...

ナルキッソス及びヘルメスとしてのクルル

by user

on
Category: Documents
15

views

Report

Comments

Transcript

ナルキッソス及びヘルメスとしてのクルル
295
ナ ル キ ッ ソ ス及 び ヘ ル メス と して の クル ル
ー 『詐 歎 師 フ ェ ー リクス・ クルル の告 白』――
三
枝
圭
(1992年 6月 22日
作
受理)
は じめに
トーマ ス・マ ンが フ ロイ トの『ナル シシズム入門』 を読んだのは,1925年 に フ ロイ トの著作集が
出た ときだ と推定 され る。 したが って ,マ ンの 『詐歎師 フ ェー リクス・ クルル の告 白』 (以 下 『告
白』 と略す)の 「子 供時代の巻」 の執筆 は,1910年 か ら1913年 にか けての時期 で あった とされてい
るので,こ の巻 においては フ ロイ トの影 響 は考 え られ ない。 にもかかわ らず ,そ こでは フ ロイ ト理
論 との共通 点がみ られ る。 この こ とは マ ンの『告 白』が ,彼 が後 に読ん だ フ ロイ トの理論 によって
裏付 けされてい ることを物語 ってい る。 以下 ,『 告 白』 にお けるナル シシズム を中心 に考察す る。
1
トーマ ス・ マ ンの描 く主人公たちの なかで ,何 らかの形でナル キ ッ ソスの面 影 を備 えて い るもの
は多 い。 トーマ ス・ ブデ ン ブ ロー クや ハ ンス・ カス トル プをは じめ,『 道化者 』 の主人公や若 き ヨ
ゼフにみ られ る Selbstgefdlligke比 ない し Selbstliebeは 容易 に指適で きる。 なかで も, ヴェニ スの リ
ドで ,老 作家 グスタフ・ ア シ ェ ンバハ を悦惚 とさせ るポ ーラン ドの美少年 タ ドゥツ ィォは,ナ ル キ
ッソスで もって描写 されてい る。
それ は水 に映 った 自分 の姿 の方 へ 屈み込 むナル キ ッソスの微笑 で あった。 われ とわが 美 しい
影 に腕 を差 しの べ る,あ の深刻 な, うっ とりした,誘 い寄 せ られ た よ うな微 笑 で あった。 ほ
んの少 し音 汁 を交 えたあの微笑であ った。 とい うの もつ ま り自分 の影のや さしい唇 に接吻す
るとい う望みはないか らなのだ。 なまめいて物珍 しげな,か す か に苦痛の色 を浮 べ た , うっ
とりとした,人 の心 をまどわせ る微笑であった。 (Ⅷ -498)つ
296
三
三
作
フ ェー リクス・ クルル は どうで あろ うか。彼 もまた この 「ナル キ ッ ソスの微笑」で周囲
を魅 了す る。
クルル も澄んだ水 に映 る 自分 へ の恋 に燃 える羊飼 いの少年 にほか な らない。 クルル は 自分 の少年時
代 を回想 して次 の ように語 る。
とにか く,己 は,自 分 が同輩 たちよ りももっと高貴 な素材でで きてい る,あ るいは よ く人が
言 うように,も っと良質 の木で亥Jみ あげ られ た人 間 だ とい うこ とに気 づか ず にはいなか った
のであって , 自惚 れ だ と非難す る人がい るか もしれ ないが ,己 は こ う言 い きって はばか らな
いので ある。 そ こい らの誰 彼が 自惚れ だ と言 お うが言 すまいが ,そ れ は己には全 くどうで も
いい こ とで ,も し己が , 自分 は十把一 か らげに数 え られ るよ うな安 っぽい人間 にす ぎない な
どと言 うとした ら,己 は低能か偽善者でなければな るまい。 (Ⅶ -273)
また,後 になって ヴェ ノス タ侯爵 との 「役割交換 」(Rolentausch)に よって 狂喜 した クルル は,こ み
あげて くる喜 びを次 の ように述 べ てい る。
理解 ある読者諸君 ,己 はほん とうに幸福 だ った。 己は己 自身が貴重 な者 に思 え,己 が い とし
か った 一― もちろん このい としみ方 は,自 分 自身 に対す る愛 を外 に 向け他人 に対す る好意 に
転化 させ る,あ の社会的 に意義のあるい としみ方 だ った。 (Ⅷ -523)
2
この 引用 にみ られ るように, クルルが ヴェノスタ侯爵
│の 「役割交換 」 で あれ ほ ど狂 喜 したのは
なぜか。 その秘密 は,神 話の少年が単 なる牧者 にす ぎなか った よ うに,彼 の全 く平凡 な血 統 にあっ
た。
しか し全 体 として己は血 統 に多 くを負 っていない と確 信 しないわけにはいか なか った。 そ し
て ,も し己が ,己 の一族 の歴史 には どこか知 らないが ある時点 において ,秘 密 な規貝J以 外の
因子が まぎれ こんでいて ,戸 籍 に とらわれ ず に見 た場合 ,己 の先祖 の なか には廷臣 とか貴顕
とかがい るとしなけれ ばな らない とい うふ うに想 像 した くなけれ ば,己 の長所 美点 の起源 を
明 らか にす るためには,自 分 の 内部 に思 い をひそめ るよ りほか はなか った。 (Ⅷ -329)
「役割交換 」 が この ような クルル の血 統 の欠 陥 を補 って くれ るや ,彼 のナル シシズムは
完成 され る。
調子 に乗 った クルル は,に せ侯爵 としてポル トガル 国王 に謁見 中 に, この世 の階 級 の存 在 の重要 性
ナル キ ッソス及 びヘル メスとしての クルル
297
をのべ たてて,さ すがの国王 をも唖然 とさせてい る。彼 はまず「尊 い生れ とい う恵 み」 (Ⅶ -609)
か ら始 めて 次の ように語 る。
・!民 衆 の健全 な本 能 を破壊 し,仕 組 み正 しい社会 秩
急進派 と自称す る分子 ………彼 らは……・
序 の必然性 に対す る生 まれ なが らの確信 を民衆か ら奪 い とって民衆 を不幸 にお としいれ る点
においての み,彼 らは民衆 とかかわ りをもつ ので ございます 。 … … ・彼 らは民 衆 の頭 のなか
:・
にまった く不 自然 な, したが って民 衆 には縁 のないあの平 等 の理念 を植 えつ け,家 柄 ,血 統
の差異 ,貧 富 ,貴 賤 の懸隔 を除去す ることは必 然 である………な どと………平凡 な弁舌 によ
って民衆 に妄想 を抱かせ ます。 ところが ,彼 らが除去 しようとす るその差果 ,懸 隔 を永遠 に
維持すべ く,自 然 は美 と結びつい てお ります 。 (Ⅶ -610)
しか し国王 は,に せ侯爵 クルル の この世 辞 を若者 の「無邪気 」 (Unschdd)と はみな して も,残 念 な
が らそのナル シシズムに は気 づいていないので ある。
3
ここで クルル の ナル シシズムをみてみ よ う。 彼 は徴兵検査の際 ,検 査場 に しつ らえ られ た仕切 り
のなかで ,一 人 になって シ ャツを脱 いだ とき,自 分 の エ リー ト意識 を挑発 され る。「 自然 が われ わ
れ を生み出 した状態 ,つ ま り裸体 は,平 等化す るもので ,裸 の人間の間 には もはや位階 も不公平 も
あ り得 ない」 (Ⅷ -355f)と い う世の常識 に反撥 す る。
この主張 は,た ちまち己の憤 怒 と反抗 とを 目ざめ させたが ,賤 民 には媚 び へ つ らうもので
,
彼 らには受 けいれ られ るのか も しれ ない。 しか し,こ れ はい ささか も真実で はない。 人 はお
そ ら くこの主張 を訂正 して ,正 真正銘の位階 は生 まれ たままの状 態 において こそは じめて設
けることがで きる,裸 体 は人類 の,本 来不公平 な,貴 族的 なものに好意が寄 せ られ てい る状
態 を明 らか にす る とい う意味でのみ公平 な もの と呼ぶ べ きもので ある, とい うこ とがで きる
であろ う。 (Ⅶ -356)
小 さい ときか ら,ク ルル は「 日曜 日に生 まれ た幸運児」 (Ⅶ -271)だ と家族の 日か ら言 い 聞か さ
れて きたが,自 分で も 「天の寵児 」 (Ⅶ -271),つ ま り「創造的 な力の寵 児 で あ り,ま さ し く特製
の肉 と血 とでで きた人 間 で あ る」 (Ⅶ -309)と 確信 してい る。 この子供 は「王 様 にな って 遊 が の
が好 き」 (Ⅶ -271)で ,「 今 日カール とい う名 の18歳 の王子 になろ うと決心す ると」 (Ⅷ -272),そ
三
こ
298
枝
作
の 日一 日じゅう「 自足的 な・ ……想像力」 (Ⅶ -272)を 楽 しむので
あった。後 の彼 の犯 罪行為 も
│・
,
「なには ともあれ ,己 の行 為 で あって ,そ ん じ ょそ こ
らの有象無象 の行為 ではない」 (Ⅶ -309)と
い う「 自惚れ 」 (Ⅶ -272)と なる。少年時代 の ある 日 ヴ ースバ ー ン
, ィ
デ での観劇 の際 に,平 土間
の観衆の 「愚か しい忘我状態 」 (Ⅶ -290)を 実 い ,後 年 パ リで
,連 れ の ク ロアチア人 ,ス タ ンコ と
見物 に出 か けて行 ったサーカスの特別 夜間大興行 に際 して も,彼 は まわ
りの「貪 るように眺 めて い
る群 衆」 (Ⅶ -456)を 嘲笑す る。 ス タ ンコ とぃえば,同 じホテルで
働 くクルル の同僚で あ るが ,ク
ルル の「 自惚れ 」 は この ス タ ンコに も向け られてい る
。
彼 はか な りご ろつ きめいていて ,国 籍不 明の感 があった。 それ よ りは
,白 い仕事着 を着 て
頭 に コ ックで ある こ とを示す高 い床 の帽子 をのせてい るほ うが ,ス タ ンコには
確か に似合 っ
て いた。 つ ま り働 く階層は 一― 街 を行 く市民 を手本 に した りして
一 「流行 を追 う」 べ き
で はなか ろ う。気 どって みて も泥 臭 さが 日立 つ ばか りで ,そ れで
容姿のひ き立 つ わ けが ない。
(Ⅶ
,
-454)
以上 の ようなクルル の Auserwahithe■ sdenkenは ,自 分 の「優雅 で人 きのす
好
る肉体」 (Ⅶ -271)
に も向け られ る。彼 は 自分 の Wohigestaltheitを 強調す る
。
すで に,芸 術家で ある己の名付親 シンメル プ レース ターの鑑定 眼 を満足 させて いた
己の体格
は,決 して遇 しい とい うのではなか ったが ,四 肢 も筋 肉 もす べ て
,普 通 は スポーツや身 体 を
鍛錬 して柔軟 にす る遊戯の愛好 者 にのみ見 られ るような,均 斉 の とれ た
模範的発 達 を してい
た (Ⅶ -328)
パ リで ,初 対面 の ス タ ンコにクルル は「お はか
前
わいい顔 を してい る」 (Ⅶ -401)と 言われ るが
へ
彼の 自分 の肉体 の賛美 は続 く。
,
金髪 に琥珀の肌 ,光 沢のある碧 い眼 ,日 元 につつ ま しい微笑 ,声 の
, ヴェール で も透 した よ
うな,か すか に頃れ た魅力 ,左 で分 け,ほ どょぃ高 さに して後 ろへ なで つ
けた髪 の絹 の よう
な きらめ き,こ れ らす べ て を持 っていた 己は,… … …愛す べ き存
… …… さ らに記 しておか なけれ ばな らないの は己 の皮
在 と見 えたにちがいない。
膚 の こ とで ,こ れ は異常 に傷 みやす く
きわめて感 じや すか ったか ら,… ……上質 の石 けん を使 うように
気 をつ けなけれ ばな らなか
つた。 (Ⅶ -328)
,
ナル キ ッ ソス及 び ヘル メスとしての クルル
299
髪 は「絹 の ように柔 か い金髪 」 (Ⅶ -273)で ,「 下等 な男の手 とは違 う己の忙 し く動 く手 」 (Ⅶ ―
473)は ,「 細す ぎもせず ,格 好 もよ く,決 して汗ばむ こともな く,ほ どよ く温 で ,か わ いてお り
,
優雅 な爪 」 (Ⅷ -273)が つ いてい る。 その声に いた って は ,「 耳 に こころ よい響 き」 (Ⅶ -273),
「耳 に ここ ろよい声」 (Ⅶ -325),「 己の声の こころ よい響 き」 (Ⅶ -329),「 気持 の いい 声」 (Ⅶ 一
437)と なる。 彼の Selbsthebeは ,自 分 の 「文体 の清 純」 (Ⅶ -323)や 「さっば りとして 好 ま しい
筆蹟」 (Ⅷ -265)か ら,次 の よ うな 「衣裳 の才 能」 (Ⅷ -284)│こ まで及ぶ と
いずれ の場合 にも,己 は本 来 その服装 を運命 をもって生 まれて いたかの よ うに思われ ,鏡 も
またそれ を保証 したので あ り,ま た,い ずれの場合 に も,み ん なの判断 に よれ ば,己 がその
とき代表 してい る範 ちゅうの典型的 な例 を示 したか らだ った。 それ ばか りか己の名付親 は
,
己の顔 が ,衣 裳や量 をつ ける と,そ の階級や風土のみ な らず ,そ れ ぞれの時代 にまでふ さわ
し くなるように見 える ことを指摘 した (Ⅷ -285)
後 に,に せ侯爵 た るクルル が ,ク ック ック教授の娘 ズーズーに よって ,彼 の Selbstgef』 hgkdtを 非
難 され るや ,む きになって反論す る。
お嬢 さん ,本 当 にあなたは意地が お悪 い。容貌 が ま ともだ と,そ の罰 に,美 しいものに感嘆
す る権利 を奪 われ なければな らないので しょうか。 (Ⅷ -591)
イギ リス貴族 キルマ ノ ック兜,の 「他人 を肯定す る能 力」 (Ⅶ -483)と しての「 自己否定 」(Selbst一
verneinung)と い う考 え方 に反対 して ,ク ルル が次 の ように述 べ る とき,ク ルル の ナル シシズムは
頂点 に達す る。
「 自己否定 とお っ しゃいますが」 と己は低 い声で言 った。「 ,,誰 しもそ うい うお考 えには承
服 も同感 もで きません 。 きっと強 い反論 をお受 け遊 ばすで しょう」 (Ⅶ -482)
'目
4
内 なる一 つ の声が ,人 と交 わ り,友 情 をかわ し,心 情 をあたた めるような仲間 をつ くる こと
は己の本 領 で はない,己 はただ一人 ,己 自身 を頼 みに して ,か た くなに捐介 な態度 をまも り
つつ ,あ くまで も己の特男Uな 行路 をすすみ続 けるので なけれ ばな らな い と,は や くか ら己に
告 げて いた。 (Ⅷ -372)
300
三
二
枝
作
ここに は,フ ラ ンクフル ト時代 ,そ の雑 沓のなかで ,意 識的 に孤独 に生 きよ うとす るクルル の
生活
信条の一 端が表現 されてい る。 これ は どうい うこ となのか 。孤独 こそは,ナ ル キ ッ ンスが 支紳わな
けれ ばな らない代償 だ ったので ある。 クルルの孤独 もナル シシズム と不可 分 で あ る。「孤独 の うち
に成長 しなが ら」 (Ⅶ -273),彼 の「夢想的 な実験や思索 は,あ の小都 市 の ,も っ とあ りふれ た
遊
びに熱中 していた同 じ年 ご ろの子供 や学校友達 か ら,己 を精神的 に孤立 させた」 (Ⅶ -276)が
,後
年のパ リ暮 しとなって も事情 は変 らない。
世間 とい うか上 流社会 とい うか ,そ うぃった ものに対す る己の 内的 な態度 は矛盾 だ らけ と言
わざるを得 ない。 上流社会 とあたたか く気心 をか よわせたい欲求 は十分 に持 っていたのに
,
その己の心の なか に慎重 な冷静 さ,言 ってみれ ば,見 くび った ような観察 を したが る気持 が
生 じて,そ れが 当人 の己を驚 か した。 (Ⅶ -491)
クルル の異性関係 も孤立である。 そ こでは一 時的 な性の関係 は あ って も,そ れが 持続的 な愛情 に
は至 らない。 彼 は 自分 の家の小 間使 の女 ゲ ノフ ェー フ ァとの最初 の性 の 出合 いにおいて
,自 分 の存
在の 「孤立状 態」 (Ⅶ -312)を 回想 してい る。 この点 で も,ク ルル は神話 のナル キ ッ ソス と似 てい
る。少年 ナルキ ッソスは 出の エ ンフ,エ ー コーの恋 を しりぞけるが ,ア ア°
ロデ ィテの怒 るところ と
な り,孤 独 な 自己愛 に陥 るのである。
ところで,こ の ような クルル の 自己愛 と孤立 は,他 者 の無関心 と離反 を招 き,「 自分 自身 に対す
る愛 を外 に向け他人 に対す る好 意 に転化 させ る」 (Ⅶ -523)と い うクルル の信念 と矛 盾 しないのだ
ろ うか。 この問題 につ いて は精神分析学が見事 に説 明 して くれ る。
ある人間のナル シシズムが , 自己の ナル シシズム を最大 限 に放棄 して対 象愛 を得 ようと努力
してい る別 の人 々の心 を大 き く引 きつ けるとい うことは,は っき りと認 め られ るように思わ
れ る。 子供 の持 ってい る魅力の大部分 は,そ の子供 のナル シシズム,自 己満足及 び近 づ きが
た さに基 いてい る。り
フ ロイ トはここで ,ク ルル のナル シシズムが社会 的孤立 には至 らない ことを裏付 けてい
る。 しか し
冒頭で も触れ た よ うに,少 な くとも『告 白』 の「子 供時代 の巻」 の執 筆時 においては,マ ンのあず
,
か り知 らぬ ところで あった。 この時点で は,マ ンは フ ロイ ト理論 の先取 りを していた こ とになる
。
したが って ,マ ンは フ ロイ トの学問 に よって ,後 に裏付 け られ る とい う光栄 に浴 す るわ けで あ る
が ,彼 は フロイ トに よって 全 く満足 させ られているわけで はない。 む しろ,自 分 の打ヽささと,芸 術
家が フ ロイ トの理 論 によって ,エ ックス線 をあて られ るような不安 を感 じるとい う意味の ことを述
ナル キ ッ ソス及 びヘル メスとしての クルル
301
べ て い る。の
5
フ ロイ トに よれ ば ,ナ ル シシズムは 自他未分化 の幼 児段階 の 1次 的 ナル シシズム と,自 己愛 と対
象愛 とが分 離す る段階の 2次 的 ナル シシズム とに区分 され る。 この分離 の不調和 の結果が 自己破壊
であ り,そ れ は初期幼児段階 のナル シシズムヘ の 自閉症的退行現象 とな って現れ る。 神話 の少年 ナ
ル キ ッンスは これ によって破滅す るので あ る。
つ
ここで クルル の場合 をみてみ よう。 マ ンは,「『告 白』 の最 も早 い先駆 けで あ る」 『道化者 』 の
なかで述 べ てい る。
不幸 とい うものはただひ とつ しか ないので ある。 それ は 自己に対す る好意 を失 うことだ。 自
分が もはや気 に入 らぬ とい うのが不幸 なので ある。 (Ⅷ -138)
『道化者』 の主人公 は,自 己愛 の生活 を送 ったあげ くに,自 己破壊 とはい えな い まで も, うえの よ
うな自己嫌悪 に陥 っている。 ナル シス的人間で ある この主人公 にあって は,自 己愛 と 自己嫌悪 とが
表裏 一 体 をな してい るので ある。 しか しなが ら,他 人 につ ね に賞讃 され ,愛 され るクルル の場合
,
彼 は 自己嫌悪 とはほ とん ど無縁 で あ り,そ れ は マ ンの他 の諸人物 に くらべ て極 めて 希薄 で あ る。 こ
の こ とはまた,ク ルル の生涯克服 され る ことのなか った幼児性 ,自 閉症的無邪気 さ と無関係で はあ
るまい。 ハ ンス・ ヴィース リン グの言 うように,ク ルル には子 供 か ら大人 へ の移行がみ られ ない。
彼 はあ らゆる点で子供 のままであ り,「 生涯 を通 じて子供 の ような夢想家 で あ った」 (Ⅷ -315)か
らで ある。 また, この点 に関 して は, クルル の 「明朗性」(Heiterkeit)に よると ころも大 きいが , こ
れ については次 章 で も触れ る。
この ように, クルル の 自己愛 は決 して 自己破壊 に至 る ことはない。 クルル に とって 自己愛 とは
,
「自分 が所有 して い ると考 える高 い優越 ,実 体 的 な高貴性 ,危 険 な抜控 の神秘 に よせ られ た素朴 に
して 高貴 な る関心 」 (Ⅸ
-69)で あるが故 に,彼 は回想録 ,つ ま り自叙伝 の執 筆 に没頭す る ことに
なる。
自己愛 はまたあ らゆる自叙伝 の始 ま りだ と付 け加 え られ よう。 自分 の生活 を固定 させ ,そ の
成行 きを記録 し,そ の運命 を文学的 に讃美 し,同 時代 と後代 との これ に対す る関心 を情熱 的
に要求す る人間的衝動 は,自 我感情 の非凡 な活 撥 さを前提 とす るか らで ある。 この活撥 さこ
そは,あ の 賢明 な言 葉 の とお り,あ る生涯 を 「小説的」 にす る。 (ユ ー69)
302
E三
作
6
ナル キ ッソス とともにヘル メス もクルル の存 在様式 を表す 神 で ある。 クルル は,自 分 が エ レベ ー
ターボーイ として働 いてい るパ リの ホテルで ,ウ プレ夫人 との情事 を楽 しむが,そ の最中 に彼女 は
クルル に 向って叫ぶ 。
おお ,神 様 。 お 前 は ほん とに美 しい 。 りん と して や わ らか な ,霧 もな い ,惚 れ ばれ す る よ う
な胸 ,す ん な りとの び た腕 ,愛 ら しい 助骨 ,ひ き しま った 腰 ,そ して ,あ あ ,ヘ ル メ スの足
。
`… …・ (Ⅷ -444)
しか し,ク ルル は「 自分が ヘル メスで あ りなが ら,ヘ ル メスが何 ものか知 らない」 (Ⅷ -448)。 そ
こで彼女 は,「 言 って あげるわね ,か わ いい お 馬鹿 さん ,ヘ ル メスが何 もの なのか
。 ヘ ル メスは泥
棒 たちの ,お 日の上 手 な神様」 (Ⅶ -444)と 言 うので ある。
ヘル メスは,狡 猾 さや す ば しこい頭の働 きな どに よって
,商 業者 ,交 易通商 ,そ の他 す べ ての蓄
財の道 あるいは物 を盗 む技術 ,泥 棒やす り詐歎犯 ,収 賄者 な どの守 り神 とされ る。 しか し,彼 は こ
の ような悪が しこい相貌ばか りでな く,一 方 で は,か のオ リュ ンピアに ある世 に有名 なヘ ル メス神
像の優雅 さにおいて も知 られてい る。
ギ リシアの神の この二 重造形が,Doppeinaturと しての クルルの Hochstaplertumと Wohigestaltheit
におい ていろい ろな形 で現れて い る こ とはい うまで もな い。 彼 は詐敷 師 に して , Gδ tterkindで も
あるので ある。 しか も,後 者の Gtttte』 ieblingと しての クルル にみ られ る 「 明朗性 」 につ い て は
マ ンの 『
「 フ ァウ ス トゥス博士 」 の成立 』 のなか に,「 冗談 と真面 日との彼
克服 とい う意味での明朗性 とい うこ と」 (
,
岸 とい う意味での ,現 実
-159)と い う記 述があるが ,こ の「 明朗性」 に よって
,
仕事 と規律 ,絶 えざる精神的緊張 に疲れ はててい るア シ ェ ンバハ の反対 像 としての クルル 像が成立
す るので ある。 クルル には もはや「認識 の 嘔吐」(Erkentnisekel)は 存在せず ,す べ て の 苦悩 は 明 る
い微笑のなか にか き消 されて しま う。
『詐 数師 フェー リクス・ クルルの告 白 ―一 回想 録 の第 1部 』 は,ゲ ーテの『 フ ァウ ス ト』 の如 く
トー マ ス・ マ ンの最後 の長編小説 として 書 きあげ られ た。前章 で述 べ た ように, 自己愛 は 自叙伝 の
,
始 ま りで あって ,ナ ル シス トの クルル は 自分 の 自叙伝 を書 くのだが,こ れ は クルル の 自叙伝 であ る
と同時 にマ ンの 自叙伝 で もある。 フェ ー リクス・ クルル は,ハ ノー・ プデ ン プ ロー ク,「認 識 の 嘔
吐」 に顔 をゆがめてい る トーニ オ・ ク レーゲル ,若 き ヨゼ フ,『 道化者 』 の主人公 な どの ,明 る く
こっけいにゆがめ られ た形での反対像 である。 しか し,ヘ ル メスの生れかわ り,つ ま りDoppelnatur
としての クルル は,こ れ らす べ ての主人公た ちの像 で もあるのである。 そ して , クルル をは じめ
,
ナルキップス及 びヘルメスとしてのクルル 303
彼らはすべてマンの分身であり,自 画像である。
注
リ
トーマス・マ ンの著作の底本 としては下記を用 い!本 文中の引用 (訳 束)に はそ│の 巻数 とベージを
(Wlll-49働
の
形で記 した。
Thomasl Mann ilGesammelte Werke in dreizeh Bttden,FrankFun am Mal■
からの引用については,邦 訳
なおiマ ンの作品―
(「
1つ
イ4.
トーマス 'マ ン全集」新潮社 1972年 )の 訳文を借屈 している。
2)Sigmund Fre■ 1,Zur Einfiihrung in den NaFZiBmus・ れ :pers‐ ,Gesalnmё l絶 SchFi儘,I Letpzig,Wien,Zlirich 1925,
Vl.Bd..S1271.
3)hterview m■ Thomas Mann:が 】e
Krise des deutsche■ Romans“ i in i"Hamburger FFendenb監
―Mann― ArcH▼ der ETH ZilriCh.
4)k・ シュレ‐ター :「 トィマス ●マン」 鰹 想社)S1203.
正
aむ ,1925-Thomas
Fly UP