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「青年の主張」のメディア史

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「青年の主張」のメディア史
①
2010.5.18 本音クラブ・勉強会テーマ資料
【[やさしい経済学]日本経済新聞(朝刊)】 2010.3.31∼4/14 全10回シリーズ
「青年の主張」のメディア史
京都大学准教授 佐藤卓己 氏
2010.3.31
[1]昭和の国民イベント
還暦を迎えた「団塊の世代」にとって、
「1968年」や「学園紛争」は今もノスタルジーの対象なのだ
ろう。出版界でもテレビ番組でもそうした企画が目につく。当時、小学2年生だった私もクライマックス
の東大安田講堂攻防戦はテレビ中継を見たはずだ。
「陥落」の1969年1月19日午後6時には累積視聴
率72%、機動隊突入の18日との両日で関連番組の到達率は97%に達している。だが、テレビっ子だ
った私がいま気になって仕方がないのは、その4日前、15日に放送された番組である。
その正式名称は《NHK青年の主張全国コンクール》という。コンクールは1954年4月ラジオ番組
として始まるが、全国大会の中継は翌年1月からスタートした。
『1956年版経済白書』に「もはや戦後
ではない」とあるが、高度経済成長とともに始まった昭和のメディアイベントである。
「成人の日」の全国大会は第6回1959年からのテレビ中継開始、第9回1962年からの皇太子ご
夫妻臨席を契機として国民的番組となり、昭和の終焉(しゅうえん)とともに幕を閉じた。1990年から
《青春メッセージ》に改変され、後継番組も《ライブジャム2005》を最後に打ち切られた。この間、
2000年「成人の日」がハッピーマンデー制導入のため移動祝日に変化している。それにしても、19
70年代には紅白歌合戦と並ぶ知名度を誇った国民的番組はなぜ急速に忘却されたのだろうか。
安田講堂攻防戦の最中に行われた《青年の主張》の入選スピーチは、
『青年の生きかた』(1969年)
として公刊されている。審査員、曽野綾子のコメントが表紙に刷り込まれている。「《青年の主張》は現代
日本の最も明るい姿をあらわした一面であろう」
だが、小学生の私には「明るい」とは見えなかった。正直にいえば、むしろ「暗い」と感じたのではな
かっただろうか。そして反抗期の中学生になると、この優等生的な自己PRを直視することはなかった。
しかし、なぜか気になる番組だった。本連載では、この国民的イベントの機能と構造をメディア史として
分析してみたい。私には「学生の異議申し立て」の不在よりも「青年の主張」の消滅を問うことがはるか
に重要と思える。
2010.4.1
[2]多数派勤労青年を代表
「団塊の世代」といえば、
「全共闘世代」
。こうしたステレオタイプはメディアの世界では特に根強い。だ
が、それは虚像である。
そもそも団塊の世代、800万人中で一体どれくらいが全共闘体験をもっていたか。1968年6月現
在、大学在学者は約134万(うち短大23万)人である。同年代の20%未満にすぎない。逆に言えば、
当時同年代の80%以上は大学に進学していなかった。しかも、紛争は有名なマンモス大学に集中してい
た。
大都市圏、21大学の学生に対する読売新聞社の調査(1968年8月)は、
「過激派を含む革新系集団」
を21%としているが、そのすべてが全共闘だとしても同世代の4%にすぎない。
全共闘世代は同時に「集団就職世代」でもあった。安田講堂攻防戦の最中に行われた《青年の主張全国
大会》の優勝者は、北海道から仲間と一緒に上京してきた勤労青年である。同世代人口の圧倒的多数を代
表したのは、「学生の異議申し立て」ではなく、「青年の主張」だったはずである。
にもかかわらず、
「汁牛充棟」
たる全共闘運動研究に対して、
青年の主張を分析した研究は見当たらない。
一つには、このイベントの出場者が「良識ある青年」であり、社会秩序の中核であったためだろう。研究
者やメディアが注目するのは同世代ピラミッドの上層と最下層、つまり「有名大学の前衛学生」と「社会
問題としての不良少年」である。
実際、
《NHK青年の主張コンクール》の後援は文部省、各都道府県教育委員会、日本青年団協議会、全
国公民館連合会である。応募規定で趣旨はこう謳(うた)っている。
「広く全国各地の青年に意見発表の場を与え、現代青年が何を感じ、何を考えているかを一般に訴える
②
とともに、現代の若い世代の清新かつ建設的な意見を交換することを目的とする」
参加資格は15歳から25歳という年齢制限のみで、出場希望者は選択した課題にそって5分以内のス
ピーチ原稿を提出した。第1回の課題は「私の理想とする人物」だけだったが、毎年追加され、第10回
では「私の理想とする人物」に、
「私の訴えたいこと」
「働きながら学ぶ私の体験」
「こんな仕事に一生をさ
さげたい」
「国際親善と青年の役割」を加えた5題となっていた。このメディアイベントには、対抗文化で
ある学生運動への「対抗」として組織された政治的な側面が確かに存在していた。
2010.4.2
[3] 教養の弁論 修養の主張
知識人は、
「社会変革のための青年論」ならともかく、「社会秩序としての青年論」を避けてきた。自由
民権期以来の雄弁文化については研究も多数存在するが、
《NHK青年の主張コンクール》に関するまとま
った分析はない。芳賀綏『言論と日本人』も、スピーチを「演説」と訳した福沢諭吉から語り起こす、前
者に属するインテリ中心の弁論史だが、
《青年の主張》の画期性は認めている。見事な概観なので、引用さ
せていただきたい。
「応募した人々の多くは勤労青年だ。看護婦、公務員、バスガイド、家事手伝い、幼稚園教諭、農業従
事者、美容師、電話局員、鉄道職員、自衛隊員、農協職員、保母、大工、獣医、牧畜業、左官、和裁士、
洋裁士、警察官、栄養士、教員、鍼灸(しんきゅう)師……。おのれを修めながらささやかな実利を求めて
いくという伝統的勤労庶民の骨格を持った人々がここには顔を揃(そろ)えた。胸を張り声を張り、精神的
な骨太さを感じさせる姿勢。一音一音をカッキリと発音し、きっぱり“きまる”話しぶり」
このような勤労庶民の文化という点では、1909年大日本雄弁会を設立した野間清治の講談社文化と
の連続性も指摘できよう。読書文化における知識人と大衆の乖離(かいり)は「岩波文化と講談社文化」の
枠組みで語られてきたが、弁論文化にも二類型が存在した。天下国家を語るエリート学生の教養主義的弁
論と、生活の場で安心立命を願う勤労青年の修養主義的主張である。前者は戦後の学生運動に引き継がれ
たが、後者の受け皿の一つが《青年の主張コンクール》だった。
全国コンクールは書類選考の後、府県大会、地区大会を経て実施された。選抜基準は非公表だが、全国
大会審査員によれば「内容70点、話し方20点、態度10点」だったという。
勤労青年の多くは、課題から「こんな仕事に一生をささげたい」
「わたしの選んだ道」を選んでいる。こ
のイベントが集団就職者の生活指導として利用されていたからである。企業内の作文指導担当者は「集団
就職の少女たちは何を考え、何を訴えるか」
(『青少年問題』1966年4月号)でこう述べている。
「少女たちの過去の生活に終始まつわりついていて離れなかったところの進学できなかった劣等感・差
別感・無力感情を自らの力で除去してゆけるような関係・場を設定してやらねばと考えたからである」
。テ
レビに映るその真摯(しんし)な姿に共感のまなざしを注いだ同世代も少なくなかったはずである。
2010.4.5
[4]まなざしの極楽
青年らしさにあふれた《NHK青年の主張コンクール》は、「らしさ=秩序」を再生産する官製イベン
トである。そのように批判するメディア批評は早くから存在した。例えば1967年1月17日付『朝日
新聞』テレビ欄「波」である。
生活保護を受ける高校生(北海道代表)
、内地に比べて劣悪な教育環境(沖縄代表)など、いずれも「耳
を傾けるに足りる主張」だが、感動したという印象だけが残り、語られた内容は記憶に残らない。
「最終審
査員には中庸的人物が並び、文部省社会教育局長も一枚加わっているのをみると鋭い疑問や主張を出した
ものは、予選の段階でフルイにかけられたろうという疑惑がおきる。それほどそろってハメをはずさぬ優
等生ばかりなのがさびしい」
しかし、
「優等生」の語りであり、貧困や障害の内容もパターン化されていたからこそ、視聴者は安心し
てその苦労話に感動できた。だから、この番組は社会不満の解消になっても社会変革には結びつかない、
と「波」の評者は言いたいのだろう。とはいえ、後に日本赤軍最高幹部となる重信房子も都立高校生時代、
1960年代前半の《青年の主張コンクール》に参加している。
ただ、彼女が熱弁をふるったという記憶は残っても、そこで何を訴えたかを記録するものはほとんど残
っていない。
その意味では、このメディアイベントは同じ公開参加番組「NHKのど自慢」と比較検討されるべきか
③
もしれない。1946年ラジオ番組として始まった「のど自慢」は、
「青年の主張」が消滅した現在も続
いている。長寿番組の秘訣は、歌謡の内容ではなく、ただテレビに映る快楽に特化した強みだろう。
こうした視聴者参加番組が「まなざしの極楽」だとすれば、そのネガを切り取った名論考が見田宗介「ま
なざしの地獄」
(1973年)である。1965年青森から上京した青年は「安アパートの一室のさびしい
テレビ視聴者」となり、やがて「都市の他者たちのまなざしの囚人」として追い詰められ、1968年連
続ピストル射殺事件を引き起こす。
「金持ちの息子は(たとえば庄司薫の小説のあの鼻もちのならない主人公たちは)セーターにジャンパ
ーなどを無造作にひっかけて銀座を歩く。N・Nは“パリッとした背広”にネクタイをしめる。−−貧乏
くさいのはN・Nの方だ!」
同じ階級構造は「まなざしの極楽」にも確かに実在していた。
2010.04.06
[5] 中流意識浸透が転機
三浦雅士『青春の終焉(しゅうえん)』(2001年)によれば、「青春」とか「青年」という言葉は日本
文学においては1960年代に最後の輝きをみせ、1970年代初頭から消え始める。
《NHK青年の主張
コンクール》というメディアイベントも、それと同じ盛衰をたどった。
ラジオ・テレビで放送された《青年の主張》だが、第14回(1967年度)大会から第24回(19
77年度)大会までの入選作品は自由国民社から毎年出版されていている。その第1弾『青年は主張する』
(1968年)の発行は新左翼学生のデモ隊が国会に乱入した国際反戦デーの直前である。
「われわれは……」とアジ演説を行う学生運動に対して、
《青年の主張》の基調は「私は……」と語り始
めることであった。当時日本育英会会長をつとめた元文相、森戸辰男が寄せた推薦文が象徴的だろう。
「暴徒学生やヒッピー族のかげで、黙々と勉強し勤労する青年こそ明日の日本を担う」
確かに、そうした期待を政財官学の指導者たちはこの番組に寄せていた。試みに1971年度全国大会
の審査員をリストアップしてみよう。津田塾大学教授・伊藤昇、文部省社会教育局長・今村武俊、東京工
業大学助教授・江藤淳、青年育成国民会議会長(元東大総長)
・茅誠司、作家・曽野綾子、ソニー社長・盛
田昭夫、NHK教育局長・堀四志男である。
連合赤軍あさま山荘事件を契機に学園紛争が収束に向かった1972年、
『第18回入選文集』では識者
による総括が行われている。特に興味深いのは、映画監督・松山善三の厳しい批判である。
「ここに果たし
て“主張”と名のつくものがあるだろうか」と。松山は聴覚障害者夫婦を描いた《名もなく貧しく美しく》
(1961年)の社会派監督である。
「それは主張ではなく、反省である。自分との戦いが如何(いか)に強く、激しくとも、その心が社会の
矛盾や、差別や、権力との闘いにつながってゆかなければ、個としては完成するだろうけれども、より良
い社会や、未来を作る力にはならないだろう」
「われわれは……」と叫ぶ集団主義も暴走したが、
「私は……」の個人主義もやがてセレブでリッチでプ
リティな私生活へ埋没する危険性を秘めていた。すでに1970年以降総務庁調査で9割以上の国民が自
分の生活を「中程度」と回答していた。
「公」から撤退して「私民」的自由を得る豊かな生活が現実味を帯びていた。1971年度《青年の主
張》は大きな転機となる。
2010.04.07
[6] 東京の大学生が初優勝
学園紛争のほとぼりの冷めぬ1970年代前半、
《NHK青年の主張コンクール》は人気のピークを迎え
た。『入選文集』も自由国民社に加え、エール出版から出版された。
1966年度から全国大会入賞者に与えられていた海外見学旅行の特典も1969年度には全国大会出
場者全員に拡大された。そもそも一般国民が単なる観光目的で自由に海外にいけるようになったのは19
64年以降である。1966年には年間1回限りの制限も撤廃されている。
こうして始まる海外旅行熱の高まりを受けて、1971年度には《青年の主張》の課題に「私の海外体
験」が加わった。高度成長期とともに「農村」「職場」という勤労青年の生活空間も、
「海外」と接触せざ
るを得なくなった。こうした変化を象徴したのは、1971年度全国大会で最優秀賞に選ばれた東京地方
代表・横田邦子(19 歳)である。
④
「平和のためのかけ橋に」と題して、少女時代のブラジル滞在、奨学金でのアメリカ留学が語られた。
この上智大学生は、30年後の2002年日本政府特命全権大使となり、翌年ジュネーブ軍縮会議で議長
を務め、2005年衆議院議員に初当選、特命担当大臣に抜擢(ばってき)された。猪口邦子その人である。
スピーチはこう始まる。
「わたしたちすべての人間は、
生まれながらにしてなんらかの環境的運命を背負っています。
青春とは、
その運命に対する挑戦であり、自分自身のきびしい開拓の場なのです」
これが全国中継された約1カ月後、あさま山荘事件のテレビ中継に国民の目は釘(くぎ)づけになる。こ
の第18回大会まで東京の大学生が優勝した例は一度もない。帰国子女の優勝は、世間一般の「青年」イ
メージが勤労者から大学生へと変わる画期だった。大学進学率(短大含む)は1950年代には約1割だ
ったが、1970年代半ばには4割に迫っていた。
また、男性優位だった《青年の主張》の応募者も、1960年代後半から男女比が逆転した。1972
年度全国大会に残った10人中9人は女性となっている。
横田邦子のスピーチはそれまで定番であった
「希
望を失わず、この一筋の道を歩んで行こうと決意している私なのです」式の言いまわしに代わる新しい自
己肯定のスタイルの典型だった。こう結んでいる。
「わたしの体験が役立つならば、喜んでそのかけ橋の一端をになうつもりです。わたしたち青年ひとり
ひとりの真心による国民外交が、今日ほど国際社会で必要とされている時代はないのです」
2010.04.08
[7] 若者から異質の存在に
1971年度《NHK青年の主張全国コンクール》は、横田(猪口)邦子が優勝することで一つの画期
となった。それにしても、知的な海外体験を軽やかに語る女子大生のスピーチは、他の出場者にどのよう
な印象を与えただろうか。その原稿を読みながら、私は芥川賞作家、庄司薫が、同年発表したエッセー『狼
なんかこわくない』の一文を思い出した。
「シュヴァイツァーの生涯が同じような人類愛に溢(あふ)れた生活を望む若者には実に卑小感を与え、
ドストエフスキーの傑作が文学青年を絶望させ、マリリン・モンローの微笑が女性を傷つけるように、ぼ
くたち一人一人のなんらかの行為は、この人間全体の連続的な相対関係のなかで、かならずどこかで優勝
劣敗を生んで他者を傷つけている……」
逆に言えば、それまでの《青年の主張》には「他者を傷つける」可能性はほとんどなかった。つまり、
どの主張も偉大さや卓越性とは程遠く、日常の貧病苦を乗り越える「小さな夢」が語られていた。さらに
言えば、そうした主張には聞く者に返り血を浴びせるような自己否定は見られない。ほとんどの主張は最
後に「こんな仕事に一生をささげたいのです」という自己肯定で結ばれていた。だから、逆境の体験であ
っても、視聴者は自らのささやかな幸福を実感できた。だからこそ祝祭日の昼時にふさわしい放送番組だ
った。
それから3年後、1974年、男女の高校進学率は並び、進学率と連動した1億総中流意識の高まりが
青年における貧困や格差の存在を見えにくくしていった。国民の9割が中程度の生活と自己申告する社会
で、経済的理由で進学できないとは言いにくい。こうした状況で、
「ふつう」の勤労青年が知的引け目を感
じることなく応募することは難しくなった。つまり、特別な障害や被差別体験など誰もが納得できる「政
治的正しさ」が必要となる。そのため1970年代後半になると応募者全体における勤労青年の比率は急
速息に減少していく。
その一方で1973年度大会からは元総評議長、太田薫が「はじめて労働者の代表として」審査員に加
わっていた。新左翼にも影響力をもつ太田の登場は、ある意味で紛争時代の終焉(しゅうえん)を象徴して
いた。1975年度の講評で、太田は出場者の「きまじめさ」は受験に追われる世間一般の若者たちの気
持ちから浮いており、
果たして共感を得ることができるのだろうかと疑念を呈している。
《青年の主張》
は、
一般青年にとって異質な何ものかに変質していた。
2010.04./09
[8]「体制批判」の供給源に
1970年代後半、
《NHK青年の主張コンクール》関東甲信越ブロックで審査員をつとめた評論家、樋
口恵子はこう論評している。
⑤
「出場者のすべてがそうではないが、全体として日本株式会社から落ちこぼれた貧しい部分が、いや
応なく浮き彫りにされてくるのだ。ふだんのNHKの視聴者参加番組は、やはりゆっくりテレビを見るゆ
とりある“中流”が主流である。《青年の主張》に限って、見落とされがちな層が、
“福祉の対象”として
でなく “主張の主体”として出てくる」
貧困、過疎、障害、学歴、差別……そうした格差が集約された番組でありながら、出場者も視聴者も予
定調和的な幸福感に包まれる現状に、いら立つ識者も少なくなかった。
こうした傾向は1980年代の《青年の主張》で突出していた。国会会議録データベースで「青年の主
張」を検索してみれば、この番組がどのように利用されたかがわかる。
社会党や共産党の代議士が中国残留孤児支援や、特別在留外国人指紋押捺(おうなつ)問題などに関連
して、全国大会入賞者の実名を挙げて質問を繰り返した。1960年代に政府・自民党が学生運動への対
抗文化として支援してきた番組は、野党が社会問題をあぶり出す体制批判の供給源となった。1980年
代に急速に広まる生活保守主義の視点からすれば、
《青年の主張》は祝日のお茶の間にそぐわないテレビ番
組となっていた。
「楽しくなければテレビじゃない」は1980年代のフジテレビのキャッチコピーだが、お笑いブーム
の中で《青年の主張》はネタとして消費された。特に「青年」の形態模写を得意としたのが、
「戦後最大の
素人芸人」を自称するタモリだった。
「わたしは!そのとき!おもったのです!」という語尾に力をこめる
珍妙な節まわしが、当時若者にウケていた。
「NHKには『青年の主張』というお笑い番組がありますが…
…」とNHK番組内で発言する、タモリの過激な批評精神を評価する文化人も多かった。
1985年にはお笑いコンビ、とんねるずの「青年の主張」
(作詞・秋元康)がオリコン15位のヒット
を記録した。体格のよい石橋が虚弱体質を克服した青年による「乾布摩擦のすすめ」を、女装した木梨が
竹の子族の少女による「アイドルの追っかけをやって良かったと思うこと」を主張している。これが《青
年の主張》を揶揄(やゆ)する最後のヒット作品となる。それ以後は《青年の主張》の存続自体が危ぶま
れたからである。
2010.4.13
[9] 主張からメッセージへ
ポストモダンが叫ばれた1980年代『NHK 青年の主張コンクール』は時代感覚からずれたメディア
イベントとなっていた。
1981年度(第28回)大会に応募した4155人のデーターが公表されている。性別では女性が5
3%と多く、地域別では四国932人が突出しており、東京圏では178人にすぎない。長らく中核を担
った勤労青年も大学生も著しく減少し、高校生が55%を占めた。応募者では16歳が最多であり、選ん
だ課題も「ひとつの出会い」がトップだった。1960年代に多かった課題「こんな仕事に一生を捧(さ
さ)げたい」
「わたしの選んだ道」と大きな断絶が存在している。ほとんど高校弁論部の発表会の様相を呈
していたが、高校弁論部そのものがすでに都会的なカルチャーとは大きく乖離(かいり)していた。
消費社会では肉体を使う生産労働よりも感情を演出するサービス労働が重要になり、青年の理想型はま
じめ人間からあそび人間に変化した。まじめイメージがしみこんだ「青年」という言葉も「若者」に置き
換えられて使われなくなった。小此木啓吾『モノトリアム人間の時代』
(1978年)は豊かな社会の中で
「おとな」としての社会的責任を担おうとしない人間類型を活写したが、労働から解放、あるいは追放さ
れた若者にとって、仕事の選択と結びついた「青年」概念はリアリティーを欠いていた。今日、
「青年」は
「後期子ども」と言い換えられることも少なくない。
主催者側もそうした時流に対応し、全国大会にアイドル歌手を登場させるようになった。
「NHKの幼児
化現象」(『週間ポスト』1989年1月13日号)などと批判されたが、イメージチェンジは断行され、
1990年《青年の主張》は《青春メッセージ》と改められた。内容面でも課題をなくし、原稿用紙では
なくカセットテープやビデオでの応募も認められた。また、全国大会の司会はその年に成人となるタレン
トが務め、若者に人気のアーティストがライブ演奏をおこなった。皇太子ご臨席は続いたが、若年層の視
聴率をつなぎ留めようとしたパフォーマンスは年配の固定客には不評だった。番組改編を担当したNHK
の担当者は1996年、次のように語っている。
「高学歴、高度情報化の社会になり、人生経験が貧困な若者は大言壮語しようにもできない。改称後は、
ディスクジョッキーみたいな話が増えている」
時代がかった主張の後には宛先(あてさき)不明のメッセージだけが残っていた。
⑥
2010.4.14
[10] 「まじめ青年」を再評価
2004年、《NHK青春メッセージ》も打ち切られ、後継番組として2005年、若者がバンド演奏
などを披露する《ライブジャム2005大集会・ニッポンの若き挑戦者たち》が放送された。だが、これ
もこの年だけで終了した。同年NHKの担当プロデューサーは《青年の主張》は「歴史的な役割を終えた」
とし、こう述べている。
「今はインターネットで意見を発信できる。10代でも、例えば海外ボランティア
に行きたいと真剣に考えれば、論じる前に行くことが可能な時代になった」
それも正論だろう。しかし、
《青年の主張》開催の趣旨でうたわれた「青年に意見発表の場を与え」
「建
設的な意見を交換すること」はウェブ上で達成されているだろうか。
格差社会の影が忍び寄る今日、1968年の全共闘学生の「異議申し立て」は盛んに回顧されている。
しかし、同じ時代に行われた「青年の主張」が思い出されることはほとんどない。それは大学進学率の上
昇が「学生」を「若者」一般に解消し、学生文化と青年文化の境界があいまいになったからでもあろう。
消費社会化の中で自由を持て余した「あそび学生」は脚光を浴びても、生産現場を支える「まじめ青年」
の存在は周辺化されてしまった。
しかし、2009年度現在も大学進学率(短大含む)はまだ53.9%であり、同世代人口の約半数は
大学に行っていない。それにもかかわらず、新聞やテレビでは「大学全入時代」という言葉が頻繁に使わ
れている。本来、大学全入時代とは1990年代後半から少子化による志願者減少を恐れた大学経営者が
口にし始めた業界用語である。確かに建前上は入試があっても実質的には誰でも自由に入れる「Fランク
大学」は増えている。だがこうした大学ビジネス用語の独り歩きは、大学に行かない(行けない)若者の
存在を無視する危険性があるのではなかろうか。もちろん、経済的理由から進学を断念する高校生は今も
少なくはないはずである。その意味では《青年の主張》の不在こそが、大学全入時代という無神経な言葉
を跋扈(ばっこ)させ、大学そのものを空洞化させているのだろう。
少年時代に観(み)た「公式的」メディアイベントへの違和感から私は調査を始めた。だが、入選作品
を読みながら、様々な困難と闘いながら「学び」を求める青年の生真面目(きまじめ)さを笑うことはで
きなかった。「まじめ青年」のメディア論をまとめたい。
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