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町をつくる能力!?∼異世界につくろう日本都市

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町をつくる能力!?∼異世界につくろう日本都市
町をつくる能力!?∼異世界につくろう日本都市∼
ルンパルンパ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
町をつくる能力!?∼異世界につくろう日本都市∼
︻Nコード︼
N8031DD
︻作者名︼
ルンパルンパ
︻あらすじ︼
ある日の朝に起きた電車の脱線事故。
それは切っ掛けだった。
電車に乗っていた者達は白い空間へと誘われる。
そこに待ち受けていたのは、神を名乗る老人。
老人は言った。
︱︱お前達を別の世界へ移動させる、と。
︱︱生きていくための、力をやろう、と。
1
すると空中に現れる裏を向いた数百枚のカード。
ある男子学生がカードを引くと、そこには︻槍の才︼︻大︼︻★★
★︼と書かれていた。
また、ある女子学生がカードを引くと、そこには︻水の魔法の才︼
︻小︼︻★★︼と書かれていた。
そしてある男が引いたカードは⋮⋮。
これはしがない派遣社員である藤原信秀が、︻町をつくる能力︼︻
★★★★★★★★★★︼を得て異世界に町をつくるお話。
最初は江戸の町だけど、いずれは現代の町を目指して、がんばりま
す。
※宝島社様より書籍化します。第一巻は2016.9.10に発売
です。
※感想はありがたく読ませていただきますが、返信は多分できませ
ん。すみませんm︵︳︳︶m
※4/8 タイトルを変更
﹃町をつくる能力!?∼異世界につくろう藤原幕府∼﹄↓﹃町をつ
くる能力!?∼異世界につくろう日本都市∼﹄
2
1.プロローグ 1
電車の中、今日も朝からスーツ姿でつり革に掴まり、仕事場へと
向かう。
俺の名前は藤原信秀、もうすぐ二十歳を迎える先の見えない派遣
社員だ。
﹁だからさー!﹂
﹁嘘っ!? マジで!?﹂
座席に座る学生達からは元気な声が聞こえる。
その元気を少し分けてくれと思う今日この頃。
そして俺は静かに目を閉じる。
それは、駅に着くまでのわずかな時間でも、昨日夜更かしした分
の睡眠を取り返そうとする涙ぐましい努力。
ガタンゴトンと小気味よい電車の揺れが睡魔を誘う。
やがて、揺れが無くなり︱︱右手からつり革の感触すら無くなっ
た。
はて、なんだろうか?
右手の違和感に、俺は目を開ける。
そして思わず、﹁は?﹂という間の抜けた声を漏らした。
だって仕方ない。
さっきまで電車に乗っていたはずが、気がつけばそこは真っ白い
空間だったのだから。
3
﹁ど、どこだよここ!?﹂
﹁電車は! 座席は?﹂
﹁嘘、ゆ、夢なの?﹂
俺以外にも人がおり、彼らは一様に驚いている。
目算で百人ほどだろうか。
その中の何人かには見覚えがある。
同じ車両に乗っていた人達だ。
特に騒いでいるのは学生達で、俺含めて数人しかいない大人達は
狼狽えてはいるものの、騒いではいない。
年の功⋮⋮いや、学生達という大集団の中で騒ぐのは戸惑われた、
といったところだろう。
他所のコミュニティで自分を出せる者など、そうはいない。
なにはともあれ、俺だけがこの異常空間にワープしたわけではな
いことに一安心である。
﹁ホッホッホッ﹂
しわがれた老人の笑い声がした。
なんだ? と思い、そちらを見る。
当然、俺以外の者も、この非常時に笑っている頭のおかしい者へ
と視線を向けた。
するとそこにいたのは、白の布切れを纏った、杖をつく白髪頭の
老人。
顔の彫りは深く、青い瞳をしており、とても日本人には見えない。
﹁皆、慌てておるのう﹂
4
そしてまた、ホッホッホッと老人は笑った。
﹁何がおかしい!﹂
学生の一人が怒りをにじませて叫ぶ。
スポーツ刈りの逞しい体をした男子生徒であったが、なんて馬鹿
な学生だ、と俺は思った。
なぜならば、その老人は俺達の中にあって明かな異常者︱︱仲間
外れ。
それすなわち、現在の状況があの老人となんらかの関わりがある
と考えるべきなのだ。
さらに詳しくいえば、こんなわけのわからない場所に百人近い者
達を、一瞬で移動させるなんて人間業ではない。
そんなことができるとすれば、それは⋮⋮。
﹁これはすまんのう、ほっほっ﹂
謝りながらも反省した色はなく、また笑う老人。
これにまた先程の学生が文句を言おうとしたが、すぐ隣の同じ制
服を着た同級生と思われる男子に止められた。
やはりそれなりの者は、老人がなにか特別な存在であることに気
がついているのだろう。
そして老人が再び口を開く。
﹁ワシがお主らをここに移動させた﹂
その発言はダメだ。
まだ老人を特別な存在だと認識していない者には、火に油を注ぐ
行為でしかない。
5
﹁な⋮⋮っ! ふ、ふざけんなよ! だったら今すぐ元の場所に戻
せ!﹂
﹁そうだ! 元いた場所にかえせ!﹂
ところどころで上がる、元の場所にかえせという声。
今の状況を正しく理解していない者はこんなにいたのか、と嘆息
してしまいそうになる。
さて、俺はどうするべきだろうか。
ここであの老人の怒りを買うことは絶対に避けるべきだ。
あの老人が俺達の命運を握っているといっていいのだから。
ではどうするか。
⋮⋮決まっている、非礼があったならやることは一つしかないじ
ゃないか。
﹁す、すいませんでしたーーっ!!﹂
俺は手をつき膝をつき、地面に頭を擦り付けた。
そう、土下座である。
﹁どうか、数々のご無礼、何卒ご容赦ください!!﹂
この場にいる誰よりも大きな声で、俺は老人に謝った。
それにより、辺りが静かになる。
頭を地面につけているからわからないが、皆、俺の方を見ている
のだろう。
そう考えると嫌になる。
﹁どうか、どうか、お許しを! お情けを!﹂
6
まあ、なんであろうと今は老人の機嫌を損なわないように謝るだ
けなのだが。
すると﹁ぷっ﹂という噴き出した声が聞こえた。
そこからは酷いものだ。
小さな笑いが水面に起きた波紋のように伝搬し、そこら中で笑い
声が上がった。
﹁ちょっ、土下座とか。リアルでやる奴、初めて見た﹂
﹁マジかよ、だせえ﹂
﹁超ウケるんですけど﹂
さらに俺を卑下する声もちらほらと聞こえる。
これが若さというやつか。
だが、それでも俺は頭を下げ続けた。
こうなれば大人の意地だ。
そして、学生達も笑うのが馬鹿らしくなったのか、笑う声はすぐ
に止み、さらに俺へ向かって声がかけられる。
その声は老人のもの。
﹁頭を上げるがよい﹂
﹁は、ははーっ!﹂
俺は言われるがまま頭をあげた。
﹁ホッホッ。なに、気にしておらんからお主も気にするな。さっ、
立つがよかろう﹂
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﹁は、はい、失礼します!﹂
老人のありがたいお言葉。
どうやら懐の深いお方であるらしい。
﹁ぷぷっ、意味なかったね。ドンマイ﹂
茶髪の糞ガキのムカつく言葉を聞きながら俺は立ち上がる。
﹁では、皆も落ち着いたようじゃし、話の続きといこうかのう﹂
先程の騒ぎが嘘のようにシンとなっていた。
皆も老人の話を聞かなければ、何も始まらないということに気が
ついたのだろう。
﹁さて、まずは自己紹介をしよう。ワシは神様じゃよ﹂
その紹介に皆は唖然となる。
俺も予想こそしていたが、実際に本人の口から言われると、やは
り唖然としてしまった。
﹁か、神様がなんで俺達を⋮⋮!﹂
神であると聞いてもなお言及したスポーツ刈りの生徒。
プライドか、それとも神様に対してでかい態度とることがかっこ
いいと思っているのか。
﹁ふむ、なんで、か。それはのう、お前達に他の世界で暮らしても
らうためじゃ﹂
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皆の口から等しく漏れた、﹁は?﹂という呆けは、神の言葉に対
する不理解から来るもの。
そして段々と、その意味を理解する。
日本ではない世界で暮らす、その意味を。
﹁そんな勝手な!﹂
﹁横暴だ!﹂
そんな端々で上がる不満を、ホッホッホッと笑いながら受け流す
神様。
やがて神様に何を言っても暖簾に腕押しと見て、文句を言う声は
勢いを弱めていく。
すると、女子学生が﹁あの!﹂と一際大きい声で神様に呼び掛け
た。
これにより、皆が一斉に静まる。
﹁い、いつまでですか⋮⋮?﹂
﹁なに、死ぬまでずっとじゃよ﹂
女子学生の質問に返ってきたのは、皆の神経を逆撫でするような
答え。
﹁ふざけるな!﹂
その声は一つではなく、多くの者が憤った。
しかし、それでも暴力という手段に訴えないのは、神という肩書
きを恐れているから。
語気を強めて文句をいうのは、自尊心を保つためと、先程の件が
許されたため。
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ここまでならいいだろうという、ラインを張っているのだろうと
俺は予想した。
そして神様はまた、ホッホッと笑ってから言った。
﹁ふざけてなどおらぬ。なにせ、ここにいた者は電車の脱線事故で
全員死ぬ予定だったのじゃから﹂
神様が投下したのは特大の爆弾であった。
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2.プロローグ 2
﹁電車が脱線して、死ぬ、予定⋮⋮?﹂
﹁う、嘘だろ!?﹂
皆の口から動揺の声が上がる。
神様の言葉が信じられない。
いや、信じたくないのだろう。
俺も同じだ。
死、なんていう話はもっと遠い先のことだと思っていた。
﹁本当じゃよ。
別に元の世界に戻してもいいが⋮⋮死ぬだけじゃぞ?﹂
神様が相も変わらず和やかな顔で告げた。
こう言われては、もう文句も言えないだろう。
あとはただ愕然となるだけだ。
﹁すみません、よろしいですか﹂
サラリーマン風の男が手を挙げて、神様に質問の許可を尋ねる。
﹁許可する、言ってみなさい﹂
﹁私は同僚と電車に乗ってました。彼女がここにいないということ
は、生きている、ということでよろしいんでしょうか?﹂
﹁うむ、その認識で間違ってないぞよ﹂
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﹁そうですか、ありがとうございます﹂
明らかにホッとしたような喜色を浮かべて、慇懃に頭を下げるサ
ラリーマン。
自分よりも同僚のこと、女性のようだから、もしかしたら交際し
ている相手の心配か。
おそらく彼は、よくできた人、というやつなのだろう。
﹁では話を戻そう。先ほども言ったように、お主らには別の世界に
行ってもらう。拒否してもいいが、その時は元の世界で死ぬだけじ
ゃ﹂
神様の言葉に否と答える者はいなかった。
そして話は続く。
﹁場所はお前達の世界でいうところの中世ヨーロッパ。ただし人間
以外にも言語を解する多様な種がいる上、魔法なんてものまである
がのう﹂
﹁そ、そんな世界、危険なんじゃ⋮⋮!﹂
﹁うむ確かに危険じゃ。だがワシも鬼ではない︱︱﹂
神様が杖を掲げた。
すると縦横綺麗に並んだ何百枚もあろうかというカードが、宙に
浮かんだ状態で神様の隣に現れる。
ざわりと、群衆が波打った。
初めて目にした奇跡に皆が驚いたのだ。
カードに着目してみれば、それらは全て裏を向いている。
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﹁お前達に力を授けよう。
このカードにはお前達に与えるものが書かれておる。
それは能力であったり、武器であったり、地位であったり。
今からお前達はカードを引き、それがお前達の力となるのじゃ。
まあ、実際にやってみた方がわかりやすいじゃろ。
︱︱ほれ﹂
気づけば一人の学生がカードの前に立っていた。
﹁え、え?﹂
狼狽える男子学生。
まさに瞬間移動。
新たな奇跡を目の当たりにして、俺を含め皆が息を呑んだ。
﹁その中から一枚選ぶがよい。それがお主に与える能力じゃ﹂
﹁え、なんで!? なんで、俺!?﹂
思わぬ大役に男子生徒は尻込みする。
当然だ。
どんな危険があるかもしれないのに、一番手。
正直同情する。
絶対に代わりたくはないけど。
﹁選ばぬなら、能力を与えずに別の世界に飛ばすが、それでもいい
のか?﹂
﹁え、ま、待って! ⋮⋮じゃ、じゃあ⋮⋮こ、これを﹂
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男子学生が神の脅しにも似た発言に急かされて、カードを一枚と
り表を向ける。
果たしてなんと書いてあるのか。
﹁槍の才能、大⋮⋮?﹂
男子学生がポツリと呟いた言葉。
あまりに小さな声で聞き取れなかった。
すると神様が言う。
﹁槍の才能、大。そのまんまじゃ。お主には優れた槍の才能が与え
られた、そして︱︱﹂
パアッと光が瞬いて、次の瞬間には学生はいなくなっていた。
﹁今の者は既に別世界に送り込んだ。
なに、心配はいらん。
いきなり死の危険があるようなところには飛ばしてはおらんから
の。
しっかりと生活の地盤が作れる場所に送るくらいのサービスはし
てやるし、低級のカードを引いた者には別の者と組ませてやるくら
いの配慮をしてやろう。
ああ、そういえばこんなことをした理由を話しておらなんだな。
なんのことはない、ただの実験じゃよ。そして向こうの世界にい
けば、ワシが干渉することはない。
さあ、もう問答は無用。どんどんいくぞよ﹂
すると、またカードの前に新たな人が現れる。
彼も僅かに狼狽える様子を見せたが、先ほどの一件を見ているせ
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いか、神様になにかを言われる前にカードを選んだ。
そしてまた、光と共にこの場を去った。
そこからは入れ替わり立ち替わり、粛々と作業のように事は行わ
れた。
避けられない事態であることを皆理解しているせいか、時折、﹁
やり直しを!﹂と叫ぶ人がいる以外は、なにか問題が起こることは
なかった。
⋮⋮やり直しを要求した人はどんな酷いカードだったのか、それ
だけは気がかりである。
やがて、百人はいたであろう人々は、二十人ほどにまでに減って
いた。
俺はまだ呼ばれていない。
このあたりから、チラチラと視線を感じるようになった。
そしてさらに十人にまで減るが、俺はまだ残っている。
これで現状を理解できないほど馬鹿じゃない。
元は百人ほど、その中の十分の一の確率に俺が残っているのは偶
然かどうか。
答えは否⋮⋮だと思う。
もう一人、礼節をもって神様と相対したサラリーマンも残ってい
るのだ。
明らかに作為的なものであろう。
すると、どうしたことか。
﹁神様! 今まで失礼しました!﹂
学生の一人が土下座をした。
この中で一番、俺とサラリーマンを気にしていた男子学生だ。
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俺とサラリーマンがなぜ残されたのか。
それを考えたならば、確かにその行動は正しかった。
だが、次にカードの前に選ばれたのはその学生。
﹁早く選ぶがよい﹂
是非もなく、神様は淡々と告げるだけであった。
男子学生はこちらを苦々しげに見たあと、カードを選んで消えて
いく。
なんだろう、逆恨みもいいところなんだが。
その後、また一人また一人と消え、残りはサラリーマンと俺の二
人。
俺の番は次かその次か。
そう思うと背中に嫌な汗が流れ、俺はゴクリと喉を鳴らした。
ちなみに、ここまで俺とサラリーマンは顔すら合わせていない。
神様の御前であるため、私語は厳禁。
顔を合わせて話しかけられても困るし、おそらく相手も同じこと
を思ったのだろう。
互いに空気を読んだともいえた。
そして次にカードの前に呼ばれたのは、サラリーマン。
﹁ふむ、よし、これでどうじゃ﹂
独り言のように呟いた神様。
するとカードの枚数が一気に減った。
﹁カードには星が一つのものから、十のものまである。星が少ない
ほど程度が低く、星が多いほど得る能力は絶大じゃ。
お主には、星三つ以下のものを全て排除しておいた﹂
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やはり予想していた通り、俺達が残されたのには意味があったの
だ。
﹁⋮⋮膝をついて崇めるべきでしょうか﹂
﹁いらんよ。種がわかる前にやったことだから意味があるんじゃし
な。そんなことよりも、早く選ぶがよい﹂
サラリーマンはそれ以上なにか言うことはなく、カードを選んで
消えていった。
そして気がつけば、俺は瞬間移動を果たし、目の前には宙空に浮
かぶカードがあった。
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3.プロローグ 3
﹁さて、お主にはこうじゃ﹂
神様の声と共に、俺の目の前のカードが全てめくれ上がった。
おおぅ⋮⋮。
なんというサービスだろうか。
まさに選びたい放題。
裏向きのカードから一枚を選んだ人達には、なんだか申し訳ない。
﹁先ほどの者にも言った通り、星が多いほどよい能力じゃ。
さあ、どれでも好きなのを選ぶがよい。
無論、時間は気にせんでいいぞ? 他の者と違って選ぶのには時
間がかかるからのう﹂
﹁は、はい!﹂
俺は神様を前に気合いを入れすぎたせいか、少し上ずった声で返
事をした。
それにしても、このカードの数々。
俺はまず一番左上を見た。
︻剣の才︼︻小︼︻★︼
︻剣の才︼︻中︼︻★★︼
︻剣の才︼︻大︼︻★★★︼
︻剣の才︼︻特大︼︻★★★★︼
距離はあったが、書いてある詳細は不思議なことにその場からは
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っきりと見えた。
左上には︻剣の才︼が並び、右に向かって︻槍の才︼や︻弓の才︼
など、おおよそ武器使用に関するカードが並んでいる。
お、こんなのもあるのか。
︻武器全般の才︼︻小︼︻★★︼︻武器全般の才︼︻中︼︻★★★︼
︻武器全般の才︼︻大︼︻★★★★︼
︻武器全般の才︼︻特大︼︻★★★★★︼
しかし︻小︼で星は二つ、︻特大︼でも星は五つ。
最高は星が十だといっていたから、その半分では少々頼りない。
俺は次のカードへと視線を動かす。
体力、馬術、調教など様々なカードか並び、そして、むっと目を
留めた。
︻火の魔法の才︼︻小︼︻★★︼︻火の魔法の才︼︻中︼︻★★★︼
︻火の魔法の才︼︻大︼︻★★★★︼
︻火の魔法の才︼︻特大︼︻★★★★★★︼
魔法⋮⋮。
胸が躍る言葉である。
武器系の才よりも、星が一つ上なところを見る限り、魔法>武器、
なのだろうか。
そこからまた目を流す。
火、水、木、金、土、という魔法の種類。
どこの一週間だと突っ込みたくなった。
その他、風、光、闇、雷や召喚などなど。
さらに魔力の大きさについてのカード、そして︱︱。
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︻魔法全般の才︼︻小︼︻★★★★︼
︻魔法全般の才︼︻中︼︻★★★★★︼
︻魔法全般の才︼︻大︼︻★★★★★★︼
︻魔法全般の才︼︻特大︼︻★★★★★★★︼
おお、これは凄い。
小でも星四つ、特大なら星七つ。
今までで一番多いぞ。
魔法という超常的な力に対する憧れもあるし、これはキープだな。
俺はさらに目を隣に移す。
﹁⋮⋮ぶふっ!﹂
神様の前でありながらも思わず噴き出してしまった。
そこにあったのは︱︱。
︻普通の剣︼︻★︼
これは反則だろう。
こんなの貰っても、かなり困る。おまけにその隣が︱︱。
︻かなりいい剣︼︻★︼
かなりいい剣と普通の剣の星の差が無いのだ。
つまり、普通の剣は実際のところ星一つよりも価値がないと思っ
ていいだろう。
こんなカードを引いた日には⋮⋮ああ、そういうことか。
やり直しを要求した人は、多分これ系統を引いたんだろうなぁ。
ちらりと他に目をやれば、普通の盾なんてのもあるし。
もちろん星は一つ。
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ちなみに他の剣はこんな感じだ。
︻英雄の剣︼︻★★︼
︻勇者の剣︼︻★★★︼
︻伝説の剣︼︻★★★★★︼
伝説の剣だけ星の上がり幅が高いが、それ以外は勇者の剣ですら
︻火の魔法の才︼︻中︼と同レベル。
いかにいい剣を持っていようと使い手次第ということなのだろう。
では、伝説の剣はなんなのかというと、そこの説明書きにはこう
書いてあった。
︻森羅万象の力を宿す剣。これをもって念じれば、あらゆる魔法を
放つことができる︼
なるほど。
剣のあり方を飛び越えた剣。
これならば、星が五つでも納得だ。
とはいえ、欲しいとは思わないな。
星はたった五つ。︻魔法全般の才︼︻特大︼が星七つだったこと
を考えれば、魔法の威力は弱そうだし。
さて、剣の次を見ると、剣以外の武器が並び、その後は防具が並
んでいる。
その次には薬や雑貨。
それが終わると、犬や猫、馬や羊などの動物の名前が並ぶ。
たとえば馬はこんな感じだ。
︻普通の馬・鞍つき︼︻★︼
︻良馬・鞍つき︼︻★︼
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︻名馬・鞍つき︼︻★︼
︻稀代の名馬・鞍つき︼︻★★︼
説明文を読むと、無条件で選んだ者に従属するらしい。
ちなみに猫などの星は全て一つだった。
やがておとなしそうな動物の名から猛獣の名前へと変わり、その
後は物語の中でしか聞いたことのない獣の名前へと続く。
そして動物系最後のカードはこれである。
︻レッドドラゴン︼︻★★★★★★★︼
いかにもヤバそうであるが、そもそもドラゴンなんてペットにし
ても、食料とかに困りそうだし、論外だろう。
これで動物系のカードは終わり。
カード全体を見ても漸く最後が見えてきた。
次はこれだ。
︻ステータスオープン︼︻★★★★★︼
︻英雄になる︼︻★★★★★★︼
︻勇者になる︼︻★★★★★★★︼
︻魔王になる︼︻★★★★★★★★︼
︻ダンジョンマスターになる︼︻★★★★★★★★︼
明らかに星の格が違う。
というかステータスオープンってなんだよ。
︻ステータスオープン︼︻★★★★★︼
︻自分や他人のステータスを覗ける能力。スリーサイズから隠され
た才能、病気に至るまで全てを明らかにできる︼
22
ああ、これは結構いいかもしれない。
もし俺が医者だったりしたら、かなり重宝しそうな能力だ。
他の︻英雄になる︼︻勇者になる︼︻魔王になる︼は言わずもが
なだろう。
︻ダンジョンマスターになる︼の説明は︱︱。
︻ダンジョンマスターになって最強のダンジョンを造り出せ。
ダンジョン内で死んだ探索者の魂を使って、強いモンスターを産
み出せるぞ。
魂の質が重要なので、探索者は飴と鞭を使い分けて、しっかりと
成長させてから殺せ!︼
えぇー。
なんて物騒な能力なんだろうか。
とてもじゃないが平和な国家で生きていた俺には無理な能力であ
る。
他には⋮⋮。
︻大臣になる︼︻★★★︼
︻領主になる︼︻★★★★★︼
︻王になる︼︻★★★★★★★︼
この︻王になる︼の星の多さが示すところは何か。
︻勇者になる︼と同等の星七つ、これは王が世を支配して、国を
成しているということだろう。
多勢に小勢は勝てず、最低でも勇者クラスでない限り、王と相対
することはできない。
つまり、どんな才があろうとも個人の力では、たかがしれている
ということだ。
23
もしかしたら俺が想像している以上に魔法などは弱く、現実的な
世界なのではないだろうか。
そしてまだ残っているカードがある。
︻瞬間治癒能力︼︻★★★★★★★★★★︼
︻不老になる︼︻★★★★★★★★★★︼
いちいち数えなければならないほどの星の多さ。
星の数は十。
すなわち最高の能力。
どちらも命に直結する力であり、どちらも素晴らしいと言わざる
を得ない。
︻瞬間治癒能力︼は命の危険がグッと下がることだろう。
︻不老になる︼はうまくすれば永遠に生きられるということであ
る。
しかし、星が十のカードはもう一つあった。
俺はその最後の一枚を見る。
︻町をつくる能力︼︻★★★★★★★★★★︼
⋮⋮なんなのだろうか、町をつくる能力とは。
俺は説明文を読む。
︻その名の通り町をつくる能力。初期資産は一千億円。お金と引き
換えに町を作ります。
初期の時代設定は江戸。
人口一万人を超えた際に、一兆円を投資すると時代設定は現代に
なります。さらに人口十万人で百兆円を投資すると⋮⋮。
うまく町を運営してお金を稼ぎ、町を発展させていこう!︼
24
⋮⋮神様は中世ヨーロッパの世界だと言った。
よくよく考えてみれば、現代社会に生きていた俺にとって、中世
の時代など、たとえ王になったとしてもゴメンこうむりたい話であ
る。
数々の文明の利器に娯楽や食事。
何もかもが足りない。
はっきりいって、現代社会の一般市民は中世社会の王よりもはる
かにいい暮らしをしていると断言できる。
住めば都、という言葉もあるが、このカードを知ってしまった以
上、俺はもう一度あの物で溢れていた世界で暮らしたいと思った。
﹁決めました、これにします!﹂
俺は迷うことなく、︻町をつくる能力︼のカードを選んだ。
25
4.町づくり 1
俺がカードを選ぶと、神様は言った。
﹁では、送るとしよう﹂
それと同時に、俺はまばゆい光に包まれて目を閉じる。
神様に一言お礼を言いたかったが、そんな間はなかった。
やがて、まぶたの裏から光の気配がなくなり目を開く。
﹁凄い⋮⋮﹂
そこは地平線が見えるような平野だった。
俺はキョロキョロと辺りを窺う。
大地は荒れていると表現するべきか、むき出しになった地肌にポ
ツリポツリと背丈の短い草が申し訳程度に生えていた。
空を見てみれば、雲一つない壮大な青空が広がっている。
俺は、まるで押し潰されるような圧迫感に襲われた。
この広大な大自然には誰もいない。
俺だけなのだ。
まるで世界に俺しかいないようにただ一人。
喉はからからになり、恐怖で足がブルブルと震える。
すると、ふと、手にあったカードがなくなっているのに気がつい
た。
その時のこと。
26
︽本拠地をつくってください︾
目の前に文字が浮かんだ。
なんだ?
いや、わかる、わかるぞ。
俺の頭の中には、今までになかった知識があった。
それは﹃町をつくる能力﹄について。
さしあたって、この目の前の文字は、俺の脳が作り出しているも
ののようだ。
俺は新たに得た知識に従って﹃町データ﹄を呼び出す。
︻町長︼藤原信秀
︻資金︼1000億円
︻時代設定︼江戸
︻町︼無し
空中投影ディスプレイとも言うべきだろうか。
俺の目の前に四角い画面が登場した。
それは俺の﹃町データ﹄。
俺の能力のステータスともいうべきものである。
さあ上から見ていこう。
まず︻町長︼には藤原信秀という昔ちっくな俺の名前。
この名前のせいで、今まで﹃大名﹄だとか﹃侍﹄だとか変なあだ
名をつけられてきたが、一番酷かったあだ名は﹃馬鹿殿﹄である。
次に︻資金︼の1000億円。
これはデータ上のものであり、手元にあるわけではない。
この1000億円をやりくりして、町をつくるのだ。
27
︻町︼はまだつくってないので無し。
︻時代設定︼の﹃江戸﹄については、﹃町をつくる能力﹄におけ
る商品購入に関わってくる。
これは、俺の今いる場所が江戸時代ということであり、江戸時代
の物を適正値で買えるということだ。
では、現代の物を買いたい場合はどうか。
当然、江戸時代には現代の物はないわけで、現代の物を買う場合、
その時代差を埋めるために、本来の値段の百倍の金を支払わなけれ
ばならないのである。
たとえば国民的10円棒お菓子を買おうと思ったら、一本につき
1000円払わないといけないということだ。
そして、その︻時代設定︼を﹃現代﹄にするにはどうすればいい
か。
それには、カードを選んだ際の説明文にもあったように、1兆円
を投資しなければならない。
ちなみに投資といっても、データ上にある資金がただ消えるだけ
である。
果たしてこの1兆円を高いと見るか安いと見るか。
まあ、現代の技術がたった1兆円で手に入るのなら安いと見るべ
きだろう。
ただ、一個人にはやはり膨大な額である。
さて、とりあえず本拠地をつくれという指示に従うことにする。
俺は﹃町データ﹄の下部にあるコマンド群の中から︻商品カタロ
グ︼をタッチした。
︻商品︼
28
・建物
・家具
・食料
・調理器具
・衣類
・車両
・雑貨
・娯楽
・軍事
この中から﹃建物﹄を選ぶ。
・江戸の建物
・平成の建物
・未来の建物
ふむ、とりあえず﹃江戸の建物﹄を選んでみよう。
・城
・士族の家
・庶民の家
・その他
﹃城﹄を選ぶ。
︻江戸城︼1000億円
高すぎる。
他にも︻大阪城︼800億円など、馬鹿みたいな額が並んでいた。
ページを戻って、﹃士族の家﹄を選ぶ。
29
ズラリと表示される屋敷の見本画像。
上は数千坪、数億円。
下は数十坪、数百万円。
武士社会の大きなヒエラルキーがひしひしと感じられる。
全体的に少々安すぎる気もするが、土地の値段がタダならばこん
なものか。
再びページを戻って、今度は﹃庶民の家﹄を選ぶ。
田舎っぽさ溢れる茅葺きの屋根をした住居に、商家といった感じ
の瓦屋根をした土蔵造の住居、果ては幾つもの部屋が連なった、江
戸時代の集合住宅である長屋等々。
多様な住宅の見本画像が並んだ。
その値段は高いものでも1000万円を超えるものはなく、非常
にお手頃な価格となっている。
一方、再びページを戻って﹃その他﹄のカテゴリー。
そこには風呂屋、旅館に加え、寺や神社などの建物が並んでいる。
値段も様々で、大きな神社などは、数億円規模であった。
さて、これで江戸の建物は全て見たわけだが、ここまで一通り見
たのはただの興味本意であり、元々住居は現代の物にしようと決め
ている。
というわけで、ページを戻って﹃平成の建物﹄を開いた。
・住居
・施設
﹃住居﹄を選択し、次のページへ。
・一戸建て
30
・集団住宅
﹃一戸建て﹄を選択し、次のページへ。
・木造
・鉄骨造
・鉄筋コンクリート造
・プレハブ
勿論選ぶのは、﹃鉄筋コンクリート造﹄だ。
耐火性、耐震性に優れ、デメリットといえば金がかかることくら
いだろう。
すると無数の住宅映像が並び、その中から三角屋根の全体的にね
ずみ色っぽい家を選ぶ。
さらに家の仕様をオール電化にして、完全自家エネルギー型住宅
にする。
完全自家エネルギー型住宅とは、単純に言えば、外部からの電力
やガスを遮断した状態でも太陽電池のみで必要なエネルギーを賄う
という、この世界にあってはまさに夢のような住宅のことである。
太陽パネルの発電容量は10kWh、蓄電池の容量は12kWh。
定格出力が3kWという優れもの。
その分、面積をかなりとる。
15坪分の太陽パネルが屋根を占領することになる。
そしてなによりも値段が高い。
家の代金に加えて、︻太陽パネル︼4億円︵定価400万円︶と
︻蓄電池︼2億円︵定価200万円︶がかかるのだ。
まあ、買うけども。
︻完全自家エネルギー型住宅・二階建て・延床坪数50︼46億円
31
︵定価4600万円︶。
︻購入しますか?︼︻はい/いいえ︼
俺は︻はい︼を押した。
すると今いる場所の3Dマップが現れる。
指を動かして俺のすぐ隣を選んだ。
ズズズズズという唸るような音。
わっ、と驚いて隣を見れば、地中から土と草を押し退けて、非常
にゆっくりな速度で土色の泥のようなものが盛り上がっていく。
おそらくこれが家になるのだろう。
俺は家ができ上がる様子を、暫し呆然と眺める。
﹁⋮⋮﹂
それにしても遅い。余りにも遅い。
能力に関する知識によると、安全面を考慮してのことのようだが、
泥の盛り上がりは遅々として進まない。
この分だとあと三十分以上はかかりそうだ。
このままボーッと眺めているのもいいが、それでは退屈が過ぎる。
俺は新たに﹃町データ﹄を呼び出すと、︻商品カタログ︼の︻家
具︼から3万円︵定価300円︶のパイプ椅子、さらに︻娯楽︼か
ら2万6000円︵定価260円︶の週刊漫画雑誌を買って、暇を
潰した。
32
5.町づくり 2︵前書き︶
︻資金︼1000億円
↓953億9994万4000円
33
5.町づくり 2
家を購入してから数十分後、漸く現物ができた。
最後の方の、泥が色を変えて住宅になっていく過程は圧巻であっ
た、と言っておこう。
︽本拠地を選んでください︾
そんな文字がまた目の前に浮かび、その隣の︻地図︼というコマ
ンドを選択。
眼前に周辺の地図が現れ、そこには今しがた誕生した家がピカピ
カと点滅している。
俺はそれをタッチ。
すると︽本拠地に設定しますか?︾︻はい/いいえ︼という文字
が現れる。
もちろん︻はい︼だ。
︽本拠地が設定されました。次に町をつくってください︾
こうして異世界に俺の城が誕生したわけである。
俺は﹃町をつくってください﹄という言葉を無視して意気揚々と
家の中に入った。
﹁おおっ⋮⋮﹂
感嘆の声が思わず漏れる。
まさに、現代住宅。
たとえ異世界にあろうとも、この現代的な室内が、とてつもない
34
安心感を与えてくれる。
だが、まだ足りない。
俺は蛇口をひねる。
当然、水は出てこないのだ。
俺は﹃町データ﹄を呼び出し、︻本拠地︼を選択。
すると家の立体図が現れる。
さらに︻カスタマイズ︼というコマンドを選び、家を調整してい
く。
新たに家に加えるのは、︻井戸︼︻ソーラーポンプ︼︻貯水タン
ク・500L︼︻上水道︼︻下水道︼。
これらの設置に関しては、住宅とその周辺の立体図が細分化され、
その光っている箇所が設置可能な場所である。
俺は、まず︻上水道︼を完成させようとした。
︻井戸︼をつくり、︻ソーラーポンプ︼を設置し、︻配水管︼で
もって︻井戸︼から︻貯水タンク︼、︻貯水タンク︼から家へと繋
げる。
これで︻上水道︼のできあがりだ。
だが、設備を完成させてから、ふと思った。
果たしてここの水は、硬水だろうか軟水だろうか、と。
硬水を飲むと腹をくだすと聞いたことがある。
おまけに、日本の石鹸も使えないのだとか。
それに実のところ、塩素を含んだ現代の水道水はともかくも、軟
水は能力を使えばただで購入できるのだ。
︻山の湧き水︼0円
35
そう考えると︻井戸︼をつくったのは、少々軽率であったかもし
れない。
まあ、後の祭りか。
俺は気持ちを切り替えて、次の設置に移った。
地図からすぐ近くに川があることを確認し、︻排水管︼を地中に
通してトイレと川とを繋げる。
この時、川が近くにあったのは僥幸といってよかった。
なぜならば、画面の地図は俺もしくは本拠地の周辺しか映さない
から、川が遠くにあった場合、俺自身が移動しなければならなくな
り、かなり面倒なことになるのだ。
さらに家庭用水の排水に関しても︻排水管︼を通して、トイレの
汚水同様、川に垂れ流しにしようと思う。
あまり川を汚すのもどうかと思ったが、純石鹸や合成界面活性剤
が使われていない洗剤を使えばあまり問題はないだろう⋮⋮多分。
こうして︻下水道︼ができあがった。
ここまで、1億3160万円。
一番高かったのが︻井戸︼と︻ソーラーポンプ︼のセットの1億
円︵定価百万円︶だ。
次いで、住宅の中に無い家具も買っていく。
︻エアコン︼︻冷蔵庫︼︻電子レンジ︼︻電気ポット︼︻炊飯器︼
︻テレビ︼︻パソコン︼︻調理器具一式︼︻食器一式︼︻机︼︻椅
子︼︻ベッド︼
36
合計は2340万円︵定価23万4000円︶。
そして、遂にできあがったのだ。
現代と大差のないインフラを備えた俺の家が。
俺は﹁ふぅ﹂と息を一つ吐き、スーツの上着を脱いで、ソファー
に腰を沈め考える。
別に大した労働はしてないが、なんとなくやりきった心地である。
とりあえず、住居は完成した。
残金はまだ950億円ほど残っている。
日本のサラリーマンの生涯賃金が2.5億円という話であるから、
江戸の時代設定のままでも、彼らの生活より四倍近い余裕があるわ
けだ。
この能力さえあれば、これから先も何不自由なく暮らしていける
だろう。
しかし、気がかりなことがある。
それは外敵の存在。
神様は中世ヨーロッパに似た世界だと言った。
なればこそ、獣は勿論のこと、野盗、さらにこの土地の領主など、
俺を害そうとする相手をあげたらキリがない。
うーむ。
安易にここに住居を作ったのは失敗だったかもしれない。
もっと周辺の情報を集めてからでもよかったのでは、と今更なが
らに反省する。
いや、まて。
神様の﹃地盤を作れる場所に送る﹄という言を信じるならば、や
37
はりここに住居をつくったのは正しいのではないだろうか。
なんにせよ情報が欲しいところだ。
よし、と俺はソファーから立ち上がり、家を出る。
そして新たに︻双眼鏡︼35万円︵定価3500円︶を購入して
辺りを見回した。
しかし、360°見回しても、人の気配もなければ建物の影すら
もない。
それどころか、広大な大地にポツンとある家だけではどうにも頼
りなく、不安に思えた。
だが、俺にはその不安を取り除く手段がある。
俺は家に入ると、ソファーに腰掛けながら﹃町データ﹄を呼び出
し、︻商品カタログ︼から︻石垣・前門後門・櫓付き︼︻20メー
トル︼を選ぶ。
そして家を囲うよう100メートル四方に設定し、購入。
窓の外をみれば、重厚な音をたてて、泥がゆっくりとせり上がっ
ている。
見本映像ではまるで城郭のような石垣で、相当に分厚かった。
これならば、そう易々と外敵から攻撃を受けることはあるまい。
さて、20メートルの巨大建築物である。
できあがるまでには、優に一時間はかかるだろう。
なので、とりあえず石垣ができるまではのんびりしようと思う。
俺は、映画BDにポテトチップスとコーラを購入して、映画鑑賞
に勤しむことにした。
︻﹃ワールド・オブ・ザ・デッド﹄ブルーレイディスク︼45万円
38
︵定価4500円︶
︻ポテトチップス︼8000円︵定価80円︶
︻コーラ・500ミリリットル︼1万円︵定価100円︶
︱︱そして二時間後。
﹁やっぱゾンビモノは最高だぜ﹂
死体が蘇り仲間を増やして世界を恐怖のどん底に陥れる。
そんなやりつくされた設定だからこそ、視聴者は心にストレスを
感じず簡単に物語の中に入っていけ、なおかつ各作品ごと僅かばか
りの設定の違いが心地よい刺激となって視る者を飽きさせない。
︱︱なんて、評論染みたことを考えながら、窓のそばに近寄り外
を見る。
そこには家よりも遥かに大きい、高さ20メートルの巨大な石垣
ができていた。
﹁石垣が崩れても平気なように家とはかなり距離を開けている。そ
の分、金はかかったが、雄大だな﹂
俺は見惚れるように呟いた。
家を囲む高さ20メートルの石垣。
つくって正解だった。
とてつもない安心感がある。
たが、支払った対価は安くない。
︻石垣・前門後門・櫓付き︼︻20メートル︼120億円
資金はまだ大丈夫、と心に言い聞かせながらも、どうにも心配で
39
ある。
なにせ1000億円あった資金が、異世界にきた初日にもう83
2億円にまで減っているのだ。
この先、様々な問題が起きれば資金はすぐに底をつくことだろう。
では、どのように資金を得ればいいのか。
それには現地の物を俺の所有物としたあと、コマンドの︻売却︼
を行い、その所有物をデータ現金化する必要がある。
この際、他人の物を︻売却︼することはできない。
契約を交わし、売買を成立させて初めて俺のものとなる。
そういう能力、そういうルールなのだ。
そして、俺の能力は﹃町をつくる能力﹄である。
やはり町をつくり、そこに暮らす人々から税金をとるのが一番効
率的なのではないだろうか。
というわけで、人こそいないが、まずは町をつくろうと思う。
人を集めてから能力でもって町をつくるべきではないか、とも考
えたが、それはノーだ。
﹃町をつくる能力﹄ははっきりいって異常な力である。
たとえるなら、俺は金の卵を産み出す鶏。
人前で自身の能力をさらし、権力者などに目をつけられてはたま
らない。
それにもうここに住居を作ってしまったのだ。
他の場所に町をつくるという選択肢はもはやありえないだろう。
︱︱こうして俺は、町をつくるために再び﹃町データ﹄を呼び出
した。
40
6.町づくり 3
俺は﹃町データ﹄の下部コマンドから︻町づくり︼を選ぶ。
この︻町づくり︼は、建物を一つ一つ建設していくという面倒な
作業を簡略化するためのものだ。
そして、眼前に本拠地周辺の立体地図が現れると、それに付随し
て文字が現れる。
︽これよりシミュレートを開始します。範囲を選択してください︾
ナビゲーションに従い、とりあえず本拠地の石垣前の500メー
トル四方を指でなぞって選択。
・建物
・設備
﹃建物﹄を選択し、まずは適当に区画に分けて住居を建てていく。
さらに﹃設備﹄で下水道をつくり、一番近くの河川にまで延ばす。
おっと、忘れてはいけないのがトイレだ。
江戸の町は当時、世界的に見ても最高峰の清潔さであったと聞く。
その理由は各所にトイレが設置されていたからに他ならない。
俺は指で画面を操作し、町の各所にトイレを設置していく。
他にも井戸や風呂場をつくり、また、町の中央には大通りを走ら
せて、それに沿うように旅館や商店を建てた。
そして最後に、町の範囲を少し広げて、町を囲うように高さ5メ
ートルの石垣を築いた。
41
﹁こんなものか⋮⋮﹂
試行錯誤を重ね、とうとう町の完成予定図ができあがる。
北
→
西↑ ↓東
←
門
│││││┘
南
┐│││││
─ ── ─
─⑯ 15 ◎──◎ 14 ⑬─
門12 11 ◎──◎ 10 9門
─8 7 ◎──◎ 6 5─
─4 3 ◎──◎ 2 1─
─ ── ─
┌││││−┘門┐−││││└
┐││┘
|自宅|
┌││└
◎⋮⋮商店や旅館など
⑬⑯⋮⋮空き地
町は大通りを除いて16地区に分かれている。
13番目の地区と16番目の地区は、何かあった時のための予備
として空き地。
その他については、一地区につき100メートル四方の面積を有
し、さらにその地区は八つに区分されて、そこには47軒もの住宅
がある。
42
大家
○
●
家‖家
家‖家
家
家
○
●
家─
家─
┐││││││││││││┘
─
家
─家
─家
家
家
○
●
家‖家
家‖家
家
家
○
●
家─
家─
─============─
─家
─家
家
家
○
●
家‖家
家‖家
家
家
○
●
家─
家─
─============─
─家
─家
家
家
○
●
家‖家
家‖家
家
家
○
●
家─
家─
─============─
─家
┌││││││││││││└
大家⋮⋮地区の代表者が住まう大きな家
=‖⋮⋮道
○⋮⋮井戸、風呂場 ●⋮⋮厠
一地区は八つに区分され、六軒の住宅ごとに井戸と風呂場、便所
が置かれている。
住宅一軒の大きさは100平方メートルの土地に16坪︵約53
平方メートル︶の平屋。
これは、密集都市であったがために火事の被害が大変なものであ
ったという江戸の町と同じ轍を踏まないためだ。
要は庭地をしっかりとって、火事の際は延焼を防ごうというのだ。
さらに、金はかかったが、各住宅の構造を土蔵造の瓦屋根にして
おいた。
土蔵造にしたのは、やはり耐火性に定評があるからであり、瓦屋
43
根については、メンテナンスがほとんど要らないという、その耐久
力を見込んでのことだ。
さて、これでシミュレートは終わり。
ここまでの総額はなんと301億5320万円。
民家が658戸しかない小さな町にもかかわらず、これである。
石垣と住宅は勿論のこと、下水道も地味に金がかかっていた。
これ以上、町を大きくするのは資金の面で現実的ではないだろう。
かといって小さくするのも、物足りない気がする。
俺は僅かな思考ののちに決断すると、画面の隅にある︻完成︼と
いうパネルを触った。
︻この町を購入しますか︼︻はい/いいえ︼
震える指で︻はい︼を押す。
家の外から聞こえる、ゴゴゴゴゴゴという地鳴りのような音。
買ってしまった。
300億円もの巨大な買い物。
これで残りの資金はおよそ500億円。
初期資金1000億円から、まさかの半分の額である。
しかし、もう後悔しても遅い。
俺は3万8000円︵定価380円︶の牛丼を購入して、遅い昼
食をとると共に、町ができあがるのを待った。
数時間後。
44
食事を終え、ソファーに寝転がりながらのんびりと雑誌を読んで
いると、外で鳴っていた音が止んだ。
俺は、町を見に行こうと家を出る。
﹁おお⋮⋮、これが俺の町⋮⋮﹂
感嘆の声が漏れた。
城郭の外、目の前に広がる建物の数々。
少し昔風味の立派な町並みが、そこにはあった。
俺の喉が、ごくりと鳴る。
この目の前にある町を俺がつくったのだ。
神様とは言わないまでも、なにか特別な存在にでもなった気分で
ある。
では、早速俺の町を見て回るとしよう。
まずは民家。
うむ、白い。
土蔵造であり、白石灰を主成分とした漆喰が仕上げとして塗られ
ているのが原因である。
この白い壁と瓦屋根のために、江戸というよりも明治みたいな雰
囲気の町並みになってしまった。
いや、別に文句はないんだが。
民家の中に入ると、まず玄関口に台所ともいえる土間があり、そ
こに竈が設置されている。
玄関から床の間に上がれば、前後に二つの部屋があり、窓からは
光が差し込んでいた。
次に、公共の場へと足を進める。
45
まずは手押しポンプ式の井戸と、洗い場。
ここには生活排水用の下水道として側溝が通っており、掘削した
溝の回りを木の枠で囲い、またその上から木の蓋がされている。
この下水道は町中に張り巡らされ、それは一つに集まって石垣の
門の下を通り、町の外の川へと向かう。
町から出た下水道は、詰まることがないようその溝幅を大きくし、
また簡単に壊れることがないように石造りになっている。
ただし、この下水道はあくまで生活用排水のためのものであり、
屎尿用ではない。
というか、こんな密封性の欠片もない下水道で屎尿を垂れ流しに
すれば、たちまちに町は臭くなる上に、疫病の元にもなりかねない。
というわけで次はトイレ。
四つに区分けされた小さな小屋、そこには小便器と個室便所が二
つずつ並んでいる。
個室の中のぼっとん便所は、足を踏み外したら大変なことになり
そうだ。
夜の暗がりでは、特に気を付けなければならないだろう。
また、トイレに対する下水道はなく、汚物は柄杓で掬って肥桶に
入れ、遠くへと捨てにいかなければならない。
町に住人が来た際には、川ではなく遠くに穴を掘って埋めさせよ
うと思う。
その他、公共の場には風呂場があり、8畳ほどの掘っ立て小屋の
中に、五右衛門風呂が置いてある。
そして住宅地を抜けて大通りにいけば、20メートルの道の左右
を商店や旅館が建ち並ぶ。
うむ、実に見事な景色だ。
46
こうして町全体を見て回ったわけであるが、いやあ江戸って凄い
なぁ、という月並みな感想が浮かんだ。
何はともあれ、自宅をつくり、町をつくった。
これで、とりあえずやることはない。
あとは、町の住人をどうするかという問題であるが⋮⋮ここは一
つ落ち着いて、現在の状況を見直しながら今後の計画をたてようと
思う。
よくよく考えてみれば、ここまで深く考えもせずに、こんな大そ
れた町をつくってしまったのだ。
いや、俺としてはそれなりに考えたつもりではあった。
しかし、突然の事態に冷静でなかったような気がするのも確かだ。
なにか心細さを埋めるように、不安を消し去るように、﹃町をつ
くる能力﹄を使っていた。
だからこそ、俺はこれからについて一度よく考えるべきだと思い、
自宅へと戻った。
ソファーに座り、机にノートを拡げてシャープペンを片手にウン
ウンと唸る。
ノートには、異世界で生きてく上での﹃目的﹄、﹃長期目標﹄、
﹃短期目標﹄が書いてある。
まず﹃目的﹄。
・異世界で平和的で文明的な生を全うする。
次に﹃長期目標﹄。
47
・能力を最大限に活かすために金を得る。
そして﹃短期目標﹄。
・金を得るために、町に住人を入れて税金をとる。
最後に﹃短期目標﹄に対する﹃行動﹄、なのだが⋮⋮。
ううむ。どうやって町に住人を入れるのか。
そもそも、ここはどこなのだろうか。
どこかの国の一部なのか、それとも誰もいない土地なのか。
また、この地が国の一部だったのならば、その領主にどう対応す
るのか。
服従か、話し合いか、それとも⋮⋮抗戦か。
︻商品カタログ︼に﹃軍事﹄というカテゴリーがある。
江戸時代の火縄銃から、現代の戦車まで金さえあれば、購入が可
能だ。
﹃太平の世を醒ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず﹄
上喜撰とは蒸気船、四杯とは四隻。
これは、江戸幕府に開国を求めた僅か四隻の蒸気船が、幕府を大
いに恐怖させたことを詠んだ歌である。
いわゆる砲艦外交というやつだ。
中世ヨーロッパ程度の発展具合ならば、現代の武器を使ってこの
歌と同じことができるかもしれない。
とはいえ、魔法の存在が不穏である。
それに俺自身、野蛮なことは苦手だ。
48
ああ、考えがまとまらない。
ここが誰もいない土地ならば、それこそ住人は必要なく、俺はこ
のままのんびりと暮らせばいいのか?
災害はどうする。地震、台風、雷、噴火、津波。
ここは何か災害に巻き込まれても生活を保障してくれる、あの懐
かしい日本ではないのだ。
頼れるのは自分のみ。
なればこそ、やはり住人はほしい。
集団は力だ。
もし近くに町があるのなら、思い付く住人の候補は孤児、それか
ら奴隷といったところか。
それとも領主と話をつけて、そこの住人に入植してもらう?
ううん、ややこしいな。
ああ⋮⋮、住むところがなくて苦しんでいる人達が降って湧いて
こないかな。
さりとて、神様の﹃生活の地盤が作れる場所に送る﹄という言葉
を信じるならば、このまま何もせずとも、なるようになるのではな
いかとも思う。
いや、それはあくまで最低限の地盤だろう。
俺はその最低限の地盤を既に得ている気がする。
うーむ⋮⋮。
こんな感じに考えを右往左往させながら、その日はペンを片手に
ノートとずっとにらめっこ。
49
結局出た結論は、明日以降、周辺の調査を行うということであっ
た。
︱︱そして日は暮れていく。
夜もふけ、ベッドに入る。
異世界での初めての夜。
それは、あまりにも静かだった。
静かすぎて、まるで世界に自分一人しかいない感覚。
布団にくるまっても寒いのは、気温のせいではない。
電気は消せなかった。
せめて光だけでも、現代の文明に浸りたかったのだ。
そのためか、どうにも眠れない。
腕につけている時計は0時を回っている。
もっとも異世界の一日の時間が24時間とは限らない。
俺は眠ろうと目を瞑り、ふいに思った。
他の皆はどうしているだろうか、と。
はっきりいって俺はかなり恵まれている。
現代の文明に囲まれながら、床に就くことができるのだから。
だが彼らはどうだろう。
人里にいるのだろうか。
ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
屋根のある場所で眠れているのだろうか。
︱︱寂しがっていないだろうか。
50
そう考えて、なにを馬鹿なと自嘲した。
こんな現代の住宅に住んでいる俺でさえ、胸が締め付けられるほ
どの感傷に苛まれているのだ。
彼らが辛くないわけがない。
俺は、頑張れよ、と心の中で呟き、目を閉じた。
⋮⋮でもやっぱり眠れないので、起き上がり、夜更かしにコメデ
ィ映画を観賞した。
51
7.町人きたる 1
パンッという音が、荒れた大地に鳴り響く。
異世界に来てから一夜が明けた日の午前中。
俺は自宅の裏門を出たところで、9㎜拳銃を手に射撃練習をして
いた。
︻9㎜拳銃︼2000万円︵定価20万円︶。
これは周辺地域の調査に行くため、護身用に購入したものだ。
他にも半額でニューナンブという拳銃もあったが、9㎜拳銃の装
弾数9発に対し、ニューナンブは5発。
加えて、値段の高さを信頼度の高さと判断し、俺は9㎜拳銃を選
んだ次第である。
銃を撃ってみると、最初こそ反動にビックリしたが、二回目から
は特に気に留めるほどでもなかった。
鉄の二倍の質量を持つ金を、一度目は持ち上げられないという話
に似ている。
見た目で、これくらいの重さであろうと判断し、力をセーブして
しまうのだ。
銃の反動しかり金の重さしかり、一度は身をもって経験すること
が大切だということだろう。
弾は一発1万円︵定価100円︶。
パンとなるごとに1万円が消えると考えると、撃つのを躊躇いそ
うになる。
52
しかし、命にかかわることなので金を惜しむわけにはいかない。
また、銃の他にも︻迷彩戦闘服︵砂色︶︼︻半長靴︵茶色︶︼︻
防弾チョッキ︼︻鉄帽︼︻ゴーグル︵オレンジ︶︼︻フェイスマス
ク︼︻手袋︼を購入し、今現在装着済みだ。
この装備一式で1855万8000円︵定価18万5580円︶。
さらにオートマ仕様の︻73式大型トラック︼も購入した。
︻73式大型トラック︼12億円︵定価1200万円︶
整った道路などありはしないので、通常の車は論外。
ということで、自衛隊御用達の車両を選んだわけである。
ジープなどにしなかったのは、やはり大きさ。
大型トラックを前にすれば、そんじょそこらの獣くらい、たちま
ちに逃げ出すことだろう。
ちなみに、本当は装甲車にしようかと思ったのだが、その値段は
120億円︵定価1億2000万円︶。
今後のことを考えたら手が出なかった。
﹁こんなものかな﹂
俺は射撃を終え、拳銃は安全装置をかけて腰のホルスターにしま
う。
そして30メートルほど先に突き刺しておいた、紙を張り付けて
ある木の立て看板を確認しに行った。
すると、そこにはポツリポツリと穴が開いていた。
とりあえず、的にはそれなりに当たるようだ。
53
﹁じゃあ、次はっと﹂
ポケットから降り立たんだ紙を新たに取り出して、セロテープで
木の看板にペタペタと張り付けていく。
そして門の内側に戻ると、そこに二本の脚部を立てて置いてあっ
たものを手に取った。
︻89式5.56㎜小銃︼3500万円︵定価35万円︶
89式小銃。これもまた自衛隊が採用している自動小銃である。
小銃といっても小さいわけではなく、その形はライフルの体をな
している。
性能もその大きさに比して、拳銃が及ぶところではなく、射程距
離は9㎜拳銃のおよそ十倍の500メートル。
装弾数は30発で連射性にも優れている。
︱︱と、ここまで取扱説明書を読んだ俺なりのまとめである。
﹁ええっと、まずは単発から⋮⋮﹂
俺は的から100メートルほど離れると、安全装置を﹃タ﹄の位
置に合わせて、小銃の引き金を引いた。
やがて昼となり、試射を終えて食事をとる。
その後、トラックに乗り込み自宅の裏手門より外へ出た。
門の施錠に関しては、敷地の外に出た後に一度トラックから降り、
門を内側から閉め、その後、門についている︻潜り戸︼にて敷地か
ら出て、外側から︻潜り戸︼の鍵を閉める。
54
門は閂式だが︻潜り戸︼に関しては鍵式にしてあるのだ。
こうして自宅の施錠をしっかりと行った後、俺はトラックにて周
辺地域の調査を開始した。
まずは︻磁石︼で方角を確認。
今更ではあるが、この世界の太陽も地球と同じく東から上って西
に沈むようだ。
町の東には北から南へと流れる大きな川がある。
下水の処理にお世話になっている川だ。
そして、もし人が住んでいるのならば、やはり川周辺であろう。
俺は、南東へ向けてアクセルを踏んだ。
その後、川沿いに砂を巻き起こしながら、トラックを南に進めて
いく。
されど進んでも進んでも同じ景色。
そして運転を始めて、およそ三時間が過ぎた頃。
俺の視界の先には、完全に枯れ果てた大地︱︱砂漠が広がってい
た。
テレビでしか見たことのない光景。
そこにはペンペン草すら生えていない。
まさに、死の大地である。
俺はなんだか恐ろしくなって、自宅へと引き返した。
次の日は北へ、またその次の日には西へと探索に出掛けた。
しかし、どちらも二、三時間ほどトラックを運転したが、人はお
らず荒れた景色が続くだけだった。
また、東に関しては川が邪魔しているため、探索には行っていな
55
い。
こうして、おおむねの周辺調査は終了した。
ここまでの探索結果が示すところは、東の地域こそわからないが、
おおよそ自宅の周辺には人が住んでいないということである。
よってこれからは、探索をやめて大人しく家に引きこもることに
した。
果報は寝て待て作戦である。
異世界で一日一日がのんびりと過ぎていく。
気温が暖かくなってくると南西から風が吹き、砂が舞った。
偏西風とも考えられるが、恐らくは季節風。
大陸が暖まって上昇気流をつくり、冷たい水場から空気が入って
くるという、あれだ。
つまりそれは、はるか南西に海、もしくは大きな湖があるのでは
ないかということ。
それにしても、風のせいで町は砂だらけである。
住人もいないのに町をつくったのは早計だったかもしれない。
︱︱そして、異世界にやって来てから一ヶ月が過ぎた。
ここに一つの朗報がある。
なんと、町にはとうとう俺以外の住人が現れたのだ。
彼女の名前はカトリーヌ。
56
長い睫毛につぶらな瞳。
大きな二つの膨らみ。
そして特徴的な声︱︱。
﹁ンゴオオオオオオオオオオオ﹂
もとい、鳴き声。
そう、カトリーヌは人間ではない、ラクダである。
南の方にドライブしに行こうと門を出た時、俺は彼女と出会った。
いかんともしがたい孤独感に苛まれていた俺は、是が非でも彼女
とお近づきになろうと、あの手この手で彼女の関心を引いた。
そして、彼女の口許に餌である草をやりながら、なんとか石垣の
中に連れてきたのだ。
そんなカトリーヌについて少し語ろう。
彼女はとても怠け者である。
普段は足を折って座り込み、ぼうっとしてばかりいる。
時折、立ち上がって散歩でもするのかと思えば、なんのことはな
い、ただの食事だ。
むしゃむしゃと地面にある草を食べ始める。
既に自宅の敷地内の草はなくなっており、俺は毎日、町の草を刈
って彼女に与えている。
彼女は怠け者でありながら、食いしん坊さんでもあるのだ。
だから俺は、カトリーヌに少しでも運動させようと、彼女に轡と
鞍を着けてその背に乗り、強制的に町の散歩に出かけたりする。
鞍は毛布を重ねて作った、俺のお手製品だ。
57
食事に関しては、美味しいものを食べさせてやりたいとも思うが、
虫歯になられても困るので、せめてうまい水でもと、日本の軟水を
水桶に注いでいる。
また、糞の始末も俺がやっている。
というか、なんと糞は︻売却︼が可能だった。
江戸時代、農家が肥料として人間の屎尿を買い取っていたのは有
名な話である。
他にも、道の馬糞を集めて売る、馬糞拾いなどという商売もあっ
たとか。
ちなみに、カトリーヌの糞は一山だいたい100円だった。
カトリーヌは俺によくなついている。
寝転がる彼女に、﹁最近、暑いよねー﹂と天気の愚痴をこぼすと、
彼女は長い首をすり付けてくる。
とっても甘えん坊さんだ。
そして、彼女は俺にとって何物にも変えがたい心の拠り所となっ
ていった。
58
8.町人きたる 2
そしてまた数日が過ぎた。
俺はベッドの上でむくりと上半身を起こす。
カーテンの向こうからは、日の光が差し込んでおり、ベッドの上
の時計を見れば、時刻は昼前といったところだ。
遅い朝であるが、別に構わない。
仕事場から電話がかかってくるでもなし、ここ異世界では毎日が
日曜日みたいなものだ。
好きな時に眠り、好きな時に起きるというのが、この異世界での
ライフスタイルである。
だがその日、俺が目を覚ましたのは、自ら起きたためではなかっ
た。
俺の起床は、外から聞こえる雑音により引き起こされたものだ。
﹁なんだ?﹂
俺はぼそりと呟くと、ベッドを下りて窓を開ける。
聞こえてくるのはドンドンと門を叩く音だ。
﹁どうだ! 登れそうか!﹂
﹁ダメだ! 手が届かん!﹂
門を叩く音だけではない、人の声も聞こえる。
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つまり侵入者か。
町の石垣を越えて、さらに俺の自宅の石垣を乗り越えようとして
いるようだ。
だが残念。
町の5メートルの石垣とは違い、自宅の石垣は20メートル。
石垣のつくりは上にいくほど急勾配になっており︵武者返し︶、
すなわち、石垣が高ければ高いほどに垂直部の長さは大きくなり、
登るのが困難となるのだ。
また、石垣の上には塀と櫓が建っている。
隙間のある石の壁は登れても、足場のない壁は登れまい。
とはいえ、道具を使われたら厄介だ。
俺は急いで護身用の装備を身につけると、さらに拳銃と小銃を手
にとって家を出る。
庭では、カトリーヌがこんな状況にあっても騒ぎもせずに、いつ
も通り寝転がっていた。
それを見て、俺の心は幾分か冷静になった。
非常時だからこそ、落ち着かなければならないだろう。
そして俺は、正門の隣にある櫓へと上った。
手には双眼鏡。
櫓の木窓からそっと顔を出して、覗く。
そこにいたのは百人、いや二百人はいるであろう集団。
しかし、少し普通じゃない。
双眼鏡のレンズの先には、一見人間のように見えるものの、あか
らさまに毛深い者達が映っていた。
60
中には、完全に人間を逸脱した獣の顔をした者までいる。
独特の模様が施された民族衣装を着た、狼の顔の二足歩行の生物。
なんだろう。
獣人⋮⋮でいいのだろうか。
﹁誰かいるぞ! あそこだ!﹂
﹁やばっ!﹂
一人が俺のいる方を指差し、俺は慌てて顔を隠す。
しかし、何故隠れなければならないのか。
ここは俺とカトリーヌの帝国であり、俺が遠慮をする理由はどこ
にもない。
というわけで、俺は再び顔を出して彼らに叫んだ。
﹁なんの用だ!﹂
眼下の群衆の中にざわめきが広がった。
やがて、その中の一人が大きな声をあげる。
﹁ワシはこの部族の長をやっている者です! 北よりやって来まし
たがこの荒野の中、食べ物がありません! 何かお恵みをいただけ
ないでしょうか!﹂
なるほど、飢えか。
双眼鏡を再び覗いてみれば、皆ガリガリだ。
よっぽど食うに困っていたのだろう。
小さな子供もいるのだ。
助けてやるのは、やぶさかでもない。
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だが、彼らが野盗でないとも言い切れない。
門を開けた瞬間、牙を向かれては困る。
﹁いいだろう! だが、こちらはお前達を信用していない!
いいか、よく聞け! まずは門より遠く離れろ! 食事はその後
に門の外に運び出す! 私が許可を出すまで絶対に動くな!
わかったか!﹂
またもや、ざわめきが起こり、一拍の後に族長が口を開く。
﹁わ、わかりました!﹂
族長が返事をすると、一団は門から離れていく。
だが、ちょっと待て。
﹁族長! 全員で何人いる!﹂
人数がわからないと、食事を用意するのも困る。
族長は足を止め、答えた。
﹁180人ほどです!﹂
ほど、ってなんだよ、ほどって。
﹁わかった! もう行っていいぞ!﹂
それを見届けると俺は櫓を下りて、正門の裏に移動した。
︻飯櫃︼︻×20︼3000円×20=6万円
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︻炊飯白米10合︼︻×20︼3200円=6万4000円
まずは飯櫃を買い、そこに熱々の炊きたてご飯を購入。
用意するのは予備も含めて、200人分だ。
江戸の米は10合で3200円。
つまり1合320円︵1合は約150グラム︶。
これが炊飯前の米になると、1合が160円となる。
俺が現代日本で買っていた安米は、10キロ2500円。つまり
1合37.5円。
現代と比べると、江戸時代の米の値段がいかに高いかがわかる。
まあ、当然か。
現代では機械を使って、より効率的に米が作られている。
また、農薬や肥料などの差も段違いだ。
その生産性は江戸時代の農業とは比ぶるべくもないだろう。
あとは江戸時代の物価が高かったということもあると思う。
あの時代、外国に金が流出するまでは金山でウハウハだったはず
だ。
さて、米を出したものの、そればかりでは味気ないので、おかず
も用意する。
︻桶︼︻×10︼3000円×10=3万円
︻味噌10キロ︼︻×2︼8400円×2=1万6800円
︻塩焼き鰯50尾︼︻×8︼5000円×8=4万円
桶に入れた味噌と焼き鰯。
魚は他にも種類がたくさんあったが、鰯が一番安かったのでこれ
63
にした。
江戸時代でも鰯は庶民の味方だったようだ。
﹁ま、こんなところか﹂
一人ごちる俺。
あんまり贅沢させても、彼らの今後によろしくないだろう。
あとは食事をよそう器とスプーン、それから水も用意。
︻桶︼︻×6︼3000円×6=1万8000円
︻山の湧き水︼0円
︻椀︼︻×400︼500円×400=20万円
︻木匙︼︻×200︼300円×200=6万円
椀は水飲み用も含めて400杯。
木匙は床につけるわけにはいかないので、空の桶の中に詰めてあ
る。
よし、それじゃあ運ぶか。
と、その前にあの一団がちゃんと言いつけを守っているか確認し
ないとな。
俺はもう一度櫓に上って、獣人達の位置を確認する。
彼らは俺の約束通り、いまだ遠くで待機していた。
再び表門裏に戻り、門の潜り戸から外に出る。
そして、小銃をたすき掛けにし、えっちらほっちらと食料を表門
の前に運んだ。
﹁お、重い⋮⋮﹂
64
なかなかに重労働だ。
なにより、数が多い。
すると視界の端で、獣人に動きがあった。
二人がこっちに走ってきているのである。
俺はチッと舌打ちすると腰の拳銃を手に取った。
安全装置を外して、空へ向け一発の銃弾を放つ。
パァンと耳をつんざく音が鳴るが、俺にとっては慣れたものだ。
しかし、こちらへ向かってきていた二人にはそうではないらしく、
彼らはビクリとして足を止めた。
﹁先程言ったはずだ! 私の許可があるまでは、近寄るなと!
これは警告である!﹂
そしてもう一度、空へ向けて銃声を撃ち鳴らした。
二人の獣人は再びビクリと身を震わせて、しげしげと帰っていく。
なにやら怒鳴られている声が聞こえるあたり、二人の独断専行に
よるものだろうか。
その後、なんとか食事を運び出した俺は、石垣の中に入り、再び
櫓に上った。
﹁食べていいぞ!﹂
窓から一団に向かって大きな声で叫ぶ。
すると蜜に集まる蟻のように、獣人達は食事に群がった。
皆勢いよく駆けるので、砂煙が心配だ。
せっかくのご飯が、不味くならなければいいのだが。
65
﹁た、食べ物だ! 本当に食べ物だ!﹂
これまでろくに食べていなかったのか、誰もが顔を輝かせている。
そして一番乗りの者が、鰯を手に取りかぶりついた。
﹁うめえ!﹂
喜びの声が大空にこだまする。
それを皮切りに我先にと食事に手を伸ばした。
俺が、おいおい椀があるだろ、手掴みかよ、と内心突っ込んでい
ると、椀があることに気づいたのか、族長が指示を出し始める。
これにより、なんとか秩序は保たれたようだ。
誰かが食いっぱぐれるなんてこともないだろう。
食べ物が全員に行き渡ってから、食事か始まった。
皆、顔に笑みをつくり、わいわいガヤガヤとした幸せの風景がそ
こにはあった。
やがて族長がこちらを見上げて、ペコリと頭を下げる。
俺はそれに手を挙げて返事をすると、彼らが嬉しそうに食事をす
る様子を眺め続けた。
しばらく経ち、獣人達は食事を終えた。
その場に腹を押さえて座り込む者多数。
皆、満足といった様子である。
いや、カトリーヌみたいな食いしん坊もいるらしく、空になった
桶に頭を突っ込んでいる者もいた。
そんな中、族長がこちらへ顔を向けて叫ぶ。
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﹁あの! 食事をありがとうございました!﹂
﹁気にするな!﹂
俺も負けじと声を張り上げた。
﹁それで、その、言いにくいんですが!﹂
言いにくいのに大声を出さなければならないやるせなさ、わかる、
わかるぞ。
﹁言いたいことはわかっている! 食糧の支援だろう!﹂
﹁は、はい!﹂
そりゃそうだ。その日限り食事ではなんの意味もない。
彼らは明日も生きなくてはならないのだから。
そしてこれは、俺にとってチャンスである。
﹁条件が一つある! その条件を聞くのならば、一月分の食糧を渡
してやろう﹂
﹁条件とは!﹂
﹁話が聞きたい! 族長、しばしお前の身を借りたいのだ!﹂
﹁身を借りたいとは!﹂
﹁言葉の通りだ! お前だけを我が屋敷へ招く! それ以外の者は、
先程と同じように遠方にて離れていろ!﹂
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獣人達のざわめきが大きくなった。
認められない、騙されるなという叫び声が聞こえてくる。
その一方で耐えるように黙然としている者。
その者達は俺の提案に賛成なのだろう。
ただし身売りを表だって肯定するわけにはいかず、黙っているし
かなかった、といったところか。
されど、族長の顔を見れば、他の者の意見などは関係ないという
ことがよくわかる。
﹁わかりました! 食糧のこと、よろしくお願いします!﹂
﹁必ず約束は守ろう!﹂
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9.町人きたる 3
櫓の中から族長以外の者が離れたのを確認すると、俺はパイプ椅
子を左手に二つ持って潜り戸を開ける。
油断はない。
小銃こそ門の内側に置いてきたが、いつでも腰の拳銃を抜けるよ
うな心構えでいた。
潜り戸を開けた先には族長を名乗っていた男性。
あの集団の中でも特に顔の部分の毛が薄く、人間に近い容姿をし
ている。
背丈は俺とそう変わらない、おそらくは170半ば。
歳は50代といったところか。
族長を名乗るには若い気もするが、そんな考えは俺の先入観でし
かない。
頭頂部には、長いボサボサの髪と一体化したような三角の耳。
人間のようでありながらも、違う種族であることの証だ。
また、腕の裏から手の甲にかけて、その皮膚は毛で覆われている。
﹁あ、あの、この度は︱︱﹂
﹁少し待ってもらえますか﹂
﹁は、はい﹂
俺は族長の言葉を遮ると、折り畳んでいたパイプ椅子を開き、向
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き合うように設置した。
族長は折り畳みの金属製の椅子に、目を見張っている。
﹁かけて下さい﹂
﹁し、失礼します﹂
おっかなびっくりともいうべきか、落ち着かない様子の族長。
それにしても族長の臭いが凄まじい。
フェイスマスクで鼻を覆っているのに、強烈な臭いが漂ってくる
のだ。
長らく体を洗っていないことがうかがい知れる。
﹁藤原といいます﹂
﹁部族の長をしているジハルといいます。あの、この度は、過分な
施しをありがとうございました﹂
そう言って頭を下げるジハル族長。
真摯な思いが伝わってくる。
だが、それと同時に座りながらのお辞儀には違和感を感じた。
洗練されていない礼儀作法。
文化の程度を考えたとき、彼らの種族はとても低いレベルにある
のかもしれない。
﹁それで話とは⋮⋮﹂
﹁私の質問に一つ一つ答えてくれればそれで結構です。また、質問
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に関しては、極々当たり前の内容になるかもしれませんが、気にせ
ずに答えてください﹂
ジハル族長は﹁はぁ﹂という戸惑いを含んだ声で返事をする。
さて何を聞くか⋮⋮。
町への侵入に関することについては、言及する必要もないだろう。
食べ物がない時に町を訪ね、そして誰もいなければ、そりゃ中に
入る。
衣食足りて礼節を知る、という言葉があるが、逆に言えば、衣食
が足りなければ礼儀をわきまえはしない、ということだ。
﹁それではまず、この国の名前を教えてください﹂
﹁国⋮⋮ですか?﹂
怪訝な表情を見せる族長。
﹁ええ、国です。どこかの偉い人がこの地を治めているんでしょう
?﹂
﹁いえ、この地にそんな者がいるとは聞いたことがありませんが﹂
うむ、この地はやはり無人の地であったようだ。
これは素直に喜ばしい。
﹁質問を変えましょう。この大陸に国はありますか?﹂
71
﹁ええ、それはありますが⋮⋮﹂
﹁その国の名前を教えてください﹂
﹁すみません、この地の北にあるサンドラ王国しか知りません﹂
﹁その言い方ですと、この大陸には他にも国があり、そのうちの一
つがサンドラ王国⋮⋮ということですか?﹂
﹁はい、その通りです﹂
﹁たくさん国はあるのに、この地には国がないと?﹂
﹁は、はい﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
この地だけ空白なのか?
それとも、大陸の隅々にまで手が届いていないだけか?
﹁なにか理由があるのですか。北にあるというサンドラ王国がこの
地を治めない理由が﹂
この地は一見荒れ地に見える。
しかし、ここはおそらくステップ気候の乾燥地帯。
その土壌は肥沃であり、水さえあれば農作にはとても適した地に
なるのだ。
そして北から南へと巨大な河川も通っているため、灌漑は難しく
ない。
つまり、手をつけないには惜しい地であるといえる。
72
﹁私が先代の長から聞いた話では、ここは呪われた土地であると﹂
︱︱呪われた土地。
不穏すぎる言葉だ。
魔法が存在するのだから、呪いなんてものが現実に存在していて
も不思議はない。
﹁⋮⋮呪われた土地、ですか?﹂
﹁はい、頻繁に大きな地揺れが起きるのだとか。
サンドラ王国もこの地を開拓しようとしましたが、その度に地震
が起こり、この地に住居を建てるのを諦めたそうです﹂
地揺れ⋮⋮地震か。
確かに、地震は慣れていない者にとっては何よりも恐ろしいもの
となり得るだろう。
地震のある国の建物と、地震がない国の建物。
たとえば、城郭一つとってもその差は明らかだ。
日本式は山のように石を積んでいくのに対し、西洋は垂直に石を
積んでいく。
つまり、人々は地震を恐れてこの地には住まなかった。
なるほど、それならば頷ける話だ。
﹁よくわかりました﹂
頻繁に地震が起こるということは、この地は日本のようにプレー
トの合流地点なのだろう。
73
﹁ところで、この荒れ地はサンドラ王国までずっと続くんですか?﹂
﹁いえ、途中で草原になります。
その草原を越えた先にあるサンドラ王国は、よく雨が降って森林
も多い土地ですよ﹂
﹁サンドラ王国領からここまでの距離はわかりますか?﹂
﹁すみません、距離はわかりません。
ですが、私達がサンドラ王国を抜けてここに来るまでに二十日近
くかかりました﹂
歩行者の平均速度は時速4∼6キロだったはずだ。
彼らは集団であるから、一番低い時速4キロを基準に考えると、
一日十時間歩いたとして、サンドラ王国からここまで800キロか。
いや、一日十時間の歩行は無理か。
彼らは飢えていた。
その場その場で食料を得なければならなかったはずだ。
食料の調達とその調理には結構な時間がかかる。
それに病人などが出れば一気に行軍速度は落ちていくだろう。
サンドラ王国まで800キロはまずない。
400∼600キロといったところか。
俺が探索にいった距離は、200キロほど。
なるほど、人の影すら見つからないわけだ。
74
しかし、腑に落ちないことがある。
﹁では、そんな呪われた地に何故あなた方はやってきたのですか﹂
当然の質問だ。
単純に考えれば、食糧を求めてということになるが、ここまでの
話からすると、降雨があり森林があるサンドラ王国の方が食物は豊
富なはずだ。
わざわざ、こんな枯渇した地に来る理由はない。
﹁⋮⋮人間に追われて。
サンドラ王国の騎士団が、我々の住む土地に侵攻してきたのです
⋮⋮﹂
﹁サンドラ王国は人間の国なんですか?﹂
この問いに族長はキョトンとした。しかし疑うような目付きでは
ない。
俺のあまりの常識知らずに驚いている感じだ。
﹁サンドラ王国は確かに人間の国です。多分ですが、人間以外の国
はどこにもないと思います﹂
﹁なるほど﹂
この大陸は人間が支配しているということだろう。
そして彼らは、人間に追われ川づたいにここまでやってきた。
安住の地を求めて。
しかし、この先には砂漠しかないから、彼らの住まう地は見つか
らないだろう。
75
﹁では何故、あなた達は人間に追われたんですか?﹂
﹁人間は⋮⋮私達の住んでいた土地が目当てだったのです﹂
﹁できましたら、その経緯を教えてください﹂
﹁わかりました﹂
そう言って、ポツリポツリと族長が話し始めた。
はるか昔、サンドラ王国があった地を支配していたのは狼族。
それを北から人間が侵略しに来た。
戦争となり狼族は敗れ、その数は激減し、ある一角に押し込めら
れた。
そして今、その地すら追い出されたのだという。
﹁人間の繁殖力は我々の比ではありません。ですので、豊かな土地
が足りなくなったのではないでしょうか。
それに、人間は我々を下賎な者として見ていましたから、特に理
由もなく追い出しただけかも知れません﹂
﹁なるほど﹂
アメリカ大陸の開拓期におけるインディアン戦争のようなものか。
それにしても、これじゃあ人間に対する恨み辛みがとてつもない
だろう。
ゴーグルとフェイスマスクが幸いしたな。
今のところ、族長が俺のことを人間だと思っている様子はない。
76
﹁では、魔法についてはなにか知っていますか﹂
﹁すいません。火や水など、自然現象を操るということくらいしか
知りません﹂
﹁あなた方の中で魔法を使える者は?﹂
﹁魔法は人間やエルフが使いますが、私達は使えません﹂
︱︱エルフ。
やはりいるのか、ファンタジー世界では引っ張りだこのあの存在
が。
﹁あなた達が魔法を使えない理由はわかりますか?﹂
﹁人間やエルフよりも肉体的に優れている分、魔法を必要としなか
ったからだと言われています﹂
進化の過程で失われたのか。
昔は彼らが人間を虐げていたのかもしれないな。
それで人間は魔法を得た、と。
うん、ありえるかもしれない。
﹁では、次に︱︱﹂
俺は、その後も人間の生活や武器、魔法の威力、どんな種族・動
物がいるかなど、様々なことを聞いた。
人間の生活については、それこそ神様が言っていた中世ヨーロッ
パと大差ないような暮らしぶりであった。
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大きな都市では城郭が町を囲い、権力者は城に住み、人々は農耕
や畜産をしながら暮らしている。
また、魔法は思いの外弱く、人間は武器を主な攻撃手段として用
いているらしい。
種族に関しては彼ら狼族の他にも、獣人と呼ばれる種が多数おり、
また獣人以外では、人間、エルフの他はあまり知らないそうだ。
動物については、元の世界にいるようなものばかりの名前が挙げ
られた。
能力選択時の﹃カード﹄に書かれていたファンタジー世界特有の
生物に関しては、いるにはいるのだが、とても珍しいのだと族長は
言っていた。
それからドラゴンについては、﹁お伽噺の動物ですよね?﹂と真
面目な顔で返されてしまった。
あのカードはなんだったんだろうか。
ついでに魔王や勇者についても聞いてみたが、魔王に関しては、
はるか北東の極寒の地にいるという話を聞いたことがあるとのこと。
勇者については強い者が名乗る称号なもののようだ。
﹁︱︱よくわかりました﹂
話に一段落がついた。
大体聞きたいことは聞けたと思う。
中でも、ここは国じゃないということが一番の収穫だ。
地震こそ少しばかり不安ではあるが、少なくとも俺の家は大丈夫
だろう。
杭工事までしてある鉄筋コンクリート建築。
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能力であるからこそ、手抜き工事は一切ない。
また、町の土蔵建築もそこそこ丈夫だろう。
そもそも土蔵は、江戸時代の商人が大事なものを仕舞っておくた
めに、よく用いられた建物だ。
だから﹃蔵﹄の名を持ち、その頑丈性には定評がある。
とはいっても、やはり昔の工法であるため、大きい地震に対して
はあまり意味をなさないかもしれないが。
︱︱そして、最後の質問へと移る。
﹁長々と話してしまいましたが、これで最後です。
私はここに町を作りました。ですが、足りないものがあります。
それがなんだかわかりますか?﹂
その質問に族長は目を見開かせた。
この町を見て回ったのなら、人がいないことがわかるはずだ。
それ故に質問の意図を理解しているのだろう。
﹁ひ、人です⋮⋮﹂
恐る恐る唇を震わせて族長は言う。
その目には期待の色があり、オレンジのゴーグル越しでもはっき
りとわかった。
﹁その通り。町は作れても人は作れない。
しかし、今、私の目の前にそれがある﹂
俺は、力強く言う。
79
声を大にしてというわけではない。
訴えかけるように、抑揚をつけて囁いた。
﹁あなた達は困窮している。ここに住み真面目に田畑を耕すのなら
ば、あなた達の生活を私が保障しましょう﹂
﹁おお⋮⋮おお⋮⋮っ!﹂
族長の体が小刻みに揺れ、瞳は段々と潤んでいく。
感動で打ち震えているのだろう。
族長の心の中は、暗闇に一筋の光を見いだしたかのような気持ち
に違いない。
俺は信用してもらえるように、もう一つ提案をする。
﹁もちろん断っても構いません。その際には、質問の対価である一
ヶ月分の食糧をしかと支払いましょう﹂
すると長は椅子から転げ落ちるような勢いで、大地に平伏した。
﹁どうかっ! どうかっ! この町に住まわせてください! お願
いします!﹂
﹁その願い聞き届けました﹂
俺は、できるだけ優しい声色で言った。
﹁ありがとうございます! ありがとうございます!﹂
族長は感無量といった有り様で、頭を地面に擦り付けている。
80
﹁さあ、立ってください﹂
俺は手を差し出し、族長はそれを掴んで立ち上がる。
互いに繋がった手は握手となって、その心を繋げた。
︱︱なんて臭い台詞が思い浮かぶくらいには、いい会談だったの
ではないだろうか。
だが、まだ一つある。
﹁族長、あなたに一つ明かさねばいけない秘密があります﹂
﹁えっ、それはなんですか?﹂
黙っていることはできない。
それでは将来に禍根を残すことになるからだ。
俺は握手をしている手を離すと、まずヘルメットをとり、ゴーグ
ルを外し、最後にフェイスマスクを脱いだ。
﹁あぁ⋮⋮っ!?﹂
族長は驚愕した。それはそうだろう。
彼らの不幸はどう考えても人間のせい。
そして、俺もまた人間であるのだから。
﹁私は人間です。もっとも、この大陸の生まれではありませんが︱
︱﹂
81
10.町人きたる 4
﹁あぁぁっ⋮⋮﹂
俺の顔を見た族長は、目と口を大きく開いて、体を震わせた。
そこには驚愕があるだけで、憎しみといった感情がないのは幸い
といっていいだろう。
﹁私が人間でも町の住人になってくれますか﹂
俺は、まるでこちらからお願いするように語りかける。
人間の彼らに対する態度は粗暴であった。
その粗暴さが逆に、礼儀をもって相対する俺の価値を高めてくれ
ることだろう。
すると族長は、驚きに開いていた口をゆっくりと結び、俺の瞳を
覗くように見つめた。
そして、なにか決意をしたように拳を握り込んだ。
﹁⋮⋮我々には他に道はありません。
それにあなたは私の知っている人間とは大分違うようだ﹂
ジハル族長は俺が人間と知っても、俺の手をとることを選んだの
だ。
その答えに、俺の頬は自然と綻んでしまう。
﹁では他の者への説得をよろしくお願いします﹂
82
﹁あのっ!﹂
﹁なにか?﹂
﹁フジワラ様が人間であることは、暫く秘密にしてもらいたいので
す。
なにぶん、この旅路で家族を亡くしたものもいますので⋮⋮﹂
族長の頼み。
確かに道理は通っている。
俺はそれを了解した。
俺が人間であることを族長さえ知っていれば、狼族に対して不誠
実を働いたことにならない。
あとは互いに信頼を築いたのち、ということで構わないだろう。
俺は、くれぐれも他の者に短慮を起こさせないようにと忠告して
ジハル族長を送り出すと、門の中へと戻った。
さて、ジハル族長が部族の者達を説得している間に準備をしてお
こう。
購入するのは⋮⋮とりあえず掃除用具と布団だけでいいか。
調理器具などは説明も含めて明日以降。
彼らも長旅で疲れているだろうし、早く休みたいに違いない。
俺は、﹃町データ﹄を呼び出して︻竹箒︼︻雑巾︼︻桶︼を購入。
計1万5000円。これを1番地区の各家に設置する。
︻掃除用具一式︼︻×47︼1万5000円×47=70万500
0円
83
狼族の人数は180人。
もし彼らが、1番地区の47軒の家に収まらなかった時は、別途
用意しよう。
さらにトラックの荷台には︻筵︼︵むしろ︶を用意。
︻筵︼︻×600︼2000円×600=120万円
この︻筵︼が彼らの布団となる。
余談ではあるが、江戸時代の普通の︻布団︼はこんな値段だった。
︻敷き布団・綿入り︼300万円
江戸時代の布団はこんなに高価なのかと、目を疑った。
いくらなんでもこれはないだろう。
これなら現代の布団を百倍の値で買った方が安いくらいだ。
では江戸の庶民はどんなのを布団にしていたかというと、︻筵︼
の他にペラペラな︻紙布団︼などがあった。
さらに︻夜着・綿入り︼なんていうのもあるが、これも︻敷き布
団・綿入り︼までとはいかないが、かなり高額な価格をしている。
どうやら︻綿︼が価格高騰の原因なようだ。
そして、そうこうしているうちに門が叩かれる。
﹁フジワラ様! 無事に話が終わりました!﹂
族長の言葉を聞き、潜り戸を抜けて門を出ると、そこには狼族の
者達が集まっていた。
緊張した顔をしている者、疑わしげにこちらを見つめてくる者、
不安な表情をしている者、すがるような表情をしている者、なにも
84
考えていなさそうな者。
それぞれが様々な表情を携えている。
俺は、皆の前でゴホンと咳払いをした。
それに反応し、ビクリと体を跳ねさせる狼族の者達。
﹁私がこの町の責任者です。
あなた達がこの町の住人になることは族長からも聞いたことでし
ょう。
この町の住人である限りは、私が責任をもってあなた達の衣食住
の面倒を見るつもりです﹂
全員に聞こえるよう、少し大きめのはっきりとした声で言葉を発
した。
辺りは、ざわざわとしたざわめきに包まれる。
﹁ただし! あなた達には必ず守ってもらわなければならないこと
があります!﹂
俺が声を張り上げると、シンと静まり返った。
﹁一つ! 悪事を行わないこと!
二つ! 真面目に働くこと!
三つ! この門の奥には決して立ち入らないこと!
四つ! 私になにか用がある時は必ず族長を通すこと!
以上です!﹂
また、ざわざわと騒がしくなる狼族の者達。
無理難題を押し付けられるのかと思っていたのだろう。
だが、俺が要求するのは当たり前のことだけだ。
85
﹁異論のある者はいますか!﹂
皆は再び黙り込む。
﹁ああ、もう一つありました。
私の指示には極力従うこと。
どうしても無理だと思ったら、拒否しても構いません。
ではこれより、君達の居住区に案内しますので、暫し待っていて
下さい﹂
俺は潜り戸を通って、自宅の敷地内に戻り、大型トラックに乗り
込む。
シートに座り、開いた乗車ドアをバタンと閉めると、自然に笑み
が浮かんだ。
このトラックを見た時の、彼らの驚く顔が目に浮かんだのである。
最初こそが肝心。
優しくするだけでは駄目だ。
格の違い見せつけるために、度肝を抜いてやらねばならない。
俺は、キーを挿しエンジンをかけてトラックを発車。
そのまま門の裏にまで移動する。
そこで一旦下車し、門の閂を外して、門を開く。
片側の門を開いた時点で、狼族の者達が好奇心から中を覗いた。
そこにあるのは半分だけその身をさらした大型トラック。
さらに、もう一方の門を開ける。
ここで漸く、狼族の者達は顔をギョッとさせた。
86
確かに、門を開いた先にこんなでかいものがあったらビックリす
るだろう。
しかも、音を出して震動しているし。
だが、まだ甘い。
俺は再びトラックに乗車し、窓から顔を出して叫ぶ。
﹁道を開けてください! 全員壁際に寄って!﹂
すると族長が、皆に指示を出し、全員が左右に移動する。
そこで漸く俺はブレーキを離した。
低速で動き出す大型トラック。
まさか動き出すとは思っていなかったのか、皆の驚きは恐々とし
ていた。
﹁う、動いたぞ!﹂
﹁ばっ、化け物だ!﹂
ああ、心地いい。
これぞ現代技術。
別に俺が凄いわけではないけれど、現代を生きていた者として、
とても誇らしい。
このトラックを前に、その場に踏みとどまれた者はいなかった。
これ
の真後ろには絶対に立たない
俺は途中で一旦停止し、尻餅をついていた族長に声をかける。
﹁これから私が先導します。
ように、ついてきてください﹂
そして、またトラックは動き出した。
87
16地区に分かれている町。
その1番地区の中程にある十字路に移動し、俺はトラックを降り
た。
北
→
西↑ ↓東
←
門
│││││┘
南
┐│││││
─ ── ─
─⑯ 15 ◎──◎ 14 ⑬─
門12 11 ◎──◎ 10 9門
─8 7 ◎──◎ 6 5─
─4 3 ◎──◎ 2 1─
─ ── ─
┌││││−┘門┐−││││└
┐││┘
|自宅|
┌││└
◎⋮⋮商店や旅館など
⑬⑯⋮⋮空き地
手には白の紙が挟まったバインダーとボールペン。
狼族の者達はトラックを警戒し、いまだ後方でゆっくりと歩を進
88
めている。
﹁早くこっちに来てください!﹂
その言葉に、先頭を行く族長が皆を急かしつつ足を早めた。
やがて皆が集結し、俺は話し始める。
﹁今からあなた達の住む家を決めます。
まずはこの地区の説明をしましょう。
ここには家六軒につき、井戸、風呂、厠が設置されています﹂
その場から移動し、井戸の前に立つ。
﹁これが井戸です。
蓋がしてありますが、外そうとしないように。また、蓋の上には
絶対に乗らないようにしてください。間違って蓋が抜け落ちでもす
れば死にますからね。では、実際に水を出します﹂
俺は手押しポンプを上下に動かした。
ハンドルを上に持ち上げる度に、水口部分がジャージャーと水を
吐き出す。
﹁︱︱と、このように水が出ます﹂
おお⋮⋮、という感嘆の声。
手押しポンプを見たことがないのだろう。
彼らの文明レベルが低いのか、それともこの世界の文明レベルが
低いのか。
だが、この町の長としては非常に気持ちがいい。
89
次に俺は、便所へと近寄った。
﹁ここが厠になります。
便の処理をする場所ですので、ここ以外の場所では決して排便を
行わないでください﹂
皆、ギョッとした顔になる。
なんだ? なにか変なことを言ったか。
いや、待てよ。
さてはこいつら、既にやりやがったな。
彼らが、ここに来てから何時間も経っている。
むしろ、やらない方がおかしいだろう。
﹁⋮⋮既にやってしまったことは、不問にします﹂
皆、あからさまにホッとした顔になる。
唯一の救いは、ここが雑菌の繁殖しにくい乾燥地帯であることか。
俺は、木製の小便器の前に立って言う。
﹁ここが男性が立って小便をするところです。しっかりと狙いを定
めて用を足してください﹂
特に反応はなし。
次に、隣の個室の戸を開ける。
﹁こちらは男女が座って用を足すところです。用途は言わずともわ
かると思います﹂
女性の排便に言及するのは憚られるので、説明は最小限である。
90
さすがに俺も恥ずかしい。
﹁便は決められた者が、毎日捨てにいってください。
疫病の原因になりますので絶対に毎日ですよ?
捨てる場所は、南の遠く離れた地に穴を掘って、そこに捨てても
らいます。
明日、実際に行ってみましょう。
また、これは大変嫌な作業なため、担当者には酒を振る舞います﹂
おおっ⋮⋮と酒が好きそうな男連中が嬉しそうな声をあげた。
酒は、この汚い作業に対し、横着をする者が出ないようにするた
めの配慮だ。
ちなみに便を肥料として使う案は却下。
確かに便は肥料として優れたものであるが、一つ間違えば寄生虫
まみれの作物ができてしまうのである。
戦後間もない頃、米兵が日本の野菜を生で食べて食中毒を起こし、
マッカーサーがぶちギレたのは有名な話だ。
﹁では次に︱︱﹂
それからも俺は、ここが風呂場、ここが下水道、といった風に順
々に説明していった。
91
11.町の始まり 1
﹁今から、それぞれが住む家を決めてもらいます。
あ、一番端の大きいのは族長の屋敷ですので、それ以外ですね。
では、族長の屋敷の隣の家から、誰かいませんか?﹂
まるでどこかのオークションな言い回しだ。
されども、手を挙げる者は誰もおらず、皆、他の者の顔色を窺う
ばかり。
すると、見かねた族長がある者の名前を呼んだ。
﹁ゾアン! 前に出ろ!﹂
﹁は、はい!﹂
返事をした方に顔を向けると、この部族の中でも毛の薄い、人間
に近い者が前に出る。
毛の薄さもそうであるが、顔にはどこか族長の面影があった。
親類の者だろうか。
﹁名前は?﹂
﹁ぞ、ゾアンと言います﹂
﹁家族はいますか?﹂
﹁あ、はい。おい、お前!﹂
92
すると、ゾアンよりもよっぽど毛深く、鼻などは狼のように黒い、
人間と狼の中間のような女性が、子供の手を引いて現れる。
﹁名前を教えていただけますか﹂
﹁ら、ラグリと言います﹂
名を尋ねると、女性︱︱ラグリが緊張したように答えた。
俺はその名をスラスラと手元の紙に記入していく。
文字はこちらの世界のもの。
神様は言葉だけではなく、文字の知識もくれていたのだ。
﹁そちらの子は?﹂
ラグリと繋いでいる手とは反対の手の指を口にくわえている子供。
俺がその子の名をラグリに尋ねると︱︱。
﹁メグ!﹂
ラグリに聞いたつもりが、子供が答えてくれた。
大人よりも、怖いもの知らずなせいか、メグは俺に対しヒマワリ
のような笑顔を見せる。
﹁メグちゃんは女の子かな? 男の子かな?﹂
屈んで視線を子供にあわせて尋ねた。
正直、ちょっと変態的な感じがするが、気のせいだろう。
﹁女の子!﹂
93
はにかみながら、メグは答えた。
素直ないい子じゃないか。
俺は少し嬉しい気持ちになった。
そして、立ち上がってゾアンに言う。
﹁では、あなたの家は族長の屋敷の隣、ここ1番地区の第1区画の
2番目、1の1の2の家になります﹂
﹁え、1の⋮⋮?﹂
住所を番号で数えるという概念がないのだろう。
ゾアンは訳もわからず聞き返した。
﹁1の1の2。今は覚えなくてもいいですよ。
また後で族長に説明しますので、皆でゆっくりとこの町の常識を
覚えていきましょう。
︱︱あ、ちょっと待っててください﹂
俺は一言断るとトラックに乗り込む。
当然、皆の視線は俺に集まっている。
俺は座席の陰で﹃町データ﹄を呼び出し、︻金平糖︼を購入して、
トラックを降りる。
︻金平糖︵袋入り︶︼9000円︵巾着袋3000円︶
﹁メグちゃん、手を出してみて。いいものをあげよう﹂
いいものという言葉に反応してメグは母親の裾を掴んでいた片手
を離して、両手を差し出した。
両親はおろおろとしているが、子供はこれくらい素直な方がかわ
94
いい。
俺は袋の中から、金平糖を一粒取り出して、メグの小さな手のひ
らに乗せた。
﹁口に含んでペロペロと舐めてごらん﹂
決してイヤらしい意味で言ったわけではない。
だが、元の世界では間違いなく通報事案だろう。
そしてメグは金平糖をパクリと口に含む。
﹁⋮⋮? ︱︱っ!?﹂
モゴモゴと不馴れな風に口の中を動かして、やがて目を見開いた。
﹁おいしい!﹂
その顔は今までにないほどに喜色に彩られた。
俺も笑顔になるが、生憎とゴーグルとフェイスマスクを着けてい
るため、こちらの感情は伝わらない。
だからせめてウンウンと大仰に頷いておいた。
ところで、なぜ飴ではなく金平糖なのか。
これについては値段云々よりもその大きさに理由がある。
前の世界の話であるが、子供が飴を喉に詰まらせて亡くなる事故
は結構多いのだ。
さすがに喉つまりの帝王である餅よりかはマシだったが、たしか
ご飯やパンについで、死亡ケースの4位か5位くらいにつけていた
はずである。
﹁では、この後、ゾアンさん達は自由行動です。家の中には掃除道
95
具がありますので、掃除するもよし、体を休めるのもよし。
夕飯時には、また呼びます﹂
それから次々に家々の住人が決まり、俺は手元の用紙に住所と名
前を書き込んでいった。
もちろん子供には一粒ずつ金平糖を与えておく。
将を射んとすればまず馬から。
なんていうつもりはないが、子供の心を甘いもので釣っておくと
いうのは悪い手ではないだろう。
時折、大の大人が物欲しげに見つめてくるのが印象的だった。
そして最後に族長の家に住む者の名を書き取って、家の割り振り
は完了。
狼族180人という数は1番地区に収まらないのではと思ってい
たが、それは杞憂であり、結局のところ家を2軒も余すところとな
った。
﹁これで終わりです。族長も後は自分の家の掃除でもしていてくだ
さい﹂
﹁わかりました。⋮⋮あの、フジワラ様﹂
﹁はい?﹂
﹁本当にありがとうございます﹂
深々と頭を下げる族長。
その長く茶色い髪の毛には、たくさんの白い毛が混じっている。
96
ここにたどり着くまでに何人死んだのかは聞いていない。
当てのない旅。
一族の長として、どれだけ不安だっただろうかは想像もつかない。
﹁⋮⋮私が好きでやっていることです。気にしないで下さい﹂
どんなに善意を振り撒こうとも、俺の根底にあるものは私利私欲
のため。
だが、感謝されて悪い気はしない。
願わくば、持ちつ持たれつの互いにとっていい関係を、築いてい
きたいものだ。
︱︱こうして俺は、町に念願の住人を迎えることができたのであ
った。
97
12.町の始まり 2
狼族の者達が町の住人になった日の翌朝のこと。
いつもはのんびりと惰眠を貪るところであるが、その日は目覚ま
し時計のデジタル音にて、俺は起床した。
朝起きてまずやることは、狼族の者達の朝食を用意することであ
る。
メニューについては、贅沢を覚えられても困るので、昨日の昼夜
に出した食事と同じものだ。
やがて門前にて食事の準備ができると、族長の家に行き皆を集め
るように言う。
それにしても、いちいち出向くのは面倒くさい。
今後、わざわざ此方から行かなくていいよう、族長の家には有線
電話でも繋げようと思う。
しばらくして全員が集まると、漸く朝食の時間が始まった。
皆、昨日と同じ食事であっても文句を言うことなく、誰も彼もが
美味しそうに食べていた。
朝食後は少しばかりの休憩。
その後に、釜や鍋、薪や火打ち石などの調理器具や、米などの食
料品の受け渡しを行い、さらに調理方法の説明を行った。
とはいえ、昔の調理方法など俺自身よくわからないので、説明と
いっても精々米を炊く時の水の分量を教えるぐらいな物だ。
後は、彼らが経験していくことで、料理の腕を高めていってもら
いたい。
98
それが終わると、着替えの服を渡し、五右衛門風呂について実際
に湯を沸かしながらの説明を行った。
彼らはここに来てからまだ風呂に入っておらず、とても臭い。
説明後は風呂に入るよう指示をした。
これで午前中は終わりである。
午後からは町中の草抜きを族長に指示した。
集めた草は自宅敷地前に置いておくように言ってある。
なにせ、草はカトリーヌの大切なご飯であるからして。
そして、その間にもこの土地の土壌の性質を調べようと思う。
今回使うのはこれだ。
︻土壌酸度検査液︼6万円︵定価600円︶
まずは外から持ってきた土をコップに入れて、さらに現代の︻水
道水︼を入れてかき混ぜる。
その後、土が下部に溜まるまで待ち、上部のきれいな水を試験管
にとる。
最後に、試験管に試験液を加えてよく振り、その色によって酸度
を判定するのだ。
﹁⋮⋮やはり弱アルカリ性か﹂
試験管の色を見て、ただ者ではない風に呟くが、手にあるのは﹃
馬鹿でもできる初めての農業!﹄という本。
この地の土壌は、砂漠の周囲に広がる栗色土。
元の世界では黒色土︵チェルノーゼムやプレリー土︶に次いで農
99
業に適しているとされる地である。
乾燥地であるため、作物に必要な栄養が雨などに流されず土壌に
残っている肥沃な土だ。
ただし問題もある。
土壌の酸度は弱アルカリ性を示しているが、作物の中でアルカリ
性を好むものはほとんどないのだ。
では、弱アルカリ性の土壌を作物に適するようにするにはどうす
ればいいか。
パッと思い付くのは、酸性肥料を混ぜてアルカリ性土壌を中和さ
せること。
酸性の土に対して、アルカリ性肥料である石灰を撒くのはよく知
られるところだ。
ならば、その逆だってありだろう。
ただし、手元の本には酸性土壌をアルカリ土壌にする方法は載っ
ているが、アルカリ土壌を酸性にする方法は載ってないので、俺の
考えが合っているかはわからない。
何故本に載っていないのかについては、日本には基本的に酸性土
壌しかないからではないかと愚考してみる。
というわけで、俺は﹃町データ﹄を呼び出した。
﹁むむっ﹂
購入リストの︻肥料︼を眺めていたら、0円のものを発見。
︻腐葉土︼0円
100
よし購入だ。
俺は一旦家の外に出て、︻腐葉土︼を購入した。
茶色い大地の上に、現れる黒い土。
林の中でよく見かける、草木や葉っぱが腐ってできた土だ。
俺はその土をとって、先程と同様に酸度を調べた。
﹁おお、弱酸性だ⋮⋮﹂
日本の土だから酸性なのか、それとも腐葉土だから酸性なのか。
まあ、どうでもいいことだ。
俺は︻腐葉土︼の購入ボタンを連打。
購入場所は町の外。
自宅の裏側には、黒い腐葉土の小山が幾つも築き上げられた。
さて、これで土壌の酸度については解決した。
ならば次は別の問題について考えていこう。
乾燥地とは雨が降らない地、すなわち水がない地のことである。
そして、水がなければ作物は育たないのは基本中の基本。
つまり乾燥地で水を得るにはどうすればいいか、というのが次の
問題である。
しかし、この問題に関しては考えるまでもないことだ。
東にある川の水を引っ張ってきて、灌漑農業を行えばいいのであ
る。
地下水を、とも考えたが、莫大な量を使うだろうし、そのせいで
101
地下水が枯渇されては困る。
俺がこの世界に来る前、アメリカの地下水に頼りきったカリフォ
ルニア州が、雨も降らずとうとう地下水を使いきり、大干ばつを起
こしていた。
大地は干からび、陥没し、とんでもない有り様であったことを記
憶している。
それの二の舞はごめんだ。
せっかく北から流れる大河があるのだから、それを使うべきであ
る。
︱︱と、ここまでは誰もが考えつくだろう。
しかし俺は、本を読んでいてある一つの問題にぶち当たった。
それは塩害。
乾燥地で起こる塩類集積現象。
乾燥地での水の使用は、地中から塩類を運びこみ、それは土表面
に集積され作物の育成を阻害するのである。
仕組みとしては、こうだ。
水を撒く ↓ 土が枯れているため水を吸収しやすく、地下深く
にまで浸透 ↓ 水は地下にあった塩類を吸収し、熱によって再び
地上へ ↓ 蒸発する水、土表面には塩類のみが残る
︱︱といった感じである。
元の世界では将来的な食料問題がよくとりざたされていた。
これは偏に人口増加と、塩類集積により農業に使える地がどんど
んと減っていたからだ。
102
予防策としては作物にピンポイントで水をやり、水の土壌浸透を
最小限にする点滴灌漑。
これは確かに素晴らしいが、設備投資に凄まじい額がかかる。
なにせ作物一つ一つに水道の蛇口を割り当てるようなものだ。
想像するだけでも途方もない。
他の予防策としては、畑を水田にして給水と排水を行い、水の流
れによって塩類を溜めておかないようにすること。
また対処としては、集積した塩を膨大な水で洗い流すという手が
ある。
大量の水による除塩は本来、莫大な金がかかるところであるが、
あいにくと俺は水を無料で購入でき、後は排水できるように地形を
整えるだけで済む。
しかし、これは俺の能力を他の者に披露することになりかねない。
やはり極力水を抑えた農業を行うことが重要だろう。
すなわち、水をあまり必要としない農作物を育てるのである。
では乾燥に強い作物にはどんなものがあるか。
主食となる穀物はトウモロコシ、ジャガイモ、さつまいも、豆類。
野菜ならトマト、ナス、ピーマン。
果樹としてブドウにナツメヤシ。
こんなところだろう。
﹃町データ﹄の商品を見てみれば、それらの種や苗など、全ての
名前がある。
もちろん品種改良された一代雑種︵一代限りの調整種子。固定種
よりも質は高いが、二代目以降は遺伝子が崩れ、一定な物はできな
103
い︶もあれば、固定種︵二代三代と世代を重ねても一代目と同様の
ものができる︶もあった。
さて、これで農業に関しては大体の目処がついた。
明日以降は畑を耕して、種まきをしようと思う。
輪作などもよく考慮して、何を植えるか決めよう。
ああ、それから最初は収穫の喜びを知ってもらうために、二十日
大根でも植えるか。
あ、そうだ。
畑の区割りを今のうちにしておこう。
江戸時代の畑の大きさの基準は一反⋮⋮約1000平方メートル
だったか。
たしか江戸時代の人が一年食べる量の米が一石であり、それがと
れる畑が一反だったはずだ。
まあ、今のところ米をつくるつもりはないから、あまり関係ない
かもしれないが、田畑の基準としてはいいだろう。
俺は︻巻尺︼と︻木杭︼を購入し、一人で検地を行っていく。
その後、町中の草むしりを終えた狼族の者も加わり、検地を終え
た場所から草むしりを始めていった。
︱︱町はゆっくりと動き始めていた。
104
13.町の始まり 3
町ではとうとう農耕が始まった。
畑を耕し、苗を植える。
正直、教本頼りの浅知恵しかなく、実験的な域を出ていない農耕
であるが、一つのスタートラインに立ったのではないかと思う。
あとは少しずつ経験値を積んでいき、よりよい農業へと発展させ
るだけだ。
それだけではない。
狼族は、慣れない町の生活に試行錯誤を繰り返しながら、日々を
暮らしていた。
︱︱それから時は過ぎ、狼族の者達が町の住人になってから約一
ヶ月が経った。
照りつける日差しが眩しい。
家の外にかけられた︻温度計︼は30度を超えているが、湿気が
ないため、日本の夏よりも過ごしやすいといえるだろう。
しかし、ここは砂漠の隣の地。
これからどれだけ気温が上がるのだろうか、と心配ではあった。
また、一ヶ月という月日により、我が町民も町の生活に大分慣れ
たようである。
そしてその日は、︻二十日大根︼の収穫が行われていた。
町の外、薄い布幕が張ってある畑。
105
布幕は、暑い気温を調整するものであり、その中には狼族の者達
が、畑の窪みに合わせてズラリと並んでいた。
﹁では、抜くぞ?﹂
ジハル族長が大地から延びている葉を掴むと、観衆の中にはザワ
ッとした期待がみなぎった。
ゆっくりと慎重に、腕を引く。
すると特に大きな抵抗もなく引き抜かれたのは、とっても小さく
て赤くて丸い根をもった二十日大根。
それが頭上に掲げられると、ワッ、という歓声と共に拍手が鳴っ
た。
自分達で育てた作物の初めての収穫。
普段は農作業に参加していない子供や女性陣まで参加し、自分達
のこの町に来てからの成果を見届けていたのである。
布幕の外から覗いていた俺も、とても喜ばしい。
というわけで初収穫に際して、俺は宴会を催すことにした。
食材は今までに一度も出したことがない︻肉︼。
日本は仏教の影響を受けて以後、肉食は禁忌とされており、それ
は幕末まで続く。
そのせいか、江戸時代の食肉で購入できるものは︻鶏肉︼以外な
い。
もちろん現代価格ではどんな︻肉︼も購入可能ではあるが。
俺は大量の︻鶏肉︼、さらに︻醤油︼や︻塩︼︻胡椒︼などの調
味料、樽に入った︻日本酒︼を購入。
加えて、会場設営のための︻机︼、会場で肉を焼くための︻鉄板︼
106
︻油︼︻石︼も用意。
それらを自宅の門前に置いておいた。
あとはジハル族長に任せれば万事うまくいくことだろう。
俺自身は宴会に参加するつもりはない。
昔から宴会というのは苦手である。
人に気を使うというか、なんというか。
ここでは俺が一番偉いため、誰かに気を使う必要などない。
だがその場合、他の誰かが俺に気を使うことになるだろう。
まあ、上司の粋な計らいというやつだ。
とはいえ、皆が酒を飲んでいるのに、俺だけ飲まないのは寂しい
ので、家でカトリーヌと共に今日の収穫を祝おうと思う。
やがて、辺りが夜に包まれると、町の方からは、自宅にまで宴会
の賑やかな声が聞こえてきた。
俺は、地面に座り込むカトリーヌを背もたれに、雲一つない星空
を肴にして、チビりチビりと缶チューハイを飲んでいた。
すると家の中からジリリリリという電話の音が鳴り響く。
ジハル族長の家と俺の家とを、地中の有線で繋げたものだ。
俺は何事かと思い、家に入って受話器をとった。
﹃あ、フジワラ様ですか? ジハルです﹄
﹁どうしましたか?﹂
﹃皆がフジワラ様に是非お礼を言いたいと申しておりまして⋮⋮﹄
107
少し考える。
まあ来てほしいというのなら、行くのもいいだろう。
俺はすぐに宴会場に向かうことを伝えて、電話を切った。
いつもの服装に着替えた後、徒歩で宴会会場となっている建物の
ない13番地区へ。
﹁おお! フジワラ様!﹂
顔を若干赤くした族長が俺を見つけて、名前を呼んだ。
﹁フジワラ様が来てくださったぞ!﹂
﹁フジワラ様だ!﹂
俺の参上に一同は大盛り上がりである。
少々こそばゆい。
フェイスマスクの下で頬が熱くなったのは、俺が先程まで酒を飲
んでいたからというわけではなさそうだ。
俺が上座に座ると、目の前に料理が運ばれてくる。
しかし、ここであることに気がついた。
俺は顔を隠しているのだ。
これでは料理を食べられない。
さあ、どうするべきか。
フェイスマスクの目元の隙間から無理やり顎まで空間を広げて、
食事を食べることは可能だ。
鼻と口が露になるが、狼族の者の顔は人間とそう変わらない者も
多くおり、特に問題はなさそうである。
108
だがその時、俺にある一つの思いが芽生えた。
それは、もう顔を見せてもいいんじゃないか、というものだ。
正直、一々外を出歩くのに全身を防具で覆うのはめんどくさいの
である。
かれこれ一ヶ月。
彼らに恩は売った。
もう時は熟したことだろう。
俺は考えを決めると、族長に許可をとらずに、ヘルメットとゴー
グル、フェイスマスクを外した。
﹁あ⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮?﹂
何人かが俺の容姿に気づく。
﹁ふ、フジワラ様っ!﹂
狼狽えるようにジハル族長が俺の名を呼んだ。
そして誰かが呟く。
﹁人⋮⋮間⋮⋮?﹂
俺と狼族との大きな差異は耳の位置。
耳が頭の横についているか、上についているか、である。
ヘルメットをとれば、すなわち一目瞭然であった。
俺が人間であることへの驚き、それは波紋のように広がって、動
109
揺を呼ぶ。
だが、そんなものは想定済みだ。
﹁そうだ、見ての通り私は人間だ!﹂
だからどうしたと言わんばかりに俺は叫んだ。
酒によって少し気持ちがたかぶっていたのかもしれない。
俺は言葉を続ける。
﹁だが他の人間とは違う! 私は別の大陸からやって来た人間であ
る! そして今日ここで顔を見せたのは、あなた達に私のことを信
頼してほしいからだ!﹂
そういえば、丁寧語を使うのを忘れていた。
やはり酔っているようだ。
﹁この町を皆と共に発展させていきたい! ただそれだけが︱︱﹂
︱︱私の望みである。
そう言おうとしたのだが、それはガチャンという、けたたましい
音によって遮られた。
何が起きたのかと俺を含めた皆が音の発生源に目を向ける。
すると、そこにはひっくり返された料理と机があった。
犯人は、体格こそ成人であるが、顔にはあどけなさを残す少女。
何度か顔を見たことがある。
いつも顔に憂愁の影が差していた。
だから酷く目についた。
そんな彼女が、俺を睨み付けて言う。
110
﹁人間の言うことなんて信用できるか!
あたしの母さんは旅の途中、腹をすかせ、病気になって死んだん
だ! 人間があたし達の住みかを奪わなかったら、母さんは死なな
かった!﹂
なるほど。
彼女のこれまでの苦しそうな顔のわけがわかった。
だがこの程度、予想の範疇だ。
俺は彼女の言葉に言い返そうとして︱︱。
﹁食べ物を粗末にするんじゃねえッッ!!﹂
若い男の鉄拳が少女をぶっ飛ばした。
え⋮⋮?
俺はあまりの事態に唖然となった。
もう一度言おう、突然走り込んできた若い狼族の男が、狼族の少
女をぶん殴ったのである。
男が手加減をした様子はない。
強烈なパンチがか弱い少女に突き刺さっていた。
暴力反対を心情とする俺としては、目を背けたくなるぐらい強烈
なもので、恐怖から思わず腰の銃に手をやったほどだ。
そして男は少女の胸ぐらをつかみ、なおも少女を殴り付けようと
している。
﹁そ、そこまで! 誰か止めて!﹂
111
俺は焦るように叫んだ。
その声に従うように、族長が周りの者に止めるよう指示を出し、
俺同様唖然としていた者が動き出す。
少女を殴り付けた青年は、止めに入った者に羽交い締めにされな
がら叫んだ。
﹁食いもんで苦労してきた俺達が、食いもんを粗末に扱うなんて、
やっちゃなんねえことだろうが!﹂
真理だった。
食は命。
元の世界では食べ物の大切さをつい忘れがちになるが、人は数日
食べなかっただけで容易く死んでしまうのだ。
狼族も同じであろう。
そして、食べ物を手に入れるのがより難しいこの世界において、
食べ物の価値は元の世界よりも、はるかに尊いものである。
ちなみにどうでもいい話になるが、ラクダの背中のこぶは脂肪で
あり、水を一度に数十リットルも摂取できるので、数日間飲まず食
わずでも死ぬことはない。
カトリーヌは凄いのだ。
﹁ぐ、くっ⋮⋮うぅぅ⋮⋮!﹂
さて、食事の大切さを青年が叫んだ後、少女は涙を堪えるように
泣き始めた。
殴られた痛みによるもの、ではないと思う。
きついなあ。
112
おまけに小さな子達まで怒声に怯えたのか、ワンワンと泣き始め
ている。
﹁あの、よろしいですか!﹂
俺はこの事態を打開するために動いた。
すると俺の張り上げた声に、皆がこちらを向く。
﹁私を信用できないという方もいるかもしれない! なるほど、確
かにそうだ!
何故なら私は人間! この大陸の者ではないとはいえ、あなた方
を害してきた人間という種であることは変えることができない事実
なのだから!﹂
よく舌が回る。どこまで本気かは自分でもよくわからない。
酔いのなせる技、いや、酔っているからこそ、偽りのない心の内
を語っているのかもしれない。
﹁︱︱それゆえ、あなた達がこの地を出て行こうとも私は咎めはし
ない!
だが、願わくば共に町を発展させていきたい、そう私は思ってい
る!﹂
俺はそれだけ告げるとその場を辞した。
彼らには落ち着いて考える時間が必要だろう。
﹁フジワラ様ッ!﹂
わずかに遅れて、族長が追いかけてくる。
その顔には不安の色が見てとれる。
113
俺は族長の言葉を待つことなく言った。
﹁私からあなた方を切り捨てることはありません。
それから、あの少女が皆から責められることがないようお願いし
ます﹂
顔を見せるのは少し早かったかな、と思いつつも、いつかは通る
道であるという考えもあった。
願わくば、雨降って地固まるの諺のとおり、今回の件が互いの信
頼に結びつけばいいと思うばかりである。
114
14.町の始まり 4
宴会の一件より一夜明けた翌朝、俺はジリリリリという電話のベ
ルによって目を覚ました。
時計を見ればまだ7時。
いつもなら、ぐーすかぴーとまだ寝ている時間である。
こんな朝早くに電話が鳴ったことは今まで一度もない。
これはなにかあったか。
そんなことを思いながら、俺は寝惚け眼で電話に出る。
すると受話器の向こうからは族長の声が聞こえた。
﹃フジワラ様、ジハルです﹄
﹁どうしました﹂
﹃申し訳ありません、今日の作業は幾人か休ませてもらえませんか﹄
﹁なにがあったのか理由を言ってください﹂
﹃その⋮⋮﹄
言いにくそうにしている族長。
部族の中で何か問題があったのは明らかだ。
原因は昨日の一件によるものだろう。
115
﹃ミラが⋮⋮昨日問題を起こした娘が、いなくなってしまったんで
す⋮⋮﹄
﹁彼女だけですか?﹂
﹃はい﹄
﹁いつから?﹂
﹃わかりません。恐らく夜の内にだとは思いますが⋮⋮﹄
﹁この町のどこかにいる可能性は﹂
﹃今捜索中です。しかし、西の門が空いていたので⋮⋮﹄
﹁わかりました。一度、門の前に皆を集めてください﹂
眠気は既に醒めていた。
電話を切り、家の外に出ると俺はトラックの準備をする。
敷地の端に置かれたドラム缶、その中にある︻軽油︼を燃料タン
クにポンプで注入。
燃料を満タンにした後は、トラックを門の後ろに移動させる。
閂を外して門を開けると、外には狼族の者達が集まっていた。
俺は皆を後ろに下がらせ、トラックを門の前に停止させる。
その後、下車し、族長から話を聞いた。
﹁族長、町の外にミラさんの足跡はありましたか?﹂
116
﹁ありません。
ですが、もしミラが町の外にいたとしても、地面は固いため足跡
が付きにくく、風で舞った砂にすぐ消されてしまうでしょう﹂
﹁ふむ。
では、もしミラさんが町から出ていったとして、その行き先は、
川沿いに南へ向かったのではないかと思いますが、どうですか?﹂
﹁はい、私もそう思います。
北は私達が来た道を戻ることになりますし、東には川が邪魔して
います。西に行った時はもう⋮⋮﹂
西に向かった際の予測に関して、族長は言葉を濁した。
西に行けばまず見つからない。
標となるものがなく、どこに向かったのかわからないからだ。
﹁では族長は、皆を率いて町中と町周辺を探してもらえますか?
私はトラックで南を探しにいきます﹂
﹁わかりました﹂
俺は族長から、集まった狼族達へと顔を向ける。
﹁これから、このトラックでミラさんを捜しにいきます。族長以外
の者で誰か一人、私と共に来る者はいませんか﹂
群衆にザワリとためらいが走った。
それは彼らが、トラックに対して畏怖のようなものを感じている
からである。
そんな中、前に出てくる者が一人。
117
﹁ボズガドといいます。俺を連れていってください﹂
昨日、ミラを殴りつけた青年だった。
﹁いいでしょう。
では、ジハル族長、町での指揮をお願いします。
捜索している者が新たな遭難者にならないよう注意してください﹂
狼族の者達は族長の指示に従い再び捜索を開始。
俺は、ボズガドにドアの開閉の仕方を教え、助手席に座らせる。
さらにシートベルトをつけさせ、簡単な注意事項を述べた後、俺
も運転席に乗った。
トラックが動き始めるとボズガドは身を固くするが、すぐに慣れ
ることだろう。
俺は西門より町を抜けると、南へ向かってトラックを走らせた。
タイヤの回転にあわせて砂煙が舞う。
大地は一見すると平らではあるが、コンクリートの道路とは違い
ところどころに凸凹がある。
ミラがそれを利用して隠れてしまえば、見つけることは困難であ
ろう。
それゆえ、時速は40キロ。
低速で、よく辺りを観察しながらトラックを運転しなければなら
なかった。
また助手席においては、ボズガドが俺の渡した双眼鏡で周囲を探
っている。
118
﹁フジワラ様﹂
双眼鏡を下ろしたボズガドが不意に口を開いた。
﹁なんですか﹂
﹁ミラを、許してやってはもらえませんか﹂
なんだそんなことか、と俺は思った。
﹁ミラはフジワラ様をとてもよく思っていました。
特に自分より小さい子には、腹一杯に食べられる幸せと、それが
フジワラ様のおかげだということを日頃から言って聞かせていまし
た。
でもそれと同時に、もっと早くフジワラ様に出会えていればと悲
しんでもいたのです﹂
﹁お母さん、ですか⋮⋮﹂
﹁はい。ミラの父は、ミラが物心つく前に亡くなりました。その分
余計に母親への愛が深かったんだと思います。
旅の途中、ろくに物が食べれず、体が弱り、病気にかかってミラ
の母親は亡くなりました﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
︱︱親。
俺にも両親がいる。
ごくごく普通の親だ。
俺がいなくなった世界では、人並みに悲しんでいることだろう。
119
俺は別の地で生きている。
それだけでも伝えられたら、どんなに救われるか。
しかし、それは決して叶うことはない。
だから俺は、これまで両親のことをあまり考えないようにしてい
た。
﹁両親を失った気持ちはよくわかります。だから大丈夫ですよ﹂
俺がそう言うと、ボズガドは一言だけお礼を口にして、また周囲
を捜し始めた。
南へと走り続けるトラック。
町を経ってからかれこれ一時間が過ぎていた。
ミラがいつ頃に町を発ったのかはわからないが、さすがに追いつ
いていなければおかしい距離ではないだろうか。
見過ごしたのか、それとも南には来てなかったのか。
もしかしたら、北の母が死んだ場所に向かったのかもしれない。
そんなことを思った時であった。
﹁いた! いました! ずっと前に!﹂
叫んだのはボズガド。
俺はアクセルを強める。
やがて俺の目にもミラの後ろ姿が見えた。
向こうもこちらに気づいていたらしく、逃げるように走っており
120
︱︱そして転んだ。
トラックはあっという間にミラへと追い付いた。
﹁ミラ!﹂
トラックを降りて、駆け寄るボズガド。
ミラは弓を持っていたが、とりあえずこちらを攻撃する意思はな
いようである。
そしてボズガドの手にあっさりと捕まった。
ここまでの距離を考えたならば、ミラは夜通し歩いていたに違い
ない。
疲労し、抵抗する力もないように見えた。
俺もまたトラックから降りて、ミラの下へ行く。
すると俺を一瞥したミラは、俺から視線をそらした。
ばつが悪い。合わせる顔がない。
そんな感情を持っているような印象を受けた。
﹁あなたのお母さんのことは聞きました﹂
俺の口から出た母という言葉。
ミラからはキッと睨み付けられるが、俺は構わずに言葉を続ける。
﹁この先には砂漠という、植物が一切生えない土地しかありません。
行っても死ぬだけですよ﹂
﹁それでもいい! 死んで、母さんのところに行くだけだ!﹂
121
﹁馬鹿なことを言うんじゃないっっ!!﹂
俺は怒るように叫んだ。
これまで、彼らと暮らしてきた一ヶ月、俺が怒りを露にしたこと
は一度もない。
だからだろうか、ミラもボズガドもとても驚いた様子を見せた。
俺はそのまま言葉を続ける。
﹁君が死んで、君の大好きだったお母さんが喜ぶと思っているのか
っ!﹂
俺の内心は別に怒っているわけではない。
俺が今口にしているのは、ミラを町に戻すためのありきたりの説
得術だ。
それゆえ、俺がもしミラと同じ立場であり、同様のことを言われ
たなら、俺はきっとその相手を疑うだろう。
それほど元の世界では使い古されたうさんくさい言葉。
しかし、この世界では漫画やドラマなどでそんなありきたりのシ
チュエーションを目にする機会もなく、俺の発言はとても新鮮に映
るはずだ。
﹁お母さんだけじゃない、他の者達だってみんな悲しむ!
今だって君を探して、皆頑張っている!
そんな彼らを悲しませるつもりか!
君の命は、君だけのものじゃないんだぞ!﹂
俺の言葉が心を打ったのか、項垂れるように沈黙するミラ。
俺は、今度は声のトーンを落とし、慰めるように言った。
122
﹁君のお母さんはさ⋮⋮君の笑っている姿をなによりも望んでいる
んじゃないのかな⋮⋮?﹂
その言葉が決定的であった。
ミラはその場で泣き出したのである。
彼女自身、自分の行動が感情に任せた愚行であることをわかって
いたのだろう。
なんにせよ、﹃勝った⋮⋮論破完了⋮⋮﹄であった。
そして帰り道。
ミラを乗車席の真ん中のスペースに乗せて、俺は町へとトラック
を走らせる。
その中でこんなことを俺は彼女に言った。
﹁たとえば、人は一人で生きていけるか? という問いがあるとす
る。
その答えは、はい。
一人で生きていける、だ。
だがね、一人より二人、二人より三人。多くの者が助け合うこと
によって、人はより豊かな生活を得ることができる。
私は贅沢者だ。
ただ君達に施しているわけではない。
私がより良い暮らしをするために、君達を助けているんだ。
そしてこれは暮らしだけに限ったことじゃない。
一人より二人、二人より三人、皆が笑顔になれば、より私の笑顔
も深まっていくんだよ﹂
どこかで聞いたような臭い台詞。
でも、間違ってないからこそ、その台詞はありきたりなものにな
ってくんだと俺は思う。
123
15.狼族
ミラは無事に連れ戻され、町にはまた平和な日々が訪れていた。
︱︱そして一連の騒動より数日後。
その日、畑仕事を終わらせた狼族の者達は、夕食をとり、風呂に
入って、一日にすべきことを概ね完了させていた。
空には夜の帳が下りている。
されども雨の降らない地であるために、月の光が何物にも遮られ
ることなく大地に注がれて、辺りには照明がなくとも足下の視界を
明瞭にするほどの明るさがあった。
そんな中、複数の足音が大地を鳴らした。
町の第一区画の狼族族長ジハルの屋敷に、続々と狼族の男衆が集
まっていたのである。
﹁よう、なんの集まりか知ってるか?﹂
﹁いや、俺はなにも聞いてねえぞ﹂
次々に狼族の男衆が、族長の屋敷に入っていく。
屋敷の内部は、部屋と部屋とを遮る襖が外されて、四つの部屋が
繋がっていた。
できあがったのは縦長の大部屋。
開けっ広げの窓より注ぐ月の光が、その部屋の一番奥に座るジハ
ル族長を照らしている。
124
やがて、族長は誰に言うでもなく一人呟いた。
﹁これで全員か﹂
族長の前には狼族の男達がズラリと並んで座っており、今、最後
の一人がやって来たところである。
族長の家に住む孤児達は、今は別の家に預けられており、そこは
密談の様相を呈していた。
﹁どうだ、ミラの様子は﹂
﹁人一倍畑仕事を頑張ってますよ、お父さんもよく知っているでし
ょう﹂
ジハルの質問に答えたのは、男衆の最前列に座る息子のゾアン。
﹁うむ、そうだな﹂
ジハルはニンマリと暖かみのある笑みを浮かべた。
長たる者、一族の親とならねばならない。
すなわち、ミラもまた己のかわいい娘であった。
﹁それで今日はなんなんだ、長。明日も早いんだから、手早く済ま
せてくれよ﹂
床に足を折り敷く男達の中、一人の男が声を上げた。
﹁他でもない、フジワラ様のことだ﹂
族長は真剣な顔を見せた。
125
それは、町の長たる信秀の前では決して見せない顔だ。
一同にザワリとした緊張が走る。
ある者は拳を強く握り、またある者は唾を飲み込んだ。
﹁俺は嫌だぞ!﹂
何を想像したのか、ある青年が立ち上がって声をあげた。
その名はボズガド。
信秀と共にミラを捜しにいった男である。
﹁こんだけよくして貰ってるんだ! このままでいいじゃねえか!﹂
﹁何を勘違いしているかは知らんが、フジワラ様に害をなすつもり
などないぞ。滅多なことは申すな﹂
ジハル族長の言葉に、皆あからさまにほっとした様子を浮かべた。
誰もがボズガドと同じ疑念を抱いていたのである。
﹁じゃあ、なんだってんだ﹂
ボズガドが己の早とちりを恥じ、顔を赤らめながら座ると、今度
は別の者が問うた。
﹁うむ。確かに我々はこのままフジワラ様に従うつもりだ。
だからこそ、恐れるべきはフジワラ様の心変わり﹂
﹁いや、フジワラ様が俺達を見捨てるなんてこと︱︱﹂
﹁何故そう言える。フジワラ様は人間。我らは狼族。
126
今はフジワラ様の周囲に人間がいない。だがもし、この地にまで
人間がやって来たらどうなる?
いや、人間だけではない。人間の横暴さを考えれば、我ら以外の
獣人がこの地にやって来ることも考えられる。
そんな時、我々が今と同じ待遇を受け続けることは可能なのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
質問をした者は沈黙する。
他の者も言い返す言葉もなく口をつぐんだ。
族長は言う。
﹁︱︱だからだ。フジワラ様にも狼族になっていただこうと思う﹂
﹁⋮⋮?﹂
話の意図がつかめない。
人間は人間。狼族は狼族。
変わりようがない。
皆はジハル族長に対し、何を言ってるんだこいつは、と残念な者
を見るような目をした。
﹁その目はよさんか。
別に狼の種に生まれ変わってもらうとか、そんなわけのわからん
ことを言っているのではない﹂
﹁じゃあ、なんなのですか﹂
一同を代表して息子のゾアンがジハル族長に尋ねた。
127
﹁簡単なことだ。我が一族から嫁を貰って、子をつくって貰うのだ﹂
おおお⋮⋮と誰もが感心した。
確かに子をつくれば、それは決して切れない絆となる。
種族の違い。
信秀が別の種族であるという事実が、誰の頭にも婚姻なんて考え
を失念させていたのだ。
﹁じゃあ、うちの娘を!﹂
﹁いや、うちの娘を!﹂
﹁いやいや、うちの嫁を!﹂
娘をもつ者が我先にと、信秀と娘との縁談に立候補する。
約一名おかしなことを言う者もいたが、それは皆無視した。
この地の全てを預かっているのが信秀である。
娘が信秀に嫁ぐことは栄誉以外の何物でもない。
それに己の娘が信秀に婚姻すれば、その父親として何らかのおこ
ぼれが貰えるのではないかという打算もあった。
特に彼らは酒に目がなく、己の娘が信秀と結婚すれば、祝い酒を
たんまりと貰えるのではないかと期待していたのだ。
﹁お前のとこの娘はまだ8歳じゃねえか!﹂
﹁うるせえ、子供好きの変態かも知れねえだろうが!﹂
﹁うちのが一番美人だ!﹂
﹁なにを! てめえのとこのへちゃむくれより、俺の娘の方がよっ
ぽど美人だ!﹂
血の気の多い者達ばかりである。
娘を持つ者は皆立ち上がり、当然のように醜い争いが勃発する。
128
﹁やめんかッッ!!﹂
大喝。
還暦に近いとはいえ、まだまだ若い者には負けないと自負する族
長である。
その覇気たるや、今までに刻んだ人生のシワも合わさって、凄ま
じいものがあった。
一同は、族長の迫力に圧されて体をビクリと震わせると、頭部の
三角耳をぺチャリと横たえて静かに座り直す。
そして皆、気を取り直して話の続きとなった。
﹁実はもう決めておる﹂
しかし族長の口から放たれたのは、嫁候補はもう決定済みという
衝撃の一言。
ええ⋮⋮っ、そんな⋮⋮、と娘を推していた者達は無念そうに悔
しがった。
﹁それで、誰なんです?﹂
ゾアンがジハル族長に尋ねる。
すると族長は、一度全員を見回したのち、その名を口にした。
﹁ラズリーだ﹂
おお⋮⋮と皆はざわめいた。
未婚の者の中では最も美しいと言われている娘。
ラズリーが歩けば、狼族の男ならば誰もが振り返る。
129
その姿を思い浮かべるだけで、ほぅと吐息がこぼれる。
それほどの美女であった。
﹁あの者ならばフジワラ様に相応しいだろう。異論がある者はいる
か?﹂
再び族長がジロリと皆を見回す。
﹁まあ、ラズリーなら⋮⋮﹂
﹁ああ、俺の娘の出る幕じゃあないな﹂
あの美女を前にしては、いかに自身の娘がかわいかろうとも、出
る幕はない。
誰しも身を引く他はなかった。
﹁では、決まったようじゃな。明日、ワシはフジワラ様とラズリー
を引き合わせる。
必ずやこの縁談を成就させ、我が一族を繁栄させてみせようぞ!﹂
ガバッと立ち上がり拳を振り上げて、宣言する族長。
すると一同から、わっという喝采が鳴った。
その後、何かあった時のために、と信秀が族長に渡していた酒甕
より、皆には一杯の酒が振る舞われて今宵は解散となった。
◆
ある日の昼下がり。
信秀の下には、ジハル族長から電話がかかってきていた。
その内容は、落ち着いた場所で話がしたいとのこと。
130
一体なんだろうかと信秀は首をかしげた。
用件を尋ねたが、言葉を濁すばかりで要領を得ない。
とりあえず自宅に招くわけにもいかないので、会談は族長の家で
行われることになった。
そして、今さら襲撃などはないと思いつつも、一応の武装をし、
トラックで族長の家へと向かう。
わざわざトラックで訪問したのは、何かあればすぐに逃げ出せる
ようにするためである。
入口には族長が立っていた。
いつも通り、こちらの機嫌を窺うような笑みを携えている。
﹁よくぞ、いらっしゃいました。ささ、こちらへ﹂
族長の家は他の家とは違い、端に一本の廊下が通っており、その
片側に部屋が四つほど並んでいる。
そして廊下を通り、最奥の部屋へと案内されると、そこには一人
の女性が座っていた。
﹁族長、これは⋮⋮?﹂
困惑の表情で尋ねる信秀。
すると族長は素知らぬ顔で言った。
﹁この度は是非とも、うちの部族で一番の美女であるラズリーをフ
ジワラ様にめとっていただこうと思いまして、このような場をもう
けた次第にございます﹂
131
﹁え⋮⋮?﹂
驚愕。絶句。
信秀はとてつもない驚きに襲われた。
︵めとる? 結婚? 誰と?
俺と、この女性が⋮⋮?︶
信秀の脳内は驚きを通り越しての混乱へと移行する。
いやもしかしたら、この場にいたのが彼女でなかったのならば、
信秀もここまでの動揺を見せなかったかもしれない。
ところで、狼族にとっての美女とは果たしてなんであるか。
その名が示す通り狼族とは狼が進化したものであり、また彼らは
狼であったということに途方もない誇りを抱いている。
それは信奉といってもいいかもしれない。
そのため、彼らの美の基準は⋮⋮。
信秀が目をキョドらせていると、ラズリーが信秀ににこりと笑い
かけた。
狼族の者にとっては心奪われるほどの微笑なはずであるが、信秀
にとっては心を震え上がらせるものでしかない。
なぜならばそこにいたのは、毛むくじゃらで、眼光は鋭く、鼻か
ら口にかけては前に大きく突き出ている、まさに狼そのものだった
からである。
そう、ラズリーはかつて狼であった頃の血を色濃く受け継いだ女
性だったのだ。
ラズリーの微笑んだ口の隙間からは鋭い牙が覗いている。
132
信秀からしてみれば、それは狼が獲物を前に凶悪な笑みを浮かべ
ているようにしか見えない。
︵あわわわわわわ︶
動揺が激しさを増す。
人間、予想外のことが起きると思考が覚束なくなるものである。
信秀の普段はそれなりに回る脳ミソも今ばかりは、その思考力を
停止させていた。
﹁おお、ラズリーのあまりの美しさにフジワラ様も震えておられる。
では、あとは若い者同士でごゆるりと﹂
何やら勘違いをしながら部屋を去ってしまった族長。
ちょっ待てよ、なんて言う間もない。
信秀は、善意をもって接する族長のありがた迷惑な行動に、心の
中で恨み言を吐いた。
﹁フジワラ様、どうぞ座ってください﹂
ラズリーの声色は、その顔に似合わずとても美しく優しげなもの。
︵ああ⋮⋮彼女に悪気はないのだな⋮⋮︶
ここで漸く信秀は冷静になった。
突然の狼顔の女性とのお見合い。
族長の真意は大体わかる。
それゆえに信秀は、ある意味では彼女も犠牲者なのではないだろ
うかと思った。
133
その後、信秀はもちろん縁談を断るのであるが、ラズリーの心を
傷つけないために相当の気を使ったとかなんとか。
134
16.2年後 1
雨が降って地は固まった、そう判断していいだろう。
人間であることを告白して以後、俺は狼族の者達からの信頼がど
んどんと強まっていくのを感じていた。
やがて暑い真夏の季節がやって来る。
気温が40度を超える猛暑。
狼族の者達には水をよく飲むように、また、ちょっとでも体調に
異常を感じられたならすぐに休むようにと伝達しておいた。
カトリーヌにも、せめて日差しを避けられるようにと屋根付きの
小屋を設置したが、彼女はその中に入ることなく、暑い日差しの下
でいつも通り寝転がっている。
余談ではあるが、脂肪でできたラクダのこぶはエネルギーの貯留
のみならず、太陽の光を遮る役割も担っているらしい。
それゆえ、カトリーヌは暑い日差しの下でも平気な顔をしている
のだ。
流石という他ない。
一方の俺は、冷房の効く部屋で日々をのんびりと過ごしていた。
毎日が順調に過ぎていく。
この頃になると、元の世界が過去のことのように思えてくる。
︱︱そして夏が過ぎた頃、町は再び転換期を迎えようとしていた。
日中の気温が30度にまで下がり大分過ごしやすくなると、それ
135
に併せて俺の外出も多くなる。
その日、俺はカトリーヌの背に乗って町を巡回していた。
カトリーヌの運動不足を解消するための散歩である。
ゆったりとした足取りでカトリーヌが町を練り歩く。
やがて13番地区の空き地に差し掛かると、子供達の楽しげな声
が聞こえてきた。
覗いてみると、俺が与えたサッカーボールでわいわいガヤガヤと
狼族の子供達が遊んでいる。
﹁あ! ふじわらさまだ!﹂
子供の一人が俺に気づいた。
すると、皆遊ぶのをやめて﹁ふじわらさまー﹂﹁ふじわらさまー﹂
と俺の下にやって来る。
ふふっ、うい奴うい奴。
それにしても、今更ながらに不思議な気分だ。
皆、頭の上に耳が生えている上に、中には完全に狼の顔をした子
供もいる。
彼らがどのようにして進化を遂げたのかを真面目に考えると、夜
も眠れなくなるのでやめておく。
﹁元気にやっているか﹂
俺はカトリーヌから下りると、懐から金平糖の袋を取り出した。
すると、子供達はいっそう顔を喜ばせて俺に向かって両手を出す。
﹁順番にな﹂
136
俺はその手のひらに一粒ずつ金平糖を落としていく。
子供達は貰ってすぐに、それを口の中に放り込み、コロコロと舌
で転がした。
美味しそうに金平糖を口にする子供達の姿に、俺はほっこりとし
た気持ちになる。
やがて口の中の金平糖が溶けてなくなると、子供達の中の一人が
言った。
﹁ふじわらさまも、たまけりをやりませんか?﹂
子供に似合わない敬語を使った少年。
顔こそ狼そのものであるが、彼は子供達の中でも一番頭が良く、
リーダー的存在だ。
真夏の日、外で遊べない子供達に、ボードゲームやトランプを渡
してやったのだが、頭を使うボードゲームでこの狼顔の少年にあっ
さりと負けてしまったのは、今でも忘れられない記憶である。
﹁じゃあ、俺も参加させてもらおうかな﹂
俺がカトリーヌに﹁少し遊んでいくよ﹂と言って背中をさすると、
まるで言葉が通じたかのように彼女は自ずから道端に寄り、欠伸を
一つしてから足を折って腹這いになった。
彼女はとても頭がいいのだ。
そして俺は、重い防弾チョッキを外して子供達と楽しい一時を過
ごす。
しかし、それもすぐに中断させられるはめになる。
﹁フジワラ様! 大変です!﹂
137
血相を変えて現れたのは狼族の女性。
その様子は明らかに尋常ではない。
事実、彼女の口から出た次の言葉は俺を仰天させるものであった。
﹁町の北東に多数の人影が現れました!﹂
﹁︱︱っ! 相手は人間ですか!?﹂
﹁いえ、まだ遠すぎてわかりません!﹂
﹁わかりました! 農作業をしている者は全員作業を中止して、町
に戻るようにしてください!
子供達は解散! 家に帰りなさい!﹂
俺は防弾チョッキを装着しなおすと、カトリーヌの背に乗って自
宅へと戻る。
そして、ヘルメットにフェイスマスク、ゴーグルをつけ、さらに
小銃を手にしてトラックに乗り込んだ。
北門から来るのか、東門から来るのか。
一瞬迷ったが、東から北へ回れば、時間的ロスも少ないだろう。
俺はまず東門へとトラックを走らせる。
ややあって東門に到着するが、そこには狼族の者達はいない。
ならば北門から相手はやって来るということだ。
俺はアクセルを踏む。
少しして北門に到着すると、狼族の者達が集まっており、男達の
何人かが石垣に上がっていた。
138
﹁フジワラ様!﹂
トラックを下車した俺に駆け寄るのはジハル族長である。
﹁相手はこの門から来るのですね?﹂
﹁はい、まだかなりの距離がありますが、こちらに向かってきてい
ます﹂
﹁種族はわかりますか?﹂
﹁猫の顔をした者が見えます。しかし、まだ距離も遠く確かではあ
りません﹂
人間ではないことに、俺はホッとする。
なんのことはない。
わざわざこんな荒れ地にやって来たのだ、狼族の時と同じ流れで
あろう。
畑があるのも東側。北から来る分にはなんの問題もない。
気をつけるとするなら、町の石垣には櫓がないため、弓などの攻
撃に注意することくらいか。
俺は石垣に上り、来訪者を待った。
相手がこの地に近づくに連れて、その顔がはっきりとわかる。
人間に近い顔をした者達の中、確かに猫そのままな顔をしたもの
が混じっている。
やがて200メートルほどの距離に近づいた。
139
﹁そこで止まれ!﹂
俺は大きな声で叫ぶ。
すると、猫族の者達も止まった。
人数は狼族よりも多い、300名くらいだろうか。
﹁用件があるならば聞こう!﹂
再び俺の大声。
それに答えたのは猫族の族長を名乗る者であった。
﹁幾らか食糧を分けてはくださらんか!﹂
口にした言葉は予想通り、かつての狼族と変わらぬもの。
俺は、僅かばかりの問答ののち、彼らに食事を振る舞うことにし
た。
そして彼らの食事が終わると、ジハル族長を交えて猫族の族長と
会談し、彼らも町の住人になることが決まったのである。
すると、それを皮切りとしたように、秋から冬にかけて続々と異
なる種族の者達が町にやって来た。
豹族、鳥族、鹿族、豚族、アライグマ族、ゴブリン族、コボルト
族。
獣人達については説明の必要もないだろう。
蹄を持っていた生物が、どうやって五本指の手足になったんだろ
うかと、ちょっと気になったくらいだ。
そんなことよりもゴブリン族とコボルト族には説明が必要だろう。
140
両者共、ファンタジー小説やゲーム、映画などでよく聞く名だ。
どちらもとがった耳と大きめの鼻をしており、緑色の皮膚をした
人間という印象を受けた。
ゴブリン族とコボルト族で違うのは背の高さ。
ゴブリンは人の子どものように背が低く、コボルト族は人とあま
り変わらない身長であった。
服装はどちらも獣人達よりも凝った物を着ており、その知性の高
さがうかがえる。
注目したのはその手。
体の細さに似合わない大きな手と長い指。
手先が器用なのが自慢だと彼らは語った。
そして、猫族にしろゴブリン族にしろ、全ての種族が人間に追わ
れ、川沿いに南へと下ってこの地にたどり着いたのだという。
住人の受け入れに関しては、俺も望むところだった。
しかし、この時、問題になったのが住居区分である。
当初、町をつくった時は種族の違いについて考えもしていなかっ
た。
全員が同じ種であるとして、あとはこちらで住む者を振り分けれ
ばいいと思っていたのだ。
その結果、できたのが等分された16の地区である。
一つの地区に47戸。
一軒の家に4∼5人入居するとして、一つの地区に188∼23
5人。
たとえば猫族なら300人近くおり、一つの地区に入りきらなか
141
った端数をどうするかが問題であった。
混じっちゃってもいいじゃないか、とも思ったが、それだと困る
のが町の治安だ。
たとえばゴブリン族とコボルト族などは、同族嫌悪ともいうべき
か犬猿の仲といっていいくらいに仲が悪い。
まあ、その原因は背の高さを誇りにするコボルト族と、それを妬
むゴブリン族という非常にしょうもない話であったが。
とにかくも種族が入り交じれば、間違いなく争いの種になる。
では種族ごとに住み分けたなら本当に大丈夫なのか。
その場合、より大きな集団同士で争いが生まれやすくなることが
予想される。
だが、それに関しては俺が仲裁に入ればいい。
要は、目の届かないところでの小さな争いは困るという判断。
俺としては種族ごとにまとまって、その長が自身の部族を統率す
るという方式をとりたかったのだ。
そしてこれらの問題に関しては、結局のところ、柵を使って地区
を歪な形にすることで対応した。
また、柵内には他種族の者は許可なしに入らないように言ってあ
る。
無論、俺は無許可で入れるが。
町の住居の数にはまだまだ余裕がある。
だが、彼らが子をなして、一族を増やしていけば、すぐに町は満
員になることだろう。
町の外に新たな住居区域をつくることも、考えなければならない。
142
農業も順調である。
最初は赤字同然であったが、段々と改善され、既に黒字に移行し
ている。
人が増えれば、この黒字もさらに大きくなるだろう。
︱︱そしてまた穏やかな時が過ぎ、俺が異世界に来てから2年ほ
どが経過する。
その年、とうとうこの町は人間と相見えることになる。
143
16.2年後 1︵後書き︶
今回の話はかなり急いで書いたので、いずれ大幅に修正するかもし
れませんm︵︳︳︶m
144
17.2年後 2
﹁ふわ∼あ﹂
昼頃に目が覚めた俺は、欠伸をしながらカレンダーを見る。
4月12日。
俺が異世界に来た日と同じ。
そしてそれは、今日この町が二回目の誕生日を迎えたということ
である。
うん、実にめでたい話だ。
というわけで、今日は宴会を催そうと思う。
いつもはのんびりとしている俺ではあるが、久しぶりに皆の働き
ぶりを見て回りながら、宴会の開催を告知していこう。
俺は遅い朝食に︻蕎麦︼を食べると、頭部以外の装具をつけて、
カトリーヌの背に乗り町に出掛けた。
町は一年前に移住者の流入がピタリと止み、急激な人口増加こそ
なくなったが、それ以後もゆっくりと成長を続けている。
町の産業は、もはや農業だけではない。
手先の器用なゴブリン族やコボルト族には製造業や建築業を任せ
ている。
いつまでも足りないものを俺が用意するわけにはいかないので、
資材だけを渡し、それを使って必要なものをつくらせているのだ。
145
﹁やあ、はかどってますか﹂
﹁これはフジワラ様﹂
俺は、コボルト族の族長に声をかける。
場所は町の西門を出て、すぐのところ。
そこでコボルト族は日干し煉瓦を積んで四角い家を幾つか造って
いた。
﹁どうですか、家の方は?﹂
﹁ええ、耐久力は大分マシになったと思います。
ですが、やはり地揺れが実際に起こらないことには、なんとも言
えませんな﹂
前回彼らが造った煉瓦の家は、ついこの間、小さな地震が起こっ
た際にあっさりと潰れてしまった。
そこで今回は、煉瓦の間に木材を挟み込むという一工夫を加えて
家を造っているというわけだ。
また、こうして煉瓦で家を造っているのにも訳がある。
ただ頑丈な家を、ということならば、俺が大量の木材を提供して、
木造の家を建築させればいいだろう。
しかし、それでは金がかかるのだ。
いずれやって来る人口飽和に向けて、この土地にあった安価な建
築法を確立させておかなければならない。
﹁これでダメなら、いっそ天幕のようなものを考えた方がいいかも
146
しれませんね﹂
﹁えっ、天幕ですか?﹂
俺の口から出た天幕という言葉に、やや驚いた様子のコボルト族
の族長。
おそらく彼の頭の中には、三本の柱に動物の皮を被せた、円錐形
の貧相な住居が浮かんでいるのだろう。
しかし俺が考えているのは、モンゴルの遊牧民が使っているゲル。
住居としては申し分のなく、実に立派なものだ。
骨組みには細い木を束ねることで、しなやかな造りとなっており、
揺れには強い。
家を覆う幕にも羊毛こそないが、今、綿花を育てている。
綿は十分に羊毛の代用に足るものだ。
それにもし地震で倒壊したとしても、あの軽量ともいえる構造な
らば住人に危険はないに違いない。
﹁まあ、なんにせよこの新しい家がどうなるかですよ。頼みました
よ?﹂
﹁はっ、任せてください!﹂
﹁ああ、そうそう。今日は夕方から北門前で宴会をやります。
参加したい方は終業の鐘が鳴った後、コップ持参で北門前に来る
こと。
部族の皆に伝えておいてください﹂
﹁本当ですか!? わかりました!﹂
147
宴会の開催を伝え、俺はカトリーヌの手綱を引いてその場を後に
する。
﹁おい、今日は宴会だそうだ! ただで酒が飲めるぞ!﹂
﹁うひょー! ありがとうございます、フジワラ様!﹂
背後からは、コボルト族の嬉しそうな声が聞こえてきた。
次にやって来たのは、先ほどコボルト族が家を造っていた場所の
隣にある放牧地。
そこで飼っているのは数十匹のラクダである。
さて、話は一昨年の冬、とても肌寒いある日の朝にまで遡る。
俺がグースカピーと気持ちよく眠っていたところに、突然電話の
ベルが鳴った。
話を聞いてみると、ラクダ達がムシャムシャと農作物を食べてい
るとのこと。
見つけた者は、俺がカトリーヌを大事にしていることを知ってい
るため、自分で対処せずに俺に報告したのだ。
もちろん俺は、ただちにラクダに危害を加えることを禁止する。
そして、ラクダ達を神聖な生き物として扱い、町民達のパートナ
ーとした。
とはいえラクダは気性が荒い。
カトリーヌは淑女といっていい程におしとやかであり、俺にはす
148
ぐになついてくれたが、他のラクダ達はそうはいかなかった。
そのため、まずはゴブリン族に町の外に放牧地をつくらせた。
ラクダに対し手ずから餌をやり、人に慣れさせるという手段をと
ることにしたのである。
そして、ラクダが人に慣れ親しんだ頃、彼らはその真価を発揮し
た。
ラクダは素晴らしかった。
畑を耕し、重い荷物を運んでくれ、人だって乗せてくれる。
ラクダの乳はとても栄養が豊富だ。
まさに言うことなし。
さらに、ラクダの糞を乾燥させて燃料にすることを指示した。
人数が多いと薪の値段だけでも馬鹿にならないからである。
最初は難色を示す者もいたが、まず俺が日干しの作業をし始める
と他の者も続いた。
こうして、町は薪以外の燃料を得たのである。
労力のみならず、エネルギーまで与えてくれるラクダ。
もはやラクダは、町になくてはならない真の友人になっていた。
閑話休題
放牧地は八つの牧場に分かれ、各部族が飼っているラクダがのん
びりと過ごしている。
ところで、町にいる部族は九つであるが、牧場の数は一つ少ない。
これは、ゴブリン族は体が小さくて危ないとの判断だからだ。
ゴブリン族は、コボルト族に対抗心を燃やして﹁私達にもラクダ
149
を!﹂と言っていたが、当然認めるわけにはいかない。
その時の彼らの悔しがる顔といったらなかった。
願わくば、彼らのためにどこかにポニーでもいないかと思う今日
この頃である。
﹁やあ、ラクダはどうですか﹂
﹁これはフジワラ様。ラクダ達は皆、元気にやっておりますよ﹂
俺が声をかけたのは、ラクダを数珠繋ぎにして帰ってきた鹿族の
男。
開墾予定地へラクダを連れていき、草を食べさせてきたところだ。
﹁どうですか。カトリーヌの婿になりそうな有望株はいませんか?﹂
俺がそう尋ねた時であった。
﹁グエエエエエエエエエ!!!﹂
カトリーヌの雄叫びである。
すると、牧場にいたラクダ達がカトリーヌから逃げるように、隅
へと移動した。
﹁ははは⋮⋮﹂
鹿族の男の苦笑い。
これが答えである。
他のラクダは一つコブ。
しかし、カトリーヌは二つコブで体も他のラクダより遥かに大き
い。
150
ラクダ達は皆、カトリーヌを恐れていた。
﹁よしよし。お前には俺がいるもんな﹂
俺はカトリーヌの首筋を撫でると、本日宴会を催すことを伝えて
その場を去った。
次は農場へと行く。
町の東側一面に広がっている農業地帯。
余りにも広大、それゆえに遠方の農地を担当している者のため、
毎朝毎夕にラクダ車が何台も出ている。
ここで行っているのは小規模の灌漑による輪作だ。
塩類集積については塩類吸収植物を輪作に組み込むことで予防し
ようと思っているが、これについてはまだ先の話である。
収穫時には、俺の自宅の裏に新たに造らせた高い塀を持つ集積地
に作物が集められ、その後俺が内緒で︻売却︼を行っている。
そして毎月、︻購入︼した︻米︼等の食糧を町の者達に配布する。
これにより面倒な税管理を簡略化しているのだ。
ただし、これだけだと町の者達も味気ない。
そのため、各種族には自分達の裁量で自由にできる畑を用意した。
もちろん、その畑にかまけてもらっては困るので、畑は種族の人
数に合わせて一定の大きさに制限してある。
また、食糧配布の際には同時に︻日本円︼も少ないながら渡して
いる。
151
この︻日本円︼によって、町の商店で、酒などの嗜好品を買うこ
とができるのだ。
ちなみに俺が︻日本円︼を出現させる時、﹃時代設定﹄の影響は
受けない。
これは︻日本円︼を︻購入︼しているのではなく、データ上の貨
幣の︻現金化︼であるからだ。
そもそも、これまで江戸時代のものを現代の貨幣価値で︻購入︼
しているのだから、貨幣に関して﹃時代設定﹄の影響を受けないの
は当然ともいえる。
農業を担当しているのは、獣人達。
俺はカトリーヌの背に揺られながら皆が農業をしている様子を見
て回り、本日宴会を行うことを伝えていった。
最後は町に戻り、ゴブリン族の下へ向かった。
かつて空き地だった16番地区には、現在、掘っ立て小屋が数軒
建っており、その外ではゴブリン族が作業をしている。
ゴブリン族は基本的に町の便利屋だ。
町民の要望に応えて、物を直したりつくったりする。
そして空いている時間には、俺の指示したものをつくらせていた。
﹁これはフジワラ様﹂
俺を見つけて、ゴブリン族の族長が挨拶に来る。
﹁どうですか、糸繰り車の方は﹂
152
俺が尋ねたのは、今、彼らに量産化をしてもらっている糸繰車に
ついて。
読んで字のごとく、車輪を回して糸を紡いだり、よりをかけたり
する道具だ。
かつて大国イギリスに対しスワラジ運動を行ったインド、その中
心的人物であったガンジーのシンボルとしても有名である。
﹁つくる分には問題ありません。ただ一家に一台となると、やはり
時間がかかりますね﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
俺は作業をしている者達を眺める。
見たところ、ゴブリン族は一人で一台をつくっているようだ。
﹁では、こんな風にしてはどうですか?﹂
俺は一つの提案をした。
それは分担作業。
それぞれ部品をつくる者を決めて、それだけをつくらせる。
あとはまた別の者が、できたパーツを組み立てていく。
まあ、現代ではあまりに常識的な考えである。
﹁うーん⋮⋮﹂
族長は考えているようだ。
職人気質が強い人ほど、最初から最後まで自分でやりたがると聞
いたことがある。
153
﹁あくまでも提案なんで、気が進まないなら、今のままで構いませ
んよ?﹂
﹁いえ、やってみましょう。何事も試してみないことには、良し悪
しはわかりません﹂
お、なかなかいいことを言う。
﹁では、よろしくお願いします﹂
俺は最後に宴会を催すことを伝えてその場を去った。
そしてその夜、町の生誕二周年を祝した宴会が開かれ、それは盛
大な盛り上がりを見せた。
もっとも、その日、町ができて2年目に当たることは俺しか知ら
ないことである。
154
18.人間 1
一年の気温を記録してみると、この地の春夏秋冬がよくわかる。
最高気温 最低気温
1月 10.8 −0.1
2月 13.2 1.3
3月 18.0 5.1
4月 24.8 10.7
5月 28.1 12.9
6月 34.7 16.0
7月 40.2 20.0
8月 39.4 19.2
9月 33.1 15.3
10月 26.0 11.1
11月 18.0 5.3
12月 11.6 0.7
人間と比較的交わりを持っていた過去があるゴブリン族とコボル
ト族が言うには、この世界も一年は365日で構成されているとの
こと。
俺は二年前の4月にこの世界にやって来たわけであるが、あちら
の世界の4月が、この世界でも4月であることを知ったのは、この
世界に来て一年後のことである。
︱︱そして、町の誕生二周年を祝った4月は終わり、段々と日差
しの強くなる5月となった。
155
今日も今日とてカトリーヌと戯れていると、家の中からジリリリ
リと電話のベルが鳴り響く。
家に戻り受話器をとると、ジハル族長が焦った様子で言った。
﹃フジワラ様、大変です! 人間が! 人間がやって来ました!﹄
︱︱人間。
その言葉に、俺は思わず受話器を取り落としそうになるほど驚愕
した。
まさかと思うが、攻め込んできたのか?
何のために?
いや、人間はこの地に町があることを知りようがない。
では何故、この地に来た。
ここは地震により一度は逃げ出した地。
何故わざわざこんなところにまで来る必要がある。
獣人を追ってきた?
今ごろになって?
頭の中では結論が出ないままに思考がうねり、絡み合う。
﹁人数はどれくらいですか﹂
﹃三人だと聞いています! 食料を分けてくれと!﹄
なんだ三人か。
おまけに食料を分けてくれ、か。
人数とこの町に寄った目的を聞き、俺は安堵した。
156
とるに足らない。
これまで各部族の長から人間について聞いたが、多数でなければ
負けることはないという話を聞いていた。
背の小さいゴブリン族までそんなことを自慢気に言って、皆から
白い目で見られていたのをよく覚えている。
注意するべきは魔法の存在だが、ゴブリン族とコボルト族に何人
か魔法が使える者がおり、それについて話を聞いてみたことがある。
両者とも、相当の高位の魔法使いでなければ、魔法はあまり戦闘
には向かず、弓矢の方がよっぽど強いのだと教えてくれた。
そして、魔法とはむしろ生活に根差したものであるのだという。
火なら料理。
細かな火加減や、強い火力による調理速度に定評があり、火の魔
法の才を得た者がまず目指すのが料理人とのこと。
しかし、火の魔法の才に目覚める者は大変多く、簡単には料理人
になれないらしい。
水ならば水屋。
人間が飲める水は少なく、飲み水は魔法によってつくり出すのが
一般的だそうだ。
では、元の世界の中世ヨーロッパのように、水の長期保存を目的
として発展した酒文化がこちらではないのか、とも思ったが、こち
らでも人間はたらふく酒を飲んでいるようである。
もしかしたら飲み水の確保は建前で、ヨーロッパ人はただ飲んべ
えだったから酒が発展したのかもしれない。
光なら明かり。
光の魔法は稀少で、その才に目覚めたものは、王家や大貴族の照
157
明係として栄達が約束されているそうだ。
他にも木や土なら作物の発育。
金なら鍛冶、などなど。
なんというか、あまりにも夢のない話だ。
カード選びの時のドキドキを返せ。
でもまあ、よく考えたらわからない話でもない。
たとえば火を放つとして、その速度は、その距離は、とイメージ
してみると、とても弓には及びそうもないからだ。
もっとも、至近距離ならそこそこ使えそうではあるが。
あと、高位の魔法使いはカードでいうところの︻大︼と︻特大︼
だろう。
どれ程のものかと気になって尋ねてみたが、ゴブリン族の長もコ
ボルト族の長も知らないのだという。
閑話休題
話を戻して三人の人間について考える。
強者ゆえに三人と見るべきか、それとも何らかの原因で三人にな
ったと見るべきか。
どちらにせよ、わざわざ食料を求めてくるあたり、敵対の意思は
ないだろう。
たとえ、とんでもなく強い相手だったとしても問題は無さそうだ。
﹁では、とりあえず誰にも手を出させないようにしてください。
私も準備してから、すぐにいきます﹂
158
ジハル族長に指示を出し、俺は受話器を置いた。
そして完全武装をし、カトリーヌに乗って現場へと向かう。
﹁頼むぞカトリーヌ!﹂
﹁グエエエエエエエエ!﹂
低い唸るような声と共に駆け出すカトリーヌ。
かなりの速さではあるが、彼女の全力はこんなものではない。
ラクダの生態について書かれた本によると、ラクダは時速60キ
ロで走れるらしい。
ラクダってすごい。
風を切って駆け抜ける大通り。
そこには一つの人影もなかった。
そしてあっという間に町の外にたどり着くと、そこには数百人規
模の人だかりができていた。
﹁フジワラ様だ﹂
後ろの方にいた一人が俺の存在に気づく。
すると皆がこちらを向いてざわめいた。
﹁道を開けてください﹂
俺がそう言うだけで、モーゼの十戒のように道ができる。
その先にいたのは三人の男。
一人は成人した男性で、金髪長身で凝った衣装をしており、また
他の二人は、まだ若く、金髪長身の男に比べると特徴のない服を着
159
ている。
そして、三人は震えていた。
人間である彼らが、なんの脅威でもない弱者であることが決定し
た瞬間である。
俺は、弱者なればこそ、その恐怖は当然だと思った。
もし同じ目に遭えば、俺だって身を震わせていたことだろう。
﹁わ、私達に手を出せば、サンドラ王国が黙っていないぞ!﹂
三人の男の内の金髪長身の男が、俺に向かって叫んだ。
威嚇というよりも強がり。
国という巨大なものを盾として、己の立場を確立しようという考
えなのだろう。
﹁あなた達は何をしにここへ来たのですか?﹂
﹁が、学術的調査だ! 何もやましいことはない!﹂
俺がここに来た目的を尋ねると、金髪長身の男が震えた声で叫ん
だ。
﹁何の調査ですか﹂
﹁私は地理学者であり、未知の土地を調べることは当然のことだ!﹂
﹁では、なぜこんな事態に? 食料も持たずに来た訳じゃないでし
ょう﹂
160
﹁ついさっき、リンクスに襲われた!
馬がやられ、命からがらここまで逃げてきた! 食料はその馬車
に積まれたままだ!﹂
リンクスとは豹のようなオオヤマネコのことだ。
この近くに大分前から出没している。
放牧地のラクダや農業をしている者を狙っており、何度か討伐隊
を組んだことがある。
なるほど、彼らの経緯は大体わかった。
すると、その時である。
﹁自業自得だろ﹂
ぼそっと吐かれた声。
それは群衆の中から呟かれた、人間に対する憎しみであった。
﹁死ねばよかったのに﹂
﹁俺達を追いやった報いだ﹂
それを引き金に、周囲にいる者達がボソボソと恨みを吐き出す。
そして、ある鳥族の男が言った。
﹁フジワラ様、殺してしまいましょう﹂
その声色に俺はゾッとした。
ひっと怯える学者達。
161
﹁⋮⋮殺す理由はなんですか﹂
﹁生かして返せば、ここにも人間の軍がやって来ます﹂
別の者︱︱コボルト族の男が俺の質問に横から答えた。
︱︱人間の軍が攻めてくる。
確かにあり得ない話ではない。
ここは人間が追い出した獣人らの町。
獣人達が種を越えて共に暮らしているとなれば、いずれ敵性存在
になるのでは、と人間達が危機感を持ってもおかしくないのだ。
だが︱︱。
﹁なりません﹂
﹁︱︱っ! 何故ですか!?﹂
俺の答えが予想外であったせいか、コボルト族の男が声を荒げる。
﹁彼らは悪事を働いていないからです﹂
﹁しかし、人間の国は私達を追い出しました! どの国も例外なく
!﹂
﹁⋮⋮﹂
確かにそうだ。
彼らを生かしておいた際の危険性、人間が獣人らに与えた仕打ち。
162
それらは彼らを排するにたる理由になるのかもしれない。
そう、コボルト族の男の考えは間違っていないのだろう。
しかし、やはり彼らを死なせるのは寝覚めが悪い。
たとえば、彼らが俺に対し害をなそうとするのなら、俺も銃の引
き金を引けるだろう。
だが、彼らは俺の前でまだなにもしてないのだ。
確かに彼らの国は獣人らに悪を行った。
だが俺は国と人とは別であると考えてしまう。
国を形成しているのが人であるとはいえ、国の悪を個人の悪と同
義には考えられない。
俺には日本人としての倫理感が染み付いている。
これから先かつての世界を忘れたとしても、その道徳観念は忘れ
たくないと俺は思っている。
﹁それでも⋮⋮それでもです。
町の長として命令します。彼らに危害を加えてはなりません﹂
俺が最終的な決定を下すと、渋々という表情で皆はそれを認めた
のだった。
163
19.人間 2
俺はまず、その場にいる獣人らを解散させた。
ジハル族長は、俺だけが人間と残ることを心配して最後まで残っ
ていたが、自衛の手段はあると言って帰らせた。
そして現在、北門の前にいるのは、俺と三人の人間だけである。
﹁ごほん﹂
特に意味のない咳払い。
しかし、俺が何かを発するだけで、三人は体をビクつかせる。
彼らの目には、カトリーヌの上より見下ろす俺がとても強い獣人
に映っているのかもしれない。
まずはその恐怖を払拭しないことには、落ち着いて話をすること
もできないだろう。
というわけで俺は、ヘルメット、ゴーグル、フェイスマスクを外
していった。
﹁あ⋮⋮ああっ⋮⋮!﹂
長身金髪の男から歓喜に震える声が発せられる。
他の二人も目を丸くしており、その瞳の色は驚きと喜びであった。
﹁あ、貴方は人間だったのですか!?﹂
﹁ええ、この町の長をしているフジワラと言います﹂
164
﹁あぁ⋮⋮、干天に慈雨でも降ったような心地ですぞ⋮⋮!﹂
手を組んで天に祈る金髪長身の男。
他の二人も顔を輝かせている。
﹁それであなた達は?﹂
﹁いや、これは失礼いたした。
私はサンドラ王国で地理学について研究しているフロストという
者です。
こちらの二人は私の弟子でして⋮⋮ほら挨拶しなさい﹂
他の二人が俺に自己紹介をする。
俺はそれに頷きを返した。
﹁さて、ここであなた達に食料を渡しても、帰り道にリンクスに襲
われるだけでしょう﹂
﹁うっ⋮⋮その通りです﹂
﹁丸腰でここまで来たんですか?﹂
この質問に、二人の弟子が顔を赤くした。
﹁この二人は弓を扱えるのですが、何分突然襲われてしまいまして
な。
逃げるので精一杯で、弓は馬車の中にといった有り様です。いや
あ、お恥ずかしい﹂
タハハ、と恥じらうように事の次第を告白するフロスト。
165
弟子を責めるつもりがないところを見るに、フロストの懐は深い
のかもしれない。
﹁なんにせよ、お疲れでしょう。今日はとりあえず町で身体を休め
てはいかがでしょうか。
後日、リンクスのいない地まで送りましょう。当然、食料も必要
分渡します﹂
﹁おお、それはありがたい﹂
確かに目の届く場所で死なれるのは看過できない。
だが、ただで返すつもりもない。
まずは情報を搾り取る。
そして友好を結び、この地のことを口外しないように約束しても
らう。
これだけは絶対に守ってもらわなければならない。
それが駄目な場合は⋮⋮覚悟を決めなければならないだろう。
﹁町に入るに当たって注意事項が一つあります。
もうお分かりでしょうが、町の住人は人間ではなく、人間に追い
出された者達ばかりです。決して刺激しないようにしてください。
何かあっても責任はとれません﹂
﹁わ、わかりました⋮⋮。お前達もいいな?﹂
﹁は、はい﹂
﹁わ、わかりました﹂
まずフロストが了解し、弟子の二人も頷いた。
166
﹁では、ついてきてください﹂
こうして俺は三人を連れて、町の中に入った。
門を潜ると、日本風の町並みに知的好奇心が刺激されたのか、三
人はキョロキョロと物珍しげに視線をさ迷わせる。
ややあってたどり着いたのは、普段は閉めきっている旅館。
その戸を開けて中に入る。
﹁さあ、どうぞ。靴は脱いでください﹂
月に一度、町の者に清掃をしてもらっているおかげか、中はきれ
いだ。
しかし、入り口の光だけでは薄暗い。
俺は片っ端から窓を開けて、外の光を入れる。
そして、三人を客間の一室に案内した。
畳と机以外、何もない部屋だ。
﹁座ってください﹂
﹁で、では⋮⋮﹂
フロストが座ると、弟子二人も腰を下ろした。
畳が珍しいようで、手触りを確認している。
﹁飲み物を持ってこようと思いますが、食事の方がよろしいですか
?﹂
すると弟子の一人の腹からグゥという音が鳴った。
167
﹁では、食事を持ってきますね﹂
﹁あ、水は弟子が水魔法を使えるので、コップさえいただければ。
この地の水が私達に合うかわかりませんので﹂
﹁では、そのようにします﹂
﹁すいません、もてなされる立場でわがままを言って﹂
﹁いえ、いいんですよ。当然のことです﹂
俺は部屋を出て、一階に行くと﹃町データ﹄を呼び出した。
さあ、何を彼らに出すべきか。
彼らの知らない食材を使った料理を出して、この地に興味を持た
れても困る。
できる限り彼らにとって価値がない食材を使った料理の方がいい
だろう。
となると、やはりパンか。
この世界の人間がパンを食べることは聞き及んでいる。
しかし、パンの良し悪しも注意すべきだ。
食パンなどは元の世界においては、近代に発明されたもの。
こちらにはまだない可能性がある。
その際、作り方など根掘り葉掘り聞かれても面倒だ。
ここはお手軽につくれる平焼きパン︱︱︻ナン︼を彼らに出すべ
きか。
俺は目の前の画面を操作し、︻ナン︼︻ゆで卵︼︻塩︼を︻購入︼
した。
168
こんなところでいいだろう。
野菜などは、夕食時だ。
ゴブリン族やコボルト族に人間はどんなものを食べていたかを聞
いてから出そう。
俺は、調理に本来かかる時間を待ってから、部屋に料理を持って
いった。
その後はトイレについて説明し、風呂を沸かし、着替えの服を用
意し、できる限り彼らを労った。
全部、俺一人で。
異世界に来てから一番の労働だったかもしれない。
身綺麗になった彼らには、夕食までゆっくりしているようにと言
っておいた。
そして、夕食には酒に野菜に肉を振る舞った。
︱︱夕食後。
﹁いやあ、今日は本当に助かりました﹂
俺の前には、日本酒の入った盃を片手に笑顔を見せるフロスト。
部屋には弟子の二人はいない。
師と同じ部屋では気が休まらないだろうと、彼らには別の一室を
用意した。
﹁いえ、気にしないでください﹂
169
﹁それにしても、この町は凄いですね。見たことのない独特の建築
ばかりですが、とても品がある。
統一性も見事です。
これはあなたが?﹂
﹁はい。私が考案した建築技術です﹂
しれっとした顔で俺は嘘をつく。
本当の考案者さん、ごめんなさい。
﹁なるほど、見識の深い方であるようだ。獣人達があなたに従う理
由がよくわかる。
やはりこの世は知恵。
頭がいい者が上に立って、国を安んじ、人々を正しく導くべきで
す。
そうは思いませんか?﹂
なるほど。
頭がいいことを鼻にかけているようだ。
俺自身もそういうところがあるからよくわかる。
もっとも、俺は別に頭がいいわけでもなんでもないが。
だが、フロストの言っていることはそんなに間違っているとは思
えない。
﹁そうですね。つけ足すならば、知恵と誠実な心。この二つがあれ
ば、下の者は幸せになれるのではないでしょうか﹂
﹁おお、流石です! やはり貴方は頭のいい方だ!﹂
170
何やら、称賛を受けてしまった。
﹁いえ、学者だというあなたには敵いませんよ﹂
﹁またまた、ご謙遜を﹂
俺を褒めちぎりながら、フロストは茶色の徳利の口を俺に差し出
す。
俺は空になっていた手元の盃でそれを受けると、こちらも別の徳
利を掴んでフロストに酒を勧めた。
﹁ところで、地理学というと地震について調べに来たので? それ
とも鉱物や植生などについて調べに来たのですか?﹂
﹁そういえば旅の目的の詳しいところをまだ語っていませんでした
な。
ここからさらに南へ行ったところに、砂漠があることはご存知で
すか?﹂
﹁ええ。こんなところに住んでいますからね、当然知っています﹂
﹁では、その先は?﹂
﹁残念ながら﹂
﹁私達はその先に何があるのかを調べに来たのです!﹂
突如、興奮したように鼻息を荒くするフロスト。
﹁しかし、ずっと砂漠があるだけで、何もないかもしれませんよ﹂
171
﹁そうかもしれません、ですが、そうじゃないかもしれません。
大事なことはこの目で見て知ることです﹂
﹁なるほど、確かにおっしゃる通りだ﹂
ただ頭がいいというわけではない。
その探求心と行動力は立派だと思う。
﹁しかし、やはり危険だ。北から来た馬が砂漠の暑さに耐えられる
とは思えない。足が沈みこむ砂地も馬の体力を奪うでしょう。
いや、馬車とおっしゃいましたね。
砂漠の中を行くということは、それこそ、ぬかるみの中を行くよ
うなものですよ?
馬車ではすぐに車輪が沈んでしまい、立ち往生するんじゃありま
せんか?﹂
﹁うっ⋮⋮実のところ私は砂漠を見たことがないのです。ただ砂で
できていることしか知りません。ですから地面が硬いのか軟らかい
のかすら知らず⋮⋮﹂
己を恥じてか段々と声が小さくなっていくフロスト。
﹁そうだったんですか。まあ、とにかくも、無事でよかった。さ、
どうぞ﹂
﹁これはすみません﹂
俺が酒を注ぎ、フロストが盃を口につける。
そのすぐ後、俺も返杯を受けて、一献傾けた。
172
さて、ここからが本題だ。
﹁今、都会の様子はどうですか?﹂
俺はサンドラ王国について、言葉を濁しつつ尋ねた。
直球で聞けば、獣人達を多数抱える手前、変な疑いを持たれかね
ない。
だから都会という曖昧な言葉を使った。
フロストが、都会という言葉をどう解釈しようが構わない。
そこから話を広げていくつもりだ。
﹁都会? ああ、サンドラ王国ですか。正直なところ良くも悪くも
ありませんね﹂
ビンゴ。
都会をサンドラ王国そのものと判断したようだ。
﹁良くも悪くもない? これはまた田舎暮らしの私には判断に困る
評価だ﹂
﹁王は政に疎く優柔不断。
教会が戦いを禁じ、漸く平和が訪れたというのに、佞臣らの意見
に惑わされ、国庫の金が増える様子もない。
とはいえ極端な悪政を敷いているわけでもないので、大きな天災
でもない限り民が飢えることはないでしょう。
ですので、良くも悪くもない、と言えます﹂
教会とは大陸の第一宗教であるラシア教のことだろう。
ゴブリン族とコボルト族が、人間はまずこの宗教の教徒になるの
だと言っていた。
173
﹁戦いを禁じた、とは?
ここにいる獣人達は人間に追い出されたと聞いています。それは
獣人には適用されなかったのですか?﹂
これにピクリと片眉を上げたフロスト。
俺は慌てて言葉を付け加える。
﹁すみません。私はもう何年もこの地で暮らしているので、人間社
会にはとんと疎いのです﹂
変な返しではないはずだ。
フロストも納得したのか、つらつらと話し始めた。
﹁教会は国家間の争いを禁じたのですよ。それは、いかに理由があ
ろうとも、戦争を起こした者は破門にするという布令です。
これまではどの国も戦争ばかりやっていました。ずっと外に利を
求めていたのです。
しかし、それができなくなれば、内に目を向けるしかない。
獣人が住んでいた土地は僅か。
されどその﹃僅か﹄すら見過ごせない時代がやってきたのです。
たとえ﹃僅か﹄でも、それを集めれば﹃沢山﹄となる︱︱そうい
うことです﹂
言い終わって、トンと机の上に杯を置いたフロスト。
頬は赤い。
だがその目は、こちらを覗き見るようだった。
﹁貴方の真意はわかります。心配なのでしょう、この町が﹂
174
図星だった。
たった二つの質問で内心を言い当てられたことに俺は動揺する。
されど、決してそれを表に見せないよう微笑みを絶やすことなく、
手の杯をしかと握った。
﹁貴方が何を思ってこの地に町をつくったのか、何故獣人を従えて
いるのか、予想はつきます。
⋮⋮聞きますか?﹂
﹁どうぞ﹂
﹁貴方は、行き場を失い飢えていた獣人達に同情し、獣人達のため
に町をつくったのではありませんか?
施政者に必要なものは、知恵と誠実な心と貴方はおっしゃった。
それは貴方自身のことを言っているのでは?﹂
いや、それは違う。
俺が町をつくった理由は、あくまで俺のためだ。
ただ、俺の利益追求の結果、獣人達を救えたことは素直に喜ばし
いことだと思う。
絆。
元の世界では、ことあるごとに使われて陳腐になってしまった言
葉だが、この異世界にあって俺は、町の獣人達に﹃絆﹄を感じてい
るような気がする。
もちろんカトリーヌとは、がんじがらめの決してほどくことがで
きない鎖のような絆で繋がれているわけであるが。
﹁その通りです。私は獣人達のためを思ってこの町をつくりました。
私達はこの人間の住めない地で、ただひっそりと平和に暮らすの
175
が願いです。
ですから、国に帰っても決してこの地のことは口外しないでいた
だきたい﹂
俺は同情を誘うような言葉を選び、フロストに向かって頭を下げ
た。
﹁やめてください。口を封じたいのなら、私達を殺せば済むことだ。
しかし、貴方はそれをしなかった。
ならばどうして私達が貴方の願いを蔑ろにできましょうか﹂
その後、フロストは何でも聞いてくれと言うので、こちらも遠慮
なしにこの世界のことを尋ねた。
まずサンドラ王国について。
それから持ってきた布切れにこの世界の地図を書いてもらい、世
界の情勢を学んだ。
語らいは夜遅くまで続いた。
彼は知りたがりよりも教えたがりの気があるようだ。
夜が明けて翌朝訪ねた時には、フロストまだ寝ており、もう一日
逗留してもらうことにして、昼からはまた話を聞いた。
︱︱そしてフロスト達が来てから三日目の朝。
﹁では、ジハル族長、後を頼みます﹂
﹁はっ、お任せください﹂
ジハル族長に町のことを任せて、フロスト達を送っていく。
176
当初はリンクスが縄張りにしている場所を過ぎればそこで別れる
予定だったが、こちらも向こうの善意から多くのことを学んだ。
短い間であったがフロストは先生であり、俺は生徒だったのだ。
そういうわけで、俺はフロスト達を人間の里の近くまで送ること
にした。
供には狼族が4人。
いずれもラクダの乗り手だ。
ラクダはカトリーヌを含めて5匹おり、3匹のラクダに、フロス
ト達と狼族達を二人乗りにした。
人間と狼族。
最初はギクシャクとした旅路であったが、互いの距離感に慣れて
しまえば、どうということもない。
狼族の者には、フロストらを﹃客人﹄と呼ぶように前もって言っ
てある。
途中、リンクスがこちらの人数が少ないのを見て近くまで寄って
きたが、狼族の弓であっさりと仕留められた。
そして9日の行程をもって、フロスト達と別れ、また町へと引き
返す。
俺達が町へ戻ったのは、町を出発してから16日後であった。
帰り道、リンクスの死体はなくなっていた。
177
20.競技会︵※地図あり︶
﹁ふぅ﹂
長旅から帰ってきた俺はまず風呂に入り、その後ベッドに身を預
けるように横合いから倒れこんだ。
﹁やわらかい⋮⋮﹂
野宿などさほど苦ではなかったが、やはり家のベッドが一番だ。
﹁よっと﹂
宙ぶらりんの下半身をベッドに乗せて、寝返りをうち、仰向けに
なる。
天井のライトが眩しい。
俺は目を細めながら、無事に事が済んでよかったと安息した。
長旅に出るに当たり、唯一の懸念事項は何日も町を離れること。
しかし、それも帰ってきてみれば、なんの問題もなく町は平常通
りの姿を見せていた。
目を閉じ、眠ろうとする。
しかし眠れない。
仕方がないので起き上がり、机にあった布切れを手に取った。
そこにはこの大陸の地図が描いてある。
178
<i192100|13161>
こうしてみると本当にヨーロッパみたいだと思う。
竜の顎と呼ばれる大陸。
東の山脈を越えた先は人類未踏の極寒の地。
噂では魔王がいるのだという。
南は砂漠。
こちらも未だに人間が足を踏み入れてはいない土地だ。
また、海には魔物がおり、航行する術はない。
だというのに元の世界でいうアフリカ大陸の存在を知っているの
は、砂が時折南風に乗って降ってくるからだとか。
そして、この町の北にはサンドラ王国がある。
フロスト曰く、この地にサンドラ王国から軍がやって来ることは
ないとのこと。
人間社会の平和がこのまま続けばその限りではないが、それはま
ずありえないのだそうだ。
﹃国家間の戦いこそ教会は禁じましたが、国内の争いには言及して
いません。
跡目争い、領土問題など内乱の種などいくらでもあります。
これに他国の謀略が加われば、いずれどこぞの国で内側から争い
が起こるでしょう。
そしてそれは、いずれ国家間の戦争に発展します。
教会の布告? ふふ、多額の金銭と大義があればそんなものはど
うとでもなりますよ。
所詮、平和など戦争の準備期間に過ぎません﹄
179
このフロストの話が事実ならば、この地はこのまま安寧を享受す
ることができる。
だが、全てを信用するほど俺は若くない。
最悪の事態も想定するべきだろう。
︱︱そう。
フロスト達がこの町のことを口外し、サンドラ王国がこの地に軍
隊を送ってくることを。
︱︱数日後。
俺は町の小さな異変に気付いた。
町の者達は、一見なんの変わりもないように俺と接しているが、
以前とは違う空気を僅かだが感じるのだ。
しかし、これの原因はわかっている。
人間であるフロスト達を俺は助けた。
俺が人間の肩を持ったがために、彼らの中に不満が生まれたので
ある。
ただ初期からいる狼族に関しては、そんなことはない。
共に過ごした時間の長さは、絆の深さ。
ならば、他の種族の者達との関係も時間が解決してくれるだろう。
︱︱なんて考えるのは愚者だけだ。
180
俺の種族は人間。
獣人達の住みかを奪った種族と同じなのだ。
それゆえ、獣人らの不満がいつ猜疑心に変わってもおかしくはな
いだろう。
だからこそ、彼らの不満を放っておくつもりはない。
﹁というわけで、競技会をします﹂
﹁競技会⋮⋮ですか?﹂
ジハル族長の家で、パチンパチンとジハル族長とリバーシを打ち
ながら、俺はとある計画を話した。
それは競技会という名の祭典。
勝った者には栄誉と酒。
さらに皆には酒を振る舞う。
﹁ええ、個々の技術や能力を競うもので、一番になった者には景品
を授与します﹂
一種のお祭りだ。
しかし、ただ宴会をするだけではいつもと一緒、刺激が足りない。
そこで、互いを競わせて不満を消し飛ばすほどの興奮を与えよう
というのだ。
﹁なるほど。して、その競技は?﹂
﹁駆け足、弓、槍投げ、ラクダレース、それにリバーシを考えてい
ます﹂
181
皆を興奮させるという点において、ネックとなるのは体力に劣る
ゴブリン族とコボルト族。
身体能力を競う種目ではゴブリン族とコボルト族に勝ち目はない。
当然、ラクダレースは俺とカトリーヌが優勝をいただく。
というわけで用意した種目がリバーシだ。
現在リバーシはこの町で一番の娯楽となっており、これならば頭
のいいゴブリン族とコボルト族が有利である。
他のボードゲームと違い、時間もそうかからない。
スポーツ競技をやっている間に進めれば、いつのまにやら終わっ
てくれていることだろう。
﹁わかりました、調整しましょう。ですが、皆の仕事を受け持ち、
どうしても参加できない者が何人か出ますが⋮⋮﹂
﹁ええ、その方達にはしっかりと労いの酒を送らせて貰います﹂
この世は金、なんて言葉があるが、この町においては大体のこと
は酒で片がつくのである。
そしてこれより2日後。
︽ではこれより、第一回種目別競技会を始めます!︾
俺は台の上から︻拡声器︼を使って、開会の挨拶を行った。
するとワッという大歓声が上がる。
皆、駆けつけに一杯やっており、既に盛り上がりも相当なものだ。
司会と進行は俺、アシスタントは狼族の者数人にて競技会は執り
行われる。
182
最初の競技は短距離走だ。
短距離走の予選は3レース。
各種族から三人ずつが選抜され、1レースに各種族の一人ずつが
出場する。
ちなみにゴブリン族の選手はスポーツを全て棄権しており、端っ
この机と椅子でオセロのステージを囲んでいた。
﹁位置について、ヨーイ⋮⋮﹂
かけ声の後、俺は空に構えた拳銃の引き金を引く。
すると、パンッという耳をつんざくような激しい音が鳴った。
もちろん弾は実際に撃っておらず、空砲である。
しかし空砲とはいっても、至近距離ならスチール缶に容易く穴を
空けるくらいの威力はあるので、使用の際は注意が必要だ。
そして銃声と共に、横一列に並んでいた選手達が駆ける。
さすがに速い。
私見ではあるが、オリンピック選手すら凌駕しているように思え
る。
観客席からの轟くような声援の中、次々と選手達がゴールしてい
った。
1着は豹族、2着は狼族、3着は鹿族。
この三人が予選突破だ。
﹁ウオオオオオオオ!﹂
1着となった豹族の男は誇らしげに拳を頭上に振り上げ雄叫びを
あげる。
183
観客席に座っている豹族の者達も、1着をとった同族に対し、割
れんばかりの大きな歓声を送った。
その後、第2予選も無事に行われ、次は第3予選。
ふと、見覚えのある者が選手の中に並んでいた。
かつて、一人で町を出ていこうとした狼族のミラだ。
彼女と視線が一瞬交錯する。
するとプイッと顔をそらされた。
まだ嫌われているのかもしれない。
﹁位置について、ヨーイ⋮⋮﹂
思い思いのフォームで、スタートの合図を待つ選手達。
パンッという破裂音が辺りに響く。
それと同時に、選手達は一心不乱にゴールに向かって駆けていっ
た。
俺はなんとはなしに、心の中でミラを応援する。
しかし︱︱。
﹁あぁ⋮⋮﹂
俺の口から自然と残念がる声が漏れた。
ミラは4位、予選での敗退が決定してしまったのだ。
視線の先では、悔しそうに涙を溜めているミラ。
縁が他の者よりもあっただけに勝って欲しいという気持ちがあっ
たが、現実はなかなかに無情である。
まあ、次の機会があればまた頑張ってくれと心の中でエールを送
184
り、気を取り直して決勝戦へと移った。
︽さあ、決勝戦です! ここまで残った九名!
その内豹族はなんと三名とも一位で予選突破! 圧倒的です!
次に鹿族三名! 果たして決勝で豹族を破れるのか!
さらに狼族二名! 猫族一名!
この九名で決勝戦は争われます!
では、選手は並んで下さい!︾
ぞろぞろと位置につく選手達。
俺は拡声器を隣に控える狼族の者に渡した。
そして、銃を空に構える。
﹁位置について、ヨーイ⋮⋮﹂
この時ばかりは観衆も黙り込み辺りは静寂につつまれる。
そして、パンッという強烈な音がその静寂を破った。
途端、堰を切ったように大歓声が溢れだす。
九つのコースの上をそれぞれ駆け抜ける、決勝に残った選手達。
僅かの距離を、より僅かな時間で到達するために、誰もが必死に
手と足を動かした。
︱︱結果、1着は豹族、2着も豹族。
3着は豹族か鹿族か、俺の位置からではほぼ同着に見えた。
ゴールに控えていた狼族の者が三本線の入ったタスキを渡したの
は⋮⋮豹族だ。
4着は惜しくも敗れた鹿族の男。
彼には拍手を送りたい。
185
それにしても決勝は4着までを入賞として正解だったようだ。
3着までにして、表彰されるのが全員同じ種族だとかなりシラケ
ることだろう。
︽短距離走は豹族の圧勝! 鹿族の選手も健闘しましたがその牙城
は崩せませんでした!︾
ウオオオオ! という地鳴りのような勝鬨が豹族達から上がった。
︽表彰は最後に行いますので、今走った選手の皆さんは、それまで
ご自分の席で観戦していてください。
では次の種目に参ります!
次の種目は⋮⋮弓!
選手の方は集まってください!︾
再び会場は選手への激励の声に包まれた。
こうして順調に競技会は進んでいく。
︱︱やがて時は過ぎ、全種目が終了した。
弓は視力の優れた鳥族が、槍投げは力自慢の豚族が1位となった。
そしてリバーシは、なんと狼族の少年がコボルト族とゴブリン族
を破って優勝した。
二年前に俺を打ち負かした、あの狼顔の少年である。
体も見違えるように大きくなり今では、農作業に従事しているが、
頭の良さはあの時と変わっていないようだ。
また、ラクダレースについてはカトリーヌと俺のコンビが圧倒的
186
だった。
さすが俺の嫁。
走り終わると、カトリーヌは近くの雑草をどや顔でムシャムシャ
と頬張っていた。
かわいい。
競技会は凄まじい賑わいを見せたといっていいだろう。
成績が振るわなかった者も酒を飲んでうさを晴らしていた。
そして表彰式。
俺の前には各競技の1位∼4位までの選手が立ち並んでいる。
1位の者には︻ペンダント︼、︻ワイン︼、︻日本酒︼。
2位と3位の者には︻ワイン︼と︻日本酒︼。
4位の者には︻西瓜︼と︻日本酒︼が授与される。
︻クロス・レザーチェーン︼5万円︵定価500円︶
︻赤ワイン・700ミリリットル︼6万8000円︵定価680円︶
︻日本酒・上酒・1升︼4000円
︻西瓜︼700円
安物のペンダント。
向こうの世界じゃとるに足らない物でも、こちらの世界なら相当
な価値をもつことだろう。
ペンダントが選手の首にかかると同時に、その部族の者達がワッ
と沸き上がった。
﹁よくやった!﹂
﹁お前は俺達の誇りだ!﹂
187
飛び交う賛辞。
﹁おめでとう。素晴らしい弓捌きでした﹂
俺がそう言うと、鳥族の青年はブワッと涙を流した。
﹁ありがとうございます⋮⋮っ!﹂
感極まるというやつだろう。
﹁さっ、仲間に手を振ってあげなさい﹂
﹁はいっ!﹂
こうして盛況の中、第一回種目別競技会は幕を閉じた。
その後の一週間ほどは皆、競技会の話題で盛り上がり、人間がや
って来ていたことなどすっかり忘れていた。
188
21.騎士団
暖かな春が終わり、灼熱の夏がやって来た。
ジリジリとした暑さではあるが、日本のジメジメとした夏よりは
マシに思える。
ただし、気温は日本よりはるかに高いので脱水症状などには注意
が必要だ。
そして夏が過ぎ、季節は秋。
だいぶ気温も下がり、過ごしやすくなった。
また、この季節には雨季が存在し、僅かではあるが雨が降る。
枯れた大地に染み込む恵みの雨。
すぐに冬がやって来るというのに、大地には疎らに雑草が生えて
くる。
︱︱そんなある日のこと。
ジャーンジャーンジャーンジャーンというけたたましい音が、突
如、町中に鳴り響いた。
﹁なんだ!?﹂
カトリーヌの体を背もたれに、のんびり昼寝をしていた俺は慌て
て体を起こす。
混乱は一瞬のこと。
俺の頭は、すぐに状況を理解した。
町の石垣の上に設置した銅鑼が何度も叩かれているのだ。
189
銅鑼が時刻を知らせる際に音を鳴らすのは一回、しかし複数回鳴
らすのは︱︱。
﹁フジワラ様! フジワラ様!﹂
叫び声と共に門が叩かれた。
その声はジハル族長のものではない。
別の者の声だ。
つまりそれは、ジハル族長に取り次ぐ暇もないほどの火急の事態
だということ。
この時、あののんびり屋のカトリーヌですら、ただならぬ危機を
察して首を持ち上げていた。
﹁どうしましたか!﹂
予感はあった。
だが、その考えは外れてくれという思いで、俺は門の向こうにい
る者に尋ねた。
﹁人間が! 北より人間の軍隊が!﹂
それを聞き、俺は歯を食いしばり、拳を握りしめる。
恐れていたことが起きてしまったのだ。
人間の軍隊。
つまりはサンドラ王国の軍がこの地にやって来たのだろう。
﹁位置は!﹂
﹁高台よりはるか遠くに砂煙が見えたとのこと!﹂
190
高台とは北数キロの位置に造らせた見張り台のこと。
フロストが去って以後、最悪の事態を想定しこちらも色々とやっ
ていたのだ。
﹁全員を町の中へ避難させろ! すぐに私も北門へ行く!﹂
最早、丁寧語を使う余裕もない。
俺はすぐに戦闘服に着替えると、トラックの荷台に流れるような
速度にて︻弓︼と︻矢︼を購入。
それが終わると、トラックの座席に乗り込み自宅を出た。
遠目からでも、北門にどんどんと町の住民が集まっていくのがわ
かる。
だが全員にはほど遠い数だ。
﹁道を開けろ!﹂
北門付近、人混みの中にできた道をトラックが進む。
﹁おお、トラックだ﹂
﹁フジワラ様のトラックさえあれば、人間など⋮⋮﹂
俺の乗るトラックはいわば象徴。
町に来た者はまずこのトラックに畏怖する。
こんな巨大な獣がいたのかと畏れ敬う。
だからこそ町人達はトラックの姿に安心感を覚えるのだ。
俺は北門の後ろにトラックを停車させると、下車して後ろの荷台
を開けた。
191
﹁弓と矢がある! 弓を使える者は、弓をとれ!﹂
彼らの多くは、元々農作とは無縁の世界で生きてきた者達だ。
人間との交易を主として生きてきたゴブリン族を除けば、皆、弓
はお手のものだろう。
﹁北門は、私と狼族! 西は鳥族と豹族と鹿族とコボルト族! 東
は豚族と猫族とアライグマ族! ゴブリン族は補給係だ!
足の早い者を連絡係としろ!
全ての住人とラクダが町の中に入り次第、門を閉じよ!
その後は私の指示があるまで絶対に動くな!﹂
滑らかに舌が回る。
皆も俺の指示に従い、淀みなく動いた。
夏の日に一度、全員で訓練したことがある。
だからこそ、俺も皆も大きな混乱もなしに動くことができるのだ。
俺は石垣に上った。
はるか彼方では、高く細い砂煙が上がっている。
予想よりも速い進軍速度だ。
双眼鏡で見るが、裸眼とあまり変わらず、精々砂煙が大きく見え
るだけだった。
﹁あの砂煙の大きさがどれ程の数に相当するかわかる者はいるか!﹂
﹁騎馬兵が300∼500はいます!﹂
俺の問いに狼族の者の中から、すぐに答えが返ってくる。
﹁騎兵が300∼500か⋮⋮﹂
192
俺は呟きつつ、傍らに置いた背嚢を見た。
その中にはありったけの弾装が詰まっている。
やがて各門から、自分達の部族の者は全員町の中に入ったという
知らせが続々と届いた。
それは狼族も同様で、俺の隣にはジハル族長が到着していた。
そして敵軍はやって来た。
300メートルほどの位置に、こちらを威圧するように布陣する
騎馬隊。
数はおよそ500。
皆、銀色に輝く鎧を一様に身に纏い、それが500騎も隊列を組
んで並ぶ姿は、映画さながらの壮観さであった。
すると、騎馬隊の中から一騎が前に出る。
それにより、狼族の何人かが弓を引き絞った。
﹁待て! 私の指示があるまで絶対に射つな!﹂
狼族が一番付き合いが長い。
だからこそ、この場においた。
堪えがきくのだ。
﹁我々はサンドラ王国赤竜騎士団の者である!
この地は我がサンドラ王国のものだ!
故に、この地につくられた町も我がサンドラ王国のものである!
さあ、町を開け渡せ!﹂
いけしゃあしゃあとほざいた敵の騎兵。
193
あまりに傲慢すぎる要求であり、こちらをどこまでも下に見てい
る証であった。
無論、そんな要求を呑むわけがない。
この地は、この町は俺のものだ。
﹁この地にお前達は住んでおらず、我らが住んでいる!
故にこの地は我らのものだ!
この町も我らがつくった!
故に町も我らのものだ!﹂
俺はあらんかぎりの声で吼えた。
譲るものかという意思を込めて。
俺に続いて狼族達も﹁そうだ!﹂﹁出ていけ!﹂と口々に叫ぶ。
﹁サンドラ王国最強の赤竜騎士団が見えないのか! 降伏せねば皆
殺しにするぞ!﹂
騎兵が明らかな怒りをにじませて言った。
だが、俺の答えは変わらない。
﹁何度でも言おう! ここは我々の住む土地だ! 早々に立ち去れ
!﹂
﹁後悔しても知らんぞ!﹂
要求が通らぬと見て、馬首を返し去っていく騎兵。
途端、狼族達が騒がしくなる。
﹁おい、あれ!?﹂
194
﹁ま、まだいるのか!﹂
その原因は、はるか彼方。
﹁ふ、フジワラ様! はるか後方に砂煙が見えます! 数があまり
に多い! 食料輸送の隊じゃありません! 新手です!﹂
恐怖に震えるようにジハル族長が言った。
はるか遠方には、低く横に広がった砂塵が見える。
そうだろうな、と俺は思った。
フロスト達が俺達のことを口外したのならば、この町が石の壁に
囲まれていることも敵は知っている。
騎兵ばかりで攻城戦ができるわけがない。
恐らくは歩兵隊だろう。
﹁落ち着いてください。まだ慌てる時じゃない﹂
そう、俺自身がまず落ち着こう。
冷静に、まず状況判断だ。
先程の騎兵は自身の隊を赤竜騎士団と言った。
フロストがした話を信じるならば、サンドラ王国に四つの精強な
騎士団がある。
赤竜、青竜、黄竜、緑竜。
古の四竜になぞらえた騎士団、その内の一つである赤竜騎士団。
由緒正しい騎士団なればこそ、率いる者もまた代えのきかない階
級の者が率いている。
全軍を指揮する大将、もしくはそれに準ずる者が、あの騎士団に
195
はいるはずなのだ。
さらに騎馬隊が先行してきたのは、過去に戦わずに獣人を追い散
らした経験があるからだろう。
騎馬を並べて吠えたてれば、独りでに開城する。
そんな考えあっての行動。
あわよくば率いる者が手柄を己のものとするために、先行したの
かもしれない。
しかし、今回も一戦もせずに事が済むと思ったか。
無論、そんなもの許せるわけがない。
だが、このまま攻城戦となるのは避けたいところだ。
ならば歩兵隊が来るまでに勝負をつけるまで。
俺の中でやることは決まった。
いや、決まっていた。
少々ズレはあるが、大まかなところは今までにシミュレートして
きたとおり。
俺は、小銃の負い紐を肩から外す。
しかし突然、俺の心臓の鼓動がバクバクと強く脈打った。
これから俺がやること。
それは紛れもなく殺人だ。
そう考えると、背中に冷たいものが走る。
まるで足場のない高所に、命綱無しで立たされているような感覚。
今にも手足が震え出しそうだった。
たがやらねばならない。
いつかこんな時が来ると思っていた。
196
誰かを殺す瞬間を、何度もシミュレートしてきたのだ。
︱︱俺はその場に膝撃ちの姿勢をとった。
安全装置を﹃レ﹄の位置に合わせる。
﹃レ﹄とは連発の意。
そして目標は、先程降伏勧告を行った騎兵が、報告をしに行った
先。
そこに騎士団を率いる将がいるのだ。
俺の目は既に敵将を捉えていた。
隊の中にあってただ一人兜を脱いでいる若武者。
矢が届かない距離だからと安心して、隊の一番先頭にいる。
俺は照準を合わせ、その引き金を引いた。
タタァンッ! という鼓膜を痺れさせるような二連続の破裂音が、
荒野を切り裂く。
それに伴い、ビクリと身を震わす獣人達。
小銃の連射は何発でも可能であるが、この時二発に抑えたのには
わけがあった。
それは銃を撃った時の反動。
銃身が上に振れるのだ。
二発までならばまだズレは少なく目標に当たる。
しかし三発目の弾が放たれる時には銃身が上に振りきれており、
これまでの練習で一度も目標を捉えることはできなかった。
それ故の二発。
そしてその二発の弾丸によって倒れたのは、敵将とおぼしき男の
197
隣にいた者。
その周囲では馬が暴れ、騎兵達は何が起きたのか慌てふためいて
いる。
俺は反動でずれた照準を再び合わせる。
そして再び引き金を引いた。
倒れたのはまた別の者。
音が響く度に誰かが倒れる。
それは恐怖以外の何物でもないだろう。
さらに四度の破裂音を鳴らして、敵将が倒れた。
だが、まだだ。
まだ、死んだとは限らない。
さらに六度、撃鉄を撃ち鳴らす。
内4発は地面を穿ち、そして残り2発は敵将の体に血の赤い花を
咲かせた。
そして、漸く敵兵は気づいた。
誰の側にいれば巻き添えになるかを。
自然、兵達は己が将から遠巻きになる。
脚部を立て小銃を置き、俺は双眼鏡で騎士団長を見た。
ピクリとも動く様子はない。
腕も吹き飛んでいる。
死んだのだ。
俺はそう結論付けた。
すると胃の中のものがせり上がった。
俺は無理矢理それを呑み込んで、再び小銃を手に取った。
198
馬を下りた一人が敵将に近づく。
俺はそいつを撃った。
躊躇いはない。
俺の心中に現在あるのは冷徹な感情のみ。
敵将はたとえ死んでも国許に帰ることはできず、その死体はこの
場に打ち捨てられるのだ。
手段のわからない攻撃と敵将の残酷な死。
これが俺の作戦。
敵の退却を誘い、その後の南進を抑える第一手であった。
もちろん、第二、第三と手は幾つもある。
俺の視線の先では、さらに一人が敵将に近づき、そいつも撃った。
︱︱そして敵騎馬隊は退却した。
199
22.勝利
土煙を上げながら去っていく敵の騎馬隊を見つめながら、俺は小
さく息を吐く。
すると、ウオオオオ! という勝鬨が霹靂のごとく周囲から鳴り
響いた。
﹁人間を追い返したぞ!﹂
﹁フジワラ様のお力だ!﹂
﹁俺達の町は守られたんだ!﹂
狼族の者達は誰もが歓喜した。
当然だろう。
人間に対し、これまでずっとされるがまま、奪われるがままだっ
たのだ。
だからこそ、敗走する人間の軍を前にして彼らが喜ばないわけが
ない。
そして狼族達の歓喜は俺の心にも変化を与えていた。
集団心理というべきか、俺の中で人を殺したという罪悪感が和ら
げられ、町を守ったという高揚感が強くなったのだ。
だが油断はするのはまだ早いだろう。
騎馬隊が歩兵部隊と合流し、果たしてどのような行動に出るのか。
もちろん、再び攻めてくる可能性だってある。
俺は、じっと騎馬隊の背を見つめた。
このまま後方部隊と共に退却してくれ。
200
そんな思いが、俺の心を占めていた。
﹁何があったのですか!?﹂
北門の騒ぎに、各門から連絡兵が事態の確認をしにやって来る。
俺は騎馬隊を追い返したことを伝えて、連絡兵を送り返す。
しばらくの後、西門と東門からは、大地を揺らすような歓呼の声
が聞こえてきた。
結局のところ、敵の騎馬隊は後方の部隊と合流し、そのまま北へ
と去っていった。
八方へ索敵兵を出したが、敵の影はかけらも見つからない。
俺は物見を多く残して、漸く町の警戒体制を解いた。
そして、大地に転がる敵兵の死体を埋めるよう獣人らに命じ、さ
らに死んだ馬に潰されて取り残されてしまった兵を一人捕らえた。
やがて日は落ち、辺りを黒い闇が包んだ。
町を囲う石垣には火が焚かれ、獣人らが交代で夜通しの警戒に当
たっている。
深夜、自室のベッドの中で、俺は天井の照明を眺めていた。
敵軍は本当にあのまま国に帰ったのか。
実は退却は見せかけで、今宵にも夜襲をかけてくるのではないか。
眠れない。
尽きない不安が俺を眠らせなかったのだ。
俺はたまらずにベッドから抜け出した。
201
服は着替えておらず、戦闘服のままだ。
服の上に装具をつけて、家を出ると、満天の星空が俺を迎えた。
肌寒い。
雲がないために熱が籠らず、昼に比べ夜は寒くなる。
俺はトラックに乗って門を出発した。
薄暗い町の大通りをヘッドライトの光が照らし出す。
やがて北門に到着して下車すると、待ち構えていたように声をか
けられた。
﹁フジワラ様、どうかなされましたか?﹂
その声はジハル族長のものだった。
﹁眠れなくて。あなたは?﹂
﹁少し様子を見に来ました﹂
北門の警戒には現在、狼族とアライグマ族を当てている。
ジハル族長の真面目な性格から察するに、彼はこの石垣の上で一
夜を明かすつもりだったのだろう。
二人で石垣の階段を上り、石垣の上から北の方角を眺める。
ぼんやりと月の光が大地を照らしていた。
だが、数百メートル先には漆黒の闇があった。
見えないということは恐ろしい。
なぜならば、見えないということは、わからないということだか
らだ。
202
もしかしたら、あの黒い闇の中には敵兵が迫っているかもしれな
い。
そう考えると、やはり不安になった。
その日、俺は夜を徹して、石垣より遠く暗い世界をじっと眺めて
いた。
そして翌朝。
俺は再び索敵を命じた。
その結果、敵影はなし。
どうやら敵軍は間違いなく撤退したようである。
こうして町に再び平和が訪れたのだ。
さて、町が平和になったのならば新たにやることがある。
俺は昼食後に旅館へと向かった。
話は変わるが、この町には牢屋というものがない。
町は部族ごとに分かれ、一定の自治権のようなものがある。
何か問題が起これば、その部族内で裁くのだ。
治安に関して俺の出番といえば、精々、違う部族の者同士で争い
が起きた時くらいなもの。
それすらも、ほとんどが族長同士の話し合いで収まる。
というわけで、使っていない旅館の一室を牢屋代わりに、昨日よ
り捕虜の騎士を入れておいた。
監視として部屋の前には、剣を持った二人の狼族を立たせている。
ちなみに彼らの持っている剣は、昨日死んだ敵兵から剥ぎ取った
ものだ。
203
﹁入りますよ﹂
閉じられた襖の前より声をかけるが、返事はない。
しかし、ダダッという畳を踏む音が部屋の中から聞こえた。
俺は襖を開ける。
部屋の隅には、怯えるように身を縮こまらせる茶色い髪の青年が
いた。
当然、鎧や武器は全て取り上げており、彼が身に付けているもの
は、鎧の下に着ていた白い上下の服のみとなっている。
﹁な、なんだ!? 俺に指一本触れてみろ! 王国が黙っちゃいな
いぞ!﹂
どこかで聞いたような台詞である。
﹁ほう。では、あなたはサンドラ王国において上位の地位にある者、
というわけですか﹂
﹁う⋮⋮﹂
しまった、という顔をする青年。
そして彼はやや考えた風にして、また口を開く。
﹁そ、そうだ! 俺はバイデンハルク伯嫡子のローマット・バイデ
ンハルクだ! 俺を国に返せば幾らでも金が手に入るぞ!
だから俺を国へ返せ!﹂
目の前の青年︱︱ローマットはどうやら開き直ったご様子。
204
しかし金か。
心を揺さぶられるな。
なにせ現在の資金は500億円を僅かに割っている。
だが今は、金よりもまず情報だ。
﹁お金よりも私はあなたのお話が聞きたいのです。
嘘偽りなく、私の質問に答えてください。それこそが、あなたが
死なないための唯一の道です﹂
死という言葉に、ローマットはヒィと怯えた。
別に何も喋らなくても本当に殺すつもりはない。
ただの脅しだ。
しかし、脅すだけでは芸がない。
そのため俺は頭部の装具を外し、自身が人間であることを教えた。
﹁あ、あんた、に、人間だったのか!?﹂
飴と鞭。
獣人だらけのこの町で、俺という同族の存在はローマットにとっ
て希望の光のように思えることだろう。
﹁ええ、そうです。ですから信用してください。
あなたが私の質問に答えてくだされば、命は助けます﹂
﹁わ、わかった﹂
﹁と、その前に︱︱﹂
俺は片手にぶら下げていた酒をドンッと机の上に置いた。
205
﹁まずは一杯飲みませんか。酒でも飲めば、こんな場所でも幾らか
気が晴れるでしょう﹂
ポケットから紙に包んだ盃を取り出して、トクトクと酒を注ぐ。
ぷーんという、鼻を刺激するアルコール臭。
ローマットはゴクリと喉で大きな音を鳴らし、誘われるように両
手両膝でもって酒のある方へ近づいた。
﹁どうぞ﹂
﹁あ、ああ﹂
ローマットは机の前で胡座をかき、手を伸ばして盃をとる。
そして、一息に盃の酒を飲み込んだ。
﹁かーっ! 珍しい酒だが悪くない!﹂
タン、という小気味よい音が鳴らして、盃を机に置く。
なにやら途端に威勢がよくなった。
﹁さ、もう一献﹂
﹁お、すまねえ﹂
新たに注がれた酒も、またもや一息で飲み干した。
どうやら相当に酒が好きなようだ。
﹁そろそろ、お話を聞いてよろしいですか?﹂
俺は空になった盃に酒を注ぐことなく尋ねた。
206
﹁ん? ああ、そうだったな。うん、よし、何でも聞いてくれ﹂
﹁どうやってこの町のことを知ったんですか﹂
﹁うん、それはな、なんとかって学者の弟子の垂れ込みよ。
獣人達がこの地に町をつくってるってな﹂
学者の弟子。
フロストの弟子のことだろう。
ローマットは言葉を続ける。
﹁正直、話を聞いた奴は全く信じてなかったんだが、その弟子は命
を賭けてもいいと言い始めたんだそうだ。
そこまで言われると、さすがに信じないわけにはいかない。確か
に獣人達は南へ向かったわけだしな。
それで、一緒にその町に行ってたっていう、なんとかって学者を
呼び出してチョイと脅してやったら、全く同じことを言ったもんで、
こうして軍が編成されたってわけだ﹂
言い終わると、ローマットはクイックイッと盃を動かし、酒を要
求した。
俺は、その盃に酒を注ぎながらも、やはりフロスト達が原因だっ
たかと心をむなしくさせた。
あの時、彼らを助けたのは甘い判断だったのだろうか、という後
悔にも似た思いが胸に滲む。
いや、今更な話だ。
そもそも、俺に彼らを見捨てることはできなかった。
助ける以外の選択肢はなかったのだ。
207
﹁この地に侵攻した理由は? この地はあなた達にとって呪われた
場所だったはず。
こんなところを占領しても、いずれ地揺れによって多大な被害を
受けるだけでしょう﹂
﹁うん? いや、この呪われた地を組み込もうとは思ってない。
要は植民地化だ。
獣人達に働かせて、うまい汁だけ吸おうって魂胆だったのさ﹂
滑らかな口調。
獣人を奴隷にするというような話を、悪びれもなくしれっとした
様子で言うローマット。
俺が人間だということでどこか安心しているのだろう。
俺の言葉使いと酒も、彼の態度を大きくした原因に違いない。
﹁しかし、今回サンドラ王国は敗北しました。
えっと赤竜騎士団でしたっけ?﹂
﹁ふん! 我が国には四つの精強な騎士団がある! 赤、青、黄、
緑!
それぞれの偉大な竜になぞらえた騎士団だ! この四竜騎士団が
力を合わせれば、このような都市などものの数ではないわ!﹂
盃をカンッと机に叩きつけるようにして、ローマットは言った。
なるほど、四つの騎士団がサンドラ王国の主軍。
これはフロストから聞いた通りだ。
他の騎士団も赤竜騎士団と同程度で、その規模は2000人ほど。
これに民兵と各地の領主軍が加わり、サンドラ王国の巨大な軍が
208
完成する。
﹁しかし、騎士団の華は騎馬でしょう。騎馬ではこの町の壁は抜け
ませんよ﹂
﹁はっはっ! 後ろにいる歩兵部隊を見なかったのか?
この地のはるか北にある領地、アンブロシュヴァ伯とサラーボナ
ー伯の歩兵軍だ!
僅か二領地からの徴兵で4000を超える数よ!﹂
﹁それは恐ろしいですね﹂
﹁だろう?﹂
事実、恐ろしい。
4000の兵に囲まれて攻められたら、町は終わりだ。
まあ、そうなるまでに勝負をつけるのが、こちらの作戦なのだが。
﹁お前も人間だろう。
聞いているぞ?
この町の支配者が人間だということはな。
つまり、お前のことだ。
町を寄越せば、俺が上の者に掛け合って便宜を図ってやる。どう
だ?﹂
俺はその誘いに首を横に振ることで答え、新たな質問をローマッ
トにぶつけた。
﹁獣人と人間、互いが手を取り合う手段はないんですかね﹂
209
﹁ふん、無理だな。弱き者が強き者の糧となるのは当然のことだ﹂
﹁そうですか﹂
獣人と人間が仲良くすることなど別に期待していない。
そんなことが可能ならば、そもそも獣人達の今はないはずだ。
だがそれでも、聞いてみたかった。
ただそれだけのこと。
そしてこの後も、酒を飲みながら流暢にローマットは国の事情を
話した。
前回フロストから聞いた話と重複する部分が多くあったが、話の
信憑性が増したということでは決して無駄ではなかったといえる。
今回の情報収集で一番の収穫は、やはり、この地を植民地として
扱おうとしていたという話であろう。
サンドラ王国は、この地に居を構えるつもりはないらしい。
つまり彼ら人間にとって、この地は依然として住むことができな
い場所なのだ。
210
23.サンドラ王国︵前書き︶
三人称です
211
23.サンドラ王国
王が住まい、厚い城郭に囲まれ、人口は4万人を超える大都市︱
︱そこはサンドラ王国が王都サンドリア。
その日、サンドリアの城郭の上にいた警備兵は、遠方に見える部
隊を見つけて声をあげた。
﹁赤竜騎士団だ! 赤竜騎士団が南より帰ってきたぞ!﹂
既に早馬が届いており、警備兵は赤竜騎士団の帰還を今か今かと
待ち望んでいたところであった。
警備兵の声は直ぐ様、王都中に広がった。
なにせ赤竜騎士団は、出発前にこの度の遠征を大々的に喧伝して
いたのだ。
曰く、﹃南に集まり、生意気にも町をつくったという獣人を、王
の威徳と赤竜騎士団の武勇によって服従させる!﹄とのこと。
勝利
の凱旋は、人々の自尊心を強く刺激し、何物に
娯楽の少ない時代である。
自国軍の
も勝る楽しみとなっていた。
そのため、城郭の入り口より真っ直ぐに城へと続くケーンベス大
通りには、多数の住民が戦果を携えた栄誉ある赤竜騎士団を一目見
ようと詰めかけていたのだ。
道の両翼には人がごった返し、また、二階の窓から頭の突き出て
いない建物は一つもないほどの賑わい。
212
相手は所詮獣人であり、最初から勝ちが決まっている遠征。
だからこそ人々はなんの気がねもなく集まった。
赤竜騎士団からの早馬が、なぜ住民らに帰還の宣伝をしなかった
かも知らずに。
やがて赤竜騎士団が門より顔を見せる。
すると住民達は、ワッという歓声と、雨あられの拍手で赤竜騎士
団を迎えた。
﹁よく帰ってきた、赤竜騎士団! さあ、戦果を聞かせてくれ!﹂
﹁いよっ! 大陸一の赤竜騎士団!﹂
褒めはやす人々の声。
太陽がやや傾いた昼下がり、ケーンベス大通りは祭りでもやって
いるかのように大騒ぎとなった。
だが、そんな住民達に対してどうにも騎士団の様子が少しおかし
い。
通りを進む兵達は、誰もが下を向いて消沈した風であった。
ある住民はそれに気づき拍手の手を止め、またある住民は我がこ
とのように讃えていたその口を閉じた。
自然と喝采は止み、人々は湧いた疑念を囁きあう。
﹁お、おい、もしかして負けたのか⋮⋮?﹂
﹁いや、そんなわけないだろ。たかが獣人だぞ? それに兵達の鎧
を見てみろ﹂
住民の目には、兵士らの鎧は戦いの痕など欠片もないように見え
た。
それに、兵の数も減っているようには見えない。
213
つまり遠征は大成功。
精強な騎士団を前に獣人は戦意を喪失し、尻尾を振りながら頭を
垂れたのだろう。
しかし、それならば今の状態はなんなのかと人々は首を捻った。
すると隊列より一名が外れて、集まった住民達に聞こえるよう、
大きな声で叫んだ。
﹁皆の者、出迎えありがたく思う!
だが、残念な知らせがある!
此度の遠征は失敗した!﹂
住民達にとっては、ええ!? と耳を疑うような内容である。
人々のざわめきは大きくなり、﹁何故﹂﹁どうして﹂という声が
高まった。
﹁静粛に!
別に獣人達に負けたというわけではない!
長き遠征によりガーランド騎士団長が病を患われ、亡くなられた
のだ!
他にも数名、病によって亡くなっている!
そう、風土病だ!
ガーランド騎士団長は疫病が隊に蔓延することを恐れ、退却の命
令を出したが、そのすぐ後に亡くなられた!
亡くなる際、騎士団長は最期にこう仰られた!
病の元となる我が身は捨てていけ、と!
皆の者!
勇敢なるガーランド騎士団長に哀悼を捧げてはくれないか!﹂
214
風土病の蔓延、騎士団長の病死、そして退却。
﹁おおお⋮⋮そんな⋮⋮!﹂
喜びが突然悲嘆へと変わる。
武名に聞こえたガーランド騎士団長が、病によって亡くなった。
いかに武芸に優れようとも、病気には勝てなかったのだ。
国の英傑が喪われた悲しさと、人の儚さを思って嘆く住民達。
兵士の芝居がかった演技が、その場にいる者の心をしかと捉えて
いた。
だが、そんな騎士団や住民の様子を建物の影から冷めた目で見て
いる者がある。
﹁⋮⋮負けたのか﹂
そう小さく呟いたのは、金色の髪をした長身の学者︱︱フロスト。
フロストは、赤竜騎士団が名誉のために敗北を偽ったことを看破
していたのだ。
獣人が南へ去ってから二年。
その僅かな間に、王都に負けぬほどの町をつくってみせた人間の
男がいた。
建物一つとってもわかる高い文明。
なによりもただ一人の人間が、あれだけの数の獣人を従わせたこ
とは、明らかな異常である。
人間でありながら獣人を心服させるだけの物があの町の主にはあ
るのだと、フロストにだけはわかっていた。
215
﹁これから、どうなるか﹂
またもポツリと呟くフロスト。
南の地にそれほど大きな旨味はない。
だが今回のことで、獣人の町の力は侮れないものがあると国は知
った。
教会に国家間での戦いを禁止された今となっては、軍人連中に降
って湧いた武功の機会。
獣人達の危険性を説いて、再び南征を進言するだろう。
されど内政官は遠征にかかる費用を考え、反対するに違いない。
今回、南領から出た歩兵軍の兵糧は王国持ちであったとフロスト
は聞いていた。
500の騎兵と数千の歩兵。
何も得るものがなく、相当の兵糧を費やしたのだ。
毛皮が売れるかもわからぬうちに、熊を捕らえようとする真似を、
強欲な内政官どもが二度も許すわけはないだろう。
︱︱と、ここまで考えて、フロストは頭を振った。
﹁詮のないことか﹂
ただの学者でしかないフロスト。
彼が頭を悩ませても仕方がないことだった。
だが、フロストには一つ気がかりなことがある。
それは今回道案内についていった元弟子のこと。
﹁負けた腹いせに斬られていなければよいが﹂
216
金目当ての密告だった。
既に、フロストはかの者へ破門を言い渡してある。
だが、人の情とは厄介なもの。
縁を切ったはずなのに、己の案じる心を切ることだけはフロスト
にも簡単にはいかなかった。
◆
赤竜騎士団はケーンベス大通りを抜けて城へと向かうと、トマス
副団長が参内してサンドラ王に謁見した。
現在、玉座の間では、トマス副団長の報告の最中である。
玉座にはサンドラ王が座り、その正面、玉座より延びる真っ赤な
絨毯の上にトマス副団長は片膝をついている。
さらにトマス副団長の左右には、絨毯を踏まぬ位置で武官と文官
が向かい合うように立ち並んでいた。
﹁むぅ、赤竜騎士団が敗れたと申すか﹂
トマス副団長から、ガーランド騎士団長以下五名の者が敵の手に
より討ち死にしたことを聞き、サンドラ王は唸った。
﹁はっ! 不可思議な魔法により、ガーランド騎士団長以下五名の
者は、矢も届かぬ遠方から容易く殺されました!﹂
王は再び、むぅと唸る。
﹁これを﹂
トマス副団長が懐から取り出したのは、手のひらにちょこんと乗
217
る程度の小さな金属の塊。
それを侍従の一人が摘まんで、王の前に運んだ。
﹁なんだこれは﹂
王が金属の塊を摘まんで、ジロジロと裏表を見ながらトマス副団
長に尋ねた。
﹁その金属の塊が矢じりのごとく飛び、鎧や人の骨肉を紙のように
貫いたのです﹂
鎧を着た者の体を貫通し、その後ろにいた者のプレートに食い込
んだところで漸く止まった金属の塊であった。
﹁なんと⋮⋮﹂
﹁この不可思議な魔法が解明されるまでは、決して南に進軍せぬ方
がいいかと存じます﹂
このトマス副団長の具申は、赤竜騎士団の面目を保つためのもの
であった。
他の騎士団が再び獣人の町を攻めて勝利しようものなら、赤竜騎
士団は竜を冠する騎士団の恥さらしだと謗りを受けること必至。
されど未知の魔法が解明された後に、他の騎士団が攻める分には
問題ない。
これならば謎の魔法のせいで負けたという言い訳が通用し、新た
に攻めた者が勝利した時には、魔法が解明されたための結果だとす
ることができるのだ。
だが、このトマス副団長の謀略を邪魔する者がある。
218
﹁なりませぬぞ!﹂
武官の列より、大きな体躯と立派な虎髭を蓄えた壮年の男が声を
上げた。
﹁む、バルバロデムか﹂
サンドリア王の口より呟かれた武官の名。
その者、黄竜騎士団の団長であり、名前をバルバロデムという。
バルバロデムは列より出ると、トマス副団長の隣に跪いて進言し
た。
﹁王陛下、なりません。沽券にかかわることです﹂
﹁沽券とはなんだ、バルバロデム﹂
﹁無論、国の威信。引いては王名﹂
﹁ううむ、王名か⋮⋮﹂
サンドラ王は王名と言われ唸った、いや唸る仕草をしたといった
方が正しいだろう。
というのも、今代のサンドラ王はあまり名声などに拘る人間では
なかったからだ。
なにせ彼は王家の四男。
王の座は、兄に当たる者達が戦や流行り病で死んだことにより転
がり込んできたものだ。
王になれただけで儲けもの、他にはあまり多くを望まぬ性格であ
219
り、王という立場のまま平穏無事に余生を過ごせればいいとサンド
ラ王は思っていた。
しかし、それでは家臣に格好がつかない。
そのため、王として一応の体裁を保つよう、サンドラ王は日頃苦
心しているというわけだ。
﹁バルバロデム殿、私の話を聞いていなかったのか?﹂
トマス副団長が不満を僅かに滲ませてバルバロデムに言う。
だが逆に、バルバロデムの獣のように鋭い瞳を返されて、トマス
副団長は身をすくめた。
﹁ふん、青二才が。
話を聞くに、敵の魔法は対人のものと見た。
おまけにそれだけの魔法だ。使える者も一人であろう。
数で囲めば容易く勝てる相手ぞ﹂
言い返された言葉にトマス副団長はぐうの音も出なかった。
バルバロデムの言う通りだったのだ。
あの戦い、歩兵隊と連携して攻めればよかったものの、トマス副
団長は未知の魔法への恐怖から、同様の魔法使いが複数いると考え
た。
さらに、礫を高速で飛ばす以外にも、もっと大規模な魔法もある
のではないかと恐れ、つい退却の命令を下してしまったのである。
あとになって考えれば、これだけの魔法を使える者がそういるわ
けもなく、500の騎兵を前に対軍魔法を出し惜しみする理由もな
い。
退却は、騎士団長を討たれ冷静さを欠いたトマス副団長の失策で
あったといえた。
220
﹁陛下、何卒我が黄竜騎士団に南征をお命じくだされ!﹂
﹁待たれよ﹂
バルバロデムの訴えを止めたのは、立ち並ぶ文官の内の一名であ
った。
バルバロデムはジロリと睨み付けるようにその文官を見やるが、
当の本人は何食わぬ顔で王に進言する。
﹁此度の遠征での出費は決して無視できる物ではありません。それ
に遠く離れた南の地など、それほどまでに重要な地でもないでしょ
う。
今は監視のみに留めておくのが最良かと﹂
﹁貴様! 映えある我が国の騎士団が獣人ごときに敗れた意味をわ
かっているのか!﹂
﹁おや、私は疫病によって軍は退却したと聞いておりますよ?﹂
バルバロデムが烈火のごとく吠えたが、文官もさるもの、涼やか
な顔で躱してみせた。
﹁⋮⋮人の口に戸は立てられぬぞ﹂
﹁それがなんだというのです。言わせておけばいいでしょう。獣人
ごときに敗れたなど、民はもとより他国の者ですら信じませんよ﹂
﹁兵らはどうする﹂
221
﹁いいじゃありませんか。この平和な時代に、油断ならない敵が現
れた。訓練にも身が入るというものです。
皆、近頃は気が緩んでいましたからね。真実を知った兵は自身の
不明を恥じることでしょう﹂
﹁ふん、口だけは達者よな﹂
口では敵わないと悟ったバルバロデム。
あとは王の裁量に任せるとして列に戻った。
そしてサンドラ王は︱︱。
﹁よし、獣人の町の攻略は一時中断とする。以後は監視に留め、何
かあればすぐに動けるよう準備を怠るな﹂
﹃はっ!﹄
サンドラ王の決定が下され、一同は声を合わせそれに従った。
222
24.佐野勉 1︵前書き︶
三人称です
今回と次回はちょっと嫌な奴が出てきますm︵︳︳︶m
223
24.佐野勉 1
敗北
︱︱ガーランド騎士団長の
︱︱赤竜騎士団の
戦死
その真実を、500名にも及ぶ赤竜騎士団の騎士達は当然知って
いるし、4000名にも及ぶ南領の民兵達も詳細はともかくとして、
騎士団が負けたことは知っている。
箝口令こそ出されていたが、そんなものは移ろいやすい人の心に
はあまり意味をなさなかったといえよう。
赤竜騎士団の帰還よりおよそ一週間。
南征した赤竜騎士団が獣人達に敗北したという噂は、早くも王都
サンドリアの至るところに広まりつつあった。
されど、多くの国民達はその話を信用しなかったといっていいだ
ろう。
を南征の真実が出回るよりも早くに、王宮が広めていたから
なぜならば、他国の密偵がそういった流言を広めているという
流言
である。
それも、実際に他国の密偵に扮した者を民衆の前で捕まえるとい
う、自作自演の逮捕劇まで行って。
ここまで国がお膳立てを行えば、あとは国民の中にある﹃人間が
獣人に負けるわけがない﹄という常識が、騎士団の敗北という真実
を偽りのものとするばかりである。
だが、兵達においてはその限りではない。
224
人伝に話を聞いた住民らと違い、兵達の情報元は、隣人であり当
事者でもある赤竜騎士団なのだから、信憑性も確かなものであった。
そして今宵もまた兵舎にて、真しやかに南征の話が語られる。
語り部は、兵舎の一室でワインを飲む見習い騎士の二人。
一方は茶色の髪をした彫りの深い顔をした青年、もう一方は黒髪
で、歳のわりには幼い顔をした青年。
騎士団の敗北
という真実に触れることはなかった者達で
どちらも騎士見習いという立場で毎日を忙しく過ごしており、今
日まで
ある。
赤竜
﹁なんでも赤竜騎士団は、獣人に敗けて帰ってきたらしいぜ?﹂
の話を語った。
茶色い髪をした青年が、今日、とある騎士より聞かされた
騎士団敗北
﹁マジかよ﹂
さの つとむ
対して、疑わしげに呟いたのは黒髪の青年︱︱佐野勉。
いうまでもないことであるが、佐野は信秀と同じ、神によってこ
の世界に連れてこられた転移者である。
﹁ああ、マジな話だ。ガーランド騎士団長以下、旗本も4、5人や
られて逃げ帰ってきたらしい。疫病なんてのは大嘘だってよ﹂
あらためて本当だという同僚の言葉に、佐野は驚愕した。
佐野が神より授かった力は︻剣の才︼︻小︼︻★︼。
その才を用いても、佐野がいまだ騎士見習いに過ぎないのは、騎
士達が相当の実力者だったからであり、そんな強者揃いの騎士団を
225
獣人らが敗退させたというのは、とても信じられないことであった。
︵あのガーランドが⋮⋮? 嘘だろ⋮⋮?︶
特に佐野の心を大きく揺さぶったのは、ガーランドが討ち死にし
たということだ。
騎士団の中でも騎士団長であるガーランドの強さは、異常といっ
て差し支えないほどであった。
︱︱矢掴みのガーランド。
その異名のとおり、僅か十メートルほどの距離から放たれた矢を、
その手で掴むことができるのがガーランドという男である。
人を超越したような反射神経と敏捷さにより、ガーランドの強さ
は赤竜騎士団随一。
敵の手にかかって死ぬなど、想像に難しいことであった。
﹁獣人ってのはそんなに強かったのか⋮⋮﹂
佐野はぼそりと呟いた。
佐野自身、獣人の強さについて上役の騎士に聞いたことがある。
その者は、﹁騎士の敵ではないな﹂と言って不敵な笑みを浮かべ
ていた。
︵くそっ、なにが敵じゃねえだよ、雑魚が!︶
心中でかつて尋ねた騎士に悪態をつく佐野。
佐野には、自分が一番強いという自惚れがあった。
神より貰った力は己を特別な者だと錯覚させていたのだ。
226
確かに今は騎士団の連中には負ける。
しかし、それは経験の差であって才能の差ではない。
そんな過信が佐野にはあった。
だからこそ赤竜騎士団が敗れたという話には、ガツンと殴られた
ような衝撃を受けた。
騎士団よりも、さらに上の存在。
越えるべき壁よりもさらに高い壁が現れて、己がただの矮小な存
在のように思えたのである。
自分の小ささを知る。
それは、ただただ空しいばかりであった。
すると同僚は言う。
﹁武芸を身に付けた人間なら獣人にだって負けないさ。
だが、今回はちょっとわけがあってな。なんでも未知の魔法にや
られたらしい﹂
﹁未知の魔法?﹂
﹁ああ、弓も届かない距離から雷みたいな音と共に、小さな鉄の塊
が飛んできたんだそうだ。
鎧もあっさり貫いたらしい﹂
﹁なんだそりゃ﹂
佐野も魔法について少しは学んでいる。
227
魔法なんて戦いには使えない、とるに足らないものばかりだった
はずだ。
前に、カードにも魔法があったかもしれないと考えたこともあっ
たが、見習い騎士となった今では、︻剣の才︼でよかったと思って
いた。
魔法なんてその程度のものでしかない。
ガーランドを倒すほどの魔法があるとは、とても思えなかった。
︱︱だがその時、佐野の頭にまるで電撃のように閃くものがあっ
た。
︵待てよ⋮⋮雷のような音と、小さな鉄の塊⋮⋮? あっ⋮⋮︶
佐野は、目をこれでもかというほど大きく開いた。
そして慌てたように同僚へと尋ねる。
﹁おい、その鉄を放ったのはどんな奴だ!﹂
﹁お、なんだ急に。そんなこと俺が知るかよ。つーか、獣人以外に
どんな奴も糞もあるか﹂
﹁人間は? その町に人間はいないのか!?﹂
﹁人間? そういや、獣人達を指揮してる奴が人間だって話を聞い
た気がするな﹂
﹁ま、マジかよ⋮⋮﹂
佐野は再び驚愕した。
この国の人間は獣人を見下している。
228
いや、見下すというよりもただの動物としか見ていない。
知性が必要以上にあるせいで、躾のきかない獣。
それがこの世界の人間の獣人に対する評価であった。
そんな獣人達を指揮する人間。
あまりに特異である。
そう、自分のように。
佐野は傍らの剣を撫でた。
その剣はただの剣ではない。
元は︻かなりいい剣︼︻★︼のカードであったものだ。
てっきり、武器のカードは剣や槍しかないと思っていた。
雷のような音と、鉄の塊。
佐野には思いつくものがある。
それは︻銃︼。
あったのだろう、あの無数に並んだカードの中に︻銃︼のカード
が。
﹁マジか⋮⋮﹂
佐野は、幼少の頃より口癖になっている言葉をもう一度呟いてか
ら、木製のコップに入った赤ワインをあおった。
しかし、アルコールが脳の機能を麻痺させることはない。
佐野の意識はより明瞭になっていく。
二人目
の同胞に対し己は何をどうするべきか、と同
︵今夜はもう酔えそうもないな⋮⋮︶
佐野は、
僚の話に相づちを打ちながら静かに考えた。
229
ところで、佐野の能力は間違いなく︻剣の才︼である。
それ故、どのようにして︻かなりいい剣︼を手に入れたのかを説
明しなければならないだろう。
︱︱時は佐野がこの世界に来た時に戻る。
230
25.佐野勉 2︵前書き︶
三人称です。
前話の最後からの続きです。
次回から主人公の話に戻ります。
231
25.佐野勉 2
そこは真っ白い空間だった。
朝のとある電車に乗っていた人間がそこに集められ、神を名乗る
老人の言うままにカードを選び、眩しい光に包まれて消えていく。
高校二年生であった佐野もその一人だ。
佐野はカードを選び、それを確認すると、まばゆい光に目を閉じ
た。
﹁マジかよ⋮⋮﹂
再び目を開けて出た言葉は、驚き。
佐野はなだらかな丘の上に立っており、そこから見える景色は大
きな山とその麓に広がる村と、どこまでも続く大自然だった。
﹁くそっ、こんなとこで何をどうすりゃいいんだ﹂
佐野は悪態を吐きながら、携帯電話を取り出そうとズボンのポケ
ットに手を入れた。
もしかしたらここは日本で、携帯が使えるのでは、なんていう僅
かな期待が佐野の胸にはあったのだ。
まず右のポケット、次に左のポケット、さらにはブレザーのポケ
ットを探っていく。
だが︱︱。
﹁おい、嘘だろ。携帯がなくなってやがる﹂
232
最後の望み以前に、そもそも携帯電話自体がなくなっていた。
ポケットの中には財布があるだけである。
﹁そういや⋮⋮﹂
佐野は、ふと先程選んだカードが手から無くなっていることに気
がついた。
一瞬、無くしたのか? と焦って地面を見たが、あのカードに書
かれていたのは︻剣の才︼︻小︼。
才能なれば、どこに消えたかは少し考えればわかることであった。
﹁まず、どうするべきなんだろうな﹂
呟いてみたものの、考えるまでもない。
とりあえずは人のいる場所へ。
向こうに見える村へと行くべきだろうと思い、佐野は一歩踏み出
した。
︱︱その時である。
﹁な、なあ﹂
背後から声をかけられ、佐野は思わず身を跳ねさせた。
周囲を確認した際には、誰もいなかったはずである。
緊張から喉を鳴らす佐野。
心拍数が早くなるのがわかる。
だが待てよと思った。
この状況で、誰かが現れるとすれば︱︱。
233
そこまで考えて、佐野は恐る恐る振り返った。
すると、そこにいたのは黒の学ランを着た若い男。
つまりは白い部屋にいた者だろう。
﹁脅かすなよ!﹂
﹁わ、わるい﹂
佐野が、怒るように叫ぶと、その男は吃りながら謝った。
﹁それで? あの白い部屋から来たってことでいいんだよな?﹂
﹁う、うん﹂
﹁なんにしても助かったぜ。こんなところで一人じゃあ堪んないか
らな﹂
﹁あ、ああ、俺も⋮⋮﹂
モゴモゴとはっきりしない奴だと佐野は思った。
しかしそんなことよりも、さっきからずっと気になっていたこと
がある。
﹁なあ、その手に持ってるやつ⋮⋮﹂
男の手には1メートルを優に超す、どう見ても剣にしか見えない
ものが握られていた。
﹁さ、さっきあの爺さんから貰ったカードが、剣になったんだ﹂
234
男は子供が宝物を自慢するように両手に抱えて言う。
﹁マジかよ! なに? それ剣だろ? そういや、武器がどうとか
言ってたな、あのジジイ﹂
﹁か、︻かなりいい剣︼って書かれてたよ﹂
﹁ふーん、あっ、そっか、なるほどね﹂
誇らしげに語る男に、うんうんと佐野は頷いた。
神は言っていた。
低級のカードを引いた者には別の者と組ませてやろう、と。
﹁お前その剣、星いくつだった?﹂
﹁え? ひ、一つだけど﹂
やっぱりなと佐野は思った。
カードの星について神は何も言ってなかった。
しかし、どうも目の前の奴は星に関して何も考えていないようだ。
﹁俺は佐野勉。そっちは?﹂
すずのせ かい
﹁す、鈴能勢海。さ、佐野⋮⋮くんのカードは?﹂
﹁俺? 俺は︻剣の才︼だな﹂
﹁えっと、そ、それは凄いの?﹂
﹁まあ、そこそこじゃね?﹂
235
これは嘘だ。
カードに書いてある︻小︼と︻★︼。
この二つをみれば、佐野のカードが如何にクズかがわかる。
そこで佐野は、なぜ鈴能勢が星の数の意味に気づかないのかわか
った。
︻かなりいい剣︼︻★︼
この﹃かなりいい﹄という言葉が、鈴能勢を盲目にさせているの
だ。
だがまあ、それでいいだろう。
わざわざ教えてやる必要もない。
とりあえずは、山の麓に見える村へと、佐野は鈴能勢を連れて向
かった。
村は畑が広がり、まばらに家が建っている。
畑はあまり大きくはなく、それは村が農作に頼った生活をしてな
いことを意味するが、それに考えが及ぶ佐野ではない。
村の端に辿り着くと、佐野は畑でこちらをジッと警戒するように
見ている男性に声をかけた。
﹁すんませーん! 俺ら旅してて! この村でどっか泊まる場所な
いっすかー!﹂
行き場がないから村に住まわせてくれ、というのは、どうにも一
236
方的に迷惑を押しつけているようで気が引けた。
だから旅人を騙って何日か村に住み、その間に情報を得て今後の
対策を練ろうと佐野は考えたのである。
﹁⋮⋮金、あんのかい﹂
村人は佐野に近寄ると、不機嫌そうな顔で言った。
﹁え、いや、ないっすけど﹂
佐野の答えに、村人は眉間にシワを寄せる。
あからさまな嫌悪。
これはまずいと佐野は思った。
﹁あ、あー、そうだ! 金あります! 異国の金っすけど! たぶ
ん金になりますよ!﹂
佐野は懐から財布を出して、その中から硬貨を一枚つまみ上げる。
すると村人が、ぬっと佐野へと手を伸ばした。
あっ、という佐野の声。
文句を言う暇もない。
村人の手には既に財布があり、彼は中を確認すると、それを懐に
入れた。
﹁ふん、ええじゃろ。村長に話つけちゃるわ﹂
それから村人に連れられて、佐野と鈴能勢は村長の家へと行き、
簡単な面談を受ける。
その中で村長は佐野達の事情を察したらしく、﹁よく働くような
237
ら、村にずっと住んでも構わん﹂と言った。
使ってない家があるとのことで、佐野達はそこに滞在することが
許されたのである。
﹁これが俺らが住む家かよ⋮⋮﹂
村人に案内された家の前で、勘弁してくれというように佐野は呟
いた。
目の前にあるのは、一部屋しかないボロボロの掘っ立て小屋であ
る。
佐野は家に入るとどかりと腰を下ろした。
一方、鈴能勢は居心地悪そうに立ったままだ。
それもそのはず、これまで鈴能勢は一言も喋らずに、全て佐野に
任せっきりであったのだから。
﹁なぁ、なんでお前、なんも言わねえんだよ﹂
佐野は不機嫌さを隠そうともせずに、鈴能勢に文句を言う。
﹁ご、ごめん﹂
顔をうつむけて謝る鈴能勢。
﹁まあ、いいか。次は勘弁してくれよ﹂
﹁わ、わかった﹂
238
﹁でさ、ちょっとその剣、貸してくれよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
鈴能勢が大事そうに抱える剣。
それは鈴能勢の拠り所。
村に来る途中、佐野は剣を触らせてくれと頼んだが、鈴能勢は決
して首を縦には振らなかった。
だからこそ、今だと佐野は思った。
負い目のある今ならば、鈴能勢は断ることはできない。
﹁な、いいだろ? 俺のカードは︻剣の才︼。お前と組ませたって
ことはそういうことなんじゃねえの?﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁あーあ、この家、俺が財布奪われて借りたんだよなー﹂
佐野は、宙に向かってわざとらしく呟いた。
独り言のように見せていたが、それは明らかに鈴能勢に向けて放
たれた言葉である。
﹁わ、わかったよ⋮⋮﹂
どうやら佐野の言葉は思いの外心に響いたらしく、鈴能勢はとう
とう剣を貸すことを了承した。
﹁お、悪いな﹂
239
佐野は差し出された剣を受け取って、柄をその手に掴んだ。
妙に手に馴染む気がするのは錯覚か、それとも︻剣の才︼による
ものか。
鞘を抜くと、鏡のように光る刀身に、ほぅと感嘆の息が漏れた。
抜き身のまま佐野は外に出る。
鈴能勢もなにか言いたそうに、その後ろをついていった。
﹁はっ、ほっ﹂
かけ声と共に、佐野が剣を振るった。
剣はなかなかに重く、最初のうちは体が剣に振り回されているよ
うな感覚だった。
しかし、何度か振るううちに、何が最適かがわかるようになって
くる。
心なしか、剣の鋭さも段々と増しているようだった。
﹁すげえわ、︻剣の才︼!﹂
佐野は喜びの声を上げた。
スポーツはそこそこできる。
だが、こんな感覚は初めてだった。
﹁おいおい、これ、天才じゃねーのか俺!﹂
己の才能に対する陶酔。
元の世界の一流のプロスポーツ選手は、こんな気持ちだったのだ
ろうと佐野は思った。
240
︵なんてずるい奴らだ、才能に胡座かきやがって!︶
そんな風に佐野は心中で罵るが、その表情はニヤニヤとしている。
プロスポーツ選手が持っていたかもしれない才能が今は自分の手
にあるのだから、笑いが止まらないのも当然のことだった。
﹁ふぅ﹂
やがて、休憩とばかりに剣を止めて、佐野は息を吐いた。
それを見計らって、鈴能勢が声をかけようとするが、途端、佐野
はダダッと走り出した。
﹁あっ!﹂
鈴能勢が悲鳴のような声をあげた。
佐野の向かった先には細い木が生えている。
﹁はっ!﹂
掛け声と共に、佐野が横一文字に振るった剣。
それは素人にしてはあまりに堂に入っていた。
あくまで、素人にしては、であるが。
そして、木は半ばから真っ二つに斬れ、その上半分はどさりと地
面に転がった。
◆
佐野と鈴能勢の村での生活が始まった。
村の営みは、春から秋にかけては山川で魚や木の実や山菜、キノ
コなどを採り、冬になると狩りに出かけるというものだ。
241
今の時期は日本と同じ春。
佐野と鈴能勢は荒れ果てた畑を、草を抜き木製の鍬で耕した。
慣れない畑仕事に、毎日が筋肉痛である。
木の鍬など一回振り下ろしただけでは土にほとんど刺さらず、同
じ場所に何度も鍬を入れなければならなかった。
だが、それでも必死に働いた。
︱︱佐野ではなく鈴能勢が。
佐野は最初こそ鈴能勢と畑を耕していたものの、その後は村人に
ついていき山菜採りばかりしていた。
そっちの方が楽だからだ。
たまに畑で鈴能勢と共に働くが、その時、佐野は限界以上の力を
出し、いかにも畑仕事が楽であるように装った。
鈴能勢も気こそ弱いが、別にプライドがないわけじゃない。
平然と畑仕事をこなしているように見える佐野を見て、必死に畑
仕事を頑張った。
こうして、佐野は優々と楽な山菜採りに勤しむことができたので
ある。
やがて村の生活にも慣れた頃のこと。
佐野は、物足りないと思った。
当たり前だ。
この世界には何もかもが足りてないのだから。
かといって、やることは多くあり、毎日が忙しく退屈とは無縁と
いっていい。
242
とにかくも、佐野は飯だけでも満足にいくものが食べたかった。
では、そのためにどうすればいいか。
そこで佐野が考えたのが、狩りである。
村の人間は冬にしか狩りをしないという。
それは、狩りが命の危険を伴うものであり、わざわざ食べ物が豊
富な春から秋に行う必要性がなかったからだ。
また、冬においては山の獣達の活動が大幅に減退し、狩りがしや
すくなるという側面もあった。
そんな狩りを、春が終わろうかというこの季節に、佐野は行おう
というのだ。
﹁なあ、俺が動物を狩ってきてやるからよ、その剣貸してくれよ﹂
﹁う⋮⋮﹂
佐野の提案は、鈴能勢の顔にありありとした不満を浮かばせた。
だが佐野は、鈴能勢が押しに弱いことを知っている。
︵俺のクラスにもこんな奴いたな。ビビりで、何も言えず、輪を乱
さないことにだけに気を使ってる奴が︶
自分の意見をはっきりと言えないのが鈴能勢である。
佐野は、これまでの功績を盾に剣をねだり続け、やがて鈴能勢か
ら剣を貸りることに成功した。
翌日、佐野は一人で山に入った。
冬の間にしか立ち入らないという場所。
243
木に傷をつけて迷わないようにしながら、奥へと進んでいく。
しばらくして、視線の先より現れたのは猪である。
佐野の猪に対する認識は豚。
鈍重で、人間に狩られるためだけに存在している動物。
あちらの世界のテレビでは、よく猟師に銃の獲物にされていた気
がする。
﹁へっ、討伐レベル最低の雑魚モンスターだな﹂
余裕の顔で佐野は剣を抜いた。
だが違った。
縄張りを侵されて怒ったのか、まるで車のような速度で向かって
くる猪は、恐怖以外のなにものでもなかったのだ。
﹁ひっ!﹂
佐野がその場に立ち止まらずに猪の進路上から体を移動できたの
は、スポーツで培った経験のおかげだといえよう。
だが、猪は機敏にもカーブを描きながら進む方向を変え、佐野へ
と向かっていく。
︵マジかよ! くそっ!︶
心の中で盛大に舌打ちをする佐野。
しかし、ぶつかるかと思われたその瞬間、佐野はさらにもう一歩、
不格好ながらも横に体を動かした。
これが明暗を分けたといっていい。
244
佐野は猪の突進をぶつかる間際で避けきり、さらに本能のままに
振るった剣によって、猪の鼻先から下顎までをスッパリと斬って捨
てたのである。
猪は呻き声をあげて、転がった。
﹁こ、このくそが!﹂
佐野はさらに猪の頭に向けて、渾身の突きを放った。
それは︻剣の才︼と︻かなりいい剣︼の双方の力が相まって、見
事に硬い猪の頭蓋を貫きせしめる。
猪は、頭から血を噴出させて、動かなくなった。
死んだのだ。
﹁や、やった⋮⋮。やったぞ! ざまあみやがれ!﹂
興奮。
佐野は、どうしようもないほど気分が高まっていた。
勝利して生を掴んだ自分、対して敗北し命を落とした猪。
明らかな上と下である。
優越感が沸々と湧き上がり、佐野の心を大いに満たしていったの
だ。
︵俺の他に誰がこんなことできる? 猪を剣で殺せる高校生なんざ、
俺しかいないだろう!︶
自尊心の高まりは留まるところを知らず、その比較対象は元の世
界の一般人にまで及んでいく。
佐野は、自分の力をもっと誇示するように、ウオオオオオ! と
鬨の声を上げた。
245
﹁へっ、村の連中も、これを見たら度肝を抜かすだろうな﹂
やがて気持ちが落ち着くと、佐野は村人の驚く姿を想像しながら、
重い猪の体を引きずって山をおりていく。
﹁おめえ、それ⋮⋮﹂
山裾では、佐野の引きずる猪を見て、村人が目を丸くした。
猪は危険な生き物である。
下顎から突き出た牙は、容易く人の肉を突き破り血管や神経を傷
つける。
動きも素早く、分厚い肉が体を守っている。
複数人が弓でもって仕留めるのが猪なのだ。
それも冬の、動きの鈍い時に限る話だった。
だが佐野は春の活動期の猪を、剣を使ってたった一人で倒した。
これは驚くべきことである。
﹁どーも。いやあ、猪って重いっすね﹂
ヘラヘラとして、なんてことのないように振る舞う佐野。
その日から佐野は村のヒーローになった。
数日に一度狩りに出掛け、大きな獲物を持って帰るという佐野の
生活。
得た肉は、佐野と鈴能勢の二人がかりでもとても食べきれる量で
はない。
なので、余った多くの肉は村人達に配られた。
246
肉をもらった村人達は諸手を挙げて喜び、佐野を褒め称える。
熊を倒した時などは、佐野を主賓に迎えて小さな祭りを行ったく
らいだ。
くれないかな⋮⋮﹂
そして、︻かなりいい剣︼は自然と佐野の腰に収まるようになっ
ていった。
貸して
これはある日の会話である。
﹁あ、あの、剣を⋮⋮か、
返せ
よ?﹂
ごろりと横になっていた佐野に鈴能勢が話しかけた。
﹁なにすんの?﹂
﹁お、俺も練習を⋮⋮﹂
﹁ふーん、ま、いいけど。ちゃんと
佐野は︻かなりいい剣︼を自分のものとして扱い、鈴能勢もそれ
に対して何も言えなかったのである。
村に来て一年ほどが過ぎた。
佐野達にとって異世界での二度目の春である。
この頃になると、佐野は村の生活に不満だらけであった。
時間に余裕ができたせいで、退屈な毎日。
やることもなく、かつての世界の生活を懐かしんでばかりいた。
247
女遊びをしようにも、身持ちの固い芋臭い女しかいない。
手を付けようとすれば、すぐに婚姻の二文字を口にする。
そしてなによりも鈴能瀬との共同生活に対し、佐野は大きな不満
を感じていた。
鈴能勢は足手まといな同居人である。
佐野は狩った獲物の毛皮を、村人に鞣させてその半分を貰ってい
た。
家に積まれた毛皮︵財産︶。
それは全て佐野の手によるものだ。
対して鈴能瀬は、畑で働くだけだった。
たまに自分の働きをアピールするように肥料がどうとか話しかけ
てくるが、佐野にとってはどうでもいいことだった。
鈴能勢がもたらすものといえば︻かなりいい剣︼だけなのだ。
それも今では佐野の腰に収まっているが。
そんな時、村に商人が来た。
商人はこの春の時期、村々を回って、冬の狩りで得た毛皮を仕入
れているのだという。
佐野は退屈しのぎに商人から話を聞いた。
すると商人は町の生活をまるで楽園のように語って聞かせた。
佐野の中には、以前から町への憧憬がある。
それは、都会ならばこんなしみったれた村よりもよっぽど楽しい
のではないか、という思い。
248
なによりも、自身の︻剣の才︼がどこまで通用するのか興味があ
った。
前々から考えていたこと。
しかし、踏ん切りがつかなかった。
だがもう迷わない。
佐野はありったけの毛皮を商人に売り、その夜、村を抜け出した。
腰には︻かなりいい剣︼を差して。
翌日、一軒の家からは泣き叫ぶ声が一日中聞こえたという。
249
25.佐野勉 2︵後書き︶
この後、頭だけはいい鈴能勢は、HIRYOでNOGYOして村で
幸せに暮らします
250
26.商人 1
石垣の上で弓を構える獣人達。
﹁目標、向かってくる敵歩兵! 今だ、射て!﹂
俺の命令により一斉に矢が放たれる。
矢はまるで雨のように降り注ぎ、地面に突き刺さった。
しかし、そこに敵歩兵は存在しない。
﹁梯子がかかった! 敵が石垣に張り付いたぞ! 石を落とせ!﹂
俺の指示に従い、獣人達が石垣から石を落とす。
だが、石に当たる者は誰もいない。
﹁敵が乗り込んできたぞ! 突き殺せ!﹂
獣人達は短槍でもって、なにもない空間を突き刺す動作をする。
当然、なにもない空間であるのだから、そこに敵がいるわけもな
い。
では、いったい俺達は何をしているのか。
もはや言うまでもないことであるが、これらは敵が来たことを想
定した訓練である。
サンドラ王国軍が去って数日、町は既に平常の態勢に戻っており、
251
平和そのものだった。
だが、この平和がいつまで続くのかという懸念が、俺の中にはあ
った。
今回敗北したサンドラ王国。
かの国が今後どのような行動を移すのか。
怒りに任せて、とって返すように再び軍を送り込んでくるのか。
それとも、敗北を重く受け止めて、周到に準備を行ったのち攻め
てくるのか。
はたまた、労多くして益少なしと断じて、この地にはもう関わろ
うとしないのか。
しかし、その答えは出ない。
それはそうだ。
答えを出すための情報がほとんどないのだから。
ならばサンドラ王国が再び攻めてくると仮定して、こちらも準備
をしておくべきだろう。
最悪の結果を予想しておけば、とりあえず最悪の結末にはならな
いはずだ。
︱︱というわけで、週に一度の割合で訓練を行うことにしたので
ある。
石垣の上、やっ! はっ! とそこに存在しない敵に向けて、思
い思いに短槍を振るう獣人達。
最初は皆恥ずかしがっていたが、俺自らがエアバトルを真剣にや
ってみせると、皆の中に羞恥なんていう躊躇いはなくなっていた。
252
﹁うおお! 人間め! ゴブリン族の恐ろしさを、とくと思いしれ
!﹂
ゴブリン族の一人が、自前のナイフを振り回している。
やたら気合いが入っているのはいいが、体の小さなゴブリン族は
補給係のはずだ。
なぜここにいるのか。
いや、戦う機会はいつどこであるかわからないから、別にいいん
だが。
そして、俺以外にも各族長が指揮を執り、また局面を変えたりし
て訓練は続いた。
﹁︱︱はい! 状況終了です、お疲れ様でした! 武器は返納し、
速やかに矢の回収に移ってください!﹂
息の詰まる状況から漸く解放され、真剣であった皆の顔が笑顔へ
と一変した。
口々に喜びの声を発しながら、皆は矢を回収するために石垣を下
りていく。
そんな中、俺はゴブリン族の男に目がいった。
﹁ふんっ、人間などゴブリン族の前では敵ですらないわ﹂
どや顔で、何もない石畳に呟くゴブリン族の男。
彼の目には倒れ伏した人間が映っているのだろう⋮⋮。
秋が終わり、冬がやって来た。
253
空気が冷たくなり、町の者達は火鉢で暖をとることが多くなる季
節である。
俺としては、一酸化炭素中毒に気を付けるよう、秋の終わりから
冬の始まりにかけて口酸っぱく注意を呼び掛けている。
そのおかげか、過去に一度だけ一酸化炭素中毒で倒れた者が出た
ものの、それ以降は皆、換気に心がけて火鉢を使っているようで何
よりだ。
倒れた者も、発見が早くて助かっている。
まあ、俺は火鉢なんて使わず、炬燵でミカンを食べながら、ぬく
ぬくとしているわけだけれども。
ビバ、現代文明。
そんなわけで、冬のある日、俺は自宅にて炬燵に潜りながら海外
のコメディドラマのDVDを視聴をしていた。
﹁ははははは﹂
俺の口から漏れる笑い声。
いやあ、異世界であっても現代と変わらない生活を送れる、この
素晴らしさよ。
なんという贅沢であろうか。
するとジリリリリと部屋の隅に置いた電話が鳴った。
はて、と停止ボタンを押して、動画を止める。
今日は別に連絡を受けるような用事はなかったはずだ。
俺は、不審に思いながらも電話の受話器をとった。
254
﹃フジワラ様ですか? 豹族の︱︱﹄
相手は豹族の者であった。
どうでもいい話だが、現在町には俺の家に繋がる電話が二つある。
一つはジハル族長の家、もう一つはコボルト族に任せている商店。
狼族以外の者は大抵、商店の電話を使っている。
﹁どうしましたか﹂
先程の豹族の声色は焦った風ではなかった。
ということは、大した用事ではないだろう。
そんなことを思っていたのだが︱︱。
﹃人間がまたやって来ました﹄
﹁なんだって!?﹂
あくまで冷静に言葉をつむぐ相手に、俺は思わず声を荒げた。
﹁規模はどれくらいですか!﹂
﹃三人です。商人を名乗り、商売に来たと言っております。
町の長と話がしたい、と﹄
なんだ、三人か。
気が抜けると同時に、全身からも力が抜けた。
受話器の向こうの者が、落ち着いて報告できるわけだ。
﹁わかりました、すぐに行きます。人間達は町の外で待たせておい
255
てください。
絶対に手を出さないように。いいですか、絶対ですよ?﹂
人間に手を出さないようにと、しつこく念を押して、俺は電話を
切った。
﹁しかし、商人か﹂
俺はニヤリと笑った。
商人というのは偽りで、サンドラ王国のスパイとも考えられる。
だが、本当に商人だとすれば、俺にとって間違いなく好機だった。
やがて来るかもしれない戦いに備え、何が一番重要かと問われれ
ば、それは金であると断言できる。
︱︱町をつくる能力。
この能力は極めて単純だ。
金であらゆる物を買い、町をつくる。
これだけだ。
それゆえに、金の力がより顕著だった。
正直な話、この能力は金さえあればなんだってできるだろう。
だが、逆に金がなければ何もできないとも言える。
資金が少なければ、それだけできることの可能性が狭められるの
だ。
問題は金をどうやって増やすか、である。
今現在の資金は498億円。
町の業績は黒字ではあったが、その利益は微々たるものだ。
256
2000人にも届かない人口の町は、長い目で見ればそこそこの
収支が得られるだろう。
しかし、少なくとも一年やそこらで目覚ましい資金は得られない。
いっそ町を︻売却︼して、外敵の存在しないであろう砂漠の真ん
中にでも新たに町を作ってみるか? なんて考えたこともある。
だが、これは論外だ。
︻購入︼したものを︻売却︼する時、見逃してはならない悪条件
が発生する。
一度︻購入︼したものは、100分の1の価値でしか︻売却︼で
きなくなるのである。
およそ500億円でつくりあげた町。
それが5億円にしかならないとなれば、そう易々と︻売却︼する
わけにはいかなかった。
町の収入は期待できない。
ならば、どうするか。
内が駄目ならば外、人間社会に目を向ければいい。
こちらの世界の人間達に珍しいものを売り、大金を稼ぐのである。
その手段が、今、目の前に転がってきた。
﹁ふふふ、運が向いてきたな。
いいだろう、見せてやろうじゃないか、︻香辛料︼のバリエーシ
ョンを﹂
俺は頬が自然ににやけるの感じながら、体に装具をつけていった。
257
︱︱十数分後。
俺は装備を整えると、カトリーヌに乗って町の北門へと向かった。
すると、そこには夥しい人だかりができている。
おうふ。
手を出すなとは言ったが、だからって集団で取り囲んで威圧する
とは。
まあでも気持ちはわかる。
フロストが町にやって来た後に、人間の軍がこの地に現れたのだ。
人間は少数であっても警戒すべき、と町の皆は考えているのだろ
う。
﹁道を開けてください!﹂
俺は大きな声で、自身の到着を知らせる。
﹁おい、フジワラ様が来たぞ!﹂
﹁道を開けろ!﹂
ザザッと人混みが二つに別れ、一本の道を作り出す。
わかるだろうか、この反応の良さ。
俺がただ一人で人間の軍を退かせて以降、獣人達の俺に対する敬
いの心は、これまでよりもはるかに高まっていた。
そして、道の先に見えるのは、三人の人間と馬車。
一人はコートを着た赤髪の女性、他の二人は銀色の鎧を身に纏っ
た、共に金髪の男女である。
258
三人に共通しているのは、若さ。
いずれも、30歳は超えてないように見える。
﹁おっ、ようやく話のわかりそうなのがきたやんか﹂
三人のうち、赤い髪をした女が口を開いた。
その言葉には、少し訛りがみえる。
俺の印象としては、とても軽い女。
こちらを警戒する様子も、威圧する様子も、媚びへつらう様子も
ない。
ただ気安い。
そんな風に見えた。
だが、その左右にいる剣士然とした男女は違う。
どちらも柄に手をかけて、油断なく獣人達を警戒している。
獣人の町の主
、フジワラさんでええんか?﹂
﹁うちの名前はエルザ・ポーロ。ポーロ商会の主や。
あんたが
﹁ええ、その通りですが、私のことを知っているのですか?﹂
﹁フロストって学者さんから話は聞いとるで、あんたに手紙も預か
っとる、ほれ﹂
懐から取り出される一通の手紙。
しかし、俺と彼女との距離は10メートルほどある。
﹁誰か代わりに受け取ってもらえますか﹂
259
俺の言に従って、前に出たのは豹族の男。
﹁なんや、警戒しすぎやないか?﹂
﹁それは、そちらの二人の剣士さんに言ってください﹂
エルザが豹族の男に手紙を渡しながら言い、俺はそれに言葉を返
して手紙を受け取った。
俺の言葉通り、二人の剣士はいまだに剣に手をかけており、臨戦
態勢を崩していないのだ。
﹁あーやめやめ! レイナ! ライル! ここに来る前に言うたや
ろ、あくまでも町に着くまでの護衛やって! 獣人と喧嘩はなしや
! ほら、さっさと剣から手を離さんかい!﹂
剣士の二人は互いに顔を見合わせたあと、剣から手を離して直立
した。
﹁これでええか? まだ足らん言うなら、二人の剣をあんさんに預
けとこか?﹂
﹁ええ、お願いします﹂
﹁え?﹂
面食らったようにエルザが呆けた声を出した。
すると剣士の二人からは、﹃余計なことを言いやがって﹄という
ような、冷たい視線がエルザへと注がれる。
﹁あんたそこは﹃別に構いませんよ﹄とか言うて、ウチを信頼する
260
とこやろ!﹂
﹁いや、信頼や信用よりも命の危険の方が大事なんで﹂
﹁う⋮⋮しゃーない! ほらレイナにライル! 剣捨てえや!﹂
わずかの逡巡ののち、レイナ、ライルと呼ばれた二人の剣士は、
舌打ちと共に地面に剣を投げた。
その舌打ちは、俺達に向けてのものではなく、エルザに対しての
ものだ。
獣人がそれを拾う中、エルザはばつが悪そうに、俺に向かって苦
笑いを浮かべていた。
﹁まあ、なんや。これでちょっとは信用してもらえたやろか﹂
﹁ええ、まあ﹂
俺は返事をしながらも、フロストからの手紙を開いて中身を読ん
だ。
そこには、この町に軍が派遣された経緯と、ただただ己が悪いと
いう謝罪に次ぐ謝罪が書かれていた。
経緯に関しては、捕虜であるローマットが話した内容と一致する。
また、謝罪に関しては、いいわけをするような言葉は一つもない。
エルザ達がスパイだとして、このフロストの手紙がこちらを油断
させるためのものなら、ここまで馬鹿正直に書くだろうか。
﹁それで、商人ということでしたが﹂
261
﹁せや。あんたらと商売がしたくて来たねん。
フロストはんから聞いたで、珍しい酒を飲んだってな。
なんでもええ。珍しいものがあるんなら、うちに売ってくれへん
か?﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
今のところ怪しいそぶりは見えない。
とにかく、よく話を聞いて、それから判断を下すとしよう。
﹁いいでしょう。あなた達を町にご案内します﹂
262
27.商人 2
その場に集まった者達を解散させ、さらにコボルト族には、13
番地区の空き地に馬を繋ぐ簡易物を早急に設置することを指示した。
馬を放牧地に置かないのは、気性の荒いラクダがなにをするかわ
からないからだ。
馬車をひくエルザ達を連れて、俺はカトリーヌに騎乗したまま、
通りをいく。
護衛には三人の狼族をつけている。
﹁ほえー、いや、町としてはちっさいけども、こりゃあ大したもん
やな。まるで別世界やわ﹂
エルザが町を物珍しげに見回しながら、感嘆するように言った。
彼女だけではなく二人の剣士も同様に、忙しなく顔を動かしてい
る。
すると、エルザがなにかに気づいたようにクンクンと鼻を鳴らし
た。
﹁なんや、うちんとこの町よりも、えらいきれいやな﹂
キョロキョロと地面に視線をやるエルザ。
なにかを探しているようだ。
﹁あれがないな﹂
﹁あれ、とは?﹂
263
エルザが発した﹃あれ﹄に対する、俺の何気ない質問。
﹁あ、あれはあれや﹂
顔をほのかに赤くさせて、言葉を濁すようにエルザは言った。
うん、﹃あれ﹄はなにかと聞いて﹃あれ﹄と答えられてもわかる
わけがない。
﹁いや、あれと言われましても、わからないんですが⋮⋮﹂
﹁あれはあれや! そんなん可憐で清純な美少女の口から言わせん
なや!﹂
﹁は?﹂
突然プリプリと怒り出したエルザ。
本当に訳がわからない。
﹁あの⋮⋮汚穢のことです﹂
見かねたように、男の剣士がボソリと言った。
おわい
汚穢、つまり糞尿のことだ。
そういえば中世ヨーロッパでは、排泄物を窓から町に投げ捨てる
なんて話を聞いたことがある。
つまりエルザは、大地に落ちているはずの排泄物がないことに疑
問を感じたのだ。
ちなみに、この時の俺は知らないことであったが、この世界の人
264
々は過剰ともいえる恥じらいの文化を持っていた。
中でも便、臭に関わることは、特に羞恥の対象にされていたそう
だ。
そのためエルザも、汚穢について己の口から発することに、とて
つもない抵抗があったのである。
﹁町が綺麗なのは、各所にトイレがあるからですよ。トイレに溜ま
った汚穢は、係の者が毎日遠くへと捨てに行くようになってます。
あとは乾燥しているから、すぐにカラカラに干からびて臭わない
ということもあるでしょうね﹂
﹁なんや、うちの町よりもよっぽど立派やな。大変なんやで?﹂
﹁まあ、人数が少ないからこそ、統制がとれているともいえますね﹂
ほーっ、と感心したような顔を見せるエルザ。
だが、女剣士が話を聞いているうちに不機嫌そうに眉をしかめて
いったのに俺は気がついた。
なにか気に障ることでも言っただろうか?
﹁せやけど、通りの家はなんやの? 入り口が大きいから店っちゅ
うことはわかるけど、ほとんど閉まっとるやん﹂
﹁人口が少ないですからね﹂
﹁なあ、ちょっと店を見てもええか?﹂
﹁別に構いませんが、酒や衣類、雑貨品くらいしかありませんよ?﹂
﹁なら、またあとでええか﹂
265
そして、通りの半ばほどにある使っていない商店に到着した。
旅館にしなかったのは捕虜のローマットと顔を会わせないように
するため。
また、通りの入り口部にある商店にしなかったのは、そこだとど
うしても人目につくからだ。
憎まれている人間を、町の者にはあまり晒したくない。
﹁この町に滞在する間はここを使ってください﹂
二階建ての土蔵造の店。
そこで馬車から荷物を下ろし、馬は狼族の者が13番地区へと連
れていく。
扉を開けて中に入ると、どこに何があるか軽い説明をし、さらに、
火の取り扱いに関することや、町を勝手に出歩かないようにと注意
事項を述べていく。
そして二階の畳のある部屋に移動した。
﹁どうぞ、お座りください﹂
﹃⋮⋮﹄
おや?
席を勧めたが三人とも座ろうとしない。
座布団はないが、床は畳なのだから、女性であっても胡座をかか
ずに座れるはずだ。
﹁あんな? ちょっと化粧直ししたいんやけど⋮⋮﹂
266
化粧直しという隠語。
ははあ、と合点がいった。
そういえば座敷に上がる際、彼女達は靴を脱ぐのに戸惑いがある
ようだった。
どう座ろうとも足の裏は表に晒される、つまりはそういうことだ。
﹁わかりました。飲み物をとってきますので、ごゆっくり﹂
俺は、一階に待たせていた狼族の者にすぐ戻ることを告げると、
外で寝そべっていたカトリーヌと共に自宅に戻った。
︱︱数十分後。
俺は、酒徳利を入れた取手付きの桶を片腕にひっかけながら、両
手には三つの蓋つきの器を乗せた盆を持って、再びエルザの下を訪
れた。
この三つの蓋つきの器の中身が今日のとっておきだ。
﹁エルザさん、入ってよろしいですか﹂
﹁ええで﹂
許可をとり、襖を開ける。
すると中からはフローラルな匂いが漂ってきた。
香水の匂いだ。
﹁えらい気いつかわせて、本当すまんなぁ﹂
267
﹁いえ、構いませんよ﹂
三人とも立ち上がって、俺を出迎えた。
﹁どうぞ、座ってください﹂
エルザがどかりと胡座をかき、二人の剣士は正座をする。
なんだろう。
恥じらいがあるのかないのか、よくわからない人だな。
そんなことを考えながら、俺も胡座をかいた。
﹁どうぞ、フロスト先生が言っていた珍しいお酒です﹂
﹁おっ、これがか﹂
杯に酒を注いで、エルザ達の前に出す。
無論、変な警戒をされても困るので、自身の杯にも酒を注ぎ、ま
ず俺が先に飲む。
﹁さあ、どうぞ。飲んでください﹂
まず、エルザが口をつけて、その後二人の剣士も杯を手に取った。
﹁確かに、珍しい酒やな﹂
舐めるように味わうエルザ。
その顔は今までとうって変わって真剣そのもの。
商人の顔とも言うべきだろうか、彼女はこの酒に対し﹃品定め﹄
268
を行っているのだろう。
﹁時にフロスト先生とはどういったご関係で?﹂
﹁うん? 別に付き合いなんてないで﹂
俺の質問に、エルザがあっけらかんとした様子で答える。
付き合いがない?
そんなことがあるのか?
﹁では、あなたはなぜフロスト先生の手紙を?﹂
﹁赤竜騎士団がここに来たやろ?﹂
﹁ええ﹂
﹁そんで、赤竜騎士団はあんたらに負けて帰った。ここまではええ
か?﹂
﹁その通りです﹂
﹁実はな、赤竜騎士団は疫病にかかって仕方なく国に帰ったことに
なっとんねん。
ま、うちにはそんなホラ話は通用せん。兵隊さんに袖の下を渡し
て、本当の話を聞いたったわ﹂
﹁ほう﹂
赤竜騎士団は、疫病でやむなく退却ということになってるのか。
269
面子というやつだろう。
確かにありそうな話だ。
﹁そんでな。赤竜騎士団が敗北したのを聞いて、うちはピンときた。
あの赤竜騎士団を負かすほどの町や。ただ獣人が寄り集まってで
きたような張りぼての町やない、思うてな。
こりゃ商路を拓ければでかい稼ぎになるかもしれへん、ちゅうこ
とで、獣人の町を最初に見つけたっていうフロストはんに頼み込ん
で、手紙を届けることを条件に町のことを聞いたんや﹂
﹁なるほど。ということは、他の商人もここへ来たりするのですか
?﹂
﹁いや、それはないと思うで。
ここは獣人の町や。
命が幾らあっても足りんやろ﹂
﹁では、なぜそんな危険な場所にあなた達は来たのですか?﹂
﹁そりゃあ、もちろん成り上がるためや。
うちはできたてほやほやの、ちっさい商会や。そんなんが這い上
がろう思うたら、多少の危険は覚悟して前に前に出んといかん。
冒険せずに得るもの無し、ってな﹂
話の整合はとれている。
その振る舞いからも、エルザがここまで嘘を言っているようには
見えない。
﹁単刀直入に聞きます。あなた達はサンドラ王国の諜報員ですか?﹂
270
﹁はぁ? いや、待ってえな。変な質問するかと思ったら、なんや
疑っとったんかいな﹂
﹁ええ、まあ﹂
﹁はっきりと言うやっちゃな。うちらはそんなんちゃう、れっきと
した商人やで。
ま、証明なんてできへんけどな﹂
﹁サンドラ王国は今後どうすると思いますか?﹂
﹁だから、うちは商人やで? ま、ええか。
麦相場は安定しとる。ちゅうことは、少なくとも当分は動かんや
ろな。
麦商人はどいつもこいつも役人と繋がりがある。軍を動かすとな
れば、すぐに麦の値の釣り上げに走るはずや。
もっとも、国に相場の限界値が定められとるから、利益は限られ
とるけどな。それにしたって数が数だから、途方もない儲けが出る
のは確かや﹂
﹁なるほど﹂
その話が本当かどうか確かめる術はない。
だが、たとえ彼女らがスパイだったとしてなんのことがあろうか。
こちらが秘匿すべきものは、全て俺の中にある。
町でなにを探ろうとも、バレるものではない。
なればこそ、彼女達を商人として扱うべきだ。
﹁わかりました。これ以後はあなた達を商人として扱います﹂
271
﹁ほんま正直な人やな﹂
そう言って、気持ちのいい笑顔を浮かべるエルザ。
それは彼女の赤い髪と合わさって、まるで日の光のような暖かい
印象をうけた。
﹁では、これより本番といきましょう﹂
俺は後ろに置いていた盆を前に出す。
盆の上には三つの器、その内の真ん中にある器の蓋を開けた。
中にあったのは白い粉だ。
﹁これがなにかわかりますか?﹂
﹁なんや、白い粉⋮⋮塩か?﹂
﹁それはつまり知らないということですね﹂
エルザが白い粉を塩と断じることに⋮⋮いや、塩としか断じない
ことに俺はニヤリと心中で笑った。
﹁どうぞ、少々下品かもしれませんが、指で掬って舐めてみてくだ
さい﹂
エルザは中指の先にちょんと白い粉を付けると、それを口に持っ
ていく。
しょっぱいのを予想してか、その表情は、指先を舐める前からキ
ュッと締まっていた。
だが、その予想は大いに外れることだろう。
272
そして、彼女はペロリと指先を舐めた。
途端︱︱。
﹁︱︱っ!? な、な、な、なんやこれっ! あ、甘い! 甘いで
!!﹂
エルザは目を真ん丸にして驚きの声をあげた。
そうだ甘いのだ。
エルザの声があまりにも大きなものだったので、下の階からドタ
ドタと階段を上ってくる音が聞こえてくる。
﹁フジワラ様!﹂
襖が開き、狼族の者が俺の名を呼んだ。
﹁何も問題ありません。引き続き下で待機していてください﹂
狼族の男は顔を巡らせ、異常がないことを確認すると、わかりま
したといって去っていった。
一方、エルザは未だ驚愕の中にいるのか、肩を震わせている。
﹁それは︻砂糖︼と言います﹂
﹁さとう⋮⋮﹂
放心したように小さく呟きながら、エルザは再び︻砂糖︼を指に
つけて、口に含んだ。
俺はそれを見ながら、彼女が驚くのも無理のないことだと思った。
273
元の世界において︻砂糖︼の起源はアジアにある。
そこに辿り着くには、砂漠を越えるか、海を越えるかしかない。
航海がなされておらず、砂漠を越えた話もないこの世界では、︻
砂糖︼というものは存在しなかったのだろう。
﹁おめでとうございます。この世界で私を除けば、初めて︻砂糖︼
を食べた人間があなたです、エルザさん﹂
砂糖を初めて食べた女︱︱エルザ。
うむ、料理学会にならば後世にまで名を残せそうな気がしないで
もない。
すると、ふふふと小さく笑い声がエルザの口から聞こえ、それは
段々と大きくなった。
﹁いける、いけるで!﹂
エルザは立ち上がり、天に吠えるように言った。
と思ったら、今度は正座をして畳に頭をつける。
﹁フジワラさん! この通りや! どうかウチにこの︻砂糖︼を売
ってくれへんか!
金ならいくらでも出す! これさえあれば天下がとれるんや!﹂
部屋の外からは、再びドタドタと階段を上ってくる音が聞こえた。
274
28.商人 3
﹁お願いや! うちに︻砂糖︼を売ってくれ!﹂
土下座を敢行するエルザ。
その両隣に座っている剣士の二人は、何事かとギョッとしている。
ついでに、大きな声を聞きつけて再びやって来た狼族の者も、目
をぱちくりとさせていた。
俺は狼族の者に、問題がないことを伝えて下がらせると、エルザ
に言う。
﹁頭を上げてください。大丈夫、売りますよ﹂
﹁ほんまか? ほんまに売ってくれるんか?﹂
﹁ええ。ですが、売り物は︻砂糖︼だけではありません﹂
俺は盆の上にある残り二つの器の蓋を取った。
そこには赤い粉末と黒い粉末がある。
﹁さ、︻砂糖︼だけやなかったんか⋮⋮!﹂
﹁どうぞ、舐めてみてください﹂
ゴクリと喉を鳴らしてから、まず赤い粉末を指につけて舐めるエ
ルザ。
舌で味わうように、その口をモゴモゴとさせた。
275
﹁これは⋮⋮ピリッとした辛さがある⋮⋮。味わったことのない辛
さや⋮⋮!﹂
﹁それは︻唐辛子︼といいます。体を温める効能もあるんですよ﹂
エルザが指を変えて黒い粉末を舐める。
﹁これは⋮⋮辛いというべきなんか? 塩のしょっぱさを抜いた辛
さというべきか⋮⋮後からじわじわとくる味わいをしとる⋮⋮! これも口にしたことのない味や⋮⋮!﹂
﹁それは︻胡椒︼といいます。料理にかけると引き締まった味にな
りますよ﹂
﹁なるほど、︻香辛料︼か﹂
エルザが頷くように呟いた。
﹁作物を、とも思いましたが、やはり距離が遠すぎます。種を売っ
たとしても、そちらで育つかどうかはわかりません。
しかし、香辛料ならば日保ちするでしょう﹂
﹁確かにな。
しかし、これは凄いわ。︻砂糖︼も衝撃やったけど、︻唐辛子︼
と︻胡椒︼もまず売れるやろな。
なにせ、料理の幅が広がる。食通気取りの金持ち達はこぞって財
布の紐を緩めるで﹂
﹁少々値が張りますよ? なにせこれの生成をしてるのは私一人。
276
他の者はなにも知りません。
これらの一握りは、同じ重さの金塊と同等といっても過言ではな
いと私は思っています﹂
俺の、金塊と同等という発言に二人の剣士は唖然として固まった。
信じられない、という顔だ。
うん、俺も信じられない。
でも俺の世界の中世ヨーロッパじゃあ、︻胡椒︼と︻金︼は同価
値とされてたんだよね。
事実かどうかは知らないけど。
﹁⋮⋮せやな。世の権力者達は、どんだけの金を出しても欲しがる
やろ。確かにそれだけの価値があるわ﹂
さすが商人のエルザ。
剣士二人とは違い、この︻砂糖︼と︻香辛料︼にしっかりと価値
を見いだしている。
﹁それで、幾らで売ってくれるんや?
悪いけど、あんま手持ちはないで。こんなヤバイもんが出てくる
とは思わんかったからな。
つーか、ほんまにヤバイわ。下手すると、これを巡って国同士で
戦争が起きるで﹂
戦争。
その言葉に剣士の二人がまたも驚き、身を震わせる。
だが俺の心が揺さぶられることはない。
まあ、そうだろうなと思うだけだ。
277
食は、この世界において数少ない娯楽。
他にやることがないからこそ、食の探究には余念がない。
金が有り余っている奴等にとっては、まさに金の使いどころだろ
う。
つまり大きな金が動く。
戦争が起きるには十分すぎる理由だ。
さしあたって、まずはサンドラ王国が、︻砂糖︼と︻香辛料︼を
我が物にしようと再び軍を南進させてくることだろう。
﹁ちょっと待ってくださいっ!﹂
突然大声を出して俺とエルザの会話に入ってきたのは、女剣士だ
った。
﹁なんやレイナ、あんたはただの護衛やろが、黙っとき﹂
エルザが邪魔するなといわんばかりに、ギロリと女剣士を睨み付
ける。
﹁いえ、なにか意見があるなら聞きましょう﹂
俺はエルザの叱責を止めた。
相手の腹の内を知るために、いざこざは願ってもないこと。
それにエルザは確かに商人かもしれないが、二人の護衛剣士が別
のところからの任を帯びた密偵である可能性も否定できないのだ。
﹁フジワラさん。あなたは人間なんですよね﹂
278
﹁ええ、人間です﹂
レイナと呼ばれた剣士が俺の目を真っ直ぐに見据えて問い、俺も
それを両の目でしかと受け止めて答える。
﹁ではなぜ、人間のために行動をせず、獣人などのために行動する
のですか﹂
そうきたか。
なんというか、その質問の元にあるのは感情的なもののように思
える。
彼女は、獣人がいい暮らしをしているのが気にくわないのだろう。
確かに汚穢の話を聞いてもそうだが、人間の町よりこの町の生活
の方が恵まれているのかもしれない。
そして、今日披露した︻砂糖︼と︻香辛料︼によって町はさらに
富を得る。
そうすれば獣人達は、これまでよりも遥かによい暮らしをするこ
とになる、とでもレイナは思っているのだ。
さて、なんて答えるべきか。
なぜ獣人のために、と言われても、最初は税金目当てで獣人を招
き入れて、今ではそれなりに仲良くやれてるなぁ、といった感じで
しかないのだが。
うーん、と少しばかり考えてから、俺は口を開く。
﹁彼ら獣人達は、私のかけがえのない家族であり、友人であり、仲
間でもあります。家族や友人や仲間を、助けるのに理由が要ります
か?﹂
279
決まった。完璧だ。
すると襖の向こうから、﹁うぅっ⋮⋮﹂という何か堪えるような
声がした。
おや? と思い、視線をそちらに向けると、襖がちょっぴり開い
ている。
ああ、そうか。
これまで狼族の者達は何度か乱入した。
しかし、なんてことのないものばかりだったから、今度はそっと
覗いたのか。
うわっ、これは恥ずかしいぞ。
﹁だからなぜ、人間が獣人を家族としているのかと︱︱﹂
﹁ええ加減にしい!﹂
エルザの怒声が、レイナの発言を止めた。
﹁うちらは商売に来たんや! お前の言うことが、なんか商売に関
係あるんかい! 大事な取引相手のいらん腹探って、商売を台無し
にしたいんかっ!﹂
それは、部屋の中がビリビリと震えんばかりの大喝であった。
﹁⋮⋮すみません﹂
レイナはうつむいて、それ以上なにも言わなかった。
280
﹁えらい申し訳ない。レイナもこれまで大変な人生を送ってきてな。
悪気はないんや。
後でしっかり言っとくから、許したってくれへんか、この通りや﹂
ペコペコと頭を下げるエルザに、俺は﹁気にしていませんよ﹂と
だけ言ってその話は終わった。
むしろ、レイナがこれまでに送ってきた﹃大変な人生﹄というの
が気になるところだ。
﹁では、話を進めましょう。
まず、金額を設定する前に、取引にあたっての条件を述べさせて
いただきたいと思います﹂
﹁条件?﹂
﹁はい、この︻砂糖︼や︻香辛料︼がここで作られたことを、決し
て他の者には漏らさないでほしいのです﹂
﹁まあ、当然やな。
こんなん金のなる木やから、この町が原産地なんて知れたら、世
界中から商人から軍隊までいろんな奴等が殺到するで。
ちゅうことは、直接貴族達にばらまくことはできへんな。
他国の商人の仲介になるわけか⋮⋮うん、うちにとってもええ話
や。
独占取引みたいなもんやしな。
けど、そんな誤魔化しはいつまでも利かへんで。絶対にいつかバ
レる時がくる。
うちだって流石に命には換えられへんから、どうしようもなくな
ったら喋るで﹂
281
﹁それならそれでかまいません。
どのみち我々はサンドラ王国に恨みを買っていますので、どうし
ようもなくなった際には正直に話してくれて結構です。
ただし、その時には私しかその生成手段を持っていないことを伝
えてください。
そしてできることならば、領主もしくは国に使節団を送ることを
提案してください。
相手が外交という手段をとるのならば、私がその利をもって説き
伏せてみましょう﹂
この貿易が攻められる原因になっても構わない。
どのみち、また敵はやって来るのだ。
それが少々早まるだけのこと。
ならば、自重などいっさいせずに金を全力で集めに集めて、その
金をもって敵を討つべきである。
282
29.エルザ、レイナ、ライル
商談はそう時間もかからずに終わり、信秀と狼族の者達は玄関で
靴を履いて去っていった。
エルザはそれを見送ると、ふぅーと肩の荷を下ろすように息を吐
く。
そして次の瞬間には、﹁くっくっくっ﹂と湧き上がるものを抑え
きれずに笑いだした。
信秀との商談は成功。
それも、これ以上ないほどに。
信秀の提示額は、エルザの予想していた通り破格の高さであった。
これに対しエルザは、思い付く限りの不測の事項を並べて減額を
要求した。
扱う物の価値があまりにも高過ぎて、もしものことがあれば、即
座に破産しかねないのだ。
すると信秀は二つ返事で減額に応じた。
あまりに、あっさりと要求が受け入れられたため、エルザ自身拍
子抜けしたほどだ。
まあ、それでも莫大な金額には違いなかったが。
さらに信秀の提示額に対し、エルザの持参していた資金は全く足
りないものであった。
しかし気前がいいというべきか、信秀は足りない分は後日でいい
といって、ありったけの︻砂糖︼及び︻香辛料︼を譲ってくれるこ
とになったのである。
283
﹁さあ、部屋に戻るで﹂
緩む頬をそのままに、エルザはレイナとライルに声をかける。
するとレイナはブスッとした、ふてくされたような顔をしていた。
レイナの信秀に対して行った、なぜ獣人に施すのかという分を越
えた詰問。
その答えにレイナは納得がいっていないのだ。
だが、こればかりはどうしようもないとエルザは思った。
レイナとライルは姉弟だ。
元は貴族であり、落ちぶれた。
彼らに責はない。
されど、彼らの両親が罪をおかした。
この世界において、親の罪は子の罪でもある。
連座で打ち首にならなかったことだけが、唯一の救いであった。
二人は身分を平民に落とされ、財も全て失った。
平民の生き方など知らない元貴族のボンボンだ。
当然、他の平民などよりも苦しい生活を強いられた。
﹁レイナ﹂
二階の畳の間に戻ってすぐ、エルザがレイナに声をかけた。
﹁⋮⋮なんですか﹂
﹁あんたの気持ちはわからんでもない。
フジワラさんの獣人に対する厚意。
284
それが人間に向いたら⋮⋮いや、あんた自身に向いたら、家の再
興も夢やないからな﹂
エルザの言葉に、レイナは羞恥で頬を赤く染めた。
心中にあった獣人への嫉妬心を、エルザに言い当てられたからで
ある。
レイナが信秀にぶつけた、﹃なぜ人間ではなく、獣人のために力
を使うのか﹄という問いかけ。
しかしレイナの本当の心は別にある。
それは、﹃獣人などではなく、不幸な私を助けてくれ﹄という賎
しい心であった。
﹁世の中は不平等なもんや。王、貴族、平民、下民。この世には身
分があり、生まれついた時には、大体そいつの人生は決まっとる。
うちは平民やったが、幸いにも商人の家に生まれた。ま、あんた
も知っとる通り、店は継げずに家を飛び出したんやけどな﹂
エルザはヨウジュ帝国という、大陸で竜の下顎に位置する国の出
身だ。
商家に生まれ、長子ではあったが、長男ではなかった。
だから商会を継げずに、妹と共に家を飛び出した。
そして行商をしながらサンドラ王国にまで渡り、自分の店を開い
たのだ。
レイナとライルの姉弟と出会ったのはその途上のことであり、二
人がエルザ相手に盗賊の真似事をしようとしたところ、エルザが諭
して自らの護衛としたのである。
﹁まあ、何が言いたいのかというとやな。これからうちは、あらゆ
285
るものを踏み潰して天辺とったる。成り上がりや。
金さえあれば爵位が買える国もある。あんたも護衛だけやなくて、
そろそろ商売を学んだらどうや、ちゅうことやな﹂
学だけはあるんやから、とエルザは白い歯を見せて笑った。
貴族に未練があるのなら、自分の手で掴んでみせろ。
エルザはそう言っているのだ。
﹁⋮⋮少し考えさせてください﹂
レイナは陰鬱そうな顔でペコリと頭を下げると、エルザの返事を
待たずに部屋を辞した。
﹁すみません、エルザさん﹂
レイナの不明を詫びたのは、弟のライルである。
﹁気にせんでええよ。
ま、レイナにとって殻を破るいい機会やろ。それに信用できる人
材は、これからどんだけおっても足りん。あんたにも気張ってもら
うで、ライル﹂
﹁ええ、わかってます﹂
姉のレイナとは違い、ライルは既に貴族という身分に見切りをつ
けている。
ゆくゆくは自身も商人になろうと、これまでずっとエルザを見て
学んできた。
そのことはエルザもよく知るところだ。
286
﹁ちょい、こっち来て窓の外を見てみい﹂
エルザが窓の側に寄って、そこにライルも呼んだ。
窓の向こうには数百の建物が均等に並び、そこかしこから獣人の
子供の笑い声が聞こえてくる。
﹁大したもんや、そう思わへんか﹂
﹁そうですね﹂
人間にとって獣人とは種族の違う縁遠い存在だ。
だが、こうして眺めていると、人間も獣人も何も変わらないので
はないかという気に二人をさせた。
﹁⋮⋮今回の話、本当に大丈夫なんでしょうか﹂
﹁ん? なにがや﹂
﹁戦争って言ってましたけど⋮⋮本当に起こるんですか?﹂
﹁確実に起こるやろな。
とりあえずうちの国が、もっぺんここを攻めにかかるのは間違い
ない。
だから、そうなるまでの時間を目一杯引き延ばすのが、うちらの
仕事や。
引き延ばせた時間が諸々うちらの利益になる﹂
﹁⋮⋮﹂
ライルは何も言えなかった。
287
戦争が起きる。
この平和な町に。
そう考えると、ライルの胸にはズキリとした痛みが走るのだ。
自らが貴族という地位から下層へと落ちてから、ライルには人は
人でしかないという考えがあった。
王も国を失えばただの人になり得る。
逆に奴隷ですら天の時を掴みさえすれば、やり方次第で王になれ
るのではないか、とライルは思っていた。
これは正しく、過去には羊飼いから大国の王になった者も、この
世界には存在している。
そんな達観したライルであったから、獣人達に対し蔑むような感
情はなく、ただ知識として獣人のことを知っているだけであった。
だが今、窓から見える獣人達の生活を見て、人も獣人も変わらな
いのだということをライルは知った。
獣人達はこの町で幸せに暮らしている。
それが戦争で壊されるかもしれない。
かつてライルが何も知らず、家族に囲まれて幸せに暮らしていた
頃。
不意にそれは壊れてなくなった。
今、ライルは心のどこかで自分と獣人達を重ねていたのだ。
﹁心配か? この町が、獣人達が﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
﹁優しいやっちゃな。でも気にすることないと思うで。
288
フロストはんも言うとった。赤竜騎士団が負けるのは必然やった
ってな。
たとえば、この家を見てみい﹂
窓から視線を外し、部屋の中に目を向けるエルザとライル。
﹁うちらんとことは建築様式もまるで違う。立派なもんや。
フロストはんが言うには、これはフジワラさんが獣人に造らせた
んやと﹂
この大陸にはない技術。
建築以外にもそれがあると思うのは当然のことだ。
﹁たった一人の人間が、何百人、いや何千人かもしれへん獣人を従
えるなんて、並大抵のことやないで。
そんだけのもんがフジワラさんにはあるっちゅうこっちゃ。
ま、うちらはうちらができることをやるだけやと思うわ。
あちらさんも、全部わかった上で商売を望んどるみたいやしな﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
話を終えると、エルザはどかりと座って信秀が置いていった酒を
飲み始める。
ライルはもう一度窓の外を眺め、子供の楽しげな声を暖かな気持
ちで聞いていた。
◆
商談が終わったその夜。
狼族の族長ジハルの家に、本日信秀の護衛を勤めた者達が集まっ
289
ていた。
﹁︱︱その時、フジワラ様はこうおっしゃられた。﹃彼ら獣人達は、
私のかけがえのない家族であり、友人であり、仲間でもあります。
家族や友人や仲間を、助けるのに理由が要りますか?﹄ってな﹂
﹁うむ⋮⋮﹂
護衛を勤めた狼族の男が話を終えると、ジハル族長はなにか感じ
入るように瞑目した。
シンと静まりかえる部屋の中。
別室にいる孤児達のこそこそとした話し声がハッキリと聞こえる
ようだった。
やがて、ジハルは目を開けてその重い口を開く。
﹁⋮⋮もう一度、フジワラ様の言葉を聞かせてくれ﹂
﹁またかよ! もう何回目だと思ってんだ!﹂
狼族の男は怒った。
なぜなら、彼が﹃彼ら獣人達は∼﹄のセリフを言わされた数は、
もう十を超えているからである。
テープレコーダーのように何度も言わされて、いい加減うんざり
とした狼族の男であった。
﹁いいじゃないか、減るもんじゃなし﹂
﹁ちっ⋮⋮、これが本当に最後だぞ。絶対にもう言わねえからな﹂
だが文句を言いつつも、わざわざ信秀の声色を真似るような演技
290
をするあたり、狼族の男もそのセリフ自体は気に入っているようで
ある。
﹁家族であり、友人であり、仲間か⋮⋮いい言葉よのう。
さすがはフジワラ様。他の人間共とは訳が違う﹂
信秀が口にしたという言葉を最後にもう一度聞いたジハルは、腕
を組みながら染々とした様子であった。
﹁それで、どうするんだ? 問題なのは、フジワラ様が人間と商売
をする話だ。品物は人間達の中でも相当な貴重なものらしい。
また人間が攻めてくるぞ。フジワラ様に忠告しなくていいのか?﹂
狼族の男からの進言。
それに対し、﹁必要あるまい﹂とジハルは首を横に振った。
﹁人間の軍をただ一人で退けたフジワラ様だ、全部わかっているだ
ろうよ。
ただし、我々も人間と戦う心構えだけはしておかねばならん。
特に訓練でサボろうとする者には罰も考えておる﹂
ジハルは睨み付けるように狼族の男を見た。
﹁う、うむ⋮⋮﹂
狼族の男としては、別に訓練でサボっていたつもりはないが、そ
れでも訓練の最中、ずっと気を張っていたかと問われると否定せざ
るを得ない。
こうしてジハルにギロリと睨まれると、痛くもない腹が途端にキ
リキリと悲鳴をあげるようであった。
291
﹁さて、では先程の言葉を紙に書いて各所に貼るか﹂
﹁おいおい、字なんて族長とガキんちょ位しか読めねえだろ﹂
﹁む、それもそうか﹂
何かの役に立つかと思って、信秀はジハルに文字を教えていた。
もちろん日本語ではなく、この大陸の文字である。
を
それが漸く実になり、最近ではジハルが教師役となって子供達に
文字を教えていたのだ。
これ
﹁では、明日は皆を集めて、フジワラ様の言葉を伝えようぞ﹂
﹁おいまさか、また俺が⋮⋮!﹂
﹁そのまさかじゃ、光栄に思え﹂
その後、ジハルは文字を学びに来た子供達にたびたび
暗唱させ、たまたま近くを通りかかった信秀は大いに赤面すること
になる。
292
30.金
エルザ達がやって来た日の翌日。
俺は、朝から商品の梱包作業を行った。
ゴブリン族に木箱を造らせ、その中に︻砂糖︼と︻香辛料︼の壺
を入れ、隙間には藁を梱包材として詰めていく。
エルザ達は、それらを馬車に積むと、昼過ぎに町を去っていった。
足りない分の金は、次回払うという証文を書かせてある。
まあ、こんな独立した地では証文にあまり意味があるとは思えな
いのだが、一応の記録にはなる。
それよりも問題なのは、エルザが次にやってくる日だ。
エルザは早くても2ヶ月、遅かったら4ヶ月はかかると言ってい
た。
まず帰るのに約10日、さらに他国の商人らと繋ぎをとったり、
教会に賄賂を渡したりするのに40∼60日、そして再びこちらに
来るのに10∼40日。
これで合計2ヶ月∼4ヶ月だ。
こちらに来る日数が10∼40日と、ひどく曖昧なものになって
いるのは、追手をまくためなんだとか。
﹃間違いなく、つけられるわ。この場所を知られんためには、まず
真逆の方向へ行かんとあかんからな。そりゃあ時間もかかるで。
あ、半年経っても音沙汰なかったら、うちは多分天国に旅立って
るから、そん時は堪忍な﹄
293
なんてことをエルザは笑いながら言っていた。
非常に胆が座った女性だと思う。
なんにせよ日にちがかかりすぎる。
エルザは、金と人員が整えば、運搬のみを行う隊を編成して、も
っと頻繁に交易ができるようにすると言っていた。
だが金はともかくも人員はよく精査しないといけないので、体制
が整うまで、どれだけ時間がかかるかわからないのだという。
いずれ来る戦いの時までに、ありったけの金を貯めたい俺として
は、どうにかしたいところだ。
さて、エルザを見送った後、俺は自宅にて炬燵に足を入れて座っ
ていた。
そして俺の目の前には、金貨の詰まった皮袋がある。
その袋の中から1枚を取り出して机の上に置いた。
それはフロー金貨と呼ばれる、一円玉ほどの大きさの貨幣。
高い金含有率に加え、これまでに一度もその比率を変更してこな
かったことから価値が安定しており、国際通貨として世に親しまれ
ているのだそうだ。
金含有率は90%で、その重さは3.5グラムほど。
つまり、金1グラムの値段が現代では4000円台を推移してい
たはずだから、このフロー金貨は1枚につき︱︱
3.5×4000×9/10= 1万2600円
︱︱となるはずである。
しかし、実際に﹃町データ﹄を呼び出して︻売却︼を選択すると
294
こうなる。
︻フロー金貨︼︻売却値︼11万円
︽売却しますか︾︻はい/いいえ︼
売却値が9倍近くになった。
これが示すところはつまり、この世界に存在する物の︻売却値︼
は、この世界の価値になるということだ。
余談ではあるが、金貨20枚で平民の一家が一年暮らしていける
というのが、この世界での金貨の価値である。
とにかくも、︻売却︼が現代価値でないのは僥幸だ。
俺の資金も大いに潤うことだろう。
俺は︻売却対象︼に袋の中の金貨150枚を選択した。
︻フロー金貨︼︻148枚︼︻売却値︼1628万円
︻フロー金貨・模造品︼︻売却値︼9万円
︻フロー金貨・模造品︼︻売却値︼8万4000円
︽売却しますか︾︻はい/いいえ︼
ん⋮⋮? あれ?
俺は見間違えかなと目頭を押さえてから、再び目の前の画面を見
る。
いや、見間違えじゃない。
おい、エルザ! 偽物混じってるぞ!
295
まあ、150枚の中のたった2枚だから、さすがにわざとじゃな
いだろう。
一応、取引前にはエルザの言うがままに、適当に選んだ金貨を1
枚秤にかけているし。
もしかしたら、150枚の中に2枚の模造金貨が混じっていたこ
とは、この世界では普通のことなのかもしれない。
となると結局、模造金貨の扱いはどうなっているんだ?
次、エルザが来た時に聞いてみよう。
というわけで金貨の︻売却︼は完了した。
あとは、次回エルザ達がどれだけの金を持ってくるのか、ワクワ
クと待つばかりである。
冬も終わりの頃。
エルザが多くの人間達を引き連れて町にやって来た。
その集団は、馬車にたんまりと載せた金を守護する兵士達である。
まあ、大人数で来ることは前回の来訪時に聞かされていたことな
ので驚きはしない。
ただ、人間の集団を町の中に入れるのは、互いの安全のためにも
遠慮してもらった。
エルザは信頼できる筋の者達だと言っていたが、こればかりは仕
方のないことだ。
というわけで、エルザと前回もいたレイナのみ︵ライルは来てい
ない︶を町の中に入れ、他の者達に関しては、西側でコボルト族が
296
新たに作った煉瓦の家に宿泊してもらうことにした。
ちなみにこの煉瓦の家、天井部は薄いベニヤ板と藁で構成されて
いるので、地震が起きて家が崩れても、とりあえず死ぬことはない。
﹁フジワラさん、レートは前回と同じでええんか?﹂
前に使った空き商店へ向かう途中、エルザが俺に尋ねた。
﹁ええ、構いませんよ﹂
﹁数はどんだけあるん? 今回は︻胡椒︼を多目に欲しいんやけど﹂
﹁︻胡椒︼も︻砂糖︼も︻唐辛子︼も、エルザさんの馬車を満杯に
するくらいは用意してあります﹂
﹁ほか、安心したわ﹂
ややあって商店に到着すると、金貨を家の中に運び込む作業が始
まり、それが終わると、まず先に先払いで金貨の受領を行うことに
なった。
﹁じゃ、枚数確認してや。一袋に500枚の金貨が入っとる﹂
500枚の金貨が入った袋が、150袋以上。
途方もない数でとても全部は数えきれない。
俺は袋を幾つか選び、エルザとレイナが見届ける中、机に金貨を
並べて枚数を数えていく。
﹁よし、問題なしやな。次はこれや﹂
297
渡されたのは秤。
金貨の真贋を測るためのものだ。
﹁一袋から5枚選んで秤にかけてや。さっさとせんと日が暮れてま
うで﹂
俺は言われるがままに、秤に金貨を載せていく。
その最中に、俺は偽の金貨について聞いてみようと口を開いた。
﹁ところで、一つ伺いたいことがありまして﹂
﹁なんや? うちに答えられることなら一つどころか、十でも百で
も答えたるで。あ、でもスリーサイズはあかんよ﹂
﹁いえ、スリーサイズとか興味ないんで﹂
﹁⋮⋮フジワラさん、もうちょっと乗ってえや﹂
急に冷めた目付きになるエルザ。
えぇ⋮⋮、俺が悪いのか?
﹁すみません、真面目な話なんです﹂
﹁む﹂
エルザは口許を一文字に結び、その顔つきを真剣なものへと変え
た。
普段は軽い様子ではあるが、商売のこととなると、彼女は時折こ
ういう顔をする。
298
﹁金貨の中に金比率の低いものが2枚混じってましてね。
明らかに偽の金貨だったんですが﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
気が抜けたように、エルザはため息を吐いた。
なんだろう。
やで﹂
俺は、何か変なことを言っただろうか。
?﹂
当たり
﹁何か変なことを言いましたか?﹂
当たり
﹁何かと思ったら、そりゃ
﹁
﹁せや。今、無作為に金貨を選ばせて、秤にかけてもろうとるやろ
?﹂
﹁はい﹂
﹁取引の時にはルールがあってな。100枚に対して1枚を選び秤
にかける。それが贋物やったら次は5枚を秤にかける。そん中にま
た贋物があったら、次は10枚。
さらにそん中にも贋物があったら、漸く金の受け取り側は貨幣を
全部調べる権利を与えられるんや﹂
﹁はあ﹂
俺は、なんだその面倒くさいルールは、と思いつつ生返事をする。
まるで、偽の金貨を発見させないためのルールじゃないか。
299
﹁なんでこんな受け渡し側に有利な⋮⋮というか、少数の偽の金貨
に対して、見ない振りをするような取り決めになってるかわかるか
?﹂
﹁いえ、生憎と﹂
わかるわけもない。
悪貨が良貨を駆逐する、なんていう言葉を前の世界では聞いたこ
とがある。
悪貨と良貨。貨幣価値としては同じでも、貴金属の価値としては
高価である良貨を人々が隠してしまい、悪貨が世に流通するという
話だ。
そして、それは貨幣の価値が下がることを意味し、貨幣経済の崩
壊に繋がりかねないのだ。
﹁簡単な話や。偽造貨幣を造っとる奴は貨幣鋳造権利者、すなわち
国の中でも大きな権力を握る者達や。
具体的にいうと大公、有力諸侯、大司教、一部の司教やな。こん
人らが、王様から鋳造所の管理を任された方々や。
つまり、多少の偽造貨幣を問題にして、やんごとなき方々の顔を
潰すなってことやな﹂
﹁なるほど﹂
つまり、口を出せば逆に自分の身が危ない、というわけか。
大きな問題にならないように、そういった取り決めが作られたの
だろう。
しかし、それだとこの世界の貨幣経済は大丈夫なのか?
300
というか、俺との取引ならそのルールは適用されないんじゃ⋮⋮。
﹁これでもまだマシなんやで。取引に秤を使うこと自体が禁止だっ
た国もあるからな。
これまた、その言い訳が酷いんやわ。﹃重さを量っての取引は、
貨幣での取引ではなく、地金での取引と同義である。それは貨幣の
価値を損なうものであり、よって禁止する﹄ってな。
自分らが金比率を下げて、貨幣の価値を落としとんのに、ハチャ
メチャなやっちゃで﹂
地金とは貨幣に加工する前の純粋な金だ。
確かに重さで取引をするのなら、もう貨幣でなくてもいいわけだ
から、その理屈は通用する。
だがそれを自分達が貨幣の金比率をバレないようにするためとな
れば、ただの屁理屈でしかない。
﹁ま、その国は経済がぶっ壊れて、他国の通貨と物々交換しか通用
せんようになったわ。だいぶ昔の話やけどな。
そんで、そんなんなったら終わりやから、鋳造所もっとる人らも、
あのへんちくりんなルールの中で見逃される程度の量しか造っとら
ん。
あくまで王様からお目こぼしされとるだけやからな。
調子こいたら、すぐ﹃これ﹄やで﹂
﹃これ﹄という言葉と共に、手で首をスパンと斬る動作をして、
おえっと舌を出すエルザ。
﹁それでも、やっぱ塵も積もれば山となる。そんな時、痛い目見る
のが商人や。
あのルールな。最後の全部調べるやつで30枚以上の偽造貨幣が
301
見つかったら、官憲の取り調べが入った上で、財産を全部没収され
んねん。やから、みんな偽造貨幣を溜めんようにちょっとずつ吐き
出していっとる。
そんでも、もし溜まってもうたらな、損することになるけど、役
人に言って相応の値で買い取って貰うんよ﹂
ということは、あの偽の金貨は知っていたのか。
﹁まあ色々言うたけど、1枚や2枚くらい悪貨が混じっとるのはよ
当たり
と呼んどる。
くあることで、それが後から見つかった場合には見ない振りをする
のが慣習なわけや。
だから、商人達はそれを
損しとることには違いないんやけど、せめて富くじの当たりにな
ぞらえて、自分を慰めとるわけやな﹂
俺は、なるほどと思いつつ、いつの間にか止まっていた手を動か
し始めた。
﹁それにな、うちくらい一流ともなれば、秤を使わずとも手で重さ
がわかる。
怪しい相手には、始めの1枚をきっちり選んで秤にかければ、後
はこっちのもんやで﹂
にひひ、とはにかむような笑みを浮かべて、エルザのためになる
話は終わった。
やがて、秤に5枚ずつ乗せる作業も無事に終了し、エルザから今
回の取引の注文票を貰う。
今回は︻砂糖︼と︻唐辛子︼は少量で、︻胡椒︼が大量に要求さ
れていた。
302
話を聞くと、︻砂糖︼に関しては修道院が作る︻蜂蜜︼の領分を
侵さないため。
︻唐辛子︼に関しては、不評というわけではないが、︻胡椒︼の
方がより求められたとのことだ。
そこで、ふと気になったことがある。
前回、︻蜂蜜︼のことを知りながら、︻砂糖︼を多分に持ってい
ったのは何故かということだ。
するとエルザはこう言った。
﹁︻砂糖︼は名前を売るためのものやな。甘いっちゅうんは、味覚
の中でも一番わかりやすいし、好まれる。
逆に︻胡椒︼や︻唐辛子︼は初めての味と言ってもええやろ。口
にしたことのない味のせいで、首を傾ける奴もおるかもしれへん。
そこで︻砂糖︼っちゅう実績が役に立ってくるわけや。
︻砂糖︼っちゅう凄いもんを売った奴が持ってきた、今までにな
い︻香辛料︼。これも途方もないんやないか、って錯覚するんやな。
まあ、こんなことせんでも、未知の味に餓えとる金持ちはぎょう
さんおるから、どうにでもなったと思うけどな﹂
やっぱり色々考えているんだなと感心しながら、その日の取引を
終える。
受け取った金はリヤカーに載せて、狼族の者に自宅前まで運んで
もらった。
夜になると、エルザ達の下へ酒と食事を運び、小さな宴会をした。
303
﹁いやあ、痛快やったわ! いつもこっちの足元見て偉そうにして
る奴等が、揉み手しながらペコペコと敬語使ってくるんやで?
フジワラさんにも見せてやりたかったわ!﹂
エルザはどうやら相当にご機嫌な様子。
話を聞く限り、今まで侮られていた相手との立場が一変したよう
である。
まあ、唯一無二の︻砂糖︼や︻香辛料︼は、他の商人にして見た
らそれこそ黄門様の印籠のようなものだろう。
﹁あの、あまり敵をつくるような真似は⋮⋮﹂
変に恨みを買われて、とばっちりがこっちに来ても困る。
エルザに何かあれば、俺との商売にも支障が出るのだ。
﹁わかっとるって。今だから言う話で、他ではちゃんと余所行きの
仮面被っとるで。
うちの心情は度外視して、あらゆる面での損得を考慮して取引を
やっとる。うちもプロやからな﹂
ということは、外行きの仮面を被って無さそうな今の状況を見る
に、エルザは俺のことをそれなりに信頼してくれているということ
か。
それとも、今の顔も装った仮面の一つなのか。
そして翌日、エルザ達は品物を受け取って町を発った。
俺はそれを見送ると、にんまりと笑顔をつくる。
今回得た金は、約7万6000枚の金貨。
304
その総重量はおよそ230キロ。
それらは昨夜、既に︻売却︼しており、その額はなんと84億円
になったのだ。
︻資金︼498億8112万2000円
↓ 583億1317万000円
カトリーヌの背に揺られながら自宅に帰る間も、ニヤニヤとした
笑みが止まらない。
元の世界でのことだが、預金通帳に金が貯まっていく様を見るの
は、とても気分がよかった。
金には魔性の魅力がある。
僅かな増減ですら心を揺り動かす。
子供の頃などは財布の中身を数えて、よく暇を潰していたし。
とはいえ、7万6000枚の金貨がこの世界から消えたことに、
人間世界の貨幣市場が混乱しないか少々心配になった。
まあ、今考えても仕方ない。
次にエルザが来た時にでも聞けばいいだろう。
ともかくも、これで俺の資金は約580億円。
最低限残しておく資金のラインを500億と考えているので、こ
れで少々無茶ができるようになったというわけだ。
305
31.大砲
暖かな春がやって来た。
この世界に来て三年が過ぎ、四年目が始まったわけであるが、さ
すがにもうなんの感慨もわかない。
次になにか思うとすれば、十年目の節目ぐらいだろうか。
なんにせよ、なにも生み出さない郷愁の念よりも、もっと建設的
なものが目の前にあった。
﹁ゆっくり! ゆっくりでいいので、気を付けて持ち上げてくださ
い!﹂
俺は北門の石垣の下から、大きな声で獣人達に指示を出す。
石垣の上では、力自慢の獣人達が太巻きの縄に吊るされた細長の
青銅筒を、えんやこらと引っ張りあげていた。
青銅筒の大きさは1メートルほど。
重さは100キロ近くはあるだろう。
それ
。
を、俺はぺちぺちと叩いた。
さらに青銅筒の土台となる台車部分を石垣の上に運び、両者を結
合させて完成だ。
それ
﹁うん、立派なものだ﹂
石垣の上で鎮座する
郷愁の念よりも、今、俺の心を捉えて離さない
306
日本においては、幕末から明治初期にかけて活躍した︻四斤山砲︼
と呼ばれる大砲である。
︻四斤山砲︼1億3000万円
サンドラ王国軍との戦いにおいて俺が命題としたのは、敵の大軍
が石垣に取りつくまでに何をどうするか、である。
取りつかれてしまえば最後、数の暴力により、後はじり貧の結果
が待っているのみ。
つまり、離れた位置から如何にして敵に攻撃を加えるかが肝要。
クロスボウ部隊や鉄砲隊なども考えた。
されどクロスボウは江戸時代の商品欄にはなかったし、鉄砲に関
しては、オーパーツともいえる火器を個人に渡すことが躊躇われた。
戦時に鉄砲が敵の手に渡れば、それを解析されて俺自身の喉元に
突きつけられかねないからだ。
そこで、この︻四斤山砲︼である。
最大射程距離は2600メートルという化物砲。
おまけに重量物であり、易々とは敵に奪われない。
よしんば奪われたとしても、運ぶのには相当苦労するだろう。
俺は町の中にある俺の所有物と、俺の近くにある所有物に関して
は︻売却︼ができる。
敵が大砲を運ぶのに手間取っている間に、俺が︻売却︼をしてし
まえばいいのだ。
さて、獣人達が俺の指示を待っている。
今日、集まってもらったのは、この大砲の扱い方を教えるためだ。
さっさと始めるとしよう。
307
この︻四斤山砲︼に取扱い説明書なんていう便利なものはない。
だが、この︻四斤山砲︼が載っている一連の書籍は読んでおり、
既に町の裏手にて試射は済ませている。
﹁えー、これは大砲といってですね。まあ、実際にやってみるので
見ていてください﹂
俺は、とりあえず順序を説明しながら実演することにした。
まずは身の丈ほどの槊仗で大砲の中を掃除。
次に薬包を前側から入れ、槊仗で奥まで押し込む。
続いて砲弾の装填。
砲弾は長榴弾で約4キロの重さがあり、弾頭にはねじ込み式の着
発信管がついている。
また、前装填仕様でありながらも砲にはライフリングが存在し、
銃身の螺旋の溝に合わせて砲弾を装填しなければならない。
俺は砲弾についているポッチを、銃身内部の溝に合わせて、槊杖
で砲弾を奥へと押し込んだ。
﹁では皆さん、少し離れて耳を塞いでください﹂
皆をその場より離れさせ、耳を塞がせる。
ゴブリン族とコボルト族以外は耳が頭頂部についてるので、耳を
塞ぐ仕草は頭を抱えるような格好となり、少し滑稽だった。
後方の石垣の下も確認する。
反動で石垣の上から大砲が落ちないとも限らない。
まあ、付近には近寄らないように言ってあるので、誰もいなかっ
308
たが。
青銅砲の後部上方にある火門から長針を突き刺して、薬砲を破る。
そしてそこに火縄を取り付け、少し離れた位置から着火。
ジジジと縄が燃えていき、やがて火門へと到達する。
︱︱途端、爆音が轟いた。
砲身が、白い煙を上空へ吐き出す。
すると、はるか遠くで着弾の音が鳴り、砂煙が立ち昇る。
その場にいる獣人達からはワッという歓声が上がった。
﹁すげえ!﹂
﹁あの距離だ! これなら人間だって手も足も出ないぞ!﹂
賛辞ばかりで、初めて見たような驚きの声がないのは、俺が町の
裏で試射していたのを彼らが覗いていたからだ。
﹁では、皆さんにもやってもらいます﹂
まずは各部族から砲兵を選び、徹底的に訓練する。
特に、仰角による着弾距離を覚えてもらわなければならない。
そして、この︻四斤山砲︼を北東西に幾つも設置し、町の守りは
より磐石なものとなるのだ。
四月の終わり、町の生誕四周年を記念して宴会を開いた。
皆で炎を囲み、皆で旨い酒を飲み、旨い料理を食べる。
309
金に余裕ができたので、酒も肉もいつもよりも良いものを振る舞
った。
ある部族が酒の酔いにまかせて唄い始めた。
部族に伝わる歌なのだろう。
聞いたこともない歌なのに、どこか懐かしさを感じてしまうのは
不思議なものだ。
歌が終わると、また別の部族が唄い始める。
誰かが手拍子を始めると、皆も真似して歌に合わせて手拍子を鳴
らす。
端っこの方にちょこんと座って酒を飲んでいた俺も、同じように
手拍子した。
平和だな、と思った。
ふと、食べ物を町の中に運ぶ子供達が見えた。
身重の母親に持っていくのか、それとも赤子の世話で離れられな
い母親に持っていくのか。
町では子供が多く生まれている。
住人はこれから、どんどんと増えていくだろう。
これも平和だからこそだ。
﹁フジワラ様﹂
ワインの瓶を持って現れたのは、ジハル族長である。
宴会で気を使わせるのも嫌なので、俺のことは空気のように扱っ
てくれと言っておいたのだが、わざわざお酌に来たようだ。
互いに酒を交わし、たわいもない会話を少しして、ジハル族長は
310
自分の部族の下に帰っていった。
するとジハル族長に倣って、他の族長が酒を片手に続々とやって
来る。
これは堪らない。
恨みがましい目でジハル族長を見ると、彼はすまなそうに頭を下
げた。
捕虜のローマットにもご馳走と酒を届けてある。
後日、警備の者に聞いた話では、ローマットはご馳走を最期の晩
餐と勘違いして、涙を漏らしながら命乞いをしたらしい。
しかし、酒を口にするとその態度を豹変させて、﹁殺すなら殺せ
!﹂と息巻いたのだとか。
相変わらずな様子だ。
やがて、﹁明日からまた頑張りましょう﹂と俺が最後に締めて、
宴会は終わった。
春が過ぎ、夏が始まった頃に商隊がやって来た。
率いていたのはライルだ。
城門の上より、エルザはどうしたのかと聞くと、︻香辛料︼の商
路を狙う者達を欺くために囮になっているとのこと。
とりあえず、ライルと他二名のみを町に入れ、他の者達は西の空
き家に案内した。
もちろん町に入る者は武装を解除させている。
﹁少し太られましたか?﹂
311
宿泊する場所へ案内する途中、カトリーヌの上から発した俺の言
葉。
今のライルは、俺の知る半年前の彼よりもどこかふっくらとした
ように見えた。
﹁剣を振らなくなりましたから﹂
ライルが肉のついた頬を持ち上げて言う。
その後、日のあるうちに、いつもの商店にて金貨の受領を行った。
﹁次回以降は、一ヶ月ごとに来ることができると思います。そちら
は今と同じ量を用意できますか?﹂
金貨の確認が終わると、ライルが俺に問いかけた。
﹁ええ。供給にはなんの問題もありません﹂
一ヶ月ごとの交易。
俺は小躍りしたい気分だった。
あと五回も交易を繰り返せば︱︱つまり五ヶ月後には、資金が最
初の1000億に届くのだ。
だが、心配事もある。
それはこの大陸にどれ程の金があるのか、ということ。
俺は、数百キロにおよぶ金貨を︻売却︼した。
それはこの世界からそれだけの量の︻金︼が消えたことを意味す
る。
そして残念なことに、﹃町データ﹄の商品欄に︻金︼は存在しな
い。
312
この世から存在を無くした︻金︼は、決して戻ってくることはな
いのだ。
このまま金貨の︻売却︼を続ければ、この大陸からどんどんと︻
金︼が失われていき、市場は大いに混乱する⋮⋮ような気がしない
でもない。
正直なところ、どこまでの混乱が起きるのかわからなかった。
もしかしたら、この町にやって来る金貨は全体で見たら微々たる
ものかもしれないし。
それに市民が使うのはもっぱら銀貨だという話なので、金貨がな
くなっても銀貨があるからいいじゃない、といった安易な考えも俺
の中には存在する。
というわけで、ライルに聞いてみた。
﹁金貨なんですが、私が溜め込んでいても市場は問題ないんですか
?﹂
その質問に、ライルは顎に手をやって、少し考える風な姿を見せ
る。
﹁そうですね⋮⋮今はまだ市場の反応は鈍いです。
ですが、金貨がこのままこの町に流入するばかりなら、じきにそ
の価値は高まるでしょう﹂
﹁やはりそうですか⋮⋮﹂
まあ、これは当然か。
なにせ、今回のを合わせると現代価値で200億に近い額の金貨
313
がこの町に運ばれてきているのだから。
﹁金貨がなければ、銀貨の需要が高まります。ですが、今、銀貨の
価値が落ち続けてるので、ちょうどいいかもしれませんね﹂
﹁銀の価値が落ちている?﹂
﹁はい。カスティール王国で二年ほど前に巨大な銀山が見つかった
らしく、かの国はその潤沢な銀を使って新銀貨を発行しました。
新バーバニル銀貨というんですが、その銀含有率は92.5パー
セントを誇り、他の追随を許しません﹂
カスティール王国は北方にある国の一つだったはずだ。
その国が銀山を見つけ、質の高い新銀貨を発行したのだという。
しかし、そんなことくらいで銀の価値が簡単に揺らぐのだろうか、
と俺は疑問に思った。
ライルは続けて言う。
﹁怖いところはここからなのです。新バーバニル銀貨はこの二年間、
途絶えることなく市場に供給され続けて、他の銀貨の価値を下げ続
けています﹂
﹁え⋮⋮良貨が悪貨を駆逐したってことですか⋮⋮?﹂
﹁新バーバニル銀貨よりも銀比率の悪い他国の銀貨を悪貨と呼ぶの
であれば、まさにそうなりますね﹂
悪貨が良貨を駆逐するんじゃなかったのか?
いや、新銀貨とやらが、それだけの物量だったということか?
314
﹁それで、どうなったんですか?﹂
﹁現在一等銀貨となった新バーバニル銀貨の価値は、その高い銀含
有率にもかかわらず、二年前の他の銀貨と同等の価値しかありませ
ん。
そして他の銀貨に至っては以前の3分の2にまで価値が下がって
います。
物価が上がっても市民の賃金は中々上がりませんから、カスティ
ール王国以外の人々の生活は苦しいでしょうね﹂
急激なインフレーション。
まだまだ銀貨の価値は下がりそうだし、自国の銀貨を賃金に貰っ
ている市民にとっては堪ったものじゃないな。
いや、銀にだって限りはあるか。
﹁巨大な銀山とはいえ、そんなに採掘していては、いずれは銀が尽
きるんじゃないんですか?﹂
﹁ふふ。本当に銀山なのでしょうか?﹂
﹁え?﹂
ライルは事件の謎を今から解き明かす探偵のように笑った。
﹁錬金術の魔法ですよ。この二年の間、銀山の場所を特定できた者
はいないと聞きます。
本当は銀山などどこにもなく、銀を多量に生み出せる錬金術の天
才が現れたのではないですか?﹂
﹁え、錬金術って金の魔法ですよね? 金属を生み出せるんですか
315
?﹂
錬金術とは、神様のカードでもあった︻金の魔法の才︼のことだ。
ゴブリン族やコボルト族の話では、金属の変形に長けた魔法と言
っていた。
そのため、鍛冶仕事を生業にするのだと。
﹁ええ、生み出せますよ。
まあ、知らなくても無理はありません。魔力により金属を生み出
す者達は上位の錬金術師であり、国にとって秘中の秘となる存在で
すから。金の卵を産む鶏は鉄の籠の中で飼われる、そういうことで
すよ。
市場にいるのは低位の者ばかりです﹂
﹁では、なぜ金でなく銀を? 金を生み出した方が価値があるので
は?﹂
﹁それは、銀の方が簡単に生成できるからですよ。﹃神の三角図﹄
をご存じありませんか?﹂
﹁すみません、教えていただけますか﹂
﹁神がこの世界を創造した際に、一つの法則が生まれました。それ
が﹃神の三角図﹄です。
それは生物や物質の格を表し、決して抗えない法則となりました。
たとえば生態の図では人が頂点に、その下に獣人や肉食の動物達
が並び、さらに草食動物、草や木、そして土。上にあるほど数が少
なく、下にいくほど数が多くなり、それが三角を形作ります。
鉱物にも同じように序列があり、ダイヤモンドを頂点にして、そ
の下にずらりと他の鉱物が並びます。
316
銀は上位の存在であり、生み出すのが難しいからこそ、神は少し
しかつくりませんでした。
そして、銀よりも上位の存在である金は言わずもがな。
これはこの世界の摂理なのです。
神学では最初に習うことですね。まあ、どこまで本当かわかりま
せんが﹂
﹁なるほど﹂
生態ピラミッドみたいなものか、と俺は頷いた。
それにしても、銀山が発見されたのが二年前、俺がやって来たの
は三年前。
どうにも話ができすぎている。
︻金の魔法の才︼︻特大︼︻★★★★★★︼
もしかしたら、このカードを引いた奴がいるんじゃないのか?
生きるために銀をつくり、それを権力者に見つけられた。
ありそうな話だ。
そして、籠の中の鳥か。
それがいいことなのか悪いことかはわからないな。
少なくとも、大事にはされているだろうし。
﹁ちょっと気になったんですが、カスティール王国はその潤沢な銀
貨を使って金貨を買い占めなかったんですか?﹂
﹁商人はそんなに馬鹿じゃありませんよ。これまでエルザさんは金
貨で取引してきたでしょう?﹂
317
﹁ええ﹂
﹁カスティール王国はまず新銀貨で他国への莫大な借金を返しまし
た。
これを商人達は怪しく思ったのです。
その銀はどこからきたのかと。
この後、商人のほとんどが、大きな取引において銀貨の取り扱い
をやめるようになりました。
とはいえ一部の商人は開き直ったかのように新バーバニル銀貨を
使っていますし、カスティール王国は教会への寄付を全て新バーバ
ニル銀貨で行っていますから、まだまだ市場に新バーバニル銀貨は
増え続けるでしょう﹂
﹁新バーバニル銀貨は今持ってますか?﹂
﹁ええ、ありますが﹂
俺は先程、受け取った金貨の袋から一枚を取り出す。
﹁この金貨と交換していただけませんか?﹂
﹁それは別に構いませんが⋮⋮﹂
ライルは懐から袋を取り出して、その中から38枚を俺に渡した。
俺はそれを金貨の袋の中にジャラリと入れる。
自宅に帰ったら︻売却値︼を調べてみよう。
銀貨が大量に溢れているのなら、それを使えばいい。
金貨にこだわる必要はないのだから。
318
32.戦いの足音 1
翌日、ライルは商品を受けとると商隊を引き連れて出立した。
この時、次回以降の取引は新バーバニル銀貨で行うという取り決
めがなされている。
︻新バーバニル銀貨︼︻売却値︼2800円
その後、一ヶ月、二ヶ月と時が過ぎていく。
エルザが代表を務めるポーロ商会との交易は、これ以上ないほど
に順風満帆。
俺の懐には、金、金、金、が集まり、﹃町データ﹄の資金が湯水
が湧くように貯まっていった。
それに伴い、俺の普段の生活も少しリッチになった。
最近ハマっているのは美食である。
最高級の霜降り牛肉。
。
特製のステーキソースに絡めて一口食べれば、肉は柔らかく、肉
溶けた
汁が口の中に広がり、なんともいえない幸福感に包まれる。
マグロの大トロは、比喩でもなんでもなく口の中で
大トロとは溶けるものなのだと異世界に来てはじめて知り、感動
と情けなさが入り雑じったくらいだ。
他にも、うに、あわび、キャビア、蟹、天然鰻、松茸などなど、
元の世界では決して口にできなかった食材の数々を、俺は味わって
いた。
319
たまにジハル族長の下に行って、高級食材を使った料理を食べさ
せると、彼はその美味さに目を丸くしたり、逆に不味さを堪えるよ
うに食べたり、なかなか面白い反応を見せてくれる。
これもまた、俺のささやかな娯楽の一つだ。
何も不自由がない生活の中での、食事の充実。
もはや、元の世界での生活よりも完全に恵まれているといってい
いだろう。
さて、美食もいいが、そればかりにかまけていたわけではない。
軍事面についてもしっかりと金を使っている。
とりあえず俺は、俺の安全のために︻装甲車︼を購入した。
︻96式装輪装甲車︼130億円︵定価1億3000万円︶
ちゃんと防弾のフロントガラスがあり、オートマチック仕様で、
冷房も付いている、新しい型の車両だ。
少し狭っくるしいのが難点ではあるが、安全のためだ、背に腹は
かえられない。
ともかくも、これで至近距離から矢を放たれたとしても平気だろ
う。
さらに︻装甲車︼の購入にあわせて、︻73式大型トラック︼の
運転手も育成している。
今のところ、育成対象者は狼族の者数人だ。
有事の際、俺が︻装甲車︼に乗ったならば、彼らには空いた︻ト
ラック︼に乗ってもらう場面があるかもしれない。
俺一人で何もかもをやるには限界がある。
320
何かあった時のために、手数を増やすのは悪くないはずだ。
他にも、各城壁には︻四斤山砲︼を多数取り揃え、また獣人達に
は︻足軽胴︼などの防具を渡してある。
日本式の甲冑を着た獣人達は、石垣などの風景もあり、まさに戦
国時代さながらの様相であった。
軍事に関しては大体こんなところだろう。
軍事以外には、町の拡張にも資金を使いたいところであったが、
俺は能力を未だ人前で晒したことがない。
もっとも、どこからか現れる資材を獣人達は不審に思っているだ
ろうし、今さらな話かもしれないが。
一度コボルト族に、木材をどうしたのかと聞かれたことがある。
俺が答えることを拒否すると、二度と尋ねてくることはなかった。
こちらに気を使っているのだろう。
なんにせよ、俺の能力は最終最後の奥の手であり、おいそれと見
せることはできないということだ。
︱︱そして夏、秋と過ぎ、冬がやってくる。
冬のある日のこと、招かれざる来訪者が北の方角から現れた。
明らかに軍勢だと思われる砂煙を、北の物見が捉えたのである。
すぐに町は戦闘体制へと移行した。
321
そして現在俺は、北門の上にて進軍してくる軍勢の様子を、睨み
付けるようにうかがっているところである。
﹁フジワラ様、大砲の準備を!﹂
北門に集まっていた各城壁の砲兵が声をあげる。
﹁⋮⋮トラックより砲弾を下ろす! 砲兵は弾薬を受領しろ! た
だし、大砲の覆いは合図があるまで取るな!﹂
北、東、西にはそれぞれ8門ずつの︻四斤山砲︼が設置されてい
た。
それらは普段、幕をかけられており、︻砲弾︼と︻薬包︼に関し
ても、事が起こった時にのみ俺が配ることになっている。
石垣を下りて、トラックの荷台から皆と共に弾薬を下ろしていく。
それが終わると、俺は再び石垣へと上り、再び北の軍勢をうかが
った。
やがて、軍勢は止まった。
双眼鏡を覗けば、見覚えのある赤い竜の旗がたなびいている。
﹁赤竜騎士団か﹂
俺は小さく呟いた。
その停止位置はここより数キロも離れており、大砲でも届くか届
かないかという距離だ。
前回行った小銃射撃。
それの攻撃範囲がどこまであるのかを、敵は測りかねているのだ
ろう。
322
すると、敵の軍勢の中から騎馬が四頭飛び出した。
騎乗者の二名は鎧を纏っておらず、その内の一名は真っ赤な髪を
した女性︱︱エルザであった。
そういうことか、と俺は思った。
武具をつけていないもう一人の者は外交官だろう。
前にエルザに頼んだことがあった。
交易が国に露見した際には、外交官を派遣するように提案してく
れ、と。
あの軍勢はこちらを威圧し、交渉を有利に運ぼうとするためのも
の。
そして彼らが布陣している位置こそ、こちらを恐れている証拠で
ある。
﹁フジワラさん、ウチや! 攻撃はやめてや!﹂
四騎の先頭を走っていたエルザが、必死の声を上げた。
﹁皆さん、絶対に攻撃しないように!﹂
弓を構えた者達に、矢を射たないよう命令する。
その後、眼下の四騎のうち武装していない男性がこちらに向けて
叫んだ。
﹁私はイグナーツ・ブラウニッツェという者だ! サンドラ王国の
外交官をしている! 町の長であるフジワラと話がしたい!﹂
323
ブラウンの髪を七三に分け、鼻下には左右にピンと跳ねた髭を持
つ男性だった。
﹁私が藤原だ!﹂
﹁そなたがフジワラか! 腰を据えて話がしたい!﹂
﹁ならば馬から下りて武器を地に置いてもらおう!﹂
俺の指示に、ブラウニッツェをはじめとした、エルザ以外の三名
が少しばかり話し合う。
そして四名は馬を下り、地に剣を置いた。
﹁では門が開いたなら、そのまま中に入るといい!﹂
﹁待て! 我らは町の外での会談を望んでいる!﹂
ブラウニッツェ外交官の提案。
何かの策か? とも思ったが、この場でということならば何も問
題はないだろう。
﹁門の前でならいいだろう!﹂
﹁よかろう!﹂
俺の申し出をブラウニッツェ外交官は受け入れた。
﹁では、暫し待て!﹂
俺はトラックで自宅前に戻ると、パイプ椅子を四つ積んで再び北
324
門へと戻る。
ジハル族長を供に、俺の後ろにはさらに二名の狼族。
石垣の上では獣人達が油断なく弓を構えている。
そして門を開けた。
パイプ椅子を設置すると、折り畳みの金属椅子に少し驚いた顔を
するブラウニッツェ達。
俺とジハルが座り、その正面にブラウニッツェ外交官とエルザが
座った。
俺の後ろには狼族の者が立ち、ブラウニッツェ外交官の後ろには、
少し離れた位置で馬の手綱を引く二名の騎士が立っている。
﹁率直に言おう。我が国に入れ。税さえ納めれば、この地はそのま
まだ﹂
開口一番、ブラウニッツェは横柄な態度で傲慢ともいえる言葉を
放った。
サンドラ王国という国家と、たかだか一都市である俺の町。
その差を考えれば、当たり前ともいえる発言だ。
﹁お断りします﹂
俺の答えは当然ノーだ。
しゃぶり尽くされるのは目に見えている。
もし獣人達を抱え込んでいなかったなら、飛び付いた話かもしれ
ないが、今となっては獣人達の生活も守るべきものである。
もちろん最優先とすべきは、俺の生命だが。
﹁爵位を得ることも可能だぞ?﹂
325
﹁この地では爵位などなんの意味もありません﹂
﹁後方の兵が見えないのか﹂
﹁蹴散らせというのなら、蹴散らして見せましょう﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
ブラウニッツェ外交官が俺の瞳を見つめる。
俺はドキリとした。
もちろん変な意味ではない。
ブラウニッツェ外交官の双眸は、こちらの心を覗きこむようであ
った。
外交のプロ、というやつなのだろう。
エルザもまた商売のプロと言えるが、彼女はこちらの機嫌をうか
がうような下心があった。
だがブラウニッツェ外交官にはそれがない。
蛇が蛙を睨むように、ただ上から見下ろし観察する。
どう効率よく餌を手に入れるか、そんな感じだ。
しかし、俺は蛙は蛙でも猛毒の蛙だ。
このサンドラ王国より遠く離れた地なればこそ、俺の圧倒的な優
位は動かない。
だからこそ、決して引かないという強い意思をもって、俺はブラ
ウニッツェ外交官を見つめ返した。
﹁⋮⋮よかろう、では商売の話だ﹂
326
ブラウニッツェ外交官はこの地の領有を実にあっさりと諦め、取
引の話になった。
もっと話がこじれるものと考えていたから、こちらとしては嬉し
い限りである。
まず今後の取引について説明を受けた。
なんでも、これからはエルザ率いるポーロ商会を隠れ蓑にして、
国が主導で商売を行うそうだ。
エルザの販売網を活かしたかったのと、表だって国が利益をあげ
れば、他国の反発は免れないからだという。
そして売買品については、一回の取引量を増やす代わりに販売価
格の減額を要求された。
別に突っぱねてもよかったが、俺はその要求をのんだ。
この町の価値を知られた以上、戦争へ向け時計の針が動き始めた
といっていい。
彼らは交易だけでは収まらない、必ずこの地を手に入れようとす
るはずだ。
だから、それを少しでも遅らせるために、ある程度の利益をサン
ドラ王国に与えようと思ったのである。
他にも、この地の資源について根掘り葉掘り尋ねられたが、俺は
黙秘を貫いている。
ブラウニッツェ外交官は獣人の鎧を見て、特に︻鉄︼について興
味があるようだった。
﹁一年前の戦いで一名を捕虜にしております。名前をローマット﹂
327
取引の話が一段落つくと、俺は未だ旅館にいる捕虜のことを口に
した。
だった
者です﹂
すると、ブラウニッツェ外交官は後ろの騎士に顔を向ける。
﹁バイデンハルク家の嫡男
騎士が答えると、ブラウニッツェは、なるほどといったように頷
き、またこちらを見た。
﹁その者は返還してもらえるのだろうな﹂
﹁相応の対価をいただければ﹂
﹁捕虜の返還は、双方の友好の門出にふさわしいと思うのだが?﹂
﹁いえ、親しき仲にも礼儀ありと申します。片側が寄り添うだけで
は主従の関係と変わりません﹂
﹁まあ、よかろう。では、しばらく預けておく。家督の問題もある
のでな﹂
こうして会談は終わった。
サンドラ王国軍は最初から商取引を行うつもりだったらしく、多
量の銀貨を運んできており、いつもの倍の規模となる商品の売買を
行った。
エルザとは個人的に少し話をした。
まず国に交易が露見したことを謝られたが、それは元より承知の
ことである。
俺が商会はどうなのかと聞くと、今までよりも利益は下がるが、
328
国が後ろ楯についたので安全にはなったとのこと。
そしてサンドラ王国軍は町よりはるか遠くにて夜営し、翌日には
去っていった。
夜間には、農場の近くをうろつく人間がおり、獣人が雄叫びを一
つあげるといなくなったそうな。
全く、油断も隙もない話である。
329
33.戦いの足音 2︵前書き︶
三人称です
330
33.戦いの足音 2
︱︱サンドラ王国は王都サンドリア。
冬のある日のこと、およそ一月ほど不在にしていた赤竜騎士団が、
王都サンドリアに帰還した。
名目は地方の巡回ということであったが、その実態は南方にある
獣人の町への遠征である。
そして現在、王城は玉座の間にて、ブラウニッツェ外交官と赤竜
騎士団の新団長が王の前に跪き、今遠征の報告を行っていた。
﹁獣人の町との取引はなったか﹂
﹁はっ、滞りなく﹂
王の言葉に、遠征の最高責任者であったブラウニッツェ外交官が
答えた。
﹁うむ、これで国はより豊かになるだろう﹂
サンドラ王はにっこりと笑った。
そして続けて言う。
﹁それで、お主の目から見て、かの町はどうであった﹂
﹁危険であると﹂
331
﹁む、それほどか﹂
﹁今すぐにではありません。ですが十年二十年と経てば、間違いな
く我が国の脅威になります﹂
﹁何を見た、申せ﹂
﹁城壁に並んだ者達は皆、鉄製と思われる鎧を着ておりました。こ
れは、前回の報告にはなかったものです﹂
﹁鉄か。産出するのか?﹂
﹁おそらくは。さらに、町の西側には煉瓦で造った家が無数に建て
られていました。これは人口の増加を見越してのことでしょう。
話によれば、町の中の家々は木製だったはず。
つまり、木々の少ない地であるからこそ、その地に適した家を新
たに造りだしたのです。
国
となるでしょう﹂
あの町はまさに日進月歩の勢いで発展しております。これに人口
が伴えば、強大な
﹁むぅ⋮⋮﹂
サンドラ王は顔を険しくさせて唸った。
国になると断じたブラウニッツェ。
国
という言葉を使ったのだ。
規模の話ではない。サンドラ王国と対等の力を持つという意味で、
ブラウニッツェは
すると、二人の間に口を挟んだのは、ブラウニッツェの隣に跪い
ていた赤竜騎士団の新団長である。
332
﹁何を悩んでおられるのですか、父上。やることは決まっているで
はありませんか﹂
サンドラ王を父と呼んだ新騎士団長は、黄金の髪を短く切り揃え
た見目麗しい女性であった。
彼女の名はミレーユ・サン・サンドラ。
その名が示す通り、ミレーユはサンドラ王の次女に当たる者であ
る。
さて、王女ともあろう者が何故、騎士団長などをやっているのか。
それについて少し説明をしなければならないだろう。
女だてらに剣を振るい、弓をたしなむじゃじゃ馬姫。
それがミレーユに対する世の評判だ。
しかし、その武芸はただのお転婆姫の枠を越えて、騎士連中にも
劣らない確かなものであった。
︱︱それは、今より二ヶ月も前のことである。
その日、赤竜騎士団の新しい団長を決める騎士団長任命の儀が執
り行われた。
赤竜騎士団の伝統として、団長に何よりも求められるのは、強さ。
そのため、我こそはと思う者達が互いの剣技を競い、最後まで勝
ち残った者が赤竜騎士団の団長に任命されるのである。
勝ち抜き形式の試合。
333
使われるのは木剣とはいえ、骨は折れるし打ち所が悪ければ死に
至る。
それゆえ、試合の参加には、腕に覚えのある者しか名乗りをあげ
なかった。
何を勘違いしたのか、騎士見習いの佐野も参加したのだが、当然
勝ち残れるはずもなく、初戦にて敗退している。
そして優勝者の前に突如現れたのが、覆面をしたミレーユである。
ミレーユは一言も放たず、ただ木剣を構えた。
力こそが正義の騎士団において、これを受けない手はない。
覆面をした乱入者が何者であろうが、打ちのめしてから調べれば
いいことである。
まず一名の騎士が木剣を持ってミレーユの前に立った。
だが一合も剣を合わさぬうちに、騎士の首元にはミレーユの木剣
が添えられていた。
﹁尋常でない腕⋮⋮﹂
﹁只者ではないぞ⋮⋮﹂
ザワリと風にそよぐ木々のように、騎士達は色めきたつ。
﹁静まれ!﹂
騎士らを黙らせたのは、先の任命の儀において優勝者であった騎
士。
彼には、既に己が騎士団長であるという自覚があった。
そして優勝者とミレーユの立ち合いが始まる。
それは互いの技量を尽くした素晴らしい戦いであり、見ている者
334
は誰しもが息をのんだ。
だが、その戦いも長くは続かない。
剣を合わせること六十余。
己が剣を地に落としたは優勝者、相手の顎先に剣を突きつけてい
たはミレーユであった。
﹁これで私が赤竜騎士団の騎士団長ね﹂
漸く、その美しい女の声を発したミレーユ。
顔の覆いを脱ぎ捨てると、彼女は、子供がいたずらに成功したよ
うに無邪気な顔で笑った。
ところで、修練を積んだ男に女が勝つ、そんなことが本当にある
のだろうか。
その答えは︱︱ある、だ。
彼女には、魔力によって肉体を操作するという天賦の才が宿って
いた。
そして、この才は別に都合のいい偶然でもなんでもない。
王の一族は元々武門の生まれ。
現王こそおとなしい性格であるが、かつてサンドラ王国を興した
始祖の王はミレーユと同じ肉体操作の術により、武力をもってサン
ドラ王国の地を平定したのである。
ミレーユが幼い頃、枕元で語られた始祖王の話。
それはまるで、幻想のような英雄譚であった。
335
ミレーユは憧れた。
そして自身の才に気づいた頃、憧れはやがて渇望となる。
己も祖王のようになりたい。
そんな気持ちが、日に日に強くなっていったのだ。
練兵場で行われた騎士団長任命の儀。
これはミレーユにとって好機だった。
彼女は現在17歳。
これを逃せば、王族の務めとして他国に嫁がねばならなくなる。
だからこそミレーユは優勝者の前に立ち、そして勝った。
己こそが赤竜騎士団の長に相応しいのだと、ミレーユは声を大に
して叫んだのである。
無論、父であるサンドラ王は反対する。
しかしミレーユは、認めねば逐電すると言って、無理矢理に王を
了承させたのであった。
︱︱場面は玉座の間へと戻る。
獣人の町がいずれ強大になるであろうことを聞かされ、言葉を詰
まらせた王。
それに対し、何を悩んでいるのかとミレーユは不遜な物言いをし
た。
﹁何が言いたい、ミレーユ﹂
サンドラ王が、騎士団長にして娘でもあるミレーユにジロリと目
336
を向ける。
﹁芽は早めに潰す、簡単なことではありませんか﹂
﹁そうは言うがな、ミレーユ。戦いというのは、そう簡単なもので
はないのだ﹂
﹁いいえ、父上。此度においては、時間をかければかけるほど難し
くなるのは明らか。
簡単
な戦略であるか
時は獣人らに有利。ならば我らは、どれだけ時をかけずに攻める
かが肝要であり、それこそが最も合理的で
と思われますが﹂
いかがか? と眼に強い力を込めるミレーユ。
その性質は苛烈。
既にミレーユは姫というものを捨て、騎士団長としての気概を持
ち合わせていた。
するとサンドラ王は小さく息を吐く。
それはため息。
なぜ、こんな娘に育ってしまったのか、という思いの表れである。
﹁もうよい、お主らは下がれ。後はこちらで決める﹂
そう王が言うと、ブラウニッツェとミレーユは立ち上がり、一礼
して去っていった。
ブラウニッツェとミレーユが玉座の間を辞すると、あとに残った
のは玉座に座る王と、その横に立つ老齢の最高顧問官のみである。
337
サンドラ王は言う。
﹁攻めるにしても遠すぎるであろう。
袋に手を入れれば噛まれるだけぞ。
いずれ袋から出たところを叩けばいいではないか﹂
背後に砂漠があることから、獣人の町がある土地を袋にたとえた
サンドラ王。
こちらから攻めれば、地の利はあちらにある。
補給のない南の地は、それだけ過酷な場所であった。
ならば、獣人達の矛がこちらに向いてからでも遅くはないのでは、
とサンドラ王は考えていた。
要は戦いには反対ということだ。
それに対し最高顧問官は、いいえと首を振った。
﹁下層の者に金を与えて、獣人の町へと連なる村を作りましょう。
そこを補給地として獣人の町へと攻め込むのです。
戦後にも商路の中継地として無駄にはなりません﹂
﹁地揺れはどうするのだ? 家は建てられんぞ﹂
﹁そんなもの天幕でよろしいではありませんか。形にこだわらなけ
ればどうとでもなります。
そもそも、獣人の町さえ支配してしまえば、もう敵はいません。
城も城壁も必要ないのです﹂
﹁うむ⋮⋮﹂
﹁春に入植し、夏に開墾する、秋に麦を植え、翌年の初夏の収穫と
338
同時に軍を南進させるのです﹂
﹁しかし、攻城戦はこちらにも大きな被害を生むだろう﹂
﹁町が容易く落ちなければ、数をもって囲むだけでも構いません。
畑は外にあると聞いています。囲んでしまえば後は飢えるだけ、
自ずから降伏してきましょうぞ﹂
﹁むう、だが魔法の解析も終わってはおらぬしな⋮⋮﹂
王の頭にあるのは赤竜騎士団の前団長、ガーランドの死。
かの者の遺体どころか遺品すら持ち帰ることができずに、赤竜騎
士団は惨めに敗北した。
対個人の魔法だという話だが、本当に敵の手の内はそれだけなの
だろうか、という危惧の念がサンドラ王にはあった。
﹁大陸の情勢は不穏なものが見られます。イゴール帝国でのことは
陛下もご存じでしょう?﹂
最高顧問官がたしなめるように言った。
イゴール帝国はカスティール王国に隣接する北の国である。
そこで跡目を争って領内で戦いが起きた。
長子が勝ち、反乱を起こした次子は処断されたが、次子を操って
いたと目されているのが、カスティール王国である。
長子曰く、次子を支援していたのはカスティール王国であり、次
子が勝てば、そのままカスティール王国に帰順する密約が交わされ
ていたとのこと。
もし次子が領主となりカスティール王国に寝返れば、もはや内乱
339
の枠を越えてしまい、イゴール帝国は手を出せない。
教会の不戦の公布を逆手にとったカスティール王国の計略であっ
たのだ。
﹁いずれ大陸が戦火に包まれるのは必定。後顧の憂いを断つ意味で
も、南部の平定は避けられないことと思います。
陛下、どうかご決断を﹂
﹁うむぅ⋮⋮﹂
サンドラ王は煮えきらない様子で、その場の決断を避けた。
だが後日、主だった文武官僚を集めた討議が行われ、その結果、
サンドラ王国は南方の平定を第一戦略目標として動き出すことにな
る。
◆
ブラウニッツェとミレーユが王に謁見していた頃。
兵舎に戻った騎士達は武具の手入れをし、見習い騎士達は騎士ら
を出迎えた後、帰ってきた馬の世話をしていた。
そして、武具の手入れをする者達の中には佐野勉の姿もあった。
そう、佐野は騎士見習いから正式な騎士へと昇格していたのであ
る。
きっかけは二ヶ月前に行われた新団長任命の儀。
佐野は身の程知らずと言われながらも試合に出場し、初戦で負け
はしたが、ベテランの騎士相手に幾十合も打ち合って見せた。
すると騎士団に欠員が出ていたこともあり、その度胸と見込みの
ある剣の才が見込まれ、晴れて騎士となったのであった。
340
閑話休題
騎士となって与えられた小さな一人部屋にて、佐野は己のプレー
トアーマーを油で拭いていた。
だが、どうもその手の動きは鈍重である。
赤竜騎士団は軽装の騎兵隊。
重装騎兵などとは違い、武具の手入れなどすぐに終わる作業だ。
現に、他の騎士達は既に作業を終わらせ浴場へと向かっている。
されど佐野はぼうっと上の空で、いつまでも己の甲冑を磨いてい
た。
その頭の中にあったのは、獣人の町の主のこと。
ブラウニッツェと獣人の町の主との会談の際、佐野は軍中にずっ
といたため、町の主の顔は見ていない。
だが、名前がフジワラであるということを、この行軍の中で人づ
てに聞いていた。
︵フジワラって、藤原以外にないよな⋮⋮︶
行軍の最中は慣れない乗馬と、新人騎士としての雑用で考える暇
などなかった。
︱︱フジワラ。
日本なら漢字で藤原と書き、どこにでもある名字だ。
歴史上の偉人の中にもその名はある。
341
︵こりゃ、日本人で確定だな。あとはどうするか︶
時
に何をするべきかを、佐野は考える。
他の騎士達は、時が来れば町に攻め込むのだと言っていた。
その
まずは現在の己の状況の整理。
念願の騎士になった。
いずれは最強の騎士にもなれるだろう。
だがいつだ?
何年待たねばならない?
佐野は、めんどくさいことが嫌いだった。
剣の修行も最近では、はじめの頃にあった上達を感じられなくな
り、飽きてきていた。
︵なんとかして手柄を立てて、貴族になりてえな︶
騎士になるという目標は達成した。
ならばもういいのではないか。
次の目標に進むべきだろうと佐野は考えていた。
丁度、サンドラ王の娘が騎士団長になった。
手柄をたて、王女の覚えがめでたくなれば貴族への道も開けるか
もしれない。
いや、それよりも、あの顔だけはいい姫を手込めにすれば︱︱。
﹁ぐふふ﹂
よこしまな考えが佐野の脳内を支配した。
最初は女なんぞに騎士団長が務まるか、と佐野はむかついていた
342
が、今考えれば悪くない話である。
そして、フジワラという手柄が佐野の目の前に転がっていた。
悩むことはなにもない。
フジワラとやらを踏み台にして、貴族に上り詰めればいいのだ。
だが問題もある。
現代の武器である︻銃︼。
これの攻略は厄介極まりない。
あの矢掴みのガーランドさえ、︻銃︼の前にはあっさりと死んだ。
そこまで考えて、待てよ? と佐野は思った。
銃は弾薬あってこそであり、限りがあるのは間違いない。
︵一体、何発持ってるんだ? それさえわかりゃあ、どうにでもな
る。
いや、それよりも、同郷のよしみで近づき、油断した隙に人質に
とってしまえば⋮⋮︶
相手が銃を抜くのよりも、己の剣の方が速いという自信。
元の世界では、接近戦においては刃物の方が怖いなんていう話も
佐野は聞いたことがあった。
佐野は磨いていた鎧を置くと、剣を取って外へ出る。
そして、芝の生える庭先にて、思う存分剣を振るった。
仮想する相手は︻銃︼を持った人間である。
いずれ来る戦い。
佐野には同郷だから、なんていう甘い考えはない。
343
食うか食われるか。
それだけだ。
だがそれは、己は強いのだという根拠のない自惚れによって、自
身の敗けを想像できない、あさはかで若者らしい考えでもあった。
344
34.戦争前夜 1
冬も終わろうかというある日、獣人の町で捕虜となっていたロー
マットが、王都サンドリアへと戻ってきた。
ミレーユがその報告を聞き、ローマットの下を訪れたのは訓練が
終わった夕方のことである。
﹁ここか﹂
既にローマットは城の者による聴取を終えており、町で宿をとっ
ていた。
ミレーユが赴いた場所は、貴族街にある煉瓦造りの宿だ。
﹁主人、ちょっといいか﹂
宿に入り、宿の主人に声をかける。
﹁へい、なんでございやしょ、騎士様﹂
ミレーユが身に付けているのは、赤竜騎士団のマントと腰の剣。
誰もが一目で騎士とわかるだろう。
おまけに起伏の少ない肢体のため、胸にサラシを巻いて男物の服
を着れば、誰も女とは気づかない。
﹁ローマットという男がここに泊まっていると聞いたんだが﹂
ミレーユが尋ねると、主人は﹁こちらへ﹂と言って、二階のロー
マットの部屋に案内した。
345
部屋の前に立つミレーユ。
木製のドアにある染みが目についた。
ドアだけではない。
貴族街の宿にしては壁も廊下も、どうも汚い。
そんなことを考えながら、ミレーユはトントンと部屋のドアをノ
ックする。
﹁赤竜騎士団の団長だ。入っていいか﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってください﹂
ミレーユが入室の許可を求めると、中からバタバタとした音が聞
こえてきた。
やがて、ガチャリと扉が開き、弛んだ顎をしたローマットが現れ
る。
﹁どうぞ﹂
﹁うむ﹂
中は机と椅子とベッドしかない粗末な部屋だった。
この宿が、貴族街にある宿の中でも下級に位置するのは明らかで
ある。
﹁私が新たに赤竜騎士団の長になったミレーユだ﹂
﹁は、はい。ローマット・バイデンハルクです﹂
ミレーユが、緊張した様子のローマットを観察する。
346
顔、首、腕、指。
その五体を一通り眺めるが、なにか拷問を受けたような痕は見受
けられない。
それに捕虜というものは大抵やつれて帰ってくるものであるが、
ローマットは明らかに肥えており、ミレーユは不思議に思った。
﹁座らせてもらうぞ。お前も座れ﹂
ミレーユは椅子に腰かけると、ローマットも机を挟んだ向かいの
椅子に座る。
﹁獣人の町でお前が知っている限りのことを聞かせてくれ。町はど
んな様子だった。お前はどのように暮らしていた﹂
ミレーユは、ローマットに獣人の町のことを聞いた。
敵を知ることは、戦いでもっとも重要なことだ。
文化や風習、個人の嗜好や性格まで、なにが勝利に繋がるかわか
らない。
すると既に城の者に同じことを話したからなのか、ローマットは
慣れた様子で語り始める。
どのような町であったか。どのような種族がいたか。町の主はど
のような人間であったか。
食べ物や建物、果ては気候にいたるまで、知る限りのことをロー
マットは話した。
それを黙って聞いていたミレーユ。
文明の程度が高いことは既に聞き及んでいたので、特には驚くこ
とはない。
347
町の主がよっぽど優秀だったというだけのことだ。
だが、わずかに興味をもったといえば、ローマットの扱い。
彼は一室に閉じ込められはしたものの、そこは今いる部屋よりも
よっぽど大きくかつ清潔で、三食が与えられ、服も着替えられ、風
呂にも入れたのだと言う。
サンドラ王国が捕虜とした者を入れる地下牢︱︱あの虫が湧き、
汚水にまみれた場所とはまさに天国と地獄のような差だ。
またローマットは、ほとんど毎日、獣人とボードゲームをして暇
を潰していたと語った。
なんだそれは、とミレーユは頭が痛くなった。
捕虜というよりも、至れり尽くせりで招待されているようなもの
ではないか。
ミレーユが、そう考えるのも無理のない話である。
話が終わる頃、もう部屋の外は暗くなっていた。
部屋の中は、話の途中で宿の主人が持ってきた獣脂蝋燭が、光と
共に嫌な臭いを放っている。
そこでミレーユは、ふと、ベッドの上の木製の板とその上に乗る
小さな木像が気になった。
目を凝らして見ると、木盤と、その上で動かす駒のように見える。
貴族がたしなむ盤上遊戯に軍盤というものがあり、それに似てい
た。
﹁あれが、お前の言っていたものか?﹂
﹁ええ、チェスといいましてね。中々奥が深いんですよ﹂
348
ミレーユが尋ねると、ローマットは自慢気な顔で駒をのせた木盤
を机の上に置く。
これをどうしたのかと聞いたら、仲良くなった獣人から餞別に貰
ったとローマットは言った。
チェスとやらの説明を聞く。
軍盤よりも単純ではあったが、結構凝っているなとミレーユは思
った。
一度試しにやってみようと言うと、ローマットは﹁それならば別
にいいものがありますよ﹂と袋の中から新たな木盤と小箱を取り出
した。
小箱の中には、片面を黒く、もう片面を白く塗った、円形の小さ
な木の板が無数に入っていた。
﹁これは?﹂
﹁これはリバーシといってですね、黒地と白地の板⋮⋮石って呼ん
でるんですけどね、これを交互に打って、相手の石を挟んだら色が
変わります。それで最後にどちらの石が多かったかを競うゲームで
す。
単純なので、初めての方にはこちらの方がよろしいかと﹂
なるほど、簡単だとミレーユは思った。
﹁ではやろう﹂
最初に四つ並べて、パチパチと交互に石を置いていく。
たかがゲーム、しかし勝ち負けがあるもので、負けるのは好むと
349
ころではない。
ミレーユは真剣に盤上の遊戯に挑んだ。
︵より多くの石をとればいい、ただそれだけの簡単なゲームだ。
数が多くとれる石の置き場を、いかに見逃さないかというのがゲ
ームの趣旨だろう︶
子供だましのゲームだと、ミレーユは高をくくっていた。
そして、その自信が反映されるかのように、途中まではミレーユ
の黒石が圧倒していた。
﹁なんだ、弱いな﹂
ミレーユはほくそ笑む。
目が本当についているのかと疑わんばかりに、ローマットは大量
に石をひっくり返せる置き場所をさっきから何度も見逃しているの
だ。
﹁いえ、まだこれからですよ﹂
ローマットの余裕の笑みが鼻についた。
そしてまた、パチパチと石を置いていく。
すると、どうしたことか。
中盤から終盤にかけ、ミレーユの黒石のことごとくがひっくり返
されていったのだ。
﹁ば、馬鹿な⋮⋮﹂
ゲームは終了し、結果6対58。
数えなくともわかる。
350
ミレーユは負けたのだ。
﹁いやあ、まあ初めはこんなもんですよ﹂
どや顔で語るのはローマットである。
ニヤニヤとしている顔に、思わず拳を叩きこみたくなったミレー
ユであったが、全力でそれは抑えた。
その代わりに、額にはピキリピキリと血管が浮かんでいたが。
﹁もう一度だ﹂
無謀にも、ミレーユは再びローマットに挑んだ。
︵角だ。起点となるのは角。角さえとれば⋮⋮︶
一度の遊戯にして、角の重要性を見切ってたミレーユは流石とい
えよう。
だが、日がな一日ボードゲームばかりをしていたローマットに勝
てるはずもなく、またも完敗を喫した。
﹁⋮⋮もう一度だ﹂
更なる挑戦。
しかし三度目の勝負は、石がマスを全て埋める前に決した。
もちろんローマットの勝ち。
ミレーユは、もうこりごりだと降参して石を置き、そして尋ねる。
﹁赤竜騎士団に戻ってくるつもりはあるか?﹂
351
不意の質問であった。
するとローマットは堪えるような、どこか未練がある顔になる。
戻りたい、ミレーユにはそう思っているように見えた。
しかし、ローマットは首を横に振った。
﹁何故だ。お前の剣の腕は中々だったと聞いているぞ?﹂
﹁あの町を攻めるのでしょう?
私にはそんなことはできませんよ﹂
聞くまでもないことであった。
毎日獣人と暮らし、餞別まで貰ったのだ。
情が移ってしまったのだろう。
ミレーユは﹁そうか﹂とだけ言って、部屋を去った。
◆
︱︱これはミレーユの日記である。
春。
下層の者達の南方への入植が始まった。
初期投資はそれなりにかかるだろうが、︻香辛料︼の交易によっ
て相当な儲けがあり、金の心配はいらないだろう。
ローマットの近況がある。
嫡子は既に次男となり、ローマットは跡目を下ろされた。
争いにならぬよう司祭の下で誓約書を書かされ、神に誓った。
領地に戻ることは許されず、王都で暮らすならば月々の生活費の
352
面倒を見てもらえるとのこと。
惨めな話であるが、負ければああなるのだと自戒して身を引き締
めねばならないだろう。
夏。
入植させた村では開墾が始まっている頃だ。
そして来年のこの時期に、獣人の町へと攻め入ることになる。
暑い季節、だが南部はさらに暑い。
真の敵は、獣人でも、城壁でも、未知の魔法でもなく、この暑さ
なのかもしれない。
ところで、城下町ではリバーシが売られるようになった。
監修はローマット。
単純明快なルールと時間効率のよさ、そしてその安さからリバー
シは売れに売れているそうだ。
町に行けば、どこかしらにリバーシ盤が置いてあるのだから、大
したものである。
また盤が買えない者も、地面に64のマスを描いて遊んでおり、
リバーシはここサンドリアで大きな流行となっていた。
さらに、ローマットの名は誰もが知っているほど有名らしい。
リバーシにおいて、いまだ無敗なんだとか。
秋。
入植させた村では種植えが始まった頃だろう。
ローマットを王城で見かけた。
ガチガチと緊張した様子であったので、声をかけて話を聞くと、
なんでもリバーシの指南のために父に呼ばれたらしい。
353
市井のみならず、城中や兵舎でもリバーシの人気は健在のようだ。
ローマットが城から帰る時の、どや顔がむかついた。
冬。
入植させた村についてであるが、定期連絡では特に異常もなく順
調とのこと。
しかし、川沿いの木のほとんどを切り倒し、来年以降は薪を本国
から運ばねばならないだろうという話だ。
あの
ローマットの監修とのことで一時は売れたようだが、世
ところで、城下町ではチェスが売られ始めた。
の人々はすぐにリバーシへと戻っていった。
ただし、一部の者には人気らしい。
春。
はるか北の地で戦争が始まった。
教会が、﹃大義のある戦いならば破門には能わず﹄という新たな
布告を出したのである。
すると、その布告と同時にカスティール王国がイゴール帝国に攻
め込んだ。
侵攻した地は昔より領土問題が取りざたされていた場所であり、
一年以上も前にカスティール王国が暗躍して、長子と次子で内乱が
起こった地でもある。
カスティール王国は主力をもって当たり、イゴール帝国側は一領
のみの勢力ではとても防ぐことができず、あっという間に領土を奪
われた。
あまりにも準備がよすぎる。
カスティール王国と教会が示し合わせていたことは明らかだ。
354
無論、イゴール帝国も兵を集めて領土を奪還せんと動いた。
しかし、既に防備を固めていたカスティール王国の前にはいかん
ともしがたく、イゴール帝国の戦況は思わしくない。
やがて教会が仲立ちして両国間に講和がなり、休戦となった。
また、他の国々でもなにやら慌ただしくなっており、ブラウニッ
ツェをはじめとした外交官が、友好国を駆け回っている。
今の大陸の状態は、まるで箱の中に押し込めていたものが、蓋の
隙間から噴き出し始めたかのようだ。
その蓋が外れた時が、この大陸が大きな戦火に包まれる時であろ
う。
災いではあるが、国が大きく飛躍する好機でもある。
願わくば、かつての始祖王のように歴史に名を刻みたいものだ。
ところで、サンドリアの城下町ではリバーシの大会が開かれ、ロ
ーマットがあっさりと優勝したのだという。
うちの新人騎士のサ⋮⋮なんとかが出ていたらしいが、最初にロ
ーマットに当たり、中盤で全部ひっくり返されて負けたらしい。
︱︱そして夏がやってきた。
355
35.戦争前夜 2
五月の下旬より麦には色が付き始め、農村では刈り入れが行われ
る。
そして、六月も下旬に差し掛かろうかという、ある日のこと。
﹁王命を下す!
黄竜騎士団団長バルバロデム・ダルセンを大将軍、赤竜騎士団団
長ミレーユ・サン・サンドラを副将軍とし、両名は其々の騎士団を
率いて南部二領の歩兵部隊と合流、その後に獣人の町を制圧せよ!﹂
﹃ははっ!﹄
玉座の間、王より拝命を受けるのは、虎髭の巨漢バルバロデムと
騎士姫ミレーユ。
ここに戦いの鐘が鳴らされたのであった。
なお、攻城戦に二つの騎士団など不要のように思えるが、これは
敵よりも味方の兵に対する備えである。
獣人の町を簡単に攻め落とせるならともかくも、熾烈な戦いとな
った時には、まず軍の秩序が乱れる。
死を前に兵は恐怖し、逃亡または反乱を起こす。
軍の秩序を維持するために、味方へと強く睨みをきかせる存在が
必要なのだ。
﹁ミレーユ殿、お主はサラーボナー伯爵領へ行き、歩兵2000を
受領せよ。最南の村を合流地点とする﹂
356
﹁わかりました﹂
玉座の間を辞したバルバロデムとミレーユの会話。
バルバロデム率いる黄竜騎士団は重装騎兵隊であり、工兵や輜重
などの鈍重な後方支援部隊を連れて、北より獣人の町まで流れる大
河︱︱ルシール川に沿って南へと直進。
その途中には南領の一角アンブロシュナ伯爵領があり、そこで2
000の歩兵と合流する。
そして、ミレーユ率いる身軽な赤竜騎士団はその機動力を活かし、
南西に離れた南領のもう一角サラーボナー領へと向かって、ここで
も2000の兵を加える。 南領歩兵隊4000、騎兵隊1000、後方支援隊300。
総勢5300名の南征軍であった。
﹁赤竜騎士団、出発!﹂
城の前に並ぶ500の赤竜騎士団の先頭で、ミレーユが声を上げ
た。
赤竜騎士団は、民衆の歓声を受けながら、王都サンドリアを出立
する。
南西の地まではおよそ300キロ。
輜重はいらない。
赤竜騎士団の練度、最適な道筋、そして軽装なればこそ、僅か五
日で到着できる距離だ。
やがて、赤竜騎士団はサラーボナー領にて歩兵2000と合流、
そこからは道をよく知る地元の兵に先頭を歩かせて、ルシール川に
357
ぶつかるまで南東に進路をとった。
領内は丘陵が多く縦長の進軍であったが、南領を出るとそこから
は平野が広がる。
軍を横に並べることができるため、先頭と後方の出立時間の差が
小さくなり、より速い行軍が可能となるが、歩兵が加わった今とな
ってはその速度もたかが知れている。
﹁よし、ここで休憩だ! 馬にしっかりと飯を食わせろ!﹂
およそ一時間に一度の休憩。
南領を越えれば村はなくとも草原が広がり、馬の食料は豊富にあ
った。
だが、馬の食は細く、雑草では栄養価が足りない。
そのため短い時間で休憩を挟み、小まめに草を食べさせなければ
ならない。
馬は小川で水を飲み、騎士達が小用を済ませる。
の恥じらいというものはあ
ミレーユも人間であり、出すものは出す。
それなり
だが、男の中にただ一人の女。
男勝りのミレーユにも、
った。
ミレーユが、遮蔽物の影に隠れる。
平野といえども、まっ平らというわけではなく、身を隠すくらい
の小さな丘はある。
ミレーユは何らためらいを見せることなく、ズボンを下げてしゃ
がみ込んだ。
この瞬間、ミレーユはいつも、女とはなんて面倒なのだと考える。
358
別に男になりたいというわけではない。
ただ、一手間二手間とかかる、様々な女の面倒ごとが疎ましかっ
た。
すると、ザッと芝を踏む音がした。
ミレーユが音につられて横を向けば、そこにいたのは一人の騎士。
﹁あ、こりゃすいません﹂
さっさと顔を逸らせばいいものの、その騎士はにやにやとミレー
ユの方に顔を向けながら、来た道を戻っていく。
顔を見ればわかる。
その騎士は、わざとこの場所に踏み入ったのだ。
ミレーユは、またかと思った。
女が騎士団長となった。
それをよく思っていない者がいることを、ミレーユは知っていた。
その当て付けか、あるいはただの女性の行為を覗きたかっただけ
か。
なんにせよ下劣な行為だ。
だがミレーユは、覗いた男に対して羞恥の心は一切湧かなかった。
行軍の最中での理性のない行為。
時と場を弁えられない者は、人ではなく獣である。
獣に見られたとて、人間は何も感じない。そういうことだ。
もっとも、獣には獣らしい戦いの場を与えてやるつもりではあっ
たが。
﹁おい! てめえ!﹂
359
ズボンを上げたところで、遮蔽の向こうから大きな声が聞こえた。
﹁あぁ、なんだ? 騎士なりたて新人が大先輩様に文句あんのか?﹂
﹁俺が新人なのと、お前がやったこととなんか関係あんのかよ!﹂
どうやら見所のある者もいるようだ。
だが、このままというのはよろしくないだろう。
騎士団内の不和は、戦時の足の引っ張り合いに繋がりかねない。
﹁やめないか!﹂
影から姿を表してミレーユが言う。
﹁でも、こいつが!﹂
反論を口にする新人騎士。
﹁事故だ、私は気にしていない﹂
ミレーユの一言で、ふんっ、と勝ち誇った顔をして下賎の騎士が
去っていく。
それを未だ睨み付けるようにしている新人騎士。
その顔は見たことがある。
剣の腕はまだまだだったと記憶している。
名前はなんだったかとミレーユは頭を捻った。
﹁お前の名は﹂
360
﹁はっ、ツトム・サノと言います!﹂
﹁サノか。その名、覚えておこう﹂
﹁ははっ、ありがたき幸せ!﹂
佐野はその場に跪き、ミレーユは、それを横目に己の馬の下へ足
を進める。
佐野は取り入りたかっただけかもしれない。
だが、少なくとも考える頭があることは確かだ。
理性のない獣よりかは、はるかにマシだろうとミレーユは思った。
行軍は日に20キロに及んだ。
南へと連なる村々に早馬を送り、軍の到着にあわせて村人に食事
を作らせておく。
無駄な時間をなくし、その分兵に休憩を多くとらせるのだ。
天幕をわざわざたてる必要もない。
歩兵達は空を天井にして寝るし、騎士用の幕舎は村に着く前から
たててある。
そして最南の村に着いた。
これ以後はもう村はなく、ここからおよそ30キロの位置に獣人
の町が存在する。
バルバロデムはまだ到着していないようであった。
﹁後発が来るまで休憩だ。人馬共によく休息をとれ﹂
361
バルバロデムが来るまでの間に、人馬をこの地の気候に慣れさせ
る。
慣れなければならないほどに暑かった。
日差しは照りつけ、体から容赦なく水分を奪っていく。
体だけではない。
大地は水を失い、草はまばらにしか生えていない。
川がなければ、とても生きてはいけない地だとミレーユは思った。
馬の世話を終えて特にやることもなくなると、ミレーユは既に輸
送済みである攻城兵器を見て回った。
投石機に破壊槌。
攻城には欠かせぬものだ。
未知の魔法は、300メートルの位置からの攻撃だったという。
投石機の射程距離は400メートル。
その太い骨格は、身を守る遮蔽にもなりうる。
また、破壊槌には三角の分厚い屋根を取り付けており、未知の魔
法でも簡単には貫くことができないだろう。
﹁ふっ、町から出てこざるをえんようにしてやる﹂
ミレーユは遠くない戦いの未来を脳裏に描いて、一人笑った。
赤竜騎士団が最南の村に到着してから五日後、漸く黄竜騎士団が
やって来た。
遅れた理由は、歩兵が期日通りに集まっていなかったからだそう
362
だ。
さらに一日の休息の後、全軍をもって進軍する。
前衛に黄竜騎士団が、続いて歩兵が並び、殿には赤竜騎士団と後
方支援隊がついた。
ミレーユは馬上にて、これより戦いが始まるのだと自分に言い聞
かせる。
それはミレーユにとって初めての戦争。
気負いはない。
全身が熱を帯び、沸騰する鍋のようにミレーユは武者震いした。
すると熱は暑さを凌駕し、汗をピタリと止めた。
体温は平常である。
ただ体の中身がどうしようもなく熱いのだ。
日が傾く前にたどり着いたのは、獣人の町から北に四キロ程の位
置にある物見台。
そこにいるはずの獣人の姿はない。
獣人の町が、サンドラ王国の意思に気づいているということだ。
バルバロデムの指示で、兵達は物見台の下に陣営を構築していっ
た。
その陣営が、この地にいる間の家となる。
陣営を構築する間も、獣人の町からの反応はなかった。
軍議が開かれたのは夜になってからのことだ。
外では、いまだに作業の音が聞こえてくる。
将幕に集まったのは︱︱
363
黄竜騎士団からバルバロデムとその副団長。
赤竜騎士団からミレーユと、トマス副団長。
それから南領の歩兵隊を率いる者が四名。
︱︱以上の八名である。
﹁まずは︱︱﹂
バルバロデムが軍議を始めようと言葉を発する。
だが、ちょうどその時に外が騒がしくなった。
﹁どうした!﹂
ミレーユが外に立つ見張りの騎士に尋ねた。
﹁ミレーユ様! 進言したきことがあります!﹂
幕の外から叫ばれた己を呼ぶ声。
聞き覚えのある声だとミレーユは思った。
赤竜騎士団の騎士の誰かであるのは間違いない。
さて誰だったか。
ミレーユは立ち上がり、﹁失礼﹂と諸将に一言断りをいれると幕
の外へ行く。
トマス副団長も同様に、ミレーユの後ろについた。
﹁お前は確か、サノだったな﹂
幕の外にいたのは、佐野。
364
この行軍で名前を覚えた新人騎士の一人であった。
﹁申し上げたきことがございます!﹂
佐野は跪いて言った。
﹁いきなりなんだ! ここをどこだと思っている! というか貴様、
陣営の設営はどうした!﹂
赤竜騎士団のトマス副団長が烈火のごとく怒り出す。
上級の者しか入れぬ軍議の場に許可もなく現れた下っぱの騎士。
佐野はまさに、身内の恥というやつであった。
﹁まあ、いいじゃないか副団長﹂
ミレーユがトマス副団長を諌めた。
佐野の本性が誠実なのか、それとも小賢しいだけなのかというこ
とについては、少し興味がある。
どちらにせよ、わざわざ軍議を邪魔してまで進言しにきたのだか
ら、何かしら重要な話なのだろう。
﹁言ってみよ﹂
﹁では一つだけ。降伏勧告には私を使わしていただけませんか?﹂
何を言うかと思えば、そんな毒にも薬にもならぬ話かとミレーユ
は落胆した。
﹁別に話を通しても構わんが、誰が行っても変わらんと思うぞ。一
度目に攻めた時と、こちらの規模はあまり変わらない。
365
ならば前回同様、奴等は抗戦の意思を見せるはずだ﹂
すると、佐野はへへへと得意気な顔をした。
まだ、なにか隠した手札がある。
そんな顔だ。
﹁実は、あの町の主人とは同郷なのです。もっとも顔見知りという
わけではありませんが﹂
ほう、と今度こそミレーユは感心した。
﹁ということは、未知の魔法についてもなにか知っているのか?﹂
その重低音の言葉はミレーユの背後からであった。
ミレーユがちらりと後ろを見れば、いつの間にやら後ろに立って
いたのはバルバロデムである。
﹁詳しいことはわかりませんが、多少の仕組みならば⋮⋮﹂
佐野の言葉に、ミレーユは眉を跳ねさせる。
やはり未知の魔法には懸念があったのだ。
その仕組みを知っているという佐野。
それが事実なら、まさに千金に値する情報であった。
﹁中に入れ﹂
バルバロデムの許しが出た。
バルバロデムとその副将が奥に、その左右に諸将が並び座る真ん
中で、針の筵のように視線を受けながら、一人膝をつく佐野。
366
﹁申せ﹂
バルバロデムが鋭い視線で、頭を垂れる佐野に言う。
その瞳には、嘘偽りならば許さんという意志が込められていた。
﹁あの礫を飛ばす術、あれは魔法ではありません。銃と呼ばれる武
器によるものです﹂
そう言って、佐野は地面に指で絵を描き始めた。
それを覗く、諸将の面々。
ミレーユは描かれた絵を見て、ハンマーのようだと思った。
だが、それは違う。
ミレーユがハンマーだと思っていた柄の部分は、筒なのだと佐野
は言った。
﹁細長い筒の奥に鉄の塊を詰め、火の薬︱︱火薬というものを爆発
爆発
という言葉を聞き返した。
させて打ち出すのです﹂
﹁爆発?﹂
ミレーユが
この世界に火薬はない。
そのため科学的な事象としての爆発は認識されていないのだ。
とはいえ、魔力が内側から急激に溢れることなど、それに類似し
たものを爆発と呼び、その言葉自体は存在していたが。
﹁瞬間的に全方位に暴風吹き荒れるもの。そう考えていただけたら
結構です﹂
367
佐野の説明を聞き、ミレーユは﹁ううむ⋮⋮﹂と小さく唸った。
いまいちピンとこない。
たかがそれだけのもので、鉄が鉄を撃ち抜くことなど可能なのか
とミレーユは頭を悩ませた。
﹁吹き矢と同じ原理か。力の方向性を筒で一方に集中させ、その威
力で鉄の塊を飛ばす、か。
確かに利にかなっているな。射程はわかるか﹂
バルバロデムの発言である。
だが佐野は、届く距離はわからないと首を横に振った。
﹁武器ならば個数はいくらでも用意できるのか?﹂
﹁いいえ、個数は限られていると思います。というのも、まず造る
のがとても難しく、専門の技術者以外造れません。
さらにもう一つ。私達の国はこの大陸にはなく、海の向こうにあ
るので他所から持ってくるというのも不可能です﹂
﹁なに? 貴様は海を越えてきたと申すか﹂
﹁はい。船で海を渡っていたところ、難破し、大陸に流れ着きまし
た﹂
﹁なぜこれまで黙っていた﹂
﹁話す機会がなかったこともありますが、私の故郷が西にあるとい
うのも理由の一つです﹂
﹁⋮⋮西か﹂
368
バルバロデムと佐野の問答は、佐野が西の海から来たという言葉
で途切れた。
佐野がいままで口にしなかった理由は、誰しもが納得できるもの
だ。
教会の地図では西には何もない。
世界の果てだということになっている。
それを口にすればどうなるか。
異端審問にかけられてもおかしくない話なのだ。
﹁お前の故郷については問わん。それで、降伏勧告をしたいという
話だったな。
お前が行ったとして相手は降伏すると思うか?﹂
﹁無理だと思います。ですが、必ずや何かを掴んでみせましょう﹂
佐野の返答にバルバロデムはしばし沈黙し、そして口を開く。
﹁よかろう。やってみせよ﹂
369
36.佐野と信秀
﹁まず第一段階は成功だな﹂
将幕を出ると佐野はニヤリと笑った。
ミレーユにうまく取り入り、信用させた。
一部の先輩騎士らには不興を買ってしまっただろうが、どうでも
いい。
どうせ、すぐに追い抜く相手だ。
そんなことよりも、次はいよいよ手柄を立てる時だと佐野は決意
を新たにする。
翌朝のこと。
佐野はバルバロデムの命を受け、獣人の町に向かって馬を駆けさ
せた。
町の近くまで行くと、石垣の上で獣人達が弓を引き絞っているの
がわかる。
他にも、布幕に覆われた何かが、石垣の上に均等に置かれている
のが見えた。
佐野は少し気になったが、今は別にやることがあるとして、それ
を意識の外に追いやった。
﹁俺はただの使者だ! 攻撃はしないでくれ!﹂
手を大きく振って、佐野は精一杯の声で叫んだ。
370
ここで死んだら出世も糞もないのだから、当然の行為といえよう。
もっとも、その振る舞いとは裏腹に、佐野は攻撃される心配をあ
まりしていなかった。
その理由は、これまでの獣人の町の行いにある。
佐野は、獣人の町について幾つか話を聞いていたが、そのどれも
が理性的で人道的といえるものばかりであった。
それどころか、むしろ今攻め込もうとしている人間の方が人の道
に外れているといっていいほどだ。
佐野自身、倫理や道徳といったものが強く浸透した世界からやっ
て来たため、どちらが悪であるか、気づかないわけがなかった。
もっとも気づいたところで、何をどうするつもりもなかったが。
己は強者であるという強い自負心が、この世界は弱肉強食でも仕
方がないという都合のいい価値感を佐野にもたらしていた。
そう、弱肉強食の世界の方が、自分を強者だと信じる佐野にとっ
て都合がいいのだ。
﹁後ろの軍隊はなんのつもりだ!﹂
石垣の上から声が叫ばれた。
その言葉を口にしたのは、獣人達の中で一人異質な存在。
︵なんだ、ありゃあ︶
鉄帽を被り、オレンジのゴーグルをつけ、口許を黒い布で覆って
いる男。
砂色の服に、ぼってりとした黒のボディアーマー、そして手には
小銃を持っている。
371
その男は、テレビで見たことがあるような軍人の格好をしていた
のだ。
佐野は、あいつだ、と思った。
しかしそれと同時に、どういうことだと首をかしげる。
神のカードが︻銃︼だったのなら、あの軍人みたいな装備はなん
なのか。
佐野が少し考えると、すぐにその答えが頭に浮かんだ。
︵︻軍事品一式︼みたいなカードだったんだろうな︶
佐野はそう当たりをつけると、軍人風の格好をした男に向かって
叫んだ。
﹁俺の名前は佐野だ! 佐野勉! あんたの名前は聞いてるぞ! あんたも日本人なんだろ!﹂
返事は来ない。
驚いているのだろうと佐野は思った。
そして、それは佐野にとっていい傾向である。
驚きとは心の揺らぎ。
相手の思考力は低下し、話の主導権を冷静である佐野が握ること
ができるのだ。
﹁同胞として、いても立ってもいられず使者を願い出た! この世
界でのお互いの立場はどうでもいい、同胞として話がしたい!﹂
どの口が言うのかと、腹をかかえて笑いたくなるのを堪えながら、
372
佐野は叫んだ。
すると、漸く言葉が返ってくる。
﹁いいだろう! だがまず馬を下り、武器を置け!﹂
それを聞き、チッと佐野は小さく舌打ちした。
指示には従う以外に道はない。
これで、相手を剣で人質に取るという一つの手が消えた。
︵同郷とはいえ、簡単には信用しないってことか。どうやら鈴能勢
みたいに能無しじゃないようだな。あわよくば、とも思っていたん
だが⋮⋮︶
佐野は、馬を下りて剣を大地に捨てる。
﹁暫し待て!﹂
その声を最後に男の姿が石垣から消えると、町から突然銅鑼が鳴
りだした。
佐野は、何事かと剣を掴みそうになったが、獣人達に変わった様
子はない。
︵なんだ? なんの意味があるんだ、この音は︶
なにかの合図か? だがなんの合図だ?
佐野は周囲を観察しながらも思考を巡らした。
とにかくその音はやかましく、周囲の雑音︱︱車のエンジン音で
すら消えるようであった。
やがて門が開かれる。
373
現れたのは大きなラクダに乗った先程の男。
佐野は、まさかラクダが出てくるなどとは思っておらず、ギョッ
として一歩後退り、二歩目はなんとか踏ん張った。
そうこうしているうちに、ラクダの横から獣人が出てきて、地面
にある佐野の剣を拾い上げる。
﹁それで話とは?﹂
淡々とした様子で男は言う。
動揺したままではまずい。
そう思った佐野は、大きく息を吐いて気持ちを落ち着けてから、
言った。
﹁あんたが藤原さんでいいのかな?﹂
佐野の質問に、そうだ、と頷く男。
﹁あらためて自己紹介をさせてもらうよ。俺は佐野。佐野勉。
この世界に来た頃は高校生だったけど、今じゃあもう二十歳も超
えちまった。
あ、ちなみにカードは︻かなりいい盾︼っていう星一つのクズカ
ード。馬に乗るのには邪魔だから持ってきてないけどな﹂
にひひ、と人当たりのよさそうな笑みを浮かべる佐野。
自己紹介の中には、さりげなくカードの紹介も混ぜていた。
もちろん、その内容については嘘である。
これらのことは、自己紹介にカードについて語るのは当然、とい
374
う雰囲気をつくるためだ。
それにより、たとえ相手が自身のカードについて話さなくても、
佐野はなんのしがらみもなく尋ねることができる。
﹁藤原信秀と言います。派遣社員をやってました﹂
端的な自己紹介であった。
男︱︱信秀からカードの話はない。
加えて突如の敬語。
鈴能勢のように気の弱いタイプかと一瞬思ったが、それは違うと
佐野は考え直す。
なぜならば、信秀の発する言葉は、おどおどとしたものではなく、
非常に滑らかであったからだ。
﹁えっと、俺も敬語で話した方がいいっすかね?﹂
﹁普通に喋ってもらって構いませんよ。私のは癖みたいなものです﹂
﹁そうっすか。じゃあお言葉に甘えて⋮⋮それでまあ、俺は確かに
あの軍の使者だ。
伝達内容は大体予想がつくと思うけど、一応降伏勧告な。
でも、それはどうでもいい。
俺の本当の目的は、同胞のあんたと話がしたかったから。
たまたま、上の連中があんたの名前を口にしててな、それでこの
町の主が同郷の者だって知ったんだ。
降伏の使者ってのは、あんたと話すためのついでと思ってくれ﹂
﹁使者ならば、すぐ戻らねば身内に要らぬ心配をかけさすのではな
いですか?﹂
375
﹁二時間経っても戻らない時は、自動的に攻撃が開始される﹂
これも嘘だ。
佐野が帰ろうが帰るまいが、軍の攻撃は三日後から。
それまでは陣営を構築しつつ、英気を養う。
それが軍の予定だ。
5000もの兵が、町から目と鼻の先の場所で駐屯しているとい
うことだけでも意味がある。
軍がそこにいるだけで、町の者達は威圧され気が気でないだろう。
もしかしたら焦燥感に駆られて、獣人達は陣営を襲おうとするか
もしれない。
そうなれば、サンドラ王国軍としても願ったりかなったり。
野戦は望むところである。
﹁⋮⋮いいでしょう。ですがあなたが敵兵である以上、体をあらた
めさせてもらいますよ?﹂
﹁別に構わないぜ﹂
獣人が二人佐野に近づいて、ボディチェックが行われた。
だが、異常なし。
佐野は寸鉄さえも帯びてはいなかった。
︵ふん、わざわざ疑われるような真似するかよ︶
佐野が内心でせせら笑った。
こういうことの繰り返しが信用に繋がるのだということは、見習
い騎士の頃に騎士連中に媚を売りながら、独りでに学んだことだ。
376
信秀が町の中に誘い、佐野はそれについていく。
すると石垣の中はまるで別世界であった。
﹁ま、マジかよ⋮⋮﹂
佐野の口から自然と漏れるため息。
そこには、古き日本の町並みが存在していたのである。
﹁こ、この町はどうしたんだよっ﹂
いいカー
﹁獣人と共につくりました。建築関係の仕事をしていたので﹂
派遣社員だと聞いて、心の中で馬鹿にしていた。
を引いただけのラッキー野郎だと思っていた。
正社員になれなかった落伍者だと、ただ︻銃︼という
ド
だが、これは並みではない。
派遣社員も侮れないなと、佐野にしては珍しく相手の評価を上方
修正した。
一番近くの家の中に入る。
久しぶりの畳の部屋だ。
腰を下ろし、木のコップに入った水が出されると、佐野はかっ食
らうようにそれを飲み干した。
佐野の対面に信秀が座る。
信秀は、鉄帽はそのままであったが、口許の覆いもゴーグルも取
っていた。
露になったその顔に見覚えはない。
377
もう五年も前の話だ。
当時、あの白い部屋で見た顔だったとしても、覚えているはずも
ないだろう。
それよりも、佐野は信秀の腰の拳銃が気になった。
︵あれを奪って藤原を人質に⋮⋮いや、銃って確か安全装置がつい
てたはずだ。まごついてる間に、部屋の外にいる獣人に殺されちま
うな︶
そんなことを考えながら、佐野はコップを置く。
﹁⋮⋮他の同郷の奴らに会ったことはあるか?﹂
まず尋ねたのは佐野である。
﹁いえ、ありません。あなたは?﹂
﹁一緒にこの世界に飛ばされた奴がいてな。そいつと、なんとか二
人で助け合って生きてるよ。
でも、大変でな⋮⋮。
もう一人の奴は鈴能勢っていうんだが、それが病気になっちまっ
て。俺は、薬代を稼ぐために、こうして体張ってるってわけだ﹂
同情をひくための嘘。
力押しばかりでは駄目なことを、佐野はよく心得ている。
﹁⋮⋮よかったら、二人ともここで暮らしますか?﹂
﹁いや、あいつは今ここに来てねえし、来れるような体力もねえ。
なんとか俺が支えてやんねえと⋮⋮﹂
378
涙を堪えるように、佐野はギュッと拳を握った。
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁まあ、あいつが⋮⋮鈴能勢がいるからなんとか頑張っていける、
って感じかな﹂
無理矢理に笑顔をつくる︱︱という風に見せた佐野。
部屋は、しんみりとした雰囲気になる。
すると、そんな空気を打ち消すように明るい声色で佐野は言った。
﹁さっきから気になっていたんだが、それ銃だよな﹂
﹁ええ﹂
﹁あのカードで貰ったのか?﹂
﹁まあ﹂
﹁弾とか大丈夫なのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
返答はなかった。
答えがないのが答えだと佐野は内心でにやついた。
︵やはり弾は限りがある。それも弾数はもうあまりないと見た︶
こうなれば、今恐れることは無事に戻れるかということ。
379
だが、それも問題ないだろうと佐野は考える。
病に臥せった同郷の者がいるという嘘。
これが効いてくるのだ。
︵鈴能勢。お前、やっと俺の役に立ったな︶
遠い村にいるであろう鈴能勢の姿を佐野は思い出した。
﹁すまねえ、変なこと聞いちまった。
互いの立場があるもんな。
それでさ、降伏するつもりはないのか? 今なら、俺ができるだ
けいい条件を貰ってきてやることが可能なんだが﹂
﹁申し訳ありませんが﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
佐野は悲しい顔をつくった。
沈黙が流れる。
その沈黙が佐野には心地よかった。
それは己が場を支配している証拠。
全てが己の思い通りだと佐野は思った。
そこからは、たわいもない話を交わした。
佐野は、それとはなしに︻胡椒︼などについても聞いてみたが、
信秀にうまく話を逸らされた。
﹁じゃあ、そろそろ戻るわ。長居して互いに情が移っても、今後や
りにくいだろうしな﹂
380
席を立ち、共に家を出る。
門の前で獣人から剣と馬を渡された。
見送りにきた信秀との距離は約3メートル。
さらに信秀の横には獣人が侍っている。
僅かに一歩、佐野が信秀に近づくと、獣人達の持つ短槍の穂先が
ピクリと揺れた。
この位置では信秀を人質にとるのは無理だ、と佐野は判断した。
相手には︻銃︼だってあるのだから。
﹁今日は会えてよかったよ。こんな世界だけどさ、お互い頑張ろう
ぜ﹂
佐野はそれだけを言うと、馬に乗って颯爽と自陣へかける。
収穫は確かにあった。
佐野がその目で見た銃は二つしかなく、どちらも信秀が持ってお
り、他の者達は持っていなかった。
そして、その二つしかない銃の銃弾も足りていないということは、
信秀の反応からして明らかであった。
︵藤原を人質にとることはできなかったが、とりあえず十分すぎる
情報だろ︶
憂いが消えるということは、戦術の幅が広がるということだ。
間違いなく手柄である。
さらに、次に出番があるとすれば長期戦になった際の降伏勧告だ
ろう、と佐野は考える。
381
︵藤原よ。俺の出番を増やすためにも、すぐに敗けるなんて体たら
くはやめてくれよ︶
熱く乾いた空気を切り裂きながら、佐野は胸中で呟いた。
382
37.戦争 1︵前書き︶
次回からまた主人公に焦点を当てていきます
383
37.戦争 1
東の水平線より昇り始めた太陽が、赤い炎のような色から、段々
と青白い輝きへと変じて世界を照らし出す。
ある南の大地では、早朝の日差しを浴びながら、夥しい数の人間
が蠢いていた。
それは、これより獣人の町を攻撃せんとするサンドラ王国の軍隊
である。
﹁前進せよ﹂
大将軍のバルバロデムの命によって、巨大な軍が動き出した。
最前列に並んだ十二もの投石機が、西方生まれの大型馬に引かれ
てゴロゴロと音を立てて進んでいく。
その後ろには、投石機によって発射する石や油壷を積んだ荷車が、
さらにその後ろには歩兵や騎士らが隊列を組んで続いた。
この度のサンドラ王国軍の作戦は実に単純なものである。
まずは町の北側から全ての投石機でもって集中攻撃を行う。
これにより獣人らが耐えきれずに門より出てきたなら、歩兵を前
に出して敵に当たり、さらに赤竜騎士団を横合いから突撃させて、
獣人らを踏み潰す。
もし出てこないならば、石と油壷を射ち尽くし、敵の戦意を存分
に削いだのち、破壊槌と兵を繰り出す。
384
あとは敵の抵抗の度合いにて、短期に勝負を決するのか、ゆるり
と町を囲んで長期戦に臨むのかを決める。
これが前日の軍議で決められた作戦であった。
黄竜騎士団は軍の左翼後方、赤竜騎士団は軍の右翼後方に位置し
ている。
その中でミレーユは、赤竜騎士団の右前方を進んでいた。
獣人が町から出てきた時、先頭を駆けることになる場所だ。
軍は、もう目標まで2.5キロの地点に差し掛かろうというとこ
ろまで来ている。
戦いは目前。
ミレーユは、ふと敵はどうでるだろうかと考えた。
もし自身が町の主だったならば、騎馬を率いて電光石火のごとく
襲いかかり、投石機に火をかけて回るだろう。
獣人達にも騎乗する動物がいるのだという。
不可能ではないはずだ。
だが、そもそも獣人らに攻城兵器という物を認識できるのだろう
か、という疑問が湧いた。
攻城兵器というものを知らず、間抜けな顔をして、いざ事が起こ
るまで事態に気づかない。
ありえそうな話だ。
あるいは、人間だという町の長ならば攻城兵器の恐ろしさもわか
ることだろう。
385
そして、その顔面を蒼白にさせて、急いで騎馬隊を組織するかも
しれない。
佐野と同郷だという町の主。
ミレーユは会ったことも見たこともない。
だが不思議なことに、その者の慌てふためく顔が脳裏にはっきり
と浮かんだ。
前列を進む投石機群が、2キロの地点を越える。
体が熱い。
馬が一歩足を踏み出すごとに、体内の竈に薪をくべられているよ
うだった。
するとミレーユは駆け出したい気分に駆られた。
ただ一人戦陣に突っ込み、ひたすらに敵を斬り倒す。
それは、どんなに気持ちがいいことだろうか。
初めての実戦、知らないからこそ知りたい。
気づけば、歩兵達が担ぐ梯子を目で追っていた。
だが、それは駄目だ、とミレーユは思った。
剣の柄に触れ、猛りを抑えるように力強く握る。
己が率いるべき騎馬隊はここにあるのだと強く戒める。
この熱を吐き出さねばならない。
﹁もうすぐだぞ! 気を引きしめよ!﹂
ミレーユが騎士らに向かって叫ぶ。
大きな声を出してみると、熱も若干ではあるが抜け出たようであ
った。
386
他の者達はどうなのかと騎士達の表情を見る。
皆、落ち着いたものだ。
未知の魔法の正体は、既に通達してあった。
対人用の武器。おまけに回数の制限があり、とても軍を相手にで
きるものではない、と。
それに対し、幾千と降り注ぐ矢の雨の方がよっぽど恐ろしい、と
いうのが皆の感想であった。
歩兵を盾とすれば、なんら恐れることはない。
敵の戦術は前回同様、指揮官を撃つことだろう。
とるに足らない、容易い敵だと誰もが気持ちを穏やかにしていた
のだ。
軍が残り1.5キロの位置を越えた。
ミレーユは不意に空へと顔を向ける。
そこには雲一つない青空が広がっていた。
ここに来てから気づいたことであったが、サンドラ王国と違い、
この地の空には雲がほとんどない。
そのせいか、空はどうしようもなく大きく感じる。
空に比べれば、大地の如何に小さきことか。
また体の内側がたぎり始める。
天には決して届かずとも、大地くらいは好きなようにしたい。
それは人の夢だ。
今日始まる戦いは、序曲にすぎないだろう。
大陸には既に戦乱の兆しが見られる。
自分はどこまでやれるのか。
387
その思いと共に剣を振るい、己が武名を大陸中に刻み付けてやり
たい。
ミレーユは野心をたぎらせながら、フッと口角を上げた。
︱︱その時である。
前方から、ドンッという腹に響くような音が、幾つも重なって鳴
り響いた。
なんだ? とミレーユが思い、正面に顔を向ける。
視線の向こうから聞こえたのは風を切る音。
そして、突如として頭が割れるような激音が鳴り響き、大きな砂
煙が一列に舞い上がった。
﹁なんだ! 何が起こったっ!﹂
明らかなる異常事態。
興奮する馬を抑えつつ、ミレーユは反射的に叫ぶが、それに答え
るものはいない。
だが、舞い上がった砂煙はすぐに薄れ、おのずと答えは知れた。
﹁な⋮⋮っ﹂
ミレーユの口から声にならぬ声が漏れた。
投石機があったはずの場所、されど、もうそこに投石機の姿は無
かったのである。
﹁なんだ今のは!﹂
388
﹁投石機が砕かれたぞ!﹂
赤竜騎士団にどよめきが走った。
︱︱狼狽えるな!
ミレーユの口から、その言葉は出なかった。
ミレーユ自身もまた狼狽していたからだ。
一体、何が起きたのか。
ほとんどの投石機が破壊された。
投石機があった場所の後ろでは油壷に火がつき、炎に焼かれる者
の悲鳴が聞こえる。
わからない、なにも見えなかった。
唯一わかることがあるとすれば、敵から攻撃を受けたということ
だけ。
軍は自然と止まっていた。
だが、まだ無事な姿を見せる投石機もある。
己はどうすべきか。
残りの投石機を守るのか。
何から。
どうやって。
﹁トマス副団長!﹂
389
今度はしっかりと声が出た。
ミレーユの声は、女らしい高くよく響く声である。
兵達がざわつく中でもよく通った。
﹁ミレーユ団長!﹂
赤竜騎士団の中央から一歩前に出て返事をしたのが、トマス副団
長である。
団の右半分をミレーユが率い、左半分をトマスが任されている。
ミレーユは言う。
﹁騎兵を分ける! 分散し縦横無尽に石垣の前を走らせて敵を撹乱
させる! 我らが囮となり、速さで敵に的を絞らせないようにする
んだ!﹂
このまま攻めるにしろ、一時退くにしろ、今のままではまずいと
ミレーユは考えた。
軍はいまだに動こうとしない。
兵達は何が起こったのかわかっていないのだ。
そして二度目の攻撃があるのならば、次は人。
ならば敵の目下で馬を走らせて囮となる。
子供だましの策だ。
すぐさま騎馬になんの意味もないことは知れるだろう。
だが、その僅かの間を稼げれば、後はバルバロデムが判断を下す。
あるいは近くに寄ったなら、敵の攻撃の種がわかるかもしれない。
390
すると、再びドンッと石垣の上から音が鳴った。
ミレーユは思わず身を強ばらせる。
耳に届く数多の激音。
一番近い音の発生源はすぐ近くであった。
ミレーユが左に顔を向けた時、下半身を失ったトマスが宙を飛び、
どすんと地に落ちたのである。
﹁あ⋮⋮﹂
身がすくんだ。
それでもミレーユが手綱を離さず、暴れようとした馬を上手く捌
いたのは、日頃の修練の成果だといえよう。
周囲の者達からは悲鳴が上がった。
馬が暴れて、振り落とされた者がいる。
腕がない者が、足がない者がいる。
そして無情にも、再びドンッという音が獣人の町より聞こえた。
赤竜騎士団のある騎士は思った。
何が起きたのかと。
前方から重く低い音が響いたのは覚えている。
そして気づけば自分は倒れていた。
手のひらを地面につけ、腕の屈伸で起き上がろうとする。
だが、おかしい。
391
うまく立ち上がれない。
下を見れば、足がなかった。
﹁あ⋮⋮あぁ⋮⋮﹂
何故、と騎士は思った。
簡単な戦いだったはずだ。
騎兵は町から出てきた敵をただ刈り取るのみ。
それだけのことだった。
未知の魔法なんて存在しない。
そういう話だったはずだ。
では何故。
そうか、これは夢なのか。
思えば音が聞こえない。
これが夢だからだ。
夢だ、夢なのだ。
ならば寝よう、明日には出陣だ。
︱︱騎士はそのまま息絶えた。
◆
獣人の町より放たれた榴弾は、サンドラ王国軍の投石機を瞬く間
に砕いた。
その後ろにあった破壊槌も同様である。
攻城兵器の多くが一度の砲撃でその機能を失うと、次に榴弾が降
り注いだのは兵達の上であった。
392
着弾した榴弾は、その衝撃によって信管が作動し、炸裂する。
鼓膜が破れるかと思うほどの爆裂音と共に、その場にいた者はそ
の身を文字通り吹き飛ばされた。
また、着弾地点の周囲いた者には爆風に紛れた鉄の破片が襲いか
かり、その五体を著しく損傷させた。
血と肉が大地に飛び散る。
兵士達の悲鳴がこだまする。
獣人の町より放たれた攻撃は、兵士達のその腕を、その足を、そ
の命をもいでいったのである。
ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、と石垣の上から断続的に聞こ
える重く低い音。
阿鼻叫喚。
そこはもう地獄であった。
そこかしこで耳をつんざくような音が鳴り、土を巻き上げて、断
末魔の叫び声が上がっていた。
されど、サンドラ王国軍はいまだ足を止めたままだ。
退却の銅鑼は、鳴らしたそばから榴弾の餌食になった。
指揮官の声も、切れ切れに響く炸裂音と悲鳴や叫び声によって掻
き消される。
騎馬隊は、多くの者が暴れる馬から振り落とされて収拾がつかな
い。
上空からの不可視の攻撃であったが、榴弾一発の被害状況は別段
393
大きくはない。
しかし、だからこそ当事者でない者は被害に気づけず、行動を起
こせなかった。
人々は神の裁きを受けるように、その場に立ち尽くしたのである。
すると軍の後ろから回り込むように一騎が前に出た。
その者、体重1.3トンもの巨馬に乗った虎髭の巨漢。
あまねく敵を自慢のハルバードで打ち倒し、世にその名を聞こえ
たる猛将、黄竜騎士団団長バルバロデムである。
バルバロデムが石垣に近づくと、石垣の上からは無数の矢が注が
れる。
だがそれは、まるで布切れのごとく振るわれたハルバードと、鉄
板を幾枚も張り合わせた分厚い鎧によって弾かれた。
そして、バルバロデムは石垣の上を睨み付けて叫ぶ。
﹁獣人達よ! それからフジワラとやら! まずは戦の作法に倣わ
なかったことをここに詫びよう!﹂
大砲の音にも負けない轟くようなバルバロデムの発声。
それは謝罪より始まった。
元来この大陸においての戦争は、まず宣戦布告を行い、場所と日
時を決めて開戦する、というのが作法となっている。
だが今回、サンドラ王国が行ったことは一方的すぎる侵攻。
奇襲に等しい行為といっていいだろう。
もっともサンドラ王国にとってみれば、この獣人の町がある場所
394
は、たとえ人間が住んでいなくとも自領という扱いである。
そのため、獣人の町が国に従わないことは内乱にあたり、戦争の
作法に則る必要はなかったともいえる。
石垣からは矢の攻撃が止み、大砲の音も無くなった。
するとバルバロデムは、我が意を得たりといわんばかりに、笑み
をつくった。
そして、続けて言う。
﹁我が名は黄竜騎士団団長バルバロデム! 敵将フジワラ! 願わ
くば某と一騎討ちをせんっ!!﹂
一騎討ちもまた、この世界では当たり前のこと。
戦場の華ともいえる行為であり、一騎討ちを挑まれれば応えるの
が騎士の務めであった。
だからこそ、バルバロデムはこれに賭けた。
もはやサンドラ王国軍は機能しておらず、その敗北は必至。
だが、敵将を捕らえたならば講和はなる。
そうバルバロデムは考えたのだ。
そして︱︱。
タターンという音が二度響いた。
石垣の上から放たれた小銃の発砲音。
その目標はなんであるかは、言うまでもないことであろう。
﹁ごふっ⋮⋮!﹂
口から噴血するバルバロデム。
395
小銃からは計四発の銃弾が放たれ、内三発がバルバロデムの身を
貫いていた。
ガランと重厚な音を立てて、ハルバードが地に落ちる。
続いて、馬の手綱がバルバロデムの手からするりと抜けた。
﹁⋮⋮に、逃げよ⋮⋮﹂
ただ一言呟いて、バルバロデムは、どさりと馬から崩れ落ちる。
地に体を付けた時、その体はもう呼吸をしていなかった。
︱︱バルバロデムは、サンドラ王国の英雄である。
一目見れば忘れないほどの大きな体躯。
その武技は一騎当千と謳われ、戦場にあれば、バルバロデム自身
が旗印であるといっていいほどに強烈な光を放っていた。
地方に住む歩兵ですら知っている存在。
同じ戦場に立った者は、彼の活躍を我が事のように話す。
バルバロデムが軍の先頭を駆ければ、兵達はその後ろをついてい
った。
暗闇の中、まばゆい光に手を伸ばすように。
そんなバルバロデムが、あっけなく死んだ。
これが引き金であった。
﹁う、うわあああああああああ!﹂
396
金縛りから解けたように、ある歩兵が叫び、人の群れを掻き分け
てその場から離れようとする。
すると堰を切ったように、他の兵達も動き出した。
逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!
逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!
逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!
混乱から恐慌へ。
だがその背後からは、ドンッという鈍い音が再び鳴り始める。
逃げる者達に向かって容赦なく、鉄の弾は放たれたのだ。
◆
崩壊したサンドラ王国軍。
誰もがあの恐怖の世界から逃げ出した。
そして陣営地に最初に戻ってきたのは、馬を失わなかった騎兵達
である。
彼らも例に漏れず、ただ恐怖した。
暴れ馬を御して、からがらな思いで戻ってきたのだ。
今もまた、陣営地に騎兵が飛び込み、それと同時に、転がり落ち
るように馬を下りて地面に這いつくばる。
陣営地では砲撃の音は聞こえない。
撃つのをやめたのか、それともこの位置まで音が届かないだけな
のか。
397
﹁なんだよ⋮⋮なんなんだよ、あれは!﹂
一人の騎士が叫んだ。
彼の心は、いまだ動転していた。
目の当たりにしたのは、1キロ以上離れた位置からの攻撃。
堪らず馬を返して逃げたはずだった。
だが、町から2キロの地点で前にいた騎馬が消し飛んだ。
逃げる行く手を阻むように。
肉が飛び散り、血を吸った土が雨となって降り注いだ。
しかし、それでも騎士は鞭をがむしゃらに振るった。
そして逃げ延びた。
思い出すだけで吐き気を催すような恐怖が騎士達を襲う。
昨日まで共にいた仲間が、なんの抵抗もできずに死んだ。
何が起きたのかすらわからない。
霹靂のような音が鳴った場所には、もう誰も生きている者はいな
かったのだ。
膝が震える者。
歯をカチカチと鳴らす者。
嗚咽する者。
恐怖の表現は実に様々であるが、誰しもが一様に、見たことも聞
いたこともない攻撃に恐れおののいた。
その中に、足早に叫びながら行く者がある。
﹁バルバロデム殿はいるか! バルバロデム殿はどこだ!﹂
398
それはミレーユであった。
彼女もまた他の者と変わらず、その顔を蒼白としている。
だが、それでもバルバロデムを探して叫んだ。
﹁誰かバルバロデム殿を知らないか!﹂
ミレーユは何をどうすればいいかわからなかった。
だからこそ、大将軍であり歴戦の勇でもあるバルバロデムにすが
りたかったのだ。
ミレーユは黄竜騎士団の副官を見つけると、バルバロデムの所在
を問いただした。
だが、その答えは期待していたものとはまるで違うものであった。
﹁バルバロデム殿は一人で⋮⋮恐らくはもう⋮⋮。帰ってこなかっ
た時は速やかに軍を本国に退却させよと﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
ミレーユは全身から力が抜けるような思いであった。
バルバロデムは死んでいた。
ミレーユが繰り上がって軍の大将軍となるのだ。
﹁うっ⋮⋮オエエエエ!﹂
ミレーユはその場で胃の中のものを吐き出した。
咎める者はいない。
吐瀉物など戦場では当たり前のことだ。
399
こんな凄惨な戦いの中ならなおのことである。
﹁あんなものが戦いか⋮⋮あんなものが私の望んだ戦いか⋮⋮!﹂
拳を地面に叩きつける。
ミレーユを苛んでいたのは無力感。
大災害に見舞われた時、神に怒りをぶつけるような、抗うことが
できないものに対する絶望の心であった。
その後、ミレーユと黄竜騎士団の副団長が、今後について話し合
う。
馬は皆、全速でここまで駆けさせているため、もう動かせない。
それに、四方に散らばった兵達も待たねばならなかった。
結局、二人だけの軍議はここで一日を休んだ後、北へ退却すると
いう結論に終わることになる。
陣営地にいる兵達は思う。
あの攻撃はどこまで届くのか、と。
もしかしたら、ここまで届くのではないか、と。
そんな戦々恐々とした気持ちで兵達は時間を過ごし、夜を迎えた。
︱︱そして、敵の攻撃がまだ始まったばかりだということを、彼
らはまだ知るよしもない。
400
38.戦争 2︵前書き︶
夜襲までの主人公と佐野の視点となってます
401
38.戦争 2
町に攻めてきた数千ものサンドラ王国軍に対し、30門の︻四斤
山砲︼が、けたたましい音と共に白煙を吐き出した。
砲身より撃ち出された弾丸は、大地にいる人間を虫けらのように
殺し尽くしていく。
それを俺は、北門の上からじっと眺めていた。
一年。
サンドラ王国と交易を始めてから一年という長い月日。
ずっと戦いの準備をしていた。
サンドラ王国との交易で得た財によって、︻四斤山砲︼を北・東・
西に30門ずつ、合計90門にまで増やした。
金の心配はいらず、弾薬となる︻長榴弾︼は撃ち尽くせない程に
用意できる。
さらに、獣人達は訓練をしながら砲術を学び、また既存の武技に
ついてもその練度を高めていった。
連携も鍛えており、各城門に配置した有線通信機によって、円滑
な集団防衛が可能となっている。
これらのことからもわかるとおり、はっきりいって町の戦闘準備
は万端といってよかったといえよう。
敵の戦力ついてもおおよそは把握している。
かつて捕虜であったローマットが、騎士団が如何に凄いかを自慢
402
気に語っており、それにより人間の軍に何ができるのかを知ること
ができた。
この世界の戦いは、元の世界の中世時代とあまり変わらない。
確かに元の世界と人間と比べると、明らかに人間の限界を超える
者もいるようだが、それでも数々の兵器に勝てるようには思えなか
った。
だから、目の前の結果は当然のことであったのだと思う。
そして遂に敵は逃げ出した。
四方八方へと、蜘蛛の子を散らしたように。
しかし俺は、大砲射撃を止めようとはしない。
逃げ出した敵に向かって、さらなる榴弾を浴びせかけた。
徹底的にここで叩く。
やらなければやられるのだ。
大砲が依然変わらずに敵を殺傷していく。
そんな時、ふと、三日前に現れた同郷の者の顔が頭によぎった。
名前は佐野勉。
正直、うさんくさい男であったと思う。
言葉の端々に見えたこちらを窺うような言動が気になった。
もしかしたら、それらは俺の気のせいだったのかもしれないが、
どのみち今は敵同士。
それに同郷の者といっても、かつては焦がれたかもしれないが、
今となっては町の獣人達の方がはるかに大切である。
403
それはそうだ。
同じ故郷というだけで、結局のところ赤の他人でしかない。
何年も共に暮らしてきた者とでは比べようもないのだから。
まあ、でも一応縁があるわけだし、助かってほしいとは思う。
大砲を撃ちまくっている側の俺が言うのもなんであるが。
﹁撃ち方止めぇー!﹂
逃げた者の多くが大砲の射程を脱したところで、俺は漸く砲撃を
止めた。
双眼鏡を覗いた先には、ただ死屍累々としたものが見える。
勝負は決した。
こちらの死傷者はゼロ。
おまけに敵は正面から向かってきてくれたおかげで、西の牧場や
新住宅にも、東の農場にも、被害は出ていない。
完全な勝利といっていいだろう。
俺は獣人達に弾薬の回収を命じ、また一部の者を石垣に残し、他
は北門裏に集まるように指示を出した。
ここからは略奪の時間である。
敵が身に付けている武器や防具など金目の物を奪うのだ。
あとついでに傷を負った敵兵には治療をしてやろう。
﹁では行きましょうか﹂
集まった獣人達に今から何を行うかを説明し、門を開いた。
404
反撃があったら堪らないので、俺は︻96式装輪装甲車︼に乗り
込んでいく。
また、狼族の者には二台の︻73式大型トラック︼を運転させて
いる。
俺が運転する︻装甲車︼を先頭に、獣人達は一団となって警戒し
ながらゆっくりと進む。
門を出て右手のすぐのところに敵将の死体があった。
名前は確かバルバロデムだったか。
その隣では大きな馬が主の死を悲しむように、バルバロデムの顔
へと首を伸ばしていた。
俺にもカトリーヌがいる。
だからだろうか。
胸が少し苦しくなった。
そのまま前に進んでいくと、視界の端で何人かが立ち上がって逃
げていくのが見えた。
その場にとどまって、大砲をやり過ごそうとしていた者達だろう。
たかが数人だ、追いかけるつもりはない。
やがて俺の目の前に惨憺たる光景が広がった。
俺は運転席の上部ハッチを開けて、そこから顔を覗かせる。
目を覆いたくなるような無惨極まりない景色。
それを、はっきりと肉眼で捉えた。
﹁うぅ⋮⋮﹂
﹁痛い⋮⋮痛いよぉ⋮⋮﹂
405
いまだ生ある者からのうめき声が聞こえる。
目を逸らしはしない。耳を塞ぎはしない。
あれは戦いに敗けた際の、俺や獣人達の姿だ。
﹁サンドラ王国の人間達よ!
死にたくないのならば、抵抗をするな! 傷の手当てをしてやる
! 抵抗すれば容赦なく殺す!﹂
俺は目一杯の声で叫んだ。
無論、これをつい先程、北門の裏にて獣人達に話した時には、皆
反対の意見を口にしていた。
人間が一方的に攻めてきたのに甘いんじゃないかと、皆殺しにす
るべきだと俺に訴えた。
もっともだと思う。
だが、獣人達の意見に俺も幾つかの反論を述べさせてもらってい
る。
一つ、兵達の多くは徴兵によってここに来たわけであり、決して
自分達の意思で攻めに来たわけではないということ。
彼らは王や領主の命令には逆らえない、自己決定権がないのだ。
だからこそ、農民兵達も被害者であると言えるかもしれない。
一つ、騎士を捕らえれば金になるかもしれないということ。
全ての騎士が、というわけではないだろう。たとえば佐野は騎士
ではあったが貴族ではなかった。
だがローマットのように貴族である者がいるかもしれない。
406
一つ、怪我をした人間を看護しその命を救うことは、人間の中に
獣人の理解者をつくることが出来るかもしれない、ということ。
現にローマットは、ここで捕虜になるうちに、獣人達と交友を持
った。
もしかしたら見せかけの関係だったのかもしれないが、互いに笑
い合える関係にはなっていた。
一つ、後遺症を持つ者を返すことは、国にとっていやがらせにな
るということ。
四肢欠損などの生活に支障がでるような傷を負った者を国に返す
ことは、それだけで国の重荷になると俺は思う。
元の世界と違い、社会福祉の制度なんてないだろう。
また、欠損者が行える仕事もほとんどないはずだ。
彼らは誰かを頼って生きていかなくてはならない。
傷を負った本人にも、その周囲の者にも、不平や不満は溜まる。
その負の感情はどこへ向かうのか。
ひょっとしたらこれは、誰かを殺すより、もっと残酷なことなの
かもしれない。
そして、これらの考えに、獣人達は渋々ながらも納得したのであ
る。
略奪と救助作業が始まった。
怪我人は、簡単な応急処置を施してから、ラクダがひく荷車に乗
せて、西の新住宅地に運んだ。
剥ぎ取った鎧や剣はトラックにドンドンと積まれていく。
もうここは獣人達に任せていいだろう。
後は逃げ去った敵のことだ。
407
敵の陣営地は既に掴んでいる。
夜間、敵が寝静まった頃に攻撃を仕掛けるつもりだ。
もし、陣営地を引き払っていたとしても、追いかけて攻撃を加え
る。
簡単に許すつもりはない。
この地を襲えばどうなるかを、その身に刻みつけてもらわなけれ
ばならないのだから。
◆
轟音と悲鳴が響く戦場に、一人息を潜めている者があった。
赤竜騎士団の佐野勉である。
佐野は死んだ馬の影に身を隠し、目を瞑ってガタガタと震えてい
た。
強烈な爆裂音がまたも近くで聞こえる。
その度に佐野は体をビクンと跳ねさせ、身をギュッと縮こまらせ
る。
なんだあれはと思った。
強烈な音が鳴り誰かが死ぬ。
何かの魔法かと考えたが、恐怖で思考はまとまらない。
とにかく早く終わってくれと願うだけであった。
やがて音が止み、暫くしても静かなままだったので、佐野はそっ
と顔を上げた。
数多の屍と負傷者の体が横たわっている。
立っている者が数人、それも辛うじてといった様子だ。
408
サンドラ王国軍の兵は皆死んだのかと佐野は思ったが、倒れてい
る者の数があまりに少ない。
恐らくは逃げたのだろうと結論づけた。
佐野は仰向けに寝転んだ。
もう動く気力もなかった。
ただ生き残ったという充足したものだけが心を占めていた。
血溜まりの中でぼうっと空を眺めながら、思う。
︵俺は生きている︶
生き残った。あの地獄のような世界から生き残ったのだ。
周囲からは苦しみ呻く声が聞こえる。
動けないほどの傷を負った者達だろう。
だが佐野は手も足も動く。
五体満足でそこにいたのだ。
佐野の心に、己はやはり特別なのだという感情が沸々とわき上が
り始めた。
すると周りの声に変化があった。
それは絶望するような声。
まさかと思い、上半身を起こすと、遠くに見える獣人の町の門が
開いていた。
そして、そこから現れたのは︱︱。
﹁車だと⋮⋮?﹂
409
なんだ、どういうことだと佐野は狼狽えた。
車両が三台ゆっくりとこちらに向かっている。
その後ろには手に武器を持った獣人達。
︵殺される⋮⋮!︶
佐野はそう思い、無意識のうちに剣を抜いた。
その剣はもちろんのこと、鈴能勢の︻かなりいい剣︼である。
されどそこで感じたのは、一瞬の違和感。
佐野は剣を見て、そして驚いた。
抜き出した剣は半ばから折れ、刀身の上半分がなかったのである。
何故、と思った。
だが、腰の鞘を見て、すぐに理解する。
鉄の破片が、鞘に突き刺さっていたのだ。
﹁なんだこりゃあ﹂
榴弾は炸裂し、死の破片となって佐野を襲っていた。
この︻かなりいい剣︼が、その破片から佐野を守っていたのであ
る。
﹁糞、このポンコツが!﹂
佐野は︻かなりいい剣︼を叩きつけるように投げ捨てて、さらに
腰のベルトから鞘を外すと、後はただひたすらに走った。
途中、死体から剣を奪って、北へと駆けに駆けていく。
410
﹁はぁっ、はぁっ、はぁっ﹂
どんなに肺が苦しくても、走ることをやめない。
やがて、体が限界を迎えた頃、佐野はその場に突っ伏した。
︵なんだ、あれは! なんなんだ、あれは!?︶
佐野が見たものは明らかに車。それも軍用車。
息を整えながら考える。
今だからこそわかる。
敵の攻撃が魔法でもなんでもなく、元の世界の兵器︱︱大砲であ
ったことが。
︵クソ! あの藤原のクソが! 俺を騙しやがったな!︶
佐野は強く憤った。
己は騙されたのだと、信秀が銃の他にも武器を持っていたのだと、
怒りを激しくさせた。
もっとも、信秀は別に騙してなどいない。
ただ、なにも言わなかっただけである。
﹁絶対に許さねぇ⋮⋮﹂
佐野の心に恨みだけが積もっていく。
だが今はその恨みを晴らす術はない。
とにかく生きること、これが最優先だ。
しかし、これがなかなか難しい。
411
もう赤竜騎士団には戻れないことを佐野はよく理解していた。
降伏勧告の使者から戻ってきた日。
銃は僅かしかなく、とるに足らない存在であると佐野は指揮官ら
に言った。
敵は貧弱だと、銃以外に特別な武器はないのだと言ってしまった
のだ。
︵大砲があるなんてわかるかよ! あんなの反則じゃねえか!︶
佐野の中に再び信秀への怒りが湧いた。
︵そもそもあいつのカードはなんなんだ。︻銃︼に︻大砲︼に︻車︼
。どんだけのものをあいつは貰ってるんだよ!︶
己が神から貰ったのは︻剣の才︼︻小︼︻★︼。
これだけ。
ズルいじゃないかと、佐野は、信秀、さらには神に向かって怨嗟
の声を胸の内で吐き出した。
暫くして佐野は、とにかく北へ帰ろうと思った。
食料については、村で軍がいない時を見計らって奪えばいい。
馬についても、川沿いを歩いていれば、はぐれた馬の一頭や二頭
が見つかるはずだ。
佐野がゆっくりと荒野を歩く。
怪我はしていないのに、体は重い。
それでも、歩かなければ死ぬだけだ。
だから歩いた。
412
やがて夜になった。
地面に尻をつけ、腰の袋を漁る。
袋の中には半日分の食料がある。
佐野は取り出した干し肉を少しだけかじった。
新たに食料を得るまでは、節約しなければならない。
ひもじさが、信秀への憎しみを増幅させていく。
︵藤原、あいつだけは絶対に許さねえ⋮⋮必ず殺してやる⋮⋮︶
いや、信秀に対してだけではない。
この世界に送り下等なカードを寄越した神にも、馬鹿正直に正面
から攻めて敗れた指揮官にも、この戦いを計画した王を始めとする
城の者達にも怒りを覚えた。
現状の不幸を誰かのせいにする。
それが佐野という男であった。
そんな時、佐野の脳裏に鈴能勢の頼りない顔が浮かんだ。
︵そうだ、鈴能勢のところに一旦戻るか︶
鈴能勢には大きな恩を貸している。
鈴能勢がこの世界で生きていけるのは己のおかげだ、と佐野は真
面目に考えていた。
︵しばらくはアイツの下でほとぼりが冷めるまで︱︱︶
ジャリ、という地を踏む音が鳴った。
心臓がにわかに跳ね、佐野は剣を手にとって、飛び上がるように
413
立ち上がる。
そして顔を音のあった方へ向けた。
そこにあったのは無数の光る目。
リンクスと呼ばれる大型の猫である。
﹁食事の心配はいらなそうだな﹂
佐野はニヤリと笑い、剣を抜いた。
その双眸は暗闇でありながらも、はっきりとリンクス達の姿を捉
えている。
その両耳は明らかなリンクス達の気配を感じ取っている。
剣を縦には構えず、横に倒した。
複数の敵。
横の切り返しこそが、重要であると佐野の本能が、︻剣の才︼が
教えてくれる。
ジリジリと四匹のリンクスが間をつめる。
だが佐野には余裕があった。
これまでに獣を何十とほふっており、熊ですら佐野は倒している
のだ。
敵ではないと佐野は思った。
﹁お前らに名前をつけてやるよ。
お前も、お前も、お前も、お前も⋮⋮お前ら全部、藤原だ。
ぶっ殺してやる﹂
途端、四匹のリンクスが一斉に佐野へと襲いかかった。
414
﹁雑魚が!﹂
気合いと共に、左から右へと横一文字に剣を払う。
それは一匹目の前足と喉仏を斬り裂き、二匹目の頭蓋を砕き、そ
して三匹目の︱︱。
﹁︱︱え?﹂
間抜けな声が、佐野の口から漏れた。
剣は二匹目の頭蓋を切断できず、その頭に食い込んだところで止
まっていたのだ。
両腕に持った剣の先に、二匹目のリンクスの体重が乗り、佐野は
その重さに振り回されるようにつんのめる。
この時、三匹目のリンクスは、横から二匹目のリンクスがぶつか
り体勢を崩している。
︱︱そして、四匹目のリンクスが佐野に猛然と飛びかかり、その
左上腕部に食らいついた。
﹁ぐああああああああ!﹂
リンクスにのし掛かるように噛みつかれ、体勢を崩す佐野。
痛みと衝撃で、剣は思わず手放した。
﹁この糞が! 離れろ離れろよ!﹂
佐野は倒れながらも、両腕でリンクスを必死に引き剥がそうとす
る。
415
だがリンクスはその体を佐野にピタリと密着させて、たとえ殴り
付けようとも離れはしない。
佐野の腕から血がどんどんと流れ出る。
段々と力が抜けていく。
すると佐野の目に、三匹目のリンクスが近寄るのが見えた。
﹁マジかよ⋮⋮﹂
三匹目のリンクスが、佐野の首を狙って駆ける。
佐野は空いた右腕で首をかばい、その前腕部を相手の口許に差し
出した。
二匹のリンクスに噛みつかれたまま、ただ時間が過ぎていく。
肉食動物は一度獲物に噛みついたら離さない。
止めをささずとも、血を出しつづければ死ぬとわかっている。
それは自然の残酷さ。
そのため、二匹のリンクスに噛みつかれてなお、佐野は容易には
死ねなかった。
死をゆっくりと感じていったのだ。
﹁嘘⋮⋮だろ。いやだ⋮⋮死にたくねえ⋮⋮こんなところで⋮⋮﹂
佐野は剣の素人でありながらも、猪を、熊を倒している。
その分厚い肉を、その分厚い骨を断ち切っている。
通常、猪はともかくとしても熊を倒すことは、剣の熟練者でも難
しい。
では、何故それを佐野ができたのか。
416
全ては︻かなりいい剣︼と︻剣の才︼︻小︼の両方があってなせ
る業であった。
佐野の剣術は︻かなりいい剣︼に慣れすぎていた。
剣の質に頼った速さばかりの剣、それが佐野の剣術だった。
そのため、︻かなりいい剣︼が切れ味の鈍い︻普通の剣︼になっ
た時、佐野の剣術は、ただ速いだけの三流剣術と成り果てたのであ
る。
﹁誰か⋮⋮助けて⋮⋮神様⋮⋮﹂
呟くように、夜空に浮かぶ星の海を眺めながら言った。
もう一度チャンスをと、神に祈った。
﹁藤、原⋮⋮鈴、能勢⋮⋮﹂
助けてくれるのならば誰でもいい。
もう復讐なんて考えないから。
そう思って、信秀の名を呼んだ。
今度はお前が助けてくれ。
そう思って、鈴能勢の名を呼んだ。
﹁⋮⋮助、け⋮⋮て⋮⋮﹂
けれど、その声は誰にも届かない。
417
39.戦争 3
夜となった。
北門裏には、ヘッドライトを点灯させた二台のトラックと装甲車
が並び、車両の前には32名の狼族︵内、運転手2名︶と30名の
猫族︱︱計62名の者が整列していた。
これより俺達は夜襲に向かう。
狼族はその信頼性を、猫族は夜目の良さから、今回の夜襲の参加
をそれぞれの族長に頼んだ。
つまり、並んでいるのは両族長が選抜した者である。
その者らの前に立ち、各々の顔を眺める。
皆、やる気十分といった顔立ちだ。
そこで、おや、と目を留めた。
列中には、狼族のミラがいたのである。
かつて町から逃げ出した頃とは違い、今は大人びた雰囲気を纏っ
ているミラ。
彼女は真剣な眼差しで、ただ前だけを見つめていた。
人間に対する強い恨みがまだあるのか、ないのか。
夜襲のメンバーから外すべきかとも思ったが、ジハル族長がなん
の考えもなしに選ぶわけがない。
私怨に囚われて、足並みを乱すなんてことはないだろうと信じる
ことにする。
418
そして俺は、皆に向かって口を開いた。
﹁これより、敵を攻めます。これは敵を殺すことが目的ではありま
せん﹂
俺の言葉を、皆は黙って聞いている。
選ばれた者という自覚がそうさせているのだろう。
いつもなら、ざわつくような話だ。
俺は続けて言う。
﹁相手に、もう戦えない、戦いたくないと思わせる、相手の心を粉
々になるまで打ち砕く戦いです。
まあ、簡単に言えば、嫌がらせに次ぐ嫌がらせみたいなものです
かね。
ということで、こんな戦いで怪我するのも馬鹿らしいので、安全
第一でいきましょう。
では、乗車!﹂
号令と共に、狼族、猫族の者達が二台のトラックに乗り込んだ。
また、トラックの後ろには、︻四斤山砲︼をロープでくくりつけ
て牽引するようにしている。
﹃一番車、乗車完了しました﹄
﹃二番車、乗車完了です﹄
装甲車の運転席で、各運転手に渡したトランシーバーから連絡が
来た。
こちらも準備は万端だ。
419
﹁では出発します﹂
トランシーバーに向かって出発を告げて、装甲車のアクセルを踏
む。
﹁お気をつけて﹂
門の横には見送りにジハル族長が来ていた。
俺しか乗っていない装甲車を先頭にして、門を潜り、荒野を走る。
敵の陣営地まではわずか4キロ。
トラックが牽引している︻四斤山砲︼をひっくり返さないために、
ある程度速度を抑えて道を進んだ。
10分ほどが過ぎ、敵の陣営地が近くなる。
すると陣営地の方から、カンカンカンカンと鐘の音が鳴った。
夜襲を知らせるためのものだろう。
ヘッドライトを点けているため、俺達が来たことは相手側に丸分
かりだ。
まあ、何の問題もないが。
各車両を陣営地からおよそ500メートルの位置に停止させる。
獣人達が下車し、砲兵が︻四斤山砲︼の準備をする中、俺は運転
席から︻12.7㎜重機関銃M2︼を装着したキューポラ︵展望塔︶
へと移動した。
︻12.7㎜重機関銃M2︼6億円︵定価600万円︶
420
取り扱いについては、自衛隊の︻教本︼で学習済みである。
12.7㎜という大口径の弾丸に、その優れた連射性能と1キロ
を超える有効射程。 はっきりいって、これさえあれば大抵の敵は倒せるんじゃないか
と思う。
もっとも、今回の夜襲での使用は敵が向かってきた時のみだ。
やがて︻四斤山砲︼の砲撃準備が整った。
﹁射撃用意⋮⋮撃てぇ!﹂
俺の合図によって、二門の︻四斤山砲︼の砲身からドンッ、ドン
ッという音が鳴る。
どこかを狙ったというわけでもない砲撃は、敵の広い陣営地のい
ずれかの場所に着弾した。
◆
︱︱夜。
陣営地の天幕にて、ミレーユは鎧も脱がずに、寝台で体を休めて
いた。
目は閉じてはいたが、眠ってはいない。
敵のことを考えるとどうしても眠れなかった。
すると、カンカンカンカンと物見台に設置した鐘が鳴り響いた。
まさか
は当たっていた。
まさか、と思いミレーユは身を起こす。
そして、その
﹁敵だっ! 敵が来たぞっ!﹂
421
外から聞こえたのは、敵の来襲を知らせる声。
﹁くっ!﹂
ミレーユは、顔に苦渋の色を浮かべながら、立て掛けてあった剣
を取って天幕を出た。
﹁逃げろ! 殺されるぞ!﹂
﹁早くここから出るんだ!﹂
外は混沌としていた。
誰も彼もが戦う気などなく、ただ陣営地から逃げ出そうとしてい
るのだ。
これでは抵抗などできようはずもない。
ミレーユは即座に退却することを考えた。
だが、退却するにも、やらなければならないことがある。
﹁誰か! 輜重はどうなっている! 知っている者はいないか!﹂
さしあたって、輜重の管理は最重要事項であった。
食物がなければ、人は生きてはいけないのだから、これは当然の
ことといえよう。
されど、ミレーユの声に誰も耳を傾けるものはいない。
皆は北へと逃げ惑うばかりであった。
﹁おい、お前!﹂
ミレーユは、目の前を通りすぎようとした騎士の腕をつかんだ。
422
騎士は鬱陶しそうに、ミレーユをギロリと睨みつける。
まるで上官を上官とも思っていない、その態度。
しかし、それを責める暇すら今は惜しい。
﹁今から食料がどうなっているか見に行く、ついてこい﹂
﹁⋮⋮なせ﹂
﹁なに?﹂
﹁離せよ!﹂
その騎士は、もはや上下の関係を取り繕う余裕すらなくなってい
た。
騎士がミレーユの腕を振りほどこうとする。
しかし、ミレーユの力は魔力によって人一倍強く、簡単にはいか
ない。
すると騎士は吐き捨てるように言った。
﹁食料なんざ輜重隊の仕事だろーが! そんなに気になるんなら、
てめえ一人で行けよ!﹂
ミレーユは、もう騎士の腕を掴んではいなかった。
ただ騎士が走り去っていく後ろ姿を呆然と眺めるだけである。
あの
音だとミレーユは思った。
そして南の方から、ドンッという音が聞こえた。
獣人の町でも聞こえた不可視の攻撃音。
そしてその直後に、脳髄にまで響くような激しい音が、陣営地内
423
から聞こえた。
これにより兵達の混乱はいっそう激しくなり、皆、必死の形相で
陣営地から逃げ出していく。
ある男などは、天幕の前に繋いでいたミレーユの馬に乗って、去
っていった。
ミレーユはそれを咎めることもできず、ただ見つめるだけである。
南から、再びドンッという音が聞こえ、陣営地のどこかで激しい
音が鳴り響く。
ミレーユの胸に、昼間の恐怖が甦る。
音
を聞いてみると、その音源は二つしかないので
だがその時、ミレーユはあることに気がついた。
落ち着いて
ある。
獣人の町では、何十とあった敵の攻撃音。
それがたった二つ。
もしかすると、軍が一丸となれば敵に勝てるかも知れないとミレ
ーユは思った。
だが、すぐに首を振る。
︵今さらなんだというのだ。
こんな軍の有り様では、もうどうしようもないではないか︶
もはや軍の体を成していない。
それは自身の将軍としての未熟さ故のことでもある。
もしバルバロデムが生きていたなら、どうであっただろうか。
そんなことを考えながら、ミレーユは己の不甲斐なさを噛み締め
る。
424
﹁くそ!﹂
ミレーユは悪態を一つ吐き、余分な考えを全て捨てた。
今考えることはそんなことじゃない、食料についてだ。
食料は必須。
北の村までは、ここから25キロ近く離れていた。
だというのに、この状況では誰も食料を運んでない可能性がある。
それゆえ、ミレーユは食料庫へと急いだ。
食料庫につくと、食料を荷車に積み込んでいる一人の農民兵がい
た。
向こうもこちらに気付いたようで、互いの目が合った。
﹁騎士様﹂
その農民兵は一言呟いて頭を下げたが、手を休めることをしない。
ミレーユは近寄って言う。
﹁お前は逃げなくていいのか﹂
﹁へへっ、みんな腹すかせちまうでしょ。これでも俺は、輜重隊の
班長なんで。他の班員四名は逃げちまいましたがね﹂
赤茶けた肌の農民兵であった。
騎士
であると思
髪はボサボサ、無精髭が生え、その笑った顔はお世辞にも綺麗な
ものとは言えない。
だがミレーユは、そんな彼を誰よりも立派な
った。
425
﹁手伝おう﹂
己もできることをやらねばならない。
﹁あ、それなら馬を引いてきてはもらえませんか﹂
﹁ああ、わかった﹂
ミレーユは男の指示に従い、馬繋ぎ場へ駆ける。
そして、走りながらミレーユは思った。
いた、と。
まだ、いたのだ。
自分の役目を全うしようという兵が。
ただそれだけで、ミレーユの心は温かくなった。
その後、すぐに輜重隊の馬繋ぎ場へとたどり着くが、そこに馬は
もういない。
誰かが乗っていったのだろう。
ミレーユは一つ、二つ、三つと、馬を探して陣営地内の馬繋ぎ場
を回っていく。
︱︱そして四つ目。
そこには、馬が一頭だけ手付かずで残っていた。
馬は興奮しており、手綱が結ばれた﹃コ﹄の形をした杭を引き抜
こうと暴れている。
危なくて誰も近寄れなかったのだろう。
426
ミレーユは馬の手綱をつかみ、その豪腕で引っ張ってから叫んだ。
﹁静まれ!﹂
力強い一言。
馬は一瞬ビクリとし、頭を垂れる。
ミレーユが強者であることを、従うべき相手であることを、馬は
知ったのだ。
﹁よし、いい子だ﹂
ミレーユが馬の首を撫でる。
乗馬用の細い馬。
本当ならば牽引用の巨馬がよかったが、贅沢は言えない。
ミレーユは馬を引いて、食料庫へと向かった。
早足で道を行く。
もう陣営地には人はいない。
されど、依然として敵の攻撃の音は聞こえる。
その攻撃の箇所は定まっていないらしく、陣営地の各所で激しい
音が聞こえた。
やがてミレーユが食料庫にたどり着く。
すると、その口から小さな声が漏れた。
﹁え⋮⋮?﹂
それは驚き。
なぜならば、食料庫となっていた大型の天幕が倒れており、食料
427
を積んでいた荷車が無くなっていたからである。
いや、違う。
荷車については無くなってはいない。
そこにはバラバラになった荷車の破片が確かにあった。
つまり、敵の攻撃がここに起こったのだ。
そして︱︱。
﹁あぁ⋮⋮﹂
ミレーユの唇が震えた。
倒れた天幕の入り口部分には足が見える。
一体、誰の足か。
ミレーユは震える腕で天幕を捲った。
そこには、先程の農民兵が血みどろとなって倒れていたのである。
﹁おい! お前!﹂
近寄って肩を揺すったが、何の反応もない。
当然だ。
その腹には大きな穴が開いていたのだから。
﹁あぁ⋮⋮ああ⋮⋮!﹂
何故だ、とミレーユは思った。
敵の攻撃の音は一度にたった二回しかない。
ここ
なのだ。
この広い陣営地で無事な場所は幾らでもある。
なのに何故
428
納得のできない、行き場のない気持ちが、ミレーユの胸の辺りか
らじわりと染みだした。
﹁神よっ! ああ、神よっ!﹂
天に向かってミレーユは叫ぶ。
それは嘆き。
敵の攻撃が起こるなどという偶
﹁我らが一体何をした! なぜこのような試練を我らに与えたもう
のか!﹂
たまたま
叫ばずにはいられなかった。
この広い陣営地内。
農民兵がいた場所に
然は、神の差配としか思えなかった。
なればこそ、獣人達にされるがままの現状もまた神の仕業ではな
いのか、とミレーユは天に向かって思いの丈をぶつけたのである。
だが、天から声が返ってくるわけもない。
ミレーユは一頻り叫ぶと、近くにあった食料が入った袋をとって
馬に乗った。
気付けば攻撃の音は止んでいる。
背後からは火矢が飛び、陣営地が燃えはじめた。
﹁さらばだ﹂
名も知らぬ農民兵に別れを告げて、ミレーユは馬を駆けさせた。
馬は北へと進む。
429
その途中、通りすがる者達にミレーユは叫んだ。
﹁北へ、足の動く限り北に行け!﹂
敵はわざわざ陣営地に攻めてきた。
ならば、逃げる者へ追撃があるのは必然である。
ミレーユは、何人が生き残れるのだろうかと心をむなしくさせた。
だが、意外なことに敵の追撃はなかった。
約25キロの道のり。
陣営地から5キロ離れた地点で、敵の追撃がないとわかると、ミ
レーユは兵をまとめ、川沿いをいった。
食料はほとんどない。
そのため幾つかの馬を潰し、それを食料とした。
皆疲れ果てていた。
睡眠もとっていない。
だがそれでも、何かに追いたてられるように足を動かした。
そして夜が明ける。
日が顔を出すと、夏の日差しがさらに体力を奪っていく。
一人また一人と、集団から遅れていった。
村はまだだろうか、もう見えるころだろうか。
そう何度も思い、ミレーユは幾度も遠くへと目を凝らす。
やがて見えてきたのは、村があった場所より立ち上る黒い煙であ
った。
430
まさか。
まさか、まさか、まさか。
ミレーユの胸を強い焦燥感が襲った。
﹁くっ!﹂
ミレーユが、集団を離れて馬を走らせた。
駆けて駆けて、そしてたどり着く。
そこにあったのは、真っ黒い燃えかすとなった村。
木でできた物が、未だところどころで燃えており、黒い煙を上げ
ていたのである。
﹁ああ⋮⋮﹂
もう何度思っただろう。
ミレーユは、何故、どうしてと心の中で呟いた。
ミレーユが馬を返し、一団へと戻る。
ここで立ち尽くしていては、他の者がやって来てしまう。
彼らにこの村の姿を見せてしまったら、心が折れてしまうだろう。
集団に戻ると、騎士の一人がミレーユに尋ねた。
﹁団長、村は⋮⋮?﹂
ミレーユは答えなかった。
歯を食いしばって言葉を飲み込んだ。
口に出してしまえば、弱音までも吐いてしまいそうだったから。
将として、毅然であらねばならない。
431
﹁ここで休憩をする﹂
それだけをミレーユは伝えた。
皆も悟っていたのだろう。
何も言わなかった。
この休憩で、ミレーユが乗っていた馬も食料となり、一団は再び
北へ向かう。
ゆっくりとした歩みの中、先程の騎士がミレーユに再び質問した。
﹁団長、次の村は⋮⋮﹂
その騎士が言葉を最後まで紡がなかったのは、不安の現れだろう。
もしかしたら、次の村にも獣人の魔の手が伸びているんじゃない
のか、という不安。
﹁大丈夫だ。きっと大丈夫。だからもう少し頑張ろう﹂
偽りの励まし。
ミレーユの心にも、ただ不安だけがあった。
432
40.戦争 4
先頭には俺が運転する装甲車、その後ろには二台のトラックが縦
に並んで、夜の荒野を砂煙を上げながら走る。
二つ目
の人間の村。
やがて到着したのは、サンドラ王国軍が補給地として利用してい
たという、南から数えて
村については、町の防衛戦で捕らえた者から、一通りの話は聞い
ている。
なんでも町を攻めるために、わざわざ下層の民を入植させて、町
まで一本の線となるように村を幾つもつくらせたとのこと。
ちなみに一つ目の村は、既に焼却済みだ。
その際、村人に危害は加えていない。
クラクションで村人をたたき起こし、サンドラ王国軍の末路を説
明したのちに、急いで旅の支度をさせて村から出ていってもらった。
一方的な話し合いではあったが、三台の大型車両の威容に、村人
達も逃げないわけにはいかなかったと思われる。
さて、今俺の目の前にある二つ目の村。
木の柵で囲まれた敷地内に、天幕が幾つも並んでいる。
俺は、まずは挨拶代わりに、クラクションを思いっきり鳴らした。
静かな土地だ。これで起きない者は、そういないだろう。
運転席の上部ハッチを開けて耳を澄ますと、人のざわめきが聞こ
えてきた。
433
そして、次に取り出したるは、︻拡声器︼である。
﹃サンドラ王国軍は敗れたぞ! 村の長は出てこい!﹄
拡声された俺の声が、夜の荒野一帯に響き渡る。
暫くして、村人達がなけなしの武器や、武器とも呼べぬ農具を持
って現れた。
一番前にいる壮年の男がおそらくは村長だろう。
﹃お前が村の長か!﹄
たとえ近くにいたとしても︻拡声器︼の使用はやめない。
声の大きさによって、相手を威圧するためだ。
すると男は、おっかなびっくりといった様子で頷いた。
﹃サンドラ王国の軍は敗れた! これは事実だ! お前達にはこの
村から出ていってもらう!﹄
﹁そんな!﹂
村長の悲鳴のような声。
村人達もざわざわと騒がしくなる。
﹃お前達に与えられた選択肢は二つ! この地に留まって皆殺しに
されるか、それとも荷物をまとめて北へ逃げ出すかだ!
既に、南にある村は燃やし尽くしたぞ! さあ、どうする!﹄
無論、彼らを殺すつもりはない。
彼らは下層の民。
国から援助を受け、開拓民としてこの地にやって来た。
434
つまり、彼らはなにも悪くはないのだ。
敵国の人間とはいえ、そんな者を殺すのはあまりに忍びない。
とはいえ、俺の言葉を受け入れてもらえない時は、村に火をかけ
てでも、無理矢理に出ていってもらうことになるが。
そして村長と村人達はその場で話し合い、﹁すぐに出ていく﹂と
言って準備に戻った。
やがて、村人達が去ったのを確認すると、獣人達が松明を持って
各所に火を放っていく。
空気が乾燥しているため、よく燃える。
村は真っ赤な炎に包まれ、昼間のように辺りを照らし出した。
﹁お疲れさまでした﹂
戻ってきた獣人達に、慰労の言葉をかける。
空はもう、夜明け前だ。
真っ暗だった空は、地平線の端から白い光を浴びて、その色を僅
かに明るくしている。
﹁今から、一度町に戻ります。その前にここで休憩していきましょ
うか﹂
俺はそう言って、装甲車の後部座席から︻弁当︼を下ろして、獣
人達に渡していった。
もちろん、はじめから用意していたものではなく、ついさっき︻
購入︼したものだ。
︻ハンバーグ弁当︼︻×63︼5万円︵定価500円︶×63=3
435
15万円︵定価3万1500円︶
わざわざ夜襲に参加させている者達である。
少し位、贅沢させてもいいだろう。
まあ、贅沢とはいっても、実際は高々500円のコンビニ弁当な
わけであるが。
それでも皆は、ソースがかかったハンバーグを口に運ぶと目を丸
くし、次いで美味しそうに頬をほころばせた。
食事の後、車両は進路を町へと向ける。
町までの直線距離は80キロといったところだが、今はまだ敵兵
に見つかりたくないので、川がある東側とは逆の西側に、大きく膨
らむような進路をとって、町に戻った。
夜襲に参加した獣人達には半日の休憩を与え、その後、再び出撃
となる。
◆
ミレーユは、生き残ったサンドラ王国軍を率いて、川べりに沿っ
て北へと歩いていた。
その数は1000人余り。
隊列は組んでおらず、烏合のように秩序のない人の群れである。
そして、もう食料はなかった。
少しでも歩く速度を上げるために、農民兵も騎士も鎧を脱ぎ捨て
て歩く。
だが、戦いによる心身の疲労に加え、空腹まで重なった行軍はそ
う易くはない。
436
特に騎士の消耗が激しかった。
飢えることに慣れていないのだ。
﹁騎士団長様、これを﹂
ミレーユが先頭を歩く中、赤い髪をした農民兵が横にやってきて
声をかけてきた。
その手には、大きめの鼠が握られている。
この撤退行進の最中に捕まえたのか、とミレーユは驚いた。
そして、騎士にはないたくましさだ、とも思った。
﹁そうだな、少し休憩にするか。
私はいい、それはお前が仲間達と分けあって食べよ。
皆の者、休憩だ! しっかりと水を飲んでおけ! 暑さにやられ
るぞ!﹂
ミレーユが叫ぶと、乱雑とした集団は歩みを止め、ある者は川へ、
またある者はその場に座り込んだりと、思い思いの行動をとり始め
る。
疲れたとミレーユは思った。
声を出すのも億劫。
座ってしまえば、もう立ち上がれないかと思うほどに、心身共に
疲れ果てている。
だが、軍を率いる者としての責任が、己の体をなんとか動かして
いた。
ぐぅ、と腹が鳴る。
あまりの空腹に胃液が喉元まで迫り上がった。
437
といっても、食べるものなどない。
先程の鼠も断ったばかりだ。
ミレーユは仕方なしに水辺まで下り、腹一杯に水を飲んで空腹を
誤魔化した。
すると、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
先程の者かと見てみれば、少し状況が怪しいようだ。
﹁おい下民、それを寄越せ﹂
農民兵達が、火を囲んで肉を焼いているところに、騎士の数人が
それを横取りしようとしていたのである。
﹁何をしている!﹂
無論のこと、ミレーユが止めにはいった。
だが騎士達は、一瞥をくれたのみで素知らぬ顔。
そして、騎士達の中の一人が串に刺さった肉を手早く奪い、集団
の後ろへと去っていく。
農民兵達は恨めしそうに、それを見ていた。
ミレーユはどうしたものかと考える。
あの騎士達を斬ることは簡単だ。
だが、そうすれば、騎士達が造反を起こすかもしれない。
結局、ミレーユがやれることは、あの不埒な騎士達に成り代わっ
て、謝ることだけだった。
﹁すまない﹂
438
﹁いえ⋮⋮﹂
しかしミレーユが謝罪しても、農民兵の返事は芳しくない。
その顔は、少しも納得していないようであった。
ミレーユはその場を離れ、本当にこれでいいのか、と自問する。
仲間割れは避けねばならない。
だが、そのせいで農民兵が泣きを見るはめになっている。
多くの騎士は、もうミレーユの指示を聞こうともしない。
ただ、人が多くいるところに、安心を求め、この集団に加わって
いるにすぎなかった。
ミレーユが、ハァとため息を吐く。
強くさえあれば、指揮官が務まると思っていた。
だが、弱者に落ちた時、もう己にはなんの価値もないことを知っ
たのである。
休憩が終わり、再び集団は歩き始める。
身は軽いというのに、皆の足は重く、集団は前へと進まなかった。
これでは次の村まで、一日ではつきそうにない。
やがて夜となり、早めに野営をすることになった。
前日は夜襲によって、皆ほとんど眠れていなかったためである。
そして一夜が明け、翌日の昼過ぎのこと。
荒野を頼りない足取りで歩くミレーユ達の前に、村の影が見えた。
その外観は、近づけば近づくほどに、ハッキリとしてくる。
︱︱村は、ただ黒い灰が舞うだけであった。
439
すると、ミレーユの足からフッと力が抜けた。
片膝と両腕を地につけて、その眼前にあったのは乾いた大地。
そこに、ポツリポツリと雨のようにシミができる。
それはミレーユの涙であった。
嘆く気力すらない。
ポキリと心の柱が折れてしまったように、もう無理だとミレーユ
は思った。
涙でできたシミは、乾いた風にさらされて消えていく。
︱︱その刹那。
﹁⋮⋮て、敵だ! ば、化物だ!﹂
集団の中から上がった声。
ミレーユは力なく緩慢な動作で顔を上げた。
そして見る。
馬もなしに動く、四角い巨大な物体。
それが三つ。
﹁なんだあれは⋮⋮﹂
ミレーユの口から漏れた驚愕の声。
ここまでの行軍、ミレーユはただ皆を励ましながら歩いてきたわ
けではない。
その途中、陣営地で敵の夜襲を知らせた物見兵より、敵について
話を聞いていた。
物見兵が見たものは、光の魔法を明かりとして、大きな馬車が三
440
台あったのだという。
︵大きな馬車? 違う。あれに馬などいない︶
それは独りでに走る、巨大な箱車であったのだ。
驚くべきなのは、その大きさにもかかわらず、馬もかくやという
異常な速度。
あんなものに轢き殺されては一溜まりもない。
太刀打ちする気など起きようはずもなかった。
﹁これまでか⋮⋮﹂
ミレーユは静かに立ち上がり、ただ一言呟いた。
逃げる者はいない。
誰も彼もが、心も体も消耗し尽くしていたのだ。
すると、三台の箱車はミレーユ達をその車体で蹂躙することなく、
一定の距離をおいて停止した。
そして、一人の男が箱車より顔を出す。
441
41.終戦
町で休憩をとった後、車両の燃料を満タンにして、再び獣人達と
共に出撃した。
この時、それまで牽引していた大砲は町に置いてきているため、
高速度での車両運行が可能だ。
時速80キロで北へと進み、たどり着いたのは南から数えて三つ
目の村。
これを前日同様に焼き払い、さらに北へ数十キロ移動し、四つ目
の村も躊躇いなく焼き払った。
これで、町の北およそ200キロには、もう村がないことになる。
まだまだ北には村があったが、とりあえずはここまでとした。
焼かれた村の住人達が、他の村々に行けば、自ずといなくなるか
もしれないし。
そしてこれよりは、補給地を焼かれて消沈している敵兵を追い立
てて、その心をさらに挫くつもりで進路を南にとったのだが⋮⋮。
﹁見当たらないな﹂
装甲車の運転席で俺はポツリとこぼした。
二つ目の村のところにまで戻ったのだが、それまでに敵の姿は影
も形も見当たらなかったのだ。
道中にいたのは、先に焼いた村の住人ばかりである。
もうじき来るだろうかと思い、村の西にある小さな丘に車両を隠
442
し、敵兵を待つことにした。
村が焼け落ちているのを知った、その絶望の瞬間に襲いかかるた
めだ。
されど敵はなかなか現れず、遂には夜となり、仕方なく町に帰投
した。
一夜明け、俺達は早朝から出撃し、昨日と同じ場所で待機する。
そして、昼過ぎのこと︱︱。
﹁来たか﹂
南東より現れた人間達。
1000人は確実にいるであろうその集団は、鎧こそ着ていなか
ったが、皆武器を持っており、紛れもなくサンドラ王国軍の者達で
あった。
﹁皆、フラフラだな﹂
丘の上で身を屈めながら、双眼鏡で敵の様子を探る。
獣人達については敵を発見した瞬間から乗車済みだ。
憔悴しきっている。
そんな印象を受ける敵に対し、俺は思わず笑みが溢れた。
他人の不幸は蜜の味なんていうつもりは更々ないが、己に害をな
そうとした者達の不幸を笑わないほど、人間ができているわけでも
ない。
あえて奴等になにか言葉をかけるならば、﹃ざまあみろ。自業自
得だ﹄といったところか。
443
俺は胸がすくような気持ちで装甲車に乗車し、トランシーバーで
他の車両に出発を伝える。
﹁これより出発。トラックは装甲車の左右、やや後方に位置するよ
うに﹂
﹃了解﹄
﹃わかりました﹄
敵に威圧感を与えるために、車両隊形は俺の装甲車を真ん中にし
て、横に広がった逆V字の形で進ませた。
土煙をあげながら、馬よりも速く走る巨大な鉄の車。
この世界の者には、さぞや恐ろしく映ることだろう。
俺としては、﹃さあ、逃げろ﹄といった心持ちだ。
しかし敵兵達は、こちらに気づいたにもかかわらず、逃げようと
しない。
よく見れば、彼らは荷車などを一つも引いていなかった。
﹁なるほど、食料が足りないからあの弱々しさか﹂
食べ物もなく、逃げる気力もない。
もう既に限界なのだろう。
まあ、俺もそのつもりで村を潰したんだが。
敵に近づくにつれ、誰も彼もが立っているのがやっとであり、半
死半生という言葉が相応しい有り様であることがわかった。
444
これならば、追いたてる必要もない。
俺は、敵兵の集団から、ある程度の距離をとって車を停止させる
と、︻拡声器︼を使って呼びかける。
﹃武器を捨てよ!﹄
敵兵達は、︻拡声器︼を使った声の大きさに僅かに動揺を示した。
その驚きのせいか、一向に武器を捨てる様子はない。
仕方がないので、もう一度言う。
﹃武器を捨てよ! 皆殺しにするぞ!﹄
すると皆、ギョッとした顔になった。
そして誰か一人が武器を捨てると、それに続くように他の者も武
器を捨てていく。
続けて、俺は問いかける。
﹃何故、我々の町を襲った!﹄
これは別に尋ねるまでもないことだ。
その理由は︻香辛料︼を我が物にしたかっただけだろう。
そしてサンドラ王国は、俺や獣人達を奴隷のように扱うつもりだ
ったに違いない。
では、何故こんなわかりきったことを、わざわざ尋ねたのか。
決まっている。
相手を困らせるため︱︱要は勝利者という立場を利用した嫌がら
445
せであり、俺の憂さ晴らしだ。
現に、目の前の者達から返答はない。
それはそうだ。
もしかしたら、サンドラ王国側には何かしらの大義名分が用意さ
れていたかもしれない。
だが、それはあちら側にしか通用しない話。
こちら側からしてみれば、何を言おうともただの侵略行為にすぎ
ず、今彼らの命が俺に握られている以上、下手なことを述べれば、
殺されてしまうかもしれないのだから。
﹃我々から、お前達の国に害を与えたことはない! むしろ利益を
与えていたはずだ!
だというのに、強欲にもお前達は、我が町を己のものにしようと
攻め込んできた!
お前達のその傲慢さが、自身の身を滅ぼしたのだと知れ!﹄
うむ、この正論。
ちょっと説教っぽいが、正直いって気持ちがいい。
というか、二度も攻めてきやがって、このすっとこどっこい共。
本当にいい加減にしろよ。
すると、敵兵の中から一人が立ち上がって前に出る。
それは女だった。
赤竜騎士団の団長が王の娘であることは、捕らえた兵から聞いて
いる。
名前はたしか、ミレーユ・サン・サンドラだったか。
﹁私はサンドラ王の娘、ミレーユ・サン・サンドラ。
446
国の罪は私の罪でもある。だから、私を殺せ。その代わり、他の
者は助けてほしい﹂
ミレーユは跪いて、願いを乞うた。
その目には光がなく、その声も酷く弱々しい。
他の者のために己が死んで犠牲になる、というよりも、ただの自
殺願望者のように思えた。
俺は、ミレーユの願いを無視して言う。
﹃農民の兵には罪がない。お前達の罪は国が背負うべきものだ。
それゆえ、農民兵は助けてやる。食料も渡そう。
だが騎士は違う。お前達は国に所属し、戦うことを生業としてい
る。国の罪は、騎士の罪でもある。よって、騎士は許すことができ
ない﹄
捕らえても銀貨一枚の価値にもならないであろう農民兵など、逃
がすに限る。
あとは地元に帰って、俺の慈悲深い心について宣伝でもしてくれ。
だが、騎士は許さない。
といっても、殺すわけじゃないが。
捕らえて多額の賠償金を要求する。
それだけだ。
しかし、当の騎士達は殺されると思ったのだろう。
これまでの元気のなさが嘘のように、口々に文句を言い始めた。
生
が転がっているということ。
農民兵は助かる、おまけに食料も手に入る。
それすなわち、目の前に
447
それゆえ、騎士達も必死なのだ。
だが、俺は一切取り合わない。
﹃ミレーユ・サン・サンドラ。お前が決めろ。
おとなしく従うのか、従わないのかを。
言っておくが、こちらは考えを曲げるつもりはないぞ﹄
従わない場合は、まあ一戦交える以外に道はないだろう。
いや、その必要もないか。
一旦引き返し、飢えて完全に動けなくなったところでまた来よう。
その頃には、農民兵と騎士で仲間割れが起こって、悲惨な結末が
待っていそうだが。
俺はミレーユの顔をジッと見つめて、返答を待った。
﹁⋮⋮そちらに従おう﹂
潔い答えだと思う。
しかし、騎士達は納得いかなかったようで、非難の的はミレーユ
へと向かった。
お前が死ねと。お前だけが責任をとって死ねと。
他の騎士を巻き込むなと。
挙げ句、ミレーユがこの戦争を始めたのだと、俺に訴える者まで
現れた。
それは、もしかしたら正しいことなのかもしれないが、今の俺に
は判断のつかないことである。
448
というわけで、俺はハンドルのクラクションを鳴らした。
やかましい音が辺りに響き、それにより、その場にいた者は皆、
面白いように驚いて地面に尻餅をつく。
音というものに、相当の恐怖を抱いていることがよくわかる結果
だ。
﹃言っておくが、逆らう者は容赦なく殺す! これは決定事項だ!﹄
つまり、逆らわない者は殺さないということなんだが、相手側か
らしたら切羽詰まった状況であるし、冷静に言葉を読み取ることは
できないだろう。
そして俺の言葉に、なにやら農民兵同士がボソボソと話し合い、
騎士らしき者達から距離を取り始めた。
自分達にまで累が及ぶのを避けるための行動だ。
うん、騎士と農民兵が別々になるのは、わかりやすくなっていい。
すると、農民兵らの中に何人かの騎士が混じろうと試みた。
鎧は着てなくとも、服でわかる。
騎士と農民兵の服では、たとえ血や泥で汚れていようとも、明ら
かに物が違うのだ。
そしてその騎士らは、農民兵に蹴り飛ばされて転がると、そのま
ま集団で蹴りつけられる。
騎士を踏みつける農民。
まさに下克上といった様相を呈していた。
449
特に、赤い髪をした農民兵が鬼のような形相で騎士を踏みつけて
いる。
なにか騎士に対し、恨みでもあったのだろうか。
しかしこのままでは埒が明かないので、話を先に進めようと思う。
﹃心配するな。騎士達は人質だ、命を奪いはしない。国から対価が
得られたなら、解放してやる﹄
俺のネタばらしに、あからさまにホッとした顔を見せる騎士達。
﹃獣人達は下車。ロープを渡すので、それで騎士全員の首と腕を一
繋ぎにしろ。決して油断するな﹄
トラックの後部座席から、下りてくる獣人達。
武器を持つ屈強な獣人に囲まれては、弱りきった騎士など怯える
ことしかできない。
獣人の数人が、騎士達の首と腕に縄をかけていき、騎士達は数珠
繋ぎとなって縛られた。
この一連の行動に、獣人達はどこか誇らしげな顔である。
なお農民兵には、︻味噌︼、︻煎餅︼、︻干物︼を布に包んで渡
してやった。
あまりに準備がよすぎると疑われるかもしれないが、今更な話だ。
農民兵達は、貰った食べ物を少しだけ口に入れると、俺にお礼を
言って去っていった。
また、騎士達にも︻味噌︼と︻煎餅︼を配り、その場で食事させ
450
る。
その横で俺達は︻唐揚げ弁当︼を美味そうに食べた。
︻唐揚げ弁当︼5万円︵定価500円︶×63=315万円︵定価
3万1500円︶
そして食事の後、俺と獣人達は、騎士達に80キロの道を歩かせ
ながら、ゆっくりと町へ戻ることになる。
︱︱こうしてサンドラ王国との攻防戦は一応の幕を閉じたのであ
った。
451
42.戦後 1
町までの長い道のりを、敗残の騎士達およそ200名が、二列の
縦隊となって歩く。
それぞれの首には数珠繋ぎのように縄をかけられており、両腕は
手首の位置でぐるぐると縛られ、その様はまるで犯罪者を連行する
ようであった。
一つ例外があるとするならば、ミレーユである。
列の最後方を歩くミレーユ。
その首にかけられた縄は、他の騎士には繋がっておらず、その縄
の先はミラに委ねられていた。
無論のこと、理由はある。
騎士らに混じってミレーユが用を足そうとし、それを慌てたよう
に信秀が制して、以後は、ずっとこのような扱いになっているのだ。
さて、当初は死に体といってよかったサンドラ王国の騎士達。
暑い日差しに晒されつつ縄に縛られての行進は非常に辛いもので
あったが、腹に物が入ると体に力が戻り、命の保証がされたことに
より目には段々と生気が宿っていった。
生への安堵はやがて慣れ、現状の不満へと変わっていく。
そして騎士達は屈辱を感じた。
下民よりもはるかに惨めな扱い。
さらには、自分達を縛り無理矢理に歩かせる者達が獣人だという
事実。
452
人間以下の存在であるはずの、
あの
獣人なのだ。
これにより騎士達の心には徐々に腹立たしさが湧いていった。
そしてそれは態度になって現れる。
たとえば、休憩が終わったのに立ち上がろうとしない。
たとえば、愚痴が多くなる。
たとえば、罵詈雑言を獣人に聞こえないように、浴びせる︱︱な
どなど。
武器を持っている獣人を恐れ、これくらいならば大丈夫だろうと
いう線を引き、それを踏み越えないようにしつつ、騎士達は態度に
表したのだ。
もちろん全員が、というわけではない。
中にはただ自身の未熟を恥じて、現状を受け入れようとしている
者もいた。
だがそれは所詮僅かであり、大部分の者は、騎士らしからぬ自慰
に耽っていた。
そして、ついに猫族の一人が騎士の口にした悪言を聞いてしまう。
その猫族は逆上し、短槍でその騎士の頭を強く叩いた。
叩かれた騎士は﹁ぐぁっ﹂という声をあげると、ぐらりと揺れる
ように倒れ、他の騎士達も縄に引っ張られて横倒れになる。
﹁何事だ﹂
信秀が車を停止させて、尋ねた。
それにより他の獣人達の視線が、一人の猫族の者へと注がれる。
453
信秀のオレンジのゴーグルの奥から覗く瞳が、その猫族の者へと
向けられた。
﹁こ、こいつが我々を獣人の分際で、などと⋮⋮﹂
猫族の者は、モゴモゴとした口調で弁明する。
信秀は人間である。
人間と戦うに当たって信秀に一切の容赦はないが、戦いの後、人
間に対する配慮があるのを獣人達は知っていた。
それは信秀が人間であるからだと多くの獣人達が思っていた。
信秀のオレンジのゴーグルが、猫族に指差された騎士へと向く。
当該の騎士はまだ目を回しているようだった。
すると言葉を発したのは、目を回している者とは別の騎士である。
﹁あんた、もしかして人間のフジワラ⋮⋮さん、か?﹂
鉄帽に、オレンジのゴーグル、フェイスマスクなんていう信秀の
格好について知っているのは、騎士の中でも僅かしかいない。
だが、人間が獣人達の長であることは、誰もが知ることである。
獣人達の信秀への対応。
今までも信秀が獣人を指揮していたが、今回の猫族の見せたいさ
さかの怯え。
それを見て騎士は、その怯えは同族に対するものではない、と考
え、信秀の正体を看破したのだ。
﹁その通りだ﹂
454
獣人の町の長フジワラであるか? という問いに対する信秀の答
えは是。
それを聞いた騎士は、途端に口を滑らかにした。
﹁あんた人間だろ、だったらなんでこんな真似をするんだ! 俺達
は同族! 人間という同族じゃないか!﹂
人間は人間でしかなく、獣人は獣人でしかない。
人間は人間のために生きるべきであり、なぜ人間が、他種族の味
方になっているのか。
︱︱というのが、騎士の言い分である。
これに騎士達の中から、そうだ! という声が一つ上がれば、ま
た別のところで、その通りだ! という声がした。
たった一粒の水滴がすぐに大きな雨となり、数多の雨音を鳴らす
かのようであった。
﹁お前が人間ならば、我らを解放せよ!﹂
騎士の言葉を、信秀は黙って聞いていた。
それが騎士達の勢いに拍車をかける。
集団心理ともいうべきか、言葉はより暴力的なものへと変じ、信
秀を断罪しようとする。
﹁裏切り者!﹂
﹁人間の裏切り者!﹂
﹁神の教えを忘れたか! この異端者め!﹂
大陸の第一宗教たるラシア教。
大陸に住まう人間は国の隔てなく、これを信仰する。
455
ラシア教の信徒であるということは、この大陸においては人間が
人間であるための必須の要素といっていいだろう。
それゆえに、異端者と呼ばれることは、人間にとって最大の恥辱
の一つとされていた。
﹁この異端者!﹂
やがて騎士達の放つ悪言が﹁異端者﹂の一つに統一された。
そして騎士達の中に、﹃もういいだろう﹄﹃少しは反省したか﹄
という考えが浮かんだ頃︱︱。
﹁もう悪口は、いいか?﹂
まるで堪えた様子のない信秀に、騎士達は面食らった。
﹁では、次の休憩時、お前達の食事は無しとする。
獣人達も、この者達が言うことを聞かないならば、遠慮せずに叩
くといい﹂
騎士達からの文句は、獣人からの更なる一打によって、強制的に
黙らせられることになる。
そして四日後。
漸く一行は町に到着した。
小規模の人数での行進でありながらこれ程の時間を要したのは、
やはり縄によって騎士達の動きが阻害されていたからであろう。
町は大地の色が変わっていたが、死体の山はきれいさっぱり無く
なっていた。
信秀の指示により、町の者総出で数日のうちに穴に埋めたのだ。
456
言わずもがな、疫病を恐れてのことであった。
町を前にして、やっと着いたのかと内心でホッと息を吐く騎士達。
かつての同僚、ローマットがどの様な扱いを受けていたかは、騎
士達の多くが知るところである。
それゆえ、捕虜という屈辱的な立場であっても、少しばかりの安
心感や幸福感があった。
だが、その考えは甘い。
町の外で休憩した後、ミレーユとサンドラ王国への連絡用の騎士、
さらには治癒術が使える者を残して、一行は再び出発する。
町の横の負傷者の住みかとなっている煉瓦造りの家すら越え、さ
らに南へと歩き出したのだ。
﹁お、おい! ここじゃないのかよ!﹂
ある騎士が疑問を発したが、獣人が降り下ろした槍の一発で黙ら
された。
またも始まった行進。
今度の行進は目的地もわからず、いつ終わるとも知れぬものであ
り、騎士達の心身は再度衰えていった。
だが二日が過ぎ、ついに一行は目的地にたどり着く。
町からさらに南へ40キロ
そこにあったのは100メートル四方で囲った高さ10メートル
の石垣である。
457
こんなところに、こんなものがあったとは、獣人達でさえ知らな
かったことだ。
もちろんそれは、信秀が急遽︻購入︼したものに他ならない。
この行進の最中、信秀は車を飛ばしてただ一人何度も南へと行き
帰りをしており、その理由の一つがこの石垣の︻購入︼であった。
﹁ここが終着地か⋮⋮?﹂
先頭の騎士がポツリと呟いた。
見れば、石垣についている城門の閂は外側にある。
これが何を意味するのかわからない者はいないであろう。
騎士達も、すぐにそこが自分達を閉じ込めておく牢獄だというこ
とがわかった。
中には、あばら家のみがあり、騎士達は以後、獣人の監視の下、
そこで暮らすことになるのである。
◆
﹁なんだと! もう一度言ってみろっ!!﹂
王都サンドリアは王城、玉座の間にて、サンドラ王の怒り狂った
ような声がこだました。
その怒りを一身に受けるのは、玉座の正面に跪く一人の騎士。
彼は信秀らの夜襲の前に、ミレーユが本国に送った伝令兵である。
馬を四頭引き連れて、それを乗り替えながら日に80キロの距離
を進み、その日漸くサンドリアにたどり着いたのであった。
458
﹁で、ではもう一度申し上げます! 南伐に赴いたサンドラ王国軍
は、敵の奇っ怪な攻撃により全滅! 黄竜騎士団は団長バルバロデ
ム並びに赤竜騎士団は副団長トマスの両名は戦死!
味方の現存数は千数百ほどにまで減り、本国に撤退するとのこと
!﹂
伝令兵が再び発した報告に、ふるふるとその身を震わせるサンド
ラ王。
顔中の皺が眉間へと集まり、鬼気とした表情を浮かべている。
﹁て、敵の残存兵数は⋮⋮。何人殺した⋮⋮﹂
怒りで震える口から、やっと絞り出した声。
﹁ぜ、ゼロです⋮⋮!﹂
瞬間、伝令兵の隣をカンッという音と共に、王冠が飛び跳ねた。
サンドラ王が怒りに任せて投げつけたものである。
王は、その瞳を烈火のごとく燃え上がらせて立ち上がった。
﹁ふ、ふざけるな!! 5000の兵が一人も殺せず全滅するだと
! 我が最強の騎士団が二つも揃っていながら、一人も殺せないだ
と!
殺せ! この者の首を刎ねよ! こやつは虚偽を申しておるぞ!﹂
王の更なる激高に、ヒィッという悲鳴が伝令兵の口から漏れた。
だがそれを諌める者がある。
459
﹁お待ちください﹂とそっと口を挟んだのは、王の隣にたたずむ最
高顧問官であった。
﹁陛下、この者が偽りを申す理由など一つもありません。今は早急
に南へ事の調査の兵を派遣すべきかと﹂
王はギロリと最高顧問官を睨んだ。
伝令兵が嘘を吐いていないことなど、王も承知している。
だが、承知していようとも認められないこともある。
そして王の怒りの矛先は最高顧問官へと向いた。
﹁元をただせば貴様が、南を攻めよなどと言うから⋮⋮っ!﹂
そもそも、サンドラ王は南征に反対であった。
未知の魔法。
これに対し、サンドラ王は拭いきれない憂虞を抱えていたからだ。
されど、周囲の意見に圧されて仕方なく王命を下した。
特に最高顧問官の理路整然とした上申こそ、優柔不断なサンドラ
王にして、南征を決意させるものであったといえよう。
﹁確かにその通りです。しかし、それは陛下も賛同なさったことで
はありませんか﹂
王に否を求めるは、臣下としてありえぬ行為である。
だが、その老齢の最高顧問官は現サンドラ王の祖父にあたる先々
代の王からの忠臣、また、サンドラ王が子供であった際の教育係も
務めており、師が弟子を諭すように度々このような発言をすること
があった。
するとサンドラ王は、玉座の肘掛けに握りしめた右手を強く叩き
460
つける。
これに伝令兵はビクッと身を震わせたが、さすがともいうべきか、
最高顧問官は微動だにしなかった。
それからサンドラ王は大きく息を吐いた。
右手の痛みが、王の怒りを鎮めていく。
﹁⋮⋮よし、わかった。これより何をするべきかだ。一から考える
ぞ﹂
そう言って、王は伝令兵に戦いの詳細をつぶさに聞いた。
わかったことは、対軍を目的とした未知の攻撃が行われたという
こと。
その全てを聞き終わると、王は伝令兵を下がらせ、落ち着いた様
子で口を開く。
﹁まず騎士団の全滅。これはまずい。外は元より内側からも乱が起
こりかねん﹂
封建制を敷いているサンドラ王国。
各諸侯においては、己が領地にて半ばある程度の自治が認められ
ており、言い換えるならサンドラ王国は小さな国の集まりといって
も過言ではなかった。
それゆえ、サンドラ王は各領主にその威光を示すため、王都サン
ドリアに常備兵たる2000名からの四竜騎士団を保持していたの
だ。
睨み
が弱まることを意味していた。
だがその四竜騎士団の内、二つは崩壊の憂き目にあっている。
これは他の領主への
461
最高顧問官は言う。
﹁直轄地にて農民兵を集め、演習を行いましょう。これで、よから
ぬことを考える諸侯はいなくなります﹂
直轄地の人口は多い。
王の領地を富ませるために、戦時下であっても徴兵はなく、安寧
の中でその数を増やしていった民達だ。
その農民達を徴兵して演習を行い、サンドラ王の武威を示す。
金こそかかるが、その数の多さゆえに各諸侯に対する楔には打っ
てつけであった。
﹁しかしな⋮⋮﹂
最高顧問官の意見に、王は及び腰であった。
直轄地が敵から攻撃を受けたわけでもないのに、民を徴兵する。
演習とはいえ、その先に戦争があるのは明らかである。
これまで戦争とは縁遠い位置において甘やかしてきたからこそ、
民は不満に思うだろう。
そして、それはいずれ反乱の種になりうるものだ。
﹁四竜騎士団の半分が壊滅したと知られれば、他国がどう出るかわ
かりません。
我が国にいずれかの国が侵攻してきた際には、敵はまず各領主を
離反させようと試みるでしょう。
早期の演習は、必要不可欠であると愚考します﹂
﹁ううむ⋮⋮わかった。この際、仕方がないことだ。民には我慢し
てもらうとしよう。
462
では次に南の処置だ﹂
﹁早急に調査の兵を送るべきです。
それと同時に人を送りましょう。
停戦協定を結び、南部の安定を確かなものとするのです﹂
﹁応じるのか?﹂
﹁少なくとも、獣人の数が少ない今、フジワラとやらに北への野心
があるとは思えません。可能であるかと﹂
﹁誰を送る。前回赴いたブラウニッツェは、今は不在だぞ﹂
﹁待つ暇はありません。敗北を他国に知られるより早く準備をしな
ければなりませんので。
懇意にしていた商人を特使に任命して送りましょう。他の者は要
りません﹂
﹁商人を特使に、だと? 国への忠誠も薄かろう。大丈夫なのか?﹂
﹁心配いらないでしょう。その商人が店を開いているのは、あくま
で我が国なのです。その意味がわからずに務まるほど、商人という
職業は優しくありませんよ﹂
﹁だが、フジワラが頷くのか?﹂
﹁思いますに、フジワラは少しばかり、普通の人間とは違うようで
す﹂
﹁そんなことはわかっている。どこに獣人を率いて人間に敵対する
463
者がいるというのだ﹂
﹁フジワラにとって、獣人かどうかはあまり重要でないかと。
おそらくは、個人的な目で世界を見ているのではないでしょうか。
自らに悪を為すか、善を為すか。
ただそれだけを基準に、付き合う者を選んでいるように思えます﹂
﹁⋮⋮ふむ。
よし、わかった。ことは急を要するだろう。ただちにとりかかれ﹂
サッと手を振るって、下命するサンドラ王。
だが一つ、いまだ触れられていないことがあり、最高顧問官はそ
れを口にした。
﹁⋮⋮ミレーユ様のことはよろしいので?﹂
﹁自分で選んだ道だ﹂
﹁そうですか﹂
礼をとって、最高顧問官は玉座の間より去っていく。
﹁ふぅ﹂
語る者がいなくなった玉座の間で、王は小さく息を吐いた。
守護にあたる近衛はいるが、王にしてみればそれは物でしかない。
﹁ミレーユか⋮⋮無事であればよいが﹂
父としての情はある。
464
だが、所詮は父としての情でしかない。
たとえ愛娘が殺されようとも、軽挙は慎み、サンドラ王は王とし
て行動しなければならないのだ。
465
42.戦後 1︵後書き︶
遅くなりました、すみませんm︵︳︳︶m
466
43.戦後 2
その日、俺はやかましい冷房の動作音で目覚めた。
﹁くぁ﹂
ベッドからむくりと起き上がり、小さな欠伸を一つする。
時計を見てみれば、午後2時を過ぎたところ。
つまりは惰眠を貪っていたわけであるが、昨日までの忙しい日々
を考えれば、それも仕方のないことだろう。
なにせサンドラ王国軍がこの地にやって来て以降、一週間近く安
眠できない日が続いていたのだから。
だが、それも昨日で終わり。
捕虜とした騎士達は南の牢獄へと送り、さらに騎士の一名は現状
を伝えるためにサンドラ王国へ向かわせた。
あとはサンドラ王国からの反応を待つだけだ。
果たしてサンドラ王国はどうでるのか。
また軍を送ってくるのか、それとも停戦の使者を寄越し捕虜返還
を求めるのか。
まだまだ油断は禁物ではある。
とはいえ、ずっと気を張り詰めていても仕方がない。
何事もやる時はやる、休む時は休むといったメリハリが大切だ。
とりあえず町は平常体制へと移行しており、俺自身も当分はのん
びりとした生活に戻ろうと思う。
467
それにしても、さきほどから冷房の音が気になる。
安いのを買ったからかな。
そろそろガタがきたのかもしれない。
いや、この五年で一度も手入れをしてないのが原因かも。
既に冷蔵庫も一度壊れており、今使っている冷蔵庫は二台目だ。
一台目は三年目にして温度調節が効かなくなり、︻売却︼済みで
ある。
︻冷蔵庫︼︻売却値︼5円
能力を使った購入品であるため、︻売却値︼は︻購入価格︼の1
00分の1、さらには故障までしていたので、わずか5円での︻売
却︼だった。
電化製品などの安物はいいが、これがトラックや装甲車になって
くると怖いものがある。
整備などをしっかりして、なんとか︻時代設定︼を﹃現代﹄にす
るまでは、故障なく運用していきたいものだ。
食事等、起床後の諸々を済ますと、俺は電話を手に取った。
﹃はい、ジハルです﹄
受話器から聞こえてきたジハル族長の声は、とても落ち着いたも
の。
不意に、ジハル族長が初めて電話を使った頃、ずっと緊張に上擦
った声を出していたのを思い出し、おかしくなった。
468
もう何年前になるのか。
月日が経つのは早いものだ。
﹁フジワラです。少し話を聞きたくて連絡しました。
どうですか、南の牢獄は?﹂
﹃朝の報告では、特に異常はない様子です﹄
騎士達を閉じ込めている南の牢獄には、現在監視として狼族の者
を派遣している。
石垣には櫓が付いており、そこで決められた者が監視をしながら
過ごすことになるのだ。
種族ごと一週間での交代を予定しており、当番の者には後日酒を
渡すことになっている。
﹁運搬に使った馬はどうでしたか?﹂
﹃とてもおとなしく、従順であったと聞いています﹄
大砲の音に驚き、騎乗者を振るい落として逃げた馬は、食料を求
めて町の畑にやって来ていた。
それを獣人達が、俺が夜襲に行っている間に捕まえていたのだ。
中でも、力が強く気質も穏やかな大型馬は荷車をひくのにもって
こいであり、即戦力として牢獄への食料運搬に役立っている。
逆に、細身の走ることに特化した馬は今のところ需要がない。
この分だと、行く末は食肉になるしか道はないだろう。
﹁サンドラ王国の姫の監視は?﹂
サンドラ王の娘である赤竜騎士団団長ミレーユは、旅館に住まわ
469
せてある。
大事な金づるだ。
なにかあっては困るため、その監視には最も信用できる狼族の者
にのみ頼むことにしている。
﹃腕自慢の者ばかりを当てております。
あとは言われた通り、同性の者も配置しております。今日の朝か
らはミラが﹄
﹁ミラさんを? ですが、彼女は昨日まで夜襲に参加していたんで
すよ? 休ませるべきじゃありませんか?﹂
﹃どうしてもやらせてくれと﹄
不穏だ。
どうしても、というところがあまりに不穏すぎる。
俺が黙って考え込んでいると、それを察するようにジハル族長が
言った。
﹃フジワラ様が危惧していることはよくわかります。
ですが、心配要りません。ミラももう18です。昔のように軽は
ずみな行動は決してしないと約束します。
それに、ミラの武芸の腕前は男にも劣りません。適任かと﹄
そこまで言うのなら、と俺は頷くことにした。
最後に、暑いので部族の者の体調管理に良く気を付けるようにと
伝えて電話を切る。
その後は、家の外へ出た。
470
﹁カトリーヌ、おはよう﹂
寝そべるカトリーヌに挨拶すると、彼女は首をこちらにもたげて
目をパチクリとさせる。
彼女なりの挨拶だ。
そして、またペタリと首を地面につけて目を閉じた。
ふふっ、かわいい奴め。
カトリーヌに癒された後、町とは反対にある南の門を開ける。
そこは作物集積地なのだが、今は武器、防具が積まれていた。
今回の戦いでの戦利品である。
それをこれから︻売却︼しようというのだ。
﹁さて、捕虜の飯代ぐらいにはなってくれよ﹂
俺は﹃町データ﹄を呼び出し、積まれた武器防具を対象に︻売却︼
コマンドを実行する。
すると目の前の画面には武器や防具の名前が羅列され、その横に
は買取り価格が表示された。
︻スチールロングソード︼︻売却値30万円︼
︻スチールロングソード︼︻売却値28万円︼
︻アイアンショートソード︼︻売却値3万円︼
︻スチールプレートアーマー︼︻破損︼︻売却値10万円︼
︻スチールオープンヘルム︼︻売却値10万円︼
471
︻アイアンケトルハット︼︻売却値5万円︼
︻レザーアーマー︼︻売却値2万円︼
︻スチールプレートアーマー︼︻売却値70万円︼
・
・
・
・
以前、赤竜騎士団から剥ぎ取った物を売却した時も思ったことだ
が、この世界の武具は意外に安い。
たとえばこれ。
︻スチールロングソード︼︻売却値30万円︼
スチールとは鋼のことだ。
赤竜騎士団が持っていたもので、馬上で振るうために、その剣身
は長いのだろう。
そして、肝心の値段なのだが、この剣の︻売却値︼が30万。
もし日本の武器である︻刀︼を能力で︻購入︼しようとすると、
一番安いものでも100万円を優に超える。
そう考えると、この︻ロングソード︼はあまりに安いといえるだ
ろう。
仮にも騎士団の者が使っている剣なので、質が悪いから、という
わけではないはずだ。
おそらくは鉄の産出量の違いや、魔法による加工など、そのあた
りがこの値段になっているのだろうと予想する。
472
なんにせよ、これから︻売却︼を行う俺としては、あまり嬉しく
ない話だ。
画面をスクロールさせながら、買取り一覧を眺めていく。
すると俺は﹁おや?﹂と目を留めた。
︻隕石のハルバード︼︻売却値︼2300万円
明らか値段が違うのを発見した。
隕石って、鉄隕石のことでいいのだろうか。
元の世界でも隕石でつくった武器は聞いたことがある。
しかし隕石だろうがなんだろうが、鉄には変わりない。
強度は他の鉄を加工した武器と大差ないはずだ。
ということは、稀少性故のこの高い値段だろうか。
いや、魔法なんてのがある世界だし、なにかもっと特別なものか
もしれない。
とりあえず︻売却対象︼からは外してとっておこう。
さらに画面の下へと目を滑らしていく。
﹁ん?﹂
俺は再び目を留めた。
︻かなりいい剣︼︻大破︼︻★︼︻売却値700万円︼
やけに見覚えのあるものが、画面に映っている。
他の武器や防具には一切ついていない星マーク。
この︻かなりいい剣︼が神様のカードであることは間違いないだ
473
ろう。
では、何故それがこんなところにあるのか。
佐野は自身のカードを︻かなりいい盾︼だと言っていた。
つまり敵の中にもう一人同郷の者がいたのか?
いや、佐野は共に来た者がいるとも言っていた。
その者のカードについては聞いておらず、それを佐野が持ってい
たことも考えられる。
﹁⋮⋮病にかかったのだと言っていたな﹂
佐野の言葉を思い出す。
共に来た者は床に臥せっていると佐野は語った。
それがもし真実であるならば、佐野の生死いかんによっては、そ
のもう一人の同郷の者はこれから先、生きていけはしないだろう。
﹁あとで、佐野について騎士の誰かに聞いてみるか﹂
おそらく佐野は死んでいる。
捕らえた騎士達の中にもいなかった。
治療を受けている負傷者の中にいるかもしれないが、もしいたの
なら俺の名前くらい出すはずだ。
確かに単独でサンドラ王国に帰っている可能性もある。
しかし、その可能性はあまりに小さい。
特に食料が問題だ。
単独で逃げるほど余裕のない者が、十分な食料を持っているとは
考えられなかった。
とにかくも、サンドラ王国にいる佐野の連れ合いには、同郷のよ
474
しみで支援するのはやぶさかでもない。
そんなことを考えながら、俺は︻かなりいい剣︼を売却リストか
ら外し、視線を画面の下へと動かした。
そして︻売却︼が終了する。
結局のところ、高いものでは︻売却値︼が1000万円を超える
ものもあったが、売り物にならないような損傷の酷い武具も多かっ
た。
そのため全体としては、思ったほどの金にはならなかったといえ
よう。
まあ、捕虜の食事代には十分な額であったが。
ちなみに、後日佐野について詳しい者に話を聞いたところ、佐野
に養っている者はおらず、また盾を使っている様子もなかったとの
こと。
どうやら佐野は俺に嘘をついていたようだ。
ということは、︻かなりいい剣︼は佐野自身のカードだったのだ
ろう。
俺を騙し情報を引き出そうとした、もしくはその︻かなりいい剣︼
で俺を亡き者にしようとしていたのかもしれない。
これにより、佐野に対する僅かばかりの罪悪感や同情の念もすっ
かり消えてなくなり、俺は爽快な気持ちになった。
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44.ミラとミレーユ 1
ある日の午後のことである。
ミラが、昼食を載せた盆をもってミレーユの部屋を訪ねた。
襖を開けると、ミレーユは畳の上で目を閉じて座っている。
またか、とミラは思った。
ミレーユは旅館の一室に閉じ込められて以後、なにをするでもな
く、ただジッと座っているだけ。
朝も昼も晩も変わらない。
動く時といえば、食事をする時か、厠に行く時か、風呂に入る時
くらいなもの。
端から見れば、とても生きているとは思えず、それはまるで人形
のようであった。
﹁食事だ﹂
﹁すまない﹂
ミレーユが目を開けて一言だけ礼を述べた。
互いに必要最低限の言葉しか交わさないのは、いつものことだ。
ミラが机の上に盆を置くと、ミレーユは使い慣れていない箸を手
に取った。
その指はどちらが箸なのかわからないほどに細い。
476
いや、指ばかりではない。
肉は痩せ、骨は秀で、目は窪み、ミレーユの姿はまるで幽鬼のよ
うである。
﹁⋮⋮ちゃんと食べているのか﹂
ミラが、ミレーユの有り様を見かねて、遂に最低限以外の言葉を
口にする。
﹁心配してくれるのか?﹂
啜っていた味噌汁の椀を置いて、ミレーユは尋ねた。
その口許には、微かな笑みを携えて。
ミラはその微笑にドキリとした。
儚さの中にある美しさ、ともいうべきか。
触れば壊れてしまいそうな脆弱さは、その微笑によく映え、言い
様のない艶やかさを演出していた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
互いに目を見つめて沈黙する。
やがて口を開いたのは、ミレーユであった。
﹁ああ、食べている。それはお前も知っているだろう﹂
時折他の者に代わってもらうこともあるが、基本的にはミラがミ
レーユの世話を行っているのだ。
それゆえ、ミレーユが食事をとっていることは、ミラ自身がよく
477
知っていた。
﹁ならば、今のお前の姿はなんなのだ﹂
食事はしっかりとっているのに、ミレーユは日増しに痩せ衰えて
いく。
これはもう異常という他なかった。
﹁さあな﹂
そうミレーユは答えたが、ミラにはミレーユが異常の原因を知っ
ているように思えた。
﹁お前が死ねばフジワラ様が困るんだ。なんとかしろ﹂
﹁ふっ、なんとかしろと言われてもな。こればかりはどうしようも
ない﹂
これ以上、何を言っても無駄だろう。
ミラはもう何も言わず、部屋を去っていく。
今日も変わらない。
食事をし、用を足し、垢を落とし、黙想する。
昨日と同じことを、ミレーユは今日も繰り返すのだろう、とミラ
は思った。
◆
ミレーユは、静かに座りながら女獣人のことを考えていた。
その名はミラ。
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名乗られてはいない。
ただそう呼ばれているのを聞いただけだ。
ミラの振る舞いを思い出す。
その所作の一つ一つが体の理に適っており、無駄というものがな
い。
相当の修練を積み、体の使い方を熟知しているのだろう。
︱︱と、そこまで考えて、ふっと自嘲した。
戦いなんてものは、もうどうでもいい。
強さになんの意味もないことを知った。
いかに鍛えようとも、どうにもならないことをミレーユは今回の
戦いで嫌というほど理解したのである。
弱者にも強者にも等しく訪れる死。
目を閉じれば、散っていった多くの者の死がまぶたの裏に浮かぶ。
ただそれを、ミレーユはジッと眺め続けていた。
やがて夜となる。
ミレーユの耳に襖の開く音が聞こえた。
﹁食事だ﹂
ミラの声であった。
目を開けて、ミラが机に置いた膳を覗く。
﹁今宵は品数が多いな﹂
米に、魚に、馬肉。飲み物には駱駝の乳。
479
さらに果物もあった。
とても捕虜に出す食事ではない。
﹁⋮⋮お前のことを報告したら、精のつくものを、と言われた﹂
﹁そうか。少しばかり痩せたくらいで、こんなうまそうな食事が出
るのなら、いっそのこと寝たきりになってやろうか﹂
﹁おい!﹂
﹁冗談だ﹂
クックッと笑うと、ミラは怒ったように立ち上がり部屋を出てい
った。
やがて食べ終わり、暫くしてミラが食器を片付けにやって来る。
ミラが何も言わずに、食器の乗った盆を持って出ていこうとした
ところ、ミレーユの口が自然と動いた。
﹁待て﹂
ミレーユは自分でも何故呼び止めたのかわからなかった。
だが、呼び止めたのならば仕方がない。
ただ口が動くままに任せた。
﹁お前の名前はなんという﹂
﹁⋮⋮ミラだ﹂
名前は知っていた。
480
だが、その口から聞きたいと思っていた。
﹁私の名前はミレーユだ。少し似ているな﹂
名前は少し似ている。
いや、名前だけではない。
女でありながら、武を振るうところがよく似ているとミレーユは
思っていた。
他の女の獣人もそうなのかと考えもしたが、何人か見たところ、
どうやらミラだけが特別らしい。
﹁どうした﹂
名が似ていると言われ、あからさまに顔をしかめたミラに対し、
ミレーユは尋ねた。
﹁私の名は母さんが付けてくれた誇り高い名だ。人間の名と一緒に
するな﹂
﹁人間が憎いか﹂
﹁ああ憎い。八つ裂きにしてやりたいくらいに憎い﹂
﹁この町の長も人間ではないか。フジワラは憎くないのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ミラは僅かに押し黙り、そのまま部屋を出ていった。
ミレーユはしばらくミラが出ていった襖を見つめていたが、やが
て瞑目し黙想を始めた。
481
翌日も、そのまた翌日も、ミレーユはミラに話しかける。
何故こんなにもミラのことが気になるのかはわからない。
だが不思議なことに、ミラと話し始めてから、ミレーユの体の衰
えは止まっていた。
﹁私は何もかも失った﹂
﹁獣人達から何もかも奪ってきたくせに、どの口が言う﹂
﹁お前も奪われたのか﹂
﹁ああ、お前達人間に土地と母を奪われた﹂
﹁そうか。そして今度は私達の番か﹂
ミラは答えなかった。
ざまあみろ、の一言でも口にすればいいのに、それをしなかった。
そしてミラは食器をもって去っていく。
ミラがいなくなればミレーユはもうやることもない。
再び目を閉じて、誰かの死を省みるだけだ。
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45.講和 1
夏も盛りの頃。
俺の下に来訪者の知らせが入ったのは、自宅の庭で洗車をしてい
る時である。
俺はすぐさまお馴染みの戦闘服に着替えると、カトリーヌに乗っ
て北門へと向かい、石垣を上った。
﹁フジワラさん! ウチやウチ!﹂
眼下には、城門の前にて叫ぶ赤い髪の女性。
なんだろう、ウチウチ詐欺かな?
⋮⋮なんて冗談は置いておく。
改めて言おう、町にポーロ商会会長のエルザがやって来た。
連れは騎士の格好をした者が四人。
いずれも見たことのない顔だ。
馬車はたった一台で、商売をしに来たようには見えない。
﹁エルザさん、ご用件は!﹂
石垣の上と下である。
俺は声を張り上げて尋ねた。
﹁今日は、商売で来たんやない! 特使とやらを任されてきたんや
!﹂
483
まあ、そんなことだろうと思った。
俺と親しい者を送り、和平を求めようというのだろう。
これはサンドラ王国も、いよいよ切羽詰まっているのかもしれな
い。
四つの騎士団のうち、二つも壊滅させちゃったからな。
まあ、当然か。
﹁他の四人は!﹂
﹁国が付けた護衛や! 商会の関係者ちゃうで!﹂
正直に言ったな。
これは、エルザを信用していいということか?
いや、四人の騎士に何の反応もないところを見るに、折り込み済
みの回答なのかもしれない。
まあ今わかるのは、騎士を使った悪巧みをするつもりはない、っ
てことくらいか。
そんなつもりがあるのなら、商会の者だと身分を騙って、素知ら
ぬ顔で町の中に入ろうとするはずだ。
﹁では、エルザさんだけの入場を許可します! それでいいですか
!﹂
﹁文句あらへん! こっちは元々そのつもりや!﹂
騎士四人を残し、エルザを町に入れた。
そして、久しぶりの挨拶を交わす。
エルザとは、およそ一年ぶりといったところか。
484
国相手の交易が始まってからは一度も会っていなかった。
﹁いやあ、ホンマに参ったわ。ウチはただの商人やっちゅうねん﹂
懐かしむ言葉を一頻り口にすると、エルザはサンドラ王国に対し
て、ぶつくさと文句を言い始めた。
それは、空き店舗の一室に案内した今も続いている。
﹁なんでこんなことせなあかんねん。役人の仕事やろ。仕事せんの
やったら、税金返せや。
つーか、あの腐れイ○ポジジイ、さっさとくたばれや!﹂
その内容は、どんどんと過激になっていく。
特に今回、特使を命じたというサンドラ王の最高顧問官に対して
の文句が酷い。
年頃の女性が口にしてはいけないような下品な言葉もあり、聞い
てるこっちが恥ずかしくなるほどだ。
﹁はは⋮⋮そろそろお話を﹂
﹁せやな、さっさと済まそか。
ウチが国から頼まれたんは、サンドラ王国とこの町の講和や﹂
﹁講和、ですか﹂
﹁せや。
聞いたで? フジワラさん、サンドラ王国の軍をボッコボコにヘ
コましたそうやんか。
サンドラ王国は四竜騎士団のうち、赤と黄が壊滅。
こりゃあかんわ。弱りきったサンドラ王国を他の国が見逃すはず
485
ないで﹂
﹁あれ? 教会からのお達しで、国家間の戦争は禁止されたのでは
?﹂
﹁あれな。大義名分があれば問題なし、っていうのに差し代わった
わ。つまり、戦争なんてやりたい放題ってわけや﹂
大義名分なんて簡単に作り出せる。
そういうことなのだろう。
もう何年も前に、平和はすぐに終わると語ったフロストの言葉は
正しかったわけか。
エルザが言葉を続ける。
﹁今、サンドラ王国が恐れとるんは、フジワラさんに南を衝かれる
ことや。そうなったら確実に北に隣接する国が攻めてきて、終わり
やな。
今のサンドラ王国には、北と南に軍を割く余裕はない﹂
﹁そんなことまで言っていいんですか﹂
﹁むしろ言わなきゃならへんねん。
ええか? たとえばサンドラ王国が他国の支配下に落ちたとしよ
か。そうなるとどうなると思う?﹂
﹁どうなるって⋮⋮ああ、そういうことですか﹂
別の国が成り代わっても、結局同じ。
この町は狙われる。
486
それどころかサンドラ王国を吸収した、より強力な国が、この町
に攻め込んでくるかもしれない。 それならば、生かさず殺さずで、
サンドラ王国にはせいぜい盾として気張ってもらった方がいいだろ
う。
﹁な? 講和の方がエエやろ?
ウチをここに寄越したんは、フジワラさんに冷静になって考えて
もらうためや。
フジワラさんが怒りに任せてサンドラ王国を攻撃しても、得する
ことはない、ってことやな﹂
﹁なるほど、よくわかりました。
ところで私達に関係なく、北にある国がサンドラ王国に攻め込む
可能性はあるんでしょうか?﹂
﹁そりゃ、あるで。主力の騎士団が二つも潰れてもうたんやで?
王宮の権威はボロボロや。
ウチが北の王様だったら、金ばらまいて何人かの領主を寝返らせ
た後に、攻め込むやろな﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
まあ、講和するのは構わない。
どのみち、この地から動くつもりはないし。
いやむしろ講和をすべきだろう。
サンドラ王国が北の国と戦争になった場合、後顧の憂いがあって
は、サンドラ王国も満足に力を出せず、負けてしまうかもしれない。
北の国とサンドラ王国、できることならば共に傷つけ合った上で
現状のまま、というのが俺としては望ましいのだ。
487
しかしそうなると、北の国との戦力差はどれほどのものなのか。
実は、サンドラ王国が騎士団を半分失ってもなお強く、北を先に
滅ぼして力を蓄えてから、再びこの町に攻め込もうとしている、と
いう可能性も考えられる。
これはここで判断はできないな。
捕虜から情報をよく聞き出さないと。
﹁返事は数日待ってもらってよろしいですか?﹂
﹁ええで、ええで。講和の条件も考えといてや。
ウチも商売で来たわけやなし、今回はのんびりさせてもらうわ。
ちゅーわけで、美味しい食事を期待しとるで?﹂
パチリとウインクするエルザ。
変わらないな、と俺は思った。
﹁一緒に来た騎士達はどうしましょうか﹂
﹁別にそのままでもええで。馬車に食べ物があるし、死にはせんや
ろ﹂
﹁そ、それはちょっと酷いんじゃあ⋮⋮﹂
﹁酷いことなんてあるかいな! ここにくるまで、ウチがどんな思
いしたと思うてんねん!
あいつらとの会話、どれだけあったと思う? ゼロやで、ゼロ!
あいつらウチが話しかけても、一言も返さへんねん! 頭にウジ
でも湧いとるんちゃうか!﹂
488
﹁そ、それは⋮⋮酷いですね⋮⋮﹂
﹁せやろ? あいつら青竜騎士団のもんなんやけどな。王様の近衛
をやってるせいか、まるで人形みたいやねん。ヤバいで、ほんま﹂
近衛か。
国家の大事に関わることを、見たり聞いたりできる立場だ。
感情をなくすような教育でもされてるのだろうか。
﹁わかりました。では、夕方には美味しい食事と美味しいお酒を持
ってくるんで、楽しみにしていてください﹂
俺は立ち上がり、部屋を出ようとする。
すると、エルザが手を伸ばして俺の足を掴まえた。
﹁ちょっと待ってえな。
こっちは、やることないから暇やで。暇々や。
ずっと一人で寂しかったんやで? もうちょっと構ってくれても
ええやんか﹂
駄々をこねる子供のようにわがままを言うエルザ。
女性に引き留められるのに悪い気はしない。
エルザは美人であるし。
とはいえ、こちらにもやることがある。
﹁なら、狼族の者にリバーシというボードゲームを持ってこさせま
しょう。私は相手をできませんが、狼族の者に︱︱﹂
﹁それや!﹂
489
﹁え?﹂
﹁それ、リバーシや! なんでウチにもっと早く教えてくれへんか
ったんや!﹂
﹁なんのことですか?﹂
﹁しらばっくれてもあかんで。今、サンドラ王国じゃあ、ローマッ
ト監修のリバーシが大流行しとるんや。
ローマットってどこかで聞いたことある名前やなぁ、思うて調べ
てみたら、ここで捕虜になっとった奴やんか﹂
ローマット。
懐かしい名前だな。
俺自身はそこまで関わっていないが、狼族の者達とはボードゲー
ムでよく遊んでいたという。
町を出ていく際には、狼族の者からお土産を貰って、ローマット
が涙ぐんでいたのをよく覚えている。
﹁売れてるんですか?﹂
﹁売れてるなんてもんやないで、バカ売れや。ウチも真似してリバ
ーシ売り出したんやけど、ローマット印が入っていないのは偽物み
たいな扱い受けてな。あんま売れへんねん﹂
﹁ローマット印?﹂
俺が聞き返すと、エルザが﹁せやで﹂と頷いて答える。
490
﹁ローマットっていえば、今や﹃名人﹄なんて言われててな。サン
ドラ王国どころか、他国にまでその名は有名になっとる。
ローマット印っちゅうんは、その名人が認可した印や。今んとこ、
ある大商会でしか取り扱われてへん。
それなのに、誰も彼も名人ローマットが認可したリバーシ盤を欲
しがりよる。
リバーシ盤を売るのは犯罪やないけど、ローマット印を偽造した
ら犯罪や。名前を騙るってことやからな。
だから、もうお手上げや﹂
名人。あのローマットが。
確か彼は貴族の生まれだったはずだ。
リバーシの名人とか、一体彼はどこへ向かうつもりなのだろう。
ともあれ、知っている者が元気そうにやっているのは、少し嬉し
い。
あとで、ローマットと仲が良かった狼族の者に教えてやろう。
491
46.講和 2︵※地図あり︶
エルザの下を去った後にまず向かったのは、ミレーユを閉じ込め
ている旅館である。
﹁やあ、お疲れ様です﹂
挨拶をしながら旅館の入口を潜ると、二人の狼族がやにわに立ち
上がり挨拶を返す。
両者の間にはリバーシ盤が置いてあり、リバーシに興じていたこ
とは明らかだ。
とはいえ、彼らは別にサボっているわけではない。
ミレーユの見張りは四人体制。
二人が見張りにつき、その間、残り二人については休憩すること
が許されている。
二人には﹁楽にしていてください﹂とだけ伝えて、俺は一人、二
階へと上がった。
﹁これはフジワラ様、お疲れ様です﹂
ミレーユのいる部屋の前には、ミラと狼族の男が立っており、俺
に言葉をもって礼をしたのは、もちろん男の方だ。
一方のミラは僅かに頭を下げただけで、視線をこちらに合わせよ
うともしない。
相変わらずの態度であるが、見張りについてはよくやっていると
いう報告を受けているので、良しとしよう。
492
﹁入りますよ﹂
一言断って、襖を開ける。
部屋の中では、ミレーユが目を閉じて正座していた。
俺はゴクリと喉を鳴らす。
話には聞いていたが、病的なまでに痩せ細っている。
彼女に対しては、旅館に来た頃に一度尋問をしているが、その頃
とはまるで別人であった。
﹁フジワラ殿か﹂
ミレーユがまぶたを開けて言う。
その瞳に色はない。
がらんどうだ。
﹁やつれましたね。食事は合いませんでしたか?﹂
﹁いや、食事は美味しくいただいているよ。体についても大分マシ
になったほうだ﹂
それでマシになったのか。
そんな言葉を思わず口に出しそうになったが、なんとか呑み込ん
だ。
﹁話を聞きに来ました。サンドラ王国の北の国について教えてくだ
さい﹂
楽しくお喋りをしに来たわけではない。
俺はすぐに本題へと入った。
493
するとミレーユは﹁いいだろう﹂とだけ言って、理由も聞かずに
つらつらと話し出した。
﹁サンドラ王国の北には二つの国が隣接している。
北の領地の大部分を隣接するロブタス王国と、北西の海岸沿いの
僅かな地を隣接するシューグリング公国だ﹂
<i191058|17802>
ロブタス王国は、全体として湿潤な気候であるが、雨が少ない地
では草原が広がり土は黒く農業が盛んである。
また国土の4分の1が森林で、鉱山も多数あり、林業・鉱業も発
展していた。
だがその土地は恵まれているがゆえに、長く戦乱にさらされて国
の名は何度も変わっており、漸く現在のロブタス王国となったのは、
今より僅か40年前のこと。
これまでに過度な中央集権化を進めてきており、政情はいささか
不安定。
しかし、王が絶対的な権力をもっているため、国政に無駄がなく、
新興国ながらその国力は侮れないのだという。
サンドラ王国との関係はあまりよくはない。
北の地に関しては、サンドラ王国は認めていないものの、領土問
題が存在している。
対するシューグリング公国。
突出したものもない、大陸においてはよくある平均的な農業国家
だ。
494
長く続く国であり、政情も非常に安定している。
外交を好み、隣国でありながらもサンドラ王国との関係は良好だ。
そして両国共に軍事力としてはサンドラ王国の方が上。
だが、四竜騎士団が半壊し、権威が落ちた今となっては、各領主
の動向次第で力関係は逆転するという話であった。
﹁なるほど﹂
色々と質問をしながらの話が漸く終わり、俺は一言呟いて頷いた。
この話が事実なら、サンドラ王国と講和はするべきだろう。
もし講和をしなければ、サンドラ王国は南にも注意を払わなけれ
ばならなくなり、北から攻められた際には、存亡の危機となりえる
かもしれない。
そもそも、こちらに北を攻める意志がない以上、講和するに当た
って損はない。
それどころか、講和の条件に大金を吹っ掛けることができる上、
捕虜の返還についても滞りなく行えるだろう。
俺は考えがまとまると、見張りの者と共に退室する。
襖が閉まる直前、ミレーユの姿が一瞬だけ目に入った。
彼女は既に目を閉じており、粛として座っている。
その姿が、なんだか妙に和室に合っているように思えた。
俺は見張りに﹁頑張ってください﹂とだけ伝えて、その場を辞し
た。
その日の夜、エルザと酒を飲んだ。
495
日本酒、ワイン、ビールなんでもござれだ。
食事についても、松阪牛を用意し、ステーキソースを添えてもて
なした。
エルザは肉汁たっぷりの霜降りの牛肉のステーキを口にすると、
これでもかと目を丸くし、﹁こりゃ、うまいで!﹂と一言、舌鼓を
打った。
さて、俺とエルザの共通する話題というのはとても限られている。
エルザは、前にここに来たレイラとライルの姉弟について語った。
どちらもよく働いているらしい。
ゆくゆくは金で貴族位を買おうとしているのだそうだ。
俺はその話に、へぇと興味をもった。
﹁貴族の位を買える国があるんですか﹂
そう尋ねると、エルザは滑らかな口調で答える。
大陸の北西にある国︱︱ドライアド王国。
これといった産業はなく、広い土地を持ってはいるが、痩せた土
壌が多い。
特に竜の角と呼ばれる北の地は、寒冷地でもあるために食物が育
たず、そういった人の住みにくい土地を貴族階級と共に売って、金
儲けをしているのだそうだ。
おまけにそんな痩せた土地でも、税金は他の場所と変わらず、そ
の税金が払えなければ土地も貴族階級も剥奪になるのだという。
ちょっとした詐欺みたいな話だ。
﹁そんでな、人がおらんやろ? だから南を目指さなかった獣人達
は、だいたいそこにおるんよ﹂
496
新事実が発覚した。
ある時からピタリと止んだ獣人達の流入。
おかしいとは思っていたが、なんと目指した場所が違ったのだ。
これはチャンスかもしれない。
﹁その獣人達をこちらに呼び寄せることは可能でしょうか?﹂
﹁無理やな。途中にあるサンドラ王国が承知せんわ。講和の条件に
挙げてもええけど、絶対に頷かんと思うで?
数は力。この町の人口が増えるんは、サンドラ王国にとって北の
国に攻められるよりはるかに恐ろしいはずや﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
︻時代設定︼を﹃現代﹄にするための条件。
それは︻人口1万人︼と︻資金1兆円︼。
資金はこのままいけば、問題ないだろう。
だが人口は、そう容易く増えるものではない。
生殖による自然増加を待っていたら、俺はあっという間にお爺ち
ゃんだ。
まあ、金さえあれば、︻時代設定︼が﹃江戸﹄であろうと、﹃現
代﹄のものが買えるので、今まで︻人口︼についてあまり考えたこ
とはなかったのだが⋮⋮。
﹁ううむ⋮⋮ん?﹂
どうするべきか、と物思いにふけっていると、エルザが寝息をた
て始めた。
今日はもうお開きだろう。
497
それにしても、エルザは男を前に無防備過ぎる。
美人なのだから︱︱と思ったら、突如大きなイビキをかきはじめ
るエルザ。
俺は笑いをこらえながら、エルザに上着をそっとかけて、部屋を
出た。
︱︱エルザが来訪して二日目の朝。
俺は装甲車に乗って、町から南におよそ40キロの位置にある、
石垣に囲まれた牢獄へと向かった。
牢獄の中にいるのは騎士。
彼らは灼熱の太陽が照りつける中、やることもなく鬱屈とした日
々を過ごしている。
俺は石垣の上にある櫓に上り、見張りに当たっていた鳥族の者か
ら報告を聞いた。
いわく、朝食時に喧嘩があったようだが、それ以外は特に異常は
ないとのこと。
縦格子の窓より、騎士達の様子を覗く。
彼らは石垣がつくる日陰に横に並んで、何をするでもなく座って
いた。
何人かが、地面に何かを書いている。
双眼鏡を覗けば、幾つもの升目の中に○と×が描かれていた。
二つの○が×を挟み、×が○になる。
間違いない、リバーシだ。
エルザが言っていた通り、リバーシは本当に流行っていたようで
498
ある。
やがて、数人の騎士と一人ずつ面接した。
内容は北の国について。
最初は疑わしげにしていた騎士達だったが、肉を食わせてやると
言ったら、誰も彼もペラペラと口を軽くした。
その内容はミレーユが話したものと大差ない。
これにより、俺はサンドラ王国と講和することを決めた。
後は自宅に戻り、講和の条件を考えるだけである。
︱︱エルザが来訪して三日目の朝。
俺は、エルザに講和する意志があることを伝え、その条件を記し
た羊皮紙を渡した。
講和条件は以下の通りである。
・賠償金としてサンドラ王国は新バーバニル銀貨1億枚︵約280
0億円︶相当の貨幣を支払う。
・サンドラ王国は捕虜832名全員を引き取らなければならない。
なお、身代金はミレーユ姫を新バーバニル銀貨1000万枚︵28
0億円︶相当の貨幣とし、騎士は一人につき銀貨1000枚︵28
0万円︶相当の貨幣、他の者については無償の返還とする。
・南部領からここに至るまでの村々を引き上げさせる。
﹁フジワラさんも、吹っ掛けたなぁ。こんな金、サンドラ王国には
ないで﹂
499
エルザが呆れ顔で言った。
その通り、舐められてはいけないと思って、かなり法外な額を吹
っ掛けたと思う。
するとエルザは﹁ま、いいか﹂と講和の条件が書かれた羊皮紙を
懐にしまった。
彼女の役目は講和を打診することであり、講和を結ぶことではな
い。
講和に至るまでの、その交渉は外交官が行うのだから、エルザの
態度も納得というものだ。
﹁そんじゃあ、いくわ。元気でな、フジワラさん﹂
﹁ええ、エルザさんも﹂
こうしてエルザは馬車に乗って去っていった。
道中の暇潰しとして︻知恵の輪︼を幾つか渡したので、それで無
口な騎士達との旅路をなんとか乗りきってほしいと思う。
︻知恵の輪︼︻×5︼5万円︵定価500円︶×5=25万円︵定
価2500円︶
500
46.講和 2︵※地図あり︶︵後書き︶
遅れて、すみませんでしたm︵︳︳︶m
今、結構グダッてますが、そろそろ話が動きます。
あと二章になったら、自重する理由がなくなるので、その辺からか
なり面白くなるのではないかと思います。
501
47.その頃、サンドラ王国では
時間は少し遡る。
それはエルザが、信秀との講和の使者としてサンドリアを出立し
た頃のこと。
戦いに敗れた農民兵達が、漸く南領へと到着した。
﹁ああ⋮⋮やっとここまで来た⋮⋮﹂
息も絶え絶えな声で一人の農民兵がボソリと言う。
長い長い旅路。
共に出兵した者の死が心を穿ち、暑さと満足でない食事が体力を
蝕んだ。
農民兵達は、心体共にもうボロボロであった。
だが、それでも足を止めずに歩いたのは、故郷に待っている者が
いたからだ。
﹁ほら、あともう少しだ﹂
隣を歩く者からの励ましの声。
農民兵達は互いを元気付けながら、残りの道を歩いた。
やがて、その集団は幾つにも分かれ、それぞれが己の村へと帰っ
ていく。
そして、村で待っていたのは、親しい者の死を聞かされた村人達
の悲しみの声ばかりである。
502
さて、ところかわってサラーボナー伯爵の屋敷。
サラーボナー伯爵とは、この度の南征において2000の農民兵
を供出している南西領の主のことである。
食を好むせいか、体はたいそう太っているサラーボナー伯爵。
その性格も大きな体に似て鈍重といっていいだろう。
そんなサラーボナー伯爵が、日に六回の内の四回目の食事をとっ
ていた時のことだ。
食堂の扉がバタンと開き、執事長が血相を変えて入ってきた。
﹁大変です! 今、獣人の町に向かった兵が戻って参りました!
サンドラ王国軍は敗れたとのこと!﹂
それを聞き、サラーボナー伯爵は﹁またか﹂とだけ呟くと、その
まま食事を続けた。
サンドラ王国軍は一度敗れている。
ならば二度敗けてもおかしくはない。
サラーボナー伯爵は、どうせまた指揮官が殺されて逃げ帰ってき
たのだろう、などと考え、特に心を動かすことはなかったのだ。
﹁よい、ヴェルサスをここに通せ﹂
ヴェルサスとはこの地より農民兵を率いていった、サラーボナー
伯爵配下の将である。
﹁そ、それが、ヴェルサス様以下おもだった者は、皆戦死を⋮⋮﹂
503
﹁な、なに!?﹂
サラーボナー伯爵は、今度こそ驚愕した様子を見せて、手にあっ
たナイフとフォークを取り落とした。
﹁ま、まことか⋮⋮﹂
﹁は、はい。王国軍は全滅。この地に帰り着いたのは500人にも
満たないとのこと﹂
﹁ば、馬鹿な⋮⋮﹂
前回のような、指揮官の討死による退却とは違う。
全滅ということは、5000ものサンドラ王国軍が真っ向から敗
れたということだ。
その驚くべき事実に、さすがのサラーボナー伯爵も、もう食事を
続けることはできなかった。
その後、サラーボナー伯爵はすぐに、報告にやってきた農民兵と
面談する。
そして、南へ獣人の町の動向を探るために斥候を放つと共に、王
宮へ向けて早馬を出すよう命じた。
すると時を同じくして、王宮から使者が伯爵の下へとやってきた。
サラーボナー伯爵は謁見の間にて王宮からの使者と面会する。
使者は伯爵を前に一礼すると、懐より王の手紙を取り出してそれ
を読み上げた。
504
﹁この度の南征、サラーボナー伯爵の多大な貢献には、誠に感謝に
堪えぬところである。
されど獣人との戦いは、我が軍の奮闘叶わず、遂には軍は敗北を
喫した。ついては︱︱﹂
そこで知らされたのは、サンドラ王国軍の敗北。
さらには現在、獣人の町との講和交渉をしているということ。
そして最後に、この度の敗戦に伴い、一年間の税の減免を行う旨
が告げられた。
﹁︱︱以上です﹂
使者の口より語られる王の言葉が終わった。
瞑目してそれを拝聴していたサラーボナー伯爵は、目を開いて言
う。
﹁⋮⋮あいわかった。使者殿もお疲れであろう。今宵は我が屋敷で
ゆるりとしていくがよい﹂
その言葉に、一礼して謁見の間を辞する王国の使者。
サラーボナー伯爵は、使者が謁見の間を出ていくのを眺めながら、
顔に涼しげな色を浮かべていた。
だが、使者が謁見の間よりいなくなると、途端にサラーボナー伯
爵の額の血管は裂けんばかりに怒張する。
﹁王国は、我が領地をなんだと思っているのだ!﹂
だぶついた頬の肉をぶるりと震わせて、サラーボナー伯爵は叫ん
だ。
505
﹁一年の税の減免だと? そんなもの補償の内に入らぬわ! 王は
私を舐めているのか!﹂
一領主にとって、千名を超す農民の死というのは、決して無視で
きない数だ。
それもただの千ではない。
働き盛りで、徴兵にも応じる優等な農民である。
それが、王の命令によって失われたのだ。
確かに、戦時において各諸侯が兵を出す義務はあっても、王宮が
その被害に対し補償する義務はない。
だが、国を侵されたわけでもなく、王宮が仕掛けた戦争で負けて
おいて、その補償が税の減免だけというのはあまりにも無体な処置
であった。
﹁甘く見ているな⋮⋮! 私を甘く見ているな⋮⋮!﹂
南領という位置。
依るところのない最奥の地というのが、原因であるとサラーボナ
ー伯爵は考えた。
もし国を裏切れば、サラーボナー伯爵の領地は袋の鼠でしかない
のだ。
とはいえ、王国の強気の姿勢は、サラーボナー伯爵領の位置関係
ばかりが理由ではない。
一見するとサラーボナー伯爵を蔑ろにしているだけのように思え
るが、逆にサラーボナー伯爵に手厚い補償を行えば、果たしてどう
なるか。
それは、王が一領主に機嫌を伺っていると取られかねない行為。
506
すなわち現状が如何に危ういかを、他の諸侯に知らしめることに
なりかねないのだ。
﹁今に見ていろ⋮⋮!﹂
しかしサラーボナー伯爵は王宮の真意に気づくことなく、心中に
怒りの炎をたぎらせた。
それから幾日かが過ぎると、サンドラ王国内では、軍が南征を失
敗したという話が流れ始めた。
王都サンドリアにおいても同様であり、サンドラ王国軍の敗北は
瞬く間に人々の口に上った。
﹁騎士団が敗北⋮⋮? 嘘だろ⋮⋮?﹂
半信半疑な顔で噂する城下町の住人達。
当然だ。
相手は獣人。
人間が負けるなど、想像もつかないことである。
﹁いや、それがどうも嘘じゃないらしい。南領で徴兵された農民達
は、その数を4000から1000近くにまで減らして、命からが
ら逃げ帰ってきたそうだ﹂
﹁馬鹿な。たかが獣人だぞ、負ける要素がどこにあるんだ﹂
﹁よく考えてみろ、一年以上前の南征失敗。あれは本当に疫病によ
るものだったのか? ガーランド騎士団長は病に倒れたのではなく、
507
獣人に殺されたのではないか?﹂
﹁なにを根拠に⋮⋮﹂
﹁南領の者達は皆、口々に噂しているぞ。実際に経験した者達の言
葉だ。
村の者達は家族を失い、いまだに悲嘆に暮れているらしい﹂
サンドラ王国軍の敗北。
これが噂の域を超え、早期に確固たる情報として広がったのは、
サラーボナー伯爵が故意にその情報を流していたからである。
そうすることにより、王に対する反乱の機運が高まれば、と考え
てのことであった。
だが、王宮は既に対処を開始していた。
サンドラ王は直轄地にある村々で徴兵を行っており、集めた兵を
使ってじきに演習が行われることになる。
その規模は万を優に超え、それは各諸侯に威を示し、また不届き
なことを考える者を牽制するには十分な勢力であった。
◆
王都サンドリアにおいて、新興ながらこの数年で大商会にまで成
長したポーロ商会。
大きな館を構え、昔は数人しかいなかった従業員も、今では多数
抱えるようになっていた。
﹁今、帰ったで!﹂
エルザが、自身が商会主を務めるポーロ商会に帰ってきたのは昼
508
過ぎのことである。
サンドリアを発ってから、およそ20日ほどの留守。
既に城への報告は済み、その手には僅かばかりの報酬が握られて
いた。
﹁お帰りなさい、エルザさん﹂
エルザが執務室の扉を開けると、中で書類作業を行っていたライ
ルが挨拶をする。
﹁どや、麦は﹂
﹁万事順調ですよ﹂
それを聞いてエルザはニンマリと笑顔をつくった。
エルザが王宮から受け取った本当の報酬は、その手にある僅かば
かりの銀貨ではない。
それは情報。
数ある商会の中で誰よりも早くサンドラ王国軍の敗北を知ったエ
ルザは、来るべき戦争を予感して、ライルに麦の買い占めを命じて
いたのだ。
﹁はい、これ。お土産や﹂
﹁これは?﹂
エルザが懐から、がんじがらめに繋がった歪な金属を取り出した。
しかし、それはライルには見覚えのないものである。
509
﹁知恵の輪、いうてな。フジワラさんから貰ったもんなんやけど、
その繋がってるんが、うまいこといじくるとバラバラになるんや。
なかなか難しいで﹂
﹁へえ﹂
知恵の輪を手に持って眺めるライル。
ちなみに、貰った五つの知恵の輪は複雑な物ばかりであったが、
エルザはそれらを全て解いている。
﹁ま、量産しても売れるかどうかは微妙やな。個別につくって、お
得意さんに配る程度でええと思うわ。
そんなことよりも、や。北の情勢はどんな感じや?﹂
エルザの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
﹁ロブタス王国は軍備を整えています。麦、塩、武器の動きが顕著
で、傭兵も集まっているそうです。
対して、シューグリング公国はなんの動きもありません﹂
﹁やっぱロブタス王国は攻めてくるか⋮⋮こっちの状況は?﹂
﹁農民を徴兵して、軍事演習を行うようです。その規模は2万とも
3万とも言われています﹂
﹁王様も思いきったことするなぁ。城の倉を空っぽにする気かいな﹂
数万の農民を徴兵するのは、決して安くはない。
春麦︵春に撒いた麦︶はこれからが刈り入れ時である。
にもかかわらず、数万という労働力が無くなれば、必然的にその
510
収穫も減少する。
それは、王宮が負担しなければならないものだ。
﹁でもまあ、これでうちらの国の敗けはないやろ。
よし、麦は早めに売るで。徴発されたらかなわんしな。万が一を
考えて資金は分散、あとは国債もようけ買っとこか﹂
﹁わかりました﹂
ポーロ商会はエルザという主の下、来る戦争に向け、一丸となっ
て動き出していた。
その一週間後、王宮直轄地の北部において、3万近い数の農民兵
による演習が行われた。
これにより国は多くの財を消費させたが、王の力を軽んじていた
各諸侯は、王宮の底力はまだまだ侮れぬとその評価を改めることに
なる。
しかしそれでもなお、戦いの準備を続けるロブタス王国。
ロブタス王国には、大陸中から傭兵団が続々とやって来て、サン
ドラ王国との国境に近い場所に集結していった。
そうこうしているうちに、サンドラ王国は獣人の町と講和を成功
させる。
これにより、サンドラ王国は南を気にすることなく、全勢力を北
に当てることができるようになったのである。
511
48.ミラとミレーユ 2
エルザが去ってからおよそ十数日後。
サンドラ王国の外交官が町を訪れ、講和条件の交渉が行われた。
外交官は終始、平身低頭しており、その口上は謝罪から始まって、
こちらを不快にさせる言動は一切ない。
あまりの腰の低さに、俺の護衛にいた狼族の者も目を丸くしてい
たほどだ。
しかし、いい人選だと思う。
特に、獣人に対しても頭を下げたのは、大したものだ。
まあ、他国との交わりがないこの町でなら、何をしようともサン
ドラ王国の権威が下がることはない。
そのため、謝罪だけならタダ、と外交官は思っているかもしれな
いが。
講和条件については、こちらがある程度譲歩した。
その条件は以下の通りである。
・サンドラ王国の賠償金は新バーバニル銀貨4000万枚︵約11
20億円︶に相当する貨幣。新バーバニル銀貨100万枚︵約28
億円︶に相当する貨幣を一月に一度、分割で支払っていく。
・サンドラ王国は捕虜832名全員を引き取らなければならない。
なお、身代金はミレーユ姫を新バーバニル銀貨1000万枚︵28
0億円︶相当の貨幣とし、騎士は一人につき銀貨1000枚︵28
0万円︶相当の貨幣、他の者については無償の返還とし、この身代
512
金に関しては一括の支払いとする。
・サンドラ王国は、南領から町までの村を撤退させる。
・今後行う交易で、獣人の町は︻香辛料︼の値上げを行う。
・サンドラ王は、獣人の町を二度と攻めないという誓約書をしたた
める。
元々妥協は仕方がないと思っていたし、北のロブタス王国の状況
を聞かされては、こちらが譲る他ない。
誓約書については、サンドラ王が約束を破った時に、それをコピ
ーして、そこら中にばらまいてやろうと思う。
講和条件が成立すると、外交官らは早々に国へ帰っていった。
次回来訪する際に、王の署名が入った契約書と、条件の品々を持
ってくるという話だ。
夏も終わりの頃、二人の来訪者が現れた。
馬すら引き連れておらず、いかにも怪しい。
話を聞いてみると、ロブタス王国の者で、その用件は、サンドラ
王国の南を攻めてくれという話だった。
馬を連れていないのも、サンドラ王国の騎士が南領の国境付近を
警戒しており、川沿いを進めなかったからなんだとか。
サンドラ王国はこの町と他国が接触するのを恐れているのだろう。
それにしても、この町のことをどれだけの国が知っているのか。
513
俺がそれを尋ねると、サンドラ王国を破った獣人の町として、ゆ
くゆくは大陸中に広まるのではないかと言われた。
その軍事力においては、未知の魔法を使い、未知の獣を従えてい
るという話を聞いているそうだ。
さて、ロブタス王国の提案であるが、既に俺はサンドラ王国と講
和を結んでいる。
相手がいずれ裏切るかもしれなくとも、自分から約束を破るわけ
にはいかない。
それに、そもそも俺はここから動くつもりはないのだ。
﹁どの国にも与せず﹂という俺の意思を伝えると、使者達は多少交
渉に粘りを見せたものの、さほど残念がる様子も見せずに去ってい
った。
この町とサンドラ王国との間に、何らかの交渉があったことを聞
きつけており、それが同盟ではなかったことに一先ずの成果を見い
だしたといったところか。
それにしても情報を得る手段がないのが辛い。
大陸の情勢が全くわからないのだ。
たとえば戦争になった際、敵が攻めてきて漸く事態を知ることが
できるといった有り様。
まさに究極的ともいえる専守防衛。
気づいた時には、幾つもの人間の国が徒党を組んでこの町を囲ん
でいた、なんてこともありえるのである。
もっとも、どれだけの人間の国が組んでいようとも、負ける気は
更々ない。
最悪逃げることになっても、その一連の流れは何度もシミュレー
トし、準備は万全だ。
514
その後、ロブタス王国の使者と入れ替わるように、サンドラ王国
の者が何台も馬車を引き連れてやってきた。
使者から、サンドラ王の署名と捺印がなされた契約書、及び誓約
書を受け取ると、ミレーユの下へ行き、その真贋を確かめる。
事情は話さず、王の署名と捺印だけを見せると、ミレーユは王の
ものであると判断。
俺は獣人達に、直ちに南から捕虜を呼び寄せるように指示した。
捕虜の引き渡しは明後日となる予定である。
◆
ミレーユは旅館の一室で、いつものように静かに座っていた。
その体はいまだ改善が見られず、衰えたままである。
﹁お前の返還が決まったぞ。明日の朝、お前の国の人間に引き渡さ
れる﹂
夕食の時刻、ミラが膳を運ぶついでのように言った。
それに対し、ミレーユは﹁そうか﹂と端的に答えただけだ。
しかし、ミラが退室しようとすると、その背に向けてミレーユが
口を開く。
﹁一つお願いがあるんだが﹂
﹁⋮⋮﹂
ミラは振り向かないし、なにも答えない。
515
だが、足は止まっていた。
﹁リバーシというものが、この町にあるだろう。それを持ってきて
くれないか﹂
ミレーユが言い終えると、ミラはその是非を口にすることなく去
っていった。
ミレーユの食事が終わり、しばらく経った頃、ミラが部屋にやっ
て来た。
食器を片付けにきたはずのミラの手には、木盤と石が入った木箱
がある。
ミラは、﹁ほら﹂とリバーシの道具を机に置いた。
後は、空いた食器を持って退室するだけだ。
だが、それをミレーユは呼び止めた。
﹁待て、一人では打てない。付き合え﹂
﹁⋮⋮私はそれを打ったことがない﹂
﹁なんだ、そうか。なに、私も三度しかやったことがない。初心者
同士いい勝負ができるのではないか?﹂
どこか嬉しそうにミレーユは言った。
渋々といった様子でミラが対面に座り、ミレーユがルールを教え、
対局が始まる。
静かな部屋で、パチリパチリと石を置く音が鳴り、やがて勝負が
ついた。
516
﹁ふっ、私の勝ちだな﹂
痩けた頬を持ち上げてミレーユが言う。
ミラは顔を僅かにしかめたまま、盤面を見つめているばかりだ。
﹁なに、そうむくれるな。このリバーシというのはな、角をとるこ
とが重要なのだ﹂
己の勝利を誇るように、ミレーユの声色には少しばかりの弾みが
あった。
表情も、目尻が垂れ、口角が上がり、嬉々としたものがうかがえ
る。
するとミラが盤面から、ミレーユへと顔を移した。
﹁こんなことになんの意味がある﹂
それは決して負け惜しみではない。
ミラは本当に、リバーシなど意味のない行為だと思っているのだ。
﹁そうだな、意味などないかもしれん﹂
ミレーユは思う。
一昔前ならば、こんなものにうつつを抜かすよりも、剣を振るっ
ていた方が何倍もマシだと言っていたに違いない、と。
そして、ミラもそれと同じなのだとミレーユは考えた。
﹁昔、ここにローマットという男がいただろう。あの男は獣人達と
このリバーシをやり、親交を深めたそうじゃないか﹂
ミレーユが言うと、ミラの表情はこれでもかというほどに不機嫌
517
なものとなった。
︱︱人間と獣人が仲良くなることが気に入らない。
︱︱自分もそう思われているのなら、それは大きな間違いだ。
そんな考えが、ミラの顔にはありありと浮かんでいる。
わかりやすい奴だとミレーユは思った。
﹁ふっ、別にお前と友宜を結ぼうというわけではない。ほら、もう
一度やるぞ。いいか、角が重要なんだ。角が﹂
﹁⋮⋮﹂
執拗に角を連呼するミレーユ。
自分が見つけた必勝法を、まるで子供のように自慢し、見せびら
かすようである。
ミラは無言のまま石を手に取った。
静寂の中、再びパチリパチリという石の音が鳴り響く。
自然、ミレーユは口を開いた。
﹁⋮⋮なんでもできると思っていたよ。無敵感とでも言うのかな。
騎士団で私に勝てる者などいなかったしな﹂
それは、あまりに脈絡のない自分語り。
盤面を見ながら、独り言のようにミレーユは言葉を続ける。
﹁しかし、所詮は井の中の蛙でしかなかった。
518
軍は一矢すら報いることができずに敗れ、私はほうほうの体で逃
げ回った挙げ句、今は囚われの身だ。
まあ、世界が広かったというよりも、この町だけが特別なのかも
しれないが﹂
ミラはただ黙って聞いていた。
ミレーユとミラ、互いに視線を交わすことなく、盤面では石が打
たれていく。
﹁多くの兵が死んだ。
この戦いには私も賛成だった。
私が反対していれば、この地に軍が攻め入ることも、誰かが死ぬ
こともなかったかもしれない。
だというのに、私はおめおめと生き長らえている。情けないこと
だ。
そう、こんなに体が痩せ細ろうとも、私はまだ生きている。
⋮⋮きっと死ぬのが怖いんだろう﹂
ミレーユの肉体の異常な衰えとはなんであるか。
それはミレーユの使う肉体操作の術に起因する。
魔力によって、己が肉体を限界以上にまで高めるのがこの秘術の
特徴であるが、その振れ幅は上のみならず下にも大きい。
それゆえ、たとえ栄養をとっていようとも、心に病を抱えれば肉
体も容易く朽ちていくのである。
だが、いまだ朽ちきってはいない。
死への恐怖が辛うじて命を繋いでいるのだ、とミレーユは考えて
いた。
﹁一体、私はどうすればいいんだろうな﹂
519
ミレーユは顔を上げた。
己に似ているミラへの問いかけ。
それは自分自身に対する問いかけである。
すると、ミラは顔を盤面に向けたまま、茶色い瞳だけをミレーユ
へと向けて言う。
﹁知るか﹂
ただ一言。
それだけを言って、ミラは再び盤面に視線を戻した。
﹁お前らしいな﹂
ミレーユが小さな笑みをつくり、また石を打つ音だけが静かな部
屋に響いた。
やがてリバーシの決着が付くと、ミラは立ち上がる。
﹁もういいだろう。それはお前にくれてやる﹂
部屋から去っていくミラ。
ミレーユは残された盤面を見る。
勝負はミレーユの圧勝。
ミラは頑なに角をとろうとせず、それでもミレーユになんとか勝
とうとする様が見られた。
酷く純粋で眩しい。
ミレーユは何故だか、それがとても好ましく思えた。
520
翌朝、食膳の支度はミラではなく、別の獣人が行った。
そして、食事が終わると、三人の狼族に囲まれて、門の外へと行
く。
﹁ミラはいないのか?﹂
ミレーユは尋ねたが、狼族の者達は答えない。己の仕事を全うす
るだけだ。
しばらくして一行は北門へと到着する。
門は開いており、その外には、サンドラ王国の者がいた。
並んだ馬車には負傷者が乗り込み、騎士達は歩かされることに不
満な顔であった。
その中にミレーユが足を踏み入れる。
サンドラ王国の者達は、別人のように枯れ果てたミレーユに驚き
を見せた。
﹁フジワラ殿、ミラは来ないのか﹂
ミレーユは、その場にいた信秀に尋ねた。
すると信秀が、狼族の者にそれを聞き、返ってきた答えは﹁当番
でない﹂である。
ミレーユは負傷者が乗る馬車に乗せられた。
やがて馬車は動き出し、どんどんと町から離れていく。
信秀達も城門の中に帰っていった。
ミレーユは後部座席より町を眺めていた。
胸にあるのは、言い様のない寂しさ。
521
﹁弱くなってしまったものだ﹂
ミレーユは自嘲するように呟いた。
だがその時、見覚えのある影がミレーユの視界に入った。
ミレーユはハッとして、肉体操作の術を使い、視力を強化する。
すると石垣の上、相変わらずのムスッとした顔で、こちらを睨み
付けている狼族がいたのである。
﹁ふっ﹂
ミレーユの唇が緩やかな弧を描いた。
思わず、笑みが溢れるくらいには嬉しいらしい。
本当は誰でもよかったのだろうとミレーユは思った。
勝手に似ているなどと仲間をつくり、自分と重ね、己を慰めてい
ただけにすぎない。
だが、ミレーユの胸にポッカリと空いた隙間を埋める偽りのもの
は、やがて確かなものとなっていった。
独りよがりの、思慕の情。
肉体の衰えを留めていたのは、死への恐怖ではない。
ミラという存在であったのだ。
522
49.プロローグの終わり 1
秋も半ばになると日中の気温も下がり、幾分か過ごしやすくなる。
最高気温はまだ25度近くあるものの、空気が乾燥しているため、
非常に爽やかな暖かさといっていいだろう。
というわけで、その日の俺は、自宅の敷地内に立てたパラソルの
下、チェアに体を預けながら、麗らかな午後の一時を満喫していた。
手に持ったコップには、キンと冷えたコーラが入っており、それ
をストローで啜る。
うん、異世界で飲むコーラはその味も格別だ。
﹁くくくくく﹂
コーラが入ったコップをサイドテーブルに置くと、俺の口から、
悪役染みた笑いが漏れた。
だが、それも仕方がない。
なぜなら、俺は今﹃町データ﹄を見ているところだからだ。
︻資金︼4662億3778万7000円
サンドラ王国が攻めてくる前は3000億ほどだった俺の資金。
それが今ではなんと4600億円。
﹁ふふふ﹂
現代のものですら、大抵のものが買えてしまうこの資金力。
笑いが止まりませんなぁ。
523
このまま交易を繰り返せば、一兆円だってすぐに達成できるだろ
う。
そうなれば、︻時代設定︼を﹃現代﹄にするための残りの条件は、
人口一万人のみ。
しかし、それが問題でもある。
現在の人口は2300人を超えたところ。
一年間での人口の増加率は200人にすら満たない。
獣人達の出生率があまりに低すぎるのだ。
前に、﹁あの、その⋮⋮﹂としどろもどろになりながら、各族長
に部族の性生活について尋ねたことがある。
話を聞くに、とりあえずどの部族もやることはやっているらしい。
だが自然の摂理故か、獣人達の生殖行為における着床率はかなり
低いようだ。
なお、コボルト族とゴブリン族の出生率についてはそう低くくは
ないのだが、こちらは子を産んでも、新生児の生存率が高くなかっ
た。
まあ、獣人達の繁殖力が確かなものならば、ここまで人間にいい
ようにはされていないだろう。
いや、繁殖力が低いからこそ、人間から脅威に思われず、ここま
で生きてこられたとも考えられるが。
さて、人口一万人を達成するために、俺はどうするべきなんだろ
うか。
地道に、人口が一万人まで増えるのを待つ?
しかし、それでは︻時代設定︼を﹃現代﹄にするのに何十年かか
るかわからない。
524
世界
。
それに俺としては、﹃現代﹄の世界は元より、﹃未来﹄の世界も
覗いてみたいと思っている。
元いた場所ですら、味わったことのない
一体、どんな楽しみがあるのやら、想像するだけで胸の高鳴りを
抑えられそうにない。
やはり、人口に関しては、こちらからアプローチしていくべきだ
ろう。
そうだ。
次にサンドラ王国から攻められたら、いっそのことこっちから攻
めこんで領地を奪ってやろうか。
そうすれば、町を増築し、人間を移民させ、人口一万人も簡単に
達成できる。
いやしかし、人間と獣人の融和は想像以上に難しい気がする。
狼族の者でローマットと仲良くなった者はいたが、あれはあくま
でも、個人としての付き合いだ。
人間に対する感情が和らいだとはいえない。
実に悩みどころである。
﹁どうしたものか⋮⋮﹂と俺が考え込んでいると、不意に眠気が襲
ってきた。
陽気に当てられて、というやつだ。
元の世界の忙しない日々とは違い、この世界では考える時間は幾
らでもある。
町の人口については昼寝をした後にでも、ゆっくりと考えよう。
俺は、﹃町データ﹄を閉じると目を瞑った。
視界が瞼に隠れて真っ暗になる。
525
そういえば、サンドラ王国は今頃、ロブタス王国と戦争をしてい
るところだろうか。
もしもサンドラ王国が負けたら、エルザ達はどうなるのかと、ふ
と、心配が胸をよぎった。
まあ、エルザは商人であるし、そういった機には聡いだろうから
大丈夫だとは思うが。
ともかくも、両国の戦いの結果は気になるところであるが、これ
ばかりはどうしようもない。
果報は寝て待てともいうし、交易が続く限りは、サンドラ王国も
無事だろう。
ならば俺は今できることをするべきだ。
とりあえず今は、暖かい日差しに身を委ね、穏やかなシエスタを
味わうだけである。
するとお腹にグリグリとした圧迫感を感じた。
目を開けてみると、カトリーヌがその鼻先を俺の体に押し付けて
いる。
﹁どうした、カトリーヌ﹂
その大きな頭を撫でながら尋ねる。
カトリーヌはグエッと短く呻いた。おそらく散歩に行きたいのだ
ろう。
俺とカトリーヌは以心伝心の仲、互いに考えていることはよくわ
かるのだ。
﹁やれやれ、仕方がないな﹂
526
どうやらシエスタはお預けのようだ。
俺はカトリーヌに乗って、町を見て回ることにした。
﹁ふじわらさまー!﹂
町を行くと、俺を見つけた子供達が集まってくる。
人気者は辛いな。
俺は、懐から金平糖を取り出すと、それを子供達に渡していった。
秋が過ぎて、冬がやってきた。
深夜から早朝にかけては、気温がマイナスにまで下がることもあ
り、中々に寒い。
そんなある日、交易にやってきたサンドラ王国の役人から、ロブ
タス王国との戦争が終わったことを聞かされた。
結果は、サンドラ王国の勝利。
死力を尽くして戦い、その損耗は激しくも、サンドラ王国はなん
とか領地を守りきったそうな。
よかった、と思うべきだろう。
とりあえず、人間の国が双方削りあった上での現状維持。
これ以上ない結果である。
すると、サンドラ王国の役人からは交易品の量を増やしてほしい
と言われた。
これまでも結構な量を輸出していたはずだが、他国に悟られない
ようにと、あれでも遠慮していたらしい。
だが現在、そうも言っていられないほどに財政が圧迫されている
527
のだそうだ。
今回の戦争では、勝利したとはいえ、ただ領土を守ったのみ。
何も得られるものがなく、ただいたずらに兵と財産を失っただけ
だという。
取引量の拡大。
俺としては、悪くない話だ。
唯一の懸念があるとすれば、多くの国にこの町の存在を知られる
こと。
これは避けたいところである。
ここは獣人の町と呼ばれた地。
獣人を蔑視する人間なればこそ、富がここに集まることを快く思
う者はいないだろう。
俺は、出所を悟られないようにとよく念を押して、売買の増量を
許可することにした。
それからそう時も経たないうちに、再びサンドラ王国の者がやっ
てきた。
しかし、今度は隊を率いていない。
交易をしに来たのではなく、急ぎの使者ということだ。
俺が門前で迎えると、使者は言う。
﹁我が国の西側の諸侯らが裏切りました﹂
話はこうだ。
北西から南西にかけて、西側の一帯がサンドラ王国を裏切って、
シューグリング公国の支配下に入ることを宣言。
戦争で弱りきったサンドラ王国にはどうすることもできず、教会
528
に不義を訴えてはいるが、色好い返事は貰えないだろうとのこと。
何故ならば、シューグリング公国が今回手にした地は、戦いで奪
ったわけではなく、そこに住む者が自らの意思でシューグリング公
国に、帰属したからである。
﹁今回裏切った南西領のサラーボナー伯爵はこの地が、︻砂糖︼及
び︻香辛料︼の原産地であることを知っています。
シューグリング公国は必ず接触してくるでしょう﹂
サンドラ王国の使者はそのように忠告して、去っていった。
︱︱接触。
商売ということなら、別に構わない。こちらとしても望むところ
だ。
過去に、この町を攻めるための農民兵を供出したサラーボナー伯
爵領ならば、その恐ろしさもよく知っているだろう。
不用意に攻めてくるとは思えない。
もしかすると、サンドラ王国の使者は、シューグリング公国と商
売をしないでくれと言いたかったのかもしれない。
だが、それから一ヶ月が経っても、シューグリング公国の者が町
に来ることはなかった。
そして、代わりに北から別の来訪者がやってきた。
それは、俺が待ちに待ったもの︱︱新たな町の住人である。
まず最初に現れたのは魚族。
その名の通り、魚の顔をした者達だ。
シューグリング公国から来たそうで、その人数は多く、1000
人をたやすく超えている。
529
というか、魚族とか地上で暮らしていいのだろうか。
呼吸とかどうなっているのか、気になるところだ。
続いて鳥族と蛇族が、シューグリング公国の地からやってきた。
また鳥族が? とも思うかもしれないが、鳥は鳥でも種類が違う。
今、町にいる鳥族が鷹のような風貌をしているのに対し、今度の
鳥族は全身が黒く烏のようである。
蛇族に至っては、蛇なのに両手両足があり、どのように進化した
かは謎である。
いやもしかしたら、蛇を名乗っているだけで、実際は蜥蜴が進化
したものなのかもしれない。
とりあえず、町に入れることができる人数ではないので、三者に
は西の住宅群に住んでもらうことにした。
足りない家は、布と木材で簡易な天幕をつくり我慢してもらおう。
薪は幾らでも供給できるので、冬であろうとも凍えることはない
はずだ。
530
50.プロローグの終わり 2︵前書き︶
こじゅ 様、若山野種無柿 様より、素敵な地図の方をいただきま
したm︵︳︳︶m
本当にありがとうございますm︵︳︳︶m
20話と46話にそれぞれ貼らせていただきましたm︵︳︳︶m
531
50.プロローグの終わり 2
ほぼ同時期に新たに町へとやって来た魚族・鳥族・蛇族の三種族。
これにより、町は遂に4000人を超え、人口1万人の影くらい
は見えるようになった。
俺としては、ホクホクとした心持ちである。
ところで、長旅の疲れもあるだろうと、俺は魚族らに環境整備の
名目でずっと休日を与えていた。
だが、それも今日までのこと。
働かざる者、食うべからず。
そろそろ動き出してもらわねばと思い、今から俺は魚族らの下へ
向かうところであった。
既に魚族らとは何度も顔を合わせているが、まだ関係も浅く、油
断はできない。
自宅にて、俺は戦闘用の装備を身に着け、装甲車に乗り込む。
そして行く途中にジハル族長以下狼族の者を何人か乗せて、西門
を出た。
魚族が暮らすエリアをゆっくりと装甲車を走らせる。
すると、道行く者は皆、膝をつけて頭を下げた。
とにかく、彼らは腰が低い。
いや、元いた町の住人も腰は低いのだが、新たに来た三種族はそ
れに輪をかけて低姿勢だ。
532
初めてそれを見たジハル族長も、﹁あの、我々もこれからは膝を
つけて⋮⋮﹂などと言い始める始末である。
もちろん、そこまでする必要はないと断っておいた。
﹁それにしても、やはり人数が多いな﹂
俺は、車を運転しながらポツリと呟いた。
魚族だけで1000人を超え、鳥族・蛇族を合わせれば2000
人以上。
既に建ててあった煉瓦造りの住宅だけでは足りず、俺の視線の奥
には天幕がずらりと並んでいる。
ゆくゆくは全てを煉瓦造りの家にするつもりだが、相当な時間が
かかることだろう。
やがて、目的地に到着した。
煉瓦造りの家々が天幕へと変わる境目の手前にあるのが、魚族の
族長の住む家だ。
装甲車を道の真ん中に停車させ、狼族らと共に下車する。
すると魚族の族長が家の前で、地に頭をつけていた。
﹁これはフジワラ様、この度は我々を受け入れていただきまして、
真にありがとうございます﹂
この口上も果たして何度目であるか。
他の者達同様、この族長も腰が低い。
いや、同様というのは少し違う。
この族長あってこその、部族の低姿勢だろう。
﹁どうぞ、立ってください﹂
533
﹁ははっ﹂
俺の言葉に、ぬぅっと立ち上がった魚族の族長。
二メートルはあろうかという見上げるほどの体躯は、なかなかに
威圧感がある。
目は半分ほど飛び出ているために丸く、鼻はなく口は大きい。
頬にはエラと思われる切れ目があり、ゆっくりではあるが動いて
いる。
おそらくは、エラが鼻の役割をしているのではないかと思われる。
全身は青い皮膚に覆われ、手には水掻きというものがない。
魚族という名を冠しながらも、明らかに陸上を生きる種族であっ
た。
﹁ここでの生活は慣れましたか?﹂
﹁それはもう、素晴らしい生活です﹂
ペコペコとしながら、魚族の族長が言う。
前に聞いた話であるが、彼らもシューグリング公国では、人間に
虐げられて生きていたらしい。
だがサンドラ王国にいた獣人と違い、彼らには海があった。
海獣が住まう海には人間はあまり近づかない。
そこで魚をとり、命を危険にさらしながら暮らしていたのだとい
う。
534
魚族が魚を食べる。
共食いにならないのか、とも思ったが、よくよく考えれば海にい
る魚も自分より小さい魚を食べている。
人間だって哺乳類に大別すれば、豚や牛などを食べることは共食
いだ。
とにかくも、魚をとって暮らしていた彼らであったが、そこにシ
ューグリング公国の人間がやってきて、わざわざこの町のことを教
えたらしい。
なんの意図があって、シューリング公国の者がそんな真似をした
のか。
俺に恩を売るつもりであったのか、それとも単純に魚族らに出て
いって貰いたかったからなのか。
考えても、ついぞ結論は出なかった。
﹁そうかしこまらなくてもいいですよ﹂
﹁はい、すみません﹂
癖になっているのか、言った傍から、またも頭を下げる魚族の族
長。
﹁今日はあなた方に耕してもらう畑を割り振りに来ました。
ここで暮らす以上は、しっかりと働いてもらわなければなりませ
ん﹂
既に畑の測量は終わらせている。
後は、魚人の人数に合わせて畑を与え、さらに農具を渡せば、今
535
すぐにでも彼らは耕作に取りかかれるだろう。
﹁我が部族一同、真面目に働くことを誓います﹂
感情が読み取れないギョロリとした瞳を向けて、魚族の長は言っ
た。
その日はまず魚族の者達に畑を与え、翌日、鳥族・蛇族の者らに
も同じ様にした。
冬が過ぎ、春がやってきた。
異世界にやってきて五年が過ぎ、とうとう六年目を迎えることに
なったのだ。
新たな住人も増えたことであるし、俺は新年度の到来を祝して、
久しぶりに宴会を開くことにした。
北門前はサンドラ王国との戦いで血生臭くなってしまっている。
そのため4000人からなる大宴会は、南の地にて行った。
﹁皆さん、これからよろしくお願いします!﹂
新たにやって来た魚族らの挨拶から宴会は始まった。
元いた獣人達からは割れんばかりの拍手が巻き起こる。
新しく入ってきた魚族らに関して、特に問題となる報告はされて
いない。
これまでのところは、皆よくやっているといっていいだろう。
俺ばかりでなく、既存の住人に対しても魚族らは低姿勢であり、
536
その印象はいいようだ。
宴会が進み、族長達が俺の下に酒を勧めにやって来る。
酒を交わしながら、たわいもない会話をした。
今はアライグマ族の族長と飲んでいるところだ。
﹁双子の駱駝は元気にしていますか﹂
俺はアライグマ族の族長に尋ねた。
春は駱駝の出産の季節。
ついこの間、アライグマ族が世話している駱駝が子を産んだ。
難産であり、俺もアライグマ族と共に見守っていたのだが、漸く
産まれた子は双子であった。
アライグマ族は己の子が産まれたように嬉し涙を流していた。
その時、俺もつられて涙ぐんだものだ。
﹁ええ、とても元気です。また見にいらっしゃってください。あの
子達も喜びます﹂
アライグマ族の族長は、鼻元から伸びる特徴的な針のような髭を
揺らして、はにかみながら言った。
こうして宴会は大盛況のうちに幕を閉じる。
獣人達との関係も良好。
町は順調に成長を続けていた。
537
5月のある日のこと。
俺は、真っ昼間から酒をぶら下げて、ジハル族長の家を訪ねた。
ちゃんと電話で事前に連絡をとっているため、迷惑にはなってい
ないだろう⋮⋮多分。
それに今回は、ちゃんとした目的がある。
﹁ようこそ、いらっしゃいました﹂
いつものように、ペコリと頭を下げるジハル族長。
そのたたずまいに、やはり、と俺は思った。
﹁これを焼いてもらえますか﹂
﹁おお、すみません﹂
最高級の肉。
ジハルはそれを受けとると家の者に渡した。
ジハルに妻はいない。
既に鬼籍に入っている。
家にいるのは、親を亡くした身寄りのない者ばかりだ。
奥の部屋に案内され、俺とジハル族長は向かい合うように座った。
器を二つ置き、持ってきた上物の酒を注ぐ。
互いにまずは一杯、喉を鳴らした。
﹁最近、何かありましたか?﹂
空になった器を置き、俺はジハル族長に尋ねた。
﹁はて、特に思い当たることはありませんが⋮⋮、何か気になるこ
538
とでもありましたか?﹂
ジハル族長もまた空になった器を置いて答えた。
二人で飲む際に、酌をするということはない。
気を使わせないように、当初の頃よりそういった取り決めが俺と
ジハル族長の間にはあった。
﹁昔と比べて、覇気がないように感じます﹂
昨年の夏にサンドラ王国を撃退した頃からだろうか。
ジハル族長からエネルギーともいうべきものが、失われているよ
うに感じた。
今もこうして正面に座って見ればよくわかる。
ジハル族長は、まるで老人のようであった。
するとジハルは﹁ははあ、なるほど﹂と頷いた。
﹁私も歳ですからね。フジワラ様にこのような安住の地に住まわせ
ていただき、漸く肩の荷が下りました。
後任は息子に譲ろうと思っています。私はのんびりと畑仕事をし
ながら余生を暮らそうかと﹂
狼族の未来に安心した、ということなのだろう。
サンドラ王国軍を容易く退けたことが、そのきっかけだったに違
いない。
もう一族のために気を張る必要はなく、年相応に生きるつもりな
のだ。
俺は、新たに酒を注いだ器を傾ける。
539
なんだか寂しくなった。
個人的な付き合いとしては、最も深くて長いのがジハル族長であ
る。
共に酒を飲んだ回数も、百を超えるだろう。
そんな彼の口から出た言葉。
それは、いつ死んでも心残りはない、と言っているようだった。
誰しもが老いて死ぬ。
それは避けられないことだ。
俺もまたいつかは死ぬだろう。
ふと、俺が死んだら、この町はどうなるのかと考えた。
俺が死ねば、町は人間の手に落ちる。
独立し続けるためには大きな力がいるが、俺なしではそんな力は
維持できない。
そうなれば、この町は人間の植民地となる。
その生活はどんなものであるか。
︱︱と、そこまで考えて、俺は思考を打ち切った。
今考えることではない。
後でゆっくり考察しようと思いつつ、俺はジハル族長を将棋に誘
った。
パチリパチリとした駒の音は、俺とジハル族長の会話を前に響く
ことなく消えていく。
﹁し、失礼します﹂
540
やがて緊張したような声がかかり、襖が開いた。
俺が今日持ってきた肉を調理して運んできた少女。
名前はメグ。
この家の隣に住む、ジハル族長の息子夫婦の子である。
昔は爛漫としていたが、年齢を重ねた今では、そんな子供特有の
無邪気さも影を潜めていた。
まあ、年を取ったといっても、まだ10歳に差し掛かったところ。
まだまだ子供だ。
メグは再び﹁失礼します﹂と言って、俺とジハル族長の隣に皿を
置いた。
それにしても、と俺は思う。
最近、ジハル族長の家にいくと、大体彼女が現れるのだ。
その理由についても、わかっている。
ジハル族長は口には出さないが、次期族長の娘であり、自身の孫
でもあるメグと俺をくっつけようという魂胆なのだろう。
しかし、俺にはロリコン趣味などないので、無駄な努力である。
それにしても結婚か。
今年、誕生日を迎えれば、俺も26歳になる。
晩婚化が進んでいた日本でも、そろそろ結婚を考えていい歳だ。
他の部族の者からも、アプローチのようなものを受けている。
それとなく断っているが、その攻勢は激しい。
特に、人に近い顔をしている婦女子には、おや、と思わせられる
ことは幾度もあった。
だが、俺にも立場というものがある。
541
安易にいずれかの部族の女性と結ぶことは、この町に不和を呼び
込むことになりかねない。
やはり、結婚など当分は無理だろう。
その後も、俺はジハル族長と酔った頭で将棋を指しながら、のん
びりと談笑を続けた。
できることならば、この好ましい時間が長く続いてほしい、と思
いながら。
翌日以降、俺は、町の仕組みの一部を大きく変えようと頭を悩ま
せる。
今までは各種族の裁量で自由にできる分を除いて、採れた作物を
俺が全部預かり、それを︻売却︼して、月々に食物を渡すようにし
ていた。
しかしこれからは、獣人達が自分達で作ったものだけを食べて暮
らしていけるような、そんな仕組みにしようという試みである。
俺に何かあっても、獣人達が安心して暮らしていけるように、少
しずつ町のあり方を変えていかなければならない。
そんな考えが俺にはあった。
542
51.プロローグの終わり 3
場所はサンドリアの王城。
サンドラ王は、己が執務室にて机に山と積まれた陳情書やら報告
書やらに向かい、悪戦苦闘の日々を送っていた。
﹁ううむ⋮⋮﹂
サンドラ王の顔は険しく、口からは唸るような声ばかりが漏れて
いる。
それもそのはず、北のロブタス王国との戦いは、激闘の果てにな
んとか勝ちを拾ったが、その隙に西側の諸侯が裏切り、シューグリ
ング公国に帰順。
これにより、新たに国境を任されることになった領主からの様々
な陳情が増えた。
さらに、先の戦争での出費が激しく、城の倉庫は枯渇しかかって
いる。
そんな中での、減ってしまった収入と膨れ上がった支出の報告書
の決済は、とても胃にくるものであった。
﹁どうしたものか⋮⋮﹂
弱音を吐きつつも、書類の一つ一つに目を通していくサンドラ王。
余談ではあるが、書類に使われている紙は植物紙。
某国にてここ数年の間に開発され、世に出回ったものであり、羊
皮紙が一枚につき、新バーバニル銀貨2枚∼3枚︵5600円∼8
543
400円︶ほどの値段であるのに対し、植物紙はその100分の1
という安さであった。
閑話休題。
﹁失礼します﹂
執務室に入室する老年の男性。
頭を悩ませるサンドラ王の下にやってきたのは最高顧問官である。
﹁なんの用だ﹂
サンドラ王はその瞳を、ギロリと睨み付けるように書類から最高
顧問官へと移す。
自国の領土を奪われたサンドラ王の機嫌はもうずっと悪い。
特に最高顧問官に対しては、諸侯の寝返りを予期できなかったの
かという、恨みを含んだものが胸の内にあった。
とはいえ最高顧問官のみならず、他の文武官も一切予見できてい
なかったのだから、それは八つ当たりに近いといえる。
これまで、その野心をひた隠しにして来たシューグリング公国が
流石であるという他なかったのだ。
﹁獣人の町へ向かった者から気になる知らせが届きました﹂
王の態度をよそに、最高顧問官は素知らぬ顔で、ただ己の役目を
全うする。
その口から出た、獣人の町という言葉。
それを聞き、サンドラ王は眉を寄せ、いっそう不機嫌な顔になっ
544
た。
西側の領主らの裏切りも、元をただせば、全て獣人の町が原因で
あったからだ。
正直なところ、サンドラ王は獣人の町には、もうこりごりといっ
た感情をもっていた。
関わりたくないという思いが強く、次にあの町を攻めようなどと
言い出す者がいたら、有無も言わさず斬り捨ててやろうか、などと
半ば本気で考えているほどである。
﹁あの町の人口が大幅に増えたようです。城郭の外にあった住宅に
収まらず、天幕まで建てているとか﹂
﹁いかほどだ﹂
﹁軽く見積もっても1000人は増えているとのこと﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
サンドラ王は、前屈みであった上半身を背もたれに預け、考え込
む。
獣人の町の人口が最小で1000も増えた。
無視するには、いささか多い数である。
獣人の生殖能力は低い。
しかし、人口が増えれば生殖能力の低さなど関係ないほどに、出
産数も増加する。
そして1000という数は、人口増加の波に乗るための足掛かり
になり得る数字。
545
サンドラ王国にとって、あまり好ましくない事態であった。
とはいえ、今はとる手段などないので、結局は放っておくしかな
いのであるが。
﹁西側から下ってきたのか﹂
﹁そのようです﹂
﹁しかし、どういうことだ。どうやって獣人の町の存在を知った。
町の東を流れるルシール川。あれに沿って南へ向かい、たまたま
町にたどり着いたというならわかる。
だが、西からとなれば、町の存在を知らない限り、そこに向かお
うともしまい﹂
狼族ら古参の町の住人達は、人間に追いたてられ、巨大なルシー
ル川を拠り所として南へと安住の地を求めた。
しかし、西にある者が拠り所とすべきは海。
町の在りかを知らなければ、はるか東へと進路をとろうとはせず、
獣人の町へは絶対に辿り着けないはずである。
﹁シューグリング公国ですよ。
獣人の町について、わざわざ教えたのでしょう。
かの国は、なかなかしたたかなようですな﹂
したたか
という言葉には、なんらかの含み
最高顧問官は、さも当然といった様子で言った。
しかし、その中の
があるようにサンドラ王は感じた。
﹁⋮⋮わからんな、何が言いたい﹂
546
シューグリング公国が信秀に新たな住人を寄越すことで恩を売り、
信用を得る。
したたか
という言葉には足りないような気が
サンドラ王の脳裏にそんな考えが浮かんだが、その程度では最高
顧問官が口にした
した。
他に思いつくのは、人口を飽和させて食料不足にもちこむという
シューグリング公国の策略。
しかし、そんなものは信秀が新たな住人の受け入れを断ればいい
だけである。
それに、サンドラ王国の1000に近い数の捕虜に対し、食事を
日に三回も与えていたこと考えれば、町の食料は潤沢であることが
予想された。
あとは、獣人の町を内から崩す埋伏の毒くらいなものだが、これ
はすぐに打ち消した。
人間の国であるシューグリング公国が、獣人の町に獣人を潜り込
ませて反乱を起こさせるなど、あまりに馬鹿馬鹿しい話である。
獣人が人間を信用するわけがないのだ。
すると、最高顧問官は言う。
﹁魚族を見た、と言っておりました﹂
あの
魚族と言ったのには訳がある。
﹁魚族? あの魚族か﹂
﹁ええ﹂
サンドラ王が
547
獣人が恵まれた土地から追い出される原因となった、教会による
﹃国家間での戦争を禁ずる﹄とした布告。
その布告がなされるよりも以前︱︱現サンドラ王が王位につくよ
りも前に、魚族にはサンドラ王国より追い出された過去があった。
それは彼ら魚族が、無謀にも人間の村を襲ったためである。
﹁だが、それがどうした。あの町にいるのは獣人。獣人なら獣人同
士、仲良くやるのではないか?﹂
﹁いいえ。魚族は卑怯で、傲慢で、悪辣で、凶暴で、非常に自己中
心的です。
最初はただ助けを求めるでしょう。
襲われた村でも、そうやって近づきました。生活が苦しいと、助
けてくれと懇願したのです。
村人は、魚族に食物を与える代わりに、よく働かせました。魚族
も最初の内は真面目に働きました。
しかし魚族は、平穏を手に入れると、やがてその本性を現します。
人間の指示で働かされていることに不満を持ち始め、受けた恩を
忘れ、村を襲ったのです﹂
まるで見てきたかのように話す最高顧問官。
その舌は止まらない。
﹁欠片もなかった自尊心。それが、自身の身が保証された途端に大
きく膨れ上がり、それを満たそうとする。
こういった者には、種族の違いなど関係ありません。ただ欲望の
ままに、行動するでしょう。
魚族とはそういう種族なのです。
フジワラが魚族を引き入れてしまった以上、大きな混乱が起きる
のは時間の問題でしょうな﹂
548
﹁なるほど、シューグリング公国の狙いはそれか。魚族は、まさに
猛毒となりうるものだ﹂
サンドラ王は納得したように大きく頷く。
ロブタス王国との戦いに乗じて、サンドラ王国の西の領地を掠め
取ったシューグリング公国らしい嫌らしい手であった。
サンドラ王は続けて尋ねる。
﹁それでどうする?
魚族についてフジワラに教えてやれば、奴の心も少しはこちらに
傾くのではないか?﹂
﹁今は一先ず様子を見ておきましょう。内乱に合わせて、シューグ
リング公国も動きます。
その時、漁夫の利を得るのです。
獣人の町に敗れたシューグリング公国を背後から討ち、形だけで
もフジワラを手助けしたように見せて、恩を着せればよろしいかと﹂
﹁ふむ﹂
獣人の町に助けはいらない。
それほどまでに強いことを、サンドラ王も最高顧問官も重々承知
していた。
しかし、いらぬおせっかいに等しいサンドラ王国の助けは、友好
のための実績、ひいてはシューグリング公国を叩くことにもなる。
信秀からの心証は間違いなくよくなり、うまくすれば︻香辛料︼
などの価格も下げてもらえるだろう。
549
そこまで考えが及ぶと、サンドラ王はニヤリと笑った。
それは実に数ヶ月ぶりかの、心からの笑みである。
﹁よし、シューグリング公国への諜報を厳にせよ。うまくいけば、
西の地を取り戻す好機となる﹂
◆
︱︱これは藤原信秀の日記である。
5月×日。
町の北より武器を手にした人間達が現れた。
数は1000ほどであったが、彼我は不明。
すぐさま、西の住宅群に住む者達を城郭の中に入れて、町は戦闘
体制となる。
相手の軍は前進してくるばかりで、勧告の使者などはない。
よって、万が一敵でない場合も考え、砲撃は威嚇射撃より始まっ
た。
俺の﹁撃て!﹂という号令によって放たれた砲弾は、相手の軍の
数百メートルも前に着弾し、その動きを止める。
すると軍は八方に分散しつつ、町に向かってきた。
すなわち明らかな敵性存在であり、もう容赦する必要はなかった
のである。
俺の号令により、敵へと容赦なく大砲が放たれる。
そして敵は、たった数発を撃ち込まれただけで逃げ帰っていった。
あまりにも拍子抜けである。
550
おそらくは威力偵察のようなものだったのではないだろうか。
逃げた敵に追撃はかけなかった。
敵の装備はあまりに貧弱であったからだ。
農民兵ばかりでは、捕らえても金にはならないだろう。
とりあえず、残された敵の負傷兵から話を聞き、敵がシューグリ
ング公国の軍であったことがわかった。
5月△日
シューグリング公国と戦ってから数日。
あれ以来、魚族を始めとした町の外に住む者達が、石垣の中に住
みたいと言うようになった。
実際に敵が攻めてきたのだから、ワガママと断じるわけにもいか
ない。
俺としても何とかしたいところである。
しかし、生憎と全員を住ませる場所がなかった。
烏族と蛇族のどちらかならば都合をつけてもよかったが、あちら
を立てればこちらが立たず、という諺もある。
同時期にやって来た種族の内の一方を優遇すれば、優遇されなか
った者達には不満が残るだろう。
というわけで、このまま我慢してくれとお願いしつつ、酒を振る
舞った。
こういう時、やはり酒は便利だ。
5月○日
魚族の族長から、烏族と蛇族には気を付けるように言われた。
551
どういうことだと聞いたら、﹁彼らは、卑怯で、傲慢で、悪辣で、
非常に自己中心的です。とても卑しく、よく嘘を吐きます﹂などと
言っていた。
酷い言われようである。
その忠告は一応、心に留めておくと伝え、また決して口外しない
ように魚族の族長に言っておいた。
町はせっかくいい調子であるのに、仲間内で争いごとになるのは
勘弁願いたい。
6月×日
祝、5000億円突破。
サンドラ王国との交易により、遂に︻資金︼が5000億円を突
破した。
このままなら二年も経たずに、︻資金1兆円︼は達成されるだろ
う。
︻時代設定︼を﹃現代﹄にするためのもう一つの条件︻人口1万
人︼についても、シューグリング公国に攻めこんでやろうかなと目
下検討中だ。
それにしても、もし︻時代設定︼が﹃現代﹄になったらどうしよ
うか。
胸の内には、獣人達に﹃現代﹄の素晴らしさを教えたいと思う俺
がいる。
現代技術の利便性に、それによって得られる生活の豊かさに、獣
人達は驚くに違いない。
元の世界で﹃現代﹄に生きていた俺だからこそ、それは誇らしく、
さぞや気持ちがいいことだろう。
6月▽日
552
烏族の者から魚族と蛇族に気を付けるように言われた。
曰く、﹁魚族と蛇族は、卑怯で、傲慢で、悪辣で、非常に自己中
心的です。とても卑しく、よく嘘を吐きます﹂とのこと。
どこかで聞いたような台詞である。
6月□日
最近、夏の暑さのせいか、町の者がだらけているように感じられ
る。
ジハル族長が言うには、朝、畑仕事に遅れる者が散見されるとか。
これはよろしくない。
俺は各部族の長を集めて、気を引き締めるように注意した。
いや、まあ、一番だらけているのは俺なので、どの口が言うのか
と、ちょっと思ってしまったが。
6月▲日
蛇族の者から魚族と烏族に気を付けるように言われた。
内容は、以前に魚族と烏族が言っていたものとほぼ同じである。
正直、またかという感想しかなかった。
今のところ、彼らが忠告したようなことはない。
三者が共に互いの足を引っ張り合うようなことを言うのだから、
あながち嘘でもないのだろう。
しかし、俺が目を光らせている限りは大丈夫だと思う。
6月
牧場から駱駝が減っているのでは、という報告を狼族の者から受
けた。
各種族の者達に尋ねると、何頭か逃げ出してしまったのだという
報告が返ってきた。
553
まあ、駱駝は温厚とは言い難い気質であるし、逃亡も止むなしか。
周りは荒れ地、腹が空いたらそのうちに戻ってくるだろう。
今度からは、何かあれば直ちに報告するようにとだけ言っておい
た。
そういえば最近、町の雰囲気がピリピリとしているように感じた。
時折、喧嘩も起きているようだ。
6月○日
ジハル族長からの報告があり、町で賭博が行われていることがわ
かった。
主催は魚族。
毎夜毎夜、遅くまで酒と博打を行っており、それが町の者がだら
けていた理由であったのだ。
町の者達の雰囲気が悪かったのもこれが原因であろう。
俺はもちろん賭博を禁止にした。
魚族の族長は頭を地面にこれでもかと擦り付けて、﹁もう二度と
やりません﹂と誓った。
7月×日
﹁いつまでこの家に住めばいいのか﹂
﹁町の中に住まわせてくれ﹂
﹁人間が怖いから、酒を飲んで気を晴らしたい。だから酒をくれ﹂
魚族を含めた町の外に住む三種族は、ここ最近、俺に要求ばかり
を突きつけてくる。
町に来た当初の謙虚な姿勢は、もうどこにもなかった。
おまけに彼らはあまり働いているようには見えない。
554
流石に俺も頭にきて、働かないのなら食事を減らすと言った。
すると返ってきたのは﹁他の種族も働いていないじゃないか﹂と
いう反論。
魚族らの言う通りであった。
酷いのは魚族ら新参の者達であるが、以前からいた獣人達も、昔
の勤勉さはなくなっていた。
また夜遅くまで賭博をやっているのか、と思ったが、それを皆に
尋ねると誰もが首を横に振る。
賭博ではない。
ならば与えられることに慣れ、勤労意欲を無くしてしまったのだ
ろうか。
とにかくも、これでは駄目だ。
俺は最も信頼している、狼族の者達を自警団に任命する。
そして少し強引な手ではあるが、再三にわたり命令を聞かない者
再三
である。
は、棒で打ち据えてもいいという触れも出した。
あくまで
本当は俺もこんなことはしたくない。
しかし、言っても聞かないのならば、なんらかの刑罰を処すしか
ないのだ。
これで皆の心が引き締まればいいのだが⋮⋮。
555
52.プロローグの終わり 4
初めに魚族の毒牙にかかったのは、住居建築のために魚族が住む
区域に出入りしていたコボルト族である。
信秀が町の住人に金を配った日、魚族はコボルト族の中から不真
面目な者を見つけ、賭博に誘った。
賭博なんてものは簡単だ。
結果が不規則な事象に対し、金を賭けるだけでいいのだから。
たとえば石を上空から落として、どの向きに転がるか。
こんな単純なことであっても、金を賭ければそれは賭博となり、
楽しみというものが限られたこの世界では、類い稀な娯楽となる。
魚族が用意した賭博の種類も様々であった。
闘虫。ネズミの競争。両手の内のどちらに石があるかという石当
て等々。
しかし、それらの実態は不規則な勝負のように見えて、決して不
規則なものではない。
どの賭博の結果にも等しく魚族の関与が存在した。
魚族は、まずコボルト族の不真面目者によく勝たせた。
そして、﹁大したものだ﹂﹁ただ者ではないな﹂などとおだてて、
不真面目者に自信をつけさせる。
これに気をよくした不真面目者は、与えられた勝利を自分の力だ
と勘違いした。
556
今まで特に褒められたこともない者である。
自分なりのなんの根拠もない必勝法が大きな成果を出したことに、
その頭の中では脳内麻薬が勢いよく噴出し、心地よい気分にさせた。
いかに賢いといわれるコボルト族でも、狡猾な悪意に対し免疫は
ない。
普段から身内同士で騙しあいをしているような魚族にとって、そ
の不真面目者を騙すことは赤子をひねるよりも簡単なことであった
のだ。
そうして不真面目者は、絶妙な具合に負けていった。
勝てそうで勝てない。
もうやめようかと思ったところで、狙いが当たる。
そんな勝負が続くものだから、不真面目者は次の勝利を夢見て、
賭博を終わらせることなく継続させた。
とはいえ、信秀から月々貰っている金はそう多くない。
やがて不真面目者の金が底をつき始めると、魚族の者は、大きな
勝負を持ちかけた。
﹁一発逆転の大勝負だ﹂
﹁これで勝てば今までの負けも取り返せるぞ?﹂
﹁確率的に、そろそろそちらが勝つ番じゃないか?﹂
魚族の者は言葉巧みに誘い、不真面目者を勝てそうな気にさせた。
そして不真面目者は負けた。
勝敗の結果は魚族に操作されていたのだから、当然の結果である
といえよう。
557
不真面目者が金を払えなくなると、魚族は態度を豹変させ、多数
で取り囲んだ。
﹁金がないのなら、金に代わるもので払え。なければ、誰かに借り
ろ﹂
金に代わるものなど、不真面目者は持っていない。
さらに賭博をして借金したなどと、誰かに言えるわけもなかった。
不真面目者の部族での貢献は低い。
お荷物ともいえる立場であり、そんな者が別の誰かに迷惑をかけ
るともなれば、部族から見放されてもおかしくはないのだ。
﹁駱駝があるではないか﹂
魚族の者は特に気にした風もなく、禁忌を口にした。
駱駝は神獣。
町の長である信秀は駱駝を愛していた。
それを賭けの対象にするなど許されないことである。
﹁なあに、駱駝は逃げちまったってことにすれば、構わないだろう
よ﹂
こうしてコボルト族の不真面目者は、魚族の悪魔の囁きに乗って、
遂に取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
後日、魚族は不真面目者が連れてきた駱駝を殺し、その肉を焼い
て食らった。
駱駝の肉は不真面目者にも饗された。
これにより、魚族にとって、決して裏切らない共犯者が出来上が
558
ったのである。
そして魚族に負けたコボルト族の不真面目者は、カモを求めて仲
間内で賭け事を行った。
それがろくでもないことであることは理解していたが、自分ばか
りが不幸になることは許せなかったのだ。
その後も、第二第三の被害者が現れ、それは波紋のように広がっ
ていく。
こうやって段々と町は腐っていった。
ただし、例外もあった。
それは狼族。
狼族の者達には、信秀にどの種族よりも頼りにされているという
自負があった。
その誇りは、怠惰には決して靡かない強い心である。
信秀は狼族の者達に警察権を与えた。
これにより、酒と賭博に溺れた住人達は、また真面目に働き始め
る。
町は元の姿を取り戻したのだ。
だが、それは表向きばかり。
狼族以外の獣人達の心の中には、ゆっくりと不満が溜まっていっ
た。
一部の者に与えられた権力。
狼族は同列であるはずなのに、そんな者から頭ごなしに命令され
るなど、他の獣人達にとって我慢ならないことだったのである。
559
ある日の夜。
町の西側にある煉瓦造りの家に、狼族以外の種族の長が一同に会
していた。
酒と駱駝の肉を囲い、円を組むように、その者達は座っている。
﹁まったく毎日毎日働かされて嫌になるな﹂
ぼやくように、愚痴を漏らしたのは魚族の長である。
それに﹁そうだ﹂﹁その通りだ﹂と烏族と蛇族の族長が相づちを
打った。
﹁⋮⋮﹂
他の族長からの反応はない。
多くの者が怠惰になってしまったが、古参の族長達ばかりは、勤
労が間違っていないことをよく知っていたのだ。
されど、異を唱えることもできなかった。
その理由は古参の獣人と魚族との関係にある。
共犯者
である古参の獣
魚族の長はまるで、この町に特段未練がないように振る舞う。
その向こう見ずな言動は、駱駝殺しの
人らを恐怖させた。
なにかあれば道連れにされかねないのだ。
それゆえ古参の獣人らは、魚族の機嫌をうかがい、気持ちをなだ
める。
そうすることで、魚族が決して軽はずみな行動に出ないようにし
560
ていた。
もっとも、魚族の強気な発言は虚栄心からくるものでしかない。
実際に信秀から町から出ていけと言われたら、恥も外聞もなくペ
コペコと頭を下げるのだが、それは付き合いの浅い古参の獣人らに
はわからぬことである。
﹁それにしても、狼族ばかり特別扱いしおって。
フジワラ様は何を考えているのだ﹂
またも魚族の族長が愚痴を吐いた。
それに同意したのは豚族の族長である。
﹁そうだ。なぜいつも狼族の者ばかり優遇する﹂
こればかりは賛成しないわけにはいかなかった。
常日頃より、狼族に対しての特別扱いを目にしている。
いかに狼族が最初期からの住人であるとはいえ、目に余るものが
あった。
﹁狼族の奴らは、相当に美味いもんを食っているらしい。
なあ、ゴビ?﹂
魚族の族長が目を向けたのは、円陣の中にいる、唯一族長ではな
い者。
狼族のゴビ。
狼族も、全員が全員誠実であるわけではない。
中には性悪な者も存在した。
﹁ああ、間違いねえよ。フジワラ様はジハルの爺とうまいもんばっ
561
かり食ってやがる。
フジワラ様が土産に置いていったものを、ちょいと盗み食いした
ことがあるんだが、そりゃあたまらんほどの美味だったぞ﹂
駱駝の肉を旨そうにほおばりながら、ゴビは言う。
場がざわりとした。
食というものが保証されている現状、獣人達は美味しいものに目
がなく、とてつもない関心を抱くのだ。
すると猫族の族長が、そういえばと語り出す。
﹁少し前のことだが、人間の軍へと夜襲をかけた者達が、フジワラ
様から素晴らしく美味いものを振る舞われたらしい。
その味が忘れられないと、今でも口にする者がいる。
あの時も狼族が共にいたな﹂
またも狼族である。
﹁我々も狼族と同じくらい働いている。だというのに対価が違うと
はなにごとか﹂
憤懣とした様子の魚族の族長。
他の族長らも、﹁そうだ、そうだ﹂と賛同すると、皆、思ってい
る不満を口にし始めた。
が、獣人達から今日得られる食事のありがたみを鈍
確かに、どの種族もここに来る以前とは比べ物にならない生活を
慣れ
している。
だが
らせていた。
562
欲望に際限はない。
獣人達は、ただ平和に暮らす今の状況に満足できなくなっていた
のだ。
﹁そもそもフジワラ様は人間に甘過ぎる!﹂
ゴブリン族の族長が、酒のなくなった杯を床に叩きつけるように
して叫んだ。
獣人達は信秀の指揮の下、人間達を撃退した。
それは獣人達にとって、己が人間よりも優れているという確かな
自信となっていた。
そして、彼らの人間に対する恨みは深い。
上下の関係が逆転した人間に対し、その恨みを晴らしてやりたい
という心があった。
しかし、信秀がやったことは、負傷者の治療など、人間に配慮す
る行為ばかり。
﹁我らが、この町にたどり着くまでにどれ程の苦しみがあったか!
それを思い知らせるためにも、人間など食料も与えず、放り出せ
ばよかったのだ!﹂
またしても、﹁そうだ、そうだ﹂という声が上がった。
やがてそれが収まると、魚族の族長は丸い目でギョロリと族長ら
の顔を見渡して、尋ねる。
﹁なぜ、各々方は人間の言うことを聞いているのだ?﹂
563
人間。
いわずもがな、信秀のことだ。
これに古参の族長らが顔を見合わせた。
﹁なぜといわれてもな⋮⋮。我らが餓えていたところを助けてもら
ったわけだし⋮⋮﹂
﹁しかし、我々から全てのものを奪ったのは人間ではないか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ならば我々は、より多くのものを得る資格があるのではないか?
それは我々に与えられた当然の権利であろう﹂
﹁確かに⋮⋮﹂
﹁その通りかもしれぬ﹂
頷き合う族長達。
信秀に、住みかを与えられ、食を恵んでもらった。
そんな立場であった獣人達。
この大陸に住む一般的な人間達よりも、よっぽど文化的な生活を
送れるようになったのは、間違いなく信秀のおかげである。
だというのに、獣人達の心には、いつの間にか信秀に対してさえ
も被害者意識が生まれていた。
﹁それにしても、フジワラ様はあれだけの物をどうしたのか﹂
魚族の族長が自問するように言った。
564
すると、それに答えたのはコボルト族の族長である。
﹁⋮⋮あのフジワラ様が住む敷地が怪しい。なにか新しい物が出る
時はいつもあそこからだ。
ま
の字すら知らなかった。
最初は錬金の術でつくり出しているのかと思ったが、フジワラ様
は魔法の
おそらく、あそこになにかがある。この町にあるものを全て作り
出したなにかが﹂
信秀はコボルト族に、根掘り葉掘りと魔法について聞いていた。
魔法を使える者なら、誰もが知っているようなことを、信秀は知
らなかったのである。
﹁誰か塀を上ったりしたものはいないのか?﹂
この魚族の長の問いに皆、首を横に振る。
誰しもが、信秀の住んでいる場所に興味をもっていた。
なにせそこを囲む石垣も、町を囲む石垣とは段違いの大きさであ
る。
なにか隠しているのだろうと、不審に思うのは当然だ。
しかし、信秀の気に障ることを行えば、町から追い出されるので
はないかという恐怖心があり、行動に移すことはしなかった。
﹁つまり、あの地を手に入れられたなら、町も我ら獣人のものとな
るわけか﹂
古参の族長らはギョッとした。
565
︱︱町を我がものにする。
考えなかったわけではない。
だがそれは憚られること。
これまで獣人の誰もが、無理矢理に心の隅に押し込めていた。
それに、信秀に対する恩は、今も確かに感じているのだ。
﹁ま、待て、フジワラ様には不可思議な武器がある。
あれには誰も勝てん。
不意をつこうにも、狼族の者を常に侍らせている。一つ間違えれ
ば、皆殺しの目に遭うぞ﹂
豹族の者が、考えを改めさせるように言った。
信秀の武器は恐ろしい。
対する獣人達は、武器すら満足にない。
精々、弓矢を個別に持っている者に、鍬や鋤といった農具がある
くらいだ。
それでも隙をついたなら、信秀を倒せるかもしれない。
しかし、今の信秀は以前よりも警戒心が強く、狼族の者を護衛に
置いていた。
﹁なに、狼族の者ならそこにいるではないか﹂
魚族の族長が狼族のゴビへと目を向ける。
ゴビは話をよく聞いていなかったのか、酒で赤くなった頬を、ニ
ヤリと持ち上げるだけであった。
566
魚族の族長の言葉は続く。
﹁それにな、実はシューグリング公国の者から、我々に接触があっ
た。
近々、かの国はこの町を攻めるらしい。その際には我が魚族にも
呼応してほしいとのことだ﹂
﹁馬鹿な。相手も人間ではないか﹂
古参の族長から上がる当然の反応。
しかしそれを予想していたのか、魚族の族長はその口からギザギ
ザの歯が覗くほどの、大きな笑みをつくった。
﹁その通りだ。シューグリング公国などと手を組むつもりはない。
だが戦争になれば、町を守るためにフジワラ様から武器が配られ
る。弓も大砲も使えるようになるのだ。
呼応ではない。その機を利用する。
この町を支配した後に、シューグリング公国も打ち倒せばいい﹂
古参の族長らはゴクリと喉を鳴らした。
その顔面は蒼白となっている。
文句を言うだけならまだしも、実際に事に及ぶとなれば、覚悟が
いる。
この町に辿り着くまでの、あのひもじくて辛い生活に戻る覚悟が。
﹁面白い、我が部族はやるぞ。人間を恐れるなど、獣人の名折れ﹂
﹁俺の部族もだ。人間の下で働くなど、誇り高き我が蛇族には耐え
られぬ﹂
まず名乗りをあげたのは烏族と蛇族。
567
獣人としての自尊心をくすぐるような口舌である。
﹁おお、人間を恐れぬ勇者よ。それでこそ獣人というものだ﹂
魚族の族長が口にする言葉もまた、獣人としての誇りを刺激する
ものだ。
ちなみに、これらの受け答えは会合以前より取り決めていたこと
である。
普段はいがみ合い、互いを蹴落とそうとする魚族ら新参の三種族。
しかし、共通の敵に対して一致団結した様子を見せるのは、利だ
けを追求する浅ましい心があるからだった。
魚族の族長は、古参の族長らに視線を向ける。
その目は、お前達は人間を恐れる腰抜けか、と言っているようで
あった。
﹁や、やってやろうではないか﹂
ゴブリン族の族長である。
この中でゴブリン族とコボルト族は、人間と深い交わりがあった。
だというのに最も人間を憎んでいる。
いや、人間の近くにいたからこそ、というべきであろう。
人間と近しい関係であったからこそ、その悪意を受け、屈辱と恨
みは骨髄にまで染み込んでいた。
﹁わ、我らもだ﹂
568
ゴブリン族が参加するのならば、コボルト族も参加しないわけに
はいかない。
この二種族は互いに対抗し合う間柄である。
﹁⋮⋮儂らも﹂
﹁⋮⋮我らもだ﹂
あとは集団心理が残りの者の心を決めた。
誰かが否と答えれば、また違った結果になったかもしれない。
だが、既に流れができあがった集団で、異を唱えるのは困難であ
る。
やがてその場にいる全員から賛同が得られると、魚族の族長は満
足気に頷いて言った。
﹁それでこそ獣人よ。皆でフジワラに一泡ふかせてやろうではない
か﹂
もう信秀に対し、敬称はなくなっていた。
◆
それは8月のはじめの、暑い日であった。
サンドラ王国のはるか南。
一部の人間からは獣人の町と呼ばれる地の上空は、雲一つない澄
みきった青がどこまでも広がっていた。
燦々と輝く太陽が下界を照らしつける。
町を囲む石垣の上に︻四斤山砲︼が並んでおり、その黒い砲身は、
569
太陽の光を鈍く反射させていた。
激しい日の光に照らされていたのは大砲ばかりではない。
おびただしい数の獣人達が、石垣の上に揃っていた。
北の石垣にあるのは狼族とアライグマ族。
大砲には砲兵がつき、大砲と大砲の間には弓兵が並んでいる。
そして町の長である藤原信秀もその場にいた。
彼らの視線の先は、一様にはるか大地の向こうにあった。
この地に再び人間の軍が現れたのである。
敵は遠く離れた位置に陣を張り、使者は馬を駆って町へとやって
きた。
すると弓兵は使者に向かって、弓を引き絞る。
﹁我らはシューグリング公国の者である! この地はシューグリン
グ公国の領土となった! すみやかに開城せよ!﹂
勧告の使者は、シューグリング公国を名乗った。
その身なりはいい。
前回とは違い、勧告の使者も出している。
それはつまり、本格的な軍が襲来していることを意味していた。
﹁戦いなら受けて立つぞ!﹂
信秀が目一杯、喉を震わせて戦いの意思を伝える。
それを聞くと、使者は馬首を返して自陣へと駆けていった。
去っていく使者の背には、依然として獣人らの構えた弓の鏃が向
けられている。
570
ふと、信秀は何かに誘われるように右側を見た。
なんとなく。
別に、なんらかの意図があったわけではない。
本当になんとなくであった。
すると、そこには弓を信秀へと構えた狼族が一人。
︱︱そして、矢は放たれた。
571
53.プロローグの終わり 5
北の石垣の上、門を基点として右と左に分かれるように並んだ狼
族とアライグマ族。
信秀は、最近の獣人達の様子を考慮して、戦いを前にしても常に
狼族の側にいた。
最悪の事態︱︱武器を手にした獣人の反逆を危惧していたためで
ある。
だというのに。
︱︱え?
まるで心に穴が空いたような驚き。
信秀が顔を向けた先。
そこには自身に対して弓を引き絞る狼族の男がいて、今まさに矢
を放つところであったのだ。
時間がゆっくりと流れる、なんて言葉がある。
それは狼族の男が弦を離す一秒にも満たない間。
空を舞う砂の一粒さえも、はっきりと自覚できるような時間の流
れを信秀は感じた。
︵あの矢の射線上から、逃げなければならない⋮⋮!︶
信秀を支配していたのは、狼族の裏切りに対する疑問よりも、矢
を避けねばならないという、命を保護するための感情。
572
距離は十メートルほどある。
その距離と体感時間の長さは、矢を造作もなく躱せるものと信秀
に錯覚させた。
されど、悲しきかな。
信秀がどれだけ体を動かそうとしても、不思議なことに、その体
は動いてはくれない。
なぜ、どうして、と心ばかりが焦った。
思考が加速しようとも、それを体に反映させることは容易ならざ
るものであったのだ。
信秀は思った。
俺はここで死ぬのだろうか、と。
防弾チョッキは着ている。
だが、顔はどうか。首はどうか。
一度不安に駆られれば、防弾チョッキそのものの信頼性すら疑わ
しくなっていく。
死を意識した時、突然、走馬灯のように、この世界に来てからの
ことが脳裏を巡った。
それは信秀が獣人達と共に過ごしてきた時間。
はじめは打算であった。
金を増やすため、人口を増やすために、彼らを受け入れた。
信用はしていない。
互いに利益を享受しあうだけの関係。
けれど、彼らと暮らすうちにゆっくりと、信秀は親しみを感じて
573
いった。
特に狼族には、家族のような信頼を預け始めていた。
だが今、目の前にある現実は、それらの思いを否定するものだ。
︵狼族を信じたのが間違いだったのか⋮⋮︶
なにが理由で、目の前の狼族が自身に弓を向けているかはわから
ない。
しかし、ただ後悔だけが信秀の胸の奥に滲んでいた。
そして矢は放たれる。
矢は風を切り裂き、唸りをあげながら、信秀の体めがけて進んだ。
︱︱瞬間。
横からドンッという衝撃がきて、信秀は受け身もとれずに倒れこ
んだ。
何が起きたのか。
信秀にもすぐには理解できなかった。
︵痛い⋮⋮︶
体の角ばった部分をしたたかに打ち付け、鈍い痛みが走った。
だが、それ以外の痛みはない。
頭には混乱ばかりがあり、唯一信秀がわかることは、己は無事だ
ということだけだった。
助かったのか、という思いが浮かび、信秀は本能のままに立ち上
がろうとする。
574
﹁え⋮⋮?﹂
すると、その口から呆けた声が漏れた。
上半身を起こした信秀。
彼女
が信秀と違ったのは、胴甲冑の上から脇腹に矢が深
その瞳に映ったのは己と同じく倒れている狼族の姿。
だが
く突き立っていたこと。
そして、そこから流れる赤い血が石垣を濡らしていた。
﹁ミラ!﹂
狼族の誰かの声がこだました。
矢が放たれた瞬間、ミラが自身の体をぶつけて、信秀を救ったの
である。
︱︱その身を代わりにして。
﹁ふ、フジワラ様!﹂
悲鳴のような声をあげて、信秀へと駆け寄るジハル。
それと同時に、周囲の者の止まっていた時間が動き出す。
逆に、矢を射った下手人は、同族を手にかけたことに、狼狽して
いた。
﹁貴様! ゴビ!﹂
周囲にいた者が、矢を放った下手人︱︱ゴビをすぐに取り押さえ
575
る。
その間、ジハルに抱き起こされるように立ち上がる信秀であった
が、その意識は朦朧としていた。
狼族の裏切り、かと思えば同じ狼族に助けられた。
そして、今ジハルが浮かべる表情や声には、明らかにこちらを心
配する色が見受けられる。
﹁狼族の裏切りじゃないのか⋮⋮?﹂
信秀が、ポツリと呟く。
すると、地面に押さえつけられたゴビは正気に戻ったように、す
ました表情を浮かべた。
自分に非はない。
そんな顔である。
さらにゴビは吠えるように言った。
﹁今こそ獣人の誇りを取り戻せ! フジワラを︱︱人間を打ち倒し、
この地を我らの理想郷とするのだ!﹂
信秀を倒し、町を獣人のものとする。
ゴビが言い放ったのは裏切りの言葉である。
だが、他の狼族の者の反応は芳しくない。
信秀の目には、誰しもが呆気にとられているように見えた。
すると突然、ジャーンジャーンと北門のちょうど上にあった銅鑼
が鳴り響いた。
576
何事かと信秀がそちらを見れば、銅鑼を鳴らしているのはアライ
グマ族である。
アライグマ族は武器を構えて狼族へと敵意を︱︱いや、信秀へと
敵意を向けた。
ここで漸く信秀は理解した。
銅鑼は裏切りの合図であったのだ。
それを知らなかったのは己と狼族だけなのだろう、と。
﹁なんだこれは! どういうつもりだ!﹂
ジハルがアライグマ族へ問い質すように叫ぶ。
それを一歩前に出て受けるのは、アライグマ族の族長。
﹁ジハルよ。狼族以外は全てこちら側だ。さあ、フジワラを⋮⋮そ
の人間を渡せ。
なに、命ばかりは助かるように取り計らってやる。我らは魚族な
どとは違い、慈悲の心があるのでな﹂
ジハルとアライグマ族の族長が相対する中で、信秀はアライグマ
族の族長の顔を見た。
駱駝の双子の赤子が取りあげられた時のことを、信秀は覚えてい
る。
共に泣いて笑いあった。
なのに、今そこにいたのは、敵意だけを目に宿したアライグマ族
の族長であった。
アライグマ族の族長の言葉は続く。
577
﹁さあ、早くしろ。大砲も今頃は全てこちらに向けられている。人
間の側についたとしても、勝ち目はないぞ﹂
その言葉が真実であると証明するように、辺りからは大きな声が
聞こえてきた。
﹁人間を倒せ! 町は獣人のものだ!﹂
﹁人間を倒せ! 町は獣人のものだ!﹂
﹁人間を倒せ! 町は獣人のものだ!﹂
合唱。
東の石垣から、西の石垣から、獣人達の大きな唱和が近づいてく
る。
石垣の下からも同様だ。
補給に当たっていたゴブリン族が、信秀を倒せと声を合わせて叫
んでいる。
本当に周りは敵だらけなのだと、信秀は呆然とした頭で理解した。
そしてジハルが振り返りゴビを見て、次いで信秀にも目を向けた。
その目に何が映っているのか、信秀にはもうわからなかった。
信秀の胸にあったのは、今までやってきたことはなんだったのだ
ろうか、という喪失感。
体に力は入らず、信秀はただ立ち竦むだけである。
すると、荒い息づかいが信秀の耳に届いた。
それは、己を庇ったミラのもの。
578
信秀はフラフラとミラに近づいた。
なにかにすがるように。
︵何故、彼女は俺を助けてくれたのか︶
彼女は人間を嫌っていると思っていた。
信秀は、彼女から嫌われているのだと思っていた。
だが、彼女はその身を犠牲にして助けてくれた。
︱︱何故。
思考が定まらぬ中で、その疑問だけは、はっきりと信秀の内にあ
った。
信秀がミラの隣に膝をつき、その手を掴む。
ミラの手のひらはまだ温かい。
己を救ってくれた確かなものがそこにはあった。
その時である。
﹁我らはフジワラ様と共にあり!﹂
ジハル族長の宣言であった。
信秀は大きく目を拡張させて、そちらを見た。
槍をアライグマ族に向けて構えるジハル族長の背中。
老いたなどとは決して言えない、何よりも誰よりも逞しい背中で
あった。
579
そしてジハル族長に従うように、他の狼族達からも、ウオオオオ
! という閧の声が上がる。
﹁我らはフジワラ様と共にあり!﹂
﹁フジワラ様と共に戦うぞ!﹂
それらは大きなうねりとなって、信秀の体の深くにまで入り込ん
でくる。
それだけではない。
その時、信秀が掴んでいたミラの手が小さく握り返した。
それはとても弱々しい力。
だが、信秀にとっては力強いものであった。
まだだ、と信秀は思った。
まだ、終わってはいない。
ミラの手はこんなにも温かい。
彼女も己も生きている。
まだ、仲間がいる。
︱︱ならば俺はやるべきことをやるだけだ。
信秀の体には不思議なくらい力が湧き、活力がみなぎった。
﹁皆、少しでいい! 俺を守ってくれ!﹂
信秀は叫びながら、﹃町データ﹄を呼び出す。
580
狼族達が信秀を守るように取り囲む中で、信秀はその能力を初め
て人前で使った。
◆
北から裏切りを知らせる銅鑼が聞こえてくると、東西の石垣にい
た獣人らは、砲兵のみを残して北へと群がった。
現在、東の石垣の砲兵を束ねるのは鹿族の族長である。
その年はまだ若く、30を僅かに過ぎた頃。
彼は一年ごとに行われる競技会において、常に入賞を果たし、遂
には豹族を破って短距離走で一番をとった。
血筋も前族長の系譜であり、競技会の功績をもって、若くして族
長となったのだ。
﹁目標の変更完了!﹂
砲兵からの報告が届くと、若族長は﹁よし!﹂と満足気な声を発
する。
この時、大砲の照準は全て北門へと向けられていた。
無論、大砲を簡単に撃つつもりはない。
大砲を放てば容易く信秀を討てるかもしれないが、その代償とし
て北の石垣に甚大な被害を及ぼす。
北の石垣が崩れれば、シューグリング公国との戦いは厳しいもの
になるだろう。
ちなみにシューグリング公国の支配下に入るつもりはない。
それでは町の支配者が、信秀からシューグリング公国に変わるだ
けだ。
581
魚族からは反乱の手順が与えられている。
まずは狼族であるゴビが刺客となって、信秀を討つ。
それが失敗した時には、全獣人でもって信秀を囲み、降伏を促す。
そして信秀が降伏に従わず武器を手にした時には、獣人らは北の
石垣から脱出したのち、最終手段である大砲による攻撃を行うのだ。
﹁うまく事が運べばよいが⋮⋮﹂
北の石垣を眺めながら、若族長は呟いた。
銅鑼が鳴った。それは暗殺が失敗したということだ。
もし信秀が徹底抗戦の構えを見せれば、多くの者が犠牲になるだ
ろう。
不意に、やはりこんなことは止めるべきだったか、なんて考えが
若族長の脳裏に浮かんだ。
信秀に対し一応の恩がある。
狼族に対しても知らぬ仲ではない。
︵この期に及んで、まだ未練か⋮⋮︶
若族長は、頭を軽く振って己が愚考を諌めた。
勢いに任せて、反乱に賛成した。
浅慮であったと言われても、仕方がないことだ。
だが、もう後戻りはできない。
賽は既に投げられた。
後悔など、それこそ今さらな話なのだ。
582
若族長は胸元のペンダントを握る。
それは競技会で一位となり、手に入れた栄誉。
ペンダントを握った時、若族長は心を平静に保つことができる。
それは、そのペンダントが若族長の誇りであり、自信となるもの
であったからだ。
︱︱すると。
若族長は、ペンダントを握っていた方とは別の手から、突如、異
変を感じた。
右手に掴んでいたはずの槍の重みがなくなり、代わりにあったの
はドロリとした感触。
視界の端でも、その異常は捉えている。
若族長はすぐに視線を右手に向けた。
﹁な、なんだこれは!?﹂
驚愕。
なんと、手にあった︻短槍︼が、泥と化していたのである。
﹁うわっ! 俺の槍が!﹂
﹁ゆ、弓が無くなっちまったぞ!﹂
辺りから聞こえてくる、驚きの声。
顔を向ければ、槍が、弓が、と砲兵らの誰しもが慌てふためいて
いた。
﹁まさか、武器の全てか⋮⋮!?﹂
583
泥となった︻短槍︼は地面に落ちると、吸い込まれるように消え
ていった。
しかし、異常はこればかりではない。
﹁ぞ、族長! 大砲が!﹂
﹁なに!?﹂
砲兵の悲鳴に誘われて、若族長が︻四斤山砲︼へと視線を向けた。
﹁そ、そんな馬鹿な⋮⋮﹂
若族長の口から漏れでたのは、またしても驚き。
石垣に沈み込むように、︻四斤山砲︼はその身を下部から泥へと
変えていったのである。
なんだこれは、何が起きているのだ、と若族長は当惑した。
理解の範疇を超えている。
目の前に確かにあったものが、反乱を成功させるためのものが、
人間に対抗するためのものが、今、消えてなくなろうとしているの
だ。
﹁ど、どうすれば⋮⋮﹂
若族長は狼狽えるばかり。
だが、異常はまだ終わらない。
今度は凄まじい音が、若族長の足下から聞こえてきた。
﹁今度はなんだっ!?﹂
584
次から次へと起こる不測の事態に、もう勘弁してくれと泣き言を
吐きたい気分であった若族長。
次なる異常はなにかと足下を見る。
しかし、音が鳴るばかりで、一見すると石垣にはなんの異常もな
いように思える。
﹁ぞ、族長ぉぉぉっ!!﹂
ひときわ激しい悲鳴が響いた。
若族長が、今度はなんだと面を上げてみれば、その異常ははっき
りと認識できた。
﹁まさか⋮⋮まさか、まさか、まさかっ!﹂
その驚きは、これまでのものとは桁違いに大きい。
しかし、それも当然であるといえよう。
何故ならば、目の前の景色が段々と下へとずれているのだから。
﹁まさか、この石垣も沈んでいるのか⋮⋮っ!﹂
己の視線がゆっくりと下がっていく。
それは自身が立つ石垣もまた、下部から泥となって沈んでいるこ
とを意味していた。
﹁ああ⋮⋮﹂
もはや、どうしようもない。
585
町を囲む石垣が無くなるということは、町の終焉に等しかった。
その意味を理解した若族長は力なく、崩れ落ちるように、その場
に膝をついた。
砲兵らの指示を乞う呼びかけが聞こえる。
しかし、若族長は胸元のペンダントを握りながら、途方に暮れる
ばかりであった。
586
53.プロローグの終わり 5︵後書き︶
ちょっと終わらなかったです。
次回はもうちょっと早く更新できるように努力します。
587
54.プロローグの終わり 6
有事の際、町の外に住む者は石垣の中に避難させられる。
今回もそうだ。
誰も住んでいない15番地区に、魚族ら新参の獣人達が詰め込ま
れていた。
1000を超える人数に家は足りず、道には日差しを遮る天幕が
張られ、家の中に入れない者が溢れている。
だが、ある家ばかりは、人口密度が極端に低い。
それは区画の中でも一番大きな家。
その屋敷の一番奥の部屋では、魚族・烏族・蛇族の族長が膝を突
き合わせて、酒を酌み交していた。
﹁どうぞ、もう一杯﹂
﹁おお、すまぬな﹂
蛇族の族長が酌をし、魚族の族長が上機嫌でそれを受ける。
反乱の成功は目前。
そして、その反乱の中心的存在となっているのは魚族である。
それゆえ、今後魚族が得る富と権力のおこぼれに与ろうと、烏族
と蛇族の族長はへつらうような笑みを浮かべて、魚族の族長に媚を
売っていたのだ。
そんな時分のこと。
588
銅鑼の音が家の外から鳴り響いた。
魚族の族長は内心で舌打ちする。
銅鑼は、獣人達が一斉に裏切るための合図。
すなわち、ゴビによる信秀の暗殺が失敗したのである。
﹁魚族の⋮⋮﹂
心配そうな顔で蛇族の族長が、魚族の族長に声をかけた。
されど魚族の族長は、内心の不満や苛立ちといったものをおくび
にも出さない。
あくまでも、なんてことのないような態度で酒をあおり、空にな
った杯を床に置いた。
﹁ゴビが仕損じた、ただそれだけのことだ。︱︱誰か!﹂
﹁はっ!﹂
襖を開けたのは魚族の若者。
﹁者共に準備をさせよ! 我らも戦いに参加するぞ!﹂
武器となるものは農具くらいしかなかったが、参加しないわけに
はいかない。
ゴビという手駒が信秀の暗殺に失敗した以上、乱に加わるか否か
は、部族の沽券に関わることであるからだ。
町の運営の主導権を誰が握るか。
現在のところ今回の作戦の発起人であり、さらに部族の人数も一
番多い魚族が、獣人達の中での権力争いに大きくリードしている。
589
しかし、油断はできない。
なにせ、古参の獣人達は大砲を扱える。
これは部族の数の差というものをひっくり返すことができるほど
の利点だ。
さらに、これまで魚族の族長が古参の獣人らを言うがままにして
これたのは、信秀というこの町の法律を利用したからである。
信秀がいなくなれば、駱駝を食べた食べなかったなんて話はなん
の意味もない。
賭博の借金を返さなければならないという、常識も存在しなくな
る。
だからこそ、今、魚族はやるべきことをやり、他の獣人達よりも
一歩先んじたままでいなければならなかった。
﹁ご両人も動かれてはいかがか﹂
﹁う、うむ﹂
﹁そうさせてもらう﹂
魚族の族長の勧めに応じて、急ぎ屋敷を出ていく烏族と蛇族の族
長。
一人となった魚族の族長は杯に酒を注ぎ、それを傾けながら、部
族の者達の戦いの準備が整うのを待った。
すると、どうしたことか。
﹁なんだ﹂
魚族の族長の耳に、なにやら外から、ズズズという不気味な音が
聞こえてきた。
590
それは重く低い、聞き慣れない音。
一瞬、大砲の音かとも思ったが、魚族の族長はすぐに違うと思い
直した。
大砲の音は一度聞いたことがある。
あれはもっと単発的なものだ。
対して、今聞こえる音は途切れがなく、音の調子は一定。
音の正体に思い当たるものはない。
魚族の族長は、なにか予想外のことが起こっていると断じた。
﹁何事だ!﹂と声をあげてみるが、その質問に答える者はいない。
戦いの準備に皆、出払っていたからだ。
使えない奴らだな、と魚族の族長は思った。
仕方なしに自ら音の正体を確かめようと、魚族の族長が立ち上が
る。
それと同時であった。
魚族の族長の足下︱︱床の下からも重く低い音が響いてきたので
ある。
しかし、驚くべきはそれだけではない。
﹁こ、これは、床が沈んでいるっ!?﹂
そう叫んだ時には、床は泥となり、それに足をとられて魚族の族
長は尻餅をついた。
泥はやがて地面に吸い込まれるように消えてなくなると、族長の
尻の下には土が露出する。
591
﹁なんなのだ⋮⋮﹂
呟きつつも、いまだに周囲から音は消えない。
わけもわからずに呆然としていると、魚族の族長は正面の壁の異
変に気がついた。
﹁むぅ﹂
その口から、思わず漏れ出た唸り声。
壁が沈んでいるのだ。
そして、壁が沈んでいるということは、家そのものが沈んでいる
ということである。
魚族の族長が首を持ち上げてみれば、天井がゆっくりと迫ってい
た。
﹁くそっ! どうなっているのだこの家は!﹂
魚族の族長は悪態を吐きながら立ち上がり、入り口へと駆けた。
現在の異常について考える暇もない。
ただ、天井に押し潰されては敵わぬ、という身の危険が体を動か
していた。
そして、なんとか家の外に出ることができた魚族の族長。
途中、梁に頭をぶつけたが、当たった場所は一瞬で泥となり、痛
みはなかった。
体は無事。
だが、その意識まで無事であるとは言い難い。
なぜなら外に出た魚族の族長の目に映ったのは、想像もできない
光景だったからである。
592
﹁な、なんだこれは⋮⋮﹂
その口から出たのは、決して抗えない自然の脅威を目の当たりし
たような呟き。
外にいた呆然と立ち並ぶ魚族らと同様に、魚族の族長は眼前の事
態にただただ目を奪われた。
﹁馬鹿な⋮⋮﹂
そこには沈みゆく無数の家々があった。
家ばかりではない。
魚族の族長の視線の先では、町を囲む石垣もまた沈んでいた。
町が沈んでいるのだ。
それはまるで、この世の終わりのような光景であった。
あまりの事に、僅かの間、呆気にとられる魚族の族長。
だが、すぐにハッとして、辺りを見回した。
町の中で、家が消えているのは己のいる区画と、町の中央の商店
街。
しかし、それ以外の家はいまだに健在であった。
﹁どういうことだ⋮⋮?﹂
疑問を抱く魚族の族長。
だが、もう一つ見るべきものがある。
それは町の中央の大通り。
その通りの端に泥が隆起していたのである。
593
怪しいと感じた魚族の族長は、近くにいた者を連れて、大通りへ
と向かった。
泥の隆起は大通りの左右両端にて、道に真っ直ぐに沿うように起
こり、既に身の丈の半分ほどの高さに達している。
何より特筆すべきは、その泥が見た目に反してとても硬かったこ
とである。
魚族の族長は、つい先ほど泥となり消えた床や、額にぶつけた梁
を思い出した。
あれらはとても柔く、まさしく泥であった。
しかし目の前にある泥は、消えゆく泥とは違う。
何か形あるものが、つくられようとしているのだ。
道の両端に一体何がつくられるのか。
それは、まるで道に入る者を遮るためのもの。
魚族の族長は北の石垣を見た。
ゆっくりと沈んでいく石垣の階段を、狼族達が下りようとしてい
る。
目を凝らしてみれば、信秀がその中にいた。
﹁まさか﹂
この泥は信秀が己の住まう場所まで、安全に逃げるための道。
町を囲っているような石垣ではないのか、という考えが魚族の族
長の頭によぎった。
594
﹁そんな、まさか﹂
だとするならば、今起きている町の異常は信秀が起こしたもの。
そしてこの町そのものが、信秀の手によって自在に姿を変えてい
ることになる。
それはまさに神のごとき御業であった。
◆
町で起こった異常の数々。
それはもちろん、信秀が﹃町をつくる能力﹄にて︻売却︼と︻購
入︼を行った成果である。
信秀はまず︻四斤山砲︼と︻榴弾︼を︻売却︼した。
これは自身にとって、大砲こそが最も脅威であると感じたからだ。
次に狼族以外の獣人が、個人が携行する︻弓︼や︻短槍︼などの
武器を︻売却︼。
さらに︻胴甲冑︼などの防具も︻売却︼しようとしたのだが、防
具については﹃所有権﹄が既に獣人達に移っていたため、︻売却︼
できなかった。
武器が消えると、獣人らは慌てふためいた。
特に、狼族と対峙していたアライグマ族はそれが顕著であった。
なにせ、自身の武器が突然泥に変じたにもかかわらず、目の前の
狼族はいまだ武器を手にしているのだから、慌てないわけにはいか
ないだろう。
だが、獣人らの驚きはさらに続く。
武器関連を︻売却︼した信秀は、次に町全体の︻売却︼を行った
のである。
595
町全体の︻売却︼は、反乱を起こした獣人達の混乱と戦意の喪失
を狙ってのことであった。
信秀に、かつてあった町に対する執着はない。
現在、信秀の持つ︻資金︼は、町を十はつくれるほどに潤ってい
るからだ。
今、信秀の頭の中にあることは、如何にして狼族とこの場を切り
抜けるか、それだけである。
町を囲む︻石垣︼、町を成す︻家︼や︻施設︼。
信秀は、それらを︻売却︼していった。
ただし住居については、これも防具同様に﹃所有権﹄が移ってい
たため、一部しか︻売却︼できなかったが。
そして最後に、信秀は新たな︻石垣︼を購入した。
それはこの北門から、信秀の自宅と狼族の居住区までを結ぶ道で
あり、他とを隔絶する囲いでもあった。
﹁よし! 狼族よ、今から車の位置まで下りるぞ! 命を賭して俺
を守れ! 俺が死ねば、何もかもを失うぞ!﹂
能力の行使が終わり、信秀が狼族に命令する。
命を賭けろとはあまりな言い方であったが、信秀が死ねば狼族も
終わることは純然たる事実である。
形振りなど構ってはいられない。
信秀は、ただ事実だけを強調して伝えたのだ。
すると狼族らは、オオオオッ! とその士気を跳ね上げた。
武器を持つ狼族達と、武器が消えてなくなった狼族以外の獣人達。
この優劣は、今町で起きている異常が、信秀の力の産物であるこ
596
とを示していたからである。
﹁ふ、フジワラ様!﹂
アライグマ族の族長から懇願するような声がした。
裏切りを思ってか、それ以上の言葉はない。
だが、信秀にはそれが慈悲を乞うものであるとはっきりとわかっ
た。
しかし、アライグマ族の言葉はもう信秀の心には響かない。
﹁ミラは連れていくぞ! 絶対に死なすな!﹂
アライグマ族を一瞥することすらせずに、信秀は指示を出し、狼
族らは動き始める。
そして﹁うわあああ﹂という悲鳴がこだました。
ゴビが狼族らの手によって、石垣から町の外側へと落とされたの
だ。
信秀の神の御業を目にしてしまっては、同族であろうとも、容赦
はなかった。
狼族が信秀を囲いながら階段を下りていく。
殿にいる狼族達は、槍を構えて、アライグマ族を牽制した。
信秀達が石垣から下りると、そこにいたのはゴブリン族である。
ゴブリン族は、狼族が槍を突き出すまでもなく、遠巻きに後退っ
た。
彼らは町のあまりの異変に、もはや反乱は失敗したことを察して
いたのだ。
597
﹁ふ、フジワラ様⋮⋮﹂
ゴブリン族からもアライグマ族と同じく、哀願するような声がし
た。
しかし、信秀がそれに反応することはない。
信秀の中で、狼族以外の者は既に見限っている。
今、信秀が何よりも優先すべきは、自身の命と自身を裏切ること
がなかった狼族達なのだ。
﹁ミラはこっちに乗せろ! 他の者は分かれて乗り込め! 全員乗
り次第、俺の車両を先頭に出発するぞ!﹂
北門の裏には、信秀が乗る装甲車の他に、トラックが補給用に3
台停めてある。
この場にいる狼族が全員乗るには十分な数だ。
﹁お待ちをフジワラ様! いや、救い主様っ!﹂
その声は、ここ北門から信秀の自宅へと延びる二本の泥の片側か
ら聞こえてきた。
隆起する泥に上った魚族の族長のものである。
魚族の族長は言う。
﹁全ては、古参の獣人らの企て! 我ら新参の者は関係ありませぬ
! どうか、我らをお救いくだされ!﹂
これにギョッとしたのは、その場にいたゴブリン族と、いまだ沈
みきらぬ石垣の上にいたアライグマ族、さらには東西の石垣から来
598
た獣人達である
なんと魚族の族長は、古参の獣人達に全ての罪を擦り付けようと
いう腹積もりであったのだ。
まさに裏切りの、さらに裏切りである行為といえよう。
﹁貴様! 嘘をつくな! 何もかも魚族の企みではないか!﹂
﹁そうだ! シューグリング公国軍が町を攻めるのに乗じて、反乱
を持ちかけたのはお前達魚族だろうが!﹂
ゴブリン族とアライグマ族が魚族の族長に反論する。
だが、それを心外とでもいうように、魚族の族長は平然と嘘を吐
いた。
﹁そんな馬鹿な! 新参の我らに何ができると言うのだ! 我らに
は武器すらないのだぞ! この期に及んで見苦しい嘘はやめよ!﹂
厚顔無恥。
恥を恥とも思わぬ魚族の性質が、嘘を真実のように語ってみせた。
︱︱だが、魚族の族長はあまりにやりすぎた。
﹁言わせておけば!﹂
石垣の上からアライグマ族の一人が、自前の弓でもってビュッと
魚族の族長へと矢を放つ。
矢は肩の辺りに突き刺さり、魚族の族長は﹁うぐっ﹂という呻き
声と共に、通りの反対側へと転げ落ちた。
その始終を運転席から見ていた信秀は思った。
醜いな、と。
599
どちらが、ではない。
どちらともだ。
﹃フジワラ様、乗りました!﹄
トランシーバーを通して、各車から狼族が乗り込んだという報告
が届く。
﹁フジワラ様! 私達が間違っておりました! 見捨てないでくだ
さい!﹂
﹁フジワラ様!﹂﹁フジワラ様!﹂
ゴブリン族がその場に両手両膝をつき懇願する。
アライグマ族や他の獣人らも、石垣を下りながら哀訴の声を放っ
ている。
するとその時、またも泥をよじ登ってきた魚族があった。
その魚族は泥の上に立つと、車に飛び移ろうとする。
しかし、そこに矢が飛んだ。
射ったのは、またしてもアライグマ族である。
﹁フジワラ様、憎き魚族を射止めました!
我らもフジワラ様と共にあり!﹂
声高々に叫ぶ、アライグマ族。
されど、信秀はギアを入れてアクセルを踏み、車を発進させる。
そして、信秀がハンドルを握りながら﹃町をつくる能力﹄を使う
と、車があった場所には泥が新たにせり上がり、道の入口を塞いで
いった。
600
55.プロローグの終わり 7︵前書き︶
前話の付け足しです
・北門に停めてあったのは、装甲車とトラック3台
・車両間に連絡を取るトランシーバーの存在
601
55.プロローグの終わり 7
両端を泥が隆起する町の大通り。
そこを装甲車を先頭にした車列が南へと進み、およそ500メー
トルという短い距離を経て、車は信秀の自宅前に到着した。
泥の囲いはさらに左へと道を開き、狼族の居住区に繋がっている。
﹁全員下車!﹂
信秀がトランシーバーを使って、各車に指示を出す。
そして自身も下車し、来た道を振り返った。
北門裏の︻石垣︼となる泥は︻購入︼したばかりで高さがなく、
そこを越え、獣人達がこちらにやって来ている。
だが、どうということはない。
信秀は自宅までの道にありったけの︻柵︼を、さらに自宅により
近い位置には︻堀︼を︻購入︼した。
︻柵︼で足止めし、その間に決して越えられない、深い︻堀︼を
つくろうというのだ。
﹁弓兵は︻堀︼を盾にこの場を死守! ジハル族長が指揮をとれ!﹂
信秀は、敵を射ろとは言えなかった。
裏切った獣人達に対して、まだ僅かばかりの情けが残っていたか
らだ。
弓を持った狼族達が、おうっ、という覇気のある声と共に、︻堀︼
602
の後ろに並んでいく。
ついでとばかりに、信秀は︻矢盾︼を︻購入︼し、︻堀︼の手前
に設置した。
﹁運転手は何名かを連れて、この道をそのまま進め!
この先は狼族の居住区に繋がっている! 全員を俺の住居に避難
させるんだ!
いいか、避難するのに必要なのは身一つでいい! 早さを優先さ
せろ!﹂
信秀の命令に従い、トラックが狼族の居住区へと向かう。
この頃には、大通りから狼族の居住区までを囲んでいた泥は、5
メートルほどの︻石垣︼に変わり、その上には︻塀︼となるべき泥
が新たに隆起して、越えることが難しい壁となっていた。
すなわち警戒するべきは、既に囲いの中に入り込んだ者︱︱大通
りを北からやってくる獣人達だけといっていいだろう。
信秀が再び装甲車に乗り込み、余った狼族を引き連れて自宅の門
を潜る。
そこは狼族らにとっては初めての場所。
しかし、その広い敷地内には一軒の家とカトリーヌがいるだけだ。
そのためか、緊張して中に入った狼族達は、拍子抜けといった様
子であった。
その後は、装甲車の後部座席に寝かせたミラの治療が行われた。
信秀が︻医療キット︼を︻購入︼。
治療に手慣れているという狼族の一人が、ミラに刺さった矢を抜
き、その傷口の消毒と縫合をする。
それが終わると、信秀自身がミラに︻抗生剤︼を投与した。
603
これが今、信秀にできることの精一杯。
もし矢によって内臓が傷ついていたら、ミラは助からないだろう。
それは現代の医療ですら、命をとりとめるのが難しい傷だ。
信秀はギュッと拳を握った。
己の無力を噛み締めるように。
なんとか助けてやりたい、とは思う。
だが、これ以上の処置は素人である信秀にはどうしようもなかっ
たのだ。
信秀は、後部座席にミラと治療した狼族を残して装甲車を下りる。
そして、見張りとして石垣の上の櫓に狼族を配置した。
さらに7台の︻73式大型トラック︼を︻購入︼する。
これでトラックは計10台。
狼族の者達を全員乗せることができる数だ。
﹁やれるだけのことはやった﹂
信秀が一人呟く。
あとは、この先どうするかを考えるだけだ。
とはいえ実のところ、その答えはもう決まっていた。
この町を放棄して、別の場所でまた町をつくる。
そのために、トラックを購入したのだ。
だが問題なのは、どこへ逃げるべきか、である。
信秀は思案する。
604
砂漠は無理だ。
人が暮らすにはあまりにも環境が厳しすぎる。
能力を使えば十分に暮らしていけるかもしれないが、信秀が死ね
ば狼族は生きていけない。
ならば砂漠のさらに向こうではどうか。
これも駄目だ。
そもそも砂漠がどこまで続くのかがわからない。
さらに砂漠に終わりがあったとして、その向こうには一体何があ
るのか。
わからないことだらけだ。
地図なき砂漠をいくことは、それこそ目的地もなく海を航行する
ようなものだろう。
あまりに危険すぎる。
では、この周辺地域で狼族達のみを仲間として再び町を興すのは
どうか。
たとえば、南に40キロほど行ったところには、捕虜収容施設だ
ってある。
そこを基点に、また町をつくればいい。
だが、これも駄目だと信秀は選択肢から外した。
この周辺地域に留まれば、いずれ見つけられるかもしれない。
人間の国に、ではない。
今日、己を裏切った獣人達に、である。
もう、信秀は裏切り者の顔を見たくはなかった。
彼らと共に暮らした日々が、脳裏にちらつくのだ。
それは胸が張り裂けそうなほどの苦痛であった。
605
ならば目指すべきは、はるか北。
いつかの日に聞いた、ドライアド王国。
そこには痩せこけた土地が余っており、金さえあればその土地を
買うことができるのだという。
その地に町をつくり、力を蓄える。
やり直すのだ、もう一度。
己に最後までついてきてくれた狼族と共に。
だが、そのためには、やらなければならないことがある。
﹁カトリーヌ﹂
信秀が、その名を呼んだ。
四本の足で凛然と立ち、そのつぶらな瞳で信秀を見つめているカ
トリーヌ。
信秀は彼女に近寄ると、その頬をそっと撫でた。
﹁お前は頭がいい。だから俺の言うことがわかるだろ﹂
信秀の言葉に、グエッと小さく鳴くカトリーヌ。
彼女はとても賢い。
信秀の話す言葉を、その心を、彼女はいつも理解していた。
﹁俺達は北へ行くよ。だから、お前とはここでお別れだ﹂
北の地に駱駝はいない。
カトリーヌを連れていくことは信秀のエゴでしかない。
彼女には生きるべき場所がある。
606
家族をつくり、子を産み、命を伝えていく。
それが、カトリーヌにとって一番幸せなことだと信秀は思ってい
た。
﹁いいか。ここに留まれば殺される。南へ逃げるんだカトリーヌ﹂
信秀がいなくなれば、この地は無法となり、駱駝の命は危うくな
る。
今にして思えば、駱駝の減少は獣人の誰かしらが殺して食べたの
では、という考えが信秀にはあった。
﹁今まで、楽しかったよ。ありがとう﹂
カトリーヌの大きな顔に信秀は頬を寄せた。
カトリーヌの匂いがする。
カトリーヌの体温が伝わってくる。
それは、もう二度と触れることができないもの。
信秀は、カトリーヌの首を優しく撫で続ける。
せめて別れるその時まで。
やがて居住区の狼族を乗せてきたトラックが到着し、さらに乗り
きれなかった者達も、走り込んでくる。
狼族達が飼っていた駱駝も一緒だ。
﹁フジワラ様! 魚族が南へと回り込んできます!﹂
櫓からの声。
もう時間はない。
信秀は裏門を開けた。
607
﹁さあ行け﹂
信秀が、カトリーヌの体を軽く叩いた。
カトリーヌはもう一度信秀に視線をやると、空に向かって大きな
鳴き声を響かせて、裏門から駆けていく。
そしてその後ろを、狼族の駱駝達がカトリーヌに従うようについ
ていった。
信秀は、走り去っていく小さな群れの背中を眺める。
砂煙と他の駱駝の体で、先頭を行くカトリーヌの姿は隠れてしま
っている。
だが信秀の目は、見えぬカトリーヌの姿をしっかりと捉えていた。
すると、その背を追うように、何十頭もの駱駝が左右から現れ、
小さな一団は途端に大きな群れとなった。
それは、町にいた他の獣人らの駱駝達。
町の︻石垣︼は既に︻売却︼が完了していた。
駱駝達を縛るものはもうなにもなかったのだ。
カトリーヌの大きな鳴き声は、狼族以外の駱駝にも届いていたの
である。
﹁それでいい、それでいいんだ⋮⋮﹂
あの群れの先にはカトリーヌがいる。
仲間と共に彼女は生きていく。
それでいい、と信秀は自分に言い聞かせるように呟いた。
﹁幸せにな﹂
608
信秀は目を赤くした。
だが涙は流さない。
まだ、己にはやることがあるからだ。
駱駝が町を去ると、裏門は再び重厚な音をたてて閉じられた。
﹁外にいるジハル達を、全員ここに呼べ!﹂
︻堀︼の前で、裏切り者の獣人達と対峙しているジハル達を呼び
戻す。
そして、広さ100メートル四方、高さ20メートルの石垣の中
に、信秀と狼族らが全員揃った。
しかし、狼族らには戸惑いの色が見える。
他の獣人の裏切りについては、居住区にいた狼族達も既に知ると
ころだ。
だが何故、駱駝を解き放ったのか。
狼族達は信秀が町を捨てようとしていることを知らない。
この地で籠城するものだと思っていたのである。
﹁さあ、俺達も行くぞ! トラックに全員乗り込め!﹂
信秀が狼族に命令した。
するとそれに対し、疑問を口にしたのはジハルである。
﹁え⋮⋮? ここで籠城し、町を守るのでは⋮⋮?﹂
609
ジハルもまた他の狼族同様に、ここで籠城するものだと考えてい
たのだ。
﹁この町は捨てる! 俺達が向かうのははるか北だ!﹂
信秀の宣言。
狼族達の顔に愕然とした色が浮かんだ。
まさか、町を捨てるとは。
そんなどよめきが狼族達の中に起き始める。
それを見て、信秀は﹃町をつくる能力﹄を使った。
狼族達の前に泥が幾つも現れ、それは一瞬にして形をつくってい
く。
できあがったものは、麦の穂、野菜、箸、食器、椅子。
﹁わかるか。時間がないから、あまり大きなものはつくらなかった
が、この町のものは家も井戸も俺が全てをつくりだした。俺さえい
れば、どこにでも町をつくりだせる。
ところで、この地に残る意味はなんだ?
周りは敵ばかり。ならば、別の地で新たに町をつくった方がいい
に決まってる。
俺が、簡単につくりだせるんだからな。
この地を守ることに、なんの意味もないんだ﹂
初めてその奇跡を見た者、あらためて奇跡を目にした者。
どちらも信秀の言葉に、もはや否応はなかった。
狼族らは速やかにトラックに乗り込んでいく。
そうしている間に、表門と裏門が叩かれ始めた。
610
懺悔の声や、他の種族に罪を擦り付ける声など様々な声が聞こえ
てくる。
﹁よし、行くぞ!﹂
全員がトラックに乗り込むと、信秀の手によって裏門はその姿を
泥に変える。
そこから魚族らが殺到したが、クラクションの一つで魚族らは蜘
蛛の子を散らすように道を開けた。
裏門から飛び出していく、信秀の装甲車を先頭にした十一台もの
車両。
そして最後に信秀は、己の自宅を︻売却︼した。
荒れた大地を車が北へと走る。
その背後に見えるのは、町であったもの。
﹁ああ⋮⋮町が⋮⋮﹂
トラックの後部座席にいた狼族達は、遠ざかっていく町を眺めて
悲嘆の声を発した。
高さ二十メートルを超える巨大な石垣は、町の象徴である。
あの石垣を見つけ、目指し、狼族達は町にたどり着いたのだ。
それがゆっくりと沈んでいく。
離れていく。
狼族にとって町は安住の地となるはずの場所であった。
611
飢える心配も、外敵の脅威もなく、6年間も過ごした。
誰一人として不運によって死ぬことなく、ただ子が増える喜びだ
けが部族にはあった。
そこには幸せがあり、故郷となるべき地だと、狼族の者達は皆思
っていた。
だから、町が滅んでいく姿はどうしようもなく胸を締め付けるの
だ。
◆
灼熱の日差しの下、北へ北へと走る十一台にも及ぶ車列。
車は、シューグリング公国軍とぶつからぬように、西に大きく迂
回して進んでいた。
途中、先頭の装甲車を運転する信秀の目が砂煙を捉えた。
それは、シューグリング公国の軍。
陣営地から町へと攻め入ろうと進軍しているのだ。
そういえば、と信秀は獣人らの言葉を思い出す。
シューグリング公国軍が攻め込むのに乗じて反乱を計画したとい
う話をアライグマ族が言っていた。
︵この先、町に残された獣人はどうなるのか⋮⋮︶
信秀の胸にチクリとした痛みが走った。
シューグリング公国と内通していたということなら、獣人らは悪
くは扱われないのか。
いや、そんなわけはない。
人間がそんなに優しければ、獣人らが住みかを奪われることはな
612
かったはずだ。
裏切った獣人達は町を手に入れ、返す刀でシューグリング公国軍
と戦うつもりだったのだろう。
だが今、町に残る獣人達に戦う手段は何一つない。
彼らは、人間の下で慈悲を乞い、辛い生活を強いられるに違いな
かった。
当然の報いだと信秀は思う。
しかしそれと同時に、彼らの子供達にまで不幸が及ぶことに、や
りきれない思いがあった。
子供に罪はない。
されど信秀は雑念を振り払うように、ただアクセルを踏んだ。
もう後戻りはできないのだ。
すると、それから数分もせずに後部座席から声がかかった。
﹁フジワラ様﹂
﹁どうした﹂
﹁ミラの状態が思わしくありません。おそらく、内臓を傷つけてい
るのかと﹂
信秀は歯を強く噛んだ。
このままではいずれミラは死ぬ。
現代日本ですら治療の難しい内臓の傷。
だが、思い浮かぶ治療の手段が一つだけある。
それはこの世界にあって現代日本にはない魔法という存在だ。
613
︵治癒の術ならば、ミラは助かるかもしれない︶
引き返してシューグリング公国軍を攻め、治癒術の使い手を引っ
張ってこようか、という考えが信秀の心中に浮かんだ。
装甲車ならば、敵がいかに大軍とはいえ遅れはとらないだろう。
それに、装甲車を使わずとも、大砲を新たに︻購入︼して攻撃し
てみるのもいいかもしれない。
だが、本当にそうだろうかという思いが、信秀にはあった。
今回の反乱を思い返す。
信秀は、ゴビというただ一人の狼族に恐れをなした。
一人の力が、あれだけの脅威になるとは自覚していなかったのだ。
たとえば降伏をした者が、騙し討ちをして、被害を増やしたらど
うなるか。
一人を救うために、他の誰かを犠牲にすることは本末転倒でしか
ない。
信秀は、苦渋の決断をせまられる。
そして、信秀はそのままアクセルを踏み続けた。
シューグリング公国軍が見えなくなると、信秀は進路を川沿いに
移していた。
すると、北の川縁にまたしても軍の影が見えた。
シューグリング公国軍の増援かとも思ったが、だとすれば、なぜ
こんなところに陣を張っているのか。
信秀は、再び西に迂回しようとハンドルをきる。
614
だが陣から一騎が飛び出して、こちらに近づいてくる。
その姿に、信秀はどこかで見たことがあるような気がした。
﹁おーい、止まれー!﹂
金色の髪。男性にしては細い体格。そして、女性特有の甲高い声。
信秀は双眼鏡を覗くと、見たことがあるわけだと納得した。
なぜならそれは、赤竜騎士団団長のミレーユであったのだから。
﹁停止するぞ!﹂
信秀がトランシーバーに告げた一言は、どこかしら期待に満ちて、
弾んでいた。
車列は徐々にスピードを緩め、やがて停車する。
﹁ミレーユ姫!﹂
信秀が運転席より頭を出す。
そこにいたミレーユは、かつての痩せ細った彼女とは違い、生気
に溢れていた。
﹁やはりフジワラ殿か﹂
口角を上げるミレーユ。
その気安さ、町を狙って戦いに来たわけではないと信秀は判断し
た。
その目的を知りたいところであるが、今はそれどころではない。
﹁そちらの軍に、治癒の魔法を使える者はいるか!﹂
615
﹁ああ、連れてきているが﹂
﹁ミラが重傷を負った! 頼む、助けてくれ!﹂
﹁なに!?﹂
ミレーユがサンドラ王国に帰る際、ミラのことを気にかけていた
のを信秀はよく覚えている。
その時は、ミラとミレーユの関係について、浅からぬものを感じ
ていた。
なればこそミレーユならば、ミラを救ってくれるのではという思
いが信秀にはあった。
﹁わかった、すこし待っていろ!﹂
事情も聞かずにミレーユは、軍へと戻っていく。
その様子に、ミラが助かるかもしれないと信秀は拳を握った。
﹁ここで休憩する。ただし油断はするな。用を足す以外での下車を
禁ずる﹂
信秀はトランシーバーを通して各車に命令を出し、ミレーユを待
った。
やがてミレーユが治癒の術士を連れてやってくる。
信秀は、二人をミラのいる後部座席に入れた。
そして、信秀自身は狼族と共に、車両の外から油断なくミレーユ
達を監視していた。
616
治癒の術士が、ミラの患部を見る。
縫合したばかりの傷口に手を触れると、淡い光が灯った。
﹁どうだ、治るかっ!?﹂
﹁ええ。時間はかかりますが、命はなんとか助かると思います﹂
ミレーユの焦るような声と、治癒の術士の冷静な声。
治る。
その言葉を聞き、信秀の体からは大きく力が抜けるようであった。
安心したのだ。
よかった、と。
信秀はミレーユを見た。
ミレーユはなにやら意識のないミラに話しかけている。
その顔はとても優しい。
もういいだろうと、信秀はその場を離れた。
それから一時間。
ミラの治療を行う治癒術士と、それに付き添うミレーユをそのま
まにして、ゆっくりとした時間が流れていく。
信秀は装甲車の車体に背を預けて、ぼうっと青い空を眺めていた。
この一時間、ミラの容態は安定しており、もう命の心配は要らな
いとのことだ。
︵ミラの意識が戻ったら、お礼を言わなくちゃな︶
信秀はうっすらとした笑みをこぼした。
そして、吉報は続いた。
617
﹁フジワラ様! 何者かがこちらに向かってきます!﹂
﹁なに!?﹂
信秀の視力は、狼族達よりもはるかに悪い。
信秀は狼族が指を差した方を、双眼鏡で覗いた。
高く細い砂煙が一本あり、それは段々と近づいてくる。
やがて双眼鏡のレンズが、その姿をはっきりと映し出した。
まさかと信秀は思った。
﹁か、カトリーヌ⋮⋮﹂
一度目は驚きに、思わず呟いた声だった。
﹁カトリーヌ⋮⋮っ!﹂
二度目は、万感の思いと共に絞り出した声だった。
﹁カトリーーーヌッッ!!﹂
三度目はどこまでも届けとばかりに、腹の底、胸の奥からの、全
力の声だった。
するとはるか向こうから、大きな鳴き声が辺りに響いた。
信秀がその声を間違えるわけがない。
それは、紛れもないカトリーヌの声である。
信秀はもういてもたってもいられず、その場から駆け出した。
618
互いの距離は、互いの足で縮めるものだ。
駆けて、駆けて、駆けて。
吐き出す息は荒くなろうとも、信秀の足はいっそう強く大地を踏
みしめた。
やがて、どちらも足を緩めて近づいた。
そこはもう、互いの息がかかるような距離である。
﹁カトリーヌ⋮⋮﹂
信秀がカトリーヌの伸ばした首に抱きついた。
それに答えるように、カトリーヌは小さく、グェッと鳴いた。
何故、ついてきたのか。
そんな言葉は無粋だ。
ただ、カトリーヌがついてきてくれたことが、信秀には嬉しかっ
た。
﹁馬鹿な奴だな。仲間よりも人間の俺を選びやがって﹂
信秀の目には涙が溢れていた。
それは喜びの涙である。
すると、カトリーヌも嬉しそうに、小さく鳴いた。
﹁もう、お前を置いていこうなんて言わないよ。
一緒に行こう。俺達はずっと一緒だ﹂
暑い暑い日差しの下で、信秀とカトリーヌは長い時間、再会をわ
かち合う。
619
町はなくなった。
けれど狼族の者達もカトリーヌも側にいる。
信秀は、本当に大切なものは何一つ失ってはいなかった。
620
56.幕間 町のその後
﹁どういうことだ⋮⋮?﹂
獣人の町へと前進するシューグリング公国軍。
その軍を預かるリグライト将軍が、馬上にてボソリと驚きにも似
た疑問を口にした。
獣人の町は5メートルほどの高さの石垣に囲まれ、その奥には、
町を囲う石垣の四倍はあろうかという塔のように巨大な城壁がそび
えたっていたはずである。
だが今、リグライト将軍が目にしているものは何か。
既に町を囲う石垣はなくなっている。
そしてさらに、その奥にある20メートルの高さの城壁すら、軍
を進めるごとにその姿を小さくしていた。
﹁何が起きているのだ⋮⋮﹂
遠くにあるものが近づくごとにその身を縮めている。
遠近の法則すら覆す事態に、リグライト将軍は唸った。
すると隣に馬を並べた騎士が進言する。
﹁先程の町の方からきた一団も怪しいですな﹂
これにリグライト将軍は﹁ふむ﹂と顎髭を撫でた。
621
つい先頃、はるか西を恐るべき速さで駆けていったものがあった。
見えたのは立ち昇る砂煙ばかりで、姿はうかがい知れなかったが、
その正体には見当がつく。
鉄の箱
。
新たに陣営に加わったサラーボナー伯爵領の農民兵が、サンドラ
王国の兵として町を攻めた際に見たという
鉄の箱
と町の現状とが、どうかかわり合いがある
馬よりも速く走り、何十人もの数を乗せることができるのだとい
う話だ。
だが、その
のかは、とんとわからない。
﹁まあ、いい。城壁がないのならば攻略も容易だろう。町を制圧し
たのちに、調べればいいことだ﹂
結局、なんの結論も出さなかったリグライト将軍。
シューグリング公国軍は町の異常にも止まることなく、ただ前進
した。
しばらくして町から駆けてくる者があった。
それは数名の魚族。
内通していた者達である。
軍が止まり、魚族はリグライト将軍の下に通された。
﹁町の状況は﹂
﹁我ら魚族、見事、町の支配者であったフジワラを町から追い出し
ました。ですが、フジワラがいなくなったせいなのか、町の幾つか
のものが消えております﹂
622
将軍が馬上より尋ねると、跪きながら答える魚族。
魚族はギョロリとした目を愛想を振り撒くように細めている。
﹁その消えた幾つかが、町を囲っていた石壁というわけか﹂
﹁はっ!﹂
﹁では、石壁の消えた原因がフジワラがいなくなったせいというの
はどういうことだ﹂
﹁町は、フジワラの魔法によってつくられたものだと思われます。
現にフジワラが逃げる際、フジワラに有利となるように町がつく
り変わりました。
つくるのも消すのも自在であるのかと﹂
﹁むう⋮⋮﹂
リグライト将軍が考え込む。
町を創造し、また消し去るなど聞いたこともない話である。
錬金の術による物の創造はあれど、あまりに規模が違いすぎるの
だ。
しかし嘘だと断じることもできない。
実際に今、町の城壁が消え行く姿を見ているのだから。
﹁フジワラはいなくなったのだな?﹂
﹁はい、トラックと呼ばれる鉄の箱に乗って、去っていきました﹂
623
幾つも疑問はあるが、ことの真実を確かめるのならば、町へ行く
しかない。
﹁フジワラがいなくなったとなれば、町には安心して攻め入ること
ができよう﹂
﹁それが、そうもいきませんで。
かねてより町に住む獣人達と我ら魚族の者達とで、にらみ合いが
続いております。
どうも奴ら、フジワラに反逆したのはいいのですが、途中から心
変わりしたようで。
我が部族の族長も奴らから攻撃を受けて、手傷を負い、ここには
来れませんでした。
奴らは危険です。貴軍にも牙を剥くやも知れません﹂
魚族の言葉に、リグライト将軍は僅かに眉をひそめた。
そして魚族の心を覗くように、その目を見る。
町に住む旧来の獣人達が、魚族と敵対しているのは確かかもしれ
ないが、ここに至ってシューグリング公国軍にまで矛を向けるとは
思えなかったからだ。
考えられるのは、私怨か獣人達の中で実権を握るための謀略か。
リグライト将軍に直視されても、魚族にたじろぐ様子はない。
しかし、将軍は魚族の性質をよく知っている。
﹁使者をたてよ。ここに各部族の長を連れてくるのだ。来なければ、
戦いの意思ありと見なす﹂
配下に指示を出すリグライト将軍。
624
魚族の言うことを全て信じるほど、リグライト将軍は愚かではな
かった。
﹁え? 滅ぼさないのですか?﹂
﹁馬鹿が。フジワラとやらがいなくなった以上、町のことを最も知
る者は、その獣人達であろうが﹂
魚族の意外そうな言葉に、将軍は吐き捨てるように言った。
むしろ町の反乱が成功した今となっては、魚族の方こそなんの価
値もなく不要なのだ。
使者は馬を駆り、町へと向かった。
その間にも軍は動きだし、ゆっくりとした歩みを始める。
しばらくして、町へ向かった使者が部族の長を連れて戻り、軍は
再び止まった。
リグライト将軍は眼前に連れてこられた族長らを観察した。
食が豊かであるのか、肉付きはいい。
だというのに族長らは、目に見えて疲れて憔悴している様子であ
った。
族長達は皆、大人しく地に膝をつけて頭を垂れる。
そして、リグライト将軍が抗戦の意思を尋ねると、﹁ありません﹂
とだけ力なく答えた。
こうしてシューグリング公国軍は、各族長を人質として再び進発
し、やがて町へと入った。
625
町の中を進み入るシューグリング公国軍。
兵士達は町の建物を目にすると、おおっと驚きの声をあげる。
リグライト将軍や、上級騎士らも同様だ。
並んだ家々は見慣れぬものであったが、色も形も統一性があり、
その町並みはシューグリング公国のいずれの者にも美しいと思わせ
た。
そんなシューグリング公国軍の者らの様子に、族長らはまるで自
分のことのように誇らしげになった。
だが、すぐにその顔を鬱屈としたものに変える。
なにもかも、信秀に与えられたものであるからだ。
そして、シューグリング公国軍は町の半分を占拠し、兵達は屋根
の下で腰を落ち着けることになった。
﹁ひゃー、こりゃあすげえ!﹂
﹁うちの、すきま風だらけの家とはまるで違うぞ!﹂
兵士達が、家に入るなり喜びの声をあげた。
家々は外も立派なら、中もまた立派。
都会にある上級の旅籠にも負けておらず、長く厳しい旅路の疲れ
を癒してくれるようであった。
しかし、家に入る者があれば、出ていく者もいる。
そこに住んでいた獣人達は追い出され、当分の間は炎天の下で暮
らすことを余儀なくされた。
やがてリグライト将軍が滞在する屋敷に各族長が集められ、再び
情報の聴取が行われることになった。
626
リグライト将軍が、屋敷の一番奥の部屋の上座に座り、各族長ら
がその対面に並び座る。
さらに武器をもった者が族長らを取り囲み、族長らにとっては息
の詰まる光景となっていた。
情報の聴取は、まず反乱の詳細と顛末について。
そして族長達から語られた内容は、魚族から聞いた話と同じもの
であった。
﹁︱︱ふむ。やはりそのフジワラが、魔法によってこの町をつくり
だしていたわけか﹂
信秀が町を創造し、またそれを消し去った。
それはあまりに信じがたきことである。
しかし、信秀が逃げるためにつくりだしたという、町の中を走る
歪な石垣を、リグライト将軍は確認している。
さらに、消え去った町の石垣などの結果と、獣人らの反乱から信
秀が逃亡するまでの話との整合性もとれていた。
すなわち、リグライト将軍にしてみれば信じられぬことではあっ
たが、信秀の力は本物であるということだった。
﹁そのフジワラという輩、神か悪魔か。
およそ人の力を超えている﹂
将軍は、感心したように声を出した。
ここまで突き抜けていると、逆に清々しい気持ちになるのは何故
か。
謀略にかけた相手ではあったが、リグライト将軍をして、どのよ
うな者か実際に会って話をしてみたいという気にさせた。
627
そして、将軍の評を聞いた部族の族長らは、思い思いに顔をしか
めた。
あらためて、信秀の力を他者から言及された時、その凄さが身に
染みたのである。
族長らの中には、なぜ裏切ってしまったのかという、後悔の念が
再び湧き上がっていた。
リグライト将軍は言う。
﹁ならば、この家を残したのはせめてもの慈悲ということか。はは
は、敵ながらなんと天晴れな奴よ。
貴様らが裏切ったにもかかわらず、フジワラは貴様らのために住
む家を残したというわけか﹂
将軍は愉快そうに笑った。
裏切られた者達に慈悲をかけるなど、まさに馬鹿。大馬鹿である。
信秀に対し、どこぞの聖人にでもなったつもりか、と将軍は一頻
り笑い続けた。
もっとも、信秀はそんな慈悲云々を考えたつもりはない。
つくりだした家々に、なんら契約も交わさず、数年間も獣人達に
住まわせていた。
これにより﹃所有権﹄が移ったのだと﹃町をつくる能力﹄が勝手
に判断しただけのことである。
とはいえ、逃げる際の信秀に冷静さがあれば、本当に慈悲の心を
もって、獣人達に家を残したかもしれないが。
﹁とにかくも、だ。俺はフジワラのように甘くはないぞ。知ってい
628
ることを、全て話してもらう。
フジワラに義理立てなどして話さぬのもいいが、その場合は命を
捨ててもらうことになる﹂
冷徹な目で睨み付ける将軍。
信秀という善人を知るからこそ、一切の情を切り捨てたようなリ
グライト将軍の瞳に、族長達は心胆をいっそう寒くした。
その後、族長らによって、町の生活や大砲などの武器について、
洗いざらいが説明されることになる。
シューグリング公国軍が町を占領して一週間。
軍が得たものは、新種の苗と、新兵器の開発に役立ちそうな情報。
しかし、シューグリング公国軍の目的であった香辛料については、
残念ながらわからずじまいであった。
そして、もはや軍に得るものはない。
つまりリグライト将軍が考えるべきは、今後の町の扱いをどうす
るか、である。
元々シューグリング公国は、この地を植民地にしようと考えてい
た。
だが、この町は自領からあまりに遠すぎる上に、町を守る壁すら
もなくなってしまった。
現在、敵対関係にあるサンドラ王国。
シューグリング公国がこの地に軍をおいたとしても、かの国から
守り抜くのはあまりに困難であるといえた。
こうして、シューグリング公国軍は、獣人の町を植民地にするこ
となく、自国に帰ることとなったのである。
帰り際に、リグライト将軍が族長らに言った言葉がある。
629
﹁フジワラに感謝するといい。同じ人間としてその慈悲を蔑ろにす
るのは、気が引ける。
せめてもの情けに我らはなにもせん。ここで、おとなしく暮らす
といい﹂
リグライト将軍は、別に情にほだされたというわけではない。
獣人に情けをかけた信秀は人間であり、己もまた人間。
人間がいかに慈悲深く偉大であるか。
獣人に裏切られてなお、温情を与えた信秀の行為に、同じ人間と
してリグライト将軍の自尊心は満たされていた。
信秀の慈悲を汚すことは、その心に僅かな曇りを残すだろうと考
えたのだ。
◆
シューグリング公国軍が去ると、町は主をなくしたまま再び始動
した。
古参の獣人達は、まず魚族ら新参の獣人達を、町から追い出した。
その際には、わずかばかりの小競り合いはあったものの、魚族ら
は比較的あっさりと、北へ逃げていった。
これは、己が町を守るという気概のある者と、ただ巣食うだけし
か考えていなかった者の差であるといえよう。
獣人らは思う。
魚族らはいなくなった。
それはまるで、以前の平和で満ち足りた頃のようである、と。
しかし、足りない。
そこには信秀も狼族もいなかったのだ。
630
町から消えたのは、信秀や狼族だけではない。
井戸や、厠がなくなった。
風呂場もなくなった。駱駝もいなくなった。
多くのものを獣人達は失っていた。
とある家のまだ幼い子供が、様変わりしてしまった町の様子につ
いて父親に尋ねる。
﹁なんでいどやおふろがなくなっちゃったの? フジワラさまはど
こにいったの?﹂
すると父親は困った顔をして答えた。
﹁いい子にしていたら、いつかフジワラ様が戻ってきてくれるよ。
そうすれば何もかも元通りだ﹂
父親は、それしか言うことができなかった。
己の罪を子に告白する勇気すらない大人達。
あとは頭を撫でて、ごまかすばかりである。
町の生活は水を得るだけでも、毎日が大変だった。
近くに川はあれど、目の前に手押しポンプつきの井戸がある生活
とは雲泥の差だ。
毎日毎日、生活に必要な水を川から運びこむために、一日の時間
に余裕がなくなった。
そのため、子供達も仕事に駆り出されるようになっていった。
それ以外にも、厠や火を起こすための燃料など、問題は山積みで
ある。
631
さらに、部族間での揉め事が起こるようになった。
たとえば食料について。
ゴブリン族とコボルト族が信秀より任されていたのは工作である。
税を納める必要がない畑はもっていたが、それだけではとても部
族全員を賄えるものではない。
つまり彼らには、現在食料を得る手段がないのだ。
無論、今後は畑を耕すようになるのだが、それが実るまでの間は
各部族から食料を恵んでもらわなければならなかった。
だが、各部族はこれを出し渋った。
先の見えぬ未来に、食物を少しでも貯めておきたかったのだ。
信秀という長がいなくなり、己の部族のことを第一に考え始めた
結果である。
しかし月日が経つにつれ、各部族が協力しあい、様々な問題が解
消されていく。
多くの苦労を乗り越えて、町は運営されていったのだ。
とはいっても、生活が楽になったというわけではないのだが。
やがて一年が過ぎる頃には、多くの者が、もう信秀は帰ってこな
いのだと実感する。
あの日々はまさに夢や幻であった、と昔を懐かしむことすら忘れ
て、獣人達は毎日を忙しく過ごした。
だが、中にはいまだ昔に思いを馳せて、前に進もうとしない者も
いた。
鹿族のある青年は、一年前までは族長を務めていた者である。
しかし、いつからか物思いにふけるようになり、族長の仕事を全
632
うすることもなくなって、その任を降ろされた。
青年は時折、日がな一日をペンダントを眺めながら昔を懐かしむ。
その日もまたそうであった。
青年は自宅にて、ぼうっと首から外したペンダントを眺めていた。
すると、働きに出ていた妻が戻って来て言った。
﹁あんたはまだそんなものを! こんなガラクタには、もうなんの
意味もないんだよ!﹂
妻によって取り上げられたペンダント。
それは放り投げられて、床を転がった。
﹁ああ⋮⋮っ!﹂
床を這いつくばりながら、ペンダントを追いかける青年。
そのペンダントは競技会で優勝した証である。
そこには誇りや栄光、自信など、青年にとって誰よりも何よりも
輝かしいものが詰まっていた。
いや、それだけではない。
信秀や狼族達と笑って過ごした日々が。なんの心配も要らず、毎
日を幸せに過ごした日々が。
明日に向かって、生きていた日々の思い出が、ペンダントを見る
たびに甦るのだ。
今、町の獣人達は、明日を見る余裕もなく、その日その日を生き
ていくために、毎日を必死に働いている。
それでも、この地に来る以前の生活よりかは、はるかにマシとい
633
えるだろう。
しかし、あの満ち足りた生活を知ってしまった以上、今の生活は
色褪せたものにしか見えず、鹿族の青年は時折こうして物思いにふ
けるのである。
︱︱いまだ覚めぬ夢の中にいる者は確かに存在していた。
634
57.幕間 永井昌也 1︵前書き︶
更新遅れてすいません。
次話は明日あたりに投稿します。
635
57.幕間 永井昌也 1
神の下に集められた、日本に生きる112名の者達。
彼らは神より自身の力となりうるカードが与えられると、異世界
へと旅立った。
その際に、神は﹁生活の地盤が築ける場所に送る﹂と告げている。
その言葉の通り、おおよその者は転移した先で無事な生活を送っ
ていたといえよう。
たとえば、ある少女は︻水の魔法の才︼︻小︼︻★★︼を得て、
とある町へと飛ばされた。
彼女は現在、見過ごすことができなかった孤児達の面倒をみなが
ら、水売りを生業として日々をたくましく生きている。
また︻武器全般の才︼︻中︼︻★★★︼を得たある青年は、ふと
したことからある商人を救い、それ以後はその商人の護衛となった。
さらに商人の娘に見初められ、今では商会の跡取り候補として忙
しない日々を送っている。
そしてまた、ある男子高校生は︱︱。
◆
︱︱よく勉強をするようになったのはいつだったか。
それは、異世界へと転移した男子高校生︱︱永井昌也が小学生で
あった頃のことである。
永井は別段、頭のいい子供ではなかった。
636
先のことなどあまり考えず、今日の楽しみを頭に浮かべて毎日を
過ごす、どこにでもいる子供だ。
そんな彼がある日、テストで100点をとった。
一度ばかりのほんの気まぐれ。
たまには褒められるのもいいだろうと、なんとなく勉強した結果
である。
だが、実際に周囲の者から褒められてみると、それは想像以上に
心地よかった。
皆の前で永井の成果を発表し、﹁よくやったな﹂と答案用紙を渡
す教師。
席に戻ると、﹁永井君、頭いいんだ﹂と話しかけてくる隣の席の
女子。
家に帰ったなら、﹁昌也はやればできる奴だと思っていたんだ﹂
と自分のことのように誇らしげになる父。
まさに快感。
褒められる度に、麻薬にも似た陶酔感が永井の心を支配した。
それは、自らの意思による努力に成果が結び付いた結果であると
いっていいだろう。
そして、この時より永井は優等生となったのである。
永井は毎日を勉強と体力錬成に費やした。
小学生の頃に確たる目標をもって努力している者などそうはいな
い。
せいぜいが、親に言われるがままに自我の欲求を我慢しつつ勉強
をするくらいだ。
だが、永井は自らの意思で努力を続けた。
637
すると、その努力はすぐに成果を出していく。
テストの度に高得点をとるようになったし、体育でもよく活躍し
た。
周囲からは、頭がよくて運動もできる奴と認識されていった。
しかし永井は、まだ足りないと思った。
やがてテストで100点をとることが当たり前となり、運動にお
いても永井が一番だと目されるようになる。
教師や両親は永井を褒め囃し、クラスメイトは羨望の眼差しを永
井に送った。
嫉妬にかられて貶す者もいたが、所詮は負け犬の遠吠えである。
気にする価値すらない。
そして永井は、何事にも一番であることが当たり前となっていっ
た。
誰よりも優れ、褒められて、非常にいい気分に浸っていたのだ。
だが努力には限界がある。
永井が中学生の頃。
貼り出された試験結果の順位表において、初めて二位の場所に名
前を刻んだ。
スポーツに至っては、明らかに自分とは逸脱した才能を持つ者が
現れた。
屈辱であった。
自分に足りない才能。
努力だけではたどり着けない境地。
638
それを認めることができなくて、永井は必死に努力した。
天辺を眺めて、そこは俺の居場所なのだともがき続けた。
しかし、届かない。
一番であることが当たり前となっていた永井にとって、自分より
優れた者がいることは耐えられるものではなかった。
己は誰よりも優秀だ。劣っているわけがない。
そう自分に言い聞かせる。
だが高校に進学する際、永井は地域で二番目の偏差値の高校を選
んだ。
高校で一番になるために、二番目の高校を選んだのである。
恥辱。己の居場所を得るために、自ら選択した負け。
そのことは永井の心の水溜まりに、一滴の穢れたものを落とした。
そしてその一滴は、段々と永井の心を澱ませていくことになる。
高校生になると、永井は心の中で他人を見下すようになっていた。
自分がいかに優れているか、他の者がいかに愚劣であるか。
己の中にある恥辱を覆い隠すように、自分の優秀さを自らに言い
聞かせた。
さらに自分の居場所を脅かす者は許さないとばかりに、頭角を現
してきた者を潰していった。
無論、表だった行為ではなく、自らの悪意を悟られぬよう裏から
狡猾に、だ。
かつては己を高めるために行っていた努力のベクトルは、もはや
違う方向へと向いていた。
いつか、ただの人間になる。
639
そんな言い知れぬ焦燥感の中で、永井は日々を過ごしていたので
ある。
すると、そんな時であった。
永井の前に神を名乗る老人が現れたのは。
朝、通学の電車に乗っていた永井は、気がつけば真っ白い部屋に
いた。
自分だけではない、同じ車両に乗っていた者達も同様である。
そして、永井達の前に現れたのは神を名乗る者。
神は言った。
︱︱お前達には他の世界で暮らしてもらう、と。
真っ白い部屋で、次々とカードを選び光の中に消えていく者達。
永井もまたカードを選び、眩しい光に包まれて目を瞑る。
次に目を開けた時、そこは見知らぬ場所であった。
﹁どこだここは⋮⋮?﹂
豪奢なベッドの上で目覚めた永井。
仰向けになった視線の先には、見慣れぬ天蓋があった。
そこに﹁おお!﹂という声がした。
上体を起こしてそちらを見てみれば、そこにいたのは初老の白人。
着ている服は、洗練され立派なもののような印象を受ける。
しかし、現代の服装とはかけ離れており、いわゆる昔の西洋の紳
640
士服という風であった。
そんな老人に対し永井は、彼が医者であると何故か
た。
﹁⋮⋮ここは一体﹂
つい口に出し、キョロキョロと辺りを眺めた。
見覚え
があった。
知って
い
そこは、いかにも高級そうな調度品が並んだ、きらびやかな部屋。
だが、永井はその部屋に
﹁意識がまだはっきりしておりませんか。3日間も眠っておられた
のですから当然でしょう。
少し失礼しますよ﹂
老医は、永井の額に手を当てた。熱を測っているのだろう。
次に永井の目と舌を見る。
﹁ジュリアーノ様、腕を出してください﹂
ジュリアーノ。
目の前の老人は永井のことをそう呼んだ。
永井の名は永井昌也だ。
決してジュリアーノという名前ではない。
だが、永井は不思議なことにその名を自然と受け入れ、言われる
がままに腕を出した。
永井には記憶があったのだ。
永井昌也としてではなく、ジュリアーノ・ガヴィーノ・ヴァッサ
ーリとしての記憶が。
641
老医が脈をとる。
その間、永井は己が引いたカードを思い出していた。
︻領主になる︼︻★★★★★︼
永井は自身の手を見た。
老医の肌同様とても白い。
これは黄色人種であった永井昌也にはあり得なかった白さだ。
永井昌也という人間が、領主という職にあったジュリアーノ・ガ
ヴィーノ・ヴァッサーリという人間に憑依した。
そういうことなのだろう、と永井は思った。
﹁ふむ⋮⋮、異常はみられません。死にかけていたのが嘘のようだ。
とはいえ油断はなりません。
当分は安静にしていてもらいますぞ﹂
﹁わかった﹂
﹁それで、どうして死にかけたかは覚えていらっしゃいますか?﹂
その質問に、永井は頷いた。
永井の頭の中には、ジュリアーノが死にかけた時の記憶ももちろ
んある。
昼食の最中であったジュリアーノ。
彼はワインを飲んだところで、胸をもがくほどに苦しくなった。
おそらくジュリアーノはそこで死んだのだろう。
そして、死んだジュリアーノの体に己の魂が入ったのだと永井は
理解した。
642
﹁では、くれぐれも安静に。また夕食前に来ますので﹂
そう告げると、老医は部屋から去っていった。
部屋に残されたのは自身以外に、メイドが一人と、扉の前に立つ
護衛の騎士が二人。
永井は体を再びベッドに沈め、ぼうっと天蓋を見上げながら思考
する。
己が手にした︻領主になる︼というカード。
それには星が五つ書かれていた。
その星がカードの価値なのだろうというのは、想像に難しくない。
では果たして、星五つというのが高いのか低いのか。
一番始めにカードを引いた男子学生。
彼のカードは︻槍の才︼︻大︼だったはずだ。
︻大︼ならば︻小︼と︻中︼もあることだろう。
︵︻小︼を星一つとすれば、︻大︼は星三つか?︶
短絡的すぎるとも思ったが、個人の才能と領主という人を束ねる
職との価値の差を考えた場合、そんなに間違っているとも思えない。
そんなことを考えていると、廊下が慌ただしくなった。
部屋の外から聞こえる複数の足音。
すぐに、部屋の扉は開いた。
﹁おお、ジュリア⋮⋮! よかった⋮⋮!﹂
部屋に入ってきたのは、下女をつれたジュリアーノの母である。
643
﹁これは母上。ジュリアはこの通り、無事でございます﹂
永井は、体を起こしてにこやかな笑顔をつくった。
するとジュリアーノの母は目に浮かんだ僅かの涙を指で拭い、本
当に安心したという様子で、永井に声をかける。
﹁おお、おお⋮⋮! 元気そうで何よりです⋮⋮!
ずっと目が覚めず、母もどうしてよいか⋮⋮とても心配したので
すよ?﹂
︱︱だが。
﹁ふっ、私がちゃんと死ぬかどうかの心配ですか?﹂
﹁︱︱な!?﹂
﹁この者を捕らえよ。此度の主犯はこやつだ﹂
﹁ま、待ちなさい! 何を言うのですか!﹂
永井という魂が入り込む以前のジュリアーノは気づいていた。
母がまだ幼い弟を当主に据えたかったこと。
そのためにジュリアーノを疎ましく思っていたこと。
しかし、ジュリアーノはなにもしなかった。
親を思う子の情が、まさか命まで狙うわけがないと躊躇させたの
だ。
ジュリアーノへの愛情を失っていた母。
対するジュリアーノは、母への愛情をいまだに残していた。
644
だから殺された。
そして今、ジュリアーノとなった永井には母への情などは存在し
ない。
自身の母はあちらの世界におり、この場にいる女性は他人でしか
ないからだ。
﹁私の愛しいジュリア! これは何かの間違いです! ああ、ジュ
リア!﹂
護衛の兵に腕を掴まれて扉から出ていくジュリアーノの母を、永
井はなんら感情を揺さぶられることもなく見つめていた。
やがて扉が閉じられると、その視線を正面に戻して呟く。
﹁領主か⋮⋮悪くはないな﹂
永井は、まだ年端もいかない端麗な容姿をもつジュリアーノの体
で、ニヤリと口に弧を描いた。
645
58.幕間 永井昌也 2
大陸は竜の下顎に位置するヨウジュ帝国。
そのヴァッサーリ伯爵領では、ジュリアーノ・ガヴィーノ・ヴァ
ッサーリがわずか14歳にて病死した父の跡を継いだ。
そして、そんなジュリアーノへと憑依したのが永井であった。
領主とは領を治める者であり、領内においては一番偉い者である。
常に一番を求める永井は、優々としてその権勢を振るった。
永井にはジュリアーノの記憶があった。
そのため、なんら逡巡することなく領主の仕事をこなすことがで
きたのだ。
永井がジュリアーノとなって領政を行い、一週間が過ぎた。
これまで、特に問題らしい問題は起こっていない。
もし何か一つあげるというのなら、ジュリアーノの母と弟を一室
に閉じ込めたくらいだ。
そして永井は、今日も己が執務室で報告書類の決裁を行っていた。
するとそこに扉を叩く者があった。
﹁入れ﹂
永井が許可を出すと、﹁失礼します﹂と言って入ってきたのは家
臣の一人。
とある特別な任を与えた者だ。
永井は手を止めて背もたれに体を預けると、休憩とばかりに﹁ふ
ぅ﹂と小さく息を吐いた。
646
﹁どうだ、町の方は。綺麗になったか﹂
﹁はっ、路地裏から側溝に至るまで町中の汚物を取り除きました﹂
﹁よし﹂
家臣からの報告に、満足して頷いた永井。
その報告の内容は、町の公衆衛生についてであった。
この大陸に住まう人々の衛生観念の低さは、思わず目を覆いたく
なるほどだといっていいだろう。
城下町においては、至るところに便がばらまかれていたし、排水
用の側溝はつまっており、雨が降れば水が溢れ町中が汚水まみれに
なる始末。
おまけに町中を家畜が闊歩していた。
また、永井が住まう屋敷においても例外ではなく、屋敷の庭から
は凄まじい悪臭が漂う有り様であった。
日本で過ごしていた永井にはとても耐えられるものではない。
加えて、不衛生が病気を呼び込むことは元の世界では常識である。
実際に、永井が町を見回った際には、そこら中でハエが飛び交い、
何らかの菌を媒介しているのではと眉をしかめるほどであった。
そして、領内の衛生状態の悪さを目の当たりにした永井は、すぐ
さま公衆衛生を向上させる命令を出したのだ。
閑話休題。
﹁しかし町を綺麗にしても、また町人達が汚して元に戻るのではあ
りませんか?﹂
647
家臣の発言は実にもっともである。
とりあえず町人達総出で清掃をしたおかげで、当分は町を汚す者
はいないだろう。
美しいものを汚す背徳感や、皆の成果を台無しにする罪の意識が、
町を汚すのを躊躇させるはずだ。
だが、いずれ誰かが町を汚し始め、それを皮切りに、また町は汚
物まみれとなっていくであろうことは簡単に想像がついた。
そこで永井は、机の中から一枚の羊皮紙を取り出して、﹁これを﹂
と前に突き出した。
家臣がそれを受け取り、目を通す。
そこには永井が新たに考えた、町を汚した者に対する罰則が書か
れていた。
﹁それを今から一週間のうちに全ての町人達へ通達せよ。
外から町に来る者にも必ず徹底させるよう、城門で触れを出して
おけ﹂
書かれていた罰則は、いずれも厳罰といえるものである。
それに目を通した家臣は、わずかに顔を曇らせた。
この家臣自身、町や屋敷の庭を汚す粗相を何度もしているからだ。
﹁これはあまりにも厳しくはありませんか?﹂
﹁何を言う。甘い罰ではなんの成果もなかった。ならば厳しい罰に
するのは当たり前であろう。
町の者は自分で自分の首を絞めたのだ。
そもそも決められた場所に汚物なりを捨てにいけば、なんの問題
もない話ではないか﹂
648
永井の言葉に、家臣はぐうの音も出なかった。
汚物を捨てるための決められた場所は、町に幾つも存在している
のだ。
ただ町人達があまりにずぼらで、それを活用していなかっただけ
である。
家臣は﹁わかりました﹂とだけ告げて退室した。
しかしこの時の永井は知らない。
罰則を厳しくしただけでは、町が綺麗になることはないというこ
とを。
元の世界の中世ヨーロッパでも、罰則が極刑にまで及んだにもか
かわらず、町は綺麗にならなかったという事例がある。
町人達は人目を盗み、また誰にもばれぬ夜の闇の中で汚物を撒き
散らすのだ。
だが、現代日本という清潔な世界を知っている永井が諦めること
はない。
彼の悪戦苦闘の日々は、この先もしばらく続いていくのであった。
さて、公衆衛生に関しては町の公共物だけでは終わらない。
町全体の美化の次は、人の衛生管理についてである。
この世界において、庶民には体を洗うという習慣がなく、ほとん
どの者が不潔で臭かったといえた。
これは元の世界の中世ヨーロッパと同様に、病が水から来るもの
であると誤解されていたからだ。
人々は川や井戸の水で体を洗うことを禁忌としたのである。
ただし、中世ヨーロッパとこの世界とでは、一つだけ決定的に違
649
うところがあった。
それは魔法の存在。
魔法によって生み出された水は清らかであるとされ、金に余裕の
ある富裕層らはその水をもって体を清めていたのだ。
つまり、庶民が体を洗わなかったのは、飲食に使うべき高価な水
をそんなことにつかうのは勿体ない、と考えてのことであった。
そして、それらの対策についても永井は既に腹案を持っている。
﹁︱︱ここだ﹂
それは、ある日の執務室でのこと。
家臣らの前で町の地図を広げ、ある場所に指を差す永井がいた。
﹁ここに大浴場をつくれ﹂
﹁し、しかし、町人の立ち退きは、それに費用が⋮⋮﹂
﹁構わん、立ち退かせる町人は金で黙らせる。屋敷にある金になり
そうな美術品は全て売却するつもりだ。
それを立ち退きの費用と、浴場の建築費に当てる﹂
永井は町に大浴場を建設。
注ぐ湯は、水の魔法使いと火の魔法使いを雇い入れ、その者達に
つくらせている。
入浴料は無料とし、自由に開放すると、町人達はこぞって浴場へ
向かった。
誰だって、汚いよりはきれいな方がいいのである。
こうして城下町の公衆衛生に関して一応の目処をつけた永井。
650
村々の衛生管理にはなんの施策も講じなかったが、これについて
は特に気にする必要もない。
人が少なければ汚物も少なく、自然に還ることが可能な量となる
ためだ。
そして、今回の件で相当の資産が消えていた。
まだまだ蓄財はあったが、このまま領内の改革を進めれば、いず
れ底をつくのは明らかである。
そのため、永井はすぐに次の施策に取りかかった。
次の目標は金儲け、つまりは新たな事業の開発である。
日々の書類作業の中で、永井は紙というものに目をつけていた。
この大陸で紙といえば羊皮紙であったが、羊皮紙は1枚につき、
およそ新バーバニル銀貨1枚︵約2800円︶という高級品。
これが書籍ともなると、書き写しの料金も含め優に新バーバニル
銀貨500枚︵約140万円︶を超えるというから驚きである。
永井はこの世界で羊皮紙に代わる、安価な紙がつくれたら金にな
るのではと考えた。
あいにくと洋紙のつくり方はわからなかったが、和紙のつくり方
については多少の知識がある。
原料も植物であるため、開発自体に特にこれといった費用はかか
らない。
せいぜいが人件費くらいなもの。
あとは試行錯誤を繰り返す時間だけだ。
永井はすぐに人を集め紙の開発に当たらせた。
己の知ることを職人らに伝え、また自分自身でも時間があれば実
験に参加した。
651
これより紙の開発は、永井のポケットマネーにて、長い年月をか
けて行われることになる。
永井の手によって、進む領地の改革。
しかし、永井も領政ばかりにかまけていたわけではない。
永井は領地の改革に平行して、同郷の者を集めようと試みていた。
﹃日本という国を知る者を求む﹄
この布告を領内に出し、また国内、国外問わず人をやって同郷の
者を探したのである。
いくら永井が優秀であったとはいえ、高校生が学校で学ぶ知識な
どたかが知れている。
永井としては、もっと専門的な知識を持つ者が欲しかったし、己
だけが富むために、元の世界の技術流出を防ぎたかったのだ。
しかし、同郷の者の捜索は難航した。
一年経とうとも、なんの情報も得られない。
もしかしたら、この世界に来た者は己しかいないのではないか。
そんな考えが浮かんだが、永井は家臣らに捜索を続けさせた。
そして、永井がこの世界にやって来て二年が過ぎた。
初めて同郷の者が見つかったのは、その年の初夏のことである。
永井の執務室に連れてこられた少女。
652
日本人特有の黒い髪と、浅い彫りの顔を彼女はしていた。
﹃きみは日本人か?﹄
永井が久しく使っていなかった日本語で問うと、少女はホロリと
涙を流した。
それは嬉し涙である。
話を聞けば、少女の得た力は︻剣の才︼︻中︼︻★★︼。
しかし、彼女の性格はとてもおとなしい。
剣を使って金を稼ぐなんて真似はできるはずもなかった。
そのため彼女は、商会にて下働きをして生活していたそうだ。
神の力故か、この世界の文字の読み書きに不自由がなく、計算も
できたため職には困らなかった。
しかしそれでも寂しさは埋められず、少女は貼り紙を見て、この
地にやって来たのだという。
そして一人見つかれば、二人三人と芋づるのように同郷の者は見
つかった。
皆の話からすると、どうも異世界に移動してきた時間が、永井と
他の者とでは違うようである。
永井に与えられた︻領主になる︼というカード。
領主になるために誰かが死ななければならないというのなら、ジ
ュリアーノが死ぬ時期が、他の者と転移の時間がずれた原因であろ
うと永井は考えた。
皆が転移する際に、都合よく死ぬ領主がいなかったのだ。
そして、見つかった同郷の者達が得た力も様々であった。
653
︻犬︼︻★︼
︻英雄の鎧︼︻★★★︼
︻闇の魔法の才︼︻中︼︻★★★︼
︻何でも治る薬︼︻★★★︼
︻壊れにくい靴︼︻★︼
︻弓の才︼︻小︼︻★︼
︻火の魔法の才︼︻大︼︻★★★★︼
しかし、そんな力には永井はあまり興味がなかった。
今の己は領主。
誰よりも優れた領主となるために必要なものは、日本の知識だけ
だったからである。
その後も永井の下に続々と集まってくる同郷の者達。
それに伴い、領地は着々と成長を遂げる。
そして永井がこの世界に来て8年、他の転移者にとっては6年と
いう月日が過ぎた。
この時には領で開発された植物紙が量産体制に入っており、永井
は莫大な財を蓄えていた。
とはいえ、これも最初から順風であったとは言い難い。
当初、安価な紙の存在は教会にいい顔をされなかったのだ。
理由はある。
現在までは、教会によってのみ行われてきた知識の保存。
それは教会が権力を維持するための手段であった。
だが、紙が安く手に入るようになれば、知識の保存は他の者にも
654
容易にできるようになる。
そのことを教会は危惧していたのだ。
しかし、永井が活版印刷を開発し、それを使って大量の聖書を低
価格で教会に卸すと、手のひらを返すようにして多くの教会関係者
が好感を示した。
低価格で大量に刷られた聖書は教会の夢である。
これまでの聖書は、あまりに高価であり、庶民が買うことなど到
底できなかった。
しかし、低価格な聖書を民にそこそこの値で購入させることで、
教会は莫大な富と、より敬虔な信徒を得ることができるのだ。
もちろん今まで売っていた羊皮紙の聖書も、これまで通りの価格
で売れるだろう。
なぜならば、貴族とは見栄を張る生き物。
彼らは、庶民と同じ安価な聖書など求めようとしないからである。
永井の領地の躍進は、紙ばかりではない。
この8年の間に永井の領地の農業は、三圃式から四輪作へと移行
した。
同郷の者の中で農業に携わっていた者はいなかったが、少しでも
関連する知識を持つ者が意見を出しあって、手探りながらも農業改
革が進んだ結果である。
また無色透明のガラスの生成にも成功。
これは量産が難しいが、珍しいもの好きの資産家に高値で売れて
いた。
さらに徴税に関しても改革を行おうとしたのだが、税率の軽重に
ついては国の中である程度の足並みを揃えなければ、他の領主から
655
睨まれることになる。
各地で税率に大きな差があれば、税の重い領の民がその地の領主
に不満を持つのだ。
そのため永井の領地の税率も重いままだった。
だがその分、多く還元することで人々から生活の不安を取り除い
ている。
そして同郷の者達。
彼らについては、誰であろうと永井は優遇した。
中には役に立たない者もいたが、その者達に不遇を与えては、他
の者にまで不信を抱かれかねないからだ。
領地に居住を移した同郷の者は、もう40人を超えている。
しかし、ある時を境にそれ以上同郷の者が増えることはなくなっ
た。
誰しもが、この世界で自分の居場所をつくっているということだ
ろう。
順調。なにもかもが順調。
己が領地は異常な速度で発展し、永井はヨウジュ帝国において一
躍、時の人となっていた。
ある日の夜。
永井は一人、屋敷のバルコニーにいた。
その手にはワイングラスがあり、視線は城下町に向けられている。
﹁まだまだ真っ暗だな﹂
656
永井が小さく呟いた。
城下町にポツリポツリと見える白熱灯の光。
それは科学の光だ。
この大陸のどこにもないものであり、己が城下町の領地だけにあ
る永井の成果の一つ。
そんなぼんやりとした光を見ながら、永井は口元に薄い笑みを浮
かべた。
︵俺の領地は、俺の力で急激に発達した。
俺の成果を誰もが褒め称える︶
永井は酔っていた。
酒に、ではない。
遥か昔に味わった、己が一番であるという感覚に、だ。
だが、まだ足りない。
永井は、自身がこんなところで終わるわけがないと思っていた。
手の届く場所に、己よりも偉そうにしている奴がいる。
永井はそれを許さない。
︵いずれ俺が全部呑み込んで、トップになってやる︶
永井はいつも、己が一番になった姿を脳裏に描いている。
誰よりもうまく国を、大陸を統治できるという自信があった。
神からもらった︻領主になる︼というカード。
そして、現代日本の知識。
これらがあれば、大陸の制覇も夢ではないのだ。
すると思考の隅で、小さなものが横切った。
657
とるに足らないものであるのに妙に気になる、そんな感覚。
それは、この異世界に来る前にあったこと。
﹃す、すいませんでしたーー!﹄
あの真っ白い部屋で情けなくも神に土下座をした男。
そのおかげで、男は神から特別扱いを受けているようであった。
永井も後になって神に土下座をしたが、それは認められてはいな
い。
︵あいつは何を得たのか︶
あの男が得たものは、永井が先に土下座さえしていれば、手に入
れるかもしれなかったはずのものだ。
そのカードがなんであるかについては、これまでに会った同郷の
者のカードの傾向から思い付くものがある。
誰よりも優れた武術の才や魔法の才。
何よりも優れた武器や防具。
誰よりも優れた地位。
︵だが、それらがなんだというのだ︶
永井の領地では、火薬の精製に成功している。
既に大砲は完成し、現在は火縄銃の開発を始めた。
この大陸で、未来に登場するはずであった兵器を永井は手にして
いるのだ。
それらは、個人の能力では決して抗えないものである、と永井は
考えていた。
658
抗えるとするなら、永井と同じく兵器を開発した権力者。
しかし、他の国に放った密偵の情報では、永井の領地のように急
速な発展を遂げた地は存在しなかった。
すなわち、この大陸において永井に並ぶ者は存在しないのである。
﹁大陸は荒れ始めている。
いずれは大乱が起こり、この国も巻き込まれるだろう﹂
その時こそ、と永井は思うのだ。
すると、突如として強い夜風が吹き抜ける。
シロッコと呼ばれる南東からの季節風だ。
時折、砂粒が混じるその風を気にも留めず、永井の視線は遥か未
来を見つめていた。
659
59.幕間 ミラ︵前書き︶
すみません、遅くなりましたm︵︳︳︶m
次から2章に入ります
660
59.幕間 ミラ
︱︱ミラは夢を見ていた。
︱︱それは過去の記憶である。
サンドラ王国内のとある山間に並んでいる、葦でつくった竪穴の
住居の数々。
そこが私たち狼族の村だった。
その村で私たちは獣を狩り、魚を捕まえ、木の実や山菜を採って、
毎日を過ごしていた。
村での生活は特にこれといった問題はなく、心配事といえば自然
災害くらいなもの。
とても平穏で、静かな暮らしだったといえるだろう。
そして、そんな村の中にある他より少し小さめの住居が私の家だ。
その小さめの家で、私は大好きな母さんと一緒に暮らしていた。
父親はいない。
物心ついた頃には、母さんと二人だけの生活が当たり前となって
いた。
母さんが言うには、父は私が産まれてすぐに病気で死んだのだそ
うだ。
けれど、私には母さんさえいればそれでよかった。
寂しくもなんともなかった。
なぜなら、母さんはとても優しかったから。
たとえば食事の時のことだ。
661
﹁母さんはもうお腹一杯だから、あとはミラが食べなさい﹂
母さんは自分の食べ物をいつも私に分けてくれた。
まだ小さかった私は母さんのことなど考えずに、夢中で食べ物を
ほおばった。
そして﹁おいしい?﹂と聞く母に、嬉しそうに﹁うん!﹂と答え
るのだ。
すると母さんも嬉しそうに笑った。
幸せだった。ずっとこのまま、一生が過ぎていくのだろうと思っ
ていた。
でもそんな幸せの日々は、一瞬で破壊されることになる。
ある日のこと。
部族の者の一人が遠くからやってくる集団を見つけた。
それは武器をもった人間たち。
私たちは持てるものを持って、人間たちに見つからぬよう、すぐ
に山の中へと隠れた。
﹁母さん、私たちどうなっちゃうの?﹂
﹁大丈夫。何も心配いらないわ﹂
母さんが私を安心させるように抱き締める。
けれどその後、私が見たものは村から上がった火の手︱︱人間た
ちによって村が焼かれる光景だった。
その日、私たちは逃げるように故郷を捨てた。
住み慣れた場所から、別の土地へ。
662
木の生い茂った山があれば、狼族はどこでだって暮らしていける。
私たちは、目についた遠くの山へと向かった。
しかし、そこには既に人間がいた。
だからまた、山から山へと移動した。
そして、私たちは途方に暮れた。
人間がいない土地はなく、私たちの住む場所はどこにもなかった
からだ。
さらに、どこかに留まろうものなら、すぐに人間が武器を持って
やってきた。
逃避行。
私たちは南へ、南へと追いやられた。
やがて大きな川にぶつかり、その川に沿って私たちは進んだ。
毎日、早めに行進を終えて、食べ物を探す。
その日は、部族の者が仕留めた獣の肉を、皆で分けあって食べて
いた。
﹁人間はずるい! 自分たちはいくらでも住む場所があるくせに、
まだ土地を欲しがる!﹂
食事が終わると、私はあまっちょろい正義感を振りかざすように
叫んだ。
母さんは、﹁そうね﹂と微笑んで優しく頭を撫でるだけだ。
でも、そうされるだけで不思議と怒りは消えていった。
呪われた地
と呼ばれる場所
その後、ジハル族長はこのまま南へ行くと皆に説明した。
はるか南には大地が頻繁に揺れる
があり、人間が住んでいないのだとか。
663
すると多くの者がそれに反対する。
無謀だ、と。
人間が住めない地に何故我らが住めるというのか、と。
対して、ジハル族長は言い返す。
人間が住めないからこそ行くのだ、と。
私はジハル族長の考えに賛成だった。
人間が住めない土地。
それは、もう住みかを奪われる心配がないということだ。
行った先の生活は苦しいかもしれない。
けれど、皆で頑張ればそれも乗り越えられる。
母さんと一緒なら、どこでだって暮らしていける。
そんな思いがあった。
しかし、それは甘い考えだったと言わざるをえない。
私たちは、サンドラ王国領を越え、さらに南へと足を踏み出した。
食料は満足になく、日中の暑さが体力を蝕んだ。
病人が何人も出て、行進速度は日毎に落ちていく。
過酷。
南への旅路は、ただただ過酷であったのだ。
そして遂に母さんが倒れた。
母さんは部族の大人に背負われながら、共に行く。
私が背負おうとしたけれど、重くて駄目だった。
情けない。自分の成長しきってない体がこれほど恨めしいと思っ
たことはなかった。
﹁ミラ⋮⋮ミラは、母さんの分まで生きてね⋮⋮﹂
664
休憩になると、母さんは弱音を吐くようになった。
﹁そんなこと言わないでよ。すぐによくなるから﹂
﹁そうだね、ごめんね﹂
弱々しい声で母さんは最後に謝るのだ。
私はなんとかして、母さんに栄養をつけてもらおうと、食べ物を
探した。
川は大きくて深い。そのため魚を獲るのは難しかった。
ならばと目を皿のようにして大地を眺めながら、耳をそばだてる。
そして、やっとのことでネズミを獲った。
これを食べさせれば、母さんもすぐによくなるだろう。
また元気な姿を、優しい笑顔を見せてくれるはずだ。
私は心を弾ませて、母さんのところに戻った。
でも︱︱。
﹁か、母さん⋮⋮?﹂
寝かされた母の周りにいる者たちの沈痛な顔。
私は母さんの側に寄ってその顔を覗きこんだ。
すると、母さんは安らかに眠っているようだった。
﹁ねえ、母さん⋮⋮母さんってば!﹂
どれだけ揺すっても、どれだけ呼び掛けても、母さんが目覚める
ことはない。
だって、母さんはもう死んでいたのだから。
665
手の中にあったネズミはスルリと逃げ出して、どこかへ行ってし
まった。
母さんをその場に残して、私たちは再び南へと歩き出す。
死んだ者を連れていくことはできない。
これまでがそうであったように、これからもそうなのだ。
私は悲しかった。
どうしようもなく悲しかった。
でも、足は何故だか動いた。
﹃ミラ⋮⋮ミラは母さんの分まで生きてね⋮⋮﹄
母さんの言葉が、私を無理やり前に進めていたんだと思う。
涙はどれだけ流れても枯れることはないことを、私はその日初め
て知った。
南へ行けば行くほどに、大地は荒れ果てていく。
とても人が住める場所ではない。
けれど、巨大な川は続いている。
川は恵み。
その恵みを一身に受けた場所が行く先にあるのだと、願望にも似
た予測が部族の者たちを支配していた。
後戻りはできない。
この先には、なにもないのではないのかという絶望的な思いを決
して頭に浮かべないように、私たちは前へ前へと進んだ。
︱︱そして私たちはフジワラ様と出会った。
666
不思議な格好の人だった。
何族かもわからない。
でも、私たちに住む場所と食べ物をくれた。
私たちを救ってくれたのだ。
疑っていた人もいたみたいだけど、ジハル族長が必死に説得して
いた。
私もジハル族長に賛成だ。
食べ物と家を与えてくれたフジワラ様を疑うなんて、そんな罰当
たりなことをしたらダメだと思う。
フジワラ様は、私たちが人間によって奪われたものを再び与えて
くれた救い主。
でも、奪われたものが全て返ってきたわけじゃない。
私の隣にはもう母さんはいないのだから。
もっと早くフジワラ様に会いたかった、と私は思った。
そうすれば母さんも死ぬことはなかっただろう。
なぜフジワラ様はもっと北に町をつくってくれなかったのか。
そんなわがままなことを考えながらも、私は私たちを救ってくれ
たフジワラ様に感謝した。
それから一ヶ月。
フジワラ様が言われた通りに私たちは毎日を過ごした。
初めての農耕や、馴染みのない町の決まりに誰もが戸惑うばかり。
でも毎日を過ごすうちに、段々と町の生活に慣れ、やがてその生
活が当たり前になった。
町の生活は満ち足りたもの。
ここに来るまでの辛い旅は言うに及ばず、山で暮らしていた以前
667
よりも、はるかに生活は恵まれたものとなった。
そのせいか、皆は苦しかった日々を忘れて浮かれているように見
えた。
だからこそ、私は思う。
このありがたさを忘れてはいけない、と。
昨日までのひもじさを忘れてはいけない、と。
だからこそ、私は子どもたちに言い聞かせた。
フジワラ様のおかげで、なんの不自由もなく生きていけるんだっ
て。
それはとても幸せなことなんだって。
けれど、そんな考えは裏切られる。
宴会の席でフジワラ様自らが露にした、その顔。
それを見た時、まさかと︱︱まさかそんなわけがないと私は思っ
た。
しかし、その考えこそ違ったのだ。
フジワラ様は告白した。
己が人間であることを。
瞬間、私はカッと全身を熱くした。
私たちから何もかもを奪った人間。そして、私から母さんを奪っ
た人間。
許せるわけがない。
人間さえいなければ、母さんは死ななかった。
だから私は怒ったのだ。
怒りを食べ物にぶつけて、何もかもがどうでもよくなって。
668
そしてその夜、私は町を飛び出した。
死んでもいいと思った。
私一人のたれ死んでも、誰も気にしない。
私は私を思ってくれる母さんのところへ行くだけだ。
でも、そんな私をフジワラ様は追いかけて来た。
フジワラ様は私を怒り、そして諭した。
﹁君のお母さんはさ⋮⋮君の笑っている姿を何よりも望んでいるん
じゃないのかな⋮⋮?﹂
知っていた。
母さんはいつも私のことを思っていたから。
こんなこと母さんが望むわけがないのだ。
だから私は泣いた。
わんわんと子どものように泣きじゃくった。
︱︱そして、時は流れて六年後。
町に迫るのはシューグリング公国の軍。
私は砲兵として戦いに参加していた。
現在は、敵が降伏勧告を行い、それを突っぱねたところだ。
石垣の下を、敵の使者が帰っていく。
私はそれを大砲の後ろで見送りつつ、辺りに人間が潜んでいない
かと気を配っていた。
すると、視界の端。
あろうことか、同じ狼族であるゴビがフジワラ様に弓を引いてい
たのである。
669
何故、と私は思った。
しかしそんな思考よりも早く、私の体は勝手に飛び出していた。
もしかしたら、ゴビは族長の意思で動いていたのかもしれない。
ゴビの裏切りは狼族の総意であったかもしれない。
それでも私はフジワラ様を助けたかったんだと思う。
抱えきれないほどの恩。
それを、少しでも返したかったのだ。
私は、私の体を強くフジワラ様にぶつけた。
矢はフジワラ様ではなく、私の脇腹に深く突き刺さった。
これでいい。
私はそう思った。
次いで聞こえてきたのは、ジハル族長の悲鳴のような声。
どうやら狼族の意思というわけではないらしい。
これなら、フジワラ様と狼族はまだやり直せる。
でも、私はここまでだ。
身体中から力が抜けていく。
意識が朦朧として、目も開けていられない。
周りの音が反響するように頭に聞こえた。
私はきっと死ぬのだろう。
けれど、それでもいいと思った。
今度は胸を張って母さんに会いに行けるのだから。
そこで私の意識は暗転した。
670
ふと気づいた時、私は見知らぬ場所に立っていた。
﹁今のは夢⋮⋮?﹂
これまでの人生を振り返っていたような感覚。
ぼうとしながらも、私は辺りを見回した。
真っ暗な場所だ。
すると彼方に光が見え、私はそれに誘われるように、そこへ向か
って歩き始めた。
近づくほどにわかる。
光はとても温かかった。
それは懐かしい温もりだ。
﹁母さん⋮⋮﹂
やがて光の前に到着した。
私が光に手を伸ばすと、それは母さんになって私を包み込む。
﹁母さん⋮⋮。よかった、また会えた。
私ね、頑張ったんだよ。皆のために、部族のために。
部族にはフジワラ様が必要だから﹂
母さんは優しく頭を撫でてくれた。
よくやったねと褒めるように。
久しぶりの母さんの手だ。
温かい、本当に温かい懐かしさ。
そして、これからはずっと一緒にいられるね、と言おうとした時、
母さんは光と共に離れていった。
671
﹁母さん⋮⋮?
まって、まってよ!
また一緒に暮らそうよ、母さん!﹂
私は母さんを追いかける。
けれど、母さんは優しく微笑んで首を横に振った。
なんで、どうして。
走っても走っても母さんの下にはたどり着けない。
やがて足がもつれて、体は前へとつんのめった。
すると、後ろ手を誰かに掴まれた。
私はその手に引っ張られて、転ぶことはなかった。
誰の手か気になったが、今はどうでもいい。
そんなことよりも、母さんのことだ。
﹃⋮⋮ミラ、今度はこう言うわ。︱︱母さんの分まで幸せになって
ね﹄
﹁母さん!﹂
どこからか聞こえてきた母さんの声に、私は目一杯の声を張り上
げた。
そして光が弾ける。
それと同時に、真っ暗だった世界がまばゆいばかりに輝いて、私
は目をつむった。
意識が覚醒していく。
私はまだ生きていて、今から現実の世界に戻るのだということが、
672
何故か理解できた。
それでも繋がれた手の感触はそのままだった。
誰のものかと思ったが、眩しい光の中で目を開けることすらまま
ならない。
だが、相手の手の甲には、私の指が触れている。
そこに体毛がないことに私は気がついた。
つまり、狼族のものじゃない。
人間⋮⋮。
﹃ミラ、早く目を覚ませ﹄
どこかで聞き覚えのある声がした。
﹁⋮⋮フジワラ様⋮⋮?﹂
私は目を開けた。
そこは現実の世界。
そして、呟いたのはフジワラ様の名。
﹁ん? 違うぞ﹂
しかし、そこいたのはフジワラ様ではなく、知らない人間の女で
あった。
﹁うわっ! うわわ!? だ、誰だ、貴様っ!﹂
私は思わず、後退り立ち上がろうとして︱︱。
﹁あぅっ!﹂
673
ガンっと頭を打ってしまった。
頭を押さえながら状況を確認する。
場所はフジワラ様の車の後部座席。
胴甲冑は脱がされて、傷はない。
では、目の前の人間は、一体⋮⋮?
﹁はっはっ、大丈夫かミラ。病み上がりなのだから、あまり動かぬ
方がいいぞ﹂
やけに馴れ馴れしいが、その声には聞き覚えがある。
おまけに私の名前も知っているようだ。
敵ではないのか。そんなことを思いながら、目の前の女が何者で
あるか、自身の記憶を探った。
金色の髪、青い瞳。
しかし、人間に知り合いなどは⋮⋮あっ。
﹁お前⋮⋮まさかミレーユか⋮⋮?﹂
声は確かにミレーユのもの。
おまけに痩せこけた姿ばかり印象に残っていたが、捕虜にしたば
かりのまだ痩せていなかったミレーユの姿を、私は覚えていた。
﹁その通りだ。死にかけた、お前を︱︱﹂
﹁フジワラ様! フジワラ様はどうなった!? 狼族は!?﹂
﹁落ち着け。フジワラ殿もお前の同胞も無事だ﹂
﹁そ、そうか、よかった⋮⋮﹂
674
ほっとした。
口からは安堵の息が漏れる。
気づけば、開いた後板からはトラックが見え、その運転席には狼
族の者が乗っていた。
つまり、フジワラ様と狼族の関係はいまだ保たれているというこ
とだろう。
﹁ふむ、先ほどの驚きようといい、今の安心した顔といい、お前は
存外、感情豊かなようだな﹂
その言葉に、私は睨み付けるようにしてミレーユを見た。
この女、どうにも私を馬鹿にしてるようなきらいがある。
すると、私の視線など意にも介さず、ミレーユは愉快そうに笑っ
た。
﹁ははっ、うんうん。ようやく調子が出てきたな﹂
﹁⋮⋮それで何故お前がここにいる﹂
今すぐにでもぶん殴ってやりたいところだが、現状が掴めない上
に、私の傷が治っているのにはどうもこいつが絡んでいるらしい。
狼族がいる。フジワラ様もいる。
だが、ここにミレーユがいる理由だけはわからなかった。
すると、開いた後板の向こうからフジワラ様が姿を見せた。
﹁起きたのか﹂
フジワラ様の言葉づかいが今までとは違う。
675
これまでは丁寧ではあったが、どこか他人行儀だった。
けれど今は、どこか自然な風に思えた。
そして、フジワラ様は私に向かって頭を下げた。
﹁ミラ、ありがとう﹂
﹁え⋮⋮? あ⋮⋮﹂
﹁君のおかげで命が助かった。だから、ありがとう﹂
﹁⋮⋮あ、頭を上げてください⋮⋮﹂
声がうまく出せなかった。
気恥ずかしい。
以前からそうだった。人間であり、恩人でもあるフジワラ様に対
し、変に身構えてしまうのだ。
隣でニヤニヤと笑みを浮かべるミレーユに苛立ちを覚えたが、だ
からといってどうしようもない。
﹁私は自分がやりたいようにやっただけです。お礼を言われる筋合
いはありません﹂
つっけんどんな返し。
おそらく今の私は不機嫌そうな顔をしてるのだろう。
そういえば、フジワラ様とまともに会話をしたことはこれが初め
てか。
﹁そうか⋮⋮これからも、よろしく頼む﹂
676
フジワラ様は、そう言って微笑んだ。
あとで聞いた話であるが、狼族以外の者は皆裏切り、私たちは町
を捨てたのだという。
そして今は北へと向かっているところ。
はるか北の地で、新たな町をつくるのだ。
母さんの下に行くのは、まだまだ先になりそうだと私は思った。
677
60.北へ
この世界には似つかわしくない車列が、サンドラ王国の南に広が
る大地を、砂煙を上げながら北へと走っていた。
馬が引かずに動く複数の車︱︱それは、遠い異世界は日本という
国で製造された乗り物。
この世界に生きる者がそれらを見たならば大いに驚くところであ
ろうが、あいにくと周囲には荒れ地が広がっているばかりで、人の
影はない。
先頭を走るのは︻96式装輪装甲車︼と呼ばれる戦闘用車両。そ
の後ろには馬などを運ぶ︻馬運車︼が1台と、人員輸送などに使わ
れる9台の︻73式大型トラック︼が続いている。
︻馬運車︼︻73式大型トラック︼の運転席には狼族の者が手慣
れた様子でハンドルを握っており、そして︻96式装輪装甲車︼を
運転しているのが、俺︱︱藤原信秀であった。
空には相も変わらず青空が広がっている。
太陽が黄金色の大地を燦々と照り付け、俺は目をわずかに細めた。
日差しが強い。
エアコンを付けてはいるが、運転席の窓越しに注がれる直接的な
太陽光の熱が頬を焼き付け、部分的な暑さを感じさせた。
するとそこへ、俺の後ろから興奮するような声が聞こえてくる。
﹁凄いものだな、車というやつは!﹂
いや、聞こえてくるという言葉には語弊がある。
実際には、つい先程の出発からずっと聞こえ続けていた、が正し
いだろう。
678
その声は、すぐ左後方の車長席から上半身を乗り出しているミレ
ーユのものであった。
﹁こんな速さで馬を駆けさせたら、ものの数分で潰れてしまうぞ!
ははははは!﹂
何がそんなにおかしいのか、ミレーユは大声で笑い始めた。
車に乗るということが、彼女にとっては相当に感動だったらしい。
さて、彼女がなぜ車に同乗しているのか。
それを説明しなければならないだろう。
時間は少し巻き戻る。
︱︱それはミラが目覚めたすぐ後のこと。
﹁ミレーユ姫、ちょっといいだろうか。話を聞かせてほしいんだが﹂
俺が尋ねると、ミレーユは﹁ああ、わかった﹂と二つ返事で承諾
した。
今までずっと後回しにしていたことであったが、彼女には赤竜騎
士団が何故ここにいるのかを確かめねばならなかったのだ。
余談だが、ミレーユが連れてきた治癒術の使い手は、ミラを治療
するとミラが目覚める前に部隊に戻っていった。
ミレーユの無事を部隊に知らせるためである。
仮にもミレーユは軍の長。
そんな者が、かつて敵でもあった俺たちの下に長々といるという
のは、どれだけ心配しても、し足りないことであろう。
679
閑話休題。
ミレーユと相対するにあたり、武器をもった狼族を護衛とし、さ
らに俺自身も拳銃の安全装置は外している。
一度裏切りを経験しているために、特に心構えの面での油断はな
かった。
ミレーユが装甲車から降りると、それを狼族らで囲うような格好
になる。
ミラも車から降りて話に参加しようとしていたが、病み上がりだ。
しばらくは安静にしていろ、と俺がその場に留まらせた。
とはいえ、話す場所は装甲車のすぐ後ろで行うので、ミラも十分
に会話に参加できるのだが。
﹁聞きたいことはわかっている。なぜ我々赤竜騎士団がここにいる
かだろう﹂
狼族に囲まれても、落ち着いた様子を崩さないミレーユ。
その言葉に、俺はコクリと頷いた。
﹁なに、簡単な話さ。町を攻めたシューグリング公国軍の後背を衝
くためだ。
まあ、厳密には、シューグリング公国軍が獣人の町に敗れたとこ
ろを、さらに我々が叩くという漁夫の利を狙った恥ずかしい作戦な
のだがな﹂
ミレーユは、はははは、とおかしそうに笑った。
恥ずかしいと言っておきながら、全く恥ずかしそうには見えない。
﹁シューグリング公国が町を攻めることを知っていたのか?﹂
680
﹁知っていなければ、ここにはいない。
しかし、最高顧問官の目論みは外れたようだな﹂
﹁目論み?﹂
﹁セコい考えだ。町を攻めたシューグリング公国軍を攻撃し、フジ
ワラ殿から好感を得ようとしていたことが一つ。
もう一つは、シューグリング公国軍をここで徹底的に叩き、後の
西部戦線において事を優位に運びたかったという考えだ﹂
﹁なるほど﹂と俺は頷いた。
とはいえ実のところ、それらは予想の範疇のことである。
ミレーユのこれまでの態度、それにサンドラ王国が現在置かれて
いる状況を考えれば、容易く想像はつく。
﹁今度はこちらから聞いていいか?﹂
ミレーユが尋ね、俺は﹁ああ﹂と答えた。
﹁どのようにしてフジワラ殿は敗れた? シューグリング公国軍の
行動は把握していた。かの軍が攻め込むにはまだ時間があったはず
だ。
つまり、これは確認になるのだが、狼族以外の獣人が裏切ったと
いうことでいいのか?﹂
その質問。
俺は何かに耐えるように一度歯を強く噛みしめた。
大した洞察だ。痛いところを突いてくる。
いや、もしかしたらサンドラ王国は、獣人らの裏切りを予想して
681
いたのかもしれない。
あの混乱の最中に聞いた、魚族がシューグリング公国と繋がって
いたという話。
それが事実だとするなら、サンドラ王国がシューグリング公国の
動向に気を配っていればわからないことでもないだろう。
だが予想に反して、狼族以外の全ての獣人が裏切り町は陥落した。
まあ、なんにせよ、今更な話だ。
俺はミレーユの質問に﹁そうだ﹂とだけ答えた。
﹁そうか、うむ⋮⋮いや、少々まずいな。野心を露にしたシューグ
リング公国が、獣人の町を手に入れたとなれば、我がサンドラ王国
は終わりだ。あの恐ろしい武器の数々を前にしては、どうにもなら
ん﹂
ミレーユは少しばかり渋い顔をした。
この時の俺は知らないことであったが、サンドラ王国はかつて小
銃や大砲の攻撃を魔法によるものと考えていたらしい。
しかし、実際に車両を、さらに石垣の上の大砲を隠すように被せ
た布を見て、それらが魔法ではなく技術的なものであると看破して
いた、という話をミレーユから聞かされたのは、もう少し後のこと
だ。
﹁心配はないだろう﹂
﹁どういう意味だ?﹂
﹁町を見に行けばわかる﹂
俺は言葉を濁した。
能力については、あの地の獣人から話を聞けばすぐにわかること
682
であったが、わざわざこちらからベラベラと喋るものでもない。
するとミレーユは一瞬だけ怪訝な表情を浮かべると、すぐに気を
取り直したように顔色を戻して言う。
﹁それで、これからどうするつもりなのだ。よければ、王に紹介す
るぞ?
王もフジワラ殿の有用性を理解している。決して悪いようにはし
ないはずだ。もちろん、一緒についてきた獣人も厚遇するだろう﹂
それは思わず肯首しそうになるくらい、実に魅力的な誘い。
だが、俺は首を横に振った。
﹁ふむ⋮⋮ドライアド王国か﹂
少し考えたようにして、察したようにミレーユが口にした。
正解である。俺の心臓がわずかに跳ねた。
しかし、俺は答えない。黙するだけだ。
対して、俺の沈黙を肯定と判断したのか、ミレーユが続けて言う。
﹁土地を買って、貴族になるつもりか?
確かに、金はたくさんあるのだろう。だが、誰とも知れぬ者が、
易々と貴族になれるわけがないぞ。それなりに身元が確かでなけれ
ばな﹂
ミレーユは、俺の行く先がドライアド王国だと完全に決めてかか
っていた。
その表情と口ぶりには確信しているさまが見える。
まいった。よくわかったものだと感心する他ない。
俺は観念したように言葉を返した。
683
﹁それなりの身元とは?﹂
﹁そうだな⋮⋮たとえば、幾年か商人としての実績がある者。他に
も、神官の血族や貴族の息子など︱︱要は金の出所が明らかな者だ
な。
本人の前で言うのもあれだが、フジワラ殿のことについて、サン
ドラ王国は色々と調査した。だが、とんとその素性は知れない。な
んらかの高貴な身分があるものならば、こうはいかないだろう。
商売としての実績にしたって、香辛料などで交易はしてきたが、
それらは全て極秘裏に行われてきたことだ。現物を見せれば証拠に
もなるが、その際には、我々サンドラ王国の時と同じ結果が待って
いるだけだぞ?﹂
﹁⋮⋮多くの獣人が暮らしていると聞いた。つまり土地に価値はな
く、貴族という身分に目を向けなければ、俺たちがどこか僻地に移
り住んでも、ばれる心配がないということじゃないのか?﹂
﹁まあ確かに。
どうやら何を言っても決断を変えられぬようだな﹂
ドライアド王国の土地は余っている。痩せこけた土地と寒冷の気
候が土地を余らせたのだ。
俺はたとえ貴族になれずとも、そこに居座る気であった。
どんな住みづらい土地であろうと、砂漠ほどでないかぎりは、能
力さえあればどうとでもなる。
僻地であればあるほど、人間からだって見つかりにくくなるだろ
う。
今の町が見つかったのも、フロストというイレギュラーがあった
からにすぎない。
すると、ミレーユは言う。
684
﹁いいだろう、私を連れていけ。そうすれば、サンドラ王国の王都
に立ち寄り、貴公が懇意にしているポーロ商会の会長を連れてこよ
う。
商会が貴族を囲うなど今の世の中ではありふれたこと。ポーロ商
会の協力を取り付け、ポーロ商会からの出資ということにすれば、
貴族位も容易く得られるだろうよ﹂
﹁⋮⋮理由はなんだ。なぜそこまで協力する﹂
﹁なに簡単なことだ。我が国としてはフジワラ殿とのツテを無くし
たくはないのだ﹂
﹁金か?﹂
俺がいなくなれば、サンドラ王国は賠償金を払う必要がなくなる。
だが、香辛料を取り扱うことの利益は、賠償金などよりもはるか
に勝るといっていいだろう。
加えてサンドラ王国は、俺たちと戦い、ロブタス王国とも戦い、
そして西側諸侯に裏切られて、誰が見ても明らかなほどに疲弊して
いる。
そんなサンドラ王国の現状に鑑みれば、金の生る木といっていい
香辛料の取引は、是が非でもその手に留めておきたいと考えるのが
必定である。
﹁確かにそれもある。だがそれだけじゃない。はっきり言おう、我
が国は貴公を恐れている﹂
ミレーユが、その瞳で俺の顔を真っすぐに捉えて言った。
あれだけ完膚なきまでに叩きのめしたのだ。
685
恐れているといわれても、わからない話ではない。
ミレーユはさらに言葉を重ねた。
﹁特にサンドラ王の恐れ方は顕著だ。家臣らの前で、今後、獣人の
町に手を出すと口にした者は首を刎ねるとまで言い放った。私にし
ても、今回の遠征において決して機嫌を損なう真似はするな、と王
から厳命を受けている﹂
話を聞き、そこまでかと俺は少々驚いたが、しかし、それらを全
て鵜呑みにするつもりもない。
話半分に聞いておいた方がいいだろう。
﹁それで?﹂
俺は続きを促した。
﹁さきほど、シューグリング公国が町の力を手にすることはないと
言ったな。
つまり町に残った獣人たちも、力の秘密を知らない。
ということは、だ。町の力は何もかもがフジワラ殿、貴公の力だ
ということだ。貴公には言語に絶する知識と、たぐいまれな錬金の
才が備わっていると見た﹂
﹁⋮⋮間違ってはいない、とだけ言っておく﹂
︻町をつくる能力︼の結果だけを見れば、ミレーユの言うことは
間違っていない。
そしてそれは、町の獣人から話を聞けばすぐにわかることでもあ
る。
しかし、聞かずして気づいたとなれば、その慧眼、驚嘆するもの
686
がある。
﹁もしや、町のものは全てフジワラ殿が?﹂
もう隠すことでもない。俺は黙って頷いた。
﹁やはりサンドラ王の恐れは正しかった。この何もない地で何ゆえ
あのような町が生まれたのか。全て合点がいった。そんな途方もな
い力ありえないと思っていた。だが、ありえないなんて言葉こそ、
ありえないのだ﹂
ミレーユの瞳は爛々と輝いていた。それは、どこか子供のように
も見える。
彼女のことは、痩せこけ弱っていた頃のイメージしかなかったが、
こんな性格だったのかとキツネにつままれたような気分である。
﹁我々が選ぶのは友好、それだけだ。知らぬ間にフジワラ殿がどこ
ぞの国に取り込まれて、敵対関係になるなんてのは勘弁願いたい。
だからこその協力だ﹂
答えは、すぐには出なかった。
協力するといわれても、これまでのサンドラ王国の行いを考えた
ら、そう易々と信用できるものではない。
俺は、暫し黙って考え込んだ。
﹁迷っているな? 信じていいのかどうか。
確かに我々サンドラ王国は、貴公らと戦火を交えた。しかし、ど
の国も程度の差さえ違えど、本質は変わらん。獣人への迫害がそれ
を如実に示している。
言っておくが、ドライアド王国も同じだぞ。あそこに獣人が集ま
687
っているが、国は善意で見逃しているわけではない。役にもたたん
土地に集まる獣人たちのために軍を動かすのは、金がもったいない
と考えているだけだ。
ドライアド王国の貴族どもはよく見栄を張るが、その反面、慢性
的金欠病などと揶揄されるくらい貧乏人ばかりでな。へんなところ
でものすごいケチなのだ﹂
なんだか江戸時代の武士を思い出すな。
身の程をわきまえずに見栄を張って金を使い、借金三昧だった者
も珍しくなかったという。
﹁つまり、何が言いたいかというとだな。フジワラ殿が我がサンド
ラ王国と同じことを、またドライアド王国と一から始めるのか。
それとも、ある程度の関係を築いた我らとこのまま内密に取引を
するのか。
どちらがいいか、ということだ﹂
ミレーユの問いかけ、それは実に理にかなったものだ。
俺だって、わざわざ乱を起こしたい訳じゃない。
それに、他にも問題がある。
ドライアド王国までの細かな道筋についてもわからないのだ。行
く先に、ずっと平地が続くなんてことはありえないだろう。道案内
をする者がいれば、素直にありがたい。
加えて、俺自身、エルザとこのまま別れてしまうのが少し寂しか
った。
これは、獣人たちに裏切られたせいだろうか。小さな縁かもしれ
ないが、大切にしたい。
さらに、新たに交易ルートを構築するのも、そう簡単にいくだろ
うかという心配がある。
688
と、ここまで考えて、俺は小さく息を吐いた。
本当は、ミラを助けてもらった時から答えは決まっていたのかも
しれない。
﹁いいでしょう、これからよろしくお願いします﹂
話が決まると、俺の口調は自然と丁寧なものになっていた。
︱︱というわけで、ミレーユは俺たちと同道することになった。
こうなった以上、町の現状についてはミレーユに一応の説明をし
ている。
どうせいずればれる話だ。それが少し早まっただけのこと。
同道するにあたって、ミレーユの武器は預かり、さらに装甲車に
はミラを含む狼族の者らが、ミレーユに対する備えとして乗り込ん
でいる。
ミレーユが率いてきた赤竜騎士団は、一部を残してサンドラ王国
に帰投。残った一部に関しては、シューグリング公国軍と獣人の町
の監視に当てるそうだ。
他にも、後述となってしまったが、ミレーユが赤竜騎士団に今後
の命令を出しに行った際に俺が︻購入︼した︻馬運車︼には、カト
リーヌとミレーユの馬を載せていた。
そして、車は依然として荒れた大地を駆けていく。
どこまで続くのか。
まるで果てが見えない。
689
﹁我々が勝てぬわけだ! 実際に乗ってみて、この利便性がわかる
! 凄いぞ、この車というやつは! ほら、ミラ! お前も上がっ
てこい! 風が気持ちいいぞ!﹂
﹁わ、私を巻き込むな!﹂
後ろからは、ミレーユの楽し気な声がいつまでも聞こえてきた。
どうやら殊更に車が気に入ったようだ。
690
61.北へ 2
大地にポツリポツリと草が生え、やがて背の低い草が一面に広が
る大草原へと変わる。
さらに行くと丘陵が多くなり、それを越えると人間の土地だ。
この頃になると、これまで青一色であった空には雲がかかり、俺
をして、珍しいものを見たという気にさせた。
おかしなものである。
あちらの世界では、雲なんて珍しくもない。
そしてこれからの生活でも、雲も雨も身近なものとなるであろう。
哀愁。
それは、長い年月をあの荒れ地で過ごしたことによる、一縷の寂
しさなのだと俺はなんとなく自覚していた。
女々しいことだ。そう思いつつ、ハンドルを握る。
今日この日、俺たちは数百キロという長い行程を経てサンドラ王
国領の入り口へとたどり着く。
それは、町を出てから実に二日後のことであった。
ところで話は変わるが、俺がまだ日本にいた頃、よく日本は小さ
いという言葉を耳にしたことがある。
そのせいか俺自身、日本は小さい島国であるという先入観を一時
持っていたくらいだ。
しかし実際のところ、日本の国土面積は約38万平方キロメート
ル。
これは世界196ヶ国中で61番目に大きい数字であり、決して
小さいといえるものではない。
691
たとえば西欧諸国と比較したならば、日本より面積の大きな国は
フランス︵約64万平方キロメートル︶、スペイン︵約50万平方
キロメートル︶、スウェーデン︵約45万平方キロメートル︶の3
ヶ国のみ。
こうやって考えると、日本はむしろ国土面積の大きい国といえる
のではないだろうか。
ではなぜ、日本が小さいなどという言葉が出てくるのか。
それは、日本の大部分を山地が占めており、人の住める平地が少
ないことに起因する。
日本の山地が占める割合は、実に6割を超えるのだ。
そして残った4割の平地に1億2000万もの人々がひしめき合
っているのだから、いかに国土が小さくなかろうとも、そこに住む
人々には狭く感じられ、それが原因で日本は小さいといった勘違い
が生まれたのだと俺は推測する。
さて、なぜ突然こんな話になったのかを説明しなければならない
だろう。
つまり俺が言いたいのは、日本が小さいとされて西欧諸国が特に
小さいとされない理由︱︱西欧諸国には平地が広く分布していると
いうことだ。
そして、あちらの世界の西欧諸国とこちらの大陸とでは多くの共
通点があり、その例にもれず、この大陸においても平地が非常に多
い。
すなわち、サンドラ王国領にあっても、車両での運行が十分に可
能であったということを俺は言いたかったのである。
とはいえ、丘もあれば林もある。川が行く手を阻み、山が道を遮
ることなどしょっちゅうだ。
加えて、それらを避けるように進めば、必ず人が行きかう道に突
692
き当たる。
車にとってよい道は、人にとってもよい道なのだから当然であろ
う。
そのため俺たちは、昼間においては物陰に隠れて休息し、夜、闇
に紛れて行動した。
一部の者に俺の能力が露見したとはいえ、その存在はできる限り
隠しておきたい。
多くの者に知られては、それだけ災いを呼び込む可能性が高くな
ると考えたのだ。
ミレーユにも口止めをしてある。
彼女は、王をはじめとしたごく一部の者にしか語らないことを約
束し、またその情報に対する国としての扱いは極秘事項となるだろ
うと言った。
ひとまずは安心といったところか。
︱︱町を発ってから四日目の早朝。
空が白み始める頃に、街道から大きく外れた丘の影に車を停めた。
ここはかつての荒れ地とは違い、どこに障害があるかわからない
土地。
さらに夜間での走行により、必然的に車の速度は落ち、俺たちは
いまだサンドラ王国の王都にたどり着けずにいた。
﹁よし、ここで夜まで待機する﹂
トランシーバーで各車両に伝達し、装甲車の後ろに乗る者にも声
をかける。
その後は、装甲車から全員を下ろし、後板を一度閉め、俺は能力
693
を使って︻唐揚げ弁当︼を︻購入︼した。
他の者に見られぬようにしたのは、ミレーユに能力の詳細を知ら
れたくなかったからだ。
﹁飯だ! 飯にしよう!﹂
再び後板を開けて、食事にするように言う。
すると皆は、わっ、と群がった。
﹁これまた、うまそうな飯だな!﹂
ミレーユも他の者同様に弁当の虜になっていた。
当初は、食物の錬金などというものにミレーユは困惑し、狼族た
ちも微妙な顔をしていたが、一度食べてしまえばどうでもよくなっ
たようだ。
それほどまでに、俺が出した弁当をうまいと感じたのだろう。
やがて弁当が行き渡ると、各車両の人員ごと集まって食事を始め
た。
俺も装甲車に乗っていた者と共に、地面に円となって座り食事を
とる。
唐揚げを一口。うむ、うまい。
﹁今のペースで、あとどれくらいだ?﹂
食事をしながら、円陣の斜めの位置に座るミレーユに尋ねた。
丁寧であったはずの言葉遣いは、ミレーユからの要望もあり元に
戻している。
疎外感を感じるから、やめてくれとのことだった。
694
﹁あと一日といったところだろう﹂
﹁そうか﹂
ここまでの全行程をミレーユの案内で来た。
そのおかげもあり、これといった事故もない。ミレーユ様々だ。
食事が進む。周囲からは賑やかな声が聞こえてくる。
ミレーユを見てみれば、慣れぬ箸使いで弁当をモグモグと味わい
ながら食べ、またミラを見てみれば、なんの感情も見せずに黙々と
弁当を口に運んでいた。
このまま静かに食事をしてもいいが、どうも味気ない。
そういえば、と俺はミレーユにロブタス王国との戦いには参加し
たのかと尋ねてみた。
すると、他の狼族も興味があったのか、会話を中断して聞き耳を
立てた。
ミラだけが平然と食事を続けているようであるが、その箸が一度
止まったのを俺は知っている。
﹁⋮⋮ふむ、どこから話そうかな﹂
ミレーユは少し考えた風なそぶりを見せて、それから話し始めた。
﹁捕虜の身から解放され、私たちは国へと戻った。その時、皆の顔
には喜びと安らぎがあった。それは、ようやく故郷に帰れたという
安堵感だったのだろう。
だが︱︱﹂
あれれ? と思った。
695
ロブタス王国との戦いに参加したのか? という質問であったは
ずなのに、なぜかミレーユが王国に戻った時の話になっている。
それになにやら、食事に似合わない重苦しい話になりそうな予感
がする。
俺は思わずゴクリと息を呑んだ。
﹁︱︱サンドラ王は私たちを許さなかった。当然だ。獣人たちに敗
れ、多額の身代金と引き換えにおめおめと帰ってきたのだからな。
獣人を下等とみる人間︱︱サンドラ王国の民らにとっても、栄え
ある騎士団が獣人に負けたなどあってはならないことだった。
もはや、我ら赤竜騎士団と黄竜騎士団は恥晒しでしかない。
サンドラ王の心情はどうあれ、王という立場が我々を許すわけに
はいかなかったのだ﹂
ミレーユは手にあった弁当を置き、木のコップを取って、喉を潤
すように中の水を啜った。
話はまだまだ続く。
﹁騎士団の者らには賦役が課せられた。貴族であった者にも等しく
な。
平民らの前で奴隷のように労働に従事する騎士たち。相当な屈辱
であったろうよ。
そして、私には地下牢で蟄居が命ぜられた。
ふふっ、汚物にまみれの、毒虫が這いずる地下牢の生活は、中々
に愉快だったぞ?
そうこうしているうちに、我が国とロブタス王国との間に戦争が
始まった。互いに退かない一進一退の攻防。戦況は五分であったと
いっていいだろう。
そこでその状況を打開するために、罪人同然であった私たちに命
が下される。それは、寡兵での奇襲︱︱全滅覚悟の特攻だ。
696
⋮⋮死線を四度潜ったよ。あの時、お前たちの町から生きて帰っ
た騎士達も、今では半分もいない。皆死んだ﹂
どこか遠くを見つめるようにしてミレーユは語った。
その眼には、当時の激戦が映っているのだろう。
気まぐれに聞いた話が、かなり重い話になってしまい、俺は少し
後悔した。
﹁まあ、それでもかつて獣人の町で味わった地獄に比べたら、はる
かにマシというものだったんだがな。
そして我がサンドラ王国は見事に勝利を収めた。我らも名誉を取
り戻すとともに、ようやくその罪を赦されたというわけだ﹂
そう言って、ほほ笑えむミレーユ。
まばゆい。
俺たちとの戦いも、国に戻って罰せられたことも、ロブタス王国
と戦ったことも。ミレーユの中では既に決着がついている、という
ことなのだろう。
どこかさっぱりとしたその顔は、彼女の元々の器量もあってか、
とても美しく見えた。
俺は不覚にもドキリとして、一瞬見とれてしまった。
それは、すぐそばで聞いていたミラも同様なようで、恥じらい故
か、ミラはすぐにミレーユから顔をそらしている。
やがて食事が終わり、見張りに立つもの以外は皆自由に過ごした。
季節は夏。日は長く、仮眠をとる時間はいくらでもある。そうで
なくとも、後部座席に座る者は移動中に寝ていたりする。
それ故に、皆は特に眠ることなく親しき者と語らったり、またそ
の周りでは子どもが追いかけっこをして遊ぶ姿があった。
697
しかし運転手ばかりはそうはいかず、燃料を補給し、車の点検を
しなければならない。
俺もまた車の点検をしてから、馬運車にいるカトリーヌの様子を
見に行き、その隣で仮眠をとった。
夜になると俺たちは、再び車を並べて進んだ。
そして夜が明ける前。
﹁あそこだ。あそこの森に隠れていろ﹂
ミレーユが指示した場所に車を停める。
まだ王都は見えないが、これ以上進めば街道から離れていても見
つけられる恐れがあるとのこと。
これよりはエルザを連れてくるために、ミレーユのみが王都へ向
かうのだ。
既に、俺の能力をエルザに話す許可も与えている。
﹁鎧を着ていくと、目立つんでな﹂
ミレーユは鎧を脱ぐと、剣だけを佩いた。
赤竜騎士団の団長がただ一人で戻って来ていることを知られれば、
民にいらぬ不安を与えてしまう故の判断である。
馬運車から馬を下ろし、ミレーユはその馬に袴って王都があると
いう方へ駆けて行った。
さて、ミレーユを信じていないわけではないが、俺は獣人たちに
厳戒態勢を敷くように命令した。
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疑って損はない。もう、裏切られて痛い目を見るのは御免だった
からだ。
そして翌日の夕方、二頭の馬が連れ立ってやってきた。
ミレーユがエルザを連れて戻ってきたのである。
﹁ひゃー、町を捨てたってホンマやったんやな﹂
華麗に手綱を捌いて俺たちの前に現れたエルザ。その第一声がこ
れである。
よくいえば明け透け、悪くいえば遠慮がない。
まあ、エルザは商人だ。上っ面の仮面を被ってないことこそが信
用の証ともいえた。
それに、その驚きはわからないでもない。
俺自身、過去の自分が今日の己の境遇を聞けば、それこそエルザ
の比ではないほどに驚愕することだろう。
﹁王には話をつけた。最後に聞きたい。サンドラ王国で貴族になる
つもりはないか?
王は直轄地を削ってでも、と言っている。国のために戦え、など
ということもない。
ドライアド王国で一から始めるよりも、よっぽど環境は整ってい
ると思うのだが﹂
ミレーユの提案。
しかし俺は首を横に振った。もう決めたことだ。
それにやはり、サンドラ王国を完全に信用するわけにはいかない。
だからこそ、今は離れた地で力を蓄える。
699
今度はもう失敗しない。俺についてきてくれた狼族たちと、やり
直す。
信頼できる者と一から町をつくるという思いが、俺の中にはある。
それにはサンドラ王国では駄目なのだ。
ミレーユは俺の答えを聞くと、﹁そうか﹂とだけ言って、もう何
も口にしなかった。
すると、次に口を開いたのはエルザだ。
﹁そんじゃあ、次はウチの番やな。
話は全部聞いたで。フジワラさんの特殊な錬金術についてもな。
うちに頼みたいことは、ドライアドで貴族になるための後ろ楯や
ろ?
もちろん、ええで﹂
エルザが、ニッと笑って言った。︱︱と同時に、目の端に本当に
小さな小じわを発見。
出会った頃にはなかったものだ。
俺は、知り合ってから結構経つなと思いつつ、続くエルザの言葉
に耳を傾ける。
﹁ま、ウチの商会も今ではかなり有名になったしな。大陸の西側の
拠点のために、適当な人間に貴族位をとらせたってことにすれば、
疑われることもないやろ。
せやな、香辛料はあくまでもサンドラ王国でつくり、それをドラ
イアド王国に輸送して、西側で売りさばくってことにするんや。こ
れならドライアドの人間も手を出してこん。
ドライアド王国の領地には現物しかない。下手なちょっかい出し
ても得るものはなく、ウチらがそこからいなくなるだけや、って相
手さんは考えるやろうしな﹂
700
エルザが自らの考えを披露する。
すると、それに異を唱えたのはミレーユである。
﹁そううまくいくだろうか。
素直にドライアド王国でも香辛料をつくっているという体裁をと
った方がいいのでは?
サンドラ王国からドライアド王国への物流がなければ怪しまれる
だろう﹂
﹁そんなん、密輸してるふりをすればええやん。なんも持ってない
いくつかの商隊に、密輸する振りをさせてサンドラ王国からドライ
アド王国に向かわせれば、どこぞが捕まえるやろ。
そしたら相手が、これは囮だったか! って思うわ。そうなれば、
知らんところで密輸されとんやろなって勝手に勘違いしてくれるで。
なんも持たせないことと、こそこそと密輸してる振りをするって
のがポイントやな﹂
﹁サンドラ王国での売買はどうするのだ。サンドラ王国を中心にし
て東部で香辛料が売られなければ、やはり疑われるぞ。ドライアド
王国で香辛料はつくられているのではないのか? とな。
それとも、売買品をドライアド王国からサンドラ王国まで実際に
密輸するつもりか?
距離にしておよそ2000キロ。必ずどこかで見つかるだろう。
とてもじゃないが現実的ではない。
まあ、このトラックとやらで輸送してくれるのなら別だがな﹂
ミレーユが期待のこもった目で、ちらりとこちらを見た。
﹁それなんやけどな。そのフジワラさんの錬金術ってどうなん?
701
たとえば手から、ポポポッて簡単に、かつ大量に出せるんなら、
年に数回ばっかしフジワラさんにサンドラ王国内に来てもらえば済
む話なんやけど。
魔力の問題もあるし、やっぱ難しいんかな?
胡椒なんて珍しいもん錬金するんやから、魔力の消費も相応に激
しそうやし﹂
残念。俺に必要なのは魔力ではなく、お金だけだ。
しかし、ややこしい話だった。
ここで俺は、うーんと考える。
少し話をまとめてみよう。
1.俺が能力を隠して、ドライアド王国で貴族となり領地を得るに
は、領地を買う金の出所を明らかにするために、香辛料売買で有名
になったポーロ商会という見せかけのパトロンが必要。
2.エルザは、表向きには本拠地︵生産地︶をサンドラ王国とし、
ドライアド王国の領地を香辛料を売るためだけの中継地点とするこ
とを提案。
ドライアド王国の領地で香辛料の生産を行わない︵と見せかける︶
ことで、他の領主からの干渉を避ける狙いがある。
また、偽装の商隊をサンドラ王国からドライアド王国へ送り、物
流についても誤魔化すことが可能。
3.サンドラ王国を本拠地に見せかけることの問題点として、ドラ
イアド王国からの表立った香辛料の輸送はできない。
そのため、2000キロにも及ぶドライアド王国とサンドラ王国
の間を、密輸しなければならないのだが、距離を考えれば現実的で
はない。
702
4.3の解決策として、トラックでの密輸、もしくは俺自身がサン
ドラ王国へ行き、能力によって香辛料を生み出す。
こんなところか。
他に何か手はないかと考えを巡らすが、特に思い浮かばない。
俺がサンドラ王国に行くのも、年に数度。装甲車なら特に危険は
ないだろう。
細かいところを詰めていかなければならないが、現状ではこれが
最善であるように思える。
﹁そうですね。トラックで輸送しましょうか﹂
実際にはトラックで輸送する振りだ。
なにがあるかわからない。能力の詳細は曖昧なままの方がいいだ
ろう。
﹁よっしゃ、決まりやな!﹂
エルザが喜びの声をあげた。
だが、それだけでは終わらない。
﹁っていうか、食物を錬金するってなんやねん。聞いたことないで。
今更やけども、食べても平気なんか?
フジワラさんが魔法でつくってるって聞いて、どうも信じられへ
んやら、食べることに対する不安やらで、ウチちょっと心配やねん
けど﹂
確かにその通りだ。
人は自然にあるものを食べる。魔法でつくりだしたものを食べる
という習慣などはない。
703
そのため、躊躇があるのだろう。狼族の者たちやミレーユもそう
だった。
とはいっても、魔法でつくりだした水は飲んでいるので、それほ
ど禁忌感はないようであるが。
要は、魔法でつくりだしたものが自然に存在するものであれば、
いいのだと思う。
加工済みのものを出したのが、いけなかったのだ。
俺は、﹁ちょっと待っていてください﹂と言ってその場から離れ、
装甲車の中に乗り込んだ。
そしてミレーユやエルザに見えないように、︻胡椒の実︼、︻赤
唐辛子の実︼、︻さとうきびの茎︼を︻購入︼し、それらを二人の
前に見せた。
﹁これが、胡椒の実です。これを粉にするといつも販売している胡
椒になります﹂
﹁他のは?﹂と尋ねるエルザ。
﹁これは唐辛子の実ですね。これも胡椒の実のように粉状にして販
売していました。こちらはサトウキビの茎です。これを煮ると砂糖
がつくれます﹂
俺は﹁どうぞ﹂と言って、手の中のものを差し出した。
エルザが胡椒の実と赤唐辛子を、ミレーユがサトウキビの茎をそ
れぞれ手に取った。
﹁ふーん、なるほど。ちゃんとした植物ってことなんやな。どれ⋮
⋮﹂
704
赤唐辛子の端を齧るエルザ。
﹁∼っ! 辛っ! これは確かに唐辛子やわ!﹂
エルザが舌を出してヒーヒーと言う。
その隣では、ミレーユが恐るべき指の力でサトウキビの硬い皮を
容易く引きはがして、内側か出てきた汁をすすった。
﹁はむっ。む、これは⋮⋮凄い甘さだな。甘ったるすぎる﹂
﹁なんやて!? ちょっ、ミレーユはん、舌が辛いねん! それう
ちにも貸してくれへんか!﹂
﹁ああ、ほら﹂
﹁おおきにな! って、硬っ! これ硬っ!﹂
まるで漫才のようなやり取り。俺は、はははと小さく笑った。
ミラをはじめとした狼族たちは、ポカンと呆れたように見つめて
いる。
とりあえずエルザは、香辛料と砂糖に関して、れっきとした食べ
物であると認識したようだ。
705
62.ドライアド王国 1
直径1キロの城郭に加え、その外にまで街が並ぶ、ドライアド王
国は王都ドリスベン。
人口はおよそ七万人、長い歴史と、それに併せて培ってきた文化
学術があり、その華やかさから花の都などと呼ばれる、言わずと知
れた大陸有数の大都市である。
しかし実際のところ、その華やかさの裏には暗い影がある。
たとえば人口七万人という数字。これは少し間違っているといっ
およそ
七万人のうち、戸籍管理がされているのはせいぜい五
ていいだろう。
万人。
では残りの二万人はなんなのかというと、税を納めていない流民
同然の者たちである。
彼らは城郭外の一画にスラムを形成し、人夫として低賃金で働い
て、ドリスベンの経済を支えていた。
他にも、貴族たちの豪華絢爛な生活の裏には多額の借金があり、
文化や学術においても、今では過去の歴史を誇るだけ。
もはや花の都なんていう呼び名は、皮肉として鼻で笑うための、
からかい言葉と成り果てていたのであった。
さて、そんな王都の中央には若き女王が住まうリーシュンデット
城がある。
その一室︱︱とある大臣の執務室では、うんうんと唸る者があっ
た。
706
﹁ううん、今月もきついのう﹂
己が机にて各部署からの報告書類とにらめっこをしているのは、
白髪に腹までかかる白鬚を蓄えた老年の男性。
名をヨーラン・イングヴァル・イーデンスタムといい、各大臣を
統括するドライアド王国の宰相である。
﹁どうしたものか⋮⋮﹂
イーデンスタムは苦しそうな声を漏らした。
王家の財政は火の車。
節制に努めるように触れを出してはいるものの、現女王の母︱︱
つまり前王の后がいる後宮などは、そんなもの知るかと言わんばか
りに贅沢をする。
もはや借金に次ぐ借金で首が回らない状態であり、今月は何を切
り詰めようかとイーデンスタムは頭を悩ませていたのである。
すると扉が叩かれて、小役人が顔を出した。
﹁イーデンスタム様、面会を望む者が来ております﹂
﹁要件はなんじゃ﹂
﹁はい、領地を買いに来たと﹂
﹁なに!?﹂
イーデンスタムは席から立ち上がらんばかりに驚いた。しかしそ
れは、うれしい驚きである。
なにせ、少なくない収入源であった領地販売の売れ行きは、この
707
ところ芳しくない。
去年から今年に至ってはゼロ。誰一人として領地を買う者はいな
かったのだから。
原因はわかっている。
金を持つ者たちは皆、最近の大陸の情勢に懸念を抱いているのだ。
各地で頻繁に起きている戦乱。それは大きな戦いの予兆ではない
かと、誰もが憂惧している。
もし、そんな大きな戦いが起こり、ドライアド王国が巻き込まれ
れば、領地を買い領主となった者は、その務めとして莫大な戦費を
払わなければならない。
そうでなくとも、領地の購入費や年々の税は馬鹿にならない額で
ある。
こんな状況で、貴族位目当てに領地を買う者など、それこそ馬鹿
でしかない。
イーデンスタムも、このまま座していても領地は売れぬだろうと、
その売値を下げようと考えていたところであった。
﹁して、何者じゃそやつは﹂
﹁はっ、ポーロ商会の会長エルザ・ポーロだと名乗っております﹂
﹁なんじゃと!?﹂
今度こそイーデンスタムは立ち上がった。
ポーロ商会といえば、最近になって名の売れだした新興の商会で
ある。
しかし新興と侮るなかれ、ポーロ商会が取り扱う商品は︱︱胡椒。
幻の香辛料であり、ドライアド王国においても王族をはじめ、わ
708
ずかしか口にした者はいないほどの品である。
原因はあまりの稀少さゆえの価格高騰。
最近になって、ようやくそれなりの量が市場に回り始めたところ
であった。
﹁ポーロ商会が我が領地に来ただと⋮⋮﹂
イーデンスタムはプルプルと震えだした。それは戦慄といってよ
かったかもしれない。
ポーロ商会の本拠ははるか東南のサンドラ王国にある。
まさか本拠を移そうということはないだろう。
胡椒の販売においては、サンドラ王国の影が見え隠れした。
ポーロ商会とサンドラ王国は繋がっているはずだ。
﹁⋮⋮西の拠点づくりか﹂
胡椒が市場に出回り始めたとはいえ、やはりサンドラ王国がある
東側に集中している。
西側で売る確かな足場がないのだ。
そして、ここにきてドライアド王国にやってきた。
西側の拠点づくりと考えるのが自然であろう。
﹁こうしてはおれん! ええい、すぐに客間に通せ! わしもすぐ
に行く!﹂
﹁は、はい!﹂
イーデンスタムは小役人に下知すると、己は身なりを整えるため、
すぐさま自室に向かう。
逃してはならない。ポーロ商会はまさに乾地に雨とでもいうべき
709
存在。
金の卵を産む鶏がやってきたのだ。内に引き込み、胡椒を栽培さ
せてその成果を奪えば、ドライアド王国は万年的財政難からも救わ
れる。
﹁大臣となり苦節10余年、ようやく我が国にも運が回ってきたよ
うじゃわい。わはははは!﹂
イーデンスタムは狂ったように笑いながら、廊下を早足で歩く。
行きかう者たちは、働きすぎてとうとうボケたのかと思い、イー
デンスタムの日ごろの勤労ぶりにほろりと涙を流した。
自室にて装いを正したイーデンスタムは、客間の戸を開けた。
すると、そこにいたのは一組の男女。
絵画を眺めていたのだろう、二人は壁に飾られていた絵画の前に
立ち並んでいた。
﹁これは待たせてしまって、すまぬな。この国で宰相をしておるヨ
ーラン・イングヴァル・イーデンスタムだ﹂
﹁まあ、あの御高名な。お噂はかねがね聞いておりますわ、ムッシ
ュ﹂
にこりと笑った真っ赤なドレスがよく似合う、赤毛の女。
一言でいえば美人。扇情的であり、イーデンスタムは老年なれど、
年甲斐もなく男の部分を刺激されるものがあった。
710
そんな女性が、どんと隣へ肘を突く。
それを受けたのは、あまり似合っていない紳士服を着た、黒髪の
凡庸そうな若い男。
﹁ノブヒデ・フジワラと申します﹂
どこかたどたどしい一礼をする男︱︱ノブヒデ・フジワラ。
聞きなれぬ響きを持った名である。
偽名か、とも思ったが、偽名を名乗るならばわざわざ偽名と疑わ
れる名を名乗らないだろう、とイーデンスタムは考えを改めた。
﹁ポーロ商会の長、エルザ・ポーロです。この度は、このフジワラ
の付き添いで参りました。どうかお見知りおきを﹂
フジワラとは違い、洗練された仕草で淑女の礼をとるエルザ・ポ
ーロ。
もはやどちらが主人であるかは明らかだった。
﹁どうぞ掛けなされ﹂
クロスのかかった丸いテーブルを中央にして、エルザ、フジワラ
とイーデンスタムは向き合うような形で椅子に腰かける。
そして小細工はいらないとばかりに、イーデンスタムはすぐさま
本題に入った。
﹁それで、我が国の領地を買いたいとの話であったが﹂
﹁その通りですわ﹂
イーデンスタムの質問に、エルザがにこやかな笑みを携えて答え
711
る。
﹁ふむ、身分を証明できるものを持っているかね?﹂
﹁ええ、こちらに﹂
エルザの手元の鞄より出された証明書。
既にここに来るまでに確認されているであろうが、なんでも自分
の目で見なければ気が済まないのがイーデンスタムという男である。
﹁ふむ⋮⋮確かに。これは返そう。では早速、こちらを﹂
確認の済んだ証明書を返し、次いでイーデンスタムが机の上に差
し出した羊皮紙。
それは竜の角とあだ名される、ドライアド王国の北部の地図。
広げてみれば各所に地名が書かれ、その下には値段が書かれてい
る。
﹁あら、少し高いんじゃありませんか? わたくしが聞いていたの
とは値段が違いますわ﹂
﹁それが今月から値上がりしてな﹂
﹁値を上げる? ご冗談を。領地販売の商況は知っております。売
れない時は値を下げるのが商売の鉄則でしてよ?﹂
﹁しかし、今こうしてそなたたちは買いに来ておるではないか﹂
﹁ええ、そうですわ。ですがわたくしたちは、以前より提示されて
いた値段で領地を買いに来たのであって、このような法外な値で買
712
いに来たんじゃありませんの。︱︱フジワラ様、行きましょう﹂
席を立つエルザとフジワラ。
まずいとイーデンスタムは思った。
金を持っているだろうからと、ふんだくろうとしたのが逆効果で
あったのだ。
﹁ま、待て!
わかった、わかったから。これはちょっとした手違いじゃ。軽い
冗談じゃよ。若者をからかう老人のお茶目なジョークじゃ﹂
慌てて引き留めるイーデンスタム。
それを聞いて、エルザとフジワラが顔を見合わせると、今一度席
に座った。
﹁まあ、いやですわ、イーデンスタム様ったら。あまりにお上手な
冗談でしたので、わたくしもつい信じてしまいました﹂
ほほほ、と上品に笑うエルザ。
その表情、口から出る言葉の節々には余裕が見てとれる。
対するイーデンスタムは苦々しい思いだ。
足元を見たつもりが、逆に足元を見られた。
エルザは、こちらの事情をよく知っている。
見た目に騙されてはいけない。若くともさすがは一商会の長。
イーデンスタムは歯軋りしそうになるのを堪えながら、背後の小
役人に正規の値が書かれた地図を持ってくるように命令した。
﹁時に最近よく耳にするのだが、ポーロ商会は胡椒の販売を行って
いるとか﹂
713
﹁ええ、おっしゃる通りです。本当はもう少しひっそりとやってい
きたかったのですけれど、扱うものが特殊ですから﹂
ひっそりなどと、どの口が言うのか。
イーデンスタムはエルザの心中を見透かしたように胸の内で、フ
ンと鼻を鳴らす。
この地にやってきた。それこそが野心の現れ。
︵まあいい、こちらはその野心を利用するだけだ︶
そんなことをイーデンスタムは思いつつ、たわいもない会話が進
み、やがて小役人が戻ってくる。
新たに机の上へと置かれる、正規の値が書かれた地図。
それをエルザが手にとって、隣のフジワラとこそこそと相談する。
しばらくして、地図の一点をエルザは指さした。
﹁では、この地を﹂
イーデンスタムはそこに視線を向ける。
南部で一番大きな土地。
北へいくほどより寒く、都心から離れるために値は低くなる。
逆に、南へいくほど値は高くなる。
つまり、エルザが選んだのは、最も高い値が書かれた土地であっ
た。
﹁階級は男爵。領主となるのは、そちらの男でよいのだな?﹂
イーデンスタムは、ちらりとフジワラへ視線を向けた。
と、同時にエルザから﹁ええ、その通りです﹂という言葉が紡が
714
れる。
︵男は所詮操り人形だろう。いや、情夫かもしれんな︶
そんな下世話な考えから、不意に、目の前の二人がベッドの上で
絡み合う光景が、イーデンスタムの脳裏に浮かんだが、すぐにどこ
かへやった。
そして、まだまだ己も若いな、とイーデンスタムはわずかに嬉し
さを混じらせつつ反省をする。
﹁支払いは﹂
﹁あいにくと、金貨は重く、銀貨は嵩みます。胡椒での支払いでは
可能でしょうか?
もちろん色は付けさせていただきます。駄目でしたら、後日、金
貨にてお支払いしますが﹂
﹁いや、胡椒での支払いで構わん﹂
エルザの提案はイーデンスタムにとって、むしろ望むところであ
った。
その需要を考えれば、胡椒は金貨よりはるかに有用である。
﹁では、これにサインを﹂
イーデンスタムが契約書を差し出す。
それをまずエルザが確認し、そののちにフジワラが一通り読んで
サインをした。
﹁では、これでお主⋮⋮フジワラはドライアド王国の男爵となった。
715
ドライアド王国のため、女王陛下のため、よく励むように﹂
叙勲式などはない。所詮は一山幾らの売官行為。
そこには利害しかなく、女王に忠誠を誓う儀式など、無意味でし
かないのだから。
716
63.ドライアド王国 2
城の中をイーデンスタムが歩く。
隣にはポーロ商会会長のエルザ・ポーロが並び、その一歩後ろに
はノブヒデ・フジワラがいる。
リーシュンデット城の客間にて行われていた領地売買の商談は、
無事に契約がなり、現在はエルザが城の外に運んできているという
胡椒の受け取りに赴くところであった。
﹁北へ道づたいに行けば村があり、そこにかつてその土地を治めて
いた領主の館がある。まあ、現在どうなっているかわからんがな。
使うもよし、使わざるもよし﹂
歩きながら、イーデンスタムがエルザに言う。
フジワラのことは眼中にない。
イーデンスタムの中では、フジワラがエルザの下郎であることは
もはや決定事項となっていたからだ。
﹁村の税は今どうなっているのですか?﹂
エルザが尋ねた。
﹁南に隣接するハマーフェルド子爵が代わりに徴収しておる。使い
を出しておこう。
とはいえ、村の税など微々たるもの。期待はできんぞ﹂
たかが一つの村。
取れる税は雀の涙ほどしかない。
717
エルザもよく承知をしているようで、﹁わかっておりますわ﹂と
微笑を崩すことなく答えた。
﹁北の地に逃げたという獣人の状況はわかりますか?﹂
一歩後ろからかけられた声。
フジワラのものだ。
イーデンスタムの前でフジワラが自ずから言葉を口にしたのは、
これが初めてのことである。
そのためイーデンスタムは、おや? と白い眉をわずかに動かし
た。
﹁どこにいるとも知れん。ただし、彼らは住む土地を追われた者。
我らは慈悲をもって受け入れておる。獣人たちが人間に危害を加え
ん限りは、我らが何かをすることはない﹂
偽りである。
本当のところは、軍を動かす金が惜しいだけ。
物は言いようだな、とイーデンスタムは内心で自嘲する。
するとフジワラは﹁そうですか﹂と、もう何かを言うことはなか
った。
やがて建物を出て中庭を通り、一同は城門へと到着する。
門が開くと、その向こうには通行の邪魔にならぬよう、道端で縦
に二台の馬車が停まっているのが見えた。
さらに馬車の傍らには、剣を佩き、頭に布を巻いた者たちがいる。
その者たちとエルザとの間で目配せがあった。
あの馬車が胡椒を積んでおり、頭に布を巻いた者たちはその護衛
なのだろう。
718
イーデンスタムには一目で強さを見分けるような武芸の心得はな
かったが、護衛たちには油断がなく、職務に忠実だということはわ
かった。
︵素人目で見ても、どこか雰囲気がある。なかなかいい護衛のよう
だ︶
なによりも、職務に対する姿勢がいい。城の者も少しは見習えと
イーデンスタムは思った。
ところで、夏場であるのに護衛たちが手袋をしているのが気にな
った。
いや、手ばかりではない。首にも布が巻かれている。
その肌の露出の少なさに、イーデンスタムは暑くないのかと訝し
んだのである。
だが、よく考えてみると、彼らが南から来たことを失念していた。
南に比べれば、この地は夏であっても寒いのかもしれない。
﹁イーデンスタム様、参りましょう。あれに見える馬車に胡椒が積
んであります﹂
エルザに誘われるままに、馬車の方へ向かう。
馬車の荷台には縦に長い木箱が積まれ、護衛の一人が木箱を開け
ると、そこには壺が三つ一組となって入れられていた。
壺の一つが下ろされる。
蓋を取ってみれば、中にはぎっしりと詰まった茶色い粉︱︱胡椒。
この壺一つで金貨がいかほどになるのか、とイーデンスタムの目
が輝いた。
719
﹁ご確認を﹂
エルザの言葉に、イーデンスタムは粉を指で掬い、舌でなめる。
すると独特な辛さがあった。
以前に一度だけ口にしたことがある味。胡椒で間違いはない。
しかし、疑問がある。胡椒の量だ。
﹁確かに胡椒だ。されど、いささか量が多いような気がするのだが﹂
実際には、多いどころではない。
馬車にある胡椒は、支払いの倍以上ある。
もしや全部くれるのでは。
そんな期待の念を胸に浮かべつつも、イーデンスタムは己の長い
白髭を撫でて平静を装い、エルザからの返答を待つ。
その答えは︱︱。
﹁ええ、女王陛下への献上分も含まれておりますわ﹂
﹁おお⋮⋮!﹂
エルザの答えは、肯定。
それにより、今日何度目かの興奮がイーデンスタムを襲った。
白髭を撫でていた手は止まり、鼻の穴がぷくりと膨らんでいる。
口からは感嘆の声も漏れ出た。
これで今月の国の財政は、何かを削るという必要もなくなる。
それは、イーデンスタムをして年甲斐もなくはしゃぎたい気にさ
せるものであった。
720
金の心配をせずに済むのは、はたしていつの日ぶりか。
イーデンスタムは特に信心深いというわけではない。
だが、この時ばかりは神の存在を近くに感じざるをえなかった。
長年味わい続けていた辛苦。
当たり前となっていた金の悩みから、一時とはいえ解放されるの
だ。
その後、エルザから目録を受け取り、胡椒の正確な数を確認して
いく。
そして、後からやってきた荷車を引いた小役人たちが馬車から胡
椒を移し替え、受け渡しは完了した。
﹁女王陛下に謁見するかね?﹂
イーデンスタムは自分が口にした言葉に、幾分か口調が柔らかく
なったのを感じた。
それだけ嬉しいのだろうと自覚する。
﹁いえ、わたくしたちは下賎の出自。女王陛下のお目を汚すばかり
ですので﹂
﹁そうか﹂
あくまでも利害だけのシビアな関係を望んでいる、ということだ
ろう。
一見すると失礼極まりない。
しかし、貢物に見返りを求める貴族たちよりもはるかに好感が持
てる。
721
︵惜しい。サンドラ王国のひも付きでなければ、よい関係を築けた
ものを︶
そんな無い物ねだりともいうべき欲張りな考えを頭に浮かべなが
ら、イーデンスタムは馬車を引いて帰っていくエルザを見送った。
﹁さあ、我らも行くぞ﹂
小役人たちに胡椒を城内へ運び込ませ、イーデンスタム自身は報
告をしに女王の下へ向かう。
足取りは軽い。
弾む心を抑えなければ、今にも駆け出してしまいそうであった。
階段をのぼり、女王の私室へ。
部屋の前で警護に当たっていたの女の近衛兵に取り次ぎを頼み、
およそ5分後。
近衛兵から、ようやく許しが出た。
﹁陛下、失礼いたしますぞ﹂
イーデンスタムが扉の内側へと足を踏み入れる。
一流の調度品が並んだ広い部屋。
しかし、そこにあるのはあくまでも生活に必要な最低限のもの。
一国の王の部屋にしては、粗末な部屋だ。
そしてそんな部屋の中、清楚なドレス姿で椅子に座る、薄いブラ
ウンの髪色をした少女︱︱オリヴィア・フォーシュバリ・ドライア
ド。
二十歳は過ぎているというのに、いまだ十代半ばのような初々し
い美しさを持つ、ドライアド王国の若き女王である。
722
﹁爺や、用件はなんですか?﹂
鈴の音のような心地よいオリヴィアの声。
イーデンスタムは片膝を突いて、それに答えた。
﹁はっ、新たに領地を買った者の報告と、その者からの献上品を預
かっております﹂
﹁おお、真ですか。それはよきことです﹂
オリヴィアの白く透き通るような頬がほころんだ。
それはイーデンスタムの心労を癒すほどに美しい。
先ほどのエルザも稀有な美貌の持ち主であった。
しかし、違う。
オリヴィアの美の質は全く別のものだ。
エルザの美しさが妖艶な大人の魅力だとするなら、オリヴィアは
穢れのない純白。
まるで沼地に咲くスイレンのようだ、とイーデンスタムは常々思
っていた。
﹁是非、その者にお礼を言いましょう﹂
﹁いえ、その必要はありませぬ。その者は、自分程度の者が陛下に
拝謁するのは憚られると申し、謁見を辞退しました﹂
﹁なんと。そのような忠義の者にこそ、会うべきだと思うのですが
⋮⋮﹂
少し残念そうな顔を見せるオリヴィア。
723
その顔を見るだけで、イーデンスタムの胸はギュッと締め付けら
れる。
このままではいけない。
イーデンスタムはオリヴィアの曇りかけた表情を晴らすため、受
け取ったものが胡椒であること、それにより今月の財政に幾らか余
裕ができたことを語って聞かせた。
すると、オリヴィアの陰った表情も元の晴れやかなものへと戻っ
ていく。
やがて報告の一切が済むと、オリヴィアは椅子から立ち上がった。
そしてイーデンスタムに近づき、その老いた手を優しく包み込む
ように取って、言った。
﹁ご苦労でした。爺やもたまには休んで、身体を労ってくださいね﹂
﹁勿体なきお言葉にございます⋮⋮!﹂
オリヴィアの慰労の言葉。
お優しい方だと思いつつ、イーデンスタムはその場を辞した。
オリヴィアの私室から、己が執務室へと戻る。
その際、イーデンスタムの脳裏に占めるのはオリヴィアのことで
あった。
︵やはりあの方はお優しい︶
オリヴィアがまだ幼かった頃、短い間であったが教育に携わった。
その名残から、いまだに己を爺と呼んでくださる。
724
当時は他の王族と変わらぬ傲慢さがあったが、いつの頃からかそ
れは影を潜め、その美しい容貌と等しくするように、オリヴィアの
心根はとても真っすぐなものとなっていた。
今では、オリヴィアに拝謁し、その美しさと優しさに触れるたび
に決意を新たにさせられる。
頑張らねば、とやる気にさせられる。
浪費を繰り返し、国の財政を傾けるばかりの他の王族とはまるで
違う。
財政について相談した時も、いやな顔一つせずに節制に頷いてく
ださった。
それどころか、自らが持つ宝石の数々をお持ちになって、それら
を売却し財政の足しにしてくれとおっしゃられた。
その王らしくない振る舞いは、真の王足り得るものだ。
されど惜しいかな、オリヴィアは政務には深く関わってはいない。
若輩者が取り仕切っても、混乱を招くだけであると一線を引いて
いる。
必要な時以外、私室に籠られているのもそのためだ。
しかし、時折放つ指摘が的を射たものであることをイーデンスタ
ムは知っている。
公金に手をつけ豪遊を繰り返していた大臣を、憐れみをかけずに
処断したことをイーデンスタムは知っている。
オリヴィアは、賢さと気高さも持ち合わせているのだ。
そして、そんな身も心も美しい女王だからこそ、世の貴族たちは
放っておかない。
いまだ婚姻の話のないオリヴィアに、あの手この手を使って近づ
725
こうとする。
権力を求めて、ということもあるだろう。しかし、それだけでは
ない。
聖女を汚したい衝動。その純潔に誘われるのだ。
︵守らねばならない。この老身を賭してでも︶
イーデンスタムの体に俄然としてやる気がみなぎった時、そこは
もう執務室の前であった。
726
64.新たな土地
﹁陛下、行きましたよ﹂
イーデンスタムが去ると、女近衛兵が扉を開けてオリヴィアに声
をかけた。
﹁あー、疲れた﹂
近衛兵から報告を受けると、オリヴィアはドレスをばさりと脱ぐ。
その話し方も振る舞いも、先程の神話に出てくる聖女のような姿
とはまるで違った。
しかし、近衛兵は驚かない。
彼女はオリヴィアの本性を知る数少ない者の一人だ。
﹁全く、爺やも急に来ないでほしいわ﹂
オリヴィアは文句を口にしつつ、ベッドの下から書きかけの紙の
束を出した。
それはオリヴィアが政務をおろそかにして執筆していた書きかけ
の小説。
こうみえても彼女、ちまたで売れっ子の人気小説家である。
﹁女王とは世を忍ぶ仮の姿。真の姿は謎の恋愛小説家オリーブオリ
ーブよ﹂とはオリヴィアが近衛兵たちに常日頃口にしていることで
あった。
﹁しかし、いつまでもこんなことを続けていてよろしいのですか﹂
727
オリヴィアがあまり働かないのを危惧しての近衛兵の忠言である。
しかし、オリヴィアは視線を近衛兵に向けることなく、片手を左
右に軽く振って言った。
﹁いいの、いいの。餅は餅屋。余計なことをして、命を狙われたら
洒落にならないし﹂
王族の平均寿命は短い。
生を全うしたというわけではなく、多くが早年に殺されるのだ。
オリヴィアはそれをよく知っていた。
オリヴィア自身、過去に毒を飲まされた経験があるからである。
毒から一命をとりとめて以降、オリヴィアはとにかく臆病に暮ら
した。
明日にでも死んでしまいそうな孤児を育てて恩を売り、絶対に裏
切らない者として近衛兵にしたし、食事も全て彼女たちにつくらせ
た。
女王となってからは、政敵をつくらぬよう自身で政務は行わず、
一番まともそうなイーデンスタムにまかせている。
さすがに度を超えたものには口を出さざるを得ないが、それ以外
の政治についてはほとんど放任していた。
世の人がこの事を知れば、さっさと女王の座なんて降りてしまえ
ばいい、なんて思うだろう。
だが、そうはいかない。
後宮にいる親族は贅沢をする以外に能はなく、もし仮にその者た
ちが王権を握ったなら国家はさらに傾くに違いなかった。
そうなればいずれ反乱が起き、一族連座でオリヴィア自身も処刑
されかねないのだ。
728
国はもはや末期。
国の財政は困窮を極め、それに従い地方の領主の力が強まってい
る。
盛者必衰の言葉通り、ドライアド王国はいずれ滅びるのだろう。
しかしオリヴィアに今できることといえば、節制に努め国の崩壊
までの時間をゆっくりと遅らすだけ。
女王としての責任などは感じるが、それよりも何よりもオリヴィ
アは自身の命が惜しいのだ。
﹁さあ、今日もバリバリ書くわよ! 読者が私の小説を待っている
んだから!﹂
胸に渦巻く不安や葛藤をぶつけるように、オリヴィアは今日も筆
を走らせる。
紙が安くなり、女王でありながら小説家という新たな職業の先駆
者となったオリヴィア。
彼女が希代の文学家として有名になるのは、果たしていつの日か
︱︱。
◆
ドライアド王国は王都ドリスベンを北へと進む二台の幌付き馬車。
その一方に俺は乗っていた。
少しここまでの説明をしよう。
俺たちは途方もない距離を経て、サンドラ王国からドライアド王
国に無事に入国。
ドリスベンにある王城にて領地を購入し、俺はドライアド王国の
貴族となった。
そして現在は己の領地へと向かう前に狼族たちが隠れて待ってい
729
る合流地点に向かうところだ。
馬車の御者は、体の多くを布で覆って獣人であることを隠した護
衛の狼族たち。
さらに、旅装束に着替えたエルザも馬車に同乗している。
﹁ほどよく暖かい。ほんま、いい具合の気温やなあ。これが夏やっ
ていうんやから恐れ入るわ﹂
めくりあげられた後ろ布幕から外を眺めていると、正面に座るエ
ルザが呟いた。
その声に反応して、俺はエルザの方を見る。
エルザの顔は外の景色を眺めたままだ。
﹁そうですね﹂
俺は相づちを打ちつつ、目は正面に釘付けになっていた。
エルザの横顔はなかなか美しい。
見とれていたのだ。
思えば、ドリスベンで見たエルザのあのドレス姿と振る舞いは、
ドキリと胸を打つものがあった。
まるでどこかの令嬢。
美しいという言葉がよく似合う女性だったと思う。
俺は、あの時の姿を思い浮かべて、目の前のエルザに重ねた。
すると、エルザが視線に気づいて顔を正面に向けた。
反射的に俺は横を向く。
向いた瞬間、しまったと思った。
これではまるで子どものようではないかと考えて、己の行動を後
730
悔した。
ああ、わかる。
視界の端で、エルザがニヤニヤとしているのが。
﹁なんや、恥ずかしがらんといつまでも見とってええんやで?
目の前にこんな美少女がいたら、見とれてしまうんも当然やしな。
うちもその辺は自覚しとる。美少女の宿命ってやつや﹂
エルザがニシシと笑いながら、俺をからかうように言った。
それに伴って、狼族からの遠慮しがちな視線がこちらに向く。
恥ずかしい。
俺は、顔が熱くなるのを感じた。
それにしても、これがドリスベンにいた時の彼女と同一人物とは
思えない。
なんというか、まるで品がないのだ。
﹁いやー、そっかー。フジワラさんも、うちの美しさには敵わんか
ぁ。罪な女やなぁ、うちも﹂
エルザの自画自賛とどや顔。
確かに見とれていたのは事実だが、それをいつまでも言われるの
は癪だ。
俺は少しばかりやり返してやろうという気になった。
﹁⋮⋮小じわ﹂
俺はボソリと言った。言ってやった。
俺の呟きは届き、その意味を理解したのだろう。
エルザは顔を緊張させた。
731
﹁⋮⋮エルザさんの目の横にある小じわが気になっただけですよ﹂
﹁なっ!?﹂
エルザの口から驚くような声が漏れた。
途端、狼族らの視線がエルザの目元に移る。
﹁な、何言うてんねん! うちみたいな超絶美少女に、こっここ小
じわなんかないわっ!!﹂
のどかな平原に、エルザの怒声が響いた。
その顔は彼女の髪の色と同様に真っ赤。
俺としては、﹃よし、やり返したぞ﹄という満足感でいっぱいだ。
というか美少女ってなんだよ。
もうとっくに二十を超えてるだろうに。
その後、エルザはプリプリと怒り、ついには口を利いてくれなく
なった。
よく考えてみれば、こちらが圧倒的に悪い。
あとで化粧水でも渡して許してもらうこととしよう。
馬車はそのまま街道から外れ、道なき道を行く。
周囲に人の気配はない。
やがて丘陵の陰にさしかかり、何名かが頭を出した。
ここに隠れていた狼族たちだ。
もちろんミレーユもいる。
﹁どうだった?﹂
馬車を降りた俺に、ミレーユが問いかけた。
732
﹁ああ、無事に領地は買えた。これで俺も貴族の仲間入りだ﹂
﹁これで、私の役目は果たせたわけだな﹂
俺が一枚の羊皮紙を誇るように見せると、ミレーユは満足そうに
頷いた。
俺たちは夜を待ち、馬車から車両に乗り換えて出発する。
エルザとミレーユとは明るいうちに別れている。
エルザも暇ではない。やることが済んだのなら、早々に己の商会
に戻らなければならなかった。
ミレーユはエルザの護衛としてついていった。彼女にも城への報
告がある。
いや、もしかしたら配慮であったかもしれない。
俺は人前で能力を使うのを避けていた。町をつくる際には、どう
したって能力そのものを見られてしまう。
俺が嫌がると知っているからこそ、能力の詳細が露になる瞬間を
逃してまで帰還したのではないか。
そんな考えが俺にはあった。
別れの時には二人に化粧水を渡した。
するとまたエルザは怒り出した。
当て付けだと思ったらしい。
そんなつもりはないと謝って、受け取ってもらった。
ミレーユにはついでだ。
車が、夜の闇の中を進む。
やがて俺の領地︱︱フジワラ領に入ったが、俺たちは人間の村が
ある場所とは別の方へと向かった。
733
まずするべきは、俺たちの本拠となる新たな町をつくることであ
るからだ。
人間の村は人間の村でやっていけばいい。
今ある村とは別に、隠れ里のように狼族たちの町をつくる。
ミレーユの軍人としての知識とエルザの抜け目のない商人として
の知識から、選ばれた場所へ。
そこが新たな町をつくる地だ。
俺の領地に入ってからは、人の目を気にする必要もない。
明るい日差しの下を行く。
ただし轍を極力つくらぬよう、車は草の上を常に走らせた。
大きな森を迂回し、川が行く手を阻めば、︻橋︼を︻購入︼し、
そして︻売却︼する。
思ったことがある。
ドライアド王国の北部は、これまでの大陸の中でもとにかく平地
が多い。
竜の角。元の世界ではデンマークにあたるところだ。
休憩時間にデンマークについて少し調べている。
緯度は日本の北海道より北に位置しているにも関わらず、その気
候は穏やか。
夏は涼しいのに、冬はそれほど寒くならないらしい。
沿岸を流れる暖流の影響だという。
ではこちらの世界はどうなのか。
話はドリスベンにて聞いた。
夏が涼しいのは変わらない。だが冬はとても寒いのだという。
地図には海岸沿いにそびえる山脈が描かれている。
734
おそらくこれが海から来る暖かい空気を遮断しているに違いない。
山とは一般的に周囲より200メートル以上高い土地のことをい
う。
デンマークには平地ばかりで山と呼ばれるものがない。
だが、この世界にはあった。
そういうことだろう。
そして俺たちはとうとう目的地を見つけた。
東と北には丘。南には大きな森がある。ここならば町をつくって
も周囲からはバレはしないだろう。
車を停め、全員に降りるよう指示を出した。
﹁ここですか?﹂
ジハル族長が尋ねた。
ミレーユやエルザがいた頃は、あまり話しかけてはこず、必要最
低限の会話しかしていない。
族長なりの心配りであったのだろう。
﹁ええ、そうです﹂
俺は敬語で答えた。
ジハル族長に対してというより、目上に対しては今も丁寧な言葉
を使っている。
これは性分だ。
ややあって狼族全員が車より降りて辺りを見回す。
当然だが、草むらが広がるばかりでまだ何もない。
狼族たちは、きょとんとした表情を浮かべている。
735
ここが目的地だといわれても実感がないのだろう。
だが俺には、とうとうここまできたという思いがあった。
かつての町を脱してからの長い長い旅路。
ここでもう一度やり直すのだ。
思えば俺の目的は、この世界において現代的で怠惰な生活を営む
ことである。
それは今も変わらない。
しかし今の俺には、俺を裏切らなかった彼らを幸せにしたいとい
う一念も強くあった。
ビジョンはある。
かつての町の失敗はなんであったかを考えた時、俺一人だけの統
治に問題があったのは明らかだ。
たとえるなら俺という町長がいて、その下には役人が一人もおら
ず、各民族がある程度の自治権をもって暮らしている状態。
能力があろうと俺一人でできることは限られていた。
今度は彼らを共に歩むもの︱︱パートナーとして育てる。
同じ目線で、町を運営していく仲間が必要だったのだ。
そのために俺は︱︱。
﹁あなたたちには全てを見せようと思う﹂
俺は﹃町データ﹄を呼び出して操作する。
それにより目の前の泥がせりあがる。
町がつくられていく。
﹁おおぉ⋮⋮﹂
736
ジハル族長の感嘆した声。
狼族たちのざわめきを、泥のせりあがる音がかき消した。
737
64.新たな土地︵後書き︶
遅れてしまって、すみませんm︵︳︳︶m
738
65.新たな町 1
目の前に浮かぶパネルを操作していく。
現在の︻資金︼は5358億8735万1930円。
俺は、この地に最適な狼族たちの家を、さらには俺とカトリーヌ
の住居を︻購入︼した。
﹁少し時間がかかるから各人自由にするといい﹂
皆は、物珍しげに泥がせりあがる様子を眺めている。
俺は︻パイプ椅子︼と︻漫画雑誌︼を︻購入︼。椅子に座って漫
画でも読みながら、のんべんだらりと待つことにしよう。
︻パイプ椅子︼3万円︵定価300円︶
︻漫画雑誌︼2万4000円︵定価240円︶
それにしても、気兼ねなく能力が使えるというのはいいものだ。
おっ、DOKATER×DOKATERは今週号から連載再開か。
なんか今日はついてる気がするな。
暫くして︻漫画雑誌︼の一冊目を読み終わり、次号を︻購入︼す
る。
まだ建物はできていない。
漫画を読みふけっていると、ふと視線に気づいた。
多くの者が泥の隆起に目を奪われる中で、読み終わって地に置い
た︻漫画雑誌︼を小さな狼族の子供が興味深げに見つめている。
しかし、それだけだ。
739
常日頃は﹁ふじわらさまー、ふじわらさまー﹂と俺の顔を見るた
びに近寄ってくる子どもたちも、こういう何かしらがあった時、場
の空気を読んで普段のようには振る舞わない。
親の教育の賜物だろう。
俺はその読み終えた︻漫画雑誌︼を手に持って、熱い瞳を向けて
くる子どもに差し出した。
子どもには躊躇があったが、やがて欲望に負け、︻漫画雑誌︼を
手に取って広げた。
﹁うわぁ∼﹂
感激の声。
すると砂糖に集る蟻のように、泥の隆起に飽きた子どもたちが︻
漫画雑誌︼に群がった。
皆、初めて見る漫画に目をキラキラとさせている。
漫画は日本の文化。その技術の高さは世界からも認められている
ところであり、字は読めなくとも、絵だけで十分に面白さは伝わる
ことだろう。
そして俺は、そのうちに日本語も読めるようになるぞ、と将来の
展望を見越して心の中で呟いた。
やがて、家ができあがった。
俺は︻漫画雑誌︼を読むのをやめると、皆の様子を見回す。
狼族たちには、驚きや戸惑いが見える。
俺の能力に対する驚き。そして、新たにつくられた家が今までの
土蔵造りでないことに対する戸惑いだ。
﹁これらがあなたたちの住む家だ。合掌造りという﹂
740
合掌造りとは、日本の寒冷地で建てられてきた民家だ。
世界遺産にも登録されている岐阜県白川郷などが有名だろう。
屋根の素材は茅葺きで、手を合わせたような鋭い屋根の傾斜から、
合掌造りといわれている。
通気性・断熱性に優れており、その急勾配な屋根の角度は積雪に
対応するためのものだ。
なお、茅葺き屋根の家で最も恐れるべきは火である。
茅葺き屋根とは、謂わずもがな乾燥させたイネ科植物を束ねて屋
根としたものであるから、たとえ小さな火の粉であっても、一度屋
根に移ってしまえば忽ちにそれは広がって大火となってしまう。
そのため一軒一軒はかなりの距離をとってあった。
それに伴い、出血大サービスで︻厠︼と︻風呂︼を一家に一つ付
けている。
特にトイレが遠くにあるというのは、色々と不便であるからして。
とはいえ、︻井戸︼についてはさすがに一家に一つというわけに
はいかなかった。
各種メディアがないこの時代、井戸端会議などの連絡網は、多く
の情報を知る重要な役割を担っているだろうと考えてのことだ。
それにしても、これじゃあ町じゃなくて村だな、と俺は思った。
合掌造りの家々が点々と建ち並ぶ姿というのは、町というにはあ
まりに牧歌的な風景である。
まあ、一時のことか。︻時代設定︼が﹃現代﹄になりさえすれば、
彼らにはより便利でより住み心地の良い﹃現代﹄の家をプレゼント
したい。
﹁どうぞ中へ﹂
俺は皆を中に案内した。
741
玄関を潜ると、広い部屋の真ん中に囲炉裏があり、端には家と一
緒に︻購入︼した生活必需品が置いてある。
﹁冬はとても寒くなり、雪も降り積もる。だから暖かさが篭り、か
つ雪が屋根に積もらないよう、このような家にした。⋮⋮雪を知っ
ていますか?﹂
﹁白く冷たいものだと聞き及んでいますが、実物を見たことはあり
ません﹂
ジハル族長が皆を代表して答えた。
暖かいサンドラ王国に住んでいた彼らは、雪を見たことがないよ
うだ。
あの砂漠に程近い荒れ地でも、冬の気温が水が凍るほど低くなる
ことはあったが雪は降らなかった。降水がほとんどないせいである。
家の中は特に説明することもなく、内装と囲炉裏について軽く話
し、俺たちは外に出た。
﹁あの建物は⋮⋮?﹂
ジハル族長が指を差して恐る恐る聞いた。
ジハル族長の質問に対し、よくぞ聞いてくれましたといった風に、
俺は心に浮き立つものを感じた。
指の先に見えるのは、一際巨大で異様な建物。
縦42メートル、横29メートル、368坪の大きさのカマボコ
型ドームの倉庫である。
︻D型倉庫︼137億5000万円︵定価1億3750万円︶
﹁あれはカトリーヌの家です﹂
742
﹁⋮⋮え?﹂
俺が自慢気に答えると、驚いた様子を見せるジハル族長。
そりゃそうだ。俺がいかにカトリーヌを愛しているかを知っては
いても、あそこまで巨大な家を建てるほどだとは思っていなかった
だろう。
しかし、理由があるのだ。
﹁カトリーヌは⋮⋮ラクダは乾燥した地でしか生きられません。
つまりあの限られた空間で、空気を調節しないとすぐに病気にな
ってしまうのです﹂
ラクダは気温の変化には強いが湿気には弱い。
そのため、カマボコ型ドームの中は砂を敷き詰めて、エアコンで
除湿をしていた。
電力供給は外一面に並べた︻ソーラーパネル︼を利用する。
もちろん積雪のことも考えて、︻ソーラーパネル︼は勾配をつけ
ての設置だ。
こうしてカトリーヌの住居が出来上がったのである。
﹁なんと⋮⋮そうでしたか⋮⋮﹂
ジハル族長は恥じいるようだった。
なぜなのか。
カトリーヌの住居が何故あんなに巨大なのかという疑問を、口に
出さずとも考えたこと自体に後悔しているのだろう。
そう、カトリーヌはあのドーム型の倉庫から出ることはできない。
それはとても悲しいことだ。
743
しかし、あのかつての荒れ地に残しておくべきだったという後悔
は、俺には一切ない。
︻時代設定︼を﹃現代﹄にしたら、カトリーヌのためのどでかい
屋内公園を建ててやるのだ。
そうしたら、また他のラクダを連れてきたっていいだろう。
カトリーヌのための楽園をつくる。カトリーヌを絶対に幸せにし
てやる、という信念にも似た思いが俺にはあった。
一通り狼族たちに話は済んだ。
長い旅路で皆も疲れているだろう。
今日のところは、皆にはそれぞれの家で休んでもらうことにした。
夕飯の弁当と明日の朝のパンを渡すと、狼族たちは楽しげに家を
選んで、新たな住みかへと帰っていく。
その横で俺は﹁ジハル族長は俺と一緒に来てもらえますか?﹂と
ジハル族長だけを呼んだ。
ジハル族長を供にして、倉庫の中にカトリーヌを入れる。
入り口のスイッチを押すと、日の光が十分に入っていなかった薄
暗い倉庫内は、一転して明るくなった。
ジハル族長はギョッとした。
しかし、天井のライトを点けただけであるとわかると、胸を撫で
下ろすように落ち着きを取り戻す。
車両の存在によって、ライトという文明の利器に狼族たちが慣れ
きっている証拠だ。
ただ、中から見た倉庫の広さにはジハル族長も目を丸くしている
ようではあった。
特に天井。
天井の高さがどうも気になるらしく、ライトに目を細めながら上
ばかり眺めていた。
744
﹁こちらへ﹂
ジハル族長をそのまま倉庫内にある四角い家に案内した。
2LDKの平屋。
前回はあまりにも家が大きくて使いきれなかった。その反省を踏
まえた上での、俺の新しい住みかである。
家に入るとリビングの椅子に座ってもらい、︻ティーカップ︼と
︻お皿︼、さらにペットボトルの︻紅茶︼と︻クッキー︼を︻購入︼
。
テーブルの上の空の︻ティーカップ︼に、ペットボトルから︻紅
茶︼を注いだ。
﹁どうぞ﹂
﹁い、いただきます﹂
しかしジハル族長は、いただきますとはいったものの、口をつけ
ようとはしない。
どうも緊張しているらしい。
まるで初めて会った頃のようだ。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
言いにくそうに、口を開くジハル族長。
すると彼はやにわに椅子を降りて、床に跪いた。
何事かと驚いて、俺は体をわずかに後ろへ反らす。
﹁すみませんでしたっ! ゴビの裏切りは全て私の不手際です!﹂
745
そういうことか、と思った。
同族からの裏切り。
族長としてずっと気に病んでいたのだろう。
﹁終わったことです。確かに一名は裏切りました。ですが、その裏
切りに他の者は誰も加担しなかった。命を脅かされると同時に、命
も救われました。
俺は気にしていませんよ。むしろ他の全ての獣人たちが裏切った
中で、狼族だけが俺の味方であったことに恩すら感じている﹂
﹁ああ⋮⋮もったいない。本当にもったいないお言葉です﹂
﹁さあ、椅子に座って、お菓子と紅茶を楽しみましょう﹂
ジハル族長が椅子に座ると、今度は目の前の紅茶とお菓子に手を
つけた。
俺もクッキーを一つ手に取り、口に放り込む。うむ、うまい。
﹁どうですか?﹂
﹁とても美味しいです。お茶も、お菓子も﹂
ジハル族長も満足がいったようである。憑き物が落ちたように、
その顔は晴れやかだった。
さて、ここからが本題だ。
俺は、紅茶のペットボトルのラベルを指差して言う。
﹁それ、なんて書いてあるかわかりますか?﹂
﹁え、⋮⋮いえ、読めませんが﹂
746
﹁それは日本語と言います﹂
﹁ニホンゴ、ですか?﹂
﹁ええ、日本という国の言葉です。実をいうとですね、私は日本と
いう国から来ました。この大陸とは歴史も文化も習慣も違う国。
あまりに遠く、たとえるなら異世界とでもいいましょうか﹂
ジハル族長は反応に困っているようだ。
俺は構わずに話を続けた。
﹁人間はこれからも発展を続け、世界の至るところを征服するでし
ょう。
今ですら獣人は滅びの瀬戸際に立たされている。狼族も俺が死ね
ば果たしてどうなるか﹂
俺と狼族がこれから歩むべき道の話。
皆には後々、ゆっくりと説明していく予定ではあった。
しかし今日、ジハル族長にだけは全てを話しておこうと思い、こ
こに呼んだのだ。
﹁⋮⋮どうすればよいのでしょうか﹂
﹁あなたたちはこれから多くのことを学ばなければなりません。日
本の言葉を、日本の知識を。俺が死んでも、狼族が繁栄していける
ように。
人間の武器である数は大きな力です。対抗するためには知識とい
う巨大な力を手に入れなければなりません﹂
747
それから、今後の予定について話した。
俺がどのようなビジョンを描いているかも。
ジハル族長はまるで夢うつつの中にいるかのように、呆としてい
た。
知識酔いとも言うべきか、俺の話すことについていけなかったの
だろう。
だが、そのうちに理解できるようになる。
俺がそうするのだ。
やがて長い話が終わり、︻クッキー︼を手土産にジハル族長は帰
っていった。
748
65.新たな町 1︵後書き︶
今、新たに地図を作成中です。もう少しお待ちくださいm︵︳︳︶m
それからもう一つ。
皆さんの応援のおかげで、﹃町をつくる能力﹄の書籍化が決まりま
した。
この場を借りて、お礼申し上げます。
いつも読んでくださり、本当にありがとうございましたm︵︳︳︶m
削除などはありませんので、これからもよろしくお願いしますm︵
︳︳︶m
749
66.新たな町 2
目覚ましの電子音が聞こえ、俺は目を開けた。
体が沈むベッドの感触があり、視界に映るのは見慣れない部屋の
風景。
俺は、一瞬ここはどこだろうかと考えたが、すぐに現状に思い至
る。
新しい町、新しい家、新しい寝室。
﹁そうか。昨日とうとう新しい町をつくったんだったな﹂
呟きつつ、腕を伸ばして枕元の目覚まし時計のアラームを止めた。
自分の家ではない感覚はある。まあ、一週間もすればこの部屋も
俺にとって当たり前のものになるだろう。
そんなことを考えながら、ベッドから下りる。
少しばかりの肌寒さに椅子にかけてあった上着を羽織り、寝起き
特有の曖昧な思考のまま、俺は家の玄関の扉を潜った。
家の外はD型倉庫の中だ。
足下からはジャリッという砂の音がした。
﹁おはようカトリーヌ﹂
玄関の傍ではカトリーヌがペタリと腰を下ろしている。
声をかけると、彼女は一度まぶたを開けて、グエッと鳴いてまた
目を閉じた。
相変わらずの怠け者っぷりである。
750
﹁よしよし。よーし、よしよし﹂
カトリーヌの首を何度も撫でる。
迷惑だろうか。でも仕方がない、撫でたいんだもの。
ややあってカトリーヌの心地よい首筋の感触に満足すると、俺は
大きなシャッターの隣の扉から外に出た。
﹁うっ﹂
横合いから突き刺すような光を感じ、左手で顔を覆った。
東の丘から頭を覗かせる朝日が、とても眩しい。
さらに外気が風と共に頬へとぶつかった。
夏とは思えない涼しさだ。
気温はいかほどだろう。10度は下回っていないとは思うが、そ
れにしたってちょっと寒すぎるんじゃないか。
夏でこれなら冬はどれ程の寒さになるのかと早くも戦々恐々であ
る。
しかし今ばかりは、その涼しい風がいい刺激となって、俺の起き
抜けの思考を明瞭なものにしていった。
﹁新たな町か﹂
俺はぼそりと呟いた。
目の前には昨日つくったばかりの町が広がっている。
まだ町というには頼りない姿ではあるが、俺の能力が︻町をつく
る能力︼なのだから、町ということでいいだろう。
いずれ、本物の町のようにするのであるし。
俺は、朝日に照らされる町の姿を眺めて﹁よし、やるぞ﹂という
気になって倉庫の中に戻った。
家で身支度を済ませる。そののちはジハル族長の家に行き、おお
751
よそ一時間後に狼族たちを倉庫の前に集めるように指示をした。
ジハル族長だけにではなく、他の者にも今後について話さなけれ
ばならない。
皆が集まるまでの間に、︻朝礼台︼︻マイク︼︻マイクスタンド︼
ある物
を用意する。
︻アンプ︼を︻購入︼し、朝礼の準備に取り掛かった。
他にも昨日のうちに準備した
やがて、わらわらと二百人余りの狼族が集まった。
﹁フジワラ様、皆集まりました﹂
ジハル族長が狼族の集合を知らせる。
俺は頷いてから、朝礼台に上った。ジハル族長は朝礼台の隣だ。
台上から皆を見渡し、︻マイク︼のスイッチを入れた。
﹁まずは表彰式を執り行う。ミラ、前へ﹂
俺の言葉に皆は、なんだどうした、とざわめいた。
誰しもが、今後のことについて話すのだと思っていたのだろう。
それが表彰式。首をかしげるのも当然といったところだ。
少しして群衆の中から、目を白黒とさせたミラが前に出る。
﹁こちらに、台の上に来なさい﹂
ある物
を手渡す。
俺が言うと、ミラは戸惑った様子で台に上り、俺と向き合う形に
なった。
ジハル族長が、俺に
俺はそれを両手にもって読み上げた。
﹁表彰状。狼族のミラ、貴殿は砂漠の町において、命を賭してこの
752
ノブヒデ・フジワラの身を救った。
貴殿の勇敢な行動はまさしく狼族の誉れであり、またノブヒデ・
だ。
フジワラをして感謝に堪えないものである。よってその功績を讃え、
ある物
記念品を送りここに表彰する﹂
これが昨日の夜に書いた
︻賞状用紙・10枚入り︼3万円︵定価300円︶
よくある表彰状や感謝状とは違い、私情が多分に含んだ文章とな
っているが、まあ問題ないだろう。
文字については日本語。今後、日本語をよく身につけてほしいと
いう願いの現れだ。
そしてこの表彰には、ミラに対する感謝以外の意味もある。
俺は狼族たちと共に歩むことを決めた。だが、種族すら違う俺た
ちが共に歩んでいくためには、歩くべき道を整えなければならない。
その第一手がこれだ。
どんなに優れた民族であっても、狼族の中でただ一人裏切ったゴ
ビのような良くない者は必ず現れる。
そのため、そんな不心得者を極力出さないよう、模範となるべき
価値観を狼族の中で形成していかなくてはならない。
たとえばかつての世界にあった騎士道、武士道のような考え。
狼族たちには、これより誇りや名誉をよく重んじてもらうつもり
だ。
その一環としてこの表彰式を執り行ったのである。
﹁さあ、受け取って﹂
俺が表彰状を差し出して、ミラが言われるがままにそれを受けと
753
る。
依然として彼女の顔には困惑の色が浮かんでいた。
﹁あとは、これを﹂
その首にペンダントをかけた。
すると、事態についていけずに呆然としていた狼族の者たちも、
ようやく現状を理解した。
﹁そうだ! よくやったぞミラ!﹂
﹁お前がゴビの恥を雪いだんだ!﹂
﹁もっと笑いなさいよ! かわいい顔が台無しよ!﹂
満場の拍手とミラを讃える声が聞こえてくる。
それに伴い、ミラの頬が薄く赤に染まっていった。
﹁改めて言うよ。ありがとう。君のお陰で俺は今ここにいる﹂
﹁え、あ⋮⋮は、はい﹂
どうもミラは緊張しているようで、声が裏返っている。
普段のツンとした彼女とのギャップに少しおかしくなり噴き出し
そうになったが、なんとか堪えた。
﹁俺だけじゃない。狼族の未来を変えたのも君だ。君がいたから、
俺と狼族は今こうしてここにいる﹂
もしあの時、ミラが俺を庇っていなかったらどうなっていたか。
俺は死んだのか、生き残ったのか。それはわからない。
だがもし生き残ってあの町を脱していたら、俺は誰も信じること
754
なくどこかでカトリーヌと共に過ごしていただろう。
﹁表彰状を飾る額縁は後で渡そう。さっ、元の場所へ戻りなさい﹂
緊張しているのか、ミラが右の手足と左の手足を同時に出して、
群衆の中に戻っていく。
誰かがそれを笑うと、堰を切ったように爆笑の渦が巻き起こり、
俺も堪えられなくなって笑ってしまった。
後ろ姿で見れないが、ミラの顔はもう熟れた林檎のように真っ赤
だろう。
そして、こうして気兼ねなく笑っていられるのもミラのお陰なの
だろうと思い、心の底からありがとうという気持ちが溢れ出した。
ミラが列中に消えると、俺は手を軽く挙げる。
俺の意を察して、笑い声は段々と小さくなっていった。
鳥の鳴き声、草が風にそよぐ音が辺りに響く。
遠くの家からは赤子の鳴き声も聞こえた。冷たい風が赤子の体に
障らないようにと、赤子とその母親には家での待機を命じてある。
どの音も全て自然の音であり、静かだと俺は感じた。
皆の瞳は俺に向いている。
真剣な眼差しだ。
俺はそれに応えるよう、ゆっくりと口を開いた。
﹁我々は、この地を新たな住みかとする。しかし、やはり脅威はあ
る。
たとえば環境。
かつての地と違って、この地はとても寒い。また、どんな災害が
あるかもわからない
そして人間。
人間は強い。我々はこれからもその脅威にさらされる。それゆえ、
755
身を守る術をもたなければならない。
しかし、である。かつての町には数千人もの住人がいたが、今は
三百人にも満たない。これでは町を守ることは困難を極めるだろう﹂
皆が俺の言葉によく耳を傾けている。
眼下にある一人一人の顔が不思議とよくわかった。
そういえば、以前の俺は狼族を全体的なものとしてしか見ていな
かった気がする。
それなのに今、俺の瞳は個人をしっかりと捉えている。
変われば変わるものだ。だが、悪くない変化だと思う。
俺は言葉を続けた。
﹁だから、あなたたちは変わらなければならない。そう、かつての
町で大砲の使用法や、車の操縦を覚えた時のように。
俺が人間すら持ち合わせていない知識を与えよう。大砲や車が扱
えるだけではない。その仕組みを理解し、自らの手でつくりだすこ
とができるようになるのだ。
どんな脅威にも負けない強い町をつくろう。俺がいなくなっても、
何百年、何千年と繁栄できるような理想郷を。
がつくるんだ!﹂
俺だけでは限界がある。人間の町などには負けない最高の町を俺
たち
マイクの音声は既に切っている。自分の言葉を、自分の喉だけで
伝えたかったからだ。
ふと、こんな感情的だっただろうかと、心の中で思わず自問した。
だが、感情的なのは何も俺ばかりではない。
﹁今日ここに新たな町の設立を宣言する!﹂
空の極まで届けといわんばかりに、目一杯の声で俺は叫んだ。
756
わずかの間。それから、大歓声が巻き起こった。
︱︱やるぞ!
︱︱やってやる! 爛々と輝く瞳と、吠えるような声。
皆、やる気に満ちている。
人間に負けない、強い町をつくる。何度も住みかを奪われている
からこそ、彼らは強い意思をもってその目標に当たることができる
のだ。
﹁さしあたって町の名前を随時募集しているので、希望があったら
言ってほしい﹂
俺はマイクのスイッチを入れて、最後に一言付け加えた。
こうして今日ここに、俺たちの新たな町の歴史が始まったのであ
る。
その日の午前は、各人ごと環境整備を指示した。
その間に、俺自身は町中に︻時計塔︼を建て、ジハル族長の家と
︻有線電話︼を繋ぎ、さらに勉強をするための小さな︻講堂︼をつ
くった。
午後になると、町は早くも始動する。
時間は有限なのだ。
昨日、ジハル族長に語ったような詳しい話は追々するということ
で、まずは日本語を覚えてもらう。
そうすれば、本を読むことができ、俺が教えなくても知識を得る
757
ことが可能になる。
ゆくゆくは各専門分野に分かれて、町を運営していくことになる
だろう。
俺は、講堂に時間ごと年齢別に人を集め、日本語の授業を行った。
俺自身、教師役なんていうのは初めてのことで、なかなか新鮮で
あったといえよう。
大人も子どもも皆、真面目で質問にも積極的だ。
部族の未来がかかっているということをよくわかっている。
この分なら、早いうちに芳しい成果が期待できるかもしれない。
そして、新たな町をつくってから四日が過ぎた。
そろそろ領主としての務めも果たさなければならない。
﹁ミラ、ガルバ、ボイグ︱︱﹂
ジハル族長が名前を呼び上げていく。
倉庫の前に集められた十名。
狼族の中でも、人間に近い顔をした者ばかりだ。
﹁これからフジワラ様はご自身の領地にある人間の村へ行く。お前
たちはその護衛だ。ミラを隊長とする﹂
隊長はミラ。まだ若いが、彼女には俺の命を救ったという確かな
実績がある。
異論をもつ者はいない。
﹁道中フジワラ様がニホンゴを直々に教えてくださるそうだから、
しかと学ぶように﹂
758
﹃はい!﹄
ジハル族長の言葉に、護衛たちは勢いよく返事をした。
﹁なにか質問は?﹂
ジハル族長の説明が終わり、俺は護衛たちに尋ねた。
すると、手を挙げたのはミラ。
珍しいとも思ったが、今の彼女は隊長職。
気になることがあれば、質問するのは当然のことだ。
﹁この人数で大丈夫でしょうか﹂
﹁どういう意味かな﹂
﹁わずか十人の護衛で人間の村に行くことは危険ではないか、とい
うことです﹂
王都ドリスベンに行く際には、護衛の人数が少なくても仕方がな
かった。
変に疑われても困るからだ。
しかし、今回は己の領地のこと。
獣人にバレない容姿の者であるならば、何人連れていこうとも問
題はない。
要するに、ミラはもっと人数を増やしても問題ないのではないか、
と言っているのだ。
﹁何も戦いに行く訳じゃない。だから問題ないよ﹂
とはいっても、油断はしない。
759
銃を手にしているし、万が一のことも考えている。
いきなりなことで、動けなくなるようなヘマはもうしない。
俺は重ねてミラに言う。
﹁それに俺は彼らにとって、幸せを運ぶ天使のようなものだから﹂
﹁幸せ⋮⋮ですか?﹂
﹁ああ﹂
俺は車を運転しながら、パネルを操作。
ミラの前に小さな泥が一つ湧き、ある姿を形作った。
それは茶色握りこぶしほどの大きさで丸みを帯びている。
﹁これは⋮⋮?﹂
ミラがぼこぼことした不格好なそれを手にとって尋ねた。
俺は自慢するように答える。
﹁︱︱ジャガイモさ﹂
このジャガイモこそが、人口1万人を得るための俺の秘策である。
760
67.村とジャガイモ 1
人口一万人。これを達成するのは並大抵のことではない、と俺は
考えていた。
全てがいい方へいい方へ進んだ以前の町であっても、七年という
長い年月をかけて最終的な町の人口は4千人にすら到達しなかった
のだ。
この地に新たな町の住人となる獣人がはたしてどれだけいるか。
そう考えた時、その期待はあまりに薄い。
だが、待ってほしい。
王都ドリスベン。その大都市は七万人もの人口を抱え、うち二万
人が流民同然の困窮した暮らしをしているのだという。
ここに俺は希望を見出した。
領内の村に困窮した民たちを移住させて人口一万人を達成すると
いう、新たな計画を打ち出したのである。
そのために必要なのが、キク類ナス科ナス属の多年生植物、学名
をソラナム・ツベローサム︱︱いわゆるジャガイモだ。
ジャガイモは南米アンデス山脈を原産としており、3000メー
トル以上の高地で自生するのだから当然寒さに強く、また痩せた地
でも十分に育つ。
かつての世界でも、南米から海を越えて運ばれたそれは、中世ヨ
ーロッパの人口爆発の一助となっていた。まさにこの地にこそふさ
わしい作物であるといえよう。
これを用いて村の食料自給率を上げ、人を呼び寄せるのだ。
俺が護衛を連れて町を発ったのは早朝のことであった。
馬運車に馬を載せ、その後部に馬車の荷台を繋ぎ、装甲車と馬運
761
車での移動となる。
馬車は、先の領地購入の折、胡椒を運ぶために王都で買ったもの
だ。
装甲車を先頭にして、俺たちは領内にあるという唯一の村へ向け
て進んだ。
村に程近い場所にまで来たところで車を停めて、馬車に乗り換え
る。
車は隠し、数日間の食事を残して見張りを置いた。
そして、昼の一番暖かい時間が過ぎた頃、俺たちは村に到着した。
田畑が広がり、その中に民家が疎らに建っている。
領主の家があるという村である。遠くから見たところ、全体的に
大きい村であるように感じた。まあ、他の村を知っているというわ
けではないが。
その一番端の家。
近づいてみてわかった。家の手入れがされていない。人が住んで
いないのだ。
村の外側に位置する家は、空き家ばかりであり、周囲の田畑も荒
れ果てている。
村の人口の減少は明らかであるといえよう。
村の中ほどまで進む。
さすがにここまでくると田畑が荒れているということもなく、麦
畑が広がっていた。
その中に農作業の手を止めて、様子を窺うようにじっとこちらを
見つめている者があった。
﹁村長はいるか。私はこの地の新たな領主となったフジワラ男爵だ﹂
俺が口にしたのは、己の力を誇示するような強めの言葉。
762
貴族になるうえで、エルザから平民に対する態度に気を付けるよ
うにと言われている。
貴族が侮られるということは国の信用にもかかわることであり、
何かあれば領主にまで責任が及ぶとのことだ。
普段からその威厳を民に示すことは、貴族としての欠かしてはな
らない務めなのである。
﹁は、はい、少しお待ちを!﹂
俺の言葉に、村人は事態を察して駆け足で去っていった。
村長なりを呼びに行ったのだろう。
俺は誰もいなくなった麦畑を見た。
いいのか悪いのかわからない。前の町では作物の育て方を教えた
が、実際にそれを行ったのは獣人たちで、俺自身が直接農作業に関
わったということはないからだ。
なので護衛の狼族に、どうだと意見を聞いた。
﹁あまり実っていませんね﹂
﹁そうか﹂
麦は寒冷に強い。
しかし不作だということは、やはり土地が痩せているのだろう。
もしくは、土壌の酸度の問題か。
村人が戻ってくるまで時間がかかりそうなので、︻酸度測定器︼
を︻購入︼して土に刺す。
数値は5.8。弱酸性といったところだ。
ジャガイモを育てるのには悪くない数値だと思う。
すると、護衛の狼族たちが、何をしているのだろうかとでもいい
たそうに疑問の色を顔に浮かべた。
763
今までは、狼族たちに対して説明もおざなりな部分が多数あった。
俺はただこうするようにと指示するだけだったのだ。
しかしこれからは違う。
俺は、酸度についてよく説明し、実際に︻酸度測定器︼にも触ら
せた。理解したかどうかは怪しいところであるが、皆、興味深そう
ではあったとだけいっておこう。
今はそれでいいと思う。
しばらくして、先ほどの村人が一人の男性を連れて戻ってきた。
﹁この村の長をやっとりますペッテルという者です﹂
中肉中背、その面には手入れのされていない髭を蓄えた男。
若い、と俺は思った。
四十代。いや、髭がより年嵩を増やして見せていることを考慮す
れば、実は三十代であることも考えられる。
そんな若い者が村長をしている。
老人が生きていけないほどに村の生活が苦しいのだろうか。
そんなことを思いつつ、俺もペッテル村長に名乗った。
﹁私がこの村を治めることになったフジワラ男爵だ﹂
ピラリと懐から証明書を取り出して見せる。
字を読めるのだろう、ペッテルはそれに目を通して、﹁わかりま
した、よろしくお願いします﹂と頭を下げた。
﹁以前の領主が住んでいたという館があると聞いたが?﹂
﹁へえ、確かにあります。ですが長年使ってなかったので、とても
住めたもんじゃありませんよ?﹂
764
﹁とりあえず案内してくれ﹂
まずは泊まる場所の確保が優先だ。
俺たちはペッテル村長の案内で領主の館に向かった。
ペッテル村長の視線がチラチラと護衛の狼族たちの方へ向く。
肌を極力隠した異様な風体である。
気にならないという方がおかしいのかもしれない。
だが、俺は貴族でありペッテル村長は平民。
たとえどれだけ気になろうとも、村長は無用の質問を控えねばな
らなかった。
﹁ただの護衛だ。気にするな﹂
俺がそう声をかけると、ペッテル村長は﹁すいません﹂と一つ頭
を下げて、もう狼族たちに視線をやることはなくなった。
それ以上、俺たちは何かを話すことなく歩いた。
途中には何人もの村人を見かけた。老人もおり、先ほどの老人が
生きていけないほど苦しい生活環境という考えは杞憂であったとい
えよう。
領主の館は、村の最奥ともいうべきか、農家を抜けたところにあ
った。
長年放置されていたという話の通り、外壁には青い苔がこびりつ
き、葦が絡み付いている。
日本にこんな洋館があれば、幽霊屋敷とあだ名されそうなくらい
不気味だ。
特に館の大きさがそれに拍車をかけていた。
あまり住みたくはないな、というのが俺の感想である。
﹁中はもっとひどいですよ﹂
765
俺の心を察したかのように、ペッテル村長が言った。
﹁よいしょっと﹂
村長の手によって、ぎぎぎという錆びついた音と共に入口の大き
な扉が開かれた。
チチッという音は、光を嫌った野ネズミの鳴き声だ。
中に足を踏み入れる。
薄暗い。木の板で塞がれた窓の隙間から光が差し込んでおり、幻
想的な雰囲気を俺に感じさせた。
それにしても埃まみれだ、おまけにカビ臭い。
とても住めたものではないだろう。
﹁あの﹂
﹁なんだ﹂
﹁よろしければ我が家を使ってください。村の者を集めて、今日と
明日でなんとか掃除を終わらせます﹂
﹁ふむ﹂
じきに日が暮れる。館がこの状態では他に選択肢はないだろう。
﹁そうさせてもらおう﹂
俺たちは場所を村長の家へと移した。
他の家よりも二倍近く大きいのが、村長の家である。
村長の家族が荷物を手に家を出ていくのを眺める。子だくさんで
結構な大家族のようだ。老人もいる。
766
どこへ行くのかと村長に尋ねたら、きれいにしている空き家があ
るので、そこに移動するのだという。
﹁では、後のご用は娘にお申し付けください。
ペーニャ、失礼のないようにしっかりとご奉仕するのだぞ﹂
家についての軽い説明の後、一番大きな娘︱︱村長の長女だろう
︱︱が残された。
かわいそうに、彼女は俺に頭を下げた姿勢のまま震えている。
奉仕と村長は言った。
その言葉を単純に捉えてはならない。もっと卑しい意味合いが含
まれているのだろう。
領主のさじ加減一つで村の運命が決まる。ならば村長としてやる
べきことは何か。つまりはそういうことだ。
だが、あいにくと俺の道徳観念は日本のものである。
﹁いや、その娘は必要ない。村長、皆に指示が終わったらお前が来
い﹂
﹁え!?﹂
俺の言葉に目を剥いて驚くペッテル村長。
何をそんなに驚くことがあるのだろう、話が聞きたいだけなんだ
が。
気づけば、ペーニャと呼ばれた娘も顔を上げてギョッとしている。
﹁わ、わかりました。精一杯務めさせていただきます﹂
頬をほんのり赤くして恥ずかしそうにどこかもじもじとしつつ村
長は言う。
767
その仕草はまるで乙女のよう。でも、かわいいとかはなく、ただ
気持ち悪さを覚えるだけであった。
そこで俺はようやく理解する。ペッテル村長がどんな勘違いをし
ているかを。
﹁か、勘違いするなよ! は、話を聞きたいだけだ!﹂
口にした瞬間、しまったと思った。
うろたえてえてしまったのだ。
これではまるで己の言葉をごまかしているようで、本当にその気
があるようではないか。
自然、顔が熱くなる。心臓もバクバクとその鼓動を早くしている。
俺は誤解を解くために、さらに口を動かした。
﹁違うからな! 男が好きとかそんなんじゃないからな!﹂
なんだろう、ドツボにはまっていく気がする。
護衛の狼族たちの顔も見れない。
俺はその場を脱するように、早足で村長の家に入った。
﹁変装は解かないように。村長が来たら知らせてくれ。あと、俺は
普通に女の子が好きだから﹂
俺に続くように家に入ってきた護衛たちに、それだけ言い残して
奥の部屋にいく。
恥ずかしい。羞恥心がいまだ俺を苛んでいる。
俺は椅子に座ると、気分を変えるため︻漫画雑誌︼を︻購入︼し、
ページをめくった。
DOKATER×DOKATERはまた休載に入るようだ。全く、
ろくなことがない。
768
やがてミラが、村長が戻ってきたことを知らせに来た。
それ以外にも何か言いたそうなそぶりが、俺の心を傷つけた。
﹁入ってもらえ﹂
村長を部屋に入れる。
もちろん護衛の狼族たちも一緒だ。
村長は護衛を見て、あからさまにほっとした様子である。
もうめんどくさいので、俺は何も言わない。
﹁座れ﹂
俺が命令すると、村長は床に膝をついた。
互いは貴族と領民という立場。
同じ高さの椅子に座ることはありえない。
﹁領内のことについて話してもらおう﹂
それから日が暮れるまで話を聞いた。
以前はこの地にもちゃんとした領主がおり、村もたくさんあった
らしい。
しかし領主の一族が没し、その血筋が途絶えると、各村の住人は
続々と少しでも暖かく豊かな土地を求めて南へと去っていった。
作物が育ちにくく、主産業は林業と牧畜。そのため、各村々は、
木がなくなればそのたびに別の土地へと移るという、領内の土地を
点々とする生活をしており、皆、この地に対して思い入れなどはな
かったのだ。
領主という縛りがなくなり、仮の主として税をとっていた南に隣
接する領主も、己の治める土地を豊かにするために南への移住を推
奨していたともなれば、この土地に留まる理由もないであろう。
769
そして唯一残ったのが、領主が住んでいたこの村なのだという。
領主が居住していたということもあり、農作を生業としていたし、
領内でも南に位置しているため、わざわざ南の領地に移るよりは、
と考えたそうな。
獣人についても聞いた。
冬が近くなると、どこからやってきたのかエルフの一族が村に薪
をもって物々交換に来るらしい。
︱︱エルフ。
彼らについては、エルザや獣人たちより話を聞き、俺も及ばずな
がら知識を持っている。
エルフとは白い肌と長い耳もち、人間とよく似た容姿をしている
種族だ。しかし彼らが人間として扱われることはない。
獣人と変わらぬ括りである。
かつての世界でよくある、人間の性奴隷にされるという話もない
ようだ。
なぜならば、エルフを使って性欲を満たすという考えが人間には
ないのである。
大陸に君臨するラシア教の教義は、異種族間の交配を大罪として
いる。
人間とは絶対の存在。
エルフは非常に整った顔立ちをしているそうだが、ラシア教の教
義がこの世界の者たちの常識であるため、綺麗だとか美しいという
感情をエルフに持つことはない。
黒という色が黒と呼称されているのが決して覆らない常識である
ように、ラシア教がエルフを人に劣る醜き者とすれば、この大陸の
者にとってはそれが決して覆ることのない常識となるのだ。
まあ、エルフからしてみたらラッキーだったろう。ラシア教の教
770
義がなければ今頃どうなっていたか、想像に難しくないのだから。
本当に何が幸いするかわからないものだ。
他の獣人についても尋ねてみたが、この近くにはいないのではな
いか、ということである。
日が暮れて話を打ち切ると、食事の世話は必要ないと言って、村
長には出て行ってもらった。
翌朝、村長を供にして館の様子を見に行くことにした。
館に近づくにつれて、わいわいがやがやとした声が聞こえる。村
人たちが集まり、掃除を頑張っているようだ。
俺がいてはやりにくいだろうと思い、その場を去ることにする。
ならば後は、いよいよ本題に入るとしよう。
﹁村長、重要な話がある﹂
そう言って、村長を馬から切り離された車台に案内した。
そこには、いっぱいに積まれたジャガイモがある。
無論、種芋であり、能力のおかげもあって病原菌を一切持たない
ものだ。
﹁これは⋮⋮?﹂
﹁ジャガイモという。寒冷や痩せた土地にも強い作物だ。今後はこ
れを村で育ててもらう﹂
﹁これを⋮⋮ですか?﹂
ん? どうも反応が悪い。というか、明らかに村長の顔色が曇っ
た。
771
﹁手に取ってみても?﹂
﹁ああ﹂
村長はジャガイモを一つ取り、まじまじと眺める。
表情は依然として硬いままだ。
﹁あの、食べ物なんですよね?﹂
﹁ああ﹂
﹁その⋮⋮非常に言いにくいことなんですが、この地では麦も栽培
していますし、わざわざ別の作物を育てる必要はないといいますか
⋮⋮﹂
なるほど。村長は乗り気でないらしい。
確かに初めて見る者にとって、このでこぼことした丸い作物はい
びつであり、食物とするには抵抗があるのだろう。
今すぐ飢えて死ぬというわけでもなければ、わざわざ馴染みのな
い作物を育てるなんてことは労力の無駄でしかない。
繰り返しになるが、この地は作物が育ちにくい寒冷で痩せた土地。
なればこそ足りない分は、より多くを育てることで賄わなければな
らない。
見も知らぬ作物を育てる余裕などはないのだ。
しかしそれならば答えは簡単だ。
その余裕をつくり出せばいいまでのことである。
﹁村長の危惧もわかる。今年の税は、このジャガイモを植えてその
収穫分のみで構わない。麦や家畜からは税を一切取らないと約束し
よう﹂
772
﹁それは本当ですか!?﹂
ペッテル村長は目の色を変えた。
非常にわかりやすい反応である。
﹁ああ、本当だ﹂
胡椒の貿易の味を知ってしまった俺にとって、一つの村から得ら
れる税などははした金でしかない。
今後への投資と考えれば安いものだ。
それからジャガイモの説明が始まった。
芽出しから、土壌づくり、植え付け、水やりの仕方、芽かきや増
し土、収穫時期などなど。
ジャガイモの最適温度は20度前後。寒冷地の場合、春植えが基
本であり時期があまり良くないが、まあ仕方がないだろう。
今回はお試しのようなものだ。
字が読めるようなので、昨晩のうちに説明を書いておいた羊皮紙
も渡しておく。
そして俺たちは一週間ほど村に滞在し、村長に領内を見て回ると
言って村を出発した。
◇
これは信秀が初めて村を訪れてから二週間後のことである。
場所はドリスベンの王城の一室。
その部屋の主イーデンスタムのもとには、ある物が届けられた。
773
﹁これが、フジワラ領で栽培され始めたものか﹂
﹁は、その通りです﹂
ゴロゴロと机の上に転がる茶色くでこぼことした丸い物体の数々。
ところどころには、にょきりと少し気持ち悪さを感じさせる芽が
生えているそれらは、言わずもがなジャガイモである。
信秀が領地を購入して以後、当然のことながら、イーデンスタム
は胡椒の秘密を探るためにフジワラ領へ密偵を放っていた。
その成果がこれである。埋められたものを幾つか掘り返して持っ
てきたのだ。
﹁ふーむ﹂
イーデンスタムはジャガイモを手に取って眺め、時には鼻を近づ
けて匂いを嗅いだ。
一通り気が済むと、ジャガイモを机に置いて密偵に尋ねる。
﹁して、どのようにしてこれが胡椒となるのだ﹂
見たこともない作物である。フジワラ領で栽培され、色も茶色。
となれば、このジャガイモが胡椒であると考えるのは仕方のない
ことであった。
﹁村人の話では栽培方法しか聞かされていないようです﹂
密偵は村人の一人に金を与え、密かにその詳細を聞いている。
しかし信秀が村長に教えたのは栽培の仕方のみ。
どのようにして食べるのかなど村長は聞かされていなかったし、
そもそも興味がなかった。
774
そのため村人が知っていることも、栽培の仕方のみである。
﹁加工の仕方はあくまで秘密というわけか。ポーロ商会め、味な真
似を﹂
歯噛みするイーデンスタム。
しかし、そうであるならば、己で調べるしかない。
イーデンスタムは、机の引き出しからナイフを取り出して、ジャ
ガイモの一つを切り分ける。
中は黄色。水気を帯びている。
﹁ふむ﹂
イーデンスタムが己の白い長髭を、愛妾の髪を扱うかのように優
しく撫でた。
思案する時の、彼の癖である。
﹁色的にこの皮が怪しいのう。ちょっぴり緑色なところもあるが、
茶色であるし。よし、実際に食してみるか﹂
食物に関しては、古来より舌にて検分するのが習わしというもの
だ。
こうしてイーデンスタムとその密偵は皮を細切れにして、生でそ
のまま食べてみたり、火であぶったりと色々しながら、胡椒の謎を
探った。
ところでジャガイモの芽や緑化した皮にはソラニンという毒があ
るのは、ジャガイモが身近にある者ならば誰もが知っていることだ
ろう。
その毒は腹痛、下痢、頭痛、めまいを引き起こし、時には死にさ
え至ることがある。
775
中世ヨーロッパの時代、南米より帰る船の上でジャガイモを食べ、
このソラニンという毒に当たり、ジャガイモのことを悪魔の実と呼
んだのは有名な話である。
﹁ぐうう∼﹂
ある大臣の私室から聞こえる呻き声。
その日、城では二名の者が床に臥せった。
それがイーデンスタムと密偵の者であることは、語るまでもない
ことだ。
﹁ぐうう、ポーロ商会め、謀りおったな∼!﹂
ベッドの中で延々と怨嗟の声を吐きつづけるイーデンスタム。
その声は部屋の外、廊下の際にまで聞こえていたという。
なお、イーデンスタムの見舞いに部屋を訪れた若き女王オリヴィ
アが﹁あら?﹂と机の上に転がるジャガイモを見つけて、塩茹でに
して食べてみたりするのだが、それはイーデンスタムの知らない話
である。
776
68.村とジャガイモ 2
﹁よし、解散だ。ジハル族長には俺から言っておくから、各人今日
は休むといい﹂
町に戻ると、車両を︻D型倉庫︼の前に停めて、護衛たちには暇
を出した。
すると遠巻きにいた狼族の子どもたちが﹁ふじわらさま!﹂﹁ふ
じわらさま!﹂と近寄ってくる。
道端で遊んでいたところ、車を見かけてここまでついてきたのだ。
話が終わるのを窺っていたのだろう。
﹁ふじわらさま! ﹃こんにちわ﹄!﹂
﹁﹃こんにちわ﹄!﹂﹁﹃こんにちわ﹄!﹂
日本語で﹃こんにちわ﹄という言葉を口にする子どもたち。
褒めてもらいたいのか、覚えたばかりの言葉を使いたくてたまら
ないのか。
子どもたちは、自分の勉強の成果を誇るように日本語で挨拶をし、
俺は思わず嬉しくなって、ウンウンと頷いた。
﹁はい、﹃こんにちは﹄。ほら、︻金平糖︼をやろう﹂
手早い操作で﹃町データ﹄を呼び出して、︻金平糖︼を︻購入︼
し、一粒ずつ配っていく。
﹁ふじわらさま、﹃ありがとう﹄!﹂
777
︻金平糖︼を受け取った子が、今度は日本語でお礼を言う。
俺はその頭を軽く撫でた。頭の上にある耳のさわり心地がとても
いい。
子どもたちは頭を撫でられる度に、目を細める。
俺もまた目を細めているのだろう。
﹁ふじわらさま、﹃さようなら﹄!﹂
﹁﹃さようなら﹄!﹂﹁﹃さようなら﹄!﹂
﹁ああ、さようなら﹂
別れの挨拶まで日本語で済ますと、子どもたちはまた遊びに戻っ
た。
順調だ。流石は子ども、飲み込みが早い。
遊ぶような感覚で日本語を習得していっている。
﹁負けていられないな﹂
その場で一連のやり取りを眺めていた護衛の狼族たちへと、から
かうように言った。
ミラは﹁うっ⋮⋮﹂と唸り、他の者も顔をしかめている。
やる気はあるが、勉強は苦手だという表情だ。
だが、これは仕方がないと思う。
大人と子どもでは、言葉を使い込んだ年数が違う。
理論的に何かを学ぶのならば、大人の方が有利であるが、言語の
ように感覚的に身につけなければならないものに関しては、頭の柔
らかい子どもの方が有利だ。
﹁まあ、向き不向きもあるし、自分のペースで覚えていってくれた
らいいよ﹂
778
俺の言葉に、ミラたちは明らかにほっとした顔をした。
そもそもミラたちに日本語の能力はあまり求めていない。
護衛の仕事はあくまで俺を守ることだ。
そしてこれは、彼ら以外にもいえることである。
語学の習得が芳しくない者には、農作業のような技術的でない仕
事に従事してもらうことになるだろう。
この考えは、決して見下したものではなく、適材適所というやつ
だ。
それに農業だって大切な仕事である。行う者がいなければ困る仕
事だ。
職業に貴賤はない。住人たちは互いが互いを補い合って、町とい
う体を動かす。
優秀な者はいっそうの評価を与えるべきであるが、だからといっ
て頑張って町に尽くす者を蔑ろにはせずに、町を運営していきたい。
しかし、なかなか難しいものだとも思う。
人の心は難しく、そこに優劣があれば、優れた者は己を誇り、劣
る者は葛藤する。
度を過ぎれば、優れた者が自尊心を満たすために、劣る者を攻撃
するかもしれない。
誰もが仲良くなんていうのは、机上の空論でしかないのだ。
だが、やってみなければわからない。
少なくとも俺は挑戦できる立場にある。やらないうちからあきら
める手はないだろう。
なんにせよ、それらは今後の課題の一つだ。
779
護衛たちが己の家に足を進め、俺は講堂へと向かう。
講堂では、俺が残したプリントを手にジハル族長が教鞭をとって
おり、休憩を待ってから、俺は無事に帰還したことを伝えた。
ジハル族長からは不在間の報告を受け、その後は家に戻り、数日
ぶりのカトリーヌとめちゃくちゃに戯れた。
ジャガイモの収穫までは村と町とを行き来する日々が続く。
それに合わせて、村の領主の館と町との間にゴムで被覆した銅線
︱︱電話線を繋いだ。
全て手作業である。
トラックの荷台に銅線を巻いた大型の筒状ドラムを括り付け、そ
のドラムをくるくると回して銅線を引き、地に張られた銅線は人目
につかぬよう穴を掘って埋めた。
距離が距離だったので、とても大変だった。
⋮⋮狼族たちが。
俺は指示していただけなので、そう大変でもない。
ところで、この電話線に関して︻町をつくる能力︼があれば能力
で設置するだけではないのかと思うかもしれないが、それは違う。
︻町をつくる能力︼はあくまでも﹃本拠地﹄である町の中だけの
能力。
﹃本拠地﹄以外で能力を発動する場合は、俺という存在が近くに
いなければならない。
たとえばかつての町の南につくった牢獄。
あれは今もそのまま残っているはずだ。
あの牢獄を売却するためには、俺がその近くにいかなければなら
ないのである。
780
これは、︻時代設定︼を成長させる条件でもある人口一万人とい
う条件にも関わってくる。
仮に領内の村に人を流入させて人口が一万人になっても、当該の
条件を達成したことにはならない。
なぜなら、︻町をつくる能力︼が﹃本拠地﹄と認めているのは俺
と狼族が住む町であり、領内の村はそれに含まれないからである。
では、領内の村に一万人を集めても意味ないのではないか、とい
う疑問が持ち上がる。
しかし、意味ならある。
﹃本拠地﹄と道などの人造物を繋げることで、村は﹃本拠地﹄の
一部になるのだ。
なので、俺は領内の人口一万人と資金一兆円に到達したならば、
﹃本拠地﹄の町と領内の村とを道で繋げるつもりだ。
︻時代設定︼が︻現代︼になれば怖いものなどなく、町を隠す必
要もない。
何かあっても力でねじ伏せることができるだろう。
ちなみに、俺の支配下にない集落と道を繋げても意味はない。
これが厄介なところで、︻町をつくる能力︼は、他人の支配下に
ある集落を道で繋げようとも認識しないのだ。
なんだろうか。
︻町をつくる能力︼は確かに俺の能力なのだが、どうにも思い通
りにいかないというか、振り回されているなあ、という気がする。
まあ、そういう能力だとあきらめるしかないのだが。
とにかくも、電話を繋いで町と村との連絡が容易になると、俺は
領主として人間の村に留まることが増えるようになった。
781
村でジャガイモを植えてから、およそ三カ月が過ぎた。
秋が深まり、吹きすさぶ風がより冷たさを増した頃、ジャガイモ
の花が開き、とうとう収穫と相成った。
俺の指示の下、村人たちが手に手に農具を持って、土の中からジ
ャガイモを掘り起こしていく。
結果、ジャガイモの収穫は飢えた種芋の5倍ほど。
農業の本を読んだところ、プロの農家ならば失格といっていい数
字らしいが、よしとしよう。
環境と植えた時期を考えたら、順当な収穫量だ。
あとは、村人たちをジャガイモに親しませることが肝要。
そこで、今日はそのままジャガイモの試食会となった。
俺がジャガイモの食べ方というものを、村人たちに教授しなけれ
ばならない。
野外にて各家から持ち寄った机を並べ、その上には食器類が置か
れる。
地面には、円を描くように石を積んで即席の竈をつくり、そこに
塩水を張った大鍋を置いて、薪を燃やした。
しかし村長以下、村人たちの表情は優れない。
ジャガイモを見て、こんなもの本当に食べられるのか、という顔
だ。
唯一、子どもたちが、日頃と違ったイベントにワクワクとした表
情を覗かせているだけだった。
村人たちにジャガイモの皮を剥かせつつ、芽や日に当たって緑化
した皮に毒があることを説明する。
782
村人たちは、毒と聞いて目を丸くする者や顔をしかめる者など様
々。
俺自身、普段食べているジャガイモに毒があるなんて聞いた時は、
驚いたに違いない。
もっとも、あまりに昔過ぎて覚えていないのだけれども。
ジャガイモの皮が剥き終わると、それらを籠の中に入れて、ブク
ブクと沸騰し始めた大鍋の中に浸けた。
それからしばらくして︱︱。
﹁もういいかな﹂
鍋からジャガイモを一つ取り出し、皿に置いてフォークを刺す。
フォークはズブリと抵抗なく刺さり、そこからジャガイモは二つ
に割れた。
いい塩梅である。
﹁よし、頃あいだ。ジャガイモを全て引き上げろ!﹂
村人たちの手によって、沈めた籠がザバっと水を切る音と共に引
き上げられた。
晴天の下、机の上に並んだ黄金色の茹であがったジャガイモたち。
ホカホカとして湯気を放っており、その匂いはたまらない。
護衛の狼族たちも鼻をひくつかせている。
彼らは俺が不味いものを出したことがないから、たとえジャガイ
モを口にしたことがなくても、それがうまいものだと予想している
のだ。
そして、その狼族たちの考えは間違っていないといえる。
はっきり言おう。
783
俺はジャガイモが好きだ。
茹でジャガは最高であるし、フライドポテトも格別。ポテトサラ
ダにジャガイモの天ぷら、果てはポテトチップスに至るまで大大大
好きだ。
単体ではもちろんのこと、いろんな料理にも合う。
カレー、シチュー、コロッケ、肉じゃがなどなど。
あ、味噌汁だけはあまり口に合わなかったが。
けれどあれが好きな人もいるのだから、やはりジャガイモは偉大
である。
というか、ジャガイモが嫌いな人なんていないんじゃないかと思
う。
﹁ではまず、俺からいただこう。俺が食べたら皆好きなように食べ
るといい﹂
宣言ののち、皆が見つめる中で俺は、先ほどの二つに割ったジャ
ガイモの片割れをフォークに刺して口に入れた。
はふはふと口の中に熱さを感じながら、柔らかい歯応えとジャガ
イモ特有のほんのりとした甘さ、絶妙の塩加減を堪能する。
舌の上で溶けるような感覚。
唾液が溢れ、俺はごくりと口の中のものを飲み込んだ。
﹁うまい! やはりジャガイモは最高だ!﹂
本心ではあるが、実にわざとらしく振る舞う。
普通は思っても口に出したりしないものだ。しかし、今回ばかり
は理由がある。
俺は貴族。
無論、俺自身は人間の価値に上下などないと思っているが、この
大陸の価値観はそうではない。
784
ただの村人と貴族である俺とでは、隔絶した上下の差が存在する。
そんな身分の高い俺が、おいしそうにジャガイモを食べて見せれ
ば、それは何よりの宣伝といえるのだ。
﹁お、おい﹂
﹁あ、ああ、食べてみるか。領主様があれだけうまそうに食べてい
るんだから﹂
俺の思惑通り、半信半疑であった村人たちも、おいしそうに食べ
る俺の姿に感じたものがあったのだろう。
それぞれが机に並んだ皿に手を伸ばした。
﹁︱︱っ!? これはうまいぞ!﹂
﹁ほ、本当だ! うまい!﹂
一人が食べ、二人が食べ、やがて皆ががむしゃらにになってジャ
ガイモを口にした。
食事とは最高の快楽の一つである。
しかし貧しい村の食事とはなんであるか。麦で作ったパンと牛乳
やチーズなど代り映えのしないものばかり。
そのレパートリーは少なく、彼らが日々の食事に飽きているであ
ろうことは必然である。
それゆえに新しい味、新しい食感に村人たちは酔いしれた。
﹁ご領主様﹂
皆が食事を楽しむ中、頭をかきつつ申し訳なさそうに俺に声をか
ける者がいる。
髭もじゃの若村長、ペッテルだ。
785
﹁ジャガイモなる物がこれほどおいしいものだとは知らず、疑念を
もっていたこと、お恥ずかしい限りです﹂
﹁見た目が見た目だからな。気にするな﹂
﹁そういっていただけると、ありがたいです。しかし、このジャガ
イモをどうするのですか﹂
﹁前にも言ったが、ジャガイモは寒冷に強く、痩せた土地でもよく
育つ。この地によく合った作物だと思う。だが、問題もある。病気
に弱い作物であり、同じ土地で連続して育てることはできない﹂
連作障害。植えた作物を好物とする病原菌や害虫が、連作をする
ことによって増殖し、その作物に病害をもたらすのである。
特にジャガイモは連作障害に弱く、一度作った土地では二年はジ
ャガイモをつくることができないという。
また、これ以外にも酸度が酸性に傾けば病気になり、アルカリ性
に傾いても、やはり病気になる。
だが、そんなデメリットを凌ぐほどの収穫量が期待できるのがジ
ャガイモなのだ。
俺はペッテル村長に向かって言葉を続けた。
﹁収穫量はいわずもがな、種芋の数さえ用意できれば、ジャガイモ
は麦などよりはるかに勝る。保存こそ麦に劣るが、気を付ければ半
年は優にもつ。
今後は麦、ジャガイモを活用した輪作へと移行させていく。俺は
このジャガイモを使って人を呼び込み、村をジャガイモの一大産地
として発展させるつもりだ﹂
夢、というわけではない。
786
国の状況を考えれば、十分に可能なことだ。それだけの貧困がこ
の国にはある。
一方、村長は俺の言葉に茫然としていた。
突拍子もない話である。ジャガイモの価値を知っても、俺の話す
言葉には現実味がわかないのだろう。
だが、気づけば村長はうっすらと涙を浮かべていた。
それはなぜか。
これまで村にいる間、色々と事情は聞いている。
若い者は南を目指す。
決して上向くことがない村の生活に嫌気がさして、都会に夢を見
るのだ。
しかし、商人からの話を聞けば、都会の生活の苦しさは明らかだ
った。
王都へ去った者たちからの連絡は一つとしてない。
便りの無いのは良い便り、なんていう言葉はこの大陸にも存在す
るが、これは貴族に限った言葉であるといえよう。
一般に連絡がない時は、連絡を送れないほどに貧しいか、死んで
しまったかでしかない。
この大陸は戸籍管理すら曖昧な発展途上の世界。俺が元いた世界
とは違うのだ。
だから、村長の涙の意味が俺にはよくわかった。
﹁泣いている暇はないぞ。来春の種付けまでに今ある空き家を整備
してもらう。さらにこの近くに新たな村を作るつもりだ﹂
こうして俺の領地計画はまた一つ、歯車を回したのである。
787
68.村とジャガイモ 2︵後書き︶
すみません、遅くなりました⋮⋮
788
69.エルフ 1
さて、我が領地にてジャガイモを無事収穫したわけであるが、そ
の三カ月の間には色々なことがあった。
それについて語らねばならないだろう。
まずは狼族に教えている日本語について。
やはりというべきか、日本語の習熟に大きな差が出始めた。生物
である以上、優劣は世の理であり、避けることはできない。
だが劣っている者は劣っている者なりに、頑張って日本語を覚え
ようとしていた。
やる気が違うのだ。
そのかいあって狼族たちの日本語の習熟度は、全体的に著しいの
ではないかと感じる。
感じる
に
もっとも、俺といえば日本語の教師役なんて初めてのことであり、
比較するべき前例など知らない。そのため、あくまで
評価をとどめておくものとする。
日本語の習熟度が一番低いのは護衛組。
俺について回るために日本語を学ぶ時間が少なくなり、また既に
護衛という絶対的な職務を帯びているために、やややる気にかける
といった感じだ。
だが、これが逆にいい雰囲気を生み出している。
護衛組、その中でもミラは皆から一目置かれる存在であるという
ことは、共に暮らしていてよくわかることだ。
理由としては、身を挺して俺を救ったこと。俺自身、確かに感謝
の念もあったが、ミラの行いが模範となることを狙って表彰もした。
彼女こそは狼族の誇りそのものなのだ。
789
そんな彼女が、日本語の勉強についてはてんでダメなのだから、
他に日本語が未熟な者がいても下に見られることはない。
たとえ日本語ができなくても他のことで頑張る、そういった下地
が図らずしもできあがっていたのである。
次に町の防衛面について話そう。
俺は、とうとう町を囲む︻石垣︼を︻購入︼した。
これまで︻石垣︼の高さをどうしようか、広さをどうしようかと
などと考え、延び延びになっていた事項であったが、そんな優柔不
断に遂に決着をつけたのだ。 ︻石垣︼の高さは10メートル。これ以上の高さでは隠した町が
露見してしまう。
広くもなく狭くもなく、最低限の家と田畑を囲めるほど幅と奥行
きに設定した。
またこれに際して、町の防衛に当たる者に銃の扱いを教え始めた。
住人皆兵。生憎と町を守るための人数が少ないので、子ども以外
のほとんどに、ということになる。
事が起きれば、それぞれが銃を手にして戦わなければならない。
とはいえ、銃の扱いには細心の注意が必要であり、訓練はより厳
格なものが要求される。
俺にその厳しさを求めるというのは無理というものだ。
よって、まず徹底的にジハル族長に銃の扱いを教えた。
狼族たちに対しては、ジハル族長が副指導官となって厳しく銃の
指導にあたるのである。
それにしてもジハル族長の忙しさは、ここにきて途方もないもの
になっている。
族長としての務め、俺が不在間の教師役、銃訓練においての指導
教官役。
790
まさに多忙。加えて、その職責もさるものだ。
過労死にでもなってしまわないか心配である。
まあ、ジハル族長の﹁まだまだ若い者などには負けません﹂と快
活に笑う姿は、そんな様子を微塵も感じさせないものであるが。
そういえばと思う。
いつだったか、老人のように老け込んだジハル族長など、今はど
こにもいなくなっていた。
隠居する余裕などないということだろう。
しかし、現状を考えればそれはいいことなのであるが、その理由
を考えると素直に喜べない。
当時は安心があった。だが、今はそれがない。
難儀なことだ。
今度、ジハル族長には美味しいものでも差し入れよう。美食にて
英気を養ってもらいたい。
とにかく、あまりにジハル族長に仕事が集中している。
次期族長と目されているジハル族長の息子のゾアンに、教師役だ
けでもと思ったのだが、どうも彼は覇気というものがあまりなく、
誰かの上に立つというのは向いていないようであった。
この大陸の文字については以前よりジハル族長から習い読むこと
ができるため、俺が授業について記したプリントさえ残しておけば、
ゾアンは問題なく教師役を果たせるはずである。
しかしいざ教壇に立つと、どうも緊張するようで、ゾアンの手足
はガクガクと震えていた。
狼族の前途は思いのほか暗いのかもしれない。
︱︱と、ここまでがジャガイモ収穫までの近況である。
そして時間はジャガイモの収穫から、およそ一週間後。
その夜、俺は村にある領主の館の廊下にて、ジハル族長から今日
791
の報告を電話で受けていた。
﹁ええ、こちらも異常はありません。では、明日も予定通りよろし
くお願いします﹂
そろそろ冬となる。
この時期にエルフが来るということで、彼らに会うために俺は長
い期間を村に駐屯していたのだ。
俺とジハル族長との電話が終われば、今度は護衛の中で希望する
者が家族と電話をする。
俺は部屋に戻り、明るく光る︻電球︼の下、ふかふかの︻ベッド︼
に寝転がって読書に勤しんだ。︻電球︼の電力源には︻発動発電機︼
を設置してある。
傍らにはもちろんお菓子とジュース。部屋は暖房が効いており、
とても暖かい。
休憩時間を最大限快適に過ごすことが、人生を楽しむコツであろ
う。
館はそれなりに大きく部屋は無数にあり、護衛にも各人に部屋を
与えて、任務がある者以外は各部屋で休むことが許されている。
何事も根を詰めすぎるのはよくない。
酒こそ許されてはいないが、俺と同様に電気機器と異世界のお菓
子やジュースを支給している。娯楽には日本の絵本なども用意して
おり、日本語習熟の一助となることだろう。
門番には村人を高給で雇い、村の近くに停めてあった車両につい
ては、長期滞在であるために町に帰投させている。
車両が必要な時は、電話で呼びつければいいし。緊急時には能力
で新たに︻購入︼するまでだ。
本を読みつつも、やがて眠気に襲われて俺は目を閉じた。
792
彼女
こうして今日も村での一日が終わったのである。
﹁フジワラ様、お久しぶりです﹂
次の日のこと、館を訪問する者があった。
門番から訪れた者の名前は聞いていたが、俺は
て一瞬誰かと思った。
何年振りかの再会。
の顔を見
その顔からは険がなくなり、非常に穏やかな色を湛えている。
﹁レイナさんですか﹂
エルザと別れる際には、信頼できる代役を寄越すと彼女は言って
いた。
レイナとは初めて会った時、ちょっとしたいざこざがあったこと
を俺はまだ覚えている。
事情も当時のエルザから聞いていた。レイナは元貴族であり、貴
族への未練がいまだ断ち切れていなかったという話だった。
それを考えれば、今日ここに彼女がいることは不適任であるのか
もしれない。
だが、俺はエルザを信じている。
エルザが信頼できると言うのだから、俺もレイナを信頼しようと
思う。
﹁今日は商会主エルザ・ポーロの代わりとして参りました。手紙を
預かっております。お検めください﹂
レイナから手紙を受け取り、封を開けて読んだ。
書面には、かねての予定通りこの地にポーロ商会の支店をつくる
こと、レイナが支店の主になること、さらに貴族のことでわからな
793
いことがあればレイナに聞けということが書かれている。
特に最後の項がありがたい。
今までは、なんら問題もなかったが、今後、胡椒やジャガイモの
ことなど目立つようになれば、貴族としてのつきあいというものが
増えることだろう。
社交。どこまで交わるべきか。
社交なんて全部断っちゃえばいいさ、とは思うが、向こうからこ
ちらに押しかけてくることもあるだろうし、あまりに引きこもりが
すぎれば、﹁何かよからぬことでもたくらんでいるのでは﹂といら
ぬ疑いをもたれるかもしれない。
﹁了解しました。支店ができるまでの間、レイナさんは、この館で
ゆっくりとしていってください。供の者たちは村に空き家が幾つも
あるので、そこに泊るといいでしょう。人が住めるように綺麗にし
てありますので﹂
﹁過分な取り計らい、ありがとうございます﹂
﹁さあ、今日はお疲れでしょう。ゆっくり体を休めるといい。明日
には、ポーロ商会一行の歓迎を祝したパーティーを催しましょう﹂
翌日の昼過ぎ。
館内の小さなダンスホールで開かれた立食パーティーには、ポー
ロ商会の者たちのみならず、ペッテル村長一家と村の主だった者も
招いた。
これよりポーロ商会とこの村とは、長い付き合いになっていくこ
とだろう。その顔見せだ。
わかりきったことであるが、村長たちはドレスなど一着も持って
いなかったので、安物の︻貴人服︼を俺が貸し与えた。
794
すると集まった参加者の中にあって、一人衆目を集める者がいる。
誰であろう、レイナだ。
レイナのドレス姿はなんというか気品があった。
元貴族というのは伊達ではない。
なるほど、名職人の作った箱のように容器と蓋が寸分違わずピタ
リと合わさるがごとく、ドレスとレイナとはよく似合っている。し
っくりくるのだ。
せっかくであるし、パーティーではジャガイモ料理の数々を振る
舞った。
とはいっても、村の奥さん衆を台所に立たせて、俺の指示通りに
料理を作らせただけであるが。
ペッテル夫妻はジャガイモの可能性に感動し、レイナはすっかり
商人の顔になってジャガイモについて根掘り葉掘り俺に尋ねた。
変われば変わるものだと、もはやおぼろげとなっていた昔のレイ
ナの顔を思い浮かべつつ、俺は彼女の質問に一つ一つ答えていった。
共に美味しい酒を飲み、美味しい料理を食べ、談笑を楽しむ。
村人たちとポーロ商会の者たちの交流はよく深まったといえるだ
ろう。
互いに互いを尊重する姿が見られ、今後、両者はうまくやってい
けそうだ。
そうそう、一つ面白いことがあった。
ペッテル夫妻には十を過ぎたばかりの男児がいるのだが、その男
児がパーティーの最中にチラチラとレイナの方ばかり見たり、それ
となくレイナの近くに寄ったりと、非常にわかりやすい行動をとっ
ていたのである。
俺は、あれは惚れたな、と内心でニヤつきながら眺め、皆も温か
な視線を男児に送っていた。
795
知らぬは本人ばかりなり、といったところだ。
日が暮れる前にパーティーは終わり、その三日後には南に隣接す
る領から大工がやってきて、商会の建設に着工した。
秋も終わりの頃である。
村人がエルフの到来を知らせに来た。
規模は薪を運ぶための最低限の人数。
人間を刺激しないためだろう。
﹁よし、行こう。表に馬車を回せ﹂
護衛の狼族を連れて、村長が応対しているという村の外れの空き
家へと向かった。
馬車が目的の家に近づくと、家の前には手作り感あふれる手押し
車が幾つも並び、そこには薪が山と積まれているのが見えた。
手押し車の横には、人力にて引いてきたであろうエルフたち。
遠目からでもわかる、白い肌と金や銀といった明るい色の髪、そ
して長い耳。
うむ、確かにエルフだ。
村長には事前に俺のことを話して引き留めておくように言ってあ
る。
決して悪いようにはしないと口添えして。
エルフたちの目には、馬車で参上した俺に対して警戒する色が見
えた。
これまで、この地に領主はいなかった。そこで現れた明らかな権
力者。
796
警戒しない方がおかしいというものだ。
俺は、堂々と領主として振る舞うことをよく意識して馬車を降り
た。
俺のもとに近づくのは、ペッテル村長とエルフの一人。
﹁フジワラ様、この者が小隊を率いる︱︱﹂
ペッテル村長から声がかかる。
俺は、説明は不要とばかりに手でそれを制した。
聞くまでもない。
﹁私がこの地を治めることになったフジワラ男爵だ﹂
ペッテル村長の隣にいるエルフに自己紹介をしつつ、間近で見た
そのエルフの顔に俺は目を奪われた。
シミなどまるでなさそうなまっさらで張りのある白肌。長めの銀
の髪は、とてもつややか。切れ長の瞳をしており、非の打ち所がな
いほどに顔は整っている。男か女か、どちらでも通用するような中
性的な顔だ。
確かに美しい。
だが同時に、確かに美しいのであるが、その美しさは劣情を催す
ようなものではなく、どちらかといえば美術品をみるような美しさ
だとも感じた。
これなら、ペッテル村長の方がよっぽど愛嬌があって親しみやす
い顔をしている。
俺は、エルフの隣に立つ髭もじゃのペッテル村長を視界に入れて、
そんな感想を抱いた。
﹁⋮⋮ポリフといいます﹂
797
エルフ︱︱ポリフは不本意ながらも、敬語を使っているという風
である。
もはや人間に蹂躙されすぎて、逆らうという選択肢が初めから除
外されているのだろう。
﹁とりあえず中に入ろうか。風が冷たくてな﹂
護衛と共に空き家に入る。中には大きめの長方形の机が一つある
だけだ。
壁からは光が漏れて、隙間風も強い。
俺に続いて家に入ったのは、ペッテル村長とポリフに加えエルフ
がもう一人。
俺たちは誰が言うこともなく、机を囲んだ。
﹁村長から聞いたであろう。悪いようにはしない﹂
﹁⋮⋮では何故ここに?﹂
言葉の調子からは内に潜んだ敵愾心がよくわかる。
放って置いてくれればよかったのに、と言わんばかりだ。
しかし、その反応に俺が怒ることはない。
人間の権力者。彼らがエルフを含めた獣人たちを追いやった。
そこには数知れない不幸があったのだろう。
現在の俺もまた人間側の権力者である。エルフの態度は当然のこ
とだと受けとめていた。
﹁その質問に答える前に、まずこれを見てもらおうか﹂
ごろりと手の中のものを机の上に転がした。
それはごつごつとした醜く丸みを帯びた薄茶色のもの。
798
﹁これは?﹂
﹁ジャガイモという﹂
そうジャガイモだ。
なんの捻りもない、ここでもまたジャガイモである。
﹁いいか、このジャガイモというのはだな︱︱﹂
俺は、ポリフにジャガイモがどんなにこの地に適しているか、い
かにいい作物であるかを説明した。
俺の説明に、ポリフは疑わしい目をしている。だがこれは、前の
村人らの反応から経験済みだ。
そこで一つ。ここに来るまでに︻購入︼していたものを披露する
としよう。
俺は背後の護衛の一人に目配せをした。
その者が手に持っているのは半球形の銀の蓋︱︱ドームカバーを
被せた皿。それが机の上に置かれる。
ドームカバーを開けると白い湯気が立ち上った。
バターの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、口腔内に自然と唾液が湧
き出てくる。
皿の上にあるのは、ホクホクのジャガバターだ。
﹁ジャガイモを調理したものだ。まあ調理したといっても、蒸した
ジャガイモにバターを載せただけだが。ほら、食べてみるといい﹂
毒などはないという意味を込めて、まず俺が一切れをつまんで食
べる。
うむ、やはりうまい。ジャガイモとバター、二つの親和性は最高
799
だ。
するとポリフも俺に倣って一切れを手に取り、口の中に放る。
瞬間︱︱。
﹁⋮⋮うまい﹂
ポリフは目を見張り、呟いた。
その言葉はとても重く、心に響くものがあった。
これまでずっとひもじい生活をしていたのだろう。
もう一人のエルフも手を伸ばしたが、反応は変わらない。
久方ぶりのうまさに感じ入るような声を発していた。
﹁⋮⋮それで、先ほどの質問の答えをもらっていませんが﹂
﹁ここに来た理由だったな。なに、エルフ族には私の支配下に入っ
てもらうことを言いに来ただけだ。お前たちは我が領内にいるのだ
から、当然だな﹂
ポリフのその美しい顔に明らかな不満が浮かぶ。
﹁我らを支配しても、今更得るものなどないでしょう。ここでは大
地の恵みは期待できず、天は苦難を与えるのみ。今生きていくだけ
でも精一杯なのです﹂
﹁心配するな。ジャガイモの種芋をお前たちに譲ろう。先ほども言
ったが、ジャガイモはこの地に適している。食糧問題は大分マシに
なるはずだ。
それにお前たちが飢えるほど税を取ろうというのではない。
そもそも税とはなんであるか。みかじめ料などではないぞ? 領
主は税を受け取り、その税を使って民が健やかに暮らしていけるよ
800
う政を行うのだ。暮らしていけないほどの税の搾取など本末転倒で
しかない。お前たちに対しても、税を受け取る分くらいの仕事はし
てやろう﹂
こうは言ったが、エルフからの税など全く期待していない。
だが、異種族の存在を知りつつも税を取らないということは、か
つて至る所に獣人がいた時ならいざ知らず、現状では対外的に見て
あまりよく思われないことだろう。
今、獣人を領内に住まわすことはあまりに特殊。
せめて税くらいとっておかないと、国や他の領主から難癖をつけ
られかねない。国家内において領主としての体裁があるのだ。
加えて、今後領内を発展させていく中で、エルフたちに紐をつけ
ておきたいという理由もある。
エルフの人数次第では人口一万人の足しになるかもしれないし。
そして、さらにもう一つ。
この先、最悪な事態として、俺は国と対決することになるかもし
れない。
その時には、狼族だけで事足りるのかという心配があった。
﹁あなたの言葉を信用しろと? 人間は我らを追い出すことしかし
なかったのに?﹂
﹁拒否する権利はない。いやなら我が領内から出ていけ。だが、私
の言っていることが真実かどうか確かめてからでも出ていくのは遅
くないのではないか?﹂
俺の言葉にポリフは黙考した。
隣にいるエルフが何か言いたそうに、ハラハラとした様子で考え
801
るポリフを見やる。
やがて、ポリフの口が開かれた。
﹁⋮⋮わかりました﹂
﹁ポリフ!﹂
咎めるように叫んだのは、隣のエルフ。
﹁他に手はないのだ﹂
﹁しかし、他の部族の者たちにはどう説明するつもりだ!﹂
ここで俺は、ん? とひっかかりを覚えた。
他の部族という言葉である。
まるで、エルフ以外の部族と暮らしているような口ぶりだ。
﹁あるがまま説明するしかあるまい﹂
﹁⋮⋮最悪、殺されるぞ﹂
﹁ふん、奴らも馬鹿ではない。一時の感情よりも一族の繁栄を優先
するはずだ﹂
﹁お前は他の部族の人間に対する恨みを舐めすぎだ。彼らの恨みは、
今日のように人間と関わりを持つ俺たちよりはるかに深い﹂
そこで俺は﹁待て﹂と二人の会話を止めた。
四つの宝石のような瞳が俺へと向く。
802
﹁他の部族とはなんだ。エルフはエルフだろう﹂
﹁⋮⋮我々エルフの他にも違う種族の者たちが共にいます﹂
﹁おい!﹂と隣のエルフが言った。
しかしポリフは、それを無視して言葉を続ける。
﹁皆生きるために協力して暮らしています。我々がここに薪を売り
に来ているのは、エルフが人間に一番容姿が近いためです﹂
それを聞いた時、俺は言葉を失った。
かつて呪われた地と呼ばれた場所に俺は町をつくり、そこで獣人
たちは種族の垣根を越えて手を取り合いながら暮らしていた。
状況は違えども同様に、獣人たちはこの過酷な土地で、互いに寄
り添って生活していたのだ。
803
70.エルフ 2︵地図あり︶︵前書き︶
大陸の地図
<i202074|18564>
ドライアド王国の地図
<i202073|18564>
フジワラ領の地図
<i202075|18564>
804
70.エルフ 2︵地図あり︶
﹁そうか⋮⋮獣人たちは協力して生活しているのか⋮⋮﹂
俺は虚空を見つめて、ぼそりと独り言のようにつぶやいた。
﹁⋮⋮どうかなされましたか?﹂
﹁いや、なんでもない。えっと、それでなんだったかな﹂
俺の返答にポリフは、﹁は?﹂という疑いと呆れの混じった声を
漏らす。
それを咎めることはしない。
俺の心は平常にあらず、語るべき言葉すら忘れてしまっていたか
らだ。
﹁いえ、ですからあなたの支配下に入るという話と、先ほどあなた
に質問された、他の種族の者も共に住んでいるという話です﹂
そう、この地で獣人たちはともに手を取り合って暮らしていると
いう話。
それを聞いた瞬間、俺にある一つのことに囚われた。
あの呪われた地で、もし俺という存在がいなければどうなってい
たのかという自問である。
詮なきことだ。
今更そんなことを考えても、過去は変えられない。
だというのに、心は苦しくなる。
805
﹁フジワラ様⋮⋮﹂
隣からかけられた声には慈しみが感じられた。
ミラのものだ。
察している、俺の心情を。
とても優しいなと思った。
﹁大丈夫だ。ああ、大丈夫だ﹂
一度目の言葉は強がり、しかし二度目はしっかりと自分を持って
答えた。
我に返ってみれば、ペッテル村長も、ポリフともう一人のエルフ
も、キョトンとしている。
そうだな、と思った。
これは、俺たちにしかわからない。
﹁すまない。最近あまり寝てなくて、どうも立ちくらみがしたよう
だ﹂
﹁そ、それは大丈夫なのですか? や、休まれた方がいいのでは⋮
⋮﹂
ペッテル村長が俺の嘘を真に受けて、心配するような様子を見せ
る。
それに対し、俺は微笑を浮かべつつ、頷いて言った。
﹁問題ない、話を続けよう﹂
場を仕切り直し、何事もなかったかのようにポリフの口から彼ら
の実態が語られていく。
806
もう一人のエルフはそれを好ましく思っておらず、﹁おい﹂やら
﹁やめろ﹂やら、ポリフに対し文句を口にする。
だがいずれあきらめて、私不満ですというブスッとした顔を浮か
べるだけとなった。
人間でない者が暮らす集落。
しかし、全ての部族が一つの場所に住んでいるというわけではな
いという。
北の領境をまたぐ、人の手が及んでいない巨大な森を、それぞれ
根城にしているのだそうだ。
全部族を合わせた詳しい数はわからない。だが、千には届くだろ
うとのこと。
千。結構な人数だ。
是非、欲しい。
﹁そこに住んでいるのは、我らエルフに加え、鼠族、蜥蜴族、狼族
︱︱﹂
途端、俺の心が跳ねた。
その驚きは表情にも出ていたのだろう。
ポリフが言葉を止めて、﹁どうかしましたか?﹂とでも言いたげ
な視線を送ってくる。
俺は、﹁いや、なんでもない﹂と答えて、先を促した。
しかし、なんでもないわけはない。
︱︱狼族。
その言葉を聞いた時、俺はミラたちに振り向きそうになるのをな
んとか堪えていた。
人間だって種類は幾つもある。鳥族も、鷹のような顔をした者た
ちと、鴉のような顔をした者たちがいた。
807
狼族が一部族だけとは限らない。
﹁︱︱豚族に牛族。全六種族が共に暮らしています﹂
狼族のみならず豚族もいるようだ。
六種族というのが多いのか少ないのかは判断が付かなかった。
獣人たちの全てが、この竜の角と呼ばれる北の地を目指したとい
うわけではないだろう。
大陸のどこかで息を潜めて暮らしている種族もいるはずだ。
あるいはエルフたちが知らないだけで、この地にはもっと獣人が
いるのかもしれない。
どうするべきか、と考える。
千にも及ぶ人口は欲しい。
だが、今ある彼らの暮らしを壊したくはないとも思った。
再び胸の底から蘇ってくるのは慙愧の念である。
﹁⋮⋮生活はどうなのだ?﹂
﹁森で獣を狩り、川で魚を捕まえ、あとは農業の真似ごとをしてい
ます。ですが⋮⋮﹂
﹁あまり芳しくない、か﹂
俺の言葉に同意するように、ポリフはこくりと頷いた。
それはそうだ。生活がうまくいっていれば、この村に来るわけも
ない。
人間との関わりあいは苦渋の決断だっただろう。
獣人たちは苦しい生活を送っている。
808
ならば、迷うことはないのではないのか、と俺は思った。
互いに利はあるのだ。
﹁そうか。ならば私が行って話をつけよう﹂
﹁馬鹿な! それこそ絶対にやってはいけない行為だ! お前は私
たちを滅ぼすつもりか!﹂
もう一人のエルフが叫んだ。
敬語も何もあったものではない。
﹁おいっ﹂というポリフの叱責が飛び、もう一人のエルフはようや
く、しまったという顔になった。
﹁⋮⋮今のは聞かなかったことにしておく﹂
言葉使いなどにこだわりはしないが、ここにはペッテル村長もい
る。
体面というものを気にしなければならない。
﹁ありがとうございます。ですが、彼女のいうことは正しい﹂
﹁何故だ。この土地に住んでいるならわかるだろうが、我が領地に
はこの村以外に集落はなく、軍隊もいないぞ﹂
﹁だからこそです。あなたを害するのは容易い。獣人たちの中で人
間に恨みを持つ者は多く、もし貴族であるあなたに害が及んでしま
えば、国はその重い腰をあげるでしょう﹂
俺は少し考えて、確かにそうだと思った。
かつての町では俺という人間がいた。
809
うぬぼれでなければ、俺という存在があの町の獣人たちの人間に
対する憎しみを和らげていたのではないかと思う。
では、人間の力を借りず、七年という月日を困窮の中で暮らして
きた彼らの心情はどうか。
貧しさを感じるたびに、住む土地を奪った人間への恨みが積もっ
ていくであろうことは、想像に難しくない。
恨みや憎しみは長きにわたり熟成され、尋常ならざるものになっ
ているはずだ。
だが、それでも︱︱。
﹁私に考えがある。心配はいらない。私に害をなすことなどできな
いはずだ﹂
夜、夢うつつの中で瞼の裏に浮かぶことがある。
猫族、豹族、鳥族、アライグマ族、鹿族、豚族、ゴブリン族、コ
ボルト族。
彼らと共に過ごした姿が。
裏切られてなおも、時計の針を戻したいという思いがあるのかも
しれない。
ポリフが、﹁ですが﹂と言い募る。
されど、俺はそれ以上を喋らせなかった。
﹁これは決定事項だ。そもそも領主が己の領内で行動を制限される
などあってはならないことである﹂
領主は己が領内において絶対の存在。
これは、この世界の常識からいえば、至極当然のことである。
ポリフの口からはぐぅの音すら出なくなり、俺は続けて言った。
810
﹁とにかく、まずは薪についてだ。麦と交換するのだろう? 村長、
いつもの倍を用意してやれ﹂
﹁し、しかし、それでは村は⋮⋮﹂
﹁余分に払った分は私が立て替えてやる﹂
﹁は、はい、それならば﹂
ペッテル村長の指示の下、麦が持ち込まれ、薪に代わって人力車
に積まれる。
物々交換が終われば、もうペッテル村長はこの場に必要ない。
彼には席を外してもらい、空き家には俺と護衛、エルフの二人だ
けとなった。
﹁どうだ?﹂
俺は空き家の中から、外にやった護衛の狼族に尋ねる。
護衛の狼族は、空き家の周囲に怪しい者がいないか窺っていた。
ポリフたちは何をしているのかと、不審そうな顔をしている。
﹁周囲に人の気配はありません﹂
﹁よし。ミラ、頭の布を外せ﹂
俺の命に、ミラは無言のままシュルシュルと巻いた布をほどいて
いく。
次第に露わになるミラの頭部。
﹁は⋮⋮? まさか⋮⋮!?﹂
811
﹁あ、あぁ⋮⋮!﹂
ややあってミラの頭が全て明らかになると、ポリフら二人のエル
フが目を剥き、大きく口を開けて唸った。
二人の視線の先には、人間でない者の証︱︱獣の耳がピョコリと
立っていたのである。
﹁獣人だったのか⋮⋮っ!﹂
ポリフが吐き出すように言った。
護衛たちが狼族だとは、一ミリたりとも想像していなかったのだ
ろう。
まさか、といった表情である。
﹁声を小さくしてもらおう。確認したとはいえ、どこに耳目がある
かわからないのだから﹂
村に密偵が入っていることを、既に俺は確認している。
狼族は鼻が利く。
ある時、村の者ではない輩を発見していたのだ。
おそらくは王宮の者、狙いは胡椒だろう。
なお、こちらから変に行動を起こして警戒されても困るので、何
もしていない。
害が及ばない限りは、そのままにしておくつもりだ。
﹁ミラ、もういい﹂
ミラが再び頭に布を巻き付ける。
俺は、依然として顔に驚愕の色を張り付けているエルフの二人に
言った。
812
﹁これで少しは信用してもらえたんじゃないかと思うが、どうだ?﹂
獣人たちの住む地へと行き、円滑に事を進めるには、ポリフ達の
協力が不可欠だ。
仲間である者からの説得が何よりの武器となるからである。
そのためポリフたちにはしっかりと俺たちを信用してもらわなけ
ればならない。
向かった先で、やはり人間の支配下には入れない、などと裏切ら
れては困るのだ。
﹁え、ええ。これならば、他の部族の者たちも聞く耳を持つかもし
れません﹂
ポリフが、もう一人のエルフと互いに顔を見合わせてから言った。
身内に獣人がいるというのは、抜群に効果的なようだ。
﹁では、お前たちが帰るのに合わせて、行くとしよう﹂
広げた地図。
北東に10キロあたり、川が大きく蛇行した場所の手前の平野を
指差して言う。
﹁ここで⋮⋮そうだな、二日待っていろ。二日後は火を常に焚いて
おけ。目印になる﹂
話が決まり、俺たちは解散した。
館に戻るとジハル族長に電話をして事情を説明すると共に、車両
を回すように指示をする。
人員については、ジハル族長にも来てもらうように言った。
813
それからレイナに一言告げ、狼族の護衛を館に二人残し、俺たち
は村を出発したのである。
無論のこと、レイナはこちらの事情をある程度知っているため、
館に残しても問題はない。
電球や暖房器具などについては一応隠しているが、車両に関して
エルザより説明があったはずなので、たかが小さな電化製品程度は
今更な話だ。
ジハル族長たちと合流すると、馬車から車両に乗り換えて、今度
はエルフとの合流地点に向かう。
︻73式大型トラック︼五台と︻馬運車︼が一台。
獣人たちと話し合いは行うが、こちらの力も見せねばならないと
思い、威圧する構えである。
エルフとの合流前には、︻四斤山砲︼も二門︻購入︼し、それら
はトラックに引かせた。
︱︱さて、村を発って二日。
約束の期限に予定通り俺たちは、エルフとの合流地点へと到着し
た。
﹁ば、化け物だ!﹂
﹁に、逃げろ! 幻獣だ!﹂
期待通りの反応である。
横隊となって近づく車列に対し、せっかく村で交換した麦を置い
て、エルフたちは逃げ惑った。
それにしても、この驚きっぷりは非常に懐かしい光景だ。
初めてトラックを見た狼族らの反応を思い出す。
814
俺は、なんというか愉快というか、恍惚とした気分にさせられた。
嗜虐嗜好でもあったかなと思いつつ、隣の席に座るミラに顔を向
けてみれば、彼女もうっすらと笑みを浮かべている。
どうやら俺ばかりが特別というわけでもないらしい。
しかし、このままというわけにもいかないだろう。
俺はすぐさま︻拡声器︼を︻購入︼した。
﹃待て! 逃げるな! 化け物ではない、フジワラだ! 村で会った領主のフジワラだ! 逃げるな!﹄
拡声器から放たれた大音量が、辺り一面に響いた。
これが言葉を伴っていなければ、それこそ巨大な怪物の咆哮であ
る。
すると、俺と実際に話したポリフがまず状況を理解し、他のエル
フたちに﹁止まれ﹂と命令した。
逃げ惑っていた者たちはやがて正気を取り戻し、こちらに害意が
ないとわかると、ゆっくりとポリフのもとに集まった。
﹁なんだ、これは⋮⋮生きものじゃないのか⋮⋮?﹂
﹁こんなものを人間が⋮⋮﹂
一列に停止させた車列を遠巻きに見つめ、畏怖するエルフたち。
﹁車輪がある⋮⋮。馬を引かずに走る車⋮⋮? フジワラ様、これ
はなんなのですか! 一体あなたは何をするつもりなのですか!?﹂
ポリフの、冷静とはいい難い言葉。
その表情には、呼び込んではならないものを呼び込んだかもしれ
815
ない、という危惧の思いが滲んでいる。
﹁何をするつもりもない。ただほんの少し話をしに行くだけだ﹂
しかし俺は、なんら悪びれることなくポリフに答えた。
816
71.北の集落 1
フジワラ領の北の領境をまたぐように広がった巨大な森の中に、
いくつかの集落があった。
そこに住む者は、人間から逃げ隠れるようにしてこの地にやって
来たエルフや獣人たちである。
彼らはいうなれば弱者であり、常に外敵の存在には警戒をし、そ
の日も森の入り口に見張りを立てていた。
﹁なんだ? 遠くに動くものが二つあるぞ?﹂
二人の見張りのエルフ。その内の一方︱︱年長の青年が、はるか
遠くに動くものを見つけた。
野生動物だろうか。
そんなことを考えながら青年エルフは、少年といって差し支えな
いもう一人の見張りのエルフと一緒になって手を額にかざし、目を
凝らす。
二つの動くものはゆっくりと森へ近づいており、しばらくののち
に青年エルフの瞳がその全貌を捉えた。
﹁馬だ! 人間だ!﹂
青年エルフは焦るような声で言った。
動くものの正体は馬、加えて馬の背には二つの影が見えたのだ。
その姿こそまだ遠く、ぼんやりとしか目視できていないが、南へ
人間と取引に行ったエルフは馬など連れていない。
人間と判断するのが、妥当である。
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﹁早く族長に伝えに行け!﹂
﹁は、はい!﹂
少年エルフを己の集落へと報告に行かせると、青年エルフは藪の
陰にしゃがみ、息を潜めて正面からやって来る二騎の様子を窺った。
騎乗者は馬を駆けさせてはおらず、その足並みは遅い。時間をか
けてこちらに近づいてくる。
やがて青年エルフは、馬の背にある者の姿を明確に認識した。
﹁うん? あの耳は⋮⋮?﹂
己と同じ長い耳をした者。
騎乗者の一方がエルフであると理解した時、その面も明らかにな
った。
﹁︱︱っ!? ポリフか!﹂
片方の騎乗者はエルフ族の族長の息子であり、小隊を率いて村へ
と向かったポリフ。
だとするならば、もう一方は? と青年エルフは目を細める。
頭頂部に見える二つの耳。
もう一方の騎乗者は獣人である。
﹁くそ、驚かせやがって﹂
文句を言いつつも、その顔には笑みがある。
口にした文句は戯れにすぎず、人間でなくてよかったという感情
が、青年エルフの脳裏を支配していたのだ。
818
もう姿を隠す必要もないだろうと、青年エルフは無遠慮に立ち上
がった。
身を乗り出して、今一度正面から来る二人を見てみれば、どちら
も揺らぐことなく馬に跨っている。
小隊はどうしたのかとか、ポリフの隣の獣人はなんなのかとか、
疑問は幾らでもあったが、とりあえず二人に関していえば体は無事
なようであり、青年エルフはホッと息をついた。
しかし、仲間であるというのなら、今度は青年エルフ個人に問題
が発生する。
早計にも、もう一人の見張りに、人間が来たという誤報を伝えに
行かせてしまった。
エルフの集落からは、また別の集落へと伝令が出されるだろう。
話は段々と大きくなっていくのだ。
青年エルフは、これはやってしまったと思い、己の早とちりを怒
られる未来を予想して、困った顔になった。
︱︱と、その時である。
﹁何をしている、早く身を隠せ﹂
背後から聞こえたのは、音量を抑えながらも、しかし芯のある声。
エルフ族の族長のものだ。
もう来たのか、と振り向けば、そこにいた何人かのエルフたちは
万端とばかりに武装している。
﹁いや、それがですね⋮⋮﹂
青年エルフは事情を説明した。
族長は一瞬、眉を吊り上げたが、すぐにその眉尻を下して言う。
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﹁何事もないことが最善だ。むしろ、顔もわからぬうちに発見でき
たのはお前が真面目に務めを果たしていたからであり、褒めるべき
ところだ。皆の気も引き締まった。いい訓練になったことだろう﹂
怒られると思っていたのが逆に褒められて、青年エルフはこそば
ゆい面持ちになった。
﹁おおい!﹂﹁おおい!﹂
武器を手にしたエルフたちが、森に向かってくる二騎に向かって
大きな声で呼びかける。
馬が近づけば近づくほどに、乗る者の姿は鮮明になった。
ポリフの隣に並ぶ獣人は、耳の形からいって狼族。
普通に考えれば、その者はエルフと同じく居をこの森に置いてい
る者であろう。
しかし、すぐそこにまで馬がやって来ると、﹁あんな奴、狼族に
いたかな﹂と皆は口々に言った。
その狼族、顔に皺を刻むほどに老齢でありながらも、身体は一見
してわかるほどに逞しく、風格がある。
よく見れば、身につけている衣装も上等な物だ。
この地に住む者は大抵痩せている。身につけている衣服も、決し
て上等な物などではない。
ならば人間の変装か? とも考えたが、それならば隣にいるポリ
フの存在が解せない。
皆は、うーんと頭を悩ませる。
そのうちに、ポリフと謎の狼族は馬の足を速めて、エルフたちの
820
真ん前までやって来た。
﹁父上、ただ今戻りました。取引は成功です。他の者たちは、のち
ほど到着します﹂
﹁うむ、聞きたいことは山ほどあるのだが、まずは⋮⋮﹂
馬を下りて、帰還の報告をするポリフ。
しかしエルフの族長は、息子の無事にも顔をほころばせることも
なく、その瞳をポリフと同時に馬を下りていた見知らぬ狼族へと向
けた。
﹁失礼だが、お主は何者だ? 狼族の中でお主のような者は見たこ
とがないのだが﹂
その質問に、ポリフが横から答えようとしたのだが、それを手で
制したのは狼族自身。
狼族はエルフたちに囲まれようとも、一切気後れした様子も見せ
ず名乗った。
﹁わしはジハルという。この森に住む狼族とは異なる部族、南に居
を構える狼族の族長だ。
このたびは、ポリフ殿たちが集落へと帰る途中に会ってな。皆に
は我が村で一日休んでもらい、その際に色々と話を聞いたのだ。そ
して、他の種族がいるということで、いてもたってもいられず、ポ
リフ殿に無理を言い、先行してここに来たわけよ﹂
これに﹁おお﹂と一同は騒めき、顔に喜色の色を浮かべた。
新たな仲間の存在。
仲間が増えるということは、人間でない者たちが集まった共同体
821
がまた一つ強くなるということだ。
おまけに目の前の狼族は、その恰好を見る限り困窮などとは程遠
い生活をしているようである。
森に住まう者たちの現状は、家畜すら足りず、日々を貧しく過ご
している有様。
こちらから援助をする必要もない裕福そうな獣人というのは、森
に住む者たちにとって、願ってもない相手であった。
﹁それは、なんと素晴らしいことか。おっと、紹介が遅れてしまっ
たな。私はエルフ族の長をしている者だ﹂
エルフの族長も名乗り、加えて周囲の者に命じる。
﹁おい、すぐに行って各部族のもとに先ほどの伝令は間違いであっ
たと伝えに行け。やって来たのは新たな仲間、住まいを別にする狼
族の族長だとな。ついでに顔見せだと言って、族長たちだけを集落
に呼んで来い﹂
その命に、二人のエルフが駆けていった。
エルフの族長は再びジハルに向かって言う。
﹁歓迎しよう、しかし生憎と我が地は貧しい。恥ずかしいことであ
るが、お主を家に招くことはできても、もてなすことはできん﹂
﹁聞いておる。肉と酒をこちらで用意させてもらった。上等なもの
だ。人間たちが飲む酒よりもうまいぞ﹂
ニヤリと口角を持ち上げてジハルは言った。
ポリフとジハルが乗ってきた二頭の馬の両脇には、荷物が吊るさ
れている。
822
﹁おおお⋮⋮っ!﹂
皆は、予想もしていなかったごちそうの存在に色めきたった。
特に興味を引いたのは酒だ。
この地を流れる水は硬水という飲料に向かない水でありながらも、
エルフや獣人たちは率先して酒を造ることはしていない。
獣人は硬水であっても飲めるし、エルフこそ人間のように硬水を
受け付けないが、彼らには水をつくり出す魔法があるからだ。
もちろん酒は皆大好きであった。しかし、必要がないものを、一
族を上げて造る余裕はない。
彼らにとって酒とは、各家庭ごと気まぐれに摘んだキイチゴや桑
の実を漬けてできた、質の悪い少量の酒を楽しむぐらいがせいぜい。
つまり、質が悪くとも量が少ないために贅沢品となっているのが
酒なのだ。
ところが、ジハルが持ってきた酒は、人間が飲めないほどの上物
だという。
さすがにそれを真に受けるつもりはない。だが、それなりにうま
い酒なのだろうという期待はあった。
各人は味わってもいない内から、口の中に酒の芳醇さを想像し、
あふれた唾液をごくりと飲み込んだ。
それは下々の者に限ったことではなく、エルフの族長も同様であ
る。
﹁う、うむ、そうか。それはありがたい。各部族から族長たちが来
ることだろう。お主を我が家へ招こうぞ﹂
823
エルフの族長は、ぷくりと鼻の穴を膨らませながら、ジハルを集
落へと誘った。
森の中、道なき道を少し行ったところに、エルフの集落はある。
元々は木が鬱蒼と茂っていたのだろう。ところどころには切り株
が残り、木々の代わりにできの悪い家が建ち並ぶこの大きく開けた
土地は、人工的につくられたのだということがよくわかる。
少しこの集落の成り立ちについて説明しよう。
集落をつくるにあっては、やはり最初が一番大変だったといえる。
エルフたちの手元にあったのは自衛のための弓と剣。それにわず
かな食糧だけ。
住む家もなく、このままでは飢えるのが先か、凍えるのが先かと
いう状況。
エルフたちは、すぐさま生きるための環境を整えなければならな
かった。
しかしそこは、魔法に長けたエルフである。
幸いにも金の魔法を扱う者がおり、その者が鉄を生み出して斧を
つくり、エルフたちは木を切り倒して家を建て始めた。
そんな頃、エルフたちの他にも人間でない種族が続々と森にやっ
て来た。
この巨大な森は身を隠すのにはちょうど良く、人間から逃げてき
た者たちが集まるのは自明の理であるといっていいだろう。
敵は人間。これは森に来た誰しもが心の内に持っていた共通の考
えだ。
なればこそ、各種族は手と手を取り合って協力した。
狼族は狩りに優れていたし、豚族と牛族の力は容易に木を切り倒
す。蜥蜴族は魚を捕るのがうまかったし、鼠族はなんでも食べるこ
とができるため、他の部族が消費する半分の量の食糧でよく働くこ
824
とができた。
こうして家は次々に建てられ、畑ができ、少ないながらも家畜を
飼うことになり、そして現在に至ったのである。
閑話休題。
一行が集落内をぞろぞろと歩けば、建ち並んだ家々からエルフの
女たちが、そっと顔を覗かせる。
女たちは、年端もいかぬ幼女から顔に線の入った老女に至るまで、
皆等しく美しい。
しばらく歩いて、集落の奥にある一軒家。そこが目的地である族
長の家。
しかし族長の家とはいえども、他と変わらない粗末な家である。
﹁では、お前たちは帰っていいぞ﹂
エルフの族長がここまで共にいたエルフたちへ、無慈悲に告げた。
﹁え﹂
愕然。魂の抜け落ちたような声が、誰かの口から聞こえた。
粗末な家に大人数は入ることができないし、この後、それぞれ部
族の族長も来るということは、皆もよく理解していることである。
されど、肉はともかくも酒の一口くらいは、と誰もが思っていた。
わざわざ武器を携えて戦おうと出てきたのだ。
多くの者が出払っている中で、人間に相対するために武器をとる
ことは、なかなか勇気がいる。
それゆえに、目の前に酒と肉があるのなら、何かしらのご褒美的
なものを期待してもいいのではないか、というのが皆の統一された
825
思いであった。
﹁お前たちの考えていることはわからんでもない。だが、ここは堪
えてくれ﹂
エルフの族長は自らも何かに堪えるよう、重苦しい声で言った。
客人を家に招きつつも、何も振る舞うことはできず、相手の手土
産に頼らなければならないことは、まさに恥である。
エルフの族長自身、本当はジハルの手土産をこの場で分け合いた
いところではあったが、そうもいかない。
一族を率いる長として、これ以上の無様は見せられないのだ。
皆は、エルフの族長の表情、その言葉を、見て聞いた。
ならば後はもう、目を地面に落として、渋々と帰る以外に道はな
かったのである。
そう時もかからずに︱︱厳密には、ジハルが持ってきた飲食物を
中に入れて酒宴の用意をしている最中に、各部族の族長たちはどや
どやとやって来た。
﹁エルフの! 皆、参ったぞ!﹂
表から聞こえる太鼓を鳴らすような腹に響く大きな声は、牛族の
族長のもの。
エルフの族長は、せっかくのごちそうを前に埃を立てられては敵
わぬと、ポリフ、ジハルを連れて外に出た。
瞬間、外にいた族長たちのうち豚族の族長が、右手に持った槍の
826
柄尻を地面に強く突き立てる。 威嚇。
されど地面は土であり、ドスリと鈍く低い音が鳴っただけに留ま
って、もっと大きな音を期待していた豚族の族長は顔をほんのり赤
らめた。
武器を持っていたのは、豚族の族長だけではない。族長全員、各
々自慢の武器を手にしている。
人間が来たという急報に、装備をまとい仲間を連れて駆けつける
途上、族長たちはさらなる伝令から敵がいないと聞かされた。
にもかかわらず、彼らが戦装束のままここに来たのは、立派ない
でたちだというジハルに対し、こちらもせめて武器を手にして威を
誇ろうという心積もりがあったからだ。
だが、これは逆に自らを憐れむ結果となる。
﹁ここより南に住まう狼族の族長、名をジハルという。よろしく頼
む﹂
ジハルが話す言葉は快活にして明瞭。双眸は曇りなく族長らの瞳
を左から順に見つめ、背はそれほど高いというわけではないのに、
そのたたずまいは巨木を想起させた。
武器を手にする者たちを前にして無手であるジハルが見せた、威
厳ある男ぶり。
各族長は自身の心の小ささと向き合うことになり、ジハルに対し
言い知れぬ敗北感を禁じえなかったのである。
﹁同族の者がいると聞いたのだが﹂
互いに紹介を済ませると、ジハルが尋ねた。
この場にはこの森に住むという狼族の族長だけがいない。
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牛族の族長は﹁ああ、あやつはな⋮⋮﹂と言って、困った顔をし
た。
豚族の族長もどこか苦笑したように言う。
﹁同族ということもあって、見栄を張りたいのだ﹂
各族長が武器を手にしてやって来たのに対し、狼族の族長だけは
自分の家に帰っていった。
しかしこれは、客人と会うのに武器は必要ない、という崇高な考
えからくる行動ではない。
むしろその逆、武器では足りぬと考えていたというのが、事の真
相である。
するとちょうどその時のこと、ガラガラと粗末な車が人力にて引
かれて来た。
車に乗っているのは紋様の入った服を着て、胸元や手足には、邪
魔ではないのかというほどジャラジャラと木製の飾りをした者。
その面容を説明するのにはただ一字で済むだろう。
︱︱狼。
ジハルよりも一回り若い、狼の頭をした男。名前をザーザイムと
いい、この森に住まう狼族の族長である。
﹁うむ、お主がジハルか。よく来たな。歓迎するぞ﹂
ザーザイムはジハルの面を見て挨拶をすると、フフッと嘲笑を漏
らした。
ジハルの顔は人間に近い。
獣人にとって、より野生であることは誇り高いことである。
828
同じ狼族なればこそ、覇権を争うかもしれぬジハルに対し、早く
もライバル心を燃やしていたのだ。
だがしかし︱︱。
﹁うむ、よろしく頼む﹂
真っすぐ見据えたジハルの眼にザーザイムは、ウッとたじろいだ。
まるで臆する様子を見せない堂々とした姿。
顔がどうであろうと関係ない、ただただ己に自信のある証拠であ
る。
﹁では中で飲むとしよう﹂
肌寒い秋空の下、とても涼やかな声でジハルは言った。
829
72.北の集落 2
エルフ族の族長が住まいとしている木造家屋には、部屋が二部屋
しかなく、どちらも土間である。
その内の一方の部屋。中央にはくぼみがあり、そこに火が焚かれ
ていた。
パチリパチリという薪が焼ける音が鳴り、立ち昇る煙は妻壁の上
部に開けられた窓より外へ吐き出ていく。
長年、煙に曝されて、部屋の壁は煤だらけだ。
そんな部屋で火を囲み、森の族長衆とジハル、ポリフが筵の上に
座っていた。
ポリフの手によって、人数分の木製の器に、ジハルが持ってきた
赤ワインが注がれる。
全員に器が行き渡れば、是非ともと名乗りを上げたザーザイムが
﹁この新たな出会いに感謝を﹂と述べて、一同がそれを復唱し器に
口を付けた。
﹁うまい!﹂﹁ああ、これはうまいぞ!﹂
飲んだ者は皆、酒のうまさに眉を開き、笑顔を輝かせた。
とはいえ、そのワインはこの世界にあってもそこまで大したもの
というわけではなく、貴族ならば誰でも飲める程度のものでしかな
い。
彼らがここまでうまいと感じたのは、やはり本格的な酒というも
のから遠ざかっていたことが原因だと考えられる。
各々は、二口三口と味わうように酒を口に運んだ。
830
なんといっても久方ぶりの酒であるために、一気にあおるような
もったいない真似はしない。
舌の上でよく転がしてから、喉を通し、胃に染み渡らせて、再び
歓呼するのだ。
﹁お主のところではいつもこんなものを飲んでいるのか﹂
豚族の族長が、静かに飲んでいたジハルに尋ねた。
しかし、ジハルの返答を待たずして答えたのは、蜥蜴族の族長で
ある。
﹁そんなわけあるまい。こんなもの、人間だってそうそう飲めはし
ないだろうよ﹂
蜥蜴族の族長は、ジハルの部族も自分たちとそう変わらない暮ら
しをしているのだろうと考えていた。
今日の手土産は、暮らしの豊かさゆえのものではなく、奮発し、
無理をして持ってきたものだという決めつけ。
確かにジハルの恰好も立派なものであるが、よくよく考えれば獣
人がそんな豊かな生活など望めるべくもないのだ。
されど、ジハルはそれに反論するように答えた。
﹁いや、この程度のものならば週に一度はたらふく飲める。毎日と
いかぬのは、酒に溺れては困るためだ﹂
﹁馬鹿な﹂﹁そんなことはありえないだろう﹂
ジハルの話すことが事実なら、それはもう人間の生活を超えてい
る。
一同は驚きつつも、信じることはできないとばかりに、酒を飲む
831
手を止めることはなかった。
﹁肉はどうするのだ? 焼くのか、焼かないのか﹂
牛族の族長が、エルフの族長の傍らにある牛肉の塊の山に舌なめ
ずりをしつつ、皆に尋ねた。
森に住む者たちは、肉は焼かない方が栄養のあることを知ってい
る。
なので、普段狩りをして得た肉などは、特別なことでもない限り
生で食べていた。
しかし、ジハル曰く、上等な肉だという話だ。
彼らは、肉は焼いた方がうまいということもよく知っていた。
﹁焼くべきだ。いい肉なのだから、焼かないと勿体ないぞ﹂
﹁持ってきた本人がそう言うのならば、否応はない。焼いて食べよ
う﹂
ジハルの忠言に、エルフ族の族長が判断を下した。
ポリフが肉の塊を綺麗に切り分けて、皿に盛っていく。
それを尻目にエルフの族長は、背後に待機させておいた壺を取り
出した。
蓋を開けると、そこには小さな色のついた不揃いの粉粒がたんま
りと入っている。
﹁何かわかるかな?﹂
エルフ族の族長が得意げな顔をジハルに向けた。
ジハルは少し考えるように黙り込み、それから口を開く。
832
﹁塩、だろうか﹂
﹁その通りだ。岩塩が露出した場所を蜥蜴族の者が見つけてな。け
わしい谷間だ。人間には見つけられないだろうよ﹂
エルフ族の族長の顔に浮かんだ自尊の色は、より濃くなった。
いや、エルフ族の族長ばかりではない。他の者たちも、己を誇る
ような顔つきになっている。
この岩塩は、森に住む者たちが﹁今の居場所を追われたならば⋮
⋮﹂と考えて、周辺地域の探索を行った際に、偶然発見したものだ。
大陸においては岩塩が豊富なため、内陸部においても塩というも
のは珍しくない。
だが、独立した集団が、岩塩産出地を持っているというのはなか
なかないことだ。
それも、地表に露出するほどに溢れた岩塩産出地というのは、宝
の山といっても過言ではないだろう。
つまり族長衆の一様の表情は、これまでジハルに驚かされてばか
りであったことに対して、﹁我らも負けていないぞ﹂という意思表
示であった。
余談ではあるが、基本的に獣人というものは、野生動物を狩り、
その血肉から塩分を取るのが習わしとなっている。
また肉を得ることができない時などには緊急的な処置として、特
別な昆虫を食したり、土を食したり、石を舐めたりして、塩分を補
給する。
人間と違い、獣人たちに農耕の発展がなかったのは、彼らに塩を
採掘する習慣がなく、狩猟によって得た血肉から塩分を得なければ
ならなかったことが理由の一つに挙げられるのだ。
833
なお、これらのことはあくまでも獣人に限った話であり、エルフ
族、ゴブリン族、コボルト族についてはあてはまらない。
族長衆が、﹁岩塩産出地を有している﹂という自負心をもってジ
ハルを見つめる。
﹁さあ、驚け﹂という期待がこもった瞳である。
だがジハルは、相も変わらずすました顔で酒を一口飲み、器を置
いた。
﹁ふむ、いいものがある﹂
呟いて、ジハルが背後に置いてあった鞄をまさぐる。
中から取り出したのは黒い液体が入った瓶。
﹁空いた器を貰えるか?﹂
﹁ん? それは構わないが。おい、ポリフ﹂
エルフ族の族長が言うと、ポリフが木製の椀を奥の部屋から持っ
てきて、ジハルに差し出す。
ジハルが器に、トポトポと黒い液体を注ぎ、瓶は置かれた。
﹁なんだ、この香りは⋮⋮魚の、いや、豆を発酵させたか?﹂
くんくんと鼻を鳴らすのは、ジハルの隣に座るザーザイム。
その自慢の鼻で、ワインの芳醇な香りが漂う中から、黒い液体の
特殊な匂いを嗅ぎわけていた。
834
ジハルがザーザイムに器を回して﹁舐めてみるといい﹂と一言告
げる。
ザーザイムは黒い液体を指にチョンと付けて、器は隣に回すと、
黒く濡れた指先をぺろりと舐めた。
﹁︱︱!? しょっぱい! 塩も混じっているのか! だ、だが、
これは塩よりもはるかに︱︱﹂
︱︱うまい。
器を回して舐めていった族長衆は、誰もがそう思った。
﹁醤油という﹂
さもありなん。
こうなることが当然であるかのように、ジハルはしたり顔を見せ
た。
ジハルの言うがまま、ポリフが肉に醤油をちょこんと付け、それ
に串を刺して、皆に回す。
肉串を受け取った者は、それを火で炙った。
肉が焼ける匂い。それに醤油が熱せられる匂いが、とても香ばし
い。
それらの匂いは部屋にいる者の鼻孔を存分にくすぐり、脳髄をし
びれさせ、どうしようもなく食欲をかき立たせた。
﹁もう我慢できん!﹂
牛族の族長が、はたして焼けたのか定かではない肉を口に運んだ。
舌の上を踊る、風味とコクと旨味のある塩辛さ。
835
堪らない。
肉を噛めば肉汁が溢れるが、中まで焼けきっておらず、いわゆる
半生の状態。
しかし、それを覆すほどに肉は柔らかく、うまかった。
﹁これは! この柔らかさは! 食べたことがないぞ、こんな肉は
!﹂
うまいのかどうかを牛族の族長は口にしなかった。
しかし、その顔を見れば言葉は不要。一目瞭然である。
皆はもう我慢できずに、炙っていた肉串を口に運んだ。
﹁こんな柔らかい肉初めてだ! それに醤油の味がたまらん!﹂
﹁くそっ、うめえ。うめえぞ、ちくしょう!﹂
別に勝負をしていたわけではないが、族長衆の完敗だった。
ところで、牛族が牛肉を食べるのはどうなのか、とも思うかもし
れないが、そんなことを気にする必要はない。
共食いなどは弱肉強食の世界では珍しいことではないし、そもそ
も二足歩行の牛族と、四足動物の牛とは、近しい種族というだけで、
知能も体つきも何もかもが違う。
問題とすべきは、どこからどこまでを禁忌とするのか、である。
たとえば人が猿を食べるのは良いのか、人が哺乳類を食べるのは
いいのか、人が動物を食べるのはいいのか。
その線引きは千差万別であり、豊かな時代であったのなら、その
線引きは厳しいものになっていただろう。
しかし、あまり生きることに余裕がないこの時代においては、人
836
が猿を食べることなど禁忌と考える者すら少ない。
つまり、より苦しい生活を送っている牛族の者が牛を食べること
など、話のタネにすらならない、たわいもないことなのであった。
肉串を一本食べれば、腹はともかくも舌は満足し、次はしっかり
と焼いて味わおうという気になる。
族長衆はそれぞれ落ち着いた様子で肉を炙りつつ、空いた手で酒
を楽しんだ。
身を軽くした串が木製の皿に転がっていく。
ワインが並々と注がれていた器にも底が見え始め、皆は﹁もう一
杯﹂とおかわりを要求した。
まさに贅沢。叶うならば、部族の者たち全員に味わわせてやりた
い贅沢だ。
それにしても、と族長衆は思う。
ジハルが持ってきた酒、肉、醤油などの飲食物、さらに今までの
ジハルの態度に身だしなみなどなど。
これらを族長衆が顧みた時、ジハルの部族はもしかして本当に豊
かな暮らしをしているのではないか、という気にさせられた。 ﹁そろそろ、ジハル殿の部族について聞きたいのだが﹂
それを発したのは鼠族の族長。
見た目は、鼠頭の小男といった風貌である。クリクリとした丸い
瞳と、口元から覗く二本の前歯がとても愛らしい。
だが、それはあくまでも外見に限る話であり、その年齢は族長ら
しく相当に重ねている。
837
﹁なんでも答えよう。何が聞きたい﹂
﹁では、暮らしぶりについて教えてくれ﹂
﹁ずいぶん抽象的だな﹂
﹁細かい話はあとでもできる。まずは全体のことだ。見てもわかる
だろうが、この地で暮らす者は貧しい生活を余儀なくされている。
対して、ジハル殿の部族はどんな風に暮らしているのか﹂
ジハルの部族は本当に豊かなのか。そんなことがあり得るのか。
鼠族の族長は何よりも先に、その真贋を確かめずにはいられなか
ったのだ。
鼠族以外の族長たちも、酒を飲む手を止めて、ジッとジハルを見
つめた。
ジハルは言う。
﹁なに、どうということもなく、部族の者たちは日々を健やかに⋮
⋮﹂
︱︱と、そこで、ジハルはにわかに言葉を止めた。
それから考えるように、ジハルの視線は鼠族の族長から手元の酒
が入った器へと移動する。
なんだ、と皆は思った。
﹁どうした?﹂
鼠族の族長が尋ねると、ジハルは視線をそのままに応じる。
838
﹁いやなに、﹃我々は日々を健やかに暮らしている﹄と言おうとし
たのだがな。それだけでは足りぬというか味気ないというか。いや
まて、味気ない⋮⋮か﹂
何か思いついたように、ジハルは﹁おお﹂と言った。
﹁そうだな。こう言おう。︱︱我が部族は人生を味わうように生き
ておる﹂
うまいことを言った、とでもいうように、再び顔を上げたジハル
は満面の笑みを湛えていた。
実に惚れ惚れするような笑みである。
その場にいた者は目を奪われた。見惚れたのだ。
しかしそれと同時に、各々心の奥底から鬱屈たる思いが湧いた。
︱︱何故そのように笑えるのか。
︱︱人間でない者は等しく不幸になったはずだ。
︱︱己がそうであったように。
自然、器を持つ手に力が入った。
﹁何故そのような暮らしができるのか、是非ともご教授願いたい﹂
鼠族の族長が感情を抑えて、さらに尋ねる。
鼠族は、力弱く魔法も得意ではないため、これまで他の部族より
も思い通りにならぬことが多々あった。
そのため、頭を使うことをよく心得ているし、感情のコントロー
ルはお手の物だ。
839
﹁簡単なことだ。生活の根幹は衣と食と住にある。中でも食が最も
大切で、最も手間暇がかかる。
食物というものは服や家などと違い、食べればなくなり、おまけ
に腹が減るということに限りはないからな。そのため、常に食糧の
供給に気を使わねばならず、必然的に多くの時間を費やさなければ
ならなくなる。
つまり、だ。逆に、必要な量の食糧が安定して得られるようにな
れば、生活にゆとりが生まれ、他の色々なことに時間を割くことが
できるようになるということだ。それこそが、豊かな生活への道筋。
そしてその行く先にこそ、味わうべき人生がある。
人間たちが農作を主としているのも、それが最も効率がよく、か
つ安定して食物が得られるからに他ならない﹂
﹁そんなことは、わかっている。だからこそ、我々も麦を育ててい
るのだ。しかし、この地では満足に麦は育たん。土が悪いからだ﹂
どこか八つ当たりをするように、わずかな怒気を込めて鼠族の族
長は言った。
するとジハルはその言葉を待っていたといわんばかりに、笑みを
深くする。
ジハルの鞄から新たに取り出されたのは、握りこぶし大のごつご
つとした茶色く丸いもの。
﹁なんだ、これは⋮⋮?﹂
﹁ジャガイモという﹂
そうジャガイモである。
ジハルは、いかにジャガイモが素晴らしいかを説いた。
840
生産性、味など、この地に限っていえば、これほど優れている物
はないとまで言いきった。
されど族長たちはいずれも懐疑的な顔をした。ジャガイモなど、
聞いたこともない作物である。
そんなに収穫がよいというのならば、大陸中に広まっているはず
であり、見たことも聞いたこともないというのはありえない。
何よりもジャガイモは醜く、本当に食べられるのか? という疑
いの目を族長たちは向けていた。
﹁ポリフ殿﹂
ジハルの呼びかけに﹁はい﹂と返事をして、ポリフが各族長に向
かって口を開く。
﹁ジャガイモは大変おいしいものでありました。生産性に優れてい
るかどうかはわかりませんが、それが事実だったのなら、間違いな
く我が集落の助けとなりましょう﹂
前述したことであるが、ポリフはエルフ族の族長の息子である。
たびたび、族長内で行われる会議にも参加し、その信頼は篤い。
そんな者が言うのだから、確かにジャガイモは素晴らしいのだろ
うと皆は思った。
﹁なるほど、確かにジャガイモが作物として優れているということ
はわかった。だがな⋮⋮﹂
鼠族の族長は言葉に詰まり、言葉を探すように唇を噛んだ。
言いにくい。
ジハルの一族は恵まれている。あまりに恵まれすぎているのだ。
841
鼠族の族長が今ひとたびジハルの姿を見てみれば、髪は整い、衣
に綻びなどなく、凛としており、ともすれば人間の貴族のようであ
る。
そんな何不自由なく暮らしている者が、何を望むのか。
こちらから差し出せるものはない。
無償の善意に期待したくもあるが、個人に施すのとはわけが違う。
森に住む者は多く、あまりに規模が大きすぎる。
ジハルが求めるものは、人夫か。それとも人間に対しての肉壁か。
﹁それで、どれほど貰えるのだ? そのジャガイモとやらは﹂
それを口にしたのはザーザイム。
協力して当然、仲間なのだから。そんな思いが一目でわかる。
お調子者の気がある、まだ若い男だ。だが、苦しい中でも決して
弱音を吐かない姿は、森に住む者たちに元気と勇気を与えてくれた。
彼が若くして族長になった理由もそれである。
彼もまた族長のあるべき姿なのだ。
そして、そんなザーザイムに対し、ジハルは応えて言う。
﹁必要な分を渡そう。だが⋮⋮﹂
不穏な接続詞を聞いた瞬間、ほら来た、と鼠族の族長は思った。
緊張で手が汗ばみ、服の下の背中の毛は濡れている。
他の者も気持ちは同じだ。
ザーザイム以外の族長衆は皆、顔をこわばらせていた。
842
﹁︱︱支配下に入ってもらう﹂
﹁許容できるか、そんなもの!﹂
ジハルが口にした条件に、間髪もいれずに立ち上がって怒りを表
したのは、牛族の族長である。
他にも豚族の族長が瞳の中に憤怒の炎を燃やして、静かに立ち上
がった。
同じ獣人に上も下もない、という考えがありありと浮かんでいる。
一方、ジハルには動じた様子はない。
ただ胡坐を崩し、右足を立て、左手は地面につけている。
一息で立ち上がれる姿勢だ。
さらに懐に右手を伸ばしているあたり、そこになんらかの武器が
あるのだろう。臨戦の態勢ではあるらしい。
﹁待て。座れ、二人とも。敵は人間、人間でない者同士が争ってど
うなる﹂
一触即発のにらみ合いを止めたのはエルフ族の族長である。
森に住む者に上下はないが、一番初めに森に住み始めたこともあ
ってか、族長衆の中では自然とエルフ族の族長がリーダー的役割を
担っていた。
﹁しかし、こやつは我々に対し、下につけなどと︱︱﹂
﹁支配下には入らぬ。それで終わりではないか﹂
きっぱりと言い切ったエルフ族の族長。
確かにその通りである。
843
怒りは収まらず、顔には苦々しい色を張り付けながらも納得し、
牛族と豚族の族長はどかりと座った。
﹁というわけだ。ジャガイモとやらもいらん。争いのタネなど我ら
には必要ない﹂
厳しい口調でエルフ族の族長はジハルに言う。
ジハルは全員の顔を見回した。
しかし、誰一人として顔に迷いを見せる者はいない。
一蓮托生。この森に住まう者は、鉄よりも固い絆で結ばれている
のである。
﹁なるほど、確かにお主らの意思はわかった﹂
言いつつ、ジハルが袖をまくり右手に巻かれた腕輪を見る。
﹁もうそろそろだ。我らの︱︱あの方の力を見せよう﹂
腕輪には円盤のような物が付いており、中で針がカチカチ動いて
いる。
族長衆は不思議に思ったが、その腕輪に金属の飾り以外の価値を
見いだすことはできない。
すると︱︱。
﹁ぞ、族長ーッ!﹂
家の外から聞こえる、ただならぬ声。
森の外の見張り役である、少年の声だ。
﹁何事だ!﹂
844
エルフ族の族長が立ち上がって、入口に向かう。
他の者も、何かあったのかと騒めき立ちあがった。
座したままであったのは、ジハルとポリフのみ。
エルフの族長が家の外に出ると、その目前へ見張りの少年エルフ
が駆けこんできた。
﹁ば、化け物が! 家のように巨大な化け物が、何匹も森に向かっ
てきています!﹂
﹁何ぃ!?﹂
反射的にエルフ族の族長は振り返った。
その視線を避けるようにして、入口にたむろしていた族長たちが
二つに分かれると、その先には怪しい微笑を浮かべたジハルが座っ
ている。
誰の仕業であるかは明らかであった。
845
72.北の集落 2︵後書き︶
すみません、ちょっと終わらなかったです。
846
73.北の集落 3︵前書き︶
すみません、遅れました⋮⋮
847
73.北の集落 3
﹁貴様! 何をしたっ!﹂
森の外に化け物が現れたという報告を受けて、エルフの族長がび
りびりと空気が震えるような声で叫んだ。
それに呼応するように、ジハルに集中する族長衆の視線。
その瞳の中には﹁事と次第によっては決して許さぬ﹂という強い
意志があった。
しかしこれまでがそうであったように、ジハルが怯むことはない。
ジハルは微笑を湛えながら、ゆっくりと立ち上がり答えたのであ
る。
﹁お前たちの決心がつくように、我らの力を見せようというだけの
こと。
ここに来るに際して、ワシには二つの役目があってな。一つはお
前たちに支配下に入れという通達。もう一つは、我らの力を前にし
てお前たちが何も考えず、ただ逃げ出すことをしないように留めて
おくことだ﹂
﹁何を!﹂
頭に血を上らせ、ジハルに向けて一歩足を踏み出したのは牛族の
族長と豚族の族長。
だが次の瞬間、パンという耳をつんざく音が響いた。
音というものは、ある一点を超えれば呪縛となる。
848
激しい痛み、強烈な光景などによってその身が縛り付けられるよ
うに、その激烈な音は族長衆を竦めさせ、あるいは退かせた。
音の正体は、ジハルが懐から取り出した黒いもの︱︱銃口を空に
向けた︻9㎜拳銃︼である。
﹁落ち着け。ワシは逃げはせん。まずは森に向かっているという化
け物の正体を確認しにいこうではないか。
それとも怖いのか? お前たちと同じ、人間でないワシが。ワシ
一人を数に任せてなぶってみるか? 人間のように﹂
明らかな挑発。
ジハルは人間という言葉を巧みに使い、己に手を出させぬように
煽ったのだ。
これにより、牛族と豚族の族長は﹁ぐぬぬ﹂と唸り声を上げるば
かり。
他の族長も程度の差はあれど歯噛みする思いであった。
もっともジハルの挑発に平静であった者もいる。
鼠族の族長、その人だ。
しかし、鼠族の族長は頭がいいからこそ、この場でジハルに手を
出すべきではないと考えた。
ジハルが持つ不可思議な道具、加えて化け物の来襲という不明の
事態が、鼠族の族長に危惧の念を抱かせたのである。
結局、ジハルの思惑通りに事は進んだといえるだろう。
エルフ族の族長がすぐに武器を持った者を集め、さらに各部族の
集落には﹁戦闘準備をせよ﹂と伝令を出すと、族長衆はエルフ族の
兵を引き連れて、森の入り口へと向かった。
無論、道中は垣をつくるようにジハルを取り囲んで、である。
849
﹁⋮⋮あれか﹂
森の入り口にたどり着くと、エルフ族の族長が呟いた。
森の南の景色は、森に住む者ならば誰もが知るところだ。
何もない、ところどころに木が立つだけの平野である。
そこに六つの鈍い色を輝かせた四角いものが並び、停止している。
距離は遠く、森の入り口からは豆粒のようにしか見えない。
だが、周囲にある岩や木が、その並んだ四角いもの︱︱︻73式
大型トラック︼及び︻馬運車︼がいかに大きいものであるかを示し
ていた。
﹁状況を説明せよ﹂
﹁と、突然南からあの化け物がやって来て、森の前をグルリと回っ
たらまた戻っていって、今の位置に⋮⋮﹂
エルフ族の族長が尋ねると、見張りの青年エルフが声を震わせて
答えた。
族長衆は、どうするべきかと口々に意見を出し合った。
﹁あれが化け物だと? あの外殻、とても生きものには見えんぞ﹂
﹁足もない。動いたということだが、張りぼての中に人を潜り込ま
せて動かしただけではないのか? なんにせよ、子供だましの小細
工にすぎん﹂
ハハハハ! と化け物の正体を見破ったとばかりに、笑い声が空
高く響いた。
850
そんな最中、鞄の中から新たに黒いものを取り出しすジハル。
﹁何をしているのか﹂という周りの声にも応じる様子はない。
﹁こちらジハル。送れ﹂
﹃こちらフジワラ。送れ﹄
一同はギョッとした。
ジハルが手に持つ長細い黒いものから、声が聞こえてきたのだ。
その長細い黒いものは︻トランシーバー︼である。
ジハルは周囲の反応に構うことなく、︻トランシーバー︼へと言
葉を発した。
﹁こちらの準備完了。定位置まで前進求む。送れ﹂
﹃こちらフジワラ、了解。これより前進する﹄
﹁了解、終わり。⋮⋮動き出すぞ、よく見ておれ﹂
ジハルの言葉を契機として、視線を森の外に戻す一同。
忙しくも、皆はまたもや目を丸くした。
︱︱車両の疾走。
ジハル以外の者にとってみれば、不気味な色をした四角いものが、
馬が全力疾走するような速度で砂煙を上げながら向かってくるので
ある。
車両というものを知らぬ族長衆にとって、あまりに異常な状況。
見張りの者はいずれも化け物だと言っていたが、確かにその通り
だと族長衆は驚愕した。
851
﹁に、にげ︱︱﹂
﹁逃げるな。あれらを扱っている者は我が同族ぞ﹂
誰かの怯える声を遮るように、凛然とした様子でジハルが言った。
しかし、もうそんな言葉が通用する事態ではない。
トラックの一台が、プーー!! とクラクションを鳴らしたのだ。
大音量かつ音域の高い音である。
その場にいた者は、化け物が鳴き声を発したのだと思い一瞬身を
震わせたが、聞きようによっては間抜けな音でもある。恐れはそれ
ほどでもない。
だが、そう考えた一秒後には、他のトラックも同じくクラクショ
ンを鳴らし、それはまるで化け物たちが襲い掛かる合図のように思
えて、皆は恐れおののいた。
﹁ひいいーー!﹂﹁化け物だーー!﹂
﹁おい、待て! 逃げるな!﹂
一人逃げれば、二人三人とエルフの兵士たちは逃げていき、族長
衆の制止の声も意味をなさない。
族長衆を除けば、残ったのは腰を抜かして尻餅をついた者と見張
りの青年エルフのみ。
エルフの兵よりも事情を知っていたとはいえ、族長衆が恐慌状態
にも陥らず、依然健在であったのは流石である。
﹁どういうつもりだ! なんなのだ、あれは!?﹂
エルフ族の族長が焦燥に駆られながら、悲鳴のような声でジハル
852
に問い詰める。
﹁力を見せるといったであろう。あれこそが、我らの、あの方の力
だ。いいから黙って見ておれ。お前たちに危害を加えることはしな
い﹂
ただ一人穏やかな様子で受け答えするジハル。
族長たちが己を顧みれば、ジハルと比べその態度は恥ずかしい限
りといえよう。
ちっぽけなプライドを刺激されたというべきか、それぞれが心の
中におびえを持ちながらも、己を保った。
﹁あの方といったな。それがお前の後ろで糸を引いている者か。何
者だ﹂
エルフ族の族長が、今度は平常心を心掛けながらジハルに尋ねた。
対してジハルは、フフッと笑い、もったいぶるように一呼吸溜め
てから口を開いた。
﹁︱︱この領地を治めるフジワラ様よ﹂
﹁領地を治める⋮⋮? まさか⋮⋮まさか、まさか! まさか、人
間か!﹂
瞬間、エルフ族の族長は顔色を一変させた。
他の族長たちも人間という言葉が出た途端に﹁何ぃ!﹂と叫んで、
目の色を変えている。
エルフ族の族長は鬼の形相となって、矛先をポリフへと向けた。
﹁ポリフ! 貴様! 人間に我らを、仲間を売ったのか!﹂
853
﹁父上、まずはジハル殿のお話を聞いてください。そののちに私を
罰するというのなら、この首を差し上げます﹂
目を血走らせて息子の胸ぐらを掴み、詰問する父親。
だが、ポリフはあくまでも冷静であった。
ジハルと何か取り決めがあったことは、明らかである。
エルフ族の族長は、投げ捨てるように息子の胸ぐらから手を放す
と、烈火のごとき怒りをそのままにして、今一度ジハルへと顔を戻
した。
ジハルは、その怒りを真っすぐに受け止めながらも気負うことな
く言う。
﹁左様。確かにフジワラ様は人間だ。だが、ただの人間ではない。
どのような方かと聞かれれば、ふふ、形容すべき言葉はあるぞ?﹂
とても滑らかに、また己の宝物を自慢するように言葉を紡いでい
くジハル。
﹁少し前、名前を出すのもおぞましい奴らが、あの方を救い主様と
いった。奴らにとってみれば心にもない言葉であっただろうが、そ
の言葉はまさに正しい。
あの方こそ我らが救い主、そしてお前たちをも救うことができる
お方だ﹂
ジハルは、信じ切っていた。敬虔で盲目な信者であった。
だからこそ族長衆は、ジハルが嘘を吐いてはいないと、理解に及
ぶ前に直観した。
854
しかし、ジハルのいう
フジワラ
フジワラ
に救われた
のことは信じられなかった。
確かにジハルの言は本当で、彼の部族は
フジワラ
がジハルを助けているのではな
のだろう。しかしそれでも、ジハルが騙されているという可能性が
残る。
何か目的があって、
いか、という疑念。
所詮は人間なのだ。
理由もなしに、人間でない者を助けるということなどありえない。
エルフ族の族長は少しでも情報が欲しいと思い、ポリフに顔を向
けた。
だが返ってきたのは、無常ともいえる現実である。
﹁ジハル殿が騙されているという可能性は否定できません。人間に
なんらかの策謀があって施しているだけなのだと。しかし現状、我
々に手はないのです。この地にフジワラ様という人間の領主がやっ
て来た。あの方は、ジャガイモを使い、この地を豊かにするでしょ
う。
既にジャガイモは南の村には広まっています。近い未来、ジャガ
イモはこの国、いや大陸全土に広がるかもしれません。
作物の育ちにくい土地が、育ち易い土地に変わる。人間が暮らし
にくかった土地が、暮らしやすい土地に変わる、ということです。
この意味がわかりますか?
フジワラ様の支配下に入らないのであれば、我々はこの地から去
らねばならない。しかし、今度はどこに逃げろと?
人間の暮らしにくい土地はジャガイモによってなくなる。それに
より、我々の住むことのできる土地がより限られていく、というこ
となのです﹂
ポリフの話に、まずエルフ族の族長と鼠族の族長が膝をついた。
855
人間が動いた。それも領主が。これだけでも問題であるのに、ジ
ャガイモの存在が森に住む者たちを逃げ場のない袋小路へと追い込
んでいた。
エルフ族の族長と鼠族の族長は、もう打つ手がないことをはっき
りと理解したのである。
他の族長もエルフ族の族長と鼠族の族長の様子をを見て、鬱勃と
した表情になった。
ザーザイムだけは何か手はないかとずっと考えていたが、答えが
見つかることは決してない。
﹁幸いにも、フジワラ様は我々が支配下に入るのならば、この地に
住む権利と多大な支援を約束してくれました。私は、フジワラ様に
下ることこそが最善であると考えます﹂
ポリフが己が父親を、族長衆を、優しく諭すように言葉を締めく
くった。
するとそれを後押しするように、ジハルの手元の︻トランシーバ
ー︼からまたもや声が聞こえてきた。
﹃こちらフジワラ。予定の位置に停止した。これより砲撃演習を行
うがよいか。送れ﹄
車両は既に、森の入り口から百メートルほどの位置に停止してい
たのだ。
﹁こちらジハル。お願いします。送れ﹂
﹃こちらフジワラ、了解。これより砲撃演習に移る。終わり﹄
856
一列に並んだ車両の前に運ばれたのは、筒を載せた二台の人力車。
言わずもがな、︻四斤山砲︼である。
そして巨大な音が大地に轟いた。
全身を叩きつけられるようであり、また骨の髄にまで響くような、
そんな音。
はるか西の方でも音が鳴り、族長衆がそちらへ瞳を向ければ、砂
煙が舞っている。
森からはどこにそんなにいたのかという数の鳥がバサバサと一斉
に飛び立ち、音から逃げるように北へと去っていった。
﹁わかるか。あの筒より放たれた攻撃が。
我らはあの武器を何十と持っている。あの武器で何千もの敵を︱
︱人間の軍を撃滅したこともある﹂
族長衆は虚ろな意識のままジハルの説明を聞きつつ、︻四斤山砲︼
が火を噴く姿を茫然とただ見つめる。
それは恐ろしい武器だった。
飛距離は弓の比ではない。巻き上げられた土と、激しい音は、い
かに威力があるかを示している。
狙いが付くかどうかは甚だ怪しいところであるが、対集団など的
が大きければ、そんな話は些細なことである。
︱︱数を揃えられたら、己が集落などひとたまりもない。
それが族長衆が導き出した結論であった。
﹃砲撃演習終わり。事後は連絡があるまでここで待機する﹄
︻トランシ︱バー︼から、新たに声が聞こえた時、砲撃の音は止ん
でいた。
857
されど族長衆は、いまだ定まらぬ意識の中、夢うつつのように正
面を見つめている。
いや違う。
彼らが見ているのは正面などではない。
ぼやけてもう何も見えなくなった己が部族の未来を、彼らは見つ
めていたのである。
﹁手段はないのです、父上﹂
どこか慰めるようにポリフはエルフの族長に声をかけた。
﹁わ、わかっている。だが⋮⋮だが⋮⋮﹂
エルフ族の族長の声は震えている。
従う以外に道はないことを、もはや彼はよく理解していた。
しかし、だからといって心は納得できるものではない。
部族の者たちは苦しみに苦しみ抜いて、この地に生活圏を築いた
のだ。
それを今更、元凶ともいえる人間に従うなど、エルフ族の族長は
考えるだけで身が張り裂けそうであった。
沈黙がその場を支配する。
野生の動物が逃げていったせいか、あまりにも静かで、虫の鳴き
声すら聞こえない。
ややあって静寂を破ったのはジハルである。
﹁信頼にたるものになるかどうかはわからないが、少し昔話をしよ
う。我々がフジワラ様とどのように出会い、どのようにして今日ま
で歩んできたのかを﹂
858
ジハルはおもむろに語った。
それは、この地よりはるか南東の果ての話。
ある人間の男と出会い、その男がつくった町にジハルの部族は住
むことになった。
段々と仲間が増えていく。彼らは、ジハルの部族同様に人間でな
い者たち。
さらには人間たちの侵略にも立ち向かい、打ち勝った。
皆が手を取り合い、とても豊かで、そこが天国ではないかと思え
るほどに幸せだった。
そして、町の住人は男を裏切った。男に大恩があるにもかかわら
ず。
しかしそれでも、その男は狼族と共にあった。
全てを聞き終えた時、エルフの族長を含む森の六部族は信秀への
恭順を示した。
完全に信用したわけではない。したわけではないが、ジハルの語
りは真に迫っていた。
話したことは全て事実なのだろうと族長衆は思ったのだ。
現状、森に住む者たちに手立てはない。
手がないならば、せめてほんの少しでも信頼のできそうな人間に
下るべきだ。
彼らは族長である。時には己の誇りをかなぐり捨て、部族の者た
ちの誇りすらも蔑ろにした決定を行わなければならない。
それが、彼らが族長たる所以なのだ。
かくして、フジワラ領の平定が無事なされたのである。
この後、信秀は北の集落の慰撫に努め、信頼を得ようと尽力した。
人間への恨み、ことさらに強く持つ者たちである。
859
彼らの中には、まだまだ力で押さえつけられているという感情が
あった。
しかし、とりあえずのところは、信秀という人間を見極めようと
いう考えに落ち着いたらしい。
860
73.北の集落 3︵後書き︶
次回は他の転移者の話となります。
861
74.幕間 小松菜芳樹 1︵前書き︶
幕間と銘打ってますが、佐野の時のように必要な話ですので、何卒
よろしくお願いします。
862
74.幕間 小松菜芳樹 1
︱︱これは、藤原信秀、佐野勉、永井昌也などと同じく、日本か
よしき
ら異世界に誘われた者の話である。
こまつな
小松菜芳樹は小さい男であった。
体躯は小さく、知力体力など自身の能力も小さい。おまけに心も
小さかったため、いつも何かに怯える日々を送っていた。
高校生であり、通う学校は偏差値の低い誰でも入れるような底辺
高校。
小松菜は、その日の朝もびくびくと怯えながら、登校するために
自宅を出発した。
朝日を背に浴びながら自転車で駅まで行き、そこから電車に乗り
換える。
駅のホームで腕時計を確認すれば、七時十五分ぴったり。
この時間なら、同級生は電車にいないだろうと高をくくり、小松
菜はやって来た電車に乗り込んだ。
だが珍しくも、次の駅で同じ車両に現れたのは、憎々しい同級生
である。
︵な、なんで。あいつはいつも遅刻してくるのに⋮⋮!︶
あいえだ としお
相枝俊夫。髪は金色に染めて眉は細く体も大きい。いつも小松菜
をいじめてくる生徒の一人だ。
小松菜はぞっとして、そっと身を隠した。
見つかりませんように、と祈りながら。
863
しかし、ちょうどその日、その時、その場所は、小松菜にとって
飛躍の瞬間であった。
︱︱電車の脱線事故。
同じ車両に乗っていた数多の人間がそうであったように、小松菜
も脱線事故に巻き込まれ、気が付けば真っ白い空間にて神を名乗る
老人と出会い、異世界への転移を告げられたのである。
神との間に色々あったものの、最終的に皆は現状を受け入れて話
は進んでいく。
カードを選んだ者から順に光の中に消えていき、ついには同級生
の相枝もいなくなった。
小松菜はただ流されるままにそれらを眺めていたのだが、心中は
穏やかではない。
︵皆、いなくなっていく。ま、まさか、僕が最後じゃないよな!?︶
自分を置いて人がいなくなっていくことに、段々と不安を覚え始
めていたのである。
だが、その不安は杞憂でしかない。
不意に小松菜がパチリと瞬きをすると、もう目の前にはカードが
並んでいた。
いよいよ己の番がやってきたのだ。
︵こ、これが運命の分かれ目だ⋮⋮!︶
頭のあまり良くない小松菜であっても、このカード選びが異世界
での生活を左右する重大な局面であることはわかった。
緊張で歯がカチカチと鳴り、胸の下の心臓は、どこかへ行ってし
まいそうなほどに暴れている。
全て小松菜の意思とは無関係の事象である。
864
しかしそれでも小松菜は震える指先でカードを選び、他の者たち
と同様に光の中で目を閉じた。
閉じた瞼の向こうから光を感じていたのはわずか一瞬のことだっ
た。
小松菜が恐る恐る目を開くと、その瞳に映りこんだものは︱︱野
原。
﹁ここが異世界⋮⋮?﹂
キョロキョロと辺りを見回せば、はるか向こうに大きな壁に囲ま
れた都市が見える。
どう考えても日本ではない。
﹁そういえば!﹂
ハッと思いついたように小松菜は叫んだ。
生命線ともいえる神から貰ったカード。
それを今一度確認するために、右手を顔の前に持ってきた。
﹁あ、あれ?﹂
しかしそこにあるべきカードはない。
右手じゃなかったのかと思い、カードの感触がないにもかかわら
ず、半ば現実逃避をするように、小松菜は左手を確認する。
もちろん、カードは左手にもない。
﹁う、嘘だろ!?﹂
どこへいったのかと、小松菜は尋常でない焦り具合で地面を探し
865
た。
カードがなければ、のたれ死には必至。
自分の弱さというものをよく自覚している小松菜は、それをよく
理解していたのだ。
するとその時である。
﹁な、なんだ、これ。体が、何か⋮⋮何かおかしいぞっ!?﹂
小松菜が気付いた己の体の異変。
全身にあふれんばかりの力が宿り、心臓のさらに奥、魂の底から
熱いものが湧きたっていた。
原因は言うまでもない。
小松菜のカードは︻体力強化︼︻特大︼︻★★★★★★︼。
もはやカードがどこへいったのかは明らかである。
﹁は、ははは。す、凄い⋮⋮凄いぞ! もう僕はかつての小松菜芳
樹じゃない! ハイパーウルトラスーパーファイナル小松菜芳樹だ
!﹂
あまりの高揚感に、小松菜は空に向かってよくわからないことを
口走った。
小松菜が転移した場所は西の果てにあるイニティア王国。︱︱別
名、始まりの国。
﹃全ての聖なるものは西から始まり、全ての魔なるものは東から始
まる﹄とはラシア教の聖典に記された言葉だ。
聖とは人間、それに聖獣と呼ばれる生き物を指す。
866
その言葉の通り、西の国には聖獣と呼ばれる生物が存在している。
また大地は豊穣で、巨馬の生産地であり、これも聖なる地ゆえの
ことだと考えられてきた。
異世界にやってきてから数ヵ月。
小松菜は、イニティア王国の王都であるイニティウムにて力仕事
をして暮らしていた。
といっても、自分に自信がなく引っ込み思案な性格である。
最初こそ勇気が足りず、誰かに話しかけることすら及び腰になる
ほどであり、そんな者が満足な仕事を得られるはずもなく、小松菜
は所持品を安く買い叩かれて得たお金で慎ましく暮らしていた。
だが金が底をつき、もう後がない状況に陥ると、小松菜もようや
く積極的に行動を始めた。
勇気を振り絞って仕事を探し、さほど苦労なく見つけたのは、そ
の時期において一番きついといわれる河川工事の仕事である。
河川工事とは、大雨により決壊した河川の堤防の修復作業のこと。
犯罪者の労役や税としての労役にもなっている仕事であるから、
その辛さ、厳しさは並大抵のものではない。
もっとも、それほどきつい仕事だからこそ、小松菜ですら簡単に
採用されたのであるが。
しかし一度仕事についてしまえば能力の恩恵で、小松菜はなんら
苦を感じることなく仕事をこなすことができた。
むしろ一人で何倍もの仕事量をこなし、周囲からは小さな巨人な
どと畏怖されたほどである。
﹁お、今日も頼むぜ、小さな巨人﹂
﹁お前がいれば百人力よ、同じ班でよかったぜ﹂
867
堤防の建設現場に今日も朝から顔を出せば、多くの者から声をか
けられる。
小さいという言葉は余計であったが、小松菜は快感だった。
人の胴体ほどの石を抱えるたびに、おおお! という歓声が湧き、
これまで満たされることのなかった自尊心が胸の内で溢れかえった。
仕事を手にして以降の小松菜の異世界での生活は、毎日が興奮に
満ちていたといっていい。
びくびくと震えるだけの毎日は、もはや過去のこと。
ここでは何かに怯える必要もない。かつての便利な世界を失って
も余りあるものを小松菜は手に入れたのだ。
だが、そんな小松菜に特に望んでもいなかった転機がまたもや訪
れることになろうとは、この時の彼には知る由もないことであった。
それは、河川工事も佳境に入った頃のこと。
﹁コマツナ、監督が事務所に来いってよ﹂
その日の作業が終わってすぐに、同僚の者から伝えられた言葉。
作業監督からの呼び出しである。
︵なんだろうか?︶
疑問を胸に、ダムの横にある事務所とは名ばかりの掘っ建て小屋
に入れば、監督と一緒に武具を身にまとった人間がいる。
ただの兵士ではない。マントを付けており、装備も立派、髭を蓄
えた顔にも威厳がある。
868
加えて今日の作業中に何度か見かけた人間だ。
︵国の偉い人かな。作業の進行具合を確かめに来たのか︶
小松菜はぺこりと、立派な身なりの男に頭を下げると監督に用件
を尋ねた。
監督は言う。
﹁お前の力は大したもんだ。それをこんなところで腐らせておくの
は惜しい。今日は、お前を軍に推薦するために将軍様に来てもらっ
た。軍に入ってその力を存分に役立たせろ﹂
まさか、国の偉い人が自分を見に来ていたとは。
予想外の事態に、小松菜はしばし瞠目した。
﹁今日のお前の働きをよく見させてもらった。本当に大したものだ
と思う。
そういうわけで、お前を軍にスカウトしたい。もちろん末端の兵
ではないぞ? とりあえずは騎士見習い。ゆくゆくは騎士になって
もらうつもりだ﹂
これは将軍の言である。
小松菜はあまり気が進まなかったが、悲しきかな彼は小心者。
監督の押しと、軍を預かるほど立派な者がわざわざ見に来たこと
に、ついつい首を縦に振ってしまった。
こうして小松菜の軍生活が幕を開けることになったのである。
翌日にも小松菜は将軍に連れられて、軍の営舎に入ることになっ
た。
鳴り物入りで軍に入隊した小松菜であったが、当初の周りからの
869
反応はといえば、嘲笑の一言に尽きる。
何か命令されれば二度三度聞き返すのは当たり前。
鎧を着ることすら満足にできず、馬の轡の付け方すら知らない。
とにかく小松菜という人間はどんくさかったのだ。
騎士見習いにとって周りは皆、騎士になるためのライバルである。
特に最近は教会からの﹃他国と争うべからず﹄という布告もあり、
世は平和そのもの。
手柄を立てることも難しく、騎士が足りなくなるということもな
い。
そうなってくると、騎士見習いが騎士に昇格できるのは年に一人
か二人。
それゆえに、わざわざスカウトされて騎士見習いになったという
小松菜に対して、他の見習い騎士が誹謗や叱責を緩めることはない。
しかし、軍の中にあっても小松菜の才能は傑出したものであった。
最初こそ生来の小心から目立たなかったが、小松菜はやがてその
本領を発揮していく。
武器の扱いなど知らずとも、小松菜が重く長いものをただ振るう
だけで一撃必殺となったし、弓を引けば容易く弦を引きちぎり、見
ている者を驚嘆せしめた。
いつの間にか、小松菜に対する嘲笑は、感嘆や賛辞といったもの
に変わっていた。
他の見習い騎士たちが、嫉妬するのも馬鹿らしいと思うほどの言
語に尽くせぬその膂力で、小松菜はメキメキと頭角を現していった
のである。
それから二年、武器の扱いを含む騎士としての最低限のことを学
んだ小松菜は、ついに騎士となった。
870
イニティア王国において騎士の扱いは貴族と同等である。
しかし、小松菜がその権力を笠に着ることは決してない。
小松菜の性質は善といっていいだろう。
日本に住む概ねの者がそうであるように、彼は常識的な道徳観念
を持ち合わせていたし、日本で受けた同級生からの非道の数々が、
人の痛みというものをよく知る機会となった。
日本では﹁これ詐欺じゃなかろうか﹂と疑って募金などには抵抗
があった小松菜だが、この世界において、いざ目の前で貧困に苦し
む者がいればよく施した。
また上層部に飢えた者をなんとかしてくれと訴えたし、悪徳な行
為をして民を苦しめる者には自らが出向き、騎士として法の裁きを
与えた。
そのため町の人々は小松菜の清廉ぶりを讃え、同僚騎士からの評
判も上々。
このように小松菜の騎士生活は大変良好であったといえる。
だが何もかもが順風であったわけではない。
小松菜は、この世界の常識に葛藤していた。
この世界では命の価値があまりに軽く、人が容易く死ぬのである。
騎士はその職務柄、人の死に立ち会うことが多い。
小松菜は、誰かの死を見るたびに顔を歪めた。
加えて、悪人を成敗するのも騎士の務めである。
人を殺すという時に手が震える。これは騎士としては恥以外の何
物でもない。
騎士仲間たちが娯楽として噂する臆病騎士とは他の誰でもない、
小松菜のことであった。
871
︵僕が命を奪った人たちの生まれが、この世界ではなく日本だった
のなら、彼らは悪事を働くことなく幸せに生きていたかもしれない︶
夜、寝付けない時、小松菜は時折考えるのだ。
その度に、胸を錐で突き刺されたかのような激しい痛みが小松菜
を襲った。
それは、小松菜が望郷の念を感じる唯一の時間であったともいえ
る。
だがそんな苦しみも、やがて平気になった。
きっかけは、北方から流れこむ大河を根城にした川賊集団︱︱通
称バイキングの討伐。
彼らバイキングは商売を生業とする傍らで、村落を襲うなど、悪
行の限りを尽くしており、その討伐命令が小松菜の所属する騎士団
に下されたのである。
騎士団の指揮は、小松菜が軍に誘われて以来、何かと縁のある将
軍が執った。
しかし討伐の結果だけをいえば、失敗。
敵の計略にかかり、騎士団は空のアジトを攻撃し、そこをアジト
もろとも火攻めにされた。
敗因はバイキングが想像以上に大規模で、組織だっていたこと。
さらに、王国内にバイキングに情報を漏らした者がいたであろうこ
とが大きい。
真っ赤な炎が辺りを包み、騎士たちは煙に巻かれた。
だが、一ヵ所だけ火の手が弱いところがあった。
罠だとわかっていても、将軍はそこに懸けた。
しかし、やはりというべきか、待ち受けていたのは敵の伏兵であ
872
る。
雨のように矢が降り注ぎ、軍は半壊した。
将軍ですら矢に頭を貫かれて、息絶えたのだ。
そんな中で小松菜だけは、その力でもって血路を開いた。
味方が殺されていくその隣で、敵を殺戮し、命乞いをするもので
すら、肉を裂き、骨を砕き、頭を潰して絶命させた。
共に笑いあった仲間の死が、小松菜から迷いというものを取り除
いたのだ。
騎士団が敵の包囲を抜けた時、その数は半分にも満たなかったと
いう。
王都に戻ると、小松菜は騎士団を救った功績を認められて、この
度の討伐戦で没した将軍に代わり、その任を引き継いだ。
小松菜が任ぜられたのは聖騎三将軍の内の一角である、左将軍。
聖騎三将軍とは国王直下の将軍たちであり、前将軍、左将軍、右
将軍からなる。
後将軍はおらず、彼らの背後にあるのは王ただ一人。
中央に守るべき者を置かず、王を後将軍としたイニティア王国最
強の布陣である。
そんな将軍職の一角に二十足らずの若輩者が据えられることは、
イニティア王国の長い歴史を見ても前例のないことであった。
将軍位を戴いてからの小松菜の多忙ぶりは生半可なものではない
といっていいだろう。
あまり頭の回転がよくない小松菜であるからして、仲間の力を借
り、ようやく業務をこなすことができるというのが、彼の将軍とし
ての状況であった。
873
さらにかつての敗戦の雪辱として、バイキングの再討伐作戦を決
行し、その忙しさに拍車をかけた。
討伐作戦の結果はといえば、先頭に立った小松菜の獅子奮迅の活
躍により、バイキングは全滅。
バイキングの裏には東の小国が関わっていたようであるが、ラシ
ア教会の布告によって、大胆な行動は起こせなかったのは悩ましい
ところだ。
そうこうしているうちに、異世界にやってきてから四年が過ぎよ
うとしていた。
この頃には小松菜も仕事に慣れ、月に一度程度は休みを取れるよ
うにまでなっており、今日はその休みを利用して教会のシスターが
やっている町の孤児院を訪れるところである。
﹁ここに来るのも久しぶりか。皆、元気にしてるかな﹂
一言呟いて、小松菜は孤児院の扉を開けた。
入ってすぐの礼拝堂では、幼年の者が文字の読み書きの練習をし
ており、また年長の者は孤児院の運営費の足しにするために針仕事
をしている。
﹁あっ、ちっちゃい兄ちゃんだ!﹂
﹁お兄ちゃん!﹂﹁ちっちゃいお兄ちゃん!﹂
子どもたちは小松菜の姿を認めると、手を休めて駆け寄った。
﹁こら、ちっちゃいはやめろ!﹂
注意しつつも満更でもない様子の小松菜。
昔はよく訪れていた孤児院であったが、左将軍となってからは忙
874
しく、顔を見せたくとも来ることができなかった。
ただし、その忙しさの代わりに、軍を預かるものとしてより多く
の者を救うことができていたが。
﹁今日はな⋮⋮﹂
小松菜は言葉を区切って、再び外に出ると、今度は大きな箱を抱
えて中に入ってきた。
﹁ジャーン! 美味しい果物をたくさん持ってきたぞ! さあ、お
やつにしよう!﹂
小松菜が抱えた箱の中には色とりどりの果物がある。
子どもたちは、目を輝かせて喜んだ。
そんな子どもたちの様子を見ると、小松菜の心も嬉しくなり満足
した表情を浮かべた。
﹁そういえばシスターが見えないが﹂
シスターはこの孤児院のただ一人の大人であり、孤児院を経営す
る老婆のことである。
﹁婆ちゃんはねえ︱︱﹂
﹁おや、あなたは?﹂
子どもの声を遮って、入口から声が掛けられた。老婆の声ではな
い。
誰だろうかと思って、小松菜は振り返り︱︱そしてドキリとした。
修道服姿の、長く美しい銀色の髪をした女性。
875
見つめられただけで心臓が高鳴り、血流が巡って小松菜の顔は赤
くなる。
﹁ああー! ちっちゃい兄ちゃんの顔が真っ赤だー!﹂
﹁ほんとだー!﹂
囃し立てる子どもたち。
だが、それを注意することはできない。
小松菜の視線は目の前の美しい女性に釘付けだった。
一目ぼれ。
これまでに美しい女性を見て性的欲求に囚われることはあったが、
これは違う。
邪な感情よりも、ただ美しいという思いが先に立った。
﹁あの、もし?﹂
話しかけられた。
だが、小松菜の頭の中はまるで凍結してしまったかのように働か
ない。
なんて話せばいいのか。
女性と付き合ったことすらない初心な小松菜に、気の利いた言葉
は思い浮かばなかった。
だがちょうどそこで、小松菜の耳に入ってきた言葉がある。
﹁あちゃー、これはコマツナの兄ちゃんも騙されてるなあ﹂
﹁ちっちゃい兄ちゃんの顔を見てよ。絶対惚れちゃってるよ。相手
は男なのに﹂
子どもたちのぼそぼそとした話し声。
その中にあった不穏な単語。
876
︱︱男。
嘘だろ? と小松菜は思いつつ、失礼だと自覚しながらも目の前
の相手の胸を見た。
︵⋮⋮膨らみはないように見える。でも胸が小さい女性なんて幾ら
でもいるだろ。なら今度は⋮⋮︶
小松菜は股間を見る。
だが、彼女の着ている修道服はフード付きのゆったりとしたロー
プ。股間の膨らみの有無などわかるはずもない。
駄目だ。わからない。
子どもたちが嘘をつくとは思えないが、だからといって目の前の
相手が女ではないというのは、美への冒涜ではないかとさえ感じて
いる。
小松菜は﹁ええい、ままよ!﹂と心の中で叫びながら、本人に確
かめることにした。
﹁ええっと、し、シスター?﹂
﹁いえ、ブラザーですが﹂
なんということか。彼女は、いや彼は男だったのだ。
﹁ああ、そんな⋮⋮﹂
初恋が一瞬にして敗れ去った瞬間である。
小松菜はその場に崩れ落ちた。
﹁あの、何か私が粗相をしたみたいで、すみません﹂
877
謝る美しい女性のような男性。
彼は別に悪くはない。
己が勝手に勘違いをしたのが悪いのだ。
小松菜は気を取り直して立ち上がり、言葉を返した。
﹁あ、いや、こちらこそ。僕は小松菜。ヨシキ・コマツナっていい
ます﹂
﹁これはご丁寧に。私はレアニスといいます。よろしく、小松菜﹂
コマツナではない、はっきりとした発音で小松菜と彼は言った。
878
74.幕間 小松菜芳樹 1︵後書き︶
イニティア王国は、地図の西の空白地に当たります。
879
75.幕間 小松菜芳樹 2︵前書き︶
次回から、また本編に戻ります
880
75.幕間 小松菜芳樹 2
これまで小松菜が同郷の者を探したことはない。
気がかりではあったし、今では将軍位などという大層な身分まで
戴き、探そうと思えば容易に探すことができたであろう。
しかしそれは躊躇われた。
己をいじめていた相枝。
もし彼に会ってしまったら、もし彼に己の存在を知られたら。
そう考えると、今この場にある己がボロボロと剥がれるような気
がしたのだ。
意地だった。
臆病なプライドともいうべき意地。
自分がいじめられていたという恥ずかしい過去を、この世界の誰
かに知られたくはない。
だからこそ小松菜が同郷の者を探すことはなく、そのかいあって、
これまで同郷の者と出会うこともなかった。
小松菜
と言った。
しかし今、目の前にいる女性のような男性は、この大陸に住む誰
よりも正しい発音で
これは違和感だ。
この国に住む者は皆、己のことをコマツナと呼ぶ。たまにコミャ
ツナと呼ぶ者もいるくらいだ。
だからこその違和感である。
︵たまたまなのか?︶
881
この異世界で、初めて
小松菜
と呼んだ者。
小松菜の心の奥底で、同郷の者ではないのか? という小さな疑
念の灯火が点った。
するとレアニスは、フフッとこちらの考えを見透かすように笑い
かける。
もしや、と思い、小松菜が口を開きかけた瞬間︱︱。
﹁教えてくれませんか、あなたのいた世界のことを﹂
初めはレアニスが何を言っているのかわからなった。だが、理解
すればそれは途轍もない衝撃となって、小松菜は卒倒しかけた。
世界。世界と言ったのだ、この男は。
国ではない、世界と。
﹁お、同じ世界の人間なのか⋮⋮?﹂
﹃その答えはイエスともいえるし、ノーともいえます﹄
返ってきた言葉は日本語、おまけに簡単な英語も混じっている。
このさらなる衝撃に小松菜は思考を停止させ、レアニスの返答が
どんな意味を持っているかについては、全く理解が及んでいない。
レアニスは言葉を大陸のものに戻して言った。
﹁場所を変えましょうか﹂
小松菜に是非はない。いまだ覚めぬ驚きの中で頷くだけだ。
子どもたちの惜しむ声にも、﹁また来月にたくさんの果物を持っ
てくるから﹂と言い聞かせて、小松菜はレアニスと共に孤児院を後
にした。
882
特に会話もなく、レアニスの足に合わせて、隣を歩く。
道を行けば、町の人からはレアニスに向かって挨拶が交わされた。
彼は、なかなか人気のようだ。
もちろん小松菜も過去の経験と左将軍という立場から何度か声が
掛けられており、その度に笑顔を返している。
結構な距離をレアニスについて進んだ。
やがてたどり着いたのは高級住宅街にある大きな屋敷である。
﹁ここは確か⋮⋮﹂
門の前まで来れば、その屋敷には覚えがあった。
門を守る衛兵がレアニスの顔を確認し、次いで小松菜の顔を見て、
ギョッとする。
﹁これは左将軍様!﹂
たかが門兵であろうとも、その顔を知らないわけがない。
なぜならそこは小松菜と同じ位を戴く前将軍の屋敷であるからだ。
﹁この方は私の知り合いです。お通ししてもらえますか﹂
﹁はっ、わかりました﹂
レアニスの一言で門を通された。
小松菜は﹁なるほど、前将軍の身内か﹂とも思ったが、レアニス
ような者がいるなど聞いたこともない。
前将軍とはそれなりに親交あるので、レアニスのような身内がい
れば耳に挟むはずだ。
883
ならば客人か。
しかし、前将軍の客人ともなれば相応に身分の高い者であろう。
そんな者が何故場末の孤児院などにいたのか、町の者たちと触れ
合いはなんなのか、疑問は尽きない。
結局小松菜は、何か訳ありだろうと結論づけ、それ以上は難しそ
うな話になるので考えないようにした。
﹁さ、こちらです﹂
屋敷の中に入っても、勝手知ったるなんとやらとでもいうように、
レアニスの歩みに惑いはない。
すれ違う使用人にも馴れ馴れしく挨拶を交わしていた。
小松菜は部屋に案内され、そこにお茶が運ばれて来る。
レアニスは﹁誰も部屋に入れないように﹂と口添えして、給仕の
者を返した。
小松菜は小さな丸テーブルを挟み、レアニスと向かい合って座っ
ている。
視線が合えば口元を緩ませるレアニス。
レアニスを女性と勘違いしていた時は、小松菜も彼に対し美しい
という感想しか持っていなかった。しかし、男だという情報を得る
と、その見方も変わってくるというものだ。
レアニスの瞳には、妖しげで吸い込まれそうな魔力があった。
そんな視線から逃げるように、小松菜はテーブルの上のカップを
手に取って口をつける。
舌の上に広がるのは、芳醇な紅茶の味。
︵うまい⋮⋮︶
小松菜はカップを置くと、その美味しさを頷くことで示した。
884
喉が潤ったことで緊張も解け、再びレアニスとの視線が交錯する。
場面は整った。
いよいよだと小松菜は身構え、レアニスがゆっくりとその口を開
いた。
﹁私の中には日本人の記憶があるのです﹂
レアニスの告白。
やはりと小松菜は思いつつ、しかし同時に、おかしいなとも思っ
た。
日本人の記憶がある、とは妙な言い回しである。 ︵日本人の記憶があるのなら日本人じゃないのか? それならなん
で、日本人ですと言わない︶
小松菜は首を傾ける。
だが、待てよと小松菜はさらに深くまで考えを巡らせた。
︵こんな外国人みたいな人があの電車の中にいただろうか︶
レアニスは、あまりに美人である。
別の車両に乗っていたとも考えられるが、あの白い空間で相枝に
見つからないようにと周囲に気を配った時、レアニスはいなかった
はずだ。
︵いや、そもそもレアニスってなんなんだ︶
特徴的な西欧人の顔に、レアニスという名前。けれど、濁りのな
い日本語を話すことができる。
それは、決して合わさることがないパズルを無理やりつなげたよ
885
うな感覚だ。
小松菜は何かを口にしようとして、しかし言葉が浮かばず、口を
金魚のようにパクパクとさせた。
レアニスは微笑みながら、小松菜の様子を眺めている。
まるで小松菜の反応を楽しんでるかのように。
やがてレアニスは、答え合わせをするがごとく言う。
﹁まずは出自から。生まれは大陸の東、ラシア教の総本山エルドラ
ド教国。
名は、レアニス・ラファエロ・エン・ブリューム。
前ラシア教教皇の次男であり、現ラシア教教皇エヴァンス・ホル
ト・エン・ブリュームの弟に当たります﹂
﹁ええ!?﹂
ブリューム姓。大陸に住む者ならば誰もが知る、最も神聖とされ
る姓名である。
まさか教皇の血族だったとはつゆ知らず、小松菜は驚愕した。
レアニスはさらに言う。
﹁日本人の記憶があると言ったのは、あくまでも私はこの世界に生
まれたレアニスという存在であり、神から︻教皇になる︼のカード
を受け取った日本人ではないということです﹂
これまた衝撃の発言である。
なんとレアニスは日本人ではないというのだ。
それなのに日本人の記憶を持っているとはどういうことなのか。
︵︻教皇になる︼というカードを受け取ったとレアニスは言った。
886
ということは教皇となるべき人間に日本人が乗り移った? いや、
それなら記憶があるなんてまどろっこしい言い方なんてしないんじ
ゃないのか?
レアニスの言い方だと、まるでこの世界の人間が日本人の記憶を
得たように︱︱つまり日本人の意思はどこにもないように聞こえる。
いやでも⋮⋮ああ、もうよくわからん!︶
混乱する小松菜。
こういった時、素直に尋ねるのが小松菜という男だ。
﹁すいません。ちょっと⋮⋮いや、全く意味がわからないんですが﹂
﹁ええ、詳しく説明しましょう。何故私が日本人の記憶を持つのか、
そして何故私がここにいるのかを﹂
レアニスは語る。
前教皇の時代、ラシア教国の宮殿にて食事に含まれていた毒を飲
み、レアニスの心臓は確かに止まった。
そして、そこに乗り移った日本人の魂。
だが神のいたずらか、日本人の魂がレアニスの体に入り込む直前
に、レアニスの心臓は再び動き出していた。
﹁別の者の意識を感じました。相手もまた私の意識を感じていたこ
とでしょう﹂
一つの体に二人の魂。
意識は反発しあい、やがて片方が記憶だけを残して消えていった。
887
レアニスの体に乗り移るはずであった日本人の魂は、もうどこに
もないのである。
﹁私はレアニスです。それは間違いありません。ですが、私の中に
は日本人として生きた記憶もあるのです﹂
毒によってレアニスを殺そうとしたのは、兄のエヴァンスであっ
た。
レアニスは次男であったが、兄より優秀であったがために殺され
かけたのだ。
﹁兄が私を狙っていることを感づいていました。しかし受け入れよ
うと思ったのです。兄の傲慢はただの強がりで、本当は臆病なだけ
だと知っていたから﹂
だが、図らずしもレアニスは生き残ってしまった。
レアニスの中に別世界の︱︱日本の記憶を残して。
﹁私は思いました。これは神の啓示である、と﹂
事実、日本人であった者の記憶には、神と出会いこの世界に来た
という過去がある。
これが神の啓示でなくてなんというのか。
加えて、レアニスが記憶を覗けば覗くほど、いかに日本という国
が素晴らしかったかがわかった。
確かに日本にも幾つか欠点はある。
しかし、この大陸と比べればそんなものは重箱の隅をつつくよう
なもの。
生活・文化・思想・教育に至るまで、何もかもがこの大陸より優
888
れていた。
﹁この大陸には苦しみが多すぎる。今こうしている間にもどこかで
誰かが飢えて死に、いわれなき罪を被せられて殺され、未来に悲観
し自ずからその命を絶っている。
私はこの大陸を日本のようにしたい。誰もが飢えることなく、平
穏に笑って暮らせる世界を。
日本という世界を知ってしまった以上、目指さずにはいられない
のです﹂
長い長いレアニスの独白が終わった。
喉を潤すためであろう、レアニスはカップに口をつけ、小松菜も
つられるように紅茶を飲む。
カップが置かれると、再びレアニスは口を開き、今度は現状を説
明した。
レアニスはエルドラド教国を抜け出して、今はこの国の王の庇護
にあるのだという。
レアニスのことを知るのは国王とほんのわずかな側近のみ。その
わずかな側近の一人が前将軍というわけだ。
﹁何故エルドラド教国に留まらなかったのですか? ︻教皇になる︼
というカードがあるのなら、留まればあなたは教皇になれたのでは?
あなたが教皇になれば、大陸を日本のようにするという願いも、
簡単に叶うような気がするのですが﹂
﹁ええ、私もそう思いました。しかし、思った時には既に遅かった
のです。私が寝込んでいた間、正確には日本人の魂と意思の奪い合
889
いをしていた四日間に、父は死に、教皇の座は兄のものになってし
まいました。
もし、私の意思が存在せず、円滑に日本人が私の体を手に入れて
いたならば、私に成り代わった日本人が教皇の座に就いていたこと
でしょう。
兄が毒を盛ったことは少し考えればわかること。私が奇跡の復活
を果たしたなら、父が今後の私の身の安全を考え、すぐにでも私に
位を禅譲したであろうことは、容易に想像ができることです。
しかし今回、四日という時間は兄を凶行に走らせるには十分だっ
た。意識不明の私。死ねばよいが、もし助かればどうなるか。兄は
悩み、そして行動に移した。同じ者に二度毒を盛ることはできない。
ならばと、標的を父へと変えたのです。
父が死ねば、残されたのは兄と意識不明の私のみ。どちらが教皇
の座にふさわしいかは明らかでしょう。要するに︻教皇になる︼の
カードは、あくまで私に乗り移ろうとした日本人の物であり、私に
は何の恩恵も及ぼさない物だった、ということですね﹂
ううむ、なるほどと小松菜は難しい顔で頷いた。
正直、彼の頭はかなりいっぱいいっぱいである。
﹁では、あの孤児院にあなたがいたのは?﹂
﹁あなたに近づくために、あの孤児院に出入りしていました。左将
軍、小松菜﹂
レアニスは真っすぐに小松菜の目を見ていた。
決して嘘をつかないという、真摯な気持ちが見て取れる。
己に会うためだけ、本当にそうだろうか。
孤児院の子供たちの反応、町の人たちの反応。
あれらを見れば、レアニスがこの町でどんな生活を送って生きた
890
かわかりそうなものだ。
﹁この地にきて真っ先にしたことが、日本人を探すことです。他の
土地でも探したかったのですが、生憎と国王から行動に制限がかけ
られている身。贅沢は言えません。
そして私はあなたを見つけた。
小松菜。私はこの大陸を救いたい。しかし、今の私はあまりに無
力。だからあなたにお願いしたいのです。どうか⋮⋮どうか、あな
たの力を貸してください﹂
そう言って、レアニスは頭を下げた。
小松菜は、どうしたものかと考える。
しかしすぐには答えが出せなかった。
急な話ということもあったが、何よりも話が壮大すぎた。
大陸を日本のようにするなど、そんな大それたことを自分ができ
るとは思わなかったのだ。
されど断るには、レアニスの志はあまりにも誠実で立派すぎる。
﹁⋮⋮考える時間を下さい﹂
小松菜は答えを保留して、後は雑談とお茶を楽しんだ。
それから、たびたびレアニスとは交流をもった。
孤児院で共に子どもたちと遊び、町を見回っては共に困った人を
助ける。
わかったことは、レアニスが己と会う前からずっと同じようなこ
とをしていたということだ。
彼の着ている服がいつもよれよれの修道服なのは、彼に与えられ
た高貴な服は全て売り払ってしまい、貧困にあえいでいる人のため
に使ったからである。
891
仕事のない者には共に仕事を探し、町の者が病気にかからぬよう
に清潔がいかに大事かを説き、自らが率先して町を綺麗にしていた。
レアニスが町の人気者であったのはそういう理由だったのだ。
ふと、兄である現教皇に見つからないように隠れていなくていい
のか、と思い尋ねると、その心配はないとレアニスは言う。
﹁この遠い西の地で行動する分には、大丈夫でしょう。
既に教皇の座に就いた兄にとって、私など路傍の石ころと同じ。
敵ですらありません。かつての臆病だった兄とは違い、今では絶大
な権力を背景にして絶対の自信をもっているのですから。
いえ、むしろ昔の恥を雪ごうと、私が反乱を起こすのを望んでい
るかもしれません。
自己顕示欲が強い方ですからね。無力な私を踏みつぶしても、何
も満たされないでしょう。
まあもっとも、私が明らかに目に付く行動をとったのなら話は別
ですが。
︱︱たとえば、エヴァンス教皇の糞馬鹿野郎と触れ回るとか﹂
ふふふ、とおどけて見せるレアニス。
結構お茶目なところもあるんだな、と小松菜は思った。
小松菜がレアニスと出会ってから、一年二年と過ぎていく。
月日と共に職務に慣れて休みが多くとれるようになると、レアニ
スとの付き合いも増えていった。
二人を知る者からは、その関係を怪しまれたりしたが、残念なが
らどちらもノン気である。
だが、二人の関係が弱いものであるかというと、そうではない。
特に小松菜の心境はこの数年で大きく変化していた。
892
レアニスの清廉さは、小松菜の若さゆえの正義感というものに火
をつけていたのだ。
元々、小松菜は虐げられていた人間である。
日本にいた頃は﹁何故、こんなに蔑ろにされるのか﹂とよく考え
ていた。
その反動からか、力を手にした小松菜の正義は途轍もなく強大だ。
尊敬。
小松菜にとってレアニスは、初めて出会った尊敬に足る人物とい
ってもよかった。
小松菜はこれまで生きてきて、一度も尊敬した人間なんていない。
親は、己をできの悪い子としか見ていなかった。
子を産んだ責任から、ただ義務のように親を演じていただけ。
臆病な小松菜は人の機微にだけは敏感だったから、それがよくわ
かった。
そんな者を尊敬できるはずもない。
同級生も、教師も、テレビに映るスポーツ選手や、国を動かす政
治家、さらに歴史上の人物に至るまで、尊敬に値する者はいなかっ
た。誰も己を救ってくれなかったからだ。
あの世界は小松菜にとって何もかもが灰色だった。
ではこの世界ではどうか。
この世界に来てからは、小松菜のありようは一変した。己の能力
を褒め囃された。
しかし、心から尊敬するような人間にはまだ会っていない。
そこに綺羅星のように現れた男、レアニス。
これはレアニスと共に孤児院で子どもたちの面倒を見ていた時の
893
言葉だ。
﹁小松菜は優しいね。君の最も優れた部分は人並外れた力なんかじ
ゃなく、誰よりも優しいその心だよ﹂
それは間違いだと小松菜は思った。己程度の優しさなど、日本な
らば掃いて捨てるほどいるだろう。
なぜなら、そういった社会の中で育ち、そういう風に教育された
のだから。
だが、このレアニスは違う。
この大陸にある身分高き者の中で、下々の者にまで気を配れる人
間は少ない。
彼ともし日本で会っていたなら、必ず助けてくれただろうという
確信が小松菜にはあった。
それだけの優しさがレアニスにはあったのである。
︵本当に優しいのはあなただよ、レアニス︶
気恥ずかしさから、小松菜はその言葉を口にすることはできなか
った。
しかし心の中では、この人の役に立ちたいと思い始めていた。
小松菜は自分が立派な人間でないことを知っている。
ならば、立派な人間のもとで、立派なことをする手伝いをしたい。
レアニスと憂いを共にしたい。
そんな思いが胸に宿り、小松菜は血潮が熱くなるのを感じていた
のだ。
早春の空ははるか水平線まで澄み渡り、ただ一つの雲もない。
894
道角の花壇では、おっちょこちょいのチューリップが他の蕾たち
に先んじて花を咲かせ、人々の頬を綻ばせていた。
小松菜は、その日もレアニスと共に町を見回っていたところであ
る。
﹁暖かくなってきたね、芳樹。日本では桜が咲く季節だ。私自身は
見たことがないけれど、その記憶はおぼろげながらも残っているよ﹂
﹁ヨーロッパには桜なんてないですもんね。あ、でもここはヨーロ
ッパと違うか﹂
﹁桜も素敵だが、この国にも負けず劣らずの大樹がある。それを見
に行こうか﹂
連れられて来た場所は聖なる森と呼ばれる場所。立ち入り禁止区
域であり、小松菜は入ったことがない。
レアニス曰く、王からの許可は得ているとのこと。
﹁うわあ﹂
森の小道の終着点で小松菜は感嘆の声を上げた。
その大樹は一言で言って巨大。その幹はあまりに太く、人が百人
集まってようやく囲めるのではないだというほど。
一体何百年、いや何千年この大樹はここにあるのか。
地面からところどころに突き出た根ですら、小松菜よりもはるか
に大きいのだ。
人間が、いかにちっぽけな存在であるかがわかるというものであ
ろう。
耳をすませば、大樹から鳥のさえずりや虫の音が聞こえる。苔が
895
びっしりと生えた大樹をよく見れば、幹からは別の木が育っている。
ここには数限りない生命がある。
この大樹は命を育む巨大な大地である、なんていうきどった感想
が小松菜の脳裏に浮かんだ。
﹁大陸を生きる人々にこの身を尽くしたい。それこそが運命だと思
う﹂
レアニスが口にした不意の言葉。
小松菜が顔を横に向けると、大樹を見つめるレアニスの瞳はどこ
までも真剣だった。
レアニスは重ねて言う。
﹁この大陸を私は統一するよ。そのためには多くの人たちが犠牲に
なる。私はきっと地獄に行くだろう﹂
そう言いながらも、その横顔に悲嘆の色はない。
レアニスが小松菜に正対し、その瞳はしっかりと小松菜の瞳にぶ
つけられた。
﹁芳樹、あの日の返事を欲しい。私と共に地獄へとついてきてくれ
ないか?﹂
﹁なぜ僕と﹂
﹁前将軍は私に対し、権力という打算を持っている。陛下は老齢ゆ
えに、死後を思っての打算がある﹂
前将軍はレアニスこそが教皇にふさわしいと思い、レアニスに大
乱の芽と功名の機会を見ていた。
896
老王もまたレアニスこそが教皇にふさわしいと思い、レアニスを
教皇の座につけることこそが神への奉公だと考えていた。
どちらの考えも、小松菜が以前より知るところである。
﹁でも君は違う。君は誰かのために⋮⋮人々のために、行動ができ
る男だ。私は誰よりも君と同道したい。私には君が必要なんだ﹂
その言葉は、小松菜の胸に染み込むようであった。
嬉しかったのだ。今まで受けたどんな賛辞よりも。
﹁もう一度聞くよ。私と共に同じ夢を見てくれないか﹂
言われずとも、小松菜の考えはもうずっと前から決まっている。
﹁︱︱地獄の果てまでも﹂
今日の空のごとく、ただ一点の曇りもない声で小松菜はレアニス
に答えたのだ。
レアニスの瞳はホッとしたように柔らかくなり、小松菜の目も細
まった。
﹁この大樹に誓いを立てよう。復唱してくれ﹂
それに小松菜は頷き、二つの澄んだ声が聖なる森に響く。
≪ここに誓う。我ら一心同体。たとえ死すとも、命は共にありて、
その者の遺志を継いで必ずやことを完遂せん≫
すると二人の目の前を大きな花びらがよぎり、小松菜は誘われる
ように空を見上げた。
897
しかし、花はどこにも見えない。
空を向いたままの小松菜の耳に、隣のレアニスから声が聞こえる。
﹁これは珍しい。この大樹に花など咲かないと思っていたけど、ど
こかで咲いているのかな。
ふふ、そうか。大樹も花開き、私たちのことを祝福してくれるの
か﹂
いつもの上品な笑いではない。レアニスは大きな口を開けてハハ
ハと、本当に嬉しそうに笑った。
少しして、ひとしきり笑い終えたレアニスがいつもの笑みを浮か
べて言う。
﹁私が死んだらその意思は君が継いでくれ﹂
先ほどの誓いにも、同じ文言があった。
しかし小松菜は、曖昧に微笑みだけを返すだけだ。
︵あなたが死ぬなんてありえない。だってあなたは僕が命を懸けて
守るから︶
小松菜の心には、もう一つの誓いがあった。
︱︱翌日より、イニティア王国はひっそりと、かつ本格的な軍備
の増強に取り掛かった。これはドライアド王国にて藤原信秀が己の
領地を平定する二年前の話である。
898
76.冬の訪れと春の始まり
北の森の集落を支配下に治めたのが、秋の終わりの頃。
秋が終われば、次にやって来るのは何か。
この異世界に四季というものが存在しないのならばともかく、通
常、秋の次にやって来るのは冬である。
その日、︻炬燵︼で寝ていた俺は、ピピピというアラーム音で目
を覚ました。
意識のはっきりとしないまま頭上の時計を見てみれば、時刻は午
前七時半。
起きねばならない。
︻炬燵︼に潜り込ませた上半身をもぞもぞと這い出させる。
まさにカタツムリが殻から体を出すがごとし。
しかし︱︱。
﹁さぶっ!﹂
あまりの寒さに、俺は今一度体を︻炬燵︼に潜り込ませた。
次いで炬燵の中から腕だけを伸ばし、机の上からリモコンを手に
取って︻エアコン︼をつける。
ぐうたらなどと思ってはいけない。
仮にも領主という立場の俺が、寒さで体調を崩し、風邪でも引い
たらどうするのか。
そんな理論武装の下、部屋が温まるまで二度寝をしようと俺は瞼
を閉じた。
再び目が覚めたのは午前七時五十分。
899
今日の午前中に予定はない。日本語の授業も午後からである。
しかし、授業で使うプリントをつくらねばならない。
俺は、決死の覚悟で︻炬燵︼の魔力から抜け出した。
全く、︻炬燵︼というやつは魔物だ。
異世界であっても、人を引き付けては決して離さず、その誘惑か
ら抜け出すのはかくも難しい。いや、異世界であるからこそか。
俺は朝の支度を済ませると、目覚ましに外の空気を吸おうと思い、
綿がふんだんに入ったインナーの上から外套を着こんで家を出る。
とはいえ、家の外はまだ︻D型倉庫︼の中である。
この時、午前八時二十分。
﹁カトリーヌ、おはよう﹂
﹁グエ﹂
﹁昨日は寒くなかったか?﹂
﹁グエ﹂
﹁そうかへっちゃらか。カトリーヌは凄いな﹂
﹁グエ﹂
カトリーヌと挨拶を交わし、よく語らった。
腕時計を確認すると、時間は午前九時二十分。
おっといけない、いつの間にか一時間も過ぎていた。時間が加速
していたかのような感覚だ。
︻炬燵︼同様、カトリーヌも只者ではないな。
900
最後にしっかりと彼女を撫でてから、俺は︻D型倉庫︼を出る。
ドアを開けた瞬間、倉庫の中よりさらに冷たい外気が襲った。
さらに俺の視界に飛び込んでくるものがある。
それは一面の銀世界。
そう、雪だ。
昨日の内から雪が降っており、それが見事に積もっていたのであ
る。
といっても積雪量はそれほどでもなく、積もった雪の深さは、ふ
くらはぎにも満たないほどしかない。
大地はどこもかしこも雪で覆われ、合掌造りの家々も頭に雪を載
せている。
急勾配の屋根から雪が落ちないのは、雪がそれほど積もっていな
いためだ。
降水量が少ないためかどうかはわからないが、積雪量が少ないと
いうのはありがたい。
全身が埋まるほどの積雪などがあった場合は、︻除雪車︼の︻購
入︼すら考えていた。
それにしても、なかなかの寒さである。
吐く息は白く、肌は刺すようだ。
入り口横に掛けられた︻温度計︼を確認すれば、マイナス二度を
示している。
まだ冬も始まったばかりだというのに、この低気温。
今後、冬が厳しくなった時、どれほど気温が下がるのかと今から
不安になる。
北の集落では火を絶やさぬようにして、冬を乗り切るのだという。
獣人たちは頑丈であるが、エルフ族には寒さで体調を崩し、死ん
901
でしまった者もいたそうだ。
彼らには、冬を満足に越せるだけの食糧と酒、さらにレイナから
買い付けた十分な量の羊毛を既に送ってある。
その時の受領者の代表は、族長衆の誰かではなくポリフだった。
まだまだ、信用されてないということだろう。
まあ、俺も彼らを信用しているとはいい難いので、お互い様であ
るが。
そういえばと思い、俺は入口のすぐ隣の壁際に座り込んで、雪を
どける。
雪の下から出てきたのは、蓋がしてある木製コップに入ったワイ
ンと、一本のバナナ。
王都の商人は、この土地の冬をワインも凍る寒さと評していた。
果たしてワインが凍る寒さとはどれほどのものか。
あれ
である。
そう考えて、昨日のうちにワインを置いておいたのだ。一緒にあ
るバナナは、凍ったバナナで釘を打つという
どこか期待のようなものを秘めて、木製のコップから蓋を取って
みる。
しかし、平然とワインは揺らいでいる。
次にバナナを手に取って軽く力を込めれば、フニャリと柔らかい
感触が返ってきた。
バナナの皮を剥いて、実を口に含む。
うむ、うまい。
考えてみれば、まだ冬の始まりであるし、日もだいぶ昇ってしま
っている。
それに空気を含んだ雪の中というのは温かいと聞いたことがある。
つまりこの実験は、もう少し冬が深まってから行うべきであろう
902
との結論に至った。
バナナを平らげ、ワインを飲み干すと、俺の耳にキャッキャッと
いう声が聞こえてきた。
子供のものだ。
そちらに視線を向ければ、︻ニット帽︼を被り、︻マフラー︼を
首に巻き、︻ダウンジャケット︼を羽織って、手には︻手袋︼、足
には︻長靴︼という出で立ちの子どもが二人、雪の上で遊んでいる。
まるでここが異世界ではなく、日本であるかのような光景。
しかし、違う。
二人の被る︻ニット帽︼の下には狼の耳が隠れているし、片方は
マフラーで口許を隠していても一目でわかるくらい、狼の顔をして
いる。
なんのことはない、彼らの異世界に不釣り合いな衣服は、冬が来
る前に俺が狼族たちに渡したものだ。
﹁ほら、はやくこいよ!﹂
﹁まってよー!﹂
雪の上を駆けながら、子どもたちの大きな声が響く。
寒いのに元気なものだ。
子どもというものは、体は小さいのになんであんなに力に溢れて
いるのか。
﹁あ、ふじわらさまー!﹂
﹁ふじわらさまー!﹂
俺を見つけて子どもたちが、笑顔でブンブンと手を振ってくる。
俺も軽く手を振り返すと、二人は顔を見合わせて笑い合い、再び
903
遊びに戻った。
なんにせよ平和だ。
寒いはずなのに、なんだか心がぽかぽかしてくるような平和であ
る。
そのまま子どもたちを眺めていると、一番近くの家︱︱ジハル族
長の屋敷︱︱からジハル族長本人が姿を現した。
族長も、俺が渡した︻ダウンジャケット︼を着ている。
はっきりいって、似合ってない。
たとえるなら、戦国武将が現代の服を着ているような、そんなち
ぐはぐさを感じる。
実にシュールな光景だ。
ジハル族長はこちらに気付くと、ザックザックと雪に足跡を残し
ながら、こちらへやって来た。
﹁おはようございます、フジワラ様﹂
﹁おはようございます、ジハル族長﹂
挨拶を交わし、まず俺が尋ねた。
﹁寒さはどうですか﹂
﹁今のところは大丈夫です。家の中は思ったより熱が籠ってますし、
羊毛を詰めて作った服や布団はとても暖かいです﹂
森の集落同様、町の者たちにもレイナから大量に買い付けた羊毛
を配っている。
この国は、ヒツジの飼育が盛んであり、特に南に隣接する地にお
904
いては国でも有数の羊毛産地。
寒い土地柄ゆえか、ヒツジの毛は長々と伸び、安価で良質な羊毛
が手に入るのだ。
﹁これからどんどんと寒くなっていくでしょう。何か異常があった
ら、すぐに知らせてください。いよいよとなれば、皆をこの︻D型
倉庫︼に避難させることも考えていますので﹂
﹁お気遣いありがとうございます。皆の体調については、しっかり
と気を配るようにします﹂
それからちょっとした世間話をして、ジハル族長は家に戻ってい
った。
腕時計に視線を落とせば、時間は午前十時。
本来の予定では朝の八時にプリント作成作業を開始しているはず
なのだが、いつの間にか二時間も予定が遅れている。
このままでは午後の授業に間に合わない。
俺は、早急にプリント作成作業に取り掛からねば、と急いで家に
戻った。
﹁それにしても、異世界でも時間に追われるような生活とは⋮⋮﹂
︻炬燵︼に足を入れ、パソコンと向き合いながら、ぼそりと呟く。
今の生活は、元の世界よりもはるかにのんびりとしたものである。
しかし、かつての町でぐうたらを極め尽くしたせいか、少しでも時
間に制限されると、俺の口からは途端に愚痴が出てしまうようにな
っていた。
905
冬が過ぎれば、春がやってくる。
我がフジワラ領も何事もなく冬を越すことができ、無事に春を迎
えることとなった。
多くの領民の生活を預かる身としては、非常に喜ばしいことだ。
さて、現在俺がいるのは領内唯一の人間の村。
領主の館にて、新たな村の労働者たちがやって来るのを日々待っ
ているところであった。
村では春になると、冬の間王都に出稼ぎに行っていた者が帰って
くる。
しかし、この出稼ぎという言葉。
便宜上、他に適切な呼び名がなかったため使ったが、これは何も
金を稼ぎに行くという意味ではない。
村の者たちはこの出稼ぎを﹃王都行き﹄と呼んでおり、その実態
はいわば口減らしに近いものだ。
王都に行っても労働力が溢れている以上、大した仕事はない。
それでも、特に動きのない冬を村で過ごし、ただ食糧を減らすよ
りはマシ。
少なくとも、王都ならばその日の食い扶持程度は得ることができ
るのだ。
こういったわけで、出稼ぎではなく﹃王都行き﹄という言葉が使
われているのだという。
今年に限っては、村の税はジャガイモだけであり、﹃王都行き﹄
の必要がないほどに食糧はあったのだが、それでも貧乏性とでもい
うべきか、村民の何人かは王都へ向かった。
そこでその者らには、元々村にいた者を探して連れて帰ってくる
ように伝えておいた。
906
またレイナにも、王都にて貧困街に住む者を一時的な労働者とし
て集めるように頼んでいる。
本当ならば、村人の募集といきたいところではあるが、王都に住
む者でそれを望む者はいないだろう。
何せ、少し前までは領主すらいなかった寂れた村だ。
王都で貧困に喘いでいようとも、村での生活よりはマシと考える
のが普通。
そのために集めた者の待遇は、期間労働者となっているのだ。
というわけで、領主の館にてミラたち護衛の狼族たちに日本語を
教えていたところ、レイナや﹃王都行き﹄の者たちと共に労働者た
ちがやって来たとの報告を受けた。
俺は早速村へと出かけ、村の広場に集められた労働者たちを、そ
っと物陰から覗く。
﹁おおい、飯が腹いっぱい食えると聞いたんだがまだか!﹂
﹁お前らどうしてもというからここに来たんだぞ!﹂
綺麗とは口が裂けても言えない格好をした一団の中で、声高に食
事を要求する者たちがいる。
ううむ、態度があまり良くない。明らかにお客様気分だ。
まあこの時期、北の僻地にまでやって来るような者に、まともな
者がいるとも思えないが。
春と秋は農繁期。
王都では、各村々からやって来た者により労働者の取り合いが行
われ、日頃貧困街でくすぶっている者たちも、この時ばかりは引く
手数多になるという話である。
つまり、今ここにいる者は、その取り合いで溢れた余りもの。
907
何かしら問題を抱えていると判断すべきだろう。
と思っていたら︱︱。
﹁こら! バカ息子!﹂
﹁げぇ、親父!﹂
﹁勝手に村からいなくなって、ようやく帰ってきたと思ったら、こ
の! この!﹂
壮年の男が現れて、文句を言っていた若い男を息子と呼び、何度
も殴りつけた。
他の叫んでいた者たちにも、それぞれ親類と思われる村の者が駆
け寄っている。
どうやら態度が悪かったのは、いずれもこの村の出身者ばかりだ
ったようだ。
では、それ以外の者はなんであるか。
レイナに尋ねたところ、甘い言葉に騙されたお人よし、との言葉
が返ってきた。
金は多くを支払うように言っている。こんな遠方へ呼ぶためにと
破格の値を提示させてもらった。
今思えば、普通の者なら信じないだろう。辺境の村にそんな金が
あるとは考えない。
騙されてどこかに売られるのでは、という疑いが先に立つはずだ。
しかし疑わず、馬鹿正直に信じたお人よし、それが彼らなのだと
いう。
﹁さあさ、マレー村名物のジャガイモだよ。これからあんたたちが
村で栽培していくものだ。たんと食べとくれ﹂
908
広場の騒ぎが収まらない中、ホカホカとした湯気を立ち昇らせた
ジャガイモが、村の女衆によって運ばれて来る。
漂う匂いは、物陰からでも涎を垂らしそうになるほど香ばしい。
すると期間労働者たちは誘われるようにジャガイモへと手を伸ば
し、口に入れ、括目した。
﹁こ、これは!﹂
﹁う、うめえぞ、これ!﹂
その日、期間労働者たちの誰もがジャガイモに夢を見たことだろ
う。
相当な馬鹿でもなければ、この村がこれからどれだけ発展してい
くのかが分かるはずだ。
◆
ドライアド王国は王都ドリスベン。
その王城の一室では、白い長髭の蓄えた宰相イーデンスタムが執
務席に座りながら密偵長より報告を受けていた。
﹁何? フジワラ領に人が流入しただと﹂
﹁はい、ポーロ商会の者がおよそ三倍の俸給で労働者を募っていた
ようです﹂
﹁さ、三倍⋮⋮﹂
イーデンスタムは、震撼した。ポーロ商会はどれだけ儲けている
のか。
909
火の車である国の財政と日夜戦っているイーデンスタムである。
頭の中はいかにケチるかしか考えておらず、元値がどれだけ安か
ろうとも、標準の三倍の値を提示するポーロ商会の行いは正気の沙
汰ではないとしか思えなかったのだ。
﹁やはりジャガイモなるものが胡椒だったか﹂
イーデンスタムは納得するように呟いた。
胡椒を自由に生産できるようになるということなら、その気前の
良さも頷ける。
胡椒の生産はまさに金の生産と同義であるからして。
﹁いえ。それがどうも、あのジャガイモ自体が食べ物だったようで
す﹂
﹁うん? では胡椒はどうした﹂
﹁さあ? フジワラ領で胡椒がつくられている気配はありません。
領内にポーロ商会の支店をつくったようですが、領地を買いに来
た時に城下町で胡椒を売却して以降、胡椒を取り扱ったという話は
聞きませんね﹂
﹁つまり、何か? ポーロ商会はこの国で胡椒をつくらぬつもりか﹂
﹁おそらくは。しかし、あのジャガイモなるもの、味はかなりよい
ようです。収穫量も豊富であると忍ばせた者から報告が入っており
ます﹂
﹁ふむ﹂
910
イーデンスタムは席を立ち、自慢の白髭を赤子を扱うように優し
く撫でながら、部屋の中を歩き回る。
ポーロ商会について思いを巡らしているのだ。
︵もしかすれば胡椒などではなく、ジャガイモという新作物をつく
るために領地を買ったのか?︶
ありえる、とイーデンスタムは思った。
この地を狙ったのは、胡椒戦略ではなく、ジャガイモ戦略のため。
そもそもジャガイモとは何なのか。聞いたことのない作物である。
他のどの国でも栽培されている様子はない。
それをわざわざこの地で栽培する理由は何か。
そこまで考えて、イーデンスタムはハッとした。
﹁ジャガイモはこの国原産の作物なのか⋮⋮?﹂
この地がジャガイモの栽培に適している。ポーロ商会はこの地で
ジャガイモを発見し、それを育てるために土地を買った。
そう考えれば全てが付随するのだ。
実際のところ全く見当違いの考えであるが、これに至った時、イ
ーデンスタムは﹁ううむ﹂と唸った。
イーデンスタムの中になんともいえない感情が湧きだしたのであ
る。
たとえば、己の土地に将来にわたって発見されることがなかった
財宝。それが他人によって見つけられ、勝手に発見者の所有にされ
ていたような感覚。
見つからなければ幸せだったのに。誰かに見つかってしまった以
上、独占欲が湧き、所有権を主張したくなる。
そんな気持ち。
911
﹁ポーロ商会は、我々より我が国のことを知っている⋮⋮いや、金
の匂いに敏感、金目のものを見つけるのがうまいということか。
おのれ卑しい商人め⋮⋮! お前たちの好きにはさせんぞ⋮⋮!﹂
﹁どうしますか? 我々もジャガイモを探しますか﹂
﹁ジャガイモの栽培方法は﹂
﹁種とする実を植えるだけで、あとは土を少しいじる必要があるみ
たいですが、難しいものではありません﹂
﹁ふむ、簡単なわけか。よし、胡椒のこともある。少しこちらから
仕掛けてみるぞ﹂
イーデンスタムは己の席につき、引き出しから羊皮紙を取り出す
と、羽ペンでサラサラと何かを書いていく。
やがて書き終えると、封をして密偵長に差し出した。
﹁これを、あのぱっとしない顔の領主のもとに届けるのだ﹂
ぱっとしない顔の領主とは無論、信秀のことである。
﹁これは?﹂
﹁来月、この城の庭園で行う、女王主催の園遊会の招待状だ﹂
﹁ええ!?﹂
密偵長が驚くのも無理はない。
912
園遊会とは、はるか昔より行われてきた格式のある貴族ばかりが
集う由緒正しきパーティー。各国からも相応の人物が賓客として招
かれる。
金で領地を買ったような、なんちゃって貴族が出席できるパーテ
ィーなどでは決してないのである。
﹁園遊会で全て吐き出してもらうぞ、ポーロ商会! はーははは!
はーははははは!﹂
狂ったように笑うイーデンスタムと、それにドン引きする密偵長。
かくして園遊会は策謀の場となり、信秀を巻き込んでいくことに
なる。
913
77.園遊会 1
春も中頃のこと。
俺は、春先より採用した期間労働者たちの様子を見学するために、
南の村に来ていた。
しかし︱︱。
﹁うーん﹂
自室の執務席にて俺の口から出たのは、唸り声。
俺は、村の運営とは全く別のことで頭を悩ませていた。
机の上に置かれた一枚の書状がその原因である。
﹁フジワラ様、ポーロ商会のレイナ殿が参られました。言いつけの
通り客間に通しております﹂
扉の向こうから狼族の声がかかり、﹁ああ、すぐに行く﹂と答え
を返す。
既にレイナは居住をポーロ商会支店の方へと移している。
今日は、悩みの相談に呼んだのだ。
自室を出て、客室へ向かう。
客室の扉を開けると、レイナがソファーから立ち上がって俺を迎
えた。
金色の髪にキリリとした美貌、女物のスーツに似た衣装。
仕事のできる秘書官のような印象を受ける立ち姿だ。
俺はレイナへ向かって楽にするよう言い、自身も机を挟んだ彼女
914
の正面のソファーに座った。
﹁フジワラ様、ご用件は﹂
﹁これを見てくれ﹂
俺は悩みの種である一枚の書状を机の上に置いた。
レイナはそれを手に取り、検める。
その書状の正体は、ドライアド王国女王陛下主催の園遊会の招待
状である。
正体と招待は、別にかけたわけではないのであしからず。
﹁どうしたものかな。貴族の礼儀も知らないし、正直行きたくない
んだが﹂
付かぬことではあるが、俺は国に対し、貴族としての最低限の務
めは果たすつもりでいる。
の
ドライアド王国の貴族として、与えられた領地を統治し、税だっ
て国にきちんと納める。
最低限
それは、貴族位を買った者としての最低限の礼儀であろう。
だが、パーティーなどの社交に関しては、俺の中で
カテゴリーには当てはまらない。
今回、国としては、色々と思惑があるのはわかる。
しかし、それはそれ、これはこれだ。
領地と貴族の爵位を購入した時にも、社交に関しての特別な記述
はなかった。
まあ、貴族らしい振る舞いを心掛けるようにとあったので、それ
に含まれているかもしれないが。
915
なんにせよ、そんな曖昧なものに強制力はないと思っている。
要するに何が言いたいかというと、俺はパーティーには是が非で
も行きたくないのだ。
すると二度三度招待状を読み返したレイナが、落とした視線を正
面に戻して言った。
﹁いえ、行くべきでしょう。他の諸侯の催しならともかく、女王主
催のパーティーです。行かなければ腹に一物ありと疑われますよ﹂
﹁やはりそうか﹂
わかっていた。
ああ、わかっていた。
女王が主催するパーティーの招待状。すなわち、女王からの誘い
である。
これに参加をしないということは、礼を失してはならない相手へ
の明らかな非礼。
特別な理由でもなければ、絶対に参加しなければならない招待な
のだ。
しかし、面倒くさい。面倒くさいのだ。
自分より上級者への対応。料理の食べ方。ダンスなどもあるかも
しれない。
マナー、マナー、マナー。
日本的礼儀作法ならまだしも、この世界の貴族の礼儀など俺が知
るはずもない。
はっきりいって、フィンガーボールをごっくんちょしかねないほ
ど、俺はこの世界のマナーに疎いといっていいだろう。
916
そんな者が女王陛下主催のパーティに参加するためには、どれほ
ど学ばなければならないか。
開催の日時は再来月。時間はあれど、やはり面倒くさいものは面
倒くさいのである。
﹁しかしなぁ﹂
俺は悪あがきをするように呟いた。
だがレイナは、俺にパーティー参加を促すよう、力強く頷いてか
ら言った。
﹁心配いりません。時間ならまだあります。貴族に必要な礼儀作法
なら私が教えて差し上げますよ﹂
レイナの目には、メラメラとしたものが見える。
貴族への執着こそ表に出さないが、貴族に関わることになると、
彼女は怖いぐらいにやる気を出すのだ。
領の運営について相談したりすると、鼻息を荒くして教授してく
る。
彼女が俺の立場だったなら、悠々としてパーティーに参加するの
だろう。
いっそ俺の代理としてパーティーに参加してもらいたい。
しかし、一商人にそのような務めを任すなど、無知な俺ですらや
ってはならない行為だとわかる。
俺は﹁はあ﹂とため息をついた。
やるしかない。
答えは最初から決まっていたのだ。
こうして俺はレイナの厳しい特訓を受けて、女王陛下主催のパー
917
ティー︱︱園遊会︱︱に臨むことになった。
梅雨の抜けた夏の始まりというのは、この国では最も過ごしやす
い季節だといわれている。
日本でいうなら、その気候は梅雨前の晩春に近い。
暑くも寒くもなく、雨も降らず、ちょうどいい気温といったとこ
ろか。
ここで、少し最近のことについて語ろう。
本拠となる町では、相も変わらず、狼族たちが日本語漬けの日々
を送っている。
その成果も上々だ。
おまけに、天才というものはどこにでもいるのか、恐ろしい速度
で日本語を学ぶ者が一人いた。
それはかつての町で、種族対抗競技会のリバーシ四連覇を果たし
た狼顔の青年である。
冬も半ばの頃には既に日本語をある程度の段階まで修め、物は試
しにと算数や理科などの教科書を渡してみれば、翌日には質問攻め
にされる。
ひと月もすればより難しい本をせがまれ、質問もどんどん難しい
ものになっていき、そろそろ俺自身も昔習ったことの復習をしなけ
ればついていけそうにない有様だ。
ここのところの俺は、南の村でずっと貴族のマナーについて学ん
でいるため、その青年とは会ってはいない。
だが、代わりにたんまりと学習用の教科書を渡しているので、園
遊会から戻った時果たしてどんな質問をされるのかと今から戦々恐
々である。
918
ジハル族長の息子のゾアンのおとなしい性格を見た時は、狼族の
未来を心配したりもしたが、どうやらその必要はないようだ。
北の集落では狩りを盛んにし、また森以外にも行動範囲を広げて
地理や植生などを調べ、もしもの時のために余念がない。
常に生存のために力を尽くす。これは俺も見習うべきところであ
ろう。
かの地でもジャガイモの栽培は始まっており、加えて俺からは家
畜として鶏を少数ながら譲っている。
冬を無事に過ごせたこともあり、俺たちに対する態度にもわずか
ではあるが軟化の兆しが見え、春の物品供与の際にはポリフ以外に
族長衆の一人が受領にやって来て、形式的ながら謝礼を口にしてい
た。
非常によいことだと思う。
欲すればまず与えよ、とは誰の言葉だっただろうか。ふと思い出
した。
南の人間の村では、期間労働者たちも村での生活に慣れたようだ。
この時期は農作業にも余裕ができ、リバーシで遊んだり、期間労
働者たちの中でも少数しかいない女性を男の期間労働者たちが取り
合いをしたり、毎日を充実して過ごしている。
ペッテル村長も村が活気を帯び始めて、表情を緩めていた。
特に元々村に住んでいた者が何人か帰ってきたことには、殊更に
嬉しかったようで泣きながらお礼を言われた。
あとは、彼ら期間労働者たちをどのように村に引き留めるか。
まあ心配はいらないと思う。
一度、貧困を味わった者が、今の生活を手放すとは思えない。同
じ条件を提示すれば、間違いなく村の一員となってくれることだろ
う。
919
︱︱と、ここまでが領内の近況である。
そして俺の現在はというと⋮⋮今、俺は馬車に揺られて王都に向
かっているところであった。
園遊会に参加をしに行くのだ。
共には王都に詳しい商会の者を御者に、レイナと護衛の狼族たち
を連れている。
馬車は荒れた道を通り、南隣の領へ。
その領内の北端の村を過ぎてからは道も整備されたものとなり、
幾日後には二つの領地を越えて、俺たちは王都ドリスベンに着くこ
とができた。
﹁王都も久しぶりだな﹂
俺はぽつりと呟いた。
そこは既に王都ドリスベンの城郭内。
多くの者が行き交う大通りの雑踏を馬車が進み、その車中で俺は
鼻に手をやりながら、さらに呟く。
﹁鼻がひん曲がりそうなこの臭い、本当に久しぶりだ﹂
前に来た時もそうであったが、街中に糞便がばらまかれているの
である。
無論、大通りに糞便をばらまく愚か者は流石におらず、現場のお
およそは裏路地や住宅街。
けれど、それでも臭う。
都市全体が悪臭を放っているようだ。
しかし、道行く人たちは気にした様子もない。
鍛えられすぎだろう。
920
馬車はレイナが手配してくれた貴族用のもの。
生憎と高級なガラス窓はついておらず、カーテンと木の格子があ
るだけで悪臭は防げない。
ここに来る前に窓ガラスを自前でつけてやろうかと思ったが、田
舎貴族がそんな馬車に乗っていては目立つだろうとやめておいた。
今では、もう開き直ってカーテンも全開にしている。
狭い車中、ふと隣に置いたミラを見れば、やはり顔をしかめてい
る。
馬車の周りを警護するように囲む狼族たちも皆同じであろう。
人間よりもはるかに優れた嗅覚をもつため、この臭いは相当にき
ついに違いない。
責任者には、せめて各地から貴族が集まる時くらい都市を綺麗に
しろと言ってやりたい。
﹁大都市なんてどこもこんなものですよ﹂
正面に座るレイナからの一言。だが彼女も不快な色を隠せていな
い。
少なくとも村では、糞便の始末には気を使っている。
そこに慣れた者には、やはりこの臭いはきついのだ。
馬車が大通りを進む。
その歩みは遅い。
大通りともいえども、人の多さに対して道はそれほど大きくはな
い。
そのため、馬車は人混みをかきわけざるを得ないのである。
まあ、つまりは賑わっているということだ。
921
耳を澄まさなくても聞こえてくるこの喧騒。
わかるだろうか。
﹁へいらっしゃい! うちの豚は最高に美味いよ!﹂
﹁さあさ、新鮮な卵だよ! 朝一番の取り立てだ!﹂
﹁酒だよ酒! 今の季節なら酔い潰れても凍死することなんてない
! さあ、うちの店で、たらふく飲んでいってくんな!﹂
これは客を呼び込む商人たちの声。
﹁知ってるか、またリンドバリ侯爵がオリヴィア陛下に求婚しよう
としているらしいぞ﹂
﹁いやあねえ、冗談は顔だけにしていて欲しいわ。そもそもどれだ
け年の差があると思っているのかしら﹂
﹁おい! 園遊会に無敗のリバーシ王者キングオブキングスが呼ば
れているらしいぞ!﹂
﹁まあ! あのリバーシの考案者であり、教皇様にも覚えのめでた
いといわれるローマット様が!?﹂
これは道行く者たちの噂話。
腐っても王都。城下町は本当に賑やかだ。
財政が厳しいとは、とても思えない。
まあ枯れ木にも虫が宿るということなのだろう。
しかし、すぐ隣には貧困があるということも忘れてはいけない。
領地の発展にそれを利用するのが、俺の策略なのだから。
そんなことを考えながら、城下町の騒がしさをBGMに耳を楽し
ませていると、ある声が聞こえてきた。
﹁新刊だよー! あの謎の大人気美少女作家オリーブオリーブの新
922
刊が出たよー!﹂
新刊。本か。
この時代に作家を生業にする者がいたとは意外である。
オリーブオリーブ、有名なのだろうか。
すると、変化は俺の正面にあった。
普段、感情をあまり表に出すことのないレイナ。とても冷静で、
クールビューティなんて言葉がよく似合う女性。
そんな彼女の眉がわずかに開いた。
それだけではない。
目線がちらちらと、景色がゆっくりと動く窓の外を向く。
﹁さあ、今日買わないと明日には売り切れちゃうよ! 次の入荷は
早くても二週間後! 今読まないと話についていけないよ!﹂
あからさまにそわそわし始めるレイナ。
彼女が何に反応しているかは明らかであった。
なるほど。
俺は御者に、馬車を停めるように声をかける。
﹁どうかなされましたか﹂
レイナがなんでもない風を装って、俺に尋ねた。
だがそれは偽り。
本人はばれていないと思っているのだろうが、俺にはわかってい
る。
はっきりいって、バレバレだ。
﹁ちょっと待っていてくれ﹂
923
俺はレイナを残し、隣のミラを連れて馬車を降りる。
行先は、先程本の宣伝をしていた店。
﹁これは貴族様﹂
現在の俺の恰好は上等な物であるから、俺を貴族だと判断するの
はおかしなことではない。
﹁店主、オリーブオリーブの新刊というのはなんだ﹂
﹁へえ。オリーブオリーブは現在巷で有名な謎の美少女小説家でし
て、彼女の新しく書いた本が今日入荷されたんです﹂
﹁ふうん﹂
謎の作家なのに、美少女だということはわかるのか。
俺は、平積みされている本を見た。
そこにはあったのは﹃美しすぎて婚約破棄∼孤児院をつくって未
来の旦那を育てるの章∼﹄という本。
なんだろうか。この、女性の欲望にまみれたようなタイトルは。
﹁店主、これの過去作はあるのか?﹂
﹁へえ。ちょっとお待ちください﹂
店主が奥から本の束を持ってきた。
見やすいように店頭に並べられ、俺はそれを一つ一つ確認する。
﹃美しすぎて婚約破棄∼お見合いパーティーは吸血鬼の罠の章∼﹄
924
﹃美しすぎて婚約破棄∼勇者パーティーに入って勇者と婚約してみ
せるの章∼﹄
﹃美しすぎて婚約破棄∼勇者を魔王に寝とられるの章∼﹄
﹃美しすぎて婚約破棄∼イケメン主人公のハーレム要員に加わるの
章∼﹄
﹃美しすぎて婚約破棄∼私よりも美しいかもしれない永遠の少年の
章∼﹄
結構出てるんだな。
それにしても、欲望に忠実というかなんというか。
男性向けハーレムアニメの女性バージョンが、こういったものな
のだろう。
﹁売れているのか、これ﹂
﹁ええ、そりゃあもう。子どもから大人まで、平民から貴族まで、
女性なら誰もが手に取って読んでますよ﹂
﹁ふむ﹂
第一章と書かれた本を手に取り、ページを開く。
一番最初のページにはあらすじ。
なかなか親切だな。
その内容はこうだ。
﹃︱︱少女が歩けば、太陽は雲に隠れ、花は蕾に戻る。全てはその
少女の美しさゆえ。太陽も花も少女のあまりの美しさに己の醜さを
恥じたのである︱︱
前世ではあんまりかわいくなかったせいか、結局結婚できないま
925
ま29歳の若さで死んでしまった私。
最後の記憶が貴族の馬車にはねられたところだから、死因は交通
事故だと思う。
そして、転生しました!
それも、物凄い美人さんになって!
新たに生まれたのは貴族の家! そして現在17歳!
そしてそして! 今日はなんと婚約者の家にお呼ばれしちゃいま
した!
これはもうプロポーズしかありませんよね?
遂に念願の結婚ができるんです!
嬉しいなんてもんじゃありません! えへへ。
︱︱しかし、少女を待ち受けていたのは、婚約者からの一方的な
婚約破棄。その理由とはいったい何なのか。そして少女は旅に出る。
これは少女が婚約者を探し求めて世界を舞台に活躍する冒険活劇で
ある︱︱﹄
ううん⋮⋮反応に困ってしまう。
こういうのが、大陸では受けているのだろうか。
元の世界の中世ヨーロッパでも、こんなのが流行っていたのかな。
とはいえ、だ。
売れているということは、おもしろいということだろう。
これは村での識字率に役立つかもしれない。
﹁他に本はあるのか? 小説のようなものが﹂
﹁あるにはありますが、どれもオリーブオリーブを真似た作品ばか
りですよ? 本人たちはリスペクトだとかオマージュだとか言って
ますがね。
もちろん質もオリーブオリーブの作品より大分落ちます。
926
まずはオリーブオリーブの作品を読んで、それでもまだ足りない
っていう人が他の作品に手を出すんですよ﹂
﹁よし、じゃあこのオリーブオリーブの小説を全巻くれ﹂
﹁毎度ありぃ!﹂
本を全て布の袋に詰めてもらった。
ついでに隣の店から果物を買う。
すると、路地裏で子どもが二人こちらを眺めていた。
その服は街の者たちより、はるかに貧相である。
貧困街に住む者だろうか。 俺は手招きして呼び寄せると、果物を分けてやった。
いいことをしたな、と自己満足に浸りながら馬車に戻ろうとする。
すると窓からこちらを見ていたレイナが顔を逸らした。
顔を逸らすということは、やましいことや後ろめたいことがある
証拠。
真面目なレイナにとって、仕事先で小説に気を取られることは、
やましいことになるのだろう。
﹁はい、これ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
馬車に戻った俺がオリーブオリーブの最新刊を差し出すと、とま
どったような、しかしどこか期待の含んだような目でレイナが俺を
見た。
﹁今日まで色々お世話になったお礼も兼ねて﹂
927
﹁い、いえ、でも⋮⋮﹂
﹁いらないなら捨てちゃうけど﹂
﹁あっ、いやっ、待って﹂
俺が窓に顔を向けると、レイナが反射的に手を伸ばす。
俺はにっこり笑って、その手にオリーブオリーブの最新刊を渡し
た。
﹁あ、ありがとうございます⋮⋮!﹂
最初は顔を赤らめて恥じ入っていたレイナだったが、すぐに大切
な物であるかのように本を胸に抱き締めた。
その時の表情は、まるで赤子を抱く慈母のようである。
こんな顔をするんだな。
いいものを見た。
あとで聞いた話だが、レイナはこの本のファンであり、作者であ
る謎の美少女小説家オリーブオリーブのことも敬愛しているのだと
か。
というわけで、これにてめでたしめでたし。
俺はなんだかいい気分となって、高級宿に向かう馬車に揺らされ
た。
︱︱といいたいところであるが、話はこれで終わらない。
﹁すいません。本を頂いたのでとても言いにくいことなんですが⋮
⋮﹂
928
そう言って彼女の口から発せられたのは、先ほどの子どもに対す
る施しについて。
﹁貴族を恐れないようになったら、不幸になるのはあの子どもたち
なので⋮⋮﹂
本当に言いにくそうに彼女は言った。
貴族というものは傲慢不遜な者が多く、中には平民の命を物のよ
うに扱う者もいる、と。
そんな者に貧困者が近づけば、汚いからという理由だけで殺され
ることもあるという。
言われてみれば確かにそうだ。
安易な優しさが、人のためになるとは限らない。
そのことに気付いた俺は、なんとも言えない気分になったまま、
馬車に揺らされた。
929
78.王都ドリスベンに住む日本人
草木の緑がいっそう濃くなる初夏の頃、園遊会に参加する者たち
が続々と王都ドリスベンに集結していた。
時間に正確な移動手段など、ない時代である。
それぞれは時間に大きな余裕を持って街に入場しており、園遊会
が行われる日までは思い思いの時間を過ごすことになる。
また王城においては、日頃は怠けていた城で働く者たちもにわか
に活気づき、華やかな園遊会を思っていつつ、着々と準備を進めて
いた。
とはいえ、園遊会などに関係があるのは、一部の者だけのこと。
街に住む一般庶民にとってはなんの関係もない。
彼ら庶民は、今日もいつもと変わらず懸命に働いていたのである。
﹁水ー、水はいりませんかー?﹂
王都ドリスベンのぎゅうぎゅうに密集した住宅街を、ある一人の
女が水を売っていた。
その者、黒い髪をしており、既に二十歳を超えているというのに
顔の彫りは浅く、見ようによってはまだ十代の少女のようだ。
背中には大陸の言語で﹃水屋﹄と書かれている。
彼女は、いわゆる水売りと呼ばれる者であった。
﹁ちょいと、水をおくれ﹂
住宅の一軒から顔を出した、中年女性。
930
﹁はい! いつもありがとうございます!﹂
売り手と買い手である。
水売りの女は愛想を振りまくような声と笑みで対応した。
だがちょっと待ってほしい。
水売りの女は背に旗を差してる以外に、これといった持ち物があ
るようには見えない。
はたして、これでどのように水を売るのか。
水売りの女は、中年女性に家の中を案内されて、空手のまま台所
の大きな甕の前に立った。
甕は三つあり、その内の二つが空となっている。
﹁大甕二つでよろしいですね?﹂
﹁ああ、そうだよ。早くやっとくれ﹂
水売りの少女が何を考えたのか、右手の指先を大きな甕の中に入
れた。
すると、不思議なことが起こった。
その指先から、まるで蛇口のように、水がドバドバと放出された
のだ。
おわかりいただけただろうか。
これぞ体内の魔力を使い、水を生み出す法︱︱水の魔法である。
水の魔法によって徐々に満たされていく大甕。
しかし、それを見ていた中年女性が驚くこともない。
魔法など大陸では特筆しない、極めて普通ことであった。
931
﹁あんた、あんまり見ない顔ね﹂
甕が満たされるまでの間、暇つぶしにと中年女性が水売りの少女
に話しかけた。
﹁この地区を担当してる人が病気になって、今日は私がこの地区の
半分を受け持ってるんですよ﹂
﹁ふーん、大変ねえ。それにしても若いのに、大した魔法の使い手
だわ。
いつもより水が溜まるの全然早いわよ?
どう? おすすめの男がいるんだけど﹂
水の魔法に目覚めた者の将来はまず安泰。
貧困が渦巻く時代なればこそ、己の身内をその魔法の使い手に勧
めるのはよくあることだった。
﹁いえ、その、養わなければならない弟妹たちがたくさんいるので、
私が稼がないと﹂
﹁あらまあ大変ねえ﹂
訳ありかと、中年女性はさっさと話を打ち切った。
そう時も経たず、二つの大きな甕が満杯になると、中年女性が料
金を支払い、水売りの女はまた新たな客を求めて外を練り歩く。
﹁水ー! 水はいりませんかー!﹂
やまだ かおるこ
水売りの女の名前は山田薫子。
932
元は日本居住のどこにでもいる高校生であった。
薫子がいかにして今日にたどり着いたのか、まずはそれを語らね
ばならないだろう。
時は八年ほど前にまで遡る。
薫子は日本で電車の脱線事故に遭い、神との会合ののち、気がつ
けば王都ドリスベンの路地裏にいた。
誰もがそうであるように、まず驚愕し、それから現状を顧みる。
路地裏から顔を出せば、日本ならさして珍しくもない人の賑わい
があった。
しかし、建物も人が着る服も、果ては人の顔に至るまで何もかも
が日本とは違った。
薫子は、ここでようやく己が異世界にいることをはっきりと自覚
したのだ。
現状を大いに嘆く薫子。
それが済むと、次に考えることはこの世界でどのように生きてい
くか、である。
神から貰ったカードは既になくなっている。
されど、その代わりに内にある異様な感覚に気づいていた。
﹁これ⋮⋮もしかして、カードの能力⋮⋮?﹂
感覚に従って指先から放たれたのは、ビュービューと出る水。
彼女の選んだカードは︻水の魔法の才︼︻小︼︻★★︼。
薫子は水を自在に出すことができるようになっていたのだ。
933
話は変わるが、この世界において魔法というものに、呪文などの
面倒くさい儀式は必要ない。
いわば魔法というものは、人間の内にある一つの特殊な器官を用
いて起こる現象。
心臓が全身に血液を送るように、脳が何かを考えるように、胃が
食べ物を消化するように、内にある特殊な器官が火を起こし、水を
つくり、風を吹かせるのである。
そのため、この器官がある者は魔法を使えるが、ない者は決して
魔法を使えないのだ。
さらに、魔法を使うにもちょっとしたコツがいる。
ある者は、魔法を使うに際して三挙動の感覚がいると言った。
たとえるなら、体の中にもう一本の腕があり、その腕で物を掴ん
で投げる。そんな感覚。
眠ってる最中、魔法による事故が起きないのは、この複数挙動の
感覚のためである。
寝ぼけながら、物を掴んで投げる者などいないのだから。
﹁水⋮⋮水ね。飲み水には困らないかもしれないけど⋮⋮﹂
これで何をどうすればいいのかと、薫子は頭を抱えた。
水なんてなんにもならない。
日本人の感覚から、水はタダだという認識が強い薫子である。
一応、日本にも水道料金があり、水が無料というわけではないの
だが、そこはまだ女子高生。
かつての世界においては、水がとてつもなく大きなビジネスにな
っていることすらも知らなかった。
934
︵せめてもっと勢いよくいっぱいの水を出せれば、消防車の代わり
になってお金に困らないかもしれないけど⋮⋮︶
薫子は水を出すのをやめると、とにかく現状を知らなければと思
い、街に出た。
人の波の中を歩く薫子。
道行く人たちの言葉がわかるし、看板の文字も読める。
けれど、周りは西洋人にしか見えない者ばかり。己が異物である
ことを、これでもかと実感させられた。
やがて一頻り街を見て回ると、薫子は身につけている物を売り、
金に替えることにした。
﹁重い⋮⋮とても重いわ⋮⋮﹂
ある商店で、袋に詰められた硬貨を受け取った時、ずっしりとし
た手にかかる重みの他に、もっと別の︱︱心にまで響くような重さ
を感じた。
限られたお金。
日本にいた時は、お金に困ったことはない。いや、お小遣いが足
りないとか、そういうのはあった。
しかし、この世界でお金が尽きれば、それは死を意味するのだ。
︵これは私の命の重さ⋮⋮︶
大切に使わなければならない。
すぐ隣にある死の恐怖に身震いしつつ、薫子は貨幣の入った袋を
ギュッと握った。
だが、生存への道はあっさりと開かれることになる。
﹁水ー、水だよー!﹂
935
金を得て、とりあえずは宿を探そうと、人通りがそれほどでもな
い宿が並んだ区画を歩いていた時だった。
大きく張り上げる声に釣られて見てみれば、そこにいたのは﹃水
屋﹄と書かれた旗を背中に差している者。
水なんて売り物になるのか、という疑問よりも先に、水売りが肝
心の水をどこにも持っていないことを、薫子は不思議に思った。
﹁まさか⋮⋮っ!﹂
薫子はピンと来た。
己の能力がなんであるか。
それを考えれば、答えは自ずと見えてくる。
つまり魔法で水をつくっているのだ。
薫子は、水売りのあとをつけることにした。
そして、実際に水をつくり出して売るまでを盗み見て、むしろ︻
水の魔法の才︼は生きていく上で都合がいいことを薫子は知ったの
である。
﹁もしかしたら、私のカードって結構当たりなんじゃ﹂
一人呟く薫子。
希望の火が胸に点り、それは活力となって、薫子の足を踏み出さ
せた。 ﹁あのっ、すみません!﹂
薫子は水売りの人に声をかけ、己が水の魔法使いであることと、
生活に困っていることを話した。
936
水売りが薫子を邪険にすることはない。
水の魔法使いは、厳しく管理されている。
水ギルドが統括し、さらに国がその手綱をしっかりと握っている
のだ。
まずは実際に仕事を見学させられて、それが済んだのち、薫子は
水ギルドに連れていかれ、色々と説明を受けた。
薫子はこの世界での水の扱いというものを知った。
魔法の水は清潔であるとされ、それ以外の水は汚いとされる。
唯一天からの恵みである雨だけは例外であるが、雨などいつ降る
かもわからず、また水は溜めてもそのうちに腐ってしまう。
必要な時に必要なだけ清潔な水を生み出すことができる水の魔法
使いの存在が、いかに重要であるか。
カードの星の数はたった二つ。
だというのに、これは星二つどころではない価値があるのでは、
と薫子は思った。
こうして、薫子は﹃水売り﹄という仕事を得て、王都ドリスベン
に生活の基盤を築くことになる。
さて、話は園遊会直前の日時にまで戻る。
﹁水ー! 水はいりませんかー! 飲んでよし、体を洗ってよしの
魔法の水ですよー!﹂
中年女性に水を売った薫子は、その後も客を求めて声を張り上げ
る。
937
このなんでもない時間。
ふと、薫子は教会の近くで足を止めた。
︱︱結婚式。
二人の男女が、家族や知り合いたちから祝福されているところだ
った。
とても幸せそうに、新しく夫婦となった二人は笑いあっている。
︵あーあ、何やってんだろ私︶
薫子は心をむなしくさせた。
時折思うのだ。
既に歳は二十歳を超えて、二十四歳。
日本ならば立派な大人。大学を卒業し、会社に勤め、もしかした
ら結婚しているかもしれない。
では、この異世界での自分はどうか。
八年間、水ばかりを売ってきた。
水売りの給料の良さを考えたら、一財産をつくってもおかしくな
い時間だ。
だというのに、彼女はあまり休日を取ることなく、日々を汗水垂
らして働いている。
幸せとは縁遠い生活であった。
理由はある。
彼女が根を詰めなければならない理由が。
﹁お疲れ様でしたー﹂
仕事を終えると、ギルドに寄って売り上げを納め、挨拶をして薫
938
子は己の家に帰る。
家がある場所は城郭外にある区画。
貧困街とまではいかないまでも、下層民が住む住宅街だった。
﹁ただいまー﹂
周りよりは少しばかり大きい家。
その玄関を元気な声と共に、薫子は開けた。
﹁お姉ちゃん!﹂﹁お姉ちゃんお帰り!﹂
わらわらと集まってくる子ども達。
二十人は優に超えている。
︵だってしかたないじゃない︱︱︶
鬱屈した思いをぶつけるように、薫子は心の中で誰かに呟いた。
それはいい訳。
最低限の裕福な生活を捨ててまで、今の貧しい暮らしをするいい
訳だ。
目の前で飢える子どもたちを見捨てられなかった。
何度も見捨てようとした。でもどうしてもできなかったのだ。
そのせいか、魔法の才があっても貧乏と隣り合わせ。
お金を稼ぐために、毎日を頑張らなければならなかった。
﹁みんな、ちゃんと勉強した?﹂
水売り用の綺麗な一張羅を着替えつつ、子どもたちに優しく声を
かける薫子。
939
その声色には不満など微塵も見せてはいない。
﹁うん! 頑張ったよ!﹂﹁今日もいっぱい文字を覚えたんだ!﹂
子どもたちが薫子に褒めてもらおうと、自分たちの勉強の成果を
先を争って報告していく。
それを一人ずつ優しく頭をなでながら、薫子は聞いていた。
養うためだけでは駄目。
彼らがいつか立派に独り立ちできるように、子どもたちに文字と
計算は教えている。
現に二人、商人の下働きとして、この家を出ていった。
その二人は、たまにやってきてはお金を置いておこうとし、薫子
はそれを断っている。
下働きの給料なんて高が知れている。
この家を、巣立っていった者たちの足枷にしたくはなかったのだ。
これは薫子の親心ともいうべきものだったが、彼女自身は子ども
たちを弟妹たちだと普段から口を酸っぱくして公言している。
﹁バーネット兄ちゃんとジョシュアは勉強せずに外に行ってたんだ﹂
誰かの糾弾する声。
すると、集まっていた子どもたちの群れが二つに割れて、皆の視
線がある二人に注がれる。
十歳のバーネットと八歳のジョシュア。
まだ遊びたい盛りの子どもだ。
勉強しろと言っても、それを聞かない子どももいることはわかっ
ていた。
940
だから二人に対し、薫子が怒ることはない。
何故なら、毎日を好きなことをして暮らしていけた日本の子ども
時代を知っているから。
﹁⋮⋮お姉ちゃん、これ﹂
ジョシュアからの差し出されたのは果物である。
他の子どもにばれないようにしていたのか、それは服の中から出
された。
姉である薫子のために、という思いがあったのは明らか。
しかし薫子は目を鋭くした。
﹁どうしたの、それ﹂
薫子は底冷えするような声を出した。
過去に子どもたちは食べ物を盗んでいたことがある。
薫子に出会うまでは盗みは彼らの日常であったし、盗まなければ
食べていけなかった。だからそれはいい。
でも、一緒に暮らしてからの盗みは、どんな理由があろうと薫子
はおもいっきり怒った。
貧困者にとって、食べ物は命と同義。
盗めば殺されても文句は言えない。
一般の者相手であっても同じこと。彼らは貧困者を汚い者として
見る。
二度と盗みをしないように集団で暴行されるのがオチだ。
それゆえ子どもたちが盗みをした時、﹃お姉ちゃんに美味しいも
のを食べてほしい﹄という理由であっても、薫子は子どもたちが泣
くまで怒った。
941
だというのに、また盗みをしたのだ。
﹁違うよ、お姉ちゃん! 今度は盗んだんじゃないんだ!﹂
もう一人、おそらく行動を共にしていたであろうバーネットの弁
護。
心配のしすぎだったか、と思い、薫子は表情を和らげて問いかけ
た。
﹁ごめんね、それでその果物どうしたの?﹂
しかし、ジョシュアは言いにくいのか答えない。
ならばと、薫子は先ほど弁護をしたバーネットに顔を向けた。
﹁大通りで⋮⋮貴族に貰ったんだ﹂
︱︱貴族。
バーネットの回答に、薫子は再び目をつり上げた。
貴族に近づいてはならない。
貴族に対して、物乞いをし殺された者はいくらでもいる。
貴族の全員がそうだとはいわない。
だが近寄っただけで汚いと、殺そうとする者は確かにいるのだ。
﹁あれほど普段から言ってるのに、なんで貴族なんかに近づいたの
!﹂
﹁う⋮⋮﹂﹁ぐすっ﹂
これにはバーネットも何も言えなくなり、またジョシュアは今に
942
も泣きそうに目を赤くする。
﹁いい? 貴族は私たちを同じ人間だとは思ってないの! ちょっ
とした気分で私たちは、殺されちゃうんだから!﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁でもじゃないわ!﹂
ジョシュアが言い返そうとしたが、薫子は反論を許さない。
するとジョシュアを助けるようにバーネットが言った。
﹁違うんだよお姉ちゃん。その貴族、お姉ちゃんと似たような雰囲
気だったから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁髪の色も顔もなんだかお姉ちゃんみたいで、優しそうだったから
見てたんだ。そしたら手招きして⋮⋮﹂
黒髪というのは珍しくない。だが黒という色をさらに細分化すれ
ば、薫子の髪色はとても珍しい。
ということは、日本人の髪もまた珍しいということだ。
顔も彫りがなく、この世界では特徴的なのが日本人。
薫子は、まさかと思った。
943
78.王都ドリスベンに住む日本人︵後書き︶
﹁町をつくる能力!?∼異世界につくろう日本都市∼﹂が9月10
日に発売されることとなりました。
これも偏に皆さま方の応援のお陰でだと思っております。
本当にありがとうございました。
詳細は活動報告にて書こうと思います。
944
79.ローマット
園遊会に参加するために王都に集まった貴族たち。
されど園遊会が始まるまでには数日ある。
その間、彼らはどのように過ごすのか。
身体をゆっくりと休める者。
観光に時間を費やす者。
知己との歓談する者もいる。
しかし、ここにもう一つの時間の過ごし方があった。
そこは王族の血縁、ヴェンネルバリ公爵家の王都にある屋敷。
ヴェンネルバリ公爵とその派閥の者たちが酒と料理をもって、園
遊会の前夜祭とでも言わんばかりに宴を催していたところだ。
あの方
が到着なされました。扉の後ろで待機しても
だが、今回この宴の主催者であるヴェンネルバリ公爵には別の目
的がある。
﹁旦那様。
らっております﹂
﹁そうか。よし﹂
宴会場に入ってきた使用人が、ヴェンネルバリ公爵に耳打ちをす
る。
ヴェンネルバリ公爵は、ようやく準備が整ったとでも言いたげに
満足そうな顔で頷くと、宴の参加者たちに向けてこう言った。
﹁今日はスペシャルゲストを招いておる!﹂
945
ヴェンネルバリ公爵の言葉に、誰だ誰だ? と囁き合う皆々。
しかし、トンとわからない。
を招き入れる。
そんな様子にヴェンネルバリ公爵は顔をにやつかせ、大きな声で
スペシャルゲスト
﹁さあ、入られよ! ローマット殿!﹂
すると突如うねりを上げた波のように、一同は驚きの色をもって
大きくざわめいた。
﹁ローマットだって!?﹂
﹁リバーシ、チェスの無敗の王者、あのローマット殿か!? もし
や園遊会に参加するという噂は本当だったのか!﹂
、その名をローマット。
場内が興奮に包まれる中、入口の扉が音を立てて開き、威風堂々
スペシャルゲスト
とした格好の男が現れた。
その男こそ、本日の
傍らには、小さな少女︱︱ローマットのただ一人の弟子もいる。
︱︱ローマット。
家名は剥奪されて既にない。リバーシ及びチェスの考案者である
ことに加え、両遊戯においてはいまだ負け知らずの絶対王者。
その名はラシア教皇から一般市民の子どもにまで、あまねく知ら
れ、まさに大陸の中で教皇の次に有名だといっても過言ではない男
である。
それゆえ、皆の驚きも当然といえた。
﹁おお、ローマット殿。よくぞ我が屋敷に参られた。本来ならば我
が領地にて盛大に招きたいところであるが、本日のところはこの狭
946
い屋敷で我慢してくだされ﹂
公爵という地位にあるヴェンネルバリが、なんの官位も持たない
ローマットに丁寧に挨拶をするのは、腰が低い性格だからではない。
それだけの価値が、ローマットという男にあるからだ。
ヴェンネルバリ公爵は言葉を続ける。
﹁酒と料理はのちほど。本日は我が領地で最高の腕を持つリバーシ
の名人とチェスの名人を連れてきておる。まずはその者たちに是非
一手御指南をお願いしたい。
︱︱ゴンザレス、ゴメス、挨拶せよ﹂
いつの間に現れたのか、ヴェンネルバリ公爵の両脇に控える二人
の男︱︱ゴンザレスとゴメス︱︱が自信満々の笑みをもって、ロー
マットに一礼した。
ところで、素晴らしい家臣を持つことは領主の誇りである。
特に最強の騎士に最高の知恵者は、あらゆる領主が求めてやまな
いものだ。
そのせいか、世には最強の騎士を名乗る者がたくさんいる。
これが示すことは何か。
最強を名乗ることはいとも容易く、されど最強を証明することは
甚だ難しい、ということである。
しかし最高の知恵者を証明することは簡単だ。
頭を使う遊戯としてリバーシとチェスがあり、この二つの遊戯に
おいて最高の打ち手は、百人に聞けば百人がローマットと答える。
現在最高の知恵者と呼ばれるのはローマット一人であり、なれば
こそローマットをリバーシとチェスにて倒したなら、その者は大陸
947
最高の知恵者だと名乗っていいのである。
すなわち、今日の宴の目的は、ヴェンネルバリ公爵の自慢の家臣
がローマットに挑むことにあった。
﹁結構﹂
ただ一言、王者の貫禄をもってローマットは応えた。
至急、宴会場に小さな机と椅子が用意される。
机の上に置かれたリバーシ盤と、それを中心に向かい合う二人の
棋士。
さらに、周りをヴェンネルバリ公爵とその派閥の者たちが囲んだ。
対戦者であるローマットとゴンザレスの間で先手が選ばれ、対局
が始まる。
真剣勝負である。
誰もが口を慎み、パチリパチリという石の音だけが宴会場に響い
た。
﹁あっ﹂
やがて静寂を破るように、小さな声を上げたのは、リバーシ名人
のゴンザレス。
己の失策に気付いたのだ。
こうなっては流れるように形勢がローマットへと傾いていく。
おおお、という感嘆が観戦者たちの口から漏れた時、石のほとん
どはローマットの物となっていた。
﹁ぐっ⋮⋮、では、チェスではどうだ﹂
948
口惜しげな様子のヴェンネルバリ公爵。
次にチェスにて挑むのは、ゴメスである。
﹁おおう!﹂と、ゴメスはまるで戦いに赴くような気合いと共に席
に座った。
しかし︱︱。
﹁チェックメイト﹂
しばらくののちに、呟いたローマット。
チェスでもまた、あっさりとローマットが勝利したのだ。
﹁うむう⋮⋮。いや、流石はローマット殿。噂に違わぬ実力であら
せられる。皆の者、ローマット殿に盛大な拍手を!﹂
ヴェンネルバリ公爵は悔しそうにしながらも、流石だとローマッ
トを褒め称えた。
疑いようがない。ローマットこそが最高の知恵者だと認めたので
ある。
それに追従するように、その場にいた者は皆、拍手喝采をローマ
ットに浴びせた。
﹁酒を持て! ローマット殿、最高級の酒と料理でもてなしますぞ。
今日は色々と話を聞かせてくだされ﹂
ヴェンネルバリ公爵とローマットが酒を酌み交わすと、次いで他
の者たちがローマットと会話しようと集まってくる。
﹁ローマット殿、私にチェスのコツを教えてくだされ﹂
﹁いやいや。そんなことよりも、これまでにローマット殿が対戦し
949
てきた実力者たちの話を聞かせてくれませんか﹂
ローマットは、いうなれば一流の芸能人といってよかった。
その知名度ゆえに、誰もが彼と会って話すことを望むのだ。
それは格式ばかりを重要視するドライアド貴族たちも同様といえ
る。
格式とは品。ドライアド貴族は品を重んじるからこそ、知恵を使
った静かな遊戯といえるリバーシやチェスは受け入れられ、その無
双の打ち手であるローマットは称えられるべき人間であった。
かくして宴会場ではローマットの取り合いが始まり、ローマット
は王者の風格をそのままに毅然として応対する。
︱︱この時、ローマットの鼻の穴がぷくりと膨らんでいたことに
気付いた者は誰もいない。
◆
ローマットは調子に乗っていた。
今日もまた公爵家に招かれ、耳触りの良い言葉でとてもいい気分
になっていた。
酒を飲むがごとく、今のリバーシとチェスの王者という立場にロ
ーマットは酔っていたのである。
しかし、この増長は最近のことだ。
それまでは、調子に乗ることもあったが、どちらかといえばビク
ビクとしていたことが多かったといえよう。
時は数年前にまで遡る。
当時、親から勘当を言い渡され、サンドラ王国の貴族位を失った
950
ローマット。
食うに困ってリバーシを商会に売り込んでみれば、それは一週間
もしないうちに王都中に広まった。
あり得ぬ速度である。
さらにその商会主はやり手で、ローマットを絶対王者として売り
出し、リバーシが強いということに価値を持たせた。
これがきっかけとなり、ローマットは一躍王都の人気者になった。
サンドラ王国では王の指南役として度々呼ばれ、加えて新たに売
り出されたチェスが世の知識人たちに好評を博し、ローマットの名
は他国においても知られ始めることになる。
だが、これらのことはローマットを怯えさせた。
何故ならば、リバーシとチェスをローマットが考案したというの
は真っ赤な嘘。
本当のところは、かつて藤原信秀が治めた獣人の町にて知った物
だったからだ。
この事実がバレた時、はたして自分はどうなるのか。
嘘吐きだとして、後ろ指をさされ、今の地位から転落するのでは
ないか。
そんな晴れることのない不安が、昼夜を問わずローマットを襲っ
た。
たとえるならば、はるか子どもの頃。家にあった高価な壺を割っ
てしまい、それがいつ親にバレるかとびくびくしていた時の心境で
ある。
しかし、怯えに反してローマットの名は国境すら越え、リバーシ
951
やチェスと共に大陸の隅々にまで広がっていった。
もはやローマットは、ガクガクブルブルと震えるような有様だ。
軽い気持ちでついた嘘が、段々と手に負えないほどに大きくなっ
ていく。
大陸中の有力者から招待され、果ては大陸一の権力者であるラシ
ア教皇にまで謁見した。
少しばかり調子に乗って﹁これが運命の一手。何物も運命には逆
らえない﹂と、サンドラ王にわけのわからないことをほざいていた
頃が懐かしい。
それゆえ、ローマットはリバーシとチェスを己が知ることとなっ
たいきさつを、絶対の秘密にした。
﹁どのようにこんなものを考案したのか﹂と聞かれるたびに、獣人
の町の者たちに対するうしろめたさを感じたが、素知らぬ顔で嘘に
嘘を塗り固めたのである。
ローマットの言うことを、誰もが信じた。
当然だ。
ローマットは絶対王者、対して獣人の町と交流のある者など数え
るほどもいないなのだから。
だが一度だけ、心臓が飛び跳ねそうなほど驚いたことがある。
それは、有名になったローマットの自宅︱︱貴族顔負けの豪勢な
屋敷︱︱を、ある男が訪ねて来た時のこと。
他国の貴族の紹介状を持っていた男を相手に、ローマットはリバ
ーシの相手をした。
どうということもなく勝負はあっさりとローマットが勝ったので
あるが、その時に男が口にした言葉︱︱。
952
﹁このリバーシにチェス。あんたが考えたものじゃないだろ?﹂
ドキリとした。
男をよく見れば、黒髪で顔の彫りは浅く、どこかあの町の主に似
ている。
﹁な、なななんのことですかな? ここ、これは私が考案した物。
わ、私の強さが、そ、その証明です﹂
思いもよらぬ、核心を突いた質問ではあったが、ローマットは怖
かったので必死にしらを切った。
しかし男の追及は止まらない。
﹁単刀直入に言わせてもらう。あんた日本人だろ﹂
最初はなんの事だかわからなかった。
﹁現地の人間に乗り移ったんだろ? 俺たちのリーダーも同じだか
ら、バレバレだぞ﹂
やっぱり何を言っているのかわからなかった。
﹁俺たちのリーダーは国を興すつもりだ。そのために同じ日本人の
仲間を求めている﹂
何を言っているのかわからないどころか、反逆を企てているよう
な発言である。
ローマットは男の正気を疑った。
953
﹃おい、いい加減にしろよ! この言葉がわかるんだろ! 同じ日
本人同士助け合わずにどうするんだよ!﹄
そしてとうとう、男は謎の言語を話し始めた。
その言葉は日本語であったのだが、無論のこと、ローマットに通
じるわけもない。
ローマットは、男が邪教徒であると屋敷の使用人に伝え、警邏の
者を呼びに行かせた。
やがてやって来た警邏の者たちに対し、男は大立ち回りをした上
で、屋敷からいなくなったのである。
︱︱とまあ、リバーシとチェスの成り立ちを巡っては色々なこと
があった。
しかし、不安も隣にあり続ければ慣れとなる。
段々と怯えは消えていき、やがてローマットは調子に乗り始めた。
なにせ、王も教皇も己に一目置いている。外を歩けば誰もが己を
称賛する。
調子に乗らない方がおかしいのだ。
リバーシとチェスの研究に余念はなかったが、ローマットの心ば
かりはとても愉快であった。
誰も己には勝てない。誰もが己を褒め称える。
ローマットはとても気分よく日々を送っていた。
だが時折思うことがある。
物足りない、と。
リバーシにしろチェスにしろ、あまりに相手が弱すぎるのだ。
そんな時、ローマットは南を眺めて、あの町を懐かしむ。
獣人の町では、リバーシやチェスを打つ者のレベルが違った。
954
多くの者と対戦した、今だからこそわかる。
彼らが打っていたのは何十年も積み重ねたような定石。
それをローマットはあの町で学んでいたのだから、その強さも当
たり前のことであった。
ローマットが知らぬことではあるが、これは信秀が己の力をひけ
らかすようにリバーシやチェスの本を読んで狼族たちと対戦し、あ
っという間に学ばれて、以降ぼろ負けを喫したことに端を発するも
のである。
そして結局一度も勝てなかった狼顔の青年。
捕虜の身であったあの頃、ローマットはただただ勝ちたいと思っ
て、がむしゃらに打ち続けた。
まるで童心のように純粋であった。
懐かしい。
捕虜でありながらも、どこか心地よく感じていたあの頃がとても
懐かしい。
また一度戦いたいと思いを馳せるも、それは叶わない。
ミレーユ姫より、信秀と狼族は町から去ったが、無事に生きてい
るとだけ伝えられていた。
彼らは一体どこへ行ったのか。
時折ローマットは思うのだ。
◆
園遊会当日である。
国賓として城に部屋を与えられていたローマットが、弟子の少女
と共に会場に向かう。
この弟子、名前をロマンチェといい、栗色をしたショートカット
955
の髪がチャーミングな、まだ十五にも満たぬ少女である。
大層位の高い家の出であるが、リバーシとチェスに魅せられると
ローマットのもとに押し掛けて延々と頼み込み、半ば無理矢理に弟
子となった経歴を持つ。
﹁華やかですね、先生。さすがは歴史名高いドライアドの都、ドリ
スベン﹂
城の廊下は飾り付けられ、そこかしこに儀礼兵が並んでいる。会
場から流れてくる音楽の音色は、とても優雅で落ち着いた調べであ
り、静かな気持ちのまま聞く者の耳を楽しませていた。
︵うむ、いい音色だ。飾り付けも歴史を感じさせるような品がある︶
ローマットもロマンチェと同じ意見だった。
だが、そうだな、と同意するだけではただの人。
調子に乗りに乗っているローマットは、その口調も滑らかだ。
﹁よいかロマンチェ。見かけだけに囚われてはならん。リバーシも
チェスも同じだ。泥にまみれて地を這いながら最後に相手を食らう。
そういった手が一番怖い﹂
﹁なるほど。さすがは先生。このロマンチェ、また一つ見識が広が
りました﹂
ふむふむとかわいらしくロマンチェは頷いた。
一方、ローマットも﹃流石は俺。いいことを言う﹄と心の中で自
画自賛していた。
やがて二人は園遊会の会場にたどり着く。
956
会場は、非常に手入れの行き届いた素晴らしく見事な庭園であっ
た。
本番は午後の会食からであるが、暇な者たちが歓談を楽しむため
に会場は解放されている。
基本的に、位の高いものほど会場に来るのは遅い。
庭園の一画には、心地よい音楽を奏でている楽士たちの姿があっ
た。
また別の一画には机が並び、ワインと腹が膨れぬ程度のつまみが
置かれている。
既に何人もの貴族たちが談笑していた。
また貴族の子女と共にダンスに興じる者もいる。
だがその傍らで、妙な人だかりができていることにローマットは
気付いた。
﹁おお、ローマット殿。昨日はどうも﹂
人だかりの中から目ざとくローマットを見つけて近寄って来たの
は、ヴェンネルバリ公爵家の宴の席にいた男。
男は言う。
﹁実は、生意気な者がおりましてな。どうかその者の鼻っ柱を折っ
ていただけませんか﹂
話はこうであった。
会場に来ていた見たこともない貴族。
係の者に聞けば、どうも北の領地を買って貴族になった成り上が
り者であるらしい。
皆は、そんな者が何故この場にいるのかと訝しんだ。
957
今日は伝統ある園遊会。由緒正しき血筋の者しか参加できないは
ずである。
だが、係の者に聞いてみれば、確かに招待された者であるとのこ
と。
そこで貴族たちは、その成り上がりに恥をかかせてやろうと画策
する。
己が娘を使いダンスに誘わせ、酒を誘い食事のマナーを確認し、
はては国の歴史について談じるまでに及んだ。
すると成り上がり者は、無難にそれらをこなして見せた。
一応、貴族としての常識は心得ているらしい。
されど、それでは貴族たちの気が済まない。
というわけで、ある貴族がチェスを誘うことにした。
リバーシなら庶民も打つことができるが、チェスならそうはいか
ない。
その手軽さゆえに、リバーシは爆発的に大陸中に広まった。
それに付随するように 学があり暇をもて余す貴族には、より時
間と頭を要するチェスが普及した。
リバーシは能なしでも可能な娯楽、チェスは知恵者のたしなみ。
これが大陸の常識である。
たとえチェスのルールは知っていても、その技術は一朝一夕で身
につくはずもない。
つまりチェスで負かせて、恥をかかせてやろうという魂胆であっ
たのだ。
こうして砂時計を使った早打ちのチェス勝負が始まった。
誰もが、成り上がり者のみじめな敗北を予想し、どんな風に罵っ
958
てやろうかと心待ちにしていた。
しかし、である。
予想に反して、その者は中々に強く、既に二人の相手を倒したの
だそうな。
現在は成り上がり者を囲みながらも、負けて恥をかいてはならぬ
と、それぞれチェスを挑むことにしり込みしているところ。
そしてローマットがこの場に現れた、というわけだ。
﹁任せてください。先生ならそんな奴、チョチョイのチョイですよ。
ね、先生﹂
ローマットが返事をする前に、ロマンチェが勝手に答えてしまっ
た。
ロマンチェは盲目なまでにローマットを信奉しているため、己が
師の強さを万人に知らしめようと、よく一人で突っ走ることがある
のだ。
まあこれも師匠の務めであると思い、ローマットは﹁よかろう﹂
と答えた。
﹁道を開けよ、ローマット殿のお出ましだ﹂
﹁先生のお通りです、道を開けなさい﹂
ローマットの登場に群衆はまずざわめいた。
﹁おお、無敗の王者ローマット殿!﹂
﹁チェスの帝王、キングオブキングスがやってきてくれたぞ!﹂
﹁ローマット殿か。あの成り上がり者⋮⋮死んだな⋮⋮﹂
昨日の公爵家の宴席にいた者たちの自慢話によって、ローマット
959
が今日の園遊会に参加することは既に周知されている。
集まっていた貴族たちの目には、ローマットに対する期待の色が
見えた。
﹁先生が⋮⋮ローマット殿が、ただ今より成り上がり者を成敗して
くださるぞ!﹂
ロマンチェの空のかなたまで届くような宣言。
おおお! と貴族たちは歓声を上げる。
﹁ローマット!﹂
大きな声で誰かがその名を呼んだ。
さらにもう一度。
﹁ローマット!﹂
今度は別のところで、その名が呼ばれた。
するとどうしたことか。
そのさざ波は、すぐに大波となって、庭園を包みこんだのである。
﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット
!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマ
ット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ロ
ーマット!﹂
巻き起こる﹁ローマット!﹂コール。
楽隊の奏でる音楽も、上品な曲から雄々しく戦う曲へと変わって
いる。
全てはローマットのため。
960
庭園内はまさにローマット一色であった。
ローマットは内心で﹁でへへ﹂とだらしない笑顔を浮かべながら
も、外面はあくまでも凛然と佇み、皆に手を挙げて応えた。
やがて群衆の中に穴が開いて、道ができる。
それは王者の道。
ローマットはその道を昂然と歩いた。
そして道の先。
ローマットは、おやと思った。
椅子に座る黒い髪の男。どこかで見たことがある気がしたのだ。
﹁ん、あれ、どこかで⋮⋮﹂
相手もこちらを知っているような言葉を発した。
その声もやはり聞いたことがある。
はて、誰だったか。
ローマットは記憶を探った。
本能が、思い出せ! と叫んでいるようだった。
﹁先生?﹂
弟子の声にも反応できない。
ローマットは立ち尽くしたまま、思考の奥深くに埋没する。
︵黒い髪。彫りの浅い顔。チェスがうまい⋮⋮? ︱︱あっ!︶
そしてたどり着く。
忘れていた記憶に。
961
﹁あ、あぁ⋮⋮あぁぁ⋮⋮!﹂
口をパクパクとまるで金魚のように動かすローマット。
この時、思わず笑ってしまった貴族は、ロマンチェに睨まれて顔
を背けた。
﹁ど、どうかなされましたか先生!﹂
ロマンチェがローマットのあまりの様子に心配して、声をかけた。
他の者たちも、何が起こったのかと、その疑念を隣の者と語り合
う。
いつの間にか、楽隊が演奏する音楽も止まっている。
チェス勝負を前にしての絶対王者の異常な事態は、庭園にいる者
全てを困惑させていた。
しかしローマットが驚くのも無理はないことである。
なんと目の前の男は、リバーシとチェスの本当の考案者と思われ
るあの獣人の町の主、藤原信秀だったのだから。
962
79.ローマット︵後書き︶
次回から 77.園遊会 1 の続きに戻ります。
963
80.園遊会 2
ただ今、東から昇った太陽が八十度の位置までたどり着いた頃。
すなわち昼時より少し前といった時分のことであるが、俺こと藤
原信秀は現在、園遊会の会場に来ていた。
まずは現状から説明しよう。
椅子に座る俺の前には小さなテーブルがあり、その上にはチェス
盤がある。
しかし対面の椅子には誰もいない。
代わりに、先ほどまで﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂と気が
狂ったように叫んでいた貴族たちが俺を取り囲んでいる。
さらに、﹁先生、どうしたのですか! 早くこんな奴、けちょん
けちょんにしてください﹂とうるさく叫んでいる少女。
さらにさらに、皆からはローマット呼ばれ、少女からは先生と呼
ばれる男が、俺の前で口をパクパクとしながら立ちすくんでいる。
やがてそのローマットなる男は白目を剥き、口端からは泡を噴き
始めた。
おわかりいただけただろうか。
まさに混沌とした状況がそこにはあったのである。
さて、言うまでもなく、現状という結果には過程が存在する。
一と一を足せば、必ず二となるように、世の中というものは合理
的な過程の上で成り立っているといっていいだろう。
つまり何が言いたいのかというと、今この時に至るまでの過程を
紐解けば、現状の混沌とした状況について説明がつくのではないか、
ということだ。
964
というわけで、時は本日の朝にまで遡る。
︱︱園遊会当日である。
﹁よし、では行ってくる﹂
朝、城の前で献上品を役人に渡すと、護衛の狼族たちと別れた。
城の中に使用人を連れていくことは可能。
しかし、何かあっては大事になってしまうだろうと考え、狼族は
居残りだ。
代わりにレイナとポーロ商会の者を連れている。
レイナたちは俺の衣装道具をもって使用人の待機室へ。俺は、案
内係についていき会場に入った。
レイナ曰く、身分の低い者は早めに来て、話し相手やダンスの相
手をするというのが通例なのだとか。
まあ、下っ端が早めに来て雑務をこなすというのは、日本でも当
たり前にあることだ。封建社会のこの大陸ならば、それもより顕著
であろう。
とはいえ流石に一番に来る必要はないのだという。
会場には、既に何人かの貴族が来ていた。
互いに顔見知りであるのか、彼らは金属の杯を片手に集まり、談
笑している。
そこに現れた俺という存在。
貴族社会というものは狭い。見も知らぬ俺という存在がよっぽど
965
珍しかったのだろう。
彼らは俺の存在に気づくと、こちらを見ながら密談でもするかの
ように話し出す。
さらに、係の者を呼んだ。
俺のことを尋ねているのは明らかだ。
いやな雰囲気だ、と思った。
日本において派遣社員になったばかりの頃、社の食堂を使った時
のことを思い出す。
そこには正社員しかおらず、派遣社員であった俺は白い目で見ら
れていた。
﹁お飲み物はいかがですか?﹂
執事服を着た係の人間が酒を勧めてきた。
﹁貰おうか﹂
手持無沙汰に杯を受け取り、酒を注いでもらう。
少々の心細さに対し、酒の力を借りようという考えもあった。
視界の端では、係の者に俺のことを聞いたであろう貴族たちが、
意味もなくこちらを見てクスクスと笑っている。
陰険な奴らだ。
思えば、社の食堂で食事をしていた時も正社員たちから後ろ指を
さされた。
そして言うのだ。あなた正社員じゃないよね、と。
言外に出て行け、と。
966
そもそも、当時の会社でそんな取り決めは聞かされていなかった。
社の食堂ならばそこで働いている人間なら誰でも使えると思うのが
普通だ。
なお、翌日に班長に聞いてみれば、派遣社員は社員食堂を使うな
とのことだった。
全くやるせない話だ。
あの時より八年ほどが過ぎている。
もう少し派遣社員への待遇が良くなっていればいいのだが。
そんな風に、遠い日本のことを憂いている最中︱︱。
﹁ええっと、そこの方⋮⋮﹂
ほうらおいでなすった。
やって来たのは、性格の悪さが滲み出ているような顔をした、ま
だ若い小太りの男。
他の貴族連中も、その後ろにいる。
﹁どこの伯爵様であったかな? いや、失礼、もしかすれば侯爵様
であられましたかな?﹂
ドッと笑う貴族たち。
男爵だとわかっているくせに。
﹁私はたかが田舎領主で男爵にすぎない身。そのような大層な爵位
は戴いてはおりません﹂
﹁なんと、男爵! そのような者が何故ここに!? もしや立派な
血筋なのですか!?﹂
967
大げさな身振りで驚きつつ、また質問する小太りの男。
周りの者たちは、またもドッと笑った。
﹁いえ、北方に領地を買った成りたての貴族でございます﹂
﹁これは、なんと、ははははは!
聞いたか皆の衆! なんとここにおわす男爵様は、元は平民で、
北に領地を買った成りあがり貴族なんだそうだ!﹂
庭園の中、小太りの男は大いに叫んだ。
俺がいかにこの場にふさわしくないかを知らしめるように。
そして次に吐かれたのは叱責の言葉。
﹁何故そんな者がここにいる? 今日は園遊会。貴様のような平民
出の貴族など参加できるわけもなかろう﹂
﹁いえ、それが私にもわかりません﹂
知るか。呼んだ奴に聞け。
﹁わからないわけあるか。大方金を積み、この園遊会に参加させて
くださいと、意地汚くも頭を地面に擦り付けて宰相殿に懇願したの
であろう﹂
逆だ、逆。
俺としては金を払ってでも来たくなかった。
すると、また別の︱︱今度は顔立ちのなかなか整った、これまた
若い男が俺に言う。
968
﹁まあまあ、いいではないか。彼も⋮⋮失礼、名前はなんだったか
な﹂
﹁⋮⋮フジワラです﹂
﹁そう、ウジムシ君﹂
﹃ジ﹄しか合ってないぞ。お前の耳には何が詰まっているんだ。
まあ、めんどくさいので、わざわざ訂正しないが。
﹁ウジムシ男爵が金を積んだとしても、招待されたことには変わり
ない。まあここは、先輩貴族として新人貴族に礼儀を教授してやろ
うじゃないか﹂
﹁おおそれはいい﹂﹁名案だ﹂
貌の良い男の言葉に、下品な笑みを浮かべる面々。いかにも悪だ
くみしてますといった様相である。
﹁ではまずは一献。おい!﹂
顔の良い男が係の者を呼びつけ、互いの杯にワインを注がせる。
﹁では、今日の出会いを祝して﹂
金属製の杯がキンと小気味よい音を鳴らした。
次いで俺は杯を口に付けようとする。
だがそれは、﹁ちょっと待て﹂と目の前の顔の良い男に止められ
た。
969
﹁違う違う、そうやって飲むんじゃない。いいか? 杯は鼻につけ
るんだ。貴族が格式あるパーティーで乾杯する時、ワインは鼻の穴
から飲むのだよ﹂
そう来たか。
明らかな嘘。されど顔の良い男は素知らぬ顔だ。
﹁く、くっ⋮⋮﹂﹁ぷ⋮⋮ぷひっ﹂
他の貴族たちは、必死に笑いをこらている。
笑ったら嘘がバレるとでも?
彼らの中ではどれだけ俺は馬鹿に設定されているのか
なんにせよ、子どものような奴らだ。
そう思いながら、俺は言い返す。
﹁なればお手本を﹂
﹁ふっ、手本を見せてやりたいところだが、それは正しい作法にあ
らず。まずは格下の者から飲むのが絶対のしきたり。
そののちということであれば、いくらでも手本を見せてやろう。
さあ、私もやるのだから、そなたもやりたまえ﹂
これは、あれだ。
俺が仮に鼻でワインを飲んだら、その途端うっそぴょーんとか言
ってしらばっくれる腹積もりだろう。
そして俺が文句を言うと﹃いや失礼、まさか本当にやるとは。流
石は平民出の貴族だ﹄とか言って笑い話にするに違いない。
つまりは、いびり。あまりにも幼稚ないびりだ。
970
とても付き合ってられない。
ということで、俺は、手元の杯に入ったワインをどうしようか考
二、
一、
目の前の男の首根っこを捕まえて、その顔にぶちまける。
口に含んだのち、目の前の男にぶちまける。
目の前の男にぶちまける。
える。
三、
よし三だ、三にしよう。
俺は杯を持っていない方の手で相手の襟首を掴み︱︱と言いたい
ところだが、この選択肢、本気で実行するつもりはないし、俺自身、
実行できるだけの力があるかどうかは怪しいものだ。
ただの戯れ。己を慰める戯れだ。
そもそも、俺は日本の社会を生きてきた男。この程度で怒ってい
たら、派遣社員などできはしない。
結局、俺は何も行動をしないことを選んだのである。
﹁何故やらぬ。まさか、できぬと申すか﹂
﹁ええできません。古今東西そのような風習は聞いたことがござい
ませぬ。もしやあなたは、どこか蛮族の生まれですか﹂
﹁無礼者! 成り上がり者が何様のつもりだ!﹂
怒り。顔の良い男は憤懣やる方なしといった様子だ。
小太りの男を始めとした他の貴族たちも同様。
彼らは俺を同格の貴族とは見ていない。いや、貴族としてすら見
ていないだろう。
そんな者からの侮辱は、とても許せないといったところか。
971
だが俺も言い返す。
彼らがどう思っていようと、俺は貴族なのだから。
﹁無礼なのはどちらですか。ありもしない作法で私を辱めようとし
たくせに﹂
﹁馬鹿を申せ。非才のお前にはわからぬだろうが、これはいわば薬。
今日ここで恥をかけば、それを教訓として、お前は今後、貴族と
しての礼儀作法をよく学ぶようになるだろう。
さあもう一度チャンスをやる。鼻からワインを飲み干せ﹂
もっともなことを言う。
よく、そんなに頭が回るものだと感心してしまう。
﹁生憎と、貴族の作法は既に持ち合わせております﹂
﹁ほう⋮⋮申したな? 吐いた言葉は飲み込めんぞ﹂
貴族社会は根暗だとレイナは言っていた。
新しいものを認めず、古式ばったドライアド貴族なら、それが顕
著であるとも。
だからこそ、今日までみっちり叩き込まれた。
隙を見せないように。
︱︱と、こうして俺はダンスバトルや食事バトルをし、現在はチ
ェスバトルにて二人の相手を破り、新たにローマットなる者が現れ
て冒頭に戻るわけであるが⋮⋮。
最初に言った通り、肝心のローマットは立ちながらに白目を剥い
972
て、ブクブクと口から泡を噴いているのだ。
どうやら彼は、俺をチェスで破るための最終兵器だったようだが、
これではチェスどころではないだろう。
﹁き、貴様っー! 先生に何をした!﹂
横にいた小さな少女が憤る。だが、俺は何もしていない。
﹁いや、何をしたと言われても、こちらが聞きたいくらいなんだが
⋮⋮﹂
﹁そんなわけあるか!
大陸最強の打ち手にして、チェス考案者でもあらせられるローマ
ット先生が、チェスを前にしてこのような醜態を晒すなどありえな
いことだ! お前が何かやったんだろう!﹂
ん? チェスの考案者?
はて、リバーシ同様、チェスを持ってきたのは俺。そして、チェ
スを広めたのは︱︱。
そういえば、もう何年も前にいたな。
俺自身、そこまで思い入れがあるわけではない。面倒は全て狼族
たちが見ていたし、直に話したのは二度か三度か。
リバーシで活躍しているなんて話を、エルザから聞いたことがあ
る。
すっかり忘れていた。
﹁ああ、思い出した。あのローマットか。
覚えてるかな? 俺、フジワラだけど﹂
973
俺は、懐かしい知り合いに会うかのように語りかけた。
しかし︱︱。
﹁ゴフッ!﹂
﹁せ、先生ぇーー!!﹂
吐血⋮⋮はしてないものの、口から何かを吐き出して、ローマッ
トは倒れた。
ええ、どういうことなの⋮⋮。
﹁えっと⋮⋮医者に診てもらった方がいいのでは?﹂
俺が隣の少女に助言する。
すると医務室へ運ぶまでもなく、群衆の中から治癒術が使えると
いう貴族が現れて、ローマットを診察した。
だが、その貴族曰く、なんら異常はみられないとのこと。
﹁よ、妖術だ! この男の妖術で先生は、こんな目に! 先生に勝
てないからとなんと卑怯な男! こうなれば、一番弟子の私がこの
卑怯な妖術使いに勝って先生を救って見せる!﹂
診断結果を聞き、猛り狂う少女。
かくして、俺とローマットの弟子らしい少女とのチェス勝負が始
まった。
◆
虚ろな瞳でローマットは対局する二人を眺めていた。
必死の形相でチェスを打っていたロマンチェ。
974
だが、やがてその目に涙を溜め始めた。
﹁先生⋮⋮必ず、必ず勝って見せますから﹂
不意にロマンチェがこちらを見て、泣きながら微笑んだ。
倒れこんだ状態では盤面は見えない。
しかし、周囲の者の表情を見ればわかる。
敗北は濃厚。
だがそれでもロマンチェはあきらめずに、挑んでいる。
誰のために。
師である己のためだ。
﹃先生、私を弟子にしてください!﹄
ローマットは突として、ロマンチェが己の弟子になった時のこと
を思い出した。
熱のこもった眼だった。昔の自分を見るような懐かしさを感じた。
獣人の町で捕虜であった際に、暇つぶしにと渡されたリバーシ。
簡単だと自惚れ狼族に挑んでみれば、あっさりと負けた。
悔しかった。やることもなかったということもあっただろうが、
ひたすらに没頭した。
食らいつこうと必死になっていたあの時の自分を、ロマンチェに
重ねたのだ。
そんな弟子が必死に戦っているというのに、師匠である己は一体
何をしているのか。
獣人の町の主。
975
何故ここにいるのかはわからない。
彼が、ただ一言、﹁リバーシもチェスもローマットが考案した物
ではない﹂といえば、己の全てが崩れ去る。
もちろんローマットがそれを否定すれば、ここにいる者は皆ロー
マットを信じるだろう。
けれどもそれは、ローマットにはできない。
義理があった。あの町の者たちには。
今、与えられたものは、あの町で与えられたものなのだ。
だがそれでも、ロマンチェを見ていると戦わなければならない気
がした。
ばれてもいい。
ローマットは立ち上がった。
その心にはもはや一点の曇りさえない。
﹁勝てるか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ローマットがロマンチェに問うと、少しの逡巡ののち彼女は力な
く首を振った。
盤上を見れば、戦況は明らかだ。
フジワラ
殿。選手の交代をよろしいか?﹂
ローマットはその決意の瞳を信秀に向けた。
﹁
976
﹁⋮⋮構わないが、このままでか?﹂
﹁左様﹂
敗北は濃厚どころか、確実ともいっていい盤面である。
﹁ば、馬鹿な﹂﹁いくらローマット殿とて不可能だ﹂と、皆はロー
マットの無謀を口にする。
﹁せ、先生⋮⋮?﹂
ロマンチェもまた無理だと判断し、心配するような目でローマッ
トを見つめた。
﹁あとは師匠に任せておけ﹂
ローマットはロマンチェに優しく微笑んだ。
それは母が赤子に対するような、心から安心させる笑みだった。
さて、打ち手が変わるなどという前代未聞の所業。
それを誰も咎めなかったのは、対局者同士の了解があったことと、
絶対不利のこの状況に誰もが奇跡を期待したからだ。
もしかすればローマットならやってくれるのではないか。
そんな奇跡を思わずにはいられなかった。
打ち手が変わり、対局が再開された。
互いに砂時計が落ちるまで時間をいっぱいに使った長考。
吸い込まれるように、観衆は二人の対局を眺めていた。
誰かの息を呑む音が、とてつもなく大きく聞こえる。
異常は音だけではない。
977
一秒が何時間にも感じるような錯覚。
それだけの濃縮した時間を観衆たちも感じていたのだ。
そして︱︱。
﹁ふぅ⋮⋮参りました﹂
その言葉を発したのは、信秀であった。
何が起きたのか。
それをはっきりと理解できる者は、対局者の二人を除いては、そ
の場にいなかったといっていいだろう。
︱︱まさか、ローマットが勝ったのか。
そんな考えが皆の胸に浮かんだが、誰もが依然として夢の中にい
る。
誰もかれも、己の視覚情報が現実でないような気がして、意識は
おぼろげだ。
それゆえ、群衆の中の一人が己の頬をつねった。
﹁い、痛い、夢じゃない﹂
そのどうでもいい言葉は、皆を覚醒させ、現実に引き戻した。
︱︱オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
大地が揺れんばかりの大歓声。
奇跡の所業である。まさに奇跡の所業である。
今この場にいる者は奇跡を目撃したのだ。
﹁ローマット殿がやった! やったんだ!﹂
978
﹁我らは奇跡の目撃者となったのだ!﹂
そして再び起こるのは﹁ローマット!﹂の大合唱。
﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット
!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマ
ット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ロ
ーマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂
﹁ローマット!﹂
嵐のような﹁ローマット!﹂コールが庭園内に、いや庭園を飛び
越え城、さらには城を飛び越え街の方にまで轟いた。
王都の住人たちは今頃何事かと、城を見つめていることだろう。
女王陛下並びに、まだこの場に来ていない上級貴族たちは、あま
りのうるささに不満を感じているかもしれない。
だが、そんなものは関係ない。
今ここに神の奇跡、いや違う。それは神の奇跡などではない。
ローマットが己が弟子のために自らの手でつかんだ、ローマット
自身の奇跡が起きたのだ。
歓声を受けながら、ローマットは静かに目を閉じた。
︵勝った⋮⋮いや、勝てた⋮⋮︶
満足。
満ち足りたものがローマットの中で広がっていた。
思い残すことはない。
979
最高のチェスであった。
懐には愛らしい弟子が、抱きついている。
己の最高を全て出し尽くしたのだ。
だが、彼のこれ以上ない最高の気分を害する者たちがいた。
﹁見たか、成り上がり者め!﹂
﹁調子に乗りおって、これが真の貴族の実力だ!﹂
﹁ローマット!﹂コールが勢いを弱めると共に、次々になじる声が
聞こえたのである。
それは誰をなじる声か?
決まっている、信秀をなじる声だ。
ローマットも元は貴族の出。
貴族社会というものが、いかに陰湿であるかを知っている。
信秀と貴族たち、どちらが悪いのかは簡単に予想がつく。
ローマットが再び目を開けた時、信秀はそれを甘んじて受け止め
ているようだった。
何を弁明しても、負け惜しみにしかならないということをわかっ
ているのだろう。
ならば、ローマットがやるべきことはただ一つ。
﹁待て!﹂
大きさこそ数多の非難の声に足りないものであったが、その声に
は力強さがあった。
それが立ち上がったローマットのものだとわかると、周囲はの者
たちはすぐに静かになり、続く言葉を待った。
980
﹁このフジワラ殿のことは私も知っている。非常に人徳のあるお方
だ。今のチェスについてもそう。見事な打ち筋であった﹂
﹁しかし、こやつは私たちを愚弄し⋮⋮﹂
顔だけは良い男が、ローマットに反論しようとする。
しかし、ローマットの鋭い瞳で射抜かれると、呼吸困難にでも陥
ったかのように、声が出なくなった。
ローマットは大きく息を吸いこみ、そして叫ぶ。
﹁私にとっても大恩のあるお方だ。この方を愚弄する者がいれば、
たとえ天地が許そうとも、この私が許さんッ!﹂
裂帛の気合を秘めた咆哮。
群衆はどよりと波打ち、そののちは林のごとく静寂に包まれる。
その様は、シュン、と意気消沈するようであった。
静まり返った観衆たちをよそに、再び椅子に座るローマット。
頭を一つ下げたのちは、先ほどの気合が嘘のように穏やかな声色
で、ローマットは信秀に話しかけた。
﹁フジワラ殿、お久しぶりです﹂
﹁えっと、ローマット⋮⋮殿ですよね? まさかこんなところで会
うとは﹂
﹁いやあ、先ほどはあまりの驚きで取り乱してしまい申し訳ない。
チェスについても途中から割り込む形になってしまい、本当にすみ
ませんでした﹂
981
﹁いえ、助かりました。なにぶんドライアドにて貴族になったばか
りでしたので、他の方からあまりよく思われておらず︱︱﹂
ローマットと信秀。
二人の会話は、ことのほか弾んだ。
ローマットは、﹃リバーシとチェスを己が考案者だと偽ったこと、
なんとかうやむやにできそうだ﹄と思った。
982
80.園遊会 2︵後書き︶
忙しくて遅くなってしまいました。
983
81.園遊会 3
園遊会の会場、チェス勝負の末に互いに手を取り合う信秀とロー
マット。
信秀を巡る騒ぎも、これで一件落着したのだ。
しかし、これに歯噛みする者がいる。
﹁ぐぬぬぬぬ﹂
木の影からわずかにはみ出る白い髭。
眉を怒らせて、顔中に限りない不満の色を湛えているのは、ドラ
イアド王国宰相イーデンスタムである。
何故、イーデンスタムが悔しそうにしているのか。
今日この日、彼には作戦があった。
それは、信秀をこの園遊会に呼び、他の貴族にいびりにいびらせ、
それをイーデンスタムが助けるというもの。
ドライアド貴族とはどういうものであるかを身に染みて知ってい
るイーデンスタムは、上級貴族の中に金で身分を買った下級貴族を
放り込めば、どんな目に遭うかをよく理解していた。
つまりは、﹃子犬を狼の群れに放り込み救い出すの計﹄である。
他の貴族らにいびられている信秀を助けて恩を売り、さらには女
王に優しい言葉をかけてもらって、信秀を誠心誠意国に仕えさせる
という魂胆。
信秀が犬ではなく猫であることも考えたが、そうであっても三日
は恩義を忘れぬ。
984
その間に、約束を交わせばいい。
言質さえ取ってしまえば、あとはこっちのもの。
︱︱というような計画であったのだが、それは今、もろくも崩れ
去ったのである。
﹁くそ、ポーロ商会め。まさかローマット殿に助けられるとは、憎
々しいほどに運のいい奴らよ﹂
一人悪態をつくイーデンスタム。
そこに、気配を消した密偵長が音もなく近づいた。
﹁イーデンスタム様﹂
﹁どうした﹂
﹁いえ、ポーロ商会の献上品であるジャガイモの調理が完了しまし
た﹂
﹁ふむ、よしいこう﹂
信秀が献上品として持ってきたジャガイモ。
毒などの特色から調理法まで事細かに書かれた紙も一緒に添えら
れていた。
信秀からの献上品が、胡椒という大陸で金塊にも並ぶ価値のある
物でないことにイーデンスタムは憤慨したが、あくまでも献上品で
あるために文句をつけることはできない。
イーデンスタムと密偵長が揃って城の調理場へと足を踏み入れる。
もわっとした熱気と、飛び交う荒々しい声。
985
湯気が立ち込める調理場では、火の魔法を使う料理人たちが会食
用の料理作りに忙しくしていた。
そこに踏み込んでいく、邪魔者以外の何者でもないイーデンスタ
ムと密偵長。
職人気質の料理人たちは二人を見て不快な顔をした。
調理場の端には、料理人たちが賄いを食べるための机椅子が置か
れ、そこに茹で上がったジャガイモが置いてある。
イーデンスタムが前もってつくるよう命令していたものだ。
密偵長の報告より、時間はそれなりに経っているが、中に温度を
閉じ込める性質でもあるのか、ジャガイモはモクモクとした湯気を
放っている。
イーデンスタムはジャガイモを前にして席に着いた。
その斜め後ろに密偵長が控える。
﹁密偵長、お主は食べたのか﹂
﹁あ、い、いえ﹂
イーデンスタムの質問に口ごもった密偵長。
前回のことを考えれば、真っ先に毒見しなければならないのであ
るが、密偵長自身も食あたりを起こして苦しんだ当事者である。
要するにしり込みしていたのだ、密偵長は。
もっとも他の者にはしっかりと毒見をさせていたので、特に問題
はないのであるが。
﹁ふん、意気地のない奴め﹂
986
イーデンスタムも狭量ではないため、密偵長に対してはその一言
に留めた。
次いで、一口サイズに切られた茹でジャガを口に入れ、もぐもぐ
と咀嚼する。
そこに恐れなど微塵も感じさせないのは、老い先短い老齢である
ためか。
口の中のジャガイモは音を立てて食道を通り、胃へと向かった。
﹁⋮⋮確かにうまい。胡椒だけではない。やはりこのジャガイモも
国には必要なものだ﹂
密偵長の報告を思い出せば、生産性の高さが売りとのこと。
それがこの美味さなのであるから、内心で算盤をはじいてしまう
のも仕方のないことであった。
ふむ、とイーデンスタムは押し黙り、白髭を撫でる。
その間、およそ一分。
やがて我が意を得たりと、その口端を吊り上げた。
﹁いい案が浮かんだぞ。今日の目玉としてこのジャガイモ料理を出
す。宴の席で女王陛下にもご賞味してもらい、そのうえで女王陛下
の口からフジワラとやらに協力を取り付けるのだ﹂
女王の協力要請を信秀は断ることはできない、とイーデンスタム
は考えた。
仮にも信秀はドライアド王国の貴族。
他国の人間だというのならともかくも、断れば他の貴族からの非
難は免れない。
成り上がりの貴族という立場がそうさせるのだ。
987
﹁正攻法。女王陛下の威光をもってただ言質を取らせるのみ﹂
新たな方針は決まった。
あとは実行するのみである。
◆
あっという間に会食の時間となった。
敵しかいないこの場において、俺はローマットを救いの蜘蛛の糸
として時間を潰していた。
なお、﹁リバーシ﹂と﹁チェス﹂という言葉を俺が口にすると、
彼は何かを恐れるようにビクッと肩を震わせる。何故だろうか。
白い幕で覆われた会食場に移動する。
椅子と机が並べられ、あとは料理さえあれば、すぐにでも食事が
できる状況だ。
会食の席についてもローマットの隣を陣取ろうとしたのだが、こ
れはローマットの弟子のロマンチェに阻まれて、俺とローマットの
間にはロマンチェが座ることになった。
彼女が敬愛するローマット。
それを俺が独占していたための嫉妬心というやつだろう。
彼女の俺に対する心証は、あまりよくなさそうだ。
俺を含めた貴族たちが着席すると、今日呼ばれた中でも高い爵位
を持つ者や他国からの賓客が続々と来場する。
やがて全員が席に着けば、最後に参上するのはこの国で誰よりも
偉い人間だ。
﹁女王陛下のおなーりー!﹂
988
地面に真っ赤な絨毯が引かれ、その上を従者を引き連れて、白い
清楚なドレスに身を包んだ女王陛下が歩く。
俺は目を奪われた。
それほどまでに初めて見る女王陛下はとても美しかった。
日本において、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、な
んて言葉があったが、まさにその通り。
その場限りの気分ではない。
時代にも個人の好みにも左右されない、花のような不変の美しさ
がある。
﹁皆様、今日はよくお越しになられました。大層なもてなしはでき
ませんが、楽しんでいってください﹂
女王陛下のとても簡単な挨拶。
続いて国賓たちが紹介され、一人ひとり立ち上がり、女王陛下と
来場した貴族たちに一言ずつ挨拶していく。
国賓となれば俺の隣⋮⋮には弟子のロマンチェがいるので、その
さらに隣に座るローマットもまた紹介される。
本来、賓客席に座るところを、わざわざ無理を言って一般席にし
てもらったローマット。
いい奴だと思う。
昔の記憶を探れば、怯えていた様子しか思い出せないのだが。
ローマットが立ち上がり、挨拶を述べる。
すると︱︱。
989
﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット!﹂﹁ローマット
!﹂
またかと思った。正直もういいよ、とも。
謎の﹁ローマット!﹂コール。
頭がどうかになってしまったかのように皆は熱狂している。
ぐるりと見渡せば、この国の白髭が特徴的な宰相も﹁ローマット
! ローマット!﹂と叫んでいる。
もはや何かの宗教か。
もちろん俺はしていない。
ローマットは慣れたもので、立ったまま皆に手を振っている。
これは彼にとって普通のことなのだろうか。
﹁ローマットッッ!! ローマットッッ!!﹂
というか俺の隣のロマンチェが気合い入りまくっていて、物凄く
うるさい。
勘弁してくれ。
呆れたようにまた視線をさ迷わせると、女王陛下に目が留まった。
どうやら彼女もポカンと呆れているようだ。
結構、話が合うかもしれない。
ローマットが座ると、ようやく場が収まった。
ちょっとした嫌味も込めて﹁たいした人気だ﹂とローマットを褒
めてみる。
﹁いやあ、えへへ﹂と照れるローマット。
﹁当然です!﹂とロマンチェが我がことのように誇らしくする。
全く、いいコンビだ。
990
食事が運ばれてくる。
食前には皆等しくラシアの神に祈りを捧げ、会食が始まった。
特に何か起こることもなくフルコースメニューを味わい、食事が
終わればお色直しのあと、小さな演劇が催される。
その次にはまた休憩が入り、今度は女王陛下も同席する立食ダン
スパーティー。
女王のみが席につき、他の者は語らいつつ、ダンスや酒食に興じ
る。
飲む食う踊るが貴族の仕事とはよく言ったものだ。
991
81.園遊会 3︵後書き︶
園遊会は次回で終わりです
992
82.園遊会 4
イーデンスタムが玉座に座り会場を眺める女王オリヴィアの傍に
寄った。
しかし、これにいい顔をする者はいない。
イーデンスタムという男は、ドライアド貴族にとって目の上のた
ん瘤である。
普段、オリヴィアに近づこうと思う時、イーデンスタムがいつも
邪魔をする。
政務においても実権を握っているのはイーデンスタム。
まさに、表に出ることのない女王オリヴィアの寵愛を一身に受け
ているのがイーデンスタムといってよかった。
イーデンスタムの口からオリヴィアの耳に、ぼそりと優しく言葉
が囁かれる。
不敬とも思われるかもしれないが、そういった些細な指摘はこれ
までに貴族たちによって何度も行われて、既に決着がついている。
﹁陛下、今日は大変珍しい献上品が届きましてな。それを皆々様に
披露したいのですが、いかがでしょうか﹂
﹁それはなんですか﹂
﹁はい、ジャガイモというものです﹂
オリヴィアは﹁まあ﹂と微笑した。
花が開いたような表情である。
993
しかしイーデンスタムは、あれ? と不思議そうな顔をした。
オリヴィアはまるでジャガイモというものを知っているような、
そんな風に見受けられたのだ。
﹁こほん、いえ、そのえっと、ジャガイモでしたか。そうですね、
せっかくの献上品ですから皆にも味わってもらいましょう﹂
﹁はっ、わかりました。ですが、もう一つ、陛下にお願いがあるの
です﹂
まあ、気のせいかと思い直し、イーデンスタムは話を続ける。
﹁それは、なんですか?﹂
﹁それはですね︱︱﹂
イーデンスタムは己のたくらみを説明する。
それに対し、気が進まない表情を浮かべるオリヴィアであったが、
なんとか了解を得ると、イーデンスタムは調理場へと向かった。
ややあって茹で上がったジャガイモが会場に運ばれる。
﹁おや?﹂
﹁なんだ、あの料理は﹂
茹でただけの単純な料理であることが、逆に皆の興味を引いた。
見たこともない作物であると、一目で看破したのである。
﹁さあ、皆々様! ただ今出された料理は、ある者が今日の贈り物
として献上したものである!
994
まずは女王陛下、ご賞味あれ!﹂
イーデンスタムの声が会場内に響き、皆の視線は目の前のジャガ
イモからオリヴィアへと移った。
﹁では、いただきますね﹂
日光を照らし返す細く白い指。
その指先でオリヴィアは手慣れたようにジャガイモを摘みあげ、
口へと運ぶ。
その挙動は美しく、皆が見惚れていた。
﹁まあおいしい﹂
浮かべたのはコロコロとした笑顔。
穢れを知らず、純粋極まりない。
まるで子供のようだ、と見る者は感じた。
だが女王は子供ではない。成人した女性であるからこそ、この場
にいる男たちは、胸が締め付けられるようななんともいえぬ心地と
なった。
﹁では、皆様方もご賞味あれ!﹂
先ほどのオリヴィアの鈴が鳴るような声とは打って変わって、イ
ーデンスタムの口から出たのは老人特有のしゃがれた声である。
女王陛下の穢れなき美しさに浸っていた皆々は一様に顔をしかめ
つつ、手元のジャガイモに手を付けた。
途端、八の字であった眉は、大きく開かれることになる。
﹁おお、これはなかなか﹂
995
﹁うむ、悪くないな。他の料理にも合うんじゃないか? パンで挟
んでもよさそうだし、肉の添え物としてもよさそうだ﹂
﹁シチューに入れてもいいぞ。うむ、悪くない﹂
手放しに褒めることはなかったのは、自尊心の高い貴族という種
ゆえ。
だが、いずれも食通をきどる者たちばかりであり、価値がわから
ないということもなく、概ねは好評といってよかった。
﹁この作物の名前はジャガイモ! 北の寒く痩せた地にあっても高
い生産力を誇る新種の作物である!﹂
イーデンスタムが高らかに叫ぶと、会場内にどよめきが走った。
その発言を聞く限り、おそらくは北の地で新たに発見されたのだ
ろうと思われる。
大陸の食糧事情が大きく変わるかもしれないのだ。
しかし献上品とのこと。
どこの誰がこれを、という疑問が湧く。
﹁フジワラ殿﹂
イーデンスタムが言った。
誰だろうか、と皆がイーデンスタムの視線を追う。
ある顔だけはいい貴族もその一人。
﹃はて、そんな奴がいたかな﹄と思いつつ、皆と同じ方へと視線を
向けた。
するとそこにいたのは、先ほど皆で侮辱し、己に至っては﹃ウジ
ムシ﹄などと呼んだ男である。
996
会場にいる者の視線が信秀に集中すると、イーデンスタムがもう
一度その名を呼んだ。
﹁フジワラ男爵、女王陛下の前へ﹂
信秀の顔にはためらいが見られたが、それも一瞬。
さざめきと数多の瞳に見つめられる中、オリヴィアの前へと歩を
進める。
信秀がオリヴィアに跪いた時、辺りはもう静まり返っていた。
﹁フジワラ⋮⋮男爵﹂
﹁はっ﹂
オリヴィアが信秀の名を口にした。
その声に、どこか釈然としないぎこちなさを感じたのは、一人二
人ではない。
﹃まさか、陛下があの男に好意を持った?﹄などと下世話な考えを
持つ者もいたが、信秀の後ろ姿からその冴えない面を思い出し、﹃
ないない﹄と首を振った。
オリヴィアは、こほんと仕切りなおすように小さな咳をして、言
葉を紡ぐ。
﹁とても素晴らしいものですね、このジャガイモというものは﹂
﹁はっ、お褒めに授かり光栄でございます﹂
﹁その、とても言いにくいことなんですが⋮⋮﹂
997
﹁なんなりとおっしゃってください。私は女王陛下の臣下でござい
ます﹂
﹁⋮⋮そうですか、わかりました。このジャガイモというものを我
が領でも育てるために、分けていただきたいのです﹂
とてもすまなそうに、オリヴィアは言った。
信秀とオリヴィアのやり取りを、少し下がった位置で見つめてい
るイーデンスタム。
その時イーデンスタムは、ククク⋮⋮と笑みを浮かべていた。
他の者が見れば、何を企んでいるこの乱心者め! と罵られてし
まいそうな邪悪な笑みである。
しかし、皆の意識は女王と信秀のやり取りに向いているため、残
念ながらそのような事態には発展しない。
︵さあどうするポーロ商会!︶
心の内、信秀に向けて敵対心を剥きだすように、イーデンスタム
は叫んだ。
勝ち誇った感情の裏には、絶対の自信がある。
己が計略には、最適な時と場所と人が揃っている。
穴はない。
︵フジワラはまずは断るだろう、だが、そこを叩く︶
イーデンスタムは信秀の口元をじっと見ていた。
998
﹃すみませんが︱︱﹄﹃申し訳ありませんが︱︱﹄
そんな言葉を口にする信秀の姿が脳裏に浮かぶ。
言った瞬間に、﹃貴様! 女王陛下の頼みを無碍にするつもりか
!﹄と怒鳴り散らすのだ。
信秀を快く思わぬ者は多い。
成り上がり貴族である信秀と、正統な貴族たちの間にある溝。
先ほどローマットの言葉によって、落着したかに見えた一件では
あったが、実際のところ納得した者はおらず、多くの貴族の鬱憤を
溜めることになったであろう。
そうでなくとも新作物を一領主が独占することは、看過できない
ことである。
多くの貴族が己に賛同するはずだ、とイーデンスタムは思った。
︵さあ言え、早く言え!︶
イーデンスタムの心の声に呼応するかのように、信秀が口を開く。
肺から喉を通った空気が声帯を震わせて、信秀の口から音となっ
て出た瞬間、イーデンスタムもまた叱責の声を上げるために大きく
息を吸い込んだ。
そして︱︱。
﹁ええ、わかりました。ジャガイモを分けましょう﹂
﹁ごふう!﹂
信秀の思いもよらぬ言葉に、イーデンスタムは口の中で空気を爆
999
発させて、わけのわからない言葉を発した。
それにより、なんだなんだ? と会場中の視線がイーデンスタム
の方へ向く。
﹁い、いや、とんだ粗相を、申し訳ありませぬ﹂
イーデンスタムは恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、その胸中
は混乱でいっぱいだった。
︵今、なんと言ったこの男は!? ﹃わかりました﹄と了承したの
か、この男はッ!!︶
わけがわからない。
そんな容易く了承するなど、商人の手先がやることではない。
いや商人が関わっていなくとも変わらない。
領主にとって、己が領地の富を減らすことは愚にもつかぬ行いな
のだ。
そう思ったのはイーデンスタムだけではなかったのだろう。
計画を知っていたオリヴィアが、確認のために聞き返した。
﹁申し訳ありません。もう一度よろしいですか?﹂
﹁はい、ジャガイモを提供しましょう。もちろん無償で﹂
再び信秀の口から放たれた了承の言葉。
イーデンスタムは、再び驚くが、今度は流石に大きく取り乱さな
かった。
さらには、﹃いや、これでいいのだ﹄と思い直す。
1000
過程は違ったが、結果は同じ。
自ずから国に尽くしてくれるのならば何も言うことはないのだ。
むしろ、信秀のことを﹃国に忠義を尽くす義臣であったか﹄とイ
ーデンスタムは思い、見誤っていたと心の中で謝罪までした。
しかし話はこれで終わらない。
オリヴィアの謝礼を受けてその場を辞した信秀。
そこに声をかけたのは、イゴール帝国から来た高級貴族。
﹁ジャガイモとやら、我が国にももらえないだろうか﹂
何を馬鹿な、とイーデンスタムは思った。
そんなことを了承するわけがなかろうとせせら笑いつつ、イゴー
ル帝国の貴族も本気ではなく戯れのつもりであると思い至った。
だがこの考えは大いに外れることになる。
﹁ええ、いいですよ﹂
なんと信秀は、了承したのだ。
これにはイーデンスタムはおろか、ジャガイモを欲しいといった
本人であるイゴール帝国貴族も泡を食った顔をした。
とはいえ、確かなことは信秀がイゴール帝国の貴族にジャガイモ
を提供すると約束したこと。
なれば、他の国の者たちも放って置くわけがない。
﹁な、ならば我が国にも﹂
﹁わかりました﹂
﹁で、では我が国にも﹂
1001
﹁いいでしょう﹂
ジャガイモを分けてほしいと要請する各国からの賓客らに対し、
ねじが外れたように頷き続ける信秀。
まさにジャガイモのバーゲンセール。
このままでは、ジャガイモの価値がどんどんとなくなってしまう
だろう。
当然、その恩恵に預かろうとしていたイーデンスタムは、驚愕し
憤慨した。
﹁な、ななな、何を貴様勝手に我が国の作物を⋮⋮!﹂
しかしイーデンスタムの声は届かない。
信秀のもとに各国からの賓客以外にもドライアド貴族までもが殺
到していたためだ。
皆が信秀のもつジャガイモを望んだのである。
どのみち、イーデンスタムがここで何か行動を起こしても、もは
やどうにもならなかった。
他国の者との約束を一方的な都合で反故にするには、園遊会とい
う場は格式が高すぎる。
こうしてイーデンスタムの計画は、ある意味で成功したものの、
ある意味では失敗する結果となった。
ところで、皆がジャガイモを望んだということは、顔だけはいい
貴族もジャガイモを望んだうちの一人であるということだ。
顔だけはいい貴族は、恥知らずにも集団に紛れて信秀に言う。
1002
﹁な、ならば我が領地にもジャガイモを⋮⋮﹂
だが︱︱。
﹁あ、それは駄目です﹂
﹁え?﹂
信秀から発せられた、まさかの答えである。
顔だけはいい貴族は間抜けな声を呟き、そのまま口を開けて数秒
固まった。
﹁いや、だからあなたにはジャガイモを分けません﹂
﹁そんな! き、貴様! 他の者にはジャガイモを与えているくせ
に、私にだけ与えないなど、そのような依怙の所業が許されるわけ
あるか!﹂
必死である。
なにせこの顔だけはいい貴族、実のところフジワラ領のすぐ南に
位置する領主の嫡男で、名をテディ・エルナンデルと言う。
当主の体の調子が悪く、今日はその代理での参加であった。
彼が住む土地はフジワラ領よりはマシとはいえ、寒く厳しい地。
つまりジャガイモは、テディの領地において宝となり得るものだ
ったのだ。
そのため、今日他の領地の者がジャガイモを得て、己が得られな
ければどうなるか。
その責任は重く、次期当主の座を追われかねないこと必至である。
1003
﹁ふざけるな!﹂と口汚く罵るテディ。
これに追従するのは、テディ同様信秀を馬鹿にしていた者たち。
ジャガイモが欲しくはあったが、自身の行いを顧みて信秀に頼む
ことができなかったのだ。
そのため、テディの悶着はちょうどいい契機であった。
皆で一丸となり、駄々をこねてジャガイモを勝ち取ろうという腹
である。
﹁ふう、わかりました、一つ条件を付けましょう﹂
やがて信秀は、やれやれと仕方なさそうに言った。
これに対し文句を言っていた者たちは、ほっと一息つくような心
地である。
かめ
しかしテディは、信秀の瞳の奥にある愉悦の色を見て、いやな予
感をせずにはいられなかった。
そしてその予想は的中する。
信秀は机の上にあったワインの入った瓶を手に取り、空の杯にワ
インを注いだ。
﹁さあどなたからでもどうぞ。鼻から一気にお飲みください。あな
た方が言っていた貴族の作法を見せていただけたのなら、私もジャ
ガイモを譲りましょう﹂
藤原信秀という男。
他の貴族たちに負けず劣らずの狭量な部分があった。
1004
82.園遊会 4︵後書き︶
これで園遊会は終わりです
1005
83.ジャガイモについてと山田薫子
園遊会が終わり、今日はその翌日。
宿を引き払い、ローマットとも別れを済ませ、現在の俺は馬車で
王都を出ていくところである。
園遊会について振り返ってみれば、色々と不愉快なこともあった
が、終わりよければ全てよし。
鼻でワインの一気飲みという面白い余興も見れたことだし、俺の
心はとても晴れやかだ。
ジャガイモについても既に話をつけてある。
ジャガイモの受け取りのため、各国、各領は俺の領に人を寄越す
ようだ。
思えば女王の突然のジャガイモの供出要請には少し悩まされた。
しかし考えてみれば、特に何の問題もない。
というのも、あくまでも俺の金儲けの主力は胡椒。
ジャガイモで領地の発展をと考えていたのは事実だが、これはジ
ャガイモをつくり、他国に売りつけるということではない。
ジャガイモは領内の食を潤す手段にすぎないのだ。
そもそも、献上品としてジャガイモを贈ったことは、ジャガイモ
という新作物が有名になるきっかけにでもなればと思ってのこと。
ジャガイモというものが広まれば、必然的に俺の領地のことも知
れる。
ジャガイモの産地として有名になる。
1006
信用が生まれるのだ。
貧困者たちに募集をかければ、やって来るくらいにはなるだろう。
人口一万人も容易いことだ。
それにジャガイモを多量に配るつもりもない。
いや、相応の量を渡すつもりではあるが、それが多量であるかと
聞かれれば、その答えは様々な観点により変わるものだと言わざる
を得ない。
たとえば今回約束したのは、馬車一台分のジャガイモ。
これは個人の観点から見れば多量であるが、一領地、一国家の規
模で見ると微々たるものでしかないのだ。
ジャガイモの生産性は高い。
しかし渡す量を限定すれば、そのジャガイモが領や国の食糧基盤
をつくるまで、どうしたって数年はかかるだろう。
すなわち、ジャガイモの一大産地の肩書は、数年の間は我がフジ
ワラ領が独占することとなる。
なお、もしも各国、各領にジャガイモを渡さなかったらどうなる
か。
ジャガイモは俺の領内で出回るのだから、どのみちなんらかの手
段で得ようとするはずだ。
それを留めることは難しい。
つまりは、ここでジャガイモを渡しても結局は早いか遅いかの違
い。
ジャガイモの強奪などを始めとする一連の面倒を背負い込むより
は、自ら一定の量のジャガイモを渡し、相手の出方をある程度制御
をした方がいいと考えたのだ。
︱︱なんて。
1007
俺はこの先の展望について考えつつ、馬車に揺られながら、小窓
より外を眺めていた。
外は大通り。馬車をよけるために、道の端にはより多くの人々が
密集している。
その時であった。
﹁あの、待って! 待ってください!﹂
どこからか聞こえた女性の声。
こちらに向けた声のように思えたが、貴族の馬車に声をかける者
などいない。
それゆえ、俺に向けてのものではないと判断した。
しかし、次に聞こえた言葉が俺の心を大きく揺り動かす。
﹁日本人ですか!﹂
﹁馬車を停めろっ!﹂
気がつけば叫んでいた。
確かに日本人という言葉が聞こえたのだ。
別に緊張をする場面でもないのに、心臓の鼓動がやけにうるさか
った。
小窓より、行きかう人々の中から声の主を探す。
︱︱いた。
海から顔を出した岩のように、人という波の中にあって一人立ち
止まっている黒い髪の女性。
こちらをじっと見つめるその瞳には、どこか緊張と怯えが混じっ
たような色が見える。
1008
さて、どうするか。
今までに出会った日本人といえば、佐野という男のみ。
喋る言葉は軽薄で、信用に足りず、どちらかといえばいい印象と
は言えない。
あの時は敵と味方の立場であり、結局彼のことを深く知ることは
できなかった。
馬車を停めてからの女性は、こちらの態度を窺うようにその場か
ら動かないし、声も上げない。
この国において俺は貴族。
下手なことはせず、何かあれば彼女は人ごみに紛れて逃げるつも
りなのだ。
﹁その通りだ!﹂
遅ればせながら、俺は大きな声で返事をした。
日本人ですか、という問いに対して、それを認める答え。
行きかう人々の視線がこちらに集まるが、それも一瞬。
忙しない人々からしてみれば、俺の声などけつまずいた石ころほ
どの価値しかない。
だが彼女は違う。
ほっとしたような表情を浮かべると、人の波をかき分け、馬車に
向かって歩いてくる。
だから俺も馬車から降りて、彼女を迎えた。
﹁君は?﹂
﹁わ、私、山田薫子っていいます﹂
1009
狼族の護衛が人の波を避けるためにつくった空間、その中で彼女
︱︱山田さんがペコリと頭を下げる。
名前を聞かなくても、日本人だとわかった。
その容貌は確かに日本人らしいものだ。
︱︱日本人。
佐野と会ったのは戦時の最中であり、事態があまりにも急であっ
た。
だが、こうして気持ちの余裕がある中で、同郷の者に相対すれば、
とても懐かしい感じがした。
﹁俺は藤原信秀。とりあえず場所を変えようか﹂
今日はもう一泊かな。
そんなことを考えつつ、山田さんを馬車に乗せた。
新たにとった高級宿の一室。
そこで俺と山田さんは向かい合って椅子に座っている。
ちなみに、ここに来る途中、大通りで俺を見つけたのは偶然かど
うかを山田さんに聞いた。
山田さん曰く、彼女が面倒を見ていた子どもが、貴族から果物を
貰ったそうだ。
まあ貴族というのは俺のことなのだが、その際に山田さんは俺の
髪色や顔の雰囲気が自分に似ているという報告を子どもから受けた。
それで俺が日本人ではないかと思い、園遊会が終わった時を見計
らって大通りでずっと張っていたのだという。
1010
なお、俺がかつて神様の前で土下座して笑われていた男であるこ
とは、山田さんの記憶にはないようである。
﹁改めて自己紹介するよ、俺は藤原信秀。もちろん日本人だ。この
国では一応貴族で、男爵の位を戴いている。北方には俺の領地もあ
る﹂
﹁ふ、藤原⋮⋮様﹂
﹁﹃様﹄はいらない、と言いたいところだけど、立場があるか。ま
あ、今みたいな表立った場所でないなら﹃様﹄はいらないよ﹂
﹁わ、わかりました。ふ、藤原さんと呼ばせていただきます。それ
で、その⋮⋮そちらの方々は⋮⋮﹂
﹁俺の護衛だけど、日本のことを話してもなんの支障もないから、
大丈夫﹂
緊張しているのは、俺が貴族であるためか、それとも日本人であ
るためか。
それにしても、いざ同郷の者に会ったとして、何を話せばいいの
かわからないな。
この世界に来た当初は、同郷の者の行く末に対し心配もした。
だが、この世界にどっぷりとつかってしまった今となっては、そ
こまで強い感情はない。
身を案じる気持ちはあるが、たとえば狼族と同郷の者を天秤にか
けた時、俺は迷わず狼族を選ぶだろう。
同郷の者たちにも、それぞれこの世界で大切な者ができたはずだ。
1011
八年という期間はそれほど長い。
﹁今日まで、どうしていたのかな﹂
わずかの沈黙に耐えられず発した、俺の言葉。
口にしてから、しまったと思った。
彼女の恰好を見れば、その苦労がわかる。
服こそきれいなものだが、靴は修繕に次ぐ修繕がなされており、
ボロボロだ。
おそらく服も、俺に会うために一番いいものを着てきたのだろう。
また、彼女が面倒を見ていると言った子ども。つまり俺が果物を
渡した子どものことであるが、お世辞にも満足な身なりであるとは
言えなかった。
彼女が大変だったのは聞くまでもないこと。
それをわざわざ尋ねるのは傷をえぐるような行為。
加えて俺は貴族という立場なのだ。
彼女が俺を見た時、恵まれていると考えるのが普通。いや実際、
恵まれているのだが。
いだ
そんな者からの苦しい現状を問うような言葉は、彼女の胸に俺に
対する悪感情を抱かせても不思議ではない。
すると目の前にいる彼女は、ぽろぽろと涙を流していた。
これが俺の杞憂に対する答え。
しかし、その表情からは俺に対する嫌悪の色は見られない。
﹁す、すみません⋮⋮でも、でも!﹂
1012
彼女は泣きながら身の上を語った。
︻水の魔法の才︼のカードを引いたこと。
その力を利用して、水屋になったこと。
誰にも頼ることはできず、ただ一人、多くの孤児を養い、これま
で生きてきたこと。
彼女は言う。
寂しかった、心細かったと。
逃げ出そうとも思ったと。
自分はたかが高校生だと、子どもたちを養うなんていう、そんな
大層な責任は負えないと。
でも自分がいなくなったら、あの子たちはどうなるのかと。
誰かに聞いてほしかったと。
この苦しみをわかる人に。同じ日本人に。
様々な葛藤が渦巻いた彼女の言葉は、真に迫っていた。
目を閉じれば彼女のこれまでの苦労が瞼に浮かぶようだった。
もし俺と彼女の立場が逆だったのなら、俺は今日まで彼女のよう
に強く生きてこられただろうか。
俺は唇を噛み、舌の先に鉄の味を感じていた。
﹁よくがんばったね。山田さんは偉いよ、多くの子どもたちを救っ
た。君だからできたことだと思う﹂
話が終わった時、俺は彼女を優しく褒めた。
彼女の行動はとても尊いものだ。
誰もができることではない。
1013
たとえ日本人の道徳を持っていたとしても。
だから、日本人の俺が褒めるべきだと思った。
﹁あ⋮⋮ああ⋮⋮っ!﹂
彼女は下を向いて泣き崩れた。
声を押し殺すようにしていたが、それがかなうはずもない。
彼女はこれまでたった一人でたくさんのものを背負ってきた。
泣くこともできず、頑張ってきたのだ。
俺はひたすら泣き続ける彼女にずっと眺めていた。
部屋から出ていくことも考えたが、それは何か違うような気がし
た。
俺という日本人がいたからこそ、彼女は今泣いているのだから。
ややあって山田さんの泣き声が大分小さくなった頃、﹁これを﹂
とハンカチを差し出した。
彼女が涙を拭いて、顔をこちらに向ける。
その鼻は赤い。
﹁あ、ありがとうございます。すいません、お見苦しいところをお
見せして﹂
﹁気にもしてないよ﹂
﹁あの、ハンカチは⋮⋮﹂
﹁君にあげよう﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
1014
﹁君の話を聞かせてもらったあとで悪いんだが、俺のことは能力に
ついても含めてあまり喋ることができないんだ。⋮⋮すまない﹂
俺は、椅子に座ったまま頭を下げる。
適当に話をでっちあげることもできるが、それはふさわしくよう
に感じた。
﹁い、いえ、いいんです、私が勝手に話したことですから。だから、
頭を上げてください!﹂
彼女の優しい言葉に頭を上げて、俺は﹁ありがとう﹂とお礼を言
い、話を続ける。
﹁他の日本人について知っているか?﹂
﹁いえ。でも、日本語で書かれた布が貼られていたことは知ってい
ます。﹃この文字が読める者はヨウジュ帝国のヴァッサーリ領に来
るように﹄と書かれてありました。﹃もしも事情があって来ること
ができないなら、ピッツーグ通りのエンジ食堂の横の小道にあるト
ット酒場の店主に相談しろ﹄とも﹂
初耳だった。
ヨウジュ帝国のヴァッサーリ領。そこに日本人がいるのだろう。
高い地位についているか、もしくは領主自身が日本人か。
あり得る話だ。
︻領主になる︼というカードの存在を俺は知っている。
もっとも、どのように領主になったのかは知らないが。
1015
催眠術に掛けられたかのように、周りがその日本人を領主である
と誤認しているのかもしれないし、領主に生まれ変わったというこ
とも考えられる。
﹁それで山田さんはどうしたんだ﹂
﹁もちろん行きませんでした。私には養わなければならない子たち
がいるので、そんな遠くに行く余裕はありません。トット酒場も、
あの辺りはあまりいい雰囲気じゃないので、怖くて近づけません﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
返事をしつつ考える。
権力を持つ日本人。
日本人を集めているということは、どういうことか。
同じ日本人を助けたいという善意からか、もしかすれば領地発展
のためにという打算もあるかもしれない。
だが、善意であれ打算であれ、それだけ多くの日本人を救ってい
るという事実には変わりない。
俺にはできなかったことだ。
なんにせよ、ポーロ商会に一度ヴァッサーリ領について調べても
らった方がいいだろう。
そういえば、値段の高い羊皮紙から値段の安い植物紙に変わった
のも、最近のことだという話だ。
もしかしたら植物紙について日本人が⋮⋮ヴァッサーリ領が関わ
っているのかもしれない。
﹁山田さん。面倒を見ている子たちも連れてうちの領地に来るか?
特別扱いはできないが、衣食住は保証できるけど﹂
1016
狼族が住む町に住んでもらって、日本語の教師になってもらうと
いう案もある。
だがとりあえずは、人間の村で暮らしてもらって、彼女の人とな
りをよく観察しなければならないだろう。
すると山田さんは少し考えた様子を見せてから首を振った。
﹁そういうのじゃないんです。ただ、日本人に会いたかった。それ
だけなんです﹂
憑き物が落ちたように、どこまでも澄んだ瞳で彼女は言った。
ああ、そうか。
彼女はまだ日本を捨てきれていないんだな、と俺は思った。
それでも彼女は頑張っている。この世界で、こんなにも立派に。
﹁わかった。ちょっと待っていて﹂
俺は狼族の一人に、レイナから金を貰ってくるように言う。
しばらくして、金貨の詰まった小袋が手元にやってきて、それを
山田さんに差し出した。
﹁せめてこれを貰ってくれ。情報料とでも思ってくれたらいい。俺
のことはあまり話せなかったしね。それに住所を教えてくれたら、
付き合いのある商会の人間に時々様子を見に行ってもらうことにす
るよ﹂
﹁ありがとうございます⋮⋮!﹂
﹁それからこれも﹂
1017
俺は少し大きめの布袋を差し出した。
﹁これは⋮⋮本ですか?﹂
﹁ああ、子どもたちの勉強にも役立つだろう﹂
そう、布袋の中身は村の人間たちの識字率向上のために買った、
オリーブオリーブの婚約破棄シリーズだ。
本の値段は、植物紙のおかげで安くなっているとはいえ、まだま
だ高い。
文字の勉強になることもそうだが、何かあった時に売り払えばそ
れなりの金になるはずだ。
山田さんは本の入った布袋を受け取ると、中から本を取り出して
その表紙を見た。
﹁⋮⋮こういうのが好きなんですか?﹂
﹁あ、いや⋮⋮﹂
俺は少し恥ずかしくなって、言葉が出なくなった。
なにせタイトルがタイトルだ。
女性向けであるオリーブオリーブの作品は、タイトルだけを見れ
ば、男性にとってのハーレム小説のようなものだろう。
別に、ハーレム物が嫌いというわけではない。
しかし﹁俺はハーレム小説が大好きです﹂なんて公言することは、
なかなかに憚られることである。
﹁ま、まあ、読んでみたら結構面白かったよ﹂
観念したように俺は白状する。
1018
読んでみれば、意外や意外、男の俺でも面白く思えたことは確か
だ。
終始コメディ調で、というか完全なコメディ作品だった。
﹁そうなんですか﹂
山田さんがくすりと笑う。
今日、彼女が初めて見せた笑顔。
不思議なことであるが、俺の目にはセーラー服を着た女子高校生
が笑っているように見えた。
1019
84.町から国へ、マッチから電化製品へ 1︵地図あり︶︵前
書き︶
説明回です。
1020
84.町から国へ、マッチから電化製品へ 1︵地図あり︶
︱︱忙しい。
だがこの忙しさこそ、平和である証拠だったのではないだろうか、
と俺はのちに思うことになる。
園遊会も終わり、王都からフジワラ領へと帰ってきた。
とりあえず二日ほどは休憩をしようと本拠地の町へと戻り、ジハ
ル族長から﹁異常なし﹂との報告を受けると、あとはカトリーヌと
一緒に過ごした。
︻D型倉庫︼の中、カトリーヌとサッカーボールで共に遊び、大型
の︻テレビジョン︼を設置して共に映画を鑑賞し、夜になれば寝床
を隣にして共に眠る。
穏やかで、安らぎのある時間。
いつまでもこうしていたいと思った。
だが、ゆっくりしてばかりはいられない。やることはたくさんあ
るのだ。
町に戻ってから三日後。
カトリーヌの環境を整えている設備に万が一のことがないよう電
気系統のチェックをしたあと、カトリーヌとの別れを惜しみつつ再
び町を発った。
ちなみにこの電気系統のチェック。ちょっとした小技がある。
それは︻売却値︼を確認し、その高低で異常の有無を判断すると
いうものだ。
言うまでもないことだが、極端に︻売却値︼の低くなっている物
1021
があれば、それは異常ありということ。
その際は、すぐに買い換えるなり修理するなりの対策を講じねば
ならない。
さて、本拠地の町を出て俺が向かったのは、領主の館がある人間
たちの村。
各国各領の使いが、いつジャガイモを受領しにやってきてもいい
よう、領主の館に当分は滞在しなければならないのである。
すると、数日もしない内に南に隣接する領地︱︱エルナンデル家
から人がやって来た。
エルナンデル家は、園遊会で出会った顔だけはいい貴族、テディ・
エルナンデルの家系。
涙目で喘ぎながら鼻よりワインを飲んでいたテディの姿は、俺の
脳裏に今も鮮明に焼き付いている。
前もって取り決めをしていたため、エルナンデル家へのジャガイ
モの受け渡しは、特に問題が起こることなく早々に終わった。
提供するジャガイモの量は、各国、各領主には馬車一台分。王宮
に対しては馬車二台分。
対価として、王宮以外からは金を貰う手筈となっている。
もちろんジャガイモの取り扱いに関する説明はしっかり行い、さ
らにはその説明を書いた紙も渡している。
いちゃもんをつけて要求を強めるというのは、欲張り者の常套手
段であるからして。
その後、次々と各国各領から人がやって来ると、ジャガイモの分
配は夏いっぱいをかけてようやく終わった。
またこの夏の間、レイナに言って、ポーロ商会にヨウジュ帝国の
1022
ヴァッサーリ領について調査してもらった。
ヴァッサーリ領は、山田さんが語ってくれた、日本語の貼り布に
書かれていた場所だ。
そこに日本人がいるのは確定事項。
しかし俺と関わりがあることは知られたくなかったので、調査依
頼の文句は﹁ヨウジュ帝国のヴァッサーリ領がなかなか発展してい
るらしい。どれほどか調べてきてくれないか﹂に留めてある。
レイナ曰く、植物紙の開発や活版印刷の発明などによって、元々
商人の間では有名だったというヴァッサーリ領。
調査の結果、ヴァッサーリ領には他と逸脱した明らかな発展具合
が確認された。
紙や印刷のみならず、魔法を使わずに光る器具︱︱電球と、その
電球を光らせる電池が開発されていたというのだから驚きだ。
さらに町は清潔で、風呂屋があり、ヴァッサーリ領に住む人々の
衛生観念は大陸に住む者とは少し違うようである。
このことから、俺は一つの結論に至った。
新技術の開発までなら余人にもできよう。
だが、これまでにあった庶人の価値観まで変えるとなると、そう
はいかない。
上の立場からその権力をもって、新たな価値観を下々に植え付け
た者が必ず存在する。
すなわちヴァッサーリ領において、上に立つ者の中に同郷の者が
いることになるのだ。
まあ、予想が確信に変わったといったところか。
︱︱と調査報告はここまで。
ヴァッサーリ領にどれだけ同郷の者が集まっていたかは気になる
1023
ところであるが、まさか、﹁俺に似た人間はいたか?﹂などと聞け
るはずもない。
それ以外にも軍事技術の発展について気になっていたのだが、別
段おかしなところはなかったそうだ。
兵器の開発は行っていないのか、それとも機密になっているのか。
気がかりがあるとすれば、俺がこうしてヴァッサーリ領を調べて
いるように、相手も俺のことを調べているかもしれないということ
だ。
もし調べてるとなれば、何故俺にコンタクトしてこないのか。何
か企みがあるのではないか。
そんな不安にも似た疑念が胸を打った。
同郷の者同士、敵対することはないと思いたいが、互いの取り巻
く状況がそれを許さない時がある。
その時は、覚悟を決めなければならないだろう。
それから三年もの間、色々なことがあった。
まずは北の森に住む獣人たちの戸籍づくり。
本拠地と道を繋げさえすれば、すぐにでも︻町をつくる能力︼の
人口に加算されるように、個人の名前、住所、家族構成、所属する
部族をできるだけ事細かに記録した。
怠りがあって能力が反応しないということにでもなれば、問題だ。
人間の村についても同様に戸籍の整理を行っている。
また、かつての約束を果たすため、胡椒の売買にサンドラ王国ま
で幾度も遠征した。
ただ、サンドラ王国側は金が足りないということで初回はツケ扱
いとなり、二回目以降にその支払いを受けている。
1024
なお、久しぶりに会ったエルザはとても元気そうだった。
﹁ちょっとちょっとフジワラさん、ジャガイモのこと隠しとくなん
てひどいやんか!﹂
と、相変わらず商売のことで頭がいっぱいのようである。
あと前回別れ際に渡した化粧水をねだられた。
売るつもりなのかと尋ねてみれば、返ってきたのは意外な言葉。
﹁あんな、女って生き物は、他の誰よりも美しくなりたいもんなん
やで。こんなん売ったら、ウチだけが美しくなれへんやろ。ウチか
て商人である前に一人の女や﹂
その欲深い精神に少々呆れた。
だがエルザのこういった裏表のない欲望に素直なところは嫌いじ
ゃない。
むしろ好ましいところだ。
とにかくもサンドラ王国との胡椒の売買は順調。
それによって得た資金と、ジャガイモという看板を使って、俺は
領内にどんどんと人を呼び込んだ。
人が増えれば、住む家も必要になる。
国中から多くの大工がやってきて、さらに人口が増加し、もちろ
ん商売をする者がこれを放っておくわけもなく、店が新たに建てら
れていく。
特にポーロ商会支部としての胡椒の売買は、基本的に領内で行っ
ており、西側諸国からは数多の商人が胡椒を買い求めにやって来た。
人口増加による治安の悪化も懸念されたが、元からいた村の者と
1025
ポーロ商会を中心として警備隊を組織し、日々犯罪と戦っている。
また俺の領主の仕事としては、裁判の判事役が一番大変であった
と言っておこう。
かつては寂れていた村。
しかし今はもうそんな様子はない。
それどころか、住宅と店が建ち並び、町の様相を呈し始めている。
その周囲には衛星のように、いくつもの新しい村ができていた。
領内は栄えた。
人口は既に五千人を超え、北の森の獣人たちを合わせれば六千人。
領内が発展するにつれ、王宮からは様々な要求があったが、レイ
ナと協力してうまく立ち回った。
もう人口一万人は目の前だ。
さらに俺の資金は、一兆円を既に達成している。
すぐそこに﹃時代設定﹄︻現代︼があった。
︱︱そして、この地にやってきてから三年と七カ月ほどが過ぎた
頃。
つまり、俺が三十一歳を迎えた年なのであるが、その冬に事件は
起こった。
本拠地の自宅でゆるりと過ごしていたところ、突然かかってきた
電話は領主の館からだ。
﹁イニティア王国が、小国群に攻め入りました﹂
レイナから領主の屋敷に滞在させている狼族に入った報告。
それは大きな戦争がこの国のすぐ南、小国群で勃発したというも
のであった。
1026
◆
ラシア暦1238年の冬。
イニティア王国の軍が小国群の一国、キーマ王国へと侵攻した。
<i208179|18564>
もちろん、なんの理由もなしに攻め込んだわけではない。
幾年か前、河族集団バイキングがイニティア王国の大地を荒らし、
さらにはイニティア王国の正規軍に大きな損害を与えたことは記憶
に新しい。
その裏にキーマ王国が関わっていたことを、イニティア王国はこ
の侵攻の大義名分としたのである。
無論のこと、キーマ王国はバイキングとの関わりを否定したが、
イニティア王国は全く取り合わずに粛々と軍を進めた。
どちらの言い分が正しいかは当人同士にしかわからぬこと。
数多の者が戦い、数多の者が命を散らす戦争という行為に、そん
なものはなんの関係もない。
勝った者が歴史をつくる。
ただそれだけが、いつの時代も変わることのない、戦争における
たった一つの純然たる真実であった。
この戦い、イニティア王は老齢ゆえに参加しなかったが、代わり
にイニティア王国の軍権の全てを握ったのは、レアニス・ラファエ
ロ・エン・ブリューム。
ある日、教会から姿を消し、その後の動静が不明になっていた現
ラシア教皇の弟である。
1027
イニティア王国軍の最高司令官となったレアニスは、王国最強と
謳われる聖騎三将軍︱︱前将軍ロベルト・フレルケン、右将軍リサ・
コールハース、左将軍ヨシキ・コマツナ︱︱とその三将軍直下の聖
騎士隊五千を投入。
加えて一般兵には実に五万もの数を揃えており、それらのことは、
この戦争がただ一国を攻めて終わるものではないことを示していた。
ところでこのレアニス、教会の事情を知る者たちからは権力闘争
の末に現ラシア教皇に暗殺されたのだと噂されていた。
しかし、彼が生きており、イニティア王国にて権力を手にしてい
たことは、意外である。
この事実は大陸に住む権力者たちを驚嘆せしめた。
﹁今さら現れて何をするつもりだ﹂
﹁既に現教皇の権勢は磐石のものとなっているのに﹂
レアニスの名を耳にした、世の知識人たちが囁き合う。
はたして、一度は表舞台から消え、亡者のごとく蘇ったレアニス
が何を考えているのか。
しかし皆、口では疑問を語りながらも、その心ではレアニスの目
的を理解していた。
教皇の座に就いた兄と、就けなかった弟。
戦争を起こした本当の目的は、もはや言わずとも明白であるとい
えよう。
かくして、イニティア王国軍とキーマ王国が戦火を交えた。
人々は戦争の結果をこう予想する。
イニティア王国軍はじきに国許に帰ることになる、と。
1028
長い歴史の中、小国群にある国が外の国から攻め込まれることは
幾度もあった。
しかしそのたびに、普段はいがみ合っている小さな国々は一枚の
岩となって外敵を退けた。
小国が途端に大国へと変わるのだ。
敵を知り己を知る。
自らの国が小さく弱いからこそ、敵国は強く一国では満足しない
ことを知っているからこそ、小国群の国々は互いに協力するという
ことをよく心得ていたのである。
そして今日この日。
戦いは人々の予想に反し、一方的なものになった。
キーマ王国に攻め込んだイニティア王国軍に対し、当然小国群は
一枚の岩と化して抵抗すると思われた。
しかし、小国群の内の一国は既に調略されており、イニティア王
国側に寝返った。
これにより、小国群は内側に穴をあけられ、形勢はあっという間
にイニティア王国に傾いたのである。
たった一つの綻び。
それは一枚の岩を容易く瓦礫へと変えていった。
戦いが始まって二月後。
イニティア王国軍の主力部隊は、つい先頃制圧した小国群デュラ
王国のエーデルワイス城に滞在していた。
イニティア王国は小国群の八割を制圧し、残りは二割といったと
ころ。
これから先の戦場を一望できる前線基地が、エーデルワイス城で
1029
あった。
﹁︱︱多くの者が死んだ﹂
イニティア王国軍最高司令官のレアニスが、エーデルワイス城の
バルコニーにて夜空を眺めながら呟いた。
その声には憂いがあり、無限の星々を見つめる瞳には悲しみがあ
った。
﹁そうですね、敵も味方も﹂
ただ一人、レアニスの隣にいた小松菜が言う。
しかし、レアニスは小さく首を振った。
﹁その発言は間違っているよ小松菜。敵はいない、いないんだ﹂
﹁⋮⋮すみません、失言でした﹂
便宜上敵軍と呼ぶことはある。
だが、今ある戦いは大陸に生きる者たちのため。
そこに敵はいない。
これから先何億という人々を救うために、今いる何十万、何百万
という人々を犠牲にしているにすぎないのだ。
﹁異種族たちはどうしている﹂
痩せて枯れた土地に逃げ出した人間ではない者たち。
彼らを探し集め、この戦いに参加させていた。
戦い抜けば、人間と同じ権利を与える。
そんな名目によって。
1030
﹁今は落ち着いています。レアニスの罰にも、よく言って聞かせれ
ば、逆に感謝をしていました﹂
彼らは良く戦った。
しかし血に酔い、人間への恨みが暴走し、戦いに関係のない住民
まで虐殺した。
許しがたいことであったし、味方からもその暴虐さを危ぶむ声が
聞こえたが、レアニスは各部族の長を数度鞭打った程度の罰で不問
にしていた。
﹁私は甘いのだろうか﹂
﹁これまでに人間が彼らに行った非道を考えれば、わからないこと
ではありません。次はないとだけ言ってあります﹂
﹁そうか﹂
どちらも苦いものを飲み込むような顔をしていた。
それだけ判断が難しいのだ。
異種族側と人間側、両方の気持ちがわかる。
それはレアニスと小松菜が、この大陸の住む者には決して推し量
れない価値観を持ち合わせているからに他ならない。
﹁じきにこの地も平定される﹂
﹁次は北ですか?﹂
﹁ああ。王の力は落ち、もはや抜け殻同然。領主たちの懐柔も簡単
だったと聞いているよ﹂
1031
小国群を制圧したならば、接する国は二つ。
北はドライアド王国、東はヨウジュ帝国。
ドライアド王国は形ばかりの弱国であり、ヨウジュ帝国は軍事に
も経済にも優れた強国。
どちらから攻めるかは、明らかだった。
﹁しかし、ヨウジュ帝国は大丈夫でしょうか﹂
重ねて言うがヨウジュ帝国は強大。
北のドライアド王国を攻める間に背後を攻撃されれれば、たちま
ちに危うくなる。
﹁心配はいらない、手は打ってある﹂
言葉通り、なんの憂いもない調子でレアニスが答えた。
そこには絶対の自信が存在し、小松菜ももう一つの懸案事項へと
話を切り替えた。
﹁では、さらに東の諸国に対しては?
我々の勢いを知ったラシア教皇が、慌てて各国に招集を呼び掛け
ているそうです。
教皇からの直々の勅令。各国は軍を集め、協力して我々に当たろ
うとするでしょう。それも迅速に﹂
﹁そうだ。ドライアド王国を攻めている最中に、東から攻められて
は流石に苦しい。そのためドライアド王国の制圧には速さが求めら
れる。
しかし、歴史のある城というのはどれも頑丈なものばかり、籠城
されれば厄介だ。⋮⋮あれを使う﹂
1032
﹁あれを、ですか﹂
あれとは新兵器。
ある場所より、その各種製法を盗み、開発した物である。
﹁出し渋ることはできない。半月後にはドライアドの地を踏み、そ
こからは全力をもってことに当たる﹂
レアニスの言葉通り、この一週間後、小国群は全てイニティア王
国軍に制圧された。
イニティア王国の軍はわずかな休息ののち、その矛の先を北はド
ライアド王国へと向ける。
1033
84.町から国へ、マッチから電化製品へ 1︵地図あり︶︵後
書き︶
活動報告にイラストカバーを載せておきました。
よろしかったらご覧ください。
1034
85.町から国へ、マッチから電化製品へ 2
イニティア王国が小国群に攻めいったという報告が入ってからの
こと。
俺は不測の事態に備えて領主の館に滞在していた。
﹁フジワラ様、入ります﹂
ポーロ商会支部長のレイナが、執務室に入って来る。
ある理由で、俺が彼女を呼んだのだ。
﹁ソファーにかけてくれ。落ち着いて話をしよう﹂
小さな長方形の椅子を挟んで向かい合うように設置してある長ソ
ファー。
それにレイナが座ると、俺も執務席を立ちその向かいに座り、﹁
これを﹂と手元から一通の書状を差し出す。
安物の植物紙ではない。高級な羊皮紙を使ったものだ。
レイナがその書状を受け取ると、それに目を通しながら言った。
﹁これは王宮からの⋮⋮出兵要請ですか﹂
﹁ああ、王宮の要求は兵一千。それが無理な場合は膨大な量の麦を
送るように言ってきている。どうするべきだと思う﹂
レイナは一度最後まで書状を読むと、視線をもう一度上に戻し、
また最初から読みはじめる。
それを二度繰り返して、ようやく言葉を口にした。
1035
﹁現状を整理します。
フジワラ領の人口はおよそ五千三百人。常備軍はおらず、出兵す
るのであれば、兵をまず集めねばなりません。兵を募った場合、こ
こでの生活は豊かでありますから、志願する者はほとんどいないと
考えられます。したがって出兵要請に応じるのならば、徴兵が必要
となります﹂
やはり元貴族というのは頼もしい。
領の運営にもよく協力してもらっていたから、人・田畑・税など、
領内のあらゆることを熟知している。
俺は﹁その通りだ﹂と同意して、レイナの言葉に続けるように言
った。
﹁村の男女比は大分その差が埋まってきたとはいえ、まだまだ男が
多い。そのため、強制的にという条件ならば、千の兵を集めること
は可能だ。しかしこれは領内の人口比の二十パーセントに値し、徴
兵を実行したならば、このフジワラ領はほとんど機能しなくなるこ
とだろう﹂
俺の言葉に今度はレイナが頷き、言葉を引き継ぐ。
﹁では麦を送るのはどうか、について。
領内の主な農作物はジャガイモであり、麦はそれなりの量しか作
っていません。村中から徴収し、さらに非常用に貯蓄しておいたも
のを合わせれば足りると思いますが、しかしそれはあまりに無体な
行為。これまでに築いてきた領民との信頼を、大きく損じることに
なりかねません﹂
色のついてない冷静な言葉に見えて、深いところには強い否定の
1036
念が見える。
レイナは出兵にも麦を供出することにも反対なのだろう。
﹁他の領主はこの戦いにどこまで参加するのだろうか﹂
﹁国に忠誠を尽くす者。勝ちを見込んで、手柄欲しさに参加する者。
食糧だけを供出する者。のらりくらりと王宮からの要求を躱しつつ
機を窺う者。
最初から積極的に戦いに参加する者は、半分いればいい方じゃな
いでしょうか﹂
この大陸に多く存在するのが封建国家。
国家とはなんとも大層な肩書であるが、その実、中央集権は薄く、
小国の集まりを王宮がまとめている、といったようなものでしかな
い。
その中でも、ことさらに王の力が弱く、地方の領主の力が強いの
がドライアド王国であるから、レイナの予想する領主たちの行動も
当然のことといえた。
絶対王政とは違うのだ。
﹁ドライアド王国は勝てるのか﹂
﹁東からの援軍が間に合えば。あるいは南のヨウジュ帝国の動き次
第では、といったところです。しかし、相手も無能ではありません。
なんらかの策を講じているでしょう﹂
ふむ、と別に大したことのない頭を働かせる。
戦いの結果はまだ予想できない。
ならば、俺が王宮からの要請を無視した場合はどうなるか。
言わずと知れたこと。
1037
もしドライアド王国が勝った暁には、戦いに参加しなかった者の
中で、まずこの俺が最初の生贄になることだろう。
ああ、殺されるとかいう意味ではなく、お金的な意味で骨の髄ま
でしゃぶられるということだ。
﹁よし、麦を送ろう。もちろん領民からの徴収はなしだ﹂
﹁⋮⋮先ほども言いましたが、倉庫を空にしても足りませんよ。商
人から購入しようにも、麦の値段はここにきて、とてつもない高値
になっています。今から買い付けるとなると膨大な額がかかると思
いますが﹂
ジャガイモが世に出てから、麦の価格はほんの少しずつではある
が下落していった。
その反動もあるのだろう。
ジャガイモにない保存性をもつ麦は、糧食に向き、戦争を目の前
に控えた今、ありえないほどの高値を付けていた。
しかし、である。
俺には能力がある。
商人から買えないのなら、能力で買えばいい話なのだ。
﹁大丈夫だ。麦の蓄えならある﹂
その一言でレイナは黙った。
俺の能力のことは知らないが、俺という人間の異常さを彼女は知
っている。
﹁︱︱ということで、だ。すまないが、ポーロ商会に輸送をお願い
したい。ついでに戦いの様子を観察してきてくれないか。もちろん
1038
安全第一で、だ﹂
﹁⋮⋮担当する者たちへの危険手当をいただけますか﹂
﹁胡椒を五壷﹂
﹁いいでしょう﹂
親しき仲にも礼儀あり。
労働に対する対価をしっかりと支払っているからこそ、互いの信
用は保たれるのだ。
◆
小国群を破ったレアニス率いるイニティア王国軍はその野心を明
らかにした。
すなわち教皇の座と、大陸の制覇である。
各地に檄文を送り、その文中でレアニスは己が教皇の座に就くこ
との正当性を主張し、さらには現教皇の悪行や間抜けな失敗談をこ
れでもかというほど書き立てていた。
こんな馬鹿がいるかよ、と話半分でその檄文︱︱現教皇の失敗談
︱︱を読む世の人々であったが、書かれていたことは全て真実であ
る。
とにかくも、イニティア王国が大陸制覇という野心を突如露わに
した。
これに最も震えあがったのはドライアド王国である。
次に攻め込まれるのはどの国か、という質問を百人に聞けば百人
がドライアド王国と答えるだろうからして。
1039
相手が攻め込んでくるまで、座して待つ必要もない。
ドライアド王国宰相のイーデンスタムは直ちに軍を組織すると、
敵が攻めてくる前に、前線となるであろう領地へと送り出した。
イーデンスタムの打ち出した策略は徹底防御。
イニティア王国の野心が明らかになった今、東方諸国並びにラシ
ア教会が黙っているはずもない。
いずれ大軍で援軍がやって来る。
それまでとにかく堪え凌げばいい、というものである。
かくして、全ての人々が予想していた通り、イニティア王国軍が
ドライアド王国の領地︱︱コーランド公爵領に侵攻した。
<i208476|18564>
攻勢のイニティア王国軍に対し、亀のように城に閉じこもる守勢
のドライアド王国軍。
はたして、どれだけ長引くのだろうか、とその戦いの成り行きを
見守っていた者たちは思ったであろう。
しかし予想外にも、コーランド公爵領での戦いは驚くべき早さで
決着した。
﹁報告! コーランド公爵領が陥落しました!﹂
﹁なんだとぉっ!﹂
執務室に響いた悲鳴にも似たイーデンスタムの叫び声。
それは、戦時であっても執務を滞らせてはならぬと、一人、他の
者の何倍もの量の仕事に向き合っていた時のことであった。
各領主には城を出るなと伝え、前線にはイニティア王国軍が侵攻
1040
する以前より、王都や後方の領地から援軍を送っている。
まさに防衛の態勢は万端。
だというのに、イニティア王国軍の侵攻の報告から数日もしない
内に南の要地が落ちたのだから、悲鳴だって上げるというものだ。
﹁それが、コーランド公爵は最初から敵側につき、夜寝静まったと
ころで味方の陣営地に火を掛け、門を開いて敵軍を城の中に呼び込
んだのです﹂
﹁ば、馬鹿な⋮⋮!﹂
戦いは始まる前から既に決していたのだ。
ドライアド王国が前線に援軍を送り防衛に努めたことは、敵の大
計に組み込まれていたことだった。
それにしても許されざるは、いの一番どころか、戦争が始まる以
前より国を裏切っていたコーランド公爵である。
﹁王の血筋を引く者が謀反だと⋮⋮? くそ! あの恥知らずめが
!﹂
イーデンスタムは全身を紅潮させると、ここにはいない裏切り者
に向けて、血を吐き出さんばかりの激烈な怒罵を浴びせた。
とそこへ、新たな伝令がやって来る。
﹁ほ、報告!﹂
息も絶え絶えの伝令であったが、それを気遣う余裕は今のイーデ
ンスタムにはない。
苛立ちをぶつけるように﹁なんだ!﹂と声を荒らげた。
しかしその沸騰したような熱は、すぐさま冬の氷ついた池のよう
1041
に冷たくなる。
﹁だ、大至急援軍をっ! 敵の新兵器の前に、城壁はほとんど役に
立ちません! コーランド公爵領の先、既に二つの砦が陥落、おそ
らく今頃はさらにもう一つ落ちています!﹂
﹁な、なんだと!? 詳しく申せ!﹂
﹁は、はい、それが︱︱﹂
◆
﹁︱︱大きな筒から金属の球を撃ち出していた⋮⋮?﹂
﹁はい﹂
領主の館。
俺は執務席に座りながら、早馬を飛ばして戻って来たポーロ商会
の者より、戦地の状況を聞いていた。
その内容は、まさに驚愕に値するものである。
大きな筒と、金属の球。
大砲だった。間違いなく。
俺の胸中に、まさか︻町をつくる能力︼を持った奴がいたのかと
いう疑念が浮かぶ。
だとするなら、他にも武器はあるはずだ。
﹁他に武器はなかったか。個人で携行していた武器はどうだ。細い
筒のような物は持っていなかったか﹂
1042
﹁いえ、すいません。わかりません﹂
﹁乗り物は? ひとりでに動く鉄の車はなかったか?﹂
﹁すいません、それもちょっと﹂
ポーロ商会の報告者からは、わからないという答えしか返ってこ
なかったが、俺は質問をするうちに、段々と冷静になり始めていた。
よく考えれば、︻町をつくる能力︼よりも、日本での知識を使っ
て大砲を開発したことの方があり得る話だ。
俺にはわからないが、火薬の作り方を知っている者がいたんだろ
う。
魔法という便利なものがある以上、砲身の加工は容易く、ある程
度の物理的思考があれば、あとは試行錯誤でなんとか大砲ができそ
うな気がする。
﹁イニティア王国軍の将軍たちの編成はわかるか﹂
﹁これを。今回戦いに参加している者の名前です﹂
横で話を聞いていたレイナが、羊皮紙を差し出した。
俺はそれを受け取り、一番上から眺めていく。
︱︱いた。
上から四番目。左将軍ヨシキ・コマツナ。
この大陸には珍しい独特な響きは、間違いなく日本人の名前だ。
俺は話す相手をレイナへと変える。
﹁とにかく、ドライアド王国は敗北を免れないということでいいの
1043
か?﹂
﹁間違いないでしょう。ヨウジュ帝国は制圧したばかりの小国群に
軍を差し向け、イニティア王国軍を本国と分断しようとしましたが、
その直後、国内で反乱が起きました。
東方諸国はいまだ集まりきらず、半端な兵力では動こうとしませ
ん。いえ、ドライアド王国が制圧されるのを待っている節がありま
す。パイをより大きくしようとしているのでしょう﹂
レイナ大先生の考え。
パイとは戦果。ドライアド王国を破ったイニティア王国を倒せば、
その土地は丸々自分たちのものになる、ということだろう。
もっとも、イニティア王国に勝てたらの話だが。
﹁王宮はこれからどう動く。降伏はあるのか﹂
﹁予想がつきません。降伏はドライアド王族の死。小国群において
は、のちの禍根を断つために、支配者の一族は全員殺されたと聞い
ています。この地でも例外ではありません。王族は皆殺しの憂き目
にあうでしょう﹂
﹁そうか﹂
こればかりは仕方がない。
それが王族の務めというやつだ。
兵は戦場で生死を争うが、王は戦争の結果で生死が決まる。
しかし、王はそれでいいとして、領主である俺はどうなる。
相手の国は自ずから戦争を起こそうとする奴らだ。
相手側に日本人もいるとなれば、俺のこともすぐにわかるだろう。
1044
フジワラ
領だ。
いや既に俺のことは調べられているかもしれない。
なにせ、領地の名前が
降伏の先に待ち受けているのは、利用されるか、殺されるか。
では立ち向かった場合はどうなるか。
相手は大砲という射程の大きい兵器を持っている。
これは脅威だ。
対する俺が武器を渡せる相手は限られている。
武器はあってもそれを使う者︱︱人的戦力が少ないのだ。
では逃げるのか?
いや、と思った。
俺は領主。
裏切られてもいない内から、領民を見捨てるのは、それこそ裏切
りではなかろうか。
それに、やっとここまで来たという思いもある。
人口も資金も。
﹁1兆3600億か。この三年と半年、我ながら儲けたな﹂
﹁?﹂
俺の呟きに、レイナが不思議そうな顔をした。
﹁いやなんでもない。こっちの話だ﹂
死ぬのも、誰かに利用されるのも、この領地を捨てるのも、まっ
ぴらごめんだ。
俺は今ある手札で最善を尽くす。
1045
俺と俺の周囲の人間以外は知ったことか。
たとえ同じ日本人であろうとも、だ。
﹁レイナはトラックには乗ったことなかったな﹂
﹁鉄の車のことですか。そうですね。話に聞いたことしかありませ
ん﹂
﹁急ぎの用がある。悪いがトラックに乗って王宮まで使いを頼まれ
てくれないか﹂
時間がない。
ここからは、一分一秒を争うことになるだろう。
今、足りないものは何か。
愚問だ。
足りないものなど、ありすぎて考えるのも馬鹿らしい。
しかし、足らないなら足せばいいのだ。
1046
85.町から国へ、マッチから電化製品へ 2︵後書き︶
本日、本作の第一巻が発売されます。
よろしくお願いします。
サブタイトルを少し変えました。
1047
86.町から国へ、マッチから電化製品へ 3
︱︱少し現状について説明しよう。
真っすぐに王都に攻め込むかと思われたイニティア王国軍。
しかし、その刃は王都ではなく、王都以外の領地へと向けられた。
東方諸国の動きはあまりに鈍い。
この動きの鈍さが故意であることを知ったイニティア王国軍は、
戦力を分散させて王都以外の領地の制圧にかかったのだ。
<i208889|18564>
女王オリヴィアを討てば、ドライアドの地は誰のものでもなくな
り、東方諸国は途端に襲い掛かってくる。
逆に言えば、オリヴィアが生きている限り、ドライアドの地は対
外的にはオリヴィアのものであり、東方諸国は攻めてこない。東方
諸国がドライアドの地を得るための口実を失うからだ。
東方諸国のその愚かで独善的な考えを利用し、イニティア王国が
ドライアドでの足場を着実に固めようという腹積もりなのは、誰が
見ても明らかなことだった。
こうしてドライアド王国は、王都の四周から、たちまちに制圧さ
れていったのである。
各領主はすぐさま降伏するか、少し戦ったのちに降伏するか。
それだけだった。
じわじわと真綿で首を締められるように、王都は包囲されていく。
1048
もはや起死回生の一打もなく、ドライアド王国はただ滅びゆくの
を待つばかりの状況であった。
王都ドライアド、リーシュンデット城の円卓の間。
即応体制が求められる緊急時、その部屋には女王を始めとした主
だった者が待機することになっている。
だが、今まさにドライアド王国存亡の危機という状況にもかかわ
らず、円卓の間には女王オリヴィアと近衛兵を除けば、イーデンス
タムしかいなかった。
大臣たちはドライアド王国の敗北を予感して出仕せず、将軍たち
はあまりの劣勢に兵が反乱を起こさぬよう軍を見張っているのだ。
﹁まだか⋮⋮!﹂
玉座の間にて、イーデンスタムは焦燥に駆られていた。
待っているのは、イニティア王国軍へと送った講和の使者。
それは敗北を免れ得ないドライアド王国にとって、最後の手段で
あった。
﹁講和の使者が戻って参りました!﹂
﹁通せ!﹂
入り口からかけられた使者帰還の報告に、イーデンスタムは期待
を込めて入室の許可を出した。
しかし部屋に入ってきた使者の顔は、顔色優れず、意気消沈とい
1049
った有り様である。
聞かなくてもわかる。
講和は失敗したのだ。
﹁駄目です。取り合ってもらえませんでした﹂
予想通りの報告を聞き、イーデンスタムは拳を強く握って、何も
ない空間に振るった。
無制限の領土割譲に加え、オリヴィアの婚約も辞さない、無条件
降伏に等しい講和条件を提示した。
だが、それは断られた。
イニティア王国は、ドライアド王国を欠片も残さずに滅ぼすつも
りなのだ。
︵どうするどうするどうする!︶
イーデンスタムは考える。
己の細首ならいくらでもくれてやる、しかしオリヴィアだけはな
んとか助けねばならない。
だが、状況がそれを許さなかった。
東方諸国に亡命させるという案はあった。
どんな待遇を受けるかわかったものではないが、死よりはましだ。
されど、決断が遅すぎた。
亡命を考えるまで戦況が悪化した時には、既に東の地は敵の手に
落ちていた。
東方諸国へ繋がる道は断たれたのである。
1050
報告では、東の領主たちは一線も交えずに降伏していったらしい。
東方諸国が援軍を出し渋っていることを、東の辺境伯たちはいち
早く知りえた。
もはやドライアド王国に未来はない。
そう考えたゆえのイニティア王国への帰順だったのだ。
﹁⋮⋮どうやらここまでのようですね﹂
この非常時に似合わない、涼やかな声が円卓の間に響いた。
女王オリヴィアのものだ。
﹁エマ、リゼル、これまでよく仕えてくれました。ただ今をもって
近衛隊は解散とします。皆にもよろしく伝えてください﹂
﹁そんな!﹂と声を上げたのはエマ。
大きなくりくりとした眼と、紫色の短い髪が特徴の、活発な性格
をした近衛兵だ。
現在、オリヴィアを守る近衛隊の兵士はいずれも元孤児であった。
彼女たちは、オリヴィアに拾われて、生を繋いだ。
誰もが深い恩義を感じ、オリヴィアのために命を捨てても構わな
いほどの忠誠を捧げていた。
﹁私たちは死ぬまで、いえ、たとえ死んでも陛下についていきます
! 陛下に救われたこと、片時たりとも忘れたことはありません!﹂
そう言ったのは切れ長の瞳をした黒髪の近衛兵、リゼル。
普段、感情を表に出さない彼女らしからぬ強い言葉だった。
されどオリヴィアは、優しく微笑んで首を横に振った。
1051
その顔には、あきらめにも似た、すがすがしい感情が見て取れる。
はかなくも死を覚悟した者の顔であった。
﹁イーデンスタム、敵軍に降伏の使者を。この首を一族の命を差し
出すと。そののちは、あなたの任を解きます。早く城からお逃げな
さい﹂
﹁⋮⋮まだ何か手があるはずです﹂
絞り出すような声でイーデンスタムは言った。
その顔は苦しみに歪んでいる。
﹁いいえ、ありません。あとは王としての務めを果たすのみ。もっ
と早くこうするべきでした。そうすれば、無駄な犠牲を出さずに済
んだのに。全ては、わが身かわいさゆえ﹂
沈黙がその場を支配した。
しかし、イーデンスタムはまだあきらめていない。
逆にその瞳にはギラギラとしたものが燃え上がった。
︵まだだ、まだあきらめん。たとえ国が亡ぼうともオリヴィア様だ
けは救ってみせる︶
それは臣下として務め︱︱いや、己を爺と呼ぶオリヴィアへの親
心のような感情であった。
イーデンスタムは考え込み、石のようにその場を動かない。
近衛兵の二人は部屋を出ていったが、すぐに戻って来た。
﹁近衛隊は皆、陛下と運命を共にすると﹂
1052
リゼルが伝えたのは近衛隊全員の意思。
隣ではエマも大きく頷いている。
オリヴィアは﹁馬鹿ね⋮⋮﹂と小さくつぶやいた。
﹁陛下と一緒にいられるなら馬鹿でいいです!﹂
エマが元気よくいつもの調子で言う。
それを聞いて、くすりと笑ったオリヴィアの瞳には、涙が滲んで
いた。
︱︱そんな時だった。
﹁面会の要請が来ております﹂
部屋の外を守護していた近衛兵から声がかかったのである。
使者ではなく面会、つまり味方側からの動きだ。
イーデンスタムは、降伏論でも唱える輩であろうと予想しつつ、
尋ねた。
﹁誰からだ﹂
﹁それがフジワラ領︱︱﹂
﹁通しなさい! すぐに!﹂
兵士が言い切る前に、その態度を一変させたのはオリヴィア。
普段とは、あまりにもかけ離れたその姿に、イーデンスタムはギ
ョッとした。
﹁早く!﹂
1053
﹁は、はい﹂
間をおかず現れたのは、金色の髪が美しい冷然とした雰囲気のあ
る女性である。
﹁ポーロ商会のレイナと言います。今日はフジワラ男爵より書状を
預かってきました﹂
女性︱︱レイナが慇懃な礼をしたのち、取り出した一通の書状。
どれ、とイーデンスタムが書状を受け取るよりも早く、オリヴィ
アが席を立ち横からそれを攫った。
イーデンスタムがぱちくりと目をしばたたかせる中、オリヴィア
が書状に目を通す。
即座に読み終わると、﹁これを﹂と言って、書状はイーデンスタ
ムに渡された。
イーデンスタムは、オリヴィアのいつもと変わった所作の数々に
首を傾けながら、書状に目をやった。
そこにはこう書かれている。
﹃火急の事態ゆえ、要点だけを述べます。
我々は巨大な城壁都市を用意しました。
その都市には敵が持つ新兵器も無数にあり、防備は万全といえる
でしょう。
そこに女王陛下をお連れしたいと思っております。
しかし、条件が二つあります。
一つ、王権をノブヒデ・フジワラに移譲すること。
一つ、六千人の市民をフジワラ領に移住させること。
この二つの条件を受諾できるのでしたら、女王陛下の御身は必ず
1054
や守り通しましょう﹄
読み終えた瞬間、何を馬鹿なとイーデンスタムは思った。
世迷言。明らかな嘘。
おそらくはオリヴィアを手中に収め、そしてイニティア王国に引
き渡し、栄達を望もうという考え。
書状を信じさせるため、わけのわからない条件を吐いたのだ。
︵誰が信じるものか。ポーロ商会ならば、もしやサンドラ王国へ亡
命する手段があるかと思ったが、まやかしもまやかしだ︶
北に行けばそれこそ袋の鼠である。
他国までの距離が遠くなり、それは分厚い壁となって、決して逃
げられなくなるだろう。
考えるうちに、イーデンスタムの中でレイナに対する沸々とした
怒りがこみ上げた。
このような状況である。
怒りをぶつける的があれば、溜まりに溜まった鬱憤をぶつけるが
ごとく攻撃したくなる、というのは仕方のないことであろう。
イーデンスタムは、少々の残虐性を伴わせて、この不敬な者をど
うしようかと企んだ。
しかし次の瞬間、オリヴィアの口から出た言葉は、イーデンスタ
ムの考えとは大きく異なったものであった。
﹁予定が変わりました。死ぬのはお婆ちゃんになってからとします。
すぐに書状の通りに準備をしなさい﹂
﹁し、信じるのですか!?﹂
1055
寸分たりとも考える価値のない、唾棄すべき書状。
それゆえに、オリヴィアの発言はあまりに意外。
﹁もう少し生きあがいてみようと思います﹂
﹁ですが、ここに書いてあることなど到底信じることはできません
!﹂
イーデンスタムが言うと、オリヴィアは言葉を探すように黙った。
この書状を信じる確固とした理由があるにもかかわらず、言えな
い。
オリヴィアの様子を見て、何故かそんな風にイーデンスタムは感
じた。
すると、オリヴィアに助け舟を出したのはレイナだ。
レイナはあくまでも落ち着いた様子でイーデンスタムに言った。
﹁私たちの差し出した手を掴まないで、何か展望がおありですか?
小国群では、のちの禍根を断つために王族は皆殺しにされたとい
う話を聞いております。このままでは陛下の死は確実。亡命でもな
さるのかと思いましたが、いまだここにいる﹂
﹁ぐ⋮⋮! ならば聞こう! この市民の移住というのはなんなの
だ﹂
﹁我々は巨大な都市をつくりましたが、住民が足りません。人あっ
てこその都市。人がいなければどんな建物をつくろうと張りぼてに
すぎないのです﹂
1056
﹁馬鹿なことを申せ! そんな大きな都市をつくっていたのならば、
人の流れですぐにわかるわ!﹂
もとよりフジワラ領には密偵を放っている。
あの領地、異常な速度で人が増えていったが、都市をつくるなど
という動きは何一つなかった。
﹁北の地に逃げてきた獣人たちを我々は支配下に置いています。彼
らを秘密裏に使いました﹂
﹁な、なに!?﹂
獣人という言葉にイーデンスタムは驚いた。
たしかに北の地には、各地から異種族が多く逃げてきた。
把握はしていないが、相当な数だというのはわかっている。
︵獣人たちを従えたのならば⋮⋮︶
イーデンスタムの眉間に深い溝がつくられていく。
嘘だと断じた天秤は、もしかしたら本当なのかという方へ、わず
かに傾いたのである。
﹁どのように人を移住させるのですか? 皆、住む場所があり、こ
の地から離れるとは思いませんが﹂
イーデンスタムが口ごもった隙に、オリヴィアがレイナに尋ねた。
﹁流民同然の困窮した者たちがいるではありませんか。仕事と家と
食べ物を与える、とだけ言えばいいのです。貧民街に住む者は元よ
り財産などありませんから、疎開のついでとでも考えて、やって来
1057
るでしょう﹂
﹁私の身の安全の保障は?﹂
﹁わざわざ連れていくのです。危害を加えるような真似はしません
よ。一緒についてきた兵たちの人質程度にはなってもらうかもしれ
ませんが﹂
﹁新兵器というのは﹂
﹁金属の大筒のことです。火薬という物の燃焼によって生み出され
た暴風が、筒によって指向性を与えられ、筒の中から金属の球を撃
ち出すのです。
理論的には吹き矢と同じですよ﹂
新兵器の説明に、近衛兵の二人はよくわからないという顔をした
が、オリヴィアは納得したように頷いた。
そして、イーデンスタムは︱︱。
﹁す、素晴らしい!﹂
歓喜するような、しかしどこかわざとらしい声でイーデンスタム
は言った。
﹁陛下、フジワラ男爵に公爵の位を授けてはいかがでしょう。敵を
破った暁には大公爵になってもらい、北方の自治権に加え、あらゆ
る税の免除を行い︱︱﹂
﹁イーデンスタム!﹂
1058
オリヴィアがその名で呼ぶ時、それは絶対の命令権を行使する時
である。
﹁オリヴィア様⋮⋮書状の通りにすれば、ドライアドは⋮⋮陛下は
⋮⋮!﹂
それはイーデンスタムの最後のあがきだった。
助かるかもしれない。
そう考えた時、イーデンスタムは王国の滅亡を憐れみ、オリヴィ
アが王ではなくなることを悲しんだ。
投げ捨ててもいいと思ったものが、途端に惜しくなったのだ。
だからこそのあがきだった。
﹁⋮⋮もうよいのです、爺。私のことを思ってくれるのなら、もう
何も言わないでください﹂
優しく諭すようなオリヴィアの言葉。
オリヴィアにここまで言われては、イーデンスタムは何も口にす
ることはできない。
﹁陛下⋮⋮わかりました、陛下の命に従います⋮⋮﹂
消え入るような声。
イーデンスタムは瞳を落とし、床には一粒の小さなシミができた。
それは、もう何十年も流したことのない涙だった。
◆
﹁小国群での暴虐を知っているか! イニティアの軍は女も子ども
も皆殺しにしたそうだ!﹂
1059
﹁北のフジワラ領を知っているだろう! ジャガイモと胡椒によっ
て巨万の富を築き、ここでも領民を募集していたはずだ!﹂
﹁我ら困窮した民が、イニティアの軍に見過ごされるとは思えない
!﹂
﹁皆でフジワラ領に行こう! 領主であるフジワラ男爵は誰も攻撃
できないような巨大な都市をつくったそうだ! 女王陛下が我々を
思い、フジワラ様と話をつけてくださった! フジワラ領では家も
食べ物ももらえるそうだ! 道中は城の兵が護衛してくださる!﹂
金で雇った者たちが、貧民街のある一画にて大きな声で騒ぐ。
いつ王都が攻められるかもしれぬ状況で、ボロボロの家に引きこ
もっていた者や物陰に隠れていた者たちが、空の下に出てきて耳を
傾けた。
貧困街では、これと同じ光景が各所で広がっている。
そんな様子を眺めながら、レイナはほっと息を吐いた。
なんとかなったという安心のため息だ。
思えばあまりに危険な使者の役目。
女王に対し、あまりに不敬な書状を届けた。
この首が飛んでもおかしくなかった。
しかし、女王にそれをさせなかったのは、絶体絶命の状況ゆえ。
信秀からは事前に二つの書状が渡されていた。
一方は、王宮が依然として血気盛んに交戦の意思を示していた時
のもの。
こちらは、貧困街の移住の相談が書いてあるだけだ。
もう一方は、王宮の士気低く、もはや敗戦を受け入れていた時の
もの。
1060
これが先の頃、実際に女王へ渡したものである。
城には文官はいなかった。
もし城にいれば、女王に忠誠を誓っているとみなされ、命が助か
ってもイニティア王国に取り入る機会を失うかもしれぬ。そのよう
な考えの下、皆自宅に引きこもっている。
こんな状況を許しているのだから、女王もあきらめているのだろ
うとレイナは結論付けた。
﹁全く、割に合いませんよ﹂
ぼそりと愚痴をこぼすレイナ。
その脳裏には、先日信秀が口にした言葉が思い起こされていた。
﹃北に巨大な都市がある﹄
信秀との付き合いは長い。
もう三年ほど一緒にいる。細かな仕草、癖なども、大体把握でき
るくらいにはなっていた。
そんな彼の﹃北に巨大な都市がある﹄という言葉は、嘘をついて
いるようにも見えたが、しかし自信に満ちていたという矛盾をレイ
ナは感じた。
信秀があるといった時、なかったことはなかった。
つまり大都市はあるのだろう。
そこに人を呼び込み、国をつくると彼は言った。
本当に可能なのか。
そんな疑問はなかった。
何故か本人でもないのに、可能なのだという確信がレイナの中に
1061
あったのだ。
﹃城への使者はとても危険な任務だ。けれどこれはレイナ以外の者
には任せられない。対価は貴族の地位。獣人と人間が住む都市だ。
その人間たちを君にまとめてもらおうと思っている。⋮⋮どうだろ
うか?﹄
大都市の存在を口にした時とは違って、どこか不安そうに信秀は
尋ねた。
おかしかった。
付き合いが長くなればなるほど、こういった面が見えてくる。
気を遣っているのだ。
信秀は仲が深まれば深まるほど、相手に気を遣うようなそぶりが
ある。
まるで何かに怯えるように。
とにかくも気を遣われるくらいには、己が大事に思われていると
いうことを知り、レイナは微笑した。
そして、わかりましたと答えたのである。
長い商人としての生活。
レイナの中で、貴族という地位への執着は薄れかけていた。
しかし、信秀が己に与える貴族の仕事は嫌いではない、とレイナ
は感じていた。
どんよりとした空の下に広がる、今にも潰れてしまいそうなおん
ぼろの家屋の群れ︱︱貧民街。
レイナに雇われた者の演説は今なお続いている。
1062
演説は人を集め、人はさらなる人を呼び、やがて道を埋め尽くさ
んばかりの群衆となった。
﹁さあ、皆でフジワラ領に行こう!﹂
演説者が拳を振り上げる。
すると聴衆たちは、曇天を吹き飛ばすような大声で﹁フジワラ領
に行くぞ!﹂と叫んだ。
1063
87.町から国へ、マッチから電化製品へ 4
王都からフジワラ領までは遠く、果てしない。
その距離、およそ五百キロ。
そんな長い道のりを行くために一万二千人という数の民が、各々
数少ない荷物をもって王都を出発した。
そう一万二千人である。
信秀が求めたのは、必要最低限の数である四千に、不測の事態に
備えて二千を加えた六千人。
しかし、実際に集まった人員は、倍の一万二千人であった。
これにはもちろん理由がある。
﹁小国群においてはイニティア王国軍によって兵士ではない者まで
虐殺されたぞ﹂という嘘ではないが、全てを語っているわけでもな
い言葉。
事実はといえば、イニティア王国軍が所属する異種族部隊がある
一都市でのみ暴走しただけのこと。
それ以外ではイニティア王国軍はよく規律を保ち、市民に武器を
向けるなどということはなかったのだが、そのような話を貧困街の
者が知り得るはずもない。
差し迫った命の危険に対し、身持ちが軽いということと、家と仕
事が得られるという物欲が、多くの貧困者をこの行進に参加させて
いたのだ。
さらに、レイナが路上で物乞いしかできない老人の同行まで認め
たため、﹁これはいよいよ、本当ではないのか﹂と貧困者たちは信
用をした。
1064
本来危機的状況にあって真っ先に打ち捨てられるのは弱者。
足手まといにしかならぬ者を連れていくことは、それだけの余裕
があるということだ。
このようなわけもあり、フジワラ領への移民希望者は爆発的に膨
れ上がったのである。
一万二千にも及ぶあまりにも長い列は、ただひたすらに北へ北へ
と進んだ。
時折、雨に降られ、病人が出ることもあったが、体調の悪いもの
はあらかじめ用意された馬車に乗せられたため、脱落者は出なかっ
た。
食糧は簡素ではあったが、全員に配給され、こういった配慮の数
々に、人々は北への安心感を強めていく。
されど人々の北に対する思いとは裏腹に、その歩みはとてつもな
く遅い。
日にわずか十キロの行進。
たどり着くのは一月後か、二月後か。
長蛇ゆえに、先頭が出発し、後続が動き出すのが一時間もあと。
休憩なども挟み、加えて子供や老人も紛れているとなれば、この
行進の遅さも納得ものだといえよう。
救いはといえば、険しい道がなく、また道中でイニティア王国軍
の攻撃がなかったこと。
イニティア王国軍はもちろん、この動きを掴んでいたし、その中
に女王がいるのではと考えていた。
しかし、追撃の部隊を差し向けなかったのは、北に逃げ道がない
からに他ならない。
むしろ北に逃げてくれるのならば好都合。
1065
女王がいない王都を容易く支配下におさめ、さらに女王は逃げ出
したとでも言えば、民心も得られよう、とイニティア王国軍は考え
たのだ。
東方諸国に対しても、よくよく女王が生きていることを知らせる
ため、密偵は見逃すようにしている。
レアニスと小松菜だけは、北と聞いて思うところがあるような顔
をしたが、それだけであった。
イニティア王国軍がドライアドにおける北部以外の全ての地を手
中に収めると、東の守りを前将軍ロベルト・フレルケンが担い、全
体の統括として右将軍リサ・コールハースが王都に入った。
そして北に向かったのはレアニスと小松菜が率いる軍である。
無論、右将軍のリサがわざわざ総司令が辺境に向かうことに苦言
を呈している。
曰く﹁前線に赴くのは配下の務め、総大将は危険のない王都にて
全軍を見渡すべし﹂と。
しかし、レアニスはこう反論した。
﹁私と小松菜は若輩ゆえ、全軍の指揮は経験豊かなリサ殿に頼む﹂
これがリサの逆鱗に触れた。
﹁前線にでも行って、勝手に痛い目にでも見るがいい﹂と言い捨て
て、二度とレアニスに忠告をすることはなかった。
キーワードは﹃若輩﹄と﹃経験豊かな﹄である。
リサ・コールハース。
御歳四十二歳︱︱独身。
若い頃に武芸にばかり励んで、気がつけば出会いがないまま三十
半ばに突入。
1066
これはまずいと焦ってみたが既に時遅く、今日まで男を知らずに
生きてきた女であった。
ちなみに愛読書はオリーブオリーブの婚約破棄シリーズである。
主人公に共感できるのだとか。
◆
︱︱北のフジワラ領へと向かう行列が、王都を発ってから一週間。
その列の中には薫子の姿があった。
貧民街に暮らしていなかった彼女が何故ここにいるのか。
それは、彼女が水魔法の使い手であるからに他ならない。
道中において水は不可欠。
そのためイーデンスタムが、水ギルドに所属する水魔法の使い手
たちを強制的にこの行進に参加させていたのだ。
もっとも集まった水魔法の使い手は半分もおらず、多くは北へ行
くのを拒み、雲隠れしていたのだが。
薫子がいるとなれば、当然、彼女が面倒を見る孤児たちもいる。
薫子と孤児たちは一塊となって、列の後ろの方に加わり、黙々と
足を踏み出していた。
孤児たちが元気であったのは最初だけ。
今は、しゃべる体力すらもったいない。
集団の先頭は年長の者に任せ、薫子は孤児たちの一番後ろを歩く。
全員の様子を常に把握できる位置だ。
ある時、薫子は列のはるか先を見た。
1067
何もない景色がどこまでも広がっている。
先の見えない先に向かって、一列になった人の群れは、道に沿っ
て所々ぐねりと曲がり進んでいくのだ。
不意に、上空から列全体を眺めたのなら、まるで己が身をしなら
せながら前に進む蛇のようじゃなかろうか、と薫子は思った。
まさに読んで字のごとく、長蛇の列。
しかし、蛇にしてはその動きは鈍足だ。
︵この速度なら蛇というよりもミミズかな︶
なんの訓練も受けていない民が歩くのだから、この遅さは当然だ
った。
目的地までに時間はどれだけかかるか知れない、と考えるのは薫
子だけではないだろう。
それにしても、と薫子は思う。
︵蛇にしろミミズにしろ、日本にいた頃なら考えるのも嫌がっただ
ろうに。逞しくなったなあ、私も︶
蛇の、しゅるしゅるとうねるように地を這う姿は、醜悪そのもの。
ミミズだって、地面をうにょうにょと蠢く姿は気持ちが悪いの一
言だ。
しかし今、蛇に対して薫子が胸に抱くのは﹁うまそうだ﹂という
感情であるし、ミミズに対しては、土を耕してくれる益のある生き
物だということだけ。
薫子も逞しさという面では、もうほとんどこの世界になじんでい
た。
なお、さすがにゴキブリだけはこの世界であっても苦手であった
が。
1068
なんにしろこの行進を蛇とたとえた薫子。
皆、息を切らせ、足の皮がめくれ、それでも前へ前へと進んでい
く。
それは、生きるということに、貪欲であきらめることのない人間
の姿だ。
薫子がかつて暮らしていた世界ではあまり見られない、人間本来
の純とした動物的なものを感じさせた。
﹁あっ﹂
前方から聞こえた幼い声。
孤児の一人がつまずいて転んだのだ。
﹁みんな、待って!﹂
動き続ける列の中、薫子の声に反応して、孤児たちだけが止まる。
しかし、立ち止まりはするものの、転んだ者を助け起こそうとは
しなかった。
皆、ヘトヘトに疲れているためだ。
そんな中で薫子が足を速めて、すぐ隣に寄った。
﹁大丈夫?﹂
﹁お姉ちゃん⋮⋮﹂
涙を浮かべて、顔を見上げるまだ十にも満たない少女。
それ以上、堪えるように何も言わないのは、迷惑がかかると感じ
ているからだろう。
1069
﹁ほら、おぶってあげるから。背中に乗って﹂
﹁うん⋮⋮﹂
薫子が少女を背負う。
ずしりとした重みが両足にかかった。
﹁さあ、行こう!﹂
薫子の声を合図に孤児たちも再び歩き出す。
一歩目、二歩目は持ち上げるのも億劫であった薫子の足、けれど
三歩目からはもう平気だった。
︱︱王都を出発してから、もうじき二月になろうという頃。
薫子は足を前に踏み出しながら、どれだけ歩いただろうか、と考
えた。
いや、気がつけば考えている、といった方が正しい。
そして次に考えることは、この先どれだけ歩くのか、だ。
︵こんなことなら、三年前に藤原さんの領地に連れてってもらうん
だった︶
後悔。
あの時、信秀についていかなかったのは、自身には安定した職が
あり、曲がりなりにも生活できていたから。
生活が苦しくとも長く暮らしていた、というのは薫子にとってと
ても大きい。
1070
右も左もわからない、なんの保証もない異世界である。
たとえ同郷の者が誘ってくれたからといって、長い年月を過ごし
た居場所を簡単に捨てることはできなかった。
足が重い。
全身は気だるく、意思とは関係なしに足が動いているようだ。
辛い、と薫子は思った。
しかしそんな時、薫子はいつだって子どもたちを︱︱弟、妹たち
を見る。
泣き言ひとつ言わずに歩いているその姿。
いつもそうだ。
あの子たちがわがままを言ったことなどない。
己よりもはるかに強く生きている。
すると己が頑張らずにどうするのか、と勇気が湧いてくる。
︵私もまだまだ頑張らなきゃ︶
薫子は己を元気づけて、弱気を振り払う。
そんな時だった。
﹁おーい村だ! 村があるぞ!﹂
その情報が、先頭の方から伝達されてくると薫子は喜色が浮かべ
た。
屋根の下で休めるかもしれない。
そんな思いがあってこそ。
下を向いていた子どもたちも、顔を上げている。
後ろからは見えないが、同じ思いなのだろう。
1071
﹁お姉ちゃん、やっと着いたの?﹂
きらきらとした瞳で、子どもの一人に尋ねられた。
違う。目的地は城郭都市だという話だった。
しかし薫子は、ウッと口ごもる。
その少女は、﹃もう、歩かなくていいんだ﹄といったような輝か
しい顔をしていたからだ。
﹁そ、そうね。そうだったらいいね﹂
真実を話すことができない弱い自分を薫子は嘆いた。
やがて一行は村に入っていく。
田畑とぽつりぽつりとした家々があるものの、人の気配はない。
しばらくすると、田畑がなくなり、建物の数が一気に増えた。
その発展具合は村ではなく、町といっていいだろう。
﹁お前たちはこっちだ!﹂
兵士に案内される。
領主の館から連なる大通りに、老人や女子供を優先して家があて
がわれた。
そのため、薫子たちも家に入ることができたのだが、男性に関し
てはあぶれている者もいるらしい。
他にも遠くに行けばいくらでも家はある。
しかし、あまり離れてしまうと出発の際に支障がでるということ
だろう。
﹁手の空いている者は来い! 食事をつくる! 水魔法の使い手も
1072
だ!﹂
家に入ると、休む間もなく外から声がかかった。
﹁ちょっと行ってくるね。すいません、子どもたちを少しお願いし
ます﹂
子どもたちに己が行く旨を伝え、続いてぐったりと床に倒れ込む
ようにしている名前も知らないおばさんに、一応の挨拶をした。
薫子が外に出ると、多くの者が疲れているにもかかわらず、手伝
いに志願していた。
運命共同体である。
皆が苦労を分かち合い、皆で北に行こうという思いが感じられた。
兵士たちに連れられて行った場所は領主の館にある大きな倉庫だ。
そこには無数のジャガイモが積み上げられている。
﹁これ、知ってるぞ! ジャガイモとかいう、新しい食べ物だ!﹂
誰かが声を上げた。
最近になって世に出回ったもの︱︱ジャガイモ。
都ではまだまだ高く、普通の人はなかなか手を付けられない。
薫子の家には、信秀からの使いが、たまに届けてくれた。
今では子どもたちの好物だ。
﹁さあ、まず皮むきからだ! 芽はしっかりとれよ、毒だからな!﹂
兵士の指示の下、皆でジャガイモの皮をむく。
1073
むき上がったジャガイモは塩ゆでにされて、配給が始まった。
﹁やった、ジャガイモだ!﹂
﹁うめぇー!﹂
薫子が面倒を見る孤児たちが顔をほころばせて、ジャガイモをほ
おばった。
﹁おいしいね﹂と、少女が薫子に笑いかける。
﹁そうだね、美味しいね﹂
薫子も疲れを忘れるように、ジャガイモを口に含んで笑顔になっ
た。
翌朝、一行は村を出発する。
今いる場所は既にフジワラ領。目的地まではあともう少しだ。
◆
始まりがあれば必ず終わりがある。
王都よりの長い旅路。
人々が百万歩に届きそうなほど歩いた時、ようやくそれはあった。
﹁あれはなんだ!﹂
はるか遠くに見える人工物に、先頭の兵士が声を上げた。
それに伴い、馬上のイーデンスタムは手を水平に額へと当てて、
目を凝らす。
すぐそばにある幾つかの馬車からは、オリヴィアや、その親族た
ちも顔を出している。
1074
﹁あそこが目的地でございます﹂
先頭の案内人、先の村にてレイナと入れ替わるように合流してい
た、もじゃ髭のペッテルがイーデンスタムに言った。
瞬間、兵士たちの中から、わっという喝采が上がった。
列は先頭の方から勇み足になり、視界に収めた目的地へと向かっ
ていく。
人と人との距離が離れ、段々列が崩れていくが、イーデンスタム
はそれを咎めない。
それどころか、イーデンスタムも気づかぬうちに、馬足を速めて
いた。
あまりの嬉しさゆえのことである。
そして、とうとう都市の全貌を眼前に捉えて、イーデンスタムは
﹁これは、まさか⋮⋮﹂と唸った。
縦の高さはそれほどでもないが、横へと連なる長さは王都の比で
はない。
一辺が二倍以上。奥行きも同等だとすれば、城壁が囲う広さは王
都の四倍以上になるだろう。
﹁尋常ではない⋮⋮こんなものをつくっていたとは⋮⋮﹂
今日までの長い旅路に、どこか不安にも似た疑念が湧き上がって
きたところである。
それを吹き飛ばすような、巨大な城郭都市。
城壁の上には大筒が並んでいた。
しかし、大筒の隣にいるのは、はたして何者であるか。
1075
﹁じゅ、獣人だ! か、壁の上に獣人がいるぞ!﹂
目ざとく見つけた者から悲鳴が上がった。
悲鳴は恐怖となり、蛇が頭から尻尾まで体をしならせるように、
列の先頭から後方まで伝搬していく。
しかしペッテルは冷静な声で、皆を落ち着かせるように言った。
﹁心配いりません。敵意があるのなら、既に攻撃されているはずで
す﹂
確かにその通りだとイーデンスタムは思った。
獣人を使って、この都市をつくったというのなら、獣人がいてし
かるべきなのだ。
大きな筒というのも、説明があった新兵器と合致する。
何もかもがレイナより聞かされた情報通り。
しかし、イーデンスタムの気は晴れない。
遠目でもわかるほどに、獣人たちの面には憎悪の念が色濃く浮か
んでいたからである。
城門が開いた。
迎えに出てきたのは信秀とレイナ。
﹁これよりまず戸籍登録を行う! 家で休むのはそれからだ! そ
のままついて来い!﹂
女王がいるにもかかわらず、気にも留めない物言い。
イーデンスタムは憎々しげに思ったが、大砲と獣人の存在がある
中で、異を唱える度胸はなかった。
1076
列はおとなしく城門の内へと入っていく。
すると、見たこともない景色が広がった。
﹁な、なんだこれは⋮⋮﹂
イーデンスタムが思わず漏らした驚きの声。
城門より続く道幅数十メートルにも及ぶ大通り。これもまた王都
の比ではない。
左右には白い壁の家々が建ち並び、鼠色の屋根が陽光を眩しく照
り返している。
見たこともない建築物だった。
されど均等で洗練された街並みは、感嘆の一言である。
イーデンスタムは、まるで別世界に迷い込んでしまったかのよう
な錯覚を受けたのだ。
いいや、イーデンスタムだけではない。
城内に入った者は皆等しく茫然と立ちすくんでいた。
﹁これを獣人たちが、フジワラがつくったというのか⋮⋮﹂
圧倒されながら、辺りを見回す。
野次馬であろうか、大通りに入らぬように人々が詰めかけている。
そこに獣人はおらず、皆人間だ。
さらに視界を広げると、イーデンスタムはあることに気付いた。
﹁城壁につながる階段がない⋮⋮?﹂
都市を囲む城壁であったが、まさか外側に階段があるわけでもな
し、内側に階段がないというのは不思議である。
1077
ならば獣人たちは、どうやって城壁に上ったというのか。
そう考えて、イーデンスタムはハッとした。
城壁内の都市は、横幅に比べて奥行きがその半分ほどしかないの
だ。
つまり奥には、もう一つ城郭都市が繋がっているのではないかと
イーデンスタムは予感した。
﹁我々は、籠の中の鳥か⋮⋮?﹂
イーデンスタムは悟った。
ここに来て全てが繋がった。
かつて見たあの体を覆った護衛たちの正体。
どういういきさつかはわからないが、ここに来る以前より信秀が
獣人たちとただならぬ仲であったことを。
サンドラ王国を拠点とするポーロ商会。
サンドラ王国が以前、獣人に負けたなどという噂が流れたことが
あったが、誰も信じなかった。
しかしそれは事実であり、ポーロ商会が関わっていたのだろう。
理由もそのいきさつもわからないが、信秀はここに獣人の住処を
つくろうとやって来たのだ。
だがそれを知ろうとも、イーデンスタムにはもはやどうすること
もできない。
己はもう無力な避難民でしかないのだから。
1078
87.町から国へ、マッチから電化製品へ 4︵後書き︶
次回は、信秀が何をしていたかの話です。
私事になりますが、書籍をご購入してくださった方々、本当にあり
がとうございました。
Twitterなどをやっておりませんので、この場を借りてお礼
申し上げます。
1079
88.町から国へ、マッチから電化製品へ 5
フジワラ領の概ね中央に存在する、地図にも載っていない城郭都
市。
広さは四平方キロメートルにもおよび、王都ドライアドにも劣ら
ない大都市であるといっていいだろう。
その大都市の中央を走る大通りを、万を超える人間がずらりと並
び、列をつくっている。
当然、ワイワイガヤガヤと大層な騒ぎになっており、やかましい
ことこの上ない。
そのため列外では、人々のやかましい声にも負けず、列の統制員
が大きな声を上げていた。
行列の先頭にあるのは、役所となっている大きな屋敷だ。
役所の中では、ポーロ商会の者が臨時の役人となって移民一人ひ
とりに応対し、流れるような作業で移民たちの戸籍をつくっている。
それを端の方から見つめている男がいた。
この都市の支配者、藤原信秀である。
﹁とりあえず、間に合ったか﹂
信秀は安堵するようにぼそりと呟いた。
この戸籍づくりは、︻町をつくる能力︼における﹃時代設定﹄を
﹃現代﹄にするための必須事項。
イニティア王国軍に対し、﹃現代﹄にすることを防衛計画の基盤
に組み込み、信秀はこれまでやって来たのだ。
1080
今ここに移民たちがたどり着けなければ、今日までのおよそ二カ
月にも及んだ準備は、半ば水泡に帰すというものある。
﹁今日までの苦労も報われるというものだ﹂
そう、二カ月の準備。
信秀はその苦労を思い出していた。
話は、およそ二カ月前にまで遡る。
◆
レイナが使者として王都に向けて出発した日。
俺はすぐに、狼族たちの暮らす町へと向かった。
何故か。
﹃本拠地﹄を変更するためである。
では、何故﹃本拠地﹄を変更するのか。
これには少々説明が必要だろう。
イニティア王国軍がフジワラ領を占領するにあたって目標とする
のは、領主の館がある村︵町と呼べるまでに発展しているが、便宜
上村とする︶であることは、言うまでもないことだ。
されど、これを防衛することは難しい。
防衛体制などまるで考えず、ただ人が増えるままに、発展してい
った村であるからだ。
無論、︻町をつくる能力︼を使えば、速やかに城壁や塹壕などの
防衛設備を整えることはできる。
だが俺は、万能ともいうべき能力の存在は晒すべきではないとし
ていた。
1081
敵であれ味方であれ、己の価値を知った者がはたしてどのように
動くのか。
そう考えた時、ゾッとする結果しか浮かばないのだ。
己の能力を知る者は、狼族のみ。
こればかりは決して譲れぬことであった。
また、村の防衛設備が不十分であるという以外にも問題はある。
それは、人。︱︱防衛のための兵だ。
戦うべき兵の存在がなければ、城壁や塹壕をいくらつくったとこ
ろで、それらは張りぼてと同然だろう。
かといって領民を徴兵し、兵に仕立て上げるというのは無理があ
る。
にわか仕込みの素人兵が、ここまで連戦戦勝を繰り返してきたイ
ニティア王国軍に勝てるとは思われない。
ならば、この時代にはない次世代の武器を用いて彼我の戦力差を
埋めよう、という考えもあった。
しかし、それはもろ刃の剣。
逆に次世代の武器を使って裏切られるかもしれないという危惧が、
俺の中には存在した。
領民に対し、信用に値する確固たるものがなければ、そのような
手立てをとることなどできようはずもない。
つまり俺が持つ現有戦力は、本拠地に住む三百にも満たない狼族
のみといってよかった。
では彼らを領主の館がある村に派遣し、防衛する?
フンっと鼻で笑ってしまうほど、馬鹿げた案だ。
1082
次世代の武器があろうとも、それを扱う者の数が少なすぎる。
相手が大砲を持っているとわかった以上、狼族たちだけでは少々
手に余るというものだ。
そもそも、ただでさえわずかな狼族に対し、俺は女性や子どもは
戦いに参加させたくないと考えていた。
彼女たちが戦う時が来るとすれば、狼族に対しての直接的な危機
のみであろう。
女性や子どもは宝。
狼族の人口を増やすのに一人でも多くの女性が必要だし、子ども
は未来にて中核をなすべき存在だ。
さて、﹁何故﹃本拠地﹄を変更するのか﹂という最初の問いに戻
る。
この答えは、これまでに羅列してきた﹁現在の俺に何が必要か﹂
を考えれば、自ずと見えてくるであろう。
俺が必要としているものとは、防衛陣地および、裏切ることのな
い次世代の武器を扱う兵。
それらを一気に得るにはどうすればいいか。
簡単なことだ。
今ある﹃本拠地﹄を変更し、人間の村も、北の森の集落もなくし、
獣人も人間も一か所にまとめた大都市をつくればいいのである。
さすれば、新たな城郭都市によって防衛陣地は築かれる。裏切る
ことのない次世代の武器を扱う兵も、敵が人間である以上、ある程
度の信用ができる北の森の獣人たちを得ることができる。
まさに一挙両得。
加えて、王都からの移民によって﹃時代設定﹄を﹃現代﹄にまで
1083
跳ね上げさせる。
まさに一石二鳥どころか、三鳥四鳥を得る考え。
これこそが俺が﹃本拠地﹄を変更する理由。さらには、これから
俺が実行するべき計画であった。
俺は、まず本拠地に行き、狼族たちを︻D型倉庫︼の前に全員集
めて現在の状況の説明を行った。
﹁イニティア王国の軍がこのドライアド王国に攻め込んだ。残念な
がら、我が国は劣勢。そう時もかからずに、イニティア王国軍は我
が領地にも踏み込んでくるだろう。逃げ隠れても、いずれは見つか
る。我々は戦わなければならない﹂
戦争が起こる。
これに誰も不満な顔を見せなかったのは、これまでの人間との戦
いで得た自信、さらに今日まで訓練してきた銃の存在に依るところ
が大きいだろう。
しかしその次の言葉︱︱。
﹁新たな都市をつくり、人間と共にそこに住まう。了解してほしい﹂
これには皆、快くない色を浮かべた。
ジハル族長ですら、眉間にしわを寄せて、難しい顔をしている。
だがそれは、人間と共に暮らすことに対してではない。
ある狼族の若者が言う。
﹁あの、防衛の時だけ私たちが行くというのはダメなんですか⋮⋮
?﹂
1084
言わんとすることはわかる。
ここを離れたくないのだ。
これまでに彼らは二度住みかを変え、三年を超える月日をこの地
で安息に過ごした。
皆、ここを理想郷として、骨を埋めるつもりだったのだろう。
﹁⋮⋮すまないが、それでは万事に対応できない﹂
敵の奇襲、内側からの乱。
突然起きる不測の事態に対応する時、狼族たちには傍にいてもら
わなければならない。
それらを説明すると、皆は仕方がないという表情になった。
また、他にも様々な質問が飛んだ。
敵軍のこと、新たな住処のこと、共に住む人間たちのこと。
俺はその全てに、納得のいくよう説明をした。
やがて狼族たちは、平穏を得るために何が最善かを理解していく。
翌日は、全員環境整備。
それが済んだら、財産の全てを俺に譲渡する旨を書いた書類にサ
インしてもらった。
さらに次の日の朝、町を出る準備ができた皆の前で、俺は最後に
︻売却︼を行った。
家が、町が、大地に沈んでいく。
これで二度目。
茫然としている者に、瞳に涙を浮かべている者。
狼族たちは思い思いの表情で、消えゆく町を眺めていた。
1085
この時ばかりはカトリーヌも外に出して、町の終わりを見届けさ
せている。
しかしカトリーヌはぱちくりと瞬きしたあと、大きなあくびをし
てそのまま腰を沈めて居眠りを始めてしまった。
色々と台無しだ。
まあ、彼女はずっと倉庫の中にいたから、特に何の思い入れもな
いのだろう。
なんにせよ、長く住んでいた場所との別れ。
町を残しておくことを考えなかったわけではない。
だが、それでは皆、次に進めないだろう。
これは必要なことなのだ。
﹁さあ、感傷は終わりだ! 全員乗車!﹂
目指すは東、フジワラ領にあっては中央に位置する平原。
俺たちを乗せた十を超える車両の列は、新天地へと向かった。
フジワラ領のおよそ中央。
土壌が痩せているためか、草が疎らにしかに生えていない、特に
珍しくもない平地。
そこで俺たちは車両を停めた。
俺は装甲車の運転席から下りて、地図を眺めながら辺りを見回す。
ここだ、と思った。
周囲の見晴らしはよく、敵がどこからやってきても一目瞭然。
近くには川もあり、城郭都市をつくるにはうってつけの場所とい
っていい。
1086
俺は満足しつつ、トランシーバーを手に持って言う。
﹁全員下車。ここに町をつくるぞ﹂
各車運転手が後板を下げ、後部座席に乗っていた者たちが次々に
下りていく。
キャッキャッという子どもの元気な声が聞こえた。
どうやら前に住んでいた家を失っても、それほど堪えているとい
うわけではないかもしれない。
いいことだ。
四方に人がいないかよく確認させ、その後は全員に休憩を与え食
事をするように言った。
食事のメニューは、︻ヒレカツ弁当︼だ。皆には、せめておいし
いものを食べてもらって、その心を癒してほしい。
ただし俺は食事をあとにして、一人能力とにらめっこ。
俺は﹃町データ﹄を呼び出し、下部コマンドから︻町づくり︼を
選ぶ。
今更説明の必要もないと思うが、この︻町づくり︼は、建物を一
つ一つ建設していくという面倒な作業を簡略化するためのもの。
眼前には本拠地周辺の立体地図が現れ、それに付随して文字が表
示される。
︽これよりシミュレートを開始します。範囲を選択してください︾
ここに来るまで、俺はどのような都市をつくるかをずっと考えて
いた。
人間と獣人、いきなり混じりあわせてもうまくいくはずがない。
1087
人間は獣人に対し下等であるという認識を持っているし、逆に獣
人は人間に対し憎しみを持っている。
まあそれに関しては、戦いのあとにでもゆっくりと交流を深め、
軋轢を解消していくということでいいだろう。
可能かどうかはわからないが。
とにかくも今は差し迫った危機に対処することが最優先。
それゆえこれからつくる都市は、人間と獣人との問題を起こさぬ
よう住居を別々にしなければならない。
﹁うーん﹂
どれくらいの大きさにするべきか。
二キロ四方⋮⋮は大きすぎるか。
大きいということにはロマンがあるが、兵の数を考えるべきだろ
う。
城郭を広げれば広げただけ、守るべき範囲が増える。
つまり戦う者が足りなければ、守りが薄くなるのだ。
﹁一キロ四方。王都と同じ程度でいいか。ついでに真ん中に境目を
設けて、と﹂
ぶつぶつと独り言を呟きながら、目の前のパネルを操作する。
すると目の前の立体地図に城壁が浮かび上がった。
一キロ四方の城壁。真ん中には獣人が住む区域と人間が住む区域
を隔てるための壁を用意した。
﹁これだけでは隔てたことにはならないか。俺が狼族と共にいるこ
1088
と、さらに獣人と人間の数の差、大砲などの武器を城壁に設置する
ことを考えたら、城壁には人間に上らせるわけにはいかないな﹂
俺は人間区域の城壁から階段を取っ払った。
<i210201|18564>
次は住居。
さあ、これが問題だ。
かつてのサンドラ王国の南の町では、およそ五百メートル四方の
敷地の中に六五八戸。
今回人間が住む区域は幅一キロメートル、奥行き五百メートル。
単純計算で当時の二倍であるから、家の数も一三一六戸。
はっきり言って、一万人が住むには到底足りない。
では同じ広さの王都では、何故城壁内に何万人もの人々が住めた
のか。
これは家と家の間隔が狭かったこと。加えて平屋ではなく、多重
階層の家ばかりであったことが理由に挙げられる。
ならば、俺もそのようにすればいいのではないかと思うかもしれ
ないが、そうはいかない。
王都の建物は、火災に強い煉瓦造りや石造り。
対してこちらが︻購入︼できる物は、火災に弱い木造しかない。
多重階層にするのは可能だが、それだけでは足りず、家と家との
幅を狭めてしまえばいずれ大火事に見舞われるだろう。
悲しきは、日本の物しか買えないという我が能力の不便さか。
﹁うーん、これもダメか﹂
1089
俺は立体映像の城郭内で、家を色々と動かして試行錯誤をするが
どうもうまくいかない。
というか、圧倒的に広さが足りない。
うーむ。やはり城壁は二キロ四方にするか。
城壁の上に櫓をいくつも立てて、そこに重機関銃でも設置してお
けば、守りの薄さもカバーできるだろう。
そういうわけで、城壁が囲う広さを二キロ四方にして家を建てて
いく。
また獣人が住む区域よりも、人間の住む区域の方を大きくしてお
いた。
﹁よし﹂
指を忙しなく動かし遂にできあがった。
はっきり言って、会心のできだ。
<i210203|18564>
俺は画面の隅にある︻完成︼というパネルに触れる。
︻この町を購入しますか︼︻はい/いいえ︼
もちろん、︻はい︼だ。
ズズズという地鳴りのような音がして、大地から土がせりあがっ
ていく。
既に食事を終えた狼族たちがそれを眺めているが、驚く様子はな
い。
もう皆も慣れたもので、そのうちに日本語の勉強を始めたり、D
1090
OKATA−×DOKATA−の単行本を読み始めたりと、思い思
いの時間を過ごし始めた。
それにしても、かつてないほどに高い買い物だった。
︻石垣︼︻幅二キロメートル、奥行き二キロメートル︼︻高さ十メ
ートル︼1200億円
︻住居︼︻四六三二戸︼237億9200万円
︻旅館など特殊建設物︼8億1500万円
︻下水など公共施設︼143億2340万円
これらに加えてカトリーヌのための︻D型倉庫︼や俺の家とその
設備。︻四斤山砲︼なども買ったのだから大変な出費だ。
元々の︻資金︼はおよそ1兆3800億円。
そして現在の︻資金︼は1兆2009億6966万円。
しかしこのうちの1兆円は﹃時代設定﹄を﹃現代﹄にするために
しか
というのも贅沢な話だが。
使うものであるから、実際に俺が自由にできるお金というのは約2
009億円しかない。
いや、初期の頃を考えると、
なんにせよ今は町ができあがるのを待つばかり。
俺は、ようやく己の食事に取り掛かった。
︱︱数時間後。
馬運車でカトリーヌと戯れていると、音が鳴り止んだ。
外に出てみれば皆、新たな町にソワソワしているようである。
﹁よし、全員乗車。町に入るぞ!﹂
1091
﹃はい!﹄という元気のいい声が聞こえ、皆は弾むような足取りで
乗車した。
車列は、俺が運転する装甲車を先頭にして、南より城郭内へと入
っていく。
そこには、まさにザ・日本とでもいうような景色が広がっていた。
大通りには商店街が広がり、旅館など特に見栄えのいい建物が揃
っている。
シミュレーションで先にどんなものができるか知っていたが、や
はり実際に見るのとは段違いだ。
大通りを抜けて、獣人たちの住む区域に入る。
そこにある、ほぼすべての住宅は懐かしの土蔵造。
防寒に関しては、﹃現代﹄になり次第、魔改造を施してやろうと
思う。
さらに、獣人の住む区域には、当然、俺専用の特別な場所を設け
てある。
誰に気を遣うこともなく能力を行使できる他とは隔絶した空間。
俺とカトリーヌの住処だ。
﹁全員下車﹂
各車に下車の指示を与えると、車より下りた者から感嘆の声が聞
こえてきた。
懐かしさに誰もが、感動している。
かつて過ごした、あの砂漠に近き町を思い出しているのだろう。
とりあえず、町の出来栄えに対しては誰も不満がないようで一安
心だ。
1092
新たな﹃本拠地﹄についてはこれで終わり。
︻四斤山砲︼も設置済み。
あとは、北の森の獣人たちの協力を取り付け、彼らに四斤山砲の
訓練をしてもらうだけ。
︱︱と言いたいところであるが、まだやるべきことがある。
もうこれを言うのは何度目になるかわからないが、相手は大砲を
持っているのだ。
聞いた範囲では、︻四斤山砲︼の方が性能は上だろうと思われる。
それに城壁という上方の利もあれば、やはりこちらが有利。
しかし、勝利条件がこちらと相手では違う。
はっきりいって、こちらは死者を出すわけにはいかない。
これは誰かの死を悼んでのことではない。
いや、誰一人として死なせたくないという思いはある。
だがそれよりも、戦力の補充がきかないという意味で、死者を出
すわけにはいかないのだ。
戦闘に加わる者が全員獣人。
このあと、北の集落へも行き協力を仰がなければならないのであ
るが、彼らが加わったとしてもその数はまだまだ少数。
その少数を失うわけにはいかない。
だから、失わないためにやれることはやって置こうと思う。
﹁アザード!﹂
﹁は、はい!﹂
1093
俺が呼んだ名は、狼族の中で最も頭のいい狼顔の青年のものだ。
﹁イバン、リッカ、ジーム︱︱﹂
さらに学業で成績がいい者の名を呼び上げていく。
中には女性もいるが、こればかりはしかたがない。
彼らが俺の前に出る。
俺はある︻兵器︼と、その︻教本︼を︻購入︼した。
︻兵器︼の値段はおよそ1000億円︵定価10億円︶。
今は一台が限度のその︻兵器︼。しかし、現代になれば幾らでも
︻購入︼できる。
﹁なんとかして、これを使いこなせるようになれ。使いこなせるよ
うになったら、教官として他の者たちを指導してもらう﹂
イニティア王国軍がこの領地にやって来るまでのタイムリミット
はどれほどか。
一カ月、いや二カ月近くはかかると思っている。
これは一種の賭けだ。
もし移民がここまでたどり着けたのなら、﹃時代設定﹄は﹃現代﹄
となる。
そうすれば、およそ1000億円のこの現代兵器は10億円とい
う本来の値段になり、大量に︻購入︼できる。
とはいえ、航空機のような高度な技術を要する兵器は︻購入︼し
ても意味はない。
ならば、対人地雷でもと思い、探してみたがこれも存在しなかっ
た。
1094
日本では製造されたことがなかったのか、それとも製造されてい
たが、現代では製造されていなかったか。
どちらにしろ、ない物はないのだから、執心するのも馬鹿らしい。
そこでこれ。
以前より目をつけていた。
関連書籍を読んでみたが、運転自体は簡単だという。
あとは彼らがこの︻兵器︼を十全に使いこなせるかどうかだ。
1095
88.町から国へ、マッチから電化製品へ 5︵後書き︶
すみません、遅くなりました。
前回と前々回の誤字修正を送ってくださった方々、重ね重ねすみま
せん。
まだ修正できておらず、修正は明日以降になりそうです。
次回は普通に投稿できると思います。
1096
89.町から国へ、マッチから電化製品へ 6︵前書き︶
時系列としては前回の続きから。
移民が到着するまでの間の話です。
1097
89.町から国へ、マッチから電化製品へ 6
空には雲がかかり、無数の雨を大地に落としている。
どしゃどしゃと屋根を打ちつける雨音はやかましいほどに激しい。
その反面、ぽつぽつとした音も俺が今いる部屋から聞こえてくる。
雨漏れの音だ。
これはおかしい。
能力でつくった家は、完全無欠。それがたとえ江戸時代のもので
あろうとも、安値のものでなければ、そんな欠陥住宅のような雨漏
りなどしないはずである。
つまりそこは、俺がつくった家の中ではないということだ。
牛、豚、鼠、狼、蜥蜴。そして耳の長い、人間に似かよった顔。
それらが今、俺の目の前にある顔。
もはや語るべくもない。そこは北の森の集落にあるエルフ族の族
長の家。
現在俺は、族長衆と火を囲んで膝を突き合わせているところであ
った。
﹁さあ、遠慮せずにやってくれ﹂
俺が勧めたのは、それぞれの前にある上等な酒と肉。
もちろん俺が持ってきたものだ。
しかし彼らは手をつけず、戸惑うような、それでいてチラチラと
俺の方を見て疑わしそうにしていた。
1098
不審の正体は俺。
何故俺がここにいるのか、だ。
当然、その理由は防衛の協力を取り付けるためであるのだが、彼
らはそれをまだ知らない。
加えて、これまで俺という人間はあまり彼らの前に姿を現さなか
った。
物品の受け渡しの際、数度、集落の外で何人かの族長に会ったく
らいだ。
それが今、機嫌を取るように酒と肉をもって、わざわざ集落の中
にまでやって来た。
物品の受け渡し時期でないにもかかわらず。
だからこその、彼らの不審である。
﹁お前たちの疑問は正しい。俺がここにいるのは、大きな理由あっ
てのこと﹂
俺が言うと、一人欲望に負けて酒を飲もうと手を伸ばしていた、
この集落での狼族の族長ザーザイムが、ビクリと肩を震わせた。
他の族長衆にもザワリとした動揺が見て取れる。
﹁どういうことだ﹂
威勢がいいのは、牛族の族長。
その隣でも、豚族の族長がこちらを見定めるように目を細めてい
る。
﹁人間の軍が攻めてくる﹂
1099
﹁貴様! 裏切ったのか!﹂
俺の言葉を聞いて、牛族の族長がいきり立って腰を上げた。
豚族の族長も同様だ。
彼ら二族長とは顔を合わせたことはなかったが、なるほど、聞い
ていた通りの性格のようである。
俺はといえば、慌てることもない。
俺の後ろでは状況の変化に合わせて、衣擦れの音が聞こえていた。
護衛の狼族が二人、拳銃を構えたのであろう。
だが俺が冷静であるからと言って、この状況が好ましいのという
わけではない。
争いに来たのではないのだ。弁解が必要だろう。
﹁勘違いをするな。確かに敵軍が攻めてくる。では、どこに? 我
がフジワラ領に、だ。この集落を直接的な目標としているのではな
い。
いいか。西の大国イニティアが、このドライアド王国に攻め込ん
だ。イニティアの軍は強く、ドライアド王国はじきに滅ぼされるだ
ろう。当然このフジワラ領にもイニティアの軍はやってくる﹂
俺はあくまでも余裕の態度。
イニティア王国軍の侵略がなんでもないことのように装って説明
する。
対する族長衆は等しく面上を蒼白に変えた。
俺の説明に怒りのぶつけどころを失えば、必然、彼らは現状の危
機に向き合わねばならない。
1100
人間の軍がこの地にやって来るという己の置かれた状況を直視し、
その結果、顔面を青くしたということだ。
俺は続けて言う。
﹁戦う準備はできている。協力してくれ﹂
声に抑揚をつけないように努めた。
協力を取り付けるためには、一か八かの戦いだと思われてはなら
ない。
まず勝てる。
そう思わせることが、大切なのだ。
﹁か、勝てるのか﹂
声を震わせたのは、エルフ族の族長。
﹁お前たちが我らの持つ武器を使えば﹂
﹁ぶ、武器とは⋮⋮?﹂
﹁知っているだろう。かつてお前たちの前で実演してみせた大砲。
金属の筒にて、遠く離れた敵に多大な損害を与えるあの武器だ﹂
﹁あれを⋮⋮我らに⋮⋮﹂
一同は唸った。
武器が与えられるその意味を噛み締めるように。
しかし、よからぬことを考えられてもらっても困る。
1101
武器とは力。
力を得れば手段が生まれる。
かつての町でも、そうだった。
あの時あの場面で裏切られたのは、そこに武器があったことが一
つの要因である。
﹁いいか、戦う相手を間違えるなよ。誰が敵で誰が味方か。これを
よく考えるんだ﹂
俺は、釘を刺すように言った。
失礼に取られるかもしれないが、しかし彼らにも心当たりはあっ
たのだろう。
ハッと目が覚めたような顔をする者が幾人かあった⋮⋮というか、
まあ、その幾人かは牛族の族長と豚族の族長に、あとは狼族の族長
ザーザイムなのだが。
﹁領内が一つになってことに当たる。南に巨大な都市をつくった。
そこに人間も獣人も皆が一つに集まり、イニティア王国軍に対抗す
る。今の平和を望むなら、お前たちにも協力してもらうぞ﹂
﹁人間と一緒に住む? 馬鹿な﹂
それを口にしたのは鼠族の族長だ。
この男は族長衆の中でも頭を使おうとする印象がある。
エルフの族長もそうであるのだが、鼠族の族長はより顕著だ。
こういう者はやりやすい。
感情よりも思考で物事を判断する。
しっかりとした勝ち目を提示すれば、必ずや他の族長に働きかけ
1102
てくれるだろう。
﹁馬鹿なものか。いいかよく聞け。
二キロ四方の城壁で囲った城郭都市。内にはもう一枚の城壁をも
って都市を南北に二分する。北は獣人の住処、南は人間の住処。
住人は人間の方が多い。だからこそお前たちに武器を持たせ、人
間には武器を持たせない﹂
﹁ふむ。人間には武器を持たせない。つまり戦うのは我々だけとい
うことか。しかしそれでは、人間のために我々が矢面に立つような
ものではないのか?﹂
﹁是とも言えるし非とも言える。
俺がもつ武器は最新かつ強力。そんな武器を預けるのは、信頼で
きる相手でなければならない。はっきり言おう。俺が一番信頼して
いるのは、ジハルたち狼族だ﹂
別に驚くことでもない。
これは、目の前の族長衆もよく知るところだ。
なお、お前のことを言ったわけではないのに、何故かどや顔をす
る同じ狼族の長ザーザイム。
それに気づいた隣の蜥蜴族の族長が、イラッときたのであろうか、
ザーザイムの太ももをつねりあげるのを俺は目撃した。
部屋に、ザーザイムのすっとんときょうな悲鳴が轟き、﹃突然ど
うしたのか﹄﹃大事な話の腰を折るな﹄と言わんばかりに、侮蔑の
視線がザーザイムに集まった。
﹁す、すまねえ、話を続けてくれ﹂
1103
ザーザイムは赤面して謝罪すると、蜥蜴族の族長に恨みがましい
目を向けるが、蜥蜴族の族長は素知らぬ顔である。
﹁いいか、続けるぞ。俺が一番信頼しているのはジハルたちの部族。
しかしジハルたちだけでは、武器を扱う人数が足りない。ならば、
次に俺が信頼すべきは人間かお前たちか、ということになる。さあ
ここで問題だ。これから行われるであろう戦いにおいて、人間に武
器を渡せばどうなるか﹂
族長衆は、難しい顔をした。
自分達に武器が向けられる光景を脳裏に浮かべてでもいるのだろ
う。
﹁人間は数が多い。その上、敵方も人間。寝返られでもすれば、厄
介なことこの上ない。
逆にお前たちに武器を渡した場合どうなるか。
裏切って、俺に刃を向けるか? それでどうする? 人間である
イニティアの軍につくのか、それともイニティアの軍とも戦うのか
? ふっ、俺とジハルの部族を抜きにして、イニティアの軍と戦え
るとは思えない。いやたとえその場は凌げようとも、その後にやっ
て来る別の人間の軍にまで対処できはしまい。
では人間に下るのか。それこそ本末転倒だ。俺を裏切る意味がな
い﹂
﹁なるほど。ならば聞こう。この戦いが終わってからも我らが裏切
らないのであれば、武器は我らのみに与えるということか?﹂
鼠族の族長はくりくりとした愛らしい瞳で、射貫くように俺を見
つめた。
1104
﹁⋮⋮それはわからない。人間の脅威は
数
。対抗するためには、
同じく人間の協力が必要になるかもしれないからだ﹂
﹁それなら、大陸中の人間ではない者たちを集めれば!﹂
いいことを思い付いたとでもいうように、俺と鼠族の族長との話
に割って入ったザーザイム。
これには牛族と豚族の族長も同意して、そうだそうだと頷いた。
確かにそれは悪くない案だ。
しかし︱︱。
﹁今度攻めてくるイニティア王国の軍には獣人の部隊があるそうだ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁言おうかどうしようか迷ったが、いざ戦いの場で出会って、士気
を落とされても困る。
今回の戦い、確かに敵は人間の国であるが、その中に獣人がいる
かも知れないことを念頭に置いてほしい﹂
﹁な、何故! 何故獣人が人間の味方をしているんだ!﹂
信じられるか、という思いが伝わってくるザーザイムの叫び。
人間は敵。手を繋ぐことなど考えられないといったところか。
とはいえ、俺も人間なんだが。
﹁そこまではわからない。無理矢理戦わせられているのか、自らの
意思で戦っているのか﹂
1105
﹁馬鹿な! 人間のために自ら戦うなど!﹂
﹁イニティア王国は大陸の支配を目論んでいる。﹃それが成就した
暁には豊かな土地をくれてやる﹄とでも言われれば、獣人たちも参
加するのではないか?
イニティア王国側が、約束を守るかどうかは別としてな﹂
﹁そんな⋮⋮信用などできるわけないだろう⋮⋮何をやっているの
だ⋮⋮﹂
ザーザイムはうなだれながら、敵側にいる獣人たちに向かって恨
み言を吐いた。
﹁その者たちをこちら側につけることはできないのか?﹂
﹁機会があれば考えてみるが、そもそも実際に相対するのが獣人た
ちだと決まったわけではない﹂
再び口を開いた鼠族の族長に、答える俺。
﹁では、戦場で出会った場合、相手にはこちら側につくよう交渉す
るということか﹂
﹁いや、そうはしないだろう。こちらに引き込み、内側から乱を起
こされては困る。戦場だ。敵として容赦はしない﹂
﹁ならば、今回の要請。獣人と獣人の共倒れを狙ったフジワラ殿の
策ではないとは言い切れまい。まずは我らを犠牲にし、その上で領
内の人間と協力して、イニティアの軍を討つという算段なのではな
いのか?﹂
1106
鼠族の族長の言葉に、他の族長衆も目端をつり上げた。
確かにそう考えるのは何もおかしいことではない。
そして、その考えは間違っていると証明する術も、ここにはない。
しかしここに証明する術がないのならば、それがある場所へ行け
ばいいのだ。
﹁とりあえず、新たな都市というのを見てからでも遅くはないだろ
う。
お前たちの部族全員が住む家も用意してある。
また、その防衛設備を見れば、俺がお前たちを捨て駒にするつも
りのないことが、よくわかるはずだ﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
鼠族の族長がエルフの族長を見た。
答えはエルフの族長に任せるということだ。
他の族長たちも、族長衆の中でリーダー格ともいうべきエルフの
族長に視線を送っている。
﹁わかった! 見てやろうじゃないか!﹂
だが、立ち上がってそれを口にしたのはお調子者のザーザイム。
ザーザイムは蜥蜴族の族長に太ももをつねられて、ギャアと悲鳴
をあげた。
1107
90.町から国へ、マッチから電化製品へ 7
信秀との話し合いにて決まった、城郭都市の視察。
参加者は、族長衆全員。
敵がいつ来るかはわからないとのことで、視察のための行動はす
ぐさま起こされた。
﹁おお、すげえ! 後ろの景色があっという間だ! こんな重たい
ものがこんな速度で走るのか!﹂
城郭都市へと向かうトラックの荷台。その一番後ろにて、雨粒を
避けるために下ろされた幌の隙間から、ザーザイムが顔を覗かせて
はしゃいでいる。
他の族長衆も騒ぎこそしていないものの、左右の幌の隙間から顔
を並べ、その顔は興奮に満ちていたといっていい。
なにせ初めての四輪自動車である。
それも、信秀たちと関わるまでその存在を知らず、また、同じ獣
人であるジハルたち狼族が乗り回していたこともあって、その憧れ
はひとしお。
興奮しない方がおかしいのだ。
族長衆は暫しの間、初めてのトラックというものを楽しんでいた。
しかし、本来の目的を忘れたわけではない。
一頻りトラックの乗り心地を堪能すると、全員一旦座席につき、
今後のことの合議に入った。
﹁どう思う皆の衆﹂
1108
族長衆しかいない後部座席にて、エルフ族の族長が皆に向かって
尋ねた。
その趣旨は言わずともわかるというもの。
すなわち、信秀の提案に乗るかどうかということだ。
﹁⋮⋮戦いに参加せず、現状を維持するのも手だと思う。もし我ら
の住む森まで敵の軍が侵そうというのなら、北へ逃げればいい話だ。
わざわざ北まで追いかけてくることはないだろう。苦しい生活を強
いられるだろうが、人間と戦うことのほうが、失うものが大きいよ
うに思う﹂
まず答えたのは蜥蜴族の族長。
知は鼠族の族長やエルフ族の族長に及ばず、勇は牛族の族長と豚
族の族長に及ばない。
されど能力が大きく劣るというわけでもない。
いわば平均的。
それゆえに無難な考えを蜥蜴族の族長はよく口にする。
﹁俺はもう逃げるのはゴメンだ﹂
﹁俺もだ。性に合わん﹂
牛族の族長と豚族の族長が口にした言葉は、答えとしてはあまり
に不十分だった。
しかし、その感情の先を読み取れば、信秀に協力するという考え
に行きつく。
戦いに参加する。
勇を誇る、実に二人らしい答えであった。
﹁俺は、あのフジワラを信じてもいいと思う。あいつには今まで何
1109
もされなかったどころか、色々と世話をしてもらった。
今の俺たちの境遇は人間によるものだが、あいつは少し違う気が
する﹂
狼族の若族長ザーザイムの答え。
まだ若い彼は、何もかも足りてないが、時折ハッとする意見を言
うことがある。
その意見は決して優れているというわけではない。
だが、若さゆえの純粋な正しさがあった。
﹁お主はどうだ。鼠族の﹂
エルフ族の族長は、最後に鼠族の族長に聞いた。
短慮が多い獣人たちの中で、唯一冷静に考える種族。
獣人と一緒くたにされることはあるが、決して獣人ではないエル
フ族の族長をして、己よりも頭がいいと思ったのがこの鼠族の族長
だった。
﹁三年間、フジワラが不義理を働いたことはなかった。長く狼族の
者を傍に置いているというのも高く評価できる。また、奴は人間と
いう言葉をよく使うが、その中に自身を含むことはほとんどなかっ
た。
フジワラは他の人間とは違うと考えていいだろう。
もちろん、簡単に信用するわけにはいかない。我らに施したのも、
今のところ
は話に乗るべきだと私は思っている。
まさにこんな時のためであるのかもしれないしな。
しかしだ、
武器についても学ぶことができるのだ。我ら六部族が飛躍できる、
またとない機会かもしれない﹂
﹁そうか、これで意見は出そろったな。ちなみにワシはフジワラの
1110
提案に乗るべきだと思っている。
だがあくまでも決めるのは、奴の言うその都市というのを見てか
らだ。それで、フジワラの我らに対する扱いを見極める﹂
エルフ族の族長の決定に他の族長たちは、﹁うむ、それでいいだ
ろう﹂と頷いた。
合議で決定したことを、それぞれが蔑ろにすることはない。
彼らが種族を超えてこれまで協力してこれたのは、よく話し合い、
その答えを尊重するという体制がしかと取られていたからに他なら
ないのだ。
なお、この話し合いの様子が信秀に盗聴されていることは、科学
を知らぬ彼らには及びもつかないところであった。
信秀の運転する装甲車と、族長衆を載せたトラックが北から南へ
と野を駆ける。
雨は次第に弱まり、視界も晴れていく。
やがて雨が止んだ頃、二台の車両は停止して、トラックの後板が
下された。
﹁着いたぞ。北門の少し手前だ。まずは外から都市を眺めてみてく
れ﹂
それに従って下車していく族長衆。
下りた者から順にその顔は驚きに染まっていった。
﹁こ、これは⋮⋮!﹂
最後に下りたのはエルフ族の族長。
1111
その目は、大きく見開かれた。
族長衆の目に映ったもの。
それは己が如何に矮小であるかを自覚させられるような巨大な城
郭都市である。
﹁お前たちの住む予定の都市だ。どうだ大きいだろう﹂
信秀は自慢するように言った。
でかい。確かにでかい、とエルフ族の族長は思った。
二キロ四方、と信秀からは聞かされていた。
だが、数字と己の目で見たものとはまるで違う。
これまでに本格的な城郭都市を見たことはない。
しかしそれにしたって、二キロ四方の城郭都市とはこんなに大き
いものなのか、とエルフ族の族長は絶句したのだ。
﹁門の上にある物がわかるか﹂
またしても信秀の言葉。
城壁の上には、見たこともない建物が幾つも建っている。
だが、その用途が物見櫓であることは明らかだ。
では、それ以外の場所には何があるか。
建物のない城壁の上には、白い布が幾つもかけられている。
エルフ族の族長は、すぐにピンと来た。
大砲だ、と。
﹁生憎の雨だ。雨に濡れないようにしているが、あれらの下には全
てに大砲がある﹂
1112
﹁嘘だろ、こんなにあるのかあの武器は!?﹂
ザーザイムの驚愕の声を発する。
そう、驚きはその数だ。
﹁東西南北に五十門ずつ置いてある。お前たちにはこれを訓練して
もらうつもりだ﹂
全部で二百門。そんな途方もない数の新型兵器を持っていた。
あんなものを集落に向けられでもすれば、一瞬にして壊滅してい
ただろう。
戦慄。そして安堵。
信秀と出会ってから今日までを思い出し、敵対してなくてよかっ
たとエルフの族長は心の底から痛感した。
そこからもう一度乗車し、二台の車両が門をくぐり少し行ったと
ころで、下車となった。
再び大地に足をつけて、車両の外の景色を目撃する族長衆。
皆の口からは﹁おお⋮⋮﹂と感嘆するようなため息が漏れた。
﹁どうだ素晴らしいだろう﹂
信秀の誇るような声が、族長衆の右耳から入って、左耳から出て
いった。
それほどに族長衆は目の前の景色に見惚れていた。
人の気配のない住宅街。
見たこともない建物が、規則正しく並んでいる。
1113
しかし、その一つ一つの造りは細やかで、整然としており、立派
であるということだけはわかった。
曇り空から少しだけ顔を出した太陽が、屋根に溜まった雨露で反
射して、美しく眩しい。
雲が切れた南の空では、虹が上り、幻想的な瞬間をつくり出して
いた。
城郭の中の光景はまさしく別世界だったのだ。
﹁見事な⋮⋮﹂
誰の声かわからないが、それは族長衆全員の代弁であった。
﹁さあ、ここからは歩いていこう﹂
足下を雨水に濡らしながら無人の住宅街を歩き、族長衆が連れて
いかれたのは狼族が住む区画。
ガヤガヤとやかましいのは、雨が止んで、女衆が一斉に外仕事を
しに出てきたからだ。
子どもの元気な声も聞こえてくる。
そこに住む者たちは、何よりも活気に満ちていた。
﹁こ、ここに俺たちが住むっていうのか!?﹂
叫んだのはザーザイムであるが、族長衆は皆、同じ気持ちだ。
ここに来るまでの無人の住宅街を見ても、まさか自分たちにその
家々が与えられるとは思えなかった。
しかし今、自身と同じ種族の者がそこに暮らしているのを見て、
ザーザイムはもはや叫ばずにはいられない。
1114
﹁不満か?﹂
﹁あ、いや⋮⋮﹂
問うた信秀に、ザーザイムは黙り込む。
それを見ていたエルフ族の族長は、﹃不満とは逆の感情だろうな﹄
とザーザイムの心中を察した。
不満などあるわけがない。
ただ、信じられなかったのだ。
このようないい家に住むことが。
﹁中を見たいのだが﹂
﹁そこの空き家を。中と言わず、まんべんなく見るといい﹂
信秀の許可を貰い、エルフ族の族長は家の中に入った。
木の匂いがする。
内装も見事なものだ。
卓越した技術によって、つくられたことがよくわかる。
靴を脱いで、玄関を上がると、ふとエルフ族の族長は気づいた。
外からは雨が止んでなおも、ピチョンピチョンと水の滴る音が聞
こえるのに、家の中からは滴の音が聞こえてこない。
雨漏りばかりの己が住む家とは雲泥の差だ。
﹁立派な家だな﹂
エルフ族の族長はポツリと呟いた。
そして、ここに己の部族が住む景色を想像した。
1115
先ほど見た狼族たちの顔が、エルフのものに置き換わる。
エルフ族の族長の瞼に浮かんだのは、部族の者たちの綻んだ顔。
﹁悪くない﹂
家の中を隅々まで見てから、エルフの族長は外に出る。
その時その表情は自然、すがすがしい笑みを湛えていた。
他の族長たちも変わらない。
この町に部族の未来を見た。
皆、この城郭都市に住みたいと思ったのである。
いや、違う。
今この時に限れば、町に思いを馳せていたのは、全員ではない。
ただ一人、族長という立場にあって、全く別のことにかまけてい
た不届き千万な男がいた。
﹁ら、ラズリーさんというんですか。す、素敵な名前ですね﹂
﹁は、はあ﹂
なんとザーザイムだけは、たまたま通りがかったある女性にどう
しようもなく心を惹かれて、ナンパを敢行していたのだ。
その女性の名はラズリー。
かつて信秀とお見合いをしたこともある、狼族においては絶世の
美女と名高い女性であった。
﹁あ、あの今度よろしかったら、ぼ、僕と一緒に、じゃ、ジャガイ
モを食べませんかっ﹂
1116
初心な少年のように顔を真っ赤にしてラズリーを口説く姿は滑稽
そのもの。
皆は呆れかえり、エルフの族長は同じ狼族の族長であるジハルを
思い出して、何故こうも違うのかとため息をついた。
︱︱こうして北の森の六部族は、信秀のつくった新たな町の住人
になることを決め、移住は速やかに行われた。
次に信秀は、領主の館のある村へと行き、ペッテル村長及び村の
主だった者たちに現状を説明。
嘘こそつかなかったが、虚を織り交ぜて、巧みに城郭都市への移
住を決心させた。
獣人たちに続いて村の者たちの移住もつつがなく行われ、フジワ
ラ領に住む者は人間も獣人も等しく、信秀の城郭都市への移住を完
了させたのである。
またその二カ月後、南は王都より膨大な数の移民がやって来る。
全ては信秀の予定通り。
フジワラ領の防衛体制は着々と整いつつあった。
◆
さて、場面は王都からの移民が町にやって来た頃。
王族はひとまず、ある屋敷に押し込まれて、それ以外の者から戸
籍登録が行われていた。
﹁列を乱さないで! お年寄りや子ども、またはその家族の方だけ
1117
外に出てください!﹂
統制員が声を張り上げる。
戸籍登録をまず優先されたのは老人と子ども。何故ならば、移民
の数があまりに膨大であるため、登録は夜を徹して行われることが
予想されていたからである。
傷病人に関しては戸籍登録どころではないため、すぐに解放され
た建物に送られて適切な処置がなされている。
それ以外の子連れの家族、老人夫婦、たくましくも子どもだけで
この行軍に参加した者などなど、一般的に弱者と呼ばれる者が、信
秀の配慮の下、列から外れて戸籍登録を行った。
もちろん、多くの孤児を連れた山田薫子もその一人である。
しかしその薫子、この城郭都市に来てから、何やら様子がおかし
い。
﹁お姉ちゃん、ぼうっとしてどうしたの? 疲れちゃったの?﹂
統制員にの指示に倣い、列を出て役所に向かう最中、薫子の傍ら
から少女が心配そうに声をかけた。
﹁え、いや、なんでもないわ。大丈夫よ、元気いっぱいだから﹂
振る舞った
。
心配をかけさせまいと、薫子は微笑んで何事もなかったかのよう
に
相手はまだ十にも満たない少女である。
細かい機微を読み取れるわけもなく、薫子の微笑に少女も笑って
返した。
だがこの時、薫子の心中は激しく動揺していたといっていい。
1118
︵なんなの⋮⋮この町は⋮⋮︶
薫子にしかわからぬ驚愕。
イーデンスタムや、他の者たちを襲ったものとはまるで違う衝撃。
それは彼女が特別だからこそ。
彼女の目に映るのは懐かしい瓦の屋根。
白い土壁や、その造りもどこかで見たことがある物ばかり。
しかし、決してこの世界で見た物ではない。
︵これじゃあ、まるで︱︱︶
︱︱日本ではないか。
そう薫子は思ったのである。
古風な日本の町並み。
もう何年も前の記憶にある、見知ったものがそこにはあったのだ。
薫子は驚きで思考の定まらぬままに、戸籍登録を受ける。
係の者からは名前、歳、家族構成を聞かれ、指紋を取られ、最後
に町の住人になるかどうかを問われた。
それが終われば住所が書かれた布きれが与えられる。
孤児を二十人以上連れるという大家族であるために、孤児院とし
て専用につくられた建物を与えてくれるのだそうだ。
キョロキョロと、信秀の姿を探したが、見当たらない。
係の者に、信秀について聞こうか迷ったが、結局それはしなかっ
た。
自分は彼にとっての特別ではない。
今の状況を顧みたとき、己はただの避難民でしかないのだ。
1119
﹁さあ、戸籍登録が終わった者はこちらへ﹂
戸籍登録を終えた薫子たちが、係の者の指示に従い外に出る。
そこには薫子たちの他にもたくさん人がいた。
﹁俺がお前たちの住む区画の長だ! 今から、お前たちをそこへ案
内する!﹂
戸籍登録が終わった者が一か所に集められ、同区画の者が十分な
人数になったら、その区画の長が連れていくのである。
ぞろぞろと一塊になって、町を歩く。
大通りを脇道から抜ければ、すぐに住宅街があった。
﹁凄い⋮⋮これ全部⋮⋮﹂
薫子は唖然とした。
大通りだけではない。
住宅街にも立派な日本家屋が並んでいたのだ。
薫子のみならず、皆、驚きの顔で歩いている。
﹁ここがお前たちの住む区画だ﹂
区長の言葉に一行は顔を驚かせた。
日本の諺ならば、キツネにつままれた表情だった、とでもいうべ
きか。
己が住むところだと言われた場所。そこにもやはり、他と変わら
ぬ立派な家々が並んでいたのであるからして。
﹁こ、これが俺たちの家⋮⋮?﹂
1120
﹁お父さん、俺たちこんなところに住めるの?﹂
ある家族が、貧困街に住んでいた自分たちがこんなところに住ん
でいいのかと、顔を見合わせる。
ある老人と子供を連れだった大家族も、ある母子家族も、薫子が
面倒を見る孤児たちも、皆一様に顔を輝かせていた。
まずトイレなどの公共設備の説明やその他諸注意がなされた。
さらに、わからないことがあれば区長に聞くか、隣に住む者に聞
けとのこと。
隣に住む者とは、以前より住んでいた者のこと。
この区画には既に人が住んでおり、その中に薫子たちは放り込ま
れたことになる。
これはこの区画が特別なのではなく、全区画がこのようになって
いる。
新参者ばかりを集めて独自のルールをつくられでもしたら堪らな
いという判断からだ。
区長の説明が終われば、住所通り各人家が与えられていく。
薫子たちの住む家は端にあったため、一番最後だ。
﹁お前たちの住む場所はここだ!﹂
とうとう最後の薫子たちの番となり、案内されたのは他の家より
も四倍はありそうな大きな屋敷であった。
﹁す、すげーー!﹂
﹁わ、わたしたち、本当にここに住んでいいの!?﹂
1121
子どもたちがあまりの嬉しさに、興奮した声を発した。
行進の疲れなどどこかへ行ってしまったかのようである。
だがそんな中でも、唯一薫子だけは茫然としていた。
薫子は大きな屋敷に背を向けて、住宅街を眺めた。
己を日本の風景が囲み、されどそこに日本人はいない。
いびつ。
どこか幻のような気がして、これは夢なのではないかと薫子は感
じた。
︵私はどこにいるのだろう︶
全てが夢。
どこからどこまでが?
最初から何もかもが夢で、目が覚めたら日本の自分の家にいるん
じゃないか。
でも、すぐにそんなわけはないと思った。
︵この世界で過ごしてきたものが、夢の一言で片付けられるはずが
ない︶
されど目の前の景色に、遠き日本が思い起こされたのは事実。
不意に、父や母、弟の顔が薫子の脳裏をかすめた。
最近は、思い出すこともほとんどなかった家族の記憶。
だけ
でもあった。
薫子の感情は高ぶり、目頭が熱くなった。
しかし、目頭が熱くなった
そのことのほうが、薫子は悲しかった。
1122
﹁お姉ちゃん? どこか痛いの?﹂
傍らの少女が心配そうに見つめてくる。
薫子は微かに滲んだ涙を拭ってから、少女の頭を優しく撫でた。
故郷を思うくらい、子どもたちのことも思っている。
いや、それ以上にもう︱︱。
﹁大丈夫よ、大丈夫。ほら、家の中に行こっか﹂
そう言って、少女に手を差し出す薫子。
少女は小さな手で薫子の手を掴み、﹁うん!﹂と元気な声で返事
をした。
︱︱このように移民たちの戸籍登録作業は順調に進んでいく。
しかしイニティア王国軍が、もう目の前にまで迫っていることは、
まだ誰も知らない。
1123
91.フジワラ領防衛戦 1︵前書き︶
城郭の門ですが、外向きは間違いでした。
開くのは内向きですね。
修正する時間が取れましたら、修正します。
皆さん多数のご指摘ありがとうございました。
1124
91.フジワラ領防衛戦 1
ドライアド北部制圧に向けて王都を出発したイニティア王国の一
軍。
率いるのは、イニティア王国軍総司令官のレアニス。
北上する軍はまず王領のすぐ北に隣接する領地に侵入、そのまま
首府︵領政を司る都市のこと︶へと進んだ。
これに対して、その地の領主はたちまちに降伏の書状をレアニス
のもとに寄越した。
さらに北、エルナンデル伯爵領においても同じ。
軍を首府へ寄せると、またもや降伏の使者がレアニスのもとにや
って来た。
こうしてイニティア王国軍は、一戦も交えることなく、二つの領
を手中に収めたのである。
なお、これに関して、﹁国への忠誠が足りぬ、この不義者め!﹂
と二領主を責めることは酷であろう。
ドライアド王国において敵の手に落ちていなかったのは、北部の
四領だけ︵支配者がいる地に限る︶。
既に王都すら落ちているのだ。
女王が北へ落ち延びていくのを見逃しただけでも、十分に義理を
果たしたといってよかった。
最短距離を通ってひたすらに北へと向かう女王オリヴィアと避難
民たちに対し、レアニスはよく兵を休ませつつ軍を進ませた。
これはオリヴィアの目的地と、レアニスの最終目的地が同じであ
1125
ったからに他ならない。
途中無理やりに追いついて、乱戦となり避難民に被害を出すより
は、互いに場を整えた上での軍と軍同士の戦いを、レアニスは望ん
だのだ。
また東にも一領あったが、これはエルナンデル領を制圧した際に、
降伏の旨が記された書状を受け取っている。
残る領はただ一つ、フジワラ領のみ。
軍がフジワラ領に侵入すると、すぐに領の首府として使われてい
た大きな村があった。
しかしそこは、人っ子一人いないもぬけの殻。
これはおかしい。
軍の本来の目的地はここ。レアニスは、ここで女王と雌雄を決す
るものと考えていたのだ。
王都にて城郭都市云々の話は聞いていたが、そんなものはないと
断じていた。
いや、誰もいない村を目の当たりにしてなお、そう思っている。
ならば、女王やフジワラ、またその領民たちはどこへ消えたのか。
北に広がる大地に、逃げ込もうというつもりか。そこまで行けば
追ってこないと。
レアニスは首を捻りながらも、軍を村に駐屯させる。そして翌日、
再び女王を追うように軍は進発した。
こうとなれば乱戦になろうとも、女王に追いつき捕まえる以外に
道はない。
︱︱話はここから始まる。
1126
時間はといえば、王都からの避難民が城郭都市に入場してからの
こと。
また、イニティアの軍が村を発って一日後のことである。
フジワラ領のとある丘陵の谷間にて食事をしているイニティア王
国軍の兵たち。 さらに丘陵の上には、二つの人影︱︱軍の指揮官であるレアニス
と小松菜の姿があった。
﹁なんと⋮⋮本当にあったのか⋮⋮﹂
﹁ドライアドの王都よりもはるかに大きい。いつのまに、あんなも
のを⋮⋮!﹂
不意打ちにでもあったかのように、意外な顔をするレアニスと小
松菜。
二人の驚きの原因ははるか視線の先にある。
足の下にある丘の高さと、対象物自体の大きさによってようやく
視認が可能になったもの︱︱巨大な城郭都市がそこには存在してい
た。
﹁王都で聞いた話がまさか、真実だったとは。この目で見ても信じ
られないよ、小松菜﹂
﹁ええ。僕は今でも自分の目を疑っています。地図にも載っておら
ず、つい最近まで誰もその存在を知らなかった城郭都市。てっきり、
北へと逃げるための口実だと思っていましたから﹂
﹁そうだな、私もそうだ﹂
1127
してやられた、とでもいうような風に苦笑いをするレアニス。
小松菜は依然瞬きもせずに、ジッと城郭都市を見つめている。
レアニスは言う。
﹁あんなものを急遽つくるなどということは不可能だ。ではフジワ
ラが以前よりつくっていたか、ということだが、これもどうだろう
な。以前調べさせた時には、そのような報告はなかった。妥当なと
ころは、王宮がはるか以前より極秘裏につくっていた、といったと
ころかな。目的は、まさに今日のような国難のため。⋮⋮どうだろ
うか?﹂
﹁さあ? どうやってつくったかよりも、どのようにしてあれを落
とすかを考えるのが僕の役目ですから﹂
﹁面白いことを言うね。どのように落とすなんて考えるまでもない
だろうに﹂
﹁まあ、そうなんですが﹂
レアニスと小松菜は自らが持つ大砲の存在を思い浮かべると、向
かい合ってくすりと笑う。
二人の驚きは、既に余裕へと変わっていた。
どんな城郭を築こうとも、大砲の前に意味はない。
元の世界の中世ヨーロッパにおいても、大砲の台頭によって城郭
都市は消えていったのだ。
だが、レアニスはすぐに表情を真剣なものにすると、重々しく言
葉を発した。
﹁フジワラか⋮⋮どう思う?﹂
1128
これには、小松菜も弧を描いていた口を真一文字に結んだ。
女王が逃げたというフジワラ領。
その地のことを、レアニスと小松菜は以前より知っていた。
ジャガイモの産地であり、胡椒を扱っている。おまけに領の名前
がフジワラなどという日本のものであるのだから、知らない方がお
かしかった。
領主ノブヒデ・フジワラは間違いなく同郷の者。能力はわからな
い。
こちら側に引き込もうとも考えたが、それはとまどわれた。
相手はドライアド王国にて、既に領主という確固たる地位を築い
ている。
大陸制覇の野望を気取られないためにも、調略には確実性が求め
られたのだ。
どのみち取るに足らないであろうと思われた相手。
しかし、どういう経緯があったかはわからないが、今この状況を
見るに王宮からの信頼は篤いように思われる。
小松菜はやや考えたようにしてから言った。
﹁これまでと一緒ですよ。それに領主が同郷の者だというのなら、
今こそ僕たちのことを話して仲間になってもらえばいいんです。も
う隠す必要はないんですから﹂
﹁そうか、そうだな。それにしても成り上がりの領主に対して、王
宮の対応はありえないことだ。
もしや王宮の上位の者にも同郷の者がいたのかもしれないな。フ
ジワラと王宮の者が手を組んだというのならば、現在の状況も多少
1129
は頷ける﹂
﹁もし女王が同郷の者だったら?﹂
﹁話してみるよ。協力を得られるようなら助けよう。同郷の者なら、
この世界の者とは価値観が違うんだ。殺す必要もないさ﹂
﹁それがいいでしょうね。さあ、僕たちもご飯を食べましょう。僕
たち
のせいで、じゃないだろう? 私は普通の量を
たちのせいで進軍が遅れてしまっては大変です﹂
﹁ふふ、僕
食べるだけだが、小松菜は大食らいだ。だから言い直してほしいな﹂
小松菜をからかうように笑みを浮かべたレアニス。
対して小松菜も笑みを湛えて言う。
﹁じゃあ、勝負しますか? 僕が全部食べ終わるのが早いか、レア
ニスが食べ終わるのが早いか﹂
﹁いいだろう、乗った﹂
それぞれ銀の髪と黒の髪をなびかせて、共に丘を下りていく。
それを兵士たちが眺めて顔を綻ばせた。
この二人の仲の良さは、まるで兄弟のよう。
日頃、兵士から慕われている二人である。
二人の関係は、戦時にあって皆の心を癒す一服の清涼剤であった。
食事ののち、軍は丘陵を抜けて、平野を北へと進む。
いよいよドライアド攻略戦における最終決戦が始まるのだ。
1130
◆
信秀がつくった城郭都市。
城壁の上には、今日までの訓練の末に一応の砲兵となった北の森
の獣人たちが見張りをしていた。
﹁おい、あれ砂煙が立ってないか﹂
それを口にしたのは南の城壁の上にいた牛族の若者。
すると、隣の鼠族の若者が﹁ん? どれどれ﹂と目を凝らした。
はるか地平線には、確かに砂煙は立っている。
だが︱︱。
﹁いや、どうだろうな。風が舞っただけじゃないか? 第一敵が来
たのならもう少し煙は高いはずだろう﹂
﹁そうか? まあ、俺より頭のいいお前が言うんなら、そうなんだ
ろうな﹂
牛族の若者は彼我の頭の良さに鑑みて、鼠族の若者の弁に納得し
た。
ちなみに十メートルの城壁から望めるのは、大気の屈折などの誤
差があれど、おおよそ十二キロ先。
当然これは、視力というものは考慮に入れていないが、野生生活
を送っていた彼らの視力は尋常ではないため、ある程度の大きさの
ものならば視認が可能と思ってよい。
しかし、である。
この二人、その視力を生かして砂煙を見つけたのはいいのだが、
1131
星が丸いということを知らなかった。
そのため、砂煙が小さかったのは、実は地表に隠れているのだと
いうことに気付けなかったのだ。
そして彼らは、すぐに真実を目撃することになる。
﹁お、おい、砂煙が段々大きくなってないか⋮⋮?﹂
﹁ま、まさか⋮⋮﹂
そのまさか。
瞬間、ジャーン! ジャーン! と銅鑼の音が鳴り響いたのは、
彼らがいる場所よりも一つ二つ高い位置にある櫓の中からであった。
牛族と鼠族の若者はびくりと身震いして、何事かと音の発生源を
見る。
あそこには古参の狼族がいるはずだ。人間の軍と何度か戦い、こ
れまで勝ってきたという。
同じ獣人として、悔しくもあり、認めたくなかったが、その信頼
は篤い。
ゆえに判断も確かだろうという思いが、二人の胸にはあった。
その判断はいかに。
牛族と鼠族の若者がゴクリと喉を鳴らす︱︱暇もなかった。
続いて櫓から聞こえたのは声を嗄らすような叫び。
﹁敵だーー! 敵が来たぞーー!﹂
︱︱敵。
人間だ。人間の軍隊だ。
それを理解すると、牛族と鼠族の若者二人は顔をサッと青ざめさ
1132
せた。
普段、口では﹁人間など大したことはない﹂と強がりを言ってい
るが、実際はその逆、この上なく恐ろしい。
圧倒的な数、優れた武器、そしてその残虐性。
各部族にはそれぞれ神話のような言い伝えがあり、それに出てく
る悪魔は本来強靭な肉体をもってしても抗いきれない病を差してい
るとされていたが、今では、人間こそがその悪魔ではなかろうかと
思うほどであった。
﹁て、敵だぁー!!﹂﹁て、敵が来たぞぉー!!﹂
城壁の上では狂気するように、北の森の獣人たちが敵の来訪を叫
んでいく。
それは伝潘し、各所では銅鑼や太鼓が鳴り始めた。
牛族と鼠族の若者もまた、身体を這いずる恐怖を消し飛ばすよう
に、喉の奥から声を張り上げ叫んだ。
1133
92.フジワラ領防衛戦 2
信秀が役所の二階で、作戦に不備がないかと考えていた時のこと
だった。
突如として城郭都市の至る所から聞こえたのは、乱雑としてやか
ましい銅鑼や太鼓の音。
敵の来訪を知らせる合図である。
﹁早い! もう来たか!﹂
信秀は苛立つように叫びつつ、すぐに﹃町データ﹄を呼び出した。
目の前に映し出されるのは、自分の名前、時代設定、そして現在
の人口。
︻町の人口︼7153人
人口は一万人に遠く及ばない。
当然だ。
都市に移民たちが入場してまだ間もない。
厳密にいえば五時間ほど経ったところだ。
現在、時刻は午後三時。
敵がここまで来るまでにまだ猶予はある。
休息も取らなければならないし、今日中に攻めてくるかも怪しい
ところだ。
しかし、人口一万人は間に合わないだろう、と信秀は思った。
千人当たりにかかる時間は、およそ七時間といったところか。
1134
残り約二千八百人であるから、単純計算であと十九時間ほど。
︵係の者を補充するべきか⋮⋮︶
そう考えて、いや、と信秀は首を左右に振った。
書類に間違いが少しでもあれば、人口に換算されない。
この世界。﹃読み﹄はできても﹃書き﹄ができる者は驚くほど少
ない。
ペッテル村長でさえ読みはできるが、書くことはおぼつかなかっ
た。
だからこそ、ポーロ商会の者のみに任せている。
人員はこのままでいい。
︵まあ、人口一万に到達しないならしないでも構わない。十億円の
新兵器以外にも準備はできている︶
間もなくして、電話機型有線通信機より敵の来訪が告げられると、
信秀は別の場所に通信を入れる。
王族と兵士を一か所に集めた区画。現在そこに滞在してもらって
いるレイナが、通信の相手だ。
王族と兵を一か所に集めたのは、反乱を起こされた際、一挙に鎮
圧をするため。
反乱分子になり得る者を集めて、反乱を助長させるより、町中に
紛れられることの方が恐ろしかったからである。
レイナに兵士をこちらに寄越すように伝えてから、信秀は護衛を
連れて、すぐに階段を下りていった。
役所の一階では、係の者が努めて平静に、移民たちをなだめなが
ら戸籍登録を続けている。
1135
これは前もって信秀が指示していたことだ。
何が起ころうとも作業を続けるように、と。
その分給金はたくさん支払うようになっている。
︵役所内は問題ない、だが外は⋮⋮︶
信秀が役所を出ると、外はまるで別世界だった。
﹁じゅ、獣人か!? さっきの獣人かっ!?﹂
﹁ま、まさか、獣人が私たちを攻撃する合図じゃないの!?﹂
﹁王宮の兵士はどこへいったんだ! まさか俺たちは騙されたんじ
ゃないのか!?﹂
四方から鳴り響く銅鑼や太鼓の音に、何が起きているのかと慌て
ふためく移民たち。
そもそも城壁の上にいた獣人たちを移民たちは見ている。
ゆえに、これが彼らの手によるものだと思って、わけもわからず
狂乱しているのだろう。
彼らにしてみれば、何も情報がない中での異常な事態なのだから、
当然の反応だと信秀は思った。
静まり返らせるには、大きな力がいる。
信秀は今一度役所の中に戻ると、階段の陰でもう何個目になるか
わからない︻拡声器︼を︻購入︼し、再び外に出た。
﹃落ち着け!﹄
︻拡声器︼を使った一喝。
異常には異常で、ということだ。
キーンという耳障りなハウリング現象も同時に発生して、移民た
1136
ちの意識は信秀の方へと向いた。
﹃この都市の主、ノブヒデ・フジワラだ! まずは落ち着け!﹄
もう一度、︻拡声器︼を通して命令する。
移民たちのざわめきは段々と収まって、やがて信秀の考えを聞く
体制が整った。
﹃いいか。落ち着いて聞け。現在、敵軍がすぐそこまで迫っている
︱︱﹄
敵軍という言葉に反応して、移民たちがざわりとした。
だが、信秀は気に留めることなく次の言葉を紡ぐ。
﹃︱︱だが慌てることはない。この都市の防備は万全だ。守護には
獣人たちが当たっている。心配は無用だ﹄
﹁避難は! 俺たちはどこに避難すればいいんだ!﹂
群衆のずっと奥から聞こえた声。
自身の正体がわからない位置にいるからこそ、強気に質問できる
のだろう。
﹃戸籍登録が終わった者から順次、自分の家で隠れているといい!﹄
﹁そんな! こんな事態で戸籍登録なんてやっている場合か!﹂
再び群衆の中から、今度は別の者が叫んだ。
それに伴い、﹁そうだ、ふざけるな!﹂という声の波が、潮のご
とく信秀にぶつかった。
1137
ミラを含む信秀の背後の護衛が、︻89式小銃︼を握りしめる。
いつ反乱が起きてもいいように、護衛たちの装備に加えられたも
のだ。
﹃ふざけてなどいない! いいか! 避難したかったら円滑に戸籍
登録ができるよう文句を言わず指示に従うことだ!
それからもう一つ! 許可なしに列を乱したものは厳罰に処す、
いいな!﹄
横暴ともいえる発言。のちの統治に影響を及ぼしかねない行動だ
った。
しかし、今はこれ以外に手がなかった。
じきにドライアド王国の兵士も列の統制にやって来る。
ここは、もう問題ないだろう。
信秀は役所に停めてあった馬に乗って、すぐさま南の城壁へ向か
った。
城壁の上の獣人たちは、移民たちほどとは言わないまでも、結構
な狼狽ぶりであった。
なにせ、、どう考えても届かないはるか遠くの敵に向かって、大
砲を撃とうとするほどである。
﹁おい! まだだ! まだ、布幕を外すんじゃない! 敵はあんな
に遠いぞ!﹂
ちょうど城壁の上にやって来た信秀が一喝した。
1138
できることならば、こちらが大砲を持っていないと思わせた状態
から、不意の初撃を与えて大きな損害を与えたかった。そのための
布幕だ。
つい最近までは、秘匿などお構いなしに大砲の訓練をやっていた
ので、それによって大砲の存在が露見していた場合は仕方がない。
信秀は︻双眼鏡︼を覗いた。
大砲を引いているというのになかなかの速度で進んでいる。
その理由は、軍の先頭を行く使役獣にあった。
他とは隔絶した獣。それはイニティア王国が始まりの国と呼ばれ
ている所以のもの。
巨大な体躯に、背に甲羅を背負ったような硬い鱗。長い尻尾を持
ち、四肢は短い。
元の世界では決して見ることのできない生物︱︱聖獣。
信秀は知らないことであったが、元の世界の恐竜、アンキロサウ
ルスによく似ていた。
﹁フ、フジワラ殿﹂
ここを指揮する鼠族の族長が、信秀に声をかけた。
冷静沈着と思われた鼠族の族長は、珍しくも蚊の鳴くような声を
発し、実に頼りなさげである。
怯え。
大砲の絶倫の威力は、それを扱う彼らもよく知っていることだ。
既に彼らには、敵も大砲を持っていることを伝えているが、彼我
の射程の優劣の差も教えた。
だが、やはり人間に対する恐怖は骨髄にまで刷り込まれていたの
だろう。
1139
﹁敵は大陸の半分を手にした人間最強の軍。ここで勝てば、獣人は
何もかもを手に入れられるぞ。それとも、ここの指揮官を狼族に代
わってもらうか?﹂
信秀はこのように言ったが、余っている狼族はいない。
余剰をつくり出すとなれば、現在信秀の護衛についているミラと
もう一人の狼族だけ。
信秀は護衛の二人を見た。
気後れする様子はない。命令とあればいつでも、という強い意思
が伝わってくる。
さあ、どうするのか、と信秀の視線は鼠族の族長へと戻った。
鼠族の族長の目にはまだ逡巡と呼べるものがある。
しかし、先ほどの狼族と比べるような信秀の発言。加えて、この
場にいる北の森の獣人たちの視線が、鼠族の族長に集まっていた。
こういう時、長たる者は力強さを発揮するものだ。
﹁いや、すまないことを言った。このままやらせてほしい。必ずや
人間を打ち滅ぼしてみせよう﹂
﹁そうか、任せたぞ。くれぐれも先走るようなことがないように﹂
鼠族の族長のセリフは、人間である信秀としてはかなり怖いもの
であったが、縮こまるよりはいいと思い、今は深く考えないように
した。
信秀が、もう一度敵軍を眺める。
如何に敵の速度とはいえ、まだ時間はある。
1140
ここに到達するのは夜。
もしくは、一度どこかで陣を張り、夜明けとともに攻めてくるか。
鼠族の族長だけではない。
信秀は、他の者たちの不安を取り除かなければならないと思い、
有線通信機を手に取り、西を守護するジハル族長に連絡した。
自分だけでは手が足りないため、ジハル族長と協力して、城壁の
各所を回るのである。
◆
一万にも及ぶイニティア王国軍。
その先頭を行くのが五十門もの大砲を装備した、小松菜率いる二
百の機甲科部隊だ。
百頭ほどの甲竜と呼ばれる聖獣が、背中に括り付けた椅子には複
数の人間を、背後には大砲を牽引して、それらの重みを感じさせず
に、のっしのっしと前に進む。
この大陸の半分を恐るべき速度で支配できたのは、大砲によると
ころも大きいが、この甲竜の存在も一因であった。
大きい体もさることながら、その頑丈な太い足と低い重心は、足
場など気にすることもなくただ進むのだ。
とはいえ、甲竜がいかに優れていようとも、軍を同じくしている
馬は休みなしでは動けないし、人の速度にも合わせなければならな
い。
甲竜の運用は独立機動こそ本領であるが、今日のように軍が一体
となって動く場合は、甲竜は大きな荷物を運べる運搬獣でしかなか
った。
まあ、それでも十分なのであるが。
1141
十キロを優に超える広大な距離を、イニティア王国軍は進んだ。
平野が続くとはいえ、地面は真っ平らというわけではないし、途
中に幾つかの小川も挟んでいる。
軍は何度も休憩をし、城郭都市より南に四キロの地点に到着した
のは、夜のとばりが完全に落ちた頃。
軍はその地に陣を張り、都市攻撃は翌朝からということになった。
ちなみに、ここに来るまでに小松菜の目は、城郭の櫓をはっきり
と捉えている。
それは懐かしさを覚える形だった。
小松菜の頭には、何故あんな物がここにあるのか、という疑問が
当然のように浮かんだ。
﹁城郭都市はもしかして、フジワラの手によってつくられたのか⋮
⋮?﹂
行き着く考えはそれだった。
この世界においては、あんな瓦屋根の木造建築物を見たことがな
い。
陣幕でレアニスと話し合ったところ、ことここに至っては深く考
えても意味がないという結論になった。
フジワラがそういう技術を持っているというのならば、それは戦
後の話だ。
翌日の早朝。
太陽が東の水平線からようやく顔を出して、空が白みががった青
色になった頃のこと。
イニティア王国軍は、陣地をそのままに、城郭都市に向けて出発
した。
1142
先頭の小松菜率いる機甲化部隊が、すぐに城郭都市から三キロ地
点に到着する。
小松菜の能力によって上積みされた類い稀な視力が、城壁の上の
獣人の姿を捉えた。
敵は獣人を従えているということだ。
別に驚くことではない。
ラシア教において獣人を国家に組み込むことは恥以外の何物では
ないが、この世界の常識に囚われない者が相手側にもいる。
さらに無数の布幕が見えた。
なんだあれは、とは思い、小松菜は考えを巡らした。
一瞬、大砲の存在を頭に浮かべたが、それにしては布幕の形がお
かしい。
大砲より、もっと大きいものだと推測され、おそらくは投石機の
こん
ような兵器を用意したのだろうと小松菜は考えた。
この考えに至るにあたっては、今ドライアド攻略戦において、敵
側に一度も大砲の存在が確認できなかったことも大きく作用してい
る。
どのようなものであれ、火薬を使わない前時代の兵器。
軍を止める理由にはならない。
機甲科部隊が、城郭都市から二・五キロ地点に到着する。
さあ、そろそろどうするか、と小松菜は考えた。
どこで止めて、どこで降伏勧告を出すか。
近寄れば近寄るほど、威圧になるだろうと、さらに軍を進めた。
目指すは、﹃イニティア砲﹄と名付けられた自軍大砲の射程であ
る一キロの地点。
そして城郭都市から二キロの地点。
1143
甲竜の上で小松菜は、ふと、土の軟さが気になった。
まるで一度掘り返したような、そんな沈みを感じたのだ。
よく見れば、色もおかしい。今までに比べて土が黒い。
色は置いておいて、土が柔いのには思い当たることがある。
大砲練習のあとは、その土を均さなければならない。
これまで、何度も経験してきたことだ。
︵まさか︱︱︶
何かに気付いたようにハッとして、小松菜は城壁の上を見た。
その目に映ったのは布幕に手をかける獣人の姿。
もはやギョッとする暇もない。
小松菜は、大きく息を吸い込み、声として吐き出そうとする。
﹁全軍︱︱!﹂ 途端、布幕が翻った。
露わになるのは︱︱大砲。
布幕の異な膨らみは、木の骨組みによる偽装であったのだ。
しかし小松菜は、その小さな体のどこから出しているのかとでも
いう声で、己が兵士たちに命令した。
﹁全力で前に進めぇぇぇ!﹂
︱︱瞬間、轟音が響いた。
言わずもがな、城郭からの砲撃である。
激烈な音とともに、着弾により吹き上げられた砂煙が舞った。
兵たちの悲鳴がそこかしこで聞こえる。
1144
だがそれでも部隊が部隊としての機能を保っていたのは、小松菜
の命令があってこそ。
戦場において、死に物狂いになるのは、誰であっても等しきこと。
だが優秀な兵というものは、将を信じ、その命令に死に物狂いに
なる。
一瞬の判断により、小松菜は後退よりも前進を選んだ。
兵士たちは、それこそが生きる道と信じ、前に進んだのだ。
﹁敵は城壁の上から撃っている! 城壁を崩せば我らの勝ちだ! ただ前に進め! 射程に入れば、迷わず撃て!﹂
小松菜は叫びながら、己の乗っていた甲竜の首を大きな斬馬剣で
叩き斬った。
気でも触れたのかとでも思うかもしれないが、そうではない。
小松菜は、自らの恐るべき膂力で甲竜を腹の方から持ち上げると、
その腹に斬馬剣を横向きに突き刺し、甲竜の背中を巨大な盾にしつ
つ、前に進んだのである。
数トンを誇る重さの巨体を持ち上げる。
敵側からすれば絶句すべき所業、どれほど常軌を逸した相手であ
ろうか。
﹁ここだ!! イニティア王国軍の将軍小松菜はここにいるぞ!!﹂
砲撃の音をはるかに凌ぐ、世界の果てまで轟かすような小松菜の
声が響く。
この巨大な声に、これまで多くの敵兵が恐怖し士気をくじかれた。
今日もまた同じ。恐怖ゆえか、第二撃目の砲撃は小松菜へと集中
1145
する。
ことさら
しかし甲竜の鱗は殊更に硬く、フジワラ軍の砲撃のことごとくを
はじき返した。
それだけではない。
砲撃の狙いがあまりにも甘いのだ。
これは、フジワラ軍の砲兵が如何に未熟であるかの表れだった。
︵いける。この敵の練度なら、ひたすらに前進する部隊に必中はな
い︶
小松菜が、心中で強く頷いたその考えに間違いはない。
自身の足下にある色の違う土。それは目印である。
初弾を必ず当てるように、前もって着弾の距離を測り、その射角
を固定する。
もちろん日々変わる天候や風、空気によって距離は変わるが、相
手は軍という巨大なもの。
大きな影響はない。
つまり城郭の獣人たちは、あらかじめ射角を固定した距離の相手
にこそ砲撃を当てられるが、いざ動く目標物を撃とうとすると狙い
が緩慢になる、ということだ。
︵やはり、前進にこそ活路があった︶
よく考えての命令ではなかった。
いわば勝利への嗅覚や本能とでもいうべきものが、小松菜に﹃前
進﹄の二文字を命令として下させていた。
小松菜は激しい戦いの中に勝ち目を見た︱︱︱︱その瞬間のこと
である。
1146
︱︱。
それは形容しようがないほどの凄まじい音。
いや、音の壁であった。
﹁え⋮⋮?﹂
呆けたような声は、小松菜の口から発せられたものである。
一時の油断が生死を分ける戦いの最中でありながら、小松菜は思
考力の大部分を失っていた。
耳に残る不明の音。
唯一、脳裏にあったのは、何が起きたのか、だ。
神が下す裁きの雷のような。
世界にピリオドを打つような。
︱︱そんな音。
あまりの音ゆえに、音だけでは何が起きたのか理解できなかった
のである。
不思議なことに、先ほどまで自軍に加えられていた砲撃すらも止
まっていた。
これは敵側も驚いていたということを意味し、イニティア王国軍
からしてみれば僥倖であったといえよう。
わずかな力と意思で、小松菜は盾とした甲竜の向こう側を覗いた。
時が止まったかのように、その場に停止する兵士たちがいる。
さらに兵士と兵士の隙間。
その先では砂煙の中には、酸鼻極める死屍累々とした有様の己が
部隊があった。
1147
﹁なんだ⋮⋮これは⋮⋮﹂
小松菜の唇はひくひくと痙攣していた。
甲竜の苦し気な鳴き声が聞こえど、人の気配は感じられない。
その惨状に、小松菜はただただ愕然とするばかりである。
ところでこの時、一キロばかり先の城郭の上でのこと。
﹁ふ、地雷が︻購入︼できないのならば、実際につくればいいのだ
よ﹂とのたまいながら、小松菜と真逆の顔を浮かべている信秀がい
たのであるが、このような状況ゆえ、いかな視力を持つ小松菜でも
気づく余裕などなかった。
1148
92.フジワラ領防衛戦 2︵後書き︶
感想の方、返信できませんが、いつもありがたく読ませてもらって
います。
本当にありがとうございます。
感想を読んでる最中に感想が書かれた際には、ページが切り替わっ
てしまい、もしかしたら読み飛ばしてしまっている感想があるかも
しれません。
特に修正などで返信がなかった場合はたぶんそれだと思います。
すみません。
あと活動報告ですが、ここのところ、ずっと返信することができて
いません。
申し訳ありません。
活動報告に書かれたメッセージはいつも大切に読ませていただいて
おります。
更新が遅れる報告の際にも、温かいメッセージをありがとうござい
ました。
とても励みになっております。
1149
93.フジワラ領防衛戦 3︵前書き︶
<i212805|18564>
修正を加えました。
人間居住区域の東西南門は二枚扉があります。
これは人間側の裏切りで、内側から門を開けられないためです。
また階段もあります。
ちょっとわかりにくいですかね。
1150
93.フジワラ領防衛戦 3
カラカラの喉。
交感神経が強く働いて、唾液が分泌しない。
喉が渇いたせいか、はたまた他の別の要因か、胸元からせり上が
るものを感じた。
無惨な死骸を晒す自軍を前にして、小松菜は金縛りにでもあった
ように、動くことができなくなっていたのだ。
合戦の最中にあって、動かざる者には死あるのみ。
されど小松菜の中で、動かなければという意思は彼方に消えてい
た。
現在フジワラ軍の方からの砲撃は止まっていたが、それが再び開
始された時、小松菜は死ぬのであろう。
既に盾となっていた、甲竜の死体は横に転がっていたのだから。
だが、である。
小松菜の体を再度動かしたのは、皮肉にもフジワラ軍からの砲撃
であった。
重厚な音が響き、空から榴弾が降ってくる。
その模様は死の雨と言っても過言ではない。
大地の各所で爆音が響き、さく裂した榴弾の礫の一つが、小松菜
を現実に引き戻した。
﹁ぐっ﹂という呻きと共に、腕に走った痛み。
その痛みによって、小松菜は瞬時に現状を理解し、何をするべき
1151
かを判断したのである。
﹁ひ、退けーッ!! 退け、退けーッ!!﹂
小松菜が大きく吸い込んだ空気を声にして、全力で吐き出した。
大砲とは異なる攻撃の正体がわからない以上、もはや退却以外に
道はない。
﹁左右に分散して逃げろ! 的を絞らせるな! ただ逃げろ!﹂
叫びながら、自身も甲竜の巨大な体を再び持ち上げ、それを背後
の盾として後退を始める。
さらに歩みを遅くし、大きな声を出し続けることで、己が囮とな
逃げろ!﹂
って他の者たちを先に逃がした。
﹁逃げろ! 逃げろ!
﹁退却命令だ! さっさと逃げるぞ!﹂
﹁ま、待て、待ってくれ!﹂
騎獣する者、甲竜から振り落とされた者、傷を負った者。
てい
それぞれが、榴弾が降りしきる中を死から逃れるために、生にし
がみつくために駆け抜けた。
こうして小松菜率いる機甲科部隊はほうほうの体で、既に三キロ
地点にまで後退していた自軍に合流したのである。
この時、生還した機甲化部隊は半分にも満たず、部隊としては全
滅と言っていい有様であったといえよう。
また、 戻ってくることができなかった兵士の中に生者はいたで
あろうが、それを救いに行くことは死に行くことと同義。
そのため、敵の攻撃が届く位置に捨て置くしかない。
1152
機甲科部隊の兵たちは、己が体を大地に投げ捨てるように倒れ込
んだ。
これは騎獣していた者も、甲竜を失った者も隔てなく、である。
生を喜びもしなければ、仲間の死を悲しむこともない、必死に逃
げ延びた結果をいまだ受け入れられない兵士たち。
彼らの全身は熱した鉄棒のごとく湯気が立ち、思考もままならな
い。
それを端で眺める本隊の兵士たちの心はいかばかりか。
﹁まさか、敵も大砲を持っていたなんて⋮⋮﹂
﹁敵の大砲の方が、能力は上ではないか。⋮⋮大丈夫なのか、この
戦い﹂
本隊の兵士たちは緊張と動揺のもと、囁き合う。
︱︱次は我が身かもしれない。
口には出さないが、多くの兵士たちが思っていることであった。
イニティア軍の士気は低迷しつつあったのだ。
傷つきボロボロとなった機甲科部隊には、すぐに治癒術士が派遣
され、兵士たちの復旧が急がれた。
最後まで囮として戦場にいた小松菜のもとにも治癒術師がやって
きたが、﹁大したことはない﹂と言って、重傷者の治療を優先させ
ている。
﹁うう⋮⋮﹂
﹁ぐっ⋮⋮くそっ⋮⋮﹂
痛みを耐えるようなうめき声がそこかしこで聞こえる。
小松菜は改めて自軍の惨状を眺めた。
1153
敗北。仲間の死。
かつて一度味わった苦渋が呼び起こされていく。
体中の血が沸騰するように熱くなり、その血流に乗ってどす黒い
禁忌すべきものが、心臓から全身に行き渡るようであった。
小松菜は、ただ一人敵陣に乗り込んで、この有様をつくった相手
を皆殺しにしてやりたい気持ちにさせられた。
しかし、己が侵略する側なのだと思いなおすと、相変わらず体は
熱を帯びていたが、敵を憎む気持ちだけは消えていった。
そこに機甲科部隊の損害を確認しに来たレアニスがやって来る。
﹁すみません⋮⋮部隊はもう半分以上を失ってしまいました⋮⋮﹂
土に汚れ、腕は真っ赤に染まった姿での小松菜の釈明。
するとレアニスは優しく笑った。
戦場にあっても真っ白い、決して赤く染まらないと思える美しい
笑みである。
﹁小松菜、キミが無事でよかった﹂
レアニスは小松菜を抱擁で迎えた。
体に充満していた熱は、レアニスに吸い取られるようにして冷め
ていき、小松菜はその温かな胸に包み込まれるようにして落ち着き
を取り戻した。
◆
東西南北の城郭の上。
櫓と櫓の間に組を設け、それぞれジハルを族長とする狼族と北の
森の族長衆を組長に置いている。
1154
南の城郭には、鼠族の族長、牛族の族長、さらにジハルを族長と
する狼族から数名を組長としており、南門のすぐ隣を守護する牛族
の族長の組に信秀はいた。
﹁なんとかなったか﹂
退却していく敵を眺めながら、信秀はふぅと息を吐いた。
とりあえず、緒戦は勝った。
そのことが一時の満足と安堵となって、信秀に心地よさを与えた。
﹁うおおおおおお!!!﹂
﹁俺たちが、俺たちが人間の軍を倒したぞ!﹂
﹁こっちは被害ゼロだ! 凄いぞこれは! 人間を俺たちが圧倒し
ている!!﹂
北の森の獣人たちから歓喜の声が上がる。
どこかで見た光景だった。
鬱屈としたものが解放される気分なのだろう。
元の世界の言葉で、カタルシスだったか。
だが、喜んでばかりもいられない。
信秀は、この先、敵がどう出るかを考える。
︵とりあえず地雷によって敵の戦車部隊は壊滅させた。
対してこちらには、大砲が十全に揃っている。兵の数は足りずと
も、戦力は十倍勝るだろう︶
思いつつも、信秀の心には敵に対して﹃退却してくれ﹄という思
いがあった。
今の戦いを思い起こせば、やはり北の森の獣人たちの練度が足り
1155
ないのだ。
虎の子の地雷も使った。
これは、︻側溝︼を︻購入︼し、そこに密封した︻火薬︼をつめ
こんだお手軽なものであるが、距離が距離である。
城郭都市から一・三キロも離れているため、この場からの設置は
不可能であった。 ︵退却する様子はないか⋮⋮︶
イニティア王国軍は城郭より南に三キロの地点で待機している。
今のところ退却のそぶりはない。
しばらくにらみ合うようにイニティア王国軍との対峙が続いた。
その間、﹁フジワラ殿、フジワラ殿﹂と牛族の族長から握手を求
められ、手を痛くしてしまったのはちょっとした笑い話だ。
他の獣人たちも嬉しそうにして、握手を求めようとするのだから
堪らない。
有名人にでもなったかのようで、信秀自身悪い気はしなかったが、
現在は戦争中なので控えてもらった。
やがて白い旗を手にした騎兵が一騎で南門まで駆けてきた。
敵方からの使者である。
獣人たちの緊張が高まるが、それを押しとどめ、さらには手を出
さないようにと他の組にも通信機で伝える。
使者は門前にて手綱を引くと、使者は城郭の上に向かって大声で
言った。
﹁私はイニティア王国軍の使者だ! フジワラ殿はいらっしゃるか
1156
!﹂
﹁ここにいるぞ!﹂
今更隠れる必要もない。
しかし何かあっては怖いので、信秀は牛族の族長の大きな体に隠
れて返事をした。
﹁フジワラ殿に問う! 開戦にあっては互いに口上を並べるのが戦
場の習い! 何ゆえそれを無視なされたのか!﹂
何を馬鹿な、と信秀は思った。
口上とは戦争における互いの大義の言い合いであろうと推測する
が、そんなことをするために軍が近づいてしまっては、自陣が持つ
大砲の射程というアドバンテージ︱︱すなわち有利性を失うことに
なる。
﹁馬鹿なことを言う! ドライアドの地を荒らしたお前たちとは問
答など無用! 我が領に軍を率いて踏み込んだ時点で、既に開戦の
のろしは上がっているのだ! それが認められないというのであれ
ば、ただちにこの地より立ち去るがよかろう!﹂
﹁そちらの言い分はよくわかった! 我が主、レアニス様、コマツ
ナ様よりお言葉と書状を預かっている! まずはそのお言葉を伝え
よう! ﹃同郷の者よ!﹄とのことだ! さあ、書状を検められよ
!﹂
書状を掲げる使者。
わかっていたことであったが、やはり同郷の者。
それももう一人。敵の大将、レアニスも日本人だったとは少し意
1157
外だ。
はたしてなんのカードを引いたのか、気になるところではあるが、
今考えることではないだろう。
﹁誰か!﹂
言えば牛族の若者たちが﹁おう!﹂と名乗りを上げて、北門上の
櫓を通り、一階に下りていく。
彼らは門を開けると、書状を受け取った。
牛族の若者たちに、使者はいささか驚いた様子を見せていたよう
である。
信秀は、牛族の若者から書状を受け取り、それに目を通した。
﹃日本人、フジワラ殿。
気づいていると思うが、私ことレアニスと左将軍である小松菜は
日本人だ。
時にこの世界を見て、日本に生きていた貴殿はどう思われるか。
多くの餓えた者を私は見てきた。彼らは、その日の食事すらまま
ならぬ生活をしている。
国は戦争ばかりで、彼らを顧みることはない。
確かに今、私たち自身も戦争を起こしている。このレアニスこそ
が戦争を起こし、多くの者を死に追いやった当事者だ。
しかしこれは、争いを終結させるための戦争だ。大陸を統一する
ための戦争だ。
大陸を統一し、皆が平和に暮らせる世界を私たちは望んでいる。
もし、この考えに共感してくれるのならば、私たちの下に降ってほ
しい。
何か望みがあるのならば、できる範囲で叶えて見せよう。
共に、日本で見たような光景をつくっていきたいと願っている﹄
1158
書状を読み終えると、﹃まあ、こんなところだろうな﹄と信秀は
思った。
予想の範疇を出ない手紙。
レアニスの考えは素晴らしい。
素直にそう思えど、それを信じるかどうかは別だ。
この世には悪人がたくさんいる。
誰かを騙し、その生き血を啜る輩が。
それがレアニスでないとは判断できないのだ。
今わかる確かなことは、﹃レアニスは武力がもってこの地に攻め
てきた﹄︱︱これだけだ。
本当に信用してもらいたいというのであれば、裸一貫で来るべき
だった。
﹁返答を伝えてくれ!﹂
﹁心得た!﹂
﹁﹃降るつもりはない。この地を侵す者とは戦う以外に道はなし。
それが嫌ならば、即刻立ち去るべし﹄とな!﹂
信秀の返答を受け取ると、使者は南へと馬を走らせていった。
◆
︱︱城郭より三キロ地点、イニティア王国軍本隊。
怪我を負った者たちが、本隊から昨晩一夜を明かした後方の陣地
︵城郭から四キロ地点︶に下がっていく。
1159
一夜にして陣営が築けるわけもなく、現在でも後方支援隊が陣地
設営は続いている。
だが、敵も大砲を持っている以上、四キロという距離には危惧が
残る。
そのためレアニスは、さらに歩兵を割き、後方にも陣地を築くよ
うに命令していた。
そのような中、曇った空を天井にして小松菜とレアニスが向き合
って大地に腰を落としている。
既に小松菜の腕の治療は済んでおり、時間としてはちょうど先ほ
どフジワラ軍へ使者を出したところだ。
﹁機甲科部隊の先頭を一掃した敵の攻撃。あれはなんだったのでし
ょうか﹂
﹁私は地雷じゃないかと思っている﹂
﹁地雷⋮⋮﹂
小松菜は呟くと、地雷について思いを巡らせる。
元の世界においては忌むべき武器として使われていた。
火薬を使う以上、イニティア王国軍においても地雷運用が考えら
れたことはある。
実際に守勢に回ったならば、火薬を使った簡易な地雷を使うこと
になるだろうが、今のところずっと攻勢する側だ。
﹁おそらくは一列に地雷を埋めて、一度に点火したのだと思う。た
だ、恐ろしい火薬の量だ。それに火薬の質も私たちが使っているの
1160
よりもいいように思われる。おそらく、ずっと前から戦争の準備を
していたのだろう﹂
レアニスが悔しそうに口元を歪めた。
いつも清廉として美しいレアニスには珍しい表情だ。
﹁⋮⋮退却してはどうでしょうか﹂
ためらいながらの提案だった。
イニティア王国軍にとって恥辱以外の何物でもないが、敵が自軍
より優れた兵器を持つ以上、退却もやむなしと小松菜は考えていた。
小松菜の言葉は続く。
﹁戦力差は歴然です。こちらよりも優れた大砲。豊富で優れた火薬
に、どれだけ埋まっているかわからない地雷。⋮⋮正直、勝てる要
素が見当たりません﹂
﹁いいや、小松菜。あくまでこちらは攻める側で、あちらは守る側
だ。それを間違えてはいけない。彼らがこの地に籠ったことこそ、
余裕がない証拠だと思う。
後方にはまだ大砲が十門残っている。生き残った大砲と合わせれ
しりぞ
ば二十門は超えるだろう。
退くにはまだ早い﹂
なんとなくではあったが、小松菜はレアニスのこの答えを予想で
きていた。
ここでの敗北はあとを引く。
勝とうが負けようが東方諸国は動き出すだろう。
されど士気が違う。
1161
ここで退いたなら、﹁イニティア王国はたかが一領にも勝てない
弱卒ばかりだ﹂と東方諸国は俄然勢いづく。
さらにこのフジワラ領と東方諸国との二正面作戦を展開しなけれ
ばならない。
︱︱いや、それだけではない。
南のヨウジュ帝国の反乱。
一領主であった同郷の者と密かに盟を結び、反乱はこの侵略戦争
と連動して行われた。
︵ジュリアーノ・ヴァッサーリ伯爵。日本名は永井⋮⋮だったか。
彼は間違いなく勝ち抜き、ヨウジュ帝国を手にするだろう。
火薬の技術はもともと彼らから手に入れた物。その力は計り知れ
ない︶
確かに、永井とは同盟を結んでいる。
しかし、国盗りなどを行おうという者が、国を手に入れただけで
満足するとは思えない。
もしイニティア王国が東方諸国を滅ぼせば大陸の支配者は決定さ
れる。
永井が牙を剥く機会は、イニティア王国が東方諸国と決戦する時
以外にないのだ。
こうやって現状を整理すると、今ここでフジワラ領とは戦って勝
つべきだろうか、と小松菜は考えを改めつつあった。
﹁ならば夜に攻め込むというのは? 闇夜の中なら敵の大砲も狙い
がつかないでしょう﹂
﹁周到な相手だ。時間を与えてまた地雷を埋められてはたまらない。
1162
先ほど払った犠牲を無駄にはできない﹂
﹁開けた地です。大砲を設置しておけば、牽制になるのでは? 大
砲を向けられては、敵も容易に地雷を埋められないと思いますが。
こちらの大砲の射程はおよそ一キロ。敵がそこまで砲弾を飛ばす
のに、およそ二.三キロ。敵の射程範囲だったとしても、大砲を少
し後ろに下げて、敵が地雷を埋めに出てきた時だけ大砲を前に出せ
ばいい﹂
﹁確かに、いい手だ。しかし相手側も大砲を外に出せば、それまで
だろう。
城郭に設置している分が全てというわけじゃないはずだ﹂
﹁しかし⋮⋮﹂と言い募ろうとしたところで、小松菜は口をつぐん
だ。
レアニスは微笑を浮かべていたのだ。
長く隣にいたからこそわかる。
これは、何を言っても考えを変えるつもりがない顔だ。
﹁ふう、わかりました。それで何か作戦はあるんでしょうね﹂
このまま無策で戦っては結局無数の被害を出すことになる。
それはレミングの行進と何も変わらない。
対策が必要だった。
﹁集団で動くからダメなんだ。敵の地雷は個人を相手にするという
よりも対軍用の地雷。巨大な一つの地雷であると考えていいだろう。
そして、敵がこちらの大砲のことを知っているとなれば、射程を
考えてあと一回あるかないかだ。
そうでなければ誘爆してしまうからね。
1163
もしかしたら、個別に地雷をばらまいた地雷原もあるかもしれな
いが、この際それは無視しよう﹂
﹁なるほど。それで?﹂
﹁それでだ、甲竜を一頭だけで門に突っ込ませる。さらに︱︱﹂
作戦会議は続き、またその間にも使者が帰ってくる。
フジワラからの返答は大方予想通りのものであった。
ここまでの戦力を有している者が、同郷であるからと言って、早
々に降るとも思えない。
もしかすれば、フジワラもまた大陸に覇を唱えようという野心が
あるのかもしれない、と小松菜は思っていた。
作戦会議が終わると、レアニスの考えた戦術はすぐに実行に移さ
れる。
本隊から出撃するのは横一列極力幅をとった甲竜の群れ。
これが死を恐れぬ勇敢な兵を背に乗せて、のっしのっしと城郭へ
歩きだす。
無論、率いるのは小松菜だ。
ややあって、城郭から二キロ︱︱砲撃が来るであろうと予測され
る場所︱︱より手前
の地点。
ここでピタリと甲竜の横列行進は停止したかに見えた。
しかし、ただ一頭だけ抜け出した。
速度を大きく上げて。
他の甲竜は大砲を牽いているにもかかわらず、この甲竜は何も牽
1164
いていない。
途端、駆け抜ける甲竜に向かって轟音が空に響いた。
城郭の大砲が火を噴いた音だ。
ならば、次にやってくるのは榴弾の雨。
されどこれは、フジワラ軍の練度が低いためか、はたまた運がよ
かったのか、素早い動きで突進する甲竜には命中しなかった。
その一連の様子を凝視していた小松菜は、ごくりと喉を鳴らした。
ここからだ、と。
一頭だけでひた走る甲竜が地雷原に入った。
なおも大砲の音は続いている。
地雷原に大砲を撃つということは、もう対軍用の地雷はないとみ
てよかった。
﹁よし、進めーッ!﹂
小松菜の号令に合わせてさらに二頭の甲竜がいく。しかし今度は
大砲を牽いていた。
さらに時を置いて、また二頭。
さらに時を置いて、また二頭。
︱︱波状攻撃。
もう一度地雷原があっても、波状攻撃ならば、後続が敵に詰め寄
ることができる。
﹁地雷が爆発しない? ないのか! もう!﹂
小松菜の顔が狂喜に歪んだ。
1165
︱︱いける。
仲間たちの死がよぎり、復讐心が再びその身に充満した。
今、前を走っている騎獣兵は皆、レアニスの志に感動し、心酔し
ている者たちばかりだ。
いわば同志。
そんな彼らの内、生きて帰ってくることができる者は、どれだけ
か。
将軍たるもの、兵の犠牲に囚われてはならない。
しかし小松菜はそこまで無情にはなれなかった。
せめてもの手向けとしてやれることは何か。
そう考えた時、未来への復讐心とも呼べる、矛盾した感情が生ま
れるのである。
勝てば、できることは多い。
ならば勝ちを前にした時、人は誰でも夢想する。普段、考えもし
ないことを夢想し、勝利に酔う。
それゆえの、残虐的な復讐心ともいえた。
もちろん実際に勝ちを得た時、それを実行するかどうかは勝者の
心根次第。
とにかくも、この時の小松菜は勝利という眩しい光に手を伸ばし
ていたのだ。
だが︱︱。
ここでもやはり、だが、である。
人生とはそんなに甘いものではない。
勝利を掴もうとしたその直前、するりと逃げてしまうことなどま
まあることであった。
1166
小松菜は聞いた。
砲撃音の隙間、突如として戦場に響いたのはダダダダダという連
発音。
群を抜いた動体視力を持つ小松菜の瞳は捉えていた。
一つ一つが尾を引いてまるで一本の線のようになった閃光を。
﹁ば、馬鹿な⋮⋮あれは⋮⋮! あれは⋮⋮ッ!!﹂
︱︱銃弾。
驚愕と共にその単語は、小松菜の脳内で反芻された。
そして最先頭を行く甲竜。
甲竜の騎乗者がまず崩れ落ち、おそらく頭が打ち抜かれたであろ
う甲竜も地面に突っ伏すようにして倒れてしまったのである。
小松菜は銃弾が放たれた場所を見る。
窓より突き出たのは、大きく長い銃身。
火縄銃のような初期の銃火器よりも、もっと先進的で機械的なフ
ォルムに感じた。
その直後︱︱。
﹁退け、退けーーッ!!﹂
小松菜の口から出たのは、屈辱的ともいえる本日二度目の退却命
令であった。
1167
93.フジワラ領防衛戦 3︵後書き︶
レミングの死の行進は捏造だそうです。
1168
94.フジワラ領防衛戦 4
重機関銃を前にして、再び退却した小松菜率いる機甲科部隊。
彼らが本隊に戻った時、大砲は新たに五門失われ、残りはもう十
八門しかなかった。
﹁銃です。敵は銃を持っています。それもただの銃じゃありません。
口径は大きく、連射ができ、射程も長い。大砲にも匹敵する恐ろし
い武器です﹂
小松菜が、本隊の先頭に立って戦況を眺めていたレアニスに報告
した。
するとレアニスはギリリと歯噛みする。
端正な顔が大いに歪んだ時、面に映る凄絶さはただならぬものと
なるが、それもわずかのこと。
スッとまた冷静な表情に戻してレアニスは言う。
﹁銃、銃か。大砲があるならば、それも当然だろう。私たちも同様
に銃を開発しているのだから。しかし、そこまで優れた物となると、
少し考えなければならないな。明らかに文明の度合いがおかしい﹂
日本を知るもので銃を知らない者はいないだろう。
大砲をつくって銃をつくらないという馬鹿な話はない。
当然、イニティア王国でもレアニスの命によって銃がつくられて
いた。
ただし、現状は秘密兵器として秘匿されおり、いまだ表舞台には
その姿を見せてはいない。
1169
﹁なんらかの能力か、それとも元々の知識によるものでしょうか﹂
﹁さあ、どうだろう。どちらにしろ、私たちよりも先進的な技術を
持っているということで間違いない﹂
小松菜が問うと、レアニスは冷静な口ぶりで返した。
されど、その手のひらに汗を滲ませていたことは、小松菜も気づ
かなかったことである。
﹁⋮⋮どうしますか﹂
﹁はっきり言って、逃げ出したい気分だよ、小松菜。だが、ここで
彼らを見逃すこともまた恐ろしい。王都からの避難民を加えれば、
かの地はより強大になる。人口が増えれば、兵も増える。
彼らの目的はなんなのだろうな。こうして戦端が開かれてしまっ
たが、その前に話を聞けなかったのは残念でならないよ﹂
戦力差は明らか。
多勢を覆す先進的な火器がフジワラ軍には存在しており、ここに
至っては、レアニスも弱気とも思える様子であった。
﹁一度退いて、密偵を送り込み、その技術を盗んでからでも遅くは
ないのでは?﹂
﹁そう易々と最先端と言える技術を盗めるとは思えないな。加えて
私たちにはそんな悠長なことをしている暇はない。東方諸国との戦
いも控えていれば、ヨウジュ帝国のジュリアーノ・ヴァッサーリ︱
︱永井のこともある。
わかっているだろう? 永井は味方ではない。こちらがあちらを
利用しているように、あちらもこちらを利用しているに過ぎないん
1170
だ。
とにかく戦いはまだまだ間断なく続く。この地を残すことは不確
定要素だ。女王オリヴィアもそこにいる以上、このままにしておけ
ば当然我らが制圧した領地を奪い返そうとするだろう﹂
﹁ではこのまま戦うべきだと?﹂
﹁小松菜はどう思う?﹂
質問を質問で返されると、﹃レアニス自身、判断がつかないのだ
ろう﹄と小松菜は思った。
小松菜もそう。判断がつかなかった。
このまま戦いなんとかして勝つことも正しいことだと思うし、一
度退却することもまた正しいことのように思える。
﹁⋮⋮わかりません﹂
﹁そうだな、私も判断がつかないよ。ここは一つ、他の者たちにも
話を聞いてみようじゃないか。︱︱中隊長以上の者前へ!﹂
レアニスが透き通った高い声で、集合をかけた。
列中からすぐに各隊長が参上して、その場に円をつくる。
その中には獣人の姿もあった。
﹁︱︱と、こういうわけだ。皆の意見が聞きたい﹂
レアニスが現状を説明し終わったところで、全員に意見を求めた。
戦うか退くか。
まずはその二択である。
1171
﹃⋮⋮﹄
答えは苦悶の沈黙。
皆が皆、眉をひそめ、唇をきつく結び、言葉を発することはなか
った。
戦うというのならば、策を示さねばならない上、自身が一番手と
なって戦うことも覚悟しなければならない。
しかし彼らは見ている。
機甲科部隊の目を覆いたくなるような惨状を。
されど退くというのならば名誉が穢される。
﹃騎士にとって背を傷つけられることは最大の恥辱である﹄という
言葉があるように、敵を前にして尻尾を巻いて逃げることは恥でし
かない。
名誉というものは、時として命よりも大事にされる時代のことで
あるからして。
兵士たちは皆静かに隊列を組んでいるというのに、その静かさに
も増して、ぽっかりとした音のない空間が生み出されていた。
隊長たちは己が指揮する兵士たちの前で、情けなくも口をつぐん
だままであった。
だがその静寂に一石を投じた者がある。
﹁⋮⋮我らがやる﹂
絞り出された声。
声の質から、苦慮の末の一言であることが分かった。
しかし、その声の主は誰であるか。
1172
途端、隊長たちの目が鋭くなる。
何故ならばそれを口にしたのは、獣人︱︱狼族の長であったから
だ。
﹁意気込みはわかる。だが闇雲に攻めても死に行くだけだ。策はあ
るのか?﹂
﹁我ら獣人が全員で突撃し、城壁に攻撃を仕掛ける。敵の攻撃は我
らに向くだろう。その隙に城壁を大砲で崩せ。敵がこちらの大砲に
向けて攻撃を加えるのならば、その隙に我らが城壁を上り占拠する﹂
レアニスの質問に、すらすらと言いよどむことなく答えた狼族の
長。
隊長たちはその気迫に圧されて、ごくりと息を呑む。
狼族の長の黒々とした瞳。
されど、その瞳の奥には真っ赤に燃える決意の炎とでもいうべき
ものが宿っていた。
﹁死ぬぞ⋮⋮﹂
レアニスは狼族の長の作戦の非情を見抜いていた。
敵からの攻撃だけではない。
城壁を生身で攻めるということは、味方側からの大砲の攻撃を受
けることになるのだ。
こんにち
﹁ここまでの戦いで我々はなんの手柄も立てていない。
今日、只今よりもたらす戦功をもって、かつての約束を履行して
くれ。子どもたちには国を。レアニス殿が面倒を見てやってくれ﹂
悲壮の覚悟だった。
1173
全滅するかもしれない。それを自覚し、ゆえにレアニスに子を託
したのだ。
恵まれた土地に獣人の国を興す。
イニティア王国が主権を持ち、獣人の国には最大限の自治を許す。
これがかねてより結ばれていた約束︱︱今戦争で獣人が活躍を果
たした際の対価であった。
レアニスは目を閉じた。
何を考えているかは誰にもわからない。
わずかの間のあと、レアニスが括目して言う。
﹁︱︱わかった。それで行こう﹂
﹁レアニス!﹂
責めるように叫んだのは小松菜だ。
この大陸の者とは価値観の違う小松菜にとって、自我と知恵を持
つ獣人というものは、少し顔が違うだけの人間でしかない。
戦いに犠牲はつきものだ。
小松菜自身、死をもいとわない覚悟が既にある。
だが犠牲と、それ対する勝利の価値は、天秤にかけるべきだと小
松菜は思っていた。
だからこそこの地を得ることが、獣人たちの多大な犠牲に相応し
い戦果なのかと思わずにはいられなかった。
そこまでして得るべき勝利なのかと疑念を抱かずにはいられなか
ったのだ。
﹁⋮⋮犠牲には必ず報いる。獣人は部族の未来を。私は大陸の未来
を見ている。たとえ、ここでの結果がどうであろうとも、獣人との
1174
約束を蔑ろにすることはない。ラシアの神に、我が名前に、ここに
いる全員に誓おう。
さあ、これが最後だ! 戦いの準備をせよ!﹂
かくして、獣人たちの死の前提とした一大作戦が決行される。
◆
﹁何故奴らは退却しないのか﹂
﹁ビビッて、動けないんじゃないのか? 怖いよ∼怖いよ∼、って
な﹂
﹁はは、そりゃあいい﹂
城郭の上での、獣人たちの声の弾んだ会話。
頬はだらしなく緩んでいる。
それを叱責することなく眺めているのは信秀だ。
︵緒戦からの大勝利で少々浮かれている感じもするが、緊張するよ
りはいいだろう︶
つい先ほど実際にガチガチに緊張して、敵に狙いをつけられなか
った彼らの姿を信秀は見ている。
敵側の意表をついた作戦のせいでもあったが、それを抜きにして
も、訓練の時とは雲泥の差であると言ってよかった。
﹁敵が動いたぞ!﹂
獣人の中から誰かが叫んだ。
1175
信秀が双眼鏡を覗く。
歩兵たちが城郭から一定の間隔を取りつつ、東西に分かれていく
のが見えた。
︵なんのつもりだ? 南の城壁以外から攻めるつもりか?︶
地雷は東西南北全てに埋めてある。
点火スイッチも狼族の誰それに渡してあり、万全の態勢だ。
だが敵の歩兵たちは東西に分かれるにあたって、大砲すら持って
行かないようである。
信秀がしばらく覗いていると、やがて敵は城壁の陰に隠れてしま
った。
すると︱︱。
﹁お、おい、あれ⋮⋮!﹂
﹁まさかっ!?﹂
周囲の者たちの様子がおかしい。
信秀はすぐに双眼鏡を中央に戻した。
レンズを通して網膜に入りそれが映像化され、信秀の脳は初めて
認識する。
敵側からここ南の城壁へと向かってきたのは、人間ではない姿を
した者たち。
︱︱獣人だった。
﹁ふ、フジワラ殿、ど、どうするのだ!?﹂
牛族の族長の声は震えていた。
その気持ちは痛いほどよくわかる。
1176
敵の中に獣人がいることはわかっていたことだ。
だがいざこうして目の前に現れると、言い表せない複雑な感情が
信秀の胸によぎった。
しかし信秀は、違うと思った。
彼らは、己を裏切った獣人たちだ、と自身に言い聞かせる。
そう思うことで、精神の安定を信秀は図ったのである。
﹁やることは変わらない。射程に入ればただ撃つのみだ﹂
﹁せ、説得をすることは﹂
﹁後方に動きがある。おそらくあの獣人たちに城壁を攻めさせ、そ
れを囮として、後方から大砲で攻撃するつもりなのだろう。説得す
る暇はない﹂
合点がいった。
先ほどの東西に分かれた歩兵たちに攻める意思はない。
あれらは、東西北を守る者たちを釘付けにするためのものだ。
﹁ちょっと待て! 城壁を敵方の獣人が攻めている間に、敵は大砲
を撃つということか!? それは、それでは!﹂
﹁そういうことなのだろう。あの獣人たちは捨て石にされたのだ﹂
もし獣人が城壁までたどり着いたのならば、今度は味方から城壁
もろともに狙われるということなのだ。
恐ろしい手だ。
あまりに非情すぎて、普通は考えつかない。
1177
だが、それだけに効果は絶大だ、と信秀は思った。
﹁そ、それならばなおのこと、話せばこちらの味方になってくれる
のではっ!﹂
﹁仮に説得に頷いたとしてどうする。城門の中に入れるのか? そ
れが偽りの降伏だったらどうする。こちらは攻撃する以外に道はな
い﹂
信秀の決定に、牛族の族長は﹁ぐぅぅ﹂と唸り声をあげて、もう
何も言わなかった。
牛族の族長もわかってはいるのだろう。
だがそれでも、捨て石にされる彼らを憐れみ、互いが生きる道を
探したのだ。
信秀はもう一度双眼鏡を覗いた。
砂煙を上げて向かってくる獣人たち。
千は下らないだろうか。
それぞれ手には剣や弓矢に城壁を上るための梯子。
さらに大砲なんて物を持ちながらも、屋根の付いた破壊槌まで持
ってきていたようだ。
また、獣人たちも一部族だけではない。
幾つかの種族がいる。
そう、複数の部族。
︱︱その中に狼族がいた。
信秀の腕が震えた。
1178
老いた狼族の者が必死の顔で走っている。呼吸は荒い。息づかい
がここまで届いてきそうだ。
不意にジハルの顔がその老いた狼族に重なった。
信秀はズキリと胸が苦しくなり、金縛りにあったように全身が締
め付けられる心地がした。
子どもこそいなかったが、そこには女性もいた。
美しくも、どこかあどけなさを残す狼族の女性がこちらに向けて
走っている。
どこかミラに雰囲気が似た女性だった。
その瞳は、覚悟に彩られている。
なんの覚悟か。
言うまでもない、死ぬ覚悟だ。
﹁フジワラ殿! 線を越えたぞ! 砲撃の合図を!﹂
牛族の族長の声が聞こえる。
だが、それを信秀が理解することはない。
まるで信秀の頭から脳ミソがなくなり、牛族の族長の声がその空
洞の中で響くようであった。
﹁フジワラ様!﹂
傍に控えていた護衛のうちの一人︱︱ミラが、現状を見かねて、
名前を呼びながら信秀の肩をゆすった。
信秀はハッと我に返ると、すぐさま状況を把握し、命令する。
﹁う、撃て!﹂
その声には驚くほど覇気がなかった。
1179
仕方なく﹁撃て! 撃てー!﹂と言い直したのは牛族の族長であ
る。
こうしてその場を任された砲兵たちは一応の砲撃を開始した。
しかし櫓を挟んだ他の組からの砲撃の数は驚くほど少ない。
狼族だけではない、敵の中には鼠族と蜥蜴族もいた。
このどこか見知ったような敵を前にして、同胞と重ね、憐れみ、
攻撃の手はあろうことか緩んでいたのである。
1180
95.フジワラ領防衛戦 5
雲を抜けた太陽が、中天にて大地を燦々と照らし出している。
陽光の下、大地に無数の影をつくっているのは、空を行く砲弾。
そしてその砲弾の下には︱︱。
﹁進めぇっ! 我らの進む先に未来があるぞ!﹂
︱︱オオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!
天地を切り裂くような凄まじい雄たけびを上げる獣人たちがいた。
彼らは一塊にはならず、無数のほとばしる炎となって大地を駆け
ていく。
そこにフジワラ軍から放たれた砲弾が次々に落ちていく。
轟音が響き、爆風と無数の礫が獣人たちを襲った。
ある場所では、獣人の体が砂煙と共に空に舞った。
いや、よく見れば﹃体﹄という字で表すには、下半身が足りてい
ない。
腹からは臓物をまき散らし、もう絶命しているにもかかわらず、
その瞳に浮かぶ強烈な眼光だけは、依然として衰えてはいなかった。
またある場所では、砕けた砲弾の礫が獣人たちの四肢を砕き、胴
を穿った。
一瞬の呻きはあったが、すぐにそれは咆哮へと変わる。
血みどろになりながら、それでも獣人たちは前に進んだ。
1181
彼らにとってもはや死はすぐ隣にあった。
されど獣人たちは城壁に向かって駆け抜ける。
その数は減っているというのに、雄たけびはいっそう激しさを増
しているようであった。
獣人たちの決死の覚悟。
仲間の死に直面しようとも、その意思にいささかの揺らぎもない。
何ゆえそこまでの覚悟が備わったのか。
かつて貧困にあえいでいた獣人たちを、今日までの長きにわたっ
て援助していたのはレアニスである。
どこからか現れたレアニスは武器を携えず、ただ食糧だけをもっ
て彼らに施した。
人間としてはまさに異端ともいえるその行動。
初めは獣人たちも疑った。何か目的があるのではないかと疑心を
持っていた。
だがレアニスはまるで人と接するように獣人と会話をし、約束を
守り、道理をもって接した。
一年、二年と、その人柄に触れるにつれ、段々と獣人たちもこの
者ならばと、信じられるようになった。
信秀がそうであったように、レアニスも獣人たちと交わり、人間
でありながら、獣人たちから信頼を得るようになっていったのであ
る。
いつだったかレアニスは自身の夢を彼らに語っている。
﹃大陸を統一し平和な世界にする。戦争もなく、飢えることもなく、
誰もが明日に向かって生きていける世界を、私は必ずつくってみせ
1182
る﹄
表情にも言葉にも、﹃己にしかできない﹄という自信と、﹃必ず
成し遂げてやろう﹄とする信念が見えた。
これに対し、ある獣人の長が尋ねる。
﹃我らはその時どうなるのだろうか﹄
するとレアニスの答えは﹃今のまま援助は続けていく﹄というも
のだった。
それだけだ。
それだけしかレアニスは言わなかった。
獣人たちの未来はどこにあるのか。
これから先、誇りをもって堂々と生きていく、そんなことは不可
能であるのか。
獣人は人間にとってなんであるか。
人間の深いところにまで根付いている、人でない者を見下す心。
それは、レアニスが大陸を制覇しても続くのであろう。
たとえ、レアニスが平等に扱ったとしても、他の人間はそうはい
かない。
﹃どうすれば、あるがままに生きられるようになるのか﹄
再び獣人の長からの質問。
レアニスは、わずかにためらい、そして言った。
﹃人間に認められるべき成果がいる。
ただの成果では駄目だ。それでは人の心は変えられない﹄
1183
大きな手柄がいる。
人間が恩を感じるような。
大陸の平和の礎となるような功績が。
獣は死して皮を留めるが、彼ら獣人たちは獣にあらず。
死して一族の未来を残す。
ただその一念のため。
だからこそ今日彼らはひたすらに走るのだ。
死をもいとわずに。
◆
︻9822︼
信秀にとってジハルたちの狼族はなんであるか。
決まっている。
かけがえのない仲間であり、家族のような繋がりを信秀は感じて
いた。
では、敵である狼族は?
敵は敵でしかない。
それは明白なことだ。
だというのに心が惑うのは何故だろうか。
たとえば人間なら、その膨大な数ゆえに、カテゴリーはさまざま
だ。
自国の人間、他国の人間、同県の人間、他県の人間。
同じ市町村の人間、違う市町村の人間。同じ仕事をする人間、同
じ学校に通う人間。
1184
近所に住む人間、親しい人間に親しくない人間。
そして何より、自身に関わりのない人間は﹁他人﹂というどうで
もいいカテゴリーに属することになる。
人間を区別する壁は、はっきりとして確か。
さらに﹁他人﹂に対しては、あまりに無関心であると言っていい
だろう。
もちろん例外も存在するが。
では信秀が思う敵の狼族に対する感情は何か。
確かに敵である。
それは明らかだ。
しかし狼族という種族の数の少なさは、狼族を区別することをあ
いまいにしていた。
いや、というよりも、ジハルたち狼族に近しい者にしていたので
ある。
それでもやはり敵味方。
そんなことはわかっている。
だがそう思っていてもなお、無惨に命を散らそうとする狼族たち
に、また家族同然の者たちと言って同じ顔をしている狼族たちに、
信秀の心は揺り動かされていたのだ。
これは信秀だけに限ったことではない。
他の獣人たちも同様だ。
種族の少なさゆえに、敵である同族を隣人と考え、攻撃に抵抗が
あった。
敵である獣人に投降を呼びかける者までいる始末だ。
1185
﹁俺たちは同じ獣人だ! 争う必要はない! 武器を捨てろ! こ
ちらにつけ!﹂
同族ならばわかってもらえる。
そう思ってのことなのだろう。
だが、敵である獣人に声が届いていないのか、それとも聞こえて
いてなお武器を捨てないのか。
とにかくもイニティア王国軍に参加する獣人たちは、士気盛んに
して、抗戦の意思を全身から発している。
敵の思いもよらぬ進撃に、このままではまずい、と信秀は思った。
思いつつ、命令を出すが、どうもうまく力が入らない。
意思とは別のところに、もう一つの意思があるようなそんな感覚。
その刹那、一本の線が煌めいた。
ダダダダダという特徴的な音は、櫓からの重機関銃による攻撃で
あり、重機関銃を操るのは、狼族しかいない。
そして、重機関銃から放たれた弾丸が襲ったのも、狼族であった。
狼族が狼族を撃つ。
狼族は知っている。同族であろうとも、倒さねばならぬことを。
気づけば、ミラも︻89式小銃︼を同族に向けて、弾丸を放って
いる。
信秀は己を恥じ、次に奮起した。
誰よりも狼族たちが戦うことを選んだ。
ならば己もやらねばなるまい。
信秀はそう思ったのだ。
1186
︻9874︼
﹁攻撃を休めるな! 奴らは死に物狂いどころか、命を顧みること
なく向かってくるぞ! とにかく撃ちまくれ!﹂
信秀は、確かな声で﹁撃て﹂と命令した。
やらねばこちらがやられるのだと、通信員に各組に伝えるように
幾度となく言った。
その声には、先ほどまでにはない力があった。
指揮官の強い意思は、当然部下を動かす原動力となり得る。
まばらであった砲撃は、徐々にその数を増やし、敵を叩いていく。
これにより獣人たちの身は文字通り散っていった。
大地は血に染まり、無惨な屍が積み重なっていく。
わずかな逡巡があったにもかかわらず、戦果は上々であったとい
えよう。
しかし、易々とはいかない。
そのわずかな逡巡が、敵を懐に飛び込ませていたのである。
﹁駄目だ! 内に入りすぎて、大砲じゃ狙えねえ!﹂
﹁くそ、櫓の奴は何やってんるんだ!﹂
ある砲兵たちの焦ったような叫び。
射程は外のみならず内にもある。
城壁に近づきすぎた敵を、大砲で撃つことは不可能なのだ。
﹁ええい、弓を使え!﹂
1187
牛族の族長はとっさに命令した。
しかし弓を使えば、大砲による攻撃がおろそかになる。
敵軍の機甲科部隊も既に動き出していた。
﹁通信! 東西北から半分の人員をこちらの守備に当てるように言
え! 個別の武器を忘れるな!﹂
死を恐れない兵。
最後の一兵になっても戦い続ける兵。
それはとても恐ろしい。
この城壁を目指して、躊躇なく、ひたすらに前を目指す。
目前の味方が死のうとも、何か本能にでも突き動かされているよ
うに。
強烈な意思による進軍は、まるで原始的な生物の群生行動。
それはまるで自然の驚異のように思われた。
︻9956︼
能力を暴露してでも防ぐべきか、と信秀は考えた。
たとえば、新たに城壁を生み出すか。それとも、目下に火薬を呼
び出して即席の地雷とするか。
しかし、同郷の者の前で︱︱それも敵であるものの前で己の力を
晒すことは、自身の脅威を示すことになる。
能力の詳細を知られれば、恐ろしいのは己の能力だけだと知られ
れば、どんな不幸を呼び込むかわからない。
1188
特にあの小松菜という男は異常であった。
その力は怪力無双。
あのような常識外れの力を持つ者が、正面からではなく、闇に紛
れてひっそりと己の命を狙ったなら。
そう考えただけで思わず身震いする。
戦時なればこそ油断はない。
だが平時において、隙を突かれでもすれば、容易く殺されること
がわかってしまった。
︻9999︼
能力は隠しておきたい。
だが、もはやそんなことは言っていられないまでに状況は切迫し
ていた。
︵仕方がないか⋮⋮︶
そう思い、自身の能力の最大限を用いて敵を討とうとした時のこ
とであった︱︱。
◆
いける、とレアニスは思った。
獣人の強靭な体躯と精神は、敵の瀑布のような攻撃を凌駕してい
ると。
あの凶悪極まりない砲弾や弾丸の嵐の中で、必ずや刃を届かせる
と。
﹁城壁を破りさえすれば状況は大きく変わる﹂
1189
城壁にある兵の少なさ。
それはフジワラ領にて戦える者が少ないことを意味している。
報告では大砲を扱う者以外に守備兵は見当たらないという。
つまり、獣人たちが城壁に張り付きさえすれば、フジワラ軍の守
備兵はそれに当たらねばならず、必然的に敵の砲兵の数は減り、こ
ちらの機甲科部隊がようやくその力を発揮できるようになるのだ。
さすれば、城壁は間違いなく崩せるだろう。
とはいえ、城壁を崩せたからといって、勝てるかどうかは怪しい
と思っていた。
やはり銃の存在は脅威だ。
あの櫓にあるだけしかないとは思えない。
市街地戦においても、銃はその威力を存分に発揮するだろう。
レアニスは、皆の前では士気を維持するために、勝利を念頭にし
て戦いを語った。
しかしその口と己の心は剥離していると言っていいだろう。
今日ここで敗れようとも、構わない。
レアニスはそう考えていたのだ。
︵北の城壁を占領できれば敵の大砲と、櫓の銃を得ることができる。
研究し、のちの戦いを優位に進めることができる。
勝てるに越したことはない。
だが、勝ちにこだわりはしない︶
生産という面では、魔法のあるこの世界は、元の世界よりも優れ
ていた。
実物さえあれば、多少の試行錯誤はいるものの、驚くほど速やか
に高位の魔術師が複製するのだ。
1190
レアニスにとってやはり恐ろしいのは、永井の存在だった。
早くから日本人を集めていたのは知っている。
それぞれの日本人が持つ︻神から貰った能力︼も油断できないも
のがあるが、それよりも一握りの知識人により多くの脅威を感じて
いた。
﹁永井に対して奥の手ともいえる備えはしてあるが、ここで勢力の
小さなフジワラが革新的ともいえる技術を持っていたのは僥倖だ﹂
誰に言うでもなくレアニスは一人呟いた。
宝の山ともいえる、この領地。
何故、今日まで表に出てこなかったかは不思議ではあるが、王の
権力が低下していたドライアド王国の内情と、今日までの女王の逃
避行を考えれば、王宮とフジワラとがもしもの時に備えて用意して
いたものであろう。
﹁いただくぞ。大陸の平和のために﹂
レアニスはニヤリと笑った。
そんな時であった。
レアニスから見て左右からざわめきが起こったように感じたのは。
﹁ん⋮⋮?﹂
レアニスは耳に意識を傾けた。
戦場である。
今もけたたましい砲撃音や、戦士たちの生死を争う雄たけびが聞
こえ、その違和感は勘違いかもしれないとレアニスは思った。
1191
しかし、そうではない。
違和感の正体はすぐに明らかなものとなる。
﹁なんだ⋮⋮?﹂
うろん
城壁の東より一頭の騎馬が全速で駆けてくる。
何かあったのかと、胡乱な顔をするレアニス。
東西に配した部隊に攻撃命令は出していない。
あくまでも東西のフジワラ軍をその場に留め置くための牽制。
敵の射程より前に出ることは禁じており、何かが起こることはな
いと考えていた。
耳を澄ましても、東西から戦いの音は聞こえてこないように思え
る。
だが、その騎馬の後ろから現れた、ありえないもの︵・・・・・・
・︶を見て、レアニスの美しい清廉な細面は一変した。
﹁ば、馬鹿な⋮⋮! 馬鹿な馬鹿な馬鹿な、馬鹿なッッ!!﹂
レアニスがこれほど感情を剥き出しにして驚いたのは、おおよそ
初めてのことである。
これに対して、周囲の兵は本来ギョッとするところであるのだが、
彼らもまたレアニス同様に驚愕していた。
レアニスと兵士たちの見つめる先。
そこにあったのは、なんであるか。
生物のものではない機械的な駆動音。
無限軌道が砂を巻き上げ、数十トンもの車体を苦もなく動かして
1192
いる。
上部からは大きな砲身が突き出ており、なんともいえぬ威風を兼
ね備えていた。
そんなものが何両も現れたのだ。
ごくりと喉を鳴らした兵士は一人二人ではない。
一言でいえば、動く鉄の塊。
レアニスは唇を震わせながら、その兵器の名前を口にした。
﹁せ、戦車だと⋮⋮戦車だと⋮⋮ッッ!!﹂
︱︱瞬間、レアニスの双眸は充血し、燃え盛る火炎のように真っ
赤になる。
さらに顔面に血管を浮きだたせて、レアニスは当たり散らすかの
ように思いのたけをぶちまけた。
﹁何故そんな物がこんなところにあるッ! ふざけるなァ! ここ
は地球じゃないぞッッ!! 時代を考えろ!!﹂
この世界は中世ヨーロッパに近しい世界。
いかな天才とて、数年で近代兵器を製造できるはずもない。
そう思っていた。
だというのに、まさか戦車まで登場するとは。
あまりに理不尽ともいえる、自軍とフジワラ軍との技術格差。
レアニスは叫ばずにはいられなかった。いられなかったのだ。
戦車はしっかりと距離を取って、その砲身を機甲科部隊へと向け
る。
1193
さらに一両の戦車の砲身が本陣へと向けられていた。
﹁すぐに退却の鐘を鳴らせ! 全軍退却だ! この地を離脱するぞ
!﹂
叫びつつも、レアニス自身、馬丁からその手綱を奪い取るように
して、己の馬に乗り込んだ。
その後、退却の鐘が鳴ったのと、戦車の砲身がドゥッと火を噴い
たのとは、同時である。
1194
95.フジワラ領防衛戦 5︵後書き︶
戸籍登録が早かったことについては次回書きます。
1195
96.決着と戴冠
信秀が元いた世界において、戦車とはなんであるか。
一言で言えば動く砲台。
馬よりも素早く動き、前進後退が自在にでき、装甲は生半可な攻
撃ではびくともしないほどに頑丈。
予備動作なく砲撃ができ、その飛距離も驚異的だ。
だが今、目の前で敵を蹂躙している十両の戦車はただの戦車では
ない。
その名も︻10式戦車︼。
乗組員は、車長、運転手、砲手の三名。
主砲は44口径120mm滑空砲で、主砲の隣には副武装として
7・62mm機関銃。車長用キューポラ︵ハッチ︶の外枠に取り付
けられた砲塔には12.7mm重機関銃M2が搭載されている。
最高時速七十キロ。
移動しながら目標を自動追尾して射撃する高度な射撃システムを
有し、そのほか様々な最先端技術を有しているが、衛星を使用する
機能についてはこの世界では使えない。
︻10式戦車︼9億5000万円
この︻10式戦車︼の登場によって、フジワラ領の戦況は一変し
た。
つい先ほどまではイニティア王国軍が攻め手であり、守り手はフ
ジワラ軍であった。
しかし、今は全くの逆。
1196
フジワラ軍はどこからでもイニティア王国軍に砲撃ができるよう
になり、その攻守は入れ替わったのだ。
九両の︻10式戦車︼が左右の斜め前からイニティア王国軍の機
甲科部隊に当たり、残り一両がイニティア王国軍の本隊を砲撃した。
すると敵方から退却の鐘が鳴り響き、信秀たちのいる南の城壁の
正面に布陣していたイニティア王国軍の本隊は、︻10式戦車︼わ
ずか一両の砲撃を受けながらも素早い動きで後退していく。
さらに機甲科部隊では、左将軍小松菜が巨大な声で退却を叫んで
いたが、その声は︻10式戦車︼からの砲撃によってすぐに途絶え
た。
先ほどまで死をもいとわぬ覚悟で城壁を攻撃していた獣人たちも、
退却の鐘を聞き、背を向けて退いていった。
︻10式戦車︼の威力は絶大であったといっていいだろう。
イニティア王国軍の本隊を退け、並んだ大砲群を一瞬にして壊滅
させると、︻10式戦車︼はさらなる獲物を求めて城郭の東西を囲
んでいたイニティア王国軍の歩兵隊に牙を剥いた。
ドゥッ! ドゥッ! と︻10式戦車︼の砲身が火を噴けば、大
地が破裂するように土が勢いよく巻き上げられ、イニティア王国軍
の兵士の身体が宙に飛ぶ。
兵士たちは散り散りになって逃げようとするが、そこに容赦なく
機関銃の掃射が襲い掛かった。
﹁もう、やめてくれ! 俺たちの負けだ! 退却の鐘が鳴っている
んだ!﹂
﹁ぎゃあああーッ!!﹂
1197
砲撃音の合間合間に聞こえる命乞いや悲鳴が、イニティア王国軍
の兵士たちがどんなに悲惨な状況であるかを示している。
生死のわからない全身傷だらけの兵士が大地に倒れ、原型を留め
ない兵士の肉片が大地に撒かれ、辺り一面に血の海ができあがって
いく。
まさに地獄絵図。
東西の城壁に相対していたイニティアの歩兵隊は、深くに入り込
んでいたがゆえ逃げるのに時間がかかり、生き地獄ともいえる様相
を呈していた。
﹁本隊は早々に撤退を選んだか。勝負は決したな。まさか戦車が出
てくるとは思わなかったのだろう﹂
城壁の上、ホッと息をつくように頬を緩めたのは信秀である。
これは、敵兵の死を喜んでのことではない。
自身の勝ちを思ってのことだ。
今日の戦い、もしかすれば危ういところであったかもしれないと
信秀は思っていた。
だが結果だけを見れば、こちらは一人の死者を出すことなく完封
と言っていい成果だ。
瞬間。
それもこれも、全ては町の人口が一万人に達していたおかげであ
ろう。
あの
敵の苛烈な攻撃を前に、己の能力の暴露をいとわず迎撃しようと
1198
した時のことである。
信秀にしか聞こえない声が聞こえ、信秀にしか見えない物が見え
た。
︽資金一兆円、人口一万人到達しました。﹃時代設定﹄を更新しま
すか。更新する場合、資金一兆円がかかります。更新する場合は︻
はい︼を。更新しない場合は︻いいえ︼を押してください︾
︻はい/いいえ︼
脳裏に響く機械的な声と網膜に映る映像。
それは人口一万人を達成したことによるものだ。
﹃町データ﹄を呼び出せば、人口は︻10028︼となっており、
確かに人口は一万人に到達していた。
予想以上に早い戸籍登録。
何があったのかと考えるのが普通であるが、信秀は考えるよりも
まず行動していた。
﹃時代設定﹄を更新するか否か。
もちろん選んだのは︻はい︼だ。
︽﹃時代設定﹄が﹃現代﹄になりました︾
得られた反応はたったそれだけ。
今までの苦労を考えたら、もうちょっと何かあってもいいように
思われたが、ないものは仕方がない。
だが、︻購入︼できる物に関しては一新されていた。
今まで定価の百倍という値段で買っていた現代の物が、定価その
1199
ままの値段で表示されていたのだ。
それを見れば達成感はあった。今後は何を買ってやろうかと、広
がる可能性に喜びもした。
しかし現状、そんな先を考える暇はない。
信秀はすぐさま︻10式戦車︼九両を特別区画に︻購入︼する。
これにより、以前買ったものと合わせて︻10式戦車︼は十両。
十分な数だ。
こうして信秀は、各城壁にて防衛に当たっていた操縦手たち︱︱
今日まで訓練してきた者たち三十名︱︱に、直ちに戦車のもとへと
向かって出撃するように命令した。
︱︱その末が、現在の状況である。
敵陣を瞬く間に粉砕し、戦局をこちらの圧倒的勝利という形に決
定づけた。
一矢すら報えずに、退いていく敵軍。
こうして見れば、先に︻購入︼していた一両だけの戦車でも十分
だったかもしれない、という考えが信秀の胸に浮かんだが、いや、
とその考えは打ち消した。
︵一両だけならば、あの小松菜という将軍に張り付かれ、敗れた可
能性がある︶
それだけ小松菜の力は並外れていた。
だが複数であるならば、敵にもう打つ手はないだろう。
小松菜の声が聞こえなくなったのは死んだためだろうか。
残念ながら、砲撃の際には砂煙が酷く、小松菜がどうなったのか
はわからない。
1200
やがて、東西のイニティア王国軍兵士たちも散り散りとなり、こ
ちらの攻撃は終わった。
追撃はどうするか。
どちらにしろ弾薬の補充をしてからとなるし、一旦の休憩が必要
だろう。
信秀は、そのように結論付けた。
﹁か、勝ったのか⋮⋮?﹂
﹁あの乗り物は、あんなに凄かったのか⋮⋮﹂
周囲の獣人たちは唖然として、戦況を眺めている。
戦車はジハルの狼族以外は詳細を知らぬ兵器。
時折、町中を見かけるだけのものであり、彼らが不審に思うのも
当然だった。
﹁フジワラ殿、あれは⋮⋮﹂
牛族の族長があっけにとられたように尋ねた。
色々と足りていない質問であったため、信秀もその意図を勝手に
解釈して答える。
﹁ちょっとした理由があって、すぐには出せなかった﹂
﹁ううむ⋮⋮。なんとも恐ろしい。それでどうするのだ?﹂
﹁どうすることもない。敵は本隊も退いていく。これ以上ない勝ち
だろう﹂
﹁そうか、勝ちか﹂
1201
牛族の族長は、自身に勝利を実感させるかのように呟いた。
すると、その面は力強いに笑み変わり、大きな声で城壁の者たち
に言う。
﹁我らの勝ちだ! 敵が退いていくぞ! 皆笑ってやれ!﹂
城壁に起こった沈黙。
だが、それもわずかのこと。
ほんの数秒後には、うおおおお! という勝利の咆哮を獣人たち
は一斉に叫んだ。
続いて、それぞれが思い思いの言葉を、逃げ行くイニティア王国
軍に向かって吐き出していく。
﹁ざまあみろ、人間どもめ!﹂
﹁俺たちの力を思い知ったか! 地の果てまでも逃げ続けろ!﹂
充足感。
皆、非常に満たされたような顔をしている。
人間の軍に勝利するという、かつて一度も飲んだことのない美酒
に、獣人たちは酔いしれているのだろうと信秀は思った。
勝利を祝う声が城壁中に広がり、獣人たちはいつまでもいつまで
も勝鬨を上げ続ける。
それは、白旗を持った敵の使者がやって来るまで続いた。
敵方から使者としてやって来た一騎。
それは白銀の甲冑に、銀髪をなびかせた美しい者。
1202
外見は女のようにも見えたが、その衣装が、男性を連想させてい
た。
純白という言葉がよく似合う。
白き者が白き旗をもってやって来たのだ。
﹁我が名はレアニスだ! フジワラ殿どうか今ばかりは矛を収めて
くれ!﹂
門前からの使者の声。
名前を聞いて、信秀は驚いた。
生きていたか、という思いがまず先に立ち、次いで撃つべきか撃
たざるべきかを考えた。
撃てば、イニティア王国との戦いは決着するだろう。
この地も当面は安泰だ。
﹁本当に敵将レアニスか!﹂
﹁ああ、誓って嘘はない!﹂
敵の総大将が単身でくるだろうかという疑念が湧く。
まずはそれを確かめなければならない。
その術はある。
﹃元の世界の国名を三つ答えよ!﹄
信秀の口から飛び出た言葉。
その場にいた獣人たちが目をパチパチとしばたたかせたのは、そ
れが日本語だったからである。
獣人たちの中ではジハルの部族しか知らないため、その反応は当
1203
然というものだ。
﹃アメリカ! イギリス! フランス!﹄
レアニスからは、よどみない返答が届いた。
間違いはない。
それらは元の世界に存在していた国々だ。
降伏勧告の書状にて、日本人であることを自称していたレアニス。
また、双眼鏡でもその容貌を確認しており、それがレアニス当人
かはわからなかったが、将軍職に就く者であることは明らかだった。
ここまで証拠が揃えば、影武者ということもないだろう。
﹁よくわかった! だが、そちらから攻め込んでおいて、矛を収め
ろとは何事だ!﹂
﹁確かに虫のいい話だと思う! されど、まずは話がしたい! 確
かに我々は武力を行使してドライアド王国に攻め込み、その領地を
我が物にした!
今日このフジワラ領にあるのもこの地を我が領地とせんがためだ
! しかし、我らが同郷の者と話をしようとしていたのもまた事実!
問おう!
それだけの力を持ちながら、何ゆえ、国の大事に動かなかった!﹂
﹁領主として、国のために奉公しようという最低限の志は持ってい
る!
だが今回はその最低限の範疇を超えていた! 国のために領民を
犠牲にしようとは思わない!﹂
﹁泰然自若を気取るつもりか!
1204
その力、大陸のために使おうとは思わないのか!﹂
﹁思わん! 俺は、俺と俺の領地のために最善を尽くす! それだ
けだ! 今日のことも、身に降りかかる火の粉を払ったのみ!﹂
﹁心ここにあらざれば、視えども視えず! されど実際に視なけれ
ば視えないものもあるぞ!
そなたは、この大陸の現状を見たことはあるか!
この大陸において太平はあまりに短く、常に騒乱が起こっている
! それによって多くの者が苦しみ喘いでいる!﹂
﹁だからどうした! 人にはできることとできないことがある! わざわざ自ら危険を冒してまで、他者の争いに首を突っ込もうとは
思わない!
そもそもお前は何しに来たのだ! こちらは、くだらない話など
必要ない! まだやるというのならば相手になるぞ!﹂
いつの間にか言葉の応酬が繰り返されていたが、信秀に論戦の必
要性などない。
圧倒的に自身の軍が勝っているのだ。
獣人たちも、このまま戦いを続けても構わないという信秀の姿勢
に賛同し、レアニスを威嚇するように声を荒らげていた。
﹁いや、問答はここまで! フジワラ殿の人となりはよくわかった!
こちらとしては講和を願いたい! 条件はそちらで決めてくれ!﹂
互いの立場を考えれば、レアニスからの講和要請は降伏と同義。
ただ呼び方が優しいだけにすぎない。
さらに、条件をこちらに提示させるということは、無条件降伏で
あると思っていいだろう。
1205
しかし、あやしいという疑念が信秀の心中に湧いた。
互いの表面的な国力差を考えたら、無条件降伏などありえない。
イニティア王国の現状は、人口も国土もフジワラ領の数十倍、い
や百倍にも勝る。
この講和はその場限りのものにすぎず、レアニスに約束を守るつ
もりはないと考えるべきか。
﹁白紙の小切手を渡すつもりか! 甘き言葉の裏には何が隠されて
いる!﹂
﹁そのような考えは毛頭ない! 疑うのならば、条件はこの首であ
ろうと構わんぞ!﹂
ふと、ここでレアニスを殺したらどうなるかを信秀は今一度考え
た。
イニティア王国の大陸統一という野望が、レアニスの強烈な野心
によって引き起こされたものならば、レアニスが死ねばそれもここ
までとなる。
もしかすると、今日まで占領してきた領土を放棄する可能性もあ
るかもしれない。
だが、レアニスの背後に別の意思がある、もしくはレアニスの後
継者が存在するとなれば、話は変わってくる。
ここでレアニスを殺しても、いずれイニティア王国はフジワラ領
に攻め入ってくるだろう。
つまり、レアニスの死はあまり意味がないように感じられる。
では、ドライアドの領地の返却でも願うか?
王位の禅譲が済めば、ドライアドの地は己のものとなる。
1206
しかし、これは論外とすべき考えだった。
信秀の現有戦力では、それだけの領地を他国から守れるはずもな
い。
兵が足りないのもそうであるが、いかに近代兵器を使用していよ
うとも、それは見せかけのみ。
兵器の真髄を心得ているわけではなく、なにか不良があれば、遠
征先で行動不能に陥る。
そもそも今何よりも欲しいのは金である。
今日までに相当の金を使った。
現在の資金はおよそ900億円にまで減っている。
多くの民も抱え、先行きは少々不安だ。
﹃時代設定﹄が﹃現代﹄となった今、レアニスなど殺す価値もない
相手。
ならば自身の能力にとって、何よりも金を得ることが最大の利に
なるだろう。
﹁いいだろう! これより講和の使者をそこに寄越す!﹂
敵の前に立つなどという愚行はしない。
レイナとジハルを招集し、二人とよく相談したうえで、こちらの
要求を決めた。
そののち、門前に机と椅子を用意させ、レイナとジハルをフジワ
ラ領の代表として講和条件の話し合いが行われたのである。
そして、そう時間も経たないうちに、膨大な賠償金と永久にこの
地に踏み込まないという誓い、その他もろもろの条件の下、講和は
なった。
1207
もちろんそれらを信じられるわけもないが、とりあえず初回の莫
大な賠償金を得るために、レアニスが人質になることは決定してい
る。
一度レアニスを軍に返し、再びレアニスは生存者の回収に武器を
持たないイニティアの兵士たちを連れて戻って来た。
なお、彼らが行うのは負傷者の回収のみで、死体の処理はこちら
でやることが決まっている。
長くうろちょろされたくないというのが本音だ。
こうしてフジワラ領防衛戦はようやく終わりを告げた。
蓋を開けてみれば、たった一日だけの戦い。
されど、何カ月にも及ぶ準備が行われており、信秀としてはよう
やく肩の荷が下りたという気持ちでいっぱいだった。
◆
さて、戦いは終わった。
現在は、獣人たちの監視の下、イニティアの兵士たちによる負傷
兵の回収がまだ続いている。
だが、俺の中では一つ気になることがある。
それは異常な速度の戸籍登録。
城壁の守備については、ジハル族長にあとを頼み、俺はレイナと
共に役所へと戻った。
そこで見たものは、戸籍の手続きを行っているポーロ商会の者と、
ドライアド王国の兵士たちの中でも、身なりのいい上級職に就いて
いるであろうと思われる者たち。
おまけに、イーデンスタムと女王オリヴィアまで役所で戸籍登録
1208
の仕事をしている。
﹁戦時であっても戸籍登録を続けていることに何か意味がある気が
して、皆様に協力していただきました。女王陛下におかれましては、
陛下御自ら協力を申し出てくださいました。
ご迷惑だったでしょうか﹂
慇懃な礼をして、レイナが問いかける。
もちろん、迷惑だなんてことがあるはずもない。
﹁いいや。よくやってくれた﹂
言わずともこちらの意を汲んでくれるというのはありがたいこと
だ。
得難い味方。実に頼もしい。
では、そんな彼らに吉報を届けなければならない。
﹁皆の者、戦いは勝利したぞ! 今日は皆に酒と肉を振る舞う! 旅の疲れを癒し、存分に英気を養ってくれ!﹂
役所の中、さらには役所の外でも、おおお! という歓声が上が
る。
まあ、肉と言っても産地の怪しい激安の鶏むね肉なのだが。
︻冷凍鶏むね肉︼︻一キロ︼390円
それから一日かけて、戸籍登録は順調に進み、遂にはドライアド
兵士の登録まで終わった。
人口は約一万八千人。
全員に家が与えられており、さらに現代の商品が安く買えるよう
1209
になったことを生かして、ふかふかの布団と毛布を配っておいた。
こういったところから、民の日々の生活に潤いを持たせ、民心を
得ていくのだ。
また二日に渡って戦勝を祝う祭を催し、長旅と戦いに疲れた者た
ちの心を慰撫した。
人間の住む区画でも、獣人が住む区画でも、人々は大いに盛り上
がり、夜遅くまで喜びの声が聞こえた。
そんな祝祭の最中のこと。
王位禅譲の儀を控え、俺はレイナと話し合っていた。
場所は、異種族居住区にも存在するもう一つの役所の中だ。
﹁国号と、この町の名前か﹂
王位を得たのなら、国の名前と町の名前を早々につけるべきだと
レイナから言われた。
どんなものにでも名前はある。
領主の館がある南部の村にも名前はあったし、かつての砂漠の町
においても、人間たちからは獣人の町と呼ばれていた。
狼族たちと本拠地については名前など特になかったが、これは必
要がなかったから。
他と交わりがなかったため、町や本拠地という言葉で事足りたの
だ。
だが、今回はそうはいかない。
﹁しかし、そう言われてもな。地名にちなんだものを付けようか﹂
正直思いつかない。
1210
日本だとか、ジパングだとか考えたが、どうもそぐわない気がす
る。
規模の差のせいだろうか。
﹁一つ提案があります﹂
﹁なにかな?﹂
﹁国号およびこの町ついて、そのどちらかはフジワラ様ご自身の名
をつけてはいかがでしょうか﹂
﹁⋮⋮理由を聞こう﹂
﹁新たな国家にとって一番危険なことは反乱です。フジワラ様の名
前を付けることによって、この国この町は名実ともにフジワラ様の
ものであると民に知らしめることができるでしょう。
反乱を起こそうとする者はその大義を一つ失うことになります﹂
なるほどと俺は思った。
たしかにフジワラ国やフジワラ町なんて名前を付けた時、反乱な
どを起こす理由づけ難しくなるだろう。
文句があるなら出ていけ、って感じがする。
しかし、俺の名前を付ける、か。
なんだかこっぱずかしいな。
まあ、しかたがない。
羞恥と反乱の危険性のどちらを選ぶかと聞かれれば、俺は羞恥を
選ぶ。
﹁どちらかというのは? 両方とも俺の名前を付けた方がいいんじ
1211
ゃないのかな﹂
﹁それですと混同してしまうでしょう。推奨致しますに、国号には
フジワラ様の姓名とは別の名称を付け、それを新たにフジワラ様の
名前として付けくわえられてはいかがでしょうか。
古来、多くの王がそのようにしております﹂
なるほど。
たとえば、トーキョーという国名をつけたら、俺の名前をノブヒ
デ・フジワラ・トーキョーとするわけか。
そういえば、サンドラ王国のミレーユ姫も、姓名にサンドラの名
があったはずだ。
﹁では国号を新たに決め、町の名はフジワラの姓名から取ろう﹂
方針が決まると、俺は国号と町の名を考えて、﹁うーん﹂としば
し悩んだ。
かつての世界の国や地名を、覚えている限り頭に巡らしていく。
やがて閃くものがあった。
これだ、という自信がある。
﹁よし、決めたぞ。国号はエド。町の名前はフジワラ郷としよう﹂
エドは江戸。
俺の︻町をつくる能力︼は﹃江戸時代﹄から始まった。
また現在の都市も﹃江戸時代﹄のものである。
なればこその、エドだ。
それに、カタカナでエドというのは実に洋風っぽい。
悪くない、むしろかっこいい名前だと思う。
1212
しかしエドはともかく、フジワラ郷は本当に恥ずかしい。
今後は姓名ではなく、名前で呼んでもらおうかな。
二日間もの祝祭が終わると、その翌日に王位禅譲の儀を行った。
場所は人間居住区域の一番北。
異種族居住区域へと続く門の前に檀を築き、壇上には俺と女王オ
リヴィア、それから小銃を携えた狼族たちが並んだ。
王宮の兵士たちは、一般民に混じって壇上を眺めている。
今日にあっては、彼らに武器の携帯は許されていない。
ただし、﹁これが正装だ!﹂とでもいうように、甲冑だけは着こ
んでいた。
溢れんばかりに集まった群衆の前で、女王オリヴィアが皆の前で
涙ながらに説明をする。
まず彼女は、自身の無力さを嘆くと共に、今日の事態を招いたこ
とを先祖の霊と国民に謝した。
次にイニティア王国軍を退けた俺を褒め称え、誰が王に相応しい
のかをその口で語った。
真に迫っており、人の心をつかむ実に素晴らしいスピーチだと思
う。
国を奪われた女王に憐れみを。新たな王に栄光を。
自分のことながら、自然とそんな思いにさせられた。
兵士たちは皆、ドライアド王国の終焉に涙している。
最後までついてきた者たちだ。
1213
国や女王への忠誠は人一倍篤いのだろう。
特に宰相のイーデンスタムがヤバい。
膝を屈し、地面を叩きながら、﹁うおおおお! うおおおお!﹂
と叫び声をあげ、涙と鼻水をまき散らしている。
多くの人が密集しているにもかかわらず、イーデンスタムの周囲
だけは直径一メートルくらいの空間がぽっかりとできていた。
女王のスピーチが終わると、手ずからに彼女の冠とマントと杖が、
俺に渡される。
それらは王の証だ。
俺はまず王冠をつけ、次にマントを羽織り、最後に杖を受け取った。
﹁俺の名はノブヒデ・エド・フジワラである!
新たな国の名はエド! この町の名はフジワラ郷! この国の王として、正しく住まう者たちには平和と繁栄を約束しよ
う!﹂
俺が杖を掲げて宣言すると、盛大な拍手が巻き起こった。
とりあえず今日までの俺の成果は、住民たちにとって好ましいも
のであったらしい。
こうして王権禅譲の儀が終わり、俺は晴れて一国家の王になった
のである。
その後はまた祝祭が催されることになっている。
今度は、新たな王の誕生を祝うためのもの。
今日という日は、民にとってより良いものでなければならないの
だ。
ただし、俺にはまだやることがある。
1214
王位についたことを獣人たちに報告しなければならない。
オリヴィアにも共に来てもらわねばならず、加えて今日以降、彼
女には人質として異種族居住区画にて暮らしてもらうことになる。
まあ人質と言っても、限られた場所でなら誰とでも会えるように
するし、特にこれといった不自由はないだろう。
俺は依然として涙を湛えるオリヴィアを背後に連れて、異種族居
住区へと進んだ。
別に取って食おうというわけではないが、その美しさもあってか、
オリヴィアの涙はどうも辛い。
おまけに﹁オリヴィア様ー! オリヴィア様ー!﹂と叫ぶイーデ
ンスタムがとてもうるさかった。
俺たちが異種族居住区画に入ると、出入りの門が施錠される。
戦争も疲れるが、今日のような儀式も疲れる。
俺は、ついつい﹁ふう﹂と息を吐こうとして︱︱。
﹁ふう、あー疲れた﹂
おや? と思った。
俺が口にするよりも先に、気の抜けた声を発した者がいたのだ。
誰だろうかと思い周囲の狼族たちを見る。
その音調は女性の声だったはずだ。
ミラを見ると、疑いを晴らすようにブルブルと必死になって首を
横に振った。
ちょっとかわいい。
他の者を見る。
1215
しかし、他は男性ばかり。
まさか男性が、わざわざ女性の声を出したとでもいうのだろうか。
何の目的か。
それともそういう趣味なのか。
いや、女性はもう一人いる。
俺がそちらに顔を向けると、目が合ってニコリとした微笑を返さ
れた。
おもわず、ほうっと感嘆させられてしまうような麗しい笑み。
先ほどの声は、どうやら気のせいだったようだ。
それにしても、オリヴィアの涙がきれいに止まっていたことが、
ちょっぴり気になった。
まるで先ほどまでの涙が演技だったかのようであるが、まさかそ
んなことはないだろう。
まだ少ししか接していないが、俺は彼女に対し、穢れのない清純
な印象を抱いていた。
するとオリヴィアが俺に向かって言う。
﹃では、案内してもらえますか、フジワラさん﹄
﹁ええわかりまし⋮⋮え? 今なんて﹂
俺は耳を疑い、思わず聞き返した。
護衛の狼族たちも驚いている。
何故ならば、オリヴィアから発せられた言葉は、俺が狼族たちに
教えた遠い故郷の言葉だったからだ。
﹃やっと重責から解放されて、とてもすがすがしい気持ちです。こ
れからよろしくお願いしますね、フジワラさん﹄
1216
偽りの顔ではない。
自然体の笑顔。
清楚で上品な百合の花かと思えば、全く違う。
屈託なく笑うオリヴィアの姿に、太陽の下で大輪を咲かせるひま
わりを俺は思った。
1217
96.決着と戴冠︵後書き︶
前回の修正は、次回更新時までに行います。
1218
97.新たな町の始まり
戦勝の宴が二日間。翌日開かれた新王誕生の宴が一日。
さらにその次の日の午後のこと。
人間居住区域から異種族居住区域へと繋がる門前︱︱先日、王の
戴冠式が行われた場所︱︱にて、とある任命式が行われていた。
﹁エド王フジワラが命ずる。レイナ・グルレをフジワラ郷南部統括
官とする﹂
﹁はっ、ご下命謹んでお受けいたします!﹂
壇上にあるのは王となった信秀と、跪いてその命を拝しているレ
イナ。
信秀は昨日にオリヴィアから受け取った王冠とマントで着飾り、
レイナはダブレットにズボンという男性然とした格好で、その上か
らマントを羽織っている。
楽士はおらず、儀仗兵は護衛を兼ねた狼族の者たちしかいない。
壇の周りには今日もまた多くの人々が詰めかけ、そんな衆目の中
でレイナに与えられたのは人間居住区域を統括する役目であった。
すると聴衆の中に混じったポーロ商会の者たちが拍手をする。
もちろん信秀の仕込みだ。
これに他の者たちも釣られるように一斉に拍手をした。
己が手を叩きながら、聴衆は段々と現状を理解する。
それは人間居住区域を統括するのが、人間であるということ。
誰の胸中にも、もしや獣人が関わってくるのではないか、という
1219
危惧の念があったことは否めない。
それゆえ、レイナが南部統括官とあったことは人々の安堵となり、
彼らの手を叩く音は次第に大きくなっていった。
﹁それからこれを﹂
背後の狼族が用意していた日本刀を信秀が手に取り、差し出した。
それを、片膝をついたまま両手で受け取るレイナ。
﹁今日までの働きを讃えて、レイナ・グルレに爵位を授ける。今後
は伯爵を名乗るがいい﹂
﹁はっ、身に余る幸せ! 伯爵という位に恥じぬよう、これからも
陛下のために微力を尽くす所存です!﹂
﹁さあ、立て。その雄姿を皆に見てもらえ﹂
﹁は!﹂
レイナが立ち上がり、信秀は後方に下がった。
聴衆の方に体を向けるレイナ。
彼女は受け取ったばかりの刀を抜き、天に掲げた。
片刃の刀身が、白日の下、聴衆の前に晒される。
日本刀の波打つような刃紋は、西洋剣では決して見られないもの
だ。
その時、ほうっとため息を吐いたのは誰であるか。
日射によって鈍く光る刀には、吸い込まれるような妖艶な魅力が
あった。
1220
﹁エド王とこの剣に誓う! 南部統括官として人々の生活に安寧を
! また貴族の一員として、人々の道しるべとならんことを!﹂
男装の麗人の勇ましい決意表明。
剣の美しさと、それを持つ者の美しさ。加えて壇を唯一飾る、天
からの陽光。
これらは、見ている人々を絵画の中にいるような心地にさせた。
貧困街に住んでいた者たちばかりである。
清廉な行事というものになじみがなく、そのことも相まって、そ
れぞれ感嘆せざるをえなかったのだ。
なお、今日のことが本当に絵画となり、世から称賛を浴びて、レ
イナが顔を真っ赤にする結果になるのであるが、それはもう少し先
の話。
任命式が終われば、信秀が今一度前に立ち、今日という日を町の
門出として、皆に演説を行った。
その内容は簡単なものであったが、とても大事なことでもあった。
﹁今日より本格的にこのフジワラ郷は動き始める!
頼りになる統括官もいるので、私からお前たちに言うことはあま
りない!
だからこそ、今から言うことは必ず守れ!
よいか! 今日までの罪は問わない! その代わり、今日からの
罪は激しく罰する! まず、お前たちが覚える禁は、四つ!
一つ、人の物を盗むな! 一つ、人を傷つけるな! 一つ、人の
迷惑になることはするな! 一つ、町を汚すな! この四つだ! とりあえずはこの四つを遵守しろ!
これを犯す者は、フジワラの名の下に厳罰に処すゆえ、覚悟して
1221
おけ!
それから区長の言うことにはよく従うように! 区長に何か問題
がある時は、役所に言え!﹂
信秀が口にした四つの禁に疑念を持つ者は、ほとんどいない。
宗教というものは、時として間違った価値観も植え付けるが、人
として必要な道徳も育んでいた。
大陸に住む者が、一般常識として何が悪であるかを知っていると
いうのは、ラシア教の一つの成果であったといえよう。
だが、次に信秀が口にした言葉は、ラシア教の教義とは真逆のも
のであったといっていい。
﹁もう一つ! この町がつくられたのは獣人の協力あってこそ! 獣人こそは私の友だ!そしてゆくゆくはお前たちの友になることを
願うものである! 以上だ!﹂
獣人と信秀の親密さ。
護衛にも獣人がついているために気づいてはいたが、いざ口に出
されたことで、聴衆に動揺が走った。
大陸において人間とは絶対の存在である。
ラシア教の教義が一般常識として蔓延している大陸にあって、人
間でない者の存在はやはり受け入れがたかったのだ。
しかしそんな人々の心を気にも留めていないのか、それをも気づ
いていないのか。ざわりとした中で信秀は壇を下り、異種族居住区
域へと姿を消した。
そののちは、レイナから警備隊長の任命式が行われ、また市民た
ちの今日からの予定が話されることになる。
◆
1222
イニティア王国軍との戦いから一週間ほどが経ったある日の早朝
のこと。
空はまだ夜と朝の中間とでもいえる暗さであったが、電気がない
時代であるため、人々の朝は早い。
城郭都市フジワラ郷においても、住民たちは既に体を起こして朝
の支度をはじめていた。
﹁うー、さぶさぶ。まだ夏だってのに、やっぱ北の朝は寒いなあ﹂
手をこすりながら、朝の寒空の下を歩くのは三十前半の男︱︱ト
マソン。
トマソンはドリスベンからやって来た避難民。フジワラ郷にあっ
ては、連れ合いの女と一軒家にて二人暮らしをしていた。
現在は朝起きたばかりで、ちょうど区画の便所にて用を足したと
ころである。
ちなみにこの便所にて用を足す行為、最初はなかなか面倒だなと
考えていた。
なにせ貧民街にいた頃は、ところ構わずぶちまけていたのだから
仕方がない。
だがこのフジワラ郷では、便所の使用に関して区長から口酸っぱ
く言われており、目に余るようならば都市から追い出すという話も
出ている。
せっかく得た家を手放すわけにはいかない。
そういうわけで、トマソンはこの新たな慣習を続けていた。
﹁おっ﹂という声。
トマソンの口から出たものであるが、それは誰かを認めた証だ。
視線の先にあるのは、同じく貧民街からやって来て、今は己の家
1223
から二つ隣に住む同年代の男だった。
この町では一番仲のいい相手だ。
とはいえ、ここに来るまでは顔も知らなかった相手でもある。
何を生業にしていたかもわからないが、それを聞くのは野暮とい
うものだろう。
既に、信秀からは以前の罪は不問とする旨が通達されているのだ
から。
﹁なんだ、もう終わらしたところか。ちょっと待っていてくれ﹂
﹁ああ、わかった﹂
男が用を足すまでの間、トマソンは便所から少し離れたところで
住宅が並ぶ通りを眺めた。
まだまだ、不思議なつくりの家々だと感じる。
しかし、立派な家だ。
以前住んでいた、貧困街の己が家とはどれほどの差があろうか。
家々からは煙が立っている。
ジャガイモとスープの匂いが鼻をくすぐって、トマソンの腹がぐ
うと鳴った。
わずか一週間前までは空腹など当たり前のことで気にも留めなか
ったが、今は違う。
ここに来てから、腹いっぱい飯を食べている。
そのせいでトマソンは、空腹に対する欲求に耐えられなくなって
いた。
不意に触った己の頬にも、心なしか肉付きが感じられる。
1224
そのまま、ぼーっとしていたトマソンであったが、空腹と男のあ
まりの遅さに苛立ち、ふと、後ろを見た。
小便器が並んだところに男の姿はない。
どこに行ったのかと首を捻れば、個室の戸が閉まっているのを見
て、トマソンはやれやれとため息をつき、腰を下ろした。
己の目の前を、桶をもった女性が通り過ぎる。
﹁おはようございます﹂という挨拶をされ、トマソンは少し緊張し
ながら﹁おはようございます﹂と挨拶を返した。
貧民街では考えられない品の良さを見るに、以前からフジワラ領
に住んでいた者だろうと思われる。
女性は、井戸へと行くのだろう。
井戸といえば、水を簡単に汲み上げる手押しポンプという物も、
ここにきてから初めて存在を知った。
その時には、便利なものがある物だと感心したものだ。
貧民街とは何もかもが違うフジワラ郷での生活。
そんな生活に今も戸惑っている。
しかしそれは、こんないい生活をしていていいのか、という戸惑
いだ。
それだけ今の生活は恵まれていた。
﹁待たせたな﹂
男がようやく用を足し終えて、トマソンのもとにやって来た。
ふんわりとした石鹸の香りがする。
発生源は、男の手からだ。
これも貧民街ではありえなかったことだった。
1225
﹁それで、わざわざ待たせておいて、なんの用だ?﹂
﹁ああ、仕事のことだ。もう目先の利く奴は仕事を決めて働き始め
ている。お前はまだ決めていないんだろう?﹂
仕事か、とトマソンは少しいやそうな顔をした。
避難民には環境整備という名目で二週間という時間が与えられて
いる。
その間に、やりたい仕事を役所に申し出なければならない。
決まらなかったときは、自動的に仕事があてがわれることになる。
この仕事選びは、ここ最近のトマソンの悩みの種だった。
王都では主に運搬の仕事をやっていた。
日々、言われるがまま、重い荷物を運ぶだけ。
そこに、技術や知識といったものはなく、体が頑丈なら誰でもで
きる仕事である。
すなわち、自分に誇れる技能はない。
されど、せっかくの転機なのだから、いい仕事には就きたいと思
っている。
ゆえの悩みである。
﹁やっぱ農業かなあ﹂
元は農家の子せがれだったが、ひもじい生活に耐えられず、村を
飛び出して王都で暮らし始めた。
運搬業以外で己ができそうな仕事といえば、農業くらいだろう。
﹁農業か。北の村に行くのならば、ここと同じ家が与えられ、税も
安くなるらしいぞ﹂
1226
都市の二万近くに及ぶ住人たちの食糧を賄うためには、やはり村
の存在が不可欠である。
このフジワラ郷を他国に対する防波堤として、北側に村々をつく
ろうという話が持ち上がっていた。
﹁獣人がいないところに行くというのもありかもな﹂
﹁おい、滅多なことを言うな。都市を守ったのもその獣人だ。それ
に、ここの王様は獣人にご執心なんだ。そんなことを口にしている
と、いつか痛い目に遭うぞ﹂
﹁ああ、そうだな。すまない、別に獣人がどうのこうのという話じ
ゃないんだ。忘れてくれ﹂
男の諫めに、トマソンは自身の発言を素直に謝った。
貧民街で暮らしていた彼らにとって、そもそも獣人などに大きな
関心はなかった。
大陸の常識として、人間でない者に対し嫌悪はある。
だが、彼ら貧困した者にとって最も重要なことは、その日その日
を満足に過ごせるかどうかだ。
たとえば、王が変わることですら、彼らにとっては大したことで
はない。
気にすべきことは、新しい王が己にどんな利益をもたらしてくれ
るか、である。
無論貧民であった彼らが、豊かな生活に慣れ始めた時に何を思う
かはまた別であろうが。
﹁それにしてもお前はどうなんだ。わざわざ俺を呼び止めたんだか
1227
ら、何か考えがあるんだろう﹂
﹁俺か? 実はな、そのことでお前に相談があったんだ﹂
﹁ほう?﹂
﹁ポーロ商会というところで、人を多く募集している﹂
﹁それなら俺も知っている。学がない奴はちんけな値段でしか雇わ
ないって話だろ﹂
大通りには貼り紙があり、トマソンはそれを確認していた。
字は読めなかったので詳しいことはわからないが、数字は読める。
そこに書かれた月々の給料は、とても安かった。
﹁馬鹿だな、お前は﹂
﹁なに?﹂
男の失礼な物言いに、眉をひそめるトマソン。
付き合いは短いが、さっさと縁を切るべきかもしれないと思った。
﹁どうせ、貼り紙の数字しか見ていないんだろう。それとも誰かか
らの受け売りか?
いいかよく聞け。ポーロ商会は、雇った者に商人としてのイロハ
を叩きこむつもりらしい。安い給料は使い物になるまでの値段だよ﹂
なるほどとトマソンは得心した。
つまり、職人の弟子になるようなものなのだろう。
男の話は続く。
1228
﹁この町の経済はポーロ商会が握っていると言っていい。
現在、南部区域を統括しているレイナ様もポーロ商会の人間だ。
人が足りていない、その上で、他の商会の息がかかっていない人
間を一から育てようとしている。
うまくすれば店の一つくらい持てるかもしれないぞ。そうすれば
金持ちの仲間入りだ﹂
﹁店⋮⋮商人⋮⋮﹂
呟いてみて、トマソンは違和感を覚えた。
商人なんてものは、遠い世界のこと。
かっぱらったものを路上で売りさばいたことはある。
だが、商人になろうなどとは考えもしなかった。
生きることに必死で、そんな選択肢があることすら、気づきもし
なかったのだ。
﹁一緒にやらないか。くそったれな人生を歩いてきた俺たちにとっ
て、一生に一度あるかないかのチャンスだ。ここは一つ、でかい夢
を見てみようじゃないか﹂
キラキラと少年のように輝いている男の瞳。
自身とそう歳の変わらぬ目の前の男は、生きる活力に満ち溢れて
いた。
その姿はとても眩しく、己の前途すら照らすようであった。
この後、トマソンがどのような返事をしたかは、もはや語るべく
もないことである。
町に住む者たちは、これまでとは全く別の新たな道を歩み始めて
いた。
1229
◆
戦争が終わって一週間。
俺はのんびりすることができずに、仕事漬けの日々を送っていた。
毎日毎日、町の主だった者たちとの話し合い。
議題は、仕事の斡旋、法の整備、治安、そして外交。
本当に忙しい。
とはいえ、これは覚悟していたこと。
それにあと数週間で、この国のことは大陸中に知れ渡り、そのの
ちはもっと忙しくなることだろう。
新たな国をつくり、新たな住民を迎えるということはそういうこ
とだ。
今日の午前中もまた異種族居住区域の役所の二階に人間の有力者
たちを招き、そこで話し合いが行われていた。
参加者については、異種族側からはエルフ族の族長のみ。
しかし人間側からは、レイナやイーデンスタム、警備隊長にポー
ロ商会の者やペッテルなどの区長の代表者などなど、実に数が多い。
これは、議題になることのほとんどが、人間居住区に関すること
であるためだ。
ちなみにイーデンスタムは当初、協力する気が全くなかったので
あるが、オリヴィアの名前をちょろっと出すだけで渋々ながら従っ
てくれた。
話し合いは昼食前に終わり、王として俺がまず会議室を後にした。
役所を出て、自身の住居がある特別区画へと足を進める。
1230
その途中、﹁よろしいでしょうか﹂と俺に声をかけたのは護衛で
あったミラ。
わざわざ役所の外で話をするということで、その内容も察せると
いうものだ。
﹁言ってくれ﹂
﹁オリヴィア殿がフジワラ様に相談があると申し出ております。
なんでも仕事がしたいのだとか﹂
元女王であるオリヴィア。
現在彼女が暮らしている場所は、ジハル族長の部族が暮らす区画
の一軒家。
狼族たちには見張りをするとともに、客人として丁重にもてなす
ようにと伝えてある。
俺と同郷であることも話しているので、ジハル族長の部族が失礼
をすることはないだろう。
それにしても、同郷の者だと知った時は本当に驚いた。
レアニスに小松菜に続き、オリヴィアまでもが同郷。
ここ最近の日本人の出現率には、運命的なものを感じざるを得な
い。
なんのカードを引いたのかと尋ねたら、︻王になる︼︻★★★★
★★★︼だったと快く教えてくれた。
また、他の日本人の情報は全く知らないようである。
﹁わかった。会おう﹂
ミラに返事をし、行先を自宅からオリヴィアの住む家へと変更し
1231
た。
それから大した時間もかけずにオリヴィアの住む家に到着すると、
俺たちを出迎えたのは狼族の女性である。
家の中からは、子どものはしゃぐような声が聞こえる。
どうやら、何かで遊んでいるらしい。
狼族の女性がオリヴィアを呼んで来ようとするが、それを留めて
奥に案内してもらった。
﹁オリヴィアさん、フジワラ様がお越しです﹂
襖を隔てて、狼族の女性が声をかける。
中から聞こえてきた﹁少しお待ちください﹂という返事ののち、
ややあって襖は開かれた。
﹁よくいらっしゃいました。さ、どうぞお掛けになってください﹂
変わりない柔和な笑みを浮かべたオリヴィアである。
その手を繋いでいるのは、狼族の少女だ。
座敷の上に置かれた二枚の座布団に、俺とオリヴィアが向き合う
ように座った。
﹁なかなか様子を見に来られなくてすみません。どうですか、ここ
での暮らしは﹂
﹁皆さん大変よくしてくださいます。とても気に入りました﹂
狼族の少女を膝の上にのせて答えるオリヴィア。
少女は頭を撫でられて、気持ちよさそうに目を細めている。
いや、まあ、仲良くやっているということは聞いていたが、あま
1232
りに順応力が高い元女王様だ。
是非とも町の者たちにも見習ってもらいたい。
﹁仕事について話がしたいとのことでしたが﹂
﹁とりあえず、今の生活も慣れました。ですので、ただ養われてい
るというのも心苦しく、仕事をしたいと思っているのです﹂
なるほど。
なかなか真面目な性格であるようだ。
ぐうたらで済むのなら、ぐうたらのまま過ごせばいいと思ってい
る俺とはまるで違う。
さらに彼女はこう言った。
﹁いたらぬ家族たちは迷惑をかけていることでしょう。食い扶持く
らいは自分で稼ぎたいのです﹂
まさしくその通り。
彼女の親族たちは、毎日数少ない使用人と共に酒食にふけってい
るというのに、とてもいい心がけだ。実に素晴らしい。
では、彼女に何をしてもらうべきか。
簡単だ。
日本人であることを生かしてもらえばいい。
﹁では仕事の方はこちらで手配しましょう﹂
﹁いえ、仕事のあてはあるのです﹂
ん? と思った。
1233
この人間のいない区画で仕事のあてとはどういうことだろうか。
﹁私、こう見えても小説を書くことが趣味でして。それらを出版し
てお金を稼ごうかと﹂
ははあ、なるほど。
女王というのだから、娯楽として本なども民間の者と違って読む
機会があったのだろう。
そういった者が作家という職業に憧れるのもわかる。
とはいえ、せっかくの日本人。
また、その性質はとても善良であるように思える。
こういった言い方はなんであるが、非常に使い勝手がいい人材だ。
適材適所。
できることならば、日本語の教師にでもと思っていた。
ただし無理やりそれを命じて、こちらの心証を悪くしたくもない。
﹁わかりました。それらの本を幾つか出版して、採算がとれるよう
であるならば認めましょう。駄目そうならば、小説は趣味としてや
っていただき、仕事に関してはこちらが用意したものをやっていた
だくということで﹂
﹁わかりましたわ﹂
小説家など、なかなか難しいと思う。
本というものは高く、宣伝もなしに誰かが手に取るとは思えない。
元女王が書いた本ということで、多少は売れるかもしれないが、
そこまでだろう。
1234
﹁とりあえず、こちらに都合の悪いことが書かれても困りますので、
検閲だけはさせてもらいますよ﹂
﹁ええ。その時はよろしくお願いします﹂
1235
98.その頃他国では︵前書き︶
内政に入る前の大陸の情勢的な話です。
<i215623|18564>
1236
98.その頃他国では
各国の密偵たちが持ち帰った情報は、大陸に衝撃をもたらした。
﹃イニティア王国軍敗れる﹄
飛ぶ鳥を落とす勢いであったイニティア王国の進軍。
ドライアドの陥落は誰の目にも明らかであり、事実、イニティア
王国軍は王都ドリスベンすらも手中に収め、あとは北へ逃げた女王
を捕らえるだけという状況であったはず。
しかし、女王が逃げた辺境の地︱︱北のわずか一領が、追撃して
きたイニティア王国軍を破り、その首領レアニスを生け捕ったとい
うのだ。
﹁どういうことだ、何が起きた!﹂
皆
。
この言葉は誰か特定の者が発したものではない。
いうなれば、
イニティア王国軍敗北の知らせを聞いた各国の有力者たち︱︱そ
の誰もが口にした言葉であった。
とりわけ仰天して見せたのが、イゴール帝国西部に軍を集め、攻
め時を窺っていた東方諸国連合軍の各将軍たち。
中でも、自身、東方諸国連合軍の総大将として出陣し、本営に滞
在していた現ラシア教教皇︱︱エヴァンス・ホルト・エン・ブリュ
ームの驚きようは並々ならぬものがあった。
なにせレアニスはエヴァンスの弟であり、これより始まるはずで
1237
あった東西の一大決戦は、互いにどちらが教皇に相応しいかを決め
るためのもの。
その決着がつく前に、あろうことか、ただの一領が有する戦力に
負けたのだから、その驚きも無理もないことといえよう。
レアニス敗北の知らせを聞いたエヴァンスは、弟とは似ても似つ
かぬくすんだ銀髪を振り乱し、体についた無駄な肉を揺らして立ち
上がったものの、しばし声も発することができなかったという。
﹁何かの謀略か﹂
やがてエヴァンスは樽のような尻を椅子に下ろし、ぽつりと呟い
た。
彼は自身を弟よりも優秀であると信じるからこそ、弟の優秀さを
認め、勝敗のありかを疑ったのだ。
だが、この疑問に対する答えはまだない。
勝敗が決したのは戦い始めてたった一日足らずのこと。
密偵は現場にはおらず、敗残の軍を目撃したのみ。
その詳細を知ることはできないのだ。
密偵からの答えは﹁目下、調査中です﹂以外にはなく、エヴァン
スは続報を待ち、連合内の各国軍には﹁決して軍を動かさないよう
に﹂と厳命しておいた。
また、この間にイニティア王国敗北の知らせは市中にまで広まっ
ていく。
﹁まさか、あの棺桶に片足を突っ込んでいるような年老いた国にイ
ニティアの軍が敗れるとはな﹂
﹁いやいや、なんでも賊将レアニス率いる軍を破ったのは辺境の一
領主であって、ドライアド王国自体はボロボロに打ち負かされたら
しいぞ﹂
1238
﹁なんともはや。辺境の一領主に敗れたレアニスの無能を笑うべき
か、そんなレアニスに敗れたドライアドの脆弱さを憐れむべきか、
それともレアニスを打ち破った辺境の一領主を褒め称えるべきか。
非常に判断が難しい話だな﹂
耳から耳へ、口から口へ。
人の噂というものに身分の隔たりなど存在はしない。
情報通を自称する知ったかぶりが人々の注目を集めるために﹁イ
ニティア王国は一枚の岩にあらず。内変こそが敗北の理由であろう﹂
と語れば、情報の売り買いを生業にする者が一儲けしようと﹁さに
あらず。あくまでも質の差。すなわち兵の士気や練度の差だ﹂と語
った。
語りか騙りか定かでない情報によって、人々は混乱し、ある事な
いことを口々に風潮し始める。
まさに噂というものこそ、いつの時代も変わらぬ人々の娯楽であ
った。
そうこうしている間にも、エヴァンスのもとには件の地︱︱フジ
ワラ領︱︱からエド国樹立の書簡が届いた。
それと同時に、密偵が新たな情報を持ってくる。
内容は、フジワラ領︵現エド国︶がイニティア王国と同様に大砲
をもって、レアニス率いる精兵部隊を打ち破ったというもの。
また、囚われたレアニスの身代金を集めるために財務官僚たちが
奔走しているということ。
ついでとばかりに、エド国の軍事を担っているのが獣人であるこ
となどが、報告に上がった。
﹁そうか⋮⋮レアニスは、あの愚弟は敗れたか。くくく⋮⋮はーっ
ははははははは!!!!﹂
1239
報告を受けたエヴァンスは頬の肉をブルブルと震わしながら、大
声で笑った。
ここに証明されたのだ。
レアニスは相対する敵であるどころか、歯牙にもかけない相手で
あったと。
己こそが教皇に相応しかったのだと。
﹁イニティア王国など取るに足らぬ。滅ぼすぞ。誰にたてついたの
か、思い知らせてやろうぞ﹂
エヴァンスは、今こそ進軍せよと号令を出した。
東方諸国連合軍がこれに従わぬ道理はない。
総大将が囚われたとなれば、敵はもはや軍ですらない敗残の群れ。
その士気は著しく低下しているだろうし、逆に自軍の士気は高ま
っている。
さらに、連合国の将軍たちはイニティア王国軍に激しい侮りを持
っていた。
彼らは口々に言う。
﹁今日までのイニティア王国軍の活躍は、小国群とドライアド王国
があまりに情けなかったからであろう﹂
誰であっても、そう考えることは無理からぬことであったのだ。
将軍たちは、機は熟したとでも言わんばかりに意気盛んとなり、
軍を動かした。
これまでの見せかけだけのものとは違う。
それは明日にでも侵攻を開始するための進軍であった。
ただし、あえて後方支援に回った国もいる。
サンドラ王国とシューグリング公国である。
1240
この二国は、自軍の兵糧を供出してまで、前線に出ることを拒ん
だ。
サンドラ王国の将軍ミレーユは、先のロブタス王国との戦により
多大な被害を受け、いまだ軍の復旧が完全ではないことを理由とし、
シューグリング公国の将軍は、自軍に戦いの経験がほとんどないこ
とを理由としている。
誰がどう見ても、建前であることは明らかだった。
では本音はなんであるか。
サンドラ王国はほんの数年前、シューグリング公国に西部地域を
奪われたという経緯がある。
この機に乗じて、サンドラ王国は西部地域を取り返したいのでは
ないか。
それをシューリング公国が察知して、いつでも本国に戻れるよう
にしているのではないか。
要は互いに牽制しあっているのだろうという話になった。
大陸の反逆者を討とうとする名誉ある連合軍にあって、両国の考
えは本来ならば許されることではない。
しかしイニティア王国の軍がこけおどしであるとされている今、
連合軍にとってドライアドの地は黄金のパイに等しい。
パイを分配する相手は少ない方がいいのだ。
こうして東方諸国連合軍のうち、エルドラド教国、イゴール帝国、
カスティール王国、ロブタス王国の四国が前線部隊を受け持ち、サ
ンドラ王国とシューグリング公国は後方支援に回ることになる。
イニティア王国軍と東方諸国連合軍。
互いが矛を交えるまで、もはや幾ばくもない。
大陸の命運を決める大戦、その幕が切って落とされようとしてい
1241
た。
◆
場面は変わり、大陸の南︱︱ヨウジュ帝国。
つい先ごろ、イニティア王国が起こした侵攻に合わせ、幾つかの
領にて反乱が起こった地である。
﹁フジワラか。覇を争うのはレアニスばかりだと思っていたが、思
わぬところに伏兵がいたか﹂
そう呟くのはジュリアーノ・ガヴィーノ・ヴァッサーリ。
白い肌と、ヨウジュの地によく見られる赤が混じったブラウンの
髪。きりりとした眉と整った鼻は、端正な顔立ちの証である。
しかし、ある一握りの者はジュリアーノのことをこう呼んだ。
玉座
にて、イニティア王国軍の敗北の知らせを聞いて
︱︱永井、と。
永井は
いた。
何ゆえ、玉座か。
知れたこと。
皇帝が住んでいた城も町も、今や全て永井のもの。
翻した反旗は、既に皇帝の城に掲げられたのである。
﹁報告! 皇帝とその家族を捕らえました!﹂
玉座の間に新たな伝令がやって来た。
帝都より逃亡したヨウジュ帝国のかつての皇帝。
皇帝に味方する者はもはや誰もいない。
1242
まず永井は、死しても皇帝に忠誠を誓うであろう領主から滅ぼし、
その他は大局を判断して永井に降った。
﹁連れて来い﹂と命令した永井の前に、皇帝とその親族はまるで罪
人のように引っ立てられてくる。
恰好ばかりは皇族のそれであったが、それらの表情に覇気はない。
皆、生ける屍ともいうべきやつれ方であった。
﹁ヴァッサーリ⋮⋮﹂
﹁以前とは立場が逆であるな、皇帝﹂
口惜しそうに永井の名を呼ぶ皇帝と、それを玉座より見下す永井。
かつて皇帝は永井の領︱︱ヴァッサーリ領︱︱の発展をわが物に
しようと数々の常識外れの要求を吹っかけてきた経緯がある。
屈辱にも永井は跪いて、それらを全て受け入れた。
しかし、本当に知られてはならない、とっておきの鋭い爪は隠し
続けていたのだ。
﹁皇帝よ、苛烈な君主よ。
お前はよく財を築き、軍を増強することに余念がなかった。そし
てそれは、今日の大陸の情勢を見るに、確かに正しい。
だがな、お前は他を顧みなさすぎる。国と己が血筋を強くするこ
としか見えていない。
下にあっては民を締め付け、上にあっては遠縁を排し、己の血筋
ばかりを優遇した。ゆえに乱が起こった。
聞こえるか、この声を。お前にはもう敵しかいないのだ﹂
城の外から聞こえてくるのは、﹃ヴァッサーリ様万歳! 新皇帝
万歳!﹄という嵐のような大歓声。
1243
城下の兵や民、全員が永井の勝利を喜び、それは止むことがなく
続いていた。
﹁⋮⋮貴様の言う通りなのだろうな。
わしは殺されても構わん。他の者も好きにしろ。しかし一番小さ
な娘だけは助けてくれ。
まだ四つ、皇族としての責任すらも理解できない年頃なのだ。ど
うか頼む⋮⋮﹂
皇帝は、後ろ手に縛られたまま、頭を床につけて懇願した。
だが、これに驚いたのは他の親族たちだ。
自身も助けてくれと命乞いを始める。
挙句、皇帝を悪く言い、永井を讃える言葉まで吐き始めた。
﹁よかろう。末娘は助ける。成人するまでは不自由のないように、
こちらで面倒を見よう﹂
﹁礼を言う﹂
慈悲は、人心を集めるのに最も優れた行為だ。
特に日本人に対して、その効果は覿面であるといっていい。
この場にも永井の副官として日本人がおり、永井はその扱いをよ
く心得ていた。
末娘のみ別室へと案内され、皇帝以下その他の者たちは斬首場へ
と連行される。
永井は彼らの処刑を見ることなく、自室へと去っていった。
さて、ひとかけらの慈悲を見せた永井。
だがそれは表向きだけのこと。
1244
永井が新たに自身の部屋となった帝室に戻ると、ある者を呼んだ。
それは永井の腹心にして、後ろ暗い陰働きをする隠密の長。
その者に永井はある一つの命令を下す。
﹁始末しろ﹂
﹁はっ﹂
いったい誰を始末するのか。
それは考えるまでもないことである。
日本人からすれば血も涙もない行為かもしれない。
しかし永井は支配者として何をすべきかわきまえている。
どんな状況であれ、情を利用することはあっても、情にほだされ
ることない。
皇帝の一族の死などどうでもよく、既にその思考も、遥か北方へ
と移っていた。
﹁レアニスを破るとはな。恐るべき能力を持つか、それとも恐るべ
き知恵を持つか。フジワラ⋮⋮今日まで放っておいたが、どうやら
それは間違いであったようだ﹂
豪奢なソファーに腰を沈める永井。
フジワラ領のことは知っていた。
しかし、レアニス同様に少々調査しただけで放って置いた。
見るべきものがあるとすれば、胡椒などの香辛料とジャガイモだ
けであったからだ。
だがそれは誤り。
ともすれば、今のレアニスの立場が己であったかもしれないとい
う思いが、永井の胸に浮かんでいた。
1245
永井は隠密の長が帰ってくるなり、新たな命を下す。
﹁北の地へ、あらゆる人間を送り込め。密偵だけではないぞ。こち
らの息がかかっているなら、どんな者でもいい。職業も人種も種族
すら問わない。
たとえ些細なことであっても構わない。大小など気にせず、あら
ゆる角度から情報を集めよ﹂
﹁はっ、かしこまりました﹂
まずは敵を知る。
現代日本では誰もが知っている当たり前の兵法だ。
レアニスを破るほどの相手なればこそ、慎重を喫しなければなら
ない。
あらゆる情報を集めて、フジワラの地を丸裸にし、そののち対策
を講じるのだ。
﹁なんにせよ、まずは敗者の始末か﹂
イニティア王国の現状を考えれば、東方諸国連合軍が動くのは想
像に難くない。
永井にしてみても、今こそイニティア王国を︱︱ひいてはレアニ
スを滅ぼす絶好の機会であった。
1246
99.東西戦争とレアニス解放
北と南に分かれているフジワラ郷。
いわずもがな北は異種族居住区画となり、さらにその中には特別
区画と名付けられた城郭が存在する。
そこにはトラックや戦車などが納められ、ジハル族長の部族が常
に警戒に当たっているのであるが、俺が住んでいる場所もその特別
区画の中だ。
特別区画内に︻D型倉庫︼を︻購入︼し、俺はその中でカトリー
ヌと暮らしていた。
さて、時はイニティア王国軍との戦いより、いまだ一カ月と経っ
ていないある日。まだ太陽が、東の空を昇っている最中の頃のこと
である。
︻D型倉庫︼に敷き詰められた砂の上、カトリーヌがごろりと惰眠
をむさぼり、俺はその隣にて︻ビーチチェア︼を広げ、読書︵漫画︶
に勤しんでいた。
一見すると怠惰に見えるかもしれないこの状況だが、別に王とし
ての仕事をさぼっているわけではない。
休憩もまた仕事であり、日頃の勤労を称えて、英気を養っていた
ところだ。
しかし、そんなわずかな休みも神様は許してくれないらしい。
突如︻D型倉庫︼内に、来客を知らせるブザー音が鳴り響いた。
特別区画に入れる者はジハル族長の部族のみ。
応対してみると、やはり来訪者は狼族の者であった。
何事かと聞いてみれば、レイナからの言伝だそうで、遂にイニテ
1247
ィア王国と東方諸国が争う大戦争が始まったのだという。
﹁レイナは来ているのか?﹂
﹁はい、警衛所の一室に待ってもらっています﹂
﹁よし、すぐに会おう﹂
特別区画の入り口には、警衛所が設置されている。
中には面会室があり、急ぎの要件がある時はそこで話を聞くこと
になっているのだ。
面会室に行くと、狼族の者が言っていた通りにレイナがおり、東
方諸国連合軍が各国ごとに軍を分散して、イニティア王国が占領し
たドライアドの地に侵攻したことを聞かされた。
俺は、午後から急きょ会議を開くことを通達し、午後までの間は、
会議で使われる資料作りに追われることになる。
ところかわって異種族居住区画にある役所。
人間居住区画の役所とは違い、そこでは業務などは行われておら
ず、獣人たちの戸籍関係の書類が保管してあるだけ。
では、普段は全く使われていないのかといわれれば、そうではな
い。
国や町の方針を決める会議場として運用していた。
人間側の役所を使わないのは、俺の安全を考えてのことだ。
昼食をカトリーヌと共に済ました俺は、護衛を連れて異種族居住
区画の役所に来ていた。
1248
別室で待機し、午後の鐘が鳴ると同時に会議室に入室する。
部屋の中は和室でありながら、椅子と大きな長机が持ち込まれ、
人間と獣人たちが左右に分かれるように座っている。
今日の議題は、軍事的に重要な案件。
ゆえに、人間側は軍の重職にあった現警備隊の幹部が全員揃い、
獣人たちも族長クラスの者は皆揃っていた。
俺の入室に皆は立ち上がって出迎え、俺が上座に着いたのち許可
を出すと皆座った。
﹁まずは地図を見てくれ﹂
俺の言葉に合わせて、護衛の一人が手に持ったプリントを回して
いく。
そのプリントには、ドライアドの大まかな地図と現在の戦況︱︱
イニティア王国の占領する城や砦に、東方諸国連合軍が攻め込む状
況の概略が描かれている。
﹁おお⋮⋮﹂﹁これは⋮⋮!﹂
ジハル族長以外は、そのプリントを手に取ると目を開いて見せた。
プリントに描かれた戦況に驚いたわけではないだろう。
ある者は手触りを確認し、ある者は匂いを嗅いでいる。
つまり、紙の質や滲みのないインクなどに対する驚きだ。
﹁見ての通り、イニティア王国と東方諸国連合軍の間でとうとう戦
争が始まった。皆の意見が聞きたい﹂
俺が言うと、人間側も獣人側も本当の意味でプリントに目を通し
た。
1249
皆は戦況地図を眺め、﹁ううむ⋮⋮﹂と考えを巡らしていく。
俺は、さらに付け加えて言う。
﹁先に言っておくが、こちらから出す兵力はない﹂
兵力がないのも確かだが、そもそも静観するという考えは既に俺
の中で決まっている。
だから今日のこの会議は、王として家臣から広く意見を求めてい
るというパフォーマンスにすぎない。
特に、獣人らと人間という大きな隔たりを持つ二つの種を抱えて
おり、両者から意見を聞くことはどちらかを蔑ろしているわけでは
ないというアピールになる。
﹁このまま放って置いて共倒れを狙うべきでは﹂
いきなり核心が来た。
答えたのは、人間側より警備隊隊長。
かつては軍の将軍であった男だ。
﹁共倒れになるかな。大砲を持つイニティア王国の圧勝ではないの
か?﹂
﹁現在、レアニスがフジワラ王の手中にあるのです。イニティア王
国側の士気は駄々下がりでしょう。
それに大砲という武器が最も力を発揮するのは攻城戦、城という
動かぬ目標を相手にしてこそだと愚考します。守勢に回った場合、
相当な数の大砲を用意できねば、イニティアの軍も存外脆いように
思われますが﹂
なるほど、と俺は頷いて見せる。
1250
警備隊長の意見は非常に的を射たものだった。
すると、さらに別の人間から発言がなされる。
﹁東方諸国連合を侮ってはなりませぬ。ドライアド王国にはなかっ
た数という手段が東方諸国連合にはある。とてもイニティアに負け
るとは思えません。王よ。ここは東方諸国連合に臣従する意思だけ
でも見せておくべきでは?﹂
これに反対する意見もまた人間側からだ。
﹁数など。ははっ。東方諸国連合など寄せ集めの烏合の衆にすぎん。
我らが窮地に陥っていた時、仁義なく、ただ己が利益のために傍観
していた輩たちだぞ。
目の前に小さな餌をぶら下げれば、途端に味方同士で争うのは目
に見えている。そこをイニティアがつくのは容易い﹂
﹁だから侮るなと言うておろう! お主は東方諸国連合を鳥合と評
したが、その一羽一羽がまぎれもない大国なのだぞ! 性質はどう
であれ、連合に参加している国はそれぞれが竜だと考えよ!﹂
﹁竜! 竜と来たか! ははははは!﹂
ここから話し合いは人間側だけで紛糾した。
やれ東西のどちらがどれだけ優れているか、やれヨウジュ帝国は
どうであるか、やれイニティア王国が新たに手に入れた地で内紛の
兆しはないか、などなど。
限られた情報しかない中で、互いに知恵を絞り、時に相手をなじ
りつつ、意見を出しあっていく。
うむ、やる気があって大変よろしい。
1251
では獣人たちはどうなのか。
ちらりと獣人側を覗いてみれば、ジハル族長とエルフ族、鼠族の
族長は平然とした様子で聞くことに徹しており、他の者たちはむむ
むと考え込んでいる。
専門外ゆえに黙っている者たちと、人間に負けたくない一心で何
かを意見しようと考えるが何も出てこない者たち、といったところ
だろう。
そんな中、人間側で黙する者がいる。
目を瞑り、まるで眠っているかのように耳を澄ますのは、白い長
髭を蓄えた老人。
俺はその者に意見を聞いた。
﹁イーデンスタムはどう思う﹂
俺の発言に場が静まる。
次いで、皆の視線は、待つ席に座っていたイーデンスタムの方へ
向いた。
﹁⋮⋮国を興したことについて、連合国から反応はあったのか?﹂
﹁イーデンスタム殿﹂
イーデンスタムの態度は王に対するものではなく、レイナが叱責
するようにその名を呼ぶ。
しかし、これはいつものこと。
俺はレイナを制して話を続けた。
﹁いや、どの国からも返書などは来ていない﹂
1252
新国家の樹立を知らせる旨を、既に書簡にて各国に送っている。
サンドラ王国は遠方ゆえに仕方がない面もあるが、他の国からの
返事はいまだ一通も返ってきていない。
新国家など認められないということなのだろう。
正式な禅譲ゆえに、これを認めてしまえばドライアドの権利もま
た認めてしまうことになるからだ。
﹁ふん、国交を持つということは、国として認めるということだ。
しかし連合国は使者すら寄越しておらん。
大方、イニティア王国を破ったのちは、ここにも軍を差し向け、
賊として滅ぼすつもりなんじゃろう。ここには獣人もおる。大義に
は事欠かんわい﹂
﹁ふむ、続けて﹂
﹁わしの見立てでは東方諸国連合が勝つ確率はそれほど高くないよ
うに思える。もし勝ったとしても、一方的な展開にはならぬだろう。
ここ
という例
東方諸国連合に相対するイニティア王国は、小国群とドライアド
の攻略に当たり、用意周到にことを運んできた。
外を除いてな。
そのような綿密な計画を立ててきた国が、東方諸国連合との戦い
になんの準備もしてこなかった、ということはありえない。
イニティアの軍は確かに、ここでは負けた。しかし、所詮は辺境
の一戦でしかないのも事実。全体を見渡せばイニティア王国はドラ
イアドの地のほとんどを手中に収めているし、小国群もまたしかり
なのだ。
現状は多少の差異こそあれ、イニティア王国の予定通りといった
ところだろうよ﹂
﹁しかしレアニスは︱︱﹂
1253
誰かが反論を口にしようとしたが、それはすぐさまイーデンスタ
ムに論破される結果となる。
﹁たとえレアニスが囚われの身になったとて、大事はない。
そう考えたからこそ、目下レアニス自身が己の身を差し出して、
講和の条件となったのではないか?﹂
﹁む、ぐぅ⋮⋮﹂
イーデンスタムは続けて言う。
﹁では現在、守勢のイニティアの軍がいずれ攻勢に回り、大陸を瞬
く間に支配していくのか。
それも違うと思う。
早急な領地の拡大は数多の弊害を生む。必ず統治が必要になる。
どこかで一度腰を据える必要があるのだ。
攻めるだけでは食糧も足りなくなる。ここまで略奪をしたという
話は聞いていない以上、後方から運ばねばならない。大量の食糧の
輸送となれば相当に時間がかかるじゃろうて。
つまりこれからのイニティア王国は、ゆっくりと着実に領土を広
げていく考えであることは明白。
今は籠城し、東方諸国連合の息切れを待っているといったところ
か﹂
なるほど。
正しいかどうかは別として、なかなか説得力のある話だ。
ならば、と俺はイーデンスタムに尋ねる。
﹁つまり、ある程度膠着するような事態が続くだろう、ということ
1254
でいいのかな。
では、その場合、俺たちが取るべき手段は?﹂
﹁戦いが長引いた場合、東方諸国はこの国に援軍を要請するじゃろ
う。
背後から攻めてくれとな。これをおぬしが断るのはわかる。では
次に東方諸国連合は何をするか︱︱乗っ取りじゃよ﹂
途端、人間側から、何故それを言うのかという驚きが見えた。
イーデンスタム以外の者が口にしなかったのは、もしかすれば乗
っ取りを期待していたからか。
現状、やはり人間側の立場は不遇であると言っていいだろう。
民衆の多くは不満など微塵も持っていないだろうが、何らかの役
職に就いていた者は違う。
権力というものに欲を見るはずだ。
ではイーデンスタムの口から、復権の可能性を潰すような意見が
出たのはなぜか。
これは簡単だ。
心理学なんてものはトンとわからないが、イーデンスタムの心情
は手に取るようにわかる。
すなわち、オリヴィアを思ってのこと。
イーデンスタムとオリヴィアを二人きりで会わせたことがある。
部屋はこちらが用意し、その際には盗聴器をしかけさせてもらっ
た。
イーデンスタムは今しばらくの辛抱であると、いずれ復権を、と
オリヴィアに語っていた。
だがオリヴィアは女王であった頃の辛い心中を吐露し、今の生活
1255
がいかに恵まれているかを語った。
つまりオリヴィアは女王の地位を望んではいないのだ。
﹁内側から、奴らは侵略してこようとするぞ。
まあ今はとにかく治安を引き締めることじゃな。よくよく注意せ
よ﹂
このイーデンスタムの言葉。
間違いなく、この町を、引いてはこの国を思っての忠言である。
確信した。オリヴィアが手元にある限り、イーデンスタムは忠臣
になり得る。
彼はオリヴィアのために、俺からのどんな命令でも聞くだろう。
これはのちの異種族と人間との融和にも役立つに違いない。
ラシア教の教義よりもオリヴィアを優先するイーデンスタムなれ
ばこそ、獣人たちに対するわだかまりも容易く捨て去ることができ
るのだから。
﹁よし、非常にためになる話し合いであった。
現状はどちらにも与さない。ただし、戦いの均衡を保つために食
糧の支援くらいは行うかもしれない。
あとは、町の治安の強化に努めよ。
今のところ移民を受け入れるつもりはないが、各国の商会につい
ては受け入れようと思う。当然それらに混ざって間者も入ってくる
だろう。警備隊の者は気を引き締めて任務に当たれ。以上だ﹂
これにて、緊急会議は閉幕した。
1256
それからまた一カ月ほどが経った。
南の戦況は、攻める東方諸国連合側に対してイニティア王国側は
籠城を選択、劣勢ではあるものの、なんとか守っているようだ。
小松菜率いる騎馬軍が遊軍となり、各戦場を駆けまわって敵陣を
かく乱しているらしい。
これにより、ドライアド攻略が容易にいかないと考えたであろう
東方諸国連合は長期戦を選び、城を遠巻きに囲んで兵糧攻めに出た
とのこと。
それにしても、小松菜である。
彼についての報告を受けた時は、生きていたのかという感想と共
に、ブルリとした怖気が背中を走ったものだ。
ところで我が町においても、かの地での戦況を大きく変えるかも
しれない事案が発生しようとしていた。
先日、とうとうレアニスの身代金が届いたのである。
そのため今日までの間、異種族居住区画の役所では、ポーロ商会
の者と獣人たちが一緒になって身代金︱︱金銭や財物︱︱の確認作
業に追われていた。
そして今、もう終わりそうだということで、俺は役所に呼ばれた
ところだ。
ちなみに講和条件に関しては以下の通りである。
・オリヴィア・フォーシュバリ・ドライアドよりノブヒデ・フジワ
ラに王権が禅譲され、新国家が成立する。その際、イニティア王国
は新国家を承認する。
・ドライアド王国の権利は新国家が全てを引き継ぐものとする。イ
ニティア王国はそれを承認する。
1257
・レアニス・ホルト・エン・ブリュームを人質とし、イニティア王
国はその身代金として、二百七十万フロー︵フロー金貨二百七十万
枚で、日本円にしておよそ三千億円︶に相当する財貨・財物を新国
家に支払う。
・現在、イニティア王国が有するドライアド王国の地は賃借として、
年間九万フロー︵日本円にしておよそ百億円︶を賃料として新国家
に支払う。
・新国家に対する今後一切の武力行使を禁ずる。
・戦時におけるフジワラ領に関する詳細を漏らしてはならない。
もちろん、これらの講和条件が全て守られるとは思っていない。
仮初の約束であり、イニティア王国がいずれまた牙を剥くことが
あるだろうという予感はある。
また身代金に関してはもっと要求してもよかったが、レアニスと
いう人間にどこまでの価値があるか、というのが問題になってくる。
イニティア王国には確固とした王がおり、国を傾けるような額を
軍の将軍でしかないレアニスに払うわけもない。
かつてサンドラ王国に対する賠償金においても三千億円近いもの
であったが、これに関しては︻香辛料︼の取引を見越してのもの。
それも一度にというわけではなく、分割での支払いであった。
さらにこのイニティア王国との条約を交わした時、レイナは言っ
ていた。
レアニスは、こちらが遠征してまで攻めようとしないことを見抜
いていると。
同じ日本人であるゆえに見抜いたのか、それとも戦いの最中と終
わりにあった問答から判断したのか。
なんにしろ、レアニスを人質にイニティア王国軍は撤退を完了さ
1258
せた。
あとの金額の交渉は、レアニスの価値次第で決まるということで
ある。
まあそんなわけで、賠償金代わりの身代金はこのような数字にな
ったわけだ。
だが、それでも異常な額ではある。
俺は、一兆という途方もない額を短い期間で稼ぎ出した。
それを考えれば大したことはないと思うかもしれない。
しかしその一兆という利益は、胡椒という価値ある産物を用いて
こそ。
通貨という価値ある物と、同じく胡椒という価値ある物とを交換
した結果でしかない。
一方的に金だけを支払う場合とは、わけが違うのだ。
余談ではあるが、良貨の流通が悪い場所では胡椒が通貨の代わり
になり始めているらしい。
これを聞いた際には、元の世界のことを少し思い出した。
南米のある地域ではコカインが通貨の代わりになっているという
話だ。
要は違法薬物と同じくらい、この世界では胡椒の価値が高いとい
うことだろう。
﹁フジワラ様。身代金、全て確認しました。レアニスを解放します
か﹂
﹁ああ。それでいい﹂
レイナからの報告を受けて、俺はレアニス解放の許可を出した。
1259
レアニスを閉じ込めていた場所は人間居住区画の一画。
異種族居住区画にしなかったのは、情報を奪われることを嫌った
ためだ。
俺同様に獣人を味方にしていたレアニスである。
口八丁で見張りの者が取り込まれてはかなわない。
俺はレアニスの旅立ちを見守るため、南の城壁へと赴いた。
城壁の上から覗こうというのだ。
しばらくしてレアニスが南門を通って眼下に現れた。
レアニスは振り返り、見上げるようにしてこちらを見つめる。
城壁の上と地上では、十メートルの距離がある。
だというのに、レアニスの瞳の色ははっきりと確認できた。
波立つことのない、穏やかな海を思わせるような色だ。
不思議な男だと思う。
俺に対する憎しみなどまるで感じない。
ではなんのために戦うのか。
本当に大陸の平和だけを願っているとでもいうのだろうか。
まあ、関係ない。
また攻めてくるというのなら、返り討ちにするまでだ。
やがてレアニスは、自国の兵士らと共に、南へと去っていった。
﹁とりあえず一段落ということかな﹂
﹁そうですね。現状、南の情勢も早期に決着はつきそうにありませ
ん。
他国の混乱は、自国の安寧なりとも申します﹂
1260
俺の何気ない言葉に、レイナが返答した。
全くその通りだと思う。
南の戦乱が深まれば深まるほど、このエド国は平和でいられるの
だ。
しかし他人の不幸によって、自身の幸福が得られるというのはな
かなかに難儀なものだ。
支配者だけが不幸になるならいいが、まず初めに犠牲になるのは
下々の者なのだから。
まあ、そんなことをここで考えてもどうしようもないのだが。
﹁んんーー!!﹂
俺は両手を空に向けて、体を思いっきり伸ばした。
この気持ちよさ。
レアニスを解放し、ようやく俺自身の心も解放された気分だ。
﹁最近、色々とありすぎた。もっとこう、のんびりとした生活を送
りたかっただけどなあ﹂
実際、気を張り詰めることばかりだった。
だが、それも今日で終わりだ。
﹁さあここからは内政だ。大金も手に入った。色々やってやるぞ﹂
金の匂いを嗅ぎつけて早くも商人たちがやってきている。
二万近い住人がいる大都市に、何千万フローという大金が流入し
たのだから、当然だろう。
1261
とにかくも一段落。
明日からはのんびりと町の運営に精を出そうと思った。
1262
100.建国から三カ月︵秋︶、電気ストーブと炬燵︵前書き︶
内政の中でもいらない部分をすっ飛ばす説明回です。
84話の修正
↓イニティア王国が小国群に攻め込んだのは三年七カ月後の冬。信
秀はこの時三十一歳に。
そこから年月を少しずつずらしています。現在は信秀三十二歳です。
1263
100.建国から三カ月︵秋︶、電気ストーブと炬燵
レアニスが解放されたのが九月の頃。
それから一カ月の間、大陸の情勢はそれほど変わってはいない。
兵糧攻めに持ち込んだ東方諸国連合の作戦によって、ドライアド
東部の戦線は膠着状態に入ったままだ。
そんな中、エドの地には多くの商人が詰めかけていた。
その理由はレアニスを解放するために、イニティア王国がエド国
に対して用意した多額の身代金だ。
金額が金額ゆえに、各商会にまでイニティア王国の役人たちが金
の無心を行っており、商人ならば誰もがその金の流れを掴んでいる。
新興国家に急遽数千万フローという大金が転がり込むという事実。
金というものは使ってこそ。使わなければ、石ころと変わらない。
金を使い、人を集め、経済を活性化させ、国を大きくする。
成立から何年も経った怠惰な長寿国ならまだしも新興の国家なら
ば、必ずやそうするだろうと商人たちは考えた。
特に、エド国に関しては、かねてよりポーロ商会の影がちらつい
ていたことは皆が知るところだ。
国の運営に商人が大きく関わっているともなれば、無能なことは
しまいというのが各商会の見解である。
さらに、東西の大戦争には長期化の兆しあり。
金
があり、天が与えたような
時
人
。
もある。
これは新興の国が力を蓄える絶好の機会といえよう。
数多の
加えて、王都より避難したという万を超える住
1264
金と時と人。
これら三つが揃っている
地
ならば、そこで店を構えるだけで、
黙っていても儲けることができるというものだ。
まさに、商人にしてみれば理想郷とでもいえるような場所。
ポーロ商会だけにいい思いはさせられない。
ゆえにドライアドに根を張る商会の多くは、北を目指した。
そして今日もまた、遅ればせながらエド国フジワラ郷にやってき
た商人の姿があった。
﹁おお、これは⋮⋮﹂
馬車と奉公人を数名連れたある商会の跡継ぎ息子︱︱フンケルは、
フジワラ郷の巨大な城郭を前にして感嘆した。
たかが一領主がどのようにしてイニティアを破ったのか、という
のは、ここのところ世間をよく賑わした、興味尽きない話の種であ
ったといっていいだろう。
その真実がここにある。
王都にも劣らぬ見事な城郭。
噂には聞いていたものの、実際にそれを前にすると、フンケルは
目を見張る他なかった。
フンケルのみならず、供の奉公人たちも唖然としている。
城郭の上には異様な建物が見える。
物見用の塔代わりだろう。
だが、そんなものよりもフンケルの視線を捉えて離さない物があ
った。
1265
﹁大砲か﹂
城郭の上にある鈍い光を放つ大筒を瞳に映して、フンケルが呟い
た。
イニティア王国が支配したドライアドにおいても、各所にて配備
が行われている新兵器。
商人ならば喉から手が出るほど、今一番欲しているものだ。
あれ
を手に入れられたのならば一門幾らで売れ
市場に出回っているという話はまだ聞かない。
なればこそ、
るのか、とフンケルは舌なめずりをせずにはいられなかった。
フンケルの一行が、城門のすぐ前まで進む。
そこには体の大きな獣人が武器を持って立っていた。
︵獣人が町の中核を担っているという噂は本当らしいな︶
城郭の上にも睨みつけるように、獣人がいたのは確認している。
本来ならばありえぬ事態だ。
しかしフンケルは、だからどうしたという気持ちであった。
この程度で驚いていては商人など務まらない。
地獄の沙汰も金次第。
たとえ地獄の悪魔であろうと、金貨と三寸の舌をもって取引して
やろうというのが、一流商人の心意気というものだ。
﹁何者だ。なんの用でここに来た﹂
﹁ピエフ商会のフンケルというものです。新たに国を興して王とな
られたフジワラ様に、お祝いの品を届けに参りました﹂
1266
高圧的な態度で誰何する牛族の男に対し、フンケルはペコペコと
もみ手をしながら答えを返す。
獣人相手であっても、あまりに腰の低いその態度。
これに気をよくしたのか、心なしか獣人の声色が柔らかくなる。
己のプライドと、利益とを計算できるのが商人という生き物だっ
た。
﹁うむ、では全員の顔を検めさせてもらうぞ。馬車の中身もな﹂
﹁はい、どうぞ﹂
しばし、獣人たちがフンケルたちを検査する。
動じないのはフンケルばかりで、供の奉公人たちは皆、怯えたよ
うな顔だ。
﹁よし、入ってよし。役所にて申請が必要だ。役所まで案内させる。
言うまでもないことだが、もめ事は起こさぬようにしろ﹂
﹁ありがとうございます。あ、これは、ちょっとした心づけです﹂
フンケルが袖から銀貨を取り出して、牛族の男に渡そうとする。
だが、牛族の男はギロリと、視線を鋭くさせた。
﹁そういったものは受け取るなと言われている。受け取れば我らも
お主も罰せられる。今後は、お主も気を付けよ﹂
﹁はっ、これは知らぬこととはいえ、とんだご無礼を﹂
フンケルはそそくさと銀貨をしまい、牛族の男にはぺこりと頭を
1267
下げ、﹁さあ行くぞ﹂と奉公人たちを連れて城門の内側に入ってい
く。
その心中は次の通りだ。
︵人間の門兵などよりよっぽど立派ではないか。これはなかなか侮
れんな︶
賄賂なんていうものはドライアドでは当たり前のことだった。
逆に賄賂を渡さなければ、礼儀知らずであるとされた。
獣人が潔癖なのか、それともこの町の支配者が優秀ゆえに、規律
が行き届いているのか。
なんにせよ賄賂が通用しないとなると、色々とやりにくいという
思いであった。
獣人の一人に案内されて、フンケルは供の者と大通りを行く。
店が建ち並び、人が行き交っているが、女性が多い。
男衆は仕事に出ているということなのだろう。
獣人が先頭を行くせいか、進む先は広々としたものであった。
皆道を開け、誰もこちらと顔を合わせようとしない。
このことから、町の獣人と人間がうまくやれているということは
ないと考えられる。
店先には、同業種の者で幾つか知った顔を見た。
出遅れたと思いつつも、いまだ閉まっている店舗を見る限り、ま
だまだ食い込む隙間はありそうだ。
そのままフンケルは役所にて申請を済ませ、そこで町の規則を説
明される。
規則にはこまごまとしたものが多く、面倒くさいという思いがま
ず先に立った。
1268
その後は、貨幣の両替。
説明の中にあったが、この町で使える貨幣は決まっており、それ
以外を使うことは原則禁止されているのだという。
なお、貨幣の種類は以下の通りだ。
大判、小判、二分金、一分金、二朱金、一朱金からなる金貨。
丁銀、五匁銀、一分銀、二朱銀、一朱銀からなる銀貨。
四文銭、一文銭からなる銅貨。
これまでに見たことのない特殊な貨幣。
比率などは教えてもらえなかったが、小判を手にしたところ、明
らかに一枚の重さが軽い。
金の含有率が低い証拠だ。
これは詐欺ではないかとフンケルは思ったが、この町ではその貨
幣しか使えないとなれば、もはや文句の言いようがない。
それに、金含有率など一笑に付してしまうような、もっと着目す
べき点があった。
両替した貨幣は、大きさや形に加え、そこに刻まれている意味不
明な文字も、寸分違わずに全く同じ。
この町の貨幣は全て均一だったのである。
はっきり言って異常だった。
これほどの芸当、どれほど素晴らしい鋳造技術が必要であるか。
いや、稀有な才能を持った錬金の魔法使いの仕業であろう。
とにかく、これでは贋金をつくることは困難。
すなわち、金の含有量が低くともこの町の貨幣は確かな価値を持
っており、当初思った詐欺などという言葉は、もはや口が裂けても
1269
言うことはできない。
フンケルはただただ舌を巻くばかりであった。
換金を終えると、その金でフンケルは大通りの空き店舗を一つ借
りることにした。
役人に貸店舗に案内されて、そこでもまた長々と説明を受ける。
三十分ほど過ぎると、ようやく話が終わり、一息ついた。
役人を見送ったあと、靴を脱いで屋内に上がる。
二階建ての立派な店舗だ。
フンケルは奉公人に馬車の下敷き持ってこさせて、その上にごろ
りと横になった。
床に寝転がるなど普通ならば考えられないことではあるが、靴を
脱ぐというのなら、全体が腰を落ち着けることができる場所だと考
えていいだろう。
しばらく横になって体を休めていると、奉公人から声をかけられ
た。
﹁若旦那、ひと月分の薪を貰ってきました﹂
﹁わかった。お前たちも今日のところはゆっくりするといい﹂
奉公人が貰って来た薪。
これは国から支給されており、欲しいだけ受領できるのだという
から驚きだ。
しかし、薪の売買は絶対に禁止されているという。
見つかったら、即刻この町からは追い出されるらしい。
まあ、ただで手にはいる物に値段など付くはずもなく、売買の心
配はないだろう。
値段を付ける者がいるとすれば、他所からやって来た者であるが、
1270
あんなかさばる物を外に運ぼうとすれば、すぐに見つかってしまう。
なんにしろ、ここに住む者は相当に恵まれているようだ。
翌日、外は生憎の雨模様。
何をしたものかなと思い、フンケルは玄関の段差︵上がり框︶に
座ってずっと外を眺めていた。
︵こうして座っているだけで、わかることもあるものだな︶
雨の勢いはそれなりに強いが、水が家の中まで浸入してこない。
町の排水設備がよく整っているのだろう。
自身の商会の本店がある町は、ひとたび大雨が降れば、糞尿の混
じった汚水に沈むことになる。
このフジワラ郷とはえらい違いだ。
それにしても、外は晴れた日よりも往来が激しい。
これをフンケルは不思議に思った。
雨の日は通常、人の活動が少なくなる。
フンケル自身が特に何もせず、家に留まっているのがいい証拠だ。
それに不思議に思ったことはもう一つあった。
玄関を横切る者たちは皆、傘を差しているのである。
これはおかしい。
傘なんてものは、女が日を避けるために使う物だ。
雨に傘を差せば確かに雨は凌げるだろうが、それはいわば非常識。
常識的な恰好とは言えない。
フンケルが思った二つの疑念。
1271
だがこれらの答えは、向こうからやって来た。
﹁おや、ここはなんの店だね﹂
中年の男が、店の中に入って来たのである。
おおかた、開店していると勘違いしたのだろう。
﹁まだ、なにも売ってないよ﹂
﹁なんだ紛らわしい﹂
あんまりないい草である。
だが、こんなことで怒るようなフンケルではない。
微笑を浮かべて、男が去るのを待った。
しかしその時、フンケルは男の手にあった物に不意に目を留めた。
この男もまた手には傘を持っている。
﹁お前さん、何故この町では皆が傘を差しているんだい?﹂
﹁ん? ああ、なんだ。もしかして新入りかい。あんたも傘がかっ
こ悪いという口だね﹂
フンケルが傘について言及すると、ふふんと鼻で笑うように男は
言った。
どうやら彼は傘を持っていることを、誇らしげにしているようだ。
﹁しかし、傘など紳士的じゃないだろう﹂
﹁雨に濡れたくないから、傘を差す。別に誰かに迷惑をかけている
1272
わけじゃない。実に実用的じゃないか。これこそがこのエドの在り
方ってもんだ。外には出てみたかい? 雨だっていうのに傘のおか
げで通りは大繁盛さ﹂
そのことは言われるまでもなく、フンケルも知っている。
先ほどまでずっと外を眺めていたし、雨音に混じって喧騒が聞こ
えてくるのだ。
男は言葉を続ける。
﹁雨の日は農家は休みだ。だからこうしてみんな町に出てきてると
いうわけよ。店からしたら、いわば稼ぎ時だ﹂
その男曰く、晴耕雨読なんていう言葉があるように、雨の日は農
作業が休みとなり、そういった者は家でおとなしくしている︱︱な
んてことはない。
傘を開いて、町に出ては昼間から酒を飲んだり、集会所でリバー
シを打ったり、通ぶったりしている者はチェスを打ったりする。
湯屋と呼ばれる風呂屋も人気なんだとか。
﹁特に飯屋がすげえんだ。フジワラ王が次から次に料理を発明して
な。そのどれもが、舌と脳がとろけそうなくらいに美味いときてる﹂
﹁そんなに凄いのか﹂
﹁もしかして、まだ食ってねえのか。ったく、しょうがねえな。ほ
ら、家に持って帰るつもりだった団子を一本やるよ。不味いってん
なら金は要らねえが、美味かったら金払ってくんな。隣座るぜ﹂
男はフンケルの隣に座り、手に持った籠から葉の包みを取り出し
て広げる。
1273
包みの中からは、丸い団子が四個刺さった串が、何本か出てきた。
︵不味かったら金を払わなくてもいいとは、えらく気風がいいな︶
フンケルは男のありように疑念を思った。
この町の住人は、多くが貧困街の人間だったはず。
あそこに住んでいた者は、ケチで意地汚い者たちばかりだ。
しかしフンケルは、そのような匂いなど目の前の男からは微塵も
感じなかった。
﹁では、お言葉に甘えて⋮⋮﹂
フンケルは串を一本手に取った。
タレをこぼさないように左手を下にして、右手でもって串を口に
運ぶ。
フンケルが口を開けた時、団子から漂う匂いが鼻をくすぐった。
冷めてはいても感じることができる、仄かに香る甘い匂い。
途端、口腔内で唾液の分泌が活発化する。
食べたいという信号が脳から発せられたのだ。
それは無意識的なもの。
されどこの時、フンケル自身も確かな意思で食べたいと思ってい
た。
無意識と自我、双方の食欲が交錯する。
そしてフンケルは、一つの団子を丸々口に含んだ。
﹁︱︱ッッ!!﹂
舌から脳天に向かって走る衝撃。
全身は硬直し、その一瞬、フンケルは痺れるような感覚に陥った。
1274
﹁どうだ、うまいだろう?﹂
得意げに言葉を口にする男。
だが、フンケルは反応できない。
頭の中は、今食べた団子のことでいっぱいだった。
︵甘く、それでいて、かすかに辛い⋮⋮甘辛⋮⋮︶
食べたことのない味だった。
咀嚼し、気づけば口の中の団子はもうなくなっていた。
フンケルは、串に刺さっていた残り三個の団子もあっという間に
食べていく。
手に持った串が空になると、不思議なことにフンケルの腹がグゥ
と鳴った。
足りない! もっと食べたい!
そう言っているのだ、フンケルの腹は。
﹁どうやら俺の勝ちのようだな﹂
言葉の通り、勝ち誇ったかのような男の態度。
いつから勝負をしていたのか。
されどそんな野暮なことを、フンケルは言うつもりもない。
﹁ああ、見事に負かされた。胃袋が悲鳴を上げ続けているよ。それ
で、なんというんだこの食べ物は﹂
﹁みたらし団子だ﹂
1275
﹁みたらし団子⋮⋮﹂
聞いたこともない名称をフンケルは呟くと、口の中に残った後味
を飲み込むようにごくりと喉を鳴らした。
商人というものは勿体ないを信条とする。
たとえばここに来るまでの保存食。
何かあった時のために、より多く持ってきている。
フンケルの一行はこれら保存食を捨てることなく、今日も朝食と
して消化した。
しかし、こんなものを食べてしまっては、もう食べられない。
保存食は奉公人たちに任せて、昼食はみたらし団子にしようと、
フンケルは心に決めた。
フンケルがフジワラ郷にやって来て幾日かが過ぎた。
季節の変わり目ゆえか、日を追うごとにはっきりとした気温の低
下を感じることができる。
この分では息が白くなるのもそう遠くないであろう、と町の者た
ちは恐々としていた。
冬というものは、時に戦乱よりも恐ろしいものであることを、元
貧困者たちは身に染みて知っているのだ。
しかしそんな寒さの中でもフンケルは精力的に活動していた。
残念ながら今日まで、王はおろか、人間居住区を統括するレイナ・
グルレにも謁見はかなっていないが、商売をするにあたって必要な
ことは調べ終えたといっていい。
フジワラ郷に何を持ち込めば売れるのか。
この考えはきっぱりと捨てた。
1276
せいぜい行きがけの駄賃として、ここに買い付けに来た際に各地
の酒でも運ぶぐらいだろう。
フジワラ郷で何かを売るよりも、フジワラ郷で買ったものをよそ
の土地で売る方がはるかに優れている。
それだけの特産品がこの町にはあるのだ。
胡椒、ジャガイモは言わずもがな。
来春からは砂糖の元になるというテンサイを育てるんだと語った
農家の人間。
王が好物だとする米なる作物。
ナタネ、大豆から油を取る計画があり、醤油やソースなどという
はたお
見たことも聞いたこともない調味料まで存在する。
作物ばかりではない。
井戸から水をくみ取るポンプに、機織りや糸繰の機械などなど。
幾つものビックリ箱を連続で開けているかのように、次から次へ
目新しいものが出てくる。
芸術の分野でも、目を離すことはできない。
ある商店では、覆面を被った女性があの有名な﹃美しすぎて婚約
破棄﹄の新刊を手売りしていた。
曰く、あの大人気作家のオリーブオリーブ本人だという。
そこでは人だかりができており、その中でも老人や甲冑を着た女
騎士、それに立派な恰好をした金髪の女性が鼻息を荒くしていたが、
歳を考えろと言いたい。
他にも、わかったことがある。
今現在この町の住民は、国より金を得て、それを使って物を買い
暮らしている。
要は、国が町の者全員を雇っているという体制であった。
1277
ポーロ商会によって売られている物資も、国からの委託品がほと
んどなのだとか。
そのため、フジワラ郷内だけで循環させる小売業は今のところ難
しいと役人からは言われた。
また、これらの体制は新貨幣の流通にも一役買っている。
ただし、給金は自身の職が安定するまでとのこと。
いわば、民が独り立ちするまでの準備期間。
しかし民らが途方もなく恵まれていることは間違いない。
︵ここまでする理由は、やはり手っ取り早く人心を掴むことだろう。
王は獣人と袂を分かつつもりはないらしい。なればこそ、人間には
いい暮らしをさせて、視線を逸らそうということか︶
それにしたって少々やりすぎではないか、という思いがある。
今だってそうだ。
フンケルは商店の奥の部屋にある囲炉裏の前で座っていたところ
であったが、そこに聞こえてくる歓喜の声があった。
わた
﹁毛皮だ! 綿だ! 我らが暖かく過ごせるように、フジワラ王が
毛皮と綿をくださったぞ!﹂
声の発生源は外と内の両方。
フジワラ王が冬の到来を前に、毛皮と綿を町の民へと配ったので
あるが、それらの品はフンケルの商家にも無料で贈られて、奉公人
たちは大喜びであった。
︵全く、なんと豪気なことか︶
1278
毛皮も綿も高級品。
魔法により、金属を生み出すことができる反動か、魔法でつくり
出せない動植物から採れる物には貴重品が多い。
かつては絹織物が、金本位社会にとって代わろうとしたくらいだ。
フンケルも毛皮を受け取っている。
衣類はそろっているため、敷物として愛用することにした。
﹁本当に至れり尽くせりだな﹂
その感触を楽しむように、フンケルは床に敷いた毛皮を手の甲で
さらりと撫でる。
目の前の囲炉裏には赤くなった薪がパチパチと音を鳴らしており、
己が傍らには、ワインと皿に盛られたみたらし団子があった。
この町の生活を至れり尽くせりと評したフンケル。
だが彼は知らない。
こんなこと信秀にとってみれば、なんでもないことを。
石垣を一つ挟んだ先︱︱獣人居住区画ではもっと凄いことになっ
ていたことを。
◆
︱︱蜥蜴族の居住区。
その族長の家では、本日ある物が設置された。
﹁暖かい、暖かいぞ!﹂
蜥蜴族の族長が、柄にもなくはしゃぐように声を上げた。
部屋の隅に、垂直に置かれた四角く平べったいもの。
1279
内部にあるコイル状の棒が赤く熱を発して、部屋を暖めている。
詰めかけていた蜥蜴族の者たちからは﹁おおお!﹂という歓声が
轟いた。
さらに、卓上部分と足の間に布団が挟まったような格好の机。
誰かが、﹁この中も暖かいぞ﹂と言うと、蜥蜴族の者たちが群が
って、次々に足と尻尾を布団の中に突っ込み大変なことになってい
た。
もうおわかりであろう。
それらは、電気ストーブと炬燵である。
屋根に備え付けた太陽パネルからパワーコンディショナーを併用
した蓄電池によって、電気が部屋の中に供給されているのだ。
もちろん取り付けは手作業である。
そのため、一斉にというわけにはいかず、まずはジャンケンで勝
った蜥蜴族の区画から作業を行っていくということになっていた。
﹁見たか、これが科学だ!﹂
興奮しきりの蜥蜴族の者たちに、得意満面の顔を見せる信秀。
その日より、異種族居住区画では電気ストーブと炬燵の設置が始
まった。
1280
100.建国から三カ月︵秋︶、電気ストーブと炬燵︵後書き︶
祝100話。
皆さんここまでお付き合いくださってありがとうございます。
あとで個別にオリーブオリーブの小説を投稿します。
1281
101.建国から四カ月︵秋︶、裁判︵前書き︶
暖房器具の修正はもうちょっとかかりそうです。
ご了承ください。
1282
101.建国から四カ月︵秋︶、裁判
フジワラ郷の夜は長い。
大通りの飲食店は日が暮れても営業しており、灯が落ちるのは午
後の八時の頃。
日中、仕事に精を出していた寂しいやもめたちが、帰るべき家庭
もなく、酒や食事を目当てに市街へと繰り出すのである。
では、一歩町の中に入った住宅街ではどうなのか。
日が暮れると、各家庭からは明るい声が聞こえてくる。
夕飯を家族で食べているのだろう。
また、食事をする前後は定かでないが、手に桶をもって、道を歩
く者たちの姿が散見された。
湯屋は町中至る所に存在しており、夕方から夜にかけては風呂に
浸かって体の疲れを癒すというのが、フジワラ郷に住む人々の習慣
になっているのだ。
﹁はい、娘のと二人分で十文﹂
﹁十文、確かに。ごゆっくり﹂
ある湯屋での一幕。
一組の母娘が女湯の暖簾を潜り、お金を払う。
大人は六文、子どもは四文。
この町の貨幣価値は、一文十円ほどと考えてよい。
そして、そのお金を番台に座って受けとったのは黒髪の女性︱︱
山田薫子である。
1283
さて、水魔法の使い手である薫子がこんなところで何をしている
のか。 商品
はあまり需要がない。
王都ドリスベンにおいては水売りを生業としていた薫子であった
が、この町において水という
何故なら、住民の多くは元貧困者。
水はワインよりも高く、水屋から水を買うという習慣がほとんど
なかった。
現在フジワラ郷で水屋を必要としているのは、警備隊の者が住ま
う区画や、飲食店や商会が並ぶ大通りのみ。
そのため、薫子は水屋の仕事からあぶれ、現在は役所から湯屋の
仕事を与えられていたのである。
﹁はぁー﹂
客が途切れると、薫子は長く息をついた。
別にため息というわけではない。
むしろその逆で、平穏を満喫するような吐息であったといえよう。
﹁番台は楽でいいわね。はい、これ。忘れ物﹂
同僚の女がやって来て、薫子に水を切った状態の手ぬぐいが差し
出された。
呟かれた言葉は嫌味ではなく軽口。
沸かし
担当だったんですから、当然の権利で
互いに冗談を言い合える仲という間柄で、薫子も笑顔で言葉を返
す。
﹁昨日までずっと
すよ﹂
沸かし、とは熱い湯をつくる仕事だ。
1284
湯船の隣の土間で、お湯を沸騰させ、それを投入口から注がねば
ならない。
水という重量物を上下させるのは、大変な肉体労働であり、他の
番台や雑用といった仕事と持ち回りになっている。
なお、せめて井戸の水を運ぶという作業を簡略化するために、湯
屋の仕事には水魔法の使い手が当てられていた。
﹁あら、それはごくろうさま。でも、あんまり怠けすぎたら駄目よ。
レイナ様が、最近お風呂に入るついでに見回ってるって言うわ。あ
の方に見つかったら、フジワラ様まで一直線。町から追い出されち
ゃっても知らないわよ﹂
女の言う通り、信秀はこれまでに何人かを町から追い出している。
その全てに確固たる理由があってのことであるが、庶民にその考
えが行き届いているわけもない。
人々は、ちょっとしたことであっても町を追い出されてしまうの
ではないかと恐々としていた。
﹁それじゃ、頑張ることはないだろうけど頑張ってね﹂
それだけ言って、女は仕事に戻っていった。
残された薫子は暇つぶしに、ちょうど名前が出てきた信秀につい
て考え始める。
﹁フジワラ様かあ。なんか凄すぎて、同郷って感じがしないなあ﹂
互いに元は日本人。
だというのに、どこでこんなに差がついたのか。
頑張って子どもたちの面倒を見てきたという自信はあった。
しかし現状、自身とは別次元ともいえる成果を信秀は上げている。
1285
この巨大な都市をつくったことしかり。
貧困街で暮らしていた者たちに住む家と食べ物と仕事を与え、そ
の生活水準は以前とは比べるべくもない。
清潔な町並み、豊かな食事、暖かな寝床。
文明は一段飛ばしくらいで跳ね上がり、ここに住む多くの者が信
秀に感謝していた。
﹁自信なくなっちゃうなあ﹂
薫子は呟いて、だらーんとカウンターにうつぶせになる。
ここに来てもう四カ月。
以前の気を張るような薫子の姿はもうどこにもない。
明日の心配をする必要もなく、自身が面倒を見ている子どもたち
も、皆笑顔に溢れている。
日々、生活に余裕ができると、心にもゆとりができて、薫子はち
ょっぴりずぼらになっていたのだ。
だが、平和には平和なりの事件というものが起きるものである。
﹁きゃあああああああ!!!!﹂
﹁覗きよ! 外に覗きがいるわ! 誰か捕まえて!!﹂
また出たか!
そう思った時、薫子は傍らの木の棒をもって駆けだしていた。
覗きが出たことは一度や二度の話ではない。
ここ最近、覗き事案が増えていた。
最初は明かり取り︵光を入れるための天窓︶から覗くという簡単
なもの。
1286
最近では、女装し女湯に紛れ込もうとしたり、壁に小さな穴をあ
けようとしたり、手が込んできている。
貧民街の頃よりも治安は断然よくなったというのに、なぜ男たち
は間違いを起こすのか。
原因は女性が皆美しくなったこと。
身を清め、化粧をし、誰もが見違えるようになった。
そんな美しい女性たちなればこそ、その裸身にも途轍もない価値
が生まれていたのである。
﹁待てーーーーっっ!!﹂
夜の住宅街。
月明かりの下を、薫子は覗き犯を追って元気に走っていた。
◆
慣れの先にあるものは何か。
俺は心の安定であると思う。
町の暮らしに人々は十分に慣れた。
仕事の効率も上がり、日常生活にも余暇が生まれ、人々は日々ス
トレスを感じることが少なくなっていく。
とてもいいことだ。
だが、それだけだろうか。
貧困街に住んでいた者が一万人以上もいるという事実。
はたして彼らは恵まれなかったがゆえに、貧困街に住んでいたの
だろうか。
必ずしもそうとは言えないだろう。
犯罪を行い、自ら貧困街に堕ちていった者もいるはずなのだ。
1287
要するに今の生活に慣れ、心に安定がもたらされた時、悪しき者
の本性が顔を覗かせ始める。
悪を心の一部としている者︱︱いわゆる根っからの悪党は、その
心をいつまでも隠し通すことはできない。
そのせいかして、我がフジワラ郷では目に見えて犯罪が増加して
いった。
まあこういったことは予想できていたこと。
そのために、相当な数であったドライアド兵士たちを全員警備隊
員にしているのだ。
罰も厳しいものが多く、じきに落ち着くであろうというのが、町
の有力者たちの見解である。
ところで、犯罪者が存在し、それを捕まえる者もいる。
では、犯罪者を裁くのは誰か。
言わずとも知れたことだ。
犯罪者を裁くのは、他の誰でもない。
︱︱俺である。
むしろ
広場に敷き詰められた白砂の上、筵に座る原告の男と被告の男。
開かれた座敷より広場を眺める位置に俺は座し、周囲には狼族の
者が警護に当たっている。
現状は、まるで桜吹雪の彫り物がよく似合う白洲のような光景と
でもいうべきか。
しかし、俺の背中にはそんなもの大層な彫り物はないし、そもそ
も秋の寒空の下で上半身を露わにすれば風邪をひいてしまうこと間
違いなしであろう。
1288
そこは人間居住区画に存在する奉行所。
その外観を簡単に説明するならば、四方を塀に囲まれた巨大な武
家屋敷といったところだ。
奉行所の役割は、フジワラ郷の各地に散らばる屯所を統括するこ
とであり、座敷牢を完備し、数多の警備隊員たちが駐屯している。
ただし、一週間のうち一日だけ、奉行所からほとんどの警備隊員
たちが姿を消す時がある。
それが、今日。
すなわち、俺が裁判官として奉行所に赴く時であった。
﹁王様、この者が金を返さないのです!﹂
立ち上がらんばかりに、俺へと訴える原告。
対する訴えられた被告は、平然とした、いや原告をまるで馬鹿に
するような口調で言う。
﹁ふん、状況は変わったのだ。以前の金のやり取りなど、この町で
は意味をなさない﹂
﹁そんな馬鹿な話があるか!﹂
﹁馬鹿なものか。いいか、お前の金は借りたんじゃない。元々返す
つもりがなかったのだ。
つまり、俺が行ったのは詐欺という犯罪。そして、これまでの犯
罪を不問にするというお達しは王様から出された。
何度も言うが、状況は既に変わっている。過去の犯罪は、許され
たのだから、俺がお前に金を返す必要はない﹂
要は、この町に来る以前の金の貸し借りの問題だ。
こんなもの考えるまでもない。
1289
﹁あー、もういい。事情はわかった。判決を下す。被告は原告に借
りた額を、この町の金で二倍支払え﹂
﹁は!? そんな、何故!﹂
俺の判決に、驚いたように目を剥いて異を唱える被告。
﹁そこの者は、お前という人間に金を貸した、これは誠意だ。なれ
ばこそ、今日まで待たしてしまったことに対する誠意をお前は見せ
ねばならない。人はそれを利子という﹂
﹁しかし、王様が以前の犯罪を不問にすると!﹂
﹁そんな世迷言が通じると思っているのか。詐欺を行ったことは確
かに不問にしてやろう。だからそのことに対する罪は償う必要はな
い。だが犯した罪と金銭のやり取りは別だ。
これが受け入れられないというのなら町を出ろ。それなら、原告
の腹の虫もおさまるだろう﹂
悔しそうに唇を噛む被告。
原告は顔を輝かせて、﹁王様、ありがとうございます! ありが
とうございます!﹂と頭を何度も下げている。
俺が﹁下がれ﹂と言うと、両名は警備員に付き添われて退場した。
﹁さあ、次は﹂
俺が問うと、進行役の警備隊長は言う。
﹁次は殺人の容疑者です﹂
1290
殺人。
俺はごくりと喉を鳴らした。
いつかは起きると思っていた。
しかし、起きてほしくはなかった。
﹁連れて来い﹂
﹁はっ﹂
連れてこられたのは腕を後ろ手でグルグル巻きにされた三名と、
泣き崩れる一人の女性。
一見するに、これは集団犯罪。
三人で一人を殺害。女性は殺害された被害者の親族といったとこ
ろか。
﹁えー、殺害されたのはエドワード、三十三歳男性。妻であるカエ
ラと共に飲食店を経営。そちらの女性が妻のカエラです﹂
なんと。
容疑者は三人。
そのうちの誰が犯人かがわからない、ということだったのか。
まるで探偵役にでもなったような気分だ。
現代の裁判所ではありえない、この町だからこその光景と言える
だろう。
﹁右の男はベンドリュフ。大工として、フジワラ郷の建物を模造し、
建築方法を研究しています﹂
1291
一人目の容疑者は、つるりと輝かしい頭をした男︱︱ベンドリュ
フ。
なるほど、大工というだけあってたくましい体をしている。
頭はともかくとして、その肉体は少しうらやましい。
﹁真ん中の男がピョッポ。農業に従事しています﹂
二人目は細身で、背も低い男︱︱ピョッポ。
視線は揺らぎ、時折びくりと頭を震わす様は明らかに挙動不審と
いっていいだろう。
﹁左の男がジョネス。今日までに幾つも仕事を変えており、現在は
ポーロ商会で下働きをしています﹂
最後の一人は、中肉中背で目つきが悪い男︱︱ジョネス。
仕事を変えているというのは別に悪いことではない。
今日まで、町に必要な職業の取捨選択が行われており、強制的に
仕事を変えてもらうことがあった。
おそらくジョネスは、そのあおりを受けたのだろう。
﹁この三人に被害者であるエドワードを加えた四人は、フジワラ郷
に来る以前からの知り合いで、五日前にエドワードの家で酒を飲ん
でいました。三人はエドワードの家に泊まり、翌朝に便所の前で発
見されたのが、包丁で胸を一突きにされていたエドワードの死体で
す。
なお、カエラについては、男性ばかりの家に己がいて間違いが起
こってはならぬと、その晩は知り合いの家に泊まっています。これ
については、件の家の者にも確認済みです﹂
﹁ふむ⋮⋮何か申し開きはあるか﹂
1292
ギロリと目に力を込めて、三人の容疑者を睨む。
﹁⋮⋮﹂
﹁ひいいい﹂
﹁ふ、ふざけんなよ、俺は関係ねえ! 冤罪だ、冤罪!﹂
ベンドリュフは黙念とし、ピョッポは怯え、ジョネスは不敬にも
この厳粛な場で冤罪だと騒ぎ立てている。
現実の世界ならジョネス、物語の世界ならピョッポが犯人といっ
たところだろう。
俺は簡単な質疑応答を行い、今日のところは以下の言葉を最後に
お開きとした。
﹁三人をひとまず牢に入れろ。見張りはつけなくていい。彼らは容
疑者であり、そのうち二人は無実の者だ﹂
それから一週間後。
再びやって来た裁判の日。
エドワード殺人事件の関係者が奉行所の広場に集められ、裁判が
開始された。
﹁お前が犯人だ、カエラ﹂
開口一番に俺は告げた。
俺が犯人だと断言した相手は、エドワードの妻であるカエラ。
まさかの宣告に、三人の容疑者は唖然とし、当のカエラは目を大
きく開いてから俺に詰問する。
1293
﹁な、何の証拠があって!?﹂
﹁我が心眼は万物の心を見抜き、我が耳は天地のあまねくを聞く﹂
なんていうのは当然嘘。
俺は容疑者たちの牢屋に盗聴器を仕掛けていた。
一人になり、やることがなくなれば、彼らは自ら罪を告白する。
誰かに告白するというわけではない。
つい呟いた独り言や寝言、そこに本心が詰まっているはずなのだ。
しかし、あの三人の中に、一人として怪しい者はなかった。
それどころか、三人が三人ともエドワードの死を悲しんでいたの
である。
これを怪しいと思った俺は、警備隊の者にカエラを見張らせてい
た。
それによって明らかになった、ある者との深夜の密会とその内容。
それこそが、事件の真実を決定づけるものだったのである。
﹁連れて来い﹂
俺の命令により、引っ立てられた優男。
悲しいことではあるが、拷問の痕がある。
犯人とわかっている以上、現代日本のように黙秘などという手段
は取らせない。
﹁ジョニー!﹂
カエラの悲鳴のような声。
1294
もはや、ただならぬ仲であることは明らかだ。
新たに現れた優男の名前はジョニーといい、ジョネスと同じく何
度も仕事を変えて、行きついたのが繁盛するエドワードの店の下働
き。
そこでジョニーとカエラは禁断の愛に溺れてしまった。
﹁カエラよ、そいつが全て白状したぞ。動機はエドワードが経営し
ていた飲食店の乗っ取り。それから、お前と一緒になること。
事件が起きた日、エドワードが昔の仲間と夜遅くまで飲むことを
知ると、お前は前々から考えていた計画を実行に移す時だと思った。
夜間エドワードが必ず便所に行くことをジョニーに伝え、そして
ジョニーは犯行に及んだのだ。
判決を言い渡す。カエラとジョニーを死刑とする。連れていけ﹂
俺の判決に、﹁何卒、ご慈悲を!﹂と命乞いをしながら連れてい
かれるカエラとジョニー。
同害報復を謳うつもりはない。
止むにやまれぬ事情や、不意の事故など、情状酌量の余地がある
ならばまた違っただろう。
罪を反省しているようなら、町を追い出すだけで済ませたかもし
れない。
だが二人には悪意しかなかった。
それだけのことだ。
﹁容疑者として連れてこられた者には慰労金を渡す。今日までの代
価だ。結構な財貨ではあるが、無駄遣いはするなよ。金があるから
といって働かないようなら、取り上げるからな﹂
ははぁーと頭をつける容疑者であった三名。
これにて一件落着である。
1295
とはいえ、他の裁判はまだまだ続くのであるが。
﹁次は覗きと暴行事件です。湯屋の女性が逃げる覗き犯を殴りつけ
て捕らえたのですが、覗き犯はやってないと言い張り、さらに暴行
されたことを許せないと訴え出ています﹂
なんというか、たくましい女性だな。
覗き犯を女の手でやっつけてしまうとは。
おそらくゴリラのような女性なのだろう。
いや、ミレーユやミラのような例もあるし、偏見はいけないか。
﹁ふむ、連れて来い﹂
連れてこられた二名。
途端、﹁あっ﹂という間の抜けたような声が、俺の口から漏れた。
そこにいたのは忘れもしない同郷の人間。
なんとゴリラ女とは山田さんのことだったのだ。
俺の顔を見ると、恥ずかしそうにぺこりと頭を下げる山田さん。
思いもよらない再会である。
まあだからどうしたというわけではない。
互いは王と町人という立場なのだ。
されど、覗き犯の裁判が終わったあとは、これを機会にと別室で
少し話をした。
町の生活のこと。
仕事のこと。
面倒を見ている子どもたちのこと。
それらのことを彼女の口から聞き、ありがとう、とお礼を言われ
た。
1296
どうやら彼女は、この町で元気にやれているようだ。
1297
102.建国より四カ月︵秋︶、その頃大陸では︵前書き︶
内政編の幕間みたいな話です
1298
102.建国より四カ月︵秋︶、その頃大陸では
秋も中ごろ、草木はどれも赤と黄に色づいて、虫たちはこれが最
期とばかりに、今日まで磨き上げた歌声を披露する。
そんなある日のこと、フジワラ郷に遠方からの珍客があった。
﹁エド国の王フジワラ殿。サンドラ王国の使者、ミレーユ・サン・
サンドラがここに謁見する﹂
場所は、異種族居住区の役所内にある畳張りの大広間。
一段上がった上座にて胡坐をかく俺に相対するのは、五メートル
ほど離れた位置にて胡坐をかいて挨拶をするサンドラ王国の姫君︱
︱ミレーユ。
町の有力者たちが左右に座して見守る中でのことである。
端から見れば、時代劇の大名にでもなったようなこの状況。
ミレーユとは知らぬ仲ではない。
されど公の使者であるということで、こういった儀礼の形を取っ
て迎えることとなった。
﹁その態度は、いささか問題があるのではないか﹂
左右に並んだ者の内から、警備隊長の一人がミレーユに叱責の言
葉を飛ばした。
胡坐は皆も同様であるため問題ない。
しかし、ここまでミレーユは大きく頭を下げることをしていない。
これは、王に対する態度としてはいささか問題ありと、当該の警
備隊長は判断したのだろう。
1299
なお、普段態度の悪いイーデンスタムに対して、彼が何かを言っ
たことはない。
﹁悪いがこちらも王の代理なんだ。他国の王にぬかずくわけにはい
かない﹂
すました顔で言うミレーユ。
警備隊長は、うっ⋮⋮と口ごもるしかなかった。
﹁それで、ここにやって来た目的は?﹂
﹁うむ、その前に聞きたいことがある。イニティアと連合の現在の
戦況について、そちらはどこまで把握している?﹂
俺が用件を尋ねると、逆に質問を返された。
内容は、イニティア王国軍と東方諸国連合軍との戦いにおける、
現在の状況について。
もちろん、ポーロ商会の情報網によって、ある程度のことは把握
している。
﹁つい先頃、ドライアドの北東の都市と砦の幾つかが連合の手に堕
ちたという話は聞いた﹂
﹁その通りだ。しかし、それだけか?﹂
他に何かあったかな、と考えるが、特に思い当たることはない。
ちらりとレイナの方に視線をやっても、知らないとばかりにレイ
ナは左右に首を振った。
﹁ふむ、あまり詳しくなさそうだから、順を追って説明しよう﹂
1300
ミレーユの話はこうだ。
固く城を守るイニティア王国軍に対して、東方諸国連合軍は周辺
の村々を占領し、さらに輸送路を断って、兵糧攻めを行っていた。
しかし、これはあまり功を奏していなかったという。
戦端が開かれる以前より、現在の状況を予想していたであろうイ
ニティア王国軍は、東の防衛戦を担う各城・各砦に豊富な食糧を運
び込んでいたからだ。
ある城では、イニティア王国軍が遠巻きに囲む連合軍に対して、
丸々と太った豚を陣中見舞いに贈ったというのだから面白い。
これに連合軍の兵士たちは﹁兵糧攻めなど意味があるのか。もし
かしたら自分たちよりもよっぽど恵まれた食事をしているのではな
いか﹂と口々に話して、その士気は駄々下がりであったそうな。
状況は、まさに千日手。
じきに冬も訪れる。
そうなれば、連合軍は寒さという自然の脅威に襲われることにな
る。
一度包囲を解き、また来春に戦いをすべきという意見が、連合軍
の将軍たちからもぽつりぽつりと上がるようになった。
だが、容易には変動しないと思われた膠着は、あっさりと打ち破
られることになる。
こくき
ドライアド北東に位置するイニティア王国占領下の城郭都市カー
デリアが、連合によって陥落したのである。
<i217751|18564>
たい
この大戦果を納めたのは、カスティール王国の精鋭部隊︱︱哭奇
隊。
1301
数カ月もの間、どれだけ犠牲を出そうとも地下に穴を掘り続け、
遂に城壁を崩し、城内を制圧したとのことだ。
﹁哭奇隊。犯罪者ばかりを集めた死を恐れぬ兵⋮⋮いや、少し語弊
があるな。背後にある確実な死を恐れるために、奴らは目の前の死
を恐れず必死に戦う。
率いるのは、首刈り将軍アカリ・タチザワ﹂
ミレーユの言葉に俺は、自然と自身の眉が動くのを感じた。
︱︱アカリ・タチザワ。どう考えても日本人だ。
だが、心に大きな動揺はない。
これは、今まで敵味方に限らず、多くの同郷の者と関わってきた
からに他ならない。
﹁知り合いか? 名前の語感が似ているとは思っていたが﹂
俺のわずかな反応を見逃さなかったミレーユ。
流石というべきか、なかなかに目ざとい。
﹁厳密にいえば、知らない。そのタチザワについて何か情報はある
のか?﹂
﹁出身などは不明。将軍としては、ここ数年で突然頭角を現してき
たようだ。歳も二十代とまだ若い。
連合の将軍たちが軍を集めて一堂に会したことがあり、その時に
奴を見た。
あれは強い。戦わずともわかる。
瞳は深淵を覗くような、ぞっとするものがあったな。相当な修羅
は
場をくぐって来たのだろう。
剣を佩いていたが、体中に暗器を仕込んでいるようだった。だか
1302
ら奴の前には絶対に立つなよ。徒手空拳であっても何が飛び出して
くるかわからないぞ﹂
タチザワが得た力は︻剣の才能︼か、︻暗器の才能︼か、はたま
たその両方の才能を有する︻武器全般の才能︼か。
もし関わることがあれば、ミレーユの言う通り注意が必要だろう。
というより、これから先、同郷の者に出会ったなら、それらは皆
敵であると考えた方がいいかもしれない。
俺たちは皆、神様から特別な力を授かった。
その力ゆえに、どこぞの勢力に所属していると考えるのが自然。
俺自身も大きな勢力の中心になっており、敵対勢力には事欠かな
い状況だ。
なればこそ今現在、不明である同郷の者を敵であるかもしれない
と考えるのは、当然の帰結であろう。
﹁さっき言っていた首刈り将軍というのは?﹂
﹁ああ、敵を前にして退く味方の首を、雑草を刈るがごとく眉一つ
しつけ
のおかげで哭奇隊の元凶悪犯罪者たちは、奴の前
動かさずに刎ねることから名付けられたものだ。
その
では従順な番犬に成り下がる﹂
なんだろう。
そのアカリ・タチザワという人間は、本当に現代日本の生まれな
のだろうか。
話を聞く限り、どう考えても生まれる時代と世界を間違えている。
﹁哭奇隊というのはわかった。それで、戦況の続きは?﹂
1303
﹁イニティアは奪われた都市を取り戻そうとはしていない。それど
ころか完全に放棄する構えを見せている﹂
ミレーユは以下のように言葉を続ける。
イニティア王国は、カーデリアの周辺の砦から兵を撤退させ、防
衛線を大きく後退させた。
さらに北方の守りにドライアド領主の軍を集結させるが、大砲の
設置は行っていない。
その代わり、西から南にかけてはイニティア王国の正規兵のみで
万全の防備を敷いたとのこと。
<i217752|18564>
﹁︱︱わかるか。イニティアは連合に対し、北への道をつくった。
その道の先はこのエド国だ﹂
ミレーユの突然調子の変わった迫真の声、そしてその内容に、場
はざわりと波打った。
イニティア王国の狙い︱︱いや、レアニスの狙いともいうべきか。
それは、帰順して間もないドライアド領主たちの兵と東方諸国連
合の軍を戦わせて、双方の力を削ぐこと。
これまさに一石二鳥の策略。
レアニスにとって旧ドライアド王国の領主など、不穏分子でしか
ないのだろう。
さらに、ドライアド領主たちの後方にあるのは我がエド国。
レアニスは、俺がどの国にも加担しないことを見抜いている。
つまり、最初からこのエド国に東方諸国連合軍をけしかける算段
なのだ。
1304
表向きは実に正当。されどその裏には、したたかでいやらしい手
が隠されている。
全く、レアニスもよく考えるものだ。
﹁連合がここまで軍を進めれば、エド国に対して必ず協力を要請す
る。それもかなり高圧的にな。断れば、エド国と東方諸国連合国は
戦争に発展する可能性は大いにある。それこそがイニティアの狙い
だ。
サンドラ王国としては、フジワラ王がどういう決断を取ってもら
っても構わない。
ただし、我々サンドラ王国は、連合国の中にあっても決してフジ
ワラ王に敵対するものではないということを伝えに来たのだ。
幸いにして、我が国は後方支援に当たっており、前線に出ること
はなく、互いに矛を交えることもない。
その証拠といってはなんだが、ここにエド国樹立を承認するサン
ドラ王の親書を持ってきている。生憎と早馬を飛ばして来たため、
祝いの品は持ってきていないがな﹂
俺の横に立つミラに言って、その親書とやらを受け取ってきても
らう。
封を開けて一読すれば、そこにはサンドラ王によるエド国樹立の
承認と祝辞が述べられていた。
﹁確かに。サンドラ王の意思はわかった。他には何かあるか?﹂
﹁いや、用件はこれだけだ﹂
﹁そうか。ならば宿に案内しよう。疲れているだろう、ゆっくり体
を休めるといい。ミラ、案内を頼む﹂
1305
眉間に小さな皺をつくりながらも、﹁わかりました﹂と返事をす
るミラ。
本当はそんなに嫌ってないくせに、という心の声を俺が出すこと
はない。
ミレーユは退室し、それに付き添うようにミラも部屋からいなく
なった。
さて、なかなか貴重な情報を得ることができた。
今後の大陸の趨勢を占ううえで、非常に役に立つことだろう。
さし当たっての問題は東方諸国連合軍。
来るなら来い、という思いはあるが、戦いを避けられるならばそ
れに越したことはない。
﹁よし、今手に入れた情報をもとに早速会議に移る﹂
最善手はなんであるか。
それを考えなければならない。
1306
103.建国から四カ月∼五カ月︵秋︶、お祭り
初雪も降り終え、とうとう冬が間近に迫ったエド国フジワラ郷。
厳しい季節を初めての土地で迎えるというのに、移住してきた者
たちの心に不安がなかったのは、これまでに信秀から受けた数々の
厚遇のおかげであるという他ない。
雨漏りすらしない家屋に、暖かい衣服に寝具。燃料となる薪は、
国から無料で貰える。
彼らが過去を振り返れば、この町における冬への準備はかつてな
いほど万全。
加えて、﹃もし何か大事があろうとも、フジワラ王ならばなんと
かしてくれるだろう﹄という信秀への信頼が皆の心には芽生えてい
た。
︱︱そんな折のことである。
﹁祭りを執り行う。目的は、冬に備え英気を養い、また今日までの
恵みを大地に感謝するためである﹂
信秀から突然の告示。
各区長からこのことを伝えられた人々は、祭りという言葉に喜び
勇んだ。
祭りといえば、美味い飯にありつける。
村出身の者は収穫祭で振る舞われた料理を覚えているし、根っか
らの貧民街出身の者であっても、ドリスベンで行われた数々の祭事
でおこぼれに与り、金を払わずに腹を満たしたことを思い出した。
ましてや、ここはフジワラ郷。
いまだ食べつくしていないこの町の料理に舌なめずりをしつつ、
人々は今か今かと居ても立っても居られない気持ちで祭りの日を待
1307
ちわびたのである。
それから数日後、遂にやって来た祭りの日。
仕事は皆休みで、働いているのは、飲食店の人間と警備隊に所属
する者などのごく一部のみ。
それ以外の者は、家族や友人たちと大通りに大挙していた。
手一杯の串料理持って食べ歩く者がいれば、既に出来上がってい
るのか、徳利を片手にぶら下げた頬の赤い者もいる。
信秀の計らいで、料理は全て無料だ。
しかし酒だけが有料なのは、寒空の下で誰かしらが酔いつぶれて、
死人が出ることを恐れたからである。
ポーロ商会が運営する出店では、ダーツに射的、投げ輪などなど、
目新しいゲームが並び、景品には各地の酒や、家畜、オリーブオリ
ーブのサイン入り短編小説、香水やローマット印のリバーシセット
などなど様々なものが用意されている。
また、大通りを離れた各集会所ではリバーシ大会が開かれ、腕に
覚えのある打ち手たちが、食べ物を持ち込み、互いの実力を競いあ
っていた。
その日のフジワラ郷は、他所からやって来ている商人が驚くくら
いには、賑わっていたといってよい。
だが、祭りというにはまだ何も始まっていない。
本番はここからであった。
﹁わっしょい! わっしょい!﹂
なんだ? と道行く人々は思ったであろう。
北の方角から聞こえてくる異様な掛け声。
もちろん人々は、北の方へと視線を向けた。
1308
するとそこにあったのは、人混みより高い位置で上下している複
雑奇怪な物だ。
それはまるで、このフジワラ郷の家屋を小さくしたような姿かた
ちをしていたが、その装飾は眩いばかりに豪奢。
さらに、遠目で見てもわかるほどに造りは繊細で、芸術品の類い
であることが素人目であっても窺い知れた。
いったい、あれは何かと人々は囁き合う。
その正体は遠き日本で神輿と呼ばれていたものであるが、この世
界の人間がそれを知る由はない。
神輿は人混みを裂くように、大通りをゆっくりと南下する。
やがて、人混みの中に大きな道ができ、その全容が衆目に晒され
ることになる。
この時、あっと驚かない者はいなかったであろう。
何故なら神輿を担いでいたのは、ド派手な衣装に着飾った巨躯の
獣人たちであったからだ。
﹁わっしょい! わっしょい!﹂
牛族や豚族、蜥蜴族に狼族の者が声を合わせて叫び、暴れるよう
に神輿を揺らす。
人々はその異様な熱気と迫力に圧倒されながらも、神輿の行く先
を追った。
神輿を担いでいるのが獣人である、といったことは、この興奮の
中にあってはささやかなことでしかない。
神輿が大通りの中央まで行くと、そこに待ち受けていたのは獣人
たち同様にド派手な格好をした人間。
獣人たちには劣るものの、大きな体躯をもった力自慢の者たちで
あった。
1309
﹁獣人たちに負けるなよぉ!﹂
︱︱おおおおおおおおおおお!!
獣人たちに負けじと、人間の担ぎ手たちはいっそうの声を張り上
げる。
彼らは祭りが決まった日より、内密に集められていた。
今日という晴れ舞台を誰よりも待ち望み、気合は十分。
神輿は獣人から人間たちに引き継がれると、大通りを南に進み、
そののちは住宅街へと向かった。
﹁それ、わっしょい!﹂
﹁わっしょい! わっしょい!﹂
住宅街を縦横無尽に練り歩く神輿を担いだ一行。
多くの者が掛け声につられて、﹁わっしょい!﹂と謎の言葉を叫
びながら、神輿の後ろを付いていく。
神輿はやがて異種族居住区画の入り口に到着し、そこで再び獣人
の手に渡り、門の向こうへと消えていった。
初めて見た神輿渡御に、凄かったなと人々は口をそろえて言う。
だがこれで終わりではない。
続いての演目は、ジハルの部族より選ばれた三十人からなる隊列
行進。
丈の長い鼠色のキャンパスコートに半長靴。銃を抱え、頭に鉄帽
を被ったその狼族たちの姿は、冬の欧州国家の軍隊さながらである。
しかし人々の目を最初にまず引いたのは、その列の先頭。
そこには、カトリーヌに乗った信秀の姿があった。
1310
﹁な、なんだあれは!?﹂
﹁聖獣か!?﹂
らくだを知らない人々の目に、カトリーヌははたしてどのように
映るのか。
馬よりも大きいその立派な体は、聖獣と間違えられるのも無理な
いことであろう。
ここは己の道だと言わんばかりに堂々と闊歩するカトリーヌの姿
は、人々を畏怖させるのに十分すぎるものであった。
後ろに続く狼族たちも負けてはいない。
日ごろの基本教練の成果か、狼族たちは一糸乱れぬ動きで行進し、
その練度の高さを町の者たちに見せつけた。
さらに大通りの中央では、流れる動作で上空に空砲射撃をやって
みせ、その威容を示す。
なお、これに刺激を受けた警備隊の者たちが、来年の祭りには是
非とも自身らにも隊列行進をさせてくれと信秀に希望することにな
るのだが、今は特に関係のない話であるため割愛する。
人々の興奮冷めやらぬ中、やがて陽は陰り、夜の帳が落ちた。
されど町はまだ眠らない。
そこかしこで飾られていた提灯を一度下し、中に蝋燭を入れて火
が灯される。
ぼんやりとした光も、無数にあるとなれば、なお明るい。
一度家に帰った者たちも、再び外に出てきている。
夜の演目は既に始まっていたのだ。
ひゅうーんという気の抜けたような音と共に、尾を引いた丸いも
のが北の空へと昇る。
1311
続いて、ドンッという破裂したような音が鳴って、真っ暗な空に
大きな花が咲き誇った。
それは、黒の背景によく映える煌めくような大輪︱︱花火。
花火は次々と打ちあがり、その時ばかりはざわめきも止んで、人
々は空を見上げていた。
父のいない母娘は、家の前で二人手を繋ぎながら。
人気のない場所では、恋人同士が、将来を誓うように寄り添いな
がら。
長い白髭の老人とお面を被った謎の女性は、大通りで祖父と孫が
並んでいるように。
黒い髪の女性と何十人もの子どもたちは、大きな家の庭から。
フジワラ郷に住む者たちの誰もが、初めて見る花火に見惚れ、酔
いしれた。
空を支配していると表現しても過言ではない規模の大きさと、言
葉にできぬ圧倒的美しさ。
そんな花火を眺める今この瞬間は、自分たちの人生の中でも特別
なものであると感じていたのだ。
時が止まったかのように、人々は静止している。
フジワラ郷にはただ花火の音だけが響いていた。
︱︱そして特別区画の城郭の上。
そこから花火を望むのは、信秀とカトリーヌである。
﹁きれいだな、カトリーヌ﹂
1312
信秀が声をかけると、カトリーヌはグエッと言葉を返す。
しばらくは何も考えずに花火を眺め、それから信秀は今日の祭り
について思い返した。
祭りを行った理由。
冬に備え英気を養い、また今日までの恵みを大地に感謝するため
という題目ではあったが、それは少し違う。
本当の目的は文化を育てること。
住民たちがこの町を故郷とし、誇りに思えるよう、独自の風習を
根付かせる。
他の土地とは差別化を図り、この地に住む人々を﹃エド国の民﹄
という単一的な枠の中に放り込むのだ。
さすれば、この地に住む者たちは自ずと国のために行動すること
であろう。
また、人間と獣人との交わらせるという側面もあった。
獣人から人間へ、人間から獣人へと手渡された神輿。
わっしょい、という言葉には、和を背負うと意味があるという。
今後、獣人と人間の融和を目指すにあって、これ以上ふさわしい
言葉はない。
さらに隊列行進では、獣人が侮られないように軍としての威容も
示せたことだろう。
︵あとは、冬を迎えるだけ。そして冬に何をすべきか、だ︶
今日まで与えるだけ与えた信秀である。
次は育てる番だ、と考えていた。
現在、エド国は信秀という人間に頼りきっている。
ゆえに信秀に何かあれば、国はすぐに崩壊する。
目指すところは、信秀の能力に極力頼らない自給自足。
それぞれがそれぞれの役割を担い、そのための技術や知識を習得
1313
しなければならない。
﹁そのためにも、次にやるべきことは識字率の向上かな﹂
知識の保存、知識の授受、知識の収集に文字の存在は必要不可欠
だ。
殊更、伝えるということにおいて、文字に勝る者はない。
国民が文字を覚えたなら、国としての意識の統一も容易になる。
冬になれば人々の生活は制限されるため、勉強に励むにはちょう
どいいだろう、と信秀は思った。
◆
噂が噂を呼ぶ。
商人たちがエド国から持ち帰った情報は、あっという間に大陸中
に広がっていった。
それは、旧王都ドリスベンの貧民街も例外ではない。
﹁おい、聞いたかエド国の話﹂
﹁ああ、いい家に住んで、美味い飯を食えて、下手な貴族よりもよ
っぽどいい生活をしているらしい﹂
みすぼらしい格好をした二人の会話。
彼らは、イニティア王国軍の侵攻に際して、ポーロ商会の避難の
呼びかけに応じなかった者たちだ。
あれから王都を占領したイニティア王国軍は、決して横暴なふる
まいをすることはなかった。それどころか貧民街の者たちには、施
しまでした。
貧民街に留まった者たちは、それ見たことかと北へ逃げていった
者たちを嘲笑った。
1314
己が正しかったのだと勝ち誇った。
だがそれは間違いだったと気づくことになる。
イニティア王国からの施しはすぐに終わり、代わりに聞こえてく
るのがエド国の繁栄。
移住した者たちは、この大陸で誰よりも満たされた生活をする平
民であるという。
﹁くそ。そうと知ってりゃあ、俺もあの時⋮⋮ッ!﹂
悔しそうにする貧民街の者たち。
あの日あの時、己も北へ向かっていたら。
そんな思いが後悔となって、胸を締め付ける。
されど、覆水が盆に返ることがないように、時間は決して戻らな
い。
日々の空腹に併せて、妬みや渇望といった感情がより激しさを増
していく。
もしかすれば手に入れられるはずだった幸せな生活を、彼らは夢
にまで見るようになる。
後悔は虫を誘う甘い蜜のごとく、貧民街の者たちのエド国への関
心を強くしていた。
付け加えるならば、これらの光景は、ドリスベンの貧民街に限っ
たことではない。
大小の違いはあれ、エド国について話を聞いた者たちは、皆羨ん
だ。
大陸に暮らす大部分の者が、恵まれているとはいい難い生活を送
っている。
加えて戦争も始まり、働き手がいなくなって、より貧しくなるの
は目に見えていた。
1315
そのため、エド国の噂を聞くたびに、そこがこの世の天国のよう
に思えてならなかったのだ。
﹁なあ、冬が明けたら北へ行ってみねえか﹂
どこかで誰かが呟いた。
すぐに冬がやって来るため、今から北へ向かうことはできない。
旅というもの自体が危険であるが、そのなかでも冬の旅の恐ろし
さは群を抜いている。
寒さという自然の脅威が襲ってくるからである。
そのため、もし北を目指す者がいるならば、それは春以降。
春になったら、どれだけの人がエド国にやって来るのか。
ポーロ商会の者が、エド国はもう住人の募集をしていないという
噂を流しているが、それがどれほどの効果を上げるかは来春になら
なければわからないことであろう。
1316
103.建国から四カ月∼五カ月︵秋︶、お祭り︵後書き︶
わっしょい
1317
104.建国から五カ月∼七カ月︵冬︶、人間居住区画の寺子屋
大陸に冬が到来し、酷烈な寒さがエドの国を襲った。
フジワラ郷では雪がしんしんと降り、辺りは一面真っ白。
家の外に人影は少なく、鶏の鳴き声すらもない。
人も鶏も皆、家の中に籠っているようである。
唯一の救いは、積雪量が少ないことであろう。
これはエドの国のみならず大陸全土にいえることであるが、日本
の寒冷地ほど厳しい積雪は、高山地帯でもなければ存在しない。
信秀が合掌造の家から瓦屋根の土蔵造に変えたことについても、
エド国の積雪がそれほどでもなかったことが理由の一つに挙げられ
る。
そんな冬の日のことだ。
異種族居住区画の役所にて、レイナから町の報告を受けていた信
秀。
しかし報告も半ばのところで、自身、今最も気になっていたこと
を切り出した。
﹁どうだろう、寺子屋の様子は﹂
寺子屋とは、人間居住区域で近頃開校した教育施設。
読み書きを教える場所で、読んで字のごとく、日本人なら誰でも
知っているであろう江戸時代の手習い塾がモチーフとなっている。
ただし一つ違うところがある。
フジワラ郷の寺子屋で学ぶのは、子どもだけではなく町の住民た
ち全員であることだ。
1318
﹁教師役の人間がまるで足りません。教えられる側は自宅学習が常
となりますが、その自宅学習で何をするかも、まだ教えることがで
きていません﹂
﹁まあ、そうだろうね。冬が終わったら、他国から教師役の人間を
募集するか﹂
﹁教師役というと、教会の人間が主となりますね。あちらからすれ
ば願ったりかなったりでしょうが﹂
﹁本末転倒だなあ﹂
信秀は、溜息をつくように言葉を吐き出した。
大陸において、学問を主に扱っているラシア教会。
上は学者たちの研究発表会から、下は寺子屋のような読み書きの
指南所に至るまで、学問の全てを教会が牛耳っていると言っていい。
彼らは、学問を独占することが大陸の支配につながることをよく
知っている。
大陸の価値観を変えるような研究成果は決して認めず、文字を教
わる将来有望な子どもたちにはラシア教の素晴らしさを刷り込んで
いく。
そんな教会の人間が文字を教えるとなれば、当然、教会の教えに
沿った勉強方法になる。
たとえば﹁ラシア教は最高だ﹂﹁教皇猊下は何よりも素晴らしい﹂
なんていう文章を延々と書かせて、文字を教えようとするかもしれ
ない。
獣人たちという存在がある以上、ラシア教の教えは人の心から可
1319
能な限り排除すべきものだと信秀は考えていた。
エド国の民は第一に、この国独自の法律と道徳を重んじなければ
ならず、そのためにも勉学と宗教は隔絶したものとする必要があっ
たのである。
﹁教会はなしの方向で﹂
﹁ではまず、ごく一部の人間に集中的に教え込み、その者たちを教
師役にするという方針がいいのでは? 当然これについても、この
冬の間に文字を浸透させるというのは難しくなるとは思いますが﹂
レイナの提案に、信秀はううんと唸った。
来年度からは、他国の工作が激しくなる。
だからこそ、文字による意識の統制をできるだけ早めに始めたか
った。
﹁新聞はまだまだ先の話になりそうだなぁ﹂
﹁⋮⋮新聞、ですか?﹂
﹁ああ。紙にね、大陸の情勢や、身近な出来事などを印刷して、町
の人たちに見てもらうんだ。風聞に頼らない情報獲得手段になるし、
娯楽の一種にもなる。人々は知識を得て、何が正しいかを選択する
ことができるようになる。
大陸の情勢は悪化の一途をたどっている。
新聞を月に何度か発行すれば、その都度ここがいかに恵まれてい
るかを知ることができるだろう。
言い方は悪いが、エド国の民であるという自尊心を育むことがで
きると思うんだ﹂
1320
信秀が語った展望。
それは新聞の発行だ。
かつての世界でも新聞の力は絶大だった。
じょう
どくせん
インターネットが普及するまで、情報メディア界隈は新聞の独擅
場であったと言っていい。
ペンは剣よりも強しの言葉の通り、たった一つの記事が、何千万
という人間を動かすこともあった。
﹁そういうことならば、この冬だけでも他の商会から人を貸しても
らいましょうか。それからエルザ会長にも手紙を出して、こちらは
来春からとなりますが、人手を工面してもらうことにしましょう﹂
レイナの青い瞳がキラリと光ったのを信秀は見逃さない。
金の匂いを嗅ぎつけたということなのだろう。
彼女は貴族であると同時に、ポーロ商会支部長でもあるのだ。
﹁では、それで頼もうかな﹂
貴族としてのレイナも頼もしいが、商人としてのレイナもまた頼
もしい。
これならば大丈夫だろうと信秀は思い、話は終わった。
こうしてフジワラ郷では、各商会からの一時的な人員の引き抜き
が始まったのである。
商人たちにとって冬の寒さなど足を止める理由にはならない。
彼らは商隊を組み、雪の中をひたすら北へと進んで、フジワラ郷
へとやって来ていた。
1321
全ては金のため。
金の匂いのするところ、たとえ火の中水の中であろうとも向かっ
てやろうというのが、商人たちの矜持である。
﹁はっはっはっ。いやあ、ありがたいありがたい。やはり、こちら
が買うばかりでは、交易とは言えませんからな﹂
﹁そうですか、それはなによりです﹂
ポーロ商会がフジワラ郷に有している大きな屋敷。
その応接室で、恰幅のいいドライアド商人がポーロ商会の担当者
に対し声を弾ませていた。
ドライアド商人の機嫌のよさの理由は、たった今、フジワラ郷に
運んだ多量の酒類の売買が成立したゆえのこと。
何物も必要としないと思われたフジワラ郷であったが、冬に入る
前より、エド王である信秀から多量の酒を求めているという告知が
なされ、それを知ったこのドライアド商人は直ちに葡萄酒を集めて
フジワラ郷にやって来たのだ。
世の商人たちは知らぬことであったが、この突然の酒の需要は、
信秀が﹃このまま金貨や銀貨がこの世から消えていけば、大陸に多
きん
大な影響を及ぼすだろう﹄と考えたために取られた行動である。
一説によれば、地球で発掘された金の量は五十メートルプール三
きん
杯分しかないといわれており、この世界も同様であったのなら、こ
の世界の金は信秀の︻売却︼によってすぐに足りなくなってしまう。
これは由々しき事態であった。
まあ大陸の歴史には、錬金王などと呼ばれ、黄金を自在に出すこ
とができたという者までいるのだから、実際の金の量ははるかに多
いかもしれないが。
1322
それにしたって、やはり貨幣の消失は混乱を生む。
大陸内で循環しない以上、貨幣の一極集中と同義であり、いずれ
はエド国以外の国で大きなデフレーションが起こるであろう。
ゆえに酒であった。
酒の原料は大地によってどれだけでも生み出すことができ、手間
がかかるため値も張る。
また、毎年凄まじい規模で生産が行われており、それらが少々エ
ド国に来たところでもともと消耗品であるのだから、貨幣ほどの混
乱は起こらない。
つまり信秀が能力によって︻売却︼するのに、これ以上の物はな
かったのである。
以上のことにより、信秀の思惑など露知らず、商人たちはフジワ
ラ郷に酒を運んだ。
なお、フジワラ郷の人口受容量を明らかに超えている酒の数に、
一体それらはどこに消えるのかと商人たちが疑問に思ったのは必然
であるが、自分たちが得る利益の前には些細なことでしかない。
彼らはホクホク顔で酒を売却すると、得た資金でさらなる富を得
るために、フジワラ郷の特産品を求めたのであった。
しかし︱︱。
﹁ちょ、ちょっと待ってくれ。売らないとはどういうことだ﹂
﹁言葉の通りです。この町に多くの商会の方が詰めかけているのは
お判りでしょう? 商品の生産の方が追いつかないんですよ﹂
恰幅のいい商人と、ポーロ商会の担当官との会話の続きである。
商人の方は、てっきりフジワラ郷の特産品を購入できると考えて
いた。
1323
しかし、担当官からの返事は
否
全く当てが外れてしまったのだ。
。
﹁ふざけるな! こっちは雪の中をわざわざワインを売りに来たん
だぞ! だったら、そっちも俺たちに物を売ってしかるべきじゃな
いか!﹂
﹁こちらから売りに来てくれと打診したのであれば不義理となりま
すが、そちらが勝手に売りに来ただけのことでしょう。文句がある
のであれば、ワインを返しますよ。もちろん、こちらが支払ったお
金も返してもらいますが﹂
﹁だ、誰も取り引きをなしにしろとは言っていない﹂
あっさりと契約を反故にしようとした担当官に、商人はうろたえ
た。
そもそも、ここは相手の土俵。
さらにポーロ商会といえば、新興でありながらも既に大陸でも有
数の大商会。
それがどれほど凄いのかといえば、行き遅れの商会長エルザ・ポ
ーロを誰が嫁に貰うのかと商人たちの間で大きな話題になるほどだ。
ポーロ商会の背後にはサンドラ王国の影も噂されており、ドライ
アドの木っ端商人程度が強気に出ても決して太刀打ちできる相手で
はない。
﹁ううむ⋮⋮しかし、このまま何も仕入れずに町を去るというのも
⋮⋮﹂
あきらめ悪くも、食い下がりを見せるドライアド商人。
1324
﹁ではこういうのはどうでしょう。私どもが今求めているものがあ
るのですよ。それをあなた方が提供できると言うのであれば、こち
らもなんとか商品を用意しましょう﹂
﹁な、なんだそれは⋮⋮﹂
担当官の勿体付けた言い方に、ドライアド商人は己が手に汗が滲
むのを感じた。
いったい何を要求されるのか。
過去には、似たような状況︵ポーロ商会相手ではない︶で非合法
ともいえる物を何度か要求されたことがあり、命を危険に曝したこ
ともあった。
自然、ごくりと喉が鳴る。
だがそれは杞憂でしかない。
担当者は至極あっさりと言う。
﹁人ですよ。教養のある、ね。フジワラ様は民に教育を施そうとお
考えです。
まずは手始めに、読み書きを覚えさせるということで、教師役に
識字能力を有する者を求めています﹂
担当者の話を聞いて、なんだそんなことかとドライアド商人は内
心で息を吐いた。
またそれと同時に、フジワラ郷の方針になんの意味があるのか、
とも思った。
支配者からすれば、民など頭が悪い方が扱いやすい。
下手に知恵をつけさせれば、数多の弊害を生む。
しかし、そんなことは己が考えることではない。
ドライアド商人が今考えるべきことは、奉公人にどれだけの値段
がつくか、だ。
1325
﹁し、しかし、そんな人を売り買いするような真似⋮⋮くうぅ⋮⋮﹂
ドライアド商人は眉を寄せ、声を震わせ、唇を噛んで見せた。
既に彼の中で、奉公人を売っぱらうという考えは決まっている。
あとは少しでも利益を得るために、目いっぱいもったいつけよう
という算段であった。
︱︱このように、商会の人間は期限付きで引き抜かれていった。
商会に勤める者、文字と計算は必須の技能である。
奉公人であっても、それくらいのことは簡単にこなせるのだ。
引き抜かれた者たちは、教師役として町の人間たちに文字を教え
ていく。
生徒たちからは、尊敬を込めて先生と呼ばれ、また商会で働いて
いた頃よりもはるかに給与を貰っていた。
なお、あまりにも好待遇だったため、派遣期間が切れた際には﹁
もう戻りたくない!﹂﹁このまま教師として働かせてくれ!﹂と、
涙ながらに懇願する者が続出し、信秀とレイナを悩ませることにな
る。
1326
104.建国から五カ月∼七カ月︵冬︶、人間居住区画の寺子屋
︵後書き︶
次回は獣人居住区画の話で、明日か明後日に更新します。
本当は今日のに繋げるつもりだったのですが、時間がなくて無理で
した。
積雪の世界記録は日本の滋賀県らしいです。凄いですね。
1327
105.建国から五カ月∼七カ月︵冬︶、異種族居住区画の学校
場所は異種族居住区画にある大きな屋敷の一室。
畳敷きの床に座卓が並び、石油ストーブのおかげで部屋の中は程
よく暖かい。
チクタクチクタクという、柱時計の時間を刻む音だけが聞こえ、
そこに人の気配はないように思われる。
いや、いた。
座卓にだらしなく体を預けている女性が一人。
艶やかなブラウンの髪を垂らし、手を枕にして顔を横に向けてい
る若い人間の女性︱︱彼女こそ、亡国の女王オリヴィア・フォーシ
ュバリ・ドライアドその人である。
﹁はぁ﹂
小さくぷっくりとした唇から漏れ出るため息。
今、オリヴィアの心は憂鬱であった。
その理由は? といえば、彼女が今いる場所に関係する。
そこは異種族居住区に存在する、子どもたち専用の学校の職員室。
彼女は、今日から日本語の特別講師として、獣人たちに言葉を教
えなければならなかったのだ。
﹁はぁー、気がめいるなあ﹂
再び大きなため息を吐き、ぼやくオリヴィア。
それもそのはず、てっきり大好きな執筆活動だけをやって暮らし
1328
ていけるものだと思っていた。
しかし、その期待は見事に外れてしまい、今はここにいる。
そもそも何故、彼女が教師をしなければならないのか。
オリヴィアは少し前に信秀と、ある約束を交わしている。その内
容は、自身が書いた本が売れなければ、新たな職に就いてもらうと
いったもの。
幸いにして、結果は売り切れ御免の大繁盛。
それはもうとんでもなく本は売れ、これで大好きな執筆活動だけ
をして悠々自適とした暮らしをしていけるとオリヴィアも思ってい
た。
その矢先、信秀から、﹁申し訳ないが⋮⋮﹂と声をかけられたの
である。
﹁獣人たちに日本語を教える。
人間に慣れさせるという意味でもあなたには、教師役を是非お願
いしたい﹂
そんな信秀からの要請。
オリヴィアは己の立場をよく理解している。
信秀の要請を断れるはずもなかった。
ちなみに、どうして獣人たちに日本語を学ばせるのか、という質
問はしていない。
近頃導入された暖房器具や時計などからおおよそ察することもで
きていたが、それについてすらも深くは考えないようにしていた。
全ては保身のため。
知りたがりの捕囚者は嫌われるであろう、と自身を案じての行動
であった。
1329
﹁あーあ、ニートまっしぐらだと思ったんだけどなあ﹂
自身が思い描いていた夢のような生活への未練はいまだタラタラ
だ。
すると、外がざわざわとやかましくなった。
授業が終わり、休憩時間に入ったのである。
職員室の襖が開く音がして、オリヴィアは物凄い勢いで跳ね起き、
まるで先ほどまでの姿が嘘のように姿勢を正す。
忍者もかくやという変わり身で、要した時間は一秒もかかってお
らず、襖も開ききってはいない。
職員室に入って来たのは、教師役であるジハル族長の部族の者た
ちであったが、よもやオリヴィアが実はだらしない人間であるなど
思いにもよらないことであろう。
﹁オリヴィアさん、次の一組の授業、よろしくお願いしますね﹂
ジハル族長の息子であり当学校の校長でもあるゾアンが、オリヴ
ィアに話しかけた。
﹁はい、わかりましたわ﹂
内心の憂いなどおくびにも出さず、オリヴィアは百合が咲いたよ
うに微笑んで見せる。
その美しい笑みは種族の違うゾアンであっても、ほう、と見とれ
てしまうほどだ。
そのまましばらくすると、柱時計の針が休憩時間の終了を知らせ、
他の教師たちは立ち上がり、自分が担当する教室へ向かう。
オリヴィアもまた優雅かつ、流れるような所作で立ち上がった。
1330
﹁やはり私が一緒に行きましょうか﹂
﹁お気遣いいただきありがとうございます。ですが、必要ありませ
んわ。生徒たちとは正面からぶつかりたいので﹂
ゾアンの提案は断った。
たとえ獣人の子どもたちが人間を憎んでいたとしても、所詮は子
ども。
しり込みする理由にはならないのだ。
オリヴィア・フォーシュバリ・ドライアド︱︱こう見えて、やる
時はやる女である。
﹁では、行ってまいります﹂
ゾアンに挨拶をして、職員室を出たオリヴィア。
少し歩けば﹃一組﹄と書かれた襖の前に到着する。
オリヴィアは、なんの躊躇もなく襖を開けた。
すると、いるわいるわ。
狼、牛、蜥蜴、豚、鼠、エルフといった人間でない者たちがズラ
リと座っていた。
︵これは、なんというか圧巻よね︶
別に人間でない者に対して偏見を持っているつもりはない。
オリヴィアは今日までジハルの部族と共に暮らしてきており、獣
人が人間と全く変わらない存在であることを知っている。
それどころか、獣人たちの姿はむしろかわいいとさえ思っている
くらいだ。
しかし、こうも雁首を揃えられると流石に来るものがあった。
1331
﹁委員長、挨拶を﹂
オリヴィアの指示。
委員長が号令し、それに従って、起立、礼、着席と子どもたちは
挨拶をする。
空気が重い、とオリヴィアは思った。
席についた子どもたちは、ジッと観察するようにオリヴィアを見
つめているのだ。
人間に対する感情か、それとも新任教師に対する感情か。
だが、それらはまだマシであるといえる。
なぜならば︱︱。
︵うわあ⋮⋮︶
オリヴィアが思わず唖然とした相手。
それは先ほどの号令にも反応しなかった二人︱︱両足を机の上に
乗せ、クッチャクッチャと口を動かしているエルフ族と鼠族の男子
であった。
ちなみに口の中身はチューイングソフトキャンディ。
一週間学校に通った子どもたちにご褒美として配られている物だ。
︵悪ガキ、ってところかしら。それとも、やっぱり人間の私に対す
る当てつけか︶
敵意ムンムンといった様子で、二人はオリヴィアを睨みつけてい
る。
だが、そこにいるのは悪童ばかりではない。
1332
彼らの態度に我慢できなくなり、すくっと立ち上がって見せたの
は、先ほど号令をかけた女の子。
﹁ちょっと、先生が困ってるでしょ!﹂
とても可愛らしい声で注意するが、その顔は牛そのものであるこ
とをここに記して置く。
﹁へっ、いい子ちゃんのキャシーは人間の肩を持つのかよ﹂
﹁こりゃあ、ハブ決定だな。あとでモーモーって泣かしてやるぜ﹂
エルフ族と鼠族の二人が、へらへらと馬鹿にするように言った。
断っておくが、牛族のキャシーとエルフ族・鼠族の二人では、牛
族のキャシーの方がはるかに強い。
ただキャシーはとても優しいので、決して暴力を振るうことをし
ないが。
﹁おい、キャシーに当たるのはやめろよ﹂
さらにもう一人、キャシーをかばうために立ち上がる者があった。
﹁おやおやー? 愛しのキャシーをかばうのはイケメン蜥蜴男のジ
ャスティンさんじゃないですか。かっこいいねー﹂
﹁いよっ! 禁断の愛!﹂
悪童二人がヒューヒューと囃し立てる。
牛頭のキャシーと、蜥蜴族のジャスティンは共に顔を赤くした。
恋愛話はオリヴィアも大好物。
もしやと思ったオリヴィアは、牛族と蜥蜴族の決して許されぬの
1333
愛の物語を妄想し、にわかに鼻息が荒くなりそうになったが、しか
し今はそれどころではない。
しょっぱなから学級崩壊など、面目丸つぶれもいいところだ。
﹁ええと、そこの二人﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
オリヴィアが呼びかけると、無言で睨みつけてくるエルフ族と鼠
族の二人。
だが所詮は子ども、オリヴィアは全く恐怖を感じない。
それどころか、鼠族の男子などは剥き出しのげっ歯がとても可愛
らしい。
﹁邪魔をするなら出ていってもらえませんか﹂
教師として、毅然とした対応を取るオリヴィア。
これにエルフ族の男子は﹁はっ﹂と小さく笑って言う。
﹁なんで俺が人間なんかの命令を聞かなきゃならねえんだよ﹂
﹁あら、この町の王様も人間のはずだけど?﹂
﹁⋮⋮﹂
エルフ族の男子は、苦虫を潰したような顔になった。
信秀の名前は、彼らにとって弁慶の泣き所やアキレスの踵ともい
うべき弱点であったのだ。
無論、オリヴィアはそれを看破しているために、信秀の名前を口
1334
にしたのであるが。
﹁お前、フジワラ様の名前を出すなんて卑怯だぞ﹂
エルフ族の男子に代わって言葉を引き継いだのは鼠族の男子だ。
﹁何が卑怯なのかしら。フジワラ様は人間。私も人間。これは変え
ようのない事実だと思いますが﹂
﹁フジワラ様は人間じゃない!﹂
﹁あら、じゃあなんだっていうの?﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙。
人間以外の答えはない。だって、信秀はどこからどう見ても人間
なのだから。
︵要するに彼らは人間は大嫌い、でもフジワラ様は好き。だからフ
ジワラ様が人間だとは認めたくないってことね︶
エルフ族と鼠族は頭がいい部族だと聞いている。
目下の二人はその頭のよさゆえに、子どもの時分では折り合いが
つけられなかったのだろう、とオリヴィアは予想した。
だが、彼らは﹃信秀が人間である﹄以外の答えを見つけたようだ。
再びエルフ族の男子が、その口を開いた。
﹁フジワラ様は人間じゃねえ! フジワラ様はサル族だ!﹂
1335
どうだ見たかといわんばかりに、机を踏み台にして、信秀が人間
ではないことを宣言するエルフ族の男子。
鼠族の男子も﹁そうだそうだ! フジワラ様は猿の一族だ!﹂な
どと声高に叫んでいる。
ぶっ、とオリヴィアが噴き出しそうになったのは秘密だ。
どんないい訳が出てくるのかと思えば、まさかのサル族。
確かに人間の祖先は猿だが、それにしたってサル族はないだろう、
とオリヴィアは内心で笑った。
とはいえ、そこをつつくのは、どうにも大人げない気がする。
そのため、信秀が猿か否かはひとまず置いて置き、もっと根本的
な話題へと変更することにした。
﹁あなた方が人間に大層な恨みを持っているのはわかるわ。でも私
が何かしましたか﹂
実際のところ、オリヴィアは元女王であったため、全く責任がな
いというわけではないが、人には色々と事情があるものだ。
仮にオリヴィアが獣人たちを保護していれば、それを理由に女王
の座から降ろされて、次に王位についた者が、前王との違いを見せ
るために獣人たちを滅ぼしていたかもしれない。
﹁うるせえ! お前ら人間のせいで俺たちがこれまでどんな目に遭
ってきたかわかってるのか! お前も人間なんだから同罪だ! 親
父たちが必死に戦って守ったこの町ででかい顔すんじゃねえ!﹂
﹁なるほど。つまり、私が人間だから、他の人間が行った悪事も私
のせいにされるということですか。
ということは、あなたの態度の悪さは、ここにいる人たち全員の
1336
責任ということで、フジワラ様に報告していいのね?﹂
妖艶に微笑むオリヴィア。
彼女は権力を笠に着ることなど、恥ともなんとも思っていない。
使えるものはなんでも使え、というのがオリヴィアの心情である。
伊達に権力闘争激しい王宮で、今日まで命を長らえてきていない
のだ。
﹁そんなっ!﹂
﹁俺たちは関係ないっ!﹂
効果は覿面であった。
オリヴィアの言葉に、クラスの者たちは慌てふためいている。
信秀に告げ口でもされたらどうなるか。
ここにいる誰もが、両親から信秀に対し、決して失礼な真似はす
るなと厳命されていたのだ。
そもそも自分たちは何も悪くないのに、なぜ悪いことになってい
るのか。
そう思った時、彼らは責任の所在を、現状をつくり出した犯人へ
と向けた。
皆の視線は錐のように鋭くなって、エルフ族と鼠族の男子へと集
中したのである。
﹁お、お前!﹂
エルフ族の男子は怯えるように声を震わせる。
隣の鼠族の男子も血相を変えていた。
﹁ふふっ。冗談よ、冗談。ここにいる子たちはみんな私のかわいい
生徒だもの。そんな真似しないわ。言ってみただけ﹂
1337
勝ち誇るようなドヤ顔で、オリヴィアは言う。
これに、クラスの者たちはホッとして瞳の色も和らぎ、それに伴
って悪童の二人も胸を撫で下すように安心した表情を見せた。
さらにオリヴィアが諭すように言葉を続ける。
﹁フジワラ様はあなたたちにたくさんのものを与えています。この
日本語という授業もそう。そして私は、あなたたちが日本語をよく
学べるように、フジワラ様がここによこしました。
教室から出ていかないというのであれば、それも結構。
私はあなたたちをいないものとして、授業を進めます。ただし、
授業を妨害するようなら、それはフジワラ様への冒涜です。フジワ
ラ様への恩に対し、仇をなす行為は到底許せるものではありません。
これは他の人についても同様です﹂
とにかくフジワラという名前を連呼し、自身の正義を証明するオ
リヴィア。
フジワラという名前は、まさしく黄門様の印籠のごとし。
これを前にしては、跪かない者などいないのだ。
オリヴィアが﹁返事は?﹂と聞くと、エルフ族と鼠族の二人を除
いた生徒は﹁はい!﹂と息を合わせて返事をした。
︵一発目の授業からこれって、先が思いやられるわね︶
オリヴィアが心中で愚痴をこぼしながらも、淡々と授業は進めら
れる。
翌日、件の二人は両親に連れられて、オリヴィアのもとに謝罪に
現れ、一件落着となった。
このように、異種族居住区画においては日本語の教育が行われて
1338
いた。
もちろん子どもだけではなく大人も学び、やがてそれは獣人たち
にとってとても大きな財産になっていくのである。
1339
106.建国から五カ月∼七カ月︵冬︶、結婚 1
快晴の空の下、思わず手をかざしてしまうような眩い白光の絨毯
が、エドの国を覆っていた。
既に昼を迎えようという時間であったが、薄く積もった雪は解け
る気配もない。
それだけ寒いのだ。
気温は氷点下を下回り、フジワラ郷では人間たちの多くが家に籠
りきりであった。
だが、己の職務に励んでいる者たちもいる。
特に人間でない者たちは、冬であっても休むことはできない。
何故ならば、彼らの職務は町の防衛。
獣人たちは、白い息を吐き、まつ毛に霜を下ろしながら、今日も
他国からの侵略に備えているのである。
﹁本日昼の鐘を持ちまして、南の哨戒任務を下番します!﹂
南の櫓から、冬の寒さを吹き飛ばすような快活な声が響いた。
櫓の内部を覗けば、南の城門城壁の警衛任務に当たっていた者た
ちがズラリと並び、下番申告を行っている。
﹁うむ、ご苦労であった。しっかりと体を休めるように﹂
申告を受けるのは、南の警衛司令である牛族の族長。
申告が終わると、下番者たちは櫓を出て行った。
彼らは、城郭づたいに異種族居住区画へと戻り、己が家で任務の
疲れを癒すのだろう。
1340
牛族の族長自身、新たに警衛司令の任に上番する豚族の族長に一
切を申し送ったのちに下番した。
﹁うぅー、寒いのう﹂
肌を付き刺すような冷たい風が吹く城郭の上を、牛族の族長は体
を温めるために一人早足で歩を進める。
異種族居住区画に到着すると、特別区画の門番に、異常なく上下
番を終えたことを信秀に報告するよう言づけてから、自宅へと戻っ
た。
他の家々と比べると二倍以上も大きい屋敷、それが牛族の族長が
暮らしている住居だ。
族長だからと信秀から与えられたもので、部屋は台所を合わせれ
ば八つもあり、母と妻と娘に自身を合わせた四人家族では少々手に
余るほどの大きさであった。
﹁帰ったぞ!﹂
入口の戸をガラリと開けて帰ってきたことを伝えると、すぐに居
間の方からパタパタと足音が聞こえてきた。
母と娘は今頃学校である。
つまり、家にいるのはただ一人しかいない。
﹁おかえりなさい﹂
襖より姿を見せたのは妻。
牛族の族長同様に牛の顔をしており、部族の中でも一番の美人で
あると評判の女性である。
1341
﹁おう、ただいま。飯にしてくれ﹂
﹁はいはい、もう準備はできておりますので﹂
牛族の族長は靴を脱いで家に上がると、そのままドシドシと大き
な体を揺らして居間に向かった。
居間の襖を開けると、暖かな空気が顔にぶつかって、思わず頬が
緩む。
囲炉裏の火がパチパチと音を鳴らし、部屋の中を温めているのだ。
だが、満足するにはまだ早い。
妻が毛皮の外被とその下の防弾チョッキを脱がすと、牛族の族長
はその満足を得るために炬燵へと足を潜らせた。
﹁はふぅ﹂
炬燵より、じんわりとした熱が足を辿って全身へと上ってくる。
温かく、心地よい。
︵もう耐えられん⋮⋮!︶
なんと牛族の族長は、行儀の悪い子どものように、全身をすっぽ
りと炬燵の中に入れてしまった。
族長としての威厳のかけらもない、牛頭をした亀のできあがりで
ある。
﹁まあ、だらしのない﹂
おかしそうに笑い、そのまま部屋を出ていく妻。台所へ向かった
のだろう。
1342
一方の亀となった牛族の族長は、炬燵のあまりの心地よさに、顔
を蕩けさせていた。
︵全く、魔物だ。この炬燵は、魔物だ︶
身体を温かく包み込み、捕らえて離さぬこの炬燵は、魔物と評し
てしかるべきもの。
族長の目も自然と閉じてゆく。
なにくそ! と抗う気力もない。
夜通しで警衛勤務をこなしていたのだ。
幾度かの仮眠は取っているが、炬燵のぬくぬくとした気持ちよさ
が生み出す睡魔に対し、自衛の手段を牛族の族長は持ち合わせてい
なかった。
﹁ほら、起きてくださいな﹂
まどろみの中、妻の声が聞こえると、牛族の族長はハッと瞼を開
いた。
抗えぬと思われた炬燵が生み出した睡魔は、意外にも外からの刺
激には弱かったらしい。
﹁うむ⋮⋮、すぐに起きるぞ⋮⋮﹂
朦朧としつつもパチパチと瞬きを繰り返すうちに、牛族の族長の
意識はどんどんと覚醒していく。
妻を見れば食器と酒を盆に載せており、完全に目の覚めた牛族の
族長はモゾリモゾリと炬燵を這い出して、しっかりと温まった上半
身を起こした。
すると目に入ったのは、机の上にある日本語の教材。
1343
牛族の族長は、うっ、と顔をしかめた。
己が帰ってくるまで、妻が日本語の勉強をしていたのはすぐにわ
かった。
さすが俺の妻だ、という感情と共に、嫌なものを見たという思い
が湧く。
勉強は苦手。
やらなければならないことはわかっているし、実際まじめに勉強
しているが、しかし仕事を終えてすぐに見る物ではない。
そんな心中を知ってか知らずか、妻が日本語の教材を下げて、持
ってきた食器を並べていく。
最後に、囲炉裏に吊るされていた鍋を炬燵の上に設置して食事の
支度は整った。
妻の手によって鍋の蓋が取られると、ブワッと水蒸気が立ち上ぼ
る。
寸秒もしないうちに白い煙は晴れて、鍋の中身が露になった。
﹁うむ、肉雑炊か。たまらんな﹂
食欲を駆り立てる見た目と匂いに、思わずゴクリと喉を鳴らす。
鶏肉と野菜たっぷりの雑炊だ。
それを妻が椀によそい、牛族の族長に渡す。
椀から手のひらに感じる熱。
もう堪えることはできない。
牛族の族長は匙で椀の中身を掬って、はふはふと口に運んだ。
肉汁と野菜のうまみが米に染み込み、さらに醤油の香りとコクに
加わった絶妙の塩加減がとても素晴らしい。
うまい、と牛族の族長は思った。
1344
﹁さっ、こちらもどうぞ﹂
盃に日本酒が注がれて、それをグビリと飲み干す牛族の族長。
盃を置けば、再び椀を持って匙を忙しなく動かした。
しばらくして腹が満たされてくると、次第に酒を楽しむことに食
事の趣旨が変わっていく。
﹁やはり我が家で食う飯は格別だ。櫓で食う飯はどうも味気ない﹂
﹁それはお疲れ様でした﹂
牛族の族長が盃を傾けつつ、己の満足を語り、妻は夫の勤労を深
くねぎらう。
もし信秀がこの様子を見ていたのなら、古風な家庭だな、という
感想を抱いたかもしれない。
しかしこの時代、この部族において、これは普通のことであった。
﹁お前のお酌というのが、またいい﹂
﹁ふふ。あなたったら、いつの間にかお世辞が上手になって﹂
機嫌のよさに比例して、牛族の族長の話す言葉も饒舌だ。
﹁このような馳走を毎日食べられるのだ。フジワラ様に感謝せねば
ならんぞ?﹂
﹁はいはい、わかっておりますよ﹂
かつては敬称すらつけていなかった者の名前。
1345
しかし、今では自然と
様
をつけるようになった。
中でも、牛族の族長の信秀への信望は篤い。
エルフ族や鼠族の族長たちと違い、牛族の族長は感情的な男。
かつては信秀を最も怪しんだが、多くの恩を受けて疑念が解消し
た時、信秀のことを最も敬服するようになっていたのである。
﹁ほら、お前も食べよ。酒もついでやる﹂
﹁それでは、いただきます﹂
牛族の族長は妻にも食事と酒を勧め、しばしゆったりとした時間
が流れた。
やがて食事が終盤に近づくと、牛族の族長が酒を干してふと思っ
たように言う。
﹁しかしなんだな。確かにうまいんだが、なんというか、あれだな﹂
﹁何か障りがありまして?﹂
﹁文句があるわけではないのだ。贅沢に慣れてしまったな、という
思いがしてな。
今の生活を見てみろ。少し前までの苦しい生活がまるで幻のよう
だ。
そう考えると、今あるこの瞬間すらも夢のように思えてくる。
いつか、ふっと消えてしまうような、そんな不安が時折胸によぎ
るのだ﹂
牛族の族長が見つめる手元の盃には、透き通るような酒が揺らめ
いている。
1346
盃の底すら鮮明で、ともすれば盃の中には何もないようにも見え
た。
自身の今の生活は、酒の揺らぐ盃ではなく、本当は中身のない空
の盃ではないのか。
そう牛族の族長は思ったのだ。
﹁そういったことがないように、あなたは今日もお勤めを終わらせ
てきたんでしょう?﹂
されど妻は言った。
牛族の族長の瞳をしっかりと見据えて。
うっすらと優しい微笑を湛えたその顔には、一点の曇りすらない。
夫の不安を払拭するに足る、慈愛の笑みであった。
︵俺にはもったいないくらいの、本当によくできた妻だ︶
妻には、今日までずっと支えられて生きてきた。
その時間は決して嘘ではない。
なればこそ、やはり盃の中には酒が揺らめいているのである。
﹁うむ、そうだな。もうよそう。それで俺がいなかった間、何かあ
ったか? キャシーはどうだ。元気にしていたか﹂
キャシーとはこの夫妻の一人娘。
過酷な生活環境の中で幼少期を過ごしたというのに、ひねくれる
こともなく立派に育った。
まさしく自慢の娘であり、二人は娘を溺愛していた。
﹁ええ、キャシーはまたテストで満点をとって先生に褒められたっ
て言ってますよ﹂
1347
﹁そうかそうか。あいつは俺に似て頭がいいからな﹂
子どもが褒められて嬉しくない親はいない。
キャシーは今も学校で頑張っているのだろう、と牛族の族長は目
尻を下げて喜んだ。
﹁ふふふ。それならあなたも、もう少し勉強の方も頑張らないとい
けませんね。娘に負けるようなら父親の面目丸つぶれですよ﹂
﹁うぐっ﹂
痛いところをつかれたとでもいうように小さく咳き込む牛族の族
長。
それから二人は顔を見合わせて、笑い合う。
夫は大きく、妻は小さく、共に笑っていた。
仲睦まじい夫婦の姿がそこにはあった。
﹁そういえば、今月は会議をまだやっていなかったので、週末に行
いたいっていう話が来ていましたよ﹂
﹁ふむ、族長会議か︱︱﹂
平穏ゆえに互いに相談することも少なくなり、形骸化しつつあっ
た族長会議。
いっこん
まあ、今回も大した話はないだろうと思いつつ、牛族の族長はま
た一献盃を傾けた。
◆
1348
週末の夜。
鼠族の族長の屋敷にて、族長会議が行われた。
北の森の六部族︱︱その長ともいうべきエルフ族の族長のもとで
会議が行われなかったのは、エルフ族の族長はその任を息子である
ポリフに譲り、繰り上がるような形で鼠族の族長が六部族の長とな
ったからに他ならない。
族長たちは、蛍光灯が明るく照らすその下で、酒を片手に囲炉裏
を囲み、談笑をしている。
ここに来た頃は週に一回行われていた会議も、現在では月に一度
か二度という頻度になってしまった。
その内容も、自分たちの部族や子どもたちの自慢話に終始してい
る。
平和なのだ。
だが今日、一石を投じた者がある。
﹁この平和はいつまで続くのか﹂
それを口にしたのは鼠族の族長。
奇しくも、つい先日に牛族の族長が自宅で漏らした不安と同じ内
容であった。
﹁いつまでも続くように、我々は今頑張っているのではないのか﹂
妻の受け売りゆえに、すぐさま答えを返した牛族の族長。
珍しくも間髪なくまともなことを言った牛族の族長に、多くの者
が目を見張らせた。
されど、鼠族の族長だけは平然と言葉を返す。
﹁その通りだ。だが、そう易々といくだろうか。これから人間はど
1349
んどんと増え続けるだろう。対して我々はどうか。
フジワラ様は、他の場所から獣人たちを連れてこようとはなさら
ない。このままでは人間たちの力は増すばかりだ﹂
すると、本来ここにいるはずのない参加者が、声を上げた。
その者の名は狼族の族長ジハル。
今日は特別に、と鼠族の族長から呼ばれていたのだ。
﹁フジワラ様を裏切ろうというのなら容赦はせんぞ﹂
その眼光は強く激しい。
ことが起これば一対六になるかもしれぬこの状況にあって、決し
て退かぬという意思が込められたジハルの瞳であった。
﹁わかっておる。フジワラ様に逆らった者がどうなるかは、お主か
らよくよく聞かされた話ではないか。
そもそも恩を仇で返すような恥知らずな我らだと思うてか。それ
こそ侮辱であるぞ﹂
鼠族の族長は逆に、侮るなとジハルをなじった。
ジハルより六部族の者たちは幾度となく、裏切った者の話を聞か
されている。
大恩を受けておきながら、信秀に反旗を翻すなど言語道断。人間
にも劣る不埒者たち。
そのような者たちと同列に扱われたことに、鼠族の族長は憤慨し
たのだ。
﹁⋮⋮﹂
ジハルは何も言わず、鼠族の瞳をしばらく見つめた。
1350
やがて﹁無礼を謝罪しよう。すまなかった﹂と言ったきり、視線
を外して押し黙った。
その潔い謝罪は決して男を下げるようなものではない。
﹁話を続けるぞ。人間の力が増していく中、我らが握っている町の
軍権だけは必ずや維持せねばならぬ。そのためには信秀様が人間た
ちの口車に乗らぬよう、傍で支える者が必要になってくる﹂
﹁どうするというのだ﹂
鼠族の族長に、蜥蜴族の族長が尋ねた。
﹁決まっておる。我ら人間でない者との婚姻だ﹂
これに驚きはなかった。
六部族の族長たちのいずれも、一度は考えたこと。
ジハルに至っては、かつて一度実践している。
なお、今日まで六部族の族長たちが信秀に婚姻の話をもっていか
なかったのは、互いに遠慮があったからである。
六部族は一心同体。
互いが互いに寄り添いあって生きてきた。
ゆえに抜け駆けをするように思えて、行動には移せなかったのだ。
また族長会議にて、信秀の婚姻について言い出すことをしなかっ
たのにも理由がある。
礼儀として、言い出した者は婚姻者を推薦できないと考えたから
だ。
言い出しっぺが割を食うのは、いつの時代も変わらない。
だが、今日鼠族の族長が自ら貧乏くじを引いて見せた。
1351
これでもう躊躇する理由はない。
﹁それならば、うちのキャシーなどはどうだ。親の欲目かもしれん
が、なかなか器量がいい。誠実で、心優しく、必ずやフジワラ様も
気にいることだろう﹂
牛族の族長が、ここぞとばかりに娘を勧めた。
王たる信秀には最高の妃を。
己の娘以上の女はいないと牛族の族長は思っているため、信秀に
娘を嫁がせようというのは、理にかなっている。
﹁待て、そういうことならば、我らも黙っていられん。忌々しいこ
とではあるが、人間と一番顔が似ているのは我らエルフ族だ。エル
フ族の娘ならば、フジワラ様も種族など気にせずによい家庭を築く
ことができるであろう﹂
エルフ族の若き族長ポリフの意見もまた正しかった。
こうとなれば蜥蜴族の族長と豚族の族長も黙ってはいない。
俺が俺がとばかりに、自分たちの部族の者を信秀の婚姻者に勧め
ようとする。
話し合いはこのまま収拾のつかない事態になる︱︱かと思いきや、
鼠族の族長が皆を手のひらで制した。
﹁待て。我ら六部族の中から選んでは角が立つ。それに、今日まで
付き従ってきた者に対する礼儀も欠く。まず望むべきは、人間でな
い者との婚姻。それ以外を望まぬことで、一つ我らの忠誠を示そう
ではないか。
︱︱どうだろうか、ジハル殿﹂
要するに鼠族の族長は、六部族の均衡が崩れるのを恐れたのだ。
1352
さらに、六部族以外から婚姻者を勧めることで、決して私利私欲
によるものではないと示すことができる。
﹁ふむ、かねてより考えてはおった。幸いにして相応しい者がおる。
かの者ならばフジワラ様も否とは言うまいて﹂
ジハルの満更でもない答え。
確かに筋は通っており、他の族長たちも異論はなかった。
しかし︱︱。
﹁だ、駄目だ!﹂
立ち上がったのはジハルとは別の狼族を率いるザーザイム。
﹁何が駄目だというのだ、ザーザイム﹂
ギロリと睨みつける鼠族の族長。
他の者たちも、ザーザイムが話に水を差したことに不快感を示し
た。
この期に及んで、自身の部族の利を求めようというのか。
そんな感情が各々の顔には表れている。
だが、ザーザイムの口から出たのは、確かに私欲には違いないが、
もっと純粋で甘い恋物語であったといえよう。
﹁た、たとえフジワラ様であろうとも、ラズリーは渡せねえ! 俺
たちは、つ、付き合ってるんだ!﹂
ラズリーとは、かつて信秀とお見合いをしたこともある、狼族の
中では絶世の美女と名高い女性である。
彼女とザーザイムは付き合っていた。
1353
狼族の中でラズリーこそが一番美しいと思っているザーザイム。
美しい娘を王の妃にするという考えは当然のこと。
なればこそラズリーが、信秀の婚姻者に選ばれると思って立ち上
がったのである。
たとえ相手が信秀であろうとも自身が愛するラズリーは渡せない。
ラズリーが信秀のことを好いているならともかく、今、己とラズ
リーは愛し合っている関係なのだ。
﹁くっ⋮⋮はははははは!﹂
ジハルが大口を開けて、大層愉快そうに笑った。
﹁な、なにがおかしい!﹂
叫ぶザーザイムに対し、ジハルは諭すように答える。
﹁ザーザイムよ、心配はいらぬ。フジワラ様に勧めるのはラズリー
ではない。あいにくとラズリーとの婚約は以前に一度断られておる
わ﹂
﹁な、なに⋮⋮? じゃ、じゃあラズリーよりもふさわしい女って
のは誰なんだ!﹂
﹁それはな︱︱﹂
電光の下、信秀の婚姻者を決めようとする会議は続いた。
1354
107.建国から五カ月∼七カ月︵冬︶↓八カ月︵春︶、結婚 2
そこはジハルの屋敷の居間。
昼の眩しい陽の光が障子を透り、淡い加減となって部屋全体を照
らしている。
その光の中でジハルは囲炉裏の前に座り、火をじっと眺めていた。
︵フジワラ様との婚姻か⋮⋮願ってもないことだ︶
ジハルの口角が小さな弧をつくった。
つい先日決まった、信秀と自身の部族の者とを婚姻させようとい
う話を思ってのことである。
自身、どのようなことがあろうとも信秀についていくという固い
意思を持っている。
信秀のためならば、命さえ捧げようとする気概もある。
ゆえに、たとえあの時、北の森の六部族から婚姻者を出そうとい
うことになっても、ジハルは何も言わぬつもりであった。
︵町は一見すれば安定しているが、その歴史は浅く、何がきっかけ
となって瓦解するかはわからん。ただでさえフジワラ様より多大な
信頼を得ている我が部族が、これ以上、他の部族を押しのけようと
すれば異種族間の和を乱すことになりかねない︶
思い起こされるのは、かつてのサンドラ王国の南にあった町。
あの町にも多くの種族が暮らし、そして裏切りが起こった。
今となっては裏切りの確かな理由など不明であるが、その理由の
一つには信秀と抜きん出て親密であった己が部族の存在があるので
1355
はないかという気にさせられる。
だからこそあの時と似た状況にある今、信秀の命令以外のことで
積極的にするような行動をするつもりはない。
しかし、六部族は婚姻の話をこちらに譲った。
それまさしく願ってもないこと。
信秀との婚姻を、決して望まなかったわけではない。
信秀に対し誰よりも忠節が深いからこそ、常に隣にありたいとい
う思いがある。
ふふふ、とジハルは笑みを浮かべながら、火箸で囲炉裏の炭をつ
つく。
だが、まだ喜ぶのは早い。
信秀との婚姻を成功させるには、越えればならない二つの関門が
あるのだ。
すなわち、こちらが勧める婚姻者の心と信秀の心である。
﹁族長、護衛隊長が参りました﹂
襖のすぐ向こうから聞こえた下女の報告。
ジハルが通すように命じると襖が開き、下女の後ろからある女性
が入室する。
その者こそ、一つ目の関門。
﹁よくぞ来たな、ミラ﹂
ジハルは立ち上がり、にこやかな笑みを浮かべて、ミラを迎えた。
信秀の護衛の長を努め、常にその傍にいる者︱︱ミラ。
彼女こそ、己が主に相応しいと見込んだ女性である。
1356
﹁さ、座りなさい﹂
﹁はい﹂
ジハルが再び囲炉裏の前に腰かけ、ミラはその斜め前に座った。
なお、ミラには今日の本当の要件を教えてはいない。
ただ、久しぶりに落ち着いて話が聞きたい、と伝えただけである。
ジハルは、囲炉裏に吊るされたヤカンを手に取って椀に湯を注ぎ、
それをミラに差し出して言う。
﹁どうだ、最近の調子は。警護の任務はうまくいっておるか﹂
﹁常と変わりありません﹂
﹁うむ、そうか。つまり平和ということだな。しかし、油断はせぬ
ように。いつ何時であろうとも注意を怠るな﹂
﹁はっ、心得ております﹂
きりりと引き締まった眉と、揺らぎのない双眸。
ミラには凛然という言葉がよく似合う。
しかし言い換えれば、それはお堅いということ。
そのような者に、なんと切り出せばいいものか。
難しい娘だとジハルは思った。
﹁日本語の勉強はどうだね﹂
﹁⋮⋮私にはあまり向いていないように思います﹂
1357
肩を落とすようにしてミラは答えた。
ジハルも彼女の答案は見たことがある。
ミラは自身の名前をいまだに﹃ニラ﹄と書くほどに不出来。
されど恥ずかしいことではない。
依然として日本語を自在に操れるのは、唯一アザードのみ。
それ以外の者は、皆まだまだといえる。
﹁まあ、誰しも向き不向きはある。お主に与えられた役目はフジワ
ラ様の警護。日本語についてはゆっくりと覚えていけばよい﹂
﹁そう言っていただけると助かります﹂
一拍の呼吸。
ここが話の区切りと見たのか、ミラが手元の椀に口をつける。
ジハルもまた椀を手に取って、湯で喉を潤した。
︵前置きはこの辺りでいいだろう︶
互いの椀が床に置かれれば、話はとうとう本題へと移る。
﹁時にどうだ。お主もいい歳だ。好きな男の一人や二人はいるのか
の?﹂
﹁は⋮⋮?﹂
言葉の意味をすぐには理解できなかったのか、ミラは困惑した表
情を見せた。
しかし時間が経てば、その顔は仄かに赤色を帯びていく。
初心な娘。
1358
潔癖ともいうべきか。
ミラの浮いた話など、ジハルはこれまで一度も聞いたことがない。
︵これならば誰彼と好き合っているということもあるまい︶
ジハルは心中でホッと安堵のため息を吐いた。
とりあえず第一の関門は五分ほど開いたと言っていいだろう。
﹁と、突然、何をおっしゃるのですか!﹂
普段の毅然とした態度とは打って変わったその姿。
慌てるミラの様子がとてもおかしく、そして微笑ましい。
若き者の色恋は老人の楽しみだ。
若き者が愛を育むことは、すなわち未来を築くことを意味する。
ひた
部族の者は皆、我が子だと思っているジハルである。
嬉しくないわけがない。
だが、今はそのような享楽に耽る時でもない。
﹁実はな、今日は一つお主に頼みたいことがあって呼んだのだ﹂
残り五分の門を開かせねばならない。
それすなわち、ミラが信秀の妻となることを承知するかどうか。
無論、ミラがどうしても嫌だというのならば、そこまでの話にな
る。
信秀がもしミラのことを好ましく思っていたとしても、無理やり
の婚姻は望まぬことであろう。
ゆえにジハルは、お願いするように優しい声で言葉を続けた。
1359
めおと
﹁︱︱ミラよ。フジワラ様と夫婦になってはくれんか﹂
ミラはビクリと肩を震わせ、石のように固まった。
反応はいまいちといったところか。
しかしジハルも、伊達に今日まで族長をやって来たわけではない。
これまでに幾つもの若い男女の仲を取り持ってきた。
その数は知れず、あまりに張り切りすぎて、﹁おせっかいはやめ
てください﹂と迷惑がられたこともしばしばあるくらいだ。
﹁確かにあの方は人間だ。されど、お前もわかっているだろう。我
らはあの方になんの恩返しもできていない﹂
ジハルがミラの顔を覗き込むように、語りかける。
するとミラは顔をわずかに背けた。
この話題を避けたいという意思が、ミラの態度からは見てとれる。
︵まさか、脈がないということなのか⋮⋮?︶
そんな一縷の不安が、ジハルの眼前に大きく分厚い関門を幻視さ
せた。
﹁もしや、お主はフジワラ様のことが嫌いなのか?﹂
﹁い、いえ、そ、そうでは⋮⋮﹂
嫌いか否か、その是非を問うてみれば、煮え切らぬ答え。
嫌いでないというならば、なんだというのか。
こういった時、やはり多くの恋の仲立ちをしてきた経験がものを
いう。
ジハルはしばし考えて、ははーん、と合点がいくように頷いた。
1360
﹁さてはお主。フジワラ様に断られると思っておるな? ははは、
心配はいらぬ。儂の見立てでは、フジワラ様はお主のことをかなり
気に入っておるようじゃ。
それとも何か? 実はフジワラ様は男好きなのでは、という噂を
信じているのか? ならば、その心配も無用のことぞ。
確かに儂も一時期疑ったこともあったがの。なんのことはない。
ちょっとした機会に尋ねてみれば、女人が好きだと力説されてしま
ったわ﹂
安心させようとした軽口。
しかし、信秀は女性が好きだと言うと、ミラの顔はいっそう赤く
なったように感じる。
﹁どうした、何故黙っておる。嫌なら嫌とはっきり言ってもらわね
ば、こちらも判断に困る﹂
﹁その⋮⋮あの⋮⋮﹂
何かを言おうとして、しかし唇を噛んだミラ。
あまりの歯切れの悪さに、ジハルも眉をひそめるしかない。
︵実直なミラならば、婚姻を望まないならば望まないと言うはず。
だというのに、何故こうも語ろうとしないのか。
仮にフジワラ様に対し好意を抱いていた場合、それが恥ずかしい
ということも考えられるが、ここまでその思いを口にしないという
のもおかしい︶
考えても答えなど出ず、いっそう眉間に皺を寄せて悩むジハル。
だがその時、天啓のようなものがジハルの脳裏に閃いて、中央に
1361
寄せた眉が大きく開いた。
まさか、としか思えないありえない考え。
ジハルは、信じられぬ、とでもいうような口ぶりでそれをミラに
尋ねる。
﹁お前、もしかしてもうフジワラ様と既にできておるのか⋮⋮?﹂
瞬間、ミラの顔は熟れたトマトよりも赤くなって俯いた。
もはや答えはいらない。
ミラが口にせずとも、その反応でわかるというものだ。
つまりは肯定。
信秀とミラは既に結ばれているということ。
しかしそれは、ジハルにとってあまりにも予想外すぎる答えであ
る。
﹁い、いつからだ⋮⋮!﹂
問いつつも、ジハルは自身の声が震えていることに気づいた。
何故このように動揺しているのか。
その理由はわからない。
﹁そ、その、さ、三年ほど前から⋮⋮﹂
﹁さ、三年⋮⋮そんなに⋮⋮﹂
知らなかった。
全くもって知らなかった。
そしてジハルは理解した、部族の大事を知らなかったゆえに己は
動揺していたのだと。
1362
﹁し、しかし、儂はそんな話聞いてはおらぬぞ。フジワラ様の周囲
にはお前の他にも常に部族の者がついているはずだ﹂
﹁⋮⋮あの者たちには、誰にも漏らさぬようにとお願いしていまし
た﹂
﹁なんと⋮⋮﹂
そのような重要な件が、族長である己の耳に届いていない。
今までそんなことはなかった。
﹁すみません⋮⋮﹂
ジハルに正対すると、瞳を合わさずに頭を地につけるミラ。
ジハルは茫然とミラの頭頂部を眺めるのみである。
一秒、二秒。
備え付けられた柱時計のチクタクと時間を刻む音だけが響いた。
やがて一分が過ぎようという頃、半ば放心しつつあったジハルも
自分を取り戻し始める。
確かに驚きはしたが、ミラたちの行動はよくよく考えてみれば、
むしろ喜ぶべきことのように思えたのだ。
かつて己が部族のゴビは信秀を裏切った。
だが今日、部族の者は信秀のために、己を裏切ったとまではいか
ぬまでも部族の不文律を犯した。
これが何を示すのか。
1363
﹁いや、よいのだ。むしろ儂は嬉しく感じておる。お前たちがフジ
ワラ様に真の忠誠を誓っておる証拠ではないか﹂
寂しくはある。
部族とは家族ともいえる絆で結ばれており、己はその家長。
しかし現在、部族の者たちは信秀とも決して切れない絆ができて
いたということなのだろう。
︵今まではどこか己だけがフジワラ様と結ばれているような気がし
ていた。皆、変わっていくのだな︶
はらから
部族という垣根を越えつつある同胞たちを思い、ジハルは微笑ん
だ。
それは部族の父としての温かい笑みである。
﹁頭を上げよ。婚姻の話、受けてくれるな?﹂
ゆっくり持ち上げられたミラの頭。
その唇から、﹁はい﹂という小さく恥じらう声が一つ聞こえた。
◆
︻D型倉庫︼にて、信秀がカトリーヌとサッカーに興じていた時の
こと。
にやにやとした顔でその場に訪れたのは、ジハルであった。
何用であるか。
そんな問いを口にするまでもなく、信秀は理解した。
ジハルの後ろには、面も上げずに恥ずかしそうにするミラがいた
からである。
1364
まあつまりジハルの顔は、昨夜はお楽しみでしたね、というもの
だ。
とうとう関係がばれてしまったということなのだろう。
こうとなっては信秀も観念せざるを得ない。
﹁フジワラ様、少々お話したいことがありまして﹂
﹁ええ、こちらも報告したいことがあります﹂
ちょうどいい機会だ、と信秀は思った。
もともと結婚について、いつかはと考えていたことである。
躊躇する理由はなく、うぬぼれでなければ、ミラ自身もそれを望
んでくれているように思える。
こうして信秀とジハルは互いにいきさつを語り、ミラは終始俯い
たまま婚姻の話が進められたのであった。
あっという間に冬が過ぎて、春が訪れる。
まだまだ寒かったものの、いつまでも籠りきりでいるわけにはい
かず、人々は冬眠から目覚めた動物たちのように活動を開始した。
また、すぐ南東においては旧ドライアド王国貴族と東方諸国連合
軍とが激しい戦いを繰り広げており、その激戦の模様がポーロ商会
並びにその他の商会からフジワラ郷に逐一送られて来ていた。
信秀とミラの婚礼の儀が執り行われたのは、そんな春の中ことで
ある。
中門︵人間居住区画と異種族居住区画を繋ぐ門︶のすぐ横に備え
付けられた壇は、早朝より美しく飾り付けられ、午後には儀礼兵が
立ち並び、観衆がこれでもかと詰めかけた。
﹁フジワラ様は本当に獣人と結婚するつもりなのか?﹂
1365
﹁今日までの獣人の扱いを見ていれば、別に不思議なことでもない
だろうよ。それにだ。逆に考えてみれば、フジワラ様の性癖こそが
今の獣人たちの扱いを生んだのではないか?﹂
﹁ああ、なるほど﹂
集まった人々が今日の婚礼について口々に噂した。
人間の王が獣人と結婚する。
人々には、まさかそんな、という驚きがあったものの、これまで
の獣人に対する厚遇を考えれば信じられないということもない。
むしろ、これまでの獣人に対する厚遇は信秀がその色香に溺れた
ためであったのだ、ともなれば納得もいく。
やがて進行役のレイナが﹁静粛に﹂と言って場を静めさせると、
神官役のオリヴィアが壇上に登り、檀の横の音楽隊が曲を奏でた。
いよいよ新郎の入場である。
中門からカトリーヌに乗った信秀が登場すると、人々はどよめき、
それから拍手を送った。
権力には媚びるもの。
そのことを、フジワラ郷に来るまでの苦難の日々がよく教えてく
れたし、フジワラ郷に来てからの信秀の気前の良さに、ここでよい
しょをしておけば、何かいい目に遭えるという打算もあった。
﹁おめでとうございます!﹂という声が雨のように降り注ぐ中、の
っしのっしとカトリーヌは壇の下にまでたどり着いた。
ここで信秀はカトリーヌの背から下りて壇上へ行くのだろう。
誰もがそう思った瞬間のことである。
意外や意外、あろうことかカトリーヌは、そのまま信秀を下ろさ
ずに壇上に登った。
﹁お、おいっ﹂
1366
悲鳴にも似た声は信秀の口から出たもの。
信秀の制止もカトリーヌには届かない。
神官役であるオリヴィアも、おろおろと狼狽する表情を覗かせて
いた。
ようやくカトリーヌが止まったのは壇の中央、オリヴィアの真ん
前である。
信秀がその背から下りると、すぐに場はざわめいた。
それは何故か。
神官の前に二人の男女︱︱いや、男と牝。
まるで今から婚姻を結ぶ、新郎新婦の体をなしていたからである。
﹁ま、まさか⋮⋮!﹂
﹁もしかして、フジワラ王の結婚相手はあの聖獣なのか!?﹂
﹁さすがフジワラ王だ! 俺たちの予想のはるか斜め上をいきやが
る!﹂
もちろん、そんなわけはない。
すぐ後には、中門より純白のドレスを身に纏ったミラが、ジハル
に付き添われて歩いてきたのだから。
これにより人々の中にはホッとした空気が流れた。
獣人が信秀の結婚相手ということに、皆いかがなものかという思
いがあったが、さすがに獣よりはマシである。
だが、事態はそう簡単にはいかない。
﹁お、おい⋮⋮あの聖獣、花嫁が来たというのにどこうとしないぞ
⋮⋮?﹂
﹁まるで自分こそがフジワラ王の花嫁に相応しいと言わんばかりに
居座っている⋮⋮!﹂
1367
﹁な、なんという愛だ⋮⋮! それほどまでにフジワラ様のことを
⋮⋮!﹂
信秀が何を言おうとも頑として聞き入れようとせず、カトリーヌ
は信秀の隣の席を譲ろうとはしなかったのだ。
これには、神官役のオリヴィアも口を大きく開けてあっけに取ら
れていた。
やがて大きな拍手が巻き起こり、カトリーヌを応援する声が観衆
の中から聞こえてきた。
﹁俺はあの聖獣を応援するぞ!﹂
﹁種族の壁を越えた美しい愛じゃないか!﹂
人々の思考は、獣よりも獣人の方がマシ、という考えから、どの
みちどちらも人間でないのならどちらでもいいじゃないか、という
考えに変わっていたのである。
いわお
そんな観衆たちの思いを知ってか知らずか、壇上では依然として
両者の争いが続いている。
なんとかしてカトリーヌをどかそうとする信秀と、巌のようにピ
クリともせずその場に居座るカトリーヌ。
この光景は、いつまでも続くかに思われた。
だが、かたくなであったカトリーヌを説得したのはミラである。
カトリーヌの首筋を撫でながら、そっと囁くようにミラは言った。
﹁大丈夫、お前のご主人様をとったりはしない。ただほんの少しだ
けでいい。私にもフジワラ様⋮⋮ノブヒデ様を愛する時間を分けて
ほしい﹂
誰がそれを聞いたのか、染み入るような言葉だった。
1368
カトリーヌは﹁グエ﹂と一声鳴くと、自ら退き、信秀の隣はミラ
に譲られた。
これにて一件落着である。
誰もが、そう思った。
されど、そうは問屋が卸さない。
カトリーヌが向かった先は、もう一方の信秀の隣︱︱空いている
反対側。
もっと詰めろとばかりにカトリーヌはグイグイと信秀を押し、遂
には左からミラ・信秀・カトリーヌの順に三人がオリヴィアの前に
並ぶ結果となったのである。
顔を合わせる信秀とミラ。
二人はくすりと笑い合い、こうして二人と一匹での少し変わった
結婚式が始まった。
とわ
﹁フジワラ王、貴方はミラを妻として永久に愛することを誓います
か?﹂
オリヴィアが問えば、信秀が﹁誓います﹂とはっきりした声で答
える。
この時オリヴィアの口からラシアの神の名が出なかったのは、事
前から決められていたことだ。
﹁ミラ、貴女はフジワラ王を夫として永久に愛することを誓います
か﹂
﹁誓います﹂
同じくミラも愛を誓い、続いてオリヴィアが戸惑いながらカトリ
ーヌの方を向く。
1369
﹁ええと、そちらのあなたも誓いますか﹂
﹁グエエ!﹂
オリヴィアの必死のアドリブ。
カトリーヌが元気よく答えるが、あいにくとオリヴィアはラクダ
の言葉など理解できないため、まあいいやとばかりに話を進めた。
﹁これにてお三方は結ばれました! 私、オリヴィア・フォーシュ
バリ・ドライアドが今日の誓いの証人であり、またこの場にいる者
たちもまた証人です! この婚姻が、人と獣人たちとの懸け橋とな
らんことを!﹂
きさき
オリヴィアが空に向かって美しい声を叫ぶと、ワッという割れん
ばかりの歓声がフジワラ郷にこだました。
ここに大陸史上初めて、人間の王と獣人の后が誕生したのである。
春の空には花火が打ち上げられ、音楽隊が曲を奏でる。
中門からはケーキが運ばれて、人々は食べたこともない甘味に酒
がなくとも酔いしれた。
今日という日を大いに祝う人々。
その日、人間と獣人の距離が少しだけ近づいた。
1370
107.建国から五カ月∼七カ月︵冬︶↓八カ月︵春︶、結婚 2︵後書き︶
前回の誤字脱字の方はまだ確認できていません
連絡くださった方、すみません
1371
108.建国から八カ月∼十カ月︵春︶、首刈り将軍
信秀がのんきに結婚式を挙げている頃、エド国の南東ではイニテ
ィア王国軍と東方諸国連合軍が激戦を繰り広げていた。
城に籠って守勢に回っているのがイニティア王国軍︱︱とは名ば
かりの旧ドライアド諸侯軍。
その城を落とそうと城壁に攻撃を加えているのが、東方諸国連合
の盟主たる現ラシア教教皇エヴァンス・ホルト・エン・ブリューム
率いるエルドラド教国軍である。
﹁ラシアの神の名の下に、敵に裁きを与えよ!﹂
エルドラド教国の軍中、四頭の巨馬に牽かせた台座の上からラシ
ア教皇エヴァンスが、頬の肉を揺らしながら怒鳴り声を上げた。
その指揮に従って、投石機からは人の頭ほどの石が飛び、破壊槌
が門を打ち破ろうと前進する。
﹁殺せーっ!﹂
﹁異端者どもを皆殺しにしろぉ!﹂
戦場の声はかくも激しい。
活躍するのは攻城兵器のみならず、夥しい数の兵士が雲梯を城壁
にかけて城を攻め立てていた。
しかし、なんたることか。
攻撃を始めて一週間が経とうとも、城が落ちる気配は全くない。
これにより、エヴァンスの機嫌は段々と悪くなっていく。
そもそも城攻めにエルドラド教国軍しか参加していないのは、教
1372
皇の威光を示さんがため。
城を守るのが大砲を持たないドライアドの残党であることを知っ
たエヴァンスが、他の諸国軍に参加しないよう働きかけていたのだ
から、その機嫌の悪さも当然のことといえよう。
このままでは教皇としての面目は丸つぶれ。
そのことがエヴァンスの怒りを十倍せしめていたのである。
﹁この愚図どもが! 今日までの無様はなんだ! 相手はたかがド
ライアドの残党だぞ!﹂
城からそう離れていないエルドラド教国の陣営にて、とうとう教
皇エヴァンスの怒りが爆発した。
旧ドライアド諸侯軍が弱兵ばかりなのは有名。
されど、攻めきれないどころか、自身の軍の被害の方が甚大であ
るのは一体どういうことか。
ふんまん
幕舎に集められた将軍たちに向かって、エヴァンスは額の血管を
怒張させ、口汚い言葉で罵り、憤懣やるかたなしといった様子であ
る。
﹁しかし教皇猊下︱︱﹂
﹁言い訳はいらん! 次に口答えする者があれば誰であれ打ち首に
するぞ!﹂
取りつく島もないとはまさにこのこと。
エヴァンスの暴虐さに、将軍たちは﹁ひぃ﹂とばかりに口をつぐ
み、視線を下げる他はない。
だが、これは将軍たちに反論をさせないためではない。
どのような反論が来るかがわかっていたからこそのエヴァンスの
言葉であった。
1373
いくさ
︵こうまで城を落とすのに手間取る原因。それは、戦の経験などな
いエルドラド教国の兵士の、あまりの弱さゆえだ。
てい
ドライアド諸侯軍は確かに弱兵揃い。しかし、エルドラド教国の
兵士たちは、兵としての体すら取れてはいなかった︶
さて、どうするか。
怒りをぶちまけてある程度の落ち着きを取り戻したエヴァンスは、
思案した。
やがて、一つ閃いて各将軍たちに言う。
﹁よいか、これより褒賞は三倍だ。さらに一番乗りを果たした者に
は金貨五十枚。敵将の首を討った者には、どのような身分の者であ
れ爵位を与える。無論、軍を率いた将軍にも莫大な恩賞を与える﹂
兵士たちは皆貧民である。
なればこそ、金という獲物を目の前にぶら下げれば、貧民たちは
飢えた狼となり、命の限りを尽くすだろう。
命は金で買えるのだ。
﹁おおお!﹂
﹁それならば、必ずや勝てましょうぞ!﹂
将軍たちは意気盛んとなり、その日の軍議は終わった。
翌日、エヴァンスの考えの通り、エルドラド兵たちは目の色を変
えて戦いに臨んだ。
あまりにも弱すぎたエルドラド兵士は、なんとか対等にドライア
ド兵士と戦えるようになっていたのである。
1374
両軍の戦いは凄愴を極めた。
弱兵対弱兵。
しかし、いかに弱兵同士であろうとも行きつくところは人の死。
城壁の上にも下にも屍は積み上がり、壁を滴る血は滝のごとく大
地を流れる血は川のごとく、戦場ならば当たり前の無惨極まりない
有様が広がっていた。
そのような戦いの中のこと。
先に音を上げたのは旧ドライアド王国の諸侯軍であった。
﹁もう嫌だ、いくら待っても援軍は来ない! このままでは死ぬだ
けだ!﹂
﹁相手は後方に万全の兵が控えているというのに、こっちは援軍の
影すら見えないぞ! 俺たちは見捨てられたんじゃないのか!﹂
敵の攻撃が止んだ夜、とうとう末端の兵士たちの蓄積された不満
が噴出したのである。
上官たちの﹁援軍が来るまでの辛抱だ﹂などという口先だけの言
葉は、もう通用しない。
何人か斬って捨てて強制的に黙らせるのも手ではあるが、それは
さらなる不満の蓄積を生む。
この一大事にドライアドの将軍たちは頭を悩ませた。
兵士たちは知らぬことであるが、レアニスから彼らに与えられた
命題は、七月までただひたすらに耐え忍ぶこと。
あと二カ月以上もあるのだ。
士気の低下は著しく、明日にでも兵士たちは白旗を振って投降す
るかもしれない、絶望的な状況。
1375
しかし降伏だけは絶対にできない。将軍以下、軍の高官たちは、
レアニスによって、家族が人質に取られているのだから。
将軍たちは話し合い、ある作戦を決めて、兵士たちには一日だけ
待つようにと説明した。
その一日で何が変わるのか。
取るべき手段は限られている。
翌朝、空も白いうちから城の門前には、馬上の騎士があった。
たった一騎。
されどその騎士は、エルドラド教国の歩兵部隊が三百歩の位置ま
で前進してくると、その眼前に躍り出た。
﹁遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそはド
ライアド最強の騎士クリストファー・バーナーなり! 匪賊共よ!
この俺と槍を交える度胸はあるか!﹂
エルドラド教国軍に対する一騎討ちの申し出。
これこそがドライアドの将軍たちの作戦であったのだ。
兵の士気がそがれた時、それを奮い立たせるのは強き将の存在。
その白羽の矢が立ったのが、金色の髪が眩いクリストファー・バ
ーナー。
三十に達して間もない若者であり、容貌群を抜いた偉丈夫であっ
たが、秀でていたのは姿ばかりではない。
槍の腕前は万夫不当と言われ、ジョストと呼ばれる一対一の馬上
槍試合においては一度たりとも敗れたことのないドライアドきって
の猛将である。
しかし、エルドラド教国軍から聞こえたのは﹁わはははは!﹂と
いう笑い声。
1376
﹁ドライアド最強の騎士が聞いて呆れるわ! ドライアドがイニテ
ィアに敗れた時、お前はどこにいたというのだ!﹂
エルドラド教国軍の歩兵部隊を率いる隊長が、クリストファーを
嘲笑した。
これには皆大笑いである。
その通りだといわんばかりに、罵声やからかいの声が飛びかった。
だがクリストファーは何食わぬ顔で言う。
﹁レアニス様こそが真の教皇猊下であり、ゆえに我らは敗れた! 神に抗う不届き者どもよ! 己が正しいと思うのなら、その槍で我
が槍を見事砕いて見せよ! 神は正しき者にこそ勝利をくださるこ
とだろう!﹂
﹁はっ、おもしろい! 隊長、この私めがあの思い上がりに少々稽
古をつけてやりましょうぞ﹂
隊長の隣にあった全身甲冑を身に纏った騎士が、馬を進めた。
その者、歩兵隊の副隊長であり、手に持つ獲物はランスと呼ばれ
る円錐型の馬上槍。
﹁我が名は、ライアン・スタンリッジ! 我が無双の槍を受けてみ
よ!﹂
馬を勢いよく駆るライアンの手から、えいや! と突き出された
ランス。
クリストファーはそれをひらりと躱し、敵ではないとばかりに、
ライアンを馬から叩き落した。
1377
﹁命まで取ろうとは思わん﹂
ライアンの喉元に槍先を突き付け、涼しい顔で告げるクリストフ
ァー。
惚れ惚れするような騎士っぷりである。
クリストファーが片手を上げると、後方の門より兵士が数名やっ
て来て、ライアンは捕虜として連れていかれた。
これを邪魔する者はいない。
敗者をいかに扱うかは勝者の権利であり、騎士の習いであったか
らだ。
﹁さあ次は誰だ!﹂
クリストファーは槍先をエルドラド教国軍に向けた。
その気勢に当てられて、おおう、とエルドラドの兵士たちに動揺
が走る。
しかし槍の穂先が向けられたのは軍にあらず、大将旗。すなわち
現ラシア教皇エヴァンスへの挑発だ。
すると新たに現れた者がある。
﹁儂の名を知っておるか!﹂
白髭を蓄えた、六十は超えているだろうと思われる皺くちゃな顔。
されどその五体は年齢を感じさせないほどに大きい。
手にある両刃の手斧は、馬上で扱うには少々長さが足りない。
﹁名乗られよ!﹂
﹁儂の名はグレッグ・ボードルソン! 先代の教皇猊下様より仕え
1378
て三十年、いまだ儂の腕は錆びついてはおらぬぞ! はぁッ!﹂
名乗り終わると共に、グレッグの手から投げられた手斧。
しかしクリストファーが厚手のガントレットでそれを弾き飛ばす。
その間にもグレッグは腰の長剣を抜き、両者の馬が交錯した。
結果はグレッグの胸元に槍を一刺ししたクリストファーの勝利。
哀れ、クリストファーの後ろを走っていく馬の背に、グレッグの
姿はなかった。
﹁ご老体、血は流れども肉を抉ったのみ。死にたくなければ動かぬ
ことだ﹂
大地に横たわった老将軍グレッグにクリストファーは告げた。
胸部の鎧を貫かれてなおグレッグに息があるのは、クリストファ
ーが手心を加えたゆえのこと。
鎧を貫く勢いで繰り出した槍を、骨を砕かずに留めたのはまさに
神業である。
﹁さあ次は誰だ! それとも多勢にて我をなぶって見せるか! そ
れもよかろう! 我は騎士として、さらにはラシアの敬虔なる信徒
として、この命尽きるまで戦い抜いてくれようぞ! さあ匪賊共よ、
存分に恥を晒すがいい!﹂
クリストファーの大喝。
己が正当なラシアの信徒であることを唱えることで、相手にも誇
りある対応を迫ったのだ。
こうとなっては、教皇エヴァンスは配下の将をもって、一騎討ち
に応じる以外に道はない。
この戦いは、真の教皇を決める戦い。
1379
体裁というものが何よりも大事であるのだ。
﹁ぐうう⋮⋮! 誰か、あの異端者を討ち取ろうという者はおらん
のか!﹂
エルドラド教国軍の大将旗の下、台座の上で立ち上がり様子を窺
っていたエヴァンスは、怒り任せに御者を鞭で打ちすえながら叫ん
だ。
こののち配下の手練れが三名挑んだが、いずれもクリストファー
に土をつけることはできず、以後は誰一人として挑もうとする者は
なかった。
もはやエヴァンスにはどうすることもできない。
あとは、クリストファーが門前からいなくなるのを待つのみとい
ったところ。
だが、十日が過ぎようともクリストファーは門前に構え続けてい
た。
恐るべき気骨の士である。
クリストファーが立ちはだかる限り、エルドラド教国の軍は動く
ことができず、エヴァンスは仕方なく救いを外に求めた。
﹃勇将求む﹄
これを東方諸国連合の各軍に通達したのである。
数日後、各国軍の腕に覚えのある者たちが招集され、軍本部とな
る巨大な幕舎にて一堂に会した。
言うまでもないことであるが、後方支援に当たっていたサンドラ
王国赤竜騎士団団長ミレーユも、一人の武人としてこの会合に参加
している。
1380
﹁英雄たちよ、よくぞ集まってくれた。
既に門の前を見たであろう。クリストファーなる憎き賊将が我が
軍の侵攻を阻んでおる。私は礼儀という者をわきまえている。多勢
にて捻りつぶすのは容易であるが、一対一の勝負を望むのであれば
受けて立たずにはおれん。
そこで諸君らを呼んだ。誰ぞ、かの賊将を討たんとする者はいな
いか﹂
集まった各国の武将たちに、簡単にではあるが現在の状況を語っ
てみせるエヴァンス。
これを聞いたある武将は言う。
﹁クリストファーといえば、ジョスト︵一対一の馬上槍試合のこと︶
にて負けなしといわれた百戦錬磨の騎士ですぞ。ドライアドでも最
強と名高い戦士。簡単にはいきますまい﹂
ざわりとしたさざめきが、幕舎の中を支配した。
強者は強者を知る。
見せかけばかりのドライアドにあって、クリストファーなる本物
の武人がいるという話はここにいる多くの者が耳にしている。
﹁腰抜けどもめ! いいだろう、それならばこのエヴァンス・ホル
ト・エン・ブリューム自らが命に代えてもあの異端者を打ち倒して
見せようぞ!﹂
ガタリと椅子から立ち上がって、エヴァンスは吠えた。
勿論はったりである。
エヴァンスにそのような考えは毛頭ないし、この場にいる将軍た
ちもそれは理解している。
1381
しかし、実際にエヴァンスが腰を浮かして見せれば、その場にい
る者たちは止めざるを得ない。
万が一があってはならないし、武名を轟かせた騎士としてエヴァ
ンスにこうまで言われるのは恥以外の何物でもなかったのだから。
こうして、さらに二名の武将がクリストファーに挑むことになっ
たが、奮戦むなしくも敗れ去り、旧ドライアド諸侯軍の捕虜となっ
た。
◆
その日もクリストファーは門前にありながら、思考を巡らしてい
た。
︵既に七名の敵将を生け捕りにした。このままあと一ヵ月と少し、
いけるだろうか︶
圧倒していながらも、クリストファーの内心は不安でたまらなか
った。
東方諸国連合軍にはまだまだ猛将たちが控えている。
実力では劣るつもりはないが、連戦のうちに傷を負わないとも限
らない。
そうなれば、終わりだ。
己以外に立ち向かえる者はいない。
しばらくして正面の軍がやかましくなり、クリストファーも意識
をそちらへと向けた。
寄り手の軍より一騎が駆けてくる。
一騎討ちの新たな相手だった。
目を凝らして見てみれば、槍の代わりに一回り長い剣を握った、
1382
黒い髪、黒い鎧の女。
女であるということに思うところあって、クリストファーはわず
かに眉を動かしたが、すぐに考えを改めた。
しょう
ふ
戦時において男女などは関係ない。
勝か負か、生か死か。ただそれだけだ。
クリストファーは馬の腹を蹴って、女のもとへと駆けつける。
ややあって両者相対し、互いに手綱を引いた。
﹁俺の名は知っていよう。今更名乗る必要もあるまい。お前はなん
と言う﹂
まず口を開いたのはクリストファー。
これに黒い鎧の女が答える。
﹁アカリ・タチザワ﹂
﹁首刈り将軍か﹂
こくきたい
カスティール王国の精鋭部隊︱︱哭奇隊。
その将軍アカリ・タチザワについてはクリストファーも耳にして
いた。
荒くれ者たちを暴力で束ねる、女将軍がいるという話だ。
異名は首刈り将軍。
敵も味方も、自身の意にそぐわない者は等しくその首を刎ねるこ
とからつけられた名だという。
﹁相手にとって不足なし﹂
クリストファーは不敵な笑みを浮かべて、槍を構えた。
1383
すると剣を空高く掲げるアカリ。
なんだ、と思ったのも束の間、アカリの後方より砂塵が舞った。
敵軍より一部隊が動き始めたのである。
旗印はカスティール王国の紋章。
つまり、アカリが自身の部隊を動かしたのだ。
﹁貴様、一騎討ちの作法を蔑ろにする気か!﹂
﹁私には関係ないことだ。軍を止めたければ私を倒すことだな。も
っとも、私は逃げさせてもらうが﹂
言うが早いか、アカリはくるりと馬首を返して、軍のいない彼方
へと駆け去ろうとする。
アカリのまさかの行動に、一瞬あっけにとられたクリストファー。
しかし、自身もすぐに馬を走らせた。
追いつけないわけはない。
一日ごとに馬だけは変えていた。
どれも名馬であり、今日乗っていた馬も駿馬である。
加えて、己は馬に乗って育ったといってもいい。
対してアカリの乗馬は、それほどでもなかった。
あとは追いつき、討ち取るのみ。
クリストファーは自身の馬に呼吸を合わせながら、アカリの背を
追った。
その途端︱︱。
﹁なに!?﹂
クリストファーの視界がずるりと沈んだ。
1384
いや、と思い直す。
沈んだのは己の馬だ。
﹁落とし穴か!﹂
クリストファーが乗る馬の両前足が、ズブリと深みにはまってい
た。
さほど大きくない穴。それゆえに見抜けなかったのだ。
これを好機と見たか、馬を翻したアカリが迫ってくる。
クリストファーが選んだのは、槍を投げつけて敵の機先をずらし、
その間に馬を捨てて窮地から脱すること。
穴とそこにはまった馬を盾にすることで、クリストファーはアカ
こづか
リと距離を取り、第一刀を避けることができた。
隙をついて、小柄が飛んできたが、それもガントレットで弾きお
おせた。
クリストファーはすぐさま立ち上がり、腰の剣を抜いて万全の態
勢をとる。
するとアカリも馬を下りた。
﹁馬上の優位を捨てるか﹂
﹁生憎とこちらの方が得意なんでな。それより足元には気を付けた
方がいいぞ﹂
﹁⋮⋮ふん、しらじらしい﹂
落とし穴が誰の仕業であるかは明らかだった。
1385
卑怯者め、と罵りたいところであったが、それどころではない。
互いに構えてみればよくわかる。
この女は強い、とクリストファーは思った。
既に馬が抜け出し、空となった穴。
それを挟んで向き合っていた両者は、じりじりと横にずれながら
も、互いの距離を少しずつ詰めていく。
もはや互いが一歩踏み出せば必殺の間合い。
両者の踏み込みは同時であった。
﹁せいやっ!﹂
クリストファーの口から発せられた裂帛の気合。
瞬間、クリストファーは振りかぶった剣を、上段に打ち込んだ。
アカリがそれを横にいなして斬り込んでくるが、クリストファー
の絶技の神髄は恐るべき速さの重心移動にある。
どんな態勢からでも、間髪を入れずに重心を移動させることによ
り、最速にて必殺の二撃目を放つことができるのだ。
秒という単位すら遅く感じられるような速度で放たれた、クリス
トファーの切り返し。
これには、さすがの首切り将軍も攻撃を取りやめ、剣を盾にして
後ろに跳躍することしかできない。
だがこの時、戦慄していたのはクリストファーの方である。
︵切り返しは完璧なタイミングだったはずだ。何故あれを避けられ
る⋮⋮!?︶
その背中にジワリとしたものが滲んだ。
クリストファーは絞るように剣の柄を両手で握りなおし、構えを
1386
小さくする。
突きを主体とした、最短を狙う構えである。
︵避けられるのならば、避けられない剣を放てばいい︶
そう思って再び放った剣は、しかしまたしても剣でいなされ躱さ
れた。
どれだけ突こうが払おうが、中空を舞い散る花びらのように、ア
カリはひらひらとしてまるで手ごたえがない。
目の前の女は超絶した剣の技法と、動くもの全てを捉えきる驚嘆
すべき目を持っていたのだ。
﹁ぐっ﹂
やがて一瞬の隙をつかれ、アカリの剣がクリストファーの頬をか
すめた。
クリストファーは相手を遠ざけるように横一文字に剣を払い、自
身も後ろへと跳ぶ。
互いに距離を取り、仕切り直しとあいなった。
両者隙を窺い、ピリピリと張り詰めるような空気が流れる。
クリストファーが頬に受けた傷は、肉を裂き、頬から首元まで真
っ赤に染まっている。
重傷とは程遠い傷。
されど、流れ出る血と焼けるような痛みはクリストファーに命の
危機を感じさせていた。
︵面白い⋮⋮!︶
己の頬に傷をつけた目の前の女は、まごうことなき強敵。
1387
そのことがクリストファーの身体を奮起させたのだ。
これまで圧倒的力量差で敵を下してきたクリストファーである。
初めて目の当たりにした己よりも強いかもしれぬ相手に、もはや
自身の役割などどこに求めようもない。
内にあるのはただ一つ。
武芸者として目の前の相手と存分に戦い、見事討ち果たしてみせ
んという一心のみ。
︵俺は越えて見せるぞ、目の前の壁を!︶
どくりと高鳴る心臓。
血流が巡り、クリストファーの強い意志を全身へと運んだ。
それを受け取った細胞の一つ一つが、目の前の難敵に勝利し生を
掴もうと凄まじい力を発揮する。
﹁はあ!﹂
気合一閃。
クリストファーのが新たに繰り出した剣は最短最速でありながら
も、驚くべき重さを秘めていた。
続けざまに一撃、二撃、三撃。
圧倒的暴力の連続である。
剣撃は暴風と化して、いなす間すら与えずにアカリの剣にぶつか
った。
これには、先ほどまで涼しい顔をしていたアカリの表情も、苦し
気なものへと変わっていく。
この時、クリストファーの勝利は目前であったといえよう。
だが︱︱。
︵勝てる⋮⋮!︶
1388
そう思って次に放った一撃はしかし、わずかな鈍さを含んでいた。
この極限ともいえる戦いにおいて、それはあまりに致命的。
クリストファーは自身の体の変調と共に、一瞬で理解した。
﹁毒か﹂
そう呟いたとき、既にクリストファーは胸を貫かれていた。
あの頬をかすめた一刀。
あの瞬間、既に勝負は決していたのだ。
アカリの剣に塗られた毒は、頬から入り、血流によって全身を巡
り、五体の機能を不完全のものとしていたのである。
ドッと音を立てて崩れ落ちるクリストファー。
アカリはその首を両断し、それを手に軍へと帰っていく。
これぞまさに首刈り将軍の本領発揮であった。
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PDF小説ネット発足にあたって
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町をつくる能力!?∼異世界につくろう日本都市∼
2016年12月17日20時08分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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