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第10集 1968

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第10集 1968
研究紀要
第10集
アラピの乱前後(12)-桁園主義とニジプト……………………………松村TI:樹(1)
11.Ii枕におけ】る変換を'IillIとした121形}|測;【二ついて…………..……………・…数‘.】/:↑}(1()
、|畠加算器教典の製作に関する工夫……………………………………………馬鵤玄敏個
G()、、SLITTL1EACRE:ONWILLTHO1IPS()N,SWAY()FLIFE
……………………………IclIirohY(〕月11i()kn値
製畿史考…………………………・………………………・…・…………奥行逝夫(1)
「尚村光太郎」ノートそのljW、llPi村光太郎と寵生陣晶と……………弁、11〔丁⑬
1968
奈良女子大学文学部
附属’11学校・高等学校
。~
ア
-
フ
ピの~乱前後(上)
帝.国主.義とニジプトー“
松・村正樹
0
1.(よじめに
昨年邦訳出版されたnW.コソデの「朝鮮戦争の歴史」を読んで教えられるところが多か
ったが《その際に、帝国主義のアジア侵略に当って、侵略に抵抗するアジア諸国民の側に立
って歴史の証言を残した何人かの欧米人のことを改めて想起させられた.
太平天国革命史を革命の内側からつづらた英人ルドレーイ第一次大戦後の中国革命の歩
糸を生き生きと伝えたニドガー6スノー、「中国は世界をゆるがす」の著者ジャック・ペル
デン6「秘史iWl灘戦争」の1.F、ストーン、さらに中国、蹴り1群、ベトナムにわたってその内
部から詳細なルポを送り続けているW、パーチニットもその一人に数えてよいだろう。これ
らの人含の著弼は邦択もされて広く読まれ、我盈の歴史を見る眼を拡げるのに大きく貢献し
てきた。
しかし、イギリス帝国主義によるニジプト侵略を、終始ニジプト国民の側に立って記述し
たW、S・プラントの名はあまり知られていない。彼が1907年に著したSeCretHiStOryOfthe
EnglisbOccupationofEgyptはその譜名からもうからもうかがわれるように、アカデミッ
クで体系的な史書ではなく、リンルーの著作と似た個人の回想録的な性格をもっている6
また母国イギリスの野心と侵略行為に向けられた彼の非鐘と憤りは読む者を驚かせるほどで、
冷静なⅧ客観的"歴史叙述を並んじろ過去のE1本の歴史学界ではほとんど黙殺されてきた楓
がある。(1)しかし、帝国主義が歴史の動因として働いている時代についてrその侵略に対
して抵抗する側の``主観”こそ事実を正しくつかむことができるとする立場に立てば、彼の
著作は19世紀末~20世紀初頭のイギリスのニジプト侵略にBUして、実に多くのことを語って
くれそうである。以下の小論は、この欝物に多く依拠しながら、アラピの乱を中心とする時
期のニジプトの政治的情勢、ことに反帝国主義的な民族運動の成長過程を】IF実に即して究明
しようとしたものである。なおその際に、侵略する側から11$かれたイギリス官辺筋の著諜の
多くも、その記述自体によって、あるいはそれが故意にゆがめようとしたものを復元するこ
とによって、少からず真実の呈示に役立つことは云うまでもない。
(1)プラントの箸をⅢ祝して澱かれた讃文としては、毛型興三,13:アラービー革命をめ<Jる諸問題、
(歴史評競1965年11月号)の他にはほとんど見当らない。
2.エジプト財政危機の性格
ニジプトが列強の干渉を招く因となった財政危機が、弟5代太守イスマイル(1863~'89)
の時代にもたらされたことは、諸説の一致して認めるところである。前太守サイドの道した
約329万ポソドの負01tが、イスマイルの治世に際限なくふくら承、1876年には整理負俄6810
万ポンド、一時借入金2600万ポンドに達し、その利子支払と減債輩金にあてられる費用が歳
出の弧を占めているという実情であった。(1)そこから、ニジプトlけ政危機の原因を太守個
1
人のパーソナリテイに帰して、“浪饗王イスマイル”(IsmaiITheSpendthrift)伝説により、
ヨーロッパ勢力の免罪をはかろうとする政治的立場が生れてくる。例えば、スエズ運河に投
資した1600万ポンド以外の全負仮が浪費されたとか、全負俄のうち公共の用途にあてられた
のは随か1710にすぎないとして、イスマイルを「歴史にも小説にも比を見ぬ浪費家」だとき
めつける英国官辺筋の見方がそれである。(2)プラントもこの点では彼らと同じ見方に立ち、
イスマイマイルの放没財政をロを極めて非難し、彼の全治世のコストを4億ポンドと見つも
っても誇張ではないと述べている。(3)たしかに財政のでたらめさを否定することはできな
いのだが、しかしまた,イスマイル時代をiii1代に比較すると、教育予算が13倍にふえ学校数
が25倍になり、鉄道が4倍以上に延長された他、瀬がい用水路、通信線、港湾施設なども飛
躍的に拡充され、輸出も約3倍に伸びて、1875年にエジプト財政を調査したイギリス大蔵省
官ケイヴですら「現太守のもとでエジプトの生産力が著しく高まった」⑭)ことを認めてい
る。これらはすべてエジプトの自生的近代化の一定の意味での指標であって、〈エジプトの
近代化はイギリスによる占領をもってはじまる>という、クローマーなどの愛用するテーゼ
に対する確実な反証である。またイスマイルが、碗Khedive,,(副王)の称号をうけてエジプ
ト支配者としての地位を固めるために、トルコ皇帝に莫大な貢納一例えば1866年からは年額
15万プルセソに増額一をなしたことも、たしかに財政簸の一因となってはいたが、従来スエ
ズ運河会社に認めてきた特恵をとりあげた要勢と共通して、これも列強および宗主国トルコ
からの、エジプトの民族的独立度を強化せんとする姿勢のあらわれと解すべきであろう。要
するにイスマイルは.祖父メヘメット・アリの政策の後継者として、エジプトを上からの近
代化によって独立の強国たらしめるコースを専制君主の立場から追求したと言えるが、その
近代化政策の財政面に食いこんで、あくなき利潤を追求したヨーロッパ人の側に、ニジプト
を無類の財政危機に追いこんだ真の原因があった。
「ロンドン、パリの全金融業者は、この無経験なニジプト副王からだましとるべく共謀し
た。Anglo-EgyptianBank,BanqueFranco、Egyptienneなどさまざまの華美な名のもとに、
彼を誘惑して商利の新借款をおこなわせるだけの目的で、多くの擬制的銀行が地から生える
H:のように一夜にして生れ出た。」(5)これらの銀行は、ロンドンやパリから3~6%の利
子で供給される武本を10%以上の高利でエジプトに貸しつけるのが普通であったし、英仏の
国際起俄市場で募られるエジプト公bliは、額面の殆~蛤を銀行家の指先に附着して残し、利
率は9%以上、後になるほど商<なって、1872年のIlf敦では14%に達している。したがって
エジプト政府の手に渡るものは額面をよほど下まわることになり、1868年のオッペソハイム
&、ゴッシニン銀行による公使では額面1100万ポンドのうち700万ポンド、1873年の同銀行に
よるそれでは額面の30%でしかない、という聴くべき実悩であった。(6)さらに彼らのやり
口は、借款の附帯条件たる利率や起伏手数料、契約不lni行に際しての補償金などによるの柔
でなく、次々に契約される一巡の借款系列の操作によって、いっそう悪質となる。この極の
職擢にたずさわる紳士たちの峨高戦略は、短jUl借款をたく糸に操作してその更新を彼らにも
っとも有利な条件で強要することによって、資本の回転率と利潤率を高めることから成って
いたからである。こうして1868年宗主国トルコの皇帝はエジプトのあまりの起償度数に驚い
て5年間の借款禁止令を発したが、その禁の解'十た1873年のごときは、翌年あるいは翌を年
に満期となる短期借款をできるだ:十多く成立させようとして、金融業者間に激しい競争が生
じている。そしてその競争の中から浮び上ったピンコヅフスハイムを中核とするシソディケ
o】
 ̄卜は、翌年解散の時に加入者に160万ポンドを分配することができた.(7)ヨーロッパ金
畿業者のやり口はまさに「文明国の一般市井の金貸しなら刑務所入I)を免れないような」性
質のもので、ノーマルで正直な利子計算がなされていたならば、エジプトは充分その債務を
iii行できたであろう、というドイツのエジプト史学者ハーセンクレーファーの言には我々を
深く首肯させるものがある。(8)のちにエジプトに対する植民地支配の担当者となるクロー
マーでさえ、イスマイルが「彼のもっとも避けるべき種類のヨーロッパ人の手中におちこん
だ」ことを認めざるをえなかった。(9)
かくて“浪費王イスマイル,,伝説は、自らの帝国主義的醜行と犯罪を隠蔽し、ひいてはイ
ギリスのエジプト占領の目的はエジプトの文明化にあった、というもっともらしいテーゼに
結びつけるためのメルヒェンであり、歴史の偽造であったことがIlll白である。PIF実は、専制
君主イスマイルの志した近代化・強国化政策にともなう資本需要が、英仏金融業者の好餌と
なって、ヨーロッパ資本の論理がエジプトを食い荒らし、剛王を頂点とする封建的支配機構
をそのまま収奪管として、エジプト農民の租税と生産物がヨーロッパ資本に転化・蓄菰され
て、エジプトの自生的発展の芽を圧殺していったのである。この視点から富えば、最初に財
政雌があって列強が介入したのではなく、岐初にあった単なる資本FIG要が、それに食いつい
たヨーロッペ資本-その背後には帝国主義政策の道をふ梁出そうとしているそれぞれの国
家権力がある-によって、彼らの利潤のために、深刻な財政危機に転化されていったと言
うべきであろう。そして、ヨーロッパ資本のつくり出したニジプトの財政危機が、その資本
の属する国のエジプト侵略のための口実となる。
エジプトは、期大する負伏を償却する最良の方法が、さらに新たな11F秋を仰ぐことにある
と低じこまされた。こうして、一つの公債がもう一つの公偵を追いかけ、古い公Ufの利子を
支払うために新しい公償が募られ、英仏金融市場から借りた金で英仏i二巨額の工業製品を発
ifするという悪循環にはまりこ糸、ついにスエズ運河会社の持株176.602株を手ぱなさざる
をえなくなった。エジプトの財政危機にとっては、それも焼石に水でしかなかったが、他方
この株を買取ったイギリスが、インドと本国を結ぶ「インペリアル・ルート」のかなめとし
て、巡河とエジプトに対する利害と関心を深め、東方政策の新しい段階に足を蹄染出したこ
とは周知の通りである。セポイの大反乱を鎮圧し、やがて1877年インド帝国の名のもとに樹
立されるインド直接支配の体制と、スエズおよびエジプトに対するF(極政策は、イギリス帝
国主義の世界戦略を柵成する。そしてそれはまた、従来1840年代からロシアを仮想敵として
組立てられていたトルコ保全政策から、公然たるトルコ分割政簸へのイギリス外交の大きな
転換をも窓味していた。
(1)Cmmer8ModernEgypI,1908,V01.1.P、9.
(2)AMiIner:EnglandinEgypt,1904,P、176.
(3)W、S、Blunt:SecretHismlyofEnglishOccupationofEgypt,1907,P,19
(1)ReporlbyMr・CaveonIhefinanciIconditionofEgypt・Account部&、Papers.v〔〕1.83.P、12.
(5)AHasenclever8CeschichteHgyptensiml9Jahrhundert,1917,P、155.
(6)L,H,比nks:ThemigrationoftheBritishcapita’101875,1925,1,.317.
(7)LH、Jenks:ibid・P、319.
(8)A・HasencIever:ibid.P、155.
(9)Cmmer:ibid・P,18.
3
----=二
3.エジプトにおける英仏共同管理
イギリスのトルコ保全政策は、トルコをロシアの南進を阻む防壁として利用する目的で、
その弱体化と領土の細分化を防ぐため、1840年代から一貫してイギリス外交の一つの軸をな
しており、とくにクリミア戦争前後にその典型的な発現を見せた。この政箙からすれば、エ
ジプトはトルコ帝国の亜要かつ不可分の一部と象なされるため、スニズ運河の計画に対し、
それがニジプトをトルーから切断し分離させるおそれありとして、イギリス政府がよろこば
なかったこと、また工輌開始後種為その妨害を試糸たことは当然であった。
ところが、この迦河の完成が今までのイギリス政府の伝統的政策に変更を迫るのである。
「他国全部を合せたよりも、イギリス一国が運河を利用する方が多い。(当時迎河を通行す
る船舶の舵がユニオン・ジャックを掲げていた)この通路はわが国にとって、要問題となっ
ている。……とにかく我々は、わが国の主たる利益が依存するところの大きい企業を外国の
独占に委ねることのないよう最善をつくすであろう゜(1)」というのが、皿河株貿つけに際
してのイギリス外相ダービーの言であるが、かくて伝統的なトルコ保全政策は、スニズ迦河
による「インペリアル・ルート」、そのルートを蛾せたニジプトのⅢ要性との二者択一の形
.ではかりにかけられる゜この際はかりの一方の皿に、柔を加えたものとして、同年トルコが
破産五箇を出して、ロシアに対する防壁としてトルコを補強し「近代化」しようとのイギリ
スの夢が崩れ去ったという懇情もあったが、とにかくこの時点でトルー保全政策は決定的に
放棄された。イギリスは「勝ち目のない馬に賭ける(2)」のをやめたのである。そしてその
あとに続くものは、イギリスの利益のために進んでトルコを分剛する政策であった。
この新しい政策の最初の明白なあらわれば、露土戦争(1877~1878)の際に示される。そ
れまでの長いIIB、トルーはあたかもイギリスの属領のように考えられ、その外交政策は事実
上ロンドンで決定されていたような状態で、経済面でもイギリス政府の異例の利子支払保障
のもとに多くのイギリス賓本が投入され、ロシアを敵にまわすかぎり、トルコはいつでもイ
ギリスの強力な支持を期待できる立場に憤らされていた。ところが、イギリスはこの戦争に
際して、ロシアの行動をロ先では非難しながら、それがイギリスの正大利益を侵さぬかぎり
中立を守ることを宣言したの梁か、ロシアが戸口に迫っている苦境に乗じて、キプロスの占
領.駐兵櫛をトルコに強要したのである。1878年6月秘密襖に締結されたこのキプロス協定
は、プラントの言う通り、東地中海に「非公式ながら実質的なイギリスの保護領」を設定し
ようとするもので$イギリス攻府はこの協定の存在をひたかくしにしたままベルリン会議に
臨んだ。ところが会談進行中にロンドンの夕刊紙グラヴがこの秘密協定の内容をスクープ
して報道したため、ロシア、フランス代表の憤激をかいs会繊は決裂の一歩手前までいっ
た(8)。結局ピスアルクのとりなしで英仏間に秘密協定が成立してフランスの怒りはとけ、
イギリスのベルリンにおける苦境はきりぬけられたのだが、この英仏秘密協定の主な内容は
次の二点である。イギリスがキプロスをとる代償として、①フランスは圧愈の時期にトル=
領チュニジアを占領しうる二と。②ニジプトの財政難をめぐる処理問題において英仏は完全
な同一歩鋼をとること。
プラントは、この英仏の闇取引がチニニジアをフランスに約束することによって、列強の
アフリカ大分削を011始させ、「その結果ビゼルタからチJ1.F湖、ソマリランドからコンゴ
におよぶ住民の上にはかりしれぬ苦し梁を負わせた」ものとして、痂烈な攻撃を加えてぃ
4
〆
ろ。(4)珈実フランスは、この協定における「任意の時期」を1881年5月にえらんだ。英独
政府が奇妙な沈黙を守る狸にフランスの侵略が開始され、西チュニジアではプレアール将軍
.ト11.'。
がトルコの知21Fを強要して、剣の尖に刺してつき出した条約に署名させて、フラシスの保護
樋が設定された。が、東チュニジアでは、砂漠の住民は武器をとって立ち上り、夏の半ばま
でに反仏抵抗の波はアルジェリアにひろがり、その気迎は東にも伝わってエジプトをゆさぶ
るにいたる。ニジプトの民間改革派と正隊内の革新勢力の動きは、このチュニジアの斗争に
はげまされるところが大きかったのであるd(5)従来ペルリソ会議については、英仏独喚の
列強がロシアの南進阻止に成功した面、およびバルカン問題についての調整のなされた面を
中心とした意義づけがなされてきたが、それが列強による公然たるトルー分割会議であった
こと、さらにアフリカ分割の外交的いとぐちをふくんでいたという面をとらえて、あらため
て見直されるべき性格をもっている。
ベルリンにおける英仏帝国主義の利害の調整は、すぐさま半植民地的状況下にあるニジプ
+にひびいてくる。ベルリンに在るイギリス外相ソールズペリーから、アレクサンドリアの
R,ウィルソン宛に発せられた一片の電報は、ウィルソンの行ないつつあるニジプト財政の
凋査・監憾に、ワランスが完全に対等の資格で参力11できるようにはからえ、という指令を伝
えた。これがその翌年lこ樹立される英仏共同管理(DualCOntroU?C・ndOminium)の基礎
であって、我盈はここにキプロス・チュニジア・ニジプトが、侵略者の血に染まった糸によ
ってつながっている?IF実、そして北アフリカ・西アジア諸地域住民の侵略者に対する斗いが
-つに結ばれねばならぬ必然性を見ることができる.(6)ここで共同櫛理体制の樹立にいた
るまでのニジプト内部での経過をiiii単にたどって承よう。江
迎河株売却後、イスマイルは歳入燗をはかるためニジプト裁相の下で働く財政麺の英人2
名の派jiRを求めたのであったが、イギリス政府は逆にエジプト財政の全面的調査と勧告の使
命を帯びたケイヴ使節団を派過した。このこと自体が、「様買付けから直線的に柔ちびかれ
るイギリスの考えぬいた末の措腿」(7)であったが、その調迩の結果であるケイヴ報告醤が
ニジプトの懲志に反して粁遡(BlueBookonEgypt)の形で公表されたため、ニジプトの
公的信用は完全に失墜する。そして、ケイヴ派過から半歳を経ずして1876年5月に、ニジプ
トに対する各国俄揃者の利益代表から成る公債管理委員会(COmmissionoIThePubIic
Debt,QIissedeIaDettePublique)が生れ、11月にはこの委員会の頂点をなす総監督官
(GenemlControlIer)制が。リ設され、英大蔵省官でロスチャイルド1吋IMUとつながりの深い
R・ウィルソンがニジプト政府の歳入を、仏人プリニェールが歳出面を監督することとなっ
た。(8)
このようにして進行した英仏の干渉は、やがて財政の枠をこえてくいこ承、1878年8月、
アルメニア出身の銀行家ヌバールを首旺とし、英仏人各1名を閣僚とする変則的・植民地的
内閣を成立させた。ウィルソンは蔵相に、プリニニールは公共]『業相にと、英仏の俄撒者代
表がニジプトの内側の要職を占拠して、強力な干渉体制が築かれたことになる。アレクサン
ドリアの外国金融業者以外に支持掴を持たず、回教徒官吏圃からヨーロッパ1M「歌商人の手代
と見られていた売弁的銀行家を首相に、英仏俄樋者代表を閣僚にすえたこの内閣は、当然の
ことながら、ニジプト人民のぎせいにおいて専制君主の対外俄務を随行させることを全政策
の基軸としたため、ニジプト人の民族感1Wをしげきせずにはいなかった。ヌパールがキリス
ト教徒であったこと、悪塙商い国際裁判所(混合法廷)(9)創設の立役者であったことも農
5
民の反感をかう一因であったが、民有地の強制収用、`[『吏の大巾な縮貝などを行なって、外
人閣僚の登場が生活窮迫の原因だと考える農民がエジプトの村々にふえていった。
又パール内閣が2500人の士官を給料不払いのままで解雇したことを直接の因として、1879
年2月、カイロ街頭で軍隊を中心に、解雇された官吏、学生、群衆が加わっておこされたヌ
バール退陣を要求する示威行動は、上記の国民的反感の表現であったが、他面では、英仏の
圧力でヌバール内閣に行政の実権をゆずらされて専制極力を行使できなくなった不満から、
同内閣更送の機会をねらっていたイスマイルが、国民、なかんずく軍隊の反ヌパール感悩を
操って起させた、という陰謀的な側面をも持っていた。(10)彼は国民の訴えをとりあげるポ
ーズを見せてヌパールを解任し、そのあと英仏によりもイスマイルに忠実な回教徒ラゲーブ
が、2人の欧人閣僚を留任させたまま組閣したが、俄樋者のかいらいたるヌパール政椎を失
った英仏はイスマイルに強く抗議し、やがて4月に一定の民族主義的要素を代表するシエリ
フのもとにエジプト人のゑから成る新内閣が成立すると、英仏はイスマイルを退位させるた
めの外交的簸謀を開始し、6月、トルコ皇帝に圧力をかけてイスマイルの廃位を通告させ
た。(11)17年にわたる彼の治世はかくて終り、その子テュウフィクが副王となったが、列強
の圧力は、その野望に対する障害となった君主を廃することができるまでに、深くエジプト
の地にくいこんでいたのである。
(1)AnnualRegister,1875.P、122.
(2)Goocl1&、Ma31erman:ACemuryofBritishForeignPoIicy、1917,P、29.
(3)Blunt:ibid・P・鋼.
(4)BIunt:ibidP、36.
(5)BIunt8ibid、P、123.
(6)毛里・lj1lM證文,P、14.
Hasencltwer;ibid・P、226.
(7)Hasenclever:ibid、P,184.
(8)この段階ではイギリスが-歩先んじており、これに対するフランスの不満が先述の秘密協定締結の
際にもちこまれた。
(9)国際放判所は1876年に成立し、名誉賦判長がエジプト人、副裁判長が外人、判事は高裁の場合外人
7、エジプト人4の比率で、ZlF突上の外国法廷であった.(MiIner:ibid・P、46.)
「借金の征醤に署名した農民は、外国の手練に従って外人裁判官の前i二出頭させられ、外国語によ
って裁かれ、結局何のことかわからぬうちにロ分の土地や財産を鞭われるのであった。」(BIum8
ibidP、46.)
(nHasenclever:ibidP,187.
(IDこの退位工作の裏面について、プラントは、ウィルソン→ロスチャィルドⅡイ閥÷ピスマルク→英仏
政府÷トルー皇帝、という圧力ないし工作ルートを想定している。(Blum:ibid・P、65.)
4.1881年における軍隊の民主化斗争
新副王テュウフイクのもとに成立したリアズ内閣時代の最初の重要な変化は、英仏による
総監将官制の再建である。2人の総監将官が入閣した時からこの制度は不要のものとなって
廃止されていたが、外国俄樋者代表が閣内の要職を占めるというあまりに露骨な内政干渉体
制が、農民大衆から保守的支配層にまでおよぶエジプトの広汎な反感によって、一歩後退を
余儀なくさ》【た今、英仏はそれに代るべきものを櫛築する必要があった。再連された絵監併
宮は、閣議出席、諮問、凋査の揃限を帯び、本国政府の同意なしに解任されえないものとな
り、その地位は失った閣僚の座を補うに足るものとなった。列強にこのような売弁浪歩を行
ないつつ、リアズ内閣は国内の立懸遡動・民族運動を抑圧する反動政策を展開していくが、
1881年9月、反政府運動の渦の中に倒され、ここにエジプトの立懲勢力伸長の道がI)11かれる
のであるが、この反動内閣打倒のための突破口を開いたのが、1881年2月および9月に生じ
た軍隊の反政府示威行動であった。
この軍隊の運動は、その本質においていわゆるトルコ・サーカシア寡頭支配層への挑戦で
あったので、ここでエジプト社会におけるトルコ系民族とアラブ民族との関係に簡単にふれ
ておく。オスマソ帝国治下の古いエジプトでトルコ族が絶対的優位を占めていたことは云う
までもないが、アリ以後、エジプトが半独立的地位をえ、またイスマイルが貢納とひきかえ
iこえた勅令(1873年)、彼の退位後の新しい勅令(1889年)がトルゴ皇帝にニジプトに対す
る宗主権を残しながら、大体において政治面ではエジプト独自の判断と行動を保障したので、
トルコの政治的支配はエジプトについては外殻を残すの糸となった。(2)ところが、エジプ
トの社会問題としてのトルコ・アラブ両民族の対立は依然として未解決であり、ジョン・ボ
ウリングが1840年に「エジプトにおけるオスマソリの勢力は絶大である。彼らは強い勢力を
行使して国家の大てし、の高職を独占し、国家権力の貯蔵庫をなしている。」(2)と鋤いたこ
とが、70年代の末においても基本的には変っていなかった。彼らはアリ一族を頂点とする特
権的大地主階級で、高級官僚、高級将校の地位を独占しつつ、その領地で腱民を酷使し、エ
ジプト人に対する民族的差別を灘什に行なった。
このようなニジプト社会で、アラブ勢力が比較的進出していたのは軍隊だけであった。サ
イドの時代からエジプト人が士官に昇進できる道が1Wlかれ、下級将校を多くエジプト人が占
め、農民、ことに貧農出身の兵士の支持をえて地歩を固め、大地主層を母胎とするトルコ・
サーカシア系の高級将校と対立した゜イスマイル時代のトルコ・サーカシア系将校に対する
優遇策がテュウフィクにうけつがれて、無能な彼らが高給を食及つつある一方でアラブ士官
の減給、解任が砺骨に行なわれ、外進の上でもことさらに不利な扱いをうけたことが、彼ら
の不満を増大させていたが、リアズ内閣の陸相オスマン・リフキイがトルコ系大地主の最右
翼に属し、アラブ士官に対し極端な差別行政を行なったため、アラブ士官、兵士の蓄献され
た不iiMiは政府に対する陸相罷免請願の形で結集された。
政府がこの迦動の中心になったアーメッド・アラピ(AhmedAr団bi)ら3人の巡隊長を逮
捕したことから、ニジプト人士官を連隊長とする兵上がカスル・エル・ニル政庁を占領して
3人を救出し、兵士大衆の示威の力で陸相の腿免をかちとったのが2月1日の事件(以下カ
スル・ニル・ニル事件と呼ぶ)である。(3)この事件後、軍隊内部におけるアラブ士官、兵
士の勢力が著しく高まったことは勿論だが、ことに指導的役割を演じたカイロ第4連隊長ア
ラピ(4)の名はひろく国内民衆の口にのぼるようになり、不正を訴える;iii願瞥が彼のもとに
殺到し、農村の長老や村落型長(Sheikh)らが彼と迎絡をとりはじめた。これに対しリァズ
内閣もあらゆる手段によって軍隊内の反政府勢力をくじこうとしたため、まもなく9月i二政
府と)M隊とのより決定的な衝突を生ずることになる。
カスル・エル・ニルリ「件のあと、あらたにjIIの支持をえて陸相となったアームッド・サミ
がリァズによって罷免され、後任の隙相ダオウド・パシャがアラピらの反政府的巡隊をカイ
ロから地方に移駐させようとしたことがきっか'十となって、9月9日、前回に比べてはるか
7
に大規模な皿隊の示威行mlIがおこされた。アラピらは大砲をひいた2500の兵によって副王の
いるアプディソ宮を包囲しい①リアズ内119の退陣、②酸会の開設S③叩隊の増員、の三要求
を提出し、その結果リアズ内閣は倒れ、アラピらの推すシェリプ・パシャガ新内閣を組織す
ることになった。(5)’
「。■■■-,,■
この9月のzlF件(以下アプディ・ソ宮31F件と呼ぶ)のもつ意味は、ニジプト民族迎助史上無
視できぬものをもっている。迦動の中核が耶隊であり、、隊を反政府示威にかりたてたもの
がトルコ・サーカシア旧勢力に対する彼りであった点はカスル]6ニル・ニル事件と同じであ
るがい彼らの拠出した要求内容の上で大きなちがいがある.前回のⅡIF件では陸相の更迭を要
求したにとどまるが、'アプデ'イソ宮JIF件では議会[川設・懸法制定という正事的視野をこえた
国民的要求をかかげている。これは叩隊がニジプトの立懇・民主化斗争のにない手としての
自覚をもったことを意味する。(6)このコド件後アラピはプラントに「私は軍の代表であり、
mはそのまま国民の代表である。」と語ったというが、(7J当時のニジプト腿民約420万人
は、ヨー戸シバjif木の進出下に進行した階級分化によって、在村小地主階級、零細な農地し
‐
か所有しない小作兼自作農民、大地主の柿取や重税、さらに高利賛のぎせいとなって土地を
失った農民(日Ⅲfい耕作者または分益小作農)の三階層に分化しつつあった。このうち小地
主階級は所有地数ニーカーのものから相当広大なものまでをふくむが、トルコ.サーカシア
系大地主からは明瞭に区別され、彼らのようにヨー戸シバ語を学んだりヨー巨ツパ風の生活
微式を採りいれたりはせず、Fりたかな彩色の衣服とターバンをつけ、民族的伝統がその衣食
住と観念を濃くいろどっていた6後らは腿村共同体のSIIeikhとして、自村の農耕・iillがい
などの行政を行ない、強い共同体的規IMIによって地域腱民を危梁こ象っっこれを支配してい
た.(8)と同時に彼らは、トルー・サーカシア系大地主に比べて同一面積について3倍以上
の地租負担老として、特栖的大地主とその政権に対する対立者として共同体をひきいて立っ
ていた。ニジプト耶隊におけるアラブ系下級将校は、この小地主階級を出身層とし、一般兵
士は目小作鍵以下の農民出身であったから、農村における民族的伝統と宗教的風習にいろど
られた共同体指導者と共同体成員との一体的な関係が、おそらく、隊の内部にももちこまれ
て、下級将校と兵士の結束の堅さを保陣したものと思われる。そして、彼ら、巫服をまとっ
た農民は、アラピらの指灘のもとに、1881年を通じて、トルコ・サーカシア系大地主階級に
対する反封建的腱民斗争を代位して斗ったのであった。これと同盟の関係にあったのが、在
野の立憲主義者のグループと、ニル・アズハル大学を中心とするイスラム革新派の勢力(9)
とである。ただ、その反封建斗争が、この段階ではm内部に局限され、ニジプト社会、こと
にその基礎的な底面をなす農村社会における封建的大土地所有が、危機をはら梁ながらも旧
のままの姿で存織していること、したがって大地主=特揃官僚としてのトルコ.サーカシア
階層が副王と直結した形で、アラブ中小地主・共同体農民を支配する力を保っていたことが、
のちに帝国主義に対する民族的抵抗が要諦される時点で、致命的な弱糸となって露呈される
であろう。
ともあれ、腱い異民族支配によって植えつけられたニジプトの民族的=階級的矛盾の繕節
点であった耶隊は、1881年の両汰の珈件を経てトルコ.サーカシア支配廟の君物から脱して、
皿内部の民主化を進めアラブ士官の指導椀をうち立てた。リアズ内閣退陣のあと、待望の憲
法制定を大きな任務とするシェリブ内閣が成立すると、アラピは、隊の役目は終ったとして
耶隊をひきいてカイ戸を去り、いささかも政梅への野心を示さなかったし、(】0)英仏の財政
8
監督官制についても、むしろニジプトにとって有益なものと考え、進行中のニジプトの反封
建・立憲民主化の改革に干渉しないかぎり、英仏との友好を維持すべきだとなしていたとい
うが、('1)ニジプトの、隊が来るべき民族的危機において果すであろう役割は、すでにこの
時点で予見できるのではないだろうか。アラビはプラントに「国民を沈黙させようとするも
のに対しては、必要とあらば、アラーの神の加護により、国民を保護するという耶隊の資任
を行使することを恐れはしない。」(12)と語っていたが、アラピらのひきいる耶隊が民族的
抗抵の前衛となるべき時機は目前に迫っていた。というのは、カスル・ニル・ニル事件とア
プデイン宮ロIF件にはさまれた1881年5月、フランスのチュニジア侵略がおこり、ニジプトが
第二のチュニジアになるのではないかとの不安が急速にひろまっていたし、フランス狐のチ
ュニジアにおけるイスラム寺院厨樹、回教徒蝿女子への蛮行が敬虞なニジプト回教徒の深い
怒りをかっていた。アプディン宮蛎件において、隊の要求した、墹瓜の計画もニジプトを第
二のチュニジアたらしめいための火急の要iiMrであったし、、IF件後発禁を解かれた諸新lIllは、
ヨーロッパ勢力の進出がはびこらせたニジプト国内の酒場・売春宿・不健全な歌曲などの植
民地的風俗をイスラム教の立場から激しく非魅しはじめていた。そして、エジプトがリアズ
反mb政治の倒壊をよろこび、目Iil化・立憲へのコースをふJk出した1881年末、エジプト国民
の知らぬところで、英仏政府はエジプトに対する或嚥的な政簸をilllMiしつつあり、それは翌
年初頭の英仏共同覚翻(JointNote)となってあらわれ、ニジプトの民主改革の路線と対決
しようとする。その時、、隊はふたたび国民の保護者として、売弁化したトルゴ・サーカシ
ア保守支配階級と結んだイギリス帝国主義とのたたかいに立ち上らねばならない。
(1)Milner:ibid・P、37.
(2)CmDmer:ibid、P、175.
③BIuUut:ibid・P、136.Cmmer8ibid.、178.
《)アラピは1840年ザガジグ近陳のホリイニーの小村落のS]】cikhの家に生れた。一家I上長くその地に
住黙8ニーカー半の土地をもち、14才でZ11PMMこ入り、サイドに見出されて異例の昇進をとげた.ア
ラピと親交のあったプラントは、彼のことを、「丈高<肪何.たくましく、動きがゆったりしていて
典型的なニジプト農民のタイプ」と述べている。BIunt:ibid・P、139.この珈件後アラピの農民解
放の思想ば多くの入念をひきつけ、welwaluIuid,,(theonIyone)と呼ばれたという.
⑤Blunt:ibid・P、148.cmmer:ibid、P,183.
(6)Hasenclever:ibi4P、205.
(7)Blunt:ibidP,170.
(8)毛型:前掲證文、P、15.Milncr.:ibid・P、3蕊.
(9)アズハル改革派は君主の専制がイスラム精神に反すると主張し、全回教徒の自由かつ平等な共和国
を理想とし、かつてイスマイルの暗殺を計画したことさえあった。BIunt:ibid・P、125.
⑭Blunt:ibid、P、154.-三一一
OOBIunt:ibid・P、173.
⑫Blu、:ibid.P、171.
9
高校における変換を軸とした
図形指導について
数学科
1.図形と数式の対応
図形の性質を代数的に学習する一方法として図形を点の集合と考え,その点に対して,数
又は順序をもった数の組を対応させることを考える。そのためには座標系が鄭入されたけれ
ばならない。
(座標系)
↓
図形←>点の集合点< ̄>座標
まず基本的な図形である直線について,直線をある条件をもった点(塗,y)の集合と考え,
その条件を数式(一次方程式)で与えることにする。
直線<→“+6y+c=0
一般の図形について,その図形をある条件をもった点(エ,y)の架台と考え,その条件を
点の集合である関係式として数式で表わすことが出来る。
図形<-〉数式(座標の関係式)
2.図形の運動と座標変換
こうして数式で表わされた図形'二ついて,個なの図形の性質をしらべるために図形相互の
位腫関係が大切な要素と考えられる。即ち-つの図形を他の位魁へ移すことである。これら
の移動については,既に学習した次の
(1)平行移動(2)回転移動
(3)対称移動
の三通りがあげられるが,いづjLも図形上
の点を代表する点の座標のIMlの関係式とし
て,とらえることが出来る。
(1)平行移動
エ
すべての点(工,>')をα,6だけずら
して点(垂,y)に移す。
(;:ニラ土:
(2)回転移動
すべての点(工,y)を0だけ回蟻して
点(エ',y)に移す。
{;:二鰯;〒;窓;
10
(3)対称移動
すべての点(エ`y)を原点を通る直線
‘(塗軸と÷の角をなす直線)につい
て対称な点(エ``y)に移す。
(;I三芳鰯;±;懇;
ハノ坊
(蕊騨了:鵬雛)
更に点(Z,y)を図形F上の代表する点と
考えることにより,/(工,y)=Oで表わさ
れる図形Fが,以上の移動によって
5
火葬``y)=Oで表わされる図形F`に移る。
一般に(1),(2),(3)の移動やそれらを組合せ
一般に(1),(2),(3)の移動やそれらを組合せたもの
(;:二鰯;=;淫;土:を迦動と農ぷことにする。
これら運動は図形の形,大きさを不変にする移動である。
今二点A(エュj'1),B(Z2y2)を考えると,その距離』は
、2=(エューヱ2)2+(y1-y2)z
これが迦動によってA(エユ`J1),B(毎2,J2)→A、(亜`1,yl),B,(工’2,y2)とすれば
{;I}=;::=(鯛:)鰯;幸81二;3:鰯
...!`g=(エJ1-jr'2)2+(ヅユーy2)2=(エユーヱ2)2+(yl-j'2)2=12
よって二点間の距離は不変である。
従って図形の形,大きさは不変である。
二つの図形の関係を調べる場合,同一の座標系での移動に対して.解析的に,平面全体(座
標軸ごと)を移動することが考えられる。
今任意の点PをO-工y:P(工,y)
O'一エヅ:P(工`,y)
とすれば(エ,y)と(Z',y)の1M]には
(i)(;=澱;〒;l窓;土::
(ii)(;'二饗,:嵐郷土;
但しに-::鯏二::謡;
平面上の図形F上の任意の点P(工,y)とし,
#
Fの方程式をハエ`y)=Oとする。座標軸
の移動によって点Pの座標(工,y)が(工`,y)
の移動によって点Pの座標(工`y)が(工'`y)に変わったと十れぱ,
人工,y)=Oは(i)より
バエ'c“O-ysi''0+α0,エ`si''8+ycosO+60)=01二変わる。
先にのべたようi二図形Fが移動i二よって図形F`になったとすれば
11
Fの方程式
F`の方程式バエ`,y)=Oは (ii)により,
バエTosO+ysj''0+α,
-工si〃0+y仁CSO+6)
=0となる。
即ち図形の方程式は,二つの
座標系間の座標の関係式によ
って,それぞれ与えられるこ
とになる。
エ
二つの座標系について座樮の
関係式を一般式を用いてのべ
ると,
0-エy:P(エ`y)O`-エヅ:P(工,,y)
い)(;二雛I:;l)逆にといて(ii){;:=雛;)
上にのべたように,ある座標系で表わされた点を別の座標系で表わされた点に対応さすこと
を変換とよぶ。
3合同変換とユークリッド幾何
ユークリッド幾何学で取扱うのは,上にのべた座標の変換によって不変な図形の性質であ
る。一方図形上の点と-つの実数の組(エ,y)の間に1対1の対応が存在すると仮定して,
その点(工,y)を点(エ',y)にうつす式を
{;'三翻庭;窓;上:{;二等。:j:軽jjijH繩,
とすれば,この式の。,6,0にいろいろな値を与えることによって一つの変換の集合をう
る゜これらの集合の任意の一つの変換によって不変な性質を研究していくのがニークリッド
幾何学であり又これによってニークリッド幾何学の対象になりうる性質をもった図形をいれ
ている空IMIをユークリッド空間とよぶ。
この空間においてPQ=V(エューエ2)2+(y1-y2)gと定義すればP,Qが座標の変換に
よってP``Q,に移されたとき、7MにP`Q`=PQとなってユークリッド幾何学の対象と
なる性質で図形的意味をもつことになる。
ユークリッド平面上のすべての直線をIIT線にうつす変換の式は一次式であるからこの変換は
一般に
(q162-a26,午O)
{;:二瞬蹴:;と表わされる。
巡動は一次変換の特殊な場合であるが迦助以外に図形の形,大きさを不変にする変換はない。
(理由)形。大きさを不変にすることは距離を不変にすることである。今距離を』とすれば
42=(工,-工2)2+(y1-y2)2-L`2=(エ`ユーエ`2)2+(y1-y2)zになったとする。
(;:'二尭二22(受'二受:)土鰍=;:)
...(工,ユーエ`2)2+(yl-y2)2=(α12+α22)(エユ-工2)2+(612+622)(y1-y2)2
+2(α16,+α262)(エ1-エ2)(y1-y2)
12
よってR2=4,2になるためには
α12+α22=612+622=1α161+α262=O
la1i≦11611≦1よりα]=GosO61=si〃。とおける
これをとけばいずれも運動のいずれかになる。
{;:二:灘;蝿.,…圏…1圏十&塾圏=,……=・
を合同変換とよぶことがある。
4.新しい変換
距離を不変にすることによって角の大きさも不変にする合同交換は図形の形,大きさ
大きさを不
変にするが,次に角の糸を不変にする変換はいかに表わしうるか考えて承る。今変換を
(;:二:;鉢蹴::として,これによって二m、線が
輝鰯塊二8}-{鵬I鰯;:魏二8にうつされる。
そのとき(;:三:】l:群:雛(臘二鰯:蛾麓なる関係がある。
簡単にすすめていくために次の順序で考えて染る。
(i)E',=0,’'''2=Oのときを考える。
…=而急f;鋳;慧戸;;豆..`,▽,鍔特等簔而o
よってQ1Q2+、1,2=Oでなければならない。
11止十、1,2=q1gQ'12'2+a1a2(腕'1,'2+2`1m'2)+α22沈’1河'2
+6ユ29`1』'2+11ユ62("'''12+』`ユ叩'2)+622m'ユ加'2
=(α12+6,2)Q'1,`2+(α,α2+6,62)(、`,、'2+』'1"J'2)
+(α22+62型)"』`1m'2=0
,'1=”’2=0だから(a1a2+6162)”'11'2=O
任意の、’2,m'1についてなりたつためにはαiq2+6,62=0
(ii)つぎにE'1=Oとなるときを考える。
i”'21
c・so'=万百百十扇ラァ
、so=
、`1m`2(α22+622)
|抑'1|Vα22+622V(α'2+612)E'22+(α22+622)伽'22
V(α12+
1m'2W哀手万冒す
曰の ̄+、
・・・(』'22+'"'22)(α22+623)=(α12+612)L'22+(α22+622)抑`22
...1`22(α22+622)=』’22(α12+612)
任意の2'2についてなりたつためにはα22+622=α12+612
(1)相似変換
次に{J:二鯛:雛:;
α12+q2IB=612+622=O
q161+α262=0
なる変換を考え相似変換とよぶことにする詩=最=偽と鎧けば仁±’
13
よって
6)ルー1のとき何A=-1のとき:
億:二麓干雛:;侈二麗士鱗:』
いずれの場合も条件、'2=(α12+α22)((エユーエ2)2+(y1-J2)g)=(α12+α22)E2で一定
倍に拡大又は縮少される.よってこの変換の場合は,大きさは変わる。
しかし不変な要素はニークリッド幾何学におけるいくつかの要素を含んでおり同じ式を用
いて定義することが出来る。
(例)1.直線について
今』1二十加1J+"1=0を満足する点(二J)の集合を直縫ということiこする。この直線
に⑩(ロ)の変換を行なってふよう。
(O(qを逆にといて(α2+β2午0)
唖一》一》
“|》擶
誇一
卜4Ⅲ
これを上式に代入すれば
一一⑪
+
一十
十一
q|
+
》|》
鞆|》
鼬|》
》|》,
G農lLi瀧字鍔濁錘'十 t:L諸富菫念翰,‘
即ちE'ユエ,+加'1y`+"`エーOなる形の一次方程式をうる゜・
・し|蝿j謹議…Ⅱ……《….
よって一つの一次方程式を満足する点X(jrby)の梨合に対して相似変換を施して得られ
る点X`(二`,y)の集合も,また一つの一次方程式を満足していることがわかる。これに
よって直線は,相似変換によって定義される相似幾何学の図形の対象の一つであるといえ
る。
(例)2.二直線のなす角について
{鵬淵;蝋二I::::::8のなす角を,
とすれば
」B」
n1L2+"Eユ"12
「CSO==---堂-」
21塾+醜12ヘ/r‐面面孑而夢
今相似変換(イ),何を施すことによって二直線の式が
(;;鱗耀;:轆二Iになったとするとその二直線。なす角は
(例)1.より
….▽』鍔鍔篝議…ろ。
{iM::鯛鑑三餓鞠l{1t瞬蹴::二餓醐:
ここで入Ⅸα2+β2)(』’1E`2+加'1"、'2)=EzE2+"J1柳2
14
入2(αg+β2)(』,ユ2+痂12)=Eユ2+"ユ凸
鰻(α2+β2)(1'22+加'22)=Ⅲ22+海22 ̄をうるから
ごCSO=ご“0′
即ち二直線のなす角は相似変換によって不変であることになり,相似幾何学の図形の対象
といえる。更に6),(1コ)については
回の鯛合(負向)
㈹の場合(正向)
r1
hd
特に
特に
A=l`α2+β2=1のとき
A=-1‘α2+β2=]のとき
E岬"α幾何学における
Ezd「"J幾1可学における
鬮繍}となる.
対称移動となる.
(2)アフィン変換
更に一般化し{;;二:鰯麟:;("16圏一…o)
なる変換を考えブフイン変換とよぶことにする.
今迄と同じ考えから六つの定数に関係する一つの変換の架台を作るが,これらの集合の任
意の一つの変換によって不変な点の集りとしての図形の性質を研究していくのがアフィン
幾何学である。
この幾何学の対象となる図形の性質の主なものは,
(例)1.二点X1(エェ,J1)X2(垂2,J2)の〃18〃の内分(外分)点X3(主3,y8)
鞄=響;豐窒ys-m':鰐。iニアフィン変換を施したとしよう。
(;;=:騨蹴:』をといて{ガニ鑑轆;:ネリ;
露も臺璽潟竺y3-弩;i豐些を得る。
よって内分(外分)比は不変である。
(例)2.直線について
ここでLユヱ+伽1y+"1=Oを満足する点(乳y)の架合を直線としアフィン変換を施
すならば(例)1と同じく
(α111+αz加i)エ`+(β1,1+β2碗1)y+(7ェ、1+シ2"、1+"1)=O
即ち』'ユエ'+加'1y+打'1=0の形をとる。
]5
。L|簔熟熟1m
よって直線は直線に移る。
(例)3.二直線の平行性について
二画練{;鯛;蝋二l::::::8が平行であること灌
鵲言鶚雫鳥とす…ぱ①。鱗アフィン変…して
{耀鰯雛篭二I::::::8:に移されたとする…
(例)1.(例)2.より-12
.-l1ij雛鷺銅Mi三iijijll篝i鱸…
 ̄」ニー學=たとおいてたしかめれば
』2師巴
搗=鶏雫鶚をぅろ。
よって平行性は保持される。
以上(例)として取上げた3つの概念はアプィソ幾何学の対象となる。
5.まとめ
従来のニークルドの公理的方法は,たとえば合同,相似という趣に関する概念が,公理,
公蝋とよばれるものからはじまる論理的な進め方であった。これに対して,以上のべた解析
的手法では,図形の性質に関する定理そのものの特徴をもととする分類を正視してきた.す
なわち,変換によって,図形がいちょうな圧縮を受けるときにもなお保持される不変な性質
を調べることによって定理が正しいものとして残るか,或は間違ったものになるかを分類す
ることができることを示した。
しかしながら新しい変換による図形の性質も術に従来の公理的図形の性質によって理解
されるものであり,特に高校教材では運動の立場から量の概念を展1WIするところに,それが
強くうちだされている。
こうした方法の中で,
(i)数式の展側という煩雑さから抜けられない。
(ii)アフィン幾何学から射影幾何学への発展
(iii)幾何学での無限道点、無限遠直線の灘入
(W)各種変換の掘り下げ
(v)非ニークリッド幾何学への展側
などの問題が数多くとり残され,こうしたllUlHg点から変換を軸とする導入の足掛りであると
いえる。今後このような点を考慮しながら図形指導を進めていきたい。
16
-F---‐_
各種変換による幾何学の対象になるも。
運動
相似
直線
直線
副患鰯り
二直線のなす角
二直線のなす角
直線
缶l罰のI#可UHB
二点間の距離
点間の比
点間の比
’】に
点間の比
二直線の平行
鐸U
二直線の平行
二直線の平行
17
半加算器教具の製作に関する工夫
馬嶋玄敏
Lはじめi二
普通科高校における物理科で,現在取扱っているエレクトロニクスの領域では,真空管回
路とトランジスターの働きのごく初歩的な部分にとどまっている。
この教材を取上げることの重要さは,いまさら論をまたないが,物理Bの学習指導を通し
てさえ,エレクトロニクスの理論と技術を十分に身につげさせることは,とても無理なこと
である。そのうえ,中学における技術・家庭科のliii習内容が男・女によって違っており,特
にこのエレクトロニクスの領域での男女輩が大きくなっている。このような現状から考える
とき,高校物理で男・女を同一の内容0こついて指導するとしても,生徒の理解の程度,技術
面での差,この領域に対する興味の程度等については,格段の逆いがおこっている。
2.記号論理と電気回路
望吉しい電気回路を設計するとき,数多くの電気回路とその働きを良く知っているならば
JIFはiniliiである。しかし,このことを普通科の高校生に望むには当然のことながら限界があ
る。
ここで考えられることは,記号論理式の解析をし,二れを回路化することに焦点を合わせ
て学習指導をすすめるのも一つの方法で'よないかと考える。論理式の解析によって作られた
回路が,鋪理式i二よって得た結論とよく一致することが必要である。二の目的のためi二,基
本的と考えられる回路を選び出すとすれば,つぎの3つiこなるのではないだろうか。
アンド回路(AnB)・オア回路(AJB)・ノット回路(~A)
がそれで,これらを組合せる二と'二よって加算器や1皇加算器が作i)_上げられることになる。
3.基本回路の検討と教具の工夫
A
a.アンド回路の教具
AOB
B
アンド回路においては,入力側に情報
AとBが同時に入ったときlこ,はじめて
回路が閉じることになり出力側にその情
柵が出ていくわ(十である。
原理は以上の通りであるが,これを教
典として活用できるものとして情報の進
行状況が明確に指示できるものの工夫が
瓠されるわI十であるc
救兵の表面'二は,アンド回路の図を記
0-⑪-,
0-⑦--6
救し,図中のOは電球をあらわしている琴
カツ報の進行は,この電球の点滅iこよって
18
-0
知る二とIこする。⑪',⑪は情報の入力を操''1§するスナップスキッチである。
つぎi二,この回路の教具i二ついて順を追いながら説明する。
回
路
11;一①-6
『)ミー⑦-0
慨報進行状況の解説
図
スキッチX・Yともに開いている状態で
あれば,電球0,1は点灯しているが,ア
ンド回路には全く入力がない状態を示して
|>-8
いる二
OからI宵報の入力があったものとし,ス
キッチXを閉じると,電球2が点灯する。
しかし,アンド回路の片ブノに入力があった
だ'十であるからllI力側には↑I1j報の伝述はな
縄 ;三,-8
し、へ
同じ.追うにして,Oのかわり'二1から情
報の入力があったとすれば,スキッチYを
閉じ,近球3が点灯する。すなわち,アン
ド回路では,入力側の2.3いずれか一方
だI十の入力で(よ,出力側への情報伝達はな
いわけであるc
悩報がOと1の双方i二入力が同時にあっ
たとすると,スヰッチX・Yの回路をとも
|$二冨二慧二D-ii
に閉じる。電球2.3が点灯し,同時に電
球4も点灯するご十なわらlll力側に悩報が
伝達されたことになる。入力側への入力は,
情報が1ナノjだけでは出力としては得られず,
二つ揃うことが条件となる。
。Yそれぞれのスナップスキッチを操作すること{二よ
のよA路
り,アンド
前述の表のように示す二とができる旨
48
の行でな部電源回線一一回情ア回B
辱》四.諦歩在牢緬唯停密蝿麺
》》》恥品》押引》》に》》『い
慨ての必rlIIIlIllI回b、童
蛙繩娠唖鋺豆近一一配ベェ鉋オ打津
押牒;-33I
19
AUB
が閉じる。もちろん,悩報A,Bが同時に
入ったときにも,全く同じように回路が閉
じることになる。このようにして出力側に
情報が出ていくわけである。
二のオア回路についても,アンド回路の
場合と同じような情報の進行状況がり}示で
きる教具の工夫が望ましい。これについて
も、スキッチの操作順に従って説リjするこ
とにする。図中の記号や作動についてiよ’
前述と同じような約束をする。
【巴【6
路
①⑦
[87]
回
戻砦謡,鯆為夛
図
''二:ゴ;こり-[ 禰FYww鰯;Ⅱ
ていない。
両脇jEzてz百一秀万曰
|‐
を閉じる。
オア回路の片方2に入力があったので池|
球2が点灯するが,このとき同時に電球41
、点灯する。これは、随球0から入った榊|
報が2を経て4に達したことを示している。!
すなわち,オア回路から出力側に情報が出
たことをあらわすことになる。I
_,-|_____
つぎに,悩報がOではなく,1から入力
があった場合を考える。このときは、スヰ
ッチYを閉じるので1W報は3を経て4に達
する。すなわち,入力が0-2-4と通っ
たのと同じようにこのときには,1-3-
4の経路を通ったことになる。
さらに,入力側0,1に同時iこ入力があ
った場合,別念に1つ宛の入力があったの
と全く同じように,出力側に1111報が伝達さ
れることになる。
以上のようなスヰッチ操作i二よって,情報進行の状況を豆電球の点滅によって明示でき
るように,アンド回路の教典と同じような考えによって,図のような配線で試してゑた。
この目的のために(よ十分であると考えている。
必要な部品
〔この教具について{よ,アンド回路の教具と全く同じもので製作ができる。
20
c、ノット回路の教具
己一屋。
ノット回路では,入力側に情報が
入っていないとき,出力側に情報が
出ており,入力側にiW報が入ると,
回路が開き,そのためにlH力側にい
ままで出ていたl1lj報が消えてし主
う゜
この回路の原理をしめす結線図を見ると,
スヰッチのOFFとONが逆になっている
だげで,この回路をしめす教具の配線も極め
てnjiiである。
ノット回路についても,アンド回路やオア
)
回路と同様に情報の進行状況と操作との関係
を考察して染ることにする.
回
路
情報進行状況の解説
図
】=-②-0-P ̄二、
スキッチZが開いていれば,悩報の入力
がない状態であるから,112球0,2は点灯
している。すなわち,ノット回路であるの
で、入力のないときI上111力側に梢報が出て
いることになる。
IdE-②
ニコービ
電球Oから入力があったとする。これは
情報がスヰッチZを通過したことになるの
で,返球1は点灯する。ノット回路の入力
側に悩報が入ったので,{Ⅱ力側に出ていた
梢報は消されることになる。すなわち,電
球2は消えるわけである。
つぎに,いままで入力IMIに逸していた情
報が停止したとする。このため,ノット回
路の出力側には,Iili報が反転して11)てくる。
このために,地球1は消え,fIi球2が点灯
する。
。-④
ノット回路のはたらきを示す教具
の回路として}よ,図のようなものが
(|;「.-⑦
適当である。
21
必要な部品
1
豆冠球およびソケット
各3コ
祗源用クミナル
2=
ー回路二接点スナップスキッチ
1=
配線用錫メッキ線
約60cm
ペニヤ板(30x60cm)
1枚
4.半加算機の教具の工夫
これまで述べてきたアンド回路ゴオア回路,ノット回路の3つの基本回路を適宜組合せる
ことによって,いろいろなIHI報処理が可能になってくる。さしあたり有効な処理能力をもつ
回路としては,加算器を考えることができる。ふつう数処理の簡便さから2進法が使われる
わけであるが,この場合の力Ⅱ算器としては,
O+0=01+O=10+1=11+1=10
の4通りの処理ができればよいことになる。
はじめの3通りについては,比較的iIiiliiであるが最後の1+1=10については,上の
ケタへの繰り上がりが必要になる。このための摘報処理機能をもつ回路として半加算器が適
当である。
図において,上のケタCへの繰上がり
C
について考えて柔る゜
入力ImX.Yともに情報lとすると,
ノット回路のためにF・Hへは慨報が達
S
せず,このためにG・Iへの1W報も0,
したがって,SもOとなる。これにたい
して,Eはアンド回路の出力側であるか
らCは1。結局Cへの繰上がりができた
ことになる。
つぎに,Xに0,Yに1とすると,Gを
Gを経てSに達しSは1, Cは0である。すなわち綴
上がりなし。
同徽にして,Xに1,YにOとすると,
Iを経てSに達しSは1,Cは0で,これ屯鍵上
がりなしとなる。
(:二柵~Y))U((~XmY]
つぎに,同じ結果が得られる半加算器で
別の回路のものについて考えて承ることに
Y
する。この回路についても,X・Yともに
する。この回路についても,X・Yともに1とすると,Eに出力があり,
ためにCは1,sはOとなり上のケタにW1r報が繰り上がったことになる。
22
X+Y
011m
あらわせばつぎのようになる。
X
0011
と,Cに導かれる1W報について,論理式で
0101
もちろん,X・Yともに入力がなくOで
Oであれば, C・SともにOとなるわけである。
この半加算器の場合,Sに導かれる悩報
Fは消える。この
つぎ'二Xに0,Yに1とすると,Gを経てS'二達しSは1,
Eはアンド回路の出力側のた
めに0.したがって,Cは0となる。同様..
にして,Xに1,Yに0とすると,やはり
Gを経てSに達し,Eには悩報は達せず,
Cは0,sは1となる。岐後にX・Yとも
ー
、ノ
I二入力がなげれば,C・SともにOとなる
わ;十である。
この回路について,S・Cに達する情報
'二ついて,論理式であらわせば,つぎのようになる。
(S=(XuY)、(~(XnY)}
!C=XnY
5.半加算器パネルの結線回路の工夫
半加算器の2例を比較し
てふたが,作用については
lツー③-[!
CdYry
何ら変りはない。ただ,回
路についていえば,後者の
方がはるかに簡単である。
基本回路の数も極めて少な
0-①-0
Sunl
くてすむ。そ二で,この回
路についてパネルを作るこ
とにしたい。
図の0から7まで【よ,巫髄球をあらわしている。X・Y'よスナップスヰッチである。この
回路図を教具の表面に記入しておき,スヰヅチの操作で半加算器の情報伝達のようすを示そ
うとするものである。
X・Yのスヰッチ操作と,亘電r ̄-----~----一一 ̄ ̄
’012345671
球の点滅の関係を表にすると,右’
隻雲蕊蒙堯麗トM:8.8.:。
○○
:識鑑蹴,…iRl88o:。
を示しているので,XまたはYのときだけ点灯すればよい二とになるc
この点滅を示す亥から,パネルの結線をすると,図のようなものが良い結果を得た。
このパネルのスヰッチXの詮をONにすると,電球3,6が並列になり,二れが躯球7と
直列となるので,地球7には邇源電圧の鍋だI十作用し,雅球3,6には電源電圧の粥だ;ナ作
用する。正規の電源電圧を保ってお'十ぱ,電球7はやや賄いが他の電球の切るざとは,あ童
り目たたない。吉ハニ,疋球3,6i二ついてば,作用する.逝圧が低いので点灯しているの'よ,
ほとんどわからない。また,ダイオードが回路に入っているために電球4,5(よややllf1<な
るcただし,この場合(よダイオードの特性'二よって改灘の可能なことである。シリーンダイ
オードを使用したが,fノ{几lに'よほとんど障害はなかった。
23
つぎに,スキヅチYの方をONし
たときには,スキヅチXをONした
、ツート④
ときのような回路の問題がないので
点灯するべき電球には,すべて正常
な電圧がかかっている。
このパネルを使って操作すれば,
A・G
避本回路であるアンド回路,オア回
路,ノット回路の3つの回路を含ん
でいるので,これらを別々の教具と
して製作しなくとも原理の解説には
轤
十分な効果が得られるものと考える。
GJc
必要な部品
ココゴコ、枚
{Io』、』O』0』勺几
各
ツ
チ
ヰ
ト方⑪
ソルスキ×
ソシ皿
ヶナ線1
ノーーーーーーーーーーーー
びナ点シ帥
よミ接ドメく
おダニ|錫板
球用路オ用ャ
電源回イ線一一
豆電ニダ配ペ
6.おわりに
現代は1W緩の時代であるといわれている。我々がこの1W報処理の能力を備えることは,社
会の形成者として常識である。このときの情報処理に有効な役割を減ずる加算器の機枇をよ
く理解し,処理の原理をよくわきまえて操作ができることは非常に心強いことである。
各企業に導入されつつあるコンピュターは,もっと高度な処理能力を持ったものではある
が,ここでは,その手ほどきの段階にとどまるとはいえ,原理的には極めて簡易な働きをた
く柔に利用しているということを知らしたいと考える。
生徒に対する学習の動機づけとしては,数処理の理論を教え込む立場もあろうが,ここで
は,エレクトロニクスをこの方面に発展的にとD上げ,原理を理解させるための教具として,
比較的有効なパネルを試作したのでここに紹介する次第である。
24
GOD,SLITZLEACRE:ONWILL
THOMPSON,SWAYOFnFE
ICHIROHYOSHIOKA
GodtLj"たAcre,publishedinl933,isCaldwell'sfourthlongstory,
whichcomesa(terhisTb66qcoRoqd・Theyarehisimportantworksinhis
earlydaysasawriterandalsohismasterpieces・
ErskineCaldweuwasthirtywhenGoα'sLノノノノCAC,.ewaspublished・He
wasworkingovertheplotofthisnovelinl931andbegamtowriteitin
l932,finishingitinthreemonths・
Thisisoneo【thegreatestbest-sellersofthiscenturyintheStatesand
9,500,000copieshavebeensoldsinceitspublication
ltistruetbatthenovelwaswidelyreadbecauseitspublisherwasac・
cusedforthecrimeofdistributionofanobscenebookButitischiefly
becauseGoa'sLi〃/eAcreisagreatliteraryworkthatitisstillpopular
aboutthirtyyearsafteritspublicationlntheStatestheseriousproblems
oftheworldpresentedinithaveremainedunsolvedtlloughtheyhavebeen
changedalot、
ThestoryisaboutTyTyWalden,anoldfarmer,hissonsanddaugh・
tersinMarion,Georgia・PoorpeopleintheSouthafterWorldWarl,in
afarmvillageandamilltown,aredescribedinavividway、Ignorance,
poverty,amdsadhumorarefoundmeverypageo(thisbookandthereal
lifeintheSouththosedaysistobethoroughlyrealized・Undersuchcir‐
cumstancesthosepoorpeolearealmostalways(ullofenergy,whichis
characteristicofthestory・
TyTyistheheroofthestorywhohadbeenfranticallydiggingup
hisfarmforgoldoverfifteenyearswithhissons,BuckandShaw・
Themostinterestingcharacter,however,isWilLTyTy'sson-in・law・
Hewasworkinginacotton・millatScottsvillenearMarion,butithasbeen
shutdownwiththeworkerslockedoutayearandahalfWill'scandid
behaviors,alittleinstinctive,aredepictedwithSouthernsocialproblems(or
theirbackground・
Agreatpanicwasbroughtoninl929andthetimeswereattheir
worstallovertbecountry・Morethanl4,000,000workerswerethrown
25
outofemploymentinearlythirties,andjoblesspeopIedemonstratedevery・
whereintbeU.S・bigcities,demanding,雨JoborWage1”Farmersunited
themselvesasweuasworkersandtriedtopreventtheirland-mortagefTom
beingforfeited、Inl932thepeopleelectedFmnklinD・RooseveItasPres‐
ident,notHooverwhowasfirstmakingmuchoftakingpropermeasures
fOrthereliefofbigbusinesses・
God'sLijZノeAcrewaswrittenjustaboutthistimewhenAmerican
peoplewerea1mostinthedepthsofpoverty・
NowbacktoWillheisatypicalmillworkerintheSouthHeis
agood・naturedworkeranddoesnothesitatetomakeadvancestosome
womenbuthiswife、Troublesoverafemaleandviolenceresulte。from
poverty,ignorance,andcorruptionaredailyoccurences、Althoughheis
poisonedbythemjustlikeotherpeoplehewillnotlosehisstoutmindof
aworker・Heisinthispointquitedifferentfromtheothercharacters、
HereisrequiredthefurtherexaminationofWilyswayo(life.
(1)WillandCotton-mill
ThemiI1wherehewasworkinghasbeenshutdowneighteenmonths、
WhenheknewthattheIoom-weaverswerebeatenbecauseofstarvinginthe
othermillsandthattheywereoperatingregularlyhestiffened,thinkingthat
hehadtohelphisfriendsfindsomemeansofliving・Themanagementwas
carIyingalock・out・TheothersmightbreakopenitssteeIbarreddoorsand
wreckthemachinery・ButhesaidresoIutelytotheothers.
碗Wecan'tletanybodygointhereandwrecktbemacbinery...”
qGWhatwewanttodoistogointhereandturnthepoweron.”
価I'vealwaysbeeninfavorofturningitonandnevershuttingitoIf
Andthat'swhatl'vetriedtotellthelocaL”
Willeventalkedaboutturningonthepowerinbissleepatnight・
His
fatherTyTypersuadedhiminvaintobeawayfromthemilIandto heIp
bimdigaholefOrgoldonhisfarmbelOrehegothisheadshotoff
ThenextpassagewillgiveanexactexplanationofWill'smind.
quHeknewhecouIdnevergetawayfromtheblue-Iightedmillsat
nightandthebloody・lippedmenontbestreetandtheunrestofthe
26
companytowns・Nothingcoulddraghimawayfromtherenow・He
mightgoawayandstayawhile,buthewouldberestlessandunhappy
untilhecouldreturn.”
Accordingtohiswife,Rosamond,heisaloom・weaverthroughand
through,andtalksaboutaloomjustlikeitwasaba卜yHecouldnotbe
contentonafarm・
WhatisinterestingisthatWiuwon'trelyonAFLatallandabuse
them.
QWhatcanyoutellthatson-of・a-bitchAFL?Nothing1They're
drawmgpaytokeepuslromworking.”
ItcanbeeasilyunderstoodthatAFLcouldnotalwaysgivearightlead
tothoseworkersasatradeunionworthyofthenamewasnottobeformed
inl920'S・AsforAFL,theywereonlysati3fiedwithnationalprosperity
oftwentiesanddid、ottakeupapositiveattitudetowardgettinghigher
wagesltisclearthattheyweredisposedtoavoidanyStrike,whichis
showninWill'sbittercomplaint.
碗Thelocaldrawspayforsittingontheirtailsontheplatformand
shakingtheirheadswhensomebodysaybsomethingaboutturningthe
poweromThesons-of-bitches.”
Theworkersandtheirfamilieswerestarvingastbeyweredrivenout
ofthemilLThestatewasgivingoutyeastbecau3eeverybodyintheValley
gotpeUagrafromtoomuchstarving、
Besidesthecompanywaseagertoemploygirlsbecausetheywould
neverrebelagainsttheharderwork,thelongerhoursorthecuttmgofpay,
Andrentforthecompanyhouseswerestillcharged・
Willcouldnotholdhisanger.
侭Themillcan'tgetusbackuntiltheyshortenthehours,orcutout
thestretchout,orgobacktotheoldpay、’'1lbedamnediflworknine
hoursadayforadollar-ten,whentheserichsons-of-bitcheswhoownthe
millrideupanddowntheVaUeyinfive-thousanddollarautomobiles.”
27
WilIwasafraidforfearthecompanymightrunthemillwithanother
operatorsandgetoutWillandhisfeUows・Hewiselyknewthat厨ifthe
milleveroncegotstartedwithoutthemtheywouldn'thaveachanceinthe
wor1d,,、
SoWillresolvedthatthevwouldtakethemillawayfromthecompany
andturnonthepol八rerandrunitthemselves・Hewaspreparedfordeath
Hecouldnotsitstillandseethecompanystarvethemwitbadouar-ten
OnthedayWillwasgoingtoenterthemill,themanagementcalled
togetherthreecarsofplain-clothesguardsfromthePiedmont・Notonly
menbutwomenandgirlsweregatberingaroundtbecompanyfence・After
eighteenmonthsofwaiting,theythoughtthattherewouldagainbeworkin
tbemill・
Themassofmenwereexcitedlypouringthroughtheopeneddoorsand
soontheyoccupiedthewholemilLButthemomentWiUturnedonthe
powerandtheyranbacktotheiraccustomedpositions,hewasshotby
aguard・
Suddenlytherewasasilenceandthemachinerystoppedrunningagain・
Hisfriendsconfessedthattheydidn'tknowwhattodonowWillwasn'tany
more・Menwerewalkingslowlyhomewardupthehilldiscouragedand
injuredtoo,womenandgirlsbeginningtoleavewithtearsintheireyes・
WillThompsonindeedwasamanofdecisionandhadironnerves,but
hemadetwobigerrors,forwhichbelosthisli(eandonlycouldgethis
fellowstoplayapartolamob
First,nomatterhowweek-kneedAFLwereandnomatterwhatantip‐
athyhehadtothem,itwasnotquiterightofhimtodisregardthedecision
ofthelocaLTheyhadvotedtoarbitrate、Secondly,bedidnotrealize
whatitmeantthattlleworkersweregoingtooccupythemillatalLHe
didnoteventhinkiftherewasanychanceforoccupyingit、Therewasno
clearprospect・Heonlywishedtoturnthepoweron・
AlthoughWillThompson,agoodworker,reaIizedthattlIeyworkers
needrisethemselvesagainsttheownersofthecompany,hecouldnothave
adeepviewoforganizedlabororclassstruggle・Heover・estimatedone
man'sability、Hel】adtorelyupontbestrengthofamass・
Hetalkedhiswi(eabouthimselfonthenightbeforel1ewaskilledwith
apistoL
28
,qButoverheTeintheValley,I'mWillThompson・Youcomeover
hereandlookatmeinthisyellowcompanyhouseandtbinkthatl'm
nothingbutapieceofcompanyproperty・Andyou'rewrongaboutthaL
too.I'mWillThompson.’'masstrongasGodAlmigbtyHimseI(now,…
”
(2)WillandRosamond
Rosamond,Will'swife,isTyTy'sdaughter、SheiskindtoWilland
agoodwife,whilehedoesnotshowhimRelfworthyoftbetrust、
Hewillhavehisownwayinwomanhunting・Oncehewasinbed
withDarlingJiIl,Rosamond'ssisterandRosamondfiredapistolathimin
anger・Thesceneisdescribedwithmuchhumor・Hewasalsoloudinhis
praiseofGriseldajustbeforehiswife・GriseldaisTyTy'sdaughter-m-law
andWillsometimesevendeclarestbathehadpromisedhimselftoget
beautifulGriselda,Buck'swife,afterhesawfirst,untilbeventuredtoput
itinpractice
ltisstrangethatthoseyoungwomenshouldbewillingtolienakedby
Wil1.0nereasonhewassoattractivetothemwasthatheknewwhatthey
reaUywantedandtl1athecouldgiveastraight(orwardanswer,ofwhichthe
conversationbetweenTyTyandGriseldaafterWill'sdeathwillgiveavivid
account.
厨0fcourseyouknow-thesethingsaboutwhatamanwouldwamto
dowhenhesawme.”
厨Ireckonldo・Maybeldoknowwhatyoumean.
”
側YouandWillweretheonlylnenwhoeversaidthattome,Pa・All
theothermenl'veknownweretoo-Idon'tknowwhattosay-they
didn'tseemtobemenenoughtohavethatfeeling-theywerejust]ike
a1ltherebt・ButyouandWillweren'tlikethat・Awomancannever
reallyloveamanunlesshe'slikethat.”
Willwasa轍realmananywaytothoseyoungwomenthoughhewas
notsobigorstrong・ThewayhelookedthatInadehimdifferentfromthe
Pp
otherswasqohowhewasmadeinside”accordingtoTyTy・侭Willcould
feelthings.”
RosamondIovedthisqqrea]man”withallherheart・Shewasveryoften
worrieJbvhispositiveattitudetowardDarlingJillandGriselda,anditso
29
happenedthatherippedGriselda'sclothesfromherbeforehiswife,anddid
whathehadbeenwantingtodo、AndyetonthenightbeforeWillentered
themillshefearedifhewasallrightasshefeltsomethingthatsounded
strangeinhisvoice・Onthenextmorningshekneltonthefloorathisfeet,
puttinghisshoesandsocksonhisfeetandsawhimtothedoor,
Rosamond,withGriseldaandDarlingJill,wasamongthecrowdof
womenandchildrenwildlyexcitedoutsidethecompanyfence・Ifthe
machinerystartedrunning,theywouldhavesomethmgbesidefat・backand
RedCrossflour・Shewasseekingafterthefigureofherhusbandamong
asurgeofcloselypressedbodies・Whensheheardtheotherwomencrymg,
偲Let'shearthemachinery,WillThompson・Turnthepoweron.",shewas
verymuchproudofWill.
QShewishedtoclimbuphighabovethemassofcrylngwomenand
shoutthatWillThompsonwasherhusbandShewishedtohaveallthe
peoplethereknowthatWillThompsonwasherWilL”
Buttohergreatsorrowthereportofashotputanendtohislifeand
inamomentshefoundherselfWiUThompson'swidow、
Shestillcouldnotpossiblybelievethathewouldnotcometolifeany
moreevenwhenshesawhislimpbody・Rosamondthoughttoherselfwhile
shewaswatchingherhusbandbeingputintotheambulance・qQHewas
WillThompsonnow、Hebelongedtothosebare-backedmenwithbloody
lips・HebelongedtoHorseCreekVaUeynow.”
BIBLIOGRAPHY
Austin,Aleine8T7ieLa6o7SZomLAoki-shoten,1954.
Bo,Imano:Qコノ&DC〃・Nanun-do,1967.
Cunliffe,Marcus;TルL"eアαJ”fq/WigU》ljJeaSmles、PenguinBooks,
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Rideout,WalterB:コルRa‘たα/Nbz,eノィァl1AeU》i"e‘&aZes・Harvard
Univ,Press,1965.
30
木校研究紀要バックナンバー'1次
精神適性および歎休適性よりzLた学校d型冬団の爽証的研究
丹羽
蔦沼湖沼脈(ViWiiリIDIニおける湖沼堆蔵泥の色と珪藻逝骸の噸脚迭
とんと昔党;IF
渡辺
中川
l、Il
池本
Ⅲ叩派側
アメリカ史学史の-101耐
宰肋仁労
第1集0958)70頁
第2集(1959)72JT
自由民樅皿助と,1リ1鮴IllI題一とくに大阪11:件}こついて-lll塚’リ]
「家庭経f'1」の指源にあたって消水歌
遜〕}におけるリミ験.観察投能の評価について次m・佐藤・渡辺・鰡紗i:・竹村
「山城国剛歌九締」について-中世末期歌嗣の一悲鎌一橘雌ニ
ジィソ.L・チ.1.イルズの救育思想一「教育と道徳」を'''心に-三弦鰹逃
第3集(1960)OIIT
体育{ニおげる男女鑑の研究
その1.体fr的禰励のゾミ際場面iこおける男女鐘の典誠的研究
糸結びテストにI1Lら,}し為指先の器用さの年令的充jLについて
,矧交生の”iTj4MIEソj'二lN11-るIil1lffとそのラザ察
Milll-I111
膝沢キミエ・太lnハ子
l1iii・'11西・「''1寸・州Ⅱ・'1111
第4集(l96D100r[
郡111金魚雄;M【池にISIナ6水色の発現機雛と金魚の生廠
2,種触池に41虫i旨さゴLるプランクトンの$IWIi
国学と民俗学との接点一宇jl:可道の民僻研究を''1,Lに-
ImHgismにおけるlmKlgeの特虹
同校数学において鯉合の-鞍えをどのよう'二とり入れるべきか
幾何と表BAcDllMMLj
中学生の1,1i礎的ノjt純技術(まつりぐけ)の猫世について
当トllI1・IMZi1tのY(;テスト結果について
極合語の形犬について=Mi折形式との比較にJ:為一
渡辺仁論
奥行近夫
中西瀧二
樋口忠i1li・笠野jlf夫
香川・岡111.勝i1I
ilV水・藤沢・太111
1iii叩,Will1.1,1i水mfIl
ll11I蝿二
第5集(1962)541T
SpellingのErmr爵とその紀臆法
中ilIi轆二
向校ノkにおける学友関係のツミ証的研究
その1.本校生の悩朶における学友関係の一考鱗
樅111-.『U;
その2.木佼ノヒの学友関係の巽態に関する一汚湶
その3.本校生の学友関係の雄団場面`二DMする一考察
「今昔物禰l1Sjと「像'緬HHI脳」との関係(-)
IiIilIL
第6架(1964)88Y〔
数学科学1W折導の効果的な方法について(雛-111)
数学T}
CBA化学コースの実践研究について
中付譲
微速度搬彫法を通して几た生物現鎮
森井突
木居宣長の政治論
奥弁近失
国語学力評定におけ為審倒テストの妥当性についての一調武
中両昇
高校生の文琿理解能力に関する調在とその考察
国藤科
第7染(1965)84r〔
CBA化学コースの実践研究について(鮒二報)鯛力学榎念指琢の試糸中村羅
勝法、とくに惟悶法についての一考衆AL;iⅢ玄敏
岡佼運動部,,![J1に股け為りgii,;的研究横ljI-H';
中学校における鋤H製作指導に関する一考察蔭i}(きzLえ
簡佼生の文学作品の理解についてのilMffとその考察弁[】1.小谷.武部.中西.野狐.'1」ロ
第8染(1966)7h1ir
ロ
c
「高村光大l1Ij」ノート
雌森井
BSCSのソ鋤'二ついて((’1評価)
▽1
THESTUDYOFSPORTCLUBSATSCHOOLINJAPAN
Yokoyama
ル実
lllMf ̄P
第9薬(1967)62T〔
IlI
lM)
十拾敵
祈Lい地学紋行のめざすもの
N
京噸玄
致学Iこ於ける抽繁住と記lj化{こついての一考察
野好鴎
111村の巨ノ〈HMIIJ化に対す;K)適応一Ili1l【'111地の野氾)Ⅱ村の場合一
AREPORT()NTIlEI2NGLISHTEXTBOOI<S()F
THES()VIETUNION
IchirohYoshioka
鯨臓外「雁」の表現
亀ノド雅可
作文の推講iこおける段滞の鯵IE-1l1準二年の悠想文についての;lヅ察一
小絆稔
研究紀要発行風だ
1.本誌は本校における教育の理給方法に1Nける各iMiの研究と,I銭の成鵬を発表するため'二発行される、
2.年】M、11ノ1に発行する.
3.発行人は`雅佼12と十る゜
4.発行所は木校内におき、研究iiHl鍼lが紬ll3・発行のゾミWiにあたる.
5.木雛は全国各大学附属学校・奈良県の禰瀞学校および諺k校数官に配布される。
6.本,;k発行に要する経111<(ま、|'(lYItで寵かな}つれる。
22212019181716エ51413121110987654321
工脇より(大正十三年)
の命はわずかに数日’一一日か三日か一週側であろうとは/自然はいったい、
何のつもりでこんなものを造り出すのであろう。いやいや、こんなものと賞
ってただ鰍ばかりではない。人間を。彼自身を?神が創造したと言われてい
るこの自然は恐らく出たらぬなのではあるまいか。そうして出たらめを出た
らめと気付かないで解こうとする時ほど、それが神秘に見える時はないのだ
から。いやいや、何も分からない。そうだ、ただこれだけは分かるI師はは
かない、そうして人川の雄弁な代瀧士の一生が釦でばないと、だれが葛おう
》て□
腿の姉(伊東静雄)
この腿にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
旅からかへって熟ると
おれはなにか詩のやうなものを
醤きたく忠ひ
紙をのべると、
水のやうに平明な幾行もが出て来た
そして
おれは醤かれたものを虚へ椹して
不意にそれとまるで拠様な
『砿前生のおもひと
かすかなめまひをともなふ吐筑とで
邸をきいてゐた。
さてこれ瞳わたくしの愚畷・
ワⅡフォン・プーズの寓話。
師(堀口大学)
郷がゐた
夏汚ゅう歌ひくらした
秋が来た
困った、困った、
(教訓)
それでよかった
33
しきりに桜の枠をいそぎのぼる蝉は止まりてなきはじめたり
なきかけ又なきなほ十染ん象んのあかるきかなや必死のうたは
鴨一きをはるとすぐ飛び立ち象んふんは夕日の走煮にぶつかりにけり
ひっそりと翼をさめてゐる即のっぽさ手ずれてやや光りたり
いつしんになきどよもせぱ袋もて採る劇になれず釦の腹を見る
子供輔に節を分けてもらひたりうれしくてならず夕めしくふにも
ぢりぢりときしる蝉の音す柔ゆけば耳にきこえずただ空に満つ
天上にひびきどよしす輿の日の歌のうたひ手さぴしき小節
だしぬけにおちと脚立てまた黙るかなしき鄭よ髄の中の即
生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油鄭
乎にとれば飛ぼうともせずのろのろと手のひら癖くあるき雀はる即
どこに口があるかわからぬこの節に何をあたへんあたふるものなし
つつさとく手にはふ小節ちぢとなきたちまち飛びて汗空に入る
飛びたつとき吾が手を綾きてゆきし姉の足の力の志られなく膜
小刀を象な研ぎをはり夕闇のうごめくかげに靴彫るわれは
羽を彫り収だ熊をほれば木の師もじっと息して夕闇にはふ
じっとしてこれや』』の木の朽つる藍で木ぼりの蝉はあり経とすらん
ちひさぎ虫にはあれどわれよりも命ながしとばしぎわが柳
疋燈にあてて木蝉をわが見れば見れども鉋かず虫けらの節
鶏をとぎ木をきり居りと象づからの心に知りつくたびれにけり
栓の香部屋に欧き熟ち切出の刃さき夏の雨ひかりたり
三角の木ぎれ手に持ち墨訂ぎていとしきものか柳の限を黙れば
昭和二十一年
太田村山ロ山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは
田凹の愛撫(佐藤春夫〕
彼のあるか無いかの知識のなかに、師というものは二十年目くらいにやっ
と成虫になるというようなことをいつかどこかで、多分農学生かだれかから
聞き闘ったことがあったのを思い出した。おお、この小さな虫が、ただ一画
に離鳴鯏騒と呼ばれているほど、人間には無懲味に見える一生をするため
に、彼凹身の年令にほとんど近いほどの年を綴ていようとは/そうして彼ら
23
 ̄
一苣二
人の柑子にと童って噸く。
あんまり取りいい即なので
角の小さいカモシカは
恥かしがりやの月の輪ば
つひにわたしを鋤Ⅲしない。
父が母がそこに魁尤。
少年の日の家の雲霧が
都邑一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声で充たされ、
ただ此の一縦が
型の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
遠い背が今となった。
天蝿あやふし。
昨日は遠い背となり、
魁の弧脳はラソピキにかけられ、
この容胎なら画蜂間に
詔勅をきいて身ぶるひした。
つひ脛太平洋で戦ふのだ。
宜枇布告よりもさきにⅢいたのは
〈ワイ辺で収があったといふことだ。
真珠湾のⅢ
わたしの背中に冬はのる。
かばいさうにも毛皮とたって
子供も瓢をほしがらない。
凪は人の眼の前で
でんぐりがへしをうつたりする。
金毛日足の狐さへ
夕日にぎらぎら光りながら
小鳥をくはへて畑を通る。
部落の人は兎もとらず典もとらず、
鰯コは家族と同舗で
おんなじ屋摸の下にねるc
おれもぼんやりここ腰勝るが
まったく只で住んでゐる。
山のともだち
カッョーも、ホトトギスも、ツッドリも
山陰友だちがいっぱいゐる。
友だちは季節の流れに身を主かせて
やって来たり別れたり。
セミはまだゐる、
もう口さやうなら“をしてしまった。
トンボはこれから、
あへぐ意戯が肱いた。
身をすてるほか今はない。
陛下が、陛下がと
陛下を主もらう。
愛らないのはウグイス、キツツキ、
トンビ、〈ヤプサ、(シプトガラス。
このごろではマムシの家族・
時をすてて狩を卿かう。
兎と狐の常述のほか、
マムシはいい匂をさせながら
記録を棚かう。
栗がそろそろよくなると、
ただしんけんにさう忠ひつめた。
同胞の荒廃を出来れば防がう合
泓はその夜木型の大きく光る駒込台で
わたしが踏んでも怒らない。
ドングリひろひの熊さんが
小雌のまばりにわんさとゐて、
うしらの山から下りてくる。
32
ペンと剣
いとも静かに又眠りゆく。
左や象に映えずふところにかへりて
剣も
銃も
取ることを知らないかはり
運命は一木のペンをあだへ
銃と剣のかはりにせ侭と命じた。
遡命はそれで生きることを会押させ
復聾と虚偽を叩きこばすことを教へた。
しかもそのペンさへもⅢたるつこぐ
このペンをまもることは
緬りないと忠ふことばやめkう、
これをすてて生きられない。
瓦あばれ生きてなくもの木なのⅢ(又)
昼深き春即の町に入りにけり(春師)
岡鯉同馴
l酒は回をむすんで粘土をいぢ愚.
l極悪子はトソヵラ機を織る.
l鼠は燃應こ信れ龍南京一興を耽り膳来る.
lそれ惣微が蝋取りする.
l”『零リは物干し綱嶋灘轌騎ぐ.
I蝋と,蜘蛛瞳三段飛.
Iかけた手拭はひとりでじやれる.
11郵便物ががちやりと落ちる。
l艤叶はひるね.
l鋏戒もひるね.
I芙蓉の業は霄醤蘂らす.
汕師を伴奏にして
lづしんと小さ潅地塵。
この一群の同楼何孤の上から
子午線の大火団がまっさかさま膳がつと照らす。
(夜明けのかなかなに)
31
己をまもりつづけることに外ならない。
これより外に武器は且当らない。
股後の簸後まで排らつづけ
いふなかれ
まもり続けるものはペンより外追ない
ただより侭き迎命の下に
すでに生気なしと、
'二
ペンは命の終まで持ちつづけるのだ。
け
その染ちびきに従ばんとするため
夜明けのかなかなに起された。
限をつぶってきいてゐると、
水色の、青磁色の、雨過露天の、
あくまで透明の、あくまで一途の、
U□
何を童よふのだ
し地
腱天
何も用もないの椹遮るのだ。
又うつさうと蹄いほどW々した
あの土川波ののっぴきならない
の
積極無近の夏がぶんぶん匂って来た。
;IiIBlj
朝迂柔の開けきⅡざめ左しげり(抑)
ふるさとや松に苔づく師のこゑ(〃)
かたかげやとくさつらなる郷のから?〉
山ぜ柔の消えゆくところ幹向し(軽井沢)
あきせ熟の肌る熟向いて唖か江(伏師)
111
----
擬そ染ち(日本英鰭)
Ⅱ胆なった、
明けがたの四時にはもうことしの
初の蝉が遠方で鳴いた、
その声は明け方のいらを祷かした、
供の脳のほそふち左とほり
よろこびの曲を魁き忘れて行った、
兇なれ聞きなれた曲ではあるが
いくらⅢいても
あきることのない錦の歌、
ちっともなってゐない歌だが
明けがたの僕の眼左さ室した。
潴尻をうごかし
羽根をゆすぶる初抑は僕から逝り抜け
世界の樹木を亙って行った。
かくて(昭和詩築)
鄙は
おのれ死なむことを知らず
ただに鳴きやまざることを
あばれとやわれらいふならん。
川きてあますところなく
郷は
かくて死にゆけり。
「あばれこの下にねむれる即
その生泄をもてあますところなく
歌ひおぼれしと召ふ」
郭(嗜叩濃詩築)
此処は奉天の梁やこなり。
此処こそば奉天といへるなりご
瀞馬耶はだんだらの幌をかけ
じいいといきけり。
幌の上に柳のと倉りて
じいいとは鳴きけり。
形小さき満洲の即はも
われは満洲の邸を頬にあて
師とな腱ごとをか騒ぎ炎はさんと十○
釦の苫葉を側かんとばせるなり。
生ける鮎
川ざとの
古りたる家に
Ⅲされば
いとな柔にけり
凱卿ざ茶店
師なけば
すずしき録に
蝉も鰯しき山ざとの
我は憩ひつ
愛猶(青き魚を釣る人)
抱かれてねむり落ちしば
なやめる猫のひろすぎ。
ややありて企のひとみをひらき
ものうげ脛散りゆくものを映したり。
おうしいつくし、法師師、
雄のおもてにはひかりたく
はたとぱかりに止薙たり。
剣糸ぢかに喘ぎ立つる賎はしさも
抱ける強をそと趣けば
30
光太郎と卯腿と
光太郎と犀星と
どちらも偉い詩人
どちらの詩も心をゆさぶる
六
八
参考資料
抑頃(定本より)
いづことしなく
しいいとせ糸の聴きけり
はや帥醐となりしか
せ率の子とらへむとして
熱き叉の砂地ふ梁し子は
けふいづこにありや
なつのあばれ膳
いのも熟ぢかく
熟やこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせ染のなきけり
違い森の奥、どこか幽避永世からⅢえるやうである,
あさぜ染の喘ぐのを聞き
まだ日のあたらぬ間に刺釧が崎いてゐる。
あさぜ難〔、)
一’
年
又
それぞれ遮った心の罪線をかきならす。
師しぐれき上ながら
二人の詩をよんで、
たわごと書いて・・・…
’、
乳母車を押しながら私は散歩してゐる。
これが自分の姿であるか?
石向く寂しいふるさとの川辺の土手の上、
その瓜衆の采に見えるものは山と山との並拙。
土手から見えるものは花全たる砿の風紫ばかりだ、
ひぐらしのうだ(動物沸雛)
うすいセロファンの羽捜から
あんないい声がどこから出るのだらう、
世界一の音楽がはじまる。
揃抑もなければ、
伴奏調もないの椹
朝と夕方程は
すばらしい夏の歌が
ひぐらしが鳴くと
はじまる、
しばらく鴨きやんでし童ふ、
小典たちも
あんまりいい声なので
小鳥たちははづかしぐなるのだらう。
さ熟しうれしと鴨けり(その他より)
われあまた郷のう土をつづりぬ
五十路かかりて
けふも郷の鴨汁るをきき
哀しうれしさぷしとおもへり。
即は夕かけて
漢しうれしさ熟しとは鴨きけり。
四方の木をかけて
あばれ蝉はも
哀し鰭し淋しとは鳴きけり。
29
天上のお二人
‐」●
哲笑なさらないで下さい。(一六六八鋸
〆へ
=▲ ̄足
あさうだと人為が恩ふのである。それが謎の発足で、それから詩は無隈に分
化進腿する。湛目珠のこの一級の詩の分野も、詩の世界は必ず、これを砲弧
して詩そのものの墹莱土とする)」遮いないと信じてゐる。.’(自分と詩との関
係)と述べ、何の不安も持っていない。彫刻の安全弁として詩作するが、「詩
を識くと腹が立つ、胆が立つから詩を沓くのだ。識を普くと笑ひ出す。笑ひ
瀞こ梁上げるから詩をかくのだ。……譜いて、醤いて、聾きまくって、怒と
笑を扉翻しよう。」の億ふの詩のよう怪天衣無縫である。「詩とは人が如何晤
生くるかの中心より透る放射の梁。」(余はかく瀞と観ず)であるから、「い
くら目砥をされても己は向く方へ向く。」全吋人)と詩作する。不安や迷いが
ない。犀足は「文章以前」に吹のように詩作している。
何時の間梍か篭炎たる何処かの逆へ出てゐる。
自分は行き詰ってゐるやうだが、
やはり何物かを聾いてゐる。
自分はもう聾けないかと思い恋ひながら
自分は徴くごとに何かを発見けて行く
文章なぞ圃分腱は既う要らない》」とに気がつく。
犀巫は求逝老である。努力家であるsだから、作った詩は心血跡そそぎ妻」
煮れている。だから「行ふくきもの」晤
詩よ亡ぷるなかれ、
詩よ生涯の中に瀬へ、
城が英気よ運命を折樫せょ
我が唾言と亡びることなかれ、
行き難きを行け
詩よ滅ぶるなかれ、
我が死にし後も詩よ生きてあれ。
汝の行ふぺきものを行へ。
と、我が塵言も亡びることなかれと願う。光太郎は腐葉土とするに迎いな
いと伯じるのであるが、光太郎は彫刻家として会心の作品を創るため爬苦し
蕊詩を安全弁としているためか、不可避のものとして、おのずから詩がぼ
どぱしり出るのであろうか。「おれの詩はおれの突体以外になく、おれの実
体は極東の一彫刻家であるのに過ぎない。」(おれの詩)であるからこそ、鋳躍
なく作れ、他の詩をはぐくむ詩となると思うのである。一.雪の頃からかかつて
ゐる詩が桜が散っても叢だ出来な上(悪鮒)のような時も、勿論ある。が、
大体は生れながらの詩人は生れながらの声を不可避に詩としたようである。
昭和十八年の『日本芙鐡|の「ペンと剣」の詩では、犀躯はっ」のペソを章
6戦争と二人
もることは己をまもりつづけることに外ならない。」「ただよりよき巡命の下
唱その梁ちびきに従はんとするため、ペンは命の終まで持ちつづけるのだ
何を童よふのだ、何の川もないの晤遜るのだ。」と、選巡がない態度をうちだ
している。皿田主義華やかなりし頭、かえって犀里は、まよいの心を捨てる
ことが出米士のである。耶国主義の見えざる並圧が、心をはっきりさせたの
である。自分にいいきかせるような口調である。ペソは剣よりも強しといい
きれなかった点に俗世間を解脱できない犀湿らしさがある。光太郎は、「奨
珠湾の日」には身をすて、陛下をまもり、詩をすて詩を聾こうと、冑マン
ロラとにはこいろの詩を作り、紀録の詩が印刷されたと省いている。光太
郎にはためらいがない。純真に思いつめるのである。詩染「挺録」、「大い
の詩が収録されている。
なる日に」には戦争を近義的胆うけとり、献身的に作Z提誹でない詩、記録
戦争協力の結果になってしとちた光太郎に、終戦は一大シ錘リグであった。
そして戦後は、山口山に胤己流調のわびしい生活をしたのである。
終りに
作品などを通して比較してきたことは、二人の詩人の僻を対比的E浮彫り
尿型の杼情は、情緒的、感覚的で、素朴な野生と人間典がある。生活の欲
にして象尤かつだからである。まだ比較検討の余地はいろいろあり、5.6
の頂はもっとふれたいが、紙数制限があるので、割愛する。
怖も強く、夢を追う審美的官能的な作家であり、卑俗な題材を卑俗におちい
らせぬ芸術感を持ち、感受性は鋭敏である。前進をやめぬ執勘な努力家で、
あくまでも人間的である。
光太郎のは、知性があり、批評糟神がちらつき、感惰と思想がある。美の
純粋性、美の究極的実体の追究に過かれたモラリラト、ヒューマニストの、
と腱かく比較すればする毬、根本的な違いがあり、その世界観、人生槻、
理性と意志とに根を掘えた、不可避唯作詩である。
芸術観の相遮に掘り下げるべきであるが、他日にゆずる。
28
やさしい牝獅子の帰りを待ちながら、
自由と澗歩の外何も知らない。
功気と潔白の外何も持たない。
未来と光の外何も見ない、
いつでも新らしい、いつでもうぶな魂を
寂謹の空気に時折訪れる
目もはるかな宇宙の薫風にふきさらして、
獅子は傷をなめてゐる。
不安(醜・犀塁)
詩とは何か
詩と我盈の関係とは何か
我との侭じていい識が何処にあるのか、
どういふ詩を償じていいのか、
詩は大なる芸術であるかどうか、
妓早)」の一つの其突に純て
詩の中に我含が生涯満むことができるか、
不安なく詩の中に「我」を勉?」とができるか、
葉にある生得の感じを持つてゐない者の胸中へまでも入り込むのである。あ
と言へるかと、不安をもって、詩に対している。光太郎の掛合とは随分差が
ある。光太郎は「詩の世界は宏大であって、あらゆる分野を抱摂する。詩は
どんな矛盾をも濡れ、どんな相剋をも包む。生きてゐる人間の胸中から真に
近り出る曾莱が詩になり得ないことばない。(中略)詩はともかく一一一面葉湛あ
る生得の感じを持ってゐる者によって形を与えられるのであって、それが蔚
犀晶は不安なく識の中に「税」を鞄つことができるか、詩こそ生涯の仕堺
いる。
てに「噸吐に似た詩の熱塊が、五臓を圧して逆転する」又「独り酸索を奪っ
て詩は夜天に燃え始める」とあるのも不可避に詩が作られる》」とが示されて
認めたのである。詩は個人といふ因子から数学のやうに不可避的に棚鰹す
る。それは計算者の自由勝手は汗さない、即ちそれが詩及詩人の特椛であ
る。」(「道樫」について)が解説になっているといってよい。其の詩とは詩
精神が溌刺として、やむにやまれぬ心の要求から作られる。独り酸索を鞭っ
も、同じ邪を見方の相述から別盈に亥現し、後者の態度を詩作の内的必然と
光太郎のは「結局私は詩を不可避に澱くに過ぎない。従って私憾胤分の詩
を無価値状態の場に放世する。価値の決定は一切人まかせである。一○○でも
ゼロでも巳むを得ないのである。融が不可避といふのは言をかへれぱ特椛と
いふ聯になる。『詩人とは特椛ではない。不可避である〈gと嘗て将いたの
「我」に抵抗するものの前に
不安はないか、
凪笙のライオンは動物園の眠れるライオン。紫直に見た通り、盤じた通りで
ある。未知数の力、今は柔かい毛並と優しい呼吸づかひと、気ばらないで、
我盈は自身の詩を持って何人の前にも立ち得るか
詩》」そ生涯の仕辨であると苫へるか。
見たさ富、感じたままを再現している。
光太郎のライオンは、自身の心の投影がある。つんぼのやうな孤独の中よ
り終りまでは、その感が深い。孤独の王者なる野性の獅子、憤怒と、侮蔑
と、棚笑と、自尊の一声、これは反俗の叫びである。脚由と渦歩と功熱と潔
白と未来と光、永遠に新しいうぶな魂は光太郎の世界のものであり、その願
いでもある。猛獣蹄は光太郎の心の世界の野生の猛獣であり、世間普通のも
のではない。協力会議の詩に「会磯の空気は窒忠的で恩の中にゐる猛戦
は、官碓くさざに小議し、夜毎に噸野を瓠んで吸えた。」とある通りである。
或問でも「己は野を馳けさ底)⑨けだものだ」といっている。動物園の種の中
の動物達を歌ったのには白熊,象の銀行‐苛察・ぽろぽろな駝鳥・マント鵜
獅がある。それぞれヒューマニティ爬梁ちた目で染、自由を恋うものへの怒
りが爆発している。ざ一つたく光太郎の内部感悩の吐灘を猛獣をかりて表現し
ているのである。白熊と象の銀行・苛察には揃い程の孤独がある。寂塞が黙
ちている。光太郎の心がそのまま、猛獣を通して伝わってくる。堺堕のとは
趣が全く述う。さすが猛獣篇を意とめただけのことはある。
5時に対する態度
無題(光太郎)
詩人とは特樅ではない。不可避である。
詩とは文字ではない。言葉である。
言葉とはロゴスではない。アクトである。
アクトは原始に立つ。「余は文学の象。」
27
ゴー ̄
光太郎の前述の蝉を彫るや鯉を彫るとば述二」、客観的に自分の塵を描
く、刃物を研ぐ人。犀星の描き方と通じる点があるので比較して難允。もっ
とも救世観音を刻む人と比較した方がよいかもしれないが。刃物を研ぐ人
は、研ぐ人、この人、追ってゐるのかなどと客鋭的腱描いて見せるが、光太
郎の心婆である。ただ、一途にひだすらに芸術脛鮒進する意欲があふれてい
る。そんなことさへ知らないように、一瞬の気を眉側に災めて、一心不乱、
忘我錐中、彫る班につながる作業腱さえ、この心、この姿、無腰級数を追う
る・彩る慰吹止犀歴の怪はない。ただ、夢幻的イメージを描こうと拭ふてい
る。彫る意欲は犀星の怪はない。
のである。自己の烈しい芸術的意欲を浮き彫りにしている。犀星の嶬絵で
ある。うす暗い床の間の石刷りの鹿をつれた翁と童子の絵と、菊を彫る人と
の世界を幻想的に結びつけたものである。絵でも、古瓜なイメージと香が漂
う。客観的に描いていても、彫刻家を自任する人と、普通人の差が明碓であ
るだけである。
4猛獣をテーマとした詩など
光太郎には猛鰍滴という一群の作品がある。十六篇ある。烈しい気蝋の反
映である。犀足にはこのような作品群はないが「ラィオソ」というのがあ
る。光太郎には「傷をなめる獅子」があるので比較して難る。
ライオン
これを揺り起すことはできない
ライオンはまだ眠ってゐる
石を投げることも
吠えさせることもでき救い
力は解らない。
柔かい毛並を透して
傷をなめる獅子
優しい呼吸づかひが見えるだけだ。
獅子は偶をなめてゐる。
どこかしらない
ぼうぼうたる
宇宙の底脛露出して、
ぎらぎら、ぎらぎら、ぎらぎら、
遠近も無い丹砂の海の叶隅、
子午線下の砦、
つんぼのやうな酷熱の
寂謬の空気梶童もられ、
とつこったる岩角の上にどさりとれて、
獅子は傷をなめてゐる。
そのたてが豪はヤァェのびん髪、
巨大な額は無敵の紋章、
速力そのものの四肢胴体を今は休めて、
静かなリトムに繰返し、繰返し、
美しくも還しい左の肩をなめてゐる。
獅子はもう忘れてゐる、
あの極東鳥のむれ遊ぶ泉のほとり
人間の執念ぶかい邪智の深さを。
神の領たる柑緑のオアシスに、
水の誘惑を神から盗んで、
きたならしくもそっと他かけた
卑怯な、無い、鋼鉄のわなを。
厩にくひこんだ企風の歯を
肉ごともぎりすてた獅子ばかう然とした。
憤怒と、侮班と、慨笑と、胤騨とを含んだ
さうして獄子は百肌を走った。
ただ一こゑの叫は平和な椰子の林を浅憾させた。
どこかしらない
今はただたのしく脚をなめてゐる。
ぼうぼうたる
つん種のやうな孤独の中、
道にはぐれても絶えて懸念の無い
26
一瞬の父を川Ⅲにあつめて
芝んな]』とさへ知らないやうに、
何をいったい作るつもりか、
おお祷柔雌い親鍵の友浜、
粁葉のかげで刃物を研ぐ人。
幾世紀の血を浴びた、君、忍辱の友よ、
澱の巨大な不可枕の手をさしのべるか。
激はむしろ型を二つ匡引裂け。
この人のⅢひげは白くなる。
菰刷りの古い百寿園がかかってゐる。
うすぐらい床の間に
菊を彫る人(渦匝の花大正十三)
無限級数を迫ってゐるのか。
仙りか必至か無心か、
この人はただ途方もなく、
この人の袖は次第にやぶれ、
このささやかな創造の技ば
今桜の全存在を要求する。
この山揃が灘をひろげて空を飛ぶまで
首の座に私は坐って天日に答へるのだ。
麻の実をくだく山惟(蔚麗の花)
お伽が終Ⅱ麻の災を砕いてゐるので
そのひわ色の翼の音をさせてゐるので
翁が一人、派子が一人、
そして角のある腿を従へてゐろのに
お前がいつもひっそりしてゐたら
机のわきでやっとわたしの目がさめるのだ。
わたしは終Ⅲねむってゐるかも知れない。
翁は腿と何か話してゐるらしい。
それとも聡しげな耐干であるのかc
腿をつれた石刷りの翁かも知れない。
菊は鋭い白さを匿いでゆく、
刺のあかりのある川に
蕊瞳みどり膳1.
一介ごとに僻か應雪のやう匡彫られ患。
花は白い、
朝になると塵をへだてた障子硝子の明りで
ぐいぐい菊の花を彫ってゐる人がある。
その古い床の間の前で
この絵の喪ばりには白宇の石刷りがある。
地には寂しい一木の木却が生え
何ひとつ面白くない日が多いわたしに
邪魔気ではあるが居ないより居る方がよいのだ。
かまわず麻の災を血リホで砕いて呉れ。
あんまり眠り過ぎてゐたら
麻の実をつつく山彼ながら、光太郎は見ながら彫り、鳳里はその音で目を
さますのである。光太郎は芸術の絶対性を語り、絶体絶命の比地で彫刻をし
ている心仙を綴る。ひたむきな芸術柵進の慶が、父晩が満ちている。耶凪は
面白くない日を送るダルな生活の側党し役に、邪魔物だが居る方がよい山鎚
と歌うのである。利己的な偽らざる心怖が、婆がある。光太郎の首の産は、
彫刻家、しかも時流に鯛びることなき人の、芸術の絶対性の意識の強烈な人
にしてはじめて作れる商さがある。雌皿の汁は、悟らざる野生の人のな雀な
主しい生摘のもたらしたものなのであり、一般憐がある。
刃物を研ぐ人
ともあれ洲い香ひで
黙って刃物を研いでゐる。
もう日が価くのにまだ研いでゐる。
美しい白菊が彫られてゆくのだ。
ぐいぐいゑぐり立てて
褒刃とおもてをぴったり押して
研水左かへては又研いでゐる。
25
 ̄■ ̄
識追関する詩である。
「直接彫刻を主題として軒いた詩ばかりが彫刻に因絃を持つのではない。
詩の形成に於ける心理的、生理的の要業爬それが雷雲れてゐるのである。だ
から多くの時人の詩の形成の為方と、猛自身の狩の形成の為方とには何かし
ら喰ひちがったものがあるやうに恩はれる。」(自分と詩との関係)とある通
り、所謂造型詩蝿の中匡いれられない詩も造型的感覚のもとに彫刻的脛構成
されている詩が多い。例えば、雨侶うだるるカープドラルの立体的櫛成は見郡
であり、感動の再現が、雌なる杼情に堕さぬ立体的、音楽的譜調を伴う。こ
のような占腱おいては光太郎の詩は他の詩人たち離なと遮っている。「私に
何を描いても彫刻家である。」(自分と詩との関係)といい、「僕の本職は彫
刻である。僕の存在は彫刻一つにかかって②○.世の中を見ると、梁んな彫
刻に見えて仕方がない。」(美と真実の生活)という。「詩はおれの安全弁」
三ピグラム)「艇は圃分の彫刻を護るために詩を誓いてゐろ」(自分と詩
の三つぼどにふれて染たい。裸形と裸形崇拝、山徹が題材の首の座と麻の実
との関係)と明言する。彫刻家としてのものの見方が、すべての些調であ
る。このような識人は他に催見当らない。だから犀凪の詩と比核をして$、
その結論ははっきりしているから必要がないようP』思われるが、同じような
題材をテーマ脛しているのがあって、よみ比べると興味深いので、そのうち
をくだく山推、刃物を研ぐ人と菊を彫る人など。
裸形(智恵子抄)
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましく満ちてゐて
鯉宿のやう腱森巌で
山脈のやうに波うって
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の弱磯質に
奥の知れないつやがあった。
櫛恵子の裸形の背中の小さな黒字室で
わたくしは意味深く輻ぽえてゐて、
今も記憶の歳月に梁がかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一匹、
あの造型を生むことは
脚然の定めた約束であり、
そのためにわたくしE肉緬が歩へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小糞と牛瀦とがゆ為される。
智恵子の裸形をこの世にのこして
裸形栄拝(杼情小曲染荊泄)
わたくしはやがて天然の索中に蹄らう。
われの肉光る
うちより湧くところの
梁どりの繊維繩ふところの
われの脚光りてたしる・
荒削りの血紅の鋭どきラインの
ただこれ祈祷体なり。
むしけらもふるるながれ
眼はとこしへ左射るの黙脛はあらず
われそのものを射る。
彫刻家の心眼に映じた愛妾智恵子の裸形が、山脈のやうに波うち、うすい
ミストがかかる奥知れぬつやを持つ鴻磯質と、対象を彫刻的美懲識でとらえ
ている。そして思慕の梢が揃い径うたわれている。念賦通り、十和田湖畔に
犀星はⅢ分の肉体を祈祷体として、崇拝する。生きるものとしての気鰹を
像を残して光太郎は天然の索中に帰った。
難なぎらして、われの肉光りて光しると杼情する。
山椒の詩がある。
『首の座(昭和四年)
麻の実をつつく山維を見ながら、
これが出来上ると木で彫った山撫が
畷は今山雑を彫ってゐる。
あの剛れた冬空を飛んでゆくのだ。
その不思議をこの世に生むのが
魁の街をかけての地上の仕亦だ。
そん芯不思議が何になると、
24
水の薪たかく立って部睡に満ちる。
時処をわすれ
人をわすれ呼吸をわすれる。
この四拠半と呼びなす仕那粉が
天の何処かに浮いてるやうだ。
叩Ⅲということばがあっても、凪腿のとはイメージが遮う。凧湿のは戦酬
のイメージにたち、光太郎のは仏像の天部のイメージがある。尿腿はあくま
でも人側的、生活的であり、光太郎は脱俗的、天上的である。節を一心不乱
に彫る光太郎の心と姿が鮮やかだ。生きの身のいやしさは、鄭庭も光太郎に
もない。》」のような鐘地からこそ、索端しい光太郎の鍬の木彫が誕生したの
けのかなかなにだけが崎き満をテー『、にしている。彫刻家であることが木飢
であった光太郎としては、師の歌より形に心をひかれる文癒が饒舌であるこ
とは当然であろう。麺歌には師をテーマ椹したのが、大正十三年E一十二
灯、昭和二十一年に一蔚ある。(参考涜料参照)短歌腫撞、衆朴な脱察と梁
肛な叙慨があり、特に彫刻家としての特性は軒しくない。十四稀めの歌から
あとは、「彫る」ことが歌われているが、立体感侶黙ちているというのでも
即埋には師の句が十句ある。(参考誘料参照)いずれも生彩なし。
ない勤啼くことが歌われているのは八首。
佐藤春夫の「田園の憂欝」の中の郷の文章を思い出す。(参考寅料参照)
前二者と逆い、童心の影はない。正面から取り組んだ、真面目そのものであ
る。同じく大詩人、が、それぞれ持ち味が違い、それぞれの風格がうかがわ
れる邸の文章ではある。
だ。
師がうたいこまれている謎催、犀胆には節賦・あさぜぶ・ひぐらしのうだ
・さ象しうれしと鴨けり・伝そ柔お・かくて.抑。生ける鮎・愛猫など。光
太郎には何挫阿剛・夜卿けのかなかなに.別天地・川のともたちなど。(参
は同じだけれど。それぞれの生活窓繊や生摺感悩が外なれば、同じく噺く脚
を取り上げても.遮った春色を生じ、ょ難あきない。又の瓜物狩、瓢の職が
体餓餓。人間拒否の上涯立つ.十和田湖畔の裸像匹与ふ、など。造型と美意
生蹴慕の詩・つゆの夜ふけに。銅像ミキイヰッッに寄す・瓢を彫る。救世観
音を刻む人。美しき落葉・御前彫刻・楠公銅像・彫刻一途・芙腫生きる。人
の工径。触知・存在・衝の座・北脇雪山・刃物を研ぐ人・似畝・美の監禁に
手渡す者・村山槐多。鯉を彫る・荻原守衛・団十郎逝像由来・孤坐・芋銭先
スケルツオ・血中のロダン・後座のロダン・葱・企・十大弟子・鑓・ミシエ
ルオオクレールを謎む・災を見る渚・仙作の鮒一・鮒十二・第十四・畑後
光太郎には造型時雄としてまとめうる四十四荊の汁がある。父の顔・粘土
・五川のアトリエ・銑を愛す.とげとげたエピグラムの中の二鮒・川剛日の
3彫刻に関する時など
この原稿も古都奈良の蝉しぐれの中で譜いている。
うすい翅など。
国歌大観をひもといて承ても郡の歌は沢Ⅲある。テーー・佳、鋤の脚、その
瓜きいよう椹、これからも節の鋤歌は尽きないだろう。
他の勝人の師の時は沢山あるが、期側大学の「抑」、伊東碗雄の「庭の即」
を参瀞資料に掲げた。それぞれ趣が述う。端くことが取り上げられているの
考笂料参照)
〃皿は柳の啼くこと晤一瀞関心がある。那賦では「しいいと辻糸の啼きけ
り」、あさぜ染では「また日のあたらぬ間に朝即が啼いてゐる」、ひぐらし
のうたでは「あんないい戸がどこから出るのたらう』、ざ糸しうれしと鴨け
りでは「あばれ即はも哀し婚し瀞しとは鳴きけり」、ほそ梁ちでは「あき
る)】とのない蝉の歌」、かくてでは「ただに鳴きやまざる〉』とを」、録では
「じいいと喝きけり」、愛猶では「気熟ぢかに端き立つろ」、生ける飴では
「郷なけば」、前記の城艦、令蝿ミンミン、野に記されたもの、柔な卸の声
がうたわれている。不思議なる畝だけが節の声をきかせていない。一生.う
たいつづけた狩人凧腿としては、抑に託した魁があったのではなかろうか。
ざふしうれしと卿けりの「われあまた卵のうたをつづりい」の通り、相当数
あり、「さ糸しうれしと卿けり」、「かくて」などには駅腿の生涯の味嘆が
ある。柳頃にはじまり.すべてⅢ緒的杼悩の排である。胤然の風物のなかで
育ったものらしい杼愉である。同じ軒想でも、汁の形態をとると俄然、饒舌
となるのも、詩の王城を目ざす犀型の姿があるのであり、生ける限り啼きし
きる師の声に心ひかれたのも当然であろう。
光太郎の節の詩は数が少岻仕螂と愛の瞬間の幸福をうたう同棲何頚の伴
奏が汕蝉。別天地・山のともだちは、山口山の風物の一つとしての師。夜明
23
 ̄
ずんずんわたしの力む兄つ出て歩いてくる
釧は天にかぎりなく
あんまり広いので怖くたり
つかれてEとりと地のうへ侶落も土
調想は文腫表現されており、これも時が多弁である。さすがに詩の方がい
ずれも趣がある。文はオリジナルであり、詩は十分に歌ってある。天衣無縫
野の人の知れないところ膳記されて居た。(昭和十八年)
野に、
凱の死んだあとに樋されてゐた。
その広捲さが、師の狐にのこり、
だが、天に向って
きいきい鄭ひ上った恐ろしい日の
羽根のやぶれるまで生きてゐた。
うたをうたひつくし
瓢はよろこんで飛び廻り
木のないところがなかった。
どれだけ握っても
脳いて総ちた。
そしてこんどは木から木のあひだを飛び廻った。
羽根が萎えるやうな寒さが感じられ
ふしざに推かによく似た顔で
泥に叢染れて遮うてくるのが恐ろしい(川合の花大正十一年)
灘の力が先に習かれ、饒舌である。「カプトのやうに」の比愉は
城壁
釦が一どきに啼き出した
戸をそらへて戦ひ出すやうに
大きな城壁のやうな林の奥から……。
熟んな鯉を新てるる
弓矢をつがへてゐる
林と林とがつながり合ってゐる
そこをゆく流叩の薇さへしない。
ただ一さいEかちどきをあげてゐる。
そして一枚の業もうごかないのである。
しづかに熱く、土さへ暑く・(田舎の花)
詩の方では鐙になっている。同じ発想で、これも饒舌。「僕瞠蝉の頭に梅
光太郎の「釦を彫る」は俗を離れている。姉も光太郎も。
の感がするのは、詩にも亜心が潜むからか。
乾いて枯れて手に軽いみん糸ん師は
冬日さす耐の窓に坐して師を彫る。
鉢の紋がついて・・・…」は「令姻ミソミソ」となる。
あなたの頭腫ある
黄金の紋瀧はあれば
およそ生きの身のいやしさを絶ち、
何といふ紋迩ですか。
あなたのお僻は
師は天平机の一角に週ふ。
ゆるやかになだれて迫らず、
無と緑に菱ふ甲阿を罐のかに包む。
わたくしの刻む桧の肌から
この虫顛の持つ霊気の翼は
もろく薄く透明な天のかけら、
わたくしは羽を見る。
物をくふロすらその所在を知らない。
鴨くごとにうまく動く。
あなたは何の天才ですか。(昨日いらっして下さじ
又、「釧は狐の上の空が高いことを知ってゐた」は後に詩がある。
野に記されたもの
-疋の瓢がじいいと鳴き立って
天侶向って
火の粉のやう腫舞ひあがって行った。
そして卿もなく
22
ない。多くの彫金製のセミが下品に見えるのは一』の点を考へないためであ
る。すべて薄いものを実物のように薄く作ってしまふのは浅はかである。ち
やうど逆なくらゐに作ってよいのである。木彫胆限らず、この聯は彫刻全
般、芸術全般の問題としても真である。むや熟に感激を表而に出した詩歌が
必ずしも感激を伝へず、がさつでダルであることがあり、かえって逆な表
現に強い感激のあらわれる)」とのあるやうなものである。さうかといって、
セミの掴をただ徒に厚く彫ればそれこそ厚ぽつたくて、愚鈍で、どてらを
藩たセミになってしまふ。あつくてしかもあつさを感じないこと。これは彫
刻上の肉合ひと面の取扱いとによっての染可能となるのである。しかも彫刻
そのものはそんなことが問題にならないぼどすらすらと皿に入るべきで、
。、、いい、■■
まるで翅の厚薄などといふことば気のつかないのがいいのである。なんだか
あたり前椹できてゐると恩へれば逓上なのである。それが美である。)」
の場合、彫刻家はセミのやうなものを作ってゐるのでなくて、セミ)』因る造
型美を彫刻してゐるのだからである。それ故にこそ彫刻家はセミの形態につ
いて厳格な科学的研究を遂げ、その形成の臓理を十分にの熟こんでゐなけれ
ばならないのである。微細にわたった知識を持たなければ安心してその造型
性を探求することができない。いい加減な感じや、あてずつばうでは却て榊
成上の圃由が得られないのである。自由であって、しかも恨薄のあるもので
なければ其の美は生じない谷
エジプト人が永生の象徴として好んで甲虫のお守を彫ったやうに、古代ギ
リシャ人は美と幸祇と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具
などの装飾にした。戸とその畿訓の美とを食したのだといふ。日本のセミは
一般にやかましいもののやうに取られ、アプラなどは』』とに暑くるしいもの
の代表とされてゐるが、あ意り樹木の無いギリシャのセミはもつと瀞か左声
なのかも知れない。あるいはカナカナのやうな菰類なのかも知れない。しか
し畷は日本のセミの無邪気なカーぱいの声が頭のしんまで戯くやうに響いて
くるのを大変快くⅢく。まして蝉時雨といふやうな言葉で変現されてゐる林
間のセミの鏡批のごときは夢のやう腫美しい夏の贈物だと恩ふ。セミを彫っ
てゐるとさういふ林間の緑したたる涼風が部屋腱満ちてくるやうな気がす
る。(光太郎)
犀星の「師奴」と、光太郎の「鄭観」との差娃一謎、あきらかである。犀
星のは一言椹していえば、亜心を失わない素朴な感想である。光太郎のは、
全く彫刻家のものである。童心で無邪気膳愛したものへの追懐l樹木のある
所で育ったものの共通性-もあるが、何といっても彫刻家としての把握の仕
方がニーーークである。彫刻における視覚は、絵画に於ける場合と少を遮っ
て、触覚的視覚であるといっている通りのものが感ぜられる。「いい加減な
感じや、あてずつぼうではかえって榊成上の自山が件られないのである。自
由であって、しかも根瀞のあるものでなげれ瞳爽の美は生じない。」の言の如
或男はイエメの懐に手を入れて
く、蝉の観察も知識もいい加減でない梢確なものである。
二つの別痕を撫でて染た。
一人のかたくな彫刻家は
万象をおのれ自身の指で触って糸る。
水を裂いて中をのぞき、
ほんとに君をつかまへてから
天を割って入りこまうとする。
はじめて君を君だと恩ふ。
昭和三年作の「触知」という布名な詩で、彫刻家としての把握の仕方が明
確にうたわれているが、「セミの彫刻的契機・…・・其の美は生じない」の蝉観
も同じである。彫刻十個条(大正十五年)の一に「彫刻の本性は立体盤にあ
り。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり」とあるが、蝉の凌態は立体的に描き
だされ、詩魂があふれる。
犀型のは詩人の思いつきに満ちてはいるものの、平面的、絵画的、常識的
で、一般性のある主観的、感覚的傾向が強い。又、むきだしの「童」がある。
目頭の文は次の詩に通う。
不思議なる顔
地面からそろそろ週ひ出してくる蝉を見つめてゐると
いちども見たことのないものの顔が浮んでく為
誰かの顔に似てゐるやうな気がする
まだ地中の奥腫ゐて
いも
道ひ出したからのまき」な師が
21
一一竿
の笑と品位とを書ひ、彫刻であるよりも玩具に近い又は文人的稀菰に類す》。
ものとなる・共点でセミは大に述穐役はその形態の中にひどく彫刻的なも
のを具へてゐる。しかも私が彼を好むのはむろん彫刻以前からの邪である。
子供は皆この生きた風琴を好む○私も子供のころ夏になると谷中天王寺の
森の中を夢中に鼬けをわって彼をつかまへた。モチの木の皮をはいで石でた
たいて強いモチを作り、竹竿のさきに指をなめてそれを童きつける楽しさを
今でもやや感傷的怪思出す。私はなぜかクモの巣の糸を築いて捉へるといふ
方法を当時知らなかった。これは瞳近になってⅢいた方法である。これで採
れるならこの方がよい。剛も傷めない杼』遮ひない。セミが息ひがけなく低い
木の幹などに止まって鳴いてゐるのを発見すると、まったく動俘のするほど
昂糖する。今でもする。
起は夏の夕方など時主モデル漁りに出かけることがあるが多くは自分では
獲れず、顔なU柔の子供らにもらってくる。セミがあの右りつたけの声をふ
りしぼるやうに鳴きさかつてゐるのを見ると、獲るCも欝路させられる催ど
大まじめで、鴨き終るとたちさちぱっと飛び立って、あわててそこらの物)」
ぶつかりながら場所をかえるやいなや、寸暇も無いといふやうにすぐまた鳴
きはじめる、あの一心不乱な恋のよびかけには何怖せずにゐられない。よび
かける》』と椹夢中になってゐて呼びかける目的を忘れてしまったのではない
かと恩ふほど鳴くこと}」懸かれてゐる。実煤煙はセミが配偶者を得たところ
を見たことが無い。
東京起はヂイヂイ、アプラ、ミソミソ、ツクックポゥシ、カナヵナくらい
しか居らず、〈ルゼミ、チッチゼミ、クマゼミ、エゾゼミなどはゐないやう
である。私が実際手椹して見たのばそれゆえばなはだ種顛少く、この中でも
〈ルゼミ、マーゾゼミはまだ見ない。クマゼミは先年熱海で陸の木のてつべん
に鳴いてゐるのを見たが竿が届かず、手にはとれなかったグィジィがいちば
ん拭朴で顔も眼が離れてゐてとぼけてゐる。「ノブうば大きくて、就忰で、野蛮
で、がんばり強く、その声の止めどもなく連続するプオルチシモのものすご
い通り唱姿も剛健一点張りである。私は好んでこのセミを作る。翅まで厚
える。翅の透明救、胸や腹の録と黙の棋嫌のおもし〉つい、彫刻に作っては派
くて不透明で茶褐色であること、胴体が割に長くて頭の小さいことなどが彫
刻にいい。ミソミソ陰これに比べると豪華で、美腿で、技巧的で、上等に見
うであるが、これは手にとって見たのではないから詳細は知らない。ハルゼ
手なセミである。胴体は短く、脱部の末端の急すぼまりのと)」ろが可笑し
い。彫刻では翅は雲母を蒔いたり、銀粉を締いたりする。ヅクヅクポゥシと
カナカナとば女性的で、獲るとすぐ死ぬ、姿も華蒋で、優芙で、背企とした箭
霊の感じがある。クマゼミまたの名シャソシャンゼミは{】ミの中でいちばん
巨大で色も熟、緑のほか匹樋色が交り、翅も透明でしかも強く、形もよいや
ミは先年五月末越後長岡の悠久山の仏林の巾でその幽遠な茂を聞いたが、塵
は見なかった。
■も■も
セミの彫刻的契機はその全体の煮と煮バリのいいこと炉」ある。部分は複雑で
し勘く、面に無駄が出ない。セミの美しさの股も微妙なところは、横から
あるが、それが二枚の大きな翅によって統一され、しかも蚊の両端の極限の
突出と胸部との関係が脆弱でなく、胸部が叩脚のように曜間で、ことに中胸
背部の末端にある鹸撰の意匠がおもしろい彫刻的の形態と肉合ひとを持ち、
裏の腹部がうまく麹の中に納まり、六本の肢もあ雷り災くはなく、前肢には
強い腕があり、口吻がまた実に比例よく体の中央に針を垂れ、総体に地純化
翅を見た時の翅の山の形をした線陞ある。頭から胸背部へかけて小さな円味
を持つと》」ろへ、鋤の上縁がずっと上へ立ち上がり、一つの頂点を作って叫
び波をうって下のカヘなだれるやうに低まり、ちょっと憲允立ち上がって終
ってゐる工合が他の何物にも無いセミ特有の線である。鋤の上緑の波形と下
級の叩一な曲線との対照が美しい。セミの時つ線の美の極致と言へる。その
波形の比例はセミの種類によってそれぞれの特色を持つ。またセミを横から
見ず、上方から見ても麺の美はすばらしい。左右の二枚がよく整斉を保ち、
外部はゆるい強い曲線を描いてはるかに後端まで走り、内側は大きい波形を
左右から合せるやう)』描き、後半はまた附いて岐末端でちょっと引きしま
る。セミは生きてゐる時も死んでから‘もたいして形に変化を米さないが、こ
の翅の末端だけは述ふ。生きてゐる時椹はそれがかすか脛内側にしまってゐ
るが、死ぬとそ》」が開いた形のままで終るやうになる。むろんかすかにしま
ってゐる方荻美しい・木彫ではこの薄い翅の彫り方)』よって彫刻上のおも
しろさに差を生ずる。この薄いものを薄く彫ってしまふと下船になり、がさ
つになり、ブリキのように堅くなり、ついに彫刻性を矢ふ。これは肉合ひの
妙味》』よって翅の意味を解釈し、木材の気持に駈って処理してゆかねばなら
20
の違照大げさにいえば、人生観・世界観の相違を明確にしている。これは
犀星の方が光で昭和七年九月悟「蝉を老へる」の一文を謝いている。光太
郎は、昭和十五年二月十一日』』「蝉を彫る」を詩作し、同年八月に「鍬の美
と造型」を書いている。ただし犀星の文軍に対抗して書いたとは思われな
いロ
蝉を考える
僕は蝿の顔に肖た人間の顔を覚えてゐる。
それ程蝉の顔と人間の顔とが類似してゐる。
僕は蝿の顔の紫朴さが好きである。蝉の顔は間抜けてゐて非常に悲しげ
だ。悲しゑが拠りついて擬固り、カプトのやうに鉄と銅とチョコレート色を
塗ってゐる。田舎に百姓がゐるやうに樹木匡蝿がゐ、それが侍葬良さうな敵
付をしてゐる。
その紋は黄金のコナを吹いてゐるのに見とれ塩
僕は明け方に新しい浴衣を着て、殻からぬけ出たばかりの鮮やかな蝉を美
しいと恩うて、幼少の時分に、恋のやうなものを感じた。羽根は弱をしい明
け方の盤ばんだ色を持ち、少しづつ微風のなかに震はしてゐた。僕は折にふ
れて見たが迫害なんぞ生れ立ての蝉が知ってゐよう筈がないから、ちょっと
驚いて助いたくらゐに過ぎなかった。僕は蝉の頭に梅鉢の紋がついてゐて、
蠅は朝日の出る時分に、その明け方の色をしてゐる羽根が次第匡触甲色に
焦げて行った。蝉の足にハリガネが通り、弧に鉄分が溶け込む、お腹に強烈
な灰色の徴に似た粉が固まると、眼のなかは地球儀のやうに青い幽雑なもの
で一杯になった。蝉はお腹が減り、歩きたくなり、立たなければならなかっ
た。蝉は自分の止ってゐる樹木が何の木だかは知らなかったけれど、その脚
に砂糖のあまさに似た液体を感じた。蝉は食べたくなりお腹が減り、そして
二枚の鱗のやうな腹と胸の間にある小さい笛を鳴らして見たくなった。
蝉は頭の上の空が高いことを知ってゐた。
蝉にはお母さんがあるのか、姉や妹があるのか。それとも兄弟があるのか
知らなかった。只、親父があることだけをうろ覚えにおぼえてゐた。親父は
田舎にゐた。田舎の士の穴の中で十年くらゐ樹やそらや士の上を見ないで暮
してゐた。伜は老へた。おれの親父は何を架し梁にくらしてゐるのだらう、
そして一体あと何年間をあの穴のなかにくすぶってゐるのだらう。
蝉は樹の皮の上に、いやだわ、と醤いた。
蝉は親父をさういうふうに、いやだわと書くくらゐなら、その言葉つきか
ら女でなければならなかった。それ故か腰の笛はちょっとしか鳴らなかっ
邸は同族の声を城の上で聞いた。
た。蝿は小便がしたくなり小便をした。
城は青い若葉をかがる、まだ花の頑が残る樹のなかにあった。
蝉はジイイと啼いてまた小便をした。
のだ。僕は学校がへりの汗くさい裸体で、先づ二三疋の蝿をそんなふうに叩
僕は裸悟なって庭に出、杏の木にとまってゐる蝿を一疋、つか意へると先
づそれを小石か何かを拡げつけるやうに、空の方に向って投げつけるのだ。
蝉は投げつけられた弾力を自分のちからで停めることが出来ない。出来ない
けれど羽根をつかって中心を取って、弾力の尽きた時分に巧象仁廻れ右する
きつけるのが楽しゑだった。
僕は蝉の頭に何やら記憶らしいものを彫りつけた。
妃憶は識だか歌だか判らないものだが、蝉を見るたびに、僕は其処に彫り
つけた覚えをおしひ出すのだ。全く僕の手は蝉のあぶらであぶら臭かつた
し、僕に握られた蝉はいつも汗を掻いて疲れてゐた。僕は鍬のはらわたを覗
いて見て、何にもばらわたらしいもののないことを可哀想幅思うたことがあ
った。まるでお腹のなかば乾いて空っぽだった。今でも腹の減った蝿のこと
を老へると悲しくなる。(犀足)
蝉の美と造型
私はよく即の木彫をつくる。鳥獣虫魚なんでも興味の無いしのばないが、
造型的意味から見て彫刻に適するものと適さないものとがある。私は虫類に
友人がはなはだ多く、.〈ツタ、コオPギ、トンボ、カマキリ、セミ、クモの
類は親友の方であり、カマキリの三角あ土丈などにはことに愛蓋を感じ、
よく自分の髪の毛を抜いて彼に御馳走する。カマキリは人間の髪の毛が非常
に好きで進呈すると幾本でも貧り食ふ。恐れるといふ一」とを知らない彼の性
質もなかなかおもしろい。しかし彼は彫刻にはならない。形態が彫刻腱向か
これがやはり駄目。彫刻的契機に乏しい。作れば作れるが作ると却って自然
ない。.〈ツタ、コオロギもその点では役に立たない。トンボには銀ヤンマの
やうな堂々たる者もあり、トウスミトンポのやうな楚々たる者もあり、アカ
トンポのやうなしゃれた者もあつく一寸彫刻椹おもしろさうに忠へるが、
19
 ̄
二、作品を通して見た光太郎と犀星
1「詩歌の城に」を通して
作仙を鑑賞していると、二人の典衝が肌瞭にあらわれているの椹気付く。
いう凹行時がある。雌凪』』も昭和二年大川作の「叶歌の城」という脳の二聯
その一端にふれて難ると、光太郎F』は大正十二年作の「(勝歌の城に)」と
十八行の灘がある。
沸歌の城に時はすまず
そこ應化むのは家老ばかり
威儀三千は家老に川へ
詩だけはただの親仁にきかう(光太郎〉
?●うぐ
嬢動瞠ない。本当の人間性は、生は、美辞蝿句の形式の中ては生きまいとい
うのである。汁不在の汁歌の城の愈溌を縄めず、本当の”生・の発動こそ、
典の識なのであると、うたっている。或》〈⑨雛碑銘F』も「彼は満に詩を作りた
れど詩歌の城を総めず」とある。
耶腿は、光太郎の四行勝を雄んで、題の粉想に、例によって先をこされた
鰹をいだいたのではなかろうか。それとⅢ時に、凹分のは述うそ、と啓允
されたのでは抜かろうか。そして五年卿に、十八行勝がⅢ来た。蹄や俳句の
王城は椎でも雌けるものではないといい、典佃の心は城の中にⅢざめてゐる
と、全Ⅶ的に蹄歌の城の優越性を狐歌している。まさ椹光太郎と峡対照的で
ある。光太郎陰生れながらの沸歌の城の城主であるがゆえに、その空しさを
見ぬき、尿腿は什歌の城をⅡざして柵進するがゆえ膳、その窓義をうたい上
げ、慨慨しているのである。「わが心い童だ偽らずにゐる蛸しさ」には、光
太郎の追求する。本当の生“がある。時の木孜についての二人の考え方は
遮っていない。しかI)、その追究のありさまは遮っている。「魁は泣虹、有
詩や俳句を一としきり軽班してゐたが
一日十枚文準をかいてゐても
このごろ仲盈好い味のあることが解った。
詩や俳句が一行一句もできぬことがある。
詩や俳句の王域は誰でも鼓けるものではない
光太郎}』も、凧腿促も釦に関する文蹴がある。それが、又、二人の人がら
2「蝿」をテーマの作品を通して
一難ずれ唾明らかである。
詩歌の城の瓦髄娼ついての根木認識はすっかり遮ってはいないが、諜歌の
域の拙識とその入り力とは二人は遮っていることは、灘逃しなくとも、蹄を
である。
じめて知った時であった・・・…それで○もまだ詩を灘くことに自侭が持てなかっ
た。表現の法を蓑つたく知らなかったのである。黄金隠沼といふやうな言葉
はまるで魁の佳椹合はなかった。」(「適魁」改打版)のような光太郎の詩へ
の出発は「(謙歌の城に)」が作られるのも当然だと思わせる。
執勤腫、ひたむきに文学を追求した坤腿にとって「時歌の域」の詩0『乱)当然
卿、上川敏時代侶は詩を漕ぐ気がしなかった。此等の詩人の詩は立派な詩だ
とは忠ひながら、何だか血脈のつながりを感じなかった。何だか別な世界の
詩のやう膳しか感じなかった。詩がさういふ世界の、ものである以上、種自身
が詩甦瞥かうと忠ふのは播越であるとさへ思ってゐた。起自身が詩を譜いて
もいいかしらと恩ひ出したのは巴里でヴニルレエヌや蓋オドレニルの詩をば
その居間に坐る賎礼を知り
詩や俳句の域へ入るものは
その域の中の庭や金銀の居間を知り
寒夜になほ域を護る術をしらればならぬ。
弓や矢や盾を把り
自分は既う何千枚識いてゐるか知らない。
しかしまことの詩佳何もかけてゐない。
自分で考えただけでも花とする。
何千性何万枚弼きつかれたあとで
数行の詩や俳句を恋ひ蕊ふことの蛸しさ。
わが心いまだ偽らずにゐる蛸しさ。
脚分ばへとへとになりながら
真個の心は城の中腫Ⅱざめてゐる。(雌阯・故郷図絵錐)
光太郎の詩は、典の蹄不在の形骸だけの狩歌の城、そこ侶感生きた人間の
18
を、起に感じさせた。巨星堅つというばかばかしいことばが、やはりかれの
場合ふさわしく、それだけ私は依然距たりをおぼえていたのだ。,|「魁は人の
生き方のまじめさ、性質にある美恵識の透醐さを、ずっと普に患じたそれ
を、いままた残念ながら魅せられ新しくされた。」(以上いずれも伝)
すぐれた者はすぐれた巻を知るの原則どおり、知っていた。す》」しは挨拶
もあろうが、見えすいた世辞ではない。芥川髄之介が志孤直哉の文蹴匡コン
プレックスを感じた場合のようなものを、雌星の言に感じる。依然距たりを
おぼえていたという言は、それを立証している。鰯腿は厚型なりに、光太郎
は光太郎なりに、それぞれ素崎しいのであって、同じ物差ではばかれない。
二人の素質‐世界観、人生観、芸術観の相違から発して、二人の作品の賛の
鐘となって顕れたものを、同一線上を行くものでないのを、「距たり」とい
う語を使うことによって、同じ競争場裡のものとして鳳鎚は鰹じているので
ある。だが、二人の業績を厚型のように同じ物差ではかろうとするのは無理
なのではないだろうか。詩人としての紫武は二人とも豊かな天分に忠まれて
いたが、その質と価向は、次元が述う。
二人の生立のスケッチ
鰍星はその時い出生、突父の死、室生真乗の養嗣子、とその成人まで賦境
ではなく長町高等小学校高等一年中退の学雌しかない。数え十五才から北国
新聞の俳壇に俳句を寄荊、麟井紫影の北戸会に出席、句作した。十九才に「さ
くら石斑魚に漆へて」が「新識」に褐戦され、避蒋児玉花外を知り、以後時
人として立つ決心をした。苦労しながら、詩を作りながら、目碆宅著し承な
がら、一つ一つ身につけていった。だから凪些の初期の作砧の文鑑は怪しい
のがある。正しい文語から格はずれなのがある。例えば、「けり」「り」の
接統。句、秋節に「しらかばにせ糸ひとつゐて鳴かずけり。」師に、「抑一つ
幹促すがりて鳴かずけり。」詩「ふるさと」(仔怖小曲集〉の「木の芽に忠を
った。
ふきかけり。」といった調子である。凪型の破枯は独学からきている。芭蕪や
西酪の破格とも述う泥くさいものが感じられるが、犀蝿にとっては鮒一杯で
あり、やはりつらいものであったと思う。それだけ一層、教養ある者がねた
意しいのである。又、名声も欲しい人であったし、又、名声が必要ででもあ
「私がどれほど詩の原稿をたくわえていても耳〈・〈ル』に掲載されるとい
うことは絶対にありえない。だが光太郎はいつでも華やかにしかも何気ない
ふうで登場していたのだ。私はほとんど詩を発爽する雑総は持たなかった
し、たとえ掲載されても「『〈・ハル』のような立派な雑誌ではない、つまり澱
催毎号『スペル』である商村光太郎をしゃくにさわらずにいられなかったの
である」(伝)
厚型の気持が伺える。名声が確定するまでのあせりが、光太郎とのはりあ
いを通して正直に群かれている。田端の百姓家の下宿住いの雌凪腔は、内実
がわからぬ主董、桜並木通りのアトリエに住む光太郎が、その沢腿と米一升
を買う「晩鍵」の詩など.小而憎く、自分を熟じめに思ったのである。
光太郎は彫刻家として立つべく上野の美術学校に学び、新詩社に参加、作
歌がその文学生活の第一歩であり、当時としては稀な欧米留学も終え、十二
分の教養を自然と身につけていた。その帰朝祝を雑ねて「〆・〈との談話会
が催されるなど、恵まれた環塊にあった。そして、処女謙樂「近種」で確固
たる存在を示し、詩壇に偉大な為記念碑をたてた。俗世の名声や街には背を
できると思う。
向けて、ひたすら真の人生を追求し、美を追求した。州朝時、用意された就
職もことわり、展覧会膳も、光雲の「親の七光り」を恐れて出品せず、気に
入る煮で彫り直し、彫り直し、「鹸高にして岐低の道」を、世間の殴誉褒厄
を外に、自分の道を自分で歩んだ。へつらわず、むさぼらず、ひたすらにわ
が道を行ったのである。持つものを持った人の、自由無曝な生き方なのであ
る。二人の生いたちをかいつまんで魏尤だけでも迎いの生じてくるのが納得
終りに
私的には最初にして雌後の出合い。尿星が響き残してくれたのは幸であっ
た。伝記によって、駅型の心の中に住んでいた光太郎像が、明確になってい
るのは何としても興味ぷかい。犀星の心も偽らず、うちだされている。小説
家であるから、人の心をひきつけるための技巧は勿論あろう。とにかく、犀
星は交際こそしなかったが、光太郎の知己であったといえるように思う。
17
 ̄
り。」と。〃小、卑俗を如何に排したかが伺われる。これでは蠅型と友迷にな
りようがない。ただし、犀塁らの雑誌「感慨」に光太郎婆一回、詩を寄稿し
ている。「光太郎は駒込のアトリエから田端玄で歩いて、私が折あしく不在
だった机の上に、その原稿を極いて冊った。」(伝)とある。大正五年十月
現代詩人号に「わが家」を、大正六年一月詩錐号に「賭れゆく空」「妹に」
「花のひらくやう腱」「海はまるく」「歩いても」「鰐ぶれに一ぱい」をの
せた。一月詩集号の消息欄に「高村光太郎氏の詩錐、第二詩集で妓近のもの
と新らしく譜いたものと併せて『人間苦』として今年初春まで椹は本)』なる
予輝⑥この命題二人間苦」もまだ考え中でゐると同氏は手紙で云ってゐられ
る。くわしくは二月号で発表する。」とあるから、手紙も添えたのである。
が、その他でば仙人交渉があったような形跡が残っていない。
異質の二人とその友
結局、この典質のすぐれた二人の詩人は、犀星の積極的な訪問も実を結ば
ず、親交がなかったのは、詩界のため、やはり艦しむくき」』とであったと思
う・お互に典質であればある程、啓発しあう而も多かったのではあるまい
か。犀足に、朔太郎という親友があったことは誰でも熟知のことであるし、
その周辺に友人や後鎚が沢山災護っているのは衆知のことである。光太郎と
て生来の離群性はあっても、詩が人をひきつける。詩人、軍野心平がその
の詩の友」、相手はいずれも高村さんである。
一人であり、尾崎響八もその一人である。尾崎悪八は「佃制の商業学校を卒
業して銀行に勤めるようになった型が、高村さんの識くもの匡身も魂も傾到
して、或る日とうとう思い切ってその駒込のアトリエをたずねたのは大正元
年か二年の郡だった。」と。尾崎の詩「古いこしかた」の友、「友」、「四月
ない紐、心酔者があり、交際を顧う新がいた。
光太郎の「女医になった少女」も年若い友人であり、ファンであ為。山畑
川のゐ》つりに訪れていった美しい女医になった少女である。枚挙にいと章が
「高村さんの生活意識や生活態度をあれこれ思いをぬぐらして梁ると、そ
》」には後藷の私ども脛、『岡村さん』と呼ばせるなにかがあっ土。いや、商
材さんは先薙・後鍛という気持をもたなかったようだ。たとえそういう気持
があったとしても、光殿・後裁などと、知人を区別することをしなかった。
葬儀のときおくられたおびただしい花輪の中》』『年下の友人たち一同一とい
うのがあったが、これは生前の尚村さんと往来のあった溌人や芸術家が、「後
避」でなく一・年下・’だという生前の高村さんの気持に沿ってそうしたのだっ
た。」(「高村光太郎研究」伊藤信吉、高村光太郎の問辺、人柄についての
断汁)
こういう対人関係であった。。くりで大人になった光太郎には、いい意味の
個人主義が身についていた。森鴎外がそうであった。後毅を弟子扱いしな
かった。英国の下宿で本ばかり謎んでいた夏目漱石は個人主義は理解しなが
ら、東洋的な師弟の関係は華やかだった。
二人は相手を知っている。
「私は概して時代の老大家よりも其撃な青年闇の方から良い教訓をうけ
る。……莱舟、犀型、朔太郎、峡之介、柳虹の諸氏は術腱尊敬してゐた。千
家元暦、佐藤惣之肋、宮崎丈二、棉士幸吹郎等の猯氏からも多く教えられ、
又後もつと年若い友、尼崎喜八、問田博厚、片山敏彦、商橋元吉等の諸氏と
親しくなるようになって大いに啓発された。……其後もつと若い友、亜野心
千、黄演、坂木遼、岡本掴等の諸氏からも強い刺激をうけ.其他列挙しきれ
ない程多くの詩人からそれぞれ良いものを教はってゐる。殊膳宮沢賢治の如
き柿右の詩人を知った鞭は甚大の啓であった。」(詩の勉強)
光太郎は右のように友人を列挙している。駆堕は尊敬する人のうち。犀型
のひたむきな緒巡椹感動したのか。異質の杼慨性促心ひかれたのか。鳳里も
って銘すべきである。犀巫も光太郎の仲大さが揃い程わかっていたし、人柄
も深い交渉なしに直感的によふとって、
「菱術院会貝にすいせんされても、きっと断るだろう、という樫の兄方に
誤りはなく、かれはそれを断った。文学港とか詩人とかいうものはあるだけ
の有名と潴替を掻っさらって、←』の世界でいつも岐尚の地位をその作仙の名
において、ふん掴まえるものだ、」「いと(から二十年前「中央公論」が時の有
為の詩人をあつめるため、狸に指塙をもとめた時に先ず岡村光太郎をすいせ
んした。しかし光太郎は一・中央公論・一のような大雑誌には詩を描辻たくない
と画って断った。.’「かれは日本の識というものでは、外れるだけ外りつづけ
た男であった。一度も後退したことばない、高村光太郎という透肌無鐡の風
船は『泥七宝』の短準から『暗織小伝・一椹いたるまで、拍手喝采の間怪天上
グ
厘到逆したのである。」「光太郎の死は巨壁堅つということばどおりのもの
16
の二人の交際がつづくとは誰も思わないであろう。犀星は光太郎との交際は
断念しながら、光太郎をライ。ハルとして遮識し過ぎ、光太郎は当然の帰結か
もしれぬが、犀星に執勘な関心はない。
「さういふ友」の中で光太郎は、
黙ってゐても心の通じる、
いいも悪いも両手梶持つ
さういふ友を持つのはいい。(中略)
この世にとって自分自身が
さういふ友であればいい。(後略)
功利的な匂の少しもない、真実に生きる者の友観がある。が、光太郎に
も、人間性むきだしのもある。「友の妻」-柳敬助と八重子夫人の新婚時代
に作られた詩には「君の要は余の敵なり、君の妻を思ふたびに、余の心は忍
びがたき嫉妬の為に餌へわななく」と。〉」の柳の紹介で光太郎は智恵子に会
ったのである。だから智恵子を知る以前の無茶苦茶時代の作であることで、こ
の詩については合点がゆくことと思う。「よろこびを告ぐし百国・目シ向田-」
「友よ」「二つの世界」「朋あり遠方に之く」「あそこで蝿れた友に」「友
来る」など友観のある詩はいろいろあるが、「友の妾」のようなのは、他侶
はない。光太郎は又、貧しく不遇な芸術家を心の友としたようである。「存
在」「村山槐多」は村山槐多を、「荻原守衛」、「芋銭先生景慕の詩」、「北
勘雪山」、「古事一期」は寒山拾得を、という・がうに歌い上げている。「レ
オン。ドゥベル」「ミシエルオオクレエムを読む」も同趣の詩である。
卑俗を鰹う光太郎
ももも
離群性はあっても人に対して心を鎖していたのではなく、世俗的な虚偽
F』満ちたいやな交際を嫌っただけなのである。「のつぼの奴の黙ってゐる」
「或る墓碑銘」(紀要第八集三○頁に全詩記載)などには、如何に世俗的な
いもも
ものに反捷し、栄誉や虚飾になじめぬかを浮彫りにしている。
のつぼの奴は黙ってゐる
「舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマック
スといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技芸員で、名誉教授で、金は
割方持ってない相ですが、何しろ仏師屋の職人にしちやあ出世したもん
ですな。今夜にしたって、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。宮
b
寿の祝なんて災加な奴ですよ。連がいいんですな、あの頃のあいつの回
僚は承んな死んぢまったちゃありませんか。親爺のうしろに並んでゐる
のは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるちゃあ
■qい
りませんか、何をしてるんでせう。へえ、やっぱり彫刻。ちっとも聞き
ませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一
心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ず江奴でせう。ざういへぱ親爺
にちっとも似てませんな。いや》』のっぽな貧相な奴ですな。名人一一代無
し、とはよく言ったもんですな。やれやれ、式は済染ましたか。はは
あ、今度の余興は、結城係三郎の人形に、姐さんの鋪ですか。少し前へ
出主せうよ・」
『皆さん、食堂をひらきます。」
満堂の禿あたまと銀器とオールパックとギヤマンと九髄と香水と七三と賛
薮の花と。
スチュワードの一本の指、サーヴィスの爆音。
午後九時のニッポンロココ格天井の食慾。
もうもうたるアルコホルの瀞。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
万戒。
老いたる涙。
崩壊。
麻癖に瀕した儀礼の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の
、、、
何がをかしい、尻尾がをかしい・何がのこる、怒がのこる。
胆をきめて時代の畷し』顎)のになったのつぼの奴は黙ってゐる。
往来に立って夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。
何時と如何仁とを考へてゐる。(昭和五年)
父光雲の顔のことを思い腹をきめ、喜寿の祝焚会に出席している光太郎
の、そつぼをむいた姿が、見えるようである。さぞかしやり切れなかったで
あろう。それが、満堂の禿あたまと、という語となって爆発して、世俗的な
るものを辛辣に愚弄しているのである。或る墓碑銘において「彼は人間の卑
小性を怒り、その根元の価値感に帰せり。かるが故に彼は無価値に生きた
15
 ̄
催から世間並の友抗などを決して望むな
僕は君の栄述などを決して瓠まい
君は見るだらう
君のちひさな幸祇などを決して祈らぬ
僕が逆塊の友を多く待ち噸境の友をどしどし矢ふのを
なぜだらう
逆輿の時に持ってゐた魂を噸奥と共に楽てる人川が多いからだ
僕に特恵国は無い
侭に悶定の友は無い
友とは同じ一本の覚幡を持った道づれの邪だ
世間ざ堂を押し渡る相棒だと僕を忠ふな
百の友があっても一人は一人だ
なかった。
れたいと、正式に幼川、三度まで靭恋子夫人のツメクイ眼で追い返され、四
度目に光太郎圃身が現われ、やっと船が出来、金沢から捗参の吉川腫物の九
谷の大皿を贈った時が斌初である。「種はこんなに人を訪ねるに執勤であっ
たためしも紗ないし、九行の大皿まで何の気でもっておべっかを尽したの
か、そのもとをさぐると、商村光太郎の友人になりたかったからである。」
(伝)と、六つ年上の光太郎との交際を熱馴していたのに、「けれども人に
闇物をしたくても出来ない人間が、それをなし遂げたとき椹は鰍神的にもう
がっかりして、起は光太郎を吏尤と訪ねる気がしなくなっていた。詩人が剛
物で時を紹介して此うことに気がさしていたし、」(伝)と、鋤川をつづけ
二人の考え方
御子に乗らずに地でゆかう
その上で危険な路をも愉快に歩かう
それでいいのだと君は思ってくれるだらうか
お瓦にお工の実質だけで沢山だ
耶腿が徹底した怖物拠性を侍っていたか、光大川に迎合性があり、親分肌
であったら、二人の交友はつづけられたであろう。
我は(御、昭和三年凧星)
独は柵く生きんことを願へり、
この時に光太郎はありのままに、串肛に友人肌を押し川している。白山無
鮭。如何にも光太郎らしく、耶狼の考え方とは、質が、方向が、根木的晤遮
っている。犀星は生涯、詩人として、小説家として文学的椹陣大な業織を残
しているが、俗世から離脱できぬ人間臭を持っている。絶えず努力して境地
を切りひらき、生炎していった生き方もすばらしい。・が、洗繩された雰囲気
よりは、生ま生ましい人間の足跡を感じさせる。悪くいえば、泥くささがあ
る。塊星自身も「詩は詩であっても文学は泥くさいほど美しい。泥のついて
いない蹄や文学はご免禦りたいものである。」といっている。「愛の時築」の
我は錐しき忠あらんことを乞へり、
我は今は殴れたる机に対へり、
我が将付は地球のごとく曲れり、
我が肋行は幾本かを不足す、
彼が頭はブリキを埋蔵せり。
蹄人にして通俗人。凧型は正肛な人である。術と名とを祈る心が、三度、
向秋の序侶も「甑生酒、何と云っても私は遮を愛する。さうして萩原君を。
君と萩原君とは蚕ことに霊肉相通じた芸術的双生児である。……君は土.彼
撰ば’
我はまた嵐と潟とを折れD、
多分崎捌守だったろう膳、四幽刷に九行の大川を持って、紡川させたのであ
り、消く生きんことを瓢へりの心がさた訪ねる剥持をなくさせたのである。
は研子。君は裸の璽燭、彼は電球。.:・・・」とある。自他ともに鑓める泥くさ
ざである。朔太郎との亥も「君子の交」とはいいきれぬようだ。光太郎ば来
るものまで拒まなかったろうが、生米の離昨性の主襲に行動している。岡迦
「友よ」の女人観と、苅村光太郎の友人になりたかった理由を比べたら、こ
な理想・美の追究の肌け暮れであり、卑俗を鍬い、常識や外側を無視した
生涯であった。二人の考え方は次元の違うものであり、対照的な面もある。
自分の心腫忠実であった犀星の行動を俗だときめつけてし室うのも、どうか
と忠うが、そういう磯じがどうも嘘ぜられる。我はの蹄も、汰の光太郎の勝
』】c
少j
も鍬腿の訪川後のものであるが、鵬本的な心仙は変らないと思うので引川し
女形《(昭和五年十二川光太郎)
まづ飾一腫衝っておかう
14
「高村光太
郎」ノ-卜
井田康子
い。「孤独の鉄しきに班へきれない泣虫何志の、がやがや卯と←》○鰯合の勢に
か廷
い。又、「皮肉ならお止し、どうせ黙ってゐる方が勝つ。」(同前)と思って
いたのかもしれない。あるいは、光太郎が自分の内部の相剋b内部財宝の充
実促心を燕われていて、悠回を受けてたつ心の余耐がなかったのかもしれな
とげなエピグラとのように鰍型の餅くことを受け取っていたのかもしれな
その四、商村光太郎と室生犀塁と
一、『我が愛する詩人の伝記』などを皿して見た
光太郎と犀星
はじめに
の伝記』には、北原白秋・商村光太郎・荻原朔太郎・釈迫空・期辰雄・立原
逝造・灘村信夫・山村騨鳥・百田宗治・千家元職・脇埼藤村の剛で、伝妃が
出げられている。この肌が愛する雌であるかどうか瞳別として、二稀臥に二
批排はいらざるお節介で、無視したのかもしれない。「組織を人侶求めるの
離群性ゆえの孤独で、裟術に心身を削る搬巡とする光太郎にとって、椰肌の
昭和淵三年十二月十五日、中央公論社発行の竃生蹴腿藩「我が愛する詩人
三瓦から四二頁にわたって雌砒は飾らぬ川剃で述べている。そのH狐強「岡
鯨はない、孤独が何で珍らしい」(孤独が何で形らしい)・「生来の離昨性
は、私を側の鍾冶に専念せしめて、世上の葛藤促うとからしめた。」(美に生
村光太郎の伝記を謀くことは、魁にとって不倖左執乖の時川を焼けること
で、左かなかペソはすず童ない。高村自身にとっても趣のような男に身辺の
しき召莱に啓ふの日弧と結びである。光太郎が〃型のいや熟を無視した心怖
は弱い、此世に君の世界が花さくか花さかないか、深夜の絶望なんか霊欺独
追献上しませう。人生の甘美自体は断じて亡びぬ。(中略)ちょこまかとし
て戦ひ極るのが如何に澱の川囲の流行でも、型はもう一度古風に織返さう。
l正しい爪囚に生きる本、それの染が柳い。-」は、澱、或る親しき次の帆
きる)・「生米の離俳性はなほりざうらないが」(山林)などで肌確な生うに、
生漉の汁の好敵手であったし、かれば何時も一歩ずつ先に歩いていたこと、
と根は同じではなかろうか。鳳里は光太郎を意識し、関心を持ったが、光太
ことを掛かれることは、梱当不愉快なことであろう。型にとってはほとんど
汁のうえの仕耶の刻糸力のこまかさ、川心ぷかさに至っては、湛のまなぶべ
きことを、先に心に吐いていた点でも、誕は問村追かなわないものを悪じて
大正六年秋、犀星が養父其乗死去後、十日程して帰京した時が初の出合い
である。凪型が自分の象じめさI光太郎のアトリエの前を低とんど征日通
り、かれの生活とⅢ分の生活との比較なし、征Ⅲやっつけられた忠いとして
いたこと-を救うために光太郎の知己を郡ること)』追って心の平明をとり入
二人の出合い。その結果
ある。
郎は「詩の勉強」に騨敬していたと普いている瀞、淡盈としていたようで
いた。年少なかれが早くも当時の立派な雑誌『スパル』の毎号の執韮者であ
ること煙、私の抜糸のもとであった。」である。凪蝋の心に、光太郎は知らず
して、大きな彫を離している。それは岫型の怠徽過剰であり、一人梱挟の悠
が深いようであるが、光太郎の大きさを示している。「型は詩の郡を識くた
び腫光太郎に当っていたと先きに述べたが、この本で光太郎はいちども当り
を返したことばない。かれはなにも謎主ないふりを盤うて、私の恕口をゆる
してくれたものに、思えた。」(伝)とある泓、一方、光太郎は「大変いいけ
れども、けれども鯉心しない、なら、澱はおれと一稀隷の迎い魂だ。」(とげ
13
= ̄
宇野雪村「古墨」一九六七年。
小Ⅲ卯批卿「文具沿玩二」膳よる。
李家正文「擢淡墨史二九六五年男
則#9
1鋪1
伺普○
前掲、「古難」。
テキストに柵家路綱「大源四譜」民国五十一年刊を用いた。
前拙、|飛淡捌史」椹よる。
ヨョョョ風一一
証文古文、古飛
談冴鯉風司鵠淡
墨四一四Tl『宅捌
史譜に鑑墨史
宅宅よ完及世
「文尻四識」
宍、「故宮周刊」の解説。
錘進一一眼破輪二千足時一嗽。」(「所打墹揃国史大系」姉一巻下)。
一二、「日本漕紀」鰯二二巻に、淡のように記されている。「十八年半一一一凡。
間服王武上佃嚢、微法定。暴微知第五繩。几能作二彩色及紙鍋。壺外造砿砿。
西、前掲、「韮談墨史」。
「古鯉」による。
福永暇帆、「古墨及び墨絵の謡」。
前掲、「古鵠」。
iiiiiiiiiiiii福iilIiiii
掲拙拙掛永描Ⅲ
、、、、畷、、
注
iii司
掲故
も丘一
二
六
六、何弼・
鞠二二巻。
禿、「新訂端補国史大系」
一九℃「》
、、
藤田祥光「奈良名産史」(「奈良の木」所収)
松井藤次「奈良の鍋」(「大和クイムメ」所同)一九六八年。
されたい。
一一画、近世および近代の奈良、製朏楽の典態侶ついて陰、次の紺箇文を参照
勢鳳栗谷、参河国神代山、紀伊国熊野川などの産地があったと記している。
なお、》
なお、近世初期の径煙墨については、「古榔圃塁談」臣、丹波国貝原、伊
圃史大系」鍬一九巻。
一一一lb「←
「新訂湘補圃史大系」鍬》
’’三、「》
「新修京稲濃掛」鍬三巻。
一一『同、
この項は、前掲「施淡黒血
前掲「施淡墨史」悟よった。
一一一、》」(
巻
二・■&
拙協「製繩業の発展」(「奈良巾史」述史三所収)近刊。
奥西一夫「鯉」(大和タイ‘式〆綱「大和百年の喉火」所収)一九六七
〃J
拙稽「朱墾‐’(同右)
Ⅲ「奈良の朱」(「社会科教室」所収)一九六七年。
何「奈良の製紐」(「教赤Ⅱ木新川」所載)一九六七年。
一九六八・九・二七)
一一三、「独寝」の校訂本としては、「燕石十煎」所収のもののほか程、石川
蟻校訂の「完本独寝」、水木直而校訂の「ひとりね」などがある。
美、「米庵紐縦」。
一壱.「統米服坐淡」。
一六、宮坂和雄「墨の活」。
12
勺、、、、もも、可、、、、
三三==九八七六五四三二一
亡=伯苣
鰯瀦細騨美艫11
餓鋤繩Miili蝋織
女蔭晶i:t惟変灰児之弗慢灰
被老夜児均Ini灰瓜哨混多斐
硬鎚侯夜不隣上亦騨其lUl糠
iii臘鰹鵬鵬i1i澱箭
乾於風火逆架紙HliW厚灰灰
者鰔繊ポili蝋芝澱
凡研墨不服通古謡云研処如病凡研
吹研為上右研乃見匝色不扣艇鰐円附
則低俗菰野往来右瓜以助放色乃非鍋
研
:鰄鰯蕊鐸
薩
廠中の灰を毛怖にて土灰の脇を除
六分紐に蚊共上に厚紙を政又薄紙叩
きとりて蝿三尺拙一尺五寸深三寸の
灰柑をいくらも般椚の中に灰を〃さ
紙を世其上に灰を厚さ七八分ほとに
掴ひ瓜のなき所に趾なり躯Ⅱ二度つ
つ腰を僻る他を灰博と云初一Ⅱはし
ぬり灰を川ゆ次の日より残さ』柁灰
を川へⅢひ三Ⅱ側に墨の角侶形のは
糸川しあるを小刀にて削り取り又灰
に埋な如此する耶凡五Nにして灰よ
り出す厚大の躯は七Ⅱ八日を経て出
す但乾灰にて急にしめりをとれは墨
砕け製るなり珊温の節は冷ろ所に髄
極寒の畔は駈辺又は二菰墜扱の所枢
箆を麺て歴く粉温には薫て砕けやす
く寒気には鞭て裂やすきかゆへなり
灰より出して墨のゆか熟を能直し二
十挺種かさね両方に小板をあて苧織
にて能しめ瓜なき所に掛置邪五六Ⅱ
して十挺つつ紙糸にて縞承四方より
風通ふ所に釣乾す汁瓜に当れば鎚ゆ
かむ凡釣極く邪十ヶ月を経て桐の樋
に入れ吐く毎年〃雨の後瓜を当て温
む放十
f
,
澱を肌には典を半臥』こせて虹に冊
れば鍋の締をためず鵬の典文を顕十
に研れは従来にて瓜を含て紐の煎色
之其色惟瞥聖者円研若邪研則水術椰
其半而其半不及先所用者惟俗人邪研
几型戸不工於製作而工於研鵬拠所似
鍋川使圃研之常健一茄凡燦細研之乾
迦煤麓研之乾疾凡恕墨研之加研泥
を助れとも其色にあらす洞天研録に
云日川の硯Ⅱ毎に献処敗水を機ひ去
れば醜光潤ふて蝿の典色狐ろ一二Ⅱ
も過れば腿気渥て派に滞るといへり
古脱尤よし新硯も下ノ側赤間が側商
蝿の好否を拭るに埋十
川轆の爽硯左巡ふへし席上の肌硯は
色
て渦ふ処を紫無光といへり皿》を試む
を合見るへし熱して瀞ならす明にし
色
几騒色紫光為上鍋光抜群光又次之
日光為下凡光与色不可鹿一以久而不
(〒千》
几鍋の色紫熱光を上とす光と色と
強潴為慨然忌膠光古墨多狗色無光満
以蒸湿敗之非古狸之善調共有諜者野
り又謬の色を見るにも朱坂の上に孜
るには失漆の仮に出て日にうつして
見るに漆の光と何しきは避純煙墨な
以墨比墨不若以紙比墨或以研拭之或
而不浮明而有艶沢而無淌是訓紫光几
以描甲試呰不佳
臓晄川瓜なき時を逆らむ
の水を緋へ世術に腰を爪する川と十
も極寒の時は益無して惑多し但し喉
承仲将は墨法一一月九日を以て上の
時とす然とも典域時候の緋りある故
か木朝にては正二月十月十一月を上
の時と十世に職月製をよしといへと
Ⅱ
寺
ひ白を瀞ふるは又共次の次なり
耐ならへ肚白下にて日に背て堀ふに
櫛無色を上とす黒色は次なり赤を術
時
凡墨雌賢及時隼仲将墨法不御過二
月九月質思趨曰温時敗央寒時極榴当
十一月十二月正側為上時十月二月為
下時余月無益布譜既時菰択哨川無風
之日或当筋夜着焼煤之時当以二月三
七日水灘土湿十一川十二月風断水寒
川四月為上時八月九月五月十凡六Ⅱ
勝不利
11
以候厚薄肛玉一条如術為腫共脈服不
可峨川或以牛膠煎騒阿膠参和之党人
一生膠圷当以爪加者為焚
旧以十月煎膠十一月造墨今旋煎旋用
殊失之故涌谷一見陳相鋼曰借銭共用
燃を膠に和十るは密室をかまへ仮
和
敷両二尺蝿工の腿する前に魁を切入
和
几和煉当纐柳密小室内不可逝瓜仇
}』綴八両失煤一斤を坂の上椹ひらけ
かきませ探合共次に香具を加へ入て
慨然解せる熱膠汁を共中へ画き入れ
又力を出して擁めは吹第猩光出て掴
凡ゆる時一剤を三シに分ニッを恨中
に世一シを又能挾む唐土の法は臼に
入れ杵を以て譜くと記せり溢仲将の
墨は鋏臼の中にて祷小三万杵又質思
ポボ鵡鰯織薬
印
薬
木刺弘治年中膣製せる伽府の瓢
を試なるに龍蝿の其譲あり府土椹も
むかしよりて番を胴ると見へたり拳
狩嘩が蹄に側嚇珍搬炬艦るとあり蝿
玉君徳は万梱駆角鴎謹の三物を脇ゆ
紐に鍬中将は典珠閉獅の一一物を剛小
李廷砿は藤茄真珠等の十二物を脇ゆ
木刺の墨は只川脂叫番滕脂等を川や
く船に入て轡あり照呑殊に弁しかた
加脂畷穆とも共性を能弁別十へし下
等の施脂は木埋参し足を而木と精つ
し偽物妓多し共に上輔の符を進へし
馳符の多からんよりは其呑のすぐな
からんにはしかし明の方子魯一菰の
鑑蛾を仰てより艇益を勝れり天下に
て製し鮒脂は鵬番稗皮黄蓮離水膳脂
称せらる余唖年共霊虹を孝へ法に依
と此霊草を合せて七物を用
印
墨の形むかしは鋏椹て造る南部二
又二枚形なり
槻文字箙を彫付る之三枚形と我つく
撒坊の形今椹磯れり足を鉄形と云当
理鍾二四三四二
凡底版徴乎直寧大不小平版上勝下
平寧肛不軽凡庇版鍛為上面印牙為上
ーIヨ如等鞭脳懸蝿
巻イブ白十雌癖香呑
時の形は枇杷鯉梨の木にて造る形に
大小厚薄の戯あり板三枚にして中に
繊晶瓢鵬ボ
尋術庇版用案平版用杷蓋庇版而印栫
以松良与煤為立几印大里以水拭之以
某外説珠臓水白鳳
板を墨の厚さとし上下二枚の板に絵
;鱗蝋
紙按之無用印凡印方直最錐用用多
難茶不jillIl徳思尚
潴之用藤枠用鴎爽
裂扮水磯辺印多力肛稀拠剤熱可知
10
微火を蓄へ共上に三尺四方の松板を
腰板の上にて膠と煤を和す几煤一斤
羅於燦中央瓜久使Ⅲ流然後衆力忽和
之賢潤沢而光明初和如変鮫許捜之有
声乃良膠初取之和下等煤再取之和中
輔砿最後取之和上鞭燃几煤一片古法
川膠一斤今用膠水一汁水居十二両膠
店四阿所以不善然賀思遡墨法煤一斤
用膠五両蓋亦未尽善也汎騨多利久膠
少利新匠潴以共速僻故秤川豚少硯鰯
水英氏飲州李氏併用一躍所以養鍋時
大膠墨紙黄小膠思紙微黄其力以走為
強几大膠必厚厚薙於和和之柔則剛則
裂若以漆和之凡煤一斤以生漆三旗熟
捲二鐘取澗汁投膝中打之匂和之如法
工只一人に主かせて探しむいかでか
醐の法は三万杵に限るへからす杵多
くして益よしと十王潜徳か法は而臼
を用ゆ其揖辨多して光り人を照寸を
座とすといへり然るに今の墨家は蝿
能熟和するに到らんや祖父而臼にて
鍔ことを琴しかとも只幾度も脂探む
にしくぱなしとて家法脛は墨工一人
椹工子一人を派へ刑を分け同室して
孫しむ
然沿物物物物物
不麺今李王唐後几
煤
「墨経」
「古梅園墨法十三条」
油煙燃
当時耐郁膳て油煙を当つば煙宝鰻
一文三尺Ⅲ一丈鮖向の尚さ七尺歴恨
を強にて蹄く箪中の三力に棚二蚊あ
り棚のⅢ二尺棚恢の上を土にて蛾リ
熾議を並へ土僻を共上に慨ひ螺を受
く熾誰と土僻との間二寸凡一室の煉
工一人燈の数上剤六十中剤七十二下
剤八十二一Ⅱに雌を収を郡上刑十両
中剤十五両下剤十八両上刑は砿をし
けく折によって煙沸くしてすぐなし
燦の色は製陞汁を雑るを上とす紙恕
は次なり赤に白を雑るは又次の汝な
り燭中には煙気室に擬て燃の色濁る
鶏中には室内の熱に戦すして蕊工勤
作に労し此煤も溺れり二三九十月を
上の畔とす
松煙煤
六日を紙て煙の陣子に岡りたるを創
広大寸中剤催耐八寸広八寸下刑健商
一尺広-尺障子の内四尺四カ両五尺
五寸松の細木上剤は水川七分処二寸
中剤は木仰一寸蛙凹寸下剤に木凹一
寸奨六寸一小腿に蝋工二人怯取二人
四斤下剤六斤雌鍋家に迦川する灘の
羽にて船ふ凡一Ⅱの燃上剤三斤中剤
法なり
膠
腰を川ゆる邪肚折しかるへし唐土
の諺に涌谷の媒は滞れとも塾の漏行
椹及ざるは稲谷か滕なきゆへとはこ
れ膠法の能をいへり煤今按ろに牌土
は#ら新膠を用れども本棚腱は古膠
をよしとす無とも至て方きば霧の性
一膠を川へから十両膠三露を交へ和
かわるゆへ仁家法仁は三年膠を用ゆ
して用ゆこれ墨徒の税にして経験あ
り膠は墨の繍神といへは最選ふへし
凡騒の性水に応して甲乙あり南都を
他川に拠るか故なり膠汁ば細細にて
第一とするは揃祁の水の澗烈なる獅
よく漣へし
9
古川立密汁哩人余拠晒寛胆小回不川
突於廠而斑以五斗盤又益以近遜大小
為溌大腿Ⅲ乗亦視大小為錐耀胸泥鹸
惟密約遡小繊叩化火以珂羽柵取之或
為五仙或為二州二mm不収竝光一器今
川臥窪挫石衆砿取間揃高下形勢向行
而或健百尺深五尺祁高三尺口大一尺
小項八尺大孤四十尺胡日赤曰咽口口
身之末日頭毎以隆三枝或五伎徐鍵之
五技以上烟暴馳以下Ⅲ煙緩煤細枝数
些少益良有白灰去之凡七品夜而成名
曰一会侯寵冷探煤以頃煤為二器以頭
煤為一器頭煤如珠如纏絡身煤成塊成
片頭燦深者曰遠火外者曰近火煤不堪
用凡燦貴軽旧東山煤軽西山煤並今川
西山煤軽東山煤並凡器大而軽者良器
←哩戸者艮凡以手拭之而入人紋理難洗
小而並者否凡振之而応手者艮撃之而
者良以物拭之自然打光成汁者典凡鰯
布野限老調之疹眼煤雑濡病也旧審打
虫鼠守蕪及搭衣露虫維征燃中奥龍榔
介唯唾多可弧之然終不能無
当時熊野川にて股煙をとろは蝋室
竪十川棚三川杯口の高さ七尺段恨を
笠にて姉く雄を一小脇と云古仏を取
るに便ある所冬阻小肚を腓へ土池十
四をこげに蛾へ脳一つ宛に紙障子を
胆力と上に圃ひ肋の陣子に小ざnt
あけ共、より綱に切たる怯むかなし
やくしにて入る髄の内上剤は溺六寸
撹当良Ⅲ成赤汁1町何以庶誤明隆鶴蝿正行水
之菰剃牛以鮮JItjH膠米者以謬這黄膠在之不凡
繩lii職雛搬騨繩継澱撒總巌
乎捌毛1,膠水膠潤一減入謬所鹿於113之多ドリ為
父火水」'二之七注水細日家鹿黄几膠赤凡之法11
lltZ以水投祇今店法七墨但lii藤鹿麗妙イ『膠大
鱗蝋繊鰐繍ili
lliMl糊織繩屏総iii鱸砿辮鰈
,瞥術可jIjl之Ⅱ!(去/11帖之膠蝋世一取膠コニ及処加
悦以太皮下之皮焚牛血11法及人豹胤飢紀行乢竣
之箆IIiMl当将及濃皮作光釧多黄IU月1日羽播狐
 ̄
ゆるに堪ずといへり。凡燃久しく成れば黒く紫の色を出し膠久しく
成れば其性消くして光あり古錐の世に賞せらるは是なり余が六世の
へきにあらす。」
祖道珍慶長年中仁製せる塾今に残れり其色紫鵠光彩ありて新墨の及
るc
新墨より年数を経た墨の方がよいという理屈はわかる。それで
は、墨は古ければ古いものほどよいのかどうか。これについて、前
記「良山堂茶話」に引用している謝在仇曜墨のあまり古くなった
ものはよくないといっている。この点について、墨の粒子を電子顕
微鏡でしらべた結果にもと.つき、宮坂和雄氏は次のようにいってい
「墨汁を限外顕微鏡で見ると二間度に分散している微小粒子は、い
つでも不規則の巡動を続けている。これはブラウン述動とよばれる
が、これが活性カーボン、いわゆる生きた粒子に臆かならない。こ
のような粒子を多く含む程、墨は生きていると認められる。大きい
凝雄状態をしている粒子は、ほとんど述動せずに沈み易いものであ
る・これが不活性カーボン、いわゆる死んでいる粒子である。死ん
でいる粒子を多く含む塾ほど、死曇化するのはいうまでもない。
(中略)墨が古くなるに従って墨色が変化するのは、死んだ粒子の
影響によるのである。鍵の粒子が大きい程、表面効采が強調され、
墨色が濃く見えるものである。骨壷品ならいざ知らず、大抵のもの
は新しい程、良いのが普迦である。鶏が古く枯れていて良いなどと
は、どうしても考えられない。前にも云ったが、私は古坐の多くは
見る蝶で、使う墨ではないと思う。この場合、墨の劣化がどの程度
まで進んでいるかが問題であることは、いうまでもない。墨が枯れ
ると、死墨化するのは避けられない。鍵は時々刻々仁死鍵への変化
を辿っているものである。墨の生命は無限のものではない。製墾の
技術や保存の方法などによって著しく祁違するが、墨の生命は私た
そして同氏は、著名な中国古墨の粒子を顕微鏡で観察し、その劣
ちの考えている程、長いものではなさそうである。五○年か、せい
ぜい一○○年位のものであろうか」(注二八)。
化の甚しいことを実証している。科学的な古墨観察は、名のある古
懇でも、それは骨泣的な価値をもつだけで、鍵そのものの生命は既
に失なわれたものであることを証明したようである。
(一〈)
製畿技術は、どのように進んだか。これを知るために、こころみ
に「墨経」と「古梅園墨法十三条」とを対照してみた。前譜は一二
世紀初の作、後者は一八世紀中期の作である。くらべてみて、墨の
製造が、伝統的手法にたよる要素の大きいことを揃感するのであ
る。なお、両者の内容を対照するために、順序をかえ、あるいは省
略した部分がある。
8
(五六十年間の墨はよしたども、古人は論じたる辮あれども)油煙にて
も中華より渡る古墨は違ひあり、日本一と一口にて言ふくからずと
もいふ人.あり」(注一宝)・
右の文の中で、柳里恭が、最近渡来する中国墨は悪いといっている
のは、このころ情において、粗悪な坊製墨がさかんに作られたため
である。
つぎに、書家として盛名を馳せた市河米庵についてみると、
「余モ亦墨癖アリ。末ノ播衡、明ノ羅小華ノ墨ヲ始トシテ蔵スル
トコロ四十余挺一一及くり。然しドモイマダ譜トスルー一足ラズ。故に
墨品諸書併一一今存スル古墨等ニテ見トコロ且近時舶来二至マデ姓氏
八十七人ヲ集録シ同好ノモノ一一示ス」(注一一六)。
「拭古墨法
此方所伝ノ古墨末元ノモノ絶希ナリ。明墨程君房、方干魯、其名
高シトィヘドモ、今見ルトコロ多クハ贋造ノモノニシテ、其中真墨
トヲモハルルモノハ、湿気ヲ含ミ、香気ナキノミナラズ、墨色モ灰
色ヲナシ、不当用モノ多シ・偶全墨ノ伝ルモノアルモ、拭墨ノ法ヲ
得ザレバ知レサルナリ。古今秘苑試墨法一一
将二各種墨]磨在一一退光漆器上一侯し乾放一一水盆内一於一一日中一着し之・与
二漆色一無し二者上也。帯二青色一者次し之。帯二灰色一者為し下・高低錐一一
極不官等大略不し外一一於此]
アリ。余蔵墨五十余丸、所謂与二藤色一無し二者〈僅力一一羅小小華ノ
竜柱墨(五雑俎一一見1)程君房ノ墨宝墨、葉向栄ノ竜九子墨(漫堂墨
砧二見1)呉去塵ノ高碑墨(通雅調書二見「一)四丸ノミナリ・佳墨ノ
難得コトシルヘシ。試墨法此論ノコトキモノ諸書ニナシ・因テ此一一
抄出シテ好事者一一示ス」(注二七)。
とあり、収集の対象として唐墨だけにしか関心を持っていない・前
者は文化九年、後者は文政一○年のものであるから、南都製墨業の
繁栄していたころであるのに、和墨についての関心は薄く、中国
墨、ことに古墨尊重の傾向が強いのは、米庵だけでなく、一般的な
風潮であった。
このような傾向に対して、和鵯を尊しとする謎もないではない。
いる。
幕末の復古思想の高まりを反映したものとも思われる。たとえば、
文政七年に刊行した「良山堂茶話」の中で、阿部謙州はこういって
「八木巽老人之。紙墨〈吾邦ノ物ヲ以テ段上品トス。唐土ハ之一一
次グ。朝鮮琉球ハマタ其次ナリ。(中略)彼方(支那)墨工一一於一プハ
名匹代二乏シカラズシテ明ノ方氏墨譜、程氏墨苑等一一至テハ其紋式
精巧一一シーア細ナルコト廷髪二入ル。然しドモ唯其書ノ人目ヲ悦パシ
ムルノミーーシテ墨品〈但古今伯仲ノ間多ク優劣ヲ客ズ。夕トヒ精エ
ノ手ナルモ国土ノ膠気弱キヲ如何スペカラズ。其墨ノ日久シクシテ
亀斫ヲ為シ或〈砕裂一一至ルモ皆コノ所以ナリ。謝在杭云。墨ハナハ
ダ陳ケレ.〈膠気尽キテ字、光ヲ発セズ。ハナハダ新シヶレバ膠気重
クシテ筆多ク縄帯ス。惟々三五十年ノ後最モ用フニ合フペシ。方正
が墨、今之ヲ用プレ・ハ己一一煤土ノ色ヲナス。知ラズ仲将何ヲ以テ一
点漆ノ如キ、或ハ曰ク、古墨ハ漆ヲ用1、故一一堅ニシテ光、今ハタ
ノ失無シ。」
ダ膠ヲ用1故一一数々徽湿ヲ経レバ則チ敗スト。此方ノ墨〈此ノ如キ
中国製の古墨の愛玩は、近代日本になってのちも続き、いわゆる名
墨は高価をよんでいるわけだが、これらは果して骨董としての価値
7
だけでなく、磨る墨としての価値を持ち続けているものだろうか。
「古梅園墨談」には、墨の新古について次のように書いている。
「術夫人は十年以上の墨を用ひ陳眉公は新墨一一一夏を過ぎざれぱ用
7
について記されたものはないが、いくつかの賢料に、製郷について
切一統志」にならって、山城の国の地雑として杏いたものである。
の国に関するいくつかの藩杏がある。「難州府志」は、中川の「大
墨談」「古梅園墨話」「古梅園墨譜」を著わし、また、和泉の橡を
司徽州の程舟木、汪君彦らに会い墨法を交換した。かれは「古梅園
古梅園六世の松井元泰は、一八世紀の中ごろ、長崎で婿国の御墨
こりである。
よって、油煙墨の製墨法をうちたてたのである。これが古梅園のお
はじめた。かれは、造墨式の李家製鍵法と空海二編坊油煙墨遺法に
天正年間(一五七三-一五九一)に、松井道珍が、南都で墨を作り
の伝統も江戸時代にはまだ続いていたものと思われる。
かれば同杏の中で京都でも名墨を産するといっているから、平安墨
その中の「土産門」の部で、南都の墨にも説きおよんだのであるが、
の記救がある。
「顕戒論縁起」には、大宰府で作った鑑を、最澄が唐に持参した
か駅喧ら
ことが妃されている。「新独楽妃」には、淡路の蝿が、「大和木軍」
には、江州武者墨についての記赦がある。その膣か、丹波の柏原墨、
播磨の墨、あるいは京都の平安墨などもあったらしい(注二一)。
平安末期、紀州縢代墨についての「古今署川染」の記珈は、あま
りにも有名である。
「後白河院御熊野詣に藤代の宿につかせおはしましたりけるに、
国司松煙をつみて御前におきたりけり。花山院左府、中山太政入道
殿共時右大将にて御前に僕はせ絵ひたりけるに、此墨いかほどの物
賜わってや御墨を製造した。つぎの七世樫井元桑は、束城流の紅花
鍵を作り、非術な成功を柚した(注二四)。
江戸時代後期になって、南都油煙墨がさかんに製造されるように
なってのちも、中国の墨への愛好は続いた。たとえば》奈良に近い
「墨は学歴鯉が墨よし、されど中轆にてさへ半挺さへありがたし
郡山に住んでいた柳里恭は、次のようにいっている。
牛膠一而製レ之是南都抽烟墨之始也今偶存爾後南都土人微し之取二油煙
と見えたり。奈良墨の古きよし、中々もろこしも及び錘し。中国の
ても五、六十年以前は格別、共外三十年以来の墨は唐紙にあほぬ他
「墨は油煙よりも松煙にて椿へたるがよし。日本にて南都などに
よし。程君尻十二竜撤もよし。足も此頃渡ろば懇しぎ也。」
墨も漱金家蔵といふ墨惣てよし、此頃の渡り墨也。呉天術が此君墨
]造し之今洛陽称一一墨所一者亦其製造精密而不レ槐’一中華之所声作也」(注
一一一一一)o
「雍州府志」中の、型に関する紀駆はこれだけである。もともと
かれは、林羅山に儒学を学んだ医師で、はじめ浅野家に仕えたが、
のち京郷に移住し、元禄二年に死んだ人物で、ほかにも京都や山城
6
ぞ、心みよと勅定ありければ、おとど右大将にすすめられたりけれ
の定也けり。左府見とがめて、しきりに感喚のけしきありけり」
ば、硯を引よせて蝿をとりてすらせ袷ひけり、そのざま除目の執躯
、-夕
。
奈良の油煙墨のはじまりといわれる、典補寺二諦坊の製墨は、一
一
「墨近江武佐丹波貝原丼洛下太平墨之製造目し古有し之然其色淡黒
五
一
「推州府志」がある。
グベ
il:
而施簿中世南都典補寺二締坊取頑持仏堂焔火焔之燕二洲麗字一者血和》|
、-’
二
四世紀末のことと考えられる。これについての文献に、黒川道佑の
戸、
これでみると、前代から続いている産地もあるが、新しくとり上
者曰脂片松品惟下下其降此外不足品第」(枇一七)。
煙墨が中心となった。ことに明末の万勝年代のころ、徽州の方干
かなり遺品があり、日本でも好叩家に蔵されているものがかなりあ
荊代には、乾隆年間を頂点とし、以後おとろえた。澗鍋は、今も
磐、程君房を肢高峯として製興業が栄えた。
》②。
げられた土地も多い。末は文迎のさかんな時期であったから、墨の
り、墨にも多くの等級があったことと思われる。
製造も急期したものであろう。また、松の簿級をこまかく分けてお
末のころの名工として涌谷があげられる。藤東城の時「孫霧老寄
末のころの名工として涌谷があげられる。燕東城の時「孫零
塁」中に、次のようにかれをほめている。
「但線無老松揚水無老工珍材取楽波妙手惟禰翁
史料はない。ただ、「令義解」に次のような紀蛎があるところから、
見られる。
図諜察の造畿手が作った墨については、「延菩式」に次の記駆が
春昼水三殿明腸枕金篭瀧飛白瑞識紫長虹」
末滅州の人で、「桐華煙」と名づける油煙墨をつくった。漆のよう
「几造し塾長功日焼得烟一石五升煮烟一斗五升拒魂摩”繩鴎熟成墨九
十一一一廷塞錘射亟凧中功日焼得烟九斗煮烟九升成墨八十廷短功日焼得烟
七斗五升煮烟七升五合成墨六十六廷」
に黒くて堅い製品を作ったという。「墨史」の文を次に引用してお
く。
廷の技術が、いつしか民間に伝えられたものであろう。製迪の典態
平安時代に入ると、各地で鍋が作られるようになったらしい。宮
挺の墨を作ったということになる。
升とし、これを二日二夜煮て一斗五升とし、これを原料として九一一一
これによると、図榔擬の迭墨手は、叉には日に焼いた燗を一石五
単九十三人」(注二○)。
服各庶布一段其食人別日米一升六台塩一勺六搬海藻二両替津一合惣
一ハ尺騨紺布四端阿膠小六斤八両席一枚食醐一一枚騨造手四人袷衣
すこし
「九年料所造畿四百廷嘩極射絹七尺八寸蛎孤綿八両鰄鋤調布一丈
末代の油煙墨の墨工としては、胡景純が有名である。かれは、南
を入れたり、紅花墨を発明したりしたという。
にすすんで、墨の製法をも研究し、海南松煙で東城法墨を作って銘
祁令制成立期には既に製鍋がはじまっていたと考えられる。
「図諜祭……造鍋手四人。戦し造し蝿」(注一九)。
日本での製鍋がいつからはじまったか。それについてのたしかな
四
來埴は、非端な墨の愛好家で、名墨を多く収架した。そして、さら
触胞熟万杵凧角錐双竃墨成不敢用進入蓬莱宮蓬莱
、ン
「胡景純潔州人専取桐油焼煙名曰桐華煙共製笹堅薄不為外飾以眩
俗眼大者不遇数寸小者園如銭大毎膳硯間其光可鑑画工宝之以点目瞳
子如点漆李彦穎云長沙多墨工唯胡氏墨千金獺髄者掻著州之大街西安
業坊有煙墨上下巷永豊坊有煙上毯今有椰子儀目訓得胡氏法俊臣俗名
熟胡院子」(注一八)。
末に続く元のころは、末のころの手法を踏襲しただけで、大した
明代になると、南贋・末代とならぶ、中風製繩史上の筑金時代と
発展はなかった。
なった。そして、前者では松煙を主としたのに対して、明代には油
5
'■、
「天平十八年九月二日写後経所解案
写後経所解申請筆墾事
合講筆一滴墨弐廷」
「天平二十年識千部料墨筆帳
正月十一日目内裏給出鹿毛罐二十筒墨五十廷並千部
科」
造東大寺司牒紫徹中台
「天平宝字二年六月Ⅱ一日写千巻経所移雛築
講銭壱捻捌質玖拾弐文
四質三百廿文菟毛筆一百八管直料管別冊文
二質一百文墨七十廷直料廷別冊文Ⅱ文
鹿毛簸廿笹直料管別一文」
正倉院の船型墨は一二本あり、丸棒のものも二本ある。「新羅楊
家上墨」「新羅武家上墨」の陽刻のあるものもあり、朝鮮産の墨が
まじっていることがわかる。いずれも松煙墨である。文献の上で
は、日本へ紙墨がはじめて伝わったのは、推古天皇の一八年という
ことになっている(注一五)。「日本書紀」にあげられている間麗燗畿
徴は、伝説上の人物で実在したかどうかは不明であり、推古一八年
という年代もたしかなものではない。しかし、五、六世紀は、大陸
文化がさかんにとり入れられた時期であり、高麗は前述のように墨
の名産地でもあるから、この時期に、大陸より墨がもたらされたこ
とは、まちがいない。だが日本に鰻も早く墨が伝えられた時期とい
凸冷う
うことになると、大陸と日本との交渉峰既に弥生時代からはじま
っているから、文献にあらわれたものよりも、もっと古く湖りうる
のではないかと思われる。
五代のころになると、安徽、宣州、欽州の松が便.われる。この)」
ろ中原は戦乱の巷となり、易水に多かった墨工哺平和な南唐に移
り、欽州の地に定着した。欽州は朱のこる徽州と改名、その後千年
にわたる徽州墨の名声の基がつくられたのである。南店初期の名工
として伝えられているのが李廷珪で、その父李超の作品とともに李
家墨といわれ、米のころ非常に珍亜されたという詔が残っている。
この廷珪の墨の一つは、民国一九年刊の「故宮周刊」に紹介されて
いる。その後、日本との戦争および国共内戦の時期を経ているが、
い}つo
おそらく現存するものと考えられる。季廷珪の墨は、「堅き》」と玉
のごとし」(注一六)などといわれ、非常に堅いものらしい。かれは、
墨をつくるたびに、真珠三両を使い、杵で一万回もついて作ったと
末代になると、松煙墨が引き継ぎ作られるが、北宋後期から南末
にかけて、油煙墨が作られるようになった。ただ、油煙は松煙に比
べて高価なので、多くは作られなかったであろう。
末代の松については、「墨経」に次のような記事が見られる。
「今尭州泰山楓採山島山蝿山肝州亀山蒙山密州九仙山登州牢山鎖
府五台刑川脇州太行山鑑州抵陽山汝州寵君山随州桐柏山術州共山碕
州阿山池州九津山及宣欽諾山皆塵松之所菟肝識密之間山総訓之東山
鎮府之山即日西山目普東山之松色沢肥賦性賛況工品惟上上然今不復
有今其所有者織十余歳之松不可比西山之大松兼西山之掻与易水之松
相近乃古松之地与黄山灘山羅山之掻品惟上上遼陽山遜君山桐柏山可
甲乙九華山品中共山河山品下大蘂松根生決苓穿山石而出者透脂松歳
所得不過一一一一一株品惟上上根幹肥大脂出若珠者曰脂松品惟上中可掲而
起視之而明考曰掲明松品惟上下明不足而紫考曰紫松品惟中上砿而挺
適者日鐘松品惟中中明不足而焚者曰黄明松品惟中下無膏油而漫若糖
質然者曰糖松品惟下上無奇油而類杏者曰杏松品准下中共出歴青之余
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ており、松煙墨ならばそのような古墨は背墨でなければならない
蒲子良、王僧虚は、ともに梁の人であるから、約一一五○年を経過し
から、「漆のごとし」という形容はおかしいという考えもある(注
九)。
このころの墨は墨汁だという説もある。たとえば、次のような説
明がなされている。
「支那の昔、魂や晋の頃に、墨丸というものがありました。之は
漆を煉らせた煙と、松を燃やした煙とを混ぜて作りました。奈良の
正倉院御物にもありますような凹心硯、即ち中心の凹んだ硯に入れ
て墨汁として使用しました。それが貯えて遇くと腐敗するものです
から、石榴の皮を搾って防腐剤としました。是が非常に貴重なもの
でありまして『金壷汁』『銀壷汁」と称し、金或は銀の壷に貯えた
ものであります」。(注一○)。
しかし、現に晋代の硯が出土しており、墨池をもっていて、固形墨
を磨るのに用いたと考えられるので、右の説が認められたとして
も、固形墨の存在を否定する』」とはできない。また、一九五八、九
年には、この》」ろの顔氏の墓から、墨が発掘されており、成分は現
在の墨と同じと報告されている。
なお、「墨経」には、このころの墨について、次のように記して
いる。
「晋貴九江庫山之松衛夫人筆陣図曰墨取魔山松煙」(注二)。
唐代の墨については、元末の陶宗蟻の「報耕録」に、次の文があ
る。
(注三一)。
「上古は墨なし。竹挺漆を点じて書く。中古は石の磨汁を以て
す。或は是を延安石液と云う。魏晋の時始めて墨丸あり。乃ち漆烟
と松煤を央和して之を為す。晋人多く凹心硯を用いる所以は、磨墨
貯藩を欲するのみ。後、螺子墨あり、亦墨丸の遺製なり。唐、高麗
松煙墨を歳貞す。多年の老松煙を用い、塵鹿膠を和して造成す」
これでみると、唐のころ、高麗から松煙墨がもたらされたよう
で、その作り方から見て、良質の墨と考えられる。いつぼう、「墨
経」には、次のように記されている。
「唐則易州淵州之松上党松心尤先見貴」(注一三)。
上党の松はすなわち、太行山脈の松である。また、「墨史」には、
易水の製墨家の名が見える。易州の松は、かれらによって使用され
あらわれるようになっている。
たものであろう。李白の詩に、「蘭爵凝珍墨」とあるのは、上党の
松に薬を入れた(注一四)ということである。声」のころ、墨工も多く
遣唐使がさかんとなった唐のころには、多くの墨が日本仁迎ばれ
たものと思われる。正倉院御物の中に、唐代の船型墨が現存してい
る。表には腸刻で「皇極貞家墨」とあり、裏に朱書で「開元四年丙
辰作貞□ロロロ」とあって、七一六年へすなわち玄宗の初期のころ
のものと知られる。約三○センチの大きな墨である。やはり正倉院
ろうかという疑問が残る。
これによると、晋のころには、九江の廠山の松からとったことにな
るが、衛夫人の筆陣図は晋のころのものでなく、梁のころのもので
あり、したがって術夫人の作ではないと考えられる。この点につい
て、李家正文氏の「筆談墨史」は、不用意にこの史料を引用してい
いる。
これに関連して、「正倉院文書」には、次のような記録が残って
にのこっている硯の大きさから考えて、このまま用いられたものだ
るとのそしりをまぬがれない。
3
というふうにあるのによって、墨に対する伝統的な考えを知ること
ができる。ここにあげられた書名中、「墨書」は不明であるが、「鶚
経」は末の晁貫之の箸にかかり、製墨についての代表的な古典とし
て有名なものである。晁貫之は、二1---世紀の北宋の人で、愛
墨家として知られ、自分でも「晁季一奇寂軒造」の銘を入れたすぐ
れた墨を作った人物である。中国における製墨研究の著述ば、「墨
経」からはじまり、その後幾多の著述がなされたのである。
(一一一)
墨の起原については、股の青銅器文化に先行する彩陶文化に使わ
れた赤墨の顔料に、その原始形を求めるべきだといわれている厘
三。続いて、股代にも、墨で書かれた甲骨片や陶器が出土してい
るし、さらに周代の竹簡にも、墨香がみられる。これにより、殿代
かを実証することはできない。
以降は、墨や筆があったことが確認されるが、どんなものであった
春秋戦国時代の鵠は、漆墨であり、漢の杠林が、漆書きの「古文
尚書」を手に入れたとか、漢の宮殿の蘭台の蔵書に、漆杏きの経書
でつ瞳く
があったというのも、みなこれであって、漆に黒さを与えるため
に、墨の汁をまぜたものだという(注一二)。また、「周害」に、浬墨
の刑というのがあり、罪人の顔に入れ墨をさせ、犯人である声」との
目じるしをしたので、これにも墨汁を用いたものであろう(注四)。
もっとも、これにより先に石墨で文字を書いたこともあり、「括地
志」の次の文素がその証拠だとされる。
「東都寿安県の洛水の側に石墨山あり。岩石尽く黒し。以て疏を
書すべし。故に石墨を以て山に名づく」(注五)。
なお、漢代の硯は、いくつか出土しており、多くは墨池を持たな
いが、安徽省大和県税馬鎮出土のものは、一一個の墨池を持つものが
ある(注六)。また、広州市竜生岡の漢の墓から、まゆずみ用と思わ
れる棒状の墨が発掘されているから、このころ既に固形の墨が作ら
れていたものであろう。
ゆぴ
前引の「墨経」には、その冒頭に、次のように記している。
「古用松煙石墨一一種石墨自習魂以後無間松煙之製尚突漢貴扶風臓
醍終南山之松察質漢官儀曰尚書令僕丞郎月賜醗襲大墨一枚小墨一
枚」(注七)。
すろ
これにより、漢代に松煙墨があったことが知炉つれる。扶風。険座
峰いずれも映西省にある地名で、終南山は秦嶺ともいわれる名山
である。「鶴林玉露」には、著書が少年のころ錨陸で安覚という
ここで、墨を一枚二枚というかぞえ方をしており、さらに晋の「東
日本僧に会い、かれが墨の声」とを日本霊叩で蘇弥といったと記してあ
り、ここから、日本語の墨の語源は隙畷だという説が出されてい
る。隣鴎はそのころ、墨の代名詞となっていたのである。
宮旧事」に、皇太子の初拝に、香墨四丸を袷すとあるから、このこ
ろの墨は、丸い形であったと考えられる(注0。なお、墨の成立に
大きな影響を与えたのは、紙の使用であろう。伝説では、後漢の察
倫が、一○五年に発明したことになっているが、前漢の蕊と推定さ
れる古墳から紙が発掘されているので、もっと測りうるらしいが、
まず漢のころと比定してよいようである。
三国のころの史料としては、「墨史」「墨海」などに引用されて
いる次の文があげられる。
「蒲子良答王僧度曰仲将之墨一点如漆」。
ただし、仲将は章誕の字で、魂の)」ろ能書をもって聞えた人であり、
2
製墨史考
奥谷道夫
だのは、ただうつくしさを今にひろめるばかりではたく、さらにう
つくしさを後につたえんためであったと思われる。そのかみの晋店
蝿は日本の発明品でなく、中悩より伝わったものである。脚本で
の製鍋は、早く抑令の職口令に記峨があるから、舶峨品だけに依存
せず、自国で造ることも早くから行なわれていたらしい。しかし、
何分にも中国を師とするわけであるから、製畿法などについては、
である。商深甫が『墨の上手なもちいかたは、質は軽いものをえら
てしまう。だからこそもちいる聖はよいものでなければならないの
っかりなくなり、二三年にもならないうちに墨の色がはやくもあせ
(|)
中国における方法の学習を前提としたもので、江戸時代後期の古梅
び、煤は滑らかなものをえらび、嘆いてもかおりがなく膳っても音
の櫛や米元の画はみな数百年のあいだ伝わってきても、墨の色は楼
園においてさえ、中国の古製墨法に学び、さらにより進んだ方法を
い水をそそぎ、力をいれないようにして膳る。いそいで膳ると熱く
のしないものをえらぶ。あたらしい硯(古い硯の誤りか)にあたらし
んでしまうし、もちいかたが淡ければ扱只をやりなおすと神気がす
わるいものであったならば、もちいかたが鰹ければ水にあうとにじ
のようで、神気はそのおかげでもとのままのこっている。もし鍋の
試みようとしている。本稿は、日本の製墨史研究の過程において、
中風および日本の製墨について行なった若干の考察を順序不同で櫛
きとめたノートである。
て、勝ったの左ながらくそのままにしておいてはいけない。峡で鯉
なり、熱くなると沫ができるのを忌む。使うはしから膳るようにし
にこころがけ、墨の稗を一ぱいつけておいてはいけない。ながらく
(一一)
むかしの中旧人は、どのように蝿を、あるいは鍋の色を愛玩して
貯蔵しておくと膠が枯れて、墨の作用がよくなるものである。」とい
がよごれ、膠でどろどろになる。使ってしまったら洗っておくよう
きたか、これについて、たとえば、折の屠陸の「考繋余事」には、次
っているのは、まことに塞墨三昧のことばである。古今の墨のつく
りかたは墨経、墨薔につまびらかである」霊一)
のように記している。
「むかしの人が墨をもちいるのにかならずよいしなものをえらん
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