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アントウェルペンのポルトガル人 : イベリア商人コロニ
ーとその活動
中沢, 勝三
地中海地域における集落形成の諸問題 : 論文集: 123131
1980
Research Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/14729
Right
Hitotsubashi University Repository
アントウェルペンのポルトガル人
-イベリア商人コロニ-とその活動-
中 沢 勝
Gilbert van Schoonbeke, Brussels , 1977.を
は じ め に
得, Van Schoonbekeの事実の全貌が視野に
近年,アントウェルペン史関係の研究がかな
り盛んに刊行されるようになった。ところでこ
納められることになったD
(2)
W.
Brulez,
'Anversde
1585a
1650,分
れらの研究の多くは,おおよそ1960年代前半か
VkrおIjahrschrift fur Sozial-und Wirtscha -
ら少しずつ対象と視角をずらしてきているよう
ftsgeschichtei以下VSWGと略) , 54(1967)
に思われる(1)研究の趨勢は,一方で対象により
J.A. Van Houtte," Declin et survivance
° °
密着した個別的研究に向かいつつあると同時に
他方では16世紀後半から17世紀前半の時代に対
して再検討をねらった潮流が目につくのであ
(2)
る。
d'Anvers," o如di in Onore di A, Fanfani
5, Milano,1962, inrep., id., Essays on
Medieval and early modern Economy and
Society, Leuven, 1977.といった研究がそ
そこで本稿では,比較的最近の研究に依拠し
うした傾向に先鞭をつけているように思われ
て,この16世紀後半以降のアントウ1ルペン市
る。新しい潮流を告知する研免として以下の
場をめぐる状況について,とくにポルトガル人
ものを挙げておく。 V.Vazquez血Prada,
の関与を,コロニーとその経済活動-それも
Lettres marchandes d'Anvers, Paris , 1960.
商品交易に限って-という観点から追跡して
みることにしたい。ポルトガルの活躍は,アン
トウェルペンを国際市場に押し上げるのに決定
;
W,
Brulez.
ed
‥ Marchands
flamand
a
Venise, I (1568-1605), Bruxelles」Rome,
1965 ; V。M. Godinho,L'Econαnie fife /'Em一
的なインパクトを与えたといわれながら,世紀
少ire portugais aux XVe et的rle Siicles.
中葉以降,その主要な事業である胡椴交易の拠
Paris, 1969;H. Kellenbenz, t Die wirtsch-
点を同市場から引き上げさせていったとみなさ
aftlichen Beziehungen zwischen Antwerpen
(3)
れている点で,見直しのための好個の素材を提
a
供してくれるものと考えられるからである。
und Brasilien," vswG, 55(1969) ; E, StoIs, De Spaanse Brabanders of de Handels betrekkingen der Zuidelijke Nederlanden met
(1)その一つの動向を伝えるものとして,拙稿
de iberische Wereld 1598-1648, Brassel ,
「アントウェルペン史研究の新段階」 『西洋
1971 ; H. Pohl, Zur Bedeutung Antwerp-
史研究』新輯7号, 1978年,参照。その後
ens als Kreditplatz im beginnenden 17.あ-
H. SolyのUrbanisme en Ka♪itahsme te
hrhundert," in : Die S由dt in der Europais-
Antwerpen in de 16de eeuw. De stedebou-
chen Geschichte. Festschrift E.Ennen,Bonn,
wkundなe en industriele ondernemingen van
1972 ; id. ,Die Portugiesen inAntweゆen(1567
124 中 沢 勝 三
-1648), Wiesbaden, 1977 (VSWG Beiheft
りをみておきたい。
Nr. 63) ; R. Baetens.De Nazomerはn An-
ポルトガル人は,ネ-デルラントにおいては
tweゆens Welvaart. Dediaspo昭en het han-
12世紀から15世紀にかけてブリュッへを活動の
delshuis De Groote tijdens de eerste helft
本拠地としていたo そしてのちのアントウェル
der 17くわeeuw, Brussels, 1976.
ペンにおいてと同様に,ポルトガル人は他の外
・ ・ ・ ・ 蝣
(3)こうした把鹿についてはH.VanderWee,
地商人と](I:んで一つの「居留民団」 natieを組
The Growth of the Antwerp Market and
織し,特僻を賦与されていたのである(6)そして
the European Economy (14th.- I6th. centu-
この特権の遊戯は,ブルゴーニュ公とポルトガ
nes), The Hague, 1963, II,p. 155.参照。
ル王との問の互恵」・二義であったというO こうし
なお,当初のインパクトについては,拙稿「ア
た友好関係は, 1477年のカルル豪胆公Karel
ントウェルペンの興隆と銅-香料交易」弘前
血 Stauteの陣没,つまりブルゴーニュ公国の
大学『文経論叢』14巷4号, 1979年,参照。
瓦解と共に大きく動揺し,フランドルでのポル
(4)コロニーの形成とそれに依る活動という観
トがル交易は落ち込み,相互の交易は途絶した
点では,当面少なくともポルトガル人のアン
のである。こうした動揺の背景には, -ブスブ
トウ1ルペンでのコロニー形成という側面と,
ルク勢力のネーデルラントへの進出に対するフ
同時にフラマン人のイベリア半島でのコロニ
ランドル諸都市の抵抗という政争が絡んでいる
ー形成という側面が検討されなければならな
のであるが,新たにネ-デルラントの支配者と
いが,本稿では前者の側面の検討に限った。
なったマクシミリアン大公が1484年3月に外
なお,後者の側面についての研究として注(2)
地商人に対してフランドルを離れよと命じ,紘
で挙げた FJ。 Stolsの著作の他に,論文集H.
局外地商人はブリュッヘからアントウェルペン
Kellenbenz , hrsg. Fremde Kaufleute aufder
-向かって挙って移動することとなった。1488
lberischen aalbinsel, Kらln- Wien, 1970.に
年6月には外地商人はアントウェルペンにおい
収められた論文の中に注目されるものがある
て,彼らがブリュッ-で享受していたのと同じ
が,特に, B。 Bertnassar, 【Marchands fla-
特権を与・えられ,ポルトガル人のコロニーも大
mands et italiens a Valladolid au XVJe
人的にアントウェルペンに移った。ここに外地
si占cle," ; E. Stols, "Les marchands flam-
商人をめぐってブリユツへとアントウェルペン
ands dans la Pもinsule Iberique alatin
両市の問で悶着が始まったのである。ところで
(7)
t81
・ヽ
du seiz ieme s這cle et pendant la premiさre
ポルトガル人のコロニーは,未だブリュッ-が
moitie du dixsepti占me siecle" ; J.P. Ber-
奮移品市場・貨幣市場としての地歩を失なって
ule,一LeS土Iamands a Seville au16esi主
いなかったために, 1493年以後再びブリュッヘ
cle の諸論稿,それに編者の解説が重要で
に戻り,この事態は1498年まで続くのであるO
tf)ら-"-> 。
しかしながらこの間に,こうした政争を巧みに
1 16世紀中葉までのポルトガル人
利用し,かつまた世界経済の地殻変動に乗じて,
1490年代にアントウェルペンが一挙に国際商
16世紀中葉までのアントウェルペン市場の興
都として堆り上がるにつれ, 1498年古くはボル
隆と繁栄の様相については別稿に委ねることと
トガルニ1二代理人Faktor がアントウェルペンに
し(5)木節では以下の検討に必要な限りで当該時
属留するという事態が現出し, 1511年頃まで
期のポルトガル人のアントウLルペンとの係わ
にはポルトガルのコロニー全体が同市に移住・
7ントウェルペンのポルトガル人 125
定Hiを終っていた(9)そしてこの年同市はポルト
留民Bl」(natie)なる概念について Mare-
ガル人に対して「ポルトガル館」 Huis van
chalは, 「ブリュージュの文書においては,
Portugal を中心部のKipdarp に与えたので
商人コロニー(colonie marchande) (未組
ぁった(10)
織)と外国商人ギルド(gilde marchande
この間,ポルトガルがネ-デルラント交易を
etrangere) (組織)の意味で区別をつけずに
保持したのは151亜紀中葉以来一貫してアフリ
用いられている」といっているo op.cit.,
カの植民地物産(例えばmalaguetta)の販路
p.27n.6.なお特権としては1438年のもの
と,同時にアフリカ交易に用いるための対価-
が重要であって,この特権によってnatie の
-特に金属-を求めたためであって,こうし
構成fはげ自由に執事Konsulを選出できるよ
たポルトガルのネ-デルラント交易の特質は後
うになった。 H. Pohl, Die Portugiesen in
Antweゆ招, S. 24.
にアジア交易に重点が移ったとしても概ね16世
紀前半を通じて続いたといえるのである(三11こう
した意味あいにおいて, B. Bennassarは, 「ケ
(7) Eben血:この政治的動乱については,拙稿
「国際商都アントウェルペンの興隆」参照。
ープ迂回のインド航路の探索はアフリカ海岸の
(8) J. Marechal, "疎part de Bruges,"pp-31
探検の延長上に位置づけられる(12)」といってい
f., 34; H. Pohl ,Die portugiesen m Ant-
るのだ。ポルトガルはアジアで手に入れた胡椴
werpen,SS. 25, 26.なお注(7)の拙稿におい
をはじめとする香料の多くをアントウェルペン
てマクシミリアンの布告の年次を1483年と
で捌き,同時に同市場で銅を主力とする金属を
していたが,本稿の年次がIEしいので1484
円いととのえたのであった(13)
年と訂3-:する。
(9)以_h, J. A.Goris, Etudes sur les colo-
(5)興隆の局面については,拙稿「国際商都ア
nies marchandes meridkmalesゐ Anveγs de
ントウェルペンの興隆」 『一橋論叢』75巻2
1488占1567, Louvain 1925,p。38 ; H。
号, 1976年,参照。全体像を構成するにつ
Pohl , Die Poγ血gtesen加Antwerpen, ss.
いては,なお取り組まねばならない課題が山
25, 26.
積しているといえるのであるが,筆者の把抱
の仕方として,拙稿「アントウェルペン国際
商業の一断面」 『社会経済史学』44巻1号,
1978年,をも参照されたい。
(6) R. H司)ke, Brugges Entwicklung zum mi-
(10) V。Vazquezde Prada, op. at I,p.
158.
(II)リスボンからアントウェルペン-の船舶の
来航は, 1545年を壇にほぼ半減している。
V. M. Godinho, Crises et Changements
ttelalterlichen Weltmarkt Berlin, 1908,
geographicjues et structuraux au XVIe
SS. 65ff., 71, 911f; J.A.Van Houtte,
siさcle," Studi in Onore di A. Sapori,甘,
Bruges. Essai d'histoire urbaine, Bruxe -
Milano, 1957,p.985.
/
lies, 1967,pp. 55ft"‥ ; V. Vazqued dePra-
da,op. cit., I,pp. 151ff., J.Marechal,
ILe depart de Bruges des marchands et-
(12) B. Bennassar, "Lとxplosion planetaire
(1415-vers 1570), in : B. Bennassaret
P. Chaunu, dirige , L'Ouverture du Monde
rangers (XVe et XVIe si占cle )," Annales
XIVe一刀/Je siecles, Paris, 1977,p.402.
de la Societe d'Emulation de Bruges, 88
(13)拙稿「アントウェルペンの興隆と銅ニー香料
(1951),PPL 26ft"., 54if.etc.なお, 「J占
交易」参照。
126 中 沢 勝 三
2 ポルトガル人コロ=-
半頃で多くて40-50家族であった(21)
1511年11月20日にアントウユルペン市はポ
ルトガル人居留民団の構成員に対して次の6点
にまとめられる特典を与えた。
1. 1411年以来ブl)エツへで認められていた
のと同一の特権の保持。
2.特典上の他の定住外地人集団との互恵主
義。
H. Pohl , DおPortugiesen in Antwerpen,
SS., 26-27.
(15)
Ebenda;
J.
a.Goris,
op.
cit.,
pp.381‥
et 48if. 17世紀半ばの時点でのこの特典の
最後の更新は1623年であった H.Pohl.
Die Portugiesen in Antwe砂en, S. 28.
Ebenda, S., 27.パルマ公も1585年にこ
3.訴訟の迅速な処理。
の特典を認めた Eben血, S.,28.またこの
4. "Kipdorp'の邸館の使用許可。
特典はポルトガルのスペイン合併(1580年)
5.ワインとビールの一定限度までの免税。
後も認められた。
6.荷車賃借料の国定(14)
この特典は, 1539年, 1542年, 1545年,
ポルトガル居留民団と市当局の間で係争が
なかった訳では決してない.とくにワイン,
及び1554年に市参事会から更新を認められた
ビール消費税の免税額と市民軍編成(1577年)
が,その際ポルトガル人はとりわけ領事Kons-
に当っての財政的成課をめぐって係争があり,
ulの手による裁判権を尊重したといわれている115)
この問題は1580年代から深刻化していき,
これらのポルトガル人に対する特典は,ネー
デルラントの統治者によっても確認された。つ
17世紀に入ると次第に特典の撤廃の方向-向
かった。 Eben血, SS. 28-35.
まりカルル5世や71リーベ2世,さらには全
(17) Ebenda, S. 38.
国議会によっても認められたのである。ポルト
(la Ebenda, ss. 38-39.
ガル人は,彼らの家族と商品,財産の安全を保
Ebm(由 S. 48.国王代理人Faktor は公
証され,自由な交易を営なみ,いかなる方途に
的には1548年にポルトガル商館Faktoreiの
よっても彼らの活動に対して課税されることは
閉鎖に伴なっていなくなった筈である。しか
ないとされたのである(161
し16世紀後半になっても代理人がいた形跡も
ところで,ポルトガル居留民団には全構成員
あり,何程かの影響を行使していたようであ
集会があったが, 1月6日の領事選任のための
る Ebenda,S. 44.
集会を別とすると,実質的にはその開会はきわ
伽 Eben血, SS. 48-49.
めて稀であって(17)そのため2人の飯事とそれを
ei) Ebenda, ss. 62-63, 72. ; J. A. Goris,
輔佐する代議員Deputierte 6人が選出されたの
op. ctt.,pp. 53ff., 621.他の外来商人の数
である(18)領事は居留民団最高の統率者であって
を少しくみてみると, 1560年頃でスペイン人
その代表者となった(19)また領事は居留民団の構
60家族, 38人の独身者,イギリス人が300人
成員の民事事件において第一審の判事でもあっ
から500人,フランス人が140人以上,イタ
た竺o)
リア人が約90人という数字が出されている。
また,ポルトガル居留民の構成員の数は, 16
ブリュレは,外来商人の数を最盛期で1,100
世紀前半で約20人, 1570年で約80家族という
人とみている。 H. Pohl ,Die Portugiesen in
比較的少人数であったと考えられる0 17世紀の
An加e坤en, S. 73. ; W. Brulez, "Anvers,"
p.82.
7ントウェルベンのポルトガル人 127
ったのである。しかし事態はスペインに有利に
3 ポルトガル人の経済活動
展開していった。つまり, 1570年代末からパ
(1) 「動乱期」のアントウェルペン
ルマ公アレッサンドロ・ファルネ-ゼによって,
ここでは16世紀後半から17世紀前半にかけて
着々と南部諸都市の攻略が進み,マーストリヒ
のアントウェルペンをめぐるネーデルラントの
ト(79年),コルトレイク(80年),アウデナール
政治・経済情勢の推移をみることにする(22).
デ(82年),ダンケルク,ニーウボールト(共に
アントウェルペンの恕栄を支えたヨーロッパ
83年),そして1584年には-ントとブリュッ-
の政治・経済上の構造は, 16世紀50年代を転機
がスペインの軍門に下った(㍗)ネ-デルラント南
として,具体的には1555年のカルル5世退位
部でのスペインの軍事的優位は揺がLがたいも
とフェリーペ2椎の登位と共に大きく揺らぎ始
のとなったのである。こうした内陸諸都市の陥
め,やがて「全般的危機(23)」の時代-と突入し
落は,アントウェルペンにとって,大陸後背地
ていく。そうした情勢の中で,アントウェルペ
とのルートの切断を意味した(oal同市は,先きに
ン市場にとりわけ深刻な衝撃を与えたのは,1560
は外洋との海上ルートの自由を失ない(スヘル
年代の対英通商の停止(24),t, 1572年のゴイセ
デ封鎖),次いで陸上ルートをもぎとられて,「国
ンのD己n Briel フリシンゲン,続く1574年
際商都」としての機能を果たし得ない窮地に追
のミデルビュルフの占領,つまりは事実上のス
い込まれたのである。この時期多くの外地商人
ヘルデ河口封鎖であった(25)対英通商の途絶は,
が同市を離れ,ポルトガル人も全員ではないに
15世紀以来当時まで一貫して同市場の繁栄の支
せよ, 1578年には大挙してケルンへと移った(㍗)
柱となっていた毛織物交易の国際的分業構造
そして1584年7月には同市の包囲が始まり,
(いわゆるロンドン-アントウェルペン枢軸)
翌85年8月陥落したD ここにネーデルラントは
の瓦解を意味する出来事であったという点で,
北部(オランダ)と南部(スペイン領ネ-デル
またゴイセンによるゼーラント諸港の占領はア
ラント)にはっきりと分断され,スヘルデ河は
ントウユルペンと北海を結ぶ航路の航海の安全
Lillo以北が北部の側に帰し,封鎖は強固なも
が脅やかされるという点で,共に「繁栄の時代」
のとなった(三o)こうしてアントウェルペンは国際
の終蔦を告げるものであった。すなわち,のち
商都としての生命を終え,同市に替って,ミデ
にオランダ共和国となる北部7州によって,ネ
ルビュルフ,ロッテルダム,さらには次代の国
-デルラントの中に,ゼ-ラントからブラバン
際経済中心地であるアムステルダムが浮上して
ト北部-かけて東西の「分断」の線が刻まれる
くるのである(31)
ことになったのであって,このことはアントウ
こうした事態の推移するなかで_, T-.ントウェ
ェルペン経済の国際市場としての存立を制する
ルペンは必らずLも技手傍観していたわけでは
ものとなっていくのだ。
なかった。先述したように, 「スペイン兵の略
そして1576年3月に執政レクエセンスが突
奪」を転機に同市は浮沈をかけて北部庫宮に加
如投し,その後の政治的収束がつかぬ11月,ア
わった。また1581年には外洋との出入口にあ
ントウユルペンは11日間にわたってスペイン兵
たるワルヘレン島に橋血塗を獲得しようとしな
の略奪にさらされることになった(㌘)これを転機
がら失敗している。
(32)
として同市は北部の陣営に加わった。すなわち
陥落後,アントウェルペンを通じる交易は,
この時点でアントウェルペンの繁栄の帰趨はオ
なおスヘルデ河を利用する-ただし.Lilloで
ラニ工の軍事・政治上の成果にかかることにな
積み換えが必要-一方で,ダンケルクやニ-
128 中 沢 勝 三
ウボールト,スリュイスといったフランドルの
港市が利益を得た Eben血.なお,スヘルデ
侮港をも利用するようになっていった㌘)南部で
封鎖問題については, S. T. Bindoff, The
は,北部との交易が1574年以来公的に禁止さ
Scheldt Question to 1839, London, 1945.
れ, 85年からは対仏,対英との交易まで禁じら
があり,アントウェルペン史研究に大きな寄
れるようになったとはいえ,対敵通商認E・j料
与を与えてくれるものであるが,この書物の
Iicentenを農にした交易が1598年まで維持さ
成果は後日の検討に活かしたい。
れたのである㌘)スペインは1603年に対敵通商
(26) H. Pohl , Die portugiesen inAntwerpen,
をHび認めたが,高率の関税が課され,翌1604
S. 141;H. Vander Wee,op. cit., II,pp.
年には再び対敵通商が禁止されるなど政策が二
254-255 ; Jan Van Acker ,Anvers d'esca-
転三転した上,結局1608年最終的に停止され
le Romaine a port mondial, Anvers - Bru-
ることになった(35)さらに南部では運河の開整工
xelles, 1975,pp. 194-197.この時勘のスペ
事が着手された0 -ントーブリユツへ問の運河
イン兵の暴動の性格については, G. Parker,
はPlassendaleへと延び-そこでブリュッへ
がオステンデと接続-(1622年),このPlassendaleからニーウボールト(1638年),さらにダン
熊Mutiny
and
discontent
in
the
Spanish
Army of Flatders, 1572-1607, Past and
Present,
58(1973),rep.,
in
:id‥ Spain
ケルク(1640年)へと接続されていき, 1665年
and the Netherlands 1559-1659 , Glasgow,
にはオステンデ-ブリュッヘ-へントを経てア
1979.を参照。
ントウェルペンへ最初の船が入港した㌘)。のよ
&) S. Groenveld,enaJ., DeKogel door de
うにしてスヘルデ封鎖と対敵通商という困難な
Kerki戊Opstand in de Nederlanden en de
状況のもとで不利な条件を柚なうべく様々なニ!<';-
rol van滋Unie van Utrecht 1559-1609,
胸が試みられたのであったが,すでに時代は同
Utrecht, 1979.biz., 112.本文献について
市の井目の繁栄を復活させえないものへと変わ
は佐藤弘幸氏から提ホを受けたO記して謝意
っていたのである。
を衷する次第ですO なお H. Pohl,Die /初rtugiesen in Antwerpen, S. 140.
e2)この時代の政治史の大筋については次の文
献を参照。栗原福也「ネ-デルテント連邦共
和国」(㌫披講座『世界歴史』15, 1969年)
CZ:卦 T. Aston.ed., Crisis in Europe 1560-
1660, London, 1965.なお本書そのものの
翻訳ではないが,今井宏編訳『十七世紀危機
論争』, 1975年。
伽 1560年代の対英関除については次の文献
陶 Eben血,
H. Vander Wee, op, at., II,p.254.デ
ィアスポラの実態については,石坂昭雄「16
世紀におけるネ-デルラント・プロテスタン
トのドイツ散住」北海道大学『経済学研究』
㌘巻1号,1977年,を参照。
H. Pohl , Die Portugiesen m Antweゆen.
S.141.なお当時のス-ルデ河口の地勢につ
を参ftくそ H. Vander Wee,op. cit.t II,pp.,
いては S.T.Bindoff, op. cit‥p.8; W.
236-238. ; J. Wiegant, Die Merchants Ad-
Brulez, 'Les escales au carrefour des Fkys
venturers Company auf dem Kontinent zur
-Bas (Bruges et Anvers, 14e-16e siec-
Zeit der Tudors und stuarts Kiel- 1972.
les )," Recueils de la Societe Jean Bodin,
H. Pohl , Die Portugiesen in Antwerpm,
S. 140.アントウェルペンの封鎖でこれらの
32(1973),pb419. の地図を参照。
糾)しかしこの時期以降,特には17世紀におい
アントウ工ルペンのポルトガル人129
てアムステルダムが帯びる国際経済中心地と
検討してみたい(36)
しての機能と性格は前代のアントウェルペン
(砂糖)アントウェルペンには15世紀末以降
のものとは根本的に異なっている。管見の限
アソ-レス,カナリア両群畠,マディラ・,北ア
りでは,邦文文献では以下に挙げた文献以外
フリカ,それにサオ・トメ Sao Tomeから末
に両市場の歴史的性格の相違の意味するとこ
精糖が搬入され,その精製業が盛んとなってい
ろを本格的に論じた研究に出会っていないが
たが,ポルトガルの関与についてみた場合,と
1
この点の解明は残された頁要な課題であろう.
りわけマディラとサオ・トメ,それに次第にブ
才JJ坂昭雄「17- 8世紀におけるアムステルダ
ラジルからの輸入が増大していった。その輸入
ム仲継市場の金融構造」(同著『オランダmm
量は, 1570年で約5000Kisten,つまり2000
易国家の経済構造』 1968年,所収),1971年。
トンにのぼった(.31その後輸入量は次第に減少し,
(37)
同「オランダ共和国の経済的興隆と17世紀の
1590年代に一時復活の兆しをみせ9Wp代の10
ヨーロッパ経済」北大『経済学研究』24巻4
年間でポルトガル人は18966Kistenの砂糖を
号, 1974年, 25-43貢。栗原福也「ネ-デ
アントウェルペンに持ち込んだ。そして17世紀
ルラント連邦共和国上127-132貢。同「オ
に入ると, 1605年以後の8年閏年2000Kis-
ランダ経済の興亡」(角山,川北編『工業化の
tenの線を維持したが, 1613年の5157Kisten
始動一西洋経済史講座I -乱1979年,所収)
のピークを最後として, 1625年以後は大幅な
158-163貢.
H. Pohl , Die Portugiesen in Antweゆen,
S. 141.
脚 Ebenda,これらのルートの利用に当っては
陸上運送費がかさむことになる。
減少傾向を辿っていった(39)こうしたポルトガル
の活動の後退の背後には,オランダ西インド会
祉(1621年設立)のブラジル進出があった
(40 )
この間,ポルトガル人がアントウェルペン持ち込む砂糖の産地が大きくシフトしている点
Ebenda. S. 142. licenten については,栗
が注目される。次表にみられる通り,主産地が
原福也「世界市場アムステルダムの成立とオ
1570年のギニア湾(サオ・トメ)から世紀末
ランダ経済の特質」 『社会経済史学』37巻1
にはブラジルに移動している点が看取されるの
号, 1971年, 36-38頁,参照。
である(41)
H. Pohl , Die Portugiesen in Antweゆen.
S. 143.
㈲ Ebenda, S.144.しかしながらここでもま
た商品の積み換え規制をめぐってへントとア
産 地 1570年
Sao Tome 3492>2Kisten
Brasilien 723 %
Barbarei 2 33
1590-1599年
326 %Kisten
16201
19
ントウェルペンの問で繰争がもちあがってく
る。
(2)商品交易
では以上にみたような厳しい政治・経済環境
の下で,ポルトガル人はアントウェルペンを舞
台としてどのような経済活動を行なったのであ
Principe
Antillen
M adeira
不 明 507
合 計 4961,
77
2342 yA
18966
(42)
(香料)いうまでもなく香料はポルトガル
ろうかo まず商品交易の関与について,砂糖,
がアントウェルペン市J豪に与えた最も重要な商
香料,毛織物,それに金属ン)4つを取りあげて
品であった。ポルトガルは1548年には同市場
130 中 沢 勝 三
の商館を撤去していたが,16世紀後半に入って
再び上向きに転じ, 17世紀前半にはブリュッヘ
独占的地歩は崩れたにせよ,香料は同市場にお
いてなお重要な品目-であった㌘)ィンドからリス
とイープルが上昇していった(50)ヨこの毛織物をも
ボン-の胡椴交易の統制が一時的に解除された
その足跡は, 1580年代と1620年代にいくつか
あと,1570年に再び請負制度KOntraktsystem
が導入されている㌘)これはドイツ人のK。nrad
の事例で辿ることができる(51)1627年に, 2人
Rothが請負ったものであるが,そのなかに30
ckのSargas de anascote (サーイ織銘柄)を
の持分のうちポルトガル商人が10参画していた。
貰い入れ,これを2隻の船で一旦-ンブルク-
ロートが1580年に破産した折には,ポルトガ
送付し,さらにそれをリスボンに送っているの
ル人は12の持分のうち3%を持った。そして,
は戦争のためである㌘)
1591年の請負に当ってポルトガル人は12/32
の持分をもち.フッガ-,ウェルザ-と協同し
たのである(45)さらに同年,フッガ-がこの契約
ポルトガル人はイベリア半島-送付している。
のポルトガル人がホントスホーテで120反Stir
(金属)アントウェルペンは金属の市場とL
e t. se x. fc a* 陣33野田琵ran蘭Ssra
イベリア諸邦がいた。 16世紀前半には,銅は先
から抜け,この分7/32をポルトガル人が譲り受
けた(46)
ず同市場に持ち込まれたあと再輸出されていた
ではこの時勘のアントウtルペンでの香料交
くドイツの港から直接なされるようになってい
易の実態はどのようなものであったろうか。世
った。そしてこの際アントウユルペンのポルト
紀後半に入って,-ンブルクやリヴォルノ,ヴ
ガル人は, -ンガリア,ドイツ,スウェーデン
ェネツィアが同市場の競争相手として立ち現わ
躍銅の中継者として勧らいたのである。 1627
れたことは確かであるが,ポールは胡椴につい
年の公証人文譜に記録されたアントウlルペン
て,同市-の輸入は1570年代以降下降線を辿
でのポルトガル人の金属製品の買い付けの内容
りつつも,しかし廃棄されることはなかったと
している(47)この点交易の全体量を知る手懸りは
は細細としたものから成っている。アルトワの
なく,データは散発的なものに限られてくるの
のが並んでいる(53)
のであるが,世紀末頃になると,銅の輸送は多
鉄釘,針,留め金(Spangen),銅線といったも
であるが,ヴァスケズ・ド・プラダは,1582年
に丁子girofleeが40キンタルしか搬入されてい
ないといっている(48)
。そして1590年代は停滞と下
降の状態で,17世紀に入って1620年頃まで10
(36)ポルトガル人はこれら以外の商品交易にも
多面的に繰わっているが,彼らの活動の趨勢
を知るeCはこれら4品目を取り挙げれば足り
年間に200-300Sackの水準,1620年以降は
ると思われる。
さらに低落したようである。かくして17世紀に
H. Pohl , Die portugiesen in An加eゆm.
SS. 153-156.
は,アントウェルペンは香料の地方的市場にす
ぎなくなっていたと考えられるのである(49)
陶 Ebenda, S.153.
(毛織物)南部ネ-デルラントはこの時期イ
陶 Ebenda, S. 154.;id.,巾Zur Bedeutung
ギリス産羊毛に替えて,スペイン産羊毛をもっ
Antwerpens als Die Zuckereinfuhr nach
て危機を切り抜けようとした。サーイ織Sayen
Antwerpen durch portugiesi∝he Kautleu-
がこれである。戦争はホントスホ-テに甚大な
te w云hrend des BOjabrigen Kriegen,"in '.
影勢を与え,1590年代には旧来のA生産地は停
id. , Studten zur WirtschaftsgeschかMe Late-
滞していたが,アルマンティエールとリールは
inamerikas, Wiesbaden, 1976, S. 22.
7ントウェルベンのポルトガル人131
H. Pohl , Die portugiesen in Antwerpen,
S.154.栗原福也「オランダ経済の興亡」,
(1938),p.214.
H. Pohl , Die Portugtesen m Antweゆen,
S. 168.
166頁。
触 Eben血, S.156れ他にこの主産地のシフト
細 Ebenda, SS.ユ81-182.
を抜かったものとして次の文献を参照。 F.
(51) Eben血 SS. 182-183.
Mawco. Le XVIe siecle europeen. Aspects
(53 Ebenda, S.183.
/
economtques, Paris, 1970,pp. 154 - 155.;
id., Le Bresil血XVe a lafin血XVIIIe
siecle.一Paris,
1977.p.55tl.
(5S 以ア, Ebenda, SS. 189-193.なお,ポル
トガル人のアントウェルペンを舞台とした経
済活動は商品交易に限られず,金融活動,さ
(42) 16世紀後半の香料交易全般については,栗
らには産業活動その他に及んでおり,特に金
原福也「16世紀後半の地中海とネーデルラン
融面においてはかなりのちまで相当な影智を
ト」 『一橋論叢』72巻6号, 1974年,を参
照。
もっていたと思われるが,これらの点は本稿
では視野に収めることができなかった。
胸 この点, 1567/8年について拙稿「アント
ウェルペン国際商業の一断面」,63頁の第6
表の価額比率を参照。
(4⑬ H. Pohl , Die pa吻giesen如Antwe坤en.
S. 166.;Vazquezde 汁ade, op. cit., I,
p. 90.; F. Braudel , La M,ゐiterranee et le
むすびにかえて
以上, 16世紀後半から17世紀にかけての激動
の時代のアントウェルペンの交易の様相,しか
もその一端を,ポルトガル人の足跡のごく一部
を辿ることによってみてきた。この時代は, 16
/
monde meditermneen a I'epoque de Phili-
P♪e II. Paris, 1966。tome I,p.503.
㈹ H. Pohl , Die Par如gtesen加Antwerpen,
世紀前半の比較的安定した状況とは全く反対に
政治・経済が激変した時代である。そして西欧
において,外来商人が国際商業都市の中に確固
S. 167.; V. Vazquez de Prade, op. ctt.,1,
とした組織と自治権をもつことができた時代の
p.91.
終蔦を意味するものでもあった。それに替って,
H. Pohl , Die Par,如giesen in Antweゆen,
S. 167.
経済的利害に縁取られた国民国家が-つまり
は国家が経済領域に深く関与し,これを取り込
(4カ Ebenda, S. 168.
んで掌超していく過程一明確な輪郭をもって
的 V. Vazquezde Prade, op. cit., I,p.92.
;なお前半世紀の1530年から1550年の時
現われてくる時代といっていい。かかる意味で
経済史的パークペクティヴからみれば,アント
期ではリスボンからアントウェルペンに年4
ウェルペン市場の落日こそ実は近代西欧経済の
万ならし45000キンタルの香料が持ち込まれ
生誕を告知するものであり,アントウェルペン
ちなみに年2回寄港する艦隊のうち1538年
の繁栄の姿こそ近代経済の有り様を逆照射して
6月のそれは25000キンタルであって,うち
くれるものといえるのであろう。
22913キンタルが胡椴, 723キンタルがしょ
うが, 706キンタル丁子であった。この点,
* 本稿は昭和53-54年度科学研究費補助金(総合
ibid., p.92,; F. Edler de Roover, -The
研究A,研究代表者 竹内啓一,課題「地中海地
market tor spices in Antwerp, 1538-1544,
域における集落の形成と発達に関する比較研究」)
Revue beige de Philolog好et d'Histoi相, 17
による研究成果の一部である。
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