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創立者井上円了
哲学館事件後の明治三十八年末、井上円了
は大学から退隠した。教職員、学生、卒業生
など関係者は突然のことに驚いたが、将来に
わたり創立者の精神を堅持しようとして、銅
像とこの肖像画をつくった。
肖像画の作者・岡田三郎助︵一八六九│一
九三九︶は、﹃読書﹄﹃あやめの衣﹄などで知
られる近代日本の代表的洋画家で、昭和十二
年に第一回文化勲章を受章した人である。
目次
歴史はそのつど現在が作る
序 ⋮⋮⋮
教育理念の形成過程
Ⅰ ⋮⋮⋮
❶哲学館設立の背景 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❷哲学館の開設 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❸哲学館の改良 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❹哲学館の教育目的 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
教育理念の発展
Ⅱ ⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
91
❶東洋大学設立への道 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❷哲学館事件の発端と経過 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❸哲学館事件の展開 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❶学校教育と社会教育 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
Ⅲ ⋮⋮⋮
井上円了の教育理念
❹哲学館の教育理念の発展 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
109
❷井上円了の教育理念 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
160 138
126
10
65
80
24
45
6
新しい教育理念を求めて
❶戦前の大学教育 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
Ⅳ ⋮⋮⋮
❷戦後の教育理念 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
❸新しい大学の創造 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
資料
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
227
221
193
183 172
井上円了略年譜 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
井上円了主要著作 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
あとがき
234
序││
歴史はそのつど現在が作る
飯島宗享
時は多くのものを変える。しかし時が容易に変ええないもの、変わらないものをも、時
は示す。また時は、不可逆的ではあるにしても、しばしば回帰的に変えることもする。時
がと云うが、その多くは時にあって人が変えるのである。
百年の歳月は創立時の哲学館を今日の東洋大学に変えた。その間のさまざまな出来事、
曲折の足跡は、一八八七年│一九八七年の間の日本と世界の波瀾に富む推移、人々の知見、
感覚、ものの見方・考え方の変遷にともなわれている。この激動の百年の時に耐えたとい
うことは、それだけでも慶賀に値いすることであり、大学を挙げてこの節目を祝いたい。
他面、その百年が変わらない何を東洋大学において明示したかとなると、いささか心も
とない。事情は諸大学とも同様である。それぞれの大学に学祖があり、建学の精神と称さ
れるものがあるが、おおむね空疎化して今日の大学の実状はいずれもそれを証示してはい
ない。巨大化がこの空疎化を招いたのである。大学は企業とは異なり大きくなることが必
序
ずしもよいことではない︵いや、企業も同じかもしれない︶。空疎化されてならぬもので
あれば、大衆化を余儀なくされた大学がそのなかでこれを実質化する工夫をどう進めるか
が今日の課題となる。
歴史はそのつど現在が作る。現在の人々が作る││前方に向ってだけでなく、後方に向
っても。過去の知られた事実への現在の意味付与において歴史は成り立ち、それを教訓と
する同じ現在の意味付与において踏み出される未来への歩みが歴史となるからである。伝
統もそうである。東洋大学は第二世紀入りを控えた大きな節目の今、その歴史と伝統の大
枠を作り証示する又とない時に際会している。客観的情勢も有利と思われる。
こう考えるとき、改めて学祖円了博士の志と教育理念を思う。明治二十年の時勢とその
時代の人である彼と、昭和六十二年の今の時勢とわれわれとの間には、否むべくもないあ
らゆる違いがあるにもかかわらず、幸いにもそれを越えて、学校・社会・家庭教育を通じ
て在野の教育の事業を生涯の使命とした彼の教育理念のうちには、われわれの共鳴を呼び
昭和六十二年一月
おこすものがあり、大学の歴史と伝統に定位するにふさわしいと思われるものがあるから
である。
Ⅰ
教育理念の形成過程
❶ 哲学館設立の背景
設立の原点は哲学
東洋大学の前身﹁哲学館﹂は明治二十年 ︵一八八七年︶に創立された。当初はその名が示
すように﹁哲学専修の一館﹂すなわち哲学を教授するための専門学校であった。それから
一世紀を経て今日のような総合大学へと大きな変貌をとげるまでには、内的または外的な
状況の変化に伴ういくつものターニング・ポイントがあったが、そこで行われる教育に一
貫して流れているもの││哲学館創立の精神││は変わることなく引き継がれてきた。そ
れは現在では﹁諸学の基礎は哲学にあり﹂という言葉で象徴的に示されている。
哲学館の創立者井上円了は、哲学は﹁思想錬磨の術として必要なる学問﹂で、人は肉体
を錬磨するために運動や体操をするように、精神を錬磨するために哲学を学ぶ必要がある
と考えた。つまり、哲学館では哲学を教授するとはいっても、哲学者を養成しようとした
10
Ⅰ 教育理念の形成過程
のではなく、ごく一般の人々が哲学を学ぶことによって、﹁ものの見方や考え方の基礎﹂
を身につけることを教育目的とした。このような独特の教育内容を持った学校は、ほかに
例をみない極めて特異な存在であった。
東洋大学のように明治時代に創立された私立大学は、いずれも当初はなんらかの専門学
校であって、その専門分野がそれぞれの学校の特色となっていた。それらは内容的には大
きく二つに分類することができる。第一は法律や医学などのように実用的な学問を教える
学校で、これらは文明開化によって西洋から取り入れられた新しい学問、知識、技術など
の普及を目的としていた。第二は特定の信仰に基づいて設立された学校で、キリスト教の
布教活動の一環であったり、仏教の僧侶の教育が目的であったりした。哲学館の哲学も西
洋からもたらされた学問には違いないが、普遍的で根本的な真理を求める学問であるとい
う点に特徴がある。また、哲学を応用するという意味で宗教家の養成も哲学館の目的の一
つに掲げられていたが、これも特定の宗教とか宗派に限定したものではなかった。この点
からみて、哲学館は二つのいずれにも分類することができないのである。
ところで、専門学校の特色というのは、いいかえれば建学の精神の違いということにも
11
なるが、そこには創立者 ︵個人の場合も団体の場合もある︶たちそれぞれの教育理念が反映して
いる。その理念が形成されるには、彼らが受けた教育や信じた宗教、あるいは育った環境
や社会状況、そして活動をともにした仲間たちといったようなさまざまな要因があった。
井上円了が哲学の重要性を認識し、哲学館を設立するに至った背景にもそうした要因があ
り、それらを知ることは東洋大学の原点を理解するために必要なことである。
西洋との出会い
明治十四年九月、井上円了は二十三歳で東京大学文学部哲学科に入学したが、これが彼
と哲学との出会いであった。長年求めてきた真理は儒教、仏教、キリスト教にはなく、た
だ一つ西欧で講究されてきた哲学のみにあった、と彼はのちに語っている。これは明治初
期の価値観の揺れ動いていたときに、自分の思想を模索し続けたあげく哲学へと到達した
彼の歩みを示している。それは何ひとつ確かなもののない時代に、確かなものを求めて煩
悶した青春の姿でもあった。
井上円了は明治維新の十年前に、真宗大谷派慈光寺 ︵現在の新潟県長岡市浦︶の長男として生
12
Ⅰ 教育理念の形成過程
まれたが、世襲制の真宗教団では長男が住職を継ぐのが決まりであるため、彼も幼いころ
からそのための修練を積まされた。つねに数珠︵じゅず︶
を手にしていて、周囲の人々も寺の
後継者として彼を扱った。しかし、江戸時代には国教化されて檀家制度の中で安定してい
た仏教も、明治政府が神道国教化政策をとって廃仏棄釈運動などによる弾圧を加えるよう
になると、その勢力は衰える一方となった。当時の世相を反映した狂歌に
﹁要らぬもの
弓
矢大小茶器の類 坊主山伏さてはお役者﹂︵大小は刀のこと︶と歌われるほどであった。彼は
このような状況の中で寺を継ぐ運命を背負っていたのだが、彼自身は一日も早く仏教の世
界から脱出することを考えていた、と当時を回想している。もちろん実際に逃れることな
ど不可能に近いことであった。当時の世相は幼いながらも彼の中に仏教に対する疑いを生
じさせ、その後ほかの思想を求めていく端緒となったのであろう。
彼は十歳から石黒忠悳 ︵ただのり︶のもとで漢学を学びはじめた。旧来の伝統的な教養で
ある漢学は、いわば知識人の必須科目であった。石黒はのちに陸軍の軍医総監になった人
で、西洋の学問にも通じていて、西洋風を好みとしていた。彼は井上円了ら塾生の成績が
よいときには﹁西洋紙﹂を賞品として与えるなどして、西洋という新しい世界を紹介した。
13
井上円了はここで儒教の基礎を学んだが、同時に西洋世界との最初の触れ合いを自然にも
つことができた。
井上円了が生まれた安政五年 ︵一八五八年︶には日米通商条約が結ばれた。これはその五
年前に黒船でやってきたアメリカのペリーが突き付けた開国要求に応じたものだが、これ
をきっかけとして日本国内では徳川幕府を存続させようとする佐幕派と、幕府を倒して天
皇を中心に据えた新しい政治権力の樹立を目指す勤王派との対立が激化し、内乱へと発展
し、ついに明治維新を迎えることになった。井上円了は、慶応四年 ︵一八六八年︶彼が十歳
のとき北越戊辰戦争が起こり、生地である長岡藩が新政府軍に倒され、占領されるという
形で維新を体験したが、このように旧体制が打破されて新体制が誕生する歴史の転換期を
目の当たりにして、かなり強烈な印象を受けたであろう。明治維新後、日本の目は西欧先
進諸国に向けられ、文明開化の名のもとに西洋の文化・学問・宗教などがつぎつぎに輸入
された。時代の精神は日本在来の思想を古いものとして否定し、西洋から入ってくる新し
い価値を追い求める方向へと動いていったのである。
井上円了は、漢学を修めたのち、十五歳から新しい学問である洋学、特に英語を学びは
14
Ⅰ 教育理念の形成過程
じめたが、これも時代の流れに沿ったものであった。彼は明治七年さらに英語を学ぶため
に、新潟学校第一分校 ︵旧長岡洋学校︶に入学した。この学校は、維新で敗れた長岡藩が藩
の立て直しのため教育に力を入れるという方針で設立したものであった。ここで彼はヤソ
教すなわちキリスト教を知り、
﹃バイブル﹄を英語訳と中国語訳を対照しながら読んだと
いう。しかし、文明の宗教として脚光を浴びていたキリスト教ではあったが、そこにも彼
の求めるものは見つからなかった。
真理は哲学にあり
ところで、京都にある東本願寺 ︵真宗大谷派︶は教団の次代を担う人材を養成する機関と
して教師教校を設置していたが、洋学校を卒業した井上円了は県知事の推薦によって英語
のできる学生としてそこへ進むことになった。彼が教師教校に入った明治十年に東京大学
が設立され、東本願寺はすぐに彼に国内留学生として東京大学入学を命じた。まもなく彼
は上京し、翌年九月に東京大学予備門に入学した。当時の東京大学では英語で授業が行わ
れていたため、まず予備門において英語を三年間学び、マスターしなければならなかった
15
のである。そして、おそらく予備門時代にいくらかなりとも哲学というものに触れること
もあったに違いない。
明治十四年の東京大学文学部哲学科の新入生は井上円了ただ一人であった。彼は井上哲
次郎に東洋哲学を、原坦山にインド哲学を、フェノロサにカント、へーゲル、ミル、スペ
ンサーの西洋哲学を学んだ。特に西洋哲学には興味を引かれ、そこにこそ彼が求めていた
もの、すなわち真理があると考えた。
この時代、哲学はまだ新しい学問で、﹁哲学﹂という訳語自体、明治七年に西周がつく
り出したばかりであった。しかし、その後、哲学界では単に西洋の哲学を輸入するだけで
なく、東洋の哲学を探ろうという新しい動きが起こってきた。彼は生まれてから常に身近
にあった仏教を、西洋の哲学を学んだ目で見直してみたとき、そこには数千年の歴史をも
つ東洋の哲学があることを発見した。西洋哲学とは異なっているが、真理を追究するもの
であるという点では同じであった。今日では、彼は東洋哲学の分野で先駆的な役割を果た
したと評価されている。こうして彼は、洋の東西を問わず、真理は哲学にありという新た
な確信に到達した。
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Ⅰ 教育理念の形成過程
哲学普及の必要性
在学中の井上円了は友人と哲学研究会をつくり、毎月会合してはカント、へーゲル、コ
ントの研究討議を行い、明治十六年に﹁文学会﹂が組織されるとこれに参加し、さらに個
人的にも哲学の研究活動を進めた。しかし、彼は文学会の活動にあきたらず、哲学を専門
に研究する学会の設立を考え、友人の三宅雄二郎、棚橋一郎とともに計画を練った。三宅
は哲学科、棚橋は和漢文学科と、ともに大学の先輩であった。彼らは西周らに相談し、意
見を聞いた。そして明治十七年に﹁哲学会﹂を発足させた。これによって文学会は二分さ
れ、もう一方は﹁国家学会﹂となった。
哲学会設立の中心メンバーは彼ら三人のほかに井上哲次郎、有賀長雄で構成され、東京
神田錦町の学習院内に本部を置いていた。第一回の会合には、西周をはじめ加藤弘之、中
村正直、西村茂樹、外山正一ら、日本に哲学を導入し発展させた人々が出席した。
明治二十年に学会誌﹃哲学会雑誌﹄︵のち﹁哲学雑誌﹂と改題︶を創刊したが、この巻頭で井
上円了は﹁哲学ノ必要ヲ論シテ本会ノ沿革ニ及フ﹂という論文を発表し、彼の哲学に対す
17
る認識や哲学会設立の目的を示している。彼は哲学の本質について﹁それ哲学は通常理論
と応用との二科に分つも、要するに理論の学にして、思想の法則事物の原理を究明する学
なり。ゆえに思想の及ぶところ事物の存するところ、一として哲学に関せざるはなし﹂と
そして、つぎの三点を強調している。第一に、哲学が諸学の基礎であること。第二に、
書いている。
哲学を研究・普及させることが国家の文明を発展させるためには不可欠であること。第三
に、西洋哲学の研究に加えて東洋哲学の研究が必要であり、哲学の研究は究極的には日本
の文明開化を進め、富強を助けるものであるとしている。
哲学会の設立は、哲学を重視した井上円了が、その普及のために行動した一例であるが、
彼は同様の意図で盛んに著述活動もした。
学生時代から雑誌に論文などを発表していたが、
特に﹁耶蘇教を排するは理論にあるか﹂︵のち﹁真理金針﹂として単行本となる︶や﹁哲学要領﹂
などは彼の代表的著作に数えられている。また、
井上円了の﹃哲学一夕話﹄
﹃仏教活論序論﹄
によって、哲学への目を開かれた人が非常に多かったという。
18
Ⅰ 教育理念の形成過程
教育事業を目指して
井上円了は明治十八年︵二十七歳︶
に、東京大学を卒業し、文学士となった。卒業論文は中
国の哲学者を扱った﹃読荀子﹄であった。卒業後しばらくの間は、明治五年に中村正直が
設立し、福沢諭吉の慶応義塾と並び称されていた同人社や成立学舎などで教員をつとめた。
当時の東京大学卒業生の進路をみると、文学部では大学の教官か行政官僚になるのが通
常のコースだったようである。これは文部省が東京大学を国家の大学として、官僚養成機
関という位置づけをしていたためである。当然、井上円了にも同じ道が用意されていた。
彼に漢学を教えた石黒忠悳は、このとき陸軍軍医監となっていたが、彼の就職に関して森
有礼文部大臣に、文部省へ抜擢採用してほしいと話した。森はすぐに承諾して採用しよう
としたが、彼はつぎのようにいって、これを断っている。
﹁おぼしめしは誠にありがたいのですが、もとより私は本願寺の宗費生として大学に行
ったのですから、官途に就くのは忍びないことです。それに私は日ごろの誓願として、将
来は宗教的教育的事業に従事して、大いに世道人心のために尽瘁してみたいと思っていま
19
すので⋮⋮﹂
官僚への道を断った彼には、もう一つ、本願寺に戻らなければならないという道があっ
た。彼の在学中の保証人であった南条文雄は、東本願寺執事渥美契縁を訪ねて、井上円了
が仏教各宗中はじめての学士であることを考慮して、本願寺として優遇措置を講ずるよう
に要請した。教団は彼に教師教校の教授を命じるが、彼は、近代化が遅れ勢力が衰退して
いる仏教の力を回復するには、俗人となって活動するほうが有効なこと、また学校設立の
意志があることを理由に、命令を固辞した。教団との交渉は再三再四にわたり、とりあえ
ず﹁印度哲学取調掛﹂に任命されているが、彼の意志は堅く、変わることがなかった。や
がて彼が哲学館を創立するに至って、本願寺はようやく彼の意図を理解し、民間人として
活動することを認めた。
この二つの道を断ったときの理由からも明らかなように、井上円了は卒業以前からすで
に、教育事業に携わるという将来の方向を定めていた。むろん、そこには哲学の普及とい
う大きな目的があったことはいうまでもない。
20
Ⅰ 教育理念の形成過程
日本社会の改良
明治十九年の春、井上円了は病気療養中の熱海で哲学館設立の計画を練っているが、こ
こでは哲学館設立にも影響を与えた当時の社会状況と井上円了らの思想運動について触れ
ておこう。
この年の秋、彼は哲学会の同志である棚橋一郎と相談して、哲学書などを中心にした出
版社の設立を計画した。これが明治二十年一月にできた哲学書院で、﹃哲学会雑誌﹄は二
月にここから創刊されたのである。以後、十三年にわたって、彼の著作はもとより、多く
の出版物が世に送り出されていった。
しかし、哲学書院は単なる出版社というだけにとどまらなかった。﹃東洋大学八十年史﹄
には﹁哲学書院が他面において、同志の良き集会場となり、井上円了が関係したあらゆる
文化事業や、思想運動の策源地になった﹂とある。すなわち、ここで彼のさまざまな活動
が結合していったのである。なかでも明治二十年代の思想界をリードした﹁政教社﹂の結
成は大きな意味を持っていた。
21
明治二十年五月、例によって哲学書院の二階に集まった人々がいる。棚橋と三宅のほか
辰巳小次郎、加賀秀一という顔ぶれだった。棚橋が﹁どうもこう外国かぶれが盛んになっ
てしまって、なんとかこれをたたき直さなければならんのじゃないか﹂といったところ、
一同が賛成したので、さらに賛同者を募って政教社という団体を結成することになった。
棚橋が提起した問題を、井上円了はつぎのように語っている。
﹁明治維新後、日本固有の学問はもちろん、衣食住日常のことに至るまですべて西洋を
や豆腐に至るまで排斥された時代
とらねばならぬようになってきて、一も西洋、二も西洋、三も西洋というありさまであっ
た。それで第一に仏教を排し、ついで漢学を排し、味
があった。これは社会の潮流が極端から極端へ走ったためである。
西洋崇拝の必然の結果として、宗教も日本従来のものを捨てて、西洋に行われているも
のをとらねばならぬという世論を見るに至った。これがその当時ヤソ教が蔓延した理由で
ある。婦人のごときもすべて西洋風に育て、舞踏までも教えなければならぬように考えら
れた﹂
このような風潮は﹁欧化主義﹂といわれ、
その典型は政府による鹿鳴館外交であったが、
22
Ⅰ 教育理念の形成過程
これは西洋的スタイルをまねることが不平等条約の改正に必要であるという考えから出た
ことであった。そこで政教社の人々は、欧化主義に対して、ナショナリティを訳した﹁国
粋主義﹂あるいは﹁日本主義﹂をスローガンとし、日本固有の宗教、教育、美術、政治、
生産制度などの長所を保存することを主張した。すなわち、日本人としての主体性を回復
しようということである。
政教社に集まった人々は、哲学館系と東京英語学校系とに分けられる。前者は井上円了、
三 宅 雪 嶺 ︵雄二郎︶
、加賀秀一、島地黙雷、辰巳小次郎、棚橋一郎と、ほとんどが東京大学
出身者で、後者は志賀重昻、松下丈吉、菊地熊太郎という顔ぶれで、札幌農学校出身者で
ある。いずれも官僚とならず、あるいは官僚をやめて自主独立の道を歩んだ人であった。
彼らの活動は明治二十一年四月から発行された雑誌﹃日本人﹄を中心に行われたが、その
主張は明治中期の思想界を二分するほど大きな運動として普及した。その理由としては、
彼ら自身が西洋の近代的知識を身につけていたことや、民衆の側に立った運動であったこ
となどが考えられる。
哲学館創立は明治二十年九月であるから、
政教社の誕生とほぼ前後していることになる。
23
﹁日本主義﹂という新しい思想運動と井上円了の思想が結び付いて、哲学館には、日本社
会の改良という役割もまた加えられたのである。
❷ 哲学館の開設
二つのグループ
井上円了は、東京大学を卒業した翌年の春、病気療養中の熱海で加賀秀一に、大学時代
から抱いていた学校設立の願いをはじめて具体的な構想として明かし、その後棚橋一郎、
三宅雄二郎、内田周平にも話した。棚橋によると、彼は哲学館においては哲学の普及を目
的とすることを説明したうえで、さらに﹁僧侶が地獄極楽ということにこだわっていて、
本当の僧侶学をやっていない。彼らに哲学思想を与えてやれば、きっと社会の利益につな
がると思う﹂と語ったということで、哲学を用いて沈滞していた仏教界を活性化すること
も願っていたことがわかる。
24
Ⅰ 教育理念の形成過程
百年後の今日では、創立時の経過を明らかにする資料はほとんど残っていない。しかし、
当時の関係者の発言や断片的記録を総合してみると、哲学館の創立には、井上円了を中心
に二つのグループが関係していたことがわかる。一つはすでに述べたように哲学会のメン
東本願寺は、井上円了を留学させた後も清沢満之や柳祐信ら四、五名の学生を国内留学
バーを含む東京大学の出身者たちであり、
もう一つは東本願寺の国内留学生たちであった。
させたが、その際﹁すべてのことは井上円了を手本とし、相談せよ﹂と命じていた。資料
によれば、井上円了を中心とする彼らは学生時代から新しい宗教関係の学校を設立する希
望を持っていたらしく、それが哲学館という形で具体化されたともいわれている。
井上円了の哲学館設立の構想はこの二つのグループの協力を得て実現されたのである。
開設ノ旨趣
井上円了は哲学書院の設立や政教社の結成を進めながら、協力者たちとともに、構想を
より明確な形に整えていった。そして、明治二十年六月に発表された﹁哲学館開設ノ旨趣﹂
と題する趣意書によって、哲学館は世に姿を現した。その内容は、まず哲学の意味と重要
25
性を述べ、哲学館創立の目的に及んでいるが、これを要約するとつぎのようになる。
﹁文明の発達は主として知力の発達によっている。知力の発達を促すものは教育という
方法であり、高等な知力を得るためにはそれに相応する学問を用いなければならない。そ
の学問とは哲学である。哲学は万物の原理を探り、その原則を定める学問で、いわば法律・
政治から理学・工芸にいたるすべての学問世界の中央政府にして、万学を統括する学問で
ある。しかし、哲学を専門に教授しているのは帝国大学だけであり、翻訳書が多く出てい
るとはいっても、それを読んだだけで原文の真意を理解することはむずかしい。そこで、
それぞれの分野の学士と相談して、哲学専修の一館を創立し、これを哲学館と称すること
にする。ここでは大学の課程に進むだけの資力のない人 ︵余資なき者︶ならびに原書を読み
こなせるようになるだけの時間的余裕のない人 ︵優暇なき者︶のために哲学を速く学べるよ
うにし、一年ないしは三年で論理学、心理学、倫理学、審美学、社会学、宗教学、教育学、
哲学、東洋諸学などを教授する。哲学館の教育が成功すれば、社会、国家に利益をもたら
し、文明進歩の一大補助となるであろう﹂
この文章は設立の協力を求めるために、知人や著名人に送られるとともに、雑誌にも掲
26
Ⅰ 教育理念の形成過程
載され、彼の意図を広く一般に訴える役割を果たした。
多くの後援者
哲学館創立において忘れてならないのは、賛同者・後援者の存在であるが、それについ
て井上円了はこういっている。
﹁はじめ哲学館を創立したときには、もとより無資本で、またほかから扶助保護を受け
ることもなく、すべて有志の寄付によって創立費をまかないました。当時本館の旨趣に賛
成して多少の寄付をしてくれた人は二百八十人ありました。したがって、哲学館は二百八
十人で設立したものといってよいわけです﹂
哲学館の経済的基盤は、一部の有力者に頼るのではなく、多くの人から寄せられたわず
かずつの寄付金によってつくられたのである。
そういう人々の中に加藤弘之と寺田福寿の名がある。加藤弘之は日本にはじめて立憲思
想を紹介した人で、進化論を中心にした政治哲学を展開し、また明治十四年に東京大学初
代総理となった。哲学館創立にあたっては顧問となり、
以後哲学館の発展を見守り続けた。
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寺田福寿は真宗大谷派の僧侶で、本願寺の東京留学生として慶応義塾に学び、難解な仏教
を大衆にいかに理解させるかを研究し、宗派を超えた活動を行っていた。駒込の真浄寺の
住職だったが、ことあるごとに哲学館のために寺を開放して、協力を惜しまなかった。井
上円了は、のちに出会って大きな援助を受けた勝海舟を含めて、彼らを﹁哲学館の三恩人﹂
と呼んだ。
高等教育のはじまり
﹁哲学館開設ノ旨趣﹂において、井上円了が哲学館の教育対象としたのは、﹁余資なき者、
優暇なき者﹂と表現されているように、大学へ行ったり外国語を学んだりする余裕のない
人々であった。この意味を理解するためには、当時の高等教育制度について触れなければ
ならない。
日本の近代教育は明治維新からはじまるが、それ以前にも一般民衆の中には教育に対し
て関心を持っている人も多く、寺子屋、家塾、私塾などで盛んに教育が行われていた。し
かし、これらは歴史の中で自然に発達したもので、もちろん義務教育ではなかった。ヨー
28
Ⅰ 教育理念の形成過程
ロッパ的な近代教育制度が導入されたのは、明治五年に公布された﹁学制﹂が最初であっ
た。これは小学校を人口六百人につき一校、中学校を人口十三万人につき一校、大学を全
国に八校設置するという内容であったが、維新政府の財政基盤が弱かったため、このまま
しかし、翌年、政府は﹁学制二編追加﹂という規定を設けて、高等教育機関である大学
実施することは不可能であった。
について具体化の方向を打ち出した。この規定によって﹁専門学校﹂が設置されたが、こ
れは日本の近代化に必要な﹁百般の工芸技術および天文窮理医療法律経済等﹂を外国人の
教師により洋語で教授する学校であった。なぜ大学という名称を用いず区別したのかとい
うと、政府が学制において示した﹁大学﹂とは、日本人が日本語で教育する学校で、なお
かつ総合大学を意味していたからである。そして、この専門学校の目的は、将来そのよう
な大学を設立するために、西洋の学術・技芸を日本語で教授することのできる日本人の教
師を養成することであった。日本の高等教育は外国人の﹁お雇い教師﹂によってはじめら
れ、その授業は英語やドイツ語で行われたため、学生は﹁日本人にして西洋人﹂の生活を
送っているとまで形容された。
29
こうしていくつかの専門学校が設立された。これらのうち開成学校と東京医学校とは明
治十年に統合され、日本最初の大学である﹁東京大学﹂が誕生した。これは開成学校の総
理だった加藤弘之の提案によるもので、文学部、理学部、法学部、医学部からなっていた
ものの、授業は依然として外国語で行われていたため、実質的には学制で示された大学と
は異なっていた。そして、東京大学で学ぶためには、まず﹁予備門﹂において四年間語学
を学ばなければならず、結局大学卒業までには八年もかかるという状態であった。
この予備門から大学へという基本的な形は、哲学館創立のころにもまったく変わってお
らず、依然として大学で学ぶのは非常にむずかしいことだった。井上円了の﹁余資なき者、
優暇なき者﹂とは、いわば学習意欲を持ちながら、経済その他の条件で、このコースに乗
れない人々であったといえる。
官学中心主義
東京大学文学部には当初、第一科として史学、哲学および政治学科、第二科として和漢
文学科が設置されていた。まもなく学科の分化独立が進められ、哲学科は井上円了の入学
30
Ⅰ 教育理念の形成過程
した明治十四年に独立した。ちなみに、この段階ではまだ十分に科目が定まっておらず、
﹃東京大学百年史﹄によると、このとき大学は文部省に哲学科の授業内容について照会し
ているが、その回答では哲学 ︵当時は純正哲学と呼んでいた︶だけでなく、心理学、道義学、論
井上円了は当時の哲学科についてこう語っている。
理学を含み、哲学についてはその概要程度のレベルで教授することとなっていた。
﹁私が大学にいたころは、哲学科の学生は私一人で、教師が十何人とありました。それ
ですから、私が欠席すると十何人の教師がみな休まなければならぬというしだいで、各教
師からは〝君が休むときは前もって案内をしておいてくれ〟といわれました﹂
これでわかるように、東京大学では多数の教師のもとで少数の学生が教育されていた。
これは東京大学が、国家の近代化に役立つ専門家を一日も早く養成するための機関と考え
られていたからである。
政府は東京大学のこの性格をより明確にするために、明治十九年に﹁帝国大学令﹂を公
布し、東京大学を帝国大学と改めた。この法律の特色は、一般的な﹁大学﹂に関するもの
ではなく、ただ帝国大学についてのみ定めたところにあった。ここで政府は、帝国大学の
31
目的を、﹁国家の須要に応ずる学術技芸を教授しおよびその蘊奥 ︵うんのう︶を攻究する﹂
こと、つまり国家になくてはならない人材を養成し、その研究を発展させることに置き、
国家のための学校であることをはっきりと規定した。
帝国大学は、国家の手によってつくられたエリート養成機関で、政府からいろいろな優
遇措置を受けていた。卒業生には医師、弁護士、中等教員、高等教員ほか、さまざまな職
業の資格や免許が、卒業と同時に無試験で与えられた。例えば、明治二十年から高等文官
試験制度がはじまったが、帝国大学法科大学 ︵現在の法学部︶卒業生はこの試験を受けなく
ても高級官僚の地位が保証されていた。
帝国大学令で打ち出された高等教育における官学中心主義の政策は、その後の高等教育
の発達を根本的に規定し、官学と私学という格差のある二重構造を生み、現在にまで影響
を及ぼしている。
私立学校の誕生
﹁哲学館開設ノ旨趣﹂の発表からひと月あまりたった明治二十年七月二十二日、井上円
32
Ⅰ 教育理念の形成過程
了は﹁私立学校設置願﹂を東京府知事に提出した。教員は彼と清沢満之であった。そして、
三日後には設立認可を受けた。
当時はただ届け出をするだけで、どのような種類の学校であっても自由に設立すること
が可能であった。官学中心主義の教育政策をとっていた政府は、私立学校を高等教育機関
としては認めず、制度に組み入れることもしなかったからである。したがって私立学校を
設立することは自由であったが、国からの援助はもとより、帝国大学に与えられたような
優遇措置もいっさいなかった。しかし、制度に組み込まれないという点を裏返してみれば、
国からの制約を受けないということであり、創立者はそれぞれの教育理念に基づいて自由
な学校づくりができたのである。そのため明治初期から多くの私立学校が、それぞれ独自
の建学の精神を掲げて誕生していた。
表1は、明治期に設立された私立学校で、戦後の新制大学まで続いている二十五校を、
設立年順に並べたものである。これによると、日本の近代教育の創始期である明治十年代
に続々と学校が誕生しているが、特に﹁五大法律学校﹂と称される専修大学、法政大学、
明治大学、早稲田大学、中央大学がこの時期に創立されていて、それらは法律家の養成と
33
表 1 旧制大学から新制大学まで続いた25の私立大学
設立年
設 立 時 校 名
現 在 名
安政 5 年
蘭
学
塾
慶 応 義 塾 大 学
明治 5 年
宗
教
院
立
正
大
学
明治 7 年
立 教 学 校(英語学校) 立
教
大
学
明治 8 年
曹 洞 宗 専 門 学 校
駒
沢
大
学
同 志 社 英 学 校
同
志
社
大
学
明治12年
大教校(浄土真宗本願寺派) 龍
谷
大
学
明治13年
専
校
専
修
大
学
社
法
政
大
学
明 治 法 律 学 校
明
治
大
学
成 医 会 講 習 所
東京慈恵会医科大学
真
宗
大
学
寮
大
皇
典
講
究
所
国
学
院
稲
田
東
明治14年
明治15年
修
京
学
法
学
谷
大
学
大
学
大
学
東 京 専 門 学 校
早
明治18年
英 吉 利 法 律 学 校
中
明治19年
真言宗古義大学林
高
関 西 法 律 学 校
関
西
大
学
明治20年
哲
館
東
洋
大
学
明治22年
日 本 法 律 学 校
日
本
大
学
関
院
関 西 学 院 大 学
明治24年
育 英 黌 農 業 科
東 京 農 業 大 学
明治33年
台 湾 協 会 学 校
拓
京 都 法 政 学 校
立
明治37年
日
校
日 本 医 科 大 学
明治44年
上
院
上
智
大
学
大正15年
天台宗大学・豊山大学・宗教大学
大
正
大
学
学
西
本
智
学
医
学
学
央
野
大
山
殖
命
大
大
館
大
学
学
学
学
34
Ⅰ 教育理念の形成過程
表 2 設置者別学校数・学生数(明治21年)
区 分
国 立
1
738
4
439
公 立
──
──
5
1,107
私 立
──
──
34
7,736
計
1
738
43
9,282
いう帝国大学の役割を補完する形でつくられた点に特色
があった。しかし、私立学校は民間の立場から高等教育
を行おうというものであり、政府がその存在を正当に評
価していなかったにもかかわらず、その社会的役割は増
大していった。
表2は、哲学館設立の翌年、明治二十一年における高
等教育機関の学校数と学生数を示したものである。大学
は帝国大学一校だけで、官立の専門学校は九校だが、こ
れに対して私立学校は三十四校にものぼっている。
また、
学生数の点でも私立学校が七十七%以上を占めており、
その高等教育における割合がいかに大きくなっていたか
が明らかである。
これら私立学校を教育内容別にみると、実用的な学問
を教授する学校と、キリスト教、仏教、神道などの宗教
35
学校数
学生数
学生数
学校数
専門学校(旧制)
大 学(旧制)
出典:文部省『学制百年史(資料編)
』昭和47年
を中心とした学校とに分けられ、前者はさらに①法学・経済などの社会科学系、②英学な
ど語学中心の人文科学系、③医学・物理学などの自然科学系に分類できる。このことから
もわかるように、哲学という分野を専門とする学校はこのいずれにも入らず、その意味で
は哲学館は極めてユニークな学校であった。
哲学館の開館式
哲学館は、はじめは独立した校舎を持たず、東京大学の近くの本郷区龍岡町 ︵現在の文京
区湯島︶に あ る 臨 済 宗 妙 心 寺 派 麟 祥 院 と い う 寺 の 一 室 を 借 り て 教 室 と し て い た。 開 館 式 は
明治二十年九月十六日、この寺の境内で行われた。
式は午後一時ごろからはじまり、来賓および生徒一同を前に、まず館主井上円了が開館
の趣旨を述べ、ついで帝国大学文科大学長外山正一が﹁哲学の普及﹂という祝辞を呈した。
さらに棚橋一郎が﹁哲学の要﹂、辰巳小次郎が﹁哲学の世間に及ぼす効用﹂と題して演説
をした。来賓は帝国大学の学士と仏教各宗の学僧が多かったという。式の模様は当時の
﹃東
京日日新聞﹄や﹃郵便報知新聞﹄などで報道された。
36
Ⅰ 教育理念の形成過程
歌人であり、また和歌の研究者として今日でも広く知られている佐佐木信綱は、この式
典に哲学館の第一期生として参列していた。彼は井上円了の﹃哲学一夕話﹄などによって
哲学に対する興味をかきたてられ、帝国大学の古典科と国民英学会に学ぶかたわら、哲学
館にも通うことにしたのである。彼は﹁開校当日、麟祥院へ行ってみると、本堂にだいぶ
たくさんの人がおりました。自分の第一印象としては、自分と同じく哲学を知ろうとあこ
がれている人がこのように多いのだろうかと、驚くとともに喜びました﹂と、そのときの
感想を記している。
哲学を学ぶこと
井上円了が開館式で行った演説は、﹁哲学館開設ノ旨趣﹂の内容をさらに発展させたも
ので、哲学館の目的を詳しく述べている。
彼は、哲学館における教育の対象者を、つぎの三点にまとめている。
第一 晩学にして速成を求める者
第二 貧困にして大学に入ることが不可能な者
37
第三
原書に通ぜずして洋語を理解できない者
そして、哲学館はこれらの人々に哲学を教授するが、その目的は哲学者の養成ではなく、
哲学を学ぶことにあるとしている。哲学は諸学の基礎となるものであるから、社会に出て
一つのことを達成しようとする人は、哲学諸科を心得ているべきであり、また教育家や宗
教家になる人が学べば、専門の学問の理解を助けることにもなる。哲学館は、このように
活用範囲の広い哲学を日本語で教え、速成するための学校だといっている。ここで彼が考
えていたのは、哲学館は彼自身が学んだ東京大学の哲学科をモデルとして、その速成科た
るべきことであった。
さらに、哲学館には学問上においても大きな役割があると、彼はいっている。まず、哲
学は西洋諸学の関係を知るのに便利であること。そして、哲学を学ぶことによって、東洋
の学問、特に東洋哲学の空想的で憶断にたよるという欠点を補い、その活性化をはかるこ
と。そのためには、西洋哲学と東洋哲学を同時に学ばなければならず、哲学館のような学
校が必要となるのである。
彼は、開館した哲学館が﹁仮教場﹂であり、いずれ校舎を建設して、
﹁哲学館の独立﹂
38
Ⅰ 教育理念の形成過程
をはかるつもりであると述べて、演説を締めくくっている。
哲学館の必要性
では、哲学館の誕生にはどのような期待が寄せられていたのだろうか。外山正一は祝辞
の中で、哲学と哲学館の必要性について、つぎのようなことをいっている。
﹁高等教育機関は帝国大学だけだが、これは修学の年限が長く、学費もたくさん必要で
ある。現在、学問をしたいと願う人々が多いという〝世の需要〟にもかかわらず、学校は
不足しているので、〝専門学校〟が必要になってくる。そもそも一国の文明を開くという
ことは、一人二人の知識人がいるだけでは達成できず、やはり一般人民が知識に富むよう
にならなければならない。そのために法律・医学・政治・経済などの速成学校 ︵専門学校︶
が多くできるようになったが、哲学の学校というのはなかった。哲学館はその欠点を補う
意味がある。世間には哲学思想をあまり重視しない人もいるが、歴史を書く、宗教を論じ
る、美術の改良を論じる、人倫を研究する、さらに国の隆盛をはかるにしても、哲学上の
思想によらずにできるものはない﹂
39
すでに述べたように、帝国大学 ︵東京大学︶に入るには、まず予備門で語学を学ばねばな
らなかったので、大学卒業までには七年もかかった。これでは近代化に必要な人材の養成
や学問・知識の普及は望めない。
これに対して私立学校は、速成主義をとり、授業も日本語で行っていた。東京専門学校
︵早稲田大学︶の創立者の一人である小野梓は、明治十五年の開校式で、同校は速成を期し、
日本語で教授するところで、これによって学問の独立、大学の設立へと進むであろうと演
説している。これは当時の私立学校の創立者たちに共通の考え方であり、井上円了もこれ
と同じ立場に立っていた。
若い教員
︶には、創立までの協力者が多いが、特徴は二つある。
こうして哲学館はスタートしたが、井上円了の理念の実現を支えたのは、教員たちであ
った。開設当初の講師・評議員 ︵表
いことで、館主井上円了は二十九歳で、教員のほとんどは二十代と三十代であった。最高
第一点は、講師十八人のうち十二人が東京大学の卒業生であること。第二点は、年齢が若
3
40
Ⅰ 教育理念の形成過程
表 3 創立時の講師および評議員(年齢順)
氏 名
年齢
学 歴
井 上 円 了 29 東 大 卒
岡 本 監 輔 48
村 上 専 精 36 高倉学寮
清 野 勉 34
内 田 周 平 33 東 大 卒
国府寺新作 32 東 大 卒
松 本 愛 重 30 東 大 卒
松本源太郎 30 東 大 卒
嘉納治五郎 27 東 大 卒
織 田 得 能 27 高倉学寮
辰巳小次郎 27 東 大 卒
三宅雄二郎 27 東 大 卒
清 沢 満 之 24 東 大 卒
棚 橋 一 郎 24 東 大 卒
岡 田 良 平 23 東 大 卒
日 高 真 実 22 東 大 卒
加 賀 秀 一 22 東 大 卒
磯 江 潤 21 応報義塾
坂倉銀之助
柳 祐 信
41
東 大 卒
担当科目
関 係 事 項
心 理 学、 教育者、哲学者、哲
哲 学 論 学館創立者
儒
学 東大予備門講師
仏教史学者、東大講
仏 教 諭
師
哲学者、創立以来論
論 理 学
理学を教授
中国哲学者、美学、
儒
学
儒学を教授
高等師範学校教授、
教 育 学
外交官
国
学 文学博士
心 理 学 教育家
教育家、講道館柔道
倫 理 学
の創始者
仏教学者、真宗大谷
仏 教 史
派僧侶
社 会 学 東大予備門教諭
哲 学 史 哲学者、評論家
哲学者、僧侶、東本
心 理 学、
願寺の改革運動をお
哲 学 史
こす、評議員
教育家、郁文館中学
倫 理 学
を設立
官僚、政治家、東洋
大学第 5 代学長、評
議員
論文校閲 教育者、東大在学中
教育者、学習院教授、
評議員
教育者、幹事兼講師、
英学初歩
京華学園を創立
哲学者、鹿児島高等
論 理 学
中学造土館教授
東本願寺留学生、評
英学初歩
議員
齢者の岡本監輔は、井上円了が予備門で教えを受けた人だが、それでも四十八歳である。
また村上専精は仏教学の講師を勤めながら、同時に一学生として西洋哲学を学んでいた。
明治は﹁早熟の時代﹂だったともいわれるが、創立したばかりの哲学館の推進力となって
いたのは、彼らのみずみずしい知性とあふれる情熱であった。
さまざまな学生
創立当初は入学試験はなく、十六歳以上の男子が対象というだけで、特別な制限はなか
った。したがって、学生は十七、八歳の青年から四、五十歳の中年までと幅広く、中には
﹁子持ち﹂や﹁孫持ち﹂の学生もいたということである。定員は、はじめは五十名とされ
ていたが、入学希望者が多かったため、さらに追加して入学させている。
十九歳で哲学館に入り、のち第四代学長となった境野哲は、当時の印象をこう記してい
る。
﹁学校とは名前のみで、徳川時代の寺子屋式であって、湯島の寺の一室を借りて校舎に
あてていた。通学する学生の服装は一定ではなく、洋服あり、破ればかまあり、あるいは
42
Ⅰ 教育理念の形成過程
金らんの袈裟 ︵けさ︶に数珠 ︵じゅず︶という人もあった。いまから考えれば、一種の仮装行
列ともいうべきありさまであった﹂
また、学力の差は人によって大きく違っていて、専門的知識を持った人もいれば、まっ
たく白紙の状態の人もいた。ほとんどの学生は英語はもちろん知らないし、心理学や倫理
学など聞いたこともないというような状態だったのである。
はじめはこのような館内員つまり通学生だけであったが、
今日でいう通信教育に着手し、
翌二十一年に講義録を発行し、一月には館外員制度を設けた。館外員になるには資格は必
要なかった。これは、地方で学ぼうという人々に便宜をはかるために、教室での講義をそ
のまま筆記印刷した講義録を発行したもので、哲学の普及という目的に沿ったものであっ
海は、鎖国状態にあったネパールやチベットに入って仏教原
た。講義録は毎月三回発行され、多くの人々によって哲学が学ばれた。
学生の一人であった河口
典を持ち帰ったことで知られる仏教学者で探検家であるが、哲学館が創立されたときは二
十二歳で、はじめは学資がないので館外員として講義録を読んでいた。そのうち苦学を決
心して上京し、館内員となった。しかし、実際の生活はそうとうに厳しく、
﹁茶漬沢庵の
43
下宿で、一か月金二円、学校の月謝と校費で一円十銭、残金九十銭が雑費である﹂と記し
ているが、この四円を得るためにアルバイトに励み、疲労とたたかいながら勉強をしたの
である。哲学を学ぼうという熱意は当時の学生に共通したものであった。
授業風景
当時は九月から翌年七月までが学年の区切りになっていて、一日の授業時間は午後一時
から五時までだった。畳敷きの教室では、どのような授業が行われていたのであろうか。
哲学館ではテキストに翻訳本を使わず、
教室で教師が原書を訳しながら授業をしていた。
まだしきりに訳語をつくり出している時代だったので、翻訳本は読みにくく、かえってむ
ずかしいこともあったからである。しかし、この方法にも問題がなかったわけではない。
ときには教師が適当な日本語を思いつくことができなくて苦しむため、聴いている学生は
よけいにわからなくなることもあったようである。
﹁授業時間が一時間であれば、質問時
間は三十分必要であった﹂と、学生の一人は記している。ついには矢のような質問で教師
に迫る﹁質問博士﹂とか、逆に教師に対して堂々と説明してみせる﹁説明博士﹂などと呼
44
Ⅰ 教育理念の形成過程
ばれる学生も現れたということである。
また、ある講義では、むずかしいカントの哲学を一番はじめに教えたとか、学生に﹁客
観とはどういう字ですか﹂と日本語を尋ねられた教師が﹁それはオブジェクトです﹂と英
初期の授業は教師と学生の間に混乱があり、不完全なものであったが、どちらも情熱に
語で答えたという、笑い話のようなエピソードも残っている。
あふれていたので、実に活気に満ちていた。また、学問に対する態度は真剣で、自由な研
究という点では非常に優れたものがあった。
❸ 哲学館の改良
海外視察旅行
明治時代には、政府でも民間でも、西洋先進諸国の知見・知識を学ぶための視察外遊が
盛んに行われていた。私立学校の創立者にも外遊や留学の経験を持つ人は少なくない。慶
45
応義塾の福沢諭吉はアメリカとヨーロッパ、同志社の新島襄はアメリカ、早稲田の小野梓
は中国とイギリス、明治の岸本辰雄はフランスと、それぞれの国で学んでいた。
井上円了は生涯に三度の海外旅行を経験しているが、その範囲は全世界に及んでいる ︵表
4︶
。また、中国、朝鮮などに講演旅行をしている。第一回の外遊は哲学館開設の翌年、
明治二十一年 ︵一八八八年︶六月から一年間にわたって行われ、目的は欧米の政教関係およ
び東洋学の研究状況を視察・調査することであった。
この外遊は、彼にとって、書籍などで伝えられていた欧米諸国の﹁列強﹂の現実を肌で
感じ、日本と西洋の関係を相対的に見直す機会であり、また、それまでに学習した知識を
確認し、探究した思想を検討するという意味もあった。彼は外遊によって得られた見聞や
深められた確信によって、哲学館の教育と日本の現実の改革とを関連づけ、その教育構想
を練りあげていった。
外遊の経過
六月九日、留守中の哲学館を棚橋一郎に託した井上円了は、イギリスの船に乗って、横
46
Ⅰ 教育理念の形成過程
表 4 井上円了の海外旅行
目
的
明治 ・ ・
出発日・期間
か月
明治 ・ ・
か月
明治 ・ ・
1年間
欧米の政教関係・東洋
学の研究状況の視察
インド聖跡参拝、欧米
の大学教育・経営、社
会教育の視察
オーストラリア・北欧・
南アメリカ大陸等の視
年齢
歳
30
歳
旅
行
先︵訪問順︶
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オー
ストリア、イタリア、エジプト、イエメン
インド、イギリス、ウェールズ、スコットラン
ンチン、ウルグアイ、チリ、ペルー、メキシコ
ス、スペイン、ポルトガル、ブラジル、アルゼ
ーデン、デンマーク、ドイツ、スイス、フラン
オーストラリア、イギリス、ノルウェー、スウェ
ンダ、ドイツ、スイス、アメリカ、カナダ
歳 ド、アイルランド、フランス、ベルギー、オラ
44
53
21
6
9
35
11
15
44
4
1
1
2
3
察旅行
47
8
9
浜を出発した。このとき、三十歳であった。太平洋横断には半月かかり、二十四日にサン
フランシスコに到着、さらに誕生から二十年目を迎えた大陸横断鉄道に乗ってアメリカ大
陸を横切り、ニューヨークからロンドンへ大西洋を渡った。
それから三か月間、スコットランドやイギリス南部を回った。この間に、オックスフォ
ード大学ではヨーロッパではじめて仏教学の研究を確立したサンスクリット学者のマック
ス・ミュラーに会い、ケンブリッジ大学ではカワー ︵インド学者︶
、ウェード ︵中国研究者︶
、シ
ーレー ︵歴史学者︶といった人々と東洋哲学について話し合った。また大英博物館を見学し
たり、アジア協会でインド哲学の現況を尋ねたりした。
十二月下旬に、ロンドンからパリに渡った。パリにはちょうど西本願寺僧侶藤島了穏が、
哲学研究のために留学していた。藤島は﹃日本仏教史﹄を著して仏教哲学を欧米の学者に
紹介した人物である。井上円了は藤島の隣に宿をとり、日本に哲学を普及させることや、
帰国後の哲学館の事業について語り合った。
パリからローマ、ウィーンを経て、ベルリンへ行った。このころ、明治十七年から留学
していた井上哲次郎はベルリン大学で哲学を研究しながら、付属の東洋学校で教鞭をとっ
48
Ⅰ 教育理念の形成過程
ていた。藤島もベルリンにやってきて、三人は今後の哲学普及の方法を語り合い、またハ
ルトマンという哲学者を訪ねたという。その後、ベルギーを経てパリに戻り、世界万国博
覧会を見学した。一八八九年のパリ万博といえば、エッフェル塔が建設されたことで有名
帰路は、マルセーユから船に乗り、エジプト、アラビア、インド、中国を経由して、明
である。
治二十二年六月二十八日、横浜に到着した。出発からまる一年後のことであった。
外遊の結論
帰国後、井上円了は﹃欧米各国政教日記﹄上下二編を発表した。訪問地で見聞した事柄
が、宗教、風俗、習慣を中心に、二百九十一のテーマに分けられ、客観的に記述されてい
る。
例えば、﹁食事の礼拝﹂の項において、宗教的慣習を日本と比較して、
﹁英国にて宗教信
者の家を見るに内仏神棚のごときものはさらに安置せず。ゆえに朝夕礼拝を行うことなし。
ただ国教宗の家にては誦すべき文句あり。これを晩食のとき食卓に対して口誦するを例と
49
する﹂と記しているが、キリスト教の食前の感謝の祈りも、彼には興味深いものと映った
のであろう。
この外遊の目的の一つは、政治と宗教の関係を視察することであった。特に井上円了は
欧米におけるキリスト教の状況には関心が深かった。というのは、日本では﹁内地雑居問
題﹂が起こっていたからである。内地雑居問題というのは、欧米諸国との不平等条約改正
に絡んだもので、欧米は居留地廃止、治外法権撤廃に応じるかわりに、外国人の内地雑居
を認めるよう要求していた。仏教界にとっても、内地雑居
︵日本国内の居住、旅行、営業等の自由︶
が行われれば、キリスト教が国内で自由に布教できることになるため、重要な問題であっ
た。この問題は明治初期から論じられていたが、井上円了が外遊から帰国する直前の明治
二十二年五月、大隈重信の条約改正案に内地雑居を認める条項が含まれていることが明ら
。
かとなり、大きな反対運動が起こっていた ︵条約が改正され、内地雑居が実施されたのは明治三十二年︶
井上円了はキリスト教に関するつぎのような書簡を﹃哲学会雑誌﹄に送っている。
﹁ヤソ教の盛衰に関しては、小生の英米旅行の際、もっともその観察に注意したるとこ
ろなるが、米国まず依然として盛んなるように見うけたれども、英国は外面のみ昔時の勢
50
Ⅰ 教育理念の形成過程
力を示し、内部は余程衰えたるように相見え候。しかして、︵欧州︶大陸は外面まで衰微の
徴候を現じたること、一目して人の知るところにござ候﹂
これは自分だけの考えではなくて、欧米周遊の人や現地に住んでいる人の見解でもある
また、もう一つの目的は、欧米における東洋学の状況視察であったが、これについては
とつけ加えている。
﹃欧米各国政教日記﹄の﹁東洋学校﹂の項で述べている。
﹁西洋諸国にて東洋学を研究するに至りしはこの第十九世紀のことにして、諸国に東洋
学校の設立あるに至りしはきわめて近年のことなり。ドイツ、フランス、オーストリアは
各東洋学校を設立し、独仏両国の東洋学校には日本学の部あり。英国の大学中にはサンス
クリットおよびシナ学の教授あり。サンスクリットおよびシナ学はイタリアおよびロシア
にても講究するなり。西洋にて東洋学を研究することかくのごとく盛んなるに、日本は自
国の諸学を捨てて、ひとり西洋学を用うるははなはだ怪しまざるべからず﹂
無批判に西洋のものを取り入れる日本の欧化主義に疑問を投げかけている。彼はさらに
この外遊から、欧米諸国の富と力を支えているものに気がついた。それはどの国の人民も
51
みな﹁独立の精神﹂を持っているということであった。つまり、学問、事業、組織、風習、
宗教などに、アメリカにはアメリカ風の、イギリスにはイギリス風の固有なものがあると
いうことである。
これに対して、日本は欧米のものを取り入れ、日本固有のものを捨てる傾向がある。彼
は、日本の独立を維持するためには、こうした傾向を変えて、日本固有の言語、宗教、歴
史、およびその他日本固有の風俗習慣を改良保存しなければならないという結論に達した。
哲学館の新校舎
帰国した井上円了はこのような考えをいかし、哲学館の改良、大学設立の計画をもって、
校舎の建築にとりかかった。この建築は、彼が明治二十年の開館式の演説において﹁哲学
館の独立﹂として述べていたことである。
哲学館は開館一年後には、学生数の増加に伴って麟祥院境内に校舎として一棟を借りて
いたが、国会開設前夜ともいうべきこのころは社会情勢が不安定だったことなどから、学
生数はやや減少傾向にあったものの館内員二百余名、館外員も九百名以上になっており、
52
Ⅰ 教育理念の形成過程
そこも手狭な状態になっていた。そこで、場所も本郷区駒込
萊町 ︵現在の文京区向丘︶に移
転し、独立した校舎を建築することになった。着工は帰国から二か月足らずの八月一日、
完成予定は九月十五日であった。新築にあたって彼は特別寄付を依頼し、総額四千数百円
の費用のうち大口の寄付としては東西両本願寺からそれぞれ千円ずつ、また勝海舟から百
円を受けている。
勝海舟については改めて述べるまでもないが、彼には逸子という娘があり、彼女はのち
の男爵、目賀田種太郎と結婚していた。この夫婦が明治十九年十一月に井上円了が結婚す
を耳にしていて、関心を持っていたようである。
るときの仲人をひきうけたという関係で、井上円了は勝海舟と出会ったのである。目賀田
夫人によれば、勝海舟のほうでも彼の
あるとき目賀田とともに彼に会って、帰ってから﹁あんなに若い人であったか﹂と感心し
たという。この出会いは、後につぎのような形で伝えられている。
勝海舟は井上円了を見て、最初に﹁おまえは若いな﹂といった。そして、井上円了が哲
学館について説明すると、﹁やることがよければ必ずできると思うのは間違いだ。いくら
よい仕事でも、金がなくてはできない。幕府が倒れたのも金がなかったからだ。おまえさ
53
んも、そんな議論めいたことばかりいっていないで、なんでも金をつくりなさい。これは
ほんの寸志だ﹂といって、百円を寄付してくれた。井上円了はこれに感激し、以後事業を
するための教訓としたというのである。
﹃勝海舟日記﹄によれば、明治二十二年九月四日が二人のはじめての出会いである。す
なわち、校舎完成の間際である。以後、日記には井上円了の名前がひんぱんに記され、
﹁哲
学館へ百円寄付﹂
﹁古仏像金子十五円寄付﹂などとも書かれている。井上円了は勝海舟を
尊敬し、講演などではよく彼のことを話したという。そして、勝海舟の﹁書﹂を寄付者へ
お礼として贈り、勝海舟は哲学館の教育事業の足しになるならと、自ら﹁筆奉公﹂と称し
て協力を惜しまなかったという。
校舎建築は順調に進んでいたが、九月十一日に多数の死者を出すほどの大型台風が襲来
し、完成目前の校舎は倒壊してしまった。このとき井上円了は、仏教公認運動のため京都
の仏教教団を歴訪して遊説していたが、電報で知らせを受けると、すぐに東京へ向かった。
途中、東海道線が不通となっていたので、四日市から横浜まで船を使った。そして、九月
二十日からすぐ再建にとりかかり、十月三十一日に完成、翌日から新校舎での授業がはじ
54
Ⅰ 教育理念の形成過程
まった。この思いがけない事故により、費用は予定以上にかかり、落成時には負債が残っ
た。
校舎は二階建てで、教室は一階に百五十人収容のものが、二階に五十人収容のものがあ
った。また、校舎とは別に寄宿舎も建て、こちらも二階建てで、七畳二十室で四十人以上
が入れるようになっていた。
この校舎は哲学館の所有であったが、ちょうど棚橋一郎が郁文館 ︵現在の郁文館高校︶を創
立したため、哲学館の授業のない午前中は郁文館に貸与していた。郁文館は中等教育の場
であったが、哲学館の学生にも英語の授業を受けさせていた。また、井上円了は郁文館の
顧問に就任した。
萊町の校舎への移転式は明治二十二年十一月十三日に行われた。来賓は加
哲学館の改良
麟祥院から
藤弘之元老院議官、榎本武揚文部大臣、高橋五六東京府知事をはじめ、博士、学士、各宗
の高僧などあわせて百名、それに学生が参列した。
55
井上円了はこの日の演説で、まずこれまでの哲学館の開館旨趣を紹介したあと、外遊の
結論から導き出した哲学館改良について、四項目をあげた。
第一
わが国旧来の諸学を基本として学科を組織すること
第二
東洋学と西洋学の両方を比較して日本独立の学風を振起すること
第三
知徳兼全の人を養成すること
第四 世の宗教者、教育者を一変して言行一致、名実相応の人となすこと
さらに、
﹁他日一箇の専門学校を開き国家独立の大機関ともいうべき歴史科・言語科・
宗教科を分ち日本大学ともいうべきものを組織し、学問の独立と共に国家の独立を期す﹂
と述べて、哲学館を国家の独立を維持するために必要な言語、歴史、宗教を研究する﹁日
本大学の組織﹂﹁日本主義の大学﹂にする決意を明らかにした。
ここでいう﹁日本大学﹂﹁日本主義の大学﹂とは、組織や学科から教師、テキストまで
西洋にならった﹁西洋の大学﹂に対する表現であって、西洋に学ばないということではな
い。基本にあるのは日本固有のものの改良という考えであって、そのためには西洋の学問
のよい点は活用しようという考えがある。彼はまた、この﹁哲学館の改良﹂の方針を、雑
56
Ⅰ 教育理念の形成過程
誌や新聞にも発表した。
新島襄は、井上円了の大学設立の趣旨に対して、賛同の手紙を送ってきている。新島は
明治二十一年十一月に﹁同志社大学設立の旨意﹂を発表、その方針は﹁国を維持するは、
決して二三英雄の力にあらず、実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の
力によらざるべからず。これらの人民は一国の良心ともいうべき人々なり﹂という言葉に
表わされていて、キリスト教主義に立脚した人材養成を目指していた。新島は手紙の中で、
民間において大学設立を計画する人は少ないが、自分はその必要を感じて実行しようとし
ているところなので、ことさらに井上円了の趣旨には賛成であると述べている。そして、
なるべくならば﹁コスモポリタン、ユニヴァルシティー﹂の大学を設立されるようにと、
希望をつけ加えている。
国家の独立
井上円了は演説の中で﹁学問の独立﹂といっている。これはこのころ、私立学校の創立
者たちによって、盛んに提唱されたことであり、慶応も早稲田も同志社も﹁独立﹂
﹁自立﹂
57
を標榜していた。
この時代には政府、民間を問わず、﹁独立﹂という目標を掲げていたのであるが、特に
アへン戦争以来西欧列強が中国を植民地化し、日本にとっても脅威となっていた状況にお
いて、﹁国家の独立﹂というテーマは日本全体の緊急課題とみなされていた。そのため、
幕藩体制下における地方分散性と士農工商という身分制を打破し国民国家を樹立するこ
と、および欧米列強との不平等条約を改正するための富国強兵政策を実現すること、この
二つは明治前期の日本の各層が抱いていた共通目標であった。
政府も人民も﹁国家の独立﹂というナショナリズムの確立においては共通していたもの
の、しかし、そこには方法上の相異点があった。すでに述べた教育政策における官学と私
学の関係のような対立は、明治前期における政府と人民の構造的な関係であり、例えば明
治十年代までの士族反乱、自由民権運動、初期帝国議会における藩閥政権をめぐる問題な
どは、専制的な政府に対する﹁民﹂の抵抗とみられる。二十年代に入って、政府が国家独
立のために欧化主義をとるようになると、これに対して民間の立場からの運動が起こって
きた。明治二十一年に結成された政教社が展開した思想運動の背景にはこのような国家の
58
Ⅰ 教育理念の形成過程
独立をめぐる政府と民間との立場の違いという問題があったのである。彼らは政府の欧化
主義に反対を唱え、﹁日本主義﹂あるいは﹁国粋主義﹂をスローガンにしていた。しかし、
彼らは西洋の学術的文化的知識を持つ新しい知識人であったので、その内容は盲目的排外
主義を意味していたのではなく、あくまでも西洋の長所を認めながら、日本固有のものを
保存しようと主張していたのである。
日本主義と宇宙主義
井上円了がいっている﹁日本主義﹂は、日本という一国に限定されたものではない。移
転式に先立って﹃哲学館講義録﹄に掲載された﹁哲学館目的ニツイテ﹂で、彼は﹁日本主
義﹂とともに﹁宇宙主義﹂を掲げていて、この二つは切り離せないものであることを示し
ている。
日本の独立を達成するためには、少数の学者や上流階級など一部のものだけではなく、
国民全体が﹁独立の精神﹂を持たなければならないが、それには第一に言語、第二に歴史、
第三に宗教を完備する必要があり、これによって﹁一国独立の風﹂ができる。これが基礎
59
歴 史
日本主義︵表面︶
言 語
となっていれば、西洋の文物の﹁消化の輸入﹂が可能とな
り、日本的なものに変成して取り入れることができる。し
たがって、日本の独立は維持することができる。
井上円了は外遊で得た結論をこのようにまとめ、哲学館
れを﹁宇宙主義﹂と名づけた。
面においてはもう一つ大きな目的がある、という。彼はそ
しかし、彼は、この目的は﹁表面の目的﹂であって、裏
の役割を果たすことを目的とすると述べている。
全なものとした教育を行い、それによって日本の独立維持
は将来﹁日本大学﹂に発展し、言語・歴史・宗教を一体完
図 1 日本主義と宇宙主義
して、それがなければ、理学も哲学も成立しないということになる。
物﹂にすぎないのである。彼の﹁宇宙主義﹂とは、そのような観点を持つことである。そ
る国の人間も変わりがない。また、さらに大きな観点に立てば、人間も植物も﹁宇宙の一
日本人といえば外国人と区別があるが、単に人間という観点からすれば、地球上いかな
宇宙主義︵裏面︶
哲 学
宗 教
60
Ⅰ 教育理念の形成過程
したがって、国家主義 ︵日本主義︶と宇宙主義とは決して切り離すことができないもので
あるばかりか、二つは一つになることによってはじめて完全となる。どちらか一方だけと
いうことはあり得ないのである。彼はこれを図解してみせた ︵図 ︶
。右側が表面、左側が
裏面を表している。表面の日本主義は言語・宗教・歴史によって構成され、日本独立の精
神的基礎を確立し、その裏面においては、宇宙主義すなわち宇宙の真理・哲理 ︵哲学︶を
追究する。彼はこれを哲学館の主義として掲げた。
人間性の重視
ところで、哲学館の移転式の演説で、井上円了は﹁知徳兼全の人を養成する﹂ことに触
れていた。彼はまた﹁哲学館の改良﹂の中でも、知育がいかに進歩しても徳育も平行しな
ければ効果がないといっている。つまり、知識教育だけでなく、人間性を高めるような教
育をしなければならないという考えであった。しかし、人間性を育てることは、知識を教
育するようなわけにはいかない。あくまでも本人が自分のために自覚し、実行することが
重要である、というのが井上円了の方針であった。彼は、このような人間性の育成を重視
61
1
し、その具体的な方法として﹁寄宿舎﹂をつくった。
井上円了は、学生時代は社会的な拘束のない自由な時期であり、貴賤貧富にかかわらず
どのような人とも交われる時期でもあるので、﹁人間一生の春﹂だと考えた。学生が自由
を求めて行動することに対して、学校ではさまざまな規則を設けて学生を束縛することが
一般的である。しかし、哲学館ではこのような方針をとらず、そのため寄宿舎でも細かい
規則の網を設けず、寛大なる人間性をもって対応することとした。行為に関する善悪の判
断は学生個人の道徳心と自覚に任された。決して規則でもって﹁制裁﹂を加えることはし
なかった。
この考えをさらに進めたのが寄宿舎生を対象とした﹁茶会﹂である。茶会は外遊中に見
たイギリスの家庭のだんらんにヒントを得たもので、ここで彼は学生とともに談笑したり
遊んだりして、人間性の育成に役立てようとした。茶会は明治二十二年十一月十五日から
はじめられ、当初は毎月二回であったが、その後、毎日朝夕二回開かれるようになった。
つぎの資料は後年のものであるが、土、日の茶会の雰囲気を記している。
﹁土曜の夜には、寄宿生は一同連れ立って井上先生のお宅に参り、八畳の座敷に円座し
62
Ⅰ 教育理念の形成過程
て、先生からいろいろと修養上のお話を承ったものである。日曜の朝八時には、先生は必
ず寄宿舎に来られて、舎生一同としんみりとお話をなされた。先生のおいでになるに先立
って、舎生一同が各自の座布団を全部重ねてお待ちしていると、先生はつかつかとその高
く重ねた座布団の上に座られ、慈父のごとき暖かいお心持ちで、いろいろと学問上、修養
上のお話をなされた。この土曜日と日曜日の会合が、舎生一同のもっとも誇りとしかつ楽
しみとするところであった﹂
対話の精神
茶会は人間性の育成を目的としていたが、そこには井上円了の教育の基本的な姿勢がよ
く表れている。その基本とは、﹁対話﹂である。彼は決して自分の考えを強制することは
なく、自分の意見を出しても、その是非については学生個人の自覚と選択に任せた。
対話の姿勢を象徴するような例がある。当時、多くの学校で学生が講義内容を不満とし
て教師排斥運動を起こしていたが、哲学館でも教育学の講義に対して不満が出て、学生が
館主の井上円了に講義の中止を申し入れた。そこで彼は自分が学生とともにその講義に出
63
席し、終了後に討論会を開いて、教師と学生の双方の意見を明らかにして、改善策を探っ
たのである。
また、井上円了は学生に偏見を持たないようにと指導していた。授業の中で仏教家を例
に取り上げて、
﹁すべてのことを仏教で解決できる﹂という独断的な風潮があることを指
摘し、このように他の説はことごとく顧みるに足らないというのは狭量な偏見にすぎない
として、広い視野からのものの見方、考え方を学ぶように注意したという。
彼は新しいことを積極的に学ぶ姿勢も大事にしていた。当時は進化論はまだ新しい思想
であったので、盛んに論じられていたが、彼は欧米留学で勉強してきたばかりの人を講師
に招いて、自らも学生とともに講義を聴いたりした。
このように教師と学生がともに交わり、
教育の場で互いの人間性を尊重し合うことを
﹁私
塾の精神﹂という。井上円了は思想錬磨の術として哲学を基本とした教育によって、この
精神を実現していたのである。
64
Ⅰ 教育理念の形成過程
❹ 哲学館の教育目的
専門科の設置計画
井上円了は哲学館を改良して﹁日本主義の大学﹂へ発展させることを目指していたが、
そのためにまず専門科を設ける計画を発表した。
明治二十三年 ︵一八九〇年︶九月の趣意書では、従来の修学期間三年を普通科とし、その
上に二年の専門科を設置するとした。計画段階では、専門科は国学、漢学、仏 ︵教︶学、
洋学の四科からなり、十万円と見積もられた費用の半額に寄付金が達した時点から一科ず
。この寄付を募集するた
つ 順 次 開 設 さ れ る 予 定 で あ っ た ︵最終的には洋学科は設置されなかった︶
めに十三条からなる﹁寄付金規則﹂を設け、この中で、寄付金の額によって﹁寄付者﹂
﹁館
友﹂﹁館賓﹂﹁特別館賓﹂などと称し、それぞれに証票や感謝状を贈ったり、恩典を与える
ことを定めた。
65
これまで見てきたように、創立も移転も有志による寄付金が基金となって行われた。当
時、私立学校の主な資金源は授業料であったが、学生数が少ないため、学校の維持運営に
も大きな困難がつきまとっていた。しかし、官学中心主義の政府は援助をしなかった。そ
のため、私学が新たな教育事業を展開するためには、寄付金によるしかなく、それぞれに
知恵を絞った方法を考えている。
慶応義塾の場合には、明治十年の西南戦争後に学生数が激減して経営難に陥った際、政
府に資金借入れを申請したが、対応がはかばかしくなかったため、自力で資金調達の道を
見つけなければならなかった。個人経営の限界を知った福沢諭吉は、卒業生や彼の共鳴者
に呼びかけて﹁社中﹂という組織をつくり、彼らからの募金を学校の資本とした。この制
度がのちに役立って、明治二十三年に他の私学に先がけて﹁大学部﹂を設置することがで
きたのであった。
全国巡講
それでは哲学館は専門科設置に必要な十万円をどのようにして集めたのであろうか。井
66
Ⅰ 教育理念の形成過程
上円了は明治二十三年七月二十一日付けの勝海舟宛の手紙で、哲学館の経営の見通しが立
たず、秋から予定している専門科開設のための資金募集の方法についてもよい手段がない
と書いている。しかし、このときすでに、彼は全国巡講の予定を立てていた。つまり日本
各地を講演して歩きながら、哲学館の教育の趣旨を説明し、寄付を募ろうというのである。
彼が出発を予定していた日の四日前、すなわち十月三十日に﹁教育勅語﹂が発布されたの
で、彼はこの巡講において教育勅語に関する講演も行い、その普及にもつとめた。
﹁一道一
明治二十六年度﹄
︶によれば、二十六年六月までの足かけ四年間に、
全国巡講は、明治二十三年から二十六年まで行われ、彼は精力的に日本各地を歩いた。
記録 ︵﹃哲学館報告
府三十二県、四十八か国、二百二十か所を巡回し﹂、演説の回数は八百十六回に及んでいる。
講演日数をのべで示せば、三百九十日、つまり一年一か月になる。当時は現在のように交
通機関が整備されていたわけではないから、この巡講は想像以上に困難な旅であったが、
これを支えたのは三十代半ばという彼の若さと教育への情熱であった。
また、彼は館主の立場として自己を見直し、生活のあり方を変えた。名刺に﹁禁酒・禁
煙諸事倹約﹂と印刷し、実行した。時には寄付を依頼するのに﹁香典先払い﹂などという
67
形をとったため、一時は世間から誤解されたこともあった。
このように苦労して集めた寄付金の総額は、八千二百五十余円であった。
ところで、この少し前から同志社の新島襄も大学設立を期して、募金活動を展開してい
た。彼は明治二十三年一月、募金に歩いている途中で病死し ︵四十八歳︶
、その目で夢の実
現を見ることはなかった。このときの後援者と寄付金額が新聞に公表されているが、政界
や実業界からの寄付が多く、例えば大隈重信から千円、渋沢栄一 ︵実業家︶から六千円、岩
崎弥之助 ︵三菱会社社長︶から五千円など、十一人で三万一千円が集まっている。哲学館の
場合と比較すると、資金募集の方法は根本的に異なっている。井上円了は創立以来の方針
として、あくまでも民衆を基盤とした学校づくりを貫いていて、哲学館では教育対象もそ
れを支える後援者も日本全国の民衆であるという認識のもとに行動していたのである。
民衆に哲学を
井上円了の全国巡講には、単なる募金活動以上の意味があった。哲学館への協力を得る
ためには、まず哲学館の教育や哲学について理解してもらわなければならない。したがっ
68
Ⅰ 教育理念の形成過程
て、彼が全国各地で行った講演は、そのまま哲学の民衆への普及活動にもなっていたので
ある。それは大いに成果を上げた。
井上円了は、明治二十六年一月に熊本県知事の依頼で、哲学の効用について講演をした。
会場にあてられた熊本市内の大劇場につめかけた数千人の聴衆はみんな彼の二時間にわた
る熱を込めた講演に感動した。このとき第五高等学校 ︵現在の熊本大学︶教授だった内田周平
は聴衆の反応を見て、井上円了とともに喜びを分かち合ったという。
内田は、井上円了の講演や著作が女性や子供に至るまでの広範囲な人々に哲学の名を伝
える役割を果たしたことについて、その理由をつぎのように分析している。
﹁一番感心なのは、原語を訳しても、原語そのものを用いることがなかったことです。
あれだけはほかの人にはできません。その時分はハイカラがってよく原語を使ったもので
すが、彼は原語を使わないし、解釈もなるべく平易に訳してありました。これは演説のと
きでも変わりがありませんでした。それだけは偉いと思います。自分の腹の中で消化して
しまうのですから﹂
つまり、彼はむずかしい哲学用語などを使わず、すべて自分の中で消化したものを自分
69
の言葉にして語ったので、それが哲学の知識のない人々に哲学への関心を植え付けるうえ
で、もっとも適した方法だったのである。そのため、彼の講演を聞いた人が子供や知人に
哲学館への入学を勧めたという例も少なくない。
彼は民間の立場で哲学を民衆に広めることを使命と考えていたが、それは著作や講演に
よるばかりではなかった。明治二十三年からは哲学館内で﹁日曜講義﹂という講座を設け、
社会人に哲学館を開放するようなことも行った。今日でいう公開講座である。
誤解される
﹁哲学﹂
全国各地において、哲学の普及を目指した井上円了は、﹁哲学の大家﹂として優待され、
また哲学に関する講演を依頼された。しかし、この全国巡講の状況は必ずしも一様ではな
かった。熊本市での例のように、満堂の聴衆に向かって熱演する場合もあれば、集まる人
も少なく空しく柱を相手にして演説することもあった。このような講演の盛況や不況は、
人々の哲学に関する誤解に起因することが多かった。それについて、井上円了はつぎのよ
うに記している。
70
Ⅰ 教育理念の形成過程
﹁誤解の代表的なものは、哲学を禅や仙人の学問と考え、よほどおもしろいことを説く、
奇々妙々の学問という考えです。そのためつぎのようなことがありました。
哲学者っていうのはひげが長く、身は軽く、仙人のような人で、今度、東京よりその大
家がきて話をするそうだ、ということで、おもしろいものをみたいという人々が旅館の前
にたくさん集まっていました。ところが、
私のように仙人らしくない人物が到着したので、
人々の中には〝哲学者をいつわるにせ者が井上円了の名前をかたってきた〟といいふらす
こともありました。
またあるところでは、私のことを〝鍛冶屋の先生〟という人がいました。それは〝テツ
ガク〟という言葉を〝鉄学〟と誤解したからです。
そのほか、哲学はあらゆる学問に通じ、なにひとつわからないことはないものだという
ことからの、いろいろな誤解が生まれ、詩や俳句の添削を請う人、書画骨董の鑑定を頼む
人、はなはだしい場合は茶の湯や生け花の品評、人相手相の判断を頼む人もあって、これ
には閉口しました。
しかし、このような誤解はまだいいのですが、私が残念に思ったことは、哲学がおもし
71
ろいにせよ、むずかしいにせよ、家を富まし国を強くすることに関係なく、実用的な学問
ではないと考えている人が、百人中九十九人までいたことでした。ですから、哲学を勉強
することは、道楽者か物好きがやるものととらえられていたのです。そのため私は、でき
る限り哲学をわかりやすく人々に話すことにつとめました﹂
哲学は思想錬磨の術
井上円了は全国巡講をしていて、いつも同じ質問を受けたという。それは﹁哲学とは何
か﹂そして﹁哲学は必要なものなのか﹂ということであった。地方では、哲学を理解する
人はまれで、学ぼうという人はまったくいなかったので、彼らは哲学は容易に理解できな
い至難の学問であり、日常的に役立つものではないと受け止め、哲学者を奇人や偏屈人と
見ていた、と彼は記している。こういう誤解を解くためにも彼の講演は必要だったが、先
の質問に対する回答は、雑誌﹃天則﹄に掲載された﹁哲学ノ効用﹂に端的に示されている。
彼は、哲学は﹁士農工商誰人にも﹂つまり万人にとって、
﹁思想錬磨の術﹂として必要な
学問だといっている。その効用について要約すると、つぎのようになる。
72
Ⅰ 教育理念の形成過程
人間は肉体と精神の二面を持っている。肉体を錬磨する方法として運動や体操があり、
これによって健康を維持しているが、精神面でも同様のものが必要である。哲学はそのた
めの学問であり、思想錬磨の方法である。ニュートンの万有引力やコペルニクスの天文学
上の発見などは人間の思想活動によって想像力 ︵創造力︶が高められた結果であるが、思想
や精神は決して自然に発達するものではないので、身体を鍛えるのと同様に精神を訓練す
る必要がある。それが哲学を学ぶことである。哲学はものの見方、考え方の基本であって、
学生時代に哲学を学び、思想を錬磨し、他に応用する能力が身につけば、それでよい。研
究者にでもなるのでなければ、特に学者の諸説を暗記する必要もない。以上のように、哲
学は普通教育として、思想錬磨の術として万人に必要なのである。
そして、哲学館の教育の基本は、この﹁哲学を学ぶこと﹂であった。
教育家と宗教家の養成
創立から五年もたつと、哲学館の名だけは全国的に知られるようになったが、そこでは
どのような学科を教授し、どのような人物を養成するのかという具体的な教育内容につい
73
ては、まだほとんど知られていなかった。井上円了が大学設立に向けて、より明確化した
哲学館の教育目的は、だいたいつぎのように説明できる。
当時の帝国大学は、現在の学部にあたる法科大学、医科大学、理科大学、文科大学の四
つにわかれていたが、これに対応して法律関係の私立学校は法科大学を、医学関係のもの
は医科大学を目標においていて、それぞれ帝国大学の課程の速成をうたっていた。そして、
例えば、英吉利法律学校 ︵中央大学︶や明治法律学校 ︵明治大学︶などの五大法律学校と称さ
れたものは裁判官や代言人 ︵弁護士︶の養成を、また済生学舎などの医学校は医者の養成を
具体的な目的として持っていた。一方、哲学館は文科大学の速成科たるべきことを目標と
して設立された。文科大学は哲学者、史学者、文学者などの学者を養成する場であったが、
哲学館では学科の内容などは文科大学と同じとしながらも、目的は哲学を直接に応用する
教育家と宗教家の養成であった。
教育家とは具体的には教員になることであるが、教員にもいくつかのレベルがあって、
井上円了が考えていたのは中等教員であった。中等教員免許は帝国大学卒業生に対して特
権的に与えられていたが、明治十九年に文部省は尋常中学、同師範学校および高等女学校
74
Ⅰ 教育理念の形成過程
の教員免許を検定試験合格者に与える制度を改正し一般に開放した。そこで、井上円了は、
法律学校が代言人免許を望む者を、また医学校は開業医試験を目指す者を養成するように、
哲学館では教員検定試験の受験者を養成しようと考えた。そのために、やや高等な教育、
哲学館はさらに帝国大学に与えられていたような教員免許無試験検定の特典を取得しよ
倫理、史学、文学を教授することとした。
うと、明治二十三年に文部省に申請したが認められなかった。明治二十七年には国学院と
ともに二度目の申請をしたが、このときも特典は得られなかった。文部省としては私立学
校に官学と同じ権利を与える意志はなかったのであろう。結局、特典を取得するのは明治
三十二年になってからだが、これはのちに﹁哲学館事件﹂へとつながっていくことになる。
彼が教員養成に重点をおいた背景には、一つの大きな構想があった。彼は哲学館の教育
を小学校以上の中等教育を普及させる形で具体化し、哲学館の卒業生が全国で私立の中等
学校を設立・運営していくという、民間教育構想を抱いていたのである。具体的には、地
方都市にその地域の民力に応じた簡易中学のような私立学校を設立することであった。校
舎は寺院の余地のあるものを借り、生徒数は戸数千戸に対して三十人程度とする。また、
75
欠如している女子教育にも力を入れる。場合によっては、地域の実情にあわせて、冬期学
校、夜学校、貧民学校、幼稚園を併設することも考えていた。
一方、宗教家についての考えはこうである。当時、仏教系の私立学校はいくつかあった
が、すべて各宗各派の仏教教団が設立したもので、それぞれの僧侶養成を目的として、宗
派の学問を専門としていた。井上円了は、将来の宗教家のあるべき姿として、まず東西両
洋の哲学を学び、それから専門の修行をするなり、各宗派の学校でそれぞれの教義を学ぶ
ことが望ましいと考えていたが、哲学を教授する学校は帝国大学しかなかったので、それ
を哲学館で行おうとした。
また、井上円了は、宗教家すなわち仏教家は教育家とも結びつけて考えていた。仏教が
隆盛だった江戸時代には、学問教育は仏教家が掌握していたが、明治になって仏教家の学
識が低下して教育に携われなくなっていて、これが仏教衰退の原因の一つでもあると彼は
考えた。そこで、仏教家が教育家を兼務できるようにすれば、仏教の勢力を回復すること
にもつながる。そのためにはまず仏教家の学識を中等以上のレベルに高める必要があり、
これを哲学館の急務とみなした。
76
Ⅰ 教育理念の形成過程
このように東西両洋の哲学を基礎としてさらに哲学を応用するという意味で、教育家と
宗教家はまさに社会に適合した職業であり、これらの養成が哲学館の目的とされたのであ
る。
学制の改革
明治二十八年、哲学館に緝熙館 ︵しゅうきかん︶という中学科 ︵予科︶が設立された。これ
は中等教育の速成を志すもののために設けられたものであり、また哲学館の本科への入学
準備をするためのものでもあった。ここでは一年間で修身、漢文、数学、心理、作文など
が教授された。
また、同年からは入学試験が実施された。それまでは学問を志す人にできるだけ門戸を
開放するという趣旨から試験は行われなかったが、入学希望者の増加が著しく、また教育
上の観点から一定の学力を求めることも必要だったので、試験が実施されるようになった
のである。
入学試験の開始と同時に、学科の改革が行われた。内容は哲学館を教育学部と宗教学部
77
にわけて、それぞれ予科 ︵一年︶と本科 ︵二年︶の二科とするもので、井上円了が考えてい
た教育家と宗教家の養成という目標に対応したものであった。
78
Ⅱ
教育理念の発展
❶ 東洋大学設立への道
東洋大学と東洋図書館
明治二十七年から二十八年にかけての日清戦争に勝利した日本は、極東最強の軍備を誇
り、欧米列強の外圧を受けながら、植民地を持って他国を抑圧する立場にもなった。そし
て、この戦争以後、日本の資本主義は大きく成長し、社会は変化していく。
井上円了はそれまで哲学館の将来像を﹁日本大学﹂﹁日本主義の大学﹂と呼んでいたが、
明治二十九年 ︵一八九六年︶の新年の挨拶でこれを﹁東洋大学﹂と改めた。彼は日清戦争で
大勝した日本が、さらに東洋の覇者、世界の大強固となるには、学問の領域でも東洋大学
を設立して東洋学の全権を握らなければならないといっている。そして、日本人が西洋の
学問を学ぶために欧米に留学してきたように、今後は西洋で東洋の学問を志すものは日本
に来て学ぶようにしたいと望んだ。
80
Ⅱ 教育理念の発展
彼はまた東洋図書館設立についても触れている。学校に図書館がないのは、兵士に武器
がなく、銃に火薬がないのと同様であって、東洋大学に国書、漢書、仏教書を揃えた東洋
図書館があって、はじめて東洋学を樹立することができるという考えから、﹁哲学館付属
井上円了が専門科設置すなわち大学設立のために行った全国巡講による募金活動は、日
東洋図書館﹂を建設するつもりであることを述べ、人々の協力を求めている。
清戦争の問中断していたが、この年の三月から再開された。まず長野県下を巡講して、哲
学館東洋大学科新築費として千八百五十六円の寄付を受け、順調な滑り出しをみせた。ま
た、六月八日には、井上円了に文学博士の学位が授与され、盛大な祝賀会が催された。
十二月にはようやく漢学専修科設置の旨趣の発表にこぎつけ、大学設立へ向けて一歩前
進したが、哲学館はここで思わぬ不幸にみまわれた。火災によって校舎を全焼したのであ
る。
校舎の火災
明治二十九年十二月十三日は日曜日であったが、哲学館校舎を共用していた郁文館は、
81
大工を頼んで納屋で机や椅子の修理をさせていた。出火元がこの納屋であることから、火
災の原因は大工の吸ったタバコか暖房の火ではないかとみられている。
出火は夜十時三十分ごろであった。寄宿舎で熟睡していた学生がたたき起こされたとき
には、すでにあたりは昼間のように明るくなっていたという。近くに交番がなかったので
消防への通報は遅れたが、隣の真浄寺で半鐘が打ち鳴らされた。近所の人々が駆けつけた
ときには、火はまだ納屋を吹き破ったばかりだったので、井上円了宅の井戸から水を汲ん
で消火につとめたが、火勢はいよいよ強くなり、とうとう校舎に燃え移った。火はさらに
寄宿舎にも移り、学生たちはその前に身の回り品を持ち出してはいたが、ただ呆然と学校
が焼け落ちていくのを眺めているしかなかった。約一時間後に鎮火したときには、校舎も
寄宿舎もすべて灰となり、図書や書類もほとんど失っていた。
この火災に遭って、郁文館館長の棚橋一郎はひどく狼狽したが、井上円了は少しも慌て
ることがなかった。学生が見舞って﹁思いがけないことで、肝をつぶされたでしょう﹂と
いうと、彼は縁側に腰掛けたまま﹁荷物はほとんど出しましたよ﹂とだけ答えて、平然と
していた。彼はふだんから理性的で冷静沈着なタイプだったというが、それを如実に示す
82
Ⅱ 教育理念の発展
エピソードである。
ところで、この火災を報道した新聞の中に﹁何ぼ博士でもハイ鬼門には勝たれませぬさ﹂
と書いているものがある。井上円了は、東京大学在学中の明治十九年に不思議研究会を組
の訳語として
superstition
織し、また明治二十六年には妖怪研究会を設立するなど、合理的・実証的な精神に基づい
て迷信の打破、妖怪の撲滅をはかっていた ︵﹁迷信﹂という言葉は、明治以後
用いられ、井上円了のこの活動によって一般化したといわれる︶
。したがって、彼は哲学館建築に際して
も、鬼門など存在しないことを証明しようという意図から、方角等をいっさい考慮に入れ
なかった。先の記事は、このような彼の主張にもかかわらず火事が起きたことを皮肉って
いる。
白山校舎の誕生
火災の起こったのが十二月も半ばだったことから、すぐに休校措置がとられ、新年の授
業は仮校舎ではじめられた。校舎の再建は翌年四月に着手され、場所もそれまでの 萊町
から小石川区原町鶏声ケ窪に移転した。ここが現在の白山キャンパスのある場所である。
83
今から九十年余り前、このあたりの高台はキジが鳴きながら飛び交う藪であり、低地は
田とも沼ともつかないものであった。この土地を見た学生が﹁こんなところを買って、ど
うなさるおつもりですか﹂と驚いたほどだ。しかし、井上円了の脳裏には明確な構想がで
実は、この土地は明治二十八年十一月に購入されていたもので、二十九年新年の挨拶で
きあがっていて、笑いながら﹁きみたちにはまだわかるまい﹂と答えた。
井上円了が述べた、東洋大学と東洋図書館の建設予定地であった。哲学館の﹁明治二十八
年度報告﹂には、すでに建築図まで掲げられていたが、購入時の計画では新校舎の建設は
五年後となっていた。それが火災のために早められたのである。
井上円了は再建のために忙しく働き続け、休むことはなかった。災いを福に転じようと
したのである。その甲斐あって、新校舎は七月に完成し、九月の新学年からはここで授業
が行われた。
ところで、のちに井上円了は﹁三大厄日﹂といっている。一番目は、 萊町校舎が完成
直前に台風で倒壊したことで、これを風災と呼び、二番目は、この火災である。そして、
三番目は、明治三十五年に起きた﹁哲学館事件﹂で、彼はそれを人災と呼んだ。
84
Ⅱ 教育理念の発展
京北中学の設立
火災があったとはいえ、井上円了の教育構想が停滞したわけではない。すでにその開設
が発表されていた漢学専修科は、明治三十年一月十日に開校し、授業は十八日からはじま
った。入学者数は七十余名であった。計画されていた国学・漢学・仏学の専修科のうち、
漢学を優先したのは、すでに国学には国学院が、仏学には仏教各宗の大学林があったから
である。仏教専修科は二月に開設が予告され、四月八日に麟祥院で開校式が行われた。
このように、大学設立へ向けて前進しながら、一貫教育の面でも実現をはかっていた。
原町の新校舎に移転した一か月後、宮内省から恩賜金三百円が哲学館に与えられた。井上
円了はこの金の使途について熟慮して、中等教育発展のために尋常中学校を創設すること
を決め、十月からさっそく校舎建設に着手した。それが明治三十二年二月二十六日に開校
した私立京北尋常中学校である。校長は井上円了、補佐に湯本武比古があたった。湯本は
皇太子の教育係をつとめた人物で、哲学館の講師をしながら﹃教育時論﹄という教育界で
著名だった雑誌の主筆でもあった。四月に新学期がはじまると、井上円了は自ら教壇に立
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って教育を行った。
﹃三太郎の日記﹄などで知られる評論家で美学者の阿部次郎は第一回
卒業生である。
京北尋常中学校は井上円了の一貫教育構想の第一歩であり、明治三十八年には京北幼稚
園を開園している。
教員無試験検定と徴兵猶予
哲学館では、教育家の養成という目的のために、明治二十三年以来二回にわたって文部
省に中等教員無試験検定の認可申請を行ったが、いずれも認められなかった。しかし、文
部省は明治三十二年に私立学校卒業生の教員免許に関する省令を公布し、私立学校にも無
試験検定の特典を与える方針を示したので、
哲学館は国学院および東京専門学校とともに、
直ちに願書を提出した。申請は七月十日に認可され、その内容は師範学校、中等学校、高
等女学校における教員資格のうち、教育学部倫理科甲種卒業生には修身科または教育科 ︵十
、同漢文科甲種卒業生には漢文科の資格を無試験で付与するというものだっ
一月七日追認可︶
た。そして、教員無試験検定の資格は、三年後の明治三十五年の卒業生から適用されるこ
86
Ⅱ 教育理念の発展
とになっていた。
認可を受けるとすぐに、哲学館の学制は変更された。明治三十二年九月の新学期からは、
予科一年、本科三年とし、本科は教育部と哲学部とし、それぞれ二科制として、教育部を
倫理科 ︵のち第一科︶と漢文科 ︵のち第二科︶の二科にわけた。さらに漢学専修科を漢文科に、
仏教専修科を哲学部に併合した。
明治三十三年には免許の範囲が拡大され、漢文科甲種卒業生に中等学校国語科教員の無
試験検定が認可された。
この教員無試験検定は、教育家養成という目的のためばかりではなく、当時の私立学校
が発展するために備えなければならない条件の一つでもあった。私立学校の主な財源は授
業料であったので、なんらかの公的な特典があれば、学生を多く集めることができて、財
政は安定する。その特典というのが、教員無試験検定と徴兵猶予であった。
教員無試験検定についてみると、哲学館と同時に東京専門学校と国学院が取得したのを
はじめとして、翌三十三年に慶応義塾が、三十四年に日本法律学校が取得した。また、徴
兵猶予の特典については、哲学館は明治三十三年に取得しているが、それ以前に、二十二
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年に東京専門学校、明治法律学校、専修学校、和仏法律学校、日本法律学校が、二十九年
に慶応義塾が、三十一年に同志社が取得していた。また、三十四年に台湾協会学校、国学
院、三十五年に関西法律学校、京都法政学校が取得した。
このように、明治三十三年の時点ですでに、哲学館は私立学校発展の必要条件を二つと
も備えていたのである。
哲学館大学部開設予告
哲学館の教員養成の実績は、無試験検定が適用される以前にすでに現れていて、記録が
残っているものだけでも、明治三十三年一月の第十三回師範学校、中学校、高等女学校検
定予備試験では、哲学館出身者十二名が合格し、三月の本試験では十五名が合格している。
一方、井上円了自身は、三十三年に文部省から修身教科書調査委員を委嘱され、また三
十四年には内閣から高等教育会議議員の嘱託を受けるなど、公的な面での活動も盛んにな
った。
こうして哲学館の発展に必要な条件が整った明治三十五年四月、井上円了は﹁哲学館大
88
Ⅱ 教育理念の発展
学部開設予告﹂を発表した。大学部では、国学 ︵神道︶
、 漢 学 ︵儒教︶
、仏学 ︵仏教︶のうち、
儒教 ︵東洋の倫理学︶と仏教 ︵東洋の宗教学︶をそれぞれ倫理科と教育科として開設し、入学資
格は中学卒業程度の学力を有するもので、修業年限は五年であった。国学がはずされたの
また、大学部開設にあたっては、原町の敷地は京北中学校の専用とし、新たに一万坪程
は、専修科設立のときと同じ理由で、神道の専門的学校がすでに存在したからである。
度 の 土 地 を 購 入 し て 哲 学 館 を 移 転 さ せ る 予 定 だ っ た ︵この用地として、八月には東京府下の豊多摩郡
野方村字和田山の一万四千四百数十坪が購入されたが、哲学館事件などの問題で移転は行われず、ここには後に哲学
。この計画の費用三十万円は寄付募集により、
堂が建設され、現在は中野区の哲学堂公園となっている︶
そのために創立以来の入学者三千、館外員三万のほか、それまでの寄付者二万数千人の協
力を仰ぐ考えであった。
﹁大学部開設予告﹂の中で、井上円了は、哲学館の﹁益友とも先輩とも﹂いうべき慶応
と早稲田の名を挙げて、慶応はすでに大学部を開設し、早稲田も前年から準備にかかって
いるので、哲学館もその優れた例にならって大学部開設に着手することになったが、これ
はそのような機運が高まったためである、というような趣旨のことをいっている。この時
89
期、私立学校はさらに発展するための条件を整えていて、三十五年に東京専門学校は早稲
田大学となり、翌年には明治法律学校も大学部を開設した。
明治三十五年十二月の﹃中央公論﹄に掲載された﹁明治三十五年の概観﹂という記事に
色あるを見ざるも
﹁早稲田のごとき、哲学館のごとき、明治法律学校のごとき、その経歴において、その
は、﹁私立大学の勃興﹂という項があり、その末尾にはつぎのように書かれていた。
名声において、優に帝国大学の法科もしくは文科大学と相拮抗して、
の、いままたさらに歩武を進めて、その基礎をかたくし、その規模をまったくし、もって
これを大学となす、吾人すこぶるこれを歓迎せざるを得ず。けだし、私立大学の勃興は、
日本教育の一大転進なればなり﹂
このように、哲学館ばかりでなく、私立学校そのものが力を伸ばしていた時期で、中に
は哲学館などのように帝国大学に匹敵するほどの実力を備えた学校も現れていたのであ
る。そして、この年に、哲学館事件は起こった。
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Ⅱ 教育理念の発展
❷ 哲学館事件の発端と経過
哲学館事件は、哲学館にとってはもちろんのこと、明治三十六年の日本の社会を揺るが
した大事件であったにもかかわらず、その原因についてはいまだ不透明な部分が多い。直
接的には倫理学の試験での一学生の答案についての教師と文部省視学官との問答に端を発
しているが、間接的には官学中心主義をとる文部省の方針や、さらには日清戦争から日露
戦争に至る社会的思想的動向が背景としてあったと考えられる。ある意味では哲学館は当
時の複雑な政治的渦に巻き込まれ、一種の見せしめにされたようにも見えるのである。
この事件は井上円了個人にも、また哲学館にも大きな影響を与えたもので、詳細な検討
が必要である。まず、事件発生の経過を時間を追って見ることにしよう。
卒業試験の延期
明治三十五年 ︵一九〇二年︶七月十四日、哲学館では第十二回卒業証書授与式が挙行された。
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教員無試験検定はこの年から適用され、すでに卒業試験を終えた修身科と漢文科の教員資
格は、この日に与えられた。しかし、卒業生の中に倫理科の学生は含まれていなかった。
六月二十五日からはじまるはずだった試験の直前に、
文部省が延期を命じたからであった。
理由は、倫理科の無試験検定が認可されたのはほかの二つの科目より遅く三十二年十一月
だったので、それから満三年が経過していない時点での適用は認められない、ということ
であった。これは哲学館にとっては思いがけないことだった。追加して認可されたという
ことは、修身科・漢文科が認可された七月にさかのぼるものと考えていたからである。
文部省がきっちり満三年後に適用するとしたのは、単に官僚主義的な発想によるばかり
ではなく、官学中心主義を貫いている文部省の、私立学校に対する圧力の一種だったとも
思われる。
長い間官立学校のみに無試験で教員資格を与えていた文部省が、明治三十二年の省令で
私立学校にも同じ特典を与えたのは、当時の文部大臣尾崎行雄が慶応義塾出身者であった
ために私学に対する開放政策を進めたからである。私学の発展はこの政策に乗ったもので
もあった。ところが、文部大臣が代わると、文部省はさっそく新たな官立の教員養成機関
92
Ⅱ 教育理念の発展
をつくった。三十五年三月に東京帝国大学および直轄校に臨時教員養成所を設置したので
ある。この新しい制度は、中学校卒業者または同程度の学力を有するものを対象に、二年
間教育して、師範学校や中等学校の教員免許を与えるというものだった。私立学校の場合
には、教育期間は三年であるし、対象も中学卒業者でなければならなかった。これは、教
員免許の取得に関する主流はあくまでも﹁官﹂の側であって、私学はその補完ということ
を表している。
また、無試験検定が私立学校にも開放されたとはいっても、その扱いには官学と比べて
不平等な面が多かった。例えば、慶応義塾は三十三年三月に認可を受けたもののすぐに取
り消されてしまったのだが、その理由は単に設備が不十分だからというだけだった。設備
の問題だけではなく、無試験検定にはほかにも条件があった。まず、卒業試験には文部省
の検定委員または吏員 ︵視学官︶が立ち会って試験問題や答案を調べること。そして、試験
問題や試験方法が不適当と認められるときは変更させることができること。これらの条件
は、文部省が私立学校をその管理下に置いておくためのものであった。
93
動機善にして悪なる行為
十月二十五日、教育部第一科甲種 ︵倫理科︶の卒業試験がはじまり、三十一日までの一週
間にわたって行われた。事件のきっかけとなったのはこのときの倫理学の試験であった。
試験は哲学館の図書館において行われ、受験者は四名。この日試験に立ち会うために文部
省から派遣された視学官は隈本有尚と隈本繁吉の二人で、これに彼らの随行者や哲学館の
試験担当の事務職員らが加わって見守る中で行われた。
倫理学の講師は中島徳蔵であった。彼は明治三十年に三十四歳で哲学館の講師になった。
三十三年には文部省修身教科書起草委員に任命されて、一時哲学館を離れたが、翌年再び
講師として戻った。
中島が授業で使用した教科書はミュアヘッド著、桑木厳翼訳の﹃倫理学﹄初版であった。
ジョン・へンリー・ミュアヘッドはイギリスの新へーゲル主義の哲学者で、この本は当時
多くの学校で教科書として採用されていた。試験問題はこれに基づいて出題された。
試験終了後、隈本有尚視学官は集められた答案を見ていて、加藤三雄という学生の答え
94
Ⅱ 教育理念の発展
に 注 目 し た。 そ れ は 中 島 が 最 高 点 を つ け た も の で あ っ た ︵ こ の 答 案 は 文 部 省 に 提 出 さ れ た ま ま で 現
在見ることはできないが、中島によれば、教科書の趣旨を叙述したものであったという︶
。
﹁動機善にして悪なる行為ありや﹂という出題に対する解答で、加藤は﹁動機ならざり
し結果の部分を見て、これに善悪の判断を下すべきものに非らず。しからずんば自由のた
めに弑逆 ︵しいぎゃく︶をなす者も責罰せらるべく、⋮⋮﹂と書いていた。弑逆というのは、
民が君主を、子が父親を殺すという意味である。この解答は、例えば弑逆という行為は、
動機が﹁自由のため﹂という善なるものであっても、結果だけを見ると悪になってしまう
が、この場合には目的と結果という行為全体から道徳的判断を下さなければならない、と
いうミュアヘッドの学説に基づいたものであった。
この答案に関する隈本と中島のやりとりが、哲学館事件の発端である。
中島と隈本の問答
隈本はこの記述を発見すると、中島に質問した。
﹁ミュアヘッド氏のこの学説に批判を加えましたか﹂
95
﹁私は学生の程度に合う本として教科書を選びましたから、特別に批評はしていません﹂
と中島は答えた。
すると、隈本は、前年六月に政友会の実力者だった星亨が東京市役所参事室で伊庭想太
郎という剣客に暗殺された事件を持ち出した。星亨は当時の新聞などで汚職をとりざたさ
れていた人物である。
﹁伊庭は〝国家のためにこやつを殺したのは愉快なり〟といっていますが、動機として
は善ではありませんか﹂
﹁あれは違います。彼の動機は単に主観的、感情的なものであって、あの場合は善とは
いえません﹂
﹁しかし、動機が善ならば、主君を殺すことも悪ではないのですね﹂
これに対して中島は、ミュアヘッドの学説に基づいて答えた。
﹁弑逆も絶対的にいけないということではありません。やむを得ない場合、その動機が
善であるならば、認めることもあります。日本では主君を殺すという例はありません。イ
ギリスのクロムウェルは議会軍を率いて王軍を破り、チャールズ一世を処刑して共和制を
96
Ⅱ 教育理念の発展
ひきましたが、彼の行為は歴史家の承認を受けているのです﹂
﹁グリーンも、そういうふうに説明していますか﹂
﹁そうだと思います﹂と中島は答えた。
トマス・ヒル・グリーンはイギリス新理想主義学派の代表的哲学者で、自我実現説を展
開し、この中で自我の実現は自己の善であり、公共の善にほかならないとしている。そし
て、国家は自我の自由を実現すべきものであり、その主権の源泉は道徳的な共同意識にあ
るので、人間を自由にするために国家は積極的に干渉しなければならないとして、行き詰
まっていた十九世紀末期のイギリスに積極的な国家機能を認める新しい政治哲学を提供し
た。なお、ミュアヘッドはグリーンの自我実現説の影響を受けていた。
中島と隈本の間に交わされた問答は以上のようなものだった。隈本は、中島が弑逆をも
場合によっては認めているということから、日本の国体上の問題であると指摘したことは
明らかだが、中島はのちにこれが大きな事件に発展するなどとは夢にも思っていなかった
のである。
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試験後のうわさ
十一月七日、教育部第一科四名の卒業試験が終わってから一週間後、彼らの卒業式が行
われた。訓辞の中で井上円了は、無試験検定の適用第一回の卒業生としての自覚を訴え、
さらに西洋の学問を日本的国家的なものとして応用する場合の注意を与えた。
また、中島徳蔵はミュアヘッドの自我実現説の理論と応用に触れて、﹁もっとも新しく、
もっとも切れ味のよい学説は、一方において危険を伴うことがある﹂ので、理論を応用す
る場合には部分的解釈にとどまらないようにして、現実において誤解を生じないように注
意しなければならないと述べた。
問題となった答案を書いた加藤三雄は、学生総代として答辞を述べた。
十一月十日頃、井上円了、中島徳蔵、湯本武比古の三人は文部省に隈本有尚等を訪ねた。
というのも、試験が終了したわずか数日後から、哲学館には無試験検定による教員免許が
与えられないかもしれないという、うわさが流れていたためだった。今日では、その内容
や、どのように流布したのかといったことはわからない。単に中島と隈本の間に例のやり
98
Ⅱ 教育理念の発展
とりがあっただけで、なぜそのようなうわさが立ったのかということは謎であり、この点
から哲学館事件に疑問を抱く研究者も少なくない。
ともかく三人はうわさを耳にして心配になり、弁明に出向いたのだった。中島はミュア
ヘッドの倫理学における動機論を説明し、それが国家の秩序を乱すものではないこと、ま
た動機が善ならば弑逆も認めることがあるとはいえ、その動機の善ということは各人任意
のものであったり不合理であることは許されないことを述べた。そして、皇統連綿たる日
本においては、そのようなことは決してありえないことを強調した。しかし、隈本は会議
を理由にそうそうに話を打ち切ってしまった。そこで中島は理解を求めるために、いまの
趣旨が述べられている﹃倫理学概論﹄という本を贈呈した。
十一月十三日、井上円了は文部省総務長官岡田良平の自宅を訪問した。岡田は明治二十
六年から文部官僚をつとめていて、この事件の後専門学校令 ︵三十六年三月︶や教科書国定
制度の実施 ︵三十七年︶を行い、のちには文部大臣として教育制度の改革を手掛けることに
なる。岡田は視学官の報告から哲学館に不都合があるとみていた。これに対して井上円了
は、哲学館における倫理教育は理論と実際の二つにわけられ、理論面を中島徳蔵が、実際
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面を自分が担当しており、内容は教育勅語に基づいて、忠孝を基本とし、国体を第一とし
て、国民として皇室尊敬の心得を誤りなく教えていると、哲学館の基本方針を説明した。
当時、井上円了が﹁忠君愛国﹂を持論とし、教育勅語の普及につとめていることは、広く
世間の知るところであり、中には﹁頑強な愛国主義者﹂と評するものもあったほどである。
彼は視学官の報告が教員免許の資格に影響しないよう、岡田に依頼した。
十一月十五日、井上円了はかねてより準備をしていた二度目の洋行のため、新橋から出
発した。今回の目的は、大学部開設に先立って外国の大学の実状を視察し、哲学館の将来
の方針を決定するのに役立てようというものであった。期間は半年の予定で、留守中の館
主代理には信頼していた中島を任命していた。彼がこの時点で旅行に出たということは、
倫理学の試験をめぐる問題が哲学館事件と呼ばれるような大きな社会問題にまで発展する
とは、露ほども考えていなかったからにほかならない。
中島徳蔵の釈明
十一月十七日、文部省から一通の照会状が届いた。倫理学の授業における動機と行為と
100
Ⅱ 教育理念の発展
の関係についての教授法を報告し、同時に先の卒業試験の答案を提出せよという内容であ
った。文部省が哲学館における倫理学の授業内容を問題にしようとしていることを明確に
示したのは、これが最初だった。それまではただのうわさにすぎなかったものが、いよい
十一月十九日、中島徳蔵はミュアヘッドの﹃倫理学﹄と井上円了名義の文書を文部省に
よ現実のものとなってきたのである。
持参した。彼は岡田良平に面会し、教科書として授業で使用した範囲を示しながら、その
趣旨を説明した。
中島は隈本有尚にしたのと同じ説明をして、弑逆についてはあくまでも理論上のことで
あって、実際上日本では適用されないと考えていることを述べた。また、
﹁忠君愛国﹂を
持論としている井上円了が館主の哲学館では、国体を揺るがすような教育は決して行って
いないことを強調し、文部省の誤解を解こうとした。そして、なお不審な点があるなら哲
学館の視察をしてほしいと付け加えた。このとき、岡田は個人的には了解したと答えた。
十二月八日、中島徳蔵は教科書検定委員の山川健次郎に面会した。岡田良平との会談に
もかかわらず、十二月に入っても検定免許状は交付されていなかった。彼はさすがに不安
101
と焦りを隠しきれず、知人の勧めもあってこの日の面会となったのである。しかし、山川
は問題になっている弑逆のような例についてなんの解釈も加えずにおいたのは不都合だと
いう見解だった。これに対して中島は、教科書は教えるための方便にすぎないので、引用
されている例をそのまま鵜呑みにするようなことはなく、この場合も誰も日本のこととし
ては考えていなかったのだというような趣旨で答えた。
同日午後、中島は続いて文部省へ行き、松村検定委員会理事に面会した。ここでもひた
すら釈明につとめ、一日も早い免許状の交付を願った。松村がどう答えたかわからないが、
中島自身は﹁承諾を得たり﹂と思った。
無試験検定認可取消
十二月十四日、湯本武比古は友人でもあった文部省の野尻視学官の訪問を受けた。野尻
は十三日付で哲学館の教員免許の認可が取り消されたことを告げ、つぎのような理由を挙
げた。
⑴ 処分の原因は倫理科教授にあって、設備等の理由ではない。
102
Ⅱ 教育理念の発展
⑵
教科書には国体上不都合な内容が含まれていて、もし卒業生がそれを中学校や師
範学校で教えるとすれば容易ならざることである。
⑶
教師が不都合な考えを持っている。
これらは哲学館が文部省に提出した文書、
あるいは中島が哲学館に提出した文書からも、
また学生の答案に不都合な文句が引用されていて、しかもその答案が最高点を取っている
ことからも明白である。したがって、このような教師を使っている哲学館の罪は重い。本
来ならば閉鎖を命じるところだが、哲学館の内情も察して、認可取消の命令で済ませるこ
とにした。さらに、倫理科主任教授は責任をとって辞任すべきである。
これは非公式の訪問であって、野尻が告げたような理由は文書にはなっていない。
十二月十八日、文部省から正式に認可取消が通知された。文部大臣菊池大麓から館主井上
円了宛で﹁貴館教育部第一科および第二科卒業生に対し明治三十二年文部省令第二十五号
第一条取扱を与うるの件は自今取消す
明治三十五年十二月十三日﹂という内容であった。
これによって哲学館事件は公式に発生したことになる。
中島は十二月十三日付で哲学館を辞任した。しかし、その後もこの問題を解決しようと
103
して奔走したようである。年を越した三十六年一月十八日、
加藤弘之を訪ねて助言を求め、
十八日と十九日には岡田良平を訪ねたが、結局面会することはできなかった、と日記に記
されている。
一月二十二日、小石川区長名で四人の学生の検定不合格の通知が届いた。
哲学館の対応
認 可 取 消 は 卒 業 試 験 受 験 者 四 名 だ け の 問 題 で は な く 、 こ の 影 響 は 教 育 部 第 一 科 ︵倫理・教
育︶と第二科 ︵国語・漢文︶の三学級の合計八十三名に及んでいた。事件発生直後に、学校側
はこれら在学生を講堂に集め、今後特典がなくなることを告げ、進路については転校も可
能であることを話した。これによって、学生の一部は御茶ノ水高等師範学校などに転校し
てしまい、約半数にまで減ったともいわれる。私立学校発展の条件の一つであった無試験
検定の認可を取り消されたことによって、哲学館は危機に追い込まれたのである。
哲学館は、館主が不在のため﹁本館出身にして、本館に関係せる者は一同協議の上謹慎
の意を表し、慎重の態度を取ることに決議いたし候間、すべて該事件に関しては何らの意
104
Ⅱ 教育理念の発展
見をも発表いたさず候﹂と決定した。
しかし、哲学館は倫理学の講師を代えたものの、教科書は依然としてミュアヘッドの﹃倫
理学﹄を使用していたので、学生たちはこれを妙なことだと感じた。
井上円了の所感
海と再会していた。彼が
一方、井上円了は十一月十九日に神戸から出航、十二月十三日にインドに到着し、事件
が公式のものとなったころは、哲学館卒業生の大宮孝潤、河口
事件の発生を知ったのは、ロンドンに到着した一月二十四日であった。彼はつぎのように
記している。
明治三十五年十二月三十日東京より飛報あり。曰く、十二月三十日官報をもって文部
省より本館倫理科講師所用の教科書中に不都合の点ありとて、教員認可取消の命あり
云々。余これを聞き国字をもって所感を綴る。
今朝の雪畑を荒らすと思ふなよ
生い立つ麦の根固めとなる
苦にするな荒しの後に日和あり
105
火に焼かれ風にたをされ又人に
伐られてもなほ枯れぬ若桐
伐ればなほ太く生い立つ桐林
彼はこの所感を雑誌﹃東洋哲学﹄に寄稿し、学内外の人に自己の心中を伝えた。この歌
の﹁人に伐られても﹂というところに表れているように、彼は当初から哲学館事件が人為
的に惹き起こされたものであるととらえていた。
哲学館を見せしめに
哲学館事件が人為的なものであるという認識は、現在では極めて妥当な見方だと考えら
れている。その背景には、日清戦争から日露戦争に至る日本の社会の状況が深くかかわっ
ていたのである。
日清戦争に勝利した日本は﹁東洋の日本﹂さらには﹁世界の日本﹂という展望を持つに
至った。国内的にも、富国強兵策によって生産活動が飛躍的に発展し、資本主義の成長に
つながった。しかし、それにともなって誕生した労働者階級の存在は、国家にとって大き
な問題となった。その中から国家そのものの存在を否認しようとする新しい思想、社会主
106
Ⅱ 教育理念の発展
義が誕生し、また、明治三十二年には普通選挙期成同盟会が結成されるなど、民主主義的
動向も現れたからである。
また、個人主義の思想が出てきたのもこの時期であった。日本の社会制度の重要な特質
をなす家族制度は、厚い人情とうつくしい風俗を現す基盤として重要視されたが、それは
家父長の権威と家族員の犠牲とによってはじめて成り立つ点で矛盾を抱えていた。
そして、
明治後半期に入ると、急激な経済発展によって没落、離散、解体に追い込まれる﹁家﹂が
出てくるような状況となった。文学においても﹁家﹂の束縛から逃れ﹁個﹂の自由を求め
ることが描かれるようになり、個人主義の傾向はしだいに強くなっていく。日清戦争後の
新しい世代では、国家への無関心、忠誠心の希薄化、戦争に対する冷淡さなどの姿勢がみ
られるようになった。このようにして、一部の国民の意識には、単一の国家主義から離反
する傾向が生じていたのである。
一方、政府は日露戦争 ︵明治三十七年︶へ向けて着々と準備を進めており、国民に﹁皇国
臣民﹂であることを意識させ、国家思想の統一をはかる必要に迫られていた。そこで、国
民教育を通じて国家主義的風潮を強化しようとした。修身教科書をみると、明治二十七年
107
にそれ以前に書かれていた人類普遍の道徳を否定し、日本固有ということを強調した内容
のものが出てくる。その後、国家主義の傾向はしだいに強くなっていき、三十七年から使
用された国定修身教科書によってさらに徹底がはかられる。
哲学館事件はこのような社会的背景の中で起こったのである。事件の核心は﹁弑逆﹂す
なわち主君を殺害するという言葉にあったが、これは皇室や国体に反することを意味し、
そのために文部省は教育行政上、重視したのであった。つまり、政府が国民に﹁皇国臣民﹂
の意識を徹底させようと模索している過程において、目的達成のための一つのきっかけと
位置づけられ、見せしめとして利用され、惹き起こされたのが哲学館事件だったと考えら
れるのである。
そして、このような背景を持った哲学館事件は、教授法をめぐる表面的な問題のほかに、
皇室と国家思想、学問の独立、思想の自由など、さまざまな角度から論じられていくこと
になった。
108
Ⅱ 教育理念の発展
❸ 哲学館事件の展開
中島徳蔵の問題提起
哲学館を辞任してからも、なんとか文部省の決定を覆そうと努力していた中島徳蔵は、
明治三十六年 ︵一九〇三年︶一月二十一日付の検定不合格通知を受けて、ついに事件の全貌
と自分の意見をマスコミに公表し、ことの是非を世に問う決心をした。
二十六日夜までかかって書き上げられた文章は﹁哲学館事件及余が弁解﹂と題され、﹃毎
日新聞﹄﹃日本﹄﹃時事新報﹄﹃国民新聞﹄
﹃東京朝日新聞﹄﹃読売新聞﹄
﹃万朝報﹄の各紙に
送られた。内容は、⑴余が哲学館事件を世に問う理由、⑵哲学館認可取消事件の顚末、⑶
処分、⑷倫理教授および教育行政上の問題、⑸高等倫理教授に関する余が弁解、の五章か
らなっていた。
この最後で、彼は自分の弁解をつぎのように結論づけている。
109
⑴
このような論議を惹起した点で、自分には罪がある。
⑵ しかし、今回の問題が主として教授上の不注意によるものであるならば、卒業生
にまで被害を及ぼすべきではない。
⑶
教師の不注意という点について、自分の学友の意見を参照して考えると、必ずし
も不注意とは断定できないのではないか。その理由は、第一に、文部省が問題にし
ている動機と行為の関係についての部分は理論的なものであって、実際的なものと
して応用するような指導はしていない。第二に、抽象的真理は全体を検討しなけれ
ばならないのに、文部省はちょっとした言葉じりをとらえて自分の意図を邪推して
いる。
そして彼は、世の学者や教育家の合理的解釈によって、自分の非が明らかになれば、そ
れに従うと述べた。
彼がこのような問題提起をしたことによって、マスコミにおける論戦の火ぶたが切られ
た。
110
Ⅱ 教育理念の発展
文部省の見解
まず、﹃読売新聞﹄に隈本有尚の反論が掲載された。隈本は﹁もし目的が善ならば手段
は構わぬとすれば、伊庭想太郎や島田一郎、来島恒喜、西野文太郎も否認されぬわけとな
り、日本の国体上容易ならぬことになりましょうから、学説は学説として、講師たる人は
学生の誤解を避けるため、説明を加え、批評を添えねばなりませんが、これをせぬのは注
意を欠いたもので、文部省ではこれを過失と認めたのであります﹂と主張した。ここに出
てくる人物は、伊庭想太郎は星亨元逓相刺殺事件、島田一郎は大久保利道参議斬殺事件、
来島恒喜は大隈重信外相襲撃事件、西野文太郎は森有礼文相刺殺事件のそれぞれ犯人で、
いずれもテロリストである。
中島徳蔵はこれに対して﹁文部省視学官の言果して真ならば﹂と題した文章で、問題の
焦点が教授法から学説上のことに変わったことを指摘し、学説上の問題をからめて反論し
た。
ここにいたって、文部省の見解が二月十六日付﹃時事新報﹄に﹁哲学館事件に関する文
111
部省当局者の弁疏﹂と題して公表された。
文部省は、発端となった弑逆に関する問題を﹁はなはだ穏当ならざる学説引例﹂として
会議にはかった結果、哲学館は国体にそぐわない危険な内容の講義をしたのだから、他校
と比べて格別な特権を与えておく必要もないと決議し、それで無試験検定の認可を取り消
したのだと説明している。
ついで、世論には文部省が﹁私立学校の撲滅策を講ぜん﹂として哲学館の処分を行った
という意見があったが、文部省はこれを否定した。そして、今回は単なる不注意だったの
でこれだけのことで済んだが、もし哲学館がこれからも国家にとって危険となるような倫
理学説を唱道するならば、学校に﹁断然閉鎖を命ずることあらん﹂と断言した。また、特
典がなくても哲学館の卒業生はほかの私立学校の生徒のように検定試験に合格すれば中等
教員になれるといった。
また、中島対隈本の議論に触れ、隈本がいっていることは彼個人の意見であって、文部
省が行った処分のいきさつとは無関係だと、その立場をはっきり表明した。
112
Ⅱ 教育理念の発展
マスコミの反応
哲学館事件が最初にマスコミに登場したのは、明治三十五年十二月二十四日の﹃日本﹄
新聞であった。まだ事件は一部関係者にしか知られていないころであった。その記事は中
島徳蔵個人に焦点をあて、しかも事実とは異なる部分もあった。また、哲学館がいっさい
意見の公表を差し控えるという方針を取っていたこともあって、中島の投稿が掲載される
以前には社会的にはほとんど知られていなかった。ところが、中島と隈本の論戦がはじま
るや、マスコミによってこの事件がいっせいに報道され、一挙に社会の注目を浴び、五月
には国会の質問で取り上げられるまでになった。
明治三十六年に出版された﹃哲学館事件と倫理問題﹄およびその続編には、哲学館事件
に関する新聞・雑誌の代表的な記事や論文が収められているが、この二冊を中心にして当
時の関係記事の掲載件数を調査し、現在までに判明したぶんをまとめてみると表5のよう
な結果が出た。三十六年二月と三月に集中的に現れているが、特に二月には新聞・雑誌と
もに哲学館事件関係の記事等が掲載されなかった日はなく全国に波及した。﹁哲学館事件を
113
表 5 哲学館事件に関する論文・記事数
明治35年12月∼明治37年 2 月
年・月 雑誌 新聞
明治36年 2 月
その
合計
他 35.12
0
6
0
6
36. 1
1
24
0
25
2
34
106
0
140
3
63
80
0
143
4
51
12
0
63
5
32
27
0
59
6
34
7
2
43
7
9
2
0
11
8
12
11
1
24
9
20
4
0
24
10
5
0
0
5
11
5
0
1
6
12
5
0
0
5
37. 1
9
2
0
11
2
5
0
0
5
合計
285
275
4
564
注1.その他の内容は、単行本・所収
論文である。
2.現在判明しているぶんのみ。
3.点数は延べ点数である。
日
雑誌 新聞 合計
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
3
0
1
1
5
0
0
0
0
3
0
0
1
0
6
1
0
1
0
1
1
0
0
1
6
2
0
1
11
5
8
6
3
5
6
4
3
1
1
1
6
2
1
1
1
4
2
2
5
3
6
4
2
4
5
4
14
5
9
7
8
5
6
4
3
4
1
1
7
2
7
2
1
5
2
3
6
3
6
5
8
6
5
5
合計
34
106
140
114
Ⅱ 教育理念の発展
取り上げない新聞は新聞にあらず﹂といわれたほど、全国的な問題となっていたのである。
この事件がそれほどセンセーショナルな注目を浴びた原因の一つには、文部省が関係し
ていたということがある。というのは、このときすでに文部省は﹁教科書事件﹂を抱えて
おり、これも社会問題となっていたからである。教科書事件は、教科書の売り込み競争に
からんだ大規模な汚職事件であった。教科書は、明治初期には学校で自由に選択し使用す
ることができたが、明治十九年に教科書検定制度ができると、文部大臣の検定をパスした
ものの中から、各府県の教科書図書審査委員が選択するということになった。これによっ
て贈収賄が行われるようになり、教育界では絶えず問題となっていたが、たまたま電車の
遺失物の中から教科書会社の贈賄金と相手の住所氏名を記した手帳が発見されたことから
表面化し、三十五年十二月十七日に関係者の検挙が開始されたところであった。検挙者は
県知事、県議会議長、府県視学官など二百名に及んだ。この中には哲学館事件の発端とな
った卒業試験で隈本有尚とともに臨監した隈本繁吉も含まれていた。
哲学館事件が発生したころ、この一大疑獄事件によって文部省は社会の厳しい批判にさ
らされ、文部大臣の問責にまで発展していた。したがって、そのような時期にまたも文部
115
省がらみの事件ということで、哲学館事件への社会の注目度も増したと考えられる。また、
この二つの事件が相次いで起きたことから、哲学館事件は教科書事件に集まる世間の目を
そらせるために文部省が無理に惹き起こしたもの、とする見方もあった。
報道の内容
哲学館事件に関するマスコミ報道の量はあまりに多いので、すべてを紹介するわけには
いかない。そこで内容面からいくつかに分類し、それぞれの要点をまとめてみることにし
よう。
文部省批難型││哲学館に対してとった処分のしかたを問題にし、文部省の私学排斥傾向
を批難している。文部省の態度が焦点となっているため、同時に教科書事件の責任を追及
しているものもある。
例えば﹃万朝報﹄では、文部省が教科書事件や﹁四ツ目屋事件﹂︵三十五年四月に検定済みの
高等女学校の国語教科書に江戸時代の淫薬・淫具専門の薬屋に関する記述が発見されて問題となった︶において
大きな責任を問われているにもかかわらず、授業で教科書の内容を批評しなかったのは不
116
Ⅱ 教育理念の発展
注意だというような、ささいな理由をもって哲学館を厳罰に処したのは、文部省の偽忠君
偽愛国と私学撲滅政策によるものだと主張している。同様の論調は数多い。
また﹃六合雑誌﹄﹃教育学術界﹄﹃中央公論﹄などの雑誌では、私学に対する排斥政策を
﹃朝日新聞﹄は処分の内容を取り上げて、たとえ制裁を加えるにしても、館主に注意を
中心に論じている。
与え、中島講師を解職すれば十分だし、また検定を無効にするのは答案に不穏当な引例を
した卒業生一人だけで足りることで、哲学館から無試験検定の特権のすべてを剥奪したの
は冷酷すぎるとしている。
学問の自由主張型││これも文部省を批難しているが、論点は哲学館を処分したのは学問
の自由を犯すもので、処分自体が不当だということにある。
この型の意見を要約するとつぎのようになる。倫理学は学説を教授するもので、実践道
徳を教えるものではない。しかも、ミュアヘッドの学説はもっとも進歩したものとして広
く支持され、問題となっている教科書は官立学校でも使用されている。学問上の理論とい
うものはあくまでも世界的なものであって、それを研究したり教授したりすることは、官
117
立私立を問わず、いっさい自由開発的に放任されるべきである。したがって、このような
学問の自由に文部省が干渉し、処分するのは不当である。
文部省支持型││前二つとは反対に、文部省の処置は正しかったとするものである。
代表的なものは﹃教育界﹄で、中島自身が引例の当否に注意が足りなかったと述べてい
ることを指摘して、これは教授法が不十分であることを認めたものとしている。その引例
は日本の国体に照らせばただちに疑問を生じるものであるにもかかわらず、教授も、中等
教育の倫理や修身を担当することになる学生も看過したとすれば、そのような教授法には
問題があり、したがって文部省の処分は適切であったという。
同様に教授法や教員養成機関としての責任を問う見解は﹃国学院雑誌﹄などにもみられ
る。また、主に官立学校などのように、文部省となんらかの関係のある、教育界の一方の
側の立場でもあった。
スキャンダル型││事件に関係した人物を取り上げているが、どちらかといえば興味本位
のもの。
例えば、東京帝国大学文科大学長だった井上哲次郎は、この件で文部省から倫理上の意
118
Ⅱ 教育理念の発展
見を求められたが、以前から井上円了にうらみを抱いていたので、十分な検討もせずに処
分すべきだと答えた、という報道があった。井上哲次郎は、井上円了と学説上の見解は異
なるが、今回のことには関知していないと反論している。ほかにも、中島と隈本は以前激
論したことがあるとか、また隈本は功名心から文部大臣の私学撲滅策に迎合して個人的に
事件を仕立てたのだという真偽の定かでないものまである。
哲学館の対応批判型││哲学館が事件に関するいっさいの行動や発言をしないことに対す
る批判である。
学生が処分反対の公開演説会を予定していたが、ロンドンの井上円了から﹁静粛にせよ﹂
という電報が届いたため中止したということもあった。また、ある新聞が卒業生はなぜ抗
議しないのかと指摘したのに対して、例の答案を書いた加藤三雄は、館主の不在、哲学館
の立場や自分の家族のことを考えて沈黙していると回答している。こうした哲学館の態度
は、外部の人々には理解しにくいことであった。
﹃太陽﹄は﹁哲学館卒業生はいかに卑屈
なるかよ。自家の権利を蹂躙せられて、何らの反抗すら試みざるは﹂と、その優柔不断な
態度を批難している。こういう声は決して少なくなかった。
119
学問的論争型││事件の発端となったミュアヘッドの学説に関する論争。
代表的なものは﹃倫理学﹄の訳者桑木厳翼と一高ドイツ語教師丸山通一の間で数回にわ
たって交わされた論争である。桑木は、動機が善であるならば弑逆といえども認められる
という立場で、隈本は動機論を間違って解釈をしていると述べた。これに対して丸山は、
動機がいかに善であってもどのような手段をとるかは問題であると反論し、日本では机上
の空論にすぎないとしても、学生は決して賢人ばかりではないので、教えるときには注意
しなければならないと教授上の問題も指摘した。
丁酉倫理会の見解
これまで見てきたように、哲学館事件はマスコミを騒がせ、大きな社会問題に発展した。
そこで展開される論争には果てしがないように思われたが、一つの帰着点を示したのは
﹁丁
酉 ︵ていゆう︶倫理会﹂の見解であった。この会は当時の倫理学界におけるもっとも権威あ
る機関と認められていた。三月十日に発表された﹁哲学館事件に対する意見﹂はつぎのよ
うなものであった。
120
Ⅱ 教育理念の発展
﹁われらは、目下問題となりおる哲学館事件につき、ム氏 ︵ミュアヘッド︶の動機説を、
教育上危険と認めず、また倫理学の教授に際し、中島氏が、その引例をそのままになしお
きし所作をもって、深くとがむべき不注意にあらずと認む﹂
これによって学問上の問題も、教授上の問題もいっさいないという認識が示され、以後
論争は収束の方向へ向かっていく。しかし、文部省が処分を撤回することはなかった。
中島徳蔵と学生
ところで、哲学館事件の真相を世に訴え、マスコミの論争に火をつけた中島徳蔵は、孤
軍奮闘していたが、学生も卒業生も彼のことを忘れはしなかった。彼はユーモアと風刺の
鋭さにおいて、学生に人気のある講師だった。有志が集まって、彼の講義を受けた卒業生
や館内生から見舞金を募集したところ、三十七名から合計六十二円七十銭が寄せられた。
三月二十九日に代表者が中島を訪ねたが、彼は金を受け取ろうとしなかった。事件によっ
て哲学館、特に学生に禍いをもたらした責任を痛感していたからであった。
あとから学校の幹事の説得によって、彼は学生たちの好意を受けたが、その金で哲学館
121
図書館に図書を寄贈した。そこには﹁特権を失してかえって実力をますの効果﹂をあげて
ほしいという中島の願いが込められていた。彼が寄贈した図書は現在も東洋大学図書館に
残っている。
彼はのちに井上円了の依頼によって、再び哲学館の教壇に立つことになり、大正十五年
には第六代学長となっている。
ミュアヘッドと日英同盟
問題となった﹃倫理学﹄の著者ミュアヘッドは、イギリスのバーミンガム大学の教授で
あった。彼は二月四日と十一日付の神戸発行の﹃ジャパン・クロニクル﹄紙で、彼の著書
が原因で事件が起きたことを知り、﹁弁妄書﹂という論文を同紙に寄稿した。要約すると
つぎのようになる。
行為の善悪の判断の基準として、二つの条件がある。
⑴ 行為者の心情および品性
⑵ 行為の結果が社会の福利を増進するか、または阻害するか
122
Ⅱ 教育理念の発展
この点から考えて、大久保利道参議斬殺事件の犯人島田一郎の暴力的破壊的行為は認め
られない。日本のように言論の自由および代議制度によって政治上の安寧福利の基礎が強
固な国では、暴力的非常手段を用いるものは大罪人である。この暴力を庇護し看過する社
会は文明的でない。これらの学説は欧米の学界で共通するところであり、東洋人にも必要
なことである。
最後に、自説に対する誤解を解き、正しく理解することを求めている。
また、ミュアヘッドは事件の解決のために積極的に行動した。欧州旅行中の井上円了や、
中島徳蔵に書簡を送り、さらにロンドンの日本公使館を訪ねて、林公使に解決の労をとる
ように依頼し、文書を提出した。林は、認可取消は常識では理解できないことだが、この
件を国際事件として干渉するのは好ましくないと応じ、
井上円了と直接会うことを勧めた。
日清戦争後の日本にとって、ロシアの南進政策は重要な問題であった。
ロシアの朝鮮への
進出により、政府はそれまでの日露協調路線から対露強硬策に転じ、対決の姿勢を強めて
いたが、それを可能にしたのは明治三十五年に締結された﹁日英同盟﹂であった。林は哲学
館事件が国際問題となった場合に日英同盟に影響を与えることを懸念し、外務省に公文書
123
を送った。この文書は現在も外務省に保管されているが、この中で林は外務大臣小村寿太
郎に、ミュアヘッドの文書の内容を説明し、
ミュアヘッドにはこの事件が教育上の問題であ
って、文部省の管轄であることを伝えたこと、さらに、文部省のとった処置はイギリス人
に﹁いたずらに思想の自由を妨げ言論を束縛するもの﹂と受け取られ、また一般には読む
ことを許されている本が﹁一個の学校﹂では許可されないというのは不条理であり、干渉
しすぎだというのが彼らの見方であり、そのため外交上の影響は少なくないと伝えている。
林の報告が文部省に伝達されると、七月に文部大臣名でミュアヘッドに書簡が送られた。
この書簡では、特典は﹁教授管理の最も完全﹂な学校にのみ与えられるものであって、哲
学館がそれに該当しないので取り消したとして、問題点を教授上のことに限定し、ミュア
ヘッドの学説の是非を問題にしているのではないと弁明している。政府としては、哲学館
事件の展開が日英同盟に影響しないよう、配慮しなければならなかったのである。
ロンドンの井上円了
事件の知らせを受けた井上円了は、すでに述べたようにその心境を和歌に託して送った
124
Ⅱ 教育理念の発展
が、またあらゆる手段で認可取消の撤回に尽力するようにと指示した。これに従って、哲
学館は四月二十日に嘆願書を文部省に提出した。
井上円了は四月上旬にロンドンでミュアヘッドからの書簡を受け取り、さっそくミュア
ヘッドに面会を申し込む一方で、林公使を訪ねた。林が﹁事件の原因は中島が視学官と抗
論したからだろう。そうでなければ取り消しというような処分は常識では考えられない﹂
といったので、彼はこれをきっぱりと否定した。林はさらに、この事件がイギリス人に知
れたなら、その感情を害し、ひいては日英同盟にも影響を及ぼしかねないと憂慮している
ことを伝え、ミュアヘッドにもその点からの配慮を求めたことを話した。
井上円了がこの外交上の問題と哲学館事件との関係をどのように受けとめたのかという
ことは、彼の事件への対応を知るうえで重要なポイントだが、残念ながらそれを示す資料
は残っていない。
彼とミュアヘッドとの会談は、日程の調整がつかなかったために、とうとう実現されな
かった。
125
❹ 哲学館の教育理念の発展
井上円了と文部省
井上円了は明治三十六年七月二十七日、欧米視察から帰国したのち、
﹃日本﹄新聞のイ
ンタビューに応えて、哲学館事件について語った。彼は出発前の岡田良平との会談などに
触れて、その時点では大事件になるとは思ってもいなかったことを明らかにし、またロン
ドンでとった行動を話した。
彼はこの事件は﹁天災にあらずして人災としてあきらめるよりほかなし﹂といっている
が、内心にはさまざまな思いが渦巻いていたようである。彼はまず、倫理科の卒業試験が、
予定されていた日程のわずか数日前になって突然中止を命じられたことについて、文部省
の意図に疑問を投げかけている。三十二年の認可申請のときに倫理科が遅れたのは確かだ
が、それを厳密に三年後でなければ適用しないというのであれば、もっと早く通知してし
126
Ⅱ 教育理念の発展
かるべきであっただろう。
つぎに、処分の対象が受験者以外の、それもまだ中島の授業を受けていない学生にまで
及び、哲学館自体の特典が剝奪されたことの不合理性を指摘している。そして、それに関
連して、彼は﹃日本倫理学案﹄﹃忠孝活論﹄
﹃勅語玄義﹄を著して教育勅語の普及につとめ、
実際的倫理の授業を行っているにもかかわらず、なぜこのような事件に巻き込まれたのか
という点に疑問を抱いていた。
また、井上円了はこのインタビューで、以後の文部省に対する姿勢を示した。彼は、嘆
願書の提出は処分された学生のためであること、文部省がこれになんら対応をしていない
こと、の二点を理由に、今後教員免許の特典が再び与えられることになっても、これらの
学生についての問題が解決されない以上、
﹁学館の義理﹂として新たに特典を受けること
はできないとして、﹁徹頭徹尾御断り﹂する方針を明らかにし、彼はこれを頑固に貫いた。
さらに、帰国後まもなく、彼は中島徳蔵に哲学館への復職を依頼した。八月三十一日の
中島の日記には﹁小生は再び同館講師の一人たることを快諾﹂とある。この時点で井上円了
が彼を復職させようとしたのは、哲学館を事件以前の状態に戻そうと考えたからであろう。
127
事件後の変化
八月五日、井上円了とインドから戻った河口
海の帰朝歓迎会が開かれた。余興として
仮装行列が行われたが、隈本有尚を熊にみたてて縛り上げて引き回すというようなものも
あった。井上円了はこれを見ておおいに笑った。しかし、歓迎の辞で学生や卒業生が、三
月に公布された専門学校令によって東京専門学校が早稲田大学となったように、哲学館を
﹁哲学館大学﹂と改称すべきだと提案したときには、さすがに緊張した様子で、日ごろの
穏和な表情は消えていた。そのときすでに、
彼の心中には期するところがあったのである。
彼は外遊に旅立つ前に﹁将来の宗教﹂というテーマでインタビューを受けたが、ここで
旅行の目的について、私立学校の盛んな欧米で﹁私立学校の組織、事務の整理法等﹂を見
てくるつもりだといっている。また、﹁自分の生活くらいならば苦しみませんが、どうも
学校という大きな飯食うものがありますから﹂といって、学校の運営・経営の研究をしな
ければならないという考えを示した。
同時に、日本の種々の分野を発展させる方策について、﹁どうも今日のように、日本の社
128
Ⅱ 教育理念の発展
会が諸般のことを自治的にやる力に乏しい時代には、やはり政府の力を借りるのが得策で
ある。医者の改良、法律の改良、教育の改良、みな政府の力でできている。民間の事業とし
て放任しておくならば、とても今日改良をみることはできない﹂と述べて、殖産興業、富国
ところが、哲学館事件では、政府がその強制力をもって哲学館を閉校させることをも考
強兵策など、それまでの政府主導型の路線を踏襲すべきだという意見を明らかにしていた。
えていたことから、日本政府の私学に対する狭量な方針を思い知らされた。これによって、
彼の政府に対する考えは基本的に変わってしまった。そして、イギリス滞在中に、哲学館
のとるべき新しい方針を十分に検討してきたのであった。
専門学校令
ところで、帰朝歓迎会の席で学生たちがいっている﹁専門学校令﹂とはどのようなもの
だったのだろうか。
事件以前から力を伸ばしていた私立学校は、官学中心主義の政府に対して私学も高等教
育機関として認知させようと運動を続けていた。それに応じて文部省は教員無試験検定と
129
徴兵猶予の特典を与えたものの、ごく一部の学校に与えた程度にとどまったために、マス
コミが哲学館事件を文部省による﹁私学つぶし﹂と批難したのである。しかし、政府はし
だいに成長する私立学校の社会的存在を無視し続けることの困難さを知り、哲学館事件の
渦中にある明治三十六年三月、専門学校令を公布して、ついに私立学校に高等教育機関と
しての位置づけを与えたのである。とはいえ、政府の根本的な姿勢までが変化したのでは
なかった。
専門学校の定義は﹁高等の学術技芸を教授する学校﹂となっていた。帝国大学令では大
学に﹁国家の須要に応ずる﹂ことや﹁学問研究を追究・発展させる﹂ことを期待していた
が、専門学校に対してはそのような役割を期待していなかった。専門学校令の意図を簡単
に示せば、専門学校とは、帝国大学に比べて修業年限が短く、もっぱら日本語で教授する、
高等教育制度の下位に位置する学校、ということになる。しかも、私立学校の設置がそれ
までは届出制であったのに対して、専門学校の設置および廃止に際しては文部大臣の認可
制を導入し、教育統制を進めた形となっていた。
一方で、それまで政府は帝国大学と同等規模の総合大学を﹁大学﹂とする立場をとって
130
Ⅱ 教育理念の発展
いたので、二十年代に一部の私立学校が名乗っていた﹁大学校﹂というのは政府が認める
﹁大学﹂とは別のものであったが、私立学校が専門学校の認可を受けるにあたっては、正
式に﹁大学﹂という呼称を使用することを認めた。もっとも、大学と名乗ることを認めた
とはいっても、それは形だけのことで、すでに述べたように政府の姿勢に変化はなく、私
学に対しては﹁援助せずに統制する﹂ことを基本方針としていたので、専門学校となって
からもその進む道は依然として困難なものであった。
しかし、私立学校が専門学校になることは飛躍的なことであった。三十六年には公立三
校、私立十三校が、三十七年には公立一校、私立二十二校が認可を受け、三十八年の段階
では合計六十三校 ︵実業専門学校を含む︶が専門学校となったのである。
長い間大学昇格を計画していた井上円了は、学生たちの提案を受けるまでもなく、
﹁哲
学館大学﹂において新しい教育方針を展開することを考えていた。
独立自活の精神
井上円了は哲学館の新しい教育方針を﹁広く同窓諸子に告ぐ﹂︵明治三十六年九月五日︶と題
131
して発表した。彼はここでは哲学館事件について多くを語らない。その目はすでに未来へ
向けられていた。彼はこれまで二度の災難 ︵風災、火災︶を乗り越え、転機としてきた精神
を発揮して、今度の人災を﹁独立の精神を発し、実用の教育を施す﹂ためのチャンスと位
置づけたのである。そして、外遊で得たものと哲学館事件の教訓とを勘案して、以後の方
針を定めた。
彼はイギリスと日本を比較しながら、基本方針を示している。イギリスが世界第一の国
家となった理由はその国民性にあり、イギリス人は、第一に実に独立自活の精神に富んで
いる、第二に実用的国民であって高尚な理論を極めると同時に実際を忘れることがない、
と二つを挙げている。第二の理論と実際ということは哲学館の従来からの方針でもあるが、
これをさらに発展させて、また第一の独立自活の精神は日本国民にもっとも欠けているも
のなので、これからはこの精神を養成することにつとめるとしている。
ここで示された改革には六項目の特徴があった。
⑴ 大学科の開設
私立大学の開設状況に対応して大学組織をつくり、
哲学館事件の経験を生かして
﹁独
132
Ⅱ 教育理念の発展
立自活の精神をもって、純然たる私立学校の開設﹂を目標とする。そのため学科を予
科、専門科、大学科の三科とし、専門科は三年、大学科は五年で、それぞれ得業、哲
学士の称号を与える。
⑵
教育部の教員検定試験
無試験検定の認可が取り消された以上、実力養成を主として、受験準備を充実させ
る。学力によっては、三年といわず一年でも半年でも試験に合格できるよう、実力本
位で対応する。
⑶ 哲学部の実用主義
哲学部の目的はもっぱら宗教家の養成にあり、従来の方針として、仏教の基礎を一
応習得するのに各仏教教団では十一年かかるところを哲学館では三年で教育し、さら
に専門外の倫理・心理・法制などを教授して広い知識と視野を身につけさせてきたが、
今後はこれに加えて英語もしくは漢学を重点的に教えることによって、より実用主義
をとる。
⑷ 国際化への対応
133
哲学館はこれまで教育家と宗教家の養成に重点をおいてきたが、時代の変化に応じ
て、さまざまな分野で活動する人材を養成することとし、特に外国にも出ていけるよ
うな教育をする。今後日本人が活躍する場所はアメリカ、中国、朝鮮なので、英語と
漢文を中心に語学教育をする。そのため随意科をおく。
⑸ 記念堂としての哲学堂
大学開設用の敷地はすでに用意されているので、基本金が集まりしだい建設に着手
する。哲学館事件と大学開設を記念して記念堂を建立し、これを四聖堂と称して、古
今東西の哲学を記念する。また、哲学館事件で資格を取り消された学生八十三名の氏
名を記した記念碑を建てる。
⑹ 哲学応用の奨励
哲学館の方針は、哲学の理論の研究だけでなく、それを応用することにもあった。
直接的には教育・宗教に、間接的には法律家、工業家など他の職業に従事して、哲学
を社会全般に応用することを奨励してきた。この成果は十分にあがっているが、大学
開設後はさらにこれを奨励する。そして、学問上の成績に対してだけでなく、広く社
134
Ⅱ 教育理念の発展
会において功労名誉を有するものに対して、認定得業、講師、名誉講師の称号を与え
る ︵これはハーバード大学の卒業式に参列したときに学んだものである︶
。この称号の規程は、哲学
館の教育の主義を表すものである。
以上のように、井上円了は国民の精神改良を第一目標とし、独立自活の精神に基づいて、
実力主義をとることを哲学館の教育方針とした。
遠大・活発な人間の養成
井上円了は﹁広く同窓諸子に告ぐ﹂で示した教育方針を、単に哲学館における学校教育
だけではなく、社会教育においても展開することによって、日本人の改良を達成したいと
構想していた。その基本的な考え方は、十一月五日に発表された﹁日本の特性を論ず﹂に
端的に示されている。
西洋と東洋、あるいはイギリスと日本を比べてみると、それぞれに特性というものがあ
り、特性には長所と短所の両面があると前置きしたあと、彼はここでは日本の短所に限定
して話を進めている。彼は日本の短所は﹁狭小﹂
﹁短急﹂
﹁浅近﹂
﹁薄弱﹂であり、
これを﹁小﹂
135
の一字で表現できるという。外国と比較して、まず国土のように目に見える物が小さいし、
日本人の体も﹁小にして短﹂、しかもその性質は﹁小にして急﹂であり、才知、思慮、度量、
志望どれをとっても﹁小﹂なので、歴史上に大人物、大事業、大発明が出ないのだといっ
このような小国的気風を大国的気風に改良するには教育によらなければならない、と彼
ている。
はいう。学校教育はもちろんのこと、あらゆる方面から宇宙的思想、宇宙的観念を注入す
るのである。それには学問によって世界のことを知り、天文学や哲学によって﹁遠大の思
想﹂を養成し、芸術によって﹁雄壮・活発・広大の思想﹂を与えなければならない。そし
て、この遠大の思想を養成するということは、日本人の癖である空想することではなくて、
遠大な目的を定め遠大な方法をとることだとしている。
この基本的な考え方にしたがって、独立自活の精神を掲げた哲学館大学における教育、
そして国民道徳と民力の向上という目的を持った﹁修身教会﹂における社会教育活動が展
開されていくことになるのである。
136
Ⅲ
井上円了の教育理念
❶ 学校教育と社会教育
私立哲学館大学の開設
井上円了は帰国後、矢継ぎ早に三つの事業に着手した。第一は哲学館大学の開設、第二
は哲学堂の建設、第三は修身教会運動の開始である。すでに述べたように、これらは彼が
外遊中から構想していたことであり、それぞれ独立したものではなく、彼の教育目的を実
現するために密接に関係しあっていた。
彼はまず、帰国から一か月後の明治三十六年八月二十七日に、大学開設の認可申請を行
った。これは十月一日に認可され、哲学館は﹁哲学館大学﹂と改称して、専門学校令によ
る大学部が設置されることになった。明治二十三年に大学を目指して専門科設置を発表し
て以来およそ十四年、火災からの再建や哲学館事件という苦難の道を乗り越えて、ようや
くその目標を達成したのである。
138
Ⅲ 井上円了の教育理念
認可にともなって、哲学館学則という従来の内部規則は、国の定めるところにしたがっ
て﹁私立哲学館大学学則﹂に変更された。第一条で﹁本校は高等なる哲学、文学等を教授
する所とす﹂と規定し、第二条以下で新しい学制を定めている。大学部は第一科、第二科
および別科からなり修業年限は五年、専門部は教育第一科、第二科、哲学第一科、第二科
および別科からなり三年、また予科が一年と定められている。このうち第一科では哲学・
宗教関係、第二科では国語・漢文関係の教育を行うことになっているが、第二科において
も哲学や倫理などの科目が設けられていて、哲学による精神教育の重視という創立以来の
方針を堅持している。また、別科というのは、中学校や師範学校などの学歴を持たない人
のために、本科とは別の教育課程として設けられたものである。
明治三十七年三月二十五日に哲学館同窓大会が開催された。哲学館の講堂には井上円了
ほか講師、校友、館内員多数が出席していたが、その講師の中の一人に気がついた参会者
たちの間にざわめきが走り、にわかに活気がみなぎった。一年余り前、哲学館事件で辞職
した中島徳蔵が、再び講師として戻ってきたのである。中島は万雷の拍手に応えて登壇し、
中島流の処世法について持ち前のユーモアを交えながら講演した。
139
専門学校﹁私立哲学館大学﹂の開校式は、四月一日午前十時から正午まで二時間にわた
って行われた。学生、卒業生のほか、来賓として石黒忠悳、加藤弘之、村上専精など五十
名が参列した。この席で井上円了は、すでに制定されていた称号規程によって、哲学館創
立以来学校のために尽力してきた講師のうち三名を名誉講師に推戴し、他の二十三名に謝
恩状を贈呈した。
また、同日午後、参列者は哲学堂に案内され、その落成式が挙行された。
哲学堂の建設
井上円了は以前から、三十五年に大学部開設予定地として購入した和田山の用地 ︵現在
に、哲学堂の建設をはじめていた。哲学堂は﹁広く同窓諸子に告ぐ﹂
の中野区松が丘の哲学堂公園︶
で明らかにしているように、哲学館大学開設の記念であり、また哲学館事件の記念でもあ
った。﹃哲学堂由来記﹄では、彼はスペースの約半分を費やして哲学館事件の顚末を記し
、孔子、ソクラテス、カントの四大哲学者 ︵四聖︶
ている。さらにこれらのほかに、修身教会の記念の意味も付け加えられた。
哲学堂は四聖堂とも呼ばれた。釈
140
Ⅲ 井上円了の教育理念
︶と し て 祭 っ た の が
を祭っているからである。四聖の由来は、明治十八年にまでさかのぼり、その十月二十七
日に行われた第一回哲学祭で、この四人を東西の哲学の代表者 ︵図
哲学
西洋
東洋
近 代 哲 学⋮⋮カ
ン
ト
古 代 哲 学⋮⋮ソクラテス
インド哲学⋮⋮釈
中 国 哲 学⋮⋮孔
子
本山となった。現在の哲学堂公園には四聖
修身教会が設立されると、哲学堂はその
た。その後、学生が四聖に扮装して、四聖それぞれの原語で対話するという劇を披露した。
された。当日、全校生は新宿から和田山まで徒歩で行き、井上円了の案内で敷地内を巡っ
明治三十六年十一月二十三日、哲学堂が建設されると、四聖像を堂内に納める祝典が催
像が描かれた。
はじまりである。哲学祭は毎年のように行われ、二十六年には画家橋本雅邦によって四聖
2
堂のほかにもいくつかの施設があるが、そ
れらはのちに修身教会運動を展開していく
中で建設したものである。井上円了は、全
国巡講中に人々の頼みに応じて額や掛け軸
などの文字を書き、それによって受けた謝
141
図 2 四 聖
礼のうち半分を講演会の経費に充てたり、
町村の公共事業や慈善事業に寄付した。そして、
残りの半額を哲学堂の建築費や維持費に充てた。というのは、彼は哲学堂を修身教会の本
山というだけではなく、精神的な修養に役立つ公園にしようと考えていたからである。そ
の発想は西洋にある。彼は、西洋には体を養う公園と心を養う教会堂があり、人々は公園
で半日を、教会堂で半日を過ごすことによって体と心を養っていると考え、そのようなも
のを哲学堂公園として実現しようとしたのである。
こうして、四聖堂からはじまった哲学堂には、六賢台、三学亭、唯物園、唯心亭、三祖
苑などがつくられ、やがて一般に公開されて、彼の目的どおりの精神修養の公園となった。
修身教会の設立
井上円了は、外遊中に西洋と日本を比較し、日本の国民性を向上させなければならない
と考え、そのために道徳の普及・徹底をはかる必要を痛感した。そして、修身や道徳を教
える場を﹁修身教会﹂と名付けて、学校教育以外の民間教育・社会教育に取り組んだ。
その考え方は、欧米と日本を対比した﹁欧州所感﹂で明らかにされている。彼は第一回
142
Ⅲ 井上円了の教育理念
の洋行で見た西洋諸国はすでに十分に発展していると思っていたが、十五年ぶりに訪れて
みると、さらに進歩発展していることがわかった。その原因として、西洋各国の人々は⑴
質実倹約の国民で、⑵ものごとを遂行する忍耐力があり、⑶正直で信用があること、⑷貯
蓄が盛んに行われていること、をあげ、これらの性質は天性のものではなく、教育薫陶の
結果であり、それには学校教育以外の宗教教育が大きな役割を果たしていると分析した。
そして、日本も修身道徳の教育を行うことによって、はじめて西洋文明国と肩を並べる
ことができると考えたのである。
修身教会では﹁国勢民力﹂のレベルが西洋よりもはるかに低い現状を改革するのが目的
であった。そのため、当時の国民道徳の基本である教育勅語に基づいて、職業に必要な道
徳を諭し、また家庭における風習や行儀作法、社会の習慣を一新させようとした。ただし、
注意しなければならないのは、井上円了は教育勅語を広義に解釈していたということであ
る。勅語の基本にある忠孝の考え方は鎖国時代となんら変わりがないものであったが、彼
はこれに博愛、独立、自営、立身、出世、自由などを加え、
﹁遠くは欧米諸邦の道徳を参
照し、近くはわが邦今日の状況を酌量して、開国の国民として守るべき諸般の心得﹂を教
143
育する方法をとった。
修身教会は欧米の教会組織 ︵監督教会と独立教会︶にならって全国的な組織を張り巡らせる
が、各町村単位の地方組織はそれぞれの自治によって独立して運営され、哲学堂が本山と
はいうものの、それらを統轄はしないという方針であった。ただし、組織どうしの横のつ
ながりを確保するために、雑誌を発行する。また、会場はすでに全国的組織網をもつ﹁寺
院﹂の活用を考えていた。
明治三十六年九月に趣意書が発表され、翌年一月に井上円了は大学資金募集と修身教会
遊説をかねて山梨県下を巡回した。このころ世相には暗雲垂れ込めており、二月十日つい
に日本はロシアに対して宣戦布告し、日露戦争がはじまった。二月十一日、修身教会が結
成され、哲学館内の修身教会雑誌発行所から﹃修身教会雑誌﹄第一号が発行された。以後、
雑誌は毎月発行され、井上円了の巡講は夏休み期間中に行われた。
井上円了はこの新しい教育事業を哲学館に付帯するものと位置づけていたが、のちに哲
学館大学を辞任してからは、残りの生涯のすべてをこの修身教会運動に捧げていくことに
なるのである。
144
Ⅲ 井上円了の教育理念
哲学館事件の影響
井上円了の遠大な教育構想のもとに出発した哲学館大学であったが、実際は経営上危機
︶は、 事 件 が 社 会 問 題 化 し た 三 十 六 年
的な状況に陥っていた。事件の影響は、明治三十八年四月の卒業生に現れ、教育部第一科
は前年度に比べて半減した。在学生数の推移 ︵表
に大幅な減少がみられる。三十七年に哲学館大学となって一時増加した。しかし、その後
はふたたび減少に転じている。在学生数の減少には、この間の日露戦争の影響は少なくな
すでに記したように、哲学館事件の前年、すなわち三十五年
透明な政治的、思想的、社会的事件の渦中に立たされたことに
る学校の一つに挙げられていた。しかし、哲学館事件という不
の時点では、哲学館は今後大学となって飛躍的発展が期待され
(
『文部省年報』各年
度による)
よって、その発展計画は挫折を余儀なくされたのである。
145
6
かったはずであるが、哲学館事件によって教員無試験検定の特典を失ったことや、事件を
年度
明治35
36
37
38
39
人数
288
207
322
228
141
めぐって後に生じた内部の問題が災していたのは明らかである。
表 6 在学生数
の推移
当然、井上円了は経営問題に腐心しなければならなかったが、これが神経性疲労につな
がり、夏頃には半日仕事をすれば半日の休息が必要であり、また夜になると大変疲れを覚
えるというような状態となっていた。そこで、
哲学館の初期の目的であった﹁哲学の普及﹂
はほぼ達成されたと考えた彼は、以後は学校を解散して講習会組織に変更するという計画
を立てた。しかし、これを数人に相談してみたところ、賛成するものはいなかった。すで
に哲学館大学は組織として動きはじめており、彼個人の意志で左右できる時代は終わりに
近づいていたのである。
特典の喪失が学生数の減少の大きな原因ではあったが、井上円了は哲学館事件後に立て
た学校の基本方針である実力主義を貫くため、特典に頼るつもりはなかった。周囲のもの
が特典の再申請に触れると、
﹁認可取り消しのために災厄をこうむりたる出身者に対して
これをなすに忍びず﹂と強く主張した。これは中島徳蔵を復職させたことと同様に、文部
省に対する抵抗という意味もあった。
しかし、このような彼の方針は、講師や卒業生には十分理解されなかった。明治三十七
年十月二十一日には出身者有志が、二十二日には同窓会が、二十八日には全講師が、それ
146
Ⅲ 井上円了の教育理念
ぞれ無試験検定の再申請を行うように求め、十一月十日には哲学館事件で資格を失った加
藤三雄ら三名も、再度特典を得るように勧めた。特典があるかないかは財政的基盤の脆弱
な専門学校にとっては死活問題であり、とくに経営難の哲学館大学にとっては緊急な課題
であった。
井上円了の退隠
特典をめぐる問題は、再申請を拒む井上円了と再申請を求める卒業生などとの対立であ
り、それは哲学館の存在そのものを根本から問うものであった。専門学校令によって哲学
館は大学部を持つに至ったが、同時に社会的には国家の教育制度の枠内に位置づけられた
ことにより、以前のように創立者の意志と決断だけで運営できる時代ではなくなっていた。
このような状況の中で、井上円了に対するさまざまな批難や中傷が出てきた。
哲学館は井上円了や井上家の私物ではないと批難するもの、あるいは哲学館大学は本当
は仏教の一宗一派の学校なのだという誤解なども生じた。彼は﹁世間は誤解の多きもの﹂
で、いつかは疑惑も晴れるといっていたが、卒業生からあからさまに批難されるに至って、
147
事態の深刻さを痛感した。新聞記者をしている卒業生に﹁近来一、二、哲学館を攻撃する
者があり、あるいは何か、学校に関し、掲載を申し込む者があっても、採用してくれるな﹂
と手紙を出すほどで、学内問題にそうとう神経を使わなければならない状況に追い込まれ
解決策として井上円了には二つの方法しかなかった。第一は、哲学館の独立自活、実力
ていた。
主義という新しい方針を捨てて、特典の再申請を行うこと。第二は、彼自身が学校経営か
ら身を引くこと。しかし、彼は自ら定めた方針を変更することはできなかったので、哲学
館のためには第二の方法を取るしかないことを、この時点で覚悟していたものと思われる。
そして、その前に、彼は幼稚園から大学までの一貫教育システムをつくることを考えて
いた。明治三十二年に京北中学校を設立したのはその一環であるし、三十五年には﹁幼稚
園論﹂で小学校就学前の幼児教育の重要性を訴えていた。大学と中学校ができたあとは幼
稚園と小学校の設立によって、この教育事業は完成する。
彼はまず幼稚園の設立に着手、明治三十八年五月三日に自ら園長となって京北幼稚園を
開設した。この直後、再び疲労に襲われるようになり、
医師から
﹁神経衰弱症﹂
と聞くと、改
148
Ⅲ 井上円了の教育理念
めて退隠への決意を強くした。しかし、彼は残る小学校の設立を自分の手で行い、
理想的な
一貫教育システムを完成させたうえで、それをしかるべき人間に譲渡しようと考えていた。
夏休みには、静岡、山口、長崎、茨城の各県を巡講し、一時的に健康状態は回復したか
に見えた。ところが、十一月には神経衰弱がぶりかえし、十二月に入ると自宅の庭で卒倒
しそうになることが二度もあった。
井上円了が退隠を最終的に決断したのは十二月十三日であった。この日上野精養軒で哲
学館大学記念会が開かれたが、この席上石黒忠悳と大内青巒の演説を聞いて決断した、と
彼は記している。残念ながら演説の内容には触れていないが、結果的に彼に小学校設立を
断念させ、学校教育から身を引く決断をさせたのである。この十三日という日付は、火災
や特典の取り消しなど三大厄日の発生日であった。
哲学館の譲渡
井上円了はかねてより数人のものと相談して、前田慧雲を後継者と決めていたが、退隠
決断から二週間後の十二月二十八日、彼は前田と三か条の契約を交わした。
149
⑴
哲学館創立の旨趣を継続すること。
⑵
財団法人になすこと。
⑶ 他日学長を辞するときは、出身者中の適任者をもって相続せしむること。もし出
身者中に適任者なき場合には、講師をしてつがしむること。
これによって、哲学館はすべて前田に譲られることとなった。また、京北中学校につい
ては湯本武比古を後継者とした。
彼がこのような契約を結んで学校を自分の子孫に相続させなかったのは、哲学館が私有
物ではなく、社会国家の共有物であることを明確にするためであった。大学設立のために
募金に奔走したことから、蓄財家とか冷酷な人などという評価を受けたこともあったが、
それらをすべて払拭し、彼が﹁私人﹂と﹁公人﹂をはっきり区別してきたことを証明した
のである。
明治三十九年一月一日をもって、井上円了は哲学館大学長と京北中学校長を辞職し、そ
れぞれ名誉学長、名誉校長となった。一般に発表されたのは一月八日になってからで、学
内の掲示板に﹁井上学長退隠の旨﹂が張り出され、突然のことに驚いている講師や学生全
150
Ⅲ 井上円了の教育理念
員を講堂に集めて、井上円了は退隠のいきさつを説明した。また、雑誌にも﹁退隠の理由﹂
という文を発表した。
哲学館大学は六月二十八日に﹁私立東洋大学﹂と改称し、七月四日には、井上円了との
契約にしたがって、私立東洋大学財団が組織された。こうして、大学は創立者井上円了の
個人経営の時代から、法人によって運営される時代に入ったのである。
退隠後の井上円了は、全力を修身教会に傾注し、東洋大学との関係は卒業式や同窓会な
どの行事に出席する程度となった。たとえ大学の運営上の問題を耳にしても、自分のほう
から口を差しはさむことはなかった。ただし意見を求められれば即座に応じたというから、
決して無関心だったわけではない。契約によっていっさいを後継者にまかせた以上、干渉
すべきでないというのが、近代人井上円了の姿勢であったが、それがあまりにも徹底して
いたため、冷淡すぎるといわれることもあった。
﹁田学﹂
学校教育から手を引いた井上円了は、彼が重視していたもう一つの教育活動である社会
151
教育に専従し、全国巡講という形で展開していくことになった。巡講はそれ以前に明治二
十 三 年 か ら 二 十 六 年 ま で ︵第一期︶
、二十九年から三十五年まで ︵第二期︶の二期にわたって
行われたが、そこでは哲学の普及あるいは教育勅語の普及とともに哲学館の資金募集とい
う目的もあった。退隠後の明治三十九年から大正八年に逝去するまで続けられた巡講は、
国民道徳の向上のためであった。一月に辞職してから、その理由とされていた健康状態は
回復に向かい、四月の神奈川県、京都府の巡講を皮切りに、修身教会の拡張と充実を目指
して活動を開始した。井上円了は、建学の精神を引き継ぐ人に学校教育は委ねたので、再
び一教育者という原点に立ち、かねてから重視していた社会教育活動に専念して、民衆の
中へと入っていった。
井上円了は福沢諭吉を引き合いに出して、
﹁余は世間の学者を貴族的と称し、余自身をば
百姓的と唱えている。かつて福沢翁は平民的学者をもって任ぜられたが、余はそれよりも
一段下りて土百姓的学者である﹂と、自分の立場を明確に示している。また、福沢は一度
叙勲を辞退したことがあるが、井上円了も大正時代に二度叙勲を辞退し、このとき﹁無位
無官﹂で生涯を終え、権力の門に屈しない在野の学者・教育者であることを明らかにした。
152
Ⅲ 井上円了の教育理念
彼は福沢よりもいっそう民衆の奥深くへ入り込んでいく自分の学問を﹁田学﹂と表現し
ている。それはおよそつぎのような意味である。
﹁ 紳 士 が 田 舎 に い れ ば 田 紳 ︵ 田 舎 紳 士 の 略、
という。それならば学者が田舎にいれば田学といわれるべきである。
どろくさい紳士という意味︶
これに対して、都会に住み、位階を帯び、官に雇われている学者は官学と呼ぶべきである。
官学は高貴なものといえども、田学もまたいやしむべきものではない。鯛の刺身は貴人の
膳に上るけれども貧民の口には入らない。しかし、豆腐の田楽は貴人にも貧民にも通じ、
その調法なることは鯛と比べものにならない。田楽は田学に通じる。自分は田楽となり、
学問の料理を貴賤貧富を問わず供給することを本分とする﹂
官学に対する田学という考え方は、晩学のもの、貧困者、語学力のないものに教育の機
会を開放するという、哲学館創立の精神と同じである。そのときから比べると時代も社会
条件も異なってはいたが、井上円了は学校教育から社会教育の場に身を移して、再び原点
に立ち返ったのであった。
153
南船北馬
修身教会運動は、欧米諸国の社会道徳や実業道徳のレベルまで、日本の民衆の道徳や思
想を向上させ、それによって日本人の改良を達成しようというのが目的であった。対象と
なるのは一般民衆であり、自ら田学と称したように、井上円了は日本の基盤を形成する地
方都市、農村、山村、漁村などのいわゆる﹁地方﹂を重視した。
井上円了はその足跡を﹃南船北馬集﹄︵一∼十六編︶に記録している。これによると、明治
三十九年から大正七年までの十三年間に、全国六十市、二千百九十八町村を巡り、二千八
百三十一か所の会場で、五千二百九十一回の講演を行い、聴衆は延べ百三十六万六千八百
九十五人となっている。平均すると一年間に二百十八か所で講演し、一回の聴衆は二百四
十七人になる。まさに南船北馬 ︵各地をいそがしく駆け巡ること︶の活躍である。その後の大正
八年の巡講の結果を加えると、およそ講演回数約五千四百回、聴衆動員数百四十万人にも
のぼり、当時としては実に画期的な規模の社会教育活動であった。
しかし、現代のような発達した交通手段はなかったので、旅には多くの困難がつきまと
154
Ⅲ 井上円了の教育理念
った。国鉄の幹線はようやく通じていたが、幹線をはずれると軽便鉄道、馬車鉄道、ある
いはトロッコに身をまかせ、さらには船や馬に乗って行かなければならなかった。例えば
東京から宮崎県都城まで行くのに、汽車、川舟、馬車と乗り継いで、五日間もかかったと
記録されている。また、そのような旅では夜明け前に出発しなければならないことや、船
が欠航して二日間も島に足止めされるようなこともあった。また、地方では宿泊施設も整
っていなかったので、巡講先に宿屋がない場合には、小学校や役場の宿直室に泊まったと
いう。
巡講中の井上円了は、汽車は三等で、弁当は握り飯と決めていたし、服装からカバンや
時計などの所持品にいたるまで華美を排し、実用本位のものを用いていた。その姿を見て
卒業生は﹁どう高く評価しても、山奥の村長か収入役くらいにしかみえない﹂と評してい
る。
巡講は長期に及ぶことが多く、七十日、八十日、ときには百三十六日も休みなく講演を
続けることもあった。したがって、自宅で過ごす時間は少なく、帰宅しても数日からせい
ぜい一週間で、またつぎの巡講に出発したという。
155
講演の内容
講演会の主催者や発起人はそれぞれの地元の市や郡の教育会、仏教団体、青年団、婦人
会、実業倶楽部、農会、また辺境の土地では三か村連合や五か村連合などのようにいくつ
かの村の共同体、あるいは町長、村長、学校長などの個人、さらに有志の集まりなど、多
(明治42年度∼大正 7 年度)
演題類別
回数
比率(%)
詔勅・修身
1,574
40.9
妖怪・迷信
911
23.6
哲学・宗教
595
15.4
教 育
306
7.9
実 業
261
6.8
雑題(旅行談)
210
5.4
出典:三浦節夫「井上円了の全国巡
講」
,『井上円了選集』第15巻の解説
3,857
100.0
合 計
たり、整列した子供たちが日の丸の小旗を振ったり、
ようである。船に万国旗を掲げて太鼓を打ち鳴らし
が、各地ではそれぞれに趣向を凝らした歓迎をした
井上円了は出迎えや見送りを好まなかったという
訪ねてきた。
卒業生や館賓、あるいは講義録で学んだ館外生らが
校の卒業生たちの協力が得られたし、会場には必ず
などが随行した。いたるところで哲学館や京北中学
種多彩であった。そして、各郡ごとに視学官が案内役となり、地元の哲学館出身者や旧友
表 7 全国巡講の演題類別表
156
Ⅲ 井上円了の教育理念
威勢のよいラッパに迎えられたりした。
聴衆 ︵彼は﹁公衆﹂と呼んでいた︶は幅広く、老若男女を問わなかったし、彼も幼児や小学生
に向かっても語りかけるなど、対象を限定しなかった。天候によっては聴衆が集まらない
場合もあったが、逆に大相撲の地方巡業とぶつかっても会場が満員になることもあり、お
おむね盛況だった。これは官民を問わぬ主催者の協力があったこともあるが、彼の話が人々
を引き付けたことによるものでもあった。
では、講演内容はどのようなものだったのだろうか。﹃南船北馬集﹄による明治四十二
年 度 か ら 大 正 七 年 度 ま で の 十 年 間 に わ た る 演 題 が 集 計 さ れ て い る ︵表 ︶
。修身教会運動の
趣旨からいって、精神修養や道徳についての詔勅・修身に関するものが多いのは当然であ
る。しかし、二位は妖怪・迷信に関する内容であって、井上円了が﹁お化け博士﹂とか﹁妖
怪博士﹂と呼ばれていたことがよく表れているが、それに比べて、社会教育を重点として
いたために、哲学・宗教に関するものが少なくなっている。講演は一日に二回ないし三回
も行っていたので、テーマは聴衆に合わせて変えていたようで、例えば、大正五年八月十
一日山形県酒田市の講演は、一回目が﹁精神修養﹂、二回目が﹁妖怪談﹂という題目で行
157
7
われ、地元紙の報道によれば聴衆は三百名を超えていたという。
妖怪・迷信については人気があったようで、主催者や聴衆からの希望によることもあっ
た。山形県村山市在住で、井上円了の講演を実際に聞いた人はつぎのように当時を語って
﹁私は小学五年生、円了先生のお話はめずらしかった。親たちが迷信深く、夕方はさび
いる。
しかった。暗くなるとこわかった。狐火、鬼火、人魂の話など、円了先生は絶対おっかな
いものでないと説かれた。それから大人たちのお茶飲み話でも、迷信らしいものがでると
円了先生のお話になった。私は子供心に気持ちが明るくなった。
﹂
迷信に限らず、彼は講演を通じて民衆の生活経験に合理性を与えたのである。
井上円了の逝去
修身教会運動を精力的に展開していた井上円了は、日本国内ばかりではなく朝鮮や中国
へも巡講を重ねた。大正八年五月五日、彼は満州 ︵現在の中国東北地方︶の巡講に出発、各地
を回って、六月五日は大連で講演することになっていた。会場の西本願寺付属幼稚園に到
158
Ⅲ 井上円了の教育理念
着したのは午後八時、休む間もなく三十分後には講演をはじめたが、その最中に脳 血で
倒れ、六日午前二時四十分に息をひきとった。満六十一歳であった。
この前年、卒業生たちが彼の還暦の祝賀会を開きたいと提案したところ、彼は﹁もう四、
五年歩くと、日本全国津々浦々、残りなく歩き尽くすことになるから、そのときは全国漫
遊完了祝賀会というようなことでもやってもらおうかと思っている。そのときまで、お祝
いはお預けだ﹂と答えたという。最終的には全国巡講を完了することはできなかったが、
死の間際まで講演を続け、その身を社会教育に捧げ尽くしたことは、彼にとって本望だっ
たのではないだろうか。
彼は生前に遺書を作成していた。この中で﹁哲学堂は国家社会の恩に報ずるために経営
せるものなれば、井上家の私有とせざること﹂として、かつて哲学館を社会の共有物とし
たのと同様に、民衆の力で建設された哲学堂公園を社会に還元した。
﹁私﹂を捨てて﹁公﹂
の利益を追求した井上円了の精神はここでも貫かれていた。
159
❷ 井上円了の教育理念
開放主義
井上円了はその生涯を教育に捧げ、さまざまな事業にエネルギッシュに取り組んだが、
その活動を内面で支えていたのは信仰であった。彼は親鸞を開祖とする真宗の信仰者とし
て寺に生まれ、僧侶として寺を継ぐことはなかったが、信仰は彼の中で生き続けた。
しかし、これまで見てきたように、彼は哲学館という公的な教育と自分の信仰とを明確
に区別していた。それは、哲学館で宗教者を養成するというときに、仏教の宗派的教義に
とらわれなかったことからもわかる。﹁余の信仰告白﹂と題した一文で、彼は﹁余の真宗
信仰は他の信者のごとく、猛偏屈なるにあらず﹂といって、自分は真宗を信じているが、
他人がどの宗教を信じるかは問わないし、むしろ教団からの束縛を脱した自由討究・随意
信仰であって、﹁開放主義﹂の立場であることを明言している。つまり、彼の信仰は、表
160
Ⅲ 井上円了の教育理念
面は真宗であっても、その裏面には﹁純正哲学﹂に通ずる合理性を持った大乗仏教の精神
が基礎にあったとみることができる。そして﹁開放主義﹂の原則は、彼の教育理念の根底
に常に流れていた。
井上円了の人生と信仰をテーマとした研究者の一人は、つぎのように述べている。
﹁井上円了は全国各地で修身教会の結成を呼びかけて、全国巡講を行っているが、各地
の支部を結合させて権力構造をもった全国的組織へ発展させるという方針は最初からもっ
ていなかった。近代的組織論とは異なる点に、その特徴があり、教会の支部は実は仏教の
サンガ ︵共同体︶であったと考えられる。そして、それをつぎつぎと巡講する彼の活動は釈
が説法をして歩いた形態と同じととらえられるので、その意味では井上円了の修身教会
運動の根本精神は〝心を残して名を残さず〟という言葉で表すことができる。この言葉は
哲学館創立以来の彼の行為をも象徴しているともいえる﹂
日本人の改良
これまで井上円了の教育に関するさまざまな活動と、そこに表れた思想について時間的
161
な経過を追って見てきたが、それらが近代日本の社会変動の中で形成され、発展してきた
ものであることが明らかとなった。以下、それを教育理念としていくつかの観点からまと
めてみよう。
井上円了は当時のエリートの一人であったにもかかわらず、富や権力にはいっさい目を
向けず、またそうした力に頼ることもなく、民間の一教育者として生涯を終えた。一般民
衆の力に支えられて、まったく無資本のところから哲学館を起こし、幾多の困難を切り抜
けて教育事業を発展させた。その過程において、彼が教育に期待したものは何であったの
だろうか。
当時の日本の民衆は島国的で西洋や世界のことを知らず、迷信にとりつかれるなど、そ
の生活は科学的合理性に欠け、小社会の経験の枠内で生活する人々であった。政府はこの
ような民衆に対して改善の手をさしのべることなく、近代化を急ぐあまりに、民衆を放置
し、切り捨てる方針に終始していた。その中で、井上円了は民衆をしばしば愚民と慨嘆し
ながらも、民衆こそ自分にとっての教育対象としてとらえていた。そこには民衆に支えら
れて生活する寺に生まれたことも関係していたが、なによりも各地の民衆の中で生きる彼
162
Ⅲ 井上円了の教育理念
の姿は実に生き生きとしていた。
民衆を教育対象と考えた井上円了は、人々を﹁遠大なもの﹂と﹁活発なもの﹂を身につ
けた人々に育成することを〝日本人の改造〟あるいは〝改良〟と称した。そして、さまざ
まな実業に従事する生活者に合理的な知恵を得る方法を教え、合理的な知恵の通路を開く
だけでなしに、ここを通って人々に〝安心立命〟を得させることを考えた。これが学問と
宗教の二つによる日本人の改造として、井上円了の教育理念に位置づけられていた。
日本と比較して西洋の富と力の強大さを痛感した井上円了は、その差が精神面に発する
ことを見抜き、日本人の改造においては、人間の生活を方向づけ、また支えている精神活
動を重視した。すでに述べたように、当時の民衆の知見や生活は近代以前のまま取り残さ
れていた。彼はこういう民衆を、精神の﹁改造﹂
﹁改良﹂によって、﹁遠大なものと活発な
もの﹂を身につけた人間に育成してこそ、当時の日本の課題であった富国強兵、国家の強
大化、民力の強大化も達成可能となり、西洋先進諸国に追いつくことができると考えた。
そして、その方法を教育に求めたのである。
163
私塾の精神
井上円了が教育の対象とした民衆とは、すなわち﹁余資なく優暇なき﹂人々であり、そ
った帝国大学が、少数の国家的エリートを養成する機関として位置づけられていたことに
の教育活動の拠点は哲学館 ︵学校教育︶と哲学堂 ︵社会教育︶であった。これは唯一の大学だ
対置されるものであった。
哲学館は哲学専修の学校としてスタートしたが、決して哲学者を養成するところではな
かった。井上円了が重視したのは﹁哲学を学ぶこと﹂であり、
彼はそれを﹁思想錬磨の術﹂
と表現して、人間の精神活動を活性化することだとした。つまり、ものの見方や考え方の
基礎を身につけることに重点を置いた教育だったのである。
明治三十五年頃の教育界では、つぎのように問題点が指摘されていた。
﹁帝国大学においてすらも教師はただ生徒の脳髄になるべく多くの知識を注ぎ込まんと
し、生徒もまた試験に及第せんがためになるべく多くのことを暗記せんと勉めておるので
ある。ゆえに今日の教育は開発主義にあらずして注入主義であり、思考的でなくして器械
164
Ⅲ 井上円了の教育理念
的である。そもそも大学なるものは知識を与うるところであるのか、そもそも知識を得る
のみちを教ゆるところであるのか﹂
このような教育界にあって、哲学館の教育は開発主義であり、知識を得る方法を教える
ことにあった。そして、そのために哲学や思想を広く教授したが、その際には﹁自由討究﹂
を重んじたのである。
以上は知育 ︵知識教育︶の面であるが、哲学館では徳育 ︵人間教育︶も重視された。井上円
了は学校を﹁人の人となる道﹂を学ぶ場と考え、知識を与えるだけではなく、感性を磨き
人間性を高めることによって、バランスのとれた人格を形成しようとした。これを具体化
したのが寄宿舎であり、朝夕聞かれた茶会であった。彼は自ら学生たちと対話し、人間性
を養う環境をつくったが、そこでは学生一人ひとりの人格が尊重され、彼らがどの立場、
どの主張をするかは、それぞれの選択・決定にまかされ、強制することはなかった。彼の
このような人間交流を重視した教育は、﹁私塾の精神﹂に基づいたものであった。
165
哲学の応用
井上円了は常に学生に﹁空論を止めて、事実をもってせよ﹂と語り、実践的姿勢を求め
た。そして、卒業生が社会において哲学を応用することを願っていた。哲学を学んだ人間
が社会に出て、その成果を発揮することができれば、それによって日本社会の活性化をう
ながし、彼の目的である日本人の改良につながると期待したのである。
しかし、近代初期においては、実用的な知識や技術の要求度は高かったものの、哲学と
いう理論的学問を学んだ人にとっては、職業選択の幅が限定されていた。彼は哲学を社会
で直接応用できる職業として教育家と宗教家を考えた。特に教育家には、日本の中等教育
を振興・発展させるため、また哲学館の精神を普及させるために、地方に学校を設立する
ことを望んでいた。
社会が発展するにつれて職業選択の幅は広がり、哲学館事件以後は卒業生が哲学を応用
する職業の範囲を従来よりも拡大することを奨励した。﹁諸学の基礎は哲学にあり﹂とい
う基本的な考えのもと、基礎である哲学を学んだものがさらに専門知識を学んで、哲学の
166
Ⅲ 井上円了の教育理念
応用に結びつけてくれることを期待していたのである。
開放的な教育手段
井上円了の教育活動は学校教育と社会教育とからなっていたが、学校教育では、人材養
成という観点から、一貫性のある教育システムを目指し、哲学館を頂点として京北中学校
と京北幼稚園を設立した。しかし、小学校は設立されず、システムは完成しなかった。一
方、学校以外に教育の場を求めるため、自ら民衆の中に入って行き、修身教会運動という
社会教育を行った。
彼の教育活動は開放的であって、民衆の教育のためにさまざまな機会と手段を利用した。
そこでは現実の可能性を検討したうえで、目的達成のための手段については柔軟に対応し
た。例えば、哲学書院における出版事業、講義録による通信教育、市民のための日曜講義
などがあり、また実現はされなかったものの、正規の学校とは異なる簡易中学や変則中学
などの設置も考えていた。
教育手段の開放性の例として、芸術の活用も挙げられる。しかも、それを日露戦争の最
167
中に提唱したところに彼の独自性が見られる。彼は、戦争中にはだれも芸術の必要を考え
ないだろうと前置きして、
﹁余は戦後の国民に対してことさらに美術美学の必要ありを思
う。そのわけは戦後は一時必ず残忍過酷の風行われ、喧嘩殴打殺人等が流行するに相違な
い。この弊を防ぐには今より美術を奨励させなければならぬ﹂と述べ、社会教育における
芸術の効果的活用を訴えた。
彼の柔軟な姿勢は、社会状況の変化への対応にもみられる。例えば、日本の近代化が進
んで、アメリカやアジア近隣諸国へ日本人が盛んに進出していくようになったとき、哲学
館の学制を改革して、それぞれの国において積極的に活動できる人材を養成するという方
針を取り入れている。
自由開発主義
以上のような井上円了の教育理念の基本的性質は、その独自性という点において、私立
学校の特性と表現するにふさわしい内容を持っていた。当時の私学は官学中心主義の教育
体制の中で、一面では帝国大学の補完的役割を担わされていた。しかし、その反面で、哲
168
Ⅲ 井上円了の教育理念
学館は﹁自由開発主義﹂の方針に基づいた独自の教育理念で運営され、官学とは違った人
間の教育を目指していた。それを具体的に示しているのは、哲学館事件以後に展開された
実力主義の教育であり、﹁独立自活の精神を持つ純然たる私立学校﹂という言葉である。
退隠後、修身教会運動に専念していた井上円了が、再び学校へ戻るように要請されたこ
とがあった。大正七年、第一次世界大戦が終結した年で、社会情勢も学内事情も問題を抱
えていたので、大学に復帰してその再建を果たすように求められたのである。彼はそれに
対して、いつになく厳粛な態度でこう答えた。
﹁御説一応もっともなるが、現代政府の教育方針は依然官僚統一主義にて、自分の宿論
たる自由開発主義に相もとれるゆえ、老齢に加鞭して再びその任に当たるも、到底諸君の
希望にそうあたわざるは必然なれば、先年隠退当時決心せしごとく、普通一般の通俗教育
に一身を捧げ、当初の志望は後世他の人によりて遂行を期するよりほかなし﹂
井上円了は、いずれ時代が変わったそのとき、哲学館創立以来の方針である自由開発主
義の教育が実現されることを期待し、すべてを未来に託したのである。
169
Ⅳ
新しい教育理念を求めて
❶ 戦前の大学教育
大学令の公布
井上円了の後を継いだ第二代学長前田慧雲 ︵明治三十九∼大正三年︶
、第三代学長大内青巒 ︵大
の期間は、大きな変化もなく、堅実な運営方針で発展を続けた。大内青巒の時代
正三∼七年︶
はちょうど第一次世界大戦と重なっており、社会は騒然としていたが、この間、大正五年
六年には創立三十周年記念式典が盛大に行われた。
︵一九一六年︶には女子の入学が認められ、
大正七年に第四代学長となった境野哲は、はじめての哲学館出身者の学長であった。井
上円了が前田との契約で﹁他日学長を辞するときは、出身者中の適任者をもって相続せし
むること﹂と求めていたことが、一代遅れて実現したわけである。
そして、この年の十二月に﹁大学令﹂が公布されたことによって、専門学校が名実とも
に﹁大学﹂に発展していく道が開かれたが、東洋大学にとっても﹁大学﹂になることは大
172
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
きな課題となった。
明治三十六年の専門学校令によって、私立学校は国の高等教育制度の認知を受けたもの
の、その地位は低いものであった。しかし、専門学校の中には帝国大学と並ぶほど水準の
高い学校もあり、それぞれ大学への昇格を目指して運動を展開していた。政府はこれに対
応して、大正七年十二月に﹁大学令﹂を公布し、専門学校が官立大学と制度上同等の地位
につくことを認めた。
大学令公布の背景には、人材養成に対する社会的な要求が高まってきたということもあ
った。初期の帝国大学には国家的エリート養成機関として官僚的行政的な多くの特権が与
えられていたので、その出身者が実業に就くことはほとんどなかったが、経済的に発展し
てきた日本社会ではしだいに企業の役割が大きくなり、大正時代になると帝国大学の卒業
生の中からも﹁官﹂の枠組みからはみ出て、
民間へと流出するものが増えてきた。そして、
彼らの就職先は財閥系の大企業や銀行などであった。
これに対して、私立専門学校の出身者は、学歴主義的な序列を裏打ちするように、中流
の企業や新たに創設される企業などに就職する傾向にあった。しかし、こういう企業こそ
173
が産業の基盤を支え、日本の近代化を積極的に開拓していた。その意味では日本の近代化
の真の担い手は私立専門学校の出身者たちだったといえる。第一次世界大戦を経て資本主
義国家としてさらに発展すると、それだけこのような人材が要求され、政府は私立専門学
校の人材養成の役割に一定の評価を与えなければならなくなっていたのである。
過酷な設置条件
大学令第一条には﹁大学は国家に須要なる学術の理論および応用を教授し、ならびにそ
の蘊奥 ︵うんのう︶を攻究するをもって目的とし、兼ねて人格の陶冶および国家思想の涵養
に留意すべきものとす﹂とあって、帝国大学令のときと同様に、大学の役割を国家的に認
知したものとなっている。しかし、日本の大学はあくまでも帝国大学をモデルとしていた
ので、﹁不完全なる大学の安易に設立せらるるがごとき弊﹂
に陥らないようにという理由で、
さまざまな設置条件が定められた。それは私学にとっては過酷な条件であった。
その条件は予科の開設や設備・教員などについて帝国大学に準ずるものとして厳しく設
定されていたが、資金力の乏しい私立専門学校にとって特に重荷となったのは基本財産の
174
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
供託であった。供託金は一校五十万円で、一学部増設するごとに十万円が加算された。例
えば、五学部を擁していた早稲田大学の場合、供託金は九十万円に達したが、大正六年の
経常支出は三十六万円であったから、大学の認可を受けるためには年間経費の約三倍にも
のぼる膨大な費用が必要だったのである。そのため直ちに大学に昇格できる学校はほとん
どなかった。早稲田大学と慶応義塾大学はともに強力な同窓生組織を持っていたので、そ
の寄付によって供託金を集めることができて、大正九年に私学のトップをきって大学に昇
格した。ほかの専門学校はこの困難を克服するために大変な努力を払わなければならなか
った。東洋大学もその一つであったが、結局大学に昇格できたのは昭和になってからであ
る。
東洋大学は大正八年に大学昇格のための計画を発表した。学部を国学、漢学、仏学の三
科とし、費用は開設費二十五万円、供託金五十万円など合計二百五十万円を予定し、募金
によって集める計画であり、それは将来の大学経営を基金の果実で行うという理想的な構
想であった。募金活動は組織的に行われたが、日本全体を覆っていた不況や学内の事件 ︵大
正十二年︶の影響によって、目標額をはるかに下回った。その後、中島徳蔵学長のもとで、
175
昭和二年から第二次昇格運動に取り組み、募金の規模を供託金のみにしぼった。このとき
は財界からの援助も受けて、昭和三年三月に大学令による大学として認可された。しかし、
この昇格の必要条件として、学制の改革をはじめ、大学本館、図書館、講堂などの建設が
義務づけられていたので、その後に大きな問題が残された。
教育上私立学校に対する卑見
井上円了は大学令の内容が相変わらず官学中心主義に貫かれていることに憤りを覚え、
﹃朝日新聞﹄︵大正八年二月三日付︶に﹁教育上私立学校に対する卑見﹂と題する一文を寄せた。
ここで彼は官学中心主義の大学政策を﹁官主主義﹂という言葉で批判している。
﹁近頃世界大戦の結果として民主主義なる語が流行してきて、ドイツの軍国主義が破れ
たから世界は民主主義に一変するがごとく論ずるものがある。しかるに余は民主主義なる
語を了解するに苦しんでいる。余は近頃唱うる民主主義は官民相対の語と解しておきたい、
すなわち民主主義の相対は官主主義であるとみる方が穏当と思う。⋮⋮従来わが国のとり
たる方針が宗教を除くのほかはすべて官主主義とみてよい。とりわけ教育などは官主主義
176
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
である。今回の高等教育拡張の方法をみても、そのことがよくわかる。つまり政府の方針
は私立学校を減殺して官立学校を増殖するにありと推断するよりほかに考えようがない。
これがすなわち官主主義というものである。
ドイツには私立大学がないと同時に英国米国には官立大学がない。これはドイツ教育が
官主主義で、英米は民主主義の証拠である。わが日本にては私立大学を許してあるも、従
来の方針がドイツの官主主義により、何となく私立を邪魔物にみなし、敬遠主義ならよい
けれども、嫌遠主義を取って今日に至った。⋮⋮政府はただ私立学校の設備の不完全を責
むるのみにて、これをして完全ならしむる方法を与えぬ、あたかも水利を官田にばかり供
給し、すこしも私田に及ぼさずしてその田の荒廃を責むると同様である。⋮⋮私立学校を
愛育擁護する道を講ずるこそ戦後の大勢に順応するものというべきである。
近年危険思想に関しその筋の警戒ありと聞く。その中にはとかく私立学校がかかる思想
を養成して困るとの意見を有するものもあるやに聞き及んでいる。もし万が一にも私立学
校にかかる恐れありとするならば、これを防ぐ法は二つある。その一は私立全廃を実行す
ること、その二は私立を引立てて完全を期せしむることである。ただ今日のように活かす
177
ともつかず殺すともつかぬ政略は害ありて益なし。⋮⋮私立学校に相当の愛護を与え、従
来大体の基礎のできたる学校へはその資本を充実せしむるよう有志の義挙助力を策励する
方針をとり、私立にてでき得るだけの高等教育は私立学校に譲り、できがたきぶんだけ官
立にて引き受くる道を講ずるこそ、いわゆる教育上の民主主義である﹂
教育の国家統制
ところで、大学令では私立大学を官立大学と同等の地位につけた反面、﹁国家思想の涵養﹂
という言葉に表されているように、教育上の国家統制的な色彩を明確にしていた。昭和に
なり戦争という非常態勢下に入ると、この面からの統制が私立大学に加えられてくる。当
然、東洋大学もそのような動きに無縁ではなく、変化を余儀なくされた。
大正時代までの東洋大学について、中島徳蔵はこう記している。﹁いかにも規模は小さい、
やり方ははなばなしくない。けれどもそれだけここに満ちてる空気は質実である、自由で
ある。どこを顧みてもおよそ大きな組織機関となれば、支配力が強大で、したがって権威
が理性を圧し、感情が権威に阿付する ︵おもねる︶欠点短所がうかがわれやすい。これにお
178
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
いて社会において最も神聖なるべき学府が、ややもすれば俗世間の小照となるを免れぬ傾
向がある。官僚臭味、党派根性、成金迎合、学校政略などが看板の美、口上の合理性のも
とに行われることとなる。しかるに過去のこの学校には僕の感ずる限り、比較的にこの種
の嫌がなかった。これ比較的に待遇のよくなかったにもかかわらず、気持ちよくのびのび
と僕が勤めていられたゆえんである﹂このような質実で自由な雰囲気は、国家統制のもと
では消えてしまうのである。
昭和六年の満州事変、七年の上海事変を境に、日本は軍事的拡大政策を強化した。教育
も﹁国家の非常時態勢﹂の名のもとに統制が強化され、文部省には昭和三年十月に学生課、
昭和九年六月に思想局が設置された。また、国民精神文化研究所や教学刷新評議会が設け
られ、昭和十年の﹁国体明徴﹂﹁国民精神作興﹂など国家の手による思想運動が展開され、
昭和十四年には﹁大学で軍事教練を必修とする﹂など、やがて太平洋戦争下の統制へとつ
ながっていったのである。
東洋大学もこのような思想統制の流れに飲み込まれた。昭和八年の﹃東洋大学一覧﹄と
いう規程集には﹁護国愛理﹂という言葉が東洋大学の教育精神として掲げられている。そ
179
れまでの同種の資料には建学以来の歩みが沿革としてまとめられていただけで、特に教育
精神というものは紹介されていなかった。
﹁護国愛理﹂は井上円了が﹃仏教活論序論﹄︵明治二十年︶ではじめて用いた言葉である。
のとして位置づけ、文明社会における仏教の存在価値を証明しようとしたものであり、日
﹃仏教活論序論﹄は、当時旧思想として否定され衰退していた仏教を西洋哲学と同等のも
本仏教史では仏教近代化を象徴する著書として高く評価されている。その中では﹁護国愛
理﹂は﹁国家を思うこと﹂と﹁真理を愛すること﹂が﹁一にして二ならず﹂であることを
表現するために使われている。しかし、明治二十七年以後の著作にはほとんど現れてこな
いし、哲学館時代の教育方針等に関する文書にもこの言葉は使われたことがなかった。そ
れが、国家至上主義思想が強調された時代になって、その傾向に協調するように﹁本学の
モットー﹂として取り上げられたのである。
国家体制の枠組みの中で
その後、国家体制への傾斜はさらに強められていくが、そこには大学経営上の問題も絡
180
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
んでいた。大学に昇格したとはいえ、東洋大学は財政的な緊急課題に直面しており、これ
を解決しなければならなかった。昭和十二年予算ではおよそ学生数を八百七十人と予想し
ていたが、実際には三百七十七人と六割も下回り、結局大幅な収入減という深刻な状態に
陥った。この事態の改善に対しては、学生募集の中止などによって大学の規模を縮小して
対応しようという消極的な考えと、逆に現状よりもさらに発展を志向する積極的な考えが
あり、賛否両論にわかれたものの、最終的には、財力があり経営手腕の高い人物であった
大倉邦彦を、第十代学長として学外から招聘した。就任要請では﹁建学の精神と大倉の堅
持する思想とが共通なもの﹂と強調された。
大倉は就任後間もなく﹁学園振起案﹂を作成し、大学改革に着手した。この案の趣旨は
つぎのところに力点を置いていた。
一般学界思想界の風潮は、ますます西洋近世の学術にならい、愛
﹁︵哲学館創立以来五十年間︶
理の一面のみを偏重して、護国の精神に至ってははなはだしく欠然する憾みがあった。
⋮⋮
近来ようやくその弊に醒め、諸般の情勢は著しく転換して、ここに新しく東西文化の特徴
を渾然融和して、日本独特の学風を振起すべき時代は、到来したのである。学界思想界に
181
おいても、しきりに文教刷新の声を聞くに至った。かくのごとき一大転換の時勢に臨んで、
護国愛理の学是に立つ本学こそは、当に時代の先駆たるべき使命を有するものと信ずる﹂
振起案第一条﹁護国精神の高揚﹂では、
﹁護国精神の涵養は学祖井上博士の提唱せられた
る建学の本旨にして、大学令第一条もこれを規定せるもの、余の念願もまたここにあり。
学風の作興はこの精神の発揚をおいてほかなしと信ずる﹂とその方針を示した。
﹁大学令第
一条﹂とは﹁国家思想の涵養﹂を意味している。また、この年 ︵昭和十二年︶はちょうど創立
五十周年に当たっていたので、建学の精神として掲げた﹁護国愛理﹂を強調し、徹底した。
大倉学長の新体制では、国家政策に沿って大学の発展をはかるという施策が実現され、
同時に学内の教育体制も改変された。こうした動きに対して教授十六名が反対声明書を提
出したが、結局彼らは辞任に追い込まれてしまった。そして、太平洋戦争がはじまった昭
和十六年には、学生組織である学友会が﹁護国会﹂として改組され、学内の一元的新体制
が確立された。
こうして東洋大学は、政府が国家至上主義、軍国主義を推進する社会状況にあって、大
学の運営を国家の教育政策に合致させるという発展策をとったため、その姿は大きく変貌
182
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
してしまった。それは、井上円了の時代からは想像もつかないような変化であった。
❷ 戦後の教育理念
教育改革
昭和二十年 ︵一九四五年︶に太平洋戦争に敗れたのち、日本の教育制度は占領軍の手によ
って民主的改革が行われた。この改革の第一点は、それまで一部のものにのみ与えられて
いた高等教育を受ける機会を、広く大衆に開放することであった。高等教育機関への進学
率は、明治八年には〇・四%でその水準が長い間続き、一%に達するのはようやく明治時
代の末期になってからで、大学令が公布された頃からわずかずつ上昇するが、戦前 ︵昭和
十五年︶にはまだ三・七%にすぎなかった。
昭和二十三年に旧制度が改正され、新制度のもとで新制大学が誕生した。国立大学は一
府県に一大学の原則によって六十九校に増加し、私立大学も新たな大学が続々開設され、
183
(千人)
3000
…国公立
2500
1046
1000
1376
1250
60
70
80
90
2000
10(年)
出典:文部省「学校基本調査報告書」
(各年度版)
1950
222
0
昭和二十五年には百五校にもなった。
また、大学入学資格は、旧制度下では
旧制高校や予科を経たものに限られて
いたが、新制度ではすべての高校卒業
旧制度では官尊民卑や私学軽視の風
と定めている。
道徳的および応用能力を展開させる﹂
く専門の学芸を教授、研究し、知的、
して、広く知識を授けるとともに、深
五十二条では﹁大学は、学術を中心と
育内容の否定であった。学校教育法第
貫して堅持されてきた、国家主義的教
改革の第二点は、帝国大学令以来一
者にと、改められた。
図 3 私立と国公立の学生数の比較
767
582
458
2119
2008
1750
731
403
500
359
136
88
250
…私 立
2750
2250
2000
1500
1550
750
184
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
潮が強く、国民の意識にも﹁大学は国立﹂という考えが定着していた。これに対して法的
には官学中心の大学政策は改善され、私学の自主独立が明確にされた。私立学校法 ︵昭和
二十四年︶は﹁私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによ
このような一連の教育改革がほぼ達成された昭和三十年の大学・短大への進学率は約十
って、私立学校の健全な発達を図る﹂︵第一条︶ことを目的として設けられた。
%となり、以後順調に増加して、五十年には三十七・八%となった。また、戦後の国公立
と私立の大学生数の変化は図3のようになっていて、
私立大学生の増加ぶりはめざましく、
現在では大学生の四人に三人は私立大学に学んでいることになる。特に四十年代の高度経
済成長期には急激な増加がみられ、国民の高等教育への進学志向が高まったことがよくわ
かるが、この傾向を受けて、私立大学は定員枠を増やしたり新学部を設置したりして、拡
張と充実をはかった。
の空襲などによって大きな被害を受け、木
185
東洋大学の発展
東洋大学は、昭和二十年の四月と五月にB
29
造校舎はすべて焼失し、図書館、講堂、三号館の鉄筋コンクリートの校舎も被災した。戦
争による被害は甚大であった。
戦前の日本社会の崩壊は政治・経済から、人々の生き方の根源であった文化や価値観に
まで及んだ。その中で、大学を再生しなければならなかった。しかも、再生は社会の崩壊
を前提にしていたので、たんに戦前の旧制東洋大学の再現を意味せず、
﹁再出発に向けて
の誕生﹂でなければならなかった。
戦後の大学の再建と発展を訴えた﹁東洋大学復興寄附金募集に就て﹂︵昭和二十四年四月︶
という文書に、新制大学となった東洋大学の目指すべき方向がこう記されている。
﹁井上円了博士は東西文化を融合した東洋独自の新しい﹃学﹄を樹立することを理想と
して哲学館を創立された。以来、東洋大学は六十有余年にわたって、わが国の教育界、宗
教界、操觚界 ︵著述家・雑誌新聞記者など︶に多くの人材を送り、文化の発展に寄与してきたが、
新しき﹃東洋の学﹄の道は遠くかつ高く、井上円了博士の理想は未だその第一基底に到達
したにすぎない。﹂
このように、これまでの歴史では井上円了の理想の域に完全には達していないとして、
186
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
これに続けて今後の大学のあり方を提示している。
﹁六十年の本学の伝統は、文科大学としてはその内容において実に日本の最高位にある
ことを誇りとするが、近代社会、近代文化においてはひとり文科の諸学科のみによる学問
学問を含む総合性をもったものであるべきこともまた当然である。
だけでは偏狭である。われわれの新しい﹃東洋の学﹄は、政治・経済さらに理科学系統の
新しき日本を造るには新しき学問の樹立が要請される。これこそわが東洋大学の理想と
するところのものでなければならない。﹂
すでに見たように、戦前の﹁大学令﹂によって東洋大学は国家からの強い統制を受けて
いたが、新制大学となってこの統制もなくなっていた。この文書は戦後の新日本の建設と
いう緊急事態に対応して、東洋大学が新学部を設けて、時代にふさわしい教育体制の確立
を目指すという宣言であった。それはまた総合大学への道でもあった。
総合大学をめざして
昭和二十四年に東洋大学は、新制大学として再発足した。戦前からの学部学科は文学部
187
として生まれ変わったが、総合大学としての発展は戦災で失った校舎の建築と新たな教育
の創設という二重の大きな課題を背負って行われた。その第一歩は翌二十五年の経済学部
と短期大学部二部の新設からはじまった。これに続いて、二十七年に大学院、三十一年に
これらは旧制大学時代の学科などを発展させた学部で、これによって東洋大学は文学系
法学部、三十四年に社会学部が設置された。
に加えて社会科学系の学部をもつまでに至った。しかし、総合大学となるには﹁復興寄附
金募集﹂に関する文書に記されていたように、校舎や教育設備などに多額の資金が必要で
ある理科系の学部を新設しなければならなかった。昭和三十六年、政財界の大きな支援を
受けて念願の工学部が設置され、東洋大学は真の意味での総合大学となった。新制大学発
足から数えて十二年目のことであった。
さらに、昭和三十九年に通信教育部、四十一年に経営学部と短期大学が設置され、戦後
の発展という一時代を形成した。新制大学移行時には三百四十五人の卒業生であったのが、
昭和五十年には五千人以上と十五倍となり、多くの分野で学生を教育する新しい体制が確
立されたのである。
188
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
学部・学科の新設と学生の増加にともなって、新たなキャンパスも設けられた。工学部
は埼玉県川越市の三十万平方メートルのキャンパスに設置され、また昭和五十二年には埼
玉県朝霞市に十一万平方メートルのキャンパスもつくって、ここに文学・社会科学系の五
学部一、二年次生の教育課程が移された。白山キャンパスにはさきの五学部、研究所、図
書館などが置かれている。
この間に、昭和三十八年に附属姫路高等学校 ︵兵庫県︶
、三十九年に附属牛久高等学校 ︵茨
城県︶が設置され、一貫教育へとその体制は拡大された。
建学の精神の現代化
明治に創立された私立大学の歴史は、建学の精神からみると、各大学個別の事情により
多少の時間的なズレはあるにしても、大別すると三期に分けることができる。第一期は建
学の時代である。
そして、第二期は戦後の大学拡充の時代である。学生数などの量的拡大は社会からの外
的要請に対応した面が強かったために、建学の精神という観点からの十分な検討がなされ
189
なかった時代でもあった。この時代は高度経済成長に入っていたため、就職などにおける
学歴重視の社会構造が生じたことを背景として、進学率が増加し﹁受験戦争﹂と呼ばれる
状況が生まれ、そこでは﹁偏差値﹂という単一の尺度がクローズアップされた。そして、
偏差値によって大学はランクづけされ、それが各大学の相違点であるとする一面的傾向が
助長されてきた。こうして国公立大学も私立大学もその特徴を失ってしまった。つまり、
教育によってどのような人間を育成するのかという、大学の原点が見失われてしまったの
である。
その結果、現代が第三期として位置づけられ、大学の原点が模索され、再び建学の精神
や教育理念が求められているのである。伝統ある私立大学も戦後の大学教育の流れの中で
変化し、﹁もはや建学の精神は薄れた﹂とか﹁消滅した﹂と指摘されるようになった。し
かし、日本私立大学連盟が行った﹁建学の精神﹂に関する調査では、創立時の設立目的や
﹂へ、国学院大学は﹁神道精神﹂から﹁国
︶
Mastery for Service
教育方針が、現代ではつぎの例のような標語や校訓となっている。関西学院大学は﹁知徳
兼備﹂から﹁奉仕のための練達 ︵
体の講明、徳性の涵養﹂へ、中央大学は﹁イギリス法の理解と普及﹂から﹁個人の自由と
190
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
自助の確立﹂へ、早稲田大学は﹁学の独立、進取の精神﹂から﹁庶民の心を心とする感性﹂
へ、などと各大学それぞれに建学の精神の現代化に取り組んでいる。そして、東洋大学は
﹁諸学の基礎は哲学にあり﹂を原点とし、その現代化の研究を進めている。
新しい建学の精神を求めて
私立大学における建学の精神の現代化は、戦後の日本社会の変化に対応したものであっ
た。国民の意識を五年ごとに調査した結果をみると、昭和五十年前後を境に構造的な変化
が現れていた。明治維新にはじまる﹁文明開化﹂
﹁富国強兵﹂
﹁経済発展﹂という、ヨーロ
ッパやアメリカをモデルに追求されてきた日本の近代化が終幕を迎え、新たな時代の創造
期に入ったのである。
日本はオイル・ショックなどによる経済の混乱期を脱して、再び世界経済の主役となっ
ていた。しかし一方で、教育界では校内暴力やいじめの問題が発生し、偏差値教育の弊害
が問題になっていた。戦後の社会構造が生み出すひずみが、諸問題の形をとって少しずつ
表面化しつつあった。世界と日本の関係、日本の全体と個の関係など、激しく変動を求め
191
る社会へと転換していたのである。
東洋大学も明治二十年の哲学館の創設、戦後の総合大学化、この過程を二つの時代と考
えれば、第三期にあたる現代は伝統を堅持しながらも創造による脱皮という高度な展開が
必要であった。日本社会と同様に、モデルのない時代にそれを実現しなければならないと
いう長い行程に入ったことを意味している。
昭和五十年代に入ると、東洋大学の次代の大学像を求める検討と運動が見られた。それ
は二つの課題であった。第一はキャンパスの整備・拡充の問題である。第二は国際化、情
報化などの将来にわたる教育の体制と理念の形成であった。
このようにさまざまな活動があったが、それらの底流にあったのが井上円了に関する総
合研究であった。創立者の思想と行動と明治の時代との関係が再研究され、歴史と現代と
いう両面から検討された。時代を切り開いた創立者が求めたことは、人間意識の変革であ
った。個人の﹁ものの見方・考え方﹂の変革を教育によってなしとげ、日本人による学問
の創出と、新しい社会の創造であった。こうして新たな創立者の見方の基礎が明らかにさ
れ、それが﹁井上円了の教育理念﹂としてまとめられたのである。
192
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
❸ 新しい大学の創造
次代の東洋大学へ
この新たな建学の精神の再認識は、東洋大学の第二世紀への歩みを促した。
毎年の一月十五日に発表される﹁学生百人一首﹂は、すでに現代の風物詩である。創立
百周年から、現代という時代と若者の感性を求めてはじめられたこの短歌の運動は、文科
大学としての東洋大学の長い伝統を現代化し、社会によってより大きく育ちつつある。
国際交流では、フランス、ドイツ、アイルランド、アメリカ、オーストラリア、インド
ネシア、中国、韓国などの二十の大学と学術交流が進められた。そして、学術交流をもと
にして、さらに学生交流協定を結んで、相互に留学生を受け入れる交換留学制度を設け、
また短期語学セミナーを実施している。
広大なキャンパスを求めて郊外型の大学が多く誕生した中で、これまでにない﹁都市型
193
キャンパス﹂をめざして、白山キャンパスの再開発が進められた。大きな歴史的な選択で
あった。新生の方法をキャンパスの移転にではなく、三期十年以上の長期にわたる住み替
えですべての建物を新築する方法に求めたのである。
﹁開かれた大学﹂および﹁生涯教育﹂を目指した展開は社会人推薦入学制度からはじま
り、大学院の特別選抜入試制度ともなり、さらに夜間大学院の開設にまで進められた。
この流れに加えて、平成九年には群馬県板倉町に板倉キャンパスが新設され、二つの新
学部が誕生した。複雑な現代の世界と社会を解明し、その問題を担う新たな人材を養成す
る﹁国際地域学部﹂は、経済・地域開発・産業振興・環境の四分野を総合的・実践的に教
育する日本ではじめての学部である。最先端科学の﹁生命科学部﹂は、微生物から人間に
いたるまでのすべての生命現象を分子レベルで解明する学部である。
同年には、将来の社会システムに対応させるために、
﹁生涯学習センター﹂を設置した。
この二つの新学部の誕生のように、現代は未来に対して、これまでの学問・技術を根本
から創造しようとしている時代であり、先端技術と情報科学の世界はその象徴である。先
端から超先端へのイノベーション ︵革新︶が競われている時代である。
194
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
現在、進められている﹁バイオ・ナノエレクトロニクス﹂とは、東洋大学が未来にかけ
て取り組んでいる学問の名である。情報社会のより高度な展開のためには、ナノメータ ︵一
﹁ナノ・エレクトロニクス﹂
千万分の一センチ︶のデバイスを使う新しいエレクトロニクス、
の研究開発が必要である。原子のサイズが〇・一ナノメータぐらいであるから、原子に近
い世界である。このような極微細構造を用いて新たなエレクトロニクスの世界を開く技術
である。これに深海などの極限環境に生息する未知の微生物の発見とその利用にかかわる
極限バイオテクノロジーの研究を融合する﹁バイオ・ナノエレクトロニクス﹂とは、生命
科学とナノ・エレクトロニクスとの融合によって、二一世紀のテクノロジーを創造し、環
境やエネルギーの問題解決に寄与しようとするものである。
大学の社会貢献
平成十一年は創立者井上円了の没後八十周年にあたった。すでに記したように、現在の
東洋大学の基礎は哲学館時代にあり、その哲学館は全国各地の人々の寄付によってつくら
れたという歴史的経過がある。
195
没後八十周年の記念事業の理念は、﹁創立時に社会から受けた支援に対するお礼と、創
立者の精神を生かした社会貢献を実施したい﹂というものであった。これが平成二年に設
立された﹁井上円了記念学術センター﹂によって、御礼のための﹁講師派遣事業﹂として
具体化された。全国の市町村を単位とし、自治体・教育委員会・商工会・農協などの公共
的団体が開催する講演会や研修会に、無料で教員を講師として派遣するものであった。
東洋大学の﹁百十年目の御礼﹂として取り組まれたこの事業は、社会教育や生涯学習を
求める時代と合致し、また新たな﹁大学の社会貢献﹂のあり方を示すものとして、社会的
な注目を集めた。一年間で、北は北海道から南は沖縄までという全国各地で講演会が開催
された。一年間の派遣数は二百三十ヵ所を数えた。そして、各地の反響を受けて、この事
業はその後も続けられている。
新教育の体制
一方、世界情勢の変化が日本の変化を生み出し、日本の変化がただちに世界に波及する
時代を迎えた。特に学部学生にとって、大学は卒業後の社会的活動の準備をするための通
196
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
過点であり、卒業後の社会的活動は旧来の定義による単一の専門分野ではなく、多くの学
問分野にまたがる総合的な知性が必要となってきた。そのために、大学における教育も多
くの学問分野を包含した統合的なものである必要性が高まってきた。こうした現代の特徴
すでに平成八年までに新教育課程を実施したのであるが、さらに平成十二年度から新学
を考えて、東洋大学は新たな教育体制をつくり出した。
科を設置した。そのため短期大学と教員組織としての教養課程はその歴史的役割を終えた。
新設された学科はつぎのとおりである。
文学部
日本文学文化学科││﹁国文学﹂の枠組みにとらわれず、世界からみた日本の文学文化
を知り、そして﹁伝統と創造﹂をコンセプトに、内から外へ日本の文化を発信できる新し
い国際人を育成する。
英語コミュニケーション学科││国境を超えたコミュニケーションが主流になる﹁地球
時代﹂に、事実上の世界共通語である英語で自己表現できる能力を身につけ、海外留学な
どを通して、日本人から地球人へ意識をシフトし、国際舞台で活躍できる人材を育成する。
197
経済学部
国際経済学科││情報化が進み、経済そのものがボーダーレスになり、国際競争はさら
に加速する。このような世界経済を広く見渡せる知識と、経済をシステムとしてとらえる見
社会経済システム学科││現代の日本が抱える問題は、政治、経済、社会の各分野がか
識を養い、激しい状況の変化に対応する力をそなえた国際的なスペシャリストを育成する。
らみ合って起きている。そのため、経済学をべースに政治、社会、歴史、文化などの広い
学問を視野に入れ、社会経済システムとしてとらえ直し、徹底した少人数教育の中で、問
題解決の実践的能力を育成する。
社会学部
社会文化システム学科││世界で起こっている民族紛争や地域統合などの現象は、﹁社
会﹂と﹁文化﹂がからみ合うところで発生している。このような社会と文化による地球規
模で展開している複雑な問題に取り組み、国際的な現場で活躍できる人材を育成する。
メディアコミュニケーション学科││さまざまなデータベース、通信衛星を使った多チ
ャンネル放送、インターネットの普及など、放送、通信、情報蓄積メディアの一体化が進
198
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
んでいる。その情報現象への的確な判断力と洞察力を養い、高度情報化社会のニーズに応
えられるメディア・リテラシーを有する人材を育成する。
社会心理学科││複雑化した現代社会では、社会現象の背後にある人間のこころの問題
がクローズアップされている。﹁人間のこころ﹂と﹁社会のしくみ﹂の問題を有機的に結
びつけて、さまざまな社会問題を解決できる人材を育成する。
︵ 部︶社会福祉学科││社会福祉に関する高度な知識と実践的な理論を、社会人を含
めたより多くの人々が学ぶ場を新たに設けて、福祉の分野で働く専門家と福祉の問題を幅
広く理解できる人材を育成する。
工学部
コ ン ピ ュ テ ー シ ョ ナ ル 工 学 科 │ │ コ ン ピ ュ ー タ に よ る 計 算 工 学 ︵コンピュテーショナルエンジ
ニアリング︶は、理論と実験という工学・科学の伝統的方法に加わる第三のパラダイムとし
ての重要性が高まり、科学技術のあらゆる分野で必要とされている。その手法を専門に教
育する日本で初めての学科である。
国際地域学部
199
2
国際観光学科││観光産業の基礎知識と応用能力を身につけ、さらに観光を通じて国際
社会の発展と相互理解の促進に貢献する人材を育成する。
このほかに、経営学部マーケティング学科、法学部企業法学科、第 部・通信教育部日
Toyo
業生をも網羅して、双方向性通信による新しい教育の可能性の実現を目指している。また
を平成十年から運用した。二万数千名のすべての学生にインターネット利用を開放し、
Net
情報教育の場を大学構内だけでなく、全国の学生の自宅や通信教育生、生涯学習教育、卒
で は 初 め て の 試 み と し て、 プ ロ バ イ ダ と 契 約 し て 新 教 育 用 ネ ッ ト ワ ー ク シ ス テ ム
さらに二一世紀の情報ネットワーク社会で活躍できる人材の養成を目指し、全国の大学
新研究プロジェクト
すべての研究科、専攻に博士後期課程が設置されている。
博士課程の整備が進められ、主として夜間に授業を行う福祉社会システム専攻を除いて、
このような学科の新設のほかに、高度な高等教育や学術研究の充実を目指し、大学院の
本文学文化学科が、カリキュラムの改定にともなう名称変更を行っている。
2
200
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
平成十二年度からは、この
を用いて、教育支援システム、 Toyo Net ACE
︵
Toyo Net
︶を稼働させている。
Communication Enhancement
Academic
学部学科の改革と並行して、検討課題となっていた研究体制の改革も進められた。平成
十四年七月に、それまでの研究所を統廃合するとともに、統轄組織として﹁学術研究推進
センター﹂が設置された。
文部省 ︵当時︶から採択された研究プロジェクトとしては、
﹁先端政策科学研究センター﹂
、﹁国際共生社会研究センター﹂︵大学院国際地域学研究科︶
、﹁二一世紀ヒュー
︵大学院経済学研究科︶
マン・インタラクション・リサーチ・センター﹂︵大学院社会学研究科︶
、
﹁植物機能研究セン
、﹁アジア地域研究センター﹂︵アジア文化研究所︶がある。
ター﹂︵大学院生命科学研究科︶
さらに平成十五年には、バイオ・ナノエレクトロニクス研究センターから応募した研究
プロジェクト﹁バイオ科学/ナノテクノロジーの融合研究﹂が、文部科学省の二一世紀C
OE プログラムに採択された。これは、今までのバイオ・ナノエレクトロニクス研究セン
ターの研究実績が評価されるとともに、新しい視点での研究提案が評価されたものである。
研究者として、一九九六年ノーベル化学賞を受賞したクロトー博士をはじめ、海外の著名
201
研究者、本学の海外協定校からの研究者の参加も得て、東洋大学はバイオサイエンスとナ
ノエレクトロニクスの融合を研究する世界的拠点として動き出した。
新しい大学を求めて
白山キャンパスは平成十五年三月に五号館 ︵井上記念館、井上円了ホール︶が完成し、平成二
年にスタートした再開発計画は一応の区切りを迎えた。平成十六年四月に、その白山キャ
ンパスに法曹教育に専念する法科大学院が開設された。
さらに、平成十七年四月には大幅な大学改革が行われた。都心の白山キャンパスの西側
に新校舎が完成し、文系五学部 ︵文学部・経済学部・経営学部・法学部・社会学部︶の一年生から四
年生までの一貫教育が開始された。
そして、朝霞キャンパスにはライフデザイン学部が新設された。ライフデザイン学部は
﹄をどのように描いていくのか﹂
﹁自分の生命の営みを含めた﹃二一世紀の生活 ︵=ライフ︶
という新しい学問を体系的に打ち立てて、未来の社会に貢献する人材の養成を目指してい
る。そのため、新学部に﹁生活支援学科﹂
﹁健康スポーツ学科﹂の二学科を設けた。また、
202
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
同年には工学部に新学科として﹁機能ロボティクス学科﹂が設置された。
大学院の工学研究科では、総合力のある技術者や研究者の育成のために専攻を見直し、
﹁機能システム﹂﹁バイオ・応用化学﹂﹁環境・デザイン﹂
﹁情報システム﹂の四専攻に改編
研究分野では、平成十六年度に新たな研究プロジェクトが文部科学省の選定を受けた。
した。国際地域学研究科に国際観光学専攻 ︵修士課程︶を新設した。
﹁先端光応用計測研究センター﹂︵大学院工学研究科︶
、
﹁地域産業共生研究センター﹂︵大学院工学研
、
﹁経営力創成研究センター﹂︵大学院経営学研究科︶である。また、研究者による発明・
究科︶
アイデア等を社会に還元して貢献する﹁知的財産センター﹂も平成十七年度に設置された。
次代の東洋大学が﹁都市型大学﹂をコンセプトの一つとし、
都心の白山キャンパスの再開発、
それに続く西側校舎の新築と文系五学部の一貫教育という形で、そのあり方が実現されて
きたが、平成十七年度に﹁白山第二キャンパス﹂を取得し、それによって白山キャンパスの
面積は従来の二倍となり、都市型大学の形態がさらに拡大・発展させられることになった。
﹁白山第二キャンパス﹂は、もとの最高裁書記官研修所の跡地であり、小石川植物園と
いう都内有数の緑地に隣接している。これまでの白山キャンパスから、歩いて十分足らず
203
の近距離にある。このキャンパスでは、すでに文部科学省の学術フロンティア推進事業に
選定された﹁計算力学研究センター﹂が活動を始めている。また、平成十八年四月から法
曹界に関係があったこの場所で、法科大学院の授業が行われている。
平成十八年度から学部や大学院の教育も拡充された。朝霞キャンパスのライフデザイン
学部に﹁人間環境デザイン学科﹂が新設され、同学部は三学科に増設された。白山キャン
パスの学部では、経営学部に﹁会計ファイナンス学科﹂が新設された。大学院では、新た
に﹁福祉社会デザイン研究科﹂が増設され、経営学研究科の﹁ビジネス・会計ファイナン
ス専攻﹂と、経済学研究科の﹁公民連携専攻﹂が新設された。この﹁公民連携専攻﹂の授
業は、社会人が学びやすい新大手町ビル内のサテライト教室で行われている。
さらに学内のプロジェクトとして、﹁﹃共生学﹄の構築﹂と﹁山古志村復興支援に関する
総合的研究﹂がスタートした。ともに人文・社会・自然科学の各分野を統合して取り組む
研究であり、総合大学としての東洋大学に新たな﹁個性﹂を生み出すものである。とくに、
前者は﹁
﹃エコ・フィロソフィ﹄学際研究イニシアティブ﹂へと展開され、東京大学をはじめ
とする国立五大学とのサステイナビリティに関する共同研究の中で、東洋的な﹁知﹂を基
204
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
盤に地球規模での新たな﹁共生﹂のあり方への挑戦を目指すものとして注目されている。
このように、時代にふさわしい個性的で多様な教育・研究のシステムづくりへと、その
歩みを進めてきた東洋大学は、現在、教育内容の革新に取り組んでいる。新しい東洋大学
は、﹁諸学の基礎は哲学にあり﹂の理念を基に﹁社会に役立つ智を愛する精神﹂を継承し、
それを実現していくために五つの目標を掲げている。
⑴ 独立自活の精神に富み、知徳兼全な人材を輩出し、もって地球社会の発展に寄与する。
⑵
総合大学の利点を活かす、良質の教育を行う。
⑶
高水準、かつ特色のある研究拠点となる。
⑷
社会の要請に創造的に応える。
⑸
継続的な改革を可能とする運営を行う。
とくに、第一に掲げる﹁独立自活の精神に富み、知徳兼全なる人材の育成﹂は、つぎの
ことを意味する。それは、現代の﹁個の時代﹂に必要な、
﹁自ら考え、自ら立ち、自ら動く、
行動の原点として独立自活の精神を養う﹂ことであり、さらに、
﹁知力とともに、人間性 ︵徳
力︶も兼ねた若人を育成﹂することである。
205
また、そのような若人が地球規模で活動するための基礎力として﹁英語力﹂をつけるこ
︶を始めた。そして英語力をつけ
Special Course in Advanced TOEFL
とを目標とし、アメリカのモンタナ大学の協力により、英語教育専門教員を招き、週四日
の英語特別教育SCAT ︵
︶に加盟
International Student Exchange Program
し、アメリカ百三十二校の中から目的にあった留学先大学を選択できる制度を拡充した。
た学生の留学機会を増大させるためにISEP ︵
GP=Good
このような教育制度を整備することにより、東洋大学の教育を総合して、地球社会で活躍
できる広い知力と深い人間性を兼ね備えた人材を輩出することを目標としている。
平 成 十 九 年 度 に は、 文 部 科 学 省 が 実 施 し て い る 教 育 改 革 支 援 プ ロ グ ラ ム ︵
﹂と﹁大学院
︶
GP
﹂の二つの分野で、東洋大学は採択された。前
︶
GP
﹁ 現 代 的 教 育 ニ ー ズ 取 組 支 援 プ ロ グ ラ ム ︵現代
優れた実践︶の う ち、
Practice
教 育 改 革 支 援 プ ロ グ ラ ム ︵大学院教育改革
川越学﹄の展開へ﹂である。後者は、大学院経済学
者は、工学部を主とする﹁ものづくりから学生と地域を育てる共生教育│﹃つくる﹄をテ
ーマに﹃持続型共生教育プログラム
研究科公民連携専攻 ︵修士課程︶を主とする﹁公民連携人材育成プロジェクト﹂である。
研究分野では、文部科学省からの大型研究費を得て実施している各種研究プロジェクト
206
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
の研究成果を、社会へ発信することに努めた。特に、読売新聞東京本社の後援で﹁連続国
際シンポジウム・共生社会の実現と先端科学への挑戦﹂を開催し、平成十九年度は、つぎ
のとおりのテーマで三回実施した。まず、国際共生社会研究センターによる﹁環境共生社
会の交通まちづくり﹂、そして、エコ・フィロソフィ学際研究イニシアティブによる﹁今、
地球を維持する哲学とは?│エコ・フィロソフィを求めて﹂、最後に、バイオ・ナノエレ
クトロニクス研究センターによる﹁バイオ科学とナノテクノロジーの融合に向けて﹂であ
る。さらにシンポジウムの内容を読売新聞紙上に再録し、広報展開することにより、広く
社会に向け研究成果の発信を行った。
平成二十年四月には、文学部教育学科に﹁人開発達専攻﹂と﹁初等教育専攻﹂の二専攻
を設置し、小学校教諭免許の取得が可能となり、東洋大学としては、幼稚園から高等学校
までの教員養成が行われることとなった。また、学科名称変更として、経済学部の﹁社会
経済システム学科﹂を﹁総合政策学科﹂とした。
平成二十年は、創立者井上円了の生誕百五十周年にあたり、公開講演会や展示会などの
記念事業が行われた。これと同時に、新たな人材育成を目指した教育体制の構築への取り
207
組みが行われた。それは﹁五つの改革﹂と呼ばれている。
第一の改革は、これからの日本のものづくり産業は﹁原理に基づくものづくり﹂が重要
であると考え、理学的基礎知識を持つエンジニアを育成するために、﹁理﹂の視点を重視
した教育内容を新たに加えて、工学部を﹁理工学部﹂へと改組したことである。理工学部
には、生体医工学科を新設し、六学科体制で﹁二一世紀型ものづくりのリーダー﹂を育成
していくものとした。
第二の改革は、川越キャンパスにおける文理融合型の﹁総合情報学部﹂の創設である。
この新学部では、専門系科目群を情報科学系、メディア文化系、環境情報系、心理情報系
の四つに分け、文系・理系の枠を超え複眼的な職業能力を養成し、情報通信技術の応用範
囲を第三次産業へと拡大させ、社会の様々な分野で活躍できる﹁第一級の情報の使い手﹂
の育成に寄与することを目指している。
第三の改革は、板倉キャンパスに設置されていた国際地域学部の都心の白山第二キャン
パスへの移転である。国際地域学科と国際観光学科はともに﹁国際﹂的であることを目指
した学科であり、その意義をより強く実現し、有為な人材を育成するために、都心部へ移
208
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
転させた。
第四の改革は、板倉キャンパスの生命科学部に、これまで一学科だけであった生命科学
科に加え、応用生物科学科、食環境科学科の二学科を新設して教育内容を拡大したことで
ある。この改革では、社会的、国際的に関心の高い﹁食﹂の安全や地球環境の問題を視野
に入れ、生命科学部を関東圏における生命科学の教育・研究の拠点として発展させ、人材
育成に努めることを目指している。
第五の改革は、朝霞キャンパスのライフデザイン学部の生活支援学科の中に、福祉・介
護教育と保育・幼児教育を専攻する教育課程を独立させ、生活支援学専攻と子ども支援学
専攻の二つの専攻を設置し、教育体制の充実を図ったことである。これは高齢者等に対す
る福祉と幼児の教育におけるそれぞれの領域での専門性の高いスペシャリストを育成する
ためである。
これらの﹁五つの改革﹂により、本学は平成二十一年四月から十学部四十四学科の新た
な教育体制でスタートした。
このようにして、本学では時代のニーズに対応した、新しい大学を求め、継続的な改革
209
が進められている。
総合学園としての更なる発展を目指して
東洋大学は新しい大学像を求め、様々な改革を実行することにより、総合大学として発
展して来た。この東洋大学を核として更なる発展を期するため、大学側の教育改革を受け
ながら、その道筋をより明確にするために、学校法人東洋大学としては平成二十二 ︵二〇
一〇︶年﹁総合学園計画﹂を打ち出し学校運営に当たるものとした。その計画は大きく三
本の柱から成り立っている。第一は、大学機能を都心部に適切に移転・集中し将来の発展
に備える、第二は、設置されている学部・大学院での教育研究の特性、地域との係わりを
考慮し、既存の大学キャンパスの整備を進める、第三は、附属学校の整備を進め、中等教
育の充実を図るとともに、大学教育との連携を強化し総合学園としての発展基盤を作る、
というものである。これにより、東洋大学は総合大学としての発展を継続して志向すると
ともに、設置者としての学校法人は、その大学を核としながら、設置する学校をそれぞれ
発展させながら連携を強化するとともに、初等中等教育の強化を志向していくこととなっ
210
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
た。
この計画に基づき、法人は平成二十二年八月、北区赤羽台に大学用地として約一万七千
平方メートルの土地を取得する計画を発表した。また、附属姫路高等学校から強い要望が
出されていた中学校併設についても承認、姫路高等学校が創立五十周年を迎える平成二十
五年に合わせて校舎を整備し、平成二十六年に中学校を開設することで準備に入っている。
また、一方において、経営が悪化して来ている学校法人京北学園を合併する交渉を活発
化させた。
京北学園の合併と白山キャンパスの再整備
井上円了は、明治三十二年に私立京北尋常中学校、明治三十八年には京北幼稚園を創設
し、一貫教育を目指してきたが、小学校の設置はかなわなかった。その後、湯本武比古ら
により、京北実業中学校が設置されるなどして、その時代の要請を受け止めながら中等教
育の充実を図って来た。
昭和二十六年、京北各学校は東洋大学財団 ︵現・学校法人東洋大学︶から分離独立し、学校
211
法人京北学園として運営されることとなった。しかし、昭和の終わり頃から経営は徐々に
悪化の傾向に傾き、平成に入ってもその経営はなかなか改善の方向へは進まず、また、校
舎は老朽化により耐震基準を満たさなくなり、校舎の立て替えも喫緊の課題となっていた。
学校法人東洋大学は、経営危機に陥っている井上円了が創った学校を放置できないと判
断し、平成二十二 ︵二〇一〇︶年八月、学校法人京北学園と平成二十三年四月をもって合併
することに合意し、井上円了の初等中等教育への思い、幼稚園から大学・大学院までの一
貫教育への思いを引き継ぐこととした。
この合併により、学校法人東洋大学は校舎の危険性を排除することを最優先課題とし、
京北中学校・高等学校及び白山高等学校を、大学用地として確保した赤羽台キャンパスに
仮移転させ、校舎の建て替えをおこなうこととした。この建て替えに当たって、京北各学
校の教育環境を改善することと、大学施設を集約化することとした。まず、京北学園があ
った白山キャンパス隣接地 ︵従来から学校法人東洋大学の所有地︶に大学施設を建設するとともに
白山キャンパスを再整備し、白山第二キャンパスから国際地域学部・研究科及び法科大学
院を移転させ、その後、白山第二キャンパスを中学校・高等学校用に再開発し、平成二十
212
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
七年に京北各学校を移転させる計画を発表した。
平成二十三年、文部科学省の私立大学戦略的基盤形成事業に﹁国際哲学研究センター﹂
が採択され、翌年、その中に﹁国際井上円了学会﹂も設立され、井上円了研究の国際的ネ
ットワークが形成された。
創立百二十五周年
平成二十四 ︵二〇一二︶年、東洋大学は創立百二十五周年を迎えた。
この機会に、世界的な視野で未来を切り拓く﹁グローバル人財﹂の育成をめざし、﹁哲
学教育﹂﹁国際化﹂﹁キャリア教育﹂を三つのキーワードとして、教育改革に取り組むこと
にした。
創立百二十五周年記念事業では募金活動を行い、育英事業の展開、教育研究施設の拡充、
体育・スポーツ課外活動の充実、広範な教育研究活動支援に充当した。
また、文京区展示企画、東洋大学講師派遣事業﹁全国行脚講演会﹂、国際化推進イベント、
フェス、ウィリアム・バトラー・
東洋大学図書館特別展示、東洋大学文化講演会、 Autumn
213
イェイツ展、﹁グリム童話﹂刊行二百年記念国際シンポジウム、
﹁乙武洋匡氏講演会﹂、ホ
ームカミングデー、大学学長会議、フォトコンテスト、論文コンテスト、刊行物の発行な
ど、多彩な記念事業と行事が行われた。
完成した百二十五周年記念館 ︵八号館︶で、創立百二十五周年記念式典・祝賀会が開催さ
れ、竹村牧男学長は、﹁未来宣言﹂を発表、その中でつぎのような誓いを述べている。
私たちは、未来に向けてここに宣言します。
東 洋 大 学 は、
﹁哲学すること﹂の教授を根本として、世界標準の教育・研究・社会貢
献活動を推進するのみならず、国際的に優れた水準の大学の実現を目指し、役員・教
員・職員・学生のすべてが一体となって、卒業生ともども奮闘努力してまいります。
今日、未来へ旅立つこの日を胸に刻み、創立者・井上円了先生の崇高な理想を次世代
へと届けることを喜びに、地球社会の未来に貢献する大学の確立を求めて、私たちの
手で新しい歴史を創出し、進化し続けていくことを誓います。
平成二十五 ︵二〇一三︶年四月には、板倉キャンパスの生命科学部食環境科学科を発展的
に改組し、食環境科学部が誕生した。また、文学部インド哲学科・中国哲学文学科を統合
214
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
発展させて、東洋思想文化学科を設置した。なおその機会に、国際地域学部と法科大学院
が白山キャンパスに移転した。
創立百周年を契機として始まった白山キャンパス再開発をはじめとする各キャンパスの
再整備、新キャンパスの取得・校地の充実に基づく新学部・新学科の設置、そして都心部
への再集中など、この四半世紀の間に、東洋大学の教育環境は飛躍的に改善され、志願者
数では全国十位にランクされる大学となった。
﹁井上円了哲学塾﹂
の開設
平成二十五年六月二十九日、東洋大学は﹁井上円了哲学塾﹂︵以下、哲学塾という︶の開設
記念特別シンポジウムを開催した。当日は哲学塾の趣意説明に続いて、村上陽一郎氏 ︵東
洋英和女学院大学長、東京大学・国際基督教大学名誉教授︶による﹁地球文明の中の哲学﹂の基調講演、
そして、竹村牧男学長がコーディネーターとなり、竹内整一氏 ︵鎌倉女子大学教授、東京大学名
、吉田善一氏 ︵東洋大学教授︶が参加して﹁地球社会の未来と哲学の課題﹂をテーマと
誉教授︶
するパネルディスカッションが行われた。
215
哲 学 塾 は、
﹁哲学を学びつつ、自然・社会・文化等の現代の国際的・先端的な状況もあ
わせて学び、その成果を現実社会に生かし、職場、地域、ないし国際社会の改革に行動す
る魅力あるリーダーとなること﹂を目的とし、九月二十一日に入塾式が挙行された。
この哲学塾は、東洋大学の創立者である井上円了の﹁哲学の実践化と社会化﹂という生
涯の理念を実現しようとするものである。
﹁教育の柱﹂として、
﹁哲学教育﹂﹁プレゼンテ
リーダー
ー シ ョ ン、 デ ィ ス カ ッ シ ョ ン 能 力 の 向 上 ﹂
﹁世界、特にアジアへ打って出るという意識を
リーダー哲学講義、
持つこと﹂﹁国際社会への対応力 ︵日本の発信力︶の向上﹂を掲げている。
この哲学塾のプログラムは、哲学基礎講座、哲学実践講座 ︵
B
、姜尚中氏 ︵聖学院大学全学教授︶
、堺屋太一氏 ︵作家︶
、安藤忠雄氏 ︵建
︵一九九六年ノーベル化学賞受賞︶
、 Sir Harry Kroto
氏
哲学実践講座のゲスト講師は、河合正弘氏 ︵アジア開発銀行研究所所長︶
ンを展開した。
た塾生たちは、その後の時間に、リーダーシップ・セミナーでグループ・ディスカッショ
の教員が担当し、哲学実践講座ではゲスト講師による講演が行われた。講義や講演を受け
シップ・セミナー︶か ら 成 る。 哲 学 基 礎 講 座 は 竹 村 牧 男 氏 ︵東洋大学学長︶を は じ め と す る 学 内
A
216
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
、中村桂子氏 ︵JT生命誌研究館館長︶
、細川護熙氏 ︵元内閣総理大臣︶
、ドナルド・キーン氏 ︵文
築家︶
学者︶
、梅原猛氏 ︵哲学者︶であった。学生や社会人からなる四十二名の塾生たちは、最後に
ファイナル・レポート ︵最終報告書︶を発表して修了した。
この哲学塾のゲスト講演は公開され、塾生とともに、多くの人々が哲学を学べる場とし
て、今後の活動に大きな期待が寄せられている。
創立者の願い
東洋大学の起源である哲学館は、哲学という学問の探求から出発した。現代では、文学、
法学、経済学、経営学、社会学、理工学、国際地域学、生命科学、ライフデザイン学、総
合情報学、食環境科学などを学部・大学院で教育する場に発展した。井上円了は教育の原
点について、哲学館の茶話会でこう語っている。その願いには時代を超えて、現代にも共
鳴するものがある。﹃哲窓茶話﹄のその文章を要約すれば、このようになる。
﹁人生一生のうちにおいて、その愉快なるときは、学生時代に及ぶものはない。その幸
福愉快なことは、とても言葉で表現し尽くすことはできないものである。少年の時代は前
217
途いよいよ長しといえども、未だに知力・意志の活動作用にとぼしければ、すべてを愉快
に感じることも少ない。また、学生から数年後の壮年の時代は、家を持ち妻子を有し、家
庭をおさめ、職務をおさめ、倹約し、世間の義理をはたさねばならない。ときには心にも
なき追従をもし、意を曲げて人の鼻息をもうかがわざるを得ないこともあるのである。こ
れを思えば青年の時代こそ実に人間一生の春であるが、終身の幸不幸は、全く人生の基礎
を作るべき二十歳前後から二十七、二十八歳にいたるまでにある。すなわち青年学生中に
あるものであるから、努めなければならず、また慎まなければならない﹂
これは自分の学生時代とその後の人生の体験から、学生へ託した創立者の願いの一つで
ある。哲学館から出発した東洋大学は、現代では多くの人間をさまざまな分野と方法で教
。社会において担うべき役割もさらに増大している。創立者井
育 す る 場 に 発 展 し た ︵表 ︶
東洋大学は未来に向かっている。
上円了の教育への理念を原点とし、現代社会が求める個性ある大学の創造を目指しながら、
8
218
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
表 8 主要な私立大学の学科数と学生数
大 学 名
本
大
学科数
学生数
1
日
学
81
72,127
2
早 稲 田 大 学
37
53,331
3
立 命 館 大 学
29
35,227
4
慶應義塾大学
22
33,481
5
明
治
大
学
25
32,583
6
近
畿
大
学
48
32,008
7
関
西
大
学
19
30,127
8
東
海
大
学
69
29,745
洋
大
9
東
学
44
29,674
10
同 志 社 大 学
33
28,642
11
中
央
大
学
23
27,648
12
法
政
大
学
37
27,436
13
帝
京
大
学
26
24,460
14
関西学院大学
25
24,452
15
立
教
大
学
27
20,910
16
福
岡
大
学
31
20,347
17
東京理科大学
33
20,243
18
専
学
20
19,901
19
青山学院大学
23
19,776
20
龍
学
23
18,859
21
神 奈 川 大 学
20
18,693
修
谷
大
大
各大学の HP と『全国大学一覧』より作成。数値は平
成24年度。
219
資料 井上円了略年譜
4 5
4
1
5
12
4
2
6 2 4
10
18
2
3
資料
高山楽群社に入り洋学を学ぶ
・
明治 ︵一八七四年︶⋮⋮ 歳
新潟学校第一分校︵旧長岡洋学校︶
・
に入学し洋学を学ぶ
明治 ︵一八七七年︶⋮⋮ 歳
月
京都 東
・ 本願寺の教師教校英学科に
入学
明治 ︵一八七八年︶⋮⋮ 歳
・
東本願寺留学生として上京
東京大学予備門に入学
月
明治 ︵一八八一年︶⋮⋮ 歳
東京大学文学部哲学科に入学
月
井上円了略年譜
安政 ︵一八五八年︶
越 後 国︵ 新 潟 県 ︶、 真 宗 大 谷 派 慈 光
・
寺の長男として誕生
︵新暦 月 日︶
慶応 ・明治 ︵一八六八年︶⋮⋮ 歳
月
石黒忠悳の漢学塾に学ぶ︵明治 年
月まで︶
明治 ︵一八六九年︶⋮⋮ 歳
木村鈍叟︵旧長岡藩士︶に漢学を学
月
ぶ︵明治 年 月まで︶
明治 ︵一八七一年︶⋮⋮ 歳
東本願寺にて得度
・
明治 ︵一八七三年︶⋮⋮ 歳
221
11
13
15
5
5
9
9 4
9
2
3
8
4
14
8 11
10
5 7 29
23
20
19
16
明治
・
明治
・
・
明治
・
春
・
明治
月
・
月
・
・
︵一八八四年︶⋮⋮ 歳
井上哲次郎、加藤弘之、西周、三宅
雪嶺らと相談して﹁哲学会﹂を創立
︵一八八五年︶⋮⋮ 歳
東京大学文学部哲学科を卒業
第一回哲学祭を挙行
︵一八八六年︶⋮⋮ 歳
不思議研究会を開催
熱海で病気療養中に、哲学館設立の
構想をつくる
金沢藩医吉田淳一郎の娘敬と結婚
︵一八八七年︶⋮⋮ 歳
哲学書院設立
﹃哲学会雑誌﹄を創刊
﹃哲学館開設ノ旨趣﹄を発表
私立学校設置願を東京府知事に提出
哲学館を創立。麟祥院︵現在の東京
都文京区︶で開館式を挙行
明治
・
・
・
明治
・
・
月
・
・
・
︵一八八八年︶⋮⋮ 歳
﹃ 哲 学 館 講 義 録 ﹄ を 創 刊 し、 通 信 教
育を開始
政教社が雑誌﹃日本人﹄を創刊、同
社の創設に参加
第一回海外視察︵欧米︶に出発
︵一八八九︶⋮⋮ 歳
海外視察より帰国
郷里の父に宛て、仏教が危急存亡の
重大時局にあり帰郷して住職となる
ことを断る手紙を出す
﹁哲学館将来ノ目的﹂で将来日本主
義の大学を設立することを発表
台風のため新築中の校舎全棟倒壊
本郷区駒込 萊町の新校舎に移転
し、寄宿舎も開設
哲学館移転式︵新校舎落成開館式︶
を挙行
30
31
8 21
3
28 28 22 9
1 11
13
1
4
6
8 6
8
11 9
11
26
27
28
29
26 17
24 19 27 10 18
20 1
5
16 22
1
10 7
1
11
9 7 6 2 1
222
資料 井上円了略年譜
︵一八九六年︶⋮⋮ 歳
東洋大学科設立と東洋図書館建設の
旨趣を発表
第二回全国巡講開始︵明治 年 月
まで継続︶
論題﹁仏教哲学系統論﹂により文学
博士の学位を受ける
郁文館より失火、哲学館に類焼の上
全焼
︵一八九七年︶⋮⋮ 歳
漢学専修科の開講式を挙行
仏教専修科の開講式を挙行
哲学館、原町︵現在の文京区白山校
地︶に移転
宮内省より恩賜金三百円を受ける
︵一八九九年︶⋮⋮ 歳
京北中学校の開校式を挙行
哲学館、教員免許無試験検定の認可
9
明治
月
・
・
・
明治
・
・
・
・
明治
・
・
35
29
24
8
1
3
6
明治
・
35
・
・
・
明治
月
明治
明治
月
︵一八九〇年︶⋮⋮ 歳
文部省に教員免許無試験検定の認定
を申請
哲学館で日曜講義を開催
哲学館内に哲学研究会を結成
哲学館専門科設立の基金募集のため
全国巡講を開始︵明治 年 月まで
継続︶
︵一八九三年︶⋮⋮ 歳
﹃哲学館講義録﹄
︵第七学年度︶とし
て﹁妖怪学﹂を発行。迷信打破のた
め、妖怪研究会を設立
︵一八九四年︶⋮⋮ 歳
教員免許無試験検定の認定を再申請
︵一八九五年︶⋮⋮ 歳
哲学館入試制度となる
学制を改め教育学部、宗教学部の二
学部を設置
223
36
13
17 8 10 30
10 26 32 25
38
39
41
37
32
26
12
7 4 1
8
7 2
10 23
27
2 6 13
28
3
11 7 4
11
9
26
2
を受ける
学制を変更し、
教育部と哲学部とし、
また漢学専修科を教育部に、仏教専
修科を哲学部に合併
︵一九〇〇年︶⋮⋮ 歳
文部省より修身教科書調査委員を委
嘱される
︵一九〇一年︶⋮⋮ 歳
学制を改革し、予科を第一科第二科
に、本科教育部と哲学部をそれぞれ
第一科第二科に分ける
内閣より高等教育会議議員を嘱託さ
れる
︵一九〇二年︶⋮⋮ 歳
﹁哲学館大学部開設予告﹂を発表
哲学館卒業試験に文部省視学官の監
査を受ける
第二回海外視察
︵欧米およびインド︶
42
・
明治
・
12
・
2
月
明治
・
明治
・
・
明治
・
・
・
・
・
・
・
明治
・
・
・
に出発
文部省、哲学館の中等教員無試験検
定の特典を剝奪する︵哲学館事件発
生︶
︵一九〇三年︶⋮⋮ 歳
ロンドンより哲学館事件に関する指
示を送る
哲学館、円了の命により文部省へ教
員免許資格に関する嘆願書を提出
海外視察より帰国
﹁広く同窓諸子に告ぐ﹂を発表
修身教会設立趣意書を全国に配布
私立哲学館大学と改称し、専門学校
令による設置を認可される
︵一九〇四年︶⋮⋮ 歳
第三回全国巡講を開始
﹃修身教会雑誌﹄第一号を発行
哲学館大学の開校式を挙行。哲学館
45
46
43
13
1 36
20
1 14 5 27
1 11 15 37
2 33
44
4
10 9 9 7
4 2 1
16 34
25
25 1 35
15
9
4
9
10
10 4
11
224
資料 井上円了略年譜
夏
月
明治
月
・
月
大学長に就任。大学部を開設
哲学堂︵現在の東京都中野区・哲学
堂公園の四聖堂︶開堂式を挙行
神経的疲労を覚え始める。学校を解
散し、講習会組織に改めることを考
える
哲学館大学革新事件起こる
︵∼ 月︶
︵一九〇五年︶⋮⋮ 歳
神経的疲労が再発、退隠の意志を起
こす。その後快方に向かう
京北幼稚園の開園式を挙行
哲学館大学、京北中学校の一層の拡
張を計ったのち退隠することを考え
る
︵初旬︶二度も庭前で卒倒しそうに
なる
哲学館大学記念会を上野精養軒で行
い、帰宅後退隠を決意する
・
明治
月
・
・
・
明治
・
明治
月
前田慧雲、湯本武比古への学校譲渡
の契約を完了︵∼ 日︶
︵一九〇六年︶⋮⋮ 歳
哲学館大学長、京北中学校長を辞し、
名誉学長・名誉校長となる
哲学堂に退隠。修身教会拡張に従事
修身教会運動のため、全国を巡講す
る︵大正 年まで︶
哲学館大学の﹁私立東洋大学﹂への
改称が認可される
財団法人私立東洋大学の設立が認可
される
︵一九〇七年︶⋮⋮ 歳
文部省より教員免許無試験検定の取
扱を再認可される
︵一九〇九年︶⋮⋮ 歳
哲学堂に哲理門 六
・ 賢台 三
・ 学亭が
建築される
225
48 29
49
51
月
・
8
28
39
2
28
4
13 40
42
12
1
4
6
7
5
11
38
3
13
10
4
9 5
12
12
47
12
明治
・
明治
・
月
大正
・
月
大正
・
・
︵一九一一年︶⋮⋮ 歳
第三回海外視察︵オーストラリア、
南アフリカ、南米、北米、南洋諸島︶
に出発
・大正 ︵一九一二年︶⋮⋮ 歳
海外視察より帰国
修身教会を﹁国民道徳普及会﹂と改
称
︵一九一五年︶⋮⋮ 歳
哲学堂図書館︵絶対城︶の落成式を
挙行。現在の哲学堂公園の景況がほ
ぼ出来あがる
政府からの表彰の議︵大正 年 月
に続いて二度目︶を固辞する
︵一九一九年︶⋮⋮ 歳
﹁教育上私立学校に対する卑見﹂を
朝日新聞に発表
中国、満州
︵東北地方︶
の巡講に出発
54
1
53
57
61
1 44
22 45
24 4
3 8
5
4
8 1
10
10
2
5
1
9
・
月 日大連で講演中脳 血を起こ
し、 日午前 時 分逝去
東洋大学葬を挙行
6
22
6
・
6
6
6 5
2
40
226
資料 井上円了主要著作
井上円了主要著作
[分野別年代順]
●哲学
哲学一夕話
第一編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治十九年七月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 井上円了︵四聖堂蔵版︶
哲学一夕話
第二編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治十九年十一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 井上円了︵四聖堂蔵版︶
⋮
⋮
哲学一夕話
第三編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年四月 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
哲学要領
前編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治十九年九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮令知会
哲学要領
後編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年四月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
純正哲学 ︵哲学総論、講義録︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十四年二∼九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
哲学早わかり ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十二年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮開発社
哲学新案 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十二年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮弘道館
奮闘哲学 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正六年五月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮東亜堂書房
●宗教
真理金針 初編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治十九年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮山本留吉
真理金針
続編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治十九年十一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮山本留吉
真理金針
続々編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮長沼清忠
227
︵講義録︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十五年十一月
∼二十五年十月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
仏教活論序論 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
仏教活論本論
第一編 破邪活論 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十三年九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
仏教活論本論
第二編 顕正活論
実際的宗教学 ︵講義録︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十三年一∼九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
理論的宗教学 ︵講義録︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十四年十一月
宗教哲学
∼二十六年十月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
教育宗教関係論 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十六年四月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
外道哲学 ︵仏教哲学系統論 第一編︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館講義録出版部
印度哲学綱要 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十一年七月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮金港堂書籍
大乗哲学 ︵講義録仏教科 第十四輯︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十八年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館大学
活仏教 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正一年九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮丙午出版社
●倫理
倫理通論 第一編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮普及舎
倫理通論
第二編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年四月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮普及舎
日本倫理学案 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十六年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
忠孝活論 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十六年七月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
228
資料 井上円了主要著作
勅語玄義 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十五年十月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
●心理
心理摘要 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十年九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
記憶術講義 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十七年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
失念術講義 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十八年八月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
心理療法 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十七年十一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮南江堂書店
●妖怪学
妖怪学講義 ︵講義録、合本六冊︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十九年六月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
妖怪百談 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十一年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮四聖堂
霊魂不滅論 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十二年四月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮南江堂書店
哲学うらなひ ︵妖怪叢書 第一編︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十四年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
改良新案の夢 ︵妖怪叢書 第二編︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十七年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
天狗論 ︵妖怪叢書 第三編︶ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十六年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
迷信解 ︵妖怪叢書 第四編︶ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十七年九月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
おばけの正体 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正三年七月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮丙午出版社
迷信と宗教 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正五年三月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮至誠堂書店
真怪 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正八年三月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮丙午出版社
●随筆・その他
229
欧米各国政教日記
上編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十二年八月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
欧米各国政教日記
下編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十二年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
星界想遊記 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治二十三年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学書院
円了茶話 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十五年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮哲学館
甫水論集 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十五年四月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮博文館
西航日録 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十七年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮鶏声堂
円了講話集 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治三十七年三月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮鴻盟社
南船北馬集
第一編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十一年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮修身教会拡張事務所
南船北馬集
第二編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十二年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮修身教会拡張事務所
南船北馬集
第三編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十二年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮修身教会拡張事務所
⋮
⋮
南船北馬集
第四編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十三年一月 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮修身教会拡張事務所
南船北馬集
第五編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十三年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮修身教会拡張事務所
南半球五万哩 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十五年三月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮丙午出版社
南船北馬集
第六編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮明治四十五年四月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮修身教会拡張事務所
南船北馬集
第七編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正二年六月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
南船北馬集
第八編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正三年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
南船北馬集
第九編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正三年七月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
南船北馬集
第十編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正四年二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
230
資料 井上円了主要著作
南船北馬集
第十一編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正四年十二月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
哲窓茶話 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正五年五月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮磯部甲陽堂
南船北馬集
第十二編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正五年六月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
⋮
⋮
南船北馬集
第十三編 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正六年六月 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
南船北馬集
第十四編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正七年一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
南船北馬集
第十五編⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大正七年十一月⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮国民道徳普及会
二
三
四
五
六
七
なお、現代の読者のために、井上円了の主要な著書を読みやすくし、巻末に解説を付した﹃井
上円了選集﹄が刊行されている。同選集に収録されている著書はつぎのとおりである。
井上円了選集
第 一 巻││哲学一夕話︵第一・二・三編︶
、哲学要領︵前・後編︶
、純正哲学講義︵哲学総論︶
、
哲学一朝話、哲学新案
巻││哲学早わかり、哲界一 、哲窓茶話、奮闘哲学
巻││真理金針︵初・続・続々編︶、仏教活論序論
巻││仏教活論本論
第一編 破邪活論、仏教活論本論
第二編 顕正活論、活仏教
巻││仏教通観、仏教大意、大乗哲学
巻││日本仏教、真宗哲学序論、禅宗哲学序論、日宗哲学序論
巻││純正哲学講義、仏教哲学、印度哲学綱要、仏教理科、破唯物論
第
第
第
第
第
第
231
第 八 巻││宗教新論、日本政教論、比較宗教学、宗教学講義 宗教制度、宗教哲学
第 九 巻││心理摘要、 通信教授 心理学、東洋心理学
巻一〇巻││仏教心理学、心理療法、 活用自在 新記憶術
第一一巻││倫理通論、倫理摘要、日本倫理学案、忠孝活論、勅語玄義、教育総論、教育宗教
関係論
第一二巻││
﹁館主巡回日記﹂
︵
﹃哲学館講義録﹄等︶
、南船北馬集︵第一・二・三編︶
第一三巻││南船北馬集︵第四・五・六・七・八編︶
第一四巻││南船北馬集︵第九・十・十一・十二編︶
第一五巻││南船北馬集︵第十三・十四・十五・十六編︶
第一六巻││妖怪学講義︵第一・二分冊︶
第一七巻││妖怪学講義︵第三・四分冊︶
第一八巻││妖怪学講義︵第五・六分冊︶
第一九巻││妖怪玄談、妖怪百談、続妖怪百談、霊魂不滅論、哲学うらない、改良新案の夢、
天狗論、迷信解
巻二〇巻││おばけの正体、迷信と宗教、真怪
第二一巻││妖怪学、妖怪学講義録、妖怪学雑誌、妖怪学関係論文等
第二二巻││外道哲学
第二三巻││欧米各国政教日記︵上・下編︶、西航日録、南半球五万哩
232
資料 井上円了主要著作
第二四巻││星界想遊記、円了随筆、円了茶話、円了漫録
第二五巻││甫水論集、円了講話集、初期論文
また、井上円了の思想・行動・業績については、東洋大学井上円了研究会の研究成果をまとめ
たつぎのような本がある。
﹃井上円了の学理思想﹄井上円了研究会第一部会、平成元年。
﹃井上円了と西洋思想﹄井上円了研究会第二部会、昭和六十三年。
﹃井上円了の思想と行動﹄井上円了研究会第三部会、昭和六十二年。
︵同第三部
その他の文献︵著書・論文・関係資料︶に関する情報は、﹃井上円了関係文献年表﹄
会編、昭和六十二年︶にまとめられている。
﹃ショートヒストリー東洋大学﹄︵平成十二年︶
、
﹃東洋大学百年史﹄
東洋大学の歴史については、
︵通史編、部局史編、資料編、年表・索引編、昭和六十三∼平成七年︶、
﹃図録東洋大学一〇〇年﹄
︵昭和六十二年︶が刊行されている。
233
あとがき
井上円了博士 ︵一八五八︱一九一九︶は、日本の哲学者の先駆けの一人であり、あの西田幾多郎も、
円了博士の﹃哲学一夕話﹄に深い感銘を受けたという。円了博士は東本願寺系統の新潟の寺に生
れたが、若き日、思想遍歴の末に哲学と仏教に真理を見いだすことになる。さらに宗門を脱出し
て教育活動に挺身しようと志し、特に哲学教育を通じて﹁知徳兼全﹂の人間を育成し、もって社
会に貢献しようとして、私立哲学館すなわちのちの東洋大学を創建したのであった。釈尊・孔子・
ソクラテス・カントを哲学の四聖人として哲学堂に祀り崇め、哲学の一般民衆への普及のために
絶えず東奔西走するほどであった。
円了博士の哲学の最終地点は、
﹃奮闘哲学﹄にある。そこでは力強い、どこまでも現実重視の、
生命力にあふれた世界観が展開されている。この書の中で、哲学に﹁向上門﹂だけでなく﹁向下
門﹂もあると説いたことも、円了博士の独創性を示している。経済学、法学、政治学等のいわゆ
る実学ではなく、哲学こそを人間形成の根本においた教育者は、当時ほとんどいなかった。その
卓越した教育理念によって、古来、三田の理財、早稲田の政治、白山の哲学と並び称されたので
234
あとがき
ある。
本書には、そうした円了博士の生い立ちと思想、哲学館運営の歴史、その後の東洋大学の展開
などが、きわめて要領よくまとめられている。円了博士およびその後の大学運営に携わった方々
が、いかに全身全霊を注いで哲学館ないし東洋大学の発展に努めてきたかが、生々しく迫ってこ
いったい、円了博士は哲学館の教育理念について、どのように考えていたのであろうか。この
よう。
ことについては、年を追って多少変化していくが、そのもっとも核心となると思われるのが明治
二十二年十月十八日の﹁哲学館目的について﹂︵長文︶における説ではないかと思われる。円了博
観的真理、哲理︶とを調和させるべきであるとして、次のように説くのである。
士は根本に国の独立を護るという精神を置き、行き過ぎた欧化主義に対し日本主義と宇宙主義︵客
﹁⋮⋮たとい日本なる名は存するも日本なる実は疾くに天外に飛散してその形跡を認むべから
ざるに至らん。すでにかくの如くならばいずくんぞよく日本の独立を維持するを得んや。これ余
の最も憂うる所にして、いわゆる日本 ︵主義︶大学は上掲の三者すなわち言語・歴史・宗教を完
全に結成し、もって日本独立の基礎を堅固にせんと期するゆえんなり。⋮⋮その裏面に入ればな
お一の大なる目的あって存す、これを名づくれば宇宙主義ともいわんか。すなわち宇宙学理を研
235
以上を概括して、哲学館の目的事業を図解を以て示せば、左 ︵本書六十頁の図︶の如くなるべし。
究することこれなり。⋮⋮
す な わ ち 表 面 よ り は 言 語・ 宗 教・ 歴 史 を も っ て 日 本 主 義 を 構 成 し、 も っ て 日 本 独 立 の 精 神 基 礎 を
確立し、裏面においては宇宙主義、すなわちあまねく宇宙間の真理もしくは哲理を研究するにあ
り。⋮⋮﹂
ここで宇宙主義とあるのは、
普遍的真理を重んじる立場のことである。なお、この二つに関して、
けっして一方に偏ってはいけないということも注意している。
今日、グローバル化・ボーダーレス化が進む一方で混迷を深めている国際社会のなかにあって、
多様な価値観や行動様式等に柔軟に対応するとともに、自分の生まれ育った社会の伝統的な思想・
文化を尊重し、確固とした基軸を持つのでなければ、単なる根無し草になってしまいかねない。
創立者の意を汲めば、我々東洋大学の学生・教職員は、ほかならぬ日本文化の国際的な意義につ
いて、大いに理解を深めていかなければならないはずである。同時に、我々東洋大学こそが、日
本的価値観に基づくグローバル・スタンダードを創造していく使命を担っていることを思うべき
本書の中、忘れてならないと思われるのは、哲学館以来の本学の授業の伝統が﹁知識注入主義﹂
である。
236
あとがき
。この教育もしくは学習のあり方こそ、今日、切実に求められているものであり、
百六十四頁等参照︶
でなく、教員も学生も自由に討議しあうという、﹁自由開発主義﹂にあるということである ︵本書
我々東洋大学関係者は、この﹁自由開発主義﹂のすばらしい伝統を保持・展開していくと同時に、
一昨年、平成二十四年には、創立百二十五周年記念の年を迎え、﹁未来宣言﹂を発するなど盛
胸を張ってこの伝統を社会に訴えていくべきである。
大に記念式典を修することができた。今や我々は、来たる創立百五十周年に向けて、前の﹁未来
宣言﹂を見すえ、遠大な構想を描き、具体的な計画を持って、本学のさらなる高水準化に取り組
む歩みを、着実に進めて行かなければならない。この時機において、我々は本書をていねいに読
み込むことによってもう一度、円了博士の教育への深いお志を汲み直し、そのお志の実現を通し
て、東洋大学のますますの発展を期したいものである。
井上円了記念学術センター
竹村牧男
所長
237
井上円了の教育理念 編集者
歴史はそのつど現在が作る
昭和六十二年十月二十日
第一版発行
平成二十六年三月一日
改訂第十七版発行
東洋大学
井上円了記念学術センター
執筆責任者
発行者
三浦節夫
東京都文京区白山五 ︱二八 ︱二〇
〒一一二㿌八六〇六
学校法人東洋大学
印刷所
株式会社フクイン
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