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第 2話
郡上の森林と人との関わり
郡上市美並町大矢の風景
(元写真/郡上地域活性化協議会「奥美濃郡上・きっと誰かに伝えたくなる風景」より)
1
講座の概要
□ 日 時
平成 23 年 10 月 21 日(金)午後7時 30 分から
□ 会 場
郡上市役所
八幡防災センター
防災研修室
□ 内 容
テーマ「郡上の森林と人との関わり」
◯ 第1部
森林教室「郡上の樹木と暮らし」
講
師
◯ 第2部
出
川 尻
秀 樹 氏(岐阜県立森林文化アカデミー
教授)
森談義「おれんたぁの山」
演
者
末 武
東 氏(郡上市明宝小川地区在住)
永 吉
剛 氏(NPO 法人メタセコイアの森の仲間たちスタッフ)
コーディネーター
和 田
透 (市農林水産部林務課)
石徹白大杉(左)・神帰杉(中)・お魂杉(右)
(いずれも「郡上地域活性化協議会「奥美濃郡上・きっと誰かに伝えたくなる風景」より)
60
2
第1部
森林教室「郡上の樹木と暮らし」
※
講演はスライドを用いて行われた。
はじめに
1959 年美濃市
生まれ。日本大学
こんばんは、川尻です。よろしくお願い致
農獣医学部卒業後、
します。
東京農工大学を
経て、1982 年に岐
「郡上の森林と人との関わり」というタイ
阜県職員となる。
トルで、郡上の樹木と暮らしとの関わりを少
2009 年から2
しだけ説明させて頂きたいと思いますので
年間、郡上市役所
よろしくお願い致します。
へ出向。2011 年4
月から岐阜県立
まず、これは木曽式運材図絵といいますが、
森林文化アカデ
ミー勤務。
資料に、木を伐ったときにその梢を伐り株に
挿すんだと書いてあります。こうやって山の
樹木医、森林インストラクター。『森の案内人』(岐
阜新聞社)等著作多数。
神に無事木を伐らして頂いて、木の命を頂い
たことに対してお礼を申し上げると同時に、
講
師
川 尻
秀 樹氏
この周りに木を3本植えるということをや
っていました。
え方を持っています。それが郡上の人にも結
構いくつか引き継がれていますので、今日の
講演の途中ではそういう事例を紹介したい
と思います。ただし、私がお話をさせて頂く
にあたりまして、(今回の講演は)シリーズ
ものになっているものですから、第1回目講
座の時に郡上市総合文化センターで養老先
生と田中淳夫先生がお越しになられて講演
をされた内容の一部を継承する形でお話し
したいと思います。
日本には拝殿と称して神にお願いごとを
することがあります。本殿とか社殿とかがな
くても、この裏の森自体に神がおるという考
第2話 郡上の森林と人との関わり
61
前回の講演の振り返り
実は養老先生が、人間とか自分とかそうい
うものは何かというお話をされている中で、
人間というのは、日本だと私自身とか個を指
冬ごもりする時に体温を 34 度から 35 度に
落としますが、それを人間が脳を破壊されな
いようにするために低体温療法に使ってた
りと、熊はすごく特殊な能力があるんです。
すことが多いが、中国語では世間を指し、自
これはアイヌの人が自分のおっぱいを小
分の周りの環境が影響しているんだという
熊に与えてる絵ですけれども、アイヌの人た
お話をされました。周りの環境が影響してい
ちは何をやったかといったら、熊というのは
る、周りとの関わり合いの中で自分がいるん
実は「穴熊撃ち」と言って、冬ごもりする間
だというお話をされました。
の熊を撃つのが結構多かったんです。穴熊を
そういった考え方の中で、実は養老先生は
アイヌの熊送りの話をされました。アイヌの
熊送りでは、熊というのは人間と一体のもの、
人間と熊は同じものという思想があったん
だと養老先生がおっしゃっていました。そこ
のところが実は、森に関する思想とか森に関
する考え方と通ずるところがあるので、そこ
ら辺も合わせて紹介をさせて頂ければなと
思います。
撃ちに行くと、母熊というのは基本的に人間
に襲われるんだったらと、多くは子熊を食べ
てしまうのです。猟師の人でも知っていない
人が多いんですけども、子熊を食べてしまう
ことが多い中でも、その子熊を食べることが
できずに残された子熊がいた場合、アイヌの
人達が懇ろにお母さんのおっぱいを与えな
がら育てて、ある程度の大きさになったらあ
の世に送るという儀式をやっていたんです。
何が言いたいかといったら、野蛮な行為を
していたんではなくて、あの世にちゃんと送
熊送りを例にして
まず、熊送りというのは「イオマンテ」と
る。熊というのは、この世に胆のうとか肉と
いいます。「イ」は「それを」、「オマンテ」
か毛皮を持ってきてくれる友人で、あの世に
は「送る」という意味での儀式なんです。熊
行ったら人間と熊は一緒に酒盛りをしとる
の魂を天に送るための儀式で、スクリーンで
という考え方があったもんです。
見て頂いて分かるように、アイヌの人達が熊
を殺すわけです。
62
ってやるために育ててあの世にしっかり送
この絵〔注/次のページの図〕はイオマン
テのお祭りを再現している状態で、いろんな
余談ですが、熊というのはものすごく面白
お供物を置いてあります。お供物のことを
い生態を持っていて、春先に交尾をして受精
「みあんげ」って言うんです。皆さん、観光
すると受精卵を着床させないで受精卵ごと
地に行って買う物は何ですか。お土産の語源
持って歩く着床遅延という機能を持ってい
は実はこのアイヌの「みあんげ」の、「ここ
て、穴の中で小熊を産んで、生まれた時はこ
に捧げるもの」からきているんです。そうい
んなに小さいんですけども、母親が何も食べ
った、熊と人間とは、あの世とこの世を行き
ないでお乳をあげるだけでぶくぶくとでか
来している同じものだという平等思想とい
くなる。これは牛乳では乳糖が大半なんです
うのがアイヌの人達にあり、それが後に仏教
が、熊の場合はオリゴ糖であったりだとか。
と関わる中で日本特有の文化に発展します。
森があることで生まれた思想
日本に森があることによっていろんな思
想が出てきました。宮本常一先生という民俗
学者さん、この方は柳田國男さんと交流があ
った非常に有名な方です。この先生がおっし
ゃったのは、「雑草が生い茂ることが日本の
文化を決定した」ということです。雑草の生
い茂ること、高温多湿で雑草が非常に生い茂
りやすく植生が非常に豊かだというのが日
本を支えて、なおかつ、その気候風土が日本
人という独特な人種を作ったんだというふ
また、熊は、あの世に行ってもう一度この
世に帰ってくる時に生まれ変わるという「再
生」の思想があるんです。再生の思想は縄文
人からずっと引き続いているものです。アイ
ヌの人達と同じように、日本の一番端っこに
行ってしまった沖縄の琉球の海人の人達に
も「ニライカナイ」と言って、生まれ変わる
という思想があります。
もっと簡単に言うと、一番興味深いかと思
うものに、昭和天皇が崩御されて今上天皇が
天皇陛下になった時に、前の天皇の屍に添い
寝するという儀式を今上天皇は執り行って
います。お亡くなりになった裕仁天皇の横に、
今上天皇が添い寝して魂(霊)を乗り移させ
る儀式をやります。天皇家でさえ霊が乗り移
って再生するんだという考え方があって、こ
れは実は森の思想と深く関係してくるもの
ですし、養老先生がおっしゃった熊送りの儀
式というものもこういったところと結びつ
いているものだということを少し復習させ
て頂きました。
うに宮本先生がおっしゃっています。そうい
った気候風土のおかげで、日本人の精神形成
上、森が果たした役割というのがあります。
3日~4日前に石徹白の中居神社の社叢
林が衰退してだめだからということで、教育
委員会の方達と一緒に行ってきました。
少し余談になりますが、石徹白の中居神社
の参道のスギがものすごく悪くなっている
んです。何人かの方はご存じかと思うんです
けども、すごく悪くなっていて、びっくりし
たことに参道の脇の横の杉の所の根元をち
ょっと掘ったら、元々の地表に 30cm 位土を
盛ってありました。また、そこにある全ての
根っこは死んでいました。それどころか一番
すごいところは、5cm 掘ると水がぶわーっ
と溜まりはじめて、そこで根っこが窒息死し
ているという状況でした。あれだけの信仰の
場所であっても木がひどい状況になってい
るんです。
木を大切にする気持ちであったり、ご神木
を崇めたり、触ったりする行為、これは元々
日本の自然神道で「神が木に依り憑く」とい
う思想があります。先程言ったように、鎮守
の森自体が神になっていて、社殿がないもの
第2話 郡上の森林と人との関わり
63
も多い。森というのは「心霊が籠(こも)る」
の「籠る」からきたんですね。
東京大学の鈴木秀夫先生という方が中公
新書から『森林の思考・砂漠の思考』1とい
う本を出されています。この本の中で鈴木先
生は、「森や木は日本人と神と心の奥底で結
びついた重要な存在なのです」とおっしゃっ
ています。森の関係はもちろんですが、自然
神道と結び付くときに日本人はすごく面白
い人種だと、今日再確認してほしいと思いま
す。
私達は、多くの人が、生に関する儀式は神
道、死に関する儀式は仏教を主流とします。
岐阜県ですと、東白川村とか付知町とかでは、
生まれ出ることも死することも神道ですけ
ども、多くの方が、例えばお宮参りとか七五
三とかで神社に行くのに、死んだ時だけお坊
さんを呼ぶ。日本人はそういったけったいな
人種だということを再確認して頂きたい。つ
まり、日本の多くの思想が経典という形では
なくて、習俗や習慣の中にいろんな宗教が溶
け込んでいるのです。
「日本人の思想には森の影響がすごくあ
る」とおっしゃっていて、森林の中では人は
地表の一点に定着している。一点に留まって、
下から上への視線、森の中でも下から上を見
るだけの思考である。これは媒介として仏教
が影響していると鈴木秀夫先生は解析して
みえます。だから、下から上を見上げるから
森林の科学者はミクロの分析に長けており、
日本人が細かいことやるのが得意なのはそ
のためだと言っています。
一方、砂漠の世界に入ると、人は一点を見
て生活することができない。1日の温度差が
40 度位あるため、非常に寒くなったり非常
に暑くなったりして、一点で定着することが
できないものですから、意識の中では常に鳥
の高さで広域を見る。だから上から下への視
点が重要であって、砂漠の世界では媒介とし
てユダヤ教やキリスト教が影響していると
述べている。ユダヤ教やキリスト教は一神教
です。仏教とは全く違って、ユダヤ教やキリ
スト教は一神教で一つの神だけという考え
方で、これがヨーロッパの森林地帯にも非常
に浸透していて、砂漠の科学者がマクロな総
合に秀でるという分析をしています。
『森林の思考・砂漠の思考』
ここで一度『森林の思考・砂漠の思考』の
私達日本人を形成する上で森がすごく関
係していることを知ってもらって、もう一回、
ことをもうちょっと振り返りたいと思いま
先程の生まれ出ることは神道で、死すること
す。鈴木秀夫先生は宗教学者でもないし森林
も仏教でやるとかいろんなところを振り返
の先生でもないのにも関わらず、何でこの本
ります。
を書いたのかなと思ったんですけども、鈴木
先生がおっしゃっているのは、「現在の日本
人は 3500 年前の縄文時代晩期の森林の影響
をいまだに脱していない」ということです。
日本の宗教の特異性/多神教と森の存在
実は日本の宗教的特異性として、日本は多
神教の国です。非常に多くの神がいます。弁
財天とか大黒天とか毘沙門天とかはヒンズ
1
鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考(NHK ブッ
クス 312)』昭和 53 年、NHK 出版発行
64
ー教の神様ですね。ヒンズー教の神様も菅原
道真も神様。森の存在があることによって多
神教の世界がずっと維持できていて、循環的
欲張りな奴が貯めることによって、蓄積する
な世界観、生まれ変わる、再生するという儀
ことで貧富の差が生まれて、平等思想が崩れ
式がある。自然と共存の世界観というのは、
ていくという日本が生まれるのですが、昔は
昔の日本人には結構あったということです。
そうではなかったんです。
ただし現在の宗教学の常識からいえば、多
平等という例の一つでいうと、アイヌの人
神教の国というのは未開な地域だと見られ
達は生きとし生けるもの全て平等で同じ生
ているのは事実です。
命体だという考え方を持っていて、木を1本
ここで私が皆さんにお伝えしたいのは、多
神教の国の日本だからこそ非常に多様な思
想を持って、多様なものを受け入れる素養が
ある、あらゆる思想やあらゆる考え方があっ
て、そんな多様性を育てている素として森が
あったと思ってもらえればなと思います。
日本人には森林の思考があって、媒介とし
伐るにも「あなたの命を私にください。私が
生きて行くためにあなたの命が必要です。ど
うか命をください。そのかわりきちんと霊を
送ります。」と言って木を伐りました。
あと一つ、再生の思想の時には生死に柔軟
な考え方があって、日本の仏教というのは非
常に変わっているところがあります。
て仏教があったとお伝えしましたが、ちょっ
元々仏教伝来以前から日本人は先祖崇拝
とだけ日本がどんな変遷をしているか振り
や死者供養を中心的行事として執り行って
返りたいと思います。
きました。
例えば、木を伐る時の話をすると、皆さん
「平等」思想と「再生」思想
山へ持って行って木を伐るとき、「ヨキ」を
使いました。「ヨキ」いうのはいろんな説が
縄文時代以降からずっと引き継がれてい
あるんですけど、片方に3つ線があって、も
る二つの思想があります。一つは「平等」思
う片方が4つ線がある。3つの線がある方を
想で、もう一つが「再生」、生まれ変わりの
「ミキ面」と言って、4つの線がある側を「ヨ
思想です。
キ面」と言うんです。
一つ目の「平等」思想でいえば、縄文時代
「ヨキ」というのは漢字では「与岐」と書
晩期の平均寿命が 20 歳と言われています。
くんですけども、3つの目がお神酒を表わし
縄文遺跡を発掘したら、生まれた時から歩く
ていて、アイヌがお願いするときに実は「ミ
ことも何もできなかった人が 19 歳まで介護
キ面」を木に当ててお祈りをしました。では
を受けて生きてたというのがあって、それは
こちらの「ヨキ面」いうのは何に使うかと言
やはり縄文時代に平等思想があったことを
うと、「ヨキ面」の4つの線は水、陽、土、
表わしています。
空気を表しています。水と太陽と土と空気が
縄文時代というのは、例えば食べ物を蓄積
あることによって木が育つという考え方が
できないですね。稲作とかをやっていないか
あって、山で仕事をする人達が「ヨキ面」を
ら、そんなにたくさん食べ物を蓄積できない。 地面にペタンと伏せて、「木を伐らして頂い
ところが弥生時代から米ができて、米を作っ
たけども、山の木が育ちますように」とお祈
て貯蔵しておけるようになったもんだから、
りをして「ヨキ」を置いて帰ってきた。
第2話 郡上の森林と人との関わり
65
生活のいろんな中でも、そういった考え方
ると経典仏教です。実際に中国に行って写経
をしっかり持って生活してきた人たちが私
して経典として持ち帰ってきますので経典
達の祖先だということを知っておいてくだ
仏教となります。最澄も天台宗の中で法華経
さい。単なる呪文を唱えていた訳ではありま
を中心とし、
「山川草木悉皆成仏」といって、
せん。自然信仰の中でそういった流れがある
「全ての人に仏性があるから一生懸命修行
んです。
して一生懸命生きて一生懸命に善を積めば
必ず仏になれる。すぐに仏になれなくても何
度も生まれ変わっているうちに仏になれる」
日本の仏教における三大人物と思想
先程仏教の媒介があると申しましたので、
最澄はやはり自然信仰的なところを受け
ここで日本の仏教における三大人物を紹介
継いでおり、人間ばかりか動物・山・川・草
します。
木全てに仏性があり成仏できるという考え
仏教伝来は、最近の学者は 552 年を使う
方を持っていました。縄文時代のそういった
んですが、聖徳太子(厩戸皇子)が中国の真
思想を取り込んでいかないと、仏教が広まら
似をしようということで、中国の隋という国
なかったという事実もあるんですね。
を真似て、氏姓に関係なく万人の中から才能
皆さんがよく知ってみえるクリスマスツ
のある優秀な人材を登用するという考え方
リーですが、これはイギリスで 1600 年代に
を国づくりに入れました。聖徳太子は「三経
初めて飾られたのであってキリスト教の考
義疏」と言って、勝鬘経、維摩経、法華経の
え方でも何でもありません。最近よく女性が
三つを中心とし、特に法華経を中心思想とし
12 月になるとクリスマスリースを作ってい
て、女性も救われるばかりか人間でなくても
ますが、クリスマスリースも元々はドルイド
幅の広い救いがあるという思想を導入しま
教という、キリスト教が広まる前のヨーロッ
した。
パの地元信仰の考えを導入することによっ
聖徳太子は元々平等と統一の思想を持っ
て普及させたのです。仏教もやはり元々日本
ており、それがずっと現代まで引き継がれて
にあった自然信仰をずっと広めてきたとい
いるのが実際のところです。本当は聖徳太子
うことがあるんだということを知っておい
のことだけでも 30 分以上掛けてずっと話す
てください。
んですけど今日は時間がないので飛ばして
話をしています。
どちらにしても聖徳太子の時代は、仏教は
三人目になりますが、三人目は親鸞です。
親鸞は浄土宗を広めた方です。親鸞の時代は
大きな三つの流れがあって、法然とか親鸞に
口伝、聞き語りのみたい形なんです。つまり
ある浄土宗の流れ、栄西らによる禅宗の流れ、
経典がまだない時代です。
日蓮の日蓮宗の流れがあったんですが、それ
次の三大人物の一人が最澄です。この時代
は、弘法大師と言われた空海が天才的に取り
上げられますが、宗教的に日本人に影響を及
ぼしたのは最澄です。最澄や空海の時代にな
66
という考え方を教えていました。
以降の仏教に対する影響からすると、親鸞の
浄土宗の影響がものすごくあります。
親鸞は『歎異抄』2で還相回向という考え
方を示しています。これは生まれ変わるとい
う思想です。極楽へ行って生まれ変わりまた
この世に帰ってきて生まれ変わるという考
え方を持っておりまして、例えば、お盆やお
彼岸にご先祖様が山から帰ってくるという
考え方がありますよね。宗派によって違いま
すけど、ナスで牛を作ってキュウリで馬を作
りますが、ご先祖様が早馬で帰ってきてナス
で作った牛でゆっくり帰っていってもらう
というのを表しています。
浄土宗は日本の仏教の中で、先祖崇拝・死
者供養を最も重視した宗派だったんです。だ
から縄文時代の考え方をものすごく引き継
いでいたのが浄土宗の流れです。「南無阿弥
陀仏」と言いますけど、「南無阿弥陀仏」は
「阿弥陀仏に対する救い」というサンスクリ
ット語の略です。
先祖崇拝と死者供養と樹木の関係
郡上にもある先祖崇拝と死者供養と樹木
の関係では、(スクリーンの写真の)これ分
りますよね。美並町の辺でいっぱい山で作っ
ているシキミです。この辺ではシキビと言い
ますけど、シキビの種や花は毒性がものすご
く強くて毒物劇物取締法の中で唯一、植物で
載っています。シキミにはアニサチンとかハ
ナノミンという毒があって、簡単に人が殺せ
たりするんです。
このシキビというのをどうしてお墓に持
っていくかというのは、結構多くの方達がご
存じかもしれないですね。シキビにはアニサ
チンやハナノミンという毒成分があり、また
香り成分として、シキミオイルとかシキミ酸
いう成分が含まれています。日本人は死者供
養とか先祖崇拝を中心的行事としてやって
おり、土葬の時に死者を埋めるのですが、夜
どちらにしても本来仏教にないもので、日
中ずっと墓守りできないため、家に帰って寝
本の仏教にある考え方が、自然崇拝や先祖崇
とる間に、山犬とか狼が来て掘って屍を食べ
拝や死者供養です。自分が極楽浄土に行くと
ることが多かったんです。その時に何をやっ
いうのが仏教であって、自分が極楽浄土に行
たかといったら、実はイヌ科動物が嫌う匂い
くために仏教の信者になるはずだったにも
がシキミの香り成分なので、土葬をやった周
関わらず、日本に伝来していろいろ変わって
りに折って挿して匂いを発したんです。それ
いったら、知らないうちに、私達がお墓参り
が由来となって、未だに火葬だけどお花とい
に行くのと同じように先祖崇拝や死者供養
って置くようになったんですね。死者供養や
が中心的な行事の宗教に変わってしまった
先祖崇拝の関係で掘られては困るという時
という事実なんです。
の忌避剤に使ったということですね。
他の例を言うと、大和の剣の市場(郡上旬
彩館やまとの朝市)を見ましたら、コウヤマ
キが結構売られていました。郡上でも最近は
コウヤマキを使うのかと思って見てきまし
た。コウヤマキというと和歌山県の高野山が
有名ですが、高野山で売られているコウヤマ
キの半分くらいは岐阜県産です。コウヤマキ
2
鎌倉時代後期に成立した仏教の教えを記した書物。
親鸞の弟子が親鸞の教えを記したものといわれる。
をお墓に使うのは、真言密教系が多いんです
第2話 郡上の森林と人との関わり
67
が、普通に禅宗のところや浄土宗のところに
も使うところが最近は多いので少し説明し
ます。
何故コウヤマキが使われているかと言う
と、コウヤマキというのはスサノオノミコト
が天から降りてきた時にコウヤマキで棺を
作れをおっしゃったと『日本書紀』に書かれ
ています。
近畿地方の前方後円墳の古墳から出てく
サカキ
る木棺は全てコウヤマキでできています。百
済の王様の古墳というのは、21 名中1名を
除いて 20 名は全てコウヤマキでお棺が作ら
れています。コウヤマキは日本にしかない木
なんですよ。日本にしかない木なのに百済の
王様のお棺はコウヤマキでできています。い
ろいろ理由はありますが、コウヤマキという
のは非常に腐りにくい木です。だから腐るよ
うな木に入れて遺体がなくなってしまった
ら困るので、なかなか腐らない木のお棺に入
サカキの代用として使われる
れて遺体を保存する。生まれ変わる時用のた
めに、ミイラを作る技術はなかったけれども、
その時のことを考えてコウヤマキが棺に使
われています。
コウヤマキの枝を持って行くというのは、
本当は木材を使いたいけれど使えないので、
枝を代用としているのです。だから郡上の朝
市等で買われたら、そういう意味合いで使わ
れているんだということです。
ますが、この辺でサカキといったらこれ〔注
/上の写真〕です。
しかし、関東辺りでサカキと言うと別の物
が出てきます。白川郷とか高山市に行っても
サカキと言うと別の物です。サカキと言わず
に高山ではショウギ、漢字で「正しい木」と
書いてショウギとかオショゴサマとかショ
ウゴエとか言ったりもします。どぶろく祭り
神様のことに移ります。これは白鳥町の白
鳥神社の柱にたまたま買ってきたサカキが
をやっている白川村に行かれてもこんな木
〔注/下の写真〕が使われています。
付いていた写真です。
その一つがこのヒサカキです。東京へ行け
白鳥では寒過ぎてサカキが育たないもの
ですから買って来られたのだろうと。サカキ
は木へんに神(榊)と書きます。ちなみにシ
キミは木へんに佛(梻)と書きます。サカキ
というのは、皆さんお分かりになるかと思い
68
ば「サカキをください」と言ってお店屋さん
で買うと、多くがこのヒサカキが出てきます。
ヒサカキというのは「姫榊」という意味と、
「榊に非ず」という意味と両方の意味合いが
あり、ヒサカキが使われています。ヒサカキ
いうのが共通して神様のところに使われて
の場合は基本的に神様用と仏事と両方 OK
います。
だというところがあったりします。
先程シキビのところで、アニサチンという
これは常緑樹であることがポイントで、も
毒成分が、イヌ科動物に掘り起こされたりし
う一つは、燃やすとパチパチということがポ
ないたいめに使われているんだという話を
イントなんです。燃やすとパチパチという代
したように、郡上で使われているいろんな樹
表がこれです。これはとあるお宅で神棚に飾
種が、ものすごく意味があって使われている
られていたソヨゴです。岐阜県の高山市内の
んだということを知ってもらえればなと思
神社は全てこれですし、白川郷のどぶろく祭
って紹介をさせて頂きました。
りなんかに行っても神社は全てソヨゴが飾
ってあります。岐阜県だと恵那の飯地などで
は、節分の時にこいつを燃やしてパチパチい
『日本書記』にみる樹木との関わり
わせた火の上で豆をパチパチいわせ、清らか
そういった樹木の関係でいうと、先程少し
な火と清らかな豆を家に撒いて邪気を払う
言いましたが『日本書紀』の中に「神代 上」
ということです。燃やすとパチパチするのは
というところがあります。縄文人が弥生人に
邪気を払うという考え方があって、そう言っ
追い出されていくのが『日本書紀』に書かれ
た意味でサカキという木と同じようにパチ
ている高天原から追放なんですけど、実はス
パチいうということで先程言ったヒサカキ
サノオノミコトは高天原を追放されてその
も使われています。
子どもの神(イタケルノミコト)と一緒に樹
次の写真が石徹白の中居神社で撮ってき
の種を持って新羅の国へまず降りて行きま
たものです。ここに赤い実がちょんとあるん
す。これは『日本書紀』の「樹種伝」という
ですね。これは去年撮った写真ですけども、
ところに書いてあるんですけども、スサノオ
ここに中居神社の磐座(いわくら)があって、
ノミコトは韓の国には金銀小金があるから、
磐座(いわくら)の前に御玉串が奉納してあ
もしも我が子の治める国に船がなかったら
るんですけども、この樹種が全く違うもので
良くないだろうと言って、韓の国には樹の種
す。これはクロソヨゴと言います。実際には
を蒔かず、九州の筑紫地方から大八洲を緑化
クロソヨゴとアカミノイヌツゲという木と
したことが記されています。日本で最も古い
両方入っています。アカミノイヌツゲはクロ
物語の中にスサノオノミコトとイタケルノ
ソヨゴの変種なので普通の人には見分けが
ミコトが天から降りて来て九州から緑化し
つかないので、どちらにしてもクロソヨゴだ
た、樹の種を蒔いたという話が書かれていま
と思えばいいんです。そういったものが玉串
す。それが非常に面白いのと、スサノオノミ
に使われます。クロソヨゴを使うのは長野県
コトが髭を抜くとスギになって、胸毛を抜く
の戸隠神社であったり、岐阜県内だったら白
と空中でヒノキになって、隠れの毛と言って
川村と河合町の境の天生峠から行く匠屋敷
お尻の毛がマキになって、眉毛を抜いたらク
という神社であったり、高山市だと日和田神
スノキになった。それぞれスギとクスノキは
社とか全てこのクロソヨゴを使います。これ
船を作るとか、ヒノキは瑞の宮といって宮
ら全て常緑樹で、燃やすとパチパチいうって
殿・お宮を造りなさいと言って、マキは、先
第2話 郡上の森林と人との関わり
69
程百済王の棺がコウヤマキでできていると
絵を見てもこの辺に少しあるだけで全然木
言いましたけども、そういうお棺を作りなさ
がないでしょう。箱根なんかほとんど木がな
いよと言っています。イタケルノミコトとい
いんです。木なんてこの辺にちょいちょいと
うのは紀伊の国、和歌山の大神というとこと
描いてあるだけです。鞠子宿とかですね日坂
で祀られており、こういったことが書かれて
宿、二川だから豊川か豊橋その辺ですね。こ
いるくらい日本人と樹木がすごく関係して
れは金谷宿、静岡です。これを見ても山の中
いたんですよということを知っておいてく
で木がこの辺に少しあるだけ。この辺もそう
ださい。
です。この辺だってこんなでしょ。それくら
ここまでは、前回の養老先生の話の郡上の
こんな樹木の関わりがあるんですよという
一例を紹介したものです。
い実は江戸時代に木がなくなっていたんで
す。何でなくなっていたかを考えてみてくだ
さいね。
昔の日本人というのは木は神の依り代だ
という考え方がありました。伊勢神宮に限っ
江戸時代の山
たことではないですけども、木を中心として
もう一つ、前回の田中淳夫先生が、江戸時
いることが多くて、当然神の数え方は一柱、
代の日本がどうやっていたのかという時に、
二柱です。神様が一人おみえになれば一柱、
江戸時代の日本は再生不能になるくらいま
三神いるのが三柱と言って一番良いと言わ
で山の木を伐り尽くしたんだとおっしゃっ
れています。
ていました。これは歌川広重が描いた浮世絵
「木曽路之山川」と言います。
伊勢神宮のご遷宮の時に「心の御柱」を立
てます。この柱というのは本当は木だったん
ですけども、木を植え換える技術が、当然今
でもないので、そんな大きなものを移し替え
ることができないから柱を立てたんだろう
と思います。他に長野県の諏訪町で7年に1
回繰り広げられる御柱の祭りで「奥山と里に
おいて神となる」と謡ったり、『日本書紀』
や『丹後国風土記』の天橋立とか書いておき
ましたけど、柱に対する信仰というのが結構
あってそれは樹木だったということが言え
るのです。
これは木曽路で川があって白い雪山があ
るんですが、木はこことかこことか少ししか
生えていないんです。木曽みたいな山の中で
も当時は木を伐り尽くしてないんです。それ
どころか、これは「東海道五十三次」の神奈
川の平塚、小田原ですね。これは箱根。この
70
伊勢神宮にみる樹木との関わり
伊勢神宮の話をしますと、江戸時代にも宇
治橋があったかと言えば、江戸時代にはあり
ませんでした。ただし、江戸時代でも伊勢神
宮に 400 万人の人が来てるんです。猫も杓
子も伊勢神宮に来るから、人を泊めるための
思いますが、葬式幕を張るんです。この木を
薪とかを上流で伐りまくったんですね。だか
倒す時に木が2本あって、2本の木が倒れた
ら雨が降るたびに大洪水で宇治橋を架けて
ら漢字で「人」という字になる状態でないと
も全部流れるんです。このため江戸時代は渡
伐れないんです。だから1本良い木があった
船だったのです。だから何人伊勢神宮に参拝
よということで造営用に伐れるかというと
したかというデータがちゃんと残っており
2本ないとだめで、2本倒した時に漢字の
ます。江戸時代にもしも橋があったら、人数
「人」という字になるように重ならなかった
を数える人がいる訳じゃないから1年間に
ら伐採できないという。ものすごくいろんな
400 万人来たというのは全然分からんので
ものを計算してやるんです。そうやって使わ
す。渡船だったから分るんですね。それを宿
れているのが先ほどの「心の御柱」というこ
泊客のためじゃなくて、川や神社を守るとい
とで神をお迎えするところで使われていま
うことで明治に入って初めて森林計画を作
す。
ったのが伊勢神宮なんです。
伊勢神宮のここから奥へは普通の人は入
林業のはじまりと江戸時代の郡上の山
れませんよ。ちょっとお金を積んで奉納する
と、皇族方しか入れませんよというところま
で入らせてくれるんですけど。
奥へ行くと正殿があって、実は先程言った
図面の中に古殿地という空き地があるんで
す。半分空き地があって、空き地のところに
ちょっと小屋があるんです。新しい正殿が建
っていて、この正殿の向こう側の古殿地に小
さな小屋があるんです。この小さな小屋に
「心の御柱」というものを立てて神をお迎え
して新しい造営をする。
そういったことで、林業的なこととか山の
ことをずっと考えてみると、伊勢神宮みたい
な特殊なところに出す木以外のところで、実
は林業というのが成り立っていた有名なと
ころは数少ないのが現実です。秋田杉という
有名なブランドは、豊臣秀吉が伏見城の改修
工事用で使用したことに端を発していて、そ
の後に藩財政立て直しのために林業経営を
行って秋田杉というのがブランド化してき
た。他でもこの近くだったら静岡の天竜とか
三重県の尾鷲とか奈良の吉野とかあります
20 年に1回建て替えられるんですが、建
けど、全てが幕府とのつながりがある中でや
物を建て替えただけではなく、中にある宝物
られているんです。ここら辺も実は、林業と
も全て造り直します。何故かと言うと、漆細
いうのは 1600 年代とか 1500 年代とかに端
工とか螺鈿細工が産業として成り立たなく
を発しているのがほとんどであって、それ以
なっても技術を伝えるために 20 年ごとに造
前は林業という業はほとんどなかったんで
り換えさせるという特殊な考え方があるん
す。
です。
郡上ということを考えた時に、最終的に
20 年ごとに造営する木を伐る所は「三ツ
「江戸時代の郡上の山は」と考えると、郡上
緒伐り」とか「三ッ紐伐り」と言って、この
の林業の歴史は古川林業で始まると言って
方達は上から下まで真っ白の死装束で伐る
も過言ではない。林業といったら植林をする
んです。なおかつ郡上の人は分ってくれると
というところがあるもんですから、植林の概
第2話 郡上の森林と人との関わり
71
念がなかった江戸時代に、古川家だけが「植
え付けをしてもいいか」と申し出ている記録
が残っています。『郡上八幡町史』を調べて
も、著名なのは「木材の運搬と木炭」と書か
れています。郡上で林業がなされたかという
と、郡上はほとんどが薪炭林といって薪や炭
を生業としとって、ここに書いてある木材の
運搬は、今の美並町の辺りで川を筏で流すと
いうのがあっただけです。だから江戸時代の
郡上の山は完全に薪炭林が主体でした。明治
30 年位にようやく植林が叫ばれて学校林や
村有林や郡有林が作られたのが郡上の歴史
さいごに
これで一応お話は最後にしたいと思いま
すが、とにかく私達が普段何気なくお墓に持
っていったり、神様に使っている木には全て
理由があるんです。そういったものが実は森
であったり木の特性であったりと深く結び
付いていて、そういった歴史が今も伝わって
いる地域が非常に多く、そういったものがま
だ引き継げているのが郡上だと振り返って
もらえればありがたいと思います。
前回の養老先生とか田中淳夫先生とかの
つなぎをしなければならないというふうに
です。
だから郡上の人達が林業を視点にして何
か話をしようとしてもなかなか馴染みがわ
かない人が結構いるのはそういったことが
あるんじゃないかと思います。この故郷を振
り返った時に実は薪炭林が主体だったとい
うことで、その薪炭林が全然使わなくなって
カシノナガキクイムシによってナラ類がバ
ンバン枯れている現状があります。
私が勝手に思い込んでいたもんですから、そ
の辺も含めて話をしたので的確に郡上の樹
木と暮らしだけの話ができませんでしたけ
ど、また別の機会に話をさせてもらえるんだ
ったらその時にはもっと郡上の樹木と暮ら
しに特化して紹介するものはいっぱいある
のでお話をさせて頂ければと思います。
私の話はこれで終わらせて頂きます。ご清
聴ありがとうございました。
古川林業の山(写真/郡上地域活性化協議会「奥美濃郡上・きっと誰かに伝えたくなる風景」より)
72
3
第2部
森談義「おれんたぁの山」
1946 年郡上市
1982 年兵庫
明宝小川生まれ。
県神戸市長田
1965 年高校卒
区生まれ。仕
業後、家業を継
事が縁で郡上
ぎ、シイタケ栽
を訪れたのが
培や山林の手入
きっかけで、
れ等を行う。
1994 年から林業会社、森林組合に勤務。2004 年、
飛騨インタープリターアカデミー修了。里山の案内
人、山仕事の講師を務める。
乾しいたけ品評会全農会長賞を2回受賞。明宝文
師
末
2009 年から、環境教育や自然体験を通じたまちづ
くり活動を行う NPO 法人メタセコイアの森の仲間た
化財保護協会会長等公職多数。
講
その後、移住。
現在は、郡上市明宝在住。
ちに勤務。現在は里山保全組織「猪鹿庁」で猟師に
も挑戦する。http://inoshika.jp
武
東氏
講
師
永
吉
剛氏
1970 年郡上
市八幡町生ま
れ。進学、就
職でいったん
郡上市を離れ
るものの、そ
の後 U ターン。
1997 年に八幡町役場(当時)に入庁。2007 年から
2年間、岐阜県林政部森林整備課へ出向。現在は林
務課職員として、郡上市の山づくりに従事する。郡上
わりばしプロジェクト実行委員会のメンバーとし
て、プライベートでも森林保護・利活用に取り組む。
コーディネーター
和
田
透
水沢上からの山並み(元写真/郡上地域活性化協議会「奥美濃郡上・きっと誰かに伝えたくなる風景」より)
第2話 郡上の森林と人との関わり
73
和田:
皆さん、こんばんは。これからは、先程の
川尻先生のお話とは全く打って変って、(舞
台のこたつの)真ん中に座っとるおじさんの
話を若い者が聞く、山好きの3人が話しとる
というのをメインで聞いて頂ければと思い
ます。これから山談義「おれんたぁの山」を
始めていきたいと思います。
スリートの食事の提供をする会社を立ち上
げて。こういう食べ物を食べればパフォーマ
ンスが上がるよ、みたいなことをやり始めて。
僕も仕事をしてなくてフラフラしていたの
で、その会社に入って仕事をしてたんですけ
ど、僕はトップアスリートでも何でもないの
で、やってることの付き添いでやっていたん
です。
でもそれだけではやっていけないので、や
り始めたのがトップアスリートになる前の
スポーツをやる子ども達のために何かでき
ないかなということでした。スポーツではな
いんですけど、自然体験というところに目を
向けて、子ども達が山とかの自然で遊んでス
ポーツにつながっていけばいいかなという
ことに着目しました。
自然体験をやっているところというのが
まず、永吉剛さん。剛さんは今 28 歳で、
写真に写っている通り猟師をやっとる方な
んですけども、剛さんは神戸から郡上に来ら
れたということで、今日会場に見えてる皆さ
んも「どうして神
戸なんかから郡上
へ来たんだ」とい
うところがまず一
日本の中にはたくさんあるんですけど、なか
なか知り合いがいなくて。たまたま先生の繋
がりで郡上のパブリックシステム株式会社
の「郡上八幡・山と川の学校」というところ
が自然体験をやっていたので、そこに習いに
行って自然体験を学んで、神戸でそれをやっ
ていこうということで、郡上にたまたま来ま
した。
番聞きたいところ
それまで全く岐阜がどこなのか、郡上とい
かと思うので、そ
う言葉さえも知らなかったので。初めは仕事
の辺をお話してく
で来たという感じですね。
れればと思います。
和田:
永吉:
遊びで来たんではなかったの。
はい。郡上に来たきっかけは、元々神戸で
仕事をしてたんですけども、その神戸でスポ
ーツのアスリート、クロールの日本記録を持
っていた専門学校の先生がいて、その方がア
74
永吉:
はい。
自然体験で子ども達にやることとしては、
夏なんですけど、まずは川遊びを自然体験で
いので、僕が楽しんで知ったことを面白く伝
えれたらなと思っています。
やってて。川遊びは僕自身したことがないの
で、こんなに川がきれいでこんなに魚がおっ
て、飛び込みとかこんなに面白いんだと気付
いて「あっ、郡上って良いところなんだな」
和田:
神戸というと、阪神大震災のことを僕らは
と思いました。神戸ではどぶ川とかでずっと
思うんですけど、いつくらいの頃にありまし
遊んでたり魚とか獲っていたので、なんか郡
たか。
上って良いところやなというとこから、郡上
にはまっていったんですね。
永吉:
自然体験で、川遊びをして子ども達が泊ま
るんです。明宝の民宿さんとかで泊まって次
の日も川遊びみたいな感じでやって。そこで
食べるご飯が川魚と野菜で、自分の畑で作っ
ている野菜を出されていたので「あっ、そん
なことできるんや」と。「野菜って作れるん
や」と僕には新鮮で、「あっ、こういう木に
トマトがなってるんや」とかがまた新鮮で
「畑って面白いんだな」と思うようになりま
した。種を植えて実が成ってというのにちょ
っとずつはまっていったんですね。
僕が小学校6年生の時に起きて、その時に
気付いたのが本当にライフラインがないと
いうこと。水が出ない、ガスや電気がつかな
いということが結構自分の中で引っかかっ
てまして、
「都会におったら何もできないな」
とその頃はありました。けど、どんどん大き
くなるにつれて「そういうこともあったな」
と片隅にあった時に、またこっち(郡上)に
来て、野菜作ってるとか山水があるとか電気
をソーラーでやってみる人もいますけど、そ
ういうのが…田舎には生きる力というか生
活力がすごいあるんだということに気付か
和田:
そういうのを今は職業にしとるというこ
されたのはありますね。地震がきっかけとい
うのもあります。
とですね。
和田:
永吉:
そうですね。それを面白おかしく子ども達
にも伝えられたらいいなと。僕自身が大人に
なって知ったことなので。子ども達は知らな
いまま親になったら教えれないので。魚がさ
ばけないというのは大人でも多いし、焚火の
火が付けられない人とか、オール電化になっ
ているので火が危ないとか知らない人が多
ありがとうございました。
続いて末武東さんです。末武さんは、林業
を現場でしてみえる全国の方を目の前にし
て講義をされる大先生でして、「ミスター末
武の奥深き間伐技術」なんていうふうにイン
ターネットに出とるんですけど、東さん、ど
うして林業をやっとるのかというところに
興味があるんですけども。
第2話 郡上の森林と人との関わり
75
末武:
僕は今、正直な話もうじき 65 歳になるん
ですが、永吉君とはまるっきり反対で、地に
和田:
前にちらっと東さんに聞いた、僕ぐらいの
年頃に火事にあったりとか。
生まれて地に死ぬような感じの男ですけど
も、小さい頃から当然長男として、おやじに
騙されて「長男は家におらないかん」という
末武:
ことで小学校の3~4年生時分から薪作り
僕がちょうど 40 歳位の時の昭和 62 年で
とか炭の手伝いとかしながら、おやじと山を
すけども、家が落雷による火事でテレビから
一緒に歩きながら、
「この木はどういう木や」
火が付いて、きれいに燃えてしまったんです
とか「何ていう名前」やとか「これは美味し
よ。外にあった子どもの自転車だけ焼け残っ
い木の実が成って食べられて」とか。もちろ
て、これで我が家も終わりかと本当に実際思
ん魚獲りも見様見真似から始まって、毎日魚
いました。女房は裸足で家飛び出て、僕は長
獲りに行ったりということをしながら高校
靴で他の家に遊びに行っとる時に家が燃え
卒業しました。
てしまいました。
うちは代々シイタケ園をやっておりまし
それから2年位後にようやく思い直して、
たのでシイタケを中心にしながらですが、僕
家を造るということで、自分のところの山の
1代で何とか山で-かつては柱材を中心に
材で造ろうと思って、山へノートを持って、
したものをしておりましたけれども-、何と
1本ずつ「これは柱にする」「これは何にす
か山で芽を出したいというようなつもりで
る」と選木をしました、自分で。もちろん女
やってきて、今でもその思いは変わっていま
房も一緒に手伝ってくれましたが。
せん。
製材は当然森林組合に出して、僕が行って
話は逸れますけど、今年の7月頃の「林業
ついていて、1本ずつ製品になるまでを見と
新知識」3に白鳥の和田充男さんという方の
りました。大工の手伝いもしました。穴掘り
話が載っていて(今日も会場に)みえとるん
したり、防腐剤を塗ったりとか、毎日大工の
ですけど、これを読んでもらえば。ある程度
仕事にもほとんどついておって家を造りま
ほとんどこの方と林業経営の気持ちだけは
した。
一緒ですので、是非参考にして頂きたいと思
います。
そのようなことで林業に携わったという
ことです。
そのおかげで今日あるといえばあるんで
すが、僕が高校を卒業した時分はバカといえ
ばバカですけど、鶏糞肥料を負んで山へ行っ
ては撒いたりして木を育てました。もちろん
森林肥料もありましたけど、森林肥料も今ま
でに 200 袋位はもちろん撒きましたけど、
高いもんで。
先祖のおかげもありましたし、自分で手入
れしておるという思いで、今でも家の柱はど
3
76
全国林業改良普及協会発行の月刊誌。
この山のどこの木かということも、全部とは
言いませんが覚えとります、大体約 20~30
して山が好きなんですか、どうして山へ行く
本ありましたけど。そういうようなことも事
んですか。
実ありました。
末武:
和田:
僕にとって今までいろいろ…火事になっ
やっぱり昔の人だって、何のために木を育
たことばかりでもなしに、皆人生いろいろあ
てたかって、自分ところの家を建てられれば
ると思うし、苦しいこともたくさんあると思
それが最高であるんですけど。自分で建てた
いますけども、僕の一つの根本的なものとい
人が言うんやで間違いないんですけど、僕ら
うか、苦しい時は山へ行って大木に抱きつい
からしたら、今更自分でそんなに簡単にでき
てその下で気分転換と言いますか、ある程度
るもんではないと思うんですけど、本来なら
そこで休むというか、気晴らしにアロマセラ
そうあるべきですよね。
ピーのように必ずそこへ行きました。
何故かと言うと、もう 10~20 本位しかな
末武:
ちょうどその時も、話が余談になるかもし
れませんけど、その火事になった時分に-最
終的にはシイタケもサルにも負けてやめた
んですけども-、シイタケをずっと9年間に
15,000~16,000 本位補充して経営しておっ
たおかげで、子ども3人とも何とか貧乏をし
いですけども、じいちゃんとかその前のじい
ちゃんとかが植えた木、そういう 100 年、
200 年の木を見ると、自分の祖先が歩んでき
た歴史、地域の歴史みたいなものを思い出す
んです。継承していかないかんと。そうする
と心がスーッとして、ただ金がないばかりの
人生ではつまらんしと思いながら。今でも金
は当然ありませんけど。
ながら育てられました。とりあえずシイタケ
のおかげだと今でも思っています。
和田:
和田:
あと、よく滝を見に行くということですが。
今の、家を建てるという話は、これから木
をどう使っていくかというところで、今やと
売るしかない。そうするとやはりどこで一番
儲けるかというと、中間マージンとられて、
最終的に山のもんが一番損をするというこ
とで。今の話ってすごくどうしていくか考え
ないかんなと思ったところです。その辺は後
でまた聞きたいと思っておりますけど。
もう一つ、山のこともそうなんやけど、森
末武:
よく山におって、山の木が好きで、地元の
山におって地元の山も登ったりも歩いたり
も当然しますけど、1度行くよりも2回、3
回、4回、5回、10 回位行くと、今まで見
えなかったものがまた見えてくるんです。や
はり何回も通うことによって違うものの見
方ができるとか。
林と人との関わりとは。東さんにとってどう
第2話 郡上の森林と人との関わり
77
間伐講習なんかでも僕は相当変わっとる
と皆から言われるんです。変わったもんしか
いっぱいおるんですども、「何で俺を師匠に
するんや、バカ」と言って返事は出します。
寄せ付けないという看板をおいとる訳では
ないんですけど。初対面の人間とか、今まで
に 200 人位、親戚じゃない初めて会った人
和田:
が、タダ飯食って泊まっていった-泊まって
今、末武さんの話を聞いて僕が役場の立場
いったもんだけ、宿帳に名前を書けと大概は
から話をさせてもらうと、やはり郡上の人間
しとるんですけど-。
はすぐ近くに山があって、毎日毎朝扉開けた
この間みえた人でからも初対面で「山仕事
を教えてください」と言われて。「本当に山
やるのか」と言いながら、うちのまんまを
10 回も 20 回も食べさせて、そうしているう
ちに、僕がちょっとおかしいのか、「ほんな
ら山やるか」と。
ら山が見えるというくらい当たり前になっ
ていて、なかなかそこに問題意識というのが、
感じてはおるんやろうけど、今日考えんでも
明日でいいわとか、明日考えんでも来週でい
いわとか来年でいいわ、そのうち死んでいっ
てまうわとなってしまうような気がするん
やけども。
そういうような機会に、その間に、木の伐
り方や何かも教えたりしました。都会の人間
に山を知ってもらわんと。田舎の人間は田舎
の頭で山を守る-村づくりどうのこうのも
セットですけど-、それをしていこうと思っ
たら「今は無理かな」と特に思って。僕自身、
地元の人間としゃべっていて、「よわった、
よわった、どうしよう」と考えるよりも、彼
(永吉さん)みたいに生き方も生活スタイル
も頭の柔らかさも全然違うところから入れ
末武:
同じ山を毎日見とっても…ここにけった
いな木があるんです。おそらくこの木を見て
おられる人は一人もない、100%ないと思う
んですけど、毎日山は見ておられると思いま
すが。(会場のみなさん)良かったら全部持
って行ってください。〔注/次ページの冒頭
の写真のもの〕
て、ちょっと変わった村づくりができればい
いなと思ったんです。僕としてはですよ。
やっぱり山を歩くといろんな山のことが
分かる。これはほとんどスギの木にひっつい
とる木のコブなんです。これは川尻さんの方
和田:
実際に住まれた方とかも結構いるんです
か。
末武:
もちろん郡上で実際に山仕事しとる人も
おると思いますよ。「師匠です」といって手
紙を書いてくれる人もいます。僕にも師匠は
78
が専門分野だと思いますが、生えているのは
素姓の悪い木がほとんどです。良い木は美人
と一緒で悪い虫はつかないんです。
永吉:
この状態で付いているんですか。皮が付い
ているんですか。
末武:
はい、僕は人間のスパンとしてまめな自分
は 50 年位だと思うと、こういう自然という
ものは何万年、何億年というサイクルなんで
すね。
自分達や子どもに教育ということで、神社
仏閣とか大木を見るとか、珍しい見たことの
ない山に連れて行くとか滝を見るとか、自然
を相手に子ども達と一緒に、敢えて言葉では
末武:
こういう状態で付いています。これは皮を
言う必要のないんだけども、連れて行って何
かを感じてもらう、それがものすごく大事だ
剥いてピシッとするだけです。
と思います。
和田:
和田:
どうしてこういうことになるんですか。
続いて永吉君はどうして猟師になりたか
ったのかというところをお聞かせ願えれば
なと思います。
末武:
なんで…(第1部の講師の)川尻さんに聞
いてください。
永吉:
元々猟師になりたかった訳ではないです。
元々郡上に来た理由も違っていて、郡上で野
川尻(第1部の講師):
菜とか川で魚獲ったりするというのも見さ
虫とかでも付くんですけど、そうでなくて
せてもらったりして、こういう生き方がある
元々ただ単に木の形成層が盛り上がってで
のかと思いました。自分の中で生き方が決ま
きることもあります。
ってなくて、神戸で会社に入って仕事やりな
がらこっちに来たんですけど、その中で自分
の生き方が郡上で見つかったというか。それ
末武:
そういうことです。
が野菜育てたりとか魚獲ったりとか、その中
であるのがイノシシとかシカ肉が手に入る
ということですね。
川尻(第1部の講師):
「郡上八幡・山と川の学校」さんでイノシ
シとかシカをさばくという研修みたいなの
さっきの滝の話ですが、大変な時期に子ど
も達に見せていって、情操教育にいいんやと
があって、
「こんなのをさばくのか」と。
「こ
れをどうするの」と聞いたら「食べるんや」
いうことですよね。
第2話 郡上の森林と人との関わり
79
と。「これ食べれるんか」みたいな感じで、
「あっ、肉が手に入るんか」と思って。ブタ
とかウシとかを買うんではなくて、獲ってき
たものを食べるみたいなことが田舎ではで
きるんだということもすごく気付かされま
した。
猪鹿庁の横断幕
ったり、硬いしまずいしというイメージがあ
自分が郡上に何故住もうと思ったか、その
るのと、高齢化という問題もあるので、その
きっかけに震災のこともありましたが、アト
中で自分達ができることをやれればとか。し
ピーやアレルギーのこともありました。自分
かも自分の生活で肉が手に入れば、みたいな。
はアトピーやアレルギーがすごいあるんで
ちょっとでも家の中の冷蔵庫が肉いっぱい
すけど、入院したことがあって、すごく食べ
になればとか思って、ちょっと猟師やろうか
物に気を遣って、白いご飯を食べないとか食
なというか段々仕事になっていったという
事制限をされてキビとかヒエとかアワとか
のがきっかけなんですけど。
いうものを食べたりして、すごい食べ物には
気を遣って生活していたので、郡上で暮らし
ていけば自分の体調も変わるし、生活面での
生きる力みたいなものも養っていけるかな
みたいなことで。
自分の生き方としては自給自足的なこと
をしたいということで郡上で住んでみよう
みたいな感じで始まって、その中で猟師とい
うこともして、スキー場でアルバイトをした
りしました。
そして今の会社に入るきっかけが、「今か
その事業展開の中で普通に猟師をやるの
もれなんで「猪鹿庁(いのしかちょう)」と
言って、警視庁をイメージした里山保全組織
を掲げてやっていこうということで決まっ
たんです。
猪鹿庁の中には実はいろいろ課がありま
して、猟師なので捜査一課みたいな。あとは
ジビエ課ですね。野生動物とか肉を扱うとこ
ろで、ヨーロッパとかフランス料理とかに出
てくるんですけど、ジビエ課ということで商
品を開発したりとかですね。あとは衛生管理
ら事業展開する中で農業のことを基本的に
課で、解体場が郡上市で2軒あるんですけど、
やります」と。農業体験みたいなことをやっ
シカとかが解体できる場所で解体をやらせ
たり野菜を作ったりとか、生産組合の中のお
てもらったりとか。あと広報課というところ
世話になっているところに働きに行ったり
で猟師エコツアーみたいなことをやって。も
とか、泥んこバレー大会とかもやったりして、 う一つが山育課というのがあって、林業の中
その中にもう一つ猟師ということも仕事と
に入って頂くとか。エネルギー課でバイオマ
して入ってまして。
スを作ったりとか、まだまだその課は動いて
「自分の生き方に沿う仕事なのでやりま
す」と。いくつか農業体験する中で、冬にな
をやっていこうということです。
れば猟師というのが少なくなってきていて、
写真があるんですけど、商品のジビエ課の
イノシシ肉とかシカ肉を獲っても、今は燃や
中で「猪鹿ちゃん」というのを作っています。
したりとか埋めたりという現状とか結構あ
80
ないんですけど。課をいっぱい作って猪鹿庁
シの骨も、ほとんど肉を取ってから骨だけ捨
てられるので、簡単な発想でこの骨を煮込ん
でまえばとんこつラーメンみたいになるん
じゃないかという。そんなノリから、九州の
屋台の店長さんを呼んでゆっくり3日間位、
仕込みとか作り方を教わって商品を開発し
ました。
このお肉なんですけど、イノシシのあばら
のお肉を使ってやってるんですけど、実はこ
れすごくコストが高くて1杯多分 1,800 円
あちこちのイベント等に出店し「猪鹿ちゃん」を PR
位するんじゃないかというくらいで。8時間
煮込んだりとかすごい手間がかかって、本当
にイノシシの骨しか使ってないのでなかな
郷土料理の「鶏ちゃん」ありますよね、その
かダシが出ないんですね。豚の5分の1しか
鶏肉を、イノシシとシカ肉を使ってやるんで
出ないんで。ちょっとこれは高過ぎて売れな
す。この「猪鹿ちゃん」は基本的には売れな
い現状になっていますね。
い肉を使っています。イノシシやシカのロー
スとかはすごい売れるんですけど、逆に「猪
鹿ちゃん」というのはスジですね、腱に近い
ところのスジを敢えて使っています。結構ス
ジとか捨てられるのでもったいないという
ことでスジを丁寧にとって作っています。
コストが掛かるので、先程もちょっと出た
んですけど、「猟師エコツアー」というプチ
体験の中で-がっつり山を歩くんではなく
て、ちょっとだけ山を歩いて足跡を探したり
とか、どういう動物の糞があるとか、例えば
シカの糞がこれで、これを探っていけばシカ
いま、この「猪鹿ちゃん」をどんどんイベ
に出会えるとかそういうツアーの中で-、プ
ントで出しています。明日も県庁前の農業フ
チ体験して解体をしてもらってラーメンを
ェスティバルで出させてもらうんですけど。
作るみたいな。このツアーでしか食べれない
あと大和である「食の祭典」でも出させても
ラーメンということで、幻のラーメンになり
らったりと、今どんどんイベント出店に出て
つつあります。
「猪鹿ちゃん」とかを売っています。
和田:
あとラーメンとかもあるんですよね。
永吉:
はい、これは「猪骨ラーメン」と書いて「ち
ょこつラーメン」と読むんですけど、イノシ
猪骨ラーメン
第2話 郡上の森林と人との関わり
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和田:
今話に出てきたシカなんかだと大和の(古
今伝授の里フィールドミィージアムのレス
和田:
肉の話もそうなんやけど、山菜採りやなん
か東さんもやっておるんですよね。
トラン)「ももちどり」でもステーキをここ
2年程やらせてもらったりとか。さっきもチ
ラッと話をしたんだけど、「シカ肉は臭い、
末武:
まずい、硬い」と言われて、食わんというと
山菜は、夜に天ぷらを揚げるとなると、自
ころを、本物の料理人の手に掛かるとこんな
分ところの家の本当の周りだけで、12~13
に美味しそうに見えるんやよということを
種採ってきて作ります。いつでも採っていき
…いや、美味しいんですね。
ます。
あと、これは農産加工のおばちゃん達がイノ
シシのコロッケをやっとるんやけど、これも
また明日、明後日と永吉剛君達と一緒に県庁
前の農業フェスティバルに出てますので是
非お買い求めください。
これはタラの芽やし、コンテツとか、コシ
アブラとかヤマウドとか何でもあります。
このコシアブラは、芽が出た横に茶色いガ
クというか、包んであるところがあって、そ
れを一緒にちぎって食べたほうが香ばしく
て美味しいです。その真ん中の部分に茶色い
薄っぺらいものがひっついとるのも一緒に
食べたほうが美味しいです。
和田:
やはり天ぷらの方が美味しいですか。
レストラン「ももちどり」のシカ肉のステーキ
女性グループ「土里夢」のイノシシ肉のコロッケ
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摘み立ての山菜を天ぷらにする
末武:
和田:
何でも天ぷらにして食べた方が美味しい
です。和え物とかは、味噌じゃないといかん
とかいう人間がおるけど、天ぷらは油やもん
で誰でも食べやすいし、塩で食べると美味し
いので。
そうなんですか。高齢になると山に行けん
のでそうすると枯れてまうんですよね。
あと、果実酒で、東さんが山に入られるの
で手に入りやすいというふうではないです
か。
和田:
末武:
キノコ採りはこの時期になるとナメコで
すか。
割合に普通の人よりは知っておるという
ことですかね。(いつどこに生えるか)覚え
ておいて採りに行くとか。
末武:
僕は仕事がちゃらんぽらんな男やもんで
ナメコ、ナメコは天然ですね。ほかにもマ
イタケやマツタケ…。
あまり仕事はやらないんですけど、人生観と
して仕事は仕事、遊びの方を自分の中心にし
ておるので。
永吉:
永吉:
最近多いんですかね、郡上では。
楽しみながら仕事をするというのは大事
なことですよね。
末武:
(マツタケは)郡上では大和、美並あたり
末武:
やけど松くい虫でほとんどだめでないかな。
僕のお友達は1人で 200 万円くらいマツタ
ケを採っていた人がおった。
仕事をするのが当たり前で、それは普通の
考え方で、それと別の趣味というか別の目的
の方も大事。僕の生きる根拠としてね。8割
は遊んで2割は仕事する。
和田:
東さんに聞いて調べてみたけど、ウワミズ
ザクラの実の焼酎漬けも美味しいですもん
ね。
倒れた木に生えるナメコ
第2話 郡上の森林と人との関わり
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末武さんは5種類位の果実酒をつくる
末武:
美味しいよ。ヤマブドウも美味しいし、ズ
ンボも。
キハダなんかは腹痛の薬やし。昔僕らが親
父について山に行っておった時には必ず山
小屋の自在鍵の横に、キハダのこれくらいの
欠片を込めといて、昔は良いものを食わんの
カラハナソウ
末武:
僕は5種類位ですね。自分であまり飲まん
ので、全部人にあげてしまって。瓶ごととか
半分くれるとか、言うままにやってまうので。
最近はあまり作らないけども、果実酒(用の
リカーを)買ってきたり焼酎買ってきたりい
ろいろやってます。
で必ずよく腹が痛くなる。そうする時にそれ
をパキッと折って噛んで。通常の腹痛には一
和田:
番でした。絶対抜群です。
(画面に)カラハナソウって出てまっとる
で分るんですけど、この実を見て何か分りま
和田:
(キハダを)植林しておいてくれればいいん
ですけどね。
末武:
僕の友達なんかは結構してますね。僕も今
までに 200~300 本位キハダを植えてます。
せんか。ビールのホップにそっくりなんです。
剛君、ビールキットで麦芽飲料作るって言っ
てましたね。
永吉:
はい、ノンアルコールのビールをうちでも
作っているんですけど。市販されているキッ
トみたいな缶を使ってビールまで作ってる
んですけど。このキットでビールを作ってる
永吉:
果実でどれだけお酒作れるんですかね。種
類とかどれくらい作っているんですか。
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とお話した時に、カラハナソウで作れるぞと
聞いたんです。
和田:
苦くはないんかな。
うちの裏山にも、200 年位前の木から 70
~80 年の木があります。この前そこに行っ
た時に、川尻さんという人と一緒にトンガで
遊歩道を1km 程、近回りコースと外回りコ
永吉:
苦くはないです。ホップの近親種なので。
ースと2つ作って、家に遊びに来た人は玄関
でコーヒー飲んで必ず裏山に登らせるとい
う決めにほとんどしとるんですが、この間も
祭りに女の子が2人来たので僕がおらんう
末武:
ちに裏山に行ってきました。
本当のホップとは違うんですけど、ほとん
家の周りに今、春から秋までは何かの花が
ど似ておることは事実です。作って自分でま
咲くというようになっていて、畑はサルやシ
ず飲んで美味かったら皆に飲ませると。
カの学校やもんで、私もいろいろ考えて、最
初はササユリを 200 株ほど植えて全部サル
に食われて、花が咲いたと思ったら今度はシ
和田:
分りました。珍しいで飲ませると、うまい、
まずいは別にして…。
と言いながら、どんどん時間が経っていっ
てそろそろ締めの方に入らせてもらいます
けど、最後に末武さん、永吉さんにとっての
山ってなんだろうというところをお聞かせ
ください。
カに食われて、ササユリを植えるのはやめて。
次にシバザクラを長いことやっていたら最
近きれいに石だけ残して全部シバザクラを
とられて、シバザクラもやめて。結果的に
17~18 年前からスイセンを少しずつ増やし
ていきました。それを3~5年前に 2,000 ㎡
を、家の前に 20 種類くらいあるかな、人が
種をいろいろくれるもんで増えて、春はスイ
センから順番に咲いて、とりあえず何かの花
はある。
末武:
林業という考えを僕の頭では、今、業とし
ては 50、100 いかんくらいではまんま食べ
るのは難しい気がするんですけど。財産とい
和田:
永吉くんにとって山とは。
う考え方は捨てて、これから金を作る、金を
磨くというか、そういうイメージではなくて、
永吉:
自分のところの歴史をつくるような山づく
りをしていったほうが良いと思います。
そうですね、ありがとうという気持ちです
かね。恵みに感謝じゃないですけど。
金に替えられない価値観というものを子
ども達に教えながらつくるような具合に、僕
はしようかなと思います。
まだまだ軟弱で分からないですけど、山菜
を採らしてもらったりとか、そういうのが食
卓に並んだりとか、山に繋がる川で魚が獲れ
たりとか、イノシシとかシカも頂いてるもの
第2話 郡上の森林と人との関わり
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ですけど、そういうのが「感謝」ですね。イ
上に住む。大事なことなんかなと僕は思うん
ノシシとかシカでも、今、獣害として取り上
ですけども。
げられて郡上でもイノシシが駆除されてい
末武:
ます。でも駆除しても燃やして埋めるみたい
な感じです、本当に獲るだけ。イノシシとか
シカの増えたのは何のせいかと言えば、いろ
んな要素があると思いますけど、頂いた命は
なるべく最後まで食べたりして頂いてほし
いというのが僕の願いでもあるし、自分では
そうやっていきたいので、その辺もうまいこ
とやってほしいなと思います。
僕がさっきちょっと話したかもしれんけ
ど、都会の考え方の人間を大勢集めてボラン
ティア組織を作って、「日本の山をどうした
らいいんやろう」と手弁当でやらせて。震災
がありましたね、10 年近く前に雪害になっ
た時にも、「僕の弟子が考えて何かやるはず
だ」と思っておるけど、そういう形に持って
いけたら。山というのはもちろん川も一緒や
郡上全体とか県全体とか、長野とか北海道
とかにもそういう活動とかもあるので、僕ら
だけじゃなくて、皆さんで考えていかないか
けども、違う考え方で、僕らの今まで見とる
視線と違うものの見方ができるのではない
かと思います。
んなということがありますね。それだけでは
ないですけど、総合的に僕は一言で言うと
「感謝」ですかね。
和田:
前回の養老孟司先生もちょっと触れられ
和田:
てたんですけど、都会の人達が田舎に来て、
田舎の暮らしをして、自分達の気付きをもっ
なるほど。いま永吉くんが言った通り、こ
この郡上で生活が完結できるというところ
が重要なところであって、今日来てみえる、
僕らにとってみればお父さんやおじいさん
という世代の人達が生きてこられた猟師の
世界もそうで、猟師の世界もそういった人達
から永吉君が教わって次の世代として引き
と見つけなさいと、それで有給休暇もないよ
うな日本の社会はだめだと。有給休暇取って
田舎暮しをしなさい、それによって気付くこ
とがある、そういった制度にしないといかん
のではないかと言ってみえたんですけど。ま
ずそれが今の話に近づいて行けるんじゃな
いかなと思います。
継ぐ。僕らもさっきの果実酒の話とか、山菜
採りの話とかを次の代へ、僕らが子ども達へ
それを教えていくことによって郡上におっ
ても住めるんだよという。
時間もきました。本当は皆さんからお話を
聞かないといかんのでしょうけど、時間も迫
って参りましたのでこの辺でお開きにさせ
て頂きたいと思います。
何て言うのかな、郡上でデイトレーダーっ
て人はいらんて言うんな。やはり額に汗して
働いて、近所付き合いもできてという人が郡
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