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光のある間に……

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光のある間に……
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ヨハネによる福音 45
光のある間に……
12:20-36
読んで頂いたくだりは、ヨハネ福音書にしか無い、とても不思議な記録で
す。最初に、数人のギリシャ人が「イエスにお目にかかりたい」と言って、
訪ねてきます。このギリシャ人たちは多分、イエスに会って直接、話を伺っ
たのでしょうが、そちらの方の話は全部カットしてあって、その代わりに、
その人たちの来訪を、イエスが何か合図のようにして、「自分は一粒の麦と
して、地に落ちて死ぬのだ」と言い出されます。
第二に、イエスの短い祈りに応えて、天から父のお声が響くのです。イエ
スご自身は確かに、天の父の声として受け止めなさったが、周りにいた群集
には、青天の霹靂―雷鳴に聞こえただけであったと……これは真に不思議
な出来事でした。この時のイエスの様子を観察していた人だけは、「天使が
イエスに語りかけたのではないか」と感じたのです。
第三に、その雷鳴のような響きを聞いてからイエスが、「人の子は地から
上げられる」という言い方で、明らかに自分の死のことを言いだされたとい
うのです。ショックを受けた群集は、「メシアは永遠に生き続ける方で、死
んだりする筈は無い」と教えられてきたのに、あなたの言う「人の子」はメ
シアではないのか!」と詰め寄ります。ヨハネの書いた文章を区分すればそ
の三つ―三場にまとめられる箇所です。
特にこの 28、29 節にある「青天の霹靂」の場面は、私に色々なことを考え
させます。人生には、いろいろな「霊的」な出来事が起こります。「霊的」
というのは、それを通して“命の息吹”を受ける経験をするという意味です。
その出来事に、天からの重大な語りかけを聞いて、そこから神に近づく人も
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あれば、単に「雷鳴だ。騒音 140 フォンか!」と言って、「ああビックリし
たなァ」で通り過ぎる人もあります。例えば人の死に遭うこともあれば、自
分の失敗や人生の悲しみに出会って、ショックを受けることもあります。た
だ、その度に騒音計の針が振れるだけの人は多いのです。「今のは 140 フォ
ンだ。かなり大きいぞ」と。その雷鳴の部分を先に引用します。
29.そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者た
ちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 30.イエスは答えて言わ
れた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのため
だ。 31.今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32.わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよ
う。」
こんな観察をしましたけれど、これは決して「この時はただの雷が鳴った
のを、イエスが主観的に意味づけしたもの」と、お取りにならないで下さい。
ヨハネの書き方から見ても、確かに天の父の言葉と意思がイエスに伝えられ
たのですが、大方はそれを「雷鳴」と聞いたのです。
20.さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、
何人かのギリシア人がいた。 21.彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィ
リポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼
んだ。22.フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、
イエスに話した。
現実はヨハネやヤコブの耳には、何が届いたのか……興味あるテーマです
けれど、福音史家は詳しくは語りません。ただこの時の雷鳴を境にして、イ
エスの話し方が一変して、「人の子は死ぬ。麦の粒が地に落ちるようにして、
埋められる……いや、地から上げられるのだ」という一点に絞られてゆくと
聞こえた。「死ぬ、挙げられる、栄光を受ける」と、専らそんなことを口に
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されるようになった……と。
1.ギリシャ人の来訪にイエスは何を見たのか. :20-27.
「祭で礼拝するためにエルサレムに来ていたギリシャ人」というのは、ギ
リシャ語訳の旧約聖書に兼ねてから親しんで、ユダヤ人の宗教を学ぼうとし
ていた人たちです。使徒言行録の 8 章にはエチオピア人の高官が出てきます
が、あの人はイザヤ書の巻物を買って、砂漠の道を車で進む間も、外に聞こ
える声を出して朗誦していました。この「ギリシャ人」たちも、羊皮紙の巻
物を通して、モーセと預言者に触れていたのかも知れません。「ペサハ」の
祭(過越)には、神殿の異邦人の庭まで来て礼拝したものと思われます。ヨ
セフスのユダヤ史によると、この時代にはユダヤ人の聖書から学ぼうとした
ギリシャ人はかなりの数に上りました。
ヨハネは明らかに、このギリシャ人の来訪に、一つの象徴的な意味を見て
います。と言うよりイエス自身が、ギリシャ人を通して世界の果てまで見通
された―日本も中国もフィリピンも含めて― 一瞬見通された、と言って
いいでしょう。世界のかなたまで―インド人も朝鮮人もその先の人たちも
含めて―自分が与えるものは何か……それをはっきりと見通されたのだと
思います。それは決して、高い道徳律の勝れた教えでは無かった。イエスは
この時ひとつのことだけを、見つめておられたのです。23 節以下からそれが
分かります。
23.イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 24.
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままで
ある。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ここには「死」と「栄光」が二重写しになっています。そして、イエスの
死が多くの命を生むということが、種粒の比喩で語られます。麦の粒が地に
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落ちて「死ぬ」という意味は多分、麦が元の種粒としては、形が崩れて消え
てゆくことを、この言葉の絵で表わしたものでしょう。
崩れて消えた麦が新しい麦の粒を、無数に生み出すように、イエスという
種粒は、罪に死んだ個人の魂に命を注いで、生きた人を作ります。死の向こ
う側まで突き抜ける豊かな命を与えるのです。ただそれには、人の子の死が
必要でした。「私はただそのことのために来た」と。
次の 2 行の意味がお分かりになりますか? 「自分の命を愛する」というの
は、自分という罪を持ったままの存在に、少しも矛盾も悲しみも感じないで、
このまま後生大事にエンジョイし尽くしたい。人生はこれしかない! そう言
って、このままの生き方を終りまで続ける……という人が「自分の命を愛す
る者」です。
これと反対に「自分の命を憎む人」というのは、この罪に死んでいる自分
に「白けて」、その悲しい結末を見通している人です。「憎む」はヘブライ
的誇張表現で、「執着しない」、「後生大事にしがみつかない」ことを表わ
します。罪のまま腐り続ける自分の姿に「見切りをつける」ことです。その
「自分の命を憎める人」は、その罪と死を処分した方に自分の身を委ねて、
命の源に繋がることができます。
25.自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、
それを保って永遠の命に至る。 26.わたしに仕えようとする者は、わたしに
従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることに
なる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
「永遠の命」は無限に続く“endless”な存在のことではなく、来世まで突
き抜ける生命力で生かされる現実です。本講第 12 の「光に向かって来る人へ」
では、この慣例的訳語「永遠の命」の真義を解説しました。「エオーニオス」
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(エオンを貫きエオンに跨る)の「エオン」についても説明し
ています。教文館版の私の辞書「新約聖書ギリシア語小辞典」第2版では、
の項との項に語義の補足があります。
このあとイエスは、激しく心を動揺させながら、自問自答されます。前の
「口語訳」は、句読の切り方を誤ったために、「わたしをこの時から救って
ください」が祈りになって、後の「わたしはまさにこの時のために来たのだ」
という確信と矛盾します。27 節の最初の『』と『』の意図が食い違って、イ
エスがどちらを本気で祈られたのかが分からなくなります。新共同訳と新改
訳のように読むのが良いでしょう。
27.「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救
ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たの
だ。―『この時から救ってください』は、父への懇願ではなくて、最後の
決断と確信を強める「自問」の形の前置きです。
2.イエスは何を祈り、父は何を応えたのか?
:28-33.
このとき聞こえた大音響は、単なる雷鳴ではなかったのです。これはイエ
スの真剣な祈りへの、父の確かなお答えと保証でした。
28.父よ、御名の栄光を現してください。」
「御名を輝かしてください」の意味を、新共同訳
は正確に表わしました。天の父の権威、命の源である神がいかに力を顕すか。
そのお力で人間をどこまで清く強いものに変えてしまわれるか―それが取
りも直さず、御名(聖なる神御自身)の栄光です。それがこの六日間で極限
まで「現される」のです。それがどんな形で現されるのかを、イエスはすで
に見通して御存知なのです。「栄光」は目の前の、人の目には「悲惨な死」
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と重なっています。イエスは「その死に向かって私は進みます」と、腹を決
められた。その確信と告白が、「父よ、御名の栄光を現してください」でし
た。自問の前置きを除けば、これは立った一言の祈りです。
とヨハネは五つの単語に訳しましたが、イエスのお口から洩
れたヘブライ語は、「アバー・ハクベード・エトシムハー」$'m.v-ta,
dBek.h; aB'a;
と、もう一つ簡潔だったのでしょう。その一事だけを、イエスは死を見据え
て祈ったのです。それほどの、世界の罪を全部引き受けた、宇宙大の祈りで
す。その祈りに対する答えもまた神聖の極み、雷の音に聞こえただけでも「も
ったいない」くらいです。
すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を
現そう。」
このあとイエスは、どのような死に方で死ぬのか、それを 32 節の言葉で言
明されたとヨハネは言うのですが、この 32 節に重なって写っている「上げら
れる」という二つの絵がお分かりですか……?
32.わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せ
よう。……「地面からズリ上げられる」のです。イエスは地面に足が届かな
いような、ブラブラする所へ吊るされて死ぬことと、地から天の栄光へ上げ
られることとを、二重写しにして表現されました。
3.群集の美しいイメージを壊したイエスの命令. :34-36.
群集のイメージというのは、「キリストは不死身だ」ということです。
33.イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言わ
れたのである。 34.すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によ
って、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の
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子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の
子』とはだれのことですか。」
「メシア」は新約本文中で普通は「キリスト」と訳される慣例です。新共
同訳はイエスが「旧約聖書に予告された救い主、神自らが任職の香油を注い
で派遣した者」(であるか否か)という箇所では、翻訳する代わりに音訳し
て「メシア」という、元のヘブライ語の音を保持した単語に訳した箇所(使
徒 2:36 等)もあり、訳し分けの意図は分かりますが、統一がありません。
ここはその一例で、原文「クリストス」,訳語が「メシア」です。群
集とイエスの鋭い対立を背景に訳してあります。
最後の 5 行は結局、この人たちが期待した美しいイメージを破壊して、
「そ
れとは似ても似つかぬメシアである私に、あなたの全信頼を投ぜよ。その人
にだけ、死をつき抜いて続く命を与えよう」と言われたのです。大胆も大胆、
極端も極端。すべての宗教熱心者を幻滅させ、激怒させるような発言を敢え
てされました。自分を光と断言する 35,36 節です。
35.イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗
闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者
は、自分がどこへ行くのか分からない。 36.光の子となるために、光のある
うちに、光を信じなさい。」
「歩く」は一つのはっきりした生き方を表わす絵です。ギリシャ語でもヘ
ブライ語でも共通(,%l;h' )ですが、罪と死に呑まれてしまわ
ないような、全く新しい生き方で歩き始めねばならない時が今だ。しかも、
光はもうすぐ去ろうとしている。
イエスの十字架の死までの時の切迫のことです。その緊急の時にも拘わら
ず、今の暗黒の生き方に慣れてしまえば、行く先を誤る……というのが 35
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節の後半。36 節では、その光が目の前にある間に、はっきりした生き方で「歩
き出す」―民族の解放者と全く異なる真のメシアを受け入れて、そのメシ
アにあなたの全信頼をおくことだ!―これは単なる教師や宗教家に言える
言葉ではありません。すべての人の生き死にを支配する“神の息”そのもの
である方にだけ言える言葉です。
「光の子」sons of light という熟語は、同時代のユダヤ教の修道院から出
土した文書に使われています。「ベネー」-ynEB.(sons of)はヘブライ語特有
の言い方で、「~の性質を持つ者」を指す強い表現です。「知恵の子」、「滅
亡の子」、「不従順の子」、「平和の子」等の用例が多く見られます。「光
の子」は光を受けた者、光の性質を頂いている人ひとの意味で、「暗闇の子」
つまり罪と暗黒の性質を受け継ぐ者と対立します。
イエスが言われた「光の子ら」(光の息子たち)が、例えばクムランの死
海文書に出てくる意味と決定的に違うところは、死海のユダヤ教修道院の用
例では、お互い修業して、励まし合って、少しずつ段階的にその sons of light
になって行こう……光の性質を身につけて、「暗闇の息子たち」、「悪の息
子ども」と対立するビジョンを表現します。
イエスが言われた「光の息子たち」sons of light はしかし、人は修業して
「光の子」になって行くのではなく、一生一度の決断で決定的に光の所有に
される―光に生んでいただいた息子たちになるのです。それは決定的な飛
躍・変身だと言うことを、「~になるために」という、日本語には
訳し切れない強い言葉に込めて、宣言されました。後に律法による「人の義」
ではない、信仰で一方的に受ける「神の義」を掲げたパウロは、イエスのこ
の一言と繫がっているのです。
《 纏めと勧め 》
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「光のあるうちに」は、この宣言をイエスの口から聞いた人たちを考える
と、ナザレのイエスが「去られる前に」の意味に受け止められますが、本当
は、このヨハネの福音をいまお読みになっている「あなたに、その光が見え
ているうちに」です。その光をしっかり見て信じ、光に自分を委ねて「歩き
始める」決断の機会がある間に……ということです。
「いましばらく」という一句は、受け取る人によっては、「もう暫らく余
裕がある」と取れますが、の響きはむしろ、「あと僅か
しか時間は無い」ことです。信じて光に委ねることのできる機会は、まだま
だに三年先にある、と思えることもあるし、「今しかない。」それは永遠に
去る! ということでもあります。ヨハネの福音書が読者に伝える緊急の信号
です。もし、時機が熟していれば……ですが。
(1986/12/07)
《研究者のための注》
1.「ギリシャ人」(:20)は文字通り(民族・文化的に)ギリシャ人と受け止
めました。ユダヤ教への改宗者と見る人もいますが、改宗者ではなく、
ユ ダ ヤ 教と の 繋が り から は、 む し ろそ の 前の 段 階の 敬神 家  ま た は
と呼ばれる求道者と思います。なぜフィリポに取次ぎを頼んだかについて
は、がギリシャ名という以外にヒントはありません。彼が特にギリシャ語
が流暢であったか、ギリシャ人との接触が多かったかとも思えます。名前を言うなら
ば、使徒中ではもギリシャ名です。
2.「父よ、この時から私をお救いください」は、新共同訳や新改訳のような自問と見て、
祈りの一部とは受け取りませんでした。しかしゲッセマネではマタイ 26:39,マルコ
14:36,ルカ 22:42 にあるように、「御心ならば、この杯を私から取り除けてくださ
い」と祈っておられます。27 節の真ん中の部分が祈りであったのか否かは、解釈者の
見方にもよりますが、このが祈りであったとすれば、
Tasker は Help me to come safely out of that hour. の意味に取るのべきであろう、
と言っています。
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3.「憎む」(:25)はもちろんギリシャ語ですけれど、使徒たちのユダヤ的背
景から考えて、ヘブライ的修辞と解しました。この意味での代表的用例はマラキ 1:2,
ローマ 9:13 に見られます。
4.「光の子」になるのは、徐々に段階的になって行くのではなく、神のお呼びに応じて、
人生一度きりの決断で決定的に(しかも受けるだけで)変えられる……というところ
は接続法の意味も関わりますが、注解書では Morris の 601 頁の説明によ
りました。
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