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アラビア語エジプト方言の属格標識 bitaː‛1

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アラビア語エジプト方言の属格標識 bitaː‛1
『コーパスに基づく言語学教育研究報告』No.8(2012)
アラビア語エジプト方言の属格標識 bitaː‛1
榮谷 温子
(東京外国語大学グローバル COE リサーチフェロー)
要 旨
正則アラビア語には見られない属格標識のうち,エジプト方言の bitaː‛ について,その
用法を,所有傾斜という視点から考察する。所有傾斜とは,所有者と所有物との間の物
理的または心理的な近さ・密接さの程度の段階を示したものだが,bitaː‛ の用法を見ると,
多少の順序の入れ替わり等あるものの,密接の度合の高いほど,bitaː‛ が使われにくくなっ
ている。また,bitaː‛ の使用が許される場合でも,bitaː‛ を用いた場合と用いなかった場合
を比較すると,bitaː‛ を用いた方が,所有者と所有物との間の密接度の下がる意味合いの
出る場合もある。このように,アラビア語エジプト方言の bitaː‛ は,対象間の密接さや関
係を明示する機能を持っていることが明らかとなった。
1. はじめに
本稿では,アラビア語エジプト方言の属格標識 bitaː‛2 について,その用法を,属格標識
の用いられない表現との比較を通して,後述の「所有傾斜」という観点から考察する。
エジプト方言を含め,アラビア語の諸方言には,正則アラビア語には見られない,属格
標識がある。例えば,正則アラビア語で,
「アリーの家」という場合,
「家」のあとに直接,
属格形の「アリー」を置けば良い。
本稿は,Soliman & 榮谷(1999)で発表した調査結果を踏まえ,別のインフォーマントに改めて聞き取り調査を
行なって纏められたものである。Soliman & 榮谷(1999)のインフォーマントは,カイロ出身で 20 代の男子大学
院生であったが,今回のインフォーマントは,モノフェイヤ出身カイロ在住の,小学校卒で一つ星ホテル勤務の
45 歳男性である。
2
本稿でアラビア語をローマ字表記する場合には,次の方式に従う。先行研究からの引用に際しても,アラビア語
の例文等に関しては,以下の方式に書き直して行なう。
破裂音 /b/[b] /t/[t] /d/[d] /ṭ/[tˤ] /ḍ/[dˤ] /k/[k] /ɡ/[ɡ] /q/[q] /ʼ/[ʔ]
鼻音 /m/[m] /n/[n]
ふるえ音 /r/[r]
摩擦音 /f/[f] /s/[s] /z/[z] /ṣ/[sˤ] /ẓ/[zˤ] /ʃ/[ʃ] /j/[ʒ] /x/[χ] /ɣ/[ʁ] /ḥ/[ħ] /‛/[ʕ] /h/[h]
接近音 /w/[w] /y/[j]
側面接近音 /l/[l]
短母音 /a/ /ɑ/ /i/ /u/
長母音 /aː/ /ɑː/ /iː/ /uː/ /eː/ /oː/
1
― 33 ―
(1)bait -u
家
‛aliːy
-in
-主格 アリー -属格
「アリーの家」
これに対してアラビア語エジプト方言では,正則アラビア語のように,所有物と所有者
を直接連ねる表現の他に,両者の間に属格標識 bitaː‛ を挟んだ表現が可能である。
(2)a. beːt ‛ali
家
b. ʼil-
アリー
beːt bitaː‛
定- 家
属標
3
‛ali
アリー
(a, b いずれも)「アリーの家」
ただし,この属格標識 bitaː‛ は,無制限に用いられるものではない。本稿では,属格標
識 bitaː‛ の使用可能な場合と不可能な場合,また,bitaː‛ が用いられた場合と用いられない
場合との意味の違いなどに着目しつつ,後述する「所有傾斜」の観点から,bitaː‛ の用法
を明らかにしていきたい。
なお,本稿で扱う例のうちには,「椅子の脚」のような,所有者と所有物という意味合
いから外れるものもあるが,本稿では「所有」の意味を広くとり,そうした関係も含めて
「所有」と言い表し,「椅子の脚」の「椅子」のようなものも「所有者」,その「脚」のよ
うなものも「所有物」と呼ぶ。
1.1. bitaː‛ の形態
bitaː‛ の語源は確定されておらず,黒柳・飯森(1976: 177)は,「後続する,所属する」
等の意味を表す動詞 taba‛a から来たもので,その t と b が転換したものであろうとしている。
他方,Ad-duːsuːqiː(1920: 287-288)や Al-Tonsi(1987: 73)は,
「財産,所有物,需要の達成」
などの意味のある mataː‛ との関連を指摘している。
bitaː‛ は,所有物の性と数に一致して形が変化する。所有物が男性単数の場合は bitaː‛ だ
が,女性単数(文法上,女性単数として扱われる,人間でないものの複数を含む)の場合
は bitaː‛it,双数及び人間の複数には bituː‛ となる。
なお,bitaː‛ に先行する所有物を表す名詞は,限定辞 ʼil-4 を伴う。
1.2. 先行研究
Badawi & Hinds(1986: 51)では,bitaː‛ の意味を 6 項目 9 種類に分類して説明している。
3
例文提示の際のグロスほかで,以下のような略号を用いる。
「属標」属格標識,
「人代」人称代名詞,
「指」指示詞/「定」限定辞/「能分」能動分詞,
「完」完了形/「単」
単数,「双」双数,
「複」複数/「男」男性,
「女」女性/「1」1 人称,「2」2 人称,「3」3 人称
また,許されない形態や,非文には,語頭乃至文頭に星印「*」を付す。
4
ʼil- の ʼ 乃至 ʼi は,限定辞の置かれる環境によって脱落する。ʼil- の l は,規則により,後続する名詞乃至形容詞の
語頭の音に同化することがある。
― 34 ―
1 a 所有
ʼil-
musaddas bitaː‛
-i
定- ピストル 属標 男単 -人代 1 単
「私のピストル」または「そのピストルは私のものだ」
1 b 付属
ʼil-
fɑrɑːmil
bitaː‛it
il-
‛arabiyya
定- ブレーキ 複 属標 女単 定- 自動車
「自動車のブレーキ」
2 a 連携
ʼir-
rɑːɡil
bitaː‛
ʼuːṭɑ
il-
定- 男 男単 属標 男単 定- トマト
「トマトを伴う男,トマト売り」
2 b 傾向(この場合は,原則から外れ,非限定の名詞を伴う)
da
kalaːm
bitaː‛
sittaːt.
指 男単 ことば 属標 男単 女性 女複
「これは女性的な言葉遣いだ」
3 属格関係
ʼis-
sittaːt
bituː‛
ʼinɡlitirɑ
定- 女性 女複 属標 男単 英国
「英国(人)の女性たち」
4 近似
bitaː‛
saː‛a
属標 男単 時間 女単
「およそ 1 時間」
5 ∼やその他
ruḥna
s-
suːʼ
wi-
btaː‛5
行く 完 1 複 定- 市場 男単 ∼と∼ 属標 男単
「私たちは,市場やその他に行った」
6 a 何とかいうもの(名前を知らなかったり使いたくないときなどに代用する語)
6 b 性器
これは詳細な説明だが,辞書という性質上,bitaː‛ の用いられる場合とそうでない場合
の区別や,用いられる場合とそうでない場合の意味合いの違いなどには触れられていない。
他方,Al-Tonsi et al.(1987: 71-72)は,bitaː‛ は「一般的に,人間同士の関係あるいは体
の部分との関係,場所の明示のためには用いられない」として,bitaː‛ が主に用いられる
関係を,以下の 3 項目に整理して説明している。
5
wi + bitaː‛ > wi btaː‛ エジプト方言では,規則に従って,こうした母音の脱落や短化が良く起きる。
― 35 ―
(a)物-物
ʼil-
baːb
bitaː‛
ʼoːḍɑ
il-
定- 扉 男単 属標 男単 定- 部屋 女単
「その部屋の扉」
(b)物-人間
ʼik- kitaːb
bitaː‛
muna
定- 本 男単 属標 男単 モナ(女性の名)
「モナの本」
(c)人間-物
ʼil-
muwɑẓẓɑf bitaː‛
il-
ḥisabaːt
定- 職員 男単 属標 男単 定- 会計
「会計係の職員」
そして,Al-Tonsi et al.(1987: 72-73)は,人間-人間の関係で bitaː‛ が用いられるのは,
以下の 4 つの場合に限定されるとする。
1)親族関係・友達関係で以下のもの:
ʼis-
sitt
定- 女
bita‛t
/ ʼir-
-i
属標 女単 -人代 1 単 / 定- 男
「俺の女房」(低い階層の方言)
ʼil-
bint
定- 少女
bita‛t
bitaː‛
-i
属標 男単 -人代 1 単
「私の夫」
(田舎の方言)
/ ʼil-
-i
walad bitaː‛
属標 女単 -人代 1 単 / 定- 少年
「俺の彼女」
-i
属標 男単 -人代 1 単
「私の彼」
ʼiɡ- ɡaww bitaː‛
定- 天気
rɑːɡil
-i
属標 男単 -人代 1 単
「俺の彼女」「私の彼」
2)社会階層の低いものとの関係:
ʼiʃ-
ʃaɣɣaːla bita‛t
定- 女
-i
属標 女単 -人代 1 単
「うちの女中」
3)逆に,仕事で上位にある人との関係:
ʼil-
mudiːr bitaː‛
定- ボス
-i
属標 男単 -人代 1 単
「私のボス」
4)専門職におけるサービスに基づく関係:
ʼid- duktoːr bita‛
定- 医者
-ha
属標 男単 -人代 3 単女
「彼女のお医者さま」
さらに,Al-Tonsi et al.(1987: 73)は,bitaː‛ の使用が好まれる場合として,bitaː‛ に先行
する名詞句が以下の 3 つの場合を挙げている。
― 36 ―
1) rɑdyu(ラジオ)や tilifizyoːn(テレビ)のような外来語,
2) 双数形の名詞,
3) もともと限定辞の ʼil- を伴っている,ʼil-‛arabi(アラビア語),ʼil-ʼinɡiliːzi(英語)など,
言語名を表す名詞。
2)の,所有物を表す名詞が双数形である場合は,bitaː‛ を用いれば,
(3)ʼik- kitab -eːn bituː‛
-i
-双 属標 複 -人代 1 単
定- 本
「私の 2 冊の本」
となるが,bitaː‛ を用いない場合,双数形語尾の –eːn の n は脱落するので,そのままでは,
*kitab -eː -i と,アラビア語の音韻規則では許されない形の母音連続ができてしまう。また,
所有者の位置に,限定辞 ʼil- を伴う名詞が来た場合,限定辞 ʼil- の ʼi が音韻規則により脱落
するので,kitab-eːn(2 冊の本)に ʼil-maktaba(図書館)を後置した場合には,*kitab-eː-lmaktaba のように,長母音 eː のあとに子音が 2 つ続く形になってしまうが,このような音
素の連続もアラビア語では許されない。
こうした音韻規則の面からの理由により,所有物が双数である場合は,簡便な bitaː‛ が
好まれる6。
また,3)の,もともと限定辞の ʼil- を伴っているところの言語名を表す名詞が所有物の
とき,bitaː‛ が好まれるのは,bitaː‛ を使わない場合,所有物には限定辞 ʼil- を付すことが
できないためである。
Woidich & Heinen-Nasr(2004: 73)も,まずそうした形式上の注意点として,所有物の
位置に,-iːn という男性複数形語尾(これも,bitaː‛ を用いない場合,末尾の n が脱落する)
を付された名詞が来た場合は,次に必ず bituː‛ を使った句が来ることを指摘している。
外来語については,上述のとおり,通常,bitaː‛ を使うことが好まれる。
そして,多くの場合,bitaː‛ を使わない所有表現は,bitaː‛ を使った表現と置き換え可能
であるが,身体部分や家族に対しては,絶対に bitaː‛ は使われない,としている。このとき,
次の 2 つの表現の意味合いの違いが特記されている。
(4)a. sitt -i
女 -人代 1 単
「私の祖母」
b. ʼis-
sitte7 bta‛t
定- 女
-i
属標 女単 -人代 1 単
「私の妻」
最後に加えて,Badawi & Hinds(1986: 51)の 2a にあったような,職業を表す表現に使
われることが述べられている。
Salib(1981: 203)は,bitaː‛ を使わず後置される句と,bitaː‛ を使った句との間には,大
きな度合の互換性があるものの,通常では相互交換が許されないいくつかの関係があると
6
7
こうした形式面からの理由に関しては,後述の Harning(1980)も詳しく述べている。
この e は,子音連続を避けるために挿入された補助の母音。
― 37 ―
して,Al-Tonsi et. al(1987: 71-73)でも述べられていたように,身体部分や親密な人間関
係は,通常,bitaː‛ を使わず後置される句で表現されるのに対して,サービスに基づく関
係や非永久的な人間関係は,普通,bitaː‛ を使った句で表現されると述べる。
ま た,bitaː‛ を 使 わ ず 後 置 さ れ る 句 は, 専 ら, 場 所 を 名 指 し す る 場 合( 例:lukandit
simiramiːs「セミラミス・ホテル」
)や,計量のとき(例:finɡaːn ʼahwa「カップ一杯のコー
ヒー」)に用いられるとも言っている。
以上の Al-Tonsi et al.(1987: 71-73),Woidich & Heinen-Nasr(2004: 73),Salib(1981: 203)
から明らかなことは,
bitaː‛ を使わない所有表現と,bitaː‛ を使った所有表現との間には,大きな度合の互換
①
性がある。
②
bitaː‛ は,身体部分や親密な人間関係(家族など)には用いることができない。
③
bitaː‛ を使った場合と使わなかった場合とで,意味の変わる例もある。
の 3 点である。
本稿では,bitaː‛ が用いられない場合のその理由,bitaː‛ を使った場合と使わなかった場
合とで,意味の変わる場合のその理由について,次項で述べる「所有傾斜」を手がかりに,
明らかにしていきたいと考える。
なお,bitaː‛ に関する先行研究ではもうひとつ,Harning(1980: 90-96)が,bitaː‛ による
テキスト・レベルでの違いに言及している。
1) bitaː‛ を用いると,語りのテンポが緩慢になり,落ち着いた穏やかな雰囲気が出るなど,
文体的な違いが生じる。
2) bitaː‛ を用いて「“あなたの”問いと“彼の”答え」のような対比をさせる。
3) bitaː‛ を用いた名詞句で,語りに新しいテーマを導入する。
4) bitaː‛ を用いて,話し手の激しい感情を表現し,文全体を強調する。
しかし,Harning(1980: 90-96)は,本稿で問題にしようとしている,句レベルの bitaː‛
の使い分けに関しては,事例の列挙にとどまっている。
1.3. 所有傾斜
前項で,bitaː‛ は,身体部分や親族には用いることができないことが述べられたが,こ
れを考察する際に有効なのが,亀井ほか(1996: 219)で述べられている「可譲渡所有」と
「不可譲渡所有」という概念である。
これは,身体部分や親族などに共通する意味特徴を「所有者から切り離しては考えられ
ない親密なもの」と捉え,そのような所有物を「不可譲渡所有(inalienable possession)」,
また,それらを表す名詞を「不可譲渡名詞(inalienable noun)」と呼ぶ。それに対して,
この特徴を持たないすべての所有物を「可譲渡所有(alienable possession)」,それらを表
す名詞を「可譲渡名詞(alienable noun)」と呼んで区別をする。
この区別を,さらに精密化したものが,角田(2009: 125-179)の「所有傾斜」である。
可譲渡所有と不可譲渡所有(角田(2009: 127-129)ではそれぞれ,「分離可能所有」「分離
不可能所有」の訳を当てている)の二元論ではなく,以下のような 7 つの段階が設定され
ている。
― 38 ―
身体部分 > 属性>身に付けた衣類>(親族)> 愛玩動物>作品>その他所有物
これは,角田(2009: 127)によれば,「所有者と所有物の間の物理的な,或いは,心理
的な近さ・密接さの程度を表すと言える」もので,この序列の左に行くほど所有者と所有
物の間が近く密接となり,右に行くほど所有者と所有物の間が遠く疎遠となる。
「身体部分」と「属性」が,従来の不可譲渡所有であり,「親族」を除くその他が,従来
言われてきた可譲渡所有である。
「親族」が括弧に入れられているのは,まずこの序列が「所有者敬語」8 の分析を通して
生み出されたことによる。角田(2009: 132)では,
「天皇陛下のご兄弟が到着なさいまし
た」といった場合,所有者の「天皇陛下」ではなく,所有物の「ご兄弟」が尊敬の対象と
なっている可能性があるため,
「親族」を所有傾斜の調査に含めることができなかったが,
角田の直感と,所有者敬語以外の現象に反映された結果とにより,この位置に来た。
さらに,
「親族」の下位区分について,角田(2009: 129)は,以下のものを挙げている。
(a)血族:
(a-i) 誰かが生まれた時に必ずいる親族:両親,その両親,その両親…。
(a-ii)他の血族:おじ,おば,兄弟姉妹,甥,姪,子,孫等。
(b)血族以外:結婚や養子縁組等で得た親族
そして,
「厳密は,分離不可能所有物と呼べるのは(a-i)だけであろう。しかし,
(a-i)
も分離不可能と分離可能の二面がある。誰でも生まれながらに持っている点では分離不可
能である。しかし,所有者と一体ではない点では分離可能である」としている。
なお,角田(2009: 128-129)自身も述べているように,この所有傾斜は絶対的なもので
はなく,ある言語の分析にこれを用いる際,場合によっては修正が必要になるかもしれず,
あるいは,上記以外の範疇を設定することになるかもしれない。
本稿では,この所有傾斜を手がかりに,エジプト方言の属格標識 bitaː‛ の用法を探って
いくこととする。
2. bitaː‛ と所有傾斜
先行研究でも,身体部分や親族には,bitaː‛ が用いられないことが明らかになっている。
ここでは,前項で取り上げた所有傾斜の順に,それぞれ,bitaː‛ を用いることができるか
どうか,インフォーマント(脚注 1 参照)からの聞き取り調査に基づいて,検討していく。
2.1. 身体部分
所有傾斜で,所有者と所有物の間の最も親密な段階とされる身体部分に対しては,通常,
bitaː‛ は用いられない9。
角田(2009: 126)のいう「所有者への敬意を,所有物を通して間接的に表現している」敬語。例えば,角田(2009:
125)の挙げた「全体としては,陛下のご様子は落ち着いていらっしゃる」
(陛下のご様子を通して,陛下への敬
意を表す例)や,
「天皇陛下のご体温はもとの状態に戻られました」
(陛下のご体温を通して,陛下への敬意を表
す例)などである。
8
― 39 ―
しかし,bitaː‛ を用いることがないわけではない。インフォーマントによれば,特に医
者が患者に診察結果を告げるような場合,bitaː‛ を使って「あなたの」と,臓器等の持ち
主を限定する意味合いで,用いるとのことである。例えば,
(5)ʼil-
ʼalb
bitaː‛
-ak
ta‛baːn
ʃiwayya.
定- 心臓 属標 男単 -人代 2 単 具合が悪い 少し
「貴男の心臓は少し具合が悪い」
とはいえ,通常は,短い表現のできる,bitaː‛ を使わない所有表現の方が好まれる。
持ち主を限定する意味合いという点では,例えば,遠くにいるある人の頭を見て,「あ,
あれはハルコの頭だ!」と,その頭の主をハルコだと特定する状況下では,「頭」に対し
て bitaː‛ を使うことができる。
(6)ʼid- dimaːɣ bitaː‛10
定- 頭
haruku.
属標 男単 ハルコ
「ハルコの頭だ」
身体部分のうち,ʼil-muṣrɑːn il-ɣɑliːẓ「大腸(直訳:厚く重い腸;muṣrɑːn「腸」,ɣɑliːẓ「厚
い/重い」
)などのように,名詞+形容詞の形をとる複合語の場合は,bitaː‛ のある表現と
ないの表現のどちらも許容されるが,bitaː‛ を使わない表現の方が良く使われると,イン
フォーマントは言う。例えば,
(7)a. ʼil-
muṣrɑːn iṣ-
ṣuɣɑyyɑr
bitaː‛
-ak
定- 小さい 男単 属標 男単 -人代 2 男単
定- 腸
b. muṣrɑːn -ak
ʼiṣ-
ṣuɣɑyyɑr
-人代 2 男単 定- 小さい 男単
腸
「貴男の小腸」
但し,上記の小腸でも,複合形で表される他の臓器でも,例文(6)b のように bitaː‛ を
使わず「貴男の」という所有表現をする場合,形容詞の前の限定辞に,通常は文頭や休止
直後にしか現れない /ʼ/(声門破裂音)の発音が生じており,エジプト方言としてはぎこち
なさのある表現である可能性がある11。
身体部分で,意味によって bitaː‛ の使用が可能か不可能か分かれる例として,damm「血」
がある。次の,文字通り「血液」という意味では,bitaː‛ を使用してもしなくても良い。
(8)a. ʼid- damm bitaː‛
定- 血
b. damm -i
血
-i
ʼulayyil.
属標 男単 -人代 1 単 少ない 男単
ʼulayyil.
-人代 1 単 少ない 男単
「私は貧血だ」(直訳:私の血は少ない)
9
Soliman & 榮谷(1999)では,kibd「肝臓」には bitaː‛ が使えるとのことであったが,今回の調査では,他の身体
部分と肝臓との間に,そのような差異はなかった。
10
dimaːɣ「頭」は両性名詞であるので,bitaː‛it(女単)も可能。
11
なお,Soliman & 榮谷(1999)では,zaida duːdiyya「虫垂(直訳:蠕虫状の突出)」は複合語であるので,所有
表現で bitaː‛it を使うとのことであったが,今回の調査では,日常会話レベルであれば「蠕虫状の」という形容詞
を使わず,zaida とだけ言うのが普通であり,例えば「貴男の虫垂」であれば,iz-zaida bita‛t-ak や zaidit-ak となる
とのこと。
― 40 ―
これに対して,陽気な性格であることを意味する「血が軽い」
,逆に陰気な性格である
ことを意味する「血が重い」という場合の「血」
,すなわち次項で扱う「属性」に含まれ
る「性格」を表す damm「血」は,bitaː‛ を使用した所有表現が許されない。
xafiːf.
(9)a. damm -ak
血
-人代 2 男単 軽い 男単
「貴男は陽気だ」(直訳:貴男の血は軽い)
b. *ʼid- damm bitaː‛
定-
xafiːf.
-ak
属標 男単 -人代 2 男単 軽い 男単
血
なお,身体部分を表す名詞であっても「椅子の脚」「椅子の背」などのような,モノの
部分の名称として使われている場合は,生物の身体部分よりさらに,bitaː‛ が使いやすい。
(10)a. riɡl ik足
b. ʼir-
kanaba
定- ソファ
riɡl bitaː‛it
定- 足
ik-
kanaba
属標 女単 定- ソファ
「ソファの足(単数)」
2.2. 属性
身長,体重,性質,健康状態,体温,意識など,属性を表すものが所有物である場合も,
bitaː‛ の使用が可能である。ただし,前項の例文(8)b のように,bitaː‛ の使えない例もある。
またそもそも,属性に限定されることではないが,通常は,短い表現のできる,bitaː‛ を
使わない所有表現の方が好まれる。
例えば,wazn「重さ」が所有物の場合,
(11)a. wazn haruku
zaːyid.
重さ ハルコ 超過している 男単
b. ʼil-
wazn bitaː‛
haruko
zaːyid.
定- 重さ 属標 男単 ハルコ 超過している 男単
「ハルコの体重は超過している」
上の 2 つの例文は,いずれもハルコが太り過ぎている様を表す12。そして,どちらかと
言えば,a の表現の方が簡潔で好まれる。また,人間以外でも,例えば小包に関しても,
(12)a. wazn iṭ-
ṭɑrd
zaːyid.
重さ 定- 小包 超過している 男単
b. ʼil-
wazn bitaː‛
iṭ-
ṭɑrd
zaːyid.
定- 重さ 属標 男単 定- 小包 超過している 男単
「小包の重量が超過している」
のように,bitaː‛ を使った表現も使わない表現も可能である。ただ,やはり,a の簡潔な表
Soliman & 榮谷(1999)では,例文(9)a の場合はハルコ本人の体重,例文(9)b の場合はハルコの荷物などの
重量(例えば,空港での預け入れ荷物の重量など)で,ハルコ本人の体重の意味にならないとのことであったが,
今回のインフォーマントは,そのような意味の違いは出ないとしている。
12
― 41 ―
現の方が良く使われる。luɣa「言語」の能力に関しても,
(13)a. luɣit13 haruku
言語
b. ʼil-
miʃ
mafhuːma.
ハルコ 否定辞 理解される 女単
luɣa
bitaː‛it
haruku
miʃ
mafhuːma.
定- 言語 属標 女単 ハルコ 否定辞 理解される 女単
「ハルコの言葉はわからない」
のように,どちらの表現も,ハルコの母語である日本語についてであろうと,外国語とし
て身に付けた英語やアラビア語についてであろうと,可能である14。
その他,ṭuːl「身長」,ʃɑxṣiyya「性格」,ṣiḥḥa「健康」,ḥɑrɑːrɑ「体温,熱」,ʼɑṣṣɑ「髪型」,
moːḍɑ「ファッション」などが所有物である場合も同様であった。
ただし,宗教心に関して,(ʼil-)ʼislaːm「イスラーム教」を所有物の位置に置く場合,
bitaː‛ を使うことはできない。
(14)a. ʼislaːm
-i
qawi.
イスラーム -人代 1 単 強い 男単
「私は強固なイスラーム教徒だ」(直訳:私のイスラームは強い)
b. *ʼil- ʼislaːm
bitaː‛
-i
qawi.
定- イスラーム 属標 男単 -人代 1 単 強い 男単
これは,イスラームは万人に与えられたもので,特定の個人のものではないという考え方
からくるものであるという。bitaː‛ は,他の項目においてもそうだが,所有者を特定,限
定する意味合いが出てくるとのことなので,万人に与えられたイスラームに対して,bitaː‛
を使うのは不適切ということであろう。
なお,ṣɑlɑːh「(イスラームの 1 日 5 回の)礼拝」に関しては,人それぞれの礼拝の仕方
があるということで,
(15)a. ṣɑlɑːt15 -i
礼拝
ʼaḥsan
min
ṣɑlɑːt -ak.
-人代 1 単 より良い ∼より 礼拝 -人代 2 男単
b. ʼiṣ- ṣɑlɑːh bita‛t
-i
ʼaḥsan
min
iṣ- ṣɑlɑːt bita‛t
-ak.
定- 礼拝 属標 女単 -人代 1 単 より良い ∼より 定- 礼拝 属標 女単 -人代 2 男単
「私の礼拝は,貴男の礼拝より良い」
のように,bitaː‛ を用いることもできる。
2.3. 身に付けた衣類
身に付けた衣類に関しては,bitaː‛ は使っても間違いではないが,通常は使わない方が
自然である。
luɣa の後ろに所有者が直接置かれると,このように語尾が変化する。
Soliman & 榮谷(1999)では,ʼil-yabaːni bitaː‛ haruku(ハルコの日本語)のように,bitaː‛ を使うと,母語として
身に付けた日本語ではなく,ハルコが非日本人で,勉強して身に付けた日本語,あるいは,日本人であっても通
訳など特殊なレベルの高度な日本語の意味になるとのことであった。
15
ṣɑlɑːh の後ろに所有者が直接置かれると,このように語尾の音が変化する。
13
14
― 42 ―
(16)haruku
labsa
bijaːmit
-ha.
ハルコ 着る 能分 女単 パジャマ -人代 3 女単
「ハルコは自分のパジャマを着ている」
同じく,ṭɑʼm is-sinaːn「入れ歯(直訳:歯のセット)」にも,bitaː‛ を使わないのが普通
である。
(17)ṭɑʼme
snaːn
-i
セット 歯 複 -人代 1 単
「私の入れ歯」
だが,例えば,おじいさんが自分の入れ歯を洗浄のためにコップに入れ,おばあさんも
自分の入れ歯を洗浄のために別のコップに入れたという状況下で,おじいさんが,
「こっ
ちが俺の入れ歯だぞ」という場合には,
(18)ṭɑʼm
is-
snaːn
da
btaː‛
-i.
セット 定- 歯 複 指男単 属標 男単 -人代 1 単
「この入れ歯は俺のだ」
と,bitaː‛ を使い,所有者を強調する。ただ,これは,所有者を強調するという理由以外にも,
入れ歯を外してコップに入れてある,すなわち身に付けていない状態であるので,
「身に
付けた衣類」ではなく,後述の「その他所有物」に属する対象であることも,bitaː‛ を使
える理由と考えられる。
なお,ṭɑʼm is-sinaːn「入れ歯(直訳:歯のセット)」と同じく,所有表現の形をとってい
るが,「その他所有物」に属する furʃit is-sinaːn「歯ブラシ(直訳:歯のブラシ)」では,逆
に,bitaː‛ を使う方が普通であり,bitaː‛ を使わない表現は可能ではあるが,あまり使われ
ないという。
(19)a. furʃit
is-
sinaːn bita‛t
-i
ブラシ 定- 歯 複 属標 女単 -人代 1 単
「私の歯ブラシ」
b. furʃit
sinaːn -i
ブラシ 歯 複 -人代 1 単
「私の歯ブラシ」(可能だがあまり使わない)
2.4. 親族
上記 3 項目と異なり,親族は bitaː‛ の使用がほぼ不可能であるか,またはかなり厳しく
限定される。
(20)a. ɡoːz -i
夫
-人代 1 単
「私の夫」
b. *iɡ- ɡoːz bitaː‛
定-
夫
-i
属標 男単 -人代 1 単
ただし,Al-Tonsi et al.(1987: 72-73)のが指摘していたとおり,次の場合には bitaː‛ を
― 43 ―
用いる。再掲する。
ʼis-
sitt
bita‛t
-i
/ ʼir-
属標 女単 -人代 1 単 / 定- 男
定- 女
「俺の女房」(低い階層の方言)
ʼil-
rɑːɡil
bint
bita‛t
-i
bitaː‛
-i
属標 男単 -人代 1 単
「私の夫」(田舎の方言)
/ ʼil-
walad bitaː‛
定- 少女 属標 女単 -人代 1 単 / 定- 少年
「俺の彼女」
-i
属標 男単 -人代 1 単
「私の彼」
ʼiɡ- ɡaww bitaː‛
-i
属標 男単 -人代 1 単
定- 天気
「俺の彼女」「私の彼」
このとき,Woidich & Heinen-Nasr(2004: 73)が述べたとおり,bitaː‛ を使わないと意味
の変わることがある。再掲する。
(4)a. sitt -i
女 -人代 1 単
「私の祖母」
b. ʼis-
sitte bta‛t -i
属標 女単 -人代 1 単
定- 女
「私の妻」
bitaː‛ を使うと血縁関係のない「妻」でありが,bitaː‛ を使わないと,血縁関係のある祖
母となる。他の例でも,ʼil-bint bita‛t-i「俺の彼女」
(直訳:俺の少女)と,ʼil-walad bitaː‛-i「私
の彼」(直訳:私の少年)では,bitaː‛ を使わないと,それぞれ血縁関係を表す表現となる。
(21)a. bint
-i
少女 -人代 1 単
「私の娘」(親子関係)
b. walad -i
少年
-人代 1 単
「私の息子」(親子関係)
なお,ʼir-rɑːɡil bitaː‛-i「私の夫」に関しては,rɑɡl-i(< rɑːɡil-i)という bitaː‛ を使わない
表現でも,意味は同じく「私の夫」である。
また,ʼiɡ-ɡaww bitaː‛-i16「俺の彼女」「私の彼」(直訳:私の天気)は,bitaː‛ を使わずに
ɡawwi と言うと,
「大気の,空気の,航空の」という意味の形容詞になってしまうので,
bitaː‛ を使わざるを得ない。
ほかに,まさしく「恋人,愛する人」を意味する,ḥabiːb(男単),ḥabiːba(女単)は,
bitaː‛ を使わないことの方が多い。xɑṭiːb「婚約者(男単)」,xɑṭiːba「婚約者(女単)」には,
bitaː‛ をまったく使わない。
ʼiɡ-ɡaww bitaː‛-i「俺の彼女」
「私の彼」は,一緒に出掛けたりする親しい異性の友人であるが,ʼil-bint bita‛t-i「俺
の彼女」と,ʼil-walad bitaː‛-i「私の彼」は,恋人であるとのこと。
16
― 44 ―
これらに対して,結婚式という限られた期間における名称,‛ariːs「花婿」
,‛ɑruːsa「花嫁」
は,bitaː‛ を使わない表現(‛ariːs-i「私の花婿」
,‛ɑrust-i「私の花嫁」
)も使う表現(ʼil-‛ariːs
bitaː‛-i「私の花婿」,ʼil-‛ɑruːsa bita‛t-i「私の花嫁」
)も,どちらも同じように用いられる。
親族ではないが,ṣɑdiːʼ「友人(男単)」,ṣɑdiːʼa「友人(女単)」にも,bitaː‛ はまったく
用いられない。また,rɑbb「神,主」も,rɑbb-i「我が主」,rɑbbe-na「我らが主」のように,
bitaː‛ を使わない表現しか使われない。
2.5. 愛玩動物
愛玩動物が所有物となった場合,bitaː‛ は使っても良し,使わなくても良しである。
(22)a. ʼuṭṭit haruku
猫
b. ʼil-
ハルコ
ʼuṭṭɑ bitaː‛it
定- 猫
haruku
属標 女単 ハルコ
「ハルコの猫」
(23)a. baɣbaɣaːn haruku
オウム
b. ʼil-
ハルコ
baɣbaɣaːn bitaː‛
定- オウム
haruku
属標 男単 ハルコ
「ハルコのオウム」
しかし,動物によっては,bitaː‛ を使わないと罵り言葉になってしまうので注意が必要
である。
(24)a. kalb haruku
犬
ハルコ
「ハルコの犬畜生!」
b. ʼil-
kalb bitaː‛
定- 犬
haruku
属標 男単 ハルコ
「ハルコの(飼い)犬」
(25)a. ḥumɑːr haruku
ロバ
ハルコ
「ハルコの馬鹿!」(直訳:ハルコのロバ17)
b. ʼil-
ḥumɑːr bitaː‛
定- ロバ
haruku
属標 男単 ハルコ
「ハルコの(飼育している)ロバ」
2.6. 作品
作品が所有物である場合の所有表現では,bitaː‛ を使っても使わなくても良い。
17
アラブ世界でロバは馬鹿ものとされているため。
― 45 ―
(26)a. riwayaːt naɡiːb maḥfuːẓ
小説 複 ナギーブ・マフフーズ
b. ʼir-
riwayaːt bitaː‛it
naɡiːb maḥfuːẓ
定- 小説 複 属標 女単 ナギーブ・マフフーズ
「ナギーブ・マフフーズ18 の小説」
どちらかと言えば,a の,bitaː‛ を使わない,簡潔な表現が好まれるとのことである。
なお,次の例では,文脈がないと,ナギーブ・マフフーズの著作のことなのか,ナギー
ブ・マフフーズの蔵書(次項「その他所有物」に属す)のことなのか,区別が付かない。
(27)a. kutub naɡiːb maḥfuːẓ
本 複 ナギーブ・マフフーズ
b. ʼik- kutub bitaː‛it
naɡiːb maḥfuːẓ
定- 本 複 属標 女単 ナギーブ・マフフーズ
「ナギーブ・マフフーズの本」
2.7. その他所有物
「その他所有物」についても,
「愛玩動物」や「作品」と同様,bitaː‛ を使っても使わな
くても良い。
例えば,サブリーの持ち家にハルコが住んでいる場合,名義がサブリーという意味で,
(28)a. beːt ṣɑbri
家
b. ʼil-
サブリー
beːt bitaː‛ ṣɑbri
定- 家
属標 サブリー
「サブリーの家」
とも言えるし,住んでいるのがハルコということで,
(29)a. beːt haruku
家
b. ʼil-
ハルコ
beːt bitaː‛ haruku
定- 家
属標 ハルコ
「ハルコの家」
とも言える19。
1988 年にアラブ人作家初のノーベル文学賞を受賞したエジプト人作家。2006 年没。
Soliman & 榮谷(1999)では,ʼil-beːt bitaː‛ haruku は,ハルコの所有権を強調した表現で,家がハルコの持ち家で
あるのに対し,beːt haruku は,ハルコが住んでいれば,ハルコの持ち家でなくても良いとのことであったが,今回
の調査では,そのような意味の違いはなかった。
18
19
― 46 ―
3. bitaː‛ の使用と所有傾斜
3.1. bitaː‛ の使用と所有傾斜の順列との関係
以上を踏まえて,bitaː‛ の使われにくさと,所有傾斜との関係を,bitaː‛ の使われにくい
順にまとめる。
(1)親族名称
所有者を直接後置することは可能。bitaː‛ は,原則は使用不可能。‛ariːs「花婿」,‛ɑruːsa「花
嫁」は bitaː‛ が使える。
逆に親族でなくとも,ṣɑdiːʼ「友人(男単)」,ṣɑdiːʼa「友人(女単)」や rɑbb「神,主」に
は bitaː‛ を使わない。
親族であるが非血縁関係,あるいは恋愛関係の場合,bitaː‛ を用いて表現される場合,
それを bitaː‛ を用いない表現に言い換えると,血縁関係のある親族を示す表現に,意味が
変わってしまう例もあった。
(2)属性
所有者を直接後置することは可能。bitaː‛ は,使用不可能な場合もある。
damm「血」を,
身体部分としての「血液」ではなく,
「血が軽い」
(陽気な)や「血が重い」
(陰気な)といった性格を表す表現の中で用いた場合,bitaː‛ を使うことはできない。
また,宗教心についての表現で,
(ʼil-)ʼislaːm「イスラーム教」が所有物として用いられ
る場合,bitaː‛ を使うことはできない。
(3)身体部分
所有者を直接後置することは可能。bitaː‛ を使うと,所有者を特定,限定する意味合い
が出る。通常ならば,所有者の直接後置の方が,簡潔なので,良く用いられる。
(4)身に付けた衣類,愛玩動物,作品,その他所有物
所有者を直接後置することは可能。bitaː‛ も使える。
以上の,bitaː‛ の使用状況を所有傾斜に即してまとめると,下の表のようになるだろう。
表1
bitaː‛ の不使用
○
○
○
○
○
○
○
bitaː‛ の使用
△
△
○
×
○
○
○
身体部分
属性
身に付けた衣類
親族
愛玩動物
作品
その他所有物
○=可能,△=場合により可能,×=不可能
このように,所有傾斜とは,「親族」の順位が食い違っており,また表では表せなかっ
たが,
「身体部分」より「属性」の方が bitaː‛ を使いにくくなっている。とはいえ,身体部
分や属性のような不可譲渡所有,すなわち所有者と所有物との間の密接の度合の高いもの
では,bitaː‛ が使われにくくなっていると言える。
「親族」(前述のように,心理的に近い,友人,恋人,神なども含まれる)は,身体部分
や属性よりも,密接の度合いの高い扱いとなっている。「親族」の中でも bitaː‛ の使用が可
能な例外的な例に関しても,血族か血族以外かという基準では推し量れない。残念ながら,
― 47 ―
今回の調査では,「親族」が,所有傾斜から見て例外的な振る舞いをする理由を解明する
には至らなかった。
3.2. bitaː‛ と対象間の関係
では,さらに,bitaː‛ の使用・不使用と,所有者・所有物間の密接度との関係について,
検討してみよう。例えば,
(30)a. kubbaːit ilコップ
mɑyyɑ
定- 水
「コップ一杯の水,水の(入った)コップ」
b. ʼik- kubbaːya bitaː‛it
定- コップ
mɑyyɑ
属標 女単 水
「水のためのコップ」
a では,コップの中に水が入っており,コップと水は,物理的に密接な関係にある。他方,
b は,はちみつ用のコップ,お砂糖を入れておくコップなどと対比させて,水用のコップ
と言っているもので,コップは空であり,コップと水との関係は,a と比べると密接では
ない。
また,先行研究の項で挙げた,Badawi & Hinds(1986: 51)の「2 a 連携」に,
(31)ʼir-
rɑːɡil
bitaː‛
ʼuːṭɑ
il-
定- 男 男単 属標 男単 定- トマト
「トマトを伴う男,トマト売り」
の例があったが,これは,bitaː‛ を用いているので「トマト売り」という職業が表わせる。
ここで,bitaː‛ を用いないと,
(32)*rɑːɡil
il-
ʼuːṭɑ
男 男単 定- トマト
(強いて訳せば)「トマトの男,トマト人間」
と,男そのものがトマト,トマトでできた男という奇妙な意味が出てきてしまう。
同様に,
(30)a. ʼir-
rɑːɡil
bitaː‛
it-
talɡ
定- 男 男単 属標 男単 定- 氷
「氷を売る男,氷売り」
b. rɑːɡil it男
talɡ
定- 氷
「氷でできた男,雪だるま」
の,bitaː‛ を用いた a の例では,
「氷売り」という職業が表されるが,b ように,bitaː‛ を使
わない場合,男の構成成分(
「属性」の一種とも言えるであろう)が氷であるという,所
有者と所有物の物理的に密接な関係が表わされる20。
― 48 ―
4. おわりに
以上,正則アラビア語にない,エジプト方言の属格標識 bitaː‛ について,その用法を,
所有傾斜という視点を主に,考察してみた。
bitaː‛ の用法を見ると,所有傾斜とは多少,項目の順序が入れ替っていたところのあっ
たものの,所有者と所有物との間の密接の度合の高いほど,bitaː‛ が使われにくくなって
いることが確かめられた。
また,bitaː‛ を使用・不使用,どちらも許容される場合,その両者を比較すると,bitaː‛
を使用した方が,所有者・所有物の間の密接度の下がる意味合いの出る場合もあった。
これらのことから,アラビア語エジプト方言の属格標識 bitaː‛ は,単に所有の関係を表
すのみならず,所有者と所有物との間の密接さや関係の明示という機能を担っていること
が明らかとなった。
但し,本論文で,bitaː‛ の用法のすべてが解明されたとは勿論言えず,例えば「親族」
の振る舞いの例外的振る舞いについては,理由を突き止められなかった。
今後,短文や句の例の分析だけではなく,広い文脈の中で bitaː‛ の用法を検討するなど
の必要があるだろう。
引用文献
亀井孝・河野六郎・千野栄一編著(1996)『言語学大辞典 第 6 巻 術語編』,三省堂.
黒柳恒夫・飯森嘉助(1976)『アラビア語入門』,泰流社.(『現代アラビア語入門』,1999,
大学書林.として再版)
Soliman, AlaaElDin・榮谷温子(1999)「アラビア語エジプト方言の bitā‛ を通してみる所有
傾斜」,『日本言語学会第 119 回大会予稿集』183-188,日本言語学会.
角田太作(2009)『世界の言語と日本語 改定版:言語類型論から見た日本語』,くろしお
出版.(『世界の言語と日本語』,1999 の改定版)
Badawi, El-Said and Hinds, Martin (1986) A Dictionary of Egyptian Arabic, Libraire du Liban.
Ad-duːsuːqiː, Muḥammad (n.d.) Tahðiː b al-ʼ Alfaː ð al-‛aː mmiyya, Maṭba‛a al-Waː‛ið.
Harning, Kerstin Eksel (1981) The Analytic Genitive in the Modrn Arabic Dialects, Acta
Universitatis Gothoburgensis.
Salib, Maurice B. (1980) Spoken Arabic of Cairo, The American University in Cairo Press.
Al-Tonsi, Abbas, Al-Sawi, Laila and Massoud, Suzanne (1987) An Intensive Course in Egyptian
Colloquial Arabic: Part (I), The American University in Cairo Press.
20
さらに同様に,ʼir-rɑːɡil bitaː‛ il-laban は,laban が乳の意なので「牛乳屋」となるが,rɑːɡil il-laban という表現では,
laban が乳ではなく精液を意味し,よろしくない意味になるとのことであった。ただし,調査が聖なる断食月(ラ
マダーン)中であったことから,断食中にそのような卑猥なことは話せないと,意味を教えてはもらえなかった。
文献でも確認できなかった。なお,ʼir-rɑːɡil bitaː‛ il-ʼahwa は,ʼahwa がコーヒーの意なので「コーヒー屋」となるが,
「コーヒー屋」には,別に ʼahwaɡi という単語があるので,わざわざ bitaː‛ を使った長い言い回しはしないとのこと
であった。
― 49 ―
口頭発表
Soliman, AlaaElDin・榮谷温子(1999)「アラビア語エジプト方言の bitā‛ を通してみる所有
傾斜」日本言語学会第 119 回大会,於:神戸松蔭女子学院大学.
― 50 ―
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