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シンクレア・ルイス序論
斎藤, 忠利
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 10: 79-96
1968-03-30
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/9949
Right
Hitotsubashi University Repository
シンクレ,ア
ルイス序論
斎 藤 忠 利
誤解を恐れずに言えぱ、小説1、.唇く巴.、という言葉で呼ばれるようになった、いわゆる近代小説ーとは、第
一義的に、風俗小説︵、、島08く匹oh昌声目Rω、.︶のことであり、イギリスをも含めてヨーロッパの主要な近代作家
たちのなかには、風俗小説を得意とする小説家が少なくない。ところが、アメリカでは、久しい間、注目に値するよ
うな風俗小説は生まれず、かりに風俗小説の作家が現われても、ヘンリ・ジェイムズを唯一の例外として、他はすべ
て、二流または三流の作家とされることが多かった。
このような相違が生じた理由は、不分明ではない、と、アメリカ小説の伝統をその小説のロマンス性において捉え
たリチャード釦チェイスは言い、その説明として、次のように書いているー
ひとつには、クーパーが歎いたように、アメリカには、観察すべき風俗がないーつまり、ヨーロッバと比較する
と、であるがーからなのである。そしてわずかながら風俗があるにしても、その風俗は、アメリカ人すべての間に
殆ど一様にみられるものなのだ。このことは、もちろん、クーパーの時代にも、現代にも、文字通りあてはまるもの
シンクレア・ルイス序論 七九
一橋大学研究年報 人文科学研究 10 , 八○
ではない。しかし、小説家というものは、これまでアメリカに発見された風俗よりも、もっと生気のある、多様な風
俗を必要とする。それに、アメリカには、社会の観念そのものに対する、執拗な不信感、ないしは全くの無関心とい
うものがあって、その結果、大抵のアメリカ作家にとって、社会的な慣習と法律とが個人のためになるものだ、と考
えることは、不自然であるように思われるのだ。ヘンリ・ジェイムズの揚合であってさえ、ジェイムズは偉大な風俗
小説家でありながら、道徳的価値は、個人的かつ直観的なものであり、慣習の中にあるよりも、人間に本来そなわっ
ているらしい卓越した人間性の中にある、ということになりそうなのだ。そして、道徳的価値の目的とするところに
は、社会的なものもあるけれども、その価値は、いかなる社会的秩序にも由来しない。なるほど、ジェイムズは、そ
の関心と立揚から、社会的名誉と温厚という、大きな、そして恐らく、やや漢然とした理想を提唱してはいるが、そ
のジェイムズも、まぎれもなく、クーパi、メルヴィル、マーク・トウェイン、フォークナー、それにへ、・、ングウェ
︵註一︶
イと同様に、個人の倫理感に道徳的価値の根源と保証を求めているのだ。
ここには、アメリカ社会が、風俗小説1﹁小説﹂という言葉の本来的な意味における小説ーを生み出す土壌と
して、久しい間、不毛であった、という情況と、それにあわせて、アメリカの代表的な作家たちが、恐らくピューリ
タニズムの精神的な遺産を受け継いで、伝統的に、社会風俗を超越した﹁超絶的な価値﹂︵ヴァン・ワイク・ブルッ
クスの用語︶に目を注いできた事情が、暗示されている。
︵註二︶
ところで、多くのアメリカ作家たちに見られる、このような超絶的な志向は、当然、個人的な価値観を絶対視し、
なにごとによらず、画一化されることを、極力、排除しようとする傾向をもつ。ところが産業の発達とともにアメリ
カ社会の近代化がすすみ、その結果、アメリカの社会生活が徐汝に画一化され、そして、そ.︸に社会的慣習が確立し
て、個人に服従を強いるようになると、社会的な規準としての慣習と個人との妥協ないしは相剋が顕在化し、これが
風俗小説を育てる土壌となる。
ハリィ・シンクレア・ルイス︵=貧蔓ω一8一旨■9蔚︶︵一八八五年−一九五一年︶の問題作﹃メイン・ストリート﹄
︵ミ蕊旨切書3︵一九二〇年︶は、アメリカの田舎町の画一性を謁刺することによって、アメリカ文学の歴史に例のな
いほどの、大きな反響を呼んだが、この乙とは、一九二〇年代のアメリカ社会に、小説が小説として読まれるために
は不可欠な、広く読者の共感︵ないしは反擾︶を得るための共通の地盤が、充分に作り出されていることを意味し、
また、この時代のアメリカ社会が、すぐれた風俗小説を生むために必要とされる市民社会−社会的な慣習が確立し
た社会1としての成熟度に大きく近づいたことを示している。以下の小論は、いかにも小説らしい小説がアメリカ
文学に生まれたことを証する、風俗小説家ルイスの文学の問題点を、その主要な三点の作品に即して解明しようとす
る試みである。
大方の批評家のほぼ一致した意見として、その死︵一九五一年︶に至るまで創作をやめなかったシンクレア.ルイ
スの作家としての本格的な仕事は、一九二〇年代の十年間に完了している、とされる。その﹁偉大なる十年間﹂︵.、昏。
シンクレア・ルイス序論 八一
︵註三︶
一橋大学研究年報 人文科学研究 10 八二
9。暮∪9器。.、︶の最初を飾る作品が﹃メイン・ストリート﹄であるわけだが、この作品は、イェール大学で学生生
活を送り、大学卒業後、ニュi・ヨークで雑誌の編集や新聞の仕事に従事しながら、都会の風俗に接して田舎者意識
を深めたルイスが、その生まれ故郷である中西部の田舎町ソーク・センター︵ωp巳.o窪富︶に対して、いよいよ強く
感ずるようになった反擬と愛着を作品化したものである。一九三七年に出版された﹃メイン・ストリート﹄の限定版
に、ルイス自身が書いている序文によれば、﹃メイン・ストリート﹄の最初の草稿の執筆が始まったのは、二の作品
が出版された一九二〇年よりさかのぼること十五年、一九〇五年のことであり、ルイスは、その執筆の事情について、
次の よ う に 書 い て い る ー
その昔、一九〇五年に、アメリカでは、都市は邪悪であり、農業地においてさえ、時に、神の怒りを受くべき人々
がいるけれども、わが国の村落は天国同然であることが殆どあまねく知られていた。村落は、いつでも、大きな緑の
木立ちにおおわれた白い小住宅から成っており、貧困もなければ口に出すほどの苦労もなかったし、日曜日ごとに、
気立ての優しい、朗々と響く声をもつ牧師たちが、慰安と学識を注ぎ出し、銀行家は、相当にいかがわしい取り引き
をやらかすにせよ、結局、実直な自作農に打ち負かされるのであった。しかし、隣人愛こそ、小さな町の栄華であっ
た。都市では、知ってくれる人もなく、関心をもってくれる人もない。しかし、町にもどれば、隣人たちが陽気な大
家族になってくれるのだった。隣人たちは、尋間などせずに、金を借してくれてエドの奴をビジネス・カレッジに送
り、病人の額をいたわる1何十人もの隣人が、一日に二十四時間、一刻も中断することなくつぎつぎ押しかけてき
て、病人の額をいたわり、それにも拘らず病人が他界してしまうと、病人の亡骸とその未亡人のかたわらで、お通夜
をしてくれた。きまって、隣人たちは、若者をはげまして、いよいよ大きな、いよいよ高貴なものへと進ませるので
あった。
そして、その一九〇五年に、わたしは、イェール大学での二学年目を終えて、休暇のために、生まれ故郷のミネソ
タ州の村に帰ってきた。そして、休暇がニケ月たって1ニケ月間、村人たちが﹁なぜ、ルイス先生は、ハリィに農
揚で仕事を見つけさせることもしないで、ハリィが、ぶらぶらしながら、たくさんの馬鹿々々しい物語りかなにかを
読んでばかりいるのを許しておくのかね﹂と、かなり露骨に認るのを立ち聞きして、わたしは、この隣人愛なるもの
が、大半はまやかし物であり、村落が、兵営に劣らず、宗教裁判所的なところになり得るのだ、という信念にかわっ
たのであった。そこで、休暇の三ケ月目、﹃メイン・ストリート﹄出版の十五年前に、この作品を書き始めたのであ
った。
︵註四︶
もっとも、最初の予定では、題名は﹃村落病ビールス﹄︵.、臣oく三品。≦控ω..︶となる筈で、主人公は、ルイス自
身をモデルにした弁護士ガイ・ポロック︵O∈零ぎ爵︶ーつまり、﹁村落病ビールス﹂に昌された患者1であっ
たが、二万語ほどの草稿ができたところで、ルイスはこの仕事を放郷してしまい、それから十二、三年後に、﹃メイ
ン・ストリート﹄という題名の下で、新しく執筆を始めたが、その時、主人公は、ミネソタ州ゴーファi・プレアリ
ィ︵.、oo嘗臼ギ毎す置一三。。。o鼠..︶︵ルイスの出身地ソーク・センターがモデルと言われる、人口約三千の架空の町︶出身の町
シンクレア・ルイス序論 八三
一橋大学研究年報 人文科学研究 10 八四
医者ウィル・ケニコット︵タ、一一=︵①⋮凶8δの妻となった、大学出の女性キャ・ル・ケニコット︵O騨﹃。一一く。ココ一。。εに
かわり、ガイ・ポ・ックは、副次的な人物の位置に落とされていた。このキャ・ルは、、・、ネアポリスのはずれにある
ことになっているブ・ジェット・カレッジを卒業後、シカゴで一年間、図書館学を修め、セントポールの図書館で三
年ほど働いた後、大草原の田舎町を美化し、これに生気を与えることを自らの使命と感ずるようになり、姉の隣人の
家で会ったウィル・ケニコットと結婚して、ゴーファー・プレアリィの町に乗り込んでくるのであるが、﹃メイン.
ストリi卜﹄の最初の草稿での主人公ガイ・ポロックがルイスをモデルにしていたのと同様に、キャロルは都会生活
を経験したことによって、田舎町出身の人間としての自意識を強いられたルイス自身と考えることができ、また、田
舎町ゴーファー・プレアリィを代弁する人間として設定されているウィル・ケニコットの中に、ルイス自身の投影を
認めることも不可能ではない。
﹃メイン・ストリート﹄の話の筋は、キャ・ルの底の浅い改革の企てが、当然のア︶とながら、ゴーファi・プレア
リィの町の住民たちの餐楚を買い、退嬰的な田舎町の風習の圧力の前にキャ・ルも妥協を余儀なくされる、という典
型的な風俗小説の一形式をとるが、この作品の小説作品としての面白さは、キャ・ルのゴーファー・プレアリィとの
関係が、キャロルとその夫ウィル・ケニコットとの関係の中に持ち込まれていくところにある。このことは、ルイス
の文学が単なる外面描写に終始している、とするような批評に修正が加えられるぺきことを示し、また、あとでも触
れることになるが、夫婦関係ないしは家庭というものを描く乙とが少ないアメリカ小説の伝統から言って、注目すべ
きことである。
ところで、キャ・ルとゴーファー・プレアリィの関係とは、因襲的な田舎町の規格化された生活の画一性と独善ぶ
りを批判するキャ・ルが、その軽薄さを、田舎町の側から批判される、という相互批判を内容とする関係であるが、
その相互批判が、作品の設定として、キャロルとウィル・ケニコットとの夫婦喧嘩という形をとり、また、田舎町へ
のキャ・ルの帰順が、キャ・ルとウィル・ケニコットとの和解に重なり、そのことによって、﹃メイン.ストリート﹄
は、小説的なふくらみを獲得していくのである。
ヤ ヤ ヤ ヤ
もちろん、このような﹃メイン・ストリート﹄の重層性を、二の作品の破綻と考え、その構成上からも、この作品
は、第十九章を境として二つに分裂しており、前半は﹁謁刺家﹂の仕事、後半は﹁小説家﹂の仕事、とすることも可
︵註五︶
能であろうが、私見によれば、キャロルにおける田舎町への反拶と帰順が、夫婦関係の愛と憎しみという人間関係の
複雑さに還元され、田舎町をテーマにした﹃メイン・ストリート﹄が﹁キャロル・ケニコットの物語り﹂︵﹃メイン.
ストリート﹄の副題︶となるところに、この作品の小説としての成功がある。
なお、たいへん興味深いことに、シンクレア・ルイスは、キリスト教説教師の悪徳ぶりを描いて話題を呼んだ﹃エ
ルマー・ガントリィ﹄ ︵韓§ミ9ミ鳶︶︵一九二七年︶の中で、その登揚人物の一人に、﹃メイン・ストリート﹄の批評
を行なわせて、次のように言わせているー
⋮⋮全く、あのルイスの作品﹃メイン・ストリート﹄は、わたしの読んだ限りでは、実に退屈だったよ。ただ、だ
らだらと、いつまでも続くばかりで、ルイスは、ゴーファー・プレアリィの田舎者共の中に、ルイスと同じ同数だけ、
シンクレア・ルイス序論 八五
一 八
と 六
9
か
し
、
一橋大学研究年報 人文科学研究 10
文学的なお茶の会に行かない者がある、ということしか、わからなかったのさ!
︵註六︶
には、あの見事な、英雄的開拓者たちの間に、認められなかったのだよ。⋮・・
存
ルイス
昧さを表わすものとして指摘され、これが、しばしば、ルイスの文学の欠陥の一つである、とされるが、これも、見
また、﹃メイン・ストリート﹄のゴーファー・プレアリィ批判が徹底を欠いていることは、作者ルイスの立揚の曖
ないであろう。
時に是認しているゴーファー・プレアリィの人間模様は、人間生活の実相を伝えるものとして受け取らなければなら
な生活こそ、平均的な市民の生活の実態である、とする立揚からすれぱ、﹃メイン・ストリート﹄が批判しつつ、同
待する一部の読者にとっては、﹃メイン・ストリート﹄の大きな欠点、ということになろうが、起伏の少ない、平凡
るがーたとえば、小説作品にリチャード・チェイス的な意味における・マンス的な要素、ないしは崇高な悲劇を期
厘oヨの富日︶は村八分に会い、女教師ファーン・マリンズ︵窄旨竃色一器︶は、残酷にも汚名を着せられて、追放され
る、ということはーもっとも、ゴーファー・プレアリィに対する徹底的な反逆者マイルズ・ビョーンスタム︵言一8
ト﹄の中では、別居までして町を出たキャロルも、やがて夫のもとに帰り、結局、何事も起こらなかったことにな
いたか、あるいは予想して、これを自己批判の形で書いてみせたものと思われるが、たしかに、﹃メイン・ストリー
プ・ットにしまりがなく、劇的な要素も乏しく、平板である、とするような大方の批評を、ルイスが、すでに聞いて
これは、調刺的な作品としてはセンセイショナルな反響を呼んだ﹃メイン・ストリート﹄も、小説作品としては、
1
義
方をかえれば、ルイスの文学世界に奥行きと幅を与え、ルイスの作品を小説として面白いものにしている、と考える
ことも可能である。
二
琳般に﹁繁栄の二〇年代﹂と呼ばれる、ビジネス万能の二〇年代のアメリカ社会を、中西部の架空の中都市ゼニス
︵N。昌芽︶に住む一人の不動産業者の生活を中心として描いた﹃バビット﹄︵ヒd&富δ︵一九ニニ年︶は、アメリカ社会
の都市化ないしは市民生活の機械化1いわゆる自動車革命が、その端的な表われーと共にその数を増してきた
﹁中産階級﹂︵、、島。昌註一。。一即。。、,.︶を批判した作品、とされる賦、上述したような﹃メイン・ストリート﹄の問題を
︵註ヒ︶
引き継いだ作品として考えると、本質的には田舎者に他ならない主人公ジョージ・F・バビット︵08お。男評浮葺︶
に託して、都会人のつもりで都会生活を送りながら、その都会生活に徹しきれない田舎者の田舎者意識を作品化した
もの、とすることができる。そして、﹃メイン・ストリート﹄における田舎町の問題が、﹁神格化された沈滞﹂︵、.身F
⇒。の、ヨ帥α。O。q、.︶にあったとすれば、﹃バビット﹄における主人公バビットの問題は、近代化した生活の諸設備がバ
︵註八︶
ビソトの神となった、という事実にある。
︵註九︶
しかしながら、ここでも、﹃メイン・ストリート﹄においてキャ・ルと田舎町の関係に認められたような﹁アンビ
ヴァレンス﹂︵、.螢ヨ玄く㊤一。昌。①、、︶が、バビットと都会生活の関係に認められるのであって、なるほど、バビットは、二
〇世紀初頭のアメリカには数千台しか無かった自動車の年間生産台数が、一九二〇年に、一躍、二百万台近くに達し
シンクレァ.ルイス序論 八七
一橋大学研究年報 人文科学研究 10 八八
た、という事実に象徴されるような、急激な機械文明の進歩を謳歌しながら、身近の環事を神格化しつつ、小市民的
な生活の中で自己満足に浸ってはいるが、それでいて、新しい機械文明の時代にふさわしい前向きの姿勢をもつこと
ができず、結局は徒労に終わる反逆−自然への逃避と浮気1に、﹁人間らしさ﹂を回復しようと試み、そして、
アメリカの市民生活における画一化が、思想や精神の画一化を招くことに問題を感じている過激論者セネカ・ドーン
お9U8冨︶と、女性関係が原因で妻を射殺しようとしたため、刑務所に送られることになる悲劇的人物ポール.
板な、紙人形的人物の域を脱け出し、いわゆる疎外状況にある現代人の共感を呼ぶ、まことに愛すべき人物として、
﹁アンビヴァレンス﹂は、バビットの精神の内部に持ち込まれ、その結果、バビットは、単なる調刺の対象たる、平
ての自己満足、州立大学出身者としての自惚れ、などは、そのことを裏書きするー、そのことによって、上述の
間︵つまり、田舎者︶としての意識を、ひそかに持ち続けておりーバビットにおける自動車の神格化、文化人とし
応と反擾の﹁アンビヴァレンス﹂であるが、バビットは、そのような都会化した風習ないしは風俗に徹しきれない人
るまで克明に描き出されている一九二〇年代のアメリカ社会の都会化した風習ないしは風俗に対する、バビットの順
もとより、﹃バビット﹄における﹁アンビヴァレンス﹂は、基本的には、バビットの生活環境として、その細部に至
間になっているところに、﹃バビット﹄の小説的な面白さがある。
に反逆する、もう一人のバビットが共存している、ということであって、そのことによって、バピットが、生きた人
この二とは、バビットの中に、﹁中産階級﹂的な俗物の一人として誠刺の対象とされるバビットと、そのパピソト
リーズリング︵評巳困。践お︶という、二人の徹底した反逆者を両極として、その間を揺れ動く。
(ω
読者の前に立ち現われてくるのである。
以上述べてきたことを、要約して、図式化すれば、﹃メイン・ストリート﹄における、キャロルとウイル・ケニコ
ットの﹁アンビヴァレント﹂な関係が、﹃バビット﹄では、ジョージ・F・バビットという、一人の人物を造形する
内容として用いられた、ということになるが、そのような﹁アンピヴァレント﹂な関係を、再び、ひと組の夫婦の関
係として設定し、しかも、これを、アメリカ対ヨーロソバという関係に重ねてみせたのが、シンクレア.ルイスの
﹁偉大なる十年間﹂をしめくくる作品﹃ドッズワース﹄︵O。亀動ミ。、δ︵一九二九年︶である。
シンクレア・ルイス序論 八九
省的な要素をもち、また、自伝的な傾斜を強めている、という点でも、ユニークな作品になっている。
の再婚が、同年五月ーを土台として書かれているだけに、外面描写を得意とするルイスの作品としては、極めて内
ー・ルイス︵O田8コΦ器曾冨三ω︶との離婚が、一九二八年の四月、ド・シィ・トムプスン︵∪08一ξ穿o目窟8︶と
それに、ルイスの文学の作風から言っても、この作品は、明らかにルイス自身の離婚と再婚ーグレイス・ヘガ
説の伝統から言って、極めてユニークな作品である。
ような観のある作品であり、また、さきに触れた、夫婦関係ないしは家庭というものを描くことが少ないアメリカ小
を内容とする﹃ドッズワース﹄は、私見によれぱ、シンクレア・ルイスの文学のもつ問題のすぺてを集大成したかの
さて、憧れのヨー・ッパ旅行に出かけたアメリカ人夫婦が、その旅行中に夫婦関係の危機に見舞われる、という話
三
一橋大学研究年報 人文科学研究 10 九〇
小説作品としての基本的なパタンは、﹃メイン・ストリート﹄のそれに近く、主人公サ、・、ユエル・ドッズワース
︵留ヨ垢一U&箸99︶の俗物性ないしは田舎者意識を嫌う、その妻フランシス︵問.目8ω︶の軽薄さを描くことによっ
て、ウィル・ケニコット、バビット、ドッズワースとならぶ、田舎者としてのアメリカ人を批判する批判者に対する
批判という形をとり、話の筋としては、アメリカの男性が、その妻となる女性を通じて、ヨi・ッバ的な文化と教養
に憧れる、という極めてアメリカ的な愛の形の破綻と再生を内容とする。そこで、﹃メイン.ストリート﹄において
見た、キャ・ル︵妻︶←ウィル・ケニコット︵夫︶←ゴーファー・プレアリィ︵田舎町︶、という図式を変形し
た、ドッズワース︵夫︶︵アメリカ人︶←フランシス︵妻︶︵アメリカ人︶←ヨーロッパ、という図式、つまり、
夫と妻の関係が、アメリカとヨi・ッパの関係に重なる、という図式が成立する。
そこのところを、作品自体に即して検討してみると、まず、ドッズワースが、ヨi・ッパ旅行から帰ったばかりの
成金の娘フランシスと結婚したことは、ヨーロッパの文化に対する田舎者としてのアメリカ人の憧れの実現であった。
︹因みに、﹃ドッズワース﹄は、最初、﹃憧れる人﹄︵↓ぎさミ醤ミ︶という題名で構想された。なお、アメリカにおい
ては、伝統的に、殆どいつも、女性が文明開化の主役であり、たとえば、アメリカの国民的な文学作品の一つ﹃ハッ
クルベリィ・フィンの冒険﹄︵ドぎ﹄き恥ミミ塁県零§§ミ受㌔§§︶︵アメリカ版一八八五年︶において、ダグラス未亡人
︵≦達9<Uo品一器。階︶が野性児ハックルベリィ・フィン︵コ8冠魯。門q田き︶を﹁教化﹂︵、.。三壽。..︶しようとしたのは、
この事実の見事な象徴化であり、また、他でもない、その作者マーク・トウェイン︵ζ帥門犀目≦p一コ︶︵一八三五年ー一
九一〇年︶自身の結婚が、アメリヵの男性がその妻となる女性を通じてヨi・ッパ的な文化や教養への憧れを実現し
ようとする、アメリカ的な愛の典型であった。︺
ッズワースは、妻フランシスの浮気に悩まされ続ける。フランシスの浮気は、明らかに、ヨーロッパに渡ったことで、
ところが、殆ど波風もなく過ぎた結婚生活二十二年後に、ドッズワース夫妻が試みた憧れのヨーロッパ旅行で、ド
ドッズワースの教養の無さがいよいよ露わに見えてきたことにその原因があるが、早くもヨi・ッパ旅行に出かける
船の中で始まった浮気の相手として、フランシスが、イギリス人の船客、イタリア人の飛行士、ユダヤ系のアメリカ
人、という具合に、次々と男を変え、揚句の果てに、ドイツ人の子爵クルト︵ズロ◎と結婚したい、と言い出すに及
んでは、愚直なまでに純情なドッズワースと言えども、妻のフランシスを、ヨi・ッパかぶれの軽挑浮薄な女と断定
せざるを得ず、フランシスに対する執着を断ち切らないわけにはいかなくなる。
二のことは、ドッズワース夫妻における、夫婦関係という本来﹁アンビヴァレント﹂な関係の緊張度が高まること
であると同時に、ドッズワースが、その妻フランシスを通じて憧れていたヨー・ソパ文化に反擾を感じていく、とい
うことであり、・このようにして、軽薄なフランシスに対するドッズワースの愛着と反援は、アメリカ人︵ヨーロッパ
に対する田舎者︶としてのドッズワースの、ヨi・ッパ文化への憧れと反搬に重なっていく。
そして、結局、ドッズワース夫妻の夫婦関係は、破綻をきたし、フランシスと別れる決心をしたドッズワースは、
旅行中にヴェニスで会った未亡人のイーディス・コートライト︵理酵9葺蒔算︶ーアメリカ人であるが、真の意味
でのヨーロッパ的な教養の体現者、として設定されているーと、新しい生活に入ることになるのであるが、このこ
九一
とは、ヨi・ッパ文化に対する無批判的な憧れ、ないしは、浅薄なヨi・ッパ理解の終焉を意味し、真のヨー・ソパ
シンクレア.ルイス序論 一橋大学研究年報 人文科学研究 節 , 九二
理解を反定立とするアメリカ人の自己確認の方向を暗示しようとしたもの、と解することができる。
もとより、﹃ドッズワース﹄は、基本的には、夫婦関係という﹁アンビヴァレント﹂な関係を中心的なテーマとす
る小説である。しかし、同時に、シンクレア・ルイスは、ヨー・ッパ対アメリカの関係を、そのような﹁アンビヴァ
レント﹂な関係に還元してみなければ掴み得ない、複雑な関係として捉え、アメリカ人であるア一とのいらだたしさを、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
作品化することに成功している。そのことは、なによりも、シンクレア・ルイスが極めてアメリカ的な作家である.︸
とを物語っている。
* * * * *
以上、一九二〇年代のシンクレア・ルイスの主要な作品を、アメリカ文学の伝統に新しさをつけ加えた風俗小説と
して捉える立揚から、ルイスを終生苦しめた田舎者意識に焦点をおいて、概観してみたわけであるが、もしかりに、
一九二〇年代のアメリカ文学の特徴を第一次世界大戦を契機とするアメリカ合衆国の急激な大国化を背景とした、そ
の文学の国際化ールイスのノーベル文学賞授賞︵一九三〇年︶は、これを裏書きするーとして捉える.一とが妥当
であるとすれば、ルイスの文学の問題は、そのような急激なアメリカの大国化の過程の中で、逆に強く意識されてく
るアメリカ人の田舎者意識の問題だからである。第一次世界大戦後、アメリカは、﹁常態への復帰﹂︵..切p。﹃一。2。り,
目帥一β..︶を国是とし、国際主義に対する反動期に入ったが、ひとたぴ外の世界に向かって開かれた眼が、国内に向
き直ったとき、そこに自意識が生まれるのは当然であり、その自意識が、ルイスの文学においては、アメリカの田舎
町、ひいてはアメリカ全体に対する反擬となり、また、そのような反擬が、外発的なものであるだけに、その反動と
して、反搬するようになった正にその対象に対する愛着が強まったのである。
しかも、ルイスの場合には、その生いたちと特異な性格のために、幼少の頃から、すでに、生まれ故郷の田舎町に
対する違知感と、それだけに、その田舎町に受け入れられることを求める願望とがあり、また、都市生活や外国生活
の経験によって、アメリカの田舎町への反擾と愛着は強められ、同時に、その一方で、そのような田舎町の出身者と
しての田舎者意識をかき立てられていたので、アメリカ人が世界の大国としてのアメリカにふさわしい国際性をもつ
ことを期待する、時代の要請は、ルイスにおける、アメリカの田舎町への反擾と愛着、また、その田舎者意識を増幅
する結果にしかならなかった。
このような、シンクレア・ルイスの個性と時代の要請とのズレは、ルイスの作家としての円熟期たる一九二〇年代
に文学活動を開始した、次の世代のアメリカ作家たちーたとえば、アーネスト・へ、・・ングウェイ︵国.房鴇田o巨夷,
≦塁︶︵一八九九年−一九六一年︶などーからルイスを区別する目安となるもので、ヘミングウェイなど、次の世代
の作家たちが、アメリカの大国化を既成の事実として受け取り、ドルのカを背景に、アメリカの辺境と化したかに思
れた﹁田舎者の最後﹂︵、.霧。国馨99。ギo≦目芭ω..︶︵マックスウェル・ガイスマーの著書名︶の一人たるに留ま
われるヨー・ッバに、なんの屈託もなく渡って行ったのに対して、シンクレア・ルイスは、ついに時代から取り残さ
︵註十︶
った。
シンクレア・ルイスにおける田舎者としての疎外感が、いかに根強くルイスの晩年に至るまで、つきまとって離れ
なかったか、という点に関しては、ホレス・R・ケイトン︵頃oβ8罰9旨9︶の書いた﹁シンクレア・ルイスとの
シンクレア・ルイス序論 ∼1 九三
一橋大学研究年報 人文科学研究 10 九四
ビクニック﹂︵、.>型。旨三芸。。言巨﹃■睾一ω、、︶と題する小文が参考になろう。
ホレス・R・ケイトンという人は、セント・クレア・ドレイクとの共著﹃黒い都会﹄︵製§神ミ畢尽。禽︶︵一九四五
年︶で知られる黒人の社会学者であるが、アメリカの黒人間題の不合理をあばいてみせた、ルイスの作品﹃王家のキ
ングズブラッド﹄︵民き鴫ミ。&さ受ミ︶︵一九四七年︶の中で、その名前が言及されていたこともあって、この小説の書
評を行ない、それをルイスに送ったところ、それが機縁となって、マサチューセソツ州ウィリアムズタウンにあった
ルイスの屋敷に招かれて、数日間滞在し、ルイスとのピクニックを楽しんだ。この小文は、その時の思い出話である。
ところで、ケイトンが国際的にも高名な作家ルイスの屋敷を訪れた時、ケイトンを驚かせたのは、美しい渓谷を見
下ろす丘に立つその屋敷の宏壮さではなく、三人の黒人の召使いと闘牛師あがりの書記を相手に暮らすルイスの、異
常なまでに孤独な姿であった。そもそも、ルイスがケイトンを招いたのも、ひとつには、ルイスが交遊に飢えていた
からであり、ちょうどその時いっしょに招待していた二人の俳優が来訪しないことを知ったルイスの失望は、はたで
見るのも気の毒な程であった。ルイスは、いきなり、ケイトンに話かけるー
黒ん坊である辛さが、わたしにはわかるよ、ホレス。⋮⋮わたしは、イギリスに渡った時、上流社会に受け入れら
れた。わたしは、その人々にとっては、中西部出身の田舎者で、洗練されていない、無教養な男だったろうから、最
初は、文学者や、金持ちで教養のある上流階級の人々からちやほやされると、いい気持ちになった。貴族階級の人々
からも、ちやほやされたからね。ところが、その人々から、自分が崎形児か上手な芸当を教え込まれた猿みたいに見
られているのに気がついた。自転車の乗り方を教えられていても、やはり、猿なんだね。 その時、わたしは、黒ん坊
になったような気がした。というのは、アメリカで黒人がどのような業績をあげようと、 依然として黒人を教育のあ
る猿としか見倣さない白人がいるからね。
︵註十一︶
ここには、はからずも、アメリカの黒人種が、たえず白人種の挫折感を和らげる道具として用いられてきた、とい
う黒人問題の核心が露呈されているが、それにもまして、アメリカで最初のノーベル賞受賞作家となったルイスが、
自らを黒人になぞらえるところに、アメリカ人としてのルイスのヨー・ッパ・コンプレソクス、つまり、田舎者意識
の 度し難さが窺われる 。
このようなルイスの問題が、どこまでルイス個人の性橋に根ざすものなのか、また、どこまでルイスの生きた時代
とかかわり合うものなのか、その辺りの間題を、たとえば、マーク・ショーラーの詳細なルイス伝︵三豊︷ω9曾賃
翰§馬ミト§靭﹄濤﹄ミ誉§卜爵︶︵一九︵ハ一年︶などを手掛かりとして、多少なりとも解明し、その上で、ルイスの個
凌の作品に検討を加え、ルイスの﹁偉大なる十年間﹂を、ルイスの作品全体の中に、しかるべく位置づける、という
困難な仕事を、今後の課題としたい。
︵註︶
﹃: 九五
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シンクレア・ルイス序論 一橋大学研究年報 人文科学研究 10 九六
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ミ﹂§馬篭ミ§≧弗さ騎篭き1建騎ーサ8・︺なお、この資料は、研究誌﹃アメリカ文学﹄︵昭和姶年︶中の拙文﹁シンクレ
ア・ルイスと黒人問題﹂で、やや違った角度から利用した。
︵昭和四三年四月一五日 受理︶
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