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古代伊勢国奄芸郡の郡家と条里

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古代伊勢国奄芸郡の郡家と条里
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一
ロ
一.J
古代伊勢国奄芸郡の郡家と条呈
5照
由
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こ
ゴ
二
ノ¥
ランクされ
乙ととも栢侯って、政治的犯重要なウェートをもづ国でる司た。
の古代伊勢国に関しては歴史地理学からの調査研究が、国古川・
1
)
関・榎撫駅家 (
や桑名・員弁・河曲・飯高・飯野・多気・愛会冬裂
の条里す)を対象としてをされているが、郡家や交通路さらに国内出
討
小
山
家
の
一
央部の条塁については未だほとんど研究されてい左い。そこで本稿
では伊勢国のほほ中央部に位置する悶奄芸郡(立をとりあげ
位置比定や条豆地割の復原を行うととだしたい。
h
m敷 郡 の 二 市 一 郡 の 各 一 部 を な す 回 奄 士 一 言
現在、津市・鈴鹿市 は、伊勢国中央部やや北寄りの比較的小規模左郡であって、明治二
かわわり
二年の合併陀よって消滅するまでは、河曲・鈴鹿・安涯の各部とそ
れぞれ北東・東・南西で郡界をかたちつくり、東は伊勢湾陀五﹂て
いた。 と の よ う 左 相 対 的 な 位 置 関 係 は 古 代 律 令 期 だ ま で 道 工 ωとと'戸
でき、和名抄によれば奄芸部は奄芸・田井・塩屋・服部・果、白・窪
田 の 六 郷 よ り な る 下 郡 で あ っ た 。 ま た 地 形 の よ で は 、 北 部 の m ノ川
一
﹀
﹂
i
dパμ
一同部げに'区分するととができ¥ そ の う ち 北 部 な よ び 南 部 に 後 述 す る ご
ーとく条呈地割が認められる。
奄芸郡宗
J
奄芸部。郡家が設けられたところとしては、郡家に噴 係あるとさ
れる“郡山‘地名をもっ鈴鹿市郡山町がまずあげられる。との郡山
町は明治初期心奄芸部郡山村が奄士宮郡栄村大字郡山、河芸部栄村大
c
しかし、郡内で郡山地区以外に郡家関係の地名がみあ
去
﹂
その小河谷
近一斉の台地上は用水に乏し︿、乾田・焔・草地・樹林地と
の一惜は集落に接ナるあたりで六0 1 一
0 0メ ー ト ル あ る 。 そ の た め
0 メートルの急車をもっ小河谷によって限られてなり、
っ て 北 万 の 沖 積 低 地 と 馬 て ら れ て い る 。 また集落の一間端も比高約一
ノ川右岸の台地豆上陀あり、約一 0 メ ー ト ル の 比 高 を も っ 急 崖 で も
まず地区内の地形むよび土地利用についてみれば、郡山集落は中
域を検討してい︿ととだする。
から、 本 論 で は 郡 山 地 区 げ い 郡 家 を 求 め 、 地 割 ・ 地 名 左 ど か ら ぞ の 境
4
)
ら に 郡 家 の 一 存 在 し た 可 能 性 を 示 す 遺 跡 が 郡 内κは 見 当 ら 左 い と と (
亡同て集落の成立期を古代児まで遡らせうる可能性が高いとと、
たら左凶とと、式内社の酒井神社が地区内の郡山集落北部に鎮座し
ととげルちもる
の境界部にあえり、奄芸郡全域のなかにあっては北東に偏っている
る郡山地区の位置は、北部の中ノ川沖積低地と中部。丘唆・台地と
勢湾に注ぐ中/川右山一汗の台地上にある。 即 ち 、 古 代 の 奄 芸 部 に な け
字郡山 L
しその行政区画名称をかえ、 さらに沼和二九年だ鈴鹿市へ一一編
主主
古代げ凡ないて伊勢田は畿内に隣接する三関国の一つとして大国花
祭
入されて現在の名称と左った地区であって、市内南部を東流して伊
戸
天皇家の祭柁を司る伊勢神宮口がその東関部げ一鎮{内一ずる
はじめに
ー
一、
吾4当.
流域、中部の丘竣・台地、南部の乱島県川流域、むよび北
~l~
r-¥
、
左つてなり、水田の広がる中ノ川沿いの沖積低地や河谷の谷底部と
土地利用の点で著しい対照を念している。 そ の う え 同 じ 台 地 上 陀 あ
っても、郡山集落の一南端を限る前記の小河谷を境にして、北側の集
落のあるあたりと南側とでは土地利用や地割の点で異なってなり
明治二六年の二万分ノ一地形図陀よれば、北側では乾田や畑が卓越
するのに対して、一南側は樹林地が拡がっている。現在では南側も過
半が開墾されて畑地化されているが、 そ の 地 割 は 整 然 と し た 矩 形 を
してなり、北側の耕地にみられる地割の形状とは明瞭を相違をみせ
ている。従って郡家の設けられたととろは郡山集落のある北側の台
地上にあてみととができよう。
-2-
そこで郡山附近の小字地名をみてみると、酒井神社の鳥居より一向
げ比向う道路を境げ比して隣りあう里中・西里の二小字が集落のほとん
e
明角・若宮・大鳥居・染野な
串けすみ
どを包含してなり、 その周圏には三芝・宮ノ西・坂山・ロ皮切・土{へ
・西川・向山・下浦・青木口・塚腰
どの小字がある。とれらの小字は地名の点だけからは郡家左いし郡
衝の境域豆を明らかにしてくれ左いが、多くの場合小字界が台地の
長 軸 方 向 ( 東 南 東I 西 北 西 ) と と れ だ 直 交 す る 方 向 だ の び て い る の
は注目される。小字界陀みられるとのような方向性は小字内部の地
移
民
、 とのよう在方向性を有する小
割陀ついてもほぼあてはまる。 い
(函 1参 照 )
字 界 hvよ び 地 割 死 つ い て 検 討 し て み る と 、 次 の よ う 左 と と が 指 摘 で
句。。
長C
ィ 、 直 線 状 を な す 小 字 界 の 箇 所 Kあっても、 そ の 長 さ が 数 百 メ l ト
ルげ一まで hvよぶものは左︿、 そ れ ど と ろ か 東 高 方 向 の 小 字 界 陀 あ っ
ては直線状というよりもゆるやか念曲線状ををしているものが多凶。
/
郡山集落付近の地割と土地利用
図1.
宅地
O
町界
河川
ー・ー
ーー遭銘
“ " 字界
地雷界
地自界(ー舗〉
一
山時・草地
7
1
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盟
国・軍E
田
口、百メートル以上の宮一線状子一三寸小字界内一一室事。ぅトノ
d
一
守
J
r
をなナもふはをく
J
之去なかっ前者
子日
芥や
)7fh
相互にほ
も一託家や郡街の境域
左か﹁パJmJって手
J
f
L する道路と集落一明方の
北一一判弱心地 J﹂
T﹁コめて会打、鳥居的必至栄司 に
T る手掛町としては凶ささか不十
J
h
郡家域を想定
谷底との間日婦が二町会-ある。
右のニ 1 へ 諸 点
分であるが、 共 通 し て 郡 家 関 係 地 名 た る お 山 一 集 落 死 郡 家 の 存 在 を 暗
一
シ
を相叫(疋ずるのが♂女当で
4七ノ礼西国ヱ・里中の小字
示している。従って、奄芸部が下型であることや地形的制約をも考
慮して、酒井神社社域﹁一方一町の間
界を一南北方向の中軸線とする方三町
P)
士ろうが、
との
あろうア)コもちろんとの想定はまだ十分ま説得力げ一欠けてなり、例
えば式円社の社地を郡街域としていることも問題
点、死闘しては酒井一神社が同じ奄芸郡内の式内社たる伊奈富神社(稲
J
D
小
忠一よび苓宮 y
界 児 注g pる
u東剣山 77
し一百一角の万ム向
町余、完
IL
中ノ川流域の条皇地割
との謂速で再議 Fる と と に し た い
-jTA
高縄エ一
一
沼
⋮
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JE
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叩城山の各町だハオ寓している
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c
勺
z ち い の
いまとれら各町の小
森ケ山内(御一関町)・八一反坪
F
此 ほ パ ( 以 上 、 五 祝 町 ) の よ う な 地 名 も み られる。
(図 2
汗(以上、沼田町)・縄手一:粟之内(以上、稲宝町)・大縄・
るほか、東条・丙一条(以上、 三 宅 町
宇 治 名 を 検 し て み る Ld
一、徳田町に五之坪・六之坪という坪地名があ
生-一枚、水・一江持
ZJUわい
鈴吉町一市域、となってシり、西から一三宅・徳一江口・御君、越知・徳田・穏
与¥すえみ手♂一括
中ノ川流域の沖積低地のうち奄芸郡ピ奮する範囲は現在ほとんど
c
一刀向の基準 殺 を 明 確 に し え 4
明かったが、 と の い 尽 に つ 凶 て は 後 に 条 里
生大明神)の薪さとされて円て豆、郡一家の勢減衰退後に神社が郡街
川本一
この
一自主(山首側
叩
出こ受付Cし
て
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V
と の と と は 両 字 界 が 重 要 企 境 界 で あ 一 位 と し 一 を き 凍 し ftuるといえづむ
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界のあた?口J3池訓討をもう一
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向
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次の正井つ左ととが知られる。
に弐﹂︹什社える桓
I
i
:
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;
.
ニ、里中と西患との小字問弁の一訴を士ナ直線状わ一道路
ω
小{??界とほぼ平行でかつ一一・五可。間関 一千一有ーしており、
道路は前述のよ
べきものである
木、集落内の地割は周囲。耕地の て
γ れに辻¥て
v
L
に﹂て一気一回
E
三
2
落て至る主要な道路
み心マ2
数百メ l
かつまた椙互ケ一ぽぽ平行
三呂)士いレ主古賀庭併につ一山てみ ても
Jhw
一
し
ぽ平行するものの問請を﹁引って与一ゐ L
一 町 子 笠 数 倍 を な す 例 iy
、
一
ては僅かげに 西塁の﹁四m
m 界し ↑士口斉一の烹測字自作間(約六町)があるκ
すぎ﹂左 h c
ハ、小字界を士さ
トルにわたって直
沿ってなり
3込
一ず
心地に移転きれたとも考えられる。 ま た 部 家 域 想 定 に あ た っ て 東 西
r
ちっては京市集落の自問ほとも在って
/
い る し 、 後 者 に あ っ て は 鈴 安 市 秋 、 水 可 ( 山 大 字 了chu町境でもみ局一る。
rk
f
す る 道 の 間 隔 が 一 町 の 整 数 告 を み2 F例 も 見 当 ら さ h o
従って小字地一名から
を推定するに足る手掛り
ハ
l
と、南字国什とも台地上から午/川沖積低地
掛りと左りそうを西室の遇制字界
、
ノ
hhrtp
道の辺一一一主総
t
ノ
3-
三
落内を東西に走る道路乃一なかにも広州一塁。一泊
をもつものがあ?心
へ、酒井神社の社域
ム
」
ピー
ー
歩
→
墳時崎湖
4
n
町小遣
一一対米
=直路
一・水路
)
z 地割
"" 壇防
ーー小学界
図3
. 徳田・秋永 2町の地割(一部)
置池沼
図 4 徳田町以西の小字
4一
〔凡例は国 2
V
C同じ〕
J
そとでまず坪地名のあ る徳田町をとりあげ、明
やきり
によって耕地整理前の状況をみてみると、道路品、水引 も一直十万人状をニト
すものが多く、星去・高回・古川・梨子之木・一戸波動十石前・戸間!
初回・志留田・熊野田・神自の各小字では一長地引ぷアないし半折型の
かよ
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守
山Uη↓
iレJL子乙坪
¥一戸ぜ
J こ仁ロ川区っ d
一
変 形 地 割 が ほ と ん ど で あ る 。 ちなみげ比五之坪とその奈の忠一去
び地割の乱れている六之坪の南の神白と熊野田の一地
MT了
zuo 狩出し仁熊野田
の如︿で、墨去では一幅もほぼ一町で長地型を一示すのに戸、
では幅も一町より幾分狭いうえ陀地割も乱れて日
Lj
﹂
らつ情て捺
ではとも陀二×一二町の面積内児長地型ないし半折型の幾分変形した
地割が一町方面のブロックを構成している。以上のと
理の
む徳田
のでち
田町の耕地整理前の地割は明らかげ比条里地割と一認めら丸三二では N
一一四度E の 方 位 を も っ 条 塁 地 割 は ど の あ た り ま で た ど h
ろうか。 と の 点 を 明 ら か に す る た め 、 次 に 耕 地 整 理 実
町以東の各町について耕地整理前の状況を誤べ、さらに
左されていな凶徳田町以西の各町について検討するとしにけ
J
耕 地 整 理 前 の 認 田 町 以 東 の 低 地 部 、 す なわち稲生・秋、ムイ 4・ 71祝・
、
磯 山 の 各 町 児 つ い て 残 存 す る 旧 地 籍 図 を も と に 地 割 を 検 討 ム 一f
ζ 土
f u w h 河H -
一ノ
門川円-!っム‘九
矢去・栗之内・杉本・沼之井・山添・溝端(以上、一稲生町)
蔵久・条
、 五祝町)・久保阿国
LL
谷・蔵久・八島・横綱(以上、秋永町)
-犬飼・高縄手・大縄・東前(以
主
(1L
らしきものがみられるし、旧地籍図が廃棄され売ととろ心うちでも
五祝町此坪や木鎌のよう児一一円間隔の道路の宥在キ一六 一
4士
山町田よりお
5
〔凡例は図 3Y
て同!二〕
7
っ
じ
る。さらげ比五祝町下堅田'古屋敷の各小字。一部にも同じ宗主地引
上 、 磯 山 町 ) の 各 小 字 K N二四度 E の条阜地割を認める}/了い
, ¥
越知・主主薗 2町 の 地 割 ( 一 部
国 5
.
ソ
l、
f
シ
エ
丈
、
、
ヱ
里では耕地整理前の問地籍図をみて
後山町の南げ比一接する河芸町大字西千
部では地割が乱れてなり、秋、水町や
うことができよう。 し か し 横 綱 の 南
氏かけて法典型的左長地型地割とい
れば、康久の南部から横綱の北西部
蔵 久 ・ 横 綱 の 池 割 を 図 3 によってみ
摘しうるところもるる。 いま秋、水町
をもっ集落があるととから、 あ る い は 古 代 の ミ ヤ ケ
北方向の条里型地窓口と呼んでなきたい。ただ、対岸にミヤケ地名
割と認めるに足る坪地名も左く、地割も函 6のどとくであって、真
とができるが、対告に東条・西条という小字があるばかりで条里地
地割がみられるところとしては三宅町寺門・御法の付近をあげるこ
地割以外に判定の手掛りがない。 こ の ほ か 徳 田 町 以 西 で 一 町 方 函 の
を呈している合で、 とれも条里地副都とみ左してよいと考えられるが、
地 割 は 南 北 憶 が ほ ぼ 一 町 あ り 、 N 二四度 E の 条 里 地 割 と 同 様 長 地 型
-桜本・八木・走白、 さ ら 陀 徳 居 町 東 代 へ と 続 凶 て い る の で あ る 。
12
もN 二四度目。条一塁地割は認めがた
と解するとともでき るかもしれを︺円。
κ関 係 す る 地 割
ぃ。従って現在知りうる限りにない
坪付史料は今のととろ見出されていないが
坪地名
以上、 中 ノ 川 流 域 の 条 里 地 割 に つ 凶 て の 知 見 を ま と め れ ば 次 の よ
うげ札在る。①
c②
坪 内 の 地 割 は 長 地 型κ由 来 す る も の が 多 い 。 ③
は 残 存 し 、 沖 積 低 地 の 氾 濫 原 K N二 四 度 目 の 条 里 地 割 を 認 め る と と
ができる
︿在っている。⑤
割がみられる。
二宅可寺門・御法の付近に真北を指す条呈型地
との N 二四度 B の 条 里 地 割 の 南 西 隈 た る 御 薗 町 山 ケ 鼻 の 地 割 を 注 意
堆によって伊勢湾と隔てられ、地形の上で豆谷底平野・氾濫原・海
士主旦茂川流域の沖積低地は海岸線に沿う幅六百メートル前後の砂
志登茂川流域の条里地割
してみると、 その西部では地割の東偏の度合が寸ノ︿左くなっている。
岸平野に三分され乙。
- 6-
て
、 N 二四度 E O条豆地割の吉沢一限は
稲 生 町 山 添l磯 山 町 広 見1秋、水町蔵
沖積低地の氾濫原と海産平野との境界にほぼ一致してなり、ま
塁坪付や条霊界線、 さら K条 里 の 呼 称 法 は 明 ら か で 左 い が 、 稲 生 町
す)
た中ノ川が流路を南に急変きせて延長川と左る転換部でもあって、
国 5 はその一
N 二四度 E の 条 里 地 割 の 一 同 濁 端 で は 地 割 の 東 偏 の 度 合 が す く な
の栗之一坪左る小字地名があるいは九里を意味するのかもしれ左い。
A
現海津線沿いの砂堆列より後方の砂川濯があたりに散在している。
待田町以西の低地部、 す念わち越知白書・徳居・三宅の各町一について
は図 4 か ら も N 二 四 度E の 条 里 地 割 の 存 在 が う か が わ れ る が 、 地籍
G
図を検すること陀よって越知町のほほ全域と御薗町の森ケ坪・舟田
-井場・山ケ鼻の各小字で明確に認めるととができる
そしてとのように東偏の度合のすく左い地割が山ケ鼻の商の御薗町
地割を示したもので、一長地型が原形であったとみられる。 ところで
④
四
条
三宅町の地割(ー部)【凡例は国3iて同じ〕
図 6
久を結ぶ線というととができる。との東限線は地形のうえからみる
3町
図 7
.
このうち洪積台地をぬうようKのびる谷底平野を除けば、現在津市
の一身出・大古曲目・上津部白・中野・平野・豊野(以上、旧一身田
町)・窪田(旧豊里村)(ノ一各大学げん分属してなり、その主要部は既
に耕地整理が実施ぎれて川口プミぞとで耕地整理前の小字地名を検し
(国 7 参 照 )
一身田に八条という条地
一身国)・八之坪(大古曲目)・ 一 之 坪 ・ 八 之 坪 ( 以
てみると、壱之坪・弐之何-三之坪・四五之坪・六之坪・七之坪・
八之坪(以上、
c
上、窪田)
οrでうま坪池名ばかりでなく、
名さえ見出寸〆ととができる
- 7-
身田村総図
旧
国8.
埋
~目水路
道路
~
一・ー小字界
ー..一村界
ぽ六町である。従って
坪の延長上だあり、
h
方 函 池 割 と なって凶る。 し か も と の 一 之 坪 江 二 身 置 の 壱 之 坪 ? 六 之
は 多 く 一 町 左 い し 二 町 の 方 形 を 左 し 、 一汗池名は壱之坪から六之坪ま
が施行されよ と考えられ
とのうちまず条塁関係地名が多い一身田についてみると、各小字
で 北 北 西l 一 清 甫 東 方 向 に 相 接 し な が ら 連 続 し 、 六 之 坪 か ら 八 之 坪 ま
一之坪の甫西に窪田と犬十白曽にま た が っ て 数 町 歩 の 面 積 を 占 め る へ
一心問認はほ
一 之 汗 西 側 字 界 と 壱 之 坪 西 側 字 界 Lr
でとれと直交する方向に同じく相接して連続している。 とれば明ら
ノ坪も多八オ同じ条皇界議げ一引った坪地名であろうが、耕地整理前ろ
母パ地名から知られる一、一六六度 W で 千 急
L
そ の 条 呈 界 線 の 方 位 は N 六 六 度 W であ一る。
一身白から窪田の東部にかけて同一の条里
かげ比条里施行地たることを思わせ、 坪 付 も 千 鳥 式 と 考 え ら れ る が 、
地割は明らかで三い
残念左がらと ζ犯は耕地整理前の状況を示す地図としては明治八年
小字内部の地割
式坪付をもっ条豆地割は、志登茂川流域の沖積低地のどのあたりま
作成の一身白総図へ図8参照)しか残ってからず
凡なける坪地名だっ
は知るととができない。次に一身回以外の大字 r
2uOf"'l
図 9 蔓聖子・窪田・平野・大古曽・中野・
上津苦 s
E
Eの地割(一部)
凡O
I
H
ま図 3Y
て同じ。 C - Fは
相対的位置も考空してある〕
みられる小字界や道路・水路の直
で確認されうるでるろうか。
ず
亡
まず一身国だついては、国8r
8-
は
い て み る と 、 窪 田 の 一 之 坪 は 幅 約 一 町 の 長 方 形 を 乏 し て な り 、 付近
の 地 割 も 第 9函 の B 陀一示すごとく幾分乱れつ一つも長池型を士す一町
k=:o=-.--=-"=自司E
刷
・d
o
交状態からも
v
東西南側の大字界直線部付条界線に、↑同制の
登茂川河岸や専修寺の寺内町たる高田を除いて条
土U
皇の施行は明瞭で、
それは里界線にるたるとい山える。窪田では、西部から中央部にかけ
て洪積台地が張り出して日いるとともあって、前記の一之汗の付近 K
J
信号の D は
わ
tず
しか条里地割は確認でき左い。大古記同一では、低地内 氾濫原げん一実すふ中
J
部や東部の耕地整理前の地籍置が部分的だしか残コてらいす、
かげ凡宮縄手と深田で条塁地割らしきものが検出されゐ
深田の地割で、中央を貫︿道路?と北側字界との間隔はほぼ一町あり、
地籍図いが
長地裂の地剖討が卓越して回る。標高二メートル以下心海岸平野を左
す中野でも、前記の深田に近い北西部を主げ一耕地整理前
一遠心条豆地
/¥モ平仮名の一
ハ出いっ
同
一
日4
いろは
w
を付した坪地名の存在も条里の施行と関係
μ
つ凶てまとめ
rL
一汗付史料は今りととろ見出せな凶が
以上、志登茂川流域の沖積低地忙なける条里地割
れば次のように 4
ふる。事
その坪付は北西南陀はじまって南西隅げ凡なわる
地名が一身包げ一集中的に残存し、 N 六 六 度 W の 条 皇 が 施 行 さ れ た と
ーとは疑 Mを い 。 ②
千白ニマ式を左し、条里界線も復原できるが、現在確認しうる条里地割
の残存範毘ば一身田の大部分と窪田の東部のみである。
奄芸郡における欠点呈の特徴
ととでは卒論の一結一びとして奄芸部の条里につ凶ていくつかの一回か
まず,、 中 ノ 川 流 域 の N 二 四 度 E の 条 里 地 割 と 志 登 茂 川 流 域 の N 六
廃 棄 さ れ て し ま っ て い て 、 深 田 の 地 割 がN 六 六 度 w
w
割 の 一 部 在 の か さ え 確 認 で き 左 い っ 図 9 のEMf 二ノ一好 dの一設かと
一
一
思わせる佐之汗の付近の地割を示したものであるが整然上﹁正〆二
六度W の 条 里 地 割 と が 、 奄 芸 郡 条 里 と 凶 う 名 の も と に 統 一 的 に 把 握
i
設
えだ呈界線陀ついては、
二町一同へずらせると五之
一 昨 ・ 六 之 浮 を そ の ま ま の 数 字 で 前 記 の 千 鳥 式 坪 付 K合 致 さ ぜ る と と
界線﹁二致する
町。町境が条界線﹁弘、越知町の西浦と大泥・竹ケ鼻との小学界が里
lf)
解するととにより六之浮ともども、北西開閉陀はじまって南西隅
ば検出
に} f t } U
になわる千庄司式坪付げん合致させるととができる。また越知・御薗両
界とー一ハ之汗の東側字界直線部が条里線と一致し、五之坪を一五坪の
前者に後者の条呈界線を延長してみると、徳田町の五之坪の東側字
であるばかりで在く、 坪 界 線 さ え も 実 は 一 致 す る の で あ る 。 そ と で
らその特徴を明らかにしてみたい。
町方函の地割一歩フロックがるるとは U えず、 かつまえん竹一之汗自体も三
ρを付!-rァベ
しうるか否かについて検討してみると、方位の点で両者が結局同一
士
平
川市川で雪るぽか、徳田・耕一知一向町の町境や越知町内のいくつかの小字
9
ーγー
- 一 三 ・ 二 三 ・ 三 三 の い ず れ の 数 字 の 坪 だ 解 し て もN 六 六 度 W C条
里の同片付に合致し左い。また上津部回では片仮名のイロ
J
えにも
9HU
に接?る豊野では方形の地割ブロソクが丸ノられ¥久口プヨッ
、一凶
の
ロブクはほとんどき
JJ
割はあたかも長地型を在しているかのようでゐ一ヴ心
示すごとく憶が一町在いしその整数倍ををす
地
~
エ
工、
一
一
寸
寸
﹂
坪 地 名 が 全 小 字 に つ け ら れ て い る が 、 函 QU F Kその一訟の一地引 ULL1)
一
の
一 示 す ご と / ¥ 条 塁 と は 関 係 が 左 Uf 一身罰の一問実 陀 祭 ﹃ ぺ 標 高 一 メ
ア
ートル以下の海山洋平野ーと左っている平野でも明瞭云条主
できず、例えば条里縁を左ず一身田の一一東側文字界
叫
昼 目 の あ た り で も 図 9のC E不すよう左地割で点 ヴ心。さらに一三自の北
-ら
二
界も塁界線
中ノ川・
設する。
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があるものの
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呈司什糠三つ
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イ﹂立まな十五リ
のムポ地
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心霊茂川両涜 攻 て み ら れ る 条 塁 地 討 が 奄 芸
11
4
を なして円たことは認めて
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なな、 都 内 に は こ の 夜 一 一六呈のほか、 前 述 心 三 宅 町
郡 統 一 条 里 と も い う べ き 同 一 D諸 行
よいであろう
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沼二、郡家竣
をみて九ノるえめ、条塁の皆川田汁
ud今後の調査謀議!こしたい
り
て
の
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の条塁型地割のように局地的な条霊地割や条豆沼一池討が士シ残存し
ているであろうが
次げ 奄芸郡統一条塁と郡家し乙の
線 を 郡 家 竣 想 定 地 の 付 近 に 延 長 し て みz
q七(哲一
Jば か り で JZJ¥ 七 条 八 条 関 心 条 界 線 、 か 郡
と条里が同じ方位を一ボ F
家域活側境界をなす西里の西側字界のわずか一江頭一頭を通っているこ
を芸部
10
援と合致する
5万分の l地形固によふ)
とが知られる。そとで郡家域付近だなハて条塁。
小字界や道路などを探してみると、わずか三一自室内の道路芯一部が
一ード三宮界へ
等韮韓 2胆 喫 属
謂 北 方 向 の 坪 界 線 と 、 星 中 南 部 の 室 得 。 一 認 が 烹 西 方 向 ゐ 坪 界 線 iy
、
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それぞれ合致するのみでちる一リ従って、前-一守定)た郡家域を条里
奄芸郡の条呈と郷(地形なよび土地利用は明治期作成。
11
図
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を芝訳家と条呈
図 10.
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主
主
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品押水路
一恒道路
B の方位をとっているととは、両者の関係を考えるうえで大い陀輿
た 奄 芸 郡 家 の 郡 家 域 が 、 真 北 の 方 位 を と ら ず 、 条 里 と 同 じ N 二四度
んだ、 そ の 方 位 を 制 約 す る も の の 見 当 ら な い 台 地 上 に 設 け ら れ
Mと い え
の坪界線κ合 致 す る よ う ず ら せ る の は 、 少 左 く と も 南 北 線 に つ い て
は異なり北の旧河曲郡では坪付同様陀条を上流より下流に向って
一致している。 と れ に 対 し て 条 ・ 里 の 呼 称 法 は 奄 芸 郡 の 北 と 南 と で
は じ ま っ て 下 流κ向 い 上 流 右 岸 寄 り だ 終 る 千 鳥 式 を と っ て い る 点 で
っ て 東 向 し た り 様 々 で あ る と は い え 、 と も K河 川 の 上 流 左 津 寄 り に
あたるかげ札よって、 南 西 隅 陀 は じ ま っ て 北 向 し た り 北 西 隅 に は じ ま
次げ止条里の坪付は、条皇施行地が伊勢湾げに対して需にあたるか西κ
さらげ札条塁と古代の郷との関係についてみると、郡内六郷のうち
神三郡では条を下流より上流に向って数えたとされている。従って
数 え 、 里 を 左 母 寄 り よ り 右 寄 寄 り 陀 向 っ て 数 え た ら し い が 、 南の旧
04
塩屋・黒田・窪田の三郷には遺称地としてそれぞれ鈴鹿市稲生町
条・里関係地名が極めて乏し︿、他都の例をもとた推測せざるをえ
る
は適当でなく、東西線についても妥当とすべき摂拠陀乏し
味深い。
塩屋集落、河芸町大字北黒田・南黒田、津市大字窪田があり、回井
かκ ついては明らかでな︿、 か つ 前 述 の よ う K局 地 的 左 条 豆 地 割 や
南西部とされているよ(ぷしかし各郷の郷域がどの範囲 K及んで ωた
地としていたと考えられ、服織神社の出社地は河芸町大字久知野の
後者は同名の式内社たる服織神社のあったあたりを、 それぞれ中桜
-同栄出張所・津市役所・同一身回出張所・津地方法務局・同鈴鹿
先 生 、 現 地 で の 調 査 Kあ た っ て 便 宜 を 計 っ て い た だ い た 鈴 鹿 市 役 所
はじめ、発表当日の座長として懇切な所見をして下さった服部昌之
し て い る 。 本 稿 作 成κあ た っ て 御 指 導 い た だ い た 藤 田 附 謙 二 郎 先 生 を
本橋は一九七五年の歴史地理学会第一八回大会での発表を骨子と
くるといえよう。
左い奄芸郡の場合、その条塁呼称法の解明はますます困難に在って
ζれ ら 四 郷 の 中 核 地 を ほ ぼ 知 る ζと が で き る 。 残 る 奄 芸
郷も同名の式内社たる多為神社が津市山田井の西宮妃比されている
ととから、
条塁型地割も未調査左ため、奄芸郡統一条里のうち中ノ川流域の部
出張所の関係職員の方々陀厚︿御礼申し上げます。
・服部の二郷 K つ い て も 、 前 者 は ぞ の 郷 名 か ら み て 郡 家 の あ た り を 、
分と塩屋・奄芸の二郷が、志萱茂川流域の部分と窪田認がぞれぞよ
対応するよう陀みえるものの(図日参照)、詳しい検討は差控えざ
九 七 六 ) の 出 版 を 知 っ た 。 本 書 で は 旧 奄 芸 郡 の 条 里 K ついても概要
︹ 追 記 ︺ 成 稿 後 、 倉 田 康 夫 ﹃ 条 皇 制 と 荘 園 ﹄ (東京堂出版・
最後げ比奄芸郡の条里を伊勢田の他都のそれと比べると、奄芸郡
がふれられているが(五二一J 五 五 頁 ) 条 皇 の 復 原 な ど 詳 し い 調 査 報
るを得ない。
のように主たる条里施行地が二流域冗分かれている陀もかかわらず
告では左い。
(向品
郡全体として統一的左施行が認められるのは珍しく、多くの郡では
同じ流域の沖積低地にあっても施行単位がいくつかに分かれて凶る。
- 11 -
一九五八
所収)
藤田附謙二郎ほか﹁伊勢国府の研究﹂
(抄報)﹄
﹃史症と美術﹄二七九、
﹁雪府の歴史地理学的研究
一九五七。
t
﹃皇学館大学
藤岡・西村﹁歴史地理的 r
ーみた鈴護市広瀬台地の初期涯史時代
遺跡群﹂
一九七回。
司歴史地理学紀要﹄
藤本利治﹁古代東海道榎津駅家の位置について
紀要﹄
倉田康夫﹁伊勢国員弁川沿埠の条里遺構
一九六一。
一九五五、
﹃眠法史地理一
ヱ
(
日
﹁
ワ
、
一九一ハ九、では、 中 位 段 丘 と し て い る ( 三 二0 1二実)。
﹃大阪府立大学・歴史研究﹄
郡家と郡脅の用語の定義は、次の論文によった。
f
足利健売﹁郡街の境域陀ついて﹂
一九六九
足利健売によれば、郡家域は方六町、郡街域は方二町が標準と
四町の郡家域が想定されている。
藤岡謙二郎編﹃佐渡の歴史地理一古今吾首院、
八二一貝(足利健一元執筆)
一
一
一
、
一九七三。
日野尚志﹁多執鳴の国府・郡家について﹂
研究
一九一頁乙
日野山同志(壱岐鳴の国古川・郡家について一
一九七六つ
一九七二復刻
﹃佐賀大学教育学部
﹃史学研究﹄
一九七五、 の 開 発 の 項 の 基 準
自 動 一 義 ﹃ 河 芸 町 の 墜 史 ﹄ (河芸町教育委員会・ 一九七三)二
前掲互
によった。
史地理総説・古代続﹄土白川弘文館、
条里地割と条主型地到の清語の区別は、藤岡謙二郎編﹃日本産
地形区分は司一二万五千分ノ一土地条件図・津留幅﹄陀ょった。
﹃特選一汚名喋﹄
一九七一、六六 1
されて出一ゐが(前掲亙)、辺境の急部 K つ い て は 方 三 町 在 凶 し 方
1
主
ー匝貞﹀
他認の条呈については前掲互の諸論文によった。
12 一
藤岡謙二部﹃先史地域及び都市域の研究﹄柳原書一底、
一九六0
0
一九七O 、
第四紀総合研究会編﹃百本の第四系﹄地学団体研究会専報一五
O
一七回1六頁。
﹁立命館文学﹄
﹃出京大学文学部紀要=由の
仲見・倉田﹁伊勢国鈴鹿川沿ぎの条里制
一九六八。
倉田康夫﹁条里制遺構の一一形態﹂
了 回 、 一九七0
0
藤岡謙二郎編﹃畑一谷の摩史地理﹄蘭童三男、
八頁(谷岡武雄執筆)
八九の泊、
その訓みは古代にないても
﹃三重県遺跡地図﹄三重県埋蔵文化財調査報告四
近代の俗称はアングであった。
/
又
アムへ・アムキ・アキと様々で
倉田康夫﹁伊勢国宮川沿山一汗の条里遺構げについて﹂
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