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戦時下の《1943年夏》を語る
戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る 戦 時 下 の 《1943年 夏 》 を 語 る 一創 価教育学会の弾圧の前 後一 高 崎 昭 和16年 一 隆 治 開戦 前 夜 高崎 で ご ざ い ます 。 配 布 の 年表(次 ペ ー ジ を参 照)は 読 め る で し ょ うか?下 手 な 字 で急 い で 書 い た もので す か ら、 どこか 字 が 間違 っ てや しない か 心配 です が 、 昭和!6年 か ら18年 の主 な情 況 を並 べ ま した 。 本 当 にお 話 し した い の は、 実 は18年 で す。 けれ ど、18年 の こ とを突 然 に説 明 して も、「そ の前 は ど うだ っ たん だ ろ う?ど う して こ うい うこ とに な っ た ん だ ろ う?」 とな る と困 る の で 、太 平 洋 戦 争 に 入 る年 とい うこ とで16年 か ら書 き ま した。 最 初 に、「 近 衛 メ ッセ ー ジ→ 米 大 統 領 」とあ ります が、これ は 当時 の総 理 大 臣 で あ る近 衛 文 麿 が 、 日本 側 の 考 え をア メ リカ 大 統領 に伝 えた 、 とい うこ とです 。 そ れ が16年 の8月 。 なぜ この よ うな 手 紙 を渡 した か とい うと、 この時 ア メ リカ と 日本 の通 商 条 約 が 廃 棄 され て い る わ けで す 。 ア メ リ カ側か ら 「 通 商 条 約廃 棄 」 とい う通 告 が あ っ た わ け です けれ ど、 そ れ は 「中 国 の戦 場 か ら、 日本 軍 は引 き揚 げ ろ」 とい うこ とを、 ア メ リカ ・イ ギ リス が連名 で 、 日本 に迫 って い る。 そ れ に 対 す る返 事 が 近衛 メ ッセ ー ジ です 。 内容 は 、 「 引 き揚 げ る わ け には い か ない 」 とい うも ので 、そ れ をア メ リカ の 大統 領 、 当 時 はル ー ズベ ル ト、 に 送 っ た わ けで す。 ア メ リカ の要 求 を容 れ な い 、認 め な い とい う返 事 です か ら、 こ の段 階 で 、 ア メ リカ との戦 争 は 時 間 の 問題 、 とい うこ とに な りま す。 昭 和16年 、当時 の 僕 は 中学校 の4年 生 で す(昔 の 中学 は5年 ま で で す)。そ の 時 に 僕 が 思 っ た の は 、「日本 に は偉 い人 が大 勢 い るは ず だ か ら、ま さか戦 争 なん て い うこ とは 考 え られ な い。今 に な ん とか うま く妥結 され る だ ろ う」 とい うこ とで した 。 国 民 の 、 お そ ら く99%は 、僕 の よ うな考 え 方 で あ っ た と思 い ます 。 とこ ろが 、違 い ま した。 年 表 の2行 目に 「 御 前 会 議 」 とあ ります ね。 こ れ は 天 皇 の 前 で 、 総 理 大 臣 を は じめ、 陸 海 軍 の トップ ク ラス が 集 ま っ た会 議 で す 。 そ の 内容 は 、 「10E下 旬 を 目標 に、 戦 争 準 備 を 万端 にす る」 とい うもの で した。9月6日 に決 定 され た と され て い ます 。 と ころ が 、国 民 はそ れ を知 らな い わ け です 。第 一 、 「 御 前 会議 」 とい うも のが あ る、 な ん て こ とも知 らない 。 した が って 、 「 ア メ リカ と うま くい か な い よ うだ け ど、な ん とか な る ん じ・ や な い か な」 な んて 思 って い た わ け です が、 当時 の 状況 を冷 静 に見 て み る と、 これ は何 か 危 ない そ とい うこ とが 分 か りま す 。 RyujiTakasaki(戦 時 文 学 研 究 家) *本 稿 は 、創 価 教 育 学 研 究 会 特 別 講 演 会 で の講 演 「 戦 時 下 の 《1943年夏》 を語 る」(2011年7月13日 価 大 学)に 加 筆 ・訂 正 を した もの で あ る。 一194一 、於:創 創価教育 第5号 年 表 昭 和16年 ・近 衛 メ ッ セ ー ジ → 米 大 統 領(8月) ・御 前 会 議 「 対 米 英 戦 争 準 備 」(10H下 旬 を 目途) ・大 学 ・専 門 学 校 等 修 業 年 月 短 縮(10月) (16年 度 三 か 月 ・17年 度 六 か 月) ・対 米 英 戦 争 決 定(御 前 会 議 ・12月1日) 昭 和17年 ・ 日本 本 土 初 空 襲(4 ,18)ノ ・ミ ッ ド ウ ェ ー 海 戦(6月 ・ソ ロ モ ン海 戦(第 (沈 没)戦 艦2、 ー1ア ∼)日 メ リカ ンB25陸 上 機 に よ る 本 側 空 母4隻 沈 没(全6隻 一 次 ∼ 三 次)8月 重 巡3、 ・金 属 回 収 令(7月)女 中) ∼11月 駆12、 潜4、 輸23、 飛 千 九 百 機 、 搭 乗 員 二 千 名 戦 没 学 校 外 国 語 随 意 科 目(7月) 昭 和18年 ・米 英 音 楽 演 奏 禁 止(IH)ガ ・連 合 艦 隊 司 令 長 官 戦 死(4 ダ ル カ ナ ル 島 撤 退(2月) .月)ア ッ ツ 島 全 滅(5月) ・未 婚 女 子 勤 労 挺 身 隊 へ 動 員(9月) ・学 徒 徴 兵 猶 予 停 止(10E)学 徒 出 陣 式(10 ,21) ・マ キ ン 島 タ ラ ワ 島 の 日本 軍 全 滅(11E) ・兵 役 法 改 正 ・満20才 を19才 に 改 め た 。(12月)丙 種 に も適 用 。 年 表 の3つ 目 を見 て くだ さい。10月 に、 「大学 ・専 門学 校 等 修 業 年H短 縮 」 が あ りま す。 どの く らい短 縮 した か とい うと、 昭和16年 度 の 場 合 は3か 月。 卒 業 が本 来 は3月 なの に 、前 年12月 に卒 業 、 とな りま す 。 翌 年 は 、6か 月 も早 ま って い ま す。 昭和18年3月 に卒 業 す るはず の 者 を、17年 の9月 に させ る。こ の大 学 ・専 門学 校 な どの 教 育修 業 年 限 を短 縮 させ た とい う事 実 か ら、「な に か 起 き る ので は?」 と考 え るべ きで す ね。 とこ ろが 、僕 は、 「中国 の戦 場 で 兵 隊 が足 りない か ら、学 生 を早 く卒 業 させ て 、 中国 の 前線 に送 ろ うと考 えて い る の か な」 と、 安 易 に 考 えて い ま した 。 年 表 の次 の項 目は 、対 米 戦 争 を決 定 した16年12月1日 の御 前会 議 で す。12月1日 に、 「12月8日 に開 戦 をす る」 って い う決 定 を御 前会 議 で行 って い る。 これ も僕 らは ま った く知 らない わ けで す 。 開 戦 当 日5つ の予言 そ の朝 、登 校 しよ うと して 電車 に乗 った ら、 海 軍 の 将校 が5人 も10人 も どや どや 乗 って きま し た。 不 思議 な こ とに、 そ の 全 員 が 日本 刀(軍 刀)を 、 紫 の袋 に入 れ 持 って い た の です 。海 軍 の 将 一195-一 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る 校 とい うの は 、平 常 は短 剣 を 吊っ て い る はず です 。 そ れ が 、 そ の 日は 、紫 の袋 に 入 れ た長 い 日本 刀 を持 っ て い た。 しか も 、電 車 に乗 る ときに で す。 「なん だ 、 これ は?」 と思 い ま した。 私 が 通 っ て い た 中学 校 は 、俗 に 「 海 軍 学校 」 と言 われ て いた逗 子 開成 中学(昔 の 開成 二 中)と い う学 校 で す。 な ん で海 軍 学 校 と呼 ばれ る か とい う と、校 長 は横 須賀 海 兵 団 の 団長 で あ っ た 人。 教 員 は 、30 人 か ら40人 く らい い る 中の 十数 名 が 、海 軍 の元 将校 。 だ か ら、 海 軍 学 校 と呼 ばれ て い ま した。 海 軍 将 校 がた くさん 電 車 に 乗 っ て い る の は不 思 議 で は な い ので す が 、 そ の 日に 限 っ て、 軍 刀 を持 っ て乗 っ て きた わ けで す 。 と ころ が世 の 中 には お っ ち ょ こち ょい の 人 が い て 、背 広 を着 た 中年 男 性 が、 大 声 で 「と うと うや りま したね 。 ア メ リカ な ん て 、イ チ コ ロで し ょ う」 と、 言 うので す 。 海 軍 の将 校 た ち は 、返 事 をせ ず に黙 っ て い ま す。「ど うです か?一 週 間 く らい で ケ リが つ くん じゃ ない で す か?」 と男 が訊 ね て も、将 校 は み ん な堅 い表 情 で何 も言 わ な い。 この と き僕 は 、 「 戦争が 始 ま った 」 と思 い ま した。 そ して 、 そ の 変 な男 は、 海 軍 将校 た ち が何 も言 わ ない もの だ か ら、竹 刀 袋 を持 っ て い た僕 に 、「君 は剣 道 部 か 。が ん ばれ よ。 ア メ リカ な ん か に負 け るな 」 と言 っ て き ま した 。 僕 は海 軍 将校 に な らって 相手 に しませ んで した 。 余 計 な こ とを い うよ うです が 、 そ の 日の夜 、僕 は 親 の前 で 、戦 争 の見 通 しを5つ 言 い ま した。 「 ①東 京 、横 浜 は焼 け野 原 にな る」 「② そ の前 に頭 の上 に原 爆 が落 ち る」 「 ③ そ の 直前 に ソ ビエ トが 戦争 に参 加 して く る」 「 ④ しか しそ うな る前 に、 俺 は戦 場 の どこか で 死 ん で い る」 「 ⑤ 戦 争 は昭 和20年 に 終 わ る」 の5っ です 。 当た らな か った の は、 ④ の 僕 の 戦 死 の み で、 あ とは 全 て 当 た りま した 。 この 見 通 し は 、い い 加 減 で は な い の です 。例 を少 し挙 げ ます 。さっ き触 れ ま した 、教 員 の海 軍 将 校 の なか に、 戦 艦 の機 関 長 が い ま した。国 枝 三郎 とい う大 佐 で す が 、そ の 人 が 開 戦 の 直前 に言 うには 、 「日本 は 軍 艦 を動 か す の に 必 要 な重 油 を2年 分 しか持 っ て い な い。 だ か ら戦 え る の は2年 問 だ 。 そ れ 以上 や る と負 け る」の だ と。僕 の計 算 で す と、「戦争 を始 め た ら何 割 か の 日本 の軍 艦 は 沈 む か ら、2年 分 の備 蓄 は い く らか残 る だ ろ う。 だ か ら1年 足 して 、3年 間 は戦 え る。17・18・19年 の3年 聞。 しか し、昭 和20年 に 日本 は負 け る」。 こ うい う推 理 で す 。そ れ か ら、 「 原爆 」です が 、当 時 、『フ レ ッ シ ュマ ン』 とい う中学 生 向 けの月 刊 誌 が あ りま した。後 の英 語 廃 止 に よ って 、『新 人 』 と改 題 さ れ ま した けれ ど も、 こ の雑 誌 の 昭和16年 の9月 号(と 記憶 して い ます が)に 、原 爆 の こ とが書 い て あ りま した。 残 念 なが らそ の 号 は 、僕 が兵 隊 に行 っ て い る 間 に 、弟 が 誰 か に あ げ た ので 、 い ま 正確 な 引用 が 出来 ま せ ん が 。なん と書 い て あ っ た か とい うと、「ロ ン ドンや ニ ュー ヨー ク とい っ た 、 大都 市 が理 論 的 に一 発 で ふ っ とぶ 爆 弾 が あ る」 と。更 に、 「これ を発 明す るの は どこ か?そ れに は条 件 が2つ あ る。 ひ とつ は世 界 一 の経 済 力 、 も うひ とつ は世 界 一 の頭 脳 。 この2つ を持 つ 国 が 発 明す る」 の だ と。 「 今 度 の戦 争 は(こ れ は 、太 平 洋 戦 争 で は な く、欧 州 大 戦 の こ とで す)、 ど こ の 国 がそ の原 爆 を先 に 作 るか?そ れ で 決 着 が つ く」 と。 僕 は これ を読 ん だ 時 に、 顔 色 が 変 わ る ほ どび っ く り しま した。 とい うの は 、 「 頭脳 」の 点 で 当 時世 界 一 は 、 ドイ ツ とい われ 「 経済」はア 一196一 創価 教育 第5号 メ リカ 。 とな る と、 そ の2つ の 条件 で い え ば 、発 明す るの は ア メ リカ に決 ま って い ます 。 なぜ な ら当時 の 新 聞 は 、 ドイ ツ の有名 な科 学者 が次 々 に ア メ リカ に 亡命 して い る こ とを報 道 して い ま し た 。 亡 命 者 の名 前 はみ ん な忘 れ て しま い ま した けれ ども、 ドイ ツ の科 学 者 の少 な く と も10人 か ら 20人 が ア メ リカ に 亡命 してい ま す 。 こ うな る と、原 爆 はア メ リカ が 作 ります よね 。 敗 戦 時 、 日本 人 の99,9%が 「 原 爆 」 の こ とをま った く知 らな か っ た 、 とい い ま した が 、僕 に はそ れ が い ま で も 信 じ られ ませ ん。 当 時 、 中学 生 だ った 人 間 が知 っ て い た ので す か ら。 昭 和17年 一 初 の 空襲 太 平 洋 戦 争 が 始 ま り、翌17年 に 入 る と、ア メ リカ の ノー ス ア メ リカ ンB25と い う陸上機iが、東 京 ・ 横 浜 ・神 戸 あた りに 初 の 空襲 を します 。 日本 人 も愚 か だ と思 うん で す が 、 ハ ワイ あ た りか ら 日本 ま で爆 撃 を して帰 って行 け る飛 行 機 は存 在 しない 。 だ か ら、ア メ リカ の 長 距 離爆 撃機 は 日本 に来 な い 、 と考 え てい ま した。 軍 部 もそ うな ん です 。 とこ ろが 、B25は や って 来 ま した。 ど うや っ て来 た か とい う と、航 空 母 艦 に積 まれ て 、 です 。 陸 上機 とは 陸上 爆 撃 機 の 略 で 、 そ れ は 陸上 の基 地 か ら出発 す る もので す 。 そ れ に 対 し、艦 爆 とか艦 攻 とい うの は 、航 空 母 艦 か ら発進 します 。 日本 で は、 陸 上機 は航 空 母 艦 に絶 対 に積 め な い 、 と言 われ て い ま した が、 積 む 数 を減 らせ ば 、積 め る の で す 。 で す か ら、陸 上 機 に よ る空 爆 は あ り うる ので す 。4E18日 に、 僕 は 中学 の創 立記 念 日で 、 家 にい ま した。す る と、頭 の真 上 を 、高 度500メ ー トル 位 で 、東 京 方 面 か ら横 浜 へ 向 か っ て 来 ま し た。 翼 の下 に は 、 ア メ リカ 軍 の マ ー クが あ りませ ん で した(マ ー ク が塗 りつ ぶ して あ っ た の で)。 下 か ら500メ ー トル く らい の 距離 です か らよ く見 えま した。そ れ は頭 上 を通 過 して 、横 須 賀 方 面 に 行 っ た んで す が 、横 須 賀 もこれ に よ って爆 弾 を 何発 か落 とされ て い ます 。 そ の こ とは 後 で わ か っ た こ とで 、 当時 は 絶 対 に空 襲 は ない と信 じて 疑 わ な か っ た、 とい うこ とです 。 民 間人 な ら と もか く、 軍 人 もそ うで した。 あ ん ま り軍 人 の 悪 口言 っ ち ゃ い け ない と思 うん です が 、僕 の女 房 の 父 親 とい うの は職 業 軍 人 で す。 次 の と ころ を見 て くだ さい。 「ミ ッ ドウ ェー 海 戦 」が17年6Aに あ ります 。 ミ ッ ドウェー は ア メ リカ の領 土 で 、 ち ょ うど 日付変 更 線 のす ぐそ ばで す 。 こ こで 日本 の 海 軍 は総 力 を あ げ て、 ア メ リ カ 海 軍 と戦 い ま した 。 戦 争 が始 ま る前 、 ア メ リカ に航 空母 艦 が何 隻 あっ た か とい い ます と、7隻 で した 。 日本 は6隻 。 この 時 そ の6隻 の うち の4隻 で 日本側 は 出動 しま した 。 ア メ リカ側 は 、7 隻 の うちの6隻 だ とい う説 と5隻 だ とい う説 が あ りま す 。結 果 は 、 日本 の航 空 母艦 、4隻 全 部 が 沈 没 で す 。 ア メ リカ は こ の時 に1隻 しか失 っ て い ませ ん 。 ア メ リカ に は まだ 残 り6隻 あ ります が 、 日本 に は あ と2隻 しか ない 。 しか し、 この2隻 の うち の1隻 は 、 ミ ッ ドウ ェー 以 前 に沈没 して い ます 。オ ー ス トラ リア の 近 くに珊 瑚 海 とい う海 が あ り、そ の 珊瑚 海 の海 戦 で、 日本 の空 母2隻 の う ち 、1隻 が沈 没 し、1隻 が か な り傷 ん で い ま す。 結 局 、空 母6隻 の うち 、5隻 が ダ メ にな り、 残 りは大 破 した1隻 です 。 ア メ リカ が失 った の は1隻 だ け。 こ うい う結果 です 。 年 表 の昭 和17年 の 「沈没 」 とい う項 目を ご覧 くだ さい。 戦 艦 が2隻 、 一等 巡 洋 艦(重 巡)が3隻 、駆 逐 艦 が12隻 、 潜 水艦 が4隻 、輸 送 船 が23隻 、空 母 以 外 に も これ だ け沈 ん でい るの で す 。 これ で は 、 も うほ とん 一197一 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る ど戦 争 に は な りませ ん。 こ こで戦 争 を止 め てい た ら、 原爆 は落 ち な か った 、 と僕 は 思 うん で す 。 戦 え な い はず の状 況 で あ っ た 日本 は、 そ の時 に何 を した の か?そ れ は 同年7Hの 「金 属 回 収 」 です 。 お寺 に鐘 が あ りま す よね。 そ れ か ら、 銅 像 、 あ るい は橋 の欄 干 の手 す り、 そ うい うもの を み ん な 回収 して 、 軍艦 や 戦 車 を作 る。 女 学 校 で は、 外 国語 を随 意 科 目に して 、や っ て もや らな く て も い い よ うに した。 昭 和18年 一 学 徒動 員 翌 昭和18年 に 入 る と、 ア メ リカ や イ ギ リス の 音 楽 は演 奏 自体 が 禁 止 され ま した。 プnだ け で は あ りませ ん、 ア マ チ ュ ア で もで す 。 ア マ チ ュア で も、演 奏 して い るの を 聞 か れ た ら、特 高 に 「ち ょっ と来 い 」 と言 われ て 、ひ っ ぱ られ ます 。2Hの 「 ガ ダル カ ナ ル 島撤 退 」(ガ ダル カナ ル とい う の は 、ニ ュ ー ギ ニ ア の南 に あ る ソ ロモ ン諸 島 の一 つ です)。 これ は 前 年8月 か らや っ て い た戦 い で す が、 結 局 は 撤 退 します 。 日本 軍 とい うの は い い か げ んで 、 撤 退 した の に 「 退 却 」 と言 わ な か っ た。 「 退 却 」 と言 わ な い で 「 転 進 」 とい う。 こん な 言葉 は 、本 来 あ りませ ん。軍 が作 っ た誤 魔 化 し で す 。 そ ん な言 葉 は 今 で も、 よ く使 わ れ ま す ね。 「 深 刻 」 とか、 「 想 定 外 」 とか。普 通 、 「 深刻 」 と い うの は、時 間 的余 裕 が あ る とき に使 われ る もの です 。で も、い ま 問題 の原 発 事 故 な どは 、「 危 険」 とか 、 「 危機 」 と言 うべ き です 。 今 も昔 も、政 府 は 「 言 葉 」で 「状況 」 を誤 魔 化す の で 、注 意 が必 要 で す 。 さて 、 ガ ダル カ ナ ル 島 撤退 は 「18年2月 」 です が 、17年10月 の 時点 で、 も うダ メだ と言 わ れ て い ま した。17年 の 秋 に 、横 須 賀 海 兵 団 の剣 道 の師 範(こ の人 は私 の 中学 の剣 道 の 師 で も あ りま す)か ら、 「日本 は負 けた。 ガ ダ ル カ ナ ル で負 け た。お 前 た ち、覚 悟 す る よ うに 」 とい うふ う に言 わ れ ま した。 「間 もな く戦 場 に行 くこ と にな るか ら、死 ぬ 覚 悟 をせ よ」 と。 18年4月 に は 、連 合 艦 隊 司令 長 官 が戦 死 して い ます 。 そ して5月 に は、 ア ッツ 島(ア リュー シ ャ ン列 島 の 中 に あ りま す)の 守備 隊約3000人 が全 滅 で す 。9月 に 、未 婚 の女 子 は 、 国 の 勤 労挺 身 隊 へ 動員 。IO月 に な る と、 学徒 の徴 兵 猶 予 が停 止 され ま した。 それ まで 大 学 生 の場 合 は 、24歳 ま で 徴兵 が猶 予 され て い ま した。 猶 予 停 止 に な る と、20歳 以上 で あれ ば、 学 生 で あ ろ う と有 無 を言 わ さず全 員 兵 隊 とな りま す。 政 府 は昔 か らいい 加 減 だ か ら、そ の時 兵 隊 に取 られ た数 は い ま だ に わ か りませ ん が、 約10万 だ ろ う とい われ ます 。 一 応 、 理科 系 の学 生 は猶 予 され ま した が 、文 科 系 は全 員 で した 。 僕 は18年 に は大 学(予 科)一 年 生 で!8歳 で した か ら、 この 時 に は 引 っ か か りませ ん で した。 た だ 「あ と2年 だ な。2年 で死 ぬ こ と にな るな」 と思 って い ま した。10月21日 が 「 学 徒 出 陣」 です 。東 京 、神 奈 川 、千 葉 、埼 玉 の学 生 約38000人 が 神 宮 外 苑 に集 め られ ま した。大 規 模 な セ レモ ニー で す 。僕 は この 時 、見 送 る側 にい ま した 。 けれ ど、 同 じ年 の12月 に何 が起 き た か。 徴 兵 年 齢 が19歳 に引 き 下 げ られ たん で す 。翌19年 、僕 は 学徒 兵 と して 引 っ 張 られ ま した。 「あ と2 年 」ど ころで は あ りま せ ん で した。これ に引 っか か っ た の は、大 正14年 生 まれ と15年 生 まれ です 。 だ か ら僕 は、 未 青 年 で兵 士 に した 日本 政 府 に貸 しが あ る と思 って い ま す。 学徒 兵 とい う と、 将 校 だ と思 っ てい る よ うで す けれ ども、 僕 はた だ の 兵 隊 で す。 志願 を して いれ ば特 甲幹 とい って 、 い き な り下 士 官 にな れ る ん です 。 伍 長 とい うと、 下 か ら5番 目、 他 に は も うひ とっ 、 特 操 とい うの 一198一 創価教育 第5号 が あ ります 。 これ は航 空兵 で、 これ に志願 す る と、 見習 士 官 に なれ ま す 。 逆 に志 願 を し ない や っ は、 日本 軍 の 伝 統 で 人 間 とは扱 われ ない。 つ ま り、 志願 す る と有 利 なわ け で す が 、僕 は こ の志 願 した 連 中 を憎 み は しませ ん。 彼 らのす べ て が 、 階級 が 上 に な って 、 楽 を し よ うと思 った わ けで は あ りませ んか ら。 この 昭 和18年19年 とい うの は 、負 け る公 算 が99%の 時 な ん です 。 だか ら志 願 し た 者 の あ る一 部 大部 分 と思 い ます けれ ど も、少 しで も頑 張 って 、 停 戦 あ るい は終 戦 、 講 和 の 条 件 を 、い く らか で も有利 な もの に しよ うと考 えて 、志願 した の だ と思 い ま す。そ うい う人 物 が 、 僕 の 同級 生 に いま した 。 です が 、僕 はそ うい う志願 は しな か った 。 殺 す の は嫌 だ し、殺 され る の も嫌 で したか ら。 そ の 代 わ り、兵 士 と して ひ どい 目に遭 う こ とに な りま した。 『大 東 亜 戦 争 二 伴 フ 我 ガ 人 的 國 力 ノ 検 討 』 年 表18年 の最 後 に 「丙 種 に も適 用 」 とあ りま す ね 。 徴兵 検 査 は 、 甲 ・乙 ・丙 ・丁 ・戊 の5毅 階 で 、こ の 乙 に は第1∼ 第3と あ ります 。現役 兵 とい うの は 、甲 と 乙だ けな ん です よ。それ 以外 は 、 体力 的 な 問題 で 、本 来 は 兵役 免 除 に な りま す 。 戦 争 が で き る よ うな身 体 で は な い の です 。 そ ん な 人 を兵 隊 に 引 っ 張 る よ うにな っ た の です 。19年 の 暮 に僕 は兵 隊 に され ま した が 、20年 の4Hに 、 大 正15年 生 まれ の初 年 兵 が 入 っ て き ま した 。 僕 の分 隊 に6人 入 っ て き ま した が 、1か 月 も っ た の は 一 人 もい ませ ん。 み ん なた ち ま ち ダ ウン しま した 。 戦 後 に確 か め た ら、 ひ と りを 除 い て 、戦 争 が 終 わ っ て1年 か そ こ らで 死 ん で い ます 。 戦 争 な ん かで きっ こな い人 間 まで 兵 隊 に す る。 ど う し て そ うい うこ とに な っ た のか 。 戦 局 が悪 化 した か ら無 理 や りに集 め た とい う訳 で は な い ん です 。 こ こ に 『大東 亜戦 争 二伴 フ我 ガ 人 的 國カ ノ検 討 』 とい う資料 が あ ります 。 「軍機 取 扱 極秘 」 とい う 判 が 押 して あ る資料 です 。 これ を見 る と、 そ もそ も 日本 に は 充 分 な戦 力 が な い こ とが 分 か ります 。 た とえば 昭和17年 、 こ れ は太 平 洋 戦 争 が 始 ま っ て 間 もな くで す が 、必 要 な兵 力 は350万 とあ る。 前 年16年 の兵 員 数 は250 万 で す 。17年 に350万 人 だ と、100万 の増 員 が必 要 に な る。 この350万 とい うの は 、 日中戦 争 が始 ま っ た昭 和12年 以 降 、中 国戦 線 で4年 も5年 も戦 っ て き てい る兵 士 を含 め て の350万 です 。これ を昭 和18年 には250万 に減 らさな け れ ば な らない んで す が 、そ れ は で き ない ん で す。資 料 には こ うあ り ます 。「昭和17年 二 於 ケ ル兵 力350万 ハ 作戦 上 ノ要 求 ヨ リス レハ 必 ス シ モ満 足 シ難 カ ル ヘ キ モ 」「 現 有 既 教 育 資 源 、教 育 能 力 ノ現 状 等 二 鑑 ミ概 ネ 」、350万 とい うの は、 極 限 と推 定 され る。 しか し、 生産 力 の確 保 、人 的 資源 の培 養 等 を な し うる限 り、節 約 し、努 力 して も、350万 を250万 に 減 らす こ とは不 可能 、そ う書 い て あ る。 昭和19年 には 、理 想 と して は 、200万 に減 ら した い、 これ も不 可 能 で あ る。20年 に は150万 に減 ら した い。そ う しない と、国 内 の生 産 力 、農 業や 工業 に影 響 が 出て くる か ら。 しか し、 不 可 能 で あ る。 つ ま り、 日本 は 戦 争 に負 け始 めた か ら、徴 兵 年 齢 を19歳 ま で 引 き 下 げ た の で は ない ん で す。 日中戦 争 を始 めて か らす で に4年 、兵 力 が 足 りな い のは 初 めか ら わ か っ て い る の です 。 そ の よ うに 、 こ の極 秘 文 書 には 書 い て あ ります 。 この 資料 は 、太 平 洋 戦 争 勃 発 の 翌 年1H20日 に作 られ て い ます 。 この 時 期 は 、 不 意討 ち に よ る連 戦 連 勝 の勝 ち戦 で す 。 そ の 時 に 、 兵 力 が 足 りない と言 っ て い る。 そ うい う大 事 な こ とを政 府 は 国民 に絶 対 に知 らせ ない の 一199一 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る です 。 今 の政府 も、重 要 な こ とは教 えま せ ん け ど も。 「海 外 放 送 宣 伝 記 録 昭 和17年2月 」 こ の兵 力 の 問題 以外 に も、絶 対 に教 えな い もの が あ りま した。 こ こ に 「 海外放送宣伝記録 和17年2月 昭 」 とい う部 外 秘 の資 料 が あ りま す。 ラジ オ の短 波 放 送 の記 録 で す。 日本 は 当時 、 短 波 受 信 機 を持 っ こ と を禁 止 してい ま した 。外 国 に 向 け てNHKが 短 波 放 送 を してい た の です 。音 声 は放 送 され た と 同時 に 消 え て しま うもの で す が 、NHKは 当 時 のそ の放 送 内容 を わ ざわ ざ文 章 化 して 記 録 してい た ん です。 そ の ミス で、僕 は これ を入 手 してい るの です が。 この記 録 に よ る と、NHK は次 の よ うな こ と をア メ リカや イ ギ リス に 向 け て発 信 してい ます 。 「 伝 え られ る と ころ に よ る と、 ア メ リカ の 政府 は 砂糖 の使 用 を制 限 して い る。 一 人 当 た り週12オ ンス に して 、 ア メ リカ の 国 民 は み ん な 困 って い る。 と ころ が、 日本 は マ レー シ アや イ ン ドネ シ ア等 を 占領 して 、そ こか ら砂 糖 を も っ て きた か ら、砂 糖 はア メ リカ 以上 に豊 富 に国 民 に配 給 して い る」。あ るい は ま た 「 マ レー 半 島 の北 か ら南 に攻 撃 を して い って 、 最 後 に シ ン ガ ポ ール を 占領 した 。 そ の 間 、 日本 は ゴ ム を大 量 に 獲 得 した か ら、 日本 の子 どもた ちは 、ゴ ム鞠 の特 配 を受 けて 、み ん な喜 んで い る」。 こ んな 内容 で す 。 で も、 これ は 大 嘘 です 。 砂 糖 の 特別 な配 給 な ん て 、 あ った の は1回 か2回 です 。 しか も、1 回100gで 終 わ りです 。 とん で もな い嘘 です 。 衣 類 につ い て もで た らめ を言 って い ます 。 「 アメリ カ は砂 糖 以 外 に も色 ん な物 資 が 欠 乏 して 、 大 変 な もん だ。 日本 なん か 、綿 ・ウー ル 、 こ うい うも の の ス トッ クが 大 量 に あ るか ら、 国 民 が 非 常 に贅 沢 な暮 らしが で き る。 ア メ リカ の 国 民 の み な さ ん、 お 気 の 毒 で ご ざい ます 」 な ど と言 っ て い ます 。 バ カ言 っ ち ゃい けませ ん。 この こ ろに 、 純 綿 な ん か あ りま せ ん で した。 ステ ー プ ル ・フ ァイバ ー(ス フ)と い って 、人 造 絹 糸 を使 って い ま し た 。 これ はひ どい ん です 。 これ で 作 っ たハ ン カ チや 手 拭 い は 水 を吸 わ な い。 洗 面 器 の 中に 突 っ込 んで も、吸 わ な い の で す。 「 綿 が 有 り余 る」 と言 い な が ら、水 を吸 わ な いハ ン カチ を使 わせ る。 こ れ が 当時 の 日本 の 姿 です 。 な の に、 放 送協 会 は受 信 機 の ない 国 民 は 知 らな い と考 えて 、 嘘 八 百 を 言 っ てい る。 ち なみ に、 ア メ リカ の実 情 は ど うか とい い ます と、 こ こ に あ る これ も極 秘 で、 出 典 は 不 明 で す が、 ニ ュー ヨー ク支店 の報 告 とタイ プ され て い ます 。 タイ トル は 「開戦 後 の米 国 の 物 価 お よび 物 資 」 と書 い て あ る。 そ の 中 に、 「 鉄 鋼 」 に関 す る部 分 で 、 「 鋼 鉄 の生 産 量 は 、 ア メ リカ が1か 月 に 生 産 す る量 と 日本 が1年 か けて 生 産 す る量 は イ コ ール で あ る」と記 され てい ま す。鉄鋼 製 造 量 は 、 ま さ に12倍 の違 い です 。 他 に も色 々 書 い て あ ります が 、結 論 に こ うあ ります 。 「 要 す る に米 国 は 、 物 資 の点 で は極 め て 良態 で あ る。 海 外 産 地 、 こ とに東 亜 の資源 を失 っ て も、 なん とか や りく りが で き る。 蓄積 され た 民 間 の手 持 ち物 資 を動 員 す れ ば 、戦 争 遂行 に必 要 な物 資 は、 楽 々 と調 達 せ ら れ る で あ ろ う」。 これ で は と うて い 戦 い に な りませ ん。た とえ ば終 戦 の1か 月 前 に 、僕 らの 部 隊 が 受 けた 命 令 は 、 「 動 くな」 です 。戦 う本 土 防衛 軍 第 一線 の兵 隊 に対 し、 「 動 くな」で す 。 「 動 く と腹 が 減 るか ら、動 くな。任 務 の あ る者 以 外 は 、 じっ と して ろ」。 これ は も う、戦 争 もヘ チ マ もな い で す 。 そ れ ほ ど馬鹿 げ た話 に な らな い 状 態 で した。 一200一 創価教育 第5号 創 価 教 育 学 会 弾 圧 の情 報 昭和18年 に つ い て話 す 時 間 が だ ん だ ん減 っ て きま した。 昭 和18年 に僕 は 何 をや っ てい た か。 今 か ら68年 前 の8月 、 僕 は 日本 鋼 管 に動 員 され て 、1週 間 の勤 労奉 仕 をや りま した。 そ こ で 、 ア メ リカ軍 の捕 虜 に出 会 い ま した。 僕 は ドイ ツ語 ク ラス で 、英 語 は苦 手 なん で す が 、 監視 の憲 兵 の 目 を盗 ん で 、彼 らと話 しま した。彼 らが言 うには 、早 けれ ば12Hに ア メ リカへ 帰 れ るそ うな の です 。 楽 し く話 して いた の で す が 、 そ こへ 憲兵 が 飛 んで きて 、捕 虜 と僕 た ち に拳 銃 を突 き付 け ま した。 捕 虜 た ち は 目本 の兵 隊 に比 べ て 、 ジ ェ ン トル マ ンだ った と思 い ます 。 僕 らは煙 草 を吸 っ て い た ん で す が 、彼 らは 「 そ の煙 草 を捨 て な さい」 と言 うので す 。 「なぜ?」 と訊 く と、 「 火 が つ い て るま ま 捨 て て くれ れ ば 、俺 た ち は拾 って 吸 える」 と。 僕 は 「 新 しい の をや る」 と言 った ん で す が 、 そ れ を断 るの で す。 彼 らが言 うには 「憲 兵 に 見 つ か っ た とき、 君 た ちか ら貰 っ た のが バ レ る と、 君 た ち も処 分 され る。 しか し君 た ち が 捨 て た の な ら、 拾 っ た 私 た ち だ けの 責 任 だ 」 と。 私 た ち は、 「 分 か った 」 と言 っ て 、捕 虜 は3人 い ま した か ら、煙 草 を3本 捨 て ま した。 彼 らはそ れ を拾 って 喜 ん でい ま した 。 何度 もサ ン キ ュー と舌 っ て ま した。 彼 らは どこ の 出身 か 知 りませ んが 、 日本 の 粗 暴 な兵 隊 と はま っ た く違 い ま した。 彼 らの よ うに 、他 人 の こ とま で考 えて 行動 す る兵 隊 は、 日 本 軍 に は経 験 的 にま った くい ませ ん で した 。 残 念 な が ら。 戦 争 が終 わ っ た時 、ア メ リカ の あ る知 識 人 が 、 「日本 人 の 精 神 年齢 は 、12歳 で あ る」 と言 い ま し た 。僕 は腹 を立 て て 、「 何 言 っ て ん だ 、ア メ リカ だ っ て た い した こ とは ない。日本 人 が12歳 な らば 、 ア メ リカ は13歳 かせ い ぜ い15歳 く らい だ」 と思 い 、 不 愉 快 で した。 だ け ど、前 記 のNHKの 放送 記 録 を読 む と、 日本 人 の精 神 年齢 、 少 な く とも知 識 人 のそ れ が12歳(小 った 学校 卒 業 の 年齢)だ とい うこ とが よ く分 か ります 。 だ か ら、腹 を立 て た僕 の方 が 間違 っ て い た よ うで す 。 ち ょ う どそ の ころ 、牧 口 ・戸 田先 生 が特 高 に検 挙 され て い るの で す。 この18年 とい うの は 、 も う ど うに もな らな い 状 況 で 、末 期 的 な戦況 です 。 そ の 中で 僕 も憲 兵 や 特 高 に捕 ま っ た こ とが 、 あ ります 。19年 の 夏 に は 、川 崎 の 工場 に動員 され た の です が、 そ こで 職 場 放 棄 を した こ とが あ りま す 。 仲 間 は!1人 で 、 首 謀者 は班 長 だ っ た私 で す が 、担 当 の英 語 の吉 武 とい う教員 が 「 学 生 は純 粋 だ か ら、 曲が った こ とは認 め る こ とが で き ない ん で 、 それ で職 場 放 棄 に なっ た 」 とい うよ うな謝 り方 を して 、僕 らは処 罰 され な か った ん です(原 因 は学 徒 の 特配 米 を会 社 が ごま か した こ とです)。 昭 和18年 以 降 は 、 なん で もか ん で も、 ち ょっ とで も政 府 に 口応 え をす る と、 しょっ 引 かれ ます 。 牧 口 ・戸 田両 先生 逮 捕 の1かEく らい 後 に 、僕 の父 が 勤 めか ら帰 っ て き て、 言 っ た こ とが あ りま す 。 私 の 母親 に 向 か っ て、 「日蓮正 宗 が弾 圧 を され た そ うだ」 と言 い ま した 。 父 は 国鉄 の職 員 で 、 仲 間 の話 か ら知 っ た の だ と思 い ま す 。 私 の母 親 は 、生 家 が 実 は 目蓮 宗 の お寺 なん で す。 父 は 、母 親 の実 家 を心 配 して言 っ た んで す が 、母 親 はそ の 時 、「日蓮宗 と 日蓮 正 宗 は違 うか ら、 うち は 大 丈 夫 」 とい う返 事 を して お りま した 。 お そ ら く、 当 時 の拘 置 所 、 あ るい は刑 務 所 で は、 両 先 生 は ま と もに食 べ させ て も ら えな か っ た と思 うん で す 。 逮捕 の少 しあ との時 期 で す と、前 に述 べ て い た よ うに兵 隊で す ら、 ま と もに食 べ る ものが あ りま せ ん で した。 食 べ る もの が な くて戦 争 や る な ん て い うの は も う正 気 の 沙 汰 で は な い です 。 お そ らく刑 務所 で は 、 ま とも に食 べ させ て は くれ な か 一201一 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る っ た で しょ う。 当 時 の兵 隊 は 、主 食 が 日に4合 日に4合 食 べ た な ん て い うの は、1回 とい うた て ま えで した。 だ け ど、僕 らは入 隊以 来 もな い で す。 兵 隊 で も食 料 が 不 十 分 な の に 、 ま して や 刑 務 所 は、 ま と もに は食 べ させ て も らえな か っ た で し ょ う。 兵 隊 が4合 子 は どの く らい か と言 う と、2合3勺 とい う名 目で あれ ば、 成 年 男 で す。 兵 隊 の約 半分 で す ね 。 しか し実 際 は、2合3勺 も食 べ て い ませ ん。 兵 士 に 「 動 くな」 とい う命 令 が 出 る く らい で す か ら。 こ うい う状 況 の 中、 刑 務 所 で 、 日に1合 ぐ らい は食 べ させ て くれ た の か?と い うこ と を、 僕 は 時 々 考 え ます 。 っ ま り投 獄 の せ い で 、牧 口先 生 は早 く亡 くな った ん だ 、 と思 っ てい ます。 時 間 が な くな って 余 計 な こ とば か りしか 申 し上 げ られ ませ ん で した けれ ども。 以 上 で な ん か 質 問 が あ ります か? 一 質 疑応 答 一 3.11(東 日本 大 震 災)以 降 の原 発 の報 道 の仕 方 と、戦 時 中 の報 道 が そ っ く りで あ る こ とか ら、 これ か らの メデ ィア の 在 り方 とは? 高崎 一 言 で い えば 、 「国民 の立 場 に立 っ て もの を言 って るか ど うか 」です ね 。今度 出 る 『第 三 文 明』(2011年9月 号)に 、 『大震 災 と言 葉 』 とい うタイ トル で原 稿 を書 きま した の で 、 それ を読 ん で い た だ けれ ば 幸 い で す 。 今 日、 も うひ とつ 言 っ て お こ う と思 って い た の が次 の資 料 で す 。 昭 和12年 、群 馬 県 の徴 兵 検 査 の結 果 で す 。 昭 和12年 とい うの は 、 日中戦 争 が 始 ま っ た年 で す ね 。 そ の 年 の群 馬 県 の徴 兵 検 査 の 結 果 と して 、 ○ ○村 で 、 甲種 合 格 が○名 、 乙が ○名 とい う情 報 が 書 い て あ ります 。 僕 が言 い た い の は、 「日本 の若 者 は決 して 戦 争 な ん か好 ん でい なか った 」 とい うこ とです 。12年 の7月7日 に、 日中全 面 戦 争 が 始 ま る ん です が 、そ の昭 和12年 度 の徴 兵 検 査 で 、 群 馬 県 内 の逃 亡 ・所 在 不 明 者 は 135人 もい ま した 。 これ に は参 考 まで に 全 国 統 計 が 出 て い ます が 、昭和12年 の 全 国 の逃 亡 ・所 在 不 明 は10280人 。 約1万 人 が逃 亡 ・所 在 不 明 な ん です 。 だ か ら、 戦 前 の 日本 の若 者 は決 して 好 戦 的 で は あ りま せ ん。 太 平 洋 戦 争 中、 「撃 ち て し止 ま ん 」 とか 、 「日本 は神 国 」 だ とか言 わ れ て 、 若 者 が 戦 争 に引 っ 張 り出 され ま した けれ ど も、喜 ん で行 った 若者 っ て い うの は 、1%く らい は い る と思 い ま す け ど も、 ほ とん どは決 して 好 戦 的 で は な か った 。 この逃 亡 ・所 在 不 明者 の 資 料 は 、 終 戦 後 に 誰 か が 勝手 に作 った も の なん か で は な く、群 馬 県 徴 兵 検査 の担 当者 が作 った もの で す。1万 人 の 逃 亡 ・所 在 不 明者 の存 在 は、 日本 の若 者 は決 して 捨 て た もん じゃ な い 、 と僕 に思 わせ て くれ ま す。 戦 争 を知 って い る人 が減 っ て き た 中で 、 今 の 学 生 に望 まれ る こ と、 今 の うち に経 験 して お い て ほ しい こ とは? 高崎 若 い人 が 引 っ張 り込 まれ て しま うの は 、 物 質 的 な豊 か さ に迷 わ され る とい うこ とです ね。 豊 か に楽 し く人 生 を送 りた い 、 とい うふ うに欲 望 の み を考 え る の は危 険 だ か ら、 も っ と慎 重 に 、 物 質 的 な豊 か さ以 上 に 、 精神 の豊 か さを身 に 着 け な い とだ めだ と思 う。 例 えば この大 震 災 で も 、 一202一 創価教育 第5号 物 質 的 な豊 か さ とい うも の が非 常 に僅 い もの だ とい うこ とが分 か った と思 い ま す。 古 くは、 鴨 長 明 の 『方 丈記 』 に も書 かれ てい ます ね 。 物 質 ば か りに気 を と られ て い る と、 あ る時 大変 な どん 底 に 叩 き落 され る、 人生 に はそ うい う危 険 が つ き もの です 。 そ れ を乗 り越 え るた め に はね 、 精 神 的 な豊 か さ を 目標 に して 、人 生 を生 き る こ とだ とい うふ うに思 い ます 。 高 崎 先 生 が 中学校4年 生 の 頃 に 、5つ の 予 測 を 立 て て 、4っ が 当た った とい うこ とで、 ど う して そ ん な に若 い 時 に 明 晰 に判 断 で き た のか 。 ま た若 い ころ どん な勉 強 を して 、 どん な こ とに興 味 が あ っ たの か。 高崎 雑 誌 は 「中央 公論 」 「 文 芸 春 秋 」 をほ とん ど毎 月 読 んで い ま した 。 「 改造」が読みたかった ん です が、何 が書 い て あ る の かむ ず か しくて 分 か りませ ん で した 。ま た 中学 の一 年 生 の ころ か ら、 さっ き触 れ た 『フ レッ シ ュマ ン』(英 語 通 信社 発 行)と い う月 刊 の教 養 雑 誌 を読 ん で ま した 。 実 は 、 生 まれ た のが 横 浜 駅 の 近 くで 、通 船 の発 着 場 が 目の 前 に あ りま した か ら、 外 国人 が 自然 な 存 在 で した。 大 人 の友 達 と思 っ て るん です ね 。 黒 人 も 白人 も、 ま た 中 国人 も。 彼 らは通 船 の 時 間 を待 っ 時 、 私 を相 手 にい ろん な 片 言 の 日本 語 で話 しか けて くれ ま した。 そ うい うのが あ っ て 、 私 が 一番 先 に 覚 え た外 国 の歌 は 、 イ ギ リス の 国歌 で した 。 さっ き言 い ませ ん で した け ど も、戦 争 が 始 ま っ た 時 に 、僕 が 「 や だ な あ」 と思 っ た の が、 小 学 校 に 上 が る前(あ る い は一 年 生)の 子 ど もだ った 僕 に 、 イ ギ リス の 国歌 を教 えて くれ た 、イ ギ リス の 若 い 船 員 が 敵 に な っ て しま うこ とで した 。 彼 は 、海 軍 の 軍艦 に乗 っ て、 僕 が兵 隊 に なれ ば、 お 互 い に顔 が わ か らな い ま ま、 大砲 を撃 ち合 って 、 僕 が 死 ぬ か 、 イ ギ リス 国歌 を教 え て くれ た あ の青 年 が 死 ぬ か 、 どち らか が死 ぬ で あ ろ う と。12月8日 に 真 っ先 に 思 っ た こ とはそれ な ん です 。 そ の こ ろの 夢 は 、 船乗 りに な って 、 世 界 中 の 国 を回 っ て 、 い ろ ん な 国 の人 と知 り合 い話 を し、 さま ざま な国 の 風 俗 習 慣を学 びた い 、 とい うも ので した 。 と ころ が 太 平洋 戦 争 が始 ま っ て 、 そ の夢 がぶ ち こわ しに な っ た。 僕 が海 軍 学 校 と 言 われ る 中学 へ 進 ん だ の は 、船 員 に な るた めで した。 県 内 に商 船 学 校 は な い の で 、海 軍 学 校 へ 行 け ば 、 ヨ ッ トが あ る、 カ ッタ ー が あ る 、プ ー ル が あ る、船 乗 りに必 要 な こ と を教 え て くれ る、 と い う理 由 で選 んだ ん で す 。 軍 人 に な る た めで は あ りませ ん で した。 質 問 の答 え に戻 る と、そ うい う環 境 に生 ま れ 育 っ た こ と と、そ れ か ら雑誌 が 好 き で 、「 潮 」 とか 「第 三文 明」 は い ま も毎 月 読 ん で い ます が、 中学 生 の 頃 に大 人 の総 合 雑 誌 を読 ん で い た とい うよ うな こ とか ら(級 友 の 大 部 分 は横 須 賀 生 まれ で 私 とは 環境 が全 く違 って い ま した)、仲 間 の 同級 生 とは 考 え方 が違 っ てい た と思 い ま す 。 それ は軍 港 と商 港 の 差 異 と言 え ば わか りや す い で し ょ う。 ま た 、 戦 後復 学 して片 岡 良一 とい う師 に文 学 を習 った こ と も重 大 な要 素 です が、 片 岡 学 と呼 ばれ る学 問 につ い て述 べ る と、 少 く とも一 時 間 ぐ らい は必 要 なの で省 略 します 。 資 料 の 中で 、創 立 者 が本 当 の意 味 で の正 義 を期 待 して い る とあ る。 正 義 は悪 を生 み 出 して し ま う危 険 が あ る と思 うが 、本 当 の正 義 とは?ま い て い く中で の ご苦 労 は? 一203一 た 、今 まで の研 究 を通 し国家 権 力 の真 実 を あ ば 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る 高崎 自分 の身 を守 るた め には 、権 力 に立 ち 向 か わ ない 方 が 安 全 で す。 だ か ら権 力 に立 ち向 か う 時 に は 、 覚悟 しな けれ ば な らな い。 食 べ て い け ない 、 とい うこ とに な る。 権 力 とい うの は もの す ご く恐 ろ しい存 在 です か ら、 そ れ な りの覚 悟 を しな けれ ば な らな い。 そ の 時 に 、で きれ ば 自分 ひ と りで戦 うん じゃ な く、 個 人 の 力 っ て い うの は 限界 が あ りま す か ら、 自分 の希 望 や 自分 の 思 想 、 意 志 を わ か っ て くれ る交 友 関係 、 仲 間 を作 っ てお くべ きで す。 孤 立無 援 で戦 った ら、 い っ ぺ ん に 跳 ね飛 ば され て しまい ま す 。 い か に 正義 と思 っ て も、 明 らか に危 険 な行 動 はや は り避 けて 、 仲 間 と考 え方 を 、希 望 を、 い つ も確 か め合 っ て い け る よ うに しな い と、権 力 に対 す る抵 抗 は難 しい で す。 正 義 とい う観 念 は、 僕 に とっ て は 、小 学 校 か ら中学 校 に か け て の子 ども の頃 の た っ た ひ とつ の 価 値 観 だ っ た ん です 。 相 手 が誰 で あれ 、不 義 不 正 に対 して は批 判 しな けれ ば い けな い と思 い 、 誰 に 向 か っ て も信 じる こ と を言 っ て きま した。 これ は言 わ な い方 が い い な っ て思 った こ とで も、 そ れ を 言 っ た た め に 、や が て は い わ ゆ る出世 コー スか ら外 れ て しま っ た よ うで す 。 人 生 の 分 か れ道 に 出 会 っ た 時 そ の たび に、 これ を選 ん だ ら不 利 に な る と知 っ て い て も 、正 しい こ とは 貫 か な け れ ば な らな い とい うこ とで 、 不利 に な る方 ば か りを選 ん で きま した。 正 義 を貫 くとい うこ とは 、 そ うい う倫 理 で も あ る。 世 俗 的 な利 益 の た め に は 、 これ は止 め て お こ う とい うのが 、 一 般 の 生 き方 だ ろ うと思 い ます けれ ど も、本 当 の意 味 で正 義 を貫 こ うとすれ ば 、不 利 に な る こ とを 覚悟 して や る とい う信 念 が大 事 で す 。 牧 口 ・戸 田両先 生 はそ の道 を選 ん だ と僕 は思 い ます 。 だ か ら さっ き 、 ち ょっ と言 い ま した よ うに、 軍 隊 に 引 っ張 られ た とき に、 仲 間 は み ん な、 特 甲幹 か 特 操 か海 軍 予 備 学 生 か に志 願 した けれ ど、 僕 は しな か っ た。 しない と、 最 下級 の兵 士 で す 。 そ の 間 、何 十 回 も 殴 られ 、蹴 飛 ば され る。 い きな り見習 士 官 に なれ ば、 何 度 か は 殴 られ るだ ろ うけれ ど、 星 ひ とつ の 最 下級 兵 士 よ りは は るか に楽 だ。 それ は よ くわか って い る。 よ くわ か って い る けれ ど も、 人 を 殺 す の は いや だ 、殺 され るの もいや だ とな る と、志 願 で き ませ ん で した。 帝 国軍 隊 は 、 殴 られ る よ うに で き て い ます 。 ひ とつ 例 を挙 げ ます 。 夜 、星3つ の兵 隊 が 「 初 年 兵 集 まれ 。 今 晩風 呂 に行 っ た もの は こ っ ち 、行 か ない もの は こっ ち に立 て」 と言 う。 僕 は そ の 日、 風 呂 に行 っ て い ませ ん で した。 新 入 りが風 呂 に入 るの は 生意 気 だ 、 と言 って 殴 られ る と思 い ま した ので 。 そ の とき 古 参 兵は、 「 行 って な い や つ は あれ だ け い るん だ 。 お 前 た ち 、星 がひ とっ くらい で 風 呂 に行 くなん て 。 風 呂な ん か 、 星3つ く らい にな っ た ら行 くも ん だ」 と言 っ て 、風 呂 に入 った 仲 間 を殴 りま した。 僕 は 、「 行 か ない で よか っ た 」と思 い ま した。けれ ど、今 度 は こっ ちに 向 か っ て 、「 向 こ うを 見 ろ。 風 呂に 行 っ た者 が あれ だ けい る。 お 前 た ち 、 も た もた や っ て る か ら風 呂へ 行 く時 間 が な くな る ん だ 。 た るん で る!」 と言 って 、 こち ら も殴 られ ま した 。 つ ま り、風 呂 に行 って も行 か な くて も殴 られ る よ うに で き てい る。 帝 国 軍 隊 とい うの はそ うい うと ころ です 。 僕 は、 大 正 時 代 の シベ リア 出 兵 の とき に 現役 兵 だ った 父 か ら軍 隊 の こ とは よ く聞 い て 知 っ て い ま した。「 志 願 しな い と、星 ひ とっ は っ らい 」 と、分 か って い ま した が 、志 願 しなか った 。 これ はや は りね 、 ひ とつ の正 義観 に よ る抵 抗 だ と思 っ てい ます 。 自分 の 考 え る正 義 を貫 く と、 そ うい う結 果 に な りま す 。 これ は 日本 の 軍 隊 だ け で は な く、 一 般 社 会 で もそ うです 。 他 に も例 えば 、 常 勤 と非 常 勤 の別 が あ りま す。 僕 一204一 創 価教育 第5号 は、 高 校 の 専任 の教 員 で した が 、 専 任 を13年 間 や っ た あ と、 非 常 勤 に変 わ りま した 。 非 常 勤 に変 わ る と、 給料 は 半分 以 下 に減 りま す 。 そ れ を 知 っ て い て 、非 常 勤 に 変 わ りま した。 時 間 が 欲 しか った か らで す 。 資料 探 して 、 読 ん で 、 「あ の戦 争 は何 だ っ た の か?日 本 とい う国 は 何 なの だ?」 とい うこ とを知 るた め に、 非 常 勤 に 変 わ りま した。 誰 か がや らな けれ ば な らな い 、誰 もや らな い の な ら、 俺 が 一 人 でや る。 そ れ が 正 しい と思 っ て 、僕 は決 断 しま した。 人 生 に は 、何 回 も分 か れ 道 が あ り、 社 会 的 生活 的 に不 利 な 方 、 不 利 な 方 を選 ん で き ま した 。 た ぶ ん私 は あ と数 年 で 死 ぬ だ ろ う と思 い ま す け ど も、後 悔 は あ りま せ ん 。 人 間 と してや らな けれ ば な らな い こ とをや って きた と思 っ てい ま す 。 正 しい 情 報 を どの よ うに選 ん で い くか 、 何 を基 準 に した らい い の か とい うの をつ か まれ た 理 由 は? 高崎 最 後 に決 め るの は 自分 で す 。Aと い う人 は こ う言 っ た 、Bと い う人 は こ う言 っ た 、 あ る新 聞 に は こ う書 い て あ る、 それ らを総 合 して 、 「 番 妥 当 な もの を決 め ます 。決 め るの は 自分 です 。 だ か ら判 断 で き るだ けの 自分 の知 識 、智 慧 、 そ うい うもの を 日常 的 に育 て て い か な き ゃ だ めで す ね。 ① なぜ 日本 軍 は下 の 者 を 殴 る の か。 ② 組 織 が上 か ら腐 っ て い っ た原 因 は。 ③御 前会 議 な ど、 な ぜ 精神 年齢 が12歳 と言 わ れ る ほ どの 内容 に な っ た のか 。 高崎 ③ 第 一 に 、 ア メ リカ を相 手 に戦 うこ と 自体 がお か しい の です 。 どん な に精神 的 に頑 張 っ て も、 戦 争 は 、 武器 、弾 薬 が な けれ ば で き ませ ん。 経 済 的 に非 常 に豊 か な 国 で な けれ ば 、 戦 え ませ ん 。 日本 軍 主 力 の 歩兵 が持 って い た 三 八式 歩 兵 銃(明 治38年 制 式採 用)と い うの は、 弾 を5発 、 い っぺ ん に押 し込 み ます 。 押 し込 ん で か ら槙 杵(レ バ ー)を 引 い て 、薬 室 に弾 を送 り込 み 、 引 き 金 を 引 きま す 。1発 ず つ 、1回 ず つ 操 作 します 。 これ が 日本 の 武器 レベ ル です 。 と こ ろが ア メ リ カ に は、 マ シ ンガ ン とい う携 帯 用 の機 関 短銃(ト ミー ・ガ ン)が あ っ て 、 引 き金 を一 度 ひ けば 、 弾 が30発 ぐ らい バ バ バ ッ と連 続 して 出 ま す 。 こ うい う武 器 を持 っ た 相手 に対 して 、貧 弱 な 前 近 代 の武 器 で戦 争 をや るな ん て 、 自殺 行 為 で す 。 そ れ を平気 で 、 国家 を代表 す る者 が 、 国民 の 生命 ・ 財 産 を担 う者 が、 宣 戦布 告 して しま う。 僕 には と うて い それ は正 気 の沙 汰 とは思 え ない 。 御 前 会 議 の決 定 的錯 誤 はそ こだ と思 い ます 。 ① に つ い て は、自分 の命 令 を聞 かせ る訓 練 で す ね 。どん な命 令 に も従 わせ る 訓練 です 。だ か ら、 な ん で もか ん で も暴 力 で 押 さえつ け る ん です 。 理 屈 、 理 由 な ん か何 もな くて もい い ん です よ。 理 由な どな に も な くて も、 殴 ろ う と思 え ば な んで もで き る。 た とえ ば、 起 床 ラ ッパ が 鳴 っ て 、点 呼 に整 列 をす る。 集 団 で あ れ ば 、誰 か が ビ リに な ります よね。 そ の ビ リを営 庭 の松 に登 らせ 、下 か ら物 干 し竿 で 引 っ 叩 く。 そ して な ん て言 うか。 「 蝉 は 殴 られ れ ば 逃 げ る ん だ。 逃 げ ろ。」 っ て い う ん で す 。 これ は友 人 の 話 で 私 の経 験 で は あ りませ ん が、 そ うい う軍 隊が あ るん で す。 ただ 、 これ だ け は忘 れ な い で ほ しい こ とが あ ります 。 今 の 自衛 隊 は、 僕 は 軍 隊 だ と思 っ て ます 一205一 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る け ども、 自衛 隊 が 僕 らの こ ろ の野 蛮 な帝 国 軍 隊 とは違 う面 を持 って い る本 質 的 な理 由 は 、志 願 制 度 だ か らで す 。 僕 らの こ ろ は義 務 で す 。 だ か ら僕 が 一番 心配 す るの は 徴 兵 制 度 の復 活 です 。 肯 定 す るつ も りは あ りませ ん が 、今 の 自衛 隊の よ うに志願 制度 な らば、 ま だ ま しです 。 だ け どこれ が 義 務 に よ る徴 兵 とな っ た ら、昔 の帝 国軍 隊 と同 じ軍 隊 生活 を送 る こ とに な ります 。 それ を僕 は一 番 心 配 して い ま す 。 も う少 し、 エ ピ ソー ドを話 しま し ょ う。 重 機 関 銃 で グ ラマ ン戦 闘機 と戦 うに は 、高 射 脚 に付 け替 え 照 準器 を対 空 照 準器 に替 え る必 要 が あ りま す 。 け れ ど、 そ うい う対 空 戦 闘 の訓 練 を受 けた こ とは1回 も あ りませ ん。「この 照 準器 は ど うや って つ け るん です か」と聞 い た ら、 古 参 の下 士 官 は 「 貴様 は 学徒 だ ろ。 学 生 とい うもの は頭 が い い もん だ 。 そ ん な こ とは 自分 で考 え ろ」 と蹴 飛 ば され ま した。 実 際 は、 古 参 の 下 士 もた ぶ ん知 らなか っ た の で し ょ う。 次 に 困 っ た の が 、グ ラマ ン に対 して 、 どの タイ ミ ン グで 引 き金 を 引 け ば いい のか 分 か らな い。結 局 、 「 横切 るグ ラマ ン を撃 つ な。 攻 撃 して くる敵 だ け撃 て 」 とい うこ とに しま した 。徴 兵 制度 だ か ら、 こ うな る の です 。僕 は 高校 の 専任 教 員 を辞 め る とき 、生 徒 に 向 か っ て 、「 君 らは大 丈 夫 だ。君 らの子 ども も たぶ ん大 丈 夫 だ 。 しか し君 らの孫 は、 徴 兵 制 度 が復 活 してい るか も しれ な い。 そ の覚 悟 は してお き な さい 」 と言 って 、別 れ ま した。 ② は 、 ま あ俗 な 言 い 方 をす れ ば支 配 欲 に 目が く らん だ ん です ね 。 正 常 な判 断 が で き な くて 、 ば か げ た戦 争 を始 めた。 中 学 の時 に、 人 文 地 理 の 先 生 で した が、 巡 洋 艦 の 元艦 長 が 、 開戦 の10日 か 15日 く らい 前 に言 っ た こ とが あ ります 。 「 奇 襲 攻 撃 を か けれ ば 、 そ の 時 だ け は勝 つ 」 と。 「あ とは だ め だ」 と。 これ が 、巡 洋 艦 の艦 長 の言 葉 です(平 山 とい う大佐 で した)。 私 が海 軍 学 校 と呼 ばれ る学 校 に入 った の が 良 か っ た の か ど うかは わ か りませ ん けれ ども、戦 争 とか 軍 隊 とか に つ い て は 、 学 ばせ て も らった と思 っ て い ます 。 た だ 、 苦 しめ られ た こ とも大 い に あ ります 。 戦 時 下文 学 の 研 究 を され る な かで 、 も うこれ 以 上や れ ない の で は な い か とい う壁 や 、 苦 しい こ とを乗 り越 え る こ とが で き た原 因や 思 い は? 高崎 諦 め ない こ とです ね。 どん な障 害 に ぶ っ か っ て も絶 対 に諦 め な い。 僕 が作 家 の 中で 一番 尊 敬 してい る の は、里 村 欣 三 とい う、戦 前 戦 中の創 価 教 育 学会 の会 員 です 。 そ の里 村 を20年 も30年 も研 究 してい ます が 、 た っ た 一 人 でや るか ら分 か らな い こ とだ らけ なん で す ね。 これ まで の 一番 の難 問 は 、昭 和18年 の秋 に出版 され た彼 の 代 表 作 『河 の 民』 の あ る部 分 に つ い て で した 。 この 作 品 の 中 に 、現 地 の警 察 署 長 の こ とが少 し書 い て あ ります 。 そ の署 長 は、 夜 が 明 け た時 にお 題 目を 唱 え る。 そ れ を里 村 本 人 は 、 珍 しい も の を見 る もん だ とい うふ うに驚 い た 表 情 、気 持 ち で眺 めます 。 そ して 、そ の感 想 は、 「たぶ ん こ の警 察署 長 は 、危 険 な仕 事 をや っ て る か ら、お 題 目を唱 える よ うに な っ たん だ な 」 とい うの です 。 これ だ け で終 わ り。 創 価 教 育 学 会 の 会 員 で あ る人 間が 、「警 察 署長 は危 険 な仕 事 だ か らお題 目 を唱 え るん だ な 」で終 わ らせ る とい うの は 、不 思 議 で す よね。 非 常 に不 思 議 。 里村 は 日蓮 正 宗 の信 者 で もな けれ ば 、創 価 教 育 学 会 の 会 員 で もな い の か と疑 い ま した。 法 華 経 に多 少 の 理 解 が あ る とい う程 度 だ っ た の か?と い う疑 問 にぶ つ か っ て 、困 りま した 。そ れ は ど うして も解 け ない 。 とこ ろが 、 「あ あ、 これ だ 」 とい うふ うに気 一206一 倉噺面教育 第5号 つ い た こ とが あ りま した 。それ は 単純 な こ とで 、昭 和18年7月 の 、創 価 教 育 学 会 弾圧 です 。『河 の 民』 は 、 そ の あ とに 出て い るの です 。 で あれ ば、 そ の とき に 「俺 は創 価 教 育 学 会 の 会員 だ」 な ん て書 け る はず が な い。 だ か ら、 あ あ い う書 き方 にな っ た 。5年 も10年 も か けて 、 情 況 を知 らな い 私 はや っ と納 得 しま した 。里村 の作 品 に は多 くの 単行 本 が あ り、『河 の 民 』は彼 の代 表 作 で す。一 番 い い作 品 です 。 かつ 、 戦 時 下 の南 方 を題 材 に した 従 軍 作 家 た ち の 作 品群 の 中で もナ ンバ ー ワ ン です 。 とにか く、彼 は普 通 の作 家 と違 うので す 。サ ンダ カ ン の 日本 軍 警 備 隊 が 、 「 ボ ルネ オ の奥 地 を探 検 す る な らば、武器 を 持 っ て い け。丸 腰 で 行 くの は許 可 しな い」 と言 うの に 対 し、 「 ああそ う です か。 じゃ あ持 って い き ま し ょ う」 と言 い つ つ 、軍 刀 と拳 銃 を荷 物 の 中へ しま い こん で、 「 帰っ て くる ま で預 か っ て くれ 」 と宿 舎 に預 け て、 武 器 を何 に も持 た な い で 、 日本 人 未 踏 の ボル ネ オ の 奥 地 に入 っ て い く。 彼 は、 日本 軍 の軍 属 と して で な く、 単 な る旅 行 者 と して、 そ この人 と付 き合 い た か っ た の で 、警 備 隊 幹 部 を欺 き 、拳 銃1つ 持 っ て い か な か っ た。 こ うい う人 間 な ん です 。 当 時 、軍 の命 令 で ボル ネ オ を探 検 す るの に 、 「 武器 な ん か い らな い 、俺 は た だの 旅 行者 だ 」 と、そ ん な こ とを 作 品 に書 くだ けで もす ご く勇 気 がい る危 険 な こ とで す。里 村 は創 価 教 育 学会 の会 員 で す 。 当 時 の会 員 の 作家 は2,3人 しかい ませ ん 。『河 の 民』は い ま 中央 公 論 の文 庫 に入 って い ま す か ら。 そ れ を読 ん で い た だ けれ ば、「あ の 戦 争 中 に よ くこれ だ けの こ と を書 い た」 と驚 くで し ょ う。そ し て 、僕 が言 っ て い る こ と が無意 味 とい うか 、い い 加 減 な こ とで は な い とい うこ とが 分 か っ て も ら え るん じゃ な い か と思 い ます 。 さ らに 、 そ の里 村 が い ま な ぜ 無視 され た り軽 視 され た りしな けれ ば な らな い の か 、 とい うこ とに っ い て 考 え てい た だ きた い と思 い ま す。 一 補 遺一 こ こに 一 冊 の 小 冊子 が あ りま す 。『教 育 関係 に於 け る左 傾 思 想 運 動 』と題 す る文 部 省 学 生部 が 昭 和8年3月 に 発行 した も ので 、 表 紙 の裏 面 に は 「 取 扱 につ い て は 特 に 注意 せ られ ん こ とを 望む 」 と記 され 、 無 原則 に 一般 の 目には ふ れ な い よ うにせ よ とい うこ とに な っ て い ます 。 昭 和8年3月 とい え ば創 価 教 育 学 会 が設 立 され て か ら2年 半 ほ ど経 た 時点 で あ り、 この 国 の左 翼 運 動 の 昂揚 が 弾圧 に よ っ て終 末 に向 い か け てい た 時 期 で す 。 ま た 別 の視 点 か ら言 うと、 あ の悪 名 高 い 「サ ク ラ読 本 」 に よ る新 た な 教 育方 針 が 、教 育 の 場 で 具 体 的 に動 き始 めた 、 い わ ば そ の初 年 度 とい うこ とで もあ ります 。 とこ ろで この 小 冊子 に は 「 左 傾 の 原 因 」 とい う項 目が あ り、 当 時 の 学校 教 育 ない しは 青少 年 の 置 か れ て い る現 実 が か な り具 体 的 に記 され て い ます 。 た とえば 当局 は 「 左 傾 」 の原 因 と して 「 教 育 の 欠 陥 」 を 挙 げ て い る の です が 、 項 目の 中 のい くつ か を列 挙 す れ ば 次 の よ うです 。 ○ 人 生 観 社 会 観 に 関す る教 育 の不 十 分 ○ 創 造 力 及 び 批判 力 の酒 養 に 関す る教 育 の 不十 分 ○ 情 操 ・意 志 の 陶 治 の 不十 分 ○ 教 師 の教 育 者 と して の 自覚 な らび に識 見及 び 修 養 の不 十 分(そ の 他6項 等 々で す が 、 す べ て これ らは教 育 の 問題 で あ るわ け です 。 一207一 目) 戦 時 下 の 《1943年夏 》 を語 る とこ ろが 、 文 部 当局 の 述 べ る対 応 策 は、左 翼運 動 の厳 重 な取 締 り と国 家 主 義 教育 の徹 底 とい う 2点 に絞 られ 、 自 らの 責任 につ い て はひ と言 も言 及 して い な い ので す 。 い や 、 そ の こ と以前 に右 に抽 出 した4つ の 項 目の一 体 どこ が 「 左 傾 」 と関係 す る の か とい う点 が 問 題 だ と しか 思 われ な い の です 。 つ ま り、 教 育(ま た は教 育 者)の 「 不十分」を 「 十分」 にさ えす れ ば 「 左 傾 の 原 因 」 を 防 げ る とい うの か ど うか 、私 に言 わせ ば、 これ らは 「 左傾」に直接結 び つ くもの で は ない と しか 思 われ な い ので す。 「 左 傾 」 は政 治 や 経 済 の矛 盾 ・欠 陥や 社 会 制 度 上 の 差 別 等 々 が 問 題 で ある の は言 うま で も ない で し ょ う。 に もか か わ らず 、 文 部 当 局 は な に を考 えて い る のか 、 「大 日本 帝 国」 が 抱 え る本 質 的 な欠 陥や 矛 盾 を解 決 し よ うとす る意 図 は どこに もな く、 逆に 「 神 国 日本 」 や 「人 紘 一宇 」 な ど とい う虚 構 の 大義 を宣 伝 し、 そ れ を国 民 に押 しっ け る方 向 に暴 走 し始 めた わ けで す。(八 紘 一 宇 とい う世 界 支 配 の 思想 を押 し出 した の は も う2,3年 後の こ とで す が)こ の 国が な ん の た め に ど うい う方 向 に進 も うと して い るか は、 前 記 の 「 サ ク ラ読 本 」 と、それ ま で の 旧教 科 書 を比 較 す れ ば 容易 に理 解 で き ます が 、 「 サ ク ラ読 本 」 とい う徹 底 的 な 軍 国 主 義 教 科 書 につ い て は 、 も しい つ か そ の機 会 が あれ ば お話 し しよ う と思 い ま す。 戦 前 ・戦 中の 創 価 教 育 は それ と真 向 うか ら戦 う精 神 です か ら、帝 国主 義 教 育 と命 を か けて 対 立 す る こ とに な ります 。 この 小 冊子 が刊 行 され配 布 を され た10年 後 、 そ れ は遂 に 狂暴 な 弾圧 と して 学 会 に押 しか ぶ さって きま した。 そ の 間 の!0年 とい う時 間 は 日中全 面 戦 争 か ら太 平洋 戦 争 に か け て の 間 です 。 以 上 につ い て 、予 定 と して は話 す つ も りで い た の です が 、私 の不 手 際 に よっ て 時 間 を失 っ て し ま い ま した。 補 遺 と して こ こに 書 き加 え ます 。 ま た 、里 村 欣 三 につ い て は 「 創 価 教 育 」 第 三 号 を併 読 して 下 され ば幸 甚 で す。 一208一