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試験問題(日本史)

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試験問題(日本史)
平成25年度
島根県立大学
一般選抜(前期日程)個別学力検査
試験問題(日本史)
【試験時間 90 分】
注意事項
1.開始の合図があるまで、この問題冊子を開いてはいけません。
2.問題は 1 ページから9ページまであります。開始の合図があった後、問題冊子
を確認し、印刷不鮮明の箇所などがあった場合は、直ちに申し出てください。
3.解答用紙は 3 枚あり、問題冊子とは別になっています。また、解答は横書きで
記入してください。
4.受験番号、氏名は 3 枚の解答用紙の所定の欄すべてに記入してください。
5.解答中の句読点やカッコも1文字分に数えます。
6.解答中の年代をあらわす算用(アラビア)数字を用いる場合、2桁で1マスを
埋めてかまいません。 例
20 12 年
7.解答中、人名を答える場合は、特に指示のない限り、姓・名ともに記入してく
ださい。姓のみの場合は減点対象となります。
8.問題冊子の余白は、下書きに利用してもかまいません。
9.試験時間中の退出はできません。
10.試験終了後、問題冊子は持ち帰ってください。
日 本 史
第1問
Ⅰ.
次の文章を読み、あとの設問に答えなさい。
宗教と政治
比叡山、興福寺、高野山の大寺院は、鎌倉時代から室町時代にかけて、荘園領主と
して全国に広大な荘園を領有していたが、応仁の乱以後は封建領主に寺領荘園を奪わ
れて次第に衰えていった。織田信長が永禄十一(1568)年に京都に入って(
1
)
を将軍に立て、全国統一の軍事行動を起こすと、信長は自分に反抗する寺院勢力を徹
底的に破壊しようとはかった。元亀二(1571)年(A)比叡山が越前の朝倉氏、近江
の浅井氏に加担して信長に敵対したので、これを焼き討ちし、その武力を完全に破壊
した。ついで天正四(1576)年石山本願寺と衝突し、伊勢長島、北陸の(B)一向一
揆を平定し、ついに本願寺と和議を結んだ〔略〕。
また信長は日蓮宗が(
2
)の乱の後ようやく勢力を回復し、地方の布教に当たっ
て浄土宗と宗論をたたかわす傾向にあるのを危険視し、たまたま天正七(1579)年安
土の浄厳院で行われた両者の宗論(安土宗論)ではあらかじめ判者に内命を与えて日
蓮宗側を負けと判定させ、わび証文と罰金を納めさせた。信長は仏教寺院、僧侶が政
治的に策動するのを憎んだので、かえってこの頃伝来した(C)キリスト教を保護し、
京都と安土に教会堂を建てることを許可したりした。
天正十(1582)年信長が京都の本能寺で殺され、(D)豊臣秀吉が跡をついで統一
事業を進めると、寺院に対してはその経済的勢力を弱めるために検地を行って寺領を
没収し、改めて(
3
)状を与えて寄進するという方策をとったが、また一面では本
願寺には寺地を与え、比叡山の復興を許し、京都に方広寺を建立するなど寺院を保護
する態度も示しているので、秀吉は寺院を近世封建支配の機構の中に織り込もうとし
たようである。しかし統一事業を妨げるものには容赦なく武力攻撃を加えた。〔略〕
信長が寺院の軍事的威力を破壊したのに対して、秀吉はその経済的基礎を弱体にした
ということが出来よう。
慶長八(1603)年、徳川家康が江戸幕府を開くと、家康は(E)諸宗諸寺を幕府の
封建体制の下に統制しようとし、(
4 )諸法度を作って大名、武士を統制したよう
に諸宗寺院にそれぞれ法度を下して統制を加えた。(F)寺院法度は慶長年間から必要
に応じて各宗に下され、その後元和、寛永と次第に整備され、寛文五(1665)年七月
になって諸宗一般の法度が定められた。〔略〕幕府は寛永十二(1635)年に(
5
)
奉行を置いて諸宗の監督取り締まりに当たらせ、その下に触頭、輪番などの役僧を置
かせ、諸宗の宗務を江戸で執るように定めた。
一方で(G)幕府はキリスト教の禁制を次第に強化し、寛永十二年に海外渡航を一
-1-
切禁止すると共に、キリスト教徒に弾圧を加えたので、同十四(1637)年(
6
)
の乱が起こった。この乱の結果、幕府はキリスト教徒を容赦なく検挙して極刑に処し、
7 )という方法でキリスト教信仰の有無をしらべた。
(
出典:大野達之助『日本の佛教』(至文堂、1961 年)
※なお出題に際して、文章の表記を一部あらためている。
Ⅱ.
幕藩体制下の商業の展開
江戸時代は大資本を有し大規模な商売を手広く営む豪商と呼ばれる商人が経済を
支配するようになった時代でもある。江戸時代初期に台頭した豪商は、戦国末期に起
源を持つと言われ、戦国大名が戦争を有利に導くために軍需物資の調達等を豪商に委
ねることにより成長したと言われる。この初期豪商は後に幕府公認の貿易船を利用し
3
た(
)船貿易を通じて、また、交通網の未整備なこの時期に地域間の価格差を
利用して商業取引を行うことによって巨万の富を築いた。しかし、鎖国政策によって
(
3
)船貿易が行えなくなり、さらには(H)五街道に代表される陸上交通網、
菱垣廻船・樽廻船に代表される海上交通網が整備されるようになると、初期の豪商は
没落する一方、あらたに三都の繁栄を背景にした商業の展開が見られるようになっ
た。十七世紀後半には、各地からの商品の受託を独占する(
が商業の中心を占めるようになった。幕府は(
8
)らに(
8
)と呼ばれる商人
9 )仲間を組織させ、
同業者の数を限定するなどして特権を付与する一方、仲間の代表者をきめ(
10
)
と呼ばれる税金を納めさせた。
問1.本文の空欄(
1
)~(
10
)に入る最も適切な語句を解答欄に書きなさい。
問2.下線部(A)について、織田信長によって焼き討ちにされたこの比叡山の寺院
の名称を漢字 3 文字で解答欄に書きなさい。
問3.下線部(B)について、一向一揆の担い手となった宗派の名称を漢字 4 文字で
解答欄に書きなさい。
問4.下線部(C)について、戦国時代にはキリスト教に関心を持ち、入信する大名
もあらわれた。この中で九州の大名が 1582 年にローマ法王に送った使節団の名称を解
答欄に書きなさい。
問5.下線部(D)について、豊臣秀吉が行った政策に関する記述のうち誤っている
ものを次の①~⑤から全て選び、番号で答えなさい。
-2-
①刀狩り令を出して農民の武器を没収し、自らの支配権を確立した。
②相続による田畑の細分化を防ぐために分地制限令を出した。
③征服した大名の領地に検地を実施した。
④二度にわたる朝鮮侵略を行い、その後半世紀にわたり朝鮮半島を支配した。
⑤バテレン追放令を発令し、宣教師を国外に追放した。
問6.下線部(F)の寺院法度は本末制度とよばれるものを作り出したと言われる。本
末制度とはどういうものか。その内容を 60 字以内で説明しなさい。
問7.下線部(E)と(G)について、江戸幕府がキリスト教を禁教とした理由、なら
びに、江戸幕府の仏教に対する統制政策がキリスト教の禁教政策とどのように結びつ
いているかについて 180 字以内で説明しなさい。
問8.下線部(H)について、五街道の組み合わせとして正しいものを次の①~⑤か
らひとつ選び、番号で答えなさい。
①奥州道中・甲州道中・山陰道・東海道・中山道
②奥州道中・甲州道中・東海道・中山道・日光道中
③山陰道・東海道・中国街道・長崎街道・北国街道
④伊勢街道・奥州道中・東海道・中山道・日光道中
⑤奥州道中・山陰道・東海道・中国街道・中山道
-3-
第2問
次の文章を読み、あとの設問に答えなさい。
明治政府にとって、(A)江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正が優先的な
外交課題となった。政府は(B)廃藩置県断行後の 1871 年 11 月、右大臣(
1
)を
全権大使とし(C)木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らを副使とする使節団を、アメリ
カ合衆国を経てヨーロッパ諸国へと派遣した。この使節団は、条約改正の予備交渉にあ
たったものの成果があがらず、欧米諸国の近代的な政治と産業の状況を視察して 1873
年 9 月に帰国した。
政府は 1876 年から本格的に条約改正交渉に取り組み始めた。(
約改正の二大課題のうち、(
3
2
)外務卿は条
)の回復の実現を目標とし、1878 年にアメリカ合衆
国の合意を得たが、イギリス、ドイツなどの反対にあい失敗した。1882 年から列国と
の合同会議方式で交渉に取り組んだ(
率の引き上げや(
6
4 )外務卿(1885 年から外務大臣)は、
(
5
)
)の撤廃を目標としたが、(D)改正案に対して国家主権の侵
害であるとの批判や、(E)社会・風俗のヨーロッパ化を進める欧化政策への反発が高
まり、1887 年に辞任した。(
7
)外務大臣は、1888 年から改正交渉を進めたが、
(F)改正案への反対論が高まり、自身も(G)国家主義団体メンバーに襲撃され重傷
を負った。これにより黒田清隆内閣は総辞職し、交渉が中断した。1889 年、山県有朋
内閣(1891 年 5 月から松方正義内閣)の外相となった(
8
)が、(H)日本との条
約改正支持に転換したイギリスの協力を得て条約改正交渉を進めようとした矢先、(I)
1891 年 5 月、来日中のロシア皇太子が滋賀県大津で沿道警備の巡査に刀で負傷させら
れるという事件が起こり、(
8
)は引責辞職し、交渉は中止となった。
1892 年、第二次伊藤博文内閣の外務大臣となった(
9
)は、翌年、(
公使としてイギリスに派遣し、1894 年、日清戦争開戦直前に(
成功し、(
5
)率の一部引き上げ、最恵国待遇の双務化、(
10
6
8
)を
)条約の調印に
)の撤廃を実現し
た。同様の内容の条約が他の欧米諸国との間に結ばれ、有効期限を 12 年として 1899
年に発効した。さらに 1911 年、改正条約の満期に伴い、第二次桂太郎内閣の(
外務大臣のときに新条約が締結され、(
問1.文章中の空欄(
1
)~(
11
3
11
)
)の回復が完全に達成された。
)に入る最も適切な語句を解答欄に書きなさ
い。
問2.下線部(A)について、1858 年に、江戸幕府はアメリカ合衆国と条約を締結し
た。その条約の名称を解答欄に書きなさい。また、幕府は同年、同様の内容の条約を四
カ国と結び、アメリカとあわせて「安政の五カ国条約」と呼ばれるが、アメリカ以外の
それら四カ国の国名を解答欄に書きなさい。
-4-
問3.下線部(B)について、明治政府は廃藩置県をどのように進めたのか、次の語群
にある語句を全て用いて、120 字以内で説明しなさい。
語群:
御親兵
/
薩摩・長州・土佐
/
知藩事
/
府県
/
府知事・県令
問4.下線部(C)の 3 名の政治家の業績について書かれた次の文章(ア)~(オ)は、
それぞれ誰に当てはまるものか、解答欄の指示に従い記号で答えなさい。
(ア)かつては桂小五郎と名乗り、長州藩攘夷派だった。
(イ)初代内務卿として殖産興業に尽力した。
(ウ)1874 年の台湾出兵に反対して官職を辞した。
(エ)枢密院議長として大日本帝国憲法制定の中心的役割を担った。
(オ)立憲政友会総裁となった。
問5.下線部(D)について、このときの改正案の内容およびそれに関連する出来事に
関して書かれた次の文章(ア)~(オ)のうち、正しいものを全て選び、記号で答えな
さい。
(ア)日本国内を外国人に開放し、内地雑居とする。
(イ)欧米諸国に範を取る国内法典を編纂する。
(ウ)外国人を被告とする裁判の判事は、全て外国人判事を採用する。
(エ)政府法律顧問のボアソナードや農商務大臣谷干城が反対した。
(オ)1886 年にイギリス船ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没した際、日本人乗客
全員を溺死させたイギリス人船長以下乗組員の過失が不当に軽視されたため、
不平等条約に対する世論の反感が強まった。
問6.下線部(E)について、欧化政策の象徴として東京日比谷に建設され、外国要人
接待の社交場として舞踏会が催された場所の名称を解答欄に書きなさい。
問7.下線部(F)について、条約正文以外の約束として列国に認めていた内容がイギ
リスの新聞に暴露され問題となった。その改正内容を 25 字以内で説明しなさい。
問8.下線部(G)について、襲撃した者が所属していた国家主義団体の名称を解答欄
に書きなさい。
-5-
問9.下線部(H)について、イギリスが対日協力姿勢に転換した背景にはどのような
極東情勢があり、また日本に何を期待していたのか、80 字以内で説明しなさい。
問10.下線部(I)について、日露関係の悪化を恐れた明治政府は、ロシア皇太子に
傷を負わせた警備巡査津田三蔵に日本の皇族に対する大逆罪を適用して死刑にするよ
う裁判所に要請したが、これに反対して行政権による司法介入を防ぎ、司法権の独立を
守ったとされる当時の大審院長の氏名を解答欄に書きなさい。
-6-
第3問
次の文章と図表 1 をもとに、あとの設問に答えなさい。
第 2 次世界大戦の敗戦以来、アメリカの軍政下に置かれていた沖縄は、1965 年以降、
アメリカがベトナムへの介入を本格化させると、アメリカ軍の「後方基地」となった。
(A)ベトナム戦争にともなうドル支払いは、日本の経済成長を促進させたが、一方で
深刻な基地問題が生じ、アメリカから施政権を日本に返還することを求める沖縄県民の
祖国復帰運動が本格化した。佐藤栄作首相は、「(核兵器を)持たず、作らず、持ち込
ませず」の(
1 )を明確にし、外交交渉を進め、1968 年には、(
2
)の返還を
実現させ、1969 年には、アメリカのニクソン大統領との日米首脳会議で合意し、1971
年、(
3 )が調印され、1972 年には、沖縄は日本に復帰した。しかしながら、アメ
リカ軍基地は維持されたままであった。
アメリカは、ベトナム戦争の膠着状態によって、国内外の様々な面で深刻な問題を抱
えることとなった。軍事支出が膨大なものとなり、巨額の戦費が財政を圧迫し、国内で
はベトナム反戦運動が高まり、国際社会における威信の低下にもつながった。
そこで、ニクソン政権は形勢逆転を図るために 2 つの衝撃的政策を行うこととした。
1 つは、ソ連軍の軍事的脅威に直面している中国との関係を改善し、中国を通じて北ベ
トナムとの和平を引き出そうとした。1971 年、ニクソン大統領は、米中関係の改善と
ベトナム戦争の早期解決を図るために訪中計画を発表した。1972 年、国連代表権を獲
得した中国をみずから訪問し、米中の敵対関係を終了させた。
2 つ目の政策は、1971 年に、新経済政策として、アメリカの国際収支の悪化を食い
止めるために、(
4
)とアメリカ・ドルの交換停止を発表し、西ドイツや日本など
の国際収支黒字国に為替レートの引き上げを要求した。同年末には、10 カ国蔵相会議
の結果、円を 1 ドル=360 円から(
5 )円に切り上げる通貨調整がおこなわれ、そ
の後、西欧諸国は為替相場が実勢に応じて変動する(
6 )に移行し、1973 年には日
本もこれに従った。
世界の政治、経済の枠組みが大きく変化する中で、佐藤栄作首相の引退を受け、1972
年に(
7
)内閣が成立した。同年 9 月には日中共同声明が発表され、国交正常化が
実現した。同内閣では(
7 )自身の著書である『(
8
)』において示されたよう
に、さらなる高度経済成長を追求しようとしたが、これに刺激されて地価が高騰し、
(B)
また 1973 年には相次ぐ中東での情勢不安から、
第 1 次石油危機が起こったこともあり、
(
9
)という激しいインフレが国民生活を直撃した。国民は、生活用品を買いだめ
し、品不足が生じて生活不安が広がり、政府は金融引き締め策に転じたが、インフレは
収まらず、深刻な不況に陥り、1974 年には戦後初めて実質経済成長率はマイナスとな
った。
ニクソン政権の経済政策、第 1 次石油危機により、世界の政治、経済におけるアメリ
カの影響力は後退し、戦後の(C)資本主義国の経済体制(IMF 体制)が崩壊し、世界
-7-
経済は 1973 年を境に陰りを見せ、長期不況の時代に突入した。日本も、世界経済が大
きく変化する中で「戦後の高度経済成長」は終焉を迎えることとなった。
1975 年、日本、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの 6 カ国の首脳
が世界不況への対応を協議し、翌年からはカナダを加え、経済政策の調整を図るために
(
10 )が 7 カ国巡回で毎年開催されるようになった。世界経済が低迷する中、日
本はいち早く回復をみせ、70 年代後半からは、実質 5%前後の経済成長を達成する安
定成長期に移行した。1980 年以降の日本の対欧米貿易黒字が拡大した背景にはいくつ
かの要因がある。図表 1 に示されるように為替相場における(
11
)傾向が定着す
ることとなった。日米間では、自動車、鉄鋼、半導体などを中心として貿易黒字が拡大
した。一方で、(D)日本製自動車を叩き壊して抗議する「ジャパン・バッシング」が
起こり、アメリカから日本に対して、内需拡大、輸出規制、農産物の市場自由化が強く
求められるようになった。1986 年以降、日本経済は自動車や電化製品を中心とした輸
出が引き続き好調で、さらに超低金利政策によって巨額の資金が土地と株に流れ「平成
景気」とも呼ばれた。しかし、1991 年、地価と株価が大暴落し、各種金融機関には多
額の(
12
)が残った。「平成景気」の実態は、地価と株価が実態とかけ離れ異常に
高騰した「バブル経済」であった。以降、日本経済は、平成不況と呼ばれる長期不況に
入った。
図表 1.円の対ドル相場の推移
出所:総務省統計局ホームページ「外国為替市場」のデータを元に作成。
-8-
問1.文章中の空欄(
い。なお(
5
1
)~(
12
)に入る最も適切な語句を解答欄に書きなさ
)については数字で、(
7
)については姓名を答えなさい。
問2.下線部(A)について、次の文章(ア)~(エ)のうち、誤っているものを全て
選び、記号で答えなさい。
(ア) ベトナムの南北分断の原因となった 1954 年のジュネーブ協定成立後、アメリ
カはベトナム共和国政府を支援していた。
(イ) 1961 年から、ベトナム民主共和国政府と、ベトナム共和国に支援された南ベ
トナム解放民族戦線との間で内戦が生じた。
(ウ) トンキン湾事件を機にアメリカ軍は「北爆」を開始。やがて地上戦闘に拡大し
たが、ソ連・中国の支援を受けた北ベトナム側の強力な抵抗により、戦争は泥
沼化した。
(エ) 日本経済は、1955 年の朝鮮戦争に引き続き、ベトナム戦争でもアメリカ軍に
よる特需景気によって、恩恵を受けた。
問3.下線部(B)について、次の文章(ア)~(エ)のうち、正しいものをひとつ選
び、記号で答えなさい。
(ア) アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、スエズ運河とアカバ湾を空爆、占領す
る軍事戦略を実施し、石油輸出の主要ルートを支配下に置くとともに、自国か
らの石油輸出価格を 3 倍に引き上げる石油戦略を実施した。
(イ) アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、ペルシャ湾を海上封鎖する軍事戦略を
実施し、欧米・日本に対する石油輸出の制限と石油価格を 3 倍に引き上げる石
油戦略を実施した。
(ウ) 石油輸出国機構(OPEC)のうち、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、国
際戦略として、イスラエル寄りの欧米・日本に対する石油の輸出制限を実施し、
この結果、原油価格は 4 倍に引き上げられた。
(エ) 1973 年、アラブ諸国とイスラエルとの間でパレスチナ戦争が勃発し、中東の
産油国は大きく 2 つの勢力に分かれることになった。
問4.下線部(C)について、次の文章(ア)~(エ)のうち、誤っているものをひと
つ選び、記号で答えなさい。
(ア) 国際通貨基金(IMF)とは、世界経済における通貨安定と国際支払いの円滑化
-9-
を図る目的で 1946 年に設立された国際金融機関であり、日本は 1952 年に加
盟している。
(イ) 国際通貨基金(IMF)の協定により、日本は 1963 年まで為替管理を認められ
ていたが、1964 年からは、第 8 条国に移行し、為替管理を行えない国となっ
た。
(ウ) 日本は、国際通貨基金(IMF)第 8 条国に移行した同年に、経済協力開発機構
(OECD)に加盟し、貿易の自由化を義務づけられた。
(エ) 日本は、IMF 体制の崩壊後、不況となり、金融緩和政策を図った。
問5.図表 1 は、1965 年から 2005 年までの円の対ドル相場の推移を示したものであ
る。次の文章(ア)〜(エ)は、図表 1 に示された①から②の時期(1976〜1990
年)に起きた出来事を述べたものである。古いものから順に正しく配列し、記号
で答えなさい。
(ア) 中曽根康弘内閣は、行財政改革として電電公社、専売公社をそれぞれ NTT、
JT とし民営化を実施した。
(イ) 「増税なき財政再建」を達成するために、鈴木善幸内閣による行政改革を目的
とする第 2 次臨時行政調査会が発足した。
(ウ) イラン革命によって石油生産が中断し、イランから大量の石油を購入していた
日本は、石油価格が高騰し、大平正芳内閣は対策に苦慮した。
(エ) 竹下登内閣は、財政再建のための大型間接税として「消費税」を導入した。
問6.下線部(D)の背景には、(ア)アメリカが抱える経済問題と(イ)日本経済の
安定成長の 2 つがあったと考えられる。下記の語群にある語句を全て用いて(ア)と(イ)
をふまえて「日米の貿易摩擦」について 180 字以内で説明しなさい。
語群:
公共投資
/
貿易
/
技術革新
/
双子の赤字
金融緩和
/
- 10 -
/
減量経営
ベトナム戦争
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