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聖イグナチイ・ブリャンチャニーノフ 「良心」 良心とは、善悪を判別する人間

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聖イグナチイ・ブリャンチャニーノフ 「良心」 良心とは、善悪を判別する人間
聖イグナチイ・ブリャンチャニーノフ
「良心」
良心とは、善悪を判別する人間の精神の感覚である。その感覚は微妙で、清らかなも
のである。
良心という感覚は、善悪の判別に関して知より優れている。
知より良心のほうがだまされにくい。
だまされた知が、罪に溺れた意志と組んで良心と戦っても、良心は簡単に降伏しない。
良心は、自然の律法である1。
文字で記された律法が与えられるまで、良心が人々を導いていた。陥罪した人類は神、
善悪に対する誤った考え方に少しずつ染まっていき、偽りの考え方に染まった知がその
歪みを良心に伝染させた。そうなると、真に神を知り、神に適って生きるための導きと
して、文字の律法が必要となった。
聖洗によって印せられたハリストスの教えは、罪のせいで患っていた奸悪さから良心
を癒してくれる2。再生していただいた正しい良心の働きは、ハリストスの教えに従う
ことによって維持され、高まっていく。
良心が健全な状態にあり、正しく作用することは、正教会の懐にいて3はじめて可能
となる。なぜなら、誤った考えを一つでも受け入れると、その影響は良心に及び、良心
が正しく作用できなくなるからである。
自覚して行なう罪は、良心を暗くし、鈍くし、眠らせてしまう。
およそ痛悔によって清められていない罪は、良心に悪い影響を残す。
自覚して罪に生きることを常とすることは、まるで良心が死んだような状態をもたら
す。
良心を死なせることは不可能である。良心に逆らって生きた人は、ハリストスの恐る
なじ
べき審判に行くまで良心に同伴され、審判時に詰られ責められる。
聖師父の注解によると、福音書の、人を「訴うる者」とは良心のことである4。
まさに良心は「訴えるもの」である。我々が不法なことを企てようものなら、それを
訴え、それに抵抗するからである。
汝が天に向かって地を旅する途上にある間、良心という「訴えるもの」と平和を保つ
がよい。汝の永遠の運命が決定されるとき、その「訴える者」が汝を責める者とならな
1
3
克肖者アウワ・ドロフェイ、第3訓話「良心について」。
エウレイ書10:22。
正教会の信者であること。
4
「爾を訴うる者とともになお途に在る時、 急 かに之と和らげ、恐らくは訴うる者爾を裁判官に付し、裁
2
みち
したやく
ひとや
すみや
わた
つ
ごうり
判官爾を下吏に付して、爾 獄 に投ぜられん、我誠に爾に語ぐ、爾毫釐だに償わずば、彼より出づるを得ず」
(マトフェイ5:25、26)。
いためである。
いのち
「正しき証者は人の生命を救う」(箴言14:25)と聖書は言う。「正しき証者」
とは、汚点なき良心である。良心の勧告に耳を傾ける人は生前罪を逃れ、死後は永遠の
苦しみを逃れ、救いを得るからである。
刃物が砥石で研ぎ磨かれるように、良心はハリストスによって研ぎ磨かれる。すなわ
ち、福音書の誡めを学ぶことによって研がれて照らされ、その誡めを行なうことによっ
て磨かれて鋭くなるのである。
福音書によって照らされて鋭くなった良心は、微細にわたり人にその罪の数々を明ら
かに見せてくれる。
「訴えるもの」、良心を犯してはならない。さもなければ、霊的な自由を失い、罪は
にじ
汝を虜にし、束縛してしまう。「エフレムはその訴うる者を虐げ、裁きを踏み躙りたり、
虚しきものに従いて歩みし故なり」(オシヤ書5:11)と神の名において語る預言者
にじ
は、己の良心を踏み躙り、自らを害する人について嘆いている。
やいば
良心という 刃 は極めて傷つきやすく、注意深く取り扱い、心して守らなければなら
ないものである。良心が守られるといえるのは、良心が求めることを全て行ない、弱さ
又は執着のせいで良心の要求を犯すことがあったとしても、悔改の涙を流してそれを清
める場合である。
いかに小さな罪であっても、それを軽視してはならない。いかなる罪も、神の律法を
じゅうりん
犯し、神の意志に背き、良心を 蹂躪 することだからである。
一見取るに足りないことに思える罪を平気で犯す人は、ようやく大きな罪に陥るに至
る。
己の救いをなおざりにする者は、禁断の実に手を伸べ、神の律法によって禁じられた
罪を犯そうとするとき、「これは大したことではない。大した罪ではない。これは罪な
どではない」という自己暗示をする。
そうすると、良心の刃が鈍くなり、その光が暗くなり、心の中は無関心と無感覚の闇
に覆われる。
やがて、魂は無感覚が通常状態となる。その状態に満足し、それを神に適った状態、
良心の平和とさえみなすこともよくある。だが、実際にはその状態とは、己の罪深さが
感じられなくなり、恩寵による信仰生活の感覚が分らなくなり、良心が眠り盲目となっ
てしまった状態である5。
このように心が眩まされ、無感覚となった恐るべき状態では、様々な罪が自由に魂の
中に入り込み、そこに巣くう。魂に長く留まる罪は、天性に勝るとも劣らない強さを持
つ習慣となる。罪なる習慣は「慾」と呼ばれる。本人が気づいていなくても、完全に罪
5
「階梯」第18講話。
に束縛され、罪の虜、奴隷となっている状態である。
常に良心の警告を軽んじ、罪の奴隷となることに身を任せた者は、特別な神の佑けを
得つつ非常な苦労をしてはじめて、この隷属から解放され、まるで天性の性質のように
か
なってしまった慾に克つことができる。
至愛の兄弟よ、細心の注意を払って、心して己の良心を守るようにせよ。
神に対し良心を守れ。すなわち、他人に見えることであろうが、誰にも見えず、ひと
り神と汝の良心にしか分からないことであろうが、神の全ての誡命を行なえ。
隣人に対し良心を守れ。すなわち、体裁上隣人に対して善き態度をとるばかりではな
く、汝の良心が満足する対人態度を己に求めよ。福音書によって誡められた対人態度が
行ないとして表われるばかりではなく、心もそれに適うものとなれば、良心は満足する
であろう。
しゃし
物に対し良心を守れ。贅沢・奢侈を避け、汝が使用する全ての物は神が造り、人間に
与えた賜物であることを忘れず、物を大切に扱うようにせよ。
己に対し良心を守れ。汝は神の像と肖であり、清らかで聖なる状態でその像を神ご自
身に提示する義務があることを忘れてはならない。
主は我々にご自分の像を見分けず、我々の像にご自分との類似点を何も見出せなけれ
し
ば、悲しいかな、「我爾等を識らず」(マトフェイ25:12)という恐るべき宣告を
ゲエンナ
言い渡し、不当なる像は消えざる地獄の炎に投ぜられるであろう。
慈愛なる主は人を創造する際にその魂を美しいものとして造り、人を贖う際にその美
しさを再生・倍増し、およそ罪を避け、およそ福音書の誡めを守ることによってその美
しさを完全な状態に守ることを命ぜられた。主がその美しさを見、御自分との類似を認
めた魂は、えもいわれぬ喜びに満ち溢れるであろう。
へんぱ
罪を避け、誡めを守ることを常に勧め、偏頗なく心を見守るものが、良心である。ア
ミン。
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