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第6章 台湾地震の復旧・復興過程と社会的課題

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第6章 台湾地震の復旧・復興過程と社会的課題
第6章
台湾地震の復旧・復興過程と社会的課題
The Chi-Chi Taiwan Earthquake Recovery Process and it’s Reconstruction Task
1
2
木村 明子 ,服部 くみ恵
1
Akiko KIMURA and Kumie HATTORI
2
1
東京都立大学大学院 社会科学研究科
Graduate School of Social Sciences, Tokyo Metropolitan University
2
台灣師範大学環境教育研究所
Graduate School of Environmental Education, National Taiwan Normal University
The Chi-Chi, Taiwan Earthquake of September 21, 1999 did great damage to rural areas in Nantou county and
Taichung county which are located in central Taiwan.The affected areas are now facing economic problems which
reflect existing social trends, such as uneven development between urban and rural areas, decline in agricultural
productivity and population.In the recovery process, small villages are supported not only by charity oraganizations
but also by community oraganizations from other areas in terms of temporary housing.In towns such as Dongshih,
residents are facing great difficulty, not being able to reach an agreement to carry out the reconstruction plan.Also, a
significant number of the residents having similar cultural backgrounds so-called
Hakka
, the recovery process
tend to have aspects of a cultural movement.
Key Words : Community Recovery, Communty Oraganization, Cultural Background, Rural Areas
1.はじめに
台湾921大震災の復旧・復興過程においては民間団体の
支援活動がめざましく、日本の防災関係者のみならず、
都市計画、建築の分野の研究者からも多くの注目を集め
た。ここでは全体の被害状況や中央政府の復興施策の内
容をふまえたうえで、地域社会単位での住民を主体とし
た組織の対応や民間団体の支援活動の事例から、復旧・
復興過程と社会的課題を明らかにしたい。
2.地震による被害及び復興施策の概要
1999 年 9 月 21 日午前 1 時 47 分 、台湾中部を震源とす
るマグニチュード 7.3(Richter Scale による)の地震が発
生し 1)、2494 人が死亡。全壊家屋が約 51,000 戸、半壊が
約 54,000 戸で、その他電気、水道、ガス、通信、が重大
な被害を受け、道路や橋梁さらに歴史的建造物や学校建
物といったインフラストラクチャーの被害も重大であっ
た。被害は台湾中部の南投縣や台中縣に集中しており、
被災地は農村部や中規模の都市に多く、こうした地域は
地震が起きる以前も土砂災害の危険に晒されてきている。
行政院災後重建推動委員会は復興施策の推進、被災者、
や企業、地方政府の再建支援のために中央政府の一機関
として 2000 年 6 月 1 日に設立されたが、震災の被害やそ
の後の復興に係わる諸問題の特徴は以下のような点にあ
るとしている 2)。
・被害は相対的に経済力の弱い農村部や原住民居住地域
6- 1
に集中した
・被害のあった地域では土地の所有権が確定しないケー
スや不法占拠の割合が高い
・集合住宅や地域社会の復興に関する合意の形成が困難
・多数の公共施設の倒壊
また同委員会は2000年6月から12月を復興施策の第一段
階と位置づけ、復興のための法制度を整備するとともに、
前年に計上された予算を用いて、家賃補助の配分や公共
施設の復旧、地震を契機とした土砂災害の予防を施策の
柱として掲げていた。さらに第2段階、2001年1月から
2001年12月にかけては、特別予算を獲得し、以下のよう
な施策を重点的に進めてきたとしている。
・復旧・復興が必要な地域の観光スポットへのアクセス
のための主要な道路、橋梁の復旧
・学校建物の再建の継続・耐震化
・住宅再建に必要な資金の供給
・1万件の雇用の確保
・歴史的建造物の保存
第2段階に掲げられている施策は第1段階のそれに比べて
より具体的かつ、価値志向的である。その背景には被災
者の復旧・復興支援に携わる諸団体の活動があり、被災
現場で抽出された社会的課題が委員会の施策にフィード
バックされている側面もあると考えられる。そうした民
間団体による被災者支援活動や住民組織による地域社会
再建の取組みは、救援活動を行った宗教団体のほか、社
區総体営造と呼ばれる震災以前からの文化運動の流れを
汲む諸団体によるものも多い。
3. 地域社会レベルでの復旧・復興過程
次に地域社会のレベルでの再建への取組みの過程を、南
投縣の埔里鎭及び中寮郷龍安村、台中縣東勢鎭及び石岡
郷といった地域を事例としてみていきたい。埔里鎭、東
勢鎭、石岡郷といった地域は死亡者の数、倒壊家屋数か
ら見ても被害が甚大であったことがわかる(表 1 参照)。
(1)南投縣埔里鎭の事例 3)
a) 埔里鎭の概況
19 世紀初めに平埔族(2)が流入し、その後十数種類の語
形の種族が出入りしたといわれる。
人口約 8 万人で、日月潭といった観光地からも近い。
水が豊富で、紹興酒やビーフンの産地としても有名であ
るが、紹興酒を生産する工場は震災により大きな被害を
受けている(3)。
b) 復興施策の基本方針
震災による産業への影響は大きく、埔里は主に農業、
とりわけ観葉植物をはじめとする「特別経済作物」を主
に生産しているが、台湾全体の景気が悪くなったことで
価格が思い通りにつけられない状況となっている。また、
主な税収が家屋税であるため、震災後の税収の落ち込み
も激しくなっている。
復興施策は産業基盤の成長をはかることで人々の収入が
安定させることを基本的な方針としている。
現在観光もあまり振るわないが、農産品と観光業をタイ
アップさせる事業を推進している。震災前は観光客は日
本人が比較的多かったが、今後は中国大陸が主たるマー
ケットとなる見通しである(4)。
c) 民間団体の活動
新故郷文教基金會空間組という建築の専門家が率いる団
体が、震災後復興計画の代替案作成 4)に関わりながら埔
里の中心である都市計画区域の周囲に散在している小規
模な集落での地域活動の支援・推進を行っている。主な
プログラムは産業の活性化・公共スペース創造・有機農
業の推進・生態系の保護等である(5)。その他に住民参加
型の小学校建設運動も行っているが、その活動の背景に
は 1986 年の戒厳令解除の直後から既存の都市政策に対し
て批判的な提言を行ってきた民間団体「都市改革者組織
OURs」の人脈がある。
一方で住宅再建の支援については建築家と住民のあいだ
の信頼関係をつくることが必要であると主張しながらも
直接的に事業というかたちで関わることは一部の人の利
益に寄与することで、「公共性に反する」として慎重な
姿勢を示している。これには地元の工務店や建設業者と
の力関係も影響していると思われる。
d) 復旧・復興過程における課題
埔里は民間の団体が大規模な政策提言活動や地域支援活
動を展開しているが、現実には経済の立て直しや被災者
の住宅再建など根本的な復旧課題に対する決定打が見出
せない状況といえる。
(2) 南投縣中寮郷龍安村(6)
6- 2
a) 龍安村の概況
農村地帯で、震災前は人口 1067 人、278 戸からなる村
であった。土角(トーカッ)と呼ばれる日干しレンガで
造られた伝統的な建物が多く残っており、遺跡に指定さ
れるなど歴史的な価値のあるものもあったがすべて倒壊。
しかし夜明け前には下敷きとなった人はみな救出され、
建物倒壊による死亡者はいなかった。これは村の人間関
係が密で誰がどこの部屋にいるか互いに把握していたた
めである。ガス爆発により 2 名が亡くなっている。震災
後村の人口は 944 人まで減り、最近また少し増えている
という状況である。近くに高校がないという理由もあっ
て、若年人口が少ない。
ここでは震災前から「社區大学」といった地元住民のた
めの学習の場をつくってきた。台南市で地域活動を行う
住民組織「金華社區」が龍安村のコミュニティ環境改善
プロジェクトのサポートを行っており、そこのリーダー
は「観光資源の発掘とPR」といった講義を受け持って
いる。
また「龍安宮」という地元の宗教的な活動と地域活動
の両方の拠点となる建物があるが、それは地元の人が自
分たちで資金を出して建設したものである。
b) 震災後の村の対応
9 月 22 日の昼から全員で炊き出しを開始。交通が遮断さ
れていたので村は孤立した状態となった。住民の手で救
済センターを設立して、村長が物資の不足を外部に向か
って訴えたところ救援団体からさまざまな物資が届くよ
うになった。バスケットボールコートなど地域の施設を
2 箇所テント用のスペースとして、そこにすべての人が
避難した。水や電気がなく、夜もみな不安であったので、
ボランティア部隊が警戒にあたった。またボランティア
の巡回活動によってさまざま問題が発見されていった
(瓦礫によっ道路がふさがれている箇所等々)。震災か
ら 1 週間後にはそうした諸問題解決のための場として救
済センターが龍安村重建推進委員会へと変わった。
仮設住宅は 46 戸建設され多いときで約 180 人が住む
(約 1 割がすでに転出)。敷地は地元の地主 2 名が無料
で提供。医療センターや地域活動センター、図書館を備
えており、龍安村以外に中寮郷北部の 6 つの村が利用で
きる。
c) 民間団体の活動
公共のスペースの管理は地元の力では限界があるのでキ
リスト教の団体「世界展望会」など外部の団体に依頼し
ている。
しかし住民の経済的な逼迫は深刻で、かなり経済的に困
窮している場合には、村の中で土地の提供者を募って住
宅の再建を支援しており、現在まで 23 例ある。仮設が解
消したら、住民の活動センターや民宿として利用したい
と考えているところで、空き家を一部そのように使い始
めている。
d) 復旧・復興過程における課題
村の規模が小さく、リーダーへの信頼が厚いため、地
域社会の結束力は高いと考えられる。震災直後の対応も
外部からの協力も受け入れながら、仮設住宅の生活環境
の向上をはかり、恒久住宅への移行も、地主の力を借り
て進めている。
現在の課題は主に産業、雇用である。農業以外の産業
を持たず、観光資源の発掘を試みているものの、状況は
6- 3
厳しい。これは台湾の農村地域一般に共通する課題であ
るともいえる。
(3) 台中縣東勢鎭(7)
a) 東勢鎭の概況
震災前の統計では人口は約 6 万人で、人口は減少傾向に
あった。
東勢は地理的には平地と山地の間に位置しており、拍宰
海平埔族と先住民であるタイヤル族の居住地が交わる地
域であった。また中国清朝の乾隆帝(1735 年以降)の 40
年間広東系の漢民族が移動してきて開墾している。その
後福建系の漢民族も流入し、先住民は山間部に追いやら
れてしまった。広東系の流入者は一般に客家と呼ばれる
が、東勢の客家の祖先の多くはは「大埔音」という発音
の客家語を話し、台湾のなかでも独特の文化を発達させ
てきたといわれる。日干しレンガ土角を使った伝統的な
客家の住まいや信仰の場である廟も数多く残っていたが、
地震によりその多くが倒壊した。復旧・復興のプロセス
ではこうした歴史的な建造物の再建を望む声もあった。
b) 復興施策の基本方針
東勢は農村部地帯も含むが、中心市街地は都市計画区域
となっている。この市街地部分では建物倒壊等の被害が
大きい。
東勢は本街と呼ばれる幅 6mの商業街道が通っているが、
道幅が狭いため、並行して走る豊勢路に客足を奪われて
しまったという経緯がある。震災前から商業活性化のた
めに道幅を拡幅し、S 字型に曲がった状態から直線にす
るといった計画があったが、政府の接収費用が足りず、
住民も負担を拒んできたため、頓挫していた。
しかし震災後、住民が道路部分として提供した土地分は
補償が出るという「都市更新」の手法を用いて、この案
を実現するという復興プランが浮上したのである。
ところが、本街沿いの各地区はこの計画の実現について
の見解が違っていた。ここでは南平里、東安里及び公館
地区の 3 つの地区についてみていきたい。
c) 各地区の対応
南平里では住民の一人が、1999 年 11 月に「南平里重建
委員会」を設立し、南平里地区のなかのハード面での合
意形成を図ろうとした。その一方で東勢愛郷協会という、
東勢鎭全体に対して文化的な側面からアプローチする団
体も設立され、二つの団体は互いに協力しながら復旧・
復興に取り組んできた。
南平里では国内外の街並み再生の記録映画の上映などを
通して、ビジョンの共有を図る工夫をしている。結果と
しては南平里の住民は「都市更新」という手法では、地
域の歴史的な文脈に沿わない、街並みが無機質になる、
全ての住民の合意をとりつけるのに時間がかかる、とい
った理由で退けようとする論調が高まった。しかしなが
ら、現状のまま家屋を再建しようにも、現行制度に照ら
し合わせると違法になってまうケースが多いため、敷地
面積の減少部分を補う方策を考えた。雨の多い台湾では
建物を建てる際に建物の一階に屋根付きの歩道の役割を
果たす、騎楼 (8) と呼ばれる部分を必ず設けることになっ
ているが、道路は拡幅し、直線化するものの、騎楼部分
を設けなくてともよいあるいは、現在の 4mから 1.5mに
減らしてもよいというプランが作成され、これを住民は
6- 4
受け入れた。多くの住民は計画に反対し続けることによ
って時間を無駄にしたくないという思いであった。
しかしながら、こうしたプランは法制度的な裏付けがあ
いまいであり、時間が経つにつれて住民のあいだで復興
の遅れへの苛立ちがつのり、地域内でさまざまな葛藤が
生じている。また各団体に常駐の人材がいないことから
も活動が制約され、2001 年 4 月にはプロジェクトは頓挫
している。
一方南平里と第 3 横街という通りをはさんで隣り合う東
安里では 1999 年 12 月に東安里社區重建推動委員會が設
立され、「都市更新」という方法での道路拡幅計画が積
極的に推進されている。それは防災を考慮した広い道や
駐車場スペースの確保のほか、通りの裏側を憩いのスペ
ースとして整備し、飲食店を開くといった商業活性化の
構想が含まれている。商店主の中には投資としての意味
合いを込めて、この計画に賛同する人もいるが、4 分の 1
の住民は反対している。反対の理由としては道路部分と
して提供した土地に対して補償が出たとしても敷地面積
が極端に狭くなり再建できないというものがまずあげら
れる。そのほかに、東安里のプランでは計画されている
道路部分に敷地が接していない場合、土地を買い増しし
て、接道させなければならないという方針になったため、
そうしたケースに該当する住民は、土地を道路部分とし
て提供する場合に補償が出るのに比べて不公平であると
して反対している。
また、東安里のリーダー層は住民の合意が形成されてい
ないために、計画を執行する権限がある縣政府からの許
可が降りない状態が続いていることに対して不満を抱い
ている。
3 つ目のケース公館地区では、歴史的な廟が建っている
ために、通りの片側の住民は道路拡幅のための土地の提
供ができず、その負担がすべて通りの向かい側の住民に
課せられてしまうという事態が発生した。もし道路拡幅
計画が実行された場合、敷地面積が狭いために再建でき
ないケースが多くなってしまうため、この地区で設立さ
れた復興委員会では道路拡幅計画は廃案になった。
公館地区では震災の後に郷土に戻ってきた人物によって
「南片巷芸術工作室」が起ち上げられ、客家文化に由来
する地域の歴史的な景観をモチーフとした地域社会の再
建が試みられている。
d) 復旧・復興過程における課題
東勢では本街という道路の拡幅計画をめぐって各地区間
で、さらには東安里のように地区内でも合意の形成が難
航しており、計画に反対する住民がいることを理由に計
画の執行権限を持つ縣からの許可が下りず、ハード面の
整備という点では膠着状態に陥っているといえる。
また民間団体による歴史的な景観の保存や客家文化の見
直しといったアプローチで住民間のコミュニケーション
の円滑化や地域アイデンティティの創出を図る動きが活
発に行われているが、地域のなかで最も住宅に困窮して
いる層にはこうした文化を共有できない人びとが存在し
ている。彼らは国民党政権時代に中国大陸から中部貫横
道路の建設のために労働者として渡ってきており、家族
を大陸に残してきているケースも多く、独身のまま高齢
化している人が大半である。低廉な賃貸住宅などに住ん
でいたため、震災による被害も大きかった。現在は東勢
大愛村の仮設住宅などに居住しているが、地域社会再建
の動きからは取り残されている。
(4) 台中縣石岡郷(9)
a) 石岡郷の概況
石岡郷は人口一万人あまりで主な産業は農業である。面
積は東勢鎭の 5 分の 1 に過ぎないが、かつては客家人が
山間部を開拓していく際の台湾中部における拠点だった。
しかし石岡は豊原市や東勢鎭など中規模の都市に挟まれ
た地理的条件であるうえに、石岡ダムがあるため、水源
保護法により建物建設に関する制限がある。そのため産
業基盤が発達せず、居住者の多くは豊原や東勢に職を求
めて通っている。
また、石岡は家屋の倒壊率や死傷者の人口に対する比率
をみても、甚大な被害であるにも関わらず、震災直後は
石岡ダムの決壊を報じられるにとどまった。歴史的建造
物も震災により倒壊し、そこで保管されていた文物が失
われるといった被害もあった。
b) 民間団体からの支援とその活動方針
新竹縣北埔郷で震災の 3 年前から地域活動を行ってきた
大隘社という民間団体が石岡郷の再建を支援してきてい
る。石岡と北埔はどちらも人口が一万人程度の客家の
人々が多く居住する集落であるという共通点を持つ。
大隘社は各地を見て回り、石岡での被害がとりわけ大
きかったことから、バザーを開催するなどして資金を集
め、布団を送るといったことから支援を始めている。大
隘社のメンバーは建築の専門家ではなかったが、住民の
自立的な生活を再建しようとすると、結局は住宅再建に
取り組まざるを得ないという結論に達し、仮設住宅建設
の支援も行った。そのほかコミュニティペーパーの作成
や復興過程の写真展の開催などのイベントも行っている。
また日常的な活動としては子どもの美術クラスを開くな
どの文化活動がある。
意で住宅再建をはかるなど既存の社会関係のなかで相互
扶助的に解決しているケースがその典型といえるが、石
岡のように外部からの支援団体が仮設住宅を建設を行っ
ているケースでも、それを恒久住宅化させていくといっ
た方法が検討されている。
都市部では復興プランに関する合意形成がやはり大きな
課題となっている。日本では都市計画による強権発動が
批判の対象となりやすいが、東勢の復興プランは住民側
の主体的な判断による柔軟な対応がしやすいと利点はあ
るものの、地域間あるいは地域内の足並みが揃わなけれ
ば極端な膠着状態に陥る仕組みであるといえる。
各地区で支援活動を行っている諸団体は地域社会と一定
の距離をとりながら、提案活動をしているものと、地元
社会と密接に関わりながら住民の自立的な生活再建を模
索するものとに大別できる。こうした団体は台湾の民主
化の過程で数多く輩出されてきているが、その詳細につ
いては今後の課題としたい。
補注
(1) 謝志誠編 2000『921 災後重建 Q&A』全國民間災後重建聨盟
より作成
(2)台湾の先住民のうち漢人との同化が進み平地に居住する部族
を指す(イン・ユンペン編丸山勝訳:台湾の歴史,藤原書
店,1996.)
(3)2001 年 3 月までに主要な工場は操業を再開。
(4)2001.2.22 埔里鎭公所へのヒアリングより。そのほか 4)を
参照。
(5)2001.2.22 新故郷文教基金會空間組へのヒアリングより
(6)2001.2.20 龍安村長リャオ氏及び金華社區指導者 李氏への
ヒアリングより
(7)2000 年 1 月から現在にいたるまで服部が現地調査を行った。
また東安里については 2001.2.21 木村が東安里本街都市更
新會理事へのヒアリングを行った。そのほか 4)を参照。
(8)福建系住民が話すビンナン語では亭仔脚という。
(9)石岡への支援を行っている民間団体、大隘社のメンバーに
c) 復旧・復興過程における課題
大隘社は民間団体としては被災者の住宅再建に直接取り
組んだ珍しいケースであるが、恒久住宅への移行は雇用
が不足していることと相俟って非常に難しくなっている。
また、主要な産業である農業も、中国の WTO への加盟に
伴う競争で、有機農業に生き残りを懸けているものの、
状勢は厳しい。
2000 年 1 月以降から現在にいたるまで、およそ 3 ヶ月に1
度程度、繰り返しヒアリングを行っている。そのほか 4)を
参照
参考文献
1)The921 Earthquake Post-Disaster Recovery Commission: Problems
and Solutions in 921 Recovery, APEC Workshop on Dissemination
of
4.結論
Disaster Mitigation Technologies for Humanistic Concerns, 21 June
2001
台湾 921 震災は被災地が台湾中部の農村地帯や比較的規
模の小さい都市であったため、大都市との格差が生み出
している諸問題に直面している。またこうした地域は 18
世紀以降の大陸からの人口の流入や居住地をめぐる大小
の争い、あるいは地場産業の発展過程の結果として、客
家としての文化的アイデンティティを持つ社会層や少数
民族の居住地域となっている。そのため、復旧・復興プ
ロセスの中に文化運動の要素が織り込まれているケース
が非常に多い。
農村部では、雇用や産業の問題が大きなハードルとなっ
ているが、恒久住宅への移行については問題を抱えなが
らも、比較的柔軟に対応できているといえる。中寮郷龍
安村のように一部外部団体の協力を得ながら、地主の好
6- 5
2)Sheng-Fong Lin, Deputy Director of The 921 Earthquake Post –
Disaster Recovery Commision : The Current Development and
Visions
Built for the 921 Earthquake Post-disaster Recovery, APEC
Workshop
on Dissemination of Disaster Mitigation Technologies for Humanistic
Concerns, June 18-21, 2001
3)南投縣耕藝藝術協會 ・新故郷文教基金會埔里家園重建工作
店:埔里鎮重建願景, 2000.3.
4)服部くみ恵:住民主体の震災復興とエンパワーメント∼921
台湾大地震の復興を参考として∼, 2000 年度立命館大学大学
院政策科学研究科修士論文
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