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Title ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開

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Title ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開
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ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開(一)
友岡, 雅弥
待兼山論叢. 哲学篇. 14 P.37-P.51
1980-12
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/12451
DOI
Rights
Osaka University
ニヤ lヤ・、ヴァイシェ lシカ学派の
実在論的展開
雅
弥
'---J
岡
r、
司
ド哲学者たちの態度についての研究も、最近特にその成果をあげつつあるように思える。例えば、
﹁普遍﹂
﹁普遍﹂をめ
・
ロ∞
・
2 r
m
w印式r
迫っている。インドに・おいても﹁普遍﹂の問題は、哲学の中心問題の一つのようである。また、これに対するイン
インドにおいても状況は似ている。それぞれの学派が、それぞれの哲学者が、それぞれの立場から、この間題に
極とする広がりのどこかに自分の立場を置き、この論争に参加していった。
争が行われたのである。その論争において、各哲学者は、超実在論(実念論)者を片方の極とし、唯名論者を片方の
ぐる問題は、 ヨ ー ロ ッ パ の 数 多 く の 哲 学 者 の 興 味 を 常 に 喚 起 し て き た 。 そ し て 、 こ の 問 題 を 中 心 に 常 に 果 し な い 論
は、人間の本質に関係するものなのであろう。認識の根幹にかかわる問題なのであろう。ともあれ、
する論議に費されてきている。何故そうなのか。この問題自体もまことに興味ある問題である。定めて、
﹁並目遍﹂は、人類にとって常に興味深い思考対象であったらしく、数多くの哲学者たちの思考努力が、それに関
友
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思宮)などは、その最大の成果といえるものであり、ここ十年ほどの研究に対して一番の影響を与えている。他に、
閉
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回
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・
zmwEF同SESsc¥町宮 ︿も増。ーで三宮之宮町内HHa
ミ SN宮崎坦(︿222r出話)等の著作があり、また ﹁普遍﹂
の問題をあつかった論文も多く見うけられるようになった。ここで非力な私がこの論文を出すのは、このような流
れに自らも参加する己とを望んだことにもよるし、自らのこの間題に対する(正確には、 ニ
・
ヤ lヤ・ヴァイシェ l
ot
対して、仏教徒は唯名論者だと言
﹁並百遍﹂の問題がインド哲学においても不回避な主題であるとの私個人としての判断がある。
シカ学派の ﹁並回遍﹂に対する接近の仕方に対する)態度を明確にしたいと望んだからでもある。無論その岡原因の
根底には、
一般に、 ニヤlヤ・ヴァイシェ lシカ学派は実在論者であると言われている
われている。このちがいは、 いかなる認識手段を正しいと認めるかに密接に関係している。ディグナ lガの系統の
仏教徒は、認識対象(プラメ iヤ)をはっきりと二種に区別した。絶対的個物(スヴァラクシャナ)と普遍(サ lマ│ニ
ヤ)である。同様に、彼らは認識手段を、絶対的個物のみを把握(グラハナ)する直接知覚(プラティヤクシヤ)と普
(1)
遍を識別(ヴイカルパ)する推論(アヌマ iナ)に区別した。しかし、普遍は、純粋感覚材に人聞が付加したものにす
ぎず、実在しない。だから、正しい認識手段は直接知覚のみである。また彼らは、アポ l ハなる理論を展開する。
(2)
その理論によると、識別知および言葉は、単に他のものを排除するだけで、それに対応する普遍は、実在しないと
いうわけである。このように普遍の存在を否定する仏教徒は、唯名論者であるといわれる。それに対して、 ニヤ l
ーヤ・ヴァイシェ lシカ学派は、識別知の対象としての普遍の実在性を認め、識別知の有効性、正当性を認めると
ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開〔ー〕
3
9
されている。そして、このような立場の彼らは、実在論者であるとされている。
(3)
ニヤl ヤ・ヴァイシェ l シ カ 学 派 の 普 遍 に 対 す る 態 度 を 示 す 言 葉 と し て よ く 用 い ら れ る の は 、
﹁
サ l マl ニヤは、
(gZ ﹃巾ヨ)タ
永遠で、一つで、多数のものに遍在する﹂という定義である。この定義は、タルカ・サングラハ等の綱要書時代に
(4)
(5)(6)
よく使われたものである。この定義は実在論的である。実在論としては、多くの点でプラトン的
(7)
イプに似ているが、アリストテレスやトマスとの類似をより多く指摘する研究者も多い。(無論、認識可能かどう
(8)
かの問題、類・種の問題での相違もよく指摘されている)。しかし、ヴァイシェ l シカ学派の原典ヴァイシェ l シカ
・ス lトラの中の一・二・一二のス lト ラ に 関 し て 、 普 遍 が 主 観 に よ る こ と を 示 す と 考 え る 研 究 者 も あ る 。 ニヤi ヤ
ニヤ l ヤ・ヴァイシェ l シ
学派でも状況は似ている。そこには何らかの歴史的変化があるようにも思える。そこで、その変化の本質を見定め
ることが今までの私の目標であり、この論文の眼目であり、今後の課題である。
章にあたる論文が後につづき、四章で全体が完成する予定である。
ヴァイシェ l シカ・ス lト ラ ( 以 下VS) に 関 し て は 、 シ ャ ン カ ラ ミ シ ュ ラ の ウ パ ス カ l ラ(以下 U) が参考註
(9)
ニヤi ヤ・ス l トラをあつかう章、。フラシャスタパ lダ を あ つ か う 章 、 仏 教 徒 と の 論 争 を あ つ か う 章 、 以 上 三 つ の
の問題に対し、私なりの見解を述べようとするものである。なお、本論文は、全体の計画の第一章であって、今後
の 本 質 は 何 に 由 来 す る の か 。 本 論 文 は 、 特 に ヴ ァ イ シ ェ l シカ・ス l ト ラ を 詳 し く 検 討 す る こ と に よ っ て 、 そ れ ら
カ学派は、原典時代も後世のように、実在論者といえるであろうか。もし何らかの相違があるとすれば、その相違
体
4
0
として使われてきたが、この註は、
(叩)
一 ・ 一 ・ 四 と し て 六 句 義 を 数 え る ス l トラを示し、その六句義出・に、サlマl
ニ ヤ を 含 め て い る 0・しかし、新しく発見されたチャンドラ l ナ ン ダ の 註 ( 以 下 C)には、このス lトラは存在しない。
(日)
およそ、 U は 、 十 五 世 紀 の 作 品 で あ り 、 あ ま り 原 意 を 正 確 に 伝 え な い こ と は 以 前 よ り 指 摘 さ れ て い る 。 そ れ に 対 し 、
C は 現 存 す る 最 古 の 註 で あ り 、 内 容 的 に も 優 れ て い る と さ れ て い る 。 ま た 、 他 の 註 、 即 ち 、 ヴ ィ ヤlキ ヤl等 に も
このス lト ラ は 存 在 し な い 。 し た が っ てC の序文(一八ページ)でタクルも言うように、これはブラシャスタパ l ダ
の影響を受けたものであって、 ス ー ト ラ の 作 者 自 身 は 、 サ lマl ニ ヤ の 入 っ た 六 句 義 を 認 め て は い な い の で あ る 。
サlマi ニヤ等の三句義(句義︿パダ│
﹁それ(サッタ l) に よ り 実 体 、 性
一般慣習的に ﹁有る﹂のもそれらだ
(
ロ
)
﹁実体、性質、運動において ﹃アルタ﹄と一↓一一?われ
一・二・七では、
vs 一・一においては、実体、性質、運動を順に説明するのみで、
例えば、
ル タ ﹀ と い う 言 葉 自 体V Sは使わない)には触れない。また、
質、運動において、﹃有る﹄と言われる﹂と述べ、八・一四では、
る﹂と述べている。即ち、存在論的に見ても﹁有る﹂のは実体等の三であり、
け で あ る とV Sの 作 者 は 考 え て い る よ う で あ る 。 以 上 の よ う にV Sに お い て サl マl ニ ヤ の 客 観 的 実 在 性 は 述 べ ら
れてはいない。またそれはカテゴリーとしても認められてはいないのである。
ではV Sに お け る 直 接 の サl マl ニ ヤ に 対 す る 記 述 に ・ お い て は 、 そ れ は ど の よ う に 性 格 づ け ら れ て い る の で あ ろ
(日)
(M)
vs中 で サlマl ニヤは全体で一二回使われている(ス l ト ラ の 数 は 全 体 で 三 八 四 ) 。 こ の う ち 、 サ 1マl
うか。
ニャ・ヴィシェ l シ ャ と い う コ ン バ ウ ン ド で 使 用 さ れ て い る も の が 七 例 あ る 。 そ れ に つ い て は 後 に 述 べ る こ と に し
て 、 先 に サlマl ニヤ
J 単独で使用されている用例を検討する。この単独の用例は、全体で一四例あるわけだが、
ずしも閉じ意味で使われているわけではない。そのことは先に進むにつれて、より明白になるだろう。しかし、
必
ス
ニヤーヤ・ヴ、アイシェーシカ学派の実在論的展開[ー〕
4
1
ートラの進行にしたがって、いくつかの用例が集まり、数個のグループを形成している。以下、それらのグループそ
(日)
れぞれの中でのサ 1 マl ニヤの性格を考察しよう。
1 7 1ニ ヤ サ
! ? iニヤ
一・一・一七、二三、二四、二九がまず一つのグループを形成すると考えられる。﹁実体は、実体、性質、運動
サ1 7 ニ ヤ サ
サ マ lニヤ
に共通な原因である﹂﹁実体は、多くの実体に共通な結果である﹂﹁運動は、内属がないから、共通な結果として
(団)
V
知られない﹂﹁共通な原因については、運動は実体、運動の原因でないと言われる﹂。ハルシュ・ナラインによれば、
(
η
)
ここの部分のサl マl ニヤはサiダルミヤ(類似性)と同義であると言うことだが、このサl マl ニ ヤ は 、 類 似 と い
サlダルミヤ
ラ 概 念 よ り む し ろ 共 通 と い う 概 念 に 近 い よ う で あ る 。 サlダルミヤの代表例は、 V S二・二・二九にある。﹁(音声
は ) 性 質 で あ る が す ぐ に 滅 す る 。 運 動 と 等 し い ﹂ 。 こ の 例 に お け る サ lダ ル ミ ヤ は そ の 典 型 的 用 例 で あ る が 、 音 声
が 運 動 と 似 て い る こ と を 示 す も の で あ る 。 そ れ に 対 し 、 サ 1マl ニヤは原因、結果として共通に複数のものに関係
サ1
マ lニヤ(問)
vsニ・一・六、七中のサlマl ニヤ
していることを示す。あえて二・二・二九にこの考えを導入するとすれば、音声と運動にすぐ滅することが共通に
あるとせねばならない。
さて、このサlマl ニヤの例にくらべてむしろサiダルミヤに近いのは、
サl マi ニヤ
であるかもしれない。﹁地よりなる乳酪、漆、蝋が火と結びつく故の流動性は水と等しい﹂﹁火よりなる(金属性の
錫 、 鉛 、 鉄 、 銀 、 金 が 火 と 結 び つ く 故 の 流 動 性 は 水 と 等 し い ﹂ 。 こ れ ら の 例 に お け る サlマl ニヤには、格関係か
ら前述のサlダルミヤとの類似が認められる。故に等しいと訳したわけである。しかしやはりここでも内容的には、
流動性が、水にも火によってとけたそれらのものにも共通に存在していると先ほどと同じように考えた方がよい。
したがって、このサ iマl ニヤは、形の上の類似と内容との両者を考えあわせると、前述のサ lマl ニヤとサ lダ
42
ルミヤの中間にあると考えてもよい。しかし、あくまで内容的には、あるものが複数のものに共通にあるというよ
、 いわば機能的なものとしてとらえねばならない。
-7に
(初)
さて、次のグループに進もう。次のグループは、 V S二 ・ 一 ・ 一 六 、 二 ・ 二 ・ 一 九 、 四 三 、 三 ・ ニ ・ 七 よ り な る
グ ル ー プ で あ る 。 こ の う ち 、 二 ・ 一 ・ 一 六 と 三 ・ 二 ・ 七 は 、 ま っ た く 同 じ で あ る 。 問 題 と な る の は こ の 両 ス lトラ
﹁
サl マl ニヤトlドリシユタ﹂なる語である。三守7までもなくそれは、サi ン キ ヤ 学 派 の 術 語 と し て も よ く 知
)(n)
﹃ニヤ l ヤ ・ ヴ ァ l ルティカ﹄等で
世 紀 の ニ ヤ l ヤ哲川字者ウッディヨ l タ カ ラ の 作 品 で 、 両 作 品 共 に 、 仏 教 哲 学 者 デ ィ グ ナlガ 以 降 で あ り 、 イ ン ド 哲
あるが、前者の著者プラパ lチ ャ ン ド ラ は 、 十 世 紀 か ら 十 一 世 紀 に か け て の ジ ャ イ ナ 教 哲 学 者 で 、 後 者 は 、 六 、 七
が 残 る 。 こ の 説 で 典 拠 と な っ て い る の は ﹃プラメ l ヤカマラマ l ルタンダヘ
教授は、 サl マl ニヤとヴィシェ l シ ャ を 普 遍 と 特 殊 ( 低 い 普 遍 ) で あ る と 規 定 さ れ た の で あ る が 、 こ の 説 に は 疑 問
(お)
ト ラ 中 の サl マl ニ ヤ を 対 象 の も つ 共 通 性 、 ヴ ィ シ ェ l シ ャ を そ の 特 殊 性 と 述 べ ら れ た 。 こ れ に 対 し 、 神 子 上 恵 生
(M)
さでV S二 ・ ニ ・ 十 九 を 次 に 考 え よ う 。 こ の ス lト ラ に 関 し て は 解 釈 に 問 題 が あ る 。 服 部 正 明 教 授 は 、 こ の ス !
﹁類似性の経験﹂と訳すのが適当のように思われる。
(お)
ア ー ト マ ン が 空 等 と 無 区 別 で あ る こ と を 言 わ ん と し た も の で あ る 。 し た が っ て 、 こ の サl マl ニヤトlド リ シ ュ タ
関 係 に よ る し か な い 。 こ の ス lト ラ 二 つ は 、 反 対 論 者 の 意 見 を 述 べ る も の で 、 風 が 他 の 地 等 と 無 区 別 で あ る こ と 、
かに普遍と解釈している。しかし、このことをもって例証とすることはできない。ここでは、 スートラ自体の前後
のサl マl ニ ヤ が 何 を 意 味 す る か を 考 え て み よ う 。 プ ラ シ ャ ス タ パ lダ お よ び ヴ ァ ! チ ャ ス パ テ ィ は 、 そ れ を 明 ら
(
幻
ら れ て い る 。 ま た プ ラ シ ャ ス タ パ lダにおいては、 ド リ シ ユ タ と 共 に 推 論 の 二 区 分 を な す と 言 わ れ る 。 こ の 術 語 中
中
の
l
ま
ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開[ー〕
4
3
学 全 体 の 構 造 が 大 き く 変 化 し た 後 の も の で あ る 。 サl マl ニ ヤ に 関 し て も そ の 変 化 の 外 に と り 残 さ れ た わ け で は な
か っ た 。 前 述 の 第 四 番 目 の 論 文 に お い て 、 そ の こ と を 述 べ る つ も り で あ る 。 と も あ れ そ う い う 理 由 の 故 に 、 サl マ
ーニヤを普遍であるという前提でこのス iト ラ を 解 釈 す る の は 手 順 が 逆 の よ う で あ る 。 ヴ ァ イ シ ェ lシ カ 学 派 の 中
(
お
)1
サl マ ニ ヤ ヴ ィ シ ェ
iシャ
でのこのス lト ラ に 対 す る 解 釈 を 尊 重 せ ね ば な ら な い が 、 こ の ス lトラに関しては、 C U 共に同ピである。 Cを 訳
すと、﹃柱と人との直立性という共通性を見て、特殊な原因である手等や穴等を見、ず、特殊性を思い出して、これは
柱 な の か 人 で は な い の か と い う 疑 惑 が 生 じ る ﹂ 。 こ こ で の サ l マl ニ ヤ は 、 直 立 性 の こ と で 、 人 性 、 柱 性 と い う 普
遍ではなく、もっと具体的な共通に存在する類似性のことである。また、ヴィシェ!シャはまさに手や穴等の具体
サドリシュヤ
的 な 特 殊 性 の こ と で あ る 。 ま た プ ラ シ ャ ス タ パ lダ の 説 も 注 目 に 値 す る 。 そ れ は 、 以 下 の ご と く で あ る 。
(幻)
先ず疑惑を説明する。すでに周知の多くの特殊性を持つ二物において、その類似性のみを認め、特殊性を想起
することから・・・:・。
このように、プラシャスタパ lダはV S中 の サiマl ニヤのかわりにサl ド リ シ ュ ヤ と い う 語 を 使 用 す る 。 彼 が
周 知 の ご と く 実 在 す る 普 遍 を 主 張 し た 人 で あ る こ と を 念 頭 に お い て み る と 、 こ の こ と は 、 彼 自 身 こ のV Sのサi マ
l ニヤを彼自身の主張する普遍たるサl マl ニ ヤ と 別 の も の と 考 え 、 混 同 を 避 け る た め に 同 ピ 意 味 を 示 す ( と 彼 が
考 え た ) サi ドリシュヤの語を使用したことに他ならない。
確 か に こ う し て 検 討 す る とC 、U とプラシャスタパ lダとは相違しているようにも思える。同じく類似性と言った
が、前者の場合は、柱、人に共通にある直立性のことで、後者の場合は、柱、人が類似しているということである。
しかし、前者において直立性とはまさに我々の意識中に存する概念であって、実在しないし普遍でもない。単なる
4
4
共通な意識である。したがって、この直立性という類似性も、実際にそのようなものが柱や人に共通に存在してい
るのではなく、具体的には ﹁直立している﹂というように両者が類似していることを認識するだけであるわけだか
サ lマl ニヤ
﹁数の存在は実似性にもとづく﹂。この類似性と
ら 、 プ ラ シ ャ ス タ パ lダ の 類 似 性 と ほ ぼ 同 じ 内 容 を 持 つ と 考 え て よ い だ ろ う 。
さ で 、 こ の グ ル ー プ 最 後 の ス l トラは、二・二・四三である。
一般的用法、哲学学派一般の用法の範囲に含まれ、必ずしもヴ
訳したサl マl ニヤのことをC はサlドリシユヤと解釈しているが、これはそのまま受けとってよいであろう。した
がって訳のごとくこれも類似性のことである。
以 上 の よ う に し て 見 て き た サl マl ニヤの例は、
(お)
アイシェ l シ カ 学 派 哲 学 固 有 の サ l マi ニ ヤ と は 言 い 難 い 。 そ れ に 対 し 次 に 述 べ る サl マi ニヤ単独用法の例は、
(鈎)
こ の 学 派 独 自 の 教 義 に 関 す る も の で あ る 。 そ れ はV S 一・二・三、四、・五である。かつてランドルは、一・二・三
を 普 遍 が 主 観 に よ る こ と を 述 べ る も の で あ る と 主 張 し た 。 し か し 、 こ の 解 釈 は 正 し い と は 言 い 難 い 。 V Sは
﹁イティ﹂という引用・内容を示す
﹁存在はサ l マl ニヤのみである﹂
﹁実体性、性質性、
れ ぞ れ 類 、 種 で あ る と 解 釈 し た の で あ る 。 確 か に こ の 解 釈 は あ る 点 で は 優 れ て い る 。 即 ち 、 サl マl ニヤ、ヴィシ
の ク ラ ス と 比 べ る 時 は サ l マl ニヤと言われ、上住のクラスと比べる時はヴィシェ l シ ャ と 言 わ れ る と し て 彼 は そ
運動性はサ l マl ニヤでもあり、ヴィシェ l シ ャ で も あ る ﹂ と 述 べ ら れ て い る 。 そ れ で 、 同 じ 実 体 性 等 で も 、 下 位
意 味 す る と 推 定 し た 。 次 の 了 二 ・ 四 、 五 の ス l トラには、
(初)
接 続 詞 が 挿 入 さ れ て い る こ と か ら 明 白 で あ る 。 ま た 、 シ ャ ス ト リ は こ の サ ! マ l ニヤ、ヴィシェ i シ ャ が 類 、 種 を
シェ l シャであると言うことは意識による﹂と言っているのである。それは、
マl 一一ヤ、ヴィシェ l シャは意識による(プッデイアベ lクシヤ)﹂と言うのではない。﹁サ l マl ニヤである、ヴィ
サ
ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開〔一〕
4
5
ェlシ ャ を 相 対 概 念 で あ る と し 、 そ の 客 観 的 実 在 性 はV S中では確立していないと看破したのである。しかし、 A7
まで見てきたサi マl ニヤ、ヴィシェ lシ ャ と あ ま り に も 離 れ て い る 解 釈 で も あ る 。 そ こ で 、 当 ス lト ラ に 対 す る
C の解釈を調べてみよう。
地等に・おいて ﹃実体である、実体である﹄という、また色等に・おいて ﹃性質である、性質である﹄という、ま
た投げ上げること等に・おいて﹃運動である、運動である﹄という共通意識がそれによって生ずるもの、それが、
実体性、性質性、運動性なるサl マ│ニヤである。また、それらは相E に 排 除 し あ う か ら ヴ ィ シ エ - シ ャ で も あ 勾
このC の註によれば、下位のクラスに対しサl マi ニヤ、上位のクラスに対しヴィシェ l シ ャ と 言 う シ ャ ス ド リ
J
実体
の説は必ずしも正確ではないことが知られるであろう。実体性なら、実体に属する多くのもの、地等、において、
それらが同ピく実体であるという認識に一対する実体性のもつ包括する機能がサl マi ニヤなのである。また
以外のものから実体を区別、排除する機能がヴィシェ lシ ャ な の で あ る 。 こ の 実 体 性 の 機 能 的 な 面 と し て の サi マ
ーニヤは、前述の一般的用法としてのサl マl ニヤの例と整合性を持つ。このように、この例におけるサl マl ニ
ヤ は 類 で は な く 、 や は り 機 能 的 な も の な の で あ る 。 し か し 、 同 ピ 機 能 的 と い っ て もV Sの今までの例の中に埋没し
ているのではない。それらを背景としつつも、そこにまた特別の意味を有しているのである。単にあるものが共通に
存在し複数のものを包括するのではない。そこにお以て共通に存在するのはまさしく実体性等の普遍なのである。
(正しくは、九・一一にもう一例見られるが、 C
この最後の例のサl マl ニヤは、特に、普遍のもつ多数のものに共通に存在し、それらを包括する機能を示すのであ
ると言えよう。
V Sにおけるサl マl ニヤの単独用法は以上のごとくである。
4
6
w
一般的用語法の範曙を超えるものではない)。それは、普遍ではなかった。あるものが複数のものに
にしか存在せず、第九編は全体的に出入が激しいこともあるので、後世の付加である可能性がある。よしんばそう
でなくても
共通に存在するという、またあるものが他のものと類似しているという一般的用法を背景として、実体性等の普遍
の持つ、複数のものに共通に・存在しそれらを包括するという機能をあらわしでいる。また、それは、他の類を排
除 す る も う 一 つ の 普 遍 の 持 つ 機 能 、 ヴ ィ シ ェ l シャ、 と 相 対 し て い る 。 こ の こ と は 、 次 に 述 べ る コ ン バ ウ ン ド の
形 で 用 い ら れ る サlマl ニヤの例との関係で重要である。
、
一
、
一五、
(犯)
一 七 、 八 ・ 五 、 六 の 七 例 で あ る 。 ま ず 、 前 の 五 ス lト ラ を 考 察 し て 言 え る こ と は 、 サ l マ
﹁
サ lマl ニヤ・ヴィシェ l シ ャ に は 、 サ lマl ニヤ・ヴィシェ l シ ャ が 存 在 し
( そ の ) 認 識 は 、 そ れ ( 実 体 と の 接 触 ) か ら の み 生 ず る ﹂ と 述 べ ら れ て い る 。 こ の ス lトラに・おいても
先ほどと同様に、 コ ン バ ウ ン ド と し て の サl マl ニヤ・ヴィシェ i シ ャ が 後 世 の 普 遍 に 類 似 す る も の で あ る こ と が
ないから、
次に、 V S八・五においては、
先 ほ ど の サl マl ニヤ・ヴィシェ l シャというコンバウンドは驚くほど類似している。
いった別の普遍(普遍に対し彼の使用する語はジャ iティ)は存在しないという規定である。このウダヤナの例の普遍に
件のうちの四番目とまったく同じである。それは、アナヴアスターなるもので、存在性等の普遍には存在性性等と
(お)
いう考えは、実在論的立場にはっきりと立つ後期ニ.ャl ヤ・ヴァイシェ l シ カ 学 者 ウ ダ ヤ ナ の 六 種 の 普 遍 の 規 定 条
こ と で あ る 。 実 在 性 の 問 題 は さ て お き 、 こ の よ う な 、 存 在 性 等 に サ l マl ニヤ・ヴィシェ l シャ、が存在し得ないと
ーニヤ・ヴィシェ l シ ャ が 実 体 、 性 質 、 運 動 に は あ る が 、 存 在 性 、 実 体 性 、 性 質 性 、 運 動 性 に は 存 在 し な い と い う
一
さて、今度はサlマl ニヤ・ヴィシェ l シャなるコンバウンドの形をとっている例を調べよう。一・一・七、一
一
一
.
一
一
・
ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開〔一〕
4
7
推 定 さ れ る 。 ま た 、 こ の 次 の ス lトラ、
vs ・八・六、﹁実体、性質、運動の(認識)は、サ l マl ニヤ・ヴィシェ l シ
ャによる﹂というス iト ラ も こ の 八 ・ 五 と 一 つ ら な り で あ る か ら 、 こ こ に お け る サl マl ニヤ・ヴィシェ l シャも、
コンバウンドとして普遍の意味であると推定できるのである。
以上、 V Sにおけるすべてのサ i マl ニ ヤ の 用 例 に つ い て 、 そ れ ぞ れ の 持 つ 意 味 を 調 べ て き た の で あ る が 、 そ れ
らは必ずしも一定した意味を持ったものではないことが知られた。それはある時は共通性、ある時は類似性という
意 味 に 使 用 さ れ て い た 。 し か し 、 ヴ ァ イ シ ェ l シ カ 哲 学 独 自 の サl マl ニ ヤ の 用 法 は 特 に 普 遍 の も つ 、 共 通 に 存 在
(M)
する機能、包括する機能を意味していることも知られた。 C に よ れ ば 、 そ の よ う な 機 能 は ア ヌ ヴ リ ッ テ ィ と 呼 ば れ
ていて、その語はほとんどサ!マ l ニヤとシノニムに使われている。また、それは、実体性等が他の類から自らの
(お)
類 を 分 離 、 排 除 す る 機 能 と し て の ヴ ィ シ ェ l シ ャ に 相 対 し て い る 。 そ れ は 同 じ くC に よ り ヴ ィ ヤ lヴ リ ッ テ ィ と 言
(お)
われている。実体性等は、その包括する機能に注目した時、サl マl ニヤと呼ばれ、他を排除する機能に注目した時、
﹁意識による﹂と
および八・一四の記述から、
ヴィシェ l シ ャ と い わ れ る の で あ る 。 そ の よ う な 観 点 よ り 、 サl マl ニヤとヴィシェ l シャは、
vs 一・こ・七、
いわれるのである。ここで一つ重要な事実が浮び上がってくる。
初に述べたごとく、 サl マl ニヤ(およびヴィシェ lシャ、サマヴァ lヤ ) の 実 在 性 が 否 定 さ れ た 。 従 来 よ り こ れ ら の
スートラは、 V Sが 実 在 論 的 立 場 に 立 た な い こ と の 証 明 根 拠 と な っ て い た が 、 以 上 の よ う に サ l マl ニヤが普遍で
は な い わ け で あ る か ら 、 こ れ ら の ス lトラはサi マl ニ ヤ の 実 在 性 を 否 定 す る だ け で 、 普 遍 の 実 在 性 ま で も 否 定 す
最
4
8
る も の で は な い の で あ る 。 普 遍 の も つ 二 機 能 の う ち の 片 方 に し か す ぎ な い サl マ ! ニ ヤ が 実 在 性 を 持 た な い の は 当
然である。それは普遍のもつもう一つの機能、排除の機能を示すヴィシェ lシャとコンバウンドを形成してはじめ
て、類をまとめ、他の類との境界を示すもの、即ち普遍となるのであった。普遍にはその両機能が不可欠なのであ
vs
る 。 し か し 、 そ の よ う な サl マi ニヤ・ヴィシェ l シ ャ な る 普 遍 を 意 味 す る コ ン バ ウ ン ド の 実 在 性 に つ い て 、
には直接の記述はない。したがって、 V S自 身 、 実 在 論 で あ る と も な い と も い え な い の で あ る が 、 サl マl ニヤ・
(幻)
ヴィシェ l シ ャ に よ っ て 実 体 等 の 認 識 が あ る と い う 八 ・ 六 の 記 述 や 、 普 遍 の 存 在 、 永 遠 性 を 周 知 の 事 実 と し て 明 確
に 認 め る ニ ヤ l ヤ・ス l トラの記述から(ニヤ lヤ学派は形而上学に関して、ヴァイシェ lシカ学派とほとんど同Uも の を 持
つ)、ヴァイシェ l シ カ 学 派 は 、 学 派 と し て の 一 つ の 傾 向 性 と し て 普 遍 の 存 在 を 認 め て い た の で は な い か と い う 推 測
が成り立ち得る。しかし、 V S形 成 の 時 の カ テ ゴ リ ー 論 の 発 展 と 共 に 、 カ テ ゴ リ ー 成 立 要 因 と し て の 、 サ l マl ニヤ、
ヴィシェ i シ ャ の 分 類 原 理 と し て の 面 を 、 す な わ ち 包 括 、 排 除 と い う 機 能 と し て 類 を 成 立 さ せ る 原 理 と し て の 面 を 強
一般的用法と言ったV S中 の サl マl ニ ヤ の 例 を も う 一 度 検 討 す れ ば 明 白 と な る で あ ろ う 。 そ れ
調したがために、V S中 で の サ l マl ニヤ(・およびヴィシェiシャ)は機能的側面ばかり強く表面に出てきたのであろ
ぅ。そのことは、
らはまさに分類原理として用いられているのである。また、そのことは、 カテゴリー論の最大の推進者チャンドラ
マティがサ i マl ニヤ、ヴィシェ l シ ャ の 機 能 的 側 面 を よ り 強 調 し 、 ブ ラ シ ャ ス タ パ lダ が そ れ を ま た い く ぶ ん も
と に も ど し た と い う こ の 学 派 の 発 展 史 を 調 査 す る こ と に よ り 、 明 確 に な る で 配 ろ う 。 V Sは
、 カテゴリー論を強調
するあまり、自らの実在論的立場を不鮮明なものとしたのである。
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