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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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ウジュン・パンダンのトラジャ社会 : インドネシア地方
都市研究(<特集>インドネシアの都市人類学)
山下, 晋司
東南アジア研究 (1986), 23(4): 419-438
1986-03
http://hdl.handle.net/2433/56225
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東南 アジア研究
2
3巻 4号 1
9
8
6年 3月
ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ンの トラ ジ ャ社 会 :
イ ン ドネ シ ア地 方 都 市 研 究
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異 な った社会 モデルを構築す ることを期待 で
Ⅰ 問題 の所在 と限 定
きる興味深 い研究領域 と して ある。 その意味
本論で は, イ ン ドネシアの地方都市,甫 ス
で, この種の社会を研究す ることは,今 日の
ラウェシ州 の ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市 が と りあ
社会科学の モデル構成 に とって きわめて野心
打 られ,社会人 類学的な観点か ら, この都市
的な課題 で あると予測 され るので ある。
の社会的動態 に関す る一側面が検討 され る。
983年か ら8
4年 に
こう した関心 の もとに, 1
最初 に, イ ン ドネシアあるいは広 く東南 ア ジ
か けて,釆南 ア ジアの地方都市社会 に関す る
アの 「地方都市」 を と りあげる理 由を,二つ
研究 プ ロジェク トが 組 ま れ, ス リラ ン カ,
ほ ど示 してお こう。
フィ リピン,およびここで報告す るイ ン ドネ
第 1に,従来 の東南 ア ジア地域 の都市研究
に お い て は,国家 の 中心, 国家建設 の 礎 で
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あ る首都, あ る い は 「首位都市 」 (
シアにお いて現地調査 が行 われたわ けで あ っ
た 。1)
この調査 との朗連 において, イ ン ドネシア
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y")の研究 に焦点 が お か れ て き た傾 向 が
の地方都市 を と りあげる際の問題点 に若干触
あ った。これ に対 して,地方 の都市 も しくは地
れてお こう。 イ ン ドネ シアの場合,地方都市
方 の中心 に関 して は, しか るべ き注意が払わ
に関す る研究 が少 ない とい って も,ギ ア ツに
れて きた とはいえず,われわれ は この地域 の
よ る ジャワ 【
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地方都市 に関す るデー タを基本的 に欠 いてい
によ るスマ トラおよび ジャワ Pr
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る。 に もかかわ らず,地方都市 は,今 日の東
1
97
4】の地方都市 につ いての 優 れ た研流 があ
南 ア ジアの社会的 ・文化 的動態を理解す る う
る。 しか し, イ ン ドネシアの 「多様性 」 を考
えで, きわめて重要 な もの にな りつつ あ る。
え る時, ジャワや スマ トラの事例を もって イ
とい うの も,現在,国の 「開発 」 が強調 され
ン ドネシアの地方都市 を代表 させ るわ けには
るなか で,地方都市 は,地域開発 の前線 で あ
ゆかない。 こう した ことか ら,上記の プ ロ ジ
り,拠点 で もあるわ けだか らで ある。
ェク トにおいては, ジ ャワ, スマ トラ以外 の
第 2に,地方都市 に焦点を あわせ ることに
二 つの都市,南 カ リマ ンタ ンのバ ンジャール
よ って,「中規模社会」 と で も呼ぶべ き社会
マ シンと本論 で考察 の対象 とす る甫 ス ラウェ
の モデルを構築す る ことがで きな いか とい う
シの ウジュ ン ・パ ンダ ンが選択 され た。次 に,
理論的な可能性 に関 してである。す なわ ち,
地方都市社会 は,政 治学や経済学が研究の対
象 と して きたマ クロな国家 レグェルの社会で
もな く,人 類学が伝統的 に好んで とりあげて
きた ミクロな村 落 レグェルの社会で もな い
。
この マ クロ社会学 も ミクロ社会学 も扱 って こ
なか った タイプの社会, ここでい う 「中規模
社 会」 に関す る研究 は, したが って,理論的
にはマ クロモデル あるいは ミクロモデル とは
420
1
)1
9
8
3および8
4
年度の文部省科学研究費補助金
による調査 (
「東南アジア地方都市社会研究
(
代表青木保大阪大学教授)
」
)
。インドネシア
に関 しては,筆者と岐阜大学の内堀基光のふ
1
9
8
3年1
2
月-1
9
8
4年 1月)
たりが予備調査 (
を行なったのち,筆者は1
9
8
4年の 7月から1
0
月にかけて甫スラウェシのウジュン ・パンダ
ンにおいて,内堀は1
9
8
4年の 8月から1
9
8
5
年
)マンタンのバンジャー
の 1月にかけて南カl
ルマシンにおいて本調査を実施 した。
山下 :ウジュン・パンダンの トラジヤ社会
地 方 , あ るい は地 方 都 市 とい って もさ ま ざ ま
族 集 団 トラ ジ ャ社 会 の研 究-
な レグ ェル が あ るが , イ ン ドネ シアの 場 合 ,
だ とい う こ とが あ る。3
)本 論 で述 べ るよ うに,
pr
o
pi
ns
i
)と い う単 位 とそ の 中心 で あ る
「州 」(
1
9
6
0年 代 後 半 以 降 , トラ ジ ャの ホー ム ラ ン ド
i
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apr
opi
ns
i
)が 重 要 で あ るよ う
「州 都 」 (
mer
ant
a〟, 出稼
で は いわ ゆ る r
ム ラ ンク ウ」 (
に思 え る。 とい うの は, 現 在 27にわ か れ る こ
ぎ)現 象4
)が 顕 著 に み られ , 筆者 は この トラ
の 州 を単 位 と して , イ ン ドネ シア政 府 は この
ジ ャの 人 々を 追 うよ うに, この都 市 に引き寄
国 の 多様 な る地 方 文 化 を整 序 しよ う と して い
せ られ たの で あ る 【
山下
るか らで あ る 。2) 調 査 が 行 わ れ た 上 記 の 二 つ
て ,本 論 で は, と りわ け ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ン
の 都 市 は, いず れ も南 カ リマ ンタ ン州 あ るい
の トラ ジ ャ人 社 会 を検 討 す る とい う限定 の な
は商 ス ラ ウ ェ シ州 の州 都 で あ る 。
か で , イ ン ドネ シアの 地 方 都 市 の社 会 的 ・文
の延 長 と して
1
98
5a】
。 した が っ
この調 査 は, ま た,各 調 査 都 市 の(
1
)
後 背地
化 的動 態 の一 端 を 明 らか に して み よ う 。5) し
2)
市場,(
3)
大 衆 文 化 の 3点 を め
と の 関係 , (
か し, そ の前 に, この 課 題 に と って の 舞 台 で
ぐって行 われ たわ けで あ るが , こ こで検 討 す
あ る ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ンとい う都 市 につ い て
るの は, 特 に第 1の点 に 関す る こ とで あ る。
言 及 して お か な けれ ば な らな い。
この都 市 とそ の後 背 地 との 関係 とい う間蓮 を
検 討 す る に あ た って , 筆 者 が ウ ジュ ン ・パ ン
ダ ンとい う都 市 を 選 ん だ の は,前 述 の 理 由 に
加 え て ,1
9
7
6年 以 来 の 筆者 の調 査 研 究 -
ス
ラ ウ ェ シ島 内 陸 山 地 部 の プ ロ ト ・マ レ一系 民
Ⅱ 舞 台 :ウジ ュ ン ・パ ンダ ン市
歴 史 的 背景
この 町 は, 1
971
年 ま で は マ カ ッサ ル とい う
6世 紀 に はす で
名 で知 られ , マ カ ッサ ル は ,1
2
)例えば,1
9
7
0
年代のは じめに作 られた 「
美し
Taman
きイン ドネシアの ミニアチュア公 園 」(
Mt
'
ni血(
わne
s
i
al
hdbh)とい う名を もつ ジャカ
ル タの野外博物館は,イン ドネシアの文化の
多様なる全体を南 カ リマ ンタンとか北スマ ト
ラといった各州 ごとに展示 しよ うと試みてい
る。 この場合,各州の文化は,その州 を特徴
づける民族の慣習家屋の形を した博物館その
ものに象徴 されつつ,館内の展示品のなかに
9
7
0
年代末に発足 し
示 されている。 さらに,1
た 「文化庁歴史伝承局」(
Di
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)は, 現 在 特 定 の州 (
例 え ば,
Tr
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ジョクジャカルタ特別区や南ス ラウェシ州)
において 「地域文化の調査および記録 プロジ
ェク ト」 (
Pr
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nDokum¢
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nDa
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r
a
h)を推進 し,州
ke
buda
yaandae
r
ah)杏
単位 の 「地域文化」 (
本の形で記録 しようと試みている。 この 「記
録」は,それ自体は 「学術的」な性質の もの
であるが,それが政治と結 び つ く時,「国民
文化」を作 り出す ワンステ ップと しての 「地
域 (
州)文化」を創出する作業 として位置づ
け られるように思われる。
に今 日の イ ン ドネ シアの 東 部 と西 部 , あ るい
3) 1
9
7
6
年か ら7
8
年にかけての調査は,文部省ア
1
9
7
5
年度)制度による
ジア諸国派遣留学生 (
6カ月間
筆者のイン ドネシア大学滞・
在 中に,1
にわ た り トラジャの ホームラン ドで あ る タ
ナ ・トラジャ県 において行われた。
4) ムランクウを「出稼 ぎ」と訳すのは,明 らかに
その意を狭めす ぎている。「外界」(ランクウ)
へ出るとい うのか原義である。 トラジャ語で
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ムランクウにあたる語は,"mal
t
a〟" (
他者の国へ行 く),HmL
Z
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e仰 mbe
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逮
くへ行 く),あるいは "ma'
s
omba(
ma'
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ompa)
"
(
航行する)などである。
5) ウジュン ・パ ンダンの トラ ジャ人 につ い て
9
7
5
1
9
7
6年にかけて ノーイ-パームと
は,1
マ トゥラダらが初次的な調査を行なっている
【
Nooy
・
Pa
l
m,Ma
t
t
ul
a
da etal
. 1
978
]
o ま
た,イン ドネシア政府文化庁 プロジェク トの
一環 と して,パ ナンランギ ・ハ ミッドらか こ
の町の トラジャ人の家族関係に関す る調査を
Ha
mi
d,P.eta
l
. 1984】
.パ
行 な って い る 【
9
8
4年度の
ナンランギ ・ハ ミッ ドは,筆者の1
調査の助手を勤めた。
421
東南 アジア研究 23巻 4号
は広 くイ ン ドネ シア と西欧 をつ な ぐ, いわゆ
ンバ ・オ ブ陥落 に先 立つ 1
667年 に, いわゆ る
る香料 貿易の国際的 な交 易都市 と して有 名 で
「ブ ンガヤ協 定」 の もと, オ ランダの領有 す
あ った。す なわ ち, この町 は, 当時の マ カ ッ
る ところとな って いた)。 こ の 新 しい 「オ ラ
Goa)王 国 と タ
サル人 の二 つ の王 国, ゴア (
(
X氾人 を き り (
1
688
ンダ人 の 町」 の人 口は 2,
ロ (
Tal
l
o)王 国の貿易 港 と して 発展 したわ け
年 ),
.かつ て 繁栄 した 都市 も小 さな 市 場 町 に
Mat
t
ul
ada 1
98
2:9
-11
1
。 イ ン ドネ
であ る 【
転 落 して い る 【
Re
i
d 1
981
a:1
45;1
981
b]
。
シア/ 東南 ア ジアには,都市 の発展 類型 と し
こう した歴史 的 な盛衰 の なかで, この都市
2)
港市 , (
3)
植 民都市 の
て,一般 的 に(
1
)
王都 , (
がかつての繁 栄を と り戻す の は 1
9世紀 以後 だ
3類型 が認 め られ るが, この町の生 成 は第 2
9
06年 に, この 町 は
といわれ る。 と りわ け,1
の類型 に属 し, ジ ャワ海 を囲む いわ ゆ る 「パ
本 格化 す るオ ランダ植民地体 制下 にあ って,
pas
i
s
i
r)文 化シ シール 」(
ジ ャワ北岸 , ス
ス ラウェ シな らびに東部 イ ン ドネ シアの植 民
ラウ ェシ南岸 , カ リマ ンタ ン南岸 , スマ トラ
地 行政 の拠 点 と して,「植 民都市 」 と して 新
甫 東岸-
たな展 開を とげる ことにな る。6) この時点 で,
に属す る港 湾都市 の一つ と して発
展 した と考 え られ る。 この港湾商業都市 と し
6,
(
X沿人 。 その うち, ヨー
この町の人 口は ,2
て の伝統 は今 日にいた るまで受 け継 がれて お
ロ ッパ人 が 1
,
(
X
氾人 , 中国人 が 4,
6
(
氾人 ,「東
り,人 々は この町 を まず もって 「プ ラブハ ン」
洋 系」 (ア ラブ人 , イ ン ド人 な ど)が2
0人 と
(
pe
l
abわ
ha
n,港 ) あ る い は 「コタ ・ダガ ン」
いわれ,人 口の 4分 の 1弱 が,外 国人 によ っ
(
kot
ada
gan
g,商 業 の町) と形 容す る.
て 占め られて いる (
なかで も中国人 が大 きな
ア ンソニ ー ・レイ ドによ る と, 1
6
40年代 の
01
91
6年 に は,
位 置を 占め て い る点 に注意 )
ゴア/ タロ王 国の最盛 時 には, この都市 -
外 国人 の数 は,町の人 口の半数 を 占めた とい
-7キ ロメー トル南 の ゴア王 国
現在 の 町 よ り 6
Enc
yc
l
o
pe
dl
av
anNe
der
l
ands
c
h・
Z
ndi
C
われ る 【
SombaOpu)にそ
の 「首都 」 ソ ンバ ・オ ブ (
〟 1
91
8:6
45
】
。 イ ン ドネ シアの独 立後 ,この
0万
の人 口は ,1
都 市 は南 ス ラウェ シの地方行 政 の中心 とい う
の 中心 が あ った とされ る-
人 を越 え た と推 定 され る。当時,この都市 は,
ばか りで な く,東部 イ ン ドネ シアの最大 の都
be
nt
e
ng, ペ ンテ ン) に
砦 も し くは 「城壁 」 (
市 と して発展 して ゆ く こ と に な る。 因 に,
囲 ま れ,王 宮 と貴族 た ち の 居住地 ,王 の 倉
この都市 の今世 紀 の人 口推 移 を みて お くと,
1
6
05年 に タ ロ王 国が ス ラウェ シ
庫 , モス ク (
1
93
0年 には ,8
4,
9
0人 【
加納
で は じめて,公 式 に イス ラム教 を受 容 して い
立 当時,約 1
(
刀,
(
X
氾人 【
For
hB
S 1
98
0:2
)
,
る),二 つ の市 場 ,ポル トガル人 ,グ ジ ャラー
1
961
年 ,3
8
4,
2
0人 【
加納
ト人 , デ ンマー ク人 , オ ランダ人 , イギ リス
43
4,
766^ l
Re
ks
oha
di
pr
od
j
o 1
98
4: 1
5
]
,
人 , マ レー人 , ワ ジ ョ (ブギス)人 な どの居
1
981
年 , 71
2,
21
9人 【
i
bt
'
d.
]
,で あ る. したが っ
住 区な どを もち,国際交 易港 と して の輝 か し
て ,今 日,この都市 は人 口7
0万 以上 をかか え,
い繁栄ぶ りが窺 え る。 けれ ど も, この町 は,
66
9年
オ ラ ンダ との抗争 のなか,最 終 的 には 1
1
98
2:40】
,独
1
98
2]
,1
971年 ,
6) よ く知 られているように,オランダ植民地行
今 日で もみ る ことがで きる) は,「フオー ト ・
政が 「
外領」にまで貫徹 してゆ くのは,1
9
世
0世紀 に
紀の後半,スラウェシにおいては 2
入 ってか らで あ る.す なわち,"
Ge
me
e
nt
e
Ma
ka
s
s
a
r
"(
マ カ ッサル市) は,1
90
6年 4
月 1日付で発足 し,当時 のセレベス州 の州
hoof
dpl
a
a
t
s
)となった 【
Kot
aMa
ka
s
s
a
r
都 (
ロ ッテル ダム」 と改名 され る (この砦 は, ソ
】
。
1
9
5
6:2
0
に破壊 され,かつて外 敵 に対 して作 られて い
た砦 の一 つ (
ペ ンテ ン ・ウジュ ン - ヾンダ ン
-
現在 の町の中心 部 に位 置 し, その一 部 は
422
山下 :ウジュン・パンダンの トラジャ社会
人 口規 模 で は, ジ ャカル タ, ス ラ
バ ヤ, バ ン ドン, メ ダ ン, ス マ ラ
ン, パ レンバ ンに次 いで, イ ン ド
ネ シア全 国で 第 7位 で あ る。 この
点 で,この 町 は 「地 方都市 」とい っ
て も,「大 都 市 」 (メ トロポ ール)
と して の性 格 を あ る程度 そ なえ て
い る 。7)
今 日の ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市
1
9
71
年 に都 市 名 が マ カ ッサルか
らウ ジュ ン ・パ ンダ ンに変 更 され
た時,都 市 の 区域 も拡大 されて い
9
71
年 まで は2
1
平
る。 す なわ ち,1
方 キ ロメ ー トル (
お よそ東 西 2キ
0キ ロ) で あ っ た 市 街 地
ロ南 北 1
1
1
4.
23
平方
は, 現在 そ の約 5倍 (
キ ロメ ー トル ) に拡 げ られ て い る
(したが って ,1
971年 以降 の この
都 市 の人 口増 加 の一 つ の要 因 と し
て, この市 街 地 の拡大 とい う点 も
考 慮 す べ きで あ ろ う)。 こ れ が 現
kot
a
在 の 「コ タ ・マ デ ィ ア」 (
madyo, 都市 自治 体 ) ウ ジュ ン ・
パ ンダ ン で あ る。 こ う し て,現
在 の ウ ジュ ン ・パ ン ダ ン市 は,
1
9
71年 に加 え ら れ た 東 部 の 三 つ
図 1 ウジュン ・パ ンダン市*
:区 (
ke
c
amat
an)境
-----:地区 (
kel
ur
ahan)境
〝〝〟〝 :主要調査地区
kel
ur
ahan)にはまとまっ
*名を入れた地区 (
た トラジャ人 コミュニティが見出される。
(
Bi
r
i
ng
ka
naya,Pa
na
kkuka
ng, お よ び Ta
mal
の流 入 民 の居住 区の各 セ クターか ら観 察 す る
l
at
e
)の 「区」 (
kecamat
an) を含 め,行 政 的 に
こ とが で き る と し, これ らの セ クターの検 討
11の 「区」 にわか れ る (
図 1)0
を通 して 東部 ジ ャワの あ る町の社 会史 を考 察
と ころで, イ ン ドネ シアの都市 を三 つ の基
Ge
e
r
t
z
,C. 1
9
65
】
。
したの は, ギ ア ツで あ る 【
2)商 業 区, (
3)
本 的 な セ ク ター,(
1
)行 政 区, (
この視 点 は ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う町 を み
「カ ンポ ン」(
kampong)と呼 ばれ る村 落 部 か ら
る場 合 も, さ しあた って は有 効 で あ る。
7) ヒル ドレッド・
ギアツは,
1
9
6
0年代は じめのイ
ン ドネシアの都市を,「
大都市」(
me
t
r
opol
ら
s
)
と「地方都市」(
p
r
ov
i
nc
i
a
lt
o
wns
)の二つのタ
Ge
e
r
t
z
,H.1
963:3
4】
。こ
イプにわけている 【
の分類のなかでは, ウジュン ・パ ンダン (
当
時はマカッサル)は,「大都市」のカテゴリー
に入れ られている。
図 2を参 照 しな が ら み て ゆ こ う。 ウ ジュ
ン ・パ ンダ ン市 の行 政 セ クターは,ペ ンテ ン,
つ ま りか つ て の フ ォー ト ・ロ ッ テ ル ダ ム8)
8)「ペンテン」 (
砦)はこの町の重要なシンボル
として,「
船」
- 港町 ウジュン ・パ ンダンを
象徴- とともに,市の紋章のモティーフを
423
東南 ア ジア研究
23巻 4号
Kar
c
bos
i
)
,州役場 ,市役 所 を は じめ とす る政
府 関係 の役 所 が並 び, そ の南側 は こ.
の 町の一
等 地 で,高級住宅 地 にな って い る。かつ ての
オ ランダ人 居住 区で あ る。 建 物 も清 酒 な コロ
ニ アル ・ス タイルで, この地 区は,かつ ての
植民地 時代 の記憶 を と どめ る空 間 と して, あ
るいは現在 の イ ン ドネ シア人 エ リー トた ちの
居 住 区 と して あ る。
その北側 ,港 を中心 と した部分 は,
最 も繁華
な商 業地 区を構成 して い る。 中央市 場 (
Pa
s
a
r
Se
nt
r
al
)
,銀行 , シー フー ド ・レス トラ ン,
それ に各 種 の 商 店 (
t
oko)が並 ぶO この 部分
Kampon
g Ci
na)と別
は,「カ ンポ ン ・チ ナ」 (
称 され, 華人 が多 く住 ん で い る。 他 の イ ン ド
ネ シアの都市 と同様 , この町 の商業 ・経済部
図 2 ウジュン ・パンダン市の社会地図
Ⅰ :行政セクター (
官庁街 ・エ リー ト居住区)
Ⅱ :商業セクター (
華人地区)
Ⅲ a :旧カンポン ・セクター
b :新 カンポン ・セクター
C:新 々カンポン ・セクター
A :港
B :ペンテン (
フオー ト・ロッテルダム)
C :州 役 場
D :市役所
E :カレポシ広場 、
F :中央市境
G :主要調査地区 (
バラバ ラヤ地区)
1 :J
al
anNus
a
nt
ar
a
2 :Jal
anPe
ng
bi
bur
Ra
j
awal
i
3 :J
al
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〇
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alSu
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r
ma
nDr
.Rat
ul
angi
'
4 :Jal
anVe
t
e
r
an (
旧市街地境界)
5 :J
al
anG.丑awakar
a
e
ngGowaJ
a
ya
6 :J
al
anS
cr
a
m
7 :Ma
r
osへ
8 :Sung
guMi
nas
a(
Kabu
pa
t
e
nGowa)へ
(
J
al
anは 「
通 り」の意)
門 は華人 が握 って い る。いわ ゆ る 「近代 都市」
の経済 を特徴づ ける工 業 部門 は, この 町で は
依然 未成熟 で,就業 構造 において この部門 は
1
0% を きる といわれ る (
c
f
.For
be
s【
1
979:3]
)
.
単 純化 して いえ ば, この二つ の セ クターを
と り巻 くよ うに市 の東側 に,庶民 の居住 区,
つ ま り 「カ ンポ ン」 が広 が って い る。 この 町
は港 を 中心 に東 に発展 して お り 【
Mc
Taggar
t
1
976:76p
et
a3
]
, これ と と も に この カ ンポ
ン部分 が村 落部 か ら流入 して くる人 々を 吸収
し,新 たな カ ンポ ンを形 成 しつつ, ます ます
大 き くな るわ けで あ る。本 論 で考 察 の対 象 と
す る トラ ジャ人 の移住民 社会 が見 出 され るの
ち, この 部分 においてで ある。
エスニ ック ・モザ イ ク
ウ ジュ ン ・パ ンダ ンは,元来 は マ カ ッサル
人 の居住地 域 に位 置 して いたが,す で にみた
6世紀 以来 の
よ うに,歴 史 的 な盛衰 は あれ ,1
の周 辺 に見 出 され る。 この地 区には,市 の儀
イ ンター エスニ ックな国際交 易都市 と して発
礼 ・集 会が 行 わ れ る大 き な 広場 (
Lapangan
展 して きたわ けで,現在 もこの町 は さま ざま
構成 している。ペンテンの内部は現在 「南ス
ラウェシ文化センター」 として博物館として
使われている。
424
な民 族集 団か ら構成 され て い る。 もっと も,
イ ン ドネ シアにおいて は現在民族集 団 ごとの
人 口統計 が と られて いないので, この町の民
山下 :ウジュン・パンダンのトラジャ社会
族構 成 につ いて正 確 な こ とはわか らな い。 け
「国際性 」 は む し ろ 弱 ま り, イ ン ドネ シアの
れ ど も, 出身地 によ って あ る程度 の数 はつ か
国 と して の成熟 の なかで この町 は地 方 (
州)
む こ とがで き,ハサ ヌデ ィ ン大 学 (ウ ジュ ン ・
の 中心 と して の性 格 を強 く示 して い る。 つ い
パ ンダ ン市 ) の社 会 学者 - ツサ ン ・ワ リノ ノ
で にいえ ば, 南 ス ラ ウェ シ州 以外 の住民 と し
9
7
0年代前 半 に行 な った調 査か らその数
らが 1
て は, メ ナ ド人 な どの ス ラウ ェ シの他 の州 の
字 を挙 げて み る と,次 の よ うで あ る。 ウ ジュ
出身者 , ア ンボ ン人 , フ ロー レス人 とい った
ン ・パ ンダ ン生 まれ (
4
2.
6%), ブギ ス (
25.
7
モル ッカ諸 島や東 イ ン ドネ シアか らの住 民 ,
% ), マ カ ッサル (
1
2.
5%)
, トラ ジ ャ (
4.
4
ま た バ リ人 , ジ ャワ人 , ミナ ン カ バ ウ人 ,
% ), ドゥ リ (
2.
7
%)
, マ ン ダル (
1
.
6
%)
,
バ タ ック人 とい った ジ ャワや ス マ トラか らの
8
.
8
%)
,外 国人/ 華人
南 ス ラウ ェ シ州 以外 (
移住者 も見 出 され る。
(
1
.
9%)【
Wal
i
nonoetal
.1
9
7
4:I
I7
-8
】
。こ
の数字 は厳 密 な もの だ と は い え な い だ ろ う
Ⅲ
が, それ で もこの 町 の エスニ ック ・モザ イ ク
ウジ ュ ン ・パ ンダ ンの トラジ ャ社 会
に関す るい くつ か の 問題 点 を 映 し出 して い
主 要調 査対 象 :バ ラバ ラヤ地 区の トラ ジャ社
る。
会
第 1に, ウ ジュ ン ・パ ンダ ン以外 で生 まれ
筆 者 が住 込 み調 査 によ って ある程 度 イ ンテ
た人 が過 半数 を越 え る こ とは, この町 が 「移
ンシヴな研 究 を 行 う こ とが で き た の は, マ
mi
g
r
ants
oc
i
e
t
y,c
f
.Mc
Gecl
1
9
6
7:
住 民 社 会 」(
Ke
c
ama
t
an Makas
s
a
r
)
, なか で
カ ッサ ル 区 (
8
4
】
)で あ る ことを示 して い る。 第 2に, ブギ
Ke
l
ur
a
ha
n
も バ ラバ ラ ヤ と呼 ば れ る 地 区 (
ス, マ カ ッサ ル, トラ ジ ャ, ドウ リ, マ ンダ
Ba
r
aba
r
aya)で あ る. この地 区は ち ょう ど 旧
ル は南 ス ラ ウ ェ シを構 成 す る基本 的 な民 族集
市 街 と新市 街 を わ か つ 「フェ テ ラ ン通 り」
団で あ るが,今 日マ カ ッサル人 よ りもブギ ス
(
J
al
a
nVe
t
e
r
a
n)のす ぐ東側 に位 置 し (
図 2),
人 が マ ジ ョ リテ ィの 位 置 を 占 め つ つ あ る 。9)
1
9
6
0年 以降 薮や 沼地 で あ った部分 を宅地化 し
第 3に, この 町 は, イ ンター エス ニ ックな性
て で きた新 しい カ ンポ ン ・セ クターで あ る。
格 を 示 す と い って も,前 述 の ワ リノ ノ らの
住 宅事情 は概 して悪 く, 町の なか で も貧 しい
調 査 に よ る と,現在 南 ス ラ ウェ シの 出身者 が
c
r
.Mc
Tagg
a
r
t【
1
9
7
6:
人 々の居 住 区 に属す る (
9
0%近 くを 占めて い る。 この点 で, かつ て の
a41
)
。 ここを 住 込 み 地 点 お よ び 調 査地
81pet
域 と して 選 んだ の は, こ こ に こ の 町 の トラ
9) おそらく, これが都市名改正の理由の一つで
あると思われる。すなわち,この町はもはや
「マカッサル人」の町ではない,と。マカッ
サル人は,ち ょうどジャカルタ(
バ タグィア)
の 「原住民」であった 「バクウィ人」のよう
に,移住者に土地を奪われ (
あるいは売 り)
,
市の周辺に後退 して い った とい う。他 方,
ウジュン ・パ ンダンす な わ ち 「み のば ヤ シ
(
pa
n
d
a
n
)の 岬」 は,.行政 セクターの 中心的
シンボル で あ る 「ペンテン」 (
フオー ト・ロ
ッテルダム)付近の地名に由来するとされる
が, これ もオランダの植民地臭を強 く残 して
いるわけで, この都市名改正を批判するむき
Re
i
d 1
9
8
1
b
]
。
も多い 【
ジ ャ社 会 の一 つ が見 出 され るか らで あ る. 今
7万人 の トラ
日, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンには 6
ジ ャ人 が住 む と推 定 され ,10) 彼 らは あ る程 度
か た ま って住 む傾 向 に あ るので,市 内 の い く
1
0
)本文中に挙 げたワリノノらのウジュン ・パ ン
ダンの民族集団別の人 口比は, トラジャに関
しては低すぎる評定だと思われる。ノーイパームとマ トゥラダ らは,1
9
7
5
1
9
7
6年の時
点で,ウジュン ・パ ンダンの トラジャ人を5
6万人,当時の市人 口の約 1
0% と推定 してい
る【
Nooy
Pa
l
m,Ma
t
t
da
dae
tal
.1
9
7
8:
2
]
0
-
4
2
5
東南 アジア研究
2
3
巻 4号
つ かの地 区 に こ う した トラ ジャ人 の コ ミュニ
で は,住 み込 む ことによ って, 自ず と収集 で
テ ィが見 出 され る。例 え ば, (
1
)1
920-1
95
0年
きる情 報を別 に して,基本 的 に二つ の タイプ
の比 較 的古 い時期 に形成 され た もの と して,
ke
pal
a
の 資料 を 得 た.一 つ は, 居 住 区 長 (
Ga
ddong, Pi
s
a
ng Ut
a
r
a, Pi
s
a
ng Se
l
a
t
a
n,
Ma
r
i
c
a
yaSe
l
at
n に, (2) 1
a
95
0-1
97
0年 の 比
R.
W.
)の保 管す る 「住民票 」(
kar
t
〟pe
ndu
duk)
較 的新 しい時期 に 形成 され た もの と して,
生 年月 日,職業,宗教,家族構成 , 当該地 区
Ma
m a
j
ngLua
a
r,J
ong
a
y
a
,Ma
c
i
ni
,お よび こ
こで と りあげ る Ba
raba
r
a
ya に, さ ら に (
3)
へ の転入年 な どが記載 され て い る (
住 民票 の
978年
作成 は, ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市 で は , 1
1
97
0年代 後 半か ら1
98
0年代 にか けて の最 も新
の条例 によ り実施)-
しい時期 に属す る もの と して, Pa
na
kkuka
ng
R.
W.
2およ び R.
W.
4の トラ ジャ人 21
1
世帯 に
区に属 す る新市街 の はず れ (
Ta
l
l
oBa
u 地
r
関す る資料 を得 た. もう一つ は,必ず しもバ
区, Ka
mpungRa
ma と通称 され る) に見 出
ラバ ラヤ地 区だ けにはか ぎ らなか ったが,坐
。現在 , 古 い コ ミュニテ ィの
され る (
図 2)
部 で45
人 の トラジャ人 に対 して, ム ランク ウ
住 民 が,特 に上 記第 3の新 しい地 区に安 い土
とこの町 での生活 につ いて 自由に語 って も ら
地 と家屋 を求 めて移動 して い るのが観察 され
-2時 間程度 の面接調査
うとい う形 で, 1回 1
る。 旧市街 の周 辺部か ら新市街 の周辺部 への
を試 みた。 以下 において, この 2種 類 の情 報
移動 で ある。
を もとに, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンの トラ ジャ社
-
世帯主 (
ke
pal
ake
l
u
ar
・
ga)ごとに出身地 ,
か らバ ラバ ラ ヤ地 区
バ ラバ ラヤ地 区に トラ ジャ人 が多 い とい っ
会 の問題 点 を, い くつか の項 目にわ けて示 し
て も,彼 らは当然他 の民族集 団か ら孤立 して
てみ よ う。対 象 も内容 も多岐 にわ た る面接 調
生 活 して い るわ け で は な い。 こ の 地 区 の 住
査 12)の結果 は, この論述 に必要 なか ぎ りも り
25,
93
7人 , 4,
420世 帯 (
1
983年 統 計
込 む ことに し,以下 の アル フ ァベ ッ トの イニ
氏-
l
Ke
c
ma
a
t
a
n Ma
ka
s
s
a
r 19841
)
-
は, 他 の
地 区 と同様 , ポ リエスニ ックに構成 されて い
シ ャルは,.
面接調査 を行 な った イ ンフォーマ
ン トを指 す。
る。 しか しなが ら, この地 区の下位単 位 で あ
る九つ の R.
W.(
Ru
ku
nWi
L
a
yah)
l
l) とい う居
住 区の レグェルで みてゆ くと,程度 の開場 で
W.1で は マ カ ッサル
は あ るが, 例 え ば,R.
人 が, R.
W.3と 8で は ドゥ T
)人 が ;R.
W.5
で は ブギ ス人 が, そ して R.
W.2 と R.
W.4
で は トラ ジャ人 が, ま とま って住 んで いる と
い う傾 向が認 め られ る。
調 査資料 につ いて一言 して お く。 この調査
l
l
)この単位 は,近年 まで "Ruk〟n Ka
mpo
呼"
(
R.
K.
)と呼ばれて お り,現在 で も慣習的 に
そう呼ばれることもある■
。名称の改正の理由
は,「カンポン」 とい う語 が 「村落」の意 を
含むことから,「
都市」「開発」というコンテ
クス トにふさわ しくないということで,
「ウイ
ラヤ」 (
領域)とい うニュー トラルな用語が
あてられたと思われる。
426
1
2)面接調査を行なった45
人について以下におお
ざっぱな情報を与えてお く (
括弧内の数字は
3
9)
,女 (
6);年齢別 (
1
9
8
4
人数)
。性別 :男 (
年当時):20代 (
7), ユ
o代 (
8), 4
0代 (
9),
5
0代 (
1
4)
,6
0代 (
5
)
,7
0代 (
2);職業別 :公
務且 (
l
l
)
,無職 (
8
)
,企業従業旦 (
6
)
,年金
3
)
,教会関係者 (
3
)
,学校教師 (
3
)
,
生活者 (
2,うちひとりは棟梁で木工所経営),
大工 (
2
)
,大学生 (
2
)
,靴
華人 レス トラン料理人 (
製造会社経営,靴直 し,溶接工,建設業請負,
軍勤務,各 1 ;ウジュン ・パンダンへの移住
年 (ウジュン ・パンダン生まれのひとりを除
く):1
92
0年代 (
1
)
,3
0年代 (
4), 40年代
(
1
2)
,5
0年代 (
1
0)
,6
0年代 (
9
)
,7
0年代
(
4),8
0年代 (
4);ウジュン ・パンダンでの
4),6
-l
og (
3),l
l
2
0*
##*# :0-5* (
(
6),2ト3
0年 (
l
l
)
,3ト40年 (
1
2)
,4ト5
0年
(
7),5
1
年以上 (
2)
。
山下 :ウジュン ・パ ンダ ンの トラジ ヤ社会
移住 の背景
スハル ト新体 制下 の政 治 秩序 の安定,交通網
ウ ジュ ン ・パ ンダ ンへ の トラジャ人 の移住
の整備 ,お よびその 「開発 」(
pe
mban
gu
na
n)
92
0年代 に遡 る といわれ る
(ム ランク ウ) は 1
の精神 と関係 した社会 の拡大 で あ る。 こう し
【
Abus
t
a
m 1
975:2
】
。 初 期 の 移住者 の 多 くは
た内的 ・外 的な理 由か ら,今 日, タナ ・トラ
植民地行政下 の警察官 や キ リス ト教会 関係者
ジャで は, M が い うよ うに 「移住者 を 出 して
1
91
4年生 ま
で あ った ら しい。 けれ ども, S (
いな い 家族 は な い」。県住民 の 約 3分 の 1に
れ,男性 )が次 の よ うに語 った ことが 印象的
あた る約 1
0万人 の人 口が, ウ ジュ ン ・パ ンダ
で あ る。 その時,彼 は まだ少 年 で あ ったが,
ンを は じめ とす るス ラウェシの各地 , あ るい
「広 い世 界 」 をみ た くて たま らず ,親 には内
は カ リマ ンタ ン, ジャカル タ, さ らにイ リア
緒で, トラジャに来 て いた中国人商人 につ い
ンにいた るイ ン ドネ シアの各地 にム ランタ ウ
て マ カ ッサル (ウ ジュ ン ・パ ンダ ン)へ 出て
に出て い ると推 定 され る。
927年 の ことで あ る。 当時 は, 陸路 で
きた。1
はな く海 路 の旅 で, トラジャの市場 町 ラ ンテ
「新 しい経験」 と職業
パ オよ りパ ロボに降 り, そ こか ら船 で い くつ
面接調査 にお いて人 々にム ランク ウの動機
か の ブギ ス ・マ カ ッサル人 の港 に立 ち寄 りな
を尋ね ると,「仕事 を 捜 し に」 とか 「教育 を
が ら, この町 にた ど りつ いた。 町で は中国人
受 け るた め」 と答 え るのがふつ うで あ る。 け
の家 に住 み込 み,商 店 の手伝 いを して生活 し
れ ども, これ は,原 因 とい うよ りむ しろ結果
た。 の ちに,彼 は独 立 して 自転車屋 を始め る
で あ って,実際 の ところ, ム ランク ウに出 る
が,数年 前 ,年 を とって 引退 す るまで, これ
に際 してそれ ほ ど明確 な 目的が あ るわ けでは
が彼 の この町での職 業 で あ った。少 し時代 を
ない
下 れ ば,特 に有力者 の子弟 が教育 を受 けるた
1
96
2年生 まれ の女性 )が い う
きた とい うR (
め に ウ ジュ ン ・パ ンダ ンへ 出て くる と い う
よ うに,「ただ来 て みただ け。 その か た わ ら
パ ター ンが あ らわ れ る。例 え ば, 日本 時代
に,仕 事 を捜 して い る」 とい う形 はか な り一
(
1
942-1
9
45年 ) には, ス ラウェ シの有力者 の
般 的で あ る と思 われ る。 あ るいは,す で にみ
子弟 を集 めた 「特別 中学校」 が設立 されて お
たよ うにム ランタ ウの潜在 的可 能性 は常 にあ
り, Pや Lはそ こで学 んで い る。
るわ けで,それが顕在化 す るのは ,Jが い うよ
。
1年前 (
調査 当時) に この都市 に出て
しか しなが ら, トラジ ャ人 の ム ランタ ウが
うに, ム ランタ ウか ら帰 って きた友人 や親族
顕著 にな るの は, イ ン ドネ シアの独立後 ,そ
の話を聞 き希望 に胸を膨 らませ る時で あ る。
1
96
0年代後 半) にな ってか ら
れ も特 に近年 (
いわ ゆ る都市 の 「き らめ き説」 で あ る 【
中村
の よ うで あ る。 これ には,基本 的 に二つ の理
1
98
4:1
9
]
。 彼 らの 言 葉 で は 「新 しい 経験 を
由が考 え られ る。第 1は,内的 な もので,ホー
求 めて 」(
c
ar
i
pe
n
gal
amanb
ar
〟)とい う. こ う
ム ラン ドで あ るタナ ・トラジャ県 (
Kabupat
e
n
して, さ しあた って は, まず親 戚や友人 宅 に
Ta
naTor
a
j
a)の 生 態学的 な 理 由で あ る。別
いそ うろ うす る。 そ う して新 しい町を経験 し
の と こ ろで 検 討 した よ う に 【
山下
1
98
2:
なが ら, うま く職 (あ るいは教育 ) にあ りつ
37
4-3
77
】
,彼 らの土地 は, 山地 と い う条件 を
けれ ば とどま る ことにな る し,そ うでな けれ
考 慮す る時,増 え続 け る人 口を 吸収 しきれな
ば村 に戻 る。 このパ ター ンは しば しば何度 か
くな って い るわ けで, この生態 学的 な圧力が
繰 り返 され る。
若 者 層 を中心 に した人 口を県外 に押 し出 して
「新 しい経験 を求 めて」 と い っ て も,彼 ら
965
年 以降 の
い る。 第 2は,外 的 な もので ,1
の経験追求 は きわ めて緩慢 で あ る。 さきほ ど
427
\
東南 アジア研究
2
3
巻 4号
の Rは,筆者 が下宿 して いた 「祖母」 q (
莱
は もちろんない。住民票資料 か らバ ラバ ラヤ
際には彼女の父の母 の イ トコ)の家 にいそ う
地区 (
R.
W.2 お よ び R.
W.4)の トラ ジャ人
ろう していたが,彼女 は この家族の家事手伝
21
1世帯の世帯主 の職業 は, 表 1のよ うに整
いに 1日の大 半を費や し, これでは 「
村 の生
理 され る。ここでは,日雇い (
bwuhh
ar
i
an)が
活 と全 く変 わ らな い」と笑 う。 外 出 といえば,
2
2.
3
%)を 占め,次 いで学校
最 も多 く47人 (
市場 に買 い物 に行 くか, 日曜 日ごとに教会へ
教師や警察官 も含む 公務負 (
pe
gawqil
Z
e
ge
r
i
)
行 く程度で,彼女 をみているか ぎ り,積極的
に町を経験す るとい うイメー ジか らはほ ど遠
4
0人 (
1
9.
0%)
, トウカ ン/職人 (
t
L
L
kan
g)3
4
人 (
1
6.1
%)
,企業従業 月 (
pe
gawai
/
kar
yawon
い。 もっとも, この例 は,彼女が女 の子 だ と
1
2.
3
%)と続 いて いる. トウカ
s
was
t
a)26人 (
いうことも考慮 され るべ きで あろう し,個人
ンに関 しては,ここでは,大工 (
t
t
L
kan
gka
y〟)
差 もあろう。 しか し,一般 に この都市 の トラ
が多 く,靴屋 は 3例 にす ぎない。 この裏 に示
t
ondok
ジャ人 は,彼 らの い う 「他 者 の 国」(
され る就業状況
1 は い くつ か の 点 で 興味深 い
t
an)にあ って,遠慮が ちにい ささか 自閉的に
が, ここでは次 の 2点 を指摘 してお く。第 1
生 きて いるとい う印象を受 ける。 Bはい う。
に, 日雇 い と公務員 とい うある意 味で対比 的
「実 の ところ,われ わ れは他 の民族 に心 を開
な職業が 上位 1,2位を 占め ると い うのは,
いてつ きあ った ことはない」。
ウ ジュン ・パ ンダンとい う町全体 の就業構造
ウ ジュン ・パ ンダンの トラジャ人 の職業 の
を反映 している。 すなわ ち工業部門の吸収力
ステ レオ タイプは,「男 は靴屋 (
t
ukan
gs
e
pat
〟,
が依然弱 く,仕事 にあ りつ くといえば, 日雇
靴直 しとい った方 が 正確 か),女 はお手伝 い
いか公務負か とい う状況が基本的 にあ る。 第
(
pe
mbant
t
L
)
」 とい うものであ る (
c
f
.Abus
t
a
m
2に,残余 の部分 は, トゥカ ン,サ ー ビス業,
【
1
9
7
5;1
9
7
7
1
)
。 けれ ども, これ は トラジャ人
あ るいは小商人 とい ったいわゆ るイ ンフォー
のすべてが靴屋 またはお手伝 いというわ けで
マル ・セ クターを構成 し, この部分が活気 に
衰 1 バラバラヤ地区 トラジャ人の就業状況 (
居住区 R.
W.
2および R.
W.
4の
21
1世帯の世帯主の職業- 居住区長の保管する住民票より抽出)
種
公務貞 (
pe
D
aWain
e
ge
r
i
)
トウカン/故人 (
1
〟
kaT
Z
g)
企業従業点 (
pe
gawaE
/
kar
yawans
wa
s
(
a)
軍役 (
A.
a.
R.t
.
)
年金生活 (
pe
n
s
i
u
n
an)
大学生 (
mah
a
s
i
s
wa)
雑役 ・サービス業 (
S
e
kt
o
rj
a
s
a)
I人数 I
47 仙 S;加 10 10 9 7
職
日雇い (
bu
r
u
hh
a
r
i
an)
注記 (
括弧内は人数)
学校教師 (
7)
,警官(
1
)
を含む
9
)
,靴屋(3),鍛冶屋(
1
)
大工糾,溶接工/修理工(
ホテル ・レス トラン従業且 (
8)
,店長 (2)
,夜警(
1
)
,
運転手(
1
)
小商人 (
)
'
u
aL
a〝
,
pe
n
J
'
u
al
)
民間医療師 (
du
ku
n)
肉団子 (
n
yo
kn
yan
g)売り(
2
)
を含む
無職
主に寡婦の坊合
不評
計
428
山下 :ウジ ュン ・パ ンダ ンの トラジ ャ社会
み ちた町の風景 を作 り出 して い るとい う点で
とを好 まず,サ ロ ン 1枚 の身で も果 敢 に商売
ある。 フォーブスによ ると, ウ ジュ ン ・パ ン
を始 め るとい う。汗水 た らして働 くことは,彼
% 以上 が この 「イ
ダ ン全体で は就業人 口の75
らにはむ しろマイナス ・イメー ジなので あ る。
ンフォー マ ル ・セ ク ター」 に 属 す る と い う
この民族集 団 によ る仕事 に対す る態度 ある
l
For
be
s 1
97
8.
・67
]
.
いは観念 の相違 は大変 興味深 く,将来 の十分
上 記 の第 2の点は,民族集 団 との関連 にお
な研究 に値す るが, さ しあた って次 の 2点 に
ここでは,靴屋や大工 は トラ
留意 して お こう。 第 1は,「靴屋」 と い う ト
いて興味深 い
。
t
u
kムn
gb
e
c
a,輪 タク) は
ジャ人 , ベ チ ャ屋 (
ラ ジャ人 の職業 を ブギ ス人 は蔑みの眼でみて
t
u
kan
gJ
'
a
hi
t
)はバ ン
マ カ ッサル人 ,裁縫 師 (
い ると い う こ とで, それ は 「足」 (
下) にか
t
u
kan
gc
uku
r)はマ ドゥラ
ジャール人 ,床屋 (
かわ る職業 だか らとい う。 ブギス人 な らば,
人 ,ラーメ ン屋 (
pe
n
j
u
almi
e
)と氷売 り(
pe
n
j
〟
al
s
o
n
gko'
,帽子)
「頭」 (
上 ) に関係 した ソンコ (
e
s
)は ジャワ人 とい った 民族集 団 に よ る分業
を売 るで あ ろう, と。第 2は, トラ ジャ人 は
が認 め られ る 【
Ha
mi
d,A.1
98
3:7
0
】
。 こう し
商人 の伝統を ほ とん どもたな い とい う点で あ
た民族集 団 に よ る分業 とい った 状況 の な か
る。例 えば,市 場 (
pas
ar
)の商人 は大 部分 が
で, トラ ジャ人 の 「靴屋」 は実際 には彼 らの
ブギ ス人 か マ カ ッサル人 で あ って, トラジャ
職業 と して それ ほ ど大 きな比率 を 占め るわ け
人 が い ることはほ とん どな い。 ブギ ス人 が,
で はな いが,「トラジャ人 は 靴屋」 と い う ス
開墾地 で さえ,「商人的」にや ってゆ くのに対
テ レオ タイプが形成 され る ことにな る。 職業
Ta
na
ka 1
98
2:92
-93
】
, トラ ジャ人 は こ
し 【
は ここで は 「エスニ ック ・マー カー」 と して
の 「商業 の町」で田を耕すかのよ うな勤勉 さ
の機能を果 た して い るわ けで あ る。
で, い って み れ ば, 「農民的 エ トス」 に支 え
「靴屋」や 「大工」 と い っ た仕事 は,彼 ら
が もともと中国人 か ら学んだ もの ら しい
。
られて生 きて い る。
つ
ま り初期 (
オ ランダ時代)の移住者 の多 くは,
教育 :マイノ リテ ィの生存戦 略 と現実
オ ランダ人 の ところに住 み込 んで下働 きをす
トラジャの若者 が この町 に出て くる もう一
るか,す で に挙 げた Sの例 に窺え るよ うに,
つ の動機 は,学校教育,特 に ホーム ラン ドで
中 国人 の もとで働 いて生計 を立てて いた。後
はみた されな い高等教育を受 けるとい うもの
者 の場合,なか には独立 して Yの よ うに小 さ
で あ る。 仕事 とい う点では,今 日ウ ジュ ン ・
-Dのよ うに大
な靴製造会社を経 営す る者 や,
パ ンダ ンへ 出 るよ りは新 しい工場 プ ロ ジェク
pe
n
gawa)に な り木工 所 を もつ 者
工 の棟梁 (
トが進 め られて いる地域,例 え ば カ リマ ンタ
もい る。今 日で も華人 は,商店や会社 の従業
ンのサマ リンダやバ リクパパ ンな どに行 った
員 と して, トラ ジャ人 を好 んで採用す る傾 向
方 が よいわ けで, この町 に来 る動機 と して教
が あ る。 トラジャ人 は, ブギス人 や マ カ ッサ
育 が 占め る比 重 は高 い。 この教育を受 けると
ル人 と違 って,従 帳で ま じめによ く働 くとい
い う点で 彼 らは, 町の マ ジョ リテ ィで あ る
豚 肉を
う。 トラジャ人 の方 も,華人 は食事 (
ブギ ス人や マ カ ッサル人 よ りも熱心 で あ る。
食 べ る),宗教 (
非 イ ス ラ ム教-
今 日キ リ
因 に, この町 にある国立 ハサ ヌデ ィン大学で
ス ト教徒 の華人 も多 い),勤勉 さにおいて,自
0% が トラ
は, あ る年 に登録 した 学生 の 約 3
分 たちに似 てい る と み て い る (Bの発言)。
ジャ出身で あ った とい う。 これ は住民比率か
逆 に,特 に ブギス人 は,その 「独 立の精神」
らす れ ば大変高 い数字 で あ る。
(
s
e
ma
n
gaEme
r
de
ka)か ら して人 に使 われ るこ
この教育- の熱心 さは,彼 らが しば しば ロ
429
東南 ア ジア研究
23巻 4号
にす るよ うに, その ホーム ラ ン ドが山地 に位
市 の家族 は,若者 が中心 で いわ ば 「ネネ ッ」
daer
ahmi
nus)な ら
置 して い るための不利性 (
(
ne
ne'
,祖 父母 あ るいは祖先 )を 欠 いて い る
びに この町で彼 らが マ イノ リテ ィで あ ること
の に対 して ,1
4
)ホーム ラ ン ドの村 落 の家族 は,
を考 慮 した うえで,「生存 の ための戦 略」と し
逆 に しば しば若者 を欠 き年寄 りと子供 た ちか
て選 び と られて い るよ うに思 われ る。 親 は子
ら構成 されて い る。 この場 合,両者 の関係 は
供 に 「遺産 」 (
war
i
s
an)をわ けるか の よ うに,
密接 で,交通事情 が よ くな った現在,往来 は
で き るだ け の 教育 を 与 え よ う とす る。つ ま
頻 繁であ る。 この二つ の家族 を統合す る機 会
り, N が い うよ う に 「(ホーム ラン ドの)土
は,特 に葬儀 の機 会 で,外 に出て い る若者 た
地 は もって ゆ くことはで きな いが,教育 は ど
ち も,親 や祖父母 の葬儀 に参列す るた めに,
こへ で ももって ゆ け る」。
村 へ戻 るわ けで あ る。 この葬儀 を め ぐる問題
とは いえ, た とえ 「大 学 出」 の肩書 きを得
につ いて は, の ちに再 び と りあげ る。 家族 ・
た と して も,13) 就職 戦線 にお いて マ イノ リテ
親 族 の統 合 の シンボル は, トンコナ ン (
t
ong-
ィで あ る彼 らが不利 な立場 におかれて い る こ
konan)と 呼 ば れ る船型屋根 を もった 特徴 的
とには変 わ りはな い。 さ らに,宗 教 の問題 が
な彼 らの慣習 家屋 で あ る。理論的 には, トン
あ る。 トラ ジャの移住者 の ほぼ 1
0 %がキ リ
コナ ンを建 て るこ とは, 移住地 にお いて も可
ス ト教徒 であ るの に対 し, この町 の マ ジョ リ
能 だ とい うが, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンには現在
テ ィは イス ラム教徒 で あ る。公務員 の採用 に
の ところ トンコナ ンは創 設 され て い な い
お いて も, こう した民族 ・宗教 の問題 は微妙
「祖先 の座 所」 と して の トンコナ ンは,依然
に影響す る とい う。 そ して, か りに採用 され
と して彼 らの ホーム ラン ドに位 置 して い る。
た と して も,「昇 進」の問題 が あ る。 トラ ジャ
都市 の家族 の現象形 態を示す もの と して,
。1
5)
人 の この町 にお ける地位 は一 般 に高 い もので
住民票 資料 か ら得 られ たバ ラバ ラヤ地 区の ト
はな いので, た とえ彼 が有能 な人 物 で あ った
1
世帯 の例 は,表 2に整 理 され る。
ラ ジャ人 21
と して もいわば 「引 き」 の コネがな いので あ
.
8人 で, この数値 は,
世帯成員 の平均値 は 6
る。 こう した状況 のなかで,大 学 の卒業 を前
に したふ た り (H と T) は, いず れ もウ ジュ
ン ・パ ンダ ン以外 の 土地 -
ひ と りは パ ル
(
中部 ス ラウ ェシの州都), ひ と り は クパ ン
(
東 イ ン ドネ シア, テ ィモール島)-
での
就職 を考 えて いた。
都市 の家族 :村 落 の 家族 との 補完 性 と トラ
ジャ入 内婚
都市 の家族 は村 落の家族 とさま ざまな点 で
補完 的な関係 にあ る。単 純化 して いえ ば,都
1
3) ウジュン ・パンダンの地方新聞には,結婚や
葬儀の広告 と並んで,大学の卒業を祝 う記事
が卒業生の家族 ・親族から寄せ られ る。「大
学出」はそれほどに一族の名挙であり稀少価
値ではある。
430
1
4) 移住者が年をとると,老後はホームラン ドで
す こすというパターンが少な くとも近年まで
は認められた。 このパターンは, トラジャ人
たちがこの都市で借家ではな く持家を得るこ
とによって現在 くず れつつ あ るが,それで
も,ホームラン ドの方がす ごしやすいという
考え方が若者の間にさえある。
1
5) この理由の一つとして,面接調査を行な った
インフォーマン トたちが指摘するのは,
「
他者
の国」でのエスニック ・アイデンティティの
強調は他の民族からの反感を買うというもの
である。けれども,市街地のはずれにあるキ
リス ト教墓地や町中の 「カンポン」地区にあ
る トラジャ人学生寮には, トラジャの慣習家
屋のモデルが見出され,慣習家屋と同様な形
をもつ米倉を住居のそばに建てた トラジャ移
住者 もいる。他方, トラジャ人ではな く中国
人が,観光上の目的か ら, トラジャの慣習家
屋の形をとり入れた高級ホテルを近年海岸近
くの一等地に建てたO
山下 :ウジュン・パンダンのトラジャ社会
表
2
バ ラバ ラヤ地区 トラジャ人の家族形態 (
居
W.
2および R.
W.4の2
1
1世帯住区 R.
居住区長の保管する住民票より抽出)
(1) 家族成員数
が ひ と りしか いな くて も, 「い そ う ろ う」 を
含 め ると, 同居人 は 8人 と い う ケース も あ
る。 あ るいは,筆者が下 宿 した家族 の場 合,
世 帯主 Qは夫 に先 立たれた寡婦 で あ ったが,
こ こ に は,「オ イ」 (
イ トコの 子) と 3人 の
「孫」 (
前 述 の R,H,T)の計 5人 が 同居 し,
加 えて近 くに住 む妹 とイ トコがかな り頻 繁 に
泊 ま りに来 て いた。 こう した家族形態 を 「拡
大 家 族」 と捉 え る ことは可能 で あ るが, そ う
(2) 家族の現象形態 (
類型の設定は筆者による)
形
態
l
事 例数l
核家族 プラス α
同上変形型
74
5
74 3
核家族
同上変形型
夫婦のみ
キ ョウダイのみ
「クルアルガ」
(
k
e
l
u
a
r
g
a)
注
記
す ると 「いそ うろ う」 の問題性 が消えて しま
う し, イデオ ロギ ー的 に都市 で は拡大 家 族が
理想 とされ るわ けで もな い
。
他方, ホー ム ラ
α は世帯主/配偶者の
ン ドで は 「核 家族」 が ドミナ ン トだ といえ る
キョウダイ,イ トコ,
い
オィ,メイなどの 「
そうろう」
寡婦 (
寡夫)とその子
供プラス α,および夫
婦プラス α
が,広義 の マ レー社会 にお いて は 「核 家族 」
の 開 港 も大 変 複 雑 な の で (
cf
.坪 内 ・前 田
【
1
9
7
7
1
)
, ここで は深入 りを避 け, 現象上 の指
摘 に とどめてお きた い。
こ こで い う 「核家族 プ ラス α 」 と い うパ
ター ンは,変形型-
寡婦 (
寡夫)とその子供
その子供 た ちプ ラス α, あ るいは子供 の いな
い夫 婦 プ ラス α-
「クルアルガ」はイ トコ
など何 らかの親族関係
にある者
寡婦 (
まれ に寡夫 ) と
を加 え る と,1
3
3例 (
63.
0
% ) にのぼ る。 いそ うろ うの多 くは,教育 を
受 け るため,職 を捜 しに, あ るいは新 しい経
験 を求 めて この町 にや って きた新参者 た ちで
独身
あ る。都市 の家族 は,村 落 の家族 か らこう し
不詳
た いそ うろ うを 受 け入 れ る こ とを 期待 さ れ
サンプル合計
12
1
1
る。 住宅事情 が悪 いなか にあ って-
1軒 の
家 (2階建 ての大 きな家 で は あ るが)を細 か
ホーム ラ ン ドの もの よ り若干 高 い (
因 に,
く仕 き って 1
9世帯 7
2
人住 んで い るケース もあ
ホー ム ラン ドで は 1
9
7
5
年 の統計 で,平 均 5
.
3
る-
人 )。 そ の理 由は次 の 都市 の 家族 の 形態 と関
が,両者 の補完 的 関係 のなかで面接調査 を行
係 して い る と思 われ る。す なわ ち,家族 の形
な った多 くの イ ンフォーマ ン トが い うよ うに
態 と して最 も頻 繁 にあ らわれ るパ ター ンは,
「拒否す ることが難 しい」。逆 に, いそ うろ う
筆者 が 「核 家族 プ ラ ス α 」 と名 づ け る タ イ
をす る側 に も リシプ ローカルな貢献 が期待 さ
プで あ る。 この場 合, α とは 「いそ うろう」
れ,女子 で あれ ば前述 の Rの よ うに家事 を,
(
mov
i
ng
i
ns
)で あ って,夫 婦 のキ ョウダイ,
男子 で あれ ば家主 の仕 事 を手伝 う (
特 に大工
イ トコ, オ ィ, メ イ, 時 に は 「孫」 (キ ョウ
な どの トウカ ンの 場 合) と い う形 が み られ
ダイの孫 も含 む), まれ には 父 も しくは母 な
る。
どで あ る。 こう して,結 婚 したばか りで子供
, これ は大変 な負担 にな ることもあ る
婚 姻 につ いて, トラジャ人 同士 の結 婚 が,
431
東南 アジア研究
23巻 4号
以前 に比べ ると減少 して いるとはいえ,今 日
は身分 の低 い男性 と結婚 して はな らな い とす
において も依然支配的であ る。 住民票資料 で
る婚姻規則 が あ り, トラジャ人 が ブギス ・マ
1
1
世帯 の うち, 1
6
6例 (
7
8
.
7
%)が
いえ ば,2
カ ッサル人 か ら 「低 く」 み られ て い る た め
この ケースであ る。 トラジャ教会バ ワカ ラエ
5
例 の トラ
で ある。因 に,住民票資料 では,4
9
81
年 6月か ら1
9
8
4
年8
ン支部 の資料 では,1
ジャ人/非 トラ ジャ人 の 婚姻 の う ち, トラ
月 の間に この教会で 結婚 した トラジャ人 1
4
5
ジャ人男性 が 非 トラ ジャ人 女性 と結婚 した
組 の うち,6
1
組 (
4
2.
1
%)が明 らか に クナ ・
2
0
%)で あ る。
ケースは 9例 (
トラジャ県 出身者 同士 の結婚 で ある。 この新
しい世代 の結婚 においては トラジャ入 内姫 の
互 助組織 :都市 のなかの村落社会
比率 は減少 して いるが,今 日では ウ ジュ ン ・
1
9
2
0
-1
9
3
0年代,この町の トラジャ人 が まだ
パ ンダ ン生 まれの トラジャ人 の結婚 も多 い こ
少 な か った こ ろ,「ブ ンガ ・ララン」(
Bun
ga'
とか ら,「トラジャ入 内婚」 とい うことでは,
Lal
an:トラジャ語 で 「道 を開 く」とい う意で,
この数字 は もう少 し高 くな るはず であ る。16)
い ってみれ ば 「パ イオニア」) と 呼 ば れ る一
1
9
7
0
年代前 半では, 1
9
71年 か ら1
9
7
5
年 にか け
8
4組 の結婚 の うち,4
31
組 (
8
9
.
0
%)が
ての4
種 の 「県人 会」 あるいは互助組織 が あ った。
トラ ジャ人 同士 の 結婚 で あ る (ウジュ ン ・
Ge
r
e
j
a
この組織 は,現在のバ ワカ ラエ ン教会 (
Ba
wa
ka
r
a
e
ng, こ の町 で もっと も古 い トラ
パ ンダ ン市 内全域 の トラ ジ ャ教会 の 資料 を
ジャ人 の教会)の場所 にあ った家屋 に事務局
Abus
t
am
用 い た アブス タム の 調査 に よ る 【
が あ り,その家 は トラジャ人新参者 に とって
1
9
7
5:7
5
7
6
]
)
.
こう した ス ク (
s
u
k〟,民族集
の情報 セ ンター,宿泊施設 で もあ った。 それ
団)内姫の理 由 と して,次 の 2点 を挙 げるこ
はあたか もウジュ ン ・パ ンダ ンにお ける 「ト
とがで きる。第 1は,宗教的な理 由で あ る。
ンコナ ン」(
一族 の家)の ごと くで あ った とい
す でに示 唆 したよ うに, トラジャ人 はキ リス
9
4
0年代 まで には
う。 もっとも, この組織 は 1
ト教徒 であ るの に対 し,他 の民族柴 田の多 く
Ge
r
e
j
aTor
a
j
a)のなか に発展 ・
トラジャ教会 (
は イス ラム教徒 で あ って,彼 らは結婚 に際 し
解 消 され,教会が県人 会的機能を果 た して い
て宗 教上 の違 いを避 けよ うとす る。 したが っ
た時期 が しば ら く続 く。
て,彼 らが トラジャ人 以外 と結婚す る場合,
トラジャの キ リス ト教徒 には カ ソ リックも
その相手 は, ア ンボ ン人, フロー レス人 , あ
いるが,
大 半はプ ロテス タ ン ト系で,トラジャ
るいはメナ ド人 とい ったキ リス ト教徒で ある
教会 に統合 され る。 この都市 への トラジャ人
ことが多 い。第 2に, とりわ け トラジャ人 の
移住者 の数 が増 え るにつれ,今 日教会 はい く
男性 が ブギス人 や マ カ ッサル人 の女性 と結婚
つ もの支部 にわか れ るが, そ れ ぞ れ の 支部
す ることはまれだ といわれ るが, これは,甫
は, この都市 の トラジャ人 た ちの 日曜 日ごと
ス ラウェシにお いては一般 に身分の高 い女性
の会合 の 場,情報交換, さ ま ざ ま な レ ク リ
エー シ ョン, さ らに相互扶助 とい う点で社会
1
6) 「トラジャ入内婚」は年を追って統計的 には
減少の傾向にあるが,これは,ここに示唆 し
たように,統計技術上の問題- インドネシ
シア政府が民族集団別の統計をとらないこと
から,例えばウジュン ・パンダン生まれの場
合,当事者の出身民族集団がわからないにもよる。
432
的 に重要 な機能を果 た して い る。 さ らに,令
ke
r
u
kL
L
n
an)と呼 ばれ る
甘では, タル クナ ン (
互 助組織 が, ホーム ラン ドの出身地域 (
ある
いは出身村 ) ごとに作 られてい る。 例え ば,
クル クナ ン ・ノノ ンガ ン (
ノノ ンガ ン村人 会)
とい うよ うに。 この互助組織 は, と りわ け都
山下 :ウジュン・パンダンのトラジャ社会
市 にお いて葬 式 を 出す場 合 に重要 な機 能 を果
こ う して ,1
97
0年代 の トラ ジャの ホー ム ラ ン
たす 。 葬 儀 は ホー ム ラ ン ドの トラ ジャの社 会
ドにお いて は この外 部 か ら流 入す る富 によ っ
と文化 を理解す る うえで戦 略的 とい って よい
て,「伝統 的」 な 儀 礼 ・祭 宴 が な くな る ど こ
1
97
9
】
,都 市 部
ろか,む しろ活性 化 し (
文 化 の イ ンポ リュー
にお いて も, トラ ジャ人 同士 のつ きあいの重
シ ョン), トラ ジャ版 「ル ネ ッサ ンス」とい っ
要 な機 会 を提 供 す るわ けで あ る。
て よ い状況 が み られ た 。17)
ほ どの重要 性 を もつ が 【
山下
この互 助 組織 に関 して もう一 つ 興 味深 い こ
この間題 は, 1
97
0年 代 の トラ ジ ャ人 の 「文
とは,就 業 の分野 にお いて見 出 され る。す な
化 的 ア イ デ ンテ ィテ ィ」 に深 くかか わ って い
わ ち,前 述 の靴 屋 や大工 の棟梁 が職 人 た ちを
cr
.Vol
kma
n【
1
98
4
】
)。 つ ま り,人 々は外
る (
組 織 す る場 合 , この クル クナ ン組織 が重要 な
界 に出て い った けれ ど も,彼 らは 「他者 の 国」
機 能 を果 た し,例 え ば Dの木工 所 「ウサ ハ ・
で 自 らの ア イデ ンテ ィテ ィを実感す る こ とは
Us
ahaTe
nagaBor
i
,ボ]
)
トゥナ ガ ・ポ リ」(
で きな い 。この状況 は次 の挿 話 に よ く窺 え る。
職 人 会社一
机 や イ ス な どを 製造)の よ う
「ウ ジュ ン ・パ ンダ ン の 町 で, あ る トラ ジャ
に,特 定 の村 落 (こ こで は ポ リ) の 出身者 の
人 が コー ヒー屋 (
wa
r
u
n
gko
pi
)に座 って いた。
何 人 か の職 人 によ って小 さな 会社 が形 成 され
なか なか コー ヒーが来 な いの で,彼 は い らつ
る こ と に な る。 こ う して, あ る意 味で, ウ
いて店主 に い った。『俺 を 誰 だ と思 って い る
ジュ ン ・ パ ンダ ンに ホー ム ラ ン ドの トラ ジャ
0頭 もの水牛 を殺 し
ん だ。 俺 は親 父 の葬 式 で6
の村 落社 会 の 「ミニ ア チ ュア」 が見 出 され る
たん だ ぞ』。店主 は ブギ ス人 で,そ の トラ ジ ャ
こ とにな るわ けで あ る。
人 を じっと みつ めて い った。『この 馬鹿野 郎
Vol
kma
n 1
98
0:7
9
-8
0】
O トラ ジ ャ
が !』」 【
「儀 礼 問題 」:文 化 の イ ンポ リュー シ ョン
人 の 「儀 礼 問題 」 は ウ ジュ ン ・パ ンダ ンの他
トラ ジャの移住者 の 間 には,彼 らが 「儀 礼
の民 族集 団 もよ く知 る と ころで あ る。 けれ ど
ma
s
al
a
hpe
s
(
a)と呼ぶ 間超 が あ る。 こ
開港 」(
ち,他 の民 族 はそれ を 「愚か な慣 習 」 と しか
れ は,少 な くと も今 日の トラ ジャの ム ラ ンク
みな さな い
ウが直 面す る最 も大 きな, また最 も興 味深 い
ンク ウに出た トラ ジャ人 は再 び ホー ム ラ ン ド
問題 領域 とい って よ いで あ ろ う。 簡単 に いえ
に引 き寄 せ られ る の で あ って,「祖 先 の家」
97
0年 代 に入 って,
ば,こ うい うことで あ る。1
トラ ジャ社 会 は顕著 な空 間的拡 大 を みたが,
この社 会 の セ ンター は, 依然 と して ホー ム ラ
ン ドの 「祖先 の 家 」 (トンコナ ン) に あ り,
移住 地/ 都市 で稼 いだ金 の剰余 は, ホー ム ラ
ン ド/ 村 落 にお いて, と りわ け 「祖 先 の家 」
を改 築 ・新 築 した り, そ こで儀 礼 ・祭 宴 を執
行 す る ことによ って使 われ る。 トラ ジャの儀
礼 , と りわ け死者 に関す る儀 礼 の執行 は,地
位 ・威信 ・面 子 とい った観 念 と密 接 に結 びつ
い て い るの で 【
同上 論文1
, 移住地 で の 「成
金 」 は あたか も故 郷 に錦 を飾 るよ うに, ホー
ム ラ ン ドの儀 礼 に金 を注 ぎ込 む ことにな る。
。1
8)
こ う した状 況 のな か で, ム ラ
17) この 「ルネッサンス」の もう一つの要因は,
イン ドネシア政府の観光政策である。 これに
ついては,拙稿参照 【
山下 1
9
8
5a】
。また,
「
文化のインポ リューション」 という概念は,
フィ リップ ・マ ッキーンが観光開発の もとで
のバ リの文化動態を理解する際に用いた もの
Mc
Ke
a
n 1
9
7
7
)
0
である 【
1
8
) トラジャ人 自身 も,彼 らの儀礼 ・祭宴の 「浪
費的」側面を指 して,「
息かな慣習」を云々
することがある。けれども,彼 らのいう 「息
か さ」は,自らのアイデンティティとの間に
あって屈折 した形をとるという点で,他民族
のいう 「
愚かさ」 とは当然異なる。彼 ら自身
は,この 「愚かな慣習」の当事者になるなか
で,大変生き生きとして くるのがふつ うであ
る【
山下 1
9
8
5b】
。
433
東南 アジア研究
23巻 4号
を 中心 とす る儀礼 ・祭宴 の執行 は, 移住地/
Ⅳ
都市 の家族 とホー ム ラン ド/ 村 落の家族 を,
若者 と祖先 を, また近代 と伝統 を,媒介 しつ
括
青
これ まで検 討 して きた ウジュ ン ・パ ンダ ン
の トラ ジャ社 会 の事 例 を よ り一般 的な角度か
つ統 合す るわ けで ある。
移住地 で死者 が 出た時 は, ホー ム ラン ドに
遺 体 が運 ばれ, そ こで葬儀 が もたれ る こと も
ら・
捉え直す ことによ って,本論 に小結 を与え
て お こ う。
あ る が,多 くの 場合 は,前 述 の 互 助組織 を
第 1は,本論 の課題 で あ った都市 とその後
ベースに した葬式が行 われ, キ リス ト薮 徒 の
背地, あるいは都市 の社 会 と村 落の社 会 の関
墓 地 に埋葬 され る。 この都市 での葬儀 の あ り
係 につ いてで あ る。 ここで検討 した事 例が示
方 は,村落/ ホー ム ラン ドで行 われ るよ うな
す と ころで は,移住 (
ム ランク ウ)とは社 会の
多数 の豚 や水 牛 が供 蟻 され る盛大 な死者祭宴
「近代化」とか 「都市化」とい う形 で捉 え られ
(
cr
.山下 【
1
97
9】
) とは当然異 な るが, ウ ジュ
るとい うよ りは, ホー ム ラン ドの生態 学的 な
ン ・パ ンダ ンとい う都市 空 間のなか で,彼 ら
圧力 を背景 と した一種 の 「エスニ ック ・イ ク
の葬 儀の風景 は明 らか に異質 で ある。調査 期
スパ ンション」 と考 え られ, その結 果 いわ ば
3
0歳 ば
ホー ム ラン ドの 「飛 び地 」 が あ ち こちにで き
か りの マ カ レ (ホー ム ラ ン ドで あ る タ ナ ・
る ことにな る。 これが移住民社会 で あ る。 こ
トラジャ県 の県庁 所在地 ) 出身の青年 の葬 儀
の場合,家族 の形態 にお いてみたよ うに,都
間中,筆者 はそ う した葬儀 の一つ-
-
に出 くわ した.通 夜 には,住居 の前 に多
市 と村 落,移住地 とホー ム ラン ドの関係 は補
数 の イスが並 べ られ,参集 した 弔問客 に軽食
完 的 で あ り,二つ の異 な った社 会 とい うよ り
と飲物がふ るまわれ, ホー ム ラ ン ドにお け る
は 「一つ の社会 の二つ の部分」 で あ る。19) さ
よ うに葬歌 (
ma'
baf
わn
g)を歌 うサー クル ・ダ
らに, クル クナ ンと呼 ばれ る都市 の互 助組織
ンスの輪 が広 が る。 翌 日,牧 師 の祈癖 ,賛美
の あ りよ うは, ウ ジュ ン ・パ ン ダ ンの トラ
歌 の合 唱,遺族代表 の挨 拶 な どが と り行 われ
ジャ社 会 が ホー ム ラ ン ドの ミニアチ ュアで あ
たの ち, 夕方 ,遺族 の女 た ちの激 しい儀礼 的
るか のよ うな様 相を呈 して い る。 ここにお い
umbat
i
ng)を残 して,車 で町 はず れ の キ
沸泣 (
て, 移住地 は中心 で ある ホー ム ラン ドの社 会
リス ト教墓地 まで運 ばれ る。 弔問客 た ち も,
の いわば 「出先」 と考 え られて いるわ けで,
お のおの チ ャー ター した軽 トラ ック, ミニ ・
この先端部分 は, と りわ け ホー ム ラ ン ドでの
バ スな どに分乗 して,墓地 にむか う。 この葬
儀礼 の執行 を通 して 中心 へ と引 き戻 され る。
儀 の場合,車 の数 は 1
0 台を越 えてお り,この
1
97
0年代 の ホー ム ラ ン ドの伝統的儀礼 の 「ル
車 を連 ね ての葬列 は, あたか もホーム ラ ン ド
ネ ッサ ンス」 は, この内か ら外へ, また外か
での水牛 を連 ね ての葬列 の ごと くで あ った。
ら内へ とい う二重 の運動 を抜 きに考 え る こと
実 際, ホー ム ラン ドでの葬儀 の規 模 が水 牛 の
供 犠頭数 で語 られ るよ うに,都市 の葬儀 の盛
大 さは葬列 に参 加 した車 の台数 で語 られ,車
の チ ャー ター代 は, ホー ム ラン ドの葬儀 にお
ける弔意 を あ らわす豚 の贈 与 に等 しい と考 え
られて いる。
434
1
9
)同様な観点は,ブギスの移住民社会 の研究に
おいても指摘されている 【
Li
nc
t
on 1
975:l
l
.
ただ し,あるブギス人インフォーマン トは,
彼らのムランクウのパターンは ミナンカバ ウ
(
あるいは トラジャ)と異 な り,「
行 った ら
戻ってこない」 ことを強調 した。賢いブギス
人は外での成功を目持 して出てゆ くし,戻っ
て くるとした らそれは彼が無能だか らだ,
と。
山下 :ウジュン・パンダンのトラジヤ社会
はで きな い。 こう して,都市 /移住地 の社会
で あ る。 この町 に 住む 人 々 は しば しば 自 ら
と村落/ ホー ム ラ ン ドの社会 は と もに一 つ の
を 「ウ ジュ ン ・パ ン ダ ン人 」 (
or
ang Ujun
g
時代 を共有す る といえ る。 都市 の社 会 が 「近
Pandang)と呼ぶ. けれ ど も, この 人 々 に対
代 的」 とい うな ら, その分 だ け村 落 の社 会 も
応す る よ うな 「ウ ジュ ン ・パ ン ダ ン社 会」,
そ うな ので あ って (
逆 に,村落 の社会 が 「伝
「ウ ジュ ン ・パ ンダ ン文 化」とい った もの は存
統 的」 な ら,その分 だ け都市 の社会 もそ うで
在す るのだ ろ うか。別 の いい方 をす れ ば, ウ
あ る),都市対 村落 の 対立 を, 近 代対伝統,
ジュ ン ・パ ンダ ンとい う都市 は,一 つ の 「モ
あ るいは性 格 の異 な った社会 の タ イプの対立
ラル ・コ ミュニテ ィ」 (
価値 も し くは 「わ れ
と してみ るわけにはゆかな い。
われ意識」 を共 有す る共 同体 ) と して存在す
第 2は, この町の トラジャ人 の性 格 ,特 に
るのだ ろ うか。本論 で検討 した トラ ジャ人 の
そ の 「農民 的 エ トス」 とい う問題 で ある。 ブ
視点 か らいえ ば,答 え は否定的 で あ る。 トラ
ギ ス人 で あ る筆者 の調査 助手 は, この町 の ト
ジャ人 は基本 的 に, この 都市 に と い うよ り
ラ ジャ人 を評 して 「黙す る人 」(
pe
ndt
'
am) と
「拡大 した トラジャ社会」 のなか に ひ っそ り
い う。つ ま り, ブギス人 の 眼か らす る と,彼
と住 んで いるか のよ うで あ る。彼 らに とって
らは黙 々 とよ く働 く。逆 に, トラ ジャ人 の方
ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う町 は,生活 のた め
or
an
g
は,ブギス人 を評 して 「虚言 を は く人 」(
の一 つ の 「背景」 にす ぎな い
omon
gkos
on
g)とい う。彼 らは 口は うまいが,
ウ ジュ ン ・パ ンダ ンの トラジャ社 会 は ホー ム
商 売人 ,遊 び人 で あ って,信 用 で きな い,と。
ラン ドの村落社 会の ミニアチ ュア とい った け
この 「黙す る人」と 「語 る人 」とい う対比 は,
れ ど も,ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う都市 自体,
田舎性 と都市性,農 村的伝統 と商 人 的伝統 の
基本 的 には南 ス ラ ウェシの さま ざまな民 族社
対 比 を示 して い るよ うで興 味深 い。現在 筆者
会 (
文 化 )の ミニアチ ュアの 「寄せ集 め」 で
は田舎性/ 都市性 をわかつ一つ の基準 と して
あ り,極論 す れ ば,この都市 に実在す るの は,
言 語 に対 す る態 度 とい う問蓮 を重要 だ と考 え
「トラジャ社 会」で あ り,「ブギス社 会」で あ
て い るが ,20) この基準 か らす ると トラ ジャ人
り,「マ カ ッサル社 会」 な ので は な いだ ろ う
は明 らか に 「田舎者」 で あ る。 この ことは,
か。つ ま り, あ る地 理的な広 が りのなか に,
彼 らは この町 の新参者 で,都市 の周辺部 の カ
ある人 々が いて, その社 会 と文化 が, あたか
ンポ ン ・セ クターの住民 で あ る こと, さ らに
も統合 された全体 と して あ る と考 え る必要
彼 らの間 に一 般 に商人 が見 出 されな い こと,
は必ず しもな いので あ る 【
船曳
と対 応 して い る。
1
985a】。
。
さ らに,先 に
1
985;山下
第 3は, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい うポ リエ
上 記 の第 3の論 点 は,末 だ示 唆的な 問 いに
ス ニ ックな 移住民社会 の 性 格 に 関 す る こ と
とどま って い るが, さ らに二つ の問題 に関連
して い る。 第 1は,都 市 の社 会人 類学的な ア
20) この点で,小松和彦の 「
物 ぐさ太郎」の民話
についての指摘が興味深い。都へ出た物 ぐさ
太郎は,は じめは村での美徳である 「沈黙」
と 「勤勉」を実践 しようとするが,うまくゆ
か ない。そ こで,「言語」と 「遊び」の精神
9
8
4:
で迫ってゆ くと成功する 【
小松・
立松 1
11
ト1
21
】
。つまり,都市 と村では,言語に対
する態度,勤勉と遊びに対する価値付与は異
なっているわけである。
ポ リア とで も呼ぶべ き ものであ る。つ ま り,
本論 で示 したよ うに, この ウ ジュ ン ・パ ンダ
ンとい う都市 の トラジャ社会 に着 目 してゆ く
と, この都市 が背景 に退 いて,む しろ都市社
会 の全 体 がみえな くな る とい うことを, どの
よ うに考 えれ ばよ いのだ ろ うか。都市 と村 落
の社 会学的な相違 につ いて は, さま ざまに論
435
東南アジア研究 2
3
巻 4号
じられて きて い るが,本 当 に都市 の社 会 と村
で あ る国家 と「実在」の モ ラル ・コ ミュニ テ ィ
落 の社 会 は違 うのか。社 会 関係 を追 ってゆ け
で あ る村 落社 会 の間 に位 置づ ける ことが で き
ば, ア ブナ一 ・コ- エ ンもい うよ うに 「ロン
る-
ドンも一 つ の村 で あ る」【
Cohe
n 1
97
4:Xi
x】
観察 され る必要 が あろ う。
の特 徴 の一 つ と して, さ らに注 意深 く
ときえ いえ るので あ る。人 が,伝統社 会 で あ
れ近代社 会 で あれ,「真 のわれわれ」 とい う範
謝
辞
噂 を常 に設定 して生 きてゆ く社 会的存在 で あ
るか ぎ り (
c
f
.b ac
hl
1
982:6
0, 11
8
】
)
,「都市
性」は社 会学 的 (
少 な くと も ミクロ社 会学 的)
には定義 で きず,何 か別 の次元 で考 え られ る
べ きか もしれな い
。
第 2は, エス ニ ックな境
本論の骨子は,ユネスコ東 アジア文化研究 セン
ター (
1
9
8
4年 1
1
月1
6日)および東京外国語大学ア
ジア ・ア フ リカ言語文化研究所 (
1
9
8
5年 1月 1
8
日)の共同研究会, さらに東南アジア史学会第3
3
回研究大会 (
1
9
8
5年 6月 1
5日,於 :広島大学)に
界 に関す る ことで あ る。 い うまで もな く, こ
おいて口頭で発表 された。関係者各位の貴重 な コ
の境界 は, 固定 して考 え るべ きで はな い
メン トに感謝する。 また,イン ドネシアでの現地
。
ウ
ジュ ン ・パ ンダ ン生 まれの人 々や,他 の民 族
調査 は, イ ン ドネ シア学術局 (
Lo
mbagal
l
mu
と通 婚 した人 々 とその家族 にお いて は, エス
Pe
ng
e
t
a
hua
nI
ndone
s
i
a)の ど厚意 によ り実現 し
た。あわせて,感謝の意を表する。
ニ ックな ひだ は, よ り微 妙 な もの とな ろ う。
さ らに, イ ン ドネ シア とい う国家が成立 して
い る以上 , イ ン ドネ シアの民 族集 団 は, あ る
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献
特定 の 「民 族」 で あ る と同時 に イ ン ドネ シア
人 とい う 「国民」 で もあるわ けで,人 々は常
に二重 の (
場 合 によ っては多重 の) ア イデ ン
テ ィテ ィを もつ ことにな る。 したが って, エ
ス ニ ックな境界 は, どの レグェルを強調す る
か で大 き く変動す る ことに留意す る必要 が あ
ろ う。面接調査 において Aが い うよ うに,「わ
れ われ は この町を われ われの町だ と感 じ始 め
て い る」 とい う水 準 もあるので あ る。
「われ われ の町」-
しか し,「われ われ の」
とは,「だれ の」か と再度 問 い返す 時,問題 は
一 巡 して もとに戻 る。 む しろ, あ る意 味で都
市 の主 語 がな い ことが, エスニ ック ・モザ イ
クあ るいはプル ー ラ リズムによ って特徴 づ け
られ る, この都市 の現 在 の特徴 だ と考 えた方
が よ いか も しれ な い。 こうした都市 社 会 の あ
りよ うは,人 々 ・社 会 ・文化 を統 合 され た全
体 と考 え よ うとす る伝統 的な社 会科学者 の社
会理解 モデル とは異 な った あ りよ うを示 して
い る。 この点 は,本論 の冒頭 に述 べ た 「中規
模社 会」436
「或コ想」 の モ ラル ・コ ミェニテ ィ
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985. 「人類学 における記述対象 の限
定 につ いて- 社会 と文化 の存在様相 に 関す
る考察 とモデル (
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」 『東洋文化研究所紀要』
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4.『他界を ワープす る』
東京 :朝 日出版社.
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