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Title Author(s) ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン : 印象主義をめぐ って 市川, 直子 Editor(s) Citation Issue Date URL 人文学論集. 2005, 23, p.25-44 2005-03-20 http://hdl.handle.net/10466/8929 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 25 ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴ二面ャン 1印象主義をめぐって一 市川直子 いた哲学者フリードリッヒ・ニーチェやアルトゥール・ショーペン しまったとき目に映じるものが事物の﹁メタフィジカ的側面﹂であ てくれるものを﹁ロザリオ﹂や﹁首飾り﹂に喩え、その糸が切れて キリコは、事物とわれわれとをつないでその事物の論理性を説明し 考﹁メタフィジカ芸術について﹂の中で説明されている。そこでデ・ 四・五月号の﹃ヴァローリ・プラステイチ﹄誌に掲載された彼の論 術理念を表明しはじめた。この言葉の意味については、一九一九年 代に、﹁メタフィジカ︵−ごという哲学用語でもって自らの新しい芸 ジョルジョ・デ・キリコ︵、八八八一一九七八︶は、一九一〇年 されるべきであろう。そこで、本稿は次の二つの問いから始めたい。 どまるのではなく、美術史学的な視点からのアプローチがもっとな カ絵画の誕生には、こうした哲学者の側からのアプローチだけにと ェやショーペンハウアーは哲学者である。したがって、メタフィジ い。しかし、デ・キリコは飽くまでも美術家であり、一方のニーチ てる上で、この二人の哲学者が大きな役割を果たしたことは否めな 繰り返し見られる。ゆえに、デ・キリコが新しい芸術理念を打ち立 綴った手稿や一九一八年以降にいくつかの雑誌で発表した論考等に ハウアーの名は、デ・キリコが一九一一年から一九=二年にかけて ハウアーの影響が再三再四指摘されてきた。ニーチェとショーペン ると述べている︵2v。このようなヴィジョンを絵画化したメタフィ それは、デ・キリコが過去のどのような絵画の潮流を否定すること はじめに ジカ絵画が一九一〇年ごろ誕生した契機については、彼が傾倒して 26 から新しい絵画を希求したのであろうかという問いと、新しい絵画 る。この手稿の中でデ・キリコが唯一批判的に述べているのは、印 デ・キリコのこうした動向を示す初期の資料が、先述の手稿であ あろうかという問いである。 ていたと述べ、その例として、印象主義者たちに言及したゴーギャ ギャンが古代および近現代の絵画に対して正しく鋭い判断力をもっ 二号に掲載された﹁ポール・ゴーギャン﹂という論考の中で、ゴー デ・キリコは、一九二〇年三月の﹃イル・コンヴェーニョ﹄誌第 ゴーギャンから見た印象主義 象主義、とりわけその手法である分割描法・点描法であった。また、 ンの言葉を引用し、こう述べている。 を自ら生み出す際に過去のどのような美術家から何を吸収したので 彼より四半世紀ほど早く印象主義に対して同様の態度をとった美術 家にポール・ゴーギャン︵一八四八−一九〇三︶がいて、デ・キリ 的であり、気取りずくめで、ただ物質的である﹂と述べた。メ [ゴーギャンは]印象主義者について、﹁彼らの芸術は全く表面 言及している。 タフイジカ的な感覚にも心動かされ、芸術の神秘的な部分にた コはゴーギャンのその批判的な言動に一九二〇年のある論考の中で したがって、本稿ではまず、ゴーギャンとデ・キリコの印象主義 いへんこだわっていた︵4︶。 ここでデ・キリコが引用した一文は、二度目にタヒチへ赴いた後、 批判がどのようなものであり、それに対し、自らの絵画をどのよう に位置づけて展開させていったかを知るために、彼らの言説をたど っていきたい。そして、それをふまえたしで、デ・キリコとゴーギ ているかを見ていきたい。本稿はまた、これまで﹁歴史の外にある﹂ 携えてきた﹃ノア・ノア﹄の原稿の余白に書き留められていた︵5︶。 について考えたことを綴った手稿の一部分である。これはパリから 一八九六年から一八九八年一月までの間、。コーギャンが芸術や社会 などと評されてきた︵3︶デ・キリコのメタフィジカ絵画を美術史の この一文は、印象主義をかなり厳しい言葉で批判するものであるが、 ャンの作品を比較しながら、双方の芸術観がどのように絵画化され 流れの中に位置づけるための試みでもある。 では、ゴーギャンと印象主義の関係は実際どうであったのだろうか。 実は、ゴーギャンの場合、印象主義を最初から断固として拒否して 27ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン 出資会社﹂による展覧会、いわゆる﹁印象派展﹂に、第四回から最 とわりです︵7︶。 ピサロやスーラなどの他人の作品を一緒に陳列することはおこ いたのではない。事実、﹁画家、彫刻家、版画家など、芸術家の土ハ同 終回となった第八回まで参加しているのである。 印象主義の最年長者カミーユ・ヤコブ・ピサロ︵一八三〇1一九〇 るまでに彼らの間でどのようなことが起こっていたのだろうか。そ では、一八八三年のオスニー行きから一八八八年のこの書簡に至 そもそも、美術界におけるゴーギャンの最初の師とも言うべきは、 三︶である。ピサロはゴーギャンの後見人ギュスターブ・アロザの れには、ここにピサロとともに名の挙がっているスーラもまた深く 関わっていると言えるだろう。 友人であった。ゴーギャンはアロザ家に滞在することによってピサ ロを知り、一八七五年以降彼から助言を受けて絵を描いている。印 ニャックらは印象主義が掲げた光の再現という目的を継承しつつ、 まず注目すべきは、最後の印象派展が行われる前年の一八八五年であ たり、さらにピサロとは一八八三年にもオスニーに同行し、作品を これまでの印象・王義者がその目的を果たすべくめいめいに編み出し 象派展に一八七九年の第四回より参加しているのもピサロの勧めか 数点仕上げたと言われる。そのピサロともやがては決裂してしまう ていた方法に客観性を与えようとした。そこで、化学者であり色彩 る。この年、ピサロは、ゴーギャンの書簡にも名のあったジョルジュ・ のであるが、そうしたゴーギャンの心の変化を劇的に物語っている 理論家であるミッシェルーーウジェーヌ・シユヴルール︵一七八六i らであり、第六回に出展された︽裸婦習作︾などは印象主義的な傾 ものに、一八八八年十二月のアルル滞在中に友人エミール・シュー 一八八九︶らの光学理論や色彩論に啓発された彼らは、﹁分割描法﹂ スーラ︵一八五九−一八九一︶とポール・シニャック︵一八六三− フネッケルに宛てた書簡がある。その書簡には、翌年パリの万国博 という技法を獲得する。分割描法とは、絵の具をパレットやカンヴ 向の色濃い作品である。また、一八人一年の夏にはポントワーズで 覧会に合わせて開かれる﹁印象主義および総合主義グループ展︵6︶﹂ ァスの上で混ぜずに、細かい均一の大きさの色の点を画面に併置し 一九三五︶に出会い、彼らの作品と理論に触れている。スーラやシ の出展作品がリストアップされていて、そこにこう書き添えられて て、﹁視覚混合﹂、すなわち、鑑賞者の網膜上で混色を引き起こさせ ピサロ、ポール・セザンヌ︵一八三九一一九〇六︶と制作を土ハにし いる。 かけとなり、 これがきっ を発表した。 で分割描法の大作︽グランド・ジャット島の日曜日の午後︾[図2] ニャックは翌一八八六年の第八回印象派展に参加し、スーラはそこ 品[図1]を残している。そのピサロの後押しを受け、スーラとシ 違うピサロもまた、彼らの理論を採り入れ、自ら分割描法による作 る技法である。そして、スーラやシニャックとは親子ほども年齢の ことは、例えば、一 く憤りを感じていた ギヤンがその後も長 ックらに対し、ゴー あるスーラやシニャ や彼の新たな同志で かつての師ピサロ れたのである。 う新しい名が与えら 嚢 これまでの 八九二年にタヒチか 1888年 ダラス美術館 図1 ピサロ《エラニーのりんご採り》 灘, 羅糧嚢 次のような手紙に読 凄 ス・フェネ フェリック は批評家の ってしまったのです。彼は、クールベやミレーから、小さな点 ったのだ。そして、彼の作品は、すべて統一を欠いたものにな に通じようとしたために、個性というものを完全に失ってしま 彼[ピサロ]は、いつも先頭に立つことを望み、あらゆるもの 」鰻 オンによっ を積み重ねるケチな化学主義者にいたるまで、その傾向を絶え 1886年アート・インスティテユート・オヴ・シカゴ て﹁新印象 図2スーラ 《グランド・ジャット島の日曜日の午後》 ず追い廻していたのです︹8v。 .、 主義﹂とい ニャックに することか ら妻メットに宛てた 灘 難離 み取れる。 は一線を画 子ど㍉’﹂・ ら、彼やシ 印象主義と 嚢 28 29ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン か。まず、その年の六月に、ゴーギャンは初めてブルターニュ地方 印象派展が開かれて以後、どのような道のりをたどったのであろう では、↓方のゴーギャンは、一八八六年に第八回すなわち最後の ツ ンの︽説教の後の幻影︵ヤコブと天使との闘い︶︾[図3]であった 島の日曜日の午後︾であったとすれば、総合主義の象徴はゴーギャ 新印象主義の象徴となった作品がスーラの︽グランド・ジャット 展﹂でもって世に知られるところとなった。 八八九年、先に触れたパリの﹁印象主義ならびに総合主義グループ の小村ボン”タヴエンを訪れ、同年八月にそこで画家のエミール・ 1888年エディンバラナショナル・ギャラリー・オヴ・スコ ベルナール︵一八六八一一九四一︶と出会っている。その年二人の 間で芸術に関するやりとりがあったことは確認されていないが、ゴ ーギャンが一八人八年二月にポンーータヴエンを再訪し、アルルへ向 かう十月までそこに滞在した際には、二人は制作を共にしている。 その中で。コ一顧ャンは、ベルナールが友人のルイ・アンタタン︵一 八六↓1一九三二︶とともに一八八七年から試みはじめた﹁クロワ ゾニスム﹂という手法を自分のものにしていった。このクロワゾニ スムとは、語源の..。互。・oロ..が﹁仕切り﹂を意味し、美術用語とし てはステンド・グラスや七宝工芸で各色の部分を仕切る境界線を指 すことから、太い輪郭線と平坦な色面による描法のことをいう。対 象の形態を色彩の分割によって解体していく印象主義や新印象主義 トランド とは対照的に、その形態を取り戻すべく、彼らはこの描法を用いた。 また、表現の内容についても、やはり印象主義や新印象主義とは対 照的に、外的世界よりも内的世界を重んじる傾向を示した。ポンーー タヴエンで始まったこうした動きは﹁総合主義﹂と呼ばれ︵9︶、一 図3 ゴーギャン 《説教の後の幻影(ヤコブと天使との闘い)》 30 から多大な影響を受けたと言われる。これはゴーギャンと再会する いて、ベルナールの︽緑の牧場のブルターニュの女た ち ︾ [図4] ィーフの点にお は、描法とモテ ゴーギャンの絵 る。まず、この ているからであ 徴が明確に表れ な総合主義の特 象主義と対照的 内容には、新印 の描法と表現の ぜなら、この絵 と言えよう。な は足早に衰退していったと言われる。しかしながら、新印象主義の り長続きせず、一つにはクロワゾニスムの登場によって新印象主義 位置していたと言えるだろう。だが、この両極が相並ぶ時代はあま ば一方が内的世界への洞察を深めるといったように、時代の両極に が太い輪郭線と平坦な色面で描き、一方が外的世界の再現を目指せ このように、新印象主義と総合主義とは、一方が点で描けば一方 なものであったかを物語っているだろう。 ている︵12︶。このエピソードは、ゴーギャンの絵が当時いかに特異 ところ、信者が理解できないという理由から拒絶されたと伝えられ がポンーータヴエン近くのニゾンという村の教会に寄贈しようとした 独自の絵画世界が展開されている。この絵については、ゴーギャン じ画面に描かれていて、外的世界と内的世界が交錯する。コーギャン えた女性たちの姿と彼女らの想像の中で闘うヤコブと天使の姿が同 の採用だけにとどまっていない。そこには、教会での説教を聞き終 しかし、︽説教の後の幻影︾は、クロワゾニスムという新しい描法 もわかる︵11︶。 描法は後世の画家たちに大きな影響を与えている。例えば、ロベー 前にベルナールがサント・ブリアックで制作したという作品で︵−o︶、 ︽説教の後の幻影︾にも同じくクロワゾニスムで描かれている。さ ル・ドローネー︵一八二五−一九四一︶の﹁オルフイスム﹂の成立 ここに描かれている民族衣装に身を包んだブルターニュの女性が、 らに、ゴーギャンがベルナールのこの絵に大きな衝撃を受けたこと ビスムの画家の多くが点描法に手を染めている。さらに、点描法あ は新印象主義の色彩理論が基礎になっていると言われ、また、キュ ニ家蔵 は、自分の作品と交換してもらった上に、ベルナールに対し、この 1888年サン・ジェルマン・アン・レイエ ド 絵を描くのに用いた絵の具を貸してほしいと依頼していることから 図4 ベルナール《緑の牧場のブルターニュの女たち》 31ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン るいは分割描法をキュビスム以上に多用しているのは、イタリアの ﹁未来派﹂の画家たちである。たしかにイタリアでは、新印象主義 とは全く別の流れから、ガエタノ・プレヴィアーティ︵一八五ニー キリコの弟で画家であり音楽家でもあるアルベルト・サヴイーニオ ェ九一−一.九五二︶の言葉である。彼は、ゴーギャンから始ま った﹁新しい絵画﹂の流れを汲む者として、兄デ・キリコを位置づ ら﹁分割主義﹂と呼ばれる人々が点描法による制作を行っていて︵13︶、 か。それを考えるために、次節ではまず、ゴーギャンと同様に、印 継がれていく﹁新しい絵画﹂とはどのようなものだったのであろう けているのである︵16︶。では、ゴーギャンからデ・キリコへと受け 未来派へとつながる独自の基盤が築かれていた。しかしながら、未 象主義をめぐるデ・キリコの言説を追ってゆきたい。 タヴアンでゴーギャンの教えを受けた画家であり、彼の他には、モーリ 者となった﹁ナビ派﹂である。セリュジエは一八八八年夏にボンほ えられるのが、ポール・セリュジエ︵一八六四−一九二七︶が指導 どのような画家たちに影響を与えたのだろうか。まずその代表に数 シニャックに惹かれたという︵14︶。では、一方の総ム甲王義は後世の タがそれぞれの文章に番号と短い解説を付して出版している。その 三枚の紙片に綴ったものであり、一九九四年にジョヴァンニ・リス パリ滞在中のデ・キリコがその時々の自らの芸術観をフランス語で 割描法・点描法に対して批判的な態度を示している。この手稿は、 の間に書かれた手稿の中で、印象主義、とりわけその描法である分 冒頭でも述べたように、デ・キリコは一九一一年から一九=二年 デ・キリコから見た印象主義 ス・ドニ︵一八七〇1一九四三︶やピエール・ボナール︵一八六七− 中でデ・キリコが印象主義にくわしく言及しているのは、六番と七 番の手稿である。 スに端を発する近現代の絵画について考察しはじめたという︵17v。 であり、リスタによれば、デ・キリコはこの手稿から、十九世紀フラン ドニは点描法と総合主義のクロワゾニスムとを結合させようと試み ェ八一1 九七三︶やパウル・クレー︵一八七九−一九四〇︶に まず、六番は﹁印象主義はどうあるべきか﹂という一回忌始まるもの 一九四七︶などがナビ派の主なメンバーとなっている。とりわけ、 は、一九〇六年よりフランスで学んでいた折に、とりわけスーラと 絵画宣言に名を連ねるジーノ・セヴェリー二︵一八八三⊥九六六︶ 来派は新印象主義とも全く無関係とは言えず、一九一〇年の未来派 一九二〇︶やジョヴアンニ・セガンティー二︵一八五八⊥八九九︶ (一 ている。こうした点描法とクロワゾニスムの結合はパブロ・ピカソ よっても試みられている︵15︶。そして、ここで注目したいのは、デ・ (一 32 け忠実に再現することである。1多くの画家たちが印象主義者 れにある﹁印象﹂を与える。重要なのは、この印象をできるだ 印象主義はどうあるべきか。建物、庭園、彫像、人物がわれわ こそが自分たちの拠りどころなのだという新印象主義者たちの意識 ちはこれを好まなかったという。こうした態度からは、科学や理論 ことを意味して視覚混合という概念は含まないために、当の本人た これもとりわけ新印象主義の技法を指すものの、単に﹁点で描く﹂ 短い筆触で絵の具を塗る印象主義や新印象主義の技法のことである。 とこれまで呼ばれてきたが、結局彼らはそうではなかったのだ。 が読み取れるだろう。しかしデ・キリコは、こうした﹁技術的な方 させたとしても、そうすることには何の﹁目的﹂もないと断言する。 法﹂でもって、一般に﹁真実﹂と呼ばれるものを鑑賞者に﹁錯覚﹂ 私に言わせれば、技術的な方法︵分割描法、点描法など︶によ ってわれわれが﹁真実﹂と呼ぶものを錯覚させようとすること には何の目的もない︵18︶。 を批判している。一八九五年五月十三日付けの﹁エコ・ド・パリ﹂ 真実の錯覚を目的とする芸術については、ゴーギャンも同様にそれ ここからわかるのは、﹁印象主義﹂の方法を字義どおり外界から与 紙に掲載されたインタヴュー記事の中で、ゴーギャンはこう述べて 真の意味で印象主義者ではなかった、つまり彼らは印象など再現し デ・キリコによれば、それまで印象主義者と呼ばれてきた者たちは ときの写真ですよ。遠からずそうなりますね。あなたは、気の こか、知ってますか?色をあらわすことができるようになった 自然が何です!真実が何です![⋮⋮]真実のゆきつく先がど いる。 えられた﹁印象﹂の忠実な再現と捉えるならば、デ・キリコはそれ を否定しているのではないということである。彼が否定しているの ていないのだという。そこで名指しして批判されるのが、﹁分割描 きいた小さな⋮磯械がするのと同じ錯覚を与えるために、大の男 は、これまで﹁印象主義者﹂と呼ばれてきた者たちのことである。 法﹂と﹁点描法﹂である。分割描法とは、先にも述べたように、新 が何ヵ月も汗をかくのをお望みってわけですか!︵19︶ このようにゴ;ギャンは、自然や真実を追究する絵画を批判して 印象主義の技法であり、光学理論や色彩論に基づいて、絵の具を混 ぜるのではなく色の点を併置し、鑑賞者の網膜上で視覚混合を引き 起こさせるものである。また、一方の点描法も、点あるいは小さな 33ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン いて、その理由として、﹁写真﹂の存在に言及している。つまり、自 新しい喜びを与えてくれるのは再現された光ではなく、再現された キリコの場合は、なぜ分割描法や点描法を批判するのであろうか。 同様の錯覚を鑑賞者に与えるだけだと彼は言うのである。では、デ・ 日付けの書簡の中で、ゴーギャンは﹁感覚︵のΩ導燈9日︶という一言葉 て用いられている。シューフネッケルに宛てた一八八五年一月十四 覚﹂︵の魯。・巴。昌︶という語は、ゴーギャンによっても重要な言葉とし ﹁奇妙な感覚﹂であると述べている。ここで﹁光﹂と対比される﹁感 そして、彼が目指すものは何なのであろうか。デ・キリコは先ほど の中にすべてがある︹21︶﹂と書いている。デ・キリコにとってもこ 然や真実といったものを追究すれば、それは行きつくところ写真と の六番の手稿をこう続けている。 感覚は、感受性の強い知的な人に﹁新しい喜び﹂を絶えず与え いだろう。人間が感じることのできる忠実に再現された奇妙な 以前には﹁知らなかった﹂ものを私に感じさせることはできな うな絵画は、いかなるときも、何か新しいもの、つまり、何か 私はそれを自然の中にも見るから、光の再現がねらいであるよ 光、それは私にも見える。どんなにうまく再現されようとも、 て彼らのことをむしろ﹁感覚主義者﹂と呼びたいと述べる。そして、 出しに続いて、デ・キリコはまずフランスの印象主義者たちについ ことに専念しているという︵麗︶。﹁印象主義と感覚主義﹂という小見 コは印象主義の絵画に比して自らの探究の特殊性を明確に定義する ン・ドートンヌを訪れた後に書かれたものであり、ここでデ・キリ その七番の手稿は、リスタによると、おそらく一九一一年のサロ という言葉とともに繰り返し使われている。 の言葉は重要だったと見え、次の七番の手稿でも、同じく﹁奇妙な﹂ ることができるのだが︵20︶。 るものであり、そのような光が再現されている絵を見てもデ・キリ うと試みる。しかし、光はひとたび自然に目を向ければそこに見え な方法によって鑑賞者に一種の錯覚を引き起こさせ、光を再現しよ 分割描法や点描法を採用する画家たちは、視覚混合という技術的 描法や点描法で描く﹁印象主義者﹂と、七番で賞賛されているよう 等しい﹁セザンヌ﹂であるため、六番で批判されているような分割 印象主義者の代表として名を挙げているのは新印象主義とは無縁に しているように見受けられる。しかし、七番の手稿でデ・キリコが 手稿と比べると、印象主義に対するデ・キリコの態度が極端に軟化 ﹁彼らはすばらしい道をたどっている﹂と言い添えていて、六番の コは何も新しいものを感じないというのである。そして、鑑賞者に 34 いと認めるものの、﹁私を私たらしめるものとは絶対的に正反対で われる。またデ・キリコは、印象主義者たちがたどる道はすばらし なセザンヌをはじめとする﹁印象主義者﹂は別者であるようにも思 感覚﹂を与えられるのだと述べている。 物らしい﹂静物画よりも、セザンヌの静物画の方が鑑賞者に﹁ある けて、セザンヌを引き合いに出し、他の画家が描いたはるかに﹁本 模倣することと説明する。そして、デ・キリコは先の引用箇所に続 なぜなら、絵はいつもある深い感覚の反映でなければならず、 そして、自らの芸術において重要であるものをこう説明している。 は、問題は異なる﹂と述べ、自分と印象主義との違いを再度強調する。 ところが、次の段落でデ・キリコは、﹁私の感じ方、仕事のやり方で ある﹂と断言する。そして、その理由をこう述べている。 深いというのは奇妙であることを意味し、奇妙であるとはあり おもな役割を担うのは、いつも啓示である。われわれが何も見 ふれていないこと、あるいはまったく未知であることを意味す ることをいかなるときも忘れてはならないと気づいたからであ ﹁何か﹂を見ることによって絵が現れることもある。しかし、 この場合、その絵は啓示を引き起こした﹁そのもの﹂の忠実な なくとも、何も考えなくとも、絵はわれわれの前に現れるし、 に、再現したものが自然の中で見たのでは与えられないような 複製ではないだろうが、夢の中で見るある人の顔と﹁現実の﹂ る。では、印象主義者たちの方法とは何か。彼らが何か、例え 感覚を与えるようなやり方で、自分たちが見たものをある特殊 その人のように、ぼんやりと似通っている。そして、そうした ば、風景や人物、静物を見る。そして、自分たちの絵を見る人 な技法によって模倣しようとする︵23︶。 し、すべての﹁感覚﹂は、画中の線の構成によって与えられる ことすべてにおいて、技術には見るべきものは何もないだろう ここでデ・キリコはまず、﹁深い﹂﹁奇妙な﹂﹁ありふれていない﹂ であろうし、その絵がいつも、そこにはいまだかつて偶然とい ある︹塞︶。 ったものがなかった、何か﹁不変な﹂ものの印象を与えるので ﹁未知の﹂といった形容詞を同じ意味の言葉として連ね、絵はこう した言葉でもって形容される感覚の反映でなければならないと述べ る。一方、印象主義者たちの方法については、自然の中にある対象 を、自然の中に見たのでは与えられないような感覚を与えるように 35 ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン ここでデ・キリコは、自らの芸術において重要なものが﹁啓示﹂ ¥σ巨9ごであると述べている。デ・キリコの場合、作品のヴィ リコはブイレンツェのサンタ・クローチェ広場[図6]にいた。こ について語っている。それによると、ある澄んだ秋の午後、デ・キ の午後の謎︾[図5]という絵の﹁啓示﹂をどのようにして得たか こでデ・キリコは、最初のメタフィジカ絵画とも言われる︽ある秋 る。それは﹁ある画家の瞑想﹂と題された十四番の手稿であり、こ 実際にある作品を着想した瞬間を例に挙げて説明している手稿があ さて、この手稿の﹁啓示﹂という言葉については、デ・キリコが 思われる。 主義と自分との相違に対するデ・キリコの意識が表れているように 線の構成によって﹂という行にもまた、形態を解体していった印象 行為の間に啓示が介在することを繰り返している。さらに、﹁画中の が、その際もデ・キリコの場合には、見るという行為と描くという 様に外界にある対象を見るという行為から制作が始まることもある ぼんやりとしか似通っていないと述べる。つまり、印象主義者と同 描かれた絵は啓示を引き起こした何かの﹁複製﹂ではなく、両者は そして、何かを見ることから啓示を受けることもあるが、その場合、 も現れてくると述べ、自分と印象主義との違いを浮き彫りにする。 ジョンは外界にある何かを見なくても、あるいは何かを考えなくて (「 図6サンタ・クローチェ広場(ダンテ像の 図5デ・キリコ 《ある秋の午後の謎》 移設前)フィレンツェ 1910(1909)年ブエノスアイレス個人蔵 の広場を見たのはもち ろん初めてではなかっ たが、病み上がりの デ・キリコには建物の 大理石や噴水にいたる までみな病み上がりの ように見えた。そして秋 の日差しが照りつける サンタ・クローチェ教会 やダンテの彫像を眺め ていると、見慣れたは めて見ているのだとい ずのその風景を﹁今初 う奇妙な感覚﹂に襲われ、 ︽ある秋の午後の謎︾を 着想したというのであ る︵25︶。 このサンタ・クロー チェ広場での啓示は、 メタフイジカの原体験 36 として位置づけられるであろう。なぜなら、冒頭で触れたように、 づけられよう。では、これまで追ってきたデ・キリコとゴーギャン 法を旗印とした新印象主義への批判から生まれたものであると位置 ャンたちの総合主義と同様に、一つには印象主義、とりわけ分割描 的な観点に立てば、デ・キリコの観葉フィジカ芸術もまた、ゴーギ デ・キリコは戸長フィジカ芸術と名付けた。したがって、美術史学 糸が切れた世界であり、そのような世界が表現される自らの芸術を ンは、外界の事物とわれわれとを一つまた一つと貫いている論理の させる﹁啓示﹂であると考える。そして、啓示がもたらすヴィジョ 象は必ずしも外界になくともよいとし、重要なのは画家に絵を着想 ざすべき目的を人間の内なる感覚の再現とした。その結果、絵の対 描法や点描法の批判から始まったデ・キリコの芸術論は、芸術のめ このようにして、印象主義、とりわけ、外界の光を再現する分割 切れてしまったためだと考えられるからである。 くデ・キリコと広場にあるさまざまな物をつないでいた論理の糸が のサンタ・クローチェ広場が初めて見るように見えたのは、まさし る糸が切れた状態であるとデ・キリコは述べていて、見慣れたはず る衣が黒色であるので、これは葬列であるのかもしれない。この絵 かきたてるような静かで重い雰囲気が漂っていて、人物の纏ってい この行列が何のためのものかもわからない。ただ、画面には不安を 頭の上からすっぽりと衣をかぶっているため、その表情はわからず、 ぼしき人物が二人ずつ組になって登っている。人物はみな後ろ姿で 面右上方の四角い建物へと続く山道を、黒い長衣を纏った女性とお 初の作品である︵26︶。絵をくわしく見ていくと、画面左下方から画 であり、これこそがゴーギャンの影響を指摘されるデ・キリコの最 は、一九〇八年という制作年が書き込まれた︽山上の行列︾[図7] の時期に描かれたものの中で一つだけ趣の異なる作品がある。それ それらは比較的細かくて荒々しい筆触で描かれている。ところがそ する半神半獣や巨人などを戸外の風景の中に表現している。そして、 デ・キリコのもっとも初期の作品は、多くがギリシャ神話に登場 ンの作品とを比較すると、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。 ていない。しかしながら、それ以前のデ・キリコの作品とゴーギャ 二〇年の﹁ポール・ゴーギャン﹂以前のものは今のところ確認され デ・キリコがゴーギャンに言及した資料として、先に触れた一九 意味の解体 双方の芸術観はどのように絵画化されているのだろうか。次節では、 で特に注目したいのは、山道と人物の描き方である。まず山の表面 メタフィジカとは、事物とわれわれとをつないでその論理を説明す 実際に二人の絵画作品を比較しながら、さらに考察を進めたい。 37ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン を用いている。一九一八年ごろの人物画になると、輪郭線は北且凧に まだ若干見られるものの、人物に関しては完全に消えてしまう。そ れまでの作品の中でとりわけ裸婦を描いた一九=二年の︽習作︾[図 デ・キリコの作品には、ゴーギャンの作品に特徴的な南国の果物も と山道との間にはくっきりと境界線が引かれ、それを境にして暗い 塗られているだけであり、なおいっそう彼らの影響を感じさせる。 たびたび描かれている。例えば、一九=二年の︽変形された夢︾、︽詩 8]などは、輪郭線と平坦な色面による描法がタヒチ滞在期のゴー デ・キリコの作品において、輪郭線の内側を平坦に塗りつぶす描 房が重なったバナナは、ゴーギャンが一八九一年の︽食事︾や︽イ 人の不安︾や一九一四年の︽モンパルナス駅︾[図10]に登場する コは一九一一年ごろから人物画を描く際に、くっきりとした輪郭線 き方は、その後一九一〇年代末ごろまで見られる。まず、デ・キリ 色と明るい色とに塗り分けられていて、ゴーギャンやベルナールの 騨轡、 1913年 個人蔵 《習作》 図8デ・キリコ ギャンの作品[図9]と似通っていると指摘されている︹27︶。また、 1908(1909)年 ブレーシャ市立近代美術館 クロワゾニスムを思わせる。また、人物も黒色の塊のように平坦に 図7デ・キリコ 《山上の行列》 38 1892年 ブエノスアイレス国立博物館 ルとなっているモティーフ、つまり駅やマリアを中心とした群像と ンの絵では前景の左端に置かれたバナナであるが、どちらもタイト にもう一度注目したい。デ・キリコの絵では前景の右端、ゴーギャ ンパルナス駅︾と︽イア・オラナ・マリア︾に描かれているバナナ ヤンのモティーフの組み合わせ方である。例えば、先ほど触れた︽モ 通点に加えて、ここで新たに注目したいのは、デ・キリコとゴーギ さて、これまで指摘されてきた描法とモティーフという二つの共 ア・オラナ・マリア︾[図H]に描いたバナナと形が似ている︵器︶。 図9ゴーギャン《ヴァヒネ・ノ・テ・ミティ》 は一見何の脈絡もなく画面に挿入されている。さらにデ・キリコと 鞭 難 図11ゴーギャン《イア・オラナ・マリア》 図10デ・キリコ 《モンパルナス駅》 1891年ニューヨーク メトロポリタン 19准3−14年 ニューヨーク近代美術館 39ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン 灘 、驚墨、 樽綜雄蹴 「’ ゴーギャンの共通点を明確に示しているのは、一九一四年に描かれ たデ・キリコの︽春︾[図12]と一八八六年ごろ描かれたとされる ゴーギャンの︽馬の頭部のある静物︾[図13]であろう。この二つ の作品を比較すると、まずモティーフの点で、デ・キリコの柱のよ うなものに縦に貼り付けられた人形は、洋の東西は異なるものの、 ゴーギャンの画面の左を同じく縦方向に占める人形と類似している。 また、ゴーギャンの作品では、人形、団扇、本、馬の頭といったオ ブジェが脈絡なく組み合わせられていて、︽馬の頭部のある静物︾と は呼ばれるものの、何がこの絵の中心なのか画面からはわからない。 この絵の独自性については、美術史家クラウス・バーガーが著書﹃ジ こ季 1886年頃東京 ブリヂストン美術館 図12デ・キリコ 《春》 念 轟 1914年個人蔵 図13ゴーギャン 《馬の頭部のある静物》 ャポニスム﹄の中で、的確にこう指摘している。 その絵は、寄せ集められるというやり方で、つまり、対象をバ ラバラにし、それらを幻想的に方向性もなく並置することで、 現実を超越するためのまったく彼だけの方法を呈示している。 この絵は空間的に限定され密集し、色がおとぎ話のように単純 化されている、交換可能な世界であり、この世界を通してわれ われは、﹁傷んだ馬の頭、団扇、人形といったまったくありふれ た多くのがらくたをかいま見るのである。説明的なものは何も ない。たやすく絵画に読み込まれうるものは何もない︵四︶。 難1 40 てた書簡の中で、ゴーギャンはこう述べている。 でも語られている。一九〇一年八月にダニエル・ド・モンフレに宛 た説明的なものを拒否する姿勢については、ゴーギャン自身の言葉 の絵画には﹁説明的なものは何もない﹂と指摘されている。そうし 先に引用したバーガーの文章をもう一度読み返すと、ゴーギャン 解にしている。 ころか、その脈絡のないモティーフと並んで、ますます作品を不可 もが、モティーフとモティーフとの関係性をわれわれに説明するど 船とやはり全く互いの脈絡がつかめない。︽春︾というタイトルまで に描かれているのは、人形、貝殻、不可解な記号の並んだ巻物、帆 リコの︽春︾の解説文のようである。︽春︾をもう一度見ると、そこ この︽馬の頭部のある静物︾を解説する文章は、そのままデ・キ 組み合わせることで、鑑賞者によってそこに物語や意味が読み取ら や、人形と巻物と貝と帆船といったように脈絡のないモティーフを いる。ところが、︽モンパルナス駅︾や︽春︾になると、駅とバナナ はないものの、何か悲劇でも演じられているような雰囲気が漂って ような建物の前に古代風の長衣の人物が立っていて、説明的なもの に消えていったのである。︽ある秋の午後の謎︾などはまだ、神殿の を境に、デ・キリコの絵からは、説明的なもの、物語的なものが徐々 いる部分があった。ところが、︽ある秋の午後の謎︾が描かれたころ 神話などの底本を﹁フォルムによって説明したり翻訳したり﹂して 期のデ・キリコには、多少奇異なやり方ではあるものの、ギリシャ の態度もまた、そのまま、デ・キリコの態度であると言えよう。初 ここで述べられているような説明的なものを拒否するゴーギャン に、絵画では描写するより暗示することに努めるべきで、他で によって説明したり翻訳したりすることではないのだ。要する 家の文学的詩情というものは特殊なもので、著作物をフォルム 私は絶えず言ってきた︵言うのでなければ︶考えてもきた。画 のゴーギャンの﹁新しい絵画﹂の試みを受け継ぎつつ、意味の解体 ゆく世界をいち早く絵画に持ち込んだのだと思われる。そして、そ に達しつつあった時代に、ゴーギャンはそうした意味が解体されて 派展と新印象主義の誕生を迎えてヨーロッパの美術界が新たな局面 ゴーギャンの︽馬の頭部のある静物︾を再び見ると、最後の印象 れることをデ・キリコが意図的に阻んでいるように思えるのである。 これをやっている例は音楽だ。時として、私の絵は難解だとい をさらに押し進めていったのが、デ・キリコのメタフィジカ絵画だ と位置づけられるであろう。 って非難される。なぜなら、人々は私の絵に説明的な面をさが すが、そんなものはないのだ︵30︶。 41ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン 画家が体験したいまだかってない感覚を再現し、それが鑑賞者によ 実に再現された奇妙な感覚﹂をおぼえさせることである。つまり、 れは﹁何か新しいもの﹂、﹁何か以前には﹃知らなかった﹄もの﹂、﹁忠 したのであろうか。先に引用した六番の手稿の言葉を借りれば、そ たのだろうか。デ・キリコは絵の前の鑑賞者がどうなることを意図 では、そのように意味を解体するデ・キリコの意図とは何であっ ティーフの表面で絶えず変化しつづける光を捉えるその描法である から隔てるものとは異なるのである。印象主義の場合、それは、モ を本物らしい絵から隔てるものと、デ・キリコの絵を本物らしい絵 かという点になるであろう。しかし、厳密に言えば、印象主義の絵 を描く画家の側とを分けるのは、個々人の﹁感覚﹂を重視するか否 考えられる。ここで印象主義およびデ・キリコの側と本物らしい絵 的な写実主義と同じモティーフを描くこともできるのである。そし と言えよう。したがって、印象主義は、描法は異なるものの、伝統 ただし、この﹁感覚﹂という言葉はデ・キリコが最初批判した印 て、印象主義における﹁感覚﹂というのは、そのモティーフの表面 って追体験されることだと言えよう。 象主義を説明する際にも使われる用語であり︵31︶、前節で触れたよ 一方、デ・キリコの絵と本物らしい絵とを隔てるのは、モティーフ から発せられるものによって引き起こされる感覚と言えるだろう。 たいと七番の手稿で述べているのである。では、印象主義の﹁感覚﹂ の組み合わせだと考えられる。本物らしい絵には、互いのつながり うに、デ・キリコ自身が印象主義者のことを﹁感覚主義者﹂と呼び とデ・キリコの﹁感覚﹂との相違は何であろうか。それについては、 が説明できないモティーフというのは存在しない。そこで展開され 彼に体験させるのが、デ・キリコが言う﹁啓示﹂だと考えられる。 七番の手稿が考える鍵を与えてくれるだろう。それによると、デ・ 家、そしてデ・キリコ自身である。本物らしい絵を描く画家、つま そして、印象主義の﹁感覚﹂がモティーフの表面から秘せられるも ているのは、意味の世界とも言えるだろう。デ・キリコはそのモテ り伝統的な写実主義の画家と比べるならば、デ・キリコ自身は印象 のによって鑑賞者に与えられるならば、デ・キリコの﹁感覚﹂とい キリコは印象主義をめぐって三つのタイプの画家を想定している。 主義により近いと考えていることがわかる。七番の手稿では六番と うのは、意味が解体されたヴィジョンによって、言うなれば、モテ ィーフを組み替えることで、意味を解体させる。この意味の解体を 比べると、印象主義に対して態度が軟化しているように思われたの ィーフとモティーフとの間にあるはずの意味連関がないことによつ つまり、﹁本物らしい﹂絵を描く画家とセザンヌを含む印象主義の画 は、このように批判の対象を印象主義以外のものに定めたためだと 42 て与えられる感覚と言えるだろう。 影響を与えている可能性も否めない。しかし、ゴーギャンがデ・キ リコに直接.の影響を与えなかったとしても、形而下の世界を追究す これまで見てきたように、デ・キリコは、ゴーギャンにおいて萌 受け継がれていった﹁新しい絵画﹂の流れを象徴する用語であった 術観を形容する共通の用語であり、。コーギャンからデ・キリコへと る印象主義の批判から始まった彼らにとって、この言葉は自らの芸 芽がみとめられる意味の解体を押し進め、クロワゾニスムの流れを と言えるかもしれない。 おわりに 汲む輪郭線と平坦な色面を用いて、メタフィジカという言葉で形容 される論理の糸が切れた彼だけのヴィジョンを絵画化していった。 このデ・キリコが用いる﹁メタフィジカ﹂という言葉についても、 ランス語では。。ヨσ喜身のβ器、、といったように、形容詞の形で用 ︵1︶デ・キリコはこの語を、イタリア語では.ゴ。巨ぼoo面、、、フ デ・キリコが論考﹁ポール・ゴーギャン﹂で引用した﹁彼らの芸術 いるのがほとんどである。 ︵2︶Q。喧。傷①O法定ρ。。邑、巴①暮臨。・冨§ミミ§登“馨。︻−戸 署①くぎヨ9巷説守ヨお讐。二一〇も﹂ひ層 ︵3︶井関正昭、﹃イタリアの近代美術 一八八○∼一九八○﹄、小 沢書店、一九八九年、ハニー八三頁を参照のこと。 ていたころのような早い段階であれば、デ・キリコがメタフィジカ いつであったかはさだかでないが、それがパリ滞在中に手稿を綴っ 述べているのである。デ・キリコがゴーギャンの手稿を知ったのが ゴーギャンの臼筆文章からの引用箇所は、ゴーギャン、ダニエ された前掲書に再録されている。︶[]は筆者による。なお、 ョ﹄に掲載された﹁ポール・ゴーギャン﹂は一九四五年に刊行 Zロ96南外8=巨§ρ寄§一ゆ轟いも層。。8 ︵﹃イル・コンヴェーニ ︵4︶Q。西。自06匿8巴。・9巴9書辞9ミミ§毫ミ・尉§魯§薄 という言葉を自らの指標としていった過程にゴーギャンが何らかの た後、﹁世には、形而下的なものと形而上的なものとがある︹32︶﹂と まわっただけで、それゆえ科学的な理屈に陥ってしまったと指摘し について、彼らが思考の神秘的な中心ではなく、眼のまわりを探し この㎜文が含まれる段落の二つ前の段落で、同じく印象主義者たち 一文があるゴーギャンの手稿に見られるからである。。コーギャンは、 は全く表面的であり、気取りずくめで、ただ物質的である﹂という ゴーギャンとの関係性を指摘できなくはない。なぜならその語は、 注 43ジョルジョ・デ・キリコとポール・ゴーギャン ル・ゲラン編、岡谷公二訳、﹃オヴイリ 一野蛮人の記録﹄、み ︵9︶この﹁総合﹂という言葉は、ゴーギャンが一八八八年八月十 四日にシューフネッケルに宛てた書簡でこのように使っている。 ﹁最近の私の作品は、いい方向に向かっているようだ。君は私 すず書房、一九八○年、一七九頁の翻訳を参照した。 ︵5︶ゴーギャン、前掲書︵﹃オヴイリ﹄︶、一六三頁を参照のこと。 験、すなわち、↓つの型と つの色彩を、どちらが優勢という の絵に新しい調子を発見するだろう。そして、最近の主張と実 て、これには二つの説がある。一つは印象主義の画家が実際に ことなく総合させる法を発見するだろう。﹂[ゴーギャン、前掲 ︵6︶この展覧会の名前には﹁印象主義﹂という言葉が使われてい 出品していたという説と、もう一つは印象主義の画家は出品し 書︵﹃手紙﹄︶、八六頁。] ︵1!︶Oh田≦貧侮ピ=9月置o。巳昔慧。詳、ミひ罠§①・。きユ=巳・。o戸 愛社、一九九二年、一五八頁を参照のこと。 ︵10︶モーリス・セリュラス、平岡町/丸山尚一訳、﹃印象派﹄、白 ていないにもかかわらず、観客を惹きつけるためにこの名前を 用いたという説である。ジャンーーマリ・キュザンベルシユ、﹁ゴ ーギャンのブルタ;ニュ滞在期﹂、﹃ゴーギャンとル・プルデュ の画家たち﹄展図録、毎日新聞社、一九九二年、一六頁、およ ピ8ユ05む謬もbP. ︵12︶ゴーギャン、前掲書︵﹃手紙﹄︶、九三頁を参照のこと。 び、八重樫春樹、﹁モーリス・ドニとその時代−象徴主義の風 土のさ中で﹂、﹃モーリス・ド裡面﹄図録、国立西洋美術館、一 ︵13︶Oh>﹁巨①も。・巨oO爵ω碧﹄︼︶訴訟。巨ωヨ巳巨幽き。 留巨.馨一色≦$ ︵14︶§象も’&。。’ 国8昼]≦踏き。一〇8も戸這山O. ﹁巳惹主調8巴。審§二巴ユaooq巨Φ員。量Ψ豊旨旨§嵩ミヨ§§。ゆ 九八一年を参照のこと。 ︵7︶ゴーギヤン、東珠樹貫首、﹃ゴーギヤンの手紙﹄、美術公論社、 一九八八年、一〇三頁。 ︵8︶前掲書、一六八頁。[]は筆者による。なお、引用文中の 者のことである。しかしながら、興味深いことに、ゴーギャン ﹃点描の画家たち﹄、国立西洋美術館、一九八五年、一一一=二 以下の論文を参照のこと。八重樫春樹、﹁点描法とその展開﹂、 ︵15︶新印象主義や総合主義から後世の画家への流れについては、 自身も一八八六年ごろ、︽ブルターニュ風景︾や︽馬の頭部のあ 頁。 ﹁小さな点を積み重ねるケチな化学主義者﹂とは、新印象主義 る静物︾といった点描法による作品を制作している。 44 ︵16︶≧三頭oo。言ρ.メコ慧。冠詞。冨.。男邑。喜良く巴自己δ器鳥巴、﹀昇0 9 暮 雪 O 言 ミ O ﹀ は 〇 ﹂ ︿ 建 雪 裏 § り三−︼≦鶴警冨耳O ︵30︶ゴーギヤン、前掲書︵﹃手紙﹄︶、三一四頁。 冒や=○◎−=P ㌔亀ミ§二曹ミき韓紺、ミさ譜面恥”6彗臥OσQoq温く。厨芽写。。。P一$ρ ︵29︶置塞bd①お㊤曾5。・一葦9∪霞目ゆ疑︶”葦鳳§恥ミ漂§ミ POOPやひひ’ 8ロ8遍O§OP §ご認、§嵩禽興50一一戸 一︿0ズ寄目四 団貸8器\﹀器。Ω爵2δO巳冒巴①ωず巴ハ。。。需母。き自Oo据竃Pぎ暴 碧巳。−目お町Qδ¢一℃﹀唱唱.一N−一ω. ︵17︶Ω。曾。曾Ω巨β崇重、ミミ嘗§Qぎ×語菰巨ω・ε誤窪。。・ 勺臼Qo︿墜巨ピ尻寅︻、団90℃でρ幣巴。ゆ一〇〇禽OムP. ︵18︶きミも.ひS ︵19︶ゴーギャン、前掲書︵﹃オヴィリ﹄︶、一四三頁。 ︵23︶奪ミも.ひ。◎. ︵22︶OoO臣臥oo︵[勝唧.竃﹄愈鼠、、ミ転書鳶竃馬︶もムω. ︵21︶ゴーギャン、前掲書︵﹃オヴィリ﹄︶、=二頁。 ﹃モネー光の賛歌﹄展図録、奈良県立美術館/広島県立美術館、 および、六人部昭典、﹁クロード・モネ、光の画家/水の画家﹂、 モネからセザンヌへ﹄、美術出版社、二〇〇三年、二七/三二頁︶、 男優。。一。。刈。。もで﹄いGδ轟︵三浦篤/中村誠監修、﹃印象派とその時代 ︵31︶目σ90δ︼︶負。短髪動、馬ミ隷動書鳶塗§財聾u門貯﹁畦①℃巴。・一馨ρ ︵24︶♂ミも.$. 二〇〇四年、一二頁などを参照のこと。 ︵20︶Oo6首骨oρ疇.o舞富農、、ミ転§嘗耐器︶も.ひ刈■ ︵25︶♂ミも唱.。。いあ◎ ︵26︶Oh噌きδロ﹂巴魯8蝕爵Qげミ8NO。題丸ミ℃貯ミ恥愚旨§リピ8コ賃畠。 ︵32︶ゴーギャン、前掲書︵﹃オヴィリ﹄︶、一七八頁。 喜。・ユ﹄≦一き巳遷8やひい.ただし、バルダッチによると、この絵 については、ゴーギャン自身よりもむしろ、直接にはゴーギャ ンに想を得たヴェネツィア出身の画家ジーノ・ロッスィ︵一八 八四−一九四七︶の影響を受けているという説もある。 ︵27︶奪ミも弓﹂いO−U一・ ︵28︶Ω鮪民δO﹁・ω§巨も①6匿8・δ珍き。。琶・a① 起℃。昼Q潜