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アレゴリス ト ・オーデン
アレゴリスト・オーデン 後 Auden 藤 明 the Allegorist Akio 生* GoTOH ' 1 W.H.オーデンは, T.S.エリオットとW.B.イェイツから,それぞれある時期に強い 影響を受けたといわれる。1)マスクの背後に隠れて,主知的かつ没個性的な,そして唆 昧さに充ちた詩を書いたのは,そうした影響の現われである。この限りでは,オーデン はモダニスト詩の後継者のように思われるかも知れないが,しかしオーデンには, 2人 の先輩に共通した何か肝心なものが欠けている。イェイツやエリオットの詩に抜き難く 存在する,中JL、というものがオーデンにはないのである。 イェイツの場合,円錐形に展開する歴史のパターンが詩の中JL、を成している。またエ リオットの場合,王党派,アングロ・カトリック,古典主義の理念が詩を貢いている。 それぞれの作畠全体は神話や歴史の枠組によって構成上の統一を与えられ,個々の作品 は象徴的なイメージによって統合されている。 例えばイェイツの 0 chestnut-tree, Are you 0 body How can great-rooted the leaf, the swayed we to know blossom music, blossomer, the bole? or 0 brightening the dancer from ("Among glance, the dance? School Children") (おお栗の木よ,大いなる根を持っ花咲けるものよ/お前は薫か花かそれとも幹か/ おお音楽に合わせて揺れる肉体よ,おお輝く眼差しよ/どうして踊り手と踊りを分け ることができようか。) あるいはエリオットの And All all shall be well and manner of thing *英語教室(°ept. of shall be well English) 後 40 When the tongues of flames lnto the crowned knot And the fire and the are 藤 明 生 in-folded of fire rose are one. ("Little °idding") (そしてすべては志なくそして/あらゆる種類のものは志なく/この時炎の舌は内に 包まれて王冠のついた火の結び目となり/そして火とばら1つとなる。) これらの詩はいずれも-点に収赦していく。しかしオーデンの詩はこのようには完結 しないのである。 Unendowed with Little birds with Sitting Eye scarlet their speckled eggs, flu-infected city. elsewhere, vast Altogether Herds of reindeer Miles and Silently pity, legs, on each or wealth miles very and move across of golden moss, fast. ("The Fall of Rome") (富も情も持たない/緋色の足をした小鳥が/まだらの卵に座って/インフルエンザ の蔓延しf=都市を見ている。//全く別の所では/となかいの巨大な群れが/何マイル 四方もの金色の苔の上を/静かに実に素早く走って行く。) 1つのイメージ群に対して,別のイメージ群が並置され,それらが対照を成したまま 詩は終わるのである。 イェイツとエリオットの詩の中核となっているものを,有機的に統合された象徴と呼 ぶならば,そしてこれがモダニスト詩の要件だとすると,そうした意味での統一はオー デンの詩には見られない。よくいわれるように,確かにオーデンには統一的な視点とい "Consider うものがある占鷹や飛行士の視点であるhawk sees it or the helmeted airman:" - "Consider" this and in our time/As the (これを考えて見よ,我々の 時代に/ちょうど鷹が見るように,あるいは飛行帽を被った飛行士のように)。この鳥轍 的な視点は, 30年代のオーデンの詩にいわゆる「臨床的」な態度を与えた。モダニスト 詩のいま1つの要件である客観的離れを,オーデンはこうして獲得することになる。し かしこれは単に1つの技法としてとどまって,オーデンの作品全体を支配するには至ら なかった.このような視点の含む政治的な意味にオーデンは気づいたためである.統一 的な視点が容易に全体主義に導くことを知った彼は,いくっかの作品の中に全体主義 者を登場させ,これを戯画化することによって,この視点を骨抜きにしてしまうのである。 41 アレゴリスト・オーデン オーデンの詩に中心の欠如を見たのは,ステイ-ヴン・スベンダーである。2)スベン ダーは詩の中心を成すものを「肉感的な存在」 (sensuouspresence)とか,ヘンリー・ ジェームズの言葉を借りて「実感された人生」 (feltlife)などと呼んでいるが,そうし たものがオーデンの詩には感じられないというのである。そのためオーデンは,統一の ある人格があって始めて統合力を発揮する長詩を書くときなどに,殊に構成面での弱点 をさらすという。しかし反面,むしろこうした弱点ゆえに,オーデンは「われわれの時 代の急激な変化 中心の不在におそらく最もよく適応できる詩人である」 (p.38)とス ベンダーは指摘する。確かにオーデンの思想上のめまぐるしい遍歴や,手の込んだ様々 な詩形を自在に駆使する多芸ぶりを見ると,この指摘は裏付けられる。 中心のない詩とは,いうなればモザイクの詩である。スペンダ-によるとオーデンの 場合,形式は詩の中心を成す経験からおのずと進化するのではなく,むしろ観念などの 力によって外から与えられるという。オーデンの若い頃の常習として,スクラップにし た詩の中から何行かを拾いあげて,それを新しい詩に組み入れることがよくある。そう した詩作の現場を目撃したスベンダーは, 「あたかも詩とは1つの経験ではなくて,す べての部分に共通した雰囲気やリズムや観念などの一貫性によって寄せ集められた,モ ザイクのようだ」 (p.29)と当惑を隠さない。ディラン・トマスやW.S.グレイアムなど 肉声を備えた反主知的詩人の台頭に期待を寄せながら,スベンダーがこの批評を書いた のは1953年である。これに加えて気質的にロマン派の流れを汲むスベンダーということ を考慮に入れれば,以上の苦言は(詩の中)山ま神話などではなく,肉感的な存在である という主張とともに)よく理解できる。しかしいまになって見ると,それはそれとして スベンダーの批評は,オーデンの反モダニスト的な面(あえていえばポストモダニスト 的な面)杏,うまくいい当てているように思われるのである。すなわち,中心を持たな いために,かえって時代の急激な変化に対応できたカメレオンのような詩人-スベ ンダーがオーデンをこう呼ぶときにピカソを引き合いに出しているのは,実に意味深 い-そしてこの詩人の固有の断片化(fr喝mentation)という技法である。因みにオー デンと同時代の芸術運動をかえりみると,キュービスト,ダダイスト,シュールレアリ ストがコラージュの技法を開発しているのに気づく。これは「引用」 (citation)の名の もとに,モダン・アートの重要な制作原理となっていくが,オーデンのいわゆる「モザ イクの詩」に,こうした特質に通じるものを見ることができるのである。 2 イェイツやエリオットの詩をオーデンのと読み比べてみると,両者の質的な違いが明 らかになる。シンボルの詩とアレゴリーの詩の違いである。そしてオーデンの詩は,本 質的にアレゴリーの詩なのである。ところがアレゴリーに対して,これまで余り積極的 な関心が払われず,正当な評価と位置づけがなされなかった。いうまでもなく,これは 同時代の批評の動向と関連している。 1930年代から60年代にかけて脚光を浴びたニュー・クリティシズムは,ロマン派から 受け継いだ有機体説をその拠り所とした。この批評が実践に移されるとき, 「唆昧」と 後 42 藤 明 生 か「逆説」を内包する形而上詩や象徴詩は批評家の手によくなじんだけれども,それに 対しアレゴリーの詩は批評家の手からすり抜けてしまった。オーデンの場合,イェイツ やエリオットの影響下にあった初期の詩がこの批評の基準にかなったのは,そうした意 味で当然であった。 ニュー・クリティシズムきっての実践家であり,また30年代のオーデンの詩の良き理 解者であったクリアンス・ブルックスの批評にそのよい例が見られる。ブルックスは ModemPoetry and the Tradition (1939)の中のオーデン論3)で,オーデンの対照の 技法に着目する一「確かに,オーデンの詩に生命力を与えているのは,鋭い対照の用 い方である」 (p.20)。有機体説にとってここで問題となるのは,結局,こうした対照が 「オーデシのすぐれ いかにして統合に導かれるかという点にある.実際ブルックスは, た点は,不協和を意味のあるパターンへと同化させる手腕にある」 (p.22)といって, オーデンに統合力を認めるのである。これを可能にするものは,すぐれた作家に共通し て不可欠の資質とされる「複雑な態度」であり,いうまでもなく,これがニュー・クリ ティシズムの批評基準のかなめとなる。そしてブルックスがこれをオーデンの詩に適用 (p.23)を見るとき, して,そこに「-雑多な要素を劇的な統一のうちに統合する態度」 オーデンは見事この批評の基準にかなってくるのである。こうしてオーデンは,イェイ ツやエリオットと同列に扱われることになる。 オーデンのアレゴリーが初めて積極的に論じられるようになるのは, 60年代に入って から,つまりニュー・クリティシズムが衰退し始める時期に当る。例えばJohm BlairのThePoeticArt (1965)にはオーデンのアレゴリーを論じた1 of W.H.Auden 章があるが,この辺りからアレゴリーが本格的に取り上げられることになる。4)ところ でブレアのオーデン論の序文には次のような興味深い一節がある。 いくつかの初期の詩を除けば,彼のイメージは「有機的な」方法で展開するよう には見えない。むしろ透徹するように知的な想像力によって,構成されているよう に見える。.メタファーはその内部に,象徴としてのより高次な意味を内包していな い。むしろメタファーは,詩とは別個に到達でき,そして恐らくできた,一般的な いし抽象的な概念の更新された妥当性を,著しい具体性によって例証するのである。 (p.7) オーデンの詩のイメージは有機的に発展しない。また,メタファーはその内部に統合 的な象徴を宿していない。メタファーは,むしろ抽象的な観念の具体的な言い換えとなっ ている。このようなブレアの指摘は,イェイツやエリオットの詩とオーデンの詩の違い を理解する上で,重要な意味を持ってくる。少なくとも,イメージの有機的な展開を詩 に求める,ニュー・クリティシズム流の批評にはなじまないことが分かるのである。ブレ アはこの点からオーデンのアレゴリーに積極的な価値を見出し,そこから反ロマン主義 者ないしは教訓主義者としてのオーデン像を描き出そうとする。ブレアによると,アレ ゴリーとは結局,具体と抽象,公的なものと私的なものとの融合という点にその効力を G. アレゴリスト・オーデン 43 発揮する。象徴主義の流れを継いだモダニスト詩が,深化するにつれて失っていった読 者を,詩に呼び戻すための新しい方向づけとして,これは必要であったというのである。 こうした主張を見て明らかなように,ブレアの批評原理には構造主義やポスト構造主 義の批評の影は認められない。むしろこれはオーソド■ックスな教訓詩弁護論なのである。 しかしそれにもかかわらず,ここには何か同時代の批評の流れを反映しているようなと ころがある。ニュー・クリティシズム以後の批評の展開を見ると,有機体説の解体とと もにアレゴリーへの新たな意味づけがなされることになるが,偶然とはいえ,ブレアの オーデン論はそうしたアレゴリー復権の動きと規を一にしているように思われるのであ る。 3 アヴァンギャルドは,芸術から中心とか統一というものを追放しようとした。そして アヴァンギャルドがモダニズムの1つの分岐であるとすると,モダニズムそのものが統 一的概念の否定という方向を内部に秘めていたといえる.そうだとすると,ディコンス トラクションもやはりそうした流れに沿った1つの展開として捉えることができる。ディ コンストラクションによってsignifierとsignifiedの不一致が指摘されたとき,文学の 中'L、的意味が揺らぎ始めた。象徴に代ってアレゴリーの意味が見直されるようになるの は,このときである。 PauldeManはディコンストラクションの理論をロマン主義文学の解読に適用し, 象徴からアレゴリーへの推移のプロセスを解明して見せた。5)ド・マンによると,象徴 とアレゴリーの根本的な相違は次のような点にあるという。すなわち象徴の持っ同時性 (simultaniety)一象徴とは空間的といいかえてもよい一に対して,アレゴリーの 特質は一時性(temporarity)にある。象徴の場合,実質(substance)とその描出(representation)は同じものであり,いいかえれば,それらは同じカテゴリーの中の全体 と部分という関係にある。それに対してアレゴリーの場合,記号(sign)は自らに先行 する別の記号を指示(refer)することになり,その意味は反復(repetition)のうちに ある。このような関係を踏まえた上で,ド・マンはアレゴリーの本質を次のように規定 する。 象徴が同一物(identity)ないし同一性(identification)の可能性を仮定するの に対し,アレゴリーは先ず自己の起源との関係において距離を仮定する。そしてノ スタルジアと同化の欲望を放棄することによって,アレゴリーは,こうした時間的 差異という空自の中に,その言語を確立する。そうすることによってアレゴリーは, いまや痛ましくはあるが充分に非自我として認識された,非自我(non-self)との 幻想に過ぎない同化ということから,自我を護るのである。 (p.191) こうしてアレゴリーは,ロマン派以後の新しい表現方法として,その意味が改めて認 識されることになる。そしてこの点で批評の垂心は意味を放射する象徴から,記号と意 後 44 明 藤 生 味の不連続を前提とするアレゴリーへと移動する。いうまでもなく,これはモダニズム 批評の内包する,ロゴス中心主義への撃肘を意味する。 ここでもう1つ興味深いのはWalterBenjaminのアレゴリーの概念が,アヴァンギャ ルドの芸術作品を説明するのに採用されたという事実である。6)ベンヤミンによると, アレゴリストは人生全体のコンテクストの中から1つの要素を取り出し,それを遊離さ せることで,それが本来持っている機能を失わせてしまう。そうした後にアレゴリスト は,いくつかの孤立した断片を組み合わせて,それによって意味を作り出すという。し かしここでいう意味とはあくまでも措定された意味であって,断片本来のコンテクスト から派生したものではない。要するにアレゴリストは断片を並べることによって差異と か他者を作りあげていくが,これがアヴァンギャルドのモンタージュの技法に他ならな い。有機的な象徴とは正反対のものなのである。7) 4 ここで改めてオーデンの詩と詩論について考えてみると,従来の批評では説明し切れ なかった側面が明らかになる。それはイェイツやエリオットとは違った,オーデン固有 の新しさである。 オーデンの芸術観の根底には,断絶の意識がある。神の創造物に比べたら,芸術な Sea どその貧弱なアナロジーに過ぎない,という認識である。例えば"The and the Mirror''の結末で,キャリバンが「あの全く別個の生」と呼んでいるものthat Other wholly pbatic Life from which we are separated by an essential em- gulf (本質的,絶対的な深淵によってわれわれから隔てられた,あの全く別個の生) これに対比した場合, 「鏡とか舞台の額縁の中の精巧な像は-その真弱な比愉的象徴 Faber and Faber, p.58)という。 (For the TimeBeing, に過ぎない」 オーデンの芸術論は,こうしたところに立脚して展開される。それは基本的にはミメ シス論ではあるけれども,芸術は単に人生の写しとはならない。 Art in intention But, Art A realized, is not midwife is mimesis the resemblance life, and to cannot ceases; be society, (New Year Letter, ll. 7619) (芸術は意図において模倣である/いかしひとたび実現されると,両者の類似は止む。 /芸術は人生ではなく/社会に対して助産婦とはなりえない。) 芸術は完成されたとき,人生との類似を失い,自律した世界を形成する。 (したがっ アレゴリスト・オーデン 45 て,これをプロパガンダに利用することばできない。)これはゲームの世界に似る。オー デンはA Certain Worldの中で,想像の世界をゲームの世界に見立てながら,次のよ うに論じている。 -自分の私的な世界を建設する際に,私は次のことを発見した。すなわち,これ はゲームであるけれども,いいかえれば食べたり眠ったりすることと同様に,生きる ことに必要なものではなく,これをするのもしないのも私の自由であるけれども,規 則がなければゲームはできないということである。 (FaberandFaber, p.424) 遊戯に強制はいらないが,遊ぶとなると,一定の時間と場所を支配する一定の規則に 従わなければならない。規則は遊戯の世界でのみ効力を発揮し,その外には及ばない。 仕事の世界とは画然たる差があって,その差に対する意識が遊戯を遊戯たらしめる。か くして自然の法則に支配された世界と,ゲームの規則に支配された世界が存在すること になるが,これらは並行していて交差しない。オーデンの詩は,現実の世界とこのよう な関係を保ちながら展開する。ここで例として"Paysage Moralise"の3連と4連を 次に引用する。 (ついでにいえば, 6つの語を行末で繰り返していく,このセステイ- ナという詩形を操るには,高度なゲーム性が発揮されなければならない。) They built by rivers Runnlng Eacb past And love dawn came marvellous There was danclng being back they and a more pilgrims the mountains, on far from still in cities; were up cities. from the water; silver in the mountains and to moplng wavlng rose sorrow; in the valleys innocent, creature was their blossomed trees the water of islands conceived still gold hunger Although Some was night comforted was all the green But But day every Wbere No Windows in his little bed Where at and immediate Villages were sorrow, in valleys describing islands (Collected Shorter … Poems, pp.71-2) (彼らは川のほとりに家を建てた。夜,窓辺を/流れる水の音は彼らの悲しみを慰め た。 /それぞれが小さなベッドで島のことを考えた/島では日々が谷間で踊り/山の 緑の木々は花咲き/町から遠く離れて愛は汚れを知らなかった.クしかし夜明けになっ ても彼らはまだ町にいた/水から珍しい動物が姿を琴わすこともなかった/山にはま だ金銀があった/しかし飢えがもっと切実な悲しみとなっていた/谷間ではふさぎ込 んだ村人たちに/手を振る巡礼たちが島の話をしていたけれども。) 後 46/ / 藤 明 生 ここには確かにある状況が描かれている。しかしこれは,先に一部引用した"The Fall of Rome''の最終連のイメージ群と同じように, `altogether elsewhere'に展開す る。現実の世界と対比を成したり,その類推となったりするとしても,それと同化する ことはない。ここにあるのは照応ではなくて並行なのである。 従ってこの詩を読むときには,別のものによる置き換えが行われることになる。この 詩の解釈をめぐって,例えばJohn Fullerは, `valleys'と`mountains'は「人間の行動 を支配する女性的および男性的原理」, `islands'は「個人による社会からの逃避の可能 性」,また`sorrow'は「人間の状況」などと説明している。8)こうしてイメージを観念 に置き換えていくことが,そもそもアレゴリー詩の「解釈」に他ならない。そしてここ では,解釈とは単に詩とのパラレルを成すに過ぎないのである。かくして詩もその解釈 も,それぞれが先行するものに言葉を重ね合わせていくことになる。 あるイメージがいかなる観念に置き換えられるかという点で,アレゴリーは謎解きに 似た面を持っている。オーデンは実際,こうした詩の読み方を否定しない。 「詩の要素 の1つに謎がある。つまりあからさまにものをいわないところにある」という。g)原文 「鋤を鋤と呼ばないとこ.ろ」に には`nottocallspadeaspade'とあるが,文字通り, アレゴリーの本質がある。 また一方では,アレゴリーにはパラプルに通じるところがある。パラブルはアレゴリー と同じく,並置から成る(parableとは`setaside'の意)。オーデンはまた,詩のこう した働きも認める。いわく「なすべきことを人々にいうことはできない。ただパラブル を語ることができるだけである。芸術とは,実際そういうものであって,特定の人々と 経験についての特定の物語があり,各人がそれぞれ当面の特殊な必要に応じて,そこか ら結論を引き出すのである。」10)詩はゲームともなり,モラル伝達の手段ともなる。楽 しませつつ教えるという,サー・フィリップ・シドニー以来の文学観は,サンボリスト たちによって葬られたが,その復活をここに見る思いがする。もう1つここで重要なの 「各人がそれぞれ当面の特殊な必要に応じて, は,オーデンの言葉の最後の部分である。 そこから結論を引き出す」とある。詩は固定した意味を持たないのである。 (ベンヤミ ンによると,詩人だけがアレゴリストになるのではない,読者もまたアレゴリストだと いう。)結局,解釈とは言い換えによる拡散となる。こうした拡散という特色は,アレ ゴリーの詩に固有のものなのである。ここでもう1つ"Song"と題した小品を次に挙げ る。この詩でオーデンは愛の概念について書き出す。 Some say that And Some say when some lt makes And And love's Who say it's the world some l asked little boy, a say the looked man as a go that's bird, round, absurd, next-door, if he knew, 47 アレゴリスト・オーデン His wife Does Or Does Or very And said it wouldn't it look like a palr in a temperance the ham its odour has indeed, cross got it a Of pyjamas hotel? of Llamas, me remind do. Smell? comfortlng (Collected Shorter PoeTnS, PP. 94-5) (ある人は愛は小さな男の子だという/ある人は鳥だという/ある人はそのために世 の中丸く納まるという/ある人はそんなばかなという/隣りの家の人にたずねてみた /いかにも知っていそうな顔付きだった/細君がひどく機嫌悪くなって/そんなのだ めよといった. //愛はひと組のパジャマのようなものか/それとも禁酒旅館で出すハ ムのようなものか/その匂いはラマを思わせるか/それとも心地よい香りがするもの か。) 引用は中途で切ってあるが,実際はこの後40余行にわたって比較が続く。しかしなが ら,ここではイメージが積み重ねられることによって,意味が深化していくことがない。 むしろ反復されるパターン("Somesay-'', "Doesit…")に乗って,イメージが次か ら次へと現われては,別のイメ-ジに置き換えられていくのである。こうして愛の概念 は果てしなく拡散していく。そのあげくに,このゲームは最後で振り出しに戻る。 O tell me the truth love. about (おお愛について真実を教えてよ。) ここに挙げた例は,オーデンが得意としたジャンルであるライト・ヴアースに属する が,アレゴリーの構造がここによく現われている。 5 オーデンは現実の世界と想像力の世界を峻別したが,後に彼はこれに「第1の世界」 と「第2の世界」という名称を与えている。後者は前者があって始めて成り立っが,こ うした関係を設定した上で,オーデンは詩の動機とそのプロセスについて次のように語っ ている。 -詩人が詩を書くという衝動が生じるのは,詩人の想像力の聖なる避近からで ある。言葉があるおかげで,彼はもし望むならば,そうした避遁をじかに名指す必 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 要はない。彼はそれを別のものによって描くことができる。そして私的な,あるい は非合理的な,あるいは社会的に受け容れられないようなものは,理性と社会に受 け容れられるようなものへと翻訳することができる。11) (傍点は引用者) ● ● ● ● 48 後 藤 明 生 詩の動機は, 「想像力の聖なる避遁」にあるという。何らかの意味で,詩を生む経験 とは名状し難いものなのである。詩人はそうした経験を直接描くことはせず,それを別 のものによって(intermsofanother)措く。この引用は,オーデンがオックスフォー ド大学詩学教授に就任した際の記念講演にある。したがってこれを,詩に関するオーデ ンの公的見解と見なしてよい。そうするとこれはまた,アレゴリー詩の理念の公的な表 明ともなるのである。この講演は次のように締めくくられているが,さらにここにはア レゴリー詩の効用を読み取ることができる。 その実際の内容と表向きの関心が何であれ,すべての詩は想像的な畏怖に根差し ている。詩には数多くのことをすることができる-楽しませ,悲しませ,心を 乱し,面白がらせ,教えさとすことができる-しかしすべての詩がしなければな らないことがただ1つだけある。それは存在すること,起こることのために,でき る限り賞賛しなければならないのである。 「想像力の聖なる避遁」, (p.60) 「想像的な畏怖」, 「賞賛」-こうした言葉は,詩的経験と その表現との間の絶対的な距離を物語る。賞賛とは対象との間に常に距離を置くことで あって,対象と同化することではない。対象との距離を意識しつつ,これを追いかける こと-よりふさわしい言葉を重ね合わせることである。しかし先行する経験が名状 し難い「畏怖すべきもの」であってみれば,賞賛は常に舌足らずに終わる。縮まらない 距離をへだてて,果てしない繰り返し-すなわちrewritingが行われるばかりである。 そういえば確かに,オーデンには絶えず表現の更新があった。スクラップにした詩の 一部を再利用し,一度書いた作品を,時には大巾に書き直した。シェイクスピアを下敷 きにした作品を書き,ヘンリー・ジェイムズのパロディをものした。人の省みない詩形 をよみがえらせ,晩年にはOEDから多くの廃語,古語,方言を掘り出した。 ここでもう-度スベンダーを引き合いに出すと,スベンダーはオーデンにとって, 「発展」とは「過去の否認」であったとのべている。 「彼の発展は,おおむね自らの過去 の否認,あるいはとにかく,単に自分の当面の現在に適したものの一部を受容すること のように見えた」12)というのである。オーデンは,まるでこれを裏書きするかのように, こう書いている。.「自己を確立することを学ぶために20年の歳月を費した後に,詩人は 今度は自己を捨てることを学び始めなければならないのに気づく。」13)アレゴリストは スタイルが固定しそうになると,たちまちこれをぶちこわさずにはおかない。 固定した自我を捨てること。これはモダニスト詩が陥った,閉塞した世界からの解放 を示唆している。いわば断片化による解放である。 It is I want And a collage a form talk on that you're that't any large tO golng enough subject that read. to swim l choose, in, 49 アレゴリスト・オーデン From Myself, to scenery natural men and the arts, the European ("Letter to Lord women, news: Byron" Collected Poems, Longer pp.41-2) (これから読んでいただくのはコラージュです//泳ぎ回ることのできる広々とした形 , 式がほしい/自然の風景から男女まで/自分のことや芸術やヨーロッパの出来事など /選んだ主題ならどんなものでも語れるような形式が。) オーデンがこう書いたのは1937年,すでにイェイツやエリオットが完成させた詩とは 違った方向を目指していたのである。そしてこの詩が出てくるLettersfromlcelandは (1935)と並んで,オーデン流のコラージュのすぐれた見本となっている。 TheOrators 注 WasteLandを 1)オックスフォード大学の学生だった19歳のとき(1926年),オーデンはThe 読んで圧倒された.一方,イェイツに傾倒するようになったのは, 1933年以後である。 "W.H. AudenandHisPoetry" (1953) M.K. Spears A Collection (ed.): Auden: 2) of Critical Essays, 1964, Prentice-Hall, pp. 26-38に収録。 Brooks: ModernPoetry ``Auden's Imagery"と題した the Tradition 3) Cleanth and 本書からの抜粋が,上に掲げたM.K.Spears編のオーデン批評選集(pp. 15-25)にある。引 用のページ数は本書を指す。 W.H.Auden:Anlntro4)アレゴリーは,オーデンの先駆的な研究であるR.Hoggart: ductory Essay R. Jarrell: "Changes (1951)で多少触れられている。 of Attitude and Criticism Rhetoric in Auden's Poetry" (1941) The Third Book (1969)に再録of はもっと念入りにこの面を扱っている。ただしジャレルは,オーデンの詩のスタイル上の「堕 落」を批判する際に,その技法上の悪しき例としてこれを取りあげる。またJ.Replogle: Auden'sPoetry (1969)では,オ-デンのアレゴリカルな傾向が指摘されてはいるけれども, ここではむしろ消極的な観点から考察されている。 P. de 5) Theory 6) 7 ) Man: "The P.B(irger: Theory M. An Sarup: 1988, Harvester Cornell of of Temporarity" Johns Hopkins, the Auant-Garde ITurOductory Post-structuralism to A. Eysteinsson:- p.135; 10) Interpretation: The Postmodernism, and CoTWePt 1990, OfModernisTn, U. 1979, Eyre "Psychology Poems, Guide Faber World and Methuen, and Essays "Making, The Singleton(ed.): (1984). Guide Wheatsheaf, C・SI p,190. to W.H. Auden, 1970, and Art Knowing Faber, Within Dyer'sHand p.250に引用。 To-day" (1935) DraTnatic and p.59. World, and 1951, Writings Judging" Hamish OtherEssays, Thames C.Osborne: 1959年のB.B.C.テレビのインタビューより. Poet, 12) 13) 1969, P., p.213. J. Fuller: A Reader's 8) 9) ll) Rhetoric Practice, and E. Mendelson(ed.): 1927-1939, The Hamilton, p.52. 1977, Dyer's Hudson, and W.H.Auden/ Faber Hand p.300. TheLife The and and p.100. English Faber, Other ofa Auden: p.341. Essays, 1963,