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小公女セーラ2004 第五章 セーラとラビニア

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小公女セーラ2004 第五章 セーラとラビニア
セーラ と ラビニア
小公女セーラ2004
第五章
丘田けん
小公女セーラ 2004
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第五章 セーラとラビニア
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一
年の経過とともにセーラ嬢の業務もレパートリーが増え てきま した。
それま で運動オンチだったセーラ嬢です。ちょっと 身体 を動か して運動不足を 解消 し
春の全国高 校野球選手権では、嬢が始球式の投手を務めました。
ようと、嬢は最近になってベッキーを相 手にテニスを始めましたけれど、 いわゆる「 お
嬢さまテニス」の域を出るものではありません。空 振りしては「きゃ~」などと叫び つ
つ、しりもちをつくのです。そのたびにベッキーはケラケラ笑いました。
ベッキーにとっては、お料理に次いでセーラ嬢に対して得意になることのできるテニ
スでした。小さなころから野原を駆け回り、弟のテディらとボール遊びに興じてきたベ
ッキーです。アウトドアに関しては、誰にも負けません。もちろんセーラ嬢に対しても
……です。
そんなときでした。高校野球の全国大会における始球式の依頼が舞い込んだのは。
嬢にとって、野球とはそれまでまったくといってよいほど縁はありませんでした。で
すので、始球式の話が持ち上がったときでさえも、 セーラ嬢にとっては「シキューシ キ
って、何なのそれ?」という感覚なのでした。
男の子であるピーターからしてみれば、もうそれはそれは男なら誰しもが憧れる甲子
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小公女セーラ 2004
園 野 球 場 の マ ウ ン ド で す 。こ ん な チ ャ ン ス は そ う そ う め ぐ っ て く る も の で は あ り ま せ ん 。
始球式を引き受け るかどうかで返答を迷っているセーラ嬢に代わって「絶対出席させ て
いただきます」と声高 々に宣言したピーターなのでした。
しかし、引き受けたはいいが、ピーターがまさかリリーフするわけにもいきません。
こうして、野球のヤの字も知らないセーラ嬢 への特訓がはじまったのでした。
生まれて初めて手にはめるグラブ。そして手に握る野球のボール。
一日の終わり、お風呂までの約三十分間を利用してのキャッチボールの特訓です。台
所 仕 事 を 終 え た ば か り の ベ ッ キ ー も 交 え て 、三 人 で「 ス ポ 根 」の 真 似 を や っ た の で し た 。
最初のころなど、 グラブの構え方すらろくにわからず、まったくさまになっていない
手だけ を残 して、 身体 の全部 がへっぴり 腰に なって逃げ てしま うの です。
セーラ嬢でした。自分に向かってボールが飛んできたとわかるや否や、グラブを持った
「だめですよ、お嬢さま。ボールを怖がっていちゃ」
野球大好きっ子のピーターは、もうすっかり呆れ顔です。セーラ嬢が運チだってこと
は以前からよくわかっていたつもりでしたが……。
なるほど、つもり……ね。
「もうそんなにいじめないでよ。 これでもがんばっているつもりなのだから」
現実はピーターの想像をはるかに越え、いつまで経っても捕球すらできないでいるの
です。
第五章 セーラとラビニア
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全国大会の開会式まで、そう日にちはありません。ピーターもベッキーもさすがに焦
ってきました。
ベッキーをキャッチャーにして、ピーターをバッターにしての、嬢のピッチング練習
は来る日も来る日も続くのでした。
とうとうピーターは言いました。
「お嬢さま。もうお嬢さまにはキャッチボールは求めません。お嬢さまにはピッチング
だけに絞っていただきます」
次の日に、ピーターはボールが山盛りになっている手提げかごを準備してきました。
背丈がセーラ嬢の半分くらいもあ るかごをピ ーターは嬢 の横に置いたのです。
「さあ、お嬢さま。これだけボールがあればいちいち返球を受ける必要がないし、ひた
すらキャッチャーめがけて投げ込んでくれたら構いませんよ」
「ひえええ。ピーター、こんなにもたくさん投げるの」
「今のお嬢さまに必要なのは、ひたすら投げ込むことです。今から行えば、始球式には
観衆からため息が出るくらいのすばらしい球を投げることができるようになりますよ」
練 習 を 開 始 し て か ら と い う も の 、セ ー ラ 嬢 自 身 も 野 球 と い う 球 技 を 少 し で も 知 ろ う と 、
ピーターからビデオやらを拝借して研究を始めていました。
実際の始球式というものがどのように行われるのかにつきましても、彼女はビデオか
ら学ぶことができました。投げた後で打者はわざと空振りしてくれるのだということ も
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小公女セーラ 2004
初めて知りました。
でもこのときセーラ嬢は思ったのです。
「よし、それならば本気で空 振りするくらいの球を投げてやろう」
目 の 前 に 置 か れ た ボ ー ル の 山 。最 初 は 思 わ ず「 え え え 」と 言 っ て し ま っ た 嬢 で し た が 、
何球目かが、ベッキーの構え るキャッチャーミットへ届く前に地面へ触れ、それがミ
本気で空振りの信念のもと、黙々と投げ込みを行うのでした。
ットをかすめてベ ッキーのお 腹に衝突しました。顔をゆがめてうずくまるベッキー。 血
相を変えて彼女に走り寄るセーラ嬢。心 配そうに見つめ る嬢にベッキーは微笑み返す の
でした。
り前ですからね」
「ドンマイですよ、お嬢さま。これくらいのこと、私が田舎で遊んでいたときでは当 た
何ともたくましいベッキーの声です。それに安心す るセーラ嬢 でしたが、彼女はベ ッ
キーの右腕を捲り上げました。そしてそ こでセーラ嬢はベッキーの変色して青色から 紫
色へとなった腕を見たのでした。
「
」
セーラ嬢が問い詰めますが、ベッキーはへらへら笑っているだけです。
ベッキー、 これどうしたっていうの
すると、横からピーターがやはり腕を捲り上げてセーラ嬢に見せました。彼の腕にも
ベッキーと同じようなあざがいくつもできていました。
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「やだなあ、お嬢さま。野球やってたら、このくらいのあざは当たり前ですよ。実際の
試合ともなると、バッターが打った球がうなりをあげて飛んできますからね」
嬢は思いました。 自分を甲子園球場の晴 れのマウンドに上げるため、この二人は自分
の怪我も省みず練習に付き合ってくれているのだと。
当日球場に立つのは自分だけではない、ピーターとベッキーの三人の心がひとつにな
って一緒にマウンドへ上がるんだ。
そう思うと、セーラ嬢の心に真っ赤な炎が立ち上がるのでした。
「私はやるぞぉ! 向かってくる奴はばったばった私が三振にしとめてやるぞお!」
いや……。セーラお嬢さま、投げるのはたった一球だけなんですけれど。
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小公女セーラ 2004
二
一日警察署長、一日消防署長 なん ていう依頼もセーラ嬢 にはひっきりなしにやってき
ました。
県警本部や消防本部か らのお誘いと各地方公共団体 からの公演依頼でミンチン学院の 電
「春の交通安全運動」とか「秋の火災予防運動」という季節になりましたら、全国の 各
話は鳴りっぱなしです。
最初のころは院長であ るマリア・ミンチン先生がていねいに応対をしてきましたが、
何度も何度もかかってくる同じ内容のそ れに、とうとうかんしゃくを起こしてしまい、
それに加え て院長はセーラ嬢を院長室へ呼びつけて小言を言ったのでした。
それ以降の応対を妹のアメリ ア先生に押し付けてしまいました。
「セーラさん、あ なたはいったいいつか ら芸能人になったのですか。この学院は芸能 プ
ロダクションではないのですよ」
「申し訳ありません、院長先生」
「まあ、あなたはプリンセスさまだから人気があることはわかりますけれどね」
「あの……。院長先生 」
「なんですか」
「私が今こうして昔からの夢だった学校の教師になれたのも、すべて院長先生が私に 惜
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しみなく与えてくださった愛情によるものと感謝しております」
院長はセーラ嬢に背中 を向け、窓際まで歩いてゆきました。今 日は体調がまあまあ良
く、杖をつきながらも 自分の両足で立ち上がっている院長なのでした。
うふ。うふふふふ。
そして風景をながめ、そう笑ったのです。
「あの、ですから院長先生」
院長は セーラ嬢を 再び 見つめます。
「よろしい、わかりました。あなたがそう理解しているのなら、私は特に 言うことは あ
りません。どうぞ、全国どこにでもおでかけなさい。警察官にも消防士の格好にもすす
いうことをしっかりアピールするのですよ。ですから電話による受付もどしどしやり ま
んでなりなさい。 ミンチン学院は いつ何時でもこの国の平和と安全を祈っているのだ と
しょう」
「ありがとうございます、院長先生」
院長室を後にした セーラ嬢は、指を鳴らして口笛を 吹くのでした。
※
どしどし活動しなさいと院長が言ったものの、土曜日曜もお構いなしにかかってくる
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電話にアメリア先生までもがてんてこ舞いで目を回しそうなのでした。
特にこの二人は、自室で楽しみにしている煎茶の時間をセーラ嬢宛ての電話で邪魔さ
れることが大嫌いでした。ま してや、その一度は、 院長 が留守であり、アメリ ア先生 が
かつてからお熱をあげていたトム・クリスフ ォード氏を茶室へ招待することに成功した
自身に何か 言ってやりたいと 思うのでした。
まさにそのときでしたので、 いつもは温和なアメリ ア先生も、 このときばかりは一言嬢
そんな空気を悟ったのでしょうか。畳敷きの部屋にお呼ばれされて正座しているクリ
スフォード氏が口を開きました。
「いつもいつもセーラのことで、 院長先生や アメリ ア教頭先生 にはご迷惑おかけ致し ま
「え。と、とんでもございませんわ、クリスフォードさま」
すなあ」
クリスフォード氏に声をかけ られたアメリア先生は、もう嬉しいやら何やら。 話題 が
何につ いてであれ、彼と会話を交わすことができたということがたまらないのです。
「あの子は いつも 言っていますよ。この学院の教壇に立つことが楽しくて楽しくて仕 方
ないのだと」
「まあまあ、セーラさんがさようなことを言ってらしたのですか」
「ええ、そうですとも。でも最近は全国を飛び回ることが多くて、授業がなかなかでき
ず、本当に残念だ。院長先生やアメリア先生、他多くの教師のみなさまにはご 迷惑お か
第五章 セーラとラビニア
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けする、とね」
「セーラさんにはセーラさんでなければできないお仕事がありますからね。学院を空 け
ることにつ いてはお姉さまも私も何とも思っておりませんから」
「ありがとうございます。セーラが戻ってまいりましたら早速伝えておきます」
そう言ってクリスフォード氏はアメリア先生に立ててもらったお茶をさもおいしそう
に飲んだのでした。
「結構なお手前で」
アメリア先生はクリスフォード氏のそんな仕草にぞっこんなのかも しれません。
「かく言う私もインドやら英国やらあち こち行っていますから、セーラに接してあげ る
機会が少なく、少しもあの子の父親代わりになっていないことが気がかりなのです」
「どうぞ、クリスフォードさま。私たちがその分セーラさんには温かく接しますから、
どうぞご安心を」
「感謝します。あの子、セーラが本当に欲しているのは大金持ちになることでもなけ れ
ば、ダイヤ モンド女王になることでもありません。彼女が欲しいのは、肉親の愛。こ れ
に尽き るのですよ。私は彼女がもっとも 欲しがっていた 宝物を いとも簡単に奪い去っ て
氏 の し み じ み と し た 会 話 に 、の ど へ こ み あ げ て く る も の を ア メ リ ア 先 生 は 感 じ ま し た 。
し ま っ た 。そ の 申 し 訳 な さ は こ れ か ら 何 年 経 と う と も 決 し て な く な る こ と は な い の で す 」
「最近になって私はあのセーラさんが私の実の妹のように思えるのです」
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「ああ、そう言っていただけると。幸運なことに、あの子の周りには真の愛情を注いで
くれる人ばかりです。ベッキーにしてもピーターにしても、みなセーラのことをダイ ヤ
モンド・プリンセスだからとは見ていない。 真の友とだけ見てくれているのです。あ り
がたいお話です」
ラさんが今後昔のような不幸な目にあって一文無しになったとしても……」
「もし、セーラさんが。怒らないで聞いてくださいね、クリスフォードさま。もしセ ー
「はあ」
「たとえセーラさんが一文無しになっても、私はあのかわいい妹を決して手離したりは
しません」
「ありがとうござ います、アメリ ア先生 」
「あ、あの、クリスフォードさま。おかわりいかがですか」
「いただきましょう。先生のお茶は本当に気持ちが落ち着きますからなあ」
「まあ、いやですわ、クリスフォードさま」
「ははは。これは失礼 」
※
春の交通安全運動 の啓蒙ポスターのモデルとなったセーラ嬢。婦人警官に扮した嬢が
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微笑んでいます。それらは街中にある各町内会の掲示板に貼り出されるのですが、も の
の三日と経たないうちに姿を消してしまうのです。最初はピン止めがゆるくて、風に よ
って吹き飛んでしまうのかと思われたのですが、どうもそれもおかしい。なぜなら、 な
くなってしまうポスターは一箇所二箇所では なかったのです。おそ らく、 セーラ嬢の こ
り持っていってしまう様子なのです。
とを気に入った何者かが他人の見ていない深夜を見計らって掲示板からはがし、こっそ
それにしましても、警察のポスターが盗難に遭うのではしゃれにもなりません。しか
し盗まれないようにす る格別な対処法があるわけでもないので、ポスターは仕方なく 大
量に増刷することとなりました。
とある土曜日の午後、授業の終わったミンチン学院のIT研修室では、ピーターが自
分のパソコンの前に座りながら、壁際の掲示板に貼ってあるセーラ嬢のポスターをぼ う
と眺めていました。
「わっ!」
彼の耳元に向かって誰かが大声を張り上げました。まったく予期していない不意打ち
に、ピーターは椅子から転げ落ちてしまいました。
「あらあら、ピーター先生ごめんなさい。まさかそんなにびっくりするなんて思わなか
ったのよ」
いたずらっ子はメイリンでした。
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「いや、ぼうとしていた俺の方が悪かったんだよ」
ピーターは立ち上がります。
「ふうん。セーラ先生のポスター見てたんだ、ピーター先生」
メイリンはくすっと笑ってから、ピーターの意識を虜にしていたポスターの前まで歩
いてゆきました。
「セーラ先生かわ いいもんね。でもピーター先生の本命はベッキーコック長なんでし ょ
う。浮気は いけませんよ、先生」
「な、何を言うかと思えば。お、俺たち三人は三人でひとりなんだよ。三人の間には 本
命とか二番手とか関係ないんだ」
メイリンは声をあげて笑います。笑いすぎて涙を流してしまい、手でぬぐってみせる
のでした。
「ダイヤモンドより固 い友情ってやつですか。あはは、おかしい。 でもね先生、男の 人
一人に女性二人の友情なんて、私考えられません」
「不思議かもしれないけれど、三人が初めて出会った瞬間からこの不思議な友情は続 い
思えるんだよ」
ているのさ。たとえ三人がちりちりばらばらになったとしても、三人は常に一緒だっ て
ふう~ん。
メイリ ンにはピーターの友情 論がよくわかりませんでした。自分だってジェシ ーと ガ
第五章 セーラとラビニア
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ートルードとの女三人組はつくっているけれど、果たして彼女らとの間が揺るぎない友
情関係 にあ るかどうか と 言え ば、 それは まったく自信が ないことなのでした。
「ねえ、先生。先生の三人組の中 に私を混ぜてくれないかなあ 」
また何と言う爆弾的発言でしょう。
「 殿方 一人 に女が 三人。 想像 した だけ で 楽しくなり そう でしょ う、 ピ ータ ー先 生 」
「もしメイリンが本当 に俺たちの中に入りた いと願うのなら、 きっと自然 な格好で、 気
が付かないうちに四人組になっているよ」
「???」
まるで意味のわからないでいるメイリンをピーターは笑いました。メイリンはぷうと
「もう、からかわないでくださいよ、先生」
膨れます。
「からかっ てなんかいないさ。本当のことさ。それだけ 俺たち 三人は自然 な姿でいる っ
てことなんだよ」
※
秋の火災予防運動期間中のセーラ嬢はたいへんでした。
お昼のテレビニュース番組の中で、とあ る市の一日消防 署長を勤め るセーラ嬢 がはし
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ご車を体験するという模様が生中継されたのです。
ミンチン学院のみんなも食堂のテレビの前にみな集合して、あ こがれのセーラ先生の
姿に期待しています。
「全国のみなさん、こんにちわ。セーラ・クルーです」
ロッテ ィは生中継のセーラ嬢を指差して万歳します。
「セーラ・ママよ、セーラ・ママよ。わーい」
「今日は私たちの街の平和を守ってくれています消防署からの中継です。今日私はこの
消防署の一日署長として、これか らはしご車に乗り、地上四十メートルの高さを経験 し
てみること になりました。私は今はしご 車のゴンド ラの中からしゃ べっていま す。
最初はテレビ中継を意識した 話し方をするセーラ嬢 でしたが、その話し中 にゆっくり
って、え~、もうはしごがのびてきていますぅ~。きゃー、高 いですぅ~」
とはしごがのびていったのです。
とたんに悲 鳴に近い声を張り上げるセーラ嬢。その声が電波に 乗り、全国のお茶の間
へ響いたのでした。
「きゃー、うわー、高 いですぅー。消防 士のみなさま、本当にお仕事お疲 れ様でござ い
ますう。きゃー!」
はしご車が背を高 くす るにしたがって、 セーラ嬢の声は本物の悲鳴と変わってゆくの
でした。
第五章 セーラとラビニア
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「きゃー、きゃー、たかいー、きゃー」
ミ ン チ ン 学 院 の み ん な は 何 と 反 応 し て よ い か わ か ら ず 、全 員 が 沈 黙 し て し ま い ま し た 。
「今は しごは 最高 の高 さに達 したそうですぅー、き ゃー、うわ ー、 信じらんない、 き ゃ
ー、よ、四十メートルの高さから私はレポートしています、ってこれはめちゃくち ゃ高
きゃー!
いですぅ、きゃー」
「ベッキー、セーラお嬢さんて、高所恐怖症だったのか い」
ランチを学生食堂 に運び終わって一服しているモーリーは、厨 房のテレビ でセーラ嬢
の生中 継を 腰掛けながら見ています。その横にはジェームスとベッキーがいました。
「いいえ、モーリーさん。そのようなお話は一度も伺ってはいないのですが」
「でもよお、四十メートルって、それほど高 くって、怖いものなのかもしれねーぜ」
ジェームスはせんべいをかじりながら笑いました。
「そうだねえ。でも私は一度でいいからはしご車に乗ってみたいと 思うね。おっと、救
出される住民ってのは御免こうむるよ」
モーリーは言いました。
そのころ、テレビからはレポートらしいレポートの声は何も聞かれず、ただただセー
ラ嬢の 甲高 い叫び声と 半分 以上泣き顔と なっ てしま った嬢の表情だけが全国ネ ットで中
継されているのでした。
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そして彼女の叫び声が半分泣き声 に聞こえてきたとき、テレビ 画面は局のスタジオに
切り替わりました。
ひきつ ったような顔つきで今 の中 継の模様をフォローす る女性アナウンサ ー。
食堂で事の成り行きを 一部 始終見てしま った メイリンやアーメ ンガードたち。
ロッティなど、セーラ・ママが帰ってきたら何と声をかけようかと、真剣に考え込む
のでした。
中継の終わったセーラ嬢はその後どうしたかと言いますと。
地上で事の成り行きを見守っていたピーターに抱きかかえられるようにしてはしご車
がくがく震えっぱなしなのでした。
から降りてきたセーラ嬢。地上に降り立っても、足がしっかりと地に着かない様子で、
「よほど怖かったんでしょうね、お嬢さま」
ピーターが聞くと、彼女は首を振って答えました。
「また 乗りたいよ!」
第五章 セーラとラビニア
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三
さて、さらに年月は流れます。
セーラ嬢の教師生活も板につき、彼女はすっかり学院の看板教師となっていました。
「うちの子供には是非セーラ先生の授業を受けさせたい」とわざわざ申し出る親御さ ん
もいて、新入生を 受け入れる枠組みも大 幅に広げる必要がありました。
それに加え て、このと ころ男子生 徒も何とか 受け入れられないかと いう要望が寄せら
れるようにさえなってきたのです。
最初の ころは少しばかりの父 兄か らの希望に過ぎませんでしたが、その声は日増しに
のです。
強くなり、最近はとうとうコウベ 市の教育委 員会からも 問い合わせが来るほどになっ た
それを 受け て、ピ ータ ーやベ ッキ ーコック長 を 交え た職 員会議 の席 上、マリア・ミン
チン院長は高々と宣言しました。
「二十一世 紀を迎える西暦二〇〇 一年か ら、 当学院は男女共学校と致します」
満場の拍手。軽く頭を下げる院長。
「共学とは 口で言うのはたやすいことです。けれども当学院にとっては一大事です。 女
学校としてこれまで築き上げてきた気品と伝統は決 して失わないように十分な配慮を 行
う必要があるのです」
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院長はそこまで話すと、アメリア先生とセーラ嬢を指名しました。
「はい、お 姉さま 」
「はい、院長先生」
二人が立ち上がります。
女共学となるためのあらゆる手段、計画は二人から立案されるものとします。よろし い
「二人を共学校実現のための推進プロジェクトメンバーと致します。今後、当学院が男
ですね」
「はい、わかりました、院長先生」
アメリ ア先生とセーラ嬢は同 時に答えま した。
アメリ ア先生とセーラ嬢との入れ替わりに、ピーターとベッキーが起立します。
「よろしい。ピーターにベッキー」
「はい、院長先生」
「はいぃ、院長先生」
「両名は今後推進メンバーの二人をサポートするように。わかりましたね」
アメリ ア先生とセーラ嬢が二人を 見上げて微 笑みます。ピーターとベッキーも微笑み
「はい、院長先生」
返します。ピーターはセーラ嬢に向かってVサインを送 るのでした。セーラ嬢もこれ に
答えて小さく目立たないように左 手でチョキをつくってみせました。でも彼女のこのサ
第五章 セーラとラビニア
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インは、院長先生の咳払い一発ですぐさま引っ込めないといけませんでした。
「ところで、ベッキー」
院長先生はベッキーを呼びました。ピーターと一緒に着席しようとしたベッキーは、
改めて姿勢を正しました。
「はい、何でございましょうか、院長先生」
「お前のつくる料理はたいへんお いしいと、生徒や教職 員たちからすこぶる評判です 」
何を話し出すかと思えば、それは学院の給食のことでした。
「ありがとうございます、院長先生」
「特に……。先日ヒョウゴ県知事とコウベ市長ご夫妻が授業参観にお見え になった際 に
お 前 が 用 意 し た ラ ン チ は 、特 に お 三 方 の お 気 に 召 し て く だ さ い ま し た 。そ し て 願 わ く ば 、
今度は ディナーに招待してほ しいと仰せでお られます」
おおー。
一同から声が上がります。照れくさそうに下を見つめるベッキー。
「ひいては、次週の土曜日にお三方を始め、コウベ 市と県の教育委 員会の先生方をお 招
きして夕食 懇談会を催 すことになりました。急なお 話ですけれど、対処なさい。いい で
すね」
「い、 院長先生。人数はどのくらいでございましょうか 」
「約二十名と聞いております」
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「まあ、そんなに大勢で」
アメリア先生が驚きの声を出しました。と、同時に彼女はベッキーを尊敬の念をこめ
て見つめるのでした。
「当日は委 員会の方々へ今後の学院のあり方 について広くご意見を伺い、また こちらか
らも要望を 述べるつもりにしています。特に男女共学化にあたり当方からの要求はでき
うる限り聞き入れていただけるような環境づくりをしなければなりません。ですから、
お前のディナーは重要なアイテムとなります。わかりますね」
「はい、院長先生」
「これまで以上に腕をふるったディナーをお出しす るのです。よろしいですね」
院長の 眼鏡がきらりと 光ります。
「はい、院長先生」
「ところで、ベッキー」
「は、はい、院長先生」
「私はこれまで、料理番というものは誰でもできる、単なる小間使い、使用人にすぎな
いものと考えておりました」
「……」
「しかし、お前の料理にかけ る姿勢と情熱を 見ているうちに、それは大きな誤りであ る
ことがわかりました」
第五章 セーラとラビニア
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教職員の間からは、再び小さなどよめきが起こりました。院長 らしからぬ言葉が彼女
自身の口から聞こえてきたからです。
「ベッキー」
「はい、院長先生」
「お前がこの学院に勤めるようになってから今日に至るまで、私がお前に対して行っ て
きた数 々の無礼、 遅く なったけれど、たった今この席で 正式に 謝罪 します 」
おおー!
今までにない声が 一同から聞こえました。これらの声の後、ベ ッキーは大きな泣き声
をあげたのでした。
セーラ嬢が 思わず席を立ち、ぼろぼろと 涙を こぼす彼女に駆け寄りました。横 にいる
ピーターも立ち上がってベッキーの両手を握ります。
「お前はこの学院にとって、もはや絶対に欠かすことのできない教員です。これからも
当学院の発展のために努力してください」
「ありがとうございます、院長先生」
びに感じています。本当に。本当によく当学院へ来てくれました。ありがとう、ベッキ
「私は……。朝昼晩と、お前のつ くる食 事を 一日に三度も味わうことができることを 喜
ー」
ベッキーはセーラ嬢の胸にかぶりつくようにして顔をうずめて泣くのでした。
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「よかったわね、ベッキー」
「やっぱりお前はすごい奴だよ、ベッキー」
「ありがとうございますぅ、お嬢さまぁ、ピ ーター」
これ以降、ベッキーは ミンチン学院のコ ック長にとどま らず、数多くの活躍の場を 得
て、押しも押されぬ料理人となってゆくのです。
そ ん な 彼 女 を 支 え る セ ー ラ 嬢 と ピ ー タ ー 。セ ー ラ 嬢 は ベ ッ キ ー と ピ ー タ ー に 助 け ら れ 、
ピーター自身も彼女らに励まされる。
「ダイヤモンドより固い友情の絆」
まさしく彼女らにぴったりの形容ではないでしょうか。
第五章 セーラとラビニア
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四
さらに時は 経ちます。
ジェシ ーと ガートルードたち、セーラ嬢 より 三歳年上の 年長生 徒らが、いよいよミン
たら、何と 言っていた ことでしょう。
チン学院を卒業す る年がやってきました。もしここにあのラビニア・ハーバート嬢が い
さて、今日は代表生徒ロ・メイリンの誕生パーティーが開催されます。
彼女はジェシーの一歳下の年長生徒ですので、彼女らが卒業してしまった後も、一年
間はこの学院に残って勉強を続けます。
「あんたのお誕生 日をお祝いでき るのも、今回が私たちは最後よ」
特別寄宿生室でパーティードレスの着付けをメイドたちにやらせているメイリンに、
ジェシーが言いました。
「そーよー。メイリンと知り合えたのがついこの前のような気がしているけれど、今 年
これはガートルードの声です。
で私たち卒業なのだから」
「お二人には本当にお世話になったわ」
鏡台をみつめたままでメイリンが答えました。
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小公女セーラ 2004
「私た ち、 代表生 徒だったラビニ アが故郷の 米国へ 帰っ ちゃっ て、 随分と さび しい気 が
していたの。なのに、まるでラビニアと入れ替わりみたいにメイリンが入学してきて。
しかもメイリンはラビニアのことをよく知っていたから、もう、びっくりしちゃった」
ジェシーが言います。彼女もガートルードもメイリンが転入してきた当時のことを、
その中 国か らの留学生 に自己 紹介をしようと 思った瞬間に、彼女らはメイリンの方 か
自分自身に起きたビッグイベントとしてはっきり記憶にとどめているのでした。
ら名を呼ばれてしまったのです。
どうして私たちの名前を知っているの?
聞けば、世 界を渡り歩く商人であるメイリンの父親は、米の実業家であるラビニア嬢
の父親とは古くか らの親友であり、その関係でメイリン自身も ラビニア嬢のことをよく
知 っ て い た の で す 。ラ ビ ニ ア 嬢 よ り 一 歳 下 で あ る メ イ リ ン は こ の 油 田 王 の 娘 の こ と を「 先
輩」と呼んで慕っていました。
そして、メイリン自身がニッポンへ留学することを決定したとき、 ラビニ ア嬢は何の
疑いも示さ ずにその留学先にコウベ市のミンチン女子寄宿学院を推薦したのでした。
ラビニ ア嬢の口利きもあり、メイリンはすんなりと嬢の後釜の代表生徒として学院へ
転入することができたのでした。
メイリンはラビニ ア嬢からジェシーとガートルードという二人の生 徒のことを聞かさ
れ、彼女らと仲良しになることを勧められたのでした。
第五章 セーラとラビニア
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彼女らにとって、メイリンはまさにラビニア嬢の再来を想像させたのです。
「今日の私のバースデーパーティーが、お二人にとっても想い出に残る宴となるよう に
していただきたいわ」
メイリンが言いました。
「ありがとう」と二人 口をそ ろえ るジェシーとガートルード。
「お二人とも卒業後はニッポンの大学へお進みになるのでしたよね」
メイリンが聞きます。「ええ、そうよ」とうなずく両名。
「大学を卒業したら、この学院の教師としてまた帰ってきてくださいな」
メイリンにそう言われて大笑いす るジェシーたち。
「私たちが教師だなんて、いったいどんな授 業になるか想像できて?」
「二十 一世 紀の到 来と ともに この 学院は 男女共学校 にな るのよ。 教師の数 も増 やさな け
ればならないし、お二人の需要はあると思うわ」
「お笑い話よ、それって」と、ジェシー。
「そんなことないわ。きっとセーラ先生も、 この学院のOGに教師に来てほしいと思 っ
ておいでのはずよ」
「セーラ主任の下で働くことになるのかな、ジェシー。あなたにそれは耐えられるこ
と?」
ガートルードがジェシーを見つめます。
28
小公女セーラ 2004
「 そ う ね え 。あ の ミ ン チ ン 院 長 の 下 で は 御 免 こ う む る け れ ど 、セ ー ラ の 部 下 と し て な ら 、
案外うまくやっていけそうな気がするわ」
「あの人、面倒見が絶対いいはずだもんね」
ジェシーの声にガートルードもそう答えるのでした。
そうこうし ているうち に、パーテ ィーの 開催 時刻と なりました。主役であ るメイリ ン
の入場とともに、在校生徒は祝いの歌を合唱はじめます。
ハッピバースデー、ハッピバースデー、ハッピバースデー、トゥ、 ユー。
ハッピバースデー、ハッピバースデー、ハッピバースデー、メイリン。
大きな拍手のもと、メイリンはパーティーの出席者にていねいにお辞儀をするのでし
た。車椅子に乗ったマリア・ ミンチン院長に対しては特に注意深く足を曲げて礼を行 い
ます。院長も笑顔で彼女の誕生日を祝い、院長の車椅子を先ほどまで押していたセー ラ
メイリ ンは セーラ嬢にも微笑みかけ、次にセーラ嬢 の隣に立つピーターへ片目を瞑 っ
嬢も「おめでとう」の声をかけます。
て見せたのでした。
ドキン。
第五章 セーラとラビニア
29
ピーターの胸が大きく鼓動しました。
(ひゃあ。メイリンって、こうして見るとマジでかわいいや)
やはり彼も殿方です。 ましてや、メイリ ンは今でもピーターに 特別 な感情を抱いてい
ますから、彼の前で行うシグナルはすべてピーターの心をハントす るためのものでも あ
(昔パソコンを買いに二人で街へ出たときとは、比 べ物にならないくらいきれいにな っ
るわけです。
てるよ、メイリン)
ピーターはメイリンへウインクで返事をしようとしたのでした。
「いてぇ!」
ところがところが。誰かがピーターのお尻をおもいっきりつねあげたのです。
(ん、もう。ピーターのあほんだら)
(ベ、ベッキーかよ。何するんだい)
(お嬢さまの面前で何てしまりのない顔をしているのよ、ピーター)
隣に立っていたベッキーです。彼女がピーターのお尻をギューと。
セーラ嬢はピーターの表情に気づくことなく、メイリンに向かって拍手しているので
した。
「ロ・メイリン。お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます、セーラ先生」
30
小公女セーラ 2004
メイリンへのプレゼントの授与の後は全員での乾杯です。
そして、学院で行われる誕生 日会には、毎回ゲストが一人以上呼ばれます。
主役である生徒にゆかりある人物であったり、好きな芸能人であったり、 手品師であ
当然のことながら、今回のメイリンの誕生日会にも彼女に関係のある人物が現れるこ
ったりと、実にまざまです。
とでしょう。
会がうまい具合に進み、皆の話題 にそろそろ底がつきかけたころ、 会場である小ホー
ルの内線電話が鳴りま した。 受話器をアメリ ア先生 が取り上げます。
電話に向かってお 辞儀をするアメリア先生。そして受話器を戻 した後、彼女はセーラ
嬢を手招きで自分 のそ ばにやって来させ るの でした。アメリア先生 の話を 聞いてうな ず
き、会場を出てゆくセーラ嬢。アメリア先生は彼女の代わりに院長 の車椅子までやっ て
来ました。
「本日のお 客さまがお 見えになりましたので、今セーラさんにお迎えに行っていただ き
アメリ ア先生はそう院長の耳元にささやきま した。
ました、お 姉さま 」
院長はうなずきます。
「今日はメイリンさんを含めて三人ものプリンセスがこの学院に集まったのですね、 ア
第五章 セーラとラビニア
31
メリア?」
「はい、お 姉さま。あ、いいえ、違いますわお姉さま。 三人だけではありません」
「?」
「女の子は 誰でもプリンセスさまですよ、お 姉さま 」
「アメリア」
「はい?」
「最近お前はセーラさんの物真似が目に付きすぎます」
「まあ、お 姉さま 」
「クリスフォードさまの気をひこうというお前の魂胆はわかりますけれどね」
アメリ ア先 生は半分真剣に怒りま したけ れど、マリ ア・ ミンチン院長はふ っと 笑みを
「お姉さま、なんてこと」
浮かべただけなのでした。
「構いませんよ、 アメリア。お前があの大資産家と 仲良くなってくれたら、私も大万 歳
なのですから。男女共学化へ向けての市と県の教育委員会の絶大なバックアップは取 り
付けることに成功しましたからね。あとは、財源豊かな支援者さえ いてくれたら、この
この方 はいつまで経ってもこの方 だ……。
学院は今後も無限大に 発展してゆくこと でしょう。ふふ っ」
アメリ ア先生は自分のたったひとりの肉親の ことを 新たに尊敬の念 で見て、そ れか ら
32
小公女セーラ 2004
同時に軽蔑に値する想いを抱いたのでした。
そして、メイリンのお誕生日会のゲストを迎えに応 接室へやってきたセーラ嬢は、そ
の珍客の顔を見て、しばしの間口をぽかんと開けたままその場に立っていました。
第五章 セーラとラビニア
33
五
応接室では、メイリンの誕生 日会のゲストとして学院へやってきたその女 性と、彼女
を迎えにやってきたセーラ嬢が、 いわゆ る涙の再会劇を演じるヒロインとなっている の
でした。
「セーラ、あなたがお出迎えとは。いかにもあのミンチン院長 が企みそうなことよね」
ゲストのそのレディはソファからゆっくりと立ち上がりました。テーブルをはさんだ
向こう側のソファにはカーマイケル弁護士が腰掛けていましたが、セーラ嬢の登場にあ
わせて立ち上がっていたのでした。
カーマイケル氏はそう言って微笑みました。
「セーラお嬢さん。あなたの旧友がニューヨークからはるばる来てくれましたよ」
「あら、どうしたの、セーラァ。そんな幽霊を見るような顔つきで」
ソファから立ち上がったそのニューヨーク娘は、入り口のそばに立ったままでいるセ
ーラ嬢 のすぐ目の前まで足を進めて止まりました。
「お久しぶり。ねえ、セーラ。何とか言ってよ」
「ラ、 ラビ……」
「そうよ。ダイヤモンド・プリンセスさま。私のことを覚えていてくださってたいへん
嬉しゅうございます」
34
小公女セーラ 2004
その金髪の少女はセーラ嬢の左手に接吻して、仰々しく、また 少しわざと他人行儀で
挨拶したのでした。
「ラビニア」
それまで涙を我慢していたセーラ嬢でしたが、とうとう我慢できなくなってしまいま
した。 セーラ嬢は 少女の名前を叫び、彼女に抱きつきました。その少女、 ラビニア・ ハ
ーバート嬢も彼女を抱き返します。
「あなたにまた会えて。また私に会ってくださって私は本当に嬉しいの」
セーラ嬢は本心からかつてのライバルであり 友でもあるラビニ ア嬢との再会に感激し
たのでした。
彼女らの再会の抱擁が解かれたことを見計らって、 カーマイケル弁護士は帽子を手に
「では、私はこれで」
取り、二人にあいさつしました。
「ありがとうございました、カーマイケルさん」
「いえ、ハーバートさん。滞在中 の御用は私までご連絡くださ い」
セーラ嬢と ラビニ ア嬢から感謝さ れたカーマイケル弁護士は改めて二人に礼を して、
「今日は本当に私の大切な友人をお連れいただき、感謝します、カーマイケルさん」
応接室を後にするのでした。
「ねえ、ラビニア。ゆっくりできるんでしょう。生まれ変わったコウベの街を案内しよ
第五章 セーラとラビニア
うと思うんだけれど」
ラビニア・ハーバート。彼女はセーラ嬢 がミンチン学院へやってく るまで、学院の代
表生徒を務める花 形でした。
しかしセーラ嬢が転入してき てか らというもの、彼女を取り巻く環境の歯 車はすべて
が狂い始めたのです。
特に代 表生 徒の座をセ ーラ嬢 に奪われてからは、あ りとあらゆ ることにつ いての己 の
怒りをすべてセーラ嬢にぶつけることになりました。
そ して セー ラ嬢 が 父 ラ ルフ氏 の死 去によっ て 全財産を失 い、代 表生 徒を降 ろさ れ、 そ
ればかりか学院の 一生 徒の身分さえも剥奪さ れて屋根裏部 屋へベッキーと同じメイド と
して追いやられてしまったとき、 ラビニ ア嬢 の復讐が開始されたのです。
もとの代表生徒に返り 咲いたラビニア嬢は他の生徒がセーラ嬢に同 情を寄せたくなる
くらい執拗にセーラ嬢を攻撃しました。
けれどもラビニア嬢の天下はそう長くは続かなかったのです。
一生一文無しになってしまったかと思われたセーラ嬢でしたが、これは彼女にとって
とともに掘り当てたダイヤモンド鉱山から生み出されたものだったのです。
大な遺産をセーラ嬢へ相続させたのです。その遺産はラルフ氏が生 前クリスフォード 氏
セ ー ラ 嬢 の 後 見 人 と し て 現 れ た ト ム ク リ ス フ ォ ー ド 氏 が 、ラ ル フ 氏 の と て つ も な く 莫
・
35
36
小公女セーラ 2004
一世 一代の大逆転 劇であり、 ラビニア嬢 からしてみれば、これより 勝る誤 算はありま せ
んでした。
万人が認め るダイヤモンド・ プリ ンセスとなったセーラ嬢に、さす がのラビニ ア嬢も
なすすべがなかったのです。
そのときは一時の敗北を認めざるをえないラビニア嬢でした。
ラビニ ア嬢はセーラ嬢 の前でくるりとまわって見せました。
「ねえ、セェーラァ。私きれいになったかしら」
米国へ帰る直前までそばかすのお姫さまだった彼女です。でも今やそれも消え、目鼻
座から降ろすに充分な気品をかも し出していました。
立ちがきりっと整い、澄んだブルーの瞳を持ったラビニ ア嬢は、まさしくセーラ嬢を 上
「ええ、とてもきれいよ。ううん、昔からあなたはきれいだったけれど、 昔とは比べよ
うがないわ」
「ふふ。それじゃあ、 みんなに会いに行こうか。今 日は私のかわいい後輩 メイリンが 主
役だものね。プリンセスをお待たせしてはいけないわ」
「ええ、そうね」
セーラ嬢はそのニューヨークのプリンセスを連れて廊下へ出ました。メイリンたちが
待つパーティー会場へ行くためです。
第五章 セーラとラビニア
37
その道中で、二人は追加の料理を会場へ運び終わって廊下へ出てきたメイドたちと出
くわしました。彼女らは二人のプリンセスに驚いたような表情を少し見せましたが、す
ぐにキッチンへ戻る必要がありましたものですから、軽く会釈して通り過ぎてゆきま し
た。
なたの二人だけだったけれど、今はずいぶんと人数が増えたのね」
「セーラ、あなたがあのミンチン院長にこき使われていたころのメイドはベッキーと あ
「ええ、そうよ、 ラビニア。生徒の数が増えた分、メイドさんの数も教職 員の数も増 え
たわ」
「セーラがオーナーで本当によかったね、ミンチン院長は。私がオーナーだったら、 こ
んな学校とっくの昔に売却してたわ」
「売却だなんて、何てひどいこと」
「きっと他の人でも同じことを思ってよ。三年前の大震災をきっかけに、学院は廃校。
跡地はマンションといったところかしら」
相も変 らぬ ラビニ ア嬢 の毒舌に、さすがのセーラ嬢もカチンと来たところがありま し
た。セーラ嬢は立ち止まり、 ラビニア嬢 の顔をじっと見つめるのでした。
「セーラ、あんたのその目、ちっとも昔と変わっていないね」
「ラビニア、私は この学院が好きよ」
「そうね。昔どんなにひどい思いをさせられた学院だとしても、あなたの言いそうな こ
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小公女セーラ 2004
とだわ。好きでなければオーナーなんてできっこないもんね。 ミンチン院長はあなた に
絶対感謝しなければならないわ」
セーラ嬢は 会場の扉を 少しだけ開いて中 の様子を伺 いま した。それに気づいた アメリ
ア先生が扉のすぐ側までやってきました。
たを歓迎してくれてよ」
「まあま。 ラビニ アさん。よく来てくれました。さ、どうぞお入りなさい、皆さんあ な
アメリ ア先生は実に三年ぶりに出 会った元教え子が、すっかり大人の女性となり、立
派な淑女に姿を変えてくれていたことを本当に嬉しがっている様子です。彼女はいっ ぱ
いの笑顔でラビニ ア嬢を部屋へ招き入れました。ラビニ ア嬢は アメリア先生の 手にキ ス
「先生、クリスフ ォードさんとは仲良くやっていらっしゃるのかしら」
をして、それからつぶやくような小さな声で 言ったのでした。
まったく予想だにしない話題を持ちかけ られて、思わずのどをごくりと鳴らしてしま
ったアメリ ア先生。
「ラ、ラビニアさん。どうしてそんなこと、あなたが……」
ラビニ ア嬢はあははと 笑ってみせました。
セーラのおじさまとアメリ ア先生 って何となく面 白いカ ッ
「冗談ですよ、冗談。ただ、 なんとなくそう思っただけですよ。ほら先生、私って昔か
ら勘が鋭かったでしょう?
プルだなあなんて……ね」
第五章 セーラとラビニア
39
「もう、いやな子 」とさも言いたげなアメリ ア先生。でも気を取り 直して、アメリア先
生は、わいわいと盛り上がりを取り戻してきたメイリンの誕生 パーティーの中 へラビ ニ
ア嬢を連れてゆき、そして手を叩いて皆を注 目させたのでした。
「 皆 さ あ ん 。メ イ リ ン さ ん の お 誕 生 日 を お 祝 い に 、は る ば る ニ ュ ー ヨ ー ク か ら ラ ビ ニ ア・
真っ先に歓喜の声をあげたのは、 ラビニ アと同い年であ る例の二人組、ジェシ ーとガ
ハーバートさんが駆けつけてくださいましたよ」
ートルードでした。彼女らはそれこそ、側にいる本日の主役ロ・メイリンをその場に置
いたままでラビニ ア嬢 へ向かって走り出したのでした。
「ラビニア、ラビニアじゃないのぉ!」
三つ編みと丸顔と いう懐かしい二人の顔を見て、ラビニ ア嬢も これに応えます。彼女
「会いたかったわ、ラビニア」
にとっては、セーラ嬢やアメリア先生と 再会できたことよりも彼女らと出 会えたこと の
方が、学院へ帰ってきたのだという気持ちが湧いてくるものなのでした。
「ジェシー、ガートルード、二人とも変わりなさそうね」
ラビニ ア嬢は駆け寄ってきた二人と固く抱き合って、三年ぶりの再会を喜びま した。
お久しぶりです」
そしてやや遅れてメイリンがラビニア嬢 の目の前へやってきました。
「ラビニア先輩!
「あらあ、メイリン。あんたもぜんぜんかわらないわねえ」
40
小公女セーラ 2004
「ひど~い」
いつもはジェシーやガートルードたち年上の年長組生徒に対しても堂々とした態度で
接しているメイリンでしたが、なぜかラビニア嬢の目前ではまるで幼子のような態度に
なってしまうのでした。
学院の誰にも負けませんわ」
「 ラ ビ ニ ア 先 輩 、こ れ で も 私 大 人 っ ぽ く な っ た で し ょ う 。ほ ら 、プ ロ ポ ー シ ョ ン だ っ て 、
メイリ ンがそう言うと、ガートルードがケタケタ笑い声を上げました。
「バカねえ、メイリン。今のラビニアにあなたがかなうはずないでしょう。あはは、 お
かしい」
続いてジェシーも笑います。
「ねえ、メイリン。一目見ただけでわかるでしょう。ラビニアとあなたの差が」
少しでも美しく、ちょっとでも褒 められたい、あの先生から。
メイリンはただそれだけのことを励みに、毎 日毎日自分のボディ作りに精を出してき
たのでした。甘い甘いお菓子の誘惑は、 いつも自分の傍らにいるガートルードがもた ら
してくれます。何度もその誘惑に負けそうになりましたが、そのたびに彼女は持ち前 の
ど 根 性 で そ れ ら を 振 り 切 っ て き ま し た 。け れ ど も 、こ れ ま で の 懸 命 な 努 力 と い う も の も 、
今のラビニ ア嬢の出現により、それらはまったく無意味 なものとなってしまいそうな の
でした。
第五章 セーラとラビニア
41
それだけ、 ラビニ ア嬢 の均整取れた豊満な身体つきの前には、 メイリンのそれは見劣
りしてしまうのです。
がっかりするメイリンにラビニア銃は声をかけます。
「メイリン、あなたはちっとも気落ちする必要はなくってよ。セーラを見てご覧なさ い
そう言って、彼女は少し離れたと ころに立っているセーラ嬢を指差すのでした。
よ」
「セーラ先生を? 」
「ええそうよ。貧弱な和食しか食 べていないセーラと比べたら、メイリンがどんなにす
ばらしいプロポーションをしているかおわかりでしょう。あなたがあのセーラよりも ど
れだけ世 の中 の男 性を虜にできるレディ であ るかは 一目 瞭然 のはずよ。だから 自信を お
持ちなさいよ」
確かにそれはそうかも しれな い。 身体つ きだけで判 断す るなら ば、 私はセーラ先生 に
十分勝っていると思う。でも、だからと言ってそれだけでレディの優劣を決めつけるこ
とはできないはず。セーラ先生が引っ張りだこになって全国の 市町村を飛び回ってい る
くらい人気者であることからしても、セーラ先生には自分にはない魅力がふんだんに詰
そうなのだから、 自分とセーラ先生を比 較す ることは土台無理があ るものだとメイリ
まっているんだ。
ンは考えるのでした。
42
小公女セーラ 2004
メイリンがセーラ嬢に目をやると、メイリンと視線の合ったセーラ嬢はほんの少しだ
け笑ってみせました。
「みなさあん、お久しぶり。お元気だったぁ?」
ラビニ ア嬢はジェシーらの輪からはずれ、それまで遠巻きにしてラビニア嬢のことを
背の小さなロッティは アーメンガードの陰に隠れようとします。
見ていたアーメンガードたちの中 へと自ら入っていきま した。
ところがラビニア嬢はそんなロッティの身体 を両手で捕まえました。
「きゃ…… 」とロッテ ィは小さな声をあげます。そして彼女の顔は、また ラビニア嬢 に
いじめられるという恐怖感からかくしゃくしゃになったのでした。
ラビニ ア嬢はそう 言って、ロッテ ィを抱き上 げ、「高い高い」をやったのです。
「ロッティ、元気 だったぁ? もういくつになったの、大きくなったわね」
今までに見たこともないラビニア嬢のロ ッテ ィに対する接し方 でした。これにはロッ
ティの壁になっていたアーメンガードはもち ろんのこと、かつ てラビニア嬢の取り巻き
だったジェシーやガートルード、そしてセーラ嬢でさえもが自分の目を疑ってしまいそ
うだったのです。そしてこれは、比較的遠くにいたマリア・ミンチン院長をも巻き込ん
でも、今回のラビニア嬢の行動にもっともびっくりさせられたのは、誰であろう、当
だ、ちょっとした 騒動 になったのでした。
のロッティなのでした。
第五章 セーラとラビニア
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まさか、間もなく九歳になるであ ろう彼女をして、 セーラ嬢にしてもらうことがいま
だに大 好き な「高 い高 い」を、よりによってもっとも嫌 っていたあ のラビニア嬢から し
てもらうだなんて。
ラビニ ア嬢は年の割に小さなロッティを抱き上げたまま 三回ばかりクルクルと舞った
のでした。そして床に降ろすと、彼女はロッティの頭をなでました。
「ねえ、ロッティ」
「な、なあに、ラ、ラビニア…… 」
ロッティは、かわ いそうにこれだけの声を出すことが精一杯であるかのように、ラビ
ニア嬢を警 戒してしまっているのでした。
「礼儀 作法を一生 懸命勉強して、 二十一世紀を迎え るに相応しい、私のようなレディ に
おなりなさいよ。わかった?」
「え、え……? 何て言ったの、ラビニア?」
わが耳を疑うとはまさ に今回 のようなことを 言うのでしょう。 言わ れた当人だけでは
なく、その場に居合わせた全員が今一度ラビニア嬢 の口にした 言葉を聞き 直したいと 思
ったのでした。
「私のような淑女になるのよって言ったのよ」
ラビニ ア嬢 は、やはり 口を半分開けたままで半ば凍りつ いているアーメン ガードの目
の前に立ちました。そして、そんな様子の彼女をしっかりと抱きしめたのです。
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小公女セーラ 2004
「あ……。 ラ、ラビニ ア。お、お帰りなさい。あなた、 アメリ カへ帰ってもずっとお 、
お元気だったのね」
嬢に抱かれたアーメンガードは、やっとのことでそれだけのあ いさつを口にす ること
ができたのでした。彼女にしてみれば、 ラビニア嬢 の抱 擁への自分 の応対はそれで百 点
満点の何物でもありませんでした。むしろ、 アーメンガードは ラビニア嬢 の予期せぬ 行
動に、 よくそれだけのことばを発することができたのものだと 自分 自身不思議で仕方 な
かったのです。そう、 それはとっさの物 事に対する彼女流の作法と して、 自然 と身に つ
いていたものかもしれません。でも種明かしをするならば、それらはセーラ嬢から授 業
中に習った作法のひとつであった様子です。
ら、自分の夢の実現に向けての勉強に早く取り掛かることができたから」
「ええ、ええ、元気だったわ。私卒業前に帰国して本当によかったと思ったわ。なぜな
「ま、まあ……。それはよかったわね、ラビニア」
「ええ、本当によかったわ。ところで、 アーメンガード、あなたまた太ったでしょう」
「え、う、うん。ほんのちょっぴり」
ラビニ ア嬢は「あはは 」と笑いながらアーメンガードか ら離れました。
「きちんとダイエットしておかないと、そのうち既製品の服が役に立たなくなってよ」
「う、うん。それはよくわかっているつもりなのだけれど……。つ い…… 」
「ご飯がお いしく て、つい食 べす ぎてしまうってわけね。最近の学院の食 事はコック長
第五章 セーラとラビニア
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がベッキーに交代してからと いうもの、ものすごくおいしくなったって、それはそれは
評判らしいからねぇ」
「う、うん……」
周りを囲んでいる生徒らが一斉に笑いました。
笑い声 が大きくなるにつれて、どんどん下を 向いてゆく アーメンガード・セントジョ
ン。
そしてピーターと並んで立っていたベッキーは、まさかラビニ ア嬢から自分の料理を
評価してもらえるなんてこれっぽっちも予想していませんでしたから、嬢 のこのこと ば
になんともむずがゆいと言いますか、どう反応してよいかよくわからない感情がわいて
ガリガリと頭をかいてみせるベッキーです。
くるのでした。
「笑い事じゃなくってよ、皆さん」
つい二三年前のラビニ ア嬢でしたら、絶対に口にしない台詞でしたでしょう。皆の笑
いを増幅させることは 頻繁にあれど、笑いを 制止させることなんて。
一同静まりかえります。
「アーメンガードにありえると言うことは、皆さんにも起こりうるということなのです
からね。今は若い人の成人病、生活習慣病が流行ってきてるとか。皆さんも重々気を つ
けてくださいね」
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小公女セーラ 2004
当のアーメンガードのみならず、 ラビニ ア嬢 が放ったこのこと ばに、一同 が「うんう
ん」とうなづきます。
「特にガートルード!」
嬢に指名されたガートルードがびくっとします。
「わ、わかったわ、ラビニア」
「あんたもアーメンガードとどっこいどっこいでしょ。気をつけなさいよ」
「 ア ー メ ン ガ ー ド も ね 。あ ん た が 病 気 に な っ た ら 、ロ ッ テ ィ も セ ー ラ も 悲 し む で し ょ う 。
友達を 泣か すよう なことはし ないようにね」
一同が目をまん丸 にしてラビニア嬢を注 目します。中には、この金髪の女 性は本物 の
ラビニ ア・ハーバートなのかと疑う者も出始めるのでした。
「あ、ありがとう、ラビニア」
アーメンガードがそう 言うと、嬢は彼女に向かってふふっと笑い、奥へと足を進めま
した。
ラビニ ア嬢 の行く先には、車椅子 姿のマリア・ミンチン院長が。
実は院長自身も先ほどからのラビニア嬢 の話にすっかり 聞き惚れている様子なのでし
た。
「院長先生、ラビニアです」
嬢はひざを曲げて挨拶します。
第五章 セーラとラビニア
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「ま、まあ、ラビニアさん。遠いところをよく来てくれました」
妙に甲高い院長の声。
「先の地震は本当にたいへんでした。さ ぞかし院長先生も怖い思いをされたことでしょ
う。私は何のお役にも立てずすみません」
このあと、 ラビニ ア嬢はもう一度乾杯しましょうと皆に告げるのでした。
嬢の音頭によって、セーラ嬢もメイリンもロッティもアーメンガードにジェシ ー、 ガ
ートルードらも。ピーター、ベッキーも。そして院長やアメリ ア先生までもがグラス を
握りなおしたのでした。
ラビニ ア嬢 の声に続いて全員がメイリンに再び祝福 の声をかけ るのでした。
「それじゃ、メイリン、改めまして、お誕生 日おめでとう!」
「おめでとう、メイリン!」
「ありがとうみなさん。ありがとうラビニア先輩!」
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六
メイリンの誕生日会の翌日。よく晴れた恰好の行楽日よりの日曜日。朝の礼拝と朝食
を手際よく済ませたジェシーとガートルードの二人はマリア・ ミンチン院長からふたつ
返事で外出の許可を受け取り、ラビニア嬢が宿泊している、港の見える丘に建つホテ ル
まで急いでやってきました。
今日は 三人だけの同窓会なのです。セーラ嬢も本当はこの日にラビニア嬢と一緒にコ
ウベの街を歩きたかったのですが、ラビニア嬢はジェシーらを優先させたのでした。
「セーラァ、あなたにはあなたの部屋へ招待していただきたいわ。あなたのお部屋で 二
料理でね」
人だけのディナーとしゃれ込みましょうよ。ええ、もちろん三ツ星シェフベッキーのお
ラビニ ア嬢は誘いを断られてちょっぴりしょんぼりしたセーラ嬢へそう言ったのでし
た。
でも、 自分にとって一生涯の友であるベ ッキーのことを「三ツ星シェフ」と呼んでく
れたラビニ ア嬢。 セーラ嬢はもう嬉しくて仕方ありません。彼女自身、ラビニ ア嬢は も
う昔の嬢ではない、級友のことを本当に思ってくれるプリンセスになったのだと信じた
のでした。
「わかったわ。あなたが食べてくれるのなら、きっとベッキーも大喜びでディナーを用
第五章 セーラとラビニア
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意してくれてよ」
※
ラビニ ア嬢はジェシーとガートルードと 一緒にコウベの繁華街でショッピ ングと食 事
を楽しみました。
楽しい時間というものはあっという間に過ぎてしま います。
日曜日は瞬く間に夜と なり、 翌月曜日は ラビニア嬢 が一日代表生徒を務め て、 昔のよ
う に 学 院 の 授 業 へ 参 加 し た の で す 。こ の 日 ば か り は セ ー ラ 嬢 も 教 壇 に 立 つ こ と を や め て 、
ロ・メイリ ンは憧れのラビニ ア先輩に代 表生 徒の場所を譲り、 自分 は嬢の隣へ着席 し
彼女自身が生徒であったころの席 へ着いて、 アメリ ア先生から授業を受け るのでした。
ました。
それはまったくもって、同窓会でした。アーメンガードやロッティにとっても、今は
ラビニ ア嬢 が帰ってき て、自分らの代表を務めてくれていることを素直に嬉しがりま し
た。そう、大震災が発生する前、 セーラ嬢がインドへ旅 発つ前はこれが普通の授業風 景
そしてこの日は午後の授業がIT研修になっています。ピーターを講師とするそのパ
なのでした。
ソコン授業はもち ろん ラビニ ア嬢 にとっては初めてです。でも、彼女にとってはパソ コ
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小公女セーラ 2004
ンの操 作なんてテレビゲームをやるより 簡単なことです。ダダダとキーボードを叩い て
みせたり、パリ仕立ての洋服のホームページを全員のモニタへ映してみせたりして、 メ
イリンらを 感心させるのでした。
今日ばかりはお株をす べてラビニ ア嬢へ奪われてしまったかのようなピーターでした 。
業がす べて終わった後にいつもセーラ嬢が紅茶を用意して待っていてくれる、彼女の 執
もうこの場は潔く授業の進行を彼女へ渡してしまった方 が得策 です。そして、午後の 授
務室へ一刻も早く行きたいもんだと、ピーターは思ったりもしたのでした。
ラビニ ア嬢 に主導 権を握られてしまった IT授業も、終 業のチャイ ムが鳴るとメイリ
ンが授業の最後のあいさつを行い、生徒らは大きなあくびをしながら部屋へと戻って い
行ってしまうと、研修室にはラビニア嬢とピ ーターだけが残る結果となりました。
きました。 そしてメイリンが代表生徒らしく 再度授 業の礼をピ ーターにして部 屋を出 て
二人だけになってみると、何を話しかけたらよいか途端に困ってしまうピ ーターでし
た 。こ の 相 手 が ラ ビ ニ ア 嬢 で は な く セ ー ラ 嬢 で あ っ た り 、ベ ッ キ ー で あ っ た り し ま す と 、
というような話題 であってもちっとも大 丈夫なのです。
どんなバカ話であっても話が通じますから構わないのですが……。なにしろ赤の他人 が
聞いたら何だそれ?
「ねえ、ピーター」
得 体 の 知 れ な い 重 い 沈 黙 が 本 の 少 し ば か り 続 い て い ま し た が 、そ れ を 断 ち 切 っ た の は 、
ラビニ ア嬢 でした。ピ ーターは頭をかきながら返事をします。
第五章 セーラとラビニア
51
「あんた、ちょっとはメイリンのこと気にかけたことあ るの?」
「はあ?」
わけがまったくわからぬ様子のピーターです。
「私宛の電子メールなんて、男の子の話題ったら、あの子、あんたのことしか書いて よ
えっ? マジっすか、それ。でもちょっぴりうれしいな、それって。
こさないのよ」
「私は何度も『そんな貧乏人のことなんか忘れておしま いなさ い』って返信したんだけ
れどね。恋は盲目ていうのかなあ」
嬢はそれだけ言うと、ピーターのネクタイを 両手でつかんでぐ いっと自分 の方 へ引っ
ア嬢のすぐ目の前で止まりま した。
張りました。予期せぬラビニ ア嬢の攻撃に、よろけてしまうピーター。彼の顔がラビ ニ
ピーターの顔をじっと 見つめ るラビニア嬢。 緊張のあまり額に汗を噴出すピーター。
「な、なにするんですか……」
やっとの思いで、そこまで言うことのできたピーター先生です。
嬢はそれだけ言うと握り締めていたネクタイを離し、ピ ーターのよろけた体勢を元 に
「ふう~ん、なるほどね」
戻したのでした。
そして彼女は机に置いたままのノートブックとペンを右手でつかむと、その若いパソ
52
小公女セーラ 2004
コン教師に左手を振りました。
「じゃあね、ピーター」
「あ、ああ。今日は俺の授業に出席してくれてありがとう、ラビニア」
ラビニ ア嬢は部屋の扉のまで来て立ち止まりました。そ して彼を振り返りました。
うそおぉ!
まさかあのラビニアがピーターのことをほめるなんて……。
「ピーター。あんた昔よりはちょっぴりいい男になったみたいだね」
「ほら。この学院にやってきた当 時のセーラが市内観光用にって、父親から買っても ら
った馬車をひいていた ころのあんたよりは、 いい男になったって言う意味 よ。貧乏人 は
ちょっとおだてるとすぐ舞い上がるからね。勘違いするんじゃなくってよ」
あ、ああ、なるほどね。
「異人館通りを涼しい顔でセーラはあなたに馬車をひかせていたっけ。私も何 度かセ ー
ラの馬車に 乗せてもらったけ れど、馬車を追い越してゆく自動 車やらバスに乗った人 た
ちからもの珍しそうに見つめられたときはさすがに恥ずかしかったわ」
「セーラお嬢さまは追い越していった人たちにも手を振って応えていたよ」
ラビニ ア嬢はピーターの返事にあははと 笑いました。
「そうだったわね。セーラったら、この私にも手を振ったら楽しいわよなんて言ってた
わ。ちょっとまねはできなかったけれどね」
「今となっては懐かしい思い出さ」
第五章 セーラとラビニア
53
「そうね。ところで馬車を引いていたポニーのジャンプは今どこにいるの。もうこの学
院にはいない様子だけれど」
「ああ。ラビニアさんが故郷へ帰った後にホッカイドウの牧場へ預けて、それきりな ん
だ。セーラお嬢さまも ラビニ アさんもいなくなった後は 誰も馬車には乗らないからね 。
都会で飼っておくよりも草原の中 の方がジャンプも生き生きできるってものだから。 で
もコウベから遠いところへ預けておいて、本当にラッキーだった。被災せずに済んで。
でももちろん今でもお嬢さまはホッカイドウへ行く機会があったときは、まず最初にジ
ャンプに会いに行っているんだぜ」
ほほう、と いう表情のラビニ ア嬢。
でジャンプの引く馬車に乗ったんだ」
「去年の夏はお嬢さまとベッキーと俺とが初めて三人でジャンプに会いに行って、三人
「みんな、幸せなんだね。よかったね」
そう言って、ラビニア嬢は笑いました。そして、彼女はもう一度自分の顔をピーター
に近づけました。 いつ の間にか、 自分より背の高くなった彼です。彼の目がラビニア嬢
の額近くにありました。
「ピーター、ちょっと背をかがめてよ」
「え?」
ピーターは 言われるままに姿勢を 低くしました。
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小公女セーラ 2004
すると……。
ラビニ ア嬢 の顔が自分 の顔に勢いよく近づいてくることにピーターは気付きま したが 、
彼は彼女を避けることができませんでした。
チュッ。
嬢の唇がピ ーターの左 のほおに触 れたのでした。ラビニ ア嬢の唇か ら発生 したものす
ごい電撃がほおを伝って彼の全身に駆け巡ります。
「ひっ、ひゅっ、ひゅっ」
その電撃の 威力の前に、ピーターは身体 中の毛細血 管か ら髪の毛一本に至るま で黒焦
げにされてしまいそうなショックを受けたのでした。
彼の口からこぼれる言葉ですら、すすだらけになってしまったようです。
「授業に出席させてくれたお礼よ。改めまして、じゃあね、ピ ーター。私今夜はあん た
のご主人さまとディナーの約束してるの。明日はコウベを離れるからね。あんたと会う
のは今日が最後ね」
「そ、そうか……。じゃ、どうぞお元気 で、 ラビニ アさん」
ば、それはあんたがダイヤモンド・キングとしてホワイトハウスの晩餐会に招待され た
「ありがとう、ピーター。もしあんたがこの次私と面と向かって会うことがあるとす れ
ときでしょう。ふふ。それま でセーラと 仲良 くね」
そう言って、ラビニア嬢はピーターの目の前でクルクルと踊って見せました。
第五章 セーラとラビニア
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「私の側近はセーラとあんたに対して私のことを『わが国の偉大なる大統領』と紹介 し
てくれてよ」
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小公女セーラ 2004
七
ピーターのIT研 修の授業に出席 した日の夜、ラビニア嬢はセーラ嬢に招待されて彼
女の私邸へやってきました。
セーラ嬢と一緒に専用 エレベーターに乗りこんだラビニ ア嬢は、扉が開き、セーラ嬢
の私邸入り口に飾り付けられた陶 器類等の調 度品の数々を目にしたとき、実に感心した
かのように 口笛を 吹いてみせました。
「ふうん。まあまあの 品揃えね」
「さあどう ぞ、ラビニ ア。私の部 屋へようこそ。すぐにディナーの準備が整うから」
ラビニ ア嬢はメイドによってディナー専用の部屋へ案内されました。そこはミンチン
学院の小ホールくらいに匹敵する大きさの部 屋です。優に十組ほどの男女がダンスを 奏
でることのできる広さを持つ この部屋が、セーラ嬢 のディナー専用 のダイニング・ル ー
ムなのでした。
でもそれだけの広さを持つ部 屋の中央に置かれたテーブルは、わずか六人架けの小さ
なものでした。
「この家の 玄関とは正反対の、何にもない殺風景な部屋なのね、この食堂は」
ラビニ ア嬢は言いました。それは、いかにももう一人のプリンセスを挑発するかのよ
うな意地悪なアクセントでしたが、セーラ嬢はいつものようにクスッと笑っただけで し
第五章 セーラとラビニア
57
た。
「今夜はラビニアと二人だけだから小さなテーブルを用意したのよ」
「まさか、 このテ ーブルでもって、二人 ですき焼きをつつこうって考えてるわけじゃ な
いでしょうね」
ニューヨークのプリンセスがあきれたような声を出しました。その声に、テーブルの
上の花瓶の位置を変えようとしていたセーラ嬢はびくっと身震いし、ちょうどそこへ食
材の乗ったワゴンを転がしながら部屋へ入ってきたベッキーもその場で足を止めてしま
ったのです。
二人のそんな様子と、ベッキーがたった今運んできたワゴンの中身に目をやり、ラビ
「ちょっと、図星なわけぇ。いい加減にしてよ。あんたの親友がはるばるニューヨーク
ニア嬢は再びあき れた顔をしながら言い放ったのです。
から訪ねてきたっ て言うのに、すき焼き みた いなニ ッポ ンの下町料理で済まそうって 考
えなのぉ。 信じらんない。セーラ、あんたの一押しのシェフはそんな料理を客人に出 す
ことが平気なの?」
ラビニ ア嬢はミンチン学院の在学中からなか なかニ ッポン文化になじむことができな
いでいました。もちろん、大のニッポンびいきであるマリア・ミンチン院長やアメリ ア
先生の手前、彼女自身もこの国の伝統文化や料理に理解の深いプリンセスを演じてはき
ましたが、さすがにそれにも限界を感じてきたことが、彼女をして故郷の米国へ帰る決
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小公女セーラ 2004
心をさせた一因でもありました。異国文化へどうしてもなじめないことからくる彼女 の
いらだちは、学院のメイドに身を落としたセーラ嬢をうっぷん晴らしの対象にできた お
・
か げ で ず い ぶ ん と 軽 減 さ れ て い た も の で す が 、セ ー ラ 嬢 が ダ イ ヤ モ ン ド プ リ ン セ ス に 返
り咲いてからは怒りの矛先を失ってしまっていたのです。
ラビニ ア嬢 のあまりの剣幕に、ベ ッキーはワゴンの取っ 手を握ったままとうとう下を
向いてしま いました。ベッキーの後ろに付いてきた二人ばかりのメイドらも、どう反 応
してよいかわからず、またどこへ視線をもってゆけばよいか見当付かず、実に困った 顔
をしていました。
「待って、ラビニ ア。あなたは今でも和食と いう世界有数の美食を 少しも理解しよう と
いつにもないセーラ嬢 の荒い口調でした。
はなさらないの」
「ラビニアはベッキーのことを三ツ星シェフと呼んでくれたわ。それはあなたがベッキ
ーの実力を認めてくれたからでしょう」
一生涯の友のことを悪く言わ れることく らい、セーラ嬢 にとっ て不 愉快極まり ないも
のはありませんでした。自分のことをどのくらい悪く言われようが、また噂されよう が
まったく動じない彼女です。けれども、その相手が己の最大の友であるときは、居ても
立ってもいられなくセーラ嬢 なのでした。
「あら、いやだ。ベッキーはあなたのご 友人だからこそそう申し上げた次第ですわ、 ダ
第五章 セーラとラビニア
59
イヤモンド・プリンセスさま。お気に触りましたかしら」
「ラビニア、あなたって、ちっとも昔と…… 」
「やめてよ」
セーラ嬢の声をひときわ高いラビニア嬢 の声 が遮断しました。
「セーラ、今夜の 主賓は一体 誰なの。私 でしょう」
「ええそうよ。だからこそ最高のお肉と野菜を用意してお鍋を二人で囲もうとしたん じ
ゃないの。お鍋は この国の家庭 団らんを 語る料理であり、友の 歓迎を表す 文化でもあ る
のよ」
ラビニ ア嬢はセーラ嬢 のその 言葉を聞いて大 いに笑いました。
てくれて然 るべきじゃなくっ て?
わずか三年くらいでセーラが私の好みの料理すら 思
「私のことを歓迎する友だと 言い切ってくれるのならば、ディナーは私の好みに合わ せ
い出せないなんて信じないからね」
「ラビニア、あなたこそいい加減 にしてちょうだい」
トーンを少しも下げようとはしないラビニア嬢に、とうとうセーラ嬢が頭にきたよう
モンド・プリンセスが言い返そうとしたその瞬間でした。
でした。そして、さらに何かを言おうとしたニューヨークのプリンセスを制してダイ ヤ
「お二人ともどうぞお 止めくださ いまし!」
それまでただ黙ってうつむいているだけであったベッキーが叫んだのでした。
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小公女セーラ 2004
「ラビニアさん、お嬢さまは……。セーラお嬢さまは最初フランス料理でラビニアさ ん
をおもてなししようとお考えになったのでございます」
「ベッキー、やめて。あなたが何もそんなこと言う ことないのよ」
「いいえ、お嬢さま。フランス料理をお考えだったお嬢さまに『歓迎のお料理ならす き
焼きですよ』なん て生 意気にも意見したのは この私でございます。私さえ余計なこと を
申し上げなければ、今ごろお嬢さまはラビニアさんと仲良くおしゃべりしながら有意義
なディナーの時間を過ごしておいでだったのですから」
「 や め て ち ょ う だ い 、ベ ッ キ ー 。あ な た に す き 焼 き を お 願 い し た の は こ の 私 な の だ か ら 」
「お嬢さまにとんでもない恥をかかせてしまいました。ただ今ご希望のお料理を準備さ
ベッキーは 涙をいっぱいためたまま、ワゴンの向きを反転させました。その後ろに控
せていただきますから、しばらくお時間をくださいまし」
えているメイド二人もベッキーコック長に従って身体を反転させたのでした。そしてベ
ッキーはこのメイドらに目で合図して退室しようとしました。
そのときでした。ベッキー達 を呼び止め る声 が部屋に響 いたのは。その次には、去 ろ
うとしているベッキーのすぐ目の前を、ニューヨークからやって来た健康娘がとおせ ん
ぼしたのです。
「お待ちなさいよ。あんたのそそっかしいと ころは今も昔とかわってないのね。セー ラ
も変わっていないしさ」
第五章 セーラとラビニア
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「ラビニア……」
「ラビニアさん……」
「おまけに私もセーラから『変わっていない』なんて言われるし。なんか、私たちっ て
お互いちっとも進歩していないのではなくって?」
ベッキーの前に立 った ラビニア嬢はそう 言っ て大笑いしました。セーラ嬢もベッキー
もただ黙ったままです。
「ベッキー」
「は、はい、ラビニアさん」
「あんたがどれだけ腕の立つ料理人になったかってことは、メイリンからいやというほ
ベッキーはまだ黙っています。
ど聞かされて知ってるわ。あの人、あんたに敵対心丸出しだからさ」
「だからきっと、あんたのすき焼きはそれこそ舌がとろけそうになるくらいの絶品なの
でしょう。そのような気がす るわ」
「ラビニアさん……」
セーラ嬢の声が途 端に明るくなったのでした。でも、ラビニア嬢は首を振って見せま
「ラビニア、それじゃあ、ベッキーのすき焼きを食 べてくれるのね」
した。
「ベッキーの腕前は認めても、私 がそのお料理を食 するかどうかは 別問題 よ。 セーラ 、
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小公女セーラ 2004
私はとにかく今はフランス料理が食べたいのだから」
やはりすき 焼きは だめなんだと悟ったベ ッキー。そ れま で何とか我 慢してきたのです
が、溜まっていた 涙がとうとうほおに流れてしまいました。
「承知しましたです、 ラビニアさん、大 至急用意致します」
ベ ッキ ーは 涙を拭 こうともせ ず、 ワゴンを 再び押す ので した。 そん な様子 のベ ッキ ー
を セ ー ラ 嬢 は 追 い か け ま し た 。そ し て 嬢 が ベ ッ キ ー の ワ ゴ ン を つ か も う と す る よ り 早 く 、
何とラビニ ア嬢の 手がベッキーのワゴンを捕まえたのでした。
「待ちなさ いよ。ご主人さまの話を最後まで聞こうとしない召 し使いなん て、本当に 最
低ね」
「ラビニア、ベッキーは召し使いじゃないわ 」
「メイドも召し使いもさほど変わらなくってよ」
ベッキーのほおを可哀想なくらいに流れる涙。
「ベッキー。あんた、フランス料理を用 意しますなんて簡単に 言うけれど、一体どの く
らいの下準 備が必要かってことくらい、 充分知っているのでしょう 」
ラビニ ア嬢がベッキーの流す 涙のことを気にかけているのかいないのかまったくセー
ラ嬢にはわかりませんでした。
「はい、知っていますです。でも私はセーラお嬢さまにお仕えしているメイドです。 メ
イドはご主人さまのために最善を 尽くす ことだけ考えていればいいんです 」
第五章 セーラとラビニア
63
ベッキーは ラビニ ア嬢 に視線を向けることも なく、また感情と 言う感情も 込め ず一気
にそう 言ったのでした。最高 の友人ベッキーにそこまで 言わしめた ラビニ ア嬢 に対し 、
セーラ嬢は 自分自身の気持ちを抑えることがもはや 限界に来てしまったと 思ったので し
た。
しかし、セーラ嬢がラビニア嬢の名を叫ぶと同時に、ラビニア嬢の口からは予想もし
な い 一 言 が 発 せ ら れ ま し た 。ベ ッ キ ー は う つ む い て い た 顔 を 上 げ て ラ ビ ニ ア 嬢 に 注 目 し 、
セーラ嬢はうっと口をつぐみます。
「ラビニアさん。今何とおっしゃったのですか」
学院へ奉公しだしたころから今日まで目上の人たちの話、たとえそれが独り言であっ
ても、 一度たりとも聞き逃さないことがベッキーの隠れた自慢のひとつでしたが、即 座
に聞き返さなければならないほど、今回のラビニア嬢の 言葉は実に不似合いだとベッキ
ーには 思わせたのでした。
「ホットドッグ食 べた い」
ラビニ ア嬢はそう 言ったのでした。
「ええそうよ。あなたにできるかしら」
「ホットドッグでございますか、 ラビニアさん」
「でもそれがディナーなのですか」
「私は今無 性にホットドッグが食 べたくて仕方ないの。 できるかしら」
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もとからベッキーはアウトドア派です。ですからピクニックへ持ってゆくサンドイッ
チやおにぎり、お べんとうのおかずをつくらせたら、それはそれは芸術品があっという
間に出来上がってしま います。今ラビニ ア嬢からリクエストのあったホットドッグに し
たって変わりありません。紳士はネクタイを着用しなければ着席できないような料理店
の厨房で包丁を握るより、使い慣れた自分専用のキッチンであちこちをマヨネーズや ケ
チャップだらけにしてしまうことのほうが、彼女にはずっとお似合いなのでした。
「 お ま か せ く だ さ い 、ラ ビ ニ ア さ ん 。ホ ッ ト ド ッ グ は 私 の 得 意 中 の 得 意 で ご ざ い ま す ぅ 」
先ほどまで流れていた 涙はすっかり渇ききっ ているのでした。
「あららあきれた。先ほどまで泣いていたカラスがの赤ちゃんがもう笑った」
ラビニ ア嬢はそう 言って笑いました。
ベッキーは ラビニ ア嬢 の注文を受け付け てよいかどうかの確認のため、セーラ嬢に顔
を向けました。セーラ嬢は微 笑み返します。
「私、カレースパイスがよく効いたホットドッグが大好きなの。できる?」
「おまかせくださあい。カレー味は私も大好きなんでございますぅ!」
ラビニ ア嬢 の目の前で初めて見せ るベッキーの笑った顔。ラビニア嬢は思いま した。
(今みんなとても幸せなんだな……)
ベッキーはワゴンを押しながら、セーラ嬢専用のキッチンへと戻ってゆきました。二
人のメイドがこれに続きます。
第五章 セーラとラビニア
65
「ね、 ラビニア」
「ん? どうかして、セーラ」
「どうしてホットドッグなの」
しばらく目を閉じた後、ラビニア嬢はぼそっとつぶやくのでした。でもその声はあま
べったのかとセーラ嬢は勘違いしてしまうほどでした。
りに小さくて、いつも 威勢のいいラビニ ア嬢 のものでは なく別人が嬢の口を借りてし ゃ
「帰国した私の運 命を大きく変え てくれた重 要な一 品。 それがホットドッグだったの 」
「?」
セーラ嬢にはまったくわけがわかりませんでしたが、これはなにやらラビニア嬢らし
しまうのでした。
からぬ珍しいお話が彼女自身の口から聞けるかもしれないと思うと、妙にワクワクし て
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八
「お待たせ致しま した ぁ。カレースパイ スがピリリと効いた、ベッキーちゃん特製ホ ッ
トドッグでございますぅ」
再びワゴンを押してセーラ嬢 のディナー・ルームへ登場のベッキーコック長です。ワ
ゴンの上のお皿には、ピラミッドのごとく積まれたホットドッグパンが六本ばかり載せ
ら れ て い ま し た 。い か に も 焼 き た て と い っ た 様 子 で 、パ ン か ら は ま だ 湯 気 が 出 て い ま す 。
ラビニ ア嬢 の希望どおり、お腹の虫を直撃してくれるのはカレースパイスのツンとく
る辛さのにおいです。
もうセーラ嬢も先ほどからお腹ぺこぺこなのでした。本当なら、極上中の極上牛肉が
「 わ あ 、と て も お い し そ う 。ね 、ね 、見 て ラ ビ ニ ア 。ベ ッ キ ー の つ く っ た ホ ッ ト ド ッ グ 」
お腹の虫をじゅうぶん 満足させてくれていておかしくない時刻はとうに過ぎているの で
すから。
太く長いウインナーはカレー色に染まり、その上にドッピングされたキャベツといっ
た野菜たちのほどよい焦げ目がより一層見た目のおいしさを演出してくれていました。
「ラビニア、すごいでしょ。ホットドッグが宝石のように輝いて見えるでしょ。これ が
ベッキーの魔法なのよ」
ベッキーを生涯の友と呼ぶセーラ嬢にとって、このように彼女のことを自慢げに話で
第五章 セーラとラビニア
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きるときは実に幸せな一瞬でありました。
「……。ほんと、すごい。たかがパンなのに」
二人のプリンセスは魔法の到着と同時に立ち上がり、あのラビニア嬢でさえも目の前
で光って見える宝石に気を奪われている様子でした。
ホットドッグの主体となる、 しなやかな歯ざわりのパンは、ご 存知「ベーカリ ー・ ア
ンヌ」の自信の一品です。
「さ、お紅茶をお入れしますから、お座りくださいまし」
食の魔法使いベッキーがそう 言いますと、二人のメイドが嬢二人のそれぞれの椅子を
引きま した。改め て食 卓につくセーラ嬢とラビニア嬢。その間に、ベッキーはティー ポ
ットへお湯を注ぎます。カレースパイスの、食欲を大いに刺激してくれる香辛料に混 じ
って、はやりたてるお腹の虫の興奮をやわらげてくれるジャスミンの香りが漂ってき ま
す。
その間に二人のメイドは、プリンセス・セーラとプリンセス・ラビニアそれぞれの席
へホットドッグを二本ずつ入れたお皿を用意したのでした。
お皿を 目の 前に置 かれたとき、セ ーラ嬢 はいつもの「一千万ドル・ スマイ ル」でメイ
ドに微 笑みかけました。メイドは軽く会釈します。 ラビニア嬢も自分にパンを運んで き
たメイ ドに 視線を やり、微 笑みます。そ して 一言。
「ありがとう」
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小公女セーラ 2004
これにはメイドの方がひきつってしまいました。出会い頭に強烈なカウンターパンチ
をお見舞いされたような衝撃がそのメイドに襲いかかったのです。
ベッキーも同じでした。もうちょっとのところで、彼女はせっかく入れた紅茶のポッ
トを手から滑らせ ると ころだったのです。でもセーラ嬢は思いました。
(ラビニアもやっとわかってくれたのね。この世の中でもっとも美しい言葉は「あり が
とう」だってことを)
今や院長先生大のごひ いきである学院のコック長が直々にお茶をカップへ注ぎます。
まずはお客さまであるラビニ ア嬢へ。続いてご主人のセーラ嬢 へ。
このときも ラビニ ア嬢はお茶を入れるベッキーに向かってこれまでに決して見せたこ
とのない笑みを浮かべたのでした。
「私の希望を聞いてくださってありがとう、ベッキー」
「いいえ、 ラビニ アさん。お 口に合いますかどうか 」
ベッキーは二人に軽く会釈した後部屋の奥へ下がりました。メイド達はキッチンへと
場所を移します。
「さ、お祈りをしてお いしくいただきましょう、ラビニ ア」
「ええ、遠慮なくいただくわ、セーラ」
二人のプリンセスは神への祈りを捧げ、十字を切りました。そしてまずは紅茶のにお
いを楽しみ、喉を潤します。
第五章 セーラとラビニア
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「いい香りね。セーラ、あなたと こうして二人きりでゆっくりと食 事するなんて、ど の
くらいぶりかしら。もしかして学院入学以来初めて?」
「おっしゃるとおり初めてかもね。あなたと二人きりの 記憶なんてないも の」
そしてラビニア嬢とセーラ嬢はほとんど同時にパンを口の中へもってゆきました。
毎度ながら、料理人のベッキーにとってはもっとも緊張する瞬間です。こればかりは
自分の腕にどれだけ自信を持つことができるようになりましても変わることはありま せ
ん。己 の腕前がどうであれ、それを食してく れる方 々に味を気 に入っても らわ なけれ ば
何もならないからです。
「う~ん、やっぱりベッキーの味の魔法には いつも 参っちゃうわ」
セ ー ラ 嬢 は ど う や ら 文 句 な し に 合 格 の よ う で す 。一 方 の ラ ビ ニ ア 嬢 は い か が で し ょ う 。
ところが、彼女は パンを半分 ばかり口に入れたところで、手を休めていたのでした。
そんな様子を見て、セーラ嬢は不安になりま した。もしかして、カレースパイスの風味
か何かが合わなかったのでしょうか。セーラ嬢はもちろんのこと、ベッキーにとっては
一大事です。お料理に関しては安易な妥協を決してしないことを第一のモットーとす る
ベッキー。そんな彼女だから、たまたま今回 のホットド ッグの味付けがラビニ ア嬢一人
に合わなくてもそれはそれで仕方がないことだとはこれっぽっちも思わないのでした。
「ベッキー」
突然ラビニ ア嬢はベッキーを呼びました。
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「は、はい、ラビニアさん」
足早に石油王の令嬢の元へやってきた、ミンチン学院のコック長。
「ラビニアさん。お味がお口に合いませんでしたでしょうか」
ベッキーは 恐る恐る嬢へ尋ねます。セーラ嬢も持っていたパンをお皿に戻して注目し
「もしおいしくないのでしたら、ご遠慮なくご指摘くださいまし」
ます。
ラビニ ア嬢は先ほどか ら目を閉じたままでした。
「ラビニア、ベッキーのつくったホットドッグがおいしくないのなら、気にしないで 言
ってちょうだい」
セーラ嬢も元級友の反応が気になって仕方ありません。 しばらくの沈黙の後、 ラビニ
ア嬢はゆっくりと 両目を開けました。そ して、すぐ 側ま で来ているベッキーを 見つめ た
のでした。
「ベッキー」
「は、はい、ラビニアさん」
意外な嬢の言葉でした。
「あなた……。一体誰からこのホットドッグの味付けを習ったの」
「 誰 か ら っ て 、私 は 特 に 誰 か ら も 習 っ て い ま せ ん で す ぅ 。あ く ま で 自 分 の 創 作 で す か ら 。
強いて言うならお母ちゃんからでしょうか」
第五章 セーラとラビニア
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「母親からですって。 いいかげんなこと 言ってたら承知しないわよ」
ベッキーの返答が気に入らないのか、ラビニ ア嬢はベッキーをにらみつけました。
「ラビニア、私あなたの言いたいことがわからないわ」
セーラ嬢は気が気でありません。
以外の誰からか教わったわけではございませんですぅ」
「うそは言いませんですぅ。 この味は私が昔から勉強してきた味なんです。お母ちゃ ん
ベッキーの額には 汗が噴き出していました。 両手も いつ の間にか汗のしずくがたまっ
ていることを彼女は感じました。
「正直に言いなさ い。 このホットドッグの味は誰から教わったの」
「で、ですから、 この味は私の……」
「この貧乏人のうそつきが!」
ラビニ ア嬢 が席を立ち上がり、右 手を振り上 げました。ベッキーはうっと目をつむり
ます。彼女は昔セーラ嬢がこの学院のメイドとして働かされていたのと同じころにいや
というほど味わってきた平手打ちの痛みと辛さが今ごろになってよみがえってくるの で
でもベ ッキーのほおがラビニ ア嬢 によってぶたれることはありませんでした。 セーラ
した。
嬢が二人の間に割って入ったからです。
「 ラ ビ ニ ア 、い い 加 減 に し て ! あ な た は ご 自 分 が 何 を し よ う と し て い る か わ か っ て い る
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の」
セーラ嬢の剣幕は ラビニア嬢 の勢いを抑止す るのに充分 なものがありました。
しばらくの緊張が彼女らを包み込みます。
「そ、そうよね……。こんな田舎娘が……」
ラビニ ア嬢は振り上げた手を 下げ、視線をテ ーブルの上 のホットド ッグを のせた皿 に
やりました。
「こんな田舎娘が…… 」
それだけでラビニ ア嬢は黙り込みました。セーラ嬢はしかしそ こで見てしまったので
す。この気 丈なニューヨークのプリンセスが いっぱいの 涙を目にためている姿を。
一体どうしたというのか、セーラ嬢には 皆目わかりません。ベッキ ーはきつく閉じて
いたま ぶたを少しずつ 開いてラビニア嬢の様子をうかがうのでした。
「こんな田舎娘がロバートのホットドッグの味を知っているは ずないものね」
ラビニ ア嬢は椅子に座りなおし、 両肘をついて頭を抱え 込みました。そんな様子の彼
女を見て、 セーラ嬢はほっと息をして、 自分 の座席 に帰るのでした。と同 時に、油田 王
の一人娘がぼそっとつ ぶやいた「ロバートのホットドッグ」とは一体何のことであるか
に対して非常に興味がわきま した。ベッキーはその「ロバート」がラビニ ア嬢 の故郷米
が と て も 気 に か か り ま し た 。ベ ッ キ ー も 同 じ で す 。彼 女 も ま た ラ ビ ニ ア 嬢 の「 ロ バ ー ト 」
国はニューヨークのとある有名なホットドッグ屋さんに違いないと 思いました。
第五章 セーラとラビニア
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(ラビニアさんを 感激させるくらい、味 に自信を持っているお店なんだろう。ああ、 そ
のお店に行ってみたいなあ)
本当にお料理のこととなると、他の何事も耳に入らなくなるベッキーです。彼女はつ
い先ほどラビニア嬢からひどくぶたれようと したことも、そしてそ れをセーラ嬢がか ば
ているのでした。そしてできることなら、このニューヨークのプリンセスにお店の場所
ってくれたことさえも忘れてしまうほどに、ニューヨークのホットドッグ屋へ心惹か れ
を教わりたいとさえ真剣に思うほどでした。
「落ち着いてくれたのね、ラビニア」
セーラ嬢は 涙をためたままの ラビニア嬢 へ言いました。
何なの、はっきりおっしゃいよ、ベッキー。もう怒ったりしないから」
「え? い、 いいえ、何も気にしていませんから。でも……」
「私としたことが、つい怒鳴ってしまったわ。ベッキー、ごめんね」
「でも……?
ラビニ ア嬢はそう 言ってハンカチで目を拭くのでした。
ベッキーはセーラ嬢に目をやりました。 自分 が自分の意思で発言す るときは、今でも
した。 セーラ嬢からしてみれば、もう何もかもが一人前以上の彼女なのですから、逐 一
ご主人さまであるセーラ嬢にお伺いを立 てる癖だけはかたくなに守っているベ ッキー で
自分の許可をもらってから口を開く必要などまるでないのだと 思ってはいましたが、 や
はりそこは 主従の間柄。ベッキーはベッキーなりに一線を引いているのでした。
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小公女セーラ 2004
「いいのよ。言いたいことは 言っても」
ご主人さまの許可を堂 々ともらったベッキーは、にこやかな顔つきでラビニア嬢へ質
問しました。
「ラビニアさん。そのロバートとかいうお店はニューヨークにあるのですか。どんなお
それま でベ ッキーを見つめていた ラビニ ア嬢 でしたが、彼女がロバートの名前を出 し
店なんですか」
た途端に再び視線をはずし、また下を向いてしまいました。
「あ。お聞きしてはいけなかったでしょうか?」
「……。いえ、いいのよ。ロバートのことを知りたいのね。いいわ、教え てあげる」
とにかくベッキーのニュースネタの大好きなところは、彼女がミンチン学院へやって
きたころの昔からちっとも変わりません。
かつて、県 知事や コウベ 市長 夫妻 らが各 国駐日大使 を案 内して授 業 参観に 訪れ た際、
語学堪能だったセーラ嬢が当 時のメイドからその日一日だけ学院の代表生 徒と して教 室
に呼び戻されたことがありました。セーラ嬢を除いた生徒らでは、とてもではないが今
回の客人たちをうならせることができる語学力がないと、マリ ア・ ミンチン院長は判 断
したからです。正確に 言いますと、セーラ嬢を一日代表生徒に抜擢するよう院長へ助 言
したのは、彼女の人生の師とも呼ぶべきデュファルジュ先生でした。先生はセーラ嬢 な
らずらりと並んだ各国大使にあっても、落ち着いた淑女たる応対が十分過ぎるくらいで
第五章 セーラとラビニア
75
きるだろうと見込んだのです。
先生の思惑はものの見事に当たりました。各国大使らはセーラ嬢の気品と素質に大 い
に感激したのです。そして「彼女のような優秀な生 徒は教師に適任この上ない。ミンチ
ン院長、彼女を一生徒として置いておくことはこの学院にとって宝の持ち腐れに他な ら
応接室でお茶の接待をしていたベッキーは、大使らがマリア・ ミンチン院長へそう進
ない。 だから明日からでも教壇に彼女を立たせるべきだ」と口々に申したのです。
言した ことを一言も聞き逃さ ず、そしてそれに対す る院長の「承知致しま した。その よ
うに取り計らいます」の返答も彼女は心の中 で大いに感激の声を上げながら聞いたの で
した。
ベッキーはもう我 慢できません。 こんなビッグニュースは一刻も早くセーラ嬢本人や
アーメンガードらに伝えなければと、接待もそこそこに急ぎ足で応接室を後にしたの で
した。
そしてちょうど教室を出てゆこうとしていたセーラ嬢をつかまえ、身振り手振り豊か
に、今 しが た耳に飛び 込んで きた 特報を 伝え たので す。 彼女の声は 自然と でか くなり 、
教室の片隅だけで話していたつもりがいつしか四方 八方 の隅々にま で行き 渡るまでと な
アーメンガードやロッティは大いに喜び、聞きたくもない大声を聞かされることにな
りました。
ったラビニ ア嬢は唇を強くかんで不快感を表しました。
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小公女セーラ 2004
まだ詳しいことは何もわからないと言うのに、ベッキーはまるでタブロイド版の新聞
記者のように速報をもたらせたのです。ベッキーはとかくこの手のニュースを聞いた り
話したりすることが大好きなのでした。
そして、今回もなにやら妖しい響きがす る、どちらかと 言うとゴシ ップネタであるか
のようなお 話をベ ッキーは目を輝かせてラビニア嬢から聞き出そうとしているのでし た。
「ロバートというのはね」
ラビニ ア嬢 の涙はまだ止まっては いません。 でも彼女はしっかりとした調子で話をし
だしたのです。
「ロバートというのはね。私にとってこれまで、いえ、これからもずっとずっと愛 しつ
愛する男の人って言ったの?
ラビニア、今何と言ったの?
づけるたった一人の男の人の名前なの」
え?
聞き間違い?
ロバートってお店の名前ではなかったの?
ラビニ ア、そのお 話、もっと 聞かせて。
そ れ っ て 、悲 し い 悲 し い ラ ブ・ス ト ー リ ー な の で ご ざ い ま す か ぁ ? 私 、そ ん な お 話 大
好きでございますぅ!
第五章 セーラとラビニア
77
セーラ嬢もベッキーも、いつ しか 眼をキ ラキ ラさせ てラビニア嬢に熱い視線を送って
いるのでした。
悲 恋の物語はいつ の世 にも女の子 の憧れなのでしょうか。この二人は、ラビニ ア嬢を
美しくもはかない恋の物語のヒロインへと自分勝手に昇華させてしまったのでした。
「あ、あんたらねえ……。完全にキンツマ状態でしょう」
あきれ果てたようなラビニア嬢。でもそのニューヨークの誇り高きプリンセスはゆっ
くりゆっくりと自分の身の上を語り始めるのでした。
「セーラがインドへ旅立った 一九九四年の八月から一ヶ月後、私もニッポンを 離れて
故郷のニューヨークへ帰ったわ。私には故郷の街でやりたいことがいっぱいあったの…
…」
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小公女セーラ 2004
九
ニッポンの伝統文化にどうしてもなじめないこととは別に、学院での暮らしがあまり
にものんびりしすぎていて、まるでぬるま湯につかっているかのようにさえラビニア嬢
常に新鮮な刺激を毎日の生活 に求めている彼女にとって、セーラ嬢 がいなくなり、 院
には感じるようになってきました。
長先生もすっかり穏やかな顔つきになって、学院の生徒みんなが平和にのんびりと暮 ら
すようになってからは、実に退屈な日々が始まったのです。
言い換えれば、このミンチン学院に何の魅力も感じなくなってきたというわけです。
なぜなら、恰好の標的であるセーラ嬢がいないからです。
でもまさか 自分が率先 して学院内に一波乱起きるような 言動をとるわけにもいきませ ん。
(一日でも早くニューヨークへ帰ろう。摩天 楼が私を待っていてくれる)
学院を中退する決 心は セーラ嬢のインド 里帰り以前からしていたことです ので、あ と
はそれをいつ実行に移すかだけでした。
彼女は セーラ嬢が去った後、 油田 王であ る父親がビ ジネ スで来日す る日を帰国の絶好
のチャンスと考えました。
また、彼女は学院を中 退しますと院長に申し出たとき、 院長は何と 言って自分を引き
と め よ う と す る だ ろ う と 考 え ま し た 。莫 大 な 寄 付 金 を 学 院 へ 納 め て い る 彼 女 の 父 親 で す 。
第五章 セーラとラビニア
79
大切なスポ ンサーを失っては 一大 事と、 院長 の顔はひきつって見え るだろう。 何が何 で
も院長は自分のことを学院に残すよう、父親を説得するはずである。ラビニア嬢はそう
信じました。
けれども、嬢のその思惑はものの見事にはずれてしまったのです。中退の意思を伝え
らに強く握り締め るのをラビニア嬢ははっきりと見ましたから。そして院長は 言った の
たとき、マリア・ ミンチン院長は確かに少しは驚いていました。握っていたこぶしを さ
です。
「それはあなたのお父さまのご意思なのですか」
「いいえ。父は関係ありません。私が自分で考え抜 いた決心です」
嬢はそう言い返しました。しかし、それに対する院長の反応はすこぶる静かだったの
です。
「わか りま した。 その件につ きま しては、 ラビニアさん のお父さまを 交え てお 話し致 し
ましょう」
ラビニ ア嬢は院長 がそれこそ学院の大変とばかりにあわ てふためき、妹のアメリア先
院長から返ってきた言葉はそれだけであり、とても顔色が変わってしまうほどに仰天 し
生 に 支 え て も ら わ な い と 倒 れ て し ま い そ う に な る 狼 狽 ぶ り を 期 待 し た の で し た 。な の に 、
たようには到底見えなかったのです。ま るで「ラビニアさん。あなたが学院を去るのは
あなたの自由ですからね」とあっさり言われてしまったかのようでした。
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小公女セーラ 2004
院長のそんな態度は、嬢の父親とアメリア先生を含んだ四者面談でも変化はありませ
んでした。
「ラビニアお嬢さまが当学院をお辞めになっ て米へ帰国されますことは、私達 教職者 に
とって非常 に残念 なことであ るばかりか、代 表生 徒を失 うこと にな る全生 徒にとりま し
院長は嬢の帰国をさも残念そうに嬢の父親へ 語りま したが、院長は帰国を 思いとどま
ても心痛の極みでございます」
るように父親の口からも説得してほしいといった内容をただの 一度でさえも発言はし ま
せんでした。むしろ「去るものは 追わず」と 言いたげにも受け 止められてしまったの で
す。
ラビニ ア嬢は自分 に対する院長の態度が以前とはすっかり変わってしまったことを悟
りました。学院にとって、いや、 マリア院長 にとって、 自分の存在はもはや学院の経 営
に大きな影響を及ぼす金づるではなくなってしまったのだと。
その原 因はすぐわかりました。もちろんセーラ嬢です。彼女こそ院長が重宝に重宝す
る生徒になったと いうことを ラビニア嬢は知りました。特にこの四者面談終了後にラビ
ニア嬢 が知った、 セーラ嬢が 行った何億 円も の学院への寄付の事実は、完膚無きほど ま
(このまま離日すると、私はあのセーラに勝てないまま帰国してしまうことになる。 そ
でにラビニ ア嬢を 叩きのめしてくれました。
んなことがあっていいものか)
第五章 セーラとラビニア
81
偉大な代表生徒。学院にとってなくてはならない後援者。その言葉が嬢は欲しかった
のです。でも今や院長にとってラビニア嬢は ジェシーやガートルードらと同じ一般生 徒
と何ら変わりはなくなってしまったのです。
「 こ れ か ら の ラ ビ ニ ア お 嬢 さ ま の ご 健 康 と お 幸 せ を 、全 教 職 員 全 生 徒 で お 祈 り 致 し ま す 」
実にありきたりな院長の別れのあ いさつでした。嬢はこぶしをギュッと結びました。
そして、今回受けた屈辱とも 言う べき仕打ちのおか げで、嬢は アメリア先生が 企画し た
「代表生徒ラビニ アさんとのお別れ会」をも出席を拒んだのです。
結局ニューヨークの誇り高きプリンセス、ラビニア・ハーバートは、ダイヤモンド・
プリンセス、セーラ・クルーに歯が立たない苦い思いをさせられたまま故郷へ帰る旅 客
機に乗り込んだのでした。
(さよならジャパン。さよならコウベ市、そして学院のみんな。もう私は二度とこの地
を訪れることはないでしょう)
「私はニューヨークへ帰った後、法律の勉強を始めたの。トップレディーとなるべく、
ラビニア嬢は語ります。聴衆はたった二人だけでしたが、この二人はいかにもラビニ
私は見るもの聞くものすべてを自分の財産に変える修行を開始したようなものね」
ア嬢の話をメルヘン色豊かなラブ・ストーリーと解釈していました。だからこそ余計 に
お話にのめりこんでいたのです。
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小公女セーラ 2004
「それでね。私が刑事訴訟法のレポートがうまく書けなくてイライラしているときだっ
た。小学生のころからの友人が電話してきて、私を気分転換に誘ったの」
ラビニ ア嬢 の女友達は、彼女をヤンキー・スタジアムへと誘ったのでした。友人は 小
さなころか ら大のニュ ーヨーク・ ヤンキ ースファンでした。地元球 場で行われ る主催 ゲ
サインボールなどの所有しているグッズの数を見ても、普通のファ ンとは 思え ないほ
ームはまず一試合も見逃さず応援へ駆けつけました。
どの熱狂ぶりなのです。
ラビニ ア嬢は友人とともにヤンキー・スタジアムへやって来ま した。野球にはほとん
ど興味 ない嬢でしたが、この友人の白熱した応援ぶりを 見ているうちに、 いつ しか嬢 も
目の前で繰り広げられる男達 の熱いドラマに声援を贈るようになりました。嬢 にとっ て
は、書斎に閉じこもって何の声も出す必要のなかった場所から、大声を張り上げても 誰
からも一切クレームをつけられることのない野球場へやって来たことは、大いに日常 の
疲れを癒す手段となったのでした。
「どう、ベースボールって面白いでしょ、ラビニア。弁護士を目指して法律を勉強す る
ことも大切でしょうが、時にはこんなところで大声出すのも気持ちいいでしょう?」
「ええそうね。今日はあなたが誘ってくれたことを神さまに感謝したいくらいよ」
「ははは。面白いことをいうようになったね、ラビニア。ニッポンへ留学する前は決 し
て私にもジョークをとばそうとはしなかったくせに」
第五章 セーラとラビニア
83
「あらそうかしら。私だってユーモアのセンスくらい持ち合わせていてよ」
そして、「それ」は突然やってきました。熱狂的ファンの友人が「お腹がすいたから
ホットドッグ食べたいな」と 言ったのです。
それを 聞いたラビニア嬢は「私が買ってくるよ」と、席を立ったのでした。
球場内に一軒のホットドッグ屋があり、嬢はそこへ行きました。バックネットのすぐ
後ろの観客席の階下にそのお店はありました。ホットドッグを買いに来た客からよく 見
えるように透明なガラス板でしき られただけの簡単な調理場がそこにはあり、その中 に
は一人のアルバイト店 員らしい青 年がいました。
青 年 は ラ ビ ニ ア 嬢 が 店 へ や っ て き た こ と に 気 が 付 く と 、パ ン を 調 理 し て い た 手 を 休 め 、
レジスターを置いているカウンターへと出てきました。
「いらっしゃい、お嬢さん。今日はあいにくカレー味しかできないんですよ。俺っち は
そいつ しかつくれないもんだから」
青年はラビニア嬢 へそう言って笑いかけました。嬢は大して青 年の話には興味があり
ません。ホットドッグを二本ばかり買って、 友人の席まで早く戻りたかったのです。
嬢は少し早口で忙しそうに注文したのでした。
「二本くださいな」
「はいはい、二本ですね、お嬢さん。少々お待ちを」
青年は 少しずれかけていたコック帽をか ぶりなおすと、調理室へと帰りました。青 年
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小公女セーラ 2004
は 嬢 よ り い く つ か 年 上 で あ る か と 思 わ れ る の で す が 、決 し て 背 の 高 い ほ う で は な い 彼 は 、
静かな語り 口調からして他人を笑わせることなど特に関心なさそうなタイプに見える の
でした。
「はい、お待たせしました。カレー味のホットドッグです」
できたてのホットドッグを紙に包んで青年は調理場から出て来ました。その二本をさ
らに紙袋へ入れ、彼はそれを 渡そうとカウンターの向こう側へいるラビニ ア嬢 へ腕を の
ばしました。
そんなとき、紙袋を手離す青 年の手とそれを 受け取 るラビニア嬢の手がほんの少し触
れ合ったのでした。その触れ合いとほぼ同時に二人の目と目がお互いを見つめました。
それが「始り」でした。
「何? 何なの。このひどく懐かしい気持ちがするのは」
「お嬢さん。昔どこかでお会いしたかな?」
ラビニ ア嬢は青年のことを。ホットドッグ屋の青年はラビニア嬢のことを。
二人の心はお互いの存在を遠い遠い昔から知っていたかのような不思議な感覚によっ
て支配されるのでした。
今この瞬間は、ラビニ ア嬢とその青年のためだけに存在しました。 スタジアムから聞
第五章 セーラとラビニア
85
こえてくる歓喜の声も、今のこの二人の間にはまったく届きません。
「お名前を。お名前をお聞かせください」
「ロバート。ロバート・スタンリー。君は? お嬢さんのお名前を教えてほしい」
「私は、ラビニア。ラビニア・ハーバートと 言います」
「ラビニア。かわ いい名前だ。僕はいつもここでホ ットドッグを焼いている。 だから い
つでも ここへおいで。 僕はラビニ アのことをたくさんたくさん知りたいと 思うんだ」
「ありがとうございます。ロバート。またきっと来ます」
ラビニ ア嬢は観客席で待つ友人の元へ帰りました。彼女は自分 の持ってきた紙袋をそ
のまま 友人に手渡すと、自分のホットドッグのことも野球のゲームのこともそっちの け
で今しがたの不思議な出会いのことを考え込むのでした。
誠に夢物語のようでした。嬢は思いました。
(私はどうして初対面の男性に堂 々と名乗ったりしたんだろう。この歳まで私は男性に
彼女自身、今回の出会いがまったく不可思議で仕方 なかったのです。ラビニア嬢はも
なんかまったく興味がなかったのに)
はや野球観戦などまったく眼中にはありません。飛んできたボールが嬢のすぐ近くのシ
ートに当たったときでさえ、彼女は何の関心も示す ことなくホットドッグ屋の青年の こ
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小公女セーラ 2004
とを考え込んでいたのです。
こんな調子ですから、彼女の友人はとても心配するのでした。
「ラビニア、ラビニア。大丈夫なの」
「え? 私は別になんともなくってよ」
「うそ。あなたずっとボーとしてるじゃない。ええ、ホットドッグを買って帰ってき て
から、ずっとおかしいわ」
「そ、そんなことないわ。私は普通よ。さあ、そんなお話してないで、ヤンキースを 応
援しましょうよ。フレーフレー、ヤンキース。かっとばせぇー」
入場す る際 にもらった 携帯用 ミニ 球 団旗 を今 ごろに なっ て振り 出す ラビニ ア嬢 でした 。
その様子を見た友人はすっかりあきれ顔です。
「やっぱりおかしいわ。だって、試合はもうとっくの昔に終わっているのに、それさ え
も気づかないなんて」
「え、もう終わったの」
こんな調子でした。満員だった球場はすっかりさびしい人影だけが残っていました。
て話し始めるのでした。
でもラビニ ア嬢は 友人の機嫌を損ねないようにしようと、ヤンキースの活躍ぶりにつ い
「で、でもほら。見事な逆転勝ち。野球をこれまで知らなかった私でさえ、ものすご く
興奮したわ。ヤンキースって、何てかっこいい球団なのかしら」
第五章 セーラとラビニア
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嬢が少々興奮しながらそう口にしますと、彼女の友人はますますもってあきれ、とう
とう怒り出す始末です。
「ちょっと ラビニ ア、 いい加減にしてよね。あなたはやっぱり試合はそっちのけで、 考
え事ばかりしていたのね」
「私きちんと観て、応援してたわ」
「うそ ばっかり。 試合 観てた って 言い張 るの なら、 一体 誰がサ ヨナ ラホー ムラ ンを打 っ
たのか 言ってみなさいよ」
そんなことを言わ れてしまったラビニア嬢は、随分あわてた様子で辺りをきょろきょ
ろするのでした。そして彼女は観客席へ残さ れたプラカードに書か れていた名前を偶然
目にし、口に出したのでした。きっとそれがこの試合のヒーローであると思ったからで
す。
「えっとえっと。ジョー・トーレー」
「オー、マイ、ガー」
友人は頭を抱え込んでしまいました。
名前でしょうが」
「やっぱりラビニアは試合なんか何も観てなかったんだわ。それはヤンキースの監督 の
「え?」
「今日は逆転負けよ。虎の子の一点を守りきれずに逆転されちゃったのよ。ああ、情け
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小公女セーラ 2004
ない。おまけに頼りにしていた未来の大 統領夫人はベースボールのベの字も知らないと
きている。今日はヤケ食いだね!」
「ごめんなさい、 ナンシー。わ、私、ちょっぴり考えることがあって…… 」
「ラビニアは最初野球の試合が面白いって言ってくれたからものすごく期待していた の
強烈なヤンキースファンである友人ナンシーは、今日の敗戦のショックからくるイラ
に。とんだ肩透かしだわ」
イラをもう少しでラビニア嬢 へぶつけてしま いそうなのでした。
球場からの帰り道、地下鉄の車内で、つり革を握りながらラビニア嬢はナンシ ーに質
問するのでした。今度はいつ球場へ行くのかと。
ナンシ ーはとにかくヤンキースのホーム・ゲームは 一試合も欠かす ことなくスタジア
ムで応援す ることに全力をかたむけています。だから、当然明日の試合で我が愛するヤ
ンキースが今日の雪辱を晴らしてくれる感動 の場面を演出してくれることを期待しま し
た。
「私は明日もヤンキー・スタジアムへ行って応援するよ」
ナンシーはそう言いました。
明 日 ! 明 日 ま た ヤ ン キ ー ス は 地 元 で ゲ ー ム を 行 う ん だ 。だ と す る と 、球 場 へ 行 け ば ロ
バート・スタンリーと会える!
会いた い。ロバートと。
第五章 セーラとラビニア
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ラビニ ア嬢はもはや自分の感情を抑えることができませんでした。 法律の勉強のこと
も将来の野望である合衆国大統領夫人のことも、あのホットドッグ売りの青年の前では
少しも大志ではない。
ニューヨークのプリンセス、 ラビニアはヤンキースの熱狂的ファンであるこの友人に
頼み込むのでした。
「お願い。私を明日もスタジアムへ連れて行って」
けれども、返ってきたのはナンシーの意外な冷たい言葉だったのです。
「御免 だわ。だってあ なた試合に全然集中していなくて、考え 事ばかりしていたじゃ な
い。私、ヤンキースを真剣に応援してくれない人とは一緒に行きたくないわ」
ナンシーは本当に頭にきていました。もうラビニア嬢を連れて野球観戦は絶対したく
「今日のことは謝るから。ね、お願い」
ないんだという気持ちで、そのときは胸いっぱいだったのです。
けれども嬢があまりに真剣に頼み込むものだから、ナンシーは今回だけは嬢を 再び同
伴させようと考えるのでした。
「ありがとう、ナンシ ー。明日はきちんとメッツを応援するわ 」
「ラビニア! 何ですって!」
「すっごーい。ラビニ ア、あなた帰国した後にそんなロマンスを経験していたなんて」
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小公女セーラ 2004
「すご いでございます ぅ。私 もそ んな燃える 恋、し てみたいですぅ 」
聴衆二人はもうラビニア嬢の物語に時間の経過をすっかり忘れていました。これまで
なら、セーラ嬢が物語の世界への水先案内人となることが普通でしたが、今回だけは そ
のお株をすっかり奪われた気分です。
していた。もっともこれが恋愛なんだとはそのときは考えもつかなかったけれどね」
「うふふ。そう、そのときの私はまったく周りがみえないくらいにロバートのことを 愛
ラビニ ア嬢は話を続け るのでした。
応援するチーム名までものの見事に間違ってしまったラビニア嬢。 でも謝りに謝り倒
した嬢は何とかナンシーの機嫌を取り戻すことに成功し、翌日もヤンキー・スタジアム
の年間ボックス席の券を彼女からもらうことができました。
「今日は試合開始から終了まできちんとヤンキースを応援するのよ」
「わかってるって。感謝致します、マザー・ナンシ ー」
「やめてよ、気色悪い」
本当なら、球場へ入場すると同時にホットドッグ屋を訪れたい嬢でした。でもそれで
はナンシーにあまりにも失礼 です し、彼女に怪しま れてしまいます。はや る気 持ちを 抑
えて、今はヤンキースを応援することに集中 するラビニア嬢でした。
でもその集中力の継続は三回の裏のヤンキースの攻撃くらいまでが限界でした。ヤン
第五章 セーラとラビニア
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キースはワンアウト満塁という絶好の先取点の機会を得たものの、相手にうまくかわ さ
れて一点も挙げることができ ず攻撃を終わったのです。 観客が一斉にため息をついて い
るときに、 ラビニ ア嬢は席を立ちました。
「ああ、もう、どうして満塁のチャンスを活かせないのよ、アホンダラめ」
ナンシ ーは全身で悔しさを表しています。そんな彼女にラビニ ア嬢は言いました。
「ナンシー、カレースパイスがよく効いたホットドッグを食べて気 持ちを落ちつかせ る
のがよくってよ。私買ってくるから」
「ああ、もうだらしがない。 なん てことかしら」
ちゃきちゃきのヤンキー・ガールであるナンシーには、 ラビニ ア嬢 の声がまったく 聞
こえていない様子でした。それでも無意識のうちなのか、彼女は嬢へ「スパイスがん が
ん効かせて頂戴って言ってね」などと頼むのでした。
「はぁ~い、いらっしゃい」
ロバートへの熱い想いを胸に、ラビニア嬢は彼が待つであろう、バックネットの観客
な」と店先で声をかけたとき、嬢に応対してくれたのは、見知らぬ 若い男性でした。
席下にあるホットドッグ屋へ足を運びました。ところが、嬢が「ホットドッグくださ い
「あ、あれ。今日はロバートはいないんですか」
ホットドッグの味を注文することも忘れ、ラビニア嬢はお店にロバートの顔が見えな
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小公女セーラ 2004
いことを尋ねたのでした。
そしてその男性は物珍 しそうな目でラビニア嬢を見つめます。
「へええ。 君はロバートのガールフレンドか い」
「友人です。ロバートと今日ここで会うつもりにしていたのですが、彼はいないのです
男性はラビニア嬢 の容姿を見つめて、口笛をふきました。彼か らしてみれば、ロバー
か」
トのようなさえない男にはまったくもってラビニア嬢は不釣合いだと思えたか らです。
「ふううん。あのロバートの奴にこんなかわ いい彼女がいたなんて、あいつも 一言く ら
い話してくれたらいいのにな。俺には紹介したくねえってことなのかよ」
その男性は不機嫌そうに話すのでした。嬢は 少々焦ってしまいました。もしかすると
ロバートへの嫉妬心から、彼はロバートの消息につ いて何も教えてくれないか、もし く
は適当にごまかされるかもしれないと考えたからです。
「お兄さんはロバートのご友人なのですね。私、ラビニ アと言います。今後よろしく お
願いします」
嬢はロバートの同僚であるホットドッグ売りの男性へ手を差し出しました。ここで彼
に機嫌を損なわれると大変だと彼女は思いました。
「おお、お嬢さん、俺みたいな奴とも握 手してくれるってのか い。嬉しいね。ますま す
ロバートの野郎にあんたはもったいない女性だと思うようになったよ」
第五章 セーラとラビニア
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ロバートの友人もそう 言って、右 手を差し出すのでした。でも、ラビニア嬢が彼の手
に触れようとしたとき、その男性は自分 の右 手を引 いてしまったのでした。
「 握 手 は や め と く よ 。ロ バ ー ト の 奴 に 知 れ た ら た だ で は す ま な い よ う な 気 が す る か ら ね 」
「え……」
「ははは。冗談冗談。で、ラビニアちゃんは今彼がどこにいるのかを知りたいというわ
けだ。違うかな?」
彼からそれを聞いたとき、ラビニ ア嬢の瞳はまぶしいくらいに輝き出すのでした。
「そうです。お兄さんはご存知なのですか、彼の所在を」
「もちろん知っているさ。彼は自分のアパートで寝てるよ」
「自宅 にいるのですか 」
「ああ。あ いつは風邪を引いたらしくってね。今日は仕 事を休んでるんだよ。 いや、 大
したことないらしいんだが」
「風邪でお休み?」
ロバートの友人はロバートの風邪の具合は少しも心 配に値しないと ラビニ ア嬢 へ伝え
誰一人として介護してくれる人も いない部屋の中の冷た いベッドの上で、ロバートは ひ
たつもりでした。とは 言うものの、ロバートに会いたい一心のラビニア嬢 にとっては 、
どく咳き込みながら苦しんでいるに違いないと思わせるのでした。
(私がロバートの看病をしなければいけないんだ)
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小公女セーラ 2004
嬢は考えました。そしてその男性に彼女は尋ねるのでした。
「 あ 、あ の う 。ロ バ ー ト の ア パ ー ト は ど こ に あ る の で す か 。こ こ か ら 遠 い の で し ょ う か 」
何だか信じられないお 話だな」
「なんだ、奴の住んでいるアパートの場所もあんたは知らないで付き合っていたのか
い?
「私は本当に知らないんです。どうか、彼の住んでいるところをお教えください」
「……。どうやら、あんたは本当に知らないようだな」
うんうんとうなずくラビニア嬢でした。
「ちょっとかわいい女の子と知り合ったら、もうその日のうちに自分の部 屋へ迷いな く
連れ込む野郎の彼女とは思え ないな」
真剣そのものの両目で彼を見続けるラビニア嬢。そんな彼女の気持ちがやっと彼に伝
わったのでしょうか。彼は言いました。
「わかった。ロバートの住んでいるアパートへの道順を教えるよ」
「ほ、ほんとですか。ありがとうございます。私、今すぐ彼のお見舞いに参ります」
嬢の実に明るい声 が地下の売店通りに響 いたのでした。
ロバートの友人はニコリと微 笑むと店の奥からメモ帳とペンを持ってきて、ラビニ ア
嬢の見ている前で地図を描き出しました。まさしく食い入るような目つきでメモ帳を 覗
くラビニア嬢でした。 一刻も 早くロバートに会いた い。その一心に 尽きる様子 です。
「奴のアパートは地下鉄でひとつ西隣りの駅へ行って、そこから歩 いて五分ばかりの と
第五章 セーラとラビニア
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ころにある。でも アパートは路地裏に建っていて、 昼間はまだ大丈夫だが、夕刻から 翌
日の日の出の時刻頃までは付近一帯は何かと物騒なところだから十分注意するように。
簡単な地図しか描けないが、ご勘弁」
彼は描いた地図は大雑把でしたが、最寄の駅からの道順はていねいに教え てくれまし
た。道に不案内なラビニア嬢でも、何とか一人だけで行けそうです。
「ありがとう。今日のお礼はきちんとさせていただきます」
「ラビニアちゃん、うまくやんなよ」
「うん」
ラビニア嬢はその場か ら走って駅へ向かうその前に、ロバートの住む家までの道順を
教えてくれた彼へ名を尋ねます。
ねえ、ジェームスは彼女いるの?」
「俺は ジェームス。ジェームスって言うんだ。ロバートの野郎によろしくな」
「ジェームスさんって言うの?
「ははは。ロバートの野郎とつるんでいたら、あいつが独り占めしやがるんでな。こっ
ちへは 全然 回ってきやしないんだ」
「うっひょお。さすがラビニ アちゃんだ。嬉しいこと言ってくれるね」
「それだったら、私、 ジェームスにピッタリお似合 いの女性を知っ ていてよ」
「必ずお引き会わせするわ」
「それまで楽しみにしておくよ。その娘の名前、何て言うんだい?」
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小公女セーラ 2004
「知りたい?」
「もちろん」
「モーリーよ。かわいい名前でしょう」
げらげらげらげら。
あっはははははは!
ラビニ ア嬢 の思い出話のすっかり虜になっているセーラ嬢とベ ッキーの二人は、お 腹
を抱えて笑うのでした。
「ラビニア、そのギャグ最高 っ!」
ベ ッ キ ー な ど 、と う と う 、ふ か ふ か の じ ゅ う た ん の 上 を 転 が り な が ら 笑 い 続 け ま し た 。
「座布団三枚やってって感じですぅ!」
「でもね……」
ラビニ ア嬢 がポツリと 言いま した。聴衆二人はそこで笑い声を 止め、嬢へ注目するの
でした。床を転がっていたベ ッキーも起き上がり、 再び真剣な目つきでラビニ ア嬢に 向
「でもね。そこからがロバートと私にとって試練の始まりだったのよ」
かいます。
第五章 セーラとラビニア
97
十
ヤンキー・スタジアムを親友ナンシーに黙ったまま飛び出して、地下鉄へ乗り込んだ
ラビニ ア嬢。親友をただ一人球場へ残してきたことに負い目を 感じつつも、ロバート に
ひとつ西隣の駅まではあっという間の時間で到着です。嬢は駆け足で地上へ上がり、
会 う こ と が で き る と い う 喜 び が 今 は 勝 っ て お り 、彼 女 は 心 の 中 で 親 友 に 詫 び る の で し た 。
ホットドッグ屋のジェームスからもらったペン描きの地図を頼りにロバートのアパート
を目指すのでした。
幹線道路に面して建っている建物は高級マンションやら立派なオフィスビルばかりで
「地図によると……。この奥ね、よし!」
す。でもラビニア嬢の目指すロバートの住居はそれらの裏方にあるとのことでした。
嬢はビルとビルの間をぬって裏道へと進みます。でもそこは、 表通りの華やかさとは
打って変わった、何ともものさびしい場所だったのです。
アスファルトは割れ放題、あちらこちらにビールの空き缶が散乱し、もう何ヶ月も道
座り込んでタバコを吹かしてみたり、CDを聴いていたりしていたのです。ラビニア嬢
路清掃車が来ていないことを 語っているかのようでした。しかも何人もの 若者が道路 に
にしてみれば、未だかつて足を踏み入れたこともない見知らぬ世界でした。つ い二日 前
までの嬢でしたら、絶対このような場所に自分の意志で来ることはなかったことでしょ
98
小公女セーラ 2004
う。
「あの建物ね」
それは 鉄筋四階建ての古くみすぼらしいアパートでした。でもそれが今回 ラビニア嬢
が訪ねることとなった、ロバート・スタンリ ーの住居なのです。
けれども建物の入り口には三人ばかりの若い男性が地べたへ座り込んでおり、完全に
嬢の進む道をふさいでいたのでした。
「あ、あの……」
道を開けてほしく て、 ラビニ ア嬢はアパートの入り 口に陣取っている三人組へ勇気を
持って話し掛けます。
キャップを 深々とかぶった小さな丸メガネの男性が座ったままで嬢を見上 げま した。
「す、すみません。通してください。私、このアパートに用事があってきたんです」
でも彼はすぐにまた持っていたオートバイク関係の雑誌へ視線を戻しました。嬢はそん
な彼の態度にむっときて、言い返したのでした。
「ちょっと。道をあけてって頼んでいるのに、どうして無視するのよ」
でもそれでも三人組は動こうとはしません。嬢はますます腹が立ってきました。そん
なものだから、彼女は ミンチン学院に在 籍していたころと同じような荒っぽい口調で 怒
鳴ってしま いました。
「道を 開けなさい。早くするのよ!」
第五章 セーラとラビニア
99
嬢のこの声を突きつけられた三人の男性はさすがにこれ以上黙っていることはできな
くなった様子でした。 三人が三人とも立ち上がり、尻についた砂を 手で払ってから、 ラ
ビニア嬢を見るのでした。
思わず一歩後ずさりしてしまう嬢。三人組のうち、 一人は見事なモヒカン刈りで、し
通り舐めるような目つきでニューヨークのプリンセスを眺めるのでした。
かもその髪の毛はまるで信号機のように三色に染められていました。その三人組は文字
コウベ 市のミンチン女学院ではまったく怖いもの知らずであったラビニア嬢です。が
しかし、今回ばかりは これまでとはまったくと言ってよいほど縁のなかった男たちが 相
手です。嬢に分があるとはとても考えることができません。
モヒカンの男がにやけ ながらラビニア嬢 に近づいてゆきます。 男が 一歩前進すると一
歩下がる嬢。
(この人たちに何を話したって通じない)
そう思った瞬間、 ラビニア嬢は自分が履 いていたかかとの少々高くなった 靴を右手に
つかんで振り上げたのでした。
彼女が手にした靴のかかとがモヒカン男の脳天の髪の毛がない部分ををひどくぶちま
「気色悪い奴。近寄らないで」
した。ゴツンという鈍い音とともに、モヒカン男の頭が切れます。
「い、 いてえよ~」
100
小公女セーラ 2004
男が一筋の血を流し始めた頭を抱えて、ゆっくりと声を出しました。
「いてえよ~。何とかしてくれよ~」
三人組の中 でもっとも背が低く、少し前かがみな姿勢をとっていた男がラビニア嬢の
右手首をつかみあげました。男は嬢より背丈がないのですが、その力はまるで万力で 締
の靴を地面に落と してしまいました。
め付けられているかのように彼女は感じたのでした。右 手の感覚がなくなり、嬢は自分
「は、離しなさい。し、失礼でしょう」
「靴で頭を殴ることが失礼ではないってのか い。ええ、勇ましいお 姉さん」
万力男が言いました。 男は靴を履いていない嬢の右足を 思い切り踏みつけたのです。
けっ、この女、まったく世間のこと何も知らないお嬢ちゃんじゃね
「い、 痛い! は、離しなさい、ぶ、無礼 者!」
「無礼 者だって?
えの?」
「よく 見た ら、本当に育ちの いいお嬢さまっ て感じ だな。そのお嬢 さまが 一体 全体 こ ん
なところに何の用があってきたんだ?」
丸メガネの男がずり落ちてきたメガネを指で持ち上げながら、嬢の全身をゆっくりと
眺めます。
「このアパートには俺たちしか住んでないんだぜ。俺たちに用があったのか」
メガネ 男の 問いに 身体中震え なが ら首を 振るラビニ ア嬢。
第五章 セーラとラビニア
101
「まあ、もっとも無賃で住んでるんだがな。へっへっへ。滞納した家賃を請求にきた家
主を逆にこの街から追い出しちまうんだから、兄貴にも困ったものだよなあ」
メガネ 男がそう言って笑うと、嬢 の身体 を拘束している万力男もつ られて大声 で笑い
ました。モヒカン刈りの男も、頭をおさえながら「けっけっけ」と声を出します。そ の
嬢はホットドッグ屋のジェームスにだまされたのだとそのとき考えました。こんな場
笑い声 がラビニア嬢の 恐怖をさらに増長させ るのでした。
所にロバートが住んでいるは ずがない。 ジェームスとこの男三人は 仲間だったんだ。 も
し か す る と 、メ ガ ネ 男 が 話 し た「 兄 貴 」と は ジ ェ ー ム ス の こ と ? い や 、き っ と そ う に 間
違いない。私はまんまとジェームスの罠にはまってしまったんだ。
(ちっくしょー、くやしい。私とあろう者が見ず知らずの男なんかの言う ことを闇雲 に
信用したりするから)
ラビニ ア嬢は自分 自身が何とも情けなく て情けなく て仕方ありませんでした。昨日偶
然に出会ったにす ぎない、見ず知らずの男性のことが気になったばかりに、いつもの 冷
静な判断ができないでいたのです。ロバートに会いたいというただそれだけのことで、
自分はロバートの友人と名乗る男の言う ことを真に受けてしまった。友人とは名ばか り
で、実はジェームスはロバートのことを大変嫌っている同僚なのではなかったのか。 だ
からこそ、彼への嫌がらせのために、私へロバートのウソの住所を教えたのだ。
(くやしい……。くやしい……。 こんちくしょう!)
102
小公女セーラ 2004
「どうれ。お嬢さん。俺たちと仲良く遊びましょう。ひっひっひ」
「何して遊びましょうか、お嬢さん。お医者さんごっこなんてどうかなぁ。とっても と
っても楽しいよ」
ラビニ ア嬢を拘束している万 力男と出血 モヒカン男が相 次いで 言いました。そんな彼
らのはやる気持ちを、メガネ男が「まあまあ」とおさえるのでした。
「 お 楽 し み は ゆ っ く り と ね 。ま ず は 極 上 品 が 手 に 入 っ た っ て こ と を 兄 貴 に 知 ら せ な き ゃ 。
俺たちの尊敬する兄貴の知らないところで遊んじゃ、兄貴に申し訳が立たねえ 」
「そりゃそうだ」
メガネ男は ずれたメガネを再び元 に戻してか らアパートを見上 げました。 道路に面し
いたり、ひ どいも のは 完全に ガラスがなくなっている部 屋もあ ります。でも、 三階の 中
たアパートの窓ガラスは、そのほとんどにヒビが入っていたり、半分割れてなくなっ て
央らしき部 屋のガラスだけはどこも損傷せず、きれいに光っているのでした。メガネ 男
あにきぃ~!」
はその窓ガラスのきれいな部 屋へ向かって大声を張り上 げたのです。
「あにきぃ~!
ラビニ ア嬢 の頭の中は、数々の情報が出たり入ったりと、もう嬢自身何を考え ればよ
(え? 親玉がアパートの中にいるの? ではジェームスではないの? 一体 誰?)
あにきぃ~!
返事してくれぇ~。おお~い!」
いのかまったくわからなくなっているのでした。
「あにきぃ~!
第五章 セーラとラビニア
103
何 度 メ ガ ネ 男 が 呼 び か け た こ と で し ょ う 。男 が あ り っ た け の 声 を 出 し き っ て し ま っ て 、
喉が痛くなり咳き込みそうになったとき、三階の窓がようやく開いたのでした。窓枠が
さびきっていて、かなり開け づらそうでしたが。そしてそこから、 一人の男性が顔を 出
してきました。
に遊べ!」
「なん だ、 やかま しい ぞ。俺 様は 今 一世 一代 の仕事 をし ているんだ。もう ちょ っと静 か
男性はそう叫んで、階下の一団に目をや るのでした。メガネ男が窓から顔を出した男
に手を 振り、そして万 力男と モヒカン男に自由を奪われているラビニア嬢を指差して叫
び声を続けます。
どうせお前達がどっからか誘拐してきやがっ
前に、毒見をしたいんですが、いいですか~い」
「あにきぃ~。極上も極上。超極上の女が転がり込んできたんでさあ。兄貴に差し出 す
「なにぃ? 女が転がり込んできたぁ?
たんだなあ。お前らのとばっちりばかり食らわされて、俺はいい迷惑だ!」
ラビニア嬢の青い瞳か らはぽろぽろと涙がこぼれ、その恐怖はもはや彼女の耐えうる
限界を今すぐに超えようとしていました。
(も、もうだめだ……。私乱暴されて殺される)
かつてこれほどの恐怖感を味わったことのないラビニア嬢。もはやかすれ声すらろく
に出す こと も困難 です 。極限の恐怖に美 しい顔だち がゆ がみにゆがむラビニ ア嬢でし た
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小公女セーラ 2004
が、モヒカン男はそんな嬢のほおを手でつかみ、彼女の顔を三階にいる自分達 の親玉へ
向けさせたのでした。
「どうです。上玉でしょう。こいつ、自分からこのアパートへやってきたんですぜ」
メガネ男が叫びます。嬢は涙でくしゃくしゃになった、決して誰にも見せたくない表
ラビニ ア嬢は窓か ら顔を出したその男の顔に自分の視線を合わせま した。 三階の男も
情をな らず者達 へ 見せ る屈辱 を受けたの でした。
モヒカン男につかみ上げられた嬢の顔を見つめます。
「!」
そのときラビニア嬢は 見ました。 三階の男の 表情が、ま るで地獄絵図に描かれた悪魔
ラビニア!」
しかしどう変わろうとも、嬢にとってその三階の男の顔は天使そのものなのでした。
のそれに変わって行くことを。
嬢の口から男の名がこぼれます。
「ロ、ロバート。ロバートなのね……」
それに続いて悪魔の口からも。
ラビニア!
窮地に追い込まれているラビニア嬢の名を愛しく呼 ぶ声 が街に響きます。
「ラビニア……。 ラビニア!
「ラビニアァァァァ!」
その悪 魔は 足を窓の高 さまで上げ ると、 その足で窓 枠を 蹴り上 げ、 身体を 宙へ投げ出
第五章 セーラとラビニア
105
したのでした。
モヒカン男もメガネ男も、万力男さえも 次の声なく、自分らの兄貴分の男の突然の行
動を見つめるだけでした。
その男ロバートの身体 はアパートの三階からラビニ ア嬢 めがけ て落下し、 く るりと 前
に一回転した後、 両足から地に着きました。そして彼は オリンピックの短距離ランナ ー
もしのぐような勢いで、着地したところから嬢のいるところまで何メートルかの距離を
瞬時に移動 して見せました。
「きさまらあ! ラビニ アからその汚い手を離せぇ!」
まずメガネ男の小柄な身体がひび割れだらけのアスファ ルトを野球 ボール のごとく転
がってゆき、道の片隅に置か れたダスト ボックスに突き 当たっ て中 身を撒き散らして 止
まりました。その男ロバートのたった一発の拳が彼をはるか遠くまで弾き飛ばしたの で
す。
「こいつがあ!」
ロバートの二発目 の拳が今 度はモヒカン男のあごを 直下から襲 いま した。 一体 何が 起
こっているのかわけがわからず、まったくの無抵抗であったモヒカン男の 身体 は、テ レ
ビアニ メのように天高 く突き上げられ、 昇るところまで昇りきったところでこの次に 頭
を下にして落下を始めました。
ドシン!
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小公女セーラ 2004
モヒカン男の頭はひび割れた部分からアスファルトにのめり込み、大きな大きな地響
きを残 して止まりました。彼の身体はまっさかさまに直立したままで地に突き刺さっ た
のです。
モヒカン男は地面と衝突する直前に、太った蛙が非常に低い声で鳴いたときのような
「あ、 兄貴、兄貴の女とは知らなかったんです…… 」
声を発したのですが、それはもはや人間の声とは聞き取ることの不可能なものでした。
ほんのわずか数秒の間に大の男ども二人が簡単に片付けられてしまった事実を、万力
男はいやというほど見せられてしまったのです。彼はロバートの攻撃がはじまったそ の
ときにラビニア嬢の腕をただちに解放しなかったことをたいへん悔しがりました。も し
で見えたに違いないと 思われたからです。
その瞬間に彼女の腕を放しておけ ば、きっとロバートに対する彼の 印象も 少しは和ら い
しかし、すべてが 遅かったのです。その背の 低い万力男の、ラビニ ア嬢を拘束してい
た右手はロバートの手のひらの上に乗せられました。
「この手がラビニ アを!」
悪魔の 形相と化したロバート。彼の悪魔の握 力にかかったら、万力男の握力など赤ん
坊とプロレスラーくらいの開きがありました。
「ぎゃあぁぁぁ!」
骨の砕け散る鈍い音とともに、万力男はアスファルトの地面にひざから崩れ落ちるの
第五章 セーラとラビニア
107
でした。
「このくらいで済むと思うな」
ロバートは地べたに倒 れこもうとする万 力男の頭を、その悪魔の握力でつかみ上げた
のです。
万力男の両目からは、 涙が滴り落ちます。つ い先ほどまで、ラビニ ア嬢を 恐怖にひき
「あああ。あ、兄貴。許してくだせえ。あっしらは何も知らなかったんでさあ」
つらせていた万力男と彼が同 一人物とは、事情を知らない人なら一体誰が信用すること
でしょう。
ロバートは男の顔をアスファルトに叩きつけようと勢いをつけるのでした。
突如の叫び声に、ロバートの腕が静止します。
「もうやめて!」
「ロバート、私は助かったのよ。私はもう大丈夫なの。だからそれ以上暴力は振るわ な
いで!」
ラビニ ア嬢 の声でした。彼女の叫び声は悪魔を天使に呼び戻すには充分なものがあっ
ロバートの手が万力男のつかんでいた頭から離れました。悪魔から解放された男はヘ
たのです。
ナヘナと座り込むとその場で失禁 してしまい、そのまま恐怖に耐えかねて気を失ってし
まうのでした。
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小公女セーラ 2004
ロバートのその鬼のごとき形相がすっかり恵比寿顔となったとき、 ラビニ ア嬢は走っ
てロバートの胸に飛び込みました。まだ出会って二日も 経っていないばかりか、彼ら が
会話を 交わ した合計の時間なんて、まだ五分 にも満たないはずです。なのに、嬢にと っ
てロバートは、そしてロバートにとってラビニア嬢は、今やなくてはならぬ存在であ る
ということをよく知っていたのです。
「ロバート、会いたかった。あなたに会いたくて私、ここまで来ました」
「ラビニア。ああ、まさかラビニ アが君の方 から俺に会いに来てくれるなんて。君の 姿
は幻ではなかろうか」
そう言ってロバートはすらっと伸びた嬢の身体を力強く抱きしめるのでした。嬢も自
「私は 夢でも幻でもないわ。でも私のこと、どこにも行かないようにしっかり抱きし め
分の腕を彼の背中 へまわし、 全身で彼の抱擁に応えます。
てください」
「わかった。絶対 君がどこにも行かないように、俺はこうしよう」
ロバートはまだ出 会って間もないラビニ ア嬢 の唇を 求めました。この少々強引とも思
ちらかと言えば小さくうすい唇に自分の口を合わせました。ロバートは力強く嬢の唇 を
える求愛であっても、嬢は何の抵抗もなく彼を受け入れたのでした。嬢はロバートの ど
吸い、それによってラビニア嬢自身は自分の身体のすべて、髪の毛一本か ら足の爪先 ま
でもがロバートによって深く深く愛されていることを感じたのです。プライド高きニ ュ
第五章 セーラとラビニア
109
ーヨークのプリンセス、ラビニア・ハーバートにとって、それは生まれてこのかた知 り
えなかった女としての喜びでありました。
これまで彼女のそばに近づいてきた男性のほぼ全員は、彼女の父親が持つ莫大な財産
が目当てでした。父親に会うなりぺこぺこと愛想よくお辞儀をする男たちに、 ラビニ ア
は嬢へ向けられた愛情なんかでは決してなく、彼女の厳 格な父が一代で稼いだ巨万の 富
嬢は身震いして彼らの行いを非難 しました。 自分に対す る愛想のよさも、 これらすべ て
そのものへのどす 黒い念に他ならなかったのです。
けれどもロバートは違 いました。彼は「 ラビニア・ハーバート」と いう一人の女性だ
けを真剣に愛したのです。
「ああ~ん、私もロバートさんのようなかっこよくて強い男の人に愛されたいでござ い
ますぅ」
ラ ビ ニ ア 嬢 の 話 に の め り こ ん で い る ベ ッ キ ー は 、と う と う 自 分 の 背 中 へ 両 手 を ま わ し 、
あたかも愛する男女が抱き合っているかのような仕草を 始めるのでした。おまけに唇を
とがらせて、チュ ッチュッと 口を 鳴らし出す 始末です。あきれたセーラ嬢 が言います。
「んもー、ベッキーったら」
でもベッキーはお構い無しです。話し手であるラビニア嬢も、自分の話を中断してベ
ッキーのパフォーマンスを笑いながら見ていました。
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小公女セーラ 2004
「ラビニア、お話を続けてちょうだい」
しばらく待っていても 様子が元に戻る気 配のないベッキーを見かねたセーラ嬢は言い
ました。ラビニア嬢はベッキーへ向かって「あはは」と最後に笑った後、また先ほどま
での真面目な顔つきで、自分 自身が体験した「世紀のラブ・ストーリー」の続きを話 し
はじめるのでした。
ロバートは 自らのパンチで叩きのめしてしまった男二人を肩に抱き、半分引き ずりな
がら彼らの二階の部屋へ連れて行きました。その後を唯 一歩く ことが可能 な万力男が 続
き、その隣をラビニア嬢がつ いて行きま した。そしてロバートは自らの部 屋から救急 箱
消 毒 薬 を 塗 布 し た 箇 所 を 絆 創 膏 で 覆 い 、そ の 上 か ら 包 帯 で ぐ る ぐ る 巻 に さ れ た 三 人 組 。
と包帯を持ってくると、とても慣れた手つきで彼らに対して治療を始めたのです。
ラビニ ア嬢も彼を 手伝 います。
ラビニ ア嬢 が聞くには、毎日毎日ケンカで明け暮れていたころにこの応急処置 法は 自
然と覚えたとのこと。
三人に「一晩寝てろ」と荒っぽく 言い放ったロバート。彼はラビニ ア嬢へ三階にあ る
「殺したって死なねー連中だ。このくらいの治療で充分さ」
自分の部屋へ来てくれと言うのでした。「は い」とうなずくラビニ ア嬢。
彼女はつい先ほどまで自分自身にこれ以上はないだろうというほどの恐怖を与えた万
第五章 セーラとラビニア
111
力 男 ら 三 人 に「 お 大 事 に 」と 声 を か け て ロ バ ー ト と と も に 部 屋 を 出 て 行 こ う と し ま し た 。
そのとき比 較的軽傷で済んだ万力男があぐらをかいて座りながら嬢のことを「姐さん 」
と呼び止めたのでした。
自分のことを呼ばれたのだとすぐにわかった嬢は「何でしょう」と振り返ります。
「先ほどは本当にすみませんでした。今後とも俺たち三人のこと、よろしくお願いしや
す」
小柄の万力男は両目か らポロポロと涙を流しながらラビニア嬢を見つめていました。
ロバートも最初男を振り返りましたが「くだらん」と言わんばかりにすぐさま元へも ど
り、そんな様子のロバートに合わせてなのか、ラビニア嬢もニコリと微笑んだだけで、
万力男から視線をはずし、ロバートの後を追って部 屋を出て行ったのでした。
「ち、ちょっとベッキー。ベッキーったら、ちょっとやめてよ」
ラビニ ア嬢 の恋物 語にどっぷりとつかってしまったコック長ベ ッキーは、 こともあ ろ
うか、 自分のご主人さまであるセーラ嬢 へキスをしようとしていま した。嬢が何を言っ
ても、物語のヒロインと化してしまったベッキーの耳には届きません。
「ああ、ロバートぉ。私もあなたの虜になってしまいそうですぅ」
ベッキーの台詞にラビニア嬢はまた大声 で笑いました。彼女にとっては自分の身の上
話 よ り も 、こ の 学 院 の メ イ ド 頭 の 脱 線 ぶ り を な が め て い る 方 が ず っ と 面 白 か っ た の で す 。
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小公女セーラ 2004
ニューヨークのプリンセスはとうとう涙顔で笑い出すのでした。そして自分の傍らに
いて半分逃げの体 勢になっているセーラ嬢へ こう言うのでした。
「セーラ。人を好きになるって、とてもすてきなことなのね」
ベッキーがラビニ ア嬢 のこの一言で、急 激にもとの現実世界へと戻されま した。
「ラビニア!」
「ラビニアさん」
セーラ嬢は このとき、今後何があっても ラビニア嬢と自分はどのような些細なことで
も正直に打ち明け合って、お互いがよき相談相手となれることを固く信じたのでした。
嬢 は ラ ビ ニ ア 嬢 が 名 実 と も に 自 分 の 最 高 の 友 で あ り 、学 院 の 先 輩 で あ る と 思 っ た の で す 。
セーラ嬢は この瞬間がくることを、一体 どれだけ長 く待ち続け たことでしょう。け れ
ども、 この次ラビニア嬢の口から 発せられた 言葉は、セーラ嬢 にとってもベッキーに と
ってもたいへんショッキングなものでした。
「でもね、セーラ。人を好きになるってことは、知らなくてもよかった悲 しみを背負っ
てしまうことでもあるのよ」
第五章 セーラとラビニア
113
十一
ラビニ ア嬢は三人の男どもの 手当 てを終えてロバートの後につ いて行き、階段を伝っ
てアパートの三階へ上がりました。そして、紙くずやらプラスチック容器やらがとこ ろ
構わずに散乱している廊下を進み、フロアのほぼ中央に位置しているドアの前で止ま り
ました。そ こがロバートの部 屋である様子です。
嬢はドアの取っ手に触 れたロバートへ尋ねました。彼の勤めるホットドック店の同僚
で あ る ジ ェ ー ム ス は 、ロ バ ー ト が 風 邪 を ひ い た た め に 欠 勤 し た と 嬢 に 教 え て く れ ま し た 。
なのに本人は風邪 など いった い何の関係があ るかと 言わんばかりに健康です。 何せ、 窮
地に追い込まれた彼女を助けたいがために三階の窓から飛び降りて暴れまわるといった
荒行を見せたくらいなのですから。
「あなたのお友達 のジェームスはロバートが風邪をひいたと言っていたけ れど 」
そんなことを質問されたロバートは「あはは」と笑いました。
「すまない。仮病だったんだ。今 日はどうしてもバイトを休んでやりたかったことが あ
ったもんでね」
「まあー」
男の部 屋へ入ることなんて、生ま れてはじめ ての嬢 でした。米へ帰国してからという
もの、 ラビニア嬢はこれまでに一度たりとも 経験したことのない事柄ばかり身の回り に
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小公女セーラ 2004
起こるのでした。
友人ナンシ ーに誘われて野球観戦したことも初めてなら、異性と今回ほど親しく話が
できたことも初めてですし、その男に会いたくて会いたくて仕方なくなったことも人生
最初の想いです。その男の自宅まで一人でやってきたことももちろん初めてで、街の不
「さあ、どうぞお 入りくださ い、お嬢さん」
良達に囲まれた経験もありません。
ロバートの部屋は 一面に油絵らしき絵画が置かれてありました。床はパレットやら絵
の具やらで占められており、 書きかけのデッサンが小さなテーブルの上に無造 作に置 か
れていました。
部屋の様子からして、 ロバートの 趣味が絵画であるということはすぐさまわかったの
ですが、嬢はイーゼルに乗せられたキャンバスに描かれている最中 の後姿の女 性に釘 付
けとなったのでした。
女性は美しいなめらか な曲線を持つ立ち 姿の裸婦像として描か れていました。
「こ、 これ、もしかして私……?」
女性はほんの少しだけ後ろを振り向いて右目をこちらへ向けていま した。 目と同じよ
うにほんの一部分だけ 描かれている口元 は、 すこしだけ 笑っているかのように見える の
でした。
そしてキャンバスの中 の女性が自分であることを知ったラビニ ア嬢は、全身が急激に
第五章 セーラとラビニア
115
熱く燃えあがったかのような錯覚に陥り、頬までも真っ赤にしてしまいました。
ロバートは昨日ラビニ ア嬢と別れた際、 友人の待つ 観客席へ戻 る嬢 の後姿をしっかり
と自分の脳裏に焼き付けたのです。そしてその姿を、自分の記憶が薄れる前に 油絵と し
て残そうと、帰宅 後直ちに筆を持ったのでした。
この絵が完成するまで、彼はホットドッグ屋を欠勤して絵に集中するつもりでした。
だ か ら こ そ 同 僚 の ジ ェ ー ム ス に は 、た ち の 悪 い 風 邪 を ひ い た の だ と う そ を つ い た の で す 。
「俺は 画家志望なんだ。絵の 具とキャンバスを持っ て、世界中 を描きなが ら旅 してま わ
ることが俺の夢さ。絶対実現させてやるって思っている」
絵画なら多少の心 得を 持つラビニ ア嬢でした。嬢の母親 の妹、すなわち叔母はロスア
ンゼルスで細々と絵画教室を 経営している自称「二流画家」でして、嬢は 幼少のころ こ
の叔母から絵のABCを一通り学んでいたのです。
そして何よりも叔母をびっくりさせたのは、 叔母の生徒たちである小学生よりもやや
もすると達者な筆使いをする嬢でした。
叔母は 幼いラビニ ア嬢に絵画の才能を見出し、彼女に未来の女流画家たる教育を施そ
うと決心したのです。 自分は生涯売れない画家で終わりそうだが、 この娘は違う。自分
が果たすことのできなかった夢を この姪っ子に託してみよう。そう思ったのです。何 か
としつけにきびしい実の母と異なり、終始笑顔で自分に接してくれる叔母のことがラビ
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小公女セーラ 2004
ニア嬢も自然と好きになってゆくのでした。
そのように好きな叔母のもとで学 ぶ絵画の実力を、 幼いラビニ ア嬢はぐんぐん 伸ばし
ていったのでした。
ところがある日。嬢の父親が叔母の姉である母と一緒にやって来ました。それは、金
輪際ラビニア嬢に近づかないでほしいと いう 言葉を伝えるためでした。まさか実の姉か
らそのような話が出るなんて。
しかも絵画だけに熱中 し、ま だ独り身を通していた彼女にとって、 ラビニ ア嬢はまさ
しく自分の本当の娘であるかのようにかわいく思えていたのです。そんな愛情を注ぎ 込
んでいたラビニア嬢でしたのに、 自分の姉夫婦は自分の元から嬢を引き離そうと言う の
姉は言いました。
です。
「ラビニアにはあ なたのように自由気ままに絵を描 いて一生を送るなんてことはさせ な
い。この子には全米の指導者たる政治家 の道が開け ているのよ」
芸術の世界に生き る決心をした妹のことを結婚前からひどくなじることの多かったラ
婚してからはさらに増してゆきました。
ビニア嬢の母です。妹 に対す る批判は、彼女が青年実業家であった ラビニ ア嬢 の父と 結
そしてとうとう、その日。ラビニ ア嬢とは二 度と会わぬようにと姉は言い、同 時に 姉
は己の妹と絶縁することまでも言い放ったのでした。
第五章 セーラとラビニア
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ラビニ ア嬢はそれ以来、絵画が大 好きであった叔母と会うことが許されなくなり、 時
の経過と共に叔母の記憶も嬢の脳裏から薄れていったのでした。
がしか し、今日ロバートの部 屋を 訪れた ラビニア嬢は、永く忘れていたこの叔母のこ
的ではあったものの、それを熱望したのだという事実を鮮明に思い起こしたのです。
とをありありと思い出 し、と同時に自分 がかつて叔母とともに 画家 を目指した いと一 時
彼女の心は、一人のホットドッグ店員によって大きく揺り動かされることとなりまし
た。
「ロバート、この絵絶対完成させるんでしょう」
嬢は自分の裸像を指差し、興奮気味にロバートに言いました。
「もちろんだとも」と彼は大きくうなづきます。それを聞いた嬢は今すぐ自分がモデル
になるから、絵の続きを描いてほしいと願うのでした。ロバートにとって彼女の申し出
ほどこれに勝る財産はありませんでした。
「ラビニアが本当にモデルになってくれるのかい」
ロバートの弾んだ声が彼の居間兼 アトリ エに響きます。今度は嬢は「うん 」とうなづ
きました。
ラビニ ア嬢はロバートの絵の前に立つと、その絵の中の 自分と同じポーズをとったの
でした。ロバートに向かって背を 見せる立ち姿です。
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小公女セーラ 2004
ロバートの目が爛々と輝き出します。彼がこれほどまでに制作意欲にかられるときが
かつてあったことでしょうか。
いいえ、彼自身今 日のこの瞬間までそんなことはありませんでした。正確に言うと、
彼ががむしゃらに、そう、彼を後々に絵描きの道へ進ませるきっかけとなる、血眼に な
って筆をふるった絵が一枚だけあったのですが、その絵を描いたことを最後に、ロバ ー
トが文字通り必死となることのできるモデルに出会うことはこれまでありませんでした。
でも彼の心は今その当時描いた一枚のときと同じように踊っていたのでした。キャン
バスに向かった彼の筆遣いはきらびやかなグランドピアノの鍵盤を華麗に操るピアニ ス
トを彷彿させました。嬢がやってくるまでの間、ロバートの手は少し描いては休み、 し
ばらく休んでからまた描くといったことの繰り返しだったのですが、ここへきて彼の 腕
は一気に白いキャンバスの上で踊りだしたのです。
「俺は今夢を見てるみたいだ。まさか、本物のラビニアをモデルに絵を描くことができ
るなんて」
ロバートは 興奮しながら早口で言いました。彼にとってはまったく予想だにできなか
ったハプニング。筆を持つ手が小刻みに震えていました。
「私もよ、ロバート。あなたをここまで 訪ねて来た ことが私には夢みたいだし、まし て
やあなたの絵画のモデルになってあなたの前に立っていることさえいまだに信じられな
いみた い。 でもこれは現実なのね。とてもす てきな現実なのね」
第五章 セーラとラビニア
119
ロバートに背を向けて静かに立つ ラビニ ア嬢もまた、その心は静かに興奮しているの
でした。
どのくらいの時間が過ぎたのでしょうか。ラビニア嬢が時間の経過を知ったのは、ロ
バートがそれまで猛烈な速度で動かしていた筆の動きをぴたりと止めてしまい、「う う
ん」と いううなり声に気づいたときでした。 ラビニ ア嬢はひね ることができる限界ま で
首だけを動かしてロバートの姿を 見つめました。そしてずいぶんと 思いつめた 表情の ロ
バートを知った嬢は後姿のポーズを中止し、彼に駆け寄ったのでした。
「どうしたの、ロバート。気分でも悪いの」
筆を持ったまま固まってしまっているロバートの顔を嬢が心配げに覗き込みながら言
いました。その際に彼女はキャンバスに目をやり……。彼女は再び自分の発した驚き の
声を逆に今 度は飲み込んでしまったのでした。
キャンバスの中のラビニア嬢は、 自分こそが未来の米国大統領夫人であるラビニア・
ハーバート だと宣 言しそうな、そんな躍動感に満ち溢れるレディと して描かれていた の
この部 屋に彼女が初め て入ったときに見た自分の像の美しさにも魅せられてしまいま
です。
したが、その後、 自分がモデルとして立ってから描き足された ことにより、ラビニア嬢
の裸婦像は、それまでとはまったく別の作品になってしまったかのように彼女自身に は
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小公女セーラ 2004
思えたのです。
「す、すご い…… 」
絶句しているラビニア嬢でしたが、その横でロバート自身は低く落胆した声を出すの
でした。
ないと、この絵に命が吹き込まれたとはとうてい言えるものではない」
「だめだ。どうしても この線がうまく表現できない。もっとも重要なこの線が描きき れ
彼が手にした筆で指差したのは、嬢の腰のくびれからお尻にかけての女性ならではの
美しい弾力あふれる部 分でした。
絵画に詳しくない人なら、この絵のどこに作者の不満があるのだろうかと誰もが思う
ことでしょう。けれども、 一時とはいえ 画家 を目指したことのあるラビニ ア嬢からし て
み れ ば 、ロ バ ー ト が 指 摘 し た そ の 部 分 は 、確 か に 背 中 や 手 足 な ど の 他 の 線 か ら 比 べ る と 、
線が細く頼りなさそうに見えるのでした。
「 こ の 絵 の も っ と も 大 切 な 線 だ 。ラ ビ ニ ア が せ っ か く モ デ ル に な っ て く れ た と い う の に 、
このもっとも大切 なラインをどうしても俺は 表現できないんだ」
胃がきりきりと痛んでいるかのような苦しい顔つきとなるロバート。ラビニア嬢はそ
んな彼の苦しげな顔を 見るには耐えられず、「こんなにすてきに描けているのだから、
このまま仕 上げにかか っても 誰も 反 論は しな いわよ 」と よほど彼に 主張しようかと思 い
ました。ロバートはきっと自分の 言うことなら聞いてくれる。
第五章 セーラとラビニア
121
がしかし、嬢はその言葉を口元まで出したと ころでグッと飲み込んだのでした。
(だめだ。 この人をここで妥協させては いけない。他の人がこれでいいと 思っても、 こ
の人だけは決してここで妥協させてはいけないんだ)
この次の瞬間、ラビニア嬢の頭の中になぜか。そうなぜか、嬢にとってミンチン学院
時代のもっとも忌 み嫌う存在 であった年下の生徒セーラ・クルーの笑った顔と声がよ み
がえったのでした。
なぜ自分があのセーラのことを……。
ラビニ ア嬢は頭がまったくもって混乱しているのだと思いました。けれども、そのニ
ューヨークのプリンセスの頭に浮かんだダイヤモンド・プリンセスは微笑みながら語っ
たのです。
「ラビニア。『つ・も・り』よ」
まるで自分の脳をセーラ嬢が占領してしまったかのようでした。セーラ嬢はよりによ
って、 ラビニア嬢が虫唾が走 るくらいに聞くことを嫌がっていた「つもりごっこ」を 口
にしたのです。
でも、今のラビニ ア嬢は違っていました。セーラ嬢 が自分の頭の中 でささやいた言葉
を、彼女は素直に自分の言葉としてロバートへ語ることができたのです。
「ロバート。『つもり』よ。『つもり』になればいいのよ」
「え? なんだい、それ」
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小公女セーラ 2004
「ロバート、あなたは 自分に描く ことはでき ない絵はないと思うのよ。あなたは一流 の
有名な 画家 になったつ もりに なれ ばいいのよ 」
「一流の画家になったつもりか……」
「ええ、そ うよ。 一流 の画家 になったつ もり になっ て、 もう一 度キ ャンバスに 向かう の
よ」
「そうか……。ラビニ ア、君の言うとおりかもしれない。よし、もう一度チャレンジす
るよ。よし描くぞ」
ラビニ ア嬢は正直言って、たった今自分 自身がロバートに語ったその言葉を信じるこ
とができませんでした。
自分の 言葉として 口に出すことが できたとは 言え、 どう してあ のセ ーラ・ クル ーの 言
葉を。 ラビニア嬢は何 度考え てもその理由がわかりませんでした。けれども、そのお か
げでロバートはやる気を出してくれたのです。この言葉の魔法に対して、 ラビニア嬢 は
ほんの少しだけでしたが、彼女の永遠のライバルであるセーラ嬢に敬意の念を持った の
でした。
ロバートが筆を再び構えたことを見たラビニ ア嬢は自分も彼に背を 見せるポーズを取
り直しました。でもほどなくして、彼女はロバートの手がまたしても止まってしまった
ことを 見たのです。彼の表情はこわばり 手が震えています。
「ロバート、どうしたの。どうしても描けないの」
第五章 セーラとラビニア
123
「す、すま ない、 ラビニア。 俺は どんなにがんばっ ても 一流の 画家 になれっこなさそ う
だ。君の腰のラインがどうしても 表現できない」
ロバートは苦悩のあまり額に汗をかいているようでした。彼のこの苦悩を知ったラビ
ニア嬢の頭の中に、再びセーラ嬢が語りかけ るのでした。
が 皆 振 り 返 っ て く れ る 、一 流 の モ デ ル よ 。一 流 の モ デ ル に な っ た つ も り に な れ ば い の よ 」
「ラビニア。あなたはプロのモデルよ。すれ違う男の人はもちろんのこと、女の人も 皆
「一流のモデル?」
「ええ、そうよ。 一流のモデルが一流の 画家に描いてもらうのよ。さあ、強く念じて。
私はプロのモデルなんだって……」
セーラ嬢に声をかけられたラビニ ア嬢は、セーラ嬢 が言ったとおりに自分 自身が一流
のプロモデルなのだということを言い聞かせました。
(セーラ。今はあ なたの力をお借りするわ)
ラビニ ア嬢 の手が着ていた衣服に触れました。彼女はスカートのホックを躊躇 なくは
ずしたのです。もちろんロバートの目の前で。
「ラビニア!」
「ラビニアさん!」
セーラ嬢とベッキーがほぼ同時に叫びました。軽くうなずいてみせるラビニア嬢。
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小公女セーラ 2004
「セーラ。私はあ なたに言わ れたとおり、自分はプロの 一流モデルなんだと自分に言 い
聞かせたわ。それを信じることができたとき、私はロバートへの確かな愛を感じ取っ た
の 。私 は 昨 日 出 会 っ た ば か り の 素 性 も 良 く 知 ら な い 男 の 前 で 一 糸 ま と わ ぬ 姿 に な っ た わ 。
でも愛する男性の前なら、私は何も怖くはないし恥ずかしくもなかったのよ」
いでございますぅ」
「す、すご いでございますぅ。ラビニアさん、とってもすごくて、ものすごくかっこ い
ベッキーはぽろぽろと 涙を流していました。 これまでの間、彼女にとって恐怖の存在
以外の何ものでもなかったは ずのラビニ ア嬢が、今や憧れの対象と化していました。 セ
ーラ嬢ももちろんベッキーの立場からす ると 憧れや尊敬の眼差しを 向ける相手である こ
とには間違 いありませんが、野原を駆け回ることの大好きな彼女か らしてみれば、こ の
躍動感あふれんばかりの行動をとるラビニア嬢の方に今は軍配をあげるのでした。
「今から考えると、随分と大胆だったなあと自分でも思うわ。でも人間、何にも怖く な
くなることがあるのね」
ラビニ ア嬢 はそう 言って、セーラ嬢を見ました。ラビニ ア嬢に見つめられたダイヤ モ
・
(どう、セーラ。あなたに私の真似ができて?)
ンド プリンセスは、彼女とほんの一瞬だけ視線を合わせただけでうつむくのでした。
ラビニ ア嬢はそう 語っていました。そして彼女はセーラ嬢の様子を 見て、さも勝ち誇
ったかのように話を続けるのでした。
第五章 セーラとラビニア
125
「ロバートは自信を取り戻したかのように筆を走らせ始めたわ」
「ラ、 ラビニア。 君は 一体何をす るんだ」
ロバートは今自分 の目の前で一人の少女がとった行動をまるで信じることができませ
んでした。つい昨 日顔見知りになったばかりの、裕福な家に生まれた育ちのいいお嬢 さ
んが自分の絵のモデルとなるため にその美し い身体 を惜しみなく使おうと している、 彼
女は決 してプロのモデルなんかじゃない、れっきとした素人だ。
ロバートは ラビニ ア嬢 のとった行動を今すぐやめさせなければならないと 思ったので
し た 。自 分 の 筆 が 進 ま ぬ の は ど ん な 理 由 を つ け よ う と も 、そ れ は 己 の 技 量 が 未 熟 の た め 。
そのためにラビニ ア嬢 が自分 の見ている前で裸体になる必要などあ るがずがない、い や
そんなことがあっては ならない。彼はそう思いました。
彼は嬢を制止しようとキャンバスを離れ、ラビニア嬢へ歩み寄ろうとしました。しか
し、彼の足はそこで止まってしまったのです。
「き、きれいだ……」
視してきました。 女性など男 性にとって性欲を満たすための道 具に過ぎません。彼は そ
彼の口から思わずそん な声が出たのでした。 正直言って、これまでロバートは女性を 軽
う思ってきたのです。むしろ軽蔑していたと 言ってもいいかもしれません。
その想いは、自分がまだ幼かったころ母親が自分を捨てて家を出て行ってしまったこ
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小公女セーラ 2004
ろから始まったのかもしれないのです。どのようなことがあろうとも、決 して自分を 裏
切らない、 自分のことを最後の最後まで愛し守ってくれるものだと信じていた母親に 捨
てられてしまったのだとはっきり自覚したそのとき以来、彼は女性というものを軽蔑す
るようになっていったのです。
そんな彼だから、ロバートは女性を自分 の慰 みもののようにしか受け取りませんでし
た。そう、つい先 日ラビニア嬢と出会うまでの自分 ならそう思った ことでしょう。
「ラビニア。お、 俺は今天使を見ている気がする……」
少しも無駄なところなどない、均整とれたラビニア嬢の裸体は、ロバートの持って生
まれた 画家としての素 質を見事に 開花さ せてくれま した。彼は嬢へ 近づこうと したそ の
れまでに一度も経験したこと ない軽やかさでした。
足をキャンバスの前へ戻し、 再び筆をす べるように走らせたのです。それは彼 自身が こ
「描ける、描けるよラビニア。俺は描けるよ」
ロバートの両目からは いつしか涙が流れていました。彼は何度もそんな目を筆を持っ
た右手で拭うのでした。彼にとって、女 性の裸体がこれほどまでに美しく神聖なもの に
思えたことはなかったのです。
「ラビニア、ありがとう。もういいよ」
ロバートはそう言って筆を戻しました。それを聞いてラビニア嬢は先ほどからとって
いたポーズをやめ、深呼吸を 一度したのでした。そして彼女は何も着ない姿のまま、 ロ
第五章 セーラとラビニア
127
バートのそばまで走り寄りました。
「ロバート、絵が完成 したのね」
そう言って、彼女はロバートが描き上げたばかりのキャンバスに目をやり、そこで再
び息を 思わ ず飲み込んでしま いました。
まるで鏡を 覗き込んだかのような衝撃でした。そこにはキャンバスからたった今飛び
出してきて、本物の自分にすり替わりそうなラビニ ア嬢 が描か れていたのです。
すべるような身体 のラインが、絵 画のことを 永らく忘れていた彼女の芸術心を完全に
呼び起こした瞬間が訪れたのでした。
「これ、本当に私なの……」
「もちろんそうだとも。ラビニア、俺は今日ほど女性が美しく感じたことはないよ」
「私、 こんなにきれいじゃない」
「きれいだとも、 ラビニア。今の君なら誰にも負けはしないさ。世 界一の美女と謳わ れ
たクレオパトラでさえ、君の美しさに嫉妬することだろう」
「まあ、ロバートったら……」
クレオパト ラを引き合 いに出した ことはさすがにラビニ ア嬢も彼のお世辞だろうとは
思いま した。とは 言うものの、自分のことを美人と 評さ れることに悪い気は決 してし な
いものです。ラビニア嬢はミンチン学院にいたころの自分を思い出すのでした。学院 一
の美女は誰でもない、 この私だ。ましてやセーラであろうはずがない。そう信じていた
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小公女セーラ 2004
ころの自分を思い出したのです。
「クシュン」
くしゃみが出てしまいました。ロバートはあわてて奥の浴室へ走り、あまり洗濯され
ていないかのような薄 汚れたバスタオルを持って来ました。彼はそれで全裸で立って い
彼女は このとき初めて自分が今このときまで 殿方の目の前で裸 ん坊 のまま突っ立っ て
るラビニア嬢を包もうと考えたのです。
いたことをとても恥ずかしく思うのでした。全身の血液が頬に集中したかのように顔全
体が熱くなりました。
「私、何て格好を ずっとしていたんでしょう」
ラビニ ア嬢はロバートが差し出したバスタオルで身体をくるむと、 自分が脱ぐ捨てた
下着を取りに行こうと彼に背を向けました。そこをすかさず、ロバートが嬢のふくよ か
な身体 を抱きしめ たの です。
「あっ……」
「本当にありがとう、 ラビニ ア。 愛しているよ」
そしてロバートは バスタオルの中 にいるラビニア嬢 へ彼の気持ちを ストレートに伝え
る口付けをしたのでした。
(私もよ。大好き、ロバート)
タオルをおさえていた両手をロバートの背中 に回したため、バスタオルは 床に落ちま
第五章 セーラとラビニア
129
した。 再び嬢の透き通った身体があらわになったのですが、しかしこのときの嬢には 恥
ずかしいという感情はもちろんのことまったくなかったのです。
二人は強く強く抱きしめ合いました。時間はこのとき、その若いカップルのためだけ
にあったのです。
ラビニ ア嬢は完全に勝ち誇った表情でセーラ嬢を見ていました。ベ ッキーはラビニ ア
嬢の恋の物 語の中 へ身を委ね てしまっています。今 の彼女にとって、自分 の憧れの人 は
セーラ嬢ではなく、身も心も焦がすことのできる恋をしたラビニア嬢なのです。
「ラビニア、すご いわ。そのお話、この学院で勉強していたころのあなたと同 一人物 の
セーラ嬢はそう言ってラビニ ア嬢を称え るのでした。セーラ嬢 にはその三歳年上の先
体験談とは思えなくってよ」
輩に打ち負けたと いう感情は 湧いては来なかったのですが、先輩と同じ体 験、 行動は決
してできないだろうということに関しては、明らかに負けを認めなければならないと考
えたのです。
ラビニ ア嬢 が言いました。
「でも、本当に……」
「私がかつ てさんざん馬鹿にしてきた『つもりごっこ』は本当に私を勇気 付けてくれた
わ 。ね え セ ー ラ ァ 、あ な た の 言 う こ と に も こ れ か ら は 時 々 耳 を 傾 け て あ げ て よ く っ て よ 」
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小公女セーラ 2004
相も変らぬラビニ ア嬢 の態度ではありま したが、今のセーラ嬢 にとりましてはその態
度 は 、彼 女 が ラ ビ ニ ア 嬢 と 心 を ひ と つ に す る こ と が で き た と 思 わ せ て く れ る も の で し た 。
セーラ嬢は いつしかニューヨ ークのプリ ンセスの両手を握り締めていたのでした。 手
を握られたプリンセスもまたライバルであるダイヤモンド・プリンセスの両手を握り 返
しました。 強く、 強く。いつまでも。
第五章 セーラとラビニア
131
十二
セーラ嬢と ミンチン学院にとって、いつもの毎日が帰ってきま した。代表生徒ロ・メ
イリンの誕生パーティーで大 騒ぎしたその日は、はるか遠い昔のような錯覚さえ起こし
キン・コン・カン・コン……。
てしま います。
その日の授業の終わりを告げるチャイムが校舎に響きます。執務室ではセーラ嬢がう
~んとのびをして、席から立ち上がりました。
少し離れた席では、IT講師であ るピーターが嬢につられたのか、同じようにのびを
したのでした。彼はこれからの授 業スケ ジュ ールを パソコンで作成 していましたが、 そ
れを閉じ、ノートパソコンを停止させました。そのときに目と目が合い、にっこり微 笑
む二人。
「ねえ、ピーター。パソコン研修は当初の予定よりずっとうまく進んでいるようね」
夢であった学校の先生 になることができたセーラ嬢 にとって、学校の授業につ いて話
でした。
をするこのときは、彼女が自分の書斎で静かに読書する時間に次ぐくらいに貴重なも の
「はい、お嬢さま。みんなパソコン実習の時間が楽しいらしくって、俺が教室に到着す
るときには全員熱心にパソコンの電源を入れて自習しているんですよね。ロッティなん
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小公女セーラ 2004
て、ドローソフトで上 手に絵を描いているんですよ」
パソコン実習以外の授 業のときは 誰も彼もが気難しい顔で教師の到着を待っていたり 、
または教師が部屋のスライド式の扉を開けるまで大声で騒ぎ立 てていたりするものです
が、パソコンの時間だけは、生徒全員の目が妙に生き生きとして輝いているのです。
なものだから、当然授業もさくさく進むってもんですよ」
「みんな、パソコンの授業が楽しくって仕方 ないって感じなんですよ。みんなが積極 的
ピーターは 得意げに話を嬢へ聞かせています。彼にとっても、 話し相手がセーラ嬢 な
らば他の人へ語るとき 以上に力が入るのでした。そんなピーターに、セーラ嬢は微笑 み
ながら応えます。
ないわ」
そ れって 一体 ?」
「ねえ、ピーター。みんなが積極的な理由はパソコンの授業が楽しいってことだけでは
「え?
「それはピーター、あなたの人望よ。生 徒はみんな、あなたの行う授業が好きなのよ。
ううん、あなた自身のことを好きなのよ」
嬢からそんな予想もしていなかったことを言われて、途 端にピーターは真っ赤です。
「え……。そ、そんな」
身体を よじって顔を下げ、自分の ことを じっと見つ めて いるセーラ嬢から視線を離す ピ
ーター。彼は今、嬢の顔をまぶしくて直視できないでいるのです。
第五章 セーラとラビニア
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「今学院はとっても充実しているわ。授 業だけじゃなく、運動 会や文化祭や院外学習 だ
って。私が転入してきたころからは比べ物にならないくらい」
「そ、それは……。お嬢さまが一生懸命この学院を盛り立ててくださったから」
ピーターは顔を下げたままで 言いました。セーラ嬢はまっすぐ彼のことを 見つめなが
ら話していますのに。
「ラビニアが訪ねてくれたとき、別れ際に彼女言っていたわ。 『この学院、変ったね 。
今の学院になら、私の居場所はありそうな気がする』って」
「そ、そう 言えばラビニアさんは 帰国してか らは元気にしてお られるでしょうかね、 お
嬢さま」
「ラビニアなら大 丈夫よ。合衆国大統領を目指して、今 頃猛勉強中 でしょうね」
セーラ嬢は ラビニ ア嬢を自分 の住居へ招 いたその日、夕食の後に彼女を書斎へと連れ
て行ったのでした。セーラ嬢とともにラビニ ア嬢の 恋の物語に酔いしれていたベッキ ー
は、食 器の片付けのためキッチンへ戻ってゆきました。
嬢の書斎はとにかく本棚で占領されています。セーラ嬢 の勉強机が置かれた窓側以外
の三方 の壁は、ラビニ ア嬢が伸びをしても届かないくらい背の高い本棚で占められてお
り、そのどれもが隙間のないほど書籍で埋められていました。部屋の隅に立てかけら れ
ている小さ な脚立を見て、ラビニ ア嬢はフッと笑ってしまいま した。
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「相変わらず本の虫なのね、あなたは」
自分だって米国の自宅 へ戻れば数え切れないくらいの書物は持っているラビニ ア嬢 で
す。でも自分の机の周りを本で囲ってしまうというようなことまでは好きではない彼 女
でした。
ない動 物や草花の ことを、ま るで目の前にあ るかのように映し出してくれるのだから」
「本っ て、とっても不思議よね。今までに一度も行った ことのない国や見たことなん か
本について語るときのセーラ嬢ほど輝いて見えることはないでしょう。それを認めつ
つ、ラビニ ア嬢はまたフッと 笑うのでした。
「セーラ、あなたさあ、空想が好きなことはよくわかったわ。あなたの『何々になっ た
う私は否定しようとは思わない」
つもり』のおかげで、ロバートも私も助けられた。だからあなたの空想好きなことは も
ラビニ ア嬢はそう 言うと、机の上 のパソコンに近づいたのでした。
「ねえ、セーラァ。パソコン触らせて」
「 え え 、ど う ぞ 。で も あ な た の 好 き そ う な ア プ リ ケ ー シ ョ ン ソ フ ト な ん て 、あ る か し ら 」
ラビニ ア嬢はまたフッと笑うと、 セーラ嬢の机に乗っているパソコンのスイッチを押
したのでした。すぐさまディスプレイに灯りがともり、 セーラ嬢が いつも仕事と趣味 で
愛用しているパソコンがカチャカチャと音をたて始めました。
「まあ!」
第五章 セーラとラビニア
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ラビニア嬢が驚きの声をあげたのとほぼ同時にセーラ嬢も「あっ!」と、彼女らしか
らぬ叫び声を挙げたのでした。け れども彼女が自分 の机に走り寄ったとき、ラビニア嬢
はお腹を抱えて笑い出してしまっていたのです。
「ラビニア、見ないで、恥ずかしいから」
セーラ嬢は真っ赤な頬をしてディスプレイを両手で覆い隠そうとしたのですが、ラビ
ニア嬢は笑いながら通せんぼをしました。
「だめだめ。セーラァ、何も隠さなくたっていいじゃない」
「だって、壁紙をそのままにしていたこと忘れていたんだもの」
「あははは、いいじゃない、 幸せそうでさ」
セーラ嬢のディスプレイには、一ヶ月ほど前に行われた 一泊二日の院外学習で、生 徒
たちを六甲山へ連れて行ったときに撮影した写真が壁紙として貼り付けられていたの で
す。デジタルカメラで撮影されたその写真を撮影者のラムダスに初めて見せられたとき
からセーラ嬢はそれをたいへん気に入っていました。だからこそ彼女は自分のパソコ ン
の壁紙にその写真を採用したのです。
るんだね。幸せそうで、なによりよ」
「ふうん、セーラァ、あんたのそばには いつもあんたのことを想ってくれる人たちが い
そう言って、ラビニア嬢はさらにケラケ ラと声を立 てて笑うのでした。
セーラ嬢のパソコ ンには、朝の澄んだ空 気の六甲山牧場をバックに、嬢とピーターが
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ほおを寄り添っている姿が映 し出されていま した。 最初はごく普通に肩を並べて立っ て
カメラに収まろうとしていた二人でしたが、ラムダスが「構図が決まらないなあ」など
と言いながら二人のポーズに様々な注文をつけていった結果、 何とセーラ嬢とピータ ー
がほおとほおをくっつけあうという何とも微笑ましい光景ができあがったというわけで
もうこれ以上はないだろうと 思え るような笑顔で白い歯を見せ るセーラ嬢と、それに
す。
反して照れくさいやら恥ずかしいやらで半分顔がひきつっているピーターの対照的な 姿
を、その写真はものの見事に写していました。
もちろんそんな構図をちゃっかり演出したのは、撮影者のラムダスでした。彼は最初
「この写真のあんたは愛する人と二人で幸せぇ~って、 感じだね」
からそんな被写体 を狙っていたのです。
ラビニ ア嬢はまだクスクスと 笑っていました。話を聴いているセーラ嬢はますますも
って赤くなります。けれども、嬢のそんな真っ赤な顔色は、ラビニ ア嬢の言った次の 言
葉で瞬間に青く変ったのでした。
ど愛したロバートはもう私のそばにいないし……」
「私のように、自分の人生の路す ら自分 で決 めることができないなんてね。私が死ぬ ほ
「え、どういうことなの、それは」
セーラ嬢は叫びました。
第五章 セーラとラビニア
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「え、どういうことなんですか、お嬢さま」
ピーターも叫びました。
「うん、それはね……」
セーラ嬢はそれだけ言うと、 自分 の顔と両手を彼の胸に寄せたのでした。
「お、お嬢さま」
「ううん、しばらくこのままでいてちょうだい、お願いだから」
「お嬢さま……。 ラビニアさんに何があったんですか」
ピーターは聞きましたが、セーラ嬢はそれ以上何も答えようとはしませんでした。た
ることだけを見つけると、それだけで嬢 が何を言おうとしているのか、何がラビニア嬢
だピーターは、嬢の大きな瞳に涙がいっぱいたまって、今にも 零れ落ちそうになって い
の 身 の 上 に 起 こ っ た の か が ぼ ん や り と し て で は あ り ま す が 、わ か っ た 気 が す る の で し た 。
ピーターは嬢の背中に両手を 廻しました。
「お嬢さま……」
「セーラァ!」
「セーラ・ママ!」
そんなとき、予告なく執務室の扉を乱暴に開けて飛び込んできたのは、アーメンガー
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ドとロッティでした。あわてて離れるセーラ嬢とピーター。
「あ、ど、どうしたの、アーメンガードにロッティ」
目にたまった涙を 手で拭いて、いつもの 笑顔を見せ る嬢 でした。
「あれ、泣いていたのセーラ・ママ?」
首をかしげてみせるロッティ。ちょっぴり心配そうなアーメンガード。
「ううん、なんでもないのよ」
「よかった。じゃ、早く来てセーラ」
「えっと、なんだったっけ、アーメンガード」
「やだなあ、セーラ・ママ。今日の放課後、私たちに新しいダンスを教えてくれるっ て
約束してたじゃない。もうみんな待ってるわ 」
「あ、そうだったわね。ごめんなさい。 では 行きましょう。ピ ーター、また食 事のと き
にね」
「はい、お嬢さま」
三人の笑い声を廊 下に聞きながら、ピーターは改めて自分が今 セーラ嬢と同じ 時間を
でもその喜びが大きくなるにつれて、ピーターは十年くらい後、もしかするとセーラ
共に歩いていることの喜びを感じるのでした。
嬢が自分の手の届かないところへ旅立ってしまうのではないかという、今は漠然とし て
いる不安もまた大きくなってゆくことを感じずにはおれませんでした。
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