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Title ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派
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ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派 : ルリヤの
Zeitschrift誌の活動報告
国分, 充; 牛山, 道雄
東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 57: 199-215
2006-02-00
URL
http://hdl.handle.net/2309/1467
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要 総合教育科学系 57 pp.199∼ 215,2006
ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派
── ルリヤの Zeitschrift 誌の活動報告 ──
国分 充 * ・牛山 道雄 **
特別支援科学講座
(2005 年 9 月 30 日受理)
キーワード:ロシア,精神分析,ヴィゴツキー,ルリヤ
1 .はじめに
2002 年はルリヤの生誕 100 年にあたり,モスクワ大学を主たる会場としてルリヤ記念国際心理学会議が開催された。
それとともに,ロシアの心理学雑誌“
(心理学の諸問題)”誌ではルリヤ特集が組まれた。その
なかには,ルリヤと精神分析との関係を論じたものが 1 つ含まれている。その著者,
は,ルリヤの学者と
しての形成過程,また彼の一般心理学体系において精神分析のアイデアがきわめて大きな意義を有しているとし,精
神分析がなければ彼の学説はかくもよく考えられたものにはならなかったろうとしている。
筆者は,ヴィゴツキー,ルリヤらのいわゆるヴィゴツキー学派の心理学思想の形成史に関心をもっている者である
が,精神分析は,若き彼らに多大な影響を及ぼしたと考えている 1 )。前回は,ロシアの精神分析運動の辿った道行きを,
主に Lobner らの論文に拠りながら大づかみに報告した(国分,2005a)。Lobner ら(1978)によれば,ロシアの精神分
析は,革命前にすでにかなりの広がりを見せており,1911 年には彼らの言うところの第 1 次のロシア精神分析協会も
つくられていた。大戦,革命後の内戦期の活動中断期をはさんで,内戦終息後,精神分析は非常に盛んになる。革命
政府の支援もあり,再度ロシア精神分析協会が結成され,国立の精神分析研究所もつくられるに至る。これはウィー
ン,ベルリンに続く世界で 3 つめの訓練・治療センターであり,ロシアの精神分析の興隆を示す事実である。しかし,
20 年代半ばから反マルクス主義的との批判が強くなり,20 年代末にはイデオロギー論争はピークをむかえ,30 年代に
は消滅したというものであった。こうした流れの中にあって,ルリヤは精神分析運動のかなり熱心な活動家であるこ
と,また,ヴィゴツキーも精神分析に対して決してネガティブな態度はとっていなかったことを,前回の報告の中で
一部示した。
は,ルリヤと精神分析の関連を考える上で,5 つの論文を取り上げてその特徴を論じている 2 )
が,そのほか,1922 年から 1926 年の間に 7 つの報告を外国で行っているとし,Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse
誌(以下,Zeitschrift 誌)上の報告・論文を挙げている。本報告では,それらルリヤが Zeitschrift 誌に記したロシアの
精神分析協会の活動報告を主に見ながら,ルリヤらのロシアでの精神分析運動への係わり及びそれについての考え方
を見てみたい。
2 .Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse 誌(Zeitschrift 誌)について
Zeitschrift 誌について,筆者はその詳細を十分つかみきれていないが,フロイトの「精神分析運動史」,エレンベル
ガーの「無意識の発見」等の記載から知りえたところを記すと以下のようである。Zeitschrift 誌は,Internationale
* 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町 4–1–1)
** 兵庫教育大学大学院学校教育研究科
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
Zeitschrift für Ärtztliche Psychoanalyse 誌(「医療精神分析国際誌」と訳されることもある)として,1913 年に国際精神
分析協会の公的機関誌として創刊された。これは,それ以前に国際精神分析協会の公的機関誌であった Zentralblatt für
Psychoanalyse(「精神分析中央雑誌」1910 年創刊)にとって代わったもので,それには,その編集者シュテーケルがフ
ロイトの不興をかったという事情が関係しているようである。この雑誌が 1920 年 6 巻で誌名変更し Zeitschrift 誌とな
る。当時の精神分析関係のよく知られている定期刊行物には,これらの他に,Yahrbuch(「年鑑」と訳される),Imago
があるが,Yahrbuch は Zentralblatt für Psychoanalyse と一緒に第一次世界大戦とともに廃刊され,Imago は 1939 年には
Zeitschrift 誌に吸収されてしまうので(吸収後の雑誌名は Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse und Imago),この雑
誌は,精神分析運動にとって,特に国際的なそれにとって,きわめて重要なものであった。なお,これらの独文雑誌
の他に,International Journal of Psychoanalysis という雑誌があるが,これは,1920 年にイギリスのジョーンズによって
創刊されたもので,基本的には Zeitschrift 誌に倣ったこの雑誌の英文雑誌という性格のものと思われる。Zeitschrift 誌
の創刊時,編集委員には,ロシア人では Wulff が名を連ねており(1919 年 5 巻まで),1920 年 6 巻の誌名変更後は
Ermakow が 1924 年 10 巻で,1925 年 11 巻より 1927 年 13 巻まで再度 Wulff が,1928 年 14 巻から終刊となる 1941 年 26 巻
までは Kannabich が編集委員となっている。各国の精神分析運動の状況は,Zur psychoanalytischen Bewegung あるいは
Psychoanalytische Bewegung 欄(以下,「運動」欄)と Korrespondenzblatt der Internationalen Psychoanalytischen
Vereingung 欄(以下,「通信」欄)とに散見される。
3 .Zeitschrift 誌におけるロシア関係報告の概況
ルリヤらが活躍したと考えられる 1920 年代からロシア関係の活動報告の有無,報告の記載者等をまとめて示したの
が表 1 である。ロシアの精神分析運動の状況に関する記載は 1921 年より現れ,1930 年を最後とする。ロシアの精神分
析運動の活動体は,当初はモスクワのロシア精神分析協会(以下,ロシア協会)とカザン精神分析協会(以下,カザ
ン協会)の二つが存在し,1924 年頃,後に見るような理由でロシア協会ひとつとなったようである 3 )。この 2 つの協
会の報告は,「運動」欄には 12 回,「通信」欄には 13 回見られている。これらを以下に書き出した(アンダーラインは
記載者(これが無い場合は無署名),【 】は本報告で引用する際の略記号)。
「運動」欄関係
1 ) “Die psychoanalyse in Russland während der letzten Jahre” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”) (Neiditsch), 7, pp.381-384, 1921
【1921qB】
2 ) “Zur psychoanalytischen Bewegung in Moskau” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”) (Ossipow), 7, pp.385-388, 1921【1921wB】
3 ) “Russland” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”), 8, pp.236-237, 1922【1922eB】
4 ) “In Kazan” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”), 8, p.390, 1922【1922rB】
5 ) “Kasaner psychoanalytische Vereinigung (Russland)” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”) (ルリヤ), 8, pp.523-525, 1922【1922tB】
6 ) “Russland” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”), 9, pp.113-114, 1923【1923yB】
7 ) “Kasaner psychoanalytische Vereinigung” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”) (ルリヤ), 9, pp.114-117, 1923【1923uB】
8 ) “Kasaner psychoanalytische Vereinigung” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”) (ルリヤ), 9, pp.238-239, 1923【1923iB】
9 ) “Sitzungsbericht der Kasaner psychoanalytische Vereinigung” (in “Zur psychoanalytischen Bewegung”) (ルリヤ), 9, pp.543-544, 1923
【1923oB】
10) “Die Psychoanalyse in Russland” (in “Psychoanalytische Bewegung”) (ルリヤ), 11, pp.395-398, 1925【1925!0B】(前回報告)
11) “Russland” (in “Psychoanalytische Bewegung”), 12, p.578, 1926【1926!1B】
12) “Russland” (in “Psychoanalytische Bewegung”), 13, pp.248-249,1927【1927!2B】
「通信」欄関係
1 ) “Moskauer psychoanalytischen Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt der Internationalen Psychoanalytischen Vereingung”), 9, p.552, 1923
【1923qK】
2 ) “Russische psychoanalytische Gesellschaft” (in “Korrespondenzblatt”) (ルリヤ), 10, pp.113-115, 1924【1924wK】
3 ) “Russische psychoanalytische Gesellschaft” (in “Berichte der Zweigvereinigungen”), 10, p.243, 1924【1924eK】
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国分・牛山:ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派
4 ) “Russische psychoanalytische Gesellschaft” (in “Korrespondenzblatt”) (Ermakov), 10, pp.351-352, 1924【1924rK】
5 ) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (ルリヤ), 11, pp.136-137, 1925【1925tK】
6 ) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (ルリヤ), 12, pp.125-126, 1926【1926yK】
7 ) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (ルリヤ), 12, pp.227-229, 1926【1926uK】
8 ) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (ルリヤ), 13, pp.266-267, 1927【1927iK】
9 ) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (Schmidt), 13, pp.370-371, 1927【1927oK】
10) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (Schmidt), 14, pp.294-295, 1928【1928!0K】
11) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”) (Schmidt), 14, p.432, 1928【1928!1K】
12) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”), 16, p.279, 1930【1930!2K】
13) “Russische psychoanalytische Vereinigung” (in “Korrespondenzblatt”), (Schmidt), 16, pp.544-545, 1930【1930!3K】
このうち,「運動」欄の記載者は,Luria が 5 回(22 年より 25 年まで)
,Neiditsch 1 回,Ossipow 1 回,無署名 5 回で
ある。一方,「通信」欄の記載者は,Luria が 5 回(24 年より 27 年まで),Ermakov 1 回,Schmidt 4 回,無署名 3 回で
ある。いずれもルリヤがもっとも多く記載者となっており 4 ),時期は 20 年代半ばを中心としている。そのほか,ルリ
ヤの書いたものには,ロシアの生理学と精神分析の状況について記した論文というべきものが,やはり 1920 年代半ば
にある(Luria, A. R. “Die moderne russische Physiologie und die Psychoanalyse”, 12, pp.40-53, 1926,以下【1926 論文】)。こ
表1
ロシアの精神分析協会の活動報告等(【 】は本報告での略記号)
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れらはルリヤが,20 年代半ばにロシアの精神分析運動の中心的なメンバーとして活躍していたことを物語るものであ
ろう。なお,ルリヤの記載者としての肩書きは,カザンでは書記(Schriftführer)で,ロシアでは事務局長(Sekretär)
である。
4 .ルリヤの会議記録から
ルリヤが行っているカザン及びロシア協会の活動報告には,日付入りで行われた会議の内容が記されているものが
ある(主に,はじめは「運動」欄,後に「通信」欄)。まずそれを見てみよう(表 2 )。なお,そうした会議記録には,
その日の活動が講演であった場合に,その講演内容の簡単な要旨が合わせて記載されていることがある。ルリヤが講
演を行ったとされていて,それの要旨の記載がある場合には,それも表には書き込んだ。
まず,会議の頻度についてみると,カザンでは,やや間のあるときもあるが,大体 2 週に 1 度の頻度で行われてい
る。かなりの頻度というべきであろう。6 ,7 月に会議が行われていないのは夏休みであろうか。1923 年 10 月以降の
ロシア協会では,夏休みと思われる期間を除いて,多くの場合 1 週間に 1 度,少なくとも 2 週間に 1 度程度行われて
おり,ここでもかなりインテンシブな活動がなされていたことがうかがえる。ルリヤは,カザンでは 8 回講演を行い,
1 度に 2 回の講演を行っているときも見られる。ルリヤがカザン協会の中心的メンバーであったことは明らかであろ
う。時にルリヤ 20 歳前後であり,その早熟な知性には,前回の報告にも記したが,改めて驚嘆するばかりである。ロ
シア協会では 7 回講演し(最後の 2 回の講演はルリヤの活動報告によるものではなく,後述する Schmidt によるもの
であるため,表中には含まれていない),カザン及びロシア協会合わせて 15 回の講演を行っている。このルリヤの講
演内容の特徴は,次節で詳しく見ることにして,ここでは,この会議記録の中に記されている講演で興味ひかれるも
のを見てみたい。
まず,ヴィゴツキーが講演を行っている。1924 年 12 月 4 日のロシア協会第 21 回会議で,テーマは“精神分析的方
法の文学に対する応用”である。ルリヤの記載には,講演者ヴィゴツキーの名前の後に (a.G.) と記されており,als
Gast,ヴィゴツキーは協会のメンバーではなかったが,ゲストとして話したと推測される。会議記録の記載者たるル
リヤによる要約は,次のようである。“少なからぬ場合,美的興奮は,美的な快感ともに不快感をも引き起こす。それ
ゆえ,どんな詩作もアンビバレントな性格を有する。詩作の形式というのは,知覚を困難にし,感情の転換を行う。”
きわめて短い要約ではあるが,ヴィゴツキーが,芸術の形式は知覚を困難にするものというシクロフスキーの異化理
論と同様の主張を行っていることは注目される。ヴィゴツキーはその後もロシア協会で講演を行っている。それは,
1927 年 3 月 10 日のことで,ルリヤの後に事務局長となった(この経緯は後述する)Schmidt が記していることで
(【1927oK】),テーマは,
“フロイトにおける芸術の心理学”である。内容の要約等は残念ながら見られない。しかし,
いずれの講演も芸術に係わるものであることは記憶さるべきであろう。芸術に関するテーマの講演が他にも散見され
るのは,精神分析運動全般の当時の動向であるとともに,前回報告したようにロシア精神分析協会が,Ermakov を中
心とする芸術創造性の研究会を母体として出発していたことと関係があるかもしれない。
次に,興味がもたれるのは,ロシア協会 1926 年 1 月 23 日の会議で N.Bernstein 博士が講演しているというところで
ある。テーマは,“音楽における分裂気質と同調気質”で,著者自身(つまり,Bernstein)によるとされている要約は
(筆者にはその意をよく把握できていないところもあるがそれを示すならば)次のようである。“全作曲家はその音階
の情動性から 2 つに分けることができる。第 1 のグループは,エロティックでヒロイックな感情表出が典型的で,第
2 のグループは快と不快の表出が典型的なものである。最初のグループは,神経衰弱的あるいは分裂気質で,第 2 の
グループは,非衰弱的あるいは同調気質である。分裂気質のグループは,例えば,シューマン,ワグナー,スクリャ
ーピン,ベルリオーズ,ヘンデル,ショパン,ドピュッシーなどで,同調気質は,バッハ,初期ベートーベン,チャ
イコフスキー,ロッシーニ,サン・サーンス,ラフマニロフなどである。音楽作品は,精神の古層的(分裂質的)メ
カニズムに基づいており,それゆえ,両方のグループともその心的組織は,同様のもの(確かに分裂質のものとして)
観察されるべきである。そうすると,両方のグループの違いというのは,意識と無意識の構造にあるのではなく,除
反応のやり方にあるとみることができる。分裂気質のグループは,欲動を内的に除反応しており,その場合,心の分
裂質的古層を欲動に投影している。同調気質のグループでは,外的に除反応している。それゆえ,最初のグループの
情動は,無意識の心的内容と原始的欲動との間に発生する内的葛藤に依存している。同調気質のグループのプラス−
マイナス感情は,欲動と除反応可能性との間の純粋に量的な非平衡に拠っている。
”この報告を行った Bernstein とは,
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表2
ルリヤの記したロシアの精神分析協会の会議記録(太字はルリヤの講演)
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誰であろうか。おそらく,活動の生理学者,最近ではギブソンの影響を受けた生態心理学者たちによって再評価され
ている Bernstein であろう。Bernstein の父は有名な精神科医で精神分析協会の会員でもあった(【1922eB】のロシア協
会の会員名簿にその名が挙がっている)。彼の名前が当時の西側に知られる契機となった ”The co-ordination and
regulation of movements”(1967)の序文はルリヤが書いており,また,彼の主著たる“
(運動
の構造)”の中では,ルリヤの症例がルリヤへの謝辞とともに引用されており,ルリヤと Bernstein との親密な親交が
推測される(このことは,国分(2005b)にも記した)。さらに,彼自身ピアノ演奏をよくしたとされ,こうしたテー
マでの講演は十分考えられる。また,1926 年 4 月 22 日にも Bernstein 博士が“現代心理学における形と図の問題”と
いうテーマでの講演を行ったとされている。ごく簡単な要約がついており,それは“人は,図から形を鋭く区別しな
ければならない,まず第一に量的に,二つ目に質的,あるいは位相幾何学的に。”というものである。この報告には,
ファースト・ネームの手掛かりがないのであるが,これもやはりあの Bernstein と思われる。
このようにヴィゴツキーや Bernstein が,ロシア精神分析協会と関係をもっていることは(この二人は最後に述べる
ように会員リストに一度は名を連ねる),当時の若く(ヴィゴツキーと Bernstein は同年(1886 年)の生まれである)
優秀な関連領域の学者が精神分析に強い関心をもっていたことを示す一端とも思われる。
5 .ルリヤの講演内容
では,会議記録の要旨からルリヤの行った講演の内容を見てみよう。
カザン時代には,ルリヤは 8 回講演を行っているが,理論的な内容のものが目立つ。順を追っていくと,従来の心
理学批判とその批判を越え得る精神分析というテーマが初め明瞭で,後にはマルクス主義との親和性が出てくる。前
回報告した Lobner らは,精神分析のイデオロギー的意義が論じられだしたのは,1922 年 9 月のルリヤの講演からとい
うのであるが,当初のルリヤは心理学批判はするが,マルクス主義との関係等のイデオロギー的な講演は行っていな
い。そして,従来の心理学のあり方としてルリヤが何より批判するのは,そのモザイク性,要素主義である(例えば,
1922 年 9 月 7 日の講演)。そうした心理学に対して,人格という全体を捉える心理学の必要性,すなわち,心理学は,
人格全体を扱い,捉えなければならないというのは,今後も繰り返し様々なところで表明されるルリヤのライトモチ
ーフである。この期待に応える新学説が,精神分析である。精神分析の意義は端的に言えばここにある。精神分析は,
なにより,全体-人格が取り扱われているから評価される。ルリヤは,精神分析がその本来的特徴とも言える無意識
に重大な意義を認めていることも,また,心理の生物学的意義を認めていることも,ともに評価はしているが,最初
に出てくる評価は,全体-人格を扱っていることである。心理学の当時の新動向である行動主義やネオ・フロイト主
義,ゲシュタルト心理学等もこの方向に沿っていると見ている(1923 年 3 月 5 日の講演)。この点とも関連してくるが,
このカザン時代,すなわち 20 年代初めのルリヤのことで興味深いのは,すでに,ロシア反射学を,精神分析と近隣の
問題を扱っているものとして注目している点である(1922 年 12 月 10 日,1923 年 3 月 5 日の講演)。つまり,それらが
官許の学となるはるか以前に反射学を評価している。この点についての彼の考え方は,1925 年に Zeitschrift 誌に発表
した論文【1926 論文】に明らかで,次に詳しく見たい。そのほか,精神分析の評価として,それが目的論であるとし
ていることも興味深い(1923 年 2 月 18 日の講演)。通常,フロイトの精神分析は因果論的とされ,目的論的と言われ
るのは,むしろアドラーの個人心理学である。ルリヤが精神分析のいかなるところに目的論的なものをみたのかは現
在の筆者には定かではないが,ヴィゴツキーのアドラーへの高い評価等を考え合わせたとき,こうしたルリヤの精神
分析に対する見方は記憶されてよい事柄かもしれない。
次にロシア協会での講演について見ると,5 回見られているが(前述のように Schmidt の活動報告を入れると 7 回と
なる),カザンの場合と比較して講演回数はかなり少ないと言える。また,テーマを見ると,カザンでは,理論的なテ
ーマが多かったのに対し,そうしたテーマは,ルリヤがモスクワに移った早い時期に一度見られるのみで(1924 年 5
月 29 日の講演),これ以外ではほとんど精神分析固有の問題に関わるものとなっている。その唯一の理論的なテーマ
の講演では,精神分析の一元性が言われている。この精神分析の一元論の強調は,そうした主張を含むと推測される
“一元論心理学体系としての精神分析”というタイトルの論文が,当時の心理学研究所長コルニロフの編による“マル
クス主義と心理学(1925)”という成書に収められていることから,マルクス主義との関係を問題にする中で言われる
ようになったものであることが推測される。ルリヤのカザンでの最後の講演(
“精神分析とマルクス主義”
,1923 年 9 月
4 日)との関係でもそう考えるとすわりがよい。1924 年 5 月 29 日の講演では,一元性の強調のほか,社会環境との相
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互作用の中で人格を見ることが精神分析の成し遂げた達成であるとされているが,この点もマルクス主義との関連を
意識してのことかもしれない。こうした一元論の主張がどういう文脈で,何に応えることを意図して行われたのか,
そして,マルクス主義側とされる立場からのフロイト批判との関係でどのように位置づけることできるかは,今後検
討が必要である。
6 .ルリヤの論文“現代ロシアの生理学と精神分析”【1926 論文】について
上で述べたように,この論文(【1926 論文】)は,ルリヤのロシアの反射学に関する見方がうかがえるものとして重
要である。この論文では,主にパブロフが現代ロシアの生理学説として言及されているが,その他,Wwedenski,
Uchtomski も参照されている。先に見たように,ルリヤは,ロシアの反射学を,精神分析と近隣の問題を扱っている
ものと評価しているのであるが,いかなる点でそのように考えているのであろうか。端的に言って,ルリヤは,パブ
ロフの条件反射-一時結合の学説を心因の生理学的説明と見ている。何よりもこの点で,精神分析とパブロフ学説は
近いものとされている。論文は,その心因性の問題から入る。今述べたように,心因性を神経生理学的に説明するも
のとして条件反射が位置づけられ,心因の影響を実験的に物語るものとして,実験神経症が紹介される。また,犬に
おける神経症の現れ方のちがいから,神経系のタイプの研究も紹介される。さらに,性反応の抑制実験から,性的器
官が精神全体へ有する重大な意義を言う。ここまで参照されるのが,パブロフの研究である。次に,精神分析で言う
抑制の問題が取り上げられる。ここで参照されるが,Wwedenski の研究で,行き過ぎた興奮は抑制に転ずるというパ
ラビオディシュな抑制が紹介される。それの特別なものとして,精神分析で言うところの抑圧が位置づけられる。そ
して,最後に Uchtomski の研究が参照される。Uchtomski が,神経系の特別な興奮の中心が,生体に入ってきた刺戟を
自分の方へひきつけ,通常その刺戟が引き起こす反射を抑えて興奮がますます強く優勢になることを“ドミナント”
と名づけたことが紹介され,この“ドミナント”こそが,フロイトの言う欲動(内的刺戟)であるとされる。
ルリヤの論の進め方は,無理がないように見え,生理学の知見と精神分析の結びつけ方は,自然で説得的である。
少なくとも牽強付会という感じはない。論文中には,“快楽原則の彼岸(1920)”,“自我とエス(1923)”,“マゾヒズム
の経済問題(1924)”等のフロイトの最新の論文が参照されており,ルリヤ(そして,おそらくロシアの精神分析学者
たち)が,いかに注意深くヨーロッパの精神分析の動向を見守り,かつ,いかに早く取り入れていたかがうかがわれ
る。フロイトが死の本能を導入した“快楽原則の彼岸”はここでも否定的な扱いは決して受けていない 5 )。また,先
にも触れたが,ルリヤ(およびヴィゴツキー)の著作でよくなされる心理学の要素(モザイク)主義へ批判が,ここ
でも議論の出発点としてなされている。ここでは,要素主義が骨相学とが結びつけられて批判されており,このこと
は,ルリヤの後年の神経心理学におけるシステム的局在論を思うとき興味深い。
この論文が書かれたのは,ユリネッツらによる精神分析批判が始まった後であり 6 ),内容の解釈に当たっては,そ
うした厳しいイデオロギー批判との関係も斟酌しなければならないかもしれないが,ロシアの反射学へルリヤが注目
しているのは,カザン時代からで,一朝一夕のものではない。そもそもパブロフ反射学が官許の学となるのにはいま
少し間がある。最後に触れるルリヤの自伝の編者たる Cole は,客観的データに基づくという方法論を,ルリヤはその
研究生活の初めから注意深く守り続けているとしている(Luria, 1979, P.10)。精神分析とマルクス主義を統合しようと
したものとしては,エーリッヒ・フロム等のフロイト・マルクス主義が有名であるが,それとルリヤが目指したもの
とは大分趣きが異なるように思われる。その拠って来るところは,こうしたルリヤの学への態度であったのかもしれ
ない。そして,このことが,後にはルリヤを神経心理学へと向かわせたのかもしれない。フロイトが神経生理学・神
経学者として出発して精神分析(メタ心理学)へ至ったのに対し,ルリヤは,心理学者として出発して神経心理学に
至ったという対照は興味深い。なお,本報告末に,この論文の内容について,その概要を記した。
7 .国立精神分析研究所の活動
これまで見てきたように講演を主にする会議のほかにも,協会の活動は種々記されているが,国立精神分析研究所
の活動についての記載も見られる。革命後のロシアに国立の精神分析研究所があったことはよく知られていないと思
われるため,前回報告した 1925 年のルリヤの Zeitschrift 報告(【1925!0B】)とも重なるが,より具体的内容が記されて
いる点もあるため,以下に見てみよう。ルリヤによる報告があるのは,【1924wK】で,ルリヤのモスクワでのロシア
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国分・牛山:ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派
協会の最初の報告である。それによると,国立精神分析研究所は 1921 年にモスクワに開かれた。1923 年秋までは精神
分析的養護施設-実験室としてあったが,その後その仕事は各方面へ拡大され,今では次のようなことを行っている。
1)医師,教師,心理学者,学生のための科学的(学問的)精神分析コース(表 3 ),2)精神分析の基本問題個別セミ
ナー(初心者用)(表 4 ),3)“国際連帯”による子どもの家実験室の活動,4)精神分析外来である。3)に関しては,
すでに 2 年半の活動を行ってきており,学問的に基礎づけられた分析的教育学を打ち立てることを目指してきた。現
在 2 から 4 歳の子ども 12 名がおり,来月にはもっと年少の子どもが入ることになっている。子どもの家実験室では,
子どもの遊び,言語,性生活等について多くの観察を行い,それらは,Schmidt の著書にまとめられている。4)につ
いては,1923 年秋より開設し,Ermakov が指導にあたり,Wulff と Spielrein が業務に当たり,Aberbuch と Friedmann
が助手を務めている。子ども特別外来は Ermakov と Spielrein が担当している。この他,事務処理についての記載があ
り,協会及び研究所の事務は協会幹部会が行っているとあり,ルリヤは事務局長とされており,そのほか,会長
Ermakov,副会長 O.Schmidt,会員として Wulff と Spielrein の名前が挙げられている。Ermakov は研究所の所長(ディ
レクター)でもあると書かれている。以上,
【1924wK】では,講義・セミナーのコースの具体的な姿が示され,また,
前回の報告でも触れた子ども家実験室は“国際連帯”が運営していると書かれている。この子どもの家実験室の活動
は,前回報告したように Lobner らがロシア協会には児童学者のブランチがあったとしていることとともに,後の児童
学批判等との関係で注目してよいことかもしれない。
表3
講 師
医師、教師、心理学者、学生のための科学的(学問的)精神分析コース
コース名
表4
時 間
精神分析の基本問題個別セミナー(初心者用)
8 .協会運営・事務局事情など
そのほか,協会の活動として記載されていることの中で,協会運営等について見ると,興味深いことにまず,ルリ
ヤのカザンからモスクワへの移住についてのことがある。上の会議報告でみたように,ルリヤは 1923 年までカザン協
会の活動を記載し(
【1923oB】
)
,1924 年からは,ロシア協会の活動の記載者,しかも事務局長となっている(
【1924wK】
)
。
この所属組織の変更は,ルリヤのモスクワ移住を伴っていたのであるが,これに関わる記事が,カザン協会の最後の
活動報告である【1923oB】の事務処理事項に見られる。それには次のように書かれている。“ロシアにおける精神分
析運動を集中させるために,カザン協会の会員の何人かが全ロシア精神分析協会に入会しモスクワで席を占めるのが
望ましいということになり,ルリヤ,Dr. B. D. Friedmann,Dr. R. A. Averbuch の 3 人のモスクワ移住が現在認められて
いる。”この記載によるならば,ルリヤのモスクワ行きは精神分析運動の発展のためになされたかのようであり,きわ
めて興味深い。
こうして 1924 年より,ルリヤはロシア協会の事務局長として,Zeitschrift 誌に登場してくるのであるが,いかにし
− 209 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
て事務局長になったのかに関する経緯は,【1924wK】には書かれていない 7 )。彼の記したこの報告には,彼の名前も
含まれている新会員リストが最初に挙げられている。このリストには,ルリヤとともにカザンから移ることとなった
と先に言われた Friedmann と Averbuch の名前も見られ,また,ジュネーブからの会員として Spielrein の名前も一緒に
載っている。ルリヤを含むこれらのメンバーは 1923 年秋にロシア協会の会員となったと書かれている。先に会議記録
に記したように,ルリヤは 1923 年 9 月 4 日にはカザン協会で講演を行っているのであるから,それからすぐモスクワ
へ移ったと思われる。その新会員リストにおけるルリヤの肩書きは,“カザン協会の会員,現在は,モスクワ大学心理
学研究所助手”である。
その後彼は,事務局長として 1927 年まで活躍するのであるが,選挙で事務局長に(再度?)選出されたという記述
が,1924 年 11 月 27 日に見られている。それによれば,この日協会役員の改選が行われ,ルリヤが事務局長に選ばれ
た他,会長には Wulff,副会長に Ermakow と Kopp,役員に Kannabich が選ばれたと書かれている(【1925tK】)8 )。
ルリヤが事務局長を辞めることに係わる記載は,1927 年 4 月 7 日のこととして見られる(【1927oK】)。これは,
Wera Schmidt の記載によるものであるが,それによると次のようである。“1927 年 4 月 7 日……(中略)……事務局会
議でルリヤが協会の事務局長職の辞職を申し出た。協会としては真に残念ではあるが,彼の願いを容れ,彼に(これ
までの働きに対し)謝意を表する。新しい事務局長には,Wera Schmidt が選ばれた。“なお,この Schmidt の報告は,
1927 年第Ⅰ _ Ⅱ四半期の短い会議録なのであるが,そこには,ルリヤの 2 回の講演(“子どもの未熟な思考についての
実験的研究について”
(1927 年 2 月 23 日),
“Bychowsky の“フロイトのメタ心理学”についての報告”
(1927 年 3 月 17 日))
のことが記されており,これらが,結局ルリヤのロシア協会での最後の講演となったようである。また,この報告に
は先に述べたヴィゴツキーの講演のことも記載されている(1927 年 3 月 10 日,“フロイトにおける芸術の心理学”)。
9 .むすび
さて,次にルリヤの名前が登場するのは,1928 年の 2 回の Schmidt によるロシア協会の活動報告(【1928!0K 】,
【1928!1K】)を間に挟んで,1930 年 16 巻の報告の会員リストにおいてである(【1930!2K】)。これから,彼は事務局長
を辞任しても,協会自体を辞めたのではないことがわかる。また,このリストにはヴィゴツキーの名前も載っている
ことは,注目されてよいだろう。先にはゲストとして講演していたが,その後会員となったと推測される 9 )。そして,
この年の Schmidt による短い報告(【1930!3K】)を最後に,ロシア協会の活動報告自体が Zeitschrift 誌から消えるので
ある。
ところで,ルリヤには,“Making of Mind”というよく知られた自伝があるのであるが,これまで見てきたような精
神分析とのかかわりについて,彼自身がどう記しているかというと,前回の報告に記したフロイトへ手紙を書き,返
事をもらった一件以外,精神分析運動への係わりはほとんど述べられていない。そもそもモスクワでの精神分析運動
へのかかわりに関する記述はない。モスクワへ移ることについては,モスクワの心理学研究所長コルニロフ教授に,
彼と同様の測定機器を用いていたことが機縁で,スタッフとして呼ばれたとされており,精神分析運動との関連は触
れられていない。この自伝の編者たる Cole の書いたエピローグには,ルリヤと精神分析の関わりが触れられており,
精神分析をマルクス主義に沿う心理学として望みを抱いていたことや,精神分析批判の真っ只中で協会事務局長を辞
めたことも,その事情についての詳細はみられないものの,書かれている。ルリヤには“A history of psychology in
autobiography”にもう一つの自伝があるが,そこでは,若い時に精神分析の全体性に惹かれ,また,フロイトとアド
ラーの“具体的心理学”に触発されて本の原稿を書いたこと等が少しく触れられているが,精神分析とのかかわりに
ついての興味引かれるような記述はない。
補 “現代ロシアの生理学と精神分析”論文概要
(各見出しは筆者が論文内容のまとまりに応じてつけたものでルリヤによるものではない)
【心因と条件反射】(心因の生理学)
精神分析の歴史的発展は,素朴−解剖学的医学に対する反動として理解される。素朴−解剖学的医学では,人の生
活経験の多様性は,全く解剖学的土台に基づくとされる。そうした医学の一部をなす古典的生理学では,心因
(Psychogenie)の可能性を理解することはできない。なぜなら,そこでは,人間の活動は,恒常的で,不変で,局所的
− 210 −
国分・牛山:ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派
な機能に分解でき,そして,その機能は,また,ある脳中枢の活動に帰することができると考えられているからであ
る。これはガルの骨相学的見解にきわめて近い。
この生理学における見解とまったく対応するものが心理学にも見られる。すなわち,
“能力心理学”や“連合心理学”
である。ここでは,人間の行動の多様性は,静的で,せまく限られた要素の一定の数に分解できると考えられていた。
しかし,この心理学の考え方はダイナミックな考え方に取って代わられた。そこでは,人間の行動は,可動的(柔軟
な)均衡システムとして,内的刺戟及び外的作用の下で絶え間なく変化していくものとして捉まれている。この立場
こそ,精神分析をもっともよく表現するものでもある。現代心理学,行動主義やゲシュタルト心理学もこの後を追っ
ている。
こうした心理学の動向と呼応して,生理学にも発展が見られている。それは,脳中枢及び脳メカニズム,また,心
因性についての考え方の変化に見られる。それは,ロシアの生理学者パブロフの仕事とともに始まった。パブロフは,
心因の過程を目に見えるように示した。彼は,固定し,安定した皮質中枢による働きによっては説明することのでき
ない心的唾液分泌を発見した。反射は,いつもまったく決まった同じ刺戟によって引き起こされるのみならず,任意
の刺戟との結合も,それが元来反射を引き起こす刺戟とある一定の関係で存在するならば,あり得る。すなわち,そ
れ自体無関係の刺戟が任意の反射を呼び起こすことができるのである。このような精妙なメカニズムにより,生体は,
外界の多様性に適応することが可能となり,平衡状態を動的に保っている。これはまた,心因の生理学的な根拠である。
このような実験条件下で確認されたことは,精神分析家にはよく知られていることだった。すなわち,彼らの患者
は,どんな性質の,またどんな症候の感情反応をも,しばしば見かけ上無関係で,害のない刺戟に対して示す。例え
ば,何の害のない言葉が猛烈な反応を引き起こしたり,忘れ去られたり,排除されたりするのである。その場合,そ
の感情反応と言葉とは,かつて一緒に現れたか,結びついていたかしているのである。これを大脳中枢のメカニズム
としてパブロフ学派は説明した。パブロフは,安定した,恒常的な脳中枢と並んで動的な,一時的な“条件”中枢を
配置した。条件づけられた一時的な興奮巣のすべてのエネルギーを,もっと強い興奮巣が自分の方に引きつけて,そ
れに自らに固有・独特の反応を担わせる。これが“条件反射”なのである。こうした“一時中枢”の活動の問題とは,
それゆえ心因の問題であり,それは,このように生理学的メカニズムの基本問題であり,有機体の法則全般において
しかるべき位置をも占め得るものなのである。
【心因の影響】
こうした心因の影響の重大性もまたパブロフらによって示されている。動物は法外な難度の課題が与えられると,
適切な反射過程が障害され,皮膚に湿疹が生じる。こうした犬の湿疹はしばらく休ませると消える。この湿疹と,人
生に生じた難問を前にして起こる神経症状とを原理上区別することはできない。このように神経症状形成のメカニズ
ムはコンフリクトに存する。さらに例示しよう。犬は 100 打のメトローム音と 104 打のメトロノーム音との区別は可能
で,100 打の場合には唾液反射を起こし,104 打の場合には制止するという条件づけができる。そこで,102 打のメト
ローム音を与えるとどうなるか。犬は反射で応ずるでも制止するでもない。そうする代わりに興奮の爆発が生じる。
すなわち,犬は繋がれている鎖を引きちぎろうとし,吼え,肢を噛むなどする。こうしたことはトラウマ的情動(ア
フェクト)と言えるもので,この間犬はすべての教え込まれた反射を全く生じせしめることができなかった。こうし
たトラウマはこのような内的コンフリクトのみならず強力な外的ショックによっても生じる。例として,1924 年レニ
ングラード大洪水の際に大変な苦労の末救出された犬には,仕込まれた条件反射の減弱が 2 - 3 週の間生じたのであ
った。そして,しばらく後まで実験室のドアの隙間からちょっとした水が漏れてくるだけでしばらくの間条件反射は
減弱したという。
【神経系のタイプ】
さて,このように実験動物が困難な課題に直面した場合には,教え込まれた反射に障害が生じるのであるが,その
現れ方は,実はすべての個体において同じではない。すなわち,反応のタイプがあるのである。そして,それは神経
疾患のタイプと関係している。一つのタイプは,すべての刺戟に反射で応じるもの,すなわち制止反射が減弱するも
ので,これをパブロフは“敏感”タイプと名づけている。神経疾患ではこれは神経衰弱あるいは精神衰弱に似ている。
一方,運動するのを止め,無気力となり,刺激に弱く反応するだけとなるタイプもある。この場合には,まず正の反
射が消える。そして,すべての刺戟に対する全般的な制止状態が出現する。これが,“制止”タイプで,神経症では抑
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
制によって特徴づけられるタイプである。これらは心的差異に関する体質的気質タイプの実験生理学的確証となるも
のである。
【性抑制のもたらすもの】
また,パブロフは,実験的に形成した性抑制というケースによって,性的器官が,神経機能において果たす役割を
はっきり示した。それは,性的反射を引き起こしていた皮膚箇所の周辺に制止反射を形成し,それを徐々に狭くする
という手法でなされた。このように性的反射を引き起こさないように条件づけされた動物はどうなったか。犬の性格
は全く変わってしまったのだ。それまでは活発で活動的であったのが,全く不活発となり,だらけ,非活動的で,周
りに対してのろのろと反応するようになってしまった。これは精神分析が示してきた定理,すなわち,性的器官が精
神全体へ卓越的な意義を有しているという定理が,純粋の生理学的実験によって証明されたということである。
さて,目下ロシアの生理学者によって活発に議論され,精神分析の問題範囲ともぴたりと重なるのは抑制のメカニ
ズムである。この点で,二人目のロシアの生理学者 Wwedenski の研究が注目される。
【パラビオディシュな抑制】(Wwedenski :抑制の生理学的メカニズム)
Wwedenski は興奮と抑制の生理学について研究し,抑制と興奮は全く別の過程ではなく,つながっているとする。
抑制は過興奮の結果で,行き過ぎた興奮は抑制に転ずる。カエルの神経筋標本に電撃刺戟を与えると最初はその強度
にふさわしい痙攣を示す(均衡相)。刺戟強度をさらに強くすると逆接相(強い刺戟には反応せず,弱い刺戟に反応す
る)に至る。さらに強くすると,いかなる刺戟にも反応しなくなる。すなわち,過剰刺戟は抑制に転ずる。こうした
抑制を,Wwedenski は,パラビオディシュな抑制とし,生物学的に合目的的なメカニズムであるとする。すなわち,
あまりに多大な,生体の生存や通常の機能に危険となるような刺戟量に対して生体を守るためのメカニズムである。
これは,フロイトが,特にメタ心理学の中で心的システムの全体的な経済として述べたことと一致する。それは,
緊張を最小限に留めようとする傾向で,換言すれば,大きな興奮を中和し,最小限に減じ,エネルギー過程のある平
衡を維持しようとする傾向である。安定化原理あるいはニルヴァーナ原理と言われるのはこうした傾向のことで,そ
れは,フロイトの言うところによれば(“快楽原則の彼岸”,“マゾヒズムの経済問題”),経済的見地から快楽原理がそ
こへ還帰していくようなものである。このように緊張を最小限に維持しようとするのは心的機関の作動原理なのであ
るが,それは,生理学的メカニズムとしては“パラビオティシュな抑制”として見られるものなのである。精神分析
で言う抑圧とは,抑圧されるものの意識からの離脱を意味するものであるが,それはパラビオディシュな抑制の特別
な場合とみなし得,大脳の過剰興奮とそれに続く皮質(および意識)のパラビオディシュ抑制が精神分析で言う抑制
と考えられよう。ここにも精神分析の抑圧理論はその支持を見出すことができる。
【ドミナントの生理学】
(Uchtomski :欲動の生理学的メカニズム)
フロイトは,欲動(内的刺戟)とは,生体における非常に早い時期からの外界に由来する刺戟の沈殿物だと言うの
であるが,この欲動の問題に関して,第三のロシアの生理学者 Uchtomski は,欲動の問題と生理学的事実を実験的研
究において見事に結びつけた。それが,ドミナントの生理学説である。彼は,カエルが性的に興奮状態にあると,普
通なら肢の反射を引き起こすような刺戟に対してそれにふさわしい反射で反応せず,性的な反射(しがみつき反射)
のみが強く出現することを見出した。これを,彼は,神経系に特別な興奮の中心があると,それは生体に入ってきた
刺戟を自分の方へひきつけ,通常その刺戟が引き起こす反射を抑えて優勢になることを示すと考え,この興奮の中心
を“ドミナント”と名づけた。このドミナントな興奮は,安定性と持続性を特徴とする。このような持続的な内的刺
戟というのはフロイトの定義した欲動によく合致する。ドミナントの生理学の強調するところの 2 点,すなわち,q
永続的な興奮(欲動)によって,それと関係をもたない活動は弱められ,中断される,w他の反射を引き起こす刺戟
は,ドミナントに引きつけられるようになってしまい,そのドミナントの過程をますます強化する,というこれらは,
精神分析の実地で失錯行為に関する事柄として我々によく知られていることと一致する。それは,本来害のない興奮
もまた支配的な情動を強化するということである。フロイトは,欲動は原理的に外的刺激と区別できず,上にも述べ
たように,欲動とは,生体の発達の初めにおいては,細胞における外的刺戟の沈殿物だとしているが(“快楽原則の彼
岸”,“自我とエス”),Uchtomski は,この外的刺戟の“沈殿”をつくることに成功したと言えよう。カエルの筋神経
標本において,いわば要素的欲動モデルが形成され,外的刺激と恒久的な内的刺戟・欲動の親近性が証明され,これ
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国分・牛山:ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派
によって,フロイトの推測は実験的確証を得たと言える。
注
1 )最近邦訳されたヴィゴツキーの“教育心理学”(柴田義松ら訳(2005)「教育心理学講義」.新読書社)を見ると,「本能」が教育
上の重要なものとして位置づけられ,「昇華」や「自我」,「イド」といった精神分析の用語が本文見出しとしても肯定的に(無
邪気に)用いられている。この“教育心理学”はヴィゴツキー最初の著作とされ,その後の彼の著作を,“芸術心理学”,“心理
学の危機”と順に並べてみると,初期ヴィゴツキー思想の変遷が,精神分析への態度を手がかりとして浮彫りにできるように思
われる。
2 )彼が取り上げているのは,q“現代心理学の基本的潮流から見た精神分析”
(1923),w“一元論心理学体系としての精神分析”
(コルニロフ編“マルクス主義と心理学”所収)(1925),eフロイトの“快楽原則の彼岸”ロシア語版序文(1925)(ルリヤとヴ
ィゴツキーによるもの),rソビエト大百科事典の 2 つの記事“欲求”(1930)と,t“精神分析”(1940)である。
3 )前回の報告で,ロシア協会は後にベルリンの協会に編入されたと記したが,これは,ロシア協会がベルリンの国際精神分析協会
の一員となったということの著者の誤読であろう。
4 )上に述べたように,
は,ルリヤが 1922 年から 1926 年の間に 7 つの報告を外国で行っているとしているのだが,その
内訳は,カザンの精神分析の小グループに関して 2 本,ロシア精神分析分析協会に関して 3 本(とするが,誤記と思われる記載
を含みつつ,実際は 4 本),ソ連の精神分析一般状況について 2 本としている。しかし,Zeitschrift 誌を一通り見ると,少なくと
も 11 本見つかる。その内訳は,カザンの精神分析グループに関して 4 本,ロシア精神分析分析協会に関して 6 本,ロシアの生
理学と精神分析の学問的状況についての論文 1 本である。
5 )前回の報告で多少触れたが,このフロイトの著書のロシア語版への序文を書いているのは,ヴィゴツキーとルリヤである。死の
本能を導入したこの書を前にしても,彼らは,精神分析を唯物論的であると高く評価しているようである。この序文は,はじめ
に取り上げた
も注目しているもので,その内容の詳細,意義については,いずれきちんと論じたいと思う。
6 )ユリネッツらによる厳しい精神分析批判が始まったことは,ルリヤの活動報告【1925!0B】に書かれている。その内容について
は,前回の報告で紹介した。
7 )Lobner らは 1922 年ロシア協会が再結成され,その事務局長は Wulff であるとしており,前回の報告でもそのように記したが,
この報告が事務局長ルリヤでなされていることを見ると,間違いか,一年間の間に交代があったのかのいずれかである。
8 )Lobner らは 1927 年にルリヤが事務局長になり,その年中にさらに Schmidt に変ったとしているが,ルリヤは,上に見たように
ロシア協会に参加した当初から事務局長となっている。
9 )Internationale Journal of Psychoanalysis の 1929 年 10 巻にも同様のリストが掲載されており(562 頁),ここにもルリヤとヴィゴツキ
ーの名前が載っている。また,こちらのリストには Dr.N.A.Bernstein も名を連ねている(Zeitschrift 誌には Bernstein の名前はな
い)。面白いことに,これらのリストには氏名のほか,住所も記されており,ルリヤはこの 2 つのリスト間で住所が違っている
(Journal 誌: Moskau, Leningrad Bolschoy, Pr.St.10, Zeitschrift 誌: Moskau, Arbat 54, W. 5)。ヴィゴツキーについては同じである
(Moskau, B. Serpuchowskaja 17)。前回の報告でエトキント(1997)が 1929 年にヴィゴツキーが精神分析協会の会員になったとし
ているのは遅すぎるようにも思うと記したが,このリストに基づくなら確かにそうである。
文 献
1)
No. 4, C. 84_93.
, C. A. (2002) A. P.
2 )エレンベルガー,A.(木村敏・中井久夫監訳)
(1980)「無意識の発見(下)」.弘文堂〔原著 1970〕
3 )エトキント,A.(武田昭文訳)(1997)文芸学者ヴィゴツキー―忘れられたテクストと知られざるコンテクスト―.現代思想,
25_4,pp.214_241.〔原著 1995〕
4 )フロイト,S.(野田倬訳)(1983)「精神分析運動史」.人文書院(フロイト著作集第 10 巻所収)〔原著 1914〕
5 )国分充(2005a)20 世紀初めのロシアにおける精神分析の運命―覚え書―.東京学芸大学紀要第 1 部門教育科学,第 56 集,
pp.309_320.
6 )国分充(2005b)小特集「障害児・者の運動行為へのアプローチ」の企画にあたって.発達障害研究,27a,pp. 1 _ 3.
7 )Lobner, H., Levitin, V. (1978) A short account of Freudism –Note on the history of psychoanalysis in the USSR–. Sigmund Freud House
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
Bulletin. pp. 5 _30.
8 )Luria, A. R. (1974) “A. R. Luria” (In” A history of psychology in autobiography (ed. Lindzey, G.) Vol.6”, pp. 253_292), Prentice-Hall
9 )Luria, A. R. (1979) “The making of mind –A personal account of soviet psychology” (eds. Cole, M., Cole, S.). Harvard Univ. Press.
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KOKUBUN, USHIYAMA : Russian Psychoanalytic Movement and Vygotskian Circle
Russian Psychoanalytic Movement and Vygotskian Circle
── From Luria’s articles appearing in the journal
“Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse” ──
Mitsuru KOKUBUN*, Michio USHIYAMA**
Education and Developmental Science for Induviduals with Special Needs
Key words : Russia, Psychoanalysis, Vygotsky, Luria
Luria described the activities of the Kazan Psychoanalytic Society and Russia Psychoanalytic Society (in Moscow) on the
journal of “Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse” from the year 1922 to 1926. His nine reports and one paper appearing in
the journal were reviewed and summarized as follows:
1 . From minutes of the meeting
The meetings were held intensively once a week or, at least, once every two weeks both in Kazan (1922_1923) and Moscow
(1923_1926). Some interesting records mentioned that Vygotsky and Bernstein lectured twice with the theme of literature or art
in the mid-1920’s.
2 . Characteristics of Luria’s lectures
Luria lectured eight times in Kazan and six times in Moscow. He criticized the psychology of the times on the charge of its
mosaic-ism and appreciated psychoanalysis in that it treated the total human personality. He also noted Russian reflexology such
as that of Pavlov because it could explain psychoanalytic problems.
3 . Activities of the National Psychoanalytic Institute
4 . Management of the Society
An interesting record indicates that Luria’s move from Kazan to Moscow in autumn of 1923 was in order to integrate and
strengthen the Russian psychoanalytic movement.
*
**
Tokyo Gakugei University (4-1-1 Nukui-kita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184-8501, Japan)
Hyogo University of Teacher Education, Graduate School of Education
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