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「共生」の真実 外国人集住地域における地域の変容
人間行動学科 地理学コース 「共生」の真実 外国人集住地域における地域の変容 ―東京都新宿区・大久保地域を事例に― 学部 文学部 卒業年度 平 成 23年 度 学籍番号 A08LA095 にしおか み き 西岡 美樹 -1- 目次 Ⅰ.はじめに 1) 背景・問題意識 2) 調査対象地・方法 Ⅱ.大久保地域の変容 1) 大久保地域の概要 2) 人口統計からみる大久保地域 (a)人 口 数 と 世 帯 数 (b)住 民 基 本 台 帳 人 口 に お け る 年 齢 構 造 (c)外 国 人 登 録 人 口 の 国 籍 3) 韓国系店舗の分布変遷 (a)2001年 ~ 2011年 の 変 遷 (b)各 年 代 観 の 比 較 ・ 考 察 4) 新大久保商店街の変遷 (a)新 大 久 保 商 店 街 に お け る 既 存 店 舗 の 減 少 (b)大 久 保 の 竹 下 通 り の 変 遷 Ⅲ.地域の変容過程とホスト住民への影響 1) 事例1 Aさ ん の 場 合 2) 事例2 Bさ ん の 場 合 3) 事例3 Cさ ん の 場 合 4) 事例4 Dさ ん の 場 合 5) 聞き取りの分析 (a)大 久 保 地 域 の 性 質 の 変 化 (b)既 存 店 舗 が 韓 国 系 店 舗 へ 渡 る フ ロ ー Ⅳ.考察 1) 経済活動の外部拡大 2) 地域関係における軋轢の発生 -2- Ⅴ.おわりに -3- Ⅰ.はじめに 1) 背景・問題意識 現 在 、 わ が 国 に お け る 外 国 人 登 録 者 数 は 2010 年 段 階 で 2 , 1 3 4 , 1 5 1 人 と 日 本 の 人 口 の 1 . 7 % を 占 め て い る 。2 0 0 0 年 段 階 の 外 国 人 登 録 者 数 が 1 , 6 8 6 , 4 4 4 人 で あ っ た こ と か ら 、1 0 年 前 と 比 べ て 外 国 人 登 録 者 数 は 約 447,000人 増 加 し て お り 約 1.3倍 と な っている。この現状は日本に定住する外国人が年々増加して いることを示している。定住する外国人の増加が進むにつれ 地元住民との対立や軋轢が生じるようになった。そこで外国 人の文化や生活を受け入れ、ともに生活していくという「多 文 化 共 生 」 と い う 概 念 が 生 ま れ た 。 総 務 省 (2006)の 報 告 書 に よると地域における多文化共生は「国籍や民族などの異なる 人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こ う と し な が ら 、地 域 社 会 の 構 成 員 と し て 共 に 生 き て い く こ と 」 と定義されており、「多文化共生を推進していくためには、 日本人住民も外国人住民も共に地域社会を支える主体である という認識をもつことが大切である」と述べられている。こ のように地域社会は流入してくる外国人とホスト社会・ホス ト住民が一体となって初めて成り立つものと考えられる。し か し 小 内 ・ 酒 井 (2001)が 指 摘 し て い る よ う に 、 外 国 人 集 住 地 区の研究は外国人自身や外国人の受け入れ施策に焦点を合わ せたものが多く、ホスト住民にまで焦点をあてた研究は決し て多いとはいえない。実際、今回調査対象地としている東京 都 新 宿 区 ・ 大 久 保 地 域 で は 1980年 代 頃 か ら 外 国 人 の 増 加 が 注 目 さ れ 、 1990年 代 か ら 社 会 学 ・ 文 化 人 類 学 の 分 野 を 中 心 に 多 くの研究がなされている。しかし大久保地域も外国人への注 目が集まり、地元住民への焦点は当てられてこなかった。 -4- またここ数年、大久保のコリアタウン化が顕著であること も 述 べ な け れ ば な ら な い 。 2000年 代 初 期 の 段 階 で は 、 大 久 保 は 各 国 の 店 舗 が 並 び 「 エ ス ニ ッ ク ・ タ ウ ン 」「 多 文 化 な ま ち 」 (共 住 懇 ,2011)と 表 象 さ れ て い た 。 2011年 現 在 も 新 宿 区 に は 131カ 国 の 外 国 人 登 録 者 が 存 在 す る こ と か ら 可 視 / 不 可 視 に 関わらず多様な文化が交錯しているまちであるといえる。こ の こ と か ら 稲 葉 (2008)は 大 久 保 を 「 重 層 的 な ま ち 」 と 表 し て い る 。 し か し 、 2002年 の 日 韓 共 催 ワ ー ル ド カ ッ プ 、 2003年 か ら 2004年 に か け て の 韓 流 ブ ー ム に よ っ て 韓 国 文 化 に 注 目 が 集 まると日本人客を対象とした韓国系店舗が増加した。また、 2 0 1 0 年 頃 に み ら れ た 、い わ ゆ る " 第 2 次 韓 流 ブ ー ム " ( 1 ) も 手 伝 っ て 、 2011年 現 在 、 大 久 保 地 域 は 「 コ リ ア タ ウ ン 」 「 韓 流 の 聖 地 」と し て メ デ ィ ア に 取 り 上 げ ら れ 、全 国 か ら 年 間 約 3 0 0 万 人 も の 観 光 客 が 集 ま る 一 大 観 光 地 と な っ た (Korean-Culture Club,2011)。 し か し 、 メ デ ィ ア に も コ リ ア タ ウ ン の 一 面 を 取 り上げられるだけであり、そこで生活するホスト住民の姿や 声というものは浮かび上がってこない。 以上の問題意識から本論では大久保地域、とくに新大久保 商店街を事例に外国人集住地域の変容をホスト住民の視点か ら 述 べ て い く 。新 大 久 保 商 店 街 ( 以 下 、商 店 街 ) は J R 山 手 線 新 大 久 保 駅 か ら 明 治 通 り ま で 大 久 保 通 り 沿 い に 広 が る 約 600m の商店街である。商店街の歴史を簡潔に述べると、その由来 は 大 正 末 期 に さ か の ぼ る 。1 9 4 5 年 の 東 京 大 空 襲 で 大 久 保 地 域 は 焼 け 野 原 と な っ た が 1947 年 に は 新 大 久 保 商 店 街 振 興 組 合 (以 下 、 組 合 )の 前 身 で あ る 「 商 光 会 」 が 発 足 し た 。 高 度 経 済 成長期には大久保地域に住宅やアパートが建設されそれに従 い 商 店 街 も 発 展 し た と 同 時 に 1970 年 代 後 半 か ら そ れ ま で の -5- 店舗兼住宅がビルへと建て替えられていった。また歌舞伎町 の発展に伴い、従業員の多くが居住の場としていた大久保地 域 も 恩 恵 に あ ず か っ て い た 。 1980 年 代 後 半 か ら 1990 年 頃 は 大久保地域に外国人が多く住み始めていたものの、 「駅前には 喫茶店や居酒屋が入ったビルがあり、沿道には生鮮食品を商 う店舗や米屋、酒屋を始め、食堂、菓子屋、布団屋、不動産 屋、パチンコ店などが並ぶ、ごく普通の商店街であった。ま た 氷 屋 、 落 花 生 屋 、 蒲 鉾 屋 な ど 昔 か ら の 商 店 も 残 っ て い た 。」 (稲 葉 ,2008) し か し 2000 年 頃 か ら 大 久 保 通 り に も 韓 国 系 店 舗 の 進 出 が 見 ら れ る よ う に な り 、2 0 11 年 現 在 で は 多 く の 韓 国 系店舗が立ち並ぶ観光地となった。その一方、商店街の既存 店舗の閉店・移転がみられ、詳しくは後述するが、短期間の 地域の変容に組合が戸惑っている姿が調査を通して見受けら れ た 。そ こ で 本 論 で は 2 0 0 0 年 初 期 か ら 2 0 11 年 現 在 ま で の 新 大久保商店街の変容を中心に述べていく。 本論の構成として、まず第Ⅱ章で韓国系店舗の参入による 大久保地域の変容を新大久保商店街と路地における韓国系店 舗の進出と既存店舗の減少を地図より分析を行う。第Ⅲ章で は聞き取り調査の内容からホスト住民の視点で地域の変容と その影響を述べる。そして第Ⅳ章で変容した地域において地 元住民はどのように生活しているかを述べ、外国人集住地区 における日本人の在り方を示す。 2) 調査対象地・方法 調 査 対 象 地 は 百 人 町 1丁 目 ・ 2丁 目 、大 久 保 1丁 目 、2丁 目 (以 下 、「 大 久 保 地 域 」 と 総 称 す る ) と す る 。 そ の う ち 店 舗 変 遷 に お い て は 新 大 久 保 商 店 街 を 取 り 扱 う も の と す る 。調 査 方 法 は 、 -6- 2011年 3月 ・ 9月 ・ 12月 に 現 地 に 赴 き 、 新 大 久 保 商 店 街 振 興 組 合 の 会 員 5 名 、大 久 保 全 体 の 変 化 を 知 る た め に 新 宿 区 内 を 拠 点 に 活 動 す る 市 民 団 体「 共 住 懇 」の 代 表 1 名 に 聞 き 取 り 調 査 を 実 施した。またフィールドワークを実施し住宅地図と実際の店 舗を照合した。これは店舗の入れ替わりの頻度が速いため住 宅地図を見るだけでは地域の現状を把握しきれないことが理 由としてあげられる。このフィールドワークをもとに地図を 作成し、聞き取り調査の結果を交えて大久保地域の変容の解 釈を行うものとする。なお便宜上、本論においてホスト住民 と は 大 久 保 地 域 で 生 ま れ 育 っ た 住 民 を 、 既 存 店 舗 と は 2001年 段階で商店街地図において確認された店舗を指すこととする。 Ⅱ.大久保地域の変遷 本 章 で は 2000 年 代 に お け る 大 久 保 地 域 の 変 遷 を 人 口 統 計 と店舗分布を用いて説明を行う。人口統計は新宿区統計を用 い、店舗分布は住宅地図をもとに新大久保商店街振興組合の 発行する地図、または韓国系の広告代理店が発行する無料の タウンマップを参考にして作成した。筆者がフィールドワー クにおいて確認を行い地図と異なる場合は訂正した。なお、 本論において韓国系店舗とは韓国の料理やグッズ・化粧品な ど韓国発の文化を商品としていること、また韓国人が店舗の 経営をしていること、この 2 点のどちらかを満たしていれば 韓国系店舗として扱うものとする。 1) 大久保地域の概要 本 研 究 の 対 象 と な る 大 久 保 1 丁 目 ・ 2 丁 目 、百 人 町 1 丁 目 ・ 2 丁 目 ( 以 下 、「 大 久 保 地 域 」 と 総 称 す る ) は 東 京 都 新 宿 区 の や -7- や北西の位置にある。早稲田大学の理工学部のキャンパスが あ る 文 京 地 区 、繁 華 街 で あ る 歌 舞 伎 町 に 挟 ま れ た 地 域 で あ る 。 また東側には東京メトロ副都心線と都営地下鉄大江戸線の駅 が あ り 、 西 側 に は JR 山 手 線 の 新 大 久 保 駅 、 さ ら に 300m ほ ど 進 む と JR 中 央 線 の 大 久 保 駅 が あ り 交 通 の 便 が よ い 場 所 で あ る と い え る (図 1)。 図 1. 調 査 対 象 地 の 概 観 図 (稲 葉 ,2008 よ り 引 用 ) 次に大久保地域の歴史について述べる。鎌倉時代に「大き な 窪 地 」で あ る こ と か ら「 大 久 保 」と 呼 ば れ る よ う に な っ た 。 江戸時代、内藤修理亮の家来である鉄砲隊同心百人組が移住 してきたことから、百人町と呼ばれるようになり現在も地名 が残っている。その鉄砲隊が副業としてつつじを栽培し「大 -8- 久保のつつじ園」として江戸で評判となった。また現在の都 立戸山公園のあたりは尾張徳川家の下屋敷がおかれ、その他 の土地は農地であり下級武士や農民、町民が混在する場所で あった。 明 治 時 代 に な る と 、1 8 9 5 年 に 大 久 保 駅 が 操 業 開 始 さ れ 、田 畑のある郊外であったという。尾張徳川家の屋敷跡に陸軍学 校が設立されるのを契機に軍事関係の施設が次々と建てられ た た め 、 陸 海 軍 の 将 官 が 30 名 ほ ど 居 住 し て い た 。 1923 年 、 関東大震災が発生するが災害を免れ、他の地域からの転入が 増加し発展し始めた。また、小泉八雲や島崎藤村などの文化 人 や 政 府 高 官 、大 学 教 授 が 住 む 高 級 住 宅 街 で あ っ た 。し か し 、 太平洋戦争による空襲で大久保地域は焼け野原となった。戦 後にバラックが作られた。 次 に 大 久 保 地 域 に 外 国 人 の 集 住 が 始 ま っ た 1970 年 代 か ら エ ス ニ ッ ク ・ タ ウ ン と 認 知 さ れ る 1990 年 末 頃 ま で の 過 程 を 紹介する。大久保地域において外国人の増加がみられるよう に な っ た の は 1970 年 代 末 か ら 歌 舞 伎 町 で 働 く 外 国 人 が 増 加 しその彼女たちの居住地となっていたのが歌舞伎町から徒歩 圏 内 で あ る 大 久 保 地 域 周 辺 で あ っ た 。 そ れ に 加 え て 1979 年 に 台 湾 で の 海 外 渡 航 自 由 化 、1 9 8 4 年 に は 中 国 で の 私 費 留 学 自 由 化 、1 9 8 9 年 に は 韓 国 で の 海 外 旅 行 完 全 自 由 化 (2)と アジア諸 国の政策によって海外渡航のハードルが下がり、また日本で も 1983 年 に 「 留 学 生 受 け 入 れ 10 万 人 計 画 」 に よ っ て 外 国 人 の 受 け 入 れ が 進 ん で い っ た 。 さ ら に 1980 年 代 後 半 に な る と 前述の歌舞伎町で働く外国人女性に加えて大久保地域には語 学学校や専門学校、特にコンピュータ関係の専門学校が林立 し た た め 留 学 生 や 就 学 生 が 多 く 集 ま っ た と 考 え ら れ る (稲 -9- 葉 ,2008)。 次に大久保地域に暮らす同国人のための店舗が 現 れ 始 め た 。飲 食 店 や 食 材 店・美 容 室 な ど が 挙 げ ら れ る 。1 9 9 0 年代中頃あたりに大久保が東南アジアの人たちが多く住むま ちとして雑誌などで紹介されるようになると、これらの「エ ス ニ ッ ク 系 施 設 」(稲 葉 ,2008)は 客 の 対 象 を 同 国 人 だ け で な く 日 本 人 に 広 げ た 。 こ の よ う に し て 1990 年 末 に は 大 久 保 = エ スニック・タウンというイメージが定着したのである。 2) 人口統計からみる大久保地域 (a)人 口 数 と 世 帯 数 2 0 11 年 1 2 月 現 在 、 新 宿 区 に よ る と 大 久 保 地 域 の 住 民 基 本 台 帳 人 口 数 、す な わ ち 日 本 人 人 口 数 は 1 4 , 1 0 2 人 、外 国 人 登 録 人 口 は 7 , 9 3 1 人 で あ り 総 人 口 は 2 2 , 0 3 3 人 で あ る 。外 国 人 比 率 は 3 6 % で あ り 、 こ れ は 新 宿 区 の 外 国 人 比 率 11 . 1 % ( 2 0 1 0 年 段 階 )を 上 回 っ て い る ( 3 ) 。参 考として外国人集住都市会議に参加 し て い る 2 1 都 市 の 2 0 11 年 に お け る 外 国 人 比 率 は 平 均 4 . 5 % で あ り 、 も っ と も 比 率 の 高 い 群 馬 県 大 泉 町 に お い て も 15.2% であることから、大久保地域における外国人比率は日本にお ける外国人集住地域の中でも高く、日本の中で最も外国人が 暮らす地域といっても過言ではない。また、丁目別にみると 百 人 町 1 丁 目 は 日 本 人 人 口 数 が 2,960 人 、 外 国 人 登 録 者 数 は 1,492 人 で あ り 百 人 町 2 丁 目 は 日 本 人 人 口 が 3,069 人 で あ る の に 対 し 外 国 人 登 録 者 数 は 1,746 人 で あ る 。 ま た 大 久 保 1 丁 目 は 日 本 人 人 口 が 2,504 人 、 外 国 人 登 録 者 数 は 1,927 人 で あ り 大 久 保 2 丁 目 は 日 本 人 人 口 が 4,469 人 で あ る の に 対 し 外 国 人 登 録 者 数 は 2,766 人 で あ る 。 町 丁 目 別 に 外 国 人 比 率 を み る と 大 久 保 1 丁 目 が 43.5%と 最 も 外 国 人 比 率 が 高 く な っ て お り 、 - 10 - 4 つの中では外国人比率が最も低い大久保 2 丁目においても 33.2%と 、 全 国 的 に み て も 高 い 数 値 で あ る 。 こ の よ う に 大 久 保地域における外国人比率が高い背景として新宿自治創造研 究 所 (2010)は 、 歌 舞 伎 町 で 働 く 外 国 人 従 業 員 が 職 場 に 徒 歩 で 通える大久保地域に住むようになったこと、同時期に大久保 地域に専門学校や語学学校が林立し、留学生や就学生をひき つけた、と述べている。特に大久保 1 丁目と百人町 1 丁目は 職安通りを挟んで歌舞伎町に面しているため、大久保通りを 挟んでいる大久保 2 丁目・百人町 1 丁目に比べて外国人比率 がやや高くなっていることが分かる。また、世帯数は住民基 本 台 帳 で は 9,720 世 帯 、 外 国 人 登 録 で は 6,515 世 帯 で あ る 。 人 口 数 か ら 日 本 人 の 1 世 帯 当 た り の 人 数 は 1 . 4 5 人 、外 国 人 の 1 世 帯 当 た り の 人 数 は 1.22 人 と な り 日 本 人 ・ 外 国 人 と も に 単 身 世 帯 ~ 2 人 世 帯 を 中 心 に 構 成 し て い る と 考 え ら れ る (表 1)。 表 1. 大 久 保 地 域 に お け る 住 民 基 本 台 帳 人 口 と 外 国 人 登 録 人 口 数 住民基本 外国人登録 台帳人口数 人 口 数 (人 ) 総 人 口 (人 ) 外国人比率 (人 ) 百人町 1 丁目 2,960 1,492 4,452 33.5% 2 丁目 3,069 1,746 4,815 36.3% 大久保 1 丁目 2,504 1,927 4,431 43.5% 2 丁目 5,569 2,766 8,335 33.2% 14,102 7,931 22,033 36.0% 合計 新 宿 区 ( 2 0 11 ) よ り 筆 者 作 成 (b)住 民 基 本 台 帳 人 口 に お け る 年 齢 構 造 - 11 - 次 に 大 久 保 地 域 の 住 民 基 本 台 帳 人 口 を 年 齢 別 に み る 。 2 0 11 年 12 月 段 階 に お い て 大 久 保 地 域 の 5 歳 階 級 別 年 齢 構 造 は 図 2 の よ う に な っ て い る 。 25 歳 以 上 30 歳 未 満 が 最 も 多 い 1,266 人 、 次 い で 60 歳 以 上 65 歳 未 満 が 1,210 人 、 35 歳 以 上 40 歳 未 満 が 1 , 2 0 2 人 と 続 い て い る 。0 歳 以 上 1 5 歳 未 満 の 年 少 人 口 は 1 , 0 0 3 人 、1 5 歳 以 上 6 0 歳 未 満 の 生 産 年 齢 人 口 は 8 , 5 4 6 人 、 6 0 歳 以 上 の 老 年 人 口 は 4 , 5 5 3 人 で あ り 、生 産 年 齢 人 口 が 最 も 多く、次いで老年人口、年少人口となっている。住民基本台 帳 人 口 数 に お け る 60 歳 以 上 の 人 口 の 割 合 は 32.3%で あ る の に 対 し 、 15 歳 未 満 の 人 口 の 割 合 は 7.1%と 大 久 保 地 域 に お い ても少子高齢化が進んでいるといえる。また、外国人登録人 口における年齢構造は参考として新宿区全体のものをとりあ げ る 。新 宿 自 治 創 造 研 究 所 (2010)に よ る と 、2010 年 段 階 で 外 国 人 登 録 者 数 の う ち 25 歳 以 上 29 歳 未 満 の 占 め る 割 合 が 最 も 大 き く 、 次 い で 20 歳 以 上 24 歳 未 満 が 大 き い 。 し か し 、 1990 年には明らかであった他年齢との差は小さくなっている。こ れ は 1980 年 ~ 1990 年 代 に 流 入 し た ニ ュ ー カ マ ー が そ の ま ま 定住し年齢を重ねていることが要因の 1 つとされる。これは 新宿区全体の年齢構造であるが、大久保地域は新宿区内にお いても外国人比率が高い地域であることから同様であると考 えられる。以上のことから大久保地域の人口は、日本人につ い て は 20 代 後 半 か ら 30 代 前 半 と 60 代 の 人 口 を 中 心 に 構 成 されているが、少子化・高齢化が進んでいる。それに対して 外 国 人 は 20 代 を 中 心 に 構 成 さ れ て い る が 、 1980 年 代 か ら 1990 年 代 に 来 日 し た 外 国 人 の 定 住 が 進 ん で い る こ と か ら 年 齢層が厚くなっているといえる。 - 12 - 図 2 . 2 0 11 年 に お け る 大 久 保 地 域 の 5 歳 階 級 別 年 齢 構 造 (c)外 国 人 登 録 人 口 の 国 籍 大久保特別出張所の管轄 (4)(以 下 、 大 久 保 地 区 )に お け る 外 国 人 の 集 住 状 況 を 国 籍 別 に み る と 、韓 国 ・ 朝 鮮 が 約 5 5 0 0 人 、 中 国 約 4000 人 、 フ ィ リ ピ ン 約 360 人 、 タ イ 約 320 人 、 ネ パ ー ル 約 300 人 、 ア メ リ カ 約 100 人 、 フ ラ ン ス 約 40 人 と な っ て い る 。( 新 宿 自 治 創 造 研 究 所 , 2 0 1 0 ) 新宿区に住む外国人を 国籍別にみると韓国・朝鮮、中国、ミャンマー、フランス、 フィリピン、アメリカ、ネパール、タイの順に多いが、図 3 より大久保地域では韓国・朝鮮人、中国人、フィリピン人、 タイ人、ネパール人の順に多く、アジア系の国籍を持つ人々 が多く集まっていることがわかる。その中でも特に韓国・朝 鮮人、中国人が多い地域であるといえる。 - 13 - 図 3. 新 宿 区 に お け る 地 域 別 ・ 国 籍 別 外 国 人 登 録 人 口 (新 宿 区 自 治 創 造 研 究 所 よ り 引 用 ) 3) 韓国系店舗の分布変遷 ( a ) 2 0 0 1 年 ~ 2 0 11 年 の 変 遷 前節で大久保地域には韓国・朝鮮人、中国人を中心とする ア ジ ア 系 の 人 々 が 居 住 し て い る と 述 べ た 。 こ の 中 で も 2000 年代、韓国系店舗の進出が目立った。そこで韓国系店舗の店 舗分布を分析することで韓国系店舗の進出を考察する。デー タ は 2 0 0 1 年 ( 韓 流 ブ ー ム 以 前 )・ 2 0 0 8 年 ( 韓 流 ブ ー ム 後 )・ 2 0 11 年 (第 2 次 韓 流 ブ ー ム 後 )の も の を 用 い た 。 参 考 デ ー タ と し て は市民団体や韓国系の広告代理店が発行した地図を住宅地図 に よ っ て 場 所 の 照 合 を お こ な っ た 。 な お 、 2 0 11 年 に 関 し て は 12 月 に お こ な っ た フ ィ ー ル ド ワ ー ク の 結 果 も あ わ せ て い る 。 店 舗 の 分 類 は 、 共 住 懇 (2001)の エ リ ア マ ッ プ に お け る 分 類 を - 14 - 参考としている。 「 飲 食 店 」に は 韓 国 料 理 店 ・ 惣 菜 店 ・ 喫 茶 店 ・ バ ー・ラ イ ブ ハ ウ ス が 含 ま れ て い る 。 「 食 材 店 」は 韓 国 か ら 輸 入 さ れ た 食 材 を 扱 う 店 舗 を 指 す 。 ま た 、「 グ ッ ズ ・ コ ス メ 店 」 には韓流スターのグッズ店・化粧品店・エステティック店が 含まれている。 ま ず 2001 年 の 大 久 保 地 域 か ら み て み よ う 。 図 4-1 に よ る と 韓 国 系 店 舗 は 計 44 軒 確 認 で き 、 そ の う ち 韓 国 料 理 店 は 40 軒 、 食 材 店 は 2 軒 、 ま た ビ デ オ や CD を 取 り 扱 う 店 舗 が 2 軒 確 認 で き る 。丁 目 別 に み る と 大 久 保 1 丁 目 に 2 0 軒 、百 人 町 1 丁 目 に 1 2 軒 、 大 久 保 1 丁 目 に 5 軒 、 百 人 町 2 丁 目 に 4 、歌 舞 伎町 2 丁目に 1 軒存在している。店舗分布も前節の人口と同 じく歌舞伎町に面している大久保 1 丁目、百人町 1 丁目に集 中していることがわかる。特に店舗立地が集中しているのは 大 久 保 通 り の 1 5 軒 、 職 安 通 り の 11 軒 、 大 久 保 通 り と 職 安 通 り を 結 ぶ 大 久 保 1 丁 目 の 路 地 、 通 称 大 久 保 の 竹 下 通 り (稲 葉 、 2 0 0 8 ) の 6 軒 で あ る 。韓 国 系 の 店 舗 は 1 9 9 0 年 代 職 安 通 り を 中 心 に 展 開 し て い た が 、2 0 0 0 年 頃 に は 大 久 保 通 り に 通 じ る 路 地 、 そして大久保通りにも進出していることがわかる。 - 15 - こ れ が 2008 年 に な る と 、 韓 国 系 店 舗 は 計 143 軒 、 う ち 韓 国 料 理 店 が 127 軒 、 食 材 店 が 7 軒 、 韓 流 ス タ ー の グ ッ ズ 店 が 9 軒 と 2001 年 に 比 べ て 大 き く 増 加 し て い る こ と が わ か る 。 韓国料理店の増加はもちろん、韓国の食材を取り扱う店舗や 2000 年 代 前 半 の 韓 流 ブ ー ム に よ っ て 韓 国 ス タ ー の グ ッ ズ を 取り扱う店舗が出現しており、業種の多様化が進んでいるこ と が わ か る 。 丁 目 別 の 分 布 で は 大 久 保 1 丁 目 に 65 軒 、 百 人 町 1 丁 目 に 44 軒 、大 久 保 2 丁 目 に 14 軒 、歌 舞 伎 町 2 丁 目 に 11 軒 、百 人 町 2 丁 目 に 8 軒 存 在 す る 。職 安 通 り 周 辺 で は 韓 国 系店舗が隣接、あるいは 1 つのビルにいくつかの店舗が入る という韓国系店舗の集積がみられるようになり、大久保通り でもその現象を 2 軒確認できる。また大久保の竹下通りに加 え、大久保通りと職安通りを結ぶ他の路地にも韓国系店舗が 進 出 し 始 め た 。 こ の 2 点 が 2008 年 に お け る 特 徴 と い え る 。 - 16 - さ ら に 2 0 11 年 に な る と 、 J R 山 手 線 の 東 側 で 韓 国 系 店 舗 の 増 加 が み ら れ る (図 4-3)。 韓 国 系 店 舗 は 計 177 軒 あ り 、 そ の う ち 飲 食 店 が 148 軒 、 食 材 店 が 4 軒 、 グ ッ ズ 店 が 25 軒 と 食材店を除いた業種で増加がみられ、特に韓国のスターやア イドルのグッズ・化粧品を取り扱う店舗の増加が著しいとい え る 。 丁 目 別 に み る と 、 大 久 保 1 丁 目 に 102 軒 、 百 人 町 1 丁 目 に 47 軒 、 百 人 町 1 丁 目 に 18 軒 、 大 久 保 2 丁 目 に 18 軒 、 歌 舞 伎 町 2 丁 目 に 5 軒 存 在 す る 。 2 0 11 年 の 特 徴 と し て J R 新 大久保駅のより近い場所に韓国系店舗が進出していること、 また店舗の集積が大久保通りや大久保の竹下通りでも進んで いることが挙げられる。まず駅周辺の店舗増加は、百人町 2 丁 目 と 大 久 保 2 丁 目 の 店 舗 数 が 2 0 11 年 に お い て 逆 転 し て い る こ と か ら い え る 。ま た 大 久 保 通 り で は 1 つ の ビ ル へ の 集 積 、 大久保の竹下通りでは 1 つの区画の中に異なる店舗が屋台の ように集まって営業を行っているものもあった。 - 17 - (b)各 年 代 間 の 比 較 ・ 考 察 ここでは前節の分布より、店舗数と業種に関して比較を行 う 。ま ず 店 舗 数 を み る と 2 0 0 1 年 か ら 2 0 11 年 に か け て 店 舗 数 は 増 加 し て い る こ と が わ か る 。 2001 年 か ら 2008 年 に か け て 大 き く 増 加 し て い る が 、 2 0 0 8 年 か ら 2 0 11 年 に か け て そ の 伸 びは鈍化している。また業種別にみてみると 2001 年 か ら 2 0 0 8 年 に か け て は 飲 食 店 が 8 7 店 舗 増 加 し て い る が 、2 0 0 8 年 か ら 2 0 11 年 に か け て は 2 1 軒 増 加 に と ど ま っ て い る 。次 に 食 材 店 で あ る が 、2001 年 か ら 2008 年 に か け て 5 軒 増 加 し て い る が 、 2 0 0 8 年 か ら 2 0 11 年 に か け て は 3 軒 減 少 し て い た 。 ま た 、雑 貨 店 は 2 0 0 1 年 か ら 2 0 0 8 年 に か け て 6 軒 増 加 し 、2 0 0 8 年 か ら 2 0 11 年 に か け て 1 7 軒 増 加 し て い る 。こ の よ う に 韓 国 系店舗が増加した背景として、客の対象を同胞から日本人へ 切 り 替 え た こ と が 考 え ら れ る 。2 0 0 1 年 以 前 は 大 久 保 地 域 周 辺 に 住 む 韓 国 人 を 対 象 と し た 店 舗 で あ っ た が 、2 0 0 2 年 の 日 韓 ワ ー ル ド カ ッ プ 、 そ し て 2003 年 に か け て の 韓 流 ブ ー ム に よ っ て日本人が韓国の文化に興味を持つようになると、日本人を 客層とした韓国料理店や韓流スターのグッズ店が相次いで出 店 し た 。 こ れ が 2001 年 か ら 2008 年 に か け て の 現 象 で あ る 。 さ ら に 2 0 0 8 年 か ら 2 0 11 年 の 間 に ” 第 2 次 韓 流 ブ ー ム ” が 起 き 、 メ デ ィ ア で K-POP や 韓 国 の 美 容 が 取 り 上 げ ら れ た た め 、 韓 流アイドルのグッズ店や化粧品を取り扱う店舗が増加したと いえる。 4) 新大久保商店街の変遷 前節で大久保地域における韓国系店舗の増加が著しいと述 べたが、第Ⅰ章でも述べたように大久保地域は日本人の住宅 - 18 - 街 で あ っ た と 述 べ て い る 。 こ こ で は 2000 年 代 、 大 久 保 地 域 においてどのような変化が起きたのか日本人側の視点から考 察 す る 。こ れ を 行 う に あ た っ て 新 大 久 保 商 店 街 に お け る 2 0 0 1 年 か ら 2 0 11 年 に か け て の 店 舗 分 布 を み る 。 前 述 の と お り 、 新 大 久 保 商 店 街 は 1990 年 頃 ま で 地 元 住 民 を 対 象 と し た 「 普 通 」 の 商 店 街 で あ っ た 。 し か し 現 在 は 年 間 約 300 万 人 が 訪 れ る観光地へと大きく変化した。この地域の変容が既存の店舗 にどのような影響をもたらしたのかを考察する。 (a)新 大 久 保 商 店 街 に お け る 既 存 店 舗 の 減 少 組 合 に よ る と 、 2 0 11 年 7 月 段 階 で 新 大 久 保 商 店 街 に 1 4 3 軒 登 録 さ れ て い る 。そ の う ち 3 9 軒 が 韓 国 料 理 ・ 韓 流 グ ッ ズ ・ 食 材 な ど を 取 り 扱 う 韓 国 系 店 舗 で あ り 、台 湾 料 理 店 1 軒 を 除 く 計 1 0 3 店 舗 を こ こ で は 日 本 人 店 舗 と 定 義 す る 。 2 0 11 年 段 階 に お い て 日 本 人 店 舗 を 業 種 別 に み る と 飲 食 店 が 23 軒 、 食 料 品 ・ 酒 販 売 が 11 軒 、 美 容 関 係 が 2 0 軒 、 日 用 品 ・ 趣 味 関 係 が 2 3 軒 、暮 ら し 関 係 が 1 6 軒 、病 院・薬 局 が 1 0 軒 あ る ( 図 5 ) 。 業種を詳しくみると、飲食店は和食・居酒屋・喫茶店、食料 品には果物屋・鶏肉屋・酒屋・和菓子屋・米屋・弁当販売・ 米屋・豆屋がある。また、美容関係には美容室・理容室・エ ステ・服屋・メガネ屋・化粧品・靴屋・クリーニング屋があ り 、日 用 品 ・ 趣 味 関 係 に は 貸 し ス ペ ー ス ・ 会 計 事 務 所 ・ 本 屋 ・ 氷屋・ライブハウス・パチンコ店・広告社・インテリア・花 屋・ペット店・印鑑・写真・印刷・手芸用品・自転車・瀬戸 物 ・ ホ ー ル ・ 100 円 シ ョ ッ プ ・ 熱 帯 魚 販 売 ・ ビ デ オ 店 ・ 文 具 屋が含まれる。暮らしには不動産・電気工事・警備・ビル管 理・建設・銀行・鍵屋・宅急便・大工センター・銭湯・ガス 会社が含まれ、医院・薬局には歯医者・産婦人科・眼科・薬 - 19 - 局・接骨院・整骨院が含まれる。 図 5 . 2 0 11 年 に お け る 新 大 久 保 商 店 街 の 業 種 別 店 舗 数 (筆 者 作 成 ) 図 6. 新 大 久 保 商 店 街 に お け る 存 続 店 舗 数 の 推 移 (筆 者 作 成 ) - 20 - し か し 、 2001 年 以 前 か ら 存 続 し て い る 店 舗 は 47 軒 に と ど ま る 。 図 6 を み る と 、 2001 年 段 階 で 飲 食 店 は 38 軒 で あ っ た の が 、 2 0 0 6 年 に は 2 1 軒 、 2 0 11 年 に は 1 2 軒 と 1 0 年 感 に 2 6 軒 減 少 し て お り 、 食 料 品 ・ 酒 販 売 で は 2 0 0 1 年 か ら 2 0 11 年 に かけて 8 軒減少している。また美容関係では 4 軒の減少、日 用 品・趣 味 関 係 で は 7 軒 の 減 少 、暮 ら し 関 係 で は 4 軒 の 減 少 、 医 院・薬 局 は 2 0 0 1 年 段 階 で 4 軒 あ っ た う ち 2 0 11 年 に は 2 軒 しか現存していない。 図 7 は 2001 年 段 階 に お い て 営 業 し て い た 店 舗 の 変 遷 を 示 し た 地 図 で あ る 。赤 色 は 2 0 0 1 年 か ら 2 0 0 5 年 の 間 に 閉 店 し た 店 舗 、青 色 は 2 0 0 6 年 か ら 2 0 1 0 年 の 間 に 閉 店 し た 店 舗 、緑 色 は 2 0 11 年 に 閉 店 し た 店 舗 を 示 し て い る 。 2 0 0 1 年 か ら 2 0 0 5 年 に か け て 2 9 店 舗 減 少 し 、2 0 0 6 年 か ら 2 0 1 0 年 に か け て は 8 店 舗 、 さ ら に 2 0 11 年 の 1 年 間 で 1 2 店 舗 減 少 し て い る 。 新 大 久保商店街のほぼ中央に位置するルーテル教会を境界として 東 西 を 比 較 す る と 、J R 新 大 久 保 駅 か ら ル ー テ ル 教 会 の 間 に お い て 店 舗 数 は 2 0 0 1 年 5 2 軒 で あ っ た が 2 0 11 年 に な る と 4 2 軒 が 閉 店 ・ 移 転 し 、現 存 し て い る 店 舗 は 1 5 軒 で あ る 。一 方 、 ル ー テ ル 教 会 か ら 明 治 通 り の 間 の 店 舗 は 2001 年 段 階 で 40 軒 中 9 軒 の 減 少 に と ど ま っ て お り 2 0 11 年 段 階 で 3 1 軒 は 現 在 も 営 業 を 続 け て い る 。 つ ま り JR 新 大 久 保 駅 に 近 け れ ば 近 い ほ ど店舗数の減少が大きくなっているといえる。これは駅に近 くなるほど他店との競争が激しくなり、またテナント料が高 いため店舗の移り変わるスピードが早いことが要因であると 聞き取り調査から明らかとなった。既存店舗の閉店後、韓国 系 店 舗 が 入 れ 替 わ る よ う に し て 入 店 し た た め 2 0 11 年 現 在 、 図 4-3 の よ う に 大 久 保 通 り に は 多 く の 韓 国 系 店 舗 が 立 ち 並 ぶ - 21 - 景観を形成した。 (b)大 久 保 の 竹 下 通 り の 変 遷 大久保地域の変容は大通りだけではなく、その間の路地ま で及んでいる。次に大久保通りと職安通りを結ぶ路地の変容 を 大 久 保 の 竹 下 通 り を 例 に み て い き た い 。 図 8 の 2001 年 の 部 分 を み る と ホ テ ル が 8 軒 あ り 、韓 国 系 店 舗 は 7 軒 し か な い 。 また駐車場が 4 軒と専門学校があることも確認できる。これ が 2008 年 に な る と ホ テ ル は 5 軒 に 減 少 し 、 韓 国 系 店 舗 は 15 軒に増加している。専門学校は閉校したが駐車場はホテル跡 地に 1 軒つくられたことにより 5 軒と増加している。そして 2 0 11 年 に な る と ホ テ ル は 3 軒 に ま で 減 少 、 韓 国 系 店 舗 は 3 1 軒とさらに増加していることがわかる。駐車場は 2 軒と減少 し、現在その場所は 3 軒中 2 軒に韓国系店舗が入り、残る 1 軒は工事中であった。 - 22 - 大久保の竹下通りは当初、住宅地でありながらホテルや小 さな店舗も点在する雑居空間であった。ここに韓国系店舗が 進出してくるのだが、その要因として住宅地であるため大久 保通りや職安通りといった大通りに比べて地価・テナント料 ともに安い傾向にあることが挙げられる (6)。 ゆえに出店する 際の資金を抑えることができるため、外国人でも参入しやす い 状 況 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 そ し て 2008 年 に な る と ホ テ ルの跡地に韓国系店舗が入っていることが分かる。また駐車 場 の ス ペ ー ス に 屋 台 風 の 店 を 出 す 人 も 現 れ 始 め た 。2 0 11 年 に なると駐車場であったところが韓国系店舗に変わっているこ とがわかる。これは職安通りで韓国食材を販売する店舗が進 出し屋台村として飲食店の営業を行っている。このように大 久保地域の路地は店舗やホテルが雑居する住宅地であったが、 現在は韓国系店舗の進出が目覚ましく、大久保通り~大久保 - 23 - の竹下通り~職安通りというコリアタウンツアーを形成する 重要な路地であるといえる。しかしこの大久保の竹下通りは 歌舞伎町から大久保通りへ車両の通行できる数少ない車道で あるため車の通行が多い。そこへ外来客が押し寄せているた め車の通行が妨げられている場面をしばしば見かけた。また 個人の住宅へ入らないように注意を促している看板も見受け られた。 Ⅲ.地域の変容過程とホスト住民への影響 前章では地図や人口統計の観点から大久保地域の変容を考 察した。本章ではより具体的に大久保がどのように変容した か、また大きく変化した現在の大久保に対する住民の思いを 聞き取り調査の結果をもとに述べていく。本章で取り上げる 4 件の事例のうち 2 件は貸しビル業を営んでおり、その 2 件 に対しては所有するビルを韓国系の店舗に貸す過程について も説明を行う。 1) 事 例 1 A さんの場合 ( 2 0 11 年 3 月 イ ン タ ビ ュ ー ) A さ ん は 百 人 町 1 丁 目 で 熱 帯 魚 の 販 売 店 を 営 ん で い る 50 代 の 男 性 で あ る 。 ま た 2009 年 か ら 現 在 、 商 店 街 振 興 組 合 の 理事長を担当している。A さんは大久保で生まれ育ち、船の 機 関 士 を 15 年 ほ ど し て か ら 家 業 で あ る 販 売 店 を 継 い だ 。 昔からここは韓国人の住んでいた地域ではあったがこの 1 年 半 の 変 化 に は 驚 く ば か り で あ る 。2 0 0 0 年 頃 は 地 価 の 低 い 職 安通り周辺に出店していたが、そこで儲けると次は地価の高 い大久保通りにも進出してくるようになった。さらにビルの 2 階からよりテナント料の高い1階へと移ってきている。こ - 24 - のようにして今のような景観となった。韓国料理店や食材 店・グッズ店を目当てにして、平日も観光客がたくさん来る し、週末になるとさらに混雑する。新大久保駅や駅前は狭い ため待ち合わせの人で常にあふれている。危険なので「立ち 止まらないで」という看板を立てている。歩道に人があふれ ているから車や自転車といった交通手段も使いにくく地元の 住民は外出する気になれない。そういった意味では今の大久 保は地元の住民にとって暮らしにくい状態であるといえる。 観光客がたくさん来るからといって、既存の商店が潤って いるかといえばそうでもない。近所の靴屋さんは韓国で人気 の靴を取り扱うようになったところ日本人も韓国人も買いに 来てくれるようだが多くの店が観光客の呼び込みに苦労して いる。私の店でもよく観光客は興味で店をのぞきに来てくれ る。全国に配達をすることは可能だが買うまでにはなかなか 至らない。韓国人へのビジネスとしては熱帯魚と水槽を卸し ている。商店街の状況としては韓国系の店舗がたくさんある おかげで空き店舗は無い。しかし、会費を払ってくれている の は 3 0 店 舗 ほ ど し か な い 。商 店 街 の 活 動 を や っ て く れ る 人 は ほとんどいない。韓国のお店は自分の店の儲けと観光客をま わ す こ と で 精 一 杯 で ま ち の こ と は 考 え て く れ な い 。2 0 0 0 年 ご ろに韓国人のニューカマーでつくる「新宿韓人会」という組 織が発足したが、地元との調整をしてくれるわけではない。 韓国人の経営者にも大久保のまちをこうしたい、という思い はあるようであるがそれをまとめきれていない。我々がこの 組織に期待しすぎたのかもしれない。このまちのコリアタウ ン化、その変化のスピードに私たちは戸惑っている。このま までは韓国人にこのまちを乗っ取られてしまうのも時間の問 - 25 - 題 で あ る 。私 に は 2 人 息 子 が い る が 、 「 店 を 継 い で ほ し い 」な んてとても言えない。ただ、このまちで生まれ育ったニュー カマー2 世が社会進出する年齢になってきている。彼らとは つながれるかもしれない。 2) 事 例 2 B さんの場合 ( 2 0 11 年 9 月 イ ン タ ビ ュ ー ) B さ ん は 大 久 保 1 丁 目 で 化 粧 品 販 売 店 を 営 ん で い る 60 代 の 男 性 で あ る 。1 9 5 1 年 に 大 久 保 で 生 ま れ 大 久 保 で 育 っ た 。当 時 は木造の建物が並ぶ商店街であったが中学生のころからまち の整備が進んできた。大学を出て一旦就職するが、長男であ る た め 26 歳 の と き に 家 業 で あ る 化 粧 品 販 売 店 を 継 い だ 。 1970 年 代 頃 ま で 大 久 保 は 山 の 手 と い う イ メ ー ジ で あ っ た が、隣の歌舞伎町の発展をきっかけに変化したといえる。店 の 客 層 も 3 0 年 前 ま で は 地 元 の 人 は も ち ろ ん 、歌 舞 伎 町 で 働 く 人 が 中 心 で あ っ た 。 20 年 前 頃 か ら ま ち に 外 国 人 の 人 が 増 え 、 お客さんでも外国人の人が増えた、という印象だった。この 頃バブルの影響もあって木造の長屋をビルに建て替えが進ん だ 時 期 で も あ っ た 。し か し 、2 0 0 0 年 頃 に な る と 逆 に 外 国 人 の お客さんは減った。なぜなら外国人同士のコミュニティが成 熟してきてわざわざ日本人と付き合わなくても生活ができる ようになったためだと思う。なので現在のお客さんは昔から 付き合いのある常連さんばかりだ。現在は観光客がたくさん 来るのでその人たちをどう取り込むかが今後の課題であると いえる。 私 は 2002 年 か ら 2009 年 ま で 商 店 街 振 興 組 合 の 理 事 長 を 担 当していた。理事長になった当初の課題は外国人、主に韓国 人・中 国 人 と ど う お 付 き 合 い し て い く か と い う こ と で あ っ た 。 - 26 - し か し こ れ が 上 手 く い か な い 。例 え ば 毎 年 1 0 月 に 大 久 保 ま つ りという組合主催の行事を行っているのだが、これは商店街 の人に対してお互いを労う側面もある。このお祭りに組合で 屋台を出しているのだが、手伝いに来るはずの韓国系店舗の 人が来ていない。 「 え ー っ 」と 驚 い て 連 絡 を し て な ん と か ア ル バイトの子に来てもらったが「何をしたらいいのか分かりま せん」と言われた。この頃から韓国系の店舗は、個人経営で あったものが力をつけ事業化するものが出てきた。つまり経 営者と現場で働く人が違うのである。現場は雇われ店長やア ルバイトであるから「組合に入ってほしい」と言っても「な ぜ入らなければいけないのか?私では決めることができない から社長に聞いて」と言うし、経営者はそれぞれの仕事が忙 しくて商店街の行事に参加したり、仕事したりということに は関心がないようだ。地域に外国人が多いからといってそれ が問題になるとは限らない。例えば神楽坂にはフランス人が 多く住んでいるが、そこは地元住民とうまくやっているよう である。なぜならそこに住むフランス人は日本の文化が好き でそこに住んでいるから。対して大久保は韓国の文化を売っ て い る 。そ し て 観 光 客 は 韓 国 料 理 や K - P O P と い っ た 韓 国 文 化 、 つまり日本との違いを求めてここに来る。そのような人達に は私たちのような地元の商店には目を向けない。このような 場所になってしまった今、外国人と仲良くしていこうという 意識を持ち辛いのが地元住民の現状である。 どんどんとまちは変わっていくが、その変化は私たちが起 こしたものでない。自分達のまちではないようである。住民 と韓国人が一体でなくばらばらなので、地域のバトンを誰に 渡してよいのかも分からない。現在、韓国人によるビルの買 - 27 - 収が続いており、ますますコリアタウン化している。韓国食 品の販売を行っている社長は、大久保を韓国のテーマパーク にしたいと言っているようだが、今の韓流バブルがはじけて しまったらこのまちはどうなるのかという心配もある。しか し、多くの店舗が立ち並び、観光客が押し寄せる状況は私た ちだけでは作り出せなかったと思う。これらを大切な資産と 捉える方が良いのだが、それはやはり困難なことである。自 分のふるさとがどんどん変わってしまった今、 「自分のまちが 好きか?」と聞かれても直ぐに「はい」と言えない自分がい る。日本人と韓国人が折り合いをつけて自慢したくなるまち へ変えていきたいと思う。 3) 事 例 3 C さんの場合 ( 2 0 11 年 9 月 イ ン タ ビ ュ ー ) C ビルの所有者である C さんは百人町 2 丁目で貸しビル業 を 営 ん で い る 。現 在 の 住 ま い は 北 新 宿 だ が 、1949 年 に 今 の C ビ ル の あ る 場 所 で 生 ま れ 育 っ た 。 1977 年 に 父 の 店 で あ る C 商 店 を 継 ぐ 。 家 庭 雑 貨 の 小 売 店 で あ っ た が 2000 年 に 貸 ビ ル 業へ移行した。以後現在までテナントを貸して生計を立てて い る 。 ビ ル は 4 階 建 て で あ り 、 2007 年 ま で 1・ 2 階 は ゲ ー ム セ ン タ ー 、3 階 は ダ ン ス 教 室 、4 階 は か つ ら 屋 だ っ た 。3 階 と 4 階 は 1 ~ 2 年 の ス パ ン で 店 舗 の 入 れ 替 わ り が あ っ た 。ゲ ー ム セ ン タ ー に 1・2 階 を 貸 し て い る 最 中 に 大 手 コ ン ビ ニ チ ェ ー ン から 1 階を貸して欲しいと持ちかけられた。ゲームセンター が撤退しコンビニが入ると 2 階が空き店舗となった。そこで 募集をかけたところ韓国人経営のライブハウスのビルからイ ンターネットカフェが移ってきた。このカフェは在日韓国人 が 経 営 し て い る 。そ し て 現 在 、2 階 は カ フ ェ 、3 階 は 2 階 の カ - 28 - フ ェ の 事 務 所 と し て 貸 し て い る 。4 階 は ビ リ ヤ ー ド 店 で あ る 。 4 階 は ニ ュ ー カ マ ー の 韓 国 人 が 経 営 し て い る 。3 月 の 東 日 本 大 震災で韓国から帰国命令が出たが、2 階の経営者は日本にと どまった。4 階の経営者は一旦帰国するがすぐにこちらへ戻 ってきた。借主とのコミュニケーションは良好である。逆に 信 頼 関 係 が な い と テ ナ ン ト を 貸 す こ と が で き な い (図 9)。 ~2000 ~2009 年 2009 年 2011 年 年 4F かつら店 (※) ビリヤード店 ダンス教 室 3F インターネットカ 事務所 (※) フェ C 商店 コーヒーショッ 2F ゲームセンタ プ ー 1F 大 手 コンビニ 大 手 コンビニ 黄 色 は韓 国 系 店 舗 であることを示 している (※)1~2 年 での入 れ替 わり 図 9.C ビルにおけるテナントの変 遷 (筆 者 作 成 ) このまちがなぜコリアタウンとなってしまったのか我々に も分からない。これはメディアの影響が大きいと思う。横浜 の中華街に勢いがないのをみていると、うちの商店街もいつ か現在の勢いがなくなってしまうのではないか。 ここ最近、貸しビル業に移行する人が増えてきた。貸しビ ル業と家具の販売業を長年していた人は家具店を閉め、貸し ビル業だけに専念すると言っていた。またビルごと売り払っ てこのまちを出ていく人も出てきた。1 年ほど前に酒問屋を 営んでいた人は問屋を他の区に移し、住まいも区内ではある - 29 - が転出してしまった。自分のビルを売るということは相当の 決断ではあるが、ビルを売ることに対して商店街のなかでも 意見が分かれている。 私のビルの横に長年空きビルがあるが、そこを韓国系の不 動産業者が狙っているという (5)。 近くの文房具店には「ビル を 売 っ て く れ な い か 」と 毎 日 の よ う に 不 動 産 屋 の 営 業 が 来 て 、 中には「店舗の商品を全部買い取るから売って欲しい」と言 う人もいるらしい。今はこの場所をほしがっている人が多い が、外部の人にどんどん貸してしまうと既存の地域関係が壊 れてしまう。 ま た 、町 会 と 商 店 街 組 合 は 相 反 す る 考 え を 持 っ て い る 。町 会は自分達の「生活」を守るために 外国人なんか追い出せと いう雰囲気であるが、商店街は自分達の「商売」を守るため に 、ど ん ど ん 入 っ て く る 外 国 人 と な ん と か や っ て い か な け れ ばならない。だから地元の住民、商店主、そして外国人がこ の ま ち で 一 緒 に 住 む た め に は ル ー ル 整 備 が 必 要 だ と 思 う 。ま た 観 光 客 が あ ま り に も 増 え す ぎ た た め 、い つ 人 災 が 起 き る の かと心配になる。3 月の東日本大震災で都内では多くの帰宅 困難者が出たから、もし今後災害 が起きた時、このまちはど の よ う に 対 処 す べ き か 。そ の よ う な 意 味 で も 地 域 と の 交 流 を ス ム ー ズ に し 、地 域 内 の つ な が り を 維 持 し て い き た い と 思 う 。 4) 事 例 4 D さ ん の 場 合 ( 2 0 11 年 1 2 月 イ ン タ ビ ュ ー ) D ビルの所有者である D さんは百人町 1 丁目で 2 棟のビル 管 理 を し て い る 。明 治 の 終 わ り ご ろ に 曽 祖 父 が 新 潟 県・長岡 か ら 移 転 し て き て 以 来 、大 久 保 界 隈 で 桶 作 り と 井 戸 掘 り を 手 が け て き た 。 D さ ん 自 身 は 1943 年 、 隣 町 で あ る 新 宿 区 百 人 - 30 - 町 で 生 ま れ た 。戦争 の こ と は 覚 え て い な い が 、戦 後 に バ ラ ッ クがたくさん並んでいたことは記憶に残っているという。 1966 年 に 大 学 卒 業 後 、 家 業 の 風 呂 桶 製 造 販 売 を 継 い だ 。 そ の後はガス会社の代理店として住宅や店舗のガス整備を行 っ て き た 。 1986 年 に は 株 式 会 社 に 組 織 変 更 し 建 設 業 も 開 始 す る 。 そ し て 1991 年 に は も と も と 倉 庫 と し て 使 用 し て い た 土地に第 2 ビルを建設する。そのビルは 1 階~2 階・4 階に D さんの経営するガス代理店が入り、3 階は個人の部屋とし て使用していた。また第 1 ビルの 1 階~2 階・4 階はガス代 理 店 が 入 り 、 3 階 ・ 5 階 を 住 居 と し て 利 用 し て い た 。 2008 年 にガス会社の会社分割により経営の第一線を退き、以後は 2 棟 の ビ ル 管 理 を お こ な っ て い る 。 第 1・ 第 2 ビ ル 両 方 に お い て い た ガ ス 代 理 店 を 第 1 ビ ル に 集 積 す る こ と に な り 、そ の 結 果 、 第 2 ビ ル の 1~ 2 階 ・ 4 階 が 空 き 部 屋 と な っ た 。 そ こ で 不動産業者を通じて借り手を募集してみたところわずか 1週 間 で 借 り 手 が 見 つ か っ た 。 以 後 、 1 階 を 韓 国 料 理 店 、 2~ 4 階 を 韓 流 グ ッ ズ 店 に 貸 し て い る (図 10)。 第 2 ビルを借りた韓 流 グ ッ ズ 店 の オ ー ナ ー は 、「 こ の ビ ル の デ ザ イ ン を 気 に 入 っ たのでぜひ貸してほしい」といったという。現在、第 1 ビル の 3 フ ロ ア を ガ ス 代 理 店 に 貸 し て い る が 、し ば し ば 不 動 産 業 者 か ら「 ビ ル を 貸 し て く れ な い か 」という話を持ちかけられ る 。第 2 ビ ル の 韓 流 グ ッ ズ 店 の オ ー ナ ー も 第 1 ビ ル に 進 出 し たいそうだ。 - 31 - 第 1 ビル ~2009 年 2009 年 ~ 5F 住宅 住宅 4F ㈱D 代理店 3F 住宅 研究所 2F ガス会 社 ㈱D 代理店 1F 第 2 ビル 1991 年 ~2009 年 4F ガス代 理 店 3F 研究所 2009 年 ~ 韓 流 グッズ店 2F ガス代 理 店 1F 韓国料理店 図 10. D 第 1・第 2 ビルにおける店 舗 の変 遷 (筆 者 作 成 ) ま ず 観 光 客 の 多 さ に 困 る 。歩 道 が 狭 い の で 休 日 に な る と 観 光 客 は 歩 道 だ け で な く 車 道 に 広 が っ て し ま う 。隣 ビ ル の 韓 国 料 理 店 は 24 時 間 営 業 な の で 、 深 夜 で も 大 き な 話 し 声 が 聞 こ え る 。さ ら に 酔 っ ぱ ら い が 喧 嘩 を 始 め る の で 警 察 も サ イ レ ン を鳴らしながらやってきて、妻は寝られないと言っていた。 治安が前より悪くなった、という印象がある。また、一般ゴ ミ の 回 収 が 今 年 の 4 月 か ら 週 2 回 に な っ て し ま っ た 。業 者 に 毎日回収してもらっている飲食店もあるがそうでない店も あ る 。分 別 す ら し て い な い ゴ ミ を わ ざ わ ざ う ち の 前 に 積 ん で 行く人もいる。妻はそのゴミ袋に「持って帰ってください」 と 張 り 紙 を す る が 効 果 が な い 。そ れ で 毎 朝 1 時 間 ほ ど 店 の 前 を掃除するのが日課となっている。 私のように店舗と住居が一緒になっている人はこのまち - 32 - か ら 出 て い こ う と は あ ま り 思 わ な い が 、住 む だ け の 人 は 嫌 に な っ て し ま う の で は な い か 。実 際 、第 2 ビ ル の 電 気 の 配 線 を 切 ら れ た こ と が あ る 。お そ ら く 韓 国 系 の 店 舗 を よ く 思 っ て な い人が嫌がらせをしたのだろう。 大久保 1 丁目の人口は約 7 割が外国人である。5 年前に国 勢 調 査 の 書 類 を 5 0 世 帯 ほ ど に 配 布 し た が 、そ の う ち 日 本 人 は わずか 5 人であった。大久保通りには韓国系の店舗が並んで いるが、実際住んでいるのは中国人と韓国人が半々くらい。 大久保小学校も生徒の 3 分の 2 が外国人であり、国籍も様々 なので先生が 7 カ国語で保護者に連絡をしているようだ。私 の代理店でも韓国人と中国人とチュニジア人がいて国際色豊 かである。しかし今後、大久保は中華街のようにコリアタウ ンとして観光地化していくのではないか。大久保が「多文化 のまち」から「コリアタウン」へ変化した象徴的な出来事が ある。それは百人町にあった百人町屋台村というエスニック 料理店がなくなり、韓国料理店へ変わってしまったことだ。 百人町のほうや北新宿には様々な民族の店舗があるのだから 「エスニックのまち」という面をもっと打ち出していくとよ いと思う。 5) 聞き取りの分析 (a)大 久 保 地 域 の 性 質 の 変 化 上 の 事 例 よ り 、 新 大 久 保 商 店 街 の 店 舗 は 50~ 60 歳 代 の 店 主 を 中 心 に 構 成 さ れ て い る こ と が わ か る 。い ず れ も 出 生 は 大 久 保 地 域 周 辺 で あ り 、学 校 卒 業 後 に 他 の 職 種 を 経 験 す る 場 合 も あ る が 、家 業 を 継 い で い る 。住居は店舗を兼ねている場合 が多く、低層部を店舗、最上階を住居としている。また住居 - 33 - と 店 舗 が 別 で あ っ て も 事 例 4 の よ う に 隣 町 に 住 ん で お り 、自 宅 と 店 舗 は 徒 歩 圏・も し く は 自 転 車 で 移 動 す る こ と が 可 能 で ある。これらのことから、新大久 保商店街はホスト住民にと っ て 商 売 だ け で は な く 生 活 の 場 で も あ り 、職 住 が 一 体 と な っ た 場 所 で あ る と い え る 。し か し 、韓 国 系 店 舗 の 進 出 に よ っ て 、 大久保地域は韓国人経営者や現場の労働者にとっては商業 地 、外 部 の 人 間 に と っ て は 韓 国 料 理店や食材店、スターグッ ズ 店 の 揃 う 観 光 地 で あ る 。こ の よ う に 職 住 の 場 で あ っ た も の が 短 期 間 で 観 光 商 業 地 の 側 面 を も っ た こ と に よ り 、現 在 、ホ ス ト 住 民 は 自 身 の 生 活 環 境 に 大 き く 不 満 を も っ て い る 。ま ず 上 の イ ン フ ォ ー マ ン ト の 話 よ り「 人 の 多 さ 」 「交通の不便」 「騒 音 」「 ご み 問 題 」 と い う 不 満 要 素 が 浮 か び 上 が っ て く る 。 ま ず 「 人 の 多 さ 」 で あ る が 、 JR 新 大 久 保 駅 の 1 日 の 平 均 利 用 者数が過去最高を記録しているように大久保地域を訪れる 人は増加している。それによって「交通の不便」という問題 が 表 れ て き た 。大 久 保 通 り は 片 道 1 車 線 の 車 道 と そ の 両 端 に 幅 1m ほ ど の 歩 道 が あ る 。 観 光 客 が 増 え た 今 、 歩 道 は 常 に 人 であふれている。実際、筆者が現地調査で商店街を歩くと、 韓 国 料 理 店 の 行 列 や テ レ ビ の 取 材 に 対 す る ”出 待 ち ”を 確 認 す る こ と が で き た 。観 光 客 の 多 さ は 歩 道 だ け で は 対 応 で き な い う え に 、こ れ ら の 行 為 に よ っ て 歩 行 者 の 交 通 が 妨 げ ら れ て い る と い え る 。 聞 き 取 り 調 査 の な か で 、 JR 新 大 久 保 駅 ~ ル ー テ ル 教 会 前 ま で の 道 が 特 に 混 雑 し て い る た め 、あ え て 反 対 側 の都営地下鉄東新宿駅を利用しているという回答も得られ た 。「 騒 音 」 や 「 ご み 問 題 」 も 観 光 商 業 地 化 に よ り 発 生 し た 問題であるといえる。 - 34 - (b)既 存 店 舗 が 韓 国 系 店 舗 へ 渡 る フ ロ ー また新大久保商店街では貸しビル業に転換する店主が増加 し て い る 。 実 際 に 事 例 3・ 4 の 店 主 も 2 0 0 0 年 代 に 家 業 か ら 貸 しビル業へ転向している。もともと自分の土地にビルを建て 低層階を店舗とし、事例 4 の場合では高層階を住居としてい た 。2 0 0 0 年 代 か ら 店 主 の 高 齢 化 、家 業 の 不 振 に よ っ て 貸 し ビ ル業に転向し、低層階をテナントとして不動産業者を通じて 貸しに出す。新大久保商店街は土地の利便性からチェーン店 がよく入ったという。これは事例 3 で大手コンビニチェーン がテナントと貸してほしいと営業にきたという話に当てはま る。この頃から韓国系店舗がテナントとして入り始めた。こ の当時、韓国系店舗は職安通りを中心に展開していたため新 たな立地を求めたこと、また職安通りに比べて地価の高い大 久保通りに出店できるほどの資本があったことが考えられる。 さらに事例 3 でインターネットカフェが近隣のビルから移転 してきたことから韓国人同士で不動産情報のやり取りをして いることが考えられる。このように、新大久保商店街の店舗 主は、自分の持っている土地にビルを建て店舗兼住居として いた。しかしバブル崩壊後の不景気・店主の高齢化といった 要因からテナント貸しへと移行する。そこへ大手チェーン店 に加えて、資本を蓄えた韓国人が商店街に出店した。次に韓 国人経営者が資本を蓄え、商店街、あるいは大久保地域に店 舗展開をする。実際に新大久保商店街で多角的に経営を行っ て い る 韓 国 系 店 舗 は 2003 年 に イ ン タ ー ネ ッ ト カ フ ェ を 出 店 し 、 2005 年 に 韓 国 料 理 店 を 出 店 す る 。 2009 年 に は 韓 国 食 材 店 、 2 0 1 0 年 ~ 11 年 に か け て 韓 国 料 理 店 の 2 号 店 と 化 粧 品 販 売店を出店している。このように韓国系店舗が新大久保商店 - 35 - 街で立地展開している背景には不動産業者によるビルの買収 が考えられる。事例 3 の「持ちビルを売り払って他地域に転 出する人も出た」という話や事例 4 の「不動産業者にビルを 貸してくれないかと話を持ちかけられる」という話にもある ように既存店舗が韓国系の店舗に渡るフローには不動産業者 の存在が見られる。これらの不動産業者のなかには韓国人の 経営する会社も存在する。実際に上の韓国料理店が入ってい るビルは大久保地域を中心に展開する韓国系不動産業者が管 理を行っている。日・韓の不動産業者にとっても新大久保商 店街は駅に近く、集客力が大きいため買い手・借り手がある ことから、ビルの買収を狙っていると考えられる。 本章では聞き取り調査の結果とその分析を行ったが、この 過程の問題点として、地域の性質が変容したことによりホス ト住民が利益を受けているとはいえず、むしろ負の影響を受 け て い る こ と が 挙 げ ら れ る 。「 通 行 の し に く さ 」 や 「 騒 音 」、 「ゴミ問題」といった不満要素が挙げられただけではなく、 町会と商店街の不和も生み出している。経済面においても、 観光客の取り込みに苦労している店が多く、商店街を訪れる 人が増加したからといって決して利益を得ているわけではな い。利益を得ているのは大手資本と韓国系の資本・不動産業 者であり、その利益が地元に還元されているとは言い難い。 組合の話し合いで「外国人と分かりあう必要はない」という 結論に至ったようにホスト住民は現状にもはや諦めを感じて いることが窺えた。 Ⅳ.考察 - 36 - 第 Ⅱ 章 、 第 Ⅲ 章 と 2000 年 代 に お け る 大 久 保 地 域 の 変 遷 を みてきた。本章では地域の変容とその影響について考察を行 う。 1) 経済活動の外部拡大 商 店 街 に お け る 経 済 活 動 は 2000 年 代 以 前 、 大 久 保 地 域 内 と そ の 周 辺 で 完 結 し て い た 。 し か し 2000 年 代 に お い て 観 光 地化し全国から観光客が集まるようになったことで商店街へ の来客は大幅に増加した。しかし商店街において活発な消費 が行われているのは韓国系店舗であり既存店舗がその利益を 全て享受しているとはいえない。韓国系店舗には韓国人経営 者、さらに日本の資本が出資している店舗もあり観光客の消 費が地域に還元されず外部に流出している状態であるといえ る 。そ こ で 既 存 店 舗 は ① 地 元 住 民 を 対 象 と し た 営 業 を 続 け る 、 ②韓国文化を商品とし観光客を取り込む、③家業の営業を辞 め、貸しビル業に転換する④ビルを売り大久保地域から転出 する、という 4 つの選択肢のいずれかをとっていることがわ かった。③、④を選択する際に不動産業者が介入しているこ とが聞き取り調査において明らかになっている。よって不動 産業者も大久保地域の変容に関与し利益を得たアクターであ るといえる。 2) 地域関係における軋轢の発生 大久保地域が住宅街から観光地へ変化したことで様々な問 題が起きていることは第Ⅲ章で触れた。観光地化によって商 店街への来客が増加したことで通行のしにくさ、店舗のごみ 増加が起きている。また韓国系店舗の営業時間が深夜に及ん - 37 - でいることによる騒音もあり住環境は悪化している。それに よって町会と組合で意見が分かれていることも聞き取りで明 らかになった。町会は「住民」のみで構成されている一方、 組合は「住民」であり「商店主」でもある人から構成されて いる。前者は大久保地域における住環境の悪化から韓国系店 舗、外部の観光客に対して良い印象を持っていない。対して 後 者 は 「 住 民 」 と し て は 町 会 と 同 じ 立 場 で あ る が 、「 商 店 主 」 としては韓国系店舗や外部の観光客と付き合っていかなけれ ばならないと考えている。大久保地域内の2つの組織におい て認識が異なるため、ときに韓国系店舗の入るテナントへの 嫌がらせが起きる事例も確認された。さらに組合内において も前項で述べたようにビルを売却して他地域に転出する人も 現れた。これは組合内でも賛否が分かれており、反対派は地 域関係の希薄化を懸念している。以上のことから大久保地域 が観光地化したことが地域の住民関係に影響を及ぼしている といえる。 以上の点から、大久保地域の観光地化は地域の経済活動の 外部化を促しそれによってホスト住民が業種転換することで このまちで生き残ろうとしていること、また地域の住民関係 に軋轢を生み出したことから地域にとって必ずしも良い影響 を与えているとはいえないことが明らかとなった。町会・組 合・韓国系店舗・外部の観光客では大久保地域に求めている ものが異なり、それゆえホスト住民にとって地域マネジメン ト、そして大久保地域の将来像を見出せない状況をつくって い る 。店 主 も 6 0 代 が 中 心 に な っ て お り 家 業 の 後 継 を 考 え る 時 期にさしかかっているが、現状では家業を継がせられる状態 ではないとの回答も得られた。韓国人経営者の中には商店街 - 38 - に関する要望をもっているがそれらをまとめる組織がなく、 今は観光客への対応に追われており現段階では地域をマネジ メントするに至っていない。まちの担い手の不在-これが大 久保地域をより混沌とした状態を生み出している。 それでもなお、組合は通行に関する要望書を区に提出した り、定期的に商店街の掃除を行ったり地域の現状に対応しよ うと奮闘している。では行政は増加する外国人に対してどの ような対応策をとっているのか。新宿区は多文化共生連絡会 を 開 い て 住 民 や N P O 法 人・市 民 団 体 な ど と 区 の 外 国 人 に 関 す る問題の意見交換を行っている。しかし議論を行うものの区 の 政 策 に 生 か さ れ る こ と は な か っ た と い う ( 新 宿 区 , 2 0 11 ) 。 外国人の居住は短期間で入れ替わってしまうため施策に反映 することが難しいと新宿区は述べているが地域の変容への対 応が後手に回ってしまったため、ホスト住民による地域マネ ジ メ ン ト が 困 難 な 状 況 と な っ て い る 。 都 築 (1999)に よ る と 、 地域が外国人を受け入れる際の責任主体として 3 つのパター ンを挙げている。1 つ目は自治体が中心となって積極的に問 題の解決を図る自治区主導型、2 つ目は行政が積極的に関与 する行政主導型、3 つ目は商工会などの民間機関が中心とな る民間主導型である。特に自治区主導型は、行政が外国人問 題の対策に消極的であるため自治区が外国人受け入れのリス クとコストを背負わなければならない、と指摘している。大 久保地域も新宿区における外国人の増加がみられたにも関わ らず発生した問題に対して積極的に取り組まなかったため、 市場原理によって韓国系店舗の進出が促された。それによっ て既存店舗の縮小や住環境の悪化を生み出してしまったとい える。ホスト住民が必死になって問題の対処にあたるが解決 - 39 - には至らない。このことから地域に外国人を受け入れる際、 ガイドラインの作成など地域がどのような態度・姿勢で外国 人を受け入れるかという指針を行政が積極的となってホスト 住民とともにつくるべきであるといえる。 Ⅴ.おわりに こ れ ま で の 内 容 を ま と め る と 、2 0 0 0 年 初 期 に 大 久 保 地 域 は 職安通り、また大久保の竹下通りといった大久保通りに向か う路地を中心に韓国系店舗の出店がみられた。それはビルの テナント化が進むなか、バブル崩壊の後にテナントの空室を 埋めるために入居条件を下げたことによって、外国人の入居 が促されたことに起因する。ここで資本を蓄えた韓国系経営 者が支店拡大・多角経営を行うと同時に、バブル崩壊後に売 却 さ れ た ビ ル・不 動 産 を 取 得 し 新 た に 他 の 韓 国 系 店 舗 に 貸 す 、 といった過程を経て韓国系店舗の増加がみられた。一方、新 大 久 保 商 店 街 は 2000 年 初 期 段 階 で 韓 国 系 店 舗 の 参 入 が 始 ま るものの、ホスト住民や大久保地域近隣に住む外国人を対象 と し た 商 売 を 中 心 に 展 開 し て い た 。し か し 、2 0 0 2 年 か ら 2 0 0 4 年にかけての韓流ブームによって韓国文化に注目が集まると 同 時 に 韓 国 系 店 舗 が 増 加 し 、 2 0 11 年 現 在 、 大 久 保 地 域 は 約 2 0 0 軒 の 韓 国 系 店 舗 を 有 す る 観 光 地 と な っ た 。2 0 0 0 年 頃 に 職 安通りでみられた韓国人経営者の支店拡大・多角経営、そし て ビ ル や 不 動 産 の 買 収 が こ の 約 10 年 間 に お い て 大 久 保 通 り でも進んだ。また観光客の取り込みを図って大手小売チェー ン、また日本人が経営する韓国系店舗の出店という現象もみ られるようになった。韓国系店舗の進出の要因として大久保 通りにおいて既存店舗が貸しビル業へ転換したことが挙げら - 40 - れ る 。2 0 0 0 年 代 以 前 に テ ナ ン ト 化 し て い た ビ ル は 一 定 数 あ っ た も の の 、2 0 0 0 年 初 期 か ら 現 在 ま で に 経 営 不 振 ・ 店 主 の 高 齢 化によって家業から貸しビル業への転換が進んだ。そこへ資 本を蓄えた韓国人経営者がより駅に近く集客力の高い大久保 通りへ進出しテナントに入ったことによって韓国系店舗が増 加 し た 。2 0 11 年 に な る と メ デ ィ ア を 通 じ て 大 久 保 = コ リ ア タ ウンとして認知され、観光客が訪れるようになると韓国系店 舗との競争に敗れた店舗は閉店し、そこへさらに韓国系店舗 が商機を狙って出店した。このようにして大久保通りは韓国 系店舗が並ぶ商店街へと変容したのである。 外国人集住地域を語る際、 「 共 生 」と い う 言 葉 を よ く 目 に す る。事実、筆者自身も「共生」という言葉を簡単に用いてい た。しかし、ホスト住民からしてみれば共生-つまり外国人 と対等に暮らし地域社会をともに構成していく、といった理 想には程遠い。聞き取り調査の中で「自分の生まれ育ったま ちにある日外国人が突然やってきてそのうち商売まで始めて まちがどんどん変わっていったらどう思う?今のまちを好き かと聞かれても答えに困ってしまうよ」という言葉が印象に 残っている。生まれ育ったまちというのは自分を形成するア イデンティティの1つだと考える。それを好きだと言えない ことは自分の一部を否定することでもある。上の言葉を聞い て私は心苦しくなった。地域に外国人がいる/いないにかか わらず誰もが自分のまちを好きだと言える、そのような尊厳 ある暮らしこそ真の「共生」である、と今回の調査を通じて 気付かされた。 2 0 11 年 11 月 に J R 新 大 久 保 駅 の 高 架 横 に 都 市 計 画 道 路 補 助 第 7 2 号 線 が 開 通 し た 。こ れ に よ り 新 大 久 保 駅 か ら 高 田 馬 場 - 41 - 間の線路に沿いの道ができたことになる。この道路の完成に よって通行の流れが変化する可能性もあり、大久保地域はこ れからも変容を続けていくと考えられる。この変容が住民に とって少しでも良いものとなるよう願わずにはいられない。 筆 者 も 今 後 の 大 久 保 地 域 の 変 化 を 見 続 け て い き た い 。 (以 上 、 22,937 字 ) <謝辞>今回聞き取り調査をするにあたって、お忙しい中イ ン タ ビ ュ ー に ご 協 力 頂 い た 新 大 久 保 商 店 街 振 興 組 合 の 皆 様 、3 月には大久保地域をまち歩きで紹介してくださり、9 月には その後半年間の動向を教えてくださった共住懇の山本重幸様、 江戸時代から現在の大久保地域の貴重な資料を提供して頂い た佐竹幸一様、そして大久保地域を紹介して頂き、執筆の際 に何度も脱線してしまう私を最後まで導いてくださった指導 教授の山崎孝史先生に厚くお礼申しあげます。 注釈 (1)”第 2 次 韓 流 ブ ー ム ”は 女 性 誌 な ど の メ デ ィ ア が 2010 年 ~ 2 0 11 年 に か け て K - P O P の 相 次 ぐ 日 本 進 出 を 表 現 し て い る 。 ( 女 性 セ ブ ン , 2 0 11 ) (2)韓 国 で は 1989 年 に 海 外 旅 行 の 完 全 自 由 化 と な っ た が 実 際 に は 8 0 年 代 以 降 、観 光 目 的 の 旅 券 発 行 は 随 時 緩 和 さ れ て い た 。 (稲 葉 ,2008) (3)外 国 人 比 率 = 外 国 人 登 録 人 口 ÷(住 民 基 本 台 帳 人 口 数 + 外 国 人 登 録 人 口 ) よ り 算 出 し た 。新 宿 自 治 創 造 研 究 所 ( 2 0 1 0 ) の 手 法を参考としている。 (4)大 久 保 特 別 出 張 所 の 管 轄 に は 百 人 町 1 丁 目 ・ 2 丁 目 ・ 3 丁 - 42 - 目・4 丁目、大久保 1 丁目・2 丁目・3 丁目、新宿 6 丁目・7 丁目、歌舞伎町 2 丁目、戸山 3 丁目が含まれる。 ( 5 ) こ の イ ン タ ビ ュ ー は 2 0 11 年 9 月 に 行 っ た 当 時 は 空 き ビ ル で あ っ た が 、 同 年 12 月 に 韓 国 系 の 店 舗 が 5 軒 入 っ た 。 ( 6 ) 2 0 11 年 の 地 価 公 示 に よ る と 、 路 地 ( 東 京 都 新 宿 区 大 久 保 1 14-7)の 地 価 は 470,000 円 / m2 で あ る 。 一 方 、 大 久 保 通 り (東 京 都 新 宿 区 百 人 町 1-16-14)の 地 価 は 1,560,000 円 / m2 で あ る。 参考資料・文献リスト 稲 葉 佳 子 ( 2 0 0 8 ): 『オオクボ 都市の力 多文化空間のダイナ ミズム』学芸出版社 奥 田 道 大 ・ 田 嶋 淳 子 ( 1 9 9 3 ):『 新 宿 の ア ジ ア 系 外 国 人 』 めこ ん 共 住 懇 ( 2 0 0 1 ):『 お い し い “ ま ち ” ガ イ ド 2001』あ ら ば き 協 同印刷 小 内 透 ・ 酒 井 恵 真 ( 2 0 0 1 ):『 日 系 ブ ラ ジ ル 人 の 定 住 化 と 地 域 社 会―群馬県太田・大泉地区を事例として―』御茶の水書房 「 コ コ ニ 楽 し い 韓 国 ア リ マ ス ! ! 2 0 11 年 1 号 」K o r e a n - C u l t u r e Club 「コリアタウンマップ 2 0 11 No.9」 株 式 会 社 巨 山 佐 竹 幸 一 ( 2 0 0 8 ) :「 大 久 保 エ ス ニ ッ ク マ ッ プ 」 新 大 久 保 商 店 街 振 興 組 合 ( 2 0 11 ): 「天使のすむまち に ぎ わ い MAP 2 0 11 年 7 月 新大久保 No.2」 新 宿 区 新 宿 自 治 創 造 研 究 所 ( 2 0 1 0 ): 「新宿自治創造研究所 究所レポート 2010 No.1 研 外 国 人 WG 報 告 (1)」 ゼ ン リ ン ( 2 0 0 1 ) :『 ゼ ン リ ン 住 宅 地 図 : 東 京 都 新 宿 区 - 43 - 2001 年 度 版 』 p29・ p36 ゼ ン リ ン ( 2 0 0 8 ) :『 ゼ ン リ ン 住 宅 地 図 : 東 京 都 新 宿 区 2008 年 度 版 』 p29・ p36 ゼ ン リ ン ( 2 0 1 0 ) :『 ゼ ン リ ン 住 宅 地 図 : 東 京 都 新 宿 区 2010 年 度 版 』 p29・ p36 総 務 省 ( 2 0 0 6 ): 「多文化共生の推進に関する研究会 報告書 ~ 地域における多文化共生の推進に向けて~」 都 築 く る み ( 1 9 9 9 ): 「外国人受け入れの責任主体に関する都市 間比較―豊田市の事例を中心に,大泉町,浜松市との比較か ら―」愛知学泉大学コミュニティ政策学部紀要 127p-146p 第 2 巻 1999 年 12 月 号 参 考 WEB サ イ ト 外 国 人 集 住 都 市 会 議 事 務 局 ( 2 0 11 ) 「 外 国 人 集 住 都 市 会 議 の 会 員 都 市 デ ー タ ( 2 0 11 - 0 4 - 0 1 現 在 ) 」 最 終 閲 覧 2 0 1 2 0 11 4 h t t p : / / w w w. s h u j u t o s h i . j p / m e m b e r / p d f / 2 0 11 . 0 4 . 0 1 s a n k a t o s idata.pdf 新 宿 区 町 会 連 合 会 HP「 新 宿 イ レ ブ ン - 各 地 区 の 紹 介 保地区」 大久 最 終 閲 覧 2 0 1 2 0 11 2 h t t p : / / w w w. s h i n j u k u 11 . j p / c h o k a i / p d f / o k u b o . p d f 全国地価マップ 東京都新宿区大久保 h t t p : / / w w w. c h i k a m a p . j p / m a p / m a p . a s p ? d t p = 3 & m p x = 1 3 9 . 7 0 9551866319&mpy=35.6956673177083&mps=2500&mtm=K1 1&msw=700&msh=500&prf=13 最 終 閲 覧 2 0 1 2 0 11 2 - 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