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つながる - 三田市
Since 2013 つながる 人権便り 第 95 号 2015.1.27 三田市立長坂中学校 人権教育委員会 ◆1月27日 1945 年1月 27 日、ナチスドイツによってポーラン ドに作られたアウシュビッツの収容所が連合国軍によ って解放された日だ。ちょうど 70 年前の今日にあた る。その 3 ヶ月後、ナチスドイツは降伏し、ヨーロッ パでの世界大戦は終結した。 アウシュビッツ収容所といえば、ヒトラー率いるナ チスドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進し た人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生ま れたとされる強制収容所である。 ヒトラーはアーリア人(ドイツ人など)至上主義に基づいて、ユダヤ人の民族浄化政策を進めた。つ まりユダヤ人を抹殺(まっさつ)する政策だ。そしてドイツ国内やドイツの占領地からユダヤ人を集め、 各地の収容所に収容した。集められユダヤ人の男性は非常に過酷な労働を強いられた。一方、収容所は 労働に適さない女性・子供・老人を処分するため機能も併せ持っていた(ホロコースト)。一説には「強 制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされ ており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。収容されたのは、ユダヤ人、政 治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、捕虜など、さらにはこれらを匿った者など。ピーク時の 1943 年に はアウシュヴィッツ全体で 14 万人が収容されている。たとえ労働力として認められ、収容された者でも 多くは使い捨てであり、疾病などで労働できなければ命を奪われた。劣悪な住環境や食糧事情、蔓延す る伝染病、過酷懲罰などで 9 割以上が命を落としたとされ、1945 年1月 27 日に解放されたときの生存者 は 7,500 人程度だったと言われている。 ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979 年 に世界遺産リスト「負の世界遺産」に登録した。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチ ム博物館」が管理・公開している。 そのときに生き残った方々の記事がネットニュースにあったので紹介しよう。 アウシュビッツ生存者が語る「死の収容所」 、解放から 70 年 【1 月 26 日 AFP】張り巡らされた鉄条網で感電死した女性の耳をつんざくよ うな悲鳴、ガス室へ送られた子どもたち、絶え間ない死の恐怖──アウシュ ビッツ・ビルケナウ強制収容所の生存者たちは、史上最も忌まわしい「死の キャンプ」での生活を驚くほど鮮明に語る。 生存者たちの大半は今や 90 代 に達しているが、何人かは、27 日に開催されるアウシュビッツ解放 70 年の 記念式典に出席できる。現在のポーランド南部にあったナチス・ドイツ最大 の絶滅収容所は、1945 年 1 月 27 日にソビエト連合の赤軍によって解放され た。 「感電して死んでいく人の叫び声なんて、想像できないでしょう」。生存者 の 1 人、ソフィア・ポスムイシさん(91)は、共に捕らわれていた人々が 自ら死を選び、収容所を取り囲んでいた電流が流れる鉄条網に身を投げ出し ていった様子を語った。 アウシュビッツと独北部ラーベンスブリュックの強制収容所で 3 年間を過 ごしたポスムイシさんには、今も当時の記憶が付きまとう。「鉄条網に引っ かかった遺体を幾つも見た。夜になると、バラックから若い女性たちが出て きて、鉄条網に身を投げた。恐ろしい光景だった」 「つんざくような叫び声で目を覚ましたものです」と話すポスムイシさんの左腕には、今も囚人番号 「7566」の入れ墨が残っている。 ■囚人が行っていた収容所長の散髪 囚人番号「121」の入れ墨を持つユゼフ・パチンスキさん(95)は、目を閉じれば、アウシュビッツの 悪名高い所長、ルドルフ・ヘスのひげそりと散髪の儀式をありありと思い出すという。 パチンスキさんは 1940 年 6 月に初めてナチスがアウシュビッツへ送り込んだ囚人 700 人のうちの 1 人 だった。収容所へ到着するとまもなく、理髪班に配属された。「(収容所には)ワルシャワから来た理髪 師たちが 8~10 人ほどいて、ヘスは私のような見習いに命じて自分の髪を切らせた」 「私の手は震えた。しかし、命令は命令だ。仕事をしなければならなかった」と、パチンスキさんは AFP に語った。 「カット方法は簡単だった。一般的なドイツ風の髪型だ。かみそりで首筋をそらなければいけ なかったし、もみあげにはバリカンを使った。私はいい道具を持っていた。同僚がいつも刃を研いでお いてくれた」 かみそりをヘスの喉へ突きつけようと思ったことはなかったのか、という質問をパチンスキさんは何度 も浴びるという。 「結果は分かっていたし、私は狂ってはいなかった。もし私が彼の喉を切り裂けば、す ぐさま収容所の囚人の半分が処刑されただろう」 ■「集団で歩くときは常に真ん中に」 ポスムイシさんもパチンスキさんも、19 歳で収容所へ送られた。2 人が生還できたのは、まだ若く、そ して収容所で生き延びる方法を素早く学んだからだった。 「生き延びる方法を覚えた。集団で歩くときには、最前列や両端にならないよう気を付けるのが肝心だ った。常に集団の真ん中の方にいるようにして、犬や看守、囚人を殴って来るカポ(監視役の囚人)た ちから離れていなければならない」 「何としてでも、懲罰を受けるような目に遭わないようにすることが 基本だった」(ポスムイシさん) 囚人番号「118」のカジミエシュ・アルビンさん(92)が生き延びることができたのは、1942 年 2 月 27 日に他の囚人 6 人とともに脱走したからだ。 「星のきれいな夜で、外気温は零下 8~10 度だった」と追想 する。 「みんなで服を脱いで、ソラ川を半分ほど渡ったところでサイレンが聞こえた。私たちの周りには 氷が浮いていた」 。逃げ切ったアルビンさんは、ポーランドのレジスタンスに合流した。 脱出した例は、まれだ。収容所跡地にあるアウシュビッツ・ビルケナウ博物館によれば、アウシュビッ ツへ送られた約 130 万人のうち、脱出を試みたのは女性 45 人を含む 802 人だけで、成功したのはわずか 144 人。327 人が捕まり、残る 331 人の運命は分からない。 「あの殺人者たちを忘れたり、許したりすることができるだろうか。真っすぐガス室へ送られた女性や 子どもたちのことを忘れることなど、絶対にできない」。こう述べたパチンスキさんは、だが、次のよう に付け加えた。「終わりのない戦争を続けたって、死者は帰ってこない──和解がなされ、平和があり、 境界が消えたことを嬉しく思う」 (c)AFP/Maja Czarnecka 日本は第 2 次世界大戦の加害者であり、また被害者でもある。アジア諸国に大きな被害を与え、悲し みを与えた、と同時に日本もまた多くの国民が戦地に派遣され、また原爆や空襲によってたくさんの命 が奪われたのだ。戦争によって悲劇に見舞われるのは必ず社会的に弱い立場の者であり、我々庶民なの だ。戦争は最大の人権侵害。 ポーランドのクラコフで取材 を受ける、ナチス・ドイツの アウシュビッツ・ビルケナウ 強制収容所から生還したユゼ フ・パチンスキさんが見せる 左腕に刻まれた囚人番号の入 れ墨(2015 年 1 月 5 日撮影)。 ポーランドのクラコフで取 材を受ける、ナチス・ドイ ツのアウシュビッツ・ビル ケナウ強制収容所から生還 したユゼフ・パチンスキさ ん(95)が見せる左腕に刻 まれた囚人番号の入れ墨 (2015 年 1 月 5 日撮影)。 (c)AFP=時事/AFPBB News 幸い戦後の日本では戦争に関わることがなく、この 70 年間、戦争を体験しなかった世界でも希有な国 と言える。これは日本が世界に誇れることだ。この平和をこれからも永遠に堅持していかなければなら ない、とともに世界各地にいまだ終結しない戦争に対して「ストップ」と声高に主張するのも日本の責 務と言える。 日本の憲法(前文)にもあるように『(私たちは)戦争の惨禍が起こるこ とがないようにすることを決意』したのだ。また戦争や差別などあらゆる 不合理を『地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名 誉ある地位を占めたい』と心に決めたのだ。 今、世界各地で頻発する争いを「遠い国でのこと」と捉えるのではなく、 世界の人々と連帯して、 “平和の世紀”を構築するのは私たちが果たさなけ ればならない役割なのだ。 <裏につづく> 世界の人とつながろう! 三田市国際交流協会が主催する 『国際交流DAY2015』の案内が 届きましたので紹介します。 興味のある人は参加してみてく ださい。 仲間を大事に! 来年もひとり一人が輝いていきましょう!