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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL ウジュン・パンダンのトラジャ社会 : インドネシア地方 都市研究(<特集>インドネシアの都市人類学) 山下, 晋司 東南アジア研究 (1986), 23(4): 419-438 1986-03 http://hdl.handle.net/2433/56225 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 東南 アジア研究 2 3巻 4号 1 9 8 6年 3月 ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ンの トラ ジ ャ社 会 : イ ン ドネ シ ア地 方 都 市 研 究 山 下 晋 司* The Toraj a Communi t yi n Uj ung Pandang: A Study on a LocalCi t yi l lh donesi a HI TA* Shi nj iYAMAS Mos ts t udi e son Sout he as tAs i a nci t i e sha ve e mpha s i z e dt hec api t alc i t i e s( or"pr i mat ec i t i e s ") , whi c h ar et he c ome r s t one s of t he i r nat i onbui l di ng,whi l el oc alc i t i e sha venotr e c e i v e ddue at t e nt i on. Oneoft hebas i cas s umpt i onsunde r l yi ngt hepr e s e nts t udyi st hatat he or e t i c almode l c a nbebui l twhi c hwi l lpr ovef r ui t f uli nt hes t udy or "mi ddl e s c al es oc i e t y. ' ' Whi l e we al r e a dy c r o"( c onve nt i ona lant hr opol ogi c al ) ha v ea"mi mode lba s e d on dat af r om r ur ala r e a s ,a nd a "ma c r o" mode lde r i vi ngf r om t hes oc i ol og ic al s t udi e sofme t r opol i t anar e as ,wedonotha vean e 氏c i e ntmode lwi t h whi c h we c a n de alwi t h s oc i e t i e sofi nt e r me di at es c al eand c ompl e xi t y. Suc hamode lort he or yi sorc r uc i ali mpor t a nc e f ort heunde r s t andi ngoft hec ur r e nts oci a lpr oc e s s e sorSout he as tAs i a nc ount r i e s ,s i nc el oc al mi ddl e s c al es oc i e t i e sc ons t i t ut et he f r ont l i ne s . aswel last hec e nt e r sofr e gi onalde ve l opme nt Aspa r tofal ar g e rr e s e ar c hpr o j e c tOnt hel oc al c i t i e si nSout he as tAs i a,t hi spape rf oc us e sont he c i t yorUj ungPanda ngi nSout hSul awe s i ,I ndone s i a, whe r eIdi daf our mont hf ie l dwor ki n1 983 1 98 4. Thec i t y, n ownasMakas k s a rbe f or e1 971 , de ve l op edasan i nt e r nat i onalpor tt own f rom y,and i snow t her e g1 0nal t hes i xt e e nt hc e nt ur admi ni s t r at i v e ,e c onomi ca ndc ul t ur alc e nt e rwi t h *広 島大学総 合科学 部 ; Fa c ul t y ofI nt e gr at e d ,Hi r os hi ma Uni ver s i t y, Ar t s and Sci e nc es 1 -1 8 9 Hi gas hi s endamac hi ,Nakaku,Hi r os bi ma73 0,J apan 0, ㈱ . Et hni c apopul at i onofappr oxi mat e l y7 mul t i pl i c i t yi sa f unda me nt alc ha r a c t e r i s t i c of t hec i t y. Wi t hi nt hes e t t i ngoft hi s"e t hni cmoI s ai c , "t hepr e s e ntpap erf oc us e spar t i c ul ar l yont he Tor a J aml g r a r l t SWhos ehome l a ndi sl ua t e d3 ki l ome t e r snor t hoft hec i t y,ande xa mi ne st he i r n g"s e c t orof c ommuni t i e si nt hef r i nge"kampo r a nt au t hec i t y. Thoug ht hehi s t or yoft he i rme ( "mi gr at i on")t ot hec i t ygoe sba c kt ot he1 92 0S , i thasbe e na ∝e l e r at e ds i nc e1 965 ,i nt e mal l yby ures i nt he i r home l and, a nd e c ol ogi c al pr e s s e xt e mal l y by t he pol i t i c als t abi l i t y and t he i mpr ove me ntofl a ndc ommuni c at i onunde rt he Suhar t or e g l me. The i rml g r at i on c a n bec ons i de r e dasas or tof"e t hni ce xpans i on"t aki ng pl a c e wi t hi n t he f r ame wor k of I ndone s i a' s mode mi z at i on. The Tor a J a ml g r ant S 'e xpe r i e nc e soft hec i t yde s c ibe r dandanal ys e di nt he pape ri l l us t r at es omeas pe ct soft hes ui oc ul t ur al dyna mi c soft hepr e s e ntI ndone s i a nl oc alc i t i e s . Fr om t heTor a j ami g r ant s 'poi ntorvi e w,t he c i t yi snotawe l l nt i e gr at e d" mor alc ommuni t y. " De s pl t et hephys i c ale xi s t e nc eoft hec i t yorUj ung Panda ng,t hP r es e e mst obenoUj ungPanda ng s oc i e t yorUj m gPanda u ngc ul t ur easawhol e: whatt he r ei si sa n as s e mbl a geofm i ni at ur ee t hni c s oc i e t i e sofSout hSu] awe s l ,S uc hast he"Tor a J a c ommuni t y"a ndt he"Bugi sc ommuni t y. " Thi s f e at ur eoft he"et hni cmos ai c"or"pl ur al i s m"i s appa r e nt l yi nc ons i s t e ntwi t ht he s oc i oc ul t ur al "f t mc t i ona l i s t ")s oci al mode lofc onve nt i onal( "bei ngl oc at e d s c i e nt i s t s . "Mi ddl e s c al es oci e t y, 0 0 419 東南 アジア研究 be t we e nt he na t i on a sa ni de ol o ic g a lmor a l c or r mu ni t ya nd r ur a ls oc i e t ya sa s ubs t a nt i a l mor a lc ommuni t y,pr e s e nt sadi fe r e nts o c i a lt y pe 2 3 巻 4号 f r om e i t he r . Ipos i ti tde s e ve r ss 阿 i a la t t e nt i on i nourque s tf orab e t t e runde r s t a ndi ngofur ba n S oc i e t i c si nSout he a s tAs i a. 異 な った社会 モデルを構築す ることを期待 で Ⅰ 問題 の所在 と限 定 きる興味深 い研究領域 と して ある。 その意味 本論で は, イ ン ドネシアの地方都市,甫 ス で, この種の社会を研究す ることは,今 日の ラウェシ州 の ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市 が と りあ 社会科学の モデル構成 に とって きわめて野心 打 られ,社会人 類学的な観点か ら, この都市 的な課題 で あると予測 され るので ある。 の社会的動態 に関す る一側面が検討 され る。 983年か ら8 4年 に こう した関心 の もとに, 1 最初 に, イ ン ドネシアあるいは広 く東南 ア ジ か けて,釆南 ア ジアの地方都市社会 に関す る アの 「地方都市」 を と りあげる理 由を,二つ 研究 プ ロジェク トが 組 ま れ, ス リラ ン カ, ほ ど示 してお こう。 フィ リピン,およびここで報告す るイ ン ドネ 第 1に,従来 の東南 ア ジア地域 の都市研究 に お い て は,国家 の 中心, 国家建設 の 礎 で "pr i mat o あ る首都, あ る い は 「首位都市 」 ( シアにお いて現地調査 が行 われたわ けで あ っ た 。1) この調査 との朗連 において, イ ン ドネシア ci t y")の研究 に焦点 が お か れ て き た傾 向 が の地方都市 を と りあげる際の問題点 に若干触 あ った。これ に対 して,地方 の都市 も しくは地 れてお こう。 イ ン ドネ シアの場合,地方都市 方 の中心 に関 して は, しか るべ き注意が払わ に関す る研究 が少 ない とい って も,ギ ア ツに れて きた とはいえず,われわれ は この地域 の よ る ジャワ 【 Ge cr t z,C. 1 965 ]や, ブル ナ一 地方都市 に関す るデー タを基本的 に欠 いてい によ るスマ トラおよび ジャワ Pr une r 1 973; る。 に もかかわ らず,地方都市 は,今 日の東 1 97 4】の地方都市 につ いての 優 れ た研流 があ 南 ア ジアの社会的 ・文化 的動態を理解す る う る。 しか し, イ ン ドネシアの 「多様性 」 を考 えで, きわめて重要 な もの にな りつつ あ る。 え る時, ジャワや スマ トラの事例を もって イ とい うの も,現在,国の 「開発 」 が強調 され ン ドネシアの地方都市 を代表 させ るわ けには るなか で,地方都市 は,地域開発 の前線 で あ ゆかない。 こう した ことか ら,上記の プ ロ ジ り,拠点 で もあるわ けだか らで ある。 ェク トにおいては, ジ ャワ, スマ トラ以外 の 第 2に,地方都市 に焦点を あわせ ることに 二 つの都市,南 カ リマ ンタ ンのバ ンジャール よ って,「中規模社会」 と で も呼ぶべ き社会 マ シンと本論 で考察 の対象 とす る甫 ス ラウェ の モデルを構築す る ことがで きな いか とい う シの ウジュ ン ・パ ンダ ンが選択 され た。次 に, 理論的な可能性 に関 してである。す なわ ち, 地方都市社会 は,政 治学や経済学が研究の対 象 と して きたマ クロな国家 レグェルの社会で もな く,人 類学が伝統的 に好んで とりあげて きた ミクロな村 落 レグェルの社会で もな い 。 この マ クロ社会学 も ミクロ社会学 も扱 って こ なか った タイプの社会, ここでい う 「中規模 社 会」 に関す る研究 は, したが って,理論的 にはマ クロモデル あるいは ミクロモデル とは 420 1 )1 9 8 3および8 4 年度の文部省科学研究費補助金 による調査 ( 「東南アジア地方都市社会研究 ( 代表青木保大阪大学教授) 」 ) 。インドネシア に関 しては,筆者と岐阜大学の内堀基光のふ 1 9 8 3年1 2 月-1 9 8 4年 1月) たりが予備調査 ( を行なったのち,筆者は1 9 8 4年の 7月から1 0 月にかけて甫スラウェシのウジュン ・パンダ ンにおいて,内堀は1 9 8 4年の 8月から1 9 8 5 年 )マンタンのバンジャー の 1月にかけて南カl ルマシンにおいて本調査を実施 した。 山下 :ウジュン・パンダンの トラジヤ社会 地 方 , あ るい は地 方 都 市 とい って もさ ま ざ ま 族 集 団 トラ ジ ャ社 会 の研 究- な レグ ェル が あ るが , イ ン ドネ シアの 場 合 , だ とい う こ とが あ る。3 )本 論 で述 べ るよ うに, pr o pi ns i )と い う単 位 とそ の 中心 で あ る 「州 」( 1 9 6 0年 代 後 半 以 降 , トラ ジ ャの ホー ム ラ ン ド i bakot apr opi ns i )が 重 要 で あ るよ う 「州 都 」 ( mer ant a〟, 出稼 で は いわ ゆ る r ム ラ ンク ウ」 ( に思 え る。 とい うの は, 現 在 27にわ か れ る こ ぎ)現 象4 )が 顕 著 に み られ , 筆者 は この トラ の 州 を単 位 と して , イ ン ドネ シア政 府 は この ジ ャの 人 々を 追 うよ うに, この都 市 に引き寄 国 の 多様 な る地 方 文 化 を整 序 しよ う と して い せ られ たの で あ る 【 山下 るか らで あ る 。2) 調 査 が 行 わ れ た 上 記 の 二 つ て ,本 論 で は, と りわ け ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ン の 都 市 は, いず れ も南 カ リマ ンタ ン州 あ るい の トラ ジ ャ人 社 会 を検 討 す る とい う限定 の な は商 ス ラ ウ ェ シ州 の州 都 で あ る 。 か で , イ ン ドネ シアの 地 方 都 市 の社 会 的 ・文 の延 長 と して 1 98 5a】 。 した が っ この調 査 は, ま た,各 調 査 都 市 の( 1 ) 後 背地 化 的動 態 の一 端 を 明 らか に して み よ う 。5) し 2) 市場,( 3) 大 衆 文 化 の 3点 を め と の 関係 , ( か し, そ の前 に, この 課 題 に と って の 舞 台 で ぐって行 われ たわ けで あ るが , こ こで検 討 す あ る ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ンとい う都 市 につ い て るの は, 特 に第 1の点 に 関す る こ とで あ る。 言 及 して お か な けれ ば な らな い。 この都 市 とそ の後 背 地 との 関係 とい う間蓮 を 検 討 す る に あ た って , 筆 者 が ウ ジュ ン ・パ ン ダ ンとい う都 市 を 選 ん だ の は,前 述 の 理 由 に 加 え て ,1 9 7 6年 以 来 の 筆者 の調 査 研 究 - ス ラ ウ ェ シ島 内 陸 山 地 部 の プ ロ ト ・マ レ一系 民 Ⅱ 舞 台 :ウジ ュ ン ・パ ンダ ン市 歴 史 的 背景 この 町 は, 1 971 年 ま で は マ カ ッサ ル とい う 6世 紀 に はす で 名 で知 られ , マ カ ッサ ル は ,1 2 )例えば,1 9 7 0 年代のは じめに作 られた 「 美し Taman きイン ドネシアの ミニアチュア公 園 」( Mt ' ni血( わne s i al hdbh)とい う名を もつ ジャカ ル タの野外博物館は,イン ドネシアの文化の 多様なる全体を南 カ リマ ンタンとか北スマ ト ラといった各州 ごとに展示 しよ うと試みてい る。 この場合,各州の文化は,その州 を特徴 づける民族の慣習家屋の形を した博物館その ものに象徴 されつつ,館内の展示品のなかに 9 7 0 年代末に発足 し 示 されている。 さらに,1 た 「文化庁歴史伝承局」( Di r e kt or atJ e nde r a l Ke buda y a a n,Di r e kt or atSe j ar a h da n Ni l a i )は, 現 在 特 定 の州 ( 例 え ば, Tr a di s i onal ジョクジャカルタ特別区や南ス ラウェシ州) において 「地域文化の調査および記録 プロジ ェク ト」 ( Pr oy e kl nv e nt a r i s a s ida nDokum¢ nt a s iX. e buda y a a nDa e r a h)を推進 し,州 ke buda yaandae r ah)杏 単位 の 「地域文化」 ( 本の形で記録 しようと試みている。 この 「記 録」は,それ自体は 「学術的」な性質の もの であるが,それが政治と結 び つ く時,「国民 文化」を作 り出す ワンステ ップと しての 「地 域 ( 州)文化」を創出する作業 として位置づ け られるように思われる。 に今 日の イ ン ドネ シアの 東 部 と西 部 , あ るい 3) 1 9 7 6 年か ら7 8 年にかけての調査は,文部省ア 1 9 7 5 年度)制度による ジア諸国派遣留学生 ( 6カ月間 筆者のイン ドネシア大学滞・ 在 中に,1 にわ た り トラジャの ホームラン ドで あ る タ ナ ・トラジャ県 において行われた。 4) ムランクウを「出稼 ぎ」と訳すのは,明 らかに その意を狭めす ぎている。「外界」(ランクウ) へ出るとい うのか原義である。 トラジャ語で eL h ot ondok ムランクウにあたる語は,"mal t a〟" ( 他者の国へ行 く),HmL Z l e仰 mbe l aM( 逮 くへ行 く),あるいは "ma' s omba( ma' s ompa) " ( 航行する)などである。 5) ウジュン ・パ ンダンの トラ ジャ人 につ い て 9 7 5 1 9 7 6年にかけて ノーイ-パームと は,1 マ トゥラダらが初次的な調査を行なっている 【 Nooy ・ Pa l m,Ma t t ul a da etal . 1 978 ] o ま た,イン ドネシア政府文化庁 プロジェク トの 一環 と して,パ ナンランギ ・ハ ミッドらか こ の町の トラジャ人の家族関係に関す る調査を Ha mi d,P.eta l . 1984】 .パ 行 な って い る 【 9 8 4年度の ナンランギ ・ハ ミッ ドは,筆者の1 調査の助手を勤めた。 421 東南 アジア研究 23巻 4号 は広 くイ ン ドネ シア と西欧 をつ な ぐ, いわゆ ンバ ・オ ブ陥落 に先 立つ 1 667年 に, いわゆ る る香料 貿易の国際的 な交 易都市 と して有 名 で 「ブ ンガヤ協 定」 の もと, オ ランダの領有 す あ った。す なわ ち, この町 は, 当時の マ カ ッ る ところとな って いた)。 こ の 新 しい 「オ ラ Goa)王 国 と タ サル人 の二 つ の王 国, ゴア ( ( X氾人 を き り ( 1 688 ンダ人 の 町」 の人 口は 2, ロ ( Tal l o)王 国の貿易 港 と して 発展 したわ け 年 ), .かつ て 繁栄 した 都市 も小 さな 市 場 町 に Mat t ul ada 1 98 2:9 -11 1 。 イ ン ドネ であ る 【 転 落 して い る 【 Re i d 1 981 a:1 45;1 981 b] 。 シア/ 東南 ア ジアには,都市 の発展 類型 と し こう した歴史 的 な盛衰 の なかで, この都市 2) 港市 , ( 3) 植 民都市 の て,一般 的 に( 1 ) 王都 , ( がかつての繁 栄を と り戻す の は 1 9世紀 以後 だ 3類型 が認 め られ るが, この町の生 成 は第 2 9 06年 に, この 町 は といわれ る。 と りわ け,1 の類型 に属 し, ジ ャワ海 を囲む いわ ゆ る 「パ 本 格化 す るオ ランダ植民地体 制下 にあ って, pas i s i r)文 化シ シール 」( ジ ャワ北岸 , ス ス ラウェ シな らびに東部 イ ン ドネ シアの植 民 ラウ ェシ南岸 , カ リマ ンタ ン南岸 , スマ トラ 地 行政 の拠 点 と して,「植 民都市 」 と して 新 甫 東岸- たな展 開を とげる ことにな る。6) この時点 で, に属す る港 湾都市 の一つ と して発 展 した と考 え られ る。 この港湾商業都市 と し 6, ( X沿人 。 その うち, ヨー この町の人 口は ,2 て の伝統 は今 日にいた るまで受 け継 がれて お ロ ッパ人 が 1 , ( X 氾人 , 中国人 が 4, 6 ( 氾人 ,「東 り,人 々は この町 を まず もって 「プ ラブハ ン」 洋 系」 (ア ラブ人 , イ ン ド人 な ど)が2 0人 と ( pe l abわ ha n,港 ) あ る い は 「コタ ・ダガ ン」 いわれ,人 口の 4分 の 1弱 が,外 国人 によ っ ( kot ada gan g,商 業 の町) と形 容す る. て 占め られて いる ( なかで も中国人 が大 きな ア ンソニ ー ・レイ ドによ る と, 1 6 40年代 の 01 91 6年 に は, 位 置を 占め て い る点 に注意 ) ゴア/ タロ王 国の最盛 時 には, この都市 - 外 国人 の数 は,町の人 口の半数 を 占めた とい -7キ ロメー トル南 の ゴア王 国 現在 の 町 よ り 6 Enc yc l o pe dl av anNe der l ands c h・ Z ndi C われ る 【 SombaOpu)にそ の 「首都 」 ソ ンバ ・オ ブ ( 〟 1 91 8:6 45 】 。 イ ン ドネ シアの独 立後 ,この 0万 の人 口は ,1 都 市 は南 ス ラウェ シの地方行 政 の中心 とい う の 中心 が あ った とされ る- 人 を越 え た と推 定 され る。当時,この都市 は, ばか りで な く,東部 イ ン ドネ シアの最大 の都 be nt e ng, ペ ンテ ン) に 砦 も し くは 「城壁 」 ( 市 と して発展 して ゆ く こ と に な る。 因 に, 囲 ま れ,王 宮 と貴族 た ち の 居住地 ,王 の 倉 この都市 の今世 紀 の人 口推 移 を みて お くと, 1 6 05年 に タ ロ王 国が ス ラウェ シ 庫 , モス ク ( 1 93 0年 には ,8 4, 9 0人 【 加納 で は じめて,公 式 に イス ラム教 を受 容 して い 立 当時,約 1 ( 刀, ( X 氾人 【 For hB S 1 98 0:2 ) , る),二 つ の市 場 ,ポル トガル人 ,グ ジ ャラー 1 961 年 ,3 8 4, 2 0人 【 加納 ト人 , デ ンマー ク人 , オ ランダ人 , イギ リス 43 4, 766^ l Re ks oha di pr od j o 1 98 4: 1 5 ] , 人 , マ レー人 , ワ ジ ョ (ブギス)人 な どの居 1 981 年 , 71 2, 21 9人 【 i bt ' d. ] ,で あ る. したが っ 住 区な どを もち,国際交 易港 と して の輝 か し て ,今 日,この都市 は人 口7 0万 以上 をかか え, い繁栄ぶ りが窺 え る。 けれ ど も, この町 は, 66 9年 オ ラ ンダ との抗争 のなか,最 終 的 には 1 1 98 2:40】 ,独 1 98 2] ,1 971年 , 6) よ く知 られているように,オランダ植民地行 今 日で もみ る ことがで きる) は,「フオー ト ・ 政が 「 外領」にまで貫徹 してゆ くのは,1 9 世 0世紀 に 紀の後半,スラウェシにおいては 2 入 ってか らで あ る.す なわち," Ge me e nt e Ma ka s s a r "( マ カ ッサル市) は,1 90 6年 4 月 1日付で発足 し,当時 のセレベス州 の州 hoof dpl a a t s )となった 【 Kot aMa ka s s a r 都 ( ロ ッテル ダム」 と改名 され る (この砦 は, ソ 】 。 1 9 5 6:2 0 に破壊 され,かつて外 敵 に対 して作 られて い た砦 の一 つ ( ペ ンテ ン ・ウジュ ン - ヾンダ ン - 現在 の町の中心 部 に位 置 し, その一 部 は 422 山下 :ウジュン・パンダンの トラジャ社会 人 口規 模 で は, ジ ャカル タ, ス ラ バ ヤ, バ ン ドン, メ ダ ン, ス マ ラ ン, パ レンバ ンに次 いで, イ ン ド ネ シア全 国で 第 7位 で あ る。 この 点 で,この 町 は 「地 方都市 」とい っ て も,「大 都 市 」 (メ トロポ ール) と して の性 格 を あ る程度 そ なえ て い る 。7) 今 日の ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市 1 9 71 年 に都 市 名 が マ カ ッサルか らウ ジュ ン ・パ ンダ ンに変 更 され た時,都 市 の 区域 も拡大 されて い 9 71 年 まで は2 1 平 る。 す なわ ち,1 方 キ ロメ ー トル ( お よそ東 西 2キ 0キ ロ) で あ っ た 市 街 地 ロ南 北 1 1 1 4. 23 平方 は, 現在 そ の約 5倍 ( キ ロメ ー トル ) に拡 げ られ て い る (したが って ,1 971年 以降 の この 都 市 の人 口増 加 の一 つ の要 因 と し て, この市 街 地 の拡大 とい う点 も 考 慮 す べ きで あ ろ う)。 こ れ が 現 kot a 在 の 「コ タ ・マ デ ィ ア」 ( madyo, 都市 自治 体 ) ウ ジュ ン ・ パ ンダ ン で あ る。 こ う し て,現 在 の ウ ジュ ン ・パ ン ダ ン市 は, 1 9 71年 に加 え ら れ た 東 部 の 三 つ 図 1 ウジュン ・パ ンダン市* :区 ( ke c amat an)境 -----:地区 ( kel ur ahan)境 〝〝〟〝 :主要調査地区 kel ur ahan)にはまとまっ *名を入れた地区 ( た トラジャ人 コミュニティが見出される。 ( Bi r i ng ka naya,Pa na kkuka ng, お よ び Ta mal の流 入 民 の居住 区の各 セ クターか ら観 察 す る l at e )の 「区」 ( kecamat an) を含 め,行 政 的 に こ とが で き る と し, これ らの セ クターの検 討 11の 「区」 にわか れ る ( 図 1)0 を通 して 東部 ジ ャワの あ る町の社 会史 を考 察 と ころで, イ ン ドネ シアの都市 を三 つ の基 Ge e r t z ,C. 1 9 65 】 。 したの は, ギ ア ツで あ る 【 2)商 業 区, ( 3) 本 的 な セ ク ター,( 1 )行 政 区, ( この視 点 は ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う町 を み 「カ ンポ ン」( kampong)と呼 ばれ る村 落 部 か ら る場 合 も, さ しあた って は有 効 で あ る。 7) ヒル ドレッド・ ギアツは, 1 9 6 0年代は じめのイ ン ドネシアの都市を,「 大都市」( me t r opol ら s ) と「地方都市」( p r ov i nc i a lt o wns )の二つのタ Ge e r t z ,H.1 963:3 4】 。こ イプにわけている 【 の分類のなかでは, ウジュン ・パ ンダン ( 当 時はマカッサル)は,「大都市」のカテゴリー に入れ られている。 図 2を参 照 しな が ら み て ゆ こ う。 ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市 の行 政 セ クターは,ペ ンテ ン, つ ま りか つ て の フ ォー ト ・ロ ッ テ ル ダ ム8) 8)「ペンテン」 ( 砦)はこの町の重要なシンボル として,「 船」 - 港町 ウジュン ・パ ンダンを 象徴- とともに,市の紋章のモティーフを 423 東南 ア ジア研究 23巻 4号 Kar c bos i ) ,州役場 ,市役 所 を は じめ とす る政 府 関係 の役 所 が並 び, そ の南側 は こ. の 町の一 等 地 で,高級住宅 地 にな って い る。かつ ての オ ランダ人 居住 区で あ る。 建 物 も清 酒 な コロ ニ アル ・ス タイルで, この地 区は,かつ ての 植民地 時代 の記憶 を と どめ る空 間 と して, あ るいは現在 の イ ン ドネ シア人 エ リー トた ちの 居 住 区 と して あ る。 その北側 ,港 を中心 と した部分 は, 最 も繁華 な商 業地 区を構成 して い る。 中央市 場 ( Pa s a r Se nt r al ) ,銀行 , シー フー ド ・レス トラ ン, それ に各 種 の 商 店 ( t oko)が並 ぶO この 部分 Kampon g Ci na)と別 は,「カ ンポ ン ・チ ナ」 ( 称 され, 華人 が多 く住 ん で い る。 他 の イ ン ド ネ シアの都市 と同様 , この町 の商業 ・経済部 図 2 ウジュン ・パンダン市の社会地図 Ⅰ :行政セクター ( 官庁街 ・エ リー ト居住区) Ⅱ :商業セクター ( 華人地区) Ⅲ a :旧カンポン ・セクター b :新 カンポン ・セクター C:新 々カンポン ・セクター A :港 B :ペンテン ( フオー ト・ロッテルダム) C :州 役 場 D :市役所 E :カレポシ広場 、 F :中央市境 G :主要調査地区 ( バラバ ラヤ地区) 1 :J al anNus a nt ar a 2 :Jal anPe ng bi bur Ra j awal i 3 :J al amJ 〇 mde r alSu di r ma nDr .Rat ul angi ' 4 :Jal anVe t e r an ( 旧市街地境界) 5 :J al anG.丑awakar a e ngGowaJ a ya 6 :J al anS cr a m 7 :Ma r osへ 8 :Sung guMi nas a( Kabu pa t e nGowa)へ ( J al anは 「 通 り」の意) 門 は華人 が握 って い る。いわ ゆ る 「近代 都市」 の経済 を特徴づ ける工 業 部門 は, この 町で は 依然 未成熟 で,就業 構造 において この部門 は 1 0% を きる といわれ る ( c f .For be s【 1 979:3] ) . 単 純化 して いえ ば, この二つ の セ クターを と り巻 くよ うに市 の東側 に,庶民 の居住 区, つ ま り 「カ ンポ ン」 が広 が って い る。 この 町 は港 を 中心 に東 に発展 して お り 【 Mc Taggar t 1 976:76p et a3 ] , これ と と も に この カ ンポ ン部分 が村 落部 か ら流入 して くる人 々を 吸収 し,新 たな カ ンポ ンを形 成 しつつ, ます ます 大 き くな るわ けで あ る。本 論 で考 察 の対 象 と す る トラ ジャ人 の移住民 社会 が見 出 され るの ち, この 部分 においてで ある。 エスニ ック ・モザ イ ク ウ ジュ ン ・パ ンダ ンは,元来 は マ カ ッサル 人 の居住地 域 に位 置 して いたが,す で にみた 6世紀 以来 の よ うに,歴 史 的 な盛衰 は あれ ,1 の周 辺 に見 出 され る。 この地 区には,市 の儀 イ ンター エスニ ックな国際交 易都市 と して発 礼 ・集 会が 行 わ れ る大 き な 広場 ( Lapangan 展 して きたわ けで,現在 もこの町 は さま ざま 構成 している。ペンテンの内部は現在 「南ス ラウェシ文化センター」 として博物館として 使われている。 424 な民 族集 団か ら構成 され て い る。 もっと も, イ ン ドネ シアにおいて は現在民族集 団 ごとの 人 口統計 が と られて いないので, この町の民 山下 :ウジュン・パンダンのトラジャ社会 族構 成 につ いて正 確 な こ とはわか らな い。 け 「国際性 」 は む し ろ 弱 ま り, イ ン ドネ シアの れ ど も, 出身地 によ って あ る程度 の数 はつ か 国 と して の成熟 の なかで この町 は地 方 ( 州) む こ とがで き,ハサ ヌデ ィ ン大 学 (ウ ジュ ン ・ の 中心 と して の性 格 を強 く示 して い る。 つ い パ ンダ ン市 ) の社 会 学者 - ツサ ン ・ワ リノ ノ で にいえ ば, 南 ス ラ ウェ シ州 以外 の住民 と し 9 7 0年代前 半 に行 な った調 査か らその数 らが 1 て は, メ ナ ド人 な どの ス ラウ ェ シの他 の州 の 字 を挙 げて み る と,次 の よ うで あ る。 ウ ジュ 出身者 , ア ンボ ン人 , フ ロー レス人 とい った ン ・パ ンダ ン生 まれ ( 4 2. 6%), ブギ ス ( 25. 7 モル ッカ諸 島や東 イ ン ドネ シアか らの住 民 , % ), マ カ ッサル ( 1 2. 5%) , トラ ジ ャ ( 4. 4 ま た バ リ人 , ジ ャワ人 , ミナ ン カ バ ウ人 , % ), ドゥ リ ( 2. 7 %) , マ ン ダル ( 1 . 6 %) , バ タ ック人 とい った ジ ャワや ス マ トラか らの 8 . 8 %) ,外 国人/ 華人 南 ス ラウ ェ シ州 以外 ( 移住者 も見 出 され る。 ( 1 . 9%)【 Wal i nonoetal .1 9 7 4:I I7 -8 】 。こ の数字 は厳 密 な もの だ と は い え な い だ ろ う Ⅲ が, それ で もこの 町 の エスニ ック ・モザ イ ク ウジ ュ ン ・パ ンダ ンの トラジ ャ社 会 に関す るい くつ か の 問題 点 を 映 し出 して い 主 要調 査対 象 :バ ラバ ラヤ地 区の トラ ジャ社 る。 会 第 1に, ウ ジュ ン ・パ ンダ ン以外 で生 まれ 筆 者 が住 込 み調 査 によ って ある程 度 イ ンテ た人 が過 半数 を越 え る こ とは, この町 が 「移 ンシヴな研 究 を 行 う こ とが で き た の は, マ mi g r ants oc i e t y,c f .Mc Gecl 1 9 6 7: 住 民 社 会 」( Ke c ama t an Makas s a r ) , なか で カ ッサ ル 区 ( 8 4 】 )で あ る ことを示 して い る。 第 2に, ブギ Ke l ur a ha n も バ ラバ ラ ヤ と呼 ば れ る 地 区 ( ス, マ カ ッサ ル, トラ ジ ャ, ドウ リ, マ ンダ Ba r aba r aya)で あ る. この地 区は ち ょう ど 旧 ル は南 ス ラ ウ ェ シを構 成 す る基本 的 な民 族集 市 街 と新市 街 を わ か つ 「フェ テ ラ ン通 り」 団で あ るが,今 日マ カ ッサル人 よ りもブギ ス ( J al a nVe t e r a n)のす ぐ東側 に位 置 し ( 図 2), 人 が マ ジ ョ リテ ィの 位 置 を 占 め つ つ あ る 。9) 1 9 6 0年 以降 薮や 沼地 で あ った部分 を宅地化 し 第 3に, この 町 は, イ ンター エス ニ ックな性 て で きた新 しい カ ンポ ン ・セ クターで あ る。 格 を 示 す と い って も,前 述 の ワ リノ ノ らの 住 宅事情 は概 して悪 く, 町の なか で も貧 しい 調 査 に よ る と,現在 南 ス ラ ウェ シの 出身者 が c r .Mc Tagg a r t【 1 9 7 6: 人 々の居 住 区 に属す る ( 9 0%近 くを 占めて い る。 この点 で, かつ て の a41 ) 。 ここを 住 込 み 地 点 お よ び 調 査地 81pet 域 と して 選 んだ の は, こ こ に こ の 町 の トラ 9) おそらく, これが都市名改正の理由の一つで あると思われる。すなわち,この町はもはや 「マカッサル人」の町ではない,と。マカッ サル人は,ち ょうどジャカルタ( バ タグィア) の 「原住民」であった 「バクウィ人」のよう に,移住者に土地を奪われ ( あるいは売 り) , 市の周辺に後退 して い った とい う。他 方, ウジュン ・パ ンダンす な わ ち 「み のば ヤ シ ( pa n d a n )の 岬」 は,.行政 セクターの 中心的 シンボル で あ る 「ペンテン」 ( フオー ト・ロ ッテルダム)付近の地名に由来するとされる が, これ もオランダの植民地臭を強 く残 して いるわけで, この都市名改正を批判するむき Re i d 1 9 8 1 b ] 。 も多い 【 ジ ャ社 会 の一 つ が見 出 され るか らで あ る. 今 7万人 の トラ 日, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンには 6 ジ ャ人 が住 む と推 定 され ,10) 彼 らは あ る程 度 か た ま って住 む傾 向 に あ るので,市 内 の い く 1 0 )本文中に挙 げたワリノノらのウジュン ・パ ン ダンの民族集団別の人 口比は, トラジャに関 しては低すぎる評定だと思われる。ノーイパームとマ トゥラダ らは,1 9 7 5 1 9 7 6年の時 点で,ウジュン ・パ ンダンの トラジャ人を5 6万人,当時の市人 口の約 1 0% と推定 してい る【 Nooy Pa l m,Ma t t da dae tal .1 9 7 8: 2 ] 0 - 4 2 5 東南 アジア研究 2 3 巻 4号 つ かの地 区 に こ う した トラ ジャ人 の コ ミュニ で は,住 み込 む ことによ って, 自ず と収集 で テ ィが見 出 され る。例 え ば, ( 1 )1 920-1 95 0年 きる情 報を別 に して,基本 的 に二つ の タイプ の比 較 的古 い時期 に形成 され た もの と して, ke pal a の 資料 を 得 た.一 つ は, 居 住 区 長 ( Ga ddong, Pi s a ng Ut a r a, Pi s a ng Se l a t a n, Ma r i c a yaSe l at n に, (2) 1 a 95 0-1 97 0年 の 比 R. W. )の保 管す る 「住民票 」( kar t 〟pe ndu duk) 較 的新 しい時期 に 形成 され た もの と して, 生 年月 日,職業,宗教,家族構成 , 当該地 区 Ma m a j ngLua a r,J ong a y a ,Ma c i ni ,お よび こ こで と りあげ る Ba raba r a ya に, さ ら に ( 3) へ の転入年 な どが記載 され て い る ( 住 民票 の 978年 作成 は, ウ ジュ ン ・パ ンダ ン市 で は , 1 1 97 0年代 後 半か ら1 98 0年代 にか けて の最 も新 の条例 によ り実施)- しい時期 に属す る もの と して, Pa na kkuka ng R. W. 2およ び R. W. 4の トラ ジャ人 21 1 世帯 に 区に属 す る新市街 の はず れ ( Ta l l oBa u 地 r 関す る資料 を得 た. もう一つ は,必ず しもバ 区, Ka mpungRa ma と通称 され る) に見 出 ラバ ラヤ地 区だ けにはか ぎ らなか ったが,坐 。現在 , 古 い コ ミュニテ ィの され る ( 図 2) 部 で45 人 の トラジャ人 に対 して, ム ランク ウ 住 民 が,特 に上 記第 3の新 しい地 区に安 い土 とこの町 での生活 につ いて 自由に語 って も ら 地 と家屋 を求 めて移動 して い るのが観察 され -2時 間程度 の面接調査 うとい う形 で, 1回 1 る。 旧市街 の周 辺部か ら新市街 の周辺部 への を試 みた。 以下 において, この 2種 類 の情 報 移動 で ある。 を もとに, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンの トラ ジャ社 - 世帯主 ( ke pal ake l u ar ・ ga)ごとに出身地 , か らバ ラバ ラ ヤ地 区 バ ラバ ラヤ地 区に トラ ジャ人 が多 い とい っ 会 の問題 点 を, い くつか の項 目にわ けて示 し て も,彼 らは当然他 の民族集 団か ら孤立 して てみ よ う。対 象 も内容 も多岐 にわ た る面接 調 生 活 して い るわ け で は な い。 こ の 地 区 の 住 査 12)の結果 は, この論述 に必要 なか ぎ りも り 25, 93 7人 , 4, 420世 帯 ( 1 983年 統 計 込 む ことに し,以下 の アル フ ァベ ッ トの イニ 氏- l Ke c ma a t a n Ma ka s s a r 19841 ) - は, 他 の 地 区 と同様 , ポ リエスニ ックに構成 されて い シ ャルは,. 面接調査 を行 な った イ ンフォーマ ン トを指 す。 る。 しか しなが ら, この地 区の下位単 位 で あ る九つ の R. W.( Ru ku nWi L a yah) l l) とい う居 住 区の レグェルで みてゆ くと,程度 の開場 で W.1で は マ カ ッサル は あ るが, 例 え ば,R. 人 が, R. W.3と 8で は ドゥ T )人 が ;R. W.5 で は ブギ ス人 が, そ して R. W.2 と R. W.4 で は トラ ジャ人 が, ま とま って住 んで いる と い う傾 向が認 め られ る。 調 査資料 につ いて一言 して お く。 この調査 l l )この単位 は,近年 まで "Ruk〟n Ka mpo 呼" ( R. K. )と呼ばれて お り,現在 で も慣習的 に そう呼ばれることもある■ 。名称の改正の理由 は,「カンポン」 とい う語 が 「村落」の意 を 含むことから,「 都市」「開発」というコンテ クス トにふさわ しくないということで, 「ウイ ラヤ」 ( 領域)とい うニュー トラルな用語が あてられたと思われる。 426 1 2)面接調査を行なった45 人について以下におお ざっぱな情報を与えてお く ( 括弧内の数字は 3 9) ,女 ( 6);年齢別 ( 1 9 8 4 人数) 。性別 :男 ( 年当時):20代 ( 7), ユ o代 ( 8), 4 0代 ( 9), 5 0代 ( 1 4) ,6 0代 ( 5 ) ,7 0代 ( 2);職業別 :公 務且 ( l l ) ,無職 ( 8 ) ,企業従業旦 ( 6 ) ,年金 3 ) ,教会関係者 ( 3 ) ,学校教師 ( 3 ) , 生活者 ( 2,うちひとりは棟梁で木工所経営), 大工 ( 2 ) ,大学生 ( 2 ) ,靴 華人 レス トラン料理人 ( 製造会社経営,靴直 し,溶接工,建設業請負, 軍勤務,各 1 ;ウジュン ・パンダンへの移住 年 (ウジュン ・パンダン生まれのひとりを除 く):1 92 0年代 ( 1 ) ,3 0年代 ( 4), 40年代 ( 1 2) ,5 0年代 ( 1 0) ,6 0年代 ( 9 ) ,7 0年代 ( 4),8 0年代 ( 4);ウジュン ・パンダンでの 4),6 -l og ( 3),l l 2 0* ##*# :0-5* ( ( 6),2ト3 0年 ( l l ) ,3ト40年 ( 1 2) ,4ト5 0年 ( 7),5 1 年以上 ( 2) 。 山下 :ウジュン ・パ ンダ ンの トラジ ヤ社会 移住 の背景 スハル ト新体 制下 の政 治 秩序 の安定,交通網 ウ ジュ ン ・パ ンダ ンへ の トラジャ人 の移住 の整備 ,お よびその 「開発 」( pe mban gu na n) 92 0年代 に遡 る といわれ る (ム ランク ウ) は 1 の精神 と関係 した社会 の拡大 で あ る。 こう し 【 Abus t a m 1 975:2 】 。 初 期 の 移住者 の 多 くは た内的 ・外 的な理 由か ら,今 日, タナ ・トラ 植民地行政下 の警察官 や キ リス ト教会 関係者 ジャで は, M が い うよ うに 「移住者 を 出 して 1 91 4年生 ま で あ った ら しい。 けれ ども, S ( いな い 家族 は な い」。県住民 の 約 3分 の 1に れ,男性 )が次 の よ うに語 った ことが 印象的 あた る約 1 0万人 の人 口が, ウ ジュ ン ・パ ンダ で あ る。 その時,彼 は まだ少 年 で あ ったが, ンを は じめ とす るス ラウェシの各地 , あ るい 「広 い世 界 」 をみ た くて たま らず ,親 には内 は カ リマ ンタ ン, ジャカル タ, さ らにイ リア 緒で, トラジャに来 て いた中国人商人 につ い ンにいた るイ ン ドネ シアの各地 にム ランタ ウ て マ カ ッサル (ウ ジュ ン ・パ ンダ ン)へ 出て に出て い ると推 定 され る。 927年 の ことで あ る。 当時 は, 陸路 で きた。1 はな く海 路 の旅 で, トラジャの市場 町 ラ ンテ 「新 しい経験」 と職業 パ オよ りパ ロボに降 り, そ こか ら船 で い くつ 面接調査 にお いて人 々にム ランク ウの動機 か の ブギ ス ・マ カ ッサル人 の港 に立 ち寄 りな を尋ね ると,「仕事 を 捜 し に」 とか 「教育 を が ら, この町 にた ど りつ いた。 町で は中国人 受 け るた め」 と答 え るのがふつ うで あ る。 け の家 に住 み込 み,商 店 の手伝 いを して生活 し れ ども, これ は,原 因 とい うよ りむ しろ結果 た。 の ちに,彼 は独 立 して 自転車屋 を始め る で あ って,実際 の ところ, ム ランク ウに出 る が,数年 前 ,年 を とって 引退 す るまで, これ に際 してそれ ほ ど明確 な 目的が あ るわ けでは が彼 の この町での職 業 で あ った。少 し時代 を ない 下 れ ば,特 に有力者 の子弟 が教育 を受 けるた 1 96 2年生 まれ の女性 )が い う きた とい うR ( め に ウ ジュ ン ・パ ンダ ンへ 出て くる と い う よ うに,「ただ来 て みただ け。 その か た わ ら パ ター ンが あ らわ れ る。例 え ば, 日本 時代 に,仕 事 を捜 して い る」 とい う形 はか な り一 ( 1 942-1 9 45年 ) には, ス ラウェ シの有力者 の 般 的で あ る と思 われ る。 あ るいは,す で にみ 子弟 を集 めた 「特別 中学校」 が設立 されて お たよ うにム ランタ ウの潜在 的可 能性 は常 にあ り, Pや Lはそ こで学 んで い る。 るわ けで,それが顕在化 す るのは ,Jが い うよ 。 1年前 ( 調査 当時) に この都市 に出て しか しなが ら, トラジ ャ人 の ム ランタ ウが うに, ム ランタ ウか ら帰 って きた友人 や親族 顕著 にな るの は, イ ン ドネ シアの独立後 ,そ の話を聞 き希望 に胸を膨 らませ る時で あ る。 1 96 0年代後 半) にな ってか ら れ も特 に近年 ( いわ ゆ る都市 の 「き らめ き説」 で あ る 【 中村 の よ うで あ る。 これ には,基本 的 に二つ の理 1 98 4:1 9 ] 。 彼 らの 言 葉 で は 「新 しい 経験 を 由が考 え られ る。第 1は,内的 な もので,ホー 求 めて 」( c ar i pe n gal amanb ar 〟)とい う. こ う ム ラン ドで あ るタナ ・トラジャ県 ( Kabupat e n して, さ しあた って は, まず親 戚や友人 宅 に Ta naTor a j a)の 生 態学的 な 理 由で あ る。別 いそ うろ うす る。 そ う して新 しい町を経験 し の と こ ろで 検 討 した よ う に 【 山下 1 98 2: なが ら, うま く職 (あ るいは教育 ) にあ りつ 37 4-3 77 】 ,彼 らの土地 は, 山地 と い う条件 を けれ ば とどま る ことにな る し,そ うでな けれ 考 慮す る時,増 え続 け る人 口を 吸収 しきれな ば村 に戻 る。 このパ ター ンは しば しば何度 か くな って い るわ けで, この生態 学的 な圧力が 繰 り返 され る。 若 者 層 を中心 に した人 口を県外 に押 し出 して 「新 しい経験 を求 めて」 と い っ て も,彼 ら 965 年 以降 の い る。 第 2は,外 的 な もので ,1 の経験追求 は きわ めて緩慢 で あ る。 さきほ ど 427 \ 東南 アジア研究 2 3 巻 4号 の Rは,筆者 が下宿 して いた 「祖母」 q ( 莱 は もちろんない。住民票資料 か らバ ラバ ラヤ 際には彼女の父の母 の イ トコ)の家 にいそ う 地区 ( R. W.2 お よ び R. W.4)の トラ ジャ人 ろう していたが,彼女 は この家族の家事手伝 21 1世帯の世帯主 の職業 は, 表 1のよ うに整 いに 1日の大 半を費や し, これでは 「 村 の生 理 され る。ここでは,日雇い ( bwuhh ar i an)が 活 と全 く変 わ らな い」と笑 う。 外 出 といえば, 2 2. 3 %)を 占め,次 いで学校 最 も多 く47人 ( 市場 に買 い物 に行 くか, 日曜 日ごとに教会へ 教師や警察官 も含む 公務負 ( pe gawqil Z e ge r i ) 行 く程度で,彼女 をみているか ぎ り,積極的 に町を経験す るとい うイメー ジか らはほ ど遠 4 0人 ( 1 9. 0%) , トウカ ン/職人 ( t L L kan g)3 4 人 ( 1 6.1 %) ,企業従業 月 ( pe gawai / kar yawon い。 もっとも, この例 は,彼女が女 の子 だ と 1 2. 3 %)と続 いて いる. トウカ s was t a)26人 ( いうことも考慮 され るべ きで あろう し,個人 ンに関 しては,ここでは,大工 ( t t L kan gka y〟) 差 もあろう。 しか し,一般 に この都市 の トラ が多 く,靴屋 は 3例 にす ぎない。 この裏 に示 t ondok ジャ人 は,彼 らの い う 「他 者 の 国」( され る就業状況 1 は い くつ か の 点 で 興味深 い t an)にあ って,遠慮が ちにい ささか 自閉的に が, ここでは次 の 2点 を指摘 してお く。第 1 生 きて いるとい う印象を受 ける。 Bはい う。 に, 日雇 い と公務員 とい うある意 味で対比 的 「実 の ところ,われ わ れは他 の民族 に心 を開 な職業が 上位 1,2位を 占め ると い うのは, いてつ きあ った ことはない」。 ウ ジュン ・パ ンダンとい う町全体 の就業構造 ウ ジュン ・パ ンダンの トラジャ人 の職業 の を反映 している。 すなわ ち工業部門の吸収力 ステ レオ タイプは,「男 は靴屋 ( t ukan gs e pat 〟, が依然弱 く,仕事 にあ りつ くといえば, 日雇 靴直 しとい った方 が 正確 か),女 はお手伝 い いか公務負か とい う状況が基本的 にあ る。 第 ( pe mbant t L ) 」 とい うものであ る ( c f .Abus t a m 2に,残余 の部分 は, トゥカ ン,サ ー ビス業, 【 1 9 7 5;1 9 7 7 1 ) 。 けれ ども, これ は トラジャ人 あ るいは小商人 とい ったいわゆ るイ ンフォー のすべてが靴屋 またはお手伝 いというわ けで マル ・セ クターを構成 し, この部分が活気 に 衰 1 バラバラヤ地区 トラジャ人の就業状況 ( 居住区 R. W. 2および R. W. 4の 21 1世帯の世帯主の職業- 居住区長の保管する住民票より抽出) 種 公務貞 ( pe D aWain e ge r i ) トウカン/故人 ( 1 〟 kaT Z g) 企業従業点 ( pe gawaE / kar yawans wa s ( a) 軍役 ( A. a. R.t . ) 年金生活 ( pe n s i u n an) 大学生 ( mah a s i s wa) 雑役 ・サービス業 ( S e kt o rj a s a) I人数 I 47 仙 S;加 10 10 9 7 職 日雇い ( bu r u hh a r i an) 注記 ( 括弧内は人数) 学校教師 ( 7) ,警官( 1 ) を含む 9 ) ,靴屋(3),鍛冶屋( 1 ) 大工糾,溶接工/修理工( ホテル ・レス トラン従業且 ( 8) ,店長 (2) ,夜警( 1 ) , 運転手( 1 ) 小商人 ( ) ' u aL a〝 , pe n J ' u al ) 民間医療師 ( du ku n) 肉団子 ( n yo kn yan g)売り( 2 ) を含む 無職 主に寡婦の坊合 不評 計 428 山下 :ウジ ュン ・パ ンダ ンの トラジ ャ社会 み ちた町の風景 を作 り出 して い るとい う点で とを好 まず,サ ロ ン 1枚 の身で も果 敢 に商売 ある。 フォーブスによ ると, ウ ジュ ン ・パ ン を始 め るとい う。汗水 た らして働 くことは,彼 % 以上 が この 「イ ダ ン全体で は就業人 口の75 らにはむ しろマイナス ・イメー ジなので あ る。 ンフォー マ ル ・セ ク ター」 に 属 す る と い う この民族集 団 によ る仕事 に対す る態度 ある l For be s 1 97 8. ・67 ] . いは観念 の相違 は大変 興味深 く,将来 の十分 上 記 の第 2の点は,民族集 団 との関連 にお な研究 に値す るが, さ しあた って次 の 2点 に ここでは,靴屋や大工 は トラ 留意 して お こう。 第 1は,「靴屋」 と い う ト いて興味深 い 。 t u kムn gb e c a,輪 タク) は ジャ人 , ベ チ ャ屋 ( ラ ジャ人 の職業 を ブギ ス人 は蔑みの眼でみて t u kan gJ ' a hi t )はバ ン マ カ ッサル人 ,裁縫 師 ( い ると い う こ とで, それ は 「足」 ( 下) にか t u kan gc uku r)はマ ドゥラ ジャール人 ,床屋 ( かわ る職業 だか らとい う。 ブギス人 な らば, 人 ,ラーメ ン屋 ( pe n j u almi e )と氷売 り( pe n j 〟 al s o n gko' ,帽子) 「頭」 ( 上 ) に関係 した ソンコ ( e s )は ジャワ人 とい った 民族集 団 に よ る分業 を売 るで あ ろう, と。第 2は, トラ ジャ人 は が認 め られ る 【 Ha mi d,A.1 98 3:7 0 】 。 こう し 商人 の伝統を ほ とん どもたな い とい う点で あ た民族集 団 に よ る分業 とい った 状況 の な か る。例 えば,市 場 ( pas ar )の商人 は大 部分 が で, トラ ジャ人 の 「靴屋」 は実際 には彼 らの ブギ ス人 か マ カ ッサル人 で あ って, トラジャ 職業 と して それ ほ ど大 きな比率 を 占め るわ け 人 が い ることはほ とん どな い。 ブギ ス人 が, で はな いが,「トラジャ人 は 靴屋」 と い う ス 開墾地 で さえ,「商人的」にや ってゆ くのに対 テ レオ タイプが形成 され る ことにな る。 職業 Ta na ka 1 98 2:92 -93 】 , トラ ジャ人 は こ し 【 は ここで は 「エスニ ック ・マー カー」 と して の 「商業 の町」で田を耕すかのよ うな勤勉 さ の機能を果 た して い るわ けで あ る。 で, い って み れ ば, 「農民的 エ トス」 に支 え 「靴屋」や 「大工」 と い っ た仕事 は,彼 ら が もともと中国人 か ら学んだ もの ら しい 。 られて生 きて い る。 つ ま り初期 ( オ ランダ時代)の移住者 の多 くは, 教育 :マイノ リテ ィの生存戦 略 と現実 オ ランダ人 の ところに住 み込 んで下働 きをす トラジャの若者 が この町 に出て くる もう一 るか,す で に挙 げた Sの例 に窺え るよ うに, つ の動機 は,学校教育,特 に ホーム ラン ドで 中 国人 の もとで働 いて生計 を立てて いた。後 はみた されな い高等教育を受 けるとい うもの 者 の場合,なか には独立 して Yの よ うに小 さ で あ る。 仕事 とい う点では,今 日ウ ジュ ン ・ -Dのよ うに大 な靴製造会社を経 営す る者 や, パ ンダ ンへ 出 るよ りは新 しい工場 プ ロ ジェク pe n gawa)に な り木工 所 を もつ 者 工 の棟梁 ( トが進 め られて いる地域,例 え ば カ リマ ンタ もい る。今 日で も華人 は,商店や会社 の従業 ンのサマ リンダやバ リクパパ ンな どに行 った 員 と して, トラ ジャ人 を好 んで採用す る傾 向 方 が よいわ けで, この町 に来 る動機 と して教 が あ る。 トラジャ人 は, ブギス人 や マ カ ッサ 育 が 占め る比 重 は高 い。 この教育を受 けると ル人 と違 って,従 帳で ま じめによ く働 くとい い う点で 彼 らは, 町の マ ジョ リテ ィで あ る 豚 肉を う。 トラジャ人 の方 も,華人 は食事 ( ブギ ス人や マ カ ッサル人 よ りも熱心 で あ る。 食 べ る),宗教 ( 非 イ ス ラ ム教- 今 日キ リ 因 に, この町 にある国立 ハサ ヌデ ィン大学で ス ト教徒 の華人 も多 い),勤勉 さにおいて,自 0% が トラ は, あ る年 に登録 した 学生 の 約 3 分 たちに似 てい る と み て い る (Bの発言)。 ジャ出身で あ った とい う。 これ は住民比率か 逆 に,特 に ブギス人 は,その 「独 立の精神」 らす れ ば大変高 い数字 で あ る。 ( s e ma n gaEme r de ka)か ら して人 に使 われ るこ この教育- の熱心 さは,彼 らが しば しば ロ 429 東南 ア ジア研究 23巻 4号 にす るよ うに, その ホーム ラ ン ドが山地 に位 市 の家族 は,若者 が中心 で いわ ば 「ネネ ッ」 daer ahmi nus)な ら 置 して い るための不利性 ( ( ne ne' ,祖 父母 あ るいは祖先 )を 欠 いて い る びに この町で彼 らが マ イノ リテ ィで あ ること の に対 して ,1 4 )ホーム ラ ン ドの村 落 の家族 は, を考 慮 した うえで,「生存 の ための戦 略」と し 逆 に しば しば若者 を欠 き年寄 りと子供 た ちか て選 び と られて い るよ うに思 われ る。 親 は子 ら構成 されて い る。 この場 合,両者 の関係 は 供 に 「遺産 」 ( war i s an)をわ けるか の よ うに, 密接 で,交通事情 が よ くな った現在,往来 は で き るだ け の 教育 を 与 え よ う とす る。つ ま 頻 繁であ る。 この二つ の家族 を統合す る機 会 り, N が い うよ う に 「(ホーム ラン ドの)土 は,特 に葬儀 の機 会 で,外 に出て い る若者 た 地 は もって ゆ くことはで きな いが,教育 は ど ち も,親 や祖父母 の葬儀 に参列す るた めに, こへ で ももって ゆ け る」。 村 へ戻 るわ けで あ る。 この葬儀 を め ぐる問題 とは いえ, た とえ 「大 学 出」 の肩書 きを得 につ いて は, の ちに再 び と りあげ る。 家族 ・ た と して も,13) 就職 戦線 にお いて マ イノ リテ 親 族 の統 合 の シンボル は, トンコナ ン ( t ong- ィで あ る彼 らが不利 な立場 におかれて い る こ konan)と 呼 ば れ る船型屋根 を もった 特徴 的 とには変 わ りはな い。 さ らに,宗 教 の問題 が な彼 らの慣習 家屋 で あ る。理論的 には, トン あ る。 トラ ジャの移住者 の ほぼ 1 0 %がキ リ コナ ンを建 て るこ とは, 移住地 にお いて も可 ス ト教徒 であ るの に対 し, この町 の マ ジョ リ 能 だ とい うが, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンには現在 テ ィは イス ラム教徒 で あ る。公務員 の採用 に の ところ トンコナ ンは創 設 され て い な い お いて も, こう した民族 ・宗教 の問題 は微妙 「祖先 の座 所」 と して の トンコナ ンは,依然 に影響す る とい う。 そ して, か りに採用 され と して彼 らの ホーム ラン ドに位 置 して い る。 た と して も,「昇 進」の問題 が あ る。 トラ ジャ 都市 の家族 の現象形 態を示す もの と して, 。1 5) 人 の この町 にお ける地位 は一 般 に高 い もので 住民票 資料 か ら得 られ たバ ラバ ラヤ地 区の ト はな いので, た とえ彼 が有能 な人 物 で あ った 1 世帯 の例 は,表 2に整 理 され る。 ラ ジャ人 21 と して もいわば 「引 き」 の コネがな いので あ . 8人 で, この数値 は, 世帯成員 の平均値 は 6 る。 こう した状況 のなかで,大 学 の卒業 を前 に したふ た り (H と T) は, いず れ もウ ジュ ン ・パ ンダ ン以外 の 土地 - ひ と りは パ ル ( 中部 ス ラウ ェシの州都), ひ と り は クパ ン ( 東 イ ン ドネ シア, テ ィモール島)- での 就職 を考 えて いた。 都市 の家族 :村 落 の 家族 との 補完 性 と トラ ジャ入 内婚 都市 の家族 は村 落の家族 とさま ざまな点 で 補完 的な関係 にあ る。単 純化 して いえ ば,都 1 3) ウジュン ・パンダンの地方新聞には,結婚や 葬儀の広告 と並んで,大学の卒業を祝 う記事 が卒業生の家族 ・親族から寄せ られ る。「大 学出」はそれほどに一族の名挙であり稀少価 値ではある。 430 1 4) 移住者が年をとると,老後はホームラン ドで す こすというパターンが少な くとも近年まで は認められた。 このパターンは, トラジャ人 たちがこの都市で借家ではな く持家を得るこ とによって現在 くず れつつ あ るが,それで も,ホームラン ドの方がす ごしやすいという 考え方が若者の間にさえある。 1 5) この理由の一つとして,面接調査を行な った インフォーマン トたちが指摘するのは, 「 他者 の国」でのエスニック ・アイデンティティの 強調は他の民族からの反感を買うというもの である。けれども,市街地のはずれにあるキ リス ト教墓地や町中の 「カンポン」地区にあ る トラジャ人学生寮には, トラジャの慣習家 屋のモデルが見出され,慣習家屋と同様な形 をもつ米倉を住居のそばに建てた トラジャ移 住者 もいる。他方, トラジャ人ではな く中国 人が,観光上の目的か ら, トラジャの慣習家 屋の形をとり入れた高級ホテルを近年海岸近 くの一等地に建てたO 山下 :ウジュン・パンダンのトラジャ社会 表 2 バ ラバ ラヤ地区 トラジャ人の家族形態 ( 居 W. 2および R. W.4の2 1 1世帯住区 R. 居住区長の保管する住民票より抽出) (1) 家族成員数 が ひ と りしか いな くて も, 「い そ う ろ う」 を 含 め ると, 同居人 は 8人 と い う ケース も あ る。 あ るいは,筆者が下 宿 した家族 の場 合, 世 帯主 Qは夫 に先 立たれた寡婦 で あ ったが, こ こ に は,「オ イ」 ( イ トコの 子) と 3人 の 「孫」 ( 前 述 の R,H,T)の計 5人 が 同居 し, 加 えて近 くに住 む妹 とイ トコがかな り頻 繁 に 泊 ま りに来 て いた。 こう した家族形態 を 「拡 大 家 族」 と捉 え る ことは可能 で あ るが, そ う (2) 家族の現象形態 ( 類型の設定は筆者による) 形 態 l 事 例数l 核家族 プラス α 同上変形型 74 5 74 3 核家族 同上変形型 夫婦のみ キ ョウダイのみ 「クルアルガ」 ( k e l u a r g a) 注 記 す ると 「いそ うろ う」 の問題性 が消えて しま う し, イデオ ロギ ー的 に都市 で は拡大 家 族が 理想 とされ るわ けで もな い 。 他方, ホー ム ラ α は世帯主/配偶者の ン ドで は 「核 家族」 が ドミナ ン トだ といえ る キョウダイ,イ トコ, い オィ,メイなどの 「 そうろう」 寡婦 ( 寡夫)とその子 供プラス α,および夫 婦プラス α が,広義 の マ レー社会 にお いて は 「核 家族 」 の 開 港 も大 変 複 雑 な の で ( cf .坪 内 ・前 田 【 1 9 7 7 1 ) , ここで は深入 りを避 け, 現象上 の指 摘 に とどめてお きた い。 こ こで い う 「核家族 プ ラス α 」 と い うパ ター ンは,変形型- 寡婦 ( 寡夫)とその子供 その子供 た ちプ ラス α, あ るいは子供 の いな い夫 婦 プ ラス α- 「クルアルガ」はイ トコ など何 らかの親族関係 にある者 寡婦 ( まれ に寡夫 ) と を加 え る と,1 3 3例 ( 63. 0 % ) にのぼ る。 いそ うろ うの多 くは,教育 を 受 け るため,職 を捜 しに, あ るいは新 しい経 験 を求 めて この町 にや って きた新参者 た ちで 独身 あ る。都市 の家族 は,村 落 の家族 か らこう し 不詳 た いそ うろ うを 受 け入 れ る こ とを 期待 さ れ サンプル合計 12 1 1 る。 住宅事情 が悪 いなか にあ って- 1軒 の 家 (2階建 ての大 きな家 で は あ るが)を細 か ホーム ラ ン ドの もの よ り若干 高 い ( 因 に, く仕 き って 1 9世帯 7 2 人住 んで い るケース もあ ホー ム ラン ドで は 1 9 7 5 年 の統計 で,平 均 5 . 3 る- 人 )。 そ の理 由は次 の 都市 の 家族 の 形態 と関 が,両者 の補完 的 関係 のなかで面接調査 を行 係 して い る と思 われ る。す なわ ち,家族 の形 な った多 くの イ ンフォーマ ン トが い うよ うに 態 と して最 も頻 繁 にあ らわれ るパ ター ンは, 「拒否す ることが難 しい」。逆 に, いそ うろ う 筆者 が 「核 家族 プ ラ ス α 」 と名 づ け る タ イ をす る側 に も リシプ ローカルな貢献 が期待 さ プで あ る。 この場 合, α とは 「いそ うろう」 れ,女子 で あれ ば前述 の Rの よ うに家事 を, ( mov i ng i ns )で あ って,夫 婦 のキ ョウダイ, 男子 で あれ ば家主 の仕 事 を手伝 う ( 特 に大工 イ トコ, オ ィ, メ イ, 時 に は 「孫」 (キ ョウ な どの トウカ ンの 場 合) と い う形 が み られ ダイの孫 も含 む), まれ には 父 も しくは母 な る。 どで あ る。 こう して,結 婚 したばか りで子供 , これ は大変 な負担 にな ることもあ る 婚 姻 につ いて, トラジャ人 同士 の結 婚 が, 431 東南 アジア研究 23巻 4号 以前 に比べ ると減少 して いるとはいえ,今 日 は身分 の低 い男性 と結婚 して はな らな い とす において も依然支配的であ る。 住民票資料 で る婚姻規則 が あ り, トラジャ人 が ブギス ・マ 1 1 世帯 の うち, 1 6 6例 ( 7 8 . 7 %)が いえ ば,2 カ ッサル人 か ら 「低 く」 み られ て い る た め この ケースであ る。 トラジャ教会バ ワカ ラエ 5 例 の トラ で ある。因 に,住民票資料 では,4 9 81 年 6月か ら1 9 8 4 年8 ン支部 の資料 では,1 ジャ人/非 トラ ジャ人 の 婚姻 の う ち, トラ 月 の間に この教会で 結婚 した トラジャ人 1 4 5 ジャ人男性 が 非 トラ ジャ人 女性 と結婚 した 組 の うち,6 1 組 ( 4 2. 1 %)が明 らか に クナ ・ 2 0 %)で あ る。 ケースは 9例 ( トラジャ県 出身者 同士 の結婚 で ある。 この新 しい世代 の結婚 においては トラジャ入 内姫 の 互 助組織 :都市 のなかの村落社会 比率 は減少 して いるが,今 日では ウ ジュ ン ・ 1 9 2 0 -1 9 3 0年代,この町の トラジャ人 が まだ パ ンダ ン生 まれの トラジャ人 の結婚 も多 い こ 少 な か った こ ろ,「ブ ンガ ・ララン」( Bun ga' とか ら,「トラジャ入 内婚」 とい うことでは, Lal an:トラジャ語 で 「道 を開 く」とい う意で, この数字 は もう少 し高 くな るはず であ る。16) い ってみれ ば 「パ イオニア」) と 呼 ば れ る一 1 9 7 0 年代前 半では, 1 9 71年 か ら1 9 7 5 年 にか け 8 4組 の結婚 の うち,4 31 組 ( 8 9 . 0 %)が ての4 種 の 「県人 会」 あるいは互助組織 が あ った。 トラ ジャ人 同士 の 結婚 で あ る (ウジュ ン ・ Ge r e j a この組織 は,現在のバ ワカ ラエ ン教会 ( Ba wa ka r a e ng, こ の町 で もっと も古 い トラ パ ンダ ン市 内全域 の トラ ジ ャ教会 の 資料 を ジャ人 の教会)の場所 にあ った家屋 に事務局 Abus t am 用 い た アブス タム の 調査 に よ る 【 が あ り,その家 は トラジャ人新参者 に とって 1 9 7 5:7 5 7 6 ] ) . こう した ス ク ( s u k〟,民族集 の情報 セ ンター,宿泊施設 で もあ った。 それ 団)内姫の理 由 と して,次 の 2点 を挙 げるこ はあたか もウジュ ン ・パ ンダ ンにお ける 「ト とがで きる。第 1は,宗教的な理 由で あ る。 ンコナ ン」( 一族 の家)の ごと くで あ った とい す でに示 唆 したよ うに, トラジャ人 はキ リス 9 4 0年代 まで には う。 もっとも, この組織 は 1 ト教徒 であ るの に対 し,他 の民族柴 田の多 く Ge r e j aTor a j a)のなか に発展 ・ トラジャ教会 ( は イス ラム教徒 で あ って,彼 らは結婚 に際 し 解 消 され,教会が県人 会的機能を果 た して い て宗 教上 の違 いを避 けよ うとす る。 したが っ た時期 が しば ら く続 く。 て,彼 らが トラジャ人 以外 と結婚す る場合, トラジャの キ リス ト教徒 には カ ソ リックも その相手 は, ア ンボ ン人, フロー レス人 , あ いるが, 大 半はプ ロテス タ ン ト系で,トラジャ るいはメナ ド人 とい ったキ リス ト教徒で ある 教会 に統合 され る。 この都市 への トラジャ人 ことが多 い。第 2に, とりわ け トラジャ人 の 移住者 の数 が増 え るにつれ,今 日教会 はい く 男性 が ブギス人 や マ カ ッサル人 の女性 と結婚 つ もの支部 にわか れ るが, そ れ ぞ れ の 支部 す ることはまれだ といわれ るが, これは,甫 は, この都市 の トラジャ人 た ちの 日曜 日ごと ス ラウェシにお いては一般 に身分の高 い女性 の会合 の 場,情報交換, さ ま ざ ま な レ ク リ エー シ ョン, さ らに相互扶助 とい う点で社会 1 6) 「トラジャ入内婚」は年を追って統計的 には 減少の傾向にあるが,これは,ここに示唆 し たように,統計技術上の問題- インドネシ シア政府が民族集団別の統計をとらないこと から,例えばウジュン ・パンダン生まれの場 合,当事者の出身民族集団がわからないにもよる。 432 的 に重要 な機能を果 た して い る。 さ らに,令 ke r u kL L n an)と呼 ばれ る 甘では, タル クナ ン ( 互 助組織 が, ホーム ラン ドの出身地域 ( ある いは出身村 ) ごとに作 られてい る。 例え ば, クル クナ ン ・ノノ ンガ ン ( ノノ ンガ ン村人 会) とい うよ うに。 この互助組織 は, と りわ け都 山下 :ウジュン・パンダンのトラジャ社会 市 にお いて葬 式 を 出す場 合 に重要 な機 能 を果 こ う して ,1 97 0年代 の トラ ジャの ホー ム ラ ン たす 。 葬 儀 は ホー ム ラ ン ドの トラ ジャの社 会 ドにお いて は この外 部 か ら流 入す る富 によ っ と文化 を理解す る うえで戦 略的 とい って よい て,「伝統 的」 な 儀 礼 ・祭 宴 が な くな る ど こ 1 97 9 】 ,都 市 部 ろか,む しろ活性 化 し ( 文 化 の イ ンポ リュー にお いて も, トラ ジャ人 同士 のつ きあいの重 シ ョン), トラ ジャ版 「ル ネ ッサ ンス」とい っ 要 な機 会 を提 供 す るわ けで あ る。 て よ い状況 が み られ た 。17) ほ どの重要 性 を もつ が 【 山下 この互 助 組織 に関 して もう一 つ 興 味深 い こ この間題 は, 1 97 0年 代 の トラ ジ ャ人 の 「文 とは,就 業 の分野 にお いて見 出 され る。す な 化 的 ア イ デ ンテ ィテ ィ」 に深 くかか わ って い わ ち,前 述 の靴 屋 や大工 の棟梁 が職 人 た ちを cr .Vol kma n【 1 98 4 】 )。 つ ま り,人 々は外 る ( 組 織 す る場 合 , この クル クナ ン組織 が重要 な 界 に出て い った けれ ど も,彼 らは 「他者 の 国」 機 能 を果 た し,例 え ば Dの木工 所 「ウサ ハ ・ で 自 らの ア イデ ンテ ィテ ィを実感す る こ とは Us ahaTe nagaBor i ,ボ] ) トゥナ ガ ・ポ リ」( で きな い 。この状況 は次 の挿 話 に よ く窺 え る。 職 人 会社一 机 や イ ス な どを 製造)の よ う 「ウ ジュ ン ・パ ンダ ン の 町 で, あ る トラ ジャ に,特 定 の村 落 (こ こで は ポ リ) の 出身者 の 人 が コー ヒー屋 ( wa r u n gko pi )に座 って いた。 何 人 か の職 人 によ って小 さな 会社 が形 成 され なか なか コー ヒーが来 な いの で,彼 は い らつ る こ と に な る。 こ う して, あ る意 味で, ウ いて店主 に い った。『俺 を 誰 だ と思 って い る ジュ ン ・ パ ンダ ンに ホー ム ラ ン ドの トラ ジャ 0頭 もの水牛 を殺 し ん だ。 俺 は親 父 の葬 式 で6 の村 落社 会 の 「ミニ ア チ ュア」 が見 出 され る たん だ ぞ』。店主 は ブギ ス人 で,そ の トラ ジ ャ こ とにな るわ けで あ る。 人 を じっと みつ めて い った。『この 馬鹿野 郎 Vol kma n 1 98 0:7 9 -8 0】 O トラ ジ ャ が !』」 【 「儀 礼 問題 」:文 化 の イ ンポ リュー シ ョン 人 の 「儀 礼 問題 」 は ウ ジュ ン ・パ ンダ ンの他 トラ ジャの移住者 の 間 には,彼 らが 「儀 礼 の民 族集 団 もよ く知 る と ころで あ る。 けれ ど ma s al a hpe s ( a)と呼ぶ 間超 が あ る。 こ 開港 」( ち,他 の民 族 はそれ を 「愚か な慣 習 」 と しか れ は,少 な くと も今 日の トラ ジャの ム ラ ンク みな さな い ウが直 面す る最 も大 きな, また最 も興 味深 い ンク ウに出た トラ ジャ人 は再 び ホー ム ラ ン ド 問題 領域 とい って よ いで あ ろ う。 簡単 に いえ に引 き寄 せ られ る の で あ って,「祖 先 の家」 97 0年 代 に入 って, ば,こ うい うことで あ る。1 トラ ジャ社 会 は顕著 な空 間的拡 大 を みたが, この社 会 の セ ンター は, 依然 と して ホー ム ラ ン ドの 「祖先 の 家 」 (トンコナ ン) に あ り, 移住 地/ 都市 で稼 いだ金 の剰余 は, ホー ム ラ ン ド/ 村 落 にお いて, と りわ け 「祖 先 の家 」 を改 築 ・新 築 した り, そ こで儀 礼 ・祭 宴 を執 行 す る ことによ って使 われ る。 トラ ジャの儀 礼 , と りわ け死者 に関す る儀 礼 の執行 は,地 位 ・威信 ・面 子 とい った観 念 と密 接 に結 びつ い て い るの で 【 同上 論文1 , 移住地 で の 「成 金 」 は あたか も故 郷 に錦 を飾 るよ うに, ホー ム ラ ン ドの儀 礼 に金 を注 ぎ込 む ことにな る。 。1 8) こ う した状 況 のな か で, ム ラ 17) この 「ルネッサンス」の もう一つの要因は, イン ドネシア政府の観光政策である。 これに ついては,拙稿参照 【 山下 1 9 8 5a】 。また, 「 文化のインポ リューション」 という概念は, フィ リップ ・マ ッキーンが観光開発の もとで のバ リの文化動態を理解する際に用いた もの Mc Ke a n 1 9 7 7 ) 0 である 【 1 8 ) トラジャ人 自身 も,彼 らの儀礼 ・祭宴の 「浪 費的」側面を指 して,「 息かな慣習」を云々 することがある。けれども,彼 らのいう 「息 か さ」は,自らのアイデンティティとの間に あって屈折 した形をとるという点で,他民族 のいう 「 愚かさ」 とは当然異なる。彼 ら自身 は,この 「愚かな慣習」の当事者になるなか で,大変生き生きとして くるのがふつ うであ る【 山下 1 9 8 5b】 。 433 東南 アジア研究 23巻 4号 を 中心 とす る儀礼 ・祭宴 の執行 は, 移住地/ Ⅳ 都市 の家族 とホー ム ラン ド/ 村 落の家族 を, 若者 と祖先 を, また近代 と伝統 を,媒介 しつ 括 青 これ まで検 討 して きた ウジュ ン ・パ ンダ ン の トラ ジャ社 会 の事 例 を よ り一般 的な角度か つ統 合す るわ けで ある。 移住地 で死者 が 出た時 は, ホー ム ラン ドに 遺 体 が運 ばれ, そ こで葬儀 が もたれ る こと も ら・ 捉え直す ことによ って,本論 に小結 を与え て お こ う。 あ る が,多 くの 場合 は,前 述 の 互 助組織 を 第 1は,本論 の課題 で あ った都市 とその後 ベースに した葬式が行 われ, キ リス ト薮 徒 の 背地, あるいは都市 の社 会 と村 落の社 会 の関 墓 地 に埋葬 され る。 この都市 での葬儀 の あ り 係 につ いてで あ る。 ここで検討 した事 例が示 方 は,村落/ ホー ム ラン ドで行 われ るよ うな す と ころで は,移住 ( ム ランク ウ)とは社 会の 多数 の豚 や水 牛 が供 蟻 され る盛大 な死者祭宴 「近代化」とか 「都市化」とい う形 で捉 え られ ( cr .山下 【 1 97 9】 ) とは当然異 な るが, ウ ジュ るとい うよ りは, ホー ム ラン ドの生態 学的 な ン ・パ ンダ ンとい う都市 空 間のなか で,彼 ら 圧力 を背景 と した一種 の 「エスニ ック ・イ ク の葬 儀の風景 は明 らか に異質 で ある。調査 期 スパ ンション」 と考 え られ, その結 果 いわ ば 3 0歳 ば ホー ム ラン ドの 「飛 び地 」 が あ ち こちにで き か りの マ カ レ (ホー ム ラ ン ドで あ る タ ナ ・ る ことにな る。 これが移住民社会 で あ る。 こ トラジャ県 の県庁 所在地 ) 出身の青年 の葬 儀 の場合,家族 の形態 にお いてみたよ うに,都 間中,筆者 はそ う した葬儀 の一つ- - に出 くわ した.通 夜 には,住居 の前 に多 市 と村 落,移住地 とホー ム ラン ドの関係 は補 数 の イスが並 べ られ,参集 した 弔問客 に軽食 完 的 で あ り,二つ の異 な った社 会 とい うよ り と飲物がふ るまわれ, ホー ム ラ ン ドにお け る は 「一つ の社会 の二つ の部分」 で あ る。19) さ よ うに葬歌 ( ma' baf わn g)を歌 うサー クル ・ダ らに, クル クナ ンと呼 ばれ る都市 の互 助組織 ンスの輪 が広 が る。 翌 日,牧 師 の祈癖 ,賛美 の あ りよ うは, ウ ジュ ン ・パ ン ダ ンの トラ 歌 の合 唱,遺族代表 の挨 拶 な どが と り行 われ ジャ社 会 が ホー ム ラ ン ドの ミニアチ ュアで あ たの ち, 夕方 ,遺族 の女 た ちの激 しい儀礼 的 るか のよ うな様 相を呈 して い る。 ここにお い umbat i ng)を残 して,車 で町 はず れ の キ 沸泣 ( て, 移住地 は中心 で ある ホー ム ラン ドの社 会 リス ト教墓地 まで運 ばれ る。 弔問客 た ち も, の いわば 「出先」 と考 え られて いるわ けで, お のおの チ ャー ター した軽 トラ ック, ミニ ・ この先端部分 は, と りわ け ホー ム ラ ン ドでの バ スな どに分乗 して,墓地 にむか う。 この葬 儀礼 の執行 を通 して 中心 へ と引 き戻 され る。 儀 の場合,車 の数 は 1 0 台を越 えてお り,この 1 97 0年代 の ホー ム ラ ン ドの伝統的儀礼 の 「ル 車 を連 ね ての葬列 は, あたか もホーム ラ ン ド ネ ッサ ンス」 は, この内か ら外へ, また外か での水牛 を連 ね ての葬列 の ごと くで あ った。 ら内へ とい う二重 の運動 を抜 きに考 え る こと 実 際, ホー ム ラン ドでの葬儀 の規 模 が水 牛 の 供 犠頭数 で語 られ るよ うに,都市 の葬儀 の盛 大 さは葬列 に参 加 した車 の台数 で語 られ,車 の チ ャー ター代 は, ホー ム ラン ドの葬儀 にお ける弔意 を あ らわす豚 の贈 与 に等 しい と考 え られて いる。 434 1 9 )同様な観点は,ブギスの移住民社会 の研究に おいても指摘されている 【 Li nc t on 1 975:l l . ただ し,あるブギス人インフォーマン トは, 彼らのムランクウのパターンは ミナンカバ ウ ( あるいは トラジャ)と異 な り,「 行 った ら 戻ってこない」 ことを強調 した。賢いブギス 人は外での成功を目持 して出てゆ くし,戻っ て くるとした らそれは彼が無能だか らだ, と。 山下 :ウジュン・パンダンのトラジヤ社会 はで きな い。 こう して,都市 /移住地 の社会 で あ る。 この町 に 住む 人 々 は しば しば 自 ら と村落/ ホー ム ラ ン ドの社会 は と もに一 つ の を 「ウ ジュ ン ・パ ン ダ ン人 」 ( or ang Ujun g 時代 を共有す る といえ る。 都市 の社 会 が 「近 Pandang)と呼ぶ. けれ ど も, この 人 々 に対 代 的」 とい うな ら, その分 だ け村 落 の社 会 も 応す る よ うな 「ウ ジュ ン ・パ ン ダ ン社 会」, そ うな ので あ って ( 逆 に,村落 の社会 が 「伝 「ウ ジュ ン ・パ ンダ ン文 化」とい った もの は存 統 的」 な ら,その分 だ け都市 の社会 もそ うで 在す るのだ ろ うか。別 の いい方 をす れ ば, ウ あ る),都市対 村落 の 対立 を, 近 代対伝統, ジュ ン ・パ ンダ ンとい う都市 は,一 つ の 「モ あ るいは性 格 の異 な った社会 の タ イプの対立 ラル ・コ ミュニテ ィ」 ( 価値 も し くは 「わ れ と してみ るわけにはゆかな い。 われ意識」 を共 有す る共 同体 ) と して存在す 第 2は, この町の トラジャ人 の性 格 ,特 に るのだ ろ うか。本論 で検討 した トラ ジャ人 の そ の 「農民 的 エ トス」 とい う問題 で ある。 ブ 視点 か らいえ ば,答 え は否定的 で あ る。 トラ ギ ス人 で あ る筆者 の調査 助手 は, この町 の ト ジャ人 は基本 的 に, この 都市 に と い うよ り ラ ジャ人 を評 して 「黙す る人 」( pe ndt ' am) と 「拡大 した トラジャ社会」 のなか に ひ っそ り い う。つ ま り, ブギス人 の 眼か らす る と,彼 と住 んで いるか のよ うで あ る。彼 らに とって らは黙 々 とよ く働 く。逆 に, トラ ジャ人 の方 ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う町 は,生活 のた め or an g は,ブギス人 を評 して 「虚言 を は く人 」( の一 つ の 「背景」 にす ぎな い omon gkos on g)とい う。彼 らは 口は うまいが, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンの トラジャ社 会 は ホー ム 商 売人 ,遊 び人 で あ って,信 用 で きな い,と。 ラン ドの村落社 会の ミニアチ ュア とい った け この 「黙す る人」と 「語 る人 」とい う対比 は, れ ど も,ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う都市 自体, 田舎性 と都市性,農 村的伝統 と商 人 的伝統 の 基本 的 には南 ス ラ ウェシの さま ざまな民 族社 対 比 を示 して い るよ うで興 味深 い。現在 筆者 会 ( 文 化 )の ミニアチ ュアの 「寄せ集 め」 で は田舎性/ 都市性 をわかつ一つ の基準 と して あ り,極論 す れ ば,この都市 に実在す るの は, 言 語 に対 す る態 度 とい う問蓮 を重要 だ と考 え 「トラジャ社 会」で あ り,「ブギス社 会」で あ て い るが ,20) この基準 か らす ると トラ ジャ人 り,「マ カ ッサル社 会」 な ので は な いだ ろ う は明 らか に 「田舎者」 で あ る。 この ことは, か。つ ま り, あ る地 理的な広 が りのなか に, 彼 らは この町 の新参者 で,都市 の周辺部 の カ ある人 々が いて, その社 会 と文化 が, あたか ンポ ン ・セ クターの住民 で あ る こと, さ らに も統合 された全体 と して あ る と考 え る必要 彼 らの間 に一 般 に商人 が見 出 されな い こと, は必ず しもな いので あ る 【 船曳 と対 応 して い る。 1 985a】。 。 さ らに,先 に 1 985;山下 第 3は, ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい うポ リエ 上 記 の第 3の論 点 は,末 だ示 唆的な 問 いに ス ニ ックな 移住民社会 の 性 格 に 関 す る こ と とどま って い るが, さ らに二つ の問題 に関連 して い る。 第 1は,都 市 の社 会人 類学的な ア 20) この点で,小松和彦の 「 物 ぐさ太郎」の民話 についての指摘が興味深い。都へ出た物 ぐさ 太郎は,は じめは村での美徳である 「沈黙」 と 「勤勉」を実践 しようとするが,うまくゆ か ない。そ こで,「言語」と 「遊び」の精神 9 8 4: で迫ってゆ くと成功する 【 小松・ 立松 1 11 ト1 21 】 。つまり,都市 と村では,言語に対 する態度,勤勉と遊びに対する価値付与は異 なっているわけである。 ポ リア とで も呼ぶべ き ものであ る。つ ま り, 本論 で示 したよ うに, この ウ ジュ ン ・パ ンダ ンとい う都市 の トラジャ社会 に着 目 してゆ く と, この都市 が背景 に退 いて,む しろ都市社 会 の全 体 がみえな くな る とい うことを, どの よ うに考 えれ ばよ いのだ ろ うか。都市 と村 落 の社 会学的な相違 につ いて は, さま ざまに論 435 東南アジア研究 2 3 巻 4号 じられて きて い るが,本 当 に都市 の社 会 と村 で あ る国家 と「実在」の モ ラル ・コ ミュニ テ ィ 落 の社 会 は違 うのか。社 会 関係 を追 ってゆ け で あ る村 落社 会 の間 に位 置づ ける ことが で き ば, ア ブナ一 ・コ- エ ンもい うよ うに 「ロン る- ドンも一 つ の村 で あ る」【 Cohe n 1 97 4:Xi x】 観察 され る必要 が あろ う。 の特 徴 の一 つ と して, さ らに注 意深 く ときえ いえ るので あ る。人 が,伝統社 会 で あ れ近代社 会 で あれ,「真 のわれわれ」 とい う範 謝 辞 噂 を常 に設定 して生 きてゆ く社 会的存在 で あ るか ぎ り ( c f .b ac hl 1 982:6 0, 11 8 】 ) ,「都市 性」は社 会学 的 ( 少 な くと も ミクロ社 会学 的) には定義 で きず,何 か別 の次元 で考 え られ る べ きか もしれな い 。 第 2は, エス ニ ックな境 本論の骨子は,ユネスコ東 アジア文化研究 セン ター ( 1 9 8 4年 1 1 月1 6日)および東京外国語大学ア ジア ・ア フ リカ言語文化研究所 ( 1 9 8 5年 1月 1 8 日)の共同研究会, さらに東南アジア史学会第3 3 回研究大会 ( 1 9 8 5年 6月 1 5日,於 :広島大学)に 界 に関す る ことで あ る。 い うまで もな く, こ おいて口頭で発表 された。関係者各位の貴重 な コ の境界 は, 固定 して考 え るべ きで はな い メン トに感謝する。 また,イン ドネシアでの現地 。 ウ ジュ ン ・パ ンダ ン生 まれの人 々や,他 の民 族 調査 は, イ ン ドネ シア学術局 ( Lo mbagal l mu と通 婚 した人 々 とその家族 にお いて は, エス Pe ng e t a hua nI ndone s i a)の ど厚意 によ り実現 し た。あわせて,感謝の意を表する。 ニ ックな ひだ は, よ り微 妙 な もの とな ろ う。 さ らに, イ ン ドネ シア とい う国家が成立 して い る以上 , イ ン ドネ シアの民 族集 団 は, あ る 春 原 文 献 特定 の 「民 族」 で あ る と同時 に イ ン ドネ シア 人 とい う 「国民」 で もあるわ けで,人 々は常 に二重 の ( 場 合 によ っては多重 の) ア イデ ン テ ィテ ィを もつ ことにな る。 したが って, エ ス ニ ックな境界 は, どの レグェルを強調す る か で大 き く変動す る ことに留意す る必要 が あ ろ う。面接調査 において Aが い うよ うに,「わ れ われ は この町を われ われの町だ と感 じ始 め て い る」 とい う水 準 もあるので あ る。 「われ われ の町」- しか し,「われ われ の」 とは,「だれ の」か と再度 問 い返す 時,問題 は 一 巡 して もとに戻 る。 む しろ, あ る意 味で都 市 の主 語 がな い ことが, エスニ ック ・モザ イ クあ るいはプル ー ラ リズムによ って特徴 づ け られ る, この都市 の現 在 の特徴 だ と考 えた方 が よ いか も しれ な い。 こうした都市 社 会 の あ りよ うは,人 々 ・社 会 ・文化 を統 合 され た全 体 と考 え よ うとす る伝統 的な社 会科学者 の社 会理解 モデル とは異 な った あ りよ うを示 して い る。 この点 は,本論 の冒頭 に述 べ た 「中規 模社 会」436 「或コ想」 の モ ラル ・コ ミェニテ ィ Abus t a m,Muh.I dr us .1 9 7 5. T止a ng S o pat u Tor a j a diUj ung Pa nda ng:Sua t u St udi Me ng e na i Pr os e s Pe r pi nda ha n da n Pe ny e s ua ia nCa r aHi dupdiRot a. Uj ng u Pa nda ng:La por n Pe a ne l i t i a n,Pus a tLa t i ha n I l mui ) muSo s i a 1 . .1 97 7 . Tuka ng So pat u Tor a j a di Uj n g Pa u nda ng. Be r t ' t a Anl r D POL o gi 9: 5 01 5 7 .J a ka r t a:Um iv e r s i t a sI ndone s i a. Br une r ,Edwa r dM.1 9 7 3 . Ki na ndNonKi n. l n Ur ba n AI Z l hr o pot o gy, e di t e d by A. Sout ha l l .London:Ox f or dUni v e r s i t yPn治S . pr e s s i onofEt hni c i t y .1 97 4. TheEx i nl ndone s i a. I n Ur ・ b L m Et hni c t t y,e di t e d by A.Cohe n. London:Ta vi s t oc k Publ i c a t i ons . Co hc n,Abnc r .1 97 4. I nt r oduc t i on: TheL es s on nUr banEt hni c E ' t y,e di t e dby ofEt h ic m i t y. I A.Cohe n.London:Ta is v t oc kPubl i c at i ons . Enc yc l o pe dl ' a v an Ne t l e T ・ l dn 血c h L dl ' e . 1 91 8. Twe edeDe e l .' 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