Comments
Description
Transcript
View/Open - HERMES-IR
Title Author(s) Citation Issue Date Type 引き裂かれたポートレート : オペラ「画家マチス」のは らむもの 江藤, 光紀 一橋研究, 22(4): 89-114 1998-01-31 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/5740 Right Hitotsubashi University Repository 8 9 引 き裂かれたポー トレー ト -オペラ 「 画家マチス」のはらむ もの- 江 藤 光 紀 一昨年9 5 年 (この原稿を書いている時点での) は,オーケス トラのほとんど , 全ての楽器のためにソナタを残 し 「 作曲法教程」などの著者 として も名高 い 1 8 9 5-1 9 6 3 )の生誕百周年 にあたり,我が国で 作曲家バ ウル ・ヒンデ ミット ( もこれを祝 う行事が幾つか行われた。 こうしたイヴェン トによって ヒンデ ミッ トの創作実体がある程度明 らかになってきたが,実際にはその名前に比べると まだまだ埋 もれている作品が多 く,知識 も断片的で,取 り上げ られる演 目にも かなり偏 りが見 られるようだ0 1 9 2 0 年代 には, ヒンデ ミッ トは文字通 り ドイツを代表する若手作曲家で,エ ネルギ ッシュに新作を世 に問い, ス トラヴィンスキーや シェー ンベルクに劣 ら ない名声を誇 っていた。だが, こうしたアヴァンギ ャル ドとしての ヒンデ ミッ トのポー トレ- 卜は,今 日思 いの外知 られてお らず,現在の ヒンデ ミット像 は その後の一部の作品だけでつ くられているように思われるのである。 もっとも こうした理解の背景 には, ヒンデ ミット自身が抱いていた音楽恩想 も大 きく関 与 しているので,古い作曲家像か ら脱却 し,新たな像を作 り上 げてい くために は,その恩憩的変遷を辿 り検討 し直 してみる必要があろう。そこで本稿では中 期の代表作, オペラ 「 画家マチス」を中心 に して,そこに至 る創作の諸相を概 観 し, またその後の活動 に占めるこのオペラの位置を考察する。そのことによっ て,新 しい ヒンデ ミッ ト像を考えてい くための鍵を提供 したい。 *「画家マチス」以前 - 時代を呼吸する作曲家 バ ウル ・ヒンデ ミッ トはフランクフル ト近郊の町,ハーナウで生 まれた。父 ロベル ト・ル ドルフ ・エ ミール ・ヒンデ ミットは画家/塗装工 として,その地 9 0 一橋研究 第2 2 巻第 4 号 区の労働者階級地域で暮 らしていたという。バ ウルは三人兄弟 の長男で,幼少 か ら音楽 に興味を示 し, ヴァイオ リンとヴィオラを習 っていた。 生活上 の労苦 もあって音楽を学ぶ道 の りは決 して楽ではなか ったが, ヴァイ オ リンに習熟す るかたわ ら,1 9 1 2 年か らはフランクフル ト音楽院で作曲をまず アルノル ト・メンデルスゾー ンに,続 いてベル ン-ル ト・ゼクレスに師事。1 4 年 には師 レーブナーのカルテ ッ トに加わ り本格的な音楽活動 に乗 り出す。翌1 5 年 にはベー トーヴェンのヴァイオ リン ・コンチェル トの ソリス トをつ とめ,そ の力量が買われて フランクフル ト歌劇場 の コンサー トマスターに就任 し,音楽 6 年に最初のオーケス トラ作品であるチェ 的な資質を一気 に開花 させた。一万,1 ロ協奏曲が完成 し ( 同年 6月に作曲者 自身 の指拝で初演) , ヒンデ ミッ トの多 面的な才能が明 らかになる。 コンチェル トというよりむ しろシンフォニーに近 いこの作品 には, ロマ ン派の音楽語法の習熟だけでな く, オーケス トラの扱 い か ら, チェロの ソリステ ィックな効果 に至 るまでを,完全 に掌握 した上での自 信を もった筆運 びがみ られ,習作 とはいえ, とて も二十才の青年 の作 とは思え ない完成度である。 ところで前年の1 5 年 には,父 エ ミールが従軍先 のフラン ドルでな くな ってい る。長男バ ウルは家計 を支える義務 を負 って,上述 の演奏活動 の他, カフェバ ン ドなどで も働 いている。1 7 年 には戦争 の激化 にともな ってバウルも徴用され, しば しば前線近 くまで赴 き,軍楽隊の一員 として演奏 に従事 した く 1 ) 0 終戦後, ヒンデ ミッ トはヴァイオ リニス ト/ ヴィオ リス トとしての活動を再 開す るが,同時に作曲家 としての活動 に も精力的にとりくんでい く。最初の際 だ った成果 は作品番号11の下 にまとめ られた 5つの弦楽 ソナタ群であろう。構 想 の根を1 4 年 にまで さかのぼるこの曲集 は,伝統 と革新の対立 と止揚 という創 作 の出発点がはっきりと刻印 されている。例えば作品 1 1-4の番号を もつ ピア ノ伴奏付 きのヴィオラ ・ソナタは, ドビュッシーの晩年の ソナタを思わせ る美 しい レチタティーヴォで始 まる ( 従軍中,上官の希望で ドビュッシーのカルテッ トを演奏 していたとき, ラジオか ら ドビュ ッシー死去の報が伝え られた, との 回想が残 されている (2) ) が, アタッカで結 びつ け られた第 2楽章 と第 3楽章 は民謡風の主題 による 4つのヴァリエーションになっているC変奏 という展開 手法を, この後 ヒンデ ミットは生涯に渡 って好んで用 いるようになる。 ところ どころで協和音を用 いなが ら, それにつづ く半音階進行 によって結局無調的な 引き裂かれたポー トレー ト 9 1 印象 を与 えている無伴奏 ヴィオラ ・ソナタ o p. l l-5には, 後期 ロマ ン派, 特 にマ ックス ・レ-ガ-の影響が指摘で きる。 そ して 「パ ッサカ リアの形式 とテ ンポで」と題された第 4楽章は,バ ッ-のニ短調 シャコンヌの今 日的なパロディー 1-1 ,2のヴァイオ リン ・ソナ タには ブラー ムス とみ ることがで きよ う。Op1 pl l-3のチェロとピアノが針金の よ うな ライ ンを の影が差 している一方で,o 描 いてつ きすすむ第 1楽章 は,後年の 「 新即物主義」時代の作風を予見 してい る。 91 9 年 にはオスカー ・ココシュカの戯曲に この五っの ソナタが完成 した年,1 p. 1 2が作 曲 され, これ 基づいた最初の一幕オペ ラ 「 殺人者,女 たちの希望」o によって ヒンデ ミットのいわゆる 「 表現主義」 の時代が始 まる。音楽 における 表現主義 はすでに第一次大戦前の シェー ンベルクらによって始 まっているとさ 1 9 0 9 ) ,「幸福な手」( 1 9 1 3 )などの例外的な作品 れ るが, モノ ドラマ 「 期待」 ( を除けば,表現主義のテキス トに基づいた最初の本格的オペ ラはヒンデ ミッ ト の手 になるのである (a)O ココシュカの台本 は戦争か ら帰 って きた男 とそれ を 迎える女の間の激 しい闘争を措 いた作品だが,続 いて翌年, ヒンデ ミッ トは精 力絶倫の ビルマの王を題材 に した人形劇, フランツ ・プライ作の喜劇 「ヌシュ ・ p. 2 0を, さ らに2 1 年 には修道女 の幻想 と背徳 をテーマ とす るアウダス ヌシ」o p. 2 1 を作曲 して, 名実 と もに若手 の ト・シュ トラム台本の 「 聖女 スザ ンナ」o 筆頭 に躍 り出る。 ヒンデ ミッ トの 「 表現主義」 の問題 はまず, テクス トとの関連 において理解 されなければな らない. プ ッチーニを意識 していると思われ る三部作 オペ ラに 殺人者」),享楽 (-快楽主義 ,「ヌ はそれぞれ,両性間の争 い (-生気論,「 聖女 スザ ンナ」) とい うテーマが振 りあ シュ ・ヌシ」) ,本能 (-禁欲主義,「 て られ,主題上の関連づけがなされている (4)。 また この間 に も, 例 えば作 品 1 8の ピアノ伴奏付 き歌曲集ではク リスチ ャン ・モルゲ ンシュテル ン, エルゼ ・ ラスカー ・シューラ-, ゲオルグ ・トラ-クルといった詩人 の詩 に作曲 してい 聖女 スザ ンナ」完成直後 にも, エ ドゥアル ド・ライナ ッ ヒャーのテ ク るし,「 p2 3. aや,「スザ ンナ」 とモチーフ上 の親近性 を ス トによる歌曲集 「 死の死」 o p2 3. 2などを続 けざ まに仕上 げて い 感 じさせ る トラークル作 の 「 若 き乙女」 o る。 これ らの作品群 は ヒンデ ミッ トの創作 の最初のJ 」を築 き上 げている。 音楽のほうで も, テクス トの劇的な効果を高める作曲手法 は幾つ も見て取れ 9 2 一橋研究 第2 2 巻第 4号 よう。マ ンフレッ ド・ヴァーグナーは 3部作オペラについて,セクシャリティー, のぞき見趣味, エクスタシー,集中効果,情景描写 といった 5つのポイン トか ら,オーケス トラの幅広い音域, ダイナ ミックスレンジ,打楽器の効果的使用 など,音楽的な特徴を具体的に挙げている (5)。確かに 「殺人者」 の冒頭 の金 管楽器の嶋軌は,その後の闘争 と暴力の荒々 しいス トー リーを象徴 しているし, また例えば ソプラノにヴィオラ 2本,チェロ 2本 という特殊な編成で書かれた 浄夜」の濃 「 死の死」の,中低音弦楽器群が織 りなす分厚 いテクスチュアは,「 密な世界を思い起 こさせよう。 しか しここで注意 しなければな らないのは,アンネグ リッ ト・ラウベ ンター ルが詳細な研究 によって明 らかにしたように,三部作 オペラのうち後の 2作 に は,かなり撤密 に計算 された構造が隠れているとい うことであ る ( 6 )。 特 に 「 聖女 スザ ンナ」 は,音楽 はテキス トに導かれるままに流 れているよ うに見 え て,実 は長大な変奏形式をとってお り, しか もそれは小節数上,厳密なシンメ トリ-構造を示 しているのであって,決 してその場の思 いっ きゃ情景描写だけ で書かれているわけではない。 テキス トと音楽が独立 して存在するという,級 年の 「 新即物主義」的な音楽把握 は,突然始まったことではな く, この初期表 現主義オペラにすでに内包 されているという指摘 は,極めて示唆的である。 従 って,次の連作歌曲集 「マ リアの生涯」op. 2 7が, ヒンデ ミッ トの新古典 主義への転回だとする見方 は先ず第一 に, ライナー ・マ リア ・リルケという拝 情詩人のテキス トに作曲 したという,テキス ト選択の問題 として考えなければ な らないだろう。確かにこの曲では,バ ロック初期の作曲家のメロディーか ら の引用があった り ( 第 1曲 「マ リアの誕生」),歌謡の レチ タテ ィー ヴォ的な 扱いが見 られた り ( 第 3曲 「マ リアへのお告げ」)するが,一方で ヒンデ ミッ トお得意のかなり長大な変奏形式が取 り込 まれてもいて ( 第1 4 曲「 マ リアの死 : 第二の歌」) こうした楽曲では, テキス トのス トー リーにお構いな く,音楽 は 勝手 に展開 してい くのである。 音楽の自律性において古典に回帰するという傾向は,翌2 4 年の 「セレナー ドロマ ンティックなテキス トによる小 カ ンタータ」 において,バロックスタイル を踏襲することによって一層の深化を見 る。 ソプラノ,オーボエ, ヴィオ ラ, チェロという室内楽のためのこの歌曲集では,楽曲の合間に器楽のデュオや ト リオの楽章が挟 まれていたり,歌曲の構造 に トッカ-夕やクーラン トが組み込 9 3 引き裂かれたポートレート まれているのである。 さて,編成 を切 りつめ古典的なスタイルに戻 り,同時にロマ ン主義的な主観 や情緒 の表出を避 けるのは, この時代 の流行でもあった。この流れはス トラヴィ ンスキーの歩みを追 ってい くと良 く理解で きる。 ヒンデ ミットの こうした過程 は, ス トラヴィンスキーでは丁度,ペルゴレージに基づ くバ レエ 「プルチネ ッ ラ」( 1 9 2 0 )か らギ リシャ古典劇 「ェデ ィブス王」 ( 1 9 2 6 ) にいたる新古典主義 様式 の完成の途上 に重 な り合 っていて,器楽曲 としては 「 管楽器 のための シン フォニーズ」( 1 9 2 0 ) ,「オクテ ッ ト」 ( 1 9 2 2 ), 「ピアノ協奏 曲」 ( 1 9 2 3) な ど, 感情移入 を故意 に避 けた 「 乾 いた」音楽 が生 まれて い る。 また この直前 には 「 兵士の物語」( 1 91 8 ) ,「ラグタイム」( 1 91 8 ) ,「ピアノ ・ラグ ・ミュージック」 ( 1 91 9 ) などで ジャズの要素を とりこんだか と思えば,2 2年 にはア コーデ ィオ ンの印象的なオペラ ・ブッファ 「マゲラ」で,サ ブカルチ ャーに接近 した りも している。 カフェ ・バ ンドでの演奏経験 もあ った ヒンデ ミッ トが, こうした傾 向に無関心であ ったはず はなかろう。 ヒンデ ミッ トの ジャズや新音楽 への接近 はか な り早 く, ピアノ曲 「夜 に」 op. 1 5( 1 91 9 ) の第1 3曲 「フォックス トロッ ト」 にまずあ らわれ,「ダンス曲集」 op. 1 9を経て 「ピアノ組曲 "1 9 2 2" 」op. 2 6で頂点を描 く。「 1 9 2 2 」 には, アーチ 」 」 の役割 を果 た している緩徐楽章 「 夜曲」 をはさんで 「マーチ 「シ ミー 「ボス 」 トン 「ラグタイム」 と, いず れ も身振 りと結 びつ く音楽 がな らんで いて, 「 1 9 2 2 」 とい う題名 とともにサブカルチ ャーや状況的な要素 を取 り込 む姿勢 が 見える。 ここで作曲者の関心 は ピアノのアタックに集中 してお り,音楽 は激 し い不協和音を きしませなが らエネルギ ッシュに進行す る。 戦前 の前衛音楽を リー ドした ドナウエ ッシンゲ ン現代音楽祭で1 9 2 2 年 に初潰 p. 2 4-1も, こう した傾 向を如実 に示 して い る。 された 「 室内音楽第 1番」o 「 非常 に堅 い リズムで」 と題 された第 2楽章 は, しかつめ らしい軍楽 隊へ のお どけたパ ロデ ィーといった風情である。終楽章 「フィナーレ :1 9 21 」ではフォッ クス トロッ トが引用 されたか と思 うと,最後はサイレンが うなりをあげてはちゃ めちゃな幕切れとな り,初演 の際にも物議をか もした。 また,1 9 21 年 に夏の休暇先で知 り合 った映画監督 ア-ノル ト・メラノのため , 嵐 と氷の中で」 とい う山岳 ドキュメンタ リーの映画音楽 が作 曲 され, 釈 に 「 9 4 一橋研究 第2 2 巻第 4号 しいメデ ィアの模索 もは じめ られた。映画音楽への ヒンデ ミッ トの関わ りは比 較的最近 の研究で明 らかにな って きた領域である ( 7 ) 。 サイ レントか らトーキー への発展途上 にあった映画 において, その背景 となる音楽のあ りかた も末だ模 7 年 一2 9 索の最中だ った。 ヒンデ ミッ トは現代音楽祭 の委員 に就任 してか ら,2 年 のシーズ ンに映画音楽 に関す る試みをテーマに乗せている。映像 と音楽をど のようにシンクロナイズさせ るのか は, モ ンタージュなどの映画技法 との関連 もあって,当時非常 にアクチュアルな問題だった。また,映画音楽の出現によっ てサイ レン ト時代 に映画館 につ とめていた音楽家たちの雇用問題 も生 じており, この点 もヒンデ ミッ トが後年 「 社会 における音楽」 といったテーマに入 ってい く萌芽 となっていよ うO メデ ィアへの関心 ということな ら,他 に も触れておかなければな らないポイ ン トが娩っかある.バ ウハ ウスのオスカー ・シュレンマ- (「 殺人者」 の舞台 美術を担当 していた) の 「三位一体バ レエ」 のために作曲 した機械 オルガンの 1 9 2 6 )など, その一例であろう。機械 と神話 との融合 という意欲 ための作品 ( 的なテーマを もったこの抽象バ レエのために, ヒンデ ミッ トは自動 オルガ ンの ロールの上 に直接作曲 した。 オルガ ンは戦時中に焼失 して しまったが,バーデ 1 9 2 7 )の録音が現在で も残 ってお り, そ こで は ン音楽祭用 に編曲 した組曲版 ( 人間の手では実現で きないよ うな, め くるめ くス ピー ドのオルガ ンのポ リフォ ニーが, シャーマ ン的な ドラム音 とよ く融 けあっている。 またラジオ放送用に, クル ト・ヴァイルと組んで ブレヒ トの台本 に作曲 した 「リン ドバ ー クの飛行」 ( 1 9 2 9 ) ち, こうした試みの一つ としてあげることがで きるだろう。 0 年代 の作品群 の中で もひときわ大 きくそびえているのは, さて,多岐に渡 る2 1 9 2 6 )で あ る。 「カルデ ィ は じめてのフルサイズのオペラ 「カルデ ィヤ ック」( 0 年代の創作 を ヤ ック」 は, ここに至 るまでの創作の諸要素を含む と同時に,3 方向付 ける大 きな根 にな っているだけに,その評価 は容易ではない。 ヒンデ ミッ トは三部作一幕 ものの後,適当な題材があれば 自分 は数週間で新 しいオペ ラを 作曲 してみせ る, とショッ ト社 のシュ トレッカーに書 き送 っているが, その適 T. A. ホ フマ ンの 当な題材がなかなか見あた らず, よ うや くロマ ン派 の作家 E. 小説 を,同時代 のエ ッセイス ト, フェルデ ィナ ン ト・リオ ンが戯曲化 した リブ レッ トに出会 って作曲を決心するのである。 ロマ ン派の台本 とはいえ, テキス トは表現主義的な要素 をあちこちにたたえ 引き裂かれたポー トレート 9 5 ている。幕が上が ると,パ リの町中でおこる連続殺人事件 に群衆がおびえる騒 然 とした光景が直ちにあ らわれる。 この殺人事件 は,実 は天才的な腕前を もっ た金細工師 カルディヤ ックがおこした ものなのであるO カルディヤ ックは自分 の創造物を愛す るがあまり, それ らを取 り戻そ うとして顧客を次々 と襲 うので あった。 こうしたス トー リーに合わせ るために, ヒンデ ミッ トは場合によって はかな りどぎつい効果を狙 ったオーケス トレーションをあちこちに施 している し,不協和音を もの ともしないエネルギ ッシュな音楽進行 も持ち込まれている。 0 年代 の即物 的な傾 この意味では,「カルデ ィヤ ック」 は三部作一幕 ものや,2 向を示す器楽曲 との関連 を強 く示 しているのである。 しか しまた 「カルディヤ ック」 は, ナンバー ・オペ ラという古典的なスタイ ルを復宿 させていた り, ス トー リーと関係ない音楽進行をあち こちに導入す る ことによって,「マ リアの生涯」や 「セ レナー ド」で見た方 向性 を取 り入 れて もいる。例 えば第 8曲のア リアでは, カルデ ィヤ ックの娘が愛人への思慕の念 を歌 っている間,音楽 はヴァイオ リン, オーボエ, ホル ンを中J L りこバロック ・ 0 曲の,娘 とカルディヤッ スタイルの コンチェル ト・グロッソを奏でている。第1 クの感情のすれ違いを示す 「 非常 にゆっくりと,表現を もって」 という但 し書 きのついたデュエ ッ トでは,伴奏のほうはフーガを演奏 しているというありさ まなのである。 もともと リオ ンの表現主義的なテクス トと, ヒンデ ミットが当時 とっていた 新古典的な方向性 との亀裂を, どう乗 り越えるのかが,オペラ作曲にあたって の最大の問題点であった。要所 は表現力の強 い トゥッティで締 め,普通のオペ ラな ら詰め物的になる伴奏 の部分を, ネオ ・バ ロック的なスタイルで処理する ことによって, ヒンデ ミッ トはかな り高度な レグェルで この間題に答えている。 その意味で 「カルデ ィヤ ック」 はニューメイヤーが評定 しているよ うに, ベル クの 「ヴォツェック」や ブゾーニの 「ファウス ト博士」 と比肩 しうる,時代を 代表す るような重量感のあるオペラに仕上が ったのだ といえよう (8)0 2 0 年代後半か ら3 0 年代 にかけて, ヒンデ ミッ トの創作 は社会性を強めていく。 1 92 7 )や 「今 日のニュース」( 1 9 2 9 )などの 「時事 オペラ」 「 行 った り来た り」( の創作が, その系列の一つを形作 っている。 その時々の時事的な内容を反映さ 1 9 27 )が せたオペラのことだが, クルシェネ ックの 「ジョニーは演奏す る」 ( 1 9 2 8 ) こうした方向に先鞭をつけ, ヴァイルも 「 皇帝 は写真を とらせた もう」( 9 6 一橋研究 第2 2 巻第 4号 で参画す る。 これ らのオペラではジャズ ・ヴァイオ リニス トが アメ リカに向 か った り,パ リ旅行中の皇帝が,写真館で タンゴを踊 った りという他愛 もない 場面が取 り込 まれてお り,早 くか らサブカルチ ャーに関心を寄せていた ヒンデ ミッ トが,関心をか き立て られていたであろ うことは想像 に難 くないO もう一つ はバーデ ン音楽祭を舞台 とす るベル トル ト・ブ レヒ トとの共作 で, ここで は 「 教育劇」 ( 1 92 9)が作曲されたはか,前述 した 「リン ドバ ー グの飛 行」 などが作 られている。 しか し,劇 と音楽 に対す る考え方 の違いか ら両者の 共作 は 2作 に留 まるo「リン ドバーク」 の場合 も,「ソング」を基本 とす るヴァ イルの音楽 と,伝統的な 「オペラ」 を意識 しているヒンデ ミットの作風 の間に は越え られない溝があった。 ヒンデ ミッ トはこの後聴衆 との関係を独 自に模索 し, プ レー ン音楽週間への参加などを通 じて,音楽の楽 しみをアマチュア音楽 家たちと分かち合 うような方向を探 りは じめるC この時代,政治の領域ではナチがその不気味な影を しのぼせ は じめて いた。 「 今 日のニュース」 を見た ヒ トラーは,裸の主人公 ラウラ ( 実 際 には肉嬬秤 を 着用 していた)が歌 う 「 給湯器 のア リア」 に激怒 していた。バーデ ンでのブ レ ヒ トとの共作 は,3 8年の 「 頼廃音楽展」 のパ ンフレッ トの一部を飾 ることにな るだろう (9)0 [註 ] ( 1) 伝記的な事項については主にKe mp.I v an: Paulm nde mi t h,(The Ne w Gr ov eMode r nMas t e r s,1 9 8 4 )を参照したD i co fPat L lm nde T nL t h,Yal eUni ( 2 ) Ne ume ye r.Dav i d:Themus 1 の以下の部分についても,ニューメイヤーの v e r s i t yPr e s sp1 1 3.作品1 アナリーゼは参考になった。 ( 3 ) ∫. ウィレット,片岡啓治訳 「 表現主義」平凡社 p2 1 2 。 T ni t hsEi naht e rTT ・ i pt yc ho n, ( 4 ) Laube nt hal .Anne gr i t:Paulm nde Fr ankf ur t e rBe i t r agez urMus i kwi s e ns c haf tBand1 5.1 9 8 6S. 2 4 3 ZuT nEx pr e s s i oni s T nuSde sKoT n PO nt S l e nPaul ( 5 ) Wagne r.Manf r e d: m nde mi t h,Er pr obunge nundEr f ahr unge n2 : uPaulHi nde mi t h' s Sc haf f e ni nde rz wan2 ; i ge rJahr e n( hr g.D. Re xr ot h)1 9 7 8,Sc hot t ( 6 ) Laube nt hal ,e bdS. 1 7 3 f ( 7 ) この点については.藤村晶子 「 映画に目が弦んで ・機械仕掛けの音楽 ベルク年報 ヒンデミットとサイレント映画をめぐる二,三の事柄 - 」( [ 7])参照。 引き裂かれたポー トレート 9 7 ( 8 ) Ne ume ye r,op. c i t , p1 6 9 f , ( 9 ) Kat al og:Ent aT ・ t e t eMus L h- Ei neAb T ・ e C hnz L n g,V OnSt aat s r at Dr. HansSe r v usZi e gl e r,Ⅴ81 ki s c he rVe r l agG. M. Hり Di i s s e l dor f *オペラ 「 画家マチス」 - その成立の経緯 交響曲 「 画家 マチス」 ( 1 9 34) はヒンデ ミッ トの作品のうちで, オーケ ス ト ラの レパー トリーとして もっともよ く上演 される曲である。 ごつ ごつ とした旋 律線 を措 き,時に無調の間際にまで進んでいだ2 0 年代の作品 に比べ ると, この シンフォニーは遥かに柔和 なメロデ ィーラインを もち, オーケス トラの処理 も 「 天使 の合奏」 と題 された第 1楽章の対位法をは じめとして, 全体 に非常 に巧 みになされている。見せ場 までの構成力 も見事で,器楽作品 として愛好 される 理由はよ く分か るのである、 。 しか し, この作品 はもともと純粋器楽曲 として作曲された ものではない。 ヒ 1 5 2 5 )の混乱期 に生 きた同郷のバ ロック ・マニエ リス ンデ ミッ トは農民戦争 ( ムの画家マチス ・ダ リュ-ネヴァル トと, その代表作であるイーゼ ン-イムの 祭壇画を題材 に したオペ ラを作曲 しようと, 自ら台本の執筆 に取 りかか る。台 本 と平行 して,音楽 の作曲 も進 め られた。 ヒンデ ミッ トはオペ ラ全体 の うち, まず音楽的な密度や複雑な構成が必要な部分か ら取 りかか り, こうした部分だ けを抜粋 して3 4年, オペ ラの完成 に先だ って三楽章か らなる器楽作品へ とまと め上 げた。 これが交響曲 「 画家 マチス」である。 ス トー リーを捨象 し,音楽構成だけで器楽曲を作 るという姿勢 は,歌詞 と音 楽 は自立 して存在す る, というヒンデ ミッ トの姿勢 をよ く物語 ってお り,そ う した背景 もあって このオペ ラの筋 と成立 に至 るまでの複雑 な事情 は,交響曲の 演奏頻度 に比べ ると,話 の種 くらいに しか扱われず, あまり知 られていないよ うだ。 しか し掘 り下げて調べてみると, このオペ ラには,完成 に至 るまでの状 況の ドラスティックな変化が巧みに読 み込 まれていた り, その間の ヒンデ ミッ ト自身の内面の揺れ動 きす ら潜んでいることが分か ってきて, そのことは翻 っ て交響曲の理解 にも微妙な影 を投 げか けているように思われ るのである。そ こ で この節では, まずオペ ラのス トー リーを簡単 に確認 したあ と ( 1 ), 交響 曲か らオペ ラの製作,上演 に至 る経緯 を,主 にいわゆる 「ヒンデ ミッ ト事件」 と呼 9 8 一橋研究 第2 2 巻第 4号 ばれている音楽界の政争 に焦点を当てて見てゆきたいO オペラは 「 天使の合奏」 という副題のついた前奏曲で始 まるO これはイーゼ ンハイムの祭壇画の第 2相 に措かれている,キ リス トの生誕を表す場面か らと られており, ヒンデ ミットは交響曲の第 1楽章をそっくりそのまま前奏曲とし 3人の天使が甘美な歌を歌 っ て用いた。曲は和声モチーフ, コラール主題 (「 た」 という古い ドイツ民謡の引用),対位法的に展開され るメロデ ィーが次 々 に提示 され,あたか もガンバや リュー トを弾 く天使たちが,技巧の限 りを尽 く して世界の調和を象徴的に奏でているかのようだ。 幕が上がると, 5月の昼下が り,マチスが柱廊に絵を措いている。聖堂の方 か ら昼の祈 りが聞 こえて くる。そこへ農民蜂起の指導者 シュヴァルプとその娘 レギーナが逃 げ込んで くる。 シュヴァルプは傷ついてお り,マチスは彼を休 ま せてやる。 第 1幕で早 くもこのオペラの主要なテーマがあ らわれるOそれは傷か ら立 ち 直 り,マチスの絵を見たシュヴァルプによって歌われる。 「政府軍が近づ いて くる。 もしやつ らが勝てば,農民たちは永久 に根絶や しにされて しまう。 もっ ともみんな消えて しまったところで,おまえは自分の絵の前 に立 って,誰 も知 りたいとも思わないような ものを描いているんだろう? 神がおまえに課 され た ものを,おまえは果た しているのか ? 創造 し描 くこと,それだけで充分な のか ? 単なる自己満足になっていないか ?」 ( 第 2場) 神に導かれ民族の根 に戻 ってい くものだけが繁栄す るのだ, という合意 に二 人が適 したところで, レギーナが政府軍の追 っ手が近づいてきたことを告げる。 マチスは自分の馬を貸 し与えて,二人を逃が してやる。政府軍の首領 ズィルベ スターに不忠をな じられたマチスは,その是非を直接 自ら仕えるアルブレヒト に問 うと言 う。 第 2幕。マインツの市民が大司教 アルブレヒトの帰遠を待 っている。市民た ちは教皇派 とルター派 に別れてお り,対立が激 しくなったところにアルブレヒ トが帰 って くる。 アルブレヒ トは市民を散会 させ,あとにはマチスを含め,主 要人物だけが残 る。 ローマか らルター派の書物を焼 き払 うよう焚書の命令が伝 え られ,ひとたびアルブレヒトはこれを拒絶す るものの,教会 は同意 して しま う。 ここでアルブレヒトは自由と芸術の擁護者 として措かれている。 「おまえ 引き裂かれたポートレート 9 9 (マチス)が, 自分 に関係 ない事柄 に首を突 っ込んでいるのを見 るの は気 に入 らないぞO 自分 に課 された ことを きちん と果 たせC われわれは皆, 自分の領域 の中に留 まっていなければな らないのだ」 ( 第 5場) 第 3幕 は焚書 の準備の場面C ルター派 は密かに書物を隠そ うとす るも,見つ か って没収 される. ルター派 の市民 リ-デ ィンガ-はル ターか らの手紙を仲間 に示 し, この勢力を守 るためには司教 アルブレヒ トを結婚 させ るべきだ とい う 内容を読み上 げ, 自分 の娘 ウルズラをその相手 として提案す る。一方 マチスに 心を寄せていたウルズラは, マチスに同行 させて もらうように頼む ものの, マ チスは絵筆を榔 ち戦争 に加わる決意をす る。 「私 は もう描 くことはで きな い。 人々の悲 しみが私 の腕 と感覚を麻捧 させ るのだ。不正,貧困,病 い,苦痛。手 助 けす ることを怠れば,私 も同罪ではないか ? 私の血 と命が苦 しみの防具だ ! 私 は悲惨 の中へ と入 って行かねばな らないのだ」 ( 第 3場) 焚書 がお こな われ,落胆 したウルズラはアル ブレヒ トとの結婚 に同意す る。 第 4幕。6月のある村 の情景。農民戦争 は激化 し,無法状態 にな った村では 農民 による略奪がお こなわれている。伯爵 とその夫人が引 き立て られ,伯爵が 殺 されたところで, マチスが登場 し,農夫たちの無法ぶ りを諭す。農夫たちは しか しマチスの言 うことに耳を貸 さず, カベルの聖処女像の方へすが りつ く伯 爵夫人 を絵か ら引 き剥が し, その絵を破壊す る。 これに怒 ったマチスは 「 人獣 」 と叫んで彼 らにつかみかかるが,逆 に殴 り倒 されて しまう。 そ こへ シュ め! ヴァルプと レギーナが反乱鎮圧 の軍が近づいていることを告 げ知 らせ る。農民 たちは死 の恐怖 にか られる。政府軍 との闘いの中で シュヴァルプは死 に, マチ スは捕虜 になるが,伯爵夫人 の嘆願で命をとりとめ解放 され る。 マチスの挫折 の独 白。「 弱 きものよ ! おまえは救済を望んだ。兄弟 たちを鎖 か ら解放 す る ことを望んだのだ。神の摂理 にかなったか しこさ計画を,おまえはおそれ多 く も改善 しようとしたのだ。で, おまえは何者だ ったのかね ? たかが欲求不満 の絵措 き,で きそ こないの男o 自分 のな した ことの罰 を受 けよC おまえを粉々 第 5場) にす る力 に服従せよ。 あきらめるのだ」( 第 5幕の舞台 はアルブ レヒ トの仕事部屋。結婚 の決心 を したウルズラがアル ブ レヒ トに会 う。 リーデ ィンガ-や教皇派の市民代表のカ ピー トはアルブレヒ トの決定 に気を もむが,事情 を察 したアルブレヒ トは隠者 としての生活 に入 る 決心をす る。 1 0 0 一橋研究 第2 2 巻第 4号 第 6幕は全曲のうちもっとも劇的な場面である。闇に紛れて逃 げ延 びたマチ スとレギーナが大木の下で休んでいる。安 らぎに満ちたっかの間の休息O オー ケス トラは前奏の 「 天使の合奏」を奏で始める。 マチス 「 古い物語が僕 らの眼 前で敬度な絵画を織 っているのだ。それは高 さところの仮象で,その意味はお まえか ら遠 く離れているか ら,おまえはただそれをぼんや りと感 じ取 ることが できるだけだ。そ して, この純粋なるものか ら生 まれた音楽が天上か ら来た痕 跡を残 しているときには,その昔 は私たちに, より敬度 に語 りかけて くる。 ご らん,天使たちが永遠の道を現世の道へ とかえてい くのを。人 はどうした ら, 天使が自分の優 しい仕事のなかに舞い降 りて くるのを感 じることがで きるのだ ろう。天使の一人が,広 げたすぼ らしい腕でヴァイオ リンを弾いている。弓を 巧みに擦 るか ら,雑な所 は影かたちな く,音楽のやわ らかな流れがにごること はない。 もう一人 は高め られたまなざ しで,弦か ら喜びを弾 き出す。3人 目の 天使 は遠 くにある彼の心の鐘 と, しっか りと結びついているようだ。そ うして 」 この合奏を見守 っている。聴 くと同時にして しまうなんて ! す るとレギーナがあのコラール主題に合わせて歌 う。「 3人の天使 が, 遠 く 天の高いところで鳴 っている,甘美な歌を歌 った」 ( 第 1場) 音楽 は前奏 曲 の流れをほぼそのまま踏襲 している。 そ うしているうちに レギーナは眠 りこんで しまい,舞台にはマチスしか見え な くなる。「 聖 アン トニウスの誘惑」 という幻想 はここか ら始 まる。 マチスは いっの間にか聖者の格好 になっていて, これまでの登場人物たちがア レゴ リカ ルな姿 に変わ って次々と襲いかか って くるのである。伯爵夫人が賢沢の権化に, ボンマースフェルデンは商人 に, ウルズラは乞食 と殉教者 に,カ ピー トは学者 に, シュヴァルプは大元帥に。そ してシンフォニーの第三楽章の主題にのって, コーラスが 「おまえの最大の敵 はおまえ自身の うちにいる」と地獄の歌を歌 う。 舞台は明るくなり,聖バウルスに変身 したアルブレヒトがマチスに語 りかける。 「ただ戦いと血の流れるだけの場所では,芸術 は栄えない ・・・お まえ は絵 に 向かえば超人的な力を与え られている。厚かましくも神の賜物を否定 したとき, おまえは恩知 らずで,不実だ ったのではないかね。 自分の使命を抑えつけ,氏 衆の中に入 っていったとき,おまえは逆に民衆を遠 ざけていたのだ。使命 と民 衆の双方へと帰 るのだ。おまえの作 るものはすべて,主へのささげものなのだ か ら, どんな作品で も,それは有用なものとなろう」 ( 第 3場) 二人 はシン 1 0 1 引き裂かれたポートレー ト フォニーの末尾を飾 る金管楽器のコラールに乗 って 「アレルヤ」 と叫ぶC 最終幕。 スタジオで狂 ったように仕事を した後,疲れ切 って横たわるマチス。 レギーナが死の床で以前マチスか ら渡 された リボンを返 し,死後の再開を約束 して息を引 き取 る。葬送の音楽 ( 交響曲,第 2楽章)。訪れたアルブレヒトに マチスは別れを告 げ,絵筆やパ レットを一つ一つ片づけたところで幕がおりる。 , -聴 して気づ くのは 「カルディヤ ック」で金細工師は自分 の創造 のために は殺人を もいとわなか ったのに対 し, このオペラでは,芸術 と社会情勢 との狭 間での芸術家の激 しい内面の葛藤に焦点が当て られているという点である。 こ こにヒンデ ミットの思想の新たな相があ らわれている。 一方,内容 にどこまで状況的な要素を重ね合わせ られるのか注意は必要だが, そのような視点が作曲者のうちにあったことは確かであろう。例えば, ナチは 政権奪取後,間をあけず思想的な統制に乗 り出す。その最初の現れは1 9 3 3 年5 月1 0日, ドイツの全ての大学で 「 非 ドイツ的精神 に抗する」行動の一貫 として 行われた焚書で, フロイ ト,ケル, トゥホル スキー らの著作が火 に くべ られ 。 , 」「阿呆船」 た( 2) 「 画家マチス」の焚書の場面で も 「オイ レンシュ ピーゲル 「 悪漢組合」 といった大衆物語の名前があが り, リーディンガ-はこれ に対 し 「 我々の本の灰か ら,言葉の力 と意味が,若返 って起 るだろう」 と歌 うが, こ れは情勢へのかなりあか らさまな風刺であろう。 だが このオペラをヒンデ ミッ トの状況に対する認識の表明と捉えると,芸術 家が民族の根源に立 ち返 り自分の領域へと帰 っていくというス トー リーは,ナ チに対す る一種のおもね りだということにもなる。そこで次に成立の経緯 につ いて見る。 ナチは焚書の後 の 9月, さ らに全国の学芸文化 を支配下 に掌握す るため, 「 全国文化院」を設立する. これは 7つの部会か らなり, その総裁 にはゲ ッベ ルスが就任 した。部会の一つ,全国音楽院の総裁として,ゲッベルスは当時 もっ シュ トラウスを, 副総裁 として同 じく世界的指揮者 とも高名だった作曲家R. フル トゲェンダラーを登用,統制 の権威化 につ とめ る ( a )。一万 ,2 0 年代 に 「 即物的」な乾いた音楽を書いていた ヒンデ ミッ トに対 して はあか らさまな攻 撃が加え られており,早 くも同年 4月には,作品の半分 は 「 文化 ポルシェヴィ ズム」であるとして禁止 された, と出版契約を結んでいたショット社 はヒンデ 1 0 2 一橋研究 第2 2 巻第 4号 ミッ トに伝えた ( 4 ) 。 また攻撃 の もう一つの理由 と して, 当時 ヒンデ ミッ トが ともに活動 していた弦楽 トリオの同僚 シモ ン ・ゴル ドベル グとェマニュエル ・ フォイアーマ ンがユ ダヤ人だ ったことがあげ られる。「 人種 的異分子」 の排 除 は直 ちにスター トしていたが, ヒンデ ミッ トは状況的な理 由だけで この トリオ を解散す ることはな く,逆 に同年 2月か ら3月にかけて弦楽 トリオ第 2番 を作 4 年 にはロン ドンで同曲を録音 したのであった。 曲 し,翌3 2 年 にすでにシ ョッ ト社か ら画家マチスとイーゼ オペ ラの製作 については,3 ンハイム祭壇画を素材 として提案 されてはいたが, ヒンデ ミットはシュレ-カー 1 9 1 5 ) との題材の類似性 に, は じめ は乗 り気 で のオペラ 「 刻印された人々」( はなか った。 ところが他の台本作者 として考えていたゴッ トフ リー ト・ベ ンや エル ンス ト・ベ ンツオル トとの計画が,政情の不安定か らことごとく崩れて し まい, ヒンデ ミッ トの うちに 「 画家 マチス」が再 びクローズア ップされ る ( 5 )0 3 年の半ばよ り台本 の仕事 に集中的に取 りかか り, 8月 9日付 けの妻 のゲ 彼 は3 ル トルー ドに宛てた手紙 には, ショッ ト杜 のヴィリ・シュ トレッカーにテキス ト草稿を読んでや った ら大喜 び した, とある (6)0 ところで,文化音楽院副総裁 に就任 していたフル トゲェンダラーは, ナチが 芸術活動 に口を出 して くるのを快 く思わず,政情 によって活動を制限されてい る音楽家たちのために尽力 していたが ( 7 ) , ヒンデ ミッ トに対 して も新 しい作 3 /3 4 年 の シーズ ンに名誉回復 のための運動 を起 こそ うと考え 品を委嘱 して,3 ていた。 しか しヒンデ ミッ トは 8月以降, この新作 オペ ラに全精力を注 いでい たので,新 しい交響作品を作曲す る余裕 はな く,折衷案 としてオペ ラの音楽か ら交響組曲を編み直す という案が生 まれたのである。 まず11 月 に第二楽章 にあ 2 月に 「 天使の合奏」が完成す るが, リブ レッ トの粗筋が たる 「 埋葬」が,翌 1 まだで きあが っていなか ったので, いったん作曲を中断 し,必要 な ドラマツル 4 年 2月 に最終楽章 「 聖 ア ン トニウスの誘惑」が書 き ギーが決定 されてか ら,3 上 げ られ,交響曲 「 画家マチス」が完成 したのだ った ( 8 ) 。 この交響曲は, フル トゲェンダラー指揮 ベル リンフィルハーモニーによって 3月1 2日に初演 され,大変 な成功をおさめた とい う。翌月にはヒンデ ミット自 身 の指揮で レコー ド録音 も行われ,状況 は好転す るかに見えた。 ナチの文化政 策 といって も,特 にその初期 においては,統一 された見解や行動基準があ った わけで はな く,実際の弾圧や統制 は高位権力者 たちの派閥競争 に支え られてい 引き裂かれたポー トレー ト 1 0 3 るところが大 きか った。「アー リア人」で国際的な名声 を博 しているヒンデ ミッ トをどう処す るべ きか は,右翼勢力の中で も意見が大 きく別れていた といわれ 0 年代 の ヒンデ ミッ トの 「 即物的な」作 る。反対陣営の中心,文化闘争同盟が2 品 に非難の焦点を向ける一方, ヒンデ ミッ トのプ レー ン音楽週間などを通 じて の大衆や青年運動への参加 は ヒ トラー ・ユーゲ ン トなどに高 く評価 され, この 両者 に相乗 りす る形で,言論界の意見 は二分 されていたので あ る ( 9 )。 そん な 折 りの交響曲 「 画家 マチス」 の成功 は, ヒンデ ミッ ト支持派の拡大に大 きく貢 献 したのだ った。 ヒンデ ミッ トは, この後 さ らにオペ ラの作曲に没頭す る。 7月の終わ りには ともか くもリブレッ トが完成 し, 8月以降にはそれぞれの場面の作曲が次々に 完成 していく。 しか しなが ら幕切れはあっけなかった。時事オペラ 「 今 日のニュー ス」を見ていた ヒ トラーはヒンデ ミッ ト嫌 いであ り, その ことを知 ったゲ ッベ ルスが ヒンデ ミッ ト非難 に回 ったのだ。反対派 は一気 に勢 いづ き,擁護 の立役 者であ ったフル トゲェンダラーは論説 「ヒンデ ミットの場合」( 1 0 )を発表 して抵 抗を試みるも, ヒ トラーの肝い りで はどうにもな らず, オペ ラ 「画家 マチス」 の上演 は禁止 され る。 そ して このことが きっかけになって,フル トゲェンダラー は音楽院副総裁の地位 を辞任,公的な活動か ら身を引いて しまうのであるO これを機 に ヒンデ ミッ トの国内での活動 の場 はますますせばまってい く。他 5 年 7月,演奏旅行 の折 りにゲル トルー 方,国際的な名声 は揺 るぎなか った。3 ドに宛てた手紙 には, ア ンセルメがパ リで 「 画家 マチス」 を指揮 して大成功 を おさめた, とある.会場 にはフル トゲェンダラーも顔 を見せた, これか らオネ l l ), ゲル, ア ンセルメと会 う約束 を している, とヒンデ ミッ トは書 いているが ( 8 国外での高 い評価の証左だろ う。 オペ ラ 「 画家 マチス」が初演 されたのは,3 年, スイスのチュー リヒでである。 このような経緯を確認 してい くと, オペ ラ 「 画家マチス」 はただ単 に ヒンデ ミッ トの困難な時期 に書かれた作品だ った とい うだ けでな く,「画家 マチ ス」 とい う作品 自体が, まさに ヒンデ ミッ トの国内での立場を決定 してい くのに大 きな役割を果 たす鍵のよ うな存在だ った ことが分かるのである。従 って この作 教育劇」か ら引 き継がれた芸術 と社会 の問題 と, 品 は,「カルデ ィヤ ック」や 「 状況によって ヒンデ ミッ トが とらざるを得なか った立場, という二つの視点か ら理解 されなければな らない。例えば このオペ ラで は,音楽 は構造的に書かれ 1 0 4 一橋研究 第2 2 巻第 4号 ているとはいえ, ス トー リーの ドラマツルギーにはかなり忠実で,時には描写 的です らある。それはヒンデ ミゥトの新 しい音楽思想の現れだと捉えることが できる一方で,音楽 はテキス トか ら自立 してあるという音楽思潮がまさに反対 派の攻撃対象だ ったのだか ら,そのような音楽を書 く自由は奪われていたのだ とも考え られるのである。 音楽思想 と状況の関係は原因 ・結果 という単純な図式 におさまらず,む しろ 事態 は織 り込まれた布地のように複雑な様相を呈 している。ナチの台頭がなけ れば,題材す らこのような ものにな らなかったか もしれないが,外圧がなかっ たところで, ヒンデ ミットは自己の運動 と作風の結果 として,調性をはじめと する伝統 に立脚 した堅固な作風 にかえっていただろう。 また 「カルディヤック」 の芸術家の倣憶 は,「 画家マチス」の場合のように現実 との弁証的な関係 を経 て止揚 されなければ,表現 され得なか ったのである。 しか しなが ら一方,時代 の風を読むのに敏感だった ヒンデ ミットは, ここで もある流れを確かにつかみ, 読み込んでいる。台本執筆の期間が国内での地位を決定するような微妙な時期 にあたっていることを考えれば,支持者たちの歓心を買 うス トー )-を書 く絶 対的な必要があったことが分かるのである。 リブレッ トは所々でそうした作者 の意図を裏書 きしている。 もっともそれは,当時の ヒンデ ミットの信条 とはそ れほどかけ離れていたわけではなか ったのだが。 結果的には, こうした努力 は全て水泡に終わる。 オペラ 「 画家マチス」 は主 人公が絵筆や身の回 りの品を箱 に詰めるところで終わるが, ヒンデ ミッ トも同 様 に, この後 自分の身の回 りの品をまとめ故郷を追われるように して出国する のである。 [註 ] ( 1 ) 以下にかかげる台本の引用や要約は次のものを底本とする。Hi nde mi t h, Paul:Mat hi sde rMal e r. ・Ope ri ns i e be nBi l de r n・(EMI72435 5 5 2 3 723 ) ( 2 ) 班. ダラーザ,関楠生訳 「ヒトラーとナチス - 第三帝国の思想と行動」 教養文庫 p1 3 6-1 3 7 ( 3 ) 明石政紀 「 第三帝国と音楽」 水声杜 1 9 9 5. mi t h,Le be nundWe T ・ hi n ( 4 ) Br i ne r.Re xr ot h.Sc hube r t:Paulm nde l ant i sMus i kbuc hVe r l ag.S. 1 3 8 Bi l dundTe xt .At ( 5 ) Eゎd.S. 1 4 0 引き裂かれたポートレー ト : > ( 6) Hi nde mi t h.P , Daspr i v at eLogbuc hく 宅Fr auGe r t r ud, Pi pe r /Sc hot t1 9 9 5S. 1 0 7 ( 7 ) 例えばシェーンベルクに宛てた手紙が残っている。 1 0 5 Br i e f e an s e i ne Fur t wangl e r.Wi l he l m: Br i e f e .Br oc khaus.Wi e s ba , de n1 9 6 5S. 7 5 ( 8 ) Br i ne r.Re xr ot h.Sc hube r t ,e bd.S. 1 4 2 ( 9 ) 明石政紀,前掲書 p7 0-7 2 0 ( 1 0) Fur t w左ngl e r.W : De T ・Fal lm nde mi t h,De ut s c he Al l ge me i ne Ze i t ung2 5.Nov.1 9 3 4 ( l l ) Daspr i v at eLo gb uc h,S. 1 1 3 *「画家 マチス」以降 - 倫理 と しての音楽 「 画家 マチス」が このような顛末 をたどったとい うことは,その後の創作 の 実質 にも大 きな影を投 げかけることにな った。 ヒンデ ミッ トは 「画家 マチス」が完成 した35 年 に, トルコ政府の招 きによ り ア ンカ ラでお こなわれ る新 しい音楽教育 のア ドヴァイザ-としてたびたび トル コを訪れるようになる。 これにより,次第 に国外移住の傾向が強 まるo同 じ年 1 )で, ヒンデ ミッ ト に書かれたヴィオ ラ協奏曲 「シ3 .ヴァンネ ン ドレ-ア-」( は ドイツ民謡を至 るところで引用 している。 ことと次第では, これが 「 世界 に 冠 たる ドイツ」精神を示す ものととらえ られて も,何の不思議 もなか っただろ う. しか し実際には, ヒンデ ミッ トはナチが国外移住 させたただ一人の 「アー リア人種」作曲家 とな った。 そのようないきさつを考えれば, ヒンデ ミッ トが 「シュヴァンネ ン ドレ-アー」 のスコアの扉 に, 次 の よ うに書 き記 したの は, 皮肉と言えばいえな くもない。 「 楽 しい集 いに,吟遊の詩人がや って きて,彼が遠 い国か ら習 い覚えて きた 数々の歌 を発表 した。 それは, ま じめなもの,楽 しげな もの, さてはダンスの 節 まであった。 そ して彼 は,思 いっ くまま, 自分の能力 により,立派 な音楽家 にふ さわ しく, これ らの節を引 き延 ば した り,飾 った り,前奏をつ けた り,幻 想的につ くりかえた りした。 こういう中世のあ りさまが,私 の作曲の手本であ る」 かつての 「 即物主義」の作曲家 は,大仰 な身振 りで自分の不幸を嘆いてみせ るかわ りに,今やナチに追われて国外で活動せざるをえない自らの姿を,諸国 を旅す る吟遊音楽家の姿 にそっと重ね合わせたのである。 また ヒンデ ミッ トは 1 0 6 一橋研究 第2 2 巻第 4号 3 0 年代 にヘルダー リンをはじめとす る ドイツ詩人のテキス トによる歌曲を密か に作曲 してお り,その大半 は出版す らされていないのだが, これ も研究者たち が指摘 しているように, ヒンデ ミッ トの 「内面的移住」を物語 るものといえよ う。そ して内面の移住を裏付けるようにして,3 8 年, ヒンデ ミッ トはまずスイ スに移住,ついで4 0 年にはアメ リカに亡命する。 この暴力 と密告の時代 にヒンデ ミットがとった もう一つの方向は, 自己の音 楽理論を確立す ることであった。2 0年代か らとりくんでいた電子楽器 トラウ ト ニウムの開発 と音響学的な考察の経験が基礎 になって, ヒンデ ミットは倍音列 か ら導 き出 した理論 について最初の著作 「 作曲の手引き」( 1 9 3 7 ) を刊行する。 「・・・・種々の音程 は世界創造の神の言葉であった。それで音 は数 のよ うに 神秘的なもので,平面 とか空間 という概念 と同 じ本質のものでぁ̀った。つまり 見 る世界 と同 じように,聴 く世界の尺度であった。倍音列の音程 と同 じ割合で 広が っている宇宙の一部であった。すなわち尺度 も音楽 も万象 も一つにとけ込 んだ ものなのである」( 2 ) ここで ヒンデ ミットは,例えば 「マ リアの生涯」などでみた,様式 としての , 「 古典帰 り」を しているのではな く 「マチス」で歌われた主題をもう一度確認 し,中世の世界観に思想的に帰依 したのだといえるだろう。作曲とは,世界 と いうマクロコスモスを映 し出す ミクロコスモスの創造のいいであり,音楽 は整 然 としたロゴスの秩序が奏でるハーモニ-とな らなければな らない。 この思想 は自身の導いた倍音列にしたが って作曲された 「 ルー ドス ・トナーリス」( 1 9 4 2 ) や, アメ リカに渡 ってか ら取 り組んだオペラ 「 世界の調和」 ( 1 9 5 7) で実作と忠実に応用 される。 と同時に,彼は次の著作 「 作曲家の世界」を刊行するこ とで自らの思想的な立脚点をより明瞭に示 した。 この著作で, ヒンデ ミットは 音楽を形而上的な世界の模像 ととらえるアウグスティヌスの世界観 と,音楽は 人をときには堕落 させ, またときには善 さ方向へ と導 く倫理的な力を もつ とす るボェティウスの世界観を対比 させ,今 日の音楽文化のあ り方を批判 したので ある。 確固たる思想 と,それに従 った音楽理論か ら自らの創作を位置づけようとい う態度 は,過去の作品群をも容赦な く改変 させ る。例えば5 2 年 におこなわれた , 芸術家の創造」に絶対的な優位が与え られる 「カルディヤ ック」の改作では 「 のではな く,彼を取 り巻 く社会 との葛藤 という視点が微妙 に台本の中に取 り込 引き裂かれたポートレート 1 0 7 まれる ( 3 ) 。 このような改作の視点が一層 はっきりしているのは,3 6年 か ら3 7 年 に着手 され4 8 年 に出版 された 「マ リアの生涯」の改訂 の場合 だ ろ う( 4 )。 こ 2 曲を除きすべての曲に変更を加え,曲 の連作歌曲のうち, ヒンデ ミッ トは第1 によってはそっくり新 しく書 き換えて しまった。改作の際のポイン トは 2つあ る。一つはライ トモティーフ的な手法を導入 し, この長大な作品のあち らこち らで互いに反響 しあうような相似的な流れを作 るということ, もう一つはマ リ アに象徴的な音を与え,そこか らテキス トの流れに沿 って,主音か ら遠ざかっ たり近づいた りという調性 シンボルという手法を導入することである。そもそ も 「マ リアの生涯」 は,歌詞の内容か らは自律 して音楽が展開 していたあの 「 即物主義」の時代を代表す る作品であった。 ヒンデ ミッ トはこうした手法 を 用いることによって,個々の歌曲の音楽的な流れだけでな く,歌詞をも視野 に いれた上で,連作歌曲全体を有機的に構築 し直そ うと試みるのである。 ヒンデ ミットは鉄の意志を もって, 自己の歩んできた道の りの変更 に臨んで いるようにみえる。 さらにさかのぼ り 「 表現主義」の 3部作一幕オペラに至 っ ては,上演その ものが作 曲者 自身 によ って禁 じられて しま ったのであ った。 「カルディヤ ック」や 「マ リアの生涯」であれば, テキス トや音楽の改作によっ て,彼の新たな,揺 るぎない世界観を表象する創作の一角へ と参画 させ ること ができた。だが,セ ックスや暴力を主題 とす る初期の 「 表現主義」 オペ ラは, どう改変を加えて も,そのような世界観 と和合 させることはできない。そこで ヒンデ ミットはこれ らの作品を 「 若気の至 り」 と呼んで,人 目のつかないとこ ろに しのばせて しまう。 さて,私たちはここで大 きな問題の前 に立 っている07体,私たちはヒンデ ミットのこのような態度を, どう受 け止め, どう理解すればいいのだろ うか。 というの も, このような ヒンデ ミッ トの主張は,一見時代遅れの教条主義者の 言葉のようにみえるけれど,今 日振 り返 ってみると,ある種のアクチュアリティー をもって響 いて くる部分 も確かにあるか らである。 戦後の復興の中で, ヒンデ ミットの名声 は一時的に回復 した ものの (5), 5 0年 代に入 って起 こって来た新 ウィーン楽派 - とりわ けウェーベル ン - の 再評価の機運 と実験音楽の波の中で取 り残 されていって しまう。それは単 に戦 後 ヒンデ ミットがアメ リカを中心に活動 したという地理的な問題か らきただけ ではなか った。新 しい世代が支持 したのは,社会の変化の相を取 り込み,映 し 1 0 8 一橋研究 第2 2 巻第 4号 出すような2 0 年代の音楽ではもはやな く,それ自体の論理 によって発展 し,展 開 していくような自律的な音楽だったのである。 これは 「カルディヤ ック」か らこのかた, 自己と世界をどう切 り結ぶか という課題 に腐心 してきた作曲家 と は相容れない世界観であった。 「・・・彼 ( 倫理的であって自己中心的でない作曲家) は自分の楽 しみのため に書 くのではない。そうではな く音楽の中により高い目的を見 出すのである。 彼はある人々のために,彼 らを高めるために書 く。他の人々に自分の音楽を聴 かせるか らには, 自ら楽 しむようなものを書 くのではな く,聴 き手を感動 させ るようなものを見つけださなければな らない。 また彼 は, 自らの手段の選択 に 関 して音楽的な聴取能力を考慮にいれておかなければな らない。 また同様に彼 は演奏者の質 について知 り,演奏可能な枠内に留 まるべきであって,ある技術 上の限界を軽々に越えてはな らない ・・・」 (6) このように書 いたとき, ヒンデ ミットは軌せず して直後 にあ らわれる新たな 実験音楽の流れを批判 していたのであるO十二音やセ リ-音楽 は,調性や ソナ タ形式のように一般聴衆が聴いてす ぐ理解できる榎の音楽ではなか った し,前 衛作曲家たちは理論を性急に実作 に移 し替えようとす るあまり,演奏不可能な 音を書 き連ねることもしば しばだった。 こんな音楽行為は, いまや社会 と音楽 の倫理的な関係を間 うに至 った作曲家にとって,到底許容できないものであっ た。一方の前衛の旗手たちのあいだにも, ヒンデ ミットは過去の作曲家 として 葬 られたという見方が定着するようになり, ヒンデ ミットが5 3 年にスイスに移 住 し再びヨーロッパでの活動を再開 したときには,その名前は音楽のフロンティ アか らは急速 に忘れ去 られていたのである。 このことは翻 って, ヒンデ ミット の創作に二度 目の危機をもた らし,作曲の筆 も鈍 った。 戦後音楽界におけるヒンデ ミットの位置の変転 は,今振 り返 ってみると, し か しなが ら二つの点か ら再検討する必要が生 まれてきたように見える0 一つは,戦後の音楽界を席巻 した前衛 ・実験の流れが次第にその限界をあら わにして きたということだ。例えば2 0 年代の ドイツの音楽文化のあり方を考え てみよう。当時いわゆるクラッシック ( E-Mus i k) とポ ップ ( U-Mus i k) の境界 は今 日よりももっと唆味であり, クラッシックの作曲家がポップの領域 にでてい くこともしば しば起 こった。 ヴァイルのソング劇や ヒンデ ミッ トも取 り組んだ 「 時事 オペラ」 も,そうした現象の代表的な例 としてとらえることが 引き裂かれたポー トレー ト 1 0 9 で きよう。そ してそのことによってクラシカルな音楽 も,新たに起 こって きた 「 消費者」 としての聴衆のニーズに,たとえ部分的にではあるにせ よ,答 え得 たのである。新 しい社会 ・経済 システム,そこか ら生み出されて くる新 しい感 性をもった聴衆 と,芸術 はどういう関係を結んでいけばよいのかという課題は, 一人 ヒンデ ミットに限 らず,世代全体の問題で もあったということは,例えば 彼 らと同世代のロシア構成主義が産業の世界へ と活路を見出そ うとしていたこ となどを見て も,首肯 さ. れよう。 一方戦後の前衛音楽家たちは,そうした点 に余 りにも無関心すぎたのではな かろうか。外部が存在 しな くて も ( っまり聴衆がいな くて も),音楽 は自律 的 な力で自己展開するという思想 は,技術的 ・理論的発展 には貢献 したか もしれ ないが,同時に肥大 してい く一方の音楽消費産業 との溝を うめ られないまま, 次第にかつてのような活力を失 いつつある。限 りな く多様化 し,細分化 してい く今 日の文化に指針を与えるのは, クラシカルな音楽の一つの役割である。社 会における音楽の道徳 と倫理を追求 し, またそれを創作実践に反映させた ヒン デ ミットのあり方 は, こうした点で規範的な立場 となり得よう。 もう一つは,戦後の流行だけではな く,前衛 と対立 したスタンスをとったこ 0 年代のいわば 「 前衛」の時代の作品が,必要以上 に過小評価 さ とによって,2 れ急速に埋 もれて しまったということである。最近 になってようや く風通 しが よ くなってきたとはいえ,実 はこの点が ヒンデ ミットを論 じる際に,一番難 し いと思えるところだ。 こうした過小評価 は単 に戦後の前衛 によってなされただ けではな く,同時に過去 に対す るヒンデ ミッ ト自身の考えの変化 も大 きく影響 しているか らである。複雑 にね じれている状況を整理 して,その 「 転回」の意 図 と結果を浮かび上が らせる必要があろう。 本稿で もすでに見て きたように, ヒンデ ミッ トはそのキャリアのはじめに何 よりもまず音楽家だったのであり,作品において音楽が直接,思想や自己の内 面の表出としてとらえ られたことはなかった。最初期の 「 表現主義的」な 3部 作です ら, テキス トとは離れて音楽 は自律的に構築 されていたのだ。そこで少 し考えてみよう。普通の意味で思春期の青年が自らの 「 思想」を作 りあげよう とすれば,それは言葉を操 ってなされるはずである。思想 とは,一般的には言 葉で構築 されるものだか らだ。 しか し, ヒンデ ミッ トはそうしたプロセスを経 る前 に職業音楽家 として自立 し,作曲の技術を自在 に駆使 し, また充分な評価 1 1 0 一橋研究 第2 2 巻第 4号 , を受 けることがで きた。 このような青年にとって 「 思想」 はまず音楽 の言葉 で構築されたのである。 アン ドレアス ・ブ リナーが指摘 しているように,一幕 ものオペラか ら 「カル , , ディヤ ック」 「 画家マチス」 に至 るオペラには 「 私」か ら 「私 たち」 に向か う視点の転換がある (7)。わずか1 9 才でフランクフル ト歌劇場 の コンサー トマ スターに就任 し, ショッ ト杜 と出版契約を交わ したこの若 き巨匠は,歯に衣を 着せぬ発言で先輩格の作曲家の眉をひそませることもしば しばだった。 しか し ヒンデ ミッ トはす ぐに,単なる 「 私」ではな く 「 私」を越える何かを模索 し始 める。それは場合によっては古典的な形式やバ ロックのスタイルであ った り, 」「風俗」であった り,あるいはラジオ ・映画音 「 時事 オペラ」のような 「 時代 楽や機械オルガン,電子楽器 トラウ トニウムのようなメディアであったり,様々 なのであった。だが何であれ,そのプロセスはすべて彼の当時の作品群の中に はっきりと刻み込 まれているのである。それで ヒンデ ミッ トの作品には 「 新即 , , 物主義」 「 実用音楽」 「 新古典主義」 といった様々な レッテルが張 り付 けられ ることになるのだが,そ うした標語だけでは彼が音楽行為のうちに実践 した思 0 年代の作品群 想 はとらえきれない。強調 しておきたいのは, ヒンデ ミットの2 の最大の魅力,同時代の作曲家に 「 強烈な印象を与えた」(ショスタコーヴィッ チ)最大の理由は,一つの作品,同時期に書かれた作品群の中に,複数の要素 - 時にはお互いに矛盾 しあうような - が共存 しているとい うことなの である。 あとに残 された移 しい量のスコアは,時にはあっさりしす ぎていると ころもあるが, どのページもこうした意味で若 き作曲家の思想の誠実な表明に なっていないものはない。めまぐるしく移 り変わる時代 に リアルタイムに応答 しなが ら,作曲という行為それ自体が思想 として形成 されていったのである。 , しか し2 0 年代後半か ら 「 私たち」への視点の転換の結果 と して ヒンデ ミッ トの うちに一つの主調音が響 きはじめることになる。それが社会 と音楽 との関 , 」「労働者層」 という新たな大衆 係であった。 また同時にこれは 「 新興市民層 の出現をめ ぐる時代の問題で もあった。創作の歩みの中で,最初にこのことが はっきり意識 されたのは,2 7 年のベル リン音楽大学への教授職 の招晴 であ り, 2 9 年のブレヒ トとの協業だ ったろう。結局,共産党の思想に共鳴 しラディカル な主張を繰 り返すブレヒトとは 2作を残 して決別 し,その後 ヒンデ ミットは独 自の路線を歩んでい くことになる。それが 「 青年音楽運動」への関わ りの深化 i F f ] 引き裂かれたポー トレート であり, アマチュアの音楽愛好家たちのために音楽的に充実 していて,技術的 には易 しい作品を提供 した り,プ レー ン音楽週間などを通 じて,実際に音楽愛 好家たちの演奏に加わるという活動だったのである。 また大学での授業や講義 によって,作曲家 は自分の音楽営為を理論的に省察す るようにもなるのである。 音楽の効用 とは音楽す ることその もののうちに生 じる楽 しみや倫理なのであっ て,政治的見解の表明の道具 にすることではない - それが新 たな体験 のあ とにヒンデ ミットが選択 した道だったが,非常 に微妙な意味で ここには陥葬が あった. これは一つの思想ではあるが, この思想 は最初の思想 とはす り変わっ ていた。最初の 「 思想」 は,現実の世界か ら音楽そのものが切 り取 り,音楽そ のものが模倣 していた対立や矛盾が生み出す思想だった ( あるいはギーゼルヘ ア ・シューベル トが述べているように,「 機能」の点で ヒンデ ミッ トはあ らゆ る音楽を書 くことがで きた, とい って もよい ( 8 )) のに,新 しい 「思想」 は 「 音楽 は音楽の圏内に留まり,そ うすることによって社会的な役割 を果たすべ きだ」 という 「 言葉」の思想に変容 していたのである。そ して言葉による思想 は,無意識のうちに今度は作曲の レグェルを支配 し始める。 このようなスタンスか ら社会における音楽の役割を模索 しようとした ヒンデ ミッ トにとって,従 ってナチの出現 はかな り危険で,致命的な事件だったので ある。 ナチの攻撃 は, ヒンデ ミットが もっとも大 きな創作のエネルギーの源 と してきた 「 時代」 との関わ りを強引に断ち切 って しまった。 この関わ りを失い た くなか った ら,政治が時代の焦眉の問題なのだか ら, 自らの思想を言葉の レ ヴェルで縛 って しまうのではな く,現実に目を見開 き,音楽行為の うちに支配 機構 に対する視点を取 り込んでゆ くことが必要だった。実際には作曲家 は逆に 内面へと退却 した。確かに,例えばアイスラーのようにその創作が反戦活動へ と向か うことは考えに くい。だか らナチが ヒンデ ミッ トの音楽をボイコットし たことは,む しろ幸運なことだ った。音楽の喜びを通 して大衆を結びつけよう とするその音楽観 は,「 政治の芸術化」を目指すナチには願 ってもない思想だっ たはずだか らである。 「 時代」 とのアクチュアルな関係を失 った ヒンデ ミッ トが,その後中世の音 楽理論の研究 と言葉 による思想の構築 にいっそう情熱的にとりくんだ理 由は, こう考えれば全 くよく理解で きる ( 彼 はラテン語す ら学んだ)。 実 に象徴的な ことに,その音楽思想のマニフェス トである 「 作曲家の世界」( 1 9 5 2 )の 「 環境」 1 1 2 一橋研究 第2 2 巻第 4号 と題 された最終章の中で,作曲家 は次のように述べている。 「さて私 は,作曲家が成功 した り失敗 した りす る場合に,そのことに対 して 彼 自身がどこまで責任をとらなければな らないのかをただ したいと思 うのであ るが, しか しその際に彼 自身にはどうすることもできない障害が存在す ること を私 は度外視するつ もりはない。世の中には演奏 されないままで眠 っている優 れた曲がた くさんあるし, また多才な作曲家でありなが ら,不当に成功を阻ま れて, 自分の念願をかなえることがで きない例が幾つ もある。 もっとも大抵の 場合には,我々はその理由を容易に理解す ることができるが, しか し,い くら 理由が分か ったか らと言 って,我々にはその事情を変えることはで きない。 ま たある場合には,我々には全然その理由が分か らず,ただ理不尽な運命の定め る処 に黙 って従わなければな らない。何故な ら,人間自身の生命と同 じように, 作品の生死や盛衰 もまた, これを支配す る盲 目的な力があるのであって,我々 はこれ らの力に対 しては無力だか らである」 (9) 二度の世界大戦 という困難な時代を生 きた人間の率直な感懐 として,虚心 に 読むべ きではあろう。 しか し決を分か った一方のブレヒトがその後徹底抗戦を 叫び,最後 までナチと対立する姿勢を崩 さなか った ことを思 えば, 中世 的な 「 運命」観を受 け入れるヒンデ ミッ トの,「 言葉」 に鋳直 された思想 には,限界 があったと言わざるを得 まい。 また ヒンデ ミットは次のようにも書いている。 「・・・大抵 は,現代の作品は,我々の音楽生活の中では小 さな役割 しか果 た していない。我々は過去の優れた音楽の中に浸 っている方を好む。 どうして そうなのかは,誰 も本当にはわか らない。おそ らくそれは,現代人がい らだた しい不安な現在か ら逃れて,揺 るぎな く確立 している価値の世界 に入 りたい傾 向を もっているか らであろう。 とにか くそ う考 え る他 には納得 ゆ く説 明 はな い」 (10) その言葉 に反 して,私たちにはおぼろげなが ら 「どうしてそうなのか」理解 できる。そ して 「 揺 るぎな く立脚す る価値の世界」か ら生み出される音楽か ら は,霊感が消え,時間は器用 さによって組み立て られた人工的な構造体に支配 されて しまう。 ヒンデ ミットに 「かつては強烈な印象を与え」 られたショスタ コーヴィッチも,「その後,急速に熱は冷め」たと述べ,「その作品はしっか り 組み立て られ,単なる技術だけではな く,感情 もあれば意味 もあり,内容 も兼 1 1 3 引き裂かれたポー トレー ト ね備 えて い る」 の に 「その作品 は少 しも火花 を散 らさ」 ず ,「ど う も聴 いて い l l )が, この とき ヒンデ ミッ トの内面 に どん な変化 られない」 と回想 して い る ( が起 こったのか, シ ョス タコー ヴ ィッチ は感覚 的 に察知 したので あろ う。 こう して振 り返 ってみ ると,戦争 とい う逃 れが たい運命 の渦 に巻 き込 まれた 芸術家 が, 自 らの創作 の世界 に帰 ってい くとい う筋 を もつ オペ ラ 「 画家 マチス」 は, メ タ レグェルで ヒンデ ミッ ト自身 の通 って きた道 と進 んで い く道 を象徴 的 に演 じて いた といえ るだ ろ う。 ナチの台頭 と抑圧 の時期 と平行 して書 かれ た こ のオペ ラは,迷 いため らう作 曲家 の内面 の,一 つ の分 岐点 を示 して い る。 この 作 品で,作 曲家 の うちに潜 む相反 しつつ共存 す る二 つ の要素 が引 き裂 かれ,一 方 は打 ち捨 て られ,一 つ の響 きだ けが他方 を圧 して い った。 「言 葉 」 の思想 の ,「音楽」 の思想 の終蔦 を画 して いたので あ る。 は じま りが [註 ] ( 1 ) 「白鳥回 し」とは,白鳥の肉をまわして焼 く中世の職人のことを指す。 ( 2 ) ヒンデ ミット,下総院-訳 「 作曲の手引き」( 音楽之友社)p 2 0 ( 3) このプロセスは長木誠司 「ヒンデ ミットとオペラの問題 - カルディヤッ ク :創作の狂気か ら世界の調和へ - 」( ベルク年報[ 3 ] )に詳 しい。 ( 4 ) ヒンデ ミットはオーケス トラ版 も含めた改作 にとりくんでお り, 6曲を 抜粋 したオーケス トラ版の方は5 9 年に完成,初演 されたO これ らの改作 に あたってのポイントは, ヒンデ ミット自身が4 8年の改訂版で述べている。 2作の改作の詳細 を扱 った ものに,Ne ume ye r,op.° i t ,Par t3以下, 1 9 4 8) 」( 京都女子大学教 中村淑子 「ヒンデ ミット 『マ リアの生涯』新版 ( 2 号)などがある。またグレン・グール ドが自らのディスク 育学科紀要,3 。 二つのマ リアの生涯の物語」SonySRCR に寄せた論文 も示唆に富む (「 9 8 7 7 /8 ) ( 5) 戦時中もショット杜はヒンデ ミットの作品を出版 し続 けていた。 また戟 後ダルムシュタットで再開された現代音楽祭でも,4 0 年代にはヒンデ ミッ トの作品は多数演奏されていた。 ( 6 ) Hi nde mi t h.Paul:Pr obl e mee i ne she ut i ge nKoT nPO ni s t e n, 0s t e r r e i c hi s c he nMus i kz e i t s c hr i f t ,1 9 4 9 ( 7 ) Br i ne r.Andr e as:I c hand mr-ZurEnt wi c kl un g de sj z L n ge n PaL L lmnde mi t h,Er pr obunge nundEr f ahr unge n,1 9 7 8 ( 8) ギーゼルヘア ・シューベル ト,相津啓一訳 「ヒンデ ミット - 音楽 と 社会」( ベルク年報 [ 7 ] ) ( 9 ) ヒンデ ミット,佐藤浩訳 「 作曲家の世界」( 音楽之友社) p 3 0 6 1 1 4 一橋研究 第2 2 巻第 4号 ( 1 0 ) 同書 p 3 0 7 ( l l ) S .ヴォル コフ編,水野忠夫訳 「シ ョス タコーヴ ィッチの証 言 」 ( 中公 文庫)p 8 3 ,3 9 0 [ 付記] 本稿 は1 9 9 6年 7月 に新 宿 ・角 筈 区 民 セ ン ターで お こな わ れ た 「 S E EDSRECI TALS ERI ES第 4回 ヒンデ ミッ ト特 集」 の ため に書 いた長 編 エ ッセイ 「ヒンデ ミッ トの再発見」 を もとに,新 たに書 き下 ろ した ものであ る。