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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 保坂. 宗重 茨城大学教養部紀要(6): 83-116 1974-03 http://hdl.handle.net/10109/9869 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 保 坂 宗 重 目 次 1. 問題提起 2. テクストの分析 3. 結 論 4.付論:日本語訳の問題点 5. Zusammenfassung 1. 問題提起 筆者がデープリンの「ベルリン・アレキサンダー広場」(以下で「広場」と略す)に 体験話法(以下で「体話」と略す)が用いられていることを始めて知ったのはシェー ネの「ベルリン・アレキサンダー広場」論ωによってであった。しかし,シェーネは 「広場」の「体話」の機能についてみごとな記述を行なっているが,「広場」の「体話」 の実例を引用し,それを具体的に分析しているわけではない。またマルティー二は 「ことばの冒険」(2)のなか℃「広場」の一節をとりあげ,デープリンの文体特徴を精 密に記述しつつ,「広場」のなかにおける「体話」の重要性を明確に指摘している。し かし,マルティー二は「広場」において登場人物の発言・思考の再現に,主として3 つの表現手段が用いられていることについては指摘していない。「広場」には,3人称 ■ ゚去形の地の文に3人称過去形であらわれるAタイプ「体話」(3),3人称現在形の地の 文に3人称現在形であらわれるCタイプ「体話」(3),そして地の文が3人称過去形であ ると3人称現在形であるとを問わずにあらわれる1人称現在形の自由直接話法(4)(以 下で「自由直話」と略す)の3つの表現手段が用いられているのである。しかも,マ ルティー二はCタイプ「体話」と「自由直話」をともに体験話法であると考えたよう である。(5)マルティー二のほかにシュタインベルク(6)も「広場」から「体話」の用例 を6例引用している。このうち5例はCタイプ「体話」であり,1例はAタイプ「体 話」である。さらにシュタインベルクは「体話」と「自由直話」が混在していること も指摘している。しかし,シュタインベルクは「広場」においてAタイプ「体話」,C タイプ「体話」,「自由直話」という3つの発言・思考の再現手段がどのように分布し どのような相互関係にあるかについては注目していない。そこで筆者は,小説「広場」 のなかで用いられている発言・思考の再現手段としての「体話」がどのような特徴を もち,どのような分布をしているのかを以下で実例にもとづき具体的に考察してみた いo まず「広場」の地の文の時称の問題をとりあげよう。というのも,「広場」において 84 茨城大学教養部紀要(第6号) はAタイプ「体話」とCタイプ「体話」の2つがあらわれるが,これは「広場」の地 の文としては3人称過去形と3人称現在形の2つが並用されていることによるからで ある。 デープリン選集の編者ムシュクは「広場」の解説において,デープリンは「広場」 を「すべて現在形で語っている」とのべている。(7)ところがヒれは実は二重に不正確 である。デープリンは「広場」において現在形ばかりでなく過去形でも語っている。 隔 ワた主として現在形で語っている部分でも,すべてを現在形で語っているのではない。 というのも,現在形で語るということは,語りの展開をになう時称が現在形(8)である というにすぎない。語り手は現在形によって語りを前へ前へと押し進めていくが,と きには立ちどまって過去形や過去完了形を用いて過去を回想し,⑨ ときには先まわり して未来形を用いて未来を予告するのである。 デープリン自身,語りの展開をになう時称について次のような見解をのべている壁 叙事作家が現在形で書こうと,現在完了形で書こうと過去形で書こうと,それは全く どうでもよいことである。それは純粋に技術上の問題である。叙事作家は自分の思 いのままにこれらの時称を変換するであろう。重要なことは,そしてこれに注目す ることは決してどうでもよいことではないのだが,次の点である。これまでしばし ばこう言われてきた。劇作家は現在目の前で展開する出来事を提出し,叙事作家は すでに展開し終った出来事を語る,と。しかし,これは誤りであり,表面的でこっ けいである。叙事的作品を読む読者は語られる出来事が現在目の前で展開している と感じる。読者はそれらの出来事を共に体験する。したがって,叙事的作品は現在 形,過去形,現在完了形のいずれで書かれてもかまわない。叙事的作品において, 私たち叙事作家は出来事を,ちょうど劇作家が行なうのと全く同じように目の前で 展開するように描出する。そして,これらの出来事は,ちょうど劇作品と同じよう に目の前に展開されるように読者にうけとられる。 デープリンの以上の見解は,これまでの叙事的作品がもっぱら過去形を用いて語り 手のオークトリアル(IDな立場から語られてきたことへの決別宣言であり,自分の作品 を登場人物のペルゾナールα9な立場から書くことへの決意宣言でもあった。出来事が 読者の目の前で現在起こるように語ることは,実は過去形を用いて語っても可能であ る,ということは,おそらくデープリンの念頭になかったであろう。したがって,デ 一プリンは自分の叙事的作品を現在形で語ることによって,あるいは,語りの基本時 称を過去形に固定させず,過去形,現在形,現在完了形のあいだを自由に移動させて L 黷驍アとによって,ペルゾナールな語りを実現しようと考えたものであろう。 事実,「広場」においては過去形で語られる部分と現在形で語られる部分が並存して いる。分量的に言えば,現在形の部分のほうが多い。したがって,「広場」は主として 現在形で語られている,と言ってもまちがいではない。シュタインベルクが「広場」 の「体話」6例のうち,5例まで,現在形の地の文に現在形であらわれるCタイプ ■ u体話」をあげているのは,地の文の時称の現在形と過去形の比率からいっても実は 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 85 妥当なことである。では,以下で,小説「広場」の筋の展開を追いつつ時称と「体話」 の相互関係を具体的に考察してみよう。引用する原文ページはムシュク編集のデープ リン選集⑫による。また原文にそえた日本語訳は早崎守俊氏訳㈲による。 2.テクストの分析 「ベルリン・アレキサンダー広場」は,かつてセメント労働者であり,また運送労 働者であったフランツ・ビーバーコプが4年の刑期を終えて,テーゲル監獄を釈放さ れるところから始まる。冒頭の導入部は過去形で語られ,語りの基本時称は原文の34 ページまではほぼ過去形である。フランツは市街電車に乗り,ベルリンの市街を歩き まわり,目に入るものを見,耳に入るものを聞き,思考する。こうしたフランツの思 考は主として,引用符と伝達動詞を欠いた「自由直活」によって再現され・る。その1 例をあげてみよう。 Text① Er konnte nicht zur廿ck, er war mit der Elektrischen so weit bierher gefahren, er war aus dem Gefangnis entlassen und muBte hier hinein, noch tiefer hinein. Das weiB ich, seufzter er in sich, daB ich hier rin muB und daB ich aus dem Gefangnis entlassen bin. Sie muBten mich・ja entlassen, die Strafe war um, hat seine Ordnung, der B勧rokrat tut seine Pflicht. Ich geh auch rin, aber ich mbchte nicht, mein Gott, icL kann nicht. (S.14) かれには戻ることができなかった。電車に乗ってこんなに遠くまで来てしまった のだ。刑務所から釈放されたので,ここでもぐりこむより仕方がなかった,もっと もっと深くまで。 そんなことはおれにだってわかっている かれはため息をついた,ここでもぐ りこまなくっちゃならないってこと,刑務所から釈放されたってことはな。やつら はどうしたっておれを釈放せざるをえなかった,刑が終ったからだ,刑にはきまり がある,役人は役人なりのつとめを果たすってわけだ。おれのほうはというとこう してもぐりこむ,だがどうもおもしろくない,ああ,おれにはできっこないことだ。 (早崎訳(上)12ページ) かれにはもうあと戻りはできなかった。電車に乗ってこんなに遠くまできてしま ったのだ。刑務所から釈放されたので,町の中へもぐりこまなければならなかった。 彼はため息をついた。それはおれにもわかる。この町へもぐりこまなくちゃなら ないんだ。刑務所から釈放されたんだからな。やつらはおれを釈放しなくちゃなら なかった。刑期が終ったからだ。刑にもそれなりのとりきめがある。役所はそれな りの義務を果したってわけだ。だからおれはもぐりこむ。しかし,もぐりこみたく 〆 86 茨城大学教養部紀要(第6号) ない。ああ,どうももぐりこめないのだ。(保坂訳) 下線の部分がフランツの思考である。引用符は欠けているが,seufzte er in sichは 中置された一種の伝達動詞と考えられる。現在形が基本時称となっているがentlassen binが現在完了形, muBtenが過去形であることは注意すべきであろう。 次の例は,語りの基本時称が過去形の部分に,フランツの思考が3人称過去形で再現 されており,Aタイプ「体話」のまさに典型である。フィッシャー・ハンドブック文 庫の「文芸用語辞典」(1のの体験話法(Erlebte Rede)の項にその一部分が引用されて いる。 Text② Dann rasch ins Nachbarhaus in einen engen Flur neben dem Treppenaufgang. Hier konnte kein Wagen kommen. Er hielt den Gelanderpfosten fest. Und wahrend er ihn Lielt, wuBte er, er wollte sich der Strafe entziehen 〔o Franz, was willst du tun, du wirst es nicbt kbnnen〕, bestimmt w並rde er es tun, er wuBte schon, wo ein Ausweg war. Und leise fing er wieder seine Musik an, das Grunzen und Brummen, und icL geh nich wieder auf die StraBe.(S.16) 、そこで,すぐさま階段口にある隣家の狭い玄関にとびこんだ。そこなら車が通れな かった。かれは手摺りの支柱にしっかりつかまった。つかまりながら,おれは罰か ら逃れようとしているんだなと意識した(おお,フランツよ,おまえはどうしたい っていうのか,できもしないくせに),かならずやってみせるぞ。どこに糸口を見つ ければよいかがすでにかれにはわかっていた。そこでふたたびかれの音楽を,つぶ やきとうなり声の音楽をかなではじめた。2度と通りへ出るものか。(早崎訳(上) 14ページ) そこで彼はさっととなりの家の狭い玄関に走りこんだ。玄関のそばに階段のあが り口があった。ここなら自動車もくるまい。彼は階段の手すりにしっかとつかまっ た。つかまりながら,自分は罰をのがれようとしているのだなとさどった。(おおフ ランツよ,おまえはなにをするつもりだ。罰をのがれることはできないのだぞ。)か ならずのがれてみせる。どうしたらそれがやれるかもう見当はついているんだ。彼 はふたたびくせになっているブンブンブルブルの音楽をうたい始めた。おれはもう 2度と通りへは出ていかないそ。(保坂訳) 4年間監獄にいることで,フランツは刑期を終えた。しかし,フランツは,監獄を 出たとたんにむしろ本当の罰が始まったと感じている。通りを歩くと,家いえの屋根 がふんわりと浮きあがって,いまにもすべりおちてくるかのような幻覚におそわれた。 そうした不安感からのがれるために彼は手あたり次第の家の玄関にとびこんで,自分 の身をかくそうとする。そうした状況でのフランツの思考が上記Text②の下線・部 , } 「ベルリン」アレキサンダー広場」における体験話法 87 分である。Hier konnte kein Wagen kommen.は地の文のようであるが実はフランツ の思考である。bestimmt wUrde er es tunは, w“rde+Infinitivの形式となって おり,3人称過去形の地の文にこれが用いられる場合は,必ずそれがAタイプ「体話」 であることを文法的に識別できる表現形式である。⑮かっこの中のoFranz, was willst du tun…はフランツの自問自答と解釈すればフランツの思考ということにな るが,シェーネの鋭い指摘にあるように,⑯これはフランツには聞きとれぬある声の 呼びかけと解すべきであろう。Ich geh nich wieder auf die StraBe.は引用符も伝 達動詞も欠いた,完全な「自由直話」である。このように,Text②においてはフラ ンツの思考はAタイプ「体話」と「自由直話」によって再現されている。 フランツは偶然に出会ったユダヤ人につれられて,別なユダヤ人の家にいき,ユダ ヤ人ツァーノヴィッチの話を聞かされ,ある程度不安感から解放される。そのあと, 映画館に入って映画を見る。そして,自分が不安から完全に解放されるためには,女 によって自分の男の能力を回復しなければならないことをさとる。そこでさっそく女 をつかまえるが,どうしたことか不能である。もう1度ためそうとフランツは通りへ 出ていく。 Text③ Raus auf die StraBe! Luft! Regnet noch immer. V吃s ist nur los?Ich muB mir ne andre nehmen. Erst mal ausschlafen. Franz, wat ist denn mit dir 10S? ……… Und abends die Elsasser StraBe heruntergeschliddert. Nicht gefackelt, Jungeken, keine MUdigkeit vorschUtzen.《Was kost das Vergn廿gen, Fraulein?》 Die Schwarze ist gut, hat HUften, knuspriger Brezel. Wenn ein Madchen einen Hbrrn llat, den sie Iiebt und den sie g6rn hat.《Du bist so lustig, SnBer. Hast was geerbt?》《Na ob. Kriegst noch n Taler ab.》《Warum nicht.》Aber Angst hat er doch.(S.34一35) 外へ出ろ!空気がほしい!あいかわらず雨が降ってるな。はてさてどうしたこと だ。別の女をつかまえなくっちゃ。まずはちょっとひと眠りだ。フランツよ,おま えはいったいどうしたのだ?(中略) そしてかれは,夜,エルザス通りをすべるようにかけおりた。ぐずぐずしちゃお ㌧ 黷ネいぜ,なあ,おい,疲れたなんていっちゃおれない。「いくらで遊んでくれる, ねえちゃん?」あの黒髪の女はいかすな,お尻がいいや,こんがり焼けたブレーツ エル(8の字を寝かせたような型のパン)ってとこだ・娘っ子が好いたらしい男を手にしたとき1こや・「と ってもたのしそうにやってるけどよ,にいさん。なにかせしめたの?」「そうよ。1 ターラ余計にやるぜ∫かっこいいわね」それでもかれはまだ安心できない。 (早崎訳(上)32ページ) 外へ出よう。空気が必要だ。雨がまだ降っている。いったいどうしたのだ。別な 88 茨城大学教養部紀要(第6号) 女をつかまえよう。それにはまず眠って休息すること。フランツよ,おまえはいっ たいどうしたのだ。……(中略) こんどは夜にエルザス通りをブラブラと下っていった。ぐずぐずしちゃだめだぞ。 疲れたなんていっちゃいられぬ。「ねえちゃん,いくら出せば遊んでくれるかい。」黒 ● ッがいかすそ。おしりもいい。焼きたてのブレーツェルパンそっくりだ。女の子が 自分の愛する男,自分の好きな男といっしょになったらどうなるんだ。「にいさん, おもしろい人ね,もらけたの。」「そうともさ。1ターレルはずむぞ。」「ほんとかし ら。」こんども失敗しはしまいかと彼は不安であった。(保坂訳) Text③の直前まで語りは過去形で語られている。それがこのText③の末尾のAber Angst hat er noch.で現在形に転換されている。その根拠は明らかではない。語り手 の恣意で時称の転換が行なわれたとしか考えられない。このように,語りの基本時称 が過去形から現在形に転換されたために,この部分では,フランツの思考なのか,語 り手の語りであるのか,境界がぼけてくるのが観察される。Ich muB mir ne andre nehmen.は1人称であるから「自由直話」であり,明らかにフランツの思考であろう。 Franz, wat ist denn mit dir los?はフランツの自問自答ともとれるが, Franzとい 一 う固有名詞を呼びかけに用いていることと,wat ist denn mit mir los?と1人称に 『 なっていないことによって,語り手のフランツへの呼びかけであると解釈することも できる。そうであれば,Was ist nur los?も語り手のフランツへの呼びかけと解釈 できる。また,Regnet noch immer.は「まだ雨がふっているな」というフランツの 主観的印象ともとれるが,「外はまだ雨が降っていた」という語り手の客観的記述とも うけとれよう。NicLt gefackelt, Jungeken, keine M並digkeit vorsc捕tzen.もフランツ の思考のようでもあれば,語り手のフランツへの呼びかけのようでもある. Die Schwarze ist gut以下はフランツの思考であることはまちがいないが,フランツを 表現する人称代名詞があらわれずに3人称現在形であるため,「自由直話」であるのか, それとも3人称現在形の地の文にあらわれるCタイプ「体話」であるのか区別がつか ない。αのこのように,語りの時称が過去形から現在形に転換することによって,登場 人物の視点かちの思考が再現されているのか,それとも語り手の視点から語られてい るのか,また「自由直話」であるのかCタイプ「体話」であるのか,その境界がきわ めてあいまいになっていることに注目したい。 2番目の女に対してもフランツはうまくいかなかった。男の能力が解放されないか ぎり,フランツは監獄から肉体的に解放されても,精神的に釈放されたことにはなら ない。そこで,監獄を出て3日目のこと,フランツは3度目の試みをする。フランツ がなぐりつけた傷がもとで死んだイーダの妹,ミンナのところへいく。そして,こん どは成功する。この箇所はマルティー二によって引用され,詳細に分析されている。⑱ マルティー二の引用箇所をそっくりそのまま引用することは,あまりにも長大になる ので,その一部分をText④として引用し検討してみたい。この箇所の地の文はもう 完全に現在形で語られている。Lたがって,日本語訳で,原文の地の文の現在形をそ のまま日本語の現在として翻訳すると,地の文であるのか,人物の思考であるのか境 89 界が明瞭でなくなってくる。それは早崎訳をみていただければおわかりであろう。 Text④ ヤ jlingling.《Wer ist da?》《Ich.》《Wer?》《Mach auf, Mensch.》《Jott, du, Franz.》《Mach auf.》Rummer di bummer di kieker di nen. Rummer. Zwirnsfaden auf der Zunge, mal ausspucken. Er steht im Korridor, sie schlieBt die TUre hinter ihm.《Wat wi亘1st du denn bei uns. Wenn dir einer gesehn hat auf der Treppe.》《Scbadt was. SoIln mich. Morgen.》 Geht allein links schwenkt in die Stube. Rummer di bummer5011er Zwirnsfaden auf der Zunge, geht nicht runter. Er pellt mit dem Finger dran. Aber ist nichts, ist bloB son damliches Gef曲l an der Spitze. Das ist also die Stube, das Paneelsofa, der Kaiser h議ngt an der Wand,.ρin Franzose in roten Hosen gibt iLm den Degen, ich hab mich ergeben.《Was willst du denn Lier, Franz?Du bist wohl verr廿ckt.》《Ich setz mich.》Ich kab mich ergeben, der Kaiser“berreicht den Degen, der Kaiser muB ihm den Degen wiedergeben, das ist der Lauf der Welt.《Mensch, wenn du nicht ● ● №??唐煤C ich schrei Hilfe, ich rufn UberfalL》《Warum denn?》Rummer di bummer ich bin so weit gelaufen, ich bin da, ich sitz da.《Haben sie dick denn schon rausgelassen?》《Ja, ist um.》 (S.38) チリリン。「どなた?」「おれだよ」「どなたですって?」「あけろやい」「まあ,あんた, フランツね」「あけろよ」ルンチャカ,ブンチャカ,ジャン,ジャン,ルンチャカ。 舌の上にねり糸が,さあ,ちょいとはき出せ。かれは廊下に立つ,彼女がかれの背 後でドアをしめる。「なんの用なのよ,あたしたちのとこに。階段であんたの姿を見 たひとがあったら,どうするのよ」「それがどうした。いいじゃないか。おはよう」 くるっとふり向いて勝手に左手の部屋へはいっていく。ルンチャカ,ブンチャカ。 舌の上にくそいまいましい糸くずめ,出てこないな。かれは指でひっぱがそうとす 7 る。ところがなにひとつない,舌の先にそんなくだらない感じがするだけだ。する てえとこれがあの部屋だな,木製のソファ,皇帝の肖像が壁にかかっている,赤い ズボンをはいたフランス人がかれに剣をわたしているところだ,降参いたしました と。「ここになんの用があるのよ,フランツ,気でもへんなのじゃない?」「すわら してもらうぜ」降参いたしました,皇帝が剣を差し出す,皇帝がかれに剣を返さね ばならない,それが世のならいというものだ。「ね,出ていかないと助けてって叫ぶ わよ。強盗って大声を出すわよ」「どうしてだい?」ルンチャカ,ブンチャカ,とう とうこんなところまで走ってきたな,おれはここにいる,ここに腰をおろしている。 「もう出してもらえたの?」「うん,すんだからね」 (早崎訳(上)35ページ) ベルが鳴った。「どなたd 「おれだd 「どなたなのd 「あけてくれよd「まあ,フ ランツじゃないd「あけうったらdルンチャカ,ブンチャカ,ジャンジャン,ルン チャカ。舌に糸くずがのっている。えい,はき出せ。彼は廊下へ入った。彼が入っ 90 茨城大学教養部紀要(第6号) てから彼女はドアをしめた。「なんの用なの。階段であんたの姿を見た人があったら どうするのd 「かまうものか。おはようd前へ進め。左向け左。へやの中へ進め。 ルンチャカ,ブンチャカ。舌の上のくそったれの糸くずだ。出てこないそ。彼は指 で舌の上をこそいだ。 だがなんにもない。糸くずがついているような感じがじただけか,いまいましい。 これが彼女の居間か。ソファーがあるな。壁にドイツ皇帝の絵がかかっている。赤 ズボンをはいたナポレオンが皇帝に剣をさし出している。私は降参します,てとこ か。「フランツ,ここになんの用なの。気でも狂ったのd「腰をおろすぜd私は降 参します・だ。一度うけとった剣を皇帝はナポレオンに返す。返さなくらやならぬ。 それが世のならいというものだろう。「出ていかなければ人を呼ぶわよ。泥棒だって 呼ぶわよd「なぜだいdルンチャカ,ブンチャカ,おれはもうここまでやってきた んだ。ここにすわっているんだ。「もう出してもらったのd「もうつとめ終ったんだ司 (保坂訳) フランツのミンナとの会話のあいまのフランツの思考と思われる部分に下線をほど こしてみた。フランツの発言は引用符によって「直話」として再現されているから, 引用符をもたないicL bin so weit gelaufen, ich bin da, ich sitz da.は思考を再現 する「自由直話」である。これに対して,der Kaiser muB ihm den Degen wiederge一 『 ben,ではフランツが3人称となっているので,これはCタイプ「体話」であるとい えよう。それ以外の部分のフランツの思考は,フランツを表現する人称代名詞があら われないまま3人称現在形となっているので,Cタイプ「体話」なのか,「自由直話」 なのか識別できない。したがって,マルティー二が,Cタイプ「体話」,「自由直話」 の両方ともに,このText④のフランツの思考をすべて体験話法であると考えたのも, ある意味ではもっともであろう。(191それにしても,Rummer di bummer di kieker di nelLがフランツが軍隊生活できいたラッパの音の口うつしであり, links schwenkt が同じく軍隊生活での号令への連想であり,かつich hab mich ergebenが古い軍歌 の一部分への連想である,ということはマルティー二の解説によらなければ,⑳通常 の読者には読みとりえないところであろう。同様に,マルティー二の解説がなければ,⑳ der Kaiser lnuB ikm den Degen wiedergeben, das ist der Lauf der Welt.が, ミンナのへやにかかっている絵をみながらフランツが,剣を返せ,男の能力を自分に 返せと思考しているのだと,読者が読みとることはきわめてむずかしいことであろう。 かくしてフランツはミンナによって男の能力を回復した。そこで,フランツは誓う。 金があろうとなかろうとベルリンでまともに生きていこう,と。ポーランド娘リーナ を情婦にして,靴ひもを売って歩く。リーナのおじで,商売仲間のリューダスに自分 がある未亡人とよろしくやったことを自慢して聞かせる。リューダスはさっそくその 未亡人のところへいき,未亡人をゆする。ふたたび未亡人を訪問したフランツは,未 亡人からしめ出しをくらい,未亡人の手紙によってリューダスのフランツに対する裏 切りの真相を知り,ショックをうける。フランツがこうむった第1の打撃である。そ ● オて,リーナや友人のメックからも姿をかくしてしまう。次のText⑤では,語りの 臨 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 91 基本時称はなお現在形である。人物の思考ばかりでなくて,発言までもが引用符と伝 達動詞を欠いた「自由直話」によって再現されているのが注意をひく。 Text⑤ ①Und wie sie abends wiederkommt, ist der Mann weg.②Hat bezahlt, hat seine Sachen eingepackt, alles mitgenommen und ist weg.③Die Wirtin weiB bloB, er hat bezahlt, und sie soll schreiben auf dem Meldezette1:auf Reisen. ④MuB sich wohl dUnne machen, der, was? ⑤Dann hat es 24 schreckliche Stunden gedauert, bis Lina endlich den Gottlieb Meck findet, der helfen kann.⑥Der Mann war auch verzogen, sie rannte den ganzen Nachmittag von Lokal zu Lokal, schlieBlich hat sie ihn.⑦Er weiB von nichts, wat wird denn mit Franz sein, der Kerl hat doch Muskeln, und schlau ist er auch, der kann docL auch mal weg sein. ⑧Ob er v孟elleicht was ausgefressen Lat?⑨Das ist ganz ausgeschlossen bei Franz.⑩Vielleicht haben sie Krach gehabt, Lina und Fran z.⑪Aber gar血icllt, wo denn, ich hab ihm ja noch die Weste gebrackt.⑫Erst am nachstenMittag geht Meck auch zu der Wirtin,, Lina laBt nicht locker.⑬Ja, Biberkopf ist Hals Uber Kopf ausgezogen, da war.was nicht richtig, der Mann war immer fidel, noch am Morgen, da muB was im Gange sein, das laBt sie sich nicLt ausreden;ausgeraumt}1at er, nicht ein Fusselken von seine Sachen hat er liegen gelassen, da kommen Sie sehen. (S.123−124) 夜になって彼女がふたたびやってきたときには,かれはもういない。支払いをす ませ,自分の荷物はちゃんと荷造りし,なにもかも持って出ていったのだ。下宿の おかみさんの知っていることといえば,かれが支払いをすませたということっきり, 居住届出用紙には「旅行中」と書くようにといわれていた。こっそりと逃げ出さな くっちゃならないことでもあるのかしら,あのひと,どうしたんだろう? それからの24時間はぞっとするような時間だったが,やっとリーナはゴットリー プ・メックを見つける,・かれなら頼りになる。その男も居所をかえてしまっていた, 彼女はその午後ずっと居酒屋から居酒屋へと走りづめだった,そしてやっとかれを ツかまえる。かれはなにも知らない,フランツのやついったいどっしてるんだろっ, 、 、 だってやつはなかなかいい腕っぷしをしているんだし,それに抜け目がないやつな んだからな,ちょっとずらかるつもりなのかもしれないね。もしかしてなにかばか なことでもしでかしたんじゃないかな?フランツにかぎってそんなことありえないわ。 けんかでもしたんじゃないかね,きみとフランツだが。そんなことぜんぜんよ, どこへいっちまったんでしょう,かれにチョッキを持ってきてあげたのに。翌日の 午後になってようやくメックも下宿のおかみさんのところにいく,リーナが執拗に たずねる。ええ,ビーバーコフさんたら,ばたばたと,そりゃもうあわてて出てい 92 茨城大学教養学部紀要(第6号) かれましたよ,なにかへんなぐあいでしたわ,あのかたはいつも陽気なかたでね,あ の朝だってそうでしたわ,きっとなにかあるにちがいありませんわ,お話はうか がってはいませんけれど。あのかた,すっかり片づけていかれました,持ちものは 糸くずひとつ残してありません,どうぞごらんになってくださいdそこでメックは ● リーナにいう,とにかく……(早崎訳(上)120ページ) リーナが夜もどってきてみると,フランツの姿がなかった。(下宿のかみさん:) 「支払いをすませて,荷物をまとめて,全部もって出ていきましたd下宿のかみさ んが知っていることといえば,フランツが支払いをすませたこと,警察への届出用 紙には旅行中と書くようにたのまれたことだけだった。(リーナ:)あの人はずらか ったのかしら。 頼りになる男ゴットリープ・メックをリーナが見つけ出すまでにはたっぷり24時 間もかかった。メックも引越してしまっていたのだ。おかげで彼女は午後のあいだ 中酒場から酒場へとかけまわって,やっとのことでメックをつかまえた。メックも なにも知らなかった。(メック:)「フランツがどうしたって,あの男は力持ちだ。か しこくもある。ずらかったってどうってことはないさ。なにかやらかしたんじゃな いかd (リーナ:)「フランツにかぎってそんなことありえないわd (メック:)「あ んたたちはけんかでもやらかしたんじゃないかd (リーナ:)「とんでもない。どう うしてそんなことがあるの。フランツに私チョッキもっていったくらいですものd やっと次の日の正午になってメックはフランツの下宿のかみさんのところへいった。 リーナは下宿のかみさんを追求した。(下宿のかみさん:)「そうですとも,ビーバー コップさんは大あわてで出ていきました。どうもへんでした。あの人はいつもはほ L がらかな方で,あの日の朝まではほがらかでした。どうかしたんですわ。でも理由 は話してもらえませんでした。すっかりもっていきましたよ。糸くずひとつ残って いません。どうぞご自分でごらんになってくださいd (保坂訳) いまかりにText⑤を①から⑬までに区切つて考えてみよう。このうち人物の発言 は237890 であり,④は人物の思考,のこりの①⑤⑥⑫が語り手の語る地の 文である。人物の発言のうち,③のsie soll schreiben auf dem Meldezete1:auf Reisen.は助動詞のsollによって,接続法sol le とはなっていないがこの部分が間 接話法(以下で「間話」と略す)となっていることを示していよう。また⑧のOb er vielleicbt was aufgefressen hat?は副文形式であるob+定動詞後置構造となってい るので,これも一種の「問話」とみなすことができよう。⑳もし,Hat er vielleicht was aufgefressen?であればCタイプ「体話」となる。⑩はLina und Franzとい う固有名詞があり,しかもVielleicht haben sie Krach gekabt,とメックが話しかけ ているリーナが3人称となっているので,まぎれもないCタイプ「体話」であろう。 ところが⑩につづくリーナの答えの⑪はich bab ihm ja nocL die Weste gebracht.と 1人称があらわれるので「体話」.ではなくて,「自由直話」である。 さらに,⑬ではda k・mmen Sie sehen.と2人称があらわれるので全体が「自由直 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 93 話」かと思うと,⑬の発言者の下宿のかみさんがdas laBt sie sich nicht ausreden と3人称になっていて,Cタイプ「体話」がまじっている。そのほかの②⑦⑨はCタ イブ「体話」であるとも,「自由直話」であるともうけとれる。 いずれにしても,このText⑤の発言と思考の再現においては、③のDie Wirtin weiB b1・B,⑦のEr weiB v・n nichtsの2つをのぞいて、あとの289 では 伝達動詞が欠除し,しかも引用符も欠除しているので,だれの発言なのか,また発言 なのか思考なのか,を読みとる責任はすべて読者にまかされていることになる。ドイ ツ語の原文を日本語に移したとき,もしも,原文の時称、人称,句読法をそのまま日 本語訳にひき写すと,日本訳読者の読みとる努力に過重な負担がかかり,しかも,正 確に読みとれないという事態が生じてこよう。早崎訳の次にそえた筆者訳はその点を 配慮して工夫をしてみた。 リーナとメックが懸命にフランツを探してもフランツは見つからなかった。フラン ツは人知れず引越したへやで,酒をあびるように飲んでゴロ寝をするだけであった。 つづいて,一見したところ,主人公のフランツとは全くかかわりのないかのように思 われるベルリン屠殺場の克明な描写が行なわれる。そして,旧約聖書のヨブ記を下に しいた「ヨブとの対話」の章がそれにつづく。ヨブが病から回復するのに重ね合せた 、 」 謔、に,フランツもリューダスからうけた打撃から少しずつ回復する。 そして,アレキサンダー広場で新聞を売る。とある日,フランツはある酒場で押し 込み強盗団のかしらのプムス,その手下のひとりのラインボルトと知り合う。プムス やラインホルトが押し込み強盗であることはフランツは知らない。ラインホルトから お古になった女のチリーをゆずってもらって,フランツにはかつてのポーランド女リ 一ナと暮していた頃と同じ安定した生活をとり戻す。ところが,フランツを第2の打 撃が待ちかまえていたのだった。1928年4月8日,日曜日の午後のこと,へやの中で 鐘の音を耳にしたフランツは,なにか変事が起ったのかどうか,自分で確認しようと 町へ出ていく’ところがフランツがちっとも戻ってこない。そこでチリーもフランツ を探しにいく。Text⑥にはそうしたチり一の思考が「自由直話」で再現される。地 の文の基本時称はここではまた過去形となっている。 Text⑥ Sie schlenderte an dem straLlenden Haus von Tietz vorbei, ging hber den Damm zur finsteren Prenzlauer StraBe ker読ber. Sie ging ollne Schirm, war ganz eingeweicht. An der Prenzlauer StraBe vor der kleinen Konditorei stand eine Gruppe StraBenmadchen unter Sckirmen und versperrte die Passage. Dicht dahhlter sprach sie ein Dicker ohne Hut an, der aus einem Hausflur trat. Sie ging rasch vorbei. Den nachste血nehme ich aber an, wat denkt denn der Junge. So wat Gemeines ist mir noch nicbt vorgekommen. Es war dreiviertel 10. Ein furchtbarer Sonntag. Um diese Zeit’lag Franz schon in einer andern Stadtgegend auf dem Boden, den Kopf加Rinnstein, die Beine auf de1n Trottoir. (S.218−219) 94 ’ 茨城大学教養部紀要(第6号) 彼女は照明の明るく映えるティーツ百貨店のそばをぶらぶらと通り過ぎ,車道を 渡ってうす暗いプレンツラウ通りのほうへ歩いていった。傘なしで歩いたのでぐし よ濡れだった。プレンツラウ通りの小さな菓子屋の前に一団の街娼が傘をさしてた むうし,通りをふさいでいた。そのすぐ背後から,無帽の太った男が彼女に声をか けた,とある家の玄関口から出てきたのだった。彼女はさっと通り過ぎた。「こんど 声をかけた男にいいよっていってやろうかしら,うちのひとはいったいどう思うか な。こんな下卑たことはじめてだわ6」 . 9時45分だった。まったくひどい日曜日。このころ,フランツは別の市区で地面 にぶっ倒れていたのだ,頭をどぶのなかにたらし,両足を道のほうにほうり出して。 (早崎訳(上)209∼210ページ) 彼女はこうこうとあかりのついているティーツ百貨店のそばを通りすぎ,市電の 車道を越えてあかりのついていないプレンツラウ通りへとわたった。かさをさして いなかったので,ずぶぬれになった。プレンツラウ通りでは小さな菓子屋の前に, かさをさした夜の女たちの一群がたむろして,人びとの通行をさえぎっていた。チ 、 梶[がそこを通りすぎてすぐのこと,とある家の玄関から帽子をかぶっていない太 った男が出てきて,チリーに声をかけた。彼女はおおいそぎでその男のそばを通り すぎた。(チリー:)こんど声をかけられたらいいわっていってやるかち。フランツ たらいったいなにを考えているのかしら。こんなひどい目に会わされたことこれま 噛 でなかったわ。 時刻は9時45分のことだった。恐ろしい日曜日だった。ちょうど同じ時刻にフラ ンツは町の別な場所で地面にころがっていたのだ。頭は下水溝につっこみ,.足は歩 道に投げ出して。 (保坂訳) ・ 、 `達動詞が欠け,・引用符が欠けていても,Text⑥の下線の部分がチり一の思考を 再現する「自由直話」であることは明白である。その意味では,この箇所をわざわざ o 引用するにはあたらない,と思うかもしれない。実は,シュタインベルクが引用して いるCタイプ「体話」の実例㈱のひとつである次のText⑦の部分とこのText⑥の 部分とが対応しているので,この対応関係にもとついてText⑦を解釈するために Text⑥を引用したものである。 一 Text⑦ , , 、 .Fr耀nz sitzt mit de恥Langen jn der PrenzlaueLStraBe i氾.einem schwacbbe・ 、 1e叩hteten∴Hausflur;uur zwei Nummern weiter i串t das Haus, wo nach circa 41Stunden ein Dicker okne,Hut raustrete聡。w廿d und Cilly apquatschen wird;・sie geLt weiter, den nacbsten wird sie besti翼nmt nehmen,,son ScLuft,, der Franz; 、Gemeinheit轟 、(S、223)・. 二,・一 . ” !干」r k フランツは,ノッポといっしょに,プランツウラ通りのとあるうす暗いあかりの 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 95 とももっている家の玄関口に腰をおろしている,すぐ2番地先の家では,約4時間の ちに無帽のデブが出てきてチリィにぺちゃくちゃ話しかけることとなる,チリィは そこから歩いていって,きっとつぎの男をつかまえるだろううあんな悪党,フラン ツなんか,卑劣なやつ。 (早崎訳(上)214ページ) フランツは,プレンツラウ通りのある家のうす暗い玄関で,のっぽのエーミルと いっしょにすわっていた。この家から2番地先の家からは約4時間後に帽子をかぶ らぬ太った男が出てきて,チリーに話しかけるはずであった。チリーはなおも先へ 歩いていく。こんど声をかけられたらきっといいわっていってやるから。フランツの悪党,’ げすったらありゃしないわ。フランツは玄関にすわりこんで,ぐったりとなったエ 一ミルをゆすぶった。 (保坂訳) 一 Te翼t⑦にはwird+Infinitivがraustreten wird, anquatscben wird, wird sie bestimmt nehmenと3箇所にあらわれる。シュタインベルクはこのうち最初の2つは 語り手の語る地の文のオークトリアルなwird+Infinitivであり,最後のもののみが人 物の思考のペルゾナールなwird+Infinitivであると指摘する。すなわち,地の文が過 去形である場合にあぢわれてAタイプ「体話」を地の文から文法的に識別する唯一の 手がかりであるwhrde+Infinitivは,地の文が現在形である場合にあらわれるGタイ プ「体話」のなかでは,、wird+Infinitiveとなって,もはや「体話」を地の文から識 別する文法的な手がかりたりえなくなることを上記Text⑦の例で実証してい、るので ある。そして,.シ三タインベルクは,現在形が地の文にあらわれるオークトリアルな wird+Infinitivは,過去形が地の文である場合にはsolltα.+Infinitiveとなって,い.わ ば過去未来形(Futur des Prateritums)であるペルゾナールなwhrde+Infinitivとは はっきりと異なった文法形態となることを指摘する。㈲このシュタインベルクの指摘 伽 ノもとついて,いまText⑦の基本時称を過去形に移してみたらばどうなるであろう か。次のような’ものとなるであろう。 Franz saB mit dem Langen in der Prenzlauer StraBe in einem schwach・ beleuckteten Hausflur;nur zwei Nummern weiter war das Haus, wo nach circa 4Stunden ein Dicker ohne Hut raustreten sollte und Chilly anquatschen sollte; ・sie ging weiter, den nachsten w翫rde sie bestimmt nehmen, son Schuft,derFranz, Gemeinlleit. den nachsten w軸rde sie bestimmt nehmenがText②のAタイプ「体話」のbestimmt 曲rde er es tunと構文が完全に一致するのがおわか、りめただけると思う。.このAタ イブ「体話」であるden nacbsten w肚de sie bestimmt nehmenがCタイプ「体話」 . ではden nachsten−Wird sie bestimmt nehmenとなり、,さらに「自由直話」ではDen nacbsten nebme ich aber an.となる一ことがText⑦とText⑥の比較かち推論できょ・ う。そして,Text⑥で3人称過去形のAタイプ「体話」でなくて,むしろ1人称現在形 96 茨城大学教養部紀要(第6号) の「自由直話」が用いられているところにデープリンの思考再現の特徴がみてとれよ う。なお,早崎訳は,Text⑦のチリーの思考をText⑥のチリーの思考と対応させて訳 出していないので,きわめて不正確な訳となっていることを指摘しておきたい。 チリーがフランツの姿を探し求めて歩いていた9時45分頃,フランツはプムスー家 の押込み強盗の手伝いをさせられ,盗品を運ぶ自動車のなかからラインホルトによっ て突きおとされ,折りから追跡してきた自動車にひかれてしまう。自動車にひかれた フランツは,発見され,昔の友人ヘルバルトの車でマクデブルクの病院に運ばれて手 術をうける。事故が起って1時間後のことである。手術によってフランツは右腕を肩 関節のところから切断されてしまう。2週間後に退院したフランツは,ヘルバルトと その女のエヴァにひきとられてからだと心の痛手をいやす。エヴァの紹介でミーツェ というかわいらしい女の子を手に入れ,盗品の売買で暮しをたてる。そのうちにミー ツェが客をとるようになり,ミーツェの収入で暮すようになる。ところが,フランツ はまたしてもプムスー家やラインホルトとつきあうようになる6またしてもプムスー 家の押し込み強盗に参加し,こんどは仕事をうまくやってのける。その謝礼としてプ ムスから200マルク送ってくる。次のText⑧はシュタインベルクがCタイプ「体話」 の例として引用しているものである。⑫の語りの基本時称は言うまでもなく現在形である。 Text⑧ Und zwei Tage sagt Franz Biberkopf niscbt zu Hause, was gewesen ist. Erst wie ihm Pums zwei Hunderter zuschickt, und wenn er sie nicht braucht, kann er sie°a wieder eben da lacht Franz, die kann er immer brauchen, und wenn ich sie Herbert eben soll f漉r Ma debur& (S.351) それから2日のあいだ,フランツ・ビーバーコフは家へ帰ってもなにがあったの かひとこともいわない。プムスがもしいらなければ返してくれてもいいといって200 マルクを送ってきてくれたとき,はじめてフランツは笑う,いつだって必要さ,な それから2日のあいだ,フランツ・ビーバーコプは自分がなにをしたのか家でも 話さなかった。もしいらなければ返せといってプムスが彼に200マルク送ってよこ したとき,フランツは始めて声を出して笑った。200マルクはいつでも必要さ,た とえば,マクデブルク病院へつれていってくれた礼にヘルバルトにくれたってい いんだ。 (保坂訳) シュタインベルクは,und wenn er sie nicLt braucht, kann er sie ja wiedergeben は,200マルク送ってくるときにそえられたプラムスのフランツへの2人称での手紙の 内容を3人称で再現したものであり,Cタイプの「体話」であると指摘する。 die , kann er immer brauchenは,プムスの手紙に対するフランツの反応思考であり,や はりCタイプ「体話」である。さらにund wenn ick sie Herbert geben soll fUr 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 97 Magdeburgは1人称現在形であることから明確であるように「自由直話」である。こ のように,現在形が地の文の部分にCタイプ「体話」と「自由直話」が並用されてい 、 驍ニころにもデープリンの語りの特徴がみられよっ。 フランツはミーツェが心から気に入った。ミーツェもフランツにつくした。こうし て,2人には幸福なひとときが訪れる。ところが,フランツはこともあろうに,かの ラインホルトに彼のミーツェの自慢をして,ラインボルトのミーツェに対する好奇心 を呼び起す。ラインホルトは,右腕をなくしたにもかかわらずフランツが幸福である のが気に入らない。そこで,ミーツェをフランツから奪いとる決心をする。ミーツェ はまたミーツェで,フランツが右腕をなぜなくしたのか,200マルクをどのようにして 手に入れたのか,をさぐって,フランツのためになることをしようと考える。そのた めにはミーツェはプムスー家やラインホルトに近づかなければならない。かくして, フランツに対する第3の打撃が準備されることになる。シュタインベルクがCタイプ 「体話」の実例として引用し,6例の「広場」の「体話」の引用例のなかで最も克明 に分析している㈱次のText⑨は,こういう状況をあらわしたものである。 Text⑨ Sie hat jetzt ihr Geheimnis mit dem, und jetzt mehr als h・Uher, das kleine Biest, und fUrchtet sich auch gar nicht, was ihr geliebter Franz da anstellt bei den Pumsleuten:①sie w藍rd auch was unternehmen. Sie wird sich mal alleh da umsehen, wer da ei entlich ist, aufm Ball oder Ke elfest. Zu die nimmt sie Franz°a nicht mit, Herbert nimmt seine Eva mit, aber Franz sa t:der ist nicht f廿rdich, mit sone To psaue will ich dir nicht zusammenhaben. Aber Sonlaken, Miezeken w皿1 was fUr Franzen tun, unser kleines Katzchen will was f並r ihn tun,②schbner als Geldverdienen ist das.③Sie wird alles ● ??窒≠浮唐汲窒奄?@en und 丑m besch廿tzen. Und wie der nachste Ball ist, wo die Pumskolonne mit ihren Freunden nach Rahnsdorf macht, geschlossene Gesellschaft, ist eine bei, die keiner kennt, der Klempner hat sie eingefUhrt,④es ist seine, eine Maske tragt sie, und einmal tanzt sie sogar mit Franzen,⑤aber bloB einmal, nachher riecht der das ParfUm. Es ist in M並99elLort, abends kommen Lampions im Garten, (S.370−371) いまや彼女は秘密をかれとわかちあう,しかもいまは以前よりうんと多く,なん というかわいいやつ,彼女は愛するフランツがプムスの一味らとなにをやらかそ うともぜんぜん心配しなくなる。わたしだってなにかをやろう。いちど舞踏会か九 柱戯大会かに出かけていって,どんな連中がいるかひとりで見まわしてやろう。そ んなものにフランツは彼女を連れていくことなどない,〈ルバートはエヴァを連れ ていく,フランツはこういう,あんなものおまえには向いていないよ,おまえをあ あいういかがわしいフーテン連中といっしょにしたくないんだ。 とはいってもソーニャは,ミーツェはフランツのためになることをしたい,われ 98 茨城大学教養部紀要(第6号) らがかわいい仔猫ちゃんはかれのためになることをしたいと思っているのだ。かね をかせぐことよりもっとすばらしいことだ。彼女はどんなものでもさぐり出し,か れを守ることだろう。 そしてつぎの舞踏会のときのこと,それはプムスー味がラーンスドルフへいく友 だちとおこなった内輪のパーティだったが,そのときだれも知らない女がひとりい る,プリキ職人が連れてきた女でかれの情婦だ。彼女はマスクをかぶっている,い ちど彼女はフランツともおどる,だがいちどきりだ,あとになってかれは香水の匂 いをかぐ。それはミュッゲルボルトでのことで,夜になると庭のぼんぼりに灯がは いり, (早崎訳(下)140−141ページ) かくしてヂ彼女は以前よりもはるかに多くフランツと彼女だけの内緒事をもつよ うになった。かわいいミーツェだ。そして,愛するフランツがプムスたちとなにを しているか全くおそれなくなった。私だってなにかやれるわ。ダンスパーティや九 柱戯大会へ自分で出かけていって,プムスたちがどんな人か見てやりましょう。フ ランツたら私をつれていってくれないのですもの。ヘルバルトはエヴァをつれてい くじゃないのっていったら,フランツたら,おまえにはむいていないんだ,あんな くだらないやつをおまえに会わせたくないんだっていうんですもの。 しかし,ソーニャちゃん,ミーツェちゃんはフランツのためになることをやりた かったのだ。かわいい子猫ちゃんは,彼のためになることをやりたかったのだ。お 金をかせぐことよりもそのほうがもっとすてきなんですもの。すっかり調べてあの 人を守ってあげるんだわ。 、 、 サっいっわけで,そのあと,プムスたちが友人たちをつれて,ラーンス・ドルフ へいって身内のものだけでダンスパーティをやったとき,ひとりの女がそれに参加 した。その女がなに者かだれも知らなかった。ブリキ職人がつれてきたのだ。「これ はおれの女だ。」(あれは彼の女かな。)その女は仮面をかぶっていた。しかもその女 は1度フランツとも踊った。それはたった1度だったわ。あの人,あとで香水の香 をかいでいたわ。ミュッゲルポルトでのことだった。夜には庭のちょうちんに灯が ついた。 (保坂訳) シュタインベルクはText⑧に①から⑤までの箇所を「体話」「として指摘している。 このうち①②③⑤がミーツェの思考であるが,④はブリキ職人の発言とも,プムスー 家の推量ともうけとれるとしている。④がCタイプ「体話」であるならば,それに対 応する「直話」はes ist meineとなってブリキ職人の発言となるし,④が「自由直話」 ならばseineは文字どおり「彼の女」で,プムスー家の推量ということになる。この 2つの解釈が可能であるのは,伝達動詞が欠けて,さらに現在形で語られているため, ④がCタイプ「体話」とも「自由直話」とも解釈できるからである。もし,これが語り の基本時称が過去形の場合には,es war seineが「体話」, es ist seineが「自由直話」 、 、 ニいっよっに,伝達動詞がなくても時称の転移の有無によって「体話」と「自由直話」 の識別が可能になるであろう。 匠 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 gg つぎに,シュタインベルクは,⑤のnachher riecht der das ParfUmを,やはりC タイプ「体話」であるのか「自由直話」であるか識別できないとしている。もし,das Parfumが, ihr Parfum(彼女の香水)であればGタイプ「体話」, mein Parf逓m(私 の香水)であれば「自由直話」と識別できる,というのである。しかし,nachher riecht der das ParfUm・は,単にCタイプ「体話」であるのか,「自由直話」であるの かが識別できないばかりでなくて,地の文と解釈することも可能であることを忘れて はならないであろう。早崎訳は「あとになって彼は香水の匂いをかぐ」となっていて, まさに地の文として解釈している。これも,語りが現在形でなされ,伝達動詞が欠け, 代名詞が欠けているところから生じるあいまいさである。同様に,②のscb6ner als Geldverdienenも伝達動詞が欠けているので,場合によってはミーツェの思考ではな くて,語り手の解説ともうけとれよう。また,①のFranz sagt:det ist nicht f軌r dich, mit sone ToPPsaue will ick dir nickt zusammenhabenが,フランツがミーツェ に言ったことばをその「直話」形式そっくりそのままミーツェが回想しているのだと いうことが読みとれないと,正確な日本語に移すことがむずかしいことは早崎訳でお わかりいただけると思う。また,シュタインベルクは③のSie wird alles herauskrie・ gen und ihn beschntzenのwird+Infinitivは,小説の筋の展開から,すっかり調べて フランツを守るつもりのミーツェが,それを果さず殺されてしまう事実があきらかに なることによって,オークトリアルな立場からの将来実現した事実への予告ではなく て,ペルゾナールな立場からのミーツェの単なる思考であると断定している。しかし, このように明確に断定できる箇所はむしろ少ない。Text⑨では,語り手の視点と登場 人物の視点とがきわめて接近している。それは,発言・思考の再現に伝達動詞が欠除 し,語りが現在形で,しかもベルリン方言によって語られていることから生じている。 また,デープリンが,発言・思考再現の手段として,Cタイプ「体話」と「自由直話」 とを無差別に使用するところからも生じている。 ■ sext⑨につづく箇所にあらわれる次のText⑩では,長大な151語の文の中に人物 の思考や発言が,Cタイプ「体話」や「自由直話」によっていわば全く無差別的に再 現されており,その意味では正確な意味を読みとるのが困難な,したがって日本語訳 のきわめて困難な箇所である。早崎訳の次にそえた筆者訳では,だれの発言・思考か, 発言なのか思考なのか区別するよう工夫を試みてある。 Text⑩ Um zwei gondelt sie im Auto mit dem Klempner ab;①er kann sich im Auto noch an ihr wild khssen, warum nicht, sie weiB nun scbon mehr, es wird sie nicht umschmeiBen. Was Miezeken weiB?Wie die Pumse alle aussehen,②darum kann er sie knutscLen, sie bleibt doch Franzen seine, es geht in die Nacht hinein, ③in soner Nacbt haben die Kerle ihren Franz aus dem Wagen eschmissen, und jetzt holt er sich den, und der wird schon wissen, wer es ist, und die fUrchten sich alle vor ihm, warum war sonst der Reinhold raufgekommen,④und das ist ein frecher Kerl, mein Franz, ein goldiger Jun e,⑤ich k6nnte den Klempner 100 茨城大学教養部紀要(第6号) totkUssen, so lieb ich den Franz °a,⑥knutsch mir nur, ich beiB dir die Zun e ab,⑦Menscb, ondelt der mit seiner Karre, der fahrt uns nocL inn Graben, ● ⑧hurra, war det himm董iscb heute nacht bei euch⑨soll ick nu rechts oder links fahren,⑩faLren Sie, wie Sie wollen,⑪bistu ne s競Be Kruke, Mieze,⑫na, schmeck ich dir, Karl, nimmste mir ooch bfter mit,⑬Lo la, der Dussel, der ist besof正en, der fahrt uns noch hl die S ree. (S.371−372) 2時にブリキ職人と自動車でドライヴに出る,かれは車のなかではあっても彼女 に荒らあらしくキスすることができる,どうしてできないわけがあろう,彼女には すでにもうちゃんとわかっている,それは彼女をひっくり返すことなどないであろ う。ミーツェの知っていることとは?プムスー家のものたちがどんなやつらだとい うこと,こういうやつらだからかれが彼女にいちゃつくことができるのだ,でも彼 女がフランツのものであることにはかわりはない,夜は深々と更けていく,このよ うな夜にこの野郎たちが彼女のフランツを車からほうり出したのだ,そしていまか れは相手をつかまえる,相手はそれがなにものかをもう知っているだろう,連中は だれもみなかれを恐れる,そうでなければどうしてラインホルトがやってきたりす るものか,ほんとうに肝ったまの大きいひとだわ,わたしのフランツ,すばらしい 男だわ,できるならこのブリキ職人をキスで殺してしまいたいわ,それほどわたし はフランツを愛しているの,ええ,わたしにチュするといいわ,あんたの舌をかみ 切ってやるから,ね,オンボロ車を運転してさ,わたしたちを危険のなかに連れて くってわけね,ばんざい,今夜あんたたちのところはほんとにすてきだったわ,右 にいこうが左にいこうが,あなたの好きなところへやってちょうだい,かわいい女 だよ,ミーツェ,ふうん,あんたってぐっとくるひとね,カール,ときどきわたし を連れてってね,おっとどっこい,このうすのろさん,べうんべうんになっちゃっ て,わたしたちをシュプレー川へおっことすわよ。 (早崎訳(下)141ページ) 1 Q時にミーツェはブリキ職人とドライブに出かけた。(ミーツェ:)自動車の中で, この人が私にきつくキスしたってかまわないわ。そうですとも,この人のおかげで いろいろと知ることができたんですもの。いろいろ知ってももう驚うかないわ。とこ ろでミーツェはなにを知ったというのか。プムスー家がどんな顔の人間かというこ とがわかったのだ。(ミーツェ:)だからこの人にキスさせてあげるの。だって,私ず っとフランツのものなんですもの。夜がどんどんふけてきた。(ミーツェ:)こういう 夜にプムスたちが私のフランツを自動車からつきおとしたんだわ。だから,こんど はプムスがフランツを仲間へ入れた。自分を突きおとしたのがだれか,フランツは もう知っているんだわ。だから,みんなフランツのことをこわがっている。そうで なければラインホルトが私のところへくるわけがないわ。フランツたら大胆な人, いかす人だわ。このブリキ職人の舌をキスしながらかみ切ってやろうかしら。私フ ランツが好きでたまらないんですもの。(ブリキ職人カルルに向って:)「さあ,キス してごらん。あんたの舌をかみ切ってしまうわよ。」なにさ,この人,おんぼろ車で 「ベルリン.アレキサンダー広場」における体験話法 101 ドライブして,私たちをみぞの中へおとしちまうじゃないの。(カルルに向って:) 「すてき。今夜あんたたちと一緒でほんとに楽しかったわ。」(カルル:)「右へいこ うか,それとも左へいこうか」(ミーツェ:)「どちらでもいいわ。」(カルル:)らミー ツェ,おまえはほんとにかわいい子だ。」(ミーツェ:)「私が気に入ったのね,カル ル。これからもたびたびつれていってちょうだい」(心の中で:)おっとあぶない。こ のおばかさんはベロベロに酔っているわ。シュプレー河に私たちをおとしちまうじ やないのる (保坂訳) Text⑩の思考・発言の再現と思われる部分を一応①から⑬までにわけてみた。④以 下は1人称もしくは2人称が用いられているので「自由直話」である。この「自由直 話、も,④⑤⑦⑬はミーツェの思考であるカ・,⑥⑧⑩⑫がミーツェの発言・⑨⑪がブ リキ職人カルルの発言であり,思考と発言が混在し,しかもミーツェの発言とカルル の発言が伝達動詞ぬきで混在している。また,①②③は,3人称現在形であるので, Cタイプ「体話」であるとすればミーツェの思考であるが,あるいは地の文であると 解釈することもできよう。というのも,Text⑨でもそうであったように, Text⑩こ おいても語り手の語りが自問自答のように進行し,しかも,人物の使用するベルリン 方言をそのまま語りに用いるので,人物の視点と語り手の視点がきわめて接近してい るからである。 ところで,Text⑩を正確に解釈するためには, Text⑩のみを分析していただけで は不+分であろう。たとえば,⑥はミーツェの思考で「内的独白」であるともテけと れるし,あるいはミーツェのカルルへの実際の発言であるともうけとれる。また,早 崎訳の「右にいこうが左にいこうが,あなたの好きなところへやってちょうだい」だ けを読むと,⑨⑩がミーツェひとりの発言のようにうけとれよう。この点を明確にす 、 驍スめには,Te翠t⑩に対応する次のText⑪を比較検討してみることが必要となろっ。 G uリキ職人カルルは,のちにプムスー家から独立し,仲間と押し込み強盗をやって警 察に逮捕されてしまう。これがラインホルトに密告されたためと思いこんで,ライン ホルトがミーツェを殺したことを警察にばらしてしまう。実地検証のため,自動車に 乗せられて,ミーツェを埋めた場所に向いながらカルルは,Text⑩でのミーツェと のドライブのことを回想する。それが次のText⑪である。語りの基本時称はなおも 現在形であり,カルルの思考は「自由直話」で再現されている。 ・ @ , @Text⑪ Da fahren sie die alten Wege. Ist schbn zu faLren. VernucLt, wenn man bloB wUBt。, wi。 man rau・k・mmt・u・d・t A・t・. Di・Hund・h・b・n ein・n efesselt・ nichts zu machen. Revolver haben sie auch. Nicllts zu macben, nichts zu machen. Fabren fabren die Allee schieBt vorbei.180 Ta e schenk icb dir, Mieze, auf meinem SchoB ein liebes Madel, ist ein Strolch, der Reinhold, der eht込ber L。i。Len, na w。。t。 m・1, J・n e. M・1…hanMiezed・nk・n i・hb・iBdi・i・di・ Zun e die kann㎞utschen wo wollen wir lan aLren rechts r崩ber oder links・ 圏 102 茨城大学教養部紀要(第6号) mir e al, son liebes MadeL Sie gehen埴ber den H廿gel, sie kommen in den Wald. (S.411−412) かれらは古い道を走っていく。ドライヴってのはいいなあ。くそいまいましい, ’ 車からポイと逃げ出す方法がわかっていりゃいいのに。こいつらに手錠をかけられ たが最後,お手あげだ。おまけにピストルまで持ってやがる。どうにもこうにもな りゃしない。走れ,走れ,並木道がかすめ過ぎる。180日はおまえにあげるよ,ミ 一ツェ,この膝においで,かわい子ちゃん,やくざ野郎だな,あのラインホルトめ, まったく傍若無人だ,いやいや,ちょっと待った。もっとミーツェのことを考えよ うぜ,あんたの舌を咬むわよだって,あいつのキスは堂にいったものだ,どの道を いこう,右へ折れるか,それとも左か,どっちだってかまやしないわよ,きゅっと くる娘だったな。 かれらは丘を越えて森のなかへはいる。 (早崎訳(下)181ページ) 2人の刑事とカルルは,かつてカルルとラインホルトが走った道をたどって走っ た。(カルル:)自動車に乗るのはいいな。くそ,この自動車からなんとか逃げ出す方 法がないかな。こいつらに手錠かけられていたんじゃお手あげだ。おまけにピスト ルまで持っていやがる。お手あげ,ほんとにお手あげだ。走れ,走れ。並木道が走 る。180日をあなたにあげるわっていったっけ。わたしのひざの上においで, か。かわいい子だったな。ラインホルトの悪党め。なんでも自分の思ったとおりに しなきゃ気のすまないやつだった。おっと,やめておこう。もっとミーツェのこと を思い出そう。あんたの舌をかむわよ,か。いかすキスだったな。どこヘドライブ しようか,右へいくか左へいくかってきいたら,どっちでもいいわっていったっけ。 いい子だったな。刑事とカルルは丘を越えて森の中へ入った。 (保坂訳) 語り手の語る地の文は,Text⑪の冒頭のDa fahren sie die alten Wege.と末尾の Sie geben近ber den恥gel, sie kommen in den Wald.のみである。その2つの地の 文にはさまれた部分はすべてカルルの思考である。このカルルの思考で注目すべきは, 180Tage schenke ich dir, ich beiB dir in die Zunge, mir ega1といったミーツェが カルルに対してのべたことばがその「直話」形式そのままにカルルの回想のなかにと りこまれていることであろう。そして,Text⑪のich beiB dir in die Zungeから逆 に・Text⑩のknutscL mir nur, ich beiB dir in die Zunge aしがミーツェのカルル に対する発言であったことを裏付けることができよう。 Text⑩では,151語という長大な文のなかに,複数の人物の思考や発言がいわば無 差別につめこまれていた。それがだれの思考・発言であるのか,また発言であるのか 思考であるのかを確定するのはもっぱら読者の責任にまかされていた。たとえば,読 者はText⑩のみでそれを正確に読みとる必要はな・かった。 Text⑩の371ページから Text⑪の411ページのところまで読みすすんで, Text⑩を正確に読みとることがで きてもかまわなかった。それほどに,Text⑩の状況はかならずしも切迫した状況で 、 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 、 103 甲 ヘなかった。だから,句読法の常識を無視した㈱151語の長文のなかで,複数の人物 の発言・思考を無差別につめこむことも可能であったのである。しかし,ミーツェが ラインホルトによってしめ殺される,といった,小説「広場」の大詰めの場面には, 同じような技法で語るわけにはいかない。読者は,だれの発言なのか,発言なのか思 考なのかをすぐに読解できなければならない。次のText⑫を考察してみよう。 Text⑫ 《Der is mal Schmiere gestanden, wo wir gearbeitet haben. Und er sagt, er m・・ht ni・ht mit・er is ein an・ta・diger Mensch. H・t keene B・11en i・di・St・並mpf。, der. Da sag ick, du muBt mit. Und da muB er mit ins Auto und ick weeB noch ・i・ht・w・t i・k mit d・m Kerl mach・, d・・h・t au・h sch・n immer ei・g・・Bes Mau1, und warte mal, da kommt ein Auto hinter uns her und ich denke, nu sieh dir mal vor, mein Junge, du mit deim Dicketun anstandig sein gegen uns. Und raus ausm Wagen. Jetzt weeBt ja, wo er sein Arm Lat.》 ①Ei・i・Ha・d…i・i・FUB・, der w・・es.《J・t・t l・g・t・di・Li。, und bi。t li。b, wie sidl det gek6rt.》②Das ist ein M6rder.《Du gemeiner Hund, du Schuft.》 Er strahlt:《Siehste. Nu schrei dir man aus.》③Nun wirste arieren. Sie ・ b窒狽奄撃撃煤C sie weint:《Du Hund, den wolltest du umbringen, den haste ungl磧cklich gemackt, und jetzt willste mir llaben, du SaukerL》《Ja, det will ick.》 《Du Saukerl. Dir spuck ick an.》Er halt ihr den Mund zu:《Willste nu?》Sie ist blau, zerrt an seiner Hand:《M6rder, Hilfe, Franz, Franzeken, komme.》 Seine Zeit!Seine Zeit!Jegliches seine Zeit. W廿rgen und heilen, brecLen und bauen, zerreiBen und zun曲en, seine Zeit. Sie wirft sich hin, um zu entwei一 drehen, deinem Franz werden wir mal’ ?奄獅?氏@S aB machen, da弛at er was f輪r die anze Woc』e.《Ick will weg.》《Da will mal weg. Hat sc』on mancher mal weg gewollt.》 . Er kniet von oben Uber den R廿cken, seine Hande sind um iLren Hals, die ρ Daumen im Nacken・ihr K6rper zieLt sich zusam面en, zieht sicL zusammen, ihr K6rper乞ieht sich zusammen. Seine Zeit, geboren werden und sterben, geboren werden und sterben, jegliches. ⑥M6rder sa st du, und mir lockst du her, und willst mir vielleicht an der Nase rumzieLen, StUcke, da kennste Reinbolden t. Gewalt, Gewalt, ist ein Scbnitter, vom h6cLsten Gott hat er die Gewalt.⑦LaB mir los. Sie wirft sich noch, sie zappelt, sie schlagt hinten aus.⑧Das Kind werden wir schon schauke】n, da k6nnen Hunde kommen und k6nnen fressen, was von dir 茸bri ist. Ibr Kbrper zusammen zusammen zieht sich iLr Kbrper, Miezes K6rper.⑨Mbrder sa t sie das soll sie T’erleben, das Lat er dir wohl auf etra en dein s並Ber 104 茨城大学教養部紀要(第6号) Franz. Darauf schlagt man、 mit der Holzkeule dem Tier in den Nacken und 6ffnet mit dem Messer an beiden Halsseiten die Schlagadern. Das Blut fangt man in Metallbecken auf. Es ist acht Uhr, der Wald ist maBig dunkel. Die Baume schaukeln, schwanken. ⑩War eine schwere ArbeiL Sagt die noch wat?Die’a st nicht mebr das Luder. Das hat man davon, wenn man mit son Aas ein Ausflu macht. (S.386−387) あいつおれたちが仕事をしていたときに見張りに立っていたことがあるんだ。あ いつは,いっしょにやらねえ,自分はまっとうな人間なんだってぬかしやがる。靴 下に穴ひとつないんだな,あいつ。それでいっしょにやらなきゃあだめだといって やった。するてえとやつだっていっしょに車に乗るより仕方がない,だがおれのほ うはこの男をどう料理したものかまだわからない,いつも大きな口をたたく野郎で ね,ところでだ,おっと待った,おれたちのうしろから車が1台やってくる,で, おれは考えたね,用心しろよ,きさま,きさまのそのいばりくさった態度,まっと うなどとぬかしておれたちにさからいやがるな,とね。そして車からポイ。これで わかったろう,あいつの腕がどこでああなったかがな」 氷のような手,氷のような足,この男ってそういうやつだったんだわ。「ようやく 寝ころんでおとなしくなったな,いやそれでいいんだ」この男って人殺しだわ。「卑 劣な犬め,こん畜生」かれは顔を輝かせて,「どうだ。まあ叫ぶんだな」すぐにやめ るだろうぜ。彼女は大声をあげ,そして泣く。「畜生,あのひとを殺そうとしたのね, 」 、 、あのひとを不幸にしておいて,そしてこんどはわたしをものにしよっっていっのね, 卑劣漢」「そうさ,そうしようとしたのさ」「卑劣漢。唾をひっかけてやる」かれは彼 女の口をおさえる,「やる気かい?」彼女はまっ青になってかれの手をぐいと引く, 「人殺し,助けて,フランツ,フランツったら,助けて」 その時!その時!すべてのことに時がある,殺すに時があり,いやすに時があり, こわすに時があり,建てるに時があり,裂くに時があり,縫うに時がある。彼女は 逃れようとして身を伏せる。ふたりは窪地のなかで格闘する。助けて,フランツ。 すぐカタをつけようぜ,おれたちゃああんたのフランツにちょいと冗談をするの さ,するてえとやつめ1週間ずうっとくよくよするぜ。「わたしいくわ」「いきたけり やいくさ。これまでいくっていったやつが何人かいたぜ」 かれは上からひざで背中をおさえつける,かれの両手が彼女の首を巻き,親指が うなじにかかる,彼女のからだがちぢこまる,ぎゅうっと,ぎゅうっとからだがち ちこまる。時がある,生まれるに時があり,死ぬに時がある,生まれるに時があり, 死ぬに時がある,すべてのことに時がある。 人殺しといいやがったな,おれをそそのかしやがって,たぶんおれの鼻づらを引 きずりまわそうってつもりなんだろう,この阿魔,ラインホルトさまを思い知った か。 噂 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 105 力,力,それは刈り手,至高の神からかれはその力を得ている。放してっ。彼女 はまだからだをまげ,もがき,背をのけぞらす。この仕事はちゃんと始末をづける ぜ,するてえと野良犬がやってきて,きさまのからだの残りくずを喰らうだろうよ。 彼女のからだがぎゅうっとちぢこまる,ぎゅうっと彼女のからだが,ミーツェの からだが。人殺しといったな,そいつを思い知らせてやるぜ,たぶんやつがきさま に背負わせた重荷ってところだろうぜ,きさまのかわいいフランツがな。 それから木の棒で家畜のくびを打ち,メスでくびの両がわにある動脈を切開する。 血は金だらいに受けとめられる。 8時だ,森はほの暗い。樹々がざわざわと揺れ動く。手間のかかる仕事だったな。 こいつまだなにかいいやがるのか?もうこと切れたろう,このあばずれめ。こうい う阿魔とピクニックをするととどのつまりはこうなるのさ。 (早崎訳(下)156 一157ページ) (ラインホルト:)「おれたちが仕事をしたときにやつが見張りに立った。すると やつのぬかすことが,自分はまともな人間だから仕事は手伝わないときた。手をよ ごさないってんだ。それでいってやった。仕事を手伝えってな。そこでやつは仕方 がなく一緒に自動車に乗った。こいつをどうしてくれようって考えたが思いつかな い。やつはいつも大口ばかりたたいていたからな。おっと待てよ。うしろから自動 車が1台追ってくるじゃないか。そこで考えた。さあ思い知れ,まともとかなんと か大口たたいて,おれたちにさからったな。そして自動車から突きおとしてやった。 さあわかったろう。やつがどこで片腕をなくしたかな。」 (ミーツェ:)冷たい手に冷たい足。こいつがフランツを突きおとしたんだわ。(ラ インホルト:)「さあ横になれ,おとなしく言うこときくんだ。」(ミーツェ:)こいつ 人殺しだわ。「この犬ちきしょうめ。この悪党め。」ラインホルトは顔を輝かせた:「ど うだわかったか。わめくならわめけ。」すぐおとなしくしてやるぜ。彼女はわめき, 泣いた:「この犬ちきしょうめ。フランツを殺そうとした。あの人を不幸にした。こ んどは私をものにしようとした。こんちくしょう。」(ラインボルト:)「そのとおり だよ。」(ミーツェ:)「こんちくしょうめ。つばかけてやるから。」彼は彼女の口を手 、 でふさいだ:「まだわめくか。」彼女は蒼白になって,彼の手をぐいと押しのけた:「人 殺し。助けて。フランツ,フランツちゃん。助けに来て。」 時だ,時だ。ものみなに時がある。ひね殺すもいやすも,こわすもつくるも,ひ き裂くもぬい合せるも,時がある。彼女はラインホルトから身をふりはなそうとか らだを投げ出した。2人はくぼみの中でもみ合った。(ミーツェ:)助けてフランツ。 (ラインホルト:)すぐ片をつけてやる。おまえのフランツに思いしらせてやる。ま る1週間はこたえるだろうぜ。(ミーツェ:)「私さよならする。」(ラインホルト:) 「さよならしてみな。そう言ったやつは何人もいたぜ。」 彼は彼女を背中の上からひざで押えつけ,両手で彼女の首をつかんで親ゆびでぎ ゆっとしめた。彼女のからだはぎゅっとちぢんだ。ぎゅっとちぢんだ。彼女のから だはぎゅっとちぢんだ。時だ。生まれるも死ぬも,生まれるも死ぬも,ものみな時 r 106 茨城大学教養部紀要(第6号) がある。(ラインホルト:)人殺しっていったな。このおれさまを怒らせやがって。お れの鼻をあかすつもりだったんだな。このあまめ。ラインホルトさまを思いしらせ てやるぞ。 力だ。力だ。鎌をもった死に神だ。最高の神から死に神は力をさずかる。(ミーツ エ:)私を放して。彼女はなおも伏せ,もがき,のけぞった。(ラインホルト:)すぐに 片をつけてやる。おまえの死体は野良犬がくらうだろうぜ。彼女のからだはぎゅっ とぎゅっとちぢまった。彼女のからだ,ミーツェのからだが。(ラインボルト:)人殺 じといったな。そのとおりにしてやるぜ。これもおまえのいとしいフランツとかの せいだぜ。次にこん棒で家畜のくびをたたき,メスでくびの両側の動脈を切り開く。 流れおちる血は金だらいにうける。 8時だった。森はほどほどに暗かった。森の木がゆれ出し,ぐらつき出した。(ラ インボルト:)手間をとらせやがった。まだわめけるか。もう口をパクパクもできな かろう。このあまめ。こういうあまと散歩すりゃ必ずこういうざまだ。 (保坂訳) Text⑫は,登場人物の発言,発言されない思考,語り手の説明,語り手の引用の4 つの部分から構成されている。発言は必ず引用符「《》」を用いて「直話」で再現され, ひとりひとりの発言がピリオドによって区切られている。伝達動詞は欠除しているが, Er strahlt:とか, Sie brUllt, sie weint:とかは発言者を明らかにする一種の伝達 動詞と考えることもできよう。思考は①から⑩においてもっぱら「自由直話」によっ て再現されている。語りの時称が現在形であるが,Cタイプ「体話」と思われる手段 によって再現されているものはひとつもない。④のHilfe Franzとか⑦のLaB mir 10S.は思考というよりは,のどをしめられていてもう声にならないミーツェの声を再 現したともいえる。ラインホルトの思考が⑥ではMbrder sagst duとミーツエを2 人称で呼び,次の⑨でMbrder sagt sieと3人称へと変わっているのは,しめ殺し たミーツェをもう3人称で扱ったと考えられるのが注目されよう。いずれにしても, Text⑫では,発言は引用符によって地の文から浮き出し,思考は1人称現在形を前提 とする「自由直話」によって地の文から浮き出し,だれの発言で,だれの思考かもコ ンテキストから容易に読みとれるようになっている。語り手の説明である地の文は簡 潔で最少限度に押えられ,むしろこの状況のドラマ的展開の迫力は「直話」と「自由 直話」の交錯にゆだねられている。そして,Seine Zeitという聖書からの引用と, 噂Darauf schlagt man mit der Holzkeule dem Tier in den Nackenというベルリン屠 殺場の描写からの要約的引用とによって,このミーツェの殺される状況の具体的展開 を,間接的に,しかも直接的説明よりも一層すさまじい迫力をもって暗示する。㈲ 3. 結 論 Text①からText⑫までの以上の考察を一覧表にまとめてみると次のようである。 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 注 意 点 発言・思考の再現方式 発言か思考か 過去形 自由直話 思考 ② 過去形 A体話,自由直話 思考 w廿rde十Infinitiv ③ 現在形 自由直話,直話 思考 地の文か思考か不明部分あり ④ 現在形 直話,自由直話,C体話 思考 ⑤ 現在形 自由直話,間話,C体話 思考,発言 ⑥ 過去形 自由直話 思考 ⑦ 現在形 C体話 思考 ⑧ 現在形 C体話,官由直話 発言,思考 ⑨ 現在形 C体話,(自由直話) 思考,(発言) ⑩ 現在形 C体話,自由直話 思考,発言 フ並用。 ⑪ 現在形 自由直話 思考 他人の発言を直話のまま回想 フ中へとりこむ。 ⑫ 現在形 自由直話,直話 思考 Text 地の文の時称 ① 107 発言の再現に直話を用いてい ない。 A体話であってもよいものが ゥ由直話となっている。 自由直話であってもよいもの ェC体話となっている。 同一文内にC体話と自由直話 フ並用。 C体話と自由直話の区別つか ハ。地の文か思考か区別つかぬ。 151語の長文内に思考,発言 発言は直話で,思考は自由直 bで。 以上の一覧表をもとにして,「広場」の「体話」ならびに「自由直話」の特徴を記述 してみると次のようになるであろう。 ①発言・思考の再現に「自由直話」が全く用いられていないのはText⑦のみであ る。 ②Aタイプ「体話」があらわれてもしかるべきところにも「自由直話」が用いられ ているのがみられる(Text①⑥)。 Aタイプ「体話」が用いられるところでも「自由 直話」が並用されている(Text②)。 ③Text①から⑫までで「間話」が用いられているのはText⑤のみである。しカ・ も,この「間話」も接続法ではなくて,直接法であり,「間話」であるという識別は話 法の助動詞sollとか,定動詞後置の副文形式による。 ④引用符のついている「直話」と引用符のない「自由直話」が並用されるときは, 「直話」は必ず発言を,「自由直話」は発言されない思考を再現して,使いわけられて いる(Text③④⑫)。 ⑤引用符のない「自由直話」が発言の再現に用いられているのはむしろ例外である (Text⑤)。 108 茨城大学教養部紀要(第6号) 、 ⑥「体話」(とくにCタイプ「体話」)と並用される「自由直話」は思考再現の手段と して用いられている(Text②⑧)。 ⑦現在形が地の文である場合には,「体話」であるのか地の文であるのか,またはC タイプ「体話」であるのか「自由直話」であるのか識別できない部分が生じる(Text ③⑨)。 以上の特徴記述にもとついて,次のように結論をひき出すことができよう。小説 「ベルリン・アレキサンダー広場」において,もっとも多用され,もっとも特徴をも つものは,「自由直接話法」である。とくに,現在形が地の文の箇所では,Cタイプ「体 話」が,人称・時称ともに地の文に同化してしまって,人物の思考であるのか,語り 手の語りであるのか識別できなくなる可能性が生じる。これは,実は「体話」の本質 的な特徴なのである。 ところが,デープリンは,「体話」のもつ人物の思考と語り手の語りの重なり合い, 二重写しという本質的な特徴を活用するとともに,「自由直話」を用いることで意識的 に「体話」の使用による二重写し効果をさけてもいるということができよう。人物の 発言は引用符のついた「直話」で,人物の思考は引用符のない「自由直話」でと使い わけている箇所がそれである。現在形が地の文の箇所では,「自由直話」をCタイプ「体 話」におきかえると,人物の立場からの主観的思考ではなくて,語り手の立場からの客 観的記述でもあるということになってしまうからである。 , では,「広場」の「体話」や「自由直話」の機能の特徴はいったいなんであるのか。 シェーネはこの問いに対して,鋭い答えを提出してくれている。㈲ この小説においては,主人公のフランツ・ビーバーコプには独自の,自立的言語 化能力が,すなわち,意識的,自立的思考能力が欠除していることがあきらかであ り,これが主人公の特徴をなしている。主人公はぼんやりとした,本能的衝動にか られて行動し,明析な言語化能力にもとつく洞察によって行動することはない。さ らに,彼の発言や思考は体験話法,すなわち語り手の協力で人物を発言させる表現 形式を用いて表現されるか,あるいは内的モノローグ,㈲すなわち,語り手がまず 人物の発言の口火を切る表現形式によって表現されている。しかし,体験話法や内 一 Iモノローグといった近代物語芸術の技法はこの小説においては,人間の内的心理 描写や意識の流れの把握のために用いられているのではない。デープリンに刺激を 与えた作家としてしばしばジェイムス・ジョイスの名があげられるが,彼が1924年 一一 ノ「ユリシーズ」の中で用いた内的モノローグは,デープリンの体験話法や内的モ ノローグとは異質である。デープリンにあっては,体験話法や内的モノローグは集 〆 団的発言形式として用いられ,ひとりひとりの登場人物に特有の,その人物を他の 人物と区別する表現特徴はぬぐいさられている。その登場人物をとりまく言語共同 体の中へとその人物をとかしこんでしまう。この言語共同体においては,語り手, 登場人物,新聞記者,広告文起草者,いやそれどころかプラカートの文句,電話帳 といったたぐいさえも平等に,区別なく発言するのである。 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 109 4.付論:日本語訳の問題点 最後に,「ベルリン・アレキサンダー広場」を日本語訳する場合の問題点について, 筆者の見解をのべてみたい。「広場」をドイツ語の原文から日本語に移すにあたっての 問題点は大ざっぱにいって次の6点ぐらいになろう。 ①ベルリン方言,ベルリン下層社会の仲間ことば(Jarg・n)をどう訳すか。 ②引用語句の出典をどこまで追求するか。 ③ライトモチーフ的にくりかえされる語句,モンタージュ技法をどう扱うか。 ④語りの地の文の時称をどのように移すか。 ⑤登場人物の発言・思考において伝達動詞が欠けている場合,それを放置するのか, それとも訳者としておぎなうのか。Aタイプ「体話」, Cタイプ「体話」の人称をどう 移すか。 ⑥句読法,たとえば,引用符のない発言をどう扱うか。原文でもピリオドで切れる のが自然であるのに,次から次へとコンマで次の文が接続されているような場合をど うするのか。 早崎訳は,とくに①の扱いを苦労したとのべている。㈹そして,②については,聖 書や流行歌については本文の引用箇所末尾にかっこを用いて出典を記した。⑳③につ いては本文での指示も,解説の中での解釈の展開もない。④⑤⑥については,原文の , 形式をできるだけ忠実に日本語に移すよう努力しておられるようである。しかし筆者 はとくに④⑤⑥は原文の形式をそのまま忠実に日本語に移す場合,日本語訳の読者に 了解不能の混乱が生じるので,むしろ,訳者の立場での思い切った工夫をして原文を 再構成して日本語に移すべきであると考える。その実例については,Text①から⑫ に,早崎訳の次にそえた筆者訳によってみていただきたい。筆者が以上のように主張 するのは次の根拠による。 「広場」をドイツ語の原文で読む場合は,その読者がドイツ人であれ,日本人であ れ,原文を解釈する自由と責任は読者自身にある。 たとえば,文法形式上は地の文であるが,内容上は人物の思考である「体話」を正 確に読みとるのは読者の読みとりの能力にかかっている。読みとれないときはその読 者の責任であるが,しかし,読みとれないことの迷惑を他人に及ぼすということもな い.ところが,ドイツ語の原文がある翻訳者によって日本語に移された場合はどうで あろうか。その日本語訳の読者は,翻訳者の原文解釈の能力と,その解釈の結果を日 本語に移す能力という二重のフィルターを通してしか原文の内容に接することができ 翻訳者の原文解釈が誤まっていれば,読者も原文の内容を読みとれない。しかし, それは読者の責任ではない。また,かりに訳者の原文解釈が正確であったとしても, その解釈の結果を日本語へ移す能力が欠けていたときは,日本語訳の読者はやはり原 文の内容を読みとれない。この場合にも,それは読者の責任ではない。したがって, 翻訳者は,どこまで原文を忠実に日本語に移せるか,あらかじめ見きわめたうえで翻 110 茨城大学教養部紀要(第6号) 訳しないかぎり,翻訳者としての日本語訳読者への責任が果せないことになろう。「広 場」の日本語訳に話をもどすならば,原文の時称,人称,句読法をそのままできるだ け忠実に日本語へ移すことは,原文の形式に対して忠実なだけであって,逆に原文の 内容理解に混乱をもちこむといえる。原文における表現形式と表現内容の一体不可分 性というものは,翻訳ではつらぬきえない。「広場」の地の文の時称は日本語訳では過 去で統一して訳出すべきであろう。㈱必要があると思われるときは人称の転換や,発 、 1 言者・思考者の明示が必要である。また,思考と発言を区別するために日本語で引用 符を復活することも許されるべきである。句読法も,意味のまとまりと,区切りの自 然さをそこなわぬ形で,思い切って日本語らしく再構成すべきであろう。このために, 原文の語りの主要な特徴がほとんど失なわれてもやむえないと考える。この「ベルリ ン・アレキサンダー広場」の場合は,原文の語りの大胆な実験を,その日本語の対応 物(Aquivalent)へ移すことは至難のわざであって,そのようなアクロバットはむし・ うさけたほうがよいと思われる。 (73,9,25) @ ■ σ 彫 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法噛 @ 111 5. Zusammenfassung Die Erlebte Rede in Be7Z‘犯/1Zθ劣αμ{1eγμα君2 ㍉ @ Muneshige Hosaka Es ist schon mehrmals darauf hingewiesen, daB A. D6blin in seinem Roman Be7伽漉e躍αηde7pZαε2 weitgehend die Tecbnik der Erlebten Rede verwendet. Was ist denn das Eigenartige von D6blins Redewiedergabe in Beγあπ44Zeκαηdeゲμα3z? Das habe ich mit 12 Beispieltexten in meinem obigen Aufsatz untersucht. Dbblin erzahlt seinen Roman nicLt nur in Prateritum(in erzablenden Tempola), sondern auc』hauptsachlich in erzablendem Prasens(in besprecllenden Tempola). Im Kontext von erzahlenden Tempola erscheint darum die Erlebte Rede mit Tempustranspositi・n(Text②〉,im K・ntext des erzahenden Prasens degegen die Erlebte Rede ohne Tempustransp・siti・n(Text⑦,⑨). Meiner UntersucLung der 12 Beispieltexte nach aber besteLt die BesonderLeit v。n D6blins Redewiedergabe darin, daB bei iLm die Freie Direkte Rede(Text①, ③,④,⑤,⑥,⑧,⑩,⑪,⑫)von viel grbBerer Bedeutung ist als die Erlebte Rede ohne Tempustransposition. Aber was ist die Freie D童rekte Rede(Style direct libre)?Im Jahre 1912 hat Ch. Bally den Terminus style indirect lihre(die Freie Indirekte Rede) erfunden, dessen inbaltliches Aquivalent im Deutschen die Erlebte Rede und dessen fbrmales Aquivalent die Einf砧rung310se Konjunktivische Indifekte Rede ist. Die Erlebte Rede im Deutschen ist also die Einf廿hrungslose Indikativiscbe’111direkte Rede, deren Gegenpol namlich die Einf廿hrungslose(darum von喚bergeordneter Einf廿hrung freie)Direkte Rede ist. Die gegenseitigen Verkaltnisse dieser Direkten, Indirekten und Erlebten Reden zeige ich mit Hilfe folgender Beispielsatzen: Direkte Rede:Sie sagte:“Den nachsten nehme icL aber an.” Freie Direkte Rede:Den nachsten nehm ich aber an. Indirekte Rede:Sie sagte, den nacllsten werde sie bestimmt nehmen. 、 Einf曲rungslose Indirekte Rede:Den nachsten werde sie bestimmt nehmen. Erlebte Rede mit Tempustransposition:Den nachsten wUrde sie bestimmt nehmen. Erlebte Rede ohne Tempustransposition:Den nachsten wird sie bestimmt nehmen. Statt der Erlebten Rede mit Tempustransposition(Den nachsten wUrde sie bestimmt nehmen.)wahlt D6blin im Beispieltext⑥die Freie Direkte Rede(Den nachsten neLme ich aber an.). Und im Beispieltext⑦verwendet er die Erlebte Rede okne Tempustransposition(Den nachsten wird sie bestimmt nehmen.). Wenn eine Rede durch die Erlebte Rede mit oder ohne Tempustransposition dargestellt ist, kann man unter Umstanden die Grenze zwischen dem Erza』ler・ bericht und der Personenrede nicLt erkennen. Und das ist gerade das Ziel 112 茨城大学教養部紀要(第6号) ’ psychologierender, sick ins Innere der Perもon einf並hlender Erlebter Rede. Die Freie Direkte Rede dagegen ist als eine R6dewiedergabe immer leicht zu erkenne叫 obgleich es sich doch schwer unterscheiden laBt, ob sie eigentlicL eine ausge一 幽 @ o . Ep・・ckene A・Bemng・der einen・nausg・号P・・chenen G曾dank・n wi・dergibt. Im Beispieltext⑫stellt Dbblin mit der Freien Direkten Rede unausgesprochene innere Gedanken dar zum Unterschied von「der Direkten Rede, die zwar kein 廿bergeordnetes EinfUhrungsverb hat, die doch mit ihrem AnfUhrungszeichen unverkennbar PersonenauBerungen wiedergibt. Von DbMins Redewiedergabe gibt es noch eine Besonderheit. Wenn es namlich in erza111endem Prasens e1・zahlt ist und keine Personenagaben nach dem Stand・ punkt des Vermittlers transponiert werden kbnnen, so entstehen die OberscLnei一 dungen der Erlebten Rede okne Tempustransposition mit der Freien Direkten Rede. Siehe die fblgenden Beispielshtze: Direkte Rede:Franz dacLte:“Die.Sckwarze ist gut, Lat H並ften.” Freie Direkte Rede:Die ScLwarze ist gut, hat HUften. Indirekte Rede:Franz dacLte, die Schwarze sei gut, habe H逓ften. EinfUhrungslose Indirekte Rede:Die Schwarze sei gut, habe Hhften. , drlebte Rede mit Tempustransposition:Die ScLwarze war gut, hatte H近ften. ‘ .Erlebte Rede ohne Tempustransposition:Die Schwarze ist gut, hat H競ften. Im Beispieltext③erzahlt der Erzahler in Prasens, darum kbnnen die Partien wie“Die Schwarze ist gut, hat HUften” doppeldeutig, als Freie Direkte oder Erlebte Rede interpretierbar sein. Bei D6blin dienen also die Erlebte Rede und Freie Direkte Rede nicht der pschycLologierenden MenschendarsteHung. Bei ihm finden keine sympathisiereden Identifizierungen des Erzahlers mit den Romanpersonen statt., Die Erlebte Rede und Freie Direkte Rede(oder Innerer Monolog)erscheineb bei ihm vielmehr“als Formen kollektiven Sprechens und dienen also der Einbeziehung des Einzelwesens in die u卑gebende SprachgemeinscLaft, an der Erzahler und Romanfiguren in gleicllerweise und ununterscheidbar beteiligt sind.” @ r @ . r 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 113 注 (1)S。L6。。,A.、Dδゐ伽・B・・伽湾Z一伽1鵬i・・D・・d・…cん・R・−y・観Bα『°cん ゐ」、。伽G。g。。ω鳳Hg.・・n B・ぬ・・v. Wiese, Bd・2,1963・S・291−325・ (2)Marti。i, F.・D・・W・9・屈・・S卿・ゐ・,1954・S・336−372・ (3)3人称小説(Er−E。・ahl・ng)にあらわれる「体話・を時称の観点力・ら次の3つのタイプに分 類しておきたい。 Aタイプー地の文 過去形一「体話」過去形 Bタイプー地の文 過去形一「体話」現在形 Cタイプー地の文 現在形一「体話」現在形 従来,・体話、といえばもっぱらAタイプであると考えられていた・しかしcタイプ「体話・の存 在についてはすでに・体話、研究史の初期に発見されていた・cタイプ「体話・については次の文 献を参,照されたい。 H6。di。, E.、S励。。・ゐ。。 B・・ε・伽繭・伽ん・・R・d・加…伽・・伽・cん・Di・s・UpP・ala・ 1905,S.26−30. W。inri。h, H、T。伽。. B。。P・・cん…蹴曲・襯・・W・’・,2・A・fL・1971・S・182f・ S、。i。berg, G.、E。Z。6・。 R・d・.1ん・・Eε・・剛・・のん・・F・耀洞・・・・・…d飢sc厩 伽翻。cん。_伽。」…ん・・E・測伽施・,・97・・S・255−27・・427(A・merk・ng 6)・ またBタイプ「体話」については次を参照されたい。 Steinberg, G.:a. a.0., S.258ff,428(Anm.12). (4)直接話法で,引用符をもたず,伝達動詞に従属しないものを自由直接話法(・tyle di「ect 1ibre)と名づける。これについては次の文献参照 中川ゆき子:T。,h。 Li、h・h・・seのR…esen・・d Speechと間接話法・文体論研究第17号・ 1971,P.61. 自由直接話法という名称はCh. B・ll,の自由間接話法(・・y1・i・dire・・lib・e)』に対応するもの ■ ニして考案されたものであろう。すなわち,間接話法で,伝達動詞と接続詞を欠いたものをBa11y は自由間接話法と名づけた.英語のrepresen・・d・peech(描出話法)もフランス語と同じく自由 ’ 間接話法である.ドイツ語において1ま,自由間接話法(すなわち・伝達動詞と接続詞を欠いた間接 話法)は,なお接続法という動詞形式を保存しているので・イコール体験話法と1よならない・ドイ ツ語では自由間接話法で渤詞形式力・直接法となったものが・体験話法ということになる・この点 について詳しくは,次の文献参照。 S、。i。b。。g,G.、a.。.・., S.・32−・64(Ei・f・h・・n・・1・se I・di・ek・・R・d・・im K・巾nk・i・)1 (5)Mar、i。i, F.、a.・.0., S.36・.“Die erl・b・・R・de se・…i・h・1・i・nere・M・・°1°g in d。n n益。h。ten f廿。f S翫。en f。rt,・m pl6t・li・h,・・bneg・a・dert・A・tik・1・ti・n・ndRhythmik・ d。rch d。。 direkt。n Beri。ht des E・・ahlers i・der F・rm・・uer S・en・nang・be abgest°PPt zu werden.”Martin呈がとりあげている例文箇所は次のとおりである。 } 奄唐煤HImmer Ida. Wer sonst. Dem Biest虹abe ich die Ri en zerscbl。。n d。md。, d。rum h。b i。h・i・・L・ch・m・B・・J・…h…i・・w…i・w・llt・・das Bies、 i。t t。、・e、。、。、。h i。h d。. U・d h・・1・f廿r si・h・nd・e皿・i・der Kal・b di・StraB・・ lang.(S.336) 114 茨城大学教養学部紀要(第6号) 上記例文ではMar・i・iの指摘して・・るとおり第1文から第5文まではフラン・ソの思考であり, それに続く第6文は語り手の語る地の文である。しかし,第1文はWer scLuld an allem ist?と 唱 定動詞が後置された副文形式をもつ一種の間接話法であり,第4文と第5文は,Dem Biest habe ichとかletzt stehe i曲daのように1人称を含む自由直接話法である。第2文Immer Ida.と , 第3文Wer sonst.は1人称があらわれないので, Cタイプ「体話」なのか「自由直話」なのか識 別できない。このような第1文から第5文までをMartiniはひっくるめて「内的モノローグ」と しての「体験話法」と名づけているのである。上記例文につづく箇所を筆者は以下でText④とし てとりあげてある。 (6) Steinberg, G.:a. a.0.,S.4,90,95,179/183,238,256. このうち筆者はS.4をText⑧, S.179/183をText⑦, S.256をText⑨でとりあげる予 定である。なお,S.425−426(Anm.24)に, Cタイプ「体話」が「広場」において成功していると の評価がのべられている。また「体話」以外にも,S.12,41で 「広場」の引用がある。 (7)Dbbli・・A・・B・曲湾’…蜘吻・, A・・g・w. W・・k・i・Ei。。elba。d。。, H齢。。m W。1fer Muschg, Bd.4,1961, S.513. (8)語りの展開をになう時称は,ドイツ語ではふつう過去形であり,K. Hamburgerはこれを Episches Prateritum, WeinrichはErzaHtempolaと名づけている。これに対して,語りの展開 をになう現在形のことを」.R. Freyはnarrative present(erzahlendes Prasens),H. Brinkmann はErzahlendes Praesensと名づけている。小説の語りの時称については次の文鹸を参照のこと。 Hamburger, K.:Dα3 epゴscゐe Pr漉eゲ甜駕7π, DVjs.27,1953, S.329−357. :DゴeLo8読de71)∫cゐ施π8」1957,2. Auf1.1968. Weinricb, H.:Tθ卯帆Be5procゐεηeππ4 eγz勘Z君εWε∫置,1964,2. Auf1.1971. Frey・J・F・・丁加胸傭δ’P・・…巨・N一厩L’肋言…,剛ゴ。。切∫。 M。4。。。 Gε7飢αηF’cJ’oη, JEGP.45,1946, S.43−67. Brinkmann, H.:1万e deω置scゐe Sp7αcゐθ,1962, S.341−344. Pascal, R.:Teπεeαη41Vo砂eJ, Modern Language Review 57,1962, S.1−11. (9)現在形を基本時称とする小説においても,現在完了形や未来形ばかりでなくて,過去形,過 去完了形が用いられることについては,次を参照。 ’ S・id・・U・・『P醜・伽彿・・dP」・・卿卯・・佛加p・δ・・伽cん・。E。翻ゐ。。置。鉱i。, S施d∫。。 乞ω7S〃η孟α∬4eεんez6廃8eπ1)e鋭5cん,1970, S.118−136. (1ΦDδbli・・A・・D・沼・回・・螂cん・・隔楓N・dsch.40,1929, S.533,。itiert durch Martini:a. a.0., S.356. ω全知全能の語り手の視点からもっ1まら語っていく小説をオー外リアルな小説澄場人物の ごく限定された視点からもっぱら語っていく小説をペルゾナールな小説,と命名したのはF.Stan2e1 である。この点については,次の文献を参照のこと。 St…e1・F・・D∫吻卿ゐ・・E蘭配・甜ω∫一’呪R・臓19与5. : 丁砂P∫εcゐe Fo7物eη {」θ3 Ro例απ5, 1964. ⑫D6bli・・A・:B・・伽過」・珈d吻’….A・・g・w. Werk・i・Ei。。elba。d。。, Hg.。。m輪1、er Muschg, Bd.4,1961. ⑬ 早崎守俊訳:ベルリン・アレキサンダー広場(上),(下),河出書房新社,1971。 「ベルリン・アレキサンダー広場」における体験話法 115 (1のBest・0・F・・伽伽・んZ∫勲・∫・cん・・F・・ゐδ・g・ゴ〃・, Fiき・her H・・dbU・h・・6092,1972, S. 73f.なお同所引用部分前半に次の例が引用されている。 Der Arzt verlieB verargert den Operationssaa1. Um was sollte er sich nicht alles k極mmern:keine Fra e, er batte ein Recht, sich diese Din e vom Hals zu Lalten. 上例の下線部分はたしかにAタイプ「体話」であろうが,それが「広場」のどこから引用された ものか原文ページを確認することができなかった。 (19w廿rde+Infinitivが,3人称過去形を地の文とする小説に,3人称過去形であらわれるA タイプ「体話」を,地の文から文法的に識別する唯一の手がかりであることは,すでにHerdinに よって発見されていたが,その発見は久しく忘れさられ,Steinbergによって再発見されなければな らなかった。この点については,次の文献参照。 Herdin, E.:1伽γ(1e 十 1ηプ‘π甜加 αZ5∬π{」疏αε」砂F撹ω7∫p7αe’e7痂8eゐ7απc配, ZDU 17,1903. .. Fσ6erω初㎡e伽置{1ε㎜1πブ加∫置加, ZDU 19,1905. 魑 : 8」π{∫∫eπ 髭δeγ Be7ごcん渉 %π{2 εη(泥feゐ言e Rede ∫7π 7ηα1erηeπ 1)e駕置5cん 1905. , Steinberg, G.:a. a.0., S.172−193(w逓rde mit Infinitiv−Futur des Prateritums). (1① Sch6ne, A.:a. a.0., S.298. ⑰ 「自由直話」とCタイプ「体話」が区別がつかなくなるのは,「直話」ですでに1人称や2人 称でなくて3人称が用いられている場合である。次の例文によって,この相互関係を示してみよう。 ①直接話法 :Franz dachte:“Die Schwarze ist gut, hat田ften.〃 ②自由直接話法 :Die Schwarze ist gut, hat H硫en. ③間接話法 :Franz dachte, die Schwarze sei gut, habe恥ften. ④自由間接話法 :Die Schwarze sei gut, habe H漉ften. ⑤Aタイプ体験話法:Die Schwarze war gut, hatte恥ften. ⑥Cタイプ体験話法:Die Schwarze ist gut, hat H廿ften. つまり伝達動詞をもたないという点では2456は共通している。しかし,④は接続法であり, 6 Dは直接法過去形であるが,②⑥はともに直接法現在形であるため,文法形式上は互いに全く一致 してしまう。もし,過去形が地の文の中に②がおかれてあれば,時称が地の文に一致していないの で②は「自由直話」になる。しかし,現在形が地の文の中に②がおかれれば,それは⑥でもありう ることになり,②と⑥の区別は全くつかないことになる。この点についてSteinbergも次のよう に指摘している。 ’ In E. R. mit Tempustransposi亡ion sind auch die Partien von D. R. unterschieden, in denen k・i・・Pers・・ena・g・b・tran・p・nierbar i・t;i・E・R・・h・・T・mp・・tra・・p・・iti・n・・t・t・hr・ ・ ● ?奄?秩@Uberschneidungen mit D. R. Wenn keine Personenangaben nach dρm Standpunkt des ヤ uermittlers transponiert werden kbnnen, so besitzt die temporal nicLt・transponierte RededarsteUung kein formales Kriterium mehr, das sie als er丑ebte von d重rekter Rede unterschiede. (Steinberg:a. a.0., S.256.)・ 現在形が地の文において,「自由直話」とCタイプ「体話」の区別がつかないことを明確に指摘 したのはなんといってもSteinbergの大きな功績のひとつであろう。 ⑱ Martini, F.:a. a.0., S.355−372. ⑲ 川島淳夫氏はA.Schnitzlerの1)∫e ToJeηsc肋eゴ8eπの現在形地の支部分にあらわれる 116 茨城大学教養部級要第6 号) 紀要(第6号) 「自由直話」を「内的独白」と名づけて,Cタイプ「体話」と区別している。次を参照のこと。 川島淳夫:「話法」の諸問題一とくにA.Scぬnitzler:D∫e T・撤sc肋θ∫8επを素材として, 関西大学独逸文学会,独逸文学12,1967,S.93−94。 またS。b、neがe。1。b、。 R。d。と・nnerer M・n・1・gについて指胤でいるのも・「体話・と「自 、 R直話」を区別してのことであろっ。 このように「体話」と「自由直話」を文法的に区別して扱うのか,それとも,「自由直話」も一種 の・体話、として扱うかは,前記注qのでのべた場合もありきわめて微妙な問題である・次の文献を なお参照のこと。 谷村淳次郎:Represented Speechの一考察,作者=作中人物;読者の問題,文体論研究第17号, 1971,S.99−104(Represented Speechと混合話法) ⑫Φ Martini, F.:a. a.0., S.364. ⑫1) Steinberg, G.:a. a.0., S.12. (22) Steinberg, G.:a. a.0., S.179/183. ⑫の Steinberg, G.:a. a.0., S.182. (24) Steinberg, G.:乱a.0., S.4 (2の Steinberg, G.:a. a.0., S.256f. ㈱ Muschgは「広場」の解説のなか「喬D6blin の句読法をぞんざいで,一貫性を欠いている (nach脆ssig und inkonsequent)と形容している。 D6blin, A.:BeγZ珈∠4Zeκαπ4εγμα置乞, S.527. 伽 「広場」における引用技法の詳細についてはSc』bneのすぐれた解釈参照のこと。 Schbne, A.:乱a.0., S.318f壬 ⑫④ Sch6ne, A.:a. a.0.,317−318. ㈲ Sch6疑eがここで内的モノローグ(innerer Monolog)と名づけているものは筆者の「自由直 話」と同一のものである。 ㈹ 早崎守俊訳:ベルリン・アレキサンダー広場(上),S.236 ⑳ たとえば早崎訳(上),S.14(「ラインの守り」の一節)とか, S.16(旧約聖書エステル 記第2章から)など。 ㈱ ドイツ語の現在形の地の文を日本語の過去形に移している例として,高橋健二訳シュニッラ 一:D∫eTo君eη8cゐωe∫8εηのあることは川島淳夫論文S.95−96に指摘がある。また,ドイツ語の 現在形を英語の過去形に移す例については次の文献参照。 Frey,」. R.:a. a.0., S.57. とくに,印欧語の現在形の地の文を英語の現在形に訳すことについては英語において強い異和感 が生じるとの指摘は次の文献参照。 Pasca1, R.:a。 a.0., S.8.