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T・ グラタン著 「ワーズワース, ドーラ, コウル

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T・ グラタン著 「ワーズワース, ドーラ, コウル
93
〈翻 訳〉
T.グラタン著「ワーズワース,ドーラ,コウル
リッジのベルギーとドイツの旅」(1828)(3)
原 田 俊 孝
1)
前2稿で,Wordsworth, Dora, Coleridge, Grattanの一行はBrusselsからWaterloo
を経てNamurまで行き(6月26日),そこからRoillonを経てDinantまでの日帰り旅
行を楽しんだ(27日)ことを述べた。本稿では,その夕方NamurのホテルでのColeridge
の話からはじまる。そしてその翌28日,一行はミューズ川を船で下りLiさgeへと旅立つ
が,Grattanはそこで別れた。従って,彼の日記はここで終わる。
ついでながら,Wordsworthの一行はCologne(K61n)からライン川をさかのぼって
Bonnへ行き,更にオランダの諸都市を回遊してAntwerpからOstendへ出て,船で帰
国したのである。この時の様子はJulian C. Young, A Memozr of CharJes Mablne Young
(London and New York:Macmi11an and Co.,1871)に詳述されている。これについて
は稿を改め試訳するつもりである。
夕方,ナミューのホテル ドゥ フランドル(H6tel de Frandre)の中庭を散歩してい
る時,コウルリッジは私の腕をつかんで「話を聞かせてあげよう」と言った。それから次
のように話し始めた。
「私(コウルリッジ)の『仔情民謡集』が初めて出版された時,それが匿名であったの
でかなり騒ぎ立てられた。出版後二,三日して,私はバーボールド夫人(Mrs. Barbauld)
の家でご馳走になったが,その時地理学者のピンカートン(PinkertQn)の隣に坐った。
私たちは一緒にいろんな話をした。その時私は彼がとてもおもしろい人で,世間の情報を
よく知っている人だなあと思った。私たちが応接間へ戻る時,彼は私を奥へ連れて行き,
テーブルの上に置いてあった『撞情民謡集』の本を取り上げた」
1) r彦根論叢』(滋賀大学経済学会),第210号(昭和56年9月)及び第212号(昭和57年1月)。
94 彦根論叢 第216号
「あのう」とピンカートンは言った。「この本を読まれましたか」
「その本をのぞいて見ましたよ」
「著者が誰か知っていますか」とピンカートンは尋ねた。
「あなたは著者が誰か知っていますか」と私は気付かれないように尋ね返した。
「知りませんねえ」とピンカートンは答えた。「だけど,私はこんなしようもない本を
読んだことがありませんよ。特に『老水夫』と言うのは愚の骨頂ですよ。あなたはそれが
しゃくにさわると思いませんか」
コウルリッジ:
ピンカートン:
耐えられないか!
憎らしいよ!
いまいま
コウルリッジ:
忌忌しいか!
ピンカートン:
いやらしいよ./
コウルリッジ:
むかつくか/
ピンカートン:
調子づけてくれますね。文学の衰退している今日,健全な趣味をもっ
た方とお会いできて本当に喜ばしい限りです。もし私に批評する力があれば,みんなが噂
しているこの『右心民謡集』のうち,特にこのくだらぬ「老水夫」の大部分を非難でぎる
のですが。
コウルリッジ: しつ/ それ以上しゃべらないで。バーボールド夫人がこっちへ来ら
れますので。夫人は著者の名前を知っていると思うので,気を悪くされるからね。
ピンカートン1 (コウルリッジのボタンを引っ張り,かぎたばこの大つまみを吸い,
ひそひそと話す)この問題をうやむやにしておいてはいけませんよ。タークス ヘッド
(Turk’s Head)で一緒に食事をする日取りを決めよう。個室を借り,ビーフステーキ,
古いワイン,ペン,インク,紙一帖を用意しておこう。二人で話し合ってこれを批評しよ
う一もしこれをこっぴどくこきおろしたり,こっぴどくずたずたにしたり,こっぴどく
...しなければ....
「もししなければ,../」とコウルリッジは言った。
「取り引きですか」
「全くその通り」
「よしきた/」
「よしきた/」
コウルリッジはこのように自分の話を脚色しながら(そう言えるであろう),ユーモア
〈翻訳>T.グラタン箸「ワーズワース,ドーラ,コウルリッジの
ベルギーとドイツの旅」(!828)(3) 95
たっぷりに楽しそうに教えてくれたが,一方私はどうなるのだろうかという期待にわくわ
くしたり,またその朝たまたま浮かんだふさわしい例を彼のために引用したりして,話そ
のものよりずっと楽しかった。しかし,彼は片手を私の肩にのせ,ぎさくなお人よしのこ
の上なく親切な口調で「ねえ,グラタンさん,ピンカートンほどの理由もないんだが,私
があなたのお役に立っているように私自身も助けてもらっているんですよ。ワーズワース
は私が間違いを言ったことを教えてくれました。私がとてもひどくけなしたあなたの作品
をまだ一度も読んだことがないんだよ。でも,あなたの作品の全部を読むように心にとめ
ておくよ。きっとそれは心底からの喜びとなるだろうと思います」と言った時,私はがっ
かりした。
ピンカートンと次に会った時,彼はどんな様子をしていましたかと,コウルリヅジに尋
ねてその話を終えた。
「あれ以来まだ一度も会っていないんだよ」と彼は答えた。「彼は私が思いもよらなか
った侮辱に対し憎んでいるときっと思っているよ でも,それは彼がスコヅトランド人
だからだよ。しかし,私はあなたが私を憎んでもちっともこわくないよ」
「なぜですか」と私は尋ねた。
「それはあな:たがアイルランド人だからです」
私の国に対するこの賛辞があまりに愛想よく発せられたので,私はそれを私個人に向け
られたと思った。しかし,私たちが触れた重大な民族の話題と言えば,カトリック教の解
放と‘Potatoes’の問題だけであった。
カトリヅク教の解放について,彼はその法案にかたくなに反対しているわけではないこ
とを私に確信させようという目的で話した。しかし,それに対する彼の理由づけは混乱極
まりなかった。彼の談話では私が入り込む余地のない宗教,政治,形而上学を混同してい
た。彼はその問題と取り組んでいないか,あるいはどんな長所も短所もつかんでいなかっ
た。その大問題の争点が終始彼の意見によったとしても,彼の考えについてゆくことはむ
ずかしいと思ったが.それは今重要でないことは幸いである。
‘Potatoes’について.コウルリッジは私に次のような話を教えてくれた。その話はその
時以来まだ一度も活字になっていないと思う。
彼の知人であるリンカンシャー(Lincolnshire)のある婦人が一人息子(准男爵の少年)
に非常に正確な発音を身につけさせようとして,第一級のPンドンの女性の家庭教師を高
給で雇った。もう少し大ぎくなってから男性の教師をつけるための準備であった。ある日
96 彦根論叢第216号
の夕食の時,その子供は一つ一つの音節を非常にはっきりと強調して,‘potato’が欲しい
と言った。
「それは違いますよ」とその家庭教師は言った。「もう一度言ってごらん」
「‘po・ta・to’を下さい」
「もう一度,よくないなあ」
「でも,その通りなんですもの」とその少年はおいおい泣きながら答えた。「僕はママ
に出す手紙に今日一‘p,o,ρo−t, a, ta−t, o, to’一一‘potato’一と綴ったんだもの」
「手紙ではそれでいいのよ,でもね,発音となると間違っているのよ」「‘Petato’と発
音するのよ。’Pe’はこのように口唇を引き締めて一‘Pe/’とね。‘po’と発音するのは英語
には‘pochay’〔p6u∫さi〕(駅馬車)しかないのよ」
「私はあなたにこの話を伝えよう。この話は独創的であるばかりでなく事実でもあるか
らです」とコウルリッジは言った。
コウルリッジはリー・ハントが『P一ド・バイロンと同時代の人々』(LOrd ByrOn and
Itis COntemPoraries)の中で自分について述べていることを話した時,自分の非常に細や
かな性格や気質や習慣を誇張していたので,お人好だが,想鎌回すぎるようなその作家
にコゥルリッジは相当困惑しているように思われた。コウルリッジはハント氏がある人か
らの紹介状をもらって来た時に一度会ったきりだと言った。コウルリヅジがハィゲイト
(Highgate)の自分の家の回りを歩いている時に・・ントに出会ったが,彼は家にさえ入ら
なかった。ハントは同時代の人々を素描しているが,その一人に気の毒なチャールズ・ラ
ム(Charles Lamb)がおり,彼の頭はアリストテレスの頭のようだと言って,ハントが
特におもしろがっていた,とコウルリッジは言った。
私はここで話題にのぼったりー・ハントの書物のどの部分であったか思い出せないが,
政治的な感情がハントについてのコウルリヅジのややけなしたような言い方に何か関係が
あるのだろうと思った。
私はコウルリッジとワーズワースにライン川まで行かないかと誘われたが一緒に行かな
かった。ミューズ川の小旅行で満足していたからである。二,三日で表面的とは言え,二
人をかなり正しく知るのに必要なだけはみてきたと思った。私はその間,彼らの態度や
(できうる限りの)性格を注意深く観察した。彼らは私にとても感謝していた。はるかに
2)
年上で,しかも習慣や意見の全く違う人たちと非常に短い期間にこれほど気さくな,親し
2)ワーズワースは自分は58才で,コウルリッジは3才年下であると言った。二人ともそれより若
〈翻訳>T.グラタン著「ワーズワース,ドーラ,コウルリヅジの
ベルギーとドイツの旅」(1828)(3) 97
い言葉を交わしたのは驚くほどだった。どうみても非常に満足している様な印象だったの
で,別れた方がよいだろうと私は思った。それで,彼らにいとまごいをしたが,その時,
今度は英国を訪問してハイゲイトのコウルリッジとウエストモアランド(Westmoreland)
のワーズワースに会いに来るようにという二人のていねいな招待を受けた。私はこのよう
なきっかけでぜひ二人を訪れたいと思ったが,まだそれを果たしていないのは残念であ
る。私が彼らを見た最後はナミューとリエージュとの聞の船の甲板の上だった。二人とも
ミューズ川の絶景をほめたたえていた,一方ワーズワース嬢はそれを写生していた。
私がブリュッセルで二人の詩人に会った家の夫人のアルバムの中に彼らが書いた詩を,
このような素描をするずっと前の「原詩」としてここに挿入しよう。両詩ともこのような
機会のためにすでに前もって用意されていたと思われた,そして二人とも以前にも同じよ
うなやり方で同じことをしているだろうと思った。というのは,これらの詩が最初の求め
に応じて.しかも12人もいた部屋で書かれたからである。
ワーズワース
1
ダブの泉のほとりの
人の通わぬ道に
ほめる人もなく
愛する人もまれな乙女が住んでいた
豆
苔むす石のそばの
人眼につかぬスミレ
それはたった一つの星が空に
またたいているように美しい
皿
乙女はひっそりと暮らし
ルーシーがいつ生を終えたか
ほとんど知る人もなかった
く見えた。(ワーズワースは1770年4月7日に,コウルリッジは1772年10fi 21日に生まれたから,
この時点ではコウルリッジは2年年下と言った方が正しい一訳者)。
98 彦根論叢 第216号
でも乙女は墓に眠っている一ああ
私にとって何という違いか。
コウルリヅジ
露のしずくは朝の宝石となるが
悲しいタベの涙ともなる
希望を失うと人生はただ
われらを悲しませるだけのものとなる
われらが人生の坂道を弱々しく下るにつれ
親切な御夫人よ 本当ですよ一
希望はわれらを去らぬが われらが希望を退け
青年の心の光を消すのは
多分「せかされた状態で」作られたここにかかげられた詩は,それ以来改訂され,修正さ
3)
れていたのであろう。私はこれらの詩を見た通りに述べているが.それに関して「批評
的」になるよりも「そのまま」にしておいた方がよいと思う。
二年ほどして,ハーグ(Hague)で冬を過ごしていた私は,そこの郵便局でハイデルベ
ルク(Heidelberg)滞在のウィリアム・ワーズワース氏に出した手紙が,外国郵便料金不
足のため,他の手紙と混じって保管されているのに気付いた一文化的な交わりの中で多
忙とは言え,恥ずかしい失敗をしでかした。うかつな手ぬかりか,規則を知らなかったの
か,あるいは新聞記者の場合,ニュースを書いた原稿の前払いができなくて,何十万もの
人たちが宛先の人の感情や利害を深く伴っているのに決して受けとられないとは,何と悩
み,悲しみ,喪失感を味わってきたことだろうか。前納をいつでもまたどこでも随意にで
きぬとは,何と情けない制度であろうか。それらを統治する大きな社会的機関や立法機関
は国民へのサービスのために存在するのに,国民にかくも冷酷であるとは何と情けない,
非人情なことか。このような機関が民衆に対し,「感情的」あるいは「同情的」であり過
3) ワーズワースの詩は1799年に作られ,1800年に出版された“Lucy Poems”の一一一一つである。一
方,コウルリッジの詩の一部(11.1−4)は,1823年に作られ,1832年に“An Old Man’s Sigh:
aSonnet”と題してBiackwood’s Magazineに公表された。そしてこの詩は1834年出版の
“Youth and Age”の一部となる。グラタンは二人の詩を読んでいなかったことになる一訳者。
<翻訳>T.グラタン著「ワーズワース,ドーラ,コウルリヅジの
ベルギーとドイツの旅」(1828)(3) 99
ぎるとして,笑われることを恐れて,かかる小さな問題を考えてみようとしないためだと
私は思う。
問題の手紙について言えば,私はすみやかに郵送してくれるように手続きをとった。そ
して,誰かある人にとっては極めて重大であったに違いない不足分の二,三サンチームを
支払った。手紙の裏に私は添え書きをした。それは当時,ハイデルベルク大学の学生であ
4)
つたワーズワース氏の息子宛であることが分かった。彼は私の小さな行為を父に伝えてく
れた。すると,その父は次にある人(ロック/・一ト氏〔Mr. Lockhart〕であったと思う
が)にこのことを気さくに話した。そしてその人が後になって私に繰り返してくれた。こ
のことは私が湖水地方にいるワーズワースを訪問するというまだ果たしていない約束だけ
でなく,彼に手紙を出そうという気にもさせた。彼の娘へのプレゼントとして『ブルージ
ュの女相続人」を一冊手紙にそえて送った。次の引用が彼の返事であった。私は好機を怠
り,逸したりして,交際を引き続きしなかったし,またここにこの不十分な素描をしてい
る有名な二人のどちらとも私の短期間の知己を発展させようとするどんな機会をももたな
かった。
ワーズワース氏の手紙
プライアンズストン通り,ポートマン スクエア
(Bryanston Street, Portman Square)
1831年1月5日
拝啓
あなたからの誠に御親切なお手紙が,今私の前にございます。この手紙はあなたの
御好意の大切な記念のようにも,また早く御返事すべきところ遅れたことへの非難の
ようにも思われます。実を申しますと,あなたの手紙にございました贈り物の本を一
目見たいと待っていたのです。またあなたの作品はどれもみな,私と私の作品がきっ
とあなたの作品に由来していた喜びを私に感じさせるという便りをすれば,私の手紙
は多少なりとも有益であろうと思ったからです。何か月も経ってしまいましたが,そ
の本は私の元へ届きませんでした。私はそれを尋ねてもみましたが,だめでした。そ
れから,ブリュッセルで不幸な革命が起こりました。きっとあなたは避難されたこと
4)ワー・ズワースの3男William Wordsworth(1810−1883)のこと。1847年にブライトン
(Brighton)のFanny E. Grahamと結婚した一訳者。
100 彦根論叢 第216号
でしょう一どこへかは分かりませんが。私は10日ほど前にロンドンへやって来て,
・・ムステッド(Hampstead),フラム(Fulham)などに移り住んでいます。しかし,
うれしいことに,あなたの本がライダル(Rydal)へ郵送されておりますので,二,
三日のうちに田舎にいる私の妹や家族を喜ばせるに違いありません。うぬぼれではあ
りませんが,私の誇りで愛する人でもあるとあなたがじょうずを言って下さった私の
妻や娘も共にロンドンに来ておりますが,二人は今サセックス(Sussex)におり,明
日合流することになっております。
ここでの短い滞在の間,私は多忙なので,多分あなたの本を読むことができないだ
ろうと申し上げねばならぬのは残念です。このことを見越して,あなたの本が手に入
るとすぐに,私の余暇に読む他の本と一緒に郵送しました。私は大変楽しく思い出す
5)
のです。共に過ごした数日間愉快な話をしたこと,馬車でのおどけた冒険のこと,あな
たの本の背景となり,私が是非訪れたかったミューズ川のあの城のこと。あなたはそ
の城を生き生きと描写した,そして私はそれを夕闇の中で見たことを一それともこ
れは想像上のことか。ディナーンを見下ろしながら,二人が坐ったそぼのお粗末なチャ
ペルや十字架にあなたは触れたかったね(私はこわくて絶対に触れたくなかったが)。
今私や家族全員が大変な御好意と察しております本に感謝申し上げます。また細か
な事ではありますが,ハーグで保管されていた手紙を私の息子に出して下さいまして
心からお礼を申し上げます。私は郵便料金の借りを考え,あなたに恩返しできれば幸
いです。
あなた自身も,奥様も,家族みんな,人も財産もブリュッセルの動乱で危害を蒙ら
れないことを望んでおります。民衆の改革によって住み家から追い出されることは常
に憂うつかつ大変危険であるに違いありません。英国とアイルランドとが不安な状況
にあることはきっとお気付きでしょう。その結末がどうなるか誰にも分かりません
一すべては恐怖に満ちておりますが,考え悩むだけであります。
敬具
ウィリアム・ワーズワース
この率直かつ親しみある手紙の中で一言しておきたい点が二つだけある。一つはワーズ
5) これは連れのうちの二人目バァーターローからナミューへ行く途中で,役者的にふるまった小
さな出来事への言及である。それについて私は劉に適当な箇所で述べるであろう。
<翻訳>T.グラタン著「ワーズワース,ドーラ,コウルリッジの
ベルギーとドイツの旅」(1828)(3) 10!
6)
ワースがベルギー革命を「不幸な」革命と呼んでいる点である。これはその成功に携わっ
た国民性と独立心の原理とが同時に起こっていないことの証明である。また「みずから」
逃れはしたが,「財産」は莫大な損失を蒙った。
もう一つは郵送料不足分の追加に関する愉快な表現から引き出される道徳のことであ
る。偉大な美徳の償いがいかに疑わしいものであろうとも,(ほんのちょっとした)行な
いが時としてよい結果をもたらすということである。
共に過ごした短い交際の後,これまでにコウルリッジのことを直接に聞いたのは,私が
招待状を書いて,ハイゲイトで彼と出会ったある人の仲介を通してだけであった。次の引
用はその人から聞いた一部である。
つと
私がコウルリッジに会うと,とても親切に迎えてくれました。彼の夜の集いまでに
はなっていなかったが,来週に行くと約束した。彼は『公道と脇道』を読んでとても
満足したと,私に教えてくれた。コウルリッジはみだらな冗談を彼らに言った状況を
説明した。ベルギーの駅馬車に乗っていた乗客に関して,あなたの友達の一人,後で
私の大学の旧友であることが分かったその人にいささか手厳しい酷評をし続けた
が知り合いであることが分かってすぐに話をやめ,お人好だから2度目の失敗をした
と言って笑った。私はコウルリッジが大変好きである。彼は温和で都会的な感じがす
る外には哲学者らしいところは何も見えなかった。
この最後の言葉はコウルリッジの態度にのみ触れていた。もしその人が自分の心をみが
こうとしていたら,コウルリッジの哲学について夢にも思わなかったことに気付いていた
だろうに。
(完)
6)ベルギー革命は1830年8月25日,市民軍の一団がブリュッセルで暴動を起こしたのに始まる。
暴動はただちに諸州に飛び聾した。そして1831年1月,ベルギーはついにネーデルラント王国か
らの独立が承認され,7月21日,レオポルド1世(在位1831−1865)が即位し,立憲君主国とし
て発足した。暴動が起こった時点では,王権を打倒しようとする意図はなく,ベルギー(ヵトリ
ック)とナラソダ(プPテスタソト)の行政的分離の要求だけであった。それが独立にまで発展
した。原文にある「不幸な」革命をグラタンが「国民性と独立心の原理とが同時に起こっていな
い」と説明しているのは上述のことを指していると思われる一訳者。
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