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寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 ―2002 年度大学会館(室町殿跡)発掘調査に伴う事例報告― 藪田みゆき はじめに 2002年度、現同志社大学室町キャンパス寒梅館地点(京都市上京区八幡町)において大学会館改築 計画に伴う発掘調査が実施された。その際に7点の歯ブラシ形骨加工品が出土したが、2005年に刊行 された同地点の発掘調査報告書には掲載されず、未報告遺物となった。 その後、2010年度に烏丸通りを挟んで隣接する同大学今出川キャンパス良心館地点にて実施された 相国寺旧境内遺跡発掘調査では17点の歯ブラシ形骨加工品の出土をみることとなる。この他にも江戸、 大坂などの近世・近代の都市遺跡において多くの類似する出土事例が報告されている。 これらをふまえ、今後の調査研究に寄与するため先述の未報告遺物である歯ブラシ形骨加工品7点 を資料紹介の形で報告する次第である。 1.調査地と出土トレンチ 調査地は、烏丸今出川交差点の北約100mに位置し、同大学今出川キャンパス良心館とは烏丸通 りを挟んで東西に向かい合う(図1)。この2002年度の発掘調査により、室町幕府12代将軍足利義 ★(DKK) ★(DKM) ※この位置には2012年 10月に同志社大学良心館 が竣工している。 図1 調査地点地図(1/4000) 54 同志社大学歴史資料館館報第16号 図2 調査トレンチ配置(同志社大学歴史資料館館報第6号より転載、1/1000) 晴が16世紀半ばに再建した「室町殿(将軍邸宅)跡」の一角と推定されている(同志社大学歴史資料館 2005)。 トレンチの配置は(図2)に示した通りである。上立売通りに面した北地区(DKK)と南地区(DKM) の南北に区分したうえで調査が行われた。本稿で報告する資料は全て南地区から出土しており、出土 したトレンチの番号は3、9、14である。 北地区からは16世紀中頃の石組み遺構が検出され、南地区からも同じく16世紀中頃の柱列が検出さ れた。これらはいずれも前述の足利義晴再建室町殿跡との関連が指摘されているものである。また、 特筆すべきものとして、北地区から近世の鋳造遺構が、南地区から近世初頭の大土坑がそれぞれ検出 されている。 2.寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 本稿では、歯ブラシ形骨加工品を7点紹介する(図3)。全て南地区から出土した。完存する資料 は3点で、柄部のみ残存する資料は4点である。完存する3点はいずれも台部に植毛孔を有するが、 毛は腐朽して残らない。また2、3、6、7はそれぞれ柄部の腹面に文字の線刻が施される。使用素 材は主に牛馬の四肢骨であると考えられる。なお、撹乱層などから出土しており全点が帰属する遺構 をもたず、明確な帰属年代は割り出せない。 まずトレンチ14から出土した2点を報告する(図3−1∼2)。 1は、長11.6cm、幅0.8cm、厚さ0.4cmを測る。トレンチ14の撹乱層から出土した。完形である。 台部には3列千鳥状になる植毛孔が空けられており(植毛孔A列)、その列ごとの穿孔個数は向かっ 55 寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 2 1 3 4 5 6 0 5 7 1:2 図3 寒梅館地点出土 歯ブラシ形骨加工品実測図(S=1/2) 56 10 ㎝ 同志社大学歴史資料館館報第16号 て左から〈15/15/15〉個と同数である。さらに上部端側面から3 条の穿孔が施されている(植毛孔B列)。この植毛孔A列とB列と はそれぞれ台の内部で垂直に接続している。また、柄の下部に径 2.0mmの穿孔が1点残り、乳白色の棒が通されている。この棒の 両端は穿孔の直径より大きく、それにより棒が脱落しないように なっている。柄の断面はかまぼこ形である。 なお、1にみられる植毛技法であるが、これは二つ折りにした 毛をA列の植毛孔にそれぞれ植え付ける一方で、内部で接続する B列の植毛孔に別糸(銅などの金属線の可能性もある)をミシン縫 いのように通して行うものである。これによってA列の植毛をB 列から通した糸あるいは金属線で絡めとりながら台部に固定して いくことが可能になる。毛は遺存しないが、使用時はこのA・B 列を用いた植毛技法による植毛がなされていたと推察する。以降 は(斉藤2006)の研究に従い、 「側穴型」の植毛技法と称する。 2は、残存長7.8cm、幅1.2cm、厚さ0.5cmを測る。トレンチ14 の北半分の西壁清掃時に出土した。上下端を欠損する柄部である。 上半分および断面から観察される芯は被熱により黒変している。 柄の断面は扁平な楕円形である。柄部腹面中央に「 萬歳 ライオ ン齒磨本舗發賣」の文字の線刻が確認される(図4)。 図4 線刻「 萬歳 ライオン齒磨 本舗發賣」 これは小林富次郎商店(現ライオン株式会社)が販売していた 骨製歯ブラシの商品名である。 『ライオン歯磨八十年史』による と、 「萬歳齒刷子」が発売されたのは大正3(1914)年であり、その 商標は大正12(1923)年の秋に「ライオン萬歳歯刷子」へ改められ るまで用いられている。よって、2のおおよその使用時期は大正 3年を上限とする大正年間に限定されるといえる。 なお、大正6(1917)年8月19日の東京朝日新聞に、2と同一 種のものと思われる「萬歳歯刷子」の広告が掲載されている。参 考資料として最終頁に掲載したので参照されたい。 次にトレンチ9から出土した1点を報告する(図3−3)。 3は、残存長8.2cm、幅1.3cm、厚さ0.6cmを測る。上部を欠損 する柄部である。遺物ラベルには「トレンチ9東半分」とあった。 柄部腹面中央に「[競ヵ] □ ! 6」の線刻が確認される (図5)。この線刻は歯ブラシの商品名や型番を示す可能性があ る。□の部分は“弨”に似た漢字である。弓へんのように見える 部分は、 「馬」の異体字、もしくは簡体字の可能性がある。よって 57 図5 線刻「[競ヵ] □ ! 6」 寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 中国語である可能性も否定しきれない。柄の下部に径3.0mmの穿孔が1点残る。また、柄の断面はか まぼこ形である。 次にトレンチ3から出土した4点を報告する(図3−4∼7)。 4は、長13.9cm、幅1.1cm、厚さ0.65cmを測る。完形である。 トレンチ3の撹乱層から出土した。この層からは近代以降の手泥急須、明治・大正期の青磁皿が出 土している。台部の植毛孔A列には3列千鳥状に植毛孔が空けられており、その穿孔個数は向かって 左から〈17/18/17〉個である。さらに上部端側面の植毛孔B列に3条の穿孔が施されている。よって側 穴型の植毛技法である。また、柄の下部に直径3.5mmの穿孔が1点残り、その周囲が水色に染まって いる。柄の断面はかまぼこ形である。 5は、長9.1cm、幅1.0cm、厚さ0.4cmを測る。4と同じくトレンチ3の撹乱層から出土した。植毛 以外はほぼ完存する。全体が水色に染まっている。台部の植毛孔A列には4列千鳥状の穿孔が施され、 その穿孔個数は向かって左から〈(15)/16/16/15〉個である。さらに上部端側面の植毛孔B列には4条 の穿孔が施される。よって側穴型の植毛技法である。他の完形資料である1、4と比較すると全体に 占める柄部の長さの割合が少なく、台部と柄部の長さの比率は同程度であることが特徴といえる。柄 の断面は角を落とした長方形状である。 また、背面の柄下部に銀色の金属板が釘によって固定されている。金属板は現在も釘を軸にして回 転させることが可能であり、舌こき(舌苔除去具)であるとみられる。この背面の舌こきはわずかに 内側に向かって屈曲しており、さらに腹面の柄下部には、かつての付属物の存在をうかがわせる回転 擦痕が認められる。 これらから想定される舌こきの復元案として、一本の金属板をU字形に折り曲げ、両端をそれぞれ 柄下部の腹面と背面に柄を挟み込む形で固定し、使用時には万能ナイフのように柄部から舌こきを引 き出して屈曲部で舌苔を掻きとるように用いるというものが考えられる。なお、背面柄下部の円弧状 の切り込みは、舌こきを使用する際に柄から引き出すための手がかりとして設けられた可能性がある。 6は、残存長8.9cm、幅1.0cm、厚さ0.5cmを測る。4、5と同じくトレンチ3の撹乱層から出土した。 図6 線刻「TRADE[絵柄]M[剥落で読み取り不可] QBS」 図7 線刻「[O ヵ]SAKA □ ハイ□イ」 58 同志社大学歴史資料館館報第16号 柄部のみ残存する。柄部表面中央に「TRADE[絵柄]M[剥落で読み取り不可] QBS」との線刻があ る(図6)。絵柄は盾の中に「K」があしらわれる意匠である。読み取れない部分の線刻は「ARK」すな わち「TRADE MARK」、商標の意であると推測する。柄の下部は水色に変色し、また径1.5mmの穿 孔が1点空けられている。その穿孔には脱落しないように両端が潰された釘が通されており、釘は柄 部背面で舌こきの残骸と思われるセルロイド片を固定している。柄の断面はかまぼこ形である。 7は、残存長11.2cm、幅0.95cm、厚さ0.6cmを測る。台部は欠損し一部しか残らない。遺物ラベル にはトレンチ3の第3層から出土したとある(1)。台部は割れ口から3列千鳥状になる植毛孔A列と 3条の植毛孔B列とが確認され、他の資料と同様に側穴型の植毛技法であることがわかる。柄の断面 はやや台形に近い楕円形である。柄部腹面中央に線刻が施されている。字が非常に薄く断定はできな いが「[O ヵ]SAKA □ ハイ□イ」と読める(図7)。この線刻に関しては、明治維新以降、特に大 阪において海外輸出用の歯ブラシ製造業が勃興していたことを指摘するに留める。 また、7の特筆すべきこととして、柄部に意図的な彫刻が施されている点が挙げられる。柄の腹部 左側面に斜め格子状の刻みが施されており、その刻みのすぐ上には楕円状のくぼみが1点彫り込まれ ている。なお、この斜め格子状の刻みと隣接する楕円状のくぼみは類例が報告されており(東北大学 埋蔵文化財調査委員会1992、同1999)、舌こきの機能が指摘されている。さらに柄の腹面上方から左 側面上方にかけては楕円状のくぼみと2mm大の穿孔が2点ずつに加え、4本の直線がそれぞれある 種の規則性をもって配置、彫刻されている。同様の彫刻が背面下方から背部左側面にかかる位置にも 施されている。これに関しては目的、機能ともに不明であるが、いずれにせよ、何らかの明確な意図 をもって施されたものであることは確実である。 3.寒梅館地点の土地利用 これらの資料の帰属時期を考察する一助として、本項では調査地点の近世近代の土地利用を概観する。 慶応4(1868)年に刊行された「改正 京町御絵図大成」によれば、現在の寒梅館地点である御所八 幡町(以下八幡町と表記する)に公家の入江家が居所を構えていたことが確認される。当地における 表 1 御所八幡町における近世以降の土地利用 年 事項 慶応 4 (1868) 御所八幡町地点には公家・入江家が居所を構えている 明治 2 (1869) 同年までは確実に入江家の存在を追うことができる 明治 23(1890) 同志社、御所八幡町の土地を購入 明治 27(1894) 「豫備學校」の敷地となっていることが確認される 大正 11(1922) この時点で当地には 5 棟の中学校寮、舎監室、食堂、浴場などが置かれている 昭和 17(1942) 水泳場(プール)が烏丸通に面して設置される 大学会館建設まで存続 昭和 40(1965) 旧大学会館竣工 寒梅館建設まで存続 平成 14(2004) 寒梅館竣工 59 寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 図8 同志社略図(大正十一年度報告より転載、加筆) 入江家の存在は、明治2(1869)年刊行の「京町御絵図」まで確実に追うことができる。 同志社が八幡町の土地を購入したのは明治23(1890)年のことである(橘1998)。これは明治22 (1889)年に設立された同志社予備学校(明治29(1896)年に廃校、同志社尋常中学校となる)のためで あり、購入の4年後の『同志社明治廿七年度報告』に掲載されている敷地地図では八幡町地点に「豫備 學校」の表記が認められる。これ以降の同志社の記録に残る八幡町の土地利用をまとめたものが表1 である。 同志社はその基となった同志社英学校の設立当初から寮制度を採用しており、英学校開業から15年 後の明治23(1890)年には生徒数の増加に伴って第一寮から第十二寮まで12棟の寮が烏丸今出川上ル 西入など当時の敷地内の各地に設けられていた。八幡町地点には西側北寮として「原(六郎)氏奨学寮」 がおかれていた。 明治36(1903)年夏に、原氏奨学寮と隣接する旧予備校の校舎を修理し、 「前寮」 「後寮」と中学校一 年級の教室を建設している。明治末期から大正期にかけて烏丸通り以東の同志社敷地内にあった各寮 は大学拡張のために「前寮」 「後寮」地点へ移動し、その結果、これら5棟の寮舎および食堂や管理室 が八幡町地点へ集約されて「北寮」と総称されることとなった。 『同志社大正十一年度報告』の略図から 八幡町地点に寮がひしめく様子がうかがえる(図8)。 『同志社百年史』を引用すれば「北寮が普通学校 生徒二百数十人を収容する大寄宿舎となった」のである。 また、戦時中の昭和17(1942)年6月には寮の一部を取り壊し、水泳場(プール)が設置された。昭 60 同志社大学歴史資料館館報第16号 和40(1965)年には創立90周年記念事業として八幡町地点に旧大学会館が竣工されることとなるが、 その建設計画当時まで当地には旧北寮の建物と先述のプールが存在していた。旧大学会館は2002年度 の改築計画に伴って取り壊された。2004年に寒梅館が建設され現在へ至るが、この寒梅館建設時の発 掘調査で出土したものが本稿の資料である。 小結 本稿で扱った7点の資料(図3)はいずれも出土層位との結びつきをもたず、形態によってのみお おまかな帰属時期を判断する必要がある。ここでは前項の内容と舌こきによって判断を試みたい。 まず前項の土地利用の状況から考察すると、これらの歯ブラシ形骨加工品は近世以前のものではな く、近代以降の明治半ばから大正、昭和期にかけて御所八幡町地点で存続し、 「北寮」と総称された同 志社各校の寮の所産であるといえる。図3−2の「萬歳歯刷子」の販売年代と寮の存続期間が重なる ことも一つの傍証となる。 次に舌こきから考察する。資料中において、舌こきが付属しているものは図3−5∼7の3点(2) である。 『日本ブラシ業界史』 (1968)によれば、日本における西洋式の歯ブラシが口内清掃用具として 民間に普及し始めるのは明治20年代後半ごろからであるといい、舌こきが歯ブラシに付属するように なったのは明治40年前後とする。よって資料のうち舌こきが付属する3点に関しては明治40年前後を 上限と暫定的に述べることができそうである。また、歯ブラシ形骨加工品はその使用目的上、消耗品 であり販売・流通年代と使用期間はそう乖離しないと考えられる。 以上から、本資料のおおまかな帰属時期は、寮の存続期間とほぼ重なると結論付ける。なお、本資 料を概観すると、その形態は様々であるが最大幅は1cm±2mm、最大厚は0.5cm±1mmの範囲内 で推移している。このことから、材料骨の分割などの製造ライン上で生じる規格性が示されるといえ よう。 おわりに 以上、寒梅館地点で出土した歯ブラシ形骨加工品に関しての資料報告を行った。 全7点と少なく、また遺構からは帰属年代が判別できないものも多いなど、断片的な資料ではある が、今後の類例の増加や周辺遺跡の調査の進展によって、これらの資料の有機的活用が期待される。 なお、寒梅館地点の近世・近代の土地利用に関して、京都市歴史資料館の井上幸治氏および同志社 大学社史資料センターの杉原悠三氏にご教示を賜りました。萬歳歯刷子の広告掲載に関しては、ラ イオン株式会社コーポレートコミュニケーションセンターの藤掛康子氏にご理解とご配慮を賜りまし た。末筆ながら記して感謝申し上げます。 注 (1)なお、2005年の報告書の該当トレンチの記述において第1∼第3層への言及はなされていないが、歴史資料館が保管して いる調査当時の遺構概念図で第3層の存在を確認できた。 61 寒梅館地点出土の歯ブラシ形骨加工品 (2)ただし『大阪の刷子工業』 (1931)によれば「内地向製品の中で舌搔を付けるものはセルロイド棒又はアルミニユーム鋲を柄 の穴を舌搔の穴とに入れ、୩者を結合する」 (原文ママ)とあるため、図3−1の資料に付属する乳白色の棒は舌こきを付 けるために用いられた、すなわち3−1も舌こきを有していたという可能性が指摘できる。 参考文献 大坂小間物卸商同業組合1938『躍進小間物業界』 大阪市役所産業部調査課1931『大阪の刷子工業』 学校法人同志社1979『同志社百年史』通史編一∼二、資料編二 河野仁昭1985『キャンパスの年輪―同志社今出川校地―』 京都市編1974『京都の歴史 第7巻 維新の激動』 小林商店1935『歯磨の歴史』 斉藤進2006「歯磨き考古学事情 : 楊枝から歯ブラシへ」 『喜谷美宣先生古稀記念論集』所収 鋤柄ほか2003「室町殿跡(同志社大学旧大学会館地点)の調査成果について(概要報告)」 『同志社大学歴史資料館 館報 第6 号』所収 日本ブラシ新報社1968『日本ブラシ業界史』 橘愛治1998「地図で見る同志社の土地―明治8年から明治27年まで―」 『同志社 談叢』第18号所収 田中泰彦編1975『近世京都絵図十種』 同志社大学歴史資料館編2005『学生会館・寒梅館地点発掘調査報告書』 東北大学埋蔵文化財調査研究委員会1992『東北大学埋蔵文化財調査年報4・5』 東北大学埋蔵文化財調査研究センター 1999『東北大学埋蔵文化財調査年報11』 中山榮之輔1974『江戸明治かわらばん選集』 朝日新聞記事検索データベース聞蔵Ⅱ (参考資料) 大正6(1917)年8月19日の東京朝日新聞に掲載の萬歳齒刷子の 広告 朝日新聞記事データベースより引用 62