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ー5世紀のソルボンヌ学寮における 《cZer乞c乏》 について

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ー5世紀のソルボンヌ学寮における 《cZer乞c乏》 について
15世紀のソルポンヌ学寮における 《C/ビ〟c/》について
49
15世紀のソルボンヌ学寮における 《clerici》 について
帖 腿 │Sjl]
Ⅰ :はじめに
中世末期のパリ大学は、教育制度、及びその活動において、明らかな停滞もしくは凋落の傾向
を示していた。その背景には、大学教師の著しい社会進出が考えられる(1)。中世末期の大学の
教師は、シスマや英仏百年戦争といった政治的、社会的、教会的な現実の問題に対し積極的に関
わりを持っ一方で、その弊害として、大学での教育活動から疎遠になり、離反していく傾向にあっ
た。その結果、大学における教師の不在が恒常化し、教育活動が停滞すると同時に、教育方法と
その内容に関しては、 13世紀的な枠組みの中で硬直していたといえる。また、教育活動の不振は、
教育制度や学位授与に関する規約の形骸化を引き起こし、学部や同郷団(natio)といった大学
の下部組織間での対立を激化させた。
このような危機的な状況において、 14世紀末、ジャン・ジェルソンやピェ-ル・ダイイが、改
革による教育活動の規則化と秩序の安定を訴えたことで、次第に大学人の間にはパリ大学の改革
を必要とする機運が高まっていった(2)パリ大学で総合的改革が実施されるには、 15世紀中葉
の枢機卿ギヨーム・デトゥットヴィルによる改革を侯たねばならないが、それ以前から既に学寮
レベルで秩序を安定させ、教育活動を規則化させようとする動きが見られる。本稿では、パリ大
学の神学部学生のための-学寮であったソルボンヌ学寮における 《clerici》 と呼ばれる学生達
の考察を通じて、 15世紀における大学改革の志向とそのあり方について検討する。
Ⅱ:史料-『プリオールの書』
本稿において、主として用いた史料は『プリオールの書』である(3)。この史料は、学寮にお
ける実質的な長であるプリオール(prior)が召集し、主宰した学寮会議の議事録(proc∂S-
( 1) Verger J., 《 Les universites frangaises au XV siecle : crise et tentatives de r昌forme ''dans Les
umversitきs francaises au Moyen Age, Leiden, 1995, pp.228-229
( 2 ) Gerson J., Oeuures com.pl∂tes, ed. par Glorieux P., vo1 2, Paris-Tournai, 1960, pp.26-28
( 3 ) Le livre des prieurs de Sorbonne (1431-1485), ed. par Marichal R., 1987, Paris (以下ではMarichal
と表記)
50
verbaux)であり、英仏百年戦争末期におけるソルボンヌ学寮の日常生活を知る上で、必要不可
欠な情報を提供してくれる唯一の資料である。
この史料の対象とする時代は、 1431年から1485年までの約50年間に亘るが、その間にはいくつ
かの重要な欠落期間があることを述べておく。まず初めに、 1439年から1448年までが欠落。ただ
し、 1443年に関しては、わずかな覚書が残っている。次に、 1450年から1458年まで欠落。 1453年
に関してもわずかな覚書が残っているのみである。更に、 1473年と1474年が欠落。そして最後に、
1485年もまたわずかな覚書が残っているのみである。これらの欠落部分に関しては、記録が後世
に散逸したというよりも、むしろ、初めから存在しなかった可能性が高い。というのも、この欠
落期間のほとんどは、パリの政情不安や経済停滞等の理由によって寮生数が著しく減少し、組織
の運営が極めて困難であった時期と一致するからである。
『プリオールの書』の中では、度々、 《clerici》 について言及され、その頻度は時代が下る
と共に多くなる。以下では、 『プリオールの書』を軸にして、 15世紀のソルボンヌ学案における
《clerici》について考察を試みる.
Ⅲ : 15世紀ソルボンヌ学寮における 《clerici》
a) 《SOcll》と《hospites≫
15世紀において、ソルボンヌ学寮の居住者の間には、三つのカテゴリーを認めることができる。
第一に《socu》 、第二に《hospites》 、そして最後に本稿の主題である 《clerici》である。厳
密に言って、学寮の正規の成員と呼べるのは第一のカテゴリーである 《sOcll》のみであった。
原則として、 《SOCll》だけが、学寮の運営に携わる権利と義務を担うと同時に、生活の保障や施
設の利用等の恩恵に与ることができた。第二のカテゴリーである 《hospites》は、従来、私費
で学寮に滞留することを許された短期滞在者であったが、その滞在期間は漸次長くなり、 15世紀
には学寮の重要な構成員であったと考えられる。その理由として三つのことが挙げられる。まず
第一に、 15世紀における 《hospites》は、しばしば《socll》の重要な予備軍もしくは補欠で
あったということである。つまり、入寮の希望者が直接に 《SOCll》 として学寮に受けられるこ
とは稀で、一旦《hospites≫として受け入れられた後、一定の審査期間を経て《sOCll》になる
ケースが多かった。第二に、 15世紀のソルボンヌ学寮において、 《hospites》は無視するにはあ
まりに数が多かった。実際、 《hospites》の数は、 《SOCll≫の約三分の一に相当した。第三に、
《hospites≫ は、学寮の運営に参加する資格が無いという一点を除けば、自由に学寮の施設を
利用することができ、 《socu》 と同じ職務上の権利と義務を有していたからである。
15世紀には、 《socu》の間に、 「給費生」 (bursarius)と「非給費生」の区別が生じた。学案
の経済事情の悪化に伴い、全ての《socu》 に給費を与えることは困難となり、一定額の収入を
得ている者や、学寮の規則に違反した者は、給費を受けることができなかったり、給付を停止さ
15世紀のソルボンヌ学寮における 《C/e〟C/》について
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れたりした。一方で、私費で学寮に滞在する 《hospites≫ は原則として「給費生」にはなりえ
なかったが、 15世紀後半には、例外的とは言え、給費を受ける 《hospes bursales≫が現れ、両
者の区別は一層喫味なものとなった。
b) 《clerici》
ソルボンヌ学寮の創設以来、共同体の中に、 《 beneficiarii》 と呼ばれる学生が存在した。彼
らは、共同体によって学寮の中に居住することを許可されたが、学寮の成員ではなく、その運営
に参画することはできなかった。この《beneficiarii≫ とは、通常、 「学寮から恩恵を受ける学生」
といった程度の意味であるが、厳密には、そこに二つのカテゴリーを見出すことができる(4)。
第一のカテゴリーは、外部者によって構成される。彼らは学寮に費用を支払うことによって滞在
を許可され、学寮施設の利用を許された学生であり、その滞在期間は基本的に短かった。当初、
彼らは前に述べた《hospites≫ と同一であったが、後者が学寮の重要な構成員となり、その滞
在期間が延長されるに従って、両者の間に区別が生じた。第二のカテゴリーは、学寮によって、
無償で生活及び教育を保障された室困学生である。その代りに、彼らは、学寮と学寮の成員のた
めに雑務をこなすことを義務付けられた(5)。
15世紀のソルボンヌ学案の史料には、多くの 《clerici》 と呼ばれる学生を見出すことができ
るが、彼らはこの第二カテゴリ-における 《わeneficiarii≫と同一と考えられる。 《clerici》と
いう用語は、一般的には、 「(下級品級の)司祭」や「聖堂参事会員」又は単に「聖職者」を意味
することが多いが、ソルボンヌ学寮史の文脈においては、学寮の雑務を果たすことを代価として、
共同体に生活を保障された学芸学部の学生を意味する。
ソルボンヌ学寮の正規成員である 《socu》 は、神学部の学生であると同時に、学芸学部の教
授免許を所有する教師でもあった。学寮の創設当初は、学業に専念することを冒.的として、その
成員が学芸学部の教師として教授活動を行なうことは、学寮規約で禁じられていたが、 14世紀
以降、この規制は次第に緩和され、 15世紀には完全に許可されていた。つまり、実際のところ、
《clerici≫は学寮の正規成員である 《sOcll》の学芸学部における生徒であり、彼らは師弟関係に
あった。ソルボンヌ学寮の史料上で、 《SOCIUS》は《clerici》 との関係において、 《magister》
と表記されることが多く、本稿においても、 《clerici》 との関係において「教師」という場合に
は、特別な指定がない限り、 《SOCIUS》を意味するものとする。
(4) Greard 0., Nos adieux a la vieille Sorbonne, Paris, 1893 p.2 及び、 Weiiers O., Terminologie des
unwersites au XIII'si占cle, Rome, 1987, pp.265-268
(5)
Rashdall
HリThe
Universities
Londres, 1895 p.508
of
Europe
in
the
Middle
Ages,
3
vols,
(l'edition
nouvelle,
1936),
52
ソルボンヌ学寮における 《clerici≫ は、以下の二つのカテゴリーに区分することができる。
第一のカテゴリーは、 《clerici comunitas》または《clerici collegii》である。彼らは学案によっ
て受け入れられ、学寮全体のために奉仕する義務を負った。第二のカテゴリーは、 《clerici
magistrorum≫である。彼らは彼らの教師である 《SOCIUS》の個人的な召使として様々な雑務
を果たした。
《clerici》 が学寮に受け入れられるために、通常、学寮の 《soaus》 が保証人となる必要が
あったが、時には 《clerici≫ 自身の親族や学案外の学芸学部の教師などが保証人となること
もあった(6)。また複数の《socu≫が連帯して、一人の 《clericus≫ の保証人となることもあっ
た(7)。 1437年6月15日付の学寮会議の決議によると、ある軽犯罪のために学寮を追放になった
ある《clericus》の代わりに、新たに、立派な保証人を持っ《clericus≫を受け入れられた(8)。
しかし、 15世紀において、全ての 《clerici≫が必ずしも保証人を伴っていたとは限らなかった。
というのは、各《SOCIUS》が、学寮の許可なく、自分の裁量で自分の 《clericus》 を受け入れる
ことが多かったからである。通常は、その 《clericus》 を受け入れた 《sOcIUS≫ が保証人と
なったが、後述するように、一人で複数の 《clerici》 を受け入れている場合、必ずしも彼らが
保証人であるとは限らなかった。 1484年4月13日、学寮会議において、 「保証人のいない全ての
《clerici》は、 2週間以内に保証人をっけること」が決定された(9)
《clerici≫ は、彼らの保証人又は教師の監督下に置かれた。保証人は、通常、彼らの教師と
して、教育上の責任のみならず、生活全般にわたる責任を負わねばならなかった(10)。もしも、
ある 《clericus》が学寮の規則に違反したら、彼の保証人は彼のために連帯責任を負い、罰金を
支払うと同時に、その《clericus≫ に対して公の場で体罰を与えることが義務付けられ、その義
務を怠った場合には、更に罰金が課された。 1432年4月7日、学寮の成員であるロラン・パルグ
ヴァルの 《clericus≫であったギヨームは、ある 《clericus communitas≫ に対して暴力を振るっ
た答で罰せられた。ギヨームとロランには、それぞれに罰金が科せられ(ID、ロランには、公の
講義の場で、ギヨームに体罰を与えることが義務付けられた。しかし、ロランはギヨームに対す
る体罰を実行しなかった故に更なる罰金を課され、給費(bursa)の停止を条件として、体罰
の実行を強要された(12)。また、ロランのギヨームに対する体罰執行を監査する役割を負ってい
たトマ・カッセル、及び、ロランが刑罰を執行しなかったにも拘らず、その執行を強要しなかっ
(6) Marichal, no.375
(7) Ibid., no.31
(8) Ibid., no.344
(9) Ibid., no.1007
(10) Ibid., no.1010
(ll) Ibid., no.58
(12) Ibid., no.60-62
15世紀のソルポンヌ学寮における 《C/e〟C/》について
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た学寮長(prior)ジャン・フロリディに対しても、それぞれ罰金が課せられた(13)更に、 1484
年10月22日には、祝祭の折に品行の悪かった複数の 《clerici》のそれぞれの教師たちに対し、
公の場で彼らに体罰を与えることが義務付けられた(14)。 15世紀のソルボンヌ学寮の記録には、
このような体罰の事例が数多く報告されており、この世紀の半ば頃までに、教師の学生に対する
監督権が強化されるにつれて、学寮における体罰が一般化し、公に認められるようになったと考
えられる(15)。体罰の方法は鞭打ちであった。また、この体罰は必ず公の場、具体的には教室で
行なわれることが義務付けられており、罪を犯した 《clerici》 に対する刑罰的側面の他に、他
の《clerici≫に対する見せしめとしての側面も持っていた。
《clerici》が学案や《socu》のために果たした様々な雑務は、主として、学寮における生活
必需品の買出し、食事の調理及び給仕、食器洗い、朝夕における学寮の門の開閉、礼拝堂の扉の
開閉、ミサの手伝い、水汲み等であり、もしもそれらの職務に怠慢がみられた場合には、罰金が
科せられた(16)。一方で、生活必需品の買出しなどの職務に必要な経費は、初めに彼らが立て替
えて支払わねばならず、後に学寮や《SOCll≫から払い戻されることになっていた.その為、多
くの《clerici》が付け買いをし、債務を負うようになったことが問題となり、 1433年4月24日、
学寮会議で以下のような決定がなされた。 「全ての《socu》 は、給費生であれ、そうでなかれ、
彼らの《clerici≫ に対し、 (必要経費として) 6ス-を与えること。」(17)しかし、同様の決定が
この後も繰り返されることからも、この決定はほとんど遵守されなかったものと考えられる。同
年11月ioa、ある 《clericus≫ は、 「毎週1ムーラの薪を購入するために、週に3スーの費用で
は不十分である」と訴えている(18) 《clerici》 は、彼らの職務における必要経費とは別に、学秦
や彼らの保証人から給金として3ス-を受け取ることができた(W)。 《clerici≫への給金の支払い
は、通常は彼らの保証人によってなされたが、 1436年9月27日の学寮会議では、 《sOcll》の出費を
削減することを目的として、学寮が週に12ス-支払うことが決定された(20)。これは職務遂行に
必要な経費と給金をあわせた額である。しかし、学寮の経済状況の悪化により、実際に支払われた
額はもっと低かったと考えられる。 1458年8月25日付けの会議では、 「《clericus communitas》
は、通常は《socu》から(給金として) 3ス-を受け取り、休暇中には、学寮から2スーを受
領する」ことが決定された(21)。しかし、実際には、 《clerici≫ の職務怠慢を理由に給金の支払い
(13) Ibid., no.63
(14) Ibid., no.1058
(15) Ibid., no.61
(16) Ibid., no.30, 69, 112, 116, 245 etc(17) Ibid., no.lll
(18) Ibid., no.463
(19) Ibid., no.188
(20) Ibid., no.300
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を拒む《socll≫ が多く、 1484年7月、 「全ての 《socu》 は、誠実に職務を果たした 《clerici≫
に対して給金を支払わねばならない」ことが確認された(22)。
15世紀、 《SOcll》 の中には、一人で複数の 《clerici》 を抱えている者がおり、そのため、ソ
ルボンヌ学寮の中では、相当数の 《clerici》が生活をしていた。そこで、 1432年5月7日の学
寮会議において、以下のことが決定された. 「いかなる 《socu》 も、会議における承認なくして、
二人以上の《clerici》を有してはならない。」(23)この決定には、主として三つの目的があったと
考えられる。まず第一に、学寮が負担する 《clerici》 の生活費を抑えるという財政上の目的。
第二として、増えすぎた《clerici》 によって乱された学寮生活の安定という風紀上の目的。そ
して最後に、 《clerici》 に対する教師の監督権の強化という規律上の目的である.さらに、 1470
年、同様の目的から、 《clerici》の数は、 《SOcll》一人につき、一人に制限された(24)。その後、
1476年にも、同様の決定が繰り返されている。 《clericus≫ は、無料で、学案の食堂で朝食と夕
食に与ることができたが、その量は、正規の学寮の成員の半分の量に制限されていた(25)。
しかも、食事をもらえるのは、一人の 《soaus≫ につき、一人の 《clericus》 に限られ、複数の
《clerici》を抱える 《socu》 は、その他の 《clerici≫の消費に関して、その費用を自らが負担
しなければならなくなった。更に、同年12月23日には、学寮の全《SOCll》 に対し、 「一部屋のう
ちに複数の 《clerici》 を受け入れてはならない」ことが決定された。そして、 「もし現に複数の
《clerici》を有しているものは、一人を除いて追放するか、もしくは《clerici》 を一人も有し
ていない他の《SOCIUS》に委ねること」とされた(26)。このように、学寮における 《clerici≫の
人数に関する制限は、 15世紀を通じて、次第に強化されてゆく傾向にあった。
既に述べたように、 《clerici》 は、彼らの教師の監督下に置かれた学芸学部の学生だった。学
案は、彼らに、生活を営むための必要最小限の物質的保障を与えたのみならず、彼らの日常生活
を監督し、教育も保障した。 1432年、学寮は、全ての 《clerici》 に対し、学案で行なわれる
「ェチカ」の講義とミサへの出席を義務付けた(27)。そして、もしも彼らが、 「エチカ」の講義に
欠席した時には6ドゥニ工の罰金、 「エチカ」の講義とミサの両方に欠席した時には7ドゥこ工
の罰金を科されることが決定された。更に、 1484年には、ソルボンヌ学寮で行なわれる全ての講
義への出席が義務付けられた。 《clerici》 は非常に若かったために、しばしば学寮内において、
窃盗、暴力行為、器物破損、乱痴気騒ぎ及び様々な規約違反を引き起こした。その一つ一つに触
(21) Ibid., no.420
(22) Ibid., no.522
(23) Ibid., no.64
(24) Ibid., no.642
(25) Ibid., no.741
(26) Ibid., no.743
(27) Ibid., no.36, 107
15世紀のソルボンヌ学寮における《C/e〟C/》について
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れれば、枚挙に暇がない(28) 1459年9月15日の学寮会議において、 「《clerici》 の品行に関する
5つの規則」が定められた。 1)台所で食事をすることの禁止 2)自室内に学寮外部の者を
招くことの禁止 3)おしゃべりをしながら、教室や中庭に長時間留まることの禁止 4)教師
達の場所、すなわち、台所に通じる中庭や食料を貯蔵する通路への進入禁止 5) (自分の)敬
師と(他の) 《socu》を敬うこと(29)。そして1484年、 《clerici》に対し、 「学寮内で遊戯をして
はならず、自室内で過ごし、供給される最低限の必要物資で満足すること」及び「学寮で行なわ
れる全ての講義に必ず出席すること」が通達された。そして、教師たちに対しては、 「彼らの学
生達に対し、熱心に講義に出席するように義務付ける」ことを強制した(30)。
Ⅳ :学寮と大学改革
《clerici》又は《beneficiarii》を受け入れるという制度は、そもそもソルボンヌ学寮におけ
る「社会的生活」 ( vivere socialiter)の精神に基づいて、学芸学部における年少の貧困学生を
救済するという慈善的精神に発したものであった(31)。しかし15世紀において、そのような慈善
的要素は後退し、むしろ年少の学芸学部学生の生活を教師が管理監督するという目的が前面に出
てくる。そして、教師による学生の監督権は、 15世紀を通じて次第に強化されていった。このよ
うな動きは小規模ながら、 14世紀末以来の、大学教育の復興と秩序の安定化といった大学改革の
志向に対応するものであったと考えられる。このような動きは根本的に、学寮制度の発展と変容
そのものに内在するものであった(32)。
英仏百年戦争末期の混乱の中で、パリ大学にはもはや自力で総合的な改革を遂行するだけの余
力は残されておらず、その結果、王権の介入を招き、自治権を喪失することになった。 14世紀末
から15世紀前半のパリ大学には、ジャン・ジェルソンを初めとして、ピェ-ル・ダイィ、ジェラー
ル・マシェ、ジャン・ボーペールのような大学改革の必要性を深く意識し、それを遂行しうるだ
けの能力を備えた優れた教師達がいたが、実際には、彼らは聖俗の政治的任務によって、恒常的
にパリを不在にしていたため、改革の具体的なプランを練り、それを実行することはできなかっ
た。また、 15世紀のパリにおける多くの大学人たちは、王権に侵害された既得の諸特権や、ヨー
ロッパ各地に叢生しつつあった新設大学に対するパリ大学の権利を守るなどの個人的かつ対外的
(28) Ibid., no.8, 30, 37, 45, 58, 59, 60, 62, 65, 89, 107, 112, 116, 245, 256, etc.
(29) Ibid., no.450
(30) Ibid., no.1058
(31) Glorieux P., Aux origines de la Sorbonne, vo1 1, 1966, Paris, pp.99-102
(32)中世末期における学寮制度の発展と変容については、 Gabriel A.LリォMotivation of the fouders of
Mediaeval Colleges ''in Garlandia, 1969, pp.211-223を参照のこと。この論考において、ガブリエルは、
学寮の創設証書を分析し、学寮創設者の動機が、慈善的なものから「エリート」の養成へ変容していったこ
とを証明した。
56
問題に固執し、教育活動の規則化や崩壊しつつある組織の建て直しに無関心だったのである。し
かしながら一方で、この混乱の時期にあって、教育活動と秩序の維持に積極的な役割を果たした
のは学寮であった。ソルボンヌ学案出身のジャン・スタンドンクは、ソルボンヌ学寮を範として、
モンテギュ学寮の改革を行ない、寮生の生活を厳格にして徹底的な規律の下に管理した。その非
人道的とも言える厳格さは、エラスムスやフランソワ・ラプレーといった16世紀のユマニストが
痛烈な批判を加えたことでよく知られるところである。ソルボンヌ学寮における 《clerici≫ に
対する一連の動きも、学芸学部の学生達を、その教師達の監督の下に置き、彼らの教育のみなら
ず、生活全般において管理しようという秩序安定化を目指すものであった。そして、 1452年に王
権の主導の下、枢機卿ギヨーム・デトゥットゲィルによって着手された大学改革は、このような
学寮による秩序回復、教育活動の安定化の動きを、全大学規模で保障し、推奨するものであった
と言える(33)。
この大学改革は既存の学寮を基礎単位として大学制度を再構成し、大学の秩序を回復しようと
するものであった。具体的には、 13世紀以来パリ大学が享受してきた諸特権と自治権を制限又は
剥奪し、大学を王権の政治的かつ社会的政策のプログラムの中に取り込むことを目的とした。一
方で、教育制度とその内容に関しては新たな創造性に欠け、旧制度の遵守の言及に留まるもので
あり、教育内容と手段の刷新は、王権の関心、外であったと言える。この改革は、大学全体を対象
としたものであったが、実質的には、年少の学生が多く、不良学生の温床であった学芸学部を対象
としたものであった。改革の要点は以下の三点である。まず第-に、寄宿制度の強化である。王
権は、不良学生の排除を目的として、全ての学生に対し、学寮もしくは教育私案(pedagogium)
への登録を義務付けた。教育私案とは、教師が白らの学生たちの生活を保障し、教育を与えると
共に、彼らの生活全般を監督する施設であり、いわば小規模な学寮であった。そして、学寮と教
育私案の運営は、パリ大学の学長(rector)とパリ司教による監査を受けた。第二に、教師の
監督権の強化である。王権は、全ての教師に対し、自らの学生の教育のみならず、生活全般に関
する監督を義務付け、体罰を容認した。その結果、学生は、修道院的な厳格な規律の下で、教師
によって徹底的に管理されることになる。第三に、大学の自治権に対する公権力の優越性の確立
である。王権は、 1446年、既に衰退し弱体化しつつあったパリ大学の教会裁判特権を停止し、直
接に高等法院の裁判権下に置いた後、改革によってパリ大学の自治権を形骸化させ、最終的には
あらゆる特権を剥奪することによって、大学組織の王権への直属化を完成させた。つまり、大学
教育を保護する担い手が、教皇権力から王権へと移行したといえる。 13世紀中葉、教皇グレゴリ
ウス9世によって「諸学の母」 (parens scientiarum)と称賛されたパリ大学は、その二世紀後、
(33) Chartularium Universitatis Parisiensis (CUP), ed. par Denifle H. et Chatelain E., vol. IV, 1897,
Paris, no.2690
15世紀のソルボンヌ学寮における《C/e〟C/》について
57
「王の娘」 (fille de roi)へと変容したのである。これらのことは、中世的な大学自治の終悪で
あると同時に、新たに萌芽しつつあった近代的官僚機構のために有能な人材を提供し、近代的政
治秩序に適合した大学制度の誕生を意味した。
Ⅴ:おわりに
以上のように、ソルボンヌ学寮における 《clerici》 を受け入れる制度は、学案の創設当時に
始まるものであったが、学芸学部の貧困学生を救済するという当初の目的は時代と共に後退し、
15世紀には、学芸学部の教師であるソルボンヌ学寮の 《socu≫が自らの学生を監督し、厳しく
規律化しようとする目的が前面に出てくる。この目的は、 14世紀末以降、大学人の問に生じた大
学秩序回復の要求に応えるものであり、やがてはギヨーム・デトゥットゲィルの大学改革-つな
がるものであった。この改革は、王権の主導で遂行され、パリ大学の秩序回復を目的とすると同
時に、パリ大学の自治権を剥奪し、王権の新たな政治機構の中に取り込むことを目的とした。以
後、中世的枠組みの解体したパリ大学は、学寮を中心として再構築され、王権に直属した近代的
大学制度へと変容していく。とりわけソルボンヌ学寮が、 16世紀以降、フランスにおける近代的
ナショナリスムと結びっき、ガリカニスムにおいて中心的な役割を果たしたのは周知の通りであ
る。
本稿では、 15世紀のソルボンヌ学寮における 《clerici》 を受け入れるという制度を軸に、中
世的大学から近代的大学への変容という大きな問題の一側面を扱った。問題が広範に亘るため、
特に制度的側面に主題を限定し、教育内容や教育方法の刷新に関しては触れることができなかっ
た。そこで後者の問題に関し、最後に今後の展望を述べて、本稿の結びとしたい。前にも述べた
ように、ギヨーム・デトゥットヴィルの大学改革は、 13世紀的な枠組みの中に豚著した教育内容
と教育方法の刷新に関してはほとんど触れておらず、未だ王権はこの問題に無関心、であった。し
かし、新たな知的枠組みであるユマニスムのパリ大学への浸透に伴って、既に15世紀以降、教育
内容及び方法の刷新が、パリの大学人にとって看過し得ない問題となっていたのも確かである。
14世紀末、北イタリアに誕生したユマニスムがアルプス以北の諸大学に浸透するのは15世紀中葉
以降のことであるが、パリ大学では、既に14世紀末にその萌芽を見出すことができる。 1384年頃
にはジャン・モントルイユを中心としたプレ・ユマニストの修辞学サークルが存在しており、そ
こにはジャン・ジェルソンを初めとして、ニコラ・クラマンジュ、ジャン・ミュレ、ローラン・
ド・プルミエルフェらの名を見出すことができる。この修辞学サークルは、 1418年、イギリス・
ブルゴーニュ軍によるパリ占領に伴う政治的混乱の最中、ジャン・モントルイユが殺害されたこ
とで消滅する。しかしその後も、 1430年代のソルボンヌ学寮において、イタリア人留学生ジョヴァ
ンニ・ド・カスティリオ-ネを中心として、寮生の問に修辞学や古典への関心が高まるのが確認
される.そして、 15世紀の後半に入り、ギヨーム・フイシェ、ルフェーブル・デタプル、ユルザ
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ン・ティボー、ジャン・リュイリ工といったユマニストの教師達が現れ、パリの教育内容及び方
法に刷新が窟されてゆくことになる。この問題は、中世的な大学から近代的大学への変容を検討
する際、看過し得ない重要なものであるものの、従来の中世大学史研究ではあまり扱われてこな
かった部分であり、 15世紀後半におけるユマニスムの浸透がパリの教育界に与えた影響について
は今後詳細に検討する余地がある。
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