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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 長崎における私の絵画 Author(s) 井川, 惺亮 Citation 長崎大学教育学部人文科学研究報告, 49, pp.1-15; 1994 Issue Date 1994-06-30 URL http://hdl.handle.net/10069/33299 Right This document is downloaded at: 2017-03-29T21:13:36Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp ⑦ クロード・ヴィアラ作品 HotelDieuパリ ⑧ ⑦の向い姐J I ⑨ ベルピニャン美術学校個展 ⑩ 長崎を最後の被爆地とする奮いの火 灯火台モニュメント予想図スケッチ ⑪ ⑩の完成 爆心地公園風景 ⑫ ⑩ ⑪の台座のためのタイル作り ⑬ ⑫を実地でタイル張りをする ⑬ ⑫⑬⑬⑫⑫ ⑬ マルセイユ時代の作品 ( 1 9 7 8 ) ⑬ と⑬ ドアの内側。 もとのドアとベインティング Lたドア パリ美術学校個展 瑠実パリの小学校下校風景 彩 土 ベルピニャンの幼稚園の中庭風景 アルナール氏も参加(個展会場) 自然芸術祭のステージ(鵠園清州) 長崎大学教育学部人文科学研究報告 第4 9 号 1~16 ( 19 9 4 ) 長崎における私の絵画 井 } l1 憧 亮 1 9 9 2年 4月,クロード・ヴィアラ ( C l a u d eVIALLAT) 先生の日本にしては大がか りな個展が,ギャラリー五辻の企画で佐賀町エキジビットスペースで行われた。先生との 再会を楽しみにオープニングパーティに出向いた。会場は大勢の参加者で一杯に溢れてい て,先生と目が合うや否や「制作の方はどうか,うまくいっている? こどもたちは元気 かい ? J といつものことながら私に気をかけて下さった。その席では久々に会った作家も r 多しそのうちのひとり彫刻家の T氏が私に会うなり. 君が長崎へ行ったことは失敗だっ たJと,いきなり変なことを言ったのである。彼からそのようにいわれるような思い当る ふしはない。あるとしたら,私のように敢えて東京から離れてしまったそのことへの問は あったのだろうかという自問だろう。それを出し抜けに突然言われたのには閉口してし まった。続けて「村おこしゃ家の墜に色を塗ることなど,美術と関わらない次元の低いレ ベルだ。現代美術は東京でないとゃれないものだ Jと言い寄られた。美術雑誌等で評論家 たちによく紹介され話題となっている作家とはいえ,やはり作り手として私に対して何か 不満があるのかもしれない。ヴィアラ先生の明快さ(写真⑦⑧)と T氏から受けた都会の 暗うっというものを目のあたりに見る思いだった。 長崎における絵画活動について ところで,私は長崎で災難や理解に苦しむ出来事等,多く出会ったが,それはそれとし て,私のこれまでの長崎において絵画活動をした内容をふり返えることにしよう。それは 2つに分けられる。その 1つは絵画活動そのものを通して地域文化の活性化に結びっく方 ミユーゼ 法及びその実現である。例えば M usee-JRや国際学術交流の一環として日韓大学美術交 流展や平和を願うモニュメント制作,その他がある。 2つ目は絵画という歴史的な流れを 汲み,その制度性の絵画的な展開及びその制作である。言い換るなら,自作をどのように 進展させそのことを己れの感性を通して明確にとらえるかである。 長崎の絵画活動あれこれ これら 2つについてもう少し具体的に述べてみよう。前者であげた M誠 JRという タイトルで行った展覧会は次のようないきさつがあり,実現させたものである。当時(註 1)長崎県では“旅"をテー?として博覧会(通称,旅博と地元ではいう)を開催したが, 私たちのメンバー(註 2)も県民として盛り上げようと試みた。他方,市民による長崎市 に美術館を,とその建設運動が起こり,シンポジウム(註 3)までが長崎平和会館で催さ れ,市民の関心も高まっていた。このような時,県の旅博と美術館建設の市民の要望の両 者の諸条件を満たすには,何を,どのようにすればよいのだろうかと考えた。 旅博で長崎にやってくる客は. JRを利用するだろう。美術館をイメージする時に,作 品の収蔵庫化した陳列ではなしもっと生き生きとした人と人との交流の場として,例え 8 井川慢亮 ば駅舎やプラットホームに作品を飾ることによって,それも連続した 9つの駅舎を美術館 に見たてればどうだろうか。そこで JRの駅舎等を利用することによって,何か新しい長 崎のイメージが生まれる予感がし,このような思いでその企画書を 幸いにも. JR九州に提出した。 JR九州も時代の波に乗ってリフレッシュを計る試みが行われており,“旅" 博覧会もあり,私の案は受け入れられた。 この案は,まず 8月 9日平和の日に焦点を合わせて 8月 1日から 9日まで. JR長 u 崎駅 から出発し,特急や急行の通らない長与経由の大村湾沿線の各駅停車のコース,計 9つの 駅を使って毎日順番に各人が各々の駅舎に個展形式で行い,それと平行してその都度私が 各駅舎周辺のプラットホームの壁や床やフラワーポット等にダイレクトベインティングを していく内容である。その実現のため私たちメンバーは連日,猛暑の中,大自然を相手に 沼沼活渇渇)) 絵画活動を行った。(註4)(写真q 日韓交流美術展については,長崎大学教育学部美術科が国際化時代に向けて,社会に聞 かれた大学として,また学生たちの美術教育の実習及び活動の場であることを最大の課題 として,そして,何よりも長崎の歴史性及び地理性を最大限に活用出来るように,韓国大 9 9 1年 1 0月大学問国際学術 郎市にある国立慶北大学校芸術大学美術科と交流し,その結果 1 交流協定締結となる。作品のみの交流に終わらず,ホームステイを通して人的交流を行い, また学術シンポジウムも行い,最近ではようやく学生の自主企画としてワークショップ (T シャツ交換会)が実施された。また,特筆すべきことは,大学側に直接援助を求めず,学 生有志企画による絵画展(註 5)がこの新春行われたことである。いよいよ私たちの学部 にも大学院設置が予定され,この 4月より学生募集が行われ,このような国際交流が文化 的に教育的に更に発展することを願っている。 次に絵画としての純粋な展開についてである。これは現代の美意識やその変革をもとに して未来に向けて新しい流れ,傾向を見出すというやり方であろう。しかしながら,作り 手にとって大抵はそのようなことはどうでもよし己れの思うままを,ある時は誰れもが 開拓しなかったであろう世界を感じとり,それを表現することにあると思われる。よくい われるように作り手の特有の孤高の世界を築きあげるように,たえまない精進をすること にあるのだろう。何れにしても,いかなる方法であれ,たとえ社会との断絶があろうとも 一般的には作り手は制作のみに没入し,画面と格闘しながら何かを表現してきた。 ところが,私の場合,長崎に来るまでは少なくとも,己れの絵画のみを中心的課題とし てすえてきたが,長崎に来てからは,私の絵画と借景との関係,やがて,自然の中に己れ の絵画が次第に適応順応していくやり方をとり始めた。 つまり,長崎という地域性を通し,そこから得た必然的な制約や条件をクリアーしなが ら絵画の思索をするようになった。もちろん長崎以前も,厳密にいえば確かにそのようで あったともいえる。例えば画廊空間における場所性の問題や展示そのもののインスタレー ションはそれを含んでいる。けれどもこれは東京でも長崎でもあり得ることで,私の思い は長崎という日常性での絵画性を,極論的にいえば地域性なくして私の絵画性は成立しな い状況まで高まっていった。 以上,述べてきたように,地域の人々が要求していること,活性化しなければならない こと,また面白さ,楽しさがあって,しかも芸術性が加味きれて,それらを皆で共有出来 る喜びやその空間を獲得すること等,何よりも長崎でないと出来ないものをめざしている 長崎におげる私の絵画 9 ことだ。 長崎にいてどうしてもさけて通れない問題として被爆地長崎がある。長崎に来て聞もな い頃,新聞誌上で「長崎を最後の被爆地とする誓いの火 J灯火台建設のモニュメント制作 の公募の記事が目にとまった。東京にいた頃は,美術に平和をテー?として導入すること 等考えにも及ばなかった。後で述べるように私は,純粋に美術のみでその展開をし,制作 していた。いってみれば芸術至上主義者であった。もちろん私は現代美術という文脈の流 れに泳いでいた。つまりテーマ性の喪失を認めていた。もしテーマがあるとすれば,それ は重要な課題ではなし敢えていえば,小学校以来の美術教育に対する反発,或いは,評 価すること自体への疑問,人が人として平等に生きる権利を強く感じて,それらを言い聞 かせながら絵を描き続け,それがテーマのようなものだったのかもしれない。無論,ミニ マルアートの論理も耳にしていたが,そんなことさえ排除したかった。だが展示空間とい う限定の中では,壁面のもつ制度があり,つまり必然的な場の占める優位性は認めざるを 得ない。これは例えば美術教育においても,一番よく描けている完成度の高い作品は,壁 面の中心に置かれている。するとますます視覚的にも心理的にもよく見えてくる。それを 評価の対象としてその場を占めることを認めたくはなかった。どの壁面でも,むしろ,ハ ンディを持っている壁面でも,壁画の中心と同等の,或いはそれ以上の効果を発輝出来る ことを,少年心として信じていたのだった。こうしてテーマ性を平和だとか愛だとかする 以前の問題として,美術そのものへの聞を発することに絵画する意義を見出していた。 だが長崎にあっての私は,美術を問いながらも人間として「平和Jを考えてみる必然に 迫られ,それを通して美術のあり方を考えねばと思うようになった。燃える夏になると, ことに 8月 9日になると長崎びとにとって,同時に人類にとって忘れることの出来ない日 であり,その思いがひしひしと身体の中に染ってくるのを感じた。私は平和を願う市民と して,また美術家として芸術が医学のように直接的に人類に貢献出来るだろうかという思 いで応募した。結果は,上位 5位までしぼられ,その中に私の作品が入っているとの通知 を受けた。最終的に,審査に携わった方から「あなたのは次点、となり,残念でした。 Jと 伝えられたが,でも私は嬉しくて何か大きな役割を果たしたという実感がした。ところが 私の作品が採用されることになった。その理由は立地条件の要素を私の作品がマッチさせ 建設の実現性があり,決定したとのことだった。 この作品作りについては,予め長崎市当局と建設する場所の爆心地公園の図面,特に横 断面の図画を前にして充分な検討が行われ,爆心地公園より長崎原爆資料館へ登る階段の 脇に,元ある景観をこわさない条件でようやく設置許可が下された。私は,モニュメント をこれまでの絵画観をもり込みながら,立地条件やその周辺の景観を配慮しながら制作を ,0 0 0 枚は手造りで,学生や地域の方々がそ した。特にモニュメントや台座部のタイルの 6 の型取りや呉須塗りまで手伝ってくれ,釜たきも地域の方の応援を得たものである。(註 6 ) (写真@泡ゆ⑬) 復活した文部省在外研究員,そして渡仏準備 l昨年の 8月中句,第 4回日韓大学交流美術展(長崎大学主催)で韓国慶北大学芸術大 学美術科一行の歓迎会の真只中,断念していた文部省在外研究員の派遣が突然復活となっ た旨の連絡が入った。(註7l 1 0 井川僅亮 日程通りでは 1 0月 1日に日本を出発せねばならないもので,天から振って涌いたこの出 来事に,まさに至上命令!?的な強行を義務として行わなければならないハメに陥った。当 時,私は美術科の主任を任され,大学院設置準備のための会議やこの日韓展実現のため, 全力をあげた。周辺から主任とはかくあるべきだと論されたりしたが,こうした国際的な 事業を進めていくには,とにかく周りのフォローが不可欠であり,一致団結してこそ,実 のあるものとなっていくものだ。そして,日韓展終了後の事務手続きや集中講義を行いな がら,このような状況のもとで,残る 1ヶ月半で何の準備が出来るだろうか。何よりも真 o l eNa先にやらねばならないことは,フランスでの研究機関であるパリ美術学校(Ec t i o n a l eS u p e r i e u r ed e sBeaux-Arts) 及びペルピニャン美術学校(E氾o l eBeaux-Arts dePerpignan) の受け入れ確認書類を送付してもらうことだ。これは 1つには滞在ビザ 申請で必要なものとなっている。両校に電話連絡を入れても夏のバカンス中であり,本当 にあせってしまった。 大阪にあるフランス領事館で渡仏するための手続きをやっとの思いで終えて,大あわて で日本を出発した。 フランスペルピニャンにて絵画を考える an-LouisVILA)先生は私を日本 ベルピニャン美術学校長のジャン・ルイ・ヴィラ(Je の芸術家として歓迎して下さり,また妻とこども 2人連れであったため至れり尽くせりの 歓待を受けた。早速,特別のアトリエを提供してくれたにもかかわらず,私は学生たちの アトリエで一緒に制作したいことを伝え,認められ,久々に画学生気分に浸った。しばら s s yLEFEBRE) 先生より特別講義とし くするとデザイン科ジュシィ・ルフェプル(Je F r a n c o i s eVILA) てレタリングのリズムについて,またヴィラ校長夫人フランソワーズ ( さんから地元の中学校の生徒たちに日本の文字や書についての実習を依頼されたりした。 私の絵画制作は前述した長崎の延長として取り組むには,余りにも環境の変化が大き過 ぎた。そこで何よりもここの生活に慣れ親しむことに徹することにした。 o l eMixteL a v o i s i e r ) へ編入学 ひらがなを覚えたての長女瑠実(6才)は小学校(Ec (1学年)をし,長男彩土(3才)は幼稚園(Ec o l eM a t e r n e l l ePapeC a r p a n t i e r )( 写 真⑬)へ各々通うことになった。私は長崎では大学の仕事と称して,帰宅は遅く殆んど家 庭を省みなかった。それが異国の地にあって,幼いこどもたちの安全性に努め,初めて父 親りぶりを発揮し,こども教育について少しは気を使うようなった。こどもたちの学校へ の迎送をまめにした。こうしてこどもたちを通して家族ぐるみの交際が始まり,実に有益 であった。 時折り登園をしぶる長男に折り紙を与えると幾分は気分もほぐれ,おまけに友人が出来 たりした。長女の方は学校で折り紙の折り方を紹介するほど慣れてきた。 美術学校では日本の文化とか伝統について質問を受け,私は次第に日本人として何をな すべきかと考えるようになった。 o l ed 'Arte td 'A r c h i t e c そこで絵画制作であるが,かつてマルセイユ美術学校(Ec t u r edeLuminy-Marseille) から帰国してからというものは,狭い空間の中での制作に 悩んだものだ。そのことが今ここでクローズアップして,長崎で行った絵画活動をそのま ま空白化してしまった。それは私がそれまでにずーっと木枠を保持して制作を続け,帰国 長崎における私の絵画 1 1 後,次第に木枠から布を脱皮させていく方法をとっていたことを,今,もう一度,ここで 絵画そのものを考えることとなった。 布を買って来たが,布の折り込みを試み,折り込みの極限にすぐ達してしまうのだった。 SimonHATA I ) の作品が横切るが, しぼり染めの方法をとったあのシモン・アンタイ ( どうしても私の中では異国の地にあって絵画思考する時,日本の文化性や体質感が自ずと 表出して来るのを感じた。そして,こどもたちが折り紙を通して友人たちとコミュニケー ションがとれたことで,折り紙が同じコミュニケーションの役割りを持つ絵画において, 何かヒントになるのではなかろうかと思った。家に戻って,色々なものを折り続けた。 M i c h e lBernatand) 先生,ミシェル・ラッ ヴィラ先生を初め,ミシェル・ベルナタン ( ツ ( M i c h e lLATTE) 先生,セルジュ・フォシィエ ( S e r g eFOUCHIER) 先生らがア トリエをまわられ時折り私の作品を批評してくれた。布折りはシュポール/シュルファス の作家たちが試みたとか,色の象徴性や意味性について日本ではどんなイメージを持って いるのか等の質問を受けた。そうしているうちに,ヴィラ先生より是非,美術学校のギャ ラリーで作品発表をするように推められた。(写真⑨) ペルピニャン 3ヶ月間の成果として,そこを切り上げる前に個展が実現した。(註 8) この企画・主催はペルピニャン市と美術学校が行ったため,ヴェルニサージュには大勢の 方々が見えた。中には作品を売って欲しいと 5~6 人の方々からいわれたが,文部省在外 研究員の身分のため全て非売とした。また,どうやって色をつけるのかその手順を教えて 0 人ほど招待し,テー 欲しいとたずねられたりした。学校長主催でヴィラ先生が友人たち 5 プTルを囲んでカタラン料理で私たち家族を祝ってくれた。 翌日には長男の幼稚園生(写真⑬)をオルガ (ORGA) 園長先生が率いて私の作品鑑 賞に見えた。制作プロセスと効果について,園児たちに説明をということで,紙を使って 折り込みをし,その上に着彩することを伝えるとオルガ先生は更にわかりやすく彼らに語 りかけ,教室で彼らと試みましようといって切りあげた。 s a b e l l eVIALLAT) さんの企画によるコン 一方,ニームでもイザベル・ヴィアラ O トゥル・ 2展に出品した。このラヴィジギャラリー (LAVIGIE) は,もとは普通の住 宅でタピスリ調の壁紙が全面に貼られた壁面となっており(写真⑮),そうしたものをと り込んで作品作りをするように注文があった。とにかく,ベルニサージュの人々の出入り が多しどこから人がやってくるのか次から次へと客が動いた。途中より出品作家による シンポジウムがあり,私は布の折り込みと日本の折り紙などの仕草との関係を絵画の上で 試みたことや,展示場入口のドアや戸棚の扉の内側にダイレクトにぺインティングし,そ れらを開閉することによって色が見えたり隠れたりすることと布を折るそして拡げること とが共通していること,そして部屋全体が lつの絵画作品となっていることを述べたら拍 手が涌き起こった。(写真@ゆ) ( 註 9) そしてパリへ 灰色の寒々としたパリに 2月初めに到着した。明るかった南仏の,カタラン文化を誇り としていたぺルピニャンとうって変ってパリは,人々でさえよそよそしし太陽もなかな か顔を見せない。朝,パンを買いに行くがパン屋の人も愛想が今一つだ。銀行へ現住所届 けに行くとサービスの悪さ,面倒な手続きやら,そして何日も待たされる。これだから経 1 2 井川僅亮 済は回転しないのもうなずけるほどだ。 パリ美術学校長のイヴ・ミショ C YvesMICHAUD) 先生と面会をとり. rよく来たね。 5年振りの再会を喜び合った。早速 元気だったかい。マルセイユ時代が懐かしいね。」と 1 r 学生アトリエで制作をしたいと申し出たが. 君には先生として迎えたのだから学生の制 作指導等したらどうだろう。」と伝えられた。 ところでこどもたちの転入手続きをせねばならない。ミショ先生にも聞いたが,多分ど こも学校はー杯であろうと。またアパートの隣り向いのラオス系 2世が「うちのこどもひ とりは,小学校の席がなく,自宅で勉強させている。あなたたちのこどもにもそうしなさ い。」と忠告してくれた。とにかく区役所に出向いた。心配していた長女の方は申請書類 E c o l eE I 吾m entaireT i t o n )C 写真⑬)に登録出来, を提出すると,すぐ近くの小学校 C そこの校長も快く受け入れてくれた。長男の方は近くの幼稚園は余席がなく,園長が別の E c o l eM a t e r n e l l eS a i n tBernard) で許 所を紹介してくれ,少しは遠くなるが幼稚園 C 可が出た。 美術学校でケルマレツク先生に会って,アパートでは制作出来ないので学生アトリエを 使用したいと訴えても. rNon! か。マチス展をもう観た ミショに相談しなさい。それに美術館があるじゃない ?J といわれるばかりだった。 美術館は美術教育の場であることをアピールしている。水曜日は学校が休みなので,例 C e n t r eGeorgesPompidou) の「子どもアトリエ JC A t e l i e rd e s えばポンピド美術館 C e n f a n t s )では,幼児や小学生向けに美術体験コーナーを設け,そのスケジュール表をリー フレッ卜等で出している。丁度マチス展が開催されていたが,そこでもマチスをテーマに こどもたちに映像や具体例を出して専門員がわかり易くガイドをしながらこの巨匠を体験 させる。また,子ども向けのマチスの画集も数冊提示している o 事実,私のこどもたちも マンガ本のように見入っている。私など,どんな内容で書かれているのかと思ってつい手 が出てしまう。大学の美術教育はこのような体験学習をどんどん取り入れ,美術する喜び と文化遺産の大切さをフランス人のようにしっかりと未来の青年に伝えていくことが必要 であるし,そういう時期に来ているのだ。 かつての留学中,私はパリへは美術館めぐりの時以外は出向かなかった。当時のマルセ イユ美術学校はフランスでも最もよき教授障と美術教育の充実については全国的にも注目 0 )。私も日本人がよくするように何がなんでもパリへ向わねばと心準備 されていた(註 1 していたが,制作出来る環境と教授陣を選んでマルセイユに滞まりキャンパスに向った。 この頃からフランスにおいて「中央と地方」という意識が体ごと伝わってきた。決定的な T o n iGRAND) 刻印を私に与えたのは,ヴィアラ先生,ケルマレック先生,トニ・グラン C 先生,それにクリスチャン・ジャツカル C C h r i s t i a nJ ACCARD) 先生たちの作品をマ ルセイユのギャルリ・アタノール C G a l e r i eATHANOR) やミュゼ・カンチニ CMusee CANTINI)で見て,新しい息吹を感じとり心が熱くなるのを覚えた。 そして帰国する頃になって友人が現代美術史の流れを表にした紙切れを見せてくれ,上 記の先生方がシュポール/シュルファスのグループを結成し,解散したことを教えてくれ た 。 やがて,パリの華やかさなど気にかけなくなったが 4年間マルセイユに住んだ私は, 一度はノ fリで生活してみたいと心のどこかにあった。今,パリ美術学校にはマルセイユ時 長崎における私の絵画 1 3 代の教授陣,ミショ先生(哲学)を初め,上記の先生方がこぞって移動してきた。私にとっ て,そのことは必然的なチャンスに巡り会えたのだと思った。 さて,数日して美術学校ではヴィアラ先生がニームより出勤された。先生の勤務日は半 月に 2日程度でその隔週の先生が来ない時に, から」といって, r 井川,その日の学生の作品指導を任せる ドアに貼つである日程表に私の出校日を記入した。私は主としてアトリ A t e l i e rV i a l l a t ) において時折り日本文化に関する授業を行った。その エ・ヴィアラ C Musee 内容は折り紙と書である。これらの講義の準備のため,その頃からギメ美術館 C N a t i o n a ld e sArtsA s i a t i q u e sGUIMET) へ通うことになる。 パリでの絵画制作の展開 私の絵画制作の場を求めるため,シテ・デ・ザール C C i t eI n t e r n a t i o n a l ed e sA r t s ) への入居に必要な申請書類を作成し提出したが, r 今,受付け期間が過ぎているが,あな たの仕事(作品)には興味をもったので,次回の委員会で計りましょう」と館長から待ち に待った手紙が来た。 A t e l i e rR a d e t ) の使用許可が 1 1月末 モンマルトルの丘の界隅にあるアトリエ・ラデ C 日まで出た。 7月下旬にはパリを離れるというのに。それでも感謝しながらペルピニャン からの折り紙をヒントにしたことを検討しながら制作を続けた。 折り紙は正方形が基本である。マルセイユ時代の私のキャンパスも正方形が主流であり, 1 )が画面の分割を促し,同時に自由気ままな飽和する色彩群をコントロー 白い幾何学(註 1 ルさせる。その白い線が折り紙の基本的な折り目線と一致していたのである。(写真⑭) 日本の伝統的な仕草(折りたたむという行為)と結びついた私の折り紙による幾何学は, 一つの確信を得た。絵画は幾何学であることを折り紙は語っている。にもかかわらず,私 は,幾何学をテー?としない。丁度,折り紙が幾何学だといわない,むしろそれに気付か ないこどもたちのように,遊ぶ楽しさを求めて止まない「折り紙」から展開や連想,その 中に一つの,ある秩序を見出した驚きに日本人としての私の現在があるのだ。人が求める 日本的なイメージとしてすぐ連想する伝統的芸術,例えば月にすすき,大和絵,或いは宗 達や北斎の作品,外国人作家の影響にみられる禅や書,また石庭,建築の様式等から引用 する場合が多い。それは当然のなりゆきと思うが私自身,パリ美術学校生に書や折り紙を 指導していて,身振りや感受性の大きな違いを感じているのだ。まさに仕草など,そのニュ アンスはコミュニケーションが出来ない。彼らにとって,数を数える時,親指から順に折 るのではなく開いていくし,鋸や飽は前に押し出すのだから尚更である。 パリ美術学校での偲展 6月になる前後から先生方から作品発表会場を日本大使館へ依頼してはどうかと話しが あった。とりあえず,そこへ出向いて尋ねてみた。「この建物は文化財に指定され,画鋲 も打てない。 j など難点、が多く,心苦しく思った。それにこのように申し出ること自体, 私は苦手である。その点,フランス人の自己アピールは表現力があってとても真似が出来 ない。日本人としてミショ先生に相談してみよう。 G a l e r i eGauche) の使用許可が出た。但し,条件と 美術学校のギャルリ・ゴーシュ C して,夏期講習の一環として位置づけ,作品発表会期中に講演会を行うことが附加された。 1 4 井川僅亮 学生たちの要望により,折り紙の実習を兼ねて自作を解明することにした。 個展用の作品作りのエスキースを見たヴィアラ先生は「注意しなさし当。折ることと菱形 0年前,アルナール ( A n d e r P i e r r eARNARL) がやってしまったから。ちょっ はすで 2 P a t r i kSAy. とカフェでも行こうか。」そこで操り返し「折り目についてもセトウール ( TOUR) が,ただ単に折り目をアイロンごてでつけて作品として成立させたからね。気 を付けなさい」と心配してくれた。 個展直前に,幸いポンピドー前のアルナール氏のアトリエに訪れることが出来た。初対 面にも関わらず,もう以前からの親しみのある人に見えたのは,やはり,布と折りを通し て作られた作品の数々に触れたからであろう。そして注意深く彼の作品群を観察しながら 質問した。彼の作品には風呂敷を畳むようにして収納する。そのため折り目がついている が,着彩のための折り目線が消失していることや殆ど布は一枚のものとして全面に舷げら れた状態で完結となっていることを見た。現在は小説も書いていて,画面の半分下には文 字が書かれ,絵日記のようなスタイルの作品も見せてくれた。 アルナール氏は個展に来場してくれた。折り紙の実習に参加し熱心に紙を折りながら, 私が見出した菱形のタネ明かしを彼は求めた。特に折り目が何故固定しているのかその不 思議さに何度も聞を発した。ここらあたりが,まさに和洋折衷の技であり,仕草の表われ 方なのであろう。(写真⑫) 個展会場には建築関係と彫刻関係の多くの人が,布の折りの構造に強い関心を持ってい て,それらに関する質問を受けた。一方,このギャラリー内に私にとって魅惑される大理 石の柱がある。古代ギリシア・ローマからの伝統的スタイルを持つこのエンタシスの柱に 日本から持参した川崎市民ミュージアムのパフォーマンスで使用した作品をインスタレー ションした。薄い半透明な木炭紙大の紙を何枚もつなげ(のり貼りし),そのジョイント の部分にタコ糸を通す,その接続部分に彼らの目が集まった。このデリケートさと軽きが いいという方が多かったのが意外だった。 フランス行きやまた帰国などに伴って環境が変化する。そのことによって,絵画制作を 行う実際と絵画思考を行う動きにズレがあるものだ。但し,作品だけをその国に持参して 発表する場合はそれらの落差はないように思う。何故なら作品作りのプランや作品自体が 完結している状態であるため,多少展示用の材料不備があるにせよ,何とか最初のプラン で実現するように努力するからである。 その点,長崎で展開してきた絵画活動は空白化せねばならなかったと述べたものの,パ リ美術学校の個展では,前述したように長崎で制作した作品を利用し,そのまま思い通り にインスタレーションすることが出来た。空白どころか柱と柱との空間を充実させ,画面 表面上に外からの光を導き寄せ透過させた。(写真⑫) 0月に行われた金在寛氏によって企画された展 帰国後,最初の作品発表は緯国清州市で 1 2 ) であった。フランスとも日本とも違う異文化の中での体験は,自作をある程 覧会(註 1 度客観視するのに有益であった。 そこでは地元作家たちが山奥の段々畑など大自然を相手に作品作りをしていた。大旨, 枯草,木とか土や石などで,それらを積み重ねたり,組んだり,技術的にはシャープさこ そなかったが意気込みがあった。次のプログラムでは肌寒い中,清川を横切って男たちが 1 5 長崎における私の絵画 裸になって水中パフォーマンス。メイン会場では地元のお百姓さんたちが秋祭りだろう, 太鼓を叩きながら,農異類や銃を持って踊っていた。彼らは,秋の実りのフェスティパル を開催し,芸術と関係ない人々まで巻き込み,まさに若者たちが地域の人々と共生してい る姿を見,この自然芸術祭に感動した。(写真⑫) 3 ) が 5つの美術館(註 1 4 ) を巡回してい 今,日本でシュポール・シュルファス展(註 1 る 。 20年遅れのフランス現代美術の紹介で,何を今更という観もある。何故情報化社会に あってもこの現象が起きたのか,そこにメスを入れる意味でも,また,このような形でき ちんと紹介される必要が何故今なのかを問う上でも大いに期待出来る展覧会である。(註 1 5 ) 最後に岐車県美術館で開催する。クロード・ヴィアラ先生より同展の講演のため来日 するとの連絡が事前にあり,再会を楽しみに,どんな話が聴けるだろうか,待ち切れない 思いで一杯である。さあ飛騨へ飛び立とう。 陸 註1 1 9 9 1年夏であり,そのその名称は長崎『旅』博覧会。 註 2 重野裕美,増田和剛,波多野慎二,松野英恵,白浜清司,吉岡由紀子,西蔭佐千子,そして私 註 3 主催西日本新聞社,ノマキ、ラーとして美術評論家伊東順二氏、福岡市美術館長副島三喜男氏,長崎市 長本島等氏,長崎市美術振興会事務局長米村昭彦氏そして私の以上 5名 。 西日本新聞 4月 8日付, 9 0 ,毎日新聞 4月 8日付' 9 0,等を参照。 9 0 7月 1 0日付 註4 ' 西日本新聞の社説にとりあげられた。註 2のメンパーが個展を行った。揮(活 9 9 0 年度 水教育研究)第 3号 1 Musee-JR (絵画)白浜清可著を参照のこと。 註 5 タイトル rTHE9 Jでメンバーは私の卒論ゼミナ - Jレ生 6名と慶北大学生 3名。 何れも女子学生で絵画作品を発表した。おそらく学生同志の交流展では初めてのものになろう。 註6 r 長崎を最後の被爆地とする誓いの火」灯火台建設実行委員会。代表川口正善氏 1 9 8 8 年 8月 9日建 設 。 註 7 平成 5年度文部省在外研究員の枠が長崎大学の諸般の理由により 2分の 1カットという内容の連絡 は受けていたが,土山前学長の御尽力により復活となる。 註8 S e i r y oIKAWAのタイトルで 1 9 9 3 年 1月1 1日-18日,ペルピニャン美術学校新聞 I n d e p e n d a n t 1 9 9 3 年 1月2 5日付を参照 設9 “ RENCONTRENo2" 1 9 9 4年 1月 1 5日-2月2 8日出品者 F .MARTINO,W.DUPONT,S . IKAWA,A .MICHIE,A.PERRET,Y-REYNIER 註1 0 "LUMINY-MARSEILLE" ARC2企 画 ノ fリ市立近代美術館 ' 7 6 1 0月2 6日 付 ル モ ン ド 社 をはじめ各社が記事とする。 註1 1 S ei r y oIkawa:Las a u v a g e r i ee tl ec o d e イヴ・ミショ著(翻訳井川僅亮:野生と規律驚 藤一郎訳) 註1 2 義見 DISCOVERYNEWASIA展・清州 1 9 9 3 昌画廊 出品者 9人(韓国,日本,欧州の各 3人) 註1 3S u p p o r t s/ S u r f a c e s南仏を中心として 1 9 6 0年代終り頃から 1 9 7 1 年頃に活動した美術運動の名称。 特に絵画とオプジェとの聞における問題を提示した。 註1 4 埼玉県立近代美術館・大原美術館・芦屋市立美術博物館・北九州市立美術館・岐車県立美術館 註1 5 今や大都会以上の環境の整った公立のいい美術館が地方に次々と誕生し,いろんな企画がたてられ, u p p o r t s/ S u r f a c e s展が東京の近代 このような展覧会はそうした時代の反映もあるのだろう。 S 美術館ではなく地方の近代美術館を巡回しながら行われたことは意義深いものである。