすす める とと
平成 2
もに、前年度来着手 した山 口県小郡文化資料館蔵 の 「
秦益人刻苦石 」 (
仮称)の実地調査作
業 を継続 し、以下のよ うな成果 をあげた。
① 20
08年 5月 1
6日、『
播磨 国風土記』餅磨郡条 の 「
十 四丘」比定地の 1つ、 「
八丈岩 山」
を調査 し、古代 の丘陵景観認識 と神話語 りの前提条件 を考 える手がか りを得 ることがで
きた (
坂江 ・古市参加)。
② 2008年 7月 30日、宍粟市三方町 ・波賀町 を訪 問 し、民俗行事 (
川すそ祭 り) の調査 を
お こない、『播磨 国風土記』宍粟郡雲箇里波加村条 の説話 内容 の実態解 明に近づ くこ と
ができた (
坂江 ・高橋 ・義則参加)。
③ 2008年 9月 22日、古代 の地域社会論 ・共 同体論 に関連す る研 究会 を実施 し、同問題 を
め ぐる研 究状況 の問題点や課題 な どを鮮 明化 できた (
坂江 ・松下 ・井上参加)。
④ 山 口県小郡文化資料館蔵 の 「
秦益人刻苦石 」 (
仮称) の調査研 究 については、その結果
を 2009年 2月 24日 (
神戸市)、2月 26日 (
山 口市)の両 目、記者発表 の形で公表 した
(
坂江 ・古市 ・高橋参加 )。記者発表要 旨は、次 の通 りである。/石板 は将棋 の駒状 に
加工 (
高 さ 23c
m、幅 1
6c
m、厚 さ 3c
m、重 さ 2・7キロ)/書風等 か ら石板上の文字 は
奈 良時代 中頃に書かれた もの/表面 に 「
餅磨郡 因達郷秦益人石」 と書かれ、裏面は 「
此
石者人 口□□□石在」な どの文字 を確認 できる/ 山 口県内で初 めて確認 された古代 の石
文であ り、かつ兵庫県西部 にお ける渡来人氏族 、秦氏の活動 を示す最古の実物資料 であ
る/石碑 な どとは異 な り、個人が携行す る石製 品に文字 を刻 んだ特徴的な資料 であるこ
と/古代 の播磨 国 と周防国に交流が存在 した ことが明 らかになった こと/。発表後 の新
聞各紙 では大 き く取 り上 げるもの もあ り、毎 日新 聞の 2009年 2月 27日 (
金)朝刊 では
-4-
一面掲載 され 、石板 の写真 ともに 「
石板持 って姫路- 山 口/奈 良時代 ・初確認 」 な どと
報道 され た (
1
0
2頁 の関連資料参照)。
⑤ 2009年 1月 21日、『播磨 国風 土記』揖保郡桑原里琴坂条 にみ える 「
銅牙石」 に比定 さ
れる 「
マ ス石 」 (
明星石 ) と、揖保 里条 の 「
粒 (
飯穂 )」 伝 承 に関連 す る石英粒 の調 査
をお こなった (
たっ の市 内にて/坂江 ・松 下 ・岸本 ・山 口)。
⑥ 200
9年 2月 1
3日、宍粟 市歴 史資料館 で科研分担者 会議 を開き、 メンバー相互 の共 同研
究発表 と 「
秦益人刻 苦石 」 の検討会 をお こなった (
科研 メンバー全員参加 のほか、岸本
4日には宍粟 市 内 と佐用 町内の巡見調査 も実施 した。
・義則 ・田路 ・井上 が参加 ) 翌 1
。
平成 2
1
年度 (
2
0
0
9
)
本年 は引き続 き各 自の研 究テーマの分析 をすす め、また 3年 間の研
究調査 のま とめに着手 し、以下の よ うな成果 をあげた。
①揖保郡 を中心 とす る風 土記地名 の (
悉皆的) フィール ドワー クを計 7回実施 し、通説 的
理解 とは異 な る現地比定や 、新 たな 「
古代景観 」 の復元 をお こな うこ とができた。調査
日と巡見先 は、以下の通 りで ある。
2009年 6月 3 日たっ の市新 宮町 の丸 山神社 、同市半 田山、太子 町朝 日山、立岡等 の
神
調査 (
坂江 ・高橋参加 )/ 6月 23日∼ 24日姫路市家 島町真浦在住 の奥 山芳夫氏 か ら 「
島」 「
家 島神 社 」 「
マル トバ遺跡 」等 に関す る聞 き取 り調 査 (
坂 江 ・高橋 ・義則 参加 。
元家 島町議会議員 の広野武男氏 の仲介 に よる)∼家 島町マル トバ遺跡 の現地調査 (
上陸
用 の漁船 チ ャー ター。坂江 ・高橋 ・義則 ・岸本 ・山 口参加 )∼姫路市浜之宮天満 宮∼松
原 八幡宮∼姫路市立埋蔵文化財 セ ンター∼加 古川 市尾上町浜 の宮天満 宮∼池 田の観 音寺
等 を訪 問 (
坂江 ・高橋 ・義則参加 ) / 8月 20日∼ 21日但馬 国の 「
天 日槍 」 関連資料調
査 のため、出石神社 と但馬 国府 ・国分寺館 (
ア メノ ヒボ コの考古学展 開催 中)を訪 問 (
坂
江 ・古市 ・坂江参加 ) / 9月 3日播磨 国 旧揖保郡 の新宮町篠 首牛頭神社 ∼奥村廃 寺 (
神
岡町) ∼上 岡里殿 岡比定地∼林 田里伊 勢野比定地 (
林 田町伊勢神社 ・伊 勢 山) の巡見調
9 日旧揖保郡 の 邑智里 (
太市 中)∼氷 山∼槻坂 山∼ 中井
査 (
坂江 ・高橋参加 )/ 9月 1
廃 寺∼少 宅里細螺川 ∼少 宅神社 ∼神 戸神社 (
揖保川 町)∼浦上里金 剛 山廃 寺∼石海 里新
舞子浜干潟 ∼宇須伎津 (
魚 吹八幡宮)∼瓢塚古墳 (
姫路市勝原 区)∼下太 田廃 寺∼太 田
里鼓 山の巡見 (
坂江 ・高橋 ・毛利参加 )/ 201
0年 1月 23日いひ ほ学研 究会主催 の 「
銅
牙石 (
マス石)探検 隊」 に坂江 と松 下が参加 して、風 土記記載 の 「
銅 牙石 」発 見 に協力
(
たっ の市揖西町 にて)。 / また 2009年 5月 22 日∼ 23 日には、『播磨 国風 土記』 の 山
・丘陵の地名説話や 呪術 ・祭 配 のあ り方 を明 らかに し、さらに比較研 究 もで きるよ う『常
陸国風 土記』所載 の筑波 岳 の祭 配遺跡 等 の現地調査 をお こなった (
坂江 ・高橋参加 )。
② 2009年 7月 4 日、それ までの研 究成果 を発表す る研 究会 (
播磨 国風 土記研 究会) を開
催。 常陸国風 土記 ・出雲 国風 土記研 究 の専 門家 も招 いて総合 的討論 をお こない、各 自の
研 究テーマの問題 点 と今後 の課題 を鮮 明化す るこ とがで きた。また 201
0年 の 1月 7日、2
月 1
8 日、3月 1
0 日には、科研 グル ープ会議 を大阪 にて開 き、最終的 なま とめ作業 をお
こなった。
③ 201
0年 3月 29日、 日本 史研 究会古代史部会 におい て、次 の よ うなテーマで坂江 と高橋
が これ までの研 究成果 につい て報告 した。坂江渉 「
播磨 国風 土記研 究 の成果 と課題 」、
高橋 明裕 「
古代播磨 の地域社会 と風 土記研 究
ら-」
。
-5-
一 揖保郡条 の地名 起源伝承 と現地調査 か
5
、研究成果の概要 と研究成果の発表
3年間を通 じての研究成果 として、おおむね次の 5点を指摘できる。
① 『
播磨国風土記』所載の地名 の新 しい現地比定 と景観復元
3 年の期間中、主に播磨国でもっ とも 「
大郡」である揖保郡の各条 を現地調査 をお こな
い、それ によ り従来の通説的理解 (日本古典文学大系 『風土記』、新編 日本古典文学全集
『
風土記』な ど) と異なる新知見を獲得できた。 これ については、それぞれの比定地の覗
地調査 を、科研チーム単独ではな く、地元市町の文化財担 当職員や地域史研究家の協力の
粒丘 と揖
もとに実施できたことが大きい。その成果 については、本書第 2部の岸本道昭 「
保里の再検討」、第 3部の 「
播磨国風土記揖保郡条 註論」の各項 を参照いただきたい。
(
塾国文学的研究の成果の吸収 と課題の明確化
伝本 が三条西家本 のみ で あ る 『播磨 国風 土記』 において は、 「
諸註釈 書 が本文 の難
解箇所 を どの よ うに校訂 して きたか を 『校訂』す るこ とが重要」 とい う国文学研 究者
の指摘 を受 け とめ、校訂 をめ ぐる問題整 理 をお こない、『播磨 国風 土記』特有 の問題
点 を明 らか にで きた。 それ とともに現地 フィール ドワー クの成果 、地域社会 の構造 を
重層性 ・階層性等 を重 ん じた視 点で分析す るこ とに よ り、難解 な底本部分 の史料解 明
に もかな り接近 で きることが明 らかになった。 この研 究成果 については、本書第 2部
の高橋 明裕
「
『
播磨国風土記』の説話理解 と古代の地域社会 一風土記の文学研究の成果
と古代史研究-」を参照のこと
。
③地名起源説話に引用 され る神話 ・伝承にもとづ く民間儀礼や祭紀分析-の接近
古代の神話は、単なる机上の製作物ではな く、一定の 「
実践」 との関わ り、すなわち当
時の祭配や儀式 との関連性 をもつ といわれ る。本研究ではこの説 にもとづき、風土記の地
名 にみえる地方神話の断片、あるいは歌垣民謡な どを素材 に しつつ、古代播磨の地域社会
における共同祭配や共同体結集 のあ り方、 さらにはや族長層 による支配儀礼の分析 をすす
めた。それ によ り近年停滞的であった古代村落論や共同体研究の中身 をある程度豊かにす
古代の地域社会 と農
ることができた。 これ にもとづ く研究成果が、本書第 2部の坂江渉 「
民結合 一風土記 ・歌垣歌謡研究か らみえて くるもの-」である
。
④ 地名起源説話 に も とづ く古代播磨政治史- のアプ ローチ
研 究 を通 じて、『播磨 国風 土記』 の地名 起源説話 に断片 的 にみ える氏族伝 承 が、大
化前代 の古代播磨 の政治構造や王権 に よる播磨 の政治 的編成 のあ り方 、 あるいは他地
域 との交流 内容 を解 明す る素材 とな り得 ることが明 らかになった。 これ に も とづ く研
究成果 が、本書第 2部 の中林 隆之 「
石作氏 の配置 とその前提」である。
⑤地域連携 の成果 にも とづ く新 しい文字資料 の 「
発 見」
科研 チー ムが連携す る地元 自治体職員 か らの情報提供 よ り、 山 口県小郡文化資料館
蔵の 「
刻 苦石」ついて調査研 究 をすす め、その結果 、 同石 が 『播磨 国風 土記』 に載せ
られ る地名 を含 む古代 の文字資料 であることを解 明で きた。この研 究成果 については、
本書第 2部 の古市晃 「
山 口県 山 口市 出土の古代石文
て-」 に詳 しい。
-6-
一 いわゆる秦益人刻 苦石 につい
研 究成果 の発表
研 究期 間 中に研 究代表者 と分担者 が公表 した関連論 考等 は以下 の通 りで
ある
。
(
》関連 す る論考 (
学会誌等)
《
2
0
0
7年度》
・中林 隆之 「
嵯峨 王権論
0
一婚姻政策 と橘 嘉智子 立后 をてがか りに -」、『市大 日本 史』 1
号、p
p.
8
3
-1
1
2、2
0
0
7年 5月
・坂江渉 「
風 土記 の時代 の河合 地 区」、小野 市 立好 古館 ・神 戸大学大学院人文学研 究科 地
域連携 セ ンタ一編 『特別 展 図録 ・河合 地 区の古代 ・中世遺跡 と赤松 氏』 (
小野 市 立好 古
p.
91
1
、2
0
0
7年 1
0月
館 刊)、p
・坂 江渉 『本 庄 村 史
歴 史編 一神 戸 市東灘 区深 江 ・青木 ・西 青木 の あ ゆみ-』 (
本庄村 史
6
2頁)、p
p.
1
8
9
2
68、2
0
08年 2月
編纂委員会刊 、全 8
・松 下正和 「
く外部〉か ら見 た但馬 ・く
外部 〉にあ る但馬一 古代 の播但 交通 と飾磨 ・越部 ミヤ
p.
12
2、2
0
0
8年 3月
ケー 」、『但馬 史研 究』 31号、p
第 1巻
・中林 隆之 ・松 下正和 ・坂江渉 ほか 『
加 西市史
本編 1 考古 ・古代 ・中世』、
3
2百 、2
0
08年 3月
加 西市、全 6
・古市晃 「
難 波 宮 出土木簡 の諸 問題 」、大 阪市 立大学大学院文学研 究科都 市文化研 究セ ン
タ一編 『
都 市文化創 造 のた めの比較史的研 究 (
重 点研 究報告書)』、p
p.
1
3
4-1
41
、2
0
08年 3
月
《
2
0
0
8年度》
・高橋 明裕 「
尼崎 の古代 史像 」、『尼崎文化 協会創 立 6
0周年記念誌』(
尼崎文化協会)、p
p.
2
6
2
9、2
0
0
8年 7月
・古市晃 『日本 古代 王権 の支配論理』塙書房 、p
p.
1
-35
7、2
0
0
9年 2月
・坂江渉 『香 寺町史
3
0頁)、 p7
2,
p7
3
,
p
p.
7
6
8
0
,
p8
2
,
村 の歴 史』通史資料編 (
姫 路市刊 、全 7
p8
3
,
p8
6
,
p8
7
,
p
p.
9
4
9
6
,
pl
O
4,
pl
O
5、2
0
0
9年 3月
・古市晃 、 邑久 町史編纂委員会編 『邑久町史
p.
1
21
-1
95、2
0
0
9年 3月
通史編 』 (
共著)、p
0
08年度
・中林 隆之 「「
貸米」・「
貸食 米」簡 をめ ぐる予備 的考察」、『長沙 呉簡研 究報告』 2
刊 、p
p.
61
65、2
0
0
9年 3月
《
2
0
0
9年度》
・毛利 憲一 「
八世紀 中期 の地方財 政一 官稲 混合 につ い て の一考察- 」、栄原 永遠 男 ・西 山
良平 ・吉川真編 『律令 国家史論集 』、p
p.
3
9
3
41
4、塙 書房 、2
01
0年 2月
(
塾口頭発表
■
■
《
2
0
0
7年度》
2
0
0
7年 5月 2
0歴 史資料ネ ッ トワー ク市民講座 (
尼崎市 中央公 民館 )
・高橋 明裕 「
古代西摂 の風 土 と人 々の生活
一 新 尼崎 市史 『図説
読 む-」
5月 2
7日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者 会議/神 戸 大学 にて)
・坂江渉 「
播磨 国風 土記 の研 究課題 」
・毛利 憲一 「
揖保 郡 邑智里 ・桑原 里 の調査課題 」
・高橋 明裕 「
播磨 国風 土記 の揖保 郡条 をめ ぐる予備 的調査 」
-7-
尼崎 の歴 史』上巻 を
■7月 7日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/ たっ の市御津 町公 民館 にて)
・森 田喜久男 「
地域社会 にお ける 『出雲 国風 土記』研 究 の模 索」
・岸本道 昭 「
播磨 国風 土記 (
揖保郡) と考古資料」
・高橋 明裕 「
古代揖保川 の流路 と河 口域」
・毛利 憲一 「
揖保郡 ・宍禾郡/担 当箇所 の調査課題 」
・古市晃 「
『
播磨 国風 土記』宍禾郡御 方里条」
一既 多寺大智度論-」
・中林 隆之 「
賀茂郡 で写 され た経典
■
■
■
■
■
■
・坂江渉 「
地名 起源説話 と風 土記編 さん論
一神 の国誉 めの言葉 とクニブ リの諺 -」
2008年 2月 22日歴 史講演会 (
霞城館 ・矢野勘治記念館/兵庫県たっ の市)
・松 下正和 「
風 土記 の歳時記
∼古代播磨 の農事暦 」 (
主催 -龍野史談会)
《
2008年度》
2008年 4月 1
4日大阪歴 史科学協議会前近代史部会 (
大阪南)
・古市晃 「
古代地域社会論 の動 向
一 今津勝紀氏 の近業 について-」
8月 3日よみ うり神 戸文化セ ンター ・特別考古学講座 「
陸行 ・水行 」講演会 (
神戸市)
・坂江渉 「
播磨 国風 土記 か らみ る古代 の道
一 出雲 と播磨-」
11月 29日兵庫県 明石文化博物館 「
企画展 ・発掘 され た明石 の歴 史展
∼法道仙 人 と
明石 市)
行基菩薩 ∼」記念講演会 (
・古市晃 「
行基菩薩 の事績 」
2009年 1月 26日日本 史研 究会古代史部会 (
京都 市上京 区)
・毛利 憲一 「
8世紀 中期 の地方財政政策」
2月 1
3日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/宍粟 市歴 史資料館 にて)
・古市晃 「
秦益人刻苦石 について
一 山 口県初 の古代石文 を確認 -」
・岸本道 昭 「
『
粒 丘』比定地 の再検討 」
宍粟 市 の古代遺跡 と風 土記」
・田路正幸 「
・松 下正和 「
『
播磨 国風 土記』揖保郡条 にみ える銅牙石 について」
播磨 国風 土記 にお ける天皇表記」
・井上勝博 「
・中林 隆之 「
石作氏 をめ ぐる諸 問題 」
・毛利 憲一 「
餅磨郡 巨智里草上村 について」
・坂江渉 「
古代 の村 と共 同体
■
■
■
■
一 婚姻 と生殖 をめ ぐる農 民結合- 」
《
2009年度》
2009年 4月 1
7 日兵庫県芸術文化協会主催 「
平成 21年度考古学教室」第 1回講座 (
神
戸市)
・坂江渉 「
播磨 国風 土記 の世界」
5月 1
5日香 寺歴 史研 究会主催 ・歴 史講演会 (
姫路市)
・古市晃 「
古代 の香寺 と倭 王権 」
5月 31日猪名川 町公 民館講座 リバ グ レス講演会 (
猪名川 町教育委員会 主催 )
・松 下正和 「
荒ぶ る女神 ∼猪名川 の氾濫伝承」
7月 4日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/ たっ の市新宮ふれ あい福祉会館 )
・森 田喜久男 (
島根 県古代文化 セ ンター 「
『出雲 国風 土記』 か ら見 た潟湖 の生業 と地域社
「
神 門水海 」 と 「
菌 の松 山」-」
-8-
・菊地照夫 (
東京都 立板橋有徳 高等学校) 「
常陸国風 土記 にみ える神 ・社 と地域社会」
・荒井秀規 (
藤 沢市教育委員会)・今津勝紀 (
岡 山大学)・大平茂 (
兵庫県立考古博物館 )
岸 本道 昭 (
たっ の市教 育委員 会 )・田路正 幸 (
宍粟 市教 育委員 会 )・藤 木透 (
佐 用 町教
育委員会) 「
報告 を聞いての関連 コメン ト」
・古市晃 「
渡来人 と飾磨郡 の秦益人刻 苦石 」
・毛利 憲一 「
古代 山城 とミヤケ」
・松 下正和 「
荒ぶ る女神 と河川氾濫伝承」
■
■
■
■
・坂江渉 「
播磨 国風 土記 の 『国 占め』神話 について」
7月 30日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/尼崎市園 田にて)
・高橋 明裕 「
古代地域社会論 の整理 と播磨 国風 土記 の校訂 の意義」
8月 20日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/兵庫 県 目高町神鍋 高原 にて)
・高橋 明裕 「
天 日槍伝説」
・坂江渉 「
古代 の野 について」
11月 7 日小野市立好 古館特別展記念講演会 (
小野市)
・古市晃 「
古代 の賀茂郡 ときす み の」
201
0年 2月 1
8日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/大阪市大交流セ ンター にて)
・古市晃 「
倭 王権 の王宮 と王名 」
・高橋 明裕 「
風 土記註論 ・揖保郡上岡里条」
・毛利 憲一 「
風 土記註論 ・揖保郡 邑智里条 、少宅里条」
■
■
・坂江渉 「
風 土記註論 ・揖保郡家 島条 、神 島条、韓荷 島条」
2月 22 日うれ しの歴 史探訪倶楽部 主催 「
平成 22年連続歴 史講座 」講演 (
兵庫県加東 市)
・坂江渉 「
古代 の北播磨地域 と播磨 国風 土記
一 国造 の女 ・根 目女 の伝承-」
3月 1
0日播磨 国風 土記研 究会 (
分担者会議/大阪市大交流セ ンター にて)
・毛利 憲一 「
風 土記註論 ・揖保郡 邑智駅家条 、少 宅里細螺川 条」
・古市晃 「
風 土記註論 ・揖保郡荻原里条」
・高橋 明裕 「
古代播磨 の地域社会 と風 土記研 究
一 揖保郡条 の地名 起源伝承 と現地調査 か
ら-」
■
・坂江渉 「
播磨 国風 土記研 究 の成果 と課題 」
3月 29日日本史研 究会古代史部会報告 (
京都 市)
・坂江渉 「
播磨 国風 土記研 究 の成果 と課題 」
・高橋 明裕 「
古代播磨 の地域社会 と風 土記研 究
一 揖保郡条 の地名 起源伝承 と現地調査 か
ら-」
(
文責 ・坂江渉)
-9-
第2
部
論考
古代の地域社会と農民結合
一風土記 ・歌垣民謡研究からみえてくるもの坂江 渉 (
神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター研究員)
はじめに 一問題の所在一
本稿 では、現存す る各 国風 土記や 『古事記』『日本書紀』 な どに引用 され てい る歌垣民
謡 に関す る諸史料 に焦点 を しぼ り、当時の農 民相互間で結 ばれた共同体 関係 の実態解 明に
迫る
。
それ によ りこれ までの通説的理解 の見直 しをはかることを 目的 とす る
。
近年 、各地の集落遺構 の発掘調査がすすむ ことによ り、古代 の集落祉研究が一定の進展
をみせつつ ある
。
その中で これ まで多 くの注 目を浴びてきたのが、群馬県の子持村 (
現渋
川市)で見つかった黒井峯遺跡 である(
1
)
。
本遺跡 は、6 世紀半ば頃の榛名 山の大噴火 によ り、集落 の大部分がそのまま火 山灰 と軽
石層 の下に埋没 し (
約 2m の堆積)、現在 にまで残 り続 けた貴重 な集落遺構 である。発掘
調査 の結果 、当時の建物が 49棟 、倉庫が 8棟 、そのほか祭死場 ・道路 ・柴垣 ・水 田 ・畠
な どが検 出 され 、6 世紀前半の古代集落 の実態 を語 る、 「日本 のポ ンペイ遺跡 」 として全
国的 に知 られ るよ うになった(
2
)
。
こ うした黒井峯遺跡 の うち、 とくに注 目され るのは、道 と 「
柴垣」 によって区画 され た
土地空間が、少 な くとも 4群以上確認 された ことである
。
それぞれ の面積 は、 1区画 あた
り約 300坪 (
-約 30m 四方)か ら 500坪 (
-約 40m 四方) の広 が りをみせ 、その内部 に
は必ず 1棟 の竪穴式住居 があること (
竪穴面積約 5坪∼ 25坪、竪穴深 さ約 1・5m)、 さら
に数棟 の平地建物 ・高床倉庫が含 まれ、群 によっては家畜小屋 が建 て られてい るケース も
見出せ る とい う(
3
)
。
この柴垣 で囲まれ た空間を ど う捉 えるについては諸説 あるが (4)、近年 の吉 田晶氏 の業績
で説 かれ るよ うに、当時の人々の最小 の生活単位 をな し、おそ らく夫婦 とその子供 によっ
て構成 され ていた とみ るのが もっ とも妥 当ではなかろ うか (5)。
その構成員 の数 は、発掘成果 か らはまった く不明であるが、山尾幸久氏 は、 1 区画 につ
き平均 3人 ∼ 5人 と推測 し(6)、また今津勝紀氏 も六国史の災害 に関す る史料 な どにもとづ
き(7)、同様 の結論 を下 してい る(
8
)
。
これ が正 しけれ ば、黒井峯遺跡 の発掘 され た範 囲での集落祉全体 の人 口 (
柴垣 グループ 4
群以上) は、お よそ 1
2人 ∼ 20人以上 とな り、現存す る各 国戸籍 の 「
郷戸」の平均世帯人
数 の 21・4人 に近い数 となる(
9
)
。
そ こで籍帳研 究の成果 を踏 まえて (10)、黒井峯遺跡 の集落構成 を復元すれ ば、集落の中心
とい うべ き夫婦 の世帯のほか、その傍系親 (
兄弟 ・従兄弟 を含む) の 2、3 の世帯、お よ
び姻族 の破片的人 口な どが 1つのま とま りをもって暮 らしていたのであろ う そ して この
。
ま とま りが、農耕 の再生産 の単位 になっていた と考 え られ る。
この よ うに黒井峯遺跡 の発掘調査か らは、古代 の集落 め ぐるさま ざまなイ メー ジや推測
を膨 らませ ることができる
。
しか しそ うした集落が、 さらに どの よ うな形で 「
村」 を構成
-1
0-
し、そ こには どの よ うな景観や共 同体 関係 が広がっていたかな どの点 について、 これ以上
引き出す ことは不可能 である。 そ こで重要 になって くるのが文献史料 である
。
周知 のよ うに、律令制下の 日本 では、全 国的に国一 郡一 里 (
郷)制 とい う行政組織 が確
立 され た ものの、 「
村」 とい う単位 については、公法上 の地位 を与 え られ ていなかった。
ところが実際 には、六国史 を含 め、さま ざまな史料 において 「
村」
の名称が登場す る(
l
l
)。
例 えば、『
播磨 国風土記』 な どによる と、1つの 「
里」の もとに、平均 2、3の 「
村」があ
った ことを推定 させ (12)、 さらに宍禾郡 (
宍粟郡) の比治里 のよ うに、 「
宇波 良村 」 「
比良美
村」 「
川音村 」 「
庭音村」 とい う、合 わせ て 4つの村 を含む里 もあ る
。
(
1
3
)
『播磨 国風 土記』 が編纂 され た頃は、五十戸一里制 の施行期 であった。 そ こでその 5
0
戸 を機械的 に 2- 4等分す る と、 1つの村 は、だいたい 1
2、3戸∼ 25戸 の幅 を以て構成
され ていた こ とにな る
。
現存籍帳 による と、 1戸 (
郷戸) あた りの平均世帯人数 は約 2
0
人であったか ら、これ を乗 じてみ る と、1村 につ き、2
4
0人∼ 5
0
0人程度 の人 口数 となる。
これ は先 の黒井峯遺跡 の柴垣で区画 された竪穴式住居 グループが、約 5
0区∼ 1
5
0区集 ま
った数 である。 あ くまで機械的な計算 によって得 られ た数 であるが、 これが当時の村 の人
口をめ ぐる概略数 である。
さて、 このよ うな規模 の古代 の村落 について、 これ まで文献史学の分野で常に議論 を リ
ー ドしてきたのは、石母 田正氏 の村落論 (
在地首長制論) と(14)、またそれ を受 けた吉 田孝
氏の地域社会論 であろ う(15)。後述 の よ うに両氏 の見解 の中身 には微妙 な解釈 のズ レがある
が、いずれ にせ よ、古代 の村 のはた した役割 を低 くみ る点では共通 してい る
。
まず石母 田氏 は、古代 の地域社会 において、民戸相互間の地縁的結合体 としての村や集
落共 同体が存在 した と理解す る。 その内部 では集会や一定の寄合 の制度、 さらに 「
国之大
破」の儀式 にみ られ るよ うな祭祀慣行 があった と説 く
。
しか しそれが決 して 自立的な共 同
体ではなかった と指摘す る(16)。
共 同体の共同性 が、ゲルマ ン社会 の よ うに民会 ではな く、首長 によって代表 され る とい
う構造 によ り、村落 は 自立的な単位 になれず、基本的 に郡 司 (
国造)級 の在地首長 を頂点
とす る生産 関係 の中に包摂 され ていた とい う。 これ は弥生時代以来、強固に保存 され続 け
てきた関係 であ り、律令制下において も変化す ることはなかった(
1
7
)
。
したがって律令制が継受 され た際、法制上、中国では 自然村落である 「
村」が公法的地
位 を与 え られ ていたのに対 し、 日本 の律令 ではその規定がわ ざわ ざ削除 され 、 「
村」が公
法的単位 として承認 され なかった とい う(
1
8
)
。
これが石母 田説 の大枠 であるが、一方、吉 田氏 もこれ を踏 まえ、8 世紀前後 の 日本 の社
会 には、律令制 を支 える自立的な村落共同体 は存在 しなかった と説 く(19)。その上で、当時
の社会 にお ける 「
家族」や 「
氏族」、 さらには 「
集落」や 「
村 」な ども、社会人類学でい
うところの親族組織 として捉 え られ、それ が双系制的原理 にもとづいていた と指摘す る(
20)。
氏 による と、 このよ うな双系制的な原理 にもとづ く限 り、 自立的で安定 した共 同体や社
会組織 はあ らわれ ない。社会その ものは不安定で流動的にな らざるを得 ない。そ こで基礎
単位 である夫婦 と未婚 の子供 か らなる小家族 は、共同体機能 を一身 に体現す る郡 司級首長
の 「
オホヤケ」 (
大宅 ・公) に依存 して生活 し、古代 では これ が唯一 の共 同体組織 として
の役割 をはた していた と理解す る(
21
)
。
この よ うに石母 田氏 と吉 田氏 は、古代 の地域社会 にお ける 自立的な村落共 同体 の存在 を
-ll-
認 めない。一貫 して重視 され るのは、在地首長 によって人格的に体現 され る郡 レベル の共
同体 の役割 であった。 もちろんその場合、石母 田氏 は郡 司層 と一般農 民 との間を、一個 の
生産 関係 と捉 え(22)、一方、吉 田氏 はこれ を 「
原生的で未 開な共同体」関係 と考 える(23
)
。し
たがって郡 (
郡 司層)の認識 をめ ぐり両氏の間に根本的なズ レがあることは明 らかである。
ところが村や村落共同体の 自立 を一切認 めない点では一致 してい るのである
。
しか しなが ら常識的 にみて、かな りの領域的広 が りをもつ郡 の内部 の農民-の郡 司層 の
ヽヽヽヽ
人格的な支配 関係や、農耕 をめ ぐる郡規模 の共同体 を想定す るのは、相 当無理がある とい
わ ざるを得 ない。 そ こで両説 を乗 りこえよ うとす る立場 として、郡 よ り下位 の 「
村」 に関
す る史料 に眼を向け、そ こにお ける地縁的な共同体の内実 を問い、また どの よ うな支配 ・
収取がお こなれ ていたかを解 き明かそ うとす る研 究が盛 んになった。
つま り前述 の黒井峯遺跡 の例 に即 してい うと、少 な くとも 4群以上 ある柴垣で区画 され
た竪穴住居 のグループが、 さらに全体 として外部的に結んだ相互 関係や首長 との関連性 を
どの よ うにみ るかの視点である
。
それ に先鞭 をつ けたのが吉 田晶氏 による村落首長制論 の提起であ り(24)、それ を継承 した
大町健氏(
2
5
)
、 さらには義江彰夫氏(
2
6
)
、関和彦氏 (27)、鬼頭清 明氏(
2
8
)
、小林 昌二氏(
2
9
)
、 山尾幸
久氏 (30) らの研究 も、その流れ の中に位置づ けることができよ う。
もとよ りそれぞれ の研究が、石母 田氏の在地首長制論 に対 しどのよ うな立場 を とるかに
ついては、個 々の論者 によって大 きな違いがある
。
しか しいずれ にせ よ、右 の諸氏の研 究
では、地域住民の生活 の場 によ り近い と考 え られ る 「
村」- の視線 が注がれ た。 そ してそ
の中で共通 して取 り上 げ られたテーマの一つ は、
村 の祭死時の共同体関係 の問題 であった。
有名 な儀制令春時祭 田条 の集解 の古記説所 引の-云説 に、次の よ うにある。
-云。毎 レ村私置二社官一。名称二社首一。村 内之人。縁二公私事一。往二来他 国一。令 レ
輸二神幣一。或毎 レ家量 レ状取二欽稲一。 出挙取 レ利。預造二設酒一。祭 田之 目 設二備飲
。
食一。井人別設 レ食
。
男女悉集。告二国家法-令 レ知。託即以 レ歯居 レ坐。以二子弟等-充
二膳部一。供二給飲食一。春秋 二時祭也。此称二尊 レ長養 レ老之道一也 (
3
1
)
。
この史料 にもとづ く多 くの研 究では、当時の村 ごとに 「
社」があった こと、社 の春秋 二
時の祭 りには村 の男女が悉 く集 まって酒食 が提供 され た こと、さらにその酒食 は、「
社首」
ぬさ
と呼ばれ る村落首長 が、あ らか じめ村人か ら納 め させ た 「
神 の幣」や、村人-の稲 の出挙
によって得 られ た利 によって準備 していた ことな どが解 明 された。 これ によ り当時の村 で
は、村人の全員参加 による集 団祭配な ど、農 民相互間の横 のつなが りを示す具体的な習俗
があった ことが明 らかに された意義 は大 きいであろ う。 とくに中世後期以降の社会 とは異
な り(32)、祭 りか ら女性 が排 除 されていない とい う事実 は、古代 の祭配儀礼 にお ける男女の
役割分担 をみ る上で も重要 な素材 にもなった (33)。
ただ しこれ らの研究で、主た る関心が向け られ たのは、そ ういった農 民同士の共同体的
諸 関係 の解 明の問題 ではなかった。む しろ右 の史料 に もみ える 「
社首」 による経済的な収
取活動、す なわち祭配等 を媒介 に した村落首長 と一般農民 との関係 、あるいは首長 による
共同体編成 な どの問題 である。
この点 については、 1
990 年代 半ば頃までの研 究史整理 をお こなった 田中禎 昭氏 の明快
な分析 がある。氏 はその中で吉 田晶氏や大町民 らの村落首長制論 の特徴 について、次 の よ
うに述べた。
-1
2-
石母 田氏 にあっては 「
民戸」相互 の集 団的秩序 -共同体 として存在 が認 め られていた
村落 は、吉 田氏 の場合 、 (
村落)首長的秩序 に 「
包摂」 され る 「
関係 」 として壊小化
され 、それ にかわって異 なる 「
首長 」 (
村落首長) が現れ てきたのである
。
さらに大
町氏 に至 って、 「
村落首長制 の生産 関係 」 の下、その 「
関係 」 自体 も捨象 され るこ と
になった。 (
中略)。 ここにおいて、 日本 古代 の 「
村 」 は、 「(
村落)首長制」 と同義
に理解 され るこ とにな り、 「
村」 を理解す ることが村落首長 と共 同体成員 の関係 を解
明す ることを意味す るよ うになった (34)。
石母 田 ・吉 田孝説以降の研究潮流 を、すべて この よ うな捉 え方 で一括 できるものでない
こ とはい うまで もない。 しか し今 までの村落史研 究が、多かれ少 なかれ古代 の村 を、 「
タ
テ」系列 の視線 で解 こ うとす る傾 向をもっていた ことは確 かではなかろ うか。
したがって共 同体の 自立性や主体性 の問題 をみ る場合 にも、 これ と同様 の 「
タテ」系列
の視点、す なわち 《共 同体 を 「
体現」す る村落首長 と国家 との関係》、 あるいは 《共 同体
を 「
支配 」 「
編成」 してい る村落首長 と上部権力 (
首長層) との関係》 を基軸 に した考察
が加 え られ ることになる。
例 えば、石母 田民 らの村落論 (
在地首長制論) を批判す る立場 か ら村落史研究 をすす め
た小林 昌二氏 は、 「
村 首」 「
村長」 らが、一貫 して王権 の 「
教化 」 (
王化) の対象 として組
織 され ていた事実 を重視す る。 それ にもとづ き律令 国家 は、当時の村 の 「
集 団的主体性」
を公 的 に認 めていた と説 く(35)。
つま りここでは、村首 らの村落首長 が、村人相互間の 「
集 団性」や 「
共同性」 を代表す
る とい う考 えの もと、国家 と村落首長 の関係 が分析 に付 され、その結果 、村 は国家 に対 し
て一定の 「
主体性 」 「自立性」 をもっていた と論 じられ てい る。
一方、吉 田晶氏 は、当時の社会 には、水利慣行 な どを媒介 とす る農 氏 (
個別経営)相互
間の地縁的結合 があった と指摘す る。 しか しそれ は 自立的な村落共同体 としては未確 立だ
った と説 く(36)。なぜ な ら農 民の地縁的結合 は、基本的 に村落首長 の もとに 「
編成 」 「
総括」
され ていたが、その村落首長 は、地域社会 の中で独立 した支配構造 を形成 してお らず、国
造の権威 の もとで、それ に包摂 されて存在 していたか らだ とい う(37)。
この よ うに石母 田 ・吉 田孝説以降の古代村落論 の多 くは、村落首長 と共同体成員 (
個別
経営) の関係 、 あるい は村落首長 と国家 ・在地首長層 との関係解 明に主眼がおかれ、 「ヨ
コ」系列 の視点、す なわち農民相互間の地縁的結合 の内実、お よびその 自立性 の問題 につ
いては、あま り関心が寄せ られ て こなかった現実がある。
そ うした研究動 向を生み出す原 因の 1つ は、農 民の地縁的結合 を探 るための史料 が、き
わめて僅少 である とい う事実が横 たわってい るであろ う。 それ とともに大 きな原 因 として
は、そ うした地縁的結合体 の共 同性や共 同機能 は、すべ て 「
村首 」 「
社首」 な どの首長 に
よって 「
代表 」 「
総括」 され てい る とい う図式、 あるい は先入観 が存在す るのではなか ろ
うか。
もちろん筆者 は、当時の 「
村首」や 「
社首」 と呼ばれ る層 が、 さま ざまな農民支配 をお
こない、その一方 で農 民相互間の地縁結合 に対 して一定の共 同体機能 をはた していた こと
を認 める。 またそ ういった点 を探 ろ うとす る研究の方 向性 を軽視す るもので もない。 しか
し農 民の地縁的結合体 にお ける共 同体機能 は、すべ て 「
村 首」 「
社 首」 らによって体現、
ない しは掌握 され ていたのであろ うか。
-1
3-
先 に紹介 した 田中禎 昭氏 は、 1
990 年代 半ばの時点 の村落史研 究 に とって必要 な視 点 と
して、
共 同体諸機能 の内、首長 の担 う部分 と村民相互が集 団的 に担 う部分 を明確化 しつつ、
後者 の組織体系 を明確 に しなが ら、その相互 関係 を問 う視角 (38)
が重要だ と説いてい る
。
筆者 によれ ば、 これ は現状 において も、積極的 に追究 され るべ き重要課題 の一つだ と思
われ る。従来の研 究で、必ず しも十分 ではなかった農 民相互が集 団的 に担 う共同体機能 の
中身 を、まず は可能 な限 り、具体的に復元す ることが不可欠 の課題 になるのではなかろ う
か。 その上で、氏 のい うよ うに、それ と族長層や 国家 との関係 を問い直 してみ るべ きであ
ろ う。とすれ ば この課題 の解 明は、どの よ うな素材 と方法 を用いて可能 になるのだろ うか。
この点で筆者 が とくに留意 したいのは、古代 の地域祭配 に関連す る諸史料 である。古代
の神祇 ・祭配 に関わる史料 とい うと、従来 もっぱ ら取 り扱 われてきたのは、先 に紹介 した
『
令集解』儀制令春時祭 田条 にみ える古記説や-云説 の法制史料 であった。 そ こには前述
の通 り、「
村」の祭 りの準備過程 と共 同飲食 の場面が、ある程度具体的 に叙述 され ていた。
しか し神祭 りの中で、 もっ とも重要だ と思われ る神前行事 の中身 については何 ら言及 さ
れていない。またその際、族長や一般農 民はそれぞれ どのよ うな形 でその場 に臨んだのか。
さらに神 と人 との共同飲食 の宴が始 まって以降の呪術儀礼 は どの よ うにお こなわれ、そ こ
か らどのよ うな事実が引き出せ るのか。 この よ うな点 について、右 の法制史料 は余 り多 く
を語 って くれ ないのである
。
ところがその一方、専論的な村落論や地域社会研究 の立場 か らではないが、古代 の祭配
・呪術 に起源 をもつ神話 ・伝承や一部 の歌謡史料 な どを用い、右 の問題 の解 明に迫 ろ うと
す る神話 ・祭配論的な研究ア
プ
ローチが存在す る(39)。
もちろんそ うした研 究 によって、右 に掲 げた祭配 ・呪術時の農 民の相互関係や族長 との
関わ り方 な どが、すべて解 明 され たわけではない。 しか し部分的で断片的であるにせ よ、
そ こでは貴重な研 究成果 と方法 も積み重ね られてい る。
そ こで本稿 では、 このよ うな研 究成果 も積極的 に取 り入れ、まず は従来 ほ とん ど関心が
向けて こられ なかった民間の呪術的儀礼 に関わる史料 にもとづ き、農 民相互間の結合 関係
の解 明に迫 ってみたい。それ は どのよ うな共 同体 として復元できるのか、 さらに上級権力
や族長層 との関係 をいかに考 えた ら良いかな どについて考察 したい。 これ を通 じて、現在
も大 きな影響力 をもってい る石母 田氏や吉 田孝民 らの村落論 について見直 しをはか りたい
と思 う
。
一、古代の歌垣
古代 の農 民相互が取 り結ぶ地縁的な結合体 として、従来 ある程度その存在 が指摘 され て
きた ものは、稲作 の前提 となる水利 ・港概 に関わ る農 民的結合 (40
)
、山川薮沢 の利用 ・占有
に関わ る共 同体慣行 (4
1
)
、 さらに前述 の村落祭示
削こ関わ る結合体 な どであった(
4
2)
。
ところがその中身の復元 については、史料 ・素材 の多 くが法制史料 であることによ り、
きわめて具体性 に乏 しい ものになってい る
。
また これ までの研究では、そ うした農民の地
縁的結合 が、結局 の ところ、各種族長層 によって 「
編成 」 「
掌握 」 され ていた とみ るのが
一般的である。 したがって全体 として、そ うした横 のつなが りを深 めてい こ うとい う姿勢
-1
4-
は弱かった とい えるであろ う
。
そ うい う中にあって、農 民結合 の具体像 、 とくにその生活 レベル まで踏み込んだ結合 関
係 をみ る際 に、 1 つの重要 な手かが りになる と思われ るのが、歌垣 とい う行事 に関わ る史
料である。
古代 の史料 には、 この歌垣 に関連す る史料 が各 国風 土記、万葉集 、記紀歌謡 な どを中心
に比較的多 くみ られ る。巻末の表 は、この うち風土記 の関連史料 を一覧化 した ものである。
この歌垣 については、毎年特定の時期、一堂に会 した男女が、互い に歌 を掛 け合 うこと
によ り、 自分 自身 の配偶者や恋人 を選 ぼ うとす る 「
性 的解放 の場」であった といわれ る。
これ は間違 った捉 え方 ではないが、別稿 で述べた よ うに、歌垣 は単なる遊興行事ではな く、
もともとは各地の祭配 と不可分 の結びつ きをもつ民間儀礼 であった点 を看過 してはな らな
祭配 とい うものは、現在 の民俗事例 で も、 1 ケ月近 くに及ぶ祭 りがみ られ るよ うに、長
期 に亘 って続 け られ、しか もさま ざまな内容 か ら成 り立っ ものが少 な くない。その中には、
神の 「
来臨」 を仰 いだ上での厳粛 な祈 りの行事、神前 にお ける農 民同士の共 同飲食 の宴、
さらには豊作 (
豊漁) の 「占い」 と結びついた各種 の呪術行事な どがあった。 また祭 りの
前 にお こなわれ る物忌み ・顧 ぎ破 え (
-精進潔斎)も含 めれ ば、行事 の種類 と期 間の幅 は、
もっ と広が ることになる。
そ うした諸行事 の うち歌垣 は、豊作 「占い」 と結び付 け られた呪術儀礼、す なわち人間
の生殖 (
婚姻 ・出産) に関わる問題 を、その土地の生産 (
豊作 ・繁栄) の予兆 (占い) に
結びつ けよ うとす る儀礼であった と考 え られ る。 そ こでは男女間の歌の掛 け合いが、盛 り
上げれ ば盛 り上が るほ ど、新 しいカ ップル ができれ ばできるほ ど、その年 は豊作 (
豊漁)
になる とい うよ うな呪術的な思考があった といわれ る(44)。つま り歌垣 は、稲作 (
生業)の
予祝儀礼的側面 をもつ行事であった。
この よ うな歌垣 が、その当時 どのよ うな集 団や規模 でお こなわれていたか、 とりわけ前
述 の各 「
村」 ごとに開かれ ていたか ど うかを明確 に語 る史料 を兄いだす ことはできない。
例 えば、風土記 の関連史料 を掲 げた一覧表 (
33頁参照)をながめてみて も、「
男女老少」
む らを とこあまを とめ
(
表- ⑧⑨⑪)、 「
男女 」 (
表- ⑲⑭)、 「
士女 」 (
表- ⑫)、 「
社 郎漁 嬢 」 (
表-②) な どが
集 まる と書かれ るものが大半である。
いわ と
ただそ うい う中にあって、常陸国の久慈郡 山田里 の 「
石 門」の歌垣 に関 して、 「
夏 の月
ちかづ
の熱 き 目に、遠 き里近 き郷 よ り、暑 さを避 け涼 しさを追ひて、膝 を 促 け手 を携-て」 (45)、
みつ き
人 々が集 まって くる と書かれ てい る (
表-⑥参照)。 また同郡 の密筑里 の 「
大井」 の歌垣
をちこち
さ
と
も
ち
つ
ど
に関 しては、 「
遠適 の郷里 よ り酒 と肴 を斎責 きて、男女会集ふ 」 (46) とでて くる (
表- ⑦参
照)。
これ らをみ る限 り、歌垣 は各村 ごとではな く、当時の数里 にまたが る範 囲 と規模 を一つ
の単位 に して開かれた よ うにみ える。 さらに有名 な常陸国の筑波岳の歌垣 (
表-①) に関
して 、
さか
ひむが し
たづ さ
つ らな
を しもの も
ち
うま
かち
坂 よ り 東 の諸 国の男 も女 も、 (
中略)、相携 ひ餅 関 り、飲食斎賓 きて、騎 よ り歩 よ
のぼ
たのし いこ
り登臨 りて、遊楽び栖遅ふ(
4
7
)(
原漢文)。
とい う記述 がみ られ る
。
あ しが ら
かな り誇 張 され た表現が含 まれ てい るにせ よ、ここには 「
坂」、す なわち 「
足柄岳の坂」
-1
5-
よ り東 の諸 国の男 も女 も集 まった と書かれ てい る
。
これ によ り数里 にまたが る ところか、
それ を超 えたかな り大がか りな歌垣 の開催 を想定 しがちである。
しか しこの筑波岳は、関東平野 においてかな り目立っ 山容 をもつ神体 山の 1つである
。
これ を取 り巻 く山麓部一帯の多 くの農村 の人々か ら、稲作 の水源地の聖地 として厚い信仰
を受 けていた事実 を看過 できない。 山中においては、 「
女体 山」 (
標 高約 8
75
m) と 「
男体
山」 (
標高約 8
7
0
m) の 2つの山頂付近 のみな らず、山腹部や 山麓部 のあちこちに磐座 と思
われ る巨岩 ・奇岩 ・名石 が散在 し、数多 くの祭 配遺跡 が見つかってい る事実 を想起す る必
要がある(
48)。
つま りこの山での歌垣 は、山中の同一箇所 、例 えば山頂付近の特定場所 に集 まってきた
関東一 円の人々が、全員参加す る形でお こなわれ た ものではないであろ う。む しろ山中の
尾根筋 ごと谷筋 ごと、あるいはそれぞれ の磐座 ごとに、 この山を稲作 の聖地 として仰 ぐ、
比較的小規模 な集 団 ごとの歌垣 の輪ができていた と推定 され る。これ は現在 の花見行事が、
有名 な行楽地 にいって も、各パーテ ィー ごとに開かれ るの と同 じ構造だ と思われ る。 また
歌垣民謡 の中か ら採 られた と考 え られ る 『日本書紀』 の第 1
08歌謡 にも、それ を示唆す る
歌詞 がみ られ る
。古代 の歌垣 は、何千人、何 万人の人が一堂 に会す る形 ではな く、比較
(
4
9
)
的小 さめの地域集 団 ごとにお こなわれ ていた とみ るべ きであろ う(50)。
とすれ ば、改 めてその小集 団の単位 が問題 となるが、史料上、 これ以上具体的な ことは
わか らない。 ただ前述 の通 り、歌垣 は稲作 の祭 りと不可分 の関連 をもつ予祝行事 の 1つで
あった。 この点 を重んずれ ば、常識的 にみてそれ は 「
村」 を単位 としていた と考 えざるを
得 ないのではないか。
表- ③ の常陸国香 島郡 の 卜部民 らの歌垣 の中身 に関 して、『常陸国風土記』香 島郡条 に
すす
やか ら
ヽヽヽヽヽ
は、 「
年別 の四月十 日に、祭 を設 けて酒 を港 む。 卜氏 の種属、男 も女 も集会ひて、 目を積
ヽヽヽヽヽヽヽ
み夜 を累ねて、楽 しび飲み歌ひ舞ふ」 と書かれてい る
。
これ はあ くまで 卜部氏 とい う、
一つの氏 を単位 とす る祭 りと歌垣 についての描写である。
しか し一般農村部 の場合 で も、 これ と似通 った形 で、まず村単位 の祭配がお こなわれ た上
で、そのまま共 同飲食 を とる過程 の中で歌垣 が進 め られていった と推定できるのではなか
ろ うか。歌垣 の開催単位 については、いちお うこの よ うな見通 しを立てたておきたい と思
う(51)。
ところで、 この よ うな特徴 を有す る古代 の歌垣 について、従来、歴史学 を含む各分野か
らさま ざまな分析 が加 え られてきた (52
)
。その中で筆者 が もっ とも注 目したい研究成果 は、
国文学者 の土橋寛氏 による、当時の歌の中身 にまで立 ち入 った分析 である。
土橋氏 は各 国風 土記や 、『古事記』『日本書紀』 の神話や説話部分 のあち こちにみ える
和歌の一群 に注 目し、それ が各地の歌垣で有名 になった地方民謡 が、一部改変の上、引用
され てい ることを明 らかに した。
その上で現存す る全 国各地の地方民謡や民俗儀礼 な ども参照 に しつつ、それ らの歌の内
容 を、 「
男女 間の集 団的 な誘 い歌 (
求婚 歌)」 「はねつ け歌 」 「
謎 か け歌 」 「
笑 わせ 歌 」 「
老
美女の悪 口歌」な どに分類 し、それぞれ について解説 を加 えた(
5
3)
。
人歌 」 「
土橋氏 の研究 は、早 く 1
9
6
0年代 の半ばまでに出 され た ものであったが、今 まで これ を
活 か した古代史研 究はあ らわれ ていない
。
その理 由の 1つ としては、研 究者 の間で、歌垣
で交わ され る歌 は、
男女間の個人的で叙情的な歌である とい う先入観 があったのであろ う。
-1
6-
しか しなが ら歌垣民謡 はかな りの社会性 (
社交性) をもってお り、 旧来 ほ とん どわか ら
なかった歌垣 の実態や、 さらには婚姻や性 に関わ る問題 な ど、古代 の農 民生活 に直接 関わ
る共 同体関係 の実像 を知 る上で貴重な素材 となる と思われ る。
そ こで以下、歌の中身か ら引き出せ る重要 な事実 を指摘 し、それ を通 じて歌垣 とい う行
事の社会的意味 を問い直 したい と思 う。
二、婚姻 と出産 (
生殖) をめ ぐる共同体行事
まず第 1に、歌の中身か ら浮かび上がるもっ とも重要 な点 として、 この歌の場 には、未
婚 の若 い男女だけでな く、既婚 のカ ップルや老人たち も参加 し、 さらに彼 ら自身 もしば し
ば歌の席 に立っていた事実がある
。
これ は歌垣が地域 の祭配行事 と不可分 に開催 されていた事実か らすれ ば当然か も知れ な
いが、いわば歌垣 が 1つの共 同体全体 に関わ る行事であった ことを示唆す るであろ う。
その よ うな中にあって、若者層以外 の人々、 とくに老人たちは どの よ うな歌 を うたって
いたのであろ うか。土橋氏 の研 究 による と、次の よ うな ものが、それ に該 当す る とい う。
命 の巻 けむ人 は
違み義
範 峯の山の
姦岩滝 が葉 を 重量 に挿せ
その子 (54, (
警華
はカザシの意味)
これ は 『古事記』景行天皇段 の第 31歌謡 にみ える歌で、『古事記』 の本文では、ヤマ ト
タケル の命 が望郷 の念 を うたった と記 され てい る
。
歌垣 の老人歌の一つ とされ てい る
しか し実際には、大和国の平群地方 の
。
(
5
5
)
ここでは老人 が、 「
命 の全 けむ人 」 -健康 な若者 たちに対 し、生命力 のある、平群 の山
の 「
樫 の木 の葉」 を頭 に挿せ と呼びかけてい る。老人 たちはまず第一義的に、 自らと対比
した 「
命 の全 けむ」状態、す なわち若 さの大切 さを示唆 してい る。その上で若い時代 に相
応 しく、 「
樫 の木 の葉」の生命力 を得 て、 もっ と元気 に 「
歌い踊れ」、 もっ と積極的に 「
恋
をせ よ」 と鼓舞 ・激励 してい るわけである。長い人生経験 を踏 まえた老人が、若 い男女 の
婚姻促進やその媒介 をはかろ うとす る姿 を読み取れ る歌である。
この老人が歌垣 な どの席 で うた うことに関連 して、民俗学者 の柳 田国男 は、 日本 の古い
民俗慣行 では、老人が若い男女 に対 して 「
婚姻媒介」 の役割 を担 う伝統があったのではな
いか と指摘 してい る 柳 田による と、 日本 の文学作 品や民謡 の中には、『古今集』 の 「
我
。
も昔 は男 山」 に代表 され る、 「
老 を嘆 く」特殊 な気持 ちが流れ てい る とい う。 しか しそれ
は単な る 「
述懐歌」ではなかった。若者 たちの集 ま りや村 の祝宴 な ど、 「
楽 しか るべ き」
踊 りや酒 の席 で うたわれ た点 に大 きな特色 がある と説 く その上で柳 田は、 「
昔 は男女 を
。
媒介す る とき」、村 の老人 を酒 の席 に連れ てきて、わ ざわ ざ 「
我 も昔 は男 山」流 の歌 を う
たわせ たのではないか と述べてい る(56)。
この説 を踏 まえる と、 日本 では老人が しば しば歌の席 な どで若者 たちを激励 した ら、 自
らの経験 を うた うことによ り、人々の婚姻促進 をはか ろ うとす る慣行 があ り、それ は少 な
くとも古代 の歌垣以来 の伝統である ともい えそ うである。
ただ し古代 の老人たちは歌垣 の席 にわ ざわ ざ連れて来 られ て歌 ったのではなかった。 も
ともと神祭 りに参加す るメンバーの 1人 として主体的 に参加 し、 しか もさま ざまな実践的
な歌 を うたったのが当時の老人たちだった。
例 えば、『常陸国風 土記』 の筑波郡条 において (
表- ①参照)、 「
筑波岳」 の歌垣 の歌 と
-1
7-
して、次の よ うな歌が載せ られ てい る
。
つ く ば ね
こと
た
みね
亘聞けばか 峰逢 はず けむ
筑波峰 に 逢 はむ と言ひ し子 は 誰が 竜
いほ
よ
筑波峰 に 慮 りて 妻無 しに 我 が寝む夜 ろは 早 も明けぬか も
わ ざわ ざ風土記 の本文 において紹介 され てい る歌であるか ら、当地一帯で余程有名 な歌
として知 られていた ものなのであろ う
。
両首 ともかな りわか り易い内容 の歌で、歌垣 の当 日、筑波峰で逢お うと約束 した女性 が
あ らわれず、結局一夜 、独 り寝す る男 の 「
辛 さ」が うたわれ てい る。 これ を一見す る と、
女性 に 「
ふ られ た」若 い男性 が、 自らの辛い心情 を吐露 した歌の よ うにもみ える。
しか し前述 の よ うに、歌垣ではその よ うな叙情的で、個人的な感情 を直接 あ らわす歌 は
うたわれ なかった。む しろこの歌 については、 自らの若 い頃の恋 の失敗談 を、 「
笑い を込
めた教訓讃」 として語 る老人の歌 とみ るのが妥 当の よ うである(57)。 当時の老人 は歌垣 に際
して、若者 を鼓舞 ・激励す る とともに、婚姻や恋愛 をめ ぐるかつての経験や教訓 を語 る役
割 をはた していた ことがみ えて くる。
さらにこれ に似通 った歌 として、『古事記』応神天皇段 の第 44歌謡 において、摂津 ・河
内にまたが る 「
依網池」辺 りの歌垣 か ら採 られ た と考 え られ る(
5
8
)
、次 のよ うな歌がみ える
。
い ぐい
よ さみ
水 たま る 依網 の池 の
ぬなは
堰杭打 ちが
刺 しける知 らに
は
専 繰 り 延- け く知 らに
をこ
我 が心 しぞ
いや愚 に して今 ぞ 悔 しき(
5
9
)
ぬなは
ここでは晴 らかな池沼地 に生 える 「専 」 (
-ジュンサイ)が、美 しい女性 に誓 え られ て
いぐい
い る。 その よ うな女性 に対 して、男が付 き合お うと申 し出た ら、すでに別 の男 (
-堰杭打
いぐい
ち)が手 を出 していた (
-堰代 を刺 していた)。 その こ とを全 く知 らず、出遅れ て しまっ
た 自分 が、非常 に愚かで悔 しい と うたってい る。
これ も自らの辛い気持 ちをあ らわ した若者 の歌ではないであろ う。先 の筑波峰の歌 と同
じく、かつて若 い頃に経験 した出来事 について、笑い を交 えて語 ろ うとす る老人 の教訓歌
とみ るべ きである(60
)
。老人 は若 い男 たちに向かい、良い女性 が見つかったな らば、早 めに
「
仕掛 ける」 ことの重要 さを諭 してい るのであろ う
。
これ らが歌垣民謡 にみ える老人歌の基本的なパ ター ンであるが、さらにい うと歌垣では、
老女たちも実際 に うたった形跡 が残 されてい る。
わ ざ うた
『日本書紀』皇極天皇 3年 (
6
44)6月是月条 の大化改新 クーデ ター前年 の 「
謡歌」 と
され る、
れ
小林 に
我 を引き入 て
せ
許 し人 の
お もて
面 も知 らず
家 も知 らず も(61) (
第一一一歌謡)
がそれ である。
歌の中身 はかな り強烈であるが、 これ も若 い女性 自らの体験 を、そのまま皆の前で披露
してい るわけではなかろ う。村 の老女がその場 にいない女性 の経験、-
たいていの場合、
実は 自分 自身の架空の失敗談 を (
一種 の 自慢話 として も)紹介 し、それ を笑 うことによ り、
歌の場 にい る娘 たちを戒 める歌の一種 だ と理解 されてい る(
6
2
)
。
ここで老女 は、顔 も見た こともない、名前 も聞いた ことのない男性 との交際 ・交渉 な ど
論外 であ り、適度 の思慮 をもった付 き合い、す なわちあ らか じめ相互 によ り知 り合 った上
での付 き合い こそが大切 だ と説 こ うとしてい るのであろ う(
6
3
)
。いわば歌垣 は、年長 の女性
か ら未婚女性- 「
性教育」が施 され る場で もあった と理解 でき る
。
(
6
4)
この よ うに古代 の歌垣 の集いでは、老女 を含む老人 たちが、婚姻 と性 をめ ぐり重要 な歌
-1
8-
を うたっていた。 その主だった内容 は、若 い男女 に向かい、 自らの 「
老い」や 「
人生の短
さ」、 あるい は失敗談 を引き合 い にだ し、それ と比較 した 「
若 さ」 「
健康」や 「
時」 の尊
さや、 さらには一定の秩序性や適度 の思慮深 さをもった付 き合いの大切 さを訴 え、積極的
な恋 の実践 を促す よ うな歌か らなっていた。
こ うした歌 をみ る限 り、当時の婚姻や性 は、決 して個人的な問題 、あるいは当事者 間だ
けで済 ま され る問題 であったのではな く、本人たちを取 り巻 く多 くの人々、 とくに村 の老
人たちを中心 とす る年長者や既婚者 たちが関心 を抱 く、社会的な事項 であった ことが浮 か
び上がって くるだろ う
。
どのよ うな時代 において も、 とりわけ時代その ものが古 くなれ ば
なるほ ど、婚姻 は生殖 と結びつ く以上、その社会 にお ける重要な関心事項 になるざるを得
ない。 とくに近年 の新 しい研究成果 によれ ば、八世紀代 の古代社会 の生存条件 は、飢健 と
疫病 とが連続す る、相 当厳 しい状況 におかれ ていた ことがわかってきてい る
。
現存す る御野国加 毛郡半布里の戸籍デー タ (
702 年)の分析 な どによ り、当時の男女 の
平均寿命 は約 30歳前後 で、乳幼児 の死亡率 は 50パーセ ン トにお よび、また 2、30歳代 の
壮年層 の死亡率 もかな り高 めだった と指摘 されてい る(65) 8世紀前後 の 日本 は、典型的な
。
「
多産多死」型 の社会 であった。
この よ うに人 の命 がす ぐに尽 きて しま うよ うな状況 下にあっては、婚姻や性 の問題 は、
どうして も社会的な関心事項 にな らざるを得 なかったはず である
。
そ こで各地の祭配 と一
体化 して開かれ る歌垣 には、結婚適齢期 の男女のみな らず、老人 ・老女 を含む共 同体 のメ
ンバー全員 が参加 し、それぞれ の経験 と立場 にもとづ き、婚姻 と性 を促進す るよ うな歌 を
交わす ことになった と思われ る
。
そ してその中でかな り重要 な役割 を演 じていたのが、右
にみた よ うな老人たちであった。
平均寿命 がわずか 30 歳前後 の古代社会 において、長い年月 を生 き抜いた老人たちは、
いわば 「
人生の先達」 として、共 同体 の若 い世代 に対 して、婚姻や性 をめ ぐるさま ざまな
教示や指導 をお こな うことが期待 され ていたのではあるまいか。
従来、古代 の地域社会 にお ける老人 (
古老)の役割 については、共 同体の長老 としての
来歴 の伝承者 、外部 との接触 の担い手 (66)、あるいは一般的な教導者的側面な どがある と説
かれ てきた (67)。 ここではそれ に加 え、共同体内部 の婚姻 と生殖 をめ ぐる指導者的役割 を担
っていた ことを指摘できるであろ う(
6
8
)
。
そ うした地域社会 の老人たちが、具体的 に何 と呼ばれていたかについて、律令 の年齢 区
分規定 (69) とは別 の、社会的な年齢 区分 呼称 を分析 した 田中禎 昭氏 に よる と、 当時の 「
老
人」 に対す る社会 呼称 としては、 「
オ キナ (
翁)」 と 「
オ ウナ (
脂)」 とい う呼び方 があっ
た とい う(70
)
。 この 「
オキナ」 と 「
オ ウナ」が、具体的 に何歳以上の世代 に対す る呼称 であ
るかは厳密 にできないが (71)、例 えば、 「
50 歳以上」 を一つの 目処 にす る と、その数 は各単
0パーセ ン トであった と推定できる(72)。
位社会 において、全人 口の約 1
つま り歌垣で交わ された歌の中身か らは、各単位社会 においてわず か人 口の 1割程度 し
か 占めなかった 「
オキナ」 と 「
オ ウナ」たちが、婚姻や生殖 (
出産) とい う、共 同体 の維
持や存続 に関わ る事項 について、大 きな役割 をはた していた事実か らみ えて くるわけであ
る。歌垣 は、村 の人 口維持 と社会その ものの再生産 のため、老人たちを中心 とす る農 民た
ちが、 自律的に結 んだ婚姻 と性 をめ ぐる共 同体結合 の 1つ とい えるであろ う。
-1
9-
三、 「
女性皆婚」規範が確認 される場
次 に、歌垣 の歌の中身か ら引き出せ るも う 1つの事実 として、この時代 の社会 には、「
女
性皆婚 」 (73) とい う婚姻規範 が形成 され 、歌垣 ではそれ に も とづ く歌 が盛 んに うたわれ て
いた点 を指摘できる。 それ が美女 に対す る 「
悪 口歌」 と分類 され る歌謡群 である。
別稿 で詳 しく述べた よ うに(74)、歌垣 の世界では、美女 は決 して民衆 の讃美や憧憶 の対象
にはな らなかった。 また多 くの男性 か ら求婚 され るよ うな存在 にもな らなかった。む しろ
貞節 の堅 さや気位 の高い女性 の象徴 とされ、それ が結局 を 「
損」や 「
不幸」 を招 くとか、
「
花 の命 は短い」な どと、か らかいや邦輪 の対象 として うたわれ る場合 がほ とん どであっ
た。
い うまで もな く平均寿命 が男女 ともにわず か 30歳前後 とい う、多産多死型 の社会では、
一旦夫婦 ・配偶 関係 が構成 され た として も、それ はきわめて流動的で不安定 にな らざるを
得 なかった。配偶者 がす ぐに死別 した り、両親や片親 がいない子供 たちが多数生 じる現実
が横 たわっていた。 また疫病 が連年猛威 を振 るい、多数 の死者 が出るよ うな状況 が続いた
場合 、共同体人 口の維持や社会その ものの再生産 が危ぶまれ るよ うな事態 も発生 した こと
であろ う
。
そ こで当時の人々の間では、 自分 自身の生活や世帯 を守 るため、新 たな配偶者 を見つ け
出 し、再婚 ・出産 ・養育 ・看護等 を繰 り返 してい く必要があった と思われ る(75
)
。 また社会
全体 として も、人 口の維持や共 同体 を存続 させ るため、できるだけ多 くの収穫 ととも、で
きるだけ多 くの配偶 関係 の成立 とそれ による生殖 (
出産)が望まれた ことであろ う。
この よ うな状況 の も とでは、男 が誘 って も (
求婚 して も)、なかなか応 じない女性 の過
度 の貞淑性 、あるいは気位 の高 さな どは、決 して良 しとされ なかった。 それ とは逆 に、女
性 はすべか らく婚姻すべ Lとい う 「
女性皆婚」 とい う社会的規範 が形成 され ざるを得 なか
った と考 え られ る
。
したがって配偶者選びの場で もあった歌垣 では、 このよ うな規範 にもとづ き、気位 の高
結局 は不幸 にな る」
い女性 な どを、特定 の花や架 空 の女性 にた とえ、 「
花 の命 は短い 」 「
な どと笑い冷や か し、それ によ り女性一般 の積極的な結婚 を促 そ うとす る歌が しば しば う
たわれ ることになった。
歌垣 とい う場 は、社会的 に形成 され た 「
女性皆婚」 とい う規範 が、民衆 同士で交わ され
る歌 (
美女 の悪 口歌) とい う形 で、具体的 に発露 され 、それ が繰 り返 し、繰 り返 し確認 さ
れてい く場所 であった とい えよ う。いわば当時の農民 は、毎年定期的 に開かれ る歌垣 を通
じ、 自ら作 り上 げた婚姻規範 を可視的 に確認 ・更新 していたのである。
以上のよ うに歌垣民謡 の中身か らは、歌垣その ものが どの よ うな 目的 をもって開かれ る
行事であったかがみ えて くる。歌垣 は配偶者 を選び出そ うとす る未婚 の若い男女だけの集
ま りでなかった。 それ は現代 と比べ ものにな らない厳 しい 自然環境 と生存条件 の もと、農
民たちが 自ら住 ま う村 の人 口維持や社会 の再生産 のために開 く 1 つの共 同体行事 であっ
た。 またそ こでは婚姻 を促進す るために形成 され た 「
女性皆婚」 とい う規範意識 が、歌 を
通 じて繰 り返 し確認 ・更新 され ていた事実な どが明 らかになった。
とすれ ば、最後 に残 る問題 は、 この よ うな農民相互 の共 同体行事である歌垣 に対 して、
それぞれ の土地の族長層 が どの よ うな関わ りをもっていたかの点である
。
-2
0-
四、農民結合 と族長層の関わ り
こ うした問題 について、古代史学の立場 か ら専論的分析 を加 えたのは、関和彦氏であっ
た (76)。 関氏 は、国文学や民俗学的な方法 による古代 の歌垣 (
擢歌)像 は、あま りにも 「
牧
歌的」であ り、それ は研究その ものの 「
牧歌的状況」が作 り出 してい る と批判 した。
その上で、『常陸国風土記』 にみ える歌垣 の実施場所 と、国造 の根拠地 に関連す る史料
にもとづ き、従来、原初的 に村単位 で実施 されてきた歌垣 は、村 々を統括す る在地首長 の
祭配権 の もとに吸収 され た と理解す る。 それ に ともない歌垣 の場所 も、郡 内の 1
、2 ヶ所
に限定 され 、村 々の年 中行事的な性格 は薄れ 、 「
在地支配 の場 と化 した」 と指摘す る(
7
7
)
。
関氏 は、歌垣民謡 の中身 を分析 した土橋氏 の研 究 について何 ら言及 を してないが、 とに
か くこの見解 にもとづ けば、先 にみた歌垣 の席 で実際 に歌 を うた う老人 な どは、事実上、
国造 レベル の首長層 に属 し、行事その もの も、彼 ら自身の統制下にあった ことを示す であ
ろう
。
事実、関氏 はその論考の中で、歌垣 の場 において 「
結婚媒介者 的役割」 を担 ったのは、
国造層 であった と述べてい る(
7
8
)
。 しか しなが ら、歌垣 が族長層 の支配 の場 と化 していた と
み るな らば、まず はその 「
支配」の内実が問わねばな らないが、関氏 は これ以上具体的 に
述べていない。 さらに歌垣 が国造 を含む族長層 の統制 下にあ り、歌垣 で うた う老人が彼 ら
自身であった とは到底考 えがたい。
まず第 1に、その実施場所 、 とくに常陸国のそれが国造の支配領域 と重なるよ うにみ え
るのは、あ くまで史料 の残 り方 の問題 であろ う。
風土記 とい う史料 は、諸 国の地名 とその起源説話 な どのデー タを載せ る国別 の地誌 であ
る。各地の祭死場や歌垣 の開催地 をこぞって取 り上 げるものでない ことはい うまで もない。
その中でたまたま歌垣地名 の記録 が残 るのは、その開催地の景観 の美 しさや有名 な歌垣民
謡 の形成 の問題 があったか らであろ う。前節 で述べた よ うに、歌垣 は郡 内の 1
、2 ヶ所 だ
けでな く、基本的 にそれぞれ の 「
村」単位 でお こなわれていた とみ るべ きである
。
や
ゆ
第 2に、歌垣民謡 の中には、老人 に対す る言い返 し歌、邦拾歌な どと呼ばれ る歌が含 ま
れてい る点 に注意すべ きである
。
『日本書紀』皇極 2年 (
643)の 1
0月戊午条 には、歌垣民謡 か らの引用 といわれ る、次 の
よ うな歌が収 め られてい る (
第1
0
4歌謡)。
こざる
た
岩 の上 に 小猿米焼 く 米 だにも食 げて通 らせ
かま しし
を
じ
山羊の老翁 (79)
右 の歌 の意味は、 「
岩 の上で可愛い猿 が米 を焼いてい る せ めてその米 で も食べ ておい
。
かま しし
でな さい、カモ シカのお爺 さん」 と訳す ことができよ う
。
を
じ
この うち 「
山羊の老翁 」 (
-カ
モシカのお爺 さん) とあるのは、その風貌 な どによ り、事実上、年寄 りにた とえ られ てい
るのであろ う
。
つま りこの歌では、老人 に対 して、 「
小猿 」 (
-村 の乙女 たち) が作 った 「
焼 き米 」 (
神- の捧 げ物)を食べ てい きな さい と誘 ってい るので あるが、実際 には早 く食べ て この場
か ら出て行 け との意味だ と解 され てい る(80)。
歌垣 が進行 してい く中で、当初 の若者 同士の元気 な歌の掛 け合いがやや緩み、逆 に老人
たちの説教 じみた経験談や教訓歌が続 くよ うなケースがあった。 その よ うな場合 、それの反論 として、 このよ うに若者 か ら老人 をか らか う歌が うたわれ た らしい。
もちろん これ も参加者 の笑い を誘 う形で うたわれたはず であるが、 このよ うに邦拾 され
-21-
る老人 は、若者 か らみて も、また歌垣 の場 に集 う人々か らみて も、 よほ ど親 しい間柄 の人
間であった と考 える必要があろ う。決 して支配階級 に属す る老人 ではな く、ま してや 国造
その人 であった とは考 え られ ない。 も しそれ が族長層 であった とすれ ば、 こ うした歌 は う
たわれ なかったのではなか ろ うか。
第 3に、歌垣 では、前述 の通 り、身持 ちの良い貞節 な女性 が、人々の冷や か しや悪 口の
対象 になっていたが、そのほか高貴な身分 の女性 も、 しば しば民衆 の 「
攻撃」の対象 にな
っていた点 に留意すべ きである
。
わざう
た
670)4月条 に引用 され てい る第 1
24歌謡 (
童謡) がそ
例 えば、『日本書紀』天智 9年 (
の 1つである
。
とじ
八重子 の刀 自出でま しの
うちは し
つめ
打橋 の
頭 の遊び に
出でませ子
玉手 の家 の
らじぞ
出でませ子
玉手 の家 の
八重子 の刀 自(81)
い
悔ひ はあ
この歌 では 「
八重子」 とい う、 ある家 の 「
刀 自」 (
-主婦) の名 が登場 してい る
。
この
女性 は 「
玉手」地方 (
大和 国内か河 内国内の玉手) の一帯で、かな り評判 の美女 だったの
で あろ う そ うした彼 女 に対 して、 「
打橋 の頭 の遊 び 」 (
-橋 のた も との歌垣)- 出て く
。
るこ とが 2度 にわたって呼びかけ られ 、またそ こ- 出てきて も、決 して 「
悔ひ はあ らじぞ」
と うたわれ てい る
ヽヽヽヽ
とじ
「
玉手の家 の八重子 の刀 自」 とあるよ うに、八重子 は実際歌垣 に参加す ることな どあ り
。
得 ない、高貴な身分 出身 の女性 だった と思われ る。 に もかかわ らず、繰 り返 しこの よ うに
うたわれ るのは、来 るはず のない八重子 の名 をだ して参加者 を笑 わせ 、逆 にその場 にい る
娘 た ちに対 し、彼 女 の よ うに 「
お高 く」構 えて出て こない と、 「
あ とで後悔す るぞ 」 「
不
幸 にな るぞ」 と訴 えるためであった と考 え られ てい る(82)。
つ ま りこの よ うな間接的な誘 い歌がつ くられ るほ ど、各 土地の族長層や上層身分 に属す
る人 々は、その当時、歌垣 な どに参加 しないのが普通 だったのであろ う 歌垣 はあ くまで
。
地域 の農 民のみで開かれ る民衆行事だったのであ り、関氏 が説 くよ うに、首長層 の 「
在地
支配 の場」 に化 していた とは理解 できない。
それ どころか支配層 に とっての歌垣 は、おそ らく世俗的で野卑 な催 しであ り、それ に直
接 関与す ることな どあ り得 なかったのではあるまいか。 あるいは もとも と神祭 り前半の厳
粛 な神事 に出ていた族長層 も、民衆的世界 である歌垣 が始 ま る とともに、その場 か ら中座
す るよ うな ことがあったのではなかろ うか。
だか らこそ逆 に農 民たちは、 あえて歌の場 で上層身分 の女性 の名 を取 り上 げ、それ を 自
分 たち と同 じレベル まで引き降 ろ してか らかい、そ うす る点 に歌 の面 白さを感 じ取 ったの
であろ う。歌垣 は、いわば この よ うな形 の 「
権力風刺 」が許 され る場 で もあった。
以上 の よ うに、歌垣 は各地の農 民たちが主導す る民衆的な行事 であ り、そ こに集 って重
要 な歌 を うた う老人たちも、決 して支配階級 に属す る身分 の者 ではな く、それぞれ の村 に
住 ま う一般農 民であった と考 え られ る。
古代 の農 民たちは、少 な くとも婚姻や生殖 (
出産) に関わ る問題 に関 し、支配者層 の統
制や支配秩序 に包摂 され ることな く、 自律 的な形 での地縁結合体 をつ く り、その安定的な
再生産 をめ ざす共 同体行事 をお こなっていた と理解 で きるであろ う。
歌垣民謡 の中身 か ら読み取れ る婚姻 をめ ぐる共 同体 関係 について、以上の よ うに理解す
る と、全体 として これ は、従来 の研 究史 との関わ りで、 どの よ うに位 置づ け られ るのであ
-22-
ろ うか。
五、生活 ・生存 に関わる 自立的な農民結合 の存在
本稿 の 「
は じめに」で述べた よ うに、従来 の古代史学では、農 民相互間の地縁的結合 の
存在 を認 めない、あるいは一部認 めるに して も、その 自立性 については否定的にみ る学説
が有力 であった。
石母 田正氏 は、共同体の共同性 がゲルマ ン社会 の よ うに 「
民会」ではな く、首長 によっ
て代表 され る とい う基本構造 によ り、 日本 の古代社会 では、一貫 して 自立的な村落共 同体
は存在 しなかった と説いた。石母 田氏がその際、 自立性 の欠如 の規準 においたのは、法的
・軍事的な側面 にお ける共 同体 の 自立度合いの問題 であった。例 えば、氏 はその論考 「
古
代法小史」の中で、次 のよ うに述べてい る
。
国造支配 の もとにおいて、村落が国造層 に対抗 しうる独 自の共同体的制度、す なわち
共 同体的所有 を基礎 とす る一個 の法主体 としての共同体 を形成 しえたか どうか疑 わ し
い-
村法が成立す るまでの、平安時代 か ら中世 にお ける長い困難 な時期 を想起 され
たい
た しかにこ うした法的 ・軍事的な主体性 の問題 に視 点 をおいた場合 、古代村落 の 自立性
は当然否定的 にな らざるを得 ない。 その達成 は、おそ らく石母 田氏 自身がい う通 り、 「
村
法」が成立す る戦国時代 の社会 にまで保 たなけれ ばな らないのであろ う。
ただ しそのよ うにみ る石母 田氏が、一方 で奈 良時代 の行基集 団の問題 を論 じた際 (
1
973
午)、 日中比較 の観 点か ら、個人や共 同体 の 自立度 をはか る尺度 として、次 の よ うな視 点
を掲 げてい る点 にも注意すべ きである
。
そ もそ も氏 による と、高度 な文明を築 き上 げた古代 中国では、血縁的 ・族制的な人倫 関
係 、言い換 えれ ば、人間の 自然 に属す る関係 だけでな く、そ こか ら解放 され た 「
他者 同士
の関係 」、例 えば君 臣関係や師弟 の関係 、 さらには朋友 関係 な どを組 み込 んだ人倫体系や
規範意識 が形成 された と説 く。
それ に対 して 「
未 開」な 日本 では、 中国 と比 して家父長制家族 の生成 が弱 く、氏族 ・家
族 な どの各級 の血縁的 ・同族的結合 か らの 自立的諸個人の分離 とい う条件 が十分進展 しな
かった。それ故、古代 の 日本 では、中国の よ うな一般 的な他者 関係 を包含 しうる倫理体系
や規範意識 は生み出 され ることはなかった。 これ が古代国家 または在地首長 に対す る、 自
立的な個人や共 同体の存在 を想定できない条件 につなが り、また行基集 団が結果的に権力
内的 に編成 され る とい う 「
転換」 をもた らした とい う。そ して さらにその違いが、村落共
同体が政治的 ・公 的な地位 を認 め られ た中国 と、それ が否定 され た 日本 との違い として も
あ らわれた と理解す る(
8
4)
。
ここでは個人や共同体の 自立の問題 が、 ヨー ロッパ のゲルマ ン社会 との比較ではな く、
もっぱ ら古代 中国 と対比 して論 じられ てい る 今 までの氏 の見方 とは異 なる、新 たな 日中
。
比較史の方法の提起 ともい うべ き箇所 である。
その中で石母 田氏が、 日中間の相違 を生み出 した決定的な要素 として重ん じた ものは、
血縁的 ・族制的な秩序 を超越 した、他者 同士の関係 をも組み込んだ人倫体系や規範意識 を
作 り上 げたか否 かの点であった。氏 による とそれ は古代 日本 には決定的 に欠如 してお り、
さらにそれ は 「
文明-中国」 と対比 された 「
未 開- 日本」の証 しの 1つ として も捉 え られ
-23-
てい る
。
石母 田氏 によるこの 「
文明 と未 開」の対比 の論理 はやがて一人歩 き し、今 日で も大 きな
)
。 しか しここ
影響力 をもつ吉 田孝氏 の 日中比較 国制史論 の登場 にもつなが ることになる(85
で石母 田氏が示 した視角、す なわち、ある社会 にお ける個や共 同体 の 自立度合い を計 る際、
他者 同士の関係 も組み込んだ 自律的な思惟や意識 の形成 の存否 をその重要な 「
指標」 とす
る方法 は、た しかに一定の有効性 をもつのではなかろ うか。
一般的にいって、直接的で無媒介 な関係 、あるいは 自然生的な関係 だけでな く、非血縁
的な他者 同士の関係 も規律化 しよ うとす る認識や規範 を作 り得 る社会 は、それ 自身、一定
の 自立性 を帯びた社会 と捉 え られ よ う。 この点で筆者 は石母 田氏 の この見方 を積極的 に継
承 したい と思 う(86)。
ただ し石母 田氏がい うよ うに、 日本 の古代社会 は、右 の 「
指標」 に照 らしてみ る と、事
実 として 自立性 の欠如 した社会 だったのであろ うか。 た しかに古代 の 日本 では、 中国の儒
教的な家族倫理や 「
礼」の思想 の よ うな、一個 の体系的な思惟 を完成 させ ることはなかっ
た。
しか し右 にみてきた よ うに、8 世紀前後 の地域社会 の農 民たちは、少 な くとも婚姻や生
殖 に関わる問題 について、肉親者 だけでな く村人相互 も含 み込んだ他者 関係 も律す る とこ
ろの、 自前 の規範意識 (
-皆婚規範) を作 り上げていた。 その中身 は、古代 国家が浸透 さ
せ よ うとした規範要件 、す なわち 「
節婦」的な女性像 とも大 き く異な り、それ な りの独 自
性 を帯びた ものであった。 そ してそ うした規範 にもとづ き、当時の社会 の農 民たちは、婚
姻 と出産 の安定的な再生産 をめ ざす共 同体行事 (
-歌垣) を定期的にお こない、それ を通
じて男女間の婚姻 ・配偶 関係 の積極的な促進 をはかっていた。
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
しか も注意 したい ことは、そ うした婚姻 の促進 その ものが、決 して直接的で無媒介 に、
す なわち無秩序 で放逸 な形 で奨励 され ていなかった点である。先 に紹介 した老人 (
老女)
歌 にみ られ た よ うに、配偶 関係 を取 り結 ぼ うとす る当事者 同士が、本能や 自然生的な欲望
にのみ したがって行動す るのではな く、一定の秩序意識 と節度 とにもとづ く性愛行動 を と
ることが求 め られ ていた。
いわば歌垣 とい う共 同体行事、ひいては当時の農民たちの間では、婚姻 と性 をめ ぐり、
本能や欲望 のみ に したがった行動原理 を抑 えるべ きだ とい う考 え方があった ことがみ えて
くる
。
これ は石母 田氏流 の見方 に即 してい うと、 自然発 生的な秩序意識 を脱却 した、 「
非
未 開」的な規範 とい えるのではなかろ うか。
もちろん これ は古代 中国の儒教倫理 な どの よ うに、体系的 に組み立て られ た思惟構造 と
までは至っていない。 しか し古代婚姻史研 究でいわれ るよ うな (87)、気 に入 る異性 を見つ け
れ ば、即座 に男女双方 が 「
気 の向 く間」のみ、剃郡的 ・衝動的な性交渉 を持 ち続 けよ うと
す るよ うな社会 ではなかった よ うに思われ る
。
この よ うにみ る と日本 の古代社会 は、法的 ・軍事的な側 面は別 に して、他者 同士の関係
も律す る規範意識 を形成 していた点において、必ず しも石母 田氏 のい うよ うに 自立性 の欠
如 した社会 とは捉 えきれ ない。少 な くとも婚姻や生殖 とい う、 自分たちの直接的な生存や
生命維持 に関わ る事項 に関 して、各地で集 団的な組織 (
農 民結合体) を作 り上げ、 しか も
相互 を律す る形 の 自前 の婚姻規範 にもとづ く共同体行事 をお こな うよ うな社会であった と
み るべ きであろ う
。
-24-
この よ うな農 民結合体 は、あ くまで 8世紀前後 の厳 しい生活環境 のあ り方 に規定 され て
形成 された ものであった。 しか し国家権力や族長層 の統制や庇護 か ら自立 した、一個 の共
同体組織 である と理解 できるのではなかろ うか。
おわりに
以上、本稿 では、農 民相互間の地縁的結合体の 自立性 を認 めない通説的理解 を批判すべ
く、歌垣 とい う民間行事の歌の中身 にスポ ッ トをあて、当時の共 同体 関係 の実像 を、可能
な限 り具体的に解 明す る作業 をすす めてきた。その結果 を記せ ば、以下の通 りである。
、「
多産多死」型 の社会 の過酷 な生存条件 の も と、古代 にお ける男女 の新 しい出会いや
婚姻 (
再婚) は、当事者 同士 に任 され る個人的な問題 であったわけでな く、それ を取 り
囲む多 くの人々が関心 を寄せ る社会的な問題 であった。 これ は究極的 に婚姻 が、共 同体
の再生産や人 口の維持 につなが る出産 (
生殖) と結びついていたか らである。
二、 したがって配偶者選びの場 で もあった歌垣では、若い男女のみな らず、老人や老女 も
参加 して実際の歌の席 に立ち、若者 を鼓舞 ・激励 した り、時には 自らの経験 を引き合い
に出 した 「
性教育」 を施す歌 を うた うことがあった。 また歌垣 では、間接的な誘い歌で
ある美女 の 「
悪 口歌 」 (
-男 が誘 って も応 じない身持 ちの堅い女性等 をか らか う歌) が
盛 んに うたわれ、 この行事が、当時の社会的規範 である 「
女性 -皆婚」意識 を具体的、
可視的に発露す る場所 であった と理解 できる。
三、 このよ うな歌垣 を地域族長層 の統制下にある行事 とみ る見解 があるが、実際 に交わ さ
れ た歌の中身か らみて、その よ うな解釈 は成 り立ち難い。上層身分 の人々に とって歌垣
は、権力風刺 も繰 り広 げ られ る世俗的な行事であ り、彼 らが これ に直接 関与す ることは
あ り得 なかった。本行事 は村 の古老層 も重要な役割 を担 う形で開かれ る民衆的行事であ
った。
四、 こ うしてみ る と日本 の古代社会 にも、支配層や国家権力 か ら自立 した共 同体が存在 し
た と理解 できる。古代 の農民たちは、少 な くとも婚姻 と生殖 に関わ る 自立的な共同体 を
作 り上げ、 しか も自前の規範意識 にもとづいて婚姻 の促進 をはかる集 団的行事 を毎年定
期的 にお こなっていた。
す でに紹介 した よ うに、石母 田氏や吉 田孝民 らの在地首長制論 を批判的に継承す るため
に提起 され た村落首長制 の議論 において も、今 まで村落内の民衆相互 の共同体関係 の解 明
はほ とん ど深 め られてお らず、 もっぱ ら 「
タテ系列」 の視点、す なわち村落首長 と共 同体
成員 の関係 の分析 が重ん じられ てきた。本稿 はこの よ うな研 究状況 の克服 をめざそ うとす
る試 みの 1つで もあった。
しか し本文 中ですでに若干言及 した よ うに、古代 の地域社会 の共同体機能 は、そのすべ
てが農 民たちによ り集 団的 に担 われてはいなかった。 その一方で族長層 が密接 に関与 し、
それ が支配や土地領有 につなが る共同体的機能 もあった とみなけれ ばな らない。 この点 に
ついては、別 の機会で論ず ることとして、ひ とまず ここで摘筆 したい と思 う。
-25-
(
1
) 群馬 県子持村教育委員会 『黒井峯遺跡発 掘調査報告書 (
本文編)』 (
子持村教 育委員会 、
1
990年)。
(
2) 石 井克 己 ・梅 沢重 昭 『黒井 峯遺跡
一 目本 のポ ンペ イー 』 (
読 売新 聞社 、 1
994 年 )。
(
3) 子持村教育委員会前掲書 『黒井峯遺跡発 掘調査報告書 (
本 文編 )
』。
(
4)都 出比 呂志 『日本農耕社会 の成 立過程 』(
岩 波書店 、1
989年)第 3章 「
集 落 の構 造」、252
頁∼ 256頁、関 口裕 子 『日本 古代家族 史 の研 究
古代 にお ける個別経営 の未成 立
上』 (
塙 書房 、2004年)第 2章 「日本
一 黒井峯遺跡 を手 がか りに-」 な ど。
(
5) 吉 田晶 『古代 日本 の国家形成 』 (
新 日本 出版社 、2005年)第 1章 「
黒井峯 ム ラの人び
と」、26頁。
(
6) 山尾 『日本 古代 国家 と土地所有 』 (
吉川 弘文館 、2003年)第 4章 「
古代 日本 の 『家』
と 『村 』」、291頁。
(
7) 『続 日本紀』霊亀元年 (
71
5)5月 乙巳条 、天 平 1
6年 (
744)5月庚 戊条 、天平勝 宝 5
年 (
753)9月 壬寅条 、天 平宝字 8年 (
764) 1
2月是月条 、宝亀 3年 (
772) 1
0月丁 巳条
な ど。
(
8) 今津 「
古代 の災害 と地域社会
一 飢健 と疫病 -」 (
『歴 史科 学 』 1
96、2009年)。
(
9) 鎌 田元一 「日本 古代 の人 口」 (
同 『律令公 民制 の研 究』塙書房 、2001年。初 出は 1
984
年)、621頁。
(
1
0) 南部 屍 『日本 古代戸籍 の研 究 』 (
吉川 弘文館 、 1
992 年 )、杉本 -樹 『日本 古代文書 の
吉川 弘文館 、2001年)。
研 究』 (
(
ll
) 平川 南 「
古代 にお け る里 と村
一 史料整 理 と分析 -」 (
『国立歴 史 民俗博 物館研 究報
08、2003 年 ) には、六 国史 ・木簡 ・風 土記 ・日本 霊異記 ・正倉 院文書等 にみ える
告』1
「
村 」史料 が コンパ ク トに整 理 され てい る
。
(
1
2) 坂江渉編 著 『風 土記 か らみ る古代 の播磨 』 (
神 戸新 聞総合 出版 セ ンター、2007 年 )。
(
1
3) 『播磨 国風 土記』宍禾郡条。
(
1
4) 石母 田氏 の村 落論 は、『日本 の古代 国家 』 (
岩波 書店 、 1
971年 ) の在 地首長制論 とし
941年発 表 の 「
古代村 落 の二つ の
て集 大成 され たが、古代村 落 の捉 え方 につ い て は、 1
『石母 田正著作集 』 1、岩 波書店 、 1
988 年所 収。 以 下、本論文 か らの引用 はすべ
問題 」 (
て これ に よる) 以来 、一 貫 した ものが あ る
。
した が って例 えば、 1
960 年 代 に発 表 され
た諸論 考 に も、戦前以来 の村落論 がみ られ るのはい うまで もない (
同 「
古代法小 史」 同
『日本 古代 国家論
第一部』岩波書店 、 1
973年。初 出は 1
963年 な ど)
。
(
1
5) 吉 田孝 『律令 国家 と古代 の社 会 』 (
岩 波 書店 、 1
983 年 ) Ⅲ章 「
律令 時代 の氏族 ・家
編戸制 ・班 田制 の構 造的特質」。Ⅲ章 Ⅳ 章 の初 出年 は、それ ぞれ 1
976
族 ・集 落」、第 Ⅳ 章 「
年 と1
973年。
(
1
6) 石母 田前掲書 『日本 の律令 国家』第 4章 「
古代 国家 と生産 関係 」、336頁、石母 田
同 『日本 古代 国家論
「
国家 と行基 と人民 」 (
第一部』岩 波書店 、 1
973年)、 1
57頁 な ど。
(
1
7) 石母 田前掲書 『日本 の律令 国家』第 4章 「
古代 国家 と生産 関係 」、337頁。
(
1
8) 石母 田前掲論 文 「
古代村 落 の二つ の問題 」、273 頁 、石母 田前掲書 『日本 の律令 国
-26-
家』第 4章 「
古代国家 と生産 関係」、337頁。
(
1
9) 吉 田前掲書 『律令 国家 と古代 の社会』第 Ⅳ章 「
編戸制 ・班 田制 の構造的特質」、202
頁な ど。
(
20) 吉 田前掲書 『
律令 国家 と古代 の社会』第Ⅲ章 「
律令時代 の氏族 ・家族 ・集落」
。
(
21
) 吉 田前掲書 『
律令 国家 と古代 の社会』第Ⅲ章 「
律令時代 の氏族 ・家族 ・集落」
。
(
22)石母 田前掲書 『日本 の律令 国家』第 4章 「
古代 国家 と生産 関係」
。
(
23) 吉 田前掲書 『
律令 国家 と古代 の社会』第Ⅷ章 「
律令 国家の諸段階」、437頁。
(
24) 吉 田 『日本古代村落史序説』 (
塙書房 、 1
98
0年)。
(
25) 大町 『日本古代 の国家 と在地首長制』 (
校倉書房 、 1
98
6 年)、同 「
村落首長 と民衆」
(
『日本村落史講座』4 ・政治 1、雄 山閣、 1
991年)。
(
26) 義江 「
律令制下の村落祭配 と公 出挙制 」 (
『
歴史学研 究』380、 1
972 年)、同 「
儀制令
春時祭 田条の一考察 」 (
『古代史論叢』 中、吉川 弘文館 、 1
978年)。
(
27) 関和彦 『風土記 と古代社会』 (
塙書房 、 1
98
4 年)、同 『日本古代社会生活史の研究』
(
校倉書房 、 1
99
4年)。
(
28) 鬼頭 『
律令 国家 と農民』 (
塙書房 、 1
979年)、同 『古代 の村』 (
岩波書店、 1
979年)。
(
29) 小林 『日本古代 の村落 と農民支配』 (
塙書房 、2000年)。
(
30) 山尾前掲書 『日本古代 国家 と土地所有』。
(
31
)新訂増補 国史大系 『
令集解』儀制令春時祭 田条。
(
32) 坂 田聡 「
中世の家 と女性 」 (
『
岩波講座
日本通史』第 8巻 、 1
994年)。
(
33) 岡 田精 司 「
宮廷盛女 の実態 」 (
同 『古代祭 配 の史的研 究』塙書房 、 1
99
2 年。論文初
出は 1
98
2年)。
(
3
4) 田中 「
古代村落史研 究 の方法的課題
一 七 〇年代 よ り今 日に至 る研 究動 向の整理 か
『
歴史評論』 538、 1
995年)、6
4頁。
ら-」 (
(
35) 小林
「
『
村』 と村首 ・村長 」 (
同 『日本古代 の村落 と農民支配』塙書房 、2000 年。論
文初 出は 1
98
9年)。
E
t
a
喜
∃「
(
36) 吉 田前掲書 『日本古代村落史序説』第 3E
家父長制 と個別経営」、 1
46- 1
5
6頁。
E
t
a
喜
∃「
(
37) 吉 田前掲書 『日本古代村落史序説』第 2E
首長 と共 同体」、76頁、第 3章 「
家父
長制 と個別経営」、 1
5
6頁。
(
38) 田中前掲論文 「
古代村落史研 究 の方法的課題
一 七 〇年代 よ り今 日に至 る研 究動 向
の整理か ら- 」、71頁。
(
39) 松本信広
『日本神話 の研究』 (
平凡社 、 1
971年。初 出は 1
931年)、高木敏雄著 ・大
林太良編 『増訂 日本神話伝説 の研 究』 1・2 (
平凡社 、 1
973 年。初 出は 1
943 年)、松村
武雄 『日本神話 の研 究』 3(
培風館 、 1
955年)、西 田長男 『日本古典 の史的研 究』 (
理想
社 、1
95
6年)、松本信 弘 『日本 の神話』 (
塙書房 、 1
95
6年)、土橋寛 『古代歌謡 と儀礼 の
研 究』 (
岩波書店、 1
965年)、青木紀元 『日本神話 の基礎的研究』 (
風 間書房 、 1
970年)、
岡 田精 司 「
記紀神話 の成立」 (
岩波講座 『日本歴史』2、岩波書店、 1
975年)、松前健
「
神話 ・伝説 と神 々
一 特 に儀礼 との関連 をめ ぐって-」 (
『松前健著作集』2、お うふ
う、 1
997年。初 出は 1
98
6年)、上 田正昭 『古代伝承史の研 究』 (
塙書房 、 1
991年)、岡
田精 司 『古代祭配の史的研究』 (
塙書房 、 1
99
2年) な ど。
-27-
なお歴 史学 の立場 の神話分析 として、石母 田正氏 の古典的労作、 「
古代文学成 立の一
過程
- 『出雲 国風 土記』所収 「
国引き」 の詞章 の分析-」 (
同 『神話 と文学』岩波現
代文庫、2000年。初 出は 1
95
7年)が異彩 を放つ。石母 田はこの中で有名 な 「
国引き神
話」 を取 り上げ、それ が民間伝承 を基盤 としつつ も、出雲 国造 の地域支配儀礼 と密接 な
関わ りをもつ ことを説いた。
(
40) 吉 田前掲書 『日本古代村落史序説』第 3章 「
家父長制 と個別経営」
。
(
41
) 関和彦 「日本古代 の村落 と村落制度 」 (
『歴 史学研 究別冊特集
世界史認識 にお ける
978年)。
民族 と国家』、 1
(
42) 吉 田前掲書 『日本古代村落史序説』第 2章 「
首長 と共同体」な ど。
(
43) 拙稿 「
古代女性 の婚姻規範
一美女伝承 と歌垣- 」 『EX ORI
ENTE』 (
大阪外 国語大
学言語社会学会誌) 1
2号、2005年。
(
44) 土橋前掲書 『古代歌謡 と儀礼 の研 究』第 6章 「
歌垣 の意義 とその歴史」、393頁。
(
45) 『常陸国風土記』久慈郡条。
(
46) 『常陸国風土記』久慈郡条。
(
47) 『常陸国風土記』筑波郡条。
(
48) 大場磐雄 『
祭配遺跡
一神道考古学の基礎的研 究-』 (
角川書店、 1
970 年)、小野真
一 『考古学 ライブラ リー 1
0 祭配遺跡』 (
ニュー ・サイエ ンス社 、 1
98
2年)、塩谷修 「
神
体 山 としての筑波 山」 (
『風土記 の考古学』 1、同成社 、 1
994 年)、大関武 「
筑波 山中に
お ける祭配遺跡 (
1
)」 (
婆 良岐考古同人会編 『
婆 良岐考古』 1
6、 1
99
4 年)、塩谷修 「
筑波
山南麓 の六所神社 と巨石群 」 (
山の考古学研 究会 『山岳信仰 と考古学』 同成社 、2003
年)な ど。
むか
を
た
こそ
に こで
せ
(
49) 『日本書紀』皇極天皇 3年 (
644)6月 乙巳条 には、 「
向つ峰 に
立て る夫 らが
柔手
さきで
我 が手 を取 らめ 誰 が裂手
裂手そ もや
我 が手取 らす もや」 とい う歌が載せ ら
れ てい る 本文 中において これ は、大和国の三輪 山に住む 「
猿」が詠 んだ歌 として紹介
。
されてい る
。
しか し土橋寛氏 による と、 これ は歌垣 のお ける男 の誘い歌 (
求婚歌) に対
す る、女 の 「
はねつ け歌」の一種 だ と解 され る とい う (
土橋 『古代歌謡全注釈
日本書
紀編』く
角川書店、 1
976年〉、337- 339頁)。一首の意 は、 「
向 こ う側 の峰 (
の歌垣) に
立ってい るあの方 の柔 らかい手な ら、私 の手 を触 って もよいが、いったい誰 の、ひび割
れ した手が、私 の手 を触 るのか。 (
止 めてほ しいわ)」 である
。
ここでは女性 が、 「
私 には も う良い人 かい る」 といって、男性 か らの誘 い を断 ってい
るのであるが、その理 由 として引き合 い に出 され たのが、 「
向 こ う側 の峰 の歌垣 に立っ
男性」 とい う点が興味深い。 た とえそれが嘘であるにせ よ、当時の歌垣では、 このよ う
な歌が作 られ るほ ど、い くかっの集 団 ごとの歌の輪 ができ、またお互いにそれ を 目視す
ることが出来た ことをあ らわす のであろ う。つま り歌垣 は、ひ とま とま りの大集会 の形
で開かれ たのではな く、それぞれ のま とま りごとに聖地や ってきた小 グループを単位 と
してお こなわれ ていた とみ るべ きである
。
ミヤ オ
ヤオ
チュ ア ン
イ
-
(
5
0) なお現代 中国の雲南省や、同国西南部地方 の 苗 族 、揺族 、 壮 族 、葬族、 白族 な ど
の間では、今 で も歌垣的慣行 が残 ってい ることで有名 である。 それ を国文学の立場か ら
調査 した工藤 隆氏 による と、各地の歌垣 の規模 はおおがか りな ものではない よ うである。
996年 の雲南省剣川 の石宝 山の林 の中の傾斜地での歌垣 は、200名近 くの見
例 えば、 1
-28-
物人 に囲まれてお こなわれ、実際に歌掛 けを続 けたのは、女性 1人 と 2人の男性 だった
と報告 され てい る (
同 『古事記 の起源
一新 しい古代像 をもとめて- 』 中公新書、2006
年 、65 頁)。 ただ し現在 の中国の歌垣行事 は、かな り観光行事化 してい る点に注意す る
必要があろ う
。
(
51
) なお古代 の通婚 圏について、 これ までい くつかの研 究が積 み重ね られ てい る。 吉村
武彦氏や大町健民 らは、風土記 の歌垣 関連史料等 に もとづ き、かな り広域 な範 囲を想定
し (
吉村 「日本古代 にお ける婚姻 ・集 団 ・禁忌
一外婚制 に関わ る研 究 ノー ト」土 田直
鎮先生還暦記念会編 『奈 良平安時代史論集』上、吉川 弘文館 、 1
98
4 年 、大町 「ウヂ ・
991年)、考古学者 の都 出
イ- ・女 ・子 ども」 『日本村落史講座』6・生活 1、雄 山閣、 1
比 呂志氏 は、土器 の地域的特色 にもとづ き、おおむねそれ を旧制 の郡規模 だ としてい る
(
都出 「
土器 の特色 と通婚 圏」同 『日本農耕社会成立過程 の研究』岩波書店、 1
98
9
年)。筆者 はその当時の通婚 圏 と、歌垣 の開催 単位 を基本 的 に 「
村」 とみ ることは、必
ず しも矛盾 しない と考 えてい る
。
なぜ な ら歌垣 の歌 の中には、既存 のカ ップル が交わ し
た と思われ る歌 も相 当含 まれ てお り (
註 43拙稿参照)、男女の出会いの場 は、歌垣以外
にも い くつかあった と想定 され るか らである。
(
5
2)臼田甚五郎 「
歌垣 の行方
一 民謡研究の一問題 として-」(
『国学院雑誌』昭和 33年 1
月号、 1
958年)、三谷栄一 『日本文学の民俗学的研 究』 (
有精社 、 1
960年)、土橋寛 『古
代歌謡論』 (
三一書房 、 1
960 年)、土橋前掲書 『古代歌謡 と儀礼 の研 究』、渡辺昭五 『歌
垣 の民俗学的研 究』 (白帝社、 1
967年)、土橋寛 『古代歌謡 の世界』 (
塙書房 、 1
968年)、
桜井満 「
歌垣 をめ ぐって」 (
『講座 日本 の神話』 7、有精堂、 1
977 年)、黒沢幸三 「
歌垣
山上伊豆母編 『講座 日本 の古代信仰』学生社 、 1
98
0 年)、渡辺 昭五 『歌垣 の
の世界 」 (
研 究』 (
三弥井書店 、 1
981年)、内 田る り子 「
照葉樹林文化 圏 にお ける歌垣 と歌掛 け」
(
『文学』 5
2- 1
2、 1
98
4年)、吉村前掲論文 「日本古代 にお ける婚姻 ・集 団 ・禁忌
外婚制 に関わ る研 究 ノー ト」、品 田悦- 「
短歌成 立 の前史 ・試論
一 歌垣 とくうた〉の交
通-」 (
『文学』 5
6、 1
988年)、関前掲書 『風土記 と古代社会』第 2章- 2 「
擢歌合 と春
時祭 田」、森朝男 『古代和歌 と祝祭』 (
1
988年 、有精堂)、舘野和 己 「
村落 の歳時記」
(
『日本村落史講座』6・生活 1、雄 山閣、 1
991年)、工藤 隆 『歌垣 と神話 をさかのぼる
一少数 民族文化 としての 日本古代文学- 』 (
新典社 、 1
997 年)、武藤武美 「
祭 り ・饗宴
・歌垣 」 (『週間朝 日百科 45 日本 の歴史』古代 5、朝 日新 聞社、2003 年)、工藤前掲
書 『古事記 の起源
一新 しい古代像 をも とめて- 』 (
2006 年)、辰 巳正 明 『歌垣
一恋
歌の奇祭 をたずねて-』 (
新典社新書、2009年)な ど。
(
5
3) 土橋前掲書 『古代歌謡 と儀礼 の研 究』第 7章 「
歌垣 の歌 とその展 開」
。
(
5
4) 『古事記』景行天皇段。
(
55) 土橋前掲書 『古代歌謡 と儀礼 の研 究』第 7章 「
歌垣 の歌 とその展 開」、460頁。
(
5
6)柳 田 『民謡 の今 と昔』 (
ち くま文庫版 『
柳 田国男全集』 1
8、初 出は 1
9
29年)、385頁。
(
5
7) 土橋前掲書 『古代歌謡論』第 4章 「
古代民謡論
一風土記 の歌 について- 」、 1
64頁。
よ さみ
(
58) この依網池 の所在地 に関 して、『
倭名類衆抄』 による と、河 内国丹比郡 に 「
依羅郷」
お ほ よさみ
があ り、摂津 国住吉郡 に 「
大 羅郷」があった (
池辺弥 『和名類衆抄郡郷里駅名考証』
お お よ さみ
吉川 弘文館 、 1
981年)。 さらに摂津 国の住 吉郡 内の式 内社 として、 「
大依羅神社 四座
(
並名神大、月次 ・相嘗 ・新嘗)」 を確認 できる。
-29-
これ らの事実 にもとづ き、依網池 は摂津 国住吉郡 か ら河 内国丹比郡 に接 して築造 され
た広大 な貯水池 の一つで、 「
大依羅神社」 とい う神社 は、その 「
堰堤 の鎮 め」 として、
「
池水 の霊」 を祭 る神社 であった と推定 されてい る (
『大阪府史』第 2巻第 1章第 3節
「
信仰 の世界」、大阪府 、 1
990年。 岡 田精 司氏執筆分、 1
6
2頁)。 このよ うなの 「
池水 の
霊」の聖地 において、毎年 開かれ る祭配 と連動 した歌垣がお こなれてお り、本文 中に紹
介す る 『古事記』の第 44歌謡 は、そ こか ら採 られ た歌垣民謡 の 1つだ と思われ る。
(
5
9) 『古事記』応神天皇段。
(
60) 土橋寛 『古代歌謡全注釈
古事記編』 (
角川書店、 1
972年)、205頁。
(
61
) 『日本書紀』皇極天皇 3年 6月是月条。
(
62) 土橋前掲書 『古代歌謡全注釈
日本書紀編』、342頁。
(
63) 吉村武彦氏 は、古代 の婚姻 -外婚制 (
族外婚 を含 む) の立場 か ら、本文 の 『日本書
紀』第 111歌謡 にもとづ き、古代 には女性 が 「
面 も知 らず 」 「
顔 を知 らず」 に男 の誘 い
を受 け入れ る形 の結婚 が、 ごく普通 にみ られたのではないか と推定 しい る (
吉村 「
古代
吉 田晶編 『日本古代 の国家 と村落』塙書房 、 1
998年)。い ささ
の恋愛 と顔 ・名 ・家 」 (
か分か りに くい捉 え方 であるが、 この歌では、男性 との 「
性交渉」の問題 が うたわれ て
い るのであって、それ と 「
婚姻」 とはいちお う別次元 の問題 として捉 えるべ きであろ う。
ただ し古代 において も、いわば 「
欲情的」で 「
一過性」的な性交渉 は当然 あった と思わ
れ るが、それが即、婚姻 を意味す る と限 らないであろ う。
れ
(
6
4) 土橋氏 は、 「
小林 に
お もて
せ
我 を引き入 て
許 し人 の
面 も知 らず
う歌 に似通 った現代民謡 として、例 えば、 「うらが若 い時 や
家 も知 らず も」 とい
ほ らではないが
男三人
すす き
は絶や しやせ ぬ」 (
愛知県 ・盆踊歌)、 「
お らも若 い時や
わ ら」 (
山形県 ・草刈歌) な どを紹介 してい る
。
野 山の 芭
今 はやつれて炭 だ
土橋氏 は歌 の中にみ える 「
男三人 は絶
や しやせ ぬ」な どとい うフ レーズを、文字通 りに受 け取 り、老女 自らの 「
娘 の頃の発展
ぶ りを 自慢 した もの と解す るのは誤 り」 と説いてい る (
同前掲書 『古代歌謡 と儀礼 の研
究』、460頁)。首肯 され るべ き意見であろ う。
(
65) 今津勝紀 「日本古代 の村落 と地域社会 」 (
『考古学研 究』 50- 3、2003 年)、同 「
古
代 の家族 と共 同体
一 関 口裕子 『日本古代家族史 の研 究』 (
上 ・下) によせ て-」 (
『宮
城学院女子大学附属 キ リス ト教文化研究所研究年報』38号、2005年)、同 「
歴史のなか
の子供 の労働
一 古代 ・中世 の子 どもの生活史序説 」 (
倉地克直 ・沢 山美果子編 『
働く
こととジェンダー』世界思想社、2008年)な ど。
(
66) 服藤早苗 『平安朝 に老い を学ぶ』 (
朝 日新 聞社 、2001年)第 2 章 「
古代か ら平安社
会-の変容」、同 「
古代社会 の男女 と老童 」 (
『講座 日本史講座』2、東京大学出版会、2004
年)な ど。
(
67) 新川登色男 『日本古代文化史の構想
一祖父殴打伝承 を読む-』 (
名著出版会、 1
994
年)第 11章 「
『
祖父』の歴史」
。
(
68) 従来 の古代 の婚姻史研 究では、 当時の夫婦や男女 の配偶 関係 について、 当事者 間の
自由で、かつ 自主的な意思 による結びつ きが、い ささか加重気 味に説 かれ てきた よ うに
思う (
関 口裕子 『日本古代婚姻史 の研 究
上下』 (
塙書房 、 1
993 年)。 しか し本稿 でみ
た よ うな老人たちの果 た した役割 の重 さをみ る限 り、 この よ うな捉 え方 には再考が必要
になって こよ う
。
-30-
(
6
9
)戸令 の三歳以下条 には、 「
凡男女。三歳以下為 レ黄。十六以下為 レ小。廿以下為 レ中
。
其男廿-為 レ丁
六十一為 レ老。 六十六為 レ者。無 レ夫者。為二寡妻妾 -」 (日本思想大系
き
『律令』、2
2
6頁) とあ り、数 え年 61歳以上が 「
老」、6
5歳以上が 「
者」 と規定 され て
。
いた。
(
7
0
) 田中 「日本古代 にお ける在地社会 の 『集 団』 と秩序 」 (
『
歴史学研究』6
7
7、 1
9
9
5
年)。
(
71
)服藤早苗氏 は、主 に 『今昔物語集』 な どの史料 をも とに して、平安時代後期 の貴族
社会での 「
老人」- の入 り口は、お よそ 4
0歳前後 であった と指摘 してい る (
同 『平安
0
01年、第 1章 「
『
今昔物語集』 に見 る老人の姿」)
朝 に老い を学ぶ』朝 日新 聞社 、2
。
(
7
2)御野国加 毛郡半布里 の戸籍デー タにもとづ き今津勝紀氏が作成 した 「
半布里の 7歳
年齢階級別人 口構成」表 を参考 に して導 きだ した (
同 「
古代史研 究 にお ける GI
S・シ ミ
ュ レー シ ョンの可能性」新納泉 ・今津勝紀 ・松本直子 『シ ミュ レーシ ョンによる人 口変
動 と集落形成過程 の研 究
一科学研究費補助萌芽研 究
研究成果報告書-』2
0
0
5年)。
(
7
3
)「
皆婚」 とい う言葉 は一般的な用語 ではないが、文化人類学や社会学な どの分野では、
ある社会 において人 口 (
社会構成員) の大部分 の人 が、一生の間に一度 は婚姻す るよ う
な状態 を、英語 で、"
Um
ive
r
s
a
l Ma
r
r
i
a
ge
"と呼び、それ を 「
皆婚」 と訳 してい る とい う
(
木下太志 『近代化以前の 日本 の人 口と家族
一失 われた世界 か らの手紙-』 ミネル ヴ
ァ書房 、2
0
0
2年、5
0頁)。厳密 にい うと、 「
皆婚」が事実 になってい る社会 と、それ が
規範 になってい る社会 は区別 しなけれ ばな らないが、 ここでは女性 の 「
皆婚」が、一つ
の社会的規範 になってい る社会 とい う意味で用い る。
(
7
4)前掲拙稿 「
古代女性 の婚姻規範 一美女伝承 と歌垣- 」
。
(
7
5
)今津前掲論文 「日本古代 の村落 と地域社会」な ど。
(
7
6
)関前掲書 『風土記 と古代社会』第 2章- 2 「
擢歌合 と春時祭 田」
。
(
7
7
)なお吉村武彦氏 も、古代 の婚姻制度 -外婚制 の視角か ら、 「
異集 団に属す る男女の求
愛 の場 であった歌垣 が、上位 の共同体首長 の仕切 るものな り、また首長 の勧農儀礼 と結
びつ くことは十分 に想定 され る」 と述べてい る (
吉村前掲論文 「日本古代 にお ける婚姻
・集 団 ・禁忌
一外婚制 に関わ る研 究 ノー ト」、3
9頁)。 ただ しその具体的な論証 を試
みていない。
(
7
8
)関前掲書 『風土記 と古代社会』、7
7頁。
(
7
9
)『日本書紀』皇極 2年 1
0月戊午条。
(
8
0
)土橋前掲書 『古代歌謡全注釈
日本書紀編』、3
3
3頁。
(
81
)『日本書紀』天智 9年 4月壬 中条
(
8
2)土橋前掲書 『古代歌謡全注釈
日本書紀編』、3
7
2頁。
(
8
3
)石母 田前掲論文 「
古代法小史」、2
0
6頁
(
8
4)石母 田前掲論文 「
国家 と行基 と人民」、 1
5
4- 1
5
7頁。
(
8
5
)吉 田 『律令 国家 と古代 の社会』 (
岩波書店、 1
9
8
3年)。
(
8
6)石母 田氏 『日本 の古代 国家』 (
1
9
71年) の全体 を貫 くモチー フを分析 した井上勝博
氏 は、従来 さま ざまに議論 され てきた氏の 「
首長制 の生産 関係 」範境 について、それ が
「
経済的下部構造」 の概念 で もなけれ ば、 「
政治的上部構造」の概念 で もな く、その両
者 の間で相互 に浸透 し合いなが ら、それか らは相対的な 自立性 を有 してい る領域 に属す
-31-
る範境 として理解す る
。
その上でそれ が、 「自立的主体」 としての共 同体成員 の未成 立
を前提 とす る、共 同体首長 と成員 との間の 「
人格 的関係 」、す なわち 「
直接 的で無媒介
な人間関係 」 として定立 され、それ は広 く 「
未 開社会」 に共通す る要素であった と見な
されていた と評価す る (
井上 「
石母 田正 『日本 の古代 国家』 にお けるモテ ィー フについ
て」 『新 しい歴史学のために』21
2、 1
993年)。
この見解 に したがえば、本稿 で引用 した 「
直接的で無媒介 な」人格 関係 に律せ られ て
い る社会 とい う捉 え方 は、ま さに石母 田氏 の 「
首長制 の生産 関係 」論 の根幹 をなす議論
とい うことになろ う
。
(
8
7) 例 えば、服藤早苗 『平安朝 の女 と男
一 貴族 と庶民の性 と愛-』 (
中公新書、 1
995
年)、 1
28- 1
29頁な ど。
-32-
表
各国風土記 にみえる歌垣 関連史料一覧表
国 .那
開催場所
情景描写
(
季節)
参集形態
東
の側
の峰
に流れ
は四方
る泉
に磐
は冬
があるが登
も夏 も絶 山可能である○
えない○
そ を とり飲食 を持 む
って登
ら
をとナ 臨
あま
し、遊楽
をと
め
して憩 う○
春 には浦 の花 夕滞 りをみせ 、秋 は岸 の葉 が色づ (
秦 .秋 .夏)鮎 郎 蛸 と嬢 が浜洲 を追いかけ
く○ 野辺 には 鴛 が聞 こえ、州 には鶴 の舞 う姿 なが ら集 ま り、商竪 と農夫 は小舟 に梓 を さして
がみ える○
往来す る
○
記載
洲 の上
の長
な に続
さ
しは 三く松樹
、 四里
の林○季節
(
1
.
6- 2
ごとに鶴や雁
.
1キロ)○ の姿 祭
洲
(
春
(
秦
毎年
の
りを設
日
葦
白貝や
.
)
秋)昔、那珂寒
四月一
けて酒
さ〇
ま
行方両郡
を飲
ざまな味の貝親
日) み、何
卜部氏の種属
田郎子
の男日も飲楽歌舞す
と女
と海
告拾
が悉
上安是嬢子
の男
う
く集
○
も女
まる○
も、
り、
と
声
島
と
がみ える○松林 の中に奈美松 と古津松 とよばれ い う、年若 く美 しい童子 がいた○去牌 の人 は、
(
夏
の暑
い
目)遠里近郷
か
ら、手
を とり
膝
をな
山田里の滑河
る二本 の木 がある○
の捌 にある○大 きい樹木 が林 をな 神
松
会い、松
人
の気持
の
の樹
は人
ヲに見
に化成
ちを述べ
トコ、神
の下に隠れ、手
られ
した
の
あった○
ることを恥
ヲ
とい
トメ
うだが夜
を
と呼ぶ○擢歌の会で出
とり
じら膝
明けを迎
う○遂
をつ
に二本
け、互い
え、二
の
し、頭上 に広 が る○浄 い泉 が捌 をな し、足 も と らべ、筑波 の雅 曲を歌い、久慈の味酒 を飲む○
に流れ る 青葉 が 自然 の絹傘 とな り、 白い砂 が これ は所詮遊びであるが、人 々は俗塵 の煩 い を
○
○
)
*
r
頃 の敷物 の よ うにみ えてい る○
全 て忘れ さつて しま うとい う○
密筑里の内にある○村 の中にある浄 い泉 を土地 (
夏 の暑 い時)遠 く近 くの郷里 よ り、酒 と肴 を
南
では大井
き流れ川
は海浜
に臨んでい
となる○西
と呼ぶ○夏 は冷
る
と北
た
に山野
く、冬
は暖かい○湧
い、東
と 男女老少
郡家
が
とて
か も多い○
ら真西一里二六
〇歩
アハ
の、忌部神
ビを背負
.ウニ
戸里
.魚介類
にあ
もって、男
が道路
も女 に連
も集 い、休遊飲楽す
な り、海辺 の洲 に沿
る○ って歩
○
る○ 国造 が神 吉詞 を奏上 に朝廷- 出向 く時、事 いて くるう属 目市が立つ ほ どである○彼 らは歌
前 に顧 ぎす る聖地である○ いで湯 は、潮 の干満 い乱れて燕楽 を開 く○湯 を浴 びれ ば、美 しい体
によ
り、海
目の場所
にある
東
.西
.北 陸の境
は山が迫
り、南 は遠
く海
○ が広 がって の人
う
とな
婚節
は
り、万病
ごとに)男女老少
ここを神
に効
の湯
き と呼んでい
目ある
が群れ集
とい るま そ
り、いつ
こで土地
も
う
○
い
る る○
り、泉
の水
が清
く流れてい
東
.西 中央
.北に潟
が険があ
しく、麓
には
つつみ
被
があ
る この 燕会す
(
時節 る地である○
ごとに)男 も女 も群 が り集 い、ある者 は
○
○
被 と海 との間には浜 があ り、並木 の松 が茂 り、 十分楽 しんで家路 につ き、ある発 音遊び耽 り、
渚 は水深
く澄 んでい る○の郡家 か ら二八里の地 の 帰
飯石郡
との境○仁多郡
る○
(
昼
るのを忘れて
も夜 も)男女老少
しま う○つね
が連 らなって往来
に燕喜す る地であ
し、効
川辺 の薬湯○湯 を一度浴 びれ ば、体 は和 らぎ、 き 目が無 声
這った ことはない とい う○地元 の人 は、
万の病 が治 る○
ここを薬湯 と名 づ 甘 いゑq
L
をみな
て
の峰 を彦神 、真 ん中を比売神 、東北端 を御子神 を穐 き厚手 を とって 哩 こ登 る○ 山上で遠 くを望
とい う ○
み、楽飲 して歌舞 し、曲を尽 くして家路 につ く○
集
させ
ま朝
た○その時、常
り、飲酒
に、 の宴 を催
田に を召
田部
した○
喚
らは五月
しさ 宗 の地
に この岡に
を開墾
枚
はひ
岡里の内にある○
ぐり
佐
杵嶋岳
歌垣
岡
山川
の南方二里
に、三つの峰が連
毎年 の春
間の士 女 国の男女
は、酒 をが、手
さげ琴
(
②常陸
③常陸
④常陸
⑤常陸
⑥常陸
⑦常陸
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫肥前
⑬播磨
⑭摂津
丑常
出雲
陸 .仁多
茨城
行方
香
揖保
雄伴
筑波
杵嶋
意宇
久慈
嶋根
島 海
川
漆仁
板来
筑
石
香
周辺
童子女松原
前原
大井
高浜
い
お
き
邑美
しっ
わ
ほ
し
辺
波岳
の
門
島大神
み
ま
に
と洲
の
の地
の出湯
の埼
の冷水
の南の
い
しみ
で
辺
の
ず
ゆ 郡家
西の峰
は峻険で、雄神
といって登 なる○南西端
山で きない○ (
春花
開時 と秋)郷
.秋葉黄節)坂東諸
仁
徳
筑
紫
の
部
(
註)⑫ の出典 は、『万葉集註釈』巻 四 (
肥前 国風 土記逸文)、⑭ は 『釈 目本紀』巻一三 (
摂津 国風 土記逸文)。 それ以外 は
すべて風土記本文 を出典 とす る。
(
註)それぞれ の史料 には、付 随歌謡 を載せ るものがある。(
丑に 2首、② に 2首、④ に 1首、⑤ に 2首、⑫ に 1首の短歌が
み えるが、 ここでは省 略 した。
-33-
石作氏の配置 とその前提
中林
隆之 (
新潟大学人文学部准教授)
はじめに
『播磨 国風土記』 には、 「
石作」氏 に関す る伝承 がい くつ も確認 できる
。
小稿 では、 こ
の 「
石作」 を称す る氏族お よび彼 らと同祖 系譜 を有 した氏族群 の性格 を究明す ることをつ
うじて、古代国家 の形成 か ら確 立 に至 る時期 にお ける、王権 と、播磨 を中心 とした列 島内
各地域 との関係 の具体相 とその変遷 について考 えてみたい。
「
石作」 を称す る氏族 ・集 団 としては、石作連 をは じめ、石作造 ・石作首 ・石作、 さら
には石作部 な どが、諸史料 に散見 され る (
1
)
。 これ らは、律令制前 において、石作連 一石作
造 ・石作首 一石作 一石作部 といった、石作連氏 を頂点 とす る、典型的な部民制的な統属 関
係 を形成 した 「
負名」氏 としての伴造氏族 、お よびそれ を支 えた部民集 団であろ うことが
推察 され る (
以下、 これ らを石作系氏族 と一括す る場合 がある)。 これ ら石作系氏族 の王
権 の も とでの職 掌 は、後述す る 『播磨 国風土記』 (
以下 『風 土記』 と略記)や 『新撰姓氏
録』 な どか ら うかが える伝承 内容 の検討 よ り、石材 の調達 と加 工、 とりわ け 「
作石」、つ
ま り石製 品、就 中、石棺 の造成 ・調達 に密接 に関わった氏族 であろ うことが論 じられ てき
てい る (
2
)
。おおむね妥 当な指摘 であ り、本稿 の以下の考察 も、そ うした諸先学の成果 を前
提 としたい と考 える。
しか し、石作系氏族 に関 しては、なお未解 明の側面が多 く残 されてい る と思われ る
。
す なわち、従来 の研 究では、石作系氏族 の氏族系譜 について必ず しも充分 な考慮が払 わ
れていない。系譜 の分析 は、氏族 の出 自や擬制 を含む 同族 関係 、王権 との関係 な どを歴史
具体的 に考 える うえで不可欠 な作業である
。
しか し石作氏 については、 こ うした基礎 的な
検討作業が丁寧 にな されてい るわけではない。
また、石作系氏族 の分布 には顕著な偏 りがみ られ る。 もちろん史料 の残存 のあ り方 を考
慮す る必要があるのだが、それ で も全 国一律 にこれ らの氏族 が分布 してい るわけでな く、
きわめて限定的であることは疑いがたい。 だが、そ うした石作系氏族 の分布 の偏在 の意味
について も、独 自に検討 されてきたわけではない。
以上の二点にも密接 に関わるが、石作系氏族 が、実際に伴造 一部民制的体制 によって王
権 に奉仕 した時期 について も、再検討 の余地がある。石作氏 に直接言及 した従来 の研 究で
は、『風土記』や 『新撰姓氏録』 の伝承 な どに依拠 して、かな り早い時期 (
四 ・五世紀 こ
ろ) に、石作系氏族 による石材加 工 ・石棺調達の組織化 を想定す る場合 がみ られ、六世紀
半ば以降に、渡来系の技術 を有 した新来の集 団が 旧来 の石作系氏族 の職掌 に とってかった
とす る見方 もある (
3
)
。
しか し、金石文 な ど確実な史料 によるかぎ り、伴造 一部 の形で整備 された支配体制 の存
在 は、六世紀半ばを遡 っては現状 では確認 され ていない (
岡 田山一号墳 出土鉄剣銘)。他
方、部民制的編成方式 は、天武 四年 (
六七五)の民部 ・家部 の廃止詔以前 には、全面的 に
廃止 されていたわけではない。 したがって、氏族 の系譜 と分布 のあ り方 の検討 をふまえっ
-34-
つ、石作系氏族 の伴造 一部民制的編成 の時期 とその特徴 について も、史料 に即 して検討 し
直 してみ る必要がある と思われ る
。
その際、忘れ てな らないのは、石材加 工な どに関わ る
現業部 門での技術刷新 の進展状況 と、氏族集 団の中央権力 による政治的な編成 ・配置 の動
向 とは、関連 はあるものの、相対的には別次元の問題 である とい う、自明の観 点であろ う。
そ こで本稿 では、文献史学の立場か ら、石作系氏族集 団の、王権 に組織 された時期 とそ
の政治的編成 のあ り方 について、再検討 を試 みたい。
さらに、それ らの検討 をふまえた上で、部民制的体制が整備 され る以前の、王権 に関わ
る播磨産 の石棺 の製造 ・集配 のあ り方 について も、 とくに地域 の側 と王権 の側 、 この双方
の視点か ら解 明す ることをめざしたい。
一 石作氏の系譜 と尾張氏
A 『風 土記』印南郡大国里条 と、B 『新撰姓氏録』左京神別 下 には、以下の よ うな石作
連氏 の奉仕講 が存在す る
。
A 此里有 山名伊保 山、帯 中 日子命於神 而息長帯 目女命 、率石作逮 (
大)来、而求讃
岐羽若石也、 自彼度賜未定御慮之時、大来見顕、故美保 山
B 火 明命 六世孫建 異利根命 之後也 、垂仁天皇御 世、奉為皇后 日英酢媛命 、作石棺献
之、仇賜姓石作連公也
A の伝承 では、帯 中 日子命 (
仲哀) の死去時に、息長帯 目女命 (
神功皇后)が讃岐の羽
若石 を率いてきた 「
石作連」 に求 め させ た ところ、播磨 の伊保 山 (
美保 山)で石材 を発見
した とされ 、B では、垂仁朝 の皇后 日英酢媛 のための石棺づ くりに関わ らせ て、 「
石作連
公」の賜姓伝承 が示 されてい る。 まず この二つの伝承 の もつ意味について考 えよ う。
播磨 には、畿内周辺 の中期 の大型前方後 円墳 の長持形石棺や後期古墳 の家形石棺用 の石
材 として著名 な竜 山石 をは じめ、高室石や長石 な ど、良質 の凝灰岩石材 の採掘地が存在す
る (この点は讃岐で も同様 で、鷲 ノ山の凝灰岩石 が、 ごく初期 の畿内地域 の古墳 の石棺 と
して使用 され た ことが知 られ てお り、A 伝承 にみ える讃岐羽若石 と推定 され てい る)(
4
)
。
また播磨 には、八世紀段階 にお ける石作系氏族 の痕跡 が濃密 に残 る。『風 土記』 では、
印南郡大国里条 の A 伝承 の他、宍粟郡 に 「
石作里」があった ことを伝 え (
『和名類衆抄』
石作郷)、里名 の変更 由来が 「
石作首」が居住 していた ことによる と記 され てい る (
後述)。
餅磨郡安柏里条 で も、 「
石作連」が賀 毛郡長畝村 の村人 と抗争 した とす る伝承 を載せ る
。
天平六年 (
七三二)付 の賀茂郡既多寺で書写 され、のち石 山寺 に伝来 した百巻 にお よぶ大
部 の知識経 である既 多寺大智度論 に も、書写知識 の人員 の中に 「
石作連知麿 」 (
巻五六)
と石作連石勝 (
巻五七)の名 が確認 できる (
5
)
。
したがって、石作連氏 を頂点 として部民制的 に編成 され た石作系氏族集 団が、A ・B の
伝承 にあるごとく、竜 山石 を主軸 とした、王権 に関わ る石材 を活用 した石棺 の造成 ・調達
・流通過程 に、いずれ の時点か らかは別 として、密接 に関わった こと自体 は、諸先学の指
摘す るごとく疑いないであろ う
。
しか し他方、伝承か ら確実 に言 えることは、石作連氏の祖 が、王 (
仲哀 一神功皇后、垂
仁 一 日英酢媛) のために播磨竜 山石 な どの石材 を調達 ・加 工 し石棺 を献上 した とす る奉仕
と賜姓 に関わる始源講 が、八世紀 か ら九世紀前半の時点において、社会的 ・国家的に承認
され ていた ことのみであることも、再確認 してお く必要があるだろ う。
-35-
石棺 の調達 は、首長権 の継承 に関わ る喪葬行儀礼 の一環 を しめるものであろ うか ら、王
権 ・豪族層 に とってきわめて重視 され、その事業 を担 当す る集 団 も、 自己の王権-の仕奉
を物語 るもの として伝承 していった と考 え られ る。A ・B の伝承 の存在 自体、その ことを
如実 に示 してい る
。
にもかかわ らず、そ うした重要な仕奉 を行 った とされ る石作連氏 の事
績 は、氏族伝承 を重要な素材史料 の一つ として編纂 され た 『日本書紀』や 『古事記』では、
一切確認 できない (
6
)
。 この点は、同 じく王権 の葬送儀礼 を担 当 した土師氏 の伝承や事績 が
早 くか ら記紀 にみ られ、土師連 に天武一三年 (
六八四)一二月 に宿禰 が賜姓 され てい る (
『日
本書紀』天武一三年一二月 己卯条) ことと比較 して も、対照的である (
7
)
。
これ らの事実 は、A ・B にみ える、垂仁や仲哀 ・神功 な どといった、実在性 その ものが
問われ る時期 の王 ら- の奉仕講 は もとよ り、讃岐鷲 ノ山石 の到 り抜 き式石棺 が畿内の松 岡
山古墳 に調達 され た四世紀後半や、その影響 を うけた播磨竜 山石 を素材 とす る長持形石棺
が巨大前方後 円墳 に埋納 された五世紀代 に、石作連 が、実際 にこれ らの石棺 の製作 と流通
を担 当 し、当該期 の王権 に奉仕 した とみ ることを蹟蹄 させ る
。
では、実際に石作系氏族 が負名氏 として編成 され、竜 山石 な どを用いた石棺 の調達 に関
わったのは、いつ、 どのよ うな契機 にもとづ くものであったのか。その問題 の解 明のため
にも、石作系氏族 の系譜 と分布 について、今一度詳細 に検討す る必要があろ う。
『新撰姓氏録』 には、石作系氏族 の系譜 が、左京神別 下 (
石作連)・山城神別 (
石作)
・摂津神別 (
石作連)・和泉神別 (
石作連) に記載 され てい る。 これ らの系譜 では、石作
連 ・石作氏が、いずれ も 「
火 明命 」 を祖 としてい ることが注 目され る
。
『日本書紀』神代 下 に、 「
号火 明命 、是尾 張連等始祖也 」 (
第九段正文) 「
-火 明命 (
児
天香 山)、是尾 張連等遠祖 」 (
第九段一書第六 ・第八) としてい るよ うに、 「
火 明命 」 は、
尾張連 ・宿禰 な どと同族系譜 をもつ諸民族 の始祖 (も しくは遠祖) と位置づ け られた神格
であった。『風土記』 で も尾 張連氏等 の 「
上祖 」や 「
火 明命 」 に関わ る伝承 が確認 できる
ので (
後述)、上記 の播磨 に分布 した石作連氏 も、系譜 は同様 であった とみて よい (
8
)
。
『日本書紀』継体即位前紀 ・『古事記』継体段 にあるよ うに、尾張氏が、継体 の 「
元妃」
で安閑 ・宣化 を儲 けた 日子媛 を輩 出 した、尾 張地域 を本拠 とした大豪族 であった ことは疑
いがたい。尾張地域南部 にお ける前方後 円墳 の出現お よびその大型化 は他地域 よ り遅れ る
が、五世紀後半か ら六世紀前半の ころに大型古墳 が集 中的 に造営 され、六世紀前葉 には、
現熱 田神宮鎮座 地の至近 に位置す る熱 田台地上 に、東海地域最大で、且つ真 の継体陵 とみ
られ る今城塚古墳 と相似形 を とる前方後 円墳 として著名 な、断夫 山古墳 が構築 され るにい
たる。 この前後 の時期 に、同 じく今城塚古墳 の約二分 の一 の類似形古墳 で二重周濠 をもっ
ていた味美二子 山古墳や、白山神社古墳、白鳥古墳 な どの大規模 な前方後 円墳 も造 られ た。
断夫 山古墳や味美双子 山を中心 とす る味美古墳群 (
北群) は、二分割倒 立技法 とい う独特
の制作技法 を とる須恵器質 の円筒型埴輪 (
尾 張型埴輪) をそなえていた ことで よく知 られ
てい るが、 これ らの古墳 こそが、継体 を擁立 ・支持 した時期 に前後す る尾張氏の首長墓 で
あった可能性 が高い とみ られてい るものである (
9
)
。
新井喜久夫 が早 く指摘 した よ うに (
1
0
)
、尾 張氏 は、八世紀 には、命 婦尾 張宿禰小倉 が尾
張国造 となった事例 (
『続 日本紀』天平一 九年 三月戊寅条) の他 、愛知郡 (
『続 日本紀』
和銅 二年五月庚辰条)・中島郡 (
天平六年 「
尾張国正税帳 」 『大 日本古文書』- ノ六一 四、
『日本霊異記』 中二七)・春部郡 (
天平二年 「
尾 張国正税帳 」 『大 日本 古文書』- ノ四一
-36-
五、『日本 三代実録』仁和元年一二月二九 日己卯条)・海部郡 (
『日本後紀』延暦一八年五
月 己巳条)に、大領 ・少領 ・主政 な どとして確認 できる。また 『
延喜式』神名帳 によれ ば、
山田郡 に 「
尾 張戸神社」が存在 した。美濃 にも、尾張氏の族姓である 「
尾 張国造族」や 「
尾
張戸」の分布 がみ られ る (「
美濃 国加 毛郡半布里戸籍 」『大 日本古文書』- ノ五七∼九六)。
断夫 山古墳が所在 した熱 田台地近辺 は、伊勢湾 を間近 に望む臨海部 であった。 また、海
部郡 ・春部郡 な ど、尾 張氏 の分布域 は、揖斐川 ・長 良川 の中下流域 にあたる。両河川 の河
口部 にあた る海部郡 には、海部連 ・尾 張氏 と同 じ 「
火 明命 」 を祖 とす る系譜 を有 した海連
な どが分布す る。揖斐川 ・長 良川や これ に合流す る木 琶リr
r
を遡上すれ ば美濃 にいたる し、
伊勢湾 の対岸 には桑名津がある。尾張氏の勢力基盤 は、 この伊勢湾 に面 した 「
アユチ潟」
お よび揖斐 ・長 良 ・木 琶リr
r
な どの、海上 ・河川交通 ・水運 の掌握 が大 きい と考 え られ てお
り、祖 とされた 「
火 明命」 も、海部系氏族 の祖 とされ た神格 とされてい る (
l
l
)
。
これ らよ り、尾 張氏 は、五世紀末ない し六世紀初頭以来、八世紀 にいたるまで、断夫 山
古墳や熱 田神宮の所在す る愛知郡域 を中核 として尾張諸郡 に盤据す るのみな らず、美濃 ・
伊勢湾一帯 を勢力下においた大豪族 であった ことがわかる。 そ うした尾 張氏 は、継体 の即
位以降、王権 と密接 につなが りなが ら中央 に進 出 し、 これ に奉仕 し支 える氏族 となった。
尾張 日子媛所生の宣化 が即位 した ころ、蘇我稲 目の指揮下で、尾 張氏が 「
尾 張国屯倉」の
穀を 「
官家那津之 口」-移送 してい ることが知 られ る (
『日本書紀』宣化元年五月辛丑条)。
また敏達 (
欽明 と宣化女 との間に所生) と豊御食炊屋姫 (
のちの推古) との間の所生子や
山背大兄王 の子 に、 「
尾 張王」・「
尾治 王」 の名 が確認 できるが (
『日本書紀』敏達五年 三
月戊子条、『上官聖徳法王帝説』)、彼 らは尾 張氏 の乳母 に養育 され た王子 であった可能性
がある (12)。蘇我民本宗 の滅 亡後 に も、尾 張氏 は、壬 申の乱 で活躍 し、天武一三午 (
六八
五)一二月 に宿禰賜姓 され てい る (
『日本書紀』天武一三年一二月条)。 と りわ け、尾 張
宿禰 大隅が持統一 〇年 (
六九六) に直広韓 とな り、その後霊亀二年 (
七一六) に水 田四〇
町 を賜 った こ とが注 目され る (
『日本書紀』持統一 ○年月条 ・『続 日本紀』霊亀二年 四月
条)。 これ は、尾 張氏 が掌握す る軍勢 が、壬 申の乱 の帰結 に重要 な役割 を果 た した ことを
如実 に示す (
『続 日本紀』天平宝字元年一二月条)(
1
3
)
。尾 張氏 が奉斎 した とみ られ る熱 田
社 (
『釈 目本紀』所 引 「
尾 張国風土記」逸文) の神 宝 の 「
草薙剣 」が、天智 ・天武期 の王
権 に崇敬 され ていた こ とも重要 である (
『日本書紀』天智七年是歳条 ・天武朱鳥元年六月
戊寅条)。石作系氏族 の頂点 に位置す る石作連氏 は、そ うした王権 中枢 に連 なる東海 出 自
の有力豪族 たる尾 張連 (
宿禰)氏 と同 じ、 「
火 明命」 を祖 とす る系譜 を有 していた。
石作系氏族 の尾 張氏 とのつなが りは、系譜上の関係 のみ に とどま らない。尾張には、 中
島郡 ・山田郡 に石作郷 があった。平城 宮 出土木簡 に 「
尾 張国 中島郡石作郷」 とあ り (
『平
城 宮木簡』二
二二五一)、天平勝宝二年 (
七五 〇) 四月七 目付 の仕丁送文 に、仕丁の本
貫地 として 「
尾 張国 山田郡石作郷」がみ える (
『大 日本古文書』二五 ノ一三八∼九) 『延
。
喜式』神名帳 には、中島郡 ・葉栗郡 ・丹羽郡 ・山田郡 にそれぞれ石作神社 の記載 がみ られ
る。神名帳 によるかぎ り、石作神社 は、他 には、 山背 (
山城)国乙訓郡 に一社 が存在す る
のみである (
山背 については後述)。石作神社 は、石作系氏族 の奉斎 した神社 であろ うか
ら、それが四座 も鎮座す る尾張地域 と、石作系氏族 との関係 がきわめて濃密 であった こと
は疑い よ うがない。
「
御濃 国味蜂 間郡春 日部里戸籍 」 (
『大 日本 古文書』- ノー∼二 四) に も、石作 と石作
-37-
部 の戸主 ・戸 口名 が確認 できる 味蜂 間郡 は尾張国に近接 し、「
尾張国造族」や 「
尾張戸」
。
が分布 した加 毛郡 にも近 く、且つ、言 うまで もな く大海人皇子 の湯休 邑が存在 し、壬 申の
乱 に際 してその拠 点 となった地域 に他 な らない (
『日本書紀』天武即位 前紀)。 味蜂 間郡
の敏達 一静 明系王族 の直接的な勢力基盤 としての地位 は、おそ らく継体 の擁立期 まで遡 る。
この点は近江 も同様 であろ うが、そ こにも石作部 が分布 していた (
伊香郡
-
『日本三代実
録』貞観 七年三月二八 日条)。石作連氏 を中核 とした石作系氏族 は、以上 の よ うな地縁的
関係 にもとづいて、濃尾地域 にお ける支配的勢力 た る尾張氏 との間に系譜 を共有す る関係
を形成 していた もの と思われ る
。
二
石作氏の配置 と山背 ・播磨
石作連民 らが奉斎 した と考 え られ る石作神社 ・石作神 は、尾張のみな らず 山背 国乙訓郡
に も存在 した。 『延喜式』神名 帳 には乙訓郡 に石作神社 がみ え、『日本 三代実録』貞観 元
午 (
八五九)正月二七 日条 には、「
石作神」 とある。同 じ 『日本三代実録』の元慶三年 (
八
七九)閏一〇月五 目条 によれ ば、 乙訓郡 には 「
石作寺」があ り、寺 田 「
四段三百十六歩」
が 「
返入」されてい る また 『和名抄』によれ ば、乙訓郡 には 「
石作郷」があった。一方、
。
『大 日本古文書』
平安遷都以前の、天平勝宝九歳 (
七五七) 四月七 目付 の 「
西南角領解 」 (
ノ二二七) に、 「
山背 国久世郡奈美郷戸主従七位 下石作君足戸 口」 の 「
石作連 日蹄」の名
がみ え、 「
山背 国綴喜郡大住郷 (?)隼人計帳 」 (
『大 日本古文書』- ノ六四一∼六五一)
で も、隼人美止美 の妻 として 「
石作連族綿売」が確認 できる
。
乙訓郡 と隣郡 の久世郡 は巨
椋池 に面 し、綴喜郡 は、久世郡 に隣接 し巨椋池 に至 る木津川水系で乙訓郡 とも容易 に繋 が
る。 これ らよ りすれ ば、乙訓郡域 と、その近辺 の久世郡 ・綴喜郡域一帯 こそが、畿内での
石作系氏族 の もっ とも有力 な拠点であった とみて よか ろ う。
乙訓 ・久世 ・綴喜郡 の周辺域 には、他 にも多 くの尾 張系氏族 が分布 してい る。 乙訓郡 の
北 に位 置す る愛宕郡 には、尾 張連氏 の同族 と考 え られ る 「
尾 張連族」がいた (「
愛宕郡雲
。久世郡 で も、吉 田晶
上里 ・同雲 下里計帳 」 『大 日本 古文書』- ノ三五 〇 ・一 ノ三七 〇)
が指摘 した よ うに尾 張系氏族 の分布 が確認 できる (
1
4
)
。天平一五年 (
七 四三) 四月二二 目
付の 「
弘福 寺 田数帳」 に久世郡列栗郷戸主の六人部連小坂 の名 がみ え (
『大 日本古文書』
二 ノ三三六)、『新撰姓氏録』 山城神別 には水 主直が載 る
。
また 『新撰姓氏録』左京神別
によれ ば、榎 室連 は 「
久世郡水主 邑」に居住 した と記 され、伊福部益人の名 が長保三年 (
一
〇〇一) 四月付 「山城 国禅 定寺 田自流記帳 」 (
『平安遺文』二 一四 〇八) にみ えてい る
。
これ らの氏族 は、『新撰姓氏録』 によれ ば、いずれ も石作連氏や 山城 国神別 に記載 され た
「
石作」 と同 じく、 「
火 明命 」 を祖 とす る系譜 を有 していた。
この うち伊福部氏 は、東 国を含む各地 に分布す るが、尾 張国某郡 に主帳 として 「
伊福部
大麻 呂」 の名 がみ えるこ とか らす る と (
天平六年 「
尾 張国正税帳」)、尾 張が伊福部氏 の
有力 な盤据地であった とみてまちがいない。美濃 で も、君姓 の 「
伊福部君福 善」が 「
味蜂
間郡春 日部里戸籍」で主政 としてみ えるほか、本筆郡栗栖太里 ・山県郡片野郷 な ど複数 の
郡 に無姓 の 「
伊福部」の人名 が確認 できる
。
六人部氏 について も、無姓 の 「
六人部」が、
同じ 「
味蜂 間郡春 日部里戸籍」 に多数記 され ていた。つま り、 これ らの氏族 も、石作系氏
族 と同様 に、系譜 のみな らず分布 の上で も、尾張氏の勢力圏 と重 なってお り、 ともに淀川
水系周辺部 の山背地域一帯 に盤据 していたわけである
。
-38-
乙訓郡 ・綴喜郡域 が、継体が弟 国宮 ・筒城宮 を構 えた と伝承 された地であることは言 う
まで もな く、久世郡域 も両宮お よび樟菓宮の伝承地た る河 内の交野郡域 に近接す る。 これ
らの継体の宮伝承地の近辺 の古墳 では、六世紀前半 ころの、尾張系の工人の何 らかの関与
が推定 され る須恵器質埴輪 をそなえた古墳 の事例 が複数例確認 されてい る。五ケ庄二子塚
古墳例 (
宇治市)・物集女車塚周辺遺跡例 (
向 日市)・荒坂横 穴 B支群 5号横 穴 (
八幡市)
例 ・堀切 7 号墳例 (
京 田辺市)である (
1
5
)
。 同 じく継体 のキサキを輩 出 した氏族 の一員 で
ある三尾公真熊 が久世郡 に (「山背 国司移 」 『大 日本 古文書』二 ノ三 〇一)、三国真人氏 が
矢 田部造麻 呂家地売券 」 『大 日本 古文書』一五 ノ一二八) こ とも注 目さ
宇治郡 にいた (「
れ る。 山背地域 は、継体 を支 えた東 国 ・北陸方面の氏族群 の痕跡 が色濃いのである。
一方、宇治郡域 の木幡 に所在 した宇治二子塚古墳 は、今城塚古墳 の約三分 の二の縮尺 の
相似形 で築造 され た と推定 され る、二重周濠 をもった六世紀前半 ころの大型前方後 円墳 で
ある。 そ こには今城塚古墳 と同 じ北摂津 の新池埴輪窯跡 で制作 された埴輪がそなえ られ て
いた とい
う
。
これ らか ら、宇治二子塚古墳 は、継体の擁立 に荷担 した有力豪族 の墓である
とみ られてお り、具体的には、 山背か ら近江 に至 る地域一帯 に大 きな勢力 を有 し、継体 の
キサ キ英媛 を出 した ワニ系氏族 の墳墓 で ある可能性 がある とされ てい る (16)。宇治二子 山
古墳 の近辺 は、岡屋津や東 国- 向か う 「
宇治道」な ど水陸交通の要衝 であった。東 国 との
関係 では、近江 のみな らず美濃 か ら尾 張にかけて ワニ系氏族 の痕跡 を多 くとどめてい るこ
とが注意 され る
。
とりわけ、尾 張国某郡で和適部 臣若麻 呂が少領 としてみ える (
天平六年
「
尾 張国正税帳」) こ とや 、和適部 臣君手が壬 申の乱 に際 して大海人 の トネ リとして村 国
男依 ・身毛君広 とともに美濃 に派遣 され た (
『日本書紀』天武元年 六月壬午条) こ とな ど
は重要で、
濃尾地域 とワニ系氏族 との関係 がきわめて深 い ものであった ことを示 してい る。
以上 を重ね合 わせ て考 える と、 「
火 明命 」系譜 を有 した石作連氏 をは じめ とす る石作系
氏族 の乙訓 ・久世 ・綴喜郡域 での居住 は、継体擁立以降の王権 を支 えた氏族 同士の連携 を
一つの前提 とした、尾 張系氏族群 の山背地域-の進 出、 とい う政治動 向の一環である蓋然
性 が高い と判断 され る。 なお、石作郷や石作神社 ・石作寺が所在 した乙訓郡、お よび石作
系氏族 の分布 が確認 され るその周辺域 には、後期 ・終末期古墳が集 中 し、それ らの古墳 に
は組み合 わせ式 の家型石棺 の埋納例が多数確認 できる。その石棺材 は多 くの場合 、播磨竜
山石 であった (
1
7
)
。
石作氏 と尾張系氏族 との関係 については、その竜 山石 の産地た る播磨 で も同様 の ことが
言 える。上記 した よ うに、既多寺大智度論 の写経知識 に石作連氏が二人名 を連ねていたが、
同 じ知識 中に、賀茂郡 の隣郡 である神埼郡 出身の 「
六人部奈支佐」が確認 できる (
三七巻)。
また 『風土記』 によれ ば、餅磨郡安柏里 に石作連氏がいた ことがわか るが、その餅磨郡 の
胎和 (
伊和)里条 には、 「
尾 張連等上祖長 日子」の馬墓伝承 があ り、 さらに同条 には、 「
火
明命 」 に関わる神話伝承 も残 され ていた (
後述)。
ところで、尾 張氏ない しその配下の部民の痕跡 は、播磨 のみな らず、吉備 ・周 防な ど瀬
戸内海沿岸部 に確認 できる 備前 の邑久郡 には尾 張郷 があ り、八世紀 にはそ こに 「
尾張部」
。
がいた (
『平城 宮木簡』二
二七五二号、『和名類 衆抄』)。 また、近 隣の御 野郡 には尾針
神社 ・尾治針名真若比女神社 もあった (
『延喜式』神名 帳)。 邑久郡域 は、 「
吉備 氏」の反
乱伝承 で、王権 の側 についた とされた吉備海部氏 の本拠 とみ られ てい るが、 この地 には、
吉 田晶が指摘す る とお り、宗我部や 白猪部 ・葛木部 といった、吉備 の諸 ミヤケの整備 に関
-39-
与 した諸民族 の部民の分布 が確認 できる (
1
8
)
。次 に、『続 日本紀』天平神護元年 (
七六五)
三月突 巳条 には、周防国佐波郡人尾張豊国 ら-の 「
尾 張益城宿禰 」の賜姓記事がある。尾
張豊国が居住 した佐波郡 は周防国府所在郡 であ り、そ こには瀬戸 内海交通の要衝 たる佐波
津 があった。佐波津 は、景行 ・仲哀 の九州征討伝承 (
『日本書紀』景行一二年 九月戊 中条
・仲哀八年正月壬午条)がみ られ、推古一一年 (
六 〇三) の新羅征討将軍来 日王子 の葬儀
を実施 した地 として知 られ る (
『日本書紀』推古一一年)。一方、尾張豊国 らが賜 った 「
益
城」 は、尾 張の 「
間敷 屯倉」の所在 した地 (
中島郡三宅郷 も しくは海部郡三宅郷付近) を
元来 の本拠地 とした ことに因む可能性 がある。そ うした氏族 が佐波津 を擁 した周 防国佐波
郡 にいた。 そ して播磨 の場合 も、『風 土記』 に よる と、 「
尾 張連等上祖 」 の伝承 を有 した
餅磨郡胎和 (
伊和)里 に、かつて 「
餅磨御 宅」が置かれていた。
ここで、上記 した蘇我稲 目の指揮下で尾 張氏が 「
尾 張国屯倉」の穀 を 「
官家那津 口」送付 した とい う、宣化元年紀 の記事があ らためて想起 され る。 この穀 の移送記事 は、仁藤
敦史が指摘す るよ うに、当該期 の朝鮮 半島情勢 の緊迫 に対応 した軍事行動 のための軍糧集
積 を 目的 とした、 ミヤケ制 の整備事業 の一環 とみ られ 、史実 を反映 してい る と考 え られ る
(
1
9
)
。 したがって、大局的 にみて、尾 張系氏族 ・部民 の瀬 戸 内海 交通上 の要地- の進 出 ・
配置 は、いずれ も、 この六世紀前半以降にお ける、尾 張か ら那津官家 にいた る諸 ミヤケの
整備 ・維持 といった、当該期 の中央政権 の政策 と密接 に関わ るもの とみ るべ きであろ う。
とりわけ、餅磨 ミヤケは、一 四の 「
丘」の伝承 を有 した伊和里付近 の港湾機能 を中核 と
した ミヤケであ り、且つ 山陽道 ・美作道 となる幹線道路 も掌握 した、のちの播磨 国府- と
)
。竜 山石採掘地 (
現姫路市高
系譜 してい くこ とにな る播磨最大 の王権 の拠 点で あった (20
砂) は同郡域 内の至近距離 に位置す るので、畿内-送 られ る家形石棺 の製作や集配 な どの
事業 も、 この ミヤケの機能 の重要 な一角 を占めていた と考 えて矛盾 はない。 とすれ ば、石
作連氏 の餅磨郡域や加 古川水系域-の配置 は、餅磨 ミヤケを通 しての王権 による竜 山石 な
どの家形石棺用石材生産 ・加 工地の直接的掌握 の要請 にもとづ く、 とみて よいであろ う。
畿内での竜 山石製 の家形石棺 は、今城塚古墳で、石片が阿蘇 ピンク石や二上 山白石 の石
棺片 とともにみ られ た こ とが確認 され てい る (21)
。 その後 も、見瀬 丸 山古墳や州墓古墳 ・
菖蒲池古墳 ・水泥古墳、牧野古墳 ・西宮古墳 な ど、大和地域 では、大王 をは じめ とした王
権 中枢 の担い手 とみ られ る横穴式石室 を持つ大型墳墓 に埋納 され た、別技式石棺 が多 くみ
られ る 王 ・キサキの石棺調達 を石作連 が担 当 した とす る A ・B の伝承 は、実際 には、 こ
。
の時期 の王権 に関わる竜 山石製家形石棺 の調達事業 を統括 した石作連氏 の事業 を、過去 に
まで遡 らせ て語 った ものであろ う
。
一方、石作氏 の畿内最大の居住地 とみ られ る乙訓郡お よびその周辺 の西 ・南 山背 に分布
が集 中す る竜 山石製家形石棺 は、大和 のそれ とは異なって、ほ とん どが小規模 な古墳 に埋
納 され た組み合 わせ式 の石棺 であった。それ らの石棺 の被葬者像 をめ ぐっては さま ざまな
見解 が提示 され てい るが、 ここでは、従来言及 がな されていない見方 を-試案 として提示
してみたい。す なわち、王族、 とくに宣化 ・欽明以降の蘇我系の王族 、お よび尾 張系の血
を引 く敏達 一静 明系のそれ とす る見方 である。
尾 張系氏族 と蘇我 との関わ りは上記 した通 りだが、 「
尾治王」 を子 にもった蘇我系王族
たる山背大兄王 と蘇我入鹿 との対立に際 して、三輪文屋君 が、山背大兄王に山背 国紀伊郡
域 に所在 した 「
深 草屯倉」 に入 り、そ こか ら東 国-脱 出 し挙兵す ることを うなが した こと
-40-
が注 目され る (
『日本書紀』皇極 二年一一月丙子条)。紀伊郡域 は、厩 戸王 に仕 え巨椋池
の開発伝承 を持 つ秦氏 の拠 点で もある (
『日本書紀』欽 明即位 前紀)。 また、 山背大兄王
の父厩戸王 と婚姻 関係 を結 んだ、敏達 と推古の間の菟道貝蛸王女 は、宇治郡域 (
宇治氏)
との繋 が りを持つ可能性 がある
。
一方、別 に指摘 した よ うに、木津 ・淀川水系川 山背南部地域 には、敏達 一静明系の王族
。た とえば、竜 山石製家形石棺 をもつ古墳 (
6号墳)
やその末商氏族 の痕跡 が濃厚 に残 る (22)
を含む堀切古墳群 にほ ど近い相楽郡や綴喜郡周辺域 は、八世紀 には橘氏 な どの拠点であっ
たが、その勢力基盤 の形成 は、おそ くとも敏達 の孫 とされ る栗 隈王の時点まで遡 るだろ う。
山背 国久世郡 に 「
栗前 (
隈)野」 が あった (
『日本後紀』延暦一五年 九月 己西条 な ど)。
その地 は栗 隈大溝 ・ミヤケの設置 (
『日本書紀』推古一五年是歳条)以来、王家 に密接す
る地 と考 え られ る (23)。 それ らの現地管掌氏族 が栗 隈首氏 であった とみ られ るが、彼 らは
栗 隈王の乳母氏族 であったのではないか。 中大兄王 (
天智) は、栗 隈首徳 万の女子 と婚姻
関係 を結び、水主内親 王 をも うけてい る (
『日本書紀』天智七年二月戊寅条) 『和名類衆
。
抄』 による と久世郡 には水主郷 があ り、『延喜式』神名 帳 にあるよ うに、同郡 には水主神
社 が所在 した。水主神社 は、「
火 明命 」系譜 を有 した水主直氏が奉斎 した もの と思われ る。
内親 王は、 この水主直氏 を乳母 として養育 されたのではなかろ うか。 また、退位 を意 図 し
た孝徳 も、 乙訓郡域 に位置す る 「
山崎」 に宮 をかまえていた (
『日本書紀』 自推 四年是歳
条)。 さらに、久世郡 には、弘福寺 ・薬 師寺 とい った敏達 一静 明系 の王 ・キサキが建立 し
た官大寺 の所領 もみ られ る (「
弘福 寺 田数帳 」) これ らの寺院所領 は、元来 は王家 の 「
家
。
産」であった可能性 がある
。
これ らの概括 に示 した よ うに、 山城南部地域一帯 には、六世紀末∼七世紀前半以降、尾
張系氏族 と関わ る諸王族 (
の拠点)が盤据 していた。 とす る と、確定的な ことは言 えない
ものの、到貫式 の ものではな く組み立て式 の石棺 とはい え、大王級 の墳墓 に使用 され た と
同 じ竜 山石製 の家形石棺 を使用 した 乙訓 ・久世 ・綴 喜郡域周辺 の古墳群 の被葬者 として
は、 これ らの王族 を想定す ることも充分 に可能であろ う。
以上 を勘案すれ ば、石作連氏 を頂点 とした伴造 一部民制的体制 の整備 は、 山背 を含む畿
内にお ける、大王 ・キサキや王権 中枢 の有力者 とそれ に連 なる王族 らのための後期 ・終末
期古墳 に埋納 され る家形石棺用 の、竜 山石 を素材 とした石棺 の調達 ・流通 を主 目的 として
編成 された ものであった とす るのが、 もっ とも穏 当であろ う。石作連 とい う 「
負名」 も、
おそ らくは この政治編成時の命名 とみ られ るが、彼 らについては、元来 は尾 張連 の同族 で
あった可能性 をも考慮すべ きであろ う (
そ う想定す ることによ り、石作連氏独 自の氏族伝
承が記紀 に確認 できない ことも了解 できる)(24
)
。
三
石作氏配置以前の播磨 と王権
一竜山石製長持形石棺 をめ ぐって 一
播磨竜 山石 は、家形石棺 として活用 され る前 よ り、四世紀末か ら五世紀 ころの長持形石
棺 の素材 として使用 され、竜 山石製 の長持形石棺 が畿 内や吉備 な どに供給 されていた。上
述 の検討結果 をふまえるな らば、それ は、石作連氏 を頂点 とす る部民制的編成 がな され る
よ りも前の生産 ・分配 システムにもとづ くものであった と考 えざるをえない。そ こで最後
に、 この問題 の検討 を通 して、五世紀段階の播磨地域 の政治構造 のあ りよ うについて、考
えをめ ぐらせ てみたい。
-41-
竜 山石 を用いた 「
大王の棺」 とも称 され る長持形石棺 は、畿内域 では津堂城 山古墳例、
大 山古墳前方部例 ・誉 田八幡宮例 な ど、古墳時代 中期 の とくに河 内方面の王陵クラスの古
墳 に埋納 された事例がい くつ もある。 しか し同時 に、間壁 忠彦 ・間壁蔭子が指摘す るよ う
に、長持形石棺 は、大和 の葛城 地域 に営 まれ た古墳群 に も複数確認 できる (25)。室宮 山古
墳例 ・新庄屋敷 山古墳例 ・狐井城 山古墳例 な どである。その葛城地域 には、ち ょ うど四世
紀末か ら五世紀半ばころに、大王 に匹敵す る勢力 を有 した 「
葛城氏」が存在 した。室宮 山
古墳 は、そ うした 「
葛城氏」の大首長 の墳墓 とみな されてい る。
別稿 で指摘 した よ うに、「
葛城氏」は、和泉城 まで勢力 をもった初期 の 「
紀氏」集 団 (
竜
山石製 とみ られ る長持形石棺 を有 した和泉南端 の西 陵古墳 の造営主体 で ある可能性 が あ
る) とともに、紀 ノ川水系 を掌握 して、朝鮮 半島の加 耶地域 との関係 を軸 とした対外交渉
に従事 し、のち東漢氏 に組織 され桑原 ・佐庚 ・高宮 ・忍海 の 「
四邑」 と称 された、加耶系
渡来集 団をもた らした有力勢力 であった。初期 の 「
陶 邑」の形成 も 「
葛城 ・紀氏」の主導
による渡来系須恵器 工人 の移植 による と考 え られ る。 「
葛城氏」 の首長 は、仁徳 ・履 中 ・
反正系の王統 に密接 してキサキを輩 出 し畿内 (
ヤマ ト・カ ワチ) の王権 の- ゲモニー を掌
握 していたが、その後 、紀 臣系 の坂本 臣の祖 (「
根使 主」) とも ども大王雄 略 との抗争 に
葛城氏」 は、吉備 の地域政権 とも連携 してお り、吉
破れ 、往年 の勢力 を失 う (26)。 また 「
備 田狭 臣が、葛城襲津彦 の子である玉 田宿禰 の女毛媛 と婚姻 関係 を結 んだ との伝承が 『日
本書紀』雄略天皇七年是歳条の別伝 にみ える。その 「
吉備氏」の本拠地である上道地域 に
も、竜 山石製長持形石棺 をもつ古墳があった。以上 をふまえる と、竜 山石製長持形石棺 は、
「
葛城氏」が主導権 をもった畿内の王権、お よびそれ と同盟的関係 を結 んでいた周辺 の有
力地域政権 の首長 の間で流通 した もの とみてお くべ きであろ う。
そ うした時期 の、播磨地域 にお ける竜 山石 の調達 をめ ぐる政治構造 のあ りかたについて
考 える上で第一 に留意すべ きは、播磨 の地域世界 内での諸集 団の分布 であろ う。
まず 、播磨 (
針 間) 国造 ・直 を称す る勢力 の存在 が注 目され る。 『風土記』餅磨郡安柏
里条 には 「
国造豊忍別」の伝承 がある
。
また、欽 明一七年 (
五五六) に、播磨直が、阿部
臣 ・佐伯連 らとともに百済王子 の帰国を見送 った との記事が 『日本書紀』欽 明天皇一七年
条 にみ える。播磨直の外交業務 の担 当は、播磨地域 の港湾施設 の管理 ・掌握 を前提 とした
もの と考 え られ るので、 この記事 の播磨直は、餅磨 ミヤケを現地管理 した餅磨郡 を拠点 と
した氏族 とみ るのが妥 当であろ う。八世紀 の、唐 よ り甘子 をもた らした播磨直弟兄 (
『続
日本紀』神色二年一一月 己丑条)や 「
訳語」 として漢語 を教授 した播磨直 乙安 (
『続 日本
紀』天平二年三月条辛亥条) も、外交関連業務 での活躍 なので、 この欽 明紀 の播磨直の末
商 で あった可能性 がある (27)。一方 、加 古川水系 中流域 の賀茂郡 で も針 間国造 ・針 聞直 の
名 が数多 く確認 できる。彼 らは、上記 の ごとく、賀茂郡 と神崎郡 の氏族 を組織 した既多寺
大智度論 の写経知識 を主導 した賀茂郡有数 の豪族 であった。おそ らく 『風土記』賀毛郡条
にみ える 「
国造許麻女根 目女」・「
玉丘」伝承 に関わ る氏族 で あろ う。 同 じ加 古川水系上
流 の多可郡 にも針 聞直の名 が確認 でき (
『平城 宮発掘調査 出土木簡概報』 31
)、『風 土記』
多可郡条 には 「
国造黒 田別」の伝承 がある。こち らの針 聞直は、賀茂郡 の もの と (
擬制的)
同族 であった可能性 があろ う
。
こ うした餅磨郡 の播磨直氏 と賀茂郡 の針 間国造 ・直氏の盤据地 に、それぞれ、竜 山石製
長持形石棺 を有 した壇上 山古墳 (
餅磨郡域) と、高室石製 で竜 山石製 の もの と形態上類似
-42-
した長持形石棺 をもつ玉丘古墳 (
賀茂郡域)が存在す ることは、きわめて示唆的である。
餅磨郡 の播磨直氏 と賀茂郡 の針 聞直 ・国造氏 は、八世紀 よ り後の諸史料では、それぞれ始
祖 系譜 を異 に してい るが (
2
8
)
、そ うした系譜 の相違 は、おそ らくは、六世紀以降に本格化
す る中央系氏族 の播磨進 出に伴い、それぞれが独 自に中央氏族 との関係 を結んだ結果 であ
ろ う。彼 らは、五世紀 には、「
葛城」や 「
吉備」、「
紀」な どと同様 、 ともに地名 「
播磨 (
針
間)」 を称す る一つの政治集 団を構成 していたのではなかろ うか。
ただ し、播磨地域 には、も う一つ見逃せ ない有力勢力 の痕跡 が存在す る。すなわち、『風
土記』 によれ ば、 「
餅磨御 宅」所在地 とみ られ る同郡伊和里 (
胎和里)の里名 の由来 は、
積幡 (
宍禾)郡 の 「
伊和君」の 「
族」が到来 して住み着いていた ことによる といい、 さら
にもともとは 「
伊和部」 と号 した とい う。 この伊和君氏の勢力が問題 となろ う。
宍禾郡 の伊和君氏 は、記紀 をは じめ とす る 「
正史」 には確認 できないが、 「
君」姓 を有
した播磨 の有力氏族 であった。民族名 は、のち播磨一宮 とされ、『風土記』で宍禾郡 に鎮
座 した と記 され た 「
伊和大神」 を奉斎 した ことに由来す る。 「
伊和大神」 は、国 占め (
国
作 り)伝承 を有 した播磨 の最有力神 だが、『風土記』 には、その 「
伊和大神」 自身 に関わ
る伝承が、郡名 由来伝承 をもつ宍禾郡 と、揖保郡香 山里 ・同林 田里 ・神前郡多舵里梗 同条
にみ え、その親族 に関わ る伝承 が、宍禾郡石作里阿和賀 (
妹 「
阿和加 比売命 」)・揖保郡
伊勢都比売命」)・同郡美奈志川 (
子 「
石龍比古命 」
林 田里伊勢野 (
子 「
伊勢都比古命 」 「
「
石龍比売命」)・餅磨郡英賀里 (
子 「
阿賀比古 」 「
阿賀比売」)・神前郡 山崎村神前 山 (
千
「
建石敷命」)・託賀郡黒 田里 (
妻 「
宗形大神奥津嶋比売命」)な どの諸条 にある。
また、宍禾郡 に鎮座 した 「
伊和大神」が、『
延喜式』神名帳では 「
伊和坐大名持御魂神」
とされ てい ることか らす る と、『風土記』 中にみ える 「
大汝命」 も同神 を指す とみて よい
だろ う。それ は、揖保郡 ・餅磨郡 ・賀毛郡 ・神前郡条で散見 され る。さらに 「
葦原志許乎」
も同神 の別名 として記 された可能性 が高いが、この神話 も宍禾 ・揖保 ・美嚢郡条 にみえる。
このよ うに、伊和大神 関連 の神話 は、宍禾郡か ら揖保郡 にもっ とも集 中 してい ることがわ
かる。 「
伊和大神」が鎮座 した宍禾郡 は、『風土記』に したがえば、「
難波長柄豊前天皇世」
(
孝徳朝) に揖保郡 (
評)か ら分立 した ものなので、その信仰圏の中心、つま り伊和君氏
の拠点は広義の揖保郡域 といえ、その影響力 は、餅磨 ・賀毛両郡 を含む播磨 の中 ・西部一
帯に広がっていた もの とみてよいだろ う。なお、『風土記』によれ ば、大神 が鎮座 した 「
伊
和村」 の 旧名 は 「
神酒 (ミワ)」 村 と称 した といい、 「
伊和大神」 は神酒醸伝承 をもつ
。
神酒 の醸造伝承 は崇神紀な どの神話的伝承 にみえる三輪 山での大物主神 ・三輪氏の祖 (
大
田田根子)の伝承 と同様 である。そ して宍禾郡三方郡 か ら貢進 された荷札木簡 に 「
神人」
の名 がみ える (
『飛鳥藤原京木簡』一
一三 〇八 ・〇九) これ らは、伊和大神 の信仰 と
。
三輪 山を信仰体系の中軸 にす えていた時期 の畿内 (
ヤマ ト・カ ワチ)の王権 との繋が りを
示唆 してい る。
ところが、たびたび確認 してい るよ うに、伊和君の勢力圏であ り 「
族」が居住 した餅磨
郡貝
台和里 には、 「
尾 張連等上祖 」の伝承 があ り、近隣の同郡安柏里 には、石作連氏が進 出
していた。その餅磨郡伊和里一四丘の神話では、「
伊和大神」の別名 とみ られ る 「
大汝命」
と尾張系氏族 の祖 とされ る 「
火 明命」 とが父子関係 として記載 され、子である 「
火 明命」
の気性 の荒 さを恐れ て逃れ た父 「
大汝命 」が乗 った船 を、 「
火 明命 」が転覆 させ た とい う
神話がみ られた。 この伝承 は、 「
伊和氏」の勢力 と役割 が、新来 の石作連 ら尾張系氏族 に
-43-
とって替わ られ た ことを、神 の争いに愉 えて象徴的に語 った ものなのではなかろ うか。
『風土記』による と、「
伊和氏」の本拠 た る 「
伊和大神」が鎮座 した旧名 「
伊和村」は、
庚午年 (
六七 〇)に、石作首 らが この村 に居住 していたので石作里 とした とい う。つま り、
餅磨郡胎和里同様 、伊和君氏の本拠 で も石作系氏族 の居住地 とが重な りあってい るのであ
る。石作首は、部民制下では、石作連 の下で石材加 工 (
石棺づ くり) ない し集配 の現場統
括者 的な職務 を遂行 した もの と推測 され る。現状 では宍禾郡域 では、長持形や家形 の石棺
は確認 され ていない。 にもかかわ らず、そ うした石作首が宍禾郡伊和村 にいた。 とい うこ
とは、それ が部民制 の整備 時点で新 たに派遣 ・配置 された ものか、 旧来 の 「
伊和氏」系の
勢力 がその時に組織 され直 され た ものなのかを問わず 、いずれ にせ よ 「
伊和氏」の勢力 が、
もともと何 らかの仕方 (
宗教儀礼的な機能 も考慮すべ きであろ う)で、産地 にお ける石材
の加 工や石棺 の調達 ・集配業務 に関与 していた ことを推測 させ よ う。竜 山石産 出地の至近
に位置 した餅磨郡胎和里 に 「
伊和君族」が進 出 していたの も、そ うした石材加 工 ・調達 ・
集配 と 「
伊和氏」 との密接 な関わ りによるもの とみ られ るのである。
他方 、播磨地域外 の勢力 との関わ りについてい うと、 「
葛城氏」系 の氏族 の部民が播磨
にもみ えることが注意 され る。『風土記』神埼郡 には的部里があ り、里名 の由来 として 「
的
部」が居住 していた ことによる とす る。的氏 は、直木孝次郎 が明 らかに した よ うに、直接 、
葛城襲津彦 を祖 とす る系譜 を有 し、大和 ・和泉 ・山背 な どに痕跡 を残す氏族 であった (29)。
神埼郡 にはそ うした的氏配下の部民が置かれ ていた。部民の設定その ものは六世紀以降で
あろ うが、 「
葛城氏」-竜 山石製長持形石棺 が供給 され ていた こ とを念頭 に置 けば、のち
に 「
的部」 を名乗 るこ とにな る、 「
葛城氏」 の勢力 下 におかれ た集 団が五世紀代 よ り神埼
郡域 にいた ことも想定可能 であろ う。
しか し、播磨地域以外 の勢力 として よ り重視すべ きは、 「
吉備 氏」 の存在 である 播磨
。
では加 古川流域周辺 まで 「
吉備氏」の影響力が大 きかった。『風土記』印南郡小嶋条 には、
吉備彦 ・吉備比売が 「
国境」 を定 めるために王権 の命 を受 けて派遣 され た 「
丸部 臣等始祖
比古汝茅」 を、小嶋で出迎 えた とす る伝承 がある。 『続 日本紀』天平神護元年 (
七六五)
五月庚戊条で も、馬飼造人上が、 自身 の祖先 を吉備都彦 の末商 である 「
上道 臣息長借鎌」
である と称 して、印南 臣- の改氏姓 を願 い出、 これが許可 されてい ることが知 られ る
。
そ うした 「
吉備氏」 は、のち 「
山部 」 「
山守部」 となってい く集 団 を支配 していた (
『日
本書紀』晴寧即位 前雄略二三年八月条 ・顕宗元年 四月条 ・『播磨 国風 土記』美嚢郡志深里
条)(30
)
。一方、 「
山部 」 「山守部」 を現地で統括 した とみ られ る山直氏が、加 古川水系流域
に濃密 に分布す る。 『風土記』賀古郡条 の 日岡の比礼墓条 に、加 古郡域 での印南別嬢 に対
す る景行 の跳 い を仲介 した人物 として、 「
賀毛郡 山直等始祖 」が記 され てい るが、実際、
上記 の賀茂郡既多寺で書写 され た大智度論 の写経知識 の中には、 山直氏が九名 も確認 でき
る (
巻七八 ・八 〇 ・八一 ・八二 ・八五 ・八七 ・八八 ・八九 ・九 〇)
。加 古郡域 にあた る現
加 古川 市志方町の投松 1 号窯跡 か ら 「
山直川継」 と記 され た土器片が出土 してい る (31)。
さらに天平一七年 (
七 四五)九月二一 日付 の貢進文 に 「
播磨 国多可郡賀美郷戸主 山直枝」
の名 がみ え (
『大 日本古文書』二五 ノ一二五)、上記 した木簡 中にも針 聞直某 とともに 「
山
直」の名 がみ える
。
山直 ・山部 は、様 々な 「
山」の資源 の調達 に関わった とみ られ る
。
の
ちに東大寺領 の細 山が置かれ ることになる加 古川流域 の場合 、木材 の調達が大 きな比重 を
占めたで あろ うが (
3
2
)
、同時 に、石棺 ・石室用 の石材 の切 り出 し業務 な ども想 定 して よい
-4
4-
のではないか。す なわち、石材 の切 り出 しと加 工には、鉄製 工具 の使用 が不可欠 であるが、
その際、「
多良知志
吉備氏」
吉備鉄」 と象徴的に歌われ た (
『風土記』美嚢郡志深里条) 「
の掌握 した鍛冶技術 をもとに した可能性 が考慮 され るべ きであろ う。吉備 に竜 山石製石棺
が供給 され た背景 には、山部前身集 団の支配 にみ られ るよ うな、播磨 に対す る 「
吉備氏」
の大 きな影響力 があった と考 え られ るわけである
。
[
小括]
以上の検討結果 をま とめ、五世紀代 の竜 山石製長持形石棺 の生産 ・流通 をめ ぐる政治構
造 とその後 の推移 に関す る試案 を提示すれ ば、次 の よ うになる。
す なわち、播磨地域 では、主 に餅磨郡か ら賀茂 (
∼多可)郡域一帯 に勢力 をもった 「
播
磨 (
針 間)氏」 を構成す る集 団 と、宍禾郡 ・揖保郡域 を拠点 とした地域的宗教儀礼 の担い
手た る 「
伊和氏」 とい う連携す る二つ の勢力 を主体 として、 「
葛城氏」 とも連携 した 「
吉
備氏」の支配 した山部前身集 団の協力 と影響力 を前提 に、王権 の規制 の もとで、竜 山石 ・
高室石 ・長石 な どの石材 を用いた長持形石棺 が製作 された。 とくに竜 山石製 の長持形石棺
は、 「
葛城氏」が領導す る畿 内の王権 の意 向に も とづ き、王権 と同盟的関係 を結 んだ畿 内
近辺 の有力地域政権 の首長 に流通 した もの と思われ る。 だが、播磨地域 と竜 山石 をめ ぐる
政治構造 は、大王雄略 による 「
葛城氏」本宗 の討減 を起点 とし、雄略死後 の 「
吉備氏」腹
と伝承 され た王子 (
星川 ) の敗北 と 「
吉備氏」 の服属 ・「
山部」 の王権- の接収 な どの過
程 に連動 して、六世紀前半 ころまでに大 き く変容 した。播磨 の二大勢力 の うち 「
伊和氏」
は、その後、 「
正史」 に一切登場 しない ことか らみて も、 この過程 で大 き く押 さえ込 まれ
た と見 な さざるをえない。他方、 「
播磨氏」 を構成 していた集 団は、 この変動 の中で、王
権 の側 について勢力 を拡大 した よ うで、一部 は中央氏族化 した。 とくに餅磨 ミヤケを擁 し
これ を現地管理 した と考 え られ る餅磨郡 の播磨直 は、『風 土記』 での 「
国造」伝承 の残存
や、『日本書紀』 に外交業務 を担 当 した もの もみ えてい るこ とな どか ら、六世紀前半以降
の播磨地域 で もっ とも優勢 を誇 った と考 え られ る。
竜 山石 をは じめ とす る播磨産 の石材 と播磨域 内の石 工集 団は、その後、餅磨 ミヤケの付
近や賀茂郡域 に配置 された尾張系の石作連氏 によって総括的 に掌握 ・管理 され、それ を基
軸 として石作連 を頂点 とした部民制的体制 が整備 され た。 この体制 の もとで竜 山石製家形
石棺 は、主 に大王 ・王族や王権 中枢 を構成す る有力者 の棺 として、畿内に供給 され るよ う
になった とみ られ るのである。
むすびにかえて
『播磨国風土記』な どにみ える石作氏の性格 について、氏族系譜 と地域的分布 の動 向把
握 とい う、オー ソ ドックスな分析手法 にもとづいて、律令体制以前 のあ り方 を考 えてみた。
石作連氏 に関わ る伝承 の史料批判 を前提 に、主に播磨 ・山背 ・尾 張な どに配置 され、王権
の葬送儀礼 に密接す る播磨竜 山石製石棺 の確保 ・集配 に果 た した同氏 の役割 を、部民制や
ミヤケ制 といった中央政権 の体制整備事業 との関わ りにおいて、歴史具体的 に提示す るこ
とにつ とめたっ も りである。その結果 、六世紀前半以降の王権 ・支配体制 の整備過程 に し
めた、石作連氏 を含む 「
火 明命 」系譜 を共有す る尾張系氏族 の位置の重要性 を、従来 よ り
も、ある程度鮮 明にす ることができたのではないか と思 う
。
あわせ て、石作系氏族 の分析 を手がか りとして、五世紀 か ら六世紀前半以降の竜 山石製
-45-
石棺 の生産 ・調達 をめ ぐる播磨地域 内にお ける諸勢力 の配置 とその変容過程 について も、
地域的世界 の主体的動 向を重視 しつつ、 「
葛城氏」・「
吉備 氏」 の権力 の盛衰 とも関わ らせ
なが ら素描 した。
む ろん、本稿 で提示 した五 ・六世紀 の播磨地域 をめ ぐる政治構造の推移 の見取 り図は、
憶測 を重ねた試論 の域 を出るものではな く、論 じ残 した問題 も多々あることは承知 してい
る。 また考古資料 の取 り扱 いな どについては思わぬ過誤 も多いか もしれ ない。 これ らにつ
いては諸賢の ご批正 を仰 ぐこととし、ひ とまず摘筆 したい。
【
注】
1
)石作系氏族や 「
火 明命」系譜 を共有す る氏族群 については、関連史料 を博捜 した、佐
伯有晴 『新撰姓氏録 の研 究
考澄編
第三』・『同第 四』(
吉川 弘文館 、一九八二年)が、
基礎 的な情報 を蒐集 ・提供 して くれ てい る。本稿 も、 この成果 に負 うところがきわめて
大 きい ことを明記 してお く
。
2)律令制以前 にお ける石作氏 の職掌 ・性格 について直接言及 した論考 としては、前掲注 1
佐伯有晴 『新撰姓氏録 の研 究
考澄編
第三』所載 、左京神別 の石作連 に関わる 「
石棺」
の項 目 (
一八五百) をは じめ、森浩一 「
二神 山系 の石作 工人 の問題 」 (
『先史学研 究』
一、一 九六一年)や 、丸 山竜平 「
近江石部 の基礎 的研 究 」 (
『立命館 文学』三一一、
九八)、北垣聴一郎 「
播磨 国の石宝殿 と石作氏 」 (
『日本書紀研 究』一五、一九八七年)
な どがある。
3) 前掲注 2 森浩一 「
二神 山系の石作工人の問題」 と北垣聴一郎前掲注 2 「
播磨 国の石宝
殿 と石作氏」 は、四 ・五世紀 か ら石作連 の活動 をみ とめ、森論文 は、六世紀後半に石材
加 工集 団が古い石作系氏族 か ら渡来系石 工集 団- と変化 した とす る。一方、近江の石作
・石部氏 と物部氏 との関係 を主張す る丸 山竜平前掲注 2 「
近江石部 の基礎 的研 究」 も、
六世紀後半の渡来系石工集 団の活動 を重視す る
。
4)竜 山石 を使用 した長持形石棺 の分布 と特徴 については、間壁忠彦 ・間壁蔭子 「
石棺研 究
ノー ト (
≡)長持形石棺 」 『倉敷考古館研 究集報』一一、一九七五年 、和 田晴吾 「
近畿
の別技式石棺 - 4・5 世紀 にお ける首長連合体制 と石棺 -」 (
『古代文化』 四六 一六、
九九四年)、同 「
石造物 と石 工」 (
『列 島の古代史 5 専門技能 と技術』岩波書店 、二 〇
畿 内の家形
〇六年 、所収)、な どを参照。竜 山石製 の家形石棺 については、和 田晴吾 「
石棺 」 (
『史林』五九 一三、一九七六年)、間壁 忠彦 ・間壁蔭子 ・山本雅靖 「
石棺研 究 ノ
ート (
四)石材 か らみた畿 内 と近江 の家形石棺 」 (
『倉敷考古館研 究集報』一一、一 九
七六年) な どを参照。播磨地域 に分布す る石棺 の概要 については、『石棺 か らみた古墳
時代 の播磨』第七回播磨考古学研究集会報告集 、所収 の諸論考 ・レジュメを参照。
5)既多寺大智度論 の基本的性格 については、佐藤信 「
石 山寺所蔵 の奈 良朝写経 一播磨 国既
多寺知識経 『大智度論』 をめ ぐって -」 (
同 『古代 の遺跡 と文字資料』名 著刊行会、
『人文研 究』五一
九九九年)、栄原永遠男 「
郡的世界 の内実 一播磨 国賀茂郡 の場合 -」 (
二、大阪市立大学文学部 、一九九九年)、な どを参照。 なお、近代 にいた る既 多寺大
智度論 の伝来過程 については、 中林 隆之 「
賀茂郡で写 され た経典 一既多寺大智度論 -」
(
『
加 西市史
第一巻
本編 1
』 第二章第 四節 一三、加 西市、二 〇〇八年 、所収) で論
じた。
-46-
6) 『古事記』垂仁段 の比婆須比売 の葬儀 に関わる 「
看視作」の伝承記事が、石作連 に関わ
るもの とす る根拠 は何 もない。む しろ、九世紀前半 に編纂 され た 『新撰姓氏録』の B
伝承 は、『古事記』 の伝承 をふ まえて、石作連氏 がそれ を 自身 の事績 として取 り込み、
改変 した結果 として成立 した ものである可能性 があろ う。
7)土師氏 については、直木孝次郎 「
土師氏の研 究 」 (
同 『日本古代 の氏族 と天皇』塙書房 、
一九六四年) を参照。
8)この点 について、古市晃 「
弓削大連 と播磨 の物部 」 (
『風土記 か らみ る古代 の播磨』神
戸新 聞総合 出版セ ンター、二 〇〇七年)が、本稿 とほぼ同様 の視角 か ら、播磨 の石作
氏 と、 「
火 明命 」系譜 を有 した尾張氏 ・尾 張地域 との関係 について概観 してい る。
9)赤塚次郎 「
尾 張氏 と断夫 山古墳 」 (
『継 体朝 の謎
うばわれ た王権』河 出書房新社 、
九九五年 、所収)な どを参照。
1
0)新井喜久夫 「
古代 の尾 張氏 について (
上)(
下)」 (
『
信濃』二
一 ・一、一九六九年)。
また、同 「
古代 の尾 張 と尾 張氏 」 (
『継 体大王 と尾 張の 日子媛』小学館 、一 九九 四年 、
所収) も参照。
ll
)この点 については、神話学 の立場 か ら、松前健 「
尾 張氏 の系譜 と天照御魂神 」 (
『日本
書紀研究』五、
)な どが言及 してい る。
1
2)王族 の名 と乳母 との関係 については、勝浦令子 「
乳母 と皇子女 の経済的関係 」 (
『史論』
三四、一九八一年) を参照。
1
3)早川 万年 『壬 申の乱 を読み解 く』吉川 弘文館 、二 〇〇九年 を参照。 なお早川 は、尾 張
宿禰 の拠点が伊勢桑名 にあった可能性 を指摘す る。
1
4)吉 田晶 「
大化前代 の南 山城 一久世郡地域 を中心 として -」 (
『古代 国家 の形成 と展 開』
大阪歴史学会編 、吉川 弘文館 、一九七六年 、所収)。
1
5)辻川哲朗 「
近畿北半部 にお ける須恵器 系埴輪 」 (
『考古学 ジャーナル』五 四一、二 〇〇
六年)、高松雅文 「
敬体大王期 の政治的連帯 に関す る考古学的研 究 」 (
『ヒス トリア』二
〇五、二 〇〇七年)な どを参照。
1
6)杉本宏 「
京都 の古墳動 向 と継体朝 」 (
『継体朝 の謎
うばわれ た王権』河 出書房新社 、
一九九五年、所収) な どを参照。
1
7)乙訓郡域周辺 の竜 山石製組み合 わせ式家形石棺 については、前掲注 4 和 田晴吾 「
畿内
の家形石棺」、前掲注 4 間壁 忠彦 ・間壁蔭子 ・山本雅靖 「
石棺研究 ノー ト (
四)石材 か
らみた畿 内 と近江 の家形石棺 」、松崎俊郎 「
乙訓地域 の家形石棺集成 」 (
『(
財) 向 日市
埋蔵文化財セ ンター年報』三、一九九一) な どを参照。
1
8)吉 田晶 「
古代 邑久地域史 に関す る一考察 」 (
同 『吉備 古代史の展 開』塙書房 、一九九五
年 、所収)。
1
9)仁藤敦史 「
古代王権 と 「
後期 ミヤケ」」 『国立歴 史民俗博物館研 究報告』一五二、二 〇
〇九年。
20)餅磨 ミヤケについては、高橋 明裕 「
屯倉 と播磨
∼餅磨屯倉 の復元∼ 」 (
『風土記 か ら
み る古代 の播磨』神戸新 聞総合 出版セ ンター、二 〇〇七年 、所収) を参照。
21
)今城塚古墳 よ り出土 した石棺 (
片) については、森 田克行 「
継体大王の陵 と筑紫津」
(
『継 体大王 とその時代』和泉書院、二 〇〇〇年 、所収)、宮崎康雄 「
今城塚古墳 の実
像 に迫 る」 (
『継 体天皇 の時代』吉川 弘文館 、二 〇〇八年 、所収 、お よび 同書所収 のシ
-4
7-
ンポジ ウム記録 にお けるパネ ラー諸氏の発言記録) な どを参照。
22)中林 隆之 「
嵯峨王権論 一婚姻政策 と橘嘉智子 の立后 を手がか りに-」 (
『市大 日本史』
一〇、二 〇〇七年)
。
23)伊賀高弘 「
山城 国久世郡 に於 ける ミヤケ設定の可能性 について一正道遺跡 の若干 の検
討 を中心 として -」 (
『奈 良古代史論集』一、奈 良古代史談話会、一九八五年) は、現
城 陽市正道遺跡 の西方部 の、7 世紀前半の整然 と配置 され た官街風建物遺構 を、栗 隈 ミ
ヤケの施設跡 とみてい る
。
24)ちなみに、石作郷や石作神社 が多 く分布 した尾 張地域 には前方後 円墳 に埋納 され た長
持型石棺 は存在せず、石棺 はすべてその後 に展 開 した横 穴式石室 をもつ古墳 に納 め られ
た家型石棺 であった。その家型石棺や横 穴式石室の制作技法 は、主 に奈 良二上 山か ら採
掘 された凝灰岩 (白石) によって作成 され た六世紀以降の石棺 ・石室の製作技法の影響
を受 けた もの と推定 され てお り、技術 の伝播 は、美濃 の木 琶リr
r
流域 である可児地域 に入
り、それ がのち尾張の庄 内川流域地域 にもた らされ た とい う (
以上、奥 田尚 ・服部哲也
「
濃尾 地方 の石棺 」 『古代学研 究』一二六、一九九一年 、 を参照)。 この点 も石作連氏
の負名氏 としての編成 が、直接的な技術的要因 (
優位性) によるものではな く、六世紀
前半以降の王権 中枢 の意 向にもとづ く、きわめて政治的な配置であった とす る見方 に整
合的である。
25)間壁 忠彦 ・間壁蔭子前掲注 4 「
石棺研究 ノー ト (
≡)
長持形石棺」 を参照。
2
6
)中林 隆之 「
古代和泉地域 と上毛野系氏族 」 『和泉市史紀要 1
1 古代和泉郡 の歴 史的展
開』二 〇〇六年。
27)なお、美作道 ・山陽道沿いの佐用郡 ・赤穂郡で も、播磨直 ・針 聞直の分布 が確認 でき
る (
佐用郡
-
『平城宮発掘調査 出土木簡概報』 1
9・3
0、赤穂郡 (
主帳)
・神戸両郷解案 」 『兵庫県史
史料編
-
「
播磨国坂越
古代 1
』)。 これ らの播磨直 は、餅磨 ミヤケの地
に盤据 した播磨直が他 の中央系氏族 とともに進 出 した ものか も知れ ない。
28)今津勝紀 「日本 古代 の村落 と地域社会 」 (
『考古学研 究』五 〇一三、二 〇〇三年)、同
「
播磨 国造 と賀茂 」 (
『
加西市史
第一巻
本編 1
』第二章第一節 一二、加西市、二 〇〇
八年 、所収) を参照。
29)直木孝次郎 「
的氏の地位 と系譜 」 (
同前掲注 『日本古代 の氏族 と天皇』) を参照。
3
0
)「
山部」成 立の経緯 については、 山尾幸久 『日本 古代王権成立史論』岩波書店 、一九
八三年、な どを参照。
31
)森 内秀造他 『
志方窯跡群 Ⅱ』兵庫県教育委員会 、二 〇〇〇年 、今津勝紀前掲 「
播磨 国
造 と賀茂」 を参照。
32)この点については、中林隆之 「
寺領封戸 ・寺 田と賀茂郡 」(
『
加西市史
第二章第 四節 一四、
加西市、二 〇〇八年 、所収) で論 じた。
-48-
第一巻
本編 1
』
『
播磨国風土記』の説話理解 と古代の地域社会
一風土記の文学研究の成果 と古代史研究 高橋
明裕 (
立命館大学文学部非常勤講師)
はじめに
近年 、文学研 究の分野 を中心 に風土記研 究が隆盛 をみつつ ある。風土記 は従来か ら主 と
して文学研 究及びその地誌 としての性格上地理学の分野 において研究 され てきた。 日本古
代史研究 において も風土記 を活用 した諸研 究が 1
98
0年代 ごろを境 に進展 をみてきてい る
が、近年 の文学研 究 を主 とした新 たな風土記研究の隆盛 を踏 まえて、古代史研究 にお ける
風土記研究の方法 について考察す るのが本稿 の 目的である。 この作業 を通 じて、説話 を軸
としたテキス トであ り、かつ地誌 としての性格 を有す る風土記 を歴史研 究 に活用す る際の
方法上の論点 を見定 めてお きたい。
1
.文学研究における風土記研究
(
1
) 風土記 をめ ぐる文学研究の潮流
文学研究の分野では風土記研 究が新 たな隆盛 を見せつつ ある。風土記研究会 の創 立 と『風
土記研 究』 の創 刊 もその一つ の現れ とい えよ うし、『風 土記 を学ぶ人 のた めに』 (
世界思
想社 、2001年)はそ うした新 しい研究動 向を反映 した もの となってい る。『国語 と国文学』
2004年 11月号は特集 「
風土記研 究の現在」 を組み、2009年 には論文集 『風土記 の表現』
(
神 田典城編、和泉書院)が刊行 され た。
それ らを通 じて新 しい風土記研 究の関心の方 向性 を探 る と、文学研 究の基点にたった書
誌学的原形態 の追究、書体 をも含 んだ表現 の様式、地名考証 を含む用字 ・用語 の国語学的
検討 、 さらには地誌 であることを重視 した中国図経 ・地理志 との比較検討 な どの研究の精
微化 をみ ることができる。表現 については、地誌 である風土記がいかに して文学た りうる
か、文芸的であるか とい うことに関心が寄せ られ てい ることが よく理解 できる。 それ らは
1
95
9年 の吉野裕 「
風土記 の世界 」 『
岩波講座
日本文学史
古代 3』が問題 とした構 図、
権力者 の側 か らの 「
風土」的地誌編纂 の意図のなかに、歴史的生活 の場 としての 「
郷 土」、
中央 に対す る地方意識 のあ り方 を どの よ うに読み解 くか とい う研 究 を基本的 に継承 した も
の とい えよ う (
前掲、『国語 と国文学』2004年 11月号)。
中央政府 ・朝廷 の教化 ・統治行為 の手段 としての風 土記 の編述 とい う側面 と、そ こに在
地の情勢、民情、な らわ しとい う在地性 をみ よ うとす る双方 向の性格 が風土記研 究 にはは
らまれ ていた。吉野裕 の 「
風土」対 「
郷土」 とい う構 図の提示 は次の ことを意味 した。後
に風土記 と称 され るよ うになる古代 の地誌 の性格 を規定す る根本 の語桑 である漢語 「
風」
には元来、情勢、いきおい、民情、な らわ し。上か らの教化 、お しえ、民謡 、士風 な どの
意 味があ り、風俗 とは 「
風」 は上か らの教化 、 「
俗」 は下のな らわ しとい う統治行為 と在
地性 の両側 面 を合意 した (卜商 ・毛詩序)。 その中国 由来 の問題 を意識 しつつ従来 の風 土
記研 究の各論 においては、風土記編纂政策 の 目的論、現存風土記 の各 国 ごとの文芸的特性
-49-
の比較、編述者 の個性及び編述主体 を中央官人 とみ るか、国造 ・郡 司層 の主体性 を どこま
で看取す るか、な どの論点 を検討 してきた もの とい えよ う。
しば しば風土記所載 の伝承 を在地伝承、 「
地方神話」 と捉 えよ うとす る研 究 も存在 した
が、地名 の起源 を語 るいわゆる地名起源伝承 もその素材 が在地伝承であった可能性 はあ り
うるものの、風土記 に所載 され た ものは文字化 された説話 であることが強 く意識 され るよ
うになった。それ は風土記編述 において地名起源 を語 る記事 は郡 一里 (
郷) を記述 の単位
とす ることが風土記共通の記事構成 のあ り方 である ところか ら、元来 もっ と長大であった
か も しれ ない在地伝承 は風土記採録 に際 し記述単位 ごとに再構成 され てい る とみ るべ きで
ある とす る、八木毅氏の分離説話 の概念が受 け入れ られ ることとなった。風土記史料 に 「
郷
土」の在地性 をみ よ うとす る手法 は、 「
風土」 の視 点、それ も国 一郡 一里 (
郷)制 を地方
統治 の主軸 としよ うとす る中央政府 か らの視点によって一旦 は相対化 され なけれ ばな らな
いであろ う
。
(
2
)在地性 と説話化
ここで、在地性 と説話化 とい う二つの観 点か ら既述 した よ うな風土記理解 をめ ぐる問題
状況 を考 えてみたい。近年 、播磨 をフィール ドとして 『
播磨 国風土記』 の読解 を進 めてい
る飯泉健 司氏の研 究 を参照す ることとす る。飯泉氏 は分離説話論 に対 して、飾磨郡条 の十
四丘伝承 によ うに長大 な物語 的記事 が存在す る例 を示 し、 「
分断の方針 に逆 らい意 図的 に
長大な物語的記事 を作成 して載せ た」場合 もあった とす る。風土記 の記事 には在地性 を残
す面 と作為性 の見受 け られ る面 とが混在 してお り、無条件 に在地伝承集 として扱 うことも
誤 りな ら、
全 てを筆録 ・編纂者 の創作書物 として捉 えることは甚だ危険である と主張す る。
個 々の説話 ごとに在地性 と作為性 の二面性 を読み取 ることが肝要 となるのである。
それ では在地性 とは何 か。それ を考察す る上で風土記記事 の非説話的記事 と説話的記事
(
説話化) について参照 したい。飯泉氏 は砥石 をめ ぐる 『播磨国風土記』 にお ける 3カ所
の記事 を比較 してい る
。
①神前郡川辺里条 「
所以云砥用 山者 、彼 山出砥。故 日砥用 山。」
②餅磨郡 大野里条 「
所 以称砥堀者 、品太天皇之世 、神 前郡与餅磨郡之堺 、造大川岸
道。是時
砥堀 出之
故号砥堀。干今猶在。」
③神 前郡 蔭 山里条 「
云蔭 山者 、品太天皇御 蔭
除道刃鈍
仇勅云
磨布理許
① は砥石 の産 出のみ を伝 える
。
堕於 此 山。故 日蔭 山、又号蔭 岡。爾
故云磨布理村。」
いわば在地の状況、事実、土地の特性 を伝 える記事 とな
ってお り、砥石 を産 出す る川沿いの山であるゆえに砥用 山 と呼ばれ る とい う記事 に、いわ
ゆる地名起源伝承 としての神話性や説話性 はみ られ ない。 こ うした風土記記事の特性 を在
地性 と呼ぶ ことができる。② は砥石 を掘 り出 した ことが品太天皇の御世 の出来事 として語
られ、それ が事実か否 かは別 に して出来事 を特定人物 に結びつ けて語 ってい る点 に説話性
が認 め られ る。③ はそれが物語的特定人物 の、特定行為 によって (
天皇が 「
砥 を掘 って来
い」 と述べた)地名 がつ け られ た とす る、ま さに説話 として発展 を遂 げてい る。①②③ の
舞台 はいずれ も市川 に面 した同一地域 に接 してお り、飯泉氏 はこれ らの事例 は地名起源記
事が在地性 を有す る非説話的記事 を基 に説話的な記事 が作成 され ていった過程 を示 してい
る とす る。
風土記記事 をこのよ うに在地性 と説話性 ・説話化 の観 点か ら読み解 くことは、
前述 の 「
風
-50-
土」対 「
郷 土」、 中央対地方 とい う構 図 を単純 に中央志 向の創作 と在地の事実の反 映 と捉
えるのではな く、説話化 にあたっての中央-の志向性 か、あるいは在地伝承的な説話化 か、
を峻別す ることによ り、説話化 の内実 を評価 しうることにつなが る。 また、説話化 の過程
をモデル化 して把握す ることができれ ば、説話化す る以前 の記事が もっていた在地性 を探
る端緒 を得 ることができるであろ う。文学研 究が説話化 にお ける文学性 、文芸性 を評価す
る営みであるな らば、歴史研究が必要 とす る事実性 、伝承化 ・説話化 の過程 の特質 を規定
した歴史的構造 を知 る手がか りを風土記記事か ら得 ることも可能 となろ う。従来、風土記
の記事 は神話 ・伝説、土地固有 の伝承 な ど荒唐無稽 な物語 に過 ぎず、その上 中央 の視点、
文芸的創作 の手が入 ってい るな らばなお さら歴史学の史料 とはな りえない として、歴史研
究の史料 としては消極的な評価 を され てきたき らいがあるが、 これ を克服 してい くことに
つなが るであろ う
。
説話性 を認識す ることは、十全 に説話的発展 を遂 げた記事、つま りその記事 に在地性 を
示す ものが残 され ていない よ うな場合 に、その説話が全 くの創作である場合 を除いて逆 に
説話化 の前提 となった在地性 の痕跡 を探求す ること- と導 くことになる。飯泉氏 は現地で
のフィール ドワー クや、後世の地誌 ・日記や郷土史な どの記録、及び考古学 ・地理学 ・歴
史地理学等 の近隣学問の成果 によって、在地性 を追及す る作業が必要 になる とす る。在地
性 と説話性 ・説話化 とい う風土記記事読解 の観 点は、風土記 の読解 とフィール ドワー ク と
の関係 のあ り方 をも指 し示 してお り、風土記研究 にフィール ドワー クや後世 の地誌情報、
民俗情報 を どの よ うに加 味す ることが有益 なのかがわかる
。
飯泉氏の所論 にお ける在地性 一説話的記事 の評価 は、在地性 として評価 しうる非説話的
記事が もつ視点 を伝達者的視点 と捉 え、それ を説話化す るに際 してそれ を再解釈す る者 の
視点 を間に挟 み、それ が風土記 を編述 した外部者 的視 点によっていかに説話化 され、編纂
者 の文芸的関心、つま り中央 の関心が文学 として達成 され えたかを評価 しよ うとす るもの
で ある。 (
土地) をめ ぐる三つ の視 点 として、 (
伝 達者 的視 点) 一再解釈者 的視 点 - (
外
部者 的視点) と措定 されてい る。左項 が在地性 の評価 、右項 が説話的記事 にみ る文芸的関
心、作為性 の評価 と捉 え られ る。 この構 図の もとで、風土記記事 を伝承 ・編述 した主体 は
在地民 と国司 との間に介在 した国造 ・郡 司層 、あるい は天皇 と国造 ・郡 司 との間に介在 し
なが ら外部者的視点 をテキス トに持 ち込んだ国司 とい うよ うに、テキス ト伝承主体者 の姿
勢 に還元す る形 で 旧来 の構 図でい う 「
郷 土」対 「
風 土」の対立 を読み解 いてい る とい え
よ う。文学研究の立場 としては、在地性 に対す る視点 はあ くまで これ にいかなる文学的 ・
文芸的達成 をな し得 たか とい う評価 の前提 であ り、視 点の差異 はテキス ト伝承主体の姿勢
・態度 に還元 され るもの となってい る
。
本稿 の歴史研 究の立場 よ りすれ ば、以上の よ うな風 土記 をめ ぐる在地性 一説話化 ・作為
性 の評価 を受 け入れつつ、テキス トのあ り方 を伝承主体者 の姿勢 のみ に還元 させ ない方法
を対峠 させ てい く必要があろ う。在地性 の抽 出を重視す る とともに、在地性 一説話化 ・作
為性双方 の歴史性 、歴史的評価 が求 め られ て くる。
(
3
)(
神在型)地名起源伝承
次 に飯泉氏の文学研 究 において在地性 の評価 にかかわるも う一つの論点、氏が提唱 した
風土記地名起源伝承 の類型 について検討 したい。 それ は地名起源伝承 にお ける (
神在型)
∼の神 が坐す ので、 (
神 ○○) と号 く」 とい うパ ター ンの記事
と呼 ばれ るものである。 「
-51-
を指す。揖保郡揖保里条 「
神 山。此 山在石神。故号神 山」 の よ うな例 である。 これ につい
て、この よ うな土地 はその前提 として神 が鎮 まるよ うな素晴 らしい土地である とい うこ と、
つま り村落 の起源 を語 る 「
村立ての神話」 ともい える要素 を含 み、 これ らの点か ら (
神在
型) の地名 起源伝承 は土地絶対視 の思想 の産物 であ り、在地性 を表現す る記事 に顕著 であ
る とす る。
この (
神在型) は さらに (
存在型) と (
神名型) とに分 け られ る とい う 。 「
神 の存在 に
よって神 ○ とい う地名 がついた」 とい う前掲 の型 を (
存在型)、 これ に対 して 「
神 の名 を
地名 につ けた」 とい う型 が (
神名型) である 後者 は単 に神 として登場す るのではな く、
。
神名 を ともなって神 が登場す る記事 にみ られ 、神 の名 によって地名 が付 され た とい うタイ
プ とな る。典型 が揖保郡林 田里伊勢野条である。
所以名伊勢野者 、此野毎在人家、不得静安。於是
処
衣縫猪手 ・漢人刀 良等祖
将居此
立社 山本敬祭。在 山琴神 、伊和大神子伊勢都火古命 ・伊勢都比売命 夫。 自此以後
家 々静安
伊勢川
遂得成里。即号伊勢
因神為神
この事例 か らわか るよ うに、移住者 は先住 の神 を祭配す るこ とによって神 を鎮 め村落 の静
安 を得 るこ とができる 祭 配 を成功 させ るためには神 の名 を知 らなけれ ばな らず 、神名 を
。
明かす ことによって土地神 の祭 配法がわか り、神 を鎮 めるこ とができる 飯泉氏 も指摘す
。
るよ うにこれ は神 明か しの伝承 のタイプ となってい る 外来者 は先住 民の神 を先住神 とし
。
て鎮 めなけれ ばな らず 、 これ は (
入居型) の地名 起源伝承 ともなってい る。
飯泉氏 によれ ば (
神名型) は風 土記 に特有 の表現で ある とい
う
。
さらに通常は地名 か ら
神名 がつ け られ たであろ うに、神名 が地名 起源 となってい ることはそ こに神 を中心 に物事
を理解す る とい う発想法、逆転 の発想 がある とい
う
。
風土記 の文章表現 において も 「
伊和
大神 、国作堅了以後、堺 山川谷尾 、巡行之時、大鹿 出己舌、遇於矢 田村 」 (
宍禾郡 冒頭条)
の よ うに、神 が鹿 と遭遇す るに もかかわ らず鹿 を主格 した逆転 の表現法 が使 われ 、神 ・天
皇 と特別 な動物 が遭遇す る場面 にみ られ る。確 かに神 聖視 され る特殊 な遭遇 の場面の風 土
記 の表現 と考 え られ、飯泉氏 は これ を特別 な場所 ゆえの逆転 の発想法 である とす る。 いわ
ゆる (トポス論) で ある。 (
神在型)地名 起源伝承 がみ られ る神 ○ とい う場所 な どもこ う
した (トポス) であることを風 土記 の表現 は示 してい る とい う。
以上、飯泉氏 の風土記 の文学研 究 を参照 しなが ら、風土記 において在地性 を評価す るた
めの論 点 としての地名 起源伝承 の特定 のタイプをみて きた。在地性 を追求す る上での風 土
記記事 の説話性 ・説話化 のあ り方/作為性/表現 について、文学研 究 に学んできたが、そ
れ では この (トポス) とは果 た して在地性 と評価す ることができるであろ うか。風土記 の
表現 の前提 とな る、在地の信仰 ・祭配形態 としてそ うした事実が認 め られ るな らば歴 史研
究 において も肯定できよ う。 しか し、 トポスであるこ とが明示 され るのが風 土記 の表現上
の こ とであった り、説話化 の結果 そ うした表現 となってい るのであれ ば、それ は在地性 と
は逆 の方 向に作用 してい ることになる 近年 の文学研 究 にお ける風土記論 ・風土記研 究 に
。
お ける在地性抽 出の方法 を考慮 しつつ、風 土記 を歴史研 究 に活用す るためには別途、方法
を模 索 しなけれ ばな らないであろ う。
2
.風土記研究 と古代史研究
-5
2-
歴史史料 として よ りは文学 ・地誌 の領域 で研究 され てきた風土記 を活用 した古代史研 究
について、前項 の文学研究 との関わ りも考慮 しなが ら振 り返 ってみたい。
歴史学 と文学の方法 をめ ぐって古代史 ・中世史の分野で先駆的な研 究 を したのは石母 田
正氏である 風土記 を史料 として活用 した研 究 に 「
出雲国風土記」国引きの詞章 を分析 し
。
た一連 の研 究が挙 げ られ る。 「
古代文学成立の一過程- 『出雲 国風 土記』所収 「
国引き」
の詞 章 の分析 -」 (
『文学』第二五巻 四 ・五号、一 九五七年)、 「日本神話 と歴 史一 出雲系
神話 の背景 -」 (
『岩 波 講座
日本文学史』第三巻 、古代Ⅲ、一九五九年)
石母 田氏 の風土記研 究は、その文学及び神話 としての構成 に十分配慮 しなが ら風土記 の
基盤 としての民間伝承 を探 ろ うとした。 国引きの詞章 は意芋 の杜 を中心 として西、東 、北
を眺 めまわす形 で構想 され てお り、出雲国造家 によって完成 され た説話 であ り、国造家 の
統治 を歴史的基盤 としてい る とい
う
。
しか し、完成段階には既 に語義 が不明 となっていた
「
意恵」の よ うな断片的古語や律文 を基礎 とす る語部 な どの詞章がその前提 としてあ り、
これ らが伝承 され ていた段階、国引きの詞章の 「
素材 」 となる 「
旧辞」の世界が存在 して
いた とし、また これ ともさらに区別 され る民間伝承 の世界 が存在す る とす る。播磨国風土
記 の国作 りの神 は民間伝承化 され てお り、 「
つね に特定 の山、河 、谷 な どとむすびついた
創造神 としてあ らわれ る」 とい う。
播磨 国風土記、あるいは播磨地域 の特徴 は、風土記 中の山岳 ・河川 ・田野 ・嶋浦 な どの
景観 的象徴物が小地域 内に地域的景観 を保持す る形で今 日まで残 され、風土記 に描 かれ た
景観 を類推可能 な点が多い ことである。石母 田氏 によれ ば風土記 中の神 々はそ うした景観
的象徴物 と結びついてお り、在地性 を有す る民間伝承 として存在 していた とい うことにな
る。石母 田氏の風土記論 では、文学研究が追求 してきた中央 の視点-の評価 はむ しろ弱 く、
出雲 国風土記論 においては国造が説話化 の主体 として評価 され、その前段 として語部や ダ
イダラ坊的な創造神 を信仰 した小地域 の伝承 ・説話化 の主体が重層 してい る構 図 となる。
そ こで評価 され る在地性 は、民間伝承 を通 じて知 られ る地域 の特定の山岳河川 と結びつい
た創造神 ・英雄神 が想定 されてお り、地域 開発者 の神話的形象化 である と受 け取れ る。在
地性 と説話化 は区別 され ることな く、説話性 の強い伝承 ・記事 を有す る土地 は在地性 の強
い神 々を奉祭 してい ることとなる 風土記記事 にお ける在地性 と説話性 が一体の もの とし
。
て、重複的 に捉 え られ てい る点が問題 であろ う。
石母 田氏 の研 究以降、 1
970 年代 よ り常陸国風 土記 を中心 に古代史研 究 を進 めてきた志
田淳一氏、80 年代以降古代史 にお ける風土記研 究 を開拓 してきた関和彦氏 を挙 げるこ と
ができる。志 田氏 の風土記論 は、風土記編纂 の政策的背景、編纂者 の立場性 を重視 してお
り、天皇の巡幸説話 ・狩猟説話 な どを儒教的徳政思想 の産物 と評価す るな ど、文学研 究の
傾 向を受容 した もの となってい る。 これ は蝦夷征討 と不可分 な常陸国の政情 を反映 して、
常陸国風土記 にお ける蝦夷 関係伝承 の多 さ、東 国征討 の影響 の色濃い常陸国風土記 の特性
が結果 してい るもの と考 え られ る
。
関氏 の一連 の風土記研究 は、従来の書誌学的な風土記論 にあきた らず、古代社会 の実像
を求 めてフィール ドワー クの成果 を積極的 に反映 させ た ものである。地名起源伝承 を単 に
説話的 に解釈す るのではな く、現地の景観 的特色 を表現 した歴史 ・景観 史料 とした こと、
地形環境 と生業 の復元 を風土記史料 の読解 とフィール ドワー クによって進 めた点が今 日の
風土記 の歴史研 究の水準 を高めた と評価 できる。景観 、地形環境 、生業 の復元 によ り、古
-5
3-
代 の村落 と祭配 ・神祇信仰 に焦点 をあて、村落制度 の実態 に踏み込んだほか首長支配 の内
実 を究明 しよ うとした点は、フィール ドワー クを駆使 した風土記研究の方法的優位性 を示
した もの とい える 一方、村落 に焦点 をあてた ことは風土記テキス トを里 (
郷) ごとに分
。
析す る手法が中心 とな り、祭配 ・信仰形態 の重層性 、地域 間の展 開のあ り方 の究明が課題
となろ う。 また、在地性 に対 して風土記テキス トの説話化 ・説話性 ・作為性 が地域 を全体
として統治す る主体 とどの よ うに関連 し、それがいかなる地域構造 と対応 してい るのかを
明 らかに してい くことが今後 の課題 となる
。
3
.(
神在型)地名起源伝承 における在地性 の評価
先 にみた よ うに飯泉氏 は神 が鎮座 す る伝承 を有す る土地 は土地絶対 の思想 を もつ とい
う。 そ うした地名起源伝承 は (
神在型) とされ、風土記記事 としては在地性 を高 く評価 で
きる とした。 とりわけ神名 を地名起源 とす る土地 は トポス ともよぶべ き神聖 な特別 な場所
である とい う議論 をみた。
一方 で石母 田氏 は、風土記が前提 とす る民間伝承 には特定の山岳河川 と結びついた創造
神 ・英雄神 が現れ てお り、説話的展開が強い神話 ・伝承、記事 を伝 える地域 は地域的創造
神 ・英雄神 を擁す る地域 の主体性 を保持 した勢力 である と捉 え られ ることになる。
ここでい くつか (
神在型)・(
神名型)地名起源伝承 を具体的 に検討 し、 (
神在型) -荏
地性 が強固 (
飯泉理解)/ 山岳河川 と結びついた創造神 ・英雄神 (
石母 田理解) を検証 し
てみたい。
まず飯泉氏が (
神名型) は 「
神 の名 を地名 につ けた」、その こ とが トポスにふ さわ しい
神 中心の発想 であ り、移住者 が先住 の神 を祭配す るために神 明か しがな され た結果、神 の
名 が地名 となった とす る論理 を次 の具体的な風土記記事 と照 らし合 わせ てみ よ う。
安師里 (
中略)
今改名為安師者 、因安師川為名。共用者
爾時
此神 固辞不聴。於是
大神大隈
因安師比売神為名。伊和大神
将要跳之。
以石塞川原、流下於三形之方。故此川少水。
(
宍禾郡安師里条)
これ も (
神名型)ではあるが、里名 は安師川 に由来す る と明示 され る 川名 が安師比売
。
神 の名 によるのであ り、 これ は トポスであるゆえに 「
神 の名 を地名 につ けた」 とい うよ り
も、石母 田氏 の解釈 、特定 の山岳河川 とむすびついた地域 の創造神 としての 安師比売神
の属性 をこの表現 は示 してい る と解釈す る方 が 自然 なのではないだろ うか。表現上は神名
-河川名 (
地域景観 の象徴物)であるが、古代 の人々の事実認識 において も恐 らく河川名
-神名 だったのであろ う。女神 に体現 され た河川 は風 土記記事の通 り上流で南方 の安師里
方面 にではな く北方 の三形里方面 に水流が奪われ、その 自然環境 を神話的に説 明 してい る。
この記事 は確 かに説話的ではあるが、そ うした 自然環境認識 は説話的 -外部者 の認識 によ
るのではな く、地域住民の 自然環境認識 の説話化 とい えよ う。在地性 の現れ と当該記事 を
評価 できるのではないであろ うか。説話化 によって在地性 が表現か ら失 われ ていた場合 、
フィール ドワー クや現地の環境特性 によって在地性 を追求すべ き事例 とい えよ う。 当地で
は在地性 の強い奉祭神 を擁 し説話化 の過程 で も中央志 向 とい うよ り在地性 が強 く残存 して
い るよ うにみ えるが、かつて石母 田氏が論 じた よ うに この説話 をもって在地伝承、あるい
は地方神話 とまで言い切 ることが可能 であるか否 かは別 に検討す る必要がある。 しか し、
-5
4-
この記事か ら窺 えるのは河川 の特質 をめ ぐる地域環境認識 であ り、 これ をいかなる伝承主
体者 によって担 われた もの と考 えるか、地域 の支配構造のなかで考察す る必要がある事例
とい える
。
次 に、 (
神名型) が外来者 による先住神祭 配 を反 映 し、神 明か し伝承 であるがゆえに地
名起源 が神名 に由来す るよ うになった とい う理解 について検証 してみ る
。
因達里 (
中略)
太代之神
右、称因達者 、息長帯比売命 、欲平韓 国、渡坐之時、御御船前、伊
在於此処。故因神名 、以為里名
(
餅磨郡条)
この例 も地名起源 としては く
神名型) であるが、伊太代神 が他所 か ら当地 に奉遷 され た神
であって、外来 の住民が先住神 を祭 った (
入居型)ではない。む しろ神名 が明か され る神
聖なスポ ッ ト・場所 としては 「
在於此処」が重要 なのではないか。交通妨害神 が坐 したゆ
えに 「
神尾 山」と呼ばれた とい う佐比岡の伝承 (
揖保郡枚方里条)も (
神在型)であるが、
この記事 にも 「
経過此処」 とい う表現が存在す る。前者 は航海神祭配の場、後者 は境界祭
配の場 を意味す る 「
此処」 こそが神 とそれ を奉祭す る住民 に とって特別 なスポ ッ ト・場 で
あった こ とを風 土記 の記事 は示 してい る と解釈すべ きであろ う。 「
村 立て神話論」や (
ポ
トス論) に依拠す るのではな くて も、地名起源伝承 ・説話 の在地性 を評価 しうる と思われ
る。
次 の事例 も 「
村立て神話論」や (トポス論) によることな く、地名起源 と神 との関わ り
を解釈 できる と思われ る。
云石坐神 山者 、此 山載石。又、在豊穂命神。故 日石坐神 山。
云高野社者 、此野高於他野。又、在玉依比売命。故、 日高野者。 (
託賀郡的部里条)
この記事 は神名 と地名 ない し起源説 明対象 の施設 の名称が一致 しない。 しか も神名 は豊穂
命神 、玉依比売命 それぞれ美称 ない し盛女 の神格化 の一般名詞的であ り、神 と地名 が関連
しない。む しろ地名 か ら神名 がつ け られ ることは一般 的であったに しろ、当該地の奉祭神
の神名 は地名 とは関わ らなかった例が少 な くなかった ことを想定 させ る。神名 明か しの 「
村
立て神話論」、地域 固有 の神 の神名 に因む (トポス論)、いずれ も 日本 古代 の地域社会 の
信仰 、祭配の実態 と適合 しない面があるのではないか。風土記記事の解釈 にあたって、説
話化 ・表現 の要素 と在地性 との関わ りは個 々に評価す る必要があることをい くつかの事例
か ら指摘できた と思われ る
。
終わ りに
文学研究 にお ける近年 の風土記研究の進展 を視野 に入れ た うえで、古代史 にお ける風土
記研 究の到達 と問題点 を明 らかにす るために研究史 に学ぶ作業 を行 ってみた。
かつての石母 田氏の風土記研 究 は歴史研 究 と神話 ・文学の領域 を架橋す る優れ た もので
あったが、今 日的な観 点か らは風土記 を民間伝承、あるいは地方神話 として研究す ること
の難 点が明 らかになった とい えよ う。
地誌作 品 として 中央 (「
風 土」) 一地方 ・在 地 (「
郷 土」) の二項対 立 の中で読解 され て
きた風土記 であるが、
近年 の文学研 究が風土記 の外部 の視点 と在地性 を評価す るにあた り、
説話化 ・説話性 と非説話性 ・在地性 とい う観 点が有効 であることが知 られた。記事 に在地
性 が認 め られ ない場合 、説話化 の基 となった在地性 をフィール ドワー クな どの現地情報 に
よって補填す ることで、風土記 を歴史研究の素材 としうる可能性 について も意 を新 たにす
-55-
るこ とがで きた。
文学研 究 の成果 を認 めなが らも、表現上 の地名 起源伝承 ・記事 の類型 を先験祝 した り、
(トポス論) に依拠 した りす るのではな く、歴 史研 究 の立場 か ら在 地性 を探 求す るこ とが
必要 で ある
。
そ の際、風 土記 の説話性 を考慮 した うえで 「
特定 の 山、河 、谷 な どとむす び
つい た創 造神 」 とい う石母 田理解 が在 地性 探 求 の上 で有効 な面が ある こ とも指摘 しえる と
思う
。
以上 の作業 を地誌作 品 ・文学 で もあ る風 土記 を歴 史研 究 の素材 とす るた めの様 々な模 索
の一助 としたい。
〔
引用文献〕
・石母 田正 「
古代文学成 立 の一過程- 『出雲 国風 土記 』所収 「
国引き」 の詞 章 の分析 -」
(
『文学』第 25巻 4・5号、 1
957年 )
『岩 波 講座
・石母 田正 「日本神話 と歴 史一 出雲系神話 の背景-」 (
日本 文学史』第 3巻 、
957年 )
古代 Ⅲ、 1
塙書房 、 1
985年 )
・関和彦 『風 土記 と古代社会 』 (
雄 山閥、 1
998年 )
・志 田淳 一 『『常陸国風 土記』 と説話 の研 究 』 (
『古代文 学 』33、 1
994年 )
・飯 泉健 司 「
播磨 国風 土記 ・佐 比 岡伝 承考 」 (
『国学院雑誌 』第 1
00巻 第 8・
9号、 1
999年 )
・飯 泉健 司 「
三 山相 聞 (
上 ・下)」 (
『埼 玉大 学紀 要教 育 学部 [
人文 ・社 会
・飯 泉健 司 「
風 土記 (
在 地伝 承 作成者 ) の視 点 」 (
999年 )
科 学 Ⅱ]』48- 1、 1
『風 土記 を学ぶ人 のた めに』世界思想社 、2001年)
・飯 泉健 司 「
播磨 国風 土記 」 (
2004年 11月 号) 「
風 土記研 究 の現在 」
・『国語 と国文学 』 (
・神 田典城編 『風 土記 の表現 』 (
和泉書院 、2009年 )
-56-
山口県 山口市出土の古代石文
一いわゆる秦益人刻苦石について古市
晃 (
神戸大学大学院人文学研究科准教授)
はじめに
山 口県 山 口市小郡町の小郡文化資料館 に、なが らく 「
滑石製有孔石板」 と名付 け られて
展示 されていた、刻苦 を有す る石製 品がある。 この間の検討 によ り、本 品が古代 の石文で
ある可能性 が高まったので、調査 に至 る経緯 と調査上 の所見、 さらに若干 の所見 を記 して
諸賢の教示 を得 たい。
-
出土か ら再発見 に至る経緯
(
-) 出土か ら保管 ・展示 まで
後述す るよ うに、 この石製 品には 「
秦益人」なる人名 が記 され てお り、調査段階で 「
秦
益人刻苦石」の仮称 を付 していたので、本稿 で もこの名称 を用いたい。筆者 らが これ を初
めて実見 したのは二 〇〇七年八月 一〇日である。二 〇〇六年 、小郡文化資料館 を訪ねた義
則敏彦氏 (
兵庫県新宮町教育委員会。 当時。現たっの市教育委員会)が、偶々展示 品中に
播磨 国の飾磨郡 の文字 を記 した石製 品があることに気づ き、坂江渉氏 (
神戸大学) に一報
を寄せ られ た。坂江氏 は 『播磨 国風土記』 を通 じた古代地域社会 の研 究 を科研費 によって
進 めてお り、筆者 は出土文字史料 の検討 を通 じて研究 の一端 を担 っていたので、義則氏 と
共 に実見 を行 った とい う次第である。
しか し今 回の調査 に至 るには、本石製 品が出土 して以来 の伝来 の過程 がある
。
関係者 か
らの聞き取 りによって筆者 が知 り得 た限 りにおいて、その経緯 を記 してお きたい。第一発
見者 とその御子息か らの聞き取 りは、二 〇〇七年一 〇月二 〇日、筆者 が内 田伸氏 (
山 口市
立歴史資料館名 誉館長)、原耕一郎氏 (
小郡文化資料館。 当時) の同席 を得 て行 った。 そ
の他 、内田氏か らは伝来の過程 について詳細 な教示 を得、原氏 には第一発見者- の聞き取
りを継続 していただいた。以下に記す のは、その内容 を筆者 の責任 においてま とめた もの
である
。
本石製 品は、一九六三、六四年 頃、現 山 口市小郡上郷二 〇八九番地 において、第一発見
者 が宅地内で果樹 を植栽す る作業 の途 中に、地表面か ら深 さ約三 〇∼四〇セ ンチの地点で
発見 した。 その後、宅地内の庭 で保管 され る
。
なお、出土地点は山 口市内か ら小郡 を経 由
して瀬戸内海 に至 る、植野川 の河岸段丘上 に位置す る。幕末 に林勇蔵 を輩 出 した ことで知
られ る大庄屋 、林家の敷地 に近接 してい る
。
かつては近辺 に林家 の米蔵 があ り、東方 を流
れ る植野川 に設 け られ た米 の積 出拠点の一部 として機能 していた とい う。 出土地点には米
を運ぶ馬 のための井戸が設 け られ てお り、その周 囲には蹄鉄 が散乱 していた。本石製 品に
は出土後 の もの と思われ る新 しい傷がい くつかあるが、それ は児童たちが戯れ に蹄鉄 を投
げた際 に誤 ってつ け られた もの らしい (
御子息か らの聞き取 り)
。
その後、約 一〇年 を経て、一九七四、五年 頃、地域 の歴史研究者 である武重久氏の知 る
ところ とな り、小郡文化資料館 の前身施設 に収蔵 ・展示 され るに至った とい う。 この間、
や は り地域 の研 究者 で、金石文 に明 るい内 田伸氏 にも問い合 わせ があ り、氏 は これ を実見、
-57-
手拓 され、奈 良 ・平安頃の もの と考 え られ た由であるが、年紀 を記 さないため慎重 を期 し、
氏の著書 『山 口県の金石文』 には収録 され なかった。 なお本書 に収 め られた金石文 はいず
れ も年紀 を有す るものである。
一方、武重氏 は 自著 『手本岩戸神楽』 に本石製 品の拓本 (
一面のみ) を所収、出土地点
の植野川 の名称 が倖 囚の転靴 した もの とす る説 があ り、本 品に倖 囚の配 され た ことが記 さ
れ る播磨国の地名 が見 えることか ら、倖 囚 との関係 で出土地 と遣物 との関係 を示唆 され て
いる
。
しか し書名 の示す とお り、本書 は地域 に伝承 された民俗芸能 に関す る書物 であ り、
古代史研究者 の注意 を引 くところ とはな らなかった。
結局、出土以来 四〇数年 間、本石製 品は古代 に さかのぼる可能性 を持つ資料 として認識
され ることがないままに、保管 ・展示 され てきたわけである
。
(
二)古代資料 としての検討
先述 の とお り、筆者 が本石製 品を初 めて実見 したのは二 〇〇七年八月 の ことである
。
そ
の際、古代 に さかのぼる可能性 が高い と思われたので、出土 とその後 の経緯 の経緯 を調査
す る一方、科研 チーム以外 の研 究者 にも教示 を仰 ぐこととした。 その間、原耕一郎氏 は出
土地点、時期 な どの特定 に努 め られ、それ に基づ き、同年一 〇月 には聞き取 り調査 を実施
した (
先述)。
二月 には栄原永遠男氏 (
大阪市立大学大学院文学研 究科)、坂江渉氏 (
料
研研 究代表者。神戸大学大学院人文学研 究科)、義則氏、筆者 による調査 を実施 した。 さ
東京大学史料編纂所)、栄原氏、平川南
らに翌二 〇〇八年 二月一 四 日には、石上英一氏 (
氏 (
国立歴 史民俗博物館 )、八木充氏 (
山 口大学名 誉教授 )、坂江氏 、筆者 に よる調査 を
実施 した。
その後 、同月二六、二七 日に補足調査 を行 い、亀谷敦氏 (
県立 山 口博物館。地学)、村
田祐一氏 (
山 口大学人文学部。考古学)の教示 を得 る科研 チームの研 究成果 として、二 〇
〇九年 二月二六 日、報道発表 を行い、主要紙 に掲載 され た (1
02頁参照)。 またNHKの
ニュースで も報道 され る ところ となった。
二
資料の状況 と釈文
(
-)資料の状況
次 に、資料 の形状及び状況 について述べたい。
本石製 品は高 さ二三 .0セ ンチ メー トル 、幅一五 .九セ ンチ メー トル (
最大値)、厚 さ
約三セ ンチメー トル、重 さ二.七 キログラムで、ほぼ完形 である 将棋 の駒状で、項部 が
。
圭首状 を呈す る五角形 である。項部付近 には製作の過程 で生 じた と思われ る加 工痕 (
墓跡)
を多 く観察できる 項部か ら四.八セ ンチメー トル下部 のほぼ中央 には、直径一セ ンチメ
。
ー トル の円孔が貫通す る。その上部 には未貫通 の円孔がある。穿孔の周 囲は摩滅 してい る。
底部 まで丁寧 に加 工を施 してい るが、ほぼ中央 にあた る部分 が半 円状 に摩滅 してお り、 円
孔 と底部 に紐 な どを通 して使用 した可能性 が高い。
なお材質 は蛇紋岩 である可能性 が高いが (
亀谷氏 の教示 による)、破壊検査 を ともな う
厳密 な特定 は行 っていない。
表面、裏面には両面で計一八以上の文字が記 され る 表裏 を決定す る根拠 はないが、文
。
字が大 き く彫 りが深 く、かつ 中央寄 りに刻 まれた側 を表面、彫 りが浅 く、一方 に寄せ て記
され た側 を裏面 と仮定 しておきたい。全文 同筆 と考 え られ る 年紀 は記 され ないが、天平
。
-58-
一二年 (
七 四〇)頃以降の行政 区画である郡郷制 の表記が用い られてい ることか ら、それ
をさかのぼ らない ことは明 らかである
。
また古様 を呈す る書風 な どか ら、奈 良時代 中頃 を
それ ほ ど降 らない時期 の資料 と考 え られ る。
裏面 には小 さな円形状 の文様 が複数個観察できる。七曜文 にも見 えるが、文様 は七つ以
上確認 できるため、七曜文 とは考 え られ ない。その他 、格子状 の刻線 が存在す る。
向かって右側 面 には、線状痕 が多 く観察できる 砥石 として用い られ た ことを示す痕跡
。
と考 え られ る。
(
二)釈読 と書風、製作年代
先 に述べた とお り、表裏面双方 には計一八以上の文字が記 され てい る 表面は中央やや
。
左寄 りに、石 に比較 してやや大振 りな字で、二行 にわたって陰刻 され る
。
二行 目の方 が一
行 目よ りもわず かに上か ら記 され る。全体 として、やや右肩下が りの傾 向を持つ
。
一方、
裏面は、向かって右側 にやや偏 って、一行分 のみ記 され る 彫 りが浅 く、摩滅 してい る部
。
分 も多いため、かろ うじて判読 できる程度 である 釈読案 は以下の とお りである
。
。
(
表)
餅磨郡 因達
郷秦益人石
(
裏)
〔
磨 ヵ〕
此石者 人
[
=:
コロロ石在
表面 と仮定 した面の文字 は大 き く、かつ強 く刻字 されてお り、比較的明瞭 に観察できる。
一字 ご とのバ ランスは横 に広 が り気 味で、やや鈍重 な印象 を受 ける。 「
因達郷」 の 「
達」
しんによ う
の之 綾 が直線 的 に刻 まれ るこ と、寿が 「
幸」 と省画 され るこ とな どは、石- の刻字 とい
う素材 による制約 を反映 した ものか も知れ ない。
一方 で 「
郡」や 「
石」、 「
人」のハネ はのびやかに刻 まれ る
。
た とえば 「
益人」の 「
人」
の一画 目は、現在 のよ うに強 めの傾斜角度 をつ けるのではな く、横一線 に近い鈍角で伸 ば
して記 され る。 このよ うな書風 は、た とえば大北横穴群 (
静岡県伊豆 の国市)の右横 に記
され た 「
若舎人」の 「
人」 に近 く、奈 良時代前半の金石文 に特徴的に見 られ る と考 える。
また 「
因」 に見 られ るよ うに、国構 えの上部 が広 く、下に向かって狭 まる点 も、た とえば
柳町遺跡 (
熊本県玉名 市) に出土の木製短 甲に記 され た 「田」な どに見 られ る ところであ
り (
平川氏 の教示 による)、古態 を残 した書風である と判断できる。
これ らの特徴 は、裏面 と仮定 した面 にも共通す る。裏面は、向かって右側 にやや偏 って
一行分、八文字以上が記 され る 彫 りが浅 く、摩滅 してい る部分 も多 く、かろ うじて判読
。
できる程度 である
。
しか し 「
人」や 「
石」の書風 は表面 と共通 し、両面 とも同筆 と考 えて
よい。文末 の 「
在」は、鳩 山窯跡群 (
埼玉県鳩 山町) 出土の須恵器 に 「
此壷使人者億 万富
貴 日事在」 と刻苦 され た事例 (
1
)か ら、 「
ナ リ」 と読む こ とが知 られ る 在 をナ リと読む事
。
例 は、飛鳥池遺跡 (
奈 良県明 日香村) 出土の木簡 に 「
此者牛価在」 と記 され た事例がある
-5
9-
こと(2) か ら、七世紀後半に さかのぼって存在 した ことが確認 でき、書風 と同様 、訓読 にも
古態 を残す とい える。
以上、記 され た文字 の諸特徴 は、七世紀後 半以前 に記 され た文字 と共通す る
。
しか し
一方 で、行政 区画 の表記 は郡里制、郷里制 を採 らず、郡郷制 に基づいてい ることか ら、天
平一二年頃以降の ものであることは確実である。 これ らの条件 を勘案す るな らば、文字 の
記 され た年代が奈 良時代前半を大 き くは降 らない時期 、つま り奈 良時代 中頃 と考 えるのが
妥 当であろ う。全体的な書風 の印象 が、従来偽作 とされ なが ら、真作 として大過 ない点が
指摘 され、再検討 の機運 が促 されつつ ある養老元年 (
七一七)超 明寺碑 (
滋賀県大津市)(3)
な ど、奈 良時代前半の金石文 と同様 の印象 を持つ点 も重要 と考 える。
刻字 と石製 品の関係 について、石製 品 と刻字の年代 が同一であるか ど うかを考古学的 に
確認す る術 は、厳密 には存在 しない。 しか し刻苦表面 に 「
秦益人石」 と記 され、裏面 にも
「
此石者」な どと記 され るよ うに、石 と文字 との一体性 が強 く意識 され ていた ことは疑い
ない。したがって、本石製 品の製作年代 もまた、奈 良時代 中頃 と考 えて問題 ないであろ う。
- 資料の性格 と背景
(
-)資料の用途 をめ ぐって
前章まで、本石製 品の特徴 と製作年代 について検討 を行 った。本章では、資料 の用途 に
ついて検討 し、その上で播磨国の地名 が刻 まれた石製 品が周 防国で出土 した ことの意味に
ついて検討 したい。
まず表記 の内容 について、文字 の大小 ・彫 り方 に表裏面で相違 がある点に意味 を見出 し
得 る。郡 ・郷名 、人名 を記 した面の文字 は大 き く、かつ深 く刻 まれ てい る。 「
餅磨郡 因達
郷秦益人石」の文言 は、行政 区画 +個人名 +石 の要素か らなる。行政 区画 は個人 の本貫地
を示 し、 この石 が秦益人個人 に帰属す ることを示 した もの と思われ る
。
一方、裏面の文字 は小 さく、浅 く刻 まれ てい る。 「
此の石 は」 と書 き出 され、 「
石 な り」
と結 ばれ ることか ら、石 に関す る何 らかの説 明的な文言 を記 した もの と思われ る 石 の帰
。
属 については表面 に記 され ることか ら、それ とは別 の用途 に関す る文言 あるいは吉祥句 に
類す る文言 であった可能性 もあるが、詳細 は判然 としない。
秦益人 は、 これ までに知 られ た史料上 にまった く登場 しない人物である。渡来系の秦氏
であるが、臣、連 な どの姓 を持 たない ことか ら、秦氏 の中では格別有力 とはい えなかった
と考 え られ る。餅磨郡 (
飾磨郡) は播磨国の郡名 で、現在 の兵庫県姫路市 を中心 とす る地
域 である
。
因達郷 は姫路市新在家付近 と推定 され、『播磨 国風土記』 には 「
因達里」 とし
て見 える。現在 は瀬戸 内海 か ら遠 く隔たってい るが、古代 には海岸線 が奥まで入 り込み、
海岸線 に近い地域 であった らしい。飾磨郡 に秦氏が居住 していた ことを示す古代史料 は存
在 しないが、周辺 の揖保郡や赤穂郡 には、多 くの秦氏 が居住 し、赤穂郡 司な どを輩 出 して
い る。飾磨郡 の秦氏 も、 これ ら播磨西部 の秦氏 と何 らかの関わ りを有 していたのか も しれ
ない。
行政 区画 の表記 で注意すべ きは、郡名 +郷名 で構成 され、国名 が記 されていない ことで
ある。 これ は、本資料 が国名 を 自明 とし、郡名以下の帰属 を問題 とす るよ うな集 団の中で
用い られた ことを示す ものではなかろ うか。つま り、 この石 の所有者 が郡 の枠 を越 えた、
播磨 国を単位 とす る集 団の中で活動 した ことを示す と考 えるのである。
-60-
以上のよ うに仮定 した上で、考 え得 る用途 としてほ どの よ うな ものを挙 げ得 るであろ う
か。個人 に帰属す る石文 として考 え られ るのは、通常 は墓碑や墓誌 な どであろ う。 しか し
現存す る墓碑 ・墓誌類 で、文末 を 「
石」で結ぶ ものはない。 また裏面の表記 が 「
此の石 は
-石 な り。」 とあるよ うに、 あ くまで石 その ものであるこ とに意 味 を持 たせ た ものである
ことを重視す るな らば、墓碑 ・墓誌 の類 とす るのはむずか しいであろ う。
では本資料 の石 としての用途 をいかに考 えるか とい う点が問題 となる 先 に述べた とお
。
り、項部付近 に穿孔がある点、その周 囲及び底部 中央付近が摩滅 してい る点か らすれ ば、
縄や紐状 の もので結 ばれて携行 された可能性 が考 え られ る 携行 したのは秦益人その人で
。
あろ う
。
圭首 を呈 し、かつ穿孔のある石製 品 としては、懐炉 として用い られ た温石 があるが、本
資料 は温石 とす るにはあま りに大 き くかつ重 く、無理 がある
。
次 に、資料 の表面に向かって右側側 面に線状痕 が多 く存 し、刃物 の刃先 を研 いだ痕跡 と
考 え られ ることか ら、本資料がある段階で砥石 として用い られた ことは疑いない。 しか し
通常、砥石 に用い られ ることは少 ない石質、圭首 を呈す る形状、側面 を用い る とい う使用
状況 な どか ら考 えて、当初 か ら砥石 として用い られた可能性 は低 く、本来の用途 を果 た し
た後 に、二次的 に転用 され た もの と思われ る (
村 田氏 の教示 による)。
以上、本来の用途 の特定 には至 らなかった ものの、本資料 が播磨国飾磨郡 の秦益人個人
の帰属 になるもの、何 らかの 目的のために携行 された可能性 が高い ことを指摘 してお きた
い。
(
二)本資料 出土の歴史的前提
本資料 の特徴 を考 える上で、播磨国飾磨郡 の秦氏が所有 した石 が、なぜ周 防国で出土 し
たのかが も う一つの大 きな問題 となる。 出土地点は、古代 の周防国吉敷郡 にあた る。吉敷
郡 と播磨 の秦氏 の関連 を示す史料 は、 これ までには知 られ ていない。 両地域 を結びつ ける
積極的な動機 が、古代 に存 したのであろ うか。
この点 を考 える上で重要 な前提 となるのが、秦氏の有 した高度 な開発技術能力 である。
秦氏 は本拠 の一つである山背国葛野郡 (
現京都市右京 区付近) において、大堰川 か ら取水
す るための葛野大堰 を造営 した とい う伝承 に見 られ るよ うに (
『政事要略』所 引 「
秦民本
系帳」)、水 田開発 に必要 とな る技術 を有 していた と考 え られ る
。
秦氏 の拠 点 は他 に もあ
り、すべての秦氏が葛野郡 の秦氏 と関係 を有 していたわけではない。 しか し秦氏 と開発 の
関係 を示す文字資料 は他 にもある。下川津遺跡 (
香川 県坂 出市) は大束川河 口部 の開発 に
関係す る拠点的遺跡 であるが、 ここか らは秦人、秦入部、秦布部 といった秦氏の関連民族
名 を刻苦 した七世紀代 の木製 品が出土 してい る(
4
)
。 下川津遺跡 か らは開発 に際 して用い ら
れた と考 え られ る木製農耕具が多 く出土 してお り、秦氏関連氏族 らはそ うした開発 に従事
した もの と思われ る。彼 らは同時 に、七世紀代 とい う比較的早い段階か ら、文字文化 にも
通 じていたわけである
。
播磨西部 の場合 、天平勝宝五年 (
七五三)か ら七歳 の頃、赤穂郡 の人、秦大火
巨なる人物
が、失敗 に帰 した ものの、塩堤 を造営 した こ とが史料 に見 える (
『平安遺文』一一 九号、
「
播磨 国坂越 ・神戸 両郷解 」) こ うした事例 か ら、各地 の秦氏 と同様 、播磨西部 の秦氏
。
が一定の開発技術 を有 していた ことは認 め られて もよいであろ う。赤穂郡 に限 らず、揖保
郡 な ど播磨西部 の秦氏が同族結合 を有 していた ことはすでに指摘 がある。
-61-
赤穂郡 についてい えば、秦氏が関与 したのは東大寺領 の塩 山の管理 であった。秦益人が
属 した飾磨郡 にもまた、東大寺の封戸が存在 した ことが確認 できる (
東南院文書、天暦 四
午 (
九五 〇)一一月二 〇日 「
東 大寺封戸荘 園井寺用帳 」 『平安遺文』二五七号)。 また東
大寺造営の際には、米 を進上 してい る (
正倉院丹衰文書第一一七号、天平勝宝七歳 (
七五
五)正月二九 日 「
造東 大寺 司政所符 」 『大 日本 古文書』編年 二五 一一五八) 奈 良時代 中
。
頃の播磨西部 の秦氏が、東大寺領や封戸の管理 に積極 的に関与 していた ことが注 目され る
のである
。
益人 の属す る飾磨郡 因達郷 については、『播磨 国風 土記』 に興 味深 い記事 が見 える (
飾
磨郡 因達里条)。本条 には、息長帯比売命 (
神功皇后)征韓 の途次、乗船 していた船 の前
にいたのが 「
伊太代之神」である といい、それ にちなんで里名 が名付 け られ た とす る地名
起源伝承が載せ られ る。 さらに、同郡伊和里条 には、大汝命 とその子、火 明命 が 「
因達神
山」で争い、大汝命 が発船 して遁れ去 ろ うとした ところ、怒 った火 明命 が父 の船 を砕 き、
散 らばった船体 な どが近辺 の丘 と化 した とい う、 これ も地名起源伝承 が載せ られ てい る
。
これ らの伝承 の詳細 をここで論 じることはできないが、少 な くとも因達郷 が飾磨郡 の港津
として機能 していた ことが前提 となってい ることは、認 める必要がある
。
以上、播磨西部 にお ける開発技術 を有す る秦氏 の存在、東大寺領 ・封戸の存在 、また飾
磨郡 因達郷 の港津 としての特徴 な どを指摘 できる と考 える。
本資料 の出土地点は、古代荘園である植野荘の推定地 にあたる。植野荘 は、天平勝宝年
間 (
七 四九∼七五七) の早い段階で成立 した と考 え られ る東大寺領荘園である(
5
)
。 また当
該地 は、現在 では海 か ら遠 く隔たってい るが、近世の干拓事業が進展す る以前 は植野川 と
瀬戸 内海 が合流す る地点に近 く、古代 では長登銅 山で産 出 した銅 の積 出港であった と推定
され てい る。つま り、東大寺領植野荘 もまた東大寺領 であ り、かつ周 防国にお ける拠点的
港津 の機能 を果 た した ことが指摘 できる。
以上のよ うな状況 にあって、飾磨郡 の秦氏が周 防国吉敷郡 に到来す る可能性 は充分 に存
したのではなか ろ うか。先述 した よ うに、 「
飾磨郡 因達郷」 とい う国名 を省 略 した表記 を
重視す るな らば、播磨 国内の複数 の郡 か ら秦氏な ど、開発技術 を有す る集 団が東大寺、ま
たは中央政府 な どの公権力 によって徴集 され、植野川河 口部 の開発 にあたった可能性 を考
えてお きたい。本石製 品の製作地 を明 らかにす ることはできないが、少 な くともなぜ周 防
の地 に存在 したのか とい う問題 に対 しては、以上の よ うに答 えることが可能 ではないか と
思う
。
以上の事例か ら推定す るな らば、播磨国か らの秦氏 の移動 が、東大寺 をは じめ とす る国
家的権力 による、植野川流域 の開発 に関係す るもので、本資料 はそれ に ともなって播磨 国
か ら周 防国-移 された可能性 が高い。
おわりに
本稿 の検討 は以上の とお りであるが、本資料 の用途 の解 明については引き続 き課題 とし
て残 った。 この点 については今後 も検討 を行いたい。資料 が周防国で出土 した事情 につい
て も、石素材 の同定な ども含 めた詳細 な調査 がなお必要であ り、機会 を得 て検討 したい と
考 えてい る
。
本資料 は、管見の限 りでは中国地方 で出土 した初 の古代石文資料 として重要な意義 を有
-62-
す る。 出土 ・保管 の経緯 もあって、 これ まで充分 に検討 され ることがなかったが、 こ うし
た特異 な形状 の資料が再発見 され た ことによって、古代 日本 の文字文化 が、従来考 え られ
てきた よ りも多様 であった可能性 を考 える必要が出てきたのではなかろ うか。諸賢の教示
を請 う次第である。
【
証】
(
1) 鳩 山窯跡群遺跡調査会 ・鳩 山町教育委員会 『
鳩 山窯跡群 Ⅱ』一九九 〇年。
(
2) 奈 良文化財研 究所 『
飛鳥藤原京木簡-』二 〇〇七年。
(
3)東野治之氏 「
滋賀県超 明寺の 『
養老元年』碑」同氏 『日本古代金石文の研究』岩波書
店、二 〇〇四年所収、初 出一九九七年。
(
4)渋谷啓一氏 「
倫紙 と能書の多 き国
博物館 『古代 日本
一讃岐国の古代文字 について-」
国立歴史民俗
文字 のある風景』二 〇〇二年所収。香川県教育委員会他 『
瀬戸大橋
建設 に伴 う埋蔵文化財発掘調査報告Ⅶ 下川津遺跡』一九九 〇年。
(
5) 仁 平三年 (
一一五三) 四月二九 日 「
東 大寺諸荘 園文書 目録 」 に、 「
周 防国植野庄一
巻 く
三六枚)
(
一一枚)
天平勝宝六年産業勘定
同年雑文善
一巻 (
三三枚)
一巻 く
四枚)
天平宝字 四年産業勘定
一巻
同五年官符坪付 (
後略)。」 と記 され る (『平
安遺文』二七八三号)。吉川真 司氏 「
周 防 ・長 門の封戸 と古代荘園」 (
『山 口県史』通史
編 、原始 ・古代、二 〇〇八年)も参照。
【
付記】
本資料 の調査 ・検討 にあたっては文 中に明記 した方 々の他 、青 島啓氏 (
山 口市教育委員
会文化財保護課) の適切 な教示 を得 た。 また調査 の全期 間にわた り、 山 口市教育委員会 の
配慮 をいただいた。遣物実測図の作成 には山 口教育委員会 の支援 を得 、 トレース図面作成
には山本倫子氏 (
花 園大学文学部史学科学生。 当時。) を煩 わせ 、撮影 は栗林和彦氏 (
写
真家) に依頼 した。以上の方々に対 し、記 して謝意 を表 したい。 なお本稿 については、研
究代表者坂江渉 との協議 を経て、古市の責任 において これ をま とめた ことを明記す る。
-63-
秦益 人刻書 石
上 :表 面
下 :裏 面
(
撮影 :栗林和 彦)
-64-
向か
て右側面の線状痕
っ
実測図
上 :表面
下:
裏面 (
縮尺任意)
-65-
粒丘 と揖保里の再検討
岸本 道昭 (
たつの市教育委員会文化財課課長補佐)
1 前提
『
播磨国風土記』は揖保郡条の冒頭において、「
揖保郡。事は下に明らかな り」と記 している。
いひぼのさと
郡名にかかわることは、揖保 里条における里名の由来などの記述を指す とい う意味であろう。郡
名 となっている以上、揖保里は郡の中心 となる里であり、重要な里であったに違いない。また、
いひぼをか
揖保地名の由来 となった粒 丘は、特別な丘陵と考えられていたはずである。
大国である播磨国、そ して大郡である揖保郡について、揖保里の実態 とはどのような範囲と内
容を持っていたか、また粒山 ・粒丘 とはどうい う山か、これを再検討するのが本稿の目的である。
『
播磨国風土記』は、「
揖保里」は粒山に依っていると説 く。これは里名の由来ではなく、山に
里が寄 り添っていると解 されている。風土記の記載からみて、粒山と粒丘は同じ丘陵ない しは一
体的な山を指す蓋然性が高いため、以下は粒丘 として記述をすすめることにしよう。
揖保里条において、地域の在地神である葦原志挙乎命 と外来神である天 日槍命の国占め争いが
語 られ、粒丘 と呼ぶ由来を風土記は記す。すなわち、葦原志挙乎命は渡来 して来た天 日槍命を恐
れ、先に揖保郡を治めておこうと粒丘に登って食事をし、飯粒を口からこぼしたために粒丘 と名
づけられたのだと記すのである。また、この丘の石は、飯粒に似ているとも記 している。
その粒丘は、たっの市揖保町中臣の通称 「
中臣山」 とするのがほぼ定説化 し、風土記関係文献
や市町史に至るまで、書物のほとんどがこの丘陵を指差 してお り、異説を聞いたことがない。
まず、なぜ中臣山が粒丘 と考えられるようになったのか、研究史を簡単に振 り返 りながら検討
してみる。
2 粒丘-中臣山説
三条西家伝来本 『
播磨国風土記』は、その存在が知 られたのが江戸時代の寛政年間とされ、1
8
5
2
(
嘉永 5
)年に書写されることによって広 く人々の目に触れることになった 以下、小稿では最
。
新版 (
沖森 ・佐藤 ・矢嶋 2
0
0
5
)の校訂 と訓読を基礎 とする。
風土記の考証 としては、井上通泰の 『
播磨国風土記新考』 (
井上 1
9
31
)がよく知 られている。
井上は、明治時代に著わされた栗 田寛の 『
標注古風土記』 と敷 田年治の 『
標注播磨風土記』を基
にして、より詳 しい解釈を新考 として一書にまとめた。
井上は、「
粒 山は揖保川の東岸にある今の中臣山な り」と記 し、粒 山と粒丘の書き分けについて
も、「
粒丘は即ち粒 山な り」と深入 りしていない。揖保里の遣称地が当時の 「
揖保村」であること
がほぼ明らかなために、その村にある丘陵を粒丘 と考えることは自然の成 り行きであった
。
その後の岩波書店版 『
風土記』 (
秋本 1
9
5
8
)においても 「
ナカジン山」 と注釈 し、「
丘の上の
祭神をもと中臣粒太神 と称 した」 と記すのみである。 この中臣粒太神 とは、井上の 「
中臣粒太神
はやがて延喜式の中臣印達神社なるべ し」を参照 したものと思われる。
小学館版 『
風土記』 (
植垣 1
9
9
7
)でも同様であり、その前提作業 として詳 しい語桑上の考察を
おこなった記述においても、粒丘の比定地を改めて考証 した様子はない (
植垣 1
9
9
0
)
。
ところで、中臣山は 1
6世紀末 (
文禄 4年)の 『
半田井 ・岩見井争論絵図』で 「
こんけん山一
-66-
権現山」 と記 されるほか、地元において 「
ワラグロ山」 と呼ばれたこともあったようで、粒山と
か粒丘 と称 された形跡はない。また、中臣山には 『
延喜式』神名帳に記 される中臣印達神社が鎮
座 し、揖保郡七座の うち明神大社 として揖保 (
粒)坐天照神社 と中臣印達神社および家鴨神社の
三社を掲げている。
さて、古代揖保郡の中心的神社は七座の最初に掲げられ、大文字で記 されている揖保 (
粒)坐
天照神社 と考えてよい。 この神社は現在、粒坐神社または粒坐天照神社 と呼ばれてお り、龍野町
目山の通称 「
白鷺山」または 「
天神山」とも呼ばれる南裾に位置 している。なお、この山は寛文 1
0
年の絵図によれば 「
鷺山」 と記 されている。
いずれにしても、粒丘-中臣山説は、井上通泰の説が出発点になったと考えられる。ただ、そ
の根拠は揖保里にある丘陵とい う以上の理由はなさそ うである。根拠 としては十分 とすることも
できるが、 しか し、揖保里の範囲については検討の余地があるし、それ らしき丘陵が付近に皆無
とい うことでもない。
一般的に、揖保里 と考えられている範囲は、現在の揖保町 と揖保川町北部一帯を含んでいる。
問題は、風土記編纂時の揖保里の範囲である。中臣山もそ うであるが、養久から野田にかけての
通称養久山丘陵も揖保里の範囲であるし、その北にある半田山もそ うである。 ここではさらに北
に位置する粒坐神社のある白鷺山も候補 として考えてみたい。
3 粒丘-半田山説
兵庫県揖保郡地誌』 (
臨川書店 1
98
6年)では 「
粒山所在分明ならず。或は日く
明治 36年の 『
粒山は中臣山な りと或は日ふ相一
石を出す半田山な り」 と記述 している。粒丘の比定地は中臣山だ
けでなく、半田山を考慮する説 もあったらしい。相一(
升)石 とは風土記の桑原里条に記載 されて
いる銅牙石 と同じ石のことである。
では、粒丘-半田山説の源は何であろうか。たっの市新宮町の博物学者 として著名な大上宇は、明治 35年に 『
博物雑記-』を記 した。当該部分の内容を略述すると次のようになる。
「
半田山に升石が出るとい うので、これを採集 しようとしたが、一粒 も得 られない。山頂及び
北麓には見当たらず。 この山は風土記に言 うところの粒丘である。 口から落ちたとい う飯粒に似
たこの丘の小石 とは、花尚岩が分解 した石英のこと」 と記 している。
探 しに行った升石は見つからなかったが、半田山では花尚岩由来の石英粒が多数見つかった
。
この石英粒は白っぽくて粒の大きさが揃ってお り、見ようによっては飯粒のようにも見える。そ
のために、風土記の作者が飯粒に似た石 と記 したものと考え、大上は半田山を粒丘 と考えたので
ある。
ところで、大上は明治 35年に栗 田寛の 『
標注古風土記』の書写もおこなっていて、「
粒丘ハ
中臣山ナランカ又西ノ半田山ナランカ トモ云」 と注記 している。 こうした大上の記述が、ほぼ同
年代に編纂 された先の 『
揖保郡地誌』に反映され、あるいはその逆もあり得るが、相互の影響で
粒丘-半田山説を生み出した可能性は高いのである。
しか し、粒山-半田山説はそれ以後、なぜか影をひそめて定着 しなかった。大上の著作は、井
上のように印刷製本 された出版物 として広 く流布 しなかったからであろう。
4 揖保里の範囲と粒丘-白鷺山説
風土記の記述を改めてよく読む と、「
葦原志挙乎命は天 日槍命を畏れて、先に国を占めんと欲 し
-67-
て、巡 り上 りて粒丘に至る」 (
意訳)と記 している。宇頭川 (
現在の揖保川)の河 口から巡 り上る
とい う記述から、揖保里の北辺に丘があったと考えてよい。当時の揖保川流路は、現在よりかな
り東を南流 している (
福島 ・八木 2005) ので、巡 り上 りて粒丘に至るなら、中臣山でも半田山
でも白鷺山でも粒丘説は同程度に成 り立っ
。
▲揖保里 とその周辺地形図
当時の揖保里の範囲は明瞭ではないが、現在の揖保町 と揖保川町北部一帯であることは動かな
いだろう。平安時代の 『
倭名類衆抄』によれば、郷名は 「
揖保」のほかに 「
中臣、神戸」が記 さ
れている。 このことから揖保里はやがて揖保郷 とな り、中臣 ・神戸を分離 していたことが分る。
神戸は揖保川町の旧神部 (
かんべ)村を遣称地 として、中臣山の南西部一帯の地域を指す。神
戸は増封 した神戸を郷 として整理独立させたものと考えられるが、この郷は、中臣印達神社の封
戸であったことを示す大同元 (
8
06)年の史料、『
新抄格勅符第十巻抄』がある (
福島 2005)。風
土記の揖保里条には最後に 「
神山」 とい う地名が記載 されてお り、一般的に揖保川町の神戸山を
指す とされている。 しか し、上記の史料からみると中臣印達神社の位置する中臣山こそ、この神
山を指 している可能性 も出てくるのである。
いずれにしても、風土記の記述以後に揖保里は東部 と南部を切 り離 しているので、揖保名を継
承 した郷はもともとの揖保里北半に位置 したことを示 している。逆に言えば、揖保里の分離でき
なかった中心部は北部に位置 していたことが窺われるのである。
それを間接的に裏付けるように、時代が下って近世の地誌である 『
龍野誌』 (
八木 1
98
0) に記
された 「
上伊保庄」の範囲は、「
龍野町 ・小神村 ・小神出屋敷 ・半田村 ・樋 山 (目山)村 ・四カ (
四
-68-
箇)村 ・四ケ町、中川原 ・大道村」の九ヶ村である また、同 『
龍野誌』では、粒坐神社の氏子
。
は、「
龍野 ・樋 山 ・四箇 ・大道 ・半田 ・小神 ・目飼」と記 してお り、上伊保庄の範囲 とほぼ重なっ
ている。
現在の揖西町小神や 目山一帯は、風土記に記 された 日下部里 と比定 されるのが一般的であり、
この理解か らすると揖保里は南に圧迫 された復元にならざるを得ない事情がある。有名な野見宿
禰墓の伝承から、龍野町一帯を日下部里 としているからである。 これを再考 し、南部を分割 され
た古代揖保里の範囲が、現在の揖保町一帯より北まで伸びてお り、龍野町の一部を含んでいた と
想定すれば、粒丘-白鷺山説 も考慮する必要が出てくるのである。
さて、井上通泰は風土記における揖保郡の里を記す順序において、「
本郡の記述の順序はよく地
理にかな-るがここのみは例に違えり」 とし、本来は南か ら北-荻原里-揖保里-少宅里 とすべ
きを、荻原里-少宅里-揖保里 と記す ことに疑問を呈 している。 この点は重要な指摘である。
その理由として、荻原里 と少宅里が揖保川左岸にあ り、揖保里は右岸にあったためと考証 した
のである。当時の揖保川の流れに理解を求めたのは正 しい着想であった。 しか し、揖保川の流路
は現在の復元によればさらに東を南流 してお り、浦上里 と荻原里は揖保川右岸に位置すると思わ
れる。荻原里の次に少宅里を記すために、一旦左岸に戻る順序を採 らざるを得なかったと考えて
はどうだろ う。そ して揖保里がもっと北に伸びていたとすれば、揖保郡条の最後を飾 る四里の記
述が、東か ら西-少宅里-揖保里-出水里-桑原里 と記述 されたことも理解できるであろ う。 こ
うした風土記の里記載の順序 も、揖保里が少宅里 と出水里に挟まれるほどに北-伸びていたこと
を推定 させ るのである。
5 粒丘 と粒坐神社
敷 田年治の 『
標注播磨風土記』は粒 山の注において、「
揖保郡粒坐天照神社」と記 している。し
か し、地名の関連を指摘 したものであ り、粒 山が粒坐神社の位置する山を指す意図はなさそ うで
ある。また、『
大 日本地名辞書』で、粒坐神社は 「
今粒 山に在 り」としている。これ も粒坐 と粒 山
の語桑上の相似関係 を指摘 したものと思われ、粒 山-白鷺山の意図は読み取れない。
しか し、あえて粒丘-白鷺山とい う新 しい仮説を考えてみる。
現在の粒坐神社は白鷺山の南裾に位置する。
粒に坐す とい う特徴的な名 を持つ神社の位置こそ、
粒丘 と関係 ありと考えられなかった理由は何であろ うか。素直に考えると、白鷺山こそが粒丘 と
考えられてもよかったのである。 しか し、管見ではこの説が唱えられたことはない。
この点について井上通泰は、『
延喜式』の記載で 「
揖保 (
粒)坐」と記 した粒坐 とは郡名 を指 し
たもので、山や里の名ではない。すなわち、粒坐 とは、粒丘に坐すのではなく、揖保郡に坐す、
の意であると解釈 している。粒坐神社があるにもかかわ らず、粒丘-白鷺山説がついに生まれな
かったのは、このように理由付けを伴 う明確な考証があったためであろ う。
しか しながら、粒に坐す とい うその意を素直に読めば、粒坐神社のある白鷺山を粒丘 と考える
べきではなかったか。揖保郡に坐す と解すれば粒坐神社のみならず、七坐すべてが粒坐 となる。
あえて七坐の冒頭に粒坐神社を記 して強調 したのは、揖保里にある粒丘にあるからこそ粒坐 と解
釈 したほ うが自然であると思われる。そ うしなかったのは、揖保 とい う遣称地の範囲が中臣以南
とい う当時想定 される里位置にこだわって しまったためではなかろ うか。中臣印達神社や夜比良
神社は揖保里の範囲にあるが、中臣郷は後に分割 される運命にあるとともに、別郷の氏子域であ
ることも意識 してみたい。
-69-
さて、井上が紹介 した中臣印達神社の旧称 とする 「
中臣粒太神」は、1
6世紀代の地蔵院善栄
書写本 『
播磨国内神明帳』(
三橋 1
999)に記 されている。それ以外、中臣印達神社の記述に 「
粒」
の文字はみえないようで、古代にこの名称が遡 る史料は未確認であるから、後付け名称の可能性
が高い。逆に、粒坐神社については 『
延喜式』以外にも 『日本三代実録』貞観元 (
85
9)年条に
「
粒坐天照神」 として登場する。 さらに 『
龍野誌』において、三社大権現社を記 したところに、
粒坐天照の名があるので歴史的に途切れてはいない。
なお、粒坐神社の前身は、縁起の記す伝説によれば、白鷺山の北にある現在の通称的場山であ
る。的場山は明治時代には裏山 (
だいやま) と呼ばれ、その南方尾根上にある小両、天祇 (
あま
ぎ)神社または天津津祇 (
あまつつみ)神社 と呼ばれる場所がその源 (
荒木 1
98
0) である。兵
火に遭ってそこから下って遷座 したのが揖西町小神の古宮神社であり、さらに現在の白鷺山南裾
に移ったものとい
う
。
この由緒によれば白鷺山に粒坐神社が位置するのは意外 と新 しく、白鷺山
の神社起源は古代まで遡 らない可能性が高い点は注意すべきであろ う。
5
9
4)年に天照国照彦火明命の使徒
付け加 えて、天祇神社の由緒を略記すると 「
推古天皇 2 (
が山頂に現れ、稲種を授 けた。その稲種を蒔いたところ一粒万倍 して一大穀倉地帯 となった
。
こ
れが揖保 (
粒)地名の起 こりとなった」
、と伝えている。風土記にみる葦原志挙乎命の飯粒伝承 と
山の石が飯粒に似ている記述 とあわせ、粒坐神社の縁起が伝える稲種伝承は性格が異なるとは言
え、同じ稲粒 を素材 としている点で、興味深いものがある。
以上のことか ら、粒丘-白鷺山説を唱えてみたが、ここまで考えてみると、天祇神社の位置 し
た裏山一帯 (
白鷺山も含めて) こそ、揖保郡の古代人にとっては神の座す山として、信仰の対象
となった粒 山または粒丘であった可能性があり、この点はさらなる後考を期 したい。
6 揖保里の考古学的検討
これまで主に文献や伝承から粒丘の場所を考えてきたが、候補地の丘陵 とその周辺について、
考古学的な遺跡の存在か らも検討 してみたい。
まず、中臣山には弥生 ・古墳時代の集落や墓地があったことが知 られている。中臣山出土の弥
生土器が確認 されているほか、中臣印達神社には弥生時代後期の壷棺が保管 されている (
松本
1
98
4)
。また、現在はわからなくなっているが、古墳が数基あった とされ、組合せ箱形石棺の存
荏 (
檀上 1
960) が紹介 されている。その写真を見る限 りでは、石材の様子か ら弥生時代終末期
から古墳時代初頭にかけての石棺のようである。 こうしたことから、中臣山は風土記以前から古
代人の居住域や墓地 として利用 されていたことは間違いない。
半田山にも弥生時代の墓地やそれ以降の古墳が知 られている。特に弥生時代前期の土器棺や弥
生時代終末期の墳丘墓は注 目されている。 とりわけ、墳丘墓は複数の埋葬が確認 され、小型鏡や
鉄剣が出土 している。また、6世紀以降の古墳時代後期にあたる横穴式石室墳などが知 られ、一
部は発掘調査を受けて詳細が判明 している (
渡辺 1
98
9)
。 このように、半田山も中臣山と同様の
風土記以前の濃厚な歴史を持っている。
最後に白鷺山である。現在、国民宿舎赤 とんぼ荘が 目印 となるこの丘陵一帯は考古学的な遺跡
が多い (
松本 1
98
4)
。 この丘には弥生時代の集落や土器棺が知 られているほか、 とりわけ重要な
のは、白鷺山墳丘墓 と呼ばれる弥生時代終末か ら古墳時代初頭 (
3世紀)の墳墓である。 この墓
には二基の箱式石棺があ り、各々中国製 と倭製の鏡、鉄剣 ・農耕具も副葬 されてお り、棺には男
性人骨が残っていた。また、近在の尾根には 6世紀以降の横穴式石室墳 も複数が知 られている。
-70-
さらに、この丘陵南麓には、揖保川流域を代表する後期前方後円墳である西宮山古墳 (
6世紀
中頃)がある。そ してその系譜に連なると考えられる巨大な石室を持つ 7世紀の狐塚古墳が知
られている。また、丘陵西方には 7世紀代に創建 された小神廃寺があるほか、南方には古代山
陽道が東西に貫通 し、揖保郡役所関係の官人集落 と推定 される小神芦原遺跡 (
岸本 1
9
9
3) が展
開 している。
この遺跡では 8- 9世紀代の掘立柱建物群が多数発掘 されてお り、方形縦板組の井戸からは
墨書土器も出土 した。 この時期の掘立柱建物集落 としては揖保郡域でこの遺跡が最大の規模を持
ち、他の遺跡ではせいぜい数棟の掘立柱建物が散在 しているに過ぎない。その意味では、複数の
古代家族体が集 中する様子から、他の遺跡 とは一線を画する性格を考えざるを得ない。 さらに、
9
98・2
0
05
) では 「
池 田」 と記す墨書土器が複数出土 して
西に隣接する小神辻の堂遺跡 (
岸本 1
お り、北側の池からも 「
井ノ上」 と記す墨書土器が採集 されている。 このことから小神芦原遺跡
や小神辻の堂遺跡は山陽道に南面 した一体的なものであ り、総計 1
0
0棟 を超える建物群が推定
されるのである。 しかも識字層の居住は明 らかであ り、律令官人の集住が推定 される。
この付近に、古代山陽道を挟んで北に小神廃寺があ り、南に掘立柱建物集落が広がっているこ
とは考古学に重要な知見である。未だに姿を見せない揖保郡街の存在 もこの付近に想定するのが
自然であって、そ うした意味で白鷺山一帯が古代揖保郡内の中心的役割を持つ地域であることを
示 している。
これに関連 して、風土記の桑原里条には興味深い一文がある。桑原里はもともと倉見里。品太
天皇が太市里 と少宅里の境である槻折山に立って西を望んだとき、森然に倉が見えたため、この
あた りを倉見里 とい うのである。桑原里はさらに西方の里であるが、槻折山か ら見れば同方向に
当た り、揖西町には揖保郡街が設置 され、その正倉群が見えたことを記 した可能性がある。
さて、白鷺山一帯 と龍野町付近は、風土記による里 として野見宿禰墓伝承や立野地名 との関係
から、 日下部里 と考えられている向きが多い。 しか し、 日下部里は風土記の記載順序からも、比
定地が暖味な里である。あるいは白鷺山一帯を含めて、前述のように揖保里の範囲であり、粒丘
が白鷺山や裏山であった蓋然性 も排除はできない し、む しろその可能性は高い とみたい。
揖保郡名の名祖 となった揖保里は、郡内で特別な里である。それに呼応するように、白鷺山周
辺は、考古学的にも重要な遺跡が密集する地であることは確かであり、揖保郡の中心的な地域で
あったことは明 らかである。つま り、揖保里はこの辺 りまでを含むことは十分考慮できよう。風
土記が揖保里は粒 山に依 ると記 してお り、すなわち推定 された裏山 ・白鷺山に寄 り添 うと記 した
ことも理解できるのである。
7 結語
以上、『
播磨国風土記』に記 された粒丘について、一般的な定説の検証を試みた。定説化 してい
た中臣山のほかに、半田山と白鷺山について、比定材料の一長一短を述べて揖保里の評価を加 え、
まとめとしたい。
地名関係ではいずれにも遣称地はない。揖保地名からみれば中臣山が一つの候補 となる。中臣
山は独立丘陵で、それほど高い山ではないが、頂上からは 360度ほぼ揖保郡全体を見渡す こと
の出来る眺望に優れた丘である。その点で、地理的には揖保郡の中心に相応 しい点で有利である。
しか し、粒坐 とい う名の神社が位置する白鷺山も同等に捨てがたい。 さらに粒坐神社は稲種の
伝説を由緒に持つ これを補強する材料 として、揖保里がもっと北に伸びていた可能性が加わ り、
。
-71-
里が粒 山に依 るとい う記述があるため、白鷺山説 も十分な比定材料を持つ と考えられ る。
粒の由来 とされた飯粒に似た石の存在では、半田山に多量に分布す る花尚岩 由来の石英粒があ
る。確かにこの石は特徴的で、この山を粒丘の候補 とす る材料にはなる。 こうした石英粒 は現在
の ところ他の丘陵には確認 していない。
揖保郡名 の由来である揖保里の重要性 を鑑みれば、考古資料が指 し示すのは白鷺山である。揖
保郡の代表的な古墳系譜の存在、有力首長の建てた古代寺院、古代山陽道 と揖保郡役所の想定地
な どが集まっているか らである。
古墳は首長の墓であるが、彼 らは死んだ後 も神 として奉 られ畏怖 され る存在でもあった 首長
。
は死 した後 も手厚 く葬 られ、神 となって領地や領民を加護す るのであった その意味では三丘陵
。
ともに古墳が認 められ るが、葦原志挙乎命の国占めとい う行為か らみても、もっとも有力な古墳
が造 られているのは白鷺 山である。
以上、揖保里の範囲の検証をしなが ら、粒丘の候補地である三丘陵をめぐって各々の比定材料
を検討 してみた。その結果、定説化 している中臣山以外 に白鷺 山も同等ない しそれ以上の候補地
であることが明 らかになった
。
あえて筆者 としては白鷺 山を一押 ししたい と考えたものである。
本稿における目的は、風土記に記 された粒丘を探 し、揖保里の範囲を再考す ることであった
。
その方法は、定説 を疑 うとい う発想、検証による史料壮畔U
、考古資料 とい う別視点か らの推定で
ある。地域 に根 ざした研究の強みは、実際にそこに立っ とい う軸足である。粒丘探 しはこれか ら
も続 けなければな らないであろ う。
岸本 2009) としてすでに公表 したものであ り、本稿はこれに大
なお、この着想は 「
粒丘考」 (
幅な加筆 と修整 をしたものである。
(
参考 ・引用文献)
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958 『
風土記』 (日本古典文学大系 2)岩波書店
荒木昌彦 1
98
0「
粒坐天照神社」『
式内社調査報告』第 22巻 皇学館大学出版部
931『
播磨国風土記新考』大岡山書店、後に臨川書店で復刻
井上通泰 1
植垣節也 1
990 「
播磨国風土記注釈稿九」『
風土記研究』第 11号 風土記研究会
997 『
風土記』 (
新編 日本古典文学全集 5
)小学館
植垣節也 1
沖森卓也 ・佐藤 信 ・矢嶋 泉 2005 『
播磨国風土記』山川出版社
岸本道昭 1
993 『
小神芦原遺跡』龍野市教育委員会
岸本道昭 1
998 『
小神辻の堂遺跡』龍野市教育委員会
岸本道昭 2005 『
小神南遺跡』龍野市教育委員会
岸本道昭 2009 「
粒丘考」『
いひほ研究』 (
創刊号) いひほ学研究会
檀上重光 1
960 『
祖先のあしあと』 (
Ⅲ)神戸新聞社会部
福島好和 2005 「
八世紀以後の揖保川 と林 田川周辺」『
揖保川町史』第 1巻 揖保川町
福島好和 ・八木哲浩 2005 「
揖保川の西遷 」『
揖保川町史』第 1巻 揖保川町
松本正信 1
98
4「
龍野市 とその周辺の考古資料」『
龍野市史』 (
第 4巻)龍野市
三橋 健 1
999 『
国内神明帳の研究 (
資料編)
』お うふ う
。
八木哲浩 1
98
0「
龍野誌」『
龍野市史』第 5巻 龍野市。他の史料 も本書による。
臨川書店 1
98
6『
兵庫県揖保郡地誌』 (
揖保郡役所 1
903年 を復刻)
渡辺 昇 1
98
9『
半田山』兵庫県教育委員会
-72-
第3
部
『
播磨国風土記』揖保郡条 証論
本研 究 で は、『播 磨 国風 土記 』 の うち、主 に揖保 郡 と宍粟 郡条 にみ える地名 起源 説話 を
中心 とした フィール ドワー ク、お よび それ を踏 ま えた各条 の史料校訂 もお こなった。第 3
部 で は、 この うち とくに大 きな研 究成果 が あがった揖保郡条 の条文 の 中か らい くつ か を選
び だ し、それ ぞれ の史料校訂 の結果 と研 究成果 につい て記す。 なお校訂 にあた り参照 した
注釈 書 について は、次 の よ うに略記 した。
〔
凡例〕秋 本 吉郎 『風 土記 』 (日本 古典 文学大系):大系 、植 垣節也 『風 土記 』 (
新編 日本
古典 文 学全集 ):新編 、井 上通 泰 『播 磨 風 土記新 考 』:新 考 、沖森 卓也 ・佐 藤信 ・矢 嶋
泉編 著 『播磨 国風 土記 』:山川
(
1) 『
播磨 国風土記』揖保郡 上 岡里条
(
1)
於
出雲 国阿菩大神 、聞二大倭 国畝火 ・香 山 ・耳梨 三 山相 聞一。 此欲二諌 止一、上来之時、到二
(
2)
此処-乃 聞二閉止-覆二其所 レ
乗 之船一両坐之。 故号二神 阜一。 々形似 レ
覆。
生 山辺一 散 日二菅生一。 - 云、 品太天 皇巡行 之 時 、闘二
上 岡里 (
本林 田里)。 土 中下。(3) 菅二
井此 同一。水甚晴寒。於 レ
是 、勅 日由二水晴寒一、吾意宗 々我 々志。 故 日二宗我 富-(
4
)
。
殿 岡。 造二殿 此 同一。故 日二殿 同一。 々生 レ
柏。
出雲 国の阿菩大神 、大倭 国の畝火 ・香 山 ・耳梨 の三つ の 山相 聞ふ と聞 きたまふ。 此 に
諌 め止 めむ と欲 して、上 り来 ま LL時 に、於 此 に到 る乃 ち闘ひ止 む と聞か して、其 の
乗 らす所 の船 を覆 して坐 しき
。
故 に神 早 と号 く。 早 の形 、覆 した るに似 た り。
上 岡里 (
本 は林 田里 な り) 土 は 中の下。
。
菅 、 山の辺 に生ふ。 故 に菅生 と日ふ
。 。
- 云ふ 、 品太天 皇 、巡 り行 しま LL時 に、井
を この岡 に関 りた まひ しに、水 甚清 く寒 か りき
。
是 に、勅 日 りた まひ しく、 「
水 の清
く寒 きに由 りて、吾 が意 、そがそが し。」故 に宗我 富 と日ふ。
殿 岡。殿 を この岡 に造 るれ り。故 に殿 岡 と日ふ。 岡 に相生ふ。
(
1
) 諸本 とも 「
出雲 国阿菩 大神 ∼ 々形似覆 」 の部分 を上 岡里 の標 目以 下 に記す が底本 の
まま とした。
(
2) 「
此処∼神 早 々」 の 20 字部分 は行 間 に追記 した形 となってい るが、文意 よ り大系 ・
新編 ・山川 な どに従 って この よ うに挿入 した。
(
3) 諸本標 目 「
菅生 山」 を補 うが底本 のまま と した。 写脱 ない し未 精選 の ゆ えで あ る可
能性 が ある。
(
4) 底本 は 「
宇」 と誤 る。
神卓
大和 三 山の妻争 い伝 承 を導入 した形 で の神 早 の地名 起源伝 承 の箇所 (「
此処 ∼神 早
々」 の 20 字) は、底本 で は書 写時 の脱落 に気 づいた書写者 が後 か ら行 間 に追記 した形 に
なってい る。 多 くの校訂本 は こ うした錯簡や 、上 岡里条 に里名 の地名 起源 がな く、神 早 の
地名 起源 が この脱 落箇所 に相 当す るな どの理 由か らこの部分 は上 岡里条 に位 置す るべ きで
あ る との立場 で校訂 してい る
。
しか し、新編 が指摘す る よ うに 「
上」 は ミ甲類音 、 「
神」
は ミ乙類音 で あ る こ とか ら地名 起源伝 承 として不整合 で あ る
。
-73-
近年 、飯 泉健 司氏 は神 阜伝
承 は底本 のまま越部里条の地名起源伝承 として解釈す ることを提起 してい る 本校訂 も底
。
本 のままでは整合性 に欠 けるために校訂 を施す よ うな場合 に、未精撰本 の復元 をも視野 に
入れそ こか ら引き出せ る史料情報 を重視す ることとす る (
飯泉健 司 「
三 山相 聞 (
上 ・下)」
『国学院雑誌』第 1
00巻第 8・9号、 1
999年)。
神早 の比定地 としては、大和三 山万葉歌 「
高 山 と耳梨 山 とあひ し時立 ちて見 に来 し印南
国原 」 (
『万葉集』 1
4) に引きつ けて印南郡石宝殿周辺 とす る説 、飾磨郡阿保 とす る説 (
新
編) な どがあるがそれぞれ難 があ り、揖保郡上同町 (
現在 の姫路市神 岡町) の丘陵を考 え
るのが妥 当であろ う。前掲飯泉説 は、西の越部里 の側 か ら上岡里方面 を見た際に古代 出雲
追 (
美作道) に面 した位置 にあって西方か ら舟形 に見 える神 岡町沢 田にある東 山 (
片 山)
に比定す る。越部里の住民の視点で捉 えた地域景観 なので、所在 は上岡里域 にあって も風
土記 の記事 としては越部里条 に記載 され る理 由がある とす る
。
▲ 奥村廃寺跡付近か ら愛宕山を望む
▲林田川上流か ら望んだ殿岡
しか し、喋崎で揖保川 を渡河 し上岡町追分 か ら相野- と出る古代 出雲道 の沿線 の丘陵 と
しては、上岡町奥村 の愛宕 山、神 岡町大住寺の塩盛 山も考慮す る必要がある。奥村 には 7
世紀末創建 と見 られ る奥村廃寺が存在 し、峰相 山ない し播磨 国分寺 との瓦の供給 関係 が想
定 され る。 また大住寺古墳群 の存在 とも併せ て、古代 にお ける出雲道沿いの拠点集落や諸
施設 との関係 を考慮 して、神阜伝承 を生み出 した地域景観 を想定す る と愛宕 山ない し塩盛
山も有力 となって くる。
上岡里
書写時の追記 の事実 を踏 まえて未精撰本 の状態 を考察す る うえで、大系補注 の指
定は注意 したい。上岡里 は風土記編述 の過程 を前後 して林 田里か ら分立 したのではないか
との指摘 である。 「
本林 田里」 とい う注記 がそれ を示す。地域的 に も上岡里条が示す菅坐
(
新宮町曽我井)、殿 岡 (
神 岡町入野)な どを含む現在 の姫路市神 岡町 に相 当す る里域 は、
揖保川左岸 にあって林 田里 の主要部分 と密接 であ り、林 田川 の下流-むかって里域 は広 が
ってい る
。
殿岡
上同町入野 の林 田川 に面 した小丘陵で、現在麓 に円徳 寺が所在す る丘陵 に比定で
きる
台形状 の殿 岡にふ さわ しい形状 で里域 内各地か ら望む ことができる。頂上 は整地 さ
。
れた痕跡 がある といい、建物 の遺構 が存在す る可能性 がある。 また付近 に小字 「トノコ」
の地名 がある。 (
高橋 明裕)
-7
4-
(
2) 『
播磨 国風土記』揖保都林 田里条
林 田里 (
本名 談
(
1
)
奈 志)
土 中下
於此慶一 遂生二檎樹一 散詳
松尾阜
塩阜
レ
連
(
ll)
(
3)
品太天皇巡行 之時
惟追
(
7)
之南有二嚇
与二海水一同往 来
以名二伊勢野-者
(
8)
所 以栴二淡
(
2)
奈 志-者
伊 和大神 占レ国之時
御 志植 二
二名淡奈志-
於二此慶一日暮
(
4)
即取二此阜松-為二之僚 -
水一 方 三丈許 与 レ
海相澗
満 時深 三寸許
(
9)
三十里許
牛馬等噂而飲 (
1
0
)之
(
5)
故名-松
以レ
磯為 レ
底
(
6)
尾一
以 レ草為
故号塩阜
此野毎 レ
在二人家- 不 レ
得二静安- 於 レ
是
衣縫猪手 ・漢人刀 良等祖
将レ
居二此慶一 立二社 山本- 敬祭在二山琴-神伊 和大神子伊勢都 比 (
1
2
)古命 ・伊勢都 比責命 英
日此以後
家 々静安
遂得 レ
成レ
里
即号二伊勢-
伊勢川
因レ
神為 レ
名
稲種 山
大汝命 ・少 日子根命 二柱神
在二於神 前郡壁 (
1
3
)里生野之琴一望二見此 山一云
彼山
者常レ
置二稲種- 即遣二稲種-積二於 此 山一 々形亦似二稲積一 散号 日二稲積 (
1
4
)山一
た む な し
た む な し
林 田里 (
本 の名 は談奈志 な り。)土は中の下な り。淡奈志 と栴 ふ所以 は、伊 和 の大神 、
あか
国 占めま LL時、御 志 を此虞 に植 えたまふ に、遂 に橡 の樹生 りき
。
故 に詳 して淡奈志
と名 づ く
。
松尾阜 品太天皇巡 り行 でま LL時、此虞 に 日暮れ ぬ。即 ち、 この早 の松 を取 りて と
ともし
び
煩 としたまひ き 故 、松尾 と名 づ く
さ
か
こ
いし
塩阜 惟 の早 の南 に嚇水 あ り。方 は三丈 ばか り、
海 と相澗 るこ と三十里 ばか りな り。磯
。
。
を以て底 とな し、草 を以て辺 となす。海 の水 と同 じく往 来す。満 つ る時 は深 さ三寸 ば
なづ
か りな り。牛 ・馬 ・鹿 等暗みて これ を飲 む。故、塩早 と号 く
。
や
す
伊勢野 と名 づ くる所以 は、 この野 に人 の家 ある毎 に、静安 き こ とを得ず。是 に衣縫猪
手 ・漢人刀 良等 の祖 、此虞 に居 らむ として、社 を山本 に立て 山琴 に在す神 、伊和大神
い
せ
つ
ひ このみ こと
い
せ
つ
ひ
め
のみ子 、伊勢都 比古 命 ・伊勢都 比責命 を敬 い祭 れ り。此 よ り以後 、家 々静安 くして、
遂 に里 を成す こ とを得 た り。即 ち伊勢 と号 く。
よ
伊勢川 神 に因 りて名 と為す。
おほなむ ちのみ こと
稲種 山
ね
大 汝 命 ・根 二柱 の神 、神 前 の郡 の壁里 生野 の琴 に在 して、 この 山を望 み
や
見 て云ひ たまひ しく、彼 の 山は稲種 を置 くべ Lと 即 ち稲種 を遣 りて この山に積 みた
。
まひ き
。
山の形 また稲積 に似 た り 故 に号 けて稲積 山 といふ。
。
た
み しめ
(
1
) 底本 ・大系 は 「
談」 に作 るが、植 垣本 は 「
手 ・御 志」説 を採 るこ とに よ り 「
タナ シ
メ」 と訓 じ 「
淡」 に訂正す る
山川本 は底本 のままで 「
タマナ シ」 と読 ませ る。
。
(
2) 大系 は 「
談」 に訂 正 しイハ ナ シ と読 ませ るが、 「
談奈 志 」 「
淡奈 志」 ともタムナ シ と
読 ませ る森 陽香説 を採 り、底本 のまま とす る。
(
3) 大系 ・新編 は 「
栴 」・「
称」 に訂正す るが底本 は 「
詳
」 。
(
4) 新考 ・大系 ・新編 ・山川本 は底本 は 「
暮」 を 「
墓」 に誤 る とす る。
(
5) 新考 は、底本 は煩 の扇 を立心房 に誤 る とす る。 「
僚」字 に とる。
(
6) 底本 「
松」 を脱。 大系 ・新編 ・山川本 に よ り補 う。
(
7) 底本 「
追」 と誤 る。大系 ・新編 ・山川本 によ り訂正。
(
8) 新考 は 「
嚇」 の俗字 とす る。
(
9) 底本 は三水扇 に 「
間」 と作 る
。
大系 ・新編 ・山川本 によ り訂正。
(
1
0) 底本 は 「
飯 」 に誤 る。 大系 ・新編 ・山川本 に よ り訂正。
-75-
(
ll
) 底本 には標 目がな く諸本 は標 目 「
伊勢野」 を補 ってい るが、底本 のまま とす る。
(
1
2) 底本 は 「
比」 を脱。諸本 にな らい意味によ り補 う。
(
1
3) 底本 は 「
岡」 を脱。諸本 は神前郡壁岡里条 に従い 「
岡」 を補 うが底本 に従 う。
(
1
4) 底本 は 「
積
」 。
諸本 は標 目が 「
稲種 山」 とあるこ とか ら末尾 の記事 も 「
稲種 山」
である として 「
種」 に訂正 してい るが、 「
稲積 山」 の名称 が 「
稲種 山」 に通 じた可能
性 も考 え られ るので、底本 に従 う。
林 田里
大系 は和名抄郷 に 「
林田 (
波也之多)」 が見 えるこ とを挙 げ、新編 も法隆寺伽藍
縁起泣流記資財帳 の 「
林 田郷五十戸」 を関連史料 に挙 げる。新考 は旧林 田藩 の詩人河野鉄
兜が別号 を檎村 と称 した こと、林 田村林 田の八軒町の林 田川沿いの片側 町の堤防に橡 の大
木 の並木がある と伝 え られ ることを引 く いずれ も林 田里 の里域 が後 の林 田郷 ・林 田荘 の
。
領域 につながるもので、その中心地が現在 の姫路市林 田町林 田の地 と考 える点は共通 して
い る と言 えよ う。 ただ し、新編 が営繕令 を引き、堤堰 の内外 ・堤上 に殖 え られ る樹木 のな
かに橡 が入 ってい ることを挙 げるのは、新考 と同 じく林 田川沿いの堤防上の橡 とい う理解
につながるものである 確 かに林 田付近 を流れ る林 田川 は右岸 に 自然堤防を形成 しその上
。
に上構 か ら下構 に至 る集落が発達 した。 しか し橡 を林 田川 の (自然)堤防に植 え られ た も
の とまで限定す ることには慎重 にな らざるをえないであろ う
。
林 田里条 の構成 か ら判断す る と、林 田里 の領域 は林 田の上流 に位置す る姫路市安富町塩
野、林 田町松 山、そ して林 田川 と峰一つ東 を流れ る大津茂川流域 の上伊勢 ・下伊勢 の地域
9号線)が林 田川筋か ら現 ・たっの市神 岡町追分 を
に広 がってお り、因幡街道 (
現国道 2
経て下伊勢付近か ら大津茂川筋-走ってい ることか らみれ ば、塩野、松 山、林 田、下伊勢
が林 田里の主要 な地点 を構成 した とい えよ う。この地域 には松 山以北は林 田川 の狭小 な谷、
六九谷 に出てか らは林 田川 の氾濫原 に八幡、 口佐見、聖岡、神 岡町沢 田な どの小丘陵や 自
然堤防が点在 し、大津茂川流域 に至ってか らは再び狭小 な谷底 とな りその東側 は伊勢 山か
ら峰相 山の尾根 となってい る 今 日もこれ ら丘陵上や 山麓 には八幡神社 (
八幡)、大避神
。
社 (口佐 見)、祝 田神社 (
上構)、榔 八幡宮 (
沢 田)、榔神社 (
下伊勢)、伊勢神社 (
上伊
勢) な どの諸社 が存在 し、近世以降の社伝 が伝 える信仰 の基盤 のなかには、風土記が伝 え
る祭配 ・信仰 と間接的 に関わるものが探 し求 め られ るのではないだろ うか。
い わ な し
たなし
め
檎 大系は談奈志 を談奈志 と読 んで橡 の呼称 と採 り、新編 は淡奈志 と読む ことによって伊
た な しめ
たな
しめ
和大神 の杖刺 しの行為 と関連 づ けて 「
御 志」-淡奈 志 (「
手」 「
志」 の意) と採 る これ
。
について森 陽香 「
『
播磨 国風 土記』 の校訂 を考 える一 揖保郡林 田里条 を中心 に-」 (
『古事
い わ な し
た
な しめ
記年報』5
0号) は、 「
談奈志」・「
淡奈志」いずれ で も橡 の方言名 「
タマ 」 「
タモ」 として
理解 できる として、底本 のままで地名起源説話 として意味が通 ることを示 した。 となる と
未精撰本 であった として も、林 田里条 に とって檎樹 の説話 が重要 な意味 を有 してい る可能
性 が出て くるであろ う
。
大系が指摘す るよ うに林 田里 の旧名 は談奈志であ り、地名起源 は専 ら談奈志の由来 を説
き、林 田- の改名 について も地名起源 について も触れ ていない。記事の未整備 ではあるが、
当地 に とって起源 を語 るに有意味な地名 は談奈志であった可能性 もある
。
檎 (
ニ レ) は 日本 ではハル ニ レ、アキニ レ、オ ヒョウの三種 が 自生す る。ハル ニ レは高
さ 30 メー トル に及ぶ落葉高木 で、樹皮 の粉末 は食用 ・薬用 に された。船舶材 な どにも利
用 され、西欧ではニ レか ら最初 の人間の男 を創造 した との神話や、アイヌでは火 と衣 をも
-76-
た らした神樹 とされ るな ど、橡 にまつ わ る神話 、民話 が多い。 オ ヒ ョウは中部地方以西 に
分布 し、川 の近 くに生育す るのでカ ワラゲヤ キの別名 もある
。
堤 防沿い の檎 な らあるい は
これ にあた るか。 いずれ に して も神樹 にふ さわ しい とい えよ う。
なぎ
一方 、 当地周辺 には榔 八幡宮 (
沢 田)、榔神社 (
下伊 勢) な ど鞘 を神木 とす る神社 が多
い。榔 はマ キ科 の常緑 高木 で 2
0 メー トル に もな る。 平安以降、榔 は特 に熊野速 玉の神木
とされ 、榔 の葉 に対 して も守 り袋や鏡 の裏 に入れ てお くと悪 鬼 を破 う信仰 され た。 「
凪」
にか けて晴天 を祈 るた めに供 え られ た り、海 上安泰 を祈 るこ ともあった。 神 岡町沢 田の
榔八幡神社 については峰相記 に天平宝字年 間、新羅軍船侵入 に際 し魚 吹津 よ り発 向 して こ
れ を撃破 した と伝 え られ 、その際宿願 寺 のほか松原 ・魚 吹 ・弘 山 ・那祇 山八幡大菩薩 に祈
祷 した との所伝 が あ り、 1
4世紀 には那祇 山に対す る信仰 が確認 で きる
。
峰相 山の南 、 ト
ンガ リ山の斜 面 に亀岩 とい う磐座 が存在 した とい う所伝等 ともに、 この近辺 の榔 を神木 と
す る神社 の点在 は丘陵や 山上 の磐座 に対す る古代 の信仰 と風 土記 が伝 える神 功皇后講 な ど
が外部 か らの八幡神勧請 とも習合 しなが ら生み出 してい った ものではないだ ろ うか。
捻尾卓
これ に該 当す る丘 は不詳 であるが、新考 は林 田村西奥佐 見 な る八幡神社 のある山
な りと引用す る。林 田里 の 中心集 落 だった と考 え られ る林 田町林 田か ら現在 の林 田里六九
谷 、八幡 を経 て松 山- と抜 けてい く因幡街道 を考慮す る と、現 ・林 田町松 山の地名 が参考
とな る。 『揖保郡 地誌 』 は明治期 当時、松 山の大源 寺 山には松樹満 つ と伝 え、林 田川 の東
岸 に松 山城跡 が あった こ とを記す。植 生 については時代的変化 を考慮 しなけれ ばな らない
が、いずれ に して も林 田の集 落 の北方 の因幡街道 沿い に位 置 して場所 にかつ て松林 があ り、
品太天皇巡行 の折 、 この地 で 目が暮れ たので この早 の松 を松 明 とした とい う風 土記 の記事
も街道 を反 映 した もの と理解 で きる。
塩卓
新 考 以後 、諸 注釈 は 『揖保 郡 地誌 』
が 引 く林 田城跡 の外 堀 の 中の塩 釜 ・井 戸 を
挙 げる
。
近世 、林 田藩 の陣屋 が置 かれ た林
田の地 は聖 岡 と呼 ばれ 、藩 主 ゆか りの建 部
神 社 の ほか、西方 の上構 の貴船 山の麓 には
現在 の祝 田神 社 が位 置す る
。
祭神 は高寵神
水波 之売神 、貴船 大 明神 で あ り、貴船神 は
都 か ら勧 請 した もので あ るが、元来 、水神
で あった可能性 もあ る。 「
祝 田神 社記 」 (
寛
文 11年 ) は林 田は祝 田が転 じた もの ゆ え
当社 が式 内祝 田神社 で ある とす る
。
一方 、
▲林田陣屋跡にある塩阜神水の碑 (
姫路市林田町)
『特選神名牒』 は風 土記美嚢郡 高野里条 の祝 田社 がそれ に該 当す る とし、祭神 を玉帯志比
古大稲 女神 ・玉帯志比売豊稲女神 とす る。
宝暦 5年 (
1
755) 「
林 田地 図」 で も確認 で きるよ うに林 田陣屋 は二重堀 で囲まれ 、その
外堀 にあた る地点 に現在 、塩阜神水 の碑 が ある。 「
祝 田神社記」 は 9月 9 日の祭礼 に際 し
塩 岡の東 の塩竃濠 にてお斎戒休浴す る故事 を記 し、塩 岡は聖 岡の 旧称 、塩竃濠 はかつ て塩
泉 とす る。現在 で も祝 田神社 と八幡 にある八幡神社 の秋祭 りの始 ま りは、 この井戸 で潮掻
きの行事 を行 う。少 な くとも近世 において祝 田神社 の祭 配 に塩 岡 (
塩阜) が関わってい る
こ とは、風 土記林 田里条 を構成す る林 田付近 の地域信仰 と塩早 の伝承 が習合 していた こ と
-77-
を示す ものであろ う。それが古代以来のものであったか否 かは確証 が ない。
伊勢野
林 田か ら上 岡町追分 を経 て大津茂川 谷沿いの南北 に細長い地 域 が伊勢野である。
野」
谷奥か らなだ らかに傾斜す る典型 的な 「
の景観 を有す る。渡 来 人 が先住 神 を祭 配 し
えた こ とによって里 を 「
静安」 にできた と
い う開発伝承 は、 この 「
野」 の耕 地化 を語
るもの とい えよ う。 上伊勢 ・下伊 勢 の地名
が存在 し、上伊勢 に は伊勢神社 、下伊勢 に
榔神社 が所在 し、伊 勢神社 の東 に位 置す る
伊勢 山の西峰 には 「
神 坐 の窟 」 と呼ばれ る
天然 の岩窟 の こ とが 『
播 州名所巡覧図絵』
に記述 され てい る。 岩 棚 の奥 には不動 明王
・弘法大師 ・役 の行者 の石仏三体が祭 られて ▲伊勢野の風景
いる (
姫路市教育委 員会文化財課 『文化財 シ リーズ 5
4
『伊勢校 区』 をたずねて』2005
午)。麓か らみると伊勢 山の西峰 には 自然石 が二体露 出 してい るこ とが確認 され、 これ は
二体の磐座 と考 え られる。伊勢都比古命 ・伊 勢都 比責命 はこれ を信仰 の対象 とした もの と
いえよ う。
伊勢神社 は寛延 2年 (
1
7
49)の 「
播州
神社歌寄」 に 「
伊勢社
いぼ
吹風 もさ
ハ りもあ らじ二柱天 て らす な る神 の宮井
は」 「
伊勢 山
犬飼
二柱 ふ としき立 し
此宮 ゐ長 き世迄 の光 りさや けき」 とある
よ うに、伊勢 の名 か ら天照大神 に対す る
信仰 とされ た。 新考 は粒 坐天照神 社 が 旧
名 三社権現 といい祭神 が天照国照 彦火 明
命 であるこ と、林 田の榔神社 が伊 勢神 明
社 といった こと、伊勢神 明宮 を三社権現の ▲伊勢山の 西峰に轟出する二峰の自然石
別宮 と称 した こと、大汝命 の子火 明命 (
伊和 里条)一伊和大神子伊 勢 都彦、であることか
ら伊勢都彦 は火 明命 で下伊勢か ら粒坐天照神 社に分霊 された もので分 社 の方が栄 えた もの
とす る。 しか し、これ は近世 にお け る天照大神 信仰 - の 改変 に惑わ され た もの とい えよ う。
古代 においては磐座信仰 に端 を発 した開発伝 承 と理解す るのが妥 当で あろ う。
稲種 山
諸註 とも稲種 山は峰相 山 に比定す る。風土記 の記事 は神前郡 「
壁里生野之琴」か
ら望み見て稲種 を積 んだ山容だ とす るが、朝 来郡生野か ら峰相 山は見 えない。新編 は落合
重信 の指摘 を引き、神崎郡大河 内比延 の 日吉神社 の西 の山か らな ら七 種 山 と明神 山の間か
ら峰相 山の山容 が望 めるとい う。 しか し、揖保郡 の地域景観 としてむ しろ 目立っ 山容 をも
。『播州名所巡覧 図絵』には 「風早峰」
つのは峰相 山の南西 に位置す る トンガ リ山で あろ う
として見 え、峰 に水 6斗たまる穴があいている といい、 「
揖保郡地誌 」 は峰相 山の西峰 を
風破 壊、大盤石 を亀岩 とい う窪 みで水が 5、6斗 たまるとい う。 「
峰相 記 」 に峰相 山上の大
盤 に水枯れ しない くぼみがあ り、香稲 4本 が生 じた ことか ら
稲根明神 を配 った とい う。『播
州名所巡覧図絵』ではこの稲根 の ことを大市郷峰相 山のふ もととす るので、 トンガ リ山の
-78-
亀岩 との関連 も うかが える。八幡神社 (
林 田町奥佐 見村字鈴 が峰) の社記 には風破壊 の峰
(
太 市) の大岩 よ り稲 三茎 が生 え、そ の峰
を稲穂 山、五十猛命 を紀州 よ り勧 請 し南東
禰高松尾 山に印達神社 を祭 る とある。
いずれ に して も稲 種 、香稲 とかかわ る磐
座 にまつ わ る伝 承 が古代 か ら近世 にか けて
奥佐 味 一伊 勢 山一峰相 山一 トンガ リ山一 帯
に分布 してい るので あ る
。
中世 には峰相 寺
の伽藍 が広 が った峰相 山に これ らの伝 承 は
収赦 したか の よ うで あ るが、伊 勢 山一 トン
ガ リ山にか けて の巨岩 ・奇岩 が地域 的 な信
仰 を集 めてい たで あろ うこ とを十分 に うかが▲左からトンガリ山、峰相山 (
手前が石倉の山塊)
わせ る。 これ らの峰 は因幡街道 に面す る とともに揖保 郡 と飾磨郡 の境界域 に位 置 し、神 前
那-抜 けるルー トで もあった こ とか ら、風 土記 は神前郡 か らの眺望 とい う形 で記 した もの
であろ う。 (
高橋 明裕 )
(
3
)『
播磨 国風土記』揖保都 邑智駅 家条
邑智駅家 (
1
)
。 土 中下。 品太天 皇 、巡行 之時、到二於 此処一、勅 云、吾謂二狭地一、此乃大 内
之平。故 号二大 内一。泳 (
2
)山。惟 山東 有二流井一。 品太天 皇、汲二其井之水一両泳 之
。
故 号二
泳 山一。槻 折 山。 品太天 皇、狩 二於 此 山一。 以二槻 弓-射 二走猪一、即折二其 弓一。故 日二槻 (
3
)
折 山一。 此 山南有二石 穴一。 々 中生 レ蒲
。
故号二蒲阜-(
4
)
。 至 レ今不 レ生(
5
)
。
邑智駅家。土 は中の下な り。品太天皇、巡行 の時、此処 に到 りて、勅 して云は く 「
吾、
おも
なづ
ひや ま
ながれ ゐ
狭地 と謂ひ しに、此 は乃 ち大 内な るか も」。故 に大 内 と号 く。 氷 山。惟 の 山は東 に流井
つ きをれや ま
ひこほ
有 り。 品太天 皇 、其 の井 の水 を汲 ます に 凍 りき 故 に氷 山 と号 く 槻 折 山 品太天
。
。
。
みか り
皇 、此 の 山に 狩 す。槻 弓 を以 て走 りし猪 を射 た まふ に、即 ち其 の弓折れ き
。
故 に槻
かまをか
折 山 と日ふ。 此 の 山の南 に石 穴有 り。 穴 の中に蒲生ふ。故 に蒲早 と号 く 今 に至 りて
。
は生ひず。
(
1
)大系 は、底本 に 「邑智駅家」 とあ る ところを 「邑智里 (
駅家)」 と改 めた。諸研 究 で
は大系 に依拠 して 「邑智里」や 「邑智里駅家」 を論 じてい る。新考 ・新編 ・山川 は底
本通 り 「邑智駅家」 とす る。 ここで もそれ に従 った。
(
2)底本 は三水扇。 「
泳 」 が正字 (
新考)。
(
3)底本 は 「
椀 」。新考 ・大系 ・新編 ・山川いずれ も同 じ。
(
4)この部分 、底本 は 「
故号蒲故号蒲阜」 となってお り、誤 写が ある。新考 ・大系 ・新編
・山川いずれ も同 じ (
なお 山川 は原文 下注 に脱字 あ り)
。
(
5)底本 は 「
不生」。 下記 「
槻折 山 と蒲阜」参照。
邑智駅 家
邑智 (
大市)駅家 の比定地 は、未発掘 であ るが、姫路市太市 の太市 中遺跡 で ほ
ぼ固まってい る (
岸本道 昭 『山陽道駅家跡 』 同成社 、2006年) 1
998年 に現地 自治会 に よ
。
って石碑 が建 て られい るが、その付近 には 「
馬屋 田」とい う小字 が遣 り、古瓦が散布す る
。
2009年 9月 1
9 日に調査 チー ムで現地 を歩 いた際 も、 田や池 の堤 に瓦片 が散布す るの を見
るこ とがで きた。 山陽道 の支線 で ある美作道- の分岐 については草上駅 か らとす る説 と、
-79-
邑智駅 か らとす る説 の 2説 が あるが、草上駅 とす る
のが妥 当であろ う
。
山陽道 の本線 は草上駅 か ら桜 峠 を越 えて 邑智駅 に
至 り、再び槻 坂 峠 を越 えて布 勢駅 (
たっ の市揖 西 町
定地) の北 には西脇廃 寺 が あ り、集 落 内 に塔 心礎 が
遣 る。
狭 地 と大 内
『播 磨 国風 土記 』賀 古郡条 には駅 家里
が見 え、「
駅家 に由 りて名 を為す」とある。『
延喜式』
な どに見 える賀 古駅 を支 える小里 であった と考 え ら
▲西脇廃寺から南東を望む
れ るが、 邑智駅家比定地 とその周辺地域 は、同様 の 「
駅家里」であった と見て よいであろ
う。 邑智駅家の 「
里」 は、ほぼ四方 を山に囲まれ てい る。本条 は この地理的条件 をめ ぐる
伝承 に尽 きてお り、邑智 の地名起源 となった 「
大内」伝承 について も同様 である。この 「
里」
に入 るには、峠道 (
東 か らは桜峠、西か らは槻坂峠) を経ねばな らない。そ して峠 を登 っ
大内」を 「
入
て眺望が広 がる ところか らは、この 「
里」を一望す ることができる 大系 は 「
。
口が狭 く、内の広い意」 とす るが、新編 は
「
『
内』は 『河 内』 (
川の流域 の平坦地)で、『大
内』はそのひ ろび ろ とした地。入 口が狭 く内の広い地 と解す る必要 はな く、単に広い地で、
大 内」の解釈 としては新編 の通 りであろ うが、新考や大系 も記
国ほめ こ とば」 とす る。 「
す通 り、天皇の 「
吾は狭地 と謂ひ しに」 とい う感慨 は上記 した現地のあ りよ うに対応 して
いる
。
泳 山 と流井
氷 山は不詳 (
大系)。 たっ の市
龍 野 町 に 目山 とい う大字 が あ るが、 これ に
あて る説 を紹介 した上 で新 考 は 「
地理 か な
はず 」 とす る
。
播 磨 地名 研 究会編 『古代播
磨 の地名 は語 る』 (
神戸新 聞総合 出版 セ ンタ
ー、 1
995 年) は、 「
流井」 を大津茂川 にあて
た上 で、そ の西側 にあ り駅 家 に近 い 山 を索
めた結果 、小 字 「
馬屋 田」 の背 後 (
南) に
▲槻坂から邑智駅家の 「
里」故地を東に望む
あ る畑 井 山 (
旗 ノ山) を氷 山に比 定 してい
る。
「
流井」 は 「
湧 き清水 で水 の溢れ流れ てい るもの」 (
大系)、 「
水量豊富であふれ て流れ
出てい る泉 」 (
新編) とす るが、要す るに 「
走井」 と呼ばれ る種類 の井戸 で ある。 『扇 面
古写経』の一場面 にこの井戸が描 かれ てい る (
右 図参照。
『新版 ・絵巻物 による 日本 常民生活絵 引』第 1巻 、平凡
98
4 年 に掲載 の模 写 よ り転載)
。地下水位 の高い とこ
社、 1
ろに見 られ る井戸である。
槻折 山
太 市 か ら西-抜 ける坂 が槻坂。 旧峠道 は廃 道 と
なってい る ここにあった 「
槻坂随道」は 1
95
4年 の開通。
。
現在 の 「
槻坂 トンネル」は 2005年 の新 開通である。 この
峠 を含 む 山が槻 折 山で あろ う。槻坂 を西-越 える と、 山
陽道 に沿って続 く小宅里 ・揖保里 ・出水里 ・桑原里の方面が一望でき、桑原里条 に載せ る
-80-
伝承 (
品太天皇が槻折 山か ら眺める と、森 の中に倉 が見 えたので、「
倉見村」 と名付 けた)
を妨棟 とさせ る。
蒲卓
ヽヽ
ヽヽヽヽ
新考 は現地 に育 った人の、槻坂 の西 の池 の周 囲に蒲が多 く、池 の南方 には石穴があ
って、そ こにも蒲が生 えてい る とい う談話 を引き、蒲早 をここか とす る。一方 『古代播磨
ヽヽ
の地名 は語 る』 (
前掲) は姫路市西脇 にある丸 山 (
槻坂 の南東) に比定す る この山の麓
。
には巨石 が多数存在 してお り、山中には古墳 も確認 されてい る ところで本条 の末尾部分、
。
底本 は 「
不生」 となってい る。新考の引 く敷 田年治 『
標注播磨風土記』 は 「
不」 を術 また
は 「
大」の誤 か とし、新考 は 「
仇生」か とす る。大系 は 「
不亡」 とし、 この部分 を 「
今に
至 るまで亡せず」 と訓む。新編 ・山川 は底本 を生か し、 「
今 に至 りては生ひず」 とす る
。
大系以前の諸注 は字句 を改 めて 「
現在 で も蒲が生 えてい る」 とい う意味に取 るが、新編 ・
山川 は 「
今 では も う生 えていない」 とい う逆 の解釈 を取 る
。
ほお う
蒲 は花粉 (
蒲黄) が傷薬 な どとして利 用 され る植 物 で あ る
た め、蒲早 の地名 起源伝 承 に伴 って、現状 が報告 され た も
してみれ ば、字句 の誤 りを認 め、現在 も蒲
の と思 われ る
。
が生 えてい る とい う旧来 の解釈 に妥 当性 を認 め るべ きで あ
る
。
ただ比 定地 に関 して は、 こ うした点 を考慮 した上 で、
なお現地 に即 した調査 を続 ける必要 があろ う。 (
毛利 憲一)
▲丸山の兼に遣る巨石
(
4) 『
播磨 国風土記』揖保都枚方里佐比岡条
佐比岡。所三以名二佐比-者 、出雲之大神 、在二於神尾 山一。此神 、出雲国人経二過此処-者 、
十人之 中留二五人一、々之 中留二三人一。故、出雲 国人等、作二佐比-祭二於此同一。遂不二和
受一。所二以然-者 、比古神先来、比売神後来、此、男神不 レ能 レ鎮両、行去之。所以、女
神怨怒也。然後 、河 内国茨 田郡枚方里漢人、来至居二此 山辺一両、敬祭之。僅得二和鎮一。
因二此神在一、名 目二神尾 山一。又、作二佐比-祭処、即号二佐比同一。
さ ひ
佐比岡。佐比 と名 づ くる所以 は、出雲之大神 、神尾 山に在 り。此の神 、出雲 国の人、
す
ぐ
うち
ここを経過れ ば、十人 の中、五人 を留 め、五人の中、三人 を留 める。故 に出雲国の人
あまな
しか
ひ こ が み
ら、佐比 を作 りて、此 の岡に祭 るに、遂 に 和 ひ受 けず。然 ある所以 は、比古神先 に
ひ め が み
ひ こがみ
ひ めがみ うら
来て、比売神後 に来て、此 に、男神鎮 ること能わず して行 き去 りぬ。その所以 に、女神怨
まむ た
あやひ と
ほとり
み怒 る也。然 る後、河 内国茨 田郡枚方里の漢人、来 り至 りて、此の山の 辺 に居 して、
わづか
あまな
敬ひ祭 る。 僅 に 和 ひ鎮む ことを得 る。此の神 の在 ることに因 りて、名 づ けて神尾 山
な
づ
と日ふ。 また佐比 を作 りて祭 りし処 を、即 ち佐比 岡 と号 く
。
佐比岡の比定地
枚方里 の地名 由来講 に続 く本条 では、 「
佐比岡」 の地名 由来 を記す とと
もに、それ に関連付 けて、近 くに所在 した 「
神尾 山」 の地名起源 が収 め られ てい る。 それ
ぞれ の所在地 について、新考 では、 「
今龍 田村 の大字 に佐用 岡あ り 是佐比 岡の名 の転 じ
。
同、245 頁) と推定 し
た るにて、その南方 にあ りて太 田村 に跨れ る山ぞ神尾 山な らむ 」 (
てい る
。
これ を受 け大系 は、佐比岡について、 「
太子町佐用 岡が遣称 であろ うが、 どの丘
を指す か明かでない」 (
同、294頁)と述べ、また神尾 山については 「
遣称 がない」 (
同、295
頁) と記 していた。従来、その比定地が不明確 であったのが本条 の伝承地であった。
ところが国文学研究者 の飯泉健 司氏 は、現地での聞き取 り調査 を踏 まえなが ら、神尾 山
を現在 の太子町 とたっ の市 の境界付近 に立地す る 「
明神 山」、佐比 山をち ょ うどその南側
-81-
にある 「
坊主 山」 と見なす新 しい見方 を提起 した (
同 「
播磨 国風土記 ・佐比岡伝承考
一
風土記説話成立の一過程-」『古代文学』33号、 1
994年)
。
その最大の根拠 の 1つは、明神 山には、かつての信仰 の対象 となった と考 え られ る 「
男
明神 」 「
女明神」 と呼ばれ る巨岩 が、両側 か ら南方 に伸び る 2 つの尾根上 に一対 の形 で吃
立 してい ることである (
写真参照。 84 頁の地図 も参照)。氏 はこれ を本条 にみ える 「
比古
神」 「
比売神 」の男女二神 の伝承 と重ね合せ 、明神 山が本来、神体 山的な条件 を備 えた 山
と理解す る。
▲女明神の岩上にたつ科研チームメンバー
▲男明神の巨岩 (
手前) と坊主山
(
2
0
0
8
年3
月3
1日)
後方の独立丘は立岡山 (
-御立卓の比定地)
また坊主 山については、かつてその西側 にある福 田集落 の人々が 日照 りの時、 この山に
登 って 「
雨乞い」 を したな どの伝 えに も とづ き、 「
明神 山 ・坊主 山付近が祭 死地 として選
ばれ た可能性 は高い 」 (
同、62 頁) と指摘 してい る。 フィール ドワー クの手法 を取 り入れ
た飯泉氏の研究 は斬新 であ り、筆者 もこの比定説 を支持 したい と思 う。
佐比岡」の地名 由来の本義 を、
ただ し飯泉説 において 1つ気 にかか る点 は、「
さ
川 の水 を 「
障ふ (
遮 る ・せ き止 める)岡」の意味に求 め、具体的 には、 この西側 に流れ る
古代の佐比
林 田川 の洪水 を抑 える農耕神 と観念 されていたのが佐比岡だった と理解す る点である。
古代 の 「
佐比」 とい う言葉 の用法 には基本的に 2つ あ り、1つは、 「
刀」や 「
鋤」な ど
の金属製 品の意味で使 われ るケースである。『古事記』上巻 の 「
佐比持神」の説話 での 「
佐
比」 (
海神 宮訪 問の段)や 、本条 にお ける 「
佐比 を作 りて、此の岡に祭 る」 とい うのは、
この用法 にあた るであろ う
。
さ
障ふ 」 (
下二段) の連用形 「
サ-」の音転化 と
も う 1 つ は、飯泉氏 も言及す る、動詞 「
みて、 「
遮 る所 」 「
妨 げ る所 」 な どの意 、 さらに転化 して、 「
境」 「
境界」 の意 味で もちい
る用法 である
。
これ はかつて民俗学 の柳 田国男 が 『石神 問答』 (
1
91
0 年刊) の中で、 「
サ
-」や 「
サイ」、 あるい は 「
サ ク」 「シヤク」 の語 の意 味が、 「
塞 防」 「
限境 」 の義 で ある
と繰 り返 し提唱 していた説 で もあった。
この うち本条 の 「
佐比岡」の地名 は、本来、後者 の用法 に由来す る と思われ るが、 しか
しそれ を飯泉説 の よ うに、川 の洪水 を 「
妨 げる岡」の意味 と解す るのは、かな り穿 ちす ぎ
であろ う。や は りここでは人の交通の妨害、す なわち 「
出雲 国人」な どのよ うに西国方面
か らこの地 を通 り過 ぎよ うとす る往来者 たちを、あたか も 「
遮 る」 よ うな岡の意味 として
み るべ きではなかろ うか。
山城 国紀伊都の 「
佐比河原」
このよ うな 「
佐比」 を ともな う古代 の地名 に関連 して、現
-8
2-
在 の京都 市南 区吉祥 院 あた りの地 が、平安期 には 山城 国紀伊 郡 に属 し、 「
佐 比」 「
佐 比河
原」 と呼ばれ ていた こ とは よく知 られ てい る その地名 のいわれ については、 この地が、
はし
平安京 の 「
佐比 の大路 の南 の極」 にあた る とともに (
『日本三代実録』貞観 11年く869〉1
2
。
月 8 日条)、葛野川 (
桂 川 ) と鴨川 との合流地であ り、 しか も山陽道 が交差す るよ うな場
所 で もあった事実が大 きい と考 え られ る。 ま さに諸 国か ら京 に向かってや ってきた人や馬
が、 「
橋」 「
渡」 「
津」 (
『日本後紀』延暦 1
5年く
796〉8月戊辰条、延暦 1
8年く
799〉1
2月突西
条 な ど)等 によって一旦交通 を遮 られ る要衝 の地、す なわち都 内外 の、双方 の人 たちか ら
みて 「
境界 の地 」 「
限境 の地」 であった こ とが、 この地 にお ける 「
佐 比」 の地名 の形成 に
つながった とみ ることができよ う
。
さい
〔
註〕いわゆる 「
賓 の河原 」 と当地 とは別物 の可能性 が高 く、賓 の河原 については、三条通 と御 土居 (
西
さい
堀川小路) が交差す る辺 りの 「
最勝河原」、あるいは現在 の阪急西院駅辺 りの 「
西院の河原」 とみ るの
が有力 らしい (
勝 田至 『日本 中世 の墓 と葬送』吉川 弘文館 、200
6年。220- 221頁)。
交通路 を 「
遮 る山」 -佐比 岡
こ うしてみ る と播磨 国の佐比 岡の周辺 に も、おそ らく出雲
国の人 たち も行 き来す るよ うな交通路 が通 っていた こ とを示す であろ う。 この点で注 目さ
れ るのは、 これ までの発掘成果 と絵画資料 の分析 な どによ り、佐比岡の比定地の坊主 山の
近 くを、中世 の山陽道 (
筑紫大道)が東西方 向に走 っていた と推定 され てい る点である (
岸
本道 昭 『山陽道駅家跡』 同成社 、2006年)。
揖保郡 内の古代∼近世 の山陽道 の変遷 について復元 した岸本道 昭氏 の推定地図に眼 をや
ると (
次頁 の地 図参照)、 この地域 の 中世 の 山陽道 は、 ほぼ坊 主 山を東西 か ら直線 的 に貫
くよ うに走 ってい る。 ところが坊 主 山付近 に くる と、 あたか もこれ によって遮 られ、わ ざ
わ ざそれ を迂回す るよ うに結 ばれ てい るよ うにもみ える。これ に関連す る道路遺構 か らは、
古代 の遣物等 は出土 していない とい うか ら、 この道 が古代 にまで遡 る保証 は今 の ところ何
もない。また同図に記 され るよ うに、古代 の山陽道 は、中世 山陽道 の推定ルー トの北方約 1
-
2km の ところを東西方 向に敷設 され ていた と推定 され てい る
。
しか し古代 の道 は必ず しも駅路 だけが存在 したのではな く、集落 と集落 をむすぶ各地 の
て ん ま
りどう
「
里道 」、国庁∼郡街 同士 をむすぶ 「
伝馬 の道 」 な ど、それ ぞれ の土地 において、大化前
代以来 の多様 な交通 システ ムがあったはず である。 その よ うな交通網 の うち、揖保郡 内の
幹線 的な道 の 1つ として、 この辺 りを東西方 向に走 る交通路 の存在 を想 定 し、 しか もそ こ
には山陰道諸 国の人々 も往来 していた と想 定 した として も、それ ほ ど無理 はないのではな
はんきゆ う
いか。斑 鳩 寺 の存在 な ど、 この付近 が大和 の法 隆寺 の所領 として早 くか ら開発 され てい
た こ とを考 えれ ば、その蓋然性 がかな り高い と思われ る。
もちろんその場合 、旅人 たちが祈 りを捧 げる先 は、 この佐比 の山の北方 にある神尾 山の
す
ぐ
うち
「
神 」であった と考 え られ る。 その神 が 「ここを経過れ ば、十人 の中、五人 を留 め、五人
の中、三人 を留 める」 とい う本条 の よ うな伝承 ができあがった前提 には、上 にみた佐比 岡
(
坊 主 山) の道路上 にお ける位 置 関係 の問題 が大 きかったのではないか と予想 され る
。
〔
註〕天平 1
9年 の 『法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』 には、法 隆寺領 の 「
山林丘嶋等」 が合 わせ て 26地
あげ られ、その うち播磨 国揖保郡 の 5地 として、 「
於布弥岳 」 「
佐伯岳 」 「
佐乎加 岳 」 「
小立岳 」 「
為西伎
乃岳」が記 されてい る (
『寧楽遺文』 中巻 、3
63頁)。 この 5地の うち、 「
佐伯岳」 は、あるいは本条 の
「
佐比 岡」である可能性 が高い と思われ る
。
佐比 を作 る話 と出雲認識
とすれ ば、なぜ風 土記 の条文では、佐比岡の由来 を、出雲 国人
-83-
▲岸本道昭 『山陽道駅家跡』 (
同成社、2
0
0
6
年)の図7
9を修正 ・加工
が 「
佐 比」 を作 って祭 ったか らとされ た ので あ ろ う
か。旅人一般 ではな く、 あえて出雲 国人 が 「
佐比」、
す なわ ち 「
鋤」か 「
小刀 」 を岡上 で作 り、それ を神
祭 りに用 い た とい うの は、や は り何 らか の理 由が あ
った と考 え られ る
。
その理 由は一概 にはい えないが、
少 な くともその 1 つ として、 当時 の この地域 と出雲
地域 の人 々 との交流 の深 さ、お よび それ に も とづ く
出雲認識 の一端 があ らわれ てい る と考 えたい。
▲西側 か らみた 明神 山の女岩 と坊 主 山
『播磨 国風土記』では、出雲 関連 の地名説話 を合 わせ て 8例確認 できるが (
神話 が 4例、
人 を主人公 にす る話 が 4例)、その うち揖保郡や讃容郡条 な ど、西播地域 の説話 が半数以
-8
4-
上 を占めてい る。 出雲 国 と播磨 国を結ぶ古代 のルー トは、 山陽道 をつな ぐ径路、お よび美
作道 とその延長ルー ト (
後 の雲州街道)の 2つがあった と考 え られてい る。 その中で揖保
郡 の地は、2つの交通路双方 の結節点的な位置 にあた り、出雲地域 の人々の行 き来、お よ
びそれ にもとづ くさま ざまな接触や交流が生まれ るのが頻繁 な所 だった と思われ る。 その
よ うな現実 を何 らかの形で反映 させ たのが、本条 の地名説話 ではなかったか。
出雲 国人が行路 の途 中、「
荒ぶ る神」を鎮 めるため、佐比岡で 「
佐比 」 -鉄製 品の 「
鋤」
あるいは 「
小刀」 を作 った とい うのは、 この地の住民 と出雲 国の人 との間で 「
鉄製 品」 を
め ぐる交流 があった ことの証 しともい えそ うである。実際 に旅 の途 中で簡単 に 「
鉄製 品」
を作 ることはあ り得 ない話 であるが、その よ うな話 を作 り上 げるに至 る、一定の事実の積
み重ね と、それ にもとづ く出雲認識 があ らわれてい る とい えるだろ う。
(
坂江渉)
(
5
)『
播磨 国風土記』揖保都家島条
家島。人民、作 レ家而居之
故、号二家 島一 。 (
生二竹 ・黒葛等-)
な
づ
っ づ ら
お
家 島。人民、家 を作 りて居 り。故 に家 島 と号 く。 (
竹 ・黒葛 ら生ふ。)
家島
。
。
『
播磨国風土記』では、家 島諸 島を総称 して 「
伊刀 嶋」 と呼んでい るが (
揖保郡条
冒頭)、本条 の家 島は、家 島諸 島において もっ とも人 口の多い家 島 (
地元 ではエ ジマ とい
う) を さす と思われ る
。
この島は風土記では揖保郡条 にかけ られ てい る
。
しか し現在 は、
旧飾磨郡 (
揖保郡 の東 隣 り) に属す る姫路市 とのつなが りが強い。 島 との定期航路 は姫路
港 との間に結 ばれ てい る。 そ して 2
0
0
6年 3月、 「
平成 の大合併」の動 きが強まる中、つい
に家 島町は香寺町 ・安富町な どとともに姫路市 に吸収 ・合併 され た。
す でに新考 は、明治 1
2年 (
1
8
7
9)、本 島が行政上飾磨郡 の管轄下におかれ た ことを指摘
してい る (
同書、2
7
9頁)。 ただ し地元研究者 の奥 山芳夫氏 (
真浦在住 、昭和 1
3年生) に
あぼ し
うす き
いっとう
よる と、家 島の人 々は、 「も ともと旧揖東郡 である網干 との行 き来 が盛 んで、魚 吹八幡宮
の氏子 である時期 もあった」 とい う (
2
0
0
9年 6月 2
4 日聞き取 り調査)。 これ はかつて魚
吹八幡宮が京都 の石清水八幡宮の別宮で、 さらに家島が鎌倉時代後期以降、 この石清水八
幡宮の所領化 (
家 島別府) され た ことが大 きい らしい (
奥 山芳夫 「
大 山遺跡 の頃の家 島本
島」家 島町文化協会編 『い え しま文化』 1
8号、2
0
0
9年)。
姫路市教育委員会刊 の 『家島郷 土歴史史 (
資)料集 1
0 近代 の家 島
一旧家島町役場文
書-』 (
奥 山芳夫編著、2
0
08年) に も、江戸時代 の家 島村 が、姫路藩領 で、揖東郡 に属 し
ていた事実が指摘 され てい る。
式内社の家島神社
家 島の東北隅の 「
天神鼻」 とい う岬の先端部 には、現在 、式 内社 の家
島神社 が鎮座 してい る。家 島神社 は、承和 7年 (
8
4
0)、赤穂郡 の八保神社 とともに、初 め
て官社 (
式 内社)に列せ られ た社 である (
『続 日本後紀』同年 6月 甲子条 )。『
延喜式』巻 1
0
の紳名帳 によれ ば、播磨国内には五社 しかない 「
名神 大社」の 1つであった。
ただ し現存 の社 が、姫路藩 の社配局か ら 「
式内社 の家島神社」 に正式 に治定 されたのは
明治 2年 (
1
8
6
9) の ことで、それ までは 「
天神社」 と呼ばれ ていた らしい (
奥 山芳夫編著
1 寺社文書』 (
姫路市教育委員会刊、2
0
0
9年)。鎮座 地の
『家 島郷 土歴史史 (
資)料集 1
地名 が 「
天神鼻」であるのが、その名残 である と思われ る
。
みや
同資料集 による と、上記 の式 内社 の治定がお こなわれた明治 2年 には、家 島の宮 に所在
-85-
した 「白髭神社 」が 「
宮浦神社」- と改 め られ 、ま
た同島真浦 に所在 した 「
荒神社」 が 「
真浦神社 」 に
改める措置 もとられた らしい。
この うち 「白髭神社 」 (
つ ま り宮浦神 社 ) につい
ては、江戸時代以来 、式 内社 の家 島神社 とみ る説 が
山陽道)
あるよ うだが、『式内社調査報告』第 22巻 (
は、それ は 「
誤伝 」 である と切 り捨 ててい る (
皇学
館大学出版部刊、 1
98
0 年。 96 頁)
。 なお学術的考察
がまたれ る ところであろ う。
(
坂江渉)
▲家島神社の参道 口と天神鼻 (
船上か ら)
(
6) 『
播磨 国風土記』揖保都神 島条 (
韓浜条)
神 島 ・伊刀 島等 (
1
)
。所三以称二神 島-者 、此島西辺在二石神一。形似二価像一。故、因為 レ名
。
此神顔 、色之玉(
2
)
。又、胸有二流涙一。是亦五色。所二以泣-者 、品太天皇之世、新羅之客
来朝。仇 、見二此神之奇偉一、以為二非 レ常之珍宝一、屠二其面色-堀二其-瞳一。神 由泣。於
レ是、大怒、即起二暴風一、打二破 客船一。漂二段於高島之南浜一、人悉死亡。乃、埋二其浜一。
故、号 日二韓浜一。干 レ今 、過二其処-者 、慎 レ心固戒、不ヨ
レ
言二韓人一、不 レ拘二古事一。
6
己
l
神 島 ・伊刀 島等。神 島 と称ふ所以は、此の島の西 の辺 に石神 あ り。形、価像 に似 た り。
故 に因 りて名 とす。此の神 の顔 に色 の玉 あ り。又、胸 に流 るる涙 あ り。是 も亦、五つ
く す
の色 あ り。泣 く所以は、品太天皇の世 に、新羅 の客、来朝せ り。偽 りて此の神 の奇偉
うづ
お
も
お もて
ゑ
しきを見て、常にあ らざる珍 の玉 と以為ひて、其 の面色 を屠 りて、其の一つの瞳 を掘
いた
あ ら し
る。神 、由 りて泣 く 是 に大 く怒 りて、即 ち暴風 を起 こ し、客の船 を打 ち破 る。高島
し
づ
し
から
はま
の南の浜 に漂ひ没みて、人悉 くに死亡ぬ。乃 ち其 の浜 に埋 めき 故 に号 けて韓浜 と日
め しひ
かかは
つつし
から
ひと
ふ。今 に、其処 を過 ぐる者 は、慎心み固 く戒 めて、韓人 と言 はず。 盲 の事 に 拘 らず。
。
。
(
1
) 大系 は 「
等」 の字 に関 して、文意 に よ り 「
東 」 の略字 か ら、 「
等」 の略字 に誤 写 し
た もの と認 める とい う説 を とる。山川 は底本 どお り 「
等」とし、ここではそれ に従 う。
(
2) 大系は 「
色之玉」の字 の前 に 「
有五」 を補い、 「
五色 の玉有 り」 と読 ませ る。
神島
本条では神 島の地名 の言 われ 、その起源 になっ
た石神 の泣 く理 由、遠 く離れ た高島にある 「
韓浜」 の
地名 由来、 さらにこの付近 の海上航行時の禁忌 の由来
な どを説いてい る
。
本条 でい う神 島は、家 島諸 島の最東端 に位置 し、播
かみ しま
磨灘 のほぼ真 ん中付近 に浮 かぶ 「
上 島」 を さす。上 島
は家 島本 島か ら直線距離で約 20km 近 くも離れ る島で
ある。 ここか らまっす ぐ北 に向か うと、現在 の姫路市
と高砂 市 の間 あた りに到達す る所 に位 置す る。 『播磨
つくり
いし
国風土記』印南郡大国里条 の 「
作 石」伝承 にちなむ、
おお しこ
高砂 市 の 「
生石神社 」 (
石 の宝殿 ) の丘 か ら播磨灘 を
/
2
5
0
0
0「
真浦」より
眺めた時、ち ょ うど南方付近 に浮 かぶ孤島が本 島であ ▲国土地理院 1
る。
島の周 囲は約 4km。現在 、島内には灯台 と大本教 の宗教施設 があるが、無人 島である。
-86-
定期航 路 はな く、上陸す るた めには漁船等 のチ ャー ター が必要 とな る。島の北方 には約 1
km
近 くの浅瀬 があ り、船 の航行 には危 険水域 となってい る (
86頁 の地 図参照)。
フ
■
」似 てい る とい う 「
石神 」 について、大系
石神 につ いて 島の西側付近 にあ り、形 が仏像 を
は
は、「自然石 の像 ではな く、彫像 して眼 に宝玉 を飲 め込 んだ像。大陸か ら伝 来 した異形像」
(
302 頁) と推 定す る。 しか し既存 の調査報告や科研 チー ムの訪 問時 に も、そ うした人 工
の 「
異形像 」 は確認 で きなかった。
た だ し通説 で は、 島 の北西付 近 に あ る、 自然 石
の 「
人 面石 」 が これ に あた る とされ てい る
。
国文
学研 究者 の飯 泉健 司氏 の論 文 「
仏像 に似 る神 一播
磨 国風 土記神 嶋条 の表 現性 -」 (
『国語 と国文学』 81
地元 では島の北西 の人面石 を
-1
2、2004 年)では、 「
風 土記 の 『石神 』 に比定す る」 (
同、98 頁) と述べ
られ てい る
。
2007年 7月 8日にお こなった科研 チー ムの現地
▲近くからみた人面石
調査 時 に も、す ぐに この 「
人面石 」 の存在 に気 がつい た。 た しか に少 し離れ て眺 めてみ る
写真 参 照)。 しか し 「
色
と、2 つ の眼 と鼻 のあ る仏像 の形 の よ うに見 えな くはなかった (
の玉」や 「
五色 の涙」 の記述 に関連す るもの を発 見で きず 、風 土記 の 「
石神 」 に該 当す る
か否 かの確信 は もてなかった。
また人 面石 が 島 の西側 斜 面 で は な く、西 北付 近
に位 置す る事実 が もっ とも気 にかか る点で もある
。
そ こで調 査 チー ムで は、 これ よ りさ らに西側 部 分
の調 査 を しよ うと した が 、 断崖 絶壁 とな り、 それ
以上 の続行 は不可能 だった。
た だ し家 島 の真 浦在 住 の歴 史研 究者 、奥 山芳 夫
氏 に よる と、 島 の西側 部 分 は、小 舟 な どで近 づ い
てみ る と、絶壁 の色 が天候 の加 減 に よ りさま ざま
に変化 し、 ま た海 面 は濃 紺 色 の ま ま で 、 か な り不
気 味で、背筋 がぞ っ とす る感 の場所 だ とい う (
2009
年 6月 24 日聞 き取 り)
。
奥 山氏 は この体 験 につ い て 、家 島町文化 協 会 会
報 に も載せ てお り、 「
絶壁 の色 と濃 紺 の海 面 の組 み
合 わせ は神 々 しく、見 る者 に に畏敬 の念 をお こ さ
せる
。
ま さ しく神 の 島 で あ り、海 上 交 通 の守護 神
な の で あ る」 と記 してい る (
同 「
上島 (
神 島) の
不思議 」 『い え しま文化』 1
6 号、2007 年)。今後 さ
らな る調査 が望 まれ る ところで あ る
▲船上よりみた人面石 (
岸本道昭氏撮影)
。
高島の韓浜
次 に本条 では、石神 の怒 りに触れ た新羅 の船 は、暴風 雨 に よって打 ち破 られ 、
高島の南浜 まで漂流 し、その後 、亡 くなった韓人 の死骸 はその浜 に埋 め られ た と記す。 だ
か らその浜 を 「
韓浜」 と呼ぶ のだ とい う。
説話全体 は事実 に も とづいた話 とは思 えないが、家 島諸 島の高 島 (
現在 の西 島) の南 の
-87-
浜 に、 も とも と 「
韓人」 にちなむ何 らかのモ ノ、す なわち地元民 の間で 「
韓人」 の死骸 を
埋 めた と伝 え られ る、墓地や塚 が あった とみ るべ きか も しれ ない。
この点 に関連 して早 くか ら注 目され てきたのが、現在 の西 島の南側 にある 「
マル トバ」
と呼 ばれ る浜 の複合遺跡 で ある。本遺跡 については、海岸線 と浜 の後背湿地 との間に 「
積
なかう
え
石群集墳」があるこ とが知 られ 、す でに地元 の郷 土史家 の中上実氏 によって数 回の調査 (
表
959 年 の夏 には、神 戸新 聞社 の家 島群 島総合 学術
面採 取等) がお こなわれ ていた。 また 1
調査 に先立っ予備調査 も実施 され (
陳顕 明 ・吉本尭俊 民 ら 1
4名 )、その結果 の概 略 を記す 、
報告書 も刊行 され てい る (
家 島群 島総合学術調査 団編 『家 島群 島総合 学術調査報告書』神
戸新 聞社 、 1
962年)。
科研 チー ムで も、研 究協力者 で あるたっ の市教育委員会 の岸本道 昭氏や義則敏彦民 らの
協力 を得 て、2009 年 6 月 9 日に漁船 をチ ャー ター して、マル トバ の浜 に上陸 し、本遺跡
の簡 単 な調査 をお こなった。調査 によって得 られ た知 見 については、以下、同行者 のお一
人、たっ の市教育委員会文化財課課長補佐 の岸本道 昭氏 に ご報告 していただ く。(
坂江渉)
西 島のマル トバ古墳群
マル トバ古墳群 は兵庫県 内で も例 の少 ない積石塚古墳群 である。
しか し、場所 が無人 島に近い状況 の西 島で あ り、かつ通常 は人 が行 かない島の南側 の浜 に
位 置す るた め、家 島群 島総合学術調査以来 、 よ り詳 しい調査や追認作業 は実施 され た こ と
がない。 その報告書 に頼 る以外 、古墳 の状況 はなが らく不 明であった。
▲マル トバ浜の現状 (
2
0
0
9
年6
月)
2009 年 に我 々がマル トバ の浜 を訪れ る直前 、古墳 は波 に洗 われ るか、採石 に よってす
でに失 われ て しまってい るだ ろ う、 とい う指摘 を地元 の方 か ら受 けていた。 それ で も淡 い
期待 を抱いての上陸で あった。全体 としての浜 は 『家 島群 島総合 学術調査報告書』 に掲載
され た とお りの景観 を保 っていた。 しか し、浜 の石 は多 くが樹木 の繁茂 に遮 られ 、古墳 の
存在 を示す こ とはな くなっていた。我 々は報告書 の記述 と図面 を頼 りに、古墳 が残 ってい
る とすれ ば、現在雑木林 の よ うになってい る場所 に位 置す る と推 定 し、ヤブ蚊 と闘い なが
ら茨 と樹木 を掻 き分 けて古墳探索 を開始 した。
-8
8-
報告書の記述
家島群 島の総合学術調査 は 1
959 年 、今 か らち ょ うど半世紀前の ことであ
る。報告書 の記述 は、荒れ て しまった古墳 の現状 か らすれ ば貴重 な証言 である。
古墳群 については、約 20の集石 の高ま りを墳丘 と考 えて古墳 としてお り、 もともと 30
基程度 あった とされてい る。地形 図 (
第 56図)に載せ られ た古墳 の位置 は 1
4基、番 号が 1
4
まで与 え られてい るので、確実な古墳 は この 1
4基 だったのであろ う。しか し、「
i
i
i
墳丘項」
では 1
7号まで番 号 を与 えた とも記 してい る その うち、1、2、5、7、1
2、1
5、1
6号墳 の 7
。
基 について墳丘測量 をお こなった とす るが、墳丘図は 1、7、 1
2号墳 (
第5
7、59、60図)
が示 されてい るに過 ぎない。 また、 1、2、5、6号墳 の 4基 の石棺 を実測 (
第 61図) し、
残 りの良い 1
5、1
6号墳 を発掘 した とい う。古墳 は、ほ とん どが破壊 されてい るものの、1、2、
4、 5、 6、7、8、9 号墳 に石棺 の残骸 が確認 できた とい う。 ただ し、 よ り大 きな地形 図の
古墳分布 図 (
第 58 図) に番 号が示 されていないので、調査 を受 けた古墳 の詳 しい特定 は
図面上で対照す ることが出来ない。
▲1
9
5
9
年、マルトバ古墳群の調査風景 (
家島公民館の写真アルバムから複写)
2 号墳 である。 この二基 は円形ではな く、
注 目すべ きは、古墳群北側 に位置す る 11、 1
前方後 円形 である と記述 してい る。確 かに古墳分布 図にも測量図にもそ ういった形状 が認
め られ るが、現在 は確認 できなかった。報告 では古墳群 の背後 に大 きな池が示 されてい る
が、雑木 に阻まれ て池 の堤防す ら確認 出来 なかったので、各 々の古墳特定作業が不可能 で
あったの もやむ を得 ない。
古墳 は、浜 の石材 を集積す ることで墳丘 を形成 した よ うで、盛 土の ものはない。 凹凸の
ある浜 に点在す る小墳丘は、径約 5- 7メー トル程度 とい
う
。
ほ とん どの墳丘で、中心部
は窪み、内部 に組み合 わせ式の石棺材 が散乱 していた らしい。
調査 当時、遣物 として縄文土器片や土師器片、須恵器片が採集 され、特 に須恵器片 は古
墳 の時期 を示す もの として 6世紀後半 と記述す る。 さらに、6号墳か ら人骨や滑石製 の勾
玉、鉄片が出土 した と記 してい るが、 これ らは図面や写真 が掲載 され ていないので検証 は
できない。 ただ、古墳群 を案 内 した地元の中上実氏が採集 した須恵器 2点 と滑石製 と思わ
れ る勾玉や小玉の写真 が掲載 (
第 1
8 図版) され てお り、古墳 に関す る年代等 の手がか り
が得 られ る。須恵器 の一点は明 らかに 7世紀以降の平瓶 で、古墳 の築造が この時期 まで下
ることが言 える
。
も う一点は、大 き さがわか らないが嚢 または壷形土器 で、形状 は国内の
須恵器 としては異質な印象 である
。
古墳群の現況 と課題
報告書の記述や写真 では、当時 は浜一面に雑木 も少 な く、古墳 は見
つ けやすい状態 であ り、石棺 な ども容易 に確認 できた よ うである
。
-89-
しか し、現在 は雑木 の
繁茂で古墳群が覆 われ、分 け入 った雑木の地面に石 の散乱が見 られ るのみである。
▲雑木の繁茂する古墳群の現状
▲石棺 と推定される石材
しか し、い くつかの場所 では窪み も残 り、おそ らく破壊 を免れた石棺材 と思われ る石 も
確認 できた。ただ、報告書の石棺写真 を現地で比較 したが対比はできなかった。 しか しこ
うして古墳群 は、た とえ痕跡 であって も遣存 してい ることを認 めた ことを多 としたい。 な
お、遣物 は一片 も採集 できなかった。
古墳群の歴史的評価
一般的に古墳 は盛土で墳丘が形成 され る。大き さも形状 も内容 もさ
ま ざまで、地域的な多様性 も明 らかになってい る 考古学では、石で墳丘 を造 る古墳 を特
。
-90-
に積石塚 と呼んでい るが、列 島全体で数千基程度 が知 られ てい る
。
その割合 は、数十万基
ある古墳全体数 の 0.
01パーセ ン トに過 ぎない特殊 な墳墓 である
。
しか も、築造時期 は古
墳時代全期 間に及び、九州 か ら瀬戸内沿岸 、 中部地方 、関東地方 にまで点在 してお り、時
間的地域的偏在 があるわけで もない。
積石塚 の成立 に関 しては、石材豊富な地 にある環境 自生説 、韓半島に多いために大陸渡
来説 な どが考 え られてい るが、造営 された地域や構造、出土遣物 か ら一概 にそ う言 えない
例 も多 く、有力 な定説 は得 られ ていない。課題 としては、その古墳 の性格 であ り、現実の
被葬者 が ど うい う人たちであったかの推論 である。
さて、マル トバ古墳群 の埋葬施設 は組み合 わせ式の石棺 であるが、 この型式 は弥生時代
以来 の 日本列 島、特 に西 日本 において普遍的 に採用 された もので、韓半島特有の ものでは
ない。 ただ、北部九州 では こ うした石棺 に韓式土器 が副葬 され る例 もあって、渡来人 の墓
地 とされ る古墳群 もある。
実 はマル トバ古墳群 と非常に似 た古墳群 が福 岡県糟屋郡新宮町 に知 られてい る。 国指定
史跡 となってい る相 島積石塚群 (
『相 島の積石塚』糟屋郡新宮町教育委員会 2002年)であ
る。 この古墳群 は玄界灘 に面す る離 島に存在 し、朝鮮通信使客館跡 も擁す る島である。古
墳群 は、254 基 もの数 が知 られ てい るが、写真 を見 る限 り、石棺 を有す るものはマル トバ
古墳群 と見分 けがつかない くらい様子 が似 てい る。相 島積石塚群 において も古墳 の被葬者
や性格 に定説 はないが、わずかなが ら伽耶系の遣物が知 られ てい るため、渡来人 との関わ
りも考慮 されてい る。
そ こで、マル トバ 古墳群 の出土遣物 に 目を転
じる と、 中上氏 の採集 した遣物 の 中に管 見 で は
類例 のない須恵器 が報告書 (
第 18 図版) に掲載
され てい る (
右 の写真参照)。実測 図が提示 され
てい ない が、やや偏 平 な球形 の胴 部 上 半 に複数
の沈線 文 が巡 り、二段 の沈線 文 間 に櫛 歯状 の列
点文 が連続 してい るよ うに見 える
。
胴 部 下半 の
カ キ 臼状 の横線 は、国 内の須 恵器 で も韓 式 土器
で も通 常 あ り得 ない調整 で あ る
。
口縁部 は注 口
を表現す る よ うに一部 が垂 下 し、 口頚部 も 日本
の須恵器 とは異質 な形状 で あ る
。
他方 、韓式 土
器 に も同型 式 の ものが見 当た らなか った。全体
的 な印象 で は韓 式系 土器 とみ られ るが、風 土記
マルいさ
湘鋸E
、・ .
:
I,眉
目‡
'
▲ 『
家 島群 島学術稔合調査報告書』第 1
8図版
が新羅人 と書いてお り、新羅 の土器 も念頭 に今後 の検討課題 としたい。
ま とめ
以上、マル トバ古墳群 についてま とめてお く 古墳群 は海上か ら見 る以外、人 目
。
に触れ ることの少 ない浜 に造 られ、大和王権 の政治的記念物 とす る古墳 の定義か らは隔た
ってい る。 しか も墳丘 は低平で埋葬施設 も簡素な ものであって、首長層 といった被葬者像
を想定す ることはできない。古墳 とい うよ りは古墳 の影響 を受 けた集 団墓地 とい う趣 であ
る。
墳丘 は積石塚 であ り、 この ことも列 島にお ける通常の古墳 とは性格 を異 に してい る
。
た
だ、副葬 品 として滑石製 の勾玉や小玉、鉄製 品や須恵器 を有 してい るので、古墳 と共有す
-91-
る要素 も持 ってい る。古墳 の範境ではあるが、社会構成的 には下位 の集 団墓 と言 うことが
できる
。
その造墓期 間は 5世紀か ら 7世紀 に及ぶ と考 え られ る
。
風土記 の記述 では、 「
韓人」 を埋葬 した 「
韓浜」 の伝承 を記 してい る 韓浜 のある 「
高
。
島」が この西島 と推定 され、 しか も記述 どお りに古墳群 が存在す ることは整合的である
。
したがって、マル トバ の地 こそが韓浜 であった可能性 は高い。風土記 に記す よ うに、難破
船か ら漂着 した人たちを葬 った とい う点は検証できない。 ただ、古墳 の墳丘 も墓地 として
の選地 も、やや異質な ものであ り、倭人 とは異なる埋葬イデオ ロギー を持つ人たちの墓 で
あった ことは十分 あ りえる
。
マル トバ の浜 は石材 が豊富で、環境 自生的な理 由も排 除でき
ないが、古墳造営候補地 をこの浜 に限 る理 由はない。 それ で もなお この浜 を選び、異質 な
積石塚 を造 った とい う意味で、マル トバ古墳群 に韓人 が眠 る可能性 を示 してい る。 これ を
補強す るのが韓式系土器 の副葬行為である。
また、その造墓期 間の長 さも、数世代 に及 んで 2
0
0年程度 は継続 してい る。長 く彼 らの
墓地 として認識 され、利用 され続 けた ことになん らかの政治的意志が働 いてい る と考 え ら
れ る。 この古墳群 か らは、活発化す る大和王権 と朝鮮諸国の交流 と摩擦 、海上交通の祭配
と権益、古墳築造 の影響 と継続 、播磨 の地域権力 との関係 な ど、多様 な歴史が見 え隠れ し
てい る。瀬戸内海 を舞台 に渡来 した韓人たちが、倭 国の古墳時代社会 の末端 にあって多様
な古墳造 りを実現 し、今 にその歴史 を伝 えるのがマル トバ古墳群 であろ う。 その意味で、
この古墳群 が失 われず に保存 され てい る意義 は大 きい ものがある。
(
たっの市教育委員会文化財課課長補佐 ・岸本道 昭)
(
7
)『
播磨 国風土記』揖保都韓荷島条
韓荷 島。韓人破 レ船所 レ漂之物、漂二就此島一。故、号二韓荷 島一。
韓荷 島。韓人 の破れ し船 の漂- る物、此の島に漂ひ就 く。故 に、韓荷 島 と号 く。
韓荷 島
本条 では、前条 の 「
神 島の石神 」伝
承 を受 け、神 の怒 りによって難破 した韓人 (
新
羅人) の船荷 が漂着 した こ とが 「
韓荷 島」 の
言われ になった と説いてい る。
本条 の韓荷 島が、現在 のたっ の市御津町の
地
室津港沖合 の 「
沖 ノ唐荷 島」「中ノ唐荷 島」「
ノ唐荷 島」 の三小 島 とみ る点では諸説一致 し
てい る
。
新 考 は、 「
唐 荷 島は誹 りてカ ラ ミと
も云- り。室津港外 に在 りて地 ・中 ・沖 の三
小 島 よ り成れ り」 と紹介 してい る (
同、2
8
2頁)。▲室津港からみた地 ・中 ・沖の唐荷島
りげん
古く1
8世紀前半の 『
播磨名所 図覧図会』巻之五では、 「
里諺 に日、むか し唐船破損 しける
あが
時、其つみたる荷 の、多 く麦 に揚 りLよ り、名 とす」 とい う江戸時代 の伝承 が記 され てい
る。
からに
この島については、『万葉集 』 で も しば しば詠 まれ てお り、例 えば、 「
辛荷 の島に過 る
時 に山部宿祢赤人 が作 る歌一首」 では、 「・-淡路 の
ま
の
野 島 も過 ぎ
印南っ ま
辛荷 の島
わ ぎ-
島の間ゆ 我家 を見れ ば・-」な どと歌われてい る (
巻 6-942)。
本 島の名 がその後、谷崎潤一郎や 司馬遼太郎 な ど、現代 の文学作品に至 るまでたびたび
-92-
登場 してい るこ とは、御津 町史編集 室編 の 『
御津 百話
一浦上 と石海 の物語-』(
御津 町、2
0
0
3
午) の 中の 「
唐荷 島 と文学 」 (
柏 山泰訓氏執筆分) に詳 しい。
唐荷 島で見 つか る土器 片
風 土記 の説 話 の
よ うに、実際、遥 か東方 にある神 島 (
上 島)
付 近 か ら漂着物 が流れ て着 くよ うな事 実 が
あるのか ど うかは不 明である。
ただ この よ うな説話 が作 られ るこ と自体 、
何 らか の事 実 の反 映 なのか とい う点 が気 に
な った。 そ こで科研 チー ムで は、地元研 究
グル ー プに合流 して、2
0
0
7年 5月 1
7 日、
漁 船 をチ ャー ター して (
住 栄 丸 )、 い ち ば
ん南側 にあ る 「
沖 ノ唐 荷 島」 に上 陸 して、
表面採 取 な どの簡 単な調査 を実施 した。
▲表面採取 した土器片等
調査 の結果 、残念 なが ら 「
韓式 の土器 片」 な どは得 られ なかった ものの、多 くの土器 片
等 を表 面採 取 で きた (
写真 参 照)。 この島で は釣 り遊 び な どに際 して も、 さま ざまな遣物
を採 取 できる らしく、前記 の 『
御津 百話
唐荷 島の考古学」
一浦上 と石海 の物語 -』の 中の 「
(
松本正信 氏執筆分) とい う論考 では、弥生時代 中頃 のサヌカイ ト製 の石槍 片 を見つ けた
9 頁)。 こ うした遣物 がなぜ この島で見つ か るのか、実際 に漂
例 が報告 され てい る (
同、 5
着物 が集 ま る構 造 になってい る否 か ど うかな どについ て、今後 も地道 な調査 ・研 究が必要
であろ う
。
「
道」でつなが る 「
沖 ノ唐荷 島」 と 「
中ノ唐荷 島」
なお地 ・中 ・沖 の 3つ の唐荷 島は、
普段 は海 で隔て られ てお り、徒歩 で行 き来す るこ とは不可能 である。 ところが季節 に よっ
て大潮 の引き潮 時 には、 この うち 「
沖 ノ唐荷 島」 と 「
中ノ唐荷 島」が あたか も道 でつ なが
0
0
7年 の上陸調査 日 (
5月 1
7 日) が
る現象 が起 き、その間 を歩 いて渡 るこ とがで きる。 2
ち ょ うどその 日にあた り、両島間の 「
海割れ」現象 を実見す るこ とがで きた。
この点 に関連 して、先 に引い た 山部赤人 の 『万葉 歌』 の歌 をみ る と、 「
辛荷 の島の
ま
の間 ゆ
わ ぎ-
我家 を見れ ば」 と詠 まれ ていた (「
ゆ」 は
▲向こうは中ノ唐荷島 (
1
3:
5
5
頃)
島
「
∼か ら」 の意)。
▲引き潮時にあらわれた 「
道」 (
1
6:
3
5
頃)
わ ざわ ざ 「
島の間か ら見 る」 と詠 まれ てい る点か らす る と、唐荷 島 (
韓荷 島) の島 と島
の間は、そ の当時 か ら、不 可思議 かつ神 聖 で、一定 の 「
霊力 」 を得 られ るよ うな場所 (
例
た まふ
えば 「
魂振 り」 の場所)な どとみ られ ていた可能性 が あるか も しれ ない。
-93-
さし
この よ うな 「
海割れ 」現象や長 い砂 喋 が
見 え隠れす る現象 を ともな う海洋祭 配遺跡
として知 られ る ものに、岡 山県笠 岡諸 島の
お お ひ しま
大飛 島の 「
砂洲 の南遺跡 」 が ある
この遺
。
跡 では、皇朝十 二銭や奈 良三彩 の陶器 等 、
奈 良∼平安 時代 の遣唐使 な どに よる国家的
な祭 配遣物 が発 見 され てい る
。
そ の眼前 に
は、大潮 の干潮 時、向かい側 の小飛 島 に伸
び る長大な砂喋 (
現在 は約 30- 50m 程度)
が現れ るこ とで有名 で ある
。
家 島諸 島の唐荷 島について も、今後、 この
よ うな 自然現象 を ともな う海洋祭配遺跡 の問
▲小飛島に向かって伸びる大飛島の砂塀
(
岡山県笠岡市、2003年 1月の大潮の日の早朝)
題 とも関連付 けて研究 され る必要があろ う。
〔
註〕古代 の 「
海割れ」や 「
砂 喋」 に対す る信仰 面の実相 については、拙稿 「
古代 国家 の交通 とミナ ト
の神祭 り」 (
『
神 戸大学史学年報』 1
8号、2003年)を参照 されたい。
〔
註〕唐荷 島あた りの潮 の満 ち干 に関連 して、前記 の 『播磨名所 図覧図会』巻之五では、 「
地のか らみ、
そ は べ
ひ しお
つ うせ ん
東 三丁 ばか りに楚波辺 といふ岩 あ り。干汐 にはあ らわれ 、満汐 にはか くる 往来 の通 船 、此岩 を しら
。
ず して は船 をの り上 げ、破 る事多 し。是 に よって、前 の姫府侯 、源 忠次 、此難 を救 ほん とて、船 司に
ひ よ うぼ く
命 じて、岩上 に大石 を多 く積 て、其上 に標
と紹介 されてい る。
木 を立、これ を知 らしめ給ふ よ り、後世、破船 の難 な し」
(
坂江渉)
(
8
)『
播磨 国風土記』揖保都荻原里条
荻原里。 (
土 中々)。右 、所三以名二荻原-者 、息長帯 目売命 、韓 国還上之時、御船宿二於此
村一。一夜之間、生 レ荻
。
根高一丈許。仇 、名二荻原一。即、闘二御井一。故、云二針 間井一。
其処不 レ墾。又、噂水溢成 レ井
故、号二韓清水一。其水朝汲不 レ出レ朝
。
。
爾 、造二酒殿一。
故、云二酒 田一。舟傾 乾。故、云二傾 田一。
春米女等 陰、陪従婚 断。故、云二陰絶 田一。仇 、荻多栄。故、云二萩原一也
爾 、祭 レ神。
。
少足命 坐。
鈴喫岡。
所三以号二鈴喫-者 、品太天皇之世、 田二於此同一、鷹鈴堕落、求而不 レ得。故、
号二鈴喫同一。
ゆ
ゑ
お きながた らしひ めのみ こと
か らくに
荻原里。 (
土は中の中な り) 右 、荻原 と名 づ くる所以 は、息 長 帯 目売 命 、韓 国 よ り
みふね
は
お
のぼ
還 り上 りたまひ し時に、御船、此の村 に宿 てたまひ き 一夜 の間に、荻生ふ。根 の高
す なは
かれ
は り ま ゐ
ばか
よ
さ一丈許 りな り。偽 りて荻原 と名 づ く 即 ち、御井 を関 りたまひ き 故、針 間井 と
もたひ
あふ
か らの しみず
なづ
あ した
は
云ふ。其の処 は墾 らず。又、噂 の水溢れ て井 と成 りき。故、韓清水 と号 く。其 の水、朝
し
かく
に汲み、朝 よ り出でず。 爾 して、酒殿 を造 りたまひ き 故、酒 田 と云ふ。舟 を傾 け
。
。
。
。
。
かたぶ きた
て乾 したまひ き
。
よねつ き め
ほと
ともひ とくな
ほ とた ち た
故、傾 田 と云ふ。春米女等 の陰、陪従婚 ぎて断 ちき
。
故、陰絶 田
す くなた らしのみ こといま
と云ふ。偽 りて、荻多 く栄 えき。故、荻原 と云ふ也。爾 ち、神 を祭れ り。少
足
命坐
す。
すず くひのをか
ほむだのす め らみ こと
みよ
みか り
お
鈴 喫 岡。 鈴喫 と号 る所以 は、品 太 天 皇の世、此の岡に 田 したまひ しに、
鷹 の鈴堕落
ちて、求むれ ども得ず あ りき
。
故、鈴喫岡 と号 く
。
-94-
荻原里
大系、新編共 に 「
荻」 を 「
萩」 とす るが、底本 には 「
荻」 とある。大系 は荻 を萩
の誤 りとす るが、底本 では本条 はすべ て 「
荻」 とあ り、 「
萩 」 を用いない。 山川 は 「
荻」
を採 る。荻原里 も萩原里 も、いずれ も 『
倭名抄』 にはみ えない里名 である。萩原説 を採 っ
はいばら
た場合 、遣称地 として現在 のたっの市揖保 町萩原 がある。萩原 の地名 は少 な くとも近世初
頭 までは さかのぼることができ、かつ揖保川本流 と林 田川 の合流地点 にあたってお り、両
河川 と瀬 戸 内海 を結ぶ拠点である。 しか し底本 が 「
萩 」 を用いない以上、 「
荻」説 が妥 当
と思われ る 荻原説 の場合 は、遣称地 を求 めることができない。 ただ し傾 田が現在 のたっ
。
の市誉 田町片吹 に比定 され ることか ら、荻原里 もまたその一帯 を指す ことは認 め られ て よ
い。現在 の萩原 よ りも約 2km 東北の地である。
風土記本文 によれ ば、荻原里 は息長帯 目売命 (
神功皇后)の新羅征伐 か らの帰還 の途次 に
船 を停 泊 させ た地である。現在 の片吹の地か ら瀬戸 内海沿岸部 まで約 7km の距離 がある
が、古代 には港津 として機能 し得 る要地であった ことが知 られ る
。
針問井
荻原里 には、また針 間井 と呼ばれ る井戸があった。風土記本文では、息長帯 目売
命 が船 を停泊 させ ていた際 に一夜 の間に荻 が一丈 ばか りに成長 した。 その奇瑞 が生 じた際
に井戸 を掘 らせ 、針 間井 と名付 けた とある
。
またその場所 は開墾 しなかった とあるか ら、
耕作 を行 わず、聖 なる井戸 とされ ていた ことが うかが える
。
実際 には、針 間井が神功皇后停泊の際に掘削 されたわけではな く、従来 よ り神聖視 され
ていた井戸が神功皇后伝承 に吸収 され たのであろ う。 その ところを開墾 しない とか、その
水で酒 を造 った とか といった伝承 は、針 間井 が実際に特別 な井戸 として神聖視 されていた
ことを うかがわせ る。酒造 の米 を精米す るための米春女が存在 し、彼女 らが神功皇后 の従
者 に婚姻 させ られ た とす る伝承 が載せ られ てい ることも、や は り針 間井 が信仰 の対象 とし
て機能 していた ことを示す ものであろ う
。
こ うした信仰 の対象 と し
て、本条の中にはも う一つ、
少 足命 がみ え る こ とに注 目
してお きたい。 史料 として
論拠 を提示す る こ とは不 可
能 で あ るが、論 の構成 か ら
い って、針 間井 と少 足命 の
関係 が深 い こ とは認 め られ
て もよいのではなかろ うか。
この よ うに考 えた際 にあ
らた めて問題 とな るのが、
この井 戸 が針 間 とい う、 国
名 を冠 して呼 ばれ てい る こ
とである。『先代 旧事本紀』
▲萩原の地に立つ萩原神社 (
手前は針問井遺称地)
巻 1
0 にあた る 「
国造本紀」 によれ ば、針 間国造の存在 が知 られ、飾磨郡 の郡領 は播磨
直であった可能性 が高い。つま り飾磨郡 に西接す る揖保郡 もまた、針 間国造 の支配領域 に
組み込 まれ ていた ことを示す もの と思われ る
。
以上 を要す るに、本伝承 は元々揖保郡、飾磨郡一帯 を支配領域 とす る針 間国造 に関連す
-95-
る信仰 の対象 に言及 した もので あったはず なのが、地名 起源伝承 の形 を とりつつ、神 功皇
后伝承 の一つ に置換 され てい るこ とにな る。 こ うした点 に、播磨西部 の地域社会 と倭 王権
中央 の勢力 関係 をみ るこ とも可能 であろ う。
鈴喫岡
応神天皇 の鷹狩伝承 を残す が、遣称地 な く所在不 明である。 (
古市晃)
(
9) 『
播磨 国風土記』揖保都少宅里細牒 川条
細(
1
)螺 川 。所三以称二細 (2) 螺 川 -者 、百姓為 レ田闘 レ溝 、細螺 多在 二此溝 一。後 終成 レ川 。 故
日二細螺 川 一。
しただみかは
細螺 川 。細螺川 と称ふ所 以 は、百姓 、田為 りて溝 を開 くに、細螺多 に此 の溝 に在 りき
。
後 、終 に川 と成 りき。故 に、細螺川 と日ふ。
(
1
)(
2)底本 「
紬
細牒 川
」 。
新考 ・大系 ・新編 いずれ も 「
細
」 。
これ に従 う。
少 宅 里 は も と漢 部 里 とい い 、漢 人 の 開発
した村 で あ った。 渡 来 系移 住 民 が播 磨 地域 に早 く
か ら定着 した こ とは、『風 土記 』 に も多数 の伝 承 が
ある
。
少 宅 里 はたっ の市東 部 、 旧小 宅村 一 帯 を指
す 。 現在 も地名 の他 、小 宅神 社 ・小 宅 寺 な どが残
る
。
この うち小 宅神 社 は応 神 天 皇 ・神 功 皇后 を祭
神 と し、持 統 4 年創 配 との社伝 を有す る (
少 宅里
条 に依拠 してい る)。細螺川 条 は開墾 の際 に溝 を開
い た こ とに伴 う伝 承 で あ るが 、細 螺川 は 「
遣称 は
ない。 揖保 川 の支 流。 揖保 ・林 田両川 の 間 を南 流
し、少 宅 里 (
東 側 ) と揖保 里 (
西側 ) の堺 をな し
た川 で あろ う」 (
大系) とされ る。『龍野市史 』 (
第1
巻 、1
978年 ) は、少 宅里 の故 地 に存在 してい た大
徳 寺領 小 宅 荘 を描 い た 「
播 磨 国小 宅 荘 三職 方 実検
絵 図」 (
文和 3 (
1
35
4) 年 、大徳 寺所蔵 ) に見 え る
用水溝 が も との細螺川 であろ うとす る。
この水 路 は、 中世 末期 以 降 の絵 図 な どに現 れ る
小宅井 と推測 され 、揖保川 よ り取水 して小宅荘城 北
▲小宅井と川底にみえるカワニナ
部 を港概 していた。現在 も遣 るこの水路 が古代 の細螺川 を継承 した もの と考 えて よいで あ
ろう (
なお 『太子町史 』 (
第 1巻 、 1
996 年) も参照)。播磨地名研 究会編 『古代播磨 の地
名 は語 る』 (
神 戸新 聞総合 出版 セ ンター、 1
995年) は、別 の用水 である岩 見井 に比定す る
が、少 宅里故地 と港概 地域 がずれ る難 点が あろ う。 なお新考 は、栗 田寛 が引用す る玉江春
枝 の説 (「
春枝 云ハ ク
。
今 揖 西郡 二下 田見村 ・シ タ タ ミ川 ア リ ト」) を引い た上 で、 これ
を 「口に任せ た る詐 な り。揖西郡 に さる村 ・さる用 な し。 此春枝 の所行 は士人 の使 ふ を許
さるる言語 にては評 Lがた し」 と批判 してい る。
細螺 (
シタダ ミ
。
キサ ゴ とも訓む) は、 キサ ゴ ・イ シダタ ミに類す る海産 の貝 とされ る
が (
大系)、この場合 は淡水産 で (
大系 ・新編)、キサ ゴではない (
新考 )。『龍野市史 』 (
前
にな
たにし
渇) は 「
小型 の淡水産 の螺型 の貝。 田螺 の こ とか」 とす る この説 明で良い と考 えるが、
ら
「
螺」 は 「
にな。 に し。螺旋状 の殻 を有す るものの総称 」 (
『大漢和辞典 』
)であ り、 「
細」
。
-96-
とい う形容 もあ るので、 タニシで はな く、細長 い貝殻 を もつ カ ワニナ と見 るのが妥 当で あ
る。2009年 9月 1
9 日に科研 チー ムで現地 を調査 した際、現在 の小宅井 を見学 した。 写真
は現在 の小 宅寺西側付 近 の流路 だが、川底 に大量 のカ ワニナ が見 られ た。 この状況 は用水
下流域 まで続 く 細螺川 の地名 伝 承 と直接繋 が るわ けで はない が、『風 土記 』 の記述 を妨
。
棟 とさせ る ものが ある。 (
毛利 憲一)
(
1
0
)『
播磨 国風土記』揖保都桑原里琴坂 条
琴坂 (
1
)
。所三以号二琴坂-者 、大帯比古天 皇之世 、 出雲 国人 、息二於 此坂一。 有二一老父一、与二
是 、 出雲 人 、欲 レ
使レ
感 二其女一。 乃 弾 レ
琴令 レ聞。 故 、号二琴
女子-倶 、作二坂本 之 田 (2)一。 於 レ
坂一。 此処有二
銅 牙 (3)石一。形似二双 六之綜一。
琴坂。琴坂 と号 くる所 以 は、大帯比古天 皇 の世 に、出雲 国の人 、此 の坂 に息ひ き
。
の老父有 りて、女子 と倶 に、坂本 の 田を作 りき。 是 に、 出雲 の人 、其 の女 を感 け しめ
ま く欲 して、乃 ち琴 を弾 きて聞か しめき
。
故 、琴坂 と号 く 此処 に銅 牙石有 り。形 は
。
双 六 の株 に似 た り
。
(
1
)底本 は 「
故」 とあるが、下文 に 「
琴坂 」 とある こ とに よ り、諸注 は 「
坂」 とす る
。
(
2)底本 は 「
由」 とあるが、諸注 に よ り 「田」 と改 め る
。
(
3)底本 は 「
飼
「
飼
牙」 とあ るが、諸注 に よ り
牙」につ いて
「
銅 牙」 と改 め る。
本 条 で は、琴坂 の地名 由来 を記す とともに、付近 よ り産 出す る 「
銅
牙石 」 の形状 が紹介 され てい る。琴坂 は、たっ の市揖 西町小 犬丸 と新 宮 の境界 に位 置す る
峠 に比定 され てい る。小犬丸交差 点南東側 に現在 も 「こ と坂池」 と呼 ばれ る池 が ある。
さて、 この琴 坂付 近 で産 出す る とい う 「
飼 牙 」石 は、難 読 用 字 の一 つ で あ る
。
その
読 み方 をめ ぐって は、 「
飼 可 」 を現在 の小 犬丸付 近 を示 す 地名 「
飼 家」 と見 る説 、 「
銅
牙」石 の書 き間違 い とす る二つ の説 が あった。
「
飼 承」説
明治 33く1
900
7r を 「
家」と解 したのは、古 くは吉 田東伍 『大 日本 地名 辞書 』(
〉年 ) におい てで あった。播磨 国揖保 郡桑原郷 (
里) の地名 解 説 に風 土記 の琴坂 条 を引用
し、 「
飼 家 と云ふ は小 犬丸 の名 と相似 た り」 と指摘 した。 小 犬 (
丸) に出 る石 だか ら 「
飼
家」石 とす る この説 は、 の ちに谷川健 一氏 も賛意 を表 してい る (「
大地 の詩 、熱 き語 り」
『播磨 国風 土記
古代 か らの メ ッセー ジ』神 戸新 聞総合 出版 セ ンター 、 1
996年 )。小犬丸
の別 表 記 と して は、 「
恋丸村 」 (
寛文 3く1
663〉年 岳神 社蔵棟 札 )や 「
小
慶長 国絵 図) とあ り、近 世 段 階 で は小 犬丸付 近 が 「コヰ
井 ノ丸村 」 (
ノマル 」 と呼 ばれ てい た らしい。
しか し 「
飼 家」 を地名 とす るには、い くつ か の点 で問題 が あ る
。
①
ka
ui
〉- く
k6i
〉- く
ko
i
〉とい う音韻 変
「
飼 家」 が 「
カ フヰ」 と読 まれ 、く
化 を古代 か ら近世 までた どった こ とを明 らか にす る必 要 が あ る こ と、
② 動 物 の養 育 を示 す 場合 、 日本 的用 法 と して は、 「
飼 家 」 だ と語 順 が
犬養 」 「
馬飼 」 な ど、漢語 とは反 対 に通 常 は
逆 で あ る こ と (「
猪飼 」 「
目的語 よ りも動詞 が後 ろに来 る) な どが挙 げ られ る
。
▲くずし字用例辞典より
また、 「
和名 考異 」 (
国史大系本 『延 喜式』所 収 ) の 「
狼牙 」 の訓 が 「
古末都奈 支 」 (こ
『日本 古典全集 』 日本 古典全集 刊行
まつ な ぎ) な の に対 して、深 根 輔仁 著 『本 草和名 』 (
-97-
会) の 「
狼
牙」 の訓 も
「
宇末都奈岐 」 (うまつ なぎ)であるこか ら、両者 が同 じものを
可」 は
「
牙」 とみて よい。 くず し字的 にも 「牙 」 は 「
家」 よ り
指す とす るな らば、 「
も 「
牙」 のほ うがふ さわ しい ので、や は り 「
飼 牙 」を 「
飼 家」 と見 るこ とは困難 だ ろ
う
。
「
銅牙」説
「
飼
牙」 を
「
銅 牙」 と解すべ Lとしたのは、敷 田注 (
敷 田年治 『標 注播
88
7〉年) を初 め とす る
磨風 土記』 玄同社 、明治 20く1
。
その後 、栗 田注、新考、大系、全
集も 「
銅牙」説 を採 ってい る。 その根拠 としては、平安期 の記述 ではあるが、延喜典薬寮
式 の諸国進年料雑薬条 に播磨 が納 めるべ き薬種 の中に、 「
銅牙 1斤」が見 られ ることを挙
げてい る。風土記撰進 の官命 とされてい る 『続 日本紀』和銅 六年五月 甲子条 によれ ば、風
土記 の記載項 目として各地の物産 リス トの報告が義務づ け られてい る
。
その ことか らも、
地名説話 とともに記 された これ ら薬草や材木 ・鉄資源 な どの記述 は貢納制度 と密接 に関連
してい るのだろ う。官人の医療 を担 当す る典薬寮 が薬種 を入手す る方法 には、①寮附属 の
薬園か らの採取、②諸 国か らの雑薬 の貢進 、③諸 国か らの臨時貢進 があった。 しか し、鉱
物性 の ものについては薬園での入手は不可能 であるため、諸 国か らの貢進 とい う形 を とっ
た。
『本草和名』によれ ば、銅牙が金牙 の一名 である とし、但馬や上野か ら産 出す る とある
。
延喜典薬寮式の諸 国進年料雑薬条 に銅牙 の貢納国 として登場す るのは上野 と播磨 であるこ
とか ら、両者 はほぼ同 じもの と見な されていた よ うである 丹波康頼撰 『医心方』が引用
。
す る陶弘景注 によれ ば、 「
但外黒 内色小浅。不入薬用」 とあ り、奈 良 ・平安期 に銅牙石 の
薬効 が どれ ほ どある と信 じられ ていたのかは明 らかではない。
銅 牙石 の特色 は、薬効 よ りも 「
形似二双 六之綜 -」 と
あるよ うにむ しろそのサイ コロ型 の形 にある 銅牙石
。
が 自然銅 の一種 で あ り、木 内石 亭 『雲根志』 に記載 さ
れ てい る 「
升石」 と関係 づ けたのは新考 が最初 であろ
う。『雲根志』升石条 によれ ば、「
播州 に同名 の石 あ り。
別種 な り
。
自然銅 の類 にて細小也」 とあった。 また、
小野蘭 山 『本 草綱 目啓蒙』 自然銅 条 に も 「
播州 ノ者 ハ
形小 ニシテ一分許 、方言マスイ シ、又 ヲサイ ジ ヨロウ ト▲琴坂付近の山より発見された升石
呼所モア リ」 とあって、播磨か らサイ コロ型 の石 が出 る
(
岸本道昭氏提供)
ことは近世で も有名 であった。 また新宮町出身の博物学者大上宇- も、 この升石 が龍野近
辺 の 山よ り産 出す るこ とを指摘 してお り (「
播磨産升石 と犀風岩採集 」 『大上宇- と博物
学 一学術雑誌寄稿集』新宮町教育委員会、2004年 、初 出は 『博物学雑誌』第 7巻第 83号、
明治 40く1
907〉年)、地元の古老か らの聞き取 りで も 「
子供 の頃はサイ コロ型 の石 をよく採
った」 とす る証言 を得 ていたが、現物 を発 見す るには至 っていなかった。 ところが 201
0
年 1月 「
いひ ほ学研究会分科会 ・銅牙石探検 隊」 による調査 に我 々科研 メンバー も同行 し
た際、上の写真 の よ うな 2- 5
mm 四方 のサイ コロ型 の石 を発見す ることができた。詳細
は、下文岸本論文 を参照の こと なお、この石 の成分 は針鉄鉱 であることがわかってお り、
。
上郡帯 のオ フィオ ライ ト・超丹波帯 の リボ ン岩 ・針鉄鉱 (
銅牙石) は、『改訂 ・兵庫 の貴
重な 自然 一兵庫県版 レッ ドデー タブ ック 2003』(
財 団法人ひ ょ うご環境創造協会、2003年)
-98-
では 「
A ランク」 (
規模 的、質的 にす ぐれ貴重性 の程度 が最 も高 く、全 国的価値 に相 当)
に指定 され てい る
。
【
参考文献 】岸本道昭 「
琴坂 の銅牙石 」 (
『いひ ほ研究』第 2号、201
0年)
(
松下正和)
琴坂 とマスイシ-銅牙石
上 に考察が進 め られた よ うに、銅牙石 に関 しては さま ざまな角
度か ら追跡 が可能 となった。 ここでは、琴坂 のマスイ シ-銅牙石 にた どりついた経緯 を紹
介す る
。
『播磨国風土記』桑原里 に記 された琴坂 は、たっの市揖西町の大字小犬丸 と新宮の境界
に位置す る峠であることはほぼ間違いない。 この峠は古代 山陽道路線 であ り、峠の西側 に
位置す る小犬丸遺跡 は布勢駅家であることも判 明 してい る。峠は今 で も琴坂 と呼称 され て
お り、小犬丸側 にある池 は 「
琴坂池」 と名 づ け られてい る
。
お よそ 20年前か ら布勢駅家 な どの発掘調査で この地域 に縁ができ、銅牙石 については
多 くの地域住民 に尋ねた ことがある。住民の方々が異 口同音 に 口にす るのが 「
マスイ シ」
とい う立方体の石 の ことで、子 どもの頃に山で採 った ことがある とい う。住民の証言 は、
小犬丸、北沢、住 吉、竹 万一帯 の還暦以上 の高齢者 に多い。 1
960年代以前 は、 山は生活
の一部 だった。一年分 の薪 を採 ることはごく自然 の作業であ り、畑地が山の斜面 に及ぶ こ
とも多かった。住民に とって山は遊び場で もあ り、生活圏で もあった。 山は禿 山 となって
山肌 を露出 し、豊富にキノコも採れた し、珍 しい石 を探す ことも容易 だった。生活様式 の
変化 に伴い、山は人里か ら次第 に遠 ざかる。近年 、山は厚い腐葉 土に覆 われ、落 ち葉 の堆
積 が深 く、通常の観察で小 さな石 を探す ことはほ とん ど不可能 となって しまった。
さて、多 くの証言 を得 たマスイ シが升石 であ り、先 に記述 した とお り、風土記 に登場す
る銅牙石 であることを突 き止 めた。 ところが、マスイ シを知 ってい る方 々にその現物 を見
せ て欲 しい とお願 い して も、出て こない。 なに しろ子 ども時代 の採取で、長時間が経 って
い る し、モ ノが小 さいために所在 を失 ってい るのである
。
拾 った場所 を伺 って、 「
あの辺
り」と山を指差 されて も訪ね よ うもない。こ うなる と実際に案 内を乞 うしかないので、201
0
年 1月 になってか ら、特 にお願 い を して山-入 り、かつて拾 った場所 に案 内をいただ くこ
とになった。 この付近 は、かつて蝋石 が掘削 され た ことがあ り、その付近でマスイシはよ
く見つかった とい う。 この探索作業 は、市民 を中心 とした地域 の歴史や文化 を探 る 「
いひ
ほ学研 究会」が企画 した ものである。
尾根上 に探索参加者 1
8人が蟻 のよ うに散 って地面 を探索 したが、マスイ シが見つかっ
たのはせいぜい径 1メー トル の範 囲、それ も一 ヶ所 だ けである。 山のあちこちで採取でき
る とい う証言 にもかかわ らず、実際に見つか るのは ごく小 さな範 囲である。 これ はマスイ
シが顔 を出す部分 はごく限 られ、そ こか ら自然 に流 出す るよ うに同心 円状 に散 ってい る実
態が推測 され るのである。
マスイシは一辺 が 3ミリ程度 の ものが多 く、まれ に 5ミリに達す るものがある 水洗 し
。
なが ら節 にかける と、 1 ミリ以下の微細 な もの も多量 に存在す る。多 くは鉄錆 の よ うな茶
褐色 または黒褐色 を してい る。形状 は正六面体 を基本 とす るが、やや歪 な ものや直方体 の
もの もある。 また、複数 の六面体が立体的 に融合 して複雑 な形状 を呈す るもの もあ り、住
民が石 は 「
成長」 し 「
次々に増 えて生まれ る」 と表現す るのは、 こ うした形状 の多様性 が
存在す るか らであろ う。
-99-
ところで、現在 の ところ琴坂 と呼ばれ る峠付近では、マスイ シの採取 に成功 していない。
これ は地肌 の露 出が極端 に少 ない とい う現実が理 由で もある
。
しか し、南側 の山一帯では
四カ所 で採取できてい る。採取 した とい う住民の証言 では さらに多 くの場所 が候補 にあが
ってい る
。
内海 雨用 と大上宇市が記す 山の山頂 で も、確 かにマスイ シが確認 できた。 この場所 は、
内海 の記 した江戸時代 にはまだ祇 園社 があ り、大上の記す 明治時代 には祇園社 の跡 と記 し
てい るよ うに、明治時代 になって社 は南の北沢-下ろ され た。現在 は八坂神社 として配 ら
れてお り、住民の証言 と符合 してい る。祇 園社跡 は現在 も山頂 の南側 を平坦化 し、石垣 の
一部 が残 ってい る
。
ただ、 この場所 は腐葉 土 と落 ち葉 の堆積 が著 しく、良好 な状態では採
取できていない し、マスイ シ 自体 もごく小 さく形状 は よくない。濃密 に露出す る場所 にた
どり着いていないのだろ う
。
いずれ に して も、ついにマスイ シの採取 に成功 し、風土記 が銅牙石 と記 した現物 に
巡 り合 えた。風土記編纂 か ら約 1
300年ぶ りに銅牙石 と再会 した。 これ は素直 に喜び
たい と考 えてい る。 (
たっの市教育委員会文化財課課長補佐 ・岸本道 昭)
-1
00-
第4部
関連資料 (
研究に関わる新聞報道記事)
p.101p102 新聞記事画像を割愛
p.101
▼唐荷島(韓荷島)調査
神戸新聞2007 年5 月18 日「室津沖の無人島調査:播磨国風土記をもとに古代社会を検証
へ:神大講師ら」
▼上島(神島)調査
神戸新聞2007 年7 月10 日「播磨国風土記を実地研究:調査チームが家島・上島を探索:「神
像」に似た巨石を確認」
-1
01-
p.102
▼秦益人刻書石関連
神戸新聞2009 年2 月27 日「古代石板に「飾磨郡」:周防―播磨交流の明石?:山口の資料
館で展示」
毎日新聞2009 年2 月27 日「持ち運べる石板姫路から山口へ:奈良中期・初の確認」
-1
0
2-
平成 1
9年度∼ 21年度科学研究費補助金 ・基盤研究 (
C)研究成果報告書
播磨国風土記を通 してみる古代地域社会の復元的研究
(
課題番 号 1
95
205
71
)
201
0(
平成 2
2)年 3月 31日発行
編集 ・発行
坂江
渉 (
研 究代表者 )
〒 65
7-85
01 神 戸市灘 区六 甲台 町 1
-1
神 戸大学大学院人文学研 究科 地域連携 セ ンター
電話
078
-8
03-55
66 (
Fa
x兼 )
Ema
i
l FZTO3024@m
if
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c
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m (
坂江 PC)
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