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「詐欺師フェーリクス ・ クルルの告白」 の成立
「詐欺師 フェー リクス・ クルル の告 白」 の成 立 三 枝 (昭 和62年 圭 作 5月 19日 受理) トーマス・ マ ンの「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告白」 のなかで,ク ルルは「長 い間, この草 稿 は鍵 をかけた小箱のなかに眠 って いた。 たっぶ リー 年間,意 欲 はふ るわず,こ の企画 になんの効 果 があるか とい う疑 い も湧 いて,己 は,忠 実 にあ とを追 い,一 枚 一枚原稿 をか さねなが ら,告 白を 続 けるとい うことがで きなかった」と述懐 して い るが,「 クルル」の成立 には 1年 どころか,実 はほ ぼ40年 にわたるたび重 なる中断 と「挿入」の歴史 が あった。詩人 自身,作 品完成 の約 10年 前 ,つ ま り1943年 の時点 で,そ の事情 の一端 を次の ように説明 して い る。「あの ときは『ヴェニ スに死す』を 書 くために 『 クルル』 の稿 を中止 したわ けであったが,あ れか ら二十 二 年経 った今 ,昔 書 きやめた ところに再 び新 しい筆 をつ ないで ゆ くのは,そ れな りに面 白いことか もしれな い。 そ うす ると,あ れ以 来書 いた作品 や副産物 はすべ て,三 十 六歳 の ときの計画 である『クルル』 にさしこむ挿入で , そのためには人 間一代 の期間 が必要で あった とい う格好 に なって くる」♂ Eberhard Hirscherは こ のよ うな断絶 を Mit den,,Bekenntnissen des Hochstaplers Felix KruH“ hat Thomas Fann jahrzehntelang ein lustiges Versteckspiel getrieben,3) とユーモ ラスに表現 して い る。 マンの作家生活 で,他 の作 に類 を見な い長期 にわた る この断絶 のあ いだに,そ の草稿 は拡大 され,"Fortsetzungen“ が公刊 され,そ れ らのなかか らたびたび朗読 も行 な われたのであるが,そ の結果,「 クルル」 はマ ンの生涯で最後の物語作品 となって しまった。 一 方,エ ー リヒ・ ヘ ラーが「『フェー リクス・クルル』 をたの しむには学識 な ど不要 である。 この 作品 は,ど んなや っか いな素材 で もみごとな庖丁 さば きによってた くみに料理 し, どんな陰 うつ な 意想 で もフモールに よって きわめて優雅 に 目的地 へ とみちびいてい くような作品 か らつね にか もし だされ る,あ の幸福 な,軽 がると空を とぶ ような,単 純素朴 さの錯覚 をうみだす ゴ)と 述 べ ているよ うに,「 クルル」を理 解 するには「魔の山」,「 ヨセフ」あ るい は「ファウス トゥス博士」な どに対す るような知 識 は必要ではないか もしれな い。 しか し,ヘ ラーはうえのす ぐあ とで次 の ように続 けて 168 三 二 作 い る。「そ うはい って も軽 が るととぶ ようにはこばれてい くものの重みを考慮 にいれてお くほうが , 読者のたの しみがいっそ う増すであろう」恩 た しか に,作 品は軽 く読み とばせ る ような ものではな い。 とくに,Kuckuck― Gesprachを 頂点 とす るクルル の「教養体験」 は「魔 の山」 を想起 させ るも のがある。 クルルはショー シャ夫人 な らぬウプレ夫人 にヴ ィク トル・ ユ ゴーの戯 曲「 エル ナ ニ」 の 『自然発生 によって大地 よ り生 じた有機的生命体 をも含 めて, した 詩旬 で口説 かれ るし,「 なにしろ がって石 か ら人間 にいた るまでの文字 どお りあ り とあ らゆる存在 についての啓発 と教示が教養 とし て』彼 に与 えられ るのである」 このよ うな「フ ァウス ト的」な個所 は別 として も,こ の作品 の重み ' を理解す るために,そ の40年 にわたる 成立史 をた どってみ ることは無意味ではあるまい。 トーマス・ マ ンは1909年 の春 に「大公殿下」 を完成 し,そ の同 じ年 に詐欺師小説 に とりかかる。 彼 はそのあた りを「略伝」のなかで回顧 的 に次 の ように述 べ ている。「『大公殿下』を脱稿 したのち , 私 は『詐欺師 フェー リクス・クルルの告 白』 を書 きは じめていた一― この腹案 は一風変 った もので , 言 い当てた人 も多かったが,マ ノレスクの 回想録 を読 んで思 いついた ものである」P マンはまた , 1909年 11月 2日 に「 目下私 は一つのエ ッセイを書 いて い るが,こ れは『精神 と芸術 』 とい う表題 に なろう。更 に比 較的長 い物語 『詐欺師』 と取 り組 んでいる。 これは心理 的 に先 の大公小説 のある種 の補足 を意味す るであろう。」とも語 っている。 ところで, トーマス・ マンが「クルル」 の構想 を得たのは1905年 ,あ るい は1906年 頃 にさかのぼ ると推定 され る。 そ して,ひ き続 き基本構想 は練 られたが,「 大公殿下」の完成 が近 づ いた 1909年 3 月25日 ,彼 は自分 の創作 の新 しい時期 が始 まる とい う意味の ことをハ イ ン リヒ・ マ ン宛 ての手紙 で 書 いている。 Im ubrigen halte ich mich so ungefahr und bereite A/fehreres vor i einen Essay, . .. ,und eine Novene,die sich ideem an》 K〔 6nigliche〕 H〔 Oheit〕 《anschheβ en wird,aber doch eine andere Atmosphare haben und,glaube ich,sozusagen schon etwas》 18 Jahrhundert《 enthalten wird. Uberhaupt ist rnir inllner,als beganne nun eine neue》 PeriOde《 ,Wie schaukal sagen wirde.9) さらに,翌 1910年 二月10日 付 けの同 じく兄ハ イ ン リヒ宛ての書簡には,「 私 は詐欺師の告白のために 蒐集 し,記 録 し,研 究 していますが,こ れは私 の もっとも風変 りなものになるで しょう。私 にはこ んなところがあるのか,と 時 どき驚かされる始末です」)と ある。「クルル」の執筆ははか どり,こ の 年の夏にはその一部が家族 の前で朗読されるまでになる。 この章 の 冒頭 の引用で もマン自身が触れているように,彼 が この小説の構想 を得 るについて は , 1905年 にルーマエアの詐欺師マノレスクの回想録の ドイツ語訳を読んだことにある。それは,,Ein Fttst der Diebe,Memorien“ 及び とぃう表題 の "Gescheitert.Aus dem Seelenleben eines Verbrechers“ ついた 2巻 本 で,ベ ル リンの出版社 ランゲ ンシ ャイ トが宣伝用 として彼 に贈 った ものであった。 「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白」の成立 169 1871年 のルー マニ ア生れで,18歳 でパ リにや って きた この男 は,世 界 を股 にか けて詐欺 の妙技 を 発揮 した。滞在 した都市 は ヨーロ ッパ やアメ リカの大都市か ら,は るか 日本 の横浜 にまでわたる。 彼 のね らいは主 に宝石 で,当 時 の金で3,500万 マル クほ どの額 を盗 んだ という。彼 は最初 Marguis de Manolescuと 自称 し,続 い てHerzog von Otranto, そ してFiirst Lahovaryと 自称 した。 しか も , 単期間 とはいえ,実 際 に伯 爵令嬢 と結婚 さえした。身 の危 険 は,た びたび精神病 の仮 病 を使 ってた くみに くぐり抜 ける。彼 は,ま さに世紀転換期 の典型的詐欺師 として豪勢 に暮 したのであった。 このよ うに,「 クルル」執筆の きっかけはマノレス クの回想録 であったが,こ こで,マ ンが「 クル ル」 に着手す るまでの前史 をぶ り返 ってお く必要 が ある。 1901年 には「ブデンブロー ク家の人々」 が出版 され,そ の翌 年 dramatische Novelle「 フ ィォ レンツァ」が初演 され る。その他 目ば しい著作 を列挙すれば,「 小男 フ リーデマ ン氏」 (1897年 ),「 道化者」 (1897年 ),「 トリスタン」(1903年 ), 「 トーニオ・ ク レー ゲル」 (1903年 ),「 ヴェル ズンゲ ンの血」 (19o6年 )な どが あるが,こ れ らに共 通するテーマ は KunstlerprOblemで あ り,そ れは「 トーニ オ・ ク レーゲル」において頂点 に達す る。 また,1909年 ,「 クルル」に着手する直前 に完成 した FurstenrOman「 大公殿下」の主人公 クラウス・ ハ イ ン リヒは,題 名 の示す通 り芸術家ではないが,や は りこれ ら一連 の芸術家小説 の主人公たちの 精神的分身 であることはまちがい ない。元来 「クルル」 は,「『大公殿下』の対 となる作 として」)考 えられていたのであった。や がて,マ ンは「クルル」 に着手する。彼 は後年主人公 クルルについて こう語 っている。「 このフェー リクス・クルルは残忍な犯罪者 なんかではないが 〈にもかかわ らず英 雄 〉であ り,〈 深淵のぶちに生 きる〉人 間 です。 したが って私好 みのタイプのヴ ァリエー ションで , 内的 には深 くコ ンズル・ ブデンブロー クや 〈 道 に迷 った市民 〉 トーニ オ・ ク レーゲ ル,『 ヴェネツ ィ アに死す』 のグスターフ・ ア ッシェンバ ッハ に似 て い ます」♂)こ のように,マ ノ レス クの回想録 は , マンに従来か らの共通のテーマで あるKunstler― Burger― PrOblemの 風変 りなヴァリエー ションを思 いつかせ たのであった。 それに力日えて,回 想録の文体 もマ ンの注 目をひいた。 これ らの点 に関 して マンは「略伝」のなかで次 のよ うに述 べている。「取扱 った問題 は,も ちろん芸 術 と芸術家 とい う主 題 の新 しい方向転換 ,す なわち,非 現実的な存在形式の心理学であった。一方文体 の点で私 を魅了 した ものは,手 本 にした 回想録が荒削 りな形で暗示 して くれた自叙伝体 の直接法 で,こ れはこの と 9こ うして きまで一度 も試 みた ことがなかったので ある」と ,マ ンは 自分 の詐欺師 に もマ ノ レスクのよ うに Ich― Formで schriftstellernさ せてい くことになる子)ク ルル はマノレス クと同様 に18歳 でパ リ ヘ やってきて,詐 欺師 の道 を歩み始める。両者 とも響 きのよい名前 を持ち,仮 病使 いの名人 で,い とも簡単 に役人 をあざむき,い ずれ も世界旅行 にお もむ く。 ところが,両 者 の歩みはまるで違 っている。 クルル はマ ノレスクの生れ変 りではな い。 マノレス クは腕 の立 つ大泥棒であるが,ク ルルにはパ トロンがいず こか らともな く現れ るのである。彼 はい ゎば Fortunaの 庇護 を受 けて い る。宝石類 は思 い もよらぬ形で彼の手 にはいる。貴族 の称号 です ら , 170 三二 枝 作 自 ら求 めず して他人 か ら提供 され る。 マノレス クが永遠 のほら吹 きならば,ク ルル は天成 の美貌 と 美声で前者 を凌 駕す る。回想録 に対す る「クルル」 の決定的な違 い をGuido Steinに きいて みよう。 Die entscheidende Veranderung liegt aber in der asthetischen Aufwertung des 1lochstaplertums von Fehx Krun,der seine betrugerische Scheinexistenz mit deni schOnen Schein des I(tinstlers auf eine Stufe stent und sich dem ktinstlerischen,,Fach“ zu rechnet.15) その うえ,マ ンは「 クルル」 にイ ロニーやパ ロディを付加 しているので ある。 こ うみて くると,単 なる回想 録書 きが書 いたマ ノレスクの 回想録 には,文 学的価値 はな い とみてよか ろう。 しか し,素 材 としての価値 は十分 にあった ことがわか る。つ まり,Hatt Wyslingが 指摘 して い るように,回 想 録 はマンの「クルル」 へ の,,erste Anregungen“ を与 えたのであった。 ところで,1909年 に「 クルル」 が書 き始 め られた ことはすでに述 べ た通 りであるが,や がて執筆 マンは言 っている。「 中止 の歴 史が始 まる。 トーマス 。 にきわ どい平衡 曲芸 ともい うべ きクルル 'F常 の回想記調 を長 いあ いだ続 けて押通 してゆ くことは, もちろん,困 難 で あった。 この調子 か ら休息 したい とい う願望が,新 しい構想 を捉 える助 けになって,そ のため 1911年 春 にはクルルの稿 を続 け ることを中止 した。中●妻 と私 とは五 月 の一 部分 を リドで過 した。幾 つかの奇妙 な事情 や印象 と,新 しい事物 をひそかに見張 って い る態度 とが共働 した結果 ,創 作 のアイデ ィアが起 って来ず にはい な かつたが,こ のアイデ ィアがやがて 『ヴェニ スに死す』 という名 で具体化 されたのである。 この 短 篇 は,他 の企て と同様 ,ご く控 え目な意図の ものであった。詐欺師小説の仕事 に割 りこます,一 気 呵成の即興詩で,素 材 か らい って も分量か らい って も,ほ ぼ『ジンプ リツィシムス』誌 に適当な物 語 くらいに考 えて いたのだ」ぎ ) 「 ヴェニ スに死 す」の執筆 はこの年 の 7月 初 めに始 まった。 1912年 ,こ のア ッシェンバ ッハ の物 語 の完成後 ,2, 3ケ 月間ではあったが,マ ンは「クルル」の仕事 に帰 ることもあったp同 年マ ン は「クルル」の第 1巻 第 5章 ,つ まりMusterungsszeneを 「 ある長篇の断片」とい う形 で発表 して い る。 しか し,こ こに また中断がはい る。 「1912年 の五 月か ら六月にかけて,私 は臨時入院者 とい う格で,三 週間ダヴォスの妻のそばで暮 しなが ら,あ の不思議な環境 の印象 を集めた。_そ れ らの印象 か ら,ヘ ルゼル 山地 を背景 とす る簡 潔な短篇の観念 が 出来上 った。 この短篇 も,何 とか して稿 を続 けた い とい う誘惑 を感 じて いた詐欺 働 以上 はマ ンが「 の 師 の告白の仕事の間に,手 早 く挿入 しようとい うつ もりであった」を 魔 山」成 立の 由来 を述 べ た ものだが,彼 はこの計画 を1913年 7月 24日 にエル ンス ト・ ベル トラムに宛 てて次 のよ うに書 き送 っている。 「三 週間南の海岸 に行 っていたお蔭で,ま た元気 を回復 しました。に もか かわ らず,例 の奇妙 な長 篇小説 はいぜ ん棚上 げ した まま,差 当 りもう一つ短篇 を準備 しています。 9こ うして,そ の頃書 き始 これは『ヴェニ スに死す』の対 をなすユ ーモラスな作品にな りそうです」と 「詐欺師 フェーリクス・ クルルの告白」の成立 171 め られ た この 「 や や長 めの短 篇小 説」 のた め に,「 ク ル ル 」 の 執 筆 は 中断 され た 。 と ころが ,こ の Novelleは 千 ペ ー ジ を起 す Romanに ぶ くれ あ が り,「 手 早 い挿 入」の はずが ,何 と12年 "Zauberberg“ 間 に もわた って し まうの で あ る。 1924年 に は,よ うや く「魔 の 山」 が 完成 す るの だが ,マ ン は相 変 らず「 クルル 」 を中断 した まま で あ る。 1925年 4月 12日 ,彼 はMax Rychnerに 宛 てて書 い て い る。 Besonderen Eindruck hat打 r gemacht, zu sehen, 、 velche Wichtigkeit Sie dem"Fenx Krun“ unter meinem Versuchen beimessen Wahrhaftig,ich s01lte das Ding fertig zu machen suchen; es spricht mir selbst, immer wenn ich innerhch daran ruhre, nOch mancherlei Sonderbares AInusantes. Aber iFnmer Wieder schiebt neues, anderes sich davOr, was "erst noch rasch“ gemacht sein mOchte,一 ――z.Z.sind es historisierende,kostumliche Dinge,Joseph in Agypten, Spanisch― Niederlandisches,Erasmus― Luther...20) 周知のように,こ のJOseph Stoffは 長篇 3部 作 にぶ くれあが り,「 クルル」は1926年 の この 「 ヨセフ」 小説の執筆開始 によって,ま た もや 中断 されて しまう。 しか し,マ ンは「 ヨセフ」を書 きなが ら「ク ルル」の ことを忘れて しまったわ けではない。1928年 2月 4日 には次のような記録がある。 「クルル 彼 のお もしろい運命の物語 は残念 なが ら,外 的事情 のために未完 の まま残 ってい る (こ , の物語 は断 片 しか出版 されていない)。 今 や このヨセフが別 の仕方で,別 の意 味 で古 い計画 を遂行するのだろう か? 『いや,ク ルル は著 者 の想像力の中に深 く眠 った まま,生 き続 けて い ます よ。 ある日彼 は再 び目 をさますで し ょう』」計)さ らに同年 10月 28日 には,マ ンは次のように言 っている。 「私の詐欺師小説の 継続 と完成 も放棄 したわけではあ りません よ。 で も今 は,つ まりこの冬 は外 か らの多 くの要求 を満 たすために仕事 を中断せねばな りません」 ♂ ) ところが,そ の うちにマ ンは執筆中の この聖書小説 に「 ワイマルの ロ ッテ」 をはさみ入れた い と い う計画 を抱 くようにな り,9「 クルル」はまた また休息 して しまう。 マンは1942年 まで「 ロ ッテ」 にかかわっていたが,さ らに別 の事態 が発生す る。今度 は「 フ ァウス トゥス博士」 が割 り込 んで き たので ある。それにはカーチャ。 マ ンのすすめもあった。 「 かれはこの四部作 20を 完成 したあ と,中 ● またなにかす こし大 きな もの を書 く気 にな りました。 かれ は『クルル』 を書 きつ ぐか,そ れ とも没 落 への道 を歩みつづ け,つ いに国家社会主義 とい う奈落 にまでお ちこんで しまった時代 の全過程 を 包 みこむなん らかの作品 を書 くか, どち らにした ものか迷 っていました。『クルル』は,そ のパ ロデ ィーぶ うの調子 を最後 までた もちつづ けるのはむず か しい とい う判断か ら,中 断 された まま放置 さ れ ていたのです。わた しは,今 回 も『クルル』を まず とりあげるのはやめて,『 フ ァウス トゥス』を 書 くように と,し き りに勧めました。 〈そうで しょう〉とわた しは言 いま した。 (『 ヨセフ』は,も ち ろん時代 とさまざまな関係 をもっていることは間違 い ないですけど,そ れで も,言 ってみれば,す こ 172 三三 枝 作 し逃避的な感 じが しな いで もあ りません。 もし,続 けてい ままた『クルル』を とりあげるとなると , 逃避的傾向が い ちだん と強 まるのではないか しら。わた しは,『 フ ァウス トゥス』計画 をおすすめに なった方がいい と思 いますわ〉 9 結局,か れ もそ うしました」ζ 1943年 10月 7日 付 けの手紙 でマ ンは Dieter Cunzに 宛 てて書 いている。 FeHx Kruns 11。 chstapelei ist ein wenig》 zuruckgebheben《 ,da sie durch Josさ ph ins Attythische hinausgewachsen ist.Trotzdem kann ich lhnen sagen,daβ ich nach AbschluF des》 Ernahrers《 an dem Punkte war,den Krull、 vieder aufzunehmeno Schlieβ hCh hat dann doch eine 40 Jahre alte NOtiz,die den Kern eines Musiker― Romans bildet,den Sieg davongetragen― ―fur diesmal.26) こうして,1947年 に「 フ ァウス トゥス博士」 が完成す るや,そ の年 に「 クルル」 はた しかに浮上す る。「 この ところたい した ことはしてい ません。頭 の中であれ これ とやってみなが ら (音 の『フェー リクス・ クルル』 の断片 を書 き足 して,老 後 の楽 しみに,本 格的な悪漢小説に仕立 てる というのは どうで しょうか)イ )と トーマス・ マンは11月 25日 付 けの手紙でヘルマ ン・ ヘ ッセ宛 てに書 いてい る。 しか し,こ の度 も「 クルル」は沈んで しまう。「 クルル」は「選 ばれ し人」に道 をゆず ったのである。 ちなみに,「 選 ばれ し人 」は1948年 1月 に執筆が開始 され,完 成 は1950年 10月 26日 ,刊 行 は翌年 3月 であった。 ここで「 クル ル」中断 の歴 史 にひ と息 いれ よう。 1910年 11月 ,ト ーマス・マ ンはワイマルヘ講演旅行 に出かけ,か つての学友 Vizthum von Eckstadt 伯爵の客 となって感動的な歓待 を受 け,「 クルル 」か ら初 めて公の朗 読 を行 なう。翌 1911年 1月 には ルール地域及びヴ ェス トファー レンヘ の講演旅行 で,「 クルル」や い くつかの短篇小説 か ら朗 読 して い る♂)以 来 ,「 クルル」 はしば しば朗読 され る。 そして「クルル」 の中断中 にもそれ は行 なわれた。 以下 目ぼ しい もの をひろってみよう。 1914年 にマ ンは招 かれてスイスに旅 し,ツ ュー リヒ,ル ツェ ル ン,ザ ンク ト ・ガ レンで,「 生みの悩 み」,「 神 童」,「 大公殿下」及び「クルル」 か ら朗読 してい る し,1916年 10月 23日 にはブレスラウで,11月 5日 にはベル リンで「 クルル」か ら朗読 して い る♂)翌 1917年 にはハ ンブル クヘ行 き,「 ネ 申童」,「 生みの悩み」,「 大公殿下」,「 クルル」か ら朗読 したぎ)さ ら に1929年 ,マ ンはノーベル賞授賞式 に出席 のため12月 7日 に ミュンヘ ンを発 った。途 中ベル リンに 立 ちより,国 際学生協会 の レセプシ ョンで「 クルル」 か ら朗読 してい る。同月 9日 にはス トックホ ルムに着 き,■ 日はハ ー ド・ スケジュールのなかに終 えたが,翌 12日 に ドイツ・ スウェーデン協会 のために「 クルル」,「 トーニ オ・ ク レー ゲル」,「 神童」 か ら朗読 した:D1950年 代 になる と,ト ーマ ス・ マンはすでに75歳 を越 えて い るに もかかわ らず,相 変 らず数多 くの朗読 を行 ない,そ の多 くは 「クルル」 か らなされている。例 えば,1955年 5月 , リューベ ック市庁舎での名誉市民証授与式 に 列 した後 ,彼 は市立劇場 で「 トーニ オ・ クレー ゲル」,「 若 きヨセフ」,「 クルル」 か らそれぞれ朗読 「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告白」の成立 173 し,同 年 6月 6日 の80歳 の誕生 日の前 日の晩 には盛大 な祝賀会が開催 され,マ ンはその席で「 クル ル」か ら朗読 を行 なう認 といった具合 で ある。 これ らの事実は,マ ンの数 々の朗 読 が反響 を呼んで い ることを物語 るものであ り,彼 自身 の未完 の ままになっている「 クルル」 へ の関心 のお とろえて いな いこ とを示 してい ると思われ る。 以上みて きた ように, トーマス・ マ ンの「 クルル」 は幾多 の朗 読会 によって知 られて いたのであ るが,一 方では,個 々の章 のVOrabdruckeに よって もその名 は公 になっていた。早 くも1911年 には , "Bekenntnisse des IIochstaplers Fehx FruH. Bruchstuck aus einem Roman. Der Theaterbuch“ とい う題 目で,Muller Resё ―Kapitelが S.Fischer Verlagの ,,Almanach“ に現れ た。そ して1919年 ハ ノ ー フ ァ ー の Kestner― Gesellschaftの Sammelband ,,Das Kestnerbuch“ の な か で "Schulkrankheit“ , , なる表題の もとに,第 1巻 の第 6章 が 出 ている。 さらに,1925年 6月 初 めには , ウィー ンの ,,Neue Freien Presse“ において「 クルル」の Musterungsszeneか らの試T/Fが 活字 になっ た。ず っととぶが,マ ンは1951年 以来 ,,Neue Rundschau“ 誌 にい くつかの未発表 の 断片 をのせて い る。 他方,「 クルル」は上述のVOrabdruckeに よってのみな らず,断 片 としてなが ら,や がて正 式 に出 版 され ることに もなる。即 ち,1922年 ウ ィー ン,ラ イプツィ ヒ及び ミュンヒェンのRikola Verlagか ら「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白―一幼年時代 の巻」が 「計画全体 の断片ゴ)と して公刊 され てい る。 それはクルルの父の破産 とその 自殺 にいたるまでの部分 を含んでいた。この,,Krull“ ―Fra送 1llent は,翌 1923年 に単行本 として,シ ュ トゥッ トガル トの Die deutsche Verlagsanstaltか ら発行 され , 1932年 には,InseI Buchereiの Nr,312と してライプツ ィ ヒの Insel Veriagか ら干1行 された。それ故 , 「幼年時代の巻」は独立の作品であった とさえいえよう。1937年 には,ア ムステルダムの出版社 Querdio Verlagで 先 の「幼 年時代 の巻」をさらに拡大 した版 が 出版 される。 この版 は第 2巻 の最初 の 5章 , つ まりMusterungsszeneま でを含 んでいた。結局未完 に終 ったので あるが,1954年 に「 クルル」が , 「回想録第 1部 」 として最終的 に出版 され るまでの刊行 事情 は以上の如 くである。 1951年 9月 ヶ トーマス 。マ ンはツュー リヒ近郊のKloten空 港 よ リアメ リカ合州国 へ帰国 の途 につ いた。彼 はニ ュー ヨー クには 1日 滞在するが,シ カゴにいる末娘 Elisabeth Mann― Borgeseの もとに 3日 間留 まった際,同 地の,,Museum of National History“ を訪れ る。 この経験 は,さ っそ く「ク ルル」 の Kuckuck― Gesprachに 応用 され ることになった。 Chicago hat ein hervorragendes〉 Museurn oal onalual historyく , das wir nicht nur einmal, sondern auf meinen Wunsch noch ein zweites Tal besuchten. Es sind da die Anfange des organischen Lebenttirn Meere, als die Erde nOch wust und leer war― ―, die ganze Tierwelt, Aussehen und Leben des Fruhmenschen(auf Grund der Skelettfunde plastisch rekonstruiert) 174 E三 作 h6chst anschaunch dargestent. 正)ie Gruppe der Neandertaler (mit deren Typ eine E1ltwicklungshnie abbricht)in ihrer Hohle vorgesse ich nie und nicht die hingebungsvon hockenden Ur― Kunstler, die die Fels、 vande, wahrscheinhch zu magischen Zwecken, ■ t Tierbildern in Pflanzenfarben bemalen. Ich war vollig fasziniert, und eine eigenttimliche Sympathie ist es,die einen bei diesen Gesichten erwarmt und bezaubert.34) マ ンの体験利用 については,K.シ ュレー ター が興味深 い ことを書 いている 「 ヴェノスタ 。 候爵に な りす ましたクルル に『いつか きっと叶え られ る』 はずの教皇 へ の謁見の場面 も, もし,こ の小 説 が第二 部 まで完成 されていた ら,ま ちがいな く描かれていたにちが いない。 その さいに は トーマ , ス・ マン自身の体験が に ローマ の一 時期 をお くった を再 び訪れた とき妻 とともに -1953年 ,青 春 教皇 ピウス十二世 に個人的謁見 を許 されたさいの体験 が一―利 用 されたで あろう ことは疑 う余地 が ない。未完 に終 った作品のなかでは,『 その ときには,な ん とひざまづいてく聖なるお方 さま(Votre Saintetё )〉 と言わなければならないのだそ うだが,そ れ もまた大 いに楽 しい ことだ ろう』と予示 的 に 記 されているにす ぎな いが」ぎ)こ れ らの引用 に関連 して,こ こでヵ―チャ ・マ ンの言 うところ もきい ておか なければな らない。体験 を自作 に利用す るに際 しての,妻 か ら見 たマ ンの一面 が述 べ られて い るか らである。 「 かれは,あ とで小説 に利用す るために,ひ とを仔細 に観察 してお くな どとい うこ とはあ りませんで した。 あるときだれかに会 い,そ の人の ことが記憶 の片隅 にの こる。小説 を書 い ている うちに,た また まその人がぴった りの登場人 物 がでて くる。 そこで,記 憶の片隅 にねむって いた人の出番 となる, とい うわけです。決 して,は じめか ら意図 していたわ けではあ りません そ 。 んなことは話のほかです。老 クルルー 家の場合 に も,同 じような ことが あ りました。 そのモデルに ついて訊ね られた とき, トーマス・マンはこう答 えた ものです。『そ うですね え,ラ イ ン の の う 河 船 えで半時間 ほど眺 めていた ことの ある人たちです よ』 基本的に こうい う具合で した。 かれは,い ち ど心 に とめた人 間な ら,ど んな人 間 で も描 きだす こ とがで きたのではないで しょうか」 評 ) 以上では,い ずれ もマンガ創作 に自己の体験 を引 き出 して くる ことが述 べ られてい るが, この よ うな面 とは別 に,彼 は一 方では,早 くか ら小 説 のために各種 の資料 を集 め,体 系的に仕事 をする と い う規立正 しい作家 で もあった。 Ich sanllnle, notiere und studiere fur die Bekenntnisse des HOchstaplers, die wohl mein Sonderbarstes werden.37) と1910年 1月 10日 付 けの手紙 で兄ハ イ ン リヒに伝 えて い るように,彼 は創作 に関連 の文献 ,新 聞 , 雑誌,画 報 などを集 め,そ れ らのなかか ら切 り抜 き,抜 き書 きをし,メ モ をとった。 いずれ も一定 の観点 に従 って秩序 づ けられ,整 理 され る。 この頃 に収集 された資料 は晩年 まで保存 されて いて , 1951年 に「 クルル」 の仕事が再開 された際 に も利用 されるので あるが,こ れ らの資料 の東 には,そ 「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白」 の成立 175 れぞれ次の ような表題 がつけられていた という。 "Kur― und Lustorte“ ,"Interieurs“ ,,,Elegante Festhchkeiten“ ,"Weibhchkeit“ ,"Sport“ ,"I10tel. Reise,(Dandy Gartenarbelt)Heilnat.Zuchthausaufseher``, "Reisen``, "Coups Carisson“ , .30 “ "Gefangenscha■ ,,,Allgemeines“ ところで,マ ンガ対 象 を描 く際 の,そ の詳細 に して正確 な記述 は広 く人の知 るところで あるが , そのために「 クルル」 の場 合 にも,集 め られた多 くの これ らの資料のなかで,各 種 の絵が重要な役 割 を果た して い た。 それ らの絵 は,絵 はが き,広 告,新 聞 ,グ ラフ雑誌 ,旅 行案内書 な どの もので あ り,大 部分 は特 に芸 術的 に価値 が高 い といった ものではない。この点 では「 マノレス クの回想 録」 が単 なる素材 の域 を出なかったの と同様 で,要 す るにフィクション化 のための手 がか りとして使わ れたのであった。 い くつかの実例 をみてみよう。税関 で,パ リの セ ン ト・ ジェイムズ 。ア ン ド・ アルバエ イ・ ホテ ルに到着 の際 に,あ るい はデ ィナーにお もむ くときに,そ の都度 ちが った衣 装 で登場す るウプ レ夫 人 は,1910年 か ら1913年 にかけて,ベ ル リンのグラフ雑誌 ,,Die Woche“ にのっていたそれぞれ別々 の写真や絵 に もとづ いて描 き出されて い るぎ)ク ックック教授夫人のため には ロシアの踊 り子 Anna のWilhelm Gwinner Pawlowa(1882-1931)や イタリアの女優 Anna Magnaniな どの写真 力汗U用 されたな のSChOpenhauer― Monographieの Titelportratに 使われ た ショーペンハ ウエル の肖像画 は,ク ックッ ・ホテルの庭 園風 にしつ ら ク教授の描写 に役立 った♂)ま た,マ ンは「『アムバ ッサ ドール のグラ ン ド えられた屋上 テラス』 での晩 餐 の場面の描写 には,古 い雑誌 か ら切 り抜 いてあった『夏の炎暑 にう だる世界都市 のなかのオアシス』 と題 された詳密 に描 かれた絵 を細部 にいたるまで利 して い る。 そ の絵 には,ヴ ァン ドーム公爵夫妻やギ リシアのゲオ ル ク王子夫妻 ,あ るいはガブ リエ レ・ グヌ ンチ オな ど,か つての ヨーロ ッパ の上流人士たちが集 って い るさまが描かれて い るが,小 説 のなかでは , 彼 らは無名 の端役 にされていて,た だ貴婦人 たちの『流行 のつばが広 く,大 胆 に反 った帽子 の フ ァ ッション』だけが,す ぎ去 った時代 の幼想的な付属品 として印象的 に措かれているにす ぎない」F)彼 は利用 した絵 の利用すべ きところは利用 し,不 要 の部分 は省略ない し簡 略化す るのである。 さて,こ こで再 びマ ンの「 クルル」執筆 に話 をもどそう。 1951年 ,こ れ までの長 い「 クルル」中 断の歴史が終 り,よ うや く「 クルル」完成 のための第 2段 階の仕事の時期が始 まる。 まず,マ ンの Erich von Kahler宛 ての同年 2月 1日 の手紙 をみてみ よう。 Da aber der》 Erwahlte《 abgetan und in Druck ist,habe ich den uralten》 Felix KruH《 wieder vorgenOHllnen und setzte ihn,ins l」 nbekannte schlendernd,fort,ohne rechten Glauben,daβ iCh ie nOCh damit fertig werden werde. . . . Ich habe tatsachHch auf demselben Munchener Manuskript― Blatt(von Prantl,Odeonsplatz),auf dem ich damals nicht weiter kam,zu schreiben 176 = 枝 作 fortgefahren.43) さらに,12月 23日 に はPaul Aman可 屯て に書 い て い る。 Ich habe allerlei Weiteres an den Krun― Memoiren geschrieben,laufe aber immer Gefahr ins 》Faustische《 Zu geraten und die Forin zu verheren,44) このように して,マ ンは四十数年前 に放 り出 したままにしていた「 クルル」 をその仕上 げに向って 書 き継 ぐことに したので ある。 そ して,1954年 9月 末 ,つ いに「詐欺 師 フェ∵ リクス・ クルルの告 白―一回想録第 1部 」 の 出版 にこぎつ ける。脱稿 したのは半年 ほど早 く,同 年 2月 の ことであった が,そ の量 は1913年 まで ,と 書 きためていた部分 の 3倍 にぶ くれあが った。この期 に書 かれた物語 は , クルルのパ リヘ の旅立 ちに始 まり,世 界旅行の最初の 目的地 リスボンでの滞在 で終 っている。 この 部分 とそれ以前 に書 きためていた部分 との間 には,ほ ぼ40年 の執筆体止があったので あるが,そ の つなぎ目はまるで識別 で きないほどに成功 した。 「 かれ は四十年間 も放置 しておいた あ とで ,1951年 にぶたたび『クルル』 を書 きつ ぎはじめた とき,完 全 にむか しと同 じ調子 をた もつ ことに 成功 しま した。基本的には縫 い 目す らまるでわか らない くらいですす)と カーチ ャ夫人 は述 べ ている。 しか し,以 上 の ような「 クルル」出版 にいたる までの最終段階 において も,例 によって,執 筆 の 道は平坦で はなかった。 は じめの うち,仕 事 は進 歩 し,1951年 ■月20日 に,「 クルル」の「旅立ち と 到着」及び「サーカス」 の章 が断片 として,,Die Neue Rundschau“ 誌 に掲載 され るに至 ったが,ま たもや道が とざされて しまった。 その期間は,1952年 5月 か らほぼ 1年 にわた っている。 また短 篇 がはいって きたのだ。その年 の11月 ,「 クルル」はいつ出 るのか とい う間に対 してマ ンは答 えてい る。 「おそ らく二 年 の うちにね。 で も分 りませんよ。 目下私 は『欺 かれた女』 と題 す る,小 さい写実的 な物語 を書 いています」♂)ま た,翌 年 ,つ まり1953年 4月 に「クルル」はどうなってい るのか とたず ね られて,彼 は,「 さあ,『 クルル』 は 目下休上です。 その代 り私 は,五 月 に ミュンヒェンのメル ク ール誌 に出 る予定の短篇 を書 いているところです。ほぼ『ヴェネツィアに死す』の分量の短篇ですイ ) と応 じている。 この短篇 とは,い うまで もな く「欺かれた女」 の ことに ほかな らない。 以上 ,数 々の執筆中断の状況 を眺めて きたが,こ の ように作品 の執筆 がひ とまず 中断 されるとい うことは,作 者 に とって, ともか く仕事 を継続す る意志 はあるとい うことを示す ものであろう。 し かしその反面 ,こ の ことは,作 者 の この仕事 に対 する疑問 も頭 をもたげて きた とい う ことではなか ろうか。 マ ンに は,長 い中断 の あいだに時 として「 クルル」 を書 き続 ける気 がすす まな くなるふ し が うかがわれ る。以下 そのあた りの事情 を検討 してみ よう。 1951年 ,ほ ぼ40年 後 に「クルル」の第 2期 の仕事 を始 めた頃,マ ンはHermann Kesten宛 ての未 公開の手紙 のなかで次 のよ うに述 べ てい る。 Die Vollendung steht in weiter Ferne. Es ist aufbringen werde,das Buch durchzufuhren.48) ■1lr o■ zweifelhaft, Ob ich noch die Laune 「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告白」の成立 177 また,「 私 が この長篇 を書 き始 めたのはすでに四十年以上 も前の ことで,そ のあ と他 の仕事 のために 中断 しましたが,時 間 と力 さえ許せばいつかは完成 した い と思 って最近 また とりあげたわ けです。 完成 がいつになるかは言 う ことはで きませんが,一 ,二 年 は続 くか も知れず,そ れ はいろいろの事 49と 情次第 ですね 」 の言 もある。 さらに,1954年 2月 ,「 回想録第 1部 」 の脱稿後 マ ンは言 う。 イ Das ist nun ein Band von vierhundertvierzig und einigen Seiten,》 Der Memorien Erster Tellく der im September erscheinen son― ―――Frattent irnmer noch, aber Fragment , 、 vrid das wunderHche Buch wohi bleiben,auch wenn mir Zeit und Laune gegeben sein sonten,es noch um vas ich vohl das Charakteristischste, 、 vierhundertvierzig Seiten weiterzufuhren . . . Das ist 、 verden VOhl einmal abbrechen und auhё ren, aber nie fertig 、 dardber sagen kann : Daβ es 、 wird.50) うえの三 つ の引用 において,マ ンはいずれ も「クルル」の未完成 を予感 して い るのである。 ここで , 最後 にもう少 し引用 してみよう。彼 は,1952年 4月 18日 付 けFerdinant Lion宛 ての手紙 に書 いてい る。 「私なぞ,本 当は,い まさらフェー リクス・ クルルの 回想録 のようなものを背負 い込 むべ きではなか ったのです。題材 か ら言 って も所要 エネルギーか ら言 つても,あ らゆる点で,私 の年齢 むきのde mon ageも のではあ りません。汎性愛主義 だの宝石泥棒 だの一 残 り少 ない人生の何年 かをこんな冗談 ご とに費 していい もので しょうか ?し か もこの冗談 ごとは,難 しくて,馬 鹿馬鹿 しい ときて い ます。 最近書 いた中 に とても面 白い部分 が あるのは事実ですが,そ れで も私 は,途 中で打切 ろう,断 片 に しては厖大 だけれ どもそこい らで止 めて置 こう,そ して,例 えば,あ なた も勧 めて下 さって い るエ ラスムスを扱 った短篇のような,私 の気持 をもう少 し引立 てて くれそうな新 しい作品 にかかれ るよ うにしよ う,と 思 う ことが よ くあ ります」♂)こ れにす ぐ続 けてマ ンは,「 しか し,他 F私 は,『 そ こい らで止 めてお く』習慣 の まった くな い男 です。中●元来私 は,自 分 の能力 の限界 内では,物 事 を最後 までや りぬ く気性 の人間ですF)と 書 きなが ら,「 ただ し,根 本的 に言 つて,私 の使 奉 は『ラ ァゥス ト ゥス博 士』までで終 った らしく,『 選 ばれ し人 』がすでに冗談め いた後奏曲だったのです か ら,い ま 書 いてい るものに至 っては,も はや暇つぶ しに過 ぎませんr)と 要件 を結 んでいる。 前述のように,「 回想録第 1部 」が 出版 されたのは1954年 の ことで あ り,作 者 マ ンは翌年の1955年 に生涯 を閉 じてい るので,こ の小説 は永遠 に未完 となったが,た とえここで作者 の死 が なか った と して も,以 上の ことか ら筆者 には,彼 は,も ともとその完結 を信 じてはい なかった し,ま た,完 結 させ るつ もりはなかった と思われてな らない。表題 の,未 完 を意味す る「回想録第 1部 」 とい う言 葉 は,こ の意味 で極 めて象徴的 で ある。 178三 枝 圭 作 注 1)ト ーマス・ マ ン全集 ⅥI 新潮社 1972年 p284 2)ト ーマス・ マ ン全集 Ⅵ p538 3)Eberhard Hirscher i ThOmas Mann VOlk und Wissen Volkseigener Veriag,Berhn 1973,S 190 4)ト ーマス・ マ ン反語的 ドイツ人 エー リヒ・ ヘ ラー/前 田敬作・ 山口知三訳 筑摩書房 1975年 p437 5)同 上 6)ト ーマス・ マ ン K・ シュレー ター/山 口知三 訳 理想社 1981年 p203/204 7)ト ーマス・ マ ン全集 X p 330 8)ト ーマス 。マ ンは語 る V・ ハ ンセン,G・ ハ イネ編/岡 元藤則訳 王川大 学出版部 1985年 p.23 9)Thomas Mannノ /Heinrich Attann Briefwechsel 1900-1949. S Fischer Veriag,Frankfurt a M.1984,S 95 10)ト ーマス・ マ ン全集 ⅥI p.566 11)ト ーマス・ マ ンは語 る p341 12)同 上 ,p44/45 13)ト ーマス・ マ ン全集 X p 330 14)Eberhard Hirscher:Thomas WIann S 192 15)GuidO Stein:「 ΓhOmas 【 ann Bekenntnisse des IIOchstaplers Felx KruH:KLInstler u KOmδ diant Sch6ningh, PaderbOrn.IMunchen wien Zurich. 1984,S 12 16)ト ーマス・ マ ン全集 X p 331 17)Eberhard Hirscher i ThOmas Mann S.191 18)ト ーマス・ マ ン全集 X p 332/333 p109 19)ト ーマス・ マ ン全集 20)GuidO Stein:Thomas Mann Bekenntnisse des HOchstaplers Fehx Kru■ 21)ト ーマス・ マ ンは語 る S 14 p123 22)同 上 ,p131 23)Thomas Mann:Briefe 1989-1936 S,Fischer Verlag,Frankfurt a. 24)「 ヨセフ」 1 1962,S 424 4部 作 の こと。 25)カ ーチ ャ・ マ ン 夫 トーマス・ マ ンの思 い出 山口知三訳 筑摩書房 1975年 p121 26)Thomas Mann i Briefe 1937 1947 S 336 27)ヘ ッセ ンーマ ン往復書簡集 井手責夫・ 青柳謙 二訳 筑摩書房 1972年 p171 28)Hans Blirgin,Hans∼ Ottoふ江ayer,Thomas Mann Eine Chronik,Frankfurt a M 1965,S 33 29)評 伝 トーマス・ マ ン 菊盛英夫 筑摩書房 1977年 p262,308 30)同 上 ,p311 31)同 上 ,p354 32)同 上 ,p515 33)ト ーマス・ マ ン全集 X p 331 34)Hans Burgin,Hans― Otto Mayer,ThOmas lann Eine Chronik 1965,S 231 「詐欺師 フェー リクス │ク ルルの告白」の成立 35)ト ーマス │マ ン K・ シユレーター/山 口知三訳 179 p204/205 3o)ヵ ―チ ヤ・ マン 夫 トーマス ●マ ンの思い出 pll13 37)ThOmaS Mann/Heね tich 30 GHido Ste Mannヽ BFiefV∝ hsel 1900-1949.S 104 :ThomaS Mann Boた enntnisse des Hochstaplす s 39)Halls Wyslthg(■ gl Krull s 16 Feユ unter Mitarbeit von Yvonne Schlnidlin― Bild ulld Tё xl Eine DokutnentatiOn,Bern 1975,S184ff 46)Ebenda,S,124f` 41)Ebenda,S l10■ 42)ト ーマス・ マン K,シ ュレーター/山 口知三訳 43)η ttomas Mann:B p,204 efe 1948-1955.S,188 44)Ebenda,S,237 ー マ ンの思い出 p.121/122 4,)カ ーチヤ・ マ ン 夫― トーマス ・ 46)ト ーマス │マ ンは語 る p,841 47)同 上,p348 43)Hans Bitrgin,Hans・ otto WItayer,Thomas Mann.Eine Chronik,S.1231 40 トーマス ●マンは語 る p1335 50)HanS Burgin,Hans― Otto 51)ト ーマス ●マン全集 52)1司 上,p.544 53)同 上 rayer,Thomasヽ laコ n.Eine chlonik,Si 244 p.543/544 bei ThOmas Mann―