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批評と紹介

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批評と紹介
批評と紹介
東
洋
ガウタム・セングプタ, アバ・ナライン・ランバ編
歴史的文化財の管理人―インド考古調査局の150年
石 川
寛
学
報
インドの歴史・文化研究のパイオニア的存在であり, 遺跡や歴史的文化
財の修復・保護にも中心的に取り組んできたインド考古調査局
(
) が, 2011年12月に創立150周年を迎えた。 本書はそ
の歩みを振り返り, 今後の展望となすべく記念出版されたものである。 5
つの論考と数多くの写真で構成されている。 写真は論考中に掲げられるも
のに加えて巻末に [ポートフォリオ] としてインドを東西南北に分けて示
される。 それらはおもに考古調査局のアーカイヴス関係の資料室にアルバ
ムの形で篋底深く眠っていたものからとりあげられている。 加えてロンド
ンの旧インド省図書館所蔵で現在はブリティッシュ・ライブラリーのコレ
クションとなっているものからも補われている。 いずれもこれまで目に触
れる機会の少なかった貴重なものである。
5つの論考はそれぞれ別個の問題を扱ってはいるが, 回顧を中心とする
本書の性格から, 言及されている歴史はほとんど重なっているため, 共通
する部分の概略を紹介しながら, そのうえで各論者が指摘している問題と
それに関連する重要な写真をとりあげて論評を加えることにする。 論考の
執筆者とタイトルおよびテーマは以下のとおりである (通し番号は便宜上
評者が付した)(1)。
1. ガウタム・セングプタ, アバ・ナライン・ランバ 「インド考古学の
初期の探査とインド考古調査局の創設」
インド考古調査局設立に至る経緯とその初期の活動をふり返る。
録・建築物の石膏による型取り・記録写真」
第
九
十
七
巻
発掘や保存事業の成果がどのように記録にとどめられ, 公表されてきた
二
〇
四
2. アバ・ナライン・ランバ 「歴史的建造物の地図作成:初期の文書記
051
かに焦点を当てる。
批
3. ガウタム・セングプタ, アルンダティ・バネルジー 「インド考古調
査局の最初の100年」
評
と
インド考古調査局の事業の展開を総局長の任期ごとに回顧する。
紹
4.
介
石
川
・ ・マニ 「インドの過去を明らかにする:発掘と刻文学, 博物
館と歴史的建造物」
歴代の総局長の事業を総括したうえで, 発掘を中心とした成果とその歴
史研究への貢献を先史時代と歴史時代に分けて検証する。
5. ジャンフウィージ・シャルマ 「インドにおける歴史的建造物の保存―
150年の回顧」
150
インド考古調査局が取り組んできた建造物保存の在り方を検証する。
インド考古調査局の歩みは, 軍事エンジニアとして赴任していたA・カ
ニンガム
が, 1861年12月1日に考古調査官
に任命されたことに始まる。 カニンガムは玄奘の
大唐西域記
の記述を手がかりにインド亜大陸の各地を精力的に訪れ,
仏教を中心とした古代の重要な事績の伝えられている場所の多くを現在地
に同定することに成功した。 サールナート, サヘート・マヘート (シュラー
ヴァスティー), クシナガル, ボードガヤー, マトゥラー, タキシラなど
多くの遺跡の存在がカニンガムによって明らかにされている。 [論考4]
カニンガムの調査は, 1866年インド総督J・ローレンス
によって考古調査局が廃止されたことによって中断を余儀なくされたが,
5年後に復活し, カニンガムは現在まで続く組織の最高責任者の職である
総局長
の初代に就任した。 それ以降15年に及ぶ総局長の
時代にインド考古学が大きく前進したことは間違いないが, その事績に対
しては当時から批判も少なからず存在した。 調査局の内部からは建築史の
第
九
十
七
巻
視点の欠如を指摘する声があった。 また, 考古調査局の最初の10年間の事
業は発掘とその報告の記録がほとんどで, 遺跡の保存は公共事業局
のエンジニアに委ねられていた。 そのうえ小
規模な遺跡は各地方政府の管轄とされて考古調査局は直接関与していない
二
〇
三
ことからも分かるように, 調査の主軸をどこに置くか, 発見・発掘された
文化財の保存にどう取り組むかなどの諸問題に対して一定の方針が確立さ
052
れないままにその事業が進められていたことが分かる。 [論考1, 論考5]
カニンガムの踏査が北インドに集中していてデカン以南が視野に入って
いない点も問題であった。 1873年にはカニンガム主導の調査とは別個に,
デカン地方を中心とした調査のための組織である西インド考古調査局
東
洋
が設けられ, J・バージェス
がその責任者に任命された(2)。 バージェスは建築の専門家でその
学
文化財調査の中心を現存する歴史的建造物においていたので, カニンガム
とは大きく方針が異なっていた。 バージェスは1885年のカニンガムの退任
報
を受けてインド考古調査局の総局長に就任したが, 両者の見解の相違は,
後に広い地域を統括することになる考古調査局の指揮系統にも大きな問題
を残すことになった。 [論考2]
1871年に再設立された調査局は, 発掘に加えて文化財の修復や保存も視
野に入れた活動を展開するようになったが, 当時のインド大臣
のS・ノースコート
が, 調査の主眼を
歴史的建造物の詳細な測量と写真による記録およびその保存におく見解を
示したことは, 5年の中断期間に顕在化した事業の動揺が依然として収まっ
ていなかったあらわれともいえた。 1881年には, 古代建造物の専門学芸員
の職が設けられ, H・H・コール
が任命された。 コールは1860年代に軍事官僚としてインドに
赴任しており, 既に考古調査局の北西州およびパンジャーブ地域を管轄す
る事業の指揮官
としても活動していたばかりでなく,
サーンチー, ファテープル・シークリー, デリーのクトゥブ・ミナールな
どの建築の重要部分の石膏の型取りをするチームの指揮をするなど, 文化
財調査と保護の仕事で十分な経験を積んでいた。 学芸員としての任期3年
を含めたコールの調査には数多くの写真がのこされており, 総局長カニン
ガムの影がかすんでしまうほどである。 本書でも多くの写真がとりあげら
れているが, クトゥブ・ミナールのある建造物群の中でインド人スタッフ
に石膏の型取りの指導をする姿を収めた一葉は当時の作業の様子をよく伝
えている。 ([論考2] 写真5)
コールは, 文化財は博物館ではなく現地保存が優先されるべきであると
の主張を展開している。 背景に多くの遺物が利益目的でイギリス本国に持
ち去られている事情があった。 [論考1] には運搬用に箱詰めされている
ガンダーラ発掘の仏教の美術品の写真 (写真16) が掲載されている。
文
第
九
十
七
巻
化財の保存や公開に関してもほとんど無原則に近い状況であったことが分
かる。 1883年には古代建造物の専門学芸員の職も廃止され保存事業は再び
地方政府に委ねられることになった。 依然として植民地支配の中での学術
053
二
〇
二
文化事業は政治の動向に翻弄される存在であったのである。 1889年にバー
批
ジェスが総局長を退くと政府は追い打ちをかけるように中央組織としての
考古調査局を解体, 全ての責務を地方政府に委ねる決定を下した。 その上
評
で事業の継承をベンガル・アジア協会に打診したが拒否されている。 [論
と
考3]
紹
介
石
川
このような度重なる組織と事業の方針の揺らぎの中で, 例外的に刻文研
究の面では, その成果の公表がほぼ遅滞なく進められている。 1883年にJ・
F・フリート
が刻文学専門官
に, 1886年には ・フルチュ
が南インド刻文学専門
官に任命されたことが, 1890年の 南インド刻文集
1892年の
インド刻文学
,
の創刊に結実している。 両者
は現在も刊行が継続中である。 [論考4]
中央組織の必要性が再認識され考古調査局が復活したのは, 1898年のV・
A・ブルース
総督 (エルギン卿) の時であった。 インド
を以下の5つの地域に分け, そのそれぞれに考古調査官が監督者として配
され, 中央の指揮の下で歴史的建造物の保存事業が進められることになっ
た。 ボンベイ (スィンドとベラールを含む), マドラス・クールグ, パン
ジャーブ (バルーチスターンとアジュメールを含む), 北西州・中央州,
ベンガル・アッサムの5つである。 これは現在の考古調査局の地方分局と
もいうべき24の地方サークルのもととなっている。 ただしこの時点では未
だ安定した組織とは程遠い状態であり, 考古調査官も5年という決して長
いとは言えない任期が定められていた。
再興したインド考古調査局が考古学調査と文化財保護事業の主体として
永続する組織基盤を確立していくのは, 1899年にカーゾン
が総督
に就任して以降である。 ([論考1] 写真17を参照) 後にベンガル分割を強
行しようとして反英独立運動の炎熱に油を注ぐことになるカーゾンは, そ
のベンガル・アジア協会での演説の中で, インド考古調査局の中央組織と
しての機能を強化し, 調査と保存の双方に等しく精力を注ぐと明言した。
その意向は1902年に復活させた総局長の3代目にJ・マーシャル
を登用することで, 実現に向かって大きく動き出した。
第
九
十
七
巻
マーシャルは1928年まで総局長を務め, その後もアドヴァイザーとして
考古調査局に長く関わったが, 導入した最新の層位学にもとづく科学的な
方法は, モヘンジョ・ダロ, パータリプトラ, タキシラなどの発掘に大き
な成果をもたらした。 なかでもタキシラの発掘は22年 (シーズン) にも及
二
〇
一
ぶ大規模かつ綿密なものでインド考古学史に大きな足跡をしるすものとなっ
た。 また, 発掘の成果をできる限り現地で公開し研究の主体としても機能
054
する遺跡博物館
の設立を推進した。 [論考4] には, 草創期
の遺跡博物館としてマトゥラー博物館の1908年の写真がとりあげられてい
る。 玄関を収めたその場面には, 車寄せに馬車が停まり, 正面の案内板に
は開館が午前7時∼10時・午後4時∼6時, 入場無料と記されていて時代
を映す記録となっている。 また, 考古調査局の事業の速報として
洋
年報
が刊行されるようになったのもマーシャルの時からである。
1904年に古代建造物保護法
東
学
が成立
したことも大きな意味を持っていた。 建造物はたとえ私有のものであって
報
も保護指定されたものは中央政府の管理下に置かれ, 宗教的目的を別にし
て, 恣意的に利用することや許可なく発掘したり手を加えたりすることが
できなくなった。 歴史的文化財保護のための法整備の第一歩が踏み出され
たのである。
1944年に総局長に就任したM・ウィーラー
は, 考古
学部門の再編を行い積極的に発掘を推進した。 南インド・タミル地方のア
リカメードゥからはアウグストゥス帝・ティベリウス帝の帝政ローマ初期
の金貨が大量に出土し, 南インドの歴史の基準となる年代を得る成果をも
たらした。 ([論考4] 写真9参照) ウィーラーの就任後に創刊された調査
局の紀要
古代インド
ている(3)。
の第2号にその発掘報告が掲載され
1945年には外部団体として, 有識者からなる 「考古学に関す
る中央諮問委員会」
が立ち上げ
られ, 考古調査局はその適切な助言を受けることになった。 ウィーラーは
後進の指導にも意を注ぎ, のちにインドの考古学を担う若い研究者を育て
た。 [論考4] 写真7は, タキシラの発掘現場でインド人研究者を指導す
るウィーラーの姿を記している。
その後はインド・パーキスターン分離独立後の歩みとなる。 モヘンジョ・
ダロ, ハラッパー, タキシラなどの重要な遺跡はラホールに本拠を置いて
いた北西辺境州・サークルの管轄下にあったが, このサークルを中核とし
てパーキスターン考古調査局が設立されて今日に至っている。 1948年イン
ドではN・P・チャクラヴァルティ
総局長の時, ニュー・
デリーに国立博物館が開館した。 1953年から1968年までインド人で最も長
きにわたって総局長を務めたA・ゴーシュ
の時代に,
先史学部門が新たに設けられる (1958年) など時代の要請に則した組織の
拡大が試みられた。 第2次世界大戦などによってしばらく刊行が途絶えて
いた
年報
の代わりとして,
第
九
十
七
巻
インド考古学―回顧
1953 54年版が第1号として出版され, 現在も刊行が続けられて
いる。 その後約50年間のインド考古調査局の歩みの中で, 44の遺跡博物館
055
二
〇
〇
が開設され, 3677の歴史的建造物が保護すべき文化財として指定を受けて
批
評
いる。 また, インド共和国は1977年以降ユネスコの世界遺産会議に参加し,
世界遺産として29件が登録されているが, うち19件が考古調査局の管理下
にある。 [論考5]
と
紹
介
石
川
続いて個々の論考から重要ないくつかの指摘をとりあげよう。
[論考1] はインド考古調査局設立に至る前史を検討しているのが特徴
である。 デリー考古学協会 (1847), アーグラ考古学協会 (1874) といっ
た調査局成立前後に誕生した任意の民間団体が独自の調査を行っていたこ
とを丁寧に跡付けている。 植民地在住のイギリス人たちの間にインドの歴
史と文化への関心の高まりがあったことが分かる。 とはいえ総督ベンティ
ンク
(1828 35) の時には財政難に対処するためタージ・
マハルを解体して大理石を売却することが真剣に検討されたり, シカンド
ラー (アクバルの墓廟) の庭園を農地として貸し出すこともおこなわれて
おり, 歴史的文化財への関心は共通認識には程遠く, きわめて不安定な土
台の上に置かれていたこともとらえられている。
[論考2] では調査の記録, 特にそのヴィジュアルの面に焦点があてら
れている。 未だ写真がなかった時代にインドの風物への関心の高まりに一
役買ったものとして, ピクチャレスク絵画と呼ばれる主として歴史的建造
物とそれを取り巻く風景を描いた一群の絵画の存在がある。 W・ホッジス
, トマス・ダニエルとウィリアム・ダニエル親子
らが著名な絵師であった。 論者のランバはその記録
性に注目している。 ピクチャレスク絵画そのものは調査とは直接の関係は
ないが, 人びとをインドの歴史に誘う役割を果たした一面はやはり無視で
きない(4)。
1860年頃から遺跡や文化財の記録に写真を用いることが一般的となるが,
それ以前には手描きの図面が作成されており, しばらくの間は両者が併用
されていた。 手描きの図面が遺跡や遺物の理解に果たした役割は決して小
さくない。 当時設立されたボンベイ芸術学校
が多く
の優秀なインド人図面作成者を輩出したことが紹介されている。 歴史的建
第
九
十
七
巻
造物の専門学芸員のコールがヨーロッパからの図面作成者に加えて, 2人
のインド人作成者を調査に同行させて数多くの図面を残した事実も忘れて
はならないだろう。 本書の巻末にはそうした手描きの詳細で美しいカラー
図面が6点掲載されている。 また, 写真4はカニンガムのタキシラ発掘の
一
九
九
際に現地で図面を作る様子が写されている。 ピクチャレスク絵画から文化
財の手描き図面, さらに記録写真へという一連の流れは, 視覚的イメージ
056
の観点からのインド認識の変遷に重要な問題を提起しており, 今後の研究
の深まりが期待される。
[論考3] [論考4] は記述がかなり重複しているが, ともに発掘当時の
現場の写真を多く載せていて有益である。 [論考3] ではマーシャル以降
東
洋
の歴代総局長の写真, [論考4] では遺跡修復の写真も掲げられている。
写真中心の時代になると, ボンベイ, マドラス, シムラなどに開設された
学
撮影スタジオが商業的に成り立つようになり, 遺跡調査の撮影においても,
ヨーロッパからの写真家に加えてインド人の中にも重要な仕事を任される
報
者が出るようになった。 ここではその代表としてL・ディーン・ダヤル
の作品をいくつかを見ておこう。 [論考3] でとりあげら
れたサーンチーのストゥーパの写真2 (1883 84の報告書掲載) は, 巻末
の [ポートフォリオ] の北インド・写真7 (1881) と較べることで短い期
間に修復の作業が大いに進んだことが理解できる。 ダヤルは後にハイダラー
バードのニザームの宮廷写真家として採用され時代を映す優れた作品を多
く残した。 ハイダラーバードのチャールミナールから伸びるメインストリー
トの光景 ([論考2] 写真22) は, 現代の喧騒とはうってかわった19世紀
の静かな街の雰囲気を伝えている。
[論考5] は [論考4] に続いて遺跡修復の写真を多く掲載している。
歴代総局長の事業をふり返る記述は [論考3] [論考4] と大差がないが,
第2次大戦以降に多く頁をさいているのが特徴である。 マーシャルの業績
を評価する中で, その事業の方針が,
リアム・モリス
運動を推進したウィ
の哲学とロンドンに本拠を置いた古代建築
保護協会
の強い影響を受
けていたという指摘は, インドの考古学研究と文化財保護の動きをより広
い文脈の中で検証する可能性を示しており注目される。
本書は冒頭に記したように, 各論考に記述の重なるところがあってその
分独自の視点の展開を十分には尽くし得ていない面があるのが惜しまれる。
しかし貴重な写真の数々は圧巻であり, インドの考古学や文化史に関心の
ある者にとっては必見の一冊であるといえよう。
註
(1) 言及する問題が比較的詳しくとりあげられている場合は, その論考
の番号を示すことにする。
(2)
同様の存在として, 1881年には南インド考古調査局
も設けられた。
(3)
第
九
十
七
巻
その後1978年の第22号まで続いて休刊していたが, 2011年の150周
057
一
九
八
年を機に
批
(4)
として第1号が刊行された。
ピクチャレスク絵画全般については次の文献を参照した。
評
2010
と
紹
介
2012 220
石
川
(早稲田大学教育学部非常勤講師, 東洋文庫研究員)
第
九
十
七
巻
一
九
七
058
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