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なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか

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なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか
ESRI Discussion Paper Series No.46
なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか
by
原田 泰・黒田 岳士
June 2003
内閣府経済社会総合研究所
Economic and Social Research Institute
Cabinet Office
Tokyo, Japan
ESRIディスカッション・ペーパー・シリーズは、内閣府経済社会総合研究所の研
究者および外部研究者によって行われた研究成果をとりまとめたものです。学界、研究
機関等の関係する方々から幅広くコメントを頂き、今後の研究に役立てることを意図し
て発表しております。
論文は、すべて研究者個人の責任で執筆されており、内閣府経済社会総合研究所の見
解を示すものではありません。
なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか*
by
原田 泰・黒田 岳士**
2003 年6 月
*
本稿は、2003 年 3 月 9 日~16 日のチリ、アルゼンチン出張の成果を取りまとめたものである。文中「」でく
くった部分は、インタビューに応じていただいた方の発言である。インタビューした方々の了解はとっていな
いので、個々に氏名は記していない。ただし、引用文中の事実については筆者の責任において確認している。
インタビューした方々のリストは文末にある。インタビューおよび本稿を作成するにあたっては JETRO ブエノ
スアイレス事務所の稲葉公彦所長、在アルゼンチン大使館の高木博康参事官、篠崎英樹調査員、在チリ大使館
の田村裕昭書記官をはじめとする両大使館の方々の多大なご協力と貴重なご意見をいただいた。特に、篠崎英
樹氏は詳細なコメントをいただいた。新潟大学の佐野誠教授には査読をしていただき、有益かつ包括的なコメ
ントをいただいた。慶応義塾大学の白井早百合教授、東京大学の福田慎一教授には有益なコメントをいただい
た。2003 年 5 月 13 日の内閣府経済社会総合研究所内のセミナーにおいて、コメンテイターの日下部英紀氏、
香西泰所長、牛嶋俊一郎次長、広瀬哲樹総括政策研究官から有益なコメントをいただいた。慶応義塾大学大学
院の相樂惠美さんには図表の一部を作成していただいた。以上の方々に心から感謝します。ただし、残る誤り
はすべて筆者の責任である。
**
原田 泰(内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官)
黒田岳士(前内閣府経済社会総合研究所総務課課長補佐、現内閣府国民生活局消費者企画課課長補佐・内閣
府経済社会総合研究所特別研究員)
なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか(要約)
1.趣旨および目的
ラテンアメリカ諸国は1820 年代に独立し、順調に発展していくものと思われていたが、そうはならな
かった。何が起こったのだろうか。
ここでは、ラテンアメリカの中で相対的に豊かな2つの国、チリとアルゼンチンに着目する。チリと
アルゼンチンをヨーロッパと比べてみると、豊かであったアルゼンチンとチリが徐々に退歩していく姿
(チリの退歩は80 年代まで)を見ることができる。1910 年には、アルゼンチンの一人当たりGDPはイ
ギリスの8割でドイツを上回っていた。また、当時のアルゼンチンの所得はチリを 50%以上、上回って
いたが、チリの成長率は80 年代以降高まり、2000 年には、チリの所得がアルゼンチンを上回るようにな
った。
アルゼンチンとチリが経済発展において他の国に遅れたのはなぜなのか。
また、
80 年代以降において、
チリが力を回復して順調な発展経路を辿ったにもかかわらず、アルゼンチンの停滞がさらに深まったの
はなぜだろうか。本稿は、2003 年3 月9 日∼16 日のチリ、アルゼンチンにおけるインタビューと既存の
文献の整理によって、以上の課題に答えることを目的とする。
2.検討結果
介入主義的な経済政策と市場指向的な政策の違いが国の明暗を分けたと一般的には言えそうである。
介入主義的な経済政策を採用していた時代にはともに成長率が低下していたが、チリが市場指向的な政
策を採用するとともにアルゼンチンの経済成果を凌駕するようになったからである。しかし、それだけ
ではアルゼンチンとチリの違いを説明できない。チリが市場指向的な経済政策を採用した後も、チリも
アルゼンチンもともに大きな経済変動を経験するからである。
両国が経験した経済変動の要因として、本稿は、誤った海外資本の流入を上げ、誤った資本流入は固
定為替レート制度によってもたらされた可能性を示す。誤った海外資本の流入は、アルゼンチンのペロ
ン大統領が 1950 年前後に行ったような、過去の富による介入政策よりも経済を傷つける可能性が強い。
過去の富による繁栄はその富を費消してしまえば終わりだが、未来から借り入れた富は、より長期にわ
たって経済を悪化させる可能性が高いからである。1990 年代にアルゼンチンでなされた、固定レート制
下の資本流入による誤った経済繁栄は、ペロン体制以上にアルゼンチン経済を悩ませる可能性がある。
チリとアルゼンチンを分けたものは、ペロンの作った介入主義による安易な経済的成功という幻想の
有無である。幻想を打ち砕くのは難しいが、アルゼンチンでは、90 年代に再度幻想が生まれてしまった。
これは両国の違いをさらに長期的に際立たせる可能性がある。
1
WHY DID ARGENTINA STAGNATE AND CHILE RESURGE?
(Abstract)
By Yutaka Harada and Takashi Kuroda
In 1820, many people thought that the development of Argentina and Chile would be as
smooth as that of the United States. What went wrong? If we compare Argentina and Chile to some
European countries, we can see examples of rich countries gradually receding. In 1910, the per capita
GDP of Argentina was 80 percent of that of the United Kingdom, a figure that exceeded that of
Germany. Additionally, Argentina’s GDP surpassed that of Chile by 50 percent at that time. The
growth rate of Chile, however, has accelerated since the 1980s, and the per capita GDP of Chile
exceeded that of Argentina in 2000.
Why did Argentina and Chile recede in economic development? Why, since the 1980s, has
Argentina stagnated more seriously while the growth rate of Chile accelerated?
Generally speaking, differences between intervention economic policies and market- oriented
economic policies can explain the differing economic performances of the two countries, because the
growth rates of the two were low when both countries adopted market intervention policies, and the
economic performance of Chile went above that of Argentina when Chile adopted market-oriented
policies. The difference between Argentina and Chile, however, cannot be explained only by the
difference of the policies, because both countries experienced large economic fluctuations even after
Chile adopted its market-oriented economic policies.
This paper argues that the fluctuation can be explained by “false” capital imports induced by
the fixed exchange rate system. The false capital imports could damage the economy more seriously
than President Peron's intervention policy did sometime around 1950, which was initiated by the
significant wealth accumulated in the 1940s. Once the past wealth was spent, it did not affect the
economy, but false capital imports are really a kind of “borrowed” wealth from the future. The
borrowed wealth could persistently affect the economy. Economic prosperity induced by false capital
imports under the fixed exchange rate system in Argentina in the 1990s could hurt its economy more
than Peron's illusions did.
The difference between Chile and Argentina can be explained by the fact that Argentina had
the illusion of easy economic success created by Peron, but Chile did not. It is difficult to destroy that
illusion. Additionally, Argentina reproduced another illusion. This could make the difference of the
two countries even more pronounced.
2
目次
はじめに
1.これまでの議論
誤った政策と政策の不安定性
2.介入主義と新自由主義の対立軸だけで説明できるか
決定的な事件は70 年代以降に起きた
3.何が起きたのか
アルゼンチンの場合
チリの場合
アルゼンチンの90 年代
4.兌換法の生み出した幻想
固定レート制の採用
なぜアルゼンチンは過去の失敗に学べないのか
IMFと海外投資家の責任
5.チリにマーケットシステムは根づいたのか
経済政策のルール化の重要性
チリの経済政策は新自由主義一辺倒ではない
チリの軍事政権だけが成功したのはなぜか
首都集中をどう考えるか
結論
参考文献
3
なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか
はじめに
ラテンアメリカ諸国は1820 年代に独立し、スペイン、ポルトガルの、独立当初すでに時代遅れの殖民
地支配の軛から逃れ、順調に発展していくものと思われていた。アメリカ合衆国、カナダ、オーストラ
リア、ニュージーランドのような、他の新大陸に負けない豊かな国を作るものと思われていた。とくに
アルゼンチンやチリにおいてである。しかし、そうはならなかった。何が起こったのだろうか。
もちろん、ラテンアメリカと言っても一つではなく、各国ごとの発展の差は大きい。一人当たりGD
Pがヨーロッパの4分の1、すなわち、5,000 ドル程度のチリ、アルゼンチンから、もっとも貧しい数
100 ドルのハイチ、ニカラグアまでの差がある。この差は、独立当初からのものでもある。初期の経済社
会状況、与えられた資源、国土、人口によって、かなり説明しうるものでもある。個々の国には個々の
事情があり、そのすべてを明らかにすることは無論できない。
ここでは、初期において豊かであり、今日においてもラテンアメリカの中では相対的に豊かである2
つの国、チリとアルゼンチンに着目することにする。チリとアルゼンチンを他の新大陸諸国、ヨーロッ
パ、アジアの中に置いてみると、豊かであったアルゼンチンとチリが徐々に退歩していく姿(チリの退
歩は80 年代まで)を見ることができる(以下、一人当たりGDPはマディソン(1995)が推計した購買
力平価実質GDPを用いる。アルゼンチンとチリの経済発展を、国際比較と時系列比較を同時に行いつ
つ概観するためである1)
。1910 年には、アルゼンチンの一人当たりGDPはイギリスの8割でドイツを
上回っていた。また、当時のアルゼンチンの所得はチリを 50%以上、上回っていたが、チリの所得の成
長率は80 年代以降高まり、2000 年には、チリの所得がアルゼンチンを上回るようになった。
これらのことは、なぜ起こったのだろうか。すなわち、アルゼンチンとチリが経済発展において他の
国に遅れたのはなぜなのだろうか。また、80 年代以降において、チリが力を回復して順調な発展経路を
辿ったにもかかわらず、アルゼンチンの停滞がさらに深まったのはなぜだろうか。本稿は、以上の課題
に答えることを目的とする。したがって、以下にあげる事実は、すべてアルゼンチンとチリの事実に限
られ、ラテンアメリカ全体についての事実ではない。
1.これまでの議論
バルマー=トーマス(1994)
(第1 章)の包括的な分析は、ラテンアメリカの停滞の理由として、周辺
国として中心国に搾取されたこと、誤った政策の採用、政策が安定しなかったこと、輸出成長をもたら
した作物が特殊すぎたという不運などという議論を紹介している。
しかし、周辺対中心というプレビッシュ的ドグマは一般的な説明力を持たない。搾取が交易条件の低
下という意味であれば、それは事実ではない。少なくとも、19 世紀から戦後まで交易条件が長期的に低
下したということは確認されていない(たとえば、原田(1984)第5 章)
。
輸出商品の不運という考え方は興味深い。ある商品は、比較的簡単な加工によって付加価値を生み、
所得をその国の人々にもたらす。労働を熟練させ、それを他の用途にも広める。あるいは、熟練労働は
新しい需要をもたらす。ある商品はそのような効果を持つが、別の商品はもたない。あるいは、ある商
1
一人当たり購買力平価 GDP では、アルゼンチンとチリはヨーロッパの半分程度の水準にある。マディソンの
購買力平価GDPの推計は 1992 年までなので、その後の値は実質GDPの伸び率で延長推計した。
4
品は所得の弾力性が高く、交易条件の低下に悩むことなく持続的に輸出を伸ばすことができるが、別の
商品はそうではない。日本の経済発展の初期において、比較的簡単な技術で加工可能であり、かつ所得
の弾性値が高い生糸という輸出商品が存在したことが日本にとって幸運であったことが想起される。し
かし、チリやアルゼンチンを考えれば、チリの銅、アルゼンチンの小麦、牛肉などはある程度の加工が
可能であり、かつ、所得の弾力性も低くない商品である。
特定の輸出商品に依存する小国経済が、その価格によって変動を受けるということは常にあるものだ
が、これはやむを得ないものでもある。また、アルゼンチンやチリの規模の国であれば、輸出商品の経
済全体に与える大きさは、戦後においては、決定的なものではない。図1は、アルゼンチンの小麦価格
と牛肉価格(ともにドル建て)の変動と実質GDPの変動との相関を見たものであるが、その値はそれ
ぞれ0.238、0.0005 であり、決定的なものではない。
誤った政策と政策の不安定性
誤った政策と政策の不安定性がラテンアメリカの停滞をもたらしたという議論はもちろん正しいだろ
う。しかし、何が誤ったのか、何が不安定性なのかを特定しないかぎり意味はない。政策の不安定性と
いう考えは、単に誤った政策よりも、誤った不安定な政策がより害悪を及ぼしうるという考えである。
このような議論は、問題を特定化しなければ意味を持たないと考えられるので、再び、アルゼンチン
とチリのケースに戻ることにしよう。アルゼンチンについては、すでに Mallon (1975)の名著がある。
これは、アルゼンチンの停滞を、利害対立する社会階級が相互に矛盾する政策を求め続けたことによる
とする。1900 年代の初頭、アルゼンチンは世界一裕福な国のひとつだった。広大なパンパ(草原)は牧
畜に適しており、肥沃な土地では小麦が生産された。草原と耕地は莫大な富を生んだ。ところが、1929
年から始まる世界大恐慌がアルゼンチンの経済を一変させた。大恐慌は一次産品価格を暴落させた。や
むなくアルゼンチンは保護主義による工業化に踏み出した。大恐慌の後、輸出価格は持ち直し、第2次
大戦では膨大な富を蓄積したが、非効率な工業はそのまま残っていた。さらには、大戦時の富で、イギ
リス資本の国有化に踏み出し、非効率な工業部門と国営企業部門が成立した。
自由な農産物貿易を利益とする地主と農民は、非効率な工業部門の製造する割高な商品を嫌い、工業
製品輸入の自由化を求めた。一方、企業と労働者は、保護主義による工業化によって生まれた既得権益
を守ろうと輸入自由化に反対した。政治家と軍部が、それぞれの勢力に肩入れし、政治的安定は失われ、
経済政策は自由化と統制の間を揺れ動いた。人々は、富はビジネスではなくて政治から生まれると考え
るようになった。
誤った政策が安定的になされる場合と、誤った政策と別の誤った、または正しい政策が不安定性にな
される場合とどちらが望ましいかという議論に答えることは難しい。ここでは正しい一貫した政策は、
誤った政策よりも良好な経済成果をもたらすということだけで十分であろう。多くの経験から、市場指
向的でプラグマティックな政策が、高度な介入主義的政策よりも良好な成果をもたらしたことは間違い
ない(この点についての実証は、Little, Schitovsky, Scott(1970)以来、膨大に存在する。ジョーン
ズ(1999)第7 章も参照)
。これは共産主義の崩壊でも明らかなことである。
では、アルゼンチンの経済学者、ラウル・プレビッシュ(Prebish(1949)
)に代表される介入主義が、
ラテンアメリカ経済の成果を低めたといえるだろうか。プレビッシュの介入主義の政策思想は1930 年代
の大恐慌期に生まれ、徐々にラテンアメリカ全体に広まっていく。介入的政策が、ラテンアメリカ経済
の主流となる。では、プレビッシュ的な介入主義と新自由主義の対立軸で、ラテンアメリカ経済のすべ
てを理解することができるだろうか。本稿の文脈で言えば、アルゼンチンとチリについても、アルゼン
5
チンは介入的な政策により他の諸国よりも成長率が低くなり、チリは70 年代央に市場指向的な政策を採
用したことにより成長率が高まったと言えるだろうか。もちろん、後述するように、そう言える。しか
し、両国の長期経済データを見ると、介入主義と新自由主義を対立させるというだけでは十分ではない
ことが分かる。
2.介入主義と新自由主義の対立軸だけで説明できるか
図2は、アルゼンチンとチリの一人当たり購買力平価GDPの長期のデータである。この図から理解
できるのは以下のようなことである。1915 年以前 、アルゼンチンもチリも急速に発展していた。その成
長率はイギリスを上回っていた。1900 年以降のイタリア(アルゼンチンにはイタリア移民が多いことか
らイタリアも参照国とした)は、アルゼンチンやチリの成長率を上回っていたが、それはある程度やむ
を得ない面がある。アルゼンチンは豊かな国であり、豊かな国の成長率は、貧しい国の成長率よりも低
くなる傾向があるというのは、条件付の所得収斂仮説として、繰り返し実証されてきた事実である(例
えば、ジョーンズ(1999)第 3 章)
。
1915∼1945 年の第1次世界大戦と世界大恐慌と第 2 次世界大戦をはさむ期間においては、アルゼンチ
ンもチリもどちらも停滞と変動とを経験する。しかし、ヨーロッパも停滞と変動、戦争を経験した時代
であり、1910 年から1950 年までの長期トレンドを見れば、アルゼンチンもチリもイギリスと比べて、成
長率が低下したわけではない。もちろん、イギリスの成長率は低下しており、イギリスなみであること
に満足するべきではないかもしれない。
「 1970 年代半ばまで、アルゼンチンと英国との成長率がパラレ
ルであったのは、アルゼンチン経済が英国からの投資や進出企業によって運営されていたという歴史的
経緯にかんがみると、ある意味当然である。第2次大戦後には国際システムの大きな変化があった。逆
に、英国が長期的に相対的凋落していく中で、英国との関係を変えなかったことが間違いであるといえ
る。
」しかし、アルゼンチンの成長率がイギリスなみであれば、アルゼンチンの所得はいまなおヨーロッ
パのレベルにあったはずである。
決定的な事件は70 年代以降に起きた
1950年から70年においてもアルゼンチンとチリの成長率はイギリスよりわずかに低下しただけである。
決定的な事が起きたのは70 年代であって、大恐慌後にアルゼンチンの成長率が徐々に低下したことによ
って、アルゼンチンがヨーロッパの水準から滑り落ちたのではない。
このことを表3で確認しよう。1930∼1970 年では、両国ともそこそこに発展したと言える。1930 年の
アルゼンチンの一人当たりGDPの対イギリス比は 0.785、1970 年で 0.683 である(1910 年のピークで
0.81)
。40 年間にこの比率は、0.102 低下したにすぎない。同じことであるが、アルゼンチンの一人当た
りGDPの成長率は年率 1.5%でイギリスの 1.8%よりも 0.3%低かったということになる。もちろん、
イギリスも介入的な政策が採用されていたわけであるから、参照国として適当ではないと言えばそれま
でである。しかし、アルゼンチンの経済政策がひどかったとしても、そのひどさは、経済成長率をイギ
リスよりも年率0.3%低める程度だった。もちろん、この期間、ドイツの成長率は2.7%であるから、ド
イツを参照国とすれば、アルゼンチンの経済政策はドイツより年率1.2%もひどいと言えるかもしれない。
同じ期間のチリを見れば、1930 年のチリの一人当たりGDPの対イギリス比は0.605、1970 年で0.488
である(ピークは 1930 年)
。40 年間にこの比率は、0.117 低下したことになるから、チリの経済政策は
アルゼンチンよりもひどかったということになる。
決定的なことが起きるのは 1970∼2000 年にかけてである。1970 年のアルゼンチンの一人当たりGDP
6
の対イギリス比は0.683 であるのに 2000 年には0.449 になってしまう。30 年間にこの比率は、0.234 低
下したことになる。おなじことであるが、アルゼンチンの一人当たりGDPの成長率は0.5%に過ぎなか
った。アルゼンチンの成長率は、イギリスの1.9%よりも1.4%も低かったということになる。また、ア
ルゼンチンの成長率はただ低かったのではなくて、やや高い成長とマイナス成長を繰り返して、最終的
に低い成長にとどまったということである。
チリはより劇的である。1970 年のチリの対イギリスGDP比は 0.488 であるのに 2000 年には 0.5062
に上昇する。30 年間にこの比率は、0.0182 上昇したことになる。おなじことであるが、チリの一人当た
りGDPの成長率2.1%で、イギリスの1.9%を上回ったことになる。ただし、チリの成長率はただ高か
ったのではなくて、マイナス成長と高成長を繰り返して、最終的に高い成長を実現したということであ
る。すなわち、アルゼンチンが長い時間をかけて豊かな国から貧しい国になったのは事実であり、その
理由として介入主義的な経済政策があったのも確かなのだが、決定的なことが起きたのは、70 年代以降
のことである。70 年代以降に何があったのだろうか。これは、介入主義と新自由主義の対立軸だけでは
説明できない。介入主義が理由とすれば、経済は徐々にその効率を低めていくはずであって、一挙に経
済が悪化したり2、高成長と低成長を繰り返すという理由を見出すのは難しいからである。
3.何が起きたのか
現在までのアルゼンチンとチリの政権を概観すると次のようになる。まず、アルゼンチンから始めよ
う。表4は、戦後から現在までの政権と経済パフォーマンスを整理したものである。
アルゼンチンの場合
アルゼンチンの政策を理解するためには、ペロンの遺産を理解することが必須である。1946 年から55
年まで政権にあったペロン大統領は、国家が経済を指令し、産業を高度に保護する制度を作った。労働
組合は強く、企業は特権を求めていた。第2次世界大戦中とその直後、アルゼンチンは輸出を拡大し、
膨大な外貨を積み上げていた。ペロンはそれを使って鉄道などの外国企業を国有化し、労働組合を保護
し、介入主義的な工業化政策を行った。これは企業に安逸な成長を、労働者には雇用の拡大をもたらし
たが、工業品価格の上昇により農業の停滞を招いた。ペロン政権の末期にはインフレとマイナス成長が
もたらされ、ペロン大統領は軍事クーデターで追放された。しかし、人々の間には、ペロン前期の安逸
な成長への幻想が生まれ、ペロンの政策を支持する政党、ペロン主義者(ペロニスタ)という言葉も生
まれた。
ペロン後の軍事政権も自国産業を保護しようとしたのは同じだった。労働組合も強く、軍事政権下で
もその点にかわりはなかった。政権は交代を繰り返し、政策は安定しなかった。73 年には、再びペロン
が政権に返り咲いたが、インフレが高進し、76 年にはクーデターによって、再び軍事政権が成立した。
軍事政権によっても、インフレは収まらず、1981 年にはインフレが高進し、為替レートの大幅な切り下
げを行った。1982 年には、マルビーナス戦争(フォークランド紛争)における敗北等もあり、ハイパー
インフレが進行する中で、再度ペロニズム(ペロンなき)が復活した。ハイパーインフレは、マルビー
ナス戦争を直接のきっかけにしたものだが、経済停滞によって、それを起こさなければならない政治的
2
もちろん、ソ連圏で起きたように、徐々に生じた停滞に国民が不満が高まり、政治的混乱が経済を一挙に崩
壊させるということはありうる。しかし、70 年代のラテンアメリカ経済は、そのようには解釈できそうではな
い。
7
状況があったことを考えると、ハイパーインフレも経済要因によると言えるだろう。その後も政権は落
ち着かなかったが、89 年にはペロンなきペロン党のメネム政権が誕生した。インフレを抑えるために1
ペソを1ドルに固定する政策(兌換法)を91 年に採用した。それはインフレを抑えるために劇的な効果
があった。固定為替制の下で外資が流入し、国民は束の間の繁栄を楽しんだが、対外債務は大きくふく
らんだ。兌換法のもとでほぼ 10 年間の繁栄がもたらされたが、これこそは崩壊の元凶だった。しかし、
これについては後述することにする。
チリの場合
戦後から現在までの政権と経済パフォーマンスは表5に要約されている。チリの経済政策を理解する
ためには、70 年代のアジェンデ政権から始めることで十分だろう。アジェンデ社会主義政権は1970 年に
誕生する。世界史において、初めて選挙による社会主義政権の誕生と言われたアジェンデ政権は、国有
化を急ぎ、外資や中間層に見放されてクーデターによって崩壊した。社会主義化により生産が落ち込み、
数百%のハイパーインフレとマイナス成長を経験した(アジェンデ政権については、例えば吉田(1979)
参照)
。73 年、クーデターによって政権を得たピノチェト(Pinochet、スペイン語での読みはピノチェで
ある)政権は、これまでのラテンアメリカの経済政策思想とまったく異なる政策を採用する。徹底的な
民営化、保護主義の追放である。平均関税率は4年間で90%から10%まで低下した。価格統制や市場へ
の政府介入を廃止し、市場が資源配分の主要な機能となるような政策を採用した。それは、極端な高イ
ンフレ率と高失業率の記憶の新しい国民の間で、
「何か新しいことをやってくれるのではないか」という
期待をもたらしたと思われる。
「人々はピノチェトに賭けたのである。もちろん、軍事政権であることか
ら、国民に他の経済運営スキームを選択する余地がなかったことも確かである。
」物価は落ち着き、高成
長が始まる。しかし、チリの成長は必ずしも安定したものではなかった。
アジェンデ政権崩壊後の 1970 年代央から 81 年までの高成長のあと、82 年にチリ経済は失速する。そ
の後は高い成長を維持して 90 年代末にアルゼンチンの一人当たりGDPを上回ることになる。しかし、
80 年代初期、チリはラテンアメリカ最大の不況という経済停滞を経験する。82 年の実質GDPは13%も
低下することになる。
82 年に、チリになにが起きたのだろうか。1974 年にはインフレ率が 500%を超えて上昇したため、固
定相場制を導入し、インフレ抑制に成功した。しかしながら、為替が安定とみて外国資本が流入する。
インフレは抑制されたが、アメリカに比べれば高かったために為替レートは割高になった。外資は必ず
しも生産的な実物投資に向かったわけではなく1980 年をピークに不動産投資を中心としたバブルが生じ、
1981 年には貿易赤字がGDP比20%となり、1982 年、メキシコ危機をきっかけに、短期資金がいっきに
逃避して経済が破綻し、大幅なペソの切り下げが必要となった。
「ただし、固定為替レートを採用していた1982 年時に、もしも米国が利上げしなければ、固定レート
制が続いていたかもしれない。アメリカの金利が上がった結果、チリの金利も 15%となり、外資プロジ
ェクトが破綻し、債務が増大した。国際収支危機がおき、ドルで借りていた銀行が危機に陥った。
」とい
う説もある3。また、
「この危機がなかったら、銀行制度は脆弱なままであったかもしれない。というのは、
金融危機後に銀行や保険の監督制度が新たに改正・強化されたからである。現在も、その制度を継承し
ている。
」
3
スティグリッツ(2003)は、アメリカが80 年代初頭に金利を引き上げたことで、中南米各国が連鎖的に債務
不履行に陥ったとしている。
8
アルゼンチンの90 年代
一方、アルゼンチンの 90 年代には何が起きていたのか。1989 年に就任したメネム大統領は、
「ペロン
党員ではあったが、これまでとは異なり、プラグマティックであり、ペロニズムのドグマから最も遠い
男と言われた。
」労働組合と対立し、貿易を開放し、民営化も行おうとしたが、公共サービスの改革は十
分なものではなかった。
アルゼンチンは1,000%というハイパーインフレーションの沈静化のために1991
年に固定為替レートを導入し(兌換法)
、1992 年にはその効果をみた。インフレーションは急激に収まっ
たのである。90 年には2,300%だったインフレ率(消費者物価)は、92 年には24.9%となった4。
ラテンアメリカのインフレは、財政赤字を紙幣で埋め合わせることから生じている5。したがって、イ
ンフレを沈静化し、固定レート制を維持するためには、財政規律を達成しなければならない。沈静化は
したもののアメリカと比べて高いインフレ率が95 年まで続き、その後はデフレとなった。ハイパーイン
フレ期にも10%以下だった失業率は 16%まで上昇した。通貨は過大評価となり、経常収支の赤字が拡大
した。
インフレが沈静化した後には固定レート制から脱却すべきだったとは、チリ、アルゼンチンでインタ
ビューしたエコノミストが一致して指摘していることである。
「固定レート制の大きな問題は、1度採用
すると、なかなか抜け出せない点だ。当初はハイパーインフレの沈静化に成功し、購買力の上昇により、
景気もよくなってしまい、固定レートを捨てるということが言い出せなくなった。また、経済のドル化
が進んで、もとのペソ経済に急には戻れなくなった。そして、通貨の過大評価が即、金融危機へとつな
がることになった。
」
ここでは、固定為替制度とドル化の2つの問題がある。ドル化によって、一般の人々が国内の普通の
銀行で、ドル建てで借金をできるようになった。人々はドルで借金をして、家を建てたり、耐久消費財
を買ったり、海外旅行に出かけるようになった。しかし、これは長続きする政策ではなかった。対外債
務は大きくふくらんだ。76 年から81 年の軍事政権下でよりも、メネム政権下で対外債務が膨らんだ。だ
が、経済のドル化が進んでしまうと、1ドル1ペソ政策が持続可能ではないと分かっていても、転換す
るのが難しくなる。
4.兌換法の生み出した幻想
兌換法は、ペロニズムと同様に、国民の間に幻想を生み出した。ペロニズムの下で、国有化された企
業が雇用を拡大し、政府は福祉支出を拡大した。経済効率の向上を伴わない経済拡張はインフレをもた
らし、ペロン大統領は、軍事クーデターで追放されることになるが、国民の間で「あの頃はよかった」
という幻想が生まれた。それと同様に、メネム大統領も1ドル1ペソ政策で国民に誤った幻想を抱かせ
たことになる。
ペロン幻想を支えた秘密は、第2次世界大戦で得た富である。一方、メネム大統領が国民に与えた幻
想の秘密は、海外からの資本流入である。アルゼンチンとしては安定していたがアメリカでは高いイン
4
メネム政権の関税引下げや民営化に着目して、それを自由主義的な改革とする見方もある。国連の ECLAC(ラ
テンアメリカカリブ経済委員会)の研究は、90 年代のアルゼンチンをアグレッシブ・リフォーマーに分類して
いる(西島・細野(2003)第 7 章)
。しかし、通貨を持続性がないような形で固定化するのは、後述するように
幻想を作り出すものであって、自由主義的とは言えない。注 16 のスティグリッツの指摘も参照。
5
ラテンアメリカのインフレーションは構造的な要因によるという説もある。湯川(1999)第 6 章、は構造要
因を解説している。構造要因説とは、需要の増大に対して供給が非弾力的であることがインフレーションの主
因と主張するものである。
9
フレ率の下での固定レート制により、90 年代初から末まで預金金利は8∼10 %と高位で安定していた。
海外からこの金利を目当てに資金が流入した。すなわち、海外からの借金により、アルゼンチンは束の
間の繁栄を楽しんでいたのである。この幻想は、ペロンの与えた幻想よりもたちが悪い。過去の富は費
消されてしまえば終わりだが、未来から借り入れた富は長く国民を苦しめることになる。
アルゼンチンは、2003 年4 月28 日に大統領選挙があるが(決戦投票は5 月18 日)
、選挙期間中に、メ
ネム大統領再選待望論があった6。これは、固定レート制への幻想がまだ残っているためであり、ペロニ
ズムが、今だ支持を受けている構図と全く同じである。幻想は、原因と結果の時間的なずれから生じる
のかもしれない。
「前回のメネム政権(第1次1989∼95 年、第2次95∼99 年)当初は生活水準が向上し
ており、メネム大統領は固定レート制が完全に破綻する前に政権を去るほど利口だった。
」メネム元大統
領への幻想は、ペロニズムが自壊してしまう前にクーデターが起きてしまったために残ったペロン幻想
と共通している。
しかし、ここで当然の疑問が生じる。なぜ、これほど安易に未来の富を手に入れることができたのか。
未来の富は、固定レート制に結びついている。高い金利は主としてインフレ率を反映したもので、イン
フレ率が高ければ当然に為替レートは下落しなければならない。しかし、為替レートが固定されていれ
ば、高い金利は海外投資家にとっても高い金利を意味することになる。問題は、なぜ固定レート制を採
用したのか、また、長期的には持続できない固定レート制が当面は維持できるという期待が一般化した
かである。まず、なぜ固定レート制を採用したかから始めよう。
固定レート制の採用
固定レート制は、ハイパーインフレから脱出する手段だった。
「インフレのトラウマが固定レートとい
う無理な制度を導入させたのである。
」
「ハイパーインフレへの国民のトラウマは根深い。インフレ対策
は、国民にとって、財産権の保護対策であり、個人の労働価値の保護対策でもある。
(兌換法により)
“あ
なたの財産を守る”という主張ほど強い政治的メッセージはない。このシステム(兌換法)は自分の財
産を政府が考えてくれているという強いメッセージを与えた。
」
固定レート制にハイパーインフレ脱出の効果があったことは確かだが、ハイパーインフレを脱出する
ための唯一の手段でもなければ、そもそもそれ自体、間違った政策だった。特に、ドルが予想以上に高
くなり、アルゼンチンとの競合的な貿易国であるブラジルがレアルを切り下げた、という誤算が重なっ
たことも、ショックを大きくした。
「問題は、政府が法律により、1ドルは1ペソと永遠に必ず交換する
という間違った約束を国民にしたことであり、国民がそれを信じてしまったことだ。まさに幻想だ。実
際、リスクプレミアムを考慮しても、住宅ローンや自動車ローンのドル金利はペソ金利よりも低かった。
しかし、所詮、幻想は幻想でしかなく、政府も借り手も貸し手の銀行も皆破産してしまった。しかし、
政府は1ドルは1ペソと保証している。政府は補償しなければならないことになっている。
」
6
4 月 27 日の第一回大統領選挙の投票結果により元大統領のメネム氏が得票率 24%で1位、サンタクルス州知
事のキルチネル氏が 22%で2位となった。しかし、その後の世論調査でキルチネル氏が 70%前後であるのに対
してメネム氏が 30%前後であったことから、メネム氏は 5 月 18 日に予定されていた決戦投票を辞退し、公職
選挙法に基いてキルチネル氏が自動的に当選した(日本経済新聞など各紙報道による)
。この経緯は、3 月 12
日のインタビューで得られた予想と同じである。その予想は、
「メネム元大統領が優勢だと報じられているが、
そうは思わない。どの候補者の支持率も 20%程度なので、確かにメネムは決戦投票まで残るだろうが、メネム
への反対票は国民の過半数を超えており、他の候補者は決戦投票にさえ残れれば、メネムへの反対票により誰
でも大統領に当選できるだろう。
」というものだった。これは現地でご協力いただいた方々が、真にアルゼンチ
ンを理解されている人々を訪問先として選んで下さった結果と思われる。記して感謝したい。
10
アルゼンチンでは、2003 年4 月27 日の大統領選挙に向けての選挙運動期間中に、どの候補者も兌換法
下の債務をどうするかについては触れたがらなかったという。
「現在の状況を脱するには、政治的な“メ
ス”すなわち、コストが必要であり、すべての候補者がそのことをよく理解しているからだ。
」
「
(大統領
候補者は、
)まだ、それぞれの政策内容を明らかにしていない。明確なコミットをしてしまうと、後から
自分の首を絞めることとなるからだ。関税の引き上げや民営化については言及があるが、誰も債務につ
いては言及しない。1ドル1ペソの時代の債務を、債務者は1ドルの債務に対して1ペソ払えばよいこ
とになっているが、それは無理なことだろう。しかし、最終的にどうするかはどの候補者も何も言わな
い。
」
「兌換法に固執したのは、財政政策の問題だ。固定レート制を採用したのは、財政規律を確立するた
めだったが、その逆となった。この国の政治家は、ドル建の外債を発行して、国内でペソをばら撒いた。
お金を借りて外貨準備を積み上げ、その外準を見せて外債を売った。多分に文化の問題がある。自分は
貧しい、金が必要だ、方法は問わないという文化がある。
」
固定為替レート制は不安定なものである7。チリでは、90 年代においてはその経験を活かし、外国資本
の流入をコントロールし、マーケットメカニズムを用いながら実質為替レートを維持する為替バンド制
を導入した。因みに、チリは固定レート制から変動レート制まで、これまで世界で導入された全ての為
替制度を経験している。経験から教訓を得て、チリでは準固定レート制となっている。金融市場の安定
により、チリは輸出振興策に集中できた。
「為替バンド制を採用するには、貿易、マクロ経済政策、外国投資の全てをうまくマネージメントす
ることが必要だ。しかし、そんなことはアルゼンチン政府には無理だ。さらに、ブラジルという大国と
接し、同じメルコスール(南米南部共同市場)を形成していることも政策の選択肢を狭めている。すな
わち、ブラジルとの貿易関係を無視した為替政策は採れない。
」なお、ブラジルは早くから1ドル1レア
ル政策を捨てたが、為替の切り下げを経て、現在は1レアルと1ペソのレートが再び近くなっている。
「ブ
ラジルは変動を大きな繰り返しながら1ドル 3.5 レアルになった。アルゼンチンは一定していて一挙に
3ペソ以上になった。結果は変わらない。
」
「貨幣には、価値の保蔵機能、計算手段機能、交換機能があるが、価値の保蔵機能でみると、1975 年
以来、すでにドル化が進んでいる。250∼300 億ドルのたんす預金があるといわれ、海外には 1,000 億ド
ルのドル資産を保有しているといわれる。これに対して、ペソ資産は 300 億ドル程度である。アルゼン
チンの金融問題を根本から解決するためには、この資金を成長のために動因しなければならない。その
ための“信用”をいかに確保するかが問題である。
」
なぜアルゼンチンは過去の失敗に学べないのか
ここでさらに疑問が生じる。
チリもアルゼンチンも1980年代前半に固定レート制で失敗しているのに、
なぜチリは過去の教訓に学べて、アルゼンチンにはできなかったのだろうか。この問いに対するチリ、
アルゼンチンのエコノミストの一致した答えは、
「経済理論の問題ではなく、政治学や社会学の問題であ
る」というものである。チリは、80 年代半ばから財政規律を確立し、安定した為替政策を採用してきた。
これに対して、アルゼンチンでは、アウストラル・プラン8に失敗し、財政赤字が拡大するとともに、ハ
7
8
固定為替レート制がアジアにおいても通貨危機を招いたことは、トラン・原田・関(2001)第 3 章参照。
(1)通貨の呼称変更とデノミ、(2)物価,賃金の凍結、(3)為替相場の固定化等を内容とする経済安定化政策。
11
イパーインフレに苦しんでいた。財政規律が確立しているかどうかの違いも大きいだろう9。
チリも固定レートの導入で 81 年に大失敗を冒している。この失敗が、
「戦後ラテンアメリカ最大の不
況」と言われる不況を引き起こしている。にもかかわらず、なぜアルゼンチンは失敗を繰り返したのか。
アルゼンチンもチリもハイパーインフレを抑えるために固定レートを導入した。一時的には成功だった
が、ながく続けることはできない。チリもバブルの発生と崩壊により失敗したが、後に為替バンド制と
為替バンドの機動的な運用を導入し、今に至っている。
「固定レート制は、短期的にインフレ抑制に効果はあるが、全体的な経済効果はネガティブである。
固定レートにより通貨が割高になれば外国資本が流入するが、それは永遠に続くものではない。チリの
ような小国かつ市場開放の進んだ国は、内外のインフレ率格差を基準に為替レートを安定的にフローテ
ィングしていくしかない。
」
「チリでは、財政規律の確立に加え、政府の政策として輸出振興が明確に位
置付けられており、為替政策もそのことを反映したものとなっている。他方、アルゼンチンでは、企業
経営者の発言力が弱い。特に輸出業界の政治的発言力がない。チリでは多くの人が輸出に関与している。
アルゼンチンの輸出では、5∼6社の大企業しかない。そのかわり金融セクターの発言力が強く、政治
も金融セクターの利害を反映したものとなりがちである。IMFも金融セクターの利害を反映したアド
バイスをする10。
」
変動為替レート制を採用することが難しい理由は、為替下落が生活物資の価格上昇をもたらすからで
ある。
「アルゼンチンの輸出バスケットをみると、ほとんどが食料である。したがって、為替変動に伴う
食料価格の変動は社会不安につながり、望ましくない。アルゼンチンの輸出業者は、為替レートの切り
下げを嫌う、世界でも稀な存在だ。為替レートが下がれば輸出が伸びるが、輸出は食糧品であり、食糧
価格が上がれば社会不安が起きる。11」
「歳入よりも歳出が多いと、お札を刷るか、借金をするしかない。
政府がお札を刷らせない方策が兌換法である。しかし、アルゼンチン政府は外債を発行し、国内では兌
換法で交換してペソでつかった。外資はペソが下落する前に逃げ出した。
」また、
「政治システムが信用
できるか否か、という点も異なる。チリは政治が安定している上に、テクノクラートが優秀であり、為
替バンド制などの微妙な為替政策を十分マネージメントできる能力を有している。しかし、アルゼンチ
ンではそれが難しい。アルゼンチンには、能力ある公共サービスの伝統がない。国家は過去50 年間に渡
って破壊されている。規制する手段を持たず、規制者に対して信頼がない。制度の問題がある。これは
単に為替政策に限らず、教育等の他の分野についても同様のことがいえる。
」
自国の為替レートを固定するということは、自国通貨を持ち込んだ人々に、ある決められた交換比率
で、無制限に外国の通貨を渡すと、政府が約束することである。政府は無限に外国通貨を保有していな
いので、この約束を守ることはできない。約束を守ることができるのは、自国通貨の量と、その決めら
れた交換比率で、同じだけの外国通貨を持っているときのみである。これは厳密なカレンシーボード制
を採用していることになる。アルゼンチンの固定為替レート制はカレンシーボード制ということになっ
ているようだが、そうであったとは思えない12。外貨準備は確かにあったが、それは政府の外国からの債
9
南米のエコノミストはインフレや為替レートを財政と結び付けるが、これは(国債の発行が難しく)財政赤
字がそのままマネーの増大となる財政金融政策の仕組みによるようだ。
10
スティグリッツ(2002)は「IMFは金融界の利益をはかっている」
(邦訳 294 頁)としている。様々な為替
レート制の問題点はクル−グマン・オブズフェルド(1994)第 18∼20 章に整理されている。
11
ただし、新潟大学の佐野誠教授は、アルゼンチンの輸出業者は自国通貨安を求めることが多かったと指摘し
ている。
12
西島・細野(2003)第 6 章は、アルゼンチンのカレンシーボード制は不完全なものであって、準カレンシー
ボード制と呼ぶべきものとしている。カレンシーボード制については、白井(2000)
、白井(2002)第 6 章を参
12
務によって得られたものである。90 年代を通じて、アルゼンチンの経常収支も財政収支も赤字が拡大し
ていった。それを埋め合わせたのは、対外債務だった。中央銀行の準備は安定していたが、マネーサプ
ライは増大していた13。
一般に、資本移動の自由、固定為替制度、独立した国内金融政策の3つを追求することは不可能であ
る(国際経済学の不整合な三角形irreconcilable trinity)14。アルゼンチンは財政赤字を通貨発行で埋
めあわせるという国内金融政策の独立を維持したまま、資本移動の自由と固定為替制度を追求した結果、
矛盾が爆発して為替レートが一挙に暴落することになった15。
IMFと海外投資家の責任
失敗したのはアルゼンチン政府だけではなく、固定レート制を推奨し、資金の流入を褒めそやしたI
MFでもある16。
「固定レート制の下では、国内金利が過去の経験的な金利よりも安くなるので、企業が
借り入れを、しかもドルの借り入れを増やす。経済成長は高くなるが持続しない17。固定為替レート制は、
不適切な財政金融政策の下ではさらに弱くなる。
」
1980 年代初に多くのラテンアメリカ諸国において固定レート制の失敗例があるのに、なぜIMFは学
ばず、90 年代末の失敗になったのだろうか。
「IMFはリスクを認識せず、固定レート政策を支持してい
た。事態は97 年のアジア通貨危機に似ている。固定レート制の下で銀行がうまく監督されていなかった
ことも事態を悪化させた。
」
外国投資家も兌換法導入の結末は予想できたはずであり、できなかったのならアルゼンチンの政治家
と同じある。
「モラルハザードの問題がある。チリは海外資本の流入を制限する(資本流入の一部を中央
銀行に強制的に預託させたことがある)など、いわゆるトービン税的な制度を導入するなどして、短期
資本流入を制限している。多くの国には、直接投資を入れるためには固定為替制がよいという考えがあ
った。
」
資本移動に制約を課すというトービン税的な考え方も一つの考え方だが、また別の実務的な難しさが
生じる可能性がある。変動相場制にする方が簡単なのではないかと思われるが、それに対する答えは、
「問
題はレートの極端な変動が生じる可能性があることだ。為替バンド制は一番マネージメントが難しい。
ブラジルは、変動相場制にしてインフレが、ぶりかえしている。
」というものだった。
通貨危機には海外投資家の問題もある。
「投資家が十分合理的であれば、破綻が目に見えている固定相
場の国に投資などしない。しかし、直接投資のように中長期的利益を重視する投資家もいるが、短期的
利益のみを追う投資家もおり、投資家ごとの投資スタンスは異なる。1週間、1日または朝晩の利益に
しか関心のない投資家もいる。また、マーケットの参加者は皆合理的たりうるのだろうか? たとえば、
1994 年 11 月のメキシコ危機の1月前に、
“もうメキシコ投資への危機は去った”とレポートした格付け
機関もあった。1998 年の段階では、アルゼンチンも投資適格とされていた。メキシコ、アルゼンチンの
リスクプレミアムは同じだった。経済はバブルの発生とその破綻という、いつも同じことを繰り返して
照。
13 International Monetary Fund, International Financial Statistics
14
例えば、伊藤(1996)124 頁を参照。
15
フリードマン(1999)は「ペッグ制度は時限爆弾だ」
(邦訳 145 頁)と書いている。
16
スティグリッツ(2002)は「市場はうまく機能すると信じている機関(IMF)が、為替相場市場について
は大規模な介入が必要だとするのは何とも奇妙ではないか」
(邦訳282 頁)と指摘している。
17
通貨危機におけるIMFの責任を論じたものとして、清水(1998)がある。
13
いる。チリのような小さな国では、国際マーケットにとってみればわずかな資金でブームが起きる。こ
のような不安定なブームは企業を罰することになる。これが80 年代初のマイナス成長の原因である。
」
5.チリにマーケットシステムは根づいたのか
市場志向の経済政策についての幅広い国民的合意が形成され、それに基づいて一歩でも政策が進めら
れることは、市場指向の経済政策が一時的に採用されることそれ自体よりも重要なことである。チリに
市場指向の経済政策は根づいたのだろうか。ピノチェト時代にも大きな不況を経験しているにもかかわ
らず、チリ国民は市場指向の経済運営を支持しているのだろうか。
「確かにチリは、ピノチェト政権時に
戦後ラテンアメリカ最大と言われる不況を経験している。しかし、アジェンデ政権時に社会主義が機能
しないことを人々が学んでいる。
」
「1950 年代から国家がより大きな役割を果たす社会政策、重化学工業
化を図り、70 年代初のアジェンデ社会主義政権でピークに達した。社会主義化により生産が落ち込み、
600%のハイパーインフレとマイナス成長を経験した。
」
「クーデターで政権に就いたピノチェトは 17 年
間政権を維持した。強力なCEOで、有能な大臣を任命し、政治、経済的に強力で決断力があった。1982
年の経済危機も、期間は短く、83∼85 年にかけてすぐに回復し、97 年まで平均7%台の高成長を記録し
た。
」
「ピノチェト政権が経済危機を乗り越え、1990 年代の“黄金時代”とでも言うべき高成長をもたら
したのは確かである18。実質GDPの成長率はピノチェト政権以前のトレンドの3%から7%になってい
る。1998 年以降、世界経済の状況の悪化によりチリ経済の成長率は鈍化しているが、他のラ米諸国より
はよい。チリに問題はあるが、システムそれ自体を変えようという人はいない。また、上記のような歴
史的な背景があるため、国民の間では経済運営システムそのものには疑問がもたれていない。もっとも、
共産党は現在でも企業の国営化、物価の凍結、年金の公営化を主張しているが。
」
これにたいして、
「アルゼンチンでは、国民が“ペロン政権時代はよかった”というペロニズムへの郷
愁と幻想を今でも抱いており、政治がこの幻想に左右されていることが、現在の経済危機を招いた一因
といえる。マーケットシステムが根付くには時間がかかるため、結果を早く欲しがる国民の意見を抑え
ることができた、という点で、チリでは軍事政権が長く続いたことが貢献した面がある。
」
「軍政下では、
他の経済思想に基づく、経済政策を選択する余地がなかった。幸い、長期的にみて成功を収めたため、
国民的合意が形成された。
」
「現在、チリの大統領は社会党出身者であるが、経済運営の基本方針は軍政
以来の市場指向型を継承している。ただし、健康、労働者といった社会政策によりウエイトが置かれて
いる。いずれにせよ、誰もがアジェンデ政権時の混乱に戻りたくない、と思っている。
」
「システムに対
する認識が変わり、誰も 60 年代に戻ろうと考えていないのではないか。現在の経済システムについて、
政党がマルキストを除いては合意していることが重要である。
」
「人々はピノチェトが嫌いである。しか
し、89 年のブームの後に民政移管し、繁栄が続いていることが自由主義的な政策を一貫して採用してい
る理由である。
」
「80 年代初の失速はあるが、チリはその後7%という高成長を果たしている。この成功
により、社会主義、極端な保護主義、労働組合主義への忌避が生まれ、そこから無茶な政策を採用しな
いという国民的合意が生まれた。その合意が、政策を安定させ、投資を呼び込んでいる。
」
ただし、
「そのようなコンセンサスは存在せず、50%程度が支持しているにすぎない。成長率が鈍化す
ればこの支持率は低下してしまうが、幸い、これまでは高成長率を維持してきたため、多数派となって
18
新潟大学の佐野誠教授は、ピノチェト以降の 90 年代に高成長を続けたことから、この発言は過大評価ではな
いかと指摘している。西島・細野(2003)第 10 章(マヌエル・マルファン執筆)は、90 年代の成果を強調し
ている。
14
いる。経済運営の良し悪しは、経済制度の問題と政治制度の問題の両面に左右される。
」という意見もあ
った。
経済政策のルール化の重要性
チリの経済政策運営のポイントは、政治的な圧力からの独立ではないだろうか。公共料金の値上げな
どは政治問題になりそうなものを、ガソリン料金の値上がりというような客観指標で、ルールによって
値上げするように制度化した。最初に市場に友好的な政府というビジョンを作り、そのビジョンを達成
するためのルールを確立する、というのがチリ・メソッドではないだろうか?「確かに、経済政策の安
定を制度化しようとしている。国際収支のバランスを取ること、中央銀行の独立させること(チリ中央
銀行の目的は物価の安定を通じての経済の発展である)
、財政保守主義を維持すること、銀行監督の強化、
政府の分権化、補助金をさけて市場の決める価格を採用するなどである。
」
香港のように貿易依存度が極端に高ければ日常生活物資の価格を安定させるために、ペッグ制が必要
かもしれないが、チリの規模の国では、完全な変動相場制を導入することが可能ではないか?「確かに
そうかもしれない。輸出シェアを考慮した実質実効為替レートを安定させようとすると、時によっては
市場介入が必要となるが、チリのような小国では難しいし、タイミングの問題もある。為替がファンダ
メンタルから離れたとしても、いつ、離れたのかは分からない。インフレについては、チリはインフレ
ターゲィングを導入している。期待を安定させるためである。また、財政支出については、赤字を作ら
ないために政府がとるべき行動について、ルールを定めている。ただし、ルールは平常時によく効くも
のであって、危機の時にはそうでもない。
」
チリの経済政策は新自由主義一辺倒ではない
チリの経済政策が成功したのは、そのプラグマティズムにもある。
「チリの経済運営は、資源配分にマ
ーケットを使用するという原則を貫きつつも、プラグマティズムが大きな特徴である。これにより金融
市場の長期的な安定とマクロ経済のバランス(低インフレ、財政黒字、生産性の向上)の均衡を得るこ
とができた。
」
「いわゆる「チリ・モデル」には(1)クーデター直後、(2)債務危機後、(3)民政移管後の3
つのフェーズがある。
」「後半の政策は異なったモデルであり、生まれ変わったといってもよい。」
「Pinochet 将軍はクーデター直後の混乱、及び債務危機の2回困難を乗り越えている。クーデター直後
は純粋シカゴボーイズによる極端な自由化政策を採用し、一時は失業率が30%にも達した。1982 年の債
務危機の際には、為替レート及び金利の水準を誤った。
」
「まずクーデター後から80 年代前半にかけては
シカゴスクールが経済政策の運営に非常に強い影響を与えた。市場への介入を排し、オーソドックスな
マネタリー政策を行なったが、82 年の債務危機時には大きなショックをかわしきれなかった。そこで、
1983 年に任命されたビュヒ大蔵大臣の下、(1)市場は重要だが 100%は信用しない、(2)したがって段階
的かつ適切な市場整備策を行なう、といった新たなコンセンサスが形成された。市場の不完全性にも着
目している。また、金融制度改革も行った。銀行危機はきわめてコスト高であることが証明済みである。
銀行監督においては、借りる通貨の種類と貸し出している通貨の種類の一致が重要である19。
」
19
この点は、Blinder(1999)によって指摘されている。
15
チリの軍事政権だけが成功したのはなぜか
ラテンアメリカでは、軍事政権が度々成立しているが、なぜチリだけで安定した経済成長に成功して
他の国では成功しないのだろうか。
「ピノチェトは古くからの友人である経済政策チームに、財務大臣の
下、経済政策の全てを委ねた点が評価できる。また、83 年以降は、新モデルでより現実的になった。他
国では政権をとった軍人自身が経済政策を行なおうとして失敗している。また、中長期的に持続するこ
とができない短期的なポピュリズム政策、すなわち甘い薬を飲まなかった点も重要である。チリは、財
政支出を拡大しなかった。アルゼンチンは甘い薬を飲んで失敗した典型例ではないか。アルゼンチンは、
病因ではなく、
症状をなくす政策を取っていた。
チリでは1960 年代から多くの人材が海外留学しており、
人的資源が蓄積していたことも貢献したと考えられる。アルゼンチンではそのような人材が不足してい
た。
」
「ピノチェトは生粋の職業軍人であるが、ピノチェトに対して、
“アジェンデ以降に必要な経済政策”
を提言したのが、シカゴボーイズだけであったとも言われている。ピノチェトが優秀な戦略研究家であ
ったことも関係しているかもしれない。
」1980 年代初の政策転換に関しては、ピノチェトはビュッヒ蔵相
という適材を起用した。なぜそうできたのかは分からないが、
「うまくいかないときには別の人間のアド
バイスを求めた。ピノチェト自身、非常にクレバーで強い軍人であり、自らの決定について余計な説明
をしない人物である。
」
首都集中をどう考えるか
ハリス=トダロ・モデル(Harris=Todaro(1970)
)によれば、産業政策を行い、市場の資源配分機能
に介入すると、そうでない場合と比較して大都市集中の度合いが高まるとされているが、市場指向のチ
リにおいてもサンティアゴ一極集中が生じている。これはなぜだろうか。
「チリでも 1940 年代から 1950
年代にかけて産業政策を行っており、その影響もあるのかもしれない。ひとたび集中が始まれば、その
後の集中については、
“集中が集中を呼ぶ”というダイナミズムが働いているのではないか。また、首都
は政党にとって最大の票田であり、政治的な観点からも社会資本投資を首都へ集中するインセンティブ
がある。人がいれば公的部門ができる(チリには票のゆがみはないようだ)
。たとえば、地方からも集め
た税金でサンティアゴの地下鉄を拡張している。
」
「相対的にはサンティアゴに人口等が集中しているが、
都市としての規模でみると、メキシコ・シティなどに比べて、サンティアゴはまだまだ大都市とはいえ
ない。もちろん、これまでにもいくつかの一極集中是正策が行なわれている。たとえば、議会のバルパ
ライソへの移転は、チリ最大の港湾都市(ただし、何もない)の活性化対策でもあると理解している。
(ピ
ノチェト政権が、民政移管前に、議会の力を弱めるために議会を移転させたと一般に解釈されているよ
うである。
)
」
「人々はよりよいサービス(公共サービスも含む)を求めて首都に集中している。また、地
方の政治家の力が弱くなっている。選挙対策も首都周辺を重視しがちである。投票する人がいれば政治
力が高まる。社会主義者も、中央に集中する人々に資本支出をしようとする。一極集中是正策は失敗に
終わっている。首都の方が職を得やすく、地方は教育、衛生、公共サービスのレベルが低い。
」
「
(ブエノスアイレス一極集中について)19 世紀から分散化の議論はある。領土の支配とは人が住むこ
とだという考えがあるかだ。しかし、農業は灌漑ができるところしかできず、インフラなしに人は住め
ない。現実には、人口に加えて、GDPの7割が首都圏に集中している。分散的な動きは、鉱山投資ぐ
らいにしかみられない。
」
16
結論
ラテンアメリカ諸国は1820 年代に独立し、北アメリカの新大陸諸国と同様に順調に発展していくもの
と当初は思われていた。とくに初期において豊かなアルゼンチンやチリにおいてである。しかし、そう
はならなかった。
この理由として、介入主義的な経済政策と市場指向的な政策の違いが国の明暗を分けたと一般的には
言えそうである。介入主義的な経済政策を採用していた時代にはともに成長率が低下していたが、チリ
が市場志向的な政策を採用するとともにアルゼンチンの経済成果を凌駕するようになったからである。
しかし、それだけではアルゼンチンとチリの違いを説明できない。チリが市場志向的な経済政策を採用
した後も、チリもアルゼンチンもともに大きな経済変動を経験するからである。
両国が経験した経済変動の要因として、本稿は、誤った海外資本の流入を上げ、誤った資本流入は固
定為替レート制度によってもたらされた可能性を示した。誤った海外資本の流入は、アルゼンチンのペ
ロン大統領が1950 年前後に行ったような、
過去の富による介入政策よりも経済を傷つける可能性が強い。
過去の富は費消してしまえば終わりだが、未来から借り入れた富は、より長期にわたって経済を悪化さ
せる可能性が高いからである。1990 年代にアルゼンチンでなされた、固定レート制下の資本流入による
誤った経済繁栄は、ペロン体制以上にアルゼンチン経済を悩ませる可能性がある。
チリとアルゼンチンを分けたものは、ペロンの作った安易な成功という幻想の有無である。幻想を打
ち砕くのは難しいが、アルゼンチンでは、90 年代に再度幻想が生まれてしまった。これは両国の違いを
さらに長期的に際立たせる可能性がある。
17
参考文献
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書」2001 年 6 月
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スティグリッツ、ジョセフ、E、篠原総一訳「環境と経済発展」
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トラン・ヴァン・トウ/原田泰/関志雄『最新|アジア経済入門』日本評論社、2001 年
西島章次・細野昭雄編著『ラテンアメリカにおける政策改革の研究』神戸大学経済経営研究所 研究叢書 62、
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原田泰『経済政策論の神話』有斐閣、1984 年
バルマー=トーマス、ビクター、田中高、榎股一索、鶴田利恵訳『ラテンアメリカ経済史 独立から現在まで』
名古屋大学出版会、2001 年(Victor Bulmer-Thomas, The Economic History of Latin America since
Independence, Cambridge University Press, 1994)
フリードマン、ミルトン「危機に際して市場機構を活用せよ」マッキラン、ローレンス J、ピーター・C・モン
トゴメリー、森川公隆監訳『IMF 改廃論争の論点』東洋経済新報社、2000 年(McQuillan, Lawrence J. and
Peter C. Montgomery, The International Monetary Fund – Financial Medic to the World? The Hoover
Institution Press, Stanford University,1999)
細野昭雄『ラテンアメリカの経済』東大出版会、1983 年
マディソン、アンガス、金森久雄監訳『世界経済の成長史 1820∼1992 年』東洋経済新報社、2000 年(Maddison,
Angus, Monitoring the World Economy 1820-1992, OECD, 1995)
みずほリポート「金融・財政危機が続くアルゼンチン経済」みずほ総合研究所、2002 年 10 月 3 日
湯川摂子『ラテンアメリカ経済論』中央経済社、1999 年
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18
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Mallon, Richard in corroboration with Juan Sourrouille, Economic Policy Making in a Conflict Society: The
Argentine Case, Harvard University Press, 1975
19
経済危機とその克服に関する現地調査(南米)訪問者リスト:2003 年3 月9 日(日)∼16 日(日)
チリ(サンティアゴ)
Ricardo French-Davis ・国連ラテンアメリカカリブ経済委員会(ECLAC)政治経済主席顧問
Luis Riveros・チリ大学学長
Ignacio Magendzo・チリ中央銀行研究局シニアエコノミスト
Francisco Garces・チリ銀行副頭取顧問
アルゼンチン(ブエノスアイレス)
Carlos Moneta・国際問題コンサルタント
Roberto Bouzas・サンアンドレス大学教授
Enrique Mantilla・アルゼンチン輸出協会会長
Javier Villanueva・アルゼンチン・カトリック大学社会経済学部研究部長
20
図1 実質GDPと牛肉価格、小麦価格の上昇率の相関
100%
80%
50%
冷凍牛肉価格
小麦価格
実質GDP
40%
60%
30%
40%
20%
20%
10%
0%
0%
-20%
-10%
-40%
-20%
-60%
-30%
1952 1955 1958 1961 1964 1967 1970 1973 1976 1979 1982 1985 1988 1991 1994 1997 2000 年
(出所)IMF,IFS
(注)1.1968年の実質GDPは接続していないので、その伸び率を67年と69年の平均とした。
2.実質GDP上昇率と牛肉価格上昇率の決定係数は0.238、実質GDP上昇率と小麦価格
上昇率の決定係数は0.0005である。
図2 アルゼンチン、チリの1人当たりGDPの推移(1990 購買力平価ドル)
100000
イタリア
イギリス
アルゼンチン
チリ
10000
1000
1820
1850
1870
1880
1890
1900
1910
1920
1930
1940
1950
1960
1970
1980
1990
2000
年
(出所)アンガス・マディソン『世界経済の成長史1820∼1992年』東洋経済新報社、2002年
(注)1.1990年ゲアリー・ケイミス・ドル
2.マディソンの推計は1992年までなので、その後は実質GDPの伸び率で補足した。
表3 アルゼンチン、チリと先進国の1人当たり購買力平価GDP比較
イギリス
ドイツ
イタリア
アルゼンチン チリ
ブラジル
1820年
1,756
1,112
1,092
670
対イギリス比
1.000
0.633
0.622
0.382
年平均成長率
1.0%
0.9%
0.2%
1850年
2,362
1,476
711
対イギリス比
1.000
0.625
0.301
年平均成長率
1.6%
1.3%
0.2%
1870年
3,263
1,913
1,467
1,311
740
対イギリス比
1.000
0.586
0.450
0.402
0.227
年平均成長率
0.9%
0.8%
0.5%
1880年
3556
2078
1546
対イギリス比
1.000
0.584
0.435
年平均成長率
1.4%
2.0%
0.5%
2.5%
0.2%
1890年
4,099
2,539
1,631
2,152
772
対イギリス比
1.000
0.619
0.398
0.525
0.188
年平均成長率
1.1%
2.1%
0.7%
2.5%
-0.9%
1900年
4,593
3,134
1,746
2,756
1,949
704
対イギリス比
1.000
0.682
0.380
0.600
0.424
0.153
年平均成長率
0.3%
1.2%
2.7%
3.3%
2.4%
1.2%
1910年
4,715
3,527
2,281
3,822
2,472
795
対イギリス比
1.000
0.748
0.484
0.811
0.524
0.169
年平均成長率
-0.1%
-1.7%
1.0%
-1.0%
-0.2%
1.7%
1920年
4,651
2,986
2,531
3,473
2,430
937
対イギリス比
1.000
0.642
0.544
0.747
0.522
0.201
年平均成長率
1.1%
3.1%
1.2%
1.6%
2.6%
1.3%
1930年
5,195
4,049
2,854
4,080
3,143
1,061
対イギリス比
1.000
0.779
0.549
0.785
0.605
0.204
年平均成長率
2.3%
3.2%
1.9%
0.2%
0.4%
2.1%
1940年
6,546
5,545
3,429
4,161
3,259
1,302
対イギリス比
1.000
0.847
0.524
0.636
0.498
0.199
年平均成長率
0.5%
-2.6%
0.0%
1.8%
1.6%
2.5%
1950年
6,847
4,281
3,425
4,987
3,827
1,673
対イギリス比
1.000
0.625
0.500
0.728
0.559
0.244
年平均成長率
2.3%
7.1%
5.4%
1.1%
1.2%
3.4%
1960年
8,571
8,463
5,789
5,559
4,304
2,335
対イギリス比
1.000
0.9874
0.6754
0.6486
0.5022
0.2724
年平均成長率
2.2%
3.5%
5.1%
2.8%
1.9%
2.8%
1970年
10,694
11,933
9,508
7,302
5,217
3,067
対イギリス比
1.000
1.116
0.889
0.683
0.488
0.287
年平均成長率
1.8%
2.6%
3.3%
1.2%
0.9%
5.5%
1980年
12,777
15,370
13,092
8,245
5,711
5,246
対イギリス比
1.000
1.2029
1.0247
0.6453
0.4470
0.4106
年平均成長率
2.5%
2.0%
2.0%
-2.2%
1.1%
-0.9%
1990年
16,302
18,685
15,951
6,581
6,380
4,812
対イギリス比
1.000
1.1462
0.9785
0.4037
0.3914
0.2952
年平均成長率
1.2%
1.1%
1.1%
4.2%
5.4%
0.8%
2000年
19,068
21,034
18,349
8,562
9,653
5,187
対イギリス比
1.000
1.1031
0.9623
0.4490
0.5062
0.2720
年平均成長率
3.1%
2.9%
2.6%
-2.0%
3.1%
2.9%
(出所) アンガス・マディソン『世界経済の成長史1820∼1992年』
東洋経済新報社、2000年
(注)1.1990年ゲアリー・ケイミス・ドル
2.マディソンの推計は1992年までなので、その後は実質GDPの伸び率で補足した。
表4 アルゼンチンの政権の変化と経済成果
政権
軍政/民政
年代
実質GDP成長率 消費者物価上昇率
ペロン政権(
1946年−1955年)
<1950年代>
ロナルディ政権
軍政
1955年9月−11月
アランブル政権
軍政
1955年11月−1958年2月
フロンディシ政権
急進党
1958年2月−1962年3月
<1960年代>
1961−1970年 1961−1970年
イリア政権
急進党
1963年10月−1966年6月
平均 4.1%
平均 21.3%
オンガニア政権
軍政
1966年6月−1970年6月
<1970年代>
1971−1980年 1971−1980年
レビングストン政権
軍政
1970年6月−1971年3月
ラヌセ政権
軍政
1971年3月−1973年5月
カンポラ政権
ペロン党 1973年5月−1973年7月
平均 2.6%
平均 119.5%
ペロン政権(政権復帰)
ペロン党 1973年10月−1974年6月
イサベル・
ペロン政権
ペロン党 1974年7月−1976年3月
ヴィデラ政権
軍政
1976年3月−1981年3月
<1980年代>
1981−1983年
1981−1983年
ヴィオラ政権
軍政
1981年3月−1981年12月
平均 −1.6%
平均 188.6%
ガルティエリ政権
軍政
1981年12月−1982年6月
ビニョーネ政権
軍政
1982年7月−1983年12月
[民政移管]
1984−1989年
1984−1989年
アルフォンシン政権
ペロン党 1983年10月−1989年7月
平均 −0.8%
平均 471.3%
<1990年代>
1990(91)−1995(94)1990(91)−1995(94)
第一次メネム政権
ペロン党 1989年7月−1995年7月
平均 4.4%
平均 115.4%
(平均 7.9%)
(平均 40.7%)
第二次メネム政権
ペロン党 1995年7月−1999年12月
1995−1999年
1995−1999年
平均 2.1%
平均 0.8%
デ・ラ・
ルア政権
急進党* 1999年12月−2001年12月
2000−2001年
2000−2001年
平均 −2.6%
平均 −1.0%
<2000年代>
2002年
2002年 ロドリゲス・サア暫定政権
2001年12月−2002年1月
平均 -4.5%
-1.1%
ドゥアルデ政権
ペロン党
2002年1月−
(出所)
「金融・財政危機が続くアルゼンチン経済」
みずほリポート2002年10月3日、
ラテン・アメリカ協会『ラテンアメリカ事典』
、IMF,IFS
(注)
*急進党と中道左派の連合体であるフレパソとの連合政権
表5 チリの政権の変化
政権
軍政/民政
年代
実質GDP成長率 消費者物価上昇率
<1950年代>
アレサンドリ政権 無所属
1958年11月−1964年11月
<1960年代>
1961年−1969年 フレイ政権
キリスト教民主党 1964年11月−1970年9月 1961年−1969年 平均 2%
平均 27%
<1970・80年代>
アジェンデ政権 社会主義政権
1970年9月−1973年9月 1970−1972年 1970−1972年
平均 1%
平均 42%
1973年−1976年 ピノチェット政権 軍事政権
1973年9月−1988年10月 1973年−1976年 平均 −5%
平均 363.2%
1977年−1989年 1977年−1989年
大統領選挙・国会議員選挙
1989年
平均 3%
平均 29%
<1990年代>
1990年−1999年 1990年−1999年 エイルウィン政権 中道左派連合政権 1990年−1994年
平均 5%
平均 12%
フレイ政権
中道左派連合政権 1994年−2000年
<2000年代>
ラゴス政権
中道左派連合政権 2000年−
2000年−2001年 2000年−2001年 平均 2%
平均 4%
(出所)
ラテン・アメリカ協会『ラテンアメリカ事典』
、IMF,IFS
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