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弘前市の都市機能と地域分化

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弘前市の都市機能と地域分化
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<論説>弘前市の都市機能と地域分化
横山, 弘
弘大地理. 2, 1966, p.1-5
1966
http://hdl.handle.net/10129/3438
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publisher
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
弘前市の番目市機能と地域分化
ム
ヲ
山
横
1.序
都市は発展する Kつれて多くの機能をもつよう K まるが‘それら持問機能は都市内部で分
(
1
)
離すゐ傾向をもっている o
0 大都市 v
とまれば在るほど機能が複雑V
C~ Ð~ 地域分化も多機性を
かびる。地域分千七の強国として B 都市の発展拡大が考えられるが‘その発喪越大をう左がす誘
因が荷か K よって、地域分イヒの様相も変化をもってくる。そと K都市の性格を見えだす事が出
来るのである。い室、城下町 K発生を見る弘前を伊~VC とり、その発展j躍と都市機色から地域
分化がど吃様 Kなされて来たかを見ょうとするもわでおる。
2
. 藩政時代の市街地
弘前は 1611 (慶長 16)年記滞軽信牧によって築城されたとと K拾まる o 域は台地の末
1
1
が迫り防禦体制がとらt1.‘域をかとんで士族鹿敷があり‘高級
端部に構えられ‘背後は岩木 1
士族は外壌の舟瓜中級及び下級士族は外側に属性させた。特 K下級壬族の屋敷は城下釘の周
辺K卦か才九それそ@れ城下への主要薪道の入口氏配置されていた
〈
才 l留〉
o
一方町人町もそ
れぞれの機能 K よって分れて卦れ御用商人部ち‘特権構人町と普通商人留了・職人町があった。
特権高人町は城下町時代の中心議活街であれ大手門通り
V
C
i
j
主交して走台本町と呼ばれていた。
本町であっかわれる高品は当時の高級繭品で絹布・木綿の新品のほか、古着・小間物左どの員反
莞を許可されてかり、その告では一般日用品の厳売しか許可されていなかった。普通務人町は
町の中心部から周辺地域 K通ずる主要荷道に治って位霞しているが連統的で立く、士族麗敷 K
かとまれ散在静態をなしていた。識人町は域御用の鞍部・鍛治・銀細工部等の露日報 V
C近く艶
t:近く町をましていた。城下軒では寺院・神社を外縁部詑配濯するのが
置されも染踏は岩木}l!v
特色であるが(2)、弘前でも域合ヰ閣と高羽 K配護し非常のi緊の備えとし~
-;また市中を流れる土
淵)1も外接的役昌をもち、 1650 ( 厳 3)年 頃 は そ と ま で が 精 油 と 左 つ い た
G
L士課
川以来 Kは土=fBITが一筋。びて泊予とはすきをまかった。 1763 (宝謄 13) 年 の 人 口 説 る と
31
.200人 仕 強 14.600人‘町人 1ι600人〉で、その後 1836 (天保 7
) 年には
35
.
488人(士族 20
.
953入、町人 l
'4
.535人 ) と ま れ そ の 関 V
C4
.
288人の増加を
あゐ
3
. 明治から戦前までの市新地の変化
城下町 Kとって、明治維新は一大転機でるった。町の主勢力となっていた士族議級が没落し
高家がとってかわった。域医近〈位寵していたこ台族最敷の百お町・党寺町等は次才 K町 家 Kか
b って商業を営むものがでる一方、士族心中 ζ
Uは生活花困窮して完封食いするものも多く、土
とどめて紗った。 1872 (明治五)年の人口が 39.568人
族の克つ
であったが‘その後人口が減少して 1892 (明治 25) 年に拭 3 .
1151人まで低下した。
明治 5年の人口に回復するまで v
cなったのは 1930 (昭和 5)年。事である。
明治中期まで沈滞していた弘前は 1894 (明治 27)年 K弘前・青森間 K奥羽本緯が開通
しも駅治 Z
和穂村内に関設される事になりもょうやく町が活気を呈して来た。市鶴加と駅を結ぶ
道路が通じ、市衛地が東方民向って{申践した。 1896 (明治 29)年記なると日清戦争後の
軍備拡強の進接 K よって、才 8締却が弘前市 K設置さずLる ζ とにまった。したがって市高地南
部の却や採草地であった所が轍軍の兵舎や軍施設 K転用される
ζ
とにまった。維新後弘前は津
戦地方の中心ではあったが、行政的誌も経済的民も
どっていたが、
沈滞の一途をた
よって活気をとり戻した。草縁の消費する物費は多く地元民砕いて
調達されたので、軍故調用高人が大いに潤うと共 K、全市む商業磯龍~活発 K した。相当数の
持校(明治 36年心部団長以下持校数 250) がその家族と共 K入ってきたりで、五街地調部
の富田付近には将校用。官舎や貸家。新築が続々行われて市務地が 晦 托伸昼
4
支え域内 K
も一部 K軍施設が建てられゐまど‘革縁色託彩れること K なった。一方市街地の中心部は藩政
時代からの中心高広荷の本町が 18 8i (明治 20) 年頃まで高菜合中止をましていた。即ち
弘前才ーの豪商(呉員長〉金ヌ食糧がr
gを開き、最初の銀行である才 59銀行や進新銀行がそれぞ
お本肢をだし、
も支症を設けた。しかしも鉄道が開通して市内 ο弘通状態が変化し、
よって市の南部の人口が増加すると‘
K下土手昨は新呉商症の諮集する新
レも
J
った。特
していった。一方本町の金木麗は 19 0
4 (明治 37)生存花関 j苫しきだんだん中心性を失っていった。 1898 明治 31)年頃から
士挟の屋敷は軍人の貸家に変るものが多く‘土族の広い空謹戒にも新しい移住者 K提散するた
ゐの貸家がたった。在府町や平副長可では士峡撞敷で土官。岩宅にまった家が 28軒もあった。
亡は将校や下士宮のための下寄屋長び兵綾相手
国有・新寺町・金書寄るたタ t
。飲食広がまらび活気を景した。また‘藩政時代。職人町でるった鍛治町・鍋屋町・桶屠町も
新た記;単用品の注文をつけて活えをと
b戻した。
との譲触も多〈在っても農村の
出入口 K当るき晦町や駒越町・松諜町・
小間物樹、荒物雑賀
飲 食r
gがならび、農家の顧客相手に周辺高忠信の磯能を果した。
4
.
戦後の市街地。拡大
戦後。 i苔街地の拡大はヲ
住宅地 f
とから始った。即ち、市鶴地の謂部は軍用地
として利用されていたが‘終戦によってその機能は停止し、引揚者や唱え災者は兵舎の一部を利
-2-
用するか、または軍用地跡、代建てられた木造二階
K移ってき
2つの高校と 3つ
充。ま 7
士、出軍用地主ζ学校治移較し、
の中学 j疫が兵舎の跡、κそれぞれなさまった。
の進援を見ると‘
で
、
19る 1 (昭和 36)年まで K南部地域 K設けられた自地数は 12
36、入躍した世替が 766詑及んでハる O ぞれK対して北部地域は団地数る、住
宅数 11L
¥ そと記入居した註帯は 212でるる。
部は;百三転持也が広大な語積を占めていたととと、
ζ の嫌記南部と北部で違いがあるのは、禽
りんご舗の議護主ζ よる生宅地転用が
1959
〈昭和 34)年 頃 か ら め だ っ て き た 事 な ど は る {
4
L この嘆からりんご国の経営詑砕いてき人
件費・肥:f控・薬剤費が簿費し‘自家労力の少衣川農家は護士由の縮少 κよって合理化を留ろう
とすゐ領向があらわれてきたから であゐ。それに対して北部地域は水面地帯で、市高地の拡大
e
におって持われたがもその中詩にはさまれた水田は住宅地f
とがあま与遵まなかった。
Kぞって
タン
ととも陀
-ガソ
Gン ス
γをq:::.c..,とする礎物が充ちならひ;放射状に市議t
地合拡大が是られゐ。
甫部地域は軍用地や会んど酒からの転培であるため、最初は飛地的拡大であったが、
l
宅詑よってその中揮が琵損されつ〉ある。噂部でも土淵Jli
にそって水田が開かれているがも
952 (昭和 27
)年陀大鰐弘前間 K弘前電鉄が開通されゐと、釈を中心とする水田地域が遂
れ、{麗人住宅が次々と建設されている。
1の氾謹原で、
は適地と式去え左いがも宅地の不足か
して
して川原
れてし3ゐo と心嫌ば戦後の市,骨誕の拡二には詔方ほ向って進、められているが‘その中で南へ
の拡大が生宅地として最も大きく接関して ωる
。
5
. 都市凡部心地域的分化(第 2
ったので、
としての域 L あ
った。しかし、明治になちその機能が停止すると、
b、本町がその中心でるったと思われゐ。
も
あった。 1877 (明治 10)
まく
年には、この近く記裁判所がなかれも
1878
など、官
‘
公庁地区として心機相変示して来た。さら V
C18 9む
それと向凶合った角にほ
心v
c
1904 明治 37)
りずL
5 9銀行が営莱を開始した。と心機 v
c
-
となった治元そ合後、
地域も繁華街はなってくるふ地樹、高くまタ‘場所も
に捗勤し、
ζ
れてくるた心、
側記移転いとには裁判所・清訪署などと共 K訴しい官公庁地支を形成することになった岱
-3-
コ
J
一方中 J山商1
吉街は前述した支持心鉄道ο開通や諦団設置 K よる市有地 0禽 f
申によって‘本昨
から下土手町 K移台、有力者人も続々と集って来た。それに犠接する百部7も、議致時代には土
ったが‘
1882 (明治 1五〉年頃ふつ土接寝敷が姿を消し、これに代って新しい
藤宕が続々と控ち、
190る L明 治 3 十字し完了三よ夜這敷はあとかたもなぐ?奇心完主 i
亡
者
一
mがたちならび
て、現在で v
ヰ約 80軒をこす高
鹿梼となった。諜藩当時士壊が 40軒ふづえ"コ i
土手町と共 K 中心者f苫街となっ亡ム。 ~3
占めているのに対して、
昨心百謡音業種別構成を見ると、卸詣庖が 1
喝 容 が 89守
番
している。
立を占 b、j
欠L
九
び身掘品小売が 26需でコナ:1
衣料品及
1%、飲食f
さが 15%となって
(
5
)
も乃でるる b F
土手町、中土子町の講成
いる。
。
全じ比率を示して W ふ
を見ると、
1需を
8婦で
13%、飲食百が 8%
L
D
J
績になっている
二
す 1主
主
、
周辺調f
古密改駅前通長・
・松森陀等の郊外からの入口
0
v
cJiられるが、広前j最
りは部売商が 31う揺を占め、
と山った繁華衛とは関謀
ベーフ祁筏 d
i
rは雑踏まき代 i
V
むよ交通要路で、高高告と
をよく
明治 K
うの玄!鶏口として栄ええが、扶遵が開通してかおその
37%で才 1止を占めもそ誌に次い
機能が失われた。者応、
11婦となってハゐ。
6~忘にすぎ在しな。
ィコほ鍛冶町・親方町である。と
歓楽告として特別二コ地
出来てか
ら、そり京を中止として発達しえところで、欽食f
主が 44議を占めて〆す 1t
亡、会料品 j
苫が 25
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'2イ立と在って パふ。ぞい 住
宅
島l
画館、パチンコ正など心娯:長残閣が集中し、接台場と i
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とついでいる工事長と
ある。土議盛敷あと
としてつくりれえも
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:l;i来屈の五十石 f可・ j
寵庄野や娘東よ志
-下士宮り
有・ /
j、人町及 i
び城婦の在府町・相良町である。土崎
とは ωまも主主設をめぐりした木選家議が多い。輔副時弐 /
f
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つくら:{l,たものは富田町・
御幸町・大室町などに見られる格一的な木造平蟻家謹が多い。戦後む住宅団地は甫部では桔梗
野 山 緑 ケ 掲 団 地 が あ れ 校jめ ι建てられた νうは本造平曜の-一戸建住宅でるったが老後 Kは鉄筋
コンクリート二点建のアパートがたてられた。言語部では岩木 J
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C近い水田地帯 K分譲住宅団地
が建設された。芯却でも
して分譲住宅がえてうれたが、増部ほどの進展は見 b
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戦後の学制改革 Kより‘新制の大学
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高校・中学が誕生したがもそれ i
つは戸籍部の軍用地跨K
捨てられるそれ花壇却して弘前大学の付麗校法議出てするなど、学態地区が形成されつ〉ある。
城跡偏ム前公舗となれ市民の懇の場として利用される廷か‘桜・紅葉の季節 Kは果外から
も観光客を誘致する緑地地区となっえ。
6
. 結 び
以上‘弘諮の市部地の発膨最程 K討する都市内部の機能地械分イヒ Kついて見てきたがも現在
芝、緑地地区であるがる
地域合化の明瞭在ものは官公地毘も中心鵡業地区、住宅地臣、学割地 E
ま
工場は分散的に存在しているだけで、 3
として卦イじする K はいたらまい。
宮公庁地区は明治初期 K建てられた郡役所や裁判所在どが中心となって形成されたもので、
K移転しなかったとすれば‘もっと
県庁がも
とだろう。
中心商業地 I
R
は鉄道の開通、師団。設置後 K形或されたもので‘城下町時代の務業恥むから駅
の方K移動したものでるゐ。駅前通争の蕗f
吉街は駅の完成後 K形成されたものでも街道交通時
代 K市街の入口 K出来た周辺高忠義J
ltL代って誕生したものである。とうして鉄道心開通と師団
C
::b-.ける変化
の設量は中心蒲業地区を移動させ‘さら K帝部と東部に住宅地を形成したり戦後 V
詰軍}指告は住宅 o
l地として、また学園士毒症と
は、路辺の郊外 K住宅地誌をつくり、特忙講部の i
して機詫地域の分化がなされた。したがって、弘前市の地域分化。要国 Kまったものは、鉄道
の開通と師団の設置及び終戦の軍用地の開放である。
考文献
(
1
)山鹿誠次
(
2
)
見本心都市の地域講透。発達〈東北大学文科紀要 3)
田辺健
(
3
) 弘
前
持}著
(
5
)剖辺機
1965
都市発展の瑠論
1959
19る4
市
弘前市史
者
弘前市近郊の農地潰護 Kついてく東北都市学会会報)
〈集落地理講盛)
5--
1957
1964
Fly UP