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延辺調査報告 - 立命館大学

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延辺調査報告 - 立命館大学
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立命館国際地域研究 第 23 号 2005 年 3月
<調査報告>
延辺調査報告
―延辺朝鮮族のアイデンティティと高句麗史をめぐる韓中葛藤を中心に―
徐 勝
8月 30 日 12 時 55 分発の中国南方航空(CZ6074)でソウルを出発、午後2時に延辺朝鮮族自
治州(以下、延辺)の首都、延吉市に到着した。今回中国語通訳を引き受けてくれる院生の厳
太権君が出迎えてくれた。早速、延吉郵政大厦に向かう。ホテルに到着後、多忙をおして延辺
大学校東北亜研究院の朴承憲院長の訪問があった。極めてざっくばらんな好人物で、まず羅先
地区訪問が不首尾に終わったことのお詫びをされ、セミナー全体予定の説明を親切にしていた
だいた。それから、ソウルで偶然に会った、前延世大学校の日本史の教授であり、現在は延辺
パクヨンジェ
大学の歴史学部兼職教授である朴英宰教授と、科学史の専門家であり、韓中関係史の研究のた
キム ギ ヒョプ
めに延吉に定着しておられる金基 協 博士などと夕食(花園食堂)を共にし、延辺事情などを
聞いた。延辺大学の高句麗史の権威、故姜孟山氏の御令嬢、姜寿玉氏(現延辺大学歴史学部講
師)の同席もあって、話題は、最近、中国と韓国の関係を緊張させている高句麗史の認識問題
や「東北工程」1)(後述)へと広がった。
翌、31 日、朝、烟集河のほとりの水上市場に行く。きれいに手入れした食用犬が並んでいる
のが壮観であった。市場で朝食をとって、英雄烈士記念館に向う。記念館は閑散として、教育
を受けるために来ていた人民解放軍の兵士たちしかいなかった。記念館には、抗日戦争、解放
戦争(第2時世界大戦後の国民党との戦争)、抗米援朝(朝鮮戦争)、さらに新中国建設以後の
労働英雄にいたるまで、写真や肖像画、手紙、日記、当時の武器などの関係資料が展示されて
キム イル ソン
チェ ヨン ゴン
キム チェク
カン ゴン
いた。興味深かったのは、さすがに故金 日 成 主席は無かったが、崔 庸 建 、金 策 、姜 建 など、
朝鮮でも抗日パルチザン・英雄として顕彰されている人たちの展示がかなり大きくなされてい
たことと、朝鮮戦争時期に赫々たる戦功によって英雄称号を朝鮮から授与された事が大きく記
されていた中国人民志願軍の戦死者の大部分は、朝鮮人であったことである。
8月に延辺大学で高句麗史に関する研究会があったのだが、北朝鮮からも代表が来ていたと
いう。彼らは研究会終了後、いつものように「満州」の抗日パルチザン戦跡地を見学したのだ
が、従来とは異なり大学側からは案内人を出さなかったという。朝中関係の冷却を示唆するも
のであると考えられる。高句麗史の問題と同じく、共同の記憶を持ちながら、それぞれ異なる
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徐 勝:延辺調査報告
政治主体を形成した中国と朝鮮が東北地域における抗日連軍・抗日パルチザンの歴史を如何に
位置づけるかは、それぞれのナショナルヒストリーとかかわる微妙な問題であり、これまでは、
お互いがお互いのヴァージョンを尊重する形で処理されてきたようだ。しかし情勢の変化によ
っては、一方のヴァージョンを他方に押し付けることになりかねない事が憂慮される。
記念館を後にして、延辺朝鮮族自治州初代主席、朱徳海記念碑に向ったが、英雄烈士墓地の
丘の上にある記念碑は、鉄の防柵で囲まれ鉄門が閉ざされていて、遠くから眺めるにとどまっ
た。昼食時に柳京飯店で延辺警察の某幹部と冷麺を食べながら、延辺の犯罪や事件事情を聴取
できたのは大きな収穫であった。
7年ぶりの延吉市(28 万人)は、5000 台ものタクシーが目まぐるしく走りまわり、以前の
ように人と車は信号や横断歩道を無視して行きかっていたが、大きくさま変わりしていた。新
しいビルディングやマンションが立ち並び、道路の舗装も進んでいた。各所の建設現場で工事
が進められていた。1992 年、韓中国交樹立以降、延辺に流れ込んだ韓国資本の力である。その
ような外形の変化にもまして、私を驚かせたのは、7年前、なんでも朝鮮語で用が足せた延辺
で朝鮮語が通じなくなったことであった。タクシーの運転手も、ホテルの服務員も、食堂のウ
エイトレスも、市場の商人も、散髪屋の従業員も、朝鮮語を解するものはほとんどいなかった。
9月3日午前、地域の元老である「延辺社会科学学会連合会」の皆さんと懇談会を持ったのが、
韓国資本で布爾哈通河畔に建てられた「アリラン・ホテル」であったが、ここでも、「アリラ
ン」の名にふさわしからず、朝鮮語が通じなかった。
80 万人といわれている延辺の朝鮮人人口は減少傾向をたどり、すでに延辺総人口の 40 %を
下回り、この趨勢が続けば、2020 年までには 20 %をきると予測されている。最近、
「東北工程」、
高句麗史の認識をめぐって韓中葛藤が深まる中、このような現象を韓国では中国政府の「少数
民族抹殺政策」、「漢化政策」と非難する声が高い。確かに、中国政府は他の辺疆地域と同じく
東北の要衝を強力に掌握する意図を持っているにちがいない。延辺でも朝鮮族の間から、「漢
族優遇政策」に対する不満の声がなかったわけではない。しかし延辺人民出版社編集部長、柳
然山氏や延辺大学関係者は、そのような「政策論」を否定する。つまり、経済的誘因が延辺朝
鮮族の流出を促していると言うのだ。正確な統計は手元にはないが、18 歳から 40 歳までの延
辺朝鮮族女性の 60 %が他地域に移動したという。つまり、主には韓国(韓国には 10 万人以上
の延辺出身者を中心とする中国朝鮮族が合法・非合法の形で滞在する)、そして日本、北京、
上海などに花嫁として、労働力として、さらには風俗産業の働き手として出て行ったという。
男性の出稼ぎ人口も相当なものである。このような自治州の朝鮮人空洞化現象を受けて、漢族、
さらには豆満江を越えて朝鮮からの人口流入が続いていると説明する。
ソウルから延吉に飛ぶ飛行機で隣に乗り合わせたのは、若い夫婦であった。女性は身ごもっ
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立命館国際地域研究 第 23 号 2005 年 3月
ているようであり、その夫は親指に包帯を巻いていた。8年ぶりに延吉に里帰りだという。
『8年稼いで、故郷に錦を飾るんですね』ともちかけると、包帯をした指を見せながら、『金も
うけ? このざまですよ。もういやになってね。帰るんですよ』。プレスに押しつぶされた親
指が延辺朝鮮族のコリアン・ドリームとその挫折を凝縮していた。
カンウォン
ヨンウォル
中国から韓国に戻って、韓国で最も辺鄙な山奥である江 原 道寧 越の近くをバスで通り過ぎ
た時だった。道路ぎわの大きな看板が目についた。「国際結婚相談所」の看板である。『この山
奥に国際結婚とは?』と、一瞬、目を疑った。しかし、看板の下のほうに中国、モンゴル、フ
ィリピンと書かれているのを見て、納得した。嫁のなり手がなく年老いてゆく韓国の農民に農
村花嫁を斡旋する人身売買まがいの商売がこんな僻地でも繁盛しているのだ。
延辺でタクシーの運転手は、朝鮮からの女性の「脱北者」が延辺に定着するのは難しくなく、
農村で子供を産んでやるといえば、年老いた独身農民は大歓迎だという。かつて延辺の農村で
は、漢人村と朝鮮人村がはっきりと分かれて「棲み分け」が行われてきた。衣食住が異なり、
農事の方法も異なる。漢族は黒牛、朝鮮族は飴牛と、飼う牛の種類まで異なり、生活習慣も異
なる。だから、かつては漢族と朝鮮族の通婚は稀であった。しかし、女性が少なくなった延辺
では、やむをえなく、漢族の女性を嫁に迎え入れる事例が増加しているという。単純化して言
うなら、漢族+(北)朝鮮人→延辺→韓国→日本と、農村結婚適齢女性の流出という人口移動
の玉突き現象が明らかである。またこのような移動の影には、犯罪組織によるコンテナーや漁
船での密入国のみならず、高額な紹介費や斡旋料の名の下に女性を債務奴隷的な状況に置き、
意に染まぬ結婚を強要したり、売春を強要したりする「人身売買」が行われているものと思わ
れる。
さて、9月 2 日、私は経済チームとは別個に、厳太権君と白頭山(中国での呼び名は長白山。
2,744m)に登ることになった。10 年前、初めて延辺を訪れたおりに白頭山を訪れた事がある。
しかし時期は4月 30 日、山頂は氷で閉ざされ入山禁止となっており、氷結した長白瀑布を見
て引き返さざるをえなかった。今度は再挑戦である。
白頭山は朝中国境にまたがる朝鮮半島と中国東北での最高峰である。巨大な休火山の一部で
は、まだ火山活動が続く。噴火口湖である天池(南北 4.85km、東西 3.35km、周囲 13.11km、
海抜 2194m)を将軍(兵使)峰など 16)の峰がとり巻き、8,000km2 にわたる広大な溶岩台地が
裾野を形成する。白頭山は中国東北に興った女真族や満州族の聖山であった。また朝鮮でも白
頭山は、開国の祖である「檀君」の降誕の地とされており、神話にまつわる聖山である。日本
の植民地支配下においては、抗日武装闘争の舞台として朝鮮人の間では畏敬の念をもって語ら
れてきた民族の象徴である。
延吉から白頭山まで、タクシーで片道約3時間を要するという。朝、5時にホテルを出発し
た。以前は、龍井から和龍に豆満江沿いに、非舗装の道を片道4時間半ほどもかけて、走った
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ものだが、延辺から敦化、吉林を経て長春に抜ける高速道路を途中、安図から左折して、長白
国立公園の入り口である二道白河まで片道約 250 キロの道は有料であったが、見事に舗装され
ていた。二道白河から白頭山山頂までは約 40 キロ、すでに色づきはじめた白樺などの落葉樹
に縁取られた舗装道路辺には、所々に韓国資本によるホテルや白頭山のトラを放し飼いにした
サファリなどが立ち並んでいた。「長白山」の額をかけた門をくぐって、国立公園入口では 40
元の入場料を徴収された。
やがて天文峰頂上への登り口に到着したのは、9時をまわっていた。ここから白頭山天池へ
のコースは二つである。ひとつは「天池」の扁額を掲げた朱塗りの牌楼をくぐって、許可され
た登頂用の4輪駆動車が客を運ぶ約7キロのコースであり(料金は 200 元)、もうひとつは、
牌楼の前を通り過ぎて、温泉を経て長白瀑布の横を登る約5キロのコースである。二コースと
もに挑戦することにし、まず天文峰へと向った。麓では晴れていたが、頂上付近は雲と霧に閉
ざされており、強い風が吹きすさんでいた。雲が引きちぎられ青空がのぞいたかと思うと、ま
た深い霧に閉ざされ横なぐりの雨まで吹きつける変幻自在の荒れ模様であった。車が羊腸の険
道を登るにつれて、道端には積雪が見られるようになった。前日(8月 30 日)、白頭の峰に初
雪が降ったという。例年は9月 15 日ころに初雪が降るというが、白頭はすでに冬の入り口に
さしかかっていた。約 20 分で車は頂上の駐車場と管理事務所のある地点に到着した。そこで
は気温は零下に下がり、みぞれ交じりの狂風が吹き荒れ立っているのも困難なほどであった。
セーターとコートを着込んでいても耐えられない寒さであった。足元を見透かすように、分厚
い毛の裏地のついた人民解放軍の冬外套をトラックに山積みにして、登頂客相手に1着 50 元
のべらぼうな賃料で貸し出していたので、泣く泣く借りて重ね着したが、震えがとまらなかっ
た。駐車場から 200 メートル余り、山頂までは胸突きの急坂であった。がけっぷちには柵も手
すりもなく、足を踏み外せば、霧が渦巻く数百メートル下の天池までまっ逆さまである。空気
が希薄なせいか一足踏み出すごとに心臓が踊り冷汗が流れる。そこを漢族とおぼしき老若男女
が嬉々としてはしゃぎながら登っていくのには驚いた。朝鮮人にとって聖なる山は、漢族には
観光名所に過ぎないのだ。頂上とおぼしきところは濃霧に巻かれて視界不良。仕方なく 10 分
余り、風に背を向け吹き飛ばされないように踏ん張って、霧の切れ目が現れるのを待ったが、
下山を余儀なくされた。
登り口まで戻り、そこから長白瀑布の方向に道をとった。ほんの 4、500 メートル歩くと、
黒風口の崖下から温泉が湧出しており、韓国資本の投資による天上温泉ホテルの前を通り過ぎ
ると、まもなく長白瀑布公園の入口があり、ここでも 45 元をとられた。至る所、料金徴収所
である。道は長白瀑布まで、天地から発する通天河の河原ぞいに平坦な道が続き、滝つぼの横
から高さ 68 メートルの瀑布の右岸壁をくりぬいた、目もくらむような数百段の階段が続く。
この階段も韓国資本によって作られ、公園の入場料は中国側と折半されるという。階段を登り
つめると、天池のほとりまで、また道は平坦になった。天池に到着すると、黒い火山礫の小さ
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な浜辺があり、水は清らかであった。小さなテント掛けの売店の前方、水際の「天池」という
石碑の横には、「ここで写真をとる人は2元」と書いてあった。幸いなことに、20 分ほどする
と、風が霧を運び去り、対岸の朝鮮側を眺望する事ができた。朝鮮と中国にまたがる天池は、
1962 年、当時の金日成首相と周恩来総理の間で国境画定の合意がなされ、55 %は朝鮮に、
45 %は中国に帰属している。
帰りに温泉で汗を流し、山から下りて、二道白河で遅い昼食をとった。江源食堂という清潔
な朝鮮食堂である。ここは旅館をかねており、一泊2∼ 30 元の低廉な価格で、韓国からの団
体客に宿所を提供しているという。昼食をとって、120 キロほどの猛スピードで一路延吉に向
った。白頭山の裾野ははるかに視野を広げ、ゆったりと広がり、道を挟む原生林はもう初秋だ
というのに、初夏のように透明で清潔な香りたつ緑のこずえをそよがせていた。往復 575 キロ
メートルの旅程をこなして、延吉に到着したのは6時過ぎであった。
白頭山登頂を通じて印象的であったことは、延辺とセットになった白頭山観光開発における
韓国資本の圧倒的優位と、従来、民族の聖山として韓国人の訪問者が多かったが、中国経済の
躍進にしたがって、観光目的の漢族の訪問者が著しく増加している点である。
2003 年、中国は韓国の輸出先の第1位を占めるようになった(中国 351 億$、米国 342 億$)。
中国では韓国ブームを意味する「韓流」が、韓国では中国ブームを意味する「漢流」が奔騰し、
空前の蜜月を作り出した。しかし、昨年、韓国で漢流は「寒流」に一変した。4月に中国外務
省はホームページの韓国紹介コーナーの古代三国の部分から高句麗を削除した。韓国政府は7
月 14 日になってこれに気付き抗議をしたが、高句麗を中国の地方政権として位置づけている
中国は抗議を受けて、8月5日、逆に高句麗のみならず古代三国を全部削除してしまった。こ
れに、韓国の世論は激昂し、いわゆる、「高句麗史の認識」事件が本格化し、空前の反中国感
情が蔓延した。三国史の削除に対して、韓国では中国の大国主義的歴史認識が台頭するのでは
ないかという憂慮があったが、古代史削除に対する韓国の抗議を受け入れなかったので、8月
ノ
ム ヒョン
8日、盧武 鉉 大統領は大統領直属の東アジア委員会に韓国、中国、日本の歴史の包括的研究
を指示した。
チェ ヨン ジン
8月 23 日、中国の武大偉外務次官が訪韓し、崔 英 鎭 外交通商部次官との深夜交渉の結果、
高句麗史認識問題に対する5項目の口頭了解事項の合意に至った。
①中国政府は高句麗史問題が重大懸案として台頭していることに留意し、②両国は歴史問題で韓中
友好関係が損なわれぬよう努力し、92 年8月の韓中国交共同声明、および 93 年7月の両国首脳共同
声明にしたがい全面的な協力・同伴者関係の発展のために努力する③高句麗史問題の公正な解決を
図り、必要な措置をとり、政治問題化するのを防止する。④中国は高句麗史記述に対する韓国側の
関心に理解を表明し、必要な措置をとり、⑤両国間の学術交流を迅速に進める。
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問題の発端である中国外務部ホームページから削除された高句麗史の原状回復という韓国側
の要求は容れられなかったが、事態の過熱化現象を沈静させようとする両国政府の意思は確認
された。
その後、賈慶林政治協商会議主席が胡錦濤国家主席の口頭メッセージを持って訪韓し、盧武
鉉大統領は高句麗史歪曲に対して「遺憾」を、賈主席は「留意」を示した。また、ベトナムの
ハノイで開催された ASEM で 10 月7日夜、盧武鉉大統領は温家宝総理との面談において、高
句麗史問題が両国の友好関係に悪影響を与えぬ方向で解決するよう意見交換をおこなった。
チョ ジョン テク
しかし、韓国では中国が合意を守っていないという不満が鎮静したわけではない。崔 鍾 澤
高麗大学教授は、中国文化部関係の「中外文化研究」9月号には、「高句麗は中国東北地方で
生活していた古代少数民族政権」としており、中国人民教育出版社のホームページの「歴史知
識」というコーナーでは、高句麗を中国史として描いていると批判している。(ハンギョレ新聞
インターネット版、04/10/7http://www.hani.co.kr/section-001005000/2004/10/001005000200410072043168.
html)
この時期に中国が高句麗史の問題を持ち出した背景についてどのような解釈が行われている
かについて、9月3日の「延辺社会科学学会連合会」との懇談会で、延辺社会科学院院長の金
鍾国主席は韓国などからこの問題を見る視点を次のような4点に整理した。①大中華主義的覇
権主義による膨張指向。②北朝鮮情勢が流動化し第三者(アメリカ)の介入の可能性が高まる
か、韓国主導での統一の可能性が強まった時、中国による介入の根拠を作る。③東北 3 省地域
で朝鮮族の動揺を防ぎ朝鮮半島統一以後、朝鮮族が高句麗史を根拠に中国からの分離独立運動
を繰り広げる事態に備えた策。④将来に韓国から提起されるかもしれない 領土問題に対する
イムヒョクペク
備え。また、高麗大学の林 ● 伯教授は以上の理由以外にも、「中国は韓国の東北アジア中心国
家論を東北アジア地域で韓国の覇権構築の試みとして誤解して、これに対応する中国版東北ア
ジア中心国家戦略の一環として東北工程プロジェクトを試みている」と主張している。金鍾国
院長は、結論的にこの問題は政治ではなく学術にゆだねるべきであると、中国政府の立場を伝
えた。
高句麗史の認識、「東北工程」をめぐって、韓国の新聞雑誌では北朝鮮崩壊シナリオと中国
軍の北朝鮮進駐、あるいは親中国派の朝鮮人民軍による政権奪取などの記事がおどろおどろし
く紙面を飾っているが、韓国と中国は、経済面ではいまや切り離すことのできぬ東北アジアの
パートナーとして相互を認識しており、文化・社会、安全保障にいたるまで益々関係を深めて
いるなかで、北朝鮮占領シナリオが南北朝鮮の強力な反発を買うのは火を見るより明らかであ
り、中国にはなんら利益はない。したがって、上記、②③のようなシナリオを考えることには
無理があり、中国の内部的な要因を考えてみるべきであろう。
開放改革以来、珠江デルタ、長江デルタ、平津地区の三地域が長足の発展を遂げたのに比べ、
かつての中国における工業先進地域であった東北は重厚長大の産業を中心としてきており、そ
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れすらも老朽化した。そこで登場したのが大連など東北南部への大規模投資と整備を内容とす
る「東北振興工程」であった。また、沿海地域と内陸のとてつもない経済格差を是正すること
と、国境地域の安定を図るという安全保障上の考慮から、三大辺疆地域の開発が進められてき
たが、西北(新疆、西部内蒙古)、西南(ティベット、雲南、広西)開発プロジェクトはほぼ
終了したので、東北(遼寧、吉林、黒竜江、東部内蒙古)に着手したという。要約すると、中
国全土の均衡発展と強力な国土統合(統一多民族国家)を目指すプロジェクトの中に東北工程も
位置づけられているといえよう。
パクジュン ウ
韓国外交通商部の朴 俊 雨アジア太平洋局長は8月 18 日、中国政府が最近、在外同胞法に基
づく朝鮮族らに対する優遇措置や中国東北地方が韓国に帰属すべきだという民間人の主張、宣
教師らの「不法宣教」などを不満とし、「これらが、中国が進めている東北工程の背景である
可能性があると見られる」と述べた。確かに、延辺は韓国の植民地の感を呈している。韓国資
本の進出もさることながら、昨年の延辺への海外送金は6億 5000 万$で州政府予算の 1.5 倍に
達する膨大なものであったが、ほとんどは韓国に出稼ぎに行った朝鮮族からのものであると思
われる。海外送金や出稼ぎの所得が延辺に還流して、カラオケ、マッサージ、飲食店などの消
費経済のあだ花を咲かせている。韓中国交樹立の初期には、中国朝鮮族への同胞愛の表出や経
済的な豊富さに目を奪われ、延辺に韓国ブームが風靡した。現在も、家々ごとに衛星アンテナ
を不法に装着し、韓国のテレビを視聴し韓国のメディアの強い影響を受けている。韓国の流行
や動向に精通しており、韓国の政治に対しても当事者のように熱を上げて口角泡を飛ばす。私
が会った延辺朝鮮族はいずれも熱烈な盧武鉉大統領支持者であった。しかし、延辺に群れ集ま
ってくる韓国人の中には、詐欺師、犯罪人、ファナティックな宗教家のような延辺朝鮮族を食
い物にする者や、「持てる者」として何らかの優越感を持ったり、「満州は我が物」という時代
錯誤的な民族主義の説教を垂れたりする者たちがいる。他方、韓国では、同胞と言いながら、
延辺朝鮮族は二等国民あつかいをされ疎外感を強く感じて、韓国に対する反感を強めている。
中国国籍を保有し中国人としてのアイデンティティを持つ彼らを動揺させる「海外同胞法」や、
清による延辺地域(旧間島省)領有を日本が認めた「間島協約」(1909 年)の不法性を主張し、
無効決議をしようとする韓国国会での動向など、中国は頭を痛めており、韓中の間に板ばさみ
になった延辺朝鮮族の困惑は深まるばかりである。
さて、それでは高句麗史の中国史への編入を企図したとして非難の対象となった、『東北通
史』(以下、通史)を検討してみよう。この本は、2003 年1月に河南省の鄭州の中州古籍出版
から出版された中国辺疆通史叢書(馬大正総主編)の一本である。ちなみに、叢書は中国辺疆
経略史、中国海疆通史、東北通史、北疆通史、西域通史、西蔵通史、西南通史からなっており、
辺疆地域を中国史と中国の領域に確実に位置づける事を意図しているものと考えられる。
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叢書総序で馬大正は、中国を「統一多民族国家」と規定し、次のように述べている。「中国
は歴史の過程で形成された統一多民族国家である。中国概念の変遷は中国が多民族国家を統一
した歴史的産物である」(通史 p1)。辺疆は歴史の過程で中国へ融合・同化し、中華意識を増
強してきた。蒙古族が元朝を建てた事は少数民族による全国統一の先例を作り、清は 176 年を
かけて中国の辺疆を定める歴史的使命を最終的に完成し、基本的に今日の疆域の範囲を形成した。
つまりこのような主張は辺境諸民族が中華を侵略して君臨しても、儒教文化の水圧を受けて
漢化してきた歴史を前提にして、漢族優位の歴史形成を説くものである。一般に、帝国は侵略
を通じて拡大・膨張するのであるが、中国の場合は侵略されることによっても、その版図を拡
大してきた世界史の中でも稀有な性格を持っている。漢にしても唐にしても中国歴代王朝の民
族的出自は非漢族であるという説が有力であるが、かつて中国史で最悪の侵略者として位置づ
けられてきた元、清が中国史の最大の貢献者になるわけだから身勝手といえば、身勝手である。
中国の「文化主義」「文化帝国」とも言える儒教文化による異民族の統合を歴史学者の中には、
従来、平和主義的なものとして捉える傾向があった。確かに、血なまぐさい武力侵略よりはよ
いとも言えるかもしれないが、辺疆が絶え間なく中原に統合されてきたという論理に従うなら、
朝鮮やベトナムのような立場からは不安感を感じざるを得ない。
韓国大統領直属機関としておかれた高句麗研究財団の主催で、上記、韓中の合意にのっとっ
て、9月 16、17 日、ソウルにおいて高句麗史第一回国際交流シンポジュウムが開催された。
それを「ハンギョレ新聞」(04/9/17)は「韓−中、高句麗史学術交流初顔合わせ‘冷え冷え’」
という見出しで報じた。孫進己瀋陽東亜研究センター主任は、「その土地・人民・文化が現在
どの国に属しているかによって継承国が決定される」として、その(高句麗)故土の3分の2
を占める中国が最も重要な継承者であると主張した。さらに孫紅同センター研究員は「高句麗
史を韓国史の一部と主張する根拠はない」と、さらに強硬であった。
中国は、一方では、ロシア、インド、東南アジア諸国と数万キロにわたって国境を接し、さ
まざまな国境紛争を経験してきた。他方では、少数民族の民族主義と独立・分離運動に悩まさ
れてきた。したがって、辺疆問題に極めて敏感であるのは、当然であろう。しかし、統一多民
族国家の名の下に無限定的に統合と膨張の指向を持つならば、東アジアの国際関係は緊張し、
その情勢を益々複雑なものにしてゆく事が憂慮される。
<注>
1)中国では、1999 年に東北師範大学「東北民族と疆域研究中心」と中国社会科学院辺疆史地研究中心が
共同で中国社会科学院「中国辺疆地区歴史と社会研究東北工作站」を東北師範大学に設置して、上記
「東北民族と疆域研究中心」の担当者が 2000 年に「東北歴史と社会に対する研究を強化すべき」とい
う提起を行った。提案に対して胡錦濤当時副主席の承認(批示)を得、2001 年から準備し、2002 年2
月から 2006 年まで、中国社会科学院辺疆史地研究中心が主管し、1500 万人民元(約2億円: 1000 万
人民元は国家財政部から、500 万人民元は中国社会科学院・遼寧省・吉林省・黒龍江省が 125 万元ずつ
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分担)の予算で、東北三省との5年間の共同プロジェクトである「東北辺境の歴史と現状シリーズ研
究工程(東北邊疆 史與現 系列 究工程)」(「東北工程」と略す)が進められてきた。やや紛らわ
しく、混同される場合もあるが、「東北工程」は、重厚長大の、しかも老朽化した中国東北の重工業
を中心とした経済にてこ入れするために構想された中国東北部従来型工業基地再開発計画、すなわち
「東北老工業基地振興工程」(東北振興工程)とは別物である。
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