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ー890年以前における日豪の貿易

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ー890年以前における日豪の貿易
論 説
1綿0年以前における日豪の貿易
及び文化交流の諸相
村 上 雄 一
正.はじめに
この論説では、礬水が認蟹した欝誕年から懇8§隼代を中心とした嚢豪関係を
主に貿易と文化交流の携点から捉え、それらがオーストラ壁アの人々の馨本や
8本人のイメージ形成に与えた影響について考察するものである。筆者は、擁
簸総裏麗係史の議題題についてヂ窃窮馨豪彊係吏の諸開題」(ゼ行政桂会誌纂遜,
第盤巻.第3号,鰺弱年)で総譲を縫起したが、その中で、麺類欝豪彊熱愛を
考察する上において、総懸奪代以離の爾靉靆係史の重要性につ》て捲撫した。
そのような開題意識に立榔し、まず最も初窮の8豪接触について「オーストラ
婆アの捕鯨船と段本1欝騒年まで」(ζ行致鮭会論集遜,第琵巻,第魂号,欝弱
年〉で取り撮った。そして、オーストラリアから罎本を訪れた人々が、オース
トラ婆アでの馨本及び響本人のイメージ形成に与えた影響に聞しては、ヂ煮一
ストラ撃アからの訪開者涯8襲隼から鰺9艇麹(蓼行政社会譲葉遜,第稔巻,第
4号,2縫§年)で考察済みである。そこで、この譲議では、擁難蓉豪縫孫史の
中でも特にオーストラ馨アにおける摂豪貿易及び文化交流に論点を絞り、欝騒
年取鋒の本格的な両蟹驚係史考察の第2弾としたい。その毯の論点については
今後発表予定の論議で蔽う予定である。
一59一
行政被会譲葉 第捻巻 第煙幕
簸.緯万年メルボルン植民地閤博覧会
離石年以繭の翼豪4)貿易と文化交流
以毒銭こ発表した「オーストラ1ナアの蒲鯨麟と欝本1欝5垂耳三まで」iで詳遠し
たように、オーストラ1タアを麺点とする騰鯨家達が、鰺鍵奪の嚢本の鎖醗解絵
に先駆けて、嚢本の麹晶をオーストラ1タアへ持ちこんでいた可能性が高い。そ
の後、騒本が再び轡界に麗かれるようになると、オーストラ諺ア殖畏地人を含
む西洋の貿易薩1達は、騒本との貿易で莫大な牽彗益が得られる可能性を葺にする
ようになった。その結果、「オーストラ鞍アから嚢本への訪問者1鰺縫隼から
18繋駕まで露で取諺上げたアレキサンダー・マークスのようなオーストラ琴
ア纏畏地人達が、藤本での海売を確立しようと来襲したのであった。しかし、
当鱗欝本とオーストラ13ア諸擁蔓民選塗毒1の貿易1ま容易に進展しなかった。鰺翼)年
代、ニュー・サゥス・ウェールズ蕪渓地が馨本との主要貿易権手になむ、El本
へ織撥鬢地の産物を翰墨していた。i8鴨隼代窮頭の葎間貿易商は不安定なもの
で、総懸年の52ポンドから鰺72年の2,3総ポンドまでと、その奪によってかな
むの差があった窃嚢本からニュー・サウス・ウェールズ纏畏地への輸毒に絶し
ては、最窮の記録が現れたi8?2隼で1ま、鍍,73§ポンドと驚くほど高いものであ
った。瞬じ雛ヴィクトリア纏民地も露本と貿易を弱嬉しているが、貿易商の総
額は取るに足らないものであった。つまり、墨86§彗三からi8穫奪までの閣に、ヴ
ィクト琴ア纏民地から疑承への輸鐵総額1灘26ポンドで、輸入に至ってはたっ
たの鯨ポンドであった。3このことから当時の8豪貿易は単発的で、盛んであっ
たとは言い難い。
そのような状溌ではあったが、i総§年代からi総§奪代にかけて、嚢本文イヒは
すでにオーストラ峯}ア社会の一部になりっっあったようである。オーストラリ
アの上流雛会では、ヨーロッパからの最新流行を導入する過程で、無意識の内
に蔭本文建の影響を受けていた。シドニーやメルボルンなどオーストラ讐アの
一総一
欝§暮年以前における響豪の貿舅及び文化交流の諺樽(載土雄一)
都薦部では、流行に敏感な女性達にとって洋懸の扇子は携帯必需贔になってい
た。慮騒蕉に発育された匿挿絵入りシド二一・ニュース爆(躍粥び磁認3y鹿εy
鐸ε醐)の表紙には、ドレスで着蘇った女性が洋暴の扇子を持っている絵が掲
げられている。鍾飽にも8奉文化の影響はi8留年に鐵された雑誌駆ルボルン・
パンチ湛(躍ε絡磯騰εP蕊麓。麟にも晃られ、社交ダンスを練習する男女の絵の
中に醤本風の響羅が描かれている。5しかし、これらの晶々は嚢本の勃として
ではなく、ヨー蟹ッパの流行晶として取り入れられていたことを考癒すると、
当鋳のオーストラサア纏餐地の人々は、8本文免の影響にほとんど気韓いてい
なかったと患われる。オーストラ1タアにおいて8本懸の簾子が欝本の象徴とし
て広く認識されるようになるのは総8§隼代、鷲に鰺85奪に匿ミカド遷(M漉翻。)
という歌麟がシドニーの臼イヤル麟場で擁上演され、成功を収めてからである
ようだ。詳纐については後述するが、ζミカ確の初上演後、オーストラ蓼ア
の諸雑誌1証1本を象徴的に表す手段として、ほとんどの挿絵で扇子を描くよう
になるのである。
鰺75年メルボルン穂民地懸博覧会への霞本参撫の緩緩
オーストラ1タアにおいて霞本製畠が多くの一般大衆に勧めて認識されたのは・
鰺器年メルボルン麺艮地幾博覧会に8本が参撫した時からのようである。この
博覧会は、オーストラ撃ア諸植民地が欝76年に米醒で罷纏されるフィラデルフ
ィア万蟹博覧会において効果的な展示をするための、言わば予行演習が主な関
鍵i馨的であった。その名称からも購らかなように、このメルボルンでの博覧会
は「万国」ではなく、「殖民地鷺」博覧会であった。そのため、何故8本が招
待されたのかは今もって謎である。ヴィク替タア纏民地致羅至によって任命され
た王立博覧会実行委員会は、藻本ではなく、香港、フ君}ピン、ニュー・カレ
ドニア、オランダ額束インド、シンガポール、セイロン、レユ二言ン、モー婆
シャス、及び、喜望峰の纏民地総督宛に参麗要請を発送していた。§しかし、
シンガポールを瞭き、飽の櫨渓地からはヴィクト1ヌア麺蔑地政海に難し不参擁
の濤、返答が害せられた。そのような中、鐙式な参趨要請を受けていない縁本
一6茎一
蕎敢縫合謡築 第鴛巻 第4暑
がこ分博覧会に参撫することになるのは皮肉である。7P、F.コ一二ッキ
綴鍵謡磁霊〉1こよると、博覧会実行委貴長のレッドモンド・バ弓一擲(議r
艶旗欝誕欝欝鞭〉が中£・になって、委震会等の承諾なしに、薮本に参撫要請
をしノこということである。δコ一二ッキは、{再故ノ喋り一姦藝力濫メノレボノレンでの博
覧会に霧本を参灘させることに積懸的だったのか、その理由をいくつか推察し
ている。第一の推察だが、懲58隼に繋本が西洋列強と結んだ安政五力露条約に
おいて、嚢本が震税善彗主権を喪失していたことから、バ婆一騨が舞木を半纏農
地的な蓬として萎えていたという讐籠性を挙げている。警第二に、バ1タ一聯が
馨鑓年の∬ンぎン万蓼博覧会にヴィク鯵タア植民地の展示会場責任者として参
策していたことから、そこで馨本からの議緩品を目にし、手に態れる機会があ
ったからではないかという点を挙げている。第三の点は、コーニッキ自身が1ま
っき穆とした証縫を発見することができなかったと告毒しているのだが、バ
婆一馨が嚢本の参総に熱心だった最も可縫牲のある蓬鑛として、将来の馨豪貿
舞の成長を難待していたからではな疑かと推察している。この第三の推察が、
バl!一郷の熱心さを謹聴する第一の鍵由と震えるのが最も妥当かと患われる。
なぜなら、露灘年に英露と旺1本との闘1こ通商条約が締結された後、馨豪闘の将
来の鬘髭緯叢に対する藁箒がオーストラ琴アの新関を選じて義遵されるように
なっていたからである。灘また、バ蔭一郷が纏の韓民地からの不参撫について
いつ頃知ったのかは定かではないが、騰の理由としては、海外からの参趨をi
蜜でも多く確撮することによって、実行委員長としての破自身の面子を保ちた
いという意図もあったのではな暮かと推察できる。
バll一郷は、英蟹鼕鼕公菱ハ婆一・パークス郷を通して響本政府へ接触した。
馨74年愛弄シ聾一擲は護1本へ書篶を送ったが、その中で彼は、蔭本の展示が
「産一ストラ嘆アやその逓隣地域の人々を啓発するであろうことは明らか」で、
「被らと旺i本の人々との閣における遜高麗係を拡大し、改善するであろう」と
強讒して、騒本鼓琴}に鰐して博覧会への参撫を強く促した。玉主閥奪鴛月3紐付
で・唱!一郷は、藤本の後衛、産業。及び、製品が博覧会で十分に示されるよ
一62一
醤繋駕以毒彗における銭豪の貿易授び文紀交流の諸癒(誘上雄一)
う、懸本数綺に入念な準備を簸縛するきの書簡を再び蓉本へ送っている。i2
鰺器奪2月、パークス公縫1まバ蓼一郷の最初の書篶を外務省外務卿の寺島宗則
に手渡した。寺島は、太政大甕三条実美と協議した後、パークス公整に嬉し、
明治政府1ま、鰺73年ウィーン万醒博覧会に崖展した鰹の費灘、及び、欝?癬フィ
ラデルフィア万蟹博覧会1こ参撫する鰹に見込まれる責馬を遅灘に、メルボルン
纏民地鷺博覧会には圧式参撫を見合わせる決定をした留、返答した。一方で、
明治政織ま、羅政府賛勘のもと、かストラ1ナアで製羅展示したいと希望す
る醤本窪民がメルボルン博覧会に参擁することを許可することにした。i擁8驚
無3月、ゼ東京8々新懸選やζ郵痩報知新鹿諸等が、メルボルン博覧会に参撫
を希望するものは政府に申し趨るようにという雀示を三条実美の名で掲載し
た。i尋この告示に霧えて、七宝会社と起立工商会社の2社が参撫を表萌した。玉5
この博覧会に参撫することになった人々のうち密瞭は、内務省鶯轄で麗内産業
振興が役目であった勧業寮から2名、そして、農商務省から2名であ馨、畏懸
からは5人の商人、そして、髄行員として英蟹人慕バート・ペイジが擁わっ
た。玉書この一懇の毯長は機本藍人、そして、凝毯長には藪襲春雄が任命され、
両者とも勧業寮の鐡身であった。特に壌灘ま、すでにウィーンや・ンドンでの
博覧会に参撫した経験があり、英国で王立鉱毒学校に留学していたこともある、
海外経験が豊富な官籐であった。算農商務省からは舟木と簸鑓の2名が参擁し
たが、破等の主な任務はオーストラ摩アの諸撥浸地における農業と牧羊に麗す
る精…霰を収集することであった。毘
8本からの一懇はi87蓉隼7月末にシドニーに到着し、そこからゼシティー・
オヴ・アデレード号壽に乗り換えてヴィクト謬ア権民地へと向かった。彼等の
シドニー到着は、メルボルンのゼヘラルド藩(鐸ε雁躍)紙によって、「葬鴬に
重要暴な墨来事として報道された。エ9間紙は、この藷来事が「ヴィクト婆ア麺
民地と藤本の懸に鰻密な通海鹿係」を生み織す可能性を捲擁した。2惑B本から
の一毯の重要性を強調した後、rヘラル機織ま、ヴィク鴎ア纏黒地政府及
び博覧会実行委曼会が「適切な礼をもってこの紳士達を受け入れる」こと、そ
一63一
膏政被会論集 第捻巻 第鐘号
して、メルボルン市やヴィクト1ナア耀董民地の歓待が薪彼らにも施されるゴこと
を難持した。2重講紙はまた、ヨー濃ッパにおいて戦争が勃発した藤には、嚢本
がヴィクト1ナア纏蔑地の輸趨晶にとって安全な代替毒場になむうるとして、以
下のように遠べている。
「我々にとって馨本帝蟹と襲業関係を樹立して行くことは非常に重要であ鯵、
ヨー霞ッパで大戦が勃発した場合には、我々の産鞠や製品にとって良い稽場
をそこに晃治せるであろう。急速に英蟹化している、薄雪万人というあふれ
んばか鯵の五霞を有する農本は、素晴らし疑貿易瞬蟹を(ヴィクト1タア橿蔑
地と)形成するであろう。ゴ箆
ヴィクト婆ア纏戻地政癖は、8本からの一露に嬉してメンジーズホテルの最
上緩の蔀渥を予約したのみならず、ワインの代金以外、すべての支払いを申し
量るなど、葬常に敬意を持って歓待した。23
メルボルン纏畏地縫博覧会の雛幕
博覧会弱幕粥琶、『ヘラルド遺紙は再び娃議で8庫の博覧会参灘を皺む上げ、
これはヴィクト鯵ア植畏地が棄洋の諸蟹から認識されるようになった証であり、
そのような羅々との友好は「最も重要である」として、再度満足の意を表隣し
た。籔また講紙は瞬治天皇についても離れ、ε勇敢で強く、若いミカド」を、沼
本の利益のために「西洋の進歩すべてを好意的に受け入れた3、「地球上で最も
啓蒙秘した書生の工人」として賞賛している。2さ
麗会式はi875隼9月2醸こ行われ、バ馨一郷が開幕の辞を述べたが、その中
で羅本の参趨に蝿する彼の感謝の念が譲られた。彼は8本について以下のよう
に述べている。
「農本は、長奪ヨに渡穆瞬馨を特徴付けてきた鐘羅から脱却したばか鯵である
が、産業活動、逓嚢事業、闘醗的な知性、及び、活動的な講査の精禅が現在
の馨本をして際立たぜている。」麗
またバ13一郷は、以下のような簸待も表賭した。
「一この機敏で有能な鰐癒、そして、丁寧な作む、優美なデザイン、及び、
一纏一
捲弱年以糖における霧豪の貿易及び文化交流の諸絹(韓土雄一)
完成度の素晴らしい晶の展示は、天才的で、技量に富む日本の人々の粋を表
現しており、見物客達の好奇心を講足させ、長く開心を引き付ける、嚢本の
熟練職人による作品の巧妙さや完璧さと我々自身の職人を巣に姥較するのみ
ならず、親密な交流醜係、及び、3,灘馨万人が住む簿大な帝羅(蒙本)と、
方一ストラ1タア地域の忠実で恭顛な女王陛下の艶罠達の闘における貿場拡大
という互恵的な輕益へと帰結して行くであろう。」2了
このバll一郷の演説中、破が躾本について語った時、曝采と大歓声が拳き起
こったと報道されている。艶
博覧会の蓼公式記録遜によれば、讐本の轟人達1よ古漆器、象酸纈一£、七宝
製品、文禄色付き臨器、織梅及び縫物、そして、装身具など、約総暮点に登る
展示品を持ちこんでいる。2§主要な新籔社のほとんどが博覧会でのB本会場に
弱して好意的に報遵した。饑えば、メルボルンのζエイジ』緩は、醤本の産業
に黙する展示会場ほど大いに興味を持って見麹される会場は飽にないであろう
と輻遣した。謁また購紙は、馨本が博覧会にもたらした総々の観模や多様雛は
驚くべきものであ辱、オーストラ撃アの公共施設において「策洋の灘鑑田
本)」から蔭人達が持ちこんだ梅島が披露された鍛錬の崖来事であるとも述べ
ている。凝さらに舞本製品に聞してゼエイジ選紙は次のように述べている。
ε磁器製品、§本式海器、そして七宝製品が、最も重要な位置を占めている。
§本人は、最密に挙げた品々の製造に麗しては、縫の渥が今までに到達した
ことのない完成度に到達している。…漆器は、この製造業において8本人が
勝ち取った評鵯からも想像できるように、その素購らしさ、及び、多様姓の
両方を成しておむ、今までに一・一緩大衆に展示されたこの種の物の中で最も整っ
たコレクションのiつである。」32
罫エイジ雌紐によれば、1ヨ本会場のうち鍛も魅力的な製贔は絹製愚で、3一
覆ッパ人の求めているものに合わせてあ鯵、疑いなく「多大な摸1心を騨ぶ贔に
なるであろう」と報遺した。3鮪舞紙の記者は、樗来馨本の絹産業がヨー躍ッパ
と競合したとしても鰹ら不思議ではなも・と信じた。刀や短鰯・懸扇・そして様々
一65一
行政被会論集 第舞誉 第遮弩
な馨本の生活椿景をかたどった小型撲型等、倦の馨本製贔を搭写した後、『エ
イジ薩紙は貿易における鉦1本の輝かしい未来について以下のように話を結んで
いる。
「全般的に見て、この製造工業及び製品の震示から、8本帝毯の遜醸罷係が
必ず絋大することは閤違いなく、一方で、それはすでに存在している貿易灘
係をより強露なものにすることで確立していくであろう。」34
メルボルンのゼアーガス遜(携rg認s)紙もまた騒本会場を賞賛した。1諺紙は、
この博覧会は羅本部鑓が簾わったことにより、これまでメルボルンで閣催され
たどの博覧会よりも鰹立っていると報じた。3辱アーガス選紙は、来場者はr絶
対的な完成獲」を患わせる馨本の芸衛や技術を吟嫁する一方で、英文学におい
て古典的な義理であるヂ東洋の壮麗さと荒廃」という一一文を繰り返し患い出す
であろうと述べ、以下のように表現している。
「素晴らしい色彩。精巧1こ作られた七宝。風景誘にしろ動物薩にしろ、絵画
の栗てし頓・精巧な表現力。一そしてすべてが手作業である一El本芸術生来
の欠点であるにも関わらず、写実的な表堤内の華麗な趣き。すべてにおい
てこれら東洋の芸術家達は西洋穫界における彼等の闘業者達より優れてい
る。」3尋
結論としてζアーガス遜紙は、ゼヘラル麺緩羅嫌、オーストラリアと経本
が雨覆の通商関係の拡大を通して露盤羅になれるであろうと夢見た。
「新しい霞本はオーストラ婆ア人の産業競争に対して最霧の貢賦を成した一
この兆しを繭途有墾な実りあるものにさせよう。嬉百万人という人々がせっ
せと饑いているニッポンとオーストラ弓アの閥には、いっか友好縫盤と藍蔓舞
貿易という二重縫係が形荻され、それは、輝かしい両1嚢σ)樗来の世代達にとつ
て、良い結果を生み出すであろう印」3?
博覧会の霞本会場に寵する賞賛龍車は、ゼバララット新報遭(飾磁r醜
Co琶r紹沸やゼオーストラレイジアン・スケッチャー壽(擁蕊$εrα!α8絵論ε葱ε誌為εr)、
r挿絵入鯵オーストラリア・ニュー雄(躍翻磁ε4趨鉱ヂα傭梅翻、隣絵
一鋳一
嬢鱒隼以喜彗における欝豪の貿易及び文牝交流の諸搬(啓上鑑一〉
入むシざ二一・ニュース遜、ゼ挿絵入リアデレイド・ニュース選(1言薩s翻就掘
擁漉餓旋,磁総)等、新綴や雑誌を遷してオーストラ1穿ア全土で広範に按じら
れた。3縮オーストラレイジアン・スケッチャー退以外のすべての挿絵入む雑誌
は、全く嚢じ欝本会場のイラストを鶏載したが、それは美しく籔られた騨羅や
漆器、臨器といった難本の伝統工芸品を、蓉洋霧のスーツを着ている馨本人男
性が、立派な身なむをしたオーストラ咳アの夫婦とその子供に紹介している様
』子を描いたものであった。
『メルボルン・パンチ選誌のみ、勉の新菊社のように嚢本の展示愚に関して
賞賛することはしなかった。1縮§年代の反中国人運動を支持していた主要な定
離刊行物のiつである蓼メルボルン・パンチ盤誌が、講誌自身が燐む懇した中
国人に対するステレオタイプ的なイメージを欝本人に対しても広げて適羅した
ことは墾白である。韓敏なら、賦メルボルン・パンチ邊誌は、小太りに礎いた
日本人痩節の絵を縄載したが、その人暢は中国慰の醸装及び緩霧、髪型は辮髪、
そして讐本刀を講びているというように、非常に奇妙な篠かれ方をしていたか
らである。3警縫の挿絵入り雑誌からも墾らかなように、騰本人硬籔や販売業者
は、文明化(すなわち西洋{紛した民族というイメージを露象{種けるためにも、
常時西洋縢のスーツを着ていたはずである。ゼメルボルン・パンチ書誌でさえ、
羅に描かれた灘本の歴史絵巻は注§に纏すると遜べざるを簿なかったが、一方
で同誌は、嚢本製品は、全く実曙性に欠けるようなので、淺験する蓬由は全く
侮もないとも捲嫡している。鰯しかし、罫メルボルン・パンチ』誌の見解は、
蓼エイジ』紙やζアーガス遜紙、そして蓼ヘラル蝶紙のような、縫の主要琶
種紙がすべて羅本の展示に対して好意的であったことから、ヴィクト摩ア殖民
地の一般大衆にはほとんど影響を与えなかったようである。このことは、博覧
会閉幕後、バ》一郷が公共秘書館の理事を代表して、博覧会の成功に録する霧
治政癖の震餓を称え、書籍の入った小箱を醗治天皇へ戴上していることからも、
察することができよう。41
一67一
行政蛙会論集 第舜拳 第4号
権本疋人の見たオーストラ勝ア
博覧会における§本の参趣がオーストラ彗アで好意的に鞍道される一方、日
本の懇長である橋本正人は霞本への帰毯後、明治政癖に難して提墨した報告書
の中において、彼が抱いたオーストラ諺アに対する好癖象を{云えている。橋本
が蓬幽したこの報告書は、明治致癒の官僚の手によって襖めて書かれたオース
トラ蔭アに関する公式文書のようである。まず驕本はオーストラ嘆アを、彼ら
一一
Iの到着以羨に馨本人は誰も上陸したことのない、ダ醜洋中の絶域3と表現
した。42橋本によれば、霧本の物産申、来場者の懸で最も人気が高かったもの
は箪笥や盆のような本工製品であったという。露本の錐1器も高い評懸を得たが、
それが嚢接には簸売促進には結びつかなかった。更に、彼は博覧会で馨本茶の
見本を展示しなかったことに対する遺憾の意も遽べた。遵3
橋本は博覧会のみならず、オーストラ婆アに臠する一般的な椿報も報告して
いる。後議:身が集めた情報を基に、橋本は明治政癖にいくつか提案を行ってい
る。鞍は、まず、オーストラ撃アを農業、特に羊や隼の牧畜、及び、大麦や葡
萄栽培等を学ぶための留学生派遣地として雄薦している。またこの礎案につい
て薦本は、南オーストラ弓アの牧畜業者達が騒本人学生を快く引き受けてくれ
る醤の申し謹を得たことも報告している。4魂次に橋本は、オーストラ勝アでの
販売が鶏待できる欝本の輸鐵製品について提案している。披自身の観察から、
愛一ストラ辱ア纏罠壇人達は茶や砂箱、雑貨島、及び、衣類を消費していると
して、その中から橋本1ま、農本茶を最も簸待できるオーストラ婆アヘの輸鐵贔
として推薦している。縫に科益が難待できる醸晶として橋本は米を挙げている
が、それは、被がヴィクト陰ア穂民地で多くの中蟹人移民を§撃したからで、
彼等が羅本製品の消費者になるであろうとも予想した。彼はまた、鮭の缶詰、
漆器、及び、酸め込みの木工総工もオーストラ写ア毒場で速やかに売隷できる
であろうとも予想している。45
オーストラ婆アから8本への翰墨墨に聞して橋本は、オーストラ棲アは霞本
にとって家畜の購入地として最良の場羨であると考えた。彼はまた、オースト
一68一
欝総隼以毒1}にお1ナる霞豪の貿易及び文化交流の諸繕(村上鑑一一
ラ弓アの皮革製品を経本への輪出品として可能性があるとも考えた。4窃餐に被
はオーストラ撃アの冷凍機に興味を麹き、明治政府に蝿して風冷凍霞を藤本及
び拳蟹龍藻に試験的に輸入することを求めている.その輪入の見返むとしては・
オーストラ喉アでは見られない嚢水産の野生動暢及び鮭の炎を輸聾することを
縫案している。47橋本提案の中でその後の謹豪貿易伸展に麗わる最も重要なも
のは、羅本政府が、海外から機器を輸入して官営の毛織−場を建設し、そこで
オーストラ摩ア産の羊毛を綾絹すべしという礎案であった。彼は、オーストラ
l/アの毛織産業の育成が労働者の高賃金のため糧害されているのに対して、響
本人労齢者の転賃金を馨本が独自の毛織産業を確立する麹点として挙げてい
る。嬬
機才は、教養のあるオーストラ婆ア纏民地人達でも、霞本の人醸や人鷺、懸
俗などについてほとんど知らないことに驚きを隠せなかった。また彼は、オー
ストラ咳ア縷民地人の中には、将来日本が再び鎖蟹政策を導入するのではない
かと疑念を抱いている毒もいることを知って驚いた。唯一鰍外としては、オー
ストラ1ナアの一一般大衆は欝本が綿製品の国として有名であることを知っている
ぐらいであった。橋本はオーストラリア植罠麺人の鷺に鍵本の知識がほとんど
無いことに驚きを表す一一方、騒本人もまたオーストラ1タアの蟹や人々について
ほとんど知らず、8本もまたオーストラリアに対して無嬢着であったと懸篤し
ている。49雨覆の駿琶にお互いに関する知識の欠如が存在することを認めながら
も、橋本は、オーストラ弓アは麟本と友好麗孫を結ぶことだけでなく・その閣
係を永く保持したいと熱望しているとして、証1本人がオーストラ彗アを訪絶し
た礫には幾地の人々から友好的に邊えられるであろうと信ビた。結論として橋
本は、野1壕購の貿易麟驚を麗讒し、両麗が情報を交換しあえるようになれば、
1灘講闘の貿易慧隆盛し永続するであろうこと、そして、それは礬水にとっても
大きな国益になるであろうと、被の強い馨念を述べている。欝
メ痔ボ卿ン纏現地閣博覧会後の蓉豪貿易
ヴィクト嘆ア纏養蜂毯並びに凝本の欝彗政濾は、博覧会の成功察{本には葬常に轟
一鎗一
行政社会論集 第爲拳 第塁号
足し、将来の遜簡縄係の拡大を楽観的に予想していたが、この点に絶して奮え
ば、博覧会における霧本参趨の影響は特にそれほど大きくなかったようである。
i8簿年代後半におけるヴィクト撃ア殖民地から欝本への輸出蕩は記録されてい
な疑が、i8聡奪から}878年における8本から同纏餐地への輸入高はわずかに約
獅ポンドしかなかった。5圭上述したよ旗こ、ヴィクト彗ア植民地から製本への
輸出品としては、羊毛が最も癒嬉があり、成功すると患われていたに違いない。
しかし、露?7年に勃発した藤南戦争のために、饗本における最霧の近代的な毛
織工場建設は遅れ、欝7§葎まで存在しなかったのである。鷺
当時の嚢豪貿易にとって霧の不利な点としては、鰺懸年代まで霧蟹を直接結
ぶ蒸気麟の定期翫驚がなく、予想された通饒発展を灘害したことが挙げられ
る。饑えば、撥水を鑓長とする一行はi875年6月重縫に横浜塔を出港して、
香港、シンガポール、ジャワ、クックタウン(Coo溢ow簸)、タウンズヴィル
(Tow聡v滋9〉、ボーウェン(80we紛、欝ックハンプトン(窺oc臨&狐薙。簸)、
ブ婆スベン、そして、シドニーを経由し、やっとヴィクト婆ア殖民地に到着し
たのは隔年8月2馨で、その聞に約2壽月が経遍していた。53このような状態
ではあったが、角山が指擁しているように、日本の博覧会参趨自修が成功して
おむ、ヴィクトリア纏蔑縫の人々の野i本への麗心を高揚させ、更に墾治政府の
オーストラ婆アに対する最初の関心を引き起こしたことは特筆すべきであろ
う。54
ヴィクトリア麺農地と比べ、ニュー・サウス・ウェールズ麺農地は鰺鴨年代
後半に目本との緊密な通商縄係を着実に確立し始めたGこれは、シドニーがメ
ルボルンよ蔭も地蓬的に醤本に近いという要馨だ滲ではなく、シドニーを鑓点
とする貿易蕗達が、メルボルンの羅業者達よりも、謎本との貿易を振興しよう
とより積纒的だったことが挙げられる。鰺鰺隼蓉本の海軍練習艦置筑綾書が窮
めてブ摩スベンとシドニーに寄港したが、その時シドニーの貿易商42名は連名
で当時の寺島外務卿宛ての親書を匿筑波選の秘醤艦長に託している。それはシ
ドニーとB本麹に定簸蒸気麟麟路麗設を強く要望するものであった。需要に、
一70一
灘9春奪銀翼彗における讐豪の貿易及び文箆交流の諸籟(啓上雄一〉
ニュー・サウス・ウェールズ纏民地は当鋳オーストラ》アで唯一石炭の輸鐡が
欝能であむ、それが濤本との通商闘係において葬常に有屑な立場を隅殖民地に
与えることになった。例えば、露?8年には8本からニュー・サウス・ウェール
ズ植民地には総額欝,6解ポンドの薦品(主に米〉が輸串される一方、購纏民地
は、購年総額謄,7蕊ポンドの趨晶(主に石炭〉を雲本へ輪諾している。56瞬治
政府は、鰺鱒隼代に螢内需要に必要な石疲が豪給できるようになるまで、欝本
の近代紀を推進するために海外の石炭を必要としていたのであった語7
欝.鰺8§年代オーストラ》アにおける万国博覧会と日本
シドニー万国博覧会1嬢7§年から鰺8§年
その後の8豪邁蔭馨1係の歴史的な趨来事としては、欝7§年から欝欝奪にかけ
て罷催されたシドニー万覆博覧会と、露紡年から雄8輝にかけて開催されたメ
ルボルン万蟹博覧会に、騒本が参撫したことが挙げられる。今繧、麩本鼓琴}は
英国鍵嚢公使ハ1ター・パークス郷を通して公式に轟博覧会に招待された。購治
政購は、それぞれの博覧会に政織から2名の事務官を滅遣することを決定し、
號蜜の内務省窟僚の藪遜をシドニーへ向かう一懇の綴長に、そして大藪省官僚
の海難秀二をメルボルンへ陶かう一毯の懇長に任命した。誰明治政府は博覧会
に参撫することは決めたものの、患展観模が十分でなかったため1こ、籔覆は予
算の増額と派遣役人の増鋒を至申した。.上申書の中で数鑓は、オーストラ13ア
からは何も学ぶものはなく、また、オーストラ蓼アヘは講も輸鐵するものはな
く、オーストラ縫アから嚢本へはほんの数種の資源しか輸出するものがないと
いう、馨本人のオーストラゆアに耕する一鍛的な認識を幾利している。壌鐙自
身も、オーストラ琴アは新しい纏民縫のため産業は未熟であると認めたが、一
方で彼は、オーストラ婆アの労鶴者が高賃金を享受するかたわら、海外の工業
製品と競争できるような製贔を生産するほど技術力が無いということを綴縫に、
オーストラリアの輸鐵秦場は1葺本にとって非常に有益になるであろうと指摘し
一7i一
鴛政抵会論集 第13拳 第4号
ている。これを基に綾は、オーストラ亨ア殖民地の人々は、木工製贔、米、蔓、
絹、婆ンネル製品、鑛器、臨器、漆器、絹及び緩製贔、そして、雑貨等の大星
瀧費者になるであろうと強謁した。それから彼は、霞豪雨蟹はお互いを知るよ
うになってまだ縫が浅いため、シドニー万露博覧会への参撫は愛一ストラ撃ア
との貿易を拡大する絶好の機会であると主張した。5§叛還は続けて、不十分な
髄行員諏遣数と小額の予算では、博覧会で支離をきたすのみならず、蟹際被会
における曇本の蟹威を餐ミなうこと1こなると主張した。葺聾疫鑓の11申は明治政府
に受け入れられ、当切緯,暮紛需だった予算は3§,工貿需鋳銭へ増額され、髄行員
の数も2名から3名へ増員された。冬至
無難こよれば、産品総額の3分のiは起立工商会縫、三拝鞠産、そして大倉
繧によって墨贔され、その勉の主な串晶会社として、七宝会社と番藤社があっ
た。太懇丹憲や宮鱗葉臨といった纒人で博覧会に出晶した者もいた。このよう
な会鮭や纒人は主に晦器、扇子そして漆器を展示した。それ1こ潴えて、政癖の
勧農局によって栽培された紅茶がオーストラ鯵アに送られた。§2
シドニー万蟹博覧会の弱会式は、英蟹、フランス、拝イツ、米醒、ベルギー、
オランダ、そして、馨本の参総を得て、鰺79葎9月i7翫こ行われた。B本会場
は博覧会来場者達の霧で再び評鵯となった。匿シドニー・モーニング・ヘラル
甥嬢γ廊磯醒。魏魏g還齪認4)紙は、甦本会場が来場者達の騨心を大いに引
いているが、それは「確か1こ纏する」と鞍遣している。§3岡紙の記者は古颪な
彫をした茶器一式に興味を持ったが、それらは上流社会的な嗜好を有するオー
ストラ嘆アの嬬人達に大いに喜ばれるであろうと信じ、以下のように速べてい
る。
「急須の中には、あたかも灘鯵がたいほど深い地中から痴り慈されたかの魏
くの梅があむ、敬意を惹起し、そして、茶会における古愚な流儀と講和する
であろう。」δ4
勉の日本の雑貨贔や製贔を議写しながら、購記者は「優美な形、意匠や構造
における審美銀、そして臨器や漆器そして金霧羅における精巧な技量」1ま「新
一72一
雄鶉隼以前における馨豪の貿易及び文此交流の諸撚(村■上雄一)
しい文鵠霞本〉の最高の(精神の)産物に匹敵する」であろうと述べてい
るe薦
蓼挿絵入穆シドニー・ニュース選誌もまた、甦本会場に臆する挿絵を好意的
に掲載した。その雑誌縁、礼儀正しい作法及び1甕才に晃られる霞本人一一行の進
取の精神を紹介している。同誌の記者によれば、博覧会における8本人案鰹係
は「アジアのヤンキー(アメ弓力人)」の称号に値するようであるというg騒客
本会場に間する解説に換え、同記者は躾本人のある諸特徴について描写を続1ナ、
以下のように述べている。
「貿易を後押ししょうとする彼等の鋭敏さや如才なさは葬常に特騒的であり、
同時に、彼等は闘違いに対して誠意をもって講筵し、綾ら自身の仕事に勤難
で、飽の人々(来場客)を韓由にさせておくことで、皆の好意と敬意を得て
いる一真{以る懸{褻のある一/舞である。」麟
『挿絵入善アデレイド・ニュース邊も『挿絵入リシド二一・ニュース藷と講
じ絵を掲載したが、篇ξ)記事を載せ、馨本会場は博覧会で最も興蘇深く示駿に
富むものであると報じた。銘
シドニー博覧会雛僧中に籔沼が最も力を入れて宣伝を試みた藏贔は、勧農潟
によって栽培された紅茶であった。彼は、紅茶がオーストラ穫アの一一般大衆の
懇で名声を博すように、勉礪編と勲こシドニーのレストランやホテルに礎供
した。また彼は、暮六会場に茶病を設けて、蓄安な懸路で饗本藍の紅茶を撮供
し、適蕊懸格での茶葉の販売を促進しようと試みた。これらの体験から壌譲は、
長窮的な謙遜をもってして、霧本の紅茶の名声を確立することに専念すれば・
多くのオーストラ1タアの人々が、陳が良く安慰な13本の紅茶を轟く評観するよ
うになるであろうという、揺るぎ無い結論に達した。鑓
坂遜は、薯}来のオーストラリアとの茶貿轟の発縷は可能であると信じたが、
一方で、当時の霞本にとって主要な輸出品のiっであった生糸及び絹について
は、多くのオーストラリアの人々が「糧野ノ屡.曇を臆しておらず、オーストラ
婆ア市場での拡大の機会はほとんどないと観察している。懲
一73一
行政琶会譲葉 第捻巻 第4号
i8鴇年メルボルン植民地懸博覧会及び欝謄年から茎88§年のシドニー万蟹博覧
会の経験を通して、籏鑓1ま、オーストラ饗アの諸殖民地の中で欝本にとってニ
ュー・サウス・ウェールズ纏戻地が将来の最高の貿易穏手蟹になるであろうと
強く信じるようになった。彼は貿易に臠してはメルボルンの方がシドニーよ鯵
も活発であることを認めているが、ニュー・サウス・ウェールズ植民地の天然
資源はヴィクト琴ア麺民地よむも豊富である点を鮨擁している。彼はまた、政
治体麟、教竃の方法、琶会の気風等、両麺長池の相違を示し、ニュー・サウ
ス・ウェールズ纏民地の方が優れており、将来、ヴィクト1ナア纏民地よりも繁
栄するであろうと捲撫している。さらに、シドニーは、薮本との地鍵的な遮さ
から・騒本との貿易港として最も適しているとも述べている。また・ニュー・
サウス・ウェールズ纏罠地の関穫はヴィクト1ナア植民地よりも低疑ことも挙げ
ている。了iそのような諸事実を基に彼は、オーストラ琴アとの貿易を振興する
最善の方法として、瞬治政瞬はメルボルンの名誉領事マークスだけに頼らず、
蒙本人領事もしくは事務官をシドニーに諏遣すべきと強調した。了2
メルボ膨ン万蟹博覧会:18欝年から簿鎖年
欝鴇年から総総奪にかけてのシドニー万毯博覧会へのB本の参総が成功を収
めた一方、『アーガス懸紙によれば、欝総年から鰺8i隼にかけて開縷されたメ
ルボルン万蟹博覧会では、鰺箆年に見られた8奉に鰐する熱狂さというものは
趨こらなかったという。字3英国やフランス、ドイツ、そして、米蟹といった西
洋列強による展示品の麟に、蔭本の存在というものが霞んでしまったようであ
る。遜の理露としては、欝75隼のメルボルン殖民地懸博覧会の後、楽観的に信
じられていたヴィクト彗ア植民地と馨本間の通商縫係が急速に威長しなかった
ことも挙げられる。ゼアーガス邊緩には「」、趨の頭文字の署名付き記事が掲
載されたが、それによると、礬水会場は来場客からほとんど開心を払われなか
ったという。この「」.蔓、」は、ゼオーストラ!}ア人、海外へ遜の著者ジェイム
ズ・ヒングストンに間違いなさそうである。殖
ヒングストンは、羅本の展示品は紅芸備産業」とド芸衛教育」という点にお
一7護一
欝9暮年以葎茎におげる嚢豪の貿易及び文乾交流の諸権(韓土雄一)
いて、特溺で鱗舞的な懸纏を脅していることから、8本会場はもっと関心が向
けられてしかるべきであると遜べている。町馨本の縷示品と藤本芸術」という
題の記事の中で、ヒングストンは展示贔からB本芸術の本質というものを分抗
することを試みている。その記事は、当時の藪洋における舞木芸術に麗する一
般的な共選認識を綴説しながら、馨本芸術がどれ慧ど欧米の芸徳作晶に影響を
与えているかという驚嘆を述べている。菱1本の展示品から、§本の芸術家と彼
らの{乍贔の特徴が次のように解鞍されている。
「…熟練工は、独麟約な新鮮さと感構の繊綴さ、墜然の無鰻に多様な形と鑛
示に対する素朴で純粋な称賛、ありのままの、そして、忠実な誠実さをもつ
て自然を解釈しようとする素護な決意と共に翼然を見てお駄それは、地中
海の浜辺にある古代芸術を髪髭とさせる。」欝
ヒングストンは嚢本人熟練工達の精神は轟度に発達してお甑それが、金霧
器や麹磁器に再現されているような、外界に対する被らの認識の鑑確さに寄与
していると信じた。被の讐本工芸に対する崇葬は葬常に熱狂的で、次のように
宣言している。
懇本人は義々に、自身の考えを表理するための素晴らしい工業長徳をもた
らし、騒々人に麟造を与えてくれる…。韓本人の鶴芸に対する{醗壁代にも渡
る追求が、彼らをして技量の完成の極みに達することを驚能にしたことは確
かである。」μ
ヒングストンはメルボルン万蟹博覧会の霞本会場はメルボルンの人々から好
感を得られなかったと感じたが、講万蟹博覧会の嚢末羅の毯長、海瀬秀治は、
明治政府に対して礬水会場は再び成功を収めたと報告している。報若書の麟書
で海瀬は、メルボルンに待ち込んだすべての晶々を完売したのみならず、ヨ本
の出贔者達が当窃成功を飽撰していたにもかかわらず、多大な利益をあげたこ
とを基にして、メルボルン万遜博覧会での素晴らしい成果について要約してい
る。この成功により、被はヴィクト1タア纏蔑地が露本製墨を購入してくれる、
重要な貿易組手になると強く儀じるようになった。海瀬縁、樗来予想されるヴ
一75一
行敢被会議集第露盤 第4号
イクト彗ア植民地との通商が多大な富を8本にもたらすであろうと結論してい
る。鴇
それでは、ヒングストンと海瀬のどちらの評懸を正当とすべきであろうか。
結論から言えば、河瀬の方であろう。何故なら、ヒングストンの評懸はあくま
でも鞍懸人の海象に基づいているのに離して、海瀬の報告書は金製贔の完売
や多大な利益など、具体的な成功溺を挙げながら書かれているからである。
「オーストラl!アから霞本への訪闘者:鰺54隼から惑勢奪まで」で詳述したよ
うに、ヒングストンはかなりの嚢;水簸履だったために、その翫動で、やや厳し
い評簸を下してしまったのではないかと患われる。
メルボルン万遜博覧会に参擁した聡治政瞬の事務官、穂墨利彦は、河瀬に嬉
して長文の報告書を撮出しているが、そこでは、弩本の貿易商が舞来有望な市
場としてヴィクト琴ア槌民地を信繕できること・そして・メルボルン万蟹博覧
会が、B本との貿易を拡大するのに絶好の機会を饗供してくれたことを強讒し
た。7魯徳欝によれば、博覧会で簸も曙采を浴びた麩本製昂は、文部省から爵晶
された教材と書籍で、それらによって来場客は馨本の教育の進歩を想起するこ
とができたと報告している。灘紙人形や磁器、そして鑛器といった勉の昌々も
来場客から高い評懸を受けたという。さらに、馨牽最密の近代的な製絨鱗であ
る千住製絨羨から出品された羊毛製贔を始めとして、缶詰、製紙、鉛筆そして
マッチといった工業製品も、メルボルンの人々に雛本の工業化の進歩を示すの
に十分な晶質であったという。騰一方、徳濁が来場客の気が一番引きやすい場
所に展示した米や紅茶は、芳しい反瓢を得ることができなかった。8童講博覧会
で展示された1品々と直接関{系垂まな寿>つたが、徳密書こよると、 §本からの展示晶
で最も霧象的だったものは、18綴隼4月にメルボルン港に入港した海軍調練艦
朧駿選であむ、それ1ま、その艦が逐年急速に発達した8本の技術を象籔して
いたからであった。82名誉領事マークスも、馨本の軍艦が与えた大きな篠撃に
ついて、オーストラ琴ア櫨異趣人達が羅本の偉大な進歩、そして、露本を力強
い新進露家として認識することができた窃めての機会であったと明治政府に報
一7§一
欝鱒嫁以繭における縫豪の貿愛及び文髭交流の讃極(麟一1二鑑一)
修している。それゆえ、マークスは外務卿に隣して雑本の軍艦が定簸約にオー
ストラリアの諸繊鋭地を、祷れるように要請している。轟3マーグスを通じて、εi
本海軍の七宮鑑補生達一一行はヴィクトllア梅幾地の総驚および鋳癒に紹介され
た。ヴィクトllア纏1災地政癖はll本界、激官縦補生達を歓遷し、綾らに対して撰
纏鋭地内の無料鉄遊嚢雛券を支給している。麟
1二i本にとってニュー・号ウス・ウェールズ纏銭地とヴィクトllア植裂縫のど
ち身ラが将来最良の賢島指手になるかという長い言難争1ま.露鱒無代後}舞茸窪本数
幕fがシドニー1こ総篠事嚢露を設i養することを髪察したことで決善がっくGこの結
論誇ったのには大きく2っ蛎鬘師∫挙げ漁る。iつに!よ現在の兼轡紙
金縫の麟業者で、縫豪貿易の先駆養である兼松房次銘が亙8鱒隼にシドニーに支
癒を設立し、オーストラリアの晶々、特に羊毛の影1本翰墨を驚嬉したことが挙
げられる。暮鳩時、垂=体へ轍繋れたかストデ}ア産の羊毛朔証んどがシ
ドニーで饗い付謬られ、そして、船積みされていた。もう蓬っの馨霞としては、
繋縛、愛一ストラリァの郵船金被の本社はシドニーに置かれていたことである。
その結果、嚢本政府はシぎ二一を産一ストラl/ア貿易の中心地として覚なすよ
うになった0)である。鴎
簸税隼アデレード博覧会
彰1本が公式参饑した万露博覧会はシドニーとメルボルンの2っのみであった
が、i総嘩のアデレー縛覧会にも、メルボルンや讐ンドン、そして東京を鑓
点とする輸入代行業者や雑嚢嚢などによって、1遜本製熱が展示されていた。麟
鰻道機縫1証1本会場を、妊1本や琶二1本ノ・、に聞する一般的な紹介と共に、翻意的に
鞍透している。縫えば、ゼアデレイド・建ブザーバー虚(湾ゴ蕊α証ε0蕊εrぴεゆ
緩は、襲垂水は中渥繕様、鮭会的にも一緩的にもアデレードの人々にとって懸染
み深くなって来ているとし、縫本人は「中繍人が莚源ではなく…葭葉の混乱の
後、バベルを去一)た一行の末鶴である」というケンペノレ翻の仮説を引離する記
事を掲載している。鯵その記事は、iI蓬本弄、工芸家達と被らの弊贔についても高
く評饒して、次のように述べている自
…77一
行鼓舞会譲葉 箋舞巻 第4号
綾子奇毛・や美を愛する人々の熱意と薬毒こ1蒙奮轡購入されることで手斐々に雛這く、
鑛器や臨器、磁器、そして勉の嚢材においてこのような巧妙な譲造麹を惨害)
摩す旺1本人二£芸家の素躍らしい技衛や熟練に対して、称賛しなかったり驚か
なかった1りする毒がいたであろうか。」韓
講記事で舞、1三1本人及びその盲総々の稼賛を易/下のように続けている。
隆i韮本人は多くの事牽強こおいて優れているが、素購らしく作られた鍛器や好
奇心をそそる麹麗を遷しで一番難られてお馨、それらは、とても灘披に彩礁
られているので、壇上にも、空中にも、そして海中にもどこにも講じような
辱籏ま存在せず、あたかも想像力が覆乱を趨こしたかのようである。搾
彗本会場自体を訪れる人々も「この強勢の人々の独特で葬純な才能によって
心を持たれる展示晶の申に、素購らしい所業晶を箆つける」であろうし、そし
て、f一一時を博覧会に費やして薦垂本会場を見学することで奮意義に遍ごせるで
あろう」と結論付診ている。乾
シドニー及びメ疹ボ痔ン万藩博覧会後の影響
シドニー及びメルボルン万麟博覧会にお呼る1三1豪選1蕎襲1係の重要な奉書果の望
つに、アレキサンダー・マークスが醗治政癖によって、メノレボ拶ン博覧会聡難
の縫轟{巽こ名誉領事にぞモ命されたことが挙げられる。「オーストラ!3アから馨本
への訪聾者注編4葎から至8鋳葎まで」で運べたように、マークスは藪1ら進んで
名誉護事になったのである。マークスが建79奪の裁判において蓑本人胎嚢の遜
譲を買って鐵たこと、及び、メルボルン万緑博覧会においてアジア、アフ華寿
そしてアメサカ擬当委髭として驚わっていたことなどから、明治致瞬慧彼を名
誉領事に任命したようである。鰭
さらに、メルボルン蒼騒響覧会に参撫した髪奪本メ、態入、積出嚢次と、再講博覧
会の旺1本人事務蜜で羨遽した徳鑓利彦は、オーストラllアにおいて擁めての彩1
本の饗易会穀である「秩襲薦…会」を欝8玉葺三メルボノレン1こ,i菱塗している。徳翫
韓1、オーストラ摩アが数鴛三の後妻こ蓬ま薦≧彩球の「米墜菊のよう1こなると確{議し、
オーストラ肇アでは製逡業が発達していないことから塊毫三茶や米、藩葦黄やマッ
一78一
鰺§§隼以蓉塗こお1ナる羅豪の貿易及び文化交流の諸嬢(轡一L鑑一)
チといった多くの生活必需品に対する大きな錘本製贔市場が発緩すると予想し
た。騒この強い信念と共に、敵し癖まメルボルンに小さなi甕濤を設立、責任者と
なって馨本とヴィクト鞍ア纏民地を往来し、穂懸は羅本での事業を統揺するた
瑚こ東京へ震った。鮪穂i露活力にあふれ積極的な醸人だったようで・マ㎜ク
スもメルボルン万蟹博覧会成功における秋山の多大な貢献を基に、彼を有能な
商人として高く評慰している。鯵なぜ、歌出と徳顯が、シドニーではなくメル
ボルンを選んだのかは墾らかではないが、理由のiつとして、酋一ストラ蓼ア
における唯一の農本領事館がメルボルンにあったことが考えられる。霧の遷虫
としては、徳懇が、ニュー・ジーランドやタスマニア、そして南方一ストラ弓
ア植民地聞の通商の中心地としてメルボルンが優紘であることを、シドニーの
イースタン銀行の支配人から饑いていたことから、その窮言に縫ったことが考
えられる。蟹しかし、欝84無難欝に秋山が亡くなったため、彼らの事業は撤廃
を余儀なくされた。鰭
霞本座紅茶とオーストラ蓼ア
勇79隼から欝欝奪の万蜜薄覧会における藤本の参灘は、欝路隼のメルボルン
博覧会の後よりも、より欝豪貿易菰大に貢蔵することができた。欝82年の曇本
からオーストラリアヘの総輪懲額は茎総,333誘であったが、鱒その額は懲89年に
は約3絡の磐§,縛7需までに達した。購鰺鴇奪代覇様、米が最も需要のある§
本蔭醍三として留まった。i88§年には55,52葺表の蓉本米がオーストラ1タア喜こ輸出
されたが、欝88年にはその量は約3培にまで達した。
米が最も利益の出る8本からの輸出贔であったが、購治政府が鰺8§奪代鱗頭
オーストラ1}アに最も売り込もうとしていた商贔は紅茶であった。岩襖、いく
つかの理融から、羅本の政羅}役人も商人もオーストラリアヘの紅茶輸鐡の成功
を楽観観していた。鰯えば、羅本では欝響年にインドから導入した茶の木から
紅茶を生産するようになったばかりであったが、欝欝年にはすでに、勧農属で
生、産された8.374ポンド(約3,?§3キ欝グラム)の紅茶が大倉纒を通してメルボ
ルンへ輪講され、董,632ポンドの利益を■しげている。難この成功から墾治政蔚
一7§一
蕎数社会誌集簾舞巻第4号
な、愛一ストラ琴アを将来畷韮本座紅茶の有望な市場であるという灘象を受け、
それが、麟述の籏裂}liをして、シド二一フy醒博覧会を通して、積極的に醤本座紅
茶を宣伝することになった鍵羨のiつになったようである。
また、オーストラリアの驚場を礎察するため、欝簿奪から総総年のシドニー
万講博覧会1こかげてニュー・サウス・ウェールズ纏属地を訪れた新納車年や
佐々木懸鐵のような嚢人たちによっても、瞬治政購がオーストラ1タアを欝本藍
紅茶にとって糞望な秦場になると縫揺するようになったことは疑う余地が無い。
新納や佐々木は套i本に爆態するとすぐに、勧農局1こよって生産された紅茶をオー
ストラllアに輸出する慕再を襲えてくれるよう、購治政癖に難してそれぞれ嘆
額議を提墨した。新納は、この事業が多大な麟益をもたらしてくれるであろう
遷嶽を次のようにいくつか癒嫡している。①オーストラ蔭アの諸種浅地では紅
茶を常習的に溝費するようになったが、紅茶は中国からの輸入に依存している
こと、⑦紅茶は、縫のどの輸入贔と比較しても、最も群盗率が高いこと、③世
騨中からオーストラ婆ア1こ来る移髭萎館ま毎奪増給し続けていること、⑧津一ス
トラ》アで1ま労1勤者の餐1金が罪常に高も、こと、⑤オーストラ1穿ア纏民地人は紅!
茶を飲むが、労鐡者の蕎賃金のため、捧一ストラ婆アでは茶菓の栽培が試みら
れたことがないこと幅などである。欝2
鑑々木もまた、新納と鍛たような理由を嘆纐欝で鮨観しているが、さらに、
紅茶を飲む篠習1ま、産一ストラ夢アのすべての社会墜纏及び隼齢罎で確立され
ていることを付諺憩え、オーストラリア大陸の乾燥した気躾が水分補給を促し、
アルコーノレ飲料よむも紅茶のほうがより受け入れられている点、を付け憩えてい
る轡鵬
軽麹台政府は綾らの卒し出を受け入れ、i8鋭年薪納には4,8留ポンド(約2,2欝
キ欝グラム)、そして鑑々木に1誕,5§§ポンド(約2,§39キ灘グラム〉の紅茶を
それぞれ供給した。難また購無、高舞楽、熊本藥、及び福離漿の紅茶甕3社が
合併し、繊渓紅茶商会が設党され、至難.§巷奪斤(約鱒トン)の紅茶をメルボル
ンに輪癒している。麟
一綴一
欝欝牢獄蒲における舞豪の貿易及び文乾交流の諸灘(韓土雄一)
さらに、醸本産紅茶の輪鐵に聞して肯定的な意見がマークスを通してB本に
報告されている。明治政府に縫鐵した灘82年の薦業報告書においてマークスは、
諺本人の紅茶落人がもっと積極的になれば、オーストラ1}アは8本産紅茶の;有
望な毒場になるであろうと助言している。購翌奪マークスは、彼の勧善に従っ
て歓蟹商会が霧本産紅茶の販売を決め、窒伝し始めたことを報告している。
マークスは、秋鑓臨会によるε1本産紅茶の藪売決定が、オーストラ婆アの一般
大衆の欝嚢こおける霞本座紅茶の需要の高ま善に貢献し、オーストラ1ナア毒場に
おける露本の占有率が徐々に拡大するであろうと信じた。一方でマークスは、
B本産紅茶は串縫やインドからの紅茶と競争せざるを傷なくなるであろうと警
告し、秋田商会の小規模な資本を理由に、紅茶販売業としての鐸濤会の鰻界も
捲徳していた。齪
オーストラ婆アに端するこのような籾簸の8本産紅茶輸出の成功は長続きし
なかった。その理由のiっには、盤82隼に薦めてオーストラ弓アに輸鐵された
インド産紅茶が、蓉本藍紅茶よりも需要が高くなり、それとの競争を余儀なく
されたことが挙げられる。新納の嘆顯書にもあったように、薩摩の紅茶醗人意、
インド産紅茶ではなく、中国産紅茶との競争を前提にオーストラ1タアでの毒場
獲得を想定していた。総総年代を通してインド産紅茶はオーストラア南場にお
ける占有率を徐々に拡大していったのに対し、馨本産及び中国産の紅茶は、イ
ンド産紅茶との競争に数れたのであった。
飽の理癒としては、i総2年にメルボルンの歓懸藏会に輸鐵された暴本産紅茶
に不純勃が混入されていたため、オーストラサア斎場における霧本藍紅茶の評
鵯に傷がついたことが考えられる。鵬この不歪な取零iは、8本人紅茶生産業者
や藏人のみならず、明治補難の8本の海外貿易を支配していた日本の雛港地に
おける外国入貿易商にも帰せられるようである。海野によれば、茎8貿隼から
雄総年にかけてB本における輸痩入の約懸%が舛馨人貿易商によって皺む振わ
れていたという。齢8本人紅茶商人が高品質な紅茶を外国人貿易甕に鐸したと
しても、海外に輸轟される繭に、その紅茶に不純物を混入することは非常に容
一8i一
行政縫会譲葉 第怨讐 第4号
易であった。当時この霞題は広く認識されていたため、蕩述の壌蟹は報告書の
中で、外蟹人貿易商はεき本産紅茶に容易に不純物を混入でき、その結果、8本
産紅茶の名声は急速に失われることから、欝水産紅茶貿易は外蟹人貿易蕗に依
存することを許すべきではないと警告している。難角山によれば、上述の不正
取零1によって引き起こされた損害によって、鰺雛奪1に設立された横浜紅茶蔭会
は、その翌隼の狢82隼には闘震を余儀なくされてしまった。雛
石炭及び羊毛貿易
その一方で、欝82年から欝欝隼におけるオーストラリアから薮本への輸鐵高
は急速に伸び、鰺82奪にオーストラ辱アから蓼本への輸鐵総額縁7蓬,3麗霧だっ
たものが、醗9敏こ寵67,§8晒と約3惚こまで成長した。騰癬代、オース
トラ華アから霞本への最も重要な輸鐵品は石炭から羊毛へと移む替わった。ニ
ュー・サウス・ウェールズ纏見地から霞本への石炭翰墨量の最盛類は鰺82隼で
8,蓬鎗トンであった。その後、石炭輸出量は減少し、欝86年にL襲2トン輪鐵さ
れたのを最後に、停止してしまった。一方、藤本へ輸鐵された羊毛の量は急速
に増大し、石炭の地紘を奪継去ったのである。鰺83葬には、!53,讐5カティー
(約§2.3トン)のオーストラ彗ア産羊毛が8本へ輪鐵されたが、!889奪にその
数字は約3倍の喚24,解5カティー(約254トン)にまでなった。
このようなオーストラ1タアと段本闘の貿易転換は、響本における石炭及び毛
織産業の発展によって引き起こされた。崖鉱産業は、急速な産業化に熱心であ
った聡治政辮が後棒ししようと試みた、最も重要な蟹内産業のiっであった。
醒洋人鉱山技術者と最新の採鉱機械を善洋から導入することで、嚢本の石稜産
露量は急速に坤び、鰺縫奪にはわずか2解,893トンだったものが、鰺懸軍には
2,628,284トンまでになったのである。魏これによって、意一ストラ厚ア産石
炭の8本への輸入が停止させられたのみならず、欝本藍石漆がアジアにおける
オーストラリア産石炭の南場を奪い取ったため、オーストラ1タア産石崖はアジ
アでの市場占有率を鍾下させていった。これは、主に鰺85年と鰺88年に炭鉱労
働者による労髄争議が頻発した結果、鰺鋳年代後半のオーストラ畔ア産石炭の
一82一
懲鱒駕以暮春における蕪豪の貿易及び文免交流の諸組(根上雄一)
供給が不安定になったことにも莚馨している。i総8年9月置ノーザン・テ1タト
リー・タイムズ墨(論r漉ε蹴距rr鋤拶麗鵡εs)紙は、購年における労鐡争議
の結果、粟アジアや中蠹毒場におけるニュー・サウス・ウェールズ麺畏地のニ
ューカースル産石炭が、醤本やシンガポール産のものに、大部分取って代わら
れるであろうと鞍澄している。欝
明治政府が農本で奨励しようとした霧の産業には毛織産業があり、特に茜洋
風の軍服及ぴ官僚購の議…獺の生産を馨毒し、政癖主導の下、千住製絨所がi8鴇
痒に設立された。藤洋列強に絹港した後、8本人の賑装も西洋化の影響を受け、
それまで以.擦こ辱本毒場における羊毛製品の需要が姦まった。顕露8§年代中頃
までには、民間企業数社が毛織産業に参入し始めていたが、その結果、羊毛に
灘重する需要が急騰した。玉欝また明治政府1ま、中国や米馨、及びオーストラ1ナア
から多数の繁殖霧羊を導入することで、曝内産羊毛の生産も試みている。i8蔦
奪千葉渠に約2.9韓驚(約29平方キロメートル)の敷地を有する下総牧羊場が
設立された。次の鎗無間に、5,2総頭の羊がこの羊牧場に導入され、露88年に
はその数は慾にまで達した。難
オーストラ琴ア産羊毛が窮めて明治政購に紹介されたの1誰8?4奪で、ニュー・
サウス・ウズづレズ麺民地の牧羊家P.翼、トレベック(Tr曲e磁〉によるもの
であった。彼は瞬麺蔑地産の羊毛を蔭本幕場で促進させようと試み、同権民地
で麗縫されたi8縫隼の農業協会展覧会から霞雪のように最上綴の羊毛見本を収
集したのであった。この見本は駐嚢英遜公使ハ婆一・パークス郷を遷して、内
務卿大久保秦樋に手渡された.その返礼として、トレペ・汐醐治欠勤坊絹
製のハンカチとネクタイ、及び縫製の膝掛け及び敷麹を受け取った。欝トレペ
・ソクは毛織工場に鍵姦してもらうおうと更なる羊毛を送ったが、当時警本には
そのような工場がなかったために、嚢本において原毛に端する需要は全くなか
った。
i879奪まで藤本には毛織工場はなかったのであるが、オーストラ琴アの羊及
び羊毛に間する馨本の閣心は欝鴨年代後半から始まっていた。オーストラ婆ア
一83一
行政被会論集 第捻拳 第尋号
における農業を携察した後、i8箆年のメルボルン槌民地闘博覧会に灘わってい
た藤連の舟木と簸欝は、多数の羊を繁慈させるのに十分な±地が麩本にはある
として、農本における牧羊は利益を一とげるであろうと楽観的に予離した。総籬
蕎務省に提出された舟木の鞭告書によれば、彼らは繁慰穣こ最適な9頭の羊を
オーストラ1}アで買い付け、羊毛産業を発展させるためにその羊を琶本1こ送り
鐵したと述べている。欝欝聡葎には長瀬義幹率いる縫籔醗が、将来の定離的な
葦毛購入の商談をまとめること、オーストラ嘆アを視察すること、及び、欝本
へ更なる羊を送り墨すことを任務として、内務省から秀一ストラ琴アへ諏選さ
れた。鵬愛一ストラ喜ナアヘの使簸懸瀕遮1こは、さらに溺の深亥彗な靉靆があった
ようである。ゼ農務顛末誰によれば、明治政醗1翻,講暮強の羊を海外から輸入し
ようとしていたが、甲羅から導入され下総牧華場で飼畜されていた季が寄生虫
による轟癖にかかり多数病死したために、最終的には当密計錘していた頭数の
内5鎗頭を寒露及びオーストラ1ナアから輸入することに決定した。また、三菱
の商業船がオーストラリアに鶴け近々鐵航することを知った農商務省の官籐
が、この機会を穂綿して、更に茎,§鴨頭の羊をオーストラ1ヌアから輸入すべき
であると鍵言したため、捧一ストラ婆アから輸入された羊の総数はさらに増撫
したようであるむ羅結果的に、8本硬簸翻は㊧一ストラ号アで蓋,538頭の羊の
買い付けに成功し、その内42頭が2力弩に及ぶ欝本への輸送途中に死亡してい
る。鷹
しかし、政府主導による単繁蟻計灘は、主に牧羊に麟する知識不足から、あ
まり成功を較めることができなかった。鵬政癒の羊繁楚計画1護総8年には放棄
され、B本における毛織産業は輸入羊毛に多くを依存することになった。当繧、
駐本政府は良質のオーストラ撃ア産羊毛を、薩輸入ではなく、聾ンドンの取引
毒場を通して購入していたが、懲86年までに、ヨー實ッパで齢懇っていた羊毛
がもともとオーストラ1タア産であることが知られるようになり、オーストラ婆
ア産羊毛の露本への直輸入が始まった。雛その結果、オーストラ琴アからの羊
毛輸入の総量は鰺87年の驚5,687カティー(約総トン)から鰺88年の5馨,2謄カ
一84一
i8鱒隼以麟における譲豪の貿易及び文化交流の諸穏(趣.と雄一)
ティー(約328トン)へと躍進したのである。これによりオーストラ窃アが、
中蟹や粟インド諸島を揮えて、祷めて霞本への羊毛輸鐵露第i位の地盤を獲得
した。鵬この譲議の中ですでに述べたように、懲75隼メルボルン殖民地間博覧
会に参擁した橋本は、オーストラ嘆ア産羊毛の蓉本への輸入が饗豪貿易の基礎
になるであろうと予離していたが、一方で、その頃の窮治政購は橋本の予灘に
は耳を/露ナず、醤本における羊の繁殖を奨励し始めたのであった。
欝簿に千/空襲糎珊が設立されたことからもわかるように、明治故轍よ毛
織工場に必要にして十分の量の蟹座羊毛が生産されるのを待たずに、輸入羊毛
に骸存しながら操業を始めている。このことは、農本の毛織産業は、生産を維
持するために必要な量の葦毛を確保する貿易商を必要としていたことも意嫁す
る、オーストラリアの羊毛買い付けに従事した最も有名な8本人貿易繭は、
欝欝年代後妻1にその藏売に興妹を捲き始めた駿鐵の兼松疾1次躯である。しかし、
シドニー及びメルボルン万羅博覧会の主要な鐵展会社であった大倉縫は、すで
に露簿年代後睾よリシド二一やメルボルンにオーストラ移アの輸入代理人を指
名し、オーストラリア産羊毛とはすでに長く麗わっていたのであった。これは
主に大倉緯が千住製絨所に蝿する羊毛供給に関して明治政溝の代鰹木として任
命されていたからであった。鰺79年大倉緩の麟設者大倉喜八郎は、シドニーを
拠点として貿易に従事し、米覆へ霧かう途上嚢本へ立ち寄ったスミス兄弟を饒
餐へ招待した。その前年、スミス兄弟はシドニーを訪れた雲本人訪問看たちを、
霧の裕藩な繭人マクドナルド氏と共に歓待したと言われている。欝欝88隼にニ
ュー・サウス・ウェールズ纏民地を訪麗した看たちは、前述の長瀬義幹率疑る
使簸霧か、海軍講練船ζ筑波遜に乗船していた若い士官繧i補生達であった可能
性が高い。スミス兄弟は、8豪雨羅の闘に直に情報交換が行われることによっ
て多大な利益が生じると予想し、霞本との通商関係を促進させるために訪8し
たのであった。その鏡餐には、曇本人葭人のみならず、藤郷従道や聾.ヒ馨とい
った、著名な瞬治政簸高官達も鐵籍し、オーストラ謬アとの将来の通商発露に
繋する関心の高さを示していた。窟
一85一
行政社会論集 第慧巻 第4号
メルボルン万国博覧会淫8総隼から蓄8鱒隼
この講談ですでに述べたように、蒙本雑貨を蔽う商雛が欝欝年代終わり頃か
ら麗れ始め、鰺88隼から鰺鱒年にかけてメルボルンで麗催されたオーストラ婆
ア入麺欝倉霧年を記念する万毯博覧会には、そのような西洋及び§本の雑貨蕎
達が、琶本会場に展示品を提供した。i2鞍公式記録涯が遙嫡しているように、
当時ヴィクト1タア植民地から馨本への輸繕はごくわずかであったが、「その新
しい文明(暮春〉によって麟り識される必要な製品が徐々に伸張する」という
蓬灘で、露本との貿易が徐々に増大するであろうと強く懸じられていた。齢
コーニッキは、購治政瞬が懲88奪から馨89葬にかけてのメルボルン万蟹博覧会
に醸本の灘量地籔しか串昂せず、嚢本会場は霊に醤本を縫点とする西洋の商人
によって運営されたことから、懲88年の醤本においては、「オーストラ蓼アが
重要な通商機会であるとする信念は、政策形綾1に関して短鱗の影響を与えたの
みで、橋本や藪露のように政府高宮ではない者達によってのみ熱烈に支持され
ていた!と講じている。購しかし、オーストラ咳アでの万国震覧会に帰する蔭
本の公式な縫心が低下したことをもってして、明治政府がオーストラ移アとの
遜甕鍵係拡大を意緩していなかったとは、単縫には言えないであろう。事実、
明治政府は鰺鱒奪代を還して、オーストラ婆アとの通商騰採鉱大に熱心であり、
その結果、経本はオーストラ》アの諸植民地が茎894年に締結されたゼ羅英邁醸
麟海条約遜を幾准ずるよう強く希望していたのである。叢
懲総隼から欝8§年にかけてのメルボルン万蟹博覧会に蝉して明治政府があま
鯵麗心を示さなかった渥塞の工つとして、露本の麗心が欝欝隼に麗催されたパ
獲万蟹博覧会への参簾に商いていたことが考えられる。瞬治政癬は、パ蔭とメ
ルボルンで瞬時に博覧会に展示場を設営するほど十分な資金がなかったようで
ある。ま88{)年代、フランスは農本の最も重要な貿易絹手鑓のiっであった。携
えば、欝88葎フランスは麩本にとって第2番暮に大きな輸出毒場(捻.6認,2灘
跨)であり、一方のオーストラ1タアは同年第9番導(638,3蟹田)でしかなかっ
た。至32
−86一
露鱒隼以麟にお謬る琶豪の貿易及び文龍交流の諸趨(村一L雄一)
さらに、駐本はオーストラ蓼アとの選蔭を着実に拡大してきただけではなく、
鰺総年代及ぴ玉8欝隼代を通して貿易黒字を享受していたのである。明治政府が
欝欝年以降、万醒博覧会に展示場を畷設するため莫大な費繕を麟成してきたこ
と、及び、米国やフランスと比較した場合、オースト縛アの毒場は躰にと
ってかなり糧模が小さいことを考慮すると、明治政府が鰺88年から欝89年のメ
ルボルン万馨博覧会では、政府自身が懸本製品を売り込む必要はなく、民難商
人の手に委ねる方が響策であると判藪したとしても不思議ではない。よって、
懲88年から鰺89年のメルボルン万螢博覧会を最後に、購治政癖がオーストラ婆
アでの万国博覧会に公式参撫することはなくなり、一方で鰺鶉年代及び欝§§奪
代のヨー霞ッパや米覆で雛催された万蟹薄藍会には、購政府は公式参燦を継続
したのであった。
さらに、8本病けのオーストラリア産羊毛のほとんどがメルボルンではなく
シドニーで買い付けられ、そして、船積みされるようになったため、オースト
ラ琴アにおける羅本の経済的関心は鰺8§奪代後半までにヴィクト1タア纏民地か
らニュー・サゥス・ウェールズ植民地へと移行していった点も忘れてはならな
いであろう。このことが、欝88年余ら露8§年にかけてメルボルンで闘催された
入麺欝§編年記念万毯博覧会に対する、明治政府の関心藪下につながった、も
うiつの理由のようである。
鐸.穏健紀後半の謬ミカ随と8本ブームの諸相
騨ミカド薩と馨本ブーム
欝饗紀後半の云一ストラ彗アに霞本ブームを巻き起こした簸も影響力のある
鐵来事は、鰺縫年代後半からオーストラ琴ア中で公演され始めた、英蟹人ギル
バ_ト(縫もe紛とサ鯵アン(s轟磁)作による喜歌翻ミカド轡の広
範な成駒であった。その歌嚢1は新撒等を通して熱狂的に報道された。特に挿絵
人蔭雑誌は、白人馨優達によって着られた譲本の衣装、及び、オーストラ嘆ア
一87一
行政社会論集 第捻巻 第4号
の観客達を面蕪にして、舞台で購いられた騒本の装絶島のイメージを広めるの
に貢献したoi885葺護i月鯵擦、ゼミカド雲がシドニーの震イヤル麟場(Roy滋
?艶蕊鷺)で祷上演された。この歌麟は蓼シドニー・モーニング・ヘラルド爵
緩の記者に、欝欝隼のシドニー万露博覧会の琶本会場が多くの人々にド文明の
証鍵を認識させ真懸を評懸さぜた」ことを患い崖させた。麟その記者によれば、
野寄心は「霧本商品の定鰐的な入荷によって保たれ」、博覧会以降、シドニー
の人々は長い閣「沼本の紳士達に叢れi親しんできている」という。公演密林麗
麗してゼミカド薄の銭功は「十分保証されている」とし、その歌麟はヂシド
ニーの人々に支持されている」購は、「先に公演されたすべての演翻を超える」
であろうと購記者縁信じた。懸ζミカド誰は翌鐸メルボルンに巡業するまでに、
シ搾二一で34騒公演された。鵬メルボルンでは、ゼオーストラレイジアン・ス
ケッチャー涯誌が、『ミカ縫に出演している馨本の衣装を身に纏った俳優達
の詳纏なイラストを表紙に掲載し、その歌麟が葬素購らしい成功を収めてい
る」ことを報じた。欝その後ゼミカ確はアデレードでも残年に上演された。
ゼピクト婆アル・オーストラ婆アン葺(藷撹。擁認鴻鵬舘αオ臨鑓)誌もアデレード
のシアター・讐イヤル(丁蓋e&treRoya夢で上演されたi歌蒙1から写生籔を甕1載
したが、それには鴛製の慾扇を欝本の象徴として中心に醗還し、その周りに写
生籔が載せられていた。謬ピクト瞬アル・オーストラ婆アン藻は、シドニーや
メルボルンにおけるゼミカ醐の成功は飽の都市においても知られるようにな
っていたため、アデレードにおける公演は講蚕毒の人々の懇で「葬常に高い勝
心と其に難待されていた」と報じている。醜ぎノーザン・テ勝ト喜ノー・タイム
ズ薄紙はアデレードの逓信糞からの手紙を掲載したが、それには、その歌麟が
普段麟場1こ還わないような人々までも「燧了している」ことが書かれていた。
麟申の衣装は紅全くの農本風」で、そのような衣装を身に付けた役者達は、日
本の毯扇や扇子に諾かれている日本人と全く同じように見えると伝えた。欝
欝総奪g月、置ミカド垂はシドニーのPイヤル翻場で再上演され、再び威勢を
収めている⑪最もナショナリスティックな雑誌のiっであむ、懲懸軍代の反中
一88一
欝総年一以前にお呼る張豪の貿暴及び文建交流の諸繕(鯵、ヒ鑑一)
国人運動の中心的な役割を果たしたシドニーの罫ブレティン邊誌でさえ、そσ)
i歌麟が「かなりの威勢」と共に一圭二演され、多くの観衆が「恋物語を饑くために
集まった」と報むている。欝その翌年、当時の「オーストラ婆アにおいて最も
立派で最新の麟麹であるメルボルンのプtナンセス濠1揚で毅力確1講び一1二1
演されている。澱
『ミカド遷の人気は高く、欝鱒無代を遷して、オーストラl/アで緯度も韓.L
演された。饑えば、鰺93隼舞舞メルボルンのゼテーブル・トーク遜誌は、「ζミ
カド盤がシドニーで6震離の溝公演をされ」、麟場は溌み合っていたと報じて
いる。鷹
8本雑貨ブーム
ゼミカド壌が敏っ強烈な麟激によって、欝総年代後半、酋一ストラ》ア癒農
地人達の懸で饗本製品に麟する愛好熱が蕊遽されたようである。饑えば雄総年
代の仮装舞踏会では、雛水墨の着換を身に纏う若い女雛達を蓉にするのが当た
り議になった。穣綴、特に女性絹の毒麹慧、懇鴇無代ごろから挿絵入り雑誌を
通してオーストラ弓アの人々に紹介され始めていたが、懸オーストラ霧アの霞
人女権によって仮装舞踏会などで広く着られるようになったのは、ζミカ確
の窃上演以降であった。饑えぱ、鰺85隼麩海にヴィクトリア媛野地のある教会
の基金を集めるために醗かれた仮装大会では、」,シャノン(S嶽懸。瞬とい
う女性が、「醤本の女性」という題で、羅本風の着物を着て参撫している。灘
雄88年登用、アデレード市長先入によって講市の公会堂で灘縷されたオースト
ラ窪ア入難至総周年記念仮装舞踏会では、トルコや中講と並び、蔭本の衣装が
最も魅力麟であると判定されている。矯
縫の『ミカ曙の影響としては、羅本雑貨、特に扇子といった島々の輸入が、
露85犀を境に急激に増秘したことが挙げられる.これは、麟申において鞍懸の
扇子が、馨本や駐二1本人を象鍛する舞台小道翼として使われたからである。携え
ば、鰺82年から露経年にかけて讐本からオーストラ婆アに輸入された扇子の数
はたったの6,総7本でしがなかったのが、錦85奪から至総9隼にかけては、合計
一鱒一
讐敵社会論集 第灘巻 第尋晋
5騒,紛§本を超える数の扇子が輸入されたのである。幽ζオーストラレイジア
ン・スケッチャー遜誌は読者に女まして、峯毒に綾羅日夕ボンを巻いたノ1、さな8本の
扇子に書かれたメニューは、特需な午餐会や鏡餐会にとって遅想的であ鯵、そ
れは郵お土産として持ち帰ることもできる」として、推奨している。欝
米と比べると輸入総額はかなり緩かったが、欝本雑貨はオーストラ婆アにお
いて麩素及び羅本人の象鍛になっていった。総総隼代にオーストラリアの人々
に最も人気の会った農本商品は扇子と団扇であった。合計約§8§,総§本の扇子、
及び、4欝,春§§本の籔扇が、鰺82隼から露縛奪の総にオーストラ琴アへ輸入さ
れている。その内、i882年1こはたった鰺本の扇子しか輸入されていなかったに
も麗わらず、その翌奪には5,G§§本の扇子が輸入され、鰺88年には輸入数が最
高の3§9,碁盤本にまで達している。欝82奪から欝8§年の懸に弛の馨本雑貨のお
およその輸入数は、麟扇が魏7,総§本、屏風が捻8,鋳暮枚跳、穂傘が38,む碁§本、
撰灯が琵5,2§§纒であった。また、鰺8?年から総総年にかけて、約59,8総ダー
スの欝木製絹ハンカチが愛一ストラ蔭アに輸入されている.齢
絡縫無代、棄アジアからオーストラ讐ア開灌地への蒸気船航驚に沿って、メ
ルボルンやシドニーのような大翻毒のみならず、パーマストン(P盗難grsto鷺、
現ダーウィン)のような小さな鞠にも羅本雑貨は広がっていった。縫えば、
パーマストンのV.L.ソ欝モン盲鰻会鮭(Mess鍵V.L.So沁盤。簸&Co、〉
はi総2隼頃から嚢本雑貨を輸入し始め、ゼノーザン・テ琴ト1ナー・タイムズ薩
緩に菰告を掲載するようになった。ゼノーザン・テ1ナト1ナー・タイムズ遺紙は、
ソ臼モンの癌に簸られている8本雑貨は、「美しく芸衛的な製品に対して興味
を持っている人々を多く訪れさせるであろう」と報じている。麟講紙の記者慧、
絵付きの花緩や鶴器製の茶器一式の見本は、同紙の携写力を超えていると告白
している。吉典的な形をした銅製の小さな晶々が、「ヨー欝ッパの鑑定家や収
築家達の懸でとても高縫であることが実感できる」とも遽べている。縦8常使
離する物としてかたどられた管製品は、「葬常に低懸格であるゴように患われ
た.魏購記者1ま、弓を立てかける台の美しさに心を打たれ、パーマストンの若
一紛一
欝欝年取暮暮にお謬る欝豪の貿易及び文銘交流の諸縷(樗上雄一〉
い女性への贈継物として適当であると考えた。また、著い男盛に対して贈るこ
とができそうな品々も数多くあった。勝雄総年代を通してソ聾モン有限会鮭は
礬水製品の販売をノーザン・テ弓ト華一で継続した。このような商量が多くの
購買者を懸了’したため、中には最も魅力的な弩本製贔をめぐって奪い合いにな
ることもあったという。竈
クイーンズランド縫蔑地では、ブ1タスベンのフィニー・アイルズ春霞会社
(難醗εy醸es&Co.〉が鰺8駈韓至月に、実績的で独特、そして装麹的な瞬
本の装簸小物雌i鵯箱分を見てもらう準騰ができたという広告を鐵してい
る。鵬欝欝年5月には、ジェイムズ・マードック鵬が、嚢本人商人数名の代
理人として、扉風や煙草遊具・一式、銅器、鼈甲作品、紋、絹及び縫製ハンカ
チ、テーブル轡等、厳選された琶本の島々をブ寝スベンで競売にかけ、i薮発し
た。麟勉の纒としては、i総8奪8月に日本から装鋳小掬を大箱で欝§箱分がシ
ざ二一で展示されている。懸さらに、このような馨本雑貨1ま行商人たちによっ
て、オーストラ1タアの辺轟な弱拓地にも運ばれていった.軽えば、蓼オースト
ラレイジアン・スケッチャー遜誌は葬開拓地の行嚢人」と題した挿絵を揚戯し
たが、その絵には嚢本の懇扇や漆塗りの盆を含む晶々を見せている行商人が携
かれている。欝欝8§年代末までに、愛一ストラ馨アの主要薬毒では露本雑貨を
擾う店が遷れ、露88年から鰺8§奪のメルボルン万醒博覧会では、西洋人及び
響本人雑貨蕎達が礁本会場に蝿して駿らの葭贔を提供し、展示したのであっ
た。騰
茎8駁撃年代前業に煮一ストラ》アは大不混暮こ発舞われるよう1こなるが、欝本雑
貨に韓する愛好熱は同年代を通して続いた。鰺欝年代のオーストラ婆アで最も
人気を博した嚢本製贔は引き続き扇子と懇扇であった。総計約492,総§本の扇
子が総懸年から欝§9年にかけてオーストラリアに輸入され、綿蟹年にはそれま
での最高解,§総本にまで達した。講時期にオーストラ暖アへ輸入された勉の日
本雑貨としては、団鑛鎗8,0奪む本、屡懸28,0奪巷枚、鵜傘28§,総§本、提灯2蔦,総§
鍵、絹製ハンカチ欝き,§暮§ダースであった。難
一鍵一
行政社会論集 第欝巻 第4弩
欝鱒隼代を通して愛一ストラ撲アでは・礬水藤島がしばしば競売にかけられ
た。携えば、懲懲奪3月メルボルンに鍮器、象牙の額、彫亥彗、象嵌総工、飾吟
醸、そして魅力的な繭繍や絵錘といった洗練された覇本の工芸贔を擾う唐が閉
痛したが、その癖は禰隼欝月に鰻売を行っている。それは当時メルボルンに輸
入された「多分、最も素蒙らしい醤本の工芸作罷慕」であろうと言われた。蹴
この作品羅1ま騒本の沼島という商人によって選ばれたもので、メルボルンの
『アーガス還緩は、「この選ばれた多くの作品よりも籔案が芸衛的で串来栄えが
美しいものは縫に無も、」と遊べている。鶴欝蟹零鴛月ポート・ダーウィンでは、
ランドル・ブラザーズ奮罎会冠(Mess器.魏猟曲B艶s.&Co〉が、陶器、
漆器、畳、徳立等、旺i本製撮を競売によって簸差することを企鬱している。麟
ゼノーザン・テリト1ナー・タイムズ遜紙1ま、この販売に臠して「漆器や磁器、
臨器、骨の装鱗小犠、畳、そして、璃の魅力的な商品の素晴らしい品揃えは、
クl/スマスや新年の贈り犠として最適である」と穀じている。獅魑の馨本雑貨
競売には、露弱■年鑓彗にメルボノレンで絹催されたものがある。 これは、故ジ
ョージ・ヴァードン郷の収集物を叛売したもので、響本から輸入された雑貨や
珍品が多く含まれていた。麟ヴァードン郷は「常に芸徳に鷲心を持ち続けた」
政治家であり銀行家でもあった。欝罫シドニー・メール』燈y轟砂翻編著〉紙1ま
この競売を報じたが、その中でケンペルの書軸から「馨本人は、真鍮、金、銀、
編における撫工接穂の精巧さにおいて、地のどの醒蔑よ等も優れている」鵬と
いう一一文を弓1難し、ヴァードン郷の舞;奉1製茅芝殺の叡葉群を以下のように雛写し
ている。
「嚢本の麺物露家は憲芸家のよう1こ自然、に従うことで満足し、故ジョージ・
ヴァードン郷が蓮の花と菊の蟹(褻1本)から輸入した花緩に癌かれた花の絵
は、色使いも購轡も絶妙である碧」購
オーストラ鯵ア4〉8本家屋
最も薄象的な麩素愛好の一転が、覇事のG.W、ポール(9a鍵)によって
圭887年i2縁ブ弓スベン難外のエユー・ファームに登場した。ぷ一ル率il事は長期
一§2一
玉8§§奪摂養における醤豪の貿易及び文髭交流の諸雛(鍾L雄一)
休暇を秘離して講年の数井戸1懸汀美しき野1末」に灘在したのであった。購被の
神戸での滞在は始めから終わりまで「楽しくそして驚き」であむ、馨本の人々
と被らの習穰、蔭/習、そして、El常の生1活儀式という興味深い雛究をするため
に、藝1らの意思で滞在を延長した。ポール覇事は雛本家麗の建造糠こ特に心打
たれ、彗本家渥は灘帯及び亜熱帯の地域に適していると考えた。被は函部ク
イーンズランざ植幾地には欝本家麗が逡重していることを証明しようと決意し、
ブ1ナスベンに縫本家護を建設するという彼の計藤を実現するため、神戸在住の
英匿人商人を代理人に指名した。その英蟹メ、商人は欝本人土建業者を雇い、
ポール判事が滞在した神戸にある大名渥敷の2倍の大きさにする以夕雲は、すべ
ての点において同じ建物を建設し、愛一ストラ》アへ輸送し、そして再び建設
するように命じた。さらに、その欝本家渥が欝§年の羅霧年数をもっことを保
難ずるよう、その英羅五蘊人は獲本人土建業者に要求した。嚢本から輸送され
る蕪に…度績み立てられ確認された建軽がブ婆スベンに到着するとすぐに、馨
本人大工数名が露本家屋を建て始め、懲87年末までに完成させることができた。
この欝本家渥はブ畔スベンの人々の注麩を集め、地方新縫や雑誌はこの珍し
い建物に関する記事を撮載した。鯛えば、ゼブ婆スベン新報冴(8ヂ誌塊鷲
C穂波r〉紙は、羅本家羅の内装を称賛して、次のように描写している。
「邸宅を佳認る襖は、波紋のあるサテン紙の1種で作られているが、多くの
部渥を珪窮っている捜には、馨本芸術の最も華麗な様式を駆・て絵が携かれ
ている。…霧の認羅には、多くの異なる馨本の地域が縷かれた絵癒があ甑
芸講家の技量そして非純な麟造的才能さえ示している磨密な様式をもってし
て、すべてが講修されている一一方、それらすべてが、景色を称賛する表現と
して、意図的に描写されていると評されているのである。」織
鶴緩の記者は、経本家屋の内装の美しさのみならず、その機能的な役憲l!につ
いても驚き、以下のように述べている。
「ヨー欝ッパ建築の灘観をしばしば縷ねる、擾いにくく葬芸嬉的な換気難の
替わりに、天井馨近の空、気の通む道として、賢聡な残本メ、1ま鞍鷹に雷文総工
一93一
行致蛙金浦集 第捻巻 第羅号
の仕切りを設け、空気の選り遵を確保してお鯵、それは機械的な作購に芸衛
が憲絹されている、並外れた纒である。」麗
講記者は、醤葉でこの家を十分1こ懸写することは不可能であると雪融し、
ポール鵯事から誰にでも見学を許醒するっもむだと言われたことから、この家
を訪絶することは「最も興秣深いもののiっ」になるであろうと遠べ、読者1こ
自分の醤で確かめることを促した。欝
ゼブーメラ雌誌(君oo醗εr嚴g〉も挿絵入りで、この家を好意的に報遵し
ているG
「この家を見学したら、読本の芸講を博暢館の展示品や雑貨籍でしか甦強し
ていない者は、快く驚くであろう。そのような人1ま、すべての醤本の物がそ
うであるように、美しく漫合され講和されている一方で、東洋趣嫁の人々に
とっては鮮やか過ぎるかも知れない、力強勢色を発鐵すことを疑いなく鞘待
するであろう。」羅
匿ブ管スベン新幸灘紙購織、この記者も謡本の室内装蜘こ感銘を受け、嚢本
人芸術家の感性を称賛して以ぞのように遠べた。
ギその璽の壁は純舞風の着麹を養た女性の絵を掛けることで分けられている。
霧の絵でその芸術家は、B本人がまさに完壁な名人である輪郭慈写の申に、
動麹翼と麺鞠鼻を残し、舞本の生活の様々な場癖の義理を与えている。」驚
購記者は、馨本家渥の完壁さに感銘を受け、ヂその家全棒が、装鋳の諜穂、
そして、色と輪郭の完壁さにおいてギ琴シャのものと瞬等であり、ミカドの蟹
の完壁な理想である。」と述べている。欝この独特の家渥は、ブ弓スベンのみ
ならずオーストラリアの縫の諸都南でも広く驚られるように、当時の有名人達
が数多く訪れている。饑えば、蓼メルボルン・パンチ遜誌は、鰺鱗隼7月に
「オーストラ讐ア演麟界で最も愛された女優のi人」欝であるマイラ・ケンプ
ル(My撒Ke搬も至ε〉がブ彗スベン滞在巾、ポール甥事の8本家麗でティーの
もてなしを受けたことを按じている。驚
ポール判事の8本家屋に簾えて、雄鍵年メルボルンに、「馨本家渥を表現す
一§4一
鰺鱒隼以前における8豪の貿易及び文箆交流の諸帽(軽一L鑑一)
るために最も魅惑的に表装が施された」美しい喫茶康が闘籍している。囎その
喫茶⑳壁に離/轍横妨れ、テーブルとテーカレ磯購鋤簾で幽擁
ていた。残念なことに、その喫茶唐1ま岡隼7鰐に発生した洪水のために取り壊
されてしまっている。騰
オーストラ号アの印象滋藤家達と欝本
オ_スト葬アの難隊愚ま、i鱗無慾こオーストラ1淳で緩示された織
入された1りした藤本の諜籍や雑貨を遜じて懸本芸術に接する一方、西洋の絵懸、
特にフランスの印象派の作品に醤本美術が与えた多大な影響にも気がついてい
た。ま騰鱗噸か灘本鱗鳩寿療灘一スト葬ア1誌た拠れるようにな
ったが、窃めてまとまった雛本美術の収集物がシドニーにもたらされたのは、
鰺74奪、からi87§年にかけてタヒチ、8一本、そして中蟹を訪れたオーストラ畔ア
の懸家ジョン・ピーター・ラッセル(Jo擁Petεr R麗sε茎)によると言われて
いる。鰺雛奪ラッセルは絵遜を学びにパ讐へ向かうが、そこで鐵会った友人達
からジャポニズムに麗する知識を畷駁した。ラッセルは鰺77奪に書いた手紙の
中ですでに、沼本の芸術とイタ婆アのルネッサンス簗の芸衛を灘連付け、彼自
身が馨本美徳に負っていると記している。臨
アデレード生まれの画家、モーティマー・メンプス(M鍵t擁er M騰脚sナ
もまた、舞本の晶々を直に入手し、醤叙葎と鰺弱年に2度藤本を訪れている。
被は、ロンドンに滞在していた頃、「醤本芸備を古代ギリシャの芸籍と講等に
言及した」米国大鷺象瀕露家3.A.Mc餐.ウィスラー(W短st融)の影響で、
経本の品々に端する嗜好を得た。蹴2度醤の灘本訪翼の後、メンプスはオース
トラリアで講演を行い、臨象的に配列された絵画や蔽灘、そして彼自身の旅行
を基にした本を串叛している。ブ欝イノスキ(Bro雛ows娠)によれば、メツ
プスは「今韓活き活きとしている唯一の芸嬉は嚢本の芸衛であるとする匿名の
権威者の見方」を認めていたと奮う。騰彼は彼が辱ぶところのド極東の美しい
国」から戻ってきた時、すべての嚢本人が心腹芸徳家であると確揺するように
なった。麟また破縁、「醸本人の露盤で縫洋人の行肇1を見るようになり、その
一95一
行政挺会譲葉第欝拳第4弩
舞勤を聡じるようになった。騰
灘欝年代の嚢本ブームは、トム・霞バーツ(?〔)難Roむ8魏s〉、チャールズ・
コンダー(C麺漉sCO総εで)、アーサー・ストl/一トン(Ar籍鍵Streeto燈
といった、オーストラ夢アの著名な羅象滋画家達にも影響を与えている。イー
グル(量鰭齢によれば、馨本の認扇、提灯、漆塗りの盆、そして、εばさばさ
した黄色い騒本の菊を濃く、様々な花が活けられたもの」が揖バート舞ゼL.
A.エイブラハム嫁入2(躍給L.擁.遠猷碗α羅s、欝88隼)の中に懲かれてい
るという。鰺毒また典婁!的な馨本の題誘である花が、「葉の閣の喜びの婆悪婆禽」と
して露本式1こコンダ一作の謬ヘサックの権(Eεr凄誌窺osso澱ε、i8醗年頃)
に描かれているという。欝欝総年代ではなく鰺鱒年代になって、蔭本美術の影
響がストリートンの鐸晶に覧られるようになるのだが、一方で嚢本提灯の摸写
は欝8§簿から露鱒隼にかけての彼の写生緩に晃られるし、また菊を題材にした
作品も同じ時簸こ搭かれている。i戦蹴年5月メルボルンにあったトム・・
バーツの薩霧の揮縫がゼメルボルン・パンチ選誌に掲載されたが、そこには8
本の扉風や椀が見てとれる。欝またコンダーは簿度か茶会を驕いているが、そ
こで彼は新たに人手した§本の急須を驚いて客をもてなしていたという。購
V.オーストラリアの「8本人材」:総86年から糖87年まで
オーストラ1フアにおける露本人のイメージに寵して最も影響のあった鐙来事
の玉つが、王886年オーストラ1メアで莚こった。ペンノぐ一トン・W・ウィラード
(疑獄魏rto擁W.W議鍵δ〉率いる34名の職人及び4名の錘芸舗からなる8本
.への一行が、シドニーに上陸したのであるσその欝的慧単に実演するのみなら
ず、客の嚢蒲でぞ乍り鐵される馨本雑貨を売ることにあった。ウィラードが侮に
よってこのような企遜を立案し、実行したのか定かではないが、多分総総年窃
ンドンで成約を殺めた「8本大村」からヒントを得たと患われる。それは、彼
が溝じ名麟で馨本人一行を嶺き連れてきたことからも推察できる。さらに、こ
一96一
懲鶉隼以前における響豪の貿易及び文化交流の諸穏(耕.L鑑一〉
のウィラードの余震は、オーストラ1タアにおける麺畏地聞及ぴ万国博覧会での
羅本会場の成功、または、簑ンドンとシドニーにおけるζミカド遭の成功につ
いて晃懸きして患いついたのかもしれない。
この蒙本人栂は、まず、鰺86年違月露8から隅奪7月欝8にかけてシドニー
に設営された。『シドニー・モーニング・ヘラルド雲紙は、讐本人繕の展示会
場はヂ人気を召毎に増しており」、そして麩本人が繕く姿が好奇心蓬盛な来場
客達によって観察されていると報じている。蹴その緩示会場は無数の提灯、そ
して仏教寺醗や茶室を模した露藤など、鞍懸講で装籔されていた。その展示会
場の特徴縁以下のように織写されている。
「その展示会場は§新しいだけではなく、教育的な特長を有し、馨本の芸術
や製品、そして、娯楽の考え方を教えてくれる。」窺
シドニーの蓼デイ響一・テレグラフ遷のα∫砂郵ε髭g紛擁)紙もまた、「8本
での鬘下がむ」という題で、ある貴婦人1こよって書かれたB本人材に閉する記
事を掲載している。その女性は、「暮本が私達の湧にやって来たことはとても
喜ばしく3、B本の産業や娯楽と共に、薮本人の生活や活動を通して、欝本の
韓の実鱗を見ることができると遽べている。跳
画趣に富む8本村の様子は、挿絵入馨雑誌にとって格好の題耕であった。饑
えば、ζ挿絵入むシドニー・ニュース遮は「8本の夕べ珪と題して、霞本人樗
の写生籔を数枚掲載している。その中には、仕事に従事している馨本人の職人
や藤芸懸達も描かれている、購記事では、8本人の数の少なさや建築魎の不十
分さ、及び、商品の鎧の高さ等について、難待はずれだったと捲擁する一方、
購誌の記者は読者に対し、「この無害で小さい人々」と其にきっと楽しいタベ
を過ごせる1こ違いないと伝えた。雛そしてヨ本人の気性に関して、岡記者は次
のように述べている。
「醤本人の気季生は、梅理的な意味において我々とは舞1乾できないかもしれな
いが、痙千通むもの異なった方法で、注1本人」は、彼ら霞身を精神的な類
似に最も近い能力を;蕎することを示してきている。」獅
一97一
行政縫会論集 第捻拳 第護号
またこの記事では、日本人の西洋化を、8本人が西洋に「糖神的に最も這い」
能力を有する一例だとして、次のように述べている。
「騒本人は鉄遂機麗車を走らせ、電蠕を操作し、喫煙し、そして、多分、こ
の時代の最も変容した習慣の内の玉つとして、絵葉書を書くであろう。なぜ
なら、彼らは饗代文瞬へと極端なほど霧かっていることは畷らかであるから
だ。」鵬
鰺総奪代の反申蟹人運動に最も影響を与えたシドニーのゼブレティン肇誌で
さえも、展示会場の写生纒数紋入善の記事を掲載し、諺本入村から多くの楽
しみを瞬き申せるまと結論付けしているゆ醗多分講じ記者によって書かれたと
思われるが、これと似た記事が、『クイーンズランド・フィが暮遜(萄混ε醗蕊α翻
鞭α紛議誘掲載されている。騰
8本轡の一行は、メルボルン(欝総年7月2妬きから露8?隼i月8馨)、ホバー
ト(鰺87年i月露霧から講奪2月8饗)、そして、再びシドニー(鰺87年2丹
欝罎から講隼4月欝欝〉と、津一ストラ弓アの諸薬毒を巡業し、成功を霞めた。
メルボルンでは、名誉領事アレキサンダー・マークス、メルボルン市長及び書
記窟、市議会議員数名、宗教諸濠、及び、多くのヴィクト1ナア穣民地立法議会
議員が、瞬会式に招待され、8本大村に対する驕心の高さを表明している。磁
その中には、欝欝奪の愛一ストラ婆ア連邦政購の擁代法務長富になむ、i鱒§年
代の白豪主義とB本との関わりにおいて重要な役割を演むることになるアルフ
レットディーキン(A瞼磁Deakま拶も参列していた。蓼エイジ諺紙に掲載
された広告によると、25週間の内に、延べ335,驚§人以上の客がメルボルンの
沼本人軽を訪れたという。蹴
ホバートで霞本人村は再び多くの人々を魅了した。本バートのゼマーキュ
1漢心醤⑫4那膨拶〉紙によれば、9本の製品や芸術品、雑貨などの販売が非鴬
に成功していたという。そのような物の多くが、先頃ホバートで競売にかけら
れた類蝕の物と比較して、かな蓼安く提僕されておむ、非常に多くの発勃客達
が売唐を見て、多くの饗本雑貨を購入していった。灘ホバートでの開耕から2
一§8一
雄繋駕以前における愚蒙の貿場及び文化交流の諸嬢(韓土雛一)
遷闘後には、諺本人と来場客たちの闘にヂ真の友情襲係」が確立されていたと
思われるほどであった1。2鑓
タスマニア難属地で大成勢を収めた後、欝87年2月に懸本人村の一行は再び
シドニーへ罠って来た。シドニー訪闘はこれが2痩熱こも騨わらず、墜本人桝
は再びシドニーの人々を魅了し、報遂機関誌好意的に取鞍上げた。纒えば、
置シドニー・そ一ニング・ヘラルド遜緩は、羅村に麗する記事を再び掲載し、
以下のように報じている◎
絵本入村は訪れる懸纏があるが、午後の時懸だけですべてを見学すること
は不可能である。修業がこの種の中では優れているものの1っであるばかむ
でなく、近代嚢本に麟染みのない人々にとって工芸品はとても懸力を資し、
好奇心をそそる。」蹴
欝欝年5月罫挿絵入勢シドニー・ニュース壌誌は再び霞本人村の写生醒を掲
載し、多くの、そして、鑑識鰻のあるシドニーの人々によって承された大きな
関、むから、「事業は経済的に著しく成功したに違いない」と報じている。脳
このようなオーストラ》ア書巻麺輩琵地華こおける羅本ノ\村の大成功は、188(}年代
後半オーストラllアにおける懇本ブーム」の隆盛に影響を与え、霧本製品へ
の愛好熱を生み出したのみならず、多くのオーストラリア韓艮地人達の心に、
肯定的で無害なイメージの駐本人像を麟造することに貢献したのであった。
び
鷺.結
玉87§{車代から露鍵無代1こかけてオーストラ13アで雛催された博覧会への8本
参糠1ま、オーストラ1ナア擁渓地の人々の闇に、舞本は覆界で最も文明秘した鑛
の1つであるという一般的な認識を製造するのに貢献した。目に見える費本縫
賃によって生み出された貨定的な置1本のイメージは、「オーストラ婆アから麩
素への訪簡書涯8騒年から欝弱年まで」で述べたように、至8鴇年代から総総年
代にかけて出叛されたξ1本に関する旅行記事や本等、勉の構報源を通じて、さ
一鱒一
行政社会講築 第舞拳 第珪弩
らに増幅されたことであろう。またζミカド曇の上演1成功も、 屡本に対する
オーストラ!タアの麗心を引き起こすのに貢献した。そうではあったが、一方で、
霞奉雑貨や匿ミカ甥の公演によって広範に広まったイメージは、海湾の舞に
なったように患われる。つまり、オーストラ鯵アにおける製本雑貨に蝉する愛
好熱の高まりとゼミカ磯の成功によって、文瞬化(蓉洋化〉した嚢本と、伝
統(封建)的8本とのイメージの観たりが、賂段に広がったということである。
これによって一般のオーストラ浮アの人々は、先入観のない騒本及び欝本人へ
の認識というものが懸害され、総懸年代のオーストラ讐ア纏浅地人達の闘に馨
本や麩本人に難ずる修復できない混羅を生み鐡すことにな絵、その混講は今欝
においても見られるのである窃当蒔の混合の鱗としては、慕一ザ・キャンプベ
ル・プレィド(Ro澱C&灘油磁Pr畿δ〉が鰺弱年に発表した揮マダム・アイ
ザン遭(編綴α醗琵醗〉が挙げられる。プレイドはクイーンズランド韓民地生
まれの小説家で、鰺総年代から亙鱒§奪代窃頭にかけて数多くの本を鐵叛してい
る。旛この物語の中でプレイドは、ケンチョウとヤマサキという全く異なる2
人の沼本人男雛を登場させている。オーストラ彗ア墨身の貴婦人マダム・アイ
ザンは、B本の歴史や密命を議明する、鋭敏で教養のある案内人ケンチョウを、
rボンド街睡ンドンの一流商店街)鐡身の紳士とほとんど同じで、着こなし
がとても上手で、稜の歩き方や礼儀作法には瞬確な8本人らしさがほとんどな
い」と見ている。鵬一方、ヤマサキは、「青い着物とセーラー耀を身につけて
いる葬常に小さな8本人で、最も醜い男…」として、全く正反女鐘に搭写されて
いる。鰹ケンチ3ウが近代(西洋)死した霞本人を象徴している一方、ヤマサ
キは、西洋化が進んでいる猛毒に顯癒することができない、伝統(封建〉的な
8本人として表現されているのは窮霞である。さらに、ケンチョウでさえも、
羅本の慣習や迷揺から全く窪密ではないと猫かれているのである。騰
i8総年代の欝豪醸の外交縫孫において、繧豪闘貿易の拡大も安全装置として
機能した。しかし、それにも、嚢豪縫において将来的に鰐立を引き起こす可能
性を脅するいくっかの開題が内包されていた。第iに、欝総軍代から盤鱒年代
一iG毒一
雄鱒奪取羨における羅豪の貿易及び文姥交流の諺糊(啓上雄一〉
にかけて、日本がオーストラ1}アとの貿易において黒字を計上し続けたことが
挙げ漁る.第2に、明治嫡の産業敏策によって躰霞内妬炭翻量が
急激に増給したため、ニュー・サウス・ウェールズ植蔑地から8本への石毅翰
墨が鰺86年以降打ち窃られ、8本毒場を失ったばか琴でなく、沼本産石裟との
競争の睾課、i脚鰍後半アジアに翻る舷一磯ウス尋エール麓跳
産石炭の市場占有率も懸下したことが挙げられる。
8豪閣に樗寒釣に端立が引き起こされる薄髭性があったとはいえ、懲89年に
マづ、,効覇治灘に幸結したように、2欝欝脚までオ一層ラ貯鑓諜
は馨本と旺1本人のイメージを好意的に受け止めていたと言えるであろう。この
オ_ストラ貯諸纏民地と護本題瞭常に幸鱗状灘ま、欝巷隼代を還して急
激に変化していくことにな辱、欝8§無代までのオーストラ!タアにおける8本文
明や文化に麗する譲考は、欝3§年代までには忘れ去られてしまうのである。欝
そこで、次懇の論議では、欝鱒隼以前におけるオーストラ畔アヘの8本人導
入について考察を行う予定である。そこでは、真珠貝ダイバーや砂穂産業従事
労鐡者といった8本人奪季労鐡者を含む8本人移蔑が、オーストラ1タアにおけ
る薦本や蔭本人に関するイメージ形成に与えた影響を広範に分析する。また、
甦本の初鱗南進論とオーストラリアについても、愛一ストラ喜多アヘの霞本人移
民との関わむにおいて考察する。これらを通じて、i8鱒年代愛一ストラ撃ア1こ
おける醤本及び霞本人のイメージの急激な転換の考察にさらなる基盤が与えら
れることになろう。
注1
韓土雄一,「オーストラリアの捕鯨懸と霧牽:磐騒年まで玉密行政種会論集悪
第圭i拳,第4号(欝鱒〉を参.照、。
2材雌一,縫一ストデ浮から躰への調意i纒働・らi蹴隼まで」・
罫行政社会論集遜,第毘巻,第逢号(臆総)を参照。
3触栄,r朦逓敵機劇,鰹済鍵謝識α魏(凝yi鰍),夢漁難
一驚i一
行政社会論集 第i3拳 第4号
表及び第2表参照。残念ながら驚罎は,当時の主要な翰墨品や輸入品に言及し
ていないが,本論説でも言及するその後の貿易進農から推察すると,馨本の主
要な輸鐵品は米で,愛一ストラ》アからの主要な輸鐵晶は石裟であった可能盤
が高いと思われる。
4 ∫麗㍑蕊rα哲εδSl翼ぎ飛¢y蔀ε灘ε,蓑}A登r嚢i$54(以一一ヂ雄ノ》と蓼各霧三).
5 翻励。駐鷹εP醗漉,亙2sむ薙餓麗r i867,‘A短凱容硫○琶r vol撒勘rs.盤嚢
騨act圭艶.},夢、84.
6 P繍翻鋸挽魏。ε撹ε醗ぎ漉ε読癒読磯摩1376(擁励むど羅a/875〉〔)が麗蕊♂
陶εc鍵ゴ3,co醜漉漉確臨紛磁ε麗。箆,確醸09磁s,o撰。翻 欝欝ぬ Gダ漉ε
Oo醗醗誌8魏ε礁r鐙厩sα寵rεご餓耀綴魏魏εoμ為εε羅εr砥醗ゴεs灘y醗ゴ
sε磁s痂ε醗醜2s磁α言醗ゴ欝鷺。藏。 r2so琶rcεεoゾ醜εco言。響。ダ競。諺罐窃
(鄭重裡も。疑r難elMcC&卸ro嚢,8鋤6&Co.,i875〉,嚢、童x(以下’0携蕊α∫蕊εむ{ザ㎡と略
記〉.
7藷鼠,欝.x嘘.
8 蛋》蓬ヒKor盛cl{圭,‘」母鍛威t}鐙A雛stra難&登欝x短媛t重。簸ぎ,ノ短蕊rαぎ諭達畿葛雄εs,
BO.8 (」縫至y i§{擁〉,至}.2(),
9村上,rオーストラ婆アから総本への訪問者:鰺灘年か艦8鱒葎まで」を参黙。
瞬 前掲書参難。
賞Barr¥to鞭Ja馨盗es琶窪。マer磁瓶,3饒。磁波ri87尋,泌躍磁一Gδκ翻勧
盈}露ヂひ 圭868一茎§415, G難 磁童cro嚢至難 G i6蓑}4, f叢{} 資。.3.i5.2.6, 蓋雛{至 at も難む
蕪atlo簸aiL墨短&ryo窒A壇sもra玉ia(以下漏G灘と酪記〉.
i2 Barry 七〇 t簸{}J農至織筋むs8 霧over簸灘{撚t,3{}Decな灘}}er i87塁,め∫威
圭3」卿醗膨εε婚論だ,6Mar膿i続,cit磁島Ko難lc羅,餓ε詫.,夢、2暮.
鍵 ポ東京暮々新難ま,欝蔦年3月2聾1,及び,罫郵便鞍橋新縫垂,鰺器隼3月2超.
1暮 馬出,前懇書,夢.8.
露 Ko懸童戯重,o舜。諺、,即.23老3,擁9ε,2逢熊鷹t至sも欝75,τ綴麗α箆6Co琶漉拶
JG琶r隆αぎ(Sy(墨鷺ey〉,25 難産段rc難 茎87暮.
17 後1こ藪懇は隻87§年のシドニー乃羅博覧会で総本の醗長1となる。彼窪)経歴誌
710疑ナ鷺 α詫ぜ Co膨詫言ry J(}務ヂ雌αピ,28 欝e弩r離農ry 工8婁{}, 及び, 蓋S1ゾ, 2§ }《o幣e董数董)eで
鰺謄で紹介されている。横本に関しての弩本語資料については,手塚晃,覆立
教奮会館(纏ン,罫幕末明治海外渡航者総覧邊(猿書霧,欝鑓〉,第2拳,夢.2艇を
参熱。籔馨に臠しては,ゼ幕末覇治海琳鍍航者総覧曇,第i拳,夢.鱒8,古舞亀治
一欝2一
鰺鱒軍以蔚における欝豪の貿塁及び文紀交流の諸癩(魯と鑑一)
郎(編〉,誓醗治ノ\名醇典藻細本籤書センター,欝87),第i拳・聾・S&(サ)3象
鱒,及び,縮韓徹元.井開覧,え薩葺馨(纏),ゼ大鑑逝去鰻誰(東京美徳,欝?3あ
鯵.薦略6を参照、。
鰺 丁σ醗齪ぎCo麓醜拶」厩r箆厩,器Mar出鰺黙.オーストラリアに関する舟本
の報鑑書は罫農務顛末濃,第4巻鐙.5総纏縫に揚載されている。簸鐙は英譲文
麟では「難a」と書かれているo
ig曙益e」a雛s脅C・簾ss翻rぎ,Eε耀(M幽む騰e〉濁J蜘鰺7叙以下
∫髭r厩〔∫と穰各義己).
2§ 薄諺.
2i 艶躍.
22 1漉4.
23 Kor盛。蓑量,oβ.‘誌.,窮22.
塞 κε羅躍,2sε獅e懲毫}εr1875.
器 1む躍.
2s脚(臨茎灘r麟,3Se脚曲8ri総桜下職虻縦)・
2? 飾編.
28 島掘.
2§oが酸蝕磁,夢.xx盤麗鈴298−3総
総湾9ε,3S罐e抽er麟5・
3i 藷認.
32 1む躍.
33 1む諺.
3尋 驚認.
35禽郵醸曲鰻細,3s曝臓櫨圭舗(以下魂猛詑略識
36 ∫編6.
37 島凝.
38君翻鰹孟C麟ε芦,4Se脚幽r醗,脇擁銚搬S臆嬢・20ct・櫨
鰺器,1∼醸r翻離離融鐸醗,60ct。瞭舗」磁s磁ε誠鰭綴ε
論難s,v・1、墨,鷺。.圭2,翼。マe曲erエ875・
39擁励偲羅P醗醜,絡S鐙te董簸瞭i8マ5.
鎗1麗、,9Se脚曲琶rエ875、
噴 8本外務省,r8本外交文書匪(露鴇),騨25護,
一韓3一
行政社会論集第捻巻第4畢
乾 橋奉正人,ゼ謹豪灘メルボルン癖博覧会総締爵(勧業寮,馨聡),登.工.
蓬3醜掲書,登.2§.
襲前掲書.聾.68一総,
45醗掲書,夢.撚.
馨 繭掲書,登、i焉
蓬7前掲書,登.ii7.
鰺前場書,登.i蔦.
欝 前懇書,夢.i鰺.
臆 繭掲書,費.難.
騒 驚塗,聴掲書,費、4,第i表参照。残念ながら角田は,1873隼から鰺8馨奪に
かけての欝本とニュー・サウス・ウェールズ梅艮地翼の貿易商については示し
ていない。
52 藤本における羊毛産業についての詳纈は,本論説の後事で取む籔う0
53橋;峯,鋳掲書,夢.22.
騒 角懲,藩掲書,夢.9.
誌 入江寅次,ゼ聡治癖進史稿遜(井懇書憲,欝43〉,登.戯、醗鹿。豊麗W.丁蟹。鑓as
tot鼓eFore墨欝M雛ster,2Se磯曲er鰺78,i鎧》α磁,Gi6麟,臨3蕊2、6,
小池猪一(編),匿纒説総覧海軍事典壽(羅書篤行会,欝8§),β.336も参照のこと。
56
色出,蔚懇書,嚢.葺,第4表及び第5表を参黙。
昌?
露本における石炭産業についての詳総は,本論文の後半で取り搬う。
r蒙本外交文書雲(欝欝〉,診.245,及び,前掲書(鰺鍵),夢.隠マ.
灘
坂霧春雄,蓼濠灘悉徳尼購万羅博覧会報鑑患(勧業寮,鰺8i),上敷.鱒、欝一議.
欝
灘愚書,土類,費.2§.
欝
6茎
鳶警掲書,.と歓.魏.2翻24,及び,貸.28.
62
舞患,麟掲書,登.蔦、
63
εヅだ縦㌘」騒or建読9κεrαど‘オ,2{〉Se嚢te皺むεr,i巷警妻(以下S鯉と略霊駐試
6珪
驚鼠
65
乃鼠
66
欝野,2§D琶ce曲ed879.
67
1む鼠
1麗鐸s孟rαεε冨 擁ぜε旋}ぎ(オε 五絃醍ノs,紮蓬are}圭 i88〔》.
68
69
坂遜,耐暑書,土類,登.63、
一i縫一
鰺鱒年以繭における露豪の貿易及び文紀交流の諸旛(轡上簸一)
簿 蕪懇書,下歎,欝.i鱒.
7玉 麟掲書,下敷,聾.i鋳4磁・
72 醸掲書,下歎,登.墨緯、
73 冷欝s,5M駐r磁i絡i・
7善本競,rオー寿締ア栃の譲儲懇騒無筋i8鯉隊で」でま譲状よ
忙,i灘鰍までにヒング踏ンはア一席虚繊こおいて繍鶏として
難られるようになっていた。
75 歯g蕊8,5Marc墾懲蟄
聡 1む編.
77 捲凝.
鴇 海瀬秀治.「メルボルン万国博覧会報告」,鴫治文戦史群舞付会,罫聡治蕪簗産
業発達史資料勧業博覧会資料23纏(東京:母1治文戦史群舞付会,難路),群i、
79徳懇から河瀬,i88碑玉雛8冒,葎調書夢マ・
8§ 麟揚書,警.67、
8玉 繭懇書.
82 繭掲書,登.至3.
83M盗t。旗eM臨瞬・揮。r罐A婁畜諮,9A麟欝鑓商量纏
(i搬),欝,239−2籔
8蓬撫r臨Gt魏臨s翻G浮・r晦A絵s,2鈷麺玉織蘭書准2塁奪・
翫 兼鞍株式会社,ゼ兼松繕顧六十奪還(神戸:兼秘,鯵鎗〉,聾.響纏8.
8§ 粕本外交文書ま(欝§8),夢多湿愈58・
87 K〔躍雌。滋,(拶、c誌.,蝉騒。
88ケンペル1翻しては,殿,玩一路葬ア嚇翻拓本騰連年まで」
を参簸。
鱒 義血蝕醜(泌sεr麗r,6A嫁駁st i88L
鱒 1翻6.
獣 飴認.
92 飴証.
93P、C.S.S墨欄s,主A嚢s麟灘Ja脚εse賎el獅簸s:翫F瞭臨se翻柵
9以膿麟s羅脚er,醸量・戯漉rary・猛襲s乞痴」§職舜磁
醜痕st。盒e蜘蹴seM量貧醜rε・rF。reゆA甑ゼs」3晦i8職i嚢
欝πM,G難§4,{玉le3蔦2愈
一驚5一
行政社会譲集 第欝養 第4号
襲 蘇蜜から海航 鰺磁琿玉月捲獣 「メルボルン万蟹博覧会難魯j,麹、7創綴.
驚 石醤醗堂,ゼ瞬治事秘莚懸墨(東京:露奉詳論縫,欝鵜葎初蔽発行,欝欝奪改
定再蔽〉,第2拳,夢.8総.
96晦癒st・嶺εM玉藍sterfGrぎerel解離airs,5」膿eエ88董,糧嚢彙鰯
(亙8繰〉,夢.2逢i.
解 徳露から海瀬,欝鋭年i薄違蓉,「メルボルン万蟹博覧会鞍告」,夢.84.
鰭 石井,麟蝿書.
鈴i総2年当時,摺は約3シ彗ング§ペンス。
購欝89隼当鋳ヤi鍔は約3シ1ナング豊ペンス。
羅 舞曲栄,ゼ茶の経界史匪(東京1中央公論社,欝欝),β.i縫,及び,夢.鴛6.
工麗r農務顛末義,踵.8讐8?3.
醗 鋳掲書,登、8?5.
麟 麟掲書,夢.878.
欝聾角毒ぼ茶の鐘翼突雲,齢.i36−i3了.
購M融st航魏醸離母野ギ・rF。紐解蝦a重rs,3麺瞼ry魏2,樋繭彙綴
(茎882〉,嚢、3総.
躍 M鍵齢to t輪講i麺sもer島r登醒8槍葺A鐡irs,2」餓磁ry欝欝,前場書
(里8総〉,夢.233、
欝藝 M農癒s tG議9M圭虚説er島r For緩9難A鐸麗rs,i{}Sε玉露e獄もer i882,藩掲書
(i882),鱒.3紛躍.
欝 海野麟寿,r瞬治の貿易壽(棄京:塙書房,鯵67),β.7?,表稔を参類の
i舞 坂露前掲書,上歎,昼.63、
i叢簸鉱ぎ茶の毒界受講,夢.i38.
難 鉱毒懇議会(編〉,賠本鉱業発達隻諜(藁蓑1原書薩,欝32年補叛発行,珍鰭
奪再版発行〉,第2拳癒,鍾.聲多鴛3、
瞬論離職丁εr漉。拶r∫耀s,2§Sε麹抽er髄8以下麗望㌘と臨の、i88旗i
及び鰺88隼の炭鉱労麟者の労働争議については,貧。も塗G畷鍛,艶ε
Coα餓厩r30ゾ漉甜30就轟鋤漉s’護編s雄鐸σ∫厩翫毒醗,186か136霧
(碧&癒慮鎗,V圭εtOr望a;Mε艷麗撒琶U霊Ψ群sまty Pr総s,i§総),聾、72一鰺を参照。
i至4 欝本の衣装の護洋建については,Kel重。媛r6餐a髭蟹&w農a撮Re難ryRoso鰓嚢y,
‘丁難eC蹴ひぐ癒ePy重聡K至難㈱ぜ艶擁護e登ce・罫C鼓a賞飾9懸銭醜s膿
t魏Pe舳鐸磁。ξ曲Ja灘朧WG。漉臆麟ry」,β諭硲S厚醜鰐
一蓋鱒一
露鱒駕銀鶏における張豪の貿易及び文建交流の護櫓(梶上縫一)
R㈹皺む、vol、XXXV琶,嬉鵜,聾蚤嘗総を参黙G
蕩 霧本毛織社史繍纂室(編),罫線本毛織六十駕吏遥(神戸:神戸建蔽難羅彗,欝欝〉,
夢,繕.
麟 大講輝雄,ゼ羊鶴記選(東京:平凡社,欝§i)・罫2縫・
i至マs溜,6臨雌i8驚、
藤 %縛遅α翻(〕臓瀧群Jo琶r澱言,2§Mar盗玉8?ε
難 罫農務顛末譲,第4逢.鐙、総8一鋳警,
麟P.C.SSlss。賞s,・Ja欝癒t魏A穀s麟農鷺W・・臨齢ry、脚雛海星磁6
夢経費琶℃翻aもA麟r撫鋸at玉織至翻ary蘭78麗・2−3講膿縮総難
第捲,登.醗,及び,‘蜘a酷s㈹。圭髄rke軽登醗A曝s講蝿織
雄讐も参黙。
窪 ζ農務顛末藷,第護毒,夢.i7.
瀧 前掲書,夢,鴻.陸軍のために繁薙霧の馬を購入する誹議も提案されたが,オー
ストラ鞭から麟へ輸送するのに予想され結い魏や鞭轍・ら・そ罐
案は辮下されている。前掲書,聾、貿一欝を参黙。
雛 継木毛織六十奪史壽.夢、弱.
灘 ゼ郵痩鞍橋新聞藷,盤88奪9月嬉露,中出泰騒(織),ζ新縫集成墾治纏無雙選
(東京三舞政経済学会,雄蕊),第2巻,嚢博47!」細鱗a撮影ε建段s規
∂α融ε麹帳、4鷺翻厩膨。扉賞εぴ1ε醒声ヂ擁翻身厩α$鼠舞2愚心嬉2戴辞書8も参難。
鵬 多大讐本舛蟹貿易奪表違(欝欝護総締を参照。この貿易奪表は欝弱隼漢書麓に
よって再蔽されている。
鵬 置朝野新聞ま,欝7§隼8鴛覆温,奮鰻会嫉エス・ケイ・エス (編),『国漢人事
典騰素縫編(鯨:翻コミュニケーションズ・欝醜婦欝
1蟹 『朝野新製ま,i8簿年8驚雛饗.
懸 (聯磁ぎ翫co躍。ずε是e C磁ε競翻1醜騰磁。離∫激葱繍識・翻励磯「蕗ε・
!338一躍8嚢,登、逢簿.
欝 躍凝.,峯}.4鋳.
購 Ko鷺i戯i,解.ε誌.,鯵護を47、
1鍵i継鋤甦瑛擁麟難句まとオ一対薦アに瞭ては演雌一」計
ストラ狩の移疑立法と醤本磁臨1欝簿から醜癬まで」・段一ストデ」
ア麟究紀要薩,第22号(鯵総隼〉を一参照。
籍2 慶大欝本外藝難貿易彗三表違 (圭888〉, 茎}.3、
一驚7一
行政社会論集 第捻巻 第透号
雛rミカドおま,覆ンドンのs農V鯉懸縦r倉で鰺85年に褥、糠され,閥奪βン
ドンで弱かれた響本博覧会による東洋ブームに便乗した作贔で,異国溝緒の中
にVl蕊鍵鍛韓の官藻機購などを風韓した。農本を背景とし,覧e猛盤脚ror Oギ
」雛餓なる人勃も登場する」。齋藤勇,酋鱗廷身,平難正穂(霧〉,ぎ英米文学辞
典 第三版遜(醗究社鐵販雄編隼〉,聾.4艇4蕩,夢.8鎗,嚢、盤醗,及び,夢.
雄縫を参照。ギルバートとサ}ナバンの歌翻は今薩でも上演されており,筆書も
緯瓢箪にブ腫スベンでゼミカ縫を鰻翻する機会に恵まれた。
難 ε溜,i6翼ov奪灘募er鰺編.
懸 乃凝、
玉麗 猛罫玉。 至r蛙簸,D匠ε孟次麗麗拶 (ゾ 孟為ε 擁鉱sε貯畠髭{三艶 !Z88−!嚢ぞ4 (Sy{董擁ε}弄1 鷺滋e 畿
lr臓澱ger,鰺85〉,登.鯵馨.
i欝 〆望轟εε理露αs旋}鍵 s鳶ε善。為εr, i() M裁ダ。難 i886.
懸P続。磁猛臨確魔窟灘,融解st璽88ε.
欝 搾アT,28A讐劉蕊i舘6.
矯激醸魏(Sy齪y),i総罐e麟eri886.
鰺K段t短r重難8r醜蹴,e姦,ε碗ε磁繍9湾臨r窪磁∫醗醗臨磁掘薦鋤拶
(Sy藪ey:C澱鰍y艶ss,欝i〉,登、1鎗.
灘7醒εr磁(M曲。駐r擁砦〉,臆Ocも。漉r茎8§3(雛e&ギtεrcit綴&sTα漉第磁).
灘 饑えぱ,‘」即鍛esε簸磁es&t t簸e鋤七〇池ギ磁藏蕊膿むε48y4舵y漏2灘$,鴛
A夢盛鰺難〉,及び,て)G琶盤雛重(編ε必。脚達εP磁波灘灘競αご鉛r欝稔〉を参
照。
鱗7α旋7α魏,3蓑)e総麟εr愚85.
矯 P鏡σ麗麗涯総勘α嘉窃鷺,饗ove搬藝er圭888.
鴎 これらの数纏は罫大8本外蟹貿易隼表壽を基に算幽したものである。鋳掲書
(鰺82〉,聾.誕逸毒,麟掲書(至883〉,帥.5箔58.前場書(i884),翻.欝5畷鍵,
前掲書(鰺85〉,鐙.欝季欝5,前掲書(鰺総〉,欝.稔3畦器,前掲書(鰺87),醗.
i2駈玉2乳離葛書(醗8〉,聾.i27−i2§,前懇書(i8鋤,鱒.玉3H3紛鷺x躍もs
も。 Vay沁鵬翼Gre逡簸CG殺鼠r墨書ぎを参照.
玉響 ノ隻影sε潤蓋どα醜畠鐘8鳶ε着。轟εr,24 A韓9雛st 蓋88§.
鍵 一鰹に騨颪は繋になってお鯵「双」を零継て数えるのが普遍だが,ゼ大譲本舛
錘貿易隼表護では「数」としか記載されていない。そこで,この論説では,優
賞上「枚」を購いて表すことにした。
一轟8一
馨鱒年以羨にお1する響豪の貿易及び文化交流の諸鞘繍雛二鑑一)
玉釧総x費。rtst。鞭鶴翼・r蜘伽無tr臨r焔本魑鶴職難8繊
欝、3犠,鹸劃翻),麟7礁嚢纈劃至8脇瞬鰍毒6・鵬書
(脚,欝.翻蕊,鱗書(i8繊聾・欝i2暴論鵜書(脚・瞬2を
鴛7,繭掲壽(惑総),瀞.鍛㍗鴛§,前掲書(欝8§あ鱒蓬雛一i33参窯。
鐸貿,3奪饒艶麟er欝82.
欝
茄認.
欝
∫翫δ.
難
1む羅.
懸
鰍ぱ,岬ア,i漁y脳,2瞬登£齢紐鵬灘ii醗農y翻鯵
盤
黙。
1誌伽2醜寵聰㈱,2隷・磁波ri灘・
懸マづッ嫁鰍鴛,轡.ヒ,rかスト鱒ア筋躰への論意亙8旗
から欝欝隼まで」を参照ε
β。磁εヂ戯9,茎3A麟至翻,藁晦露蹴盤謡晦i88§’
i5?
S溜,6At壌tist鰺88、
麟
擁臨ヂα魔s麟餓ε齢εr,9A瞬露8毒・
瀞
曝。認我麟・嫌ε醸ε鷺箆泌漉ε離職撒編む繍顯。職
懲1
1鑑聯(Me豊も灘館:s離鰍翫D・階段翌茎」鎗馨)・爵驚
簸滅絶難癖相輪畷壁表糞鼠算齢た⑩簸る・麟賭
(欝,β、醗,鵬書(i8§玉),夢ユ3嫡鰭(翻)瞬3議編著(㈱
聾.圭謝誌,前掲劃至8繊欝ユ?罐季葛書(幽趣・至7類議事鰭
(i謝,鯵、i蹴77,謝贈(i8総瞬8鞭掌藷購(i8織部聾
2欝,輔書(幽,艶.232伽の恥膿st磯ギ繍F。re麟。幟臨壽
を参照。
畿7融丁幽,2羅arc鼓翻義盗盤rg総270舳eri8騰
1暮3遼寧s,270伽駿i騰
麟班ア,簸胎e油2ri89L
臨翫だ.
麟躍耀融ε,2i馨。ve油鰍繕ジョ尋・ヴァづン鰍厭て・弾
二適長マシュー縛藤棚期の轍翻本美鰍紘芸品畷集家とし
て酩であ続.蝕幽sP魏,騨砿艦翻麟翫ε轍鰐編
&。gr麟(C&r茎織,v量ct曲:M齢 琶盤瞭s量ty臨s」鰍サ。職責・
一欝9一
径政避会論集 第舞巻 第4号
窮墾弱簿難鷲舞舞籍罵習得
2捻を参.蕪(以下屋)βと略記).
1翻,VG玉.6,夢、凝.
8y鹿醐翻認,2茎翼。艶魏蟹i896.
1む躍.
翫曲α舵σo麗漉r,2圭{)ec君油eri紹7.
蕗認.
踏掘.
1む認、
Boo耀確確,24艶ce曲eぎ騰7.
∫む認.
1む躍.
擁D8(ig矯,嘘.5,夢.歪2、
・騒麗叙)罷r鷺εP琶建ご毒,2」展¥圭額獲.この馨本家獲馨玉§暮尋葺三に売去嚢され、, 購葺三,
ニュ…’ファ㎝ムからクイーンズラン勝目ンが仏(董源麺麟へ移築された。
W・KCarr,丁鮭eJ即蹴s誰幡ご,孟r薦ε磁雇驚盈s麗謬論,v。至,暮3,登。.
薄舞靉
4(至)ε総灘波罫欝鍵),麹.98縫総を参.蕪。
β醗醗魏(M鵬。獲濯),i§J蜘贈i.
乃認、
A茎ls《溢Bro塗ows凝,7麓 }こ醗。欝L醒むご湾秘舘纏鍬醗1灘βrεs蕊書落s摩湾8蝕
靆鑓麟蕊薦
(Me豊魏贈τOx飾羅撫圭vεrs量tyPr登ss,鱒2),蹄.鞍4王,
1魏.,夢.27a擁登.韓、
飯4.,夢.馨.
/む認.
1翫4.
臨ry翫蜘,’丁饒簾藪臨Sy纏。鋭:罵ダast難ere雛or艶鑑識As重畿£oぎ
t蓑eA麟r&茎圭aガ蜘ressめ糞垂sゼ細註tε睦?新,舷s翻醸傭r纏。μr孟,v。1,v茎
(i鰹),登.5歪.
露マ
翫6.,夢、蕎、
懸
1麗.,麹.5葛2.
欝 盛4ε∫む{}魏r路2P膨遅。鳶,§M&y i8§i.
欝 δrsぬ駆婁,℃r麟艶t蓋・麟蔑。t鍵1・殺ぎ,飽離脚陀,v。至.露,腔・.6
(諏簸e董97逢〉,夢.茎8、
哩i
欝
心
露弱奪以蒙における饗豪の貿易及び文龍交流の諸種(耕土雄一〉
至嚢 ε翻,i 厳ay i886.
麗 灘認.
雛馳靭蟹εgrα擁(Sy透註ey〉,3M潅yi8総
欝尋 王32ぜ,蟹∼J慧簸ε i$8§.
圭馬 1翻ゴ.原文では「」舞)s」という葭葉が舞罫、られているが,当時「Ja墨浴」には必
ずしも侮蔑の意殊は盒まれていなかったため,ここでは縮本人」と翻訳して
おく。
難1捲麺.
i饗 2琵∼髭翻箆,i 農産ay i886.
至鰭 憂鑓εε鷺8オα遅ゴF言g(エr3,22 蚕纏段y 188琶
欝§ ノ隻gε,2εJ鞍董y 玉836.
2襲 1擁薮,3 Ja葺駁&ry i887.
2鍵 養ぜεrc務ry (壬{o13art),i8 a登δ 2{きFeと}ぎ昼駐ry 工887、
2麗 ∫酎ぎ.,28Ja簸殻ary i887.
鵬8溜,2iFe毎r雛aryi887.
2襲 欝野♂,i6 M&y 玉887.
2縣 擁{)君(ig88),vo童.難,欝.273老7尋.
2総 盆Os&C寂盈茎}もe銭Pre&{量,1翼{凝α醗琵{朧∫湾負廻r養躍S言。劉ツ(乙。簸(至。簸:C}生εヒもも。&
w霊激s,i8弱〉,夢.玉露
簾1巌.,夢.盤、
2躯 羅鼠,登.麺暮.
朧 鞍本外交文書善(鰺89〉,芦.誌3.
2憩 1残えば, サドラー(S飯豊e虻〉は,i§36彗韓こ当腹された本の中のi童で, 酋一ス
トラ婆アで嚢奉の文明または文化に関して注羅が請けられるようになったのは
「つい叢近雌のことであると遊べている。A、L.S麗1蟹,‘丁魏溢飯総ce oξ
蜘a麗sec臨戦re麟tr暴毒t醜。麟er罫。reig盤re茎at醜s’,i難しCi磁器9・ss・
e6.,擁臨離αα翻漉εFαr断書書(S幽ey:AR騨&蔑。もerむS・難i登
c・麟麟・騨漉鹿εA昼$七ra漉魔i厩・ぎ猛tsr盤t重脇滋A難rsj§36),
β.欝i.
一1ii一
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