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双方向メディ アとしての明治期農業雑誌 付・博文館刊行『日本農業新誌

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双方向メディ アとしての明治期農業雑誌 付・博文館刊行『日本農業新誌
儡圏
双方向メディアとしての明治期農業
―― 付・博文館刊行『 日本農業新誌』
・総 目次
石川
雄輝
はじめに
『日本農業新誌』 は、 明治25年 (1892)1月 か ら同27年 (1894)12月 まで博文館
か ら刊行 されていた雑誌 である。a)こ の雑誌 は、後 に同 じ博文館 か ら刊行 される総
合雑誌 『太陽』 の前身誌 の一つ であ り、 ピー ク時には毎号平均 9千 を超 える発行 部
数 を記録す る農業雑誌であった。② また、明治期 の農学・農政 に大 きな影響力 を持
ち、後 に東京農業大学 の初代学長 に就任す ることとなる横井時敬が一貫 して主筆 を
務 めた雑誌で もある。
したがって、後継誌である 『太陽』 についての研究や明治期 の各種雑誌 の研究 に
お いてある程度注 目されて然 るべ き雑誌である と考 え られる。 しか し、現状 にお い
て F日 本農業新誌』 について言及 した先行研究 は少 な く、その 内容 も断片的な もの
がほとん どである。 また、明治期の農業雑誌研究その もの も、現時点で活発 に行 わ
れてい るわけではない。
そ こで本稿では、 まず明治期農業雑誌の研究史 を追 い、博文館か ら刊 行 されてい
た時期 の
F日 本農業新誌』 を通観す る。そ してその上で、 明治期農業雑誌の さらな
る研究可能性 について検討 したい。
具体的に考 え られるのは、農業雑誌が持 つ双方向情報媒体 としての側面である。
これを重視 して研究 を進めてい くことによ り、明治期 にお ける地方間・読者間の情
報流通 のあ り方や メディア受容 の様態 などを明 らかに してい くことが可能になると
考 える。
また、総 目次 を付 す ことで資料 として利用 に供 す ることも目的 とす る。現時点で
『 日本農業新誌』 を全 号 一括 して所蔵 してい る機 関は、国立国会図書館 も含めて見
当た らない。③ そ のため、記事 の題名や著者 名 を一覧 で きる ことによる便益 は少 な
くない と思われる。
紙幅 の関係上、本稿では創刊号 (明 治25年 1月 5日 発行 )か ら第 1巻 第 6号 (明
治25年 3月 20日 発行 )ま で の 総 目次 の み を掲 載す る。 なお、 残 りの 第 1巻 第 7
号 (明 治25年 4月 5日 発行 )か ら第 3巻 第12号 (明 治27年 12月 5日 発行 )ま での
デ ー タにつ い ては、 リテ ラシー史研 究会 ホ ー ムペ ー ジ (httpノ /www。lwasedajp/
a―
wada/1iteracy/)に 掲載す る。
双方向 メデ ィア としての 明治期農業雑誌
1
明治期農業雑誌研 究史
本節 にお いては、 まず明治期農業雑誌 の研究史 を概観す る。
農業雑誌 とい うくくりが研究 ・調査 上初めて登場す るのは戦後 になってか らであ
り、農業発達史調査会が行 った調査 ④ が最初 であろ う。 この 中 に、 5年 以上継続
した農業雑誌 につい て創刊 ・廃刊 を線で示 した年表があ り、『 日本農業新誌』 と思
われるもの も登場 してい る。6)
この調査 の後、 15年 にわたる研究 史 の空 白を経 て、経済思想史 を専 門 とす る杉原
四郎が経済雑誌の広範囲にわたる網羅的な調査 ・研究 を開始 した。 この 中に、博文
館 の雑誌 に関す る研究 も存在す る。⑥ この研究 の 中で杉原 は博文館発行 の諸雑誌 に
簡単 な解説 を加 えてお り、 これは 『 日本農業新誌』 が具体的 に研究 の対象 となって
以降、 この雑誌 についての最初 の コメ ン トとなる。
杉原が手掛 けた経済雑誌 の研究 にお いて言及が多 い農業雑誌 は、学農社 の 『農業
雑誌』0と 日本農業社 の 『 日本農業雑誌』③ で ある。前者 は明治初期か ら長 く続 い
た農業雑誌 の老舗 0先 駆 け として、後者 は杉原 の研究対象 であった河上肇が積極的
に寄稿 していたことか ら、何度か取 り上 げ られてい る。先 に述べ た博文館 関連 の研
究か ら派生 して言及 された 『日本農業新誌』 とあわせて、杉原 の研究 における三大
農業雑誌 とい って もいい だろ う。
『農業雑誌』 は、 明治期経済雑誌 の代表格 と目される 『東京経済雑誌』 との類似
性 0か ら、杉原研 究以前 に も経済思想史研 究 にお い ては意識 されて きた。 しか し、
そ の興味 は 『東京経済雑誌』 にお い ては田口卯吉、『農業雑誌』 にお い ては津 田仙
といった、ある思想家個人を研究す るための手掛か りとして持 たれていた ものであ
った。 この点にお いては杉原が 『日本農業雑誌』 と河上肇 に注 い だ視線 も同様であ
る。(10
このように広 い範囲に及ぶ経済雑誌研究に着手 した杉原は、研究が進んでい くに
つれて次第に各分野の雑誌を分類 してい くようになる。これはあま りにも広 い研究
対象それぞれに一応 の範囲を設定す るものであ り、 これによって杉原研究における
「農業雑誌」 とい うカテゴリーは生み出された。そ して杉原は農業雑誌のより専門
的な調査・研究を藤井隆至に託 し、自身は経済雑誌研究全体を取 りまとめる役割を
担 うこととなった。
藤井は農業雑誌研究の成果 として、『日本農業新聞雑誌所蔵機関目録』01)を 刊行
した。そしてその翌年、杉原はそれまでの経済雑誌研究をまとめて 『日本の経済雑
の として世に送 り出した。その間、杉原 は経済雑誌の各分野 についての研究を
誌』α
の とし
それぞれ専門の研究者に依頼 してお り、 3年 後には『日本経済雑誌の源流』α
(42)
てまとめている。 これは杉原による雑誌研究の一応 の到達点 とい うことができるだ
ろう。杉原はこの中の「はしがき」において 自らの経済雑誌研究を振 り返 り、その
一旦の終結を宣言 している。そして、以下のように続ける。
雑誌には評論誌の側面の他に情報誌の側面があ り、前者が思想史の研究にとっ
て重要なのに対 し、後者は経済史 (経 済政策史、産業史など)に とって重要な
意味を持つ。 ところがこの面の雑誌研究は、一人の手では困難で、各部門の専
門家によって追求されるべ きである。そこで私は友人たちと語 らって、情報誌
としての経済雑誌の共同研究を行 い、その成果を評論誌の側面の研究 と合わせ
→
て刊行するとい う企画を立てたのである。α
その結果が この『日本経済雑誌の源流』 であ り、評論誌 と情報誌 とい う両側面を
考慮 したとい う点 も、経済雑誌研究の到達点であるとい うことのできる理由の一つ
である。
この中の一章、
「農業雑誌」を執筆す ることになった藤井 は、「農事改良雑誌」 と
「農業政策雑誌」 とい う2つ の分類を設定 した。そ して「明治の一桁代か らはや く
も特筆すべ き農事改良雑誌が現われている」 として、『開農雑報』 と『農業雑誌』
を紹介 している。(19前 者は政府系の主体が発行 し、後者は明六社 の同人であった津
田仙が発行 していることに触れ、 これらの「農事改良雑誌」 としての特徴を述べ て
いる。
使命 感 に燃 えた啓 蒙 的知識 人 と上 京 して きた農 事 改 良家 た ちが共 に農学 を学 び、
雑誌 を通 して広 く啓蒙 しよ う とす る性格が強 く見受 け られる。 (中 略)雑 誌 は
単行本 に比べ て廉価 であるばか りか、郵便 を利用 した定期購読制 を主に してい
たか ら、読者が地域的に限定 されることが少 な く、 しか も定期的に手元 に届 く
こともあって、全 国各地 の農事改良家たちに与 えた影響 は決 して小 さ くはなか
った と思われる。00
この指摘 は、 明治期農業雑誌 の特徴 の一面 を簡潔に言 い表 してい る。一方 で藤井
は、1890年 代か ら政 策による農業保 護 の必要性 を主張 する「農業政 策雑誌」が登場
した と述べ る。松方正義 による緊縮財政 に伴 ういわゆる松方デフ レによって、それ
まで民 間の農事改良の担 い手 であった豪農層が没落 してい ったこと も大 きな原 因で
あるとい う。 しか しこの「農業政策雑誌」 においては保護主義の具体的な議論はほ
とん どなされず、 いつ しか時代がそれを必要 としな くな り、没 落 した小 農 を守 る社
(43)
双方向メデイアとしての明治期農業雑誌
会政策的な色彩を次第に帯びるようになったと結んでいる。
特定の分野に絞 って資料を精査 し、それまでの誤謬 も修正 しなが ら全体 の歴史を
概観す るこの研究には相当の価値がある。 しか し、藤井の農業雑誌論 もまた主体・
内容に着 日した杉原の「評論誌」研究の延長 にあ り、やはりこれも経済思想史研究
の一部から抜け出す ものではなかったとい うこともできるだろう。
以上のように、農業雑誌の本格的な研究 は、杉原による経済雑誌の研究の一部 と
して進んできた。そして、 これらは基本的に思想家の研究に資す るための史料調査
とい う形での雑誌研究であった。これからの研究 においてはそれを乗 り越えて、経
済思想史の枠組みでは必要 とされず に見逃されてきた細かな事実や新 たな視点を明
確 にし、成果をよ り発展 させてい くことが重要である。
杉原・藤井以降の明治期農業雑誌に関す る数少ない研究 として、まず友田清彦の
業績が挙げ られる。友田は、学農社 『農業雑誌』 の総 目次の一部を発表 した。l171ま
た、 明治14年 (1881)に 刊行が開始 される 『大 日本農会報告』以前 の農業雑誌 を
「農学校などの農業教育機関 と農業研究会的な農業結社 の
「初期農業雑誌」 として、
2つ こそが」、(10そ の最有力な基盤であったと述べ ている。
そ して、最 も興味深 い直近 の研究 として、福澤徹 三の ものを挙げることがで き
のこの中で福澤 は、それまでの先行研究 について「農業思想 自体 の検討が中心
る。α
で、農業雑誌の受容 についての検討や、地域 との関わ りについての分析が手薄であ
る」 と指摘 し、その上で 『日本農業新誌』 を含む農業雑誌の内容を読者が どのよう
に実践 していたかを論 じている。その中で、明治期の農業雑誌 (と りわけ「農事改
良雑誌」)の 特徴 といえる「読者参加型ペー ジ」 は、学農社 の『農業雑誌』が確立
したスタイルである と指摘 されている。
このような当時の主 な農業雑誌の状況や特徴 を述べ た後 に、福澤の論 は、ある一
人の読者がいかにして農業雑誌を入手 し、利用 し、活用 していったかとい うところ
に焦点を絞ってい く。当時の状況を読者の側から記述 しなが ら展開してい くこのア
プローチは、農業雑誌研究においては画期的である。情報の流通やメディアの受容
とい う観点か ら接近を図ったこの研究 は、本稿 の持つ問題意識 と重なる部分が多い。
2『
日本 農 業新 誌』 創 刊 まで
本節 では、『日本農業新誌』力靖J干 Jを 迎えるまでの流れを記述 してい く。 この雑
誌に言及す るにあたって、まず主筆 を務めた横井時敬 の経歴 に触れる。その上で、
前身誌 『産業時論』を紹介す る。そして、その雑誌が博文館に譲渡され、改題され
るまでについて述べ る。
横井時敬 は、万延元年
(44)
(1860)、
熊本藩士久右衛門の四男 として熊本に生まれた。
幼時 には藩校 で漢学 を、後 に熊 本洋学校 で英学 を学 んだ。 明治 11年
(1878)、
駒場
農学校 に入 学 し、 同13年 (1880)に 卒業 した。翌 14年 (1881)神 戸市 師範学校 講
師兼植物 園長、 さらに翌 15年 (1882)に は福 岡県 立 農学校教諭 とな り、農学校 が
農業試験場 になるの と同時 に場長 に就任 す る。 明治22年
なるが、1年 で退官す る。 同24年
(1891)、
(1889)、
農商務省技 師 と
帝国大学農科大学教授 とな り、大 正 11
年 (1922)に 退官 した。 そ の 間、明治30年 (1897)に 東京農学校 長 とな り、 同44
年 (1911)に 後 身 の東京農業大学 の初代学長 に就任 して い る。その後、昭和 2年
東京 の 自宅にお いて68歳 で没 した。横井 は「農業教育界 の大御所的存在」
であ り、農学者 としてだ けでな くエ コノ ミス トとして も活動 し、小農保護政策 を主
(1927)、
張 した。90
この ように横井 は、農学者 であ りつつ農業試験場長 も務めた経歴 を持 つ、 い わゆ
る啓蒙的知識人 で あ った。
「理論 と実践」 とい う理念 の下 に、雑誌 とい うメデ ィア
を通 して知識 を広めていこ う と自ら雑誌 を旗揚 げす るのは、農商務省 の技官 を辞 し
た頃の ことで ある。
さて、『 日本農業新誌』 の前身誌 は、 この横井が主宰 して い た 『産業時論』 とい
う雑誌 である。υD『 産業時論』 は、 産業時論社 (東 京市小石川区指 ヶ谷町二番地 )
に よって、 明治23年 (1890)11月 か ら同24年 (1891)12月 まで月 2回 (毎 月10日
025日
)発 行 されていた。1221定 価 は一冊 6銭 5厘 、三 ヶ月分で37銭、半年分 で72銭、
一年分 で 1円 20銭 (い ず れ も送料込み)で あ った。 一号あた りのペー ジ数 は平均 し
て約40ペ ー ジで あ り、記事 は「論説」「雑録」「通信」「問答」「雑報」か ら成 ってい
る。
この雑誌が 『 日本農業新誌』 に衣 替 え した経緯 につい て、『博文館 五十年史』 に
以下のような記述がある。
「産業時論」なる雑誌を発行せ しが、経営困難なる故、
農学士横井時敬氏は、
の
其 引受を本館に求め、本館は諾 して「 日本農業新誌」 と改題 し、明年一月 よ
り新 たに発行することに決 した。是が後年の「農業世界」の濫腸 である。90
このように、『産業時論』は横井の側か ら働 きかける形で博文館に引 き渡 された
とされている。1241こ の後 も二度の出版社変更を経ることになる 『日本農業新誌』 だ
が、主筆 は交代す ることな く一貫 して横井が務めた。また、博文館 とい う成長著 し
い企業から刊行されることになるとい うことは、雑誌そのものが広告化されること
にもつ ながるが、それでも横井 は雑誌の刊行を続ける意思を持ち続けた。 これらの
ことからも、横井が雑誌 とい う媒体 で情報を発信 し続けることへ のこだわ りを持 っ
双方向メデイアとしての明治期農業雑誌
て い た こ とが 窺 える。
3
創 刊 か ら 『太 陽』 統 合 まで
本節 では、『日本農業新誌』が どのような狙 いで発行 されていたかについて最初
に触れ、その後の誌面における記事 の分類 の変遷を追ってい く。それにより、 この
雑誌が農業の専門雑誌 として充実 した誌面構成を持っていたことを示 してい く。
明治25年 (1892)1月 5日 、『日本農業新誌』 の第 1巻 第 1号 が博文館 か ら発行
された。99表 紙 には「恭賀新年」 と題 された博文館による発干Jの 辞が寄せ られてい
る。
(前 略)我 博文館 は創 立以来未た五年 に過 きされ とも幸 に江湖君子の愛顧 に依
り文運 の隆盛 に伴ふて業務月毎 に繁昌 し今や全国到 る所 (中 略)我 か博文館 出
版物 を見 さるな し、 (中 略)依 て本年以後 は益 事業 を拡張 し、現在 の舘員客員
の外更 に博識 の名家 を増聘 し書籍雑誌共 に大改良 を加 へ 材料 の撲択、印刷製
本共 に精確鮮麗 を期 し、且 つ博文館独得 の長所 として代価 は弥 々低廉 を主 とし、
馴敢 て皇 国文化 の万 一 に資せん とす従来博文館諸雑誌 の外本年 よ り新 たに発行
すべ きものは 日本農業新誌、農業全書、女学全書、普通教育全書 に して特 に大
に教育及実業上 の図書出版事業 を営 まん とす依 て多 く教育上農業上の学士名家
を招聘 して其執筆 を依嘱 し該事業の参画 を委托せ り。 (後 略)
)
(引 用者注 :変 体仮名・合字、旧漢字は現行のものに改めた。以下の引用も同様。
この記事か ら読み取れる重要なことは、他のシリーズと共 に教育・啓蒙 とい う目
的を前面 に押 し出している点である。『日本農業新誌』 とい う誌名 にも表れている
ように、
「皇国文化 の万一 に資せん」 として、 日本国中に広 く「教育及実業上の図
書出版事業 を営まんと」する狙 いが看取できる。90
また、創刊号の56ペ ージでは「旧産業時論愛読者諸君 に稟告す」 とい う記事 で、
購読者 に対 して通知を出している。その要点は、① 『産業時論』へ既に払 い込んで
ある金額分の『日本農業新誌』 を届けること、② ただし改定後の価格 で計算す るこ
と、③ 『産業時論』時代か らの「通信者」には引 き続 き通信を求めること、④ これ
まで無料で贈呈 していた分については代金を請求す る場合 もあること、の 4点 であ
る。
このように、企業 としての出版社である博文館は、既に代金が払い込まれている
分に関しては送付 を保証する一方、 これまで産業時論社が無料 で進呈 していた分に
ついては代金を払わせる姿勢を見せた。定価 は一冊あた り8銭 と改定され、送料込
(46)
で 9銭 5厘 、三 ヶ月分 で51銭 、半年分で97銭 、一年分 は 1円 84銭 とされてい る。1271
『産業時論』 では40ほ どであったペー ジ数 は、60ペ ー ジ前後 に増 えた。表紙や巻
末 には博文館 による多 くの 自社広告が展 開 され、広告媒体 として大 い に活用 され
て い たことがわかる。 誌面 の構成 は、主筆 の横井 による「社説」、農学士等 による
「論説」。
「講義」、農商務省 による各地 の調査 な どを掲載す る「雑録」、比較的短文
の記事 による「随記」、小説や短歌 などを扱 う「余興」、 日本各地 の農業実地家か ら
の投書 によって成 る「通信」、有識者 による「寄書」、読者同士で質問・ 回答 を共有
す る「 問答」、 ニ ュースや地方か らの短信 などを載せ る「時事」、 コーナー に昇格 し
た「種苗交換」、政府 による褒賞授与 の報告や命令、調査結果 の発表 な どか ら成 る
「官報」 と、豊 富 になった。 また、毎号 目次 の次 のペー ジに口絵があ り、様 々 な題
O本 文中に も多 くの図表が使 われ、特 に問答欄 では道
材 で図版が掲載 されていた。⑫
具 の作 り方 の説明等 に活用 されてい る。
また、翌月の第 1巻 第 3号 (明 治25年 2月 5日 発行 )か ら、 日次 の下に「投書心
得」が記載 されるようになった。その要点は、①封筒 に書 くべ き宛名、②投書 はひ
らがなで明瞭に書 くこと、③原稿 を一 度に複数送る時はそれぞれに住所氏名 を書 く
こと、④ 返書が必要 な場合 は切手や葉書 を同封する こと、⑤原稿 は発 行 の15日 前 ま
でに編集局 に到着 させ ること、⑥ 以上 を守 らない場合 は没書 とす ることが ある、 と
なってい る。 ここか らは、投 書慣れ してい ない一般読者 に対す る配慮が見 える。1291
第 1巻 の最終号 である第24号 (明 治25年 12月 20日 発行 )の 26ペ ー ジには「 日本農
業新誌大改良広告」 と題 した記事 が掲載 され、第 2巻 第 1号 (明 治26年 1月 5日 発
行 )か らは「論説」「講義」「特別寄書」「叢諄」
「散録」「文苑」「寄書」「問答」「雑
報」「種苗交換」
「官報」 とい う構成 に改 まった。Oの さらに、 この年 の最終号 で ある
第 2巻 第24号 (明 治26年 12月 20日 発行 )で は、冒頭 に「明治十七年後 の 日本農業新
誌」 と題 された記事が掲載 され、 さらなる誌面の再編成 を知 らせてい る。
我 日本農業新誌 は発干U以 来年 に月に発 売 の部数 を加 え今や遂 に洛陽の紙価 を貴
か らしむるの隆運 に達せ り
(中
略)宜 ろ しく益 々奮起 して当初の 目的を貫 き以
て農界否 な国家 に対 し尽誠の実 を挙 くるの計 をなすべ きな り (中 略)是 に於 て
発兌 の 回数 を減 して月一 回 とな し以て財多 か らさる もの ゝ為 めに便 に して知識
の普及 を図 り又た編纂 の方法 に一大革変 をな し部門を左 の如 くに分 ちて蓋 し趣
味あ り実益 あるの材料 を愛読者諸君 に献せんことを旨 とせ り
日本農業雑誌●経済●教育●耕種●養畜●養蚕●製造●雑 門
●余興●問答●時事●種苗●官報●農民倶楽部記事
惟 ふに論説特別寄書寄書等 の欄 を分 つ は是れ掲載 の事項 に軽重 をなす の実 なき
双方向メディアとしての明治期農業雑誌
にあ らす して本誌載する所悉 く金玉な らさるはなきに豊 に若 く軽重 の差 をなす
べ けんや寄稿者諸君 に対す るの礼宜 しく此 の如 くなるべ か らさるな り抑 も亦た
各欄収 むる所各種 の事項混錯す るは読者 に便 なる所以 にあ らさるを悟 れるか故
に事此 に及へ るのみ (後 略)
この変更 の重 要な点 は、寄せ られた記事 の具体 的内容か らの分類 とす ることであ
り、それ までの投稿者 の属性 (学 士か、地方実地家かな ど)に 強 く左右 される分類
か ら脱却 した とい う部分 である。編 集部 に寄せ られる情報 に軽重 はな く、全 てに同
様 の価値 を見出そ う とす るこの姿勢 は、誌面上 における属性格差が緩和 された こと
を示 してい る。
翌明治27年
(1894)、
月 1回 (毎 月 5日 )の 発行 に減 ったが、前述 の通 り平均発
行部数 は 1万 に迫 り、『 日本農業新誌』 の最盛期 を迎 える。 ところが、 第 3巻 最後
の第12号 (明 治27年 12月 5日 発行 )の 時事欄67ペ ー ジの「歳暮 の辞」 と題 された記
事 によって、 この雑誌 の廃刊 と『太陽』へ の引 き継 ぎが発表 される。
明治廿七年 も既 に して末月に及べ り、余輩新誌記者 は姦 に筆硯 に休暇 を命 し、
暫 らく文壇 を退 き静 に明年 を待 ちて復 た読者諸君 に見 えん と期せ しが、博文館
大 に時勢 に見 る所あ りて、本誌 を廃刊 し諸雑誌 を集めて大成せ る「太陽」 を以
て之 に代へ ん とす るに決せ り、余輩記者 に取 りては多少 の憾 なきを得ず、但だ
夫れ本誌 の廃刊 を痛惜 して代 りて之れが発干Jに 従 ふ もの あるを得 たること、広
告 に見 ゆる所 の如 し、余輩Dllか 以て自ら慰す るを得 たるのみな らず、産業時論
以来大方 の愛顧 に負かざるに幾か らんを喜 ぶ (後 略)
博文館 は 『日本農業新誌』 を廃刊 し、雑誌 『太陽』 の農業欄 とす ることを決定 し
た。そ して誕生 した 『太陽』 の農業欄 には「中外 の新現象 を採 りて必要有益 の事項
を記述 し、以て勧業富国の一端 に供 し、亦以て当業者 を警醒誘液するところあ らん
を期す」 とその 目的が示 されて い る。 しか し、 これは全体約200ペ ー ジの うち、わ
ず か数ペー ジを占めるのみであった。OD
横井 は 『太陽』創刊号 の論説欄 に記事 を寄せてい るが、一方 で 『 日本農業新誌』
そ の もの は農業社 へ 譲渡 し、刊行 を継続 した。 したが って、『 日本農業新誌』 は
『太陽』 の前身誌 の一つ ではあるが、吸収 されて消滅 したわけではない。
また、『 日本農業新誌』 の払込済 み購読料 に余 りがあ る読者 には、代 わ りに 『太
陽』が発送 される ことになっていた。 この こともあ ってか、翌年 の農業社刊行 『 日
0"博 文館刊
本農業新誌』 の発行部数 は博文館時代 の 3分 の 1程 度にまで減少 した。
(48)
行の『日本農業新誌』 の概略は以上の通 りである。
雑誌 とい うメディアを用 いて農事改良を志す横井は、博文館から切 り離された後
も、『日本農業新誌』 の刊行を維持 した。譲渡先の農業社は、後に東京農書館 と改
名 し農書の専門会社 となるが、詳細については本稿 では立ち入 らないこととす る。
4
明治期 農業 雑 誌 の 研 究 可 能性
本節では、明治期に農業を扱った雑誌の持つ特徴を述べ るとともに、研究対象 と
してどのようなアプローチが考えられるかを述べ てい く。先行研究にい うところの
「農事改良雑誌」の最 も特徴的な点は、読者間の相互交流である。 この点に注 目し、
従来の研究 とは異なる形での接近を試みたい。
明治期の 日本農業には、他 の諸産業 と異なっている点が二つ指摘 できる。一つ は、
その地理的条件の違いが大 きい点である。 日本列島は南北に長 く、地形 も急峻であ
る。東北地方の農業 と九州地方の農業、あるいは平野部の農業 と高地の農業では実
際の運用が多少なりとも異なるであろ うことは想像に難 くない。また、金融業や鉱
工業のように、工学的にデザインされたシステムを画一的に導入す るとい うことが
比較的難 しい産業でもある。
二つ 目は土着的であるがゆえの、過去からの強い連続性である。それまでそれぞ
れの地方の農民たちが伝えてきた方法や慣習を、たとえば政府が舶来の新技術の導
入によって合理化・効率化 しようと試みたとしても、それが他産業 に比べ て うまく
い きにくい状況にあったと考えられる。
明治期 の農業雑誌は、他 の経済雑誌 と同じように単に国策 としての産業振興 の旗
振 り役、あるいは政策議論の場であっただけに とどまらない。誌面の「読者参加型
ページ」が、各地の土壌や気候などの情報、それぞれの土地に適する種苗を日本各
地で共有する絶好の場をもたらした。 これは他分野の経済雑誌には見 られない明治
期農業雑誌の大 きな特徴であ り、フロンティアでもある。
『日本農業新誌』 は 『農業雑誌』 と同様に、明治期の農業雑誌 における発信者 と
受信者の関係 の特徴が良 く読み取れる雑誌であると考えられる。すなわち、鉱業や
海運な ど他 の分野の雑誌のように、ある高名な学者や思想家、または成功を収 めた
実業家などが「御高説を垂れる」のみならず、間答欄や報告などで一般の読者 たち
も誌面に顔を出す とい う点である。
高名な学者は理論を説 き外国の技術を紹介するが、それを実践するのは他で もな
い、読者 たる農民である。 したがって、理論や技術 を講ず る学者 自身がそれらを日
本各地で実践するわけにいかない以上、現場 の読者が雑誌上で報告することになる。
このような構図で、読者である実践者はすなわち報告者 とな り著者 となる。言い
双方向メデイアとしての明治期農業雑誌
換 えれば、本来想定 されて い る発信者 と受信者 の 間での情報 の流 れ とは異 なった
方向の情報 の流れに よって、両者 は互 い にフイー ドバ ックしあってい るのである。
例 としては、読者 による各地で の名産品調査 に賞 金 を出す な どして、『 日本農業新
誌』が この「情報 の双方向性」 を歓迎 した ことな どが挙 げ られる。 また、種苗欄 な
どによって読者 同士 の主体的な交流 の場が設 け るな ど、「編集部 と読者」 のみな ら
ず 「読者 と読者」 の 間 にお いて も双方向的なや り取 りがなされていたのは特筆すべ
きであろう。
以上のような、明治期の農業雑誌 だからこそ存在する独特なコミュニケー シヨン
の構造 は、 これまで重要視されてこなかった。発信者 とその内容 こそが対象 となる
変数項であ り、雑誌の構成や読者 は定数項 にしかす ぎないとい うこれまでの農業雑
誌研究から一歩進 んで、メディアとしての農業雑誌の可能性 を追究 してい くとす る
ならば、『日本農業新誌』 は無視 できない雑誌 になるだろう。
従来の農業雑誌 に関する研究では、その歴史的性質が強 く意識されていた。農業
雑誌 を時期 ごとに区切 った上で、その性質を明らかにしてい くアプローチが主流で
あった。その一方で、明治期の農業雑誌には広い範囲に頒布された雑誌の他に、地
00そ
れら
域 ごとの農会な どで発行 していた雑誌が多数あったことがわかつている。
は限定された土地の範囲の中での議論や情報 を主に扱ってお り、『日本農業新誌』
のような雑誌 とは異質の ものである。 この両者の違いを説明できる特徴が明確 にな
れば、た とえば新 たに「広域農業雑誌」と「地域農業雑誌」 とい う分類 の可能性を
見出す ことができるかもしれない。(M)ま た、誌面 に掲載されている読者の情報を集
めることにより、先に挙げた福澤 (2005)の ような、雑誌の受容 に関わる研究にも
進展を期待 できる。
さらに 『日本農業新誌』 の特徴 としては、様 々な属性 の読者が誌面 に現れる点が
挙げ られる。論説を寄せる学士等の専門家 の他 に、地方実地家たる豪農や、 もう少
し規模 の小 さい農家 の投書 も見える。 この中間に位置 しているいわば「セミプロ」
09
としての豪農が、 この雑誌 においては重要な役割を担 っていると考え られる。
もう一つ付け加えるとす るならば、学農社 の 『農業雑誌』 は長期間にわたって安
定 して発行を続けたが、先に見たように『日本農業新誌』 はそ うでなかったとい う
点 も挙げ られる。博文館は総合書籍商、農業社は総合農業商であ り、東京農書館 は
農書 を専門に扱 っていた。このような足跡をたどった 『日本農業新誌』 には、『農
業雑誌』 とはまた違った研究価値があるはずである。
たとえば以上のように、明治期 の農業雑誌 には、さらなる研究のための視角が数
多 く残 されている。
(50)
おわ りに
戦前期の農業雑誌を対象 とした研究は、 これまで経済思想史の領域 として主に扱
われて きてお り、
「経済雑誌」の一分野 として研究されてきた。この枠組みの中で
は、 日本経済そのものの歴史や特定の思想家を知るための資料 として重点が置かれ
てきた。そのためか、比較的多 くの読者を獲得 していたに もかかわらず これまで大
きく取 り上 げられて こなかった雑誌 も多 く存在すると思われる。『日本農業新誌』
も、そのような境遇にある農業雑誌の一つである。 しかし、従来の枠組みを越えた
視座からは、まだ まだこの雑誌は研究対象 として十分堪えうるものであると思われ
る。
明治維新 を迎 えて近代 国家 としての 日本が成立 してい く中で、交通 。流通の利便
が 向上 し、末端読者間の共 時的な相互交流が可能になった。 これによって共有 され
るさまざまな情報や物品は、 国内の農業 を統一 し、効率化す る力 の支 えになっただ
ろうと考えられる。政府をはじめとする専門家による トップダゥン型の農業政策 と、
実務家 としての農民によるボ トムアップ型の農業改良とい う、明治期における二つ
の流れの両方にこの農業雑誌 とい うメディアは影響を与えたであろう。 しか し、そ
の研究余地は十分に認識されているとは言えず、 この ようなアプローチからの
研究
は未だ手薄なのが現状である。
これからの課題 としては、本稿 で述べ たような問題意識に基づいて、読者・受容
の側から明治期農業雑誌を捉えなおす試みを進めてい くことを掲げておきたい。ま
た、博文館から切 り離された後の 『日本農業新誌』 について、 どのような経緯を経
て廃刊 となったのかを追 うことも重要であると考えている。この点についても、稿
を改めて論 じたい。
(1)そ の後、出版社 を変 えて同32年 (1899)3月
(2)警 視庁 編 『警視庁 統 計書』 (ク
まで継続 す る。
レス 出版、 1997)に よる と、 月 2回 の発行 であ った 明
治26年 (1893)に は、 年 間で211,017部 が 出回 った とい う。 そ の うち82,626部 が東 京府 下
へ の 配布、残 りの128,391部 は他府県 へ の 配布 であ る とされてい
る。 この 数値 は、 明治 9
年 (1876)か ら大正 9年 (1920)ま で続 くライバ ル誌 『農業雑誌』 と比 較 して も遜色 な く、
『 日本農 業新誌』 は当時 を代 表す る農業雑誌の一 つ であった といえる
。
(3)た とえば、 国立国会図書館や岩手大学図書館 な どでは、博文館刊行の前 半 3年 分が所蔵
されてお らず、出版社変更後の もののみ所蔵 されている。逆 に、 同志社大学図
書館や 日本
大学経 済学部図書館 な どでは、博文館時代の もののみの所蔵 となってお り、 い わば「
所蔵
の断層」が ここにある と言 える。 この よ うな状況か ら、本稿 では と
りあえず、博文館刊行
の前半 3年 分 の 『 日本農業新誌』 を対 象 としている。
双方向 メデ イア としての明治期農業雑誌
(4)農 業発達史調査会 『明治農業雑誌界 の概観―一 農業事情 の一反映 として一一』
(『
農業発
達史調査会資料』 60、 農業発達史調査会、 1951.9)。
(5)た だ し誌名が 『日本農会新誌』 となってお り、 この名前 の雑誌 は存在が確認で きなか っ
た。 この調査が明治新 聞雑誌文庫 の所蔵 によって いることや、創刊年が明治25年 と同一で
ある ことか ら 『 日本農業新誌』 を指 してい る と考 え られるため誤植 と考 えるのが妥 当であ
るが、 これは推測 の域 を出ない。 ただ、 これが誤植 である とす るな らば、単純 な 目録 ・統
計以外 の調査 ・研 究 にお いて初め て 『 日本農業新誌』 が言及 された もの とい うことがで き
る。
(6)杉 原四郎「明治20年代 の経済雑誌一一博文館 の諸雑誌 を中心 として一一」
論集』 11(1)、
(『
甲南経済学
1970.6)。
(7)杉 原四郎「古典派経済学 と 『東京経済雑誌』」 (長 幸男・ 住谷和彦編 『近代 日本経済思想
史』
1、
有斐 閣、 1969)な どで触 れ られて い る。
(8)杉 原 四郎「河上肇 と『 日本 農業雑誌』」
(『
甲南経済学論集』 19(4)、
1979。
3)な どで扱
われて いる。
(9)杉 原 は両誌 を並 べ て「明治時代 の経済雑誌 の代表的存在」 として いる
時代 の経済雑誌」 (『 甲南経済学論集』 15(4)、
(杉 原四郎 「大正
1975。 3))。
(10)こ れはた また ま対象が雑誌 であった とい うことで あ って、研究のアプ ローチ としては単
行本 と大 きくは変 わ らない。 この分野 の研究 にお いては、雑誌 そ の もの とい う よ り、そ の
内容や著者 の方 を重視 して い る。
(11)藤 井隆至編 『 日本農業新 聞雑誌所蔵機関 目録 1868-1945』
(日
本経済評論社、 1986)。
(12)杉 原四郎 『 日本 の経済雑誌』 (日 本経済評論社、 1987)。
(13)杉 原四郎編 『 日本経済雑誌 の源流』 (有 斐 閣、 1990)。
(14)同 上、p■ 。
(15)同 上、p.127。
(16)同 上、p.129。
(17)友 田清彦「学農社 『農業雑誌』 総 目次 1
同「学農社 『農業雑誌』 総 目次 2
農社 『農業雑誌』総 目次 3
第 1号 ∼ 第48号 」 (『 農村研 究』 76、
第49号 ∼ 第96号 」 (『 農村研 究』 77、
第97号 ∼ 第147号 」 (『 農村研究』 78、
1993.9)、
1993.3)、
同「学
1994.3)。
(18)友 田清彦「明治初期 にお ける農業雑誌 の地 方 的展 開一一 京都 府 『勧 農新報』 の事例」
(『
日本農業経済学会論文集』 2004年 度、 日本農業経済学会、2004)。
(19)福 澤徹 三「農業雑誌 の受容 と実践一一 南多摩郡平尾村
(『
一橋論叢』 134(4)、
鈴木静蔵 の事例 を中心 に一一 」
2005。 10)。
(20)川 俣茂「横井時敬」 (臼 井勝美 ほか編 『 日本近現代人名辞典』 (吉 川弘文館、2001))。
(21)こ の 『産業時論』 の さらに前 身 にあたる とされる雑誌 『農界叢誌』 (1889-1890、 農界叢
誌社、 主幹 ・ 高橋 昌)が 日本 で最初 の「 農業経済雑誌」 である とい う指摘 があ る。 (藤 井
隆至「明治時代 の農業経済雑誌一一 農業雑誌 の史的展 開一一 」 (『 書誌索引展望』 5(3)、
1981.8))。
(22)時 期 としては、横井が農商務省技 師 を辞 してか ら、帝国大学農科大学教授 となる頃にあ
(52)
たる。
(23)坪 谷善四郎 『博文館五十年史』 (博 文館、 1937)、
p.61。
(24)前 出、杉原 (1970)で はこの「経営 困難」 を経 済的な困難 と捉 えて い る。 さらに、横 井
が 『産業時論』 を創刊 したのが技官 を辞 した後であった こと、翌年帝国大 学教授 となって
か らこの 申 し出を した ことを考慮す る と、産業時論社 か ら博文館 へ の譲渡 は経済的理 由だ
けではな く、横井 自身が多忙 になったことによる「経営困難」 も理 由の一つ として挙 げ ら
れるか もしれない。
(25)編 輯者 は涌井武次郎、発行兼 印刷者 は坪谷善四郎。
(26)ち ょう どこの時期、博文館 は中等教科書事業が軌道 に乗 り、小学教科書事業 に も進 出 し
よ う としていた (前 出、坪谷 1937)。
(27)郵 便 切 手 による代用 は一割増 しとされてい る。 また、「舘友」 であれば一割引 きとされ
ている。
(28)主 に著 名人 の 肖像画や建物、農産 品 の新 品種 な どが扱 われた。
(29)『 産業時論』 の 頃 よ りも読者数が大幅 に増 えたため に、掲載基準 に達 しない投書が増 え
たのではないか と推測 される。
(30)ま た、 第 2巻 16号 か らは「農民倶楽部記事」 とい う コー ナ ー も設定 された。「農民倶 楽
部」 は、 この年 に横 井が事務局 を 自宅 に置いて組織 した研 究会 であ り、『 日本農業新誌』
はその機 関誌 としての役割 も担 っていた と言 える。
(31)そ のためか、『太陽』 に関す る研 究 において、『 日本農業新誌』 は単 に農業欄 の前身であ
る と触 れ られるだ けの存在 となっている。
(32)前 出、警視 庁編
(1997)。
但 し、誌 名が 『 日本農業雑誌』 とされてい る。 この点 は既 に
福澤が指摘 して い る (前 出、福澤
(33)前 出、藤井
(2005))。
(1986)。
(34)こ れ まで研 究 されて きたメジャー な「広域農 業雑誌」だけでな く「地域農業雑誌」 に関
す る研 究が進めば、た とえば地域 史や農業社会学 な どの研究 に利用 される余地が よ り広が
るのでは ない だろ うか。 また、広域 性 とい う観点か らの分類 の理論 は、 内容か らの分類 と
は一歩進 んで、 明治期 に限 らず現代 に至 るまで あ らゆる農業雑誌 に適用 で きる可能性が 高
く、説明 として汎用的である と思 われる。現代 においては当然 とみ なされている雑誌 の広
域性や地域性 といった分類 は、 明治期 においては逆 に特殊 な ものであった とも考 え られる。
(35)た とえば、学者 たちの理 論 を理解 し、実践す ることがで き、 なおかつ一般読者 に説 明で
きた とい う点である。 これは誌面の構成 に も反映 されて い る。
双方向 メデ イア としての明治期農業雑誌
『 日本農業新誌』総 目次
1892.1.5
1巻 1号
後醍醐天皇御製歌
口絵
社説
廿五年の新文壇
論説
農務上の施設
農学士 農芸化学士
窒素給源及ひ其利用法
農学士
押川則吉
古在由直
松永伍作
明治廿五年蚕業を 卜す
米作肥料規則
農学士 農芸化学士
酒匂常明
講義
人糞肥料に就て
農学士
中村彦
雑録
長野県生糸の沿革 (農 商務省調査)
楓軒
小宮山昌秀
随記
帯色葱頭栽培法 (ほ か13件 )
余興
狂画
食ハ人の天 とする所
通信
26
35
発句
夜雷庵金羅 (本 文
夜雪庵金羅)
小説 (福 の神一一新商店 (お 世辞を
言ひな))
弦斎居士
稲作試験成績
陸稲栽培法
西閉伊農事検範所
常陸国河内郡岡田村
果樹栽培法の勧誘 (本 文 :果 樹栽培 甲斐国西八代郡高田村
の勧誘)
土中水分の区別
農民諸君の御参考
36
36
39
橋本長樹
42
豊果園
43
鳥取県伯者国久米郡大谷村 藤 井 伊 蔵
44
46
農学士
最少養分律 に関する疑
問答
:
内田福蔵
岩手県通信
寄書
23
中村鉄太郎
46
鶯渓散士
47
49
質問新題
応答之部
時事
御祝詞 (ほ か 9件 )
種苗交換 米国種番椒 卜梗稲 二種 (ほ か 1件 ) 茨城県河内郡岡田村
橋本長樹
旧産業時論愛読者諸君へ稟告す
官報
緑綬褒章下賜 (ほ か 5件 )
日本農業新誌兼題俳句募集
1892.1.20
大久保利通公・ 品川弥二郎公肖像
画
1巻 2号
社説
農会の衛生術
論説
代耕法は如何 に組立つべ きや
口絵
農学士
窒素給源及ひ其利用法 (承 前)
講義
雑録
神奈川県秦野煙草 の沿革 (農 商務
省調査)
狸諺砂
(54)
農学士
乾田に於ける冬耕 と春耕の利害井 農学士
に稲の裏作
随記
碗豆跡の胡経荀 (ほ か5件 )
中村彦
船津伝次平
大麦に就て
古在由直
中村彦
余興
通信
寄書
問答
地価修正
今西鶴
小説 (福 の神一―百度参 り(俗 厭 ま
した))
弦斎居士
畦畔改良
鈴木浦八
菓物貯蔵法
川武一
埼玉県榛澤郡武川村 蓑笠 ガヽ
子
藁 の話
越後三島郡
山田木平
稲 作 試験 成蹟
宮崎県北那珂郡青島村
松 田拾 蔵
蚕糸一覧
静岡県豊田郡
坂部要司
寒梅香 を培す簡易法
越後国中魚沼郡干手町
雪 ノ本 逸 我
人害動物駆除法
播磨
大上 宇 市
偶 々総撰挙あるに当 りて農民 と撰
挙法 との関係を嘆す
文廼家酔理
質問新題
応答之部
時事
種苗交換 黄蓮 (ほ か 1件 )
官報
1892.2.5
44
臨時撰挙の詔勅 (ほ か14件 )
播磨国揖東郡篠首村
大上宇市
緑綬藍綬褒章下賜 (ほ か 5件 )
北米合衆国 ロツキイ山鉄道ノ眺望
1巻 3号
口絵
社説
信 用組 合
論説
実業教育は急務中の急務な り
農学士
甲州 葡 萄 の 病 菌 の 説
理学士
白井 光 太 郎
農会法案は如何
農学士
高橋昌
代耕法は如何に組立つへ きや
農学士
中村彦
神奈川県北多摩郡稲作改良試験
農学士
横井時敬
講義
民法及ひ商法中農業に関する科条 農 学 士
の評論
清酒
雑録
岩手県牧馬沿革 (農 商務省調査)
随記
土地の利用 (ほ か10件 )
余興
兼題俳句披露 (夜 雪庵金羅宗匠撰)
農学士
澤村 真
熊谷繁三郎
山田惟正
24
27
小説(福 の神一一古帽子 (そ れ見た
か))
弦斎居士
29
酒井為太郎
33
飽海郡長
36
32
狂画
詩歌
通信
虎野夫
山形県飽海郡稲作試験の成績
茄子栽培法
武州入間郡川角村
浅見嘉治
36
蚕児飼育法の梗概
福島県伊達郡飯野村
高野倉吉
37
媒虫の患を去 り苗の生長を宜 くす 千葉県
るの策を陳 して世の農業家に問ふ
野平恒治
牛芽肥料 として麦枇 の効
茨城県河内郡八原村 香耕 鴻巣国蔵
園
諸動植物の効能実験
茨城県河内郡八原村 香耕 鴻巣国蔵
園
(55)
双方向 メデ イア としての明治期農業雑誌
寄書
問答
小作米改良法
群馬県
東 山逸 民
40
兵庫県津名郡鮎原村
広田孫参
48
質問新題
応答之部
時事
鉱毒事件に関する鎖事 (ほ か18件 )
種苗交換 外国稲種
官報
1892.2.20
1巻 4号
米作改良成蹟 (農 商務省 )(ほ か 2
件)
48
米国ボス トン府ウェルスレー花園
之景
口絵
社説
蚕糸業改良策 第一稿
論説
農民ハ商事に敏ならさる可 らず
農学士
苦塩汁撰せる麦種子の発芽
在福岡県勧業試験場 農学 大塚由成
士
鯉鱗の肥料用分析
農学士
代耕法ハ如何 に組立 つべ きや (承 農 学 士
前)
講義
清酒 (承 前)
雑録
農業上に関する各種 の習慣
農学士
渡部朔
東条平二郎
中村彦
山田惟正
天剣子
北海道巡覧記
随記
油菜の産地 (ほ か 5件 )
余興
小説 (福 の神一一好都合 (ど しどし
儲かる))
通信
茄子栽培法附食用法
武蔵国比企郡唐子村上唐子 新井歌吉
鳳香園主幹
27
落花生 の事
武蔵国比企郡唐子村上唐子 新井歌吉
鳳香園主幹
27
慧政栽培並に効用
常陸国河内郡岡田村
寄書
問答
20
弦斎居士
橋本長樹 (本 文 :橋
本長樹 )
煙草栽培試験成績
岩手県西閉伊郡綾織村
内田福蔵
毛蚕三去法
常陸国河内郡岡田村
池田繁
茄 子 カ ラ シ漬 法
常陸国河内郡岡田村
池田繁
大 豆 の 良種
埼玉県比企郡大河村字増尾 杉田文蔵 (本 文 :杉
田文三)
循環耕作 とイヤ地
新潟県下越後国古志郡王内 山崎三太郎
ホ
す
北海道移住民に就 て
奥堂耕夫
岩崎寛
質問新題
応答之部
時事
日本製茶 の大敵 (ほ か17件 )
種苗交換 良稲二種 (ほ か 6件 )
官報
1892.3.5
社説
(56)
50
コロンプス世界博覧会録事 (臨 時
博覧会事務局)(ほ か 3件 )
群馬県富岡製糸所工場之図
1巻 5号
武蔵国比企郡唐子村 鳳香 新井歌吉
園主幹
蚕糸業改良策 第二稿
口絵
論説
講義
農務上 の所感
農学士 農芸化学士
押川則吉
河 流 汚 濁 に 関 す る法 理 一 班
農学士
澤村真
横井農学士農業範囲論の誤謬
農学士 農芸化学士
民法及ひ商法中農業に関する科条 農 学 士
の評論 (承 第三号)
清酒 (承 前)
雑録
農学士
酒匂常明
熊 谷 繁 三郎
山田惟正
阿州藍 の沿革 (拠 農商務省調査)
小 宮 山綬 介
延享常陸民間遺事 (本 文 :延 享常陸
民間旧事)
天剣 子
北海道巡覧記 (承 前)
24
随記
蚕種 の保護 (ほ か 6件 )
余興
小説 (福 の神一一 日出度ひな(ア ー
ラロ出度ひな))
26
詠勤農長歌井に反歌
通信
20
上毛
草綿栽培法
弦斎居士
30
折茂保秀
32
大坂 農学生
33
藍栽培法
福岡県
一一生
34
人害動物駆除法
播州
大上宇市
35
農家年中行事
栃木県下都賀郡
加藤耕圃
36
芽原次六
37
北海道事情随録
桑株鋏
桑株鋏説明
寄書
問答
時事
39
農科大学学生
林相論
質問新題
43
応答之部
45
祝詞の叢 (ほ か12件 )
49
種苗交換 たむし草及細辛 の分与 (ほ か 1件 ) 播磨国揖東郡篠首村
官報
1892.3.20
1巻 6号
八戸道雄
大上宇市
緑綬褒章下賜 (ほ か 1件 )
仏国ライ ン河畔大葡萄園 ノ図
口絵
社説
蚕糸業改良策 第三稿
分離策
論説
遊離窒素 と童科植物に関するリー 農 学 士
ゲル及 ウヰルフアル トの試験 (本
文 :∼ に関するヘ リーゲル及∼
澤村真
農業範囲論の旨趣 を講 し併せて酒 農学士
匂学士に答ふ
横井時敬
銅 塩 生 長 植 物 に及 ぼ す 感 応
古在由直
蚕糸両業
)
農学士
全葉飼育法に就て
吉池慶正
講義
民法及商法中農業に関する科条の 農 学 士
評論 (承 前)
熊 谷 繁 三郎
雑録
茨城県煙草の沿革 (拠 農商務省調
査)
随記
麗鼠 (ほ か 3件 )
延享常陸民間旧事 (承 前)
小 宮 山綬 介
(57)
双方向 メデ ィア としての明治期 農業雑誌
余興
小説 (福 の神一一神争ひ(何 れが真
誠))
弦斎居士
28
狂画
通信
寄書
問答
葡萄樹 を害する鉄砲虫駆除法
千葉県北総香取郡古城村
伊藤芳松
蚕児飼育法の梗概 (前 承)
福島県伊達郡飯野村
高野倉吉
玉蜀黍の最良種
武蔵国比企郡唐子村 鳳香 新井歌吉
園主幹
中稲近江 と大黒橋に就て
武蔵国比企郡唐子村 鳳香 新井歌吉
園主幹
軽便親挽器械真棒試用実験
群馬県邑楽郡中野村大字鶉 小倉和作
新田
林相論 (承 前)
農科大学学生
八戸道雄
38
小作改良法を読む
新潟県
大沼鉄蔵
40
質問新題
42
応答之部
時事
農商務大臣の交迭 (ほ か20件 )
種苗交換 陸稲 と大豆 (ほ か 7件 )
官報
48
栃 木 県 下都 賀 郡 国府 部 大 字 加藤直吉
田
50
緑綬褒章下賜 (ほ か 1件 )
(い
しかわ・ゆうき/早 稲田大学大学院)
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