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ロシアにおける多文化共生の葛藤 ―ユーラシア主義をめぐる議論から―
********** 論文5 ********** ロシアにおける多文化共生の葛藤 ―ユーラシア主義をめぐる議論から― 加藤史朗 1 多民族国家ロシア ( 1) ナ シ ョ ナ ル ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ を め ぐ る 苦 闘 9世紀にキーエフを中心として成立したルーシ(ロシアの古称)は、13世紀にモ ン ゴ ル 帝 国 の 支 配 下 に 入 る 。ル ー シ は 、そ の 後 1 5 世 紀 に「 タ タ ー ル の 軛 」 (モンゴル の支配をロシア史ではこう呼ぶことが多い)から脱し、モンゴルの継承国家ともいう べきユーラシア国家を形成した。支配のシステムは帝国であった。アンシャン・レジ ー ム と し て の 帝 国 支 配 は 、 1917 年 の ロ シ ア 革 命 に よ っ て 打 倒 さ れ た 。 し か し 、 1922 年に成立するソ連邦は、一面では「帝国」支配の復活であった。帝政ロシアとその継 承 国 家 ソ 連 邦 は 、こ う し て ま す ま す 肥 大 化 し た「 国 家 」を つ く り あ げ た 。 「ロシアは国 家をつくりあげたが、ネーションを生み出すには至っていない」という帝政末期の歴 史 家 ク リ ュ チ ェ フ ス キ ー の 見 解 1は 、 今 な お 有 効 で あ る 。 ユ ー ラ シ ア 主 義 は 、1920 年 代 に 亡 命 ロ シ ア 人 の 間 で 生 ま れ た 。亡 命 ロ シ ア 人( 赤 色 革 命 に 反 対 し た 人 々 と い う 意 味 で 白 系 ロ シ ア 人 と も い う )と は 、 「 ソ 連 人 」と い う 疑 似 ネ ー シ ョ ン か ら 排 除 さ れ た 人 々 で あ り 、彼 ら が 主 張 し た ユ ー ラ シ ア 主 義 と は 、 「ソ連人」 に代わる「ユーラシア人」をめざす運動であった。 ユーラシア主義は19世紀以来のロシアにおけるナショナル・アイデンティティを め ぐ る 苦 闘 の 歴 史 を 背 負 っ て い る 。ロ シ ア に お い て 国 民 意 識 の 覚 醒 を 促 し た 大 事 件 は 、 1812 年 の 祖 国 戦 争 で あ っ た 。ナ ポ レ オ ン 軍 と の 戦 い に お い て 、ロ シ ア は フ ラ ン ス 革 命 が生み出したネーション・ステートの強力な「国民軍」と対峙せねばならなかった。 この体験は、戦後のロシアにおいても「国民」形成の動きを生む。不幸なことに、そ の 志 向 は 、1825 年 の デ カ ブ リ ス ト 蜂 起 の 失 敗 を 経 て 政 府 と 知 識 人 の 間 で 分 裂 し た だ け ではない。知識人の間でも様々に分裂する。おおざっぱに言えば政府は「官製の国民 性」を鼓吹するが、十分な実効を挙げない。これに批判的な知識人の間でも意見の食 い 違 い が 、「 西 欧 派 と ス ラ ヴ 派 の 論 争 」 を 生 む 。 「 西 欧 派 と ス ラ ヴ 派 の 論 争 」は 、近 代 ロ シ ア の 思 考 を 常 に 規 定 す る 枠 組 み と な っ た 。 し か し 、1860 年 に「 東 方 を 支 配 せ よ 」と い う 勅 命 を 名 称 と す る 都 市 ウ ラ ジ ヴ ォ ス ト ー クが建設され、ロシアがユーラシア国家として完成すると、従来の西欧派とスラヴ派 の対立を克服しようとする動きが生まれる。汎スラヴ主義もその一つであったが、さ らに広くロシア独自の「第三の道」を求めるイデオロギーとして生まれたのが、ユー 1 Byrnes, R.F., V.O.Kliuchevskii, Indiana UP., 1995, p.xviii 152 ラ シ ア 主 義 で あ っ た 2 。デ リ ダ の 言 葉 を 借 り て 言 い 換 え る な ら 、ロ シ ア が ユ ー ラ シ ア 帝 国として成立した時、19世紀以来の「西欧派とスラヴ派の論争」は「脱構築」され たのであった。 19世紀後半のユーラシア主義者を代表するのが、他ならぬドストエフスキーであ っ た 。 次 ぎ に 挙 げ る 文 章 は 、 彼 が 1856 年 に 新 帝 ア レ ク サ ン ド ル 二 世 に 宛 て た 「 1854 年 の ヨ ー ロ ッ パ 事 件 に 」と 題 す る 詩 の 形 式 を と っ た 文 章( A )と 1881 年 に 記 し た『 作 家の日記』からの抜粋(B)である。両者は、ロシアがヨーロッパとアジアの狭間に あるというジレンマを敏感に感じ取っていたドストエフスキーの屈折感をよく示して いる。 (A)ロシアの将来は諸君にはわからない!/ロシアの天命が諸君には見えないの か?/東方はロシアのものだ!ロシアに向かって、/幾百万の人びとが倦むことなく 手をさしのべている。/奥深いアジアに君臨しつつ/ロシアはすべてに若い生命を与 えている。/古代オリエントの復活は(神の命により!)ロシアがもたらすのだ。/ それは新たなるロシア、それはツァーリの御代、/来るべき未来の華麗な曙!3 (B)ヨーロッパの人たちがわれわれをアジアの野蛮人と呼ぶのではないだろうか。 われわれのことを、ヨーロッパ人よりもずっとアジア人に近いというのではあるまい かなどという、下男根性の危惧をまず追い払う必要がある。ヨーロッパはわれわれを アジア人扱いにしているというこの羞恥心は、ほぼ2世紀近くもわれわれにつきまと っている。……ヨーロッパではわれわれはタタール人でしたが、アジアではわれわれ だってヨーロッパ人です。4 ユーラシア主義はこうした屈折を逆手にとる。すなわち、ロシアは遊牧世界と農耕 世界の相剋の中で生まれたという前提に立ち、ロシア正教の中にユーラシアの多様性 が融合し、ロシア文明は東西文明の精華を組み込んだものだという主張になる。ロシ アのツァーリは、ビザンツの伝統の継承者であるとともに、モンゴル帝国の継承者で もあると言う見解が生まれる。 「ロシア人史家は、ロシアのツァーリは、その単語自体においても東ローマ帝国の伝 統を引き継いでいると主張するが、ツァーリという名称は、古くからのハーンのロシ ア語訳として使用されていた。ロシアのツァーリは、まさしく、モンゴルのハーンの 継 承 者 の 一 人 だ っ た の で あ る 。」 5 ( 2) ロ シ ア 革 命 と ユ ー ラ シ ア 主 義 の 誕 生 2 大 木 昭 男 「 ロ シ ア に お け る 「 第 三 の 道 」 と し て の ユ ー ラ シ ア 主 義 」、 南 塚 信 吾 編 『 近 現 代 西 洋 史 に お け る「 第 三 の 道 」論 の 史 的 展 開 に 関 す る 研 究 』 ( 平 成 14 年 度 ~ 平 成 16 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 ( 基 盤 研 究 ( B )) 研 究 成 果 報 告 書 )、 平 成 17 年 、 93- 104 頁 参 照 。 3 『 ド ス ト エ フ ス キ ー 全 集 』 第 25 巻 ( 染 谷 茂 ・ 原 卓 也 訳 、 新 潮 社 、 1980 年 ) 、 392 頁 。 4 『 ド ス ト エ フ ス キ ー 全 集 』 第 14 巻 ( 小 沼 文 彦 訳 、 筑 摩 書 房 、 昭 和 45 年 ) 、 379~ 384 頁 。 5 宮脇淳子「ロシアにおけるチンギス統原理」 、『 ロ シ ア 研 究 』 № 58、 1996 年 、 20 頁 。 153 1921 年 、ブ ル ガ リ ア の ソ フ ィ ア で 言 語 学 者 の N・S・ト ル ベ ツ コ イ 、地 政 学 者 の P ・ N・サヴィツキイなどにより『東方への脱出』と題する論文集が出版された。現代ユ ー ラ シ ア 主 義 運 動 の 出 発 点 と さ れ る 出 来 事 で あ る 。そ の 思 潮 の 特 徴 は 1927 年 に 刊 行 さ れた「ユーラシア主義」と題する綱領にまとめられている。以下に要約する。 1.現代のロシアは、ヨーロッパとアジアの運命を決する存在である。それは第六 の大陸ユーラシアであり、新しい世界文化の結節点であり、始まりである。 2.ロシアは独自の世界である。それは独立した地理的・文化的世界である。 3.我々はスラヴ人でも、トゥラン人でもなく(我々の生物学的な先祖は、スラヴ 人 で あ っ た り 、 ト ゥ ラ ン 人 で あ っ た り す る の だ が … )、 ロ シ ア 人 で あ る 。 4 . ス テ ッ プ は ユ ー ラ シ ア の バ ッ ク ボ ー ン で あ る 。「 ロ シ ア = ユ ー ラ シ ア 」 は 、 ビ ザンチン文明の継承者であるとともに、遊牧世界帝国の後継者である。 5.ユーラシアで生まれた多様で異質な文化は、それを生み出した中心が既に没落 した現在も「ロシア=ユーラシア」世界の中に残っており、ロシア正教の中で一 体化され、調和している。6 ( 3) ソ 連 評 価 を め ぐ る ユ ー ラ シ ア 主 義 者 の 分 裂 ユーラシア主義者は、共産党独裁のソヴィエト政権を忌避し、亡命した人々のなか か ら 生 ま れ た 。し か し 、1922 年 に ソ ヴ ィ エ ト 連 邦 が 成 立 し 、そ の 後 中 央 ア ジ ア の イ ス ラム諸国が連邦に参加するようになると、ソ連というユーラシア国家は、ある意味で ユーラシア主義者の理念を実現した姿を示すようになった。こうした現実を前に、ユ ーラシア主義者のなかで、ソ連に対するスタンスの違いが表れ、運動としての統一性 が崩れてゆく。 先 述 の「 ユ ー ラ シ ア 主 義 」と 題 す る 綱 領 的 文 書( 1927 年 )で は 、ソ 連 が ユ ー ラ シ ア 世界の統一をなしとげ、ロシア=ユーラシア世界をヨーロッパ文化の軛から解放した 点が積極的に評価される。しかしその反面で共産党による宗教と企業家精神の圧殺は 厳しい批判の的となる。だがユーラシア主義は、自由競争に基づく市場経済、すなわ ち資本主義というシステムを認めているわけではない。共産主義はやがて資本主義に 移行するとも述べている。つまり共産主義と資本主義はともにヨーロッパに由来する ものであり、否定の対象である。ユーラシア主義が求める第三の道は、一種の混合経 済である。 現実のロシアがネップ政策からスターリン独裁へと変化し、同時にソ連そのものが 安定するようになると、各国がソ連を承認するようになり、ユーラシア主義運動の分 裂と衰退は、決定的となっていった。 2 6 ソ連崩壊とユーラシア主義の復権 Евразиство(Формулировка 1927), Россия между Европой и Азией: Евразийский соблазн, М., 1993, стр. 217-222 . 154 ( 1) グ ミ リ ョ ー フ の 復 権 1985 年 に ゴ ル バ チ ョ フ が 登 場 し て グ ラ ー ス ノ ス チ を 合 い 言 葉 に ペ レ ス ト ロ イ カ を 宣言すると、ロシアは百家争鳴状態となった。そうした中で、ソ連時代にラーゲリに 収容された経験をもつL・N・グミリョーフのユーラシア主義が注目を集めた。グミ リョーフによれば、現代の焦眉の課題は、大衆の意識の中にあるヨーロッパ中心主義 がもたらす思考の混乱を収拾することである。 ユーラシア主義の功績は文化的・文明的多元主義を提示したことである。人類史の 研究は、ヨーロッパを唯一の中心とした一つのまとまりとしてではなく、様々な風景 がモザイクのように組み合わされた全体性として初めて理解することが可能なのであ る。 紀元後まもない時期からユーラシアは何度か統合された。匈奴、スキタイ、突厥、 モンゴル、ロシアによってである。ユーラシア諸民族は、国家建設においても精神文 化におけると同様に、 「 単 一 の エ ト ノ ス を 超 え た 全 体 性 」の 中 で 早 く か ら 融 合 し て い る 。 従って、ある領土問題の解決は、ユーラシアの一体性という基盤に立って初めて可能 となる。 こうしたグミリョーフの主張は、冷戦の敗者として大国の地位を失ったロシアにと って干天の慈雨のようなものであった。 ( 2) シ ャ フ ナ ザ ー ロ フ の ユ ー ラ シ ア 主 義 批 判 ユーラシア主義の台頭に警鐘を鳴らしたのが、ゴルバチョフ大統領補佐官を務めて いたシャフナザーロフである。彼によれば、ユーラシア主義を受け入れているのは、 傷つけられた民族的自尊心である。ユーラシア主義は、考え方の基礎にある前提が誤 っ て い る 。ロ シ ア と 西 の 文 明 は 両 立 で き ず 、む し ろ 敵 対 関 係 に あ る と い う 前 提 で あ る 。 またユーラシア主義者は、ロシアが世界において東西文明の媒介者という特殊な役割 を担っていると強調するが、 「 だ い た い 、両 岸 の 人 々 が と も に そ の 橋 を 利 用 し た が っ て いるのか」と尋ねてみれば、その非現実性は明らかである。仲介者すなわち東西両世 界の架橋者の役割を果たすには、左右両岸の人々から敬意を受け、信頼されているこ と が 必 要 な の で あ る 。だ が 、現 在 で は そ の 敬 意 を 生 み 出 す の は 、過 去 の 栄 光 で は な く 、 現代文明の特徴をなしている全く日常的な物事なのだ。それは、たとえば高度のテク ノロジーや、環境保護に配慮する工業、発達した情報通信網、国民に一連のサービス や住みよい条件を提供する能力といったものである。7 シャフナザーロフは、 「 ヨ ー ロ ッ パ 共 同 の 家 」の 提 唱 者 と し て 西 欧 派 と 言 わ れ て は い るが、彼にとって「西欧文明」とは、コモンセンスの問題であった。 3 プーチン大統領とユーラシア主義 ( 1) 国 家 主 義 と チ ェ チ ェ ン 問 題 7 『 読 売 新 聞 』 1996 年 4 月 22 日 付 朝 刊 155 1999 年 末 プ ー チ ン は 、 大 統 領 代 行 に 就 任 し 、 ミ レ ニ ア ム 論 文 (「 千 年 紀 の 境 界 に お け る ロ シ ア 」) 8 を 発 表 し た 。 こ の 論 文 に お い て 彼 は 「 強 い 国 家 」 を 再 建 す る た め に は 「経済と社会分野の統一的国家調整システム」の確立が必要だと主張し、エリツィン 時 代 に 泥 沼 化 し て い た チ ェ チ ェ ン 問 題 に 強 硬 姿 勢 で 臨 む と 宣 言 し 、翌 2000 年 3 の 大 統 領選で勝利した。彼がロシア連邦第二代大統領として就任直後に手がけたことは、連 邦 構 成 主 体 89 を 新 た に 7 つ の 行 政 管 区 に 分 け 、各 管 区 に 大 統 領 全 権 代 表 を お く こ と で あった。それは、まさに帝国各地に皇帝の名代として総督を置いたことを思い起こさ せ る 。 さ ら に 、 こ の 年 12 月 ソ 連 国 家 の メ ロ デ ィ が 復 活 し た 。 こうしたプーチン大統領の政策は「国家主義」というべきものである。当面する二 つの戦いは、チェチェン・ゲリラに対するものと、ペレストロイカ期に生まれた新興 財 閥 オ リ ガ ル ヒ に 対 す る も の で あ る 。 前 者 で は 、 2003 年 10 月 チ ェ チ ェ ン ・ ゲ リ ラ に よ る モ ス ク ワ の 劇 場 占 拠 事 件 が 起 き 、二 期 目 に 入 っ た 2004 年 9 月 に も 北 オ セ チ ア に お ける学校占拠テロで多数の犠牲が出た。その後もテロの勢いは衰えることがない。ま た 後 者 で は 、ま ず 、2000 年 9 月 に「 情 報 安 全 保 障 ド ク ト リ ン 」に 基 づ き 国 家 に よ る メ ディア統制の姿勢を明確にした。続いてガスプロムやユコスといった天然ガス・石油 の大会社を統制下においた。 さ ら に 2005 年 は じ め か ら 連 邦 構 成 主 体 首 長 の 任 命 制 を 行 う な ど 、 ま さ に 「 皇 帝 」 に よ る 「 帝 国 支 配 」 の 復 活 を 思 わ せ る 9。 ( 2) ネ オ ・ ユ ー ラ シ ア 主 義 の 台 頭 プーチンの目指すところは大国ロシアの復活である。ロシア大国主義の先兵を目指 す動きの中には、コサックの台頭、ナショナル・ボリシェヴィキといったネオ・ナチ の運動など様々な動きがあるが、ネオ・ユーラシア主義の動きも顕著である。ネオ・ ユ ー ラ シ ア 主 義 を 代 表 す る ア レ ク サ ン ド ル・ド ゥ ー ギ ン は 、2002 年 6 月 、ユ ー ラ シ ア 党 を 創 設 し 、 法 務 省 に 登 録 し た 。 同 党 の 綱 領 な ど か ら そ の 輪 郭 を 描 い て み よ う 。 10 同党に参加している人々はロシア愛国者あるいは国家主義者を自認している。そし て 、地 政 学 が 重 視 さ れ て い る 。す な わ ち 世 界 の 基 本 的 な 対 立 点 は 、大 陸 文 明 VS 大 洋 文 明 で あ り 、大 陸 文 明 は ヨ ー ロ ッ パ 連 合 、ユ ー ラ シ ア 連 合( ほ ぼ 旧 ソ 連 地 域 )、東 ア ジ ア 太平洋地域の三つに分類される。明らかに地政学の祖といわれるハルフォード・マッ キ ン ダ ー ( 1861- 1947) の 影 響 を 受 け て い る 。 初期のユーラシア主義者と同様、ネオ・ユーラシア主義者も自由主義的市場経済の 破壊力に警戒的である。市場は国益に奉仕しなければならないとして市場経済万能主 義は批判され、混合経済を主張する。 ネオ・ユーラシア主義者は、ユーラシアの諸宗教(正教、イスラム教、ユダヤ教、 仏教)の伝統を尊重するという。それは、ロシア人をはじめタール人、ヤクート人、 トゥヴァ人、チェチェン人、カルムィク人、イングーシ人などの民族主義の共存を目 Владимир Путин, Россия на рубеже тысячелетия, 2000, http://www.rg.ru/anons/arc_1999/1231/10.htm 9 中村逸郎『帝政民主主義国家ロシア-プーチンの時代』 ( 岩 波 書 店 、 2005 年 ) を 参 照 。 1 0 http://www.evrazia.org/ 8 156 指す上で不可欠の態度であった。こうした論理的帰結として、国家と教会の分離は認 めざるを得ないのであるが、社会と宗教の分離は認めない。なぜなら伝統的な地域共 同体は、自ずから宗教性を帯びているからである。ロシアの改革は、自らのルーツと しての故郷や家族への愛から始まる。地域の独自性を拡げて言えば、ロシアはこ西洋 でもなく、東洋でもない。ユーラシアという独自性を帯びている。 現今の課題は、グローバリズムとの戦いである。それは大西洋文明の基準を世界に 押 し つ け て い る 。ア メ リ カ 発「 多 文 化 共 生 」は 欺 瞞 で あ る 。ア メ リ カ は 9 ・ 11 の 悲 劇 を利用し、中央アジアに覇権を確立しようとしている。テロとの戦いを大義名分とし て、ロシアの勢力圏であるアジア諸地域に進出している。ロシアは、地政学的一体性 を強め、オリガルヒや分離主義者と戦い、ユーラシア主義的連邦を形成しなければな らない。 こうして、ネオ・ユーラシア主義は、ロシア連邦をユーラシア連邦へと発展させる ことによって、かつてのソ連の実体を回復しようとする。民族や宗教、あるいは地域 経済の独自性を尊重するという意味で、多文化共生を主張するが、アメリカの一極支 配に対抗するという意味での多元主義である。アメリカの多文化主義は、グローバリ ゼーションというアメリカ化のなかで欺瞞的なものだと言うなら、ユーラシア主義の 唱える多文化共生もユーラシア化というロシア化のなかで、欺瞞的であるという誹り を免れないであろう。というのは、ユーラシア主義は、ロシアの地政学的一体性を強 め分離主義者と戦うと明言しているからである。 157