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1 2.9 自分を作る 人間は外からの情報、教育、即ち「学習」と「記憶

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1 2.9 自分を作る 人間は外からの情報、教育、即ち「学習」と「記憶
2.9 自分を作る
人間は外からの情報、教育、即ち「学習」と「記憶」によって大脳の頭頂・側頭連合野に一種のモデルを作りあ
げます。これを自分、自己、自我の「心的モデル」または「内部世界」と考えます。
自分を作るとは新たな「心的モデル」を作り、そのモデルを発達させることです。
教育とは子ども達に、この新たな「心的モデル」を作りださせることです。
そのためには、国語、算数、理科、社会、音楽、体育、道徳と学習をさせます。
それぞれ、子ども達の頭の中に「国語モデル」
「算数モデル」
「理科モデル」を作らせます。
それらのモデルを統合すれば、立派な子どもの「心的モデル」が出来上がると考えます。
そして、
「心的モデル」を発達させるための訓練を行います。
まず幼児は人間としての「自分、自己モデル」を小脳に作り上げるように教育します。
人間としての「躾」
、すなわち、排泄、手洗い、着衣、食事の作法などです。
次に、
「言語モデル」を作ります。言葉を教えます。
そして「日本人」としての常識、あいさつ、礼儀などルール、常識を教えます。
「日本人モデル」を脳内に作ります。
不登校や引きこもりを起こすのはこの時期の教育の不備にあるそうです。
学校に行くようになったら、読み、書き、計算の「モデル」を脳内に作ります。
小学生の教育とは、読み、書き、計算のモデルの機能拡大と性能アップ(速さ、確実性など)にあると考えます。
このためには、読み、書き、計算の反復練習が不可欠です。
反復練習の苦しさに耐え、読み、書き、計算が完全にできるようにするのが教育のはずです。
ところが文科省の学習指導要領は反復練習を軽視しています。
また困難に耐えることは、子どもの成長を阻害すると考えているようです。
子どもに出来ない問題を子どもに挑戦させるのではなく、子どもに出来るレベルに程度を下げようとしています。
文科省は子どもや子どもの親、特にマスメディアにおもねった教育をしようとしているようです。
文科省の戦後教育の基本理念として「真理であってもそれを強制的に押し付けていけない」があるそうです。
生徒の自主性によって真理を獲得するということは現実性のない空論です。
子どもは意志をつかさどる前頭前連合野が未発達です。子どもには真理を強制的に教え込む必要があります。
学校に行き、勉強することが生徒の「義務」です、義務とは強制です。
必要な真理を子どもに身につけさせる「義務」が国にあります。
「真理を獲得する」権利が子どもにあります。
国側が「強制的教育」の排除という名目で国の「義務」を放棄し、子どもの「真理を獲得する」権利を奪って
います。
1
(1) 心的モデルの作り方
コンピューターと比較しながら
前頭前連合野
CPU
大脳への心的モデルのでき方につ
(データ読込み記憶)
感覚野
入力制御装置
いて考えてみます。
制御
計算
視覚などの感覚野から、さまざま
(意志)
(思考)
運動野
なデータが脳に入力され、記憶され
出力制御装置
(思考処理記憶)
ます。この記憶を「データ読込み記
憶」とします。
(命令)
プロ
データ
この各種の「データ読込み記憶」
グラム
を「意志」と「思考」で計算処理
データ
(手順記憶)
します。
頭頂側頭連合野
この計算処理する、順序と方法を
記憶装置
(心的モデル)
記憶しているのが「手順記憶」で
す。
図 2.9-1 心的モデルのでき方
その計算処理結果が「思考処理記憶」になり、また記憶されます。
このように、繰り返し、似た作業を行っていると、記憶装置にある種の“プログラムと記憶”が集積されます。
このサイクルを繰り返すことで「心的モデル」を発達させます。いわゆる、学習をします。
「心的モデル」はコンピューターのプログラム(ソフト)とデータを合わせ持った記憶です。
大人の場合は頭頂側頭連合野に心的モデルが作られます。子どもの場合は心的モデルが小脳に作られます。
この「心的モデル」は大小、さまざまなものが作られます。
この「心的モデル」の一番大きなものが「自分」すなわち「自己」のモデルです。
子どもの時からの、意識的、無意識的教育と学習により「自分」のモデルが形作られます。
大人の場合、
「自分」のモデルはその人の「人格」と呼ばれることもあります。
子どもは親の「人格」を見て、育ちます。
「親の背中」を見て育つということです。
これは「無意識の教育」と学習で、
「体得」となり、小脳に記憶されていく、強固な記憶となります。
この「自分」のモデルが出来てくると自分と他人(友達)の違いを認識出来るようになります。
この自分と他人との区別がうまくつかない子どもが自閉症であると言われています。
プログラム(ソフト)の入っていないコンピューターは単なるガラクタにすぎません。
心的モデルの出来ていない人間は単なる裸の獣にすぎません。
孟子のつぎのことばの通りです。心的モデルは教育と学習によって作られます。
「飽食暖衣、逸居して、教なければ、則、禽獣に近し」
「食べたいだけ食べ、冷暖房のきいた環境に住み、ぶらぶら暮らし、それだけで教育がなければ、
鳥や獣と同じである」
こうしないために、子どもはしっかり教育することが大切です。
・
創造性について
“創造”とは新しいものを作ることです。創造の逆が“模倣”です。
“創造性”とは新しいものを作り出す、能力のことです。創造力と同じことです。
“創造行為”とは新規なものを作り出す行動のことです。
新たな「心的モデル」が形成されることを、その分野の学習をして「創造性」が形作られたと考えます。
学習をして「絵画モデル」が生成された場合、画の創造性が出来たと考えます。
“模倣”をしながら“創造性”を養っていきます。
その人がその「絵画モデル」を使って、画の創造をします。その行動が創造行為です。
サッカーをする場合は学習をして「サッカーモデル」が作られます。
サッカーモデルのでき方によってその人のプレーが規定されます。
パスサッカーを志向するプレーモデルならばパスサッカーが行われます。
ドリブルサッカーを志向するプレーモデルならば、ドリブルが主体のサッカーになります。
2
(2) 自分とは何か?大人の場合
私達、大人は外からの情報、教育、即ち「学習」と「記憶」
によって大脳の頭頂・側頭連合野に一種のモデルを作りあげ
ます。
これを自分、自己、自我の「心的モデル」と考えます。
自己意識、意識下の自分、顕在下の自分、インナーテニスではセルフ
1 といっています。
意識的の思考
無意識の思考
前頭前連合野にある「司令部/意志」がそのモデルに働きか
けるのが「思考」だと考えます。(図 2-3、参照)
同じ思考を繰り返しているとこの「心的モデル」が小脳にコピー
されます。
(図 1.4-7、参照)
図 2.9-2 脳のモデル化(大人の場合)
前頭前連合野にある「司令部」はその小脳のモデルを相手にすれ
(脳の中身が見えてきた、伊藤正男より)
ばよくなり、頭頂・側頭連合野は労することがなくなります。
ですから最初は意識的思考をするわけですがそれを繰り返す
うちに自動的(無意識)に考えができてくるようになるわけで
す。
小脳モデルと大脳の司令部の間には「意識」の関門がありません。ハイウェイの状態で速い思考が出来ます。
九九や、サッカーのコンセプトなど良く知っていることを考えるという思考になります。
この小脳モデルを無意識下の自分、潜在下の自分と考えます。インナーテニスではセルフ 2 といっています。
このように、自分の中に「意識下の自分」
「無意識下の自分」の 2 人の自分を考えます。
「意識下の自分」は「人間の脳」すなわち「大脳新皮質」です。セルフ 1 です。
「無意識下の自分」は「動物の脳」すなわち「小脳」です。セルフ 2 です。
人間の行動は動物に比べ遅くなっています。
(1.1(6) 運動に関する人間と動物の「脳の機能」の違い、P13 参照)
この原因は人間の行動が小脳主体の「動物の脳」から大脳主体の「人間の脳」に変わったことにあります。
普通の人が行動するのには「人間の脳」の動作スピードで、全く問題はありません。
プロのアスリートのように、運動の限界を極めようとすると、動作スピードの問題が表れてきます。
「人間の脳」の動作スピードでは遅すぎるのです。
そこでプロのアスリートは運動時に「動物の脳」に戻ろうと悪戦苦闘しています。
この方法を論じているのが、4.3.1 項のインナーテニスの議論です。
どちらの脳の働きが優勢になるかは「意識」のレベルによって変わってきます。
意識のレベルが高くなると、すなわち意識的に考える(自意識)と大脳の「心的モデル」
「人間の脳」で考え、
「人
間の脳」で行動しようとします。詳しくは 2.7(1)項、行動と意識の関係を見てください。
3
(3) 自分とは何か?こどもの場合
幼児から小学生低学年ぐらいまでは大脳は発達過程です。
大人のようにうまく、心的モデルを大脳に作れません。
子供の場合、外からの情報は手順記憶として、直接「小脳」に記憶されていきます。
脳の発達は進化の軌跡から考えて、大脳より小脳が先に成長します。
小脳の心的モデルが先にでき、大脳の心的モデルがあとからできてくると考えられます。
子供の場合、心的モデルを小脳がコピーするのでなく、
大脳がコピーすると考えたほうが適切のように思えます。
意識的思考
子どもの場合、意識はレベル 1(目覚め)
、レベル 2(気づき)
レベル4(無心)と進みます。
レベル 3(自意識)がないか、あってもレベルが低いと考えま
す。
行動もそれにつれて、小脳の内部モデルⅡ型で行動(無意識
の行動)することが多くなります。
虫を追って無我夢中で遊び、ザリガニ取りに夢中になった記
憶は大人にもあると思います。
端的にいうと、子どもは大人より、より「動物」に近いと
いえます。
自分、自己
無意識の思考
自分、自己
図 2.9-3 脳のモデル化(こどもの場合)
「眼は口ほどにものを言い」眼の制御はほとんどすべて小脳の働きによっています。
「口八丁、手八丁」という言葉があります。口も手も上手に動かすということです。
手を上手に使うのは小脳の働きによります。
口八丁という場合は声帯とか口腔を自由に操ることです。
声帯を操ることは運動ですから小脳の働きによります。
手の動きも口の動きも滑らかに動かすのは小脳の働きです。
幼児が最初に覚えるのは「話す」ことです。
話すという行為は、子供の場合、手を動かすのと同じ原理で手順記憶となります。
大脳が未発達の幼児期には、小脳に「話す」という機能が出来ていくものと考えられます。
最初は「オウム」のように意味もわからず、話していると思われます。
大脳が尐しずつ成長するにつれ、話していることの意味がわかってきます。
これは「君が代」とか「荒城の月」は憶えていて、歌えますが、子供には「キミガーヨーワ」
「ハルコーローノハナノエン」の意味がわかっているとは思えないからです。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」という、ことわざのように子供は相当長い文章でも、意味がわからずとも暗
記(暗唱)できるのです。
大脳が成長してくるにつれ、大脳に心的モデル(自我)が出来はじめ、小脳の記憶を吸い上げ(結合して)
、
じょじょに意味がわかってくるものと考えています。
文法を組み立て、言葉の含んでいる概念をいろいろ変える、変換することも小脳で行えます。
たとえば「椅子」と問われて「勉強します」と言い、
「りんご」と問われて「食べます」というように与えられた名詞に対応する動詞を答えます。
このような課題を行うときに小脳の外側部が働きます。これは小脳に言語モデルができたのです。
子どもの場合、大脳の司令部は小脳の言語モデルを使って会話をします。
サッカーをする場合は「サッカーのプレーモデル」を小脳に作ります。大脳はこのプレーモデルを操作してサッカーを行います。
子どもの場合、学習は「体得」的に行われます。
(2.4(4)項、子どもの学習は体得、参照)
したがって運動学習は子どもの時から行った方が良いのです。
4
(4) 行動モデル
意志
思考
決定
計画
認知
感覚
行動
図 2.9-4 行動モデル
心的モデルは思考だけでなく、行動まで範囲を拡大して考えることが出来ます。
人間は感覚から行動までの一連の流れを一種の行動モデルとして持っています。
キリスト教徒はキリスト教徒としての規範、行動モデルを持っています。
ユダヤ教徒はユダヤ教徒としての規範、行動モデルを持っています。
日本人は日本人としての規範、行動モデルを持っています。
特に、小脳のモデルで行動する場合は無意識の行動になり、その人の人格になります。
これをもう尐し、小さく考えてサッカーの「プレーモデル」を考えます。
サッカーをする場合にある種の「法則化」
「規範化」を考えるのです。
たとえば、スペインのサッカー、ブラジルのサッカー、日本のサッカーというようにです。
将棋とか碁の名人は対局の後で、対戦中の盤面を完璧に復元することができます。
素人からすると、棋士たちは記憶力の天才に思えます。
いくら名人でも、どの駒をいつ、どう動かしたかという、記憶だけでは、全棋譜を完全に覚えられるものでは
ありません。しかし、名人は対戦中に現出する「パターン」と「定石」を知っているのです。
無意識に「法則性」を掴み取っているのです。
この「法則性」と「記憶」から対戦後に盤面の推移を完全に復元できるのです。
サッカーはカオスですから、碁とか将棋のような「定石」はないかもしれません。
しかしそれに近いものは存在するはずです。それがサッカーの「プレーモデル」であり、
「コンセプト」です。
子どものころから、良いサッカーを見ていれば、良いサッカーの「プレーモデル」が自然に小脳にできます。
大人になってからでは、繰り返し、見て、聴き、プレーして、大脳新皮質にまず、良いプレーモデルを作ります。
それからさらに、そのプレーモデルが小脳に写し取られるまで、練習します。
良いサッカーの「プレーモデル」のプレーモデルとはどんなものでしょうか?
感覚→認知→思考→意志→決定→計画→行動 の流れがスムーズで、感覚の入力に対して、行動の出力が適切に
行われる、一連の「行動モデル」といえます。
「感覚→認知→思考→意志→決定」は状況判断です。この状況判断に基づいて、行動します。
大人の人間は意識的に考えた場合は、この行動モデルを大脳新皮質を使って行っています。
従って比較的ゆっくりした動作になります。
これを速く行うためには「行動モデル」を小脳にコピーし、小脳を使った行動をすれば良いのです。
意志決定を含めてすべての行動を小脳の制御で行うのが「内部モデルⅡ型」です。
この行動は無意識で行われ、意識レベルは「無心」の状態です。行動の起点は情動になります。
思考、意志、決定を大脳で行い、感覚と行動は小脳で行うのが「内部モデルⅠ型」です。
詳しくは 2.7.1(3)項、随意運動を見てください。
5
(5) 日本的思考モデルと西欧的思考モデルの違い
私の敬愛する山本七平さん(ペンネーム イザヤ・ペンダサン)の「日本人とユダヤ人」の一節をお借りして次に記載し
てみます。
『精神を形成するのは教育である。狼とともに育った尐年は狼でしかない。しかし、どの民族でも、教育には
二種類ある。一つは意識的教育であり、もう一つは無意識的教育とでもいうべきものであろう。
子どもが、たとえいかに親に反発・抵抗しようと、その反発・抵抗も、一種の(意図せざる)親の教育を受け
ていることになり、また親が日常生活で無意識のうちに重点を置いていることが子に伝わっていく。
「日本におけるこういった無意識的教育の原理・原則は何なのだ」という問いは発する方に無理があろう。
というのは教育する方が無意識なのだから。
すぐに頭に浮かぶのが「数」と「言葉」の比重の差である。
日本人は、すぐに数の教育をはじめるから、数を扱わせれば(それがさらにソロバンで訓練されると)まさに
世界一である。特に暗算の確かさと迅速さには、デパートで買い物をした外国人なら、だれでも驚嘆していると
いって過言ではない。
これは幼児からの数の徹底的訓練と、ソロバンという五進法計算器の習熟と、万という単位の採用にあるであ
ろう。
またアラビア数字と長らく接触せず、従って筆算ができなかったということが、ソロバンという五進法計算器を
活用する道を開き、同時にこれが徹底的に普及して、玉で(数字という文字なしで)数を自由自在に扱うに至
ったというのは、全く特異な現象である。
私はあるソロバンの名手を知っている。彼は実物のソロバンを手に持たず、頭の中にソロバンを浮かべて、目
をつぶって数字を聞きつつ、想像もつかないような複雑な計算をやってのける。
こういう人のことを西欧人に話しても、意識的思考を排して、計算をするなんてできるわけがないと、絶対に
本当と思ってくれない。
一方、言葉の訓練となると、この比重は非常に軽い。軽いというより「ない」に等しい。
特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟させる伝統は日本には全くない。
ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。
西欧人にとって、言葉とは本来そういったものであり、文章とはある意味では言葉の数式だから、
これは当然のことだと言える。
西欧人は言葉を学ぶには、ちょうど日本人が1+1=2を習うような習い方で習うし、これ以外に方法がない。
しかし日本人はこういった意味の言葉の訓練を受けていない。
従って、ひとたび演説となると、ゲバ学生であれ、保守党の代議士の演説であれ、意味不明の「連呼」
「大声」
になってしまう。
西欧の「ロゴス」には計算という意味があるの日本人は知っているのだろうか。
言葉を持つことは、しゃべることだけではない。一言も口をきかなくても、頭の中で、あらゆる言葉を駆使し
て思考している人は、洋の東西をいくらでもいる。
西欧の言葉を「数式的」
「論理的」とするなならば、日本の言葉は「ソロバン的」
「非論理的/直観的」とでも
いえるだろう』
ここまでが山本七平さんの一節です。
そのため、日本では、数式的(客観的)に論理を伝える必要がある「文章ことば/文字言語」が別に必要にな
りました。
また数式的(客観的)に論理を伝える必要がある軍隊では軍隊語という別の言葉がありました。
ですから、おおざっぱに言うと、西欧人の思考は「論理的」
、日本人の思考は「直観的」とも言えるでしょう。
日本人が論理的思考ができないというのではなく、直観的に判断することが多いということです。
たとえば、家庭では亭主は「めし」
「寝る」の言葉だけ一日を済ますことさえありうるのです。
奥さんは亭主がなにも言わなくても「直観」で何を欲しているか判断できるのです。
そして、この奥さん同志がおしゃべりをすると 3 時間でも 4 時間でも続けられます。
カラオケで歌を歌うのと同じように、情動が元になる、何らかの快感を感じているためと考えられます。
亭主もお酒で大脳新皮質の抑制を麻痺させると途端にぺらぺらと別人のように饒舌になります。
西欧の言葉と日本の言葉の違いを難しく言うと「汎化」
「記号化」のレベルの違いといえるでしょう。
たとえば、I speak the truth to you. を「われ汝に真理を告ぐ」とも「ホントのことをお話しします」とも
訳せます。
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すると truth が「真理」と「ホント」という同一の単語なのだが、これは日本語ではありえません。
共通のルールを見出すことを一般化、すなわち「汎化」
「記号化」と言います。
「真理」と「ホント」に共通の意味を見出し、同一の単語としたのが、西欧の言葉であり、別の言葉のままと
しているのが日本語です。
日本語は汎化が不十分のため、単語の数が豊富でその意味の範囲が非常に狭くなっています。
たとえば、英語の one に対応する日本語は「イチ」「ヒトツ」「ヒトリ」
「イッピキ」「イッコ」と無数に存在
します。
英語では one man,one dog,one ball と one は全てに共通化されています。
日本語ではヒトリの人間、イッピキの犬、イッコのボールと使い分ける必要があります。
しかし、日本語で「ヒトリ」といえば人間を示すことがわかります。
日本語では数でさえ汎化していない部分があるのです。
この効果として、日本語では単語を並べるだけ意志が通じてしまうのです。
日本語の言葉(単語や文法)は小脳に記憶されています。
西欧の言葉や思考は「数式的」
「論理的」
「意識的」
「非感性的」と言えるでしょう。
そしてこの言葉や思考は「大脳新皮質」の「意識」に起因していると考えられます、
日本の言葉や思考は「ソロバン的」
「非論理的」「無意識的」
「感性的」と言えるでしょう。
この言葉や思考は「小脳」に起因していると考えられます。
小脳には「意識」がありませんので「無意識的思考」になります。「潜在的思考」ともいえます。
マッカーサーは「日本人は 12 歳以下の子供だ!」だと言ったそうですが、日本人の「会話」とか
「意識的な思考/表現しうる思考」はそのようにとられてやむを得ない面があります。
ただし、
「古池やかわず飛びこむ水の音」に代表される、日本的な「感性」の世界の理解となったら、
マッカーサーは 7 歳以下の子供だと思われます。
従来、日本では「読み」
「書き」
「ソロバン」といって、無意識的教育をこどもに行ってきました。
これは「読み」
「書き」
「ソロバン」を小脳に叩き込む教育です。
この「無意識的思考」
「感性の思考」の長所は一種の「カン」のように働き、判断が速くできます。
もう一つは「体得的」であり、体に深く刻み込まれた行動をとります。
短所は「意識できていない」のですから、修正・変更が困難なことです。
陰山英男さんも「本当の学力をつける本」のなかで、読み・書き・計算を学力作りの中核にしたと述べられてい
ます。
その理由のひとつに、歴史的にみて、読み・書き・計算を重視している国や民族が成果を上げているというこ
とがあります。
ユダヤ民族はユダヤ経典の音読・暗唱をさせることで、祖国を失いながら二千年もの間、民族のアイデンティティを失い
ませんでした。
ドイツでは、五十程度の民話などを子どもにきちんと教え、また自分でそれをお話しできるようにさせるのが良
い幼児教育とされるそうですし、フランスでは学校教育として古典の詩歌を暗唱させています。
それが、美しいフランス語を大切にする風土になっているそうです。
日本においても、寺子屋教育の中核は読み・書き・そろばんで、素読と言われる音読・暗唱をやっていました。
ここで養われた学力ゆえに、日本の庶民は文字の読み書きができ、明治時代、西洋の科学文明を短期間で修得
することに成功したのです。
そして戦前までは、思想としては四書五経の「素読」などに代表される、儒教に基づく「道徳教育」を行って
きました。こどもの時にこの教育を行えば、小脳に刻み込まれ、一種の「常識」のように働きます。
相互関係でいえば「共通感覚」となるのです。
そしてある年齢以上になって、大脳新皮質が成長し、完成してくると小脳に記憶したことを大脳の前頭前連合
野が意識的に操作して、思考、思想として意味を理解できるようになります。
戦後、日本では「意識的思考を排除する」教育がすたれ、「考える」教育が行われるようになりました。
7
戦後教育では、儒教に基づく「道徳教育」は学校教育において、完全に否定されました。
この無意識教育の「道徳教育」効果が残っている、親に育てられている、こどもは良いのですが、
常識を否定する、戦後の教育のみが正しいと考える、親に育てられた、こどもにはおかしな子が現れています。
私は 70 年代以降の学校の荒廃の大きな原因はここにあると考えています。
古来の日本の思想を「古い」と軽蔑しながら「西欧の思想は理解できない」親に育てられこどもは見習うべき
親が無くなり、立ちすくむだけなのです。
ここでいう「西欧の思想」とは一言でいえば「キリスト教」の思想ということになります。
30 数年、中学の教師をしている先生いわく、
「以前に比べ生徒の道徳的質が間違いなく落ちてきている」
「考える」教育の良いところもあるのではないですかと質問したところ、言下に「無い」と断言されました。
次につくば言語技術教育研究所、三森ゆりか氏の「言語技術」の定義を載せておきます。
その根拠は日本サッカー協会がU6からU16までのすべての年代の指導指針に「論理的思考を育む」項を設けて、
言語技術を大きな「育成目標」としているからです。
言語技術とは
“思考を論理的に組み立て,相手が理解できるように分かりやすく表現すること・・・”
「簡潔に言えば,言語技術教育,コミュニケーション・スキル教育の目的はそこにあります。
これは,豊かで実りある社会生活を営む上で必要不可欠な技術であると同時に,国際社会で日本人が堂々と自
己主張をしていく上で欠くことのできない技術でもあります。
なぜなら欧米諸国では,言語技術教育が国語教育の本質であり,先進国の中でこの技術教育を行っていないのは
日本だけ,と言っても過言ではないのが現状だからです。
言語技術教育は,言葉を覚え始めた幼児期からトレーニングを開始し,子どもの発達に合わせて,系統的,段階的
に「聞く・話す・読む・書く」の「言語の四機能」を鍛錬します。
人前で話す能力や議論の能力,巧みに文章を書く能力や論文を書く能力は持って生まれた才能ではなく,トレーニング
によって誰でも身に つけることができるものなのです」ここまでが三森氏の意見です。
論理的思考を子どもに身につけさせる必要性を私は否定するものではありません。
諸外国と対等に伍していくためにはサッカー界以外でも必要なことと思います。
文科省でも取り組まない(学習指導要領に入れない)論理的言語技術の習得をサッカー協会が取り組むには、荷
が重いのではないでしょうか?
サッカー指導者の大部分が
「言語技術教育」
を受けたことはないので、言語技術の指導が出来るとは思えません。
私は現在の日本は世界 2 位の経済大国、
「豊かな国」で、
「先進国」だと思っています。
三森氏の言葉通りなら「豊かで実りある社会生活を営む上で不可欠の技術である」言語技術がない「日本」
は「豊かな社会」になれなかったはずです。
「言語技術教育」が簡単にできることなら、学校教育にとっくに取り入れられているはずです。
言語の裏には、言語を使って、表現されるべき、思想があります。
言語を技術と捉えて、言語技術教育を行っても、表現すべき、思想がなかったら、その技術は無意味なもの
になります。
言語技術は西欧のように、言語とは、論理的に組み立てられるべきものだという、無意識の教育が両親に、
なされていて、はじめて可能だと考えます。
そして幼児の時から、成長するまで継続して、実施してはじめて可能になると思います。
サッカー指導の一貫として、取り入れても、効果は薄いと思います。
山本七平氏も言っているように、伝統的に日本社会にはこの「言語教育」は存在しないのです。
そして、山本七平氏は日本のような「複雑」で「豊かな」社会が欠陥のある「言語体系」のままで存在しう
るはずがない、欧米諸国と違う見えざる「言語体系」があるはずだと言われています。
見えざる「言語体系」とは何でしょうか?
私は、それは小脳による、無意識の言語体系ではないかと考えています。
小脳にも言語を担当する領域があります。思考を担当する「思考モデル」も小脳に形成されます。
この言語と思考モデルを使って、思考の結論を出すのではないかと思います。
そろばんの計算過程が数式で説明できないように、この小脳の思考過程も無意識なので、論理で説明できま
せん。論理で説明できないので、言葉に変換して、表現することが困難です。
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しかし、小脳の思考を使えば、素晴らしい速さで、正確に結論が出せるはずです。
無口で、自分のことはほとんど語らず、素晴らしい仕事をしている人はいっぱいいます。
どちらかというと、饒舌の人に仕事ができないことのほうが多いように思います。
そして、もうひとつの言語体系は読み、書きの体系です。
昔から日本では読み、書きの教育はありましたが、聞く、話すの教育はありませんでした。
そのため、他人に分からせるのには文章にする必要がありました。
知識は本から得るのが伝統でした。テレビの映像から知識を得る伝統はありません。
これは心しておくべきことだと考えます。
サッカーをテーマにした文章になぜ、日本的思考と西欧的思考の検討などが出てくるか疑問に思われるかと思いま
す。サッカーなどスポーツをする上で、無意識の思考が重要であり、日本人は本来、無意識の思考、直観的思考の
訓練を受けてきた民族であり、それが得意のはずです。
日本のサッカーが世界に伍していくためには、
その得意分野をいかに生かしていくかを考えるべきではないでし
ょうか?
私は村松尚登さんの言われる「サッカーはカオスであり、フラクタルである」という定義を大切にする立場をとっています。
「サッカーはカオス(複雑系)である」ということは「論理的」に説明できないところがあるということです。
論理的に説明できないことは、無意識の思考、無意識の行動の活躍の場だと考えます。
インナーテニスのガルウェイも、言語的思考は肉体的にも、精神的にもプレーヤーの能力発揮を妨げると言っています。
ここでいう、言語的思考は当然、西欧の数式的、論理的思考です。
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