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英語で講義すると失われるもの

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英語で講義すると失われるもの
対する「外国語による授業」数の
英語で講義すると失われるもの
(『 中 央 公 論 』 2 0 1 3 年 2 月 号 寄 稿 )
一橋大学
割合が目標に掲げられていたので
ある。但し書きに「日本語の併用
齊藤誠
や外国語教育を主たる目的とする
英語で講義をしなければならな
ものは除く」とあった。ここでい
いんだって!
う「外国語」はもちろん「英語」
私の所属する一橋大学経済学部
と同義である。したがって私たち
では、昨年春になって、文部科学
専門教育を担っている大学教員が
省が公募していたグローバル人材
英語で講じる授業数を増やすとい
育成推進事業への応募を検討しは
う こ と に な る 。学 部 長 の 説 明 で は 、
じめた。当該事業は、若者の「内
ゆくゆくは学部入学に日本語の能
向き指向」を克服して、グローバ
力を問わず、英語だけで学士が取
ルな舞台に積極的に挑戦し活躍で
得できるようにすることを目途と
きる「人材」を育成することを目
しているとのことであった。
的とした教育プログラムである。
大学に棲む私たち教員は、
「グロ
た だ 、文 部 科 学 省 が 発 表 し た「 公
ーバル」という言葉にとことん弱
募要領」を読んでも要領を得なか
く、その言葉が冠されたものには
った。若者が「内向き」になった
何であれ抵抗力を失ってしまう。
根拠は、海外留学生数や新入社員
下手に抵抗しようものなら、
「今時、
の海外勤務希望者数が減少したこ
あいつは英語ができないんだ」と
とのみである。
白眼視されかねない。グローバル
「 公 募 要 領 」に よ る と 、
「グロー
人材育成推進事業が検討されたと
バル人材」は、①語学力・コミュ
きも、
「 国 際 化 の 時 代 、英 語 で 講 義
ニケーション能力、②主体性・積
とは結構なことですね」という雰
極性、チャレンジ精神、協調性・
囲気が支配的だったと思う。
柔軟性、責任感・使命感、③異文
そんな中、私は「講義の英語化
化に対する理解と日本人としての
なんて暴挙、そんなことをしたな
ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー の“ 三 大 要 素 ”
らば一大事」と大反対をし、学部
を兼ね備えている人材となってい
長のところにも反対の意向を伝え
る。これらの要素の重要性は十分
る た め に せ っ せ と 通 っ た 。し か し 、
に認めるが、なぜ“三大要素”と
結果は、夏休み前にグローバル人
「グローバル人材」という言葉が
材育成事業への応募が決まり、夏
結びつくのか分からなかった。
休み明けには、わが経済学部が商
学部と応募した事業が採択された。
しかし、公の機関の書いた「要
本稿では、なぜ英語による講義
領」とは、所詮要領を得ないもの
に反対したのかを述べていく。
で、この「公募要領」もその類い
と読み流していたら「
、大学が目指
す国際通用力の向上のための具体
知識伝達と思考訓練は母国語の
的目標」という項目に来て「これ
言語能力に支えられている
は大変!」と驚いた。
私が英語による講義に反対する
その第 5 項目には、全授業数に
理由は単純である。大学の講義の
1
究極の目的である知識伝達と思考
ハイゼンベルク
訓練は、母国語で培われた高度な
ん で す ! そ れ が 、意 味 が あ る と い う こ
言語能力によって支えられている
とです。
と同時に、大学の講義自体が母国
ボーア
語の言語能力を向上させる貴重な
最 終 的 に は 、わ た し た ち は マ ル グ レ ー
機会だからである。
テ に 説 明で きな け れば な ら ない ん だ
人文、社会、自然の諸科学全般
数 学 こ そ「 意 味 」な
だ が 、最 終 的 に は 、い い か い 、
よ!
を念頭に置いてしまうと、
「知識の
伝達が母国語に支えられているの
なお、マルグレーテはボーアの妻
は至極当然である」と受け取られ
である。
かねない。たとえば、源氏物語を
経済学という厳格な理論的手続
勉強するのに、英語による講義を
きを重んじる学問の世界の片隅で
受ける必然性はないであろう。
過ごしてきた私には、ハイゼンベ
そこで、以下では、厳密な理論
ルクとボーアのどちらの言い分も
的手続きに支えられている知識の
痛いほど分かる。
伝達であっても、母国語の言語能
学問のフロンティアで理論研究
力が必要不可欠であることを論じ
を展開するには日常言語や直観的
ていきたい。
理解がかえって邪魔になることが
「英語は論理的なので、日本語
多い。卑近な直観を拒絶した上で
よりも英語の方が理論的な内容を
数学的手続きによって厳密に証明
教えやすい」という趣旨のことを
された理論的主張のみが正しいと
耳にすると、
「ある言語が論理的で
いう世界である。
ある」という主張にどれほどの内
しかし、徹底的に考え抜かれた
実があるのかといつも思う。私が
理論を、あらためて直観的に咀嚼
本稿で語ってみたいのは、ある言
し、母国語によって正確で平易な
語が論理的だからではなくて、そ
散文に置き換える作業を丹念にし
の言語を運営する能力が高い場合
なければ、その理論が社会で定着
に理論的内容を上手に伝えられる
したとはいえない。そうした社会
ということである。
定着を経てはじめて理論的に正し
マイケル・フレイン作『コペン
い主張が社会にとって価値のある
ハーゲン』
( 小 田 島 恒 志 訳 、劇 書 房 、
ものになるのである。
2001 年 )と い う 演 劇 に は 、2 人 の
厳格な学問の世界と日常的な社
物理学者ニルス・ボーアとヴェル
会の間を結びつけているのが、ま
ナー・ハイゼンベルクの間で次の
さに母国語の力なのである。大学
ようなやりとりがある。
の講義とは、母国語の言語能力を
総動員しながら、理論的な主張を
ハ イ ゼ ン ベ ル ク
正確で平易な言葉に翻訳している
あ る こ と に 意 味 が
現場ということができる。
あ る と す れ ば 、そ れ は 数 学 的 な 意 味 で
す。
ボーア
学問的な概念を日常的な言葉で
つ ま り 君 は 、数 学 が 成 り 立 っ
伝えるとは?
ていれば、意味はどうでもいいと。
2
ところで、日本語で経済学をあ
「英語が論理的であること」では
る程度勉強した後に英語文献を通
なく「
、経済学の概念が英語圏では
じて経済学を勉強すると、非常に
日常語で表現されていること」を
難しい概念や理屈が英語では日常
示しているにすぎない。
の言葉で語られているのに驚いた
私たち大学教員がやるべきこと
は 、a d v e r s e や i m m o r a l が 日 常 語 で
学生も多いのでないだろうか。
ひとつだけ例を示してみよう。
ない上、それらのニュアンスにも
経済取引において当事者の間で情
通じていない日本人学生にいきな
報の格差がある場合、
「知っている
り英語で講義することではなく、
方」が「知らない方」を出し抜く
たとえば、
「 逆 選 択 」と い う 日 本 語
こ と が し ば し ば 起 き る 。た と え ば 、
で上手く伝わらない部分を、私た
中古車をディーラーに持ち込むケ
ちの日常語を費やして丁寧に教え、
ースで、中古車を売る側は、欠陥
a d v e r s e s e l e c t i o n と 「 逆 選 択 」の 間
車を高値で売り付けようとするか
にブリッジを架けてあげることで
もしれない。この場合、欠陥車と
ないだろうか。
知らずに中古車を買い取った側は、
多くの日本人学生は、日本語と
「不利な選択」
( adverse selection) 英 語 を 行 き 来 し て い る プ ロ セ ス で
経済学的概念と英単語のニュアン
を強いられたことになる。
スを同時に習得しているのである。
また、自動車保険を契約してい
るドライバーが、仔細を知り得な
言い換えると、母国語である日本
い保険会社を出し抜いて、どんな
語を介在させて経済学と英語の両
事故でも保険でカバーされるのを
方に対する理解を深めている。
よいことに乱暴な運転をするよう
なことが起きたとしよう。この場
ロジックとレトリックの共演:
合、保険会社は、ドライバーの不
「ロウソク業者の請願」のケース
誠 実 さ ( immorality) か ら 余 分 な
レトリックというと、日常的に
負 担( hazard)を 強 い ら れ た こ と
は、ロジックを誤魔化す小手先の
になる。被保険者の誠実度に応じ
言語技術のようにとられているが、
た 保 険 会 社 の 負 担 は 、m o r a l h a z a r d
学問の分野では、ロジックの本質
と呼ばれている。
を伝えるための最高度の言語能力
「 訳 語 は ? 」と 見 る と 、a d v e r s e
と考えられている。経済学でも、
s e l e c t i o n は「 逆 選 択 」で 、さ っ ぱ
高度に数理的な論文においてレト
り 意 味 内 容 が 伝 わ ら な い 。 moral
リックが多用されている。
h a z a r d は「 道 徳 的 危 機 」と 訳 さ れ
経済学の講義でも、理論の本質
た時期もあったが、最近では翻訳
を伝えるためにレトリックがしば
することさえあきらめてしまった。 しば用いられている。たとえば、
このように話してくると、
「だか
ある主張の正しさを示すために、
ら日本人学生にも最初から英語で
正反対の主張を極限まで突き進め
経済学を教えるべきである」と言
ることによって正反対の主張の矛
われそうであるが、せっかちにな
盾を突くという技法がある。
そ の 有 名 な 例 は 、1 9 世 紀 仏 国 の
ら な い で ほ し い 。こ こ で の 事 例 は 、
3
私 は 仏 語 を 解 さ な い が 、「 請 願 」
経済学者クロード・フレデリッ
ク・バスティアが自由貿易の理論
の英訳は格調の高い文章である。
的な正当性を示すために書いた寓
ロジックとレトリックを同時に昇
話「ロウソク業者の請願」であろ
華させていくには、言語能力を総
う。自由貿易の望ましさは、比較
動員させなければならない。その
的簡単な理論モデルで示すことが
ような営為は、天才でない限り母
できるが、その主張は、いつの時
国語以外で不可能であろう。
代も、どこの国でも、甲高い保護
主 義 の 主 張 に 阻 ま れ て き た 。1 9 世
グローバリズムに克つとは?
紀の仏国もそうであった。
あまり指摘されないことである
バスティアは、ロウソク業者の
が、私が英語による講義を懸念す
代表を装い、頑強な保護主義者た
るのには、英語能力が、音楽や体
ちにとんでもない請願書を提出す
育の能力と似て身体に付随する能
る。
「ロウソク業者の競争者である
力に大きく左右され、能力の個人
“太陽”から自分たちを守ってほ
差が非常に大きいという事情もあ
しい」と請願するのである。その
る。英語を正しく発音し、適切な
請願書では、
「太陽光が屋内に入ら
リズムとテンポで話し、正確に聴
ないように、ありとあらゆる窓を
き取ることは、誰にも容易にでき
カーテンで覆う」立法の制定を求
るわけではない。
めている。そうすればロウソクへ
教える側であれ、教わる側であ
の需要が高まって、ロウソク業者
れ、英語能力が劣っている場合、
ばかりでなく、ロウソクの原料を
英語による講義には身体的ハンデ
供給する関連産業がすべて潤い、
ィキャップを背負って参加せざる
仏国全体が栄えると主張する。
をえないことになる。表現が適切
バスティアは、
「太陽光はタダな
でないかもしれないが、あえて言
の だ か ら 、わ ざ わ ざ 拒 絶 せ ず と も 」
語障害を背負って教える、あえて
という保護主義者たちの反論を予
聴覚障害を背負って教わる、とい
想して、たたみかけるように「あ
うようなことが起きかねない。不
なた方は、外国の安い商品の輸入
十分な言語能力で思考能力が縛ら
に反対する。安ければ安いほど強
れるとすると、認知障害も背負い
く反対する。それでは、タダの太
込むことになる。
陽光の国内侵入に断固反対しない
知識の伝達や思考の訓練の場で
と辻褄が合わないでないか」と再
ある講義現場に、身体的ハンディ
反論を試みる。見事である。
キャップとなるような要素をわざ
「いや、バスティアの主張は依
わざ持ち込む必要もないと思う。
然としてロジックの領域である」
そんなことを言うと、
「グローバリ
と言い張る人がいるかもしれない。 ズムの時代、若者はそのぐらいの
「 否 ! 」、 割 安 な 輸 入 品 を “ 太 陽 ”
試練を乗り越えよ」と言い返され
と、割高な国産品を“ロウソク”
かねないが、一教育者としては、
とそれぞれ比喩するところにレト
自分でも厄介なことを若者に無理
リックの力があるのである。
強いはできないと率直に思う。
4
もちろん、私も、現代は、その
す る の は 難 し い こ と で あ る が )、そ
人の特性に応じて英語に向き合わ
れを逆手にとりながら英語に向き
なければならない時代だと思って
合うことができれば、道も開ける
いる。英語能力が不幸にして低く
のでないかと思っている。
ても、それを逆手に取って生き抜
今、私が学生に向けてやってい
くことができる工夫が個々人に必
ることは「
、英語でないと享受でき
要だと考えている。ただ「英語に
ないとびきりの素材」を毎日配布
よる講義」は、まったく課題解決
することである。邦語圏が英語圏
につながらない。
にまったくかなわない分野のひと
ここで英語能力が決して高くな
つ が ジ ャ ー ナ リ ズ ム な の で 、毎 朝 、
い私が、英語圏で学位を取得し、
一、二時間かけてインターネット
教鞭をとる過程で、どのように英
で、講読教材や聴覚教材になりう
語に向き合ってきたのかを少し話
るニュースや論説を探して、学生
してみたい。
諸君に配信している。スマホ必携
語学能力が高いというのは、そ
の学生たちは、どんな場所でも教
の言語で「うまく誤魔化せる」と
材を読み・聴くことができる。も
いう面がある。専門的な知識が曖
ち ろ ん 、教 材 は 公 開 し て い る 。
「英
昧でも「得意な日本語であれば誤
語でなければ本物が味わえない」
魔化すことができる」となると、
となれば、英語が苦手な学生も取
専門知識の鍛錬もついついおろそ
り組む姿勢が変わってくる。
かになる。逆に「下手な英語だか
講義の方でも、グローバル人材
ら誤魔化すことができない」ので
育成推進事業も採択されたので、
あれば、よほど鍛錬して正確に専
ソクラテスよろしく組織の決定に
門知識を身に付ける必要がある。
従って「善く生きる」ために、私
も 20 年 ぶ り で 英 語 講 義 に 本 格 的
そう考えると、途端に自分の気
持ちが楽になった。研究報告や講
に取り組んでみようと思っている。
義の前には、自分の下手な英語で
もちろん、母国語による講義も従
も的確に伝達できるように、内容
来通り最善を尽くしたい。
を徹底的に整理して、できる限り
要するに、知識伝達と思考訓練
明快にする努力をした。すると、
という大学講義本来の目的を高い
研究報告も講義も評判が高まり、
レベルで達成するのに「英語で教
その過程で書きためた講義ノート
える」は本質的な要件でないので
は人に誇れるものになった。
ある。母国語であれ、外国語であ
周囲の学生にも、自身の特性に
れ、自分の講義を学生にとってか
応じて英語に向き合うことを強く
けがえのない機会にするためには、
薦めている。英語能力が幸いにし
日夜教材作りを心がけ、講義内容
て高い学生は、ほっておいても自
の改善を図っていくしかない。グ
分の英語能力を磨く機会を探し出
ローバリズムに克つとは、猿真似
す。問題は、そうでない学生であ
でなく、人に真似できないことを
るが、英語能力が低いことを自覚
達成することなのだから。
して(自分の能力を客観的に自覚
5
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