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無職転生 − 異世界行ったら本気だす

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無職転生 − 異世界行ったら本気だす
無職転生 − 異世界行ったら本気だす −
理不尽な孫の手
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
無職転生 − 異世界行ったら本気だす −
︻Nコード︼
N9669BK
︻作者名︼
理不尽な孫の手
︻あらすじ︼
34歳職歴無し住所不定無職童貞のニートは、ある日家を追い出
され、人生を後悔している間にトラックに轢かれて死んでしまう。
目覚めた時、彼は赤ん坊になっていた。どうやら異世界に転生した
らしい。
彼は誓う、今度こそ本気だして後悔しない人生を送ると。
︻2015年4月3日23:00 完結しました︼
1
−
蛇足編
−
完結後の番外編はこちらで連載中です。
無職転生
http://ncode.syosetu.com/n4251
cr/
2
プロローグ
俺は34歳住所不定無職。
人生を後悔している真っ最中の小太りブサメンのナイスガイだ。
つい三時間ほど前までは住所不定ではない、
ただの引きこもりベテランニートだったのだが、
気付いたら親が死んでおり、
引きこもっていて親族会議に出席しなかった俺はいないものとし
て扱われ、
兄弟たちの奸計にハマり、見事に家を追い出された。
床ドンと壁ドンをマスターし、
家で傍若無人に振舞っていた俺に味方はいなかった。
葬式当日、ブリッヂオ○ニー中にいきなり喪服姿の兄弟姉妹たち
に部屋に乱入され、絶縁状を突きつけられた。
無視すると、弟が木製バットで命よりも大切なパソコンを破壊し
やがった。
半狂乱で暴れてみたものの、兄は空手の有段者で、逆にぼっこぼ
こにされた。
無様に泣きじゃくって事無きをえようとしたら、着の身着のまま
家から叩き出された。
ズキズキと痛む脇腹︵多分肋骨が折れてる︶を抑えながら、とぼ
とぼと町を歩く。
家を後にした時の、兄弟たちの罵詈雑言が未だ耳に残っている。
聞くに堪えない暴言だ。
3
心は完璧に折れていた。
俺が一体なにをしたっていうんだ。
親の葬式をブッチして無修正ロリ画像︵兄の娘を風呂に入れた時
にデジカメで撮りました︶でオ○ってただけじゃないか⋮⋮。
これからどうしよう。
いや、頭ではわかっている。
バイトか何かを探して、住む場所を見つけて、食べ物を買うのだ。
どうやって?
仕事を探す方法がわからない。
いや、なんとなくだが、ハロワにいけばいいということはわかる。
が、伊達に十年以上引きこもっていたわけじゃない。
ハロワの場所なんかわかるわけもなし。
それに、ハロワにいっても仕事を紹介されるだけだと聞いたこと
がある。
紹介された所に履歴書を持っていき、面接をうけるわけだ。
この、エッチな液体で袖とかカピカピなって、ところどころに血
が付いた服で面接を?
受かるわけがない。
俺だったらこんなクレイジーな格好した奴は絶対に採用しない。
共感は覚えるかもしれないが、絶対に採用はしない。
そもそも履歴書の売っている店もわからない。
文房具屋か?
コンビニか?
コンビニぐらいは歩いてればあるかもしれないが、金は持ってい
ない。
4
もし、それらがクリアできたとしよう。
運よく金融機関か何かで金を借りることが出来て、服を新調して、
履歴書と筆記用具を買ったとしよう。
履歴書というものは住所が無いと書けない、と聞いたことがある。
詰んだ。
ここにきて、俺は人生が完全に詰んだのを自覚した。
﹁⋮⋮⋮はぁ﹂
雨が降ってきた。
もう夏も終わり、肌寒くなってくる時期だ。
冷たい雨は何年も着古したスウェットに難なく染みこみ、容赦な
く体温を奪った。
﹁⋮⋮⋮やりなおせればな﹂
思わずそんな言葉が溢れる。
俺だって、生まれた時からクズ人間だったわけじゃないのだ。
そこそこ裕福な家庭の三男として生まれた。兄兄姉弟。5人兄弟
の4番目。
小学生の頃は、この歳にしては頭がいいと褒められて育った。
勉強は得意じゃなかったが、ゲームがうまくて、運動もできるお
調子者。
クラスの中心だった。
中学時代にはパソコン部に入り、雑誌を参考に、お小遣いを貯め
て自作PCを作成。
5
パソコンのパの字も知らなかった家族からは、一目も二目も置か
れていた。
人生が狂ったのは高校⋮⋮いや、中学3年からだ。
パソコンにかまける余りに、勉強をおろそかにした。
勉強なんか、将来に必要ないと思っていた。役に立たないと思っ
ていた。
その結果、県内でも最底辺と噂の超絶バカ高校に入学するハメに
なった。
そこでも、俺はイケる気でいた。
やればできる俺は、他の馬鹿どもとは出来がちがうんだと思って
いた。
あの時の事は、今でも覚えている。
購買で昼食を買おうとして並んでいた時、いきなり横入りしてき
た奴がいた。
俺は正義感ぶってそいつに文句を言った。
当時、変な自尊心と、中二病心あふれる性格をしていたためにや
ってしまった暴挙だ。
相手は先輩で、この学校でも一、二を争うほど危ない奴だった。
放課後、俺は顔が腫れ上がるまで殴られ、全裸で校門に磔にされ
た。
写真もいっぱい取られた。
もし俺が美少女だったら、
さんざんレイプされた挙句、写真を取られて脅されて性奴隷にで
もされただろう。
残念ながら、俺は小太りのキモオタだった。
その時の写メは、いとも容易く学校中にバラまかれた。
6
何の交渉もなく、ただ面白半分で。
ヒエラルキーは一瞬にして最下層に落ちて、ホーケーという仇名
を付けられてからかわれた。
一ヶ月も学校に通わないうちに不登校になって引きこもった。
父や兄は、そんな俺を見て、
勇気を出せだの、頑張れだのと無責任な言葉を投げつけた。
どうしろと言うんだ。
あんな状況で、誰が学校にいけると言うんだ。
俺は引きこもった。
断固として引きこもった。
同年代の知り合いが、みんな俺の全裸磔と股間部のアップの写真
を見て笑っていると思っていた。
ずっと引きこもってネトゲをやった。
たまにP2Pソフトでエロゲーやエミュレータ、漫画を落とした
りした。
ネットとパソコンがあれば、時間はいくらでも潰せた。
ネットで影響を受けて、色んな事に興味を持ち、色んな事をやっ
た。
プラモを作ったり、フィギュアを塗装してみたり、ブログをやっ
てみたり。
母はそんな俺を応援するがごとく、ねだればいくらでも金を出し
てくれた。
が、どれも一年以内には飽きた。
自分より上の人間を見て、やる気が失せたのだ。
傍から見れば、ただ遊んでいるだけに見えただろう。
7
けれど、一人だけ時間に取り残され、暗い殻に閉じこもってしま
った俺には、他に出来る事がなかった。
いいや、今にして思えば、そんなのは言い訳だ。
ただ遊んでいただけだ。
まだしも、漫画家になると言い出してヘタクソなWEB漫画を開
始したり、
ラノベ作家になると言い出して小説を投稿してみたほうがマシだ
ったろう。
俺と似たような境遇でそうしている奴はたくさんいた。
そんな奴らを、俺は馬鹿にした。
彼らの創作物を見て鼻で笑って、﹁クソ以下だな﹂と評論家気取
りで批判していただけだ。
自分は何もやっていないのに⋮⋮。
戻りたい。
出来れば最高だった小学か、中学時代に。
いや、一年でも二年でもいい。
ちょっとでも時間があれば、俺には何かができたはずなんだ。
どれも中途半端でやめたから、どれも途中から始められる。
本気を出せば、一番にはなれなくても、プロにはなれたかもしれ
ない。
いや、よそう。
無駄だ。
無駄無駄。
こんなことを考えるのは無駄なのだ。
8
﹁ん?﹂
激しい雨の中、俺は誰かの言い争う声を聞いた。
喧嘩だろうか。
嫌だな、かかわり合いになりたくないな。
そう思いつつも、足はまっすぐにそちらに向かっていた。
﹁︱︱だから、あんたが︱︱﹂
﹁おまえこそ︱︱﹂
見つけたのは、痴話喧嘩の真っ最中っぽい三人の高校生だ。
男二人に女が一人。
いまどき珍しいことに、詰襟とセーラー服。
どうやら修羅場らしく、一際背の高い少年と少女が何かを言い争
っていた。
もう一人の少年が、二人を落ち着かせようと間に入っているが、
喧嘩中の二人は聞く耳を持たない。
︵ああ、俺にもあったな、あんなの︶
中学時代には、そこそこ可愛い幼馴染がいた。
そこそこ可愛いといっても、クラスで4番目か5番目ぐらい。
陸上部だったので髪型はベリィショート。
町を歩いて10人とすれ違ったら、二人か三人ぐらいは振り返る
かな、そんな容貌だ。
当時の俺は完全に2次元にハマっていた。
陸上部といえばポニテと言って憚らなかった。
そんな俺にとって、彼女はブスもいい所だった。
けど、家も近く、小中と同じクラスになる事も多かったので、
9
会話をする機会は多かったし、口喧嘩をしたりしたものだ。
中学になっても、何度か一緒に帰ったりもした。
惜しいことをしたもんだ。
今の俺なら、中学生・幼馴染・陸上部、それらの単語だけで3発
はイケる。
ちなみに、その幼馴染は七年前に結婚したらしいと風の噂で聞い
た。
風の噂たって、リビングから聞こえてきた兄弟の会話だが。
決して悪い関係じゃなかった。
お互いを小さい頃から知っていたから、気兼ねなく話せていた。
彼女が俺に惚れていたとかは無かったと思うが、
もっと勉強してあの子と同じ高校に入っていれば、
あるいは、同じ陸上部に入って推薦入学でもしていれば、
フラグの一つも立ったかもしれない。
本気で告白すれば、付き合う事ぐらいは出来たかもしれない。
そして、放課後に誰もいない教室でエロいことをしたり、
彼らのように、帰り道で喧嘩したりするのだ。
まさにエロゲーの世界。
︵そう考えるとあいつらマジリア充だな。爆発し⋮⋮ん?︶
と、俺はその瞬間に気付いた。
トラックが一台、三人に向かって猛スピードで突っ込んできてい
るのを。
同時に、トラックの運転手がハンドルに突っ伏しているのを。
10
居眠り運転。
三人はまだ気づいていない。
!!!!!
﹁ぁ、ぁ、ぶ、危ねぇ、ぞぉ﹂
叫んだつもりだったが、十年以上もロクに声を出していなかった
俺の声帯は、
肋骨の痛みと雨の冷たさでさらに縮こまり、
情けなくも震えた声しか発せず、雨音にかき消された。
助けなきゃ、と思った。
俺が、なんで、とも思った。
もし助けなければ、五分後にきっと後悔するんだろうと直感した。
凄まじい速度で突っ込んでくるトラックにハネられ、
ぐちゃぐちゃに潰れる三人を見て、後悔するんだろうと直感した。
助けておけばよかった、と。
だから助けなきゃ、と思った。
俺はもうすぐ、きっとどこかそのへんで野垂れ死ぬだろうけど、
その瞬間ぐらいは、せめてささやかな満足感を得ていたいと思っ
ていた。
最後の瞬間まで後悔していたくないと思った。
11
転げるように走った。
十数年以上もロクに動いていなかった俺の足はいうことを聞かな
い。
もっと運動をしておけばと、生まれて初めて思った。
折れた肋骨が凄まじい痛みを発し、俺の足を止めようとする。
もっとカルシウムを取っておけばと、生まれて初めて思った。
痛い。
痛くてうまく走れない。
けれども走った。
走った。
走れた。
トラックが目の前に迫っているのに気づいて、喧嘩していた少年
が少女を抱き寄せた。
もう一人の少年は、後ろを向いていたため、まだトラックに気づ
いていない。
唐突にそんな行動にでた事に、きょとんとしている。
俺は迷わず、まだ気づいていない少年の襟首を掴んで、渾身の力
で後ろに引っ張った。
少年は体重100キロの俺に引っ張られ、トラックの進路の外へ
と転がった。
よし。
あと二人。
そう思った瞬間、俺の目の前にトラックがいた。
12
安全な所から、腕だけ伸ばして引っ張ろうと思ったのだが、
人を引っ張れば、反作用で自分が前に出る。
当然のことだ。
俺の体重が100キロを超えていようと関係ない。
全力疾走でガクガクしていた足は、簡単に前に出てしまった。
トラックに接触する瞬間、何かが後ろで光った気がした。
あれが噂の走馬灯だろうか。一瞬すぎてわからなかった。
早すぎる。
中身の薄い人生だったという事か。
俺は自分の五十倍以上の重量を持つトラックに跳ね飛ばされ、コ
ンクリートの外壁に体を打ち付けた。
﹁かッハ⋮⋮!﹂
肺の中の空気が一瞬で吐き出される。
全力疾走で酸素を求める肺が痙攣する。
声も出ない。
だが、死んではいない。
たっぷりと蓄えた脂肪のおかげで助かった⋮⋮。
と思ったが、トラックはまだ迫ってきていた。
俺はトラックとコンクリートに挟まれて、トマトみたいに潰れて
死んだ。
13
第一話﹁もしかして:異世界﹂
目覚めると、金髪の若い女性が俺をのぞき込んでいた。
美少女⋮⋮いや美女と言って良いだろう。
︵誰だ?︶
隣には、同じくまだ年若い茶髪の男性がいて、ぎこちない笑みを
俺に向けている。
強そうでワガママそうな男だ。筋肉が凄い。
茶髪でワガママそうとか、
そういうDQNっぽいのは見た瞬間に拒否反応が出るはずなのだ
が、
不思議と嫌悪感はなかった。
恐らく、彼の髪が染めたものではないからだろう。
綺麗な茶髪だった。
﹁︱︱︱・・︱︱・・・・﹂
女性が俺を見て、にっこり笑って何かを言った。
何を言っているのだろうか。
なんだかボンヤリして聞き取りにくいし、全然わからない。
もしかして、日本語じゃないのか?
﹁︱︱︱︱・・・・・︱︱︱・・・﹂
男の方も、ゆるい顔で返事を返す。
いやほんと、何言ってるのかわからない。
14
﹁︱︱・・︱︱・・・﹂
どこからか、三人目の声が聞こえる。
姿は見えない。
﹁あー、うあー﹂
体を起こして、ここはどこで、あなた方は誰かを聞こうとした。
引きこもってたとはいえ、別にコミュ障ってわけじゃないから、
それぐらいは出来ると思った。
のだが、口から出てきたのは、うめき声ともあえぎ声とも判別の
つかない音だった。
体も動かない。
指先や腕が動く感触はあるのだが、上半身が起こせない。
︵もしかして、事故の後遺症で⋮⋮?︶
嫌な予感が脳裏を掠める。
あれだけの大事故だったのだ、何日も意識不明で、今ようやく目
覚めたにちがいない。
全身打撲、内臓破裂、脊髄損傷、半身麻痺って所だろうか。
後遺症も残るだろう。
言葉がわからないのは、日本では助けられる医者がいなかったと
か、そんな感じだろうか。
﹁・・・・・︱︱︱・・・︱︱︱﹂
男が心配そうな顔を俺に向け、何かを言う。
15
﹁︱︱・・・・︱︱︱﹂
なんだろう。後遺症のことだろうか。
それにしても、入院費用は誰が払ったのだろうか。
まさか、俺を追い出した兄弟たちが?
いや、そんなまさかだ。奴らが払ったとは思えない。
むしろ奴らは、俺なんて死んだほうがいいと思っているだろう。
葬式ぐらいはやってくれるかもしれないが、
俺をのけものに遺産を三人で山分けするような守銭奴だ。
葬式代だってケチるだろうし、入院なんてしたら見て見ぬふりを
するに違いない。
じゃあ、誰が⋮⋮?
ああそうだ、一人だけ引っ張りだすことに成功していたから、
彼が命の恩人として俺を助けてくれたのかも⋮⋮⋮。
﹁・・・︱︱︱・・・・・・﹂
と、思ったら男に抱き上げられた。
マジかよ、体重百キロ超の俺をこうも簡単に⋮⋮。
いや、何十日も寝たきりだったのかもしれないし、体重は落ちて
いるか。
あれだけの事故だ。手足が欠損してる可能性も高い。
死んだと思って目が覚めたら達磨。
︵生き地獄だなぁ⋮⋮︶
16
物心ついた初日。
俺はそんな事を考えていたのだった。
−−−
一ヶ月の月日が流れた。
どうやら俺は生まれ変わったらしい。
その事実が、ようやく飲み込めた。
俺は赤ん坊だった。
抱き上げられて、頭を支えてもらい自分の体が視界にはいること
で、ようやくそれを確認した。
どうして前世の記憶が残っているのかわからないが、残っていて
困る事もない。
記憶を残しての生まれ変わり。
誰もが一度はそういう妄想をする。
まさか、その妄想が現実になるとは思わなかったが⋮⋮。
目が覚めてから最初に見た男女が、俺の両親であるらしい。
年齢は二十代前半といった所だろうか。
前世の俺よりも明らかに年下だ。
34歳の俺から見れば、若造といってもいい。
そんな歳で子供を作るとは、まったく妬ましい。
17
最初から気付いてはいたが、どうやらここは日本ではないらしい。
言語も違うし、両親の顔立ちも日本人ではない、服装もなんだか
民族衣装っぽい。
家電製品らしきものも見当たらない︵メイド服きた人が雑巾で掃
除してた︶し、食器や家具なんかも粗末な木製だ。先進国でないだ
ろう。
明かりも電球ではなく、ロウソクやカンテラを中心に使っている。
もっとも、彼らが特別に貧乏で電気代も払えないという可能性も
ある。
⋮⋮もしかして、その可能性は高いのか?
メイドっぽい人がいるから、てっきりそれなりに金があるのかと
思ったが、
彼女が、父か母の姉妹と考えれば、なにもおかしい事はない。家
の掃除ぐらいするだろう。
確かにやり直したいとは思ったが、電気代も支払えないほど貧乏
な家に生まれるとは⋮⋮。
でも、ただで美女の母乳を吸えるのは最高だ。
体が成長していないせいか、
それとも相手が母親であるせいか、
まったく興奮はしなかったが⋮⋮。
−−−
18
半年の月日が流れた。
半年も両親の会話を聞いていると、言語もそれなりに理解できる
ようになってきた。
英語の成績はあまりよくなかったのだが、やはり自国語に埋もれ
ていると習得が遅れるというのは本当らしい。
それとも、この身体の頭の出来がいいのだろうか。
まだ年齢が若いせいか、物覚えが異常にいい気がする。
この頃になると、俺もハイハイぐらいは出来るようになった。
移動できるというのは素晴らしい事だ。
身体が動くという事にこれほど感謝したことはない。
﹁眼を放すとすぐにどこかにいっちゃうの﹂
﹁元気でいいじゃないか。
生まれてすぐの頃は全然泣かなくて心配したもんだ﹂
﹁今も泣かないのよねぇ﹂
両親はそんな風に言っていた。
さすがに腹が減った程度でビービー泣くような歳じゃない。
もっとも、シモの方は我慢してもいずれ漏らすので、遠慮せずぶ
っ放させてもらっているが。
ハイハイとはいえ、移動できるようになると、色んな事がわかっ
てきた。
まず、この家は、裕福だ。
19
建物は木造の二階建てで、部屋数は五以上。メイドさんを一人雇
っている。
メイドさんは最初は俺の叔母さんかとも思ったが、明らかに顔立
ちが違った。
立地条件は、田舎だ。
窓から見た景色からは、のどかな田園風景が見えた。
他の家はまばらで、一面の小麦畑の中に、2∼3軒見える程度。
かなりの田舎だ。
電柱や街灯の類は見えない。近くに発電所が無いのかもしれない。
外国では地面の下に電線を埋めると聞いたことがあるが、
ならこの家で電気を使っていないのはおかしい。
︵さすがに田舎すぎるなぁ。
文明の波に揉まれてきた俺にはちょっと⋮⋮
生まれ変わってもパソコンぐらい触りたいじゃん︶
などと思っていたのは、ある日の昼下がりまでだ。
することが無いのでのどかな田園風景でも見ようと思った俺は、
いつも通り椅子によじ登り、窓の外を見てギョッとした。
父親が庭で剣を振り回していたからだ。
︵ちょ、え? 何やってんの?︶
いい年してそんなの振り回しちゃうようなのが俺の親父なわけ?
中二病なわけ?
20
︵あ、やべ⋮⋮︶
驚いた拍子に椅子から滑った。
未熟な手は椅子を掴んでも身体を支えることが出来ず、重い後頭
部から地面へと落ちていく。
﹁キャア!﹂
どしんと落ちた瞬間、悲鳴が聞こえた。
見れば、母親が洗濯物を取り落とし、口に手を当てて真っ青な顔
で俺を見下ろしていた。
﹁ルディ! 大丈夫なの!?﹂
母親は慌てて駆け寄ってきて、俺を抱き上げた。
視線が絡むと、安堵した顔になって胸をなでおろした。
﹁⋮⋮ほっ、大丈夫そうね﹂
︵頭を打ったときは、あんまり動かさないほうがいいんだぜ、奥さ
ん︶
と心の中で注意してやる。
あの慌てようを見るに、そうとう危ない落ち方をしたのだろう。
後頭部からいったしな、アホになったかもしれん。あんま変わら
んか。
てか、後頭部がズキズキする。
まあ、一応は椅子に掴まろうとしたし、勢いは無かった。
母親があまり慌てていない所を見ると、血は出ていないようだ。
21
たんこぶ程度だろう。
母親は注意深く俺の頭を見ていた。
傷でもあったら一大事だと言わんばかりの表情をしている。
そして最後に、俺の頭に手を当てて、
﹁念のため⋮⋮⋮
神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与
えん
﹃ヒーリング﹄﹂
吹きそうになった。
おいおい、これがこの国の﹁イタイのイタイのとんでけ﹂かよ。
それとも、剣を振り回す父親に続いて母親の方も中二病か?
戦士と僧侶で結婚しましたってか?
と、思ったのもつかの間。
母親の手が淡く光ったと思った瞬間、一瞬で痛みが消えた。
︵⋮⋮⋮え?︶
﹁さ、これで大丈夫よ。
母さん、これでも昔はちょっとは名の知れた冒険者だったんだか
ら﹂
剣、戦士、冒険者、ヒーリング、詠唱、僧侶。
そんな単語がぐるぐると俺の中を回っていた。
なんだ、いまの。
何したの?
22
﹁どうした?﹂
母親の悲鳴を聞きつけて、窓の外から父親が顔をのぞかせた。
剣を振り回していたせいか、汗をかいていた。
﹁聞いてあなた、ルディったら、椅子の上になんかよじ登って⋮⋮
今日は危うく大怪我する所だったのよ﹂
﹁まぁまぁ、男の子はそれぐらい元気でなくっちゃ﹂
ちょっとばかしヒステリックな母親と、それを鷹揚に流す父親。
よく見る光景だ。
だが、今回は後頭部から落ちたせいだろう、母親も譲らなかった。
﹁あのねあなた、この子はまだ生まれてから一年も経ってないんで
すよ。もっと心配してあげて!﹂
﹁そうは言ったってな。
子供は落ちたり転んだりするものさ。そうやって丈夫になってい
くものじゃないか。
それに、怪我をしたなら、そのたびにおまえが治せばいい﹂
﹁でも、あんまり大怪我をされて治せなかったらと考えると心配で
⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ﹂
父親はそう言って、母親と俺を一緒に抱きしめた。
母親の顔が赤く染まる。
﹁最初は泣かなくて心配だったけど、こんなにヤンチャなら、大丈
夫さ⋮⋮﹂
父親は母親にチュっとキスをした。
23
おうおう、見せつけてくれるねお二人さん、ヒューヒュー。
その後、二人は俺を隣の部屋で寝かせると、
上の階へ移動して、俺の弟か妹を作る作業へと入っていった。
二階に行ってもギシギシアンアン聞こえるから分かるんだよ、リ
ア充め⋮⋮。
︵しかし、魔法か⋮⋮︶
それから、俺は両親やお手伝いさんの会話に注意深く耳を傾ける
ようになった。
すると、聞く単語に聞きなれないものが多い事に気付いた。
特に、国の名前や領土の名前、地方の名前。
固有名詞は聞いたことのないものしかなかった。
もしかするとここは⋮⋮⋮。
いや、もう断定していいだろう。
ここは地球ではなく、別の世界だ。
剣と魔法の異世界だ。
⋮⋮⋮うん。
悪くない。
年甲斐もなくワクワクする。
そんな世界に記憶を持って転生できたのだ。
これでワクワクしないやつはニートになんかならない。
24
よし、決めた。
俺はこの世界で本気で生きていこう。
もう、二度と後悔はしないように。
全力で。
25
第二話﹁ドン引きのメイドさん﹂
リーリャはアスラ後宮の近衛侍女だった。
近衛侍女とは、近衛兵の性質を併せ持つ侍女の事である。
普段は侍女の仕事をしているが、有事の際には剣を取って主を守
るのだ。
リーリャは職務には忠実であり、侍女としての仕事もそつなくこ
なした。
しかし、剣士としては十把一絡げの才能しか持ち合わせていなか
った。
ゆえに、生まれたばかりの王女を狙う暗殺者と戦って不覚を取り、
短剣を足に受けてしまうこととなった。
短剣には毒が塗ってあった。王族を殺そうとするような毒である。
解除できる解毒魔術の無い、厄介な毒である。
すぐに傷を治癒魔術で治し、医者が解毒を試みたおかげで一命は
取り留めたものの、後遺症が残ってしまった。
日常生活を送る分には支障は無いが、全速力で走ることも、鋭く
踏み込むこともできなくなった。
リーリャの剣士生命はその日、終わりを告げた。
王宮はリーリャをあっさりと解雇した。
珍しい事ではない。リーリャも納得している。
能力がなくなれば解雇されるのは当然だ。
当面の生活資金すらもらえなかったが、
後宮務めを理由に、秘密裏に処刑されなかっただけでも儲けもの
だと思わなければいけない。
26
リーリャは王都を離れた。
王女暗殺の黒幕はまだ見つかっていない。
後宮の間取りを知っているリーリャは、自身が狙われる可能性が
あると深く理解していた。
あるいは王宮はリーリャを泳がせて、黒幕を釣ろうとしていたの
かもしれない。
昔、なんで家柄もよくない自分が後宮に入れたのかと疑問に思っ
たが、
今にして思えば、使い捨てになるメイドを雇いたかったのかもし
れない。
何にせよ、自衛のためにも、なるべく王都から離れる必要があっ
た。
王宮が餌として自分を放流したのだとしても、
何も命じられていない以上、拘束力はない。
義理立てする気もさらさらなかった。
乗合馬車を乗り継いで、広大な農業地域が続く辺境、フィットア
領へとやってきた。
領主の住む城塞都市ロア以外は、一面に麦畑が広がる長閑な場所
だ。
リーリャはそこで仕事を探すことにした。
とはいえ、足を怪我した自分には荒事は出来ない。
剣術ぐらいなら教えられるかもしれないが、出来れば侍女として
雇ってもらいたかった。
そっちのほうが給料がいいからである。
この辺境では剣術を使える者、教える者は数多くいるが、家の仕
事を完璧に出来る教育された侍女は少ないのだ。
供給が少なければ、賃金も上がる。
だが、フィットア領主や、それに準じた上級貴族の侍女として雇
27
われるのは危険だった。
そうした人物は、当然ながら王都ともパイプを持っている。
後宮付きの侍女近衛だったと知られると、政治的なカードとして
使われる可能性もあった。
そんなのはゴメンだ。
あんな死にそうな目には、二度と遭いたくない。
姫様には悪いが、王族の後継者争いは自分の知らない所で勝手に
やってほしいものである。
といったものの、賃金の安すぎる所では、家族へ仕送りもままな
らない。
賃金と安全の二つを両立出来る条件は中々見つからなかった。
一ヶ月かけて、各地を回った所、一つの募集に目が着いた。
フィットア領のブエナ村にて、下級騎士が侍女を募集中。
子育ての経験があり、助産婦の知識を持つ者を優遇する、と書い
てある。
ブエナ村はフィットア領の端にある、小さな村である。
田舎中の田舎、ド田舎だ。
不便な場所ではあるが、まさにそういう立地こそ自分は求めてい
たのだ。
それに、雇い主が下級騎士とは思えないほど条件が良かった。
何より、募集者の名前に見覚えがあった。
パウロ・グレイラット。
彼はリーリャの弟弟子である。
リーリャが剣を習っていた道場に、ある日突然転がり込んできた
貴族のドラ息子だ。
28
なんでも父親と喧嘩して勘当させられたとかで、道場に寝泊まり
しながら剣を習い出した。
流派は違えども、剣術を家で習っていた事もあり、彼はあっとい
うまにリーリャを追い越した。
リーリャとしては面白くなかったが、今となっては自分に才能が
なかっただけだと諦めている。
才能溢れるパウロはある日、冒険者になるといって道場を飛び出
していった。
嵐のような男だった。
別れたのは七年ぐらい前になるか。
あの時の彼が、まさか騎士になって結婚までしているとは⋮⋮。
彼がどんな波瀾万丈の人生を送ってきたかは知らないが、リーリ
ャの記憶にあるパウロは決して悪いヤツではなかった。
困っているといえば助けてくれるだろう。
ダメなら昔のことを持ちだそう。
交渉材料となる逸話はいくつかある。
リーリャは打算的にそう考えて、ブエナ村へと赴いた。
パウロはリーリャを快く迎えてくれた。 奥方のゼニスがもうすぐ出産という事で、焦っていたらしい。
リーリャは王女の出産と育成に備えてあらゆる知識と技術を叩き
こまれたし、顔見知りかつ出自もハッキリしているということで、
身元も安全。
大歓迎だった。
賃金も予定より多く払ってくれるというので、リーリャとしても
願ったり叶ったりだった。
29
子供が生まれた。
難産でもなんでもない、後宮でした練習通りの出産だ。
何も問題は無かった。
スムーズにいった。
なのに、生まれた子供は泣かなかった。
リーリャは冷や汗をかいた。
生まれてすぐに鼻と口を吸引して羊水を吸い出したものの、赤子
は感情のない顔で見上げているだけで、一声も発しない。
もしや、死産なのか、そう思うほどの無表情だ。
触ってみると、暖かく脈打っていた。
息もしている。
しかし、泣かない。
リーリャの心中に、先輩の近衛侍女から聞いた話がよぎる。
生まれてすぐに泣かない赤子は、異常を抱えている事が多い。
まさかと思った次の瞬間、
﹁あー、うあー﹂
赤子がこちらを見て、ぼんやりした表情で何かを呟いた。
それを聞いて、リーリャは安心した。
何の根拠も無いが、なんとなく大丈夫そうだ、と。
−−−
30
子供はルーデウスと名付けられた。
不気味な子供だった。
一切泣かないし、騒がない。
身体が弱いかもしれないが、手間がかからなくていい。
などと、思っていられたのは、最初だけだった。
ルーデウスははいはいが出来るようになると、家中のどこにでも
移動した。
家中の、どこにでも、だ。
炊事場や裏口、物置、掃除道具入れ、暖炉の中⋮⋮などなど。
どうやって登ったのか、二階にまで入り込んだこともあった。
とにかく眼を離すと、すぐにいなくなった。
だが、なぜか必ず家の中で見つかった。
ルーデウスは、決して家の外に出ることはなかった。
窓から外を見ている時はあるが、まだまだ外は怖いのか。
リーリャがこの赤ん坊に本能的な恐怖を感じるようになったのは、
いつからだろうか。
眼を離していなくなり、探して見つけ出した時だろうか。
大抵の場合、ルーデウスは笑っていた。
ある時は台所で野菜を見つめて、
ある時は燭台のろうそくに揺れる火を見つめて、
また、ある時は洗濯前のパンツを見つめて、
ルーデウスは口の中で何かをブツブツと呟いては、気持ち悪い笑
みを浮かべて笑うのだ。
31
それは生理的嫌悪感を覚える笑みだった。
リーリャは後宮に務めていた頃、任務で何度か王宮まで足を運ん
だのだが、その時に出会った大臣が浮かべる笑みによく似ていた。
禿頭をテカらせて、デップリと太った腹を揺らしながら、リーリ
ャの胸を見て浮かべる笑みに似ているのだ。生まれたばかりの赤ん
坊が浮かべる笑みが。
特に、恐ろしいのはルーデウスを抱き上げた時だ。
ルーデウスは鼻の穴を膨らませて、
口の端を持ち上げて、
鼻息も荒く、
胸に顔を押し付けてくる。
そして喉がひくつかせて、
笑い自体を隠すように、
﹁フヒッ﹂とも﹁オホッ﹂の中間ぐらいの奇妙な声で笑うのだ。
その瞬間、ゾッとする悪寒が全身を支配する。
胸に抱く赤ん坊を、思わず地面に叩きつけたくなるほどの悪寒が。
赤ん坊の愛らしさなど欠片もない。
この笑みは、ただひたすらにおぞましい。
若い女の奴隷をたくさん買い入れているという噂の大臣と同じ笑
み。
それを生まれたばかりの赤ん坊がするのだ。
比べ物にならないぐらい不快で、赤ん坊相手に身の危険すら感じ
てしまう。
32
リーリャは考えた。
この赤ん坊は何かがおかしい。
もしかすると、何か悪いモノでも憑いているのかもしれない。
あるいは、呪われているのかもしれない、と。
思い立ったリーリャは、居てもたってもいられない気持ちになっ
た。
道具屋へ走り、なけなしの金を使って必要なものを購入。
グレイラット家が寝静まった頃、故郷に伝わる魔除けを行った。
もちろん、パウロらには無断でだ。
翌日、ルーデウスを抱き上げて、リーリャは悟る。
無駄だった、と。
相変わらずの気持ち悪さだった。
赤ん坊がこんな顔をしているというだけで不気味だった。
ゼニスも﹁あの子ってお乳を上げる時に、舐めるのよねぇ⋮⋮﹂
などと言っていた。
とんでもないことだと思う。
パウロも女に目がない節操無しだが、こんなに気持ち悪くは無い。
遺伝としてもさすがにおかしい。
リーリャは思い出す。
ああ、そういえば、後宮でこんな話を聞いたことがある、と。
かつて、悪魔に憑かれたアスラの王子が、悪魔復活のために、夜
な夜な四つん這いで後宮を動きまわる事件があったという。
そして、それと知らずに、見つけて迂闊にも抱き上げてしまった
侍女を、王子は後ろ手に隠したナイフで心臓を一突きにして殺して
33
しまったのだ。
なんて恐ろしい。
ルーデウスはソレだ。
間違いない。
絶対そういう悪魔だ。
今は大人しくしているが、いずれ覚醒し、
家全体が寝静まった頃に一人、また一人と⋮⋮。
ああ⋮⋮早まった。
明らかに早まった。
こんな所に雇われるんじゃなかった。
いつか絶対襲われる。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮リーリャは迷信を本気で信じるタイプだった。
最初の一年ぐらいは、そんな風に怯えていた。
しかし、いつからだろうか。
予測できなかったルーデウスの行動がパターン化された。
神出鬼没ではなくなり、二階の片隅にあるパウロの書斎に篭るよ
うになった。
書斎といっても、何冊か本があるだけの簡素な部屋だ。
ルーデウスは、そこに篭って出てこない。
ちらりと覗いてみると、本を眺めてブツブツと何かを呟いている。
意味のある言葉ではない。
34
ないはずだ。
少なくとも、中央大陸で一般的に使われている言語ではない。
言葉を喋るのもまだ早い。
文字なんてもちろん教えていない。
だから 赤ん坊が本を見て、適当に声を出しているだけだ。
そうでなければおかしい。
だが、リーリャには、それがどうしても、意味のある言葉の羅列
に聞こえて仕方がなかった。
ルーデウスが本の内容を理解しているように見えて仕方がなかっ
た。
恐ろしい⋮⋮。
と、ドアの隙間からルーデウスを見ながら、リーリャは思う。
しかし、不思議と嫌悪感はなかった。
思えば、書斎に篭るようになってから、正体不明の不気味さや気
持ち悪さは次第になりを潜めていった。
たまに気持ち悪く笑うのは変わらないが、抱き上げても不快感を
憶えなくなった。
胸に顔も埋めないし、鼻息も荒くならない。
どうして自分はこの子をおぞましいなどと思っていたのだろうか。
最近はむしろ、邪魔してはいけないと思うような真摯さや勤勉さ
を感じるようになった。
ゼニスも同じ事を感じたらしい。
放っておいたほうがいいのでは、と相談された。
異常な提案だと思った。
生まれて間もない赤子を放っておくなど、人としてあるまじき行
35
為だ。
しかし、最近のルーデウスの瞳には知性の色が見えるようになっ
た。
数ヶ月前までは痴性しか感じられなかった瞳にだ。
確固たる意志と、輝かんばかりの知性がだ。
どうすればいいのか。
知識はあれども経験の薄いリーリャには、判断が難しい。
子育てに正解など無い、と言っていたのは、侍女近衛の先輩だっ
たか、それとも故郷の母親だったか。
少なくとも、
今は気持ち悪くないし、
不快にもならない、
怖気も走らない。
ならば、邪魔をして元に戻すこともない。
放っておこう。
リーリャは最終的に、そう判断したのだった。
36
第三話﹁魔術教本﹂
足腰もしっかりしてきて、二足歩行が出来るようになった。
この世界の言葉も喋れるようになってきた。
−−−
本気で生きると決めて、まずどうしようかと考えた。
生前では何が必要だったか。
勉強、運動、技術。
赤ん坊に出来る事は少ない。
せいぜい抱き上げられた拍子に胸に顔を埋めるぐらいだ。
メイドにそれをやるとはあからさまに嫌そうな顔をする。
きっとあのメイドは子供嫌いに違いない。
運動はもう少し後でいいだろうと考えた俺は、
文字を覚えるため、家の本を読み漁った。
語学は大切だ。
日本人は自国の識字率はほぼ100%に近いが、
英語を苦手とする者は多く、外国に出ていくとなると尻込みする
者も多い。
外国の言葉を習得しているということが、一つの技能と数えられ
るぐらいに。
よって、この世界の文字を覚えることを、最初の課題とした。
37
家にあったのはたった5冊だ。
この世界では本は高価であるのか、
パウロやゼニスが読書家ではないのか、
恐らく両方だろう。
数千冊の蔵書を持っていた俺には信じられないレベルだ。
もっとも、全部ラノベだったが。
たった5冊とはいえ、文字を読めるようになるのには十分だった。
この世界の言語は日本語に近かったため、すぐに覚えることが出
来た。
文字の形は全然違うのだが、文法的なものはすんなりと入ってき
た。
単語を覚えるだけでよかった。
言葉を先に覚えていたのも大きい。
父親が何度か本の内容を読み聞かせてくれたから、単語をスムー
ズに覚える事ができたのだ。
この身体の物覚えの良さも関係しているのかもしれない。
文字がわかれば、本の内容は面白い。
かつては勉強を面白いと思うことなど、一生涯ないと思っていた
が、よくよく考えてみれば、ネトゲの情報を覚えるようなものだ。
面白くないわけがない。
それにしても、あの父親は乳幼児に本の内容が理解できるとでも
思っているのだろうか。
俺だったからよかったものの、普通の一歳児なら大顰蹙ものだ。
大声で泣き叫ぶぞ。
38
家にあった本は下記の5冊だ。
・世界を歩く
世界各国の名前と特徴が載ったガイド本。
・フィットアの魔物の生態・弱点。
フィットアという地域に出てくる魔物の生態と、その対処法。
・魔術教本
初級から上級までの攻撃魔術が載った魔術師の教科書。
・ペルギウスの伝説
ペルギウスという召喚魔術師が、仲間たちと一緒に魔神と戦い世
界を救う勧善懲悪のお伽話。
・三剣士と迷宮
流派の違う三人の天才剣士が出会い、深い迷宮へと潜っていく冒
険活劇。
下二つのバトル小説はさておき、上三つは勉強になった。
特に魔術教本は面白い。
魔術の無い世界からきた俺にとって、魔術に関する記述は実に興
味深いものである。
読み進めていくと、いくつか基本的なことがわかった。
39
1.まず、魔術は大きく分けて3種類しかないらしい。
・攻撃魔術:相手を攻撃する
・治癒魔術:相手を癒す
・召喚魔術:何かを呼び出す
この3つ。まんまだ。
もっと色々なことができそうなものだが、
教本によると、魔術というものは戦いの中で生まれ育ってきたも
のだから、
戦いや狩猟に関係のない所ではあまり使われていないらしい。
2.魔術を使うには、魔力が必要であるらしい。
逆に言えば、魔力さえあれば、誰でも使うことが出来るらしい。 魔力を使用する方法は2種類。
・自分の体内にある魔力。
・魔力の篭った物質から引き出す。
どちらかだ。
うまい例えが見つからないが、
前者は自家発電、後者は電池みたいな感じだろう。
大昔は自分の体内にある魔力だけで魔術を使っていたらしいが、
世代が進むにつれて魔術も研究され、高難度になり、
それに伴って消費する魔力が爆発的に増えていったそうだ。
40
魔力の多い者はそれでもいいが、魔力の少ない者はロクな魔術が
使えなかった。
なので、昔の魔術師は自分以外のものから魔力を吸い出し、魔術
に充てるという方法を思いついたのだ。
3.魔術の発動方法には二つの方法がある。
・詠唱
・魔法陣
詳しい説明はいらないだろう。
口で言って魔術を発動させるか、
魔法陣を描いて魔術を発動させるか、だ。
大昔は魔法陣のほうが主力だったらしいが、今では詠唱が主流だ。
というのも、大昔の詠唱は一番簡単なものでも1分∼2分ぐらい
掛かったらしい。
とてもじゃないが戦闘で使えるものではない。
逆に魔法陣は一度書いてしまえば、何度か繰り返し使用できた。
詠唱が主流になったのは、ある魔術師が詠唱の大幅な短縮に成功
したからだ。
一番簡単なもので5秒程度まで短縮し、攻撃魔術は詠唱でしか使
われなくなった。
もっとも、即効性を求められない上、複雑な術式を必要とする召
喚魔術は、未だに魔法陣が主流だそうだ。
4.個人の魔力は生まれた時からほぼ決まっている。
41
普通のRPGだとレベルアップする毎にMPが増えていくものだ
が、
この世界では増えないらしい。
全員が職業:戦士らしい。
ほぼ、というからには多少は変動するようだが⋮⋮。
俺はどうなんだろうか。
魔術教本には魔力の量は遺伝すると書いてある。
一応、母親は治癒術を使えるみたいだし、ある程度は期待してい
いんだろうか。
不安だ。
両親が優秀でも、俺自身の遺伝子は仕事をしなさそうだし。
とりあえず俺は、最も簡単な魔術を使ってみることにする。
基本的に魔術教本には魔法陣と詠唱の両方が載っていたが、詠唱
が主流らしいし、魔法陣を書くものもなかったので、そっちで練習
することにする。
術としての規模が大きくなると詠唱が長くなり、魔法陣を併用し
たりしなければいけないらしいが、最初は大丈夫だろう。
熟練した魔術師は、詠唱がなくても魔術が使えるらしい。
無詠唱とか、詠唱短縮ってやつだ。
しかし、なぜ熟練すると詠唱なしで使えるようになるのだろうか。
魔力の総量が変わらないということは、レベルアップしてもMP
42
が増えるわけじゃないだろうし⋮⋮。
逆に、熟練度が上がると消費MPが減るんだろうか。
いや、仮に消費MPが減った所で、手順が減る理由にはならない
とか。
⋮⋮⋮まぁいいか。
とりあえず使ってみよう。
俺は魔術教本を片手に、右手を前に突き出して、文字を読み上げ
る。
﹁汝の求める所に大いなる水の加護あらん、
清涼なるせせらぎの流れを今ここに、ウォーターボール﹂ 血液が右手に集まっていくような感触があった。
その血液が押し出されるようにして、右手の先にこぶし大の水弾
が出来る。
﹁おおっ!﹂
と、感動した次の瞬間、水弾はバチャリと落ちて、床を濡らした。
教本には、水の弾が飛んでいく魔術と書いてあるが、その場で落
ちた。
集中力が切れると、魔術は持続しないのかもしれない。
集中、集中⋮⋮。
血液を右手に集める感じだ。こう、こう、こんな感じ⋮⋮うん。
俺は再度右手を構え、先程の感覚を思い出しながら、頭でイメー
ジする。
魔力総量がどんだけあるかわからないが、そう何度も使えないと
43
考えたほうがいい。
1回1回の練習を全て成功させるつもりで集中するんだ。
まず頭でイメージして、何度も何度も頭の中で繰り返して、それ
から実際やってみる。
躓いたら、そこをまた頭でイメージする。
脳内で完璧に成功するまで。
生前、格ゲーでコンボ練習する時はそうしていた。
おかげで俺は、対戦でもコンボをほとんど落としたことがない。
だからこの練習法は間違っていない⋮⋮⋮と思いたい。
﹁すぅ⋮⋮ふぅ⋮⋮﹂ 深呼吸を一つ。
足の先、頭の先から、右手へと血液を送るような感じで力を溜め
ていく。
そしてそれを、手のひらからポンと吐き出すような感じで⋮⋮。
慎重に慎重に、心臓の鼓動に合わせて、少しずつ。少しずつ⋮⋮。
水、水、水、水弾、水の弾、水の玉、水玉、水玉パンツ⋮⋮。
邪念が混じった、もう一回。
ギュッとあつめてひねり出して水水水水⋮⋮⋮⋮。
﹁ハァッ!﹂
と、思わず寺生まれの人みたいな掛け声を上げた瞬間、水弾がで
きた。
﹁おっ、え⋮⋮?﹂
ばちゃ。
44
﹁⋮⋮⋮⋮⋮あ﹂
驚いた瞬間、水弾はあっけなく落ちてしまった。
しかし、今、詠唱しなかったよな?
なんでだ⋮⋮?
俺がやった事と言えば、さっき魔術を使った時の感覚を、そのま
ま真似しただけだ。
もしかして、魔力の流れを再現できれば、別に詠唱しなくてもい
いのか?
無詠唱ってそんな簡単にできるもんなのか?
普通は上位スキルだろ?
﹁簡単に出来るんなら、詠唱ってのはなんの意味があるんだ?﹂
俺のような初心者でも、無詠唱で魔術を発動させることが出来た。
身体の魔力を手の先に集めて、頭の中で形を決める。
それだけで、だ。
なら、詠唱なんて必要ないだろう。
みんなこうすればいい。
⋮⋮⋮ふむ。
もしかすると、詠唱というのは魔術を自動化してくれるのではな
いだろうか。
いちいち集中して全身から血液を集めるように念じなくても、言
葉を発するだけで全てやってくれる。
45
それだけの事なのではないだろうか。
車のマニュアルとオートマのようなもので、実は手動でやろうと
思えば出来るものなのではないだろうか。
﹃詠唱すれば自動的に魔術を使ってくれる﹄。
これの利点は大きい。
まず第一に、教えやすい。
体中の血管から血液を集めるような感じでー⋮⋮と、説明するよ
り、詠唱すれば誰でも一発で出来る方が、教えるほうも教えられる
方も楽だ。
そうして教えている間に段々と、﹃詠唱は必要不可欠なもの﹄と
なっていったのではないだろうか。
第二に、使いやすい。
言うまでもない事だが、攻撃魔術を使うのは戦闘中だ。
戦闘中に目をつぶって、うぬぬー、と集中するより、早口で詠唱
した方が手っ取り早い。
全力疾走しながら精緻な絵を書くのと、
全力疾走しながら早口言葉を言うの、どっちが楽かという事だ。
﹁人によっては前者の方が楽かもしれんが⋮⋮﹂
パラパラと魔術教本をめくってみたが、無詠唱の記述はなかった。
おかしな話だ。
俺がやった感じでは、そう難しくは無かった。
俺に特別才能があるのかもしれないが、他の人がまったく使えな
いって事はないだろう。
こう考えるのはどうだろう。
46
魔術師は普通、初心者から熟練者まで、みんな詠唱で魔術を使い
続けるのだ。
何千回、何万回と使い続けるうちに身体が詠唱に慣れきってしま
い、
いざ無詠唱でやろうとしても、どうやればいいのかわからない。
ゆえに、一般的ではないとされ、教本には書かれていない。
﹁おお、辻褄があってる!﹂
てことは、今の俺は一般的ではないってことだ。
すごくね?
うまいこと裏ワザを使えた感じじゃなくね?
﹃まさか くらいむ の かたりすと を おらとりお なしで?﹄
﹃ただ ふつうに この かたりすと を つかって ちゃねる を ひらかせただけなのに﹄
って感じじゃね?
うっは、興奮してきた!
⋮⋮⋮。
おっと、いかんいかん。
ちょっと落ち着け、クールになれ。
生前の俺はこの感覚に騙されてあんなことになったんだ。
パソコンが人並み以上に出来ることで選民意識を持ってしまった
がゆえに、調子こいて失敗したのだ。
自重しよう自重。
47
大切なのは、自分が他人より上だと思わないことだ。
俺は初心者。
初心者だ。
ボウリング初心者が初投で運よくストライクをとれただけ。
ビギナーズラックだ。
才能があるとか勘違いしないで、ひたすら練習に励むべきだ。
よし。
最初に魔術を詠唱して唱えて、その感覚を真似して、ひたすら無
詠唱で練習する。
これでいこう。
﹁それじゃあもう一発﹂
と、右手を前に出してみると、妙にだるい。
しかも、なんか肩のあたりにズッシリと重いものが乗っている感
じがする。
疲労感だ。
集中したせいだろうか。
いや、俺もネトゲプロ︵自称︶の端くれ、必要とあらば不眠で六
日間狩りをし続ける事もできた男だ。
このぐらいで切れる集中力は持ちあわせていないはず。
﹁てことは、MPが切れたか⋮⋮?﹂
なんてこった⋮⋮。
魔力総量は生まれた時に決まるのなら、俺の魔力は水弾二発分と
48
いう事になる。
うーむ。さすがに少なすぎね?
それとも、最初だから魔力をロスしてるとか、そういうのなんか
ね?
いや、そんな馬鹿な。
念のためもう一発出してみたら、気絶してしまった。
−−−
﹁もう、ルディったら、眠くなったらちゃんとトイレにいってベッ
ドに入らなきゃダメでしょ﹂
起きた時には、読書中に居眠りして、そのままおねしょをした事
になっていた。
ちくしょう。
この歳で寝小便したと思われるとは⋮⋮。
ちくしょう⋮⋮ちくしょう⋮⋮。
って、まだ二歳か。寝小便ぐらい許されるか。
てか、魔力少なすぎだろ。
はぁ⋮⋮萎えるわー⋮⋮。
まぁ、水弾二発でも、使い方次第か。
精々、咄嗟に出せるように練習だけしておくか⋮⋮。
はぁ⋮⋮⋮。
49
−−− 次の日は、水弾を4つ作っても平気だった。
5つ目で疲れを感じた。
﹁あっれぇ⋮⋮?﹂
昨日の経験から、次の一発で気絶するとわかっていたので、ここ
でやめておく。
で、考える。
ふむ。
最大6つ。
昨日の2倍だ。
俺は桶に入った水弾5発分の水︵気絶対策︶を見ながら、考える。
昨日の今日で回数が2倍に増えた理由。
昨日は最初から疲れていたとか、初めてだから消費MPが大きか
ったとか。
今日は全部無詠唱でやったから、詠唱をする・しないで変わる事
はないはず。
わからん。
明日になったら、また増えているかもしれない。
50
−−−
さらに翌日。水弾を作れる回数が増えた。
11個だ。
なんだか、使った回数分だけ増えている気がする。
もしそうなら、明日は21回になっているはずだ。
翌日、念のため、5回だけ使ってその日はやめておく。
さらに翌日、26個になっていた。
やっぱり、使った分だけ増えていく。
︵嘘こきやがって⋮⋮!︶
何が人の魔力総量は生まれた時にきまっている、だ。
才能なんて眼に見えないものを勝手に決め付けやがって。
子供の才能ってのは大人が勝手に見極めていいものじゃねえんだ
よ!
ま、本に書いてあることを鵜呑みにするなって事だ。
この本に書いてあるのは﹁人の幸せには限界がある﹂とかそうい
うレベルの話なのかもしれない。
あるいは、鍛えた結果の話なのだろうか。
頑張って鍛えても、魔力総量には限界値があるという話なのだろ
うか。
いやまて、そう結論付けるのはまだ早い。
まだ仮説は立てられる。
51
例えば⋮⋮。
そう、例えば、
成長に応じて増えていく、とか。
幼児の時期に魔力を使うと飛躍的に最大値が増える、とか。
あ、俺だけの特殊体質ってのも捨てがたいな。
⋮⋮⋮いや、だから自分を特別だと思うなって。
元の世界でも、成長期に運動すれば能力が飛躍的に伸びるとか言
われていた。
逆に成長期を過ぎてから、頑張っても伸び率が悪いとも。
この世界だって、魔力とかなんとか言ってるけど、人間の体の構
造は変わらないはずだ。
基本は一緒。
なら、やることは一つだ。
成長期が終わる前に鍛えられるだけ、鍛える。
−−−
翌日から、限界まで魔力を使っていく事にした。
同時に、使える魔術の数を増やしていく。
感覚さえ覚えれば、無詠唱で再現することは簡単だ。
とりあえず、近日中に全系統の初級魔術は完全にマスターしたい
と思う。
初級魔術というのは、文字通り攻撃魔術の中で最も低いランクに
位置する。
52
水弾や火弾はその中でも、特に入門的な位置づけにある初級魔術
だ。
魔術の難易度は七段階に分かれている。
初級、中級、上級、聖級、王級、帝級、神級。
一般的に一人前と呼ばれている魔術師は、
自分の得意な系統の魔術が上級まで使えるが、
他の魔術は初級か中級までしか使えないらしい。
上級より上のランクを使えるようになると、
系統に応じて火聖級とか水聖級とか呼ばれて一目置かれるのだと
か。
ちょっと憧れる。
しかし魔術教本には、火・水・風・土系統の上級の魔術までしか
載っていなかった。
聖級以上はどこで覚えればいいのだろうか⋮⋮。
いや、あまり考えないようにしよう。
RPGツ○ールで最強のモンスターから作ると、高確率で挫折す
る。
まずは最初のスライムからだ。
もっとも、俺はスライムから作っても完成させたことがないがね。
教本に書かれている水系統の初級魔術は以下の通りだ。
53
水弾:水の弾を飛ばす。ウォーターボール。
水盾:地面から水を噴出させて壁を作る。ウォーターシールド。
水矢:20cmほどの水の矢を飛ばす。ウォーターアロー。
氷撃:氷の塊を相手にぶつける。アイススマッシュ。
氷刃:氷の剣を作り出す。アイスブレード。
氷も水系に含まれるらしい。
ひと通り使ってみた。
初級と一口に言っても、使う魔力はまちまちだった。
水弾を1とすれば、大体2∼20ぐらいか。
基本的には水系だ。
火を使って火事にでもなったら危ないからな。
火事と言えば、消費魔力は温度も関係しているのか、上級になれ
ばなるほど氷が増えていくようだ。
しかし、水矢とか飛ばすとか書いてあるのに飛んでいかなかった。
なんだろう、どこかで何かを間違えているのだろうか⋮⋮。
うーむ。わからん。
魔術教本には、魔術の大きさや速度についても書いてある。
もしかすると、弾を作り出した後に、さらに魔力で操作するのだ
ろうか。
やってみる。
﹁お?﹂
水弾が大きくなった。
54
﹁おお!﹂
ばちゃん。
﹁おぉ⋮⋮﹂
しかし、やはり落ちてしまう。
その後、色々やって水弾を大きくしたり小さくしたり、
違う水弾を2つ同時に作ったり、
それぞれの大きさを変えてみたりと、
新たな発見はあったが、一向に飛んで行かない。
火と風は重力に影響を受けないせいか空中に浮いているのだが、
結局は一定時間で消えてしまう。
ふよふよと浮いた火の玉を風で飛ばしてみたりもしたが、何かが
違う気がする。
うーむ⋮⋮。
−−−
2ヶ月後。
試行錯誤の末、ようやく水弾を飛ばすことが出来た!
それが切っ掛けとなり、詠唱の仕組みが解明できた。
詠唱は、
生成↓サイズ設定↓射出速度設定↓発動のプロセスを辿っている
55
のだ。
そのうち、サイズ設定と射出速度設定を術者がいじることで、魔
術が完成する。
つまり詠唱をすると、
まず自動的に使いたい魔術の形が作り出される。
その後、一定時間以内に魔力を追加して、サイズを調整、
サイズ調節後、さらに一定時間以内に魔力を追加することで、射
出速度を調整。
準備時間が終わると、術者の手を離れ、自動的に発射される。
多分間違っていない⋮⋮と思う。
詠唱の後、2回に分けて魔力を追加するのがコツだったのだ。
サイズ調節をしなければ、射出速度の調節に行かない。
どおりで飛ばそうとしても大きくなるだけで何も起こらないわけ
だ。
ちなみに無詠唱でやる場合は、それら全てのプロセスを自分でや
る必要がある。
面倒に思えるが、サイズと射出速度の入力待ち時間を短縮できる
ため、
詠唱するよりも数段早く発射する事ができる。
また、無詠唱ならば生成の部分もいじることができた。
例えば教本には書いていないが、水弾を凍らせて、氷弾にすると
かだ。
これを練習していけば、カイザーフェニックス︵ドヤ顔︶とかも
56
出来るだろう。
アイデア次第でいくらでも応用が効くのだ。
面白くなってきた!
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮けど、基本は大事だ。
色々と実験するのは、魔力総量がもっと増えてからにしよう。
魔力総量を上げる。
息をするように無詠唱で魔術を使えるようになる。
次の課題はこの2つだ。
いきなり大きな目標を立てると挫折しちゃうからな。
小さなことからコツコツだ。
よーし、頑張るぞ。
そうして、俺は毎日、気絶寸前まで初級魔術を使い続けて過ごし
た。
57
第四話﹁師匠﹂
3歳になった。
最近になって、ようやく両親の名前を知った。
父親はパウロ・グレイラット、
母親はゼニス・グレイラットだ。
そして、俺の名前はルーデウス・グレイラット。
グレイラット家の長男というわけだ。
ルーデウスと名付けられたわけだが、
父親も母親も互いに名前を呼び合わないし、俺のことはルディと
略すので、
正式名称を覚えるのに時間が掛かったのだ。
−−−
﹁あらあら、ルディは本が好きなのね﹂
本を常に持って歩いていると、ゼニスはそういって笑った。
彼らは俺が本を持っていることをとがめなかった。
食事中は脇に置いているし、特に魔術教本は家族の前では読まな
いようにしていた。
能ある鷹は爪を隠す、というわけではないが、この世界における
魔術の立ち位置がわからない。
生前の世界では、中世に魔女狩りというものがあった。
58
魔法を使う者は異端で火あぶりというアレだ。
さすがにこんな本が実用書として存在しているこの世界で、
魔術=異端という事はないだろうが、あまりいい顔はされないか
もしれない。
魔術は大人になってから、とかいう常識があるのかもしれない。
なにせ、使いすぎると気絶するような危ないものなのだ。
成長を阻害させるとか思われているかもしれない。
そう思ったので、家族の前では魔術のことは隠している。
もっとも、窓の外に向かって魔術をぶっ放した事もあるので、も
うバレてるかもしれない。
しょうがないじゃないか、射出速度がどれだけ出るのか試したか
ったんだから。
メイド︵リーリャさんというらしい︶は、たまに険しい顔で俺を
見てくるが、
両親は相変わらずのほほんとしているので、大丈夫だと思いたい。
止められるのならそれでもいいが、成長期があるとして、それを
逃したくはない。
才能は伸びる時に伸ばしておかないと錆び付いてしまう。
今のうちに使えるだけ使っておかなければ。
−−−
そんな魔術の秘密特訓︵笑︶に終止符が打たれた。
ある日の午後だった。
59
そろそろ魔力量も増えてきたし、中級の魔法を試そうと、軽い気
持ちで水砲の術を詠唱した。
大きさは1、速度は0。
いつも通り、桶に水が溜まるだけだと思っていた。
ちょっと溢れるかもね、ぐらいには考えていた。
凄まじい量の水が放出されて、壁に大穴が開いた。
穴の縁から、ポタポタと水滴が地面に落ちるのを、俺は呆然と見
ていた。
呆然としながらも、どうにかしようとは思わなかった。
壁には穴が空き、間違いなく魔術を使ったとバレる。
それはもうしょうがない事だった。
俺は諦めが早いのだ。
﹁何事だ! うおあっ⋮⋮﹂
最初にパウロが飛び込んできた。
そして、壁に開いた大穴を見てあんぐりと口を開けた。
﹁ちょ、おい、なんだこりゃ⋮⋮ルディ、大丈夫なのか⋮⋮?﹂
パウロはいい奴だ。
どう見ても俺がやったようにしか見えないのに、俺の身を案じて
いるのだから。
今も﹁魔物⋮⋮か? いやこのへんには⋮⋮﹂などと呟いて、注
意深く周囲を警戒している。
﹁あらあら⋮⋮﹂
60
続いてゼニスが部屋に入ってくる。
彼女は父親より冷静だった。
壊れた壁と、床の水たまりなどを順番に見ていき、
﹁あら⋮⋮?﹂
目ざとく、俺の開いていた魔術教本のページに目を止めた。
そして俺と魔術教本を見比べると、俺の目の前でしゃがみこんで、
優しげな顔で目線をあわせる。
怖い。
目の奥が笑ってない。
泳ぎそうになる目線を、必死にゼニスに向ける。
俺はニート時代に学んだのだ、悪いことをして開き直って不貞腐
れても、事態は悪化する一方だと。
だから、決して目を逸らしてはいけない。
こういう時に必要なのは、真摯な態度だ。
目を合わせて逸らさない、というのはそれだけで真摯に見える。
内心でどう思っていても、少なくとも見た目は。
﹁ルディ、もしかして、この本に書いてあるのを声に出して読んじ
ゃった?﹂
﹁ごめんなさい﹂
俺はこくりと頷き、謝罪を口にする。
悪いことをした時は、潔く謝ったほうがいい。
俺以外にやれる奴はいない。
すぐバレる嘘は信用を落とす。
生前はそうやって軽い嘘を重ねて信用を落としていったものだ。
61
同じ失敗はすまい。
﹁いや、だっておまえ、これは中級の⋮⋮﹂
﹁きゃー! あなた聞いた! やっぱりウチの子は天才だったんだ
わ!﹂
パウロの言葉を、ゼニスが悲鳴で遮った。
両手を握って、嬉しそうにぴょんぴょんと跳んだ。
元気だね。
俺の謝罪はスルーですかい?
﹁いや、おまえ、あのな、だって、まだ文字を教えてな⋮⋮﹂
﹁今すぐ家庭教師を雇いましょう! 将来はきっとすごい魔術師に
なるわよ!﹂
パウロは戸惑い、ゼニスは歓喜している。
どうやら、ゼニスは俺が魔術が使えたのが嬉しくてしょうがない
らしい。
子供が魔術を使っちゃいけないとかは、俺の杞憂に終わったらし
い。
リーリャは平然と無言で片付けを始めている。
恐らく、このメイドは俺が魔術を使えることを知っていたか、薄
々感づいていたのだろう。
別に悪い事じゃないから特に気にも止めなかっただけで。
あるいは、この両親が歓喜する所を見たかったのかも?
﹁ねえあなた、明日にもロアの街で募集を出しましょう!
才能は伸ばしてあげなくっちゃ!﹂
62
ゼニスは一人で興奮し、天才だの才能だのと騒いでいる。
いきなり魔術をぶっぱなしたぐらいで天才ときた。
親馬鹿って奴なのか、中級魔術を使えるのがすごい事なのか、判
別がつかない。
いや、やはり親馬鹿だろう。
俺はゼニスの前では魔術を使う素振りは一切見せなかった。
なのに﹁やっぱり﹂なんて言葉が出てくるということは、
以前から俺が天才かもしれないと思っていたのだ。
根拠も無く⋮⋮。
ああ、いや。
心当たりがあった。
俺はひとりごとが多い。
本を読んでいる時でも、気に入った単語やフレーズをボソボソと
呟いてしまう事がある。
この世界に来てからも、本を読みながらボソボソとひとりごとを
していた。
最初は日本語だったが、言葉を覚えてからは無意識にこの世界の
言葉を使うようになった。
そして、独り言を聞いたゼニスは、
﹁ルディ、それはね︱︱︱﹂と、単語の意味を教えてくれるのだ。
おかげで、この世界の固有名詞も結構憶えることができたのだが、
ま、それはおいておこう。
63
誰も何も言わなかったが、俺はこの世界の文字を独学で覚えた。
言葉も教えてもらっていない。
両親からしてみれば、
我が子は教えてもいないのに文字を読み、
本の内容を口に出して喋れる、という認識をされていたのだろう。
天才だろう。
俺だって自分の子供がそんなんだったら天才と思う。
生前、弟が生まれた時もそうだった。
弟は成長が早く、何をするのも俺や兄より早かった。
言葉を喋るのも、二本の足で歩くのも。
親というのはのんきなもので、
何かを子供がする度に、﹁あの子は天才じゃないかしら﹂とのた
まうのだ。 それが大したことではなくとも。
まぁ、高校中退のクズニートだったとはいえ、精神年齢は30歳
以上だ。
それぐらいには思われないとやるせない。
10倍だぞ10倍!
﹁あなた、家庭教師よ! ロアの街ならきっといい魔術の先生が見
つかるわ!﹂
そして、才能がありそうと見るや英才教育を施そうとするのは、
どこの親も一緒らしい。
生前の俺の親も弟を天才だと持て囃して、習い事をたくさんさせ
64
ていた。
というわけでゼニスは魔術師の家庭教師を付ける事を提案したの
だが。
これをパウロが反対した。
﹁いやまて、男の子だったら剣士にするという約束だったろう﹂
男だったら剣を持たせ、女だったら魔術を教える。
生まれる前にそういう取り決めをしていたらしい。
﹁けれど、この歳で中級の魔術を発動できるのよ! 鍛えればすご
い術師になれるわ!﹂
﹁約束は約束だろうが!﹂
﹁なによ約束って! あなたいつも約束破るじゃない!﹂
﹁俺の事は今は関係ないだろうが!﹂
その場で夫婦喧嘩をはじめる二人。
平然と掃除するリーリャ。
﹁午前中は魔術を学んで、午後から剣を学べばいいのでは?﹂
口論はしばらく続いたが、
掃除を終えたリーリャがため息混じりにそう提案することで、口
論はやんだ。
そして、馬鹿親は子供の気持ちを考えず、習い事を押し付ける。
ま、本気で生きるって決めたし、いいんだけどね。
65
−−−
そんなワケで、ウチは家庭教師を一人雇う事になった。
貴族の子弟の家庭教師という仕事は、それなりに実入りがいいら
しい。
パウロはこのへんでは数少ない騎士で、一応は下級貴族という位
置づけになるらしいから、
一応は給金も相場と同じぐらいのものを出せるのだとか。
しかし、何しろここは国の中でも端のほうの田舎、
つまり辺境らしく、優秀な人材はもちろん、魔術師すらほとんど
いない。
魔術ギルドと冒険者ギルドに依頼を出した所で、はたして応じる
者がいるかどうか⋮⋮。
という心配があったらしいが、あっさりと見つかったらしく、明
日から来てくれることになった。
この村には宿屋が無いので、住み込みになるらしい。
両親の予想によると、来るのは恐らく既に引退した冒険者だ。
若者ならこんな田舎には来たがらないし、宮廷魔術師なら王都の
方にいくらでも仕事がある。
この世界では、魔術の教師が出来るのは上級以上の魔術師と決ま
っている。
ゆえに冒険者のランクとしては中の上か、それ以上。
長年魔術師として研鑽を積んだ中年か老人で、
ヒゲをたくわえたまさに魔術師って感じのが来るだろう、
って話だった。
66
﹁ロキシーです。よろしくおねがいします﹂
だったが、予想を裏切って、やってきたのはまだ年若い少女だっ
た。
中学生ぐらいか。
魔術師っぽい茶色のローブに身を包み。
水色の髪を三つ編みにして、ちんまりというのが正しい感じの佇
まい。
手にしているのは鞄一つと、いかにも魔術師が持っていそうな杖
だけだ。
そんな彼女を、家族三人でお出迎え。
彼女の姿を見て、両親はびっくりして声も出ないようだった。
そりゃそうだろう。
予想とあまりに違いすぎる。
家庭教師として雇うのだから、それなりに歳を重ねた人物を想像
していたのだろう。
それが、こんなちんまいのだ。
もっとも、数多くのゲームをこなしてきた俺にしてみれば、
ロリっこ魔術師の存在は別段不思議ではない。
ロリ・ジト目・無愛想。
三つ揃った彼女はパーフェクトだ。
ぜひ俺の嫁に欲しい。
﹁あ、あ、君が、その、家庭教師の?﹂
﹁あのー、ず、随分とそのー﹂
両親が言いにくそうにしているので俺がズバリ言ってやる事にし
67
た。
﹁小さいんですね﹂
﹁あなたに言われたくありません﹂
ピシャリと言い返された。
コンプレックスなのだろうか。
胸の話じゃないんだけどな。
ロキシーはため息を一つ、
﹁はぁ。それで、わたしが教える生徒はどちらに?﹂
周囲を見渡して聞いてくる。
﹁あ、それはこの子です﹂
ゼニスの腕の中にいる俺が紹介される。
俺はキャピっとウインク。
すると、ロキシーは目を見開いたのち、ため息をついた。
﹁はぁ、たまにいるんですよねぇ、
ちょっと成長が早いだけで自分の子供に才能があると思い込んじ
ゃうバカ親⋮⋮﹂
ぼそりとつぶやく。
聞こえてますよ! ロキシーさん!
ま、俺もそれには激しく同意だけどね。
﹁何か﹂
68
﹁いえ。しかし、そちらのお子様には魔術の理論を理解できるとは
思いませんが?﹂
﹁大丈夫よ、うちのルディちゃんはとっても優秀なんだから!﹂
ゼニスの親馬鹿発言。
再度、ロキシーはため息を付いた。
﹁はぁ。わかりました。やれるだけの事はやってみましょう﹂
これは言っても無駄だろうと判断したらしい。
こうして、午前はロキシーの授業を、午後はパウロに剣術を習う
こととなった。
−−−
﹁では、この魔術教本を⋮⋮いえ、そのまえに、ルディがどれほど
魔術を使えるか試してみましょう﹂
最初の授業で、ロキシーは俺を庭につれ出した。
魔術の授業は主に外でやるらしい。
家の中で魔法をぶっぱなせばどうなるか、ちゃんとわかっている
のだ。
俺のように、壁をぶっ壊したりはしないのだ。
﹁まずはお手本です。
汝の求める所に大いなる水の加護あらん、
清涼なるせせらぎの流れを今ここに、ウォーターボール﹂
69
ロキシーの詠唱と同時に、彼女の手のひらにバスケットボールぐ
らいの水弾が出来た。
そして、庭木の一つに向かって高速で飛んでいき、
ベキィ。
と、木の幹を簡単にへし折ると、柵を水浸しにした。
サイズ3、速度4ぐらいだろうか。
﹁どうですか?﹂
﹁はい。その木は母さまが大事に育ててきたものですので、母さま
が怒るとおもいます﹂
﹁え? そうなんですか!?﹂
﹁間違いないでしょう﹂
一度、パウロが剣を振り回して木の枝を叩き折った事があるが、
その時のゼニスの怒りようは半端ではなかった。
﹁それはまずいですね、なんとかしないと⋮⋮!﹂
ロキシーは慌てて木に近づくと、倒れた幹をうんしょと立てた。
そして顔を真っ赤にして幹を支えたまま、
﹁うぐぐ⋮⋮、
神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与
えん、
ヒーリング﹂
詠唱。
木の幹はじわじわと折れる前へと戻っていった。
おー、すげー。
70
とりあえず褒めとこう。
﹁ふう﹂
﹁先生は回復魔術も使えるのですね!﹂
﹁え? ええ。中級までは問題なく使えます﹂
﹁すごい! すごいです!﹂
﹁いいえ、きちんと訓練すればこのぐらいは誰にでも出来ますよ﹂
言い方はややぶっきらぼうだったが、ロキシーは嬉しそうだった。
特に捻りもなくすごいすごいと連呼しただけでこれか、
チョロそうだ。
﹁では、ルディ。やってみてください﹂
﹁はい﹂
俺は手を構えて⋮⋮⋮。
ヤバイ、一年近く水弾の詠唱なんてしてなかったから思い出せな
い。
今ロキシーが言ったばっかだよな。えっと、えっと。
﹁えっと、なんて言うんでしたっけ?﹂
﹁汝の求める所に大いなる水の加護あらん、
清涼なるせせらぎの流れを今ここに、です﹂
ロキシーは淡々と言った。この程度は想定内らしい。
しかし、そんな淡々と言われても一度では覚えられん。
﹁汝の求めるところに⋮⋮⋮ウォーターボール﹂
思い出せないので端折った。
71
先ほどのロキシーの作った水弾よりもちょっとだけ小さく、ちょ
っとだけ遅く。
彼女より大きいのを作ったら拗ねるかもしれないしな。
俺は年下の女の子には寛容なのだ。
バスケットボールの水弾は、勢いよく射出された。
バキバキッ
木が倒れる。
ロキシーは難しい顔をしてそれを見ていた。
﹁詠唱を端折りましたね?﹂
﹁はい﹂
何かヤバかっただろうか。
そういえば、無詠唱は魔術教本にも載っていない。
何気なく使っていたが、実は何か禁忌に触れたりするんだろうか。
それとも、俺のようなのが詠唱を端折るとか十年早いとか怒られ
るんだろうか⋮⋮。
その場合、いいじゃねえかよ、あんなダセェ詠唱していられっか
よ、って反発したほうがいいんだろうか。
﹁いつも詠唱を端折っているのですか?﹂
﹁いつもは⋮⋮無しで﹂
どう答えるか迷ったが、正直に答えておく。
これから勉強を教わるのだし、いずれはバレる。
﹁無し!? ⋮⋮そう。いつもは無し。なるほどね。疲れは感じて
72
いますか?﹂
ロキシーはマジビックリ、という顔をしたが、取り繕った。
﹁はい、大丈夫です﹂
﹁そう。水弾の大きさ、威力共に申し分ないです﹂
﹁ありがとうございます﹂
ロキシーは、ここでようやく微笑んだ。
ニヤリと。
そして呟く。
﹁⋮⋮⋮これは鍛えがいがありそうだわ﹂
だから聞こえてるって。
﹁さあ、さっそく次の魔術を⋮⋮﹂
﹁ああぁー!﹂
ロキシーが興奮した様子で、魔術教本を開こうとした時。
叫び声が上がった。
様子を見に来たゼニスだった。
飲み物を載せたお盆を取り落とし、口を両手で抑えて、ボッキリ
折れた木を見ている。
悲しげな表情。
次の瞬間、その表情に怒りの色が篭っていく。
あ、やべぇ。
ゼニスはツカツカと歩いてくると、ロキシーに詰め寄った。
73
﹁ロキシーさん! あなたね!
ウチの木を実験台にしないで頂戴!﹂
﹁えっ! しかしこれはルディがやったもので⋮⋮﹂
﹁ルディがやったのだとしても、やらせたのはあなたでしょう!﹂
ロキシーは背景にイナズマが奔ったようなショックを受け、ガー
ンという擬音が聞こえそうなほど落ち込んだ。
まぁ、3歳児に責任をなすりつけちゃいかんだろ。
﹁はい⋮⋮そのとおりです﹂
﹁こういう事は二度としないで頂戴ね!﹂
﹁はい、申し訳ありません、奥様⋮⋮﹂
その後、ゼニスは庭の木をヒーリングで華麗に修復すると、家の
中へと戻っていった。
﹁早速失敗してしまいました⋮⋮﹂
﹁先生⋮⋮﹂
﹁ハハッ、明日には解雇ですかね⋮⋮⋮﹂
地面に座り込んでのの字を書き始めそうなロキシー。
打たれよわいなぁ⋮⋮。
俺は彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ルディ?﹂
叩いてみたが、20年近く人と話して来なかった俺には、慰めの
言葉が見つからない。
74
ごめんなさい。こういう時、なんて言っていいのかわからないの
⋮⋮。
いや、落ち着け。
考えろ考えろ、エロゲーの主人公ならこんな時にどうやって慰め
てた?
そう、確か、こんな感じだ
﹁先生は今、失敗したんじゃありません﹂
﹁ル、ルディ⋮⋮?﹂
﹁経験を積んだんです﹂
ロキシーはハッと俺を見た。
﹁そ、そうですね。ありがとうございます﹂
﹁はい。では授業の続きをお願いします﹂
こうして、初日からロキシーとちょっと仲良くなれた。
−−−
午後はパウロと鍛錬だ。
俺の体格にあった木剣がないため、基本的には体作りが中心とな
ってくる。
ランニング、腕立て伏せ、腹筋、などなど。
パウロは、とりあえず最初は体を動かす、ということを中心にや
らせるつもりらしい。
75
パウロが仕事で指導が出来ない日も、基礎体力訓練だけは毎日欠
かさずやるように言いつけられた。
そのへんは、どこの世界でも変わらないらしい。
頑張ろう。
子供の体力では午後全部を使って鍛錬をするわけにもいかないの
で、剣術は昼下がりまでには終了する。
そのため、俺は夕飯までの間に、魔力を使い果たすまで使う。
魔術というものは﹃大きさを変化させる﹄と使用する魔力量が変
わる。
詠唱した時に何も意識しない時を1とすると、大きくすればする
ほど加速度的に消費魔力が増えていく。
質量保存の法則ってやつだ。
しかし、なぜか逆に小さくすることでも消費魔力が増えるのだ。
この理論はよくわからない。
こぶし大の水弾を作り出すより、一滴の水を生み出す方がはるか
に魔力を消費する。
おかしな話だ。
前々から疑問に思ってみたのでロキシーに聞いてみたら、
﹁そういうものだ﹂と返された。
解明されていないらしい。
仕組みはわからない。
しかし、訓練を行うに関しては、その仕様も悪くはない。
最近は魔力総量が結構増えてきたので、大きな魔術を使わなけれ
76
ば消費しきれないのだ。
魔力を使うだけなら、力尽きるまで最大出力でぶっぱなせばいい。
だが、そろそろ応用力をつけていっても良いだろう。
なので、出来る限り細かい作業を練習することにした。
魔術で小さく、細かく、複雑な作業をするのだ。
例えば、氷で彫像を作ったり、指先に火を灯して板に文字を書い
たり。
庭から土を持ってきて成分を選り分けたり⋮⋮。
錠前の鍵を掛けたり外したり、なんてのもやってみた。
土の魔術は金属や鉱物にもある程度作用するようだ。
ただし、金属の種類が硬くなればなるほど、消費される魔力が大
きくなった。
やはり硬いものを変化させるのは、難しいらしい。
操作する対象が小さくなればなるほど、
細かく複雑に、かつ正確に素早く動かそうとすればするほど、
消費する魔力の量が莫大になっていく。
野球ボールを全力投球するのと、針の穴にゆっくり糸を通すのと、
同じぐらいの魔力を消耗するのだ。
また、違う系統の魔術を同時に使用するということもやってみた。
同じ系統を同時に使うのに比べ、三倍以上の魔力を消費するよう
だ。
つまり、二種類の系統の魔術を同時に発動し、小さく細かく素早
く正確に動かせば、簡単に魔力を全消費することができた。
77
そんな毎日を続けていたら、
半日以上、そんな魔術を使い続けても、まったく底が見えなくな
ってきた。
もうこれくらいで十分か、そんな気持ちが芽生える。
俺の怠け者の部分が、そろそろいんじゃね? と囁いてくる。
その度に、俺は自分を叱りつけた。
筋トレだってちょっとサボったら体が鈍る。
魔力だってそうかもしれない。一時的に増えたからって訓練を怠
ってはいけないのだ。 と。
−−−
夜中に魔術を使っていると、どこからかギシギシアンアンと悩ま
しい音が聞こえ出した。
どこからかもなにも、パウロとゼニスの寝室に決まっているのだ
が。
お盛んだ。
そう遠くない未来に、俺の弟か妹が生まれる事だろう。
パソコン
できれば妹がいいな。
うん。弟はいやだ。
俺の脳裏には、俺の愛機にバットをフルスイングする弟の姿が残
っている。
弟はいらない。
可愛い妹がいい。
78
﹁やれやれだぜ⋮⋮﹂
生前なら、こんな悩ましい音を聞いたら、
即座で壁ドンか床ドンして黙らせたものだ。
おかげで姉は家に男を連れてこなくなった。
懐かしい。
当時、ああいう事をする奴らは、俺の世界を黒く塗りつぶす巨悪
に思えた。
俺をイジメてた奴らが、俺の決して手の届かない領域からアホ面
して見下ろしてるような気がして、やり場のない怒りが襲った。
暗く不快な場所に落とした張本人が、
お前、まだそんな所にいるの? と、見下してくるのだ。
これほど悔しい事はない。
しかし、最近は違う。
身体が子供になったせいか、ヤってるのが両親なせいか、
あるいは自分自身で未来に向かって努力しているせいか。
二人の営みを、すげー微笑ましい気分で聞いている俺がいる。
フッ、俺も大人になったもんだぜ⋮⋮。
音だけ聞いていると、なんとなく内容もわかる。
どうやら、パウロはかなりお上手らしい。
ゼニスの方はあっという間に息も絶え絶えノックダウン状態にな
っているのに、
パウロは﹁まだまだこれからだぞぅ﹂とか言って攻めつづけてい
る。
陵辱系エロゲの主人公みたいな男だ。
底知れぬ精力⋮⋮。
79
ハッ、もしかしてパウロの息子である俺のムスコにもそんなパワ
ーが秘められているのでは!?
覚醒はよ。
ヒロインはよ!
俺にもピンク色の展開を!
と、最初の頃は興奮していたが、最近では枯れたもので、
ギシギシと軋む廊下を通り抜けて、平然とトイレに行くようにな
った。
ちなみに、部屋の前を歩くとギシアンがぴたっと止まるので、結
構面白いです。
その日も、歩けるようになった息子がいるという事を知らしめて
やるべく、トイレへと向かった。
どれ、今日は一つ、声でも掛けてやるか。
おとーさん、おかーさん、裸でなにしてるの? とか聞いてみる
か。
言い訳が楽しみだぜ。ククク⋮⋮。
そんな事を考えながら、音を殺して部屋を出た。
そこには先客がいた。 青髪の少女が、暗い廊下に座り込んで、ドアの隙間から寝室を覗
いていた。
頬は紅潮し、やや荒い息を潜めるように、しかし視線は部屋の奥
に釘付け。
80
その手は、ローブの下へと潜り込んで小刻みに動いていた。
俺はそっと自室へと戻った。
ロキシーとて年頃の娘である。
彼女がこのようなアレにふけるのを、見てみぬふりをする情が俺
にも存在した。
⋮⋮なんちゃって。
いやぁ、いいものを見た。
−−−
4ヶ月ほど経った。
中級までの魔術は使えるようになった。
という事で、ロキシーと夜の座学をする事になった。
おっと、夜のって付いてるからってエロいことをするわけじゃな
いぞ。
勉強するのは、主に雑学だ。
ロキシーはいい教師だ。
決してカリキュラムにこだわりを持たない。
俺の理解度に合わせて、授業の内容をエスカレートさせる。
生徒への対応力が高いのだ。
81
教科書用に用意した本から質問を出して、俺が答えられれば次に
行く。
わからなければ丁寧に教えてくれる。
それだけの事だが、俺は世界が広がるのを感じた。
生前、兄が受験の時、家庭教師を雇っていた時期があった。
俺も、一度だけ気まぐれでその内容を聞いたことがある。
だが、学校の授業の内容とそう変わるものではなかった。
それに比べて、ロキシーの授業はわかりやすく、面白い。
打てば響く授業だ。
ていうか、性に芽生えはじめた中学生ぐらいの先生に勉強を教え
てもらう。
そのシチュエーションが最高だ。
生前の俺なら、そんな妄想だけで3発はイケたね。
−−−
﹁先生、どうして魔術には戦闘用のものしかないんですか?﹂
﹁別に戦闘用しか無いわけではないのですが⋮⋮﹂
俺の唐突の質問にもロキシーはきちんと答えてくれる。
ハイエルフ
﹁そうですね、何から説明しましょうか⋮⋮。
まず魔術というのは、古代長耳族が創りだしたものだと言われて
います﹂
82
おお、エルフ!
やはりいるのか!
金髪で緑っぽい服を着ていて弓を持っていて触手に絡め取られる
人たち!
おっと、落ち着け。
俺の認識と違うかもしれない。
字面を見るに、耳は長いようだが⋮⋮。
エルフ
エルフ
﹁長耳族というのは?﹂
﹁はい。長耳族とは、現在はミリス大陸の北のほうに住んでいる種
族です。
大昔、まだ人魔大戦が起きる前、
ハイエルフ
世界がまだ混沌として戦いが絶えなかった頃、
古代長耳族たちは外敵と闘うため、森の精霊たちと対話し風や土
を操ったそうです。
そして、それが史上最古の魔術と言われています﹂
﹁へえ、ちゃんと歴史があるんですね﹂
﹁当然です﹂
ロキシーは、茶化すなと言わんばかりに頷いた。
エルフ
﹁今の魔術というのは、人族が戦争の中で長耳族の魔術を真似し、
形態化させていったものです。
人族はそういうのが得意ですからね﹂
﹁人族はそういうのが得意なんですか?﹂
﹁ええ、新しいものを生み出すのは、いつも人族です﹂
人族は発明大好きな人種らしい。
﹁戦闘用しかないのは、主に戦いの中でしか使われてこなかったと
83
いうのもありますが⋮⋮。
魔術に頼らなくても、身近なものを使えば実現できるという理由
もあります﹂
﹁身近なもの、というと?﹂
﹁例えば明かりが必要なら、ロウソクやカンテラを使えばいいでし
ょう?﹂
なるほど、よくある設定、ってやつか。
魔術を使うより、道具を使った方が簡単だから。
理にかなってるぜ。
もっとも、無詠唱なら道具を使うより簡単なんだがね。
﹁それに、全ての魔術が戦闘用というわけではありません。
召喚魔術を使えば、必要に応じた力を持つ魔獣や精霊を召喚する
こともできますし﹂
﹁召喚魔術! そのうち教えてもらえるんですか?﹂
﹁いえ、わたしには使えませんので。
それに、道具というのなら、魔道具というものも存在します﹂
魔道具か。
まぁ、字面からなんとなく想像が付くな。
﹁魔道具というのは?﹂
﹁魔力を持つ物質を使って作られた道具です。
内部に魔法陣を刻んであるので、魔術師でなくとも扱う事ができ
ます。
もっとも、定期的に魔力を補充しなければいけませんが﹂
﹁なるほど﹂
大体想像どおりだ。
84
それにしても、ロキシーが召喚魔法を使えないのは残念だ。
攻撃魔術や回復魔術はなんとなく原理がわかるが、召喚魔術は何
をどうすればいいのかわからない。
知らない単語が一気に増えたな。
人魔大戦。魔獣。精霊⋮⋮。
大体わかるけど。一応聞いておくか。
﹁先生、魔獣と魔物はどう違うんですか?﹂
﹁魔獣と魔物は大きくは違いません。
基本的に魔物というのは従来の動物から突然変異で生まれます。
それが運よく数を増やして、種として定着し、世代を重ねて知恵
をつけたのが魔獣です。
もっとも、知恵をつけても人を襲うようなのは魔物と呼ばれる事
も多いです。
逆に、魔獣が世代を重ねて凶暴になり、魔物に戻るケースもあり
ます。
具体的な線引はありません﹂
魔物・人を襲う。
魔獣・人を襲わない。
という認識でいいのか。
﹁というと、魔族は魔獣が進化したものなんですか?﹂
﹁全然違います。
魔族という単語は、大昔に人族と魔族が戦争をしていた頃につけ
られた名称です﹂
﹁さっき言ってた、人魔大戦ってヤツですか?﹂
85
﹁そうです。戦争があったのは8000年前ですね﹂
﹁それはまた、気が遠くなるぐらい昔ですね﹂
この世界は、割りと長い歴史を持っているようだ。
﹁そう昔でもないですよ。
つい400年前にも、人族と魔族の間で戦争をしていましたから
ね。
8000年前に始めてから、休み休みずっと戦争してるんですよ、
人族と魔族は﹂
400年でも十分昔だと思うが、しかし7000年以上も争い続
けているのか。
仲悪いねえ。
﹁はぁ、なるほど。それで結局、魔族というのは?﹂
﹁魔族というのは、結構定義が難しいのですが、
﹃一番新しい戦争で魔族側についていた種族﹄というのが一番わ
かりやすいでしょうか。
例外もあるんですが⋮⋮。
あ、ちなみに私も魔族です﹂
﹁おぉ、そうだったんですか﹂
魔族がここで家庭教師をやっている。
てことは、今は戦争してないってことかな?
平和が一番。
﹁はい。正式には魔大陸ビエゴヤ地方のミグルド族です。
ルディの両親も、わたしの姿をみて驚いていたでしょう?﹂
﹁あれは先生がちっちゃいからだと思っていました﹂
86
﹁小っちゃくありません。
あれはわたしの髪を見て驚いていたんです﹂
﹁髪?﹂
青くて綺麗な髪だと思うが。
﹁魔族は一般的に、緑に近い髪色を持つ種族ほど凶暴で危険だと言
われています。
特にわたしの髪は、光の加減では緑に見えなくもないですから⋮
⋮﹂
緑色。
この世界の警戒色なのだろうか。
ロキシーの髪は目が醒めるような水色だ。
ロキシーは自分の前髪をくるくるといじりながら説明してくれて
いる。
仕草が可愛い。
生前の日本で水色の髪といえば、パンク系かオバちゃんと相場は
決まっているものだ。
そういう人らを見ても、俺は不自然さと嫌悪感しか抱かない。
だが、ロキシーの青髪は不自然さが全然なく、嫌悪感も抱かない。
むしろ、ロキシーのちょっと眠そうな目によく似合っている。
エロゲーのヒロインにいたら、最初に攻略するぐらいには似合っ
てる。
﹁先生の髪は綺麗ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮ありがとうございます。
87
でも、そういう事は将来好きな子ができた時に言ってあげてくだ
さい﹂
﹁僕、先生のこと、好きですよ﹂
迷わず言った。
俺は迷ったりしない。
可愛い子には全員に粉をかけるのだ。
﹁そうですか。あと十数年した時に考えが変わらなかったらもう一
度言ってください﹂
﹁はい、先生﹂
あっさりスルーされたが、ロキシーがちょっと嬉しそうな顔をし
ていたのは見逃さない。
エロゲーで鍛えたナイスガイスキルが異世界どれだけ通用するか
はわからない。
けど、まったく無意味というわけではないらしい。
日本では使い古されて冗談のように聞こえる小っ恥ずかしいセリ
フも、この世界なら情熱的でユニークな恋の導火線だ。
うん、何言ってんのか自分でもワカンネ。
ロキシーは可愛くてエッチだからフラグ立てときたいな。
でも年齢差が結構あるよね。
将来的にどうなるかな⋮⋮。
﹁それでは話を戻しますが、
派手な色ほど危険というのは、まったくの迷信です﹂
﹁あ、迷信なんですか﹂
88
警戒色とか真面目に考えて損したぜ。
﹁はい。バビノス地方にスペルド族という、髪が緑の魔族がいたの
ですが、
彼らが400年前の戦争で暴れまわったため、そういう風に言わ
れるようになったんです。
なので、髪の色は関係ありません﹂
﹁暴れまわったんですか﹂
﹁はい。たった十数年ほどの戦争で敵味方あらゆる種族に恐れられ、
忌み嫌われるほどに暴れました。
戦争が終わった後、迫害を受けて魔大陸を追われるぐらい危ない
種族でした﹂
戦争が終わってから、味方に追い出されたってことか。
すげえな。
﹁そんなに嫌われてるんですか⋮⋮﹂
﹁そんなにです﹂
﹁何をやったんですか?﹂
﹁さぁ、それはわたしにも⋮⋮
ただ、味方の魔族の集落を襲って女子供を皆殺しにしたりとか、
戦場で敵を全滅させた後に、味方も全滅させたとか、
そういう逸話は子供の頃に何度も聞きました。
夜遅くまで起きていると、スペルド族がやってきて食べてしまう
ぞ、と﹂
しまっ○ゃうオジさんかよ。
﹁ミグルド族もスペルド族に親しい種族なので、かつては風当たり
も強かったと聞きます。
89
そのうち、ご両親にも言われるかと思いますが⋮⋮﹂
いいですか、とロキシーは前置きした。
﹁エメラルドグリーンの髪を持っていて、
額に赤い宝石のようなのがついた種族には、絶対に近づかないで
ください。
やむを得ず会話しなければならない場合も、決して相手を怒らせ
てはいけません﹂
エメラルドグリーンの髪、額に赤い宝石。
それがスペルド族の特徴らしい。
﹁怒らせるとどうなるんですか?﹂
﹁家族を皆殺しにされるかもしれません﹂
﹁エメラルドグリーンと、額に赤い宝石、ですね?﹂
﹁そうです。彼らは額のそれで魔力の流れを見ます。第三の眼です
ね﹂
﹁スペルド族って、実は女しかいないとかあります?﹂
﹁え? ありませんよ? 普通に男もいます﹂
﹁額の宝石が何かすると青色になったりとかしますか?﹂
﹁え? いえ、なりませんよ? 少なくとも私の知る限りでは﹂
なんなんですか、とロキシーは首をかしげた。
俺も聞きたいことが聞けて満足だ。
﹁でも、それだけ目立つなら見分けるのは簡単ですね﹂
﹁はい。見たら何気なく用事があるフリをして逃げてください。
いきなり駆け出すと刺激する恐れがありますので﹂
90
不良の顔を見て即座に逃げ出したら、
なんとなく追いかけられて絡まれるようなものか。
経験がある。
﹁話をするといっても、相手を尊重して喋れば問題ないですよね?﹂
﹁あからさまに侮蔑したりしなければ問題ないと思います。
けれども、人間族と魔族では常識が違う部分も多いので、
どんな言葉がキッカケで爆発するかわかりません。
遠まわしな皮肉とかもやめておいた方がいいですね﹂
ふむ。
すごい癇癪持ちなのだろうか。
しかし、迫害を受けているという話だが、どちらかというと恐れ
られているという感じだ。
あいつらを怒らせるとヤバイから近くにいないでほしい、といっ
た感じか。
怖い怖い。
殺されて二度も三度も人生をやり直せるとは思えない。
極力近づかないようにしよう。
スペルド族、ヤバイ。
俺はそう心に刻んだ。
−−− 一年ほど経った。
魔術の授業は順調だ。
91
最近は、全ての系統で上級の魔術まで扱えるようになった。
もちろん無詠唱でだ。
普段している練習に比べれば、上級魔術なんて鼻くそをほじるよ
うなもんだった。
ていうか、上級魔術は範囲攻撃が多くて、いまいち使い勝手が悪
いように感じる。
広範囲に雨を降らせるとか、何に使うんだ?
と、思ったら、日照りの続いた日にロキシーが麦畑に向かって雨
を振らせて、村人から大絶賛を受けたらしい。
俺は家にいたので、パウロから聞いた話だが。
ロキシーは他にも、村の人に依頼を受けて、魔術を使って問題を
解決しているらしい。
﹃土を起こしていたら大きな岩が埋まっていたんだ、助けてロキシ
えもん!﹄
﹃まかせて、ドン○ラコー﹄
﹃なぁにその魔術?﹄
﹃これはね、岩の周囲の土を水魔術で湿らせて、土の魔術で泥にす
る混合魔術なんだ﹄
﹃うわっ、すごい、岩がどんどん地下に沈んでいく!﹄
﹃うーふーふー﹄
そんな感じだ!︵多分︶
﹁さすが先生。人助けにも余念がありませんね﹂
﹁人助け? 違いますよ。これは小銭稼ぎです﹂
﹁金を取っていたんですか?﹂
92
﹁当然です﹂
なんて守銭奴だ。
と、思ったが、村の人もそれは承知だそうだ。
村にはそういう事が出来る人がいなかったから、
ロキシーは大絶賛されているらしい。
ギブアンドテイクってやつか。
俺の感覚が間違っているのだ。
困っている人を無償で助けるのは当然。
それは日本人の感覚だ。
普通は金を取る。
それが普通だ。常識だ。
まぁ、生前の俺は俺は引きこもってたから困ってる人を助ける所
か、
家族全員から困った奴として扱われていたがね。
ハッハッハー。
−−−
ある日、ふと聞いてみた。
﹁先生のことは先生ではなく師匠と呼んだほうがいいのではないで
しょうか﹂
すると、ロキシーはあからさまに嫌な顔をした。
93
﹁いいえ、恐らくあなたはわたしを簡単に超えてしまうので、やめ
たほうがいいでしょう﹂
俺はロキシーを超えてしまう逸材らしい。
評価されると照れるな。
﹁自分より力の劣る者を師匠と呼ぶのは嫌でしょう?﹂
﹁別に嫌じゃないですよ﹂
﹁わたしが嫌なんです。自分より優秀な人に師匠と呼ばれるなんて、
生き恥じゃないですか﹂
そういうものなんだろうか。
﹁先生は、先生の師匠より強くなっちゃったから、そう言ってるん
ですか?﹂
﹁いいですかルディ。
師匠というのはですね、もう自分に教えられる事は無いと言いな
がらも、
事あるごとにアレコレと口出ししてくるような厄介な存在なんで
す﹂
﹁でも、ロキシーはそんなことしないでしょう?﹂
﹁するかもしれません﹂
﹁もしそうなったとしても、俺は敬いますよ?﹂
偉そうにドヤ顔で忠告してくるロキシー。
きっとニコニコしてしまう。
﹁いいえ、わたしも弟子の才能に嫉妬したら何を口走るかわかりま
せん﹂
94
﹁例えば?﹂
﹁薄汚い魔族の分際で、とか、田舎者のくせに、とか﹂
言われたのか。
可哀想に。
差別はよくないよな。
でも、上下関係なんてそんなもんだ。
﹁いいじゃないですか、威張ってれば﹂
﹁年齢が上なだけで威張ってはだめなんです!
実力が伴わない師弟関係は不快なだけなんです!﹂
断言された。
よほど師匠との仲が悪かったらしい。
そういうわけで、俺はロキシーを師匠とは呼ばないことにした。
けれど、心の中では師匠と呼び続ける事に決めた。
この幼さの残る少女は、本を読むだけでは理解しえないことを、
きちんと教えてくれるのだから。
95
第五話﹁剣術と魔術﹂
5歳になった。
誕生日にはささやかなパーティーが開かれた。
この国には、誕生日を毎年祝うという習慣は無いらしい。
だが、一定の年齢になると、家族が何かを送るのが通例なのだそ
うだ。
一定の年令とは五歳、十歳、十五歳。
十五歳で成人であるから、非常にわかりやすい。
パウロがお祝いに剣を送ってくれた。
二本だ。
五歳児が持つにしては長く重い実剣と、短めの木剣。
実剣はきちんと鍛造されたもので、刃もついていた。
子供が持つようなものではない。
﹁男は心の中に一本の剣を持っておかねばならん、大切な者を守る
には︱︱︱﹂
この薫陶は長かったのでニコニコしながら聞き流した。
パウロは機嫌良さそうに話していたが、
最終的にはゼニスが﹁長い﹂と、窘めた。
パウロは苦笑し﹁ついては、必要な時以外はしまっておくように﹂
と締めくくった。
恐らく、パウロが与えたかったのは、剣を持つことへの自覚と覚
96
悟なのだろう。
ゼニスからは一冊の本をもらった。
﹁ルディは本が好きだから﹂
と、手渡されたのは、植物辞典だった。
思わず、﹁おぉ﹂と声を上げてしまった。
この世界では、本はそもそも高価なのだろう。
製紙技術はあっても、印刷技術は無いらしく、全部手書きだ。
植物辞典は分厚く、
挿絵でわかりやすく丁寧に説明してある。
一体どれだけの値段がするものやら。
﹁ありがとうございます。母さま。こういうのが欲しかったんです﹂
そう言うと、ぎゅっと抱きしめられた。
ロキシーからはロッドをもらった。
30センチほどのスティックの先に小さな赤い石のついた、質素
なものだ。
﹁先日作成したものです。
ルディは最初から魔術を使っていたため失念していましたが、
師匠は初級魔術が使える弟子に杖を作るものでした。申し訳あり
ません﹂
97
そういうものだったらしい。
師匠と呼ばれることを嫌がっていたロキシーだったが、
慣習を無視するのは気が引けたらしい。
﹁はい、師匠。大切にします﹂
そう言うと、ロキシーは苦い顔をした。
−−−
翌日から、本格的な剣術の鍛錬が開始された。
基本的には素振りや型を中心に。
庭に作成された木人相手に、型や打ち込みの具合を見たり、
父親相手に打ち合いをして、足運びや体重移動の訓練をしたり。
という感じだ。
基礎的な感じで、実にいい。
この世界において、剣術はかなり重要視されている。
本に出てくる英雄たちも、ほとんどが剣で武装している。
たまに斧や槌を持っている者はいるものの、少数派だ。
槍を持っている奴はいない。
これは、例の嫌われ者のスペルド族が三叉の槍を使っていたから
だ。
98
槍は悪魔の武器。
そういう常識があるのだ。
一応、本にもそんな悪魔が何匹か登場した。
敵も味方も食い殺す、無差別殺人鬼みたいな役割でだ。
そういう背景もあるからか。
こちらの剣術は元いた世界より優れている。
達人になると、岩を一刀両断したり、
剣閃を飛ばして遠くの相手を攻撃できたりする。
現にパウロも、岩ぐらいなら両断できる。
原理が知りたかったので、褒めておだてたら何度も実演してくれ
た。
幼くして上級魔術をも操れる息子が喜んで手を叩くのだから、パ
ウロもさぞ気分がよかっただろう。
まあ、何度見ても原理がよくわからなかったが。
見てもわからなかったので、
説明を要求してみたのだが⋮⋮。
﹁クっと踏み込んでザンッ! って感じだ﹂
﹁こうですか!?﹂
﹁馬鹿者! それじゃぐぅっと踏み込んでドン! だろうが!
クッと踏み込んでザンだよ! もっと軽やかにだ﹂
こんな感じだった。
これは推測だが、
この世界の剣術というのは魔力を使っている。
99
魔術が見た目通りに魔法っぽく発現するのと違い、
剣術の方は肉体強化や、剣などの金属の強化といった方面に特化
している。
そうでなければ、超高速で動きまわり、岩を両断するなど、でき
るものか。
ブースト
パウロに魔力を使っている意識はない。
ゆえに、説明も出来ない。
しかし、再現できるようになれば、身体強化の魔術が使えるよう
になるようなものだ。
頑張ろう。
−−−
この世界では、主流となる流派が3つある。
一つは剣神流。
攻撃こそが最大の防御と言わんばかりの攻撃的な剣術で、
とにかく相手に先に剣を当てるのを目的としたような速度重視の
流派。
先の先を取って一撃必殺。
倒しきれなければヒットアンドアウェイを倒せるまで続ける。
元の世界に当てはめて言うなれば、薩摩示現流といった所か。
一つは水神流
こちらは剣神流とは真逆。
受け流しとカウンターを中心とした防御の剣術だ。
専守防衛をモットーとしているため、こちらから打って出る手は
100
少ない。
だが達人になると、あらゆる攻撃に対してカウンターを放てるよ
うになるらしい。
あらゆる攻撃︱︱︱魔術や飛び道具に対しても、だ。
宮廷騎士や貴族といった、守る事が中心となるような人物が習う
剣である。
一つは北神流
これは剣術というより、兵法であるようだ。
戦闘中にとっさに怪我を応急手当したり、周囲にあるモノを最大
限に利用するような技が多い。
その戦闘方法はまさに奇想天外。
ジャ○キー・チェンの剣術版といった感じだろう。
怪我の治療や、身体部位の欠損があっても戦える流派であるため、
傭兵や冒険者といった者たちに好まれる剣術ではある。
これらは三大流派と呼ばれ、世界中に使い手がいる。
剣士として極限に達したいと思う者は、
各門派の扉を叩き、死ぬまで剣を振り続けるらしい。
が、そうした者は少数だ。
手っ取り早くそれなりに強くなりたければ、
いくつかの流派を齧って良い所取りをしていくのが基本らしい。
現にパウロも剣神流を主としつつも、水神流と北神流の両方をか
じっている。
剣神流にしろ水神流にしろ、それだけで世に出るにはピーキーす
ぎる剣術なのだろう。
101
ちなみに、これら剣術も、
初級、中級、上級、聖級、王級、帝級、神級。
で、ランク分けされている。
それぞれに神とついているのは、流派の始祖の通称からだ。
水神流の初代剣士は、同時に水神級の魔術を扱える魔術師でもあ
ったのだとか。
剣も神級、魔術も神級、そらもうベラボウに強かったらしい。
ちなみに、
剣士を呼ぶ時は、水神、水聖と呼び、
魔術師を呼ぶ時は、水神級、水聖級と、﹃級﹄を付けるのが一般
的だそうだ。
例えば、ロキシーは﹃水聖級魔術師﹄である。
−−−
俺は剣神流と水神流の二種類を学んでいく事になった。
攻撃の剣神、防御の水神というわけだ。
﹁しかし父様。話を聞く限り、北神流が一番バランスがいいように
思えますが﹂
﹁ルディ。バカを言ってはいかん。
あれは剣を使って戦っているだけで剣術ではない﹂
﹁なるほど﹂
北神流は3つの流派のうちでも、差別されているようだ。
102
あるいは、パウロが個人的に嫌っているだけか。
嫌ってる割に、パウロは北神流も上級らしいが。
﹁ルディは魔法の才能があるようだが、剣術を習っておいて損はな
い。
剣神流の斬撃をしのげるような魔術師になれ﹂
﹁魔法剣士⋮⋮というやつですか?﹂
﹁ん? 魔法剣士は剣士が魔法を使えるというものだ。
お前の場合は逆だろう?﹂
どう違うというのだろう。
戦士から転職しようが、魔法使いから転職しようが、
魔法剣士は魔法剣士だと思うのだが。
ブースト
どちらにせよ、剣術を鍛えれば、魔術にも応用出来る。
問題は、パウロは身体強化を無意識でやっているので、
教えてはくれない、ということだ。
自分でなんとか習得する必要があるが、
ただ身体を鍛えて出来るようになるものなのだろうか。
どうにかして原理を究明しないとな⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮やはり、剣術は嫌か?﹂
考え込んでいると、パウロが不安そうな顔で聞いてきた。
俺には魔術の才能がある、なんて言われているからか。
パウロは俺が剣術の稽古を望んでいないのでは、と悩んでいるよ
うだ。
103
だが勘違いしないでほしい。
俺は剣術の稽古が嫌なわけじゃない。
むさ苦しい男と庭でさわやかな汗を流すより、
ロキシーと二人っきりで部屋でお勉強するほうが好きなだけだ。
インドア派なのだ。
もっとも、それは好き嫌いの問題だ。
この世界で本気で生きると決めたからには、
剣も魔術も頑張ってみせるさ。
﹁いえ、魔術と同じぐらい剣術も上手になりたいです﹂
パウロはその言葉にジーンと感動したようで、
嬉しそうに頷くと、木剣を構えた。
﹁よし、じゃあ打ち込みをはじめるぞ。
掛かってこい!﹂
単純だ。
魔術と剣術。
最終的にどちらに頼る事になるのかはわからない。
ぶっちゃけどっちでもいい。
﹁はい! 父様!﹂
だが、親孝行ははやいうちからしておくべきだ。
生前、両親には死ぬまで苦労を掛けた。
もし俺が両親にもっと優しくしていれば、
兄弟たちも俺をいきなり家から叩きだすような真似はしなかった
104
かもしれない。
なので、親は大切にしなければな。
−−−
そうして剣術の初歩に足を踏み入れた頃、
魔術の授業はというと、かなり技術的、かつ実践的な部門へと進
んでいた。
ウォーターフヒ
ォート
ルアイラア
ンイ
ドシクルフィールド
﹁水滝、地熱、氷結領域を順に発生させるとどうなりますか?﹂
﹁霧が発生します﹂
ヒートアイランド
﹁そうです。ならば、その霧を晴らすには?﹂
﹁ええと、もう一度地熱を使って地面を温めます﹂
﹁そのとおりです。やってみせてください﹂
複数の系統を順番に使うことで現象を発生させる。
これは﹃混合魔術﹄と呼ばれている。
魔術教本には、雨を降らせる魔術は載っていても、
霧を発生させる術はなぜか載っていない。
そこで、魔術師は違う系統の魔術を混ぜて使う。
そうすることで、自然現象を再現するのだ。
顕微鏡のないこの世界。
自然現象の原理まで解明されているわけではないだろう。
混合魔術には、昔の魔術師の創意工夫が詰まっている。
105
まぁ、俺にそんな面倒なことをする必要はない。
雲を作り出し雨を降らせる魔術を、地面スレスレで発動するだけ
でいい。
だが、自然現象を意図的に発生させる。
というのは理解しやすい。
頭をひねれば、色々できそうだ。
﹁魔術はなんでもできるんですね﹂
﹁なんでもはできません、過信してはいけません。
ただ冷静に、自分のできること、やるべきことを淡々とこなして
ください﹂
と、ロキシーには窘められたが、
俺の頭の中は超電磁砲やら光学迷彩といった単語が踊っていた。
﹁それに、なんでも出来るなんて吹聴して回れば、出来ない事も押
し付けられます﹂
﹁先生の経験談ですか?﹂
﹁そうです﹂
なるほど、それは気をつけなければいけない。
押し付けられるのは面倒だしな。
﹁しかし、魔術師にそんなに仕事を押し付けてくる人がいるんです
か?﹂
﹁ええ、上級魔術師というものは数が多いわけではありませんから﹂
戦うことの出来る人間が20人に一人。
106
その中でも魔術師はさらに20人に一人。
そんな感じらしい。
魔術師は400人に一人といった所か。
魔術師自体は別に珍しくもないが、
﹁魔術学校を卒業するまできちんと学んだ人間⋮⋮⋮。
つまり上級魔術師となると、魔術師100人に1人といった所で
しょう﹂
上級魔術師は、4万人に一人。
中級・上級魔術に加えて混合魔術を操れれば、できることが飛躍
的に増える。
ゆえに、引っ張りだこなんだそうだ。
この国の家庭教師も上級以上という資格が必要だ。
資格としての効果も強い。
﹁魔術学校なんてあるんですか?﹂
﹁はい。魔術学校は大国ならどこにでもあります﹂
それにしても、あるとは思っていたが魔術学校か。
始まっちゃうか? 学園編。
﹁が、やはりいちばん大きいのはラノア魔法大学でしょう﹂
ほう、大学もあるのか。
107
﹁その大学は他の学校とはどう違うんです?﹂
﹁いい設備と教師が揃っています。
他の学校で習うより近代的で高度な講義を受けることが出来るで
しょう﹂
﹁先生も大学の出身なんですか?﹂
﹁そうです。もっとも、魔術学校というのは格式が高いものなので、
魔族であるわたしは魔法大学にしか入れなかったのですが⋮⋮﹂
貴族の子弟が通うようなラノア王国の魔術学校は、種族が人間で
ないというだけで審査で弾かれるのだそうだ。
魔族への差別も少なくなりつつあるが、やはりまだまだ風当たり
は強いらしい。
﹁ラノア魔法大学には変な格式やプライドがありません。
正しい理論なら、奇抜でも一蹴される事はありませんし、
様々な種族を受け入れることで、各種族の独自魔術の研究もすす
んでいます。
もしルディが魔術の道を進みたいというのなら、
魔法大学に進む道をオススメします﹂
自分の出身校というのもあるだろうが、ベタ褒めだ。
まあ、もうちょっと先の話だろう。
五歳で入学したらイジメられちゃうかもしれないし。
﹁そのあたりを決めるのはまだ早いんじゃないかと⋮⋮﹂
﹁そうですね。
パウロ様の意向に従い、剣士か騎士の道を進むのもいいと思いま
す。
騎士の肩書きを手に入れた上で、魔術大学に留学していた者もい
108
ました。
剣か魔術、どちらか片方の道しかない、とは思わないで下さい。
魔法剣士という道もありますから﹂
﹁はい﹂
それにしても、
パウロとは逆に、ロキシーは俺が魔術が嫌いなのでは、と不安に
思っているようだ。
最近は魔力量も増え、法則もわかってきた。
ゆえに、授業を気もそぞろで受けることが多くなってしまった。
もともと、3歳の時にムリヤリ始められた魔術の授業。
この二年で嫌気がさしてきた。
そう思われたのかもしれない。
パウロは俺の魔術の才能を見て、
ロキシーは俺の剣術の熱心さを見て、
それぞれ違う理由から、中間の道もあるのだと示しているのだろ
う。
﹁でも、まだまだ先の話でしょう?﹂
﹁ルディにとってはそうですね﹂
ロキシーは寂しそうに笑った。
﹁ですが、そろそろわたしの教えられる事も少なくなりました。
卒業も近いですから、こういう話をしてもいいでしょう﹂
109
⋮⋮⋮⋮⋮なぬ?
卒業?
110
第六話﹁尊敬の理由﹂
この世界に来てから、俺は家の外に出たことはない。
意図的に、出ないようにしてきた。
怖いからだ。
庭に出て、外を見れば、すぐにでも記憶が蘇る。
あの日の記憶。
脇腹の痛み。雨の冷たさ。
無念。
絶望感。
トラックにハネられた時の痛み。
それらが昨日の事のように蘇ってくる。
足が震える。
窓から外を見ることは出来た。
自分の足で庭までは出ることが出来た。
だが、それ以上は出られない。
俺は知っている。
目の前に広がるのどかな田園風景は、一瞬で地獄に変わるのだ。
いかにも平和ですという風景は、決して俺を受け入れてはくれな
いのだ。
生前。
家の中でもんもんとしながら何度妄想しただろうか。
日本がいきなり戦争に巻き込まれたら。
111
ある日突然美少女の居候ができたら。
きっと俺は頑張れる。
そんな妄想をして、現実逃避をしていた。
何度も夢に見た。
夢の中の俺は超人ではなかったが、人並みだった。
人並みに、自分のできることをやっていた。
一人で生きていくことができていた。
けれど、夢は覚めた。
もし、一歩でも家の外に踏み出せば。
この夢も覚めてしまうかもしれない。
夢が覚め、あの絶望の瞬間に戻ってしまうかもしれない。
後悔の波に押しつぶされそうな、あの瞬間に⋮⋮⋮。
いや、これは夢じゃない。
こんなリアルな夢があってたまるものか。
VRMMORPGだと言われたほうがまだ納得出来る。
これは現実だ。
そう、自分に言い聞かせる。
わかっている。
この現実は夢じゃない。
わかっているのに、俺は一歩も踏み出せない。
心の中ではどれだけやる気になっても。
本気になると口で誓っても。
身体は決して付いてこない。
112
泣きそうだ。
−−−
卒業試験は村の外でやる。
そう言ったロキシーに、俺は小さく抵抗した。
﹁外ですか?﹂
﹁はい、村の外です。もう馬も用意してあります﹂
﹁家の中でやることはできませんか?﹂
﹁できません﹂
﹁できませんか⋮⋮﹂
俺は迷っていた。
頭の中ではわかっている。
いつかは外に出なければならない。
この世界でも引きこもりであってたまるものか、と。
しかし、身体は拒否する。
覚えているのだ。あの時の事を。
﹁どうしました?﹂
﹁いえ⋮⋮⋮その⋮⋮⋮、
外には魔物とかいるかもしれませんし﹂
﹁このあたりは森に近づかなければ滅多に遭いませんよ。
それに、遭っても弱いですから、わたし一人でも倒せます。
ていうか、ルディでもいけると思いますよ﹂
113
この期に及んであれこれと理由をつけて外に出たがらない俺を見
て、ロキシーは怪訝そうな顔をしている。
﹁あ、そういえば聞きました。ルディ、あなた外に出たことがない
んでしたっけ?﹂
﹁う⋮⋮はい﹂
﹁さては、怖いんですね? 馬が﹂
﹁う、馬は別に怖くないですよ?﹂
馬はむしろ好きだよ?
ダビ○タとかやってたし。
﹁ふふ。安心しました。意外に歳相応な所もあるんですね﹂
ロキシーは勘違いしていた。
しかし、外に出るのが怖いとはいえなかった。
それはきっと、馬が怖いと言うより情けないことだからだ。
俺にはプライドがあった。
内実を伴わない、ちゃちなプライドが。
﹁仕方ありませんね。よっこらしょ﹂
俺が動かないでいると、
ロキシーはいきなり俺を肩に担いだ。
﹁なぁ!?﹂
﹁乗ってしまえば、すぐにでも怖くなくなりますよ﹂
俺は暴れなかった。
114
心の中に葛藤があったせいもあるが、
持ち運ばれて、流されるまま、任せておけばいいか、とそんな気
持ちもあった。
ロキシーにポンと放り投げられるように馬の上に乗せられた。
ロキシーはそのまま後ろに飛び乗り、手綱をぽんと一つ打つ。
馬はカッポカッポと歩き出した。
俺はあっさりと家を出た。
−−−
この世界に来てから庭の外に出るのは初めてだ。
ロキシーは村の中をゆっくりと進んでいく。
時折、俺たちを見て、村人が無遠慮な視線を送ってくる。
まさか、と思う。
身体が緊張する。
視線はいまでも怖い。
無遠慮で、格下を見る目は、特に。
明らかに馬鹿にする口調で話しかけられたりはしないだろうか。
ないはずだ。
この世界で俺を知っている人は、あの狭い家の中だけだ。
知らないはずだ。
なんで見ている。
見るなよ。仕事してろよ⋮⋮。
115
いや⋮⋮。
俺達にではない。
ロキシーを見ているのだ。
中にはロキシーに向けて会釈をする者もいる。
ああ、そうか。
彼女は、この数年で村の中に立場を築いたのだ。
この国では、まだ魔族の風当たりが強いというのに。
田舎ともなれば、その傾向はより顕著だろうに。
たった二年で、彼女はこの村で会釈をされる存在になったのだ。
そう考えた瞬間、背中のロキシーがとたんに頼もしく感じられた。
彼女は道を知り、人々と知り合っている。
もし人々が俺に何か言ったとしても、なんとかしてくれるだろう。
ああ、まさか、寝室を覗いてあんなことしてた少女がこんなに頼
もしく感じられるとは。
次第に、俺の身体から緊張が抜けていくのが感じられた。
﹁カラヴァッジョが上機嫌です。
彼、ルディを乗せられて嬉しいみたいですよ﹂
﹁そうですか﹂
もたれかかると、ロキシーの控えめな胸が首裏に当たった。
いい感じだ。
俺は何を恐れていたのだろうか。
こんな長閑な村で、誰が俺を馬鹿にするというのか。
116
﹁まだ怖いですか?﹂
﹁いえ、もう大丈夫です﹂
﹁ほら、大丈夫だったでしょう?﹂
心に余裕が出来た。
すると、周囲の風景が目に入ってきた。
一面見渡す限りの畑で、間に家がちょこちょこと立っている。
まさに農村という感じだ。
かなり広い範囲に結構な数の家が見える。もっと密集していれば、
町と思ったかもしれない。
風車が立っていればスイスと思ったかもしれない。
あ、水車小屋もあるのか。
リラックスできると、沈黙が気になった。
今までロキシーといる時は、こんな沈黙は無かった。
こんな風に、二人で密着しているなんてことも無かった。
沈黙は苦ではなかったが、こそばゆかった。
なので俺は口を開く。
﹁先生。この畑では何が取れるんですか?﹂
﹁主にはアスラン麦です。パンの原料ですね。
それに、バティルスの花と野菜を少々といった所でしょうか。
バティルスの花は王都で加工されて香料になります。
あとはいつも食卓に上がるものばかりですね﹂
﹁あ、あそこのはピーマンですよね。先生が食べられない﹂
﹁べ、別に食べられないわけじゃありません。ちょっと苦手なだけ
です﹂
117
俺はあれこれと質問を続ける。
今日、ロキシーは最終試験だと言った。
つまり、家庭教師が終わりだということだ。
せっかちなロキシーのことだ。
明日にはウチを出ていくかもしれない。
そうなれば、今日が最後だ。
もっと話をしておこう。
しかし、気の利いた話題は見つからず、
俺は村のことをただひたすらに聴き続けた。
ロキシーの話によると、
この村はアスラ王国の北東にあるフィットア領の一部で、ブエナ
村という名前らしい。
現在は30世帯余りが農業をして暮らしているらしい。
俺の父親であるパウロは、この村に派遣されている騎士だ。
村人がきちんと仕事をしているか監視をすると同時に、村内で喧
嘩を仲裁したり、
魔物などが攻めてきた際には、村を守る仕事を受け持っている。
ようするに国公認の用心棒だ。
とはいえ、この村では若い衆が持ち回りで自警をしている。
だから、パウロも午前中で見回りを終えたら、午後は大体家にい
るわけだ。
基本的に平和な村だから、仕事が無いのだ。
118
そんな話をしていると、次第に畑もなくなってきた。
聞くこともなくなり、しばらくまた沈黙する。
それからさらに一時間ほどだろうか。
周囲からは完全に畑が消え、何もない草原を移動していた。
−−−
地平線の果てまでずっと草原だ。
いや、遠くの方にうっすらと山が見える。
少なくとも、日本では見られない光景だろう。
地理の教科書か何かで見たモンゴルの光景がこんな感じだったろ
うか。
﹁このあたりでいいでしょう﹂
ロキシーはポツンと一本だけ立っている木の側で馬を止めると、
降りて手綱を木に結んだ。
そして、俺を抱いて下ろしてくれる。
そして、俺と向かい合う。
キュムロニンバス
﹁これからわたしは水聖級攻撃魔術﹃豪雷積層雲﹄を使います。
この術は、広範囲に雷を伴う豪雨を降らせる術です﹂
﹁はい﹂
﹁真似して使ってみて下さい﹂
119
水聖級の魔術を使う。
なるほど、それが最終試験の内容か。
これから使うのが、ロキシーの最大の魔術であり、俺が使えるよ
うになれば、ロキシーに教えられることはないということだ。
﹁わたしは実演するために一分ほどで散らしますが、
そうですね⋮⋮⋮⋮⋮。
一時間以上振らせ続けることができたら合格としましょう﹂
﹁秘伝だから人のいない所でやるんですか?﹂
﹁違います。人や農作物に被害が出るかもしれないからです﹂
ほう。
農作物に被害が出るレベルの雨を降らせるのか。
こりゃ凄そうだ。
ロキシーは天に向って両手を上げた。
﹁雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!
我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を
見せつけよ!
神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽く
せ!
ああ、雨よ! 全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ!
キュムロニンバス!﹂
一つ一つの単語を、噛み締めるようにゆっくりと詠唱する。
時間にして一分以上。
唱え終わった瞬間、一瞬にして周囲が暗くなった。
120
数秒のタイムラグ、叩きつけるように雨が落ちる。
凄まじい暴風が吹き荒れ、真っ黒な雲が稲光を伴い出す。
空気を切り裂いて、落ちた。
バガァァン!!
木に落ちた。
鼓膜がジンジンし、目がチカチカした。
気絶するかと思った。
﹁あっ!﹂
ロキシーがうっかりミスをした時の声を上げる。
雲が一瞬で散っていく。
雨も雷もすぐに収まった。
﹁あわわ⋮⋮﹂
ロキシーが真っ青な顔で木の方に駆け寄っていく。
見てみると、馬が煙を上げて倒れていた。
ロキシーは馬に手を当てると、即座に詠唱。
﹁母なる慈愛の女神よ、彼の者の傷を塞ぎ、健やかなる体を取り戻
さん、
エクスヒーリング!﹂
ロキシーがわたわたと中級のヒーリングを施し、程なくして馬は
蘇った。
即死では無かったらしい。
馬は怯えた顔をしていて、ロキシーの額には脂汗がびっしりつい
121
ていた。
﹁ふ、ふぅ⋮⋮危ないところでした﹂
確かに危ない所だった。
あの馬はうちに一頭しかいない馬だ。
パウロが毎日丁寧に手入れをして、たまににこやかな顔で遠乗り
に出かけていく。
別に名馬でもなんでもないらしいが、長年苦楽を共にしてきた戦
友で、
ゼニスの次に愛していると言って憚らない。そんな大切な馬だ。
もちろん、2年間一緒に暮らしてきたロキシーだってその事はよ
く知っている。
ロキシーが恍惚とした表情で馬にべったり張り付いているパウロ
を目撃して、若干引いていたのを、俺は知っている。
﹁こ、この事はナイショでおねがいしますね?﹂
ロキシーは涙目になって言った。
彼女はドジだ。
よく、うっかりミスでこんなことをしてしまう。
だが、頑張り屋だ。
毎晩、夜遅くまで俺への授業の予習をしていたのも知っている。
まだまだ若いってことでナメられないように、精一杯威厳を出そ
うとしていたことも知っている。
うちの師匠は可愛いです。
122
年齢が離れてさえいなければ嫁に欲しいぐらいです。
﹁安心してください。父様には言いませんので﹂
﹁うう⋮⋮お願いします﹂
なるべくなら、同年代で知り合いたかったな。
﹁うぅ⋮⋮﹂
ロキシーは半泣きだったが、すぐに顔をブルブルと振り、
パンパンと頬を叩くと、キリッとした顔で俺を見た。
﹁さぁ、やってみなさい。カラヴァッジョはわたしが守っておきま
すので﹂
ちなみに、カラヴァッジョは馬の名前です。
今にも怯えて逃げ出しそうにしていますが、ロキシーが小さな身
体でガッシリと止めています。
と、見ていると、ロキシーはにゃむにゃむと何かを詠唱した。
見るまに彼女と馬を土の壁が覆っていく。
あっという間に、土製のカマクラが出来上がる。
アースフォートレス
土の上級魔術﹃土砦﹄だ。
あれなら、雷雨を受けても大丈夫だろう。
よし。
やるか。
いっちょすごいのを見せて、ロキシーの度肝を抜いてやろう。
123
えーと、たしか詠唱は⋮⋮。
﹁雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!
我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を
見せつけよ!
神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽く
せ!
ああ、雨よ! 全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ!
キュムロニンバス!﹂
一発で言えた。
キュムロニンバス
モクモクと雲ができていく。
と、同時に、俺は﹃豪雷積層雲﹄を理解した。
中空に雲を作り出すと同時に、複雑に動かして雷雲にする。そん
な感じだ。
常時魔力を注ぎ込まなければ雲の動きが止まり、すぐに雲が散っ
てしまう。
︵魔力はともかく、両手を一時間も上に上げ続けるのはしんどいな
⋮⋮︶
いや、まて。
魔術師は創意工夫だ。
こんな元気を集めるようなポーズで1時間も耐える必要はないん
じゃないか?
そうだ。これは試験だ。
1時間も同じ姿勢でいるのではなく、雲を作ったら混合魔術であ
れを維持するのだ。
危ない所だった。
124
習ったことを使わねば。
﹁えーっと。確か昔テレビ見たな。雲が出来るまでの過程は︱︱︱﹂
さっきロキシーが作った雲がまだ残ってるから、
こう横向きに竜巻を発生させるような感じで、
上昇気流を作るのに下の方を暖めた方がいいんだっけか。
ついでに上の方も冷やして上昇気流の速度を上げて︱︱︱。
なんてやっていたら、半分ぐらい魔力を消費してしまった。
まぁでも、これだけやれば1時間以上は持つだろう。
俺は満足して、雷の鳴る豪雨の中、ロキシーの作ったドームの中
へと入った。
ロキシーは暗いドームの端の方で、馬の手綱を握って座っていた。
彼女は俺を見ると、こくりと頷いた。
﹁このドームは1時間ほどで消えますので、それまで消えなければ
大丈夫です﹂
﹁はい﹂
﹁安心してください。カラヴァッジョは大丈夫です﹂
﹁はい﹂
﹁はいはい言ってないで、一時間、外できっちり雷雲を制御するん
です﹂
ん?
﹁制御ですか?﹂
﹁ん? 何かおかしなことを言いましたか?﹂
125
﹁いえその、制御って必要なんですか?﹂
﹁そりゃあもちろん、水聖級の魔術だって、魔術なのですから、
きちんと魔力を使って維持をしないと、風に散らされてしまいま
す﹂
﹁散らされないようにはしておきましたけど⋮⋮?﹂
﹁は? ⋮⋮⋮!﹂
ロキシーは何かに気付いたようにドームの外へと飛び出していっ
た。
同時に、ドームがボロボロと崩れはじめる。
こらこら! ちゃんと制御しないか!
馬が生き埋めになるだろう!
﹁おっととと﹂
と、慌てて制御を引き継ぎ、外に出る。 ロキシーは呆然とした顔で空を見上げていた。
﹁⋮⋮⋮そうか、斜めに上がっていく竜巻が雲を押し上げて⋮⋮﹂
そこには、俺の創りだした、際限なく大きくなっていく積乱雲が
あった。
我ながらいい出来だ。
昔、何かの特番でスーパーセルが出来るまで、というのを科学的
に検証していた。
詳しい内容はよく覚えていない。
確かこんな感じというビジョンを持って作っていたら、それっぽ
いのができたのだ。
﹁ルディ。合格です﹂
126
﹁え? でも、また一時間経ってませんよ?﹂
﹁必要ありません。あれだけ出来れば十分でしょう。ていうか消せ
ますか?﹂
﹁あ、はい。ちょっと時間掛かりますけど﹂
俺は地面の方を広域で冷やしたり、上の方を温めたり、下に向か
って気流を作ったりして、
最終的に風魔術の力技で、なんとかして雲を散らした。
終わる頃には、俺とロキシーはびしょ濡れになっていた。
﹁おめでとうございます。これであなたは水聖級です﹂
水もしたたるいい女は、晴れやかな顔でそう宣言した。
その瞬間、俺の心に、ささやかな全能感が芽生えていた。
−−−
翌日。
ロキシーは旅装を整え、二年前に来た時と寸分変わらない格好で
玄関にいた。
父も母もロキシーが来た時と、あまり変わらない。
俺の背だけが伸びていた。
﹁ロキシーちゃん、まだウチにいてもいいのよ?
教えてないお料理も一杯あるし⋮⋮﹂
﹁そうだぞ。家庭教師が終わったとはいえ、君には去年の干ばつの
127
時にも世話になったしな。
村の奴らだって歓迎するだろう﹂
両親はそう言ってロキシーを引きとめようとする。
俺の知らない所で、ロキシーは両親と仲良くなっていたらしい。
まぁ、彼女は午後から夜まで丸々暇だったわけだし、
毎日何かしらしてれば、顔も広くなるか。
主人公が行動を起こさない限り能力に変動のないゲームのヒロイ
ンとは違うってことだ。
﹁いいえ。ありがたい申し出ですが、今回の事で自分の無力さを思
い知りました。
しばらくは世界を旅しながら、魔術の腕を磨くつもりです﹂
どうやら、俺にランクで追いつかれてしまったのがショックらし
い。
前に、弟子に追いつかれるのは嫌だと言ってたしな。
﹁そうか。まぁ、なんだ。悪かったな。うちの息子が自信を失わせ
てしまったようで﹂
パウロよ。そういう言い方はよくないぞ。
﹁いえ、思い上がりを正して頂いたことを感謝すべきはこちらです﹂
﹁水聖級の魔術が使えて思い上がりってことはないだろう﹂
﹁そんなものが使えなくとも、工夫しだいでそれ以上の魔術が使え
る事を知りました﹂
ロキシーは苦笑しながらそう言うと、俺の頭に手を置いた。
128
﹁ルディ。
精一杯頑張ったつもりですが、わたしではあなたを教えるのに力
不足でした﹂
﹁そんな事はありません。先生は色んなことを教えてくれました﹂
﹁そう言ってもらえると助かります⋮⋮ああそうだ﹂
ロキシーは、ローブの内側に手を入れると、ゴソゴソと中を探り、
革紐についたペンダントを取り出した。
緑の光沢を持つ金属でできていて、三つの槍が組み合わさったよ
うな形をしている。
﹁卒業祝いです。
用意する時間が無かったので、これで我慢してください﹂
﹁これは⋮⋮?﹂
﹁ミグルド族のお守りです。
気難しい魔族と出会った時にこれを見せてわたしの名前を出せば、
少しぐらいは融通してくれる⋮⋮かもしれません﹂
﹁大切にします﹂
﹁かもですからね。あんまり過信してはいけませんよ﹂
ロキシーは最後の最後に小さく微笑んで、旅立って行った。
俺はいつしか泣いていた。
彼女には、本当にいろんな物をもらった。
知識、経験、技術⋮⋮。
彼女と出会わなければ、俺は今もなお、一人で魔術教本を片手に
効率の悪いことをやっていただろう。
そして何より、彼女は俺を外に連れだしてくれた。
129
外に出た。
それだけの事。
ただ、それだけの事だ。
ロキシーに連れだしてもらった。
その事に意味がある。
この村にきて、まだ二年しか経っていないロキシーが。
決して他人との付き合いがうまいとは思えないように見えるロキ
シーが。
魔族ということで、村人から決していい目を向けてもらえなかっ
たはずのロキシーが。
トラウマ
パウロでもゼニスでもなく、ロキシーが連れだしてくれた事に、
意味がある。
連れだしたといっても、ただ村を横切っただけ。
しかし、外に出るという行動は、俺にとって間違いなく心的外傷
だった。
彼女はそれを治してくれた。
ただ村を横切っただけで。
俺の心を晴れやかにさせてくれた。
彼女は俺を更生させるのが目的ではなかった。
だが、俺の中で何かが吹っ切れたのは間違いない。
昨日、びしょ濡れで帰ってきた俺は、門を振り返り、一歩だけ外
に出てみた。
ただそこには、地面があった。
ただの地面だ。
130
震えはなかった。
俺はもう、外を歩けるのだ。
彼女は、誰にもできない事を、やってのけたのだ。
生前、両親も兄弟もできなかったことを。
彼女はしてくれたのだ。
無責任な言葉でなく、責任ある勇気を与えてくれたのだ。
狙ってやったことじゃない。
それはわかっている。
自分のためにやったことだ。
それもわかっている。
けれど尊敬しよう。
あの小さな少女を、尊敬しよう。
そう心に誓い、俺はロキシーの背中が見えなくなるまで見送った。
手元には、ロキシーにもらった杖とペンダント。
そして数々の知識だけが残った。
−−−
131
と、思ったら、
数ヶ月前に盗んだロキシーの染み付きパンツが自室にありました。
ご、ごめんなさい。
132
第七話﹁友達﹂
俺は外に出てみることにした。
せっかくロキシーが外に出るようにしてくれたのだ。
無駄にはすまい。
﹁父様。外で遊んできてもいいですか?﹂
ある日、植物辞典を片手にパウロにそう聞いてみた。
この年頃の子供というものは、目を放すとすぐにどこかに行って
しまう。
近所とはいえ、黙って出ては親も心配するだろうとの配慮だ。
﹁外? 遊びに? 庭じゃなくてか?﹂
﹁はい﹂
﹁お、おお。もちろんだ﹂
あっさりと許可が出た。
﹁思えば、お前には自由な時間を与えていなかったな。
親の勝手で魔術と剣術を同時に習わせたが、子供には遊ぶことも
必要だ﹂
﹁いい先生と巡り合わせて頂いて感謝しています﹂
厳格な教育パパだと思っていたが、わりと柔軟な思考をしている
らしい。
一日中剣術をしろと言われる可能性まで考慮していたのだが、
拍子抜けだ。
133
感覚派だが、根性論は持っていないらしい。
﹁それにしても、お前が外に、か。
身体の弱い子だと思っていたが、時が経つのはあっという間だな﹂
﹁身体が弱いなんて思ってたんですか?﹂
初耳だ。
病気なんてしたことないのに⋮⋮。
﹁全然泣かなかったからな﹂
﹁そうですか。まぁ、今が大丈夫ならいいじゃないですか。
丈夫で愛嬌のある息子に育っていますよ。びろーん﹂
と、ほっぺたを引っ張って変顔をしてみせると、パウロは苦笑し
た。
﹁そういう、子供らしくない所が逆に心配なんだがな﹂
﹁長男がしっかりしている事の何が不満なんですか﹂
﹁いや、不満は無いんだが﹂
﹁不満たらたらの顔で、もっとグレイラット家の跡継ぎとして相応
しい人間になれ、とか言ってもいいんですよ?﹂
﹁自慢じゃないが、父さんがお前ぐらいの頃は女の子のスカートを
めくる事に夢中な悪ガキだった﹂
﹁スカートめくりですか﹂
この世界にもあるのか。
しかし自分で悪ガキつったな、この男。
﹁グレイラット家に相応しい人間になりたいなら、ガールフレンド
の一人でも連れてきなさい﹂
134
なに? ウチってそういう家柄なの?
辺境を守る騎士で下級貴族って話じゃなかったの?
格式とか無いの? いや、所詮は下級。そんなもんか。
﹁わかりました。では、めくるスカートを見つけに村に行ってまい
ります﹂
﹁あ、女の子には優しくするんだぞ。
それに、自分の方が力が強くて魔術が使えるからっていばっちゃ
だめだ。
男の強さは威張るためにあるんじゃないからな﹂
お、今いいこと言った。
いいねいいね、生前のうちの兄弟にも聞かせてやりたいよ。
そうだな、力ってのはただ振るっても意味がない。
パウロの言うことはもっともだよ。
俺も理解者さ。
﹁わかっていますよ父様。
強さとは、女の子にいい格好を見せる時のためにあるんですよね﹂
﹁⋮⋮いや、そうじゃなくてな﹂
あれ?
そういう話の流れじゃなかったのか?
失敗失敗。てへぺろ。
﹁冗談です。弱い者を守るためにあるんですよね?﹂
﹁うむ、そのとおりだ﹂
そんな会話の後、植物辞典を小脇に抱え、ロキシーにもらった杖
135
を腰に差し、
さぁ出かけようかと思った所で、ふと気づいて俺は振り返った。
﹁ああそうだ、父様。
これからもちょくちょく外出すると思いますが、出かける時は必
ず家の誰かに言いますし、剣術と魔術の鍛錬は毎日欠かさずやりま
す。日が落ちて暗くなる前には帰りますし、危ない所には近づきま
せん﹂
﹁あ⋮⋮⋮ああ﹂
念のため、そう言い残しておく。
パウロはなぜか唖然としていた。
本当なら、お前が言わなきゃいけない事だぜ?
﹁では、行って来ます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮行ってらっしゃい﹂
こうして、俺は家を出た。
−−−
数日が経過した。
外は怖くない。順調だ。
すれ違う人と爽やかな挨拶をかわせるようにまでなった。
人々は俺のことを知っていた。
パウロとゼニスの子供、ロキシーの弟子として。
初対面の相手には挨拶と自己紹介。
136
二度目の人にはこんにちわ。
誰もがにこやかな顔で挨拶を返してくれる。
こんな晴れやかな気分は久しぶりだ。
半分以上がパウロとロキシーの知名度のおかげ。
残りは全てロキシーのおかげだ。
パンツ
御神体を大切にしよう。 −−−
さて。
外に出た主な目的は、主に自分の足で歩き、地理を覚えることだ。
地理さえ覚えておけば、突然家から叩きだされても、迷ったりし
ないからな。
同時に、植物系の調査も行いたい。
ちょうど植物辞典もあることだし、食べられるもの、食べられな
いもの、薬になるもの、毒になるもの⋮⋮。
それぞれ見分けられるようにしておいた方がいい。
そうすれば、突然家から叩きだされても、飯に困ることはないか
らな。
ロキシーは触りしか教えてくれなかったが、この村では麦と野菜
と香水の材料を栽培しているらしい。
香水の材料、バティルスの花というのはラベンダーによく似た植
物だ。
薄紫色をしており、食べることもできるのだとか。
137
そういった目立つものを中心に、俺は目についた植物を片っ端か
ら植物辞典で照合していった。
といっても、村はそれほど広く無いし、大した植物があるわけじ
ゃない。
何日もしないうちに、俺の行動半径は広がり、森の方へと向くよ
うになっていた。
森には植物が多いからだ。
﹁確か、森は魔力溜りができやすいから、危ないんだったな﹂
魔力溜まりが出来やすい環境は、魔物の発生率が高い。
魔力による突然変異で生まれてくるのが魔物だからな。
なぜ森に魔力溜まりが出来やすいのかは知らんが。
もっとも、このあたりはそもそも魔物が出にくい上、
定期的に魔物狩りを行なわれているので比較的安全だ。
魔物狩りとは文字通り。
月に一度、騎士、狩人、自警団たちといった男衆が、
総出で森に入って魔物を一掃するらしい。
とはいえ、森の奥で凶悪な魔物がいきなり出現することもあるら
しい。
俺は魔術を憶えて多少は戦える力は手に入れたかもしれない。
だが、元は喧嘩もロクにしたことのない引きこもりだ。
増長してはいけない。
実戦経験も無いし、調子に乗ってヘマしたら目も当てられない。
138
そうして死んでいった奴を何人も見てきた⋮⋮漫画でな。
そもそも、俺は血の気の多い方じゃない。
戦いは極力避けるのが一番だと思っている。
魔物に遭遇したら逃げ帰ってパウロに報告しよう。
そうしよう。
そんな事を考えつつ、俺は小高い丘を上っていた。
丘の上には、大きな木が一本だけ立っている。
この辺りで一番大きな木だ。
自分で歩いた村の地理を確かめるのには高い所がいい。
ついでに、このへんで一番大きなあの木が何の木なのかを確かめ
るつもりだった。
と、その時。
﹁魔族は村にはいんなよなー!﹂
風にのってそんな声が聞こえてきた。
この声音で、嫌な記憶が蘇った。
引きこもりの原因となった高校生活。
ホーケーと仇名された頃の悪夢。
丁度、俺の仇名を呼ぶ時の声音と今の声音が似ていた。
あからさまに格下の相手を数で虐げる時の声音だ。
﹁あっちいけよなー!﹂
139
﹁くらえー!﹂
﹁よっしゃめいちゅーぅ!﹂
見れば、そこには先日の雨で泥沼みたいになっている畑。
その中で体中泥だらけにしている三人の子供たちが、
道を歩いている一人の少年に向かって泥を投げつけていた。
﹁頭に当てたら10点な!﹂
﹁っしゃー!﹂
﹁俺あたった! あたったって!﹂
うわー。
いやだいやだ。
イジメの現場だ。
ああいう奴らは、相手が格下なら何をやってもいいと思ってるん
だ。
エアガンを買ったら、そいつに向けて撃ってもいいと考えている
んだ。
人に向けて撃つなと書いてあるのにだ。
相手を人として見てないからだ。
人として許せんね。
少年はというと、足早にそこを去ればいいのに、なぜか遅々とし
て進んで行かない。
よく見ると、
バスケットのようなものを胸元に抱えており、
それに泥玉が当たらないように身を縮こまらせているからだ。
そのため、イジメっ子たちの攻撃から逃げ切れないでいた。
﹁なんか持ってるぜ!﹂
140
﹁魔族の宝か!﹂
﹁どこで盗んできたんだー!﹂
﹁あれにぶつけたら100点な!﹂
﹁宝を奪いとろうぜ!﹂
俺は少年の方に向かって走っていく。
走りながら、魔術で泥玉を作る。
そして射程距離に入った瞬間、全力投球。
﹁わっぶ﹂
﹁なんだ!?﹂
リーダー格っぽい、一際体の大きい奴の顔面に命中。
﹁ってぇ、目に入った﹂
﹁なんだよお前!﹂
﹁関係ねーやつが入ってくんなよ!﹂
﹁魔族の味方すんのかよ!﹂
標的が一瞬で俺の方に向いた。
こういうのはどこの世界でも一緒だな。
﹁魔族の味方じゃありません。弱い者の味方なんです﹂
どや顔で言った。
が、少年たちは自分たちこそが正義という顔で、俺を糾弾した。
﹁かっこつけてんじゃねえよ!﹂
﹁おまえ、騎士んところのヤツだな!﹂
﹁お坊ちゃんかよ!﹂
141
あらやだ。身元がバレてーら。
﹁いーのかー! 騎士の子供がこんな事して!﹂
﹁騎士が魔族の味方だって言ってやろー!﹂
﹁てか、兄ちゃんたち呼んでこようぜ!﹂
﹁兄ちゃーん! 変なのがいるぅー!﹂
子供たちは仲間を呼んだ!
しかし誰も現れなかった。
しかし、俺の足はすくんだ!
ぐ、三人もいるとはいえ、子供に叫ばれて足が竦むとは⋮⋮。
情けない。
これがイジメられて引きこもった者のサガか⋮⋮。
﹁う、うるさい! 三人で寄ってたかって一人を攻撃するとかお前
ら最低だ!﹂
はぁ? って顔された。
む、むかつく。
﹁てめぇこそ大声だしてんじゃねえよ、バァーカ!﹂
むかついたので、泥玉をもう一発投げる。
はずれた。
﹁てめっ!﹂
﹁あいつどこに泥もってんだよ!﹂
﹁いいからやり返せ!﹂
142
3倍になって返ってきた。
パウロに教えてもらった足捌きと魔術を駆使して華麗に回避。
﹁あ、あたんねぇ!﹂
﹁よけんじゃねえよ!﹂
ふはは、当たらなければどうという事はない!
しばらく三人は泥玉を投げ続けていたが、俺に当たらないとわか
ると、
急につまんなくなったとでも言わんばかりに、手を止めた。
﹁あーあ! つまんねぇの!﹂
﹁もう行こうぜ!﹂
﹁騎士んとこのが魔族と仲良くしてたって言いふらそーぜ!﹂
別に俺ら負けてないから。
飽きたからやめただけだから。
そんな口調で言い残して、三人のクソガキは畑の向こうへと去っ
ていった。
やった! 生まれて初めてイジメっ子を倒したぞ!
じ、自慢にはならねえな。
ふぅ。
それにしても、やっぱ喧嘩は得意になれないな。
殴り合いにならなくてよかった。
﹁君、大丈夫? 荷物は無事?﹂
143
とりあえず、泥を投げつけられていた少年に振り返ってみると⋮
⋮。
わーぉ⋮⋮。
まぁびっくり。
驚くほどの美少年。
同じぐらいの歳とは思えない。
くそう、パウロがもっと美男子系だったら俺も⋮⋮。
いや、パウロは悪くない。ゼニスも優秀だ。
だからこの顔は大丈夫だ。
生前のあのニキビと皮下脂肪だらけの顔に比べれば大丈夫だ。
十分いけるって、うん。
﹁う⋮⋮うん⋮⋮だ、大丈夫⋮⋮﹂
少年は怯えた顔を向けてきた。
まるで小動物のような保護欲を誘う。
ショタコンのお姉さんがいたら、一発でジュンってなるだろう。
が、今はそれもこびりついた泥のせいで台無しだ。
服は泥だらけ。顔の半分に泥が付着し、頭にいたっては泥一色。
バスケットを守れたのは奇跡的といってもいい。
しょうがないな。
﹁ちょっと、そこに荷物置いて、そっちの用水路の前でひざまずい
て﹂
﹁え⋮⋮? え⋮⋮?﹂
144
少年は目を白黒させながらも、なぜか言われたままにしてくれる。
あまり人の言うことに逆らわない子らしい。
まあ、逆らう子ならさっきのイジメにも反撃してるか。
少年は四つん這いで用水路を覗きこむような姿勢になっている。
ショタコンのお兄さんがいたら、一発でズグンってなるだろう。
﹁目をつぶってろ﹂
俺は水を火の魔術で適当に調整する。
熱すぎず冷たすぎず、四十度ほどのお湯を作りだす。
そいつを少年の頭にぶっかける。
﹁わぁっ!﹂
慌てて逃げようとする少年の首根っこを掴んで、泥を綺麗に洗い
落とす。
最初は暴れていたけど、お湯の温度になれてくると、またおとな
しくなった。
服のほうは⋮⋮家で洗濯したほうがいいだろう。
﹁よし、こんなもんかな﹂
泥が落ちたので、俺は風を火の魔術で適当に調整してドライヤー
のように温風を送りつつ、ハンカチで少年の顔を丁寧に拭ってやっ
た。
すると、エルフのようにとんがった耳と、
日光に輝く、綺麗なエメラルドグリーンの髪が現れたのだ。
145
その色を見た瞬間、ロキシーの言葉が思い出される。
﹃エメラルドグリーンの髪をもつ種族には、絶対に近寄ってはいけ
ません﹄
ん?
いや、ちょっと違ったな。
確か⋮⋮
﹃エメラルドグリーンの髪を持っていて、
額に赤い宝石のようなのがついた種族には、絶対に近づかないで
ください﹄
そうだ。確かこうだ。
額に赤い宝石のようなのがついた種族、だ。
少年の額はというと、白い綺麗なおでこちゃん。
オッケー、セーフ。
彼は危ないスペルド族ではない。
﹁あ、ありがとう⋮⋮﹂
お礼を言われて、ハッと我に返った。
おうおう、ビビらせてくれやがって。
腹いせにちょっとばかし、偉そうにアドバイスを開始する。
﹁君ね。ああいう奴らはちゃんとやり返さないと付け上がるよ﹂
﹁勝てないよ⋮⋮﹂
﹁抵抗する意思が大事なんだ﹂
﹁だって、いつもはもっとおっきな子もいるんだもん⋮⋮。
146
痛いのは嫌だよ⋮⋮﹂
なるほど。
抵抗すると仲間を呼んで徹底的に痛めつけるわけか。
こういうのはどこの世界も一緒だな。
ロキシーが頑張ったから大人の方は魔族を受け入れるようになっ
たみたいだけど、子供の方はそうは行かないか。
子供ってやつは残酷だ。
ちょっと違うだけで爪弾きにしやがる。
﹁君も大変だね。髪の色がスペルド族に似てるってだけでイジメら
れて﹂
﹁き、きみは、平気⋮⋮なの?﹂
﹁先生が魔族だったからね。君はなんていう種族なの?﹂
ロキシーのミグルド族はスペルド族と近しいと言っていた。
もしかすると、彼もそんな種族なのかもしれない。
そう思って聞いたのだが、少年は首を振った。
﹁⋮⋮⋮わかんない﹂
この歳なら、そういうもんなのかな?
﹁お父さんの種族は?﹂
﹁⋮⋮半分だけ長耳族。もう半分は人間だって﹂
﹁お母さんは?﹂
﹁人間だけど、ちょっとだけ獣人族が混じってるって⋮⋮﹂
ハーフエルフ
半長耳族と、クォーターの獣人?
それでこんな髪になるのか⋮⋮?
147
と思っていたら、少年は両目に涙を浮かべていた。
﹁⋮⋮だから、魔族じゃないって⋮⋮お父さん、いうけど⋮⋮。
⋮⋮⋮髪の色、お父さんとも、お母さんとも、違う⋮⋮﹂
めそめそと泣き出す少年の頭をよしよしと撫でておく。
しかし、髪の色が違うとは大問題だな。
お母さんが浮気していた可能性が出てくる。
﹁違うのは髪の色だけ?﹂
﹁⋮⋮耳も、お父さんより長い⋮⋮﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
耳が長くて髪が緑の魔族⋮⋮どこかにはいそうだな。
うーん、他人の家庭の事情にまではあんまり踏み入りたくない。
けど、俺もかつてはイジメられっ子だった。
どうにかしてやりたい。
ちょっと髪の色が緑色ってだけでイジメられるのは可哀想だ。
俺の遭っていたイジメは身から出た錆の部分もある。
時間が巻き戻ってあの瞬間に戻れば、次はもっとうまくやれる自
信がある。
けど、少年は違うだろう。
生まれを変えるのは、自分の努力では不可能だ。
生まれた時から、髪の色がちょっと緑色だっただけで道端で泥玉
を投げつけられる⋮⋮。
うう⋮⋮考えるだけで尿が出そうだ。
﹁お父さんは優しくしてくれてる?﹂
﹁⋮⋮うん。怒ると怖いけど、ちゃんとしてれば怒られない﹂
148
﹁そっか。お母さんは?﹂
﹁優しい﹂
ふむ。
声音から察するに、父親も母親もきちんと愛情を注いでいるよう
だ。
浮気ではなく、本当の子供のように⋮⋮。
いや、実際に見てみなければわからないか。
﹁よし、じゃあ行こうか﹂
﹁⋮⋮⋮ど、どこに?﹂
﹁君についていくよ﹂
子供についていけば親が現れる。
自然の摂理だ。
﹁⋮⋮⋮⋮な、なんで、ついてくるの?﹂
﹁いや⋮⋮、さっきの奴らが戻ってくるかもしれないし。送るよ。
家に帰るの? それとも、それをどこかに届けに?﹂
﹁お弁当⋮⋮お父さんに、届けに⋮⋮﹂
お父さんはハーフエルフだったか。
物語に出てくるエルフといえば、長寿で閉鎖的な暮らしをしてい
て、傲慢な性格で他の種族を見下している。
弓と魔法が得意で、水と風の魔法を得意とする。
あとは名前の通り耳が長いことぐらいだ。
そんな種族だ。
ロキシーの話によると、
149
﹁大体それで合ってるが、別に閉鎖的ではない﹂らしい。
やっぱこの世界のエルフも美男美女が多いのだろうか。
いや、エルフに美男美女が多いというのは日本人の勝手な思い込
みだ。
洋ゲーに出てくるエルフは過度にトンがった顔をしててとても美
男美女には見えなかった。
大体、日本人のオタクと外国人のパンピーが同じ尺度であるはず
がない。
もっとも、この少年の両親は美男美女のコンビで確定っぽいが。
﹁あの⋮⋮⋮なんで、守って、くれたの?﹂
少年は保護欲をかきたてる仕草で、おずおずと聞いてくる。
﹁弱い者の味方をしろと父様に言われてるんだ﹂
﹁でも⋮⋮他の子に、仲間はずれにされるかも⋮⋮﹂
そうだろうとも。
イジメられっこを助けたらイジメられました。
なんてのは、よくある話だ。
﹁その時は君が遊んでくれよ。今日から友達さ﹂
﹁えっ!?﹂
だから、二人で徒党を組むのだ。
イジメの連鎖は、助けられた方が裏切ることで起きる。
助けられた方が責任を持って、助けてくれた恩を返すのだ。
まあ、少年の場合はイジメの原因がもっと根の深い部分にあるの
150
で、
裏切ってイジメっこの側になるとは思わないが。
﹁あ、家の手伝いとか忙しい?﹂
﹁う、ううん﹂
向こうの都合も聞いていなかったなと思ったが、ぶんぶんと首を
振られた。
いいね。その表情。
ショタコンのお姉さんがいたら一発でホイホイ釣れるだろう。
ふむ。
これはいいかもしれない。
この顔なら、将来的に女の子にモテモテになるだろう。
そして、つるんでいれば、そのおこぼれが俺の方にくるかもしれ
ない。
俺の顔は大したレベルじゃないけど、男二人が並んでいた時、片
方のレベルが高ければもう片方もそれなりに見えるものなのだ。
ちょっと自分に自信がない子は、きっと俺を狙うはず。
自信満々でぐいぐい来られるより、ちょっと自信なさそうな子の
方が俺の好みだ。
いける。
美少女が自分の近くにブスを置いて引き立て役にする。
その逆をやるのだ。
いける。
﹁そういや、名前を聞いてなかったな。俺はルーデウス﹂
﹁シル⋮フ⋮︱︱︱﹂
151
小声でぼそぼそというので後半がやや聞き取りにくかったが、シ
ルフか。
﹁いい名前じゃないか。まるで風の精霊のようだ﹂
そう言うと、シルフは顔を赤くして﹁うん﹂と頷いた。
−−−
シルフの父親ロールズは美形だった。
尖った耳に、輝くような金髪、線は細いが筋肉が無いわけではな
い。
ハーフエルフの名に恥じぬ、エルフと人間のいい所取りをしたよ
うな男性だった。
彼は森の脇にある櫓で、弓を片手に森を監視していた。
﹁お父さん、これ、お弁当⋮⋮﹂
﹁お、いつもすまないなルフィ。今日はイジメられなかったかい?﹂
﹁大丈夫、助けてもらった﹂
目線で紹介されて、俺は軽く会釈をする。
ルフィというのは愛称か。
手とかが伸びそうな感じである。
シルフもあれぐらい脳天気で傍若無人ならイジメられたりしなか
ったろうに。
﹁初めまして。ルーデウス・グレイラットです﹂
152
﹁グレイラット⋮⋮もしかして、パウロさんの所の?﹂
﹁はい。パウロは父です﹂
﹁おお、話には聞いていたが、礼儀正しい子だ。
おっと、申し遅れた。ロールズです。普段は森で狩りをしていま
す﹂
聞く所によると、ここは見たまんま森から魔物が出てこないよう
に見張る櫓で、
村の男衆が持ち回りで見張りをしているらしい。24時間体制で。
当然ながらパウロにも当番があり、ロールズはそこでパウロと知
り合い、互いに生まれた子供の事であれこれと相談しあったのだと
か。
﹁ウチの子はこんな見た目だが、ちょっと先祖返りをしてしまった
だけなんだ。
仲良くしてやってほしい﹂
﹁もちろんです。仮にシルフがスペルド族だったとしても、僕は態
度を変えたりはしませんよ。
父様の名誉に掛けてもね﹂
そう言うと、ロールズは感嘆の声を上げた。
﹁その歳で名誉かぁ⋮⋮優秀な子でパウロさんがうらやましいなぁ﹂
﹁小さい頃に優秀だった子供が、大人になっても優秀とは限りませ
ん。
羨ましく思うのは、シルフが大人になってからでも遅くはありま
せんよ﹂
シルフのフォローを入れておいてやる。
153
﹁なるほど⋮⋮パウロさんの言っていた通りだ﹂
﹁⋮⋮父はなんと?﹂
﹁君と話していると親として自信を失うらしい﹂
﹁そうですか。では、これからはもう少し悪さをして説教をさせて
あげることにしますかね﹂
などと話していると、服の裾を引っ張られた。
見れば、シルフがうつむきながら俺の裾を引いていた。
大人同士の話は子供にはつまらんか。 ﹁ロールズさん。ちょっと二人で遊んできてもいいですか?﹂
﹁ああ、もちろんだとも。ただし、森の方には近づかないように﹂
それは言われるまでもないが⋮⋮。
ちょっと足りないんじゃないかね?
﹁ここに来る途中に大樹のある丘がありましたので、あの辺りで遊
んでいると思います。
暗くなる前に責任を持ってシルフを送り帰します。帰りに丘の方
を見て、家に帰ってもいなければ、
なんらかの事件に巻き込まれた可能性が高いので、捜索をお願い
します﹂
﹁あ⋮⋮ああ﹂
なにせ、携帯電話もない世界だ。
ほうれんそうはキッチリ守るのが大事だ。
トラブルを全て避ける事は出来ない。
すぐにリカバリーするのが大切なのだ。
この国はかなり治安がいいみたいだが、どこに危険が潜んでいる
かわかったもんじゃない。
154
唖然としているロールズを尻目に、俺達は丘の木へと戻った。
﹁さて、何をして遊ぼうか﹂
﹁わかんない⋮⋮と、友達と、遊んだことないから⋮⋮﹂
友達、という部分でちょっと躊躇った。
きっと、今まで友達がいなかったのだろう。
可哀想に⋮⋮。
いや、俺もいなかったけどな。
﹁うん。とはいえ、俺も最近になるまで家に引きこもってたからな。
さて、どんな遊びをしていいのか﹂
シルフはもじもじと手を合わせて、上目遣いにこっちを見てくる。
背丈は同じぐらいなのだが、背中をまるめているので、俺を見上
げてしまうのだ。
﹁ねえ、なんで、ぼく、とか、おれ、とか言い方を変えるの?﹂
﹁え? ああ。相手によって変えないと失礼になるからな。
目上の相手には敬語だよ﹂
﹁けいご?﹂
﹁さっき、俺が使ってたような言葉のこと﹂
﹁ふぅん?﹂
よくわからなかったらしい。
誰でもおいおいわかっていくことさ。
それが大人になるってことだよ。
155
﹁それより、さっきの、あれ。教えて﹂
﹁さっきのあれ?﹂
シルフは目をキラキラさせながら、身振り手振りで説明してくれ
る。
﹁手から、あったかいお水がざばーって出るのと、
暖かい風が、ぶわーって出るの﹂
﹁あー。あれね﹂
泥を洗い流した時に使った魔術のことだ。
﹁ボクにも、出来る?﹂
﹁難しいけど、練習すれば誰にでも出来るよ⋮⋮多分ね﹂
最近は魔力量が上がりすぎてどれぐらい魔力を消費してるのかわ
からないし、
そもそもこっちの人らの魔力量が基本的にどれぐらいあるのかわ
からない。
とはいえ、水を火で温めているだけ。
無詠唱でいきなりお湯、とまではいかないだろうが、
混合魔術として使えば、誰にでも再現できる。
だから多分大丈夫だ。多分。
﹁ようし。じゃあ今日から特訓だ!﹂
こんな感じで、俺はシルフと日が暮れるまで遊んだ。
156
−−−
家に帰ると、パウロが怒っていた。
パンツ
怒っていますという感じに腰に手をやって、玄関の前で仁王立ち
していた。
さて、何をやらかしたっけか。
心当たりといえば、大切に保管してある御神体を発見された事ぐ
らいだが⋮⋮。
﹁父様。只今帰りました﹂
﹁なんで怒っているかわかっているか?﹂
﹁わかりません﹂
まずはシラを切る。
もしパン⋮⋮御神体を発見されていなかった場合、やぶ蛇になる
からな。
﹁さっき、エトの所の奥さんがきてな、お前、エトの所のソマル坊
を殴ったそうじゃないか﹂
エト、ソマル。
誰だそいつ?
聞き覚えのない名前が出てきて、俺は考える。
基本的に、俺は村では挨拶ぐらいしかしていない。
名前を言えば、向こうも名乗ってくれるが、
その中にさて、エトという名前がいたような、いなかったような
⋮⋮。
157
ん、まてよ。
﹁今日の話ですか?﹂
﹁そうだ﹂
今日出会ったのは、シルフとロールズと、三人のクソガキだけだ。
てことは、ソマルってのは三人のクソガキの一人か。
﹁殴ってはいません。泥を投げつけただけです﹂
﹁この間、父さんが言ったことを覚えているか?﹂
﹁男の強さは威張るためにあるんじゃない?﹂
﹁そうだ﹂
ははーん。
なるほど、そういえば、さり際に魔族と仲良くしてるのを言いふ
らしてやるとか言ってたな。
あいつだな。
どういう嘘をついて殴った事になったかわからないが、とりあえ
ず俺のネガキャンをしたという所か。
﹁父様がどういう話を聞いたのかはわかりませんが⋮⋮﹂
﹁違う! 悪いことをしたら、まずはごめんなさいだ!﹂
ぴしゃりと言われた。
どういう話を聞いたのかはわからないが、鵜呑みにしているらし
い。
参ったな。
こういう状況だと、シルフがイジメられている所を助けたと言っ
ても、ウソくさい。
とはいえ、一から説明するしかないか。
158
﹁実は道を歩いていたら⋮⋮﹂
﹁言い訳をするな!﹂
段々イライラしてきた。
ウソ以前に、俺の言い分を聞いてくれる気すらないようだ。
とりあえずごめんなさいしてしまってもいいのだが、それはパウ
ロのためにもよくない気がする。
いずれ作られるであろう弟か妹に理不尽な思いをして欲しくはな
い。
この叱り方は、ダメだ。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁どうした、何故なにも言わない?﹂
﹁口を開けば言い訳をするなと怒鳴られるからです﹂
﹁なに!?﹂
パウロの眦が釣り上がる。
﹁子供が何か言う前に怒鳴りつけて謝らせる。
大人のやることは手っ取り早くて簡単で、羨ましいですね﹂
﹁ルディ!﹂
バシッ、と頬に熱い衝撃。
殴られた。
が、予測していた。
挑発をしたら殴られる、当然だ。
だからぐっと踏みとどまった。
159
殴られるのなんて二十年ぶりぐらいか⋮⋮⋮。
いや、家を出る時にぼっこぼこにされたから、五年ぶりか。
﹁父様。僕は今まで、出来る限り良い子でいるように努力してきま
した。父様や母様の言いつけに背いたことは一度もありませんし、
やれと言われた事も全力で取り組んできたつもりです﹂
﹁そ、それは関係ないだろう﹂
パウロも殴るつもりはなかったらしい。
目に見えて狼狽していた。
まあいい。好都合だ。
﹁いいえ、あります。僕は父様を安心させるように、信頼してもら
えるようにと頑張ってきたんです。父様はそんな僕の言い分は一切
聞かず、僕が知らない相手からの言葉を鵜呑みにして怒鳴りつけ、
あまつさえ手まで上げたんです﹂
﹁しかし、ソマル坊は確かに怪我をして⋮⋮﹂
怪我?
それは知らないな。
自分で付けたのか?
当たり屋みたいなやつだな⋮⋮。
だが残念だったな。
俺には大義名分がある。
怪我なんていうちんけな嘘じゃなくてな。
﹁仮にその怪我が僕のせいだったとしても、僕が謝ることはありま
せん。僕は父様の言いつけには背いていませんし、胸を張って僕が
やったと言いましょう﹂
160
﹁⋮⋮⋮ちょっとまて、何があったんだ?﹂
おっと、気になってきたな?
でも、聞かないと決めたのはお前だぜ。
﹁言い訳は聞きたくないのでは?﹂
そう言うと、パウロはグッと苦い顔をした。
もうひと息か。
﹁安心してください父様。
次回からは三人掛かりで無抵抗の相手一人を攻撃しているのを見
ても無視します。
あまつさえ四対一になるように僕の方から動きましょう。
弱い者を寄ってたかってイジメる事こそがグレイラット家の誇り
であり家訓なのだと周囲に喧伝しましょう。
そして大きくなったら家を出て、二度とグレイラットとは名乗ら
ないことにします。
実際の暴力は無視して、言葉の暴力を許すような、そんなゴミク
ズの家の人間だと名乗るのは恥ずかしいので﹂
パウロは絶句していた。
顔を赤くし、青くし、葛藤がかいま見える。
怒るかな?
もう一息必要かな?
やめておいた方がいいぞパウロよ。
俺はこれでも、20年以上勝てるわけのない口論で言い逃れ続け
てきた男。
たった一つでも切り口があれば、最低でも引き分けにもっていけ
るのだ。
161
まして今回は完全なる正義。
お前に勝ち目はない。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮すまなかった。父さんが悪かった。話してくれ﹂
パウロが頭を下げた。
そうだな。変な意地を張ってもお互い不幸になるだけだ。
悪ければ謝る。それが一番だよ。
俺も溜飲を下げ、事の詳細を出来る限り客観的に話した。
丘の上に登ろうとしていると声が聞こえた。
三人の子供が休畑の中から、道を歩く一人の子供に泥を投げつけ
ていた。
泥を1∼2発投げつけてから説き伏せると、彼らは悪態をついて
どこかへ行ってしまった。
泥を投げつけられていた子を魔術で洗ってやり、一緒に遊んだ。
といった感じに。
﹁ですので、謝るのでしたら、そのソマル君とやらがシルフに謝る
のが先です。
体の傷はすぐ消えますが、心の傷はすぐには消えませんので﹂
﹁⋮⋮⋮そうだな、父さんの勘違いだった。すまん﹂
パウロはしょんぼりと肩を落としていた。
それを見て、俺は昼間にロールズから聞いた話を思い出す。
﹃君と話していると親としての自信を失うらしい﹄
162
もしかすると、
パウロは叱ることで父親らしい部分を見せたかったのかもしれな
い。
まぁ、今回は失敗したようだが。
﹁謝る必要はありません。今後も僕が間違っていると思ったら、容
赦なく叱って下さい。
ただ、言い分も聞いてくれると助かります。言葉足らずだったり、
言い訳にしか聞こえなかったりする時もありますが、言いたいこと
はありますので、意を汲んでいただければとおもいます﹂
﹁ああ、気をつけるよ。もっとも、お前は間違ったりしなさそうだ
が⋮⋮﹂
﹁でしたら、そのうち出来る僕の弟か妹を叱る時の教訓にしてくだ
さい﹂
﹁⋮⋮⋮そうするよ﹂
自嘲げにそう言った。
言い過ぎただろうか。
五歳の息子に言い負ける。
うん。俺だったら凹む。
パウロはハッキリと落ち込んだ様子で、見ていて気の毒になって
いる。
父親としてはまだ若いもんなコイツ。
﹁そういえば、父様は、いま何歳でしたっけ?﹂
﹁ん? 24だが?﹂
﹁そうですか﹂
19で結婚して俺を作ったのか。
163
この世界の平均結婚年齢が何歳ぐらいかはわからないが、現代日
本のように30歳前後という事もないだろう。
魔物とか戦争とかも日常的に起こっているようだし、結婚年齢と
しては妥当な線なのか。
一回りも下の年齢の男が結婚して子供を産んで子育てで悩んでい
る。
それだけで、34歳住所不定無職職歴無しだった俺に勝てる部分
は無いと思うのだが⋮⋮。
まぁ、いっか。
﹁父様、今度シルフを家に連れてきてもいいですか?﹂
﹁え? ああ、もちろんだ﹂
俺はその返答に満足すると、父親と一緒に家の中へと入っていっ
た。
パウロ視点
−−−
パウロが魔族に偏見を持っていなくてよかったと思う。
−−−
息子が怒っていた。
今まで、さして感情らしい感情を見せてこなかった息子が、静か
に激怒していた。
どうしてこうなったのだろうか。
事の起こりは昼下がり、凄い剣幕でエトの奥方が屋敷に怒鳴りこ
164
んできた。
近所で悪ガキとして評判の子供ソマルを連れており、ソマルの目
尻には青い痣ができていた。
剣士としてそれなりに修羅場をくぐってきたオレには、それが殴
られてついたものだとすぐに分かった。
奥方の話は要領を得なかったが、要約するに、うちの息子がソマ
ル坊を殴ったらしい。
それを聞いて、オレは内心でほっとした。
大方、外で遊んでいたら、ソマルたちが遊んでいる所を見かけて、
仲間に入れてもらおうとしたのだろう。
しかし、息子は他の子供たちと違う。
あの歳で水聖級魔術師だ。
きっと偉そうに何かを言ったのだろう。
そして反発を受け、喧嘩になったのだ。 息子はなんだかやけに聡くて大人びているが、子供らしい所もあ
るのだ。
エトの奥方は顔を赤くしたり青くしたりしながら大事にしようと
しているが、所詮は子供の喧嘩だ。
見たところ、怪我の方も痕になったりはしないだろう。
オレが叱って終わりだ。
子供なら殴り合いの喧嘩の一つもするだろう。
しかし、ルーデウスは他の子供より力を持っている。
若くして水聖級の魔術師となったロキシーの弟子であり、
三歳の頃からオレの指導で訓練してきた身体だ。
きっと喧嘩も一方的になったはずだ。
今回は大丈夫だったようだが、頭に血がのぼってカッとなれば、
165
やりすぎてしまうかもしれない。
これはキツめに叱らなければならない。
頭のいいルーデウスになら、ソマル坊を殴らずに済ませる方法は
あったはずなのだ。
殴るというのは短絡的で、もっと考えなければならない行動だと
教える必要があった。
それなのに、どうしてこうなった⋮⋮。
息子は全然謝るつもりはないらしい。
それどころか、虫を見るような目でオレを見てくる。
確かに、息子にしてみれば、対等な立場で喧嘩をしたつもりなの
かもしれないが、しかし力の強い者はその強さを自覚しなければな
らない。
まして、怪我をさせたのだ。
とにかく、とにかく謝らせよう。
賢い息子のことだ。今は納得できないかもしれないが、必ず自分
で答えにたどり着いてくれるだろう。
そう思い、強い口調で言い聞かせようとしたら、皮肉げに嫌味を
言われた。
ついカッとなって殴ってしまった。
力の強い者はその力を自覚して、
自分より弱い者に軽々しく暴力を振るうな、と説教しようとして
いたのに。
オレは殴ってしまったのだ。
166
今のは自分が悪かった。
そう思ったが、説教をしている立場で口にするわけにもいかない。
しかし、今しがた自分のした行動をするなと言っても説得力がな
い。
しどろもどろになっているうちに、息子は遠まわしに自分は悪い
ことをしていないと言い出し、それがダメなら家を出るとまで言い
出した。
売り言葉に買い言葉で、出て行けと言いそうになったが、ぐっと
我慢する。
我慢しなければならない所だった。
そもそも、だ。
オレ自身も、堅苦しい家で厳格な父が頭ごなしに叱ってくるのに
嫌気がさし、大喧嘩の末に家を飛び出したのだ。
オレは、父の血を継いでいる。
頑固で融通のきかない父の血を、継いでいる。
そしてルーデウスもだ。
この頑固な所を見ろ。
ルーデウスも自分の子供だ。
オレはあの日、今すぐ出て行けと言われ、売り言葉に買い言葉で
家を出ていった。
ルーデウスは出ていくだろう。
大人になったら出ていくと言っていたが、いますぐ出て行けと言
われれば、すぐに出ていくだろう。
父はオレが旅にでてしばらくして病に倒れ、死んだと聞く。
風の噂では、今際の際まであの日の喧嘩のことを後悔していたら
しい。
だから、オレにだって負い目はある。
いや、ハッキリ言おう、後悔している。
167
それに照らしあわせて考えるに、ここでルーデウスに出て行けと
言って本当に出ていかれたら、間違いなく後悔するだろう。
オレはもちろん、ルーデウスも後悔する。
我慢だ。
経験から学んだじゃないか。
それに、子供が生まれた時に決めたじゃないか。
あの父のようにはならないと。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮すまなかった。父さんが悪かった。話してくれ﹂
謝罪は自然と口に出た。
すると、ルーデウスはスッと表情を和らげ、淡々と説明してくれ
た。
なんでも、ロールズの子がイジメられていた所に通りがかって、
助けに入ったのだという。
殴るどころか、泥玉を投げ合っただけで、喧嘩すらしていないと
いう。
その話が本当なら、ルーデウスは胸を張って誇れる事をしている。
だというのに、褒められるどころか言い分も聞いてもらえずに殴
られた事になる。
ああ、思い出す。
自分が幼い頃にも、そういう事は何度もあった。
父は一切聞いてくれず、オレの至らない部分ばかりを責めた。
その度にやるせない気持ちになったものだ。 失敗した。
何が説教しなければ、だ。
はぁ⋮⋮。
168
ルーデウスは、そんな自分を責めることなく、最後には慰めてす
らくれた。
できた息子だ。できすぎだ。
本当に自分の息子なのだろうか⋮⋮。
いや、ゼニスが浮気しそうな相手の中に、あんな優秀な子供の父
親はいない。
うう、自分の種がこんなに優秀だったとは⋮⋮。
誇らしいと思うより、胃が痛い。
﹁父様、今度シルフを家に連れてきてもいいですか?﹂
﹁え? ああ、もちろんだ﹂
しかし、今は息子に初の友達ができたことを喜んでおこう。
169
第八話﹁鈍感﹂
6歳になった。
生活はあまり変わっていない。
午前中は剣術の鍛錬。
午後は暇があればフィールドワーク。
そして、丘の上の木の下で魔術の練習。
最近は、魔術を使って剣術の補助的な動きが出来ないかと色々試
している。
風を噴出して剣速を上げたり、
衝撃波を起こして自分の身体を急反転させたり、
相手の足元に泥沼を発生させて足を止めたり⋮⋮。
そんな小手先の技ばかり考えているから、剣術の方が成長しない
のだ。
そう思う奴もいるだろう。
だが、俺はそうは思わない。
格闘ゲームで強くなる方法は2種類だ。
一つ目は、相手より弱い能力で勝つ方法を考える。
二つ目は、自分の能力を高くするために練習する。
今現在、俺が考えているのは一つ目だ。
課題としては、パウロに勝つこと。
170
パウロは強い。
父親としてはまだまだだが、剣士としては一流だ。
二つ目だけを重視し、馬鹿正直に身体を鍛えていけば、
確かにいつかは勝てるだろう。
俺は6歳だ。
十年経てば16歳、対するパウロは35歳。
さらに五年経てば21歳、対するパウロは40歳。
うん、いつかは勝てる。
が、それでは意味がない。
年老いた相手に勝った所で、
﹁いやー、現役の頃だったらなー﹂と言い訳されるだけだ。
脂の乗っている時期に倒してこそ、意味がある。
パウロは現在25歳。
第一線は退いたようだが、肉体的には一番いい時期だ。
あと5年以内には一度ぐらい勝ちたい。
できれば剣術で。
でもそれは無理そうだから、魔術を織り交ぜた接近戦で。
そう思いながら、俺は今日も脳内パウロ相手にイメトレをする。
−−−
木の下にいると、高確率でシルフがやってくる。
﹁ごめん、待った?﹂
171
﹁ううん、いまきたとこ﹂
と、待ち合わせのカップルみたいな事をいって遊びはじめる。
最初の頃は遊んでいると例のソマル坊他クソガキ共がよってきた。
途中から小学生高学年ぐらいの子供も混ざったが、全て撃退した。
その度に、ソマルの母親がウチに怒鳴りこんできた。
それでわかったのだが⋮⋮。
この奥さんは子供の事云々というより、どうやらパウロの事が好
きらしい。
子供の喧嘩をダシに会いに来ていたというわけだ。
馬鹿馬鹿しい。
かすり傷一つでウチまで歩かされるソマル君もうんざりしている
ようだった。
彼は当たり屋ではなかったのだ。
疑ってすまんね。
襲撃があったのは5回ぐらいか。
ある日を境にパッタリとこなくなった。
たまに、遠くの方で遊んでいるのを見かけるし、
すれ違う事もあるが、互いに話しかける事はない。
無視することに決めたらしい。
こうして、あの一件は、こうして一応の解決をし、
丘上の木は俺たちの縄張りとなった。
172
−−−
さて、クソガキよりもシルフの事だ。
彼には遊びと称して、魔術の訓練を施している。
魔術を覚えれば、クソガキを一人で撃退することもできるからな。
最初の頃、シルフは入門的な魔術の5∼6回で息切れしていた。
だが、この一年で魔力総量もかなり増えてきた。
半日ぐらいなら、ずっと魔術の練習をしていても問題ない。
﹃魔力総量には限界がある﹄。
この言葉の信憑性は実に薄い。
もっとも、魔術の方はまだまだだ。
特に彼は火が苦手だった。
シルフは風と水の魔術を実に器用に操ったが、火だけはうまくで
きなかった。
エルフ
なぜか。
長耳族の血が混じっているから?
違う。
ロキシーの授業で習った。
得意系統・苦手系統というヤツだ。
文字通り、人にはそれぞれ、得意な系統と苦手な系統が存在して
いるのだ。
173
﹁シルフ、火が怖いか﹂
と、聞いてみたことがある。
﹁ううん﹂
すると、彼は首を振ったが、手のひらを見せてくれた。
そこには醜い火傷の痕。
三歳ぐらいの時、親が目を離した隙に暖炉の鉄串を掴んでしまっ
たのだという。
﹁でも、今は怖くないよ﹂
と、彼は言う。
けれど、やはり本能的に怯えているのだろう。
そういう経験が、苦手系統に影響するのだ。
ドワーフ
例えば炭鉱族は、水が苦手系統になる事が多い。
というのも、彼らは山の近くで暮らしている。
子供の頃から土をいじって遊び、成長と共に父親について鍛冶を
学んだり鉱石を掘り出したりして過ごすため、火と土は得意になり
やすい。
しかし、山で活動している時に、いきなり温泉が湧いてやけどを
したり、大雨で洪水になって溺れたりする事が多く、水が苦手にな
りやすい。
といった感じだ。
種族は関係ないのだ。
ちなみに俺に苦手系統は無い。
174
ぬくぬく育ったからな。
別に火が使えなくても温風と温水は作れる。
だが概念を教えるのが面倒だったので、火の魔術も練習させた。
火はどんな時でも使えておいて損はない。
サルモネラ菌は熱すれば死滅するのだ。
食中毒で死にたくなければ、火は通さねば。
シルフは苦戦しながらも、文句を言わずに練習していた。
自分の言い出したことだからだろう。
俺の杖 ︵ロキシーからもらったやつ︶と、
俺の魔術教本︵家から持ってきたやつ︶を手に、
難しい顔で詠唱するシルフは美しい。
男の俺ですらこう思う、
将来、モテるんだろう。
︵嫉妬の心は父ごころ⋮⋮︶
どこからかそんな声が聞こえたような気がして、慌てて首を振る。
いやいや。
嫉妬しても意味はない。
そもそも、そういう作戦じゃないか。
イケメン友釣り作戦。
シルフイケメン、オレフツメン、オンナヤマワケ♪
﹁ねぇ、ルディ。これなんて読むの?﹂
175
脳内で歌っていると、
シルフが魔術書のページを指さして、上目遣いで見つめていた。
この上目遣いも強力だ。
思わず抱きしめてキスしてしまいたくなる。
ぐっと我慢。
なだれ
﹁これはな、﹃雪崩﹄だ﹂
﹁どういう意味なの?﹂
﹁ものすごい量の雪が山に溜まった時、重さに耐え切れずに崩れ落
ちてくるんだ。
ほら、冬に屋根の上に雪が溜まった時に、たまにドサッと落ちて
くるだろ?
あれの凄いやつ﹂
﹁そうなんだ⋮⋮すごいね。見たことあるの?﹂
﹁雪崩をか? そりゃあもちろん⋮⋮⋮⋮⋮ないよ﹂
テレビでしかね。
シルフに魔術教本を読ませる。
それは読み書きを教えるという事にもつながっていた。
文字も学んでおいて損はない。
この世界の識字率の高さがどれぐらいか知らないが、現代日本の
ように識字率が約100%というわけではないだろう。
この世界には文字を読めるようになる魔術はない。
識字率が低ければ低いほど、文字が読めるという事は有利になる。
﹁できた!﹂
シルフが歓喜の声を上げた。
176
アイスピラー
見れば、見事に中級の水魔術﹃氷柱﹄に成功していた。
地面からぶっとい氷の柱が生え、陽の光を浴びてキラキラと光っ
ている。
﹁大分上達してきたな﹂
﹁うん! ⋮⋮でも、この本にルディが使ってたの、書いてないよ
ね?﹂
シルフが首をかしげながら聞いてくる。
﹁ん?﹂
使ってたの、と言われてお湯のことだと思い至る。
ヒートハンド
俺は魔術教本をペラペラとめくり、二点を指で示す。
ウォーターフォ
ヒー
ール
トハンド
﹁書いてあるじゃん。水滝と灼熱手﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁同時に使うんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮??﹂
首をかしげられた。
﹁どうやって二つ一緒に詠唱するの?﹂
しまった。
自分の感覚で話してしまっていた。
そうだね、口で二つ同時は無理だよね⋮⋮。
これではパウロを感覚派だと笑えないな。
ウォーターフォール
﹁えっと。呪文を詠唱しないで水滝を出して、それを灼熱手で温め
177
るんだ。片方は詠唱してもいいと思うし、桶なんかに水を貯めて、
あとから温めるのでもいい﹂
実演してみる。
シルフは目を丸くして見ていた。
無詠唱での魔術というのは、やはりこの世界では高等技術に入る
らしい。
ロキシーは出来なかったし、
魔法大学の教師にも出来る人は一人しかいなかったらしい。
だから、シルフも無詠唱ではなく混合魔術を使っていくべきだろ
う。
難しいことをやらなくても、似たような結果は出せるのだから。
と、思ったが。
﹁それ、教えて﹂
﹁それって?﹂
﹁口で言わないやつ﹂
シルフはそうは思わなかったらしい。
そりゃあ、二つの魔術を交互にやるより、一発で出せたほうがよ
さそうに見えるか。
うーむ。
ま、教えてみて無理そうなら、
自分で混合魔術を使っていくだろう。
﹁んー。そうだな。
じゃあ、いつも詠唱中に感じる、体中から魔力が指先に集まって
いく感じ。あれを詠唱しないでやってみるんだ。魔力が集まってき
178
たな、と思ったら、使おうと思っていた魔術を思い浮かべて、手の
先から絞り出す、そんな感じでやってみろよ。
最初は水弾あたりからね﹂
うーむ、伝わったかな?
うまく説明できん。
シルフは目をつぶってむーむー唸ったり、
くねくねと変な踊りを踊ったりしだした。
感覚でやっていることを伝えるのは難しい。
無詠唱なんて頭の中でやることだ。
人それぞれ、やりやすい方法も違うだろう。
最初は基礎が大事だと思って、
シルフィにはこの一年、ずっと詠唱させてきた。
詠唱すればするほど、無詠唱は難しくなる。
今まで右手でやっていたことを左手でやるのと同じように。
今更変えろというのは難しいかもしれない。
﹁できた! できたよルディ!﹂
ウォーターボール
と、思ったがそうでもないらしい。
シルフは嬉しそうな声を上げて、水弾を連発しだした。
詠唱してたと言っても、所詮は1年。
自転車の補助輪を外す程度の感覚でできてしまうものらしい。
若さゆえの感性か。
あるいはシルフの才能か。
179
﹁よし、じゃあ。今までに憶えた魔術を無詠唱でやってみろよ﹂
﹁うん!﹂
なんにせよ無詠唱でやれるのなら、俺も教えやすい。
自分でやってる事を教えていくだけだからな。
﹁ん?﹂
と、ポツポツを雨が降り始めた。
空を見ると、いつのまにか真っ黒な雨雲が空を覆っていた。
一瞬の間を開けて、叩きつけるような雨が降ってきた。
いつもは空の様子を見て、帰るまでは降らないように調整してい
たが、今日はシルフが無詠唱で魔術を使えたということで、油断し
てしまったらしい。
﹁あーあー、酷い雨だな﹂
﹁ルディ。雨降らせられるのに、やませられないの?﹂
﹁できるけど、もう濡れちゃったし、作物は雨が降らないと育たな
いからね。
天気が悪くて困ってるって言われない限りはやらないよ﹂
そんな話をしながら、俺たちは走ってグレイラット邸へと戻った。
シルフの家は遠いからだ。
−−−
180
﹁ただいま﹂
﹁お、おじゃま、します⋮⋮﹂
家に入ると、メイドのリーリャが大きめの布を持って立っていた。
﹁おかえりなさい。ルーデウス坊ちゃま⋮⋮と、お友達の方。
お湯の準備ができています。風邪を引かないうちにお二階で体を
お拭き下さい。
もうすぐ旦那様と奥様が帰ってらっしゃいますので、わたしはそ
ちらの用意をしています。
お一人でできますか?﹂
﹁大丈夫です﹂
リーリャはどしゃ降りを見て、俺が濡れて戻ってくると予測した
らしい。
彼女は口数が少なく、あまり話しかけてもこないが、有能なメイ
ドだ。
特に説明せずとも、シルフの顔を見ると家の中に取って返し、大
きめの布をもう一枚持ってきてくれた。
俺たちは靴を脱いで裸足になり、頭と足元を拭いてから二階へと
上がった。
自室に入ると、大きな桶にお湯が張ってあった。
この世界には、シャワーというものはもちろん、湯船にお湯を張
るという文化もない。
ロキシーの話によると、温泉に入る種族はいるらしいが。
ま、風呂嫌いの俺としては、こんなもんでいい。
﹁ん?﹂
181
俺が服を脱いで全裸になった時、
シルフは顔を赤くしてもじもじとしていた。
﹁どうした? 脱がないと風邪引いちゃうぜ?﹂
﹁え? う、うん⋮⋮﹂
しかし、シルフは動かない。
人前で脱ぐのが恥ずかしいのか⋮⋮。
あ、いや、まだ一人で脱げないのか。
しょうがないな、六歳にもなって。
﹁ほら、両手上げて﹂
﹁えと⋮⋮うん⋮⋮﹂
シルフに両手を挙げさせて、
ぐっしょりと濡れた上着をずぼっと引きぬく。
筋肉の全然ついていない真っ白い肌が露わになる。
下も脱がそうとすると、腕を掴まれた。
﹁や、やだぁ⋮⋮﹂
見られるのが恥ずかしいのか。
俺も小さい頃はそうだった。
幼稚園の頃だ。
プールの時間になると全裸になってシャワーを浴びるのだが、同
年代に見られるのが妙に恥ずかしかった。
とはいえ、シルフの手は冷たい。
早くしないと本当に風邪を引いてしまう。
182
俺は強引にズボンを引きずり下ろした。
﹁や⋮⋮やめてよぉ⋮⋮﹂
子供用のカボチャパンツに手をかけると、ぽかりと頭を殴られた。
見上げると、シルフが涙目になって睨みつけていた。
﹁笑ったりしないから﹂
﹁そ、そうじゃな⋮⋮や、やぁ⋮⋮!﹂
わりと本気の拒絶だった。
シルフと知り合ってから、こんなに激しく拒絶されたのは初めて
だ。
ちょっとショック。
エルフ
あれか。
長耳族には裸を見せてはいけないという掟でもあるのか?
だとすると、無理やり脱がすのも悪いか⋮⋮。
﹁わかった、わかったよ。そのかわり、後でちゃんと履き替えろよ。
濡れたパンツって結構気持ち悪いし、冷やすとお腹壊すからな﹂
﹁うー⋮⋮﹂
俺が手を離すと、シルフは涙目になりながら、こくこくと頷いた。
可愛い。
この可愛らしい少年と、もっと仲良くなりたい。
そう思ったら、唐突に俺の中にイタズラ心が芽生えた。
てか、俺だけ全裸って、不公平じゃん。
﹁隙あり!﹂
183
パンツに手を掛けて、一気にずり下ろした。
いでよ! ゼン○ーペンデュラム!
﹁ぇ⋮⋮ぃ、ぃゃあーっ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
シルフの悲鳴。
一瞬でしゃがみこんで体を隠す。
その一瞬、俺の目に映ったのは、
最近見慣れたピュアなショートソードではなかった。
もちろん、禍々しい紋様の浮かぶダークブレードでもなかった。
そこにあったものは、いや、なかったものは。
そう⋮⋮⋮なかったのだ。
ないはずのものがあったのだ。
生前には何度も見てきたものだ。
パソコンのモニターの中で。
時にはモザイクがかかっていたり、時には無修正だったり。
俺はそれを見ながら、いつかはホンモノを舐めたい入れたいと思
いながら、ブラックラストをホワイティキャノンしてペーパーハン
ケチーフにミートさせていた。
それがあった。
シルフは。
彼は⋮⋮⋮⋮⋮彼女だったのだ。
184
頭が真っ白になる。
俺は今、シャレにならない事をやったのでは⋮⋮?
﹁ルーデウス、何をやっているんだ⋮⋮﹂
ハッと振り返れば、パウロが立っていた。いつ帰ってきたのか。
叫び声を聞きつけてこの部屋にきたのか。
俺は硬直していた。
パウロも硬直した。
泣きながらしゃがみこんでいる全裸のシルフがいる。
全裸の俺の手には彼女のパンツが握られている。
そして、俺のキュートなベイビーボーイ。
彼は若々しくも猛々しく、その存在を主張していた。
何も言い逃れが出来ない状況だった。
俺の手からパンツが落ちた。
パウロ視点
−−−
外は雨だというのに、パサリという音がやけに響いた気がした。
−−−
仕事を終えて家に返ってくると、息子が幼馴染の少女を襲ってい
た。
頭ごなしに叱ろうとして、
185
しかしオレは慎重になる。
今回も何か事情があったのかもしれない。
前回の失敗は繰り返すまい。
とりあえず、泣きじゃくる少女を妻とメイドに任せて、息子をお
湯で拭いてやった。
﹁どうしてあんな事をしたんだ?﹂
﹁ごめんなさい﹂
一年前に叱った時には、絶対に謝らないという意思が見えたもの
だが、
今回はあっさりと謝罪の言葉が出てきた。
態度もしおらしい。塩で揉んだ青菜のようだ。
﹁理由を聞いているんだ﹂
﹁濡れたままだから。脱がそうと思ったんです⋮⋮﹂
﹁でも、嫌がってたんだろう?﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁女の子には優しくしなさいって、父さん言ったよな﹂
﹁はい⋮⋮⋮⋮⋮ごめんなさい﹂
ルーデウスは何も言い訳をしない。
オレがこいつぐらいの時はどうだっただろうか。
だって、と、でも、ばっかり言ってた気がする。
言い訳小僧だった。
息子は立派だ。
﹁まぁ、お前ぐらいの歳なら、興味を持つものなのかもしれないが
な。
186
ムリヤリはだめだぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい、ごめんなさい。二度としません﹂
なんだか打ちひしがれた様子の息子を見ていると、申し訳ない気
分になってくる。
女好きはオレの血筋だ。
オレは若い頃から血気盛んで精力が強く、可愛い子と見ればひっ
きりなしに手を出してきた。
今はある程度落ち着いたものの、昔は本当に我慢というものが出
来なかった。
遺伝したのだろう。
理知的な息子にとって、そんな本能は悩んで当然のものだろう。
どうして気付いてやれなかったのか⋮⋮。
いや、ここは共感すべき所ではない。
経験からどうするべきかを示してやるのだ。
﹁父さんじゃなくて、シルフィエットに謝るんだ。いいね﹂
﹁シルフィ、エット⋮⋮許してくれるでしょうか⋮⋮﹂
﹁最初から許してもらえると思って謝っちゃダメだ﹂
そう言うと、息子はさらに落ち込んだ。
思えば、最初から息子はあの子に執心していた。
一年前の騒動だって、あの子を守るためにしたことだ。
その結果、父親に殴られることにすらなった。
その後も、毎日のように一緒に遊んで、他の子から守っていた。
剣術も魔術を頑張りながら、彼女のためにマメに時間を作ってい
た。
187
自分が一番大事にしていた杖や魔術教本を彼女にプレゼントして
しまうぐらいアプローチしていた。
そんな子に嫌われたかもしれないと思えば、落ち込むのもわかる。
オレだって昔はそうだった。
嫌われては落ち込んだものだ。
だが、安心しろ息子よ。
オレの経験で言えば、まだまだ余裕で挽回できる。
﹁なに、大丈夫だ。今までイジワルしてこなかったのなら、心から
謝れば、ちゃんと許してくれるさ﹂
そう言うと、息子はちょっとだけ晴れやかな顔になった。
頭のいい息子だ。
今回はちょっと失敗してしまったらしいが、すぐにリカバリーす
るだろう。
それどころか、今回の失敗をうまいこと利用して、彼女の心を虜
にするかもしれない。
頼もしくも末恐ろしい。
﹁ごめんシルフィ。髪も短かかったし、今までずっと男だと思って
たんだ!﹂
ウチの息子は完璧だと思っていたが、意外とバカなのかもしれな
い。
オレは初めてそう思った。
188
−−−
ルーデウス視点
−−−
謝ったり褒めたり宥めたりして、なんとか許してもらった。
シルフは女の子だったので、今後はシルフィと呼ぶ事にした。
ちなみに本名はシルフィエットというらしい。
パウロには、あんな可愛い子を男と見間違うとか、どういう目を
しているんだと呆れられた。
俺だって、﹁お前、実は女だったのかー!﹂をマジでやると思わ
なかったさ。
仕方ないじゃないか。
初めて会った時は俺よりも髪が短かった。
ベリーショートというほどオシャレな感じではないけど、
坊主というほど短くもない、そんな感じだった。
服装だって女の子っぽい格好は一度もしたことが無かった。
浅い色の上着にズボン。それだけだ。
スカートでも履いてれば、俺だって間違わなかったさ。
いや⋮⋮落ち着いて考えてみれば、だ。
髪の色でイジメられていた。
だから、髪を短く切って目立たなくするだろう。
イジメられれば走って逃げなければいけない。
だから、スカートよりズボンを履くだろう。
189
シルフィの家はそれほど裕福ではない。
だから、ズボンを一着作れば、スカートを作る余裕は無い。
知り合ったのが三年後だったら、俺だって間違えなかった。
先入観で可愛い男の子だと思っていただけで、中性的というわけ
でもないのだ。
もし彼女が⋮⋮いや、もうよそう。
何を言っても言い訳だ。
女の子だとわかると俺の態度も変わってしまう。
男っぽい格好をしているシルフィを見ていると、変な気分になる。
﹁し、シルフィは可愛いんだから、もっと髪を伸ばした方がいいん
じゃないですか?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
どうせなら見た目から変わってくれれば仕切り直しもしやすい。
そう思い、そう提案する。
シルフィは自分の髪が嫌いだ。
だが、エメラルドグリーンの髪は、陽の光を浴びると透けるよう
に輝く。
ぜひとも伸ばして欲しい。
そして出来ればツインテかポニテにして欲しい。
﹁やだ⋮⋮﹂
しかし、あの日以来、シルフィは俺に対して警戒心を抱くように
190
なった。
特に身体的な接触は露骨に避けられるようになった。
今までハイハイと何でもいうことを聞いていたので、ちょっとシ
ョックだ。
﹁そっか。じゃあ今日も無詠唱での魔術の練習をしましょうか﹂
﹁うん﹂
内心を隠すように、表情を取り繕う。
シルフィには俺しか友達がいないので、結局は二人で遊ぶ事にな
る。
まだわだかまりは残っているようだが、一応は遊んでくれる。
なので、今はそれでよしとしよう。
−−−
現在の俺のスキルをこの世界での基準で表すと以下の通りである。
===============
・剣術
剣神流:初級
水神流:初級
・攻撃魔術
火系:上級
水系:聖級
191
風系:上級
土系:上級
・治癒魔術
治療系:中級
解毒系:初級
===============
ちなみに召喚魔術は使えない。
治癒魔術は、やはり7段階のランクに分けられており、
治療・結界・解毒・神撃の4つの系統から成り立っている。
といっても、攻撃魔術と違い、火聖とか水聖とかカッコイイ呼び
名は無い。
聖級治癒術師、聖級解毒術師、といった呼ばれ方をする。
治療は文字通り、傷を直す魔術。最初は切り傷を直すのが精一杯
だが、帝級まで上がれば失った腕を生やすとかも出来るらしい。た
だし、神級になっても死んだ生物は生き返らない。
解毒は文字通り。毒や病気を直す術だ。階級が上がれば、毒を作
り出したり、解毒薬を作る事も出来るのだとか。状態異常の魔術は
聖級以上で、難しいらしい。
結界は防御力を上げたり、障壁を作り出す術だ。わかりやすく言
えば補助魔法だろう。詳しいことは分からないが、新陳代謝を上げ
て、軽いキズを直したり、脳内物質を発生させることで、痛みを麻
痺させたりしてるんだと思う。ロキシーは使えなかった。
神撃系はゴースト系の魔物や邪悪な魔族に有効的なダメージを与
192
える魔術らしいが、神撃系は人族の神官戦士が秘匿している魔術で
あるらしく、魔法大学でも教えていないのだとか、ロキシーも知ら
なかった。
ゴーストなんて見たこともないが、この世界にはデるらしい。
原理がわからないと無詠唱で使えないので、不便である。
そもそも、攻撃魔術に理科っぽい原理があるというだけで、他の
魔術にも原理があるのかどうかがわからないのだ。
魔力というものが万能の元素っぽいのはわかる。
だが、どういう変化をさせれば何が出来るのかはわかっていない。
例えば、遠くのものを浮かせたり手元に引き寄せたりするサイコ
キネシス。
これなんかも再現できそうではあるが、超能力者でなかった俺に
はどうやれば再現できるのか見当もつかない。
ちなみに、俺は傷が治るプロセスをふわっとしか憶えていない。
ゆえに、ヒーリングを無詠唱で出来ない。
医者としての知識を持っていれば、治癒魔術も無詠唱で使えたか
もしれない。
他にだって、何かしらしていれば、魔術で再現できただろう。
あるいは、スポーツでもやっていれば、剣術も上達したかもしれ
ない。
そう思えば、生前はなんと無駄な時間を過ごしてきたのだろうか。
いいや。
無駄などではない。
確かに俺は仕事もしなかったし学校にも行かなかった。
だが、ずっと冬眠していたわけではない。
193
あらゆるゲームやホビーに手を染めてきた。
他の奴らが勉強や仕事なんぞにかまけている間に、だ。
そのゲームの知識、経験、考え方は、この世界でも役立つ。
はずだ⋮⋮!
まあ、今は役立ってないんだけどね。
−−−
﹁はぁ⋮⋮﹂
思わずため息が漏れた。
﹁どうしたルディ?﹂
パウロが聞いてくる。
現在は、剣術の鍛練中だ。
露骨なため息をついては怒られる。
かと思ったが、パウロはニヤニヤと笑った。
﹁ははーん。さてはお前。
シルフィエットに嫌われて落ち込んでるな?﹂
今のため息はその事ではない。
ではないが、確かにシルフィの事も悩みの一つだ。
﹁ええ、まあ。剣術もうまくならないし、
194
シルフィには嫌われるし、ため息も付きますよ﹂
パウロはニヤニヤと笑って、木剣を地面に刺した。
木剣にもたれかかるように、目線を落としてくる。
まさかこいつ、笑いものにする気じゃねえだろうな⋮⋮。
﹁父さんがアドバイスしてやってもいいぞ﹂
意外な言葉が出た。
俺は考える。
父、パウロはモテる。
ゼニスは美女と言ってもいいし、エトの奥さんの件もある。
リーリャだってパウロに尻を触られてまんざらではない顔をして
いた。
何かあるのだ、女の子に嫌われないための秘訣が。
リア充に至る道が。
まあ感覚派だろうから理解は出来ないだろうが、
参考にはなるかもしれない。
﹁お願いします﹂
﹁んー、どうしようかなぁ﹂
﹁靴でも舐めましょうか?﹂
﹁いや、お前、いきなり卑屈になったな﹂
﹁教えてくれなければ、リーリャに色目を使ったことを母様に報告
します﹂
﹁今度はやけに高圧的⋮⋮⋮って、うぉぃ!
見てたのかよ! わかった、わかったよ。
もったいぶって悪かった﹂
195
リーリャに色目ってのはカマを掛けただけだったんだが⋮⋮。
もしかして:浮気?
まあいいか。
それだけこの男がモテるってことだ。
モテ男様の講義を聞くとしよう。
﹁いいか、ルディ、女ってのはな﹂
﹁はい﹂
﹁男の強い部分も好きだが、弱い部分も好きなんだ﹂
﹁ほう﹂
聞いたことがあるな。
母性本能がどうとかって話か?
﹁お前、シルフィエットの前で強い部分しか見せてこなかったんじ
ゃねえか?﹂
﹁どうでしょう、自覚はありませんが﹂
﹁考えてみろ。自分より明らかに強いやつが、欲望をむき出しにし
て迫ってきたら、どう思う?﹂
﹁怖い、でしょうね﹂
﹁だろう?﹂
あの日の事を話しているのだろう。
彼が彼女になった日のことを。
﹁だから弱い部分を見せてやるんだ。
強い部分で守ってやり、弱い部分を守ってもらう。そういう関係
に持っていくんだ﹂
﹁ほう!﹂
196
わかりやすい!
感覚派のパウロとは思えない!
強いだけではダメ、弱いだけでもダメ。
しかし両方を兼ね備えればモテる!
﹁でも、どうやって弱い部分を見せれば﹂
﹁そんなのは簡単だ。
お前、今悩んでるだろ?﹂
﹁ええ﹂
﹁ひた隠しにしているそいつを、
シルフィエットの前であからさまな態度に表すんだ。
オレは悩んでいます、あなたに避けられて落ち込んでいますって
な﹂
﹁す、するとどうなります?﹂
パウロはニヤリと笑う。
悪い顔だ。
﹁うまくいけば、向こうから寄ってくる。
慰めてくれるかもしれん。
そしたら、元気になれ。仲良くしたら相手が元気になった。
それが嬉しくない奴はいない﹂
﹁!﹂
なるほど。
自分の態度で相手の感情をコントロールする⋮⋮。
さ、さすがだ。
でも計画通りにいくとは限らないのでは?
197
﹁で、でもそれでダメだったらどうします?﹂
﹁そん時はまた聞け。次の手を教えてやる﹂
二手目があるのか。
策士、策士だよこの男!
﹁な、なるほど、じゃあ今すぐ行って来ます!﹂
﹁行ってこい、行ってこい﹂
パウロはひらひらと手を振った。
俺は居てもたってもいられず、駈け出した。
﹁六歳の息子になに教えてんだか⋮⋮﹂
後ろから、そんな声が聞こえた気がした。
−−−
木の下についた。
しかし、明らかに時間が速すぎたので、シルフィは来ていない。
そういえば、昼飯もまだ食っていない。
木剣を持ってきたのはいつもどおりだが、
いつもは身体を拭いてから来るので、汗びっしょりだ。
どうしよう。
どうしようもない。
こういう時は脳内練習だ。
198
俺は木剣を振ってシミュレートする。
強さは見せてきた、次は弱さを見せる。
弱さ。どうやってだっけか。
そう、落ち込んでいる所を見せるのだ。
どうやって。
タイミングは?
いきなりやるのか?
それはおかしいだろう。
話の流れで、だ。
出来るのか、いや、やってみせるさ。
ああきたらこうしよう、こうきたらああしよう。
そんな事を考えて木剣を降っていたら、
いつのまにか握力が無くなっていたのか、木剣がすっとんでいっ
た。
﹁うっ⋮⋮﹂
剣が転がった先に、シルフィがいた。
俺は頭の中が真っ白になった。
ど、どうしよう。なんて言えばいい?
﹁ど、どうしたのルディ⋮⋮?﹂
シルフィは、俺を見ると目を丸くした。
なんだろう、どうしたって、早く来すぎたせいか?
﹁んー、ふぅ⋮⋮んふー、シルフィの可愛い姿が、見れなくて、ざ、
残念だなーって﹂
199
﹁そ、そうじゃなくて、その汗﹂
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮あ、汗? なにが⋮⋮?﹂
はぁはぁと息を荒く近寄ったら、怯えた顔で引かれた。
いつもどおりだ一定以内の距離には近づかせてくれないのだ。
俺はこんなに惹かれているのに、君はこんなに引いている。
なんちゃって。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
汗が額から落ちてくる。
今か。
このタイミングか。
息も整ってきた。
よし。
俺は打ちひしがれた様子で木に手を当てて、反省のポーズ。
しょんぼりと肩を落とし、大きくため息。
﹁はぁ⋮⋮最近のシルフィ、冷たいよね⋮⋮﹂
しばらく沈黙が流れた。
これでいいのか? これでいいのかパウロ。
もっと弱々しい感じを見せたほうがいいのか?
それともワザとらしすぎたか?
﹁!﹂
200
俺の手が後ろからぎゅっと握られた。
暖かくも柔らかい感触に振り返ると、シルフィがいた。
お、おおお!
こんなに近い。
久しぶりにシルフィが近い!
パウロさん! 俺、やりましたよ!
﹁だって、最近のルディ、なんかちょっと変だもん⋮⋮﹂
言われて、我にかえる。
うん。
自覚はあった。
言われるまでもなく、
俺は今までと同じ態度では接していない。
シルフィから見れば、それはまさに豹変だったろう。
相手が小金持ちだと知った瞬間の婚活女子の如き豹変だ。
気分がいいわけがない。
でも、じゃあどうやって接すればよかったんだ?
今までと同じように、なんてのはさすがに無理だ。
こんなに可愛い子と一緒にいて緊張しないわけがない。
幼く、同年代、可愛い女の子。
こんなのと仲良くなる方法を俺は知らない。
201
俺が大人の立場なら、あるいはシルフィがもっと育っていれば。
そうすればエロゲー等で得てきた知識を総動員してなんとかした。
男なら、弟が幼かった頃の経験を生かした。
けれども彼女は同年代の幼女で、女の子だ。
無論、それぐらいの年齢の子と性的に仲良くなるゲームもやった
ことはある。
が、あんなものは幻想だ。
それに、そういう関係になりたいわけじゃない。
シルフィはまだ幼すぎる。
俺の守備範囲じゃない。
とりあえず、今のところは。
将来的には期待してるけど!
それはさておき。
彼女はイジメられっ子だった。
俺がイジメられていた時、味方はいなかった。
だから、俺は彼女の味方でいてやりたい。
男だろうと女だろうと。
その部分だけは変わらない。
でも、やっぱり今までと同じように接するのは難しいのだ。
俺だって男だし、可愛い女の子とはいい関係を築いていきたい。
今後のために!
⋮⋮⋮わからない。
どうすればいいんだ、俺は。
そこも聞いておけばよかった⋮⋮。
202
﹁⋮⋮ごめんね、でも私、ルディの事、嫌いじゃないよ﹂
﹁し、シルフィ⋮⋮﹂
俺が情けない顔をしていると、シルフィは俺の頭を撫でてくれた。
じーんときた。
明らかに俺が悪いのに、彼女は謝ってくれたのだ。
﹁だから、普通にしてて?﹂
その上目遣いは強力だった。
俺に決意させるに十分な威力を秘めていた。
俺は決意した。
そうだ。
彼女は普通を望んでいる。
今まで通りの関係だ。
だから出来る限り普通に接するのだ。
彼女が怯えないように、狼狽えないように、
男としての部分をひた隠しにして接するのだ。
つまり、アレだ。
俺はアレになればいいのだ。
なってやろうじゃないか。
鈍感系主人公に。
203
第九話﹁緊急家族会議﹂
ゼニスの妊娠がわかった。
弟か妹が生まれるらしい。
家族が増えるよ。やったねルディちゃん!
ゼニスはここ数年悩んでいた。
彼女は俺以降に子供が出来ないことを気に病んでいた。
もう自分は子供が産めないんじゃないかと、ため息混じりに漏ら
していた。
それが、1ヶ月前ぐらいから味覚の変化に始まり、吐き気、嘔吐、
倦怠感。
いわゆるつわりの症状が出始めた。
憶えのある感覚だったため、医者に行った結果。
ほぼ間違いないだろうと言われたらしい。
グレイラット家はその報告に湧いた。
男の子だったら名前はどうしよう、女の子だったら名前はどうし
よう。
部屋はまだあったよな。子供服はルディのお下がりを使おう。
話題は尽きなかった。
その日はずっと賑やかで、笑いの絶えない日だった。
俺も素直に喜び、出来れば妹がいいと主張した。
弟は俺の大切なものを壊していくからな︵バットで︶。
204
そして。
問題はそのさらに1ヶ月後に浮上した。
−−−
リーリャの妊娠が発覚した。
﹁申し訳ありません、妊娠致しました﹂
家族の揃った席で、リーリャが淡々と妊娠を報告。
その瞬間、グレイラット家は凍りついた。
相手は誰⋮⋮?
そんなことを聞ける空気ではなかった。
全員が薄々感づいていた。
リーリャは勤勉なメイドだ。
給金もほとんど実家へと送っていた。
村の問題を解決するためにちょくちょく出かけるパウロや、
定期的に村の診療所に手伝いにいくゼニスと違い、
業務以外での外出はほとんどしなかった。
もちろん、リーリャが誰かと特別親しくしているという噂も聞か
ない。
でも、あるいは行きずりの誰かと、とも思ったが⋮⋮。
205
俺は知っている。
ゼニスが妊娠してから禁欲生活を強いられたパウロの事を。
性欲を持て余したヤツが、夜中にこっそりとリーリャの部屋に向
かったのを。
俺が本当に子供だったら、二人でトランプでもしてるだろうと思
っただろう。
だが残念ながら、俺は知っている。
ババ抜きではなく、母抜きで何が行われていたのかを。
だが、もう少し気をつけて欲しかった。
例のあの二人も言っているじゃないか。
﹃良い子の諸君!
﹁やればできる﹂
実にいい言葉だな。
我々に避妊の大切さを教えてくれる!﹄
とね。
この言葉を、顔を真っ青にしているパウロにも聞かせてやりたい
よ。
ま、この世界に避妊という概念があるかどうかは知らないが。
もちろん。
事実を暴露して家庭崩壊を招くつもりはない。
メイドに手出しとか、いつもなら許せんと思う。
206
だが、パウロにはシルフィの件で世話になった。
今回だけは許してやろう。
モテる男は辛いのだ。
なので、もし疑われてたら庇ってやろう。
偽のアリバイをでっち上げてやってもいい。
そう決めて、安心してくれ、という視線でパウロに目配せしてお
いた。
と、同時に。
ゼニスが、まさかという顔でパウロをみた。
苦しくも、俺とゼニスの視線が一斉にパウロに注がれる事となっ
た。
﹁す、すまん。た、多分、俺の子だ⋮⋮﹂
奴はあっさりとゲロった。
情けない⋮⋮。
いや、正直な男だと褒めるべきか。
もっとも、日頃から家族の揃った席で俺に向かって、
正直にとか、
男らしくとか、
女の子を守れとか、
不誠実な事はするなとか、
偉そうに薫陶をたれていた手前、
嘘をつけなかったのかもしれない。
207
いいじゃないか。
嫌いじゃないよ。
お前のそういう所。
︵状況は最悪だけどな⋮⋮︶
ゼニスが仁王のような顔で立ち上がり手を振り上げるのを見て、
俺はそう思った。
こうして、リーリャを混じえて、緊急の家族会議が勃発した。
−−−
沈黙を最初に破ったのはゼニスだった。
会議の主導権は彼女に握られている。
﹁それで、どうするつもり?﹂
俺の目から見るに、ゼニスは極めて冷静だった。
浮気した夫に対してヒステリーも起こしていない。
ただ一発頬を張っただけだ。
パウロのほっぺちゃんには赤いもみじ模様がついている。
﹁奥様の出産をご助力した後、お屋敷をお暇させていただこうかと﹂
答えたのはリーリャだ。
彼女も極めて冷静だった。
この世界では、こういう事がよくあるのかもしれない。
208
雇い主にお手付きにされるメイド。
問題になり、屋敷から出ていく。
うん。
いつもならそんな不憫なストーリーには興奮する。
けど、さすがにこの空気ではピクリともしない。
俺にだって節操はあるのだ。
パウロと違ってな。
ちなみにパウロは端の方で縮こまっている。
父親の威厳? んなもんねーよ。
﹁子供はどうするの?﹂
﹁フィットア領内で生んだ後に、故郷で育てようかと思います﹂
﹁あなたの故郷は南の方だったわね﹂
﹁はい﹂
﹁子供を産んで体力の衰えたあなたでは、長旅には耐えられないわ
ね﹂
﹁⋮⋮かもしれませんが、他に頼れる所もないので﹂
フィットア領はアスラ王国の北東だ。
俺の知識によると、アスラ王国で﹃南﹄とされる地域へは、乗合
馬車を乗り継いでも一ヶ月近くかかる。
一ヶ月とはいえ、アスラ王国は治安がいい。
乗合馬車を使えば、過酷というほどではない。
ないが⋮⋮それは普通の旅人の場合だ。
そもそもリーリャには金がない。
乗合馬車には乗れないし、旅路は徒歩になるだろう。
もし、グレイラット家が旅費を出し、
209
乗合馬車を使えたとしても、危険性は変わらない。
子供を生んだばかりの母親の一人旅。
俺が悪いやつだとして、それを見かけたらどうする?
そりゃ襲うさ。
格好のカモだ。
狙ってくれと言っているようなものだ。
子供を人質にでも取って、適当な口約束で母親を拘束。
とりあえず金銭は奪い、身ぐるみを剥ぐ。
この世界に奴隷制度があるらしいので、
子供と母親、両方とも売り払って終了だ。
いくらアスラ王国はこの世界でも一番治安のいい国だと言っても、
悪い輩がゼロというわけではないはずだ。
必ずとは言わないが、高確率で襲われるだろう。
ゼニスの言うとおり、体力的な面もある。
リーリャの体力がもったとしても、子供はどうだ?
生まれたばかりの子供が一ヶ月の旅に耐えられるか?
無理だよ。
もちろん、リーリャが倒れれば、子供だって道連れだ。
病気になっても、医者に見せる金が無いのなら、共倒れになる。
赤子を抱いたリーリャが大雪の中で倒れてる光景が目に浮かぶ。
俺としては、リーリャにそんな死に方はしてほしくない。
﹁あの、母さん、さすがにそれは⋮⋮﹂
210
﹁あなたは黙っていなさい!﹂
パウロがおずおずと口を開いたが、
ゼニスにピシャリと言われて、子供のように縮こまった。
この一件に関して、彼に発言権は無い。
ふむ⋮⋮。
パウロは役に立たないな。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ゼニスは難しい顔で爪を噛んだ。
どうやら彼女も迷っているらしい。
彼女はリーリャを殺したいほど憎んでいるわけではない。
それどころか、二人は仲がいい。
六年も一緒に家事をしてきたのだ、親友と言ってもいいだろう。
リーリャが宿したのがパウロの子供でなかったら。
例えば路地裏でレイプされた結果にできた子供であったとしたら、
ゼニスは迷うことなくリーリャを保護し、
我が家で子供を育てることを許可⋮⋮いや強制しただろう。
話の流れから察するに、この世界には堕胎という概念はないよう
だし。
今、ゼニスの中で二つの感情がせめぎ合っているのだと思う。
好きだという気持ち、裏切られたという気持ち。
この状況で後者に感情が偏っていないゼニスはすごいと思う。
俺なら嫉妬で今すぐ叩きだす。
ゼニスが冷静でいられるのは、リーリャの態度も関係しているだ
ろう。
211
リーリャは言い逃れを一切せずに、責任を取ろうとしている。
仕えてきた家を裏切った責任を。
だが。
俺に言わせれば、責任を取るべきなのはパウロだ。
リーリャが一人で責任を取るのは、おかしい。
絶対におかしい。
こんなおかしな別れ方をしてはいけない。
俺はリーリャを助けることに決めた。
リーリャには世話になっている。
あまり関わりあいにはなっていないし、話しかけられた事もほと
んどない。
けれど彼女はきちんと世話を焼いてくれている。
剣術で汗をかいたら布を用意してくれる。
雨に濡れたらお湯を用意してくれる。
冷え込む夜には毛布を用意してくれる。
本を棚にしまい忘れたら、きちんと整頓してくれる。
そして何より。
何より。
⋮⋮⋮何より、だ。
パンツ
彼女は御神体の存在を知りつつ、黙っていてくれている。
そうリーリャは知っているのだ。
212
あれはシルフをまだ男だと思っていた頃だ。
雨が降っていた。
かくしばしょ
俺は復習も兼ね、自室で植物辞典を読んでいた。
すると、リーリャがきて、掃除を始めた。
パンツ
辞典に夢中になっていた俺は、リーリャが神棚付近を掃除してい
るのに気付かなかった。
気付いた時には手遅れで、リーリャの手には御神体が摘まれてい
た。
バカなと思った。
確かに俺は二十年近く引きこもっていた。
誰はばかることなく、オープンに散らかしていた。
デスクトップには﹁えろ絵﹂なんてフォルダすらあった。
だから、隠蔽スキルは錆び付いてしまっていたのかもしれない。
だがまさか、こうもあっさりと見つかるとは。
結構マジに隠したのに⋮⋮。
これがメイドという生き物なのか。
俺の中で何かが崩れると同時に、頭のてっぺんから血液が落ちる
音を聞いた。
尋問が始まった。
リーリャは言った﹁これはなんですか?﹂と。
俺は答えた﹁なななんでしょうね、それわはははははは﹂と。
リーリャは言った﹁匂いますね﹂と。
俺は答えた﹁ご、ゴマラーユの香りかなんかなんじゃないんじゃ
213
ないですかね﹂と。
リーリャは言った﹁誰のですか?﹂と。
俺は答えた﹁⋮⋮⋮⋮すいません、ロキシーのです﹂と。
リーリャは言った﹁洗濯をしたほうがいいのでは?﹂と。
かくしばしょ
俺は答えた﹁それを洗うなんてとんでもない!﹂と。
パンツ
リーリャは無言で御神体を神棚へと戻した。
そして、戦慄する俺を背に、部屋から出ていった。
その晩、俺は家族会議を覚悟した。
しかし、何もなかった。
深夜、布団の中でガタガタ震えて過ごした。
翌朝にも、何もなかった。
彼女は誰にも言わなかったのだ。
この恩を、今返そう。
﹁母様。一度に二人も兄弟が出来たというのに、なんでこんなに重
い雰囲気なのですか?﹂
なるべく子供らしく。
リーリャも妊娠したの?
やったね、家族がたくさんだ。
なのにどうして?
という感じを出しながら、俺は切り出した。
214
﹁お父さん達がやっちゃいけない事をしたからよ﹂
ゼニスはため息混じりに言う。
その声音には、底知れぬ怒りが混じっている。
けれど、怒りの矛先はリーリャではない。
ゼニスだってわかっているのだ。
一番悪いのは、誰か。
﹁そうですか。しかしリーリャは父様に逆らえるのでしょうか?﹂
﹁どういう事?﹂
なら、パウロには悪いが、今回は自業自得だ。
罪を一手に被ってもらうとしよう。
すまんね、シルフィの件での事は次回だ。
﹁僕は知っています。父様はリーリャの弱みを握っています﹂
﹁え? 本当なの!?﹂
俺のでまかせを信じ、ゼニスは驚いてリーリャを見る。
リーリャはいつも通り無表情だが、心当たりがあったらしく、眉
をぴくりと動かした。
ホントに弱みを握られているのだろうか。
普段の言動を見る限り、むしろリーリャがパウロの弱みを握って
いるように見えたが⋮⋮。
いいや。好都合だ。
﹁この間、夜中にトイレに行こうと思ってリーリャの部屋の部屋の
前を通ったら、
父様が⋮⋮なんとかを言いふらされたくなかったら大人しく股を
開けって言っていました﹂
215
﹁なっ! ルディ、なにをバカな⋮⋮﹂
﹁あなたは黙っていなさい!!!﹂
ゼニスが金切り声を上げて、パウロを制した。
﹁リーリャ、今の話は本当?﹂
﹁いえ、そんな事実は⋮⋮﹂
リーリャは視線を彷徨わせた。
本当に心当たりがあるのか。
あるいはそういうプレイでもしたのかもしれない。
﹁そうね、あなたの口からはあったとは言えないわね⋮⋮﹂
ゼニスはその態度に勝手に納得した。
パウロは目を白黒させて口を開き、しかし言葉は出せずにパクパ
クと金魚のようになっている。
よし。畳み掛けよう。
﹁母様。リーリャは悪くないと思います﹂
﹁そうね﹂
﹁悪いのは父様です﹂
﹁⋮そうね﹂
﹁父様が悪いのにリーリャが大変な目にあうのは間違っています﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
手応えが薄いか⋮⋮?
いや、あと一息。
﹁僕はシルフィと一緒にいて毎日が楽しいのですが、生まれてくる
216
僕の弟か妹にも、同じぐらいの年齢の友達がいたほうが良いのでは
ないでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮そう、ね﹂
﹁それに母様。僕にとっては両方とも兄弟です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わかったわよ。もう、ルディには敵わないわね﹂
ゼニスは大きくため息をついた。
苦労を掛けるね、ママン。
﹁リーリャ、うちにいなさい。あなたはもう家族よ! 勝手に出て
いくのは許さないわ!﹂
鶴の一声。
パウロは目を見開き、リーリャは口に手を当てて涙ぐんでいた。
これにて、一件落着。
−−−
こうして、全ての責任をパウロになすりつける事で、事態は事な
きを得た。
最後に、ゼニスは屠殺寸前の豚を見るような冷徹な目をパウロに
送った。
業界ではご褒美かもしれないが、俺のボールはキュンってなった。
そんな目をして、彼女は一人で寝室へと戻っていった。
リーリャが泣いていた。
無表情な顔はそのままに、目からポロポロと涙を流していた。
パウロがその肩を抱こうとして、迷っている。
217
とりあえず、この場はプレイボーイに任せるとしよう。
俺はゼニスの後を追い、寝室へと向かう。
この一件で、パウロとゼニスが離婚するなんて事になったら、そ
れはそれで問題だからな。
寝室の扉をノックすると、ゼニスがすぐに顔を出した。
﹁母様。先ほど言ったのは僕の考えた嘘です。
父様のことを嫌いにならないでください﹂
間髪入れず、前置きは一切なく、そう言った。
ゼニスは一瞬呆気に取られたようだが、
苦笑し、優しい顔で俺の頭を撫でた。
﹁わかってるわよ。私だって、そんな悪い男に恋をしたつもりは無
いもの。
馬鹿で女に目がないから、いつかはこういう事があると覚悟もし
てたの。
いきなりだったからびっくりしただけよ﹂
﹁⋮⋮⋮父様は女に目がないのですか?﹂
なんとなく、知らないフリをして聞いてみる。
﹁そうね。最近はあまりだけど、昔は見境いがなかったわね。もし
かしたら、知らないだけでルディのお兄さんかお姉さんがどこかに
いるかもしれないわよ﹂
と、俺の頭を撫でる手に力がこもった。
﹁ルディはそんな大人になっちゃダメよ?﹂
218
ギリギリと頭を撫でる、否、掴む手に力が篭っていく⋮⋮。
﹁シルフィちゃんを大事にしなきゃダメよ?﹂
﹁いた、痛い、もちろんです、母様、痛いです﹂
今後の行動に関して、大きな釘を刺された気分だ。
でも、この調子なら大丈夫だろう。
今後どうなっていくのかは、パウロの努力次第だ。
それにしても、まったく、ウチの父親はヤンチャで困るよ。
二度目は無いぜ、セニョール。
翌日。
剣術の稽古がすんげー厳しかった。
ちゃんとフォローまでしたんだから、八つ当たりはやめてほしい。
−−− リーリャ視点 −−−
ハッキリ言おう。
妊娠は、自分が悪い。
パウロを誘ったのは自分だ。
この家にきた頃は、そのつもりは無かった。
219
けれど、毎夜毎晩二人の喘ぎ声を聞き、男女の匂いの充満する部
屋を掃除していれば、自分とて女だ、性欲は溜まる。
最初は自分で済ませていた。
けれども、毎日庭で剣術の稽古をするパウロを見ていると、消化
しきれなかった残り火が身体の奥底で大きくなるのだ。
剣術の稽古をするパウロを見ていると、初めての時を思い出す。
あれは、まだずっと若かった頃、剣道の道場で寝泊まりしていた
頃。
相手はパウロで、無理矢理の夜這いだった。
嫌いではなかったが、愛し合っていたわけではない。
ロマンチックとは言いがたかったので、当初は涙したものだ。
次に自分に色目を使ってきたのが脂ぎった大臣だった。
アレよりマシかと思えば、気にも止まらなくなった。
パウロがメイドを募集していると聞いた時も、
あの時の事を交渉材料にすればいいか、ぐらいに思っていた。
久しぶりに出会ったパウロはあの頃よりもずっと男らしかった。
少年らしさは消え、厳しさと屈強さを兼ね備えた男になっていた。
自分はそんな男を前にして、
六年間もよく耐えたと思う。
最初、パウロも自分に色目は使わなかった。
だから、自分も耐えられた。
そのままならば、次第と火照りも消えただろう。
だが、たまにされるセクハラで情欲の火は燃え盛った。
絶妙なバランスで立っているのを自覚していた。
220
ゼニスの妊娠で、それが決壊した。
パウロが性欲を持て余しているのを、自分は好機と考えてしまっ
た。
好機と考えて、パウロを部屋へと誘いこんでしまったのだ⋮⋮。
だから、自分が悪いのだ。
妊娠は罰だと思った。
情欲に負け、ゼニスを裏切った罰だと。
しかし、許された。
ルーデウスが許してくれた。
あの賢い子供は、何が起こったのかを正確に理解し、的確に会話
を誘導し、落とし所まで綺麗に持っていった。
まるで過去に似たような事があったかの如き冷静さだ。
不気味⋮⋮いや、そう言うのはもうよそう。
自分はルーデウスを不気味に思い、散々避けてきた。
ルーデウスは聡い、避けられている事に気付いていただろう。
そんな自分を、ルーデウスは救ってくれたのだ。
決していい気分ではなかっただろうに。
己の感情より、自分とこの子を救うことを選んでくれたのだ。
不気味だと言って避けてきた自分が恥ずかしい。
彼は命の恩人である。
尊敬すべき人物である。
敬うべきだ。
最大限の敬意を払い、死ぬまで仕えるべき人物だ。
221
いや⋮⋮自分は今まで、彼をないがしろにしてきた。
自分だけでは返しきれないだろう。
そうだ。
もし、お腹の子が無事に生まれ、育ったのなら。
この子を、ルーデウスに⋮⋮。
ルーデウス視点
−−−
ルーデウス様に仕えさせるのだ。
−−−
それから数ヶ月は、特に何事もなく過ごした。
シルフィは無詠唱の魔術を中級まで使えるようになった。
徐々に細かいことも出来るようになってきている。
成長は著しい。
俺の剣の腕はあんまり変わらない。
良くはなってきているようだが、未だにパウロから一本も取れな
いので実感がわかない。
あと、リーリャの態度が軟化した。
彼女は今まで、俺を警戒していたらしい。
まあ、そりゃ小さい頃から魔術をバカバカ使ってたから、当然だ
ろう。
基本的に無表情なのは変わらないが、言葉や行動の端々に、やた
222
ら仰々しい敬意のようなものを感じるようになった。
敬われるのは気分がいいが、パウロの立場が無いので程々にして
ほしい。
あの一件以来、リーリャとは少しずつ話をするようになった。
主に、パウロとの昔話だ。
なんでもリーリャは昔、パウロと一緒の道場で剣を習っていた事
があるらしい。
当時のパウロは才能はあったが、練習嫌いだったとか。
練習をサボって町に繰り出しては遊び歩いていたのだとか。
リーリャは当時のパウロに寝込みを襲われて純潔を散らしたのだ
とか。
パウロはそれが発覚することを恐れて道場を逃げ出したのだとか。
そのあたりのことを淡々と話してくれた。
リーリャの昔話を聞けば聞くほど、俺の中のパウロ株はどんどん
下落していった。
レイプに浮気。
パウロはクズだ。
いや、パウロも根は悪いヤツじゃない。
自由奔放で子供っぽくて、母性本能をくすぐるタイプみたいだし。
俺の前では父親らしくしようと努力してるし。
ちょっと我慢が効かなくて、思い立ったら直情型なだけで、
決して、悪いヤツではないんだ。
﹁なんだ、まじまじと見て。父さんのようなカッコイイ男になりた
いか?﹂
223
剣術の最中にパウロを見ていたら、そんな事を聞かれた。
ふざけたことだ。
﹁浮気して家庭崩壊の危機を作り出すような男が、カッコイイので
すか?﹂
﹁ぐぬぅ⋮⋮﹂
パウロは苦い顔をした。
その表情を見て、俺も気をつけようと心に決める。
もっとも俺は鈍感系だ。浮気なんてしない。
女の子が勝手に俺を取り合うだけ。
そうするように仕向けるだけだ。
﹁ま、あれに懲りたら、母様以外に手を出すのは控えて下さい﹂
﹁り、リーリャはいいだろう?﹂
この男、懲りていないらしい。
﹁次は母様が無言で実家に帰るかも知れませんねぇ⋮⋮﹂
﹁ぐ、ぐぬぅ⋮⋮﹂
女を二人囲って、ハーレムでも作ったつもりだろうか。
美人の嫁さんを手に入れ、いつでも手が出せるメイドを囲い、息
子に剣を教えつつ田舎で爛れた隠居暮らし。
おいおい、羨ましいぞ。
最高のエンディングの一つじゃないのか?
某ラノベで言うなら、ル○ズとシ○スタの両方に手を出して無事
でいるようなもんだ。
224
俺も鈍感系とか言ってないで、見習うべきじゃないのか⋮⋮?
いや、だめだ。
落ち着け。
あの家族会議の時の、最後のゼニスの目を。
あんな目をされたいのか?
嫁は一人で十分だ。
﹁お、お前も男ならわかるだろう?﹂
パウロはなおも食い下がってきた。
わかるけど、同意しない。
﹁六歳の息子に何がわかるというんですか?﹂
﹁ほら、お前だってシルフィちゃんを唾つけてるじゃないか。あの
子は将来美人になるぞぉ﹂
そこには同意せざるを得ません。
﹁そうでしょうね。今のままでも十分可愛いとは思いますが﹂
﹁わかってるじゃないか﹂
﹁まあね﹂
パウロはクズ野郎だけど、なんだかんだ言って話が合う。
俺は見た目は子供だが、精神は40を超えたニート。
正真正銘のクズだ。
ゲーム内に限るが、女の子も好きだし、ハーレムも大好きだった。
本質的な部分では女誑しのパウロと一緒なのかもしれない。
225
というか、
話が合うと思い始めたのは、シルフィを剥いた事件からだ。
あの事件の後、パウロの方から歩み寄り、打ち解けてくれた気が
する。
俺の弱い部分をみたせいか、弱い部分を見られたせいか。
無理に厳格な父親であろうともしなくなった。
彼も成長しているのだ。
﹁んふふ⋮⋮﹂
ふと見ると、パウロがニヤニヤと笑っていた。
その視線は俺ではなく、俺の後ろへ注がれている。
振り返ると、シルフィが立っていた。
ウチまで来るとは珍しい。
よく見ると、若干、頬を赤く染めて、もじもじとしている。
聞いていたらしい。
﹁ほら、今の言葉、もう一度言ってあげなさい﹂
パウロの古典的なからかい。
俺はフッと鼻で笑う。
まったく、わかってない。
パウロもまだまだだな。
心地いい言葉でも、何度も聞いていれば慣れ、刺激が薄くなって
しまう。
鈍感に見せかけて、たまにポロリと本心をこぼすように言うのが
効果的なのだ。
たまにだ。
226
二度も言ってはダメなのだ。
なので、俺はにっこりと笑って、無言でシルフィに手を振ってお
いた。
大体、シルフィはまだ六歳だ。
そういう話をするのは十年は早い。
今の時期から可愛い可愛いと言われて甘やかしても、ロクな女に
ならない。
生前の俺の姉貴がいい例だ。
﹁あ、あのね。ルディも、その⋮⋮カッコイイ、よ?﹂
﹁そうかい、ありがとうシルフィ﹂
白い歯をキラッと光らせ︵たつもりで︶、ニコッと笑う。
さすが、シルフィは社交辞令が上手だね。
その上目遣いに、危うく本気だと勘違いする所だったよ。
シルフィを可愛いといったのは本心だけど、そこに恋愛感情は無
いのだ。
今のところはね。
﹁では父様。出掛けて参ります﹂
﹁草むらで押し倒したりするんじゃないぞ﹂
やるかよ。お前じゃあるまいし。
﹁母様ー! 父様が︱︱︱﹂
﹁わー、やめろやめろ⋮⋮!﹂
今日も我が家は平和だった。
227
−−−
ゼニスの出産は大変だった。
逆子だったのだ。
リーリャも身重という事で、ヘルプとして村の産婆さんを呼んで
きていた。
その婆さんが、お手上げだと言いだした。
こんな状態の子供はまず死ぬ、と。
母子ともに危険な状況に陥った。
リーリャは持てる知識を総動員して必死に動いた。
俺も微力ながら、治癒魔術をかけ続ける事で援護した。
その甲斐あって、なんとか出産。
赤子は無事にこの世界に誕生し、元気な産声を上げた。
女の子だった。
妹だ。
弟じゃなくてよかった。
ほっとしたのもつかの間、リーリャが産気づいた。
誰もが疲れ果て、気が緩んだ瞬間の出来事だ。
早産という単語が俺の中で踊る。
しかし、今度は産婆さんが役に立った。
逆子の対処の仕方はしらなくとも、早産の方は経験があるらしい。
さすがは年の功。
228
俺は即座に婆さんの指示に従った。
呆けているパウロの尻にケリを入れ、リーリャを俺の部屋へと運
ばせる。
俺はその間に魔術を使って産湯を作り直し、綺麗な布をありった
けかき集めて、婆さんの元へと戻ってくる。
婆さんは頼りになった。
リーリャは健気にパウロの名前を呼んだ。
パウロは汗だくになりながら、リーリャの手を握った。
生まれた。
我が妹よりは小さかったが、それでも元気な産声を上げた。
こちらも女の子だった。
ふたりとも、女児だ。
両方とも女の子かー、なんて言いながら、パウロがでへでへと笑
ってる。
バカ親丸出しの顔。
この顔を見るのは二度目だ。
それにしても、パウロが不憫でならない。
なにせ、我が家の女の勢力が2倍になってしまったのだ。
そんな状況で一番下の立場になるのは、誰か。
メイドに浮気して子供を産ませた父親だろう。
俺は尊敬されるカッチョイイ兄貴を目指す。
229
ゼニスの娘は、ノルン。
リーリャの娘は、アイシャ。
そう名付けられた。
230
第十話﹁伸び悩み﹂
七歳になった。
二人の妹、ノルンとアイシャはすくすくと育っている。
おしっこを漏らしては泣き、
うんこを漏らしては泣き、
お腹がすけば泣き、
なんとなく気に食わなかったら泣き、
気に食わなくなくても泣いた。
夜泣きは当然、朝泣きも当然。
昼はなおさら元気にビャービャー。
パウロとゼニスはあっという間にノイローゼになってしまった。
リーリャだけは元気で、
﹁これですよ、これこそが子育てなんですよ!
ルーデウス坊ちゃんの時はイージー過ぎました!
あんなのは本当の子育てじゃありません!﹂
と、手際よく二人の世話をしている。
ちなみに、夜泣きは弟で慣れているので、俺は大して気にならな
かった。
自慢じゃないが、赤ん坊の世話は弟でやったことがある。
テキパキとおしめを交換し、洗濯や掃除を手伝う。
231
そんな俺を見て、パウロがとても情けない顔をしていた。
この男は戦前の日本男児の如く、家のことがまったく出来ないの
だ。
剣の腕は確かだし、村の連中からの信頼もブがつくほど厚いのだ
が、パパとしては半人前も良い所だ。
二人目だというのに⋮⋮まったく。
−−−
うん。
そうだな、ここらでパウロの名誉を回復させるためにも、彼の凄
いところを話しておこう。
俺はこの欠点だらけ、人としてどう見てもクズなパウロを、認め
ている。
なぜか。
強いからだ。
まず、パウロの剣術の階級。
剣神流:上級
水神流:上級
北神流:上級
と、三つとも上級である。
この上級というのは、才能ある者が一つの流派に打ち込んで10
232
年ぐらいかかると言われている。
上級は、剣道で言う所、四段か五段ぐらいに相当すると思う。
ちなみに中級が初段から三段ぐらいであり、一般的な騎士ならこ
れぐらいで、中級を持っていれば剣士としては一人前、と言われて
いる。
聖級となると高段位と呼ばれる六段以上の腕前が必要となってく
るが、これは置いておこう。
つまり、パウロは剣道・柔道・空手でそれぞれ四段の腕前を持っ
ている。
それも、全部途中で投げ出して、である。
ロクな大人じゃないと思うが、強さに関しては折り紙つきだ。
それも、まだ二十代中盤だというのに、恐ろしく実戦経験が豊富
だ。
経験に基づいた言葉は、実に狡猾で実践的。
感覚的なので半分も理解できていないが、
しかしもっともな事を言っているのだとわかる。
俺は二年間パウロから剣術を習っているが、未だ初級の域を出な
い。 あと数年経って体力がついてくればわからない。
だが、現状ではどれだけ脳内でイメトレしても、パウロに勝てる
ビジョンが浮かばない。
魔術を駆使し、策を弄しても、まるで勝てる気がしない。
少なくとも、接近戦では。
パウロが魔物と戦う所をみたことがある。
正確には、見せられた。 233
魔物が出たという知らせを受けた時、
アサルトドッグ
﹁戦いを見るのも経験になる﹂と、ムリヤリ連れだされて、遠く
から見物させられた。
はっきり言おう。
ムチャクチャカッコよかった。
相手にした魔物は4匹。
ターミネートボア
訓練されたドーベルマン並に動く犬のような魔物が3匹。
二足歩行で腕が4本あるイノシシの魔物が1匹。
イノシシが犬を引き連れるように、森の奥から現れた。
パウロはそいつら軽くあしらって、一発で首を切り落とした。
もう一度言おう、ムチャクチャカッコ良かった。
なんというか、戦い方に華があるのだ。
ハラハラドキドキというか、
不思議なリズム感があって、見ていて心地良い。
言葉ではうまく表現出来ない。
あえて単語を上げるとするなら、カリスマだ。
パウロの戦い方にはカリスマがある。
男衆に絶大な信頼を受けているのも納得だ。
ゼニスが惚れてリーリャが体を許すのもわかる。
エトの奥さんの事もある。
村で抱かれたい男ナンバーワンなのだ。
いや、抱かれたいとかそういうのはさて置いて。
そして俺は、彼の存在をありがたく思う。
234
自分より強い存在が身近にいる。
それがありがたい。
もし、パウロの存在がなければ、
俺はこの世界で簡単に増長してしまっていたことだろう。
ちょっと魔術がうまいからといって魔物に戦いを挑んだりして、
アサルトドッグを捉えきれず、無残に噛み殺されただろう。
あるいは、魔物ではなく、人。
増長した挙句、勝てない相手に喧嘩を売ってしまう。
ありがちな話だ。
外道だと思って成敗しようと思ったら、返り討ちにあうとかは。
この世界の剣士は規格外に強い。
本気を出せば最高時速50kmぐらいで走れて、動体視力や反射
神経だって半端ない。
治癒魔術のお陰で簡単には死なないから、一撃で殺しに来る。
魔物というものが存在する世界では、人はかくも強くなければい
けないのかと思うほどに強い。
しかも、そんなパウロですら、まだ上級なのだ。
剣士という枠組みだけでも、まだまだ上がいるのだ。
この世界で有名とされる人々や魔物の中には、
パウロが束になっても勝てない相手が多数存在しているのだ。
上には上がいる。
パウロはそんな当たり前のことを教えてくれたありがたい存在で
ある。
235
もっとも、どれだけいい所があろうとも、家ではただのダメなパ
パだ。
オリンピック金メダリストだって法を犯せば犯罪者なのと一緒で。
−−−
ある日、俺はいつもどおりパウロから剣術の稽古を受けていた。
パウロには今日も勝てない。
きっと明日も勝てないだろう。
最近、上達している実感が湧かない。
けれども、やらなければ上達はしない。
実感が沸かずとも、己の血肉にはなっているはずなのだ。
多分。
そうだよね?
なってるよね?
などと考えていると、ふと、パウロが思いついたように声を上げ
た。
﹁そうだルディ。お前学校って⋮⋮﹂
言いかけて、やめた。
﹁⋮⋮⋮必要ないか。なんでもない、再開﹂
何事も無かったかのように木剣を構えようとするパウロ。
俺は聞き逃さない。
236
﹁なんですか、学校って⋮⋮?﹂
﹁学校というのは、フィットア領の都市ロアにある機関だ。
読み書き、算術、歴史、礼儀作法なんかを教えてくれる﹂
それは知ってる。
﹁普通、お前ぐらいの歳になると通い始めるもんだが⋮⋮。
必要ないだろ? お前、読み書きも算術もできたよな?﹂
﹁ええ、まあ﹂
算術はロキシーに教えてもらった、という事にしている。
娘が二人生まれた事で財政的に難しくなり、
帳簿とにらめっこしているゼニスを手伝った所、大層驚かれたの
だ。
また天才だなんだと騒ぎ出しそうだったので、咄嗟にロキシーの
名前を出した。
結果として、ロキシーの評価が上がったので、よしとする。 ﹁しかし学校には興味はあります。
同じぐらいの年代の子が集まるんでしょう?
友達が出来るかもしれません﹂
と、いうとパウロはペッと唾を吐いた。
﹁そんな良い所じゃないぞ?
礼儀作法とか堅っ苦しいだけで役に立たないし、
歴史なんて知ってても意味ないし、
それにお前絶対イジメられる。
237
近所の貴族のクソガキ共が集まってくるんだが、
自分が一番じゃねえと気に食わないのばっかりだ。
お前みたいのがいると徒党組んでイジメてくるだろうな。
なんたら侯爵を父にもつ私よりもどうちゃらで身分の低いお前は
生意気だーっとな﹂
実体験っぽい話だ。
パウロは厳しい父親と貴族の汚さに嫌気がさして家をとびだした
という話だ。
その礼儀作法や歴史とやらも、アスラ貴族の見栄がこびりついた、
非常に見苦しいものなのだろう。
パウロと息の合う俺としても、きっと息苦しいに違いない。
﹁そうなんですか。貴族のお嬢様に可愛い子がいるかと思ったので
すが﹂
﹁やめとけやめとけ。貴族の娘ってのはな、ゴッテゴテに化粧して、
ガッチガチに髪型キメて、甘ったるい匂いプンプンさせてて、いざ
ベッドで脱がしてみると、運動なんて全くしてないから、コレまた
だらしない身体してるんだぞ。
ま、中には剣術とかを嗜んでいて、結構いい身体してる子もいる
けどな、大体はコルセットで誤魔化してるから脱がしてみるまでわ
からないんだ。
父さんも何度か騙されたもんだ⋮⋮﹂
遠い目をして言うパウロの言葉には妙な信憑性があった。
言ってる内容はクズ同然だが。
まぁ、そういう経験を得て、ゼニスという良妻を得たのだと思え
ば、含蓄のある言葉かもしれない。
﹁じゃあ、学校に行くのはやめておきましょう﹂
238
シルフィにもまだ教えたいことがある。
大体、イジメられるとわかっているのに行くなんて正気の沙汰じ
ゃない。
伊達にイジメられたせいで20年近く引きこもってねえぞ。
﹁そうだな。学校に行くぐらいなら、冒険者にでもなって迷宮にで
も潜ったほうがいい﹂
﹁冒険者ですか⋮⋮?﹂
﹁そうだ。迷宮はいいぞ。化粧をする女なんていないから、綺麗か
どうかが一目でわかる。
剣士も戦士も魔術師も、みんな引き締まったいい身体をしている
しな﹂
クズの発言は置いておくとして。
本によると、
迷宮というものは、一種の魔物である。
元はただの洞窟だったものが、魔力が溜まることで変異していき、
迷宮へと変貌を遂げる。
ボス
迷宮の最深部には力の源とも言える魔力結晶があり、それを守る
ための守護者がいる。
魔力結晶は餌でもあり、強力な誘引力を発している。
ボス
魔物はそれに吸い寄せられて迷宮に入り込み、罠に掛かったり、
餓死したり、魔力結晶を守る守護者にやられたりして死ぬ。
迷宮は死んだ魔物の魔力を吸収する。
もっとも、できたばかりの迷宮は逆に魔物に魔力結晶を食われて
しまうこともあるのだとか。
また、未熟な迷宮は、たまに崩落して潰れてしまうのだとか。
239
そういうマヌケな部分を聞くと生物っぽい。
さて、魔力結晶に吸い寄せられるのは、魔物だけではない。
人間もワラワラと寄ってくる。
魔力結晶は魔術の触媒として使われるため、大変高値で取引され
るからだ。
大きさにもよるが、小さくても1年以上は遊んで暮らせる金額だ。
魔物にとっての財宝は魔力結晶だけだが、
人間にとっての財宝はそれだけではない。 迷宮は時間が経つと、それまで食ってきた魔物や冒険者の装備に、
何年も掛けて魔力を注ぎ込む。
マジックアイテム
そうすることで、新たな餌を作る。
マジックアイテム
魔力付与品である。
そうしてできた魔力付与品は、大抵はろくな能力がついていない。
だが、中にはたまに神級の人らも真っ青なチート能力がついてい
るものがある。
ということで、一攫千金を夢見た人々は迷宮へと潜る。
そして、力尽きて倒れてしまう。
そうして、迷宮は魔力を得て深く広くなっていく。
長いこと存在している迷宮の奥地には、莫大な量の財宝が眠る事
となる。
確認されている中で最も古く深いのは、中央大陸の赤竜山脈が霊
峰、龍鳴山の麓にある﹃龍神孔﹄だ。
文献によると一万年前からあるらしい。推定される最下層は25
00階。
その迷宮は龍鳴山の頂上にある孔ともつながっているらしく、頂
上から孔に向かって飛び降りれば、一瞬で最下層近くまでいけるら
240
しいが、その方法で降りて上がってこれた者はいない。
レッドドラゴン
ちなみにその頂上の孔は噴火口ではない。
﹃龍神孔﹄が赤竜を捕らえて捕食するために開けたものだ。
上を竜が通過すると吸い込むらしい。
真偽の程は定かではないが、一万年も生きた魔物なら、それぐら
いしてもおかしくはない。
最も難易度が高いと言われている迷宮は、天大陸にある﹃地獄﹄
と、リングス海の中央にある﹃魔神窟﹄だ。
両方とも、入り口にたどり着く事すら困難で、満足に補給もでき
ない場所にある。
深い上、腰を落ち着けて探索することが出来ないので最高難易度、
というわけだ。
﹁迷宮の話は、本で読みました﹂
﹁﹃三剣士と迷宮﹄か。あんな風に伝説の迷宮を探索できたら歴史
に名を残せるぞ。頑張ってみたらどうだ?﹂
﹃三剣士と迷宮﹄。
後に剣神・水神・北神と呼ばれるようになる若い天才剣士たちが
出会い、紆余曲折の末に三人で巨大迷宮に挑み、喧嘩あり笑いあり
友情あり別れありの展開で、見事に踏破する話だ。
そこで潜った迷宮だって、せいぜい地下100階だ。
﹁あれって、作り話なんじゃないんですか?﹂
﹁そんな事ないぞ。現に、各流派に代々伝わる剣は、その迷宮で手
に入れたものだって話だ﹂
﹁へえ。でも、神級になれるほどの人が苦労してるのに、僕が頑張
った所でたかが知れてますよ﹂
﹁父さんだって潜れたんだ。ルディにだって出来るさ﹂
241
パウロは、それから、
鬼族の青年が海魚族の巣窟となっている迷宮に人間の剣士たちと
一緒に入り、仲間を失いながらも海魚族を倒す話だとか。
落ちこぼれと呼ばれていた魔法使いが偶然迷宮に落ちてしまった
所、ちょうど魔法使いを失ったばかりのパーティに拾われて、その
潜在能力を覚醒させながらも強くなっていく話だとか。
そういう話をざっと聞かせてくれた。
話す機会を待っていたかのような話し方だった。
そういえば、パウロは俺を剣士にしたかったと言っていた。
大方、そういう話を聞かせたり、﹃三剣士と迷宮﹄を読み聞かせ
たりして、
迷宮・冒険者・剣士といったキーワードに憧れさせる算段だった
のだろう。
迷宮。
興味はある。
面白そうだとも思う。
が、危険すぎるとも思う。
あの本に書いてある登場人物は、唐突に死ぬのだ。
﹃三剣士と迷宮﹄には、三剣士以外の登場人物も出てくる。
が、三剣士以外は全滅する。
会話をしてる最中に真横から飛んできた火球に当って黒焦げにな
り。
いきなり落とし穴に落ちてグチャグチャになり。
ちょっと頭を上げた瞬間、真っ二つになったり。
魔物との戦いで傷一つ負う要素のない奴らが、
242
ちょっと気が抜いた瞬間に罠にかかって全滅するのだ。
三剣士は主人公らしく華麗に罠を切り抜けるが、
うっかり屋の俺が罠を全部避けられるとは思えない。鈍感系だし
な。
﹁どうだ? 冒険者も面白そうだろう?﹂
﹁冗談じゃありませんよ﹂
なんでわざわざスリルを求めてハイリスクな事をしなきゃならん
のだ。
出来れば将来はパウロのように女の子に囲まれてまったりと暮ら
すのだ。
﹁僕は女の子の尻を追いかけている方が性に合っていますよ﹂
﹁おお、さすが俺の息子だ﹂
﹁父様みたく、何人も囲うのが理想ですね﹂
﹁そうかそうか。けど、追いかける尻はひとつにしておいたほうが
いいぞ﹂
ちょいちょいと後ろを指さされて振り返ると、むくれたシルフィ
がいた。
間が悪い。
−−−
最近は俺の部屋でシルフィに勉強を教える事が多くなった。
無詠唱の細かい理論を説明するのに、数学や理科の基礎的なこと
243
を教えておいた方が手っ取り早いからだ。
もっとも、俺は中学時代では落ちこぼれ。
なんとか入ったバカ高校もあっさり中退している。
なので、俺が教えられることなんてたかが知れている。
学校での勉強が全てというわけではないが、もっと勉強しておけ
ば、と悔しく思う。
シルフィは簡単な読み書きと、二桁の掛け算まで出来るようにな
った。
九九を教えるのにちょっと難儀したが、頭の悪い子ではない。
すぐに割り算も覚えるだろう。
魔術と平行して、理科も教えていく。
﹁どうして水を温めると水蒸⋮⋮気? になるの?﹂
﹁えっとね、空気は水を溶かすんだ。
でも、溶かすためには温度が必要になる。
だから、温かくなればなるほど、溶けやすくなるんだ﹂
今は蒸発、凝固、昇華とそのプロセスについて教えている。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
よくわかっていない、という顔をしているが、
素直な子だからか、吸収が早い。
﹁ま、まあ、どんなものでも熱すれば溶ける、冷やせば固まるって
考えておけばいいよ﹂
244
教師ではないのでこんなもんだ。
まあ、シルフィは俺より賢い。
自分で色々試して納得してくれるだろう。
魔術を使えば、実験道具には事欠かないわけだし。
﹁石とかも溶けるの?﹂
﹁すっごく高い温度が必要だけどね﹂
﹁ルディは溶かせる?﹂
﹁もちろんさ﹂
とは言ったものの、試したことはない。 最近は頑張れば大気成分を大雑把に選り分ける事も出来るように
なってきた。
それを利用して、酸素と水素をガンガン投入すれば石ぐらいはい
マグマガッシュ
けるだろ、多分。
ちなみに、溶岩という溶岩を発生させる上級魔術もある。
どう見ても土と火の合成魔術なのだが、火系統の上級に位置して
いる。
一口に系統といった所で、全てのものは関係し合っている。
火力を上げるにはより魔力を込めればいい。
だが、可燃性の気体を利用すれば、より効率よく高い火力を実現
させることが出来る。
そこまではわかっている。
けれど、そこまでだ。
俺の魔術の腕前は、ロキシーと別れた頃と比べても、大差が無い。
既存の魔術を組み合わせたり、使い方を応用したり、
理科の知識を使って単純に威力を上げたり⋮⋮。
245
一見すると、それなりにレベルアップしたようにも見えるだろう。
けど、俺は行き詰まりを感じている。
俺の知識では、これ以上難しい事は出来ないのかもしれない。
生前ではどうしていたっけか。
ああ、困ったらネットで調べていたな。
この世界にそんな便利なものはない。
誰かに習うか⋮⋮。
﹁学校か⋮⋮﹂
魔術学校というものもあるらしい。
ロキシーは魔術学校の格式はどうのと言っていたが、
俺でも入れるのだろうか。
﹁ルディ、学校に行くの?﹂
ふと呟くと、シルフィが覗きこむようにこちらを見ていた。
なんとも不安げな表情だ。
彼女が小首をかしげると、緑の髪がふわりと揺れた。
最近、シルフィはちょっとだけ髪を伸ばし始めた。
一ヶ月に一回ぐらいの割合で﹁髪伸ばしたほうがいいんじゃない
かなあ︵チラッ﹂と言っていた甲斐があった。
現在の長さはショートボブになった程度だが、ちょっと癖のある
エメラルドグリーンの髪はちょっとした動作でふわりと揺れる。
いい感じだ。
ポニーテールまで後少し。
246
﹁行くつもりは無いよ。
父様も学校に行ってもイジメられるだけで、何も学べないって言
ってたし﹂
﹁でもルディ、この頃、また変だよ﹂
え?
マジで?
変という自覚がない。
何かやらかしただろうか。
シルフィの前では最新の注意を払って鈍感を演じているつもりだ
が。
﹁俺は生まれた時から変だったらしいよ﹂
探りを入れるつもりで、そう聞いてみる。
すると、シルフィは眉根を寄せて首を振る。
﹁そうじゃなくて、なんか、元気ない⋮⋮﹂
ああ、そういう意味か。
焦った。
また何かボロを出したかと思った。
心配されてたのね。
﹁最近、行き詰まってるからね。魔術も剣術もちっとも上達しない﹂
﹁でも⋮⋮ルディは凄いよ?﹂
﹁この年齢にしては、そうかもね﹂
確かに、この世界、この年齢にしては、凄いかもしれない。 けれど、まだ俺は何もやってない。
247
魔術だって、生前の記憶と、最初に無詠唱というものに気付いた
おかげで、
ちょっと他人よりうまく使えるだけだ。
でも、生前の記憶のレベルが低いから、行き詰って先に進めない
でいる。
勉強しておけば、と何度悔やんだ所で、今更習い直すことはでき
ない。
それに前の世界での常識が、この世界でも通用するとは限らない。
この世界には、俺の知らない法則がまだまだあるかもしれない。
いつまでも、生前の記憶に頼っていてはダメだろう。
魔術はこの世界の理論。
なら、この世界の事を知らなくては。
﹁そろそろ、何か次のステップに進まないといけない、と思ってさ﹂
シルフィはどんどん魔術が上達し、賢くなっている。
そんな彼女を見ていると、焦りも生まれる。
俺だけ足踏みしているのは情けない。
今は上から目線で鈍感系主人公などと言っているが、
成長がなければ、シルフィに見限られるかもしれない。
﹁どこか行っちゃうの?﹂
﹁そうだな。父様には冒険者になって迷宮にでも入った方がいいっ
て言われたし、
この村でできることも少ないのかもしれないな⋮⋮。
学校に行くか、冒険者か、どっちになろうかな﹂
軽い気持ちで言った。
248
抱きつかれた。
あふん。
なになになんなの?
愛の告白?
と思ったら、シルフィは小刻みにふるえていた。
﹁し、シルフィエットさん?﹂
﹁い、や、いや⋮⋮いや!﹂
シルフィは、苦しいほどの力で俺を抱きしめる。
戸惑う俺。
何も言わない俺に、シルフィは何を感じたのか⋮⋮。
﹁い、いか、行かないで⋮⋮うぇ、う、えぇぇ∼ん﹂
泣かれた。
とりあえず頭をなでなで、背中をさすりさすり。
ついでにお尻をちょこっと⋮⋮いやいやパウロじゃないんだから。
尻は自制。
背中をギュっと抱きしめて、身体の全面でシルフィの感触を味わ
う。
暖かくて柔らかい。
髪に顔を埋めると、いい匂いがする。
ああ、いいなぁ、コレ。
いいなぁ⋮⋮欲しいなぁ⋮⋮。
249
﹁ひっく、やだよぉ、どこにも、いかないでよぉ⋮⋮﹂
っと、我に返る。
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
そうか。
そうだな。
最近、シルフィは午前中からウチに来ることも多くなった。
午前中にきて、嬉しそうな顔で俺の剣術の稽古を見て、
二人で魔術の練習をしたり、勉強をする。
そんな生活を送ってきた。
一日中、一緒にいる相手。
それがある日いなくなったらどうなるか。
シルフィはまた、一人ぼっちになる。
魔術でワルガキを退治出来たとしても、友達が出来るわけじゃな
い。
そう思うと同時に、俺の中で急速に愛おしさが大きくなった。
俺だけが、彼女に好かれている。
これは俺だけのものだ。
﹁わかったわかった。どこにも行かないよ﹂
こんな子をほっぽり出して、どこに行こうというのかね?
魔術の上達?
いいじゃねえか、もう聖級も上級も使えるんだから。
いざとなれば、ロキシーみたいに家庭教師でもすればいい。
250
一人立ちする年齢になるまでは、シルフィと二人でいよう。
そうしよう。
二人で一緒に育って、ちょっとずつ俺好みの女に育ててやろう。
光源氏計画だ。
ぐへへへへ。
⋮⋮⋮⋮ハッ!
いやいや!
落ち着け落ち着け。
鈍感系になるって決めただろうが。
なーにをその気になってるんだ⋮⋮。
いや、でも。
別に、鈍感だからって、幼馴染を育てちゃいけないって理由には、
ならない⋮⋮よね?
待て! 何を言ってるんだ! しかし⋮⋮ぐぬぅ。
俺は一体いつまで、この子の気持ちに気付かないでいればいいん
だ。
この子はまだ六歳。
俺に懐いてくれてはいる。好意も感じる。
けど、本当の意味での恋愛感情ではないはずだ。
お、お預けだ。
でも、一体いつまで預けておけばいい?
251
十歳か、十五歳か⋮⋮もっと先か⋮⋮?
その結果、シルフィに嫌われたらどうする?
今は好感度マックスだが、今後落ちて行かないとは限らない。
その時、俺は耐えられるのか⋮⋮?
俺には⋮⋮⋮⋮無理だ!
人間、できることと出来ない事がある!
だって、こんな柔らかくて
暖かくて
ふわふわして
ほんわりしていい匂いがするんだ。
こんなのが自分の思いを必死にぶつけてくれているのに、
俺は気付かない振りをするつもりなのか!
おかしいだろ。
そんなの。
互いに自覚してるなら、次にいくべきだろう。
俺だけが我慢して立ち止まるんじゃなくて、
一緒に進んでいくべきだろう!
間違った努力をして時間を浪費するつもりか?
間違ってるとわかっているのに、直さないつもりか?
決めたぞ!
俺はシルフィを俺好みの女に育てる!
・・・・・
お、俺は鈍感系をやめるぞ! シルフィ︱︱︱ッ!
252
﹁おいルディ⋮⋮お前に手紙が来てるぞ﹂
パウロが入ってきたので、俺は自分の﹃世界﹄から帰ってきた。
パッとシルフィを離す。
危ない所だった。
あやうく小物臭の漂うラスボスになる所だった。
パウロに感謝しよう。
しかし、本心を我慢するのには、限界もある。
今回は耐えられたが、次は耐えられるか⋮⋮。
−−−
手紙はロキシーからのものだった。
﹃ルーデウスへ
いかがお過ごしでしょうか。
早いもので、あなたと別れてから二年が経ちました。
少し腰を落ち着ける事ができたので手紙を書いています。
わたしは現在、シーローン王国の王都に滞在しています。
冒険者として迷宮に潜っていたらいつの間にか名前が売れてしま
253
ったらしく、王子様の家庭教師として雇われました。
王子様に勉強を教えているとグレイラット家での日々を思い出し
ます。
王子様はルーデウスによく似ています。
ルーデウスほどではありませんが、魔術の才能は抜群だし、頭も
いいです。
また、わたしの着替えを覗いてくる所や、パンツを盗んだりする
所もそっくりです。
ルーデウスと違い、元気一杯で尊大ですが、行動は本当によく似
ています。
英雄は色を好むというのでしょうか。
雇用期間中に押し倒されないか心配です。
こんな貧相な身体のどこがいいんでしょうね⋮⋮。
っと、こんなことを書いてるのが見つかると不敬罪になるでしょ
うか⋮⋮?
その時はその時ですね。悪口のつもりではないので言い逃れられ
るでしょう。
期間限定なのですが、王宮はわたしを宮廷魔術師に任命するつも
りのようです。
わたしはまだまだ魔術の研究を行なって行きたいと考えており、
好都合です。
そうそう、ようやくわたしにも水王級の魔術が使えるようになり
ました。
シーローン王国の書庫に、水王級の魔術に関する書籍があったの
です。
聖級を使えるようになった時にはコレ以上は無理だと思っていた
のですが、頑張れば出来るものですね。
ルーデウスは水帝級ぐらい使えるようになっているでしょうか。
254
それとも、他の系統を聖級まで使えるようになってたりするのでし
ょうか。
熱心なあなたのことだから、治癒魔術や召喚魔術にも手を出して
いるのかもしれませんね。
それとも、剣の道を歩き始めたのでしょうか。
それはそれで残念ですが、ルーデウスならそっちの道でもうまく
やるんでしょう。
わたしは水神級の魔術師を目指します。
前にも言いましたが、魔術のことで行き詰まったのなら、ラノア
魔法大学の門を叩いて下さい。
紹介状が無い場合は入学試験がありますが、ルーデウスなら楽勝
でしょう。
それでは、また。
ロキシーより。
P.S.もしかすると手紙が返ってくる頃に、わたしは王宮にい
ないかもしれないので、返信は結構です﹄
現状に釘を刺すような内容だった。
くそう。
シーローンとやらを地図で見てみる。
中央大陸・南部の東端にある小国だった。
レッドドラゴン
直線距離ではそれほど離れていない。
だが、この中央大陸の山脈には赤竜が住み着いていて通行出来な
い。
なので、山を迂回して南の方から大回りしなければ辿り着けない。
遠い国だ。
255
そして、魔法大学のあるラノアは北部。
北西へと大回りしなければ辿り着けない。
﹁ふむ⋮⋮﹂
ロキシーは王級以上の魔術については一切教えてくれなかったが
⋮⋮。
そうか、知らなかったのか。
手紙は当たり障りの無い内容で返信しておいた。
情けない現状を、ロキシーに知られたくなかった。
彼女の中で俺がどんな凄い人物になっているのかわからないが、
落胆だけはされたくなかった。
それにしても、魔法大学⋮⋮か。
ロキシーは以前にも言っていた。
あそこは素晴らしい、と。
しかし、遠い。
シルフィを置いてはいけない。
どうするか⋮⋮。
とりあえず、俺は手紙の最後に、
﹁P.S.パンツを盗んでごめんなさい﹂
と書き加えておいた。
256
−−−
手紙が来た日の翌日、家族が揃った時に、俺は切り出した。
﹁父様。一つワガママを言ってもいいですか?﹂
﹁ダメだ﹂
一蹴された。
と思ったら、隣に座っていたゼニスがパウロの頭をパシンと叩い
た。
逆隣に座るリーリャも追撃を入れた。
件の妊娠騒動から、リーリャも一緒の食卓に座るようになった。
それまでは、メイドっぽく食事中は給仕に徹していた。
詳しくは分からないが、家族として認められたという事だろう。
この国は一夫多妻でも大丈夫なのだろうか。
まあいいか。
﹁ルディ。なんでも言いなさい。お父さんがなんとかしてくれるわ﹂
頭を抑えるパウロを尻目に、ゼニスが優しそうな声を上げる。
﹁ルーデウス坊ちゃまは今までワガママらしい事を言ってはきませ
んでした。
ここは旦那様の威厳と甲斐性が試される瞬間だと思います﹂
リーリャも援護をくれた。
パウロは椅子に座り直すと、腕を組み、顎をクイっと傾けて、偉
257
そうなポーズを作った。
﹁ルディが前置きを置いてまでワガママを言うんだ、とても俺の手
には負えないような凄い事に違いない﹂
もう一度二連撃を食らい、パウロはテーブルに突っ伏した。
いつもの他愛ない家族の冗談だ。
では、切り出そう。
﹁実は、最近魔術の習得が行き詰っていまして。
そのためにラノアの魔法大学に入学したいのですが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
﹁シルフィにそんな話を匂わせたら、離れたくないと泣かれました﹂
﹁ほう、この色男め、誰に似たんだ? えぇ?﹂
パウロが三度目の二連撃をくらう。
﹁せっかくなので一緒に通いたいのですが、彼女の家は我が家ほど
裕福ではありません。
付きましては二人分の学費を払っていただければ、とお願いしま
す﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
パウロがテーブルに肘を付いて、どこぞの司令のような鋭い眼光
で俺を睨んだ。
この目は、剣を持っている時の目だ。
パウロの中で唯一尊敬出来る瞬間の時の目だ。
﹁ダメだ﹂
258
パウロは先程と同じ言葉を吐いた。
今度は真剣だ。
ゼニスもリーリャも黙っている。
﹁理由は三つある。
一つ目は、剣術が途中だ。今投げ出せば、二度と剣が習えないレ
ベルで中途半端になる。
お前の剣術の師匠として、ここで放り出すわけにはいかない。
二つ目は、金の問題だ。お前だけならなんとかなるが、シルフィ
も一緒となると無理だ。
魔法大学の学費は安くないし、ウチも金が湯水のようにあるわけ
ではない。
三つ目は、年齢の問題だ。お前たちはまだ七歳だ。お前は賢い子
だが、まだ知らない事も多い。経験も圧倒的に足りていない。
親としての責任を放棄して放り出すわけにはいかない﹂
やっぱ無理か。
が、俺は諦めない。
パウロも昔と違い、きちんと頭を使って理由を言ってくれている。
つまり、三つの条件をクリアすればオッケーということだ。
焦らなくてもいい。
俺だって、今すぐに、というわけではないのだ。
﹁わかりました父様。
では、剣術の稽古は今まで通りつけていただくとして、
年齢の方は何歳ぐらいまで我慢すればいいでしょうか﹂
﹁そうだな⋮⋮15、いや、12歳まではウチにいろ﹂
12か。
259
確か、この国の成人は15歳だったか。
﹁なぜ12歳なのかを聞いても?﹂
﹁俺が家を飛び出したのが12だからだ﹂
﹁なるほど、わかりました﹂
12歳というのは、パウロにとって譲れない所なのだろう。
男のプライドを刺激しないためにも、俺は黙って頷いておく。
﹁では最後に﹂
﹁おう﹂
﹁仕事を斡旋してください。
読み書き算術はできるので家庭教師か、魔術師としてのものでも
いいです。
なるべく給金の高いものがいいです﹂
﹁仕事? なぜだ?﹂
パウロは真剣な目のまま、恫喝するように聞いてくる。
﹁シルフィの分の学費を僕が稼ぎます﹂
﹁⋮⋮⋮それはシルフィのためにはならないぞ﹂
﹁はい。でも、僕の為にはなるかと﹂
⋮⋮⋮。
沈黙が流れた。
俺にとっては心地よくない空気が流れる。
﹁そうか⋮⋮なるほどな⋮⋮﹂
パウロは何かを納得したように、うんと頷いた。
260
﹁わかった。そういう事なら心当たりを当ってみよう﹂
ゼニスとリーリャの不安そうな顔とは裏腹に、パウロは信頼出来
る時の顔で、そう言った。
﹁ありがとうございます﹂
俺が礼を言って頭を下げると、夕食が再開された。
−−− パウロ視点 −−−
まさか、ルーデウスがあんなことを言い出すとは思っていなかっ
た。
ウチの息子の成長が早い。
とはいえ、普通はああいう事を言い出すのは早くても14、5を
超えてからだ。
自分だって11歳で、剣神流で上級になった頃からだ。
言い出さないヤツは一生言い出さない。
﹁あまり生き急ぐと、早死にしちまうぜ⋮⋮か⋮⋮﹂
昔、オレにそんな事を言った戦士がいた。
当時、オレはそんな言葉を聞いて鼻で笑ったものだ。
周囲の奴らの生き方はゆっくりすぎる。
人族が力のある時期は短いというのに、誰も走ろうとしていない。
出来る時に出来る事を全部やる。
261
やったことを咎められたら、その時は後は野となれ山となれ、だ。
まぁ、出来る事をしたら結果としてデキてしまったので、
生活を安定させるため、冒険者を引退し、貴族時代の親戚のツテ
を頼って騎士になったのだが。
それは置いておこう。
ルーデウスの生き方は、オレのよりもずっと早い。
見てて心配になるほどだ。
きっと、若い頃のオレを見てきた奴らも、そう思ったんだろう。
だが、無鉄砲で行き当たりばったりだったオレと違って、
ルーデウスはきちんと計画的に物事を考えている。
このあたりはゼニスの血か。
﹁けど、ま、もう少し父親に縛られてもらうか﹂
そう思い、手紙を書く。
先日、ロールズにも相談されたのだが、シルフィはルーデウスに
べったりだ。
シルフィから見れば、ルーデウスは地獄のような幼少時代を助け
てくれた白馬の王子様だ。
なんでも教えてくれるから兄のように慕っているし、最近では男
女としても意識するようになった。
ロールズは、将来ルーデウスがもらってくれるのであれば、それ
に越したことは無い、などと言っていた。
その時はあんな可愛い子が娘になるならそれもいいかと思ったが、
今日のルーデウスの話を聞いて考えを改めた。
今の状況は洗脳に近い。
このまま成長すれば、シルフィはルーデウスなしでは何も出来な
262
い大人になってしまう。
そういう奴は、貴族時代に何人も見てきた。
親に依存しすぎた木偶人形のような奴らだ。
それでも、依存対象がいる時はいい。
木偶でも操れば、面白い人形劇が出来る。
ルーデウスがシルフィを愛する限り、シルフィも大丈夫だ。
が、ルーデウスはオレの血を色濃く受け継いでいる。
女好きの血だ。
フラッと別の女になびいてしまう可能性もあるだろう。
いや、オレの血を引いているのだ、間違いなくフラフラするだろ
う。
結果として、シルフィを選ばないかもしれない。
その時、残されたシルフィは立ち直れない。
糸の切れた木偶人形は、決して立ち上がれない。
ウチの息子のせいで、あんな可愛い子の人生が潰される。
許せることではない。
息子のためにもよくない。
手紙が書けた。
色よい返事が返ってくることを祈ろう。
しかし、さて。
あの口のうまい息子をどうやって説き伏せたものか⋮⋮。
263
いっそ、力ずくでいくか。
264
第十一話﹁離別﹂
バイトをしたいとパウロに言って一ヶ月が経過した。
本日、パウロの元に手紙が届いた。
そろそろ返事が来たのだろうと、心の準備をして待っていた。
剣術の稽古の後か、昼飯、いや夕飯時かもしれない。
そう思って、いつも通り剣術の稽古を真面目に受けていた。
−−−
話は剣術の稽古の最中だった。
﹁なあ、ルディよ﹂
﹁はい、なんでしょう父様﹂
できる限り、キリッとした顔を心がけ、パウロの言葉に耳を傾け
る。
なにせ、初めての仕事だ。
生前も含めて初めての仕事だ。
頑張るぞ。
﹁お前⋮⋮さ。シルフィと別れろって言われたら、どう思う?﹂
と、パウロは変なことを聞いてきた。
265
﹁は? 嫌に決まってるじゃないですか﹂
﹁だよなあ﹂
﹁なんなんですか?﹂
﹁いや、なんでもない。話をしたって、どうせ言いくるめられるだ
けだしな﹂
その言葉を言った瞬間だ。
パウロが豹変した。
素人の俺でもわかるほどに殺気をむき出しにした。
﹁えっ!?﹂
﹁⋮⋮⋮!﹂
無言の圧力と共に、パウロが踏み込んだ。
死。
そんな単語が脳裏によぎった。
俺は反射的に魔力を全開にしてパウロを迎え撃つ。
風と火の魔術を同時に使い、パウロとの間に爆風を発生させる。
自ら後ろに飛び、熱に押し出されるように大きく後ろへ移動する。
何度もシミュレートした。
パウロ相手には、一度距離を取らなければ勝ち目はない。
爆風は自分にもダメージがあるが、怯ませる事が出来れば距離が
稼げる。
パウロは爆風など無いかのように前傾姿勢でなおも突っ込んでき
た。
266
︵やはり効果がない!︶
想定していた事とはいえ、焦る。
次の回避行動を!
後ろじゃダメだ。
踏み込みのほうが速い。
反射的にそう考え、自分の真横に、叩きつけるような衝撃波を発
生させた。
ぶん殴られるような衝撃と共に、俺の身体が横方向に吹っ飛ぶ。
背筋の凍るような風切り音が耳を掠めた。
ちょうど俺の首があったであろう場所に、パウロの剣が振られる
のが目に入る。
よし。
一撃目を避けた。これは大きい。
まだ近いが、距離も取ることができた。
俺の勝ちが見えた。
︵小︶を踏み抜いた。
俺は今まさにこちらに向かって踏み込もうとしたヤツの足元を陥
没させる。
パウロが落とし穴
と思った瞬間、一瞬で体重を逆足に乗せ替え、ほぼタイムラグ無
しで踏み込んだ。
︵両足を止めないとだめなのかよ⋮⋮!?︶
俺は足元に泥沼を作り出す。
沈み込む前に足裏から水流を出し、滑るように後退する。
267
︵しまった、遅い⋮⋮!︶
思った時にはもう遅い。
パウロは沼の端で、地面を踏み固めるような一歩。
踏み込みで地面が凹んだ。
たった一歩で俺に肉薄した。
﹁う、うああああ!﹂
慌てて剣で迎撃する。
型も何もない、無様な一撃だった。
力任せに振るった俺の手に、ぬるりと嫌な感覚が伝わった。
︵水神流の技で受け流された⋮⋮︶
それだけは分かった。
水神流の技で流されたという事はカウンターがくる。
知っていたが、対処は出来ない。
スローモーションのように、パウロの剣が俺の首筋に吸い込まれ
る。
︵ああ、木剣でよかった⋮⋮︶
首筋に衝撃を覚え、意識が暗い闇へと落ちていった。
−−−
268
目が覚めると、小さな箱の中にいた。
ガタガタと大きく揺れる感覚から、ここが乗り物の中であること
を感じ取る。
身体を起こそうと思ったら、指先ひとつ動かなかった。
見下ろしてみると、縄でぐるぐる巻きにされている。
簀巻きだ。
︵どうなってんだ⋮⋮?︶
首を巡らせてみると、ねーちゃんが一人座っていた。
チョコレート色の肌、
露出度の高いレザーの服、
ムキムキの筋肉、
全身に傷、
眼帯をつけていて姉御って感じのするキリッとした顔立ち。
まさにファンタジーの女戦士という感じのねーちゃんだ。
あと、獣っぽい耳と、虎っぽい尻尾があって、ちょっと毛深い。
獣族ってやつだろうか。
俺が見ている事に気づいたのか、目が合った。
﹁初めましてルーデウス・グレイラットと申します。
こんな格好で失礼します﹂
先に名乗ることにする。
会話の基本は先に喋ること。
先手を取れば主導権を握れる。
﹁パウロの息子にしては礼儀正しいのだな﹂
269
﹁母様の息子でもありますから﹂
﹁そうか。ゼニスの息子だったな﹂
両親の知り合いらしい。
ちょっとだけホッとする。
﹁ギレーヌだ。明日からよろしく頼む﹂
明日から?
何言ってるんだろうか。
﹁それは、どうも、よろしくお願いします﹂
﹁ああ﹂
俺はとりあえず、火の魔術を使って縄を焼き切った。
身体が痛い。変なところで寝ていたせいか。
ぐっと伸びをする。
開放感。
狭い部屋で指先だけを動かすのには慣れているが、ドSっぽいお
ねーさんの前で縛られていると変な気分になるからな。
周囲を見ると、現在の場所は、まさに小さな箱だ。
前後には腰掛ける場所が付いており、俺はギレーヌと向い合せに
座っている。
左右には窓がついており、外の様子が見えた。
外の光景は、見知らぬものである。
予想通り、乗り物だ。
揺れは大きく、長く乗っていると乗り物酔いになりそうだ。
進行方向からパカパカと音がする。馬だろうか。
だとすれば、馬車だ。
270
俺は、なぜか馬車にマッチョなねーちゃんと一緒に乗せられてい
る。
⋮⋮⋮ハッ!
も、もしかして、俺はこの筋肉ウーメンに攫われたのか!?
可愛すぎる俺を慰み者にしようってのか!?
やめろ、お、俺は確かに筋肉質な女も嫌いじゃないが、
俺にはシルフィという心に決めた女性がいるんだ。
だからせめてやさしくしてね⋮⋮?
いやいやいや!
おお、お、落ち着け。
こういう時は落ち着くのだ。
素数を数えて落ち着くのだ⋮⋮。
素数は1と自分の数でしか割る事の出来ない孤独な数字⋮⋮わた
しに勇気を与えてくれるって神父さんが言ってた。
3、5、えっと、11? うんと、13? えっと、えっと⋮⋮。
わからん!
素数なんてどうでもいいから落ち着こう。
冷静に、考えてみるのだ。
なんでこんな状況になっているか。
はい、深呼吸。
﹁すぅ⋮⋮⋮はぁ⋮⋮⋮﹂
よし。
わかる範囲で、状況を整理していこう。
271
まず、パウロがいきなり襲いかかってきて、気絶させられた。
そして起きたら縛られていて、馬車の中にいた。
恐らく、何らかの理由で気絶させて、馬車の中に放り込んだのだ
ろう。
馬車の中には、明日からよろしくとかいうマッチョウーメンが乗
っていた。
パウロと言えば、そういえば襲い掛かってくる前に妙なことを言
っていた。
シルフィと別れろとか、
シルフィはお前にはもったいないとか、
シルフィは俺の女だとか。
あ、あのロリコン野郎⋮⋮俺のシルフィにまで手を出すつもりか
!?
いや、後半は言ってなかったか?
うーん。
シルフィの事を考えていたらよくわからなくなった。
くそっ、パウロのせいだ⋮⋮!
まあ、聞いてみればいいか。
﹁あの﹂
﹁ギレーヌでいい﹂
﹁あ、じゃあ、僕のことはルディちゃんでいいですよ﹂
﹁わかった。ルディちゃん﹂
冗談が通じないタイプであるようだ。
﹁ギレーヌさん。父様から何か聞いていませんか?﹂
272
﹁ギレーヌでいい。さんはいらん﹂
ギレーヌはそう言いながら、懐から一通の紙を取り出す。
そのまま俺に差し出す。
紙の表面には、何も書いていない。
﹁パウロからの手紙だ。読め。あたしは字が読めんから、口に出し
てな﹂
﹁はい﹂
俺は適当にたたまれた紙を開き、読み始める。
﹃我が愛する息子、ルーデウスへ
この手紙を読んでいるという事は、俺はもうこの世にはいないだ
ろう﹄
﹁なんだと!﹂
ギレーヌが驚愕の声を上げて立ち上がる。
この馬車、意外と天井高いな⋮⋮。
﹁座ってくださいギレーヌ。まだ続きがあります﹂
﹁む、そうか﹂
そう言うと、ギレーヌはおとなしく座る。
続きを読む。
﹃というのは、一度書いてみたかっただけで冗談だ。
お前は、オレにボコボコにされて無様に這いつくばった挙句、縄
でぐるぐる巻きにされて、囚われのお姫様のような情けない姿で馬
273
車に放り込まれた。
何が起こっているのかわからないと思う。
全てはそこの筋肉ダルマに聞け⋮⋮と言いたいが、そいつは脳み
そまで筋肉でできているので、ロクな説明ができないだろう﹄
﹁なんだと!﹂
ギレーヌが怒声を上げて立ち上がる。
﹁座ってくださいギレーヌ。次の文で褒めてます﹂
﹁む、そうか﹂
そう言うと、ギレーヌはおとなしく座る。
続きを読む。
﹃そいつは剣王だ。
剣を習うなら、そいつ以上の適任は剣士の聖地にでも行かなけれ
ば見つからないだろう。
腕前は父さんが保障する。父さんは一度も勝った事が無い。
ベッドの上以外ではな﹄
いちいち余計なことを書くな、バカ親父。
けどギレーヌは満更でもない顔をしている。
ホントモテるのな、アイツ。
てか強いのな、ギレーヌさん。
﹃さて、お前の仕事だが、フィットア領で一番大きなロアという都
市に住むお嬢様の家庭教師だ。
算術、読み書き、あと簡単な魔術を教えてやってほしい。
すっげーワガママなお嬢様で、学校から来ないでくれと頼まれた
274
ぐらい乱暴だ。今まで何人もの家庭教師を返り討ちにしている。
が、お前ならなんとか出来ると信じている﹄
なんとかって、丸投げかよ⋮⋮。
﹁ぎ、ギレーヌってワガママなんですか?﹂
﹁あたしはお嬢様じゃない﹂
﹁ですよねー﹂
続きを読む。
﹃そこにいる筋肉ダルマは、お嬢様の家に雇われている用心棒兼剣
術の師範だ。
お前に剣を教える代わりに、自分も算術や読み書きを習いたいと
か言い出したらしい。
脳みそも筋肉のくせに何を言ってるんだと、笑わないでやってく
れ。
こいつもきっと真剣なんだ︵笑︶﹄
﹁なんだとぉ⋮⋮﹂
ギレーヌの額に青筋が浮かんだ。
この手紙は、俺に状況を説明すると同時に、ギレーヌを煽るため
のものでもあるらしい。
どういう関係なんだ、二人は。
﹃物覚えは決してよくないだろうが、講師代が浮いたと思えば、悪
い話じゃないだろう﹄
講師代。
275
そうか、俺はこの人に剣を習うのか。
パウロは感覚派だからな。よりよい講師を用意したのか。
いや、俺の上達しなさに落胆したのか。
最後まで面倒みろよな⋮⋮。
﹁ギレーヌに剣術を習うと、普通はどれぐらいお金取られるんです
か?﹂
﹁月にアスラ金貨2枚だ﹂
金貨2枚!
ロキシーが俺の家庭教師を受け持つのに、月にアスラ銀貨5枚だ
ったはずだ。
ざっと4倍か。
なるほど、確かに悪い話じゃないかもしれない。
ちなみに、一人頭のひと月の生活費はアスラ銀貨2枚程度である。
﹃お前には、これから五年間、お嬢様の家に下宿して勉強を教える
事になる。
五年間だ。
その間、帰宅を禁じる。
手紙などのやり取りも禁じる。
お前が村にいると、シルフィが自立できないからだ。
またシルフィだけでなく、お前も彼女に依存し始めているように
感じたので、無理やり引き離させてもらった﹄
﹁なん⋮⋮だと⋮⋮?﹂
え、なに?
ちょ、ちょっとまって。
⋮⋮え?
276
ナニソレ。
五年間、シルフィと会えないって事?
手紙も無しなの?
﹁なんだ、ルディちゃんは恋人と別れてきたのか?﹂
絶望的な顔をしていると、ギレーヌが愉快そうに聞いてきた。
﹁いいえ、大人気ない父親に叩きのめされてきたんですよ﹂
別れを告げる暇もなかったのだ。
やってくれたな、パウロォ⋮⋮。
﹁そう落ち込むな、ルディちゃん﹂
﹁あの﹂
﹁なんだ?﹂
﹁やっぱり、ルーデウスって呼んでください﹂
﹁ああ、わかった﹂
けれど、冷静に考えれば。
パウロの言う事ももっともだ。
確かに、今のままシルフィが成長してしまったら、ヘタなエロゲ
に出てくる幼馴染キャラみたいになってしまったかもしれない。
いつまでも主人公にべったりで、主人公を世界の中心として回っ
ている衛星みたいな、自己の無いキャラ。
リアルな世界だと、学校で友達と付き合うなり、習い事をするな
りしているうちに依存性は無くなっていくんだろうが、シルフィは
髪のせいで友達ができない。
五年経っても、まだ俺にベッタリという可能性は大いにありえた。
俺としてはそれでも構わないのだが、周囲の大人はそうは思わな
277
かったらしい。
そりゃそうか。
いい判断だよ。
﹃報酬の件だが、
お前には毎月アスラ銀貨2枚が支払われる。
家庭教師の相場よりは安いが、子供の小遣いとしては多い。
暇を見つけて、町中で金の使い方を覚えるように。
金ってのは、普段から使っていかないと、いざという時にうまく
使えないからな。
もっとも、優秀な我が息子なら覚えなくともうまく使いそうだが。
あ、間違っても女なんか買うなよ?﹄
だから余計な一言を書くなと。
それとも、これはあれか?
ダ○ョウ倶楽部的なあれか?
絶対買うなよ、ってやつか?
﹃そして、五年間、投げ出すことなく見事にお嬢様に読み書き・算
術・魔術を教えきった暁には、特別報酬として、魔法大学の学費二
人分に相当する金額が支払われる契約になっている﹄
ふむ。
なるほど。
五年間、真面目に家庭教師をやれば、約束通り好きにしていいっ
てことか。
﹃まあ、五年後にシルフィがお前についていくとは限らんし、お前
の熱も冷めて心変わりしているかもしれんがな。シルフィの方は、
こっちでうまく言っておく﹄
278
うまくって⋮⋮嫌な予感しかしないよ、パパン。
﹃五年間、まったく新しい場所で色々な事を学び、さらなる飛躍を
遂げることを祈っている。
知性溢れる偉大すぎる父親パウロより﹄
なにが知性だ⋮⋮!
力ずくだったじゃねえか!
が、今回の判断には脱帽せざるをえない。
俺のためにも、シルフィのためにも。
シルフィは一人ぼっちになるかもしれないが⋮⋮。
自分の問題は自分の力で解決しなければ、いつまで経っても成長
できない。
俺に甘えていてはダメなのだ。
﹁パウロはお前のことを愛しているな﹂
ギレーヌの言葉に、俺は苦笑した。
﹁昔はもっと余所余所しかったんですけどね。
自分に似てる部分があるとわかったら、ぐいぐいくるようになり
ましたね。
でも、ギレーヌさんだって⋮⋮﹂
﹁ん? あたしがどうかしたのか?﹂
俺は最後の一文を読む。
﹃P.S.お嬢様には合意の上なら手を出してもいいが、筋肉ダル
279
マは俺の女だから手を出すな﹄
﹁ですって﹂
﹁ふむ。その手紙はゼニスに送っておけ﹂
﹁了解﹂
こうして、俺はフィットア領最大の都市、城塞都市ロアへと赴く
こととなった。
思う所はたくさんあったが、今はこれでよし。
ちょっとだけ目が覚めた。
うん。これでよかったんだ。
シルフィと一緒にいてはいけない。
決して未練はないぞ。
うん。
そう、自分に言い聞かせて。
︵でも1年に1回ぐらいは会いたいなぁ⋮⋮︶
パウロ視点
−−−
ちょっと心が揺れながら。
−−−
﹁あ、あっぶねぇ⋮⋮﹂
280
気絶した我が子と、泥で汚れた靴を見下ろす。
今日で剣術を教えるのは最後だし、ちょっと本気出して怖がらせ
て父親の威厳ってヤツを見せつけてから気絶させようと思ったら、
すっげぇ反応速度で魔術を使いやがった。
それも攻撃としてではなく、足を止めるための魔術を中心に、だ。
しかも、全部違う魔術だった。
﹁さすが俺の息子だな。戦いのセンスがある﹂
時間にしてみれば一瞬だったが、完全な奇襲であったにも関わら
ず、三歩も使った。
特に最後の一歩は、少しでも躊躇すれば、足を取られて、一気に
やられただろう。
魔術師相手に三歩だ。
他に仲間がいれば、二歩目ぐらいで援護が入っただろう。
あるいはもうちょっと距離があれば、四歩目が必要になっていた。
内容的には完璧に負けていた。
今のままどこかのパーティに放り込んで迷宮の探索をさせても、
コイツは魔術師としてこの上ないぐらい役に立つだろう。
﹁さすが水聖級魔術師の自信を喪失させた天才か⋮⋮﹂
我が子ながら末恐ろしい。
だが、嬉しい。
今までは、自分より才能があるヤツには嫉妬しかしなかったが、
不思議と自分の息子だと、嬉しい気持ちしか湧いてこない。
﹁っと、こんな事言ってる場合じゃないな。
早くしないとロールズ達が来てしまう﹂
281
手早く気絶している息子を縄で縛り、縛り終えた頃にきた馬車へ
と放り込む。
タイミングよく、ロールズも来ていた。
シルフィも一緒である。
﹁ルディ!?﹂
シルフィは縛られたルーデウスを見て、助けようとでもしたのか、
いきなり中級の攻撃魔術を無詠唱でぶっぱなしてきた。
難なく受け流したが、無詠唱な上に、威力も速度も申し分ない魔
術だった。
オレじゃなければ死ぬ所だ。
ルーデウスめ、なんてもんを教えてやがるんだ。
ギレーヌに手紙を渡し、ルーデウスを馬車に放り込み、御者に出
るように伝える。
チラリと見れば、ロールズがしゃがみこんで、シルフィに何かを
教えている。
そうそう。
教育は親の役目だ。
ルーデウスにまかせていた分は、自分で取り戻さないとな。ロー
ルズ。
ほっと息を吐いて、温かい目で見守っていてやると、しばらくし
て風に乗ってシルフィの声が聞こえてきた。
﹁わかった。ルディを助けられるぐらい強くなる⋮⋮!﹂
んー、愛されてるね。我が息子は。 282
それを見ていると、家の中から二人の妻が出てきた。
危ないので見ているなら家の中から、と言ってあったのだが、見
送りに来たのだろう。
﹁あぁ、私の可愛いルディが行ってしまう﹂
﹁奥様。これも試練でございます!﹂
﹁わかっているわ、リーリャ。ああ、ああぁルーデウス! 旅立つ
息子! そして一人息子を奪われて可哀想なわたし!﹂
﹁奥様。もう一人息子じゃありません﹂
﹁そうだったわね。妹が二人生まれたわね﹂
﹁二人⋮⋮! お、奥様!﹂
﹁いいのよリーリャ。私はあなたの子供でも愛して見せるわ!
だって、私は、あなたを、愛しているのだもの!﹂
﹁ああ! 奥様わたくしもです!﹂
やたらと芝居がかった口調で馬車を見送る。
ルーデウスは優秀だからか、この二人もそんなには心配していな
い。
それにしてもこの二人、仲がいいなー。
オレとも仲良くしてくれると嬉しいんだけどなー。
てか、仲良くオレをイジメるのをやめてくれると嬉しいんだけど
なー。
﹁しかし、下の子たちが物心ついた時には、ルーデウスはいないの
か⋮⋮﹂
ルーデウスも、カッコイイお兄ちゃん計画とやらを目論んでいた
ようだが、残念なことだ。
可愛い娘の愛情は、父親が独占することとなるのだ。
ぐへへへ。
283
や、でも待てよ。
これからルーデウスはあの剣王ギレーヌから英才教育を受ける。
5年後というと、12歳。
身体はもう立派だ。
帰ってきた時に魔術ありの模擬戦とかやったら、俺ってルーデウ
スに勝てないんじゃないか?
ヤバイ、五年後の父親の威厳がヤバイ。
﹁母さん、リーリャ。
ルディもいなくなったことだし、俺も少し鍛える事にするよ﹂
ゼニスのシラッとした顔。
リーリャがひそひそとゼニスに耳打ちする。
﹁ルーデウス様に負けそうになって、いまさら危機感を憶えたんで
すよ﹂
﹁昔からそうなのよ。負けそうにならないと努力しないの﹂
時すでに父親の威厳がヤバかった。
︵まぁ、威厳なんてなくてもいいんだけどな︶
無駄に威厳ばっかりあった父親に心当たりがあるだけに、心から
そう思う。
だからオレは、もう少し女にだらしないダメオヤジのフリをする
のだ。
威厳なんてない、親しみのある父親を目指すのだ。
せめて、三人の子供が大人になるまでは⋮⋮。
284
チラリとゼニスを見る。
子供を二人も生んだとは思えない、いい身体だ⋮⋮。
︵まぁ、四人目、五人目が出来たら延長するけどな。うひひ︶
ま、四人目の話はさておき。
︵ルーデウス⋮⋮︶
こんなやり方は、オレだって好きじゃない。
けど、お前は言っても聞かないだろうし、オレも言って聞かせら
れる自信はない。
かといって、何もせずに見ているのも親として失格だ。
力不足で他力本願だが、こういう事をさせてもらった。
強引かもしれないが、賢いお前ならわかってくれるだろう⋮⋮。
いや、わかってくれなくてもいい。
お前の行く先で起こる出来事は、きっとこの村では味わえないも
のだ。
わからずとも、目の前の物事に対処していけば、きっとお前の力
になる。
だから恨め。
オレを恨み、オレに逆らえなかった自分の無力さを呪え。
オレだって父親に押さえつけられて育ってきたんだ。
それを跳ねのけられなくて、飛び出した。
その事には後悔もある、反省もある。
お前に同じ思いはさせたくない。
285
けどな、
オレは飛び出したことで力を手に入れたぞ。 父親に勝てる力かどうかはわからないが、
欲しい女を手に入れて、守りたいものを守って、
幼い息子を押さえつけられるぐらいの力はな。
反発したけりゃするといい。
そして力を付けて戻ってこい。
せめて父親の横暴に負けない程度の力をな。
ルーデウスの乗った馬車を見ながら、パウロはそんな事を考えて
いた。
286
終
−
第十一話﹁離別﹂︵後書き︶
第1章 幼年期 −
287
12/10
改変︶
第十二話﹁お嬢様の暴力﹂︵前書き︶
︵12
288
第十二話﹁お嬢様の暴力﹂
ロアに到着した。
時刻は夕方だった。
ロアの町は、このあたりで一番大きい都市というだけあって、活
気があった。
まず目に飛び込んでくるのはその城壁だ。
7∼8メートルはあろうかという頼もしい城壁。
それが町を囲んでいる。
大きな門を馬車が行き交っている。
門から中に入ると露天商が立ち並び、
その奥には馬屋や宿っぽい店が並んでいる。
待合所みたいな所があり、荷物をもった人が座っている。
あれはなんだろう。
﹁ギレーヌ、あれがなんだかわかりますか?﹂
﹁おまえ、あたしを馬鹿にしているのか?﹂
強面で睨まれると、ビクッとなってしまう。
﹁いえ、ただ、あれが何なのか、わからないから教えてもらおうと
思って⋮⋮﹂
﹁ああ、すまん。そういう意味か。
あれは乗合馬車の待合所だ。
普通は町から町に移動するのにはああいうのを使ったり、
289
行商人にいくらか金を掴ませて乗せてもらう﹂
俺が泣きそうな顔をすると、
ギレーヌが慌てて教えてくれた。
ギレーヌはそれからも、店を一つ一つ指さしては、
あれは武器屋だ、
あれは酒場だ、
あれはなんちゃらギルドの支部だ、と教えてくれた。
ある一角を抜けると雰囲気が変わった。
武器屋や防具屋といった、いわゆる冒険者向けの店が立ち並び、
さらにその奥にいくと、今度は町人向けの店が並んでいるようだ。
路地の奥には民家があるのだろうか。
よく考えられている。
外から敵がきた場合、まずは門周辺の人間が相手をして、
その間に町人は町の奥とか反対側に逃げられる。
こういう構造なら当然ながら、さらに奥に進むと、家の大きさが
どんどん大きくなり、店も高級志向のものが多くなってくる。
この町では中央に住むほど金持ちなのだ。
そして、その中心にあるのは、最もでかい建物。
﹁あれが領主の館だ﹂
﹁館っていうより城ですね﹂
﹁ここは城塞都市だからな﹂
290
ロアは400年前の魔族との戦争において、最終防衛ラインとし
て機能していた由緒正しき町。
だから、中央にあるのは城。
だそうだ。
まあ、正しいのは由緒だけで、
王都に住む貴族にとっては野卑な冒険者の多い僻地。
だそうだ。
﹁でも、ここまできたとなると、
僕の教える事になるお嬢様は、かなり身分が高いんですね﹂
﹁そうでもない﹂
領主の館はもう目の前だ。
このへんはもう、身分の高い人しか住んでないんじゃなかろうか。
⋮⋮逆か。
こんな辺境には、それほど身分の高い人はいないって意味か。
と、思ったら、領主の館の入り口で御者が門番に軽く会釈。
そのまま館へと入っていった。
﹁領主の娘だったんですね﹂
﹁違うな﹂
﹁違うんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮ちょっとだけな﹂
なにか含みがあるな。
なんだろう⋮⋮。
馬車が止まった。
291
−−−
館に入ると、執事の人に応接間のような場所に通された。
二つ並んだソファを示される。
初めての面接か⋮⋮。
﹁そちらにお座りください﹂
俺は言うとおりに座り、
ギレーヌは部屋の隅に立った。
部屋全体を見渡せる場所で、ってやつかな。
生前の世界なら、中二病乙、とでも思っただろう。
﹁もうじき若旦那様がお戻りになられるので、しばしお待ちくださ
い﹂
執事っぽい人は、高級そうなカップに紅茶っぽいものを注ぐと、
入り口脇に控えた。
湯気を立てるそれを飲む。
なるほど、紅茶だ。
紅茶の良し悪しはわからない。
が、まずくはない。きっと高いやつだ。
ギレーヌの分が最初から用意されていない所をみると、お客様扱
いなのは俺だけか。
などと思っていると、なにやら乱暴な足音が聞こえた。
292
﹁ここか!﹂
乱暴に扉が開いて、筋骨隆々とした一人の男が入ってくる。
年齢は50歳ぐらいだろうか。ダークブラウンの髪に白いものが
混じりだしているものの、まだまだ働き盛りという感じだ。
俺はカップを置き、立ち上がると、腰を深く曲げて頭を下げた。
﹁初めまして。ルーデウス・グレイラットです﹂
男性はフンと鼻息を一発。
﹁ふん、挨拶の仕方もしらんのか!﹂
﹁大旦那様、ルーデウス殿はブエナ村より出たことがありませぬ。
まだ幼く、礼儀を習う時間は無かったでしょう。多少の無礼は⋮
⋮﹂
﹁貴様は黙っておれ!﹂
執事の人は一喝されて黙った。
何か俺に不足があったらしい。
出来る限り丁寧に挨拶したつもりだったが、なんか貴族の作法と
かあるんだろう。
﹁ふん、パウロは自分の息子に作法も教えんのか!﹂
﹁父様は堅苦しいことが嫌で家を出たと聞きますので、あえて教え
なかったのかと﹂
﹁さっそく言い訳か! パウロそっくりだな!﹂
﹁父様はそんなに言い訳ばかりしていたのですか?﹂
﹁おう! 口を開けば言い訳だ! おねしょをしたら言い訳! 喧
293
嘩をしたら言い訳! 習い事をサボったら言い訳! 貴様とて、習
おうと思えば礼儀ぐらい習えただろう! 努力をしなかったからこ
んなことになるのだ﹂
なるほど。確かに。
魔術と剣術だけで、新しいことを覚えようとはしてこなかった。
視野が狭くなっていたのかもしれない。
素直に反省すべきだな。
﹁そうですね。僕の不徳のいたすところです。申し訳ありません﹂
頭を下げると、大旦那様︵?︶はダンと足で床を踏み鳴らした。
﹁だが、習っていないと開き直らず、自分に出来る限りの礼儀を尽
くそうという姿勢は良い! この館への滞在を許す!﹂
よくわからんが許された。
大旦那様︵?︶は、それだけ言うと、
バッと振り返り、そのまま肩で風を切って退室した。
﹁今の方は?﹂
と、執事さんに聞いてみる。
﹁フィットア領主のサウロス・ボレアス・グレイラット様にござい
ます。
パウロ様の叔父にあたります﹂
あの人が領主か。
まあ、冒険者が多いって話だし、
294
あれぐらい強気じゃないと領主が務まらないのかも⋮⋮。
ん?
グレイラットで、叔父⋮⋮?
するってえと、なにかい。
﹁僕の大叔父に当たるわけですか?﹂
﹁はい﹂
読めてきた。
パウロは勘当された自分の家のツテを使ったのだ。
それにしても、まさか実家がこんな身分の高い家だったとは⋮⋮。
あいつ、実はいい所のお坊ちゃんだったんだろうか。
と、そこで扉から一人の人物が登場する。
﹁どうしたトーマス。扉が開けっ放しじゃないか。
あと、父さんがやたら上機嫌だったけど、何かあったのかい?﹂
サラリとした茶髪の、なんとも線の細い軽そうな男だ。
父さんという言葉から察するに、この人がパウロの従兄弟だろう
か。
﹁これは若旦那様。申し訳ございません。先ほど大旦那様がルーデ
ウス様に会われまして。気に入られたようです﹂
﹁ふぅん。父さんが気に入るような子なのか⋮⋮これはちょっと人
選を誤ったかな?﹂
彼はそう言うと、俺のいる場所の丁度対面のソファに座る。
ああ、そうだ、挨拶をしないと。
295
﹁初めまして、ルーデウス・グレイラットです﹂
先ほどと同じように、腰を曲げて、頭を下げる。
﹁ああ、私はフィリップ・ボレアス・グレイラットだ。
貴族の挨拶は、右手を胸に当て、少しだけ頭を下げるんだ。
その挨拶だと怒られただろう?﹂
﹁こうですか?﹂
フィリップの真似をして、頭を上げてみる。
﹁そうそう。けれど、さっきの挨拶も丁寧で悪くはないね。職人が
ああいう挨拶したら父さんが気に入りそうだ。座ってくれ﹂
フィリップはソファにどっかりと腰を下ろす。
言われるまま、俺も座る。
⋮⋮面接開始か。
﹁話はどこまで聞いている?﹂
﹁五年間、ここでお嬢様に勉強を教えれば、魔法大学への入学資金
を援助してもらえると﹂
﹁それだけ?﹂
﹁はい﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
フィリップは顎に手を当て、何かを考えこむようにテーブルに視
線を落とした。
﹁君、女の子は好きかい?﹂
296
﹁父様ほどではありませんが﹂
﹁そうかい、じゃあ合格だ﹂
あ、あれぇ∼?
はやくね?
﹁今のところ、あの子が気に入った教師は礼儀作法のエドナと、剣
術のギレーヌだけだ。今までに5人以上解雇している。そのうちの
一人は王都で教鞭を取っていた男だ﹂
王都で教鞭を取ったからって、
教え方がうまいとは限らないと思います!
﹁ハッキリ言って、君にはあまり期待していない。
パウロの息子だから、とりあえず試してみようってだけだ﹂
﹁そりゃ、随分とハッキリ言いますね﹂
﹁なんだい、自信でもあるのかい?﹂
無い。
が、無いとはいえないこの空気。
﹁実際に会ってみないとわかりませんが⋮⋮﹂
それに、この仕事を失敗して別の仕事に逃げたとなると、
パウロのあざ笑う声が聞こえてきそうだ。
やっぱりお前はまだまだ子供なんだよ、と。
あんなやつ
冗談じゃない。
年下にナメられてたまるか。
ふむ⋮⋮。
297
﹁ダメそうなら⋮⋮一芝居打ったほうがいいかもしれませんね﹂
ここは、生前の知識を使わせてもらおう。
生意気なお嬢様を素直にさせるパターンだ。
﹁一芝居? どういう事だい?﹂
﹁僕がお嬢様と一緒にいるところを当家の息の掛かった者に誘拐さ
せます。僕は読み書き、算術、魔術を駆使してお嬢様と共に脱出し、
自力で館まで帰ります﹂
簡潔に説明する。
﹁なるほど、自分から学んでみたい、と思わせるわけか。面白いね。
しかし、そううまくいくかな?﹂
﹁大人から頭ごなしに言われるよりは可能性があるかと﹂
漫画やアニメではよくある展開だ。
勉強嫌いな子供が、アクシデントに見舞われることで学ぶ事の重
要性を知る。
別にそれを自作自演してしまっても構わんだろう?
﹁それはあれかい?
パウロがそういう方法を教えてくれたのかい?
女の子の落とし方の一つとして﹂
﹁いいえ。父様はそんな事しなくてもモテます﹂
﹁モテ⋮⋮ふっ⋮⋮﹂
フィリップが吹き出した。
298
﹁そうそう。あいつは昔からモテるんだ。何もしなくても女が寄っ
てくるしね﹂
﹁父様の紹介で会う人はみんな父様のお手付きです。そっちのギレ
ーヌもそうでしたし﹂
﹁ああ、まったくうらやましい限りだよ﹂
﹁ブエナ村に残してきた幼馴染が手を出されないか心配です﹂
口に出してみて、本気で不安になる。
五年後って言ったら結構大きくなっているよな⋮⋮。
いやだよ、帰ってみたらシルフィがお母さんの一人になってまし
た、とか。
﹁安心しなさい。パウロは大きな子にしか興味がないからね﹂
﹁⋮⋮⋮なるほど!﹂
チラリと振り向いて、ギレーヌを見る。でかい。
ゼニスもリーリャも大きかった。
なにがって?
おっぱいだよ。
﹁五年ぐらいなら大丈夫だよ。
長耳族の血が混じってるなら、成長してもそんなに大きくはなら
ないだろうしね。
それに、さすがにパウロだってそこまで外道じゃないさ﹂
本当かなあ?
﹁それよりも、私としては君に娘が誑かされないか心配だよ﹂
﹁七歳の子供に何を心配しているんですか⋮⋮?﹂
299
まったく、大変失礼な話だ!
俺は何もしませんよ!
向こうが勝手に惚れる︵ように仕向ける︶だけです。
﹁でも君、パウロからの手紙では、村で女遊びが激しすぎるから隔
離したって書いてあったんだよ? 冗談だと思ってたけど、さっき
の作戦を聞いたらあながち嘘でもないんじゃないかと思ってね⋮⋮﹂
﹁シルフィ以外に友達がいなかっただけですよ﹂
そして、その唯一の友達を、従順な雌奴隷に育て上げようとした
だけ☆
なんてことは口が裂けても言わない。
﹁そうか。
よし、ここで話をしていても埒があかない、娘に会わせよう
トーマス、案内してあげて!﹂
フィリップはそう言って立ち上がった。
そして、俺は地獄を見ることになる。
−−−
こいつはナマイキだ。
一目見た瞬間そう思った。
300
歳は俺の2つ上。
キッとつり上がった眦、ウェーブのかかった髪。
原色のペンキでもぶちまけたのかと思えるほどの真紅。
第一印象は、苛烈。
将来は美人になるだろうが、数多くの男が﹁これは無理だ﹂と思
うであろう。
真性のドMだったら⋮⋮とか、そういうレベルじゃない。
とにかく危険なのだ。
俺の全てが近づくなと叫んでいる。
﹁初めまして、ルーデウス・グレイラットです﹂
が、とりあえず逃げるわけにもいかない。
先ほど教わった通りに挨拶してみる。
﹁フン!﹂
彼女は俺の姿を一目みた瞬間、おじいちゃんとそっくりの鼻息を
一つ。
腕を組んで仁王立ちして、明らかに見下した態度で、上から見お
ろしてきた。
俺より背が高いのだ。
﹁なによ、私よりも年下じゃないの!
こんなのに教わるなんて冗談じゃないわ!﹂
ですよねー、プライド高そうですもんねー。
しかし、引き下がるわけにもいかない。
301
﹁歳は関係ないと思いますけど﹂
﹁なに!? 私に文句があるわけ!?﹂
﹁でもお嬢様は僕が出来る事が出来ないわけですよね﹂
そう言うと、お嬢様の髪が逆立ったかと思った。
怒気というものが目に見えるとは思わなかった。
怖い、怖い。
﹁な! ナマイキよ! 私を誰だと思ってるの!?﹂
﹁マタイトコですね﹂
﹁マタ⋮⋮? なによそれ﹂
﹁僕の父様の従兄弟の娘ってことです。僕の大叔父さんの孫という
言い方もありますけど﹂
﹁なによ! ワケわかんない!﹂
ちょっと言い方が悪かったかな?
まあ、単に親戚って言葉を使ったほうがわかりやすいか。
﹁パウロって名前、聞いたことありません?﹂
﹁あるわけないじゃない!﹂
﹁そうですか﹂
意外と名前が知られてないらしい。
まあ、関係なんてどうでもいいんだけど。
とにかく今は会話だ。
最初は会話イベントを繰り返すコトが重要だって、落とし神様も
言ってた。
パァン!
302
﹁⋮⋮え?﹂
いきなりだった。
お嬢様はいきなり手を振り上げて俺の頬を張ったのだ。
﹁なんで殴るんですか?﹂
﹁年下のくせに生意気だからよ!﹂
﹁なるほど﹂
張られた頬が熱を持ってヒリヒリしてくる。
痛い⋮⋮。
第二印象は、乱暴だ。
まったく、しょうがないな。
﹁じゃあ、殴り返しますね﹂
﹁は!?﹂
返事を待たずに、頬を張り替えした。
ベチン!
あまりよくない音がした。
﹁人に殴られる痛みが﹂
わかりましたか、と言おうとした俺の視界に、
髪を逆立てて拳を振り上げるお嬢様の姿があった。
仁王像だ。あれにそっくり。
なんて考えた瞬間、殴られた。
303
よろめいた所に足を掛けられた。
胸を蹴られて、転ばされた。
あっという間にマウントポジションを取られた。
気づいたら、膝で両腕を封じられていた。
あ、あれぇ∼?
お嬢様が吠えた。
﹁誰に手を上げたか! 後悔させてやるわ!﹂
ハンマー
拳が振り下ろされる。
五発ほど殴られたあたりで、なんとか魔術を使って脱出。
足がすくみそうになるのを我慢しつつ立ち上がり、魔術で迎撃し
ようと手を向ける。
風の魔術で衝撃波を生み出し、お嬢様の顔に叩きつける。
お嬢様は顔を仰け反らせたが、一瞬たりとも止まらず、鬼の形相
で突っ込できた。
その形相を見た瞬間、俺は自分の勘違いに気づいた。
転がるように逃げた。
あれは俺の知ってるお嬢様とは違う。
ドリルロールでアクロバティックなワガママバレルロールを決め
るようなお嬢様では無い!
あれは不良漫画の主人公だ。
魔術でボコボコにすることは出来るかもしれない。
304
けど、きっとそれでも言う事は聞かない。
お嬢様は必ずや復活を遂げて、復讐に向かってくるだろう。
その度に、彼女を魔術で叩くことは出来る。
だが彼女の心は決して折れることは無いだろう。
漫画の主人公と違い、彼女はどんな卑怯な手でも使ってくるはず
だ。
階段から花瓶を投げつけたり、物陰から突然木刀で襲い掛かって
きたり⋮⋮。
ありとあらゆる手段を用いて、やられた分の10倍以上のダメー
ジを与えようとしてくるだろう。
そしてその時、彼女はきっと、手加減すまい。
冗談じゃない。治癒魔術は詠唱が出来なければ唱えられないんだ。
また、争いが続く限り、俺の言う事も決して聞くまい。
力ずくで言う事を聞かせる。
それは今回、決して取ってはいけない選択肢なのだ。
俺は恐怖心を胸に、ただただ逃げ続けた。
﹁今日の所はこれで勘弁してあげるわ!
もし次に同じ事をしたら承知しないんだから!﹂
物陰に隠れていると、館中に響く声で、お嬢様の大音声が聞こえ
た。
305
なんとか、逃げ切ることができたらしい。
−−−
フィリップの所に戻ると、彼は苦笑して待っていた。
﹁どうだい?﹂
﹁どうにもなりませんよ﹂
俺は半泣きになりながら答えた。
逃げている時は泣きそうだったが、過ぎてしまえば前にもあった
ことだ。
トラウマといえるほどでもない。
﹁じゃあ、諦めるかい?﹂
﹁諦めませんよ﹂
まだ、何もやってないじゃないか。
殴られ損だ。
﹁例の件、お願いします﹂
あの野獣に本当の恐怖を教えてやるんだ。
﹁わかったよ﹂
フィリップが目配せをすると、執事が退出した。
306
﹁それにしても、君も面白いことを考えるね﹂
﹁そうですか?﹂
﹁ああ、教師の中でこんな大掛かりな策を持ち込んだのは君だけだ﹂
﹁効果はあると思いますか?﹂
﹁それは君の努力次第さ﹂
ごもっとも。
こうして、作戦を決行することとなった。
−−−
俺は与えられた自室に入る。
調度品はどれをとっても高級そうなものだ。
でかいベッドに、装飾の掘った家具。
綺麗なカーテンに、新品の本棚。
これでクーラーとパソコンがあれば、
実に快適なニート生活を送れることだろう。
いい部屋だ。
俺もグレイラットの姓を持っているし。
雇用人用の部屋ではなく、
客間が用意されたのだろう。
雇用人と言えば、なぜかメイドさんに獣族が多かった。
この国では魔族の差別が強いと聞いたけど、獣族は別なのだろう
か。
307
﹁はぁ⋮⋮それにしても、パウロめ。
なんて所に送り込むんだ⋮⋮﹂
ぼすっとベッドに座り、俺はズキズキと痛む頭を抱えた。
ぽつりとヒーリングを唱え、傷を癒す。
﹁とはいえ、生前のあの時に比べれば、マシだ﹂
殴られて叩き出されるという過程は同じだ。
あの時に感じた難易度の高さに比べれば、雲泥の差だ。
パウロはきちんとフォローしてくれている。
仕事も用意してくれたし、寝る場所だってある。
しかも小遣いまでくれるというじゃないか。
至れりつくせりだ。
もし、生前の兄弟たちがここまでしてくれたなら、
俺も更生できていたかもしれない。
仕事を見つけて、部屋を用意して、逃げ出さないように監視を付
けて⋮⋮。
いや、無理か。
34歳職歴無しで、どうしようもないから捨てられたのだ。
俺だって、当時いきなりそんなことをされても、ただ不貞腐れた
だけだ。
パソコン
渋々仕事をする、ということさえしなかっただろう。
恋人と引き離されて、自殺すら計ったかもしれない。
今だからいいのだ。
仕事をする、金を稼ぐと決めた今だから。
308
強引だが、絶妙のタイミングだ。
俺はパウロの事をちょっと誤解していたのかもしれない。
﹁でも、あれはねえよ﹂
あの凶暴な生き物はなんだ。
あんなのは40数年生きてきて初めてだ。
怖いなんてもんじゃない。
バイオレンスだ。
瞬間湯沸器みたいだ。
危うくトラウマが呼び起こされる所だった。
ていうか、ちょっと漏らした。
﹁コチラ側、どこからでもキレますって感じだったな﹂
どく
もっとも、あのお嬢様を見るに﹃反対側﹄からも切れそうだ。
内容物を撒き散らしながら。
﹁⋮⋮⋮学校に来ないでくれってのも納得だ﹂
随分と手慣れた手つきでぶん殴ってきた。
あれは人を殴ることに慣れた手つきだ。
抵抗する相手も容赦なく殴り倒してきた手つきだ。
相手を無力化するプロセスが手慣れすぎだ。
俺は、あんなのにちゃんと教えられるんだろうか。
フィリップとは話し合った。
309
誘拐犯に攫わせて、無力感を味あわせる。
↓俺が助ける。
↓彼女は俺を尊敬し、授業も素直に受けるようになる。
計画は簡単だが、俺も基本的な流れはわかっている。
思い通りの反応を引き出せれば、うまくいくはずだ。
しかし、本当にうまくいくのか?
あの暴力性。
俺の予想の遥か上だ。
吠えるだけ吠えて、相手が噛み付いてきたら完膚なきまでに叩き
潰す。
完全勝利への意志が伺える暴力だ。
誘拐犯に攫われたところで、何の痛痒も感じないんじゃないのか?
俺が助けたら、当然という顔をして、
もっと早く助けなさいよグズ、なんて言ってくるんじゃないのか?
ありうる。
ありうるよ、あのお嬢様なら。
これは、想定外の反応が来る可能性がある。
あらゆる事態を想定しておく必要がある。
覚悟を決める必要がある。
なにせ、失敗は許されないのだ。
⋮⋮⋮。
310
⋮⋮。
⋮。
しかし、考えれば考えるほど、思考は泥沼に陥った。
﹁神様、どうか成功させてください⋮⋮﹂
最後は祈った。
神様なんて信じていなかった。
日本人らしく、困った時にだけ神頼みをした。
どうにか成功させてください⋮⋮と。
パンツ
そして御神体が自室に置き去りである事に気付いて、泣いた。
ロキシー
ここに神はいないのだ。
311
第十二話﹁お嬢様の暴力﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:﹃お嬢様﹄
職業:フィットア領主の孫
性格:凶暴
言う事:聞かない
読み書き:自分の名前は書ける
算術:一桁の足し算まで
魔術:さっぱり
剣術:剣神流・初級
礼儀作法:ボレアス流の挨拶は出来る
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ
312
第十三話﹁自作自演?﹂
目が覚めると、そこは小汚い倉庫の中だった。
鉄格子付きの窓から、日の光が漏れている。
体中が痛かったが、とりあえず骨が折れていない事だけは確認し
て、小声で治癒魔術を掛ける。
後ろ手に縛られていたが、なんのその。
﹁よし﹂
全回復。
服も破れていない。
作戦通りだ。
1.お嬢様と一緒に町の服屋へと赴く。
2.お嬢様はヤンチャなので一人で店の外へと出たがる。
3.いつもは護衛のギレーヌは付いてくるが、今回は﹃偶然﹄目を
離していて、お嬢様は外に出る。
4.俺が付いてくるが、所詮は喧嘩でぶちのめしたばかりの年下の
小僧。お嬢様も気にしない。
5.お嬢様は俺を子分のように引き連れて、どんどん町の端のほう
へと移動していく︵どうやら冒険者に憧れているらしい︶。
6.そこで、グレイラット家の息が掛かった人さらいが登場。
7.俺とお嬢様を簡単に昏倒させて、隣町へと拉致監禁。
313
で、今に至る。
あとは俺が魔術と知識と知恵と勇気を駆使して華麗に脱出すれば
いいだけだ。
リアリティを持たせるために、かなりアドリブでいく。
この後の大まかな流れとしては、
8.魔術を使ってこの監禁場所を脱出。
9.隣町だということをどこかで察知する。
10.パンツの中に隠したお金を使って、乗合馬車に乗る。
11.家に帰り着く、お嬢様を偉そうに説教。
⋮⋮うまくいくのか⋮⋮?
不安だ⋮⋮。
しかし、ちょっと予定と違うな。
この倉庫はかなり埃まみれで、端の方には壊れた椅子や穴の開い
た鎧なんかがゴチャっと捨ててある。
もうちょっと綺麗な所だって話だったが⋮⋮。
まぁ、芝居だとばれないように本気でやるって話だったし、こん
なもんか。
しばらくして、お嬢様が起きた。
バッと身体を起こそうとして後ろでを縛られているのがわかり、
﹁なによこれ!﹂
騒ぎ出した。
314
﹁ふざけるんじゃないわよ! 私を誰だと思ってるのよ! ほどき
なさいよ!﹂
すっげぇでかい声だった。
館にいる時も思ったが、彼女は声を抑えるということをしない。
あの広すぎる館で、声一発で端まで届くようにという配慮なのか
⋮⋮。
いや何も考えてなどいまい。
お嬢様のお祖父様、サウロスはひたすらに大声を出して相手を威
圧するタイプだ。
そんなのに可愛がられていたのだ。
お祖父様が使用人やフィリップを恫喝する所を何度も目撃してい
るのだろう。
子供は真似をする。悪いことは特に。
﹁うっせぇぞクソガキ!﹂
お嬢様が喚いていると、乱暴に扉が開いて、一人の男が入ってき
た。
粗末な服装、全身から立ち上る臭気。禿げた頭。無精髭。
山賊です、と名刺を渡されたら納得するいでたちの男だ。
ナイスチョイスだ。
これなら自作自演だとバレる事もないだろう。
﹁なっ! 臭い! 近寄らないでよね! 臭いのよあなた!
私を誰だと思ってるの! いまにギレーヌがきてあんたなんか真
っぷたうげっ!﹂
315
ゴヅッ。
と、痛ましい音と共に、お嬢様が蹴り飛ばされた。
お嬢様は淑女とは思えない声を上げて吹っ飛ぶ。
ふわっと宙に浮いて、壁にたたきつけられた。
﹁クソが! 何調子乗ってんだ、アァ!?
てめぇらが領主の孫なのはわかってんだよ!﹂
後ろでを縛られて動けないお嬢様へ、男は容赦なくストンピング
する。
やりすぎじゃなかろうか。
﹁いた、痛⋮⋮やめ⋮⋮ぐっ⋮⋮やめ、あぐっ⋮⋮やめて⋮⋮⋮﹂
﹁ペッ﹂
男は結構長い時間、お嬢様を蹴り続けた。
最後にその顔に唾を吐いて、俺をジロリと睨んだ。
サッと目をそらした瞬間、顔に蹴りが飛んできた。
﹁⋮⋮いづっ!﹂
いてえ。
演技とはいえ、もうちょっと手加減してほしい。
そりゃ治癒魔術を使えるとは言ってあるけどさ。
﹁ケッ! 幸せそうな顔しやがってよ⋮⋮!﹂
倉庫から出ていった。
扉越しに、声が聞こえる。
316
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁おとなしくなったか?﹂
﹁ああ﹂
﹁殺してねえだろうな⋮⋮あんまり傷つけると値が下がるぜ?﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
何か、会話がおかしいな。
迫真の演技⋮⋮。
⋮⋮⋮だったらいいな。
もしかすると、これはアレかもしれない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁あ? まぁ、大丈夫だろ。最悪、男のガキだけでもいいしな⋮⋮﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
よくないよ。
何言ってんの!
﹁⋮⋮⋮﹂
声が聞こえなくなってから、たっぷり300秒ほど数えた後、
俺は縄を火の魔術で焼き切り、お嬢様の所にいく。
お嬢様は鼻血を流しながら、虚ろな目でブツブツと何かをつぶや
いていた。
聞いてみると、絶対に許さないとか、お祖父様に言いつけてやる
とか、
あと聞くに堪えない物騒なセリフを幾つか吐いていた。
とりあえず、触診して怪我の具合を確かめる。
﹁ヒッ!﹂
317
痛みを感じたのだろうか、お嬢様は怯えた顔で俺に視線をあわせ
る。
俺は口元に指を一本持ってきて、静かに、とジェスチャ。
お嬢様の反応を見ながら、患部を確認。
骨が二本も折れていた。
﹁母なる慈愛の女神よ、︵ぼそ
彼の者の傷を塞ぎ、︵ぼそ
健やかなる体を取り戻さん⋮⋮︵ぼそ
エクスヒーリング⋮⋮︵ぼそ﹂
中級のヒーリングを使い、お嬢様の身体を癒す。
治癒魔術は魔力を込めれば効果が上がるというものでもない。
ちゃんと治っただろうか。
骨が変な風にくっついてなければいいが⋮⋮。
﹁あ⋮⋮あれ? 痛みが⋮⋮﹂
お嬢様は不思議そうな顔で自分の身体を見下ろす。
俺は彼女の耳に口を近づけ、ひそひそと耳打ちする。
﹁シッ、静かに。骨が折れていましたので、治癒魔術を使いました。
お嬢様、どうやら領主様によからぬ感情を抱くならず者にさらわれ
たようです。
つきましては⋮⋮﹂
お嬢様は聞いていなかった。
﹁ギレーヌ! ギレーヌ、助けて! 殺されちゃう! はやく助け
318
て!﹂
俺はさっきの男がくる前に、縄を服の下に隠し、部屋の隅を背に
して両手を後ろにやって縛られているフリをした。
お嬢様は叫んだ。力の限り。
バーンと男が乱入。
お嬢様は、さっきより多めに蹴られた。
学習能力とは一体なんなのか⋮⋮。
﹁クソが、今度騒いだらぶっ殺すぞ!﹂
ちなみに、俺も2回蹴られた。
何もしてないんだから蹴るなよなぁ⋮⋮。
俺も泣くぞ⋮⋮。
と、思いつつ、お嬢様の所に移動する。
﹁かひゅ⋮⋮かひゅ⋮⋮﹂
こりゃ、酷い⋮⋮。
肋骨はわからないが、お嬢様が口から血を吐いているので、内蔵
が破裂してるかもしれない。
ふむ。
手足の骨も折れている。
医療に関してよく知ってるわけじゃないが⋮⋮。
これは、放っておけば死ぬんじゃないのか?
﹁神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与
えん、ヒーリング︵ぼそ﹂
とりあえず、初級で少しだけ治す。
319
口からの血が止まった。
これで死なないだろ⋮⋮多分。
﹁かひゅ⋮⋮ま、まだ、痛いわよ⋮⋮ちゃ、ちゃんと治し⋮⋮なさ
いよ﹂
﹁嫌ですよ。治したらまた蹴られるじゃないですか。自分で魔術使
ってください﹂
﹁で、できないわよ⋮⋮そんな、こと⋮⋮﹂
﹁習ってれば、できましたね﹂
俺はそれだけ言って、倉庫の入り口の方へと移動する。
そして、扉に耳をくっつける。
もう少し、彼らの会話を聞きたかった。
どうにも話と違う。
いくらなんでもお嬢様をあれだけ痛めつけるのはやりすぎだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁で、例のヤツに売っぱらうのか?﹂
﹁いや、身代金にしようぜ?﹂
﹁足がついちまわねえか?﹂
﹁構わねえだろ。そんときゃ隣国だ﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
本気で売っぱらおうとしているような会話が聞こえてくる。
女の子を襲わせるように知り合いに頼んだら、偶然本職が絡んで
しまいました的な。
どこで歯車が狂ったんだろうか。
俺たちをさらう予定の奴らが狙われたのだろうか。
320
それとも、最初に襲われた時点だろうか。
あるいは、フィリップが娘を売ったとかか?
最後はさすがにないか。
⋮⋮⋮まあいい。
どちらにしろ、俺のやることは変わらない。
﹃安全﹄って言葉がなくなっただけだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁値段は売るより身代金のほうが高えんだろ?﹂
﹁とりあえず、夜までには決めとこうぜ﹂
﹁どっちにしろ、な﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
俺たちをどこかに売るか、領主に身代金を要求するかで揉めてい
るらしい。
夜にはここを引き払うらしい。
なら、日があるうちに動かないとな。
さて、しかし、どうするか。
魔術で扉をブチ破り、魔術で誘拐犯を倒す。
自分をぼこぼこにした誘拐犯を倒した俺を、お嬢様は尊敬⋮⋮。
しなさそうだなー。
自分は縛られていなければ勝てた、とか考えそうだ。
それに、結局は暴力だと思ってしまうのも、よくない。
暴力は何も生み出さないと教えないと、
321
ずっと殴られるハメになる。
もっと無力感を与えたい。
⋮⋮あ、そもそも俺が誘拐犯に勝てるとは限らないか。
誘拐犯がパウロと同じぐらい強かったら、負ける自信がある。
そうなれば、俺は殺される。間違いなく。
よし、とりあえず、誘拐犯にはノータッチでここから脱出しよう。
俺は背後を確認し、お嬢様が怒りの篭った目で俺を睨んでいるの
を確認してから、作業にかかる。
まず、土と火の魔術を使い、扉の隙間を埋め立てていく。
ドアノブを火の魔術でゆっくりと溶かし、回らないように固定す
る。
これで、ただの開かずの扉になった。
が、蹴破ろうとすれば、すぐだろう。
保険だ。
そして、窓に近づく。
鉄格子がはまっている。
火の魔術を一点に集中させて焼ききろうかとも思ったが、熱そう
なのでやめる。
周囲の土を水の魔術で少しずつ溶かす。
そうして鉄格子をまるごと外す事に成功した。
﹁お嬢様。どうやら、領主様によからぬ感情を抱くならず者に拐か
されたようです。今夜には仲間が来るから、みんなでなぶり殺しに
すると相談しています﹂
322
もちろん嘘だ。
お嬢様の顔が真っ青になった。
﹁僕は死にたくないので逃げます⋮⋮さようなら﹂
鉄格子を外した所に手を掛けて、よっこいしょと身体を引き上げ
る。
と、同時に、ドアの方から声が聞こえた。
﹁おい、開かねえぞ!
どうなってやがる!﹂
ガンガンと乱暴にドアを叩く音が聞こえ、
お嬢様を見ると、絶望的な顔でドアと俺を交互に見ていた。
﹁ぁ⋮⋮お、おいていかないで⋮⋮たすけ⋮⋮﹂
おや、意外と落ちるのが早いな。
さすがにお嬢様でもこの状況は怖いと見える。
俺はすぐさまお嬢様に近づくと、耳元で囁く。
﹁⋮⋮⋮家にたどり着くまで、僕の言うことを聞くって約束できま
す?﹂
﹁き、聞く、聞くから⋮⋮﹂
﹁大声ださないって約束できます? ギレーヌはいませんよ?﹂
﹁する、するから⋮⋮は、はやく、きちゃう⋮⋮あいつが、きちゃ
う⋮⋮!﹂
お嬢様はこくこくと頷いた。
恐怖と焦燥のこもった顔は、俺を殴っていた時とは大違いだ。
323
一方的に殴られる者の気持ちがわかってくれて何よりだよ。
﹁約束破ったら、今度こそ置いていきますから﹂
俺はなるべく冷徹に聞こえるように言って、土の魔術で扉を埋め
立てた。
火の魔術で縄を焼き切り、ヒーリングで傷を完全に治す。
そして、鉄格子から外に出て、お嬢様を引き上げた。
−−−
倉庫から外に出ると、そこは見覚えのない町だった。
城壁が無いので、少なくともロアではない。
村というほど小さくは無いが、すぐに次の手を打たないと、すぐ
に見つかるだろう。
﹁ふう、ここまでくれば大丈夫ね!﹂
お嬢様が逃げ切ったと勘違いしたのか、いきなり大声を上げた。
﹁家に帰るまで大声を上げないって約束したじゃないですか﹂
﹁ふん! なんで私があなたとの約束を守らなければならないの!
?﹂
このガキャァ⋮⋮。
﹁そうですか。じゃあここでお別れですね、さようなら﹂
324
お嬢様はふんと鼻息を一つ、歩き出した。
が、次の瞬間、遠くの方から怒号が聞こえてきた。
扉を開けられたとは思えない。
開かないことに気付いて、窓から様子を見ようとしたら鉄格子が
外れていた。
逃げたと感づいて追ってきた、という所か。
お嬢様はすぐに戻ってきた。
﹁さ、さっきのは嘘よ。もう大声は出さないわ。家まで案内なさい﹂
﹁⋮⋮⋮僕は、お嬢様の召使でも使用人でもないんですが﹂
調子のいい言葉に、ちょっとイラッとして返事をした。
﹁な、なによ、家庭教師でしょ?﹂
﹁違いますよ?﹂
﹁えっ?﹂
﹁お嬢様が気に入らないと言ったので、まだ雇ってもらえてません﹂
﹁や、雇うわよ⋮⋮﹂
お嬢様は、渋々といった感じで、そっぽを向いた。
ここは確約が欲しいところだ。
﹁そんなこと言って。館に戻ったら、さっきみたいに約束を破るん
でしょう?﹂
できる限り、冷たく言い放つ。
感情は込めず、淡々と。
しかし、お前は絶対にそうする、と言わんばかりの口調で。
325
﹁や、破らないから⋮⋮た、助けなさ⋮⋮助けてよ⋮⋮﹂
﹁大声を出さない、俺の言うことを聞くって約束が聞けるなら、付
いてきてもいいですよ﹂
よしよし、と俺は内心で思いつつ、行動に移す。
まずはパンツの中に仕込んでおいたアスラ大銅貨5枚を取り出す。
これが現在の全財産だ。
ちなみに、大銅貨の価値は銀貨の10分の1。
時折聞こえてくる怒号から遠ざかるように、町の入り口まで移動
する。
そして、入り口で暇そうに立っている門番に、大銅貨を1枚渡す。
﹁僕らの行方を探してるっぽい人がいたら、町の外に出たと言って
ください﹂
﹁え? なに? 子供? わかったけど、なんだ、かくれんぼでも
してるのか?
って、大金じゃないか⋮⋮どこの貴族だよ、まったく⋮⋮﹂
とりあえず、くれぐれもと頼んでおく。
足止めぐらいにはなるだろう。
入り口の近くには乗合馬車の待合所。
まっすぐそこへと入る。
利用方法は壁に書いてある。確認済み。
ついでに、現在位置と運賃もわかった。
﹁ここは、ロアから2つ離れたウィーデンという名前の町みたいで
すね﹂
326
ひそひそとお嬢様に耳打ちする。
お嬢様も大声を出すなという約束を守っているのか、ひそひそ声
で返してくる。
﹁なんでわかるのよ?﹂
﹁書いてあるでしょう﹂
﹁読めないわよ⋮⋮﹂
よしよし。
﹁読めると便利ですよ。乗合馬車の利用方法も書いてありますから﹂
それにしても一日でここまで運ばれるとは。
知らない町は不安だなぁ⋮⋮。
トラウマが甦りそうだ。
いやいや、俺はハロワの場所もわからなかったあの頃とは違うん
だ。
そういや、パウロとハロワって字面が似てるな。
と思ってると、怒号が近づいてくるのを感じた。
﹁! 隠れて⋮⋮!﹂
俺はお嬢様を抱えて、待合所のトイレへと入り、鍵を締めた。
外から、どたどたと激しい足音が聞こえる。
﹁どこだこらぁ!﹂
﹁逃げきれると思ってんじゃねえぞ!﹂
327
うおお、こええー。
やめろよな、そういう声で探しまわるの。
せめて、もっと猫なで声でさー。
と、お嬢様が口元を手で抑えて、ガタガタと震えていた。
﹁⋮⋮⋮だ、大丈夫なの?﹂
﹁まあ、見つかったら精一杯抵抗しましょう﹂
﹁そ⋮⋮そうね⋮⋮、よし⋮⋮﹂
﹁多分、勝てませんけどね﹂
﹁そ、そう⋮⋮?﹂
お嬢様がヤル気を出しそうだったので、ちょっと方向修正。
﹁ところで、さっき運賃を見ましたが、ここからだと乗合馬車を2
度、乗り換えないといけません﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
それがどうした、というお嬢様の顔。
﹁乗合馬車は、朝8時から2時間置きに5本出ています。これはど
の町でも同じです。そして、ここから隣町まで3時間は掛かります。
今から出るのは4本目です。つまり⋮⋮﹂
﹁つまり?﹂
﹁隣町にたどり着いても、そこからロアに出る馬車がありません。
一晩は次の町に泊まらないといけません﹂
﹁!⋮⋮⋮そ、そうなの、ふうん﹂
なにか叫びそうになったようだが、お嬢様はぐっと我慢した。
328
﹁ここに大銅貨が4枚ありますが、ここから隣町、隣町で一泊、隣
町からロア。
この三つでそれぞれお金を使うと、ギリギリです﹂
﹁ギリギリ⋮⋮足りるのよね?﹂
﹁足ります﹂
お嬢様はほっと胸をなでおろす。
安心するのはまだ早い。
﹁お釣りをごまかされなければ、ですがね﹂
﹁お、お釣り⋮⋮?﹂
何のことかわからない。
お嬢様はそんな顔をした。
自分のお金で買い物をしたことがないのかもしれない。
﹁僕らのような子供を見て、宿屋とか乗合馬車の人は算術が出来な
い、と思うでしょう。
すると、騙してお釣りを少なめに渡してくるかもしれません。
その場で間違いを指摘すれば適正のお釣りを渡してくれるでしょ
う。
が、もし算術が出来なければ⋮⋮﹂
﹁どうなるの?﹂
﹁最後の乗合馬車に乗れなくなります。
そして、さっきの男たちに追いつかれて⋮⋮﹂
お嬢様がぶるぶると震え始める。
今にも漏らしそうだ。
﹁お嬢様、トイレはそこですよ﹂
329
﹁わ、わかってるわよ﹂
﹁では、ちょっとだけ外を見てきます﹂
個室から出ようとすると、裾を掴まれた。
﹁い、いかないでよ﹂
お嬢様の放尿シーンを見てひとしきり興奮した後、外に出た。
ちなみに、この国のトイレは汲み取り式です。
男たちはいないようだった。
町の外を探し始めたか、町の中を探しているのかはわからない。
見つかったら魔法をぶっぱなして無力化するしかない。
勝てる相手だと祈ろう。
待合所の隅に隠れるように待機した。
そして、出発の時間と同時に御者に金を渡して、馬車に乗り込ん
だ。
−−−
隣町にはなんなく移動でき、あばら屋同然の宿に泊り、藁の上で
寝た。
お嬢様は興奮して眠れないようだった。
物音がひとつ響く度にビクリと身を起こし、怯えた目で入り口を
睨んだ。
翌日、朝一番の馬車に乗って数時間。特に問題なくロアにたどり
330
着いた。
途中でさんざん脅したので、お嬢様は馬車の背後をずっと警戒し
ていた。
何度か単騎の馬が後ろから追い抜いていったが、誘拐犯ではなか
った。
結構な距離を移動したし、諦めたのかもしれない。
俺は呑気にそう思った。
頼もしき城壁を通過し、遠くに見える領主の館を見ると、安堵感
が押し寄せてきた。
ここまで来れば安全だ、と無意識に思った。
人、それを油断と言う。
お嬢様が路地裏に引きずり込まれた。
﹁⋮⋮⋮え?﹂
俺は2秒ほどそれに気づかなかった。
2秒なんて短時間目を離した隙に、お嬢様の姿はなくなっていた
のだ。
本当に消えたのかと思った。
視界の隅に映ったのは、建物の角に引っかかっていたお嬢様の服
の色と同じ布切れ。
すぐに追いかける。
今更になって、監視の目を逃れて町を遊び歩きたいなんて思って
はいまい。
路地に入ると、お嬢様を抱えて向こう側の通りへ抜けようとして
いる二人組の姿が目に入った。
331
俺は咄嗟に土の魔術で壁を発生させ、彼らの行く手を遮った。
﹁なんだぁ!?﹂
お嬢様は猿轡を噛まされて涙目になっていた。
この数秒で猿轡とは。早業だ。すげぇ手馴れてる。
一発殴られたのだろう、お嬢様の頬が赤く腫れていた。
相手は二人だった。男の二人組だ。
片方は俺に蹴りを入れてくれやがった乱暴者。
もう一人は恐らくあの倉庫で話していたヤツだろう。
どっちも山賊みたいな格好をしている。
監禁場所で見た時と違い、腰に剣を差していたが。
﹁なんだガキ、おとなしくしてりゃ家に帰れたのによぉ⋮⋮﹂
突然発生した壁に驚いた二人だったが、振り返った所に俺がいる
のを見ると、ニヤリと笑った。
乱暴者の方はそのまま、無警戒に近づいてこようとする。
もう一人はお嬢様を捕まえている。
他に仲間はいないのだろうか⋮⋮。
とりあえず、威嚇を込めて、指先に小さな火球を発生させる。
﹁むっ! てめえ!﹂
乱暴者は剣を抜いた。
もう一人も見るまに警戒し、お嬢様の首筋に剣先を当て、じりじ
りと後ずさりはじめた。
332
﹁てめぇ、クソガキ、妙に落ち着いてやがると思ったら護衛の魔術
師だったのか⋮⋮。
どおりで簡単に逃げ出されたわけだ、クソッ、外見に騙されたぜ
!﹂
﹁護衛じゃないですよ。まだ雇われてはいません﹂
﹁なにぃ? じゃあなんで邪魔しやがる﹂
﹁いや、これから雇われる予定なんで﹂
﹁ヘッ、金目当てか?﹂
金目当て。
うん、魔法大学の学費を稼ぐためだ。
﹁否定はしません﹂
﹁なら俺らの片棒を担げよ。
俺のツテに身分の高い娘を高く買い取ってくれる変態貴族がいて
な⋮⋮。
身代金を要求してもいい。ここの領主は孫娘に首ったけって話だ
し、いくらでも出すぜぇ﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
感心したような声を出してみると、お嬢様が真っ青な顔で俺の顔
を見た。
彼女も、俺が魔法大学の学費目当てで雇われようとしていると聞
いているのかもしれない。
﹁それは、具体的にはいくらぐらい?﹂
﹁月に金貨1枚や2枚なんてみみっちいレベルじゃねえぞ。
ざっと金貨100枚よ﹂
ドヤ顔で言われた。
333
こっちの相場がどんなものかはよくわかっていないが、
百万円だぞ、すげーだろー、って感じか。
小学生みたいだ。
﹁ヘヘッ、てめえも、そんなナリをしちゃいるが、中身は結構いい
歳なんだろ?﹂
﹁ん? どうしてそう思います?﹂
﹁さっきの魔術と、その落ち着き具合を見りゃわかるぜ。
見た目のことで苦労してきてんだろ? なら、金の大切さはわか
るよな? なあ?﹂
﹁なるほど﹂
知らない人から見れば、そういうものか。
確かに、体感年齢は40歳を超えている。
ビンゴだ。大当たり。
さすが山賊さんだぜ。
﹁確かに、この歳まで生きてきて、金の大切さは身にしみてわかっ
ていますよ。
まったく知らない土地に、一銭も持たずに着の身着のままで放り
出された事もあります﹂
﹁ヘヘヘ﹂
もっとも、それ以前には金の心配をまったくしない生活をしてい
た。
二十年近いニート生活。
エロゲとネトゲにまみれた俺の半生。
そこから、俺はあることを学んでいた。
ここでお嬢様を裏切る事の意味。
ここでお嬢様を助ける事で繋がる展開。
334
﹁だからこそ。金より大切なこともわかっているつもりです﹂
﹁綺麗事ぬかしてんじゃねえよ!﹂
﹁綺麗事じゃありません。金では﹃デレ﹄は買えないんです﹂
おっとしまった、本音が漏れた。
乱暴者は﹁デレ? なんだそりゃ?﹂と呆気に取られた顔をした
が、
交渉が決裂したという事実は伝わったらしい。
嫌らしい笑みが消え、険しい顔になってお嬢様の首筋に剣を当て
る。
﹁ならこいつは人質だ! まずはそのファイアーボールを空にでも
向かって撃つんだな﹂
﹁⋮⋮⋮空に向けて撃てばいいんですか?﹂
﹁そうだ。間違ってもその指先を俺たちに向けるんじゃねえぞ。
どんな早くてもこのメスガキの首を掻っ切って盾にするほうがは
ええからな﹂
普通に消せとは言わないんだろうか。
いや、知らないのかもしれない。
詠唱魔術ってのは、発射までが自動的だしな。
﹁了解﹂
俺は発射する前に、魔力を操作して火球をいじった。
火球の中にもう一つ、特殊な火球を作る。
ポヒュン。
335
と、マヌケな音がして火球が上がっていき。
バァゴオオオオォォォオオン!!!
巨大な爆発が空中で起こった。
鼓膜が破れんばかりの轟音と同時に、目が眩む光と火傷しそうな
熱が降り注いだ。
﹁なっ!﹂
﹁おお!?﹂
﹁んぐー!?﹂
誰もが上を見上げた瞬間、俺は走った。
走りながら魔術を使う。手癖のように二種類の魔術を構築。
風の魔術で真空波を作り出し、乱暴者の腕を切り落とす。
それと同時に、土の魔術で岩石を作り出し、もう一人の男に射出
する。
﹁ギャァア!﹂
乱暴者がお嬢様を取り落とす。
がっちりキャッチ。お姫様だっこ。
もう一人の方はと見ると、岩石が真っ二つに切り裂かれる所だっ
た。
﹁うっわ⋮⋮﹂
あわわわ⋮⋮。
336
ヤバイ。ヤバイ。
岩切りやがった。
剣豪系だ。
流派わかんねぇけどとにかくヤバイ。
パウロぐらい強かったらヤバイ。
俺は風と火の魔術で足元に衝撃波を発生させ、後ろに飛ぶ。
足の骨が折れるかと思うほどの衝撃があった。
一瞬遅れて、俺のいた場所を剣が素通りする。
危ない。
だが、パウロほどのスピードは無い。
ここは落ち着いていけ、剣士相手のシミュレートは何度も練った
じゃないか。
ファイアボール
俺は空中にいながら、次の魔術を用意する。
まずは火弾をヤツの顔面に向かって放つ。
射出速度はゆっくり。
﹁こんなもので!﹂
ヤツはそれを見極め、迎撃しようと剣を構える。
着弾までのタイムラグ。
その間に、水と土の魔術を使い、ヤツの足元に泥沼を発生させる。
火弾は迎撃されたが、ふくらはぎまで粘着性の高い泥に浸かり、
ヤツの動きが止まる。
﹁なにっ!?﹂
337
よし、勝った!
﹁逃がすか!﹂
⋮⋮え⋮⋮?
いきなりヤツが剣を投げた。
破れかぶれじゃない。
パウロに教えてもらったことがある。
北神流には、魔術師に足を止められた時に剣を投げる技があると。
避けられないと、反射的に悟ったが、なぜか俺は冷静だった。
剣がスローモーションで飛んでくる。
軌道は頭だ。
⋮⋮⋮⋮せめて死なないことを祈ろう。
⋮⋮⋮南無。
キン!
俺の目の前に、茶褐色の何かが飛び込んできたと思った瞬間、陶
器がぶつかり合うような音をして剣が落ちた。
﹁⋮⋮⋮あ⋮⋮?﹂
ついでに、泥沼に足がハマっている男の首も落ちた。
茶褐色の筋肉の塊の人の尻尾がぴくっと動いた瞬間、落ちた手首
338
を抑えている乱暴者の首も落ちた。
死んだ。
俺の思考は付いていっていなかった。
ただ、数メートルは遠くにいるはずの二人の体が崩れ落ちるのを、
ぼんやりを見ていた。
現実の光景には見えなかった。
何が起きたのかも、よくわかっていない。
﹁ふむ。ルーデウス。敵は二人だけか?﹂
話しかけられて、ハッと我に返った。
﹁あ、はい。ありがとうございます。ギレーヌ⋮⋮さん﹂
﹁さんはいらん。ギレーヌでいい﹂
茶褐色の筋肉の⋮⋮ギレーヌは振り返り、うむ、と頷いた。
﹁いきなり空中で爆発が起こったので見に来たが、正解だったな﹂
﹁ず、随分はやかったですね。てか、あっという間に倒しちゃいま
したし⋮⋮﹂
最初の魔術を使ってから一分も経っていない。
﹁近くにいたのだ。それに、早くなどない。デドルディア族の戦士
なら誰でもあの程度は瞬殺できる。
ところで、ルーデウスは、北神流と戦うのは初めてか?﹂
﹁殺し合い自体が初めてですよ﹂
﹁そうか。奴らは死ぬ寸前まであきらめん、注意しろ﹂
339
死ぬ寸前⋮⋮。
そう、死ぬ寸前だった。
剣が飛んできた瞬間のことを思い出し、足が震えそうになる。
殺し合いだ。
流れでそんな感じになったが、今のは殺し合いだったのだ。
ニート時代には、何度も殺し合いや戦いの妄想をしたが、今、こ
の場に溢れる血の匂いまでは妄想していなかった。
気持ち悪い⋮⋮。
﹁か、帰りましょう﹂
この場で吐いては、せっかくお嬢様を誑かすために頑張ってきた
ことが無駄になってしまう。
そう思い、俺はこの場を離れた。
−−−
館にたどり着くと、お嬢様はくたくたと力無く、その場に座り込
んでしまった。
緊張が解けて、腰が抜けてしまったらしい。
慌ててメイドたちが駆け寄っていく。
お嬢様はメイドが助けようとすると、その手を跳ねのけた、
そして、生まれたての子鹿みたいに足をプルプルさせながら立ち
上がった。
腕を組んでの仁王立ちだ。
340
家に帰ってきたことで気迫を取り戻したのかもしれない。
メイドたちがその姿に異様なものを感じ、止まる。
お嬢様は俺のほうをビシッと指さして、大音声で言った。
﹁家に帰るまでって約束だったんだから!
もう喋ってもいいわよね!﹂
﹁ああ、はい。もういいですよお嬢様﹂
俺はその大声を聞いて。
失敗したのだ、と直感した。
所詮は、浅知恵だったのだ。
あの程度のことで、このワガママで凶暴な子が変わるわけもない。
むしろ、初めての殺し合いで、俺の方がブルってしまった。
お嬢様は、それを察したのかもしれない。
偉そうにあれこれと言っていたが、俺はやっぱり弱いのだと。
﹁特別にエリスって呼ぶことを許してあげるわ!﹂
しかし、お嬢様の言葉は、俺の意表を突いた。
﹁え?﹂
﹁特別なんだからね!﹂
お、おお!
マジか!
せ、成功した?
やった!
341
﹁ありがとうございます! エリス様!﹂
﹁様はいらないわ! エリスでいい!﹂
エリスはギレーヌの口調を真似て、そのまま仰向けにバッタリと
倒れた。
−−−
こうして、俺はエリス・ボレアス・グレイラットの家庭教師にな
った。
342
第十三話﹁自作自演?﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:エリス・B・グレイラット
職業:フィットア領主の孫
性格:凶暴
言う事:聞かないこともない
読み書き:自分の名前は書ける
算術:足し算まで
魔術:興味はある
剣術:剣神流・初級
礼儀作法:ボレアス流の挨拶は出来る
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ
343
間話﹁後日談とボレアス流挨拶﹂
誘拐事件の裏で糸を引いていたのは、執事のトーマスだった。
彼はならず者の言っていた変態貴族と繋がりがあった。
変態貴族は前々からお嬢様に目をつけており、あの勝気で生意気
な野獣を思うさまに蹂躙したいと思っていたらしい。
トーマスは金に目がくらみ、変態貴族の用意した二人の男を作戦
に組み込んだ。
まったく、ふてえやろうもいるもんだ。
次にやる時は、是非俺に一声掛けてほしいね。
誤算といえば、俺があの二人から逃げ出せるほど魔術が使えると
思っていなかったのと、あの二人がそんなに忠実じゃなかったって
ことか。
変態貴族の方は、シラを切り通し、罪には問われなかった。
トーマスの証言だけでは不十分なのとか、二人が死んでいて、変
態紳士との関係性が掴めなかったのとか、まぁ色々あるらしい。
曖昧な部分はつつかない。政治的な駆け引きってやつだろう。
事件は、ギレーヌが全て解決したという事になった。
グレイラット家に剣王ギレーヌが食客として招かれているのを知
らしめ、今後の予防にすると同時に、家の強さ・裕福さを誇示する
ようだ。
俺も話を聞かれたら、ギレーヌが全てやった事にしろと厳命され
た。
344
・・・・・・・・
俺の存在を他のグレイラット家に知られるのは、ちょっとまずい
らしい。
これもまた、政治的な駆け引きってやつだろう。
ていうか、他にもいるのか⋮⋮。
﹁ということだ、いいね?﹂
﹁かしこまり∼⋮⋮ました﹂
という説明を、俺は応接間にてフィリップより聞いていた。
フィリップは領主の息子なだけだと思っていた。
が、実はロアの町長という役職を持っている。
今回の一件も全てフィリップの元で処理されているのだとか。
﹁娘さんが誘拐されたのに、随分余裕ですね﹂
﹁今もなお行方不明だったら慌ててるさ﹂
﹁ごもっとも﹂
﹁それで、エリスの家庭教師の件だけど⋮⋮﹂
バァン!
と、フィリップと今後の事について話そうとしていると、
またドアを乱暴に開け放って、元気な爺さんが入ってきた。
﹁聞いたぞ!﹂
サウロスだ。
彼は応接間にズカズカと入り込んでくると、俺の頭をガッシリと
掴んだ。
そしてガシガシと撫で︵?︶てくる。
345
ギレーヌ
﹁エリスを助けてくれたらしいな!﹂
﹁な、な、なんのことですか? 秘書が勝手にやりました。僕は何
もやっていません!﹂
サウロスの目がぎらりと光った。
こ、こええ!
﹁貴様! この儂に嘘を付く気か!﹂
﹁ち、ちが、フィリップ様にそう言えと⋮⋮﹂
﹁フィリィップ!﹂
サウロスが振り向きざまに拳を振るう。
ボグンと嫌な音が鳴る。
フィリップは顔面に拳を受けて、ソファの後ろに転がった。
なんて手が早いんだ。
エリスなんて目じゃないスピードで殴ったぞ。
何の躊躇もなく⋮⋮。
﹁貴様! 自分の娘を救ってくれた恩人に! 礼の一つも言わず!
貴族同士のくだらん芝居の真似事をさせるのか!﹂
フィリップは倒れたまま、動じずに応じた。
﹁父上。パウロは勘当されたとはいえ、グレイラット家の血を引い
ています。となれば、その息子であるルーデウスも当然、グレイラ
ット家の血を引く我が家の一員です。
上辺だけの労いや報奨より、家族として温かみを持って接するの
が礼と考えました﹂
346
慣れてんのか⋮⋮?
﹁ならばよし!
貴族の真似事大いに結構!﹂
サウロスは開いているソファにどっかりと腰を下ろした。
殴ったことは謝らないらしい。
そういえば、俺もエリスに殴ったことを謝ってもらってないな。
助けたことのお礼も⋮⋮いや、まあそれはいいか。
﹁ルーデウス!﹂
サウロスは腕を組んで、顎をそらして、上から目線で、俺を見下
ろした。
どっかで見たことある。
﹁頼みがある!﹂
それが人に物を頼む時の態度か。
それにしてもエリスとそっくりな⋮⋮。
いや、こっちが本家か
⋮⋮子供は真似するからな。
﹁エリスに魔術を教えてやってほしい﹂
﹁それは﹂
﹁儂からそう頼むように、先程エリスに頼まれた。
ルーデウスのつかった魔術が目に焼き付いて離れんらしい﹂
文字通り、目に焼き付く魔術だったしね。
347
﹁もちろ⋮⋮﹂
即座に了解しようと思い、ふと俺は口をつぐんだ。
恐らく、エリスがああなったのは、サウロスが甘やかしたせいだ
ろう。
全てがそうとは言わないが、サウロスの真似をしている所を見る
と、かなり影響はでかいはずだ。
エリスを成長させるためには、甘やかしをやめさせなければいけ
ない。
エリスをまともに育てるためには⋮⋮。
いや、俺にエリスをまともに育てる義理は無い。
けど、今のままではまともに授業になるかわからない。
目に付く所から、ひとつずつやっていくべきだ。
﹁それは、サウロス様が言うべき事ではありません。エリス本人が
僕に言うべきことです﹂
﹁なんだと!﹂
サウロスはいきなり激高して拳を振り上げた。
慌てて手で顔を守る。
核爆弾か、この爺さんは⋮⋮。
﹁た、頼みごとをしたいけれど、頭を下げるのは嫌だと。
エリスをそんな大人に育てるつもりなんですか?﹂
﹁ほう! 言うではないか! その通りだ!﹂
サウロスは振り上げた拳で膝をドンと叩き。大きく頷いた。
そして、大音声。
348
﹁エリィィス! 今すぐ応接間に来なさぁい!﹂
鼓膜が破れるかと思った。
どんな肺活量をしてればこんな大声が出せるんだ⋮⋮。
しかし、エリスもそうだったが、この館には使用人に伝言を頼む
という文化は無いのか?
未開人め⋮⋮。
フィリップがソファに座り直し、いなくなったのとは別の執事︵
アルフォンスという名前らしい︶が、開きっぱなしだった扉を閉め
る。
後で知ったことだが、サウロスは嵐のようにやってきて、嵐のよ
うに去っていくことが多いから、すぐには閉めないらしい。
バーンと押して開けるのは好きだが、引いて開けるのはそんなに
好きじゃないとかいうワガママだ。
しばらくすると、タタタタっと走る音が聞こえてくる。
﹁ただいま参りました!﹂
祖父ほど勢いは無いものの、扉を元気よく開けて、エリスが入っ
てきた。
エリスの行動は全てお祖父様基準らしい。
子供は真似するからな。
初日に殴られた経験がなければ微笑ましいと見るかもしれないが、
はっきり言おう。
これもやめさせるべきだ。
349
エリスは俺が座っているのを見ると、くっと顎を上げて睨んでき
た。
ボレアス家直伝の威嚇ポーズなのか?
﹁お祖父様、先程の件は話していただけましたか!?﹂
サウロスはバッと立ち上がり、腕を組んでエリスを見下ろす。
﹁エリィス! 頼みごとをしたいのなら、自分の頭を下げろ!﹂
エリスは、ムッと口をへの字の結んだ。
﹁お祖父様、頼んでくださると言ってくれたのに⋮⋮﹂
﹁貴様が頼まんのなら、ルーデウスの雇用は無しだ!﹂
え?
⋮⋮な、なんだと!?
え、あ、そうなるの?
あ、そうなるよね、そうか、そうか⋮⋮。
それは、困る⋮⋮。
これが﹃身から出た錆﹄ってやつか⋮⋮!?
﹁く、くぅ⋮⋮⋮﹂
エリスは顔を真っ赤にして俺を睨んでくる。
あれは恥ずかしがっているんじゃない、怒りと屈辱だ。
お祖父様の前でなければ、お前なんか地の果てまで追いかけてひ
き肉にしてやるのに、って顔だ。
怖い⋮⋮。
350
﹁お、お願いしま⋮⋮﹂
﹁それが人にモノを頼む態度か!﹂
サウロスが叫ぶ。
あんたが言うなよ、と心の中でツッコミを入れる。
いや、まぁ、きっと自分の頼みごとの時は真面目に⋮⋮。
と思ったら、エリスが長い赤髪を根本から掴んだ。
側頭部で二つ、尻尾を作る。
即席ツインテール。
そしてそのままの格好で、バチコンとウインク。
﹁え、エリスに魔術を教えてくださいニャん☆﹂
−−−
ハッ!
夢か。
意識が飛んでいた。
嫌な夢を見ていたようだ。
﹁読み書きはいらないニャん☆﹂
うわぁぁぁぁ!
351
夢じゃない!
な、なんだ。
何が起こっているんだ?
次元連結システムが作動してしまったのか!?
はやく二次元連結システムを開発して俺をアニメの世界に!
﹁算術もいらないニャん☆﹂
と、とにかく怖い。
すっげぇ怖い。
可愛いポーズのはずなのに、恐怖心しか浮かんでこない。
口元が笑ってるのに目元が笑ってない。
あれは捕食者の目だ。
てか、これがこの世界での﹁ものを頼む態度﹂なの!?
あれ?
あれれ?
﹁魔術だけでいいニャん☆﹂
え? ふざけないで?
むしろ、さっきより悪質ですよ?
エリスの顔をみてくださいよ。
怒りに真っ赤に顔を染めて、
こんな状況でなければ、お前なんか地獄の底から天国までアッパ
ーカットでふっ飛ばしてやる、って顔ですよ!
怒り8、屈辱2、照れ0ですよ⋮⋮?
さ、サウロス爺さん、ガツンと言ってやってくださいよ。
352
﹁おぉ、お∼、エリスたんは可愛いのう。もちろんおっけーじゃよ。
なあルーデウスや﹂
誰!?
さっきまで厳格だった俺の頼れる大叔父さんはどこいっちゃった
!?
﹁大旦那様は獣族が大好きなのでございます。
ギレーヌ様を雇用なされた時も、鶴の一声で﹂
執事さんがご丁寧に教えてくれる。
あー、なるほどね。あの頭の横の尻尾は耳なわけね。言われてみ
るとたれ耳っぽいわ。
メイドさんにも獣族が多いしね。
えーえー、なるほどねー。
えぇー⋮⋮。
﹁エリス﹂
ここでエリスのお父さん登場!
おお、貴方がいましたね!
さ、ガツンと言ったってくださいよ、フィリップさん!
﹁もっと腰をつきだしてしなを作らないとダメじゃないか﹂
おっけ、なるほどね。
グレイラット家ってのはパウロ含めてこういうのの集まりなのね。
パウロってまともな部類かな?
353
﹁あの、サウロス⋮⋮様。
一つ、お聞きしても、いいですか⋮⋮?﹂
﹁なんじゃ!﹂
﹁お、男もその御礼の仕方で?﹂
﹁ドアホウ! 男なら男らしくせんか!﹂
なんだかわからないけど、お叱りを受けた。
まともだわ。
性的な嗜好ではパウロが一番まともだわ。
あいつ巨乳が好きなダケだもん。
で、でも落ち着け。
落ち着いて考えるんだ。
これは、俺にとって、是か非か。
﹁⋮⋮⋮⋮じぃ∼﹂
もう一度、落ち着いてエリスを見る。
屈辱と怒りに我を忘れそうな顔だ。
ライオンが鉄格子に噛み付いているような⋮⋮。
けど、後の事さえ考えなければ、これはこれでいいんじゃないか?
いや、まて、逆に考えるんだ。
後の事を考えるんだ。
そう、エリスは嫌がっているじゃないか!
354
彼女はこの風習には反対なのだ!
オレ
今後、俺がふたりきりでこの頼み方を要求したとしよう。
数分後にはズタズタにされた雑魚がいた、って事になりかねない。
よし、逆だ。
俺はこの習慣を、やめさせる!
﹁それが人にモノを頼む態度か!!!!﹂
俺の大音声が館に響き渡った。
その後、長時間に渡る大演説を開始。
最終的には熱意は通じ、このボレアス流の﹁頼みごと﹂は全面的
に廃止となった。
ギレーヌからはお褒めの言葉を預かり、
そしてエリスからはなぜか冷たい目で見られた。
355
第十四話﹁凶暴性、いまだ衰えず﹂
1ヶ月が経過した。
エリスが授業を聞いてくれない。
彼女は算術と読み書きの時間になると姿をくらまし、
剣術の訓練が始まるまで、決して顔を見せない。
もちろん例外はある。
魔術の授業だけは、真面目に聞いてくれるのだ。
初めて火弾を出した時には、それはもう嬉しそうな顔ではしゃい
で、
カーテンに火を燃え移らせてボヤになっていた。
彼女は自分の生み出した火を満足気に見ながら、
﹁いずれ、ルーデウスみたいなおっきな花火を上げてみせるわ﹂
と、決意をあらわにした。
俺は火を消し、自分が見ていない所で火の魔術は使うな、と厳命
した。
彼女は素直に頷いた。
ヤル気は十分だ。
これなら他の教科も大丈夫だろうと思った。
しかし、見通しが悪かった。
356
算術と読み書きはさっぱり聞かない。
諭そうとしても逃げ出す。
捕まえようとすると殴ってから逃げ出す。
追いかければ戻ってきて殴ってから、再度逃げ出す。
算術と読み書きの重要性は先日の一件でわかったはずなのに、だ。
よほど嫌いらしい。
そのことをフィリップに言いつけると、
﹁授業を受けさせるのも、家庭教師の仕事だよ﹂
と返された。
そういうものかと無理やり納得してエリスを探す。
ギレーヌにも読み書きと算術は教えるが、
言うまでもなく、彼女はオマケだ。
ギレーヌだけを教えるわけにはいかない。
しかし、簡単に見つかるものではない。
館にきてから一ヶ月の俺と、何年も暮らしているエリス。
土地勘には大きく差があり、隠れんぼは言わずもがな。
それでも、今までの家庭教師はなんとか見つけ出したらしい。
そして手酷い反撃にあって退職した⋮⋮。
あるいは、エリスを叩きのめした教師もいたらしい。
しかし、夜半に木剣をもったエリスに寝込みを襲われ、全治何ヶ
357
月かの怪我を負って退職したという。
夜襲・朝駆けを返り討ちにできたのはギレーヌだけなんだとか。
ちなみに、もう一人の家庭教師の人はエリスの乳母だったので、
なんとかなっているらしい。
発見しても病院送りの未来しか無い。
できるなら見つけたくない。
見つけてボコボコにされるのは嫌だ。
魔術を聞いてくれるなら、魔術だけでいいじゃないかと思う。
しかし、フィリップは、算術や読み書きも教えろと言ってくる。
魔術と同じぐらい教えろと言ってくる。
君なら出来ると無責任に言ってくる。
むしろ魔術よりそっちのほうが重要だと言ってくる。
ごもっとも。
いっそもう一度誘拐でもさせた方がいいかもしれない。
懲りない子にはお仕置きが必要なのだ⋮⋮。
﹁すぅ∼⋮⋮すぅ∼⋮⋮﹂
と考えていると、とうとう俺は見つけてしまった。
馬小屋の藁束に埋もれて、ヘソを出して気持ちよさそうに眠るエ
リスの姿を。
すやすやと眠っている。
その寝顔はまるで天使のようだ。
デビル
リバース
けど、外見に騙されると、デビルリバースだ。
もちろん、悪魔に殴られて血反吐を吐くという意味だ。
358
けれども、起こさないわけにもいかない。
とりあえず、風邪を引くといけないのでエリスの服をひっぱって
ヘソを隠す。
そのまま胸を揉み揉み。
俺の中の仙人が評価する。
﹃ふむ、まだまだAAじゃな。しかし成長率は高い。
伸ばしていけばEランク以上になるじゃろう。
毎日揉んで成長を確かめるのじゃぞ。
それもまた修行じゃて。ホッホッホ﹄
ありがとう、仙人!
十分楽しんだ後、小声で声を掛ける。
﹁お嬢様、起きてください、エリスお嬢様。
楽しい楽しい算数の時間ですよー﹂
起きないかー、しょうがないなー。
悪い子はパンツを脱がされてもしょうがないんだぞー?
と、動きやすそうなロングスカートの中にそろそろと手を差し入
れようとした、その瞬間。
カッとエリスの目が見開いた。
エリスの視線が、自分の足に触れる俺の手から、ゆぅっくりと俺
の顔へ。
寝ぼけた顔がギリッという歯が鳴る音と共に変化した。
く、くるっ!
359
一瞬遅れて、拳が飛んでくる。
顔か! と思って慌てて顔の前でクロスガード。
﹁ぐえっ⋮⋮!﹂
拳は鳩尾に深々と刺さった。
俺は悶絶しながら膝を付く。
リバースはしなかった。デビルだけで済んだ。
﹁ふん!﹂
鼻息を一つ、蹴り一発。
お嬢様は俺の脇を抜けて、馬小屋から出ていった。
−−−
どうしようもない。
俺はギレーヌに助けを求めた。
パウロに脳みそ筋肉とまで言われたギレーヌ。
彼女が算術や読み書きを習う理由なら、きっと説得力も段違いだ
ろう。
彼女の言葉ならエリスも聞いてくれるだろう。
という安直な考えの元だ。
ギレーヌは最初こそ自分でやれという姿勢だったが、
水の魔術で泣き真似して頼んだら、最終的にはしぶしぶ頷いてく
360
れた。
チョロい。
−−−
さて、お手並み拝見。
特に相談はせず、ギレーヌの手腕に任せる事にする。
ギレーヌが動いたのは、魔術の授業の休憩時間中だ。
﹁昔は剣さえあればいいと思っていた﹂
彼女は昔の事について語り出した。
悪童だった自分と、それを受け入れてくれた師匠。
そして、冒険者になって初めて得た、仲間。
長い前置きから紡がれるのは⋮⋮⋮苦労話だ。
﹁冒険者をしていた頃は、他の奴らがみんなやってくれた。
武具、食料、消耗品、日常品の売買、契約書、地図、案内板。
水を入れた水筒の重さ、火種の確保、松明で塞がれる左手⋮⋮
別れた後に大切さに気づいた﹂
パーティとは7年ぐらい前に別れたらしい。
ていうか、パウロとゼニスが結婚して田舎に引きこもるので、解
散する事になったらしい。
薄々そうではないかと思っていたが、同じパーティだったのだ。
361
﹁そのまま残ったメンバーで、という話もあったが、
遊撃を担当していたパウロと、パーティで唯一の治癒術師である
ゼニスが抜けたのだ。
解散しなくても、いずれは別れていた。当然だろう﹂
ちなみに六人パーティで、
剣士、剣士、戦士、シーフ、僧侶、魔術師。
職業で表すとこんな構成だったのだとか。
当時剣聖だったとはいえ、ギレーヌの攻撃力は高い。
パウロ
戦士:タンク
ギレーヌ
剣士:サブタンク兼アタッカー
剣士:アタッカー
ゼニス
魔術師:アタッカー
僧侶:ヒーラー
と、かなりバランスが取れていたと見る。
ちなみにシーフというのは、ギレーヌ曰く雑用係の総称なのだと
か。
解錠や罠発見、テント設営から商人との売買取引まで。
字が読めて頭の切れる、ハシっこいヤツが担当するらしい。
商家の出が多いのだとか。
﹁せめてトレジャーハンターとでも呼んであげればいいのに⋮⋮﹂
思わずそう言ったが、
﹁あいつはすぐパーティの財布から金をくすねてギャンブルをやっ
ていたからな。シーフで十分だ﹂
362
ひでーなおい。
﹁それって、バレたら袋叩きなんじゃないですか?﹂
﹁いや。ギャンブルの才能があるヤツで、増やして帰ってくること
も多くてな、半分以下にすることは滅多になかった。余裕のない時
は自重していたしな﹂
という事らしい。
いくら分別があっても、ねえ。
なんでそんなのを許しているんだろうか⋮⋮。
理解に苦しむ。
自慢じゃないが、俺はギャンブルにだけは手を染めていないのだ。
もっとも、ネトゲには10万以上使ってるがね。
ま、パーティ内にパウロみたいな女にだらしないのもいるわけだ
し、道徳的にはそれほどカッチリしたパーティではなかったのだろ
う。
線引は人それぞれだ。
人の集まりの数だけルールがある。
﹁そういえば、剣士と戦士の違いってなんなんですか?﹂
と、気になって聞いてみた。 ﹁剣を使っていて流派が三大流派なら剣士だ。
三大流派以外なら剣を使っていても戦士、三大流派でも剣を使っ
ていなければ戦士だ﹂
﹁へぇ、剣士ってのは特別な称号なんですね﹂
363
というより、三大流派が特別なのか。
誘拐犯を倒した時のギレーヌの剣はすごかった。
抜刀のタイミングすらわからなかった。
ふっと動いたら、相手の首がずるっと落ちたのだ。
後で聞いたが、﹃光の太刀﹄あるいは﹃光剣技﹄と呼ばれる奥義
らしい。
﹁騎士というのは?﹂
﹁騎士は騎士だ。国か領主に任命されれば騎士だ。
教養があるから文字が読めて算術が出来る。
中には簡単な魔術を使えるヤツもいる。
ただ、貴族出身が多く、プライドが高い﹂
教養があるのは、学校に通ったりするからだろうか。
﹁父様はその時はまだ騎士じゃなかったんですか?﹂
﹁詳しいことは知らんが、パウロは剣士を名乗っていたな﹂
﹁魔法剣士とか、魔法戦士? というのもあると聞いたことがあり
ます﹂
﹁攻撃魔術を使えるヤツの中には、そう名乗るヤツもいるな。
どんな職業でも、名乗るのは自由だ﹂
﹁へぇ∼﹂
エリスはそんな話を、目をキラキラして聞いていた。
近いうちに、俺かギレーヌを連れだして近所の迷宮に行くとか言
い出さないだろうか。
不安だ。
俺はそんな冒険とかより、女の子に囲まれてエロティックな毎日
364
を送りたい。
ああ、しかししまった。
ギレーヌに読み書きとかの重要性を語ってもらう予定だったのに。
つい自分の好奇心を優先してしまった。
失敗、失敗。
−−−
しかし、
エリスは算術と読み書きの授業に出るようになった。
ギレーヌのおかげだ。
ギレーヌはあの後も、
何かある度に苦労話を話してくれた。
妙に胃が痛くなる展開ばかりだったが、おかげで効果は抜群だ。
エリスも、必要なものと割り切ってくれたのかもしれない。
最初からこうしておけばと思わなくもなかったが⋮⋮。
なにはともあれ、とにかくよし。
いや、多分あの一件がなければ、多分お嬢様は話すら聞いてくれ
なかったよ?
ムシケラみたいな目で見てたもん。
だから無駄じゃなかったよ。
365
−−−
まずは初期の授業として、四則演算の概念を教える。
一応は学校に行ったり家庭教師を雇っていたりということもあり、
エリスも簡単な足し算なら出来るようだった。
﹁ルーデウス!﹂
﹁はい、エリス君﹂
元気よく手を上げるエリスを指さす。
﹁割り算というのはなんで必要なの?﹂
彼女は掛け算と割り算の重要性を理解していなかった。
そもそも彼女は、引き算が苦手だった。
桁の変わる引き算で算数を諦めたパターンであるらしい。
﹁必要というより、掛け算と逆のことをしているだけです﹂
﹁どこで使うかを聞いているの!﹂
﹁そうですね。例えば100枚の銀貨を5人で均等に分けたい時と
かですね﹂
エリスは机をバンと叩いた。
﹁前の教師も同じことを言っていたわ!
だから、どうして! 均等に! 分ける必要があるの!﹂
そう。
やりたくない子はこういう屁理屈を吐く。
366
でも、ハッキリ言って、そこは全然重要じゃない。
﹁さぁ。それはその五人に聞いてみないと。ただ均等に分けたい時
に割り算が使えると便利なだけです﹂
﹁便利ってことは、別に使わなくてもいいのね!?﹂
﹁使いたくなければ使わなくてもいいですよ。
もっとも、使わないのと、できないのでは、大きく違いますがね﹂
﹁むぅ⋮⋮﹂
出来ないのか? と聞くと、プライドの高いエリスは口をつぐむ。
けれど、根本的な解決にはならない。
やはり何かと屁理屈をこねて、算術は習わなくていい、という流
れにしようとする。
こういう時には、ギレーヌに頼る。
﹁ギレーヌ。今までに数を均等に分けたくて困ったことはあります
か?﹂
﹁ああ、迷宮で食料を落として引き返すことにしたのだが。
残った食料を帰りの日数分で分けようとして、失敗した。 三日も飲まず食わずだった。
死ぬかと思った。
途中、耐え切れずに落ちていた魔物のクソを食ったが、腹を下し
た。
吐き気と腹痛、下痢に耐えていると周囲に魔物の群れが︱︱︱﹂
胃が痛くなる話が、五分ほど続いた。
俺は青い顔で聞いたが、エリスにとっては武勇伝だったらしい。
目をキラキラさせている。
﹁だから割り算は覚えたい。授業の続きを頼む﹂
367
ギレーヌがこう言うと、エリスはおとなしくなる。
サウロス以下、この一族はみんな獣族が好きらしく、態度にはあ
まり表さないものの、エリスもギレーヌに懐いていた。
エリスも、ギレーヌの話なら、黙って聞いてくれる。
姉貴にくっついて、なんでも真似したがる弟がこんな感じだった
かもしれない。
﹁では、今日も楽しくない反復練習と行きましょう。
こちらの問題を⋮⋮全部解いたら持ってきてください。
わからなかったら、その都度質問を﹂
そんな感じで、次第に順調になっていった。
−−−
ギレーヌは教師としても優秀だった。
﹁踏み込みの姿勢を覚えろ、相手をよく見ろ﹂
カツンと、俺の持つ木剣がエリスの木剣にはじかれる。
﹁相手より早く踏み込んだなら相手の動きを読み、そこに剣を打ち
込め。
相手より遅く踏み込んだのなら、相手の剣の軌道から半身ずらせ
!﹂
どっちもできなくて、俺はエリスの剣にガツンと殴られた。
368
なめし革に綿を詰めたプロテクター越しに、重い衝撃が伝わって
くる。
﹁相手の足先と目線で行動を予測しろ!﹂
また殴られた。
﹁ルーデウス! 頭で考えるな! まずは相手より先に踏み込んで
剣を振ることを考えろ!﹂
考えるのか、考えないのか、どっちだよ!
﹁エリス! 手を休めるな! 相手はまだ諦めてはいないぞ!﹂
﹁はい!﹂
エリスには返事をする余裕があり、俺には無い。
この差がお分かりいただけるだろうか。
ギレーヌが制止を命じるまで、俺はエリスに殴られ続けた。
エリスは、算術の授業の鬱憤を晴らすかのように、容赦なく俺を
殴った。
俺は8回に1回ぐらいしか返せない。
ちくしょう。
だが、この一ヶ月で自分の腕が格段に上がっていることが実感で
きた。
ギレーヌは逐一、俺の悪い部分を指摘し、助言をくれる。
パウロもしてくれたが、ここが悪い、あそこが悪いと言うだけで、
どうすればいいのかは教えてくれなかった。
加えて、エリスという、同じぐらいの相手がいるのもよかった。
369
同じぐらい⋮⋮同じ初級。
とはいっても、エリスの方が上だ。
パウロについて何年も体作りと剣術に打ち込んできただけに、悔
しく思うが⋮⋮。
エリスはギレーヌについて結構長いようだし、仕方ない。
インパラとライオンが同じ訓練をしたって、ライオンの方が強く
なるに決まっているのだ。
しかし、差があるとはいえ、パウロやギレーヌと比べれば微々た
るもの。
相手が何をしているのかわかるレベルだ。
わかっていれば、次の課題になる。
さっきはあの技でやられた。
だから、次はそれを警戒してこういう風に動いてみよう。
そう考えることが出来る。
パウロを相手にしている時は、技量が違いすぎてそれがままなら
なかった。
相手が何をやっているのかまったくわからず、
理解できないまま、やられてしまうのだ。
アドバイスを受けても基礎的な技量が違いすぎて相手に通じない。
だから、自分のやってる事に常に疑問を持ってしまう。
ギレーヌはそれでも教え方がうまいおかげか納得できた。
が、彼女は同時に返し技というか、対処法も教えてくれる。
そのため、やはり技を放つ際に迷いが生まれてしまう。
しかし、エリスが相手であれば、
ちょっとした小細工や、小さな動きの変化で結果が変わるように
370
なった。
技量に差があまり無いから、なんとか通用するのだ。
明日になれば通用しなくなったり、
またエリスが違うことをするようになったり。
昨日出来なかったことが出来たり、昨日されなかったことをされ
たり。
ギレーヌの指導をうけつつも、そうした小さな発見を積み重ねて
いく。
やはり、ライバルという存在はいい。
身近な目標に追いつき、追い越し。
1か2ぐらいしか変化していなくとも、差の少ない当人たちにと
っては抜かれ、抜き返すための大きな変化だ。
そして、それが知らぬ間に蓄積されていき、強くなるというわけ
だ。
もっとも、成長速度はエリスの方が早いようだが⋮⋮。
﹁ルーデウスはまだまだね!﹂
倒れ伏した俺を見下ろして、エリスが腕を組んでみおろしてくる。
それを、ギレーヌが窘める。
﹁自惚れるな。エリスの方が剣を持ってからの年月が長い。そのう
え年上だ﹂
371
剣術の授業中だけ、ギレーヌはエリスのことを呼び捨てにした。
呼び捨てでなければいけないと言っていた。
﹁わかってるわ! それにルーデウスには魔術もあるしね!﹂
﹁そうだ﹂
エリスは、俺の魔術の腕だけは認めてくれている。
一つでも認める所があれば、エリスは話を聞いてくれる。
少なくとも、その分野に関してだけは。
﹁しかし、ルーデウスは相手に攻められると、妙に体の動きが鈍る
な⋮⋮﹂
﹁怖いんですよ、目の前の相手が本気で襲い掛かってくるのが﹂
そう言うと、エリスに頭をパシンと殴られた。
﹁なによ! 情けないわね! そんなんだからナメられるのよ!﹂
﹁いや、ルーデウスは魔術師だ。それでいい﹂
間髪いれずギレーヌがいうと、エリスは偉そうに頷いた。
﹁そうなの? じゃあ仕方ないわね!﹂
あれ?
なんで俺、殴られたの?
﹁すまんが、足が竦む癖の直し方は知らん。自分でなんとかしろ﹂
﹁はい﹂
今のところ、どんな相手にでも竦むので、先は長そうだが。
372
﹁でも、ギレーヌに指導してもらうようになってから、結構強くな
った気がします﹂
﹁パウロは感覚派だからな。教えるのは得意ではあるまい﹂
感覚派!
あ、やっぱこっちの世界でもそういうのあるんだ?
﹁なによ、カンカクハって?﹂
﹁言われた事とか、やりたい事を、なんとなくこんな感じかな、っ
てやるだけで出来ちゃう人のことですよ﹂
エリスの問いに俺が答える。
すると彼女は口を尖らせた。
多分、彼女も感覚派だ。
﹁いけないことなの?﹂
いけない事かと聞かれると答えに困る。
今は剣術の授業だから、先生に答えてもらおう。
俺はギレーヌに視線を向ける。
﹁悪くは無い。
だが、才能があっても頭を使わなければ強くなれんし、人にもう
まく教えられん﹂
﹁どうしてうまく教えられないのよ?﹂
﹁自分がやっていることを理解していないからだ。
そして、全てを理解していなければ、より難しいことは出来ん﹂
剣王の人に言わせると、上級までは基礎と応用らしい。
373
全ての基礎を完璧に出来て、状況に応じて使い分けられるように
なって、初めて剣聖になれるのだとか。
それ以上は、たゆまぬ努力と才能らしい。
結局は才能か。
﹁私も昔は感覚派だったが、頭を使い、きちんと理論を立てたら剣
王になれた﹂
﹁すごいなぁ﹂
俺は素直に関心する。
自分のやり方を曲げて、成功する。
中々できるもんじゃない。
﹁ルーデウスも水聖級魔術師じゃないか﹂
﹁俺はそれこそ感覚派ですよ⋮⋮。
それに、魔術は剣術と違って、魔力さえあれば出来るって部分も
ありますから﹂
﹁ふむ。そうなのか⋮⋮だが、基礎は大事だぞ?﹂
﹁わかっています。
というより、俺が聖級になれたのは、師匠の教え方がよかったか
らですしね﹂
むえいしょう
思えば、基礎的なことが重要だと言いつつも、
自分自身は応用的な事ばかりを重視してきたからな。
てかそもそも、魔術の基礎的なことで足りてないのってなんだ?
ロキシーは基礎よりも、もっと先へと進ませるような授業をして
いたし。
ていうか、ロキシーも天才肌っぽかったから、あまり基礎とか重
視してないのかもしれない。
374
うーむ⋮⋮。
﹁私はそんなに強くなるつもりはないから、関係ないわね!﹂
考えこんでいると、エリスが胸を張って言った。
その言葉に、俺は苦笑する。
中学時代、俺もそんなことを言っていた。
一番になるつもりはないとか言って、努力を怠った。
これは正してやらなければと思い、
﹁でも、ギレーヌとルーデウスぐらいになれるように頑張るわ!﹂
やめた。
彼女にはちゃんと目標がある。
かつての俺とは違うのだ。
−−−
午前の授業、午後の剣術が終わると、暇な時間となる。
エリスとギレーヌが魔術教本を持っていたので、
もしかしたら、この館の書庫には魔導書があるかもしれない。
そう思ってメイドさん︵イヌミミ︶に案内してもらう。
すると、フィリップの奥さん︵ヒルダさんというらしい︶とすれ
違った。
375
赤い髪で、エリスの将来が期待できるバインバインの持ち主だ。
一応、一度だけ紹介されてはいたものの、
さして接点のない相手だ。
ええと、確か片方の手を胸に当てて⋮⋮。
﹁奥様、本日はお日柄もよく⋮⋮﹂
﹁チッ﹂
ヒルダさんは挨拶をする俺を、舌打ち一つでスルーした。
ちょっとショック。
嫌われているらしい。
近づかないようにしよう⋮⋮。
そういえば、彼女はエリス以外に子供はいないのだろうか⋮⋮。
いや、なんか聞いたらエリス以上に凄いのが出てきて、
仕事量が3∼4倍に増える気がする。
藪は突くまい。
書庫にたどり着くとフィリップがいた。
﹁君、書庫に興味があるのかい?﹂
書庫を見せてもらえないかと頼むと、
フィリップは何かを期待する目で見てきた。
何を期待しているのだか。
376
残念ながら書庫に俺の望むものはなかった。
ロキシーのように魔導書でも見つかればと思ったが、持ち出し禁
止の財政資料が大量にあるだけだった。
魔導書は世界に数冊しかないらしく、置いてはいないらしい。
そうそううまくはいかない。
ただ、端の方で何冊かこの世界の歴史書を見つけたので、暇を見
つけて勉強しようとは思う。
−−−
一日が終わると、俺は与えられた自室で翌日の授業の準備をする。
主に算術用の練習問題の作成。
読み書き用の書き取りの作成。
それと魔術教本を読んでの予習だ。
特にカリキュラムっぽいものは無い。
五年間で教える事が無くなったら困るので授業の進む速度はゆっ
くり。
とにかく苦手な所を作らないように、じっくり反復練習させてい
くのが教育方針だ。
シルフィに教えてる時も、そんな感じだった。
魔術の予習は、俺が詠唱呪文を忘れている事にある。
アンチポイズン
普段から口にしていないから、すぐに忘れてしまうのだ。
真面目に覚えた詠唱はヒーリング関係と解毒ぐらいで、攻撃魔術
は覚えようとも思ってないしね。
377
魔術教本は、家にあるのとまったく同じものだった。
エリスもギレーヌも持っていた。
なんでも、千年ぐらい昔に出て以来、
何百冊と写本が出ているベストセラーなのだとか。
フィリップに聞いた話によると、
この本が出てから、魔術師の平均レベルが飛躍的に上昇したらし
い。
それまでは、魔術を習いたければ師匠につかねばならず、
その師匠も。せいぜい初級魔術が全部使える程度という事も多く、
せっかく師事しても、大したことは学べない。
というケースも多かったのだとか。
俺の知る限り、
この世界にはコピーはおろか、印刷技術すら無い。
ベストセラーといっても数は少なく、そうそう出回るものでも、
出回ったとしても魔術に興味のない者の目に止まるわけではなかっ
た。
それが大量に出回るようになったのは、五十年前ぐらいだそうだ。
どこでも誰でも安価で手に入る魔術教本のおかげで、魔術師の数
が爆発的に増えた。
世はまさに魔術師ブーム⋮⋮というほどではないが、
アスラ王国の貴族の中では教育過程で教えることも少なくないの
だとか。
しかし、一体どういう理由で魔術教本が増えたのだろうか⋮⋮。
そう思い奥付を読んでみると、﹃ラノア魔法大学 発行﹄と書い
てあった。
378
なるほど。
うまい商売だ⋮⋮。
−−−
家庭教師の日々は、瞬く間に過ぎていった。
379
第十四話﹁凶暴性、いまだ衰えず﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:エリス・B・グレイラット
職業:フィットア領主の孫
性格:凶暴
言う事:聞いてやってもいい
読み書き:家族の名前まで書ける
算術:引き算が怪しい
魔術:頑張ろうかなと思ってる
剣術:剣神流・初級
礼儀作法:普通の挨拶も出来る
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ
380
第十五話﹁職員会議と日曜日﹂
半年ほど経った。
最近おとなしかったエリスが凶暴に戻り始めた。
なんで、どうして、誰が何をしでかしたの!?
と、焦ったが、あることに気付いた。
休みが無い。
−−−
俺は夕飯の後、
ギレーヌと礼儀作法の先生を自室に呼びつけた。
ちなみに、礼儀作法の先生は館の中に住んでいない。
町中の自宅から通っている。
なので、執事に伝言を頼んだのだ。
﹁まずは初めまして。ルーデウス・グレイラットです﹂
﹁エドナ・レイルーンと申します。エリス様に礼儀作法を教えてお
ります﹂
胸に手を当てて軽く会釈すると、エドナは礼儀通りの洗練された
返礼をする。
381
さすが礼儀作法の先生だ。
エドナは顔に小じわが目立ち始めた中年女性だった。
ふっくらとした顔立ちで、
柔らかい笑みが実に温和そうな印象を与えている。
﹁ギレーヌだ﹂
ギレーヌはいつも通りの筋肉だ。
俺は二人に椅子を勧める。
二人が座った後、
執事に用意してもらったお茶を配り、本題に入る。
﹁本日、二人をお招きしたのは他でもありません、エリスお嬢様の
授業計画を話し合いたいと思ったのです﹂
﹁授業計画?﹂
﹁はい。今までは、朝は剣術、昼は自由時間、夕方は礼儀作法とい
った形でやってきたと聞いております。
間違いありませんね?﹂
﹁その通りです﹂
エリスが習っているのは、
読み書き、算術、魔術、歴史、剣術、礼儀作法の六科目である。
現代風に言えば、国語算数理科社会体育道徳といった所か。
時計が無いので、何時間ずつと区切ったものではなく、ご飯とオ
ヤツの時間で朝昼夕と分けて3教科だけをやる。
朝飯↓勉強↓昼飯↓勉強↓オヤツ↓勉強↓夕飯↓自由時間。
と、こんな感じだ。
歴史に教師はいないが、フィリップが暇な時に教えているらしい。
382
﹁僕がきたことで、夕方の時間も使ってフルで一日を使えるように
なりました﹂
﹁そうですね。お嬢様の勉強がはかどられているようで、旦那様も
関心していらしておりました﹂
そうでしょうとも。
﹁確かに順調に見えますが、問題が発生しています﹂
﹁問題、ですか?﹂
﹁はい。毎日休みなく勉強している事で、お嬢様のストレスが溜ま
っています﹂
特に算術の授業では顕著だ。
終始イライラしていて、ちょっと難しい問題にぶち当たると、俺
に当ってくる。
とても危険だ。
いつマウントを取られるかわからない。
とても危険だ。
﹁今はまだなんとかなっていますが、そのうち暴れたり、授業を逃
げ出したりするかもしれません﹂
﹁まぁ⋮⋮﹂
エドナは口に手を当てつつも、さもありなんといった顔で頷いた。
礼儀作法の授業は見たことがないが、真面目に受けているのだろ
うか。
エドナは乳母という話だが⋮⋮。
なぜこの人がエリスに気に入られているのか、イマイチわからな
い。
383
﹁そこで、七日のうちに一日だけ、授業を一切しない日を作ろうと
おもいます﹂
ちなみに、この世界にも暦はあり、何月何日という概念はある。
しかし、一週間というものは存在しない。
年に何度か、休息日とかいうのがあるらしいが、日曜日というも
のは存在しない。
七。
その数字を使ったのは、俺が覚えやすいからだ。
しかも、なぜかこの世界でも七という数字は特別らしい。
縁起がいい数字と言われ、剣術とかのランクも7段階だ。
﹁残った六日で、
読み書き、算術、魔術、歴史、剣術、礼儀作法の六つを教えてい
きたいと考えています﹂
﹁一つお聞きしても?﹂
﹁どうぞ、エドナさん﹂
﹁そのまま分配すると、礼儀作法の授業が三度しかないことになる
のですが、お給料の方は⋮⋮﹂
﹁問題ありません﹂
金の問題かよ!
と、エドナを責めないでやってほしい。
俺だって金のためにやってることだ。
エドナが気にしているのは、
﹃授業回数が減ると給料が減るのでは﹄という事だ。
このへんは事前にフィリップと相談しておいたので、問題ない。
384
そもそも、月給制だから、一回も授業しなくても金がもらえるの
だ。
無論、一回も授業を行わなければ翌月は解雇だろう。
そんな事は言わなくてもわかるだろう。
わからないようなヤツは解雇したほうがいい。
﹁もちろんそのまま分配はしません。
読み書き、算術は七日のうちに二度もやればいいでしょう。
剣術は毎日やらないと意味がありません。
魔術も毎日必要ですが、一日に使える魔力には限りがあるので、
長時間は必要ありません、
よって、余った時間は読み書き算術を行うつもりです﹂
つもりというか、最初からそうしている。
﹃今日は水弾をX回、水落はY回使いました。
では、後何回水弾が使えるでしょう﹄といった具合だ
XとかYは、エリスとギレーヌの使用回数に当てはめて問題を出
す。
部屋で数字とにらめっこするよりわかりやすいらしい。
自分の事だからだろうか。
魔力の使用回数は目に見えないので正確な答えを導きにくいのだ
が⋮⋮。
ま、暗算というものは、やればやるだけうまくなるものだ。
頭を使わせるのが目的としておこう。
ちなみに、無詠唱や理科の授業もそのうちやるつもりだ。
だが、それらは読み書き算術がある程度まで出来るようになって
385
からでも遅くはない。
﹁エドナさんには申し訳ありませんが、
礼儀作法は月に3,4回ほど授業を減らしてもらう形になります﹂
﹁わかりました﹂
エドナはあっさりと頷いた。
6日3時限、
18時限。
これを、
礼儀作法は5。
剣術6、
読み書き2
算術2
魔術3
こんな感じに割り振る。
授業時間としては足りないと思うが、
まあ、反復練習が主だし、なんとかなるだろう。
﹁それから、やむを得ず授業を行えない場合は、僕の方に連絡が来
るようにして欲しいのです﹂
﹁と、いうと?﹂
﹁僕は平日は館にいるので、開いた時間に僕が授業を入れます。
なので、例えば長期休暇を取って頂いても問題ありません﹂
﹁平日⋮⋮? わかりました﹂
386
エドナはずっとにこにこしている。
ほんとにわかってるんだろうか⋮⋮。
﹁それと、毎月の初めにこの集会を行いたいと考えています﹂
﹁それはどうして?﹂
﹁我々教師が互いに連携を取っておけば、突発的なハプニングに対
処しやすいかな、と思ったからです。特に必要は無いんですが⋮⋮
効率を上げるのと、あとは念のため、ですね。
いけませんか⋮⋮?﹂
﹁いいえ﹂
エドナは柔らかく微笑んだ。
﹁ルーデウス様はまだ小さいのに、本当にエリス様のことをよく考
えておられるのですね﹂
何か微笑ましいものを見るような目だった。
⋮⋮まぁいいか。
・・
こうして、俺は休日を手に入れたのだった。
−−−
一週間後、初めての休日ということで、お嬢様は何やらそわそわ
していた。
丸一日空くのは初めてらしい。
俺はフィリップに一言挨拶してから、町中へと出かける事へとす
387
る。
すると、なぜか入り口にエリスとギレーヌが待ち構えていた。
﹁どこに行くのよ!﹂
﹁ロアの町をレッツ観光です﹂
ヘィ! と、ポーズを取って言う。
﹁れっつかんこう⋮⋮町を見るってことよね? 一人で?﹂
﹁二人に見えますか?﹂
﹁ずるい! 私は一度も一人で出たことないのに!﹂
エリスは地団駄を踏んで悔しがった。
﹁だって、お嬢様が一人で歩いてると攫われるじゃないですか﹂
﹁ルーデウスもさらわれたじゃない!﹂
ああそうか。
あの時はエリスのついでに攫われたけど、
俺もグレイラット家の一員として見られてるから、
攫われたら身代金とか払っちゃう可能性があるのか⋮⋮。
でもま。
﹁俺は攫われても一人で帰ってこれますからね﹂
ふふんと笑うと、エリスは拳を振り上げた。
俺は咄嗟に守ろうとしたが、打撃が飛んでくることはなかった。
珍しい。
﹁私も付いてく!﹂
388
そういうことにしたらしい。
今までなら殴ってからこの言葉言ってたな。
お嬢様も成長したなあ。
もちろん、俺に断る理由はない。
一人より二人の方が安全だしね。
﹁じゃあ、行きましょうか﹂
﹁いいの!?﹂
﹁ギレーヌも一緒ですよね?﹂
﹁ああ。私の任務はお嬢様の護衛だ﹂
会議の時も、ギレーヌは休日という概念が理解できなかった。
なので、今まで通りエリスにくっついている事をオススメしてお
いた。
元々、彼女は護衛として雇われたらしいし、当然だろう。
﹁待ってて! すぐ用意してくるから! アルフォンスー! アル
フォンスー!﹂
騒がしくも館の中に走っていったエリスを見送る。
でかい声は相変わらずだ。
﹁ルーデウス﹂
ギレーヌに呼ばれて、振り向くと、すぐ側にギレーヌがいた。
見上げる。
彼女は身長2メートル近いため、多分成長しても見上げる事にな
るだろう。
389
﹁あまり自分の力を過信するな﹂
きっちりと釘を刺された。
先ほど、一人なら帰ってこれると言った事だろう。
﹁わかってますよ。
ちょっとお嬢様のヤル気を引き出したかっただけです﹂
﹁そうか。何かあったら呼べ。助けてやる﹂
﹁ええ。その時は、またでかい花火でも⋮⋮﹂
ふと、誘拐された時のことを思い出した。
﹁前に、同じことをお嬢様にも言った事ありますか?﹂
﹁ん? 言ったが?﹂
﹁次からは、声が聞こえる所にいたら、って言葉を付け足したほう
がいいですよ﹂
﹁わかったが、なぜだ?﹂
﹁この間攫われた時、お嬢様が叫びすぎて誘拐犯に殺されかけたん
ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮聞こえれば、助けにいった﹂
ふむ⋮⋮。
まあ、あの時もムチャクチャ早かったしな。
ギレーヌならどこにいても来るだろう。
耳もよさそうだし。
そもそも、エリスが助けを求めたのは、
フィリップでもサウロスでもなく、ギレーヌだもんな。
この女は頼りになるのだ。
390
﹁叫んじゃいけない状況ってのを教えて上げないといけませんね﹂
などと言っているとエリスが戻ってきた。
よそ行きの服装なのか、見たことのない服だった。
服装を褒めたらパシンと頭を殴られた。
なんなのよ⋮⋮。
−−− フィットア領の城塞都市ロアは、このあたりでは一番大きい。
もっとも、大きいといっても、面積で言えば、広大な田園地帯で
あるブエナ村より小さい。
門から出て外壁を一周しても、二時間かそこらで回りきれるだろ
う。
だが、ここは城塞都市だ。
7∼8メートルほどの高さの外壁が町をぐるりと囲んでいるのだ。
完全に円というわけではなく、地形によってぐねっているので、
正確な長さはわからない。
広さは30k㎡ぐらいだろうか。
俺の感覚だと決して広くは無いが、城壁に囲まれている都市でこ
の大きさの都市は少ないらしい。
生前に城塞都市なんて行ったことは無いが、これほどの大きさの
壁を作るのがそんな簡単ではないのはわかる。
391
城壁を作り出す魔術とかあるんだろうか。
あるとしたら、きっと王級とか帝級だろう。
それとも、大雑把に石を作って手作業かな?
などと考えながら金持ちの住宅地を抜け、
人通りの多い広場へと出る。
このへんからが商業エリア。
貴族エリアにほど近いこのあたりは、立派な店が多い。
だが、ちらほらと露天も見かける。
覗いてみると、行商がやや金額の高い品を扱っているようだ。
﹁よう坊ちゃん嬢ちゃん。ゆっくり見てってくんな﹂
RPGの道具屋のおっちゃんみたいなセリフに甘えて、商品を次
から次へと見ていく。
そして、紙に値段と商品をメモる。
ハッキリ言って、怪しげな商品ばかりだ。
媚薬が金貨10枚。
⋮⋮メモメモ。
﹁なによその文字! 読めないじゃないの!﹂
エリスが覗きこんできて、耳元で大声を上げた。
鼓膜が痛い。
ふと見下ろすと、意識しないうちに日本語で書いてしまったらし
い。
﹁メモだから俺が読めればいいんですよ﹂
392
﹁何書いてるか教えなさいよ!﹂
お嬢様は横暴です。
けれど、教えない理由も無い。
﹁商品の名前と値段です﹂
﹁そんな事調べてどうするのよ!﹂
﹁相場を調べるのはネトゲの基本ですよ﹂
﹁ネト⋮⋮なによそれ?﹂
口で言っても理解できないかと思い、俺は商品の一つを指さす。
小さなアクセサリーだ。
﹁ほら、見て下さい。さっきの露天だと金貨5枚で売っていたもの
が、こっちだと金貨4+銀貨5枚で売っていますよね﹂
﹁お、坊ちゃん。なかなか目がいいねえ。ウチは格安だろ!﹂
俺はおっちゃんを無視してエリスに向き直る。
﹁エリス。ここで頑張って金貨3枚まで値切ってから、
さっきの店で金貨4枚で売れば、いくらの儲けが出ますか?﹂
﹁えっ! えっと、5ひく3たす4で、金貨6枚!﹂
なんだその計算は。
﹁ブー、不正解です。正解は金貨1枚です﹂
﹁わ、わかってたわよ!!﹂
エリスは口を尖らせてそっぽを向いた。
393
﹁本当ですかぁ?﹂
﹁さ、最初に金貨を10枚持っていたら、11枚になるんでしょ?﹂
お。よくできました⋮⋮。
って、増やしただけじゃねえか。
まあいい。褒めておこう。
彼女はプライドが高いから褒めて伸ばすのだ。
﹁お、今度は正解です。いやー、エリスは賢い﹂
﹁ふん、当然よ﹂
俺たちの話を、おっちゃんは苦い顔で聞いていた。
﹁なぁ、坊ちゃん。そういうのは転売つってな。
あんまりほめられた行為じゃねえから、やっちゃいけねえぞ?﹂
﹁もちろんですよ。
だからやるとしたら、向こうで4枚で売ってましたよって教える
ぐらいですね。情報量は大銅貨1枚ぐらいでしょうか﹂
おっちゃんは苦虫を噛み潰した。
そして俺たちの背後にいるギレーヌに助けを求めたが、
彼女はむしろ俺の話を真剣に聞いていた。
何を言っても無駄だと悟ったのか、
おっちゃんは肩をすくめてため息をついた。
すまんね。
どうせ冷やかしだから、見逃してくれや。
﹁商売をするつもりが無くても、色んなものの値段ってのは知って
394
おかないといけません﹂
﹁知っていればどうだっていうのよ!﹂
﹁例えば、店まで行かなくても、大体の計算ができる﹂
﹁それが何の役に立つっていうのよ!﹂
なんの役に⋮⋮?
えっと、転売をする時に大体の稼ぎが⋮⋮あれ?
よし、
こういう時はギレーヌだ。
﹁ギレーヌは何かの役にたつと思います?﹂
﹁⋮⋮⋮いや、わからん﹂
え、マジで?
⋮⋮わからないか。
わかるかと思ったけど。
じゃあ、いいか。
別に授業でもないし。
﹁そうですか。じゃあ何の役にも立たないのかもしれませんね﹂
あくまで俺の勉強だ。
理解が得られなくてもいい。
市場を見かけたら、まずはそこで売られているものの相場を調べ
る。
ずっとやってきたことだし、間違いはない。
と思うけど、
395
自分の足で調べるのは初めてだし、やって意味があるのかもわか
らない。
﹁役に立たないかもしれないのに、なんでやるのよ!﹂
﹁俺は役にたつと思ってるからですよ﹂
エリスは納得のいかない顔をしていた。
俺だって、なんでもかんでも答えられるわけじゃないんだ。
少しは自分で考えてくれや。
﹁自分で考えてみて、役に立つと思えば真似すればいいし、
役に立たないと思えば指さして笑えばいいんですよ﹂
﹁じゃあ私は笑う側ね!﹂
﹁あはははは﹂
﹁あんたが笑ってどうすんのよ!﹂
殴られた。ぐすん。
周囲の露天をチェックし終えた。
立派な店構えの高級店は敷居が高いので遠慮。
−−−
少し町の外側へと移動する。
売っている物がガラリと変わる。
値段も金貨5枚前後から金貨1枚前後へと安くなる。
まだ高い。
俺の買えそうなものはない。
396
が、人は増えた。
貴族っぽい人から冒険者っぽい人まで。
金貨一枚ぐらいが、高いけどギリギリ買う値段、といった所なの
かもしれない。
メモを取っていると、ふとある店が目に入った。
本屋である。
入ってみる。
なんとも閑散とした雰囲気のある店内だった。
エロ本をメインとする店舗の一般紙コーナーとでも言うべきか。
本棚は二つ。
同じタイトルの本が2∼3冊ずつ並んでいる。
一冊大体、金貨1枚かそこら。
残ったスペースには、鍵の付いたケースに入った本が並んでいる。
こちらは平均金貨8枚で、一番高いものが金貨20枚だった。目
玉商品か。
店主は俺の姿を見た瞬間から、冷やかしと見切って対応にはこな
い。
正解。
俺は一つずつタイトルをメモっていく。
店主が訝しげな目で見てくる。
大丈夫ですよー、本にはノータッチですよー。
写したりはしませんよー。
397
﹁植物辞典、金貨七枚⋮⋮﹂
たけー。
金貨1枚を10万と仮定すると、70万っすよ?
ウチの母さんはどんだけ無茶したんだ⋮⋮。
しかし、やはり辞典系が高いらしい。
﹃シグの召喚魔術﹄とかぜひ読みたいけど、金貨10枚。
月給銀貨2枚の俺には買える要素無し。
一番高いのは﹃アスラ王宮宮廷儀式﹄。
これはいらない。
﹁なにを物欲しそうに見てるのよ﹂
エリスが話しかけてきた。
メモも取らずに見ていたので、気になったのだろう。
﹁いや、なんか面白そうな本ないかと思って﹂
﹁そういえば聞いたわよ! あんた本が好きなんですって!?﹂
﹁誰から聞いたんですか?﹂
﹁お父様よ!﹂
フィリップか。
書庫を見せてくれって頼んだしな。
﹁な、なんだったら一冊買ってあげてもいいわよ﹂
﹁軽く言いますが、エリスはお金を持っているんですか?﹂
﹁お祖父様が出してくれるわ!﹂
398
ですよね。
甘えさせちゃいけません。
本は欲しいけど⋮⋮。
本は欲しいけど!
﹁いらないです﹂
﹁なんでよ!﹂
エリスは、口を尖らせていた。
不機嫌な時の顔だ。
これが悪化すると、鬼の形相で殴ってくる。
なので、まだ大丈夫。
まだ理性がある。
﹁エリスが自由にしていいお金じゃないからです﹂
﹁どういう事よ﹂
エリスが眉を寄せた。
意味がわからないから、どんどんイラついているのだ。
最近、エリスの怒りのボルテージメーターが見えるようになって
きた気がする。
どう説明するべきか。
そもそも、貴族の娘に金の使い方を覚えさせる意味はあるのか?
ええい、ままよ。
﹁俺がエリスに勉強を教えて、月にいくらもらっているか知ってい
ますか?﹂
﹁⋮⋮⋮金貨5枚ぐらい?﹂
399
﹁銀貨2枚です﹂
﹁安すぎるわよ!﹂
エリスは叫んだ。
店主がうるさそうに顔をしかめている。
﹁いえ、実績もなく年齢も幼い俺には、妥当な線でしょう﹂
魔法大学の学費を肩代わりしてもらうって話もあるしね。
﹁で、でもギレーヌは金貨2枚だって⋮⋮!
ルーデウスの方がいっぱい教えてるじゃないの!﹂
﹁ギレーヌは実績もあって、剣王という肩書きを持っています。
また、護衛という仕事も兼任している。
ギレーヌさんの給料が高いのは当然です﹂
最も、ボレアス・グレイラット家の悪しき伝統も含まれているん
だろう。
あそこの家なら、﹃獣族の女子優遇!﹄とかやりそうだ。
﹁じゃ、じゃあ私だったら?﹂
﹁魔術も剣術もできなくて実績のないお嬢様の給料は、
どれだけ高くても銀貨1枚が関の山です﹂
﹁むぅ⋮⋮﹂
ちなみにエリスはお小遣いさえもらえていない。
﹁誰かに何かを買ってあげるとかは、自分でお金を稼げるようにな
ってからにしてください﹂
﹁わかったわよ⋮⋮﹂
400
エリスは珍しく萎れていた。
いつもこれぐらいなら楽なんだが⋮⋮。
﹁まあ、お小遣いを貰えるように、帰ったらフィリップ様に頼んで
みましょう﹂
﹁ほんと!?﹂
ピコンと、エリスが顔を上げた。
好感度の上昇を感じる⋮⋮。
ま、お金を与えず、欲しいものを与えるってのも、また甘やかし
だからな。
ちょっとだけお金を与えて、お金の使い方を学ばせたほうがいい。
めぼしい本のタイトルをメモって、店を出る。
今日一日で、欲しいものと値段は大体わかった。
−−−
帰りがけに空を見る。
城が浮いていた。
雲に混じって、うっすらと、しかし泰然と。
﹁なぁっ!﹂
401
驚いて空を見上げ、指差す。
周囲の人々が一瞬だけ俺の指の先を見て、すぐに興味を失った。
え? 見えてるよね?
俺だけ?
天空の城ラ○ュタが見えてるの、俺だけ?
父さんは嘘つきだった?
﹁見るのは初めてか?
あれは﹃甲龍王﹄ペルギウスの空中城塞だ﹂
ギレーヌが俺の疑問に答えてくれた。
知っているのかライデ⋮⋮ギレーヌ!
それにしても、空中城塞。
ほお、かっけえなー。
﹁ペルギウスって?﹂
﹁知っているだろう?﹂
聞いたこともある気がするが、思い出せない。
﹁なんでしたっけ?﹂
ギレーヌが、ちょっと驚いた顔をして、言葉を選んでいる。
と、エリスが俺の前に出てきて、腕組みで仁王立ちした。
﹁あたしが教えてあげる!﹂
﹁お願いします。教えてください﹂
﹁いいわ!
ペルギウスっていうのはね、魔神ラプラスを倒した三英雄の一人
なのよ!﹂
402
胸を張ってエリスが言った。
魔神ラプラス⋮⋮あれ、どっかで聞いたような⋮⋮?
﹁すっごく強くってね。12人の下僕を率いて、空中要塞でラプラ
スの本拠地に乗り込んだのよ!﹂
﹁へぇ、それは凄いですね﹂
﹁でしょ!﹂
﹁お嬢様は博識ですね。ありがとうございます﹂
﹁うふふ! ルーデウスもまだまだね!﹂
突っ込んだ質問をすると、また殴られるからな。
俺だって学習するのだ。
なので、帰ってから自分で調べてみる。
フィリップに聞いてみたところ、どこかにその手の本があったは
ず、とのこと。
頼むより前に執事の人が探して持ってきてくれた。
お手数かけます。
結論からいうと、ブエナ村の実家にあった本だった。
﹃ペルギウスの伝説﹄
てっきりお伽話だとばかり思っていたが、どうやら史実だったら
しい。
403
﹃ペルギウスの伝説﹄を要約すると、こんな感じだ。
﹃甲龍王﹄ペルギウス
かの者がどこで生まれ、どこで育ったのかは誰にもわからない。
当時、まだ有名ではなかった若かりし頃の龍神ウルペンに連れら
れ、冒険者ギルドへとやってきたのが、最古の記録である。
ペルギウスは瞬く間にその実力を示し、龍神ウルペン、北神カー
ルマン、双帝ミグス・グミスらとパーティを組んで、あらゆる敵を
撃破した。
ウルペンの弟分のような存在であったがゆえか、いつしかペルギ
ウスは古の伝説に残る龍神の配下﹃五龍将﹄の一人と同じく﹃甲龍﹄
と呼ばれるようになる。
その力は、ラプラス戦役においても遺憾なく発揮された。
ペルギウスは己の得意とする召喚魔術を用いて、12体の使い魔
を創りだした。
空虚、暗黒、光輝、波動、生命、大震、時間、轟雷、破壊、洞察、
狂気、贖罪。
これらの名を持つ最強の使い魔を操り、古の空中城塞﹃ケィオス
ブレイカー﹄を復活させ、ラプラスとの決戦に臨んだ。
しかし、力は一歩届かず、ラプラスを完全に消滅することは出来
ケィオスブレイカー
ず、封印するに留める結果に終わった。
だが、その力と、空中城塞の威容を見て、人々は彼のことを﹃甲
龍王﹄と呼ぶようになった。
アスラ王国は彼の功績を讃え、戦争終結と同時に新たなる年号を
発表。
それが現在の﹃甲龍歴﹄である。︵ちなみに、今は甲龍歴414
年︶
ケィオスブレイカー
﹃甲龍王﹄ペルギウスは、王として君臨も統治もすることなく、
ただ空中城塞で世界中の空を飛び回っているらしい。
404
その真意を知る者は、誰もいない。
てか、400年て、本当にまだ生きてんのか?
主のいない城がふわふわ飛び回ってるだけじゃないよね。
でも、いつか行ってみたいな。
−−−
翌日。 エリスの機嫌が最高によくなっていた。
丸一日遊び通すのは初めてだったからだろうか。
それとも、いつもは高級店の所までしか行けないからだろうか。
どちらにせよ、やはり休日を作るのは正解だったらしい。
﹁また連れていきなさいよ!﹂
腕を組んだ仁王立ち。
いつものポーズのエリスだが、ちょっと頬が赤かった。
この頬の赤さはどっちだろうか。
怒りか、屈辱か⋮⋮。
え?
照れ?
そんなわけないじゃないですか。あのエリスですよ?
405
﹁えっと⋮⋮﹂
俺が迷っていると、エリスがギリッと奥歯をかみしめた。
そして、髪を両手でもって腰をつきだして⋮⋮。
﹁つ、連れて行って、くださいニャ⋮⋮﹂
﹁はい、連れていきます、連れていきますからそれはやめましょう
!﹂
慌てて止めた。
あれは確かに可愛いかもしれないけど、
心臓に悪いんだ。
1回やられる度にカルマが溜まっていく気がする。
そしてカルマは拳で清算されるのだ。
﹁ふん! わかればいいのよ!﹂
エリスはパッと髪を散らした。
腰まである赤い髪がふわりと落ちきる前に、
彼女はストンと机に座る。
﹁さあ! 授業の続きをしなさい!﹂
﹁今日はやる気ありますね﹂
﹁どうせ、いい子にしてないと連れて行かないっていうんでしょう
!﹂
お、お嬢様がこんなにお利口に⋮⋮!?
﹁そ、そのとおりです、いい子にしていればまた連れて行ってあげ
406
ますとも!﹂
俺は感動しながら、その日の授業を終えた。
407
第十五話﹁職員会議と日曜日﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:エリス・B・グレイラット
職業:フィットア領主の孫
性格:やや凶暴
言う事:聞いてあげる
読み書き:読みは結構いける
算術:桁の変わる引き算も出来る
魔術:初級を修行中
剣術:剣神流・初級
礼儀作法:普通の挨拶も出来る
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ
408
第十六話﹁お嬢様は十歳﹂
一年が経過した。
エリスの教育は順調に進んでいる。
剣術は筋がいいらしく、彼女は10歳になる前に中級へと上がっ
た。
中級ということは一般的な騎士と渡り合える力がある、というこ
とだ。
ギレーヌいわく、数年中には上級に上がれるらしい。
まだ9歳なのに⋮⋮うちのお嬢様は天才じゃなかろうか。
俺は? と聞くと、目を逸らされた。 エリスは読み書きも、まあ出来た。
特にギレーヌが文字が読めない事の大変さを語ったからだ。
文字が読めなければ何も出来ない、
色んなヤツに騙され、挙句は奴隷として売られてしまう。
そう言われれば、必死に憶えもしよう。
算術の成長は遅かった。
エリスが将来どんな事をするようになるのかはわからないが、こ
の世界では高度な数学は必要ないようなので、ゆっくりでいいと考
えている。
五年で四則演算をマスター。それが目標だ。
魔術も順調だが、やや行き詰まりを感じている。
詠唱による初級魔術はだいたい出来るようになった。
409
エリスが土以外の系統をほぼマスターしたのに対し、ギレーヌは
火だけだ。
同じ授業をしているのに差があるのは何故だろうか。
水、風、土がギレーヌの苦手系統なのか。
苦手となりそうなエピソードがありすぎてわからない。
とにかく、魔術教本に書いてあるものを詠唱すれば出来るという
ものではないらしい。
その部分に関しては、俺も努力して覚えたわけではない。
なのでわからない。
また、最近は無詠唱を練習させているが、芳しくない。
シルフィはすぐにできたのだが、年齢の問題だろうか。
それとも、シルフィは特別才能があったんだろうか。
わからない。
無駄なことを教えているのかもしれない。
さっさと中級に進んだほうがいいのか。
でも、ギレーヌもエリスも剣士だ。
雑事に使える初級をマスターした方が有効だろう。
なら、今のままでいい。
きっといつか出来るようになる、と信じたい。
どの教科も順調⋮⋮に思えたが、
礼儀作法で問題が発生していた。
−−−
もうすぐ、エリスは10歳の誕生日を迎える。
410
10歳の誕生日は特別だ。
5歳、10歳、15歳の誕生日は、
大規模なパーティを開催し、盛大に祝うのが貴族の風習だ。
館の大広間と、それに続く中庭が開放される。
領民中から贈り物が届けられ、町中の貴族が招かれる。
サウロスが無骨な武官であるため、当初は無頼な立食酒飲みパー
ティという形で計画が進んでいた。
が、フィリップが口出しして、近隣の中級貴族も参加しやすいよ
うにと、ダンスパーティへと形を変えた。
ダンスパーティ。
これに一番迷惑したのは、エリスである。
なにしろ、彼女はダンスを踊れない。
一番簡単なステップも踏めないのだ。
﹁主役であるお嬢様がダンスを踊れないのは問題です﹂
月初めの職員会議にてエドナがそう進言した。
5歳の時はどうしていたのか、と聞くと、
アスラ王国貴族でダンスが必修とされるのは10歳からだそうで、
つまり踊る必要はなかったらしい。
急遽、剣術と魔術を除く全ての授業を全て礼儀作法へと変更した。
特訓である。
朝の剣術は変わらず、
昼食後、腹ごなしに魔術をちょこっとやって、それ以降は全てダ
411
ンスである。
エリスが見る間に元気と自信を失ってカリカリしていくのがわか
った。
﹁失礼ですが、ルーデウス様は、ダンスの方はお出来になるのです
か?﹂
ある日、
魔術が終わるぐらいの時間にやってきたエドナにそう言われた。
﹁いえ、出来ませんよ?﹂
﹁でしたら、ご一緒にお習いください。
ルーデウス様もパーティにはご出席なさるのでしょう?﹂
﹁あ、あー。出る、の、かな?﹂
エリスを見ると、彼女は当然とばかりに頷いた。
﹁ルーデウスもデますワ﹂
礼儀作法の授業中だからか、エリスは言葉遣いがおかしい。
が、気にしない事にする。
﹁出るそうです﹂
﹁でしたら、ダンスが出来ないのは困るでしょう﹂
﹁いえ、何もできない子供の振りをして端のほうにいますので大丈
夫です﹂
エドナは苦笑すらしない。
412
いつも通り柔らかい笑みを崩さない。
気づいたけど、この人はこれ以外の表情を浮かべる事がほとんど
ない。
ある意味、ポーカーフェイスだ。
﹁初めての舞踏会は、思った以上に緊張してしまいます。
御相手のおみ足を踏んでしまうやもしれませんし、
まだまだ幼いお嬢様を見て、御相手が遠慮してしまうかもしれま
せん。
なので緊張をほぐすためにも、出来れば、最初のお相手をと思っ
たのですが⋮⋮﹂
チラチラとコチラをみて、しかし柔らかい笑みを崩さず。
要は手伝えって話だ。
それほど、エリスのダンス習得は難航しているらしい。
仕方ない。
分野外だから口出しはしないつもりだったが、頼まれればノーと
は言うまい。
俺は学年主任だからな。
﹁そういう事ならわかりました。
でも、授業料は出せませんよ?﹂
﹁もちろんですよ。ルーデウス様。こちらがお願いしているのです
から﹂
というわけで、俺もダンスの授業に参加する事になった。
−−−
413
エドナは教え方がヘタだった。
いや、教師としてはこれぐらいが普通だろう。
これはこういうもの、あれはああいうもの。
だからとにかく覚えなさい、という感じだ。
なぜ重要だとか、何かポイントだとか、
そういった部分には一切触れない。
俺の中学時代にも、こういう教師はいた。
まあ、わからない部分は自分で考えればいい。
子供じゃないんだから。
﹁なるほど﹂
三日もすると、俺はいくつかのステップを踏めるようになった。
ダンスとは言っても、ようはリズムに合わせて決められたステッ
プを踏むだけだ。
一番簡単なものなら特に練習もいらなかった。
中学時代にゲーセンでダン○ダン○レボリュー○ョンをちょこっ
とだけやった経験が生きたのかもしれない。
あんま関係ないか。
﹁素晴らしいです。ルーデウス様は才能がおありです﹂
エドナにほめられると、エリスがムスッとしていた。
自分が何ヶ月か掛かって出来なかったことがあっさり出来たのだ。
心中穏やかではいられまい。
しかし、別に俺はこの三日、ただ漫然とステップを覚えたわけで
414
はない。
エリスの弱点を探っていたのだ。
そして分かった。
彼女のステップは速すぎて、そして鋭すぎるのだ。
剣神流との相性が良いということが、裏目に出ているのだ。
リズムに合わせてトントンとゆっくり動く所を、サッサッと最速
で動こうとするので、相手とのリズムがズレる。
エリスは自分のリズムが狂わされるのを本能的に嫌がっている。
どんな時でも自分のペースを守ろうとする。他人に惑わされない。
戦いにおいてはそれは立派な才能だろうが、ダンスでは足を引っ
張っている。
なにせ、ダンスは相手に合わせなければいけないのだから。
エドナ曰く、こんなに才能のない生徒は初めてだというが、
そんなことはない。
最速で動けるという事は、キレのある動きが出来るということな
のだから。
教え方が悪いだけなのだ。
さて、これを矯正するのは難しい。
だが手はある。
﹁エリス、目をつぶって、自分のリズムで身体を揺すってみてくだ
さい﹂
﹁⋮⋮⋮目を瞑らせて何をするつもりよ!﹂
﹁⋮⋮⋮ルーデウス様?﹂
415
エドナの柔らかい笑みがちょっと崩れた。
いや、違いますよ?
失礼な人たちだな、俺のような紳士を捕まえて⋮⋮。
﹁ダンスが出来るようになる魔法を使います﹂
﹁え! そんな魔術があるの!?﹂
﹁いえ、魔法です。術じゃないです。不思議現象です﹂
エリスは首をかしげながらも、俺の言葉に従う。
剣術の授業で、何度も目にしたリズム。
素早く細かく鋭く、決して規則的ではない、
読み切ることの出来ず、自然と相手のリズムを崩す、
決して俺が真似することの出来ない、天性のワガママリズム。
﹁今から手を鳴らすんで、それに合わせて攻撃を避けるつもりでス
テップを踏んでください﹂
そう言って、俺は規則正しく、パン、パンと手を鳴らす。
エリスは、それに合わせて、クイッ、クイッと身体を動かす。
しばらくそれを繰り返し、あるタイミングで声を掛ける。
﹁ハイッ! ハイッ!﹂
タイミングは手を叩く寸前。
するとエリスは、一瞬だけ待ってから、手にだけ反応する。
﹁こ、これはっ!﹂
416
エドナが驚愕の声を上げた。
エリスはステップを踏めていた。
まだちょっと速いが。合わないことはないはずだ。
﹁できています! できていますよお嬢様!﹂
﹁本当!?﹂
エドナが手を握り、珍しく興奮した笑みで、叫ぶ。
エリスが目を開けて、喜色満面の笑みで聞き返す。
﹁ほらほら、目を開けないで。
今のを覚えるんですよ﹂
﹁覚えるって⋮⋮フェイントを見切って攻撃を避けるだけじゃない
!﹂
そう。
この訓練は剣術の授業中にやったものだ。
ギレーヌの攻撃を避ける授業。
フェイントを掛ける際に、ハイッと言うので、それに釣られない
ように本命だけ避ける。
ギレーヌの本気の殺意が篭ったフェイントに反応しない事に比べ
れば、殺気の篭っていない俺の声を判別してから本命を避けるなど、
簡単な事だ。
ちなみに、その授業は俺の方がエリスより成績が上だ。
エリスは素直なのでフェイントに引っかかりやすいのだ。
﹁エリス。一つの授業で学んだ事は、他の授業でも応用できます。
417
うまく出来ない時は、他の授業で似たようなことがなかったか、よ
ーく思い出してみてください﹂
エリスは珍しく、目を見開いたまま、
何も言うことなく素直にこくこくと頷いた。
これなら、ダンスは大丈夫だろう。
﹁流石はルーデウス様、お嬢様に一年も算術を教えているだけの事
はありますね﹂
エドナはさぞ感服したらしい。
ていうか、流石って⋮⋮。
それほどエリスに算術を教えるのは絶望視されていたのか。
うん。まあ俺も結構苦労したけど。
半分はギレーヌのおかげだしな。
調子には乗るまい。
﹁このエドナ、目から鱗が落ちる思いです。
剣術とダンスには通じるものがあるのですね﹂
エドナは信じられないものを見たという顔をしている。
私は今、奇跡を見た、おお神よ、そこにいたのですね、って顔だ。
大げさだな。
﹁まぁ、剣を使った踊りもありますからね﹂
﹁あら、そんなものが?﹂
﹁え? ええ、僕も本で読んだだけなので⋮⋮﹂
ソードダンス
エドナは不思議そうに聞き返してきた。
剣舞は俺の中では中二病知識の中における一般常識だが、この世
418
界には無いのかもしれない。
﹁まあ、そのような文献が⋮⋮どちらの踊りなのでしょう?﹂
﹁さ、さあ、文献では、砂漠の国で見たと﹂
﹁砂漠⋮⋮ベガリット大陸の方でしょうか?﹂
﹁わかりません。案外、魔大陸で魔族が踊っていたのかも。
小さな部族が多いと聞きますし、剣を使った踊りを踊る人たちも
いましょう﹂
と、適当に言っておく。
﹁なるほど、そうした知識の集積こそが、ルーデウス様の知恵の源
なのですね﹂
エドナは柔らかい笑みに戻り、俺を褒めてくれた。
勝手に納得したらしい。
﹁そうよ、ルーデウスは凄いのよ!﹂
なぜかエリスが胸を張って答えていた。
いいぞ、もっと言ってくれ。
俺は褒めて伸びるタイプだからな。フハハハハ!
−−−
ダンスパーティ当日。
俺は会場の隅のほうに陣取っていた。
419
パーティの序盤。
グレイラット家に取り入ろうという群がってきた中級貴族や下級
貴族を、フィリップと奥方が上手に捌くという感じで進んでいく。
二人は流石というべき立ち回りで、誰一人として付け入る隙を見
つけることは出来なかったようだ。
ならばとサウロスに直接取り入ろうとしたものは、
あの大声と理不尽かつ一方的な対応で、這々の体で逃げ出した。
逃げ出した彼らは、最後の望みとばかりに、このパーティの主役
であるエリスの所へと行く。
エリスには何の権限も無いし、政治的な話はわからない。
だから、どうかお父様にお伝えくださいね、と伝える。
ある者は 我が息子を紹介しましょう、と育ちのよさそうな青年
や中年を連れてきている。
同い年ぐらいの子も何人かいたが、ほとんどはすでにかなり脂ぎ
っていた。
きっと、家の中でぬくぬくと育ってきたのだろう。
昔の俺を見ているようだ。
心の中で親近感を覚えていると、ダンスの時間となった。
俺は当初の予定通り、エリスのダンスの最初のパートナーを務め
る。
子供らしく、一番簡単なステップで、しかし主役なので広場の真
ん中で。
練習通りに、失敗しないように。
﹁な、な、な、なによ⋮⋮!﹂
420
エリスが凄まじく緊張してガチガチだった。
軽く目線と踏み込みでフェイントを入れてやる。
すると、﹁なによ﹂ともう一度小さく呟いて、いつもの調子に戻
った。
ダンスが終わると、エドナが話しかけてきた。
遠目にもお嬢様の緊張が解けるのが、ハッキリとわかったらしい。
どうやったのかと聞かれたので、練習でやったことをそのまま、
と答えた。
不思議そうな顔をするエドナだったが、もっとも剣術のですけど、
と付け加えると、くすりと笑った。
とにかく役目が終わったので、食料を漁る。
こういう場でしか出ないような珍しい料理が多い。
なんかよくわからない甘酸っぱい果実を使ったパイだとか、
牛を一頭まるごと使った肉料理だとか、
綺麗に盛りつけられたケーキだとか。
それらを満足気にもきゅもきゅと食っていると、警備をしている
ギレーヌと目があった。
なにか訴えるような目線ではなかったが、口からよだれが垂れて
いた。
俺は空気が読める男だからな。
料理を少しずつナプキンで包み、メイドに言って自室へと運ばせ
た。
警備や使用人にはこの後にいつもよりちょっと豪勢な食事が出る
ようだが、この場にあるような料理は出ないのだ。
421
あらかた料理を運び終えた頃、ふと気付くと目の前に可憐な少女
が立っていた。
お初にお目にかかります、と前置きをおいて名乗る少女。
中級貴族の娘らしい。名前は忘れた。
踊っていただけませんか、と言われたので、簡単なステップしか
出来ませんが、と前置きしてから広場へと赴いた。
うまく踊れたと思う。
戻ってくると、別の女性がきた。
次は私と踊っていただけませんか、と。
なんだよおい、俺も結構モテるじゃん、と思っていると、次々と
来た。
中には三十路を超えたおばちゃんや、俺より幼くて踊れない子も
いた。
身長差なんかで踊れない相手はさすがに断ったが、基本的には全
員相手にした。
俺はノーといえる日本人だ。
だが、最初の一人にオッケーを出した手前、他の子を断りにくか
った。
下心はもちろんあったが、
顔も名前も覚えられない量で、さすがに疲れた。
大体収まった頃、フィリップが来て説明してくれた。
最初にエリスと踊った少年は誰かと聞かれたサウロスが自慢気に、
グレイラット姓を名乗る人物だとバラしたらしい。
つまり、全てはサウロス爺さんのせいだ。
とはいえ、爺さんを責めはすまい。
初めてのダンスでお嬢様の緊張を見事にほぐしたあの子は、もし
やサウロス様の隠し子では?
422
などと聞かれ、気を良くしてしまったのだ。
当初の予定では俺がグレイラット姓だとは知らせないように、と
いう話だったが。
酒も入っていたし、仕方ないのかもしれない。
つまり、今は分家か妾の子でも、いずれ名士となるに違いないと、
自分ちの娘や孫を送り込んできたというわけだ。
でも、それならダンスが終わってすぐに来てもおかしくないので
は、とフィリップに聞いてみる。
すると、甘いものをナプキンに包んでいるのが微笑ましくて、待
っててくれたらしいと教えてくれた。
見ている人は見ているものだ。
モーションを掛けてくる女の子をどうすればいいのか、フィリッ
プに聞いてみると、
適当に相手をしておけばいいと返答をもらった。
将来的にどう転んだとしても、俺に政治的な関わりを持たせる気
は無いのだろうか。
あるいは、誰かとくっつけば政治的な力になるという判断だろう
か。
俺も政治的な力を持つ気はサラサラ無い。
なので、今日のモテ期は泡沫の夢だ。
や、でも、偉くなれば可愛い女の子を食いまくれるのかな、金の
力で。
そう、チラっと考えた瞬間、
﹁でも、パウロのように片っ端からベッドに連れ込むのは家名に泥
が付くから勘弁してくれよ﹂
423
と、釘を刺された。
最後にきた女の子はエリスだった。
ちなみに今日のエリスはいつものような活発なスタイルではなく、
碧を基調としたドレス姿だ。
髪はアップで、花のあしらわれた髪飾りをつけていて、大変かわ
いらしい。
初めてのダンスパーティで、知らない大人から次々に声を掛けら
れて、さすがの彼女も疲れているようだった。
けれども、自分が主役のパーティがうまく行っているせいか、興
奮もしていた。
﹁わたくしと、踊っていただけませんか?﹂
そこに、いつもの大声、大股、無遠慮、無作法のエリスはいなか
った。
今まで俺に声を掛けてきた女の子に勝るとも劣らない、お淑やか
お嬢様の演技で、俺をダンスに誘った。
ホールに出ると、俺たちが習っていない、ちょっとだけ難しい、
変調で速いリズムの曲が流れる。
﹁あ、うぅ⋮⋮﹂
エリスは一発できょどった。
無理して変な演技するからだ。
どうしよう、と目線で訴えてきたので、音楽に合わせて目線でフ
ェイントを入れた。
変調だが、むしろこういう曲の方がエリスにとっては踊りやすい
424
はずだ。
もっとも、ステップの方は適当だ。
エドナに見せれば呆れられるか怒られるかするだろう。
手をつないで、いつもの剣術の稽古のように踏み込んだり引いた
りする。
それは音楽に合わせてはいるものの不規則で、周囲から見れば奇
異にも映っただろう。
しかし、エリスは楽しんでいるようだった。笑っていた。
いつもムッとするかムスッとしてばかりいる彼女が、歳相応の顔
で笑っていた。
それが見れただけでも、このパーティに参加した意味というもの
があるだろう。
踊り終えると拍手が起こった。
サウロスが走りこんできて、俺たち二人を肩の上に乗せ、嬉しそ
うに笑いながら中庭を走り回った。
元気な爺さんだ。
周囲もそれを見て笑っている。
うん。
楽しいパーティだった。
−−−
パーティが終わった後、俺はギレーヌとエリスを自室に招いた。
本当はギレーヌだけでもよかったのだが、
425
ギレーヌを誘っている時にエリスもいたので、ついでと思って連
れてきたのだ。
テーブルに広げられた食べ物に、エリスはお腹を鳴らした。
パーティでは緊張したり興奮したりで、何も食べていなかったら
しい。
予め町で買っておいて隠しておいた安酒を戸棚の奥から出す。
ギレーヌ用に買ったものだが、エリスが飲みたがったので、グラ
スを三つ用意して、乾杯。
この国での飲酒は15歳かららしいが、今日は無礼講。
たまにはハメを外してやろう。
﹁丁度いいタイミングなので、今日、渡しておきましょう﹂
俺はそう切り出して、ベッド脇の棚の中から、二本のワンドを取
り出す。
﹁なに? これ?﹂
﹁誕生日プレゼント、になりますかね﹂
﹁えー、こんなのより、そっちがいい﹂
と、エリスが指さしたのは、最近俺が魔術の訓練と称して作って
いる、土の魔術で作った精密模型の数々だ。
竜とか船とか、1/10シルフィのフィギュアといったものが並
んでいる。
自慢じゃないが、二十代の頃にフィギュアやプラモデルにハマっ
て、ダンボールで塗装ブースまで作っていた時期があるのだ。
さすがに塗料は高く、スプレーも無いので塗装はしていない。
だが、土魔術でパーツごとに作り、組み立てていく作業は楽しく
熱中できたため、結構精密にできている。
426
といっても、所詮は素人の出来だが⋮⋮。
ちなみに、最初に作った1/10ロキシーは、行商人が金貨1枚
で買い取ってくれた。
今頃世界を旅している事だろう。
ま、それはさておき。
﹁俺の師匠によると、魔術の師匠は弟子に杖を送るそうです。
作り方がわからなかったのと、材料を買うお金が無かったので遅
くなりましたが、
よければもらって下さい﹂
ギレーヌはそれを聞くとやおら立ち上がり、恭しく片膝をついた。
あ、コレ知ってる。
剣神流の門弟が師匠に敬意を払う時のポーズだ。
﹁ハッ、ルーデウス師匠。ありがたく頂戴いたします﹂
﹁うむ、苦しゅうない﹂
なんか畏まられたので、うやうやしく受け渡す。
ギレーヌはなんだか嬉しそうな顔でワンドを見ていた。
﹁これで私も魔術師を名乗れるのか﹂
あ、これってそういうアレなのか。
名乗れちゃうの?
そういうのロキシーから聞いてないんだけど⋮⋮。
いや、どう考えても入門用だし、それはないだろ。
でも、魔術を習い始めた時点で魔術師は名乗れるのか?
427
俺の師匠は説明が足りない。
﹁えっと、エリスはこっちが欲しいんでしたっけ?﹂
冗談混じりに1/10シルフィを手にとると、エリスはぶんぶん
と首を振った。
﹁違う! そっち、そっちの杖! 私もそっちのがいい!﹂
﹁はい、どうぞ﹂
パッと受け取って、しかしギレーヌの畏まった態度を思い出した
のか、
すぐに姿勢を正し、うやうやしくワンドを両手で捧げ持つ。
﹁あ、ありがとうございます、ルーデウス師匠﹂
﹁うむ。よきにはからえ﹂
そして、エリスはチラッとギレーヌを見る。
ギレーヌもその視線に気付いて、数秒固まった後、首を振った。
﹁すまんが、私の種族にそういった習慣はなくてな。
何も用意していない﹂
何かと思ったが、プレゼントの催促だったらしい。
そういえば、俺が食料を回収している時、そういう事が行われて
いた。
エリスはがっかりした顔で、ソファに座った。
雇用人が主にプレゼントを送る、という習慣は無いらしいが、
大好きなギレーヌお姉ちゃんに何ももらえないのはかわいそうだ。
フォローしておこう。
428
﹁ギレーヌ。こういうのは特別に用意していなくてもいいんですよ。
普段身に着けているものとか、お守りになりそうなものとか。そう
いうのでいいんです﹂
﹁ふむ﹂
ギレーヌはふと考えると、自分の指から一つの指輪を外した。
木彫りの指輪で、かなりくたびれて傷が付いているが、何か魔術
でも掛けてあるのか光の加減か、はたまた材質か、
光がやや緑色に反射して見える。
﹁一族に伝わる魔除けの指輪だ。
付けていると夜に悪い狼に襲われないと言われている﹂
﹁い、いいの⋮⋮?﹂
﹁ああ、ただの迷信だったからな﹂
エリスは怖々とそれを受け取った。
右手の薬指に付けると、ぎゅっと胸元で両手を握った。
﹁た、大切にします﹂
俺のワンドをもらった時より嬉しそうだった。
ま、まあ指輪だしね。女の子なら、そ、そうだろうよ?
そこでふと気になったので、疑問を一つ。
﹁迷信、だった? てことは、ギレーヌさんは悪い狼に襲われたこ
とが?﹂
﹁ああ。あれは寝苦しい夜だった。パウロが水浴びでもしようと誘
ってきて⋮⋮﹂
﹁あ、やっぱ結構です。その話は先が読めました﹂
429
いかん。
この話題をこれ以上続けると俺の株が落ちそうだ。
パウロのせいで。
あいつはいつも俺の邪魔をする。
﹁そうか。まぁ、お前も父親の情事など聞きたくあるまい﹂
﹁そうですとも。さぁ、食べましょう。
もうすっかり冷めてますけど、楽しく食べましょう。
師匠と弟子の持ちつ持たれつの関係ということで、無礼講で﹂
エリスの記念すべき10歳の誕生日は、こうして何事もなく経過
した。
−−−
翌日、目覚めるとエリスが真横で寝ていた。
﹁わーぉ﹂
大人の階段、登っちゃったかしら、いやん。
⋮⋮んなわけない。
ちゃんと覚えている。
彼女は夜のパーティの最中でおねむになり、俺のベッドにフラフ
ラと倒れこんだのだ。
それを見て、ギレーヌもそろそろ帰るといい、エリスを置いて自
430
室へと戻ってしまった。
据え膳食わぬは男のなんとやら。
げへへへ、イタズラしちゃうぞう。
と、舌なめずりしながらベッドに近づく。
するとそこには、ギレーヌの指輪をして、
俺のあげたワンドをギュっと胸に抱き、
ニマニマと満足そうに眠るエリスの姿があった。
下卑た顔した悪い狼は引っ込んだ。
﹁魔除けの指輪、効果あるじゃん⋮⋮﹂
俺はそう呟くと、エリスには指一本触れず、ベッドの端に静かに
潜り込んだのだ。
今はまだ、朝早い。
窓から外を見ると、空は白み始めてはいるものの、まだ暗い。
俺はちょっと散歩に出掛けることにした。
このままエリスの寝顔を見ていてもいいが、起きた時にぶん殴ら
れそうだ。
殴られるのは嫌だ。
俺は静かに部屋を出た。
肌寒い廊下を歩きながら、どこへ行こうか考える。
館の門は朝何時だかにならないと開かない。外には出られない。
431
選択肢は少ない。
基本的に、館のどこに何があるのかはこの一年で知っていた。
しかし、知らない場所は知らない。
例えば、この館で一本だけ突き出している塔とか。
近づかない方がいいとは言われていたが、興味はある。
もしかすると、何かいいものが手に入るかもしれないしな。
陰干ししてある誰かのパンツとか。
そんなことを思いながら、階段を登って最上階。
最上階をウロウロと見回すと、なにやら楽しげな螺旋階段があっ
た。
これが、例の塔への入り口だろう。
登って行くと上からニャンニャンと悩ましい声が聞こえてきた。
なので、できる限り音を立てないように登る。
最上階にサウロスがいた。
人一人が入れるかどうか、という小さな小部屋で、ネコミミメイ
ドとにゃんにゃんしていた。
なるほど、近づくなってこういう⋮⋮。
最後までしっかりと鑑賞した頃、サウロスは俺に気づいた。
メイドは結構前から気付いていた。
気付いて興奮していた。
ネコミミダメイドは、コトが終わると、すぐに俺の脇を抜けて階
段を降りていった。
﹁⋮⋮⋮ルーデウスか﹂
432
いつもと調子の違う、小さく穏やかな声だった。
賢者モードだろうか。
﹁はい、サウロス様。おはようございます﹂
貴族流の挨拶をすると、サウロスは手で止めた。
﹁よい。何をしにきた?﹂
﹁階段があったので、登りに来ました﹂
﹁高い所が好きなのか?﹂
﹁はい﹂
とは言ったものの、あそこの出窓から顔を出せば、足がすくむだ
ろう。
好きと得意は違う。
もし世界を征服してこの世で一番高い塔を立てたとしても、自室
は1階に作るだろう。
﹁ところで、サウロス様はここで何を?﹂
﹁儂は、あそこにある珠に祈っておった﹂
へぇ。
この館の祈るって文化は、随分と退廃的なんだな。
と思ったが、気にしない。
普段は厳格そうにしているこいつもグレイラット家の人間、同じ
穴の狢だ。
﹁珠?﹂
433
出窓の外を見てみる。
すると、中空に浮かぶ、ひとつの赤い珠があった。
光の加減か、中身がちょっと動いているように見える。
なんだあれ、すげえ。
やっぱ魔力で浮いてるのかな?
﹁あれは?﹂
﹁わからぬ﹂
サウロスは首を振った。
﹁三年ほど前に見つけた。しかし、悪いものではない﹂
﹁なぜ、そう言い切れるんですか?﹂
﹁そう考えたほうがよいからだ﹂
なるほど。
そうだね。手も届かないしね。
悪いものだって思ってても精神衛生上よろしくないし。
てか、良いものだと思っていて祈ったほうが、珠さんも気分がい
いしね。
俺も祈っとこう。
どうか空から女の子が降ってきますように⋮⋮と。
﹁ルーデウスよ、儂はこれから遠乗りに出掛ける。ついてくるか?﹂
﹁お供します﹂
サウロス爺さんは一発アレしたばかりなのに元気だ。
今日は暇なので遊んでくれるらしい。
434
わーい。
⋮⋮⋮疲れそうだ。
﹁そういえば﹂
﹁なんだ?﹂
﹁サウロス様に奥方はいないので?﹂
ギリッという音がした。
サウロスが奥歯を鳴らしたのだと気付いて、俺は背筋が寒くなっ
た。
﹁死んだ﹂
﹁そうですか。それは申し訳ないことを聞きました﹂
素直に謝っておいた。
せっかくネコミミをニャンニャンしてたのに、
嫌なことを思い出させてしまったかもしれない。
この調子なら、エリスに兄弟がいないことも聞かないほうがいい
だろう。
﹁では、ゆくぞ﹂
﹁はい﹂
今日は休みだ。
エリスには明日から頑張ってもらおう。
435
第十六話﹁お嬢様は十歳﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:エリス・B・グレイラット
職業:フィットア領主の孫
性格:やや凶暴
言う事:素直に聞く
読み書き:読みはほぼ完璧
算術:九九を覚えた
魔術:初級はほぼ詠唱できる
剣術:剣神流・中級
礼儀作法:パーティで恥をかかない程度
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ、ルーデウス
436
第十七話﹁言語学習﹂
10歳の誕生日以来、エリスが素直になった。
授業も真面目に聞いてくれるようになり、殴られることも少なく
なった。
俺はドメスティックバイオレンスの恐怖から解放され、
心に余裕を持つことが出来た。
なので、自分の勉強をすることにした。
まずは、書庫で見つけた歴史書より、この世界の大まかな歴史を
調べてみる。
歴史書によると、世界は10万年前からあったらしい。
実にファンタジックな歴史だった。
大まかに年表で分けると、以下のような感じだ。
−−10万年以上前−−
世界は7つに分かれていて、それぞれ神が世界を支配していたら
しい。
これを太古の神の時代、と呼ぶらしい。
7つの世界と神はそれぞれ、
人の世界、人神。
437
魔の世界、魔神。
龍の世界、龍神。
獣の世界、獣神。
海の世界、海神。
天の世界、天神。
無の世界、無神。
こんな感じだ。
当時、世界は結界のようなもので隔絶されており、簡単には行き
来できなかった。
一つの世界の住人は、他に世界がある事など知らなかった。
他の世界があることを知っていたのは、一部の神や、
隔絶した結界の存在を通り抜ける事のできる、
力の強い人物だけだったという。
−−2万∼1万年前−−
龍の世界に悪い龍神が誕生する。
凄まじい力を持った龍神は結界をぶち破り、
︽五龍将︾と呼ばれる配下を操って他の世界を滅ぼした。
滅ぼされた世界の生き残りは住む場所を追われ、
最後に残った人の世界へと逃げこんだ。
あと一つ、という所になって︽五龍将︾が龍神を裏切った。
︽五龍将︾筆頭である龍帝と四人の龍王は圧倒的な力を持つ龍神
と戦った。
五対一の死闘。
結果は相打ちであった。
その戦いの余波により龍の世界は崩壊した。
438
そして人の世界だけが残った。
これが、この世界である。
−−1万年前∼8000年前−−
混沌の時代と呼ばれている。
元々住んでいた人族の祖先と、別世界の住人とが入り乱れて戦っ
ていた時代。
この時代の文献はほとんどない。
が、学者によると、長い年月を得て、各種族が住み分けられたと
考えられている。
獣族は森に住み、海族は海を支配し、天族は高地を確保した。
龍族はほとんど残っていなかったが、人目を避けてこっそり暮ら
し、
無族はどこでも暮らせたので、どこにでもいた。
そして、人族と魔族だけが平地で争った。
当時は、中央大陸と魔大陸は陸で続きで、巨大陸と呼ばれていた
そうだ。
−−約7000年前−−
武技や魔術が発達し、人も増えてきた。
ここで第一次人魔大戦が起きる。
人魔大戦とは文字通り、人族と魔族の大規模な正面衝突だ。
生前の世界でいう所の世界大戦だろう。
人族、魔族だけでなく、他の種族も巻き込んでの長い戦いだ。
−−約6000年前−−
人魔大戦は激戦状態と小康状態を繰り返しながら1000年も続
き、
勇者アルスが六人の仲間を率いて、︽五大魔王︾と︽魔界大帝キ
439
シリカ︾を倒すまで続いたらしい。
名前からするに、魔界大帝は女性だろう。
俺の頭の中では、ボンデージファッションに身を包んだエリスが
高笑いしている姿が浮かんだ。
てか、勇者アルスってドラ○エかよ。
−−約5500年前−−
人族というのは愚かなもので、魔族を倒した自分たちは強いと勘
違いし、他種族に戦争を挑んだり、
人族同士で争ったりと、戦いの日々を送ったらしい。
ちなみに、魔族は奴隷として扱われていたのだとか。
500年近くも戦国時代が続いたらしい。
−−5000年前−−
第二次人魔大戦勃発。
1000年の鬱憤を晴らすように、︽魔界大帝キシリカ︾を筆頭
に魔族が決起した。
またキシリカ⋮⋮⋮襲名制なのか?
と、思ったが、なんでも不死身の魔帝なので、死んでも1000
年ぐらいで復活するらしい。
魔界大帝と呼ばれているのも他の魔帝より頭ひとつ上の存在だか
らなのだとか。
魔族は獣族と海族を仲間に引き入れ、人族を圧倒。
人族を追い詰める。
−−4200年前−−
第2次人魔大戦終結。
戦争大好きな人族は、800年も敗北宣言をせずに戦いつづけ、
440
ついに押し返したらしい。
なんでも、黄金騎士アルデバランという英雄が頑張ったのだとか。
こいつがとんだチート野郎で、
一人で1万を超える敵軍を蹴散らし、魔族の有力者を全て倒し、
当時の魔界大帝と一騎撃ち。
最後に放った大技で当時の巨大陸に大穴が空き、
中央大陸と魔大陸にわかれ、リングス海ができたのだとか。
一説によると、人神その人だとも言われている。
俺の知っているアルデバランと言えば、必殺技を放てば必ず殺さ
れる男だが、この世界の黄金○闘士は規格外に強いようだ。
大陸云々は眉唾だが、この戦争で大陸が二つに分かれて、真ん中
に新しい海ができたのは事実なのだとか。
ともあれ、大陸が二つにわかれたおかげで、念願の平和が訪れる
こととなる。
−−4200∼1000年−−
ここで年代が一気に飛ぶ。
世界は平和だったが、徐々に魔族が中央大陸より駆逐される。
人族は狡猾で、外交的手段を用いて、魔族を魔大陸に閉じ込めた
のだ。
中央大陸は自然豊かで暮らしやすい土地。
魔大陸は魔力溜まりのできやすい不毛な大地。
人族は下賤な魔族を魔大陸に押し込めようと、3000年以上掛
けてゆっくりじわじわ真綿で首を締めるように、魔大陸を封鎖した。
他の種族と連携を取り、二度と人魔大戦が起きないようにと願い
を込めて。
441
恐らく、魔族も抵抗はしただろう。
外交的手段を用いて、ゆっくりと攻めてくる相手に、しかし戦争
まで起こす事はないと。
いつしか魔族は魔大陸より出られないことを疑問に思わなくなっ
た。
そして、過酷な環境と僅かな資源の奪い合いで、自然と内乱状態
となっていく。
魔族は自然と鍛えられ、しかしその数を減らしていった。
−−1000年前−−
魔神ラプラス誕生。
長い歴史の中で、魔王・魔帝は数多けれど、
魔神と呼ばれる人物はこのラプラスただ一人だ。
ラプラスは、瞬く間に魔族をまとめあげ、魔大陸を平定した。
当時の戦いの記録は残っており、戦記にもなって語り継がれてい
る。
今もなお、ラプラスは魔大陸のアイドルなのだ。
ラプラスは長い年月を掛けて、統一魔界帝国を作り、魔族という
種族全体をタフで強靭に育てていく。
−−500年前−−
ラプラス戦役勃発。
長い年月を掛けて海族と獣族を説得し、ラプラスは中央大陸へと
攻め入った。
人族は、それまでとは比べ物にならないぐらいキツイ戦いを強い
られた。
まずは南から侵攻し、人族の戦力を南部へと集める。
442
中央大陸にレッドドラゴンを放ち、山を通行不能にする。
北方より侵攻して、人族を分断させ、一気に南部を攻め落とす。
そんな感じで、あっという間に中央大陸の北部と南部を制圧し、
二方向から西部に侵攻した。
−−400年前−−
追い詰められた人族は、最後の賭けに出た。
七人の英雄が海族を説得して海の封鎖を解除、海路にてミリス大
陸を目指した。
ミリス大陸は侵攻を免れていた。
理由は多い。
聖ミリスの結界と屈強な聖騎士団、
大軍が上陸しにくい地形、等など。
また、彼らが引きこもっていたのは、北にある大森林の存在のせ
いだ。
獣族は魔族と同盟を結んでおり、ミリス神聖国ににらみを効かせ
ていたのだ。
なので、七人の英雄は獣族を説得した。
説得というか、七人で獣族の各族長を周り、子供を人質に取った
りして恫喝したらしい。
かなり美化して、子供が協力してくれた、なんて書き方をしてあ
るがね。
俺は騙されんよ?
決戦予定日。
当時唯一残っていた人族の国であるアスラ王国は、総力を持って
決戦を挑んだ。
やや時間をおいて、七人の英雄はミリス聖騎士団と獣族を率いて
ラプラスの本陣を強襲。
443
激戦の末、七人の英雄のうち四人が死亡したが、ラプラスの側近
を全滅させ、魔神ラプラスを封印することに成功する。
生き残った三人。
龍神ウルペン、北神カールマン、甲龍王ペルギウス。
彼らを︽魔神殺しの三英雄︾と呼ぶ。
⋮⋮殺してねーだろ。
ラプラスは倒したものの、人族はかなり疲弊しており、これ以上
戦い続けるのは無理だった。
そこで、ラプラスについていけなくて魔大陸に残っていた穏健派
の魔王と条約を結んだ。
魔大陸の封鎖は解かれ、魔族は他の大陸でも大手を振って歩ける
ようになった。
その他にも、魔族だからと差別されていた部分が条約によって禁
止された。
生前の世界でいうなら、世界人権宣言である。
−−∼現代−−
中央大陸において魔族を差別する風潮は根強く残っているが、概
ね平和である。
この話でわかったことが幾つかある。
・七がキリのいい数字と言われている理由
これは歴史からくるものなのだ。
七英雄、七世界。
縁起がいい数字は七。
六が不吉。
444
ドワーフ
ホビット
︽五龍将︾とか︽五大魔王︾とかいるが、ボスを含めれば六だ。
エルフ
・長耳族、炭鉱族、小人族といったもろもろの種族
彼らは分類としては、一応は魔族であるらしい。
が、混沌時代に生まれた新種という説もある。
もしかすると、最初の方に出てきた無族とも関係しているのかも
しれない。
ちなみに、これだけ長い歴史が残っているのは、寿命が無い種族
がいるからだそうだ。
魔界大帝キシリカもそうだし、他にも不死身と呼ばれている魔王
は数多くいるらしい。
体を不死身にする、そういう魔術があるのかもしれない。
−−−
歴史を学んだことで、この世界にある言語についても多少知るこ
とができた。
この世界で使われている主な言語は以下の通りだ。
・中央大陸で使われている人間語。
・ミリス大陸で使われている獣神語。
・ベガリット大陸で使われている闘神語。
・天大陸で使われている天神語。
・魔大陸で使われている魔神語。
・海全般で使われている海神語。
445
要するに、そこに住んでいる種族の神の名前が使われている。
だが、人間だけは人神語ではない。
罰当たりめ。
人間語を使う中央大陸は三部に分かれていて、それぞれの人間語
もちょっとずつ違う。
が、せいぜいアメリカ英語とイギリス英語ぐらいの違いでしかな
い。
俺が使っているのは中央大陸西部の人間語だ。
西部の言葉を北部でしゃべっても通じる。
だが、他の地域では、あまり西部の言葉を喋らないほうがいいら
しい。
西部からきた人間は裕福だと思われている。
そのため、よからぬ輩がスリよってくる。
ミリス大陸も北部と南部で言語が別れている。
獣神語が使われているのが北部、人間語が使われているのが南部
だ。
海全般には、海人族というのが住んでいる。
海魚族という単語はどこかで聞いたが、町中で見たことはない。
−−−
さて、
俺は毎月の給料の他、
フィギュアを作って売ったり、
446
休日に日雇いのバイト︵フィリップの手伝い︶をしたり、
ある日購入した商品を数か月後に転売したりと、
あれこれ動きまわって、それなりに小銭を稼いできた。
﹃シグの召喚術﹄を買おうと思って貯めていた金だ。
だが、あの本はちょっと見ない間に売れてしまった。
召喚術。
興味はあったのだが、仕方がない。
無いものは買えないのだ。
俺は手元にある金を別の事に使おうと考えた。
金貨五枚程度で買えるもの。
いや、何も一回で使い果たさなくてもいいだろう。
そこで目に付いたのが、知らない言語で書かれた本だった。
歴史の話を聞き、言語の話を聞き、
やはり言葉を覚えるということは大切だと想い出す。
ということで、俺は別言語を学ぶことにした。
まずはギレーヌが扱えるという、獣神語からにする。
魔神語も習いたい。
ロキシーに触りだけでも教えてもらえるように、手紙を出してお
こう。
−−−
447
9歳になった。
エリスの家庭教師になってから、2年が経過した。
−−−
一年掛けて獣神語を習得した。
ギレーヌにはかなり手伝ってもらった。
習得にはそれほど時間は掛からなかった。
覚えるべき文字数が少なく、
パターンさえ知ってしまえば、口語も簡単だった。
生前では外国語は大の苦手だったが⋮⋮。
この身体は本当に物憶えがいい。
そして現在。
俺は魔神語を習っている。
魔族の言葉で書かれた本は安かった。
本屋の店主にも、
﹁何書かれてんのかわかんないよ?﹂
と、前置きされた。
銀貨7枚だった。
6枚に負けさせた。
448
−−−
そうして、さらに三ヶ月が経過した。
翻訳という作業は中々難しいものがある。
ていうか、ハッキリ言おう。
何書いてあるのか、まったくわからない。
せめてタイトルがわかれば、内容を想像しつつ、穴埋めしていく
こともできたかもしれない。
しかし、内容もわからない、言葉もわからないとなれば、俺には
お手上げだ。
獣神語の習得が容易だったのは、ギレーヌがいたのもある。
だが、それだけではない。
教科書として使用した本の内容が﹃ペルギウスの伝説﹄に出てく
る獣族の英雄の話だったからだ。
外伝的な位置付けだったが、手元に﹃ペルギウスの伝説﹄をおい
ておけば、単語を拾うのは楽だった。
しかし、魔神語はさっぱりわからない。
考古学者はいったいどうやって文字を解読していたんだろうか。
確か、単語を拾うのだ。
同じ単語を探して書きだして、それぞれの意味を仮定していく。
多分そんな感じ。
449
うん、まぁ、それ以前に、どれが単語かすらもわかんない。
さっぱりだ。
−−−
ようやくロキシーからの手紙が帰ってきた。 一年以上も音信がなかったので、これは途中で手紙に何かあった
か、ロキシーがもうシーローンの王宮にはいないのかもしれない、
と思っていた矢先だ。
ようやくだ。
ロキシーからの手紙というだけで嬉しくなる。
師匠は元気にしているだろうか。
俺は逸る気持ちを抑えて、メイドから手紙を受け取った。
手紙⋮⋮。
というか、小包みだった。
ズッシリと重い木箱だ。
大きさはそれほどでもない。
精々、電話帳ぐらいだ。
木箱の中から出てきたのは、手紙と一冊の分厚い本だった。
本にはタイトルが無く、カバーは動物の革。
電話帳にカバーを付けたような感じである。
とりあえず手紙から。
450
開ける前に匂いを嗅ぐと、ロキシーの香りがしたような気がした。
﹃ルーデウス様へ
お手紙、拝見しました。
ちょっともしない間に、随分と成長なされたことと思います。
まさか、フィットア領の領主のご息女の家庭教師に収まるとは、
驚きで開いた口がふさがりません。
ちなみにわたしはその仕事、面接で落とされました。
これがコネの力でしょうか。
現在、王子様の家庭教師でなければ、嫉妬していたかもしれませ
ん。
また、それだけではなく、
剣王ギレーヌとまで知り合いになって、あまつさえ弟子にしてし
まうとは。
剣王ギレーヌはとても有名な人なんですよ。
なにせ剣神流で4番目に強い人ですからね。
はぁ、五歳にしてわたしの水浴びを覗いていた頃のルーデウスは
どこに行ってしまったのでしょうか。
遠い人になってしまいましたね。
本題に入りましょう。
魔神語を習いたいという話でしたね。
魔族の各部族には人間族の知らないオリジナル魔術が数多く存在
しています。
文献は残っていないでしょうが、魔神語を喋ることが出来れば、
将来的に部族の集落に赴き、教えてもらうことも出来るかも知れま
せん。無論、良好な関係を築ければ、ですが。
並の魔術師では習得は不可能でしょうが、ルーデウスならあるい
451
は使いこなすことも出来るでしょう。
そういう期待を込めて、ルーデウスのために一冊、教科書を書き
上げました。
わたしの直筆です。
かなり時間が掛かったので、売ったり捨てたりしないで大切にし
てもらえると嬉しいです。
本屋とかで売ってるのを見たら泣くかもしれません⋮⋮。
道具屋といえば、
先日、王子様がこっそり城を抜けだして、わたしにそっくりの彫
像を買って来ました。
ローブが着脱式で、体型からホクロの位置まで同じでした。
不気味です。
もしかすると近日中に呪い殺されるかもしれません。
心当たりはないんですが⋮⋮。
大丈夫そうならまた手紙を出します。
ロキシーより
P.S.冒険者の中では杖を持っていれば魔術師、という認識が
あるのです﹄
なるほど。
水浴びの件は誤解だよ。覗いたわけじゃない。
偶然見えてしまったんだ。
偶然なんだ。ほんとに。
ロキシーが水浴びする時間は知ってたけど
覗けたのは偶然なんだ。
452
ある時間帯に意識的に家の中を散歩したけど、
偶然なんだ。
それにしてもギレーヌって剣神流で4番目なのか。
剣神、剣帝、剣王だから⋮⋮⋮あれ?
あ、剣帝が二人いるのか。
てことは剣王は一人しかいないのか?
剣神流の剣士は世界中に大量にいると聞いていた。
だから、剣王とかも十人ぐらいいると思っていたが、意外と狭き
門なのか。
あと、ロキシー像は偶然にも本人の近くに届いてしまったらしい。
王子様もお目が高い。
おっと、そんなことより。
同封されていた本は直筆本らしい。
手紙が届くのがどんなもんかわからないが、執筆期間は半年もな
いだろう。
俺のために頑張って書いてくれたのだ。
きっと、魔神語の解読に役立つものに違いない。
俺も頑張って魔神語を解読しよう。
READING。
そう思い、俺は椅子に座り直し、本を開いた。
NOW
ルーデウス読書中、なんちて。
453
﹁こりゃ、すげえ﹂
俺は中を見て、驚きを隠せなかった。
それは教科書であり、辞典だった。
あらゆる魔神語を人間語で翻訳してあった。
恐らく、シーローンの王宮にあるであろう言語辞典
何かを見ながら書き写したのだろう。
︵辞書︶か
単語から、細かい言い回し、発音の仕方までを、完全に網羅して
ある。
それで驚くのはまだ早い。
後半には、ロキシーの知る限りのあらゆる部族の情報が乗ってい
た。
この種族はアレがだめ、あの種族はコレがダメ。
ヘタクソだが挿絵も一応書いてあって、注釈で﹃ココが特徴!!﹄
と矢印までしてある。
ロキシーがこれを一生懸命書いたのだとすると、微笑ましい。
ミグルド族の項目は5ページに渡って一番詳細に書かれている。
ロキシーが俺に自分たちの種族のことをよく知ってもらおうと頑
張ったのだとすれば、実に微笑ましい。
﹃ミグルド族は基本的にみんな甘いものが好きです﹄
本当かよ。
それにしても、これを一年足らずで描き上げたと考えると、ロキ
シーには本当に頭が上がらなくなる。
もし出会う事があれば、その時は足でも舐めさせてもらおう。
きっと美味しいに違いない。
454
さて。
しかしこれは、今の俺にとって最強の教科書であると言えた。
生前はそれほど成績のいい俺ではなかったが、この身体は妙に物
覚えがいい。
さらに半年もあれば、この本を完璧にマスターできることだろう。
−−−
最低でも、簡単な言い回しぐらいは出来るようになりたい。
ギレーヌ視点
頑張ろう。
−−−
ルーデウスが部屋に篭りだした。
またなにかやっているらしい。
あの少年は度々あたしを驚かせてくれる。
最初に出会った時は、なんとも頼りない少年だと思った。
あの自信家のパウロが親馬鹿で押し付けたのだと思った。
パウロには義理もある。
義理以上の感情は無いが、義理はある。
だから、万が一エリスお嬢様の家庭教師になれなかったとしても、
館には留めてもらえるように進言しよう。
などと考えていた。
455
それが、あっというまにエリスお嬢様の信頼を勝ち取り、家庭教
師の座へと収まった。
誘拐事件はルーデウスが企画したもの。
それを執事が金ほしさに利用したと聞いたが、
あたしが現場に付いた時、ルーデウスは執事の雇った男二人と対
等に渡り合っていた。
曲りなりにも片方は北神流の上級剣士だったというのに、二つの
魔術を使い分け、あるいは合体させ、実にユニークな戦い方で圧倒
していた。
まだ子供なせいか詰めが甘かったが、あの歳であの戦闘センスは
天性のものだ。
このあたしでも、100メートル以上離れた位置から戦いを始め
たら、敗北もありうる。
戦闘センスだけではない。
エリスお嬢様の授業計画とやらを組立て、効率的な授業を行いだ
した。
授業もわかりやすい。
まさか、このあたしが読み書きと算術を覚え、
あまつさえ杖までもらうとは⋮⋮。
村きっての悪童と言われ、
10にならないうちに旅の剣士に預けられ、
剣聖になったもののあらゆるパーティから爪弾きにされ、
ようやく居着いたパーティでも、頭の悪そうな軽薄な男から、
お前は頭が筋肉だから考えるな、と言われ続けたあたしが、だ。
もし、今帰れば、集落の連中はどんな顔をするだろうか。
思い浮かべるだけで笑みが溢れそうになる。
456
まさか、集落の連中を思い浮かべて、こんな気分になる日がくる
とは。
自分の息子ともいえるような年齢の子供から、こんなに何かをも
らった事はない。
パーティを解散してからは、奪われるだけの毎日だった。
詐欺にあって一文無しになり、しかし他人の物に手を付けるなと
師匠に厳しく躾けられたため窃盗にも至れず。
空腹でロクに仕事もできず、餓死寸前にまで陥っていたあたしを
拾ってくれたサウロス様とエリス様。
あたしはこの二人と同様の敬意を、ルーデウスには払っている。
ししょう
師匠⋮⋮というと剣神様が﹁そんなガキと俺様が同列か!﹂怒り
そうなので、先生と言うべきだろう。
ルーデウスには、先生として敬意を払っている。
彼は本当に根気強く、算術や魔術を教えてくれている。
頑張ってはいるが、あたしは物覚えがいい方ではないし、何度も
同じミスを繰り返している。
だがルーデウスは嫌な顔せず、懇切丁寧に教えてくれる。
それも毎回言葉を変えて、あたしが理解できるようにだ。
おかげで、あたしは二年という短い期間で火と水系統の初級魔術
をマスターすることができた。
ルーデウスの教育方針なのか、すぐには中級に移らず、覚えた魔
術は無詠唱で使えるようにと訓練を行なっている。
両手が塞がっていても簡単な魔術が使えるというのは、合理的だ。
なので、とても理解しやすい。理解できれば、努力も捗る。
もっとも、努力をしても出来ないのだが。
457
剣の師匠である剣神様は、頭の悪いあたしに﹃合理﹄という言葉
をひたすら説き続けた。
﹁合理とは、すなわち基礎である﹂
ししょう
とは、剣神様のお言葉だ。
長い年月を経て培われてきた流派の基礎は、合理性の塊である。
地味な基礎を嫌がる幼きあたしに、
師匠は延々とゴリゴリゴリゴリ言い続けた。
延々と基礎を練習させ続けた。
おかげで剣王などという分不相応な力を手に入れた。
ルーデウスの教育方法は剣神様とよく似ている。
エリスお嬢様はルーデウスのいない所で、
﹁もっと派手な魔術を使いたい﹂
と、愚痴をこぼしているが、あたしは今のままでいいと思う。
実戦で最も頼れるのは、長い時間詠唱して強大な魔術を使用する
上級魔術士ではない。
状況に応じて細かく初級・中級魔術を打ち分けてくれる魔術師だ。
昔は魔術師など、人同士の戦いではなんの役にも立たない存在だ
と思っていた。
だが、今は違う。
ルーデウスを見た後だから言える。
高速で動きまわりながら行動阻害と攻撃魔術を同時に行って来る
458
ような相手がいれば、剣士にとってこの上ない強敵となる。
村ではずっとパウロが相手をしてきたと聞いた。
大人げないパウロのことだ、ルーデウスを力のままに叩きのめし
たりしたのだろう。
その結果として、対剣士戦術としてパーフェクトとも言える動き
を手に入れたのだとすれば⋮⋮。
怪我の功名。
パウロもたまにはいいことをする。
もっとも一歩間違えば、ルーデウスが戦いそのものを諦め、その
才能を埋もれさせてしまった可能性もある。
諦めずにやってこれたのは、パウロの負けず嫌いな部分が遺伝し
たのだろう。
いずれ、パウロを倒せるような技を教えてやれればと思う。
もっとも、ルーデウスにあるのは戦闘の才能だけだ。
剣神流の才能は無い。
合理性を求めるがあまり、考えすぎるのだ。
合理的な動きをしている基礎を、さらに合理的にしようとして、
結果的に不合理な結果に終わっている。
ルーデウスの性格を考えれば悪い事ではないし、恐らく魔術を使
うことを前提にしているのだろう。
だが、踏み込み一つで全てを判断し、
一瞬の交差で決着を付ける剣神流には合っていない。
パウロは教えなかったようだが、北神流が一番合っているだろう。
あいにくとあたしは剣神流しか使えない。
教えることは出来ない。
459
が、ツテはある。
三年後、もしルーデウスがまだ剣術を習うつもりがあるのなら、
北神流の誰かを紹介しよう。
あたしに出来るのは、剣神流の基礎を教え続けることぐらいだ。
基礎ができていれば、北神流を習い始めてもすぐに上達できるは
ずだ。
もっとも、それも彼に剣術を習うつもりがあればの話だ。
今は師に恵まれず行き詰まっているようだが、
いずれ、ルーデウスは魔術師として大成するだろう。
神級となると人外すぎてわからないが、
あるいはルーデウスなら帝級までは習得するかもしれない。
ルーデウスの将来として何を勧めればいいのか。
きっと、ロキシーとかいう魔術の師匠も悩んだのだろう。
結果として逃げ出すとは情けない奴だと思うが、責めるつもりは
ない。
むしろ、彼女に感謝するべきだろう。
お陰で、あたしは魔術を使えるようになったのだから。
愚鈍な師の元で学んでも、弟子の頭が押さえつけられるだけだ。
⋮⋮いずれ、あたしも誰かに剣術を教える事を苦痛と感じる日が
来るかもしれない。
思考が脇に逸れた。
そうだ。
ルーデウスが何かをやっているのだ。
460
もっとも、休日と言われて常に暇を持て余しているお嬢様と違い、
ルーデウスはいつも何か新しいことをやろうとしている。
この間も、獣神語を習いたいと言い出して、夕食後に本を片手に
あたしの部屋に来た。
大森林でしか使えないような言語を憶えてどうするのかと思った
が、
ルーデウスは半年かけて言語を憶えてしまった。
獣神語に難しい言い回しはない。
日常会話ぐらいなら完璧にこなせるだろう。
﹁これで、いつでも﹃大森林﹄に行けますね﹂
あんな閉鎖的な所にいって何をするのか。
そう聞いてみると、
﹁え? いえ、特には⋮⋮あ、可愛い子がいるかもしれませんね。
猫耳の﹂
その時、あたしは確信した。
こいつはやっぱりパウロの息子で、グレイラット家の血を引いて
いると。
そう。
グレイラット家の連中はなぜかあたしのことを変な目で見てくる。
女として見られているのなら悪い気分はしないのだが、そうじゃ
ない。
なんとも奇異な視線なのだ。
大抵、雄という生物はあたしの胸を見てくる。
まず顔を見てから、チラチラと別の場所を見ているフリをして、
461
胸を見てくる。
それから、すっと視線が降りて、腹、股間、太ももだ。後ろから
なら、尻を見てくる。
まあ、悪い気はしない。
だが、グレイラット家の男連中は違う。
最初は彼らも、顔と尻を見ているのだと思っていた。
まあ、見るぐらいならいいだろう、それ以上を期待されているわ
けではないだろうし。
そんな物好きはパウロぐらいなものだ。
などと思っていたのだが、どうにも視線の位置がおかしいことに
気付いた。
顔を見る視線はちょっと上を、尻というよりはちょっと外を⋮⋮。
何を見ているのかと思ったら、耳と尻尾だった。
エリスお嬢様も、サウロス様も、フィリップ様もそうだ。
ルーデウスを馬車で迎えに行く前。
なぜ耳を見るのか、と初めて聞いてみた。
するとフィリップ様は顔色一つ買えず、
﹁﹃ボレアス﹄は獣族が好きなのだ﹂
と、言った。
言いながら耳を見ていた。
また、ルーデウスは、貴族としての名前は継いでいないが﹃ノト
ス﹄の一族だから違うと説明をうけた。
﹁もっとも、パウロの息子だから女好きなのは間違いないだろうが
ね﹂
462
と、付け加えられた。
さもありなんと、その時は思った。
しかし、会ってみると、ルーデウスはパウロの息子とは思えない
ほど紳士だった。
そしてパウロの息子とは思えないほど努力家で、
パウロの息子とは思えないほど勤勉で、
パウロの息子とは思えないほど禁欲的⋮⋮ではなかったか。
とはいえ、パウロの息子ではないのかもしれない、と思ったのは
事実だ。
だが、考えを改めた。
間違いない。
ルーデウス・グレイラットはパウロの血族だ。
﹁やはりお前はパウロの息子だな。
言葉の通じる同種だけでは満足できんか﹂
﹁冗談ですから。そういう言い方はやめてください﹂
いや、あながち冗談でもないのだろう。
この男は将来、女ったらしになる。
最近、ルーデウスを見るエリスお嬢様の目に、ちょっと色が出始
めている。
色恋沙汰には疎いあたしだが、それぐらいはわかる。
パウロに惹かれ始めた頃のゼニスにそっくりだ。
463
そんなルーデウスが、最近は魔神語を習得しているらしい。
獣族の次は魔族か。
あの少年は将来、全世界の女の子を探す旅にでも出るつもりなの
だろうか。
パウロも昔似たようなことを言っていた。
中央大陸中を回ってハーレムを作る、とかなんとか。
結局はミリス大陸でゼニスに捕まった時に断念したようだが、そ
の意志を継いでいるのか。
まったく、ロクでもない親子だ⋮⋮⋮。
いや、ルーデウスには敬意を払っている。
嘘じゃない。
軽蔑しているのはパウロだけだ。
ルーデウスはその片鱗を見せているだけで、何もしていない。
まだ。何もしていない。
彼は尊敬できる少年だ。
うむ。
﹁どうしたのギレーヌ?﹂
考え事をしていると、エリスお嬢様が目の前にいた。
彼女も、この二年間で随分と成長した。
初めて出会ったのは五年ほど前になる。
464
当初はどうにも手が付けられないワガママ娘だと思った。
初日に剣術の授業で足腰が立たなくなるまで﹃可愛がって﹄やっ
たら、夜中に木剣を持って襲いかかってきた。
返り討ちにするとしばらくは大人しくなったが、
それでも何ヶ月も目を爛々と輝かせて隙を伺っていたものだ。
自分もかなりの悪童だったので、その行動には親近感が湧いた。
あたしも、昔はこんな感じだったな、と。
最初の頃、
剣術の稽古をしていても、アレがイヤ、コレがイヤと文句ばかり
言ってきた。
それが最近では、随分とおとなしくなった。
去年の誕生日あたりからあまり叫ばなくなったし、服も汚さなく
なった。
礼儀作法の授業のおかげというより、ルーデウスによく見られた
いからだろう。
さては、10歳の誕生日にルーデウスが何か言ったのだ。
パウロ直伝の、子宮の奥を痺れさせるような言葉で篭絡したに違
いない。
そういえば、10歳の誕生日にエリスお嬢様はルーデウスの部屋
に泊まったらしい。
つがい
まさか⋮⋮⋮いやまさか。
だが、いずれこの二人が番になったとしても、あたしは驚かない。
エリスお嬢様を御せる男は、そう多くはあるまい。
﹁ルーデウスのことを考えていた﹂
﹁ふぅん、なんで?﹂
465
エリスお嬢様は首をかしげた。
その目には、少しばかり嫉妬の色がある。
取ったりしないから、安心してほしい。
﹁なぜ、魔大陸の言語を学んでいるのか、と﹂
﹁前に言ってたじゃない﹂
言っていただろうか。
ルーデウスの教えは覚えているつもりだが、
唐突に言語を学びだした理由には心当たりがない。
﹁なんと?﹂
﹁何かの役に立つかもしれないからって﹂
そういえば、来たばかりの頃、商店で値段と商品名を書きながら
そんな事を言っていたか。
結局、あれは何かの役に立ったのだろうか。
そういえば、
昔パーティを組んでいたシーフは、消耗品の相場に詳しかった。
いきなりある店を見つけて、ここの治療薬は相場の半値だから買
い込もうと言って、粗悪品を掴まされたりしたのは嫌な思い出だ。
だが、考えてみれば、相場を知らなければ、粗悪品を2倍、3倍
の値段で買わされても気付かないのだ。
あの時はわからないと言ったが、よく考えれば、やはり相場とい
うものは知っておいたほうがいいのだ。
ルーデウスに算術を習ったおかげで、もう釣りを誤魔化されるこ
466
とは無いが、最初から値段を誤魔化されている可能性もある。
算術を習ったからといって、商人になれるわけではない。
﹁ルーデウスの事はいいわ。
どうせ考えてもよくわからないもの。
そんなことよりギレーヌ。暇なら剣術の稽古をつけて頂戴﹂
エリスお嬢様は、ここ最近、熱心に剣術にうちこむようになった。
理由はわからないが、焦りのようなものを感じているのかもしれ
ない。
ルーデウスは九歳。
お嬢様がルーデウスと出会ったのも九歳。
当時のお嬢様より今のルーデウスの方がしっかりしていることは
一目瞭然だ。
読み書き、算術、魔術は当然のことながら、社会常識や対話能力
に至るまで。
作法は無いが礼儀はある。
物腰も商人のように丁寧だ。
ユーモアもある。
ちょっと性的な悪戯が目にあまるが、それも愛嬌だろう。
本当に9歳かと疑う。
文字だけでやりとりをしたら、四十歳そこそこと言われても信じ
てしまうかもしれない。
そういえば、王竜王国の方では、そういう詐欺が流行っているら
しい。
読み書きの出来る賊が、貴族の青年を装って貴族の子女に手紙を
出し、長い時間を掛けて信用させて、ある日いきなり呼び出して捕
まえて奴隷屋に売るのだとか。
467
エリスお嬢様は、そんなルーデウスにせめて何か一つ、勝てるも
のをと思ったのかもしれない。
それが剣術なのだから、あたしとしては嬉しい限りだ。
﹁わかったエリス。中庭にいこう﹂
﹁うん!﹂
エリスお嬢様は元気に頷いた。
エリスお嬢様には剣神流の才能がある。
このまま本気で剣の道を歩めば、いずれあたしをも超える使い手
になるかもしれない。
今はまだ中級だが、3年間ひたすら基礎を教え続けた結果が、最
近如実に現れ始めた。
踏み込みは鋭く、疾く。
身体には﹃闘気﹄が乗るようになってきた。
﹃闘気﹄を自覚的に御せるようになれば、晴れて剣神流の上級剣
士となる。
完全に御せれば、剣聖だ。
そう遠い未来ではないだろう。
エリスお嬢様がどこまで伸びるかわからないが、
もしもあたしが教えている間に剣聖になったら、一度師匠に会わ
せよう。
出来れば、ルーデウスも一緒に。
師匠はどんな顔をするだろうか。
楽しみだ。
468
第十七話﹁言語学習﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:エリス・B・グレイラット
職業:フィットア領主の孫
性格:やや凶暴
言う事:素直に聞く
読み書き:書きも上達
算術:割り算がまだ苦手
魔術:無詠唱はまったく出来ない
剣術:剣神流・中級︵もうすぐ上級︶
礼儀作法:淑女の真似事
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ、ルーデウス
469
第十八話﹁確約﹂
そんなこんなで、俺ももうすぐ10歳だ。
ここ一年間は語学学習に費やした。
魔神語、獣神語の他に、闘神語も習得できた。
闘神語は人間語にほど近くて、習得するのはそう難しくなかった。
英語の中に、ちょこっとだけドイツ語が混じっている感じだ。
単語や言い回しが違うだけ。
文法の基礎は人間語と一緒だ。
この世界の言語は、そう難しくない。
一つ覚えれば、他でも応用がきく。
世界中を巻き込んで戦争をしていた影響だろうか。
もっとも天神語と海神語は文献もなく、使う人もいなかったため、
習得することが出来なかった。
剣術の方は、なんとか中級になれそうだ。
エリスがたった二年で中級から上級になってしまったので、俺で
はもう相手にならない。
才能の差を感じるね。
まあ、休みの日にも努力していたみたいだし、そういうものかな。
俺が言語学習に費やした時間を、彼女は剣術に費やしたのだ。
差が出てしまうのも当然だろう。
魔術はフィギュア制作の訓練をする程度だ。
より細かい作業が出来るようになってきたので、上達はしている
はずだ。
470
とはいえ、行き詰まっているのも確かだ。
まあ、こっちは魔法大学で学べばいいだろう。
焦ることはない。
それにしても、この世界にきてもうすぐ10年か。
感慨深いものを感じるね。
−−−
誕生日の一ヶ月ぐらい前から、エリスを筆頭に館中の人間がそわ
そわとして始めた。
何事だろうか。
もしかして誰か重要人物がやってくるのだろうか。
他のグレイラット家の誰かとか、
あるいはエリスのフィアンセとか⋮⋮。
いやまさか、そんなまさか。
エリスにフィアンセなんて︵笑︶。
でも不安になったので、ちょっと調べてみる。
エリスの後を華麗に尾行。
すると、台所でエリスとメイドが嬉しそうに会話している所に遭
遇した。
なまにく
ギレーヌもいたが、どうやら俺には気付いていないらしい。
その目は料理前の食材に釘付けだ。
﹁ルーデウスが驚く所を見るのが楽しみね! 泣いて喜ぶかも!﹂
471
﹁どうでしょう。ルーデウス様のことですから、内心でびっくりし
ていても、顔には出さないかもしれませんよ﹂
﹁でも、嬉しいとは思うわよね?﹂
﹁そりゃあもちろん。分家ということで、大変苦労しておられるで
しょうから﹂
別に苦労はしていないんだが⋮⋮。
しかし、一体なんの話をしているのだろうか。
陰口だろうか。
うまくやってる自信はあったんだが、
そう思ってるのは俺だけで、
この家の人間は迷惑しているという話だろうか。
だとしたら泣く自信がある。
﹁ルーデウスの誕生日までに間に合わせないと!﹂
﹁焦ってもうまく出来ませんよ?﹂
﹁うまく出来ないと、食べてくれないかな?﹂
﹁いいえ、ルーデウス様ならたとえ消し炭でも食べます﹂
﹁ほんと?﹂
﹁ええ、サウロス様がその場にいる限り﹂
あ。
これ、もしかして、あれか。
サプライズバースデイの準備か?
﹁ルーデウスも、あんな家の生まれじゃなければね⋮⋮﹂
エリスが不憫そうに言った。
なるほど、と俺は話の流れに納得して、その場を離れた。
472
どうやら俺はあまり表沙汰には出来ない人物らしい。
そうだな、あんなヤツの息子では隠したくもなろう、と思う。
が、そういう意味ではない。
ここ数年で知った話だ。
パウロの本名は、パウロ・ノトス・グレイラットと言う。
﹃ノトス﹄というのがパウロの貴族名である。
パウロはノトス家から勘当され、ヤツの弟だか従兄弟だかが現当
主となった。
ま、それはいい。終わったことだ。
だが、終わったこととしていない人々が何人かいるらしい。
ノトスの現当主がパウロ以上のクズなので頭をすげ替えようとす
る一派だ。
現当主もその気配に敏感で、取って代わられそうな相手は極力排
除しようとしている。
なので、現在ボレアス家で保護されている俺がノトス家であると
声高に叫ぶのはまずい。
俺にはまったくその気は無いのだが、パウロの息子がボレアス家
という後ろ盾を得て、ノトス家を取り戻そうとしている、と考えら
れる可能性が高い。
権力者ってのは疑心暗鬼が好きだからな。
最悪、暗殺者を送り込まれるかもしれない。
だから隠さなければならない。
さて、それで話は盗み聞きした所へと戻る。
473
ルーデウスは不憫。
本来ならエリス以上の扱いを受ける立場なのに、使用人のごとき
扱いを受けている。不憫。
なので、貴族の中では恒例中の恒例⋮⋮。
特別な一日とも言える10歳の誕生パーティーも大々的には行え
ない。
不憫だ。実に不憫だ。
そこでエリスが久しぶりにお祖父様ことサウロスにワガママを言
って、内々で誕生パーティーを開催することを決めたらしい。
館の人間だけの、ささやかなホームパーティーを。
俺のためにだ。
泣かせる話じゃないのよさ。
それにしても危ない所だった。
知識では知っていたが、
俺には10歳の誕生日が特別とかいう意識はあんま無いからな。
まして俺の常識でのパーティーといえば、
先日のエリスの誕生日のような大々的なものではなく、ホームパ
ーティーだ。
身内だけでお誕生日会をすると言われても﹁ああ、そうなんです
か。どうもありがとうございます﹂としか返せない所だった。
今回は、エリスの企画だ。
同年代もいなかったし、こういうことをするのも初めてだろう。
俺が喜ばなければ、彼女もガッカリしてしまう。
水の魔術を使って泣く練習をしておくとしよう。
俺は空気が読める男だからな。
474
−−−
当日。
館中がそわそわとしていた。
昼の授業を終えると、ギレーヌが俺の部屋にきた。
珍しく緊張した様子で、シッポがピンと立っている。
﹁ま、魔術で教えてほしいことがあってな﹂
目が泳いでいる。
どうやら俺をこの部屋に釘付けにしておきたいらしい。
オッケーオッケー。
乗ってやろう。
﹁ほう、どんな事を?﹂
﹁聖級の魔術というものを見せてはもらえないだろうか﹂
﹁いいですけど、町に被害が出ますよ?﹂
﹁なに? どんな魔術なんだ?﹂
﹁水聖級は暴風と嵐雷ですね。頑張ればこの町ぐらい水没させられ
ますよ﹂
﹁それはすごいな⋮⋮今度是非とも見せてもらいたいものだ﹂
珍しく、やけに持ち上げてくる。
そういう作戦か。
よし、ちょっとからかってやろう。
475
﹁わかった。そこまで言うならやりましょう。
2時間ぐらい馬で移動すれば、なんとか範囲の外に出られるでし
ょうから。
今から行きましょうか﹂
ギレーヌの頬がヒクッと動いた。
﹁や、いや、まて。
今からだと帰りが遅くなる。夜は魔物が出やすい。平原でも危険
だ﹂
﹁そうですか? でもギレーヌがいれば大丈夫でしょう? 獣人族
って、音にも敏感だから夜中の警戒もうまいって言ってましたよね﹂
﹁か、過信は禁物だ﹂
﹁そうですね。聖級を使うと俺も結構魔力使いますし。今度の休日
にしましょうか﹂
﹁あ、ああ。そうだ、そうしよう﹂
キリの良い所で切り上げる。
普段何事にも動じないギレーヌをからかうのは中々面白い。
動揺すると尻尾がピンッと動くのだ。
俺の言葉ひとつで尻尾が動くのだ。
それだけで幸せな気分になれる。
﹁あ、そういえばお茶も出さずにすいません。今お湯をもらって⋮
⋮﹂
﹁いやいい、構うな。動くな。喉は乾いていない﹂
﹁そうですか﹂
まぁ、お湯なんて自分で出せるしね。
気づいてないようだから言わないが。
476
よし、この調子なら、俺が外に出ないように全力を尽くすに違い
ない。
ちょっとセクハラしてみよう。
フィギュア
﹁そういえば、今俺が作ってる人形なんですが﹂
と、製作中の1/10ギレーヌを戸棚から取り出す。
最初の頃に比べ、かなり上達してきた自信がある。
この筋肉の流線なんかプロ並だろう。
﹁ほう。これは私か? なかなかうまくできているな。前にエリス
お嬢様の人形を作っていた時もうまくできていたが⋮⋮。
うん? 尻尾がついていないな﹂
﹁どうにもそのあたりの知識が曖昧で、いつもは想像で作っている
んですが、
今回は出来がいいのでリアル志向にこだわってみたいと思いまし
て﹂
﹁ふむ﹂
ギレーヌは考えこむような仕草で尻尾を振った。
ふっ、どんな顔をするか楽しみだぜ。
﹁見せてもらえませんか?
尻尾の付け根の部分﹂
﹁お安いご用だ﹂
そう言って、ギレーヌは俺に向かってぺろんと尻を見せた。
一瞬の躊躇もなかった。
477
すごい!
さすが僕らのギレーヌだ!
男らしい!
こいつは勝てない!
いや、怯むな。
まだだ。
せっかくガードの硬いギレーヌに公然とエロいことができるチャ
ンスなのだ。
﹁ちょ、ちょっと触ってみてもいいですか?﹂
﹁ああ。もちろんだ﹂
ぺたりと触る。
硬っ!
えっ!?
ちょっとまって、これ尻?
尻だよね?
すげぇ筋肉。
もうね、鋼みたいに硬い。
でもなんていうか、柔軟性を感じる。
なんていうか、理想?
ちょっとこれにエロさを感じるのは難しいですね。
憧れの筋肉です。
男なら誰しも一度は憧れる筋肉ですよ。
赤筋と白筋の両方の性質を兼ね備えたピンク色の筋肉ですよ!
マッスル様はエロ神様と対極に存在するありがたい存在です。
ありがたや、ありがたや。
478
俺にも筋肉をお授けください⋮⋮。
﹁もう、いいです﹂
うちひしがれた気分で、ギレーヌの尻から手を離した。
﹁一度エリスお嬢様が絵師に自画像を書かせていたのを見て、私も
今の自分の姿を残しておきたいと思っていたのだ。
完成が楽しみだな﹂
素で嬉しそうな顔をされた。
負けた気分だ。
男として。
男らしさで。 くそう、俺ではギレーヌには勝てないのか⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮そろそろ夕飯の時間ですね﹂
﹁ふ、ふむ。もう少し先じゃないのか?﹂
最後に1回だけ尻尾をピクらせた時、メイドが食事に呼びにきた。
−−−
食堂に入った瞬間、拍手が巻き起こった。
館で一度は見かけた事のある人達が勢ぞろいしていた。
もちろん、サウロスやフィリップ。滅多に姿を見ないヒルダもい
た。
479
﹁こ、これは⋮⋮?﹂
後ろを振り返ると、ギレーヌも拍手していた。
﹁えっ? えっ?﹂
うろたえる演技。
﹁ルーデウス! お誕生日おめでとう!﹂
真っ赤なドレスをきたエリスが大きな花束を持っていた。
うろたえた表情のまま、受け取る。
﹁あ、そっか。俺、今日、10歳か⋮⋮﹂
予め練習しておいたセリフの後、くしゃっと顔を歪めて、
袖で目元を覆う。
と、同時に水魔術を使って目の中から涙を溢れさせる。
しばらくすると、鼻のおくがツーンとしてきて、鼻が詰まる。
﹁ご、ごめんなさい。お、俺、こんな⋮⋮こんな⋮⋮初めてで⋮⋮
ここにきて⋮⋮失敗しちゃいけないって思ってて⋮⋮
歓迎されてないって⋮⋮失敗したら、と、父様に迷惑がかかるか
らって⋮⋮
い、祝ってもらえるなんて⋮⋮お、思ってなく⋮⋮て⋮⋮ぐすっ
⋮⋮﹂
袖をどけてみると、エリスの唖然とした顔が見えた。
フィリップやサウロス、館の人々も拍手の手をとめて、ぽかんと
していた。
480
ヤバイな。演技がクサすぎたか⋮⋮?
いや違うな。
逆か。
演技がうますぎたか。
失敗したな、そこそこでよかったんだが。
はあ。
こんなことを考えるとは、俺も嫌な大人になったな⋮⋮。
まあいいか。
初志貫徹。
このままいこう。
エリスが狼狽えて、﹁どうしよう、どうしよう﹂と執事に聞いて
いる。
俺が泣くのがそんなに大事件か。
可愛かったので抱きしめた。
そして鼻声のまま、耳元で囁くようにお礼を言う。
﹁エリズ、ありがとう⋮⋮﹂
﹁い、いいのよ! ルーデウスは、か、家族なんだから! 当然よ!
ぐ、グレイラット家としてこれぐらいは、ね! お父様! お祖
父様!﹂
いつものエリスなら﹁感謝しなさいよ!﹂とかいう所だろうが、
何かいいワケをするようにフィリップに同意を求める。
見ると、サウロスが吠えていた。
﹁せ、戦争じゃぁ! ノトスん所と戦争じゃあ! ピレモンをぶっ
481
殺してルーデウスを当主に添えるぞ! フィリィップ! アルフォ
ォンス! ギレェェィヌ! わしに続けぇぃ! まずは兵を集める
ぞ!﹂
こうして、ボレアス・グレイラット家とノトス・グレイラット家
の戦争は幕を開けた。
血で血を洗う戦争は残り二つのグレイラット家をも巻き込み、ア
スラ王国を長い内乱の歴史へと引きずり込んだ。
⋮⋮⋮なんてことには、もちろんならず。
﹁ち、父上、抑えて! 抑えてください!﹂
﹁フィリィィップ! 邪魔立てするか! 貴様とて! あんなクソ
タワケよりルーデウスが当主になった方がいいと思うであろうが!﹂
﹁思いますけど落ち着いて! 今日はおめでたい日なんですから!
それに戦争はまずいです、ゼピロスとエウロスも敵に回します!﹂
﹁愚か者ぉ! わし一人でも勝ってみせるわ! 離せ、離せぇぇえ
い!﹂
サウロスは、そのままフィリップに引きずられて退出した。
唖然。
﹁こ、こほん﹂
エリスは咳払いを一つ。
﹁お、お祖父様の事は置いといて⋮⋮。今日はルーデウスがビック
リするものを用意したわ!﹂
エリスは顔を真っ赤にしたまま、えっへんと胸を張った。
最近ちょっと大きくなってブラジャーなど付けるようになった、
482
可愛らしい胸を張った。
今はまだ可愛らしいが、将来はかなり生意気に育つと仙人は言っ
ていた。
ありがとう仙人。
﹁びっくり、するもの、ですか?﹂
﹁なんだと思う!?﹂
びっくりするもの。
なんだろう。
俺が喜びそうなもの。
パソコンとエロゲー。いやいや。
エリスが思い付きそうなもの。
俺の境遇。
家族から引き離されて、何年も一人。
寂しかろう。
そんな中での誕生日。
エリスが自分だったらどんなプレゼントを喜ぶ?
ギレーヌかお祖父様に来て、祝ってもらうことだろう。
それを俺に当てはめると⋮⋮。
﹁まさか、父様がここに⋮⋮?﹂
エリスの顔が曇った。
エリスだけじゃない。メイドや執事も、気の毒そうな顔に変化し
た。
﹁ぱ、パウロ⋮⋮さんは、最近、森で魔物が活性化してるからこれ
ないって⋮⋮で、でもルーデウスなら別に俺なんかいなくても大丈
483
夫だって⋮⋮ゼニスさんも、子供が急に熱を出したからって⋮⋮﹂
エリスはしどろもどろになって答えた。
あー。
一応、呼んだのか。
まぁしょうがないだろ。
パウロはあの村では結構頼りにされてるし、
妹たちが病気なら、リーリャに任せっきりにするわけにもいくま
い。
﹁え、えっと、あのね、ルーデウス。その、ね⋮⋮﹂
エリスがまたオロオロし始めた。
普段は強気な猫が困ってるみたいで可愛いなぁ。
安心しなさい。
パウロはむしろ、こういう場にはいない方がいいんですよ。
﹁そうですか、父様も母様もきていませんか⋮⋮﹂
気にしていない風を装ってそう言った。
つもりだったが、涙を出したせいで鼻声だった。
かなり落胆した風になってしまった。
すると、メイドさんの中にも鼻をすする者が出てきた。
失敗した⋮⋮。
こんな空気にするつもりじゃなかった。
ごめん、俺、やっぱ空気読めてなかったよ⋮⋮。
と、思っていると、いきなりヒルダが走りこんできて、俺を抱き
484
しめた。
思わず花束を取り落とした。
﹁うわっ﹂
ヒルダとはほとんど話したことがない。
彼女はエリスと同じ赤毛を持つ、ザ・未亡人って感じの色気を振
りまく妙齢の美女だ。
タイトルに若奥様とか未亡人とか入っている系エロゲーに出てき
そうな人だ。
もちろん、フィリップが生きている限り未亡人ではないんだけど。
要するにこの人⋮⋮てか、おっぱいでけえ!
もしや、エリスも成長するとこのレベルに⋮⋮!?
ああん!
﹁大丈夫よルーデウス、安心していいの。あなたはもうウチの子よ
!﹂
俺をぎゅっと抱きしめながら、ヒルダは喚くように言った。
あれれ?
この人、俺のこと嫌ってたんじゃなかったっけ?
﹁誰にも文句なんて言わせないわ! 養子⋮⋮いえ、エリスと結婚
しなさい! そうよ! 名案だわ! そうしなさい!﹂
﹁お、お母様!?﹂
ヒルダが唐突にテンパりだした。
さすがのエリスもびっくりだ。
485
﹁エリス! あなたウチのルーデウスのどこが不満なの!﹂
﹁ルーデウスはまだ十歳よ!﹂
ヒルダ
﹁年齢なんて関係ないわ! あなたは言い訳ばかりしていないでも
っと女を磨きなさい!﹂
﹁してるわよ!﹂
暴走するヒルダ。
言い返すエリス。
入り嫁だと聞いていたが、やっぱりこの人もグレイラットの人間
か。
サウロスと同じ気配がする。
﹁はいはい。また今度ね﹂
﹁キャッ! あなた! 何を! 離しなさい! 可哀想なあの子を
わたくしが救わなくては!﹂
サウロスを抑えて帰ってきたフィリップが、華麗にヒルダを退場
させた。
フィリップは、全員が混乱してる時でも、ただ一人氷のように冷
静に状況をみてやがる。
クールだ。
大魔導士だ。
頼れる男だ。あらゆるリファレンスになる。
さて、気を取り直して。
﹁で、なんです?
その、ビックリするものって﹂
花束を拾い直して、改めてそう聞く。
486
するとエリスは、腕を組んで、ぐっと胸を張り、顎をつきだした
いつものポーズ。
このポーズも久しぶりに見る気がする。
﹁ふふふん! アルフォンス! 例のものを!﹂
と、エリスが指をパチンと鳴らそうとして、スカッとかすれた音
が。
エリスが赤い顔をして、しかしアルフォンスは気にせず、俺に見
えない彫像の影から一本の杖を取り出した。
杖。
ロキシーが持っていたのと同じような、魔術師の杖だ。
節くれだった木製のスタッフ。
先には高そうなでかい魔石がついている。
俺は一目みてわかった。
この杖は、高い。
杖のランクは木材と魔石で決まる。
木材の方は各種系統の相性が関係してくる。
火・土系統と相性のいいクロガキ、
水・風系統と相性がいいエンジュが一般的だ。
もっとも、相性が悪ければ威力が減少するというわけではないの
で、素材はなんでもいい。
特に重要なのが魔石だ。
魔力を魔石に通すだけで、なぜか消費魔力はそのままに、魔術の
威力が増幅される。
487
魔石はピンからキリまであるが、より透明度が高くて大きいもの
だと効果が高くなる。
効果と一緒に値段も増えていく。天文学的に。
俺がエリスとギレーヌに作ったワンドに使用した魔石は、一粒で
銀貨1枚。
もっと安いものもあったが、ロキシーからもらった杖についてい
た大きさを思い出して、そのサイズにした。
それが小指の先ほどの大きさである。
この拳大ほどの大きさの魔石なら、金貨100枚は優に超えるだ
ろう。
まして、この魔石はやや青みがかった水魔石だ。
色がついている魔石は色に対応した系統が大幅に強化される。
そしてお値段も以下略。
これ一つで一体いくらするか⋮⋮。
ちなみに、迷宮で取れる魔力結晶も魔石の一種ではあるが、
魔石と違い魔力を増幅する効果はない。
その変わり魔力を内包しているため、杖ではなく魔道具や魔力消
費の大きな魔術に用いられる。
と、俺が杖を見定めていると、エリスが満足気な顔で頷いた。
﹁アルフォンス、説明よ!﹂
﹁はい、お嬢様。
杖素材はミリス大陸・大森林東部に生息するエルダートゥレント
の腕を用いました。
博学なルーデウス様はご存知かと思いますが、エルダートゥレン
トはレッサートゥレントが妖精の泉より養分を吸い上げたことで生
488
まれる上位亜種で、水魔術を操るAランクモンスターでございます。
ロッドディレクター
魔石はベガリット大陸北部、はぐれ海竜より出たAランクの逸品。
製作者はアスラ王国・宮廷魔術団でも随一の杖製作師、チェイン・
プロキオン﹂
おお、すげえ。
聞いた感じ水魔術特化なのか。
でもお高いんでしょう?
いや、この際値段は気にすまい。
エリスには無駄遣いするなと教えたが、今日ぐらいはいいだろう。
なんか俺のためにオーダーメイドしたっぽいし、拒否したら気ま
ずい。
﹁銘は﹃傲慢なる水竜王﹄︵アクアハーティア︶﹂
受け取る手が一瞬止まった。
いま、ちょっと中二っぽい何かが聞こえた。
﹁受け取って!
これはグレイラット家からの送り物よ!
お父様とお祖父様が頼んで下さったの!
ルーデウスはすごい魔術師なのに、杖を持ってないなんておかし
いものね!﹂
アクアハーティア
エリスの声で我に返り、﹃傲慢なる水竜王﹄を受け取る。
見た目に反してかなり軽い。
両手で構えて、くいくいと動かしてみる。
魔石がでかいわりに全体のバランスもいい。
489
さすが、高いだけはある。
名前はあれだけど。
﹁ありがとうございます。パーティーだけでなく、こんな高価なも
のまで⋮⋮﹂
﹁値段の事なんていいわよ!
さぁ、早くパーティーを再開しましょ!
せっかくのお料理が冷めちゃうもん!﹂
エリスは上機嫌で俺を引っ張り、巨大なケーキが目の前に鎮座す
るお誕生日席へと案内してくれた。
﹁私も手伝ったのよ!﹂
なんですって!?
−−−
パーティーが始まり、エリスはしばらくマシンガンのように喋っ
ていた。
俺はうんうんと聞いていたが、エリスは途中からうとうとし始め、
最後にはうたた寝を初めてしまった。
はしゃぎすぎたのか、それとも緊張の糸が切れたのか⋮⋮。
ギレーヌがお姫様だっこで寝室に運んでいった。
490
お疲れ様。
サウロスとヒルダも途中から戻ってきた。
サウロスは俺に酒を飲ませようとしてフィリップに邪魔され、ち
ょっとイジけていた。
が、ヒルダに酌してもらい、最終的には泥酔。
真っ赤な顔に笑みを浮かべ、上機嫌で自室に戻っていった。
それと同時に、ヒルダも最後に俺におやすみのキスをして、自室
へと戻っていった。
料理もほぼ食べつくし、メイドたちもやや眠そうな顔で空の皿を
下げていく。
フィリップと俺だけが残った。
二人になってしばらく、フィリップは静かに酒を飲んでいた。
ワインだろうか。
エリスの誕生日の時に知ったが、アスラ王国では地域によって飲
まれる酒が違う。
このへんでは麦から作ったものが多いが、お祝いの時にはブドウ
から作ったものが用意される。
﹁私は、跡目争いに負けてね﹂
ぽつりと、フィリップは語り出した。
﹁君は、どうしてエリスに兄弟姉妹がいないのか、気にならなかっ
たかい?﹂
491
俺は静かに頷いた。
気にはなったが、結局聞くことはなかった。
﹁実はいないわけじゃないんだ。エリスには兄と弟が一人ずついる。
弟は君と同い年だ﹂
﹁⋮⋮⋮死んだんですか?﹂
すると、フィリップはビックリした顔でこちらを見た。
思わず、単刀直入に聞いてしまった。
失敬。
﹁生まれてすぐに、王都に住む兄に取られたのさ﹂
﹁取られた? どういう意味ですか?﹂
﹁表向きには王都で勉学を学ばせるための養子。でも本当はただの
⋮⋮伝統かな﹂
それから、フィリップはボレアス家の伝統を語ってくれた。
ボレアス家の跡目争い、それに繋がる伝統を。
サウロスには十人の息子がいる。
その中でも、サウロスが特に気に入っていたのは三人。
フィットア領で町長を務めるフィリップ。
エウロス・グレイラット家に婿入りしたゴードン。
そして、王都で若くして大臣職に付いているジェイムズである。
機関車のような名前だ。
まあ、それはさておき。
492
サウロスは三人のうち誰かを次期当主にすると決め、争わせた。
結論から言おう。
次期当主はジェイムズだ。
フィリップとゴードンは敗北したのだ。
権力闘争の前半。
まず、ジェイムズは秘密裏にゴードンをエウロスの令嬢とを引き
あわせた。
お互いの身分がわからないように画策し、恋を燃え上がらせた。
ゴードンは恋にかまけ、最後にはジェイムズの手引きによって電
撃的に婿入り。
ボレアスの当主の道が途絶えた。
権力闘争の後半。
当時、フィリップとジェイムズの状況は伯仲していた。
互いに裏で糸を引き合い、あらゆる人物を使って戦いを続けた。
劇的な何かがあったわけではない。
ただ、フィリップは敗北した。
地力の差と言えば、それだけの話だろう。
ジェイムズはフィリップより半周りほど年上だ。
王都でも顔が広く、大臣の補佐職についていた。
人脈もあり、金もあり、そしてなにより権力を手に入れた。
フィリップも優秀だったが、六年分の差はいかんとも埋め難かっ
た。
彼はフィリップにフィットア領ロアの町長の仕事を与えた。
王都から離したのだ。
493
そして、もし、自分がフィットア領主になったとしても、そのま
まフィリップに仕事をさせる気なのだ。
彼は大臣であり、王都を離れるつもりはない。
フィットアは田舎で、フィリップが力を蓄えて再起を図ることは
難しい。
そして、ジェイムズは、
フィリップに男児が生まれると、養子と称して取り上げた。
﹁男児を全部持っていくなんて、横暴じゃないですか?﹂
﹁いいよ、それは別に。伝統だし﹂
ボレアス・グレイラット家では、生まれた男児は全て次期当主の
家で育てられる。
これは、権力闘争に負けた者を、次代の権力闘争に参加させない
ための措置である。
息子を擁立しての権力闘争。
ありがちな話だ。
それを防ぐ措置。
ゴードンの嫁いだエウロス家ではまた伝統が違うらしいが、フィ
リップは伝統に則り、男児を全てジェイムズへと差し上げた。
物心付く前から。
ジェイムズを親だと認識するように。
﹁私が勝っていれば、立場は逆だったしね﹂
フィリップは納得していた。
彼自身も、サウロスの実子でないのかもしれない。
494
・・・・・・
しかし、奥方であるヒルダは納得していなかった。
フィリップにあてがわれた彼女は、ごく普通の貴族の娘だ。
生まれたばかりの子供を取り上げられ、心中穏やかではなかった
らしい。
エリスが生まれるまでは、ずっと不安定だったそうだ。
エリスが生まれてしばらくは安定したが、エリスの弟がすぐに取
り上げられて、また不安定になった。
﹁彼女は君を嫌っていたよ。自分の息子はここにいないのに、
なんで他所の子供が我が物顔で館を歩いているんだ、ってね﹂
無視されているのはなんとなく気付いていたが。
そうか、そんな理由があったか。
﹁しかも、残ったエリスは淑女とは正反対のお転婆だ。どうしよう
もないと思ったね﹂
﹁どうしようもない、とは?﹂
﹁娘を使ってジェイムズを失脚させるのも難しいってことさ﹂
あ、この人、まだ諦めてないのか。
﹁しかし、最近、君をみて、まだちょっと希望が出てきた﹂
﹁⋮⋮⋮はあ﹂
﹁君はヒルダや父さんを騙せるぐらいの演技もできる﹂
騙すとは人聞きが悪い⋮⋮。
空気を悪くしないように振舞っただけだ。
﹁金の事も大事だとわかっているし、社交辞令というものを知って
いる。
495
人の心を得るために体を張る事だって厭わない﹂
例の誘拐騒ぎの事だろうか。
それとも何年もエリスに殴られ続けたことだろうか。 ﹁そして何より、君のお陰でエリスがあんなに成長した﹂
こんな事は想定外だ、とフィリップは言っていた。
パウロから優秀だとは聞いていた。
パウロ
しかし、幼くしてメイドのスカートをめくることを生きがいとす
るような男の息子。
所詮はちょっと出来のいい悪ガキだろう。
うちの悪ガキとぶつけ合えば、あるいは何か面白い化学反応が起
きるかもしれない。
その程度の認識だったらしい。
﹁パウロが泣きついてきた日が懐かしいよ﹂
と、フィリップは嘯いた。
聞けば、パウロは、結婚するからまとまった金と住む場所と安定
した仕事が必要だけど、上級貴族には戻りたくない、とフィリップ
に泣きついたらしい。
パウロは俺のために土下座したらしい。
リーリャの時はしなかったのに⋮⋮。
まあ、それはいいや。
﹁エリスは、僕がいなくても、なんとかなったんじゃないですか?﹂
﹁なんとか? そんなわけがない。私だってエリスのことは絶望視
していたんだ。これはもう、貴族としては無理だから、将来は冒険
496
者にしようとギレーヌに剣術を教えさせるぐらいにね﹂
そう言って、フィリップはエリスのエピソードをいくつも語って
くれた。
聞くに堪えないエピソードばかりだった。
エリスという名の暴れん坊は、九歳の時にはすでに完成されてい
たのだ。
﹁どうだい。エリスと結婚して、一緒にボレアス家を乗っ取らない
かい?
なんだったら、今から君のベッドに両手を縛った娘を置いておこ
う﹂
それは魅力的⋮⋮。
あのエリスが縛られて好きにできるなんて。
最近どうにも性欲の高ぶりを感じるし、最高のシチュエーション
で捨てるなんてトンデモナイものを捨てられるのではなかろうか。
いやいや。まてまて。
冗談じゃない。
その前文を読め。
ボレアス家を乗っ取る?
﹁10歳の子供に、何をさせようっていうんですか⋮⋮﹂
﹁君もパウロの息子だろう?﹂
﹁そっちではなく﹂
﹁乗っ取りは私がやるよ。君はただ、座っていればいい。なんなら、
他の女の子も付けよう﹂
女を与えれば言う事を聞くとでも思っているんだろうか。
497
パウロの悪名が憎い。
﹁⋮⋮酒の席での話ということにしておきましょう﹂
そう言うと、フィリップは静かに笑った。
﹁そうだね。それがいい。
でも、ボレアス云々は抜きにしても、エリスのことは好きにして
いいんだよ?
娘には、何の責任もないし、どうせ嫁に出しても戻ってくるだろ
うしね﹂
フィリップは静かに笑った。
嫁に出し、数日中に夫を殴り殺すエリス。
簡単に想像できた。
また、手を出したが最後、フィリップの手の平の上で踊らされる
自分の姿も。
﹁そろそろ寝ようか﹂
﹁はい、おやすみなさい﹂
こうして、エリス主催の誕生パーティーは終了した。
−−−
﹁あ、お、おかえりなさい⋮⋮!﹂
部屋に戻ると、眠ったはずのエリスがベッドに腰掛けていた。
498
赤いネグリジェ姿だ。
今まではあんな格好をしていたことはなかったはずだ。
なんだろう。
ちょっと背伸びし過ぎじゃないだろうか。
ていうか、寝たんじゃなかったんだろうか。
﹁どうしたんですか、こんな時間に﹂
﹁る、ルーデウスも一人で寂しいだろうから、
今日は一緒に寝てあげるわ⋮⋮!﹂
顔を真っ赤にしてそっぽを向いて、エリスは言った。
どうやら、さっきのパーティーで両親が来ないのかと言った件を
気にしているらしい。
エリスは12歳にもなって家族とべったりだからな。
三年も会えないと考えたら、いたたまれない気持ちになったかも
しれない。
いや、案外、ヒルダあたりの策略かもしれない。
叩き起こしてネグリジェに着替えさせてここに送り込んだのだ。
しかしこうしてみると⋮⋮。
エリスももう12歳だ。
まだまだ女らしいとはいえない体つきだが、俺のストライクゾー
ンには入っている。
外角低めギリギリだが。
俺の身体はまだ幼い。
オトコノコの日もまだきていない。
だが、そろそろだろう。
499
フォカヌポウ︶
︵若干ロリコン気味︶が
ツンデレロリお嬢様のハジメテでハジメテのハジメテを迎える⋮
⋮。
そんなフレーズを思いついた瞬間、
オウフドプフォ
俺の脳内を一瞬で34歳住所不定無職
支配した。
︵デュフフコポォ
ニキビ面で気持ち悪い笑みを浮かべて、エリスに襲いかかろうと
している幻覚が見えた。
一瞬で我に返る。
いかんいかん。
手を出してはいかん。
フィリップの手のひらで踊らされる。
パウロが逃げ出してフィリップが負けるような権力闘争に足を突
っ込んでしまう。
﹁きょ、今日は寂しい気持ちなので、エッチなことをしちゃうかも
しれませんよ?﹂
ここは丁重にお引き取り願おう。
エリスは日頃から俺のセクハラを嫌がっているからな。
こういえば退散するはずだ。
と、思ったら、意外な答えが返ってきた。
﹁ちょ、ちょっとぐらいなら、い、いいわよ!﹂
500
まじすか!?
きょ、今日はぐいぐいきますねエリスさん。
お、オジさん、
そんなこと言われちゃうと、
が、我慢できなくなっちゃうんだな。
と、思いつつエリスの隣へと座った。
ベッドがキィと小さな音を立てる。
もし生前の俺だったら、ギギギとすごい音を立ててムードを台無
しにしただろう。
もう頭の中には、難しいことは何も考えていなかった。
手のひらの上で踊らされる?
いいじゃないか。
三年前のエリスがここまでデレたんだ。
多少のリスクは甘んじて受け入れるべきだろう?
﹁声が震えていますよ?﹂
﹁き、気のせいよ﹂
﹁本当ですか?﹂
エリスの頭を撫でる。
さらりとした髪の毛。
上級貴族とはいえ、この館には風呂はない。
なので、毎日髪を洗えるわけではない。
毎日外で剣術の修行に明け暮れているエリスの髪は、いつもはも
っとがさついている。
今日は俺のために準備して、気飾ってくれたのだ。
501
﹁エリスは可愛いな﹂
﹁な、なによ、いきなり⋮⋮﹂
エリスは耳まで真っ赤になって俯いている。
肩を抱いて、頬にチュっとキスをした。
﹁はう⋮⋮!﹂
﹁触るよ﹂
俺は我慢出来ず、エリスの胸へと手を伸ばした。
まだ小さいが、育ち始めた胸。
だが、確かにこれがおっぱいだ。
触ることを許されたオッケー果実だ。
いつものように恐る恐る、殴られることを覚悟して触るものでは
ない。
服ごしだが、俺はたしかに今、ロリっこのおっぱいを自在に操っ
ている。
﹁んー⋮⋮﹂
エリスは感じているわけじゃないだろう。
ただ、恥ずかしいことをやっている事には気づいている。知って
いる。
戸惑いと恥ずかしさをこらえて、涙目になって口をつぐみながら
俺を見ていた。
可愛い。
そろそろと背中を撫でる。
剣術の稽古のおかげで、エリスの背中には質のいい筋肉がついて
502
いる。
ギレーヌほどではない。
だが程よく、子供らしくしなやかな筋肉だ。
エリスが目をギュっとつぶって、すがるように肩を掴んできた。
あ、もしかして、これ、オッケーなんでしょうか?
オッケーですよね?
最後までやれますよね?
いけますよね?
よ、よし。
い、いただきます。
そう判断して、エリスの内股へと手を伸ばす。
初めて触る女の子の内股。
暖かくて、しかし柔らかいだけじゃなく、ぎゅっと肉が詰まって
いる。
﹁いやぁっ!﹂
ドンッ!
突き飛ばされた。
パァン!
頬を張られた。
ドガッ!
蹴り飛ばされて床に転がった。
ゴッ! ゴッ!
503
2回追撃が入った。
戸惑う俺は、何も出来ずに無防備に食らった。
仰向けに寝転がったまま見上げる。
エリスは立ち上がり。
真っ赤な顔で俺を睨みつけていた。
﹁ちょっとって言ったじゃない! ルーデウスの馬鹿!﹂
そのまま、扉を蹴破るように開け放ち、風のように去っていった。
−−−
俺はそのまま、呆然と天井を見ていた。
何かに操られるように熱を持っていた頭は、もうすっかり冷えて
いた。
﹁これだからDTは⋮⋮﹂
自己嫌悪。
完全に読み違えた。
突っ走りすぎた。
途中から相手が子供だってことを忘れていた。
我を失っていた。
﹁ああ、くそっ、なにやってんだ⋮⋮﹂
504
エロゲーをたくさんやって、ヒロインの気持ちがわかった気にで
もなっていたか。
確かに昔は鈍感系の主人公を見て、さっさと押し倒せば解決だ、
なんて無責任に思ってた。
その結果がコレだ。
プレイヤーの視点ならヒロインの独白を見ることも出来る。
しかし、主人公の視点では、そんなことがわからないのだ。
世の鈍感系主人公は、
十中八九、自分が好きだと確信していても、
こういうことが起こりうるから、
気付かないフリをして、少しずつ距離を縮めていたのだ。
彼らと比べ、俺のなんと浅はかな事か。
特に、フィリップとあんな会話をした後だ。
何が、酒の席での話にしておきましょう、だ。
言った事とやった事が真逆じゃないか。
エリスを抱けばどうなるかぐらいわかってただろう。
抱いた、デキた、結婚した。
3コンボで簡単にボレアス家の仲間入りだ。
それとも、ドロドロの権力争いは嫌だと言って逃げたのか?
責任を取らないつもりだったのか?
一夜だけの関係だと言い逃れるつもりだったのか?
馬鹿な。
505
どうせ毎晩毎晩、猿のようにエリスを求めたに決まってる。
生前はかなり性欲が強い方だったし、こっちの身体もパウロの事
例を見るまでもなく、性欲が強い。
一度で我慢できるわけがない。
今日は向こうから来たけど、次からは俺が出向くだろう。
フィリップもヒルダもそれを望んでいるのだ。
誰も止める者はいない。
そして、俺は一時の快楽を餌に、ドロドロの権力闘争に沈んでい
くのだ。
ふと、部屋の隅に立てかけられている杖が目に入った。
﹁⋮⋮⋮っ!﹂
そうだ。
エリスの気持ちも忘れていた。
お金を出したのはフィリップとサウロスだが、
﹃杖を送る﹄ということを思いついたのはエリスだろう。
俺を喜ばせるために、パーティーを企画して。
そしてパーティーでの会話を気にして、
寝る前に俺を慰めにきてくれた。
今日の彼女は、ずっと俺のことを考えてくれていた。
それなのに俺は、自分の欲望のままに彼女を蹂躙しようとした。
純粋に人として俺のことを考えてくれた子を、思うがままにしよ
うとしたのだ。
メイドと話してた時のエリスの嬉しそうな顔を思い出せよ。
506
俺はあれを踏みにじろうとしたんだよ。
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ﹂
俺はクズだ。
パウロをどうこう言う資格なんてない。
誰かに何かを教える資格もない。
クズは異世界にきてもやっぱりクズのままだったのだ。
明日にでも荷物をまとめてでていこう。
クズらしく、ゴミのようにそこらでのたれ死のう。
﹁あっ⋮⋮⋮⋮!﹂
気づくと。
部屋の入り口にエリスがいた。
半分だけ顔を覗かせて立っていた。
俺は慌てて身体を起こし、立って⋮⋮。
⋮⋮いや、このまま土下座だ!
﹁さ、さっきはごめんなさい﹂
亀のように丸まって、土下座。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
チラッと見る。
エリスは目線を泳がせ、
もじもじと内股をこすり合わせていたが、
507
ぽつりと呟くように言った。
﹁きょ、今日は特別な日だから、特別に、許してあげる⋮⋮!﹂
ゆ、許された⋮⋮!
﹁ルーデウスが、すごくエッチだってことは、知ってたもん﹂
誰だそんなこと教えたのは⋮⋮!
いや、エッチでした。
すいません。俺です。
俺がエッチマンです。
俺が悪いです。
おさわりマンこっちです。俺です。
﹁でも、こ、こういうのはまだ早いから⋮⋮五年!
あと、五年経って、ルーデウスがちゃんと成人したら、
その時は⋮⋮ごにょ⋮⋮
そ、それまで我慢しなさい!﹂
﹁ははぁ⋮⋮!﹂
平伏。
﹁じゃ、じゃあ、私、もう、寝るから。
じゃあね、ルーデウス。おやすみ。また明日から、よろしく﹂
しどろもどろになって、エリスは本当に帰っていった。
走って遠ざかっていく音が聞こえる。
それが完全に聞こえなくなるまで待ってから、俺は扉を閉めた。
508
﹁ふぅぅぅ∼∼∼∼∼∼﹂
ズルズルと扉にもたれて座り込む。
﹁よかったぁぁぁ∼∼∼∼∼∼﹂
今日が誕生日でよかった。
今日が特別な日でよかった。
もっと酷いことをしなくてよかった。
﹁そして、よっしゃぁぁぁ!﹂
五年後。
確約!
あのエリスが!
約束! よし。
それまでは二度と軽薄な真似はすまい。
五年後。
十五歳だ。
長い年月だとも。
だが我慢出来る。
確実にもらえる商品があるなら、頑張れる。
それまでは俺は紳士だ。
変態ではない紳士だ。
509
今までのようなセクハラもやめよう。
酒は何年も寝かせて、初めて味に深みが出るのだ。
ちょいちょいと味見をしていては、五年後の味が楽しめないかも
しれない。
チャージショットは溜めれば溜めるだけ威力が増すのだ。
俺はどんなエロイベントにも屈しない強靭な男になる。
今度こそ、鈍感系主人公を目指すのだ。
Aボタンを押しっぱなしにして、五年後に放すのだ。
そう心に誓った。
イエスロリータ、ノータッチ。
ん?
まてよ、今から五年後⋮⋮?
鈍感系?
⋮⋮⋮⋮⋮。
俺の脳裏に、青白い顔でにこりと微笑むシルフィの顔が思い浮か
んだ。
はわわ⋮⋮。
510
−−−
翌日、目覚めるとパンツがカピカピだった。
うっかりAボタンを離してしまったらしい。
あ、明日から頑張るんだぜ。
ちなみに、洗濯物を回収しにきたメイドさんに、
エリスには黙っててくれるように言うと、
クスクスと微笑ましいものを見る目で笑われた。
ちょっと恥ずかしい。
511
第十八話﹁確約﹂︵後書き︶
:ステータス:
名前:エリス・B・グレイラット
職業:フィットア領主の孫
性格:やや凶暴・所によりしおらしい
言う事:素直に聞く
読み書き:ほぼ完璧
算術:割り算もできる
魔術:無詠唱は無理、中級も難しい
剣術:剣神流・上級
礼儀作法:難しい宮廷作法を勉強中
好きな人:おじいちゃん、ギレーヌ
大好きな人:ルーデウス
512
第十九話﹁ターニングポイント﹂
シーローン王宮。
ロキシーはふと窓の外を見て、眉をしかめた。
色がおかしかったのだ。
茶色、黒、紫、黄色。
普段は見られない空の色。
しかしどこかで見たことのあるような色。
﹁あれはなんでしょうか⋮⋮﹂
色彩には覚えがある。
だが、空がそんな変化を起こすところは、一度も見たことはない。
ただの自然現象ではない。
誰でも一目見ればわかることだ。
恐らくは、何らかの理由で魔力が暴走しているのだ。
あの規模。
遠目にも、魔力が渦巻いているのが見えるようだ。
そこまで考えてロキシーは思い出した。
あの光り方。
どこかで見たことがあると思ったが、魔法大学だ。
召喚魔術の光に似ているのだ。
﹁あの方角はアスラ⋮⋮。まさか、ルーデウスが?﹂
513
ロキシーは、かつての弟子である一人の少年を思い浮かべた。
あの少年は、五歳の時にはすでに涼しい顔で嵐を起こしてみせた。
当時ですら底知れぬ魔力を完全に制御下に置いていたのだ。
今は十歳。
あれぐらいは出来るかもしれない。
召喚魔術は勉強できなかったと、最近の手紙には書いてあった。
だが、何らかの理由で教本を手に入れたのかもしれない。
﹁隙ありぃ!﹂
物思いに耽っていると、いきなり背後から抱きつかれた。
そのまま、胸を揉まれる。と同時に、ふともものあたりに固い感
触。
﹁はぁ⋮⋮﹂
ロキシーはゲンナリした。
分厚いローブごしに揉んだり押し付けたりしたところで大した感
触など味わえないだろうに⋮⋮。
もっとも、やる方がどんな感触を得ていようと、やられる方とし
ては不快だ。
﹁爆炎を身体に、バーニングプレイス!﹂
﹁ギャゥ!﹂
身体に炎の結界を纏い、背後の人物を弾き飛ばす。
まだまだルーデウスのように無詠唱とはいかないが、この五年で
かなり詠唱を短縮できるようになった。
ルーデウスは自分の弟子にも無詠唱を練習させているのだとか。
514
それを聞いて自分も詠唱省略を練習してみたが、そんな簡単に出
来るものではなかった。
あの天才少年は自分の弟子にどれだけ期待しているのだろうか。
皆がみな、彼のような才能があるわけではないのに。
ロキシーは振り返ると、寝転がる少年へと視線を向ける。
﹁殿下。背後から女性の胸を揉んではいけません﹂
﹁ロキシー! 貴様は余を殺す気か! 牢屋にぶちこむぞ!﹂
シーローン第七王子パックス・シーローンは、今年15歳になっ
た悪ガキだ。
最初の頃は微笑ましかったが、最近は色を覚えたのか、昼間から
ストレートな性欲を振りまくようになった。
﹁それは申し訳ありません。あの程度で死ぬとは、殿下は羽虫のよ
うな生命力しか持ちあわせていないのですね﹂
﹁ぐぬぬ! 不敬罪だ! 許さんぞ! 許して欲しければ今すぐそ
のローブを捲くしあげてパンツを見せろ!﹂
﹁お断りします﹂
メイドは何人もお手付きになり、国王も頭を悩ませている。
そして、最近は無愛想な家庭教師を自分のモノにしたいらしい。
︵こんな野暮ったい女のどこがいいのか︶
と、ロキシーには理解できない。
ともあれ、あれこれと性的な要求はされるものの、王子の命令に
従う必要はない。
515
国との契約では、王子がわがままを言っても教師の裁量で判断せ
よ、となっているからだ。
この城に住む人間で王子の命令を直接聞く人間は少ない。
所詮は第七王子。
王位継承位は低く、権限もほとんど無い。
権利だけで見れば、限定宮廷魔術師であるロキシーの方が偉いぐ
らいだ。
﹁ロキシー。余は知っているぞ。お前に恋人がいることをな!﹂
だから、王子は別の手を使う。
﹁はて、このわたしにいつの間にそんな大層なものが出来たのでし
ょうか﹂
唐突に寝言を言い出した王子に、ロキシーは首をかしげた。
恋人。
欲しいと思ったことはあるが、理想の男性にはまだめぐり合って
いない。
めぐり合ったところで、ミグルド族特有のこの体では、見向きも
されないだろうと諦めている。
王子は異常なので、こんな自分の体も一度は味わってみたいと考
えているようだが、そんな軽い気持ちで体を売るほど安くはないつ
もりだ。
﹁ククク、お前の部屋に忍び込んで棚の奥に溜まっていた手紙を見
たのさ! どこの馬の骨かしらんが、余の権力でそいつを叩き潰す
ことも出来るのだぞ! 愛する男が無残に処刑されるのを見たくな
ければ、余の女になれ!﹂
516
王子の使う別の手段とは、つまりこういったものだ。
手を出したい相手の恋人を人質に取り、恋人を助けたければ身体
を差し出せと言うのだ。
恋人の目の前で犯して、征服感を味わうのがたまらないのだ。
無論、王子にそんな権限は無い。
とはいえ、曲がりなりにも一国の王子だ。
好きに出来る手勢はあるし、実際に恋人を人質に取られたメイド
がいるとの噂もある。
︵悪趣味。嫌悪感しか浮かんできませんね︶
ロキシーは思う。わたしに恋人がいなくてよかったと。
手紙は全てルーデウスとの物だ。
ルーデウスは尊敬すべき弟子だ。
恋人ではない。
﹁どうぞご自由に﹂
﹁な! なに! 本当にやるぞ! 謝るなら今のうちだぞ! 今な
らお前の身体だけで済むんだぞ!﹂
王子は考えなしだ。
そもそも、ルーデウスの居場所すらも掴んでいないだろう。
この調子では、手紙の中身すら読んでいないに違いない。
﹁ルーデウスをどうにか出来たら、わたしの身体を好きにしてもい
いですよ﹂
﹁な、なんだその自信は⋮⋮お前だって余の権力は知っているだろ
う!?﹂
ロキシーは知っている。
517
王子の権力が王族としては鼻で笑う程度しかないことを。
﹁ルーデウスはアスラ王国の上級貴族ボレアスの庇護下にあります﹂
﹁ボレア⋮⋮? 上級貴族ごときが王族である余の思い通りになら
んわけがない!﹂
アスラ王国の上級貴族の名前も知らない。
その事実に、ロキシーはため息をもらした。
一体、他の家庭教師は何を教えているのだろうか、と。
アスラ王国のノトス・ボレアス・エウロス・ゼピロスの四大地方
領主は有名だ。
アスラ王国が戦争になったとき、真っ先に矢面に立つ存在であり、
代々の武人が務めている。
シーローンで式典があれば、あるいは、それらの名を持つ貴族が
来国してもおかしくない。
憶えておくべき貴族の一つだ。
﹁アスラはシーローンの10倍は大きい国です。その上級貴族の子
弟に言われのない嫌疑を掛けて処刑台に送るには、それはもう高い
政治力と謀略が必要になるでしょう。
殿下の権力では、とうてい無理ですね﹂
﹁あ、暗殺してやる! 余の親衛隊を送り込んで⋮⋮﹂
親衛隊と聞いて、ロキシーは内心でまたため息をついた。
本当にこの王子は、何も考えていない。
﹁親衛隊が国境を超えられるわけがないじゃないですか。それに万
一超えられたとしても、ボレアスには今、剣王ギレーヌが食客とし
て招かれています。フィットア領の城塞都市の館に忍び込んで、剣
王ギレーヌの眼をかいくぐり、魔術の達人を暗殺する? できると
518
思っているんですか?﹂
﹁ぐ、ぐぬぬ⋮⋮﹂
王子は歯軋りをして地団太を踏んだ。
その様子を見て、ロキシーはまたまたため息を漏らす
︵はぁ。まったく、もう15歳だというのに、分別のふの字もない︶
ルーデウスの教えているエリスというお嬢様は、3年前は手がつ
けられない野獣のようだったが、最近はかなりお淑やかになったと
聞く。
対してウチの殿下はこのザマだ。
昔はまだ可愛らしさもあったし、魔術の才能もあった。
それが、自分の権力に気づいてからは、上達する意志がみるみる
無くなって、今では授業中は半分以上寝ている。
自分の教師としての才能の無さを感じる。
﹁もっともわたしはもうすぐ殿下の家庭教師を辞めるので、今から
暗殺者を送り込んだのでは間に合いませんがね﹂
そう告げると、王子は驚愕の声を上げた。
﹁な! なにぃ! 余はそんな話は聞いていないぞ!﹂
﹁覚えていないの間違いでしょう﹂
最初から殿下が成人するまでという約束だった。
当初ロキシーは契約期間が終了しても請われるなら居続けてもい
いと考えていた。
だが、王宮内にはロキシーの存在を快く思わない者たちも多い。
519
ここらで身を引くのが賢い立ち回りなのだ。
﹁いい機会ですしね﹂
﹁なにがいい機会なんだ?﹂
﹁西の空に異変があったので、見に行って来ます﹂
﹁な、なんだそれは⋮⋮﹂
久しぶりにルーデウスの顔が見たい、とは言わなかった。
言えば激昂するに決まっているからだ。
﹁よ、余にはまだロキシーが必要だ! 授業もまだ途中じゃないか
!﹂
﹁途中も何も、いつも寝てて聞いてないじゃないですか﹂
﹁ロキシーが起こしてくれないのが悪いんだ!﹂
﹁そうですか。では悪い教師はすぐにでもいなくなりますね。
今度は起こしてくれる人を雇って下さい。わたしはゴメンです﹂
ロキシーは思う。
この王子は、わたしには無理だ。 ルーデウスはこちらが何かを一つ教えると、自分で勉強して十も
二十も学んでいた。
あんな生徒に出会ってしまったわたしには、二度と教師などでき
ないのだ。 こうして、ロキシーはシーローンより旅立った。
出掛けに、第七王子とその息の掛かった騎士たちに襲われたが、
撃退した。
第七王子はロキシーが自分を攻撃した、許されざる暴挙だ、指名
520
手配して自分の前に引っ立てるべきだと強弁した。
ロキシー・ミグルディア
だが、シーローン国王がそれに取り合うことは無かった。
むしろ、﹃水王級魔術師﹄を国に引き込む事ができなかった第七
王子を叱りつけ、厳しく処罰したという。
−−−
空の異変に気づいたのは、ロキシーだけではなかった。
世界のあらゆる場所で、あらゆる人物が気づいていた。
その異常性、その突発性に。
世界に名を馳せる者たちは気づいていたのだ。
−−− 赤竜山脈にて −−−
百代目﹃龍神﹄オルステッドは西の空を見上げた。
﹁魔力が集まっていく⋮⋮?
なんだ。どこで狂った?﹂
訝しげに顔をしかめ、
﹁まあいい。行ってみればわかることだ﹂
そのまままっすぐ西へと進んでいく。
521
レッドドラゴン
たった今、一撃で仕留めたばかりの赤竜の死体を乗り越えて。
レッドドラゴン
その周囲には、羽虫のごとき数の赤竜が旋回していたが、どの個
体も手を出さない。
彼らは、今地上を歩く生物が何者かを知っている。
自分たちが束になって掛かっても殺されるだけだとわかっている。
また、こちらからちょっかいを出さなければ殺されることは無い
と知っている。
あれは龍神。
世界の理からはずれし者。
決して手を出してはいけない。
プライドの高い若い竜が、また一匹、身の程をわきまえずにオル
ステッドへ襲いかかった。
レッドドラゴン
一瞬で肉塊に変わった。
赤竜たちは知っている。
あの生物が気まぐれを起こさない限り、空さえ飛んでいれば安全
だということを。
レッドドラゴン
赤竜は、中央大陸の絶対強者である。
レッドドラゴン
だが、それは戦闘能力だけに非ず。
赤竜は、賢いからこそ強者なのだ。
レッドドラゴン
赤竜は知っている。
あれは世界最強とも噂される男だと。
何匹で束になっても敵わぬ相手だと。
レッドドラゴン
彼はゆっくりと山を降りていった。
赤竜に見守られながら⋮⋮。
522
その目的は誰にもわからない。
−−− 空中城塞にて −−−
・・
三大英雄が一人、﹃甲龍王﹄ペルギウスは北の空を見下ろした。
﹁なんだ、あれは。魔界大帝の復活の光と似ているが﹂
脇に佇む、白き烏の仮面。
黒き翼を持つ天族の女が、囁くように言った。
﹁魔力の質が違います﹂
﹁そうだな。あれはどちらかというと、召喚光に近い﹂
ケイオスブレイカー
﹁はい。しかしさて、あのサイズの召喚光⋮⋮見覚えが﹂
﹁我が空中城塞を創りだした時と似ているな﹂
ケイオスブレイカー
ペルギウスは行く。
今日も空中城塞の玉座に座り、12人の下僕を従えて。
ただ気ままに監視を続ける。
目的はただひとつ。
憎き仇、魔神ラプラスを復活直後に倒す。
ただその封印が解けるのを、空にて待っていた。
﹁もしや、魔界大帝が魔神の封印を解こうとしているのか?﹂
﹁ありえますね。復活してから300年。魔界大帝は不気味なほど
に静かです﹂
523
﹁よし。アルマンフィ!﹂
﹁ここに﹂
黄色の仮面を被った白衣の男が、音もなくペルギウスの前に跪い
ていた。
﹁今すぐ行き、調べ⋮⋮いや、どうせロクでもない事をしているに
違いない。怪しい奴は見つけ次第、殺せ﹂
﹁御意﹂
﹃甲龍王﹄ペルギウスは動く。
12人の臣下を従えて。
4人の親友の仇を取るために。
今度こそラプラスに、確実なる止めを刺すために。
−−− 剣の聖地にて −−−
﹃剣神﹄ガル=ファリオンは南の空を見上げた。
﹁なんだあの空⋮⋮てか﹂
ちょっと意識を取られた瞬間、可愛い愛弟子が二人同時に打ち込
んでくる。
﹁よそ見してる時にくるんじゃねえよ﹂
その表情は余裕。
524
対する二人の愛弟子は息も絶え絶えである。
相変わらずセンスのない奴らだと、剣神は思う。
こいつらは剣帝とか呼ばれて調子こいてるが、所詮はこの程度だ。
くだらねえくだらねえ。
剣術に名声はいらんよ。
ただ強くなれりゃあ、それでいいのよ。
名声で得られるものなんざ、せいぜい権力と金だ。
そんなものには何の価値もねえ。
そんな、誰にでも手に入れられるものなんざ、俺様の剣で一刀両
断よ。
強けりゃワガママを通せる。
ワガママを通すのが生きるってことよ。
ギレーヌはそのへんが一番わかってたが、段々甘くなった。
だから剣王程度で行き詰まっちまった。
生きるって事に貪欲な奴は、力が弱くてまともに剣が振れなくて
も強ぇのに。
力が強くなると貪欲さを失っちまう。
今のギレーヌはダメだ。
ワガママが足りねえ。
コイツラも大して才能があるってわけじゃねえが、薄汚い欲望の
おかげでここまでこれた。
決死の戦場で生きるコツは、飽くなき欲望よ。
﹁オラオラ、さっさと掛かってこいや。
俺様を倒したら二人で殺し合いでもして剣神を名乗りな!
金は人生百回遊んで暮らせるぐらいにガッポガッポ、
525
女はそこらの奴隷から姫様までずらっとケツ並べさせてパッコパ
ッコ、
名前だしゃあ誰もがビビって腰抜かし、一歩歩きゃあ人の海が真
っ二つよ!﹂
﹁自分はそんなことのために剣を習ったのではありません!﹂
﹁師匠! 見くびらないでください!﹂
これだ。
こいつらも、もうちょっと自分に正直になろうぜ。
そうすりゃ、俺程度簡単にぶっ殺して剣神を名乗れるってもんだ。
剣神は南の空のことなど、とっくに忘れていた。
−−− 魔大陸のどこかにて −−−
魔界大帝キシリカ=キシリスは東の空を見上げた。
﹁フッ、妾ぐらいになると逆を向いていても見えるのだ! どうだ、
すごいだろう?﹂
しかし返事をする者はいない。
周りに誰もいないからだ。
﹁無視か! ファーハハハ!
いいともいいとも、許してやるぞ人間ども!
526
ていうか、平和なせいで妾の近くに誰も擦り寄ってこないので許
してやる他ないぞ人間ども!
ファーハハハ、ファーハハハハハ! ファーハげほげほ⋮⋮﹂
キシリカは孤独だった。
なにせ、誰も構ってくれないからだ。
復活した瞬間、﹁魔界大帝キシリカただいまふっかーつ! 皆の
衆待たせたな! ファーハハハハ!﹂と叫んだが、誰もいなかった。
ならばと町にいってもう一度叫んだが、かわいそうな子を見る眼
をされた。
以来、ずっと誰も構ってくれない。
古い友人の下を訪れたが、今は平和だからおとなしくしていてく
れと言われた。
﹁人族の占い師はなにをやっとるのだ。
昔は妾が復活となると、急にガタガタ震えだして奇声を上げなが
ら窓からフリーダムフォールするというパフォーマンスをやってく
れたというのに。
あの前座がなければ、妾が復活にハクが付かんではないか⋮⋮。
はーまったく。最近の若いのはなっとらんのう﹂
キシリカは地面の石を蹴って、魔力渦巻く西の空を見上げる。
魔界大帝は別名﹃魔眼の魔帝﹄。
十を超える魔眼を持ち、一目見ればそこにあるのが何かわかる。
どんな遠くにあっても一目瞭然である。
強大な魔力。見慣れた召喚光。そしてそれを制御する者。
﹁なんじゃ、見えんではないか。結界でも張っておるのかのう。
あんな大きなことしでかして顔を見せないとか、恥ずかしがり屋
なんじゃからもう⋮⋮﹂
527
キシリカの眼は万能ではない。だから魔界大帝止まりなのだ。
いつまでたっても魔神と呼ばれないのだ。
そのこと自体を気にしてはいないが。
﹁勇者でも召喚されればええんじゃがのう。
でも最近は猫も杓子もラプラスだからのう⋮⋮キシリカ? 誰そ
いつ? じゃからのう⋮⋮。
やっぱ勇者もラプラスとかいう若手イケメンの方に行ってしまう
のかのう⋮⋮。
目立ちたいのう。また脚光を浴びてパレードとかしたいのう﹂
溜息を付きながらキシリカは旅立つ。
適当な方向へ。
−−− 同時刻・ルーデウス視点 −−−
俺は城塞都市ロアの郊外の丘へと来ていた。
誕生日に交わした約束を守るため、ギレーヌに聖級水魔術を見せ
るのだ。
当然のようにエリスも付いてきている。
アクアハーティア
﹃傲慢なる水竜王﹄を取り出す。
一応、現在は魔石部分と持つ部分に青い布を巻いてある。
不恰好だが、隠したいほど大きな魔石が入っているとおもわれる
よりは、魔力の篭った布で強化していると思われたほうがマシだろ
う。
528
あんな高価なものを見せびらかして、盗賊が寄ってきたら話にな
らない。
アクアハーティア
水聖級をやる前に、﹃傲慢なる水竜王﹄の試し撃ちをする。
いつもと同じように魔力を注ぎ水弾を作ると、普段より遥かに大
きい水弾が出来た。
﹁おお、でかい﹂
より小さく圧縮しようとすると、小さくなりすぎて、視認できな
かった。
ちょっとずつ調整していく。
30分ほど試した結果、水魔術に関しては5倍ぐらいの効果が出
ることがわかった。
攻撃魔術をより強く、
あるいは同じ威力で、
消費魔力だけ少なく。
数字で表すと、
杖なしの状態:消費10、威力5
杖ありの状態:消費10、威力25
杖ありの状態:消費2、威力5
そんな感じだろう。
ようは虫眼鏡か顕微鏡だ。
細かい調整が難しいが、慣れればいけるかもしれない。
529
﹁ど、どう?﹂
﹁調整が難しいけど、すごいですねこれは﹂
エリスが不安そうな顔を向けてくる。
安心しろ、俺は新しいオモチャに夢中だ。
それからしばらく試して、火の魔術が2倍、土と風がそれぞれ3
倍になるという事が分かった。
この杖を使って魔術を混ぜるのは難しそうだ。
いや、それも慣れかな?
﹁よし、それじゃあ、皆様お待ちかね。
ルーデウス・グレイラットの最強最大の奥義をお見せしましょう﹂
﹁わー!﹂
エリスが嬉しそうに拍手をする。
ギレーヌも興味深そうだ。
俺もノってきた。
よし、ここはかっこよく決めよう。
﹁フハハハハ! 集えよ魔力!
雄大なる水の精霊にして、天に上がりし⋮⋮あれ?﹂
﹁む?﹂
﹁なによあれ!?﹂
キュムロニンバスをわざわざ詠唱で発動しようと、
杖を両手に持って天に掲げた。
全員の意識が空へと向いた時、俺たちはそれを眼にした。
﹁空の色が変わっていく⋮⋮なんだあれは!﹂
530
空が変色していた。気持ち悪い色だ。
紫と茶色が混じったような⋮⋮。
ギレーヌが眼帯を外した。
眼帯の下からは濃緑の色彩を持つ眼が現れた。
なんだあれ。
ていうか、隻眼じゃなかったのか。
﹁なんなんですか、あれは﹂
﹁わからん、凄まじい魔力だ⋮⋮!﹂
あの眼は魔力が見えるのだろうか。
三年越しに知る、ギレーヌの真の能力⋮⋮。
ギレーヌはすぐに眼帯を戻した。
﹁とりあえず、館に戻りましょうか?﹂
この異常な空が何の前触れかはわからないが、空に異変があった
なら屋根のあるところに避難したい。
﹁いや、町に近づくほど魔力が濃くなっている。ここから離れたほ
うがいいかもしれん﹂
﹁だったら、せめて館に戻ってそう伝えないと!﹂
フィリップ達に言って町人を避難させた方がいいだろう。
﹁では私が戻っ⋮⋮ルーデウス! 伏せろ!﹂
反射的にしゃがんだ。
531
頭のてっぺんを、ヴォっという風切り音を残し、何かが高速で通
り過ぎる。
背筋がぞっと泡立つ。
なに。
何が起こった?
今、何された?
視界の中、ギレーヌが腰の剣に手を掛けて、いっしゅんブレる。
次の瞬間には、ギレーヌは剣を振り終えたポーズで止まっていた。
剣神流・剣聖技﹃光の太刀﹄、別名﹃光剣技﹄。
何度か見せてもらった。
完全に極めれば剣先が光の速度に達すると言われている、剣神流
の奥義。
この技があるからこそ、剣神流は剣術の流派で最強なのだと、ギ
レーヌは教えてくれた。
ギレーヌが眉を潜める。
俺は、そこでようやく振り返った。
﹁な⋮⋮いつのまに⋮⋮﹂
そこには男が立っていた。
金髪に、白い学生服のようなカッチリした前留めの服、ズボン。
おそらくイケメンであろう顔は、黄色い仮面に隠されている。
キツネに似た動物をモチーフにしているのだろうか。
右手には、大振りのダガー。
あれだ、アレが俺の頭を掠めたんだ。
532
次の瞬間、男の顔が光った。
凄まじい光の量、一瞬で視界が真っ白になった。
﹁ガァッ!﹂
ギレーヌの吠え声が聞こえる。
キンッと金属のぶつかり合う音。
誰かが走り回る音。
二度、三度の金属音。
視界が復活する頃、ギレーヌは俺の前に出ていた。
眼帯が外れている。
そうか、あの光で視界を奪われた瞬間、眼帯を外して残った眼で
見たのだ。
﹁貴様。何者だ。グレイラット家に敵対する者か!﹂
﹁光輝のアルマンフィ。それが我が名﹂
﹁アルマンフィ?﹂
﹁この異変を止めに参上した。それがペルギウス様の命⋮⋮﹂
ペルギウスという名前は聞いたことがあった。
確か、﹃魔神殺しの三英雄﹄︵殺していない︶の一人だ。
12人の使い魔を操っているとかいう召喚術師。
そして連鎖的にアルマンフィの名前も思い出した。
ペルギウスの12の使い魔の一人、光輝のアルマンフィ。
﹁気をつけてギレーヌ、文献によるとそいつは光の速度で動くそう
です﹂
﹁ルーデウス、お前はお嬢様を連れて下がっていろ﹂
533
言われるまま、俺はエリスを背中に庇うようにして、二人の邪魔
にならない位置へ。
しかし遠くはなり過ぎないように。
いざとなったらギレーヌを援護できる距離で。
あれが本当に光輝のアルマンフィなら、剣ではダメージを与えら
れないはずだ。
しかし、この男、どこに潜んでいたんだ?
⋮⋮いや。
確か光輝のアルマンフィは、光を司る精霊。
目で見えている部分なら、どんなに離れた距離でも一瞬で移動で
きる。
本で読んだ時は出来るわけないじゃんと思ったが、俺の背後に一
瞬で現れた。
ギレーヌが油断するとは思えないし、前々から潜んでいる理由も
ない。
飛んできたのだ。
文字通り、光速で。
﹁女。どけ。その小僧を殺せば異変が止まるやもしれん﹂
ていうか、なんなんだ。
異変って。
なにを勘違いしてるんだ?
﹁あたしは剣王ギレーヌ・デドルディアだ。あれとあたしらは関係
ない。引け!﹂
﹁信じられるか。証拠を見せろ﹂
534
ヒラムネ
﹁見よ! 剣神七本剣が一つ﹃平宗﹄だ!
剣王とこの剣の名において、まだ信じられんか!?﹂
ギレーヌが剣を握ったまま拳を突き出して、アルマンフィに見せ
る。
あの剣、そんな銘があったのか。
ヒラ胸。
そんな名前の武器、ギレーヌには似合わない。
﹁師と一族に誓え﹂
﹁我が師、剣神ガル・ファリオンとデドルディアが一族の名誉に誓
う!﹂
﹁よかろう。無実でなかった場合、後日ペルギウス様が沙汰を下す﹂
﹁構わん﹂
アルマンフィがダガーを収めた。
よくわからんが、なんとかなったらしい。
俺の常識だと、ちょっと口で誓いだのなんだの言ったところで眉
唾ものだが、
異世界の常識では違うのか。
ていうか、それだけギレーヌという人物の誓いの言葉に信用があ
るってことか。
ローマ法王が神に誓うような、そんな信用が。
﹁お前たちでないのなら、いい﹂
﹁⋮⋮唐突に襲ってきて謝罪もなしか?﹂
﹁こんな場所で怪しいことをしている方が悪い﹂
光輝のアルマンフィはそう言って踵を返した。
その瞬間だ。
535
﹁あ﹂
その瞬間を、俺の目は捉えていた。
白く染まった空から、一条の光が地面へと伸びるのを。
そして、それが地面に着いた瞬間。
白い光の奔流があらゆるものをかき消しながら津波のように迫っ
ているのを。
館を消し、
町を消し、
城壁を消し、
草花や木々を飲み込みながら迫ってくるのを。
アルマンフィは振り向き、それを目にした瞬間、金色の光となっ
て一瞬で逃げた。
ギレーヌはそれを目にした瞬間、こちらに走り込もうとして光の
中に消えた。
エリスはそれを目にした瞬間、ただ意味がわからなくて呆然と動
きを止めた。
俺はせめてエリスを守ろうと、彼女に覆いかぶさった。
その日、フィットア領は消滅した。
536
終
−
第十九話﹁ターニングポイント﹂︵後書き︶
第2章 少年期 家庭教師編 −
次章
第3章 少年期 冒険者入門編
537
間話﹁フィットア領消滅より半年後﹂
フィットア領消滅から、半年後。
フィットア領にたどり着いたロキシーは、
何もない﹃草原﹄を前に目を見開いていた。
ただただ唖然としていた。
今ロキシーの立っている街道は、アスラ王国が整備した石畳の道
だ。
これほど見事な道は、他の国では首都近辺でしか見られないだろ
う。
アスラ王国は端から端まで、この石畳の道が敷いてある。
そのはずだ。
なのに、目の前ではある境界線から道が消えていた。
何事もなかったかのように、草原が広がっている。
﹁⋮⋮⋮﹂
何かがあった。
それはわかった。
何があったのか。
それはわからない。
自分には結果しかわからない。
フィットア領は消えたという結果しか。
538
ブエナ村も消えたという結果しか。
あのルーデウスも、魔族である自分を簡単に受け入れてくれた優
しい家族も、みんな消えてしまったという、ただ一つの結果しか。
そんな話は、ここに来る途中に何度も耳にした。
まさか、と思った。
自分は担がれているんだ、と。
とにかく信じようとはしなかった。
目の前にある現実を見るまでは、一縷の望みに賭けていた。
ロキシーは膝から崩れた。
﹁あんたも、家族を失ったクチかい?﹂
ここまで乗せてもらった馬車の御者がいつのまにか後ろに立って
いた。
﹁優秀な弟子を﹂
﹁弟子か。でも、魔術師の弟子ってんなら、命を落とすのも覚悟の
上だったんだろう?﹂
﹁彼は、まだ十歳でした﹂
﹁そりゃあ⋮⋮早すぎるな⋮⋮﹂
御者が慰めるように、肩をポンと叩いた。
そして、しばらくして、ぽつりと言った。
﹁実はフィットア領の難民キャンプがあるんだ。行ってみるかい?
まぁ、十歳じゃ生き残るのは難しかっただろうけど、もしかした
539
らいるかもしれねえ﹂
ロキシーはガバッと顔を上げた。
﹁行きます!﹂
ルーデウス達なら、きっと大丈夫だ。
機転を利かせて生き残ったに違いない。
きっと、その集落で元気に暮らしているはずだ。
ロキシーは一縷の望みをもう一度だけ抱いた。
−−−
難民キャンプは、
木で出来た建物が何件も建ち、難民キャンプというより、一つの
村といえる規模になっていた。
しかし、全体的に沈んだ空気が流れていた。
︵このアスラ王国でこんな空気に触れるなんて︶
ロキシーの知るアスラ王国とは、世界で最も豊かな国だ。
活気に満ちた人々の顔と、笑顔があふれる場所だ。
食べ物は豊富で、魔物も少ない。
生きていくのに最も楽な場所だ。
だというのに、そこには笑顔が無かった。
540
この集落でも、食べ物で困っているようには見えない。
もともと豊かな場所だ。
そこらの草でも引っこ抜いて食べれば、飢えることは無い。
飢えがなければ人は笑顔でいるはずなのだ。
嫌なことはあろうとも、魔大陸のような殺伐とした雰囲気は無い。
そのはずなのだ。
だが、目の前の光景に、ロキシーは顔をしかめざるを得ない。
難民キャンプの臨時冒険者ギルド。
本来なら依頼が貼り付けられている掲示板の前。
そこには、最も陰鬱とした空気が流れていた。
家を失い、家族を失った男が、掲示板の前で号泣している。
半年かけて戻ってきて、この仕打ちはなんだと。
ある僧侶は、己の商売道具であるミリス教団の十字架を地面に叩
きつけていた。
もはや何も信じないと。
ある商人はナイフで己の首を掻き切ろうとして、周囲に止められ
ていた。
命より大切なものを失ったと。
ひどい場所だ。
これは、ダメかもしれない。
ロキシーはその空気に引きずられるように、
泣きそうな気分で情報収集を始めた。
541
−−−
一時間後。
ロキシーは何が起こったのかを大体把握していた。
あの空の異変の後、大規模な魔力災害が起こったのだ。
爆発を伴うようなものではなかったが規模は大きく、フィットア
領の人々が世界中に転移したらしい。
建物や木々はどこかへと消え、人だけが、世界のどこかに飛ばさ
れたのだ。
飛ばされた人々は、何とかして家に戻ろうとした。
そして、帰り着き、何も残っていないことを知り、絶望している
のだ。
ロキシーは掲示板を見る。
そこには、﹁死亡者﹂の名前が載っている。
また、その隣には﹁行方不明者﹂も載っている。
またさらに隣には、家族への伝言や、
﹃旅先でこんな人物を見かけたらここまでつれてきてくれ﹄
といった内容の冒険者への依頼が何件も連ねてある。
一際目立つ場所に、フィットア領主の名前で、
行方不明者・死亡者の情報を求む、と書いてある。
542
依頼はかつて無いほどの量だ。
ロキシーは冒険者としてそれなりに活動してきた。
それでも、これほど依頼のあふれる掲示板は見たことがない。
この災害の規模の大きさが伺える。
死亡者、行方不明者。
もしかすると、ここまで来る間に、そうした人物を見たかもしれ
ない。
人がいきなり現れた、という噂も聞いたことがある。
そういった与太話はいくらでもあるので気にもとめなかったが。
ロキシーは死亡者欄から見ていく。
数は少ない。
見知った名前は無い。
対する行方不明者数は、多い。
目がチカチカしてくる量だ。
なにせ、世界中への転移だ。
魔物に襲われて死んで、骨も残らないような者もいるはずだ。
山の上や、空の上、海の中。即死したものも少なくないだろう。
死亡が確認出来ただけでも、上出来なのだ。
﹁あった⋮⋮﹂
ロキシーは眉を潜めた。
行方不明者の欄に、ルーデウスたちの名前を見つけたからだ。
ルーデウス・グレイラット。
543
ゼニス・グレイラット。
リーリャ・グレイラット。
アイシャ・グレイラット。
リーリャがパウロの妻の一人になったことは知っていた。
ルーデウスの手紙に書いてあったのだ。
アイシャというのは、確か妹だったか。もう一人いたはずだが。
パウロとノルンの名前には線が引いてあった。
まさかと思って死亡者欄をもう一度見る。
やはり無い。
生きているのだろうか。
いや、情報が抜けている可能性もある。
ぬか喜びはすまい。
﹁とりあえず、死んではいないことを喜ぶべきでしょうか⋮⋮﹂
ロキシーはぼんやりしながら伝言板を見る。
書いている者の必死さが伺える内容だ。
少しだけ、羨ましくも感じる。
自分には、こんな必死に探してくれる人はいない。
そういえば、故郷の両親は元気だろうか。
喧嘩別れをして集落を飛び出して、もうかなりの年月が経ってい
る。
ほんの少し前までは、ミグルド族にとってはほんの少しの年月だ
と思っていたが。
月日が経つのは早いものだ。
手紙の一つでも送ったほうがいいかもしれない。
544
﹁これは⋮⋮﹂
そこで一つの伝言を見つけた。
書いた人物は、パウロ・グレイラット。
﹃ルーデウスへ。
ゼニスとリーリャ、アイシャが行方不明だ。
ノルンは俺が保護している。
お前が現在どこにいるかはわからん。
だが、お前なら一人でもここに辿り着けると考えている。
よって、お前の捜索は後回しにする。
オレはミリス大陸へと行く。
そこがゼニスの生まれ故郷だからだ。
リーリャの故郷・実家にも伝言を残しておく。
お前は中央大陸の北部を探せ。
見つけたら下記まで連絡を。
ゼニス、リーリャも同様に連絡を。
また、オレや家族のことを知る人物、あるいは元﹃黒狼の牙﹄メ
ンバーへ。
捜索を手伝って欲しい。
﹃黒狼の牙﹄の元メンバーは俺に思う所もあるだろう。
水に流せとは言わない。罵ってくれてもいい。
靴をなめろというなら舐めよう。
財産は全て消えたので報酬は出せないが、頼む。
連絡先
−
オレの家族を探してくれ。
−
545
ミリス大陸ミリス神聖国首都ミリシオン冒険者ギルド
パーティ名﹃ブエナ村民捜索隊﹄
クラン名﹃フィットア領捜索団﹄
パウロ・グレイラットより﹄
パウロが生きていた。
そうと知って、ロキシーは少しだけ安堵した。
ルーデウスの手紙ではこき下ろされていたが、
こういう状況でこそ頼りになる人物だ。
そして考える。
自分も捜索に参加するべきだろうか、と。
あの家族には世話になった。
あの家族と過ごした二年間は、今でもいい思い出だ。
いろんな意味で。
なので助けるのはやぶさかではない。
よし、捜索に参加しよう。
ロキシーはそう決めた。
どう探すか。
﹃黒狼の牙﹄は、恐らくパウロが前に所属していたというパーテ
ィだろう。
その面々はルーデウスとは面識がないはずだ。
リーリャとも面識は無いだろうが、
自分は後回しにされているルーデウスを探そう。
546
パウロはルーデウスが帰ってくると思っているようだが、あの少
年は適応力が高い。
転移先に居着いている可能性もあるだろう。
もしそうなら、何が起こったのかを知らせてやり、ここに連れて
きてやらねばならない。
しかし、さて、どこを探すべきか。
パウロはミリス神聖国の首都に移動した。
ということは、その経路には伝言を残しているはずだ。
アスラ王国の国境、王竜王国のイーストポート、ミリス神聖国の
ウエストポート。
最低でもこの三つには、伝言を残しているだろう。
なら、その経路の外を探すべきだ。
中央大陸北部か、ベガリット大陸か、魔大陸。
このあたりだろう。
ベガリット大陸には行ったことがないが、魔物と迷宮の多い場所
だと聞いたことがある。
魔大陸は多少の土地勘はあるが、一人で旅するには危険な土地だ。
安全を取るなら、北部だが⋮⋮。
いや、だからこそ行くべきなのだ。
危険な土地だからこそ、行ける者は少ない。
自分なら、その二つを旅できるパーティに潜り込める。
よし。
547
そうと決まれば、ここに長居は無用だ。
王龍王国のイーストポートに移動しよう。
そこで、ベガリットか魔大陸にいくパーティを探すのだ。
ロキシーはそうと決め、南に向けて旅立った。
ルーデウスは生きている。
そんな確信があった
548
間話﹁フィットア領消滅より半年後﹂︵後書き︶
時系列的には3章の後の話となります。
549
第二十話﹁神を名乗る詐欺師﹂
夢を見ていた。
夢の中で俺はエリスを抱えて飛んでいた。
意識は朦朧としていたが、飛んでいる、という感覚だけはなぜか
あった。
目の前の景色は、凄まじい速度で変化していく。
まるで音か光にでもなったかのようなスピードで、上下左右、不
規則に動きながら飛んでいる。
なぜこんなことになっているのかわからない。
ただ、気を抜けば、いや、気を抜かずともいずれ失速して落ちる
という確信だけはあった。
俺は意識を集中させる。
めまぐるしく変わる景色の中で、比較的安全そうな場所を探し、
着陸するのだ。
なぜと聞かれてもわからない。
ただ、そうしなければ死ぬ、そんな予感がした。
しかし速すぎる。スロットの目押しなど比べ物にならない速度で
目の前の光景が変わっていく。
俺は意識を集中させる。魔力を身体に込める。
すると、一瞬だけ速度がゆっくりになった。
まずい、落ちる。
と思った時に、地上が見えた。平地だ。
海はまずい、山もまずい、森も危険、だが平地なら、あるいは⋮
⋮。
そんな望みを掛けて、俺は降りる。
どうにかして急ブレーキを掛けて、赤茶けた大地へと落ちた。
550
意識が途絶える。
−−−
目を開けた瞬間、
真っ白い空間に俺はいた。
何もない空間だ。
すぐに夢だとわかった。
明晰夢というやつだろうか。
それにしても身体が重い。
﹁⋮⋮⋮え?﹂
俺はふと自分の身体を見下ろし、驚愕で目を見開いた。
34年間見慣れた、あの姿だった。
それと同時に、前世の記憶が蘇ってくる。
後悔、葛藤、卑しさ、甘えた考え。
この10年間が夢のように思え、俺の中に落胆がこみ上げてきた。
戻った。
と、直感的に悟った。
そして、その現実を俺は簡単に受け止めた。
やはり夢だったのだ。
長い夢だと思ったが、俺にとっては幸せすぎた。
551
温かい家庭に生まれ、可愛い女の子と接しながらの十年。
もっと楽しみたかったが。
そうか。
終わりか⋮⋮。
ルーデウスとしての記憶が薄れていくのを感じる。
夢なんて、覚めてみるとあっけないものだ。
何を期待していたのだか⋮⋮。
あんな幸せで順調な人生、俺に送れるはずがないのにな。
−−−
ふと気づくと、変なやつがいた。
のっぺりとした白い顔で、にこやかに笑っている。
特徴は無い。
こういう顔の部位だと認識すると、
すぐに記憶から抜けていった。
覚えることが出来ないのだ。
そのせいか、まるで彼全体にモザイクが掛かっているような印象
を請ける。
ただ、穏やかそうな人物だと思った。
552
﹁やあ、初めましてかな。こんにちわ。ルーデウス君﹂
落胆に暮れていると、
卑猥なモザイク野郎が話しかけてきた。
中性的な声だ。男か女かわからない。
モザイクかかってるし、女だと考えたほうがエロくていいかもな。
﹁聞こえているよね?﹂
ああ、もちろんともさ。
はいはい、こんにちわ。
﹁うんうん、挨拶ができるのはいいことだね﹂
声は出なかったが、相手には通じたらしい。
そのまま会話をすることにしよう。
﹁いいね君、適応力あるよ﹂
そんな事はありませんよ。
﹁んふふ。そんなことはあるよ﹂
で、あなたはどこのどなた様?
﹁見ての通りだよ﹂
見ての通り?
モザイクでよく見えないんだが⋮⋮。
絶倫戦士スペルマンとか?
553
﹁スペルマン? 誰だいそれは、ボクに似てるのかい?﹂
ええ、全身がモザイクで見えない所がそっくりだ。
﹁なるほど、君の世界にはそういうのもいるのか﹂
いませんけどね。
﹁いないのかい⋮⋮。
まあいいや。ボクは神様だよ。人神だ﹂
はあ。ヒトガミ⋮⋮。
﹁気のない返事だ﹂
いえ⋮⋮。
そんな神様がどうして俺に話しかけてきたのかな、と。
ていうか、登場するの遅くないですか?
普通はもっと早く出てくるものじゃないのか?
﹁もっとはやく⋮⋮?
どういう意味だい?﹂
なんでもないです。続きをどうぞ。
﹁君のこと、見てたよ。なかなか面白い人生を送っているじゃない
か!﹂
ノゾキは面白いですもんね。
554
﹁そう。面白い。だから、見守ってやることにしたんだよ﹂
見守って、やる。
そりゃどうも。
恩着せがましいですね。
しかも見下されてる感じがむかつきますね。
﹁つれないねえ。
君が困っているだろうと思って声を掛けたのに﹂
困った時に声を掛けてくるヤツにはロクなヤツがいません。
﹁僕は君の味方だよ﹂
ハッ!
味方!
笑っちゃうね。
生前に、そういって擦り寄ってきたヤツはいたよ。
僕は君の味方だ。
さぁ、僕が守ってやるから頑張ってみよう、ってな。
無責任なヤツラだったよ。部屋の外にさえ出せば後はどうにかな
る、なんて考えてやがる。
問題の本質ってやつをまるで理解してないヤツラだ。
今のお前の発言から、そういう匂いがする。
信用できないね。
﹁そこまで言われちゃうと困るなあ⋮⋮。
じゃあ、とりあえず助言をさせてくれよ﹂
555
助言ねえ⋮⋮。
﹁従うも従わないも、君の自由ってことさ﹂
ああ。そういうタイプね。
いたいた、いたよ。
助言つって、感情論を語って、
俺の思考が内ではなく外に向かうように誘導するんだ。
ほんと、本質がわかってねえんだ。
今さらポジティブになったって意味は無いんだよ。
心の持ちようでどうにかなる時期はとっくに過ぎたんだよ。
ポジティブになった分だけ、絶望が加算されて戻ってくるのさ。
今みたいにな!
夢見させやがって、何が異世界だ!
転生とかいっていい気分にさせておいて、
キリのいい所で引き戻すのがお前のやり方かよ。
﹁いやいや、勘違いしないでくれよ。
前世のことじゃなくて、今の話をしているんだから﹂
⋮⋮⋮ん?
じゃあこの姿は?
﹁君の精神体だよ。肉体は別﹂
精神体。
556
﹁もちろん、肉体は無事だ﹂
なら、これはただの夢?
目が覚めても、このクソみたいな身体に戻るわけじゃ⋮⋮ない?
﹁イエス。
これは夢だよ。目が覚めれば、君の身体は元通りだ。
安心したかい?﹂
安心した。
そうか、夢か⋮⋮。
﹁おっと、ただの夢じゃないよ。
僕が君の精神に直接語りかけているんだ。
驚いたね、精神と肉体がここまで違うとは⋮⋮﹂
直接ね。
で、どうしようって言うんだ?
異物はウザいから元の世界に戻そうっていうのか?
﹁まさか、六面世界以外の異世界には、僕にだって送り返せないよ。
そんな当たり前の事もわからないのかい?﹂
むっ。
何が当たり前で、何がそうじゃないのかなんて、俺にわかるわけ
ないだろ。
﹁ごもっとも﹂
まてよ。
557
送り返せないってことは、
あんたがこの世界に転生させたわけじゃないってことか。
﹁まぁね。大体、僕は転生なんてさせられないよ。
そういうのは、悪い龍神の得意とする所さ﹂
ふむ。
悪い龍神のねえ⋮⋮。
﹁で、聞くかい? 助言﹂
⋮⋮⋮⋮⋮聞かない。
﹁えっ! どうしてだい?﹂
今の状況がどうであれ、
おまえは胡散臭い。
お前みたいなヤツの話は最初から耳を貸さないに限る。
﹁胡散臭い、かなあ⋮⋮?﹂
ああ、胡散臭い。
騙そう騙そうって感じがプンプンするね。
ネトゲで詐欺に会った時によく似てる。
話を聞いた時点で操られるんだ。
﹁詐欺じゃないよ。
それなら聞くか、聞かないかなんて言わないよ﹂
それも作戦だろ。
558
﹁信じてくれよぉ﹂
神のくせに情けない声を出しやがって。
大体、俺が信じてる神はお前じゃないんだ。
ちゃんと奇跡を与えてくれたお方なんだよ。
異教の神が変なこと言ってきたら、疑って当然だろうが。
それにな、信じる、信じないを口にするヤツは嘘つきなんだ。
俺の愛読書にそう書いてあったから、間違いない。
﹁そんな事言わずにさ。最初の1回だけでいいんだ﹂
なんだよ、その先っぽだけでいいから、みたいなのは。
絶対に騙そうとしてるだろ。
大体、俺が生前で何度神に祈ったと思ってるんだ。
死ぬまで助けてくれなかったくせに、今更助言?
﹁いや、君の前世の世界の神様とボクは違うから。
それに、これから助けようって言ってるんだよ?﹂
だから、それが信用できないって言ってるだろ。
言葉だけじゃダメなんだよ。
信用してほしいなら、奇跡でも起こしてみろよ。
﹁起こしてるじゃないか。
夢を通して語りかけるなんて、僕にしか出来ないよ﹂
語りかけるぐらい、夢を通さなくてもできるだろうが。
559
手紙でもなんでも出せばいい。
﹁ごもっとも。
とはいえ、信用できないって言われてもねえ。
このままだと君、死んじゃうよ?﹂
⋮⋮死ぬ?
なんで?
﹁魔大陸って過酷な大陸だもん。食べ物だってほとんど無い。
魔物は中央大陸とは比べ物にならないぐらい大量にいるし、
言葉はわかるみたいだけど、常識も結構違うよ?
やっていけるのかな? 自信あるの?﹂
は? 魔大陸?
ちょっとまって、なにそれ?
﹁君はね、大規模な魔力災害に巻き込まれて転移したの﹂
魔力災害。
あの光のことか。
﹁そう。あの光のこと﹂
転移。
あれは転移だったのか⋮⋮。
巻き込まれたのは俺だけじゃない。
ギレーヌやフィリップは無事なんだろうか。
ブエナ村は距離もあったし大丈夫だろうけど、
560
シルフィたちも心配しているに違いない。
⋮⋮そこの所、どうなんだ?
﹁それを僕に聞いて、信じるのかい?
助言は聞かないのに?﹂
そうだな。
お前は簡単に嘘を付きそうだ。
﹁僕に言えるのは、みんな君の無事を祈ってるってことさ。
生きて帰ってきてほしい、ってね﹂
そりゃ⋮⋮誰だってそう思うだろ。
﹁そうかなー?
君は、心のどこかでは、
自分が消えて他の皆が安心してるんじゃ⋮⋮。
って思ってるんじゃないのかな?﹂
⋮⋮⋮。
思っていないと言えば、嘘になる。
俺はいらない人間として前世を終えた。
それは今を持って引きずっている。
﹁けど、この世界の君はいらない存在じゃない。
無事に帰らないとね﹂
ああ、そうだな。
561
﹁僕の助言に従えば、絶対とは言わないけど、
高確率で帰ることが出来るよ?﹂
まて。
その前にお前の目的を聞きたい。
なんで俺にそこまでこだわるんだ?
﹁くどいなあ⋮⋮。
君が生きていると面白そうだから。
それでいいじゃないか﹂
面白いって理由で行動する奴に、ロクなのはいない。
﹁君の前世ではそうなのかい?﹂
面白いという理由で行動する奴は、
他人を手のひらに乗せて楽しむ輩だ。
﹁僕にもそういう部分はあるかもね﹂
大体、俺を見ていて面白いわけがないだろうが。
﹁面白いというか、興味深いのかな。
異世界人なんて滅多に見ないからね。
僕が助言を与えて、いろんな人と触れ合い。
それがどんな結果につながっていくのか⋮⋮﹂
なるほどな。
猿に曖昧な命令を与えて、
それをどういう風にクリアするのかを楽しむってわけか。
562
大層なご趣味だな。
﹁はぁ⋮⋮⋮君ね。
最初の質問、忘れてないよね?﹂
最初の質問?
﹁もう一度聞くよ。自信、あるかい?
知らない危険な土地で、生きていく自信﹂
⋮⋮⋮無いよ。
﹁じゃあ、聞いたほうがいいんじゃないかい?
もう一度言うけど、
従うも、従わないも、君の自由なんだから﹂
わかったよ。
わかりました。
助言でもなんでも勝手にすればいいだろう。
こんなぐだぐだと長いこと話しやがって。
一方的に告げて、さっさと終わらせればよかったんだ。
﹁⋮⋮はいはい。
ルーデウスよ。よくお聞きなさい。
目が覚めた時に近くにいる男を頼り、
そして彼を助けるのです﹂
モザイク神は、それだけ言うと、エコーを残しながら消えていっ
563
た。
564
第二十一話﹁スペルド族﹂
目覚めると夜だった。
目に入るのは満点の星空。
木が燃えるパチパチという音。
ゆらゆらと揺れる炎の影。
焚き火の側で寝ていたらしい。
もちろん、俺には焚き火を起こした記憶もなければ、野宿を始め
た記憶もない。
最後の記憶は⋮⋮⋮そうだ。
空がいきなり変色したと思ったら、白い光に包まれたのだ。
そして、あの夢だ。
くそ。
嫌な夢を見た。
﹁はっ⋮⋮!﹂
慌てて自分の身体を見下ろす。
鈍重で何もできない身体ではない。
幼くも力強いルーデウスに戻っていた。
それを確認すると同時に、先ほどの記憶が夢のように薄れていく。
ほっと一安心。
565
﹁ちっ⋮⋮﹂
人神め、嫌な感覚を思い出させてくれる。
けれど、本当によかった。
俺はまだ、この世界で生きていけるらしい。
やり残したことがいっぱいあるからな。
⋮⋮せめて、魔法使いの証ぐらいは捨てたい。
身体を起こしてみる。
背中が痛い。
地面にそのまま寝かせられていたのか。
夜空の下、ひび割れた大地が広がっている。
草木はほとんど生えていない。
虫すらいないのか、焚き火の音以外には何も聞こえてこない。
音を立てれば、どこまでも吸い込まれていきそうな気配すらある。
どこだここは⋮⋮。
少なくとも、俺の記憶にはこんな場所は無い。
アスラ王国は全土が森か草原だ。
あの白い光でこんな風になったのか⋮⋮?
ああ、いや。
違う。
そうじゃない。
人神が言っていた。
俺は転移したんだ。
魔大陸に。
566
なら、ここは魔大陸だ。
きっと、あの光のせいで⋮⋮あ。
ギレーヌとエリスは⋮⋮!
立ち上がろうとしたところで、
すぐ後ろで、エリスが俺の裾を掴んで寝ていることに気付いた。
なぜか彼女には、マントのようなものが掛けてあった。
俺はなにもなかったんだが⋮⋮。
アクアハーティア
まぁ、レディファーストということにしておこう。
彼女の背後に﹃傲慢なる水竜王﹄も転がっていた。
とりあえず、外傷はなさそうだったので、ほっとする。
ギレーヌあたりが何とかしてくれたのかもしれない。
エリスを起こそうかと思ったが、うるさそうなのでとりあえずは
放っておく。
ギレーヌはどこだ?
と、辺りを見回すと、
先程は気付かなかったが、焚き火の向こうに人影があった。
﹁⋮⋮⋮!?﹂
ギレーヌではないと、瞬時に悟る。
彼は、そう、男だ。
彼は俺を観察するように、微動だにせず、じっと見ていた。
警戒している感じではない。
567
むしろ、何かにこう。なんだっけな。
そうだ。
猫に恐る恐る近づく時の姉貴みたいな感じだ。
こちらが子供だから、怯えられないか心配なのだろうか。
なら、敵意はなさそうだ。
ほっとした瞬間、俺は男の風貌に気付いた。
エメラルドグリーンの髪。
白磁のような白い肌。
赤い宝石のような額の感覚器官。
極めつけに、脇においてある三叉槍。
スペルド族。
顔には縦断する傷。
眼光は鋭く、表情は厳しく、剣呑とした印象。
同時に、ロキシーの教えを思い出す。
﹃スペルド族には近づくな、話しかけるな﹄
エリスを抱えて全力で逃げようとして、寸前で思いとどまる。
人神の言葉を思い出したのだ。
﹃近くの男を頼り、助けるのです﹄
あの自称神の言葉は信用できない。
あんな話の後で、こんな怪しい男をポンと出して、どうして信じ
られるというんだ。
568
しかも、スペルド族だ。
ロキシーからこの種族の怖さはさんざん教えられてきた。
いくら神が頼って助けろといった所で、どうして信じられよう。
どっちを信じる?
得たいの知れない人神と、ロキシーと。
言うまでもない。
信じたいのはロキシーだ。
だから、俺はすぐに逃げるべきだ。
いや。
だからこその﹃助言﹄なのかもしれない。
何の情報もなければ、俺はこの男から逃げただろう。
その結果、運良く逃げ切る事が出来たら⋮⋮どうなる?
周囲をみろ。
この暗くて見覚えのない風景を。
岩ばかりで、ひび割れた地面を。
魔大陸に転移した。
という言葉をそのまま信じるのなら、ここは魔大陸だ。
そういえば、
人神のインパクトで忘れていたが、
その前に奇妙な光景を見た。
この世界のあらゆる場所を飛んでいる夢だ。
山の上、海の中、森の奥、谷の底⋮⋮。
569
即死するような場所もたくさんあった。
あれが何の関係もない夢でないのなら、
転移したのは、恐らく本当だろう。
魔大陸のどこかもわからない。
逃げれば、広い大陸のどまんなかに、放り出されることになる。
結局、選択肢など無いのだ。
ここでこの男から逃げ出し、あるいは戦って倒し、
エリスと二人で魔大陸をさまよった所でいい事はない。
それとも、賭けるか?
夜が明けたら、近くに人里があることを賭けるか?
無茶をいうな。
道がわからないということがどれぐらい辛いことか、
俺はよく知っているじゃないか。
落ち着け。
深呼吸しろ。
人神は信じられない。
だが、この男個人はどうだ?
よく見ろ。
顔色を伺え。
あの表情はなんだ?
あれは不安だ。
570
不安とあきらめの混じった顔だ。
少なくとも、彼は感情のない化物ではない。
ロキシーは近づくなと言っていた。
だが、実際にスペルド族と会ったことは無いとも言っていた。
俺は﹃差別﹄や﹃迫害﹄、﹃魔女狩り﹄という概念を知っている。
スペルド族が恐れられているのは、誤解である可能性もある。
ロキシーは嘘を言ったつもりはないかもしれない。
ただ誤解していただけなのかもしれない。
俺の感覚では、彼に危険は無い。
少なくとも、人神に感じた胡散臭さは微塵も感じられない。
今はロキシーでも人神でもなく、自分の感覚を信じよう。
俺は一目見て、嫌な印象や怖い印象は持たなかった。
外見を見て警戒しただけだ。
なら、話だけはしてみよう。
それで判断しよう。
﹁おはようございます﹂
﹁⋮⋮⋮ああ﹂
挨拶をすると、返事が帰ってきた。
さて、なんと聞くべきか。
﹁神様の使いですか?﹂
その質問に、男は首をかしげた。
571
﹁質問の意図がわからんが、お前たちは空から降ってきた。
人族の子供はひよわだ。焚き火を作って身体を暖めておいた﹂
人神の名前は出なかった。
あの神は、この男には話を通していないのだろうか。
面白いから、という言葉をそのまま信じるのであれば、
むしろ俺の行動だけではなく、
俺と接触した彼の行動も面白おかしく鑑賞するつもりなのか。
だとすれば、彼は信じられるかもしれない。
もう少し話をしてみよう。
﹁助けて頂いたんですね。ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮お前は、目が見えないのか?﹂
﹁は?﹂
唐突に変なことを聞かれた。
﹁いえ、両の眼ともしっかり開眼していますよ?﹂
﹁ならば、親にスペルドについて聞かずに育ったのか?﹂
﹁親はともかく、師匠には厳重に注意されましたね。近づくなって﹂
﹁⋮⋮⋮師匠の教えは守らなくていいのか?﹂
彼はゆっくりと、確かめるように聞いてきた。
自分はスペルド族だけど、大丈夫なのかって話だ。
意外と臆病なんだな。
﹁お前は、俺を見ても、怖くは無いのか?﹂
572
怖くはない。
恐怖はないのだ。
ただ、疑っているだけだ。
だが、それを言う必要もない。
﹁助けて頂いた方を怖がるのは失礼ですよ﹂
﹁お前は不思議なことをいう子供だな﹂
彼の顔には、困惑の表情が張り付いていた。
不思議、か。
スペルド族としては、忌避されるという感覚が普通なのだろう。
ラプラス戦役については習った。
戦争後、スペルド族が迫害を受けてきたのも知っている。
他の魔族への差別は薄れつつあるようだが、スペルド族に対して
だけは異常だ。
まるで戦中の米兵に対する日本人のように、あらゆる種族が毛嫌
いしている。
この世に絶対悪があるとすれば、それはスペルド族だ、とでも言
わんばかりに。
俺が生前に差別を良しとしない日本人でなければ、
彼を見た瞬間に叫び声でも上げていたかもしれない。
﹁⋮⋮⋮﹂
573
彼は枯れ枝を焚き火へと放り込む。
パキンと音がした。
その音を聞いたのか、エリスが﹁んぅ﹂と身動ぎをした。起きる
かもしれない。
おお、いかん。
エリスが起きたら絶対に騒ぐからな。
ぐちゃぐちゃになる前に、自己紹介ぐらいはしておくか。
﹁僕はルーデウス・グレイラットです。お名前をお聞きしても?﹂
﹁ルイジェルド・スペルディア﹂
特定の魔族は種族ごとに、決められた苗字を持つ。
家名、なんてものをつけているのは、基本的に人族だけだ。
たまに他の種族も酔狂で付けたりするらしい。
ちなみに、ロキシーはミグルディアだ。
と、ロキシー辞典に書いてあった。
﹁ルイジェルドさん。もうすぐこっちの子が起きると思うんですが、
ちょっと騒がしい子なので、先に謝っておきます。申し訳ない﹂
﹁構わん。慣れているからな﹂
エリスなら、ルイジェルドの顔を見るなり殴りかかってもおかし
くない。
敵対しないためにも、必要な会話は終わらせておくべきだろう。
﹁隣、失礼します﹂
エリスの寝顔をチラリと見て、まだ大丈夫そうだなと思い、
俺はルイジェルドの隣に移動した。
574
彼は暗い明かりの下で見てみると、なんとも民族性溢れる格好を
していた。
イメージとしてはインディアンだろうか。
刺繍の入ったチョッキとズボンだ。
﹁む⋮⋮﹂
居心地悪そうにしている。
人神のようにグイグイと来ない分、好印象だ。
﹁ところで話は変わりますが、ここはどこなんですか?﹂
﹁ここは魔大陸の北東、ビエゴヤ地方。旧キシリス城の近くだ﹂
﹁魔大陸⋮⋮﹂
確か、キシリス城は魔大陸の北東だ。
話を信じるなら、だが。
﹁どうしてそんなところに落ちたんでしょうね﹂
﹁お前たちにわからんのなら、俺にもわからん﹂
﹁そりゃ、そうですね﹂
ファンタジー世界だし、何が起こっても不思議ではないと思うが
⋮⋮。
ペルギウスの配下とかいう大物も登場したし、偶然の産物ではな
いのかもしれない。
ていうか、あの人神が関与してる可能性も高い。
巻き込まれたのが偶然なら、生きてるだけで儲けものだ。
575
﹁ともあれ、助けていただいたことには感謝します﹂
﹁礼はいらん。それより、どこに住んでいるのだ?﹂
﹁中央大陸のアスラ王国、フィットア領のロアという都市です﹂
﹁アスラ⋮⋮遠いな﹂
﹁そうですね﹂
﹁だが安心しろ、必ず送り届けてやろう﹂
魔大陸の北東とアスラ王国。
地図の端と端だ。
ラスベガスとパリぐらい離れている。
しかも、この世界では、船は限られた場所しか通れない。
だから陸路でぐるりと回らなければいけないのだ。
﹁何が起こったか、心当たりはないのか?﹂
﹁心当たりというか⋮⋮空が光ったと思ったら、光輝のアルマンフ
ィって人がきて、異変を止めに来たと言いました。その人と話して
いたら、いきなり白い光が押し寄せてきて⋮⋮。次の瞬間にはここ
で眼が覚めました﹂
﹁アルマンフィ⋮⋮ペルギウスが動いたのか。
ならば、本当に何かが起こったのだろう。転移ぐらいで済んでよ
かったな﹂
﹁まったくです。あれが爆発とかだったら即死ですからね﹂
ルイジェルドは、ペルギウスという名前を聞いても動じなかった。
意外と、何かあると動く人なんだろうか。ペルギウスって。
﹁ところで、人神という存在に聞き覚えは?﹂
﹁ヒトガミ? 無いな。人の名前か?﹂
576
﹁いえ、知らないならいいです﹂
嘘を付いている感じはない。
彼が人神のことを伏せる理由⋮⋮。
思い至らない。
﹁それにしても、アスラ王国か﹂
﹁遠いですよね。いいですよ。近くの集落にでも送ってくだされば
⋮⋮﹂
﹁いや。スペルドの戦士は一度決めた事は覆さん﹂
頑固だが実直な言葉だ。
人神の助言がなければ、それだけで信頼してしまったかもしれな
い。
しかし、今は疑心暗鬼だ。
﹁世界の端と端ですよ?﹂
﹁子供が余計な気遣いをするな﹂
恐る恐るといった感じで、俺の頭に手が乗せられ、おずおずとい
った感じで、撫でられた。
俺が拒否しないでいると、彼はほっとした顔をした。
この人、子供好きなのかな?
しかし、歩いて10分の所にあるわけじゃないのだ。
そんな軽々しく送ると言われても、信用できない。
﹁言葉は通じるのか? 金はあるのか? 道はわかるのか?﹂
言われて、そういえば、と思った。
577
俺は先程から人間語で話しているが、この魔族の男は流暢に返事
を返してくる。
﹁魔神語はできます。
魔術が出来るので金はなんとか稼げます。
人のいる所にさえ連れて行ってもらえれば、道は自分で調べます﹂
なるべく断る方向で話を進めたかった。
この男は信用できるかもしれないが、
人神の思惑通りに事が進むのは、避けたほうがいい気がしたのだ。
疑り深い俺の言葉に思う所もあるはずだが、
ルイジェルドは実直な返事をした。
﹁そうか⋮⋮ならば護衛だけはさせてくれ。
小さな子供を放り出したとあっては、スペルドの誇りに傷がつく﹂
﹁誇り高い一族なんですね﹂
﹁傷だらけの誇りだがな﹂
その冗談に、俺はハハッと笑った。
ルイジェルドの口端もつり上がっていた。笑っているのだ。
人神の胡散臭い笑みとは違う、温かい笑みだった。
﹁とにかく、明日は俺が世話になっている集落まで行こう﹂
﹁はい﹂
神は信じられないが、この男は信じられるかもしれない。
少なくとも、その集落とやらに行くまでは、信じてやろう。
578
−−−
しばらくして。 エリスの目がパチリと開いた。
ガバッと身体を起こし、キョロキョロと周囲を見渡す。
次第に不安そうな顔になり、俺と目があって、あからさまにほっ
とした表情になる。
すぐに、隣に座るルイジェルドと目があった。
﹁キャアアアアアアアアァァァァァァァァ!!!!﹂
悲鳴というか、絶叫だった。
転がるように後ろに下がり、そのまま立ち上がって逃げようとし
て、腰砕けになって倒れた。
腰が抜けたのだ。
﹁イヤァァァアアアアア!﹂
エリスはパニックになった。
しかし暴れもしなければ、這いずって逃げるでもない。
その場にうずくまって、ガタガタと震えて、ただ声だけは張り上
げて叫ぶ。
﹁ヤダ! ヤダヤダ! 怖い! 怖い怖い怖い!
助けてギレーヌ! ギレーヌ! ギレェーヌ!
どうして来てくれないのよ! イヤ、イヤ! 死にたくない! 死にたくない!
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさいルーデウス!
579
突き飛ばしてごめんなさい! 勇気がなくてごめんなさい!
約束を守れなくてごめんなざぁぁあ、あ、あぁぁぁん!
うえええぇぇええん!﹂
最終的には、亀のように縮こまって泣き出してしまった。
俺はその光景に戦慄を覚えた。
︵あの、エリスが、こんなに怖がっている⋮⋮︶
エリスは気の強い女の子だ。
座右の銘は恐らく天上天下唯我独尊。
ワガママで乱暴で、とりあえず殴ってから考える、そんな子だ。
もしかして、俺はとんでもない勘違いしていたんじゃないか?
スペルド族は、決して触れてはいけない相手なんじゃないのか?
チラリとルイジェルドを見てみる。
彼は平然としていた。
﹁あれが、普通の反応だ﹂
そんな馬鹿な。
﹁僕は異常ですか﹂
﹁異常だ。だが⋮⋮﹂
﹁だが?﹂
﹁悪くはない﹂
ルイジェルドの横顔は、随分と寂しそうに見えた。
580
思う所があった。
俺は立ち上がり、エリスのところまで移動する。
足音に気づいて、エリスはびくりと身体を震わせた。
俺はその背中を優しく撫でた。
昔、何かに怖がって泣いていたら、
ばあちゃんがこうやって背中を撫でてくれたのを思い出しながら。
﹁ほーら、怖くない。怖くない﹂
﹁ひっく、怖くないわけないじゃない!
す、スペルド族よ!﹂
そんなに怖がる理由が、俺にはわからない。
だって、あのエリスだ。
剣王ギレーヌ相手にも牙を剥いたエリスだ。
彼女に怖いものなんてあるはずがない。
﹁本当に怖い人なんですか?﹂
﹁だ、だって、す、スペルド族は!
子供を、たべ、食べっ! 食べるのよ? ひっく⋮⋮﹂
﹁食べませんよ﹂
食べないよね?
とルイジェルドを見ると、首を振った。
﹁子供は食べん﹂
だよね。
581
﹁ほら、食べないって﹂
﹁だ、だ、だって! だってスペルド族よ! 魔族なのよ!﹂
﹁魔族だけど、人間語は通じましたよ﹂
﹁言葉の問題じゃない!﹂
ガバッと顔を上げて、エリスが睨んでくる。
いつもの調子に戻ってきた。
やはり、エリスはこうでなくては。
﹁あっ、大丈夫なんですか?
ちゃんと縮こまってないと、食べられちゃいますよ?﹂
﹁ば、馬鹿にしないでよ!﹂
馬鹿にした口調で言うと、エリスは俺をキッと睨んだ。
そしてそのまま、ルイジェルドの方もキッと睨んで⋮⋮。
カタカタと震えた。
目が潤んでいる。
もし、いつもの様に仁王立ちしたら、足もカクカクになっていた
だろう。
﹁は、はじ、はじ、はじめ、て、お、おめにかかります。
え、え、エリス・ボボ、ボレアス⋮⋮グレイラットです!﹂
半泣きになりながら、自己紹介をした。
偉そうに睨んで自己紹介なのが、ちょっと笑える所だ。
いや、そういえば昔、俺がそういう風に教えたかもしれない。
人と会ったら、とりあえず自己紹介をして先制攻撃しろ、と。
﹁エリス・ボボボレアス・グレイラットか。
582
知らない間に、人族はおかしな名前を付けるようになったな﹂
﹁違うわよ!
エリス・ボレアス・グレイラットよ! ちょっと噛んだだけよ!
それよりあんたも名乗りなさいよ!﹂
叫んでから、エリスは﹁あっ﹂と、不安そうな顔になった。
自分が誰に向かって叫んだか、思い出したのだ。
﹁そうか。すまん。
ルイジェルド・スペルディアだ﹂
エリスがほっとした表情になり、ドヤ顔をしてくる。
どお、怖くなんてないんだから、という顔だ。
﹁ね、大丈夫だったでしょう?
話が通じればみんな友達になれるんですよ﹂
﹁そうね! ルーデウスの言うとおりね!
お母様ったら、嘘ばっかり!﹂
ヒルダが教えたのか。
しかし、どれだけ恐ろしい伝承だったんだろうか。
いや、俺だってテケテケとか、ナマハゲを実際に見たらビビるか
もしれない。
﹁ヒルダさんはなんと?﹂
﹁早く寝ないとスペルド族がきて食べちゃうって﹂
なるほど、子供を寝かしつけるための迷信として使っているのか。
し○っちゃうオジサンみたいなもんだ。
583
﹁でも、食べられていない。
むしろ、スペルド族と友だちになったら、みんなに自慢できるか
も﹂
﹁お、お祖父様やギレーヌにも自慢できるかしら⋮⋮?﹂
﹁もちろんですとも﹂
チラリとルイジェルドを見ると、驚いた顔をしていた。
よし。
﹁ルイジェルドさんは友達が少ないみたいだから、
エリスが頼めばすぐに仲良くしてくれると思いますけどね﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
ちょっと子供っぽい言い方すぎるか?
と思ったが、エリスは迷っている。
考えてみれば、エリスに友達はいない。
俺は⋮⋮ちょっと違うだろう。
友達という単語に気後れしているのかもしれない。
あとひと押しが必要か。
﹁ほら、ルイジェルドさんも!﹂
促すと、ルイジェルドもなんとなく流れがわかったらしい。
﹁え? あ、ああ。エリス⋮⋮よろしくたのむ﹂
﹁! しょ、しょうがないわね! わ、私が友達になってあげるわ
!﹂
ルイジェルドが頭を下げたのを見て、エリスの中で何かが崩れた
584
らしい。
よかった。
それにしても、エリスは単純だ。
あれこれと考えているのが馬鹿らしくなる。
でも、エリスが単純な分、俺が考えないとな⋮⋮。
﹁ふう、とりあえず今日はもう少し休みます﹂
﹁なによ、もう寝るの?﹂
﹁うん、エリス、僕はつかれたよ。なんだか、とても眠いんだ﹂
﹁そうなの? しょうがないわね。おやすみ﹂
俺が横になると、エリスは自分のそばにあった、マントのような
もの︵おそらくルイジェルドの私物︶を掛けてくれた。
どっと疲れた。
意識が落ちる直前、
﹁お前、もう怖くはないのか?﹂
﹁ルーデウスが一緒だもの、大丈夫よ﹂
という会話が聞こえた。
ああ、エリスだけでも無事に送り届けないとな。
そんなことを思いつつ、俺の意識は落ちた。
585
第二十二話﹁師匠の秘密﹂
夢をみた。
天使が空から降りてくる夢だ。
昨日と違い、いい夢に違いない。
そう思ったが、
局部にモザイクが掛かっていた。
嫌らしい顔をでゅふふと笑っていた。
どうやら悪夢らしい。
そう気づくと、目が覚めた。
﹁夢か⋮⋮﹂
最近、どうにも夢見が悪い。
目の前には岩と土だらけの世界が広がっていた。
魔大陸。
人魔対戦によって引き裂かれた巨大陸の片割れ。
かつて、魔神ラプラスがまとめあげた魔族たちの領域。
面積は中央大陸の半分程度。
だが、植物はほとんど無く、
地面はひび割れ、
巨大な階段のような高低差がいくつもあり、
586
背丈よりも高い岩が行く手を阻む、天然の迷路のような土地。
さらに、魔力濃度が濃く、強い魔物が数多く存在している。
歩いて渡ろうと思えば、中央大陸の3倍は掛かるであろう。
そう言われている。
−−−
長旅になる。
どうやってエリスに説明しようか。
そう考えていたが、彼女は元気なものだった。
魔大陸の大地をキラキラした目で見ていた。
﹁エリス。ここは魔大陸なのですが⋮⋮﹂
﹁魔大陸! 冒険が始まるのね!﹂
喜ばれた。
余裕だな。
今すぐ言って不安を煽ることもないか。
﹁行くぞ、ついてこい﹂
ルイジェルドの号令で、俺たちは移動を開始する。
−−−
587
エリスはルイジェルドと仲良くなっていた。
俺が寝ている間に、会話があったようだ。
喧嘩されるよりはマシだろう。
彼女は家での自分のことを初め、
魔術や剣術の授業のことを嬉しそうに話している。
ルイジェルドは言葉少なだったが、エリスの話にいちいち相槌を
打っていた。
最初のあの怯えようはなんだったのか。
この恐ろしい男に、エリスは物怖じしなくなっていた。
たまにすごく失礼な事を言ったりしてヒヤリとしたが、ルイジェ
ルドは特に怒らなかった。
何を言われても、さらりと受け流している。
誰だよ、キレやすいって噂を流したのは。
もっとも、昔はともかく、今のエリスは多少なら空気も読める。
そのへんについては、エドナと一緒にキッチリ教えたから、いき
なり相手を怒らせるような事は言わないだろう。
そう願いたい。
ただ、知らない相手はどんな言葉が堪忍袋の緒につながっている
のかわからない。
くれぐれも慎重になってほしいと思う。
ついでに言うと、エリスの堪忍袋の緒も非常に切れやすいので、
ルイジェルドにも慎重になってほしいと思う。
588
などと思っていると、早速エリスが声を荒げ始めた。
﹁ルーデウスはお前の兄なのか﹂
﹁違うわよ!﹂
﹁だが、グレイラットというのは家名だろう?﹂
﹁そうだけど、違うのよ!﹂
﹁腹違いか、種違いか?﹂
﹁どっちも違うわよ﹂
﹁人族の事はわからんが、家族は大切にしろ﹂
﹁違うって言ってるじゃない!﹂
﹁いいから、大切にしろ﹂
﹁う⋮⋮﹂
エリスがたじろぐぐらい、強い口調だった。
﹁た、大切にするわよ⋮⋮﹂
ま、本当に兄妹じゃないんだけどね。
エリスのほうが年上だし。
−−−
魔大陸は岩ばかりで、高低差が激しかった。
地面は固く、少しだけ掘ってみるとパラパラとした土になる。
栄養が無いのだ。
砂漠一歩手前、といった感じだ。
こんな土地に閉じ込められれば、魔族だって戦争を起こすだろう。
589
植物はほとんどない。
たまにサボテンのような変な岩がある程度だ。
﹁む。少し待っていろ。絶対に動くな﹂
十数分に一度、
ルイジェルドはそう言って進行方向上に走りだす。
岩山をぴょんぴょんと飛び越えて、あっという間に見えなくなる。
凄まじい身体能力だ。
ギレーヌも凄まじかったが、敏捷性を数値に表せば、ルイジェル
ドが上回るかもしれない。
ルイジェルドは走りだしてから、五分もしないうちに帰ってくる。
﹁待たせたな、いこう﹂
特になにも言わないが、三叉槍の先から、わずかな血臭がする。
恐らく、俺たちの行く手を遮る魔物を倒しているのだ。
確か、あの額の赤い宝石がレーダーのような役割を持っている。
と、ロキシー辞典に書いてあった。
そのお陰で敵を早期発見できて、
魔物が俺たちに気づく前に奇襲して、一瞬で倒すのだ。
﹁ねえ! さっきから何をしてるのよ﹂
エリスが無遠慮に聞く。
﹁先にいる魔物を倒している﹂
590
ルイジェルドは簡潔に答えた。
﹁どうして見えないのにいるってわかるのよ!﹂
﹁俺には見える﹂
ルイジェルドはそう言って、髪をかきあげた。
額が露わになり、赤い宝石が見える。
エリスは一瞬たじろいだが、よく見るとあの宝石も綺麗なものだ。
すぐに興味深そうな顔になった。
﹁便利ね!﹂
﹁便利かもしれんが、こんなものは無いほうがいいと、何度も思っ
たな﹂
﹁じゃあもらってあげてもいいわよ! こう、ほじくりだして!﹂
﹁そうもいかんさ﹂
苦笑するルイジェルド。エリスも冗談をいうようになったか⋮⋮。
冗談だよな?
楽しそうだ。
俺も会話に混ぜてもらおう。
﹁そういえば、魔大陸の魔物は強いと聞いていたんですが﹂
﹁この辺りはそうでもない。
街道から外れているから、数は多いがな﹂
そう、数が多い。
さっきから十数分毎にルイジェルドが動いている。
アスラ王国では、馬車で数時間移動しても一度も魔物になんか遭
591
遇しない。
アスラ王国では騎士団や冒険者が定期的に駆除している。
とはいえ、魔大陸のエンカウント率はひどすぎる。
﹁先ほどから一人で戦ってらっしゃいますけど、大丈夫なんですか
?﹂
﹁問題ない。全て一撃だ﹂
﹁そうですか⋮⋮疲れたらおっしゃって下さい。
僕も援護ぐらいはできますし、治癒魔術も使えますから﹂
﹁子供は余計な気遣いをするな﹂
そう言って、ルイジェルドは俺の頭に手を乗せて、おずおずと撫
でた。
この人あれかな、子供の頭を撫でるのが好きなんかな?
﹁お前は妹の側にいて、守ってやればいい﹂
﹁だから! 誰が妹よ! 私の方がお姉さんなんだからね!﹂
﹁む、そうだったのか、すまん﹂
ルイジェルドはそう言って、むくれるエリスの頭も撫でようとし
て、パシンと手を払われた。
哀れルイジェルド。
−−−
﹁ついたぞ﹂
592
歩いたのは三時間ほどだろうか。
何度も立ち止まっていた上、高低差が激しかった。
さらにぐねぐねと曲がりくねる道を通ったため、結構時間が掛か
ってしまった。
だが、直線距離にして1キロも離れていないだろう。
結構疲れた。
昨日もそうだったが、なんだか身体が重い。
転移の影響だろうか。
それとも、単純に俺の体力が無いだけだろうか。
ギレーヌの指導のもと、体力作りは欠かさずやっていたはずだが。
﹁村ね!﹂
エリスは全然疲れていないようで、興味深そうに集落を見ている。
彼女の体力に嫉妬。
エリスは村と言ったが、集落という感じだった。
十数軒ほどの家の集まりを粗末な柵でぐるっと囲んである。
柵の内側には、小さな畑があった。
畑で何を育てているのかはよくわからないが、豊作という感じは
しない。
こんな川もない場所で作物を育てるのは、無理があるんじゃなか
ろうか。
﹁止まれ!﹂
入り口で止められた。
見ると、中学生ぐらいの少年が一人、門の脇に立っていた。
青い髪だ。ロキシーを思い出す。
593
﹁ルイジェルド、なんだそいつらは!﹂
魔神語である。
どうやら、ヒヤリングは問題ないらしい。
ちゃんと聞き取れている。オッケー。
﹁例の流星だ﹂
﹁怪しいな、そいつらを村に入れることはできん!﹂
﹁なぜだ。どこが怪しい?﹂
ルイジェルドは険しい顔で、門番に詰め寄った。
ものすごい殺気だった。
出会った時にあんな殺気を放たれていたら、
俺は何も考えずに逃げ出していただろう。
﹁ど、どう見ても怪しいだろう!﹂
﹁彼らはアスラで起きた魔力災害に巻き込まれ、転移してしまった
だけだ﹂
﹁し、しかしなぁ﹂
﹁貴様、こんな子供を見捨てるつもりか⋮⋮?﹂
ルイジェルドが拳を握る。
俺は反射的に、その手を掴んだ。
﹁彼もお仕事ですので、抑えて﹂
﹁なに⋮⋮?﹂
﹁ていうか、彼のような下っ端では埒が明きません、
もっと偉い方を呼んできてもらったほうがいいのでは?﹂
594
下っ端という言葉に、少年は眉根を寄せた。
﹁そうだな。ロイン。長を呼んでくれ﹂
コレ以上ぐだぐだぬかすな、と凄まじい眼光で睨みながら、ルイ
ジェルドがそう言った。
﹁ああ、俺もそうしようと思っていたところさ﹂
ロイン、と呼ばれた少年は、そう言って目をつぶった。
そのまま、十秒ほど時間が流れる⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なにしてんだ、早く行けよ。
目なんてつぶりやがって、寝てるんじゃねえだろな。
それともキスでも待ってるのか?
﹁ルイジェルドさん、あれは⋮⋮?﹂
﹁ミグルド族は同じ種族同士なら、離れていても会話が出来る﹂
﹁あ、そういえば、師匠にそんな事を教えてもらった気がします﹂
正確には、ロキシーにもらった本の中に書いてあったのだ。
ミグルド族は近しい者同士で交信ができる、と。
ついでに、わたしはそれが出来ないので村を出た、とも書いてあ
った。
不憫なロキシー⋮⋮。
てか、ここミグルド族の集落かよ。
595
ロキシーの名前とか出したほうがいいんだろうか。
いや、ロキシーとこの村の関係がわからない以上、
やぶ蛇になる可能性もあるしな。
﹁長が来るそうです﹂
﹁こちらから出向いてもよかったが?﹂
﹁里に入れられるか!﹂
﹁そうか﹂
しばらく、居心地の悪い空気が流れた。
エリスがくいくいと俺の袖を引っ張った。
﹁ねえ、どうなってるの?﹂
エリスは魔神語がわからない。
﹁僕らが怪しいから、村長さんが直々に確かめるんだってさ﹂
﹁なによそれ、どこが怪しいのよ⋮⋮﹂
エリスは眉を潜めながら、自分の服装を見下ろしている。
町の外に出るからと、剣術の時の訓練着姿だ。
ちょっと軽装すぎるが、おかしくはない。
少なくとも、俺の目にはルイジェルドと大差無い。
ドレスとかだったら、ムチャクチャ怪しかっただろうが。
﹁大丈夫なんでしょうね?﹂
﹁なにが?﹂
﹁何がって言われても困るけど、なんかこう、そういうのよ⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ﹂
596
﹁そーぉ⋮⋮?﹂
さすがのエリスも、入り口でもめているとなると、
少々の不安があるらしい。
けど、俺に大丈夫と言われて、すぐに大人しくなった。
﹁長がきたようだ﹂
村の奥から杖をついたとっつぁん坊やみたいなのが歩いてきた。
脇に、二人の女子中学生⋮⋮ぐらいの歳の少女を連れている。
皆、小さい。
もしかして、ミグルド族って、成人しても中学生ぐらいにしかな
らんのか?
そんなことはロキシー辞典には書いていなかったが⋮⋮。
いや、挿絵に描いてあったのは中学生ぐらいの絵だった。
ロキシーの自画像だと思ってほっこりしていたのだが、
もしかすると、あれは成人したミグルド族の姿なのか。
なんて考えていると、長とロインが話し始めた。
﹁そちらの子たちかね⋮⋮?﹂
﹁はい、片方は魔神語を話せるようです。なんとも怪しい﹂
﹁言葉ぐらい、勉強すれば誰だって話せるじゃろう?﹂
﹁あの歳の人族が、どうして魔神語なんて勉強するんですか!﹂
まったくだ。
思わず納得しそうになる言葉だったが、
長はぽんぽんとロインの肩を叩く。
597
﹁まあまあ。君はもう少し落ち着いて待っていなさい﹂
長はゆっくりとこちらに歩いてくる。
とりあえず、俺は頭を下げた。
貴族用のやつではなく、日本式のOJIGIだ。
﹁初めまして、ルーデウス・グレイラットです﹂
﹁おや、これは礼儀ただしい。この集落の長のロックスです﹂
俺はエリスにも目配せする。
彼女は自分と同い年ぐらいの見た目の、
でもちょっと雰囲気の違う人にどうしていいのかわからず、
腕を組んだり戻したりと、落ち着かなげにしていた。
腕を組んでの仁王立ちをするか迷っているのか。
﹁エリス。挨拶して﹂
﹁で、でも、言葉わからないわよ?﹂
﹁授業で習ったどおりでいいから。僕が伝えます﹂
﹁うー⋮⋮。
お、お初にお目にかかります。エリス・ボレアス・グレイラット
です﹂
エリスは、礼儀作法の授業で習った通りに挨拶をした。
ロックスはそれを見て、相好を崩した。
﹁こちらのお嬢さんは、もしや挨拶をしてくださったのかな?﹂
﹁そうです。僕らの故郷での挨拶となります﹂
﹁ほう、君のとは違うようだが?﹂
﹁男と女で違うんですよ﹂
598
ロックスはそうかそうかと頷くと、俺の真似をしてエリスに頭を
下げた。
﹁この集落の長のロックスです﹂
エリスは突然頭を下げられておろおろと俺を見た。
﹁ルーデウス、なんて言ったの?﹂
﹁この集落の長のロックスです、って﹂
﹁そ、そうなの、ふ、ふーん、ルーデウスの言うとおり、ちゃんと
通じたのね﹂
エリスは口の端を持ち上げて、にまにまと笑った。
よし、こっちはこれでいいだろう。
﹁それで、集落には入れて頂けるのでしょうか?﹂
﹁ふむ﹂
ロックスは俺の身体を無遠慮に、舐め回すように見てきた。
やめろよな。
そんな熱い視線を受けたら脱ぎたくなっちまうじゃねえか⋮⋮。
ロックスの視点が俺の胸元で止まった。
﹁そのペンダントはどこで手にいれなさった?﹂
﹁師匠にもらいました﹂
﹁師匠はどこの誰かね?﹂
﹁名前はロキシー﹂
599
俺は素直にロキシーの名前を出した。
よく考えてみれば、尊敬する師匠の名前だ。
どうして隠す必要があるのか。
﹁なんだって!﹂
と、声を上げたのはロインだ。
彼は凄い勢いで歩いてきて、俺の肩を掴んだ。
もしかすると、やぶ蛇だったか。
﹁お、お前、い、今ロキシーといったか!﹂
﹁はい、師匠です⋮⋮⋮﹂
答えると同時に、視界の端で拳を握りしめたルイジェルドに制止
を掛ける。
ロインの顔に怒りの色は無かった。
ただ焦燥があった。
﹁ロ、ロキシーは、今どこにいるんだ!﹂
﹁さて、僕は結構会ってないので⋮⋮﹂
﹁教えてくれ! ロキシーは、ロキシーは、俺の娘なんだよ!﹂
ごめん、なんだって?
﹁すいません、ちょっとよく聞こえませんでした﹂
﹁ロキシーは俺の娘なんだ! あいつはまだ生きているのか?﹂
ぱーどぅん?
いや、聞こえましたよ。
ちょっと、この中学生ぐらいの男の年齢が気になっただけさ。
600
見た目、むしろロキシーの弟に見えるからな。
でも、そうか。
へー。
﹁教えてくれ、20年以上前に村を出ていったきり、音沙汰がない
んだ!﹂
どうやら、ロキシーは親に黙って家出していたらしい。
そういう話は聞いていないのだが、
まったく、うちの師匠は説明が足りない。
てか、20年って。
あれ?
じゃあロキシーって、今何歳なんだ?
﹁頼む、黙ってないでなんとか言ってくれよ﹂
おっと失礼。
﹁ロキシーの今の居場所は⋮⋮﹂
と、そこで俺は肩を掴まれっぱなしという事に気づいた。
まるで脅されているみたいだ。
脅されて喋るってのは、なんか違うよな。
まるで俺が暴力に屈したみたいじゃないか。
暴力で俺を屈させたければ、せめてバットでパソコンを破壊して
空手でボコボコにしたあと、聞くに堪えない罵詈雑言で心を折って
くれないと。
601
ここは毅然とした態度を取らないとな。
エリスが不安に思うかもしれないし。
﹁その前に、僕の質問に答えてください。
ロキシーは今、何歳なんですか?﹂
﹁年齢? いや、そんな事より⋮⋮﹂
﹁大事な事なんです!
それとミグルド族の寿命も教えてください!﹂
ここは聞いておかなければいけない事だった。 ﹁あ、ああ⋮⋮。
ロキシーは確か⋮⋮今年で44歳だったはずだ。
ミグルド族の寿命は200歳ぐらいだな。
病気で死ぬ者も少なくないが、老衰となると、それぐらいだ﹂
同い年だった。
ちょっと嬉しい。
﹁そうですか⋮⋮。
あ、ついでに手を離してください﹂
ロインはようやく手を離した。
よしよし、これで話が出来るな。
﹁ロキシーは、半年前まではシーローンにいたはずですよ。
直接会ったわけじゃないけど、手紙のやり取りはしてましたから﹂
﹁手紙⋮⋮? あいつ、人間語の文字なんて書けたのか?﹂
﹁少なくとも、七年前にはもう完璧でしたよ﹂
﹁そ、そうか⋮⋮じゃあ、無事なんだな?﹂
602
﹁急病や事故に遭ったりとかしていなければ、元気でしょうね﹂
そう言うと、ロインはよろよろと膝をついた。
ほっとした表情で、目元には涙が浮いている。
﹁そうか⋮⋮無事か⋮⋮無事なのか⋮⋮はは⋮⋮よかったぁ﹂
良かったね、お義父さん。
しかし、この姿を見ていると、パウロを思い出すな。
パウロも俺が無事と知ったら、泣いてくれるだろうか。
ブエナ村への手紙。
早く送りたいものだ。
﹁それで、集落には入れてくれるんでしょうか?﹂
泣き崩れるロインを尻目に、長ロックスへと話を振る。
﹁無論だ。ロキシーの無事を知らせてくれた者を、なぜ無下にでき
ようか﹂
ロキシーからもらったペンダントは抜群の効果を発揮した。
最初から見せてればよかったよ。
いや、でも会話の流れによっては俺がロキシーを殺して奪った、
とか考えられたりしたかもしれない。
魔族は長生きなようだしな。見た目と年齢が違うことも多々ある
のだろう。
いくら俺が十歳児の見た目をしているとしても、中身が40歳超
603
えてるとバレれば、変な疑いを掛けられることもある。
気をつけないとな。
せいぜい子供っぽく振る舞うとしよう。
こうして、俺たちは﹃ミグルド族の里﹄へと入った。
604
第二十三話﹁信用の理由﹂
ミグルド族の村を一言で表すなら﹃極貧﹄だった。
十数軒の家。
家の形は説明しにくい。
地面を掘って、亀の甲羅でも被せれば、こんな感じになるんじゃ
なかろうか。
アスラ王国の建築技術が高いのがよくわかる。
もっとも、アスラ王国の建築技師が木材の取れないこの土地に来
ても、
材料がなくてお手上げ状態だろう。
外からも見えたが、畑にはしなびた葉っぱをもつ植物が均等に並
んでいる。
枯れかけに見えるが、大丈夫なのだろうか。
ロキシー辞典には農業の事はあまり詳しく書いていなかった。
野菜は苦くて美味しくない、とかその程度だ。
ちなみに、畑の端には、パッ○ンフラワーみたいな牙の生えた禍
々しい花が咲いていた。
植物なのか動物なのか、乱ぐい歯をギリギリと鳴らしている。
あれは確か、畑に侵入する害獣対策だ。
村の端の方では、中学生ぐらいの娘たちが火を囲んで何かをやっ
ている。
林間学校か何かのようにも見えるが、彼女らがしているのは食事
605
の準備だ。
一箇所で作って、みんなで分けるのだ。
男はほとんどいない。
幼い子供が遊んでいるだけだ。
それ以外では、先ほど門番をしていたロインと、長ぐらいか。
確か男は狩りに出て、女は家を守る。
そういう集落だ。
なので、男は狩りに出ているのだろう。
﹁このへんで狩れる獲物ってなんです?﹂
﹁魔物だ﹂
恐らくこの答えは、正鵠を得ているのだろうが、ちょっと説明不
足だ。
漁師に向かって何が取れるのか聞いて、魚介類と答えられたよう
なもんだ。
ま、突っ込んで聞いていけばいいか。
グレートトータス
﹁えっと。あの家の上に乗っかってるのも、魔物なんですか?﹂
﹁大王陸亀だ。甲羅は硬く、肉はうまい。筋は弓の弦になる﹂
﹁それを主に狩ってるんですか?﹂
﹁ああ﹂
肉はうまいのか。
しかし、あのサイズのカメとか想像がつかないな。
一番大きい家の甲羅とか、20メートルぐらいありそうだし。
などと考えていると、ルイジェルドとロックスはその家の中へと
606
入っていく。
一番大きい所=長の家、ってのはどこの世界でも一緒らしい。
﹁お邪魔します﹂
﹁お、お招き頂き、ありがとう御座いますわ⋮⋮﹂
俺とエリスも、一応の挨拶をしつつ、中へと入る。
外から見るより、中は広かった。
床には毛皮が敷き詰められ、壁には色彩豊かな壁掛けが掛けられ
ている。
部屋の中央には囲炉裏のようなものがあり、火が細々と燃え、部
屋の中を明るく照らしていた。
家の中に区切りは無い。夜になれば、そこらの毛皮にくるまって
眠るのだろう。
端の方に剣や弓も置いてあり、狩猟民族であることがよくわかる。
村長についてきた二人の女性は家の中まではついて来なかった。
村の入り口までは何で付いてきたのだろうか。
まあいい。
﹁さて、では話を聞くとしましょう﹂
ロックスは囲炉裏の近くにどっかりと座り、そう言った。
ルイジェルドがその正面につく。
俺はルイジェルドの隣にあぐらをかいて座った。
エリスはとみると、所在なげに立っていた。
607
﹁家の中でも床に座るの?﹂
﹁剣術の授業では、よく床に座ってただろ?﹂
﹁そ、それもそうね﹂
エリスは地べたに座ることを躊躇するタイプではない。
だが、礼儀作法で習ったこととのギャップに戸惑っているのだろ
う。
人前だから礼儀正しくしなければいけない。
けれども習った事と違っていて戸惑う。
帰った時に礼儀作法に悪影響がでなければいいが⋮⋮。
−−−
今後について話す前に、
俺は自分の名前・歳・職業・住所。
エリスとの関係・エリスの身分といった個人情報。
ワケのわからないうちに魔大陸にきてしまったので帰りたい、と
いう旨を伝えた。
人神のことは黙っていた。
あの神が魔族の間でどういう立ち位置かわからない。
邪神扱いされていたら、変な疑いを持たれるかもしれないからだ。
﹁⋮⋮と、いうわけです﹂
﹁ふむ﹂
ロックスはそれを聞いて、顎に手を当てて考えだす。
608
中学生が難問を前に悩んでいるような顔だ。
﹁⋮⋮そうさのう﹂
結論を待っていると、エリスが隣で船を漕ぎ始めた。
傍目から見るとまだまだ元気がありそうだったのだが、
やはりなれない旅で体力を消耗していたのかもしれない。
昨晩も、あれからずっと起きていたようだし。
さすがに限界か。
﹁話は僕が聞いておくから、寝ててもいいよ﹂
﹁⋮⋮⋮寝るって、どうやってよ﹂
﹁多分そのへんの毛皮にくるまって﹂
﹁枕がないわ﹂
﹁僕の膝を使いなよ﹂
アン○ンマン風に言って、太ももをぽんぽんと叩いた。
﹁ひ、膝ってなによ⋮⋮﹂
﹁膝を枕にしていいってこと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮そう? あ、ありがと﹂
いつものエリスなら、なんやかんや言ったかもしれない。
だが、眠気がマックスだったのか、遠慮する素振りもなく、俺の
膝に頭を載せた。
緊張した面持ちで手なんかギュっと握りしめていたが、
目を閉じて、数秒もしないうちに、ストンと眠りに落ちてしまっ
た。
やっぱり疲れていたか。
609
エリスの赤毛をさらりと撫でる。
彼女はむず痒そうに身を捩った。
むふふ。
ふと、視線を感じた。
﹁⋮⋮⋮なんです?﹂
ロックスになんとも微笑ましいものを見る目で見られていた。
ちょっと恥ずかしい。
﹁仲がよろしいのですな﹂
﹁それはもう﹂
けど、まだお触りは厳禁な仲だ。
うちのお嬢様は貞操観念をしっかりと持っているのだ。
そして、俺はそれを尊重するのだ。
﹁それで、どうやって帰るつもりかね?﹂
ロックスの質問は、ルイジェルドにされたものと同じであった。
﹁お金を稼ぎながら、徒歩で﹂
﹁子供二人でかね?﹂
﹁いいえ、金は僕が一人で稼ぎます﹂
世間知らずのエリスに任せるわけにもいかないだろう。
まぁ、世間知らずという点では俺も大概だが。
﹁二人ではない。俺が付いて行く﹂
610
と、ルイジェルドが口を挟んだ。
心強い味方だ。
だが、人神の件もある。
信用したいのは山々だが、ここで別れたほうがいいだろう。
後顧の憂いは断っておくのだ。
しかし、さて、どうやって断るべきか。
﹁ルイジェルド、おぬし、付いて行ってどうするつもりかね?﹂
悩んでいると、ロックスが難色を示した。
むっとするルイジェルド。
﹁どうもこうもない。
俺が二人を守り、無事に故郷に送り届けるのだ﹂
微妙に噛み合っていない会話。
ロックスはため息をついた。
﹁お主、町に入れんじゃろう?﹂
﹁む⋮⋮﹂
む?
町に入れない?
﹁子供を連れて町に近づいたら、どうなる?
衛兵に追い回され、討伐隊を組まれたのは、百年前じゃったか?﹂
百年?
611
﹁それは、だが⋮⋮俺ひとりで町の外で待てば﹂
﹁町の中の出来事は知らんか、無責任じゃのう﹂
呆れ顔になるロックス。
ルイジェルドはぐっと歯噛みした。
スペルド族は嫌われている。
それは魔大陸でも変わらない。
しかし、討伐隊はやり過ぎではなかろうか。
魔物扱いなのだろうか。
﹁町中で何かあれば⋮⋮﹂
﹁あれば、どうするんじゃ?﹂
﹁町の人間を皆殺しにしてでも二人を救い出す﹂
目が本気だった。
怖い。
怖すぎる。
この男は本当にやる、そんな覚悟が伺えた。
﹁子供のこととなると見境がないのぉ。
⋮⋮思えば、この里で認められたのも、魔物に襲われていた子を
助けてくれた事じゃったか﹂
﹁そうだな﹂
﹁あれが五年前か、時が経つのは早いもんじゃな⋮⋮﹂
長がやれやれとため息を吐いた。
味方をしてもらっているのに大変申し訳ないのだが、かなりむか
つく動作だ。
612
調子こいた中学生が大人の馬鹿さ加減を嘲笑っているようにしか
見えない。
﹁しかしルイジェルドよ。
そんな強引さで、お主の目的は達成できるのかな?﹂
﹁む⋮⋮⋮﹂
うら
ルイジェルドは眉をひそめた。
目的。
この男は何か目的があるらしい。
﹁その目的というのは?﹂
と、口を挟んで聞いてみる。
﹁単純なことじゃ。スペルドの悪評を取り除きたい、というな﹂
それは無理だと言いそうになった。
差別問題というのは、一人が頑張ったところでどうにかなるもの
ではない。
クラス単位のイジメですら、一人では解決できないのだ。
まして、スペルド族の迫害は全世界に根付いている。
あのエリスがブ○リーを前にしたベ○ータみたいになるぐらいだ。
子供の頃から悪と断じられてきた存在を、どうやって善に変える
のだ。
﹁でも、戦争で敵味方区別なく襲ったというのは本当の事なんでし
ょう?﹂
613
﹁それは!﹂
﹁いくら悪評とは言っても、スペルド族が怖い種族だって事実は⋮
⋮﹂
﹁違う! 事実ではない!﹂
ルイジェルドに胸ぐらを掴まれた。
すんげー怖い目で見てくる。
やばい、震えてきた。
あわわ⋮⋮。
﹁あれはラプラスの陰謀だ!
スペルドは恐ろしい種族ではない!﹂
なん、なん、なんなの?
やめてちょっとこわい。
身体の震えが止まらない。
ていうか、陰謀?
陰謀論なの?
ラプラスって400年前の人物だよね?
﹁ラ、ラプラスがどうしたって言うんですか?﹂
﹁奴は俺たちの忠誠を裏切った!﹂
力が弱まった。
ルイジェルドの腕をぽんぽんと叩く。
彼は俺の胸ぐらから手を離した。
しかし、その手はわなわなと震えている。
﹁奴は⋮⋮奴はな⋮⋮⋮!﹂
614
ギリギリと歯ぎしりをしながら、
﹁その話、詳しく聞いても?﹂
﹁長いぞ﹂
﹁構いません﹂
そこからルイジェルドが話したのは、
歴史の裏とも言える話だった。
−−−
ラプラス。
彼は魔族を統一し、人族から魔族の権利を勝ち取った英雄だ。
スペルド族は極めて早い段階からラプラスの配下となっていた。
スペルド族の戦士団。
高い敏捷性と、凶悪な索敵能力。
極めて高い戦闘能力を持つ彼らは、ラプラスの親衛隊だった。
その専門は奇襲と夜襲。
額の眼はレーダーのように周囲を見ることが出来る。
彼らは決して奇襲を受けず、必ず奇襲・夜襲を成功させる。
精鋭だった。
当時の魔大陸において、
スペルド族という名前は、畏怖と尊敬を持って呼ばれていた。
615
ラプラス戦役の中期。
ちょうど中央大陸の侵攻が始まった頃、
ラプラスがある槍を持って戦士団を訪問した。
悪魔の槍。
ルイジェルドは槍の正式名称を語らなかった。
ただ、悪魔の槍と呼んだ。
ラプラスはそれを戦士団に下賜した。
見た目はスペルド族の持つ三叉槍と一緒だが、
黒く禍々しく、魔槍と一目で分かったという。
もちろん、戦士団の中には反対する者もいた。
槍はスペルド族の魂。
それを捨ててこんなものを使う事など出来ない。
しかし、主君たるラプラスの用意した物だ。
最終的に、リーダーであったルイジェルドは、
全員にその槍を使うことを強要する形となった。
それがラプラスへの忠誠を示すものだと信じて。
﹁ん? リーダー?﹂
﹁ああ、俺はスペルド族の戦士団のリーダーだった﹂
﹁⋮⋮⋮今、何歳なんですか?﹂
﹁500から先は数えていない﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
ロキシー辞典には、スペルド族が長寿だって書いてあったっけか。
まあいい。
616
スペルド族の戦士団は、自前の槍をある場所に突き立て、
悪魔の槍で戦い続けた。
悪魔の槍は強力な力を持っていた。
身体能力を数倍に引き上げ、
人族の使う魔術を無効化し、
感覚はさらに鋭敏になり、
圧倒的な全能感をもたらした。
そして、次第に悪魔と呼ばれる存在へと変貌していった。
悪魔の槍は血を吸えば吸うほど、使用者の魂を黒く染め上げた。
誰も疑問に思わなかった。
全員が同じぐらいの頻度で精神を蝕まれたのだ。
そして、悲劇が起こり始める。
戦士団は敵味方の区別がつかなくなり、
周囲にいる者たちを無差別に襲いだすようになる。
老若男女関係なく、子供であろうと容赦なく。
別け隔てなく、あらゆる者に襲いかかった。
ルイジェルドはその時の記憶を鮮明に覚えているという。
いつしか魔族からは﹁スペルド族は裏切った﹂と言われ、
617
人族からは﹁スペルド族は血も涙もない悪魔だ﹂と言われるよう
になる。
当時のルイジェルドたちは、その噂を愉悦の表情で聞いたらしい。
それこそが誉れだと。
敵だらけの中で、しかし悪魔の槍を持ったスペルド族は強かった。
一騎当千の者たちを殲滅出来る者はおらず、
戦士団は世界で最も恐れられる集団となっていた。
しかし、消耗が無いわけではない。
人族、魔族、双方から敵対され、日夜を問わず戦いを続け、
スペルド族の戦士団は一人、また一人と数を減らした。
誰もそれを疑問には思わなかった。
戦いの中で死ぬこと、それこそがまさに至高だと酔っていた。
そんな中、風の噂で、スペルド族の集落が襲われているという話
を聞く。
場所はルイジェルドの出身地。
スペルド族をおびき出す罠なのだが、正常な判断を下せる者は残
っていなかった。
スペルド族の戦士団は、
久しぶりに帰ってきた集落を⋮⋮襲った。
そこに人がいるのだから殺さなくては、と思ったのだ。
ルイジェルドは親を殺し、妻を殺し、姉妹を殺し。
最後に残った己の子供を刺し殺した。
618
子供とはいえ、彼はスペルド族の戦士になるべく鍛えていた。
死闘というほどの戦いではなかったが、
戦いの最後に、子供は悪魔の槍を折った。
その瞬間、
気持ちのいい夢は終わった。
同時に、悪夢が始まった。
口の中にコリコリとした何かがあった。
それが息子の指だと気付いて、ルイジェルドは吐いた。
まず自殺を考え、すぐにその考えを打ち消した。
死ぬよりまず、やることがあった。
例え死んでも噛みちぎるべき敵の存在がいる。
そのとき、スペルド族の集落を魔族の討伐軍が包囲していた。
仲間は10人しかいなかった。
悪魔の槍を持った時には200人近くいた戦士団が。
あの勇猛果敢な戦士たちが。
すでに10人しかいなかったのだ。
片腕を失った者や、片目や、額の宝石を砕かれた者もいた。
こんなボロボロになるまで戦わされたのだ、スペルドの戦士団は。
彼らは満身創痍でなお、
好戦的な表情で千近い討伐軍を睨みつけていた。
犬死になる、とルイジェルドは悟った。
619
ルイジェルドはまず、
仲間たちの持っていた悪魔の槍を、全て叩き折った。
次々と我に返り、呆然とする仲間たち。
家族を手に掛けた事を嘆く者、滂沱の涙を流す者。
しかし、あのまま夢を見させてくれと言う者はいなかった。
そんな軟弱者は一人もいなかった。
誰もがラプラスに復讐を誓った。
誰一人として、ルイジェルドを責める者はいなかった。
彼らはもはや、悪魔ではなかった。
戦士などという誇り高い者でもなかった。
ただの薄汚い復讐鬼であった。
10人がどうなったのか、ルイジェルドは知らない。
恐らく、生きてはいないとルイジェルドは言う。
悪魔の槍を手放せば、スペルド族はちょっと強いだけの戦士でし
かない。
まして手に馴染んだ己の槍もなく、他人の槍で戦って、生き残れ
るはずもない。
だが、ルイジェルドは包囲を突破した。
半死半生で逃げ切った。
そして、三日三晩、生死の境を彷徨った。
やり
ルイジェルドが持っていたのは、息子の槍だった。
息子は悪魔の槍を折り、己の魂でルイジェルドを守ったのだ。
620
それから。
数年間の潜伏生活の末、復讐に成功した。
魔神殺しの三英雄とラプラスとの戦いに横槍を入れ、
一矢報いることに成功したのだという。
だが、ラプラスを倒しても、全てがリセットされるわけではない。
スペルド族は迫害され、
ルイジェルド達の手で滅ぼされた集落以外のいくつかの集落もま
た、迫害を受けて散り散りとなった。
彼らを逃がすため、ルイジェルドはまた魔族を殺した。
今、他のスペルド族が全滅したのか、
それとも、生き延びてどこかに村を作ったのか、
ルイジェルドにもわからないらしい。
もう300年近く、魔大陸で他のスペルド族には会っていないと
いう。
戦後のスペルド族の迫害は、それほど苛烈を極め、
ルイジェルドの反撃もまた、烈火のようであった。
こんな事になったのは、全てラプラスのせいだ。
﹁だが、スペルド族の悪評は、俺の責任でもある。
例え俺が最後の一人でも、この悪評だけは無くしたい﹂
そう、ルイジェルドは締めくくった。
621
−−−
言葉は拙く、
決して情に訴えかけるようなものでは無かった。
だが、ルイジェルドの無念、怒り、やるせなさ。
あらゆる感情が伝わってきた。
もしこれが作り話であるなら、
あるいは話し方や声音が演技であるなら、
俺は別の意味でルイジェルドを尊敬するだろう。
﹁酷い話ですね⋮⋮﹂
話を鵜呑みにするなら、スペルド族が恐ろしい種族というのは誤
りだ。
ラプラスが何のために悪魔の槍を渡したのかはわからない。
戦後の後始末を考え、スペルド族をスケープゴートに仕立てあげ
ようとしたのかもしれない。
だとしたら、ラプラスは最低のド畜生だ。
忠義の厚いスペルド族に、せめて一言言ってやればよかったのだ。
スケープゴートにするにしても、騙し討ちのようなやり方で切り
捨てる必要なんてなかったはずなのだ。
﹁わかりました。
僕もできる限りのお手伝いをしましょう﹂
622
心のどこかで、別の俺が言った。
そんな余裕はあるのか、と。
他人の事を考えている余裕はあるのか、と。
自分のことで精一杯じゃないのか、と。
旅はお前が思っているより大変だぞ、と。
しかし、口の方は止まらなかった。
﹁アイデアがあるわけではありませんが、
人族の子供である僕が手伝えば、
何かしらの変化があるかもしれません﹂
もちろん、哀れみや善意だけじゃない。
打算的な気持ちもある。
話が本当であれば、ルイジェルドは強い。
英雄と同クラスの力を持っている。
そんな力で俺たちを守ってくれるというのだ。
少なくとも、道中で魔物に襲われて死ぬことは無いだろう。
ルイジェルドを連れて歩くということは、
町の外では安心を、
町の中では不安を、
それぞれ持つことになる。
しかし、町中での不安が解消できるなら、
この上ない戦力となる。
なにせ、奇襲も夜襲もくらわないと豪語する猛者である。
町中でスリや盗賊なんかに狙われる可能性もぐっと低くなるはず
623
だ。
それに。
なんとなくだが。
何の根拠もない話だが。
ルイジェルドという男は、嘘をつけない不器用な男だ。
信じられる人物だ。
﹁できる限りの事をすると、約束しましょう﹂
﹁あ、ああ﹂
ルイジェルドは驚いた顔をしていた。
俺の目から、猜疑的な色が消えたからだろうか。
なんでもいいさ。
俺は信じることを決めた。
あんな話一つで、コロっと騙されたのだ。
生前は、お涙頂戴のストーリーを聞いても、鼻で笑っていたのに。
こんなにあっさりと。
それだけ心に響いたのだ。
だからいいじゃないか。
騙されたって。
﹁しかし、本当にスペルド族は⋮⋮﹂
﹁いいんです、ロックスさん。なんとかしますから﹂
町の外では守ってもらい、町の中では守ってやる。
ギブアンドテイクだ。
624
﹁ルイジェルドさん。明日から、よろしくお願いします﹂
−−− 一つ不安があるとすれば、
恐らくこの流れが、人神の思惑通りということだ。
625
第二十四話﹁最寄りの町まで三日間﹂
翌日。
﹁おはよう﹂
村を出る時に、ロインが話しかけてきた。
彼は今日も門の所に立っていた。
﹁おはようございます、今日も門番ですか?﹂
﹁ああ、狩りの連中が戻るまではね﹂
そういえば、昨日は夜になっても男衆が戻って来なかった。
なので、もしかすると夜通し立っていたのかもしれない。
RPGに出てくる門番を思い出す。
朝も昼も夜も、ずっと立っているだけの簡単なお仕事です。
それにしても、帰ってくるまでずっと一人で門番なのだろうか。
あ、長もいるか。
こういう集落だから、長もきっちり働くだろう。
﹁もう行くのか?﹂
﹁ええ、昨日のうちに話もまとまりましたし﹂
﹁娘の話を聞きたかったんだが⋮⋮﹂
﹁そうしたいのは山々ですが、あまりのんびりもしていられません
ので﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
626
残念そうだ。
俺としても、ロキシーの幼少時代の話とか、もっとよく聞きたか
った。
﹁また、会ったら連絡を取るように伝えておきます﹂
﹁頼む⋮⋮﹂
頭を下げられ、ロキシーに出会った時に忘れずに伝えようと、心
の中にメモっておく。
﹁あ、そうだ、ちょっと待っていてくれ﹂
︵おそらくロキシーの実家︶に入って、数分後。
ロインは、ふと思いついたように言うと、村の中へと駈け出した。
一軒の家
ロキシーによくにた女の子と一緒に戻ってきた。
誰かを呼び出すなら念話を使えばいいのではないか、
と思ったが、何か剣のようなものを持っていた。
くれるのだろうか。
﹁家内だ﹂
﹁ロカリーです﹂
ロキシーのお母さんらしい。
﹁ルーデウス・グレイラットです。お若いですね﹂
この人たちがいなければ、俺は外に出ることが出来なかった。
そう思うと、自然と頭も下がった。
627
﹁そんな若いだなんて⋮⋮今年でもう102歳ですよ﹂
﹁ま、まだまだ十分若いですよ﹂
ちなみに。
ミグルド族は10歳ぐらいで成人と同じぐらいまで成長し、
そこからは150歳ぐらいまで容姿が変わらないらしい。
﹁ロキシー先生には世話になりました﹂
﹁先生⋮⋮あの子が人に教えられるような事なんて、何かあったか
しら⋮⋮﹂
﹁知らない事をたくさん教えてもらいましたよ﹂
笑ってそう言うと、ロカリーは﹁まあ﹂と顔を赤らめた。
何か勘違いしているらしい。
﹁しかし、ちょうど俺が門番をしている時に来てくれてよかったよ﹂
﹁そうですね。本当に、会えてよかった。
ロキシー先生には、本当にお世話になりましたから。
なんだったら、お義父さんと呼ばせてもらってもいいですか?﹂
﹁はっはは⋮⋮やめてくれ﹂
真顔で拒否された。
ちょっとショック。
でも、この真顔もロキシーぽくて、なんだか懐かしい。
﹁冗談はさておき、これを受け取ってくれ﹂
ロインはそう言って、一振りの剣を差し出した。
628
﹁いくらルイジェルドがいるとはいえ、丸腰じゃ心もとないだろう﹂
﹁僕は丸腰じゃないんですがね⋮⋮﹂
と、言いつつも受け取り、鞘から抜いてみる。
片刃で幅広。
刃は60cmぐらいで小ぶり。
若干湾曲している。
マチェット⋮⋮いや、カトラスに近いか。
年季を感じる傷が各所についているが、
刃こぼれは一切ない。
よく手入れされているのか刀身は綺麗だが、
ギラついた殺意のようなものがにじみ出ているように感じる。
全体的に鈍色だが、光の反射で若干緑色に光っているせいか。
﹁昔、フラっと集落に寄った鍛冶師にもらった物だ。
長年使っていても刃こぼれ一つないほど頑丈だ。
よかったら使ってくれ﹂
﹁ありがたく頂戴します﹂
遠慮はすまい。
遠慮できるような状況でもない。
もらえるものはもらっておくべきだ。
俺はともかく、エリスが丸腰なのは可哀想だからな。
彼女だって、剣神流を扱える。
剣の一つも持っていたほうが安心できるだろう。
﹁それから、こっちは金だ。
大して入ってはいないが、宿に2、3日泊まれる程度にはあるは
629
ずだ﹂
わーい、お小遣いだ。
袋を開けてみると、石で出来た粗末な硬貨と、鈍色の金属で出来
た硬貨が入っていた。
確か、魔大陸の貨幣は緑鉱銭・鉄銭・屑鉄銭・石銭の四つだった
な。
価値としては世界最低で、一番高い緑鉱銭でも、アスラ大銅貨1
枚と同等か、やや及ばないぐらいだ。
鉄銭が銅貨と同じ程度か。
ちなみに、アスラ王国と魔大陸の貨幣を日本円に換算してみると、
以下の感じだ。
一番安い石銭を1円としている。
10万円
==============================
アスラ金貨
1万円
1000円
アスラ銀貨
アスラ大銅貨
鉄銭
緑鉱銭
10円
100円
1000円
100円
屑鉄銭
1円
アスラ銅貨
石銭
==============================
アスラがどれだけ大国なのか、
魔大陸がどれだけ過酷なのか、
630
一目でわかる数値だ。
もっとも、魔大陸には魔大陸の相場がある。
だから魔族がことさら貧乏というわけでもない。
﹁⋮⋮ありがとう御座います﹂
﹁本当は、もっとゆっくりロキシーの話をしたかったのだけれど﹂
ロカリーもロインと同じようなことを言った。
やはり、娘の事が心配なのか。
44歳という話だが、人族に換算すると⋮⋮20歳ぐらいだもん
な。
心配といえば、心配か。
﹁なんなら、あと一日ぐらい滞在しましょうか?﹂
そう提案してみたが、ロインは首を振った。
﹁いいんだ。無事だとわかればね。なあ?﹂
﹁ええ。あの子は、この里ではあまりうまくやっていけない子です
から﹂
うまくいきていけない。
というのは、きっと、あの念話の力の問題なのだろう。
村からは基本的に会話が聞こえない。
皆無言なのだ。
念話で話しているのだろう。
ロキシーはこの念話が出来ないと言った。
会話に混ざれない、他人の会話が聞こえないとなると、
631
確かに家出もしたくなる。
﹁わかりました。それでは、また会いましょう﹂
﹁ああ、けど、お義父さんはごめんだぞ?﹂
﹁あはは、も、もちろんですよ﹂
きっちり釘を刺された。
ロキシーと会えるかどうかはわからないが、
いずれ、金だけでも返しにまた来よう。
−−−
最寄りの街までは、徒歩で三日掛かるらしい。
初日で早速、ルイジェルドの重要性を痛感した。
仲間にしておいてよかった。
長年一人で旅をし続けてきたルイジェルドは、
道を知っており、野宿の仕度も完璧にこなした。
もちろん、生体レーダーも持っているので、索敵もお手の物。
この人、便利すぎる。
﹁出来れば、色々と教えていただけませんか?﹂
﹁覚えてどうするんだ?﹂
﹁役立てます﹂
というわけで、俺とエリスはこの三日間で野宿をマスターすべく、
632
ルイジェルドに教えを請うこととなった。
﹁まず、焚き火だ。
だが、魔大陸では薪となる木は無い﹂
ふむ。
そういえば、ルイジェルドと出会った時も、最初は焚き火だった。
﹁どうするんですか?﹂
﹁魔物を狩る﹂
魔大陸では、とにかく魔物を狩らなければ生計が立てられないら
しい。
﹁丁度いいところにいるな。ちょっと待っていろ﹂
﹁おっと、待ってください﹂
と、駆け出そうとするルイジェルドを、俺は肩を掴んで止めた。
﹁なんだ?﹂
﹁一人で戦うつもりですか?﹂
﹁ああ。狩りは戦士の務めだ。子供は待っていろ﹂
なるほど。
ルイジェルドは、この先もずっとこの調子で行くつもりだったら
しい。
まあ、500年以上生きているルイジェルドから見れば、俺たち
なんて子供どころか孫にすら遠くおよばないのだろう。
しかも、ルイジェルドはむちゃくちゃ強い。
任せっきりでも大丈夫だろう。
633
しかし、万が一もありうる。
何らかの理由でルイジェルドが動けなくなった場合。
あるいは彼が死んでしまった場合。
実戦経験がほぼ皆無な俺とエリスが残ってしまう。
それは、深い森の中かもしれない。
凶悪な魔物の前かもしれない。
そのときに生き残るためにも、
実戦経験は今のうちから積んでおきたい。
だから、どうにかして、戦い方を教えてもらわないと⋮⋮。
いや、その考え方はよくないな。
俺と彼との関係はギブアンドテイク。
対等だ。
教えてもらうのではなく、戦いの連携を二人で構築していくのだ。
﹁僕らは子供じゃありませんよ﹂
﹁いいや、子供だ﹂
﹁あのなぁ⋮⋮ルイジェルド﹂
強い口調で呼び捨てにする。
彼はちょっと勘違いしている。
立場はハッキリさせないといけない。
俺たちは、どっちが上でもないのだ。
﹁俺たちはお前を手伝い、お前は俺たちを手伝う。
634
目的は違えど、共に戦う仲間であり、対等な⋮⋮戦士だろ?﹂
そして、ルイジェルドの眼を見る。
出来る限り、険しい顔でだ。
十数秒の葛藤。
ルイジェルドの決断は早い。
﹁⋮⋮⋮⋮わかった。お前は戦士だ﹂
やれやれといった感じだった。
が、これで保護者付きで危険な事の練習が出来る。
﹁当然、エリスも戦うけど、いいね!﹂
﹁も、もちろんよ!﹂
エリスは目を丸くしてボケっとしていたが、こくこくと頷いた。
よしよし、いい子だ。
﹁では、ルイジェルドさん。魔物の場所に案内してください﹂
強気の演技はおしまい。
やはり交渉は強気でやんなくちゃな。
−−−
最初に相手にしたのは、ストーントゥレントという魔物だった。
トゥレントというのは、一言で言えば木の魔物だ。
635
木が魔力を吸い上げ、変異して人を襲うようになったもの。
人はそれらを一括してトゥレントと呼んでいる。
木の魔物というアバウトな分類であるから、その種類は多岐にわ
たる。
まず、全世界で確認されているレッサートゥレント。
これは若木が変化したもので、基本的には木に擬態して人を襲う。
力も弱く、動きも遅く、一般的な成人男性なら訓練を積んでいな
くても、斧で叩き切る事が出来る。
これが、大森林にある妖精の泉より養分を吸い取ると、エルダー
トゥレントという魔物に変化する。
極めて濃い魔力濃度を持つ妖精の泉の力により、水の魔術を扱え
るようになる。
他にも、大樹が変化したオールドトゥレント。
枯れ木が変化したゾンビトゥレント。
などなど。
種類は多いが、基本的には木に擬態し、近くにきた相手に襲いか
かる。
ほうっておくと種子を残し、勝手に増える。
この行動パターンは変わらない。
しかし、このストーントゥレントはちょっと特殊だ。
なんと、岩に擬態している。
木がどうやって、と疑問に思うだろう。
何も不思議なことではない。
種の時点で魔物になるのが、ストーントゥレントだ。
普段は巨大な種の形をしており、人が近づくと一瞬で木に変化し
て襲い掛かってくる。
種といっても、ヒマワリの種のようにわかりやすい形状をしてい
るわけではない。
636
そこらに転がっている岩と似たような、丸くてゴツゴツした形状
だ。
ジャガイモが一番似ているかもしれない。
﹁戦う上で注意点はありますか?﹂
﹁ルーデウス。お前は確か魔術師だったな﹂
﹁はい﹂
﹁なら、火は使うな﹂
﹁効かないんですか?﹂
﹁燃えては薪にならん﹂
﹁なるほど﹂
﹁水もやめておけ﹂
﹁濡れると薪として使いにくいからですか?﹂
﹁そうだ﹂
なるほど。
ルイジェルドはこの魔物の事を薪としてしか見てない事がよくわ
かった。
﹁じゃあ、試しに僕とエリスで戦ってみます。エリスが危なくなっ
たら助けてください﹂
﹁俺が戦わないことに意味はあるのか?﹂
﹁とりあえず、俺とエリスがどの程度戦えるかわからないので。
その後、ルイジェルドさんの一人で戦う所を見せてもらって、参
考にします﹂
﹁わかった﹂
と、いうわけで。
エリスが前衛、俺が後衛という形で戦うことにする。
637
これはエリスの剣術の腕を鑑みてのことだ。
俺も、可愛い可愛いエリスを前衛に出すのは気が引ける。
が、彼女は中衛にいてもあまり役に立たない。
他人に合わせられないからだ。
ついでに言えば、ルイジェルドにサポートは必要無い。
だから、エリスには自由に戦わせて、
ルイジェルドと俺がサポートする。
そういう形が望ましいだろう。
﹁じゃあエリス、僕が遠距離から一発デカイのをぶちこむから、弱
ったのを叩いてください。
一応、使う魔術の名前だけは言うようにするけど、急いでるとき
は端折るから、そのつもりで﹂
﹁わかったわ!﹂
エリスはもらったばかりの剣の振り心地を確かめながら、やる気
満々で頷いた。
戦意はバッチリだ。
よし、と俺は杖を構える。
火と水はだめ。
形状を見るに、風はあまり効かなさそうだから、土か。
土は得意だ。
なにせ、フィギュアを作りまくっていたからな。
だが、魔物を相手にするのは初めてだ。
最初は全力でいこう。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
638
深呼吸を一つ。
手の先に魔力を集める。
何万回と繰り返してきた作業だ。
今なら、例え足が切り落とされた状態でも、魔術を使える。
﹁よし﹂
生成・砲弾型の岩石
硬さ・できるだけ硬く
変形・砲弾の先端は平たくし、凹みと刻みを入れる
変化・高速回転
サイズ・拳大よりやや大きめ。
速度・出来る限り最速。 ストーンキャノン
﹁﹃岩砲弾﹄!﹂
杖の先から、ゴウンと空気を切り裂いて、岩の砲弾が飛び出した。
砲弾はすんげー速度でほぼ水平に飛んでいき、まだ擬態している
ストーントゥレントに着弾。
バッガァァァン!!
と、耳を塞ぎたくなるような音が鳴り響き、
トゥレントは爆散した。
エリスは砲弾が発射されたのを見て走りだしていたが、着弾と同
時に足を止めた。
拗ねた顔で睨んでくる。
639
﹁何が弱らせるよ! 私に死体を斬れっていうの!?﹂
﹁ご、ごめん、僕も初めてだから加減がわかんなくて﹂
﹁もうっ!﹂
初めての戦闘に水をさされた形で、エリスはご立腹だった。
しかし、いやまさか一撃とは。
普通の岩砲弾をホローポイント弾風にアレンジしただけなんだが
⋮⋮。
やはり元の世界の人間ってのは、考えることがえげつないね。
ふと、ルイジェルドの視線を感じた。
﹁その杖は、魔道具か?﹂
彼は、俺の杖を見ていた。
﹁いえ、普通の杖ですよ。まあ、ちょっと材料は高いらしいですが﹂
﹁詠唱も魔法陣も使っていなかったが?﹂
﹁詠唱無しでやらないと、砲弾の形状が変化させられないんですよ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ルイジェルドが無言になった。
500年生きている彼でも、無詠唱は珍しいのだろうか。
﹁それで⋮⋮あれがお前の最大の魔術か?﹂
﹁いえ、今のを着弾と同時に爆発させることもできますよ﹂
﹁お前の魔術は、仲間が敵の近くにいる時は、使わんほうがいいな﹂
﹁でしょうね﹂
640
何かに当てたのは初めてだったけど、予想以上の破壊力だ。
かするだけでも即死しかねない。
何かサポートに向いた魔術があればいいんだが、
どうにも前々から一人で戦うことばかりを考えていたせいで、思
いつかない。
この世界の魔術師は、どうやって戦っているのだろうか。
﹁ルイジェルドさん、もし魔術でサポートするとしたら、
どんな動きをすればいいですかね?﹂
﹁わからん、今まで魔術師と共に戦ったことはなかったからな﹂
まあ、ルイジェルドは歴戦のスペルド族だ。
他のパーティの真似をすることもないだろう。
ま、連携については、おいおい考えていけばいいか。
今は実戦経験を詰むことを考えよう。
﹁申し訳ありませんが、もう一度索敵お願いします﹂
﹁ああ⋮⋮だが、その前にやることがある﹂
﹁やること?﹂
殺した相手にお祈りでもするのだろうか?
﹁薪拾いだ。随分散らばったからな﹂
薪は風の魔術でかき集めた。
641
−−−
その後、日が暮れるまで、移動しながら4度の戦闘を行った。
グレートトータス
ストーントゥレント、大王陸亀、アシッドウルフ、パクスコヨー
テ。
グレートトータス
大王陸亀はルイジェルドが一撃で仕留めた。
真正面から脳天をぶちぬいて一撃だ。
実にスマートかつ鮮やか。
これが創業500年、ずっとソロで魔物を狩り続けてきた男の手
際か。
ストーントゥレントを爆散させていい気になっていた自分が恥ず
かしい。
アシッドウルフは、口から酸を吐く狼だ。
1匹だったので、エリスが倒した。
鋭い踏み込みから一閃、一撃で首がポーンと空中に飛んだ。
ルイジェルドに比べると雑だが、一撃だ。
エリスは返り血をモロに浴びて、苦い顔をしていた。
酸を吐くなら血も危ないんじゃないかと思ったが、大丈夫そうだ。
初の実戦でこれなら十分だ、とはルイジェルドの談。
ちなみに二匹目のストーントゥレントは俺が即死させた。
弱らせようと魔術を使ったつもりだったが、どうにも、調節が難
しい。
きっちりダメージを与えつつ、しかし殺さない威力。
そうしてエリスに実戦経験をつませようと思ったのだが、どうに
642
も強くなりすぎてしまう。
きちんと調整出来るまでは、人に向けても撃たないほうがよさそ
うだ。
相手を殺さなければいけないという状況でも、
スプラッタは見たくない。
そして現在。
パクスコヨーテの群れとの戦闘中だ。
パクスコヨーテは、数十匹の集団を作る。
群れているわけではない。
パクスコヨーテは分裂するのだ。
といっても、戦闘中にポコポコ増えていくわけではない。
分裂するのは数ヶ月に1回、増えた個体はリーダーが完全に制御
する。
そうしてどんどん増えていくのだ。
例え本体を倒したとしても、他の個体がリーダーを引き継ぎ、戦
闘を続行する。
数は力。
群れて、完全に制御下に置けるというのは、それだけで十分すぎ
るほどに強い。
パクスコヨーテ二十匹。
並の冒険者なら命を落とす数である。
エリスはルイジェルドにあれこれ教わりつつ、剣を振るっている。
ルイジェルドも教えがいがあるのか、楽しそうだ。
エリスも今日が初めての実戦だというのに、あまり気負っていな
い。
643
あれだけ練習したんだから大丈夫、と言わんばかりの自信満々の
表情で、次々とパクスコヨーテを斬り捨てている。
生き物を殺すということに躊躇はないらしい。
まあ、そんな心優しい子じゃないってのは、前から知ってたけど。
俺はそれを見ているだけだ。
いざとなれば手出しをしようと考えていたが、
ルイジェルドのサポートは神がかっている。
俺が何かすれば、やぶ蛇になりかねない。
それにしても暇だ。
仲間はずれ感。
はやく、うまい連携を考えなければ。
しかし、やはりエリスは強い。
結局、彼女は俺の誕生日の直前ぐらいに剣神流の上級まで行った
んだったか。
最近は魔術を使わなければまったく勝てる気がしない。
上級と言えばパウロと同じだ。
とはいえ、水神流と北神流も上級だから、さすがにパウロの方が
上だろう。
実戦経験の差もある。
けれどギレーヌは、エリスの才能はパウロより上だと言っていた。
いずれ追い抜くだろう。
ざまぁねえなパウロ。
644
﹁ルーデウス! こっちだ!﹂
ルイジェルドに呼ばれる。
いつしか、パクスコヨーテは全滅していた。
﹁パクスコヨーテは毛皮が売れる。剥ぐぞ。
こんなに数がいるとは、運がいいな﹂
ルイジェルドは、ナイフを取り出しつつ、そう言った。
彼にとっては、数が多いというのは、獲物が多いということに他
ならない。
﹁ちょっと待っててください﹂
ルイジェルドにそう言って、俺はエリスへと近づいた。
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂
エリスは三箇所ぐらい怪我をして、息を乱していた。
時間にして五分も戦っていないが、ルイジェルドはあくまでサポ
ートに回っていたため、ほとんどエリスが倒したのだ。
疲れもするだろう。 ﹁神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与
えん、ヒーリング﹂
とりあえず傷を治しておく。
﹁ありがと﹂
﹁大丈夫ですか?﹂
645
﹁ふふん、余裕よ⋮⋮むぐぅ﹂
ドヤリと笑ったその顔に返り血がついていたので、袖で拭ってや
る。
しかし、エリスは本当に初めての戦闘の後だというのに、落ち着
いている。
天性のものなのか。
俺なんか血の匂いでむせ返りそうだというのに。
﹁余裕ですか、今日が初の実戦でしょう?﹂
﹁関係ないわ。全部ギレーヌに教わったもん﹂
練習は本番のように。
本番は練習のように。ってやつか。
エリスは素直だから、実戦でも練習の成果を100%発揮できた
というわけだ。
練習通りなら、相手が血を流しても関係ないといった所か。
﹁まったく⋮⋮﹂
俺は苦笑しつつ、ルイジェルドの所に戻る。
彼は、俺たちのやりとりをじっと見ていた。
﹁エリスに戦わせてどうするつもりだ?﹂
﹁ずっと僕が守れるわけじゃないんですよ。
いざという時に、自分の身は自分で守れないと﹂
﹁そうか﹂
﹁ところで、ルイジェルドさん。どうです、エリスは?﹂
646
皮の剥ぎ方を教わりながら、そう訪ねてみる。
ルイジェルドはこくりと頷いた。
﹁精進すれば一流の戦士になれる﹂
﹁ほんと!? やった!﹂
飛び上がるエリス。嬉しそうだ。
過去の英雄に褒められれば、そりゃ嬉しいだろうとも。
そして、それは俺にとっても悪くない。
ルイジェルドがエリスの才能を認めているなら。
今後も密な連携を取っていける。
﹁ルイジェルドさん。これからはエリスが前衛、僕が後衛という陣
形で行こうと思います﹂
﹁俺はどうすればいい?﹂
﹁遊撃で。自由に戦いつつ、僕らの死角をカバーしてください。
そして、何か危ない事があったら、指示を飛ばして下さい﹂
﹁わかった﹂
こうして、陣形は決まった。
数日の間で、俺とエリスは着々と戦闘経験を貯めていく事になる。
−−−
そして、野宿。
夕飯は大王陸亀の肉だ。
食べきれないので、半分以上はルイジェルドの指示で干し肉にし
647
た。
大王陸亀の肉。
ハッキリ言うと、あまりうまくない。
かなり生臭いし、硬い。
普通なら長い時間かけて煮込むものらしい。
が、ルイジェルドは手っ取り早く焼いた。
焚き火で焼いた。
焚き火と言えば、
ストーントゥレントは死亡するとカラカラに乾く。
そのため、乾かさなくても薪として使えるらしい。
ルイジェルドがあの魔物を薪としてしか見ていない理由が、わか
った気がする。
﹁⋮⋮﹂
それにしても、肉がまずい。
誰だ、大王陸亀の肉がうまいなんて言ったヤツは。
ルイジェルドお前だよ。
こういう肉は生姜とかで臭みを取らないと食えたもんじゃない。
ああ、牛が食いたい。
米と牛が食いたい。
生前に読んだ漫画に、こんなセリフがある。
﹃焼肉は偉いよ。うまいから偉い﹄
美味くない焼肉には、何の偉さもないことを如実に表す言葉だ。
648
思えば、アスラ王国の食事は良かった。
パン食が中心だったが、肉、魚、野菜、デザートと、さながら三
つ星レストランのようだった。
田舎出身の俺でこれなのだから、お嬢様育ちのエリスはさぞ大変
だろう。
と、思ったが、彼女は平気な顔をしてもっちゃもっちゃと食って
いた。
﹁意外とイケるわね﹂
うそーん。
いや、これはあれだろうか。
今までいいものしか与えられてこなかった子供が、
ある日ジャンクフードを食うとうまいと感じるようなものか。
﹁なによ?﹂
﹁いや別に、おいしい?﹂
﹁うん! こういうのね、もぐもぐ、憧れてたのよ﹂
なんでも、ギレーヌから話を聞いて、焚き火で肉を焼いて食うの
に憧れていたらしい。
変なところに憧れるんだな。
﹁生でも食えないことはない﹂
ルイジェルドの言葉にエリスは眼を輝かせた。
649
﹁やめなさい﹂
試しに、と口にしかけたエリスを、俺は必死で止めた。
寄生虫とかいたらどうするんだ、まったく⋮⋮。
−−−
寝る前に、ルイジェルドはエリスに剣の手入れの方法を教えてい
た。
一応、俺も聞いておく。
もっとも、ルイジェルドの使っている槍は金属ではないし、
エリスの使っている剣も、特殊な金属を特殊な鍛造法で作り出し
たものだから、
錆びるということもないらしい。
だが、手入れは必要だそうだ。
血糊をそのままにしておくと、他の魔物が寄ってくるし切れ味も
鈍る。
それに、戦士として、己の武器を管理するのは当然のことだ。
と、ルイジェルドは語った。
﹁そういえば、その槍って、何でできているんですか?﹂
ふと、気になったので聞いてみる。
スペルド族の三叉槍。
純白の短槍。
装飾は無く、柄と刃が一体になった構造をしている。
650
﹁俺だ﹂
﹁⋮⋮⋮は?﹂
﹁槍はスペルドの魂でできている﹂
哲学的な返答だった。
そうかそうか、なるほど。
そうだね、命ってのはつまり魂。
槍は魂、命。
命とはすなわちハート。
ハートとはすなわち愛。
ルイジェルドの愛情は槍に注がれてるってことか。
﹁スペルド族は、生まれた時から槍を持っている﹂
俺が混乱しているとルイジェルドはそう教えてくれた。
スペルド族は、生まれた時、三叉の尻尾が生えているのだそうだ。
それは成長と共に伸び、ある一定の年齢になると突然硬化して、
体から離れる。
槍は体から離れた後も体の一部であるらしく、
使えば使うほど、その鋭さを増していく。
決して折れず、何者にも砕けず、あらゆるものを貫く最強の槍。
に、なる可能性もあるらしい、本人の鍛え方次第で。
﹁だから、死ぬまで槍を離してはいかんのだ﹂
それは、400年前にしてしまった失敗を悔いる男の顔だった。
恐らく彼の槍は、他のスペルド族の誰よりも硬く鋭いのだろう。
651
頼もしいな。
けど、そういう考え方はよくないんだぜ?
頑固ってことは、他人を受け入れないってことだ。
他人を受け入れないってことは、
他人からも受け入れられないってことさ。
危険だよ、その考え方は。
−−−
あっという間に三日が過ぎ、町にたどり着いた。
652
第二十五話﹁侵入と変装﹂
リカリスの町。
魔大陸三大都市の一つ。
人魔大戦の頃、魔界大帝キシリカ・キシリスが本拠地にしていた
という町である。
別名、旧キシリス城。
まずその町を見て驚くのは、町の場所である。
なんと、巨大なクレーターの中にできているのだ。
クレーターは天然の城壁であり、幾度となく敵軍の侵入を防いだ
とされる。
現在でも、魔物の侵入を防ぐのに役立つ、自然の結界である。
町の中心には半壊したキシリス城。
この城は、ラプラス戦役において破壊された。
当時のキシリカ派の魔王と、魔神ラプラスが戦った痕跡である。
頼もしき城壁と、かつての栄華の面影を残す黒金の城。
その二つは当時の魔界大帝の威光と、魔族の過酷な歴史を人々に
しらしめる。
リカリスは由緒正しき町である。
そして、旅人は夕刻にて、この町の本当の美しさを知るであろう。
冒険家・ブラッディーカント著 ﹃世界を歩く﹄より抜粋。
653
−−−
というのが、俺の知識にある﹁リカリスの町﹂である。
町の入り口は三つ。
クレーターの裂け目がそのまま入り口となっている。
クレーターは高く、空でも飛べなければ入り口以外から侵入する
のは難しいだろう。
そして、入り口には二人の門番。
つまり、この町の警備は厳重だ。
ルイジェルドを見る。
﹁どうした⋮⋮?﹂
ミグルド族の里での話を思い出す。
﹁ルイジェルドさん。この町⋮⋮入れますよね?﹂
﹁入ったことはない。いつも追い返されるからな﹂
人族の間でも、スペルド族はかなり嫌われている。
それはもう遺伝子レベルでだ。
エリスのあの態度を見ればわかる。
魔大陸ならあるいはと思ったが、そんなことはないらしい。
﹁ちなみに、どんな感じで追い返されます?﹂
﹁まず、町に近寄ると門番が叫び、しばらくすると大量の冒険者が
654
やってくる﹂
俺の脳裏に、衛兵が﹁スタップ!!﹂とか言い出し、
町中から屈強な男たちが次々と出てきて、襲い掛かってくる光景
が浮かんだ。
﹁じゃあ、変装とかしたほうがいいですね﹂
そういうと、ルイジェルドはむっとした顔で俺を睨んだ。
﹁変装だと?﹂
何か嫌だったんだろうか。
﹁落ち着いてください。まずは町中に入ることです﹂
﹁いや、変装とはなんだ?﹂
﹁え?﹂
変装を知らないらしい。
文化の違いだろうか。
いや、そもそも知っていれば、町中ぐらいには入れただろう。
﹁変装とは、外見を変えて、身分を偽ることです﹂
﹁ほう⋮⋮どうやってやるんだ?﹂
﹁そうですね⋮⋮とりあえず、顔を隠しましょうか﹂
俺はとりあえず、その場に座り込み、地面に手を当てて魔力を込
めた。
655
−−−
﹁止まれ!﹂
町の入り口には、兵士が立っていた。
蛇の頭をした、いかつい感じの奴と、
豚のような頭をした、ふてぶてしい感じの奴だ。
﹁何者だ! 何をしにきた!﹂
腰の剣に手をやって誰何したのは、蛇の方だ。
ロリコン
豚の方はいやらしい目でエリスを見ている。
この豚野郎⋮⋮気が合いそうじゃねえか。
﹁旅の者です﹂
打ち合わせどおり、俺が前に出る。
﹁冒険者か?﹂
﹁は⋮⋮いえ、違います。旅の者です﹂
思わずハイと答えそうになったが、証明できるものがない。
俺とエリスぐらいの年齢なら、冒険者志望と言っても、おかしく
ないだろうが。
﹁そっちの男は? 怪しい風体だが﹂
ルイジェルドは俺の作った岩石製のフルフェイスの兜で顔を隠し
ている。
656
槍は布で穂先を巻いて、杖のように見えなくもない。
怪しい。
とはいえ、スペルド族の姿よりはマシだろう。
﹁兄です。変な冒険者が持ってきた兜を身につけたら、外れなくな
ったんですよ。
この町なら、外してくれる人もいるかと思って⋮⋮﹂
﹁ハッハ! マヌケな話だな!
そういう事なら、仕方ないな。
道具屋の婆さんにでも頼めば、なんとかしてくれるさ﹂
蛇頭が笑いながら一歩下がった。
あまり警戒されていない。
日本なら、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が現れたら、
もっと警戒されるのだが。
子供連れだからだろうか。
それとも、兜をつけたヤツは少なくないのだろうか。
﹁ところで、この町で稼げる所ってどこにありますか?﹂
﹁稼げる所? そんな事聞いて、何になる?﹂
﹁兄の兜が外れるまでは滞在しなきゃいけませんし、
もし外すのにお金を要求されたら、稼がなきゃいけません﹂
蛇頭は、﹁そうか、あのババアならありうるか﹂と呟いた。
道具屋は業突く張りなのだろうか。
まあ、関係ないか。
﹁なら、冒険者ギルドだな。
あそこなら、よそ者でも元手無しで日銭を稼ぐ事ができる﹂
﹁なるほど﹂
657
﹁冒険者ギルドは、この道をまっすぐだ。
大きな建物だから、すぐに見つかるはずだ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁冒険者ギルドに登録すれば、宿がちょっと割安になる。
登録だけでもしといたほうがいいぜ﹂
俺は適当に会釈をしつつ、門を通り過ぎた。
そして、ふと立ち止まる。
﹁そういえば、この町っていつもあんなに物々しいんですか?﹂
﹁いや、最近、この近くで﹃デッドエンド﹄が目撃されたらしいか
らな。警戒中だよ﹂
﹁なんですって! それは怖いですね⋮⋮⋮﹂
﹁そうだな、早くどっかにいっちまうことを祈るよ﹂
デッドエンド
﹃出会えば死ぬ﹄か。
怖い名前だ。
さぞ恐ろしい魔物なんだろう。
−−−
町中に入る。
ロアと比べていささか背の低い町並みが広がっていた。
しかし、町の構成はどこでも似たような感じらしい。
入り口付近には商人向けの宿屋や馬屋といった店が軒を連ねてい
た。
﹁さて、冒険者か⋮⋮﹂
658
今までの人生の中で聞いた話を総合すると、冒険者というのは派
遣社員だ。
手に職をもっている人たちが、冒険者ギルドという名の人材派遣
会社に登録し、
仕事を紹介してもらいつつ、自分の評価を高めていく。
人々は冒険者ギルドを通して仕事を依頼。
能力に自信のある冒険者が送られてくる。
﹁稼げるかどうかはわからないけど、登録しといたほうがいいのか
な?
身分証明にもなりそうだし、エリスはどう思う?﹂
﹁冒険者! なる! なるわ!﹂
エリスの目がキラキラしていた。
そういえば、エリスは何度もギレーヌの冒険者時代の話を聞いて
いた。
案外、憧れていたのかもしれない。
﹁ルイジェルドさんって、もう冒険者だったりします?﹂
﹁いや、俺は冒険者ギルドのあるような大きな町には入ったことが
ない﹂
そうでしたか。
なるほど、冒険者ギルドは大きな町にしかないのね。
﹁ま、その方が都合がいいか⋮⋮﹂
俺の頭の中で、着々と予定が整っていく。
いつまでもこんな重たいヘルメットを被っているわけにもいかな
659
いしな。
顔を隠したままでは、いつまで経ってもスペルド族の名声は得ら
れない。
何か大きなことをやって、実はスペルド族でした!
っていう流れでもいいのかもしれないが、
冒険者の最低ランクの仕事は町中の雑用という話だ。
むしろ、大きなことをするより、こういう小さなことで意外性を
出したほうがいいのかもしれない。
うまくすれば町中での信用につながる。
ルイジェルドの人柄は悪くない。
いきなり強い魔物を倒して、町を守ったんだから受け入れてくれ!
というより、迷子の子供を助けました、というギャップの方が受
ける。
それはミグルドの里でも証明済みだ。
魔物退治より、人助けを中心にしたほうがいいだろう。
先入観無しで人と接するのだ。
ルイジェルドの人柄なら、それでも十分だろう。
しかし、人助けをするのに、このヘルメットはよくない。
表情が見えないのはマイナスだ。
俺だったら、顔を隠したヤツは信用しない。
髪と額だけ隠したヘルメットにするか⋮⋮。
いや、それでも怪しいな。
この世界に人と会うのに被り物を脱ぐ云々の文化があるかどうか
は知らないが、俺だったら、失礼だと思ってしまう。
しかし、少しずつ小さな事をやった所で、時間が掛かるだけだ。
ルイジェルドという存在を街中に浸透させ、それを善とするよう
660
にしなければ。
﹁うーむ⋮⋮どうすべきか﹂
まずは知名度が必要だ。
いくらいいことをやっても、名も無き青年の所業では意味がない
のだ。
やはり、名前を覚えてもらうためにも、
最初に大きく魔物退治の一つもやったほうがいいかもしれない。
この世界では、力ある者は受け入れられる傾向にある。
知名度の高い魔物を退治することで、多少なりとも地位が向上す
る可能性もある。
もっとも、スペルド族の場合は強いという事はすでにわかってい
るから、
逆効果になる可能性も高いか。
まてよ、でも、町に迫る危機に対して、ならどうだろうか。
誰もが窮地に陥った中で、処刑ソングと共に颯爽登場、
魔界美青年ルイジェルド、って感じで一撃で相手を仕留めたら。
おお、いいんじゃないか?
問題は、その相手を何にするかだが、
ちょうどいい相手の名前を、先程聞いたばかりだ。
﹁ルイジェルドさん。
﹃デッドエンド﹄って何のことだか知ってます?﹂
﹃デッドエンド﹄とかいう魔物を町に誘導。
661
町をパニックに。
それとルイジェルドが倒す。
勧善懲悪のストーリー。
完璧だ。
しかし、帰ってきた答えは予想外のものだった。
﹁俺のことだ﹂
﹁⋮⋮どういうことですか?﹂
なんだそれは?
また哲学なのか!?
と、思ったが⋮⋮。
﹁俺は一部では、そう呼ばれている﹂
ルイジェルド=﹃デッドエンド﹄
ということらしい。
なるほどね。
納得だよ。
スペルド族が町の近くを歩いていたら、そりゃ警戒もするよね。
はぁ⋮⋮。
それにしても、
そんな危ない二つ名まで付けて恐れられているとは。
どんだけ恐れられているんだか⋮⋮。
門番ももうちょっとちゃんと仕事しろよなと思う。
きっと、スペルド族を人として見ていないのだ。
662
暴れまくるだけの魔族だから、変装する知能なんて無いと思って
いるのだ。
﹁どうしたものか⋮⋮﹂
しかし、この二つ名、知名度は高そうだな。
利用出来るかもしれない。
﹁賞金とか、掛かってないですよね?﹂
﹁ああ。それは大丈夫だ﹂
本当かな?
本当だよね?
信じるよ?
嘘ついちゃ、やーよ?
とりあえず、少し計画を変更だ。
−−−
まず、
冒険者ギルドに行く前に、俺たちは露天を見て回った。
入口付近にある露天はどこも似たようなものである。
とはいえ、相場は大きく違うが。
さらに、売っている物も大きく違う。
例えば、ロアでは馬屋だった場所では、トカゲのような生物が売
っている。
663
高低差と岩の多い魔大陸では、馬よりこうした生物のほうが役立
つのだろう。
また、乗合馬車は無いが、商人が個別で馬車を出している。
これから長い旅をするに当たって、欲しいものは多い。
少しずつ、買い集めていく必要があるだろう。
が、今回買うものは決まっている。
ざっと相場を調べながら、なるべく安い店を探す。
急いではいるわけではないが、それほど時間も掛けたくない。
目当てのものは、染料とフードだ。あと、あればレモンのような
ものも欲しい。
﹁おっちゃん、この染料、ちょっと高すぎない? ボってんじゃな
いの?﹂
﹁バカ言え、適正価格だ﹂
﹁本当かなー﹂
﹁あったりまえよ!﹂
﹁でもあっちで同じのが半値で売ってたよ?﹂
﹁なにぃ!?﹂
﹁品質の差もあるだろうしなー。あ、このフードいいな。コレと、
そっちのレモンっぽいのも一緒に買うから、オマケしてくんない?﹂
﹁坊主、お前商売上手だな。わかったよ。もってけ﹂
﹁あ、そうだ。これ買い取ってよ。パクスコヨーテの毛皮と、アシ
ッドウルフの牙とかあんだけど⋮⋮﹂
﹁結構あるな。ちょっとまってろ⋮⋮にのふのよの⋮⋮屑鉄銭3枚
って所でどうだ?﹂
﹁そりゃないよ。せめて6枚﹂
﹁しゃーねーな。じゃあ4枚だ﹂
664
﹁おっけ、それでいこう﹂
などと交渉して、一度で売買を終わらせる。
相場はわからないため、これがどれほどの金額かはわからない。
正直、交渉はしてはみたものの、ボラれた感もある。
残りの持ち金は鉄銭1枚、屑鉄銭4枚、石銭10枚。
ロキシーの両親からもらったお金だ。
大切に使わないとな。
俺たちは人気のない裏通りへと入る。
変な奴らに絡まれないといいが⋮⋮。
いや、絡まれたらルイジェルドがなんとかしてくれるか。
お金を増やすチャンスだ。
﹁ルイジェルドさん。もし誰かに絡まれたら、半殺しでいきましょ
う﹂
﹁半殺し? 半死半生にしろということか?﹂
﹁いえ、普通に叩きのめすだけで﹂
が、残念ながら絡まれなかった。
いや、本当に残念だ。
もっとも、カツアゲするような奴らだ。
金なんて持っていないだろう。
﹁ルイジェルドさん。まずは髪を染めましょう﹂
﹁髪を、染める⋮⋮?﹂
﹁はい。この染料で﹂
﹁なるほど、髪色を変えるのか。
面白いことを思いつくな﹂
665
感心された。
どうやら、この世界には髪を染めるという習慣は無いらしい。
いや、ルイジェルドが知らないだけかな?
あんまり人里に降りてこないようだし。
﹁しかし、ならばもっと違う色のほうがいいのではないか?﹂
俺が選んだのは、青色だ。
出来る限りミグルド族の色に近いものを選んだ。
﹁いえ、ここから徒歩三日の位置にミグルド族の集落があります。
それを知っている人は多いでしょう。
ですので、ルイジェルドさんは今日からミグルド族です﹂
﹁⋮⋮お前たちは?﹂
﹁僕らはそのへんで拾われたルイジェルドさんの子分その一とその
二です﹂
﹁子分? 対等な戦士ではなかったのか?﹂
﹁そういう設定なんです。別に覚えなくてもいいですが、
他の人にそう見えるように、僕が演技します﹂
これからやるのはお芝居だ。
俺はルイジェルドに﹃設定﹄を語った。
今日からルイジェルドは、
スペルド族の﹃デッドエンド﹄を騙る、ミグルドの青年ロイスで
ある。
ミグルドの青年ロイスは、常々皆から畏怖されるような存在であ
666
りたいと思っていた。
そんなある日、二人の子供を拾う。
魔術と剣術を使う子供たち。
彼らは助けてくれたロイスに心酔した。
﹁心酔してるのか?﹂
﹁僕は別に﹂
﹁そうか﹂
この二人は結構強い。
それに眼をつけたロイスはある事を思いつく。
自分はミグルド族の中でも背が高い。
﹃デッドエンド﹄のルイジェルドを語れば、もっと簡単に皆に恐
れてもらえるかもしれない、と。
いざ喧嘩にでもなったら、二人をけしかければいい。
この二人の子供は、子供だがなかなか使える。
二人を利用して、一気に有名になってやろう、と。
﹁俺の名を騙るのか、許せん男だな﹂
﹁そうでしょう、確かに許せない。
でも、もし偽ルイジェルドが、良いことをしたら。
人々はどう思いますか?﹂
﹁⋮⋮⋮どう思うんだ?﹂
﹁明らかに偽物だと分かる奴だが、結構いいやつだ、とそう思うだ
ろう﹂
必要なのはコミカルさとちぐはぐさだ。
他人を騙るようなヤツだが、根は悪いヤツじゃない。
そう思わせるのが肝要だ。
667
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁偽ルイジェルドはいいやつだ。
という噂が流れればこっちのものです。
いずれ噂は曖昧になり、﹃ルイジェルドはいいやつだ﹄という形
になります﹂
﹁⋮⋮それはすごいが、本当になるのか?﹂
﹁なります﹂
断言した。
少なくとも、今のルイジェルドがコレ以上評判を落とす事はない。
現時点で最低評価だからな。
﹁そうか、そんな簡単な事でよかったのか⋮⋮﹂
﹁簡単じゃないですよ。成功するかどうかもわかりませんし﹂
計画ってのは、どこかで必ずほころびが生じるもんだ。
綿密にすればするほど、後半で計画が狂う。
だが、うまくいけば、噂に噂を重ねることで、ルイジェルドの本
性が正しく伝わるかもしれない。
﹁しかし、嘘がバレたらどうする?﹂
﹁やだな。ルイジェルドさんは嘘なんて付いてないんですよ﹂
﹁⋮⋮⋮どういうことだ?﹂
ミグルド族のフリをして、スペルド族を名乗る。
予定通り、人に好かれるような良い事をする。
名前だって偽らない。
ロイス云々は、本物のスペルド族だとバレそうになった時の布石
で、当人はルイジェルドと名乗る。
668
スペルド族のルイジェルド。
それを周囲が勝手にミグルド族のロイスが、ルイジェルドのフリ
をしているのだと勘違いするだけだ。
だから嘘なんてついていない。
嘘を付くのは俺だけだ。
でも、ルイジェルドは嘘を付くのに抵抗があるようだから、それ
は黙っておこう。
﹁向こうが勝手にミグルド族だって勘違いするだけです﹂
﹁む⋮⋮ああ、そうか。俺が俺を騙るから、しかしロイスの振りを
⋮⋮。
頭がこんがらがりそうだ。俺はどうすればいい?﹂
﹁普段どおりでいいですよ﹂
ルイジェルドは難しい顔をしていた。
演技派の俳優にはなれないな、この男は。
﹁でも、安い挑発で切れて相手を殺したりはしないでください﹂
﹁ふむ⋮⋮それは、喧嘩をするなということか?﹂
﹁してもいいですけど、苦戦するフリをしてください。
何発かもらって、肩で息をして、で、最終的にはなんとか勝った、
って感じにしてください﹂
言って見てから、そんな演技、出来るのだろうか。
と思ったが、
﹁手加減をするのか、どういう意味があるんだ?﹂
669
そこは大丈夫らしい。
﹁ホンモノのルイジェルドならこんなに弱くない、と思うと同時に、
ホンモノだったら俺って結構すごいんじゃね? と思わせる事が
できます﹂
﹁よくわからんな⋮⋮﹂
﹁こっちを偽物だと思わせると同時に、相手の気分がよくなるんで
すよ﹂
﹁気分がよくなってどうする﹂
﹁スペルド族が弱いという噂を流してくれます﹂
すると、ルイジェルドはむっとした顔になった。
﹁スペルド族は弱くないぞ﹂
﹁知っています。
けれど、強いから恐れられているんです。
弱いとわかれば、今のような状況も緩和されるかもしれません﹂
とはいえ、あまり弱いと思われすぎるのも問題だ。
知らない土地で生き残っている︵かもしれない︶スペルド族。
彼らに対し、また迫害が起きるかもしれない。
バランスが大事だ。
﹁そういうものか⋮⋮﹂
さて、こんなものか。
あまり色々言っても、ボロが出るだけだからな。
﹁僕は全力でサポートしますけど、
どう転ぶかはルイジェルドさんの頑張り次第です﹂
670
﹁ああ、わかっている。頼む﹂
俺は露天で買ったレモンっぽい果物の果汁を使ってルイジェルド
の髪を脱色。
元々エメラルドグリーンで色素が薄い所を脱色に成功。
染料でベットリと着色。
うーむ。
あまり綺麗ではない。
むしろ汚い。
が、少なくとも緑っぽくはない。
遠目ならミグルド族には⋮⋮見えないか、背丈が違いすぎて。
けど、スペルド族っぽくは見えないかもしれない。
まあ、変装は曖昧なぐらいがちょうどいい。
ミグルド族っぽいけど、スペルド族って名乗ってるし、
でもどっちでもないし、あれ? ってぐらいでいい。
﹁あと、これを渡しておきます﹂
俺は首からネックレスを外し、ルイジェルドの首に掛けた。
﹁これは、ミグルドの守りか﹂
﹁はい。僕の師匠が卒業祝いにくれたものです。以来、肌身離さず
つけています﹂
これをつけていれば、少なくともミグルド族の関係者だとは思っ
てもらえるはずだ。
知っている相手には、ね。
671
﹁大切なものだな。必ず返そう﹂
﹁絶対ですよ﹂
﹁ああ﹂
﹁無くしたら本気でぶっ殺しますよ﹂
﹁わかっている﹂
﹁具体的に言うと、土の魔術でこの町の入り口を閉鎖、クレーター
が完全に埋まるまでマグマを流し込みます﹂
﹁他の町人も巻き込むつもりか? 子供もいるんだぞ﹂
﹁子供の命を助けたかったら、絶対になくさないでください﹂
﹁むぅ⋮⋮そんなに不安なら最初からお前が持っていた方がいいん
じゃないか?﹂
﹁いえ、もちろん冗談ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
さて、フードの方はエリスに被ってもらうか。
彼女の赤い髪は目立つだろうからな。
視点は一つに集めなければ。
﹁エリス、このフードなんだけど⋮⋮﹂
と、先程買ったフードを広げてみると、﹃耳用の袋﹄がついてい
た。
なんというか。
ファイ○ルファンタジーⅢに出てくる、導師の被っているフード
だ。
色は白ではないが、マントのように後ろに広がっている。
獣族用なのだろうか。
これは買い物を間違ったかもしれない⋮⋮。
672
エリスはあまり服装には拘らない。
だが、あのボレアス流の挨拶を見ていればわかる。
あまり獣族っぽい格好やポーズはしたくないのだ。
﹁あの、エリス、これ、なんです、けど﹂
﹁そっ! それっ! ど、どうするの!﹂
﹁え、エリスに、どうかなぁ∼って⋮⋮﹂
﹁ホント!﹂
と、思っていたのだが、すごく喜ばれた。
あのポーズ自体は嫌じゃなかったんだろうか。
﹁大切にするね!﹂
早速フードを付けたエリスが、満面の笑みで言った。
まあ、あれだな。
なんだか知らんがとにかくよし! ってやつだ。
さて、まずは冒険者ギルドだ。
必要なのは、コミカルさ。
そいつを忘れないように。
うまくいく事を祈ろう。
673
第二十六話﹁冒険者ギルド﹂︵前書き︶
・偽名とルイジェルドの名前に関する云々を追記︵12/29︶
674
第二十六話﹁冒険者ギルド﹂
冒険者ギルド。
そこには数々の猛者が集まる。
肉体に自信を持つ者、魔術に自信を持つ者。
ある者は剣を、ある者は斧を、ある者は杖を、またある者は素手
で。
自分は他者より強いと豪語する者、そんな者を心中であざ笑う者。
鎧を付けた剣士がいれば、軽装の魔術師もいる。
ブタのような男、下半身が蛇の女、翅の生えた男、馬の足をもつ
女。
あらゆる種族が集い、ひしめき合っている。
それが魔大陸の冒険者ギルド。
リカリスの町の冒険者ギルド。
その巨大なスイングドアが、バンと乱暴に開かれた。
何事かと、視線が集まる。
冒険者ギルドの扉を乱暴に開ける者は少ない。
どこかのパーティが帰ってきたのか?
魔物が襲ってきて、門番が救援を要請したのか?
あるいはただの風の悪戯か?
そういえば、デッドエンドが近くに出没したと聞いたが、まさか
⋮⋮。
そう思った彼らの目に、三人の人物が映る。
675
一番前に立つのは、少年。
まだ幼い。しかし自信満々の表情。布を巻いた杖、薄汚れてはい
るが高級そうな服。
大人だらけ、強面だらけのここに、一切気圧されることなく、堂
々と入ってくる。
何者だ、と何人かが思った。あまりに不釣り合いだ、と。
あるいは、見た目と年齢が比例しない種族なのやも、と。
少年の影に隠れるように立つのは、恐らく少女。
その顔は目深に被ったフードのおかげでうかがい知ることは出来
ない。
だが、年齢に反して物腰と眼光は鋭い。
腰に差した剣は一目で使い込まれたものだとわかる。
この場にいる何人かが、彼女を腕利きの剣士と認めた。
最後の一人は、背の高い偉丈夫。
額に赤い宝石、顔を縦断する切り傷。
﹃デッドエンド﹄の特徴とそっくりだ。悲鳴を上げそうになった
者もいた。
しかし、その青い髪。
すぐに勘違いだと知る。よく似た別人だ、と。
異様。
まさに異様だ。
誰一人として普通ではない三人組。
何をしにきたのか検討もつかない不気味さだ。
少年が大声を張り上げた。
676
﹁おいおいおいおい! シケたツラしてんなぁ!
こちらにおわす方をどなたと心得る!﹂
いやいや、誰だよ知らねえよ、と誰もが思った。
﹁なんとあのスペルド族の悪魔! ﹃デッドエンド﹄のルイジェル
ド様だ!
黙りこくってねえで、怯えるか逃げるかしろってんだ!﹂
いやいやソレはねえよ、と誰もが思った。
スペルド族の髪の色は目が醒めるような緑だ。
あんな暗くて汚い青色ではない。
﹁兄貴! こんな田舎にゃあ﹃デッドエンド﹄の顔は知られてない
ようですぜ!
まったく、ちょいと足を運んでみりゃあ、噂はしてても、だーれ
も気付かねえ﹂
どうやら、少年はあの青年を﹃デッドエンド﹄と言い張りたいら
しい。
そう思うと、あの少年の甲高い口上がやけに滑稽に思えてきた。
あっという間に、不気味さが消えていく。
あの兄貴と呼ばれた青年。
なるほど、確かにあの額の赤い眼と、顔の傷はそれっぽい。
だが、大事な所を間違っていやがる。
﹁プッ﹂
噴出したのは誰だったか。
677
﹁なんだてめえ! なに笑ってやがる!﹂
少年は耳ざとく聞きつけて、怒りの顔を声の方向へと向ける。
その動作があまりに滑稽で、ギルド内の含み笑いが徐々に多くな
る。
そして、誰かが言った。
﹁プスッ⋮⋮フッ⋮⋮だ、だってよ。
スペルド族の髪は⋮⋮緑だぜ?﹂
そのとたん、冒険者ギルドのロビーに大爆笑が起こった。
−−−
笑い声を聞きながら、俺はつかみはオッケーだなと感じていた。
冒険者ギルド。
想像はしていたが、思った以上に粗野な感じだ。
種族が様々なのは、魔大陸だからだろうか。
馬面の男、カマキリみたいな鎌をもった男、蝶みたいな翅をもっ
た女、ヘビみたいな足の女。
人とよく似ているが、どこかしらに違いがある。
また、部位が動物じゃないからといって、人間そっくりとは限ら
ない。
肩から棘みたいなのが生えてるヤツもいるし、全身の肌が青いや
つもいる。
678
腕が四本だとか、頭が二つあるヤツもいる。
人間そっくりだけど、どこかがちょっとずつ違う。
考えれば、ミグルドやスペルドは人族にかなり近い種族だろう。
﹁あ、兄貴をバカにしてんじゃねえよ!
兄貴はな、俺たちが荒野で魔物に襲われてるところを助けてくれ
たんだぞ!﹂
気圧されることなく、俺は適当に演技しながら中へと入っていく。
﹁聞いたか! で、デッドエンドが人助けだってよ!﹂
﹁ヒャハハハハ! す、すげぇいいやつじゃん!﹂
﹁マジかよ! 俺も助けてもらいてぇ! ギャハハハ!!﹂
いつもなら、こういう嘲笑を聞くと足が竦むところだが、
演技をしているせいか、あるいは笑ってる奴らに現実味がないせ
いか。
それとも、俺も成長したからかな?
いやいや。
増長はすまい。
大体、今の笑いは俺ではなく、ルイジェルドに向いているのだ。
俺の足が竦むわけがない。
調子にのるのは、自分に対する敵意を対処できるようになってか
らにしよう。
とりあえず辺りを見渡す。
この場にルイジェルドを本物だと思ってる奴はいないことを確認。
ここで、事前に用意しておいたセリフA。
679
﹁こいつら許せねえ! 兄貴! やっちまってくださいよ﹂
﹁ふっ、笑いたい奴は、笑わせておけばよいのだ﹂
ちなみに、笑わなかったパターンのBも存在している。
﹁よいのだ⋮⋮︵渋い顔︶、だってよ!﹂
﹁も、もう大物気取りかよ!﹂
﹁や、やべぇ、おれ謝っちゃいそう﹂
こいつら、ルイジェルドがホンモノだってわかったら、
泣いて謝るんだろうな⋮⋮。
﹁ふん! てめえら、兄貴の寛大さにせいぜい感謝するんだな!﹂
俺は捨て台詞を言って、周囲を見渡す。
左手には、紙がベタベタと貼り付けられた巨大な掲示板。
右手には、4つのカウンターが並んで、職員が呆気に取られた顔
でこちらを見ている。
右手だ。
俺は二人を伴って歩いて行き⋮⋮ってカウンター高ぇな。
ルイジェルドに目配せして、持ち上げてもらう。
﹁おい職員! 冒険者登録したい!﹂
ギャラリーに聞こえるように、大声で言った。
後ろで沸き起こる大爆笑。
ニュービー
﹁で、で、デッドエンドが、に、新人だってよぉ!﹂
﹁げはっげほっ⋮⋮腹いてぇよ!﹂
680
﹁すげぇ、お、俺、デッドエンドの先輩になっちゃった!﹂
﹁そ、それマジ自慢できるわ!﹂
よし、もういいだろう。
﹁うるせえな。
職員の声が聞こえないだろが!﹂
そう叫ぶと、冒険者たちはニヤケ顔のまま、
口をつぐんで静かになった。
﹁わ、わかった、わかったよ﹂
﹁さ、最初の説明は大事だもんな⋮⋮ぷすす﹂
﹁くくく﹂
まだ含み笑いが聞こえるが、よし。
これでいいだろう。
−−−
さて。
苦節約44年。
とうとう俺は、念願のハローワークへと赴いた。
ハンドレットニート
﹃水聖級魔術師﹄という資格を手に、
途中で仲間になった﹃百年単位の無職﹄と共に⋮⋮。
脇には養わなければいけないワガママ娘が一人。
働かなければ、食っていけない︱︱︱。
681
というのはさておき。
﹁では職員さん。お騒がせしました。
よろしくおねがいします﹂
オレンジ色の髪をして牙を生やした女性職員。
胸元の大きく開いた服装で、もちろん谷間が見えている。
もっとも、乳房が三つ並んでいるので、谷間は二つある。
一つ増えるだけで二倍になるもの、なーんだ。
﹁え? あ、はい。冒険者登録⋮⋮ですよね?﹂
彼女はいきなり態度の変わった俺に戸惑ったようすだった。
ま、ずっと演技していてもボロが出るだけだしな。
ナメられないように演技してたって事でオッケーよ。
﹁はい。なにせ、新人なもので﹂
﹁でしたら、こちらの用紙にご記入ください﹂
三枚の紙と細くとがった炭が渡される。
紙はどれも同じものだ。
名前と職業を書く欄があり、注意事項と規約が書いてある。
文字が読めない奴はどうするんだ?
と、思っていると。
﹁文字が読めないのでしたら、代わりに読み上げますよ?﹂
そういう事らしい。
682
﹁いえ、必要ありません﹂
俺が読みあげて、エリスに聞かせてやる。
要約するとこんな感じだ。
========================
1.冒険者ギルドの利用。
冒険者ギルドに登録することで、冒険者ギルドのサービスを受け
ることができる。
2.サービス内容
全世界における冒険者ギルドでは、仕事の仲介、報酬の受け渡し、
素材の買取、貨幣の両替等のサービスを行なっている。
世界情勢の変化で、通知することなくサービス内容が変更される
ものとする。
3.登録情報
登録された情報は冒険者カードにて冒険者自身が管理することと
なる。
紛失すれば再発行は可能だが、ランクはFからとなる。
また、各地域毎の罰金が発生する。
4.冒険者ギルドの脱退。
ギルドに申し出れば、脱退が可能。
再登録も可能だが、ランクはFからとなる。
5.禁止行為
以下に定める行為を禁止する。
683
︵1︶各国の法令に違反する行為
︵2︶ギルドの品位を著しく貶める行為
︵3︶他冒険者の依頼を妨害する行為
︵4︶依頼の売買行為
禁止行為が認められた場合、罰金と冒険者資格を剥奪とする。
6.違約金の発生
請け負った依頼を失敗すると、違約金として報酬の2割を支払う。
期限は半年間。支払えなければ、冒険者資格は剥奪となる。
7.ランク
冒険者はその実力に応じて、SからFまでの7段階でランク分け
される。
原則として、自分のランクの上下1つ以内の依頼までしか請ける
ことはできない。
8.昇級と降級
ランクに応じた規定の回数の依頼を成功させることで、昇級する
ことが可能。
ただし、実力が伴わないと感じたら、そのままのランクでいるこ
とも可能。
また、一定回数連続で依頼を失敗することで、1つ下のランクへ
と降級する。
9.義務
魔物の襲撃などで国より要請を受けた場合、冒険者はそれに従う
義務がある。
また、緊急事態において、冒険者はギルド職員の命令に従う義務
がある。
684
========================
エリスは途中からうんざりした顔をしていた。
彼女は、こういう堅苦しい文章は苦手なのだ。
俺も、そんなに得意じゃない。
けど、こういうのはきちんと読んでおかないとな。
とりあえず、特に問題はなさそうだ。
と、その前に。
﹁職員さん、質問があるんですが﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁この文字って、どこの言葉でもいいんですか?﹂
﹁どこの言葉というと、例えば⋮⋮?﹂
﹁人間語とか﹂
﹁あ、それでしたら大丈夫です﹂
﹃それでしたら﹄。
マイナーな部族が使っている特殊な文字とかはダメなんだろう。
もちろん、日本語も無理だろう。
俺は魔神語で書いておく。
人族と思われるより、見た目が年若い魔族と見られていたほうが
都合がいい。
﹁エリスも自分で書いてください﹂
エリスにも自分で書くように伝える。 こういう契約書は、自分で書いたほうがいい。
ちなみに、ギルド内での会話は全て魔神語だ。
685
彼女がむっとしつつも静かなのは、周囲の言葉がわからないから
だ。
もし彼女が嘲笑を生で聞いたら、剣を抜き放って襲い掛かったか
もしれない。
﹁使う気はまったくないんですが、もし偽名を使った場合はどうな
りますか?﹂
﹁特に罰則はありません。あくまで登録名なので﹂
﹁犯罪者が名前を変えている場合もありますよね?﹂
﹁魔大陸と他の大陸では犯罪者の定義も違いますので、冒険者ギル
ドに迷惑を掛けなければ問題ありません。ですが、一度冒険者資格
を剥奪されたのなら、少なくともこの大陸で二度目の登録はできな
いと考えてください﹂
﹁それで大丈夫なんですか?﹂
﹁問題はありますが、魔大陸には生まれた時に名前を持たない方も
大勢います。なので、偽名を禁止すると登録できない方が大勢出て
きてしまいます﹂
なるほど。
大陸毎で冒険者ギルドの管轄は違うのかもしれない。
スペルド族だと冒険者ギルドに登録できない可能性もあったから
ロイスという偽名も考えておいたが、とりあえず、問題なさそうだ。
﹁ここで登録してから別大陸に渡った場合、登録しなおす必要は?﹂
﹁ありません﹂
だよね。
﹁書かれましたら、こちらに手を乗せて頂きます﹂
686
と、用意されたのはエロゲーの箱ぐらいの大きさを持った透明な
板だ。
真ん中のあたりに魔法陣が刻まれている。
下には、金属のカードが敷かれている。
ふむ。なんだろうか。
﹁こうですか?﹂
とりあえず、まず俺から。
ぺたりと手を載せる。
職員がそれを確認すると、板の端をポンと指で叩いた。
﹁名前・ルーデウス・グレイラット。
職業・魔術師。
ランク・F﹂
職員が用紙の内容を淡々と読みあげて、もう一度ぽんと指先で叩
く。
すると、魔法陣がほんわりと赤く光り、すぐに消えた。
﹁どうぞ、こちらがあなたの冒険者カードになります﹂
何の変哲もない鉄の板。
そこには、ボンヤリと光る文字で、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
名前:ルーデウス・グレイラット
性別:男
種族:人族
687
年齢:10
職業:魔術師
ランク:F
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そう書かれていた。人間語だ。
しかし、なるほど。そういう魔道具か。
てか、これを使えば本を書くの簡単なんじゃなかろうか。
冒険者ギルドのような公的な場所で使われているなら、
もっと出回っていてもいいはずだし⋮⋮。
いや、こっちのプレートにも仕掛けがあるのかもしれない。
名前、職業、ランクに関しては職員が手動で入力するみたいだが、
性別、種族、年齢に関しては手から読み取れるのか⋮⋮。
まずいな。
人族であることを隠しておこうと思ったのに、年齢と種族名が出
てしまった。
まあいいか。なんとかなるだろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
名前:ルイジェルド・スペルディア
性別:男
種族:魔族
年齢:566
職業:戦士
ランク:F
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
688
あ、もしかして、これスペルド族って出ちゃうんじゃねえの?
と、思ったが、ルイジェルドのカードには魔族との表示。
実にアバウトだが、ほっとする。
年齢が出てしまったが、職員の人も別に気にしていない。
魔族だとそれほど珍しくもないのか。
ルイジェルド・スペルディアという名前も、あまり気にしていな
いようだ。
偽名とでも思っているんだろうか。
心外だな、使わないと言ったばかりだというのに。
それとも、もしかして﹃デッドエンド﹄の本名がルイジェルド・
スペルディアだとは知らないのかもしれない。
さっきから、デッドエンドって単語は聞くけど、ルイジェルドっ
て単語は聞かないもんな。
ちなみに、彼のカードは魔神語で書かれていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
名前:エリス・ボレアス・グレイラット
性別:女
種族:人族
年齢:12
職業:剣士
ランク:F
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
エリスが出来た所で、登録完了だ。
エリスのものも人間語だった。
﹁僕と彼ので文字が違うようですが?﹂
689
﹁はい、文字は種族毎で変わります﹂
なるほど、人族は人間語、ってことか。
﹁ハーフの場合はどうなるんですか?﹂
﹁混ざる事もありますが、基本的には血の強い方で表示されます﹂
﹁人族でも魔神語しか読めない人とかはいますよね?﹂
﹁その場合は、カードの真ん中を指で抑えて、変えたい言語を言っ
てください﹂
試しに、カードの真ん中を押さえ、﹃獣神語﹄と言ってみる。
すると、表示が変わった。
なるほど。面白い。
﹃魔神語﹄、﹃闘神語﹄。
次々に変えてみると、職員にたしなめられた。
﹁あまりやりすぎますと、カードの魔力が切れるのが早くなります
ので、お気をつけ下さい﹂
﹁切れるとどうなるんですか?﹂
﹁ギルドにて補充が必要となります﹂
やはりカードのほうにも仕掛けがあるのか。
小さな魔力結晶でも埋め込んであるのだろうか。
﹁魔力が切れると、情報が消えるとかはない?﹂
﹁ございません﹂
﹁長いこと一つのカードを使い続けると、電池の減りが早くなると
かは?﹂
﹁でんち⋮⋮? 魔力のことでしたら、ありません。魔力は通常で
一年程は持ちますが、依頼完了の都度、魔力充填を行いますので、
690
通常は切れることはありません﹂
﹁再充填にはいくら掛かるんですか?﹂
﹁料金は掛かりませんが⋮⋮﹂
じゃあなんでたしなめるような事を言ったんだ、と思ったが、あ
んがいカードの魔力が切れて冒険者ギルドに怒鳴りこんでくる奴が
いるのかもしれない。
どこの世界にもクレーマーはいそうだしな。
﹁わかりました、気をつけましょう﹂
それにしても、充電式か⋮⋮。
誰が考えたのか知らないが、面白いシステムだな。
これを利用すれば、もっとあれこれ出来ると思うんだが⋮⋮。
冒険者ギルドが技術を独占しているのだろうか。
まあ、いまは考えないでおこう。
﹁んふふ﹂
エリスは自分のカードを見て、にまにまと笑っていた。
嬉しいのはわかるけど、無くすなよ?
﹁パーティの登録はなさいますか?﹂
﹁パーティ登録? あ、します﹂
職員に言われて気づく。
書類にパーティの事が書いてなかったから失念していた。
最初から、パーティは組む予定だったのだ。
﹁その前に、パーティについて詳細を伺っても?﹂
691
﹁はい﹂
と、職員が説明してくれる。
・パーティは最大7人まで入る事ができる。
・パーティにはリーダーの上下1ランクまでしか入ることが出来な
い。
・受けられる依頼はパーティランクで決まる。
・パーティランクはメンバーの平均値。
・依頼成功時の昇格値はパーティ員全員に入る。
・パーティに加入していても、個人での依頼受注は可能。
・加入にはリーダーとギルドの承認が必要。
・脱退にはギルドの承認だけでいい。
・リーダーにはメンバーを強制脱退させる権限がある。
・リーダー死亡時には、自動的にパーティ解散となる。
・2つ以上のパーティでクランを結成することが出来る
・優秀なクランにはギルドより様々な特典がある
クランの部分はまあいいか。
しばらくは関係なさそうだし。
﹁では、パーティ名は何に致しますか?﹂
﹁﹃デッドエンド﹄でお願いします﹂
職員の顔がひきつった。
が、そこはさすがプロ。すぐに笑顔を取り戻した。
﹁わかりました。冒険者カードをお預けください﹂
俺たちはしまったばかりのカードを取り出し、渡す。
692
職員はそれを持って奥へと行き、ちょっとして戻ってきた。
﹁はい、どうぞご確認ください﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
名前:ルーデウス・グレイラット
性別:男
種族:人族
年齢:10
職業:魔術師
ランク:F
パーティ:デッドエンド︵F︶
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
よし。
しかし、デッドエンドとか文字で見てみると恥ずかしいな。
人の口から聞くと、あんなに恐ろしい響きなのに⋮⋮。
︵F︶と付いているのはランクだろう。
﹁以上で登録終了となります。お疲れ様でした﹂
﹁はい、お疲れ様です﹂
﹁依頼を受ける際には、そちらの掲示板よりお剥がしになり、受付
まで持ってきて下さい﹂
﹁はい﹂
﹁買取は建物の裏となっておりますので、お間違えのないようにお
願いします﹂
﹁裏ですね。ありがとうございました﹂
ふう、ようやく終わったか。
693
−−−
早速、俺たちは掲示板の方へと移動した。
受けられる依頼はFとE。
そのランクに大した依頼は無い。ほとんどが町中で出来る仕事だ。
倉庫整理、調理補助、帳簿記入、迷子のペット探し、害虫駆除。
どれも簡単にできそうで、どれも賃金が安かった。
ちなみに、依頼書はこんな感じだ。
=========================
F
・仕事:倉庫整理
・報酬:石銭5枚
・仕事内容:重いものの運搬。
・場所:リカリス町12番地、赤い扉の倉庫
・期間:半日∼1日
・期限:無期限
・依頼主の名前:オルテ族のドガム
・備考:荷物が多くて手が足りねえ。誰か手伝ってくれ。力があれ
ばあるほどいい。
=========================
=========================
F
・仕事:調理補助
694
・報酬:石銭6枚
・仕事内容:皿洗い、食事の運搬等
・場所:リカリス町4番地、足踏亭
・期間:1日
・期限:次の満月まで
・依頼主の名前:カナンデ族のシニトラ
・備考:大勢の予約客が入った。手伝いが必要だ。ついでに味見も
してくれると助かる。
=========================
=========================
E
・仕事:迷子のペット探し
・報酬:屑鉄銭1枚
・仕事内容:いなくなったペットの捜索・捕獲
・場所:リカリス町2番地・キリブ長屋・3号室。
・期間:見つかるまで
・期限:特に無し
・依頼主の名前:ホウガ族のメイセル
・備考:うちのペットがいなくなっちゃって帰って来ません。お小
遣いをはたいて依頼します。誰か探して下さい。
=========================
どれもパーティで受けるようなものではなさそうだ。
低ランクのときは、基本的にソロなのだろうか。
依頼成功時の昇格値は全員に入るらしいし、
低ランクの時はパーティでいくつかの依頼を受けて、
手分けするという方法が主流なのかもしれない。
695
﹁とりあえずは、何か簡単そうなものからかな⋮⋮﹂
しかし、なんでペット探しがEなんだろうか。
あ、町が広いからか。
ついでに言えば、﹁見つかるまで﹂ってのがキツイと見た。
死んでいる可能性もあるからな。
でもお小遣いをはたいてか、きっと可憐な少女に違いない。
誰か行ってやらないと可哀想だなぁ⋮⋮。
﹁ドラゴンと戦うのとかないの?﹂
﹁Sランクにあるぞ。これだ﹂
﹁ほんと!? ⋮⋮⋮読めない﹂
﹁北の方にはぐれ竜が一匹住み着いたと書いてある﹂
﹁勝てるかな?﹂
﹁やめておいた方がいい。竜は強いからな﹂
﹁そう。でも、討伐系がいいわね⋮⋮﹂
﹁討伐系はCランクからだな﹂
﹁Cランクからしかないの?﹂
﹁そのようだ﹂
﹁最初はゴブリンとかと戦うって聞いたことあるけど?﹂
﹁この大陸にそんな弱い魔物はいない﹂
エリスはルイジェルドに依頼内容を読んでもらい、物騒なことを
言っていた。
ルイジェルドは面倒見がいいなぁ。
・・・
﹁おいおい、ぷくく、で、デッドエンドの皆さんよ。
そこは、ふふ、ちょっと、くくく、ランクがたけえんじゃ、ねえ
のかい?﹂
696
と、さっき笑っていた内の一人が、
ニヤニヤしながら二人に近づいていく。
馬の頭を持った、筋肉ムキムキマッチョマンだ。
俺は一瞬で彼の前に移動し、二人と馬面の間に割ってはいる。
﹁うるせーな! ちゃんとFかEを受けるよ!﹂
﹁おいおい、怒んなよ。アドバイスしてやろーってんじゃねえか﹂
﹁なんだとぉ?﹂
﹁ほら、この依頼だよ。迷子のペット探し﹂
ペリッと剥がしたのは、さっき俺が見ていたやつだ。
﹁これは町が広すぎるから難しいって思ったんだよ﹂
﹁おいおいおいおいおい。お前さんの兄貴は﹃デッドエンド﹄、ス
ペルド族だぜ?﹂
﹁だからなんだってんだよ!﹂
﹁額に付いてる眼は飾りか? 広いたってその眼がありゃ一日も掛
かんねぇじゃねえか﹂
む。
なるほど。
言われてみれば確かに。
生物の探しもの系はルイジェルドがいれば楽勝だ。
例え相手が猫でも、彼なら
⋮⋮⋮てか、何がアドバイスだ。
俺たちを偽物だと思って煽ってるだけじゃねえか。
697
﹁うるせえな! ほっとけよ!﹂
と、突っぱねては見たものの、
迷子のペット探しは、ルイジェルドの能力をうまく活かせる。
頭の片隅にとどめておいた方がいいだろう。
﹁兄貴! 行きましょう!﹂
﹁ん? 依頼は受けなくていいのか?﹂
﹁いいんスよ! こんな状態で依頼を受けたってロクな事がないっ
すからね!﹂
どのみち、今日は顔見せと登録だけのつもりだった。
依頼はどんなものがあるかと見てみただけだ。
本格的な活動は明日からだ。
﹁行きましょう﹂
俺たちが冒険者ギルドを出ると、ギルド内で大爆笑が起こった。
﹁おいおい、依頼も受けずに帰るのかよ!﹂
﹁さすがデッドエンドさんは余裕だぜェー!﹂
﹁ギャハハハハハ!﹂
ルイジェルドは困惑の表情をしていた。
本当にこれでいいのか、と。
これでいい。
とりあえずは成功だ。
デッドエンドの名前を聞いて、警戒でも緊張でもなく、笑いが起
698
こっている。
理想的とはいえないかもしれない。
だが間違いなく、一歩前に進んだ。
少なくとも、俺はそう確信していた。
−−−
こうして、俺たちは冒険者となった。
699
第二十七話﹁冒険者の宿﹂
冒険者ギルドから出る。
周囲がやけに暗かった。
まだ空は明るいのに、町中だけが妙に暗い。
それが、この町がクレーターの下にあるからだと気付いたのは、
その数秒後だ。
高い壁があるせいで、夕暮れ時から影ができているのだ。
すぐにでも真っ暗になるだろう。
﹁はやく宿を探しましょう﹂
と、提案すると、エリスは不思議そうな顔をした。
﹁別に町の外で野宿してもいいんじゃないの?﹂
﹁まあまあ、そう言わずに、町中でぐらいゆっくり休みたいじゃな
いですか﹂
﹁そう?﹂
ルイジェルドはというと、どっちでもよさそうだ。
野宿時の夜の見張り番は、ルイジェルドに任せっきりになってい
る事も多い。
彼は半分寝ながらも、近づいてくる相手に気が付けるのだ。
夜中に何かの破裂音が聞こえたと思って起きたら、ルイジェルド
が魔物と戦っている音でした、なんてのは心臓に悪い。
700
まあ、宿だ。
腹も減った。
何か買うのもいいが、先日の干し肉がまだ残っている。
ここは食費を抑えるためにも、それで我慢するか⋮⋮。
とはいえ、お腹はペコちゃんだし、腰を落ち着けてガッツリと食
いたい気分だ。
﹁ねえルーデウス! 見て!﹂
エリスの興奮した言葉。
なんだい、ナニを見せてくれるんだい?
そう思って顔を上げると、クレーターの内壁がボンヤリと光って
いた。
日が落ちるにつれて、光が強くなっていく。
﹁すごい! すごいわ! こんなの初めて見た!﹂
日が完全に落ちると、クレーターの内壁は、石と土で出来た街中
を明るく照らしだした。
まるでライトアップされた遊園地のようだ。
﹁へえ、確かにこれはすごいですね﹂
生前、深夜でも真っ暗にならない場所に住んでいた俺の感動は薄
い。
だが幻想的な風景であることは認めざるをえない。
しかし、なんで光っているのだろうか。
﹁あれは、魔照石だな﹂
701
﹁む、知っているのかライデン⋮⋮!﹂
﹁ライデン? 誰だ⋮⋮? 何代目かの剣神にそんな名前の奴がい
たような⋮⋮?﹂
当然ながらネタは通じない。
この世界にはこういうネタが通じるヤツがいないと思うと、ちょ
っと寂しい。
﹁失礼。僕の知り合いに、そういう名前の何でも知ってる人がいた
んですよ。
物知りな人でね、ちょっと間違えました﹂
﹁そうか﹂
頭を撫でられた。
まるで死んだ父親を懐かしがる子供をあやすような仕草だ。
別にライデンが父親の名前ってわけじゃないですよ?
父親の名前はパウなんとかっていう人ですよ。
父親としてはそれなりですけど、人としてはダメな部類の。
﹁それで、魔照石というのは?﹂
﹁魔石の一種だ﹂
﹁どういう効果なんですか?﹂
﹁昼間の間は日の光を蓄え、暗くなるとああして光るんだ。
もっとも、昼間の半分も光が続くわけではないがな﹂
ソーラー充電か。
アスラ王国では見なかったな。
便利なんだからもっと使えばいいのに。
702
﹁夜に明かりになるなら、もっと出まわっていてもいいんじゃない
んですか?﹂
﹁いや、あれはかなり希少な石だ﹂
﹁え? じゃあ、あそこにあるのは?﹂
街中を照らせるぐらいの量があるようだが。
﹁魔界大帝が存命の時に、集めさせたのだそうだ。見ろ﹂
と、ルイジェルドが指差す先には、
光の中でぼんやりと浮かび上がる、半壊した城の姿。
﹁あの城を美しく見せるためだけにな﹂
﹁凄いことを考えるんですね﹂
魔界大帝さんの姿がほわんほわんと思い浮かぶ。
ボンデージファッションに身を包んだエリスが、
わたくしを美しくみせるためには光が必要なのよ! と叫んでい
た。
﹁盗まれたりはしないんですか?﹂
﹁一応、禁止されているという話だが、詳しくは知らん﹂
まあ、ルイジェルドも町に入るのは初めてという話だしな。
結構高い位置が光っているし、飛べたりしなければそう簡単には
取れないか。
﹁当時は散々ワガママだと言われたそうだが、今ではこうして役に
立っている﹂
﹁案外、人々のために集めたのかもしれませんよ﹂
703
﹁まさか。魔界大帝は自堕落で退廃的だと有名だ﹂
自堕落で退廃的か。
生きているのなら、ぜひお会いしたいものだ。
きっとサキュバスみたいなエッチでビッチなお姉さんに違いない。
﹁事実は小説より奇なり、ですかね﹂
﹁それは人族独特の言い回しか?﹂
﹁そうですよ。スペルド族だって、本当は心優しい種族じゃないで
すか﹂
頭を撫でられた。
この歳になって頭を撫でられるとか、どうなんだ。
と、思うが、考えてみてほしい。
精神年齢40代中盤の男が、実年齢560代中盤の男に撫でられ
ている状況を。
よくわからないかな?
では、0を取ってみよう。
︵半壊︶を指さして言
年齢4歳の男が、年齢56歳の男に撫でられている状況。
微笑ましいとは思わんかね?
﹁ねえ! お城に行ってみたい!﹂
エリスは暗闇に浮かび上がる漆黒の魔城
った。
が、俺は却下する。
﹁今日はダメ。先に宿に行きましょう﹂
704
﹁なんでよ、いいじゃない、少しぐらい!﹂
ぷくっと頬を膨らませるエリス。
それを見ると、少しぐらいいいか、という気分になる。
が、昼間ほど光り続けるわけではない、とルイジェルドは言って
いた。
城にたどり着く頃に消えていたら面白くない。
それと⋮⋮。
﹁最近、ちょっと疲れ気味なんですよ。宿に行きましょう﹂
﹁え? 大丈夫なの?﹂
疲れ気味。
そうだ。
慣れない旅で疲れているのもあるが、ちょっとだけ身体が重い気
がする。
実際には魔物との戦闘でも動けているから問題はないんだが、
いつもより疲れがたまるのが早い気がする。
気苦労だろうか。
﹁大丈夫ですよ。ちょっとだけですから﹂
﹁そう⋮⋮? じゃあ、我慢するわ﹂
我慢、か。
昔のエリスからは出て来なかった単語だ。
エリスはちゃんと成長しているな。
なんて思いつつ、宿へと移動した。
705
−−−
狼の足爪亭。
12部屋。
一泊・石銭5枚。
建物は老朽化しているが、冒険者の初心者向けという姿勢であり、
良心的な値段。
石銭をさらに1枚支払えば、朝夜の食事が付く。
冒険者としてパーティを組んで二人以上で一部屋に泊まれば、食
事代が無料となる。
初心者向けということで、ベッド数が多くても値段は一律。
入り口は酒場兼ロビーになっていて、
席数は決して多くないがテーブル席とカウンター席が並んでいる。
テーブルには初心者向け、という言葉どおり、宿には3人の若い
冒険者がいた。
若いといっても、年齢は今の俺より上。エリスと同じぐらい。
全員が男。少年だ。
彼らは、俺達を無遠慮に見てきた。
﹁どうする?﹂
ルイジェルドが聞いてくる。
ここでも演技をするのか、という視線だ。
﹁やめておきましょう﹂
俺はちょっと考えて、やめた。
706
﹁寝る所でも気を張りたくありません﹂
この宿に何泊することになるのかはわからない。
だが、彼らはまだ子供だ。
泊まる場所が一緒であるなら、否が応にもルイジェルドの人の良
さを目の当たりにするだろう。
﹁パーティで三人。とりあえず、三日分﹂
﹁あいよ。食事はどうするんだ?﹂
愛想の悪い店員だ。
﹁食事もお願いします﹂
とりあえず三日分の料金を払っておく。
食事代がタダになるのはいいな。
残り、鉄銭1枚、屑鉄銭3枚、石銭2枚。
石銭換算で、132枚。
﹁き、君も新人なのかい?﹂
宿屋の決まりなんかを店主に聞いていると、
エリスが新人に声を掛けられていた。
額に角があるやつだ。
白髪頭で、まあ、美男子と言えなくもないかな。
百歩譲ってな。
707
他二人も⋮⋮まあ、美少年だろう。
ちょっとゴツい感じがする偉丈夫に育ちそうな、腕四本の少年と、
口が嘴になってて、頭に羽毛が生えている少年。
まあ。うん。
美少年、と言えなくもない。
タイプはそれぞれ違うが。
最初の奴が﹁ノーマル﹂とするなら、残り二人は﹁かくとう﹂と
﹁ひこう﹂だろう。
﹁お、俺たちもそうなんだ。どうだい、一緒に食事でも﹂
ナンパかよ。
ガキが粋がりやがって。
でも、ちょっと声が震えている。
微笑ましいと言えなくもない。
﹁依頼を受ける時のコツとか、教えられるって思うしさ﹂
﹃⋮⋮⋮⋮ふん﹄
ぷいっと顔をそむけるエリス。
さっすがエリスさん!
ナンパはガン無視に限りますよね!
まあ、言葉がわかんないからでしょうけど。
﹁なあ、ちょっとでいいんだよ。そっちの弟君も一緒に﹂
﹃⋮⋮⋮﹄
そろそろ助けに入ろうか、と思っていたら、
708
エリスは、すっと視線を外して、彼らから離れようとした。
知っているぞあの技は。
エドナさん直伝の礼儀作法。
﹁相手にしたくない貴族の避け方・初歩編﹂だ!
どうする、少年。
紳士なら、ここは察して引いておくべきだ。
﹁無視するなよ﹂
少年は紳士ではなかった。
イラっとしたのか、エリスのフードの端を掴み、グッと引っ張っ
た。
後ろに引っ張られる形となったエリスだが、
つんのめったりしなかった。
足腰がかなり鍛えられているからだ。
かといって、少年も引きずられたりはしない。
冒険者なんかやっている所を見ると、結構力自慢なのかもしれな
い。
ビッ、と。
安物のフードの端が、嫌な音を立てて破れた。
﹃⋮⋮え?﹄
エリスがその音を聞いて、
そして、破れた部分を見た。
709
ブチン。
俺には、確かにその音が聞こえた。
⋮⋮エリスがキレた音が。
﹃何すんのよ!﹄
宿を揺らすほどの金切り声がゴングだった。
振り向き様に、ボレアスパンチ。
サウロスから学び、ギレーヌの訓練を経て完成されたターンパン
チは、少年の顔面を正確に捉えた。
首の骨が折れるんじゃないかってぐらい、ぐりんと回った。
後頭部を床にぶつけ、一発で気を失う。
素人の俺でも、相当な破壊力を持っているとわかるパンチだった。
もしここに最強死刑囚がいたのなら、﹁なんてパンチだ﹂と呟い
た事だろう。
強引なナンパの末路、いい気味だ。
彼もこれに反省したら、二度とエリスに声を掛けるなんて危険な
真似はしないだろう。
教訓だ。
さて、残り二人と喧嘩になるだろうから、今のうちに割って入る
か。
﹃あたしを誰だと思っているのよ! 身の程をわきまえなさいよ!﹄
しかし、エリスは一撃では終わらなかった。
710
ボレアスキック。
サウロスから学び、ギレーヌの訓練によって完成された喧嘩キッ
クは、二人目のみぞおちを正確に捕らえた。
﹁ぐぅぇえ⋮⋮!﹂
四本腕の少年は悶絶しながら膝を落とした。
そこに、膝蹴りで追い打ち。
少年は顎を跳ね飛ばすように吹っ飛んだ。
﹁え? え? ええ?﹂
最後の一人、鳥の少年は、まだ事態をうまく飲み込めていない。
それでも、向かってくるエリスを迎撃しようと思ったのか、腰の
それ
剣に手をやる。
剣はやりすぎだろう。
慌てて魔術を使って割って入ろうとする。
しかし、エリスの方が数倍はやりすぎだった。
彼女は鳥の少年が剣を抜くより前に、
その顎先をかすめるような拳はヒットした。
鳥の少年が、その白目のないはずの瞳で白目を向く。
一瞬で三人が無力化された。
エリスは、つかつかと最初の少年の所に歩き、
その頭をサッカーボールのように蹴りあげた。
711
少年は一発目で目を覚まし、しかし何も出来ず、ただ丸まって耐
えた。
エリスはそんな少年を、何度も、何度も、執拗に蹴り上げる。
﹃これは、ルーデウスが、初めて、買ってくれた、服なんだからね
!﹄
あらまあ! エリスさん!
そんなに俺のことを!
あんな安物なのに、赤毛は目立つからってかぶせただけなのに⋮
⋮。
おじさん、キュンときちゃう!
﹃一生後悔させてやるわ! 踏みつぶしてやる!﹄
ナニを?
何がナニかは怖くて聞けない。
エリスは少年を蹴り転がし、
仰向けにして片足を掴み、
恐ろしい形相で恐ろしいことを言った。
目を覚ましたばかりの少年も、彼女が何を言っているのかわから
ないが、何をするのかわかったのだろう。
助けてくれ、ごめんなさいと言って逃げようとする。
しかし、エリスに言葉は通じない。
エリスは逃さない。
詰めの甘い女ではない。
エリスは徹底的にやる。
712
あの少年の末路は、
三年前、逃げきれなかった時の俺の末路だ。
﹃エリス、待って!﹄
ここで、俺はようやく止めに入ることができた。
突然の出来事すぎて、どうにも割って入るのが遅れてしまった。
﹃抑えて! エリス、それ以上はいけない! ハウス!﹄
﹃なによ、ルーデウス! 邪魔をするの!﹄
後ろから抱きついて止める。
手に胸が触れる。
柔らかい感触だ。
けど、それを楽しむ暇はない。
エリスは暴れ、今にも少年のを踏み潰しそうだ。
少年のナニを?
ナニが何かは怖くて言えない。
﹃縫えば、縫えばいいから! 俺が縫うから!
だから許してあげて! さすがにそれはかわいそう!﹄
﹃なによ⋮⋮⋮ふん!﹄
俺が必死に言うと、
エリスは怒り心頭といった表情のまま、暴れるのをやめた。
拘束を解くと、肩をいからせてルイジェルドの方に歩いて行った。
ルイジェルドは酒場の椅子に座り、何か微笑ましいものを見る目
で見物していた。
713
﹃ルイジェルドさんも! 次からは止めてください!﹄
やんちゃ
﹃ん? 子供の喧嘩だろう?﹄
﹃子供の喧嘩を止めるのも保護者の仕事です!﹄
明らかに実力が違うじゃないですか。
−−−
﹁大丈夫ですか?﹂
﹁あ、ああ、だ、大丈夫⋮⋮﹂
俺は、倒れた少年たちにヒーリングを掛け、助け起こした。
なんとなく、仲間意識。
﹁悪かったね。彼女、魔神語が喋れないんですよ﹂
﹁こ、怖かった⋮⋮な、なんで怒ってたの?﹂
﹁しつこいのが嫌いなのと、フードが大事なものだから、かな?﹂
﹁そ、そっか⋮⋮すまなかったと伝えてくれないか?﹂
エリスを見ると、フードを外し、その破れ目を睨んでギリギリと
歯ぎしりしている。
もう、絶対に許さないって顔だ。
あんな顔は久しぶりに見た。
具体的に言うと、初対面の時以外には見たことがない。
!?、とかビキビキ、とかいう効果音がついてそうな顔だ。
﹁今話しかけたら、多分僕でも殴られます﹂
﹁そ、そっか。可愛いけど、怖いんだな﹂
714
最近はお淑やかになったと思ったが⋮⋮。
猫を被っていたのだろうか。
成長したと思ってたのに、ちょっとショック。
﹁そうとも。可愛いんだ。だから、あんまり気安く話しかけない方
がいい﹂
﹁う、うん。そうだね﹂
﹁それと、もし今回のことで復讐しようとかも、考えないほうがい
いですね。今回は不慮の事故だから止めたけど、次は命を落としま
すよ﹂
きちんと釘を刺しておく。
少年はしばらく目を丸くして鼻をさすったり、
後頭部にこぶが無いかを確認していたが、
落ち着いたらしく、名前を名乗った。
﹁⋮⋮オレはクルト。君は?﹂
﹁僕はルーデウス・グレイラット。さっきのはエリス﹂
名乗り合うと、遠巻きにしていた二人の少年もよってきた。
クルトがヤンチャしたせいでとばっちりをくった二人だ。
﹁バチロウ﹂と、腕四本のゴツイ方。
﹁ガブリン﹂と、鳥っぽい方。
二人はそう名乗ると、クルトの両脇に移動し、ポーズを取った。
﹁三人揃って、﹃トクラブ村愚連隊!﹄﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
715
ア○ナエクスクラメーションみたいなポーズを取る三人。
俺は素直にダサいと思った。
愚連隊ってなんだよ。暴力団かよ。
ていうか、トクラブ村ってどこだよ。
﹁もうすぐDランクに上がりそうだし、そろそろ女の子の魔術師が
欲しいなって話してたんだ﹂
﹁女の子の魔術師?﹂
そんなのがどこにいるんだ?
ここにいる魔術師は俺だけだ。
別に魔術師らしい格好をしているわけではないし⋮⋮。
ん? 魔術師らしい格好?
﹁もしかして、フードを被ったエリスを見て、魔術師だと思った?﹂
﹁うん。だって、フードをつけるのは魔術師だろう?﹂
﹁剣を持ってるでしょう?﹂
﹁え? あ、本当だ﹂
腰の剣は目にはいらなかったらしい。
きっと、彼は自分の都合のいいことしか見えないタイプなのだ。
﹁君は魔術師だよね。治癒魔術が使えるなんてすごいよ﹂
﹁まあ、一応は﹂
﹁二人一緒にどうだい?﹂
愚連隊に?
俺が?
冗談じゃないよ。
716
ていうか、こいつ、エリスにあれだけやられて懲りてないのか?
﹁僕が入ると、あっちの人も一緒に入ることになりますよ﹂
指差す先にはルイジェルド。
二人は酒場のテーブル席で、何やら話している。
ルイジェルドは、何やらエリスに言い含めている。
エリスはムッとした顔をしつつも、素直に頷いていた。
﹁え? あの人もパーティなのかい?﹂
﹁そうとも。名前はルイジェルド﹂
﹁ルイジェルド⋮⋮? パーティ名は?﹂
﹁﹃デッドエンド﹄﹂
その単語に、彼らは﹁はぁ?﹂という顔をした。
なんてものを騙ってるんだ、と言わんばかりだ。
﹁そんな名前、大丈夫なのか?﹂
﹁本人の許可は取ってあります﹂
﹁なんだそりゃ﹂
冗談だと思っている。
でも、本当のことだ。
﹁ま、いいじゃないか。
そういうわけだから、俺もエリスも君らと一緒にはいけないよ﹂
こいつらと組んで良い事もなさそうだしな。
俺たちは、仲良し冒険者ごっこをやりたいわけではないのだ。
717
﹁そっか、でも後悔するなよ。
オレたちはこの町で有名になるから。
後になってパーティに入れてくれ、ってのは無しな?﹂
有名って⋮⋮。
いや、でもそういうものか。
町で冒険者デビュー。将来に希望を持つ若手。
さっきの冒険者ギルドでも、こういう若手は微笑ましい目で受け
入れられるのだろう。
でもな。
﹁エリス相手に何もできずに転がされて、よく言うよ﹂
﹁さ、さっきのは油断してたんだよ﹂
ライオン
﹁お前それ、魔大陸の平原でも同じこと言えんの?﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
言い負かした。
サバンナ
実に気分がいい。
さすが魔大陸平原のパクスコヨーテは説得力が違うぜ。
俺は﹃トクラブ村愚連隊﹄と別れた。
−−−
食事を終えて部屋に入る。
毛皮のベッドが三つ並んだ部屋だ。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
718
俺は無言でベッドに腰掛けた。
疲れた。
今日も疲れた。
体調がやや良くないのもあるが、
人と会ったり、笑われたり、馬鹿にされたりするのは精神的に疲
れるのだ。
例えそれが演技でも。
﹁⋮⋮﹂
エリスは窓の外を見ていた。
そこには、徐々に暗くなっていく町の風景がある。
半壊した城が実に幻想的だとは思うが、
よく背景を気にしている余裕があるものだ、と思う。
考えなければいけないことはたくさんある。
だってのに、全部俺に丸投げか。
いい気なもんだ。
いや、ネガティブな考えはよそう。
彼女が考えてないのは、俺を信頼してくれているからだ。
それが証拠に、ワガママもあまり言わないじゃないか。
︵ワガママは言わないけど、喧嘩はするけどね︶
寝転び、天井を見ながら考える。
これからどうするか。
719
必要なものは、そう、まずは金だ。
この宿は部屋数一泊で石銭6枚。
冒険者向けのサービスのお陰で石銭5枚。
三人分で石銭15枚だ。
最低でも、それ以上は稼がなければいけない。
しかし、依頼を見たところ、Fランクの相場は石銭5枚前後。
Eランクでも屑鉄銭1枚前後だ。
一人なら、Fランクの仕事を1日に1回以上やることで宿代を払
い、
ランクの上昇にしたがってもらえる金額が増えて、金が貯まる。
F・Eは基本的に町中の仕事だが、
Dランク以上になってくれば採取の依頼も増える。
Eランクで金を貯めつつ、装備を買ってDランクの仕事を受けて
いく。
そういうシステムなのだろう。よく出来ている。
︵1日に昼飯代・消耗品代も込みで考えて、石銭20枚。
最低でも1日に1回依頼をこなせるとして、石銭10∼15。
現在の手持ちを石銭で換算すると、132枚︶
二週間持たない。
あっという間に無くなる。
俺たちは1日に二つか三つ以上の仕事をしなければ元が取れない。
手分けをすれば、1日に石銭20枚程度の仕事は出来るだろう。
720
けど、ルイジェルドを一人にさせた結果、正体がバレるかもしれ
ない。
エリスは言葉が喋れないから、依頼をこなすのも大変だろう。
短気なエリスのことだ。
出先で喧嘩するかもしれない。
そもそも、別々に仕事をすると、ルイジェルドの宣伝が出来ない。
ランクアップすれば、金の問題は解決だ。
戦闘系の依頼なら、ルイジェルドやエリスが得意とする所。
すぐに軌道に乗るだろう。
とはいえ、討伐系は基本的にCランクから。
2週間以内にDランクに上がれば、なんとかなる。
けど、それには1日1回の依頼をこなすだけでは無理だろう。
何回依頼をこなせばランクアップ出来るかは聞きそびれたが⋮⋮。
少なくとも、能力があるから飛び級できるわけではないらしい。
地道にこなして行かなければならないのだ。
また、俺の体調は本調子ではない。
大丈夫だとは思うが、俺やエリスが解毒で直らない類の病気にな
る可能性もある。
それに、他にもどんな時に金を使うかわからない。
ルイジェルド用の染料も定期的に買い足す必要もある。
服だって、着の身着のままというわけにはいかないだろう。
721
元々上等なものだから丈夫だし、魔術を使えば洗濯もすぐに済む。
服の水分を蒸発させるなんて簡単だからな。
とはいえ、だ。
魔術による乾燥は服の生地が結構痛むのだ。
今後破れるかもしれない。
早めに着回せるようにしたい。
石鹸だって欲しい。
俺もエリスも、最近はお湯を絞った布で身体を拭いているだけだ。
生活用品はこれからもどんどん必要になっていくだろう。
金はいる。
借金をするか?
この町にだって、探せば金融業者ぐらいいるだろう。
いや、借金はなるべくしたくない。
少なくとも、返すアテがないうちは。
アクアハーティア
いっそ、﹃傲慢なる水竜王﹄を売るか?
いや、それは最後の手段だ。
エリスが誕生日にくれたものを、そう簡単に手放せるか。
︵まさか家計で悩むとはね⋮⋮︶
生前、金のことを口にだそうとした両親を床ドンで黙らせた事を
思い出す。
胃が痛くなるような光景だ。
二度と思い出したくない。
また、数年前、学費を二人分出してくれと言った時のパウロの顔
722
も思い出す。
ちょっと、金のことを甘くみていた。
︵反省するより、金を稼ごう︶
どうすれば効率よく稼げるだろうか。
毎日依頼をこなす。
いや、依頼をこなすより、
平原に出て魔物でも狩った方がいいかもしれない。
でも、それだと﹃デッドエンド﹄の名前を広めることが出来ない。
﹃デッドエンド﹄を広めるためには、冒険者ランクは上げておい
たほうがいい。
きっと、今後のためにもなる。
魔物の素材の買取も、ギルドを通したほうが高いしな。
でも、そんな事をしている暇はあるのか?
ルイジェルドのことは置いといて、
まずは金を貯めて、生活の基盤を作ってからにすべきじゃないの
か?
︵思考が堂々巡りだな⋮⋮︶
金を稼ぐ、
ルイジェルドの評判を上げる。
二つ同時にやらなきゃいけないのが辛い所だ。
︵なにか⋮⋮いい方法があればいいんだがな︶
723
何も思いつかないまま、俺は静かに眠りに落ちた。
−−−
夢。
白い場所だった
何もない場所だった。
そして、卑猥な奴が立っていた。
同時に、鈍重で卑屈なきもちが沸き上がってくる。
またか、と溜息をつく。
今度はなんだよ。
イライラしながら、モザイク野郎に問いかける。
なるべくなら、手短に終わらせて欲しいものだ。
﹁今回もつれないね。
ルイジェルドを頼ったお陰で、町までたどり着いただろう?﹂
確かにな。
でも、ルイジェルドの性格を考えるにだ。
もし俺たちが逃げても、影ながら守ってくれただろうさ。
﹁随分と彼を信頼してるねえ。
なのに、どうして僕は信用してくれないんだい?﹂
わかんねえのか?
724
神を名乗っているくせに?
﹁さて、そんな事より、次の助言だ﹂
はいはい、わかったよ。
手短に終わらせてくれ。
モザイク野郎の声を聞くのも嫌なら、この感覚も嫌なのだ。
ルーデウスが夢の記憶として薄れ、クソニートの感覚がよみがえ
るこの感覚は。
どうせ最終的には聞かされることになるんだから、最初から聞い
た方がいい。
﹁卑屈だねえ﹂
どうせ、お前の手のひらの上で踊らされる事になるんだろう?
﹁そんな事はないさ。どう動くも君次第﹂
御託はいいから、さっさと話を進めろよ。
﹁はいはい⋮⋮。
ルーデウスよ、ペット探しの依頼を受けなさい⋮⋮。
それであなたの不安は解消されるでしょう⋮⋮﹂
でしょう⋮⋮でしょう⋮⋮でしょう⋮⋮。
エコーを聞きながら、俺の意識は沈んでいった。
725
−−−
夜中。
目覚める。
嫌な夢をみた。
正直、あのお告げは勘弁してほしい。
いいタイミングで出てきやがって。
間違いなくあいつは邪神だな。
人の心の弱い部分を付くのがうまい邪神だ。
モッ○スだ。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
ため息を一つ。
左を見る。
ルイジェルドは寝ている。
ベッドではなく、なぜか部屋の隅で槍を抱えるように。
右を見る。
エリスは起きていた。
ベッドに腰掛け、
膝を抱いて、すっかり暗くなった窓の外を眺めていた。
俺は静かに起き上がると、彼女の隣に座った。
窓から外を見る。
この世界も、月はひとつだ。
726
﹁眠れないんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮うん﹂
エリスは窓の外を見ながら、こくりと頷いた。
﹁ねえ、ルーデウス﹂
﹁はい﹂
﹁私たち、帰れるのかな⋮⋮?﹂
不安げな声。
﹁それは⋮⋮﹂
俺は自分の不明を恥じた。
彼女は今まで通りだと思っていた。
不安なんてないし、この状況を、冒険を、
純粋に楽しんでいるのだと思っていた。
違うのだ。
彼女も不安だったのだ。
けど、それを俺に悟られないように振舞っていたのだ。
ストレスも溜まっていたはずだ。
だから、あんな喧嘩をしたのだ。
気付いてやれなかった。
なんてことだ。
﹁帰れますよ﹂
727
そっと肩をだくと、こつんと頭が肩に乗せられた。
エリスはここ数日、満足に風呂に入っていない。
ふわりと香る匂いも、以前に嗅いだのとは全然違うものだ。
けれど、嫌じゃなかった。
嫌じゃないので、俺のキカンボウが暴れそうになる。
我慢!
我慢⋮⋮。
シルフィ
帰るまでは鈍感系だ。
あの時とは状況が違う。
今は、我慢しなければならない理由がある。
とってつけたような理由だが、不安に思っている彼女に付け入る
ような、卑怯なマネもしたくない。
﹁ねえ、ルーデウス。任せても、大丈夫よね?﹂
﹁安心してください。なんとしても、帰りましょう﹂
エリス
ああ、しおらしい時のお嬢様は可愛い。
サウロス爺さんの気持ちもわかるよ。
こりゃ甘やかしたくなる。
⋮⋮てか、爺さんたちはどうなったんだろうか。
⋮⋮⋮いや。
⋮⋮⋮⋮今は、考えないようにしよう。
﹁頑張りましょう。エリスも寝て下さい。明日から忙しいですよ﹂
俺はエリスの頭にポンと手を乗せ、自分のベッドへと戻った。
728
ルイジェルドと目があった。
聞かれていたか。
ちょっと恥ずかしい。
が、彼はすぐに目を閉じた。
見て見ぬふりをしてくれたらしい。
ああ、いい人だなあ。
パウロだったらきっと、有無をいわさずからかってきただろうに。
やっぱり、この人のことを後回しにしちゃいけない。
しかし、パウロか。
ブエナ村の皆は元気にしているのだろうか。
パウロは、シルフィは、心配してくれているだろうか。
手紙を送らないとな。
届くかどうかはわからないけど⋮⋮。
︵それにしても、ペット探しか⋮⋮︶
人神が何を考えているかわからないが、
今回だけは、何も考えずにしたがってやろうじゃないか。
−−−
こうして、冒険者生活の一日目は静かに終わりを告げたのだ。
729
第二十八話﹁人の命と初仕事﹂
リカリス町2番地、キリブ長屋。
一階建ての建物で、横に長い建物に4つの入り口が付いている。
住んでいる者たちは、決して裕福とは言えない。
だが、スラムほど貧困にあえいでいるわけではない。
魔大陸の一般的な層である。
そんな場所に、三つの影があった。
小さな影が二つ、大きな影が一つ。
彼らは傍若無人にのしのしと道を歩き、
そして誰にはばかる事無く長屋の一室の前に立った。
﹁こんにちわー。冒険者ギルドの方からきましたー﹂
幼い少年が高い声を上げて、一室をノックした。
不気味だ。
このへんの冒険者に、こんな丁寧な口調で話す奴はいない。
冒険者とは、基本的に粗野な連中なのだ。
しかし、その優しげな声で、部屋の住人はあっさりと騙されてし
まったらしい。
がちゃりと扉を開く。
出てきたのは、齢にして7、8歳ぐらいの少女。
トカゲのような長い尻尾と、先が二つに割れた舌が特徴的なホウ
ガ族。
三人を見て目を丸くする彼女に、少年はにこやかに話しかけた。
730
﹁どうもこんにちわ。
こちら、メイセルさんのお宅でよろしかったですか?﹂
﹁え、あ、あの?﹂
﹁あ、申し遅れました。
わたくし、﹃デッドエンド﹄のルーデウスと申しますです、はい﹂
﹁で、でっどえんど?﹂
少女︱︱メイセルもデッドエンドの名前は知っていた。
デッドエンド。
400年前のラプラス戦役において数多の武功を上げ、味方をも
蹂躙した悪魔、スペルド族。
その中でも最も凶暴凶悪とされる個体。
奴に会えば、死ぬ。
そう言われている。
遭遇した者は、誰しも﹁必死で逃げなければ死んでいた﹂と口に
する。
魔大陸における恐怖の代名詞である。
どんな魔物でも打ち倒せると豪語する屈強な冒険者でも、
デッドエンドの名前を聞けば震え上がる。
デッドエンドの特徴はメイセルも知っている。
こんなチビではない。
﹁本日は、ペットの捜索ということで、ご依頼を受けさせていただ
きました。
その詳細をお聞きしに伺いましたが、お時間の方はよろしいでし
ょうか?﹂
731
デッドエンド。恐ろしい名前だ。
後ろの二人はちょっと不気味だが、
この馬鹿丁寧に喋る少年を見ていると、怖さは薄れた。
そして、彼らは冒険者で、自分の依頼を受けてくれたらしい。
﹁うちのミーを見つけてください﹂
﹁はい。名前は、ミーちゃんというのですね。可愛らしい名前です
ねえ﹂
﹁わたしがつけたんです﹂
﹁ほう、それは素晴らしいネーミングセンスです﹂
そんな言葉で、メイセルは気を良くした。
﹁それで、ミーちゃんというのは、どういう方なのですか?﹂
メイセルは話す。
ペットの外見、
三日前から行方不明な事、
帰ってこない事、
いつもは呼んだらすぐ来るのに来ない事、
餌を食べてないからお腹が空いているはずという事。
などなど。
歳相応の要領を得ない話し方だった。
普通の大人なら、その話し方にウンザリして、
途中で帰ってしまったかもしれない。
けれども、少年はニコニコしながら聞いてくれた。
一生懸命喋る少女の言葉に一つ一つ頷きながら。
732
﹁わかりました。それでは探して参ります。
このデッドエンドにお任せください!﹂
少年はグッと親指を立てた。
なんだろうか。
見れば、後ろの二人も立てていた。
メイセルはよくわからなかったが、真似して立ててみた。
それを確認すると、少年は踵を返した。
脇のフードを被った女の人も付いて行く。
一番大きな男の人は、しゃがみこんで少女の頭に手を載せた。
大きな人は言った。
﹁必ず見つけてみせる。安心して待っていてくれ﹂
顔を縦断する傷。額の宝石。
そして、まだら模様の青い髪。
怖い顔だ。
だが、乗せられた手には温かみがあった。
少女はこくりと頷いた。
﹁お、お願いします﹂
﹁ああ、任せておけ﹂
去っていく三人。
その三人の背中を見ながら、メイセルは大きな人に聞いた。
﹁あの、お名前はなんていうんですか?﹂
733
﹁ルイジェルドだ﹂
彼は短くそう言うと、すぐに背中を向け、歩き出した。
メイセルは頬を赤く染めて、ルイジェルドの名を口の中で呟いた。
−−− ルーデウス視点 −−−
依頼主との邂逅。
そこで俺は確かな手応えを掴んでいた。
生前、よくウチにきた訪問販売員の真似をしてみたが、うまくい
ったようだ。
冒険者には笑われてもいいが、依頼主には良い人だと思われなけ
ればいけない。
依頼人に対しては慇懃な態度で話をするのだ。
﹁さすがだな。あんな演技もできるのか﹂
ほっとしていると、ルイジェルドが話しかけてきた。
﹁いえいえ、ルイジェルドさんこそ最後のアレ、よかったですよ﹂
﹁最後のアレ? 何のことだ?﹂
﹁あの子の頭に手を乗せて、何か言ってたじゃないですか﹂
あれは完全にアドリブだった。
何を言うかとヒヤヒヤしたが、俺が思った以上にいい成果を出し
ていた。
734
﹁ああ、あれか、何がいいんだ?﹂
何がも何も。
あの少女は顔を真っ赤に染め、上気した顔でルイジェルドを見て
いた。
俺があんな目を向けられたら、理性の一つも飛んでしまっただろ
う。
しかし、そんな事を真顔で言えば、子供好きのルイジェルドの事
だ、
むっとした顔で俺の言動を諌めるだろう。
﹁ヘヘッ、あの女、完全に兄貴にイカれちまってましたよ、ぐへへ
へ﹂
だから、冗談めかした口調で、ルイジェルドの太ももを肘でツン
ツンする。
ルイジェルドは苦笑し、そんな事はないだろう、と自信なさそう
に言った。
﹁ウェヘヘヘ、兄貴が本気になりゃあ、あんな小娘一人⋮⋮あイタ
!﹂
後ろからベシッと頭を叩かれた。
振り向くと、エリスが口を尖らせていた。
﹁変な笑い方しないでよ!
演技だったんじゃないの?﹂
どうやら、俺が下衆っぽい仕草をしていたのが気に入らないらし
735
い。
エリスは下衆が嫌いだ。
あの誘拐事件の時からだ。
ロアの町中でも、盗賊っぽい格好の人間を見かける度に顔をしか
めた。
冗談のつもりだが、エリスには気に食わなかったらしい。
﹁ごめんなさい﹂
﹁もう! グレイラット家が品のない笑いをしちゃいけないんだか
ら﹂
その言葉に、俺はあやうく吹き出すところだった。
聞きました奥さん。
エリスが品ですって。
扉を蹴破らなければ気がすまなかったお嬢様が、
なんともお淑やかに成長したもので。
でも、そういう事を言うなら、
昨日みたいに突然キレて喧嘩するのもやめて欲しいものです。
いや、サウロスを見る限り、
突然キレて相手を殴るぐらいは上品の内にはいるのか。
いや、そんな馬鹿な。
⋮⋮アスラ貴族における品位の線引がわからない。
﹁ところでペットの方は、見つかりますかね﹂
736
わからないので、話を変える。
聞いた話によると、ペットは猫っぽい。
色は黒で、子供の頃からずっと一緒に育ってきたらしい。
大きさは結構なものだ。少女が両手を広げて大きさを表現してい
た。
それをそのまま信じるなら、柴犬ぐらいの大きさだろうか。
猫にしては結構大きい。
﹁もちろんだ。見つけると約束したからな﹂
ルイジェルドはっきりと断言した。
頼もしいことだ。
そのままルイジェルドは先頭を歩き出す。
足取りに迷いはない。
俺はちょっと不安だ。
いくらルイジェルドが生体レーダーを備えているといっても、
町中から動物を一匹見つけ出すのは容易ではない。
﹁策はあるんですか?﹂
﹁動物の動きは単純だ。見ろ﹂
ルイジェルドの指差す先。
そこには、かすかながらも、肉球が土を踏みしめた跡があった。
すげえ。
全然気づかなかった。
﹁これを追っていけば、たどり着けると?﹂
﹁いや、これは別の奴だろう。聞いていた話より足が小さい﹂
なるほど、確かにこのサイズでは、普通の猫がいいところだろう。
737
ま、少女の表現は誇張だと思うがね。
﹁ふむ﹂
﹁探している獲物の縄張りに、別の奴が入りこみつつあるのだ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁間違いない。匂いが薄れつつあるからな﹂
匂い?
もしかして、縄張り用のマーキングを、この男は嗅ぎ分けている
のだろうか。
﹁こっちだ﹂
ルイジェルドは、一人で何やら納得しつつ、路地の奥へと入って
いく。
俺は無言で追従する。
よくわからないが、何か進んでいる気がする。
名探偵の後ろを付いて行く助手は、こんな気分なんだろうか。
圧倒的な追跡術で犯人を追い詰め、
恐怖による誘導尋問と、魔界式バリツで自白を強要。
どんな事件もスピード解決。
名探偵ルイジェルド、ここに見参。
なんちゃって。
﹁見つけた、恐らくコイツだろう﹂
ルイジェルドは、路地の一角を指さして、そう言った。
何を見つけて、何が恐らくなのか、俺にはさっぱりわからない。
少なくとも、肉球の足あとなんかは残っていない。
738
﹁こっちだ﹂
ルイジェルドは路地をスルスルと進んだ。
足取りに迷いはない。
どんどん狭い路地へと入っていく。
まるで猫が通りそうな細い路地だ。
彼が何を考えて動いているのかわからないが、
恐らく、順調に足取りを追っているのだろう。
﹁見ろ。ここで争った跡があるな﹂
袋小路で、ルイジェルドの足が止まった。
見ろと言われても、俺にはそんな跡は見えない。
別に血の跡がついているわけでもないし、地面がどうにかなって
いるわけでもない。
﹁こっちだ﹂
ルイジェルドが先行する。
俺とエリスは付いて行くだけ。
なんて楽な仕事なんだろうか。
路地を抜けて、通りを横切り、また路地へ。
路地を抜けて、裏路地へ、そしてまた路地へ。
迷路のような場所をズンズンと進んでいく。
ある路地を抜ける。
すると、周囲の風景が変わった。
先ほどよりも幾分か寂れたものへと変わっている。
739
建物は崩れ、外壁は禿げ、粗末なものへ。
剣呑な目つきで俺たちを睨んでくる奴。
路上で寝転ぶ奴。
汚い身なりの子供も多い。
スラムだ。
次第に、という感じではなかった。
抜け道から迷い込んだ感じだ。
一瞬にして、俺の中の警戒レベルが上がった。
﹁エリス。いつでも剣が抜けるようにしておいてください﹂
﹁⋮⋮どうして?﹂
﹁念のためですよ。あと、すれ違う相手と背後に気をつけて﹂
﹁う、うん、わかった⋮⋮!﹂
エリスにそう言っておく。
ルイジェルドもいるし、滅多なことはないと思う。
けど、他人任せでミスをしたら目も当てられない。
自分の身は自分で守らなければ。
そう思って、俺は懐の金の入った袋をぎゅっと握り締める。
大した金が入っているわけじゃないが、スられるわけにもいかな
い。
時折、荒くれ者がルイジェルドに睨みをくれる。
が、ルイジェルドがわりと本気で睨み返すと、すぐに目を逸らし
た。
眼力パナイ。
740
こういった町だと、むしろ冒険者より、
強者に対する警戒は上なのかもしれない。
﹁本当にこんなところにいるんですか?﹂
﹁さてな﹂
ルイジェルドの返事は、なんとも頼りないものだった。
迷いなく歩いていたのではなかったのだろうか。
いや、言葉少ななだけで、ルイジェルドはきっと何かを見つけて
いるに違いない。
そう信じよう。
しばらく歩いて行くと、ルイジェルドはある建物の前で足を止め
た。
﹁ここだ﹂
視線の先には下へと下る階段があり、その先には扉。
ビジュアル系の人たちが集まる地下酒場って感じだ。
もちろん、ロックでポップなミュージックも聞こえてこないし、
スキンヘッドのサングラスが出入り客を門番をしているわけでも
ない。
代わりに漂うのは、獣臭さ。
ペットショップの近くを通った時のような、なんとも言えない獣
の臭い。
それとあれだ。
犯罪の匂いがする。
741
﹁中には何人います?﹂
﹁人は一人もいない。生き物は多いがな﹂
﹁じゃあ入りましょう﹂
誰もいないなら、特に迷うことは無かった。
俺は階段を降りて、扉に手を掛けた。
鍵が掛かっている。
土魔術で解錠。
一応、周囲を確認。
誰にも見られていない事を確認して、さっと中に入る。
念のため、内側から鍵をかけ直す。
まるで泥棒みたいだな。
中は暗い廊下が続いていた。
﹁エリスは背後を警戒してください﹂
﹁わかったわ﹂
誰か入ってくればルイジェルドが気付くだろうが、一応。
俺たちはルイジェルドを先頭に、奥へと入っていく。
廊下の奥には扉が一つ。
その扉の奥には、小部屋があり、さらに扉が一つ。
扉を二つ抜ける。
すると、けたたましい動物の泣き声が耳朶を叩いた。
最奥の部屋には、ケージが並んでいた。
所狭しと並べてあるケージ。
742
その中には、大量の動物が閉じ込められていた。
犬や猫、見たこともない動物まで。
学校の教室の大きさの部屋に、ぎっしりと。
﹁⋮⋮なによ、これ⋮⋮﹂ エリスが慄いた声を上げる。
俺はというと、
なんだ、この部屋は。
と、疑問に思うと同時に、
ここに動物が集められているなら、
目当てのペットもいるかもしれない、とも思っていた。
﹁ルイジェルドさん。目的の猫はいますか?﹂
﹁いる。あいつだ﹂
即答だった。
指差す先を見ると。
⋮⋮黒豹みたいな奴が入っていた。
でかい。
マジででかい。
少女が両手を拡げたサイズの2倍ぐらいはある。
﹁ほ、ほんとにコイツなんですか?﹂
﹁間違いない、首輪を見てみろ﹂
黒豹の首輪には、確かに﹁ミーちゃん﹂という単語が書いてあっ
た。
743
﹁確かにミーちゃんですね﹂
さてと、これで依頼は達成だ。
この黒豹をケージから出し、少女の所に持っていけば終わる。
だが、さて。
他の動物はどうしたものか。
見たところ、首輪やら足輪やらを付けている個体も多い。
中には、﹃ミーちゃん﹄のように、名前が書いてあるのもいる。
どうみても、ペットだ。
部屋の隅にはロープや轡のようなものが乱雑に落ちている。
ロープで連想できる言葉と言えば、捕まえる、だ。
他人の高級ペットを攫ってきて、他に高く売りつける。
そんな商売もありそうだ。
この世界に、そのへんの法律があるとは思えないが。
良いことではないのは確かだろう。
言ってみりゃ、泥棒だからな。
﹁むっ﹂
ルイジェルドが入り口の方へと顔を向けた。
エリスも気づいた。
﹁誰か入ってきたわ﹂
俺は動物の声がうるさくてわからない。
744
ルイジェルドはともかく、エリスはよくわかるものだ。
さて、どうしようか。
入り口からここまで、時間はあまりない。
逃げるか。
いや、逃げ道など無い。一本道だ。
﹁とりあえず、捕まえましょう﹂
話し合いという選択肢は捨てておいた。
俺達は不法侵入者。
十中八九、ここは犯罪の現場だと思うが、正当な理由がある可能
性も捨て切れない。
とりあえず拘束してみて、
いい奴なら、話し合いによって口止めをして、
悪い奴なら、殴り合いによって口止めをしよう。
−−−
数分後。
俺は部屋の隅に転がる三人の男女を見下ろしていた。
男2人に女1人。
ルイジェルドが一瞬にして気絶させた。
俺は全員に土魔術で手枷をつけ、水をぶっかけて目を覚まさせた。
男の一人がギャーギャーと喚いていたので、
745
近くに落ちていた布で猿轡をかませた。
残り二人は静かなものだった。
だが一応、全員に猿轡だ。
平等ってやつだな。
﹁⋮⋮ふむ﹂
唐突に湧き上がった疑問。
さて、どうしてこうなった?
俺たちはEランクの仕事を受けていたはずだ。
迷子の猫探し。
ルイジェルドが任せろというのでまかせていたら、
いつのまにかスラムに迷い込んでいた。
そこの建物に入ったら動物がたくさん捕まえられていて、
気づいたら、なぜか人を拘束していた。
捕まえるべきは人ではないというのに。
こうなったのも、みんな人神のせいだろう。
あいつは、こうなることを見越していたのだ。
面倒なことになった。
ペット探しなんて受けなければよかった。
−−−
拘束した三人を観察してみる。
746
男A
魔族。
目に白い部分がなくて、複眼。ちょっと気持ち悪い。
ギャーギャーとうるさかった男だ。
野卑な感じというか、喧嘩がうまそうなイメージがある。
ロキシー辞典でみた気がしたが、どうにも名前が思い出せない。
唾液が毒性を持っているので、キスする時はどうするんだろうと
疑問に思ったのは覚えている。
男B
魔族。
トカゲっぽい顔だ。門番とはやや形や模様が違う。
トカゲの顔は、どうにも表情とかがわかりにくい。
でも目からあふれる知性の色は、俺を警戒させた。
女A
魔族。
複眼のようなものを持っている。
怯えた表情だ。
やはり気持ち悪いが、体つきがエロいので差し引きゼロ。
さて、彼らをこうして見下ろしていても、何も始まらない。
お話を⋮⋮いや、ボカすまい。
尋問をするなら、誰がいいだろうか。
気持よく情報を吐いてくれそうなのは、誰だろうか。
男か、女か。
女Aは怯えている。
ちょっと脅してやれば、案外何もかもを喋ってくれるかもしれな
747
い。
いや、女ってのは嘘をつくからな。
自分が助かるために、支離滅裂で、前後の繋がりのない嘘をつく。
世の中全ての女がそうではないと思うが、
少なくとも、姉貴はそういう奴だった。
俺はそんな嘘を聞くと、憤りが先に出て、話の真実がわからなく
なるタイプだ。
だから、女Aは除外しよう。
では、男のどちらか。
男Aはどうだろうか。
彼は興奮している。
三人の中で一番ガッシリとした体。
顔には傷があり、喧嘩が一番得意ですって感じだ。
あまり頭はよくないだろう。
さっきも、﹁なんだてめえら﹂とか﹁この手枷をはずしやがれ﹂
とか、そんな事を言っていた。
男Bはどうだろうか。
顔色はよくわからないが、
彼は俺たちをよく観察している。
決して馬鹿ではあるまい。
馬鹿でないのなら、こういう状況になった時の嘘も考えているだ
ろう。
俺は男Aを選んだ。
興奮して冷静さを失っている彼ならば、
748
ちょっと挑発したり、誘導したりすれば、
必要なことは全部しゃべってくれるような気がした。
ま、ダメでもあと二人残っているからな。
男Aの猿轡を外す。
男Aは俺を睨みつけてくる。
が、何も言わない。
﹁いくつか聞きたい事があります。
大人しく喋ってくれれば手荒なげぶぅはぁ!?﹂
いきなり蹴り飛ばされた。
しゃがんでいた俺は踏ん張ることも出来ず、そのまま後ろに吹っ
飛ぶ。
ごろんと一回転。
後頭部を壁を打ちつけて、目の前に星が散った。
痛い。
くそう。
しかし、本当に頭の悪い奴だな。
こんな状況で捕まえている相手を蹴るとは。
相手を怒らせたらどうなるか、とか考えないんだろうか。
﹁え!? ちょ、ちょっと! やめなさいよ!﹂
エリスの叫び。
俺は跳ね起きた。
男Aがエリスに何かをしたのかと思った。
俺が考えている間に手枷を外し、ルイジェルドの目を盗んでエリ
749
スを人質に⋮⋮。
﹁なっ⋮⋮!?﹂
違った。
俺の目に飛び込んできたのは、男Aの喉に突き刺さる短槍だった。
ルイジェルドが、男Aを突き刺したのだ。
エリスは、それを見て目を丸くしている。
短槍が横に捻るように引き抜かれる。
血が飛んだ。
ピッと壁に赤い斑点がついた。
男Aは反動でぐるりと回転し、うつ伏せになった。
その喉からは、だくだくと血が流れている。
背中にじわりと血が滲んでいく。
地面に広がる、赤い水溜り。
むわりと香る、血の臭い。
男はビクンと一瞬だけ体を痙攣させて、動かなくなった。
死んだ。
男は一言も喋ることなく、死んだ。
ルイジェルドに、殺された。
﹁な、なん⋮⋮なんで殺したんですか?﹂
俺の声は震えていた。
人死を見るのは初めてじゃない。
750
ギレーヌだって、俺を助けるために人殺しをした。
けど、あれとは何かが違った。
なぜか身体が震えている。
なぜか心は怯えている。
︵なんだ、俺は何に怯えているんだ?︶
人が死んだことか?
馬鹿な。
この世界では、誰かが死ぬなんて、日常茶飯事だ。
そんな事はわかっていたはずだ。
頭でわかっていても、実際に見るのは初めてだから違う?
なら、なぜギレーヌが誘拐犯を殺した時にはなんでもなかったん
だ?
﹁子供を蹴ったからだ﹂
ルイジェルドは淡々と言った。
当然だと言わんばかりの口調だった。
ああ、そうか。
わかった。
俺は人が死んだ事におびえているんじゃない。
俺が蹴られたという、
それだけの事で、
息をするように、
相手を殺した、
751
ルイジェルドに、怯えているのだ。
ロキシーも言っていたじゃないか。
﹃人族と魔族では常識が違う部分も多いので、
どんな言葉がキッカケで爆発するかわかりません﹄
そうだ。
もし、ルイジェルドの矛先が俺に向いたら、どうする?
この男は強い。
ギレーヌか、それ以上に強い。
俺の魔術で勝てるのか?
対抗はできるはずだ。
近接戦闘を得意とする相手へのシミュレーションは何度も繰り返
した。
パウロ、ギレーヌ、エリス。
俺の周囲にいた人物は、誰もが近接戦闘のスペシャリストだった。
ルイジェルドは、その中でも、恐らく一番強い。
だから、自信を持って﹁勝てる﹂と言えるわけではない。
けれど、殺すつもりでやれば、いくらでも手はある。
けど、もし、エリスに向いたら?
俺は守りきる事ができるのか?
無理だ。
﹁こ、殺しちゃダメだ!﹂
﹁なぜだ? 悪人だぞ?﹂
俺は慌てて言った。
752
ルイジェルドは目を丸くしていた。
心底意味がわからないって顔だ。
﹁それは⋮⋮﹂
どう説明すればいい?
俺はルイジェルドにどうして欲しい?
そもそも、なんで殺しちゃいけないんだ?
一般的な道徳心は、俺にはない。
ニートだった頃は﹁人を殺しちゃいけない﹂なんて言葉を鼻で笑
っていた。
親が死んだ時もそうだった。
これから大変だとは思いつつも、知るか馬鹿、そんなことよりオ
○ニーだ、と水晶小僧していた。
そんな俺が言ったところで、上辺だけの軽い言葉になるだろう。
﹁殺しちゃダメな理由は、あるんです﹂
俺は、動揺している。
自覚しろ。
俺は今、テンパッている。
自覚した上で考えろ。
まず、
なぜ俺は震えている?
怖いからだ。
今まで優しい男だと思っていたルイジェルドが、あっさり人を殺
した。
753
スペルド族は誤解されているだけの心穏やかな種族だと思いこん
でいた。
違った。
種族がどうかは分からないが、少なくともルイジェルドは違う。
ラプラス戦役の時代から、ずっと敵を殺し続けてきたのだ。
今回も、そんなケースの一種だろう。
そして、俺やエリスにその矛先が向く可能性。
まったく無い、とは言い切れない。
俺はルイジェルドが認めるような、清廉潔白な人間ではない。
いつか、どこかで、彼の逆鱗に触れてしまう日が来るだろう。
それで彼が怒るのはいい。
考え方が違うのだから、意見を違えるのも仕方がない。
喧嘩の一つもするだろう。
けれども、殺しあいまでするつもりはない。
どんな状況でも、命のやり取りにだけは発展しないように、
今、この段階で、きっちりとルイジェルドに言っておかなければ
ならない。
﹁いいですか、ルイジェルドさん、よく聞いて下さい﹂
しかし、言葉はまだ見つかっていない。
どう言う?
なんていえば説明できる?
俺たちだけは殺さないでくださいと懇願するのか?
馬鹿な。
754
俺は先日、彼に一緒に戦う戦士だと言ったばかりだ。
彼の庇護下にいるのではなく、仲間内にいるのだ。
懇願はダメだ。
頭ごなしにダメだと言うのもよくない。
ルイジェルド自信が納得しなければ、意味がない。
考えろ。
俺は何のためにルイジェルドと一緒にいる?
スペルド族の悪名をなんとかするためだ。
ルイジェルドが人を殺せば、スペルド族の印象は悪くなる。
これは間違いないはずだ。
だから、他の冒険者と喧嘩しないようにと言い含めたのだ。
スペルド族の印象は最悪だ。
どれだけ良い事をして認識を改めても、
目の前でスペルド族が殺人を犯せば、
きっと今までの事は水に流され、ルイジェルドの印象は地に落ち
る。
そうだ。だから殺しちゃいけない。
スペルド族=怖いという認識を、他の人々が思い出してはいけな
いのだ。
﹁ルイジェルドさんが人を殺すと、スペルド族の悪名が広まります﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それは、悪人でもか?﹂
﹁誰を殺したかではありません。誰が殺したかです﹂
考えながら、言葉を選びながら、慎重に言う。
755
﹁わからんな﹂
﹁スペルド族が人を殺すというのは、他とは意味が違います。
魔物に殺されるようなものです﹂
ルイジェルドは、ちょっとだけムッとした顔をした。
種族の悪口に聞こえたのかもしれない。
﹁⋮⋮⋮⋮わからんな。どうしてそうなる﹂
﹁スペルド族は、人を殺す種族と思われています。
ちょっと気に食わなければ、すぐに殺す悪魔だと﹂
言い過ぎかと思ったが、世間の認識はそんなものだ。
それを変えようとしているのだ。
﹁スペルド族は世間に言われているような悪魔ではないと、
そう口で言うのは簡単です。行動で示せば、
大多数の人が認識を改めてくれるでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁けど人を殺せば、全ては台無しです。
やっぱりスペルド族は悪魔だったと思われるでしょう﹂
﹁馬鹿な﹂
﹁心当たりはありませんか?
今まで、人助けをしてきて、仲良くなったあとに手のひらを返さ
れた事は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ある﹂
言いながら、俺の中でもまとまってきた。
﹁しかし、人を一切殺さなければ⋮⋮﹂
756
﹁どうなる?﹂
﹁スペルド族にも、理性があると思われます﹂
本当にそうなのか?
この世界で、人を殺さなかったぐらいで、理性があると思われる
のか?
いや、今は考えるな。
俺は間違っちゃいないはずだ。
ルイジェルドは人を殺しすぎた。
スペルド族は、人を殺して当然の種族だと思われている。
殺さなくなれば、認識を改められるはず。
辻褄は合っているはずだ。
﹁殺さないでください。
スペルド族のことを思うなら、誰も﹂
殺していい時、悪い時。
普通はそれを判断しなければいけない。
けれど、この世界の判断基準は俺にはわからず、
ルイジェルドの判断基準は恐らく過激。
両極端でラインが見極めにくい。
なら、いっそのこと、全部禁止したほうが手っ取り早い。
﹁誰も見ていないなら、いいんじゃないのか?﹂
ルイジェルドの言葉に、俺は頭を抱えそうになった。 誰も見ていないなら犯罪を犯してもいいなんて、どこの小学生だ。
こいつ、本当に500年も生きてきたのか?
757
﹁見ていないと思っても、人の目はあるんですよ?﹂
﹁周囲にはいないぞ?﹂
ああ、くそ、そうか。
額の目のおかげか。
﹁見ている人は、いますよ﹂
﹁どこにだ?﹂
ここにだ。
﹁僕とエリスが、見てるじゃないですか﹂
﹁む⋮⋮﹂
﹁誰も殺さないでください。僕らだって、ルイジェルドさんを怖が
りたくはないんです﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
最後は結局、泣き落としのような形になった。
自分の言葉に自信なんてない。
だが、ルイジェルドは頷いてくれた。
﹁よろしくおねがいします﹂
俺は、ルイジェルドに頭を下げた。
見れば、手が震えていた。
落ち着け。
こんなのは普通だ。
はい、深呼吸。
758
﹁すぅ⋮⋮はぁ⋮⋮
⋮⋮すぅ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂
なかなか落ち着けない。
動悸が収まらない。
エリスはどうしている?
怯えているんじゃないのか?
と、見てみると、エリスは平然としていた。
いきなりでびっくりしたけどゴミは死んで当然ね、って顔をして
いる。
いや、さすがにそんな酷いことを考えてはいないと思うが。
けど、腕を組んで、足を開いて、顎を上げてのいつものポーズだ。
内心はどうであれ、いつも通りであろうとしてくれている。
だというのに、俺が動揺していてどうするよ。
手の震えは止まっていた。
﹁じゃあ、尋問を続けましょうか﹂
血なまぐさい匂いの充満した部屋で、俺は無理矢理に笑みを作っ
た。
759
第二十九話﹁初仕事終了﹂
さて、尋問の時間だ。
男と女、どちらを先に尋問しようか。
虫っぽい目をした女のほうは、見るからに怯えている。
もう必死にンーンー唸りながら、俺たちから逃げようとしている。
この怯える様が実にそそる⋮⋮のは、さておいて。
猿轡をはずすと、どうにも支離滅裂な言葉を叫びだしそうだ。
尋問をするなら、もう少し落ち着いてからの方がいいかもしれな
い。
トカゲの男の方。
ちょっと表情は窺い知れない。
トカゲの顔の変化なんて俺にはわからないからな。
心なしか青ざめているようにも見える。
そして、周囲をよく観察している。
俺の顔色、ルイジェルドの顔色、エリスの顔色。
きっと、彼の頭の中では、この場をどうやって生き残るかで一杯
だろう。
こうなってくると、ルイジェルドが一人殺してしまったのが悔や
まれる。
短絡的な奴が喋ってくれるのが一番楽だった。
いっそ、二人共猿轡を外して、両方から聞いた方がいいだろうか。
片方を別室に移動させて、別々に尋問をする。
760
そして、後で情報をすり合わせる。
よし、それで行こう。
﹁エリス、そっちの女の方を見張っていてください﹂
﹁わかった﹂
エリスは力強く頷いた。
俺は男の方を連れて、廊下へと移動した。
一人では持てないので、ルイジェルドに手伝ってもらった。
廊下に出て、声が届かないぐらいの位置まで移動する。
噛み付かれないように、丁寧に猿轡を外す。
﹁質問に答えてください﹂
﹁こ、答える、答えるから、殺さないでくれ﹂
﹁いいですよ。喋ってくださるなら、助けてあげます﹂
﹁ひ、ひい!﹂
安心させるようににっこり笑ったつもりだが、怯えられた。
意外と冷静な奴だと思ったが、そうでもないのか。
﹁この建物にいる動物たちは、なに?﹂
﹁ひ、拾ってきたんだ﹂
﹁へぇ∼それはすごいや!
で⋮⋮どこから拾ってきたんですか?﹂
﹁いや、それは⋮⋮﹂
チラチラと目線が動く。
俺と、ルイジェルドの顔色を見ている。
761
まだ嘘でもつこうというのか。
﹁そ、そのへんで⋮⋮﹂
嘘にもなっていなかった。
顔は賢そうに見えるが、それほど賢くないのかもしれない。
﹁なるほど! この町では動物がたくさん落ちてますからね!
⋮⋮⋮⋮お前、俺が子供だからってバカにしてるだろ?﹂
ちょっと凄んで見せる。
﹁そ、そんなことはない﹂
ダメだな。
どうもこの体では、脅そうとしてもマヌケな感じになってしまう
らしい。
十歳だしな。
仕方ない。
ちょっと脅すか。
エクスプロージョン
﹁爆発﹂
パチンと指を一発鳴らす。
と、同時に男の目の前に小さな爆発を起こす。
﹁うわちっ!﹂
男の鼻先が焦げる。
762
﹁な、なん、何やったんだ!?﹂
と、聞いてくるが、無視。
﹁お前さ、もうちょっと頭を捻って答えろよ。
死にたくないんだろ?﹂
死んでしまった男の事を思い出したのか、男がぶるりと身を震わ
せた。
そして俺は思い出す。
先ほどの会話は魔神語だったな、と。
散々こいつらに聞こえる言語で、スペルド族だのなんだのと言っ
てしまった。
まあ、いいか。
知ってしまったのなら、利用するだけだ。
﹁なあ。わかるだろ。そっちの男は、髪を青く染めてるけど、
正真正銘、本物の﹃デッドエンド﹄だ。
俺だって、見た目どおりの年齢じゃねえ﹂
﹁ほ、本物⋮⋮?﹂
﹁俺らはお前らと同類なんだよ。正直に話してみろ。
もしかしたら、手伝ってやれるかもしれない﹂
という方向で話を進めてみることにする。
﹁でも⋮⋮ヒッ!﹂
男はチラリとルイジェルドを見て、すぐに目線を逸らした。
睨まれたのかもしれない。
763
﹁教えろよ。ここで、何を、してたんだ?﹂
﹁ぺ、ペットを攫ってきて⋮⋮﹂
﹁ほう、攫ってきて?﹂
﹁捜索願いの出たペットを、探しだしたフリをして返すんだ﹂
﹁なるほどなあ﹂
これはきっと本当だろう。
確証はないが。
やっている事は辻褄が合っていて、納得出来る。
今回はいたいけな少女の捜索願いだったが、
中には﹁金持ちマダムのクリスチーヌちゃんを探せ﹂とかいう依
頼もあるのだろう。
ギルドの報酬はランク毎で上限下限が決まっているようだが、
それとは別に、依頼主が特別報酬を出すこともあるかもしれない。
運が良ければ、ペット探しでも儲けられるのだろう。
﹁で、捜索願いが出なかったらどうしてるんだ?﹂
﹁しばらくしたら、普通に放してるよ⋮⋮﹂
﹁へえ、ペットショップに売ったほうが得なんじゃねえの?﹂
﹁ハッ! んなことしたら、足が付くだろうが﹂
男がふてぶてしく鼻で笑った瞬間、
ルイジェルドが槍の石突きで地面をドンと突いた。
男がビクンと震える。
さすがルイジェルドだ。
調子にのった瞬間、立場を思い出させる。
お前の脅しのタイミング、イエスだね!
764
﹁随分と細々とやってるんだな﹂
﹁そ、そうだよ﹂
﹁俺だったら、捕まえた動物は売るけどな。バラバラにして、肉屋
に。
それなら足もつかないだろ?﹂
魔物の肉を美味しそうに食べるこの世界なら、家畜じゃなくても
売れそうだし。
あ、トカゲ男がなんか﹁信じられない﹂って顔をしている。
なんでや!
大王陸亀の肉も、ペットの亀の肉も変わらんやろ!
﹁ルーデウス、お前、こいつらもそうやって肉屋に売るつもりなの
か?﹂
振り返ると、ルイジェルドが恐ろしいことを言ってきた。
なるほど、このトカゲ男も、そんな想像をしたわけか。
﹁それもいいかもしれませんねぇ⋮⋮﹂
ちょっと脅してみると、
トカゲ男の顔がひきつった。
ああ、この表情はわかる。
懐かしい。
生前ではよくそういう顔をされたもんだ。
﹁ルーデウス⋮⋮﹂
765
ルイジェルドさん、後ろから睨むのはやめてください。
視線を感じます。
冗談です。やりませんから。
﹁ま、俺らは猫を一匹探しにきただけだ。
別に正義の味方ってわけじゃない。
だから、何も見なかった事にして、立ち去ってもいい﹂
﹁ほ、本当か?﹂
﹁でも、お前ら、ルイジェルドが本物のスペルド族だって知ってし
まったからなぁ。どうしようかなぁ?﹂
﹁だ、誰にも言わねえよ! それに町中にデッドエンドがいるなん
て、言っても信じねえだろ?﹂
﹁いいや、信じるさ。悪い噂ってのは、広まるもんだ﹂
都合の悪い噂は、とくにな。
そう思っておいて損はない。
﹁俺としては、お前ら全員を殺して埋めるのが一番てっとり早いん
だがね?﹂
﹁か、勘弁してくれよ⋮⋮。
なんだってするから、命だけは⋮⋮!﹂
なんだってする、頂きました。
脅すのはこれぐらいでいいか。
しかし、さて、どうしたもんか。
彼らはペット誘拐犯、つまり悪者だ。
とはいえ、聞いた感じバックのいない小悪党という感じだ。
766
放っておいても、大したことはないだろう。
が、ルイジェルドが人を殺す場面を見られてしまった。
これにより、ルイジェルド人気者作戦の障害になる可能性が芽生
えた。
後顧の憂いは断っておきたい。
しかし、殺すのはダメだ。
ルイジェルドに殺すなと言ったばかりだしな。
町の衛兵に突き出すという案はどうだろうか。
いや、彼らは所詮、ペット誘拐犯だ。
警察に突き出しても、大した罪には問われないかもしれない。
中途半端な罰金とかだと、逆恨みされる可能性もある。
今は殊勝な態度だが、喉元過ぎれば熱さを忘れるものだ。
できれば、
目の届く所にいてもらって、定期的に脅していきたい。
少なくとも、こいつらが安全だとわかるまでは。
しかし、それにもリスクが伴う。
脅し続ける事で、逆恨みが、ただの恨みに変わる可能性もある。
ただでさえ、こっちは向こうを一人殺しているのだ。
今は恐怖の材料だが、
いずれ恨みの材料になるに違いない。
殺すのも、警察に突き出すのも、どちらもダメ。
なら、取り込むか。
767
手元において、金稼ぎとランクアップを手伝ってもらう。
町中での情報収集や、各種小間使い。
なんなら、ペット誘拐のビジネスを引き継ぐのもいい。
だが、これはルイジェルドがあまりいい顔をしないだろう。
ルイジェルドの中では、彼らは殺してもいいレベルの悪党だ。
一緒に行動したくはないだろう。
ふーむ。
それぞれのリスクリターンを整理してみるか。
1.殺害する
リスク:ルイジェルドが混乱する+問題が起きたら何でも殺して
終了という悪い癖が付きそう
リターン:後顧の憂いは断てる+彼らの金銭を奪える
2.衛兵に突き出す
リスク:逆恨みされる可能性が残る
リターン:もしかすると、ちょっとした名声が得られるかもしれ
ない
3.放置する
リスク:逆恨みされる可能性が残る
リターン:特に無し
4.取り込む
リスク:仲間がいい顔をしない+他人に悪事の片棒を担いでいる
と思われる可能性
768
リターン:彼らを身近で監視できる+人手が増える
1は、今後のためにも、あまりよくない気がする。
別に俺は正義の味方というわけではないが、
なんでもかんでも殺しちゃえ、なんてのは思考停止だ。
いずれ、大きなしっぺ返しを食らう気がする。
2と3は、ローリスクローリターンだ。
逆恨みされても、ルイジェルドがいれば見つけ出すのは容易だが、
結局は殺すことになってしまう。二度手間だ。
やはり4か。
ルイジェルドの心象は悪くなるだろうが、
俺たちには早急に金が欲しいという、切実な問題もある。
そう、金だ。
俺たちはいま、金が欲しいのだ。
金を稼ぐのに、人手があるのはいい。
彼らのペット誘拐ビジネスを手伝うのもいいし、
彼らにパーティに入ってもらえば、Fランクの仕事も手分けして
出来る。
ランクアップは重要だ。
せめてCランク以上の依頼を受けられれば、俺たちも安定してく
るだろう。
⋮⋮⋮⋮ん?
﹁そういや、依頼でペットを渡しているってことは、お前ら冒険者
なのか?﹂
﹁そ、そうだ﹂
769
なんと、彼らは冒険者だったらしい。
﹁ランクは?﹂
﹁D、Dだ﹂
しかも、ランクは俺たちよりも上らしい。
﹁DなのにEの仕事を受けてるのか?﹂
﹁ああ、もうCには上がれるが、Eランクのペット探しで安定して
稼げるんだ﹂
Cランクに上がると、Eランクの仕事は受けられない。
Dランクにとどまったまま、Eランクで安定して稼ぐ、という奴
もいるのか。
彼らの場合は詐欺も同然だが。
俺たちなら、さっさとCに上がって、Bランクの討伐依頼を受け
ていくだろう。
だが、戦闘系が苦手という冒険者もいるのだろう。
ふむ、いっその事、彼らにCランクの仕事を受けてもらって、そ
れを手伝うのもいいな。
報酬は山分け、金の問題は解決できる。
いや、それだと、俺たちのギルドランクが上がらないな。
﹁あ⋮⋮﹂
その時、俺の脳裏に電流走る。
770
そうだ。
いいことを思いついた。
﹁お前ら⋮⋮さっきのヤツ無しで、この仕事、続けられるのか?﹂
﹁い、いや、もうこんな仕事はやめてまっとうに⋮⋮﹂
﹁正直に答えろよ﹂
﹁続けられる! あいつは、俺たちが二人でやってる所を見つけて、
分前が欲しいってんで脅してきたんだ!﹂
マジか。
そりゃ運が良かったな⋮⋮。
3分の1で正解したってことだ。
これも人神の思し召しかね。
﹁よし、じゃあ俺たちと手を組もう﹂
そう言うと、ルイジェルドが背後で叫んだ。
﹁手を組むだと!? 何を言っている!﹂
﹁ルイジェルドさん、ちょっと黙っていてくれませんか?﹂
﹁なに!﹂
﹁悪いようにはしませんから﹂
﹁⋮⋮﹂
振り返る。
ルイジェルドは、やはり良くない顔をしている。
いい思いつきだと思ったが、やはりやめておくか?
だが、この案は完璧だ。
金はたまる、ランクも上がる、ルイジェルドの評判も上がる。
771
全てを満たした完璧な策⋮⋮のはずだ。
俺はトカゲ男に向き直った。
﹁さっき、なんでもするって言ったよな﹂
﹁い、命を助けてくれるなら、か、金だって払うよ﹂
﹁金はいらない。その代わり、ランクを一つ上げてくれ﹂
﹁は?﹂
俺は説明する。
﹁いいか、俺たちは見ての通り、全員が戦闘系だ。
ペット探しも苦手じゃないが、できれば討伐系の方が効率がいい﹂
﹁だ、だろうな⋮⋮と、いうより、なんでこんな仕事を?﹂
﹁事情があって冒険者になったばかりなんだよ﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
﹁まあそんなことは置いとけ﹂
話が逸れそうだったので戻す。
﹁でだ。俺たちは戦闘系の依頼を受けたいが、ランクが低くて受け
られない。
逆に、お前たちは戦闘系の依頼は受けられない。
ここまではいいな?﹂
﹁え、ええ﹂
﹁そこで、仕事を交換するんだ﹂
仕事を取り替えると聞いて、トカゲの頭がちょっとかしげた。
﹁ど、どういう事でしょうか﹂
772
﹁お前たちはCかBランクの戦闘系の仕事を請ける。
俺たちはランクを上げるために、ペット探し系の依頼を請ける。
そして、俺たちはお前たちの仕事を、お前たちは俺たちの仕事を
行う﹂
﹁ちょ、ちょっとまってください。受けた仕事を別のパーティが報
告したって⋮⋮﹂
﹁バカ! 報告はそれぞれ受けた方でするんだよ﹂
﹁あ﹂
男Bもようやく気付いたようだ。
俺たち:Eランクの仕事を受け、Bランクの仕事を行う。Eラン
クを報告し、報酬をもらう。
ヤツラ:Bランクの仕事を受け、Eランクの仕事を行う。Bラン
クを報告し、報酬をもらう。
こういう形だ。
最後に、報酬を交換するのだ。
ギルド規約的に問題もあるかもしれないが、
低ランクの依頼を高ランクが手伝うこともあると聞く。
それの逆をするだけだ。不正はしていない。
﹁俺たちは金もランクも欲しい。
お前らは安定した生活が欲しい。
ギブアンドテイクってヤツだ。
なんだったら、Bランク依頼の報酬の内、
いくらかをお前らの分前としてやってもいい﹂
﹁び、Bランク依頼の分前⋮⋮﹂
トカゲ男が、ゴクリと喉を鳴らした。
773
Bランクの報酬は、高い。
アメとムチ。
叩いてばかりでは裏切られる。
こいつらにも利益を与えるのだ。
俺たちと組めばいい思いを出来ると思わせなければ。
﹁だが、一つ条件がある﹂
﹁じょ、条件?﹂
﹁ああ、﹃デッドエンド﹄の名前を広めるんだ﹂
﹁広めるって⋮⋮知らないヤツはいないだろ?﹂
だろうね。
﹁良い者風にだよ。俺たちの素行の良さを、嘘でもなんでもいいか
ら宣伝しろ。
なんだったら、お前らがFランクの仕事とかやって、﹃デッドエ
ンド﹄だって名乗ってもいい﹂
﹁な、なんでそんなことを⋮⋮?﹂
なんで、か。
ルイジェルドの過去を長々と話せば、信じるだろうか。
いや、無理だろうな。
こいつは、今さっき目の前でルイジェルドに仲間を殺されたばか
りだ。
あまりいい仲間では無かったようだが、
こいつの中には、スペルド族が恐ろしいという感情が刻まれてい
るはずだ。
﹁知らない方が良い事もあるんだぜ?﹂
774
﹁⋮⋮わ、わかったよ﹂
適当に言っただけだが、わかってくれたらしい。
﹁オレたちは、あんたらの名前を、売り込めばいいんだな?﹂
﹁そういう事だ、もちろん都合が悪い時には名乗るなよ?
うちには地の底まで追いかけていくヤツがいるからな﹂
男はルイジェルドの方を見て、こくこくと頷いた。
﹁せいぜい俺たちのランクが上がるまで。仲良くやろうや﹂
﹁ああ、ああ﹂
﹁明日の朝、冒険者ギルドに集合な。サボるなよ﹂
俺は彼の背中をポンと叩いた。
−−−
一応、女の方も尋問して、話の裏を取った。
彼らはペット探しの専門家で、
昔からそういう仕事を生業にしてきたらしい。
ある時、明らかに迷子なペットを保護した所、
もしかすると、先に捕まえておけば手間が省けるんじゃないか、
と考えた。
それがエスカレートして、ペット誘拐という方向になったのだと
いう。
775
最初は二人で細々とやっていたが、
ある日、ペットを捕まえている所を男Aに見つかる。
男Aは用心棒をすると言って無理矢理パーティに入り、
そのままリーダー面して、事業を拡大させたらしい。
用心棒代と称して女を抱き、分前も多く取っていたそうだ。
だから、あいつを殺した事は、あまり恨んでいないらしい。
少なくとも、女の方は。
本当に、運がよかった。
ちなみに、トカゲ男は名前をジャリル。
女の方は名前をヴェスケルというらしい。
俺は彼らと簡単な打ち合わせを終え、手錠を外してやった。
−−−
猫を連れて建物から出ると、ルイジェルドが睨んできた。
﹁おい、なんだあれは!﹂
﹁なんだって、なんですか?﹂
ルイジェルドに胸ぐらを掴まれた。
足が浮く。
﹁とぼけるな!
776
あいつらは悪党だぞ!
それと手を組むだと!?﹂
ルイジェルドが本気で怒っていた。
マジで怖い顔だ。
その顔で、こいつが先ほど、人を殺したばかりだと思い出す。
﹁た、確かに悪党ですけど、小悪党です。
彼らは、そんな悪いことはしていません﹂
﹁悪事の大小ではない、悪党は悪党だ!﹂
こうなる事はわかっていたはずだ。
なのに、なぜか、足が震える。
声が震える。
目の端に涙が溜まる。
﹁だ、だって、この策は、一石二鳥で⋮⋮﹂
﹁⋮⋮だからなんだというのだ!﹂
ルイジェルドは納得がいっていないらしい。
まずい。
恐怖で頭が働かない。
ガチガチを鳴る歯の音だけが俺の頭を支配する。
﹁悪党は、裏切るぞ!﹂
ルイジェルドが睨み、叫んでくる。
裏切り。
777
その可能性は考慮に入れてある。
だが、奴らにも益のある話だ。
結構脅したし、しばらくは大丈夫なはずだ。
﹁あんな奴らと手を組むなど、何を考えている!﹂
言われて、迷う。
そうだ。
別に、手なんて組まなくてもいいのだ。
もっと時間を掛けていけばいいのだ。
金が足りなくなれば平原に行って魔物を狩り、
少しずつ依頼を受けて、じっくりランクを上げていく。
それでもいいのだ。
別に、あんな奴らを使わなくても、なんとかなるのだ。
ちょっと遠回りになるだけ。
それだけだ。
やっぱり、やめるか?
今すぐとって返してあいつらぶっ殺すか?
血の海でレッツ海水浴か?
迷う。
俺は正しいのか?
﹁ルイジェルド!﹂
迷いを中断したのは、大音声だった。
耳朶を叩く音と共にドンとルイジェルドの体が揺れた。
778
﹁ルーデウスから手を離しなさいよ!﹂
エリスがルイジェルドの尻に蹴りを入れていた。
何度も、何度も。
﹁何が不満なのよ!﹂
エリスの大音声。
ビリビリと鼓膜を震わせる。
何事かと周囲の人々が目を向けてくる。
﹁悪党と組むのは好かん﹂
﹁好きじゃないってだけで文句を言うの!?
全部、私とあんたのためにやってくれてることなのよ!﹂
ルイジェルドが目を見開いた。
俺の体がストンと、地面に降りる。
すると、エリスも蹴るのをやめた。
だが、大音声は鳴り止まない。
﹁大体、動物を攫ったぐらいなんだっていうのよ!﹂
﹁そうじゃない、子供を蹴るような奴は﹂
﹁蹴るぐらい、私だってするわよ!﹂
﹁⋮⋮だが、悪は悪だ﹂
﹁あんただって昔は悪いことしたんじゃないの!?﹂
ルイジェルドが絶句した。
エリスさん。
779
味方をしてくれるのは嬉しいんですが、
あんまりそういう核心的な部分をえぐるのはよくないですよ?
﹁ルーデウスは凄いんだから!
任せておけば全部うまくいくんだから!
だから黙って従いなさいよ!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ちょっと嫌な事があったからって、文句言わないでよ!﹂
﹁いや﹂
﹁文句言うぐらいなら帰りなさいよ!
私とルーデウスだけでやっていけるんだから!﹂
エリスの必死な顔に、ルイジェルドは明らかにたじろいでいた。
﹁⋮⋮わかった。すまん﹂
結局、ルイジェルドは俺に謝った。
エリスの気迫に押し切られた感じだ、
決して納得してはいないだろう。
﹁い、いえ、いいんです⋮⋮﹂
それにしても、
随分とハードルが上がった気がする。
迷っているなんて言えない空気だ。
あいつらと組むのは軽率だったかもしれない。
けど、こうなっては、意見は変えられない。
不安だらけだが、もう、やるしか無い。
最初に名案だと思った自分を信じてやるしかない。
780
自分ほど信じられないものは無いんだが⋮⋮。
−−−
猫を送り届けた。
依頼主のメイセルには大層喜ばれた。
彼女は猫を見た瞬間に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめて涙を流した。
よほど大切にしていたのだろう。
猫も大人しくしている。
猫といっても黒豹だが。
﹁ありがとう! あのね! はい、これ!﹂
と、ルイジェルドに手渡したのは、鉄か何かで出来たカードだ。
表面には、
==========
D040023
完了
==========
と書かれている。
﹁これは?﹂
﹁冒険者なのに知らないの!?﹂
少女に、信じられない、という顔をされた。
781
お、教えてやることを許可してやってもいいんだからね。
﹁よ、よろしければ教えてください﹂
﹁あのね、これを冒険者ギルドに持って行くと、お金を交換してく
れるんだよ﹂
あ、なるほど。
D040023ってのは依頼ナンバーか。
どういう法則かはわからんが。
﹁最初はかんりょーってなってないの!
でもね、何もない所に指を乗せて、かんりょーって言えば、そう
なるの!﹂
意訳﹁カードに指を載せて完了と唱えると、カードが完了状態に
なる﹂
盗難対策か。
いや、でも例えば俺とかがやれば完了になるんでねえの?
カードだけ盗んで、完了にして金をもらう⋮⋮。
いや、すぐバレるか。
対策もしてあるだろう。
﹁でも、最初から完了ってなってたような?﹂
普通は、依頼を完了すると同時に、
カードを完了状態にするのではないだろうか。
﹁うん! ルイジェルドならきっと何とかしてくれるから。
先に完了にしといたの!﹂
782
あらやだ。
この子可愛い。
信じる少女は美しい!
ルイジェルドは少女の頭を撫でた。
﹁そうか⋮⋮信じてくれたのだなありがとう﹂
﹁ううん! 悪魔さんにもいい人がいるってわかったから!﹂
悪魔と聞いて、ルイジェルドの顔が一瞬凍りついたように思えた。
気持ちはわかるけど、そんなもんだよ、あなたの今の認識は。
﹁それではお嬢さん、﹃デッドエンド﹄のルイジェルドを。
是非、お忘れなく﹂
﹁うん! またいなくなったらお願いね!﹂
少女の言葉に、俺はちょっとだけ胸が痛くなった。
−−−
冒険者ギルドに戻る頃には、時刻はすっかり夕暮れだった。
かなり時間が掛かってしまった。
毎回これなら、すぐに破産だ。
﹁なんだ、おい! あいつら戻ってきたぜ!﹂
﹁おいおい、迷子のペットちゃんは見つけられたのかぁ!?﹂
783
建物に入ると、馬の頭をした奴が煽ってきた。
ミノタウロスっぽいけど頭は馬。
とても特徴的なので覚えていた。
てか、こいつずっとギルド内にいたのか?
﹁あれ? 今朝の馬面の人⋮⋮。
今日はお仕事はおやすみですか?﹂
この人、ちょっと苦手なんだよなあ。
昔、俺をイジメてたやつに感じが似てて。
なんていうか、今からこいつイジメるから皆もノってねー、みた
いな。
﹁な、なんだ? いきなり丁寧な話し方しやがって、
気味がわるいな⋮⋮﹂
おっとしまった、演技を忘れていた。
ごまかそう。
﹁アドバイスをくれた先輩に敬意を払うのは当然じゃないですか﹂
﹁お、おう、そうか?﹂
馬面は照れていた。
こいつ、チョロいな。
﹁おかげで、依頼も無事達成できましたよ﹂
﹁なに?﹂
完了と書かれたカードをピラピラと見せる。
すると、馬面は素直に感心してみせた。
784
﹁すげえな、この町じゃ、ペットって中々見つからねえんだぜ?﹂
そりゃそうだろう。
行方不明になる理由が人の手によるものなんだからな。
﹁ま、﹃デッドエンド﹄のルイジェルドなら、軽いですよ﹂
﹁マジかよ⋮⋮偽物のくせにやるじゃねえか﹂
﹁ホンモノだっつってんだろ!﹂
最後に演技をして、カウンターへと向かった。
職員に完了カードと三人分の冒険者カードを差し出す。
しばらくして冒険者カードと、古びた百円玉のような硬貨が一枚
帰ってきた。
うーん。安っぽい。
戻ってくると、ルイジェルドに馬面が話しかけていた。
﹁よー、どうやって見つけたんだ? 参考までに教えてくれよ﹂
﹁狩りの追跡術を使っただけだ﹂
﹁狩り! お前の部族ってなんて所だっけ?﹂
﹁⋮⋮スペルド族だ﹂
﹁なんてな。わかってるって。そのペンダントを見りゃあな﹂
馬面の男の目は、ルイジェルドの胸元、ロキシーのペンダントへ
と注がれていた。
﹁おれぁノコパラ。Cランクだ﹂
﹁ルイジェルドだ。Fランクだな﹂
﹁Fなのは知ってるっつの! ま、分からない事があったらなんで
785
も聞けよ。先輩としてなんでも教えてやるからよ! ガハハハ!﹂
ノコパラ
ルイジェルドと馬面は、楽しそうに会話をしている。
あの嫌われ者のルイジェルドが人と喋っているというのはいい事
だ。
だが、余計なことを喋ったり、突然キレて襲いかかったりしない
か心配だ。
特に、子供関係のことは触れないでやってほしい。
心配と言えば、隣に座るエリスも心配だ。
隣に座っているエリスをちらちらと見て、たまに話しかけてくる
奴がいるようだが、言葉がわからないので返事をしない。
﹁ねえ、あんた、その剣いいわね。どこで手に入れたの?﹂
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹁ちょっと! なんとか言いなさいよ﹂
一人の女戦士が、彼女の無視にムッとしたのが見て取れた。
﹁どうしました?﹂
慌てて間に入る。
すると女戦士は﹁ケッ、なんでもないよ﹂と言って立ち去った。
代わりに、ノコパラが話しかけてきた。
﹁ボウズか、ちゃんと報酬は受け取れたのか?﹂
﹁ええ、屑鉄銭1枚。僕らの初めての稼ぎです﹂
﹁ハハッ、さすがにやっすいなあ﹂
﹁小さな少女のなけなしのお小遣いをそんな風に言っちゃいけませ
んよ﹂
786
﹁安いのは安いだろうが﹂
﹁金額はね﹂
あの幼い少女が猫を探すために貯金箱を割った。
そんな光景を思い浮かべてみれば、
屑鉄銭1枚という金額が安くないことはわかるだろう。
﹁あんたにはこの価値はわかりませんよ。
あっち行ってください、シッシッ﹂
﹁んだよ、ツレねーなー。ま、頑張れよー﹂
ノコパラは手をひらひらと振りながら、ギルドをうろつき始めた。
こいつは、本当に何の仕事をしてるんだろう⋮⋮。
ともあれ、こうして俺たちは初めての依頼を終えた。
787
第三十話﹁順調な滑り出し﹂
翌日。
冒険者ギルドに顔を出すと、トカゲ男が声を掛けてきた。
﹁あ、どうも。ランクアップは済ませておきました﹂
誰だこいつ。
と一瞬思ったが、隣に虫っぽい目をした女が立っていて、
ようやく昨日のペット誘拐犯だと気付いた。
確か、ジャリルとヴェスケルだったか。
どうにも、顔の区別がつきにくい。
トカゲ顔はこの町に結構多いからな。
わからなかった理由は、服装の違いにもあった。
昨日は町人Aという感じの何の変哲もない布の服を着ていたが、
今は冒険者Aという感じの何の変哲もない皮の鎧を着ている。
どちらも何の変哲もないわけだが、
受ける印象はガラリと変わった。
﹁ああ、ジャリルさん。ご苦労様です﹂
﹁な、なんだ、その喋り方、気持ち悪いな⋮⋮﹂
﹁敬語です。いけませんか?﹂
﹁い、いや﹂
ひと睨みすると、ジャリルは視線をそらした。
﹁ヴェスケルさんも、今日からよろしくお願いします﹂
788
﹁あ⋮⋮はい﹂
ヴェスケルは、相変わらずルイジェルドに怯えていた。
ルイジェルドは、相変わらず彼らを睨んでいる。
ま、仕方あるまい。
ちなみに、彼女も冒険者ルックだ。
﹁じゃあ、中に入りましょうか﹂
﹁あ、ああ﹂
ジャリルは不安そうにしつつも、俺の言葉に頷いた。
−−−
冒険者ギルドに入ると、目ざとく俺たちを見つけた馬面がよって
きた。
﹁よう!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うっす﹂
こいつ、今日もギルドにいるのか⋮⋮。
ほんと、何の仕事をしているんだろう。
﹁おっと、今日は﹃ピーハンター﹄と一緒なのか﹂
﹁よ、よう、ノコパラ。久しぶりだな﹂
どうやら、馬面とトカゲ頭は知り合いらしい。
789
﹁おう久しぶり。聞いたぜジャリル。ランクをCに上げたんだって
な。
大丈夫かぁ? Cランクじゃペット探しはできねえぞ?﹂
ノコパラはそこまで言ってから、
俺たちと、ジャリルを見比べる。
そして、馬面をヒヒンといななかせた。
﹁なるほどな。どおりでペット探しがはええと思ったぜ。
昨日の依頼、﹃ピーハンター﹄に手伝ってもらったんだろ?﹂
ピーハンターはジャリルたちのパーティ名らしい。
なるほど。
丁度いい。
﹁そうなんですよ!
昨日、ペットを探していたら知り合いまして!
ノウハウを教えてくれるっていうんです!﹂
そんな嘘を適当にぶちあげる、
﹁ハッハー、臆病者のジャリルもついに弟子をもったか!
しかも偽のスペルド族、ぷくく⋮⋮!﹂
と、いい具合に勘違いしてくれた。
こいつ、チョロいな。
馬面はひとしきり笑った後、ふとジャリルの後ろを見た。
790
﹁そういや、ロウマンの姿が見えねえな。どうしたんだ?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮ロウマンは⋮⋮死んじまった﹂
﹁そっか。そりゃ残念だったな﹂
ロウマンというのは、昨日ルイジェルドが殺した人の名前だろう。
そいつの死を聞いても、ノコパラはあっさりとしたものだった。
冒険者の中では、人が死ぬのはそれほど大した事件ではないのか
もしれない。
気にしていたのは俺だけなんだろうか。
そういえば、ジャリルとヴェスケルも、ロウマンとやらを殺した
事に関しては、別段気にしていない感じだった。
﹁でも、ロウマンが死んだのに、なんでランク上げたんだ?
おまえらのパーティだと、あいつが一番強かっただろ?﹂
﹁そ、それは﹂
ジャリルはちらりと俺を見てくる。
ノコパラはヒヒーンと、いやハハーンと頷いた。
﹁あーあー。わかった。言わなくてもいい。
そうだなー。弟子の前なら、ちょっとでもでかい顔してえよな!﹂
ノコパラは一人で勝手に納得すると、
ジャリルの背中をぽんぽんと叩いて、ギルド内へと戻っていった。
ジャリルはほっと一息。
しかし、なんなんだろうなアイツ。
いっつも絡んできやがって。
もしかして、俺のこと好きなのか⋮⋮。
791
いや、あいつの目はどちらかというとルイジェルドを見ている。
つまり⋮⋮。
いや、冗談だけど。
﹁さて、依頼をみてみましょうか﹂
ギルドに入ると、俺たちに奇異の目線を向けてくるヤツもいる。
今のところは無視だ。
一応、弟子っぽく振舞ったほうがいいかと思い、あれこれと聞き
ながら、
ジャリルと共にD∼Bにかけての依頼を見ていく。
﹁採取と収集というのはどう違うんですか?﹂
﹁え? あ、ああ。採取は植物が相手で、収集というのは魔物相手
が多いかな⋮⋮﹂
ジャリル先輩の曖昧な答え。
でも確かに、そんな感じだ。
生物相手なら収集、そうでないなら採取。
例えば、収集なら以下のような依頼になる。
=========================
C
・仕事:毛皮収集
・報酬:屑鉄銭6枚
・仕事内容:パクスコヨーテの毛皮20枚。
・場所:町外
792
・期間:特に無し
・期限:特に無し
・依頼主の名前:冒険者ギルド
・備考:毛皮が足りません。ご協力ください。この依頼は剥がさず、
収集したものをカウンターにそのままお持ちください。
=========================
読んでいて思い出したが、
商人に買い取ってもらったのは屑鉄銭4枚だった。
大分ボられてたんだな⋮⋮。
いや、これは依頼だから特別高いだけで、
普段の買取ではあんなものなのかもしれない。
﹁ルイジェルドさん﹂
﹁なんだ?﹂
﹁申し訳ありませんが、しばらくは金を貯めながらランクをあげよ
うとおもいます﹂
﹁⋮⋮なぜ俺にいう?﹂
﹁例の件が後回しになるからです﹂
ジャリルとヴェスケルには名前を売れと言い含んであるが、
あまり期待はしていない。
慇懃な態度で依頼を受けさせる、という案も思いついたが、
基本的にヤツラの行動についてはノータッチで行くつもりだ。
ノータッチなら、彼らが何をしても知らぬ存ぜぬで通せる。
もし仮に奴らの犯罪行為が見つかったとして、
793
もし仮に奴らがそれをルイジェルドにやらせられたと主張しても、
冒険者ランクは彼らのほうが圧倒的に上だし、
ルイジェルドはすでに偽物だと知れ渡っている。
奴らが笑われるだけだ。
﹁なるほど、わかった﹂
ルイジェルドの了承を得てから、
俺はジャリルと相談しつつ、いくつかの依頼を受けた。
−−−
門番に挨拶をして、町の外へと出ていく。
パクスコヨーテ、
グレートトータス
アシッドウルフ、
ジャイアントロックタートル
大王陸亀、
巨岩石亀。
この町の周辺では、このへんが狙い目だそうだ。
グレートトータス
ジャイアントロックタートル
パクスコヨーテは毛皮、アシッドウルフは牙と尻尾。
大王陸亀は肉で、巨岩石亀からは魔石が取れる。
とりあえず、大王陸亀は今回は無視。
肉は重いしな。
一番の狙いは巨岩石亀だ。
魔石は小さくてもそこそこの値段で買い取ってもらえる。
794
大きさに対する値段の効率がいいのだ。
なるべくなら換金効率のいい巨岩石亀を狙いたい所だが、
数は少なく、人里に近い所にもいない。
結果として群れていて1回の戦闘で数を稼ぎやすい、パクスコヨ
ーテが中心となる。
というわけで、
今回、俺が受けた依頼もパクスコヨーテの毛皮収集だ。
もっとも、1回で数匹分を稼げるというだけだ。
索敵と剥ぎ取りの時間を考えれば、アシッドウルフも大差はない。
なので、アシッドウルフも見かけたら狩っておくつもりだ。
こっちは依頼を受けてはいないが、
収集は依頼を受けるより先に現物を集めてもいい。
依頼が受けられてしまったのなら、買取カウンターに持っていく
だけだ。
パクスコヨーテの群れは、多くても精々10匹。
索敵と剥ぎ取りの時間を考えると、
一日に狩れる数はそう多くはない。
と、最初は思っていた。
最初のパクスコヨーテの一群を倒し、その毛皮を剥ぎ取る。
すると、ルイジェルドは死体を一箇所に集めだした。
何をしているんだと疑問に思っていたが、
﹁風の魔術で、血の匂いを飛ばせるか?﹂
795
という言葉で納得いった。 血の匂いでおびき寄せるわけだ。
言われるがまま、風に使い、風向きをあちこちへと変える。
﹁巨岩石亀は狩れんが、周囲のパクスコヨーテが集まってくるぞ﹂
言うとおりになった。
その日、俺たちは100匹以上のパクスコヨーテを狩った。
この周辺のパクスコヨーテは狩り尽くしたかもしれないと思える
ほどだ。
ま、そんなはずはないんだが。
しかし、大変だった。
寄ってくるパクスコヨーテ、
それらを狩り続けるルイジェルドとエリス。
そして、ひたすら死体から皮を剥ぎ取り続ける俺。
重労働だ。
30匹を超えたあたりから、俺の腕は鉛のように重くなった。
肩は痛くなり、血の匂いで吐きそうになった。
倒せば宝石に変身するようになれば楽なのに⋮⋮。
そう思いながらも、何とか頑張った。
70匹ぐらいで限界がきた。
796
エリスと交代。
パクスコヨーテを魔術で殺す作業は、剥ぎ取りよりずっと楽だっ
た。
爆散させたり、毛皮に必要以上の傷を付けないように、
少しずつ魔術の威力を調整しながら、一匹ずつ丁寧に殺していく。
やはり俺はこういう頭脳労働の方がいい。
30匹ぐらいでエリスが音を上げた。
やはり、彼女は肩の凝る作業は苦手らしい。
次はルイジェルドが剥ぎ取りか、と思ったが、
すでに十分すぎるほどの毛皮が手に入っていた。
一度では運びきれなかったので、町を往復して運ぶ。
﹁待て。その前に、死体は焼いておけ﹂
と、運ぶ前に、ルイジェルドはそう言った。
﹁焼く? 食べるんですか?﹂
﹁いや、パクスコヨーテは不味い。焼いて埋めるだけでいい﹂
死体を放置しておくと、別の魔物が食って増える。
焼くだけでも、他の魔物が食ってしまう。
また、死体をそのまま地中深くに埋めるとゾンビコヨーテとして
復活するらしい。
それらを阻止するために焼いて埋めるという手順を踏む必要があ
るのだとか。
797
毛皮だけを綺麗に剥ぎ取る↓あえてゾンビコヨーテを作る↓ギル
ドで討伐依頼が出る↓討伐。
という黄金連携を思いついたが、ルイジェルドに止められた。
わざと魔物を増やすような行為は禁忌であるとされているらしい。
そういうローカルルールはどこかに書いておいて欲しいものだ。
﹁でも、旅の途中ではそんなことしていませんでしたよね?﹂
﹁数匹程度なら問題ない﹂
という事らしい。
どれぐらいがボーダーになるかは分からないが、
この量の死体は疫病の元とかにもなるからな。
特に断る理由もない。
俺は死体をキッチリ消し炭にしておいた。
全てを運び終えた頃には、日が落ち始めていた。
今日の狩りはこれで終了だ。
今日はよく働いた。
はやく宿に帰って休みたい。
だが、あの延々と続く剥ぎ取り作業を明日もやるのか。
明日あたりはゆっくり休みたい所だが⋮⋮。
﹁今日は一杯儲かったわね! 明日もこの調子でいくわよ!﹂
エリスは元気一杯だ。
そんなエリスの手前、弱音を吐くわけにもいかない。
798
−−−
三日後。
﹃デッドエンド﹄はEランクに上がった。
早いもんだ。
﹁お疲れ様です﹂
ジャリルにねぎらいの声を掛けつつ、
本日狩ってきた分の金銭の1割を彼らに渡す。
﹁あ、ありがとうよ﹂
決して多くはない金額だと思う。
しかし、こんな金額で彼らは暮らしていけているのだろうか。
そう聞いてみると、彼は冒険者とは別に、この町で仕事を持って
いるらしい。
﹁どんな仕事を?﹂
﹁ペット屋だ﹂
なるほど、売りつけたペットをさらうわけか。
まさに悪徳商人だと思った。
﹁あんまり悪いことはするなよ﹂
﹁わかっているよ﹂
799
そもそも、彼の営むペットショップというのは、
町中にいる野良の動物を捕まえ、
多少の訓練を施してペット化する仕事らしい。
彼の種族、ルゴニア族は獣を調教するのが得意な種族であるらし
い。
その調教術は、それはもう古来より伝統として受け継がれており、
そこらの野良犬から、果ては誇り高き獣族の女戦士まで、
どんな相手でも屈服させることができるのだとか。
いやはや、まったくしょうがない種族だと思う。
もし、エリスとルイジェルドがその場にいなければ、
俺も黙ってはいない所だった。
是非ともご教授下さい、と頭を擦りつけて弟子入りしただろう。
それはさておき、
ペット屋というのは、害獣駆除を兼ね備えた素晴らしい仕事、だ
そうだ。
冒険者ギルドの方は、それこそ副業みたいなものだろう。
﹁そんな素晴らしい仕事をしてるのに、なんでペットを攫っちゃう
んですか⋮⋮﹂
﹁最初は保護してただけなんだ。けど、魔が差してな﹂
魔がさして、味をしめて、ああなったというわけか。
﹁しかし、ペットショップと冒険者の両立は大変でしょう?﹂
﹁そうでもないさ。ペットのストックはまだあるからな﹂
800
店を開けているのは昼下がりまでで、
そこから夜にかけて依頼を行うのが、彼のスタイルらしい。
﹁まあ、僕らとしては、きちんと依頼さえこなしてくれれば文句は
ありませんがね﹂
﹁そっちはまかせてくれ、俺たちも冒険者の端くれだからな。
デッドエンドの名前も、ちゃんと売っている﹂
本当かねえ。
−−−
現在の所持金。
鉄銭6枚、屑鉄銭8枚、石銭5。
金に余裕もできたので、普段着と防具を買うことにした。
まず、適当にそこらの行商から服を購入。
エリスの買い物は早い。
彼女は、軽くて動きやすくて丈夫なもの、を基準にしている。
スカートの類は一着もなく、全て長ズボンだ。
最近の若者向けの言い方をするとパンツだが、
そんなオシャレな感じじゃないズボンだ。
状況がよくわかっているチョイスだと思う。
けど、もっと女の子らしいものを一着ぐらい、と思ってしまう。
801
なので、店の端の方にあった、
ピンク色のヒラヒラしたワンピースを薦めてみると、
彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。
﹁⋮⋮私にそんなの着て欲しいの?﹂
﹁一着ぐらいはあってもいいんじゃないですか?﹂
﹁じゃあルーデウスも男らしいのを買いなさいよ﹂
と、山賊の着るような毛皮のベストを押し付けられそうになった。
俺がこれを着ると、エリスがひらひらのワンピースを着る。
それならそれでもいいかな、と一瞬思ったが、
二人が並んだ姿を想像して、諦めた。
服を購入後、防具屋へと赴いた。
今のところ、エリスもルイジェルドも大した怪我をしたことはな
い。
俺が治癒魔術を使えるから、多少の怪我ならすぐ治る。
だから防具はいらないんじゃないか、と聞くと。
ルイジェルド曰く﹁あったほうがいい﹂とのこと。
俺の治癒魔術では、致命傷や部位欠損は治せない。
そして、エリスはまだ実戦経験が浅い。
慣れや油断から致命傷を受けることもある。
なので防具は必要である。らしい。
ここは、ルイジェルドの言葉に素直に従う。
802
防具屋は、中々立派な店構えをしていた。
といっても、アスラで見た店とは大きく違う。
アスラの店より無骨な感じだ。
店に入ると、行商より若干高い品物が並んでいた。
行商の方が値段は安く、たまに掘り出し物もあるのだが、
店を構えている所の方が品質が安定し、品揃えもいい。
そして、サイズが揃っているのも大きい。俺たちは子供サイズだ
からな。
現在、俺たちはエリスの胸当てを選んでいる。
女性用の胸当ては、バストサイズによって結構色々ある。
﹁心臓を守る防具ですから、なるべくいいのを⋮⋮﹂
﹁これでいいわ﹂
エリスは自分にぴったりサイズの皮の胸当てを試着して﹁どう?﹂
と聞いてきた。
胸を凝視できる機会を逃す俺ではない。
⋮⋮ふむ。
成長は順調な感じだ。
﹁もうワンサイズ大きい方がいいですね﹂
﹁なんでよ﹂
なんでって?
﹁僕らは成長期なので、ピッタリだとすぐ合わなくなります﹂
803
そういいながら、次のサイズをエリスに渡す。
﹁ぶかぶかじゃない﹂
﹁大丈夫、大丈夫﹂
エリスはブツブツ言いながら、各部位を守る装備を買っていく。
最近の戦いで、怪我しやすい場所は彼女もわかっている。
各種関節と急所は守るとして、頭はどうするべきか。
重くなりすぎるとスピードが殺される。
とはいえ、頭も急所だ。
何か身に着けておいた方がいいだろう。
﹁こういう兜はどうでしょう﹂
と、世紀末覇王の弟のようなフルフェイスメットを提示。
エリスは露骨に嫌そうな顔をした。
﹁カッコ悪い﹂
一蹴。
最近の若者にこのセンスはわからんらしい。
その後、幾つかの兜を被せてみたが、
重い、ダサい、臭い、視界が狭い。
等の理由で、結局は鉢巻のようなものに落ち着いた。
鉄板が縫い込まれているものだ。
鉢金というんだったか。
804
ちなみに、フードは目立つ赤髪を隠すために被っているだけで、
防具としてはあまり意味を為していない。
﹁こんなものね。どうルーデウス! 冒険者に見える?﹂
ロインにもらったカトラス風の剣を腰に、軽装の冒険者の格好を
してエリスはくるりと回る。
正直、コスプレみたいだ。
胸当てのサイズが合ってないのが、特に
﹁よくお似合いですよ。お嬢様。どこからどう見ても歴戦の戦士で
す﹂
﹁そう? むふふ﹂
エリスは腰に手を当てて、自分を見下ろしながら、にまにまと笑
った。
俺はエリスがニマっている間に、装備を一式、鉄銭1枚まで値切
った。
さすがに、一式となると高いな。
﹁次はルーデウスね!﹂
﹁僕はいらないんじゃないですか?﹂
﹁ダメよ! ローブ買いましょう! ローブ! 魔法使いっぽいの
!﹂
自分は剣士で、幼馴染の魔法使いと一緒に冒険。
エリスはそういう冒険者に憧れていたようだ。
夜は眠れない日もあるみたいだが、昼間のエリスは実に図太い。
まあいいか。
805
付き合ってやろう。
﹁おじさん、僕の体に会うローブってありますか?﹂
と聞くと、防具屋のオヤジは無言で棚の一つを開けてくれた。
ホビット
﹁小人族用だ﹂
そこには、色とりどりのローブ。
どれも微妙にデザインが違う。
色は5色。赤、黄、青、緑、灰。
かなり淡い色だ。
﹁色が違うと何か違うんですか?﹂
﹁布に魔物の毛が織り込んである。耐性がちょっと付いてる﹂
﹁赤は火、黄は土⋮⋮灰色は?﹂
﹁ただの布だ﹂
なるほど。
だから灰色だけ半額なのか。
他の色もちょっとずつ値段が違う。材料の問題だろうか。
﹁ルーデウスは青色よね!﹂
﹁どうでしょうね⋮⋮﹂
近距離戦だと爆風で自分を吹っ飛ばすとかやるしな。
赤か緑の方がいいかもしれない。
きつねか、たぬきか。
﹁坊主、どんな魔術使うんだ?﹂
806
﹁攻撃魔術を全種類使えますよ﹂
﹁へぇ。すげえな。若そうに見えるのに⋮⋮じゃあ、ちょっと値は
張るが﹂
と、オヤジが取り出したのは、ちょっと濃い目の灰色だ。
ねずみ色という感じ。
﹁マッキーラットの皮で作ってある﹂
﹁○ッキーマウス?﹂
﹁マウスじゃねえ、ラットだ﹂
俺の脳裏には、赤い半ズボンをはいた黒いアイツが浮かんでいた。
ぶんぶんと振り払う。
それは危険だ。
手にした感じは布のようだが、そういう生き物なのだろうか。
﹁これにはどんな効果が?﹂
﹁魔力耐性はねえが、丈夫だ﹂
試着してみる。
﹁ブカブカですね。もっと小さいのは無いんですか?﹂
﹁それが一番小さい﹂
﹁子供用のがあるでしょう?﹂
﹁そんなものは無い﹂
なんて、ノーマルスーツを初めて着用した柔道家みたいな会話を
しつつ。
807
まあ、体の方は成長期だから、これでいいのかもしれない。
生地もいい。丈夫という言葉通り、防刃性もちょっとはありそう
だ。
それに、ネズミ色ってのもいいな。
名は体を表すって言うし。
﹁ま、これにしときましょうか﹂
﹁気に入ったか? 屑鉄銭8枚だ?﹂
﹁じゃあそれを⋮⋮﹂
可能な限り値切って、屑鉄銭6枚で購入した。
ついでに、エリスと色違いの鉢金をもう二つ購入。
俺とルイジェルド用である。
いざという時に、ルイジェルドの額の宝石を隠せるように。
なんで俺の分も買ったのかって?
仲間ハズレは嫌じゃん。
−−−
俺たちが買物をしている間、
ルイジェルドはヴェスケルを監視しに行ってもらっていた。
彼らには期待しているわけではないが、
彼らの働き次第では、俺たちの評判は地に落ちる可能性もある。
なので、ルイジェルドを偵察に送り込んだ。
808
そんなに心配なら、最初からあんな奴らと手を組まなければいい、
と言われた。
仰るとおりだ。
しかし、そのお陰で、金銭的に余裕ができた。
今のところはどっこいどっこいだろう。
結論から言うと、彼らはしっかり働いていたらしい。
Fランクの仕事だが、嫌がらずに、献身的に。
ヴェスケルは本日、害虫駆除の依頼を受けていた。
台所に生息する憎きあいつを退治する依頼だ。
彼女の種族はズメバ族といって、唾液に毒性がある。
その唾液には、誘引力がある。
唾液を摂取した虫は死亡、あるいは麻痺で動けなくなり、ズメバ
族の餌となる。
つまり、害虫駆除は彼女の十八番である。
依頼主は老婆だった。
実に偏屈そうで、口をへの字に結んでいる老婆だ。
ちょっとでも気に食わない事があれば叩き出す。
そんな気配をルイジェルドは老婆から感じ取ったらしい。
だが、ヴェスケルは特に衝突する事もなく、迅速に害虫を全滅さ
せたらしい。
ルイジェルドが確認した所、本当に家の中から一匹もいなくなっ
たらしい。
その後、彼女は家中の隙間を何やら糸のようなもので埋め、侵入
809
経路を塞いだ。
﹁ありがとうよヴェスケル。困ってたんだ﹂
﹁いいえ。何かあればまた﹃デッドエンドのルイジェルド﹄にお任
せください﹂
﹁﹃デッドエンドのルイジェルド﹄?
それが今のパーティ名かい?﹂
﹁そのようなものです﹂
ヴェスケルは、そんな会話をし、
﹁また出たら、これを使って﹂
最後に唾液から作った餌を数個渡して、老婆と別れた。
依頼完了。
冒険者ギルドで俺たちと落ち合い、報酬を受け取った。
﹁聞く限り、しっかり働いていますね﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
俺が思っていた以上に、彼女の仕事は完璧だ。
老婆とも知り合いのようだし、アフターケアもできている。
行き当たりばったりで猿真似をした俺より、よほど心象がいいだ
ろう。
﹁彼らは根っからの悪党ってわけじゃないみたいですね﹂
﹁そうだな﹂
810
まあ、俺も疑っていたわけだが。
いつもやっている事に加えてデッドエンドを名乗るだけなら、彼
らの負担もないだろう。
楽して金を儲けている、という意識を持って貰えるのは悪くない。
裏切る可能性も低くなるからな。
﹁悪事を働いたという事実は消せん﹂
﹁でも、今は頑張っています。ルイジェルドさんと同じようにね﹂
﹁む⋮⋮﹂
犯罪者だって悪いことばっかりやってるわけじゃないのさ。
彼ら然り、俺然り、ルイジェルド然り、だ。
別にやるなと言ったわけじゃないのに、ペット誘拐もしてないし
な。
まあ、まだ三日だ。
悪事がバレて死にそうな目にあった記憶が薄れるには早い。
﹁もっとも、殊勝なのは今のうちだけかもしれません。
今後も事ある毎に監視した方がいいでしょうね﹂
そう言うと、ルイジェルドは眉をひそめた。
﹁お前は⋮⋮手を組んだ相手を信用していないのか?﹂
﹁当たり前です。
僕がこの町で信用してるのは、エリスとルイジェルドさんの二人
だけですよ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ルイジェルドが俺の頭に手を伸ばそうとして、やめた。
811
俺はルイジェルドを信用しているが、
ルイジェルドからの信用は、なくなっているように感じる。
まあ、今はそれでもいいさ。
俺の目的はエリスと一緒にアスラ王国に帰ることだ。
ついでにスペルド族の名誉回復もするが、
ルイジェルドに信用されることは目的にはない。
﹁行きましょうか﹂
俺たちは魔照石の光の中を、ゆっくりと宿に向かって歩き出した。
−−−
冒険者生活の滑り出しは順調であったと言える。
812
第三十一話﹁子供と戦士﹂
三週間が経過した。
俺たちはDランクに上がった。
−−−
随分早いと思って調べてみた。
昇格の条件は以下の通りである。
=============================
F↓E
F級の仕事を10回こなす
E級の仕事を5回連続でこなす
E↓D
F級の仕事を50回こなす
E級の仕事を25回こなす。
D級の仕事を10回連続でこなす
D↓C
E級の仕事を100回こなす
D級の仕事を40回こなす
C級の仕事を10回連続でこなす。
813
C↓B
D級の仕事を100回こなす
C級の仕事を50回こなす
B級の仕事を20回連続でこなす
B↓A
C級の仕事を300回こなす
B級の仕事を100回こなす
A級の仕事を20回連続でこなす
A↓S
A級の仕事を100回こなす
S級の仕事を20回連続でこなす
また、失敗が続くと降格がある。
自分より低いランクの仕事は5回連続失敗で降格。
同ランクなら10回連続失敗で降格。
自分よりランクが上の仕事なら失敗しても降格はないが、
5回連続失敗で受けることができなくなる。
=============================
ジャリルとヴェックスが二人掛かりで、
毎日F、Eランクの仕事をやってくれたからこそ、
ここまであっさりと上がれたというわけだ。
現在はDランク。
814
つまりCランクの仕事を受けることができる。
Cランクの依頼は余裕だ。
だから、すぐにでもCランクには上がれる。
そろそろ、ジャリルたちとの契約を切ってもいいかもしれない。
奴らはもうペット誘拐はやらないようだが、
依頼交換がどんな悪影響を及ぼすかわからない。
金も貯まってきている。
彼らと決別し、この町を発つのにはいい頃合いかもしれない。
が、
Cランクに上がるまでは利用させてもらう事にした。
今の所は問題ないようだし、
安定して稼げている状態を手放すのは、惜しい。
金はあればあるだけ、いいからな。
現在の所持金は緑鉱銭1枚、鉄銭7枚、屑鉄銭14枚、石銭35。
石銭換算だと、1875枚といった所だ。
1875円⋮⋮。
全財産をはたいても、アスラ大銅貨2枚にも満たないのだ。
いや、よその大陸の物価を考えるのはよそう。
Cランクに上がり次第、ジャリルたちと決別し、この町を発つ。
その方向でいくとしよう。 −−−
815
そんな中、こんな依頼を見つけた。
=========================
B
・仕事:謎の魔物の捜索・討伐
・報酬:屑鉄銭5枚︵討伐で鉄銭2枚︶
・仕事内容:魔物の捜索・討伐
・場所:南の森︵石化の森︶
・期間:次の月末
・期限:早急に
・依頼主の名前:行商のベルベーロ
・備考:森の奥でうごめく影を見つけた。正体を突き止め、危険で
あるなら排除してほしい。
=========================
俺はジャリルと共に、顎に手を当てて悩んだ。
謎の魔物。
なんとも曖昧な依頼である。
実はいないのかもしれない。
仮にいたとしても、
どうやってその魔物だと証明すればいいのか。
しかし、報酬はいい。
鉄銭2枚。
倒さなくても屑鉄銭5枚は悪くない。
﹁気になるのか?﹂
816
﹁報酬がいいので。でも怪しい﹂
ジャリルもそれに頷く。
﹁こういう依頼は報酬をもらえないこともあるからな。やめておい
たほうがいい﹂
そういう事は、以前に一度あった。
あれは二週間前。
アシッドウルフを収集してくれ、という依頼だった。
俺たちはいつもどおり、アシッドウルフの牙と尻尾を規定通り集
めてきた。
だが、必要なのはアシッドウルフの全身でした、と言われた。
依頼内容にはそのへんが詳しく書いていなかったが、
俺たちは違約金を払う事になった。
思い返すも屈辱的な出来事だ。
そうならないためにも、受けないのがいいのだが⋮⋮。
俺は金に目が眩んでいた。
﹁ああ、でも、鉄銭2枚⋮⋮
もう一度ぐらい﹃勉強﹄しておくのもいいかも﹂
﹁あんたもこりないな﹂
﹁こういう場合、違約金は屑鉄銭5枚分の方が適用されるんでしょ
う?﹂
﹁そうだ。カッコの方は特別報酬みたいなもんだからな﹂
ちなみに、ノコパラがルイジェルドに絡んできたり、
他冒険者がエリスに絡んできたりとうるさいので、
817
二人は外に待たせてある。
ヴェスケルも冒険者ギルドには顔を出さない。
止める者はいなかった。
﹁まあ、石化の森なら、何もいなくても売れるモノは手に入るだろ
うし、
あんたらなら違約金分も回収できるだろう。いいんじゃないか?﹂
﹁よし。じゃあ、そっちも頑張って﹂
後で思い返すも、どうにも、この頃の俺は判断力が鈍っていた。
慣れが慢心を生んでいた。
順調に行っているがゆえ、リスクを軽視した。
焦りが利益を追求させた。
もっとうまくやれたはずだ。
そう思う反面、あの時はあれ以上のことは出来なかった。
そう思う俺がいた。
−−−
石化の森。
距離はリカリスの町から丸一日。
街道の脇にある森で、
先の尖った骨のような木が大量に生えており、
まるで森が石化してしまったように見える。
818
アーモンドアナコンダやエクスキューショナーといった、
Bランクに類する、かなり危険な魔物も生息している。
森を突っ切れば、次の町までの近道となるが、
そんな事をするのは、急ぎの行商人ぐらいだ。
それも腕に覚えのある護衛を何人も雇った⋮⋮。
この世界において森は例外なく危険であるが、
魔大陸の森は、格別に危険である。
−−−
そんな森の入り口。
そこには、三つのパーティが集まっていた。
一つは、Bランクパーティ﹃スーパーブレイズ﹄。
一つは、Dランクパーティ﹃トクラブ村愚連隊﹄。
そして最後は、Dランクパーティ﹃デッドエンド﹄。
現在、
各パーティのリーダーが顔を付きあわせている。
森等の前でパーティが鉢合わせしたら、
一応の顔合わせをしておくのが冒険者の常識、だそうだ。
俺としては無視したい所だったが、
森の中で鉢合わせしても厄介だ。
819
とりあえず、顔を出しておくことにしたのだ。
﹁おい、で、なんだてめえらは﹂
開口一番。
イライラした顔で言ったのは、﹃スーパーブレイズ﹄のリーダー
のブレイズだ。
顔に覚えがある。
確か、初日に俺たちを笑った豚野郎だ。
おっと、悪口じゃないよ。
顔が豚なのだ。
エリスにゲスい目線を向けていた門番と同じ種族だろう。
オーク
種族名はなんと言ったか⋮⋮。
俺の脳内では、豚頭族と呼んでいる。
彼らは多種多様な種族で構成されている6人パーティだ。
ラミアっぽい人、妖精みたいな羽の生えた人、ケンタウロスっぽ
い人⋮⋮他。
魔大陸でCランクに上がるためには、周囲の魔物を狩れる実力が
必要だ。
Bランクともなれば、実力の裏打ちされたベテランということだ。
﹁オレたちは依頼できたんだよ!﹂
﹃トクラブ村愚連隊﹄リーダーのクルトはムッとした顔で言った。
二本の角がチャーミングな美少年だ。
﹁僕らもそうです﹂
820
﹃デッドエンド﹄のリーダーも右に同じと頷いた。
ま、俺だけど。
Dランク二人の言葉を聞いて、ブレイズはチッと舌打ち。
﹁ブッキングしちまったか。
なんか嫌な予感してたんだがなあ⋮⋮﹂
ブレイズがイライラと首筋を掻いた。
﹁ぶ、ブッキングってなんですか?﹂
﹁あ!?﹂
クルトがおずおずと聞くと、ブタがいきなりキレた。
﹁まぁまぁ、抑えて抑えて。
何卒、ここは初心者の俺らに一つ、ご教授してください﹂
俺が揉み手でスリよると、ブレイズはペッと地面に唾を吐いた。
﹁同時期に違うヤツが依頼を出しちまって、
それをギルドが管理出来ずに一緒に出しちまったってことだよ﹂
なるほど。
ダブルブッキングか。
依頼者が三人いて、依頼が3つ。
それぞれ違うものだと思っていたら、実は同じものだった。
という感じか。
ありそうな出来事だ。
821
ホワイトファングコブラ
﹁ちなみに、皆さんはどんな感じの依頼なんですか?﹂
と、聞いてみる。
ブレイズの依頼。
﹃石化の森に出現した、白牙大蛇の討伐﹄。
クルトの依頼。
﹃石化の森で目撃された謎の卵の採取﹄。
ルーデウスの依頼。
﹃謎の魔物の捜索﹄。
﹁捜索? あれ? Dランクにそんな依頼あったっけ?﹂
クルトの疑問。
もちろん、ちゃんと考えてある。
﹁Cランク依頼です。
クルトがギルドから出た後に貼りだされたんですよ﹂
﹁そっか⋮⋮そっちの方が良かったな⋮⋮﹂
ブツブツ言うクルトを尻目に、俺は考える。
依頼内容だが、ちょっとずつ被ってる感じはする。
まず、この森には白牙大蛇はいない。
しかし、討伐依頼が出ているということは、発見されたというこ
822
とだ。
つまり、謎の魔物も、白牙大蛇である⋮⋮かもしれない。
謎の卵も白牙大蛇の卵⋮⋮かもしれない。
もちろん、謎シリーズが白牙大蛇ではない可能性もある。
ダブルブッキングと断じたブレイズは早計だ。
﹁それにしても、どうしてこんな事が?﹂
﹁しらねえよ。たまにあるんだよ﹂
まあ、それもしょうがないか。
コンピューター管理じゃないしな。
﹁で? こういう場合はどうすれば?﹂
﹁どうもしねえよ、早い者勝ちだ﹂
ブレイズが言うと、クルトが驚愕の声を上げた。
﹁なっ! あんたらが先に魔物を倒したら、
オレたちの依頼はどうなるんだよ!﹂
﹁あん? 卵の採取だったか?
ホワイトファングコブラ
そりゃ見つけたら割るさ。
白牙大蛇が繁殖でもしたら大変だ﹂
ブレイズはヘラヘラとクルトをあざ笑った。
﹁なあ、ルーデウス。あんたからも言ってくれよ!
こいつらに先に倒されたら、オレたちの依頼が⋮⋮!﹂
と、クルトは俺に矛先を向けた。
823
確かに、彼らが先に魔物を倒せば、俺たちの捜索依頼も失敗⋮⋮。
いや、俺たちは捜索が任務だ。
白牙大蛇がいました、と報告すれば、それで完了になりそうな空
気はある。
もしそれでダメでも、森で魔物を狩って帰れば、違約金分は払え
そうだ。
﹁まだダブルブッキングと決まったわけじゃありません。
白牙大蛇ではない、別の魔物もいるかもしれません﹂
俺がそう言うと、ブレイズは嫌そうな顔をした。
﹁だから、いっしょに探しましょうってか?
俺らに子守をしろって言うのか?﹂
ん?
なんでそうなるんだ?
と、俺は疑問に思ったが、
クルトは子守と聞いて、反射的にカッとなったようだ。
﹁誰がお前らの世話になりたいって言ったよ!﹂
﹁とかいって、俺らに守ってもらいてえんだろ?
Dランクじゃこの森はキツイからなぁ﹂
ああ、なるほど、そういうことか。
俺とクルトの2パーティが、
Bランクのブレイズたちに金魚の糞みたくくっついて、
それで楽に依頼を達成するのが嫌なのか。
824
ブレイズたちの負担が増えるだけだからな。
無論、俺も一緒に行動したくない。
ルイジェルドが槍で戦う所は見られたくない。
彼は強すぎるから、本当のスペルド族だとバレる可能性もある。
なので、
ここはクルトに便乗させてもらうか。
﹁そうですね。実に不愉快です。
子守は必要ありません。﹃デッドエンド﹄は単独で行動させても
らいます﹂
俺は一方的にそう言って、リーダーの輪から出た。
−−−
ルイジェルドとエリスの所に戻る。
ルイジェルドは森の方を見ており、
エリスはその脇で暇そうにしていた。
﹁なんだったの?﹂
待ちかねたと言わんばかりに、エリスが聞いてくる。
﹁依頼内容がダブルブッキングしてたんです﹂
﹁ダブルブッキング?﹂
﹁内容が被っていたんです﹂
825
﹁それはどうなるの? 譲っちゃったりするの?﹂
﹁まさか、早い者勝ちですよ﹂
﹁そう、腕がなるわね﹂
エリスはやる気満々だった。
エリスは最近の冒険者らしくない狩りにはうんざりしているよう
だった。
狩りというより、完全に﹃作業﹄だからな。
そうこうしているうちに、ブレイズとクルトも話が終わったよう
だ。
クルトは残り二人に短く話かけ、森へと入っていった。
﹃スーパーブレイズ﹄も、彼らとは違う方向へと入っていく。
﹁ねえ、私たちはどうするの?﹂
﹁そうですね。いつもどおりルイジェルドに索敵をしてもらって、
例の謎の魔物とやらを探す方向で行きましょうか﹂
と、思ったが、ルイジェルドが首を振った。
﹁まて﹂
﹁どうしました?﹂
﹁あの三人の子供が心配だ﹂
三人の子供。
愚連隊のことだろう。
﹁彼らの実力では、この森では生きていけん﹂
826
﹁つまり?﹂
﹁手伝ってやろう﹂
ということらしい。
﹁⋮⋮でも、あまり一緒に行動すると、スペルド族だってバレます
よ﹂
﹁構わん﹂
俺が構うっちゅーねん。
﹁スペルド族だとバレたら、色々厄介な事になります﹂
﹁ならば、彼らを見殺しにしろというのか?﹂
﹁そうは言っていません。
後ろから追尾して、いざという時に助けてあげましょう﹂
仕方がない。作戦変更だ。
鉄銭2枚は諦め、恩を売る事にしよう。
しかし、安易に手助けをしても大丈夫なのだろうか。
魔物に襲われている所を助けるとなると、
スペルド族だとバレる可能性が高くなる。
さすがに命を助けてもらってまで、偏見を持ち出す事はないと思
いたいが⋮⋮。
しかし、デッドエンドという存在は魔大陸では特別だ。
どうなるかわからない。
いざとなれば、ジャリル達のように仲間に引き入れる方向でいく
か⋮⋮。
827
というわけで。
クルトたちを尾行することにした。
−−−
さて、
クルトたちは、意気揚々と森の奥へと入っていった。
ルイジェルドはそれを見て、眉を潜めていた。
﹁どうしました?﹂
﹁奴ら、森に入るのは初めてなのか?﹂
﹁さあ、僕は知りませんが﹂
﹁迂闊すぎる﹂
と、その心配の通り、
クルトたちは索敵に失敗し、
エクスキューショナーと遭遇した。
エクスキューショナーは人型をした魔物だ。
中身は生前に冒険者だった者のゾンビである。
そのゾンビが、なぜか巨大な剣と分厚い全身鎧で武装している。
動きはそれほど早くはないが、ひたすらにタフで、剣に技術があ
る。
危険度的にはBに分類される。
基本的に単体であり、それほど大きいサイズでもない。
なのにB。
強敵である。
828
ちなみに、剣と鎧は死ぬと消滅する。
金にならない嫌な敵だ。
そんな魔物に遭遇したクルトたちは、
出会って早々に全力逃走。
﹁助けに入るぞ!﹂
﹁いえ、まだです﹂
飛び出そうとしたルイジェルドを、俺は止めた。
﹁なぜだ!﹂
﹁まだピンチじゃありません﹂
エクスキューショナーは鎧姿に似合わず素早いが、
しかし、全力で逃げているクルトたちに追いつけるほどではない。
次第に距離が離れ、このままいけば逃げ切れる。
という所で、クルト達の運が尽きた。
彼らの逃げた先にいたのは、アーモンドアナコンダ。
3∼5匹程度で群れる魔物で、体にアーモンドのような紋様があ
る。
体長は3メートル程度。
牙には強力な毒があり、動きも俊敏。タフで数も多い。
ゆえにB。
強敵である。
石化の森を代表する、出会いたくない魔物トップ2。
それに挟まれたのだ。
829
クルトたちの半泣き半笑いの顔。
大方、どちらかに出会っても逃げればいいや、ぐらいに思ってい
たのだろう。
実際、エクスキューショナーからは逃げきれそうな感じだった。
こうなったのは、彼らが考え足らずだからだ。
実力的に見合った場所でないのだから、やめておけばいいのに。
でも、ちょっと背伸びをしたい気持ちはわかる。
浅はかなり。
﹁助けるぞ!﹂
﹁いや、もうちょっと待って﹂
すぐに助けようとするルイジェルドを制する。
ギリギリのピンチを演出するのだ。
ピンチになればなるほど、売れる恩も大きくなる。
傷だらけになった所で、治癒魔術で直せばいい。 ククク。
俺の策は完璧だ。
﹁あ!﹂
エリスの叫び。
体を両断されて宙を舞う、鳥っぽい少年。
一撃だった。
彼はエクスキューショナーの攻撃をいなすことが出来ず、
一撃で即死した。
830
俺の悪い笑みが引きつった。
そして自分の考え違いに気づいた。
彼らは、すでに、ギリギリのピンチだったのだ。
浅はかなのは、俺だった。
﹁だから言った!﹂
ルイジェルドの苛立ち混じった声。
ストーンキャノン
俺は即座に岩砲弾をエクスキューショナーに放った。
同時にルイジェルドとエリスも飛び出した。
ストーンキャノン
俺の魔術を食らって、エクスキューショナーは生きていた。
ストーントゥレントゥを一撃で倒した岩砲弾を受けて立っていた。
硬すぎる、と思ったが、よく見ると右手だけが吹っ飛んでいた。
狙いを外したのだ。
ヤツは左手で剣を拾うと、こちらに向かって走ってきた。
遠目に見れば遅いと思ったが、
こうして向かってくると、
その鈍重そうな見た目からは想像もできないスピードに思えた。
俺は冷静に、ヤツの足元に柔らかい泥沼を設置した。
ズボッと片足をツッコミ、前のめりに倒れるエクスキューショナ
ー。
俺はヤツの真上に巨大な岩石を召喚し、勢いよく叩き潰した。
その頃、ルイジェルドたちもアーモンドアナコンダを全滅させて
いた。
831
−−−
﹁⋮⋮はぁはぁ⋮⋮まじ⋮⋮はぁはぁ⋮⋮助かったよ﹂
クルトは真っ青な顔でガクガクと震えながら、
しかししっかりと礼だけは言ってくる。
﹁お、おまえら、つ⋮⋮強いんだな⋮⋮﹂
岩の下敷きになったエクスキューショナー
首を綺麗に断ち切られて死んでいるアーモンドアナコンダ。
まあ、このぐらいなら楽勝だ。
楽勝なのに、
助けられなかったのだ。
﹁いや、助けるのが遅れて⋮⋮悪かった﹂
クルトの目には、憧憬の色がつき始めていた。
俺は胸が痛くなり、視線を逸らした。
逸らした先には、体を半分に割られて死んだ少年がいた。
嘴のついた顔。
たしかガブリンとかいう名前だったか。
俺が余計なことを考えなければ、死ぬことはなかっただろう。
そう考えていると、
ルイジェルドに胸ぐらを掴まれた。
832
彼は顎で死体を指し、言う。
﹁あれはお前のせいだ﹂
容赦なく心が抉られた。
﹁はい⋮⋮﹂
﹁三人とも、助けられたんだぞ!﹂
わかってる。
わかってるさ。
俺だって、こんなつもりじゃなかったんだ。
やるせない気持ちでいっぱいだ。
こんな結果を望んだわけじゃない。
反省だってしている。
後悔だってしている。
なのに、なんで反省してるのに責められなければいけないんだ。
﹁俺だって一生懸命なんだよ!
ここ一番で最大の成果が出るように狙ったんだよ!
なんでそれを責められなきゃいけないんだよ!﹂
﹁死んだからだ!﹂
思わず声を荒げたが、的確に言い返された。
﹁ぐっ⋮⋮﹂
言い返せない。
俺が殺したようなものだ。
833
﹁⋮⋮﹂
エリスも今日は黙っている。
彼女も思う所があったんだろうか。
ガブリンの死体をじっと見ていた。
もはや、俺に言葉は無かった。
俺は失敗したのだ。
人の生死が関わる場面で、
自分の利益を優先して、手遅れになったのだ。
﹁お、おい、仲間割れはやめてくれよ﹂
結局、止めてくれたのはクルトだった。
﹁お前は関係ない。コイツの問題だ﹂
ルイジェルドは取り合わない。
だが、クルトも引き下がらない。
﹁関係ないけど、わかるさ。オレたちが戦っている所を見て、助け
るか見捨てるかで意見が割れたんだろ!?﹂
いいえ。
実際には割れるどころか、俺が独断で見捨てる形になりました。
﹁確かにあんたらは強いかもしれないけど、万が一だってある。
それに、オレたちを助ける義理もない!﹂
834
ルイジェルドの髪が逆立ったかと思った。
﹁義理などではない! 子供を助けるのは大人の責任だ!﹂
その言葉に、クルトがカッとなったのがわかる。
﹁オレたちは子供じゃない! 冒険者だ!
ルーデウスのリーダーとしての判断は正しい!﹂
﹁むっ⋮⋮﹂
ルイジェルドが黙った。
けど俺は、自分の判断を正しいとは思っていない。
﹁だが、仲間が死んだのだぞ?﹂
﹁見りゃわかるよ!
確かにオレたちも、このままずっと三人でって思ってたさ!
けど、死ぬことだってちゃんと覚悟してきたつもりだ!
冒険者なら、若くたって、年寄りだって、みんな覚悟してる!﹂
ズキンと胸がいたんだ。
俺には、そんな覚悟は無い。
冒険者という職業は、あくまで金儲けの手段としてしか見ていな
い。
﹁助けてくれたのには感謝してる!
けど、ウチのメンバーのことはウチの問題⋮⋮。
いや、依頼の難易度を見極められなかったオレの責任だ﹂
クルトの言葉は青臭い。
若い正義感とでもいうんだろうか。
835
それとも社会に揉まれていないガキっぽさがあるとでもいうんだ
ろうか。
しかし、そこには必死さがあった。
最近の俺に、明らかに足りなかったものだ。
所持金とギルドのランクばかりを気にして、
依頼をゲーム感覚で捉えていた俺には、なかった必死さだ。
﹁そっちのお前⋮⋮クルトとか言ったか。
子供扱いして悪かった。
お前たちは一人前の戦士だ﹂
彼はクルトの言葉で、何かを納得したようだった。
﹁そして、ルーデウス。すまなかった﹂
俺を地面に降ろし、謝罪した。
今回の件について、ルイジェルドが謝ることは、無い。
﹁謝らないでください。俺がミスした事実は、帳消しにはならない
んですから﹂
﹁いや。ミスではない。
お前は奴らの戦士としての矜持を守ろうとしたのだ。
すぐに助けようとした俺は浅はかだった﹂
﹁いや⋮⋮﹂
そんなことは、一切考えてなかった。
﹁あの小悪党の二人組の時もそうだったな⋮⋮﹂
836
ルイジェルドは一人で勝手に納得している。
俺は納得していない。
今回の件は反省しなければならない事柄の一つだ。
すぐにでも悪かった点を洗いだし、
次回、似たようなミスを犯さないように整理すべきだ。
と、思う反面。
勝手にそう勘違いしてもらえてラッキー。
結果よければ全部オッケーじゃん。
という、浅ましい考えもあった。
自分が嫌になりそうだった。
−−−
クルトたちはそのまま死体を抱えて町に帰るという。
俺たちは、せめてと森の入り口まで護衛してやった。
ルイジェルドなら、﹁町まで送ろう﹂と言い出すかと思ったが、
そうはならなかった。
彼は、クルトたちを戦士として認めたのだ。
﹁一人欠けては町に戻れないかもしれない。
けど、死ぬ覚悟はしている﹂
そう言った彼の背中は物哀しく、思わずエリスが駆け寄り、
837
﹃頑張りなさいよ!﹄
と、声を掛けるほどだ。
言葉は通じていないが、エリスの表情から、
なんとなくクルトも言いたいことがわかったらしい。
﹁ありがとう⋮⋮えっと、こうだっけ?﹂
﹃えっ!﹄
と、エリスの手を取ると、その親指の付け根あたりにキスをした。
そして、にこやかに笑って去っていった。
エリスは固まっていた。
俺もどうしていいかわからなかった。
エリスはバッと振り返り、俺を見た。
そして、キスされたあたりをゴシゴシと鎧の裾でこすった。
﹃ち、違うんだから!﹄
エリスは何やら必死な顔をしていた。
キスといっても、皮の手袋ごしだ。
そんなに必死にならなくてもいいと思うんだが。
﹃こ、これ、もう使わないから!﹄
エリスは手袋をはずすと、ぽいと森の奥へと放り投げた。
おいこら、手袋もタダじゃないんだぞ。
﹃装備品を投げるな!﹄
838
﹃新しいのを買う金が勿体ないでしょう!﹄
俺とルイジェルドの叱責が重なった。
反射的な言葉だったが、こんな時にまで金の話を持ち出してしま
うとは。
ううむ⋮⋮。
﹃うるさい!﹄
エリスは涙目になって地団駄を踏んだ。
こんなエリスは久しぶりに見る。
なんだろう。
手の甲にキスをするというのは、どんな意味があるんだろう。
﹃ルーデウス! はい!﹄
と、彼女は、俺の眼前に手を差し出した。
反射的に舐めた。
﹃!﹄
エリスの顔が真っ赤に染まり、俺はグーで殴られた。
意識が刈り取られそうになるほどの本気パンチだった。
首の骨が折れるかと思った。
このパンチなら世界が取れると思った。
俺は無様に地面に転がった。
何をすればよかったんだ?
殴られて地面に倒れていると、
839
エリスが俺になめられた所をじっと見て、ペロっと舌で舐めたの
が見えた。
そして、見る間に真っ赤になると、ごしごしと服の裾で手を拭っ
た。
﹃ご、ごめんルーデウス。でも舐めちゃだめよ!﹄
その仕草が可愛かったので、俺は全てを許した。
ついでに、失敗して鬱だった気分も、ちょっと晴れた。
−−−
森を歩きながら、ルイジェルドについて考える。
・子供好き
・正義感
俺の認識におけるルイジェルドはこんな感じだった。
しかし、本日あるキーワードが浮上した。
﹃戦士﹄だ。
﹁ルイジェルドさんにとって、戦士って、なんですか?﹂
﹁戦士は子供を守り、仲間を大切にする者のことだ﹂
即答だった。
しかし、そのことから、俺はようやく、
今までルイジェルドが怒っていた理由を察することができた。
840
彼は、考えなしの正義感ではない。
戦士に矜持を求めていただけなのだ。
戦士は子供を害してはならない。
戦士は子供を守らなければならない。
戦士は仲間を見捨ててはならない。
戦士は仲間を守らなければならない。
彼の中には、こんな感じの考えがあるのだ。
だから、俺を蹴り飛ばしたペット誘拐犯は悪党と断定された。
そして、その敵を討とうともせず命乞いをした二人も、
戦士の風上にも置けない悪党と断定された。
クルトたちもそうだ。
最初は彼らを子供として見ていた。
子供を見捨てた俺は、悪党というわけだ。
しかし、先程の啖呵で、考えを改めた。
子供から戦士へと認識を変えた。
そうすることで、俺の行動が許された。
むしろ、彼らを戦士として見ていなかったと、彼は反省した。
彼の中における、子供と戦士の線引がどうにもわからない。
エリスはどうやら子供として見ているようだが。
俺はどっちなのだろうか。
聞くべきか、聞かざるべきか。
841
﹁戦っているな﹂
悩んでいると、ルイジェルドが警戒の声を上げた。
﹁さっきの⋮⋮ブレイズたちですか?﹂
﹁そうだ﹂
ブレイズたちであるらしい。
ルイジェルドの第三眼がどういう見え方をしているのかわからな
い。
鉢巻で塞がれていても見えているのは知っていた。
それと、単なるレーダーだけでなく、
個体の識別も出来るらしい。
便利だ。
俺も欲しい。
﹁助けますか?﹂
﹁必要なかろう﹂
さすがBランクともなると、ルイジェルドに戦士として見てもら
えるらしい。
森の先には、一匹の大蛇がとぐろを巻いていた。
そして、その周囲には四つの死体があった。
﹁⋮⋮⋮え?﹂
死んでるんですけど。
あ、必要ないって、そういう意味?
842
ブレイズの死体は無い。
逃げたんだろうか。
﹁残り二人は?﹂
﹁死んでいる﹂
全滅したらしい。
合掌。
﹁しかし、あの魔物は?﹂
ブレイズたちを全滅させた魔物は、デカかった。
レッドフードコブラ
﹁あれは赤喰大蛇だな﹂
その赤い蛇は、
俺とエリスが両手を繋いでも抱えきれない胴体、
10メートルはあろうかという長さ、
そして、威嚇するように広げられている頚部を持っていた。
胴体の途中が、ポコリと大きくなっていた。
あの片方は恐らく豚肉だろう。
ていうか、白蛇って話じゃなかったっけ?
レッドフードコブラ
﹁この森に赤喰大蛇がいるとはな。しかもでかい﹂
﹁普通はいないんですか?﹂
﹁普通はな。だが、稀に発生する﹂
843
レッドフードコブラ
ホワイトファングコブラ
赤喰大蛇とは、
白牙大蛇の上位種である。
白牙大蛇よりも巨大な体を持ちながら、敏捷性は大幅に上回る。
火に耐性を持つ硬い鱗で全身を覆い、鋭い牙には猛毒がある。
何を摂取して変異するのかはわかっていないらしいが、
白牙大蛇のいる所に、ごく稀に発生する。
白牙大蛇はBランクだが、
赤喰大蛇はAランクに相当する強敵である。
Bランクのパーティでは、瞬殺だっただろう。
ということらしい。
彼は食事に夢中で、どうやらこちらには気付いていないようだ。
今にも、三つ目の餌に取り掛かろうとしている。
﹁やれるわよね?﹂
エリスが自信満々に剣を抜く。
﹁やるのか?﹂
ルイジェルドが俺に聞いてくる。
﹁⋮⋮僕が決めてもいいんですか?﹂
﹁任せる﹂
﹁他に誰が決めるのよ﹂
844
任せられた。
ちょっと考えてみよう。
依頼内容は、謎の魔物の発見か討伐。
ホワイトファングコブラ
レッドフードコブラ
とりあえず、白牙大蛇か赤喰大蛇が謎の魔物で間違いなさそうだ。
この森にはいないらしいしな。
ソレっぽいのを発見した現在、帰っても依頼は成功だ。
しかし、倒せば鉄銭2枚の報酬。
出来ることなら、倒したい所だ。
とはいえ、命あっての物種、という言葉もある。
今さっき、目の前で一人が死んだばかりだ。
負けたら死ぬ。
危険な橋は渡りたくない。
﹁なんなら、俺が一人で倒してきてもいい﹂
悩んでいると、ルイジェルドがそう提案した。
﹁ルイジェルドさん。一人で倒せるんですか?﹂
﹁ああ。俺ひとりで十分だ﹂
頼もしいセリフ。
なんとかダッシュさんみたいだ。
﹁じゃあ、エリスを守りながらでもいけますか?﹂
﹁いつもどおりだ。問題ない﹂
845
Aランク相手にこの余裕。
まあ、ルイジェルドがこう言うのなら、大丈夫だろう。
よし。
﹁じゃあやりましょうか﹂
決定した。
−−−
俺が魔術で遠距離攻撃し、近距離で二人が戦う。
いつもどおりの連携だ。
なので、いつも通り岩で砲弾を作る。
今回は、Aランクが相手ということで、ちょっと威力を上げる。
形状を楔状に。
着弾後に爆発するように、内部に火の魔術を内蔵。
発射。
砲弾は超高速で飛んでいき、赤蛇へと突き刺さり、そのまま大爆
発を起こす。
と、思われた。
﹁なっ!?﹂
赤喰大蛇は、クッと体をひねり、砲弾を避けた。
回避されたのだ。
846
偶然ではない。
・・・・
赤喰大蛇は飛んでくる砲弾を、明らかに見てから避けた。
遠くの方で、砲弾が爆発した。
﹁うそだろ⋮⋮﹂
先制攻撃に失敗。
だが、うちの特攻隊は止まらない。
ルイジェルドを先頭に、斜め後ろからエリスが追随する。
いつもと陣形が違う。
いつもはエリスが前のはずだ。
﹁シャァ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ふん!!﹂
ルイジェルドが頭へと襲い掛かる。
短槍を使った、いつも通りの打突。
赤喰大蛇はその攻撃をスウェーの動作で避け、反動を利用してル
イジェルドに噛み付く。
噛まれれば一発で大穴が開きそうな牙を、ルイジェルドは軽く槍
で弾いた。
同時に、赤喰大蛇の後ろに回り込んだエリスが、尻尾に向かって
剣を振るう。
エリスの斬撃は、しかし切断には至らない。
赤蛇の肉か鱗、あるいは両方が硬いのだ。
﹁シャアアァ!﹂
847
赤喰大蛇の気がエリスへと向く。
その瞬間、エリスとルイジェルドがパッと離れる。
一瞬の時間差を、俺の魔術が赤喰大蛇へと飛んでいく。
1.俺
2.エリス
3.ルイジェルド
2と3が逆になったが、流れは決めておいた連携パターン通り。
﹁また外した!?﹂
しかし、赤喰大蛇はまたも避ける。
先端を尖らせることで速度を増した砲弾は、
赤喰大蛇の脇をすり抜け、背後の木を数本まとめて叩き折った。
まただ、また見てから回避されたのだ。
とはいえ、当たらなくても問題はない。
きゅうしょ
ルイジェルドとエリスの波状攻撃。
脳と心臓を執拗に狙うルイジェルドと、
尻尾から徐々に切り刻んで注意を逸らすエリス。
たまに飛んでくる、当たれば痛いで済まない魔術。
こちらのパターンは単調だが、そうそう対処できるものでもない。
エリスを執拗に狙えば突破口も開けるだろうが、
ルイジェルドのヘイト管理は完璧だ。
赤喰大蛇は俺とエリスを放置せざるを得ない状況になっている。
ルイジェルドと俺の攻撃は当たらない。
だが赤喰大蛇は次第に疲労し、動きを鈍らせていく。
848
そして、ついに岩砲弾が蛇の胴体を捕らえた。
−−−
レッドフードコブラ
赤喰大蛇の剥ぎ取りを終えた頃には、すっかり日が暮れていた。
その日は、赤喰大蛇の肉で晩餐。
どこが売れるのかわからなかったが、とりあえず牙を引っこ抜き、
皮を剥いで絨毯のように丸めてある。
クルトたちが探していたであろう卵も見つかった。
だが、でかすぎて運べる要素がない。
色々考えたが、割っておくことにした。
魔物を増やす行為は厳禁だそうだからな。
ブレイズたちの死体は、売れそうなものを剥ぎとった後、
焼いて埋葬しておいた。
これをそのままにしておくと、エクスキューショナーになるんだ
ろうか。
ゾンビとしてよみがえる、という現象がイチマチ理解できない。
︵それにしても、赤蛇は強かったな︶
俺は先ほどの戦闘を思い出す。
赤蛇に魔術を回避されたことを思い出す。
回避だ。
何度も回避された。
最後に直撃弾を得るまでは、かすることさえほとんど無かった。
849
考えてみれば、エクスキューショナーもそうだった。
直撃だと思ったら避けられて、片腕だけを吹っ飛ばす結果になっ
た。
Bランク以上の魔物ともなると、魔術を回避するぐらいは出来る
のか。
赤蛇はAランクという話だ。
ルイジェルドの槍も避けていた⋮⋮が、
あれは手加減していたからだろう。
本気を出せば、一撃で仕留められたに違いない。
エリスの剣を避けなかったのは、脅威度が低いから避ける必要も
ないと踏んだからか。
しかし、この世界の生物は化物揃いだな。
人族だって、魔術を受け流すことは出来るようだし、
魔物は銃弾を見てから回避する。
Sランクの魔物となったら、岩砲弾が直撃しても無傷、なんて事
も有り得るかもしれない。
恐ろしい事だ⋮⋮。
危険な場所にはなるべく近寄らないようにしよう。
−−−
こうして、俺たちは依頼を達成した。
850
そして、この依頼が、
この町における最後の依頼となった。
851
第三十二話﹁失敗と混乱と決意﹂
赤蛇大蛇を討伐し、ギルドに帰ってきた。
いつも通り、ジャリルと冒険者ギルドの外で待ち合わせ。
完了カードを交換する。
そして赤蛇の牙と皮を渡し、口裏合わせをする。
量が多かったので、今回はヴェスケルを含めた全員で冒険者ギル
ドに入る。
案の定、ノコパラが寄ってきた。
この男は、本当にいつもギルドにいる。
そして、毎回寄ってくる。
﹁ようよう、随分面白そうなのを狩ってきたじゃねえか。
それ、赤喰大蛇の鱗じゃねえのか? あ?﹂
俺はジャリルに目線を送り、
打ち合わせ通りに言葉を吐かせる。
﹁あ、ああ。運よくな、弱っている所に出くわしたんだ﹂
﹁へぇ∼。お前らがねえ∼﹂
ニヤニヤと、何か面白い事でもあったかのように。
ノコパラはジャリルを見下ろしている。
なんだ。
何か、いつもと違う気がする。
852
﹁と、途中で﹃スーパーブレイズ﹄の連中が死んでたんだ。
あいつらが弱らせたんだろう﹂
﹁なに? ブレイズ⋮⋮死んだのか?﹂
﹁ああ﹂
﹁ま、赤蛇じゃしょうがねえか⋮⋮﹂
ノコパラは、ふぅんとつまらなさそうに息を吐いた。
﹁だが、いくら弱ってたからってお前ら二人で赤蛇はなぁ⋮⋮﹂
﹁弱ってたというか、死にかけていたんだ。いや、もう死んでいた
と言っても過言ではない。正確には死んでいなかったが、死んだも
同然だったんだ﹂
早口にそう言って、ジャリルは足早にそこを去る。
ノコパラも納得していない顔で、標的を俺たちに切り替えた。
﹁お前らは、今日もペット探しか?﹂
﹁ええ、ジャリル師匠のペット捜索術は素晴らしいので、今日も小
銭をゲットです﹂
﹁へぇ∼﹂
俺もまた、足早にさろうとする。
何か、よくない感じがした。
しかし、ノコパラは馴れ馴れしくも、俺の肩に手を回し、
小声でボソリと言った。
﹁で、町の外で、どうやってペットを探すんだ﹂
853
一瞬だけ、無意識的に、俺の動きが止まった。
でも、ポーカーフェイスは作れていたと思う。
まだ、想定内だ。
俺たちが町の外に行くのを見られただけ。
﹁今回はたまたま外にいたんですよ﹂
﹁へぇ∼。というと何か?﹂
ごまかす方向で話を進める。
ノコパラはジャリルの肩をガシリと掴んだ。
﹁赤喰大蛇も、たまたま町の中にいたってことかよ?﹂
なるほど。
ジャリルたちは町中で姿を見られている。
つまり、もう、バレてるってことだ。
﹁さぁて、不思議なものもあるもんですねぇ﹂
このパターンは、想定していた。
切り抜けるパターンはいくつかある。
例えば、ジャリルを尻尾切りにすれば、この場は逃れられる。
俺たちは低ランクで、高難度依頼を押し付けられて困っているの
だ、と。
が、これはやらない。
これをやると、俺がルイジェルドに切られる可能性がある。
戦士の行いじゃないからな。
854
﹁おいおい、今更しらばっくれんなよ﹂
﹁しらばっくれるも何も、さて、僕らが何かしましたかね﹂
﹁あ?﹂
﹁僕らは﹃ピーハンター﹄に依頼を手伝ってもらい、
﹃ピーハンター﹄の依頼を手伝っていた。それだけの事ですよ?﹂
しらばっくれる方向から、開き直る方向へとシフト。
ギルドの規約は見なおしたが、俺たちに非はないはずだ。
だが、規約に書いてなければオッケーというわけではない。
世の中、ルールを守れば何してもいいわけではないのだ。
とはいえ、その正確な線引は俺にはわからない。
だから、正しいという方向でごまかす。
﹁ふざけんじゃねえぞ。
てめえらのやり方を真似する阿呆が出てきたらどうなる?﹂
﹁どう、とは?﹂
﹁依頼が金で買える事になっちまう。
冒険者ギルドの存在意義が無くなるんだよ﹂
ふむ。
金銭取引はしていない⋮⋮と言い張ってもダメそうだな。
でも、そうか、依頼の売買に分類されるのか。
なるほど、こいつ頭がいいな。
確かに、俺たちみたいなやり方が横行すれば、
依頼を金で売買するヤツラも出てくるかもしれない。
855
例えば、Dランクの依頼を全て受領し、
他のDランクの連中に売るのだ。
売ったヤツラは金も入り、ランクも上がる。
何もしていないのに、だ。
もっとも、そのやり方だと、売れなければ依頼失敗となるが。
﹁なんでノコパラさんがそんな事を気にするんですか?
あんたには、迷惑かけてないでしょう?﹂
﹁ヘヘ、いいのか? そんな態度を取って。
お前らの取れる道は二つだぜ、おい、ジャリル、てめえも聞け﹂
俺は胸ぐらを掴んで持ち上げられた。
後ろでルイジェルドとエリスが気色ばむ。
とりあえず、今はハウス。
まだ話は終わっていない。
﹁ヘヘヘ⋮⋮﹂
馬面の表情は馬なのでわからない。
だが、そこに下卑た笑いが貼り付けられてるのは、なんとなくわ
かった。
﹁冒険者資格が大事なら、
毎月、鉄銭2枚、俺ん所に持って来い﹂
あらやだ清々しい。
この世界にきて、初めてこういう人に会った気がする。
最近はどいつもこいつも中途半端にいい面と悪い面があるからな。
こういう風に、悪い面だけを見せてくれる相手は楽でいい。
856
余計な気遣いをしないで済むからな。
しかし、ノコパラめ、
どうりでずっとギルドにいるわけだ。
コイツはギルド内で不正をしそうなヤツを見張っているのだ。
そして、見つけるとこうして強請ってくる。
楽な商売だ。
コイツを通報すれば一発で終了なんじゃないだろうか。
いや、そうすると通報した方の不正も発覚するわけか。
﹁おめーら。かなり稼ぐみたいだから、ヘヘ、余裕だろう?﹂
﹁い、いくつか、質問いいですか?﹂
動揺しているフリをしつつ、俺は冷静に話を進める。
﹁あん?﹂
﹁やっぱ、今回のコレは、依頼の売買に分類されるんですよ⋮⋮ね
?﹂
﹁おう、バレりゃあ、罰金と冒険者資格の剥奪だ。困るだろ?﹂
﹁困ります、困ります﹂
・・・・・・
落ち着け、まだ慌てるような時間じゃない。
こういう状況も、想定していた。
大丈夫だ。
まだ、大丈夫だ。
﹁と、とりあえず今は持ちあわせがないので、
ジャリルさんと、依頼の報告をしてきていいですか?﹂
﹁構わねえよ。だが、逃げんなよ?﹂
﹁もちろんですよ、旦那ぁ∼﹂
857
やっぱ、こいつ、あんまり頭良くないな。
そう思いつつ、俺はカウンターへと向かう。
﹁お、おい⋮⋮どうすんだ、どうすんだよ!﹂
﹁落ち着いて。平然としてください﹂
動揺するジャリルを適当に相手しつつ、ヴェスケルを手招き。
完了カードを受け渡し、報酬を受取る。
それと同時に﹃ピーハンター﹄を解散させる。
そして、ジャリルとヴェスケルを﹃デッドエンド﹄へと加入させ
た。
意味のない措置かもしれない。
冒険者ギルドがどこまで細かく帳簿をつけているのかわからない
からな。
背後を見ると、ルイジェルドが憤怒の形相だった。
その視線の先には、ノコパラがいる。
今回、ルール違反をしたのは俺たちなわけだが、
それを傘にきて脅すような行為は戦士的にダメらしい。
とりあえず、ルイジェルドをジェスチャで制しておく。
エリスは状況がわかっていないようだ。
言葉がわかれば、最初にノコパラに襲い掛かるのは、恐らく彼女
だ。
拳ではなく剣で襲いかかるだろう。
﹁ほら、とりあえず今日の分、払っとけよ﹂
858
戻ってくると、ノコパラはなれなれしく、俺たちに肩に腕を回し
てきた。
ジャリルは愛想笑いで受け取ったばかりの鉄銭2枚を渡そうとす
る。
が、俺はその手を掴んでとめた。
﹁その前に一つ﹂
﹁んだよ。早くしろよ、俺ぁ気が短ぇんだ﹂
心の中で深呼吸を一つ。
うまくいくことを祈ろう。
﹁俺たちが不正をしたって証拠、あるんだろうな?﹂
ノコパラの忌々しそうな舌打ちが、ギルド内に響いた。
−−−
ギルドの帳簿から、
﹃デッドエンド﹄が行った依頼がピックアップされる。
ギルド職員は、何のために、などと聞かなかった。
ノコパラがこれを聞くのは、今日で初めてではないのだろう。
それらを元に、依頼者の所へと向かった。
﹁路地裏で襲おうとか考えんなよ?﹂
ノコパラはルイジェルドとジャリルを見ながら、そう言った。
859
ルイジェルドの殺気はかなりのものだと思うが、彼は怖くないの
だろうか。
案外、そういう殺気を受けるのは慣れているのかもしれない。
﹁俺が死ねば、仲間がギルドに報告するし、
それに、なんちゃってCランクのお前らと違って、
俺はBに上がれるCだからよ﹂
最後の一言は、さすがに虚勢だろう。
ノコパラも5対1で勝てるとは思っていまい。
いくら俺たちを追い込んでいるとはいえ、
彼だって死にたくはないのだ。
とはいえ、浅はかだな。俺なら、護衛の一人でも付ける。
﹁さぁて、ついたぜ﹂
最初の一軒。
見たことの無い民家だ。
ノックすると、中から出てきたのは、偏屈そうな婆さんだった。
ワシのような鼻で、黒いローブを着ている。
家の中からは、甘ったるいにおいが漂ってきた。
恐らくあの中で、ね○ねるねるねを作っているのだ⋮⋮。
彼女はノコパラの顔を見るといぶかしげな顔をしたが、
ヴェスケルの顔を見ると、顔をほころばせた。
﹁おや、ヴェスケルじゃないか。
今日はどうしたんだい? 大勢ひきつれて。
ああ、それが﹃デッドエンドのルイジェルド﹄のメンバーかい?﹂
860
ノコパラはぎょっとした顔で俺たちを見渡し。
婆さんの視線がヴェスケルの顔に注がれているのを見て、
﹁ハン!﹂
と、にやけた笑いを張り付かせた。
﹁婆さん。こいつらは、﹃デッドエンド﹄じゃねえんだ。
アンタ、だまされてたんだよ﹂
﹁あん?﹂
婆さんはノコパラを一瞥すると、
ハッ、と鼻で笑った。
﹁どう騙したっていうんだい?﹂
﹁どうって、そりゃ﹂
﹁ヴェスケルは、きちんと害虫駆除をしてくれたよ。
さすがはズメバ族だね。あれ以来、一匹も見かけないよ﹂
どうやら、この老婆はヴェスケルが回った家の一つらしい。
そういえば、ルイジェルドが監視した話の一つに、そんな事もあ
ったか。
﹁きちんと仕事をしてくれるなら、
あたしゃ本物の﹃デッドエンド﹄でも構わんよ﹂
その言葉に衝撃を受けたのはノコパラだけではなかった。
ルイジェルド本人も驚いた顔をしていた。
﹁け、けどな!﹂
861
﹁老い先短い身だしね。
最後にそんなのと出会えるなら、会ってみたいものさ﹂
今、会ってますけどね。
ノコパラは目を白黒させながら、
イライラした顔でヴェスケルに振り返った。
﹁ヴェスケル! てめえ冒険者カードだしてみろ!﹂
ヴェスケルはハッとした顔で、しかし、ニヤリと笑った。
そこには、パーティ名﹃デッドエンド﹄と書かれたカードがあっ
た。
﹁なっ! ち、畜生、てめえらやりやがったな⋮⋮!﹂
すでに、﹃ピーハンター﹄は存在しない。
調べれば、ギルドの帳簿には残っているだろう。
さらに調べれば、規約のどこかに引っかかるかもしれない。
だが、ノコパラはそこまで頭が回らなかったらしい。
﹁クソが! 次だ!﹂
ギルドに戻ることはせず、
俺はニヤニヤと笑いながら、ノコパラについていく。
−−−
862
数十件の依頼人を回り、ノコパラは赤を通り越して青い顔になっ
ていた。
﹁ちくしょう、どうなってやがる﹂
どの依頼者も、ジャリルとヴェスケルを﹃デッドエンド﹄として
認識していた。
そして、冒険者カードも﹃デッドエンド﹄。
挙句の果てに、最初の依頼である少女の下に訪れると、
少女が歓喜の声をあげてルイジェルドの足に抱きつくという、嬉
しいハプニングもあった。
﹁ノコパラさん。悪いんですが、証拠が無いんじゃあ、
僕らもあんたに金を払うことは出来ませんよ﹂
﹁くそがあ﹂
ていうか、逆に彼をギルドに訴えることも出来よう。
依頼の邪魔をしたとかなんとかでっち上げて。
﹁くっくっく﹂
思わず、悪い笑いが溢れる。
そうしているうちに、最後の依頼者の場所が見えてきた。
というか、狼の足爪亭だった。
ジャリルたちは俺たちの泊まる宿屋でも働いていたらしい。
さすがに顔を知る者がいるとごまかすのは難しいかもしれない。
が、宿屋の主人とはそれほど仲良くしていた記憶もない。
863
ま、今まで通りだ。
なんとかなるだろう。
﹁最後は、あいつらだ﹂
足爪亭の入り口から出てきた二人。
それを見て、
俺は凍りついた。
ヤバイ。
俺の頭が警鐘を鳴らす。
エマージェンシー。
突然の空襲。敵機襲来。
不測の事態。
俺の考えの足りなさが、頭の悪さが。
ここにきて浮き彫りになる。
﹁あ、ルーデウス、帰ってきたのか⋮⋮お疲れさん。
って、なんだ、ぞろぞろ引き連れて﹂
クルトは疲れきった顔で、俺たちを出迎えてくれた。
ノコパラは俺の焦りを悟ったのか、
あるいは最初からこうするつもりだったのか。
﹁よう、前の石化の森で助けてもらったのは、﹃デッドエンド﹄で
間違いねえよな?﹂
ああ、ヤバイ。
現在の﹃デッドエンド﹄のパーティランクはD。
﹃ピーハンター﹄が受けたあの依頼はB。
864
つまり、受けることが出来ない。
つまり、調べればボロが出る。
まずい、ヤバイ。
﹁そりゃあ⋮⋮﹂
クルトは俺とルイジェルドの顔を見る。
俺は必死で、黙っていてくれと首を振る。
︵虚勢を張れ、お前は誰の手も借りてなんかいない。
窮地を切り抜けたのは仲間うちだけだ、そうだろ?︶
と、せめて、クルトたちが虚勢を張って、﹁そんなの知らねえよ
! オレたちは誰にも助けられてなんかいない!﹂と抗弁してくれ
ることを祈る。
クルトはそれを見て、力強くうなずいた。
﹁当たり前だろ、こいつらぐらい強い奴は見たことねえよ﹂
アラヤダ正直者!
クルトは、俺たちがいかに強く、
エクスキューショナーとアーモンドアナコンダを葬ったかを語っ
た。
かなり脚色と擬音の入った説明だった。
ルーデウスさんはマジパネェよ。
エク公とかマジ調子で、おっかねえけど、
デッドエンドに上等キれるほどじゃなかったわ。
エク公とルーデウスさんがタイマン張ってどうだったか、わかる?
865
ワンパン。
マジ。ワンパンでエク公ブチン。ぺちゃんこ。
ジェルドさんもマジヤバ。
こっちにフッ、あっちにフッと動いただけで、アナコンダボン!
スッゲーことやってんのにヨユーって顔してんの!
いや、マジ痺れたわー。
と、そんな感じの解説を、ノコパラは、そうかそうかほうほうそ
らすげー、とニヤニヤしながら聞いていた。
そして。
﹁おかしいな∼おい、今日、町で依頼を受けてたやつが、
石化の森で人助けなんかしてんだろうなあ﹂
﹁いや、あの、それは、僕らがジャリルと一緒に⋮⋮﹂
﹁ジャリルもヴェスケルも、ずーっと町にいたぜ?﹂
もう、ごまかすのは無理だった。
すでにノコパラの頭の中では俺たちを追い込む算段がついている
に違いない。
落ち着け、まだ手はあるはずだ。
考えろ。
まずは3つ。選択肢を思いつけ。
よし、思いついた。
1.ノコパラを殺す
仲間がいるという話を信じるなら、決していい方向には進まない。
だが、案外いい方向に転がるかもしれない。
全ては運次第。
下策。
866
2.ジャリルに全ての罪を被せる
俺たちは新人、彼らは古参だ。
騙されていた、食い物にされていたと叫べば、通るかもしれない。
だが、ルイジェルドの信頼は失われる。
仲間を裏切ってはいけない。
下策。
3.今は金を払っておき、時期を見てなんとかする
これも全てが運次第。
すぐに解決策が見つかるかもしれないが、
ノコパラに俺たちの戦闘力を知られれば、逃がさないために二重
三重の策を仕掛けられるかもしれない。
町から逃げ出さないように、自分たちから逃げられないように。
下策。
だめだ、全部下策だ。
下手の考え休むに似たり。
どうする。
一番楽なのは2だ。
だが、これは、恐らく、最悪の手だ。
その場しのぎで、決して未来につながらない手。
彼らを裏切るという事は、ルイジェルドとの信頼関係が切れると
いうことだ。
ルイジェルドは、俺の言葉を二度と信用すまい。
だから、2はダメだ。
絶対にダメだ。
867
1もダメだ。
意味がない。今日までやってきたことが無駄になる。
いくらここが、人死に大して寛容な魔大陸でも関係ない。
一度やれば、同じことを同じ方法で解決しようとしてしまう。
血塗られた道を歩くつもりはない。
俺に、そんな覚悟はない。
3はもっとダメだ。
こいつらに金を渡すということは、不正を認めるということ。
一番やっちゃいけない。
飼い殺しにされているうちに、二つ、三つと罪状を重ねられるか
もしれない。
その罪をどうにかするために、さらに無理な要求をされるかもし
れない。
もし俺だったら、エリスの体とかを要求するだろう。
そうなれば、結局はノコパラを殺すハメになる。
いや、それでも3か。
いやいや、3を選ぶなら最初から1だ。
ノコパラと、その仲間を、殺すしかない。
殺すしかないのか?
やるのか⋮⋮。
やるしかないのか⋮⋮?
俺は、人を殺せるのか?
どこかにいる他の奴らはどうする?
ルイジェルドに探させるのか?
868
どうやって?
ルイジェルドでも、誰を探せばいいのかわかっていなければ、見
つけられないはずだ。
いっそ、冒険者を諦めるか?
資格なんて無くても、生きていける。
この大陸で金を貯める方法はなんとなくわかっている。
だが、そうやって割り切ったとして、ジャリルたちはどうなる?
調べれば、ペット誘拐の事だって明るみに出るかもしれない。
俺たちは金もできたし、この町から出ていけばいい。
けど、彼らは違う。
彼らはこの町に住んでいる。
ペット誘拐なんてしていたと知られれば、この町を追い出される
んじゃないのか?
彼らに平原を生き延びる術はない。
結局は裏切る事になるんじゃないのか?
それとも、町から追い出された彼らの世話を焼くのか?
無理だ。
自分たちだけでもギリギリだっていうのに。
出来るわけがない。
いや、ここまできたら覚悟を決めよう。
血塗られた道を歩く覚悟だ。
俺の目的を思いだせ。
エリスを無事に家に返すことだ。
そのためなら、ルイジェルドも、ジャリル達も、裏切ってやる。
869
その結果、エリスに軽蔑されたとしてもいい。
パウロやロキシーに顔向けできなくなったとしてもいい!
水聖級魔術を使ってこの町を水没させ、
混乱に乗じて、エリスを連れて逃げる。
冒険者資格は諦める。
どんな悪事に手を染めてでも、目的を達成する。
やってやるよ⋮⋮。
−−−
覚悟を決め、手に魔力を集めた。
その時、ふと気づいた。
ノコパラの顔が豹変していたのだ。
﹁お⋮⋮あ⋮⋮﹂
馬面が真っ青になり、ガクガクと膝が震えている。
その視線の先は俺ではなく、俺の後ろ。
振り返る。
そこには、ルイジェルドの姿があった。
水に濡れたルイジェルド。
すぐ脇には、宿屋の裏にあるはずの水瓶が転がっていた。
﹁る、ルイジェルドさん?﹂
870
目にはいるのは、輝くエメラルドグリーン。
水を浴びたことで、青色の染料が、落ちていた。
エメラルドグリーンの髪が、しっとりと濡れて、輝いていた。
彼は、額を隠す鉢金の結び目を解いた。
額の赤い宝石が、露わになった。
憤怒の形相で立つ、悪魔の戦士がそこにいた。
﹁す、す、す、スペルド⋮⋮﹂
ノコパラが尻餅を付いた。
﹁俺が﹃デッドエンド﹄のルイジェルド・スペルディアだ。
バレてしまっては仕方がない。
お前たちを皆殺しにしてやろう﹂
棒読みの、ヘタクソな演技だった。
しかし、殺気だけが本物だった。
﹁キャアアアァァァァァ!﹂
誰かが叫んだ。
街角を歩いていた少女が、青年が、老人が、
手にもったものを放り投げて叫び声を上げ、逃げていく。
そんな中、まずジャリルが裏切った。
大声で叫んで、ヴェスケルと共に逃げていく。
﹁俺は脅されていただけだ! 知らねぇ! 仲間じゃねぇんだ!﹂
871
そんな中、クルトは腰を抜かした。
つい先日、ルイジェルドに啖呵を切ったことを思い出したのか。
青い顔で、小便を漏らした。
髪の色が変わったぐらいで、こいつらは何をそんなに恐れている
のか。
俺には到底理解できない。
だって、お前ら、今まで普通だったじゃないか。
クルトさあ。
お前とか、さっき、ルイジェルドを猛プッシュしてたじゃないか。
将来はルイジェルドみたいになりたいとか言ってたじゃないか。
尊敬の目で見てたじゃないか。
なのに、なんて髪の色を見ただけで、そんなに怯えるんだ?
エリスを見ろ、何が起こったのかわからないのに、平然としてい
るじゃないか。
いつもどおり、腕を組み、足を肩幅に広げ、顎をクッと上げて。
静かにカッと目を見開いて。
平然としているじゃないか。
周囲には逃げる人々と、震えながらへたり込む人と、
剣を抜いてはみたものの、足をガクガク震えさせている者と、
いろんな者がいた。
みんな震えていた。
これほどか。
﹃デッドエンド﹄の姿は。
ただ髪が緑であるという事の意味は、これほどなのか。
872
これほど、人々の中に恐怖として浸透しているのか。
ハッ、なんだか笑えてくるな。
俺がやろうとしていたことは何だったんだ。
髪を見せただけでこんな状況になるのを、
俺ひとりが頑張って、どうにかなると思っていたのか。
馬鹿馬鹿しい。
エリスが大丈夫だったから、
ミグルド族が大丈夫だったから、
他の人も大丈夫だと思ったか?
無駄だったんだ。
スペルド族の悪評は、評判じゃない。
恐怖の象徴なのだ。
それを正そうだ?
無駄無駄。
出来っこない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ルイジェルドは阿鼻叫喚の中、
ゆっくりとノコパラに歩み寄る。
﹁貴様⋮⋮ノコパラとか言ったな﹂
胸倉を掴んで、持ち上げた。
ノコパラの重そうな体が、簡単に持ち上がる。
﹁ルイジェルドさん! 殺しちゃだめですよ!﹂
873
この期に及んで、俺はまだそんなことを叫んだ。
殺しちゃいけない、こんな状況で殺したら、
デッドエンドの名前に、一生消えない傷がつく。
いや、もう無理か、今更か。
今更そんな事をしても遅い。
もういいよ。
やっちゃえ、○ーサーカー!
﹁す、すまん、ま、まさか本物だとは思ってなかったんだ!
ゆ、許してくれ! 許してくれ! 頼む!﹂
﹁⋮⋮﹂
ルイジェルドの憤怒の形相。
震えるノコパラ。
﹃ねえ、何がおこっているのよ!﹄
唐突に、エリスが話しかけてきた。
俺はゆっくりと答える。
﹃最悪の事態が起こっています﹄
﹃どうにかしなさいよ!﹄
﹃できませんでした。すいません﹄
﹃ルーデウスに出来ないなら、どうしようもないわね!﹄
エリスはあっさり諦めた。
俺もとっくに諦めた。
もうどうにもならん。
874
全ては俺の責任だ。
見つかっても、どうにかなると思っていた。
浅はかな考えで、事態がどうにかなっても大丈夫な気でした。
結果、ダメだった。
こうなってしまえば、
俺に出来る事といえば、
当初の予定通り、全てを水に流すことぐらいだ。
水聖級魔術で。
なんちゃってね。ハハハ。
﹁た、助けてくれ。お、俺には、腹をすかせた三つのガキが七人い
るんだ!﹂
支離滅裂な命乞いのセリフを吐くノコパラ。
どう考えてもでまかせだ。
俺だって、もうちょっとマシな命乞いをする。
﹁⋮⋮町からは出て行く。だからお前も忘れろ﹂
が、ルイジェルドはあっさりと許した。
やはり子供という単語が効いたのか。
﹁へ、へへ、へ、あ、ありがてえ﹂
助かった、というノコパラの顔は、次の言葉で引きつる。
﹁しかし、もし、次の町にたどり着いたときに、
俺たちの冒険者資格が剥奪でもされていてみろ﹂
875
ルイジェルドは、槍の先で、ノコパラの頬に、スッと一筋の傷を
つけた。
ノコパラの股間がぐっしょりと濡れ、
ケツのあたりがモリモリと膨らんだ。
﹁俺が町中に侵入できんとは思うなよ⋮⋮?﹂
ノコパラはこくこくと頷いた。
ルイジェルドが手を離す。
ノコパラは落ち、ビチャリと嫌な音を立てた。
−−−
そして、ルイジェルドは町を追われた。
全ての罪を自分で被って逃げ出した。
ひどいもんだった。
ルイジェルドは一人で走り出し、俺たちは取り残された。
衛兵達が走ってきて、事情を聞かれた。
俺はルイジェルドは悪くないと抗弁した。
しかし、子供のいうことだ。
そう言えと脅されたのだなと、勝手に判断された。
ルイジェルドは悪事を企んでいた。
俺たちはそれに利用された。
悪事の内容はわからないが、
運よく最悪の事態を避けることができた。
876
彼らの中ではそうなったのだ。
周囲の人々は、俺とエリスをかわいそうな目で見ていた。
何も知らない、利用された子供としてみていた。
はらわたが煮えくり返りそうだった。
ルイジェルドが何をやったというのだ。
全部、俺がやったことじゃないか。
俺の甘い考えが引き起こした事態じゃないか。
俺たちは宿に戻ると、すぐに荷物をまとめた。
大して量の多くない荷物をまとめ、宿を出る。
早くしなければ、ルイジェルドがどこかに行ってしまうかもしれ
ない。
どのみち、俺たちだってこの町にはいられない。
ノコパラは生きている。
仲間もいると言っていた。
俺たちの不正もそのままだ。
ほとぼりが冷めれば、次はルイジェルドの助けはない。
﹁なあ、ルーデウス⋮⋮﹂
宿を出たところで、クルトが話しかけてきた。
なんと言っていいかわからない。
困惑の表情だ。
﹁おまえ、なんであんなのと一緒にいたんだ?﹂
﹁あんなのって言うなよ。
877
お前を助けたのは誰だよ。
それを小便漏らすまで怯えやがって、何が成り上がるだよ﹂
﹁いや⋮⋮それは⋮⋮ごめん⋮⋮﹂
いや、クルトには当たってはいけないな。
こいつはどちらかというと、助けてくれようとした側だ。
﹁すまんクルト、言い過ぎた﹂
﹁いや、いいんだ。本当のことだし﹂
クルトはいいやつだな。
エリスは両手を後ろにして彼を睨んでいるが。
﹁クルト、頼みがある。命の恩を返してくれ﹂
﹁ああ、なんだ?﹂
クルトは、まじめな顔で頷いた。
﹁ルイジェルドは悪い奴じゃない。
昔の出来事のせいで怖がられているけど、いい奴なんだ。
俺たちがこの町を出ていった後も、そういう噂を流してくれ﹂
﹁あ、ああ。わかってるよ。命の恩人、だもんな﹂
本当にわかっているのやら。
まあ、口約束でもしておけば、もしかするとやってくれるかもし
れない。
−−−
878
冒険者ギルドに寄り、ジャリルとヴェスケルを﹃デッドエンド﹄
から脱退させる。
ついでに職員に言伝を頼む。
﹁こんなことになったけど、助かった。ありがとう。
﹃彼﹄も感謝しているって。伝えて下さい﹂
あいつらは最後に裏切った。
けど、それも仕方がないのかもしれない。
結局のところ、彼らが助かるには、その道しか無かった。
最後にだけ目をつぶれば、
世話になったのは確かだ。
町の入り口へ向かう途中、運搬用に飼育されたトカゲのような爬
虫類を一匹購入する。
足が六本あり、ギョロっとした目がチャーミングなトカゲだ。
こいつは魔大陸において、馬車のような役割を持っている。
大の大人がゆうに二人乗れる種で、鉄銭10枚。
全財産の約半分。
だが、旅に出る時には、これだけは買おうと決めていたものだ。
魔大陸を移動する際には、このトカゲがいるといないのとでは、
大きな違いがあると聞いた。
店主から操り方を聞き、荷物を積んで、町の外へと向かう。
門にはたくさんの兵士がいた。
これから、ルイジェルド退治にでも出かけるのかもしれない。
その中に、見た顔があった。
879
トカゲ頭と豚頭だ。
彼らは青ざめつつも、興奮した表情だった。
話しかけると、
先ほど﹃デッドエンド﹄が出ていったから気をつけろ、と忠告を
もらう。
そこから、やれデッドエンドは悪魔だの、
町中で一体なにをやらかそうとしていたのかだの、
ルイジェルドを見たこともないくせに、
憶測だけで悪と決めつける発言が続いた。
﹁あの人は、二ヶ月近く街中にいましたけど、
何一つ問題なんか起こしていませんよ﹂
耐え切れず、そう言った。
門番は﹁はぁ?﹂という顔をしていた。
俺は二人を睨み、舌打ちを一つ、町の外へと出た。
心がささくれ立っていた。
−−−
ルイジェルドと再会しなければいけない。
彼はまだ近くにいるだろうか。
いや、いるはずだ。
彼の戦士としての誇りが本物であるなら。
880
俺たちを⋮⋮いや、エリスを見捨てるはずがない。
﹁このぐらいでいいか﹂
町が見えなくなったぐらいで、空に向かって魔術で花火を上げた。
轟音が響く。
熱が降り注ぎ、光が散る。
しばらく待つも、ルイジェルドは現れない。
﹁エリス、ルイジェルドを呼んでください﹂
エリスが大音声でルイジェルドを呼ぶ。
大きな声だ。
しばらくして現れたのは、パクスコヨーテだった。
虫の居所が悪い俺は、そいつらに八つ当たりした。
周辺の岩が無くなり、キレイな広場になった。
パクスコヨーテは肉片になった。
こうやってバラバラにしてもゾンビとして復活するのだろうか。
ふん、知ったこっちゃないな。
あんな町の連中なんて。
﹁見て、ルイジェルドよ﹂
戦闘が終わった頃、ルイジェルドが姿を見せた。
彼はバツの悪そうな顔をしていた。
そんな顔はしないでほしい。
﹁なんで呼んですぐに現れなかったんですか?
黙っていなくなるつもりだったんですか?﹂
881
けど、なぜか俺の口から出てきたのは、
彼を責めるような詰問口調にだった。
そんなつもりじゃなかったのに。
﹁すまん﹂
開口一番、謝られた。
居心地が悪い。
どう考えても、俺が悪い。
調子にのって、ジャリル達を仲間に引き入れて、
安易な方法で先に進もうとして、
悪事がバレてつけこまれて、
でも何とかなると簡単に考えて、
八方塞がりになって、
そして、ルイジェルドに尻拭いをしてもらったのだ。
ルイジェルドが泥をかぶってくれなければ、
俺たちはあの町に縛られ続ける事になったかもしれない。
いや、ノコパラは、あの道のプロだ。
クルトたちがいなくても、最終的には俺たちを追い詰めただろう。
﹁なんで謝るんですか。謝るのは、こっちの方ですよ﹂
いたたまれなかった。
﹁いや、お前は、やれるだけの事をやっていた﹂
﹁でも﹂
﹁作戦に失敗はつきものだ。
882
俺はお前が、日夜神経を磨り減らして、
あれこれと考えていたのを知っている﹂
ルイジェルドはふっと笑い、俺の頭に手を載せた。
﹁まあ、お前は何を考えているのかわからなかったし、
今日まではそれが、良からぬ企みだと思っていた。
ゆえに、我慢できない事も多かったが﹂
ルイジェルドはエリスを見て、うんと頷いた。
﹁お前はあるものを守ろうと必死なだけだったのだな。
先ほど、お前がヤツを殺そうとした時。
その覚悟を見せてもらった﹂
先ほどって、ああ、町を水没させようとした時か。
﹁守るべきものがあるお前は戦士だ﹂
戦士だと。
そう言われて、
涙が出そうになった。
俺はそんな立派じゃない。
浅ましく金儲けを考えて、
損得だけを考えて、
ルイジェルドを切り捨てようとまでしたのだ。
最後の最後に頼れる相手を捨てようとしたのだ。
883
﹁ルイジェルドさん、僕⋮⋮いや、俺は⋮⋮﹂
真摯な言葉で、自分の言葉で。
敬語なんて鎧を付けない、俺自身の言葉で、
しかし、何を言おうとしたのかは、分からない。
﹁言うな﹂
ルイジェルドは俺の言葉を、遮った。
﹁これからは、俺の事は後回しにしろ﹂
﹁え?﹂
﹁安心しろ。悪評の回復をせずとも、俺はお前たちを守る。
信用しろ。いや、信用してくれ﹂
信用はしている。
信頼もしている。
やらなくてもいい。
なるほど、確かにルイジェルドの名前を売るという行為は骨だ。
目的を二つ持てば、行動も曖昧になる。
無理も出てくる。
最近の俺の精神的なストレスは相当なものだった。
考えられることも考えられず、思いつく事も思いつかなかった。
結果として、今回のような失敗を引き起こす。
だからやらなくてもいい。
だが、納得できるものでもない。
あんな光景を目の当たりにして。
884
恐れられているのでなければ、
街中から石を投げられるような光景を見て。
はいそうですか、と。
じゃあ、次からは町の外で待っていてくださいね。
などと、言えるわけがない。
﹁いえ、ルイジェルドさんの悪評は、必ず消します﹂
むしろ、俺は決意を新たにした。
これはせめてもの恩返しだ。
次はうまくやってみせる。
自分に無理をさせず、出来る範囲でやってみせる。
﹁懲りないヤツだな。
そんなに俺が信用できないか?﹂
﹁信用していますよ。だから報いたいんじゃないですか﹂
俺だって、昔はイジメられていたのだ。
一度貼られたレッテルに苦しみ、何十年も人のいない世界にいた。
ロキシーに連れ出してもらわなければ、シルフィやエリスに会う
こともなかった。
ルイジェルドと俺とでは、ケースが違う。
規模も全然違う。
そんなことはわかっている。
でも、だからといって。
俺がルイジェルドを見捨てる理由にはならない。
885
ロキシーのように、無自覚的に出来るわけではない。
俺にできるのは、失敗を続けながら、泥の中を這って進んでいく
事だけだ。
ルイジェルドにとってはいい迷惑かもしれない。
また今回みたいに失敗して、ルイジェルドに尻拭いさせることに
なるかもしれない。
でもいい。
何もやらないよりはいい。
﹁⋮⋮頑固なヤツだな﹂
﹁ルイジェルドさんほどじゃありません﹂
﹁フッ。じゃあ、よろしく頼む﹂
ルイジェルドは苦笑し、静かに頷いた。
なぜだろうか。
俺はその時、ルイジェルドと、
本当の意味で、信頼関係を結んだと思った。
−−−
翌朝。
起きると、ルイジェルドがスキンヘッドになっていた。
唖然。
というか、怖い。
顔の傷も相まって、ヤクザみたいだ。
886
﹁今回のことで、人が俺の髪を恐れていると分かったからな﹂
凄い覚悟だと思ってしまった。
俺の常識だと、坊主頭にするということには、決意と反省の意味
がある。
この世界には、そんな常識はない。
無いのだが⋮⋮。
この行動を見ると、俺も頭を丸めないといけない気がしてきた。
反省には、行動を。
ルイジェルドがやったのなら、俺も坊主にすべきではないのか。
いや、でも、しかし⋮⋮。
﹁え、エリス、俺もああいう風にした方がいいかな?﹂
﹁ダメよ、あたし、ルーデウスの髪、結構好きだもん﹂
エリスを逃げ場に使った。
不甲斐ない俺を、笑え。
887
第三十三話﹁旅の始まり﹂
魔大陸。
この言葉を聞くと、ド○クエ世代の俺としては、魔界という単語
を思い浮かべる。
魔王が統治し、
魔物たちの小さな村があり、
人々の忘れられた祠があり、
強力な魔物がそこらを闊歩する。
それが魔界だ。
しかし、この世界では違う。
まず、魔王が統治していない。
魔王がいないわけではない。
現在、魔王はアバウトに30名ぐらいいる。
そして、それぞれがそれぞれで適当に君臨している。
しかし、統治はしていない。
あくまで魔王と名乗り、偉そうにしているだけだ。
魔王はそれぞれ親衛隊だか騎士団だか、
かっこいい名前のついた軍事力を持っている。
リカリスの町を守っていた衛兵もそれに当たる。
彼らは冒険者とは別に、周囲の魔物を退治したり、
町中にいる犯罪者を逮捕したりと、
888
独自に自分たちの住む町を守っている。
軍隊というよりは、自警団という意味合いが強い。
そのへんの魔王と自警団の関係についてはよくわからない。
魔王が任命しているのか、
それとも自警団が勝手に魔王の配下を名乗っているのか。
魔王が戦争をすると決めれば、
彼らがそのまま魔王軍となるわけだから、
何らかの契約はなされているのだろう。
現在は互いに戦争するということもなく、平和である。
が、あくまで平和なのは魔王の周辺だけであり、
魔大陸の大半が無法地帯となっている。
サザ○クロスと聖○十字陵の周辺は平和でも、
その間の道のりでは無所属のモヒカンが跋扈しているというわけ
だ。
ちなみに、リカリスの町周辺は、﹃バーディガーディ﹄という魔
王が君臨している。
六本腕で黒い肌、筋肉ムキムキマッチョマンの大魔王らしい。
もっとも、現在は放浪の旅に出ていて、行方不明らしい。
実にフリーダムだ。
−−−
魔大陸には強力な魔物が出没する。
889
冒険者ギルドにおいて、最もランクの低い討伐依頼はCランクで
ある。
つまり、逆に言えば、
この大陸には、Cランク以上の敵しかいない。
ストーントゥレントで、ギリギリDランクか。
とはいえ、魔族は種族的に人族よりも強い。
その上、種族ごとの特性もあるため、集団戦も非常にうまい。
Bランクに上がるのに壁はあるが、
それがゆえに、魔大陸のBランク冒険者は他の大陸の冒険者より
質が上だ。
上がれないヤツはノコパラやジャリルみたいになる。
そう考えると、ルイジェルドは異常だ。
彼はAランクの魔物なら、一人で倒せると豪語する。
質の高いBランク冒険者6∼7人より強いのだから。
﹃デッドエンド﹄の二つ名は伊達じゃない。
そんな人物の信頼を得られた事を、純粋に嬉しく思う。
−−−
リカリスの町を出立して三日が経過した。
ルイジェルドと信頼関係を結べて安心したせいか、
最近、俺の食欲が旺盛になり始めた。
890
といっても、食材はよろしくない。
俺たちの主食は大王陸亀の肉だ。
美味しくない。不味い。
なので、俺はちょいと工夫することにした。
焼くのではダメ。
ならば調理法を変えるのだ。
魔術で作り出した土鍋、
魔術で作り出したグレイラット家の美味しい水、
魔術で作り出した火力の強いコンロ︵人力︶。
この三つを使い、煮ることにした。
水は貴重だが、俺ならば無限に作り出せる。
本当は圧力鍋で柔らかく調理したいと思ったが、
試してみた所、爆発しそうになったので、やめた。
時間はかかるが、ガス代も水道代も無料だ。
じっくりコトコト愛情を込めて煮込めばいいのだ。
土魔術を使った調理器具は、使い捨て出来るため、便利だ。
そのうち、燻製も試してみよう。
ストーントゥレントのチップ⋮⋮。
あんまり美味しくはならなさそうだ。
ともあれ、これで大王陸亀の肉は、マシになった。
硬くて不味い肉が、
柔らかくて不味い肉に変化した。
891
うん、不味い。
煮た所で、やはり特有の臭みは残っているし、まずいものはまず
い。
おかしな話だ。
ミグルドの里で食べた時はもっとおいしかった。
何が足りないのだろうか。
と、そこで俺は思い出した。
ミグルドの里で栽培されていた植物のことをだ。
最初に見た時は、枯れかけの作物だ、と思った。
だが、違う。
あれは恐らく、香草の一種だ。
肉の臭みを取り、より美味しくするための彼らの知恵なのだ。
ロキシーの﹁苦くて美味しくない﹂という言葉にすっかり騙され
てしまった。
あれは野菜だが、そのまま食べるものではないのだ。
まったく、うちの師匠はドジっ娘で困る。
次の町に赴いたのなら、そうした香辛料を買い込もう。
他にも、使えそうな食材があったら色々試してみたい。
﹁けど⋮⋮無駄遣いになるかな?﹂
魔大陸では、基本的に食料が高額だ。
植物がほとんど育たない地域であるせいか、特に野菜類が高い。
細い高麗人蔘みたいなのが、肉5kgと物々交換されたりする。
大王陸亀は安い。
892
主食であるといえよう。
5tトラック以上の大きさを持つあの亀は、一匹狩るだけでかな
りの世帯が何日も食っていける。
かといって、それで街中の全世帯がまかなえるはずもない。
時にはパクスコヨーテを食ったり、トゥレントに寄生する虫の幼
虫を食ったりする。
さすがに、虫ともなるとエリスも遠慮気味だった。
俺だってゴメンだ。
この大陸の食文化は、俺にはあわない。
大王陸亀の肉は、調理次第ではまだ食える。
低い食文化の水準の中では、まぁ、美味しい部類だ。
焼くだけで美味いというルイジェルドの言葉にも、ギリギリ頷け
る。
だが、やはり香辛料は必要だ。
二人はあまり必要としていないようだが、俺には必要だ。
つまり俺の独断で買う事になる。
だが、独断はよくない。
俺たちは、チームだからな。
香辛料のことはさておき、
何事も相談する習慣をつけた方がいいだろう。
−−−
893
﹁全員集合!﹂
さぁ寝るぞと、枕代わりになる布の塊をどこに置くか迷っていた
エリス。
目をつぶり、周囲の索敵をしていたルイジェルド。
彼らを呼び寄せる。
﹁いまから会議をしたいと思います﹂
﹁⋮⋮会議?﹂
エリスは首をかしげた。
﹁はい、これから旅をするにあたって、色々問題が起きると思いま
す。
その時になって、三人が意見を違えて喧嘩しないように、
大まかな事柄を先に話しあって決めておくんです﹂
﹁それって⋮⋮﹂
エリスは訝しげな表情を作った。
やはり、彼女はそうした細かい事に参加するのは嫌だろうか。
いっそのこと、ルイジェルドと二人で話し合ってもいいのだが、
仲間ハズレはよくない。
彼女は荷物ではない。
ならば、やはりこうした相談事には参加させなければ。
﹁それって、あれよね。
いつもルーデウス達が月に1回やってたやつよね?﹂
ん?
月1回?
894
ああ、職員会議のことか。
そういえば、そんなのもやってたな。
﹁そうです。それの冒険者バージョンです﹂
エリスは口元をキュっと閉じると、すとんと俺の前に座った。
真面目な顔をしようとしているが、
口元にニマニマ笑いが張り付いている。
なんだろう。
さして面白いものでも無いんだが⋮⋮。
まぁ、嫌がられるよりいいか。
﹁それは、俺も参加するのか?﹂
ルイジェルドの疑問。
むしろ、お前が参加しないでどうするとツッコミたい。
﹁もちろんです。
こういう話し合いは、戦士団の頃にはしなかったんですか?﹂
﹁していない。俺が全て一人で決めていた﹂
普通はそういうものらしい。
リーダーのいうことを聞きなさい、ってヤツだ。
でも、俺は民主主義の国の出身だ。
﹁今日からは、三人で話し合い、三人で決めていきましょう﹂
﹁了解した﹂
ルイジェルドは素直にうなずき、座った。
895
焚き火の脇で、俺たち三人は車座になった。
よし。
﹁では、第一回﹃デッドエンド作戦会議﹄を始めます。拍手﹂
パチパチパチと、三人でそれぞれ拍手をする。
﹁ルーデウス、なんで拍手するの?﹂
﹁そういうものです﹂
﹁ギレーヌたちとの時はやってなかったじゃない﹂
なんで知ってるんだ?
まあ、いいけどさ。
﹁記念すべき1回目だから拍手するんです﹂
職員会議ではしなかったけど。
今は冒険者だ、盛り上げていかないとな。
﹁こほん。
さて、前回、僕は盛大な失敗をしました﹂
﹁いや、お前のは失敗ではなく﹂
﹁シャラップ! ルイジェルドさん、発言をする時は、
話が終わった後、挙手でお願いします﹂
ヒステリックな三角メガネっぽく、そう言った。
﹁わかった﹂
﹁よろしい﹂
896
ルイジェルドが気圧されたように黙ったのを見て、俺は続ける。
﹁失敗の原因は、いくつか思い当たります﹂
情報収集を怠った事、金儲けばかりを考えた事、
一石二鳥を狙いすぎたこと、
エトセトラ。
ま、ソレらはそれぞれ気をつけるとして。
﹁予防策として、これからは報告・連絡・相談を密にしていこうと
思います。
この3つは﹃ほうれんそう﹄といって、実に重要なものです﹂
﹁ほうれんそう⋮⋮か﹂
ほうれんそう。
とても重要だ。
これを一缶飲むだけで、屈強な大男を星の彼方までぶっとばせる。
﹁はい。ほうれんそうです。
何かをする時は、まず相談!﹂
﹁ふむ。具体的にはどうすればいい?﹂
﹁やりたい事や困った事があったら、その都度聞いてください﹂
実際、社会で相談というのがどういうことをするのかは知らない
が⋮⋮。
まあ、難しいことは置いておこう。
俺たちにやれることをやればいいのだ。
﹁僕も二人に聞きます。
聞かれた方は、考えて下さい。やるべきか、やらざるべきか、
897
そうすれば、案外相手の気づいていない名案が出てくるかもしれ
ません﹂
思えば、俺はルイジェルドに相談せずに決めることが多かった。
俺は口では彼を信用していると言っていたが、
心の底では彼を信用していなかったのかもしれない。
﹁そして、連絡。
何か気づいたり、何かわかったら、すぐに口に出し、
周囲のもう一人に伝えてください﹂
エリスがうんうんと難しそうに頷いている。
わかっているんだろうか。
﹁最後に、報告。
途中経過も重要ですが、
失敗したか、成功したかだけでもいいです。
これは、僕に伝えてください﹂
一応リーダーだからな。
自覚を持っていこう。
﹁ここまでで質問は?﹂
﹁無い、続けてくれ﹂
﹁はい!﹂
ルイジェルドが首を振り、エリスが手を上げた。
﹁はい、エリス﹂
﹁三人で相談はするけど、ルーデウスが決めるのよね?﹂
898
﹁まあ、最終的には、そうなりますね﹂
﹁じゃあ、最初からルーデウスが全部決めればいいんじゃないの?﹂
﹁僕ひとりじゃ考えられる範囲に限界があります﹂
﹁でも、私じゃルーデウスの考えなかった事なんて思いつけないわ
!﹂
そう言ってもらえるのはありがたいが、
ハッキリ言わせてもらうと、
俺だって安心が欲しいのだ。
相談して、大丈夫よ、あなたなら出来るわ、と言ってもらいたい
のだ。
﹁思いつけなくても、エリスの言葉がヒントになって、
何かいい考えが浮かぶかもしれませんからね﹂
﹁そうかしら⋮⋮﹂
エリスはよくわかっていないという顔だ。
まあ、最初のうちはしょうがないだろう。
頭を使うのが重要なのだ。
﹁さて、とりあえず、今後の事について決めていきたいと思います﹂
今後の事。
十分な準備は出来なかったが、旅は始まった。
行き当たりばったりになるが、やっていくしかない。
﹁まず、目的地ですが⋮⋮。
当然、最終目的地はアスラ王国になります。
中央大陸西部です。これはいいですね﹂
899
二人は頷く。
しかし魔大陸から中央大陸には渡れない。
航路が無いからだ。
この世界では、海は海族が支配している。
決められた航路以外は通れない。
﹁ルイジェルドさん、ミリス大陸には、どこから渡れますか?﹂
﹁魔大陸最南端の港町、ウェンポートから船が出ている﹂
ゆえに中央大陸に行きたければ、
魔大陸の南端↓ミリス大陸。
ミリス大陸を縦断。
ミリス大陸の西端↓中央大陸の東南端。
というルートを通る必要がある。
もっとも、裏ワザのようなルートもある。
魔大陸の北西から、天大陸へと渡る道だ。
このルートを通れば、ミリス大陸を経由しなくとも中央大陸に至
れる。
中央大陸に至りたいだけなら、理論上は数ヶ月は短縮できる。
もっとも、口で言うほど容易くはない。
天大陸は断崖絶壁の上にある大陸である。
翼でもなければ上に上がることは出来ない。
岸壁を伝っていかなければならないのだ。
足場は無く、道はなく、魔物も大量にいる。
致死率95%とか言われている過酷なルートだ。
900
しかも、そこを抜けても、待っているのは中央大陸で最も過酷な
北方大地。
賞金稼ぎに追われる犯罪者ぐらいしか通らない。
あくまでも、理論上の話だ。
実際には、もっと時間がかかるだろう。
結果として旅程日数にそれほど差が出るわけでもなく、
わざわざ危険を犯す必要はない。
というわけで、俺たちが向かう先は、南だ。
﹁船賃はいくらかかるかわかりますか?﹂
﹁わからん﹂
﹁そこまでの道のりは、どれぐらい掛かりますか?﹂
﹁かなり掛かるな。休み無く移動して⋮⋮半年ぐらいではないか?﹂
休み無く移動して半年、遠いなぁ⋮⋮。
﹁何か移動手段はありませんかね、転移魔法陣とか﹂
﹁転移魔法陣は、第二次人魔大戦の折に禁術として指定されたと聞
く。
探せばどこかに残っているかもしれんが、使うのは難しいだろう﹂
適当に言ってみたのだが、あるのか、旅○扉。
﹁結局、地面を歩いて移動するしかないってことですか?﹂
﹁そうだな﹂
高速で移動する手段は無いらしい。
901
半年も移動し続ける⋮⋮うーむ。
いや、半年、移動しつづけると考えるからいけないのだ。
少しずつ移動する。
町から町へ。
そう考えればいい。
千里の道も一歩から、ってやつだ。
﹁とりあえず、最南端の港町ウェンポートを目指すとして、
次の町まではどれぐらい掛かりますか?﹂
﹁15日程で、大きな町につくはずだ﹂
2週間。
そんなもんだろうか。
町から町の距離は。
﹁冒険者ギルドはありますかね﹂
﹁あるだろうな﹂
ルイジェルド曰く、
昔は種族毎に集落を作り、
彼らの情報交換、物々交換の場として、町がある。
そんな感じだったらしい。
ゆえに、小さい町というものは存在せず、
各種族の戦士たちが寄り集まる冒険者ギルドも、当然のように存
在する。
もっとも、昔は冒険者ギルドは無かったらしい。
町を守るのは、各種族から代表して選ばれた戦士たちだ。
902
また、戦う事の少ない種族のために、
戦える者の多い種族が戦士を出向させる事もあったのだとか。
スペルド族とミグルド族の関係がそんな感じだったらしい。
そんな種族間の関係の繋がりを強めるために、
別種族同士で結婚する、という事もあったという。
どおりで、魔族は雑多な種族が多いわけだ。
ハーフやクォーターだらけなのだろう。
っと、話が逸れたな。
﹁では、僕らは冒険者ギルドのある町を転々と移動することにした
いと思います﹂
そこに一週間から二週間ほど滞在。
冒険者資格が剥奪されていなければ、
冒険者としての依頼を受けつつ、
﹃デッドエンド﹄の名前を売っていく。
基本的に、悪いことはしない。
そして、次の町までの旅費がたまり次第、町を出立する。 ﹁というのが、一連の流れですが、
何か質問、あるいは意見はありますか?﹂
ルイジェルドが挙手。
﹁別に、俺の名前は売らなくてもいいんだぞ。
903
そのために髪も切った。今の俺は、スペルド族ではない﹂
﹁ま、名前を売るのは依頼のついでですよ、ついで﹂
ヴェスケルたちの働きでわかった。
特別なことをする必要はないのだ。
誠心誠意仕事をして。
うまくいけば、﹃デッドエンドのルイジェルド﹄と名乗る。
ダメなら、ルーデウスと名乗る、それだけだ。
次から、﹃デッドエンド﹄の汚名は、俺が被るのだ。
でも、そのことはルイジェルドにはナイショだよ。
え?
相談が大事って決めた後で勝手に決めるなって?
細けぇこたぁいいんだよ。
﹁あと、滞在中にすることで、何か質問はありますか?﹂
﹁はいっ!﹂
﹁はいどうぞ、エリス君﹂
このノリ、懐かしいな。
授業中みたいだ。
﹁昔やっていたみたいに、お店の値段を調べたりはしないの?﹂
﹁市場調査ですか?﹂
ふむ。
そういえば、リカリスの町ではサボっていたな。
あの町では、本当に行き当たりバッタリだった。
運搬用のトカゲだって、相場を知っていれば、もう少し安く手に
入ったかもしれない。
904
﹁やっていきましょう。
値段を知ることは、金をうまく使う事の第一歩ですからね。
他には何かありますか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無いようだ。
まあ、とりあえずはこんなものだろう。
これから先、進むにつれて、問題も出てくるだろう。
その時は、喧嘩せずに、ゆっくり話しあえばいいのだ。
﹁では、明日から、よろしくおねがいします﹂
そう言って、俺は二人に頭を下げた。
−−−
こうして、俺たちの旅は始まった。
−−− 町。
そこでルイジェルドがスペルド族と認識されることは無かった。
眉毛まで剃ったせいだろうか、
魔大陸では、髪型をガッチリ整えるといった文化も無いらしい。
種族ごとの外見を大切にしているのだろう。
905
門番には快く迎えいれてもらえた。
ルイジェルドの見た目は茶坊主というか、
どう見てもマフィアか右翼にしか見えないのだが、
町中にはもっと物騒な顔をした奴らもいるからだろう。
﹁ウェルカム、マイタウン!﹂
やはり、冒険者らしい格好をしていると違うらしい。
本当によくきたと歓迎された。
前に来た時は、明らかに貴族っぽい格好をしていたからな。
かなり怪しかった。
ルイジェルドも、こんな快く迎えられたのは初めてだと嬉しそう
に言った。
パーティ名が﹃デッドエンド﹄であるとギルドにいうと、
周囲から﹁大丈夫か?﹂なんて疑問が飛んでくる。
本物なので大丈夫というと、大抵は笑い声が上がった。
この方法は相変わらず有効らしい。
知らない場所でも簡単に受け入れられる。
デッドエンドという存在のネームバリューには頭が下がる。
宿に泊まれば作戦会議だ。
今回の議題は、エリスからだった。
﹁洗濯中にルーデウスが私のパンツの匂いを嗅いでいる、やめて
ほしい﹂。
906
わりと真顔で言われた。
俺はエリスのパンツに触ることを禁止された。
しかし、そうなると洗濯ができるのはルイジェルドだけとなる。
こんな子供と見れば頭を撫でずにはいられないようなロリコン野
郎に可愛いエリスのパンツを渡す訳にはいかない。
というわけで、
エリスに洗濯を覚えてもらった。
本日から、洗濯はエリスの担当である。
と、思ったら、彼女はコッソリ、俺のパンツの匂いを嗅いでいた。
でも、俺は決してやめてほしいなんて言わない。
それが男の度量ってもんだろ?
どや顔。
情報収集はそう難しくなかった。
冒険者ギルドを利用すれば、大抵のことはわかった。
子供のフリをして、他の冒険者に聞くだけだ。
もう、ホント、楽だった。
このまま子供でいたいと思ったぐらい、なんでも教えてくれた。
調子にのって、グラマラスな女冒険者にスリーサイズを聞こうと
したら、エリスにマウントを取られた。
この世界には、タップという概念が無い。
死ぬかと思った。
−−−
907
町から町へと渡り歩きながら、
俺たちはどんどん南へと移動していく。
−−−
ある日を境に、エリスは魔神語を習いだした。
ロキシーの教科書が無いので詳しいことは教えられないが、
俺とルイジェルド、二人の教師がいるため、
彼女もすぐに覚えられそうだ。
アスラ王国にいた頃は読み書きなんてちっとも覚えられなかった
のに。
やはり、環境は人を変えるようだ。
自分だけ会話が通じないと、ストレスも半端ないしな。
ほめてやらねば人
﹁わ、わたし、は、エリス・ボレアス・グレイラット⋮⋮です﹂
﹁はい、できていますよ、お嬢様﹂
﹃ほんと!?﹄
まあ、まだまだ会話には程遠いが⋮⋮。
山本五十六も言っている。
﹃やってみせ、言って聞かせて、させてみて、
は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず﹄
908
なので、俺は褒めて伸ばす。
﹃さすがお嬢様ですぅ! 流石ですぅ! シビレますぅ!﹄
﹃⋮⋮なんかバカにしてない?﹄
﹃いえいえいえいえそんなまさか﹄
ちょっと調子に乗りすぎたか⋮⋮。
褒めればいいってもんじゃないな、うん。
﹃ねえ、でももうすぐ魔大陸から出るんでしょう?﹄
﹃その予定です。次はミリス大陸ですね﹄
もうすぐといっても、まだまだ先は長いがね。
﹃じゃあ、もしかして、魔神語を憶えても意味ないんじゃ⋮⋮?﹄
﹃また来るかもしれないじゃないですか﹄
必要にかられてやる気になったとはいえ、
エリスは相変わらず勉強嫌いのようだ。
そして、彼女は俺に魔神語を教わりつつ、
ルイジェルドに戦い方を教わっていた。
最初の頃は、俺もそれに参加していた。
だが、正直、ついていけなかった。
ルイジェルドの指導は、ただひたすら、無言で打ち合いをするだ
けだ。
909
最終的には、指導を受ける側は地面に転がされ、あるいは喉元に
槍を突きつけられる。
そして、ルイジェルドが聞く。
﹁わかったか?﹂
俺にはわからない。何度やってもわからない。
だが、エリスには理解できるらしい。
たまに、ハッとした顔で、
﹁わかったわ﹂
と、言う。
何がわかるというのだろうか。
いや、なんとなくはわかる。
恐らく、ルイジェルドはこちらの悪い部分を、戦いの中で突いて
いるのだ。
戦いとは流動的で、動かせる部分は多い。
だからこそ、口ではなく、実際にやっているのだ。
けど、だからといって、理解できるものではない。
それがわかるのなら、俺はもっと強くなっていたはずだ。
多分、エリスは天才だ。
事、戦いに関しては、俺の及ばない所にいる。
正直な所、俺はルイジェルドの戦いの理論がチンプンカンプンだ
った。
だが、エリスにはわかる。
わかったわ、というのは口だけじゃないのだ。
彼女は何かを理解している。
910
そして、事実、エリスは強くなっている。
彼女の戦闘力は飛躍的に向上している。
まだまだギレーヌには及ばないだろうが、
もしかすると、パウロはそろそろ超えているかもしれない。
⋮⋮もしかすると、魔術を使った俺より強いんじゃないだろうか。
俺も、色々考えないといけない。
エリスが成長しているのに、俺が今のままでは、立つ瀬がない。
なんとかして、強くなりたい。
そう思い、エリスの目を盗んで、ルイジェルドに本気で挑んでみ
たことがある。
本気といっても、パウロを想定していた時のような、接近戦での
戦い方でだが⋮⋮。
結論から言うと、負けた。
完敗だった。
ルイジェルドには、俺の考えてきた接近戦用の魔術が、何一つ通
じなかった。
﹁悪くはない。お前は魔術師としては完成の域にある﹂
負けたはずなのに、そう言われた。
昔、ギレーヌにも似たようなことを言われた気がする。
﹁だが、考え方は良くない。
俺に接近戦で勝とうとする必要はない﹂
911
近すぎるのだ、と言われた。
相手の土俵に上がるから苦戦するのだ、と。
そんなことはわかっている。
でも、だからといって、いつも遠距離から戦いを始められるとは
限らない。
﹁じゃあ、どうすればいいんですか?﹂
﹁さてな。俺も魔術は専門外だからな⋮⋮。
魔術を交えての接近戦といえば、龍族が得意としているらしいが、
俺はペルギウスの戦いを少しだけ見たことがあるだけだ、参考に
はならん﹂
﹁ペルギウスって、あの空中城塞の人ですよね?
どんな戦い方だったんですか?﹂
﹁ああ、ヤツは前龍門と後龍門を召喚し、自分は魔力爪を使って戦
っていた﹂
召喚。
召喚魔術は知らないんだよな⋮⋮。
﹁その、前龍門と後龍門というのは、どういう召喚魔術なんですか
?﹂
﹁詳しくは知らんが、前龍門は相手の魔力を常に吸収し、
後龍門は吸収した魔力を自分のものにする、という感じだった﹂
ゆえに、ペルギウス相手には長期戦になればなるほど不利になる。
ラプラスは圧倒的な魔力総量を誇ったがゆえに、あまり効果が無
かったらしいが⋮⋮。
並の戦士なら、五分もたたない内に体中の魔力を吸収されて気絶
するらしい。
912
﹁卑怯な戦い方ですね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうか?﹂
ルイジェルドなら、それを卑怯だと言うかと思ったが、そうでも
ないらしい。
やはり、宿敵ラプラスに一矢報いた仲間意識でもあるのだろうか。
﹁そう焦るな。お前の年齢を考えれば、本格的に強くなれるのはこ
れからだ﹂
最終的に、ルイジェルドはそう言って、俺の頭を撫でた。
戦士として見てはくれているようだが、ルイジェルドは俺の頭を
撫でる。
単純に、子供の頭を撫でるのが好きなのだ、この男は。
しかし、でも、どうすれば強くなれるんだろうか⋮⋮。
−−− 南へ、南へ。
町につき、依頼を受けて、名前を売り、金を貯めて、次の町へ。
同じことを繰り返しながら、ただひたすら、南へ。
−−−
旅の途中、
913
ルイジェルドに勝負を挑んでくる者がいた。
﹁我こそは北神カールマンが直弟子﹃孔雀剣のオーベール﹄!
の、三番弟子のロドリゲス!﹂
最初は賞金稼ぎかと思った。
知らん間にルイジェルドに賞金が掛けられたのかと思った。
﹁その物腰、さぞ名のある御仁とお見受けした!
立ち合いを所望したい!﹂
しかし、どうやら違うらしい。
彼は武者修行のために魔大陸を旅しているのだとか。
﹁ルイジェルドさん、どうします?﹂
﹁こういう手合いは久しぶりだな﹂
ルイジェルド曰く、魔大陸には武者修行者も多いらしい。
魔大陸は魔物も強く、
その魔物を退治する冒険者たちも強い。
修行しようなんて考えている輩にはうってつけの場所なのだとか。
意味もなく強くなってどうすんだろうな。
﹁俺はうけてもいいが、どうすればいい?﹂
﹁僕は断ってもいいと思いますけど、どうしたいです?﹂
﹁俺は戦士だ。手合わせしたいというのなら、相手をしたい﹂
受けたいなら最初からそう言えよ。
ということで。
ルールを決めることにした。
914
ルイジェルド
1.殺し合いは無し、止めは刺さないこと
2.こちらが名乗るのは、勝負の後であること
3.勝っても負けても禍根を残さないこと
相手は快く承諾してくれた。
そして、ルイジェルドは勝った。
相手の全力を受けきるような動きで、勝った。
手加減をしている、という感じではない。
ただ、ローリスクに動き、相手の動きを完全に制したのだ。
﹁完敗だ。こんな強い者がいるとは⋮⋮世界はまだまだ広いな!
で、名前はなんと言うのだ?﹂
﹁ルイジェルド・スペルディアだ。﹃デッドエンド﹄と呼ばれてい
る﹂
﹁なに、あの﹃デッドエンド﹄か!?
魔大陸で何度も噂を聞いたぞ。
恐ろしいスペルド族の男がいるとな!﹂
戦いが終わると、彼は驚いた。
意外と、人族はスペルド族の特徴を知らない。
スペルド族が槍を使っているだとか、
額に赤い宝石があるだとか、
そういう事を知らない者が多い。
人族の常識では、スペルド族の特徴は髪がエメラルドグリーンっ
て部分だけなのだ。
915
エメラルドグリーンの髪。
戦争から400年も経った今では、ただそれだけが迫害の理由な
のだ。
髪が緑なだけでイジメられる、俺には到底理解できない。
﹁しかし髪がないようだが?﹂
﹁故あって、剃った﹂
﹁り、理由は聞かない方がよさそうだな⋮⋮﹂
明らかに強い相手、
恐怖の象徴スペルド族、
中でも最も凶悪とされる人物。
恐れて当然の相手だ。
しかし、やはり、武人同士。
何か通じるものがあるらしい。
強さを基準で生きる人々にとって、
ルイジェルドは尊敬に値する人物なのだ。
﹁まさか、歴史上の人物と手合わせしてもらえるとは⋮⋮!
これは故郷で自慢できるな!﹂
大抵の相手は、嬉しそうにしていた。
まるで、道端でハリウッドスターにでも会ったかのような、
しかも、気難しいと思われていたそのスターが、
意外とフレンドリーだった時のような、
そんな喜び方だった。
916
﹁我こそは︱︱︱︱﹂
そいつを皮切りに、ルイジェルドは挑まれ続けた。
南に行けば行くほど、そういう手合いが増えた。
武者修行者の中には学のあるやつもいて、
ルイジェルドが400年前の戦争時のスペルド族の戦士団。
そのリーダーと同じ名前だと指摘する者もいた。
同一人物だと言うと、大層驚いていた。
その人物には、ルイジェルドの戦争話が一昼夜を掛けて語られる
事となった。
ルイジェルドおじいちゃんの昔話は長いが、
誇張なしで語られるその実話は、武人にとって興奮するものであ
るらしい。
特に、1000人の包囲を抜け、長い時間潜伏し、ラプラスに一
矢報いるくだりには、武人も男泣きに涙を流した。
この話を本にして流通させれば、案外スペルド族の見方も変わる
かもしれない。
﹃実録! 正義なき戦い 魔大陸死闘篇!﹄
とか、
﹃誰も知らない歴史の真実 スペルド族編﹄
とか、そんな感じで。
土魔術を使えば印刷は出来るからな。
さらに、俺は4ヶ大陸語を扱える。
ま、国の法律に抵触して捕まる可能性もあるが⋮⋮。
頭の片隅には置いておく事にしよう。
917
﹁じゃあな、ありがとう! 勉強になった﹂ 武者修行者たちは、誰もが嬉しそうに別れた。
喧嘩別れをすることは一切なかった。
それもこれも、みんな髪を剃ったおかげだろう。
もう、スペルド族は全員スキンヘッドにすればいいんじゃないか
な?
−−−
そうして、南へ、南へ。
俺たちは旅をする。
−−−
もちろん、順調なだけじゃない。
問題は何度も起きた。
言葉を理解したことで、嘲笑にブチ切れたエリスが喧嘩すること
もあった。
ルイジェルドがスペルド族だとバレて、追い出される事もあった。
また、俺がエリスの水浴びを覗こうとして、ルイジェルドに首根
っこを掴まれて引き戻される事も多々あった。
似たような問題は何度も起きた。
最初の頃は、問題が起きるたびにヤキモキしたものだ。
918
直さなきゃ、どうにかしなきゃ、と思った。
けれど、考えてみれば、だ。
エリスは喧嘩をする時には絶対に剣を抜かなかった。
ルイジェルドも、追い出される時は最初の時のような騒乱は起き
なかった。
町で仲良くなった衛兵から﹁すまんな、スペルド族だと、やっぱ
り怖がるヤツがいるからな﹂と申し訳無さそうに言われることもあ
った。
そして俺は、結局一回もエリスの水浴びを覗くことは出来なかっ
た。
どれも小さな問題だった。
大問題には発展していない。
だからか、そのうち気にしなくなった。
エリスは乱暴者だし、
ルイジェルドはスペルド族だし、
俺はスケベだ。
生まれた時からそうだったのだ、
いまさら直そうと思ったって、直るもんじゃない。
ま、やれることはやっているのだ。
失敗しても後からフォローすればいい。
気楽にいこう、気楽に。
途中からは、そう思えるようになっていった。
決して、失敗を軽くみているつもりはない。
919
ただ、肩の力を抜くという、
当たり前のことを実践できるようになっただけだ。
−−−
旅を始めて、約1年が経過した。
俺たちはいつしかAランクの冒険者になっていた。
そして、魔大陸最南端。
港町ウェンポートへとたどり着いた。
920
終
第三十三話﹁旅の始まり﹂︵後書き︶
第3章 少年期 冒険者入門編 −
次章
第4章 少年期 渡航編
−
921
世界地図︵前書き︶
作中の説明だと世界の形がわかりにくい、ルートが想像しにくい、
との事なのでイメージの参考になれば、と思い世界地図を描いてみ
ました。
大まかな世界の形と、主要都市の大まかな位置になります。
作者にはこうしたものを描くスキルは無いので、少々縮尺や大陸
の大きさがおかしかったりする所がありますが、ご了承ください。
922
世界地図
<i65433|7712>
以下、あっさりとした説明。
・中央大陸
赤竜山脈によって3つに分断されている。
貧しく戦争も多い北部、アスラ王国の統治する世界一豊かな西部、
いくつか大国はあるものの北方では争乱の続く南部。
人族が人口の大半を占める。
・魔大陸
魔物が強く、貧しい。
各地に魔王が君臨している。
魔族が人口の大半を占める。
・ミリス大陸
北に大森林、南にミリス神聖国がある。
大森林・青竜山脈には、聖剣街道という、魔物の一切出ない一直
線の道が通っている。
人口は人族と獣族が半々。
・ベガリット大陸
迷宮が多く、魔力的な意味で異常な土地が多い。
魔物の強さは魔大陸と同等。
様々な種族が住んでいる。ほとんど冒険者か元冒険者。
923
・天大陸
標高3000メートルぐらいに平地がある。
天族が住んでいる。
924
第三十四話﹁ウェンポート﹂
ウェンポート。
魔大陸で唯一の港町。
坂の多い町並みで、入り口から町並みが一望出来る。
魔大陸らしい土と石造りの家だが、中には木造建築もちらほら。
ミリス大陸から木材を輸入しているのだろう。
町の端には造船所もある。
港町であるがゆえか、入口付近に露店が少なく、港の方に活気が
溢れている。
少々他とは毛色が違う感じのする町だった。
そして港の向こう側。
町の外側には、広大な海が広がっている。
海を見るのはいつ以来だろうか。
たしか、中学時代に臨海学校に行って以来か。
海というのは、どこの世界も変わらないらしい。
青い海、潮騒の音、カモメのような鳥、帆を張る船⋮⋮。
帆船をこの目で見るのは初めてだ。
映画では時折目にするが、実際に木製の船が帆を張って進んでい
るのを見ると、年甲斐もなくワクワクする。
やはり、こちらの世界でも、逆風で進む技術とかあるんだろうか。
いや、この世界のことだ、
どうせ魔術師が追い風を作って進むとか、そういう方式なのだろ
う。
925
−−−
町に到着した瞬間、エリスがトカゲから飛び降り、走りだした。
﹁ルーデウス! 海よ!﹂
エリスの口から出たのは、達者な魔神語である。
彼女には普段から魔神語を使うようにと心がけさせている。
俺とルイジェルドも、出来る限り魔神語で話すようにした。
作戦は的中し、最近ではエリスの魔神語もかなり上達した。
やはり、外国語は普段から使わせるのが上達の近道であるらしい。
もっとも、読み書きは出来ない。
ちなみに、魔大陸にきてから、魔術は一切教えていない。
無詠唱はもちろんのこと、もう詠唱も忘れているかもしれない。
﹁まってエリス、宿も決めずにどこにいくんですか!﹂
俺の発言を聞いて、エリスの足がキュッと止まった。
ちなみに、このやり取りは三度目である。
一度目は迷子になり、二度目は街角で喧嘩になった。
三度目はない。
﹁そうね! 先に宿を決めないと迷子になっちゃうものね!﹂
エリスは海の方をちらちらと見ながら、うきうきと戻ってきた。
考えてみると、彼女は海を見るのは初めてか。
926
フィットア領の近くには川もあり、
休日にサウロスと出かけ、水遊びをしていたことはあるようだ。
生憎と俺はご一緒した事は無い。
﹁泳げるかな?﹂
﹁え? 港で泳ぐんですか?﹂
﹁泳ぎたい!﹂
俺もエリスの13歳の悩ましボディを見たいが⋮⋮。
﹁水着が無いでしょう?﹂
﹁水着? なにそれ、いらないわ!﹂
その衝撃的な言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。
水着、なにそれ、いらないわ。
水着がいらない。
それはつまり、全裸ということだろうか。
いや、まさか、それはあるまい。
この世界にも裸体を恥ずかしがる文化はある。
だから、そう、恐らく下着だろう。
下着着用の上で、水を浴びるのだ。
水に濡れて張り付く下着、透ける肌色、浮かび上がるポッチ。
おかしい、なぜ俺はフィットア領の川遊びに同行したことがない
のだ。
忙しかったからだ。
当時は休日も充実した日々を過ごしていた。
だが、一回ぐらい、一回ぐらい同行してもよかったかもしれない。
いや、今はそんなことは考えまい。
927
目の前の事に集中するんだ。
今を生きる。
そう、今を生きる、だ!
ヒャッホウ!
海だー!
﹁いや、この海では泳がない方がいいだろう﹂
と、ルイジェルドに水を差された。
﹁えっ!? なんで!﹂
﹁魔物が多い﹂
ということらしい。
魔物なんて俺とルイジェルドで全滅させればいい。
と、思わないでもなかったが、
案外、あの生体レーダーは万能ではないのかもしれない。
水の中は見通せないとか。
いや、でも一時的になら海水浴ぐらいできるんじゃないか?
港で泳ぐのはさすがに危ないとしても、
近くの浜辺で、土の魔術を使って生簀のようなものを作るとか。
や、でも万が一があるな。
魔物の中には、変な特殊能力を持っている奴もいる。
生簀ぐらい飛び越えてくるかもしれない。
それがタコならエロイベントで済むが、サメならジョーズだ。
仕方がない。
928
海水浴はやめておいた方がいいだろう。
本当に仕方がない。
﹁海水浴は今回は無し。
宿決めてから冒険者ギルドですね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
エリスがしょんぼりしていた。
うーむ。
しかし、俺だって健康的なエリスの体には興味がある。
ここ一年は成長度合いを確認できていないからな。
服の上からではわかりにくいが、あるいは開放的な浜辺なら、何
かがわかるかもしれない。
﹁泳がなくても、浜で遊べばいいじゃないですか﹂
﹁浜?﹂
﹁海には砂浜というものがあるんです。
波打ち際に砂場がずっと続いているんです﹂
﹁それの何が楽しいの?﹂
何と言われてもな。
﹁ええと。波打ち際で水を掛けあったりとか⋮⋮﹂
﹁ルーデウス、また変な顔してるわよ﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
﹁でも、面白そうね! 後で行きましょう!﹂
エリスは嬉しそうに、トンと地面を蹴り、トカゲに飛び乗った。
素晴らしい跳躍だった。
929
足首の力だけで飛び上がったのだ。
擬音的には﹁グオン﹂って感じだろうか。
エリスの足腰はかなり鍛えられている。
その事自体はいいんだが⋮⋮。
将来はもしかしてギレーヌみたくムキムキになるんだろうか。
ちょっと心配だ。
−−−
俺たちは宿を決め、
馬屋にトカゲを預かってもらうと、
まずは冒険者ギルドへと足を伸ばした。
会議は寝る前でいい。
ウェンポートの冒険者ギルド。
そこは多種多様な見た目の冒険者たちがひしめいている。
見慣れた景色だが、人族が多くなったように感じる。
ミリス大陸に渡れば、もっと増えるのだろう。
まずはいつも通り、掲示板の前へと移動。
﹁すぐに海を渡るのではないのか?﹂
と、ルイジェルドに聞かれる。
﹁見るだけですよ。ミリス大陸の方が収入がいいらしいですからね﹂
930
ミリス大陸の方が収入がいい。
それは、通貨が違うからだ。
ミリス大陸の貨幣は、
王札 将札 金貨 銀貨 大銅貨 銅貨
の6種類にわかれている。
金貨
将札
王札
1000
5000
1万
5万
石銭1円を基準にしてみると、
銀貨
10
大銅貨100
銅貨
こんな感じだ。
魔大陸におけるBランクの仕事は、屑鉄銭15∼20枚前後。
石銭換算で150から200。
ミリスでのBランクの仕事が、仮に大銅貨15枚と仮定する。
石銭換算で1500。
10倍だ。
ミリスで稼いだほうがいい。
ただ、もし船が出るまでに時間が掛かるようなら、
ここでの依頼も受けることになるだろう。
基本的にはBランクの依頼だ。
AランクとSランクは危険な上、一週間以上の日数が掛かる事が
931
多いからな。
数日でコンスタントに稼ぐなら、Bランクが一番だ。
ゆえに、Bランクが受けられなくなるSランクに上がる予定は無
い。
Aの時点でSランクの依頼が受けられる。
なら、なぜSランクがあるのか、と最初は疑問に思った。
職員に聞いてみると、どうやらSランクになると特典がつくらし
い。
詳しく調べてないのでわからないが、
宿賃の割引率が増えるとか、
割のいい仕事をギルドから割り振ってもらえるとか。
多少の違反行為なら目をつぶってもらえるとか。
そういう感じらしい。
Aランクの仕事を中心にやっていくのであれば、
AでいるよりSに上がった方が金銭的な効率は上である。
もっとも、そうした特典により大きな恩恵を受けるのは、
迷宮探索を主とする冒険者であるらしい。
俺たちは迷宮には潜らない。
危険だし、日数が掛かる。
依頼もBランクが中心だ。
ゆえにSランクなる予定は、今のところ無い。
エリスはなりたいみたいだけどな。
と、話が逸れたな。
932
とにかく、俺達は金儲けが目的で冒険者をやっている。
なので、ミリスの方が稼げるのなら、すぐにでも船に乗った方が
いい。
﹁そういえば、船ってどこから出てるんでしょうね﹂
﹁港だろう﹂
﹁港のどこって話ですよ﹂
﹁聞いてみろ﹂
カウンターへと移動。
立っているのは女性で、たぶん人族だ。
なぜかカウンターに立つ職員は女性が多い。
そして、なぜか巨乳率が高い。
﹁ミリス大陸に行きたいんですけど、
どこにいけばいいのか、わかりますか?﹂
﹁そうした質問は関所でお聞きください﹂
﹁関所?﹂
﹁船に乗れば、国境を超えますので﹂
ギルドの管轄ではなく国同士の問題。
なので、ギルド員が説明する義務が無いってことか。
ふむ、そういう事なら、関所に移動しよう。
そこで詳しい話を聞いて⋮⋮。
﹁あんたねぇ!﹂
と、考えている時。
ギルド内に叫び声が響き渡った。
933
振り返ると、
エリスが人族の男をぶん殴っていた。
ウチの核弾頭は今日も元気だ。
﹁誰の、どこを、触ったと、思ってんのよ!﹂
﹁ぐ、偶然だ! お前みたいなガキを誰が触るか!﹂
﹁偶然だろうとなんだろうと! 詫びの入れ方に誠意が足りないで
しょうが!﹂
エリスの魔神語も、随分と流暢になった。
そして、流暢になるにつれて、喧嘩が増えた。
やはり、相手の言っている事がわかるとダメだね。
﹁ギャハハハ! なんだなんだ、喧嘩かぁ!?﹂
﹁やれやれ!﹂
﹁おいおい、子供にやられてんじゃねえよ!﹂
ちなみに、冒険者同士の喧嘩はわりと日常茶飯事らしく、
ギルドもあまり関与してこない。
むしろ、積極的に賭け事をはじめる職員もいた。
﹁踏みつぶしてやるわ!﹂
﹁す、すまん、俺の負けだ、勘弁してくれ、片足を掴むな、やめろ
ぉぉ!﹂
などと考えていると、エリスはあっという間に男を転がしていた。
エリスの追い込み方は、特に最近堂に入ってきている。
前触れなくプッツンして、しかも的確に追い詰めてくる。
何キレてんだよ、と思った時には転がされて、男の急所にストン
934
ピングを受ける。
そこらのCランク冒険者ではどうにもならない。
そして、ある程度攻撃を加えると、ルイジェルドが止める。
﹁やめろ﹂
﹁⋮⋮何よ止めないでよ!﹂
﹁もう勝負はついた、これぐらいにしておけ﹂
今回も、ルイジェルドが彼女を猫のように持ち上げて制止した。
男は這々の体で逃げていく。
﹁ちくしょう、イカレてやがる!﹂
いつもの光景だ。
俺じゃなかなか止まらない。
後ろから抱きかかえて止めると、
どうしても手が勝手に動いてしまうからな。
勝手に動いて変な所を揉みしだけば、今度は俺の命が危険に晒さ
れる。
﹁ハゲに赤髪の凶暴な小娘⋮⋮!
お前らもしかして、﹃デッドエンド﹄か?﹂
誰かが叫んだ瞬間、ギルド内が静かになった。
﹁﹃デッドエンド﹄ってスペルド族の⋮⋮?﹂
﹁バカ! パーティ名だよ。最近ウワサの偽物だって!﹂
﹁本物だって噂も聞いたことあるぜ﹂
935
おや?
﹁凶暴だけど、根は結構いいヤツだって⋮⋮﹂
﹁凶暴だけどいい奴って矛盾してるだろ﹂
﹁いや、全員が凶暴じゃないって意味で⋮⋮﹂
ざわ⋮⋮ざわ⋮⋮。
と、ギルド内がざわめいていく。
こういう状況は初めてだ。
どうやら、俺たちも随分と有名になってきているらしい。
この町ではルイジェルドの名前を売らなくてもいいかな?
﹁たった三人のパーティでAランクだもんな⋮⋮﹂
﹁ああ、すげえな、でも本物だろうが偽物だろうがあの二人なら納
得だぜ﹂
﹁﹃狂犬のエリス﹄と﹃番犬のルイジェルド﹄だろ?﹂
エリスとルイジェルドに二つ名が!
それにしても﹃狂犬﹄に﹃番犬﹄か。
なんで犬なんだろうか。
俺は何犬なんだろうか。
ちょっと予想してみよう。
闘犬は、無いな。
そういうカッコイイことはしてきていない。
勇ましい感じではないはずだ。
俺が俺に付けるならバター犬だが⋮⋮。
936
この一年、俺はパーティにおける参謀として働いてきたつもりだ。
やはり、知的な名前だろう。
忠犬とかかな。
﹁じゃあ、向こうのチビが﹃飼主のルージェルド﹄か!﹂
﹁﹃飼主﹄は一番タチが悪いって聞いたぞ﹂
﹁ああ、悪いことばっかりやってるって話だ﹂
ズッコけた。
名前が、名前を、憶えられていない。
いや、確かに、俺はよくルイジェルドって名乗ってたよ。
何か一つ、いいことをする度に﹁ウチらデッドエンドのルイジェ
ルドなんで、そこんトコ夜露死苦﹂なんて言ってたよ。
そして、悪いことをするたびに高笑いして﹁俺がルーデウスだ、
グハハハハ﹂とか笑ってきた。
だからって、混ざることはないだろう?
うーん。
一年間それなりに活動してきて、
俺だけ名前を覚えられていないというのは、
ちょっとショックだな。
⋮⋮でもま、いいか。
悪い方で名前が売れてるみたいだし、本名じゃないのは悪くない。
それに、飼主もいいじゃないか。
是非ともエリスに首輪を付けて連れ回したいね。
﹁それにしても小さいよな﹂
937
﹁きっとアレも小さいんだぜ。子供だからな!﹂
﹁おいおい、小さいなんて言ったら犬をけしかけられるぞ!﹂
﹁ギャハハハハハ!﹂
気付けば、全然関係ない事で笑われていた。
だが、残念だったな。
最近は順調に成長中だ。
っと、いかん。
こんな笑われ方をしたのでは、またエリスがキレてしまう。
と、思ったら、彼女は俺の方をチラチラみて、顔を赤くしていた。
あら可愛らしい。
﹁エリス、どうしました?﹂
﹁な、なんでもないわよ!﹂
デュフフ。
興味あるんなら、今晩、俺の水浴びを覗くといいぜ。
なあに、ルイジェルドには言い含めておくよ。
なんなら一緒に浴びようぜ。
その場合、ちょっと手とか足とか体とか舌とかが滑るかもしれな
いけどな。
と、冗談はさておき。
とりあえず関所に移動だ。
飼主らしく、威厳たっぷりな感じでこの場を去るとしよう。
﹁エリスさん! ルイジェルドドリアさん! 行きますよ!﹂
﹁なぜお前はたまに俺の名前を間違えるんだ⋮⋮﹂
﹁ふん!﹂
938
俺たちは周囲の視線を集めながら、冒険者ギルドを後にした。
−−−
関所へとやってきた。
この町は魔大陸にあるが、船に乗った先はミリス神聖国の領土で
ある。
荷を持ち込む際には税金を取られるし、
入国の際にも金が必要となる。
犯罪を抑制するためか、あるいは単に金にがめついだけなのか。
ま、理由なんてどうでもいい。
払えというなら払うだけさ。
と、軽く考えていた。
﹁人族二人と魔族なんですけど、いくら掛かります?﹂
﹁人族は鉄銭5枚⋮⋮魔族の種族は?﹂
﹁スペルド族です﹂
関所の役人は、ギョっとした顔でルイジェルドを見た。
そして、その禿頭を見てハァと溜息をついた。
やる気のなさそうな顔で言う。
﹁スペルド族は緑鉱銭200枚だよ﹂
﹁に、200枚!?﹂
今度は俺がビックリした。
939
﹁な、なんでそんなに高いわけ!?﹂
﹁言わなくてもわかるだろうが⋮⋮﹂
スペルド族の船賃が高い理由。
わかる!
今まで旅をしてきたから、よくわかる。
けど、高すぎる。
﹁なんでそんな無茶な金額なんですか?﹂
﹁知らねえよ。決めたヤツに聞けよ﹂
﹁おじさんの予想では?﹂
﹁あん? まあ、テロ対策だろ。奴隷として運び入れて、ミリス大
陸で暴れさせるとかよ﹂
そういうことらしい。
スペルド族が爆弾扱いされているのはわかった。
﹁おまえら、例の﹃デッドエンド﹄だろ?
船に乗る時はちゃんと種族を調べられるからな。
ここで見栄はって緑鉱銭200枚を払ったって、意味はないぜ?﹂
役人はありがたい事に、そんな忠告をくれた。
つまり、ここでミグルド族だと偽っても、バレるということか。
﹁種族を偽っていたら罰金とかないんですか?﹂
﹁⋮⋮高い金を払う分にはな﹂
役人の話によると、金さえ払えば大体オッケーらしい。
なんとも拝金主義な事だ。
940
−−−
関所から戻る頃には日が降りていた。
俺たちは宿に戻り、食事を取ることにする。
宿で出されたのは、港町特有の魚介料理だった。
拳大もありそうな貝が今夜のメインディッシュだ。
ニンニクバターっぽい味付けで酒蒸しにしてある。
うまい。
魔大陸で食った料理の中で、一番うまい。
﹁これ、おいしいわね!﹂
エリスはもっちゃもっちゃと口一杯にほうばって、嬉しそうだ。
彼女はここ一年で、アスラ王国流のテーブルマナーを完全に忘れ
つつある。
右手のナイフで料理を切り分け、そのまま刺して口に運んでいる。
さすがに手づかみで食べることは無いが、行儀なんてあったもん
じゃない。
エドナが見たら泣くかもしれない。
俺の責任だろうか⋮⋮。
﹁エリス。お行儀が悪いですよ!﹂
﹁もぐもぐ⋮⋮行儀なんて誰が気にするのよ﹂
まだルイジェルドの方がマナーがいい。
もっとも、こっちも上品というわけではない。
941
ナイフを一切使わず、フォークだけで食材を切り分けている。
フォークを滑らせるだけで、食材がバターのように切れるのだ。
達人の技を感じるね。
﹁さて、それでは、飯の途中ですが本日の作戦会議を始めます﹂
﹁ルーデウス。食事の最中に喋るのはお行儀が悪いわよ﹂
エリスにすまし顔で言われた。
−−−
食事を終え、腹がくちくなった所で、作戦会議を開始した。
﹁渡航費用は緑鉱銭200枚。途方もないです﹂
﹁すまんな、俺のせいで﹂
ルイジェルドが顔を曇らせた。
俺も、まさかこんな金額だとは思っていなかった。
正直、渡航費用のことを甘く考えていた。
ちょっと稼げばすぐ乗れるだろうと。
実際、人族は鉄銭5枚だ。
他の魔族だって、精々緑鉱銭1枚か2枚。
スペルド族だけが異様に高いのだ。
﹁おとっちゃん、そいつは言いっこなしですよ﹂
﹁俺はお前の父ではない﹂
﹁知ってます。冗談ですよ﹂
942
それにしても、緑鉱銭200枚か。
並の金額ではない。
Aランク、Sランク依頼を中心にこの町で金稼ぎしたとしても、
何年掛かる事か。
ミリス大陸はよほどスペルド族を受け入れたくないらしい。
﹁でも、困ったわね。まさかルイジェルドだけ置いていくわけにも
いかないし﹂
ルイジェルドを置いていく。
それが一番手っ取り早い。
俺たちも冒険者としてはかなり慣れてきた。
ルイジェルド抜きでも、旅は続けられるだろう。
とはいえ、もちろん、そんなつもりはない。
ルイジェルドは旅の最後まで一緒。
我等友情永久不滅、ってやつだ。
﹁もちろん、置いては行きません﹂
﹁じゃあ、どうするの?﹂
﹁方法は⋮⋮3つあります﹂
そう言って指を立て、3という数字を示す。
物事はまず3という数字からだ。
いかなる時にも進む、戻る、立ち止まるの選択肢は、常に存在し
ているのだ。
﹁ほう﹂
﹁凄いわね、3つもあるんだ⋮⋮﹂
﹁ふふん﹂
943
説明はちょっとまってね、まだ思いついてないから。
えっと。
﹁まず一つ。
依頼で金を稼ぎ、ミリスへと渡る正当法﹂
﹁でもそれは﹂
﹁そう、時間がかかり過ぎます﹂
金稼ぎにだけ専念すれば、
あるいは一年以内に溜まるかもしれない。
何かハプニングが起きないとも限らない。
マジックアイテム
うっかりサイフを落とすとかな。
﹁二つ目。
迷宮に入り、魔力結晶と魔力付与品を取ってくる。
苦労はありますが、一発で向こう岸に渡れる金額が手に入るかも
しれません﹂
魔力結晶は高く売れる。
具体的にいくらで売れるかはわからないが、関所で役人に渡せば、
スペルド族を渡らせる事ぐらいはしてくれるはずだ。
﹁迷宮! いいわね! 行きましょう!﹂
﹁だめだ﹂
迷宮案はルイジェルドに却下された。
﹁なんでよ!﹂
﹁迷宮は危険だ。罠は俺の目では見きれんものもある﹂
944
ルイジェルドの目は、生物は見分けられるが、
迷宮の作り出す罠には反応しないのだそうだ。
﹁行ってみたいのに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮提案しといてなんですが、僕は行きたくないです﹂
注意深く進めばなんとかなるかもしれないが、
足元のおろそかな俺の事だ、どこかで絶対に致命的なミスをする。
ここはルイジェルドの言葉に従っておくべきだ。
﹁三つ目。
この町のどこかにいる、密輸人を探す﹂
﹁密輸人? なんだそれは?﹂
﹁こうした国境では、物を運び入れる際に、税金が掛かります。
今回、払えと言われているのもそうしたものです。
恐らく、商人であれば、品物にも税金が掛かるでしょう﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁そうなのです﹂
でなければ、種族毎に値段が違うなど、あるものか。
﹁中には、すごい税金が掛かる代物もあるでしょう。
表立って運べない荷物を扱う相手のために、
税金より安く運んでくれる人がいるはずです﹂
まあいないかもしれんがね。
でも、そうした業者に話を付けられれば、
緑鉱銭200枚を払うより、遥かに安く運んでもらえるだろう。
関所の値段設定は明らかにおかしい。
945
ちょっとぐらいルール違反をしても、罰は当たらない⋮⋮。
いやいや、いかんいかん。
楽な方向に行けば罠がある。
ちゃんと学んだだろう。
一応選択肢の一つには入れてみたものの、
悪いことはなるべくしたくない。
とりあえず、パッと思いつくのはこの三つか。
・正当法で金を稼ぐ
・迷宮で一攫千金
・裏業者に頼む
どの選択肢もイマイチだな。
ああそうだ。
アクアハーティア
もう一つあったな。
俺の杖、﹃傲慢なる水竜王﹄を売るのだ。
損得は抜きにして、これはなるべく売りたくないんだよね。
せっかく誕生日にエリスにもらったものだ。
今日まで大切に使ってきた。
これを手放す事には、ルイジェルドもエリスも賛成しないだろう。
でも、これが一番いいのかもしれないな。
946
−−−
その夜、お告げがあった。
神は言った。
﹁露店で食料を買いこんで、一人で路地裏を探せ﹂
と。
仕方がないので、やってやることにした。
﹁仕方なくなのかい⋮⋮?﹂
いやもう、食い物、路地裏って点でイベントの内容もわかりまし
たんで。
﹁わかるのかい?﹂
どうせあれでしょ、お腹をすかせた迷子の子供とかいるんでしょ?
それが、なんか変な男に絡まれてるんでしょ?
﹁その通りだよ、すごいな!﹂
で、その子を助けると、実は造船ギルドの長の孫でしたー、とか
なるんでしょ?
﹁ふふふ、それは明日の、お・た・の・し・み﹂
947
なぁにが、おたのしみだ。
そんな楽しい展開は今まで一度も無かっただろうが。
ていうかよ、おいこら、一年ぶりだなおい。
もう二度と顔出さねえのかと思って安心してたぞ、コラ。
﹁いや∼、前の時は僕の助言で大変な事になったでしょ?
ちょっと顔を出しづらくってさ﹂
ハッ!
神様にもそういう所があるんすね。
でも勘違いすんなよ。
あれは俺が勝手にミスっただけだ。
でもちなみにどういう風にすれば正解だったか教えてください。
﹁正解と言われてもね。普通に衛兵に突き出せば、ルイジェルドと
仲良くなれたはずだよ﹂
え? あれってそんな簡単なイベントだったの?
﹁そうだよ。それを、彼らを仲間に引き入れて、ノコパラに目をつ
けられるとはね。
まったく予想外だった。僕としては見てて楽しかったけどね﹂
俺は全然楽しくなかったけどな。
﹁でも、おかげで一年ちょっとでここまで来れただろう?﹂
だから結果オーライだとでも?
948
﹁物事は結果が全てさ﹂
チッ。 気に入らねえな。
﹁そうかい?
ま、いいけどね。
それじゃあ⋮⋮君の機嫌も悪そうだし、僕は消えるよ﹂
ちょっとまて。
一つ確認しておきたいんだが。
﹁なんだい?﹂
もしかして、お前の助言って、
あまり難しく考えない方がうまくいくのか?
﹁僕としては、難しく考えてくれた方が面白いね﹂
あー、なるほどな!
そういうことか。
わかったよ。
宣言しておくぞ。
次回は面白くならない。
﹁ふふふ、それは楽しみだね﹂
だね⋮⋮だね⋮⋮だね⋮⋮。
エコーを聞きながら、俺の意識は沈んでいった。
949
第三十五話﹁すれ違い・前編﹂
人神の助言より翌日。
俺は両手に露店で購入した串焼きを抱え、路地裏をさまよってい
た。
手元にあるのは、全て串焼きだ。
ホタテっぽい貝の貝柱の串焼きと、アジっぽい魚の塩焼き。
あと、よくわからない魚介の串焼きが何本か。
露店で食い物を、と言われたが、特に指定は無かった。
ゆえに持ち運びしやすいものを優先的に購入した。
前回は考えすぎた。
素人が料理でアレンジを加えて失敗するが如く。
難しく考えすぎて、ドツボにはまった。
今回は、逆に素直に従ってみる。
言われるがまま、無心で食料を買い込み、
そして、路地裏にて起こりうるイベントを、素直に受ける。
無心だ。
これはロールプレイング。
これから起こるのは偶然の出来事。
難しく考えず、素直にこなすのだ。
奴は面白いものを好む。
俺が難しく考えることこそが、奴の狙いだ。
950
素直に従えば、奴は面白くない。
そう考えつつ、
数分ほどさまよってから、ふと気付いた。
﹁あれ? これってあいつの思惑通りじゃね?﹂
騙された、と思った。
奴の巧みな話術に乗せられて、俺は奴に思惑通りに動かされてい
る。
気づいてみれば、実にイラつく話だ。
手のひらの上で踊らされたのだ。
初心を思い出せ。
最初の邂逅の時の気持ちを。
あいつは絶対に信用しちゃいけない。
よし、奴の思い通りに動くのは、今回で最後だ。
今回は様子見で助言通りに行動するが、次は絶対に従わない。
もう、人神の言いなりになんかならないんだから、キリッ。
−−−
裏路地を練り歩く。
一人で、だ。
なぜ一人なのだろうか。
951
そこに、今回の助言のキモがあるのだろう。
ルイジェルドやエリスがいると困る展開。
深くは考えまい。
エロい展開だと嬉しい、それぐらいに思っておこう。
ルイジェルドとエリスには一日別行動を取ると伝えてある。
エリスは一人にすると危ないので、ルイジェルドに護衛を頼んだ。
今頃、二人で砂浜でも見に行っているかもしれない。
﹁あれ⋮⋮それってデートじゃね?﹂
俺の脳裏に、浜辺の岩陰へと消えていく二人の影が浮かんだ。
いやいやいやいや。
まさか。
お、おお、お、落ち着け。
あのエリスと、あのルイジェルドだぜ?
そんな色っぽい話じゃねえよ。
子守だよ子守。
ああ!
でもルイジェルドって強いからなぁ!
エリスはルイジェルドを尊敬してるっぽいし!
最近の俺ときたら、飼主扱いだし!
いやいや⋮⋮。
何焦ってんだよ。
フュー⋮⋮。
952
大丈夫だよね、ルイジェルドさん。
寝取られとかないですよね?
大丈夫ですよね⋮⋮?
帰ったら妙に二人の距離が近いとか、ないですよね?
し、信じてるんだからね!
⋮⋮⋮⋮とりあえず、俺はルイジェルドと戦う時のシミュレート
を始めた。
近接戦闘では勝ち目がない。
まず奴を始末したいのなら、奴の額の宝石の索敵範囲外に出るべ
きだ。
そして、奴を倒すには水だ。
奴は海水浴を邪魔した。
その報いを受けさせるためにも、水攻めだ。
大量の水を作り出し、そのままヤツを海まで流して、ジエンドだ。
死ぬまで漂流してもらうぜ。
ククク⋮⋮。
っと、勘違いしないでほしい。
ルイジェルドのことは信じている。
けれど、なんていうか。
ほら、あれだ。
恋は戦争って言うじゃない?
953
−−−
裏路地は静かなものだった。
普通、裏路地と聞くと、よからぬ輩がたむろしているイメージが
ある。
実際、俺のようなピュアでいたいけで純真無垢な子供が歩いてい
ると、すぐに人攫いに目をつけられる。
この世界では、人攫いは最もポピュラーかつ儲かる犯罪行為の一
つだ。
もし、俺を攫おうとしたら、
両手両足を潰してから家を聞き出し、
金目の物を全て頂いてから、官憲に突き出してやろう。
﹁ヘヘヘ、お嬢ちゃん、一緒にきたら腹いっぱい食わせてやるぜ﹂
路地裏からそんな声が聞こえた。
ひょいと覗いてみる。
人相の悪い男が、壁端で座り込む少女の手を引っ張っていた。
随分とわかりやすい構図だった。
先手必勝。
俺は杖を構え、プロボクサーのジャブぐらいの衝撃が出るように
速度を調整。
岩弾をやつの背中に向かって打ち込んだ。
この一年間で、こういう手加減は随分とうまくなった。
954
﹁いっでぇ!﹂
振り向いた所に、もう一発。
今度はもうちょっとだけ強め。
﹁がっ⋮⋮!﹂
パガンといい音がして、岩が男の顔面で砕け散った。
男はふらふらとよろめいて、ずるずると倒れた。
死んではいないな。
うまいこと手加減できたようだ。
﹁大丈夫かい、お嬢さん!﹂
できる限りサワヤカな顔を作りつつ、
連れ去られようとしていた少女に手を差し伸べる。
﹁お、おお⋮⋮﹂
黒いレザー系のきわどいファッションをした幼女だった。
膝まであるブーツ、レザーのホットパンツ、レザーのチューブト
ップ。
青白い肌に、鎖骨、寸胴、ヘソ、ふともも。
そして極めつけは、ボリュームのあるウェーブのかかった紫色の
髪と、山羊のような角。
一目見てわかった。
サキュバスだ。
しかも幼女だ。
間違いなく俺より年下だろう。
955
これはもしかすると、人神が頑張った俺へのご褒美なのかもしれ
ない。
あいつもたまには粋な事をするじゃないか。
⋮⋮いや、サキュバスは無い。
この世界において、サキュバスなる種族は魔物として認識されて
いる。
確か、ベガリット大陸に生息しているという話だ。
パウロが珍しくキリっとした顔で﹁オレたちの一族では奴らには
勝てん﹂と言っていたのを思い出す。
俺もきっと、実際にサキュバスと出会ったら、為す術もなくやら
れてしまうだろう。
サキュバスはグレイラット家の天敵なのだ。
ま、それはさておき。
町中に魔物はいない。
つまり、彼女はサキュバスではない。
ただのエロい格好をした魔族の子供だ。
﹁お、おおお⋮⋮き、貴様、なんということを⋮⋮!
なんということをしてくれたのじゃ!﹂
幼女はわなわなと震えていた。
﹁こ、この男は、この男はな⋮⋮!﹂
もう信じられない、という顔だった。
なんちゅうことを、なんちゅうことをしてくれはったんや、とい
う顔だ。
956
﹁あ、ごめん、知り合いだった?﹂
と、聞きつつも、俺は首をかしげる。
中年の方の顔は、知り合いの子供に話しかけるような感じではな
かった。
もうなんていうか、興奮したロリコン中年そのものという感じだ
った。
見ろ、この赤ら顔、気絶してもなおだらしない笑み。
これから幼女を家に持ち帰って、豪華な料理と暖かな寝床を提供
してやるけど、
その代わりに熱い夜を提供してもらうぜ、という感じだ。
﹁この男は、腹の空いた妾に、め、めしを⋮⋮﹂
どこからともなく、ギュゴルルルという音がした。
地鳴りのような音だった。
その音が鳴り終わると同時に、幼女は膝からがくりと崩れ落ちた。
﹁だ、大丈夫か?﹂
思わずしゃがみ込み、彼女を抱える。
幼女に触れる大義名分は、逃すものじゃない。
でも勘違いするなよ。
俺は人神の命令で彼女を助けにきたんだ。
さっきの中年親父とは違う。
﹁ぐ⋮⋮ううぅ⋮⋮復活してより300年。
よもやこんな所で倒れるとはな⋮⋮。
この事は、ラプラスには知られてはならんぞ⋮⋮﹂
957
なんか、変な小芝居が始まった。
もしかすると、この格好はなにかのコスプレなんだろうか。
﹁と、とりあえずコレを食べて気をしっかりもつんだ﹂
俺は用意してあった串焼きを、3本まとめて幼女の口にねじ込ん
だ。
﹁もぎゅもぎゅもぎゅ﹂
幼女は突っ込まれた瞬間、カッと目を見開き、
見開いたまま、またたく間に串焼きを食いきった。
そして、さらに俺の手に持つ串焼きを強奪。
串焼きは残り12本あったが、またたく間に10本が消えた。
﹁う、うおおお! うまい!
一年ぶりの飯はうまい!﹂
幼女が元気になった。
地面から背中だけの力でビョインと飛び上がり、
そのまま一回転して地面に立った。
意外と身体能力は高いらしい。
﹁助かった、助かったぞ! おぬし!
これであと一年は持つ!﹂
幼女はそこでようやく、俺と目があった。
紫と黒のオッドアイだった。
これも何かのコスプレだろうか。
958
いや、この世界にカラーコンタクトなど存在しない。
元々こういう目なのだろう。
﹁お?﹂
幼女の右目が、ぐるんと回った。
その瞬間、色彩が青へと変わる。
き、気持ち悪っ!
﹁うっわ! うっわ! なんじゃおまえ、すげぇ気持ち悪いのう!
なんじゃこれ、なーんじゃこれ! フハハ! こんなの初めて見
たぞ!﹂
幼女は俺の顔を見て、そんな事を言ってはしゃぎだした。
⋮⋮ええ、もちろんショックですよ?
顔を見て気持ち悪いって言われたのは、久しぶりですからね。
でも、俺も彼女のことを気持ち悪いと思ったし。
ここはイーブンとしておこう。
﹁あれか? 腹の中にいた時に双子で、生まれた時には片方死んで
いたとか、あったか?﹂
⋮⋮なんだ?
何を言ってるんだ?
﹁いえ、そういう事実はないと思いますよ﹂
﹁ほうか?﹂
﹁ええ﹂
959
﹁でもお前の魔力量⋮⋮ラプラスより上じゃぞ﹂
何が誰より上だって?
﹁まぁよい! 名を名乗れ!﹂
﹁⋮⋮ルーデウス・グレイラットです﹂
﹁よし! 妾はキシリカ・キシリス!
人呼んで、魔・界・大・帝!﹂
腰に手を当てて、股間を突き出すように胸を張った。
急に目の前に太ももが来たので、思わず舐めた。
臭い、だが、甘い!
﹁うひゃぁ! 何するんじゃい! キッタナイのう!﹂
幼女は内股になり、
なめられた所をゴシゴシと擦りながら、睨んできた。
でも、なるほどね。
魔界大帝キシリカ・キシリス。
その名前は俺も聞いたことがある。
人魔大戦で魔族を率いて戦い、あっさり大敗した不死身の魔帝だ。
本物だろうか。
俺は人神の助言でここにきた。
彼女が本物の魔界大帝である可能性はある。
しかし、本物の魔帝が、こんな魔大陸の端で、お腹をすかせて倒
れるだろうか。
⋮⋮いくらなんでも、それはない。
960
そうだ。
魔大陸の子供たちというのは、こうした過去の偉人のごっこ遊び
をよくする。
特に人気なのは、魔神ラプラスだ。
真実を知る俺としては胸糞の悪くなるような人物なのだが、奴は
人気者だ。
戦争に負けはしたものの、魔大陸を平定し、魔族に一定の地位を
与え、そして平和をもたらした。
魔族史上最高の偉人、そう言われている。
子供たちが真似をするのは、ラプラスの物語だ。
特に、不死身の魔王と戦う時のエピソードは、
ウェンポートに来るまでの間、何度も目にした。
魔界大帝キシリカも、偉人と言えば偉人である。
しかし、年代が古いせいか、ごっこ遊びをしている所は見たこと
がない。
この子はきっと魔界大帝の熱烈なファンだが、
一緒に遊んでくれる友達がいなくて、裏路地で一人でいたのだろ
う。
そう考えたほうがスマートだ。
ふむ。
一人ぼっちは寂しいよな。
しょうがないな、乗ってやるか。
﹁は、ははぁ! これは失礼を! 陛下!﹂
961
俺は大仰にかしこまり、片膝をついて臣下の礼を取った。
﹁お? おおおお! ええのうええのう!
そういう反応を待っとったんじゃ!
最近の若いもんは礼儀を知らんからのう!﹂
ウンウンと嬉しそうに頷くキシリカ。
うんうん。
そうだな、やっぱ遊んでくれる相手は欲しいよな。
﹁よもや復活なされているとは露知らず、無礼な態度を取ってしま
ったことをお許しください﹂
﹁よい。貴様は妾の命を救ってくれた。何でも一つ願いを言うがよ
い﹂
命ったって、腹減ってたのを食わせてやっただけじゃないっすか。
﹁えーと⋮⋮じゃあ、巨万の富を﹂
﹁馬鹿者! 見ての通りスカンピンじゃ!﹂
なんでもって言ったのに⋮⋮。
いや、そういう設定なのかな。
金をくれといったら、金がないと返すエピソードがあるのかもし
れない。
﹁⋮⋮じゃあ世界の半分をください﹂
﹁な! 世界の半分じゃと! それはでかいのう!
しかし、半端じゃのう。なぜ半分なのじゃ?﹂
﹁や、男はいりませんので﹂
962
おっといかん、つい本音が漏れてしまった。
幼女に聴かせる内容ではないな。
﹁そうか、なるほどのぅ、幼い癖に好色な奴だの。
しかし、すまん。実は妾も世界を獲ったことはないのじゃ⋮⋮﹂
まあ、キシリカが率いた戦争って全部魔族の負けだったしね。
﹁じゃあ、もう体でいいですよ。体で払ってください﹂
﹁おお? 体かぁ? その年でそこまで好色だと、将来が心配じゃ
な﹂
﹁はは、もちろんじょうだ⋮⋮﹂
冗談です、と言おうとしたら、キシリカがホットパンツに手を掛
けた。
﹁まったく、しょうがないのう。
此度の復活では初めてじゃからな、優しくするのじゃぞ?﹂
キシリカは頬を染めてホットパンツのボタンを外す。
え? マジで?
冗談のつもりだったんだけど。
いや、でも、いまさら冗談とはいえない空気。
ここはじっくりと幼女ストリップを鑑賞した後、
陛下の御身を抱くのは分不相応云々と、
やんわり断るのが筋というものだろう。
﹁おっと、いかん﹂
963
しかし、キリシカは、止まった。
止まるな、あと少しで見えそうなんだ。
﹁今回はもうフィアンセがいるのじゃった。
すまんが、こっちはやれん﹂
ずり下げられかけたホットパンツが引き上げられた。
男の純情が弄ばれた気分だ。
金もダメ、世界もダメ、体もダメ。
﹁⋮⋮じゃあなにがいけるんです?﹂
﹁馬鹿者、魔界大帝キシリカが下賜するものといえば、魔眼に決ま
っておろう!﹂
魔眼。
魔眼か。
そういうものなのか。
どうにもこの世界の英雄譚については疎いからな。
そういや、ギレーヌの眼も魔眼なんだったけか?
しかし、魔眼か。
﹁魔眼というと、相手の死の線が見えて、それを切ると確実に殺せ
るという⋮⋮﹂
﹁怖っ! なんじゃそれ! そんな怖いモン無いわい!﹂
無いらしい。
あと、俺が知っている魔眼と言えば、見た相手を石にするものぐ
らいだ。
964
ガン
ガン
眼からビームが出るビーム眼とか、
レーザーが出るレーザー眼とかは、
魔眼には含まれないだろう。
﹁そんな危ない物を欲しがるとは⋮⋮。
なんじゃ、おぬし、誰ぞ恨みでもあるのか?﹂
﹁いえ、別に﹂
﹁復讐は何も生まんぞ。妾も二度殺されておるが、
今は殺した相手を恨んでなどおらん。
人を恨めば、その恨みは連鎖する。
そうして起きたのが人魔大戦じゃからな﹂
幼女に説教されてしまった。
まあ、別にどこぞの吸血鬼を分断する気はないからいいんだけど
な。
﹁ていうか、魔眼についてはよく知らないんです。
どんなのがあるんですか?﹂
﹁ふむ。妾も復活したばかりで大した眼は持っておらぬが、
魔力眼、識別眼、透視眼、千里眼、予見眼、吸魔眼⋮⋮有名なの
はこのへんかのう﹂
名前だけ言われても。
﹁それぞれ説明してもらえますか?﹂
﹁うむ? 知らんのか? まったく最近の若いもんは不勉強でいか
んな⋮⋮﹂
と、言いつつもキシリカは丁寧に説明してくれた。
965
・魔力眼
魔力を直接見ることが出来る眼じゃ。
もっともポピュラーじゃな。1万人に1人ぐらいは持っておる。
・識別眼
眼でみると、その物体の詳細がわかる。
ただし、妾の知りうる事だけじゃ。妾のしらん事は知らんと出る。
・透視眼
眼で見ると、壁などを透視することが出来る。
生き物と、魔力の濃い部分は透視できん。
おなごの裸を見放題じゃな。好色なお主にはもってこいじゃ。
・千里眼
遠くを見ることが出来る。ピントを合わせるのが難しいがな。
見るだけで手出しできんから、あんまりオススメは出来んのう。
・予見眼
数瞬先の未来が見える眼じゃ。
これもピントを合わせるのが難しい。
けど、オススメじゃな。
・吸魔眼
魔力を吸う眼じゃ。自分の出した魔術も吸うから、オススメはで
きん。
キシリカは魔眼に詳しかった。
どこでこういうことを学んでくるのだろうか。
両親が詳しかったりするんだろうか。
966
もしかすると、魔眼大全みたいな本があるのかもしれない。
﹁じゃあ、2つもらって両方とも魔眼といきましょうか﹂
﹁いきなり二つって、おぬし、見かけによらず欲張りじゃのう⋮⋮﹂
﹁ほら、もう一本お肉を上げるよ﹂
最後の串2本を差し出すと、キシリカは満面の笑みでうけとった。
﹁わーい。⋮⋮もぐもぐ。しかし、二つやるのはええが、オススメ
はできんぞ﹂
﹁どうして?﹂
﹁普段から見えてると困るからの、普通は視界を塞ぐ眼帯をしてお
るのじゃ。
両方塞いでは活動できまい﹂
﹁あー、そういえば知り合いがしてましたね﹂
ギレーヌも付けていた。
やっぱり、ギレーヌのあれも魔眼だったんだろう。
﹁何百年も生きておる者は制御できるやもしれんが、
おぬしのような子供がいきなり2つも入れれば、頭が狂ってしま
うぞ﹂
頭が狂う⋮⋮か。
やはり、脳に負担がいくのだろうか。
怖いな。
﹁なら、二つはやめときましょう﹂
﹁それがよい。どうする? 妾のオススメは予見眼じゃが⋮⋮﹂
967
魔眼か、もし手に入るとするなら、どれがいいだろうか。
魔力眼はちょっともったいないな。
結構持ってる人がいるっていうし。
案外、見えると便利なのかもしれないけど。
識別眼も別にいらないな。
ものがわからなくて困ったりはしていない。
それに、魔界大帝の知らないことはわからないらしい。
肝心な所で使えないことが予想出来る。
透視も別にいらないな。
制御できるまで、ルイジェルドの全裸も眼に入ってしまいそうだ。
千里眼は、あれば便利かもしれない。
でも、今のところ欲しいと思ったことはない。
今すぐ貰えば、ルイジェルドとエリスの様子がわかると思うが、
どうせ、エリスが誰かと喧嘩して、ルイジェルドがそれを止める
という光景が見えるだけだろう。
予見眼は、なるほど、確かにオススメだろう。
現在、俺は近接戦闘でエリスにもルイジェルドにも勝てない。
この世界の生き物は速いからな。
一瞬先が見える、というのは俺にとって大きなアドバンテージに
なる。
吸魔眼は論外だ。
魔術師である自分のアドバンテージを殺す事になる。
でも、こうした魔眼があるのは覚えておいてよかった。
いきなり全能力を無効化されて慌てるハメになる所だった。
968
真面目に考えてみたけど、どれも使い方次第だろう。
まあ、なんでもいいさ。
どうせごっこ遊びだ。
﹁じゃあ、オススメで﹂
﹁ええのか? いままで妾が薦めても、ほとんどの奴が違うのにし
たぞ。
そんなちょっと先の事が見えて何になるのかってのぉ﹂
﹁1秒先が見えれば、世界を制することだってできますよ﹂
とはいえ、この世界の剣士は速い。
一秒先が見えても、勝てないかもしれない。
光の太刀とかあるしな。
﹁透視眼じゃなくてええのか? おなごの裸を見放題じゃぞ?﹂
わかってないな、この幼女は。
確かに、道行く美女・美少女が裸に見えるなら、興奮するだろう。
しかし、それだけだ。
すぐに飽きる。
ああいうのは、脱がす過程や、脱いだ所を想像するのも楽しむも
のだ。
服の上に浮かび出るポッチは、服を着ていなければ楽しむ事がで
きないんだぜ?
﹁ほうかほうか、んじゃちょいと顔かせ﹂
﹁はい﹂
﹁ほれ、ずぶしゅー﹂
969
キシリカはいきなり俺の右目に指を突っ込んだ。
激痛が走った。
﹁ぐギアぁぁぁぁあああ!!!!!﹂
思わず後ろへと逃げようとする。
だが、キシリカに髪を掴まれ、逃げられない。
意外と力強い。
痛い痛い痛い痛い!
﹁がぁああぁぁ! な、なにしやがるこのガキ!﹂
﹁うるさいのう、男の子じゃろ、ちっとは我慢しろ﹂
彼女はグリグリと眼窩をいじくり。
しばらくして、ズボッと抜いた。
確実に失明した。
﹁予見眼の色はおぬしの色彩とはちと違うが、遠目にはわからんじ
ゃろ﹂
﹁馬鹿野郎! 遊びでもやっていい事と悪いことがあるんだぞ!﹂
﹁妾は魔界大帝じゃぞ、遊びで魔眼をやるなどとは言わんわ﹂
ちくしょう、俺の眼が、眼がぁ⋮⋮。
ああぁぁぁぁ⋮⋮⋮あれ?
見える。
ものが二重になって見える⋮⋮?
なんだこれ、気持ち悪い。
﹁魔力の込め方次第では、限りなく薄くしたりすることも出来るは
970
ずじゃ。
ま、精々頑張って修行することじゃな﹂
﹁あ? え? どういうこと﹂
﹁お前次第という事じゃ﹂
混乱する俺を、キシリカは満足気に見ていた。
頷く動作に残像が残る。
しかし、残像というには、影の方も濃い。
なんだこれは、気持ち悪い。
﹁よしよし、ちゃんと見えておるな。
では、妾はそろそろ行くぞ。バーディガーディを探さねばならん。
飯の件、大義であった﹂
キシリカはそう言って、トンと屋根の上まで飛び上がった。
﹁では、サラバじゃルーデウスよ! また困った事があれば妾を頼
るがよい!
ファーハハハハハ! ファーハハハ! ファーハハアアフアガホ
ゲホ⋮⋮﹂
ドップラー効果を残して、高笑いが遠ざかっていく。
俺はそれを、ただ呆然と聞いていた。
え?
⋮⋮本物?
こうして、俺は﹃予見眼﹄を手に入れた。
971
−−− 中年親父視点 −−−
﹁うう、頭がいてえ﹂
昨日は飲み過ぎた。
長い仕事が一段落して、仲間内で宴会をやった。
朝まで飲んだ。
店の酒がなくなるんじゃないかってぐらい、飲んだ。
そして、記憶が無い。
どうにも、店を出たあたりからの記憶が曖昧だ。
たしか、近道をするために裏道を通って⋮⋮。
そうだ。
そこに小さな女の子が座り込んでいたのだ。
話してみると、腹が減っているという。
気分のよかった俺は彼女を家に誘った。
家内が朝飯を用意しているはずだった。
生憎と俺はまだ酔いが残っていて食べられない。
家内は料理を残すと怒る。
この少女の腹を一杯にさせ、家内も怒らない。
酔っ払った頭でも名案だと思った。
うん、そこから記憶がない。
どうやら酔いつぶれてしまったらしい。
サイフは⋮⋮無事だった。
身ぐるみも剥がれていない。
空を見ると、太陽はまだ高い位置にある。
972
まあ、俺はこの町では顔だからな。
この強面を見て、俺を俺だと気づかない奴はこの町にはいない。
それに、昨日、新しい船が完成したって事は、
町に住む連中なら誰だって知っているはずだ。
もちろん、就航祝いに打ち上げを行ったことも。
きっと、気持ちよさそうに眠る俺を、そっとしておいてくれたの
だ。
﹁って、もう昼じゃねえか。
あーぁ、こりゃお冠だな⋮⋮﹂
造船ギルド長バッカス・ランダースは、二日酔いで痛む頭を抑え
つつ、家路を急いだ。
973
第三十六話﹁すれ違い・後編﹂
魔眼。
いきなりこんなものをもらって、普通なら驚く所だろう。
なぜか魔界大帝があんな所にいて、
なぜか俺にこんなものをくれた。
ご都合主義な展開で、ちょっと俺の頭も追いついていない。
だが、俺は神のお告げで動いた。
この展開は奴の思惑通りというわけだ。
そう思うと、今すぐえぐりだして踏み潰したい。
痛そうだし、怖いからやらないが。
とりあえず帰路につこうとして、
俺は自分の甘さを呪った。
町を歩く人物が二重に見えるのだ。
俺は目測を誤って、何度か人とぶつかった。
二度ほど難癖を付けられて、二度ほど平謝りをした。
そして二度ほど喧嘩になった。
喧嘩には勝ったが、意味のない争いだ。
こうした喧嘩は極力少なくしたい。
早急に使いこなせるようにしておかなければならない。
というより、使いこなせないと、旅を続けることもできない。
974
−−−
宿に戻ってきた。
魔界大帝に会った!
という事を話すと、二人は大層驚いた。
﹁魔界大帝か、復活していたとはな﹂
ルイジェルドが驚く所を見るのは、結構珍しい。
﹁まさか、いきなり魔眼がもらえるとは思ってもみませんでした﹂
﹁魔眼を与えるのは魔界大帝の能力だ﹂
魔界大帝キシリカ・キシリス。
復活の魔帝。
またの名を、魔眼の魔帝。
その戦闘力は大したことは無いが、
12個の魔眼を体内に隠し持ち、
あらゆるものを見透かす事ができるという。
中でも最も恐ろしいのは、その他者の眼を魔眼へと変える能力だ。
これのおかげで、キシリカは配下全てを魔眼持ちにし、
魔族を統べる程の力を手に入れることが出来た。
強くなりたいがためだけに、キシリカの配下に加わる魔族もいた
ぐらいだ。
﹁なんでこの町にいたんでしょうね﹂
975
﹁さてな。魔王や魔帝の考える事など、俺にわかるものか﹂
ルイジェルドはそう言って肩をすくめた。
そうだな、お前は長年仕えた魔神の真意もわかんなかったんだも
んな。
と、言うとマジ凹みしそうだから口には出さない。
エリスはというと、魔界大帝という単語に眼を輝かせていた。
﹁すごいわね。私も会ってみたい!﹂ ﹁会ってみたいですか?﹂
エリスとキシリカ。
二人を合わせるとどんな会話をするんだろうか。
俺もちょっと興味がある。
案外、馬が合うんじゃないだろうか。
﹁まだ町にいるかな?﹂
﹁どうでしょうね⋮⋮﹂
案外、明日あたりまた路地裏にいけば、お腹をすかせて倒れてい
るかもしれない。
そういう天丼ネタをやりそうな雰囲気はあった。
⋮⋮いや、さすがに無いだろう。
なんか、誰かを探している感じだったし。
きっと、旅だったのだろう。
円環の理か何かに導かれて。
﹁さすがに、もう町にはいないでしょうね﹂
976
﹁そう、残念ね﹂
と、言いつつも、
エリスは明日にでも路地裏を見に行くだろう。
﹁そんな感じなので、僕は引きこもります。
二人は自由に行動していてください﹂
二人はそれぞれ頷いた。
−−−
魔眼の制御には、一週間掛かった。
結論から言うと、それほど難しくなかった。
魔力で魔眼を制御する。
それは無詠唱で魔術を使う時によく似ている。
今まで何度もやってきたことだ。
魔力で、見え方を、作るのだ。
最初は戸惑ったが、
ピントが二つあるという事に気づいてからは早かった。
一つは濃さ。
エロゲの会話ウィンドウみたいな感じだ。
最初は濃さがMAXで、あらゆるものが二重に見える。
これはできる限り、薄くする。
977
目の奥のほうの魔力を絞ると、未来が薄くなり、今が見えてくる。
普段から見えておいた方が便利そうなので、気にならない程度ま
で薄くなったら、そこでストップ。
この状態を維持する。
少し気を抜くと、濃淡が変化する。
安定するまで三日。
もう一つの長さ、あるいは遠さか。
見える未来の距離。
目の先のほうに魔力を込めることで調節することができた。
結果、最長で約1秒という事が判明した。
無論、魔力を込めれば2秒以上先の未来も見える。
見えるが、ブレる。
二つとか三つにブレて見える。
未来は常に変化しているという事だろう。
3秒、4秒と魔力を込める事で未来が見えたが、
5秒も未来にすると、何重にもブレて頭痛がした。
それだけ、未来の数は多いということだ。
そして、あまり遠い未来にピントを合わせようとすると、脳に負
担が掛かるらしい。
キシリカも魔眼を二つ手に入れると廃人になるような事を言って
いた。
もしかすると、彼女があんなアッパラパーなのも、魔眼の影響か
もしれない。
何はともあれ、安全に使えるのは1秒だ。
それがわかるのに、また三日。
978
二つを同時に調整できるようになるまで、さらに一日。
計一週間。
俺は予見眼を使いこなす事に成功した。
−−−
さて、
俺が眼に力を入れて﹁静まれ、俺の予見眼!﹂とか言っている間。
エリスとルイジェルドは毎日二人してどこかに出かけていた。
エリスは毎日、汗だくで、
ルイジェルドはいつも通りの済ました顔で、
しかし、ちょっとだけ汗をかいて帰ってきた。
二人して、汗を流すようなことをやっているのだ。
それも、毎日!
﹁あの、参考までに聞きたいんですけど、
二人は何をしてるんですかね?﹂
すると、エリスはよく絞った布で汗を拭きながら、
﹁ふふん、ナイショよ!﹂
と答えた。
実に嬉しそうな顔だった。
979
ナイショでナイショな事をしてるんだろうか。
ナイスショットでホールインワンなのだろうか。
俺には、このエリスの汗の染み込んだ布をクンカクンカするしか
ないのだろうか。
いや、別に不安には思ってないけどな。
どうせ、どこかで二人して特訓でもしているのだろう。
ああ見えて、エリスは影で努力する子だ。
フィットア領にいた頃も、休日にはちょくちょくギレーヌと訓練
をしていた。
何をしているのかと聞くと、今回のようにドヤ顔で﹁ナイショ!﹂
と答えたものだ。
なら、今回も、それだろう。
その夜、 34歳ぐらいのニートっぽい奴が俺の頬をツンツンとつつきなが
ら耳元で、﹁お前の二つ名は今日から負・け・犬﹂と言う夢を見た。
多分、人神の仕業だと思う。
あいつはロクなことをしないな。
−−−
一週間後、魔眼の調節ができたと報告。
するとルイジェルドに﹁なら、エリスと手合わせをしてみろ﹂と
提案された。
980
戦闘でどれだけ使えるのか確認するのか。
それとも、特訓の成果を見るのか。
どちらもこなせて二度美味しい。
俺は二つ返事で了承した。
砂浜に移動。
ルイジェルドの立ち会いの元、そこらで拾った木の棒を持って向
かい合う。
﹁魔眼なんて手に入れたからって、私に勝てるかしらね!﹂
今日のエリスはいつにもまして自信満々だった。
きっと、この一週間で何かを掴んだのだろう。
このドヤ顔、守りたい。
﹁負けてもいいんですよ。戦闘中にどれだけ見えるのか、知ってお
きたいだけですから﹂
今日は魔術は抜きだ。
1秒先を見えるように設定した魔眼だけで戦ってみる。
﹁ふぅん、ルーデウスらしい言葉だけど⋮⋮﹂
エリスの言葉の途中で、ビジョンが見えた。
<エリスが突然、左拳で殴り掛かってくる>
予見眼がなければ、反応できなかっただろう。
彼女は、こと先制攻撃に関しては、天性の才能を持っている。
981
﹁ハァッ!﹂
﹁ほい﹂
よく見極めてから、カウンターでエリスの顔を横からぶっ叩いた。
次のビジョン。
<エリスが怯まず連続攻撃を仕掛けてくる、右手の棒>
これがエリスの強い部分だ。
どれだけ攻撃を受けても、決して怯まずに次の攻撃を仕掛けてく
る。
足腰もしっかりしているため、多少の攻撃ではぐらつかず、
むしろダメージを受ければ受けるほど、怒りのボルテージが上が
り、攻撃性が増す。
﹁たぁっ!﹂
﹁はいさ﹂
強めに小手を打つ。
エリスは木の棒を取り落とした。
いつもの俺なら、ここで勝負ありかな、と思うかもしれない。
少なくとも、ギレーヌの元で修行していた頃は、剣を落とした時
点で負けだった。
だが、ビジョンではそうなっていない。
<エリスはすでに次の予備動作に入っている>
つまり、これはフェイントの一種だ。
剣を落として、俺の油断を誘ったのだ。
982
<俺の顎先に左拳でパンチ>
エリス得意のボレアスパンチ。
わざと剣を落とし、
油断を突き、
いつもの肉弾戦連携に持っていくのだ。
﹁⋮⋮⋮っ!﹂
﹁足元がお留守ですよ﹂
出足を払って転ばせた。
拳は空を切り、エリスは地面へと倒れていく。
だが、まだ諦めないらしい。
<地面に手を付き、反動と遠心力を使って、仰向けになりながら
俺の右足に噛み付く>
﹁おっと﹂
俺は足を下げると同時に膝を落とし、
エリスの上に乗っかるように、動きを封じた。
無理な体勢から噛み付こうとしたエリスの体は捻れた。
片腕は自分の下に、片足は折りたたまれて尻の下に入っている。
コレ以上なにをするのか⋮⋮。
と思っていると、じたばた暴れるだけのようだ。
﹁そこまでだ﹂
983
審判の声が上がる。
エリスがぐたっと力を抜いた。
勝った⋮⋮。
勝ったのか。
初めて、近接戦でエリスに勝ったのだ。
魔術無しで。
﹁完敗ね⋮⋮﹂
エリスは、珍しく清々しそうな顔で俺を見上げていた。
足をどける。
エリスはゆっくりと立ち上がり、パパッと土埃を払った。
<殴り掛かってくる>
パシッと拳を受け止める。
すると、エリスの顔がみるみる不機嫌になった。
﹁⋮⋮帰る!﹂
エリスは大音声でそう言うと、
そのまま、肩を震わせて宿へと戻っていった。
怒らせてしまったか⋮⋮?
いや、違うな。
自信を喪失させてしまったのかもしれない。
今まで簡単に勝てていた相手。
それが急に強くなった。
俺だったら嫉妬してしまうだろう。
984
﹁エリスはまだ子供だ﹂
ルイジェルドがエリスを見送って、そう言った。
﹁歳相応でしょう﹂
そう言うと、ルイジェルドは振り返った。
俺の眼を見て、頷く。
﹁うまい連携だったな﹂
﹁魔眼があれば、誰だってできますよ﹂
多少は鍛えていたというのもあるが、
この世界には俺程度の身体能力を持つ人物は大勢いる。
魔眼さえ手に入れば、あのぐらいはできるはずだ。
﹁魔眼というものは、渡されてすぐに使いこなせるものではない﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁かつて、スペルド族の戦士団にも魔眼持ちがいたが、
常に眼帯を付けていた。死ぬまで制御出来なかった。
一週間で制御できたお前は異常だ﹂
そうか。
そうかね。
そうかそうか。
まあ、俺も魔力制御に関しては結構頑張ってるからね。
一週間で使いこなしちゃいましたからね。
そっかそっか、俺ぐらい早く制御できた人はいませんか。
んふふ。
985
﹁もしかして、今ならルイジェルドさんにも勝てたりして﹂
﹁魔術を使えばな﹂
﹁接近戦では?﹂
﹁やってみるか?﹂
その誘いに、俺は乗った。
はっきり言おう。
調子に乗っていた。
﹁お願いします﹂
ルイジェルドが槍を脇に置くと、徒手空拳で構えた。
野良犬相手に表道具は用いぬということか。
﹁なんだったら、お前は魔術を使ってもいいぞ﹂
﹁いえ⋮⋮せっかくなので素手で﹂
言い終わる前に、ビジョンが見えた。
<ルイジェルドの掌底が俺の目の前に向かって放たれる>
見える。
ルイジェルドの動きも見える。
対処できる。
﹁おっと!﹂
その拳を受け止めようと、手を伸ばす。
986
<俺の手が掴まれる>
・・
ビジョンが見えて、思わず手を引っ込める。
その瞬間、ビジョンがブレた。
<ルイジェルドの拳が俺の顔を捉える>
ビジョンが浮かぶ。
二つの未来。
腕を掴むルイジェルド、顔面に拳撃を打ち込むルイジェルド。
ほぼ重なり、しかし少しだけズレた未来。
なぜだ。
1秒だとブレないはずなのに。
と、疑問に思う時間も1秒だ。
﹁うおぉっと!﹂
体を逸らしてなんとか回避する。
<ルイジェルドの拳が俺の顔面に向かって放たれる>
その拳撃は見えていた。
はっきりと、見えていた。
だが、俺は体勢を崩していた。
ルイジェルドの次の行動が見えていても、
回避行動に移る事ができなかった。
﹁ぶげっ!﹂
987
ルイジェルドの拳は俺の鼻先を捉え⋮⋮撃ちぬいた。
俺は後頭部から砂浜に倒れ、そのまま一回転。うつ伏せに倒れた。
顔が陥没したかと思った。
触って顔を確認。
大丈夫だろうか。
わたくちの美しい顔は修羅場ってないだろうか。
俺は給食当番の五歳児みたいになっていないだろうか。
﹁終わりか?﹂
聞かれ、俺は敗北を悟る。
﹁はい、参りました﹂
最初にビジョンが見えた時は勝てるかと思ったが、
そうそううまくはできていないらしい。
﹁しかし、これでわかっただろう?﹂
ルイジェルドは俺に手を差し伸べる。
俺はそれを掴み、起こしてもらう。
﹁わかりません。いきなり未来がブレました。
何をしたんですか?﹂
﹁お前が何を見たのかは知らんが⋮⋮。
お前が手で防御すれば掴み、出さなかったら殴る。
俺が考えたのは、それだけだ﹂
ふむ。
988
つまり、こういう事か。
俺の動きが予測されていれば、対処される。
地力に差があるから、一秒先が見えても意味がない。
将棋で言うなれば、
相手の次の一手が見えたからといって、
素人が名人には勝てる道理は無い、といった所か。
この世界の住人は、異常に能力が高い。
ルイジェルドと同じような動きができる奴も多いだろう。
﹁もっとも、俺は前に同じ魔眼を相手に戦った事がある。
それ以来、常にそれを想定した戦い方をしている。経験の差だ﹂
﹁そうですかね﹂
ルイジェルドは経験で魔眼に対処した。
もしかすると、この世界の剣術とかは、
魔眼への対処法、対抗する技があるかもしれない。
例えば、剣神流の﹃光の太刀﹄なんて、見えても回避できる気が
しない。
﹁ちょっと、調子に乗っていたみたいですね﹂
それに、魔眼の弱点というのは古来から決まっている。
例えば、眼を塞ぐとか、鏡の盾を使うとか、
後ろから攻撃するとか、暗闇の中で戦うとか。
だが、それらを差し引いても、
やはり魔眼の力は魅力的だ。
あのエリスに勝ったんだからな。
989
これからの魔眼の使い道を考えると、心が踊る。
エリスの動きは完全に見えていた。
今まで見えなかった動きが見えていた。
つまり、もっと応用すれば、ルイジェルドの動きだって見えるは
ずだ。
と、そこで俺の中にハゲでグラサンな仙人がポンと現れた。
﹃ようやく殴られずに成長を確かめることができるのう!﹄
なるほど。
ありがとうおっぱい仙人。
うむ。
これからの魔眼の使い道を考えると、胸が踊るな!
−−−
鼻の下を伸ばして宿に戻ると、
エリスがベッドの上で足を抱えていた。
そうだ、忘れてた。
彼女は落ち込んでたんだった。
とりあえず、俺の中の仙人は亀に乗ってどこかに消えた。
﹁あの、エリスさん?﹂
﹁なによ?﹂
990
エリスの声音はいつも通りだった。
あの後、ルイジェルドから、二人がこの一週間、何をしていたの
か聞いた。
やはり特訓だったらしい。
もちろん、エッチな特訓ではない。
強くなるため、丸一日を剣の修行に費やしていたのだ。
そして、エリスはルイジェルドから一本取る事に成功したらしい。
ルイジェルドから一本。
並ではない。
俺では一生取れそうもない。
ルイジェルド曰く、
それでちょっとテングになりかけていたので、
俺を使って頭を冷やさせた、という事らしい。
なんてことだ。
あの戦士気取りのロリコン野郎は、
自分のミスを俺に尻拭いをさせたのだ。
だが、結果は抜群だったようだ。
普段負けているルイジェルドから一本取って長く伸びた鼻は、
普段勝っている俺に完敗することで、容赦なく叩き折られた。
しかし。
しかしだ、しかしなのだ。
それはあまり良くないのだ。
﹃ちょっと掴めてきたかな?﹄
991
・・・・・・
と思った時にわからされた時の感じは、俺もよく知っている。
今までやってきた事が否定される、やるせない気持ちになるのだ。
確かに頭は冷えるかもしれない。
大きな失敗はしないかもしれない。
でも、エリスは多分、今が伸び盛りだ。
そうやって頭を押さえつけるようなのはよくないと思う。
どんどん調子に乗らせて、どんどん伸ばすべきなのだ。
そして、伸びきった所で悪い点を指摘して修正するのだ。
﹁エリスはちゃんと強くなっています﹂
﹁別にいいわよ。慰めてくれなくても。
ルーデウスに勝てないことぐらい、最初からわかってたもん﹂
つんと唇を尖らせて拗ねるエリス。
うーん、なんて声をかければいいんだ。
こういう時のセリフのストックが無い。
ルイジェルドは部屋に戻ってこない。
アイツが伸ばした鼻なんだから、アイツがなんとかしろと思う。
俺が折った鼻だけどさ。
だが、ここでうまく慰められれば、好感度アップ間違いなしだ。
エリスは俺に首ったけになって、メロメロダンスで大人のチーク
タイムだ。
ルイジェルドも、きっとそういうアレを想定して、二人ッきりに
してくれたのだ。
﹁自信をなくさないでください。
992
ルイジェルドから一本取ったって聞きましたよ。
凄いことじゃないですか﹂
そう言いながら、隣に座る。
すると、エリスは俺に体重を預けてきた。
ふわりと、汗の匂いが香った。
いい匂いだ。
だがまだ我慢。ここは紳士的に⋮⋮。
﹁ルーデウスは、ズルいわよ。
一人で魔眼なんて手に入れて、
私は一生懸命頑張ったのに⋮⋮﹂
俺は硬直した。
一瞬で頭が冷めた。
俺の中の狼が尻尾を巻いて逃げた。
何も言い返す事ができなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は、何を浮かれていたんだろうか。
そうだ。
ズル。
ズルいのだ。
魔眼は、決して俺が努力して手に入れた力ではない。
降って湧いたように手に入れたものだ。
993
俺がやったのは、食料を買い込んで裏路地を歩いただけなのだ。
確かに、その後、調整には一週間掛かった。
だが、それだけだ、何の苦労もしていない。
それで、
そんな力で、
一週間、汗だくになって努力してきたエリスに勝って、
何を嬉しがっているんだ。
﹁すいません﹂
﹁謝らないでよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それ以降、エリスはずっと黙っていた。
けど、決して俺から離れようとはしなかった。
普段なら俺なら、エリスの体温や匂いにドキドキする。
けど、そんな気持ちにはならなかった。
ただ、バツの悪さだけを感じていた。
エリスの高い体温と汗くささが、俺を批難しているように感じた。
重い空気の中、
魔眼は、いざという時以外は使わない方がいい。
そう決めた。
こういう便利な道具は、俺の成長を妨げる。
そうだ。
994
ルイジェルドとの戦いでも分かったじゃないか。
大切なのは、魔眼の使い道を考える事じゃない。
俺自身の戦闘力を上げることだ。
魔眼を使えば、確かに俺は強くなるだろう。
だが、きっといつかは頭打ちになる。
道具に頼ったやり方では、いつか手痛いしっぺ返しをくらう。
危ない。
あやうく人神とかいう邪神の奸計に乗る所だった。
奴は俺を堕落させようとしているに違いない。
これ
魔眼は、切り札。
そう考えるようにしよう。
−−−
その夜、俺は一人、考える。
結局、海を渡る方法は手に入らなかった。
どこかでミスをしたのだろうか。
今回はスムーズだったと思うのだが。
手に入ったものは魔眼だけだ。
これで何かをするのだろうか。
例えば、ギャンブルとか。
とはいえ、魔大陸にギャンブルという娯楽は存在していない。
995
せいぜい、喧嘩する二人のどっちに賭けるか、といったものだ。
これで稼ぐのはあまりおいしくない。
ルイジェルドを剣闘士役として出し、参加費鉄銭1枚、賞金緑鉱
銭5枚。
なんてやるのもいいかもしれないが、どうせすぐに相手がいなく
なる。
うーむ。考えてもわからない。
ただわかるのは、人神に助言をもらう前に戻ったって事だ。
ある意味、一週間を無駄にしたとも言える。
一週間も、無駄にしたのだ。
﹁よし⋮⋮売るか﹂
口に出してみると、決意はあっさりできた。
丁度いいことに、今夜はルイジェルドがいない。
エリスはベッドの端でヘソを出して寝ている。
風邪を引いてはこまるので、毛布を掛けてやる。
止める者はいない。
この時間でも、裏路地の質屋は開いているだろう。
いかがわしいモノを扱う店は夜に開くものなのだ。
俺は杖を片手に宿を出た。
宿を出て三歩。
﹁こんな夜更けにどこにいく?﹂
ルイジェルドが立ちふさがった。
996
宿にいないから、どこか遠くに行ったと思ったが、
そうでもなかったらしい。
しまったな、こいつ、出歯亀する気だったのか。
なんとかごまかさないとな⋮⋮。
﹁えっと、ちょっとエッチなお店に火遊びに﹂
﹁女を抱くのに杖が必要なのか?﹂
﹁えっと⋮⋮魔術師プレイをするので﹂
沈黙。
さすがに無理があったか。
﹁売るつもりか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
見事に言い当てられて、俺はさっさと白状した。
﹁もう一度聞くぞ。お前は、杖を売るのか?﹂
﹁はい。この杖は材質がいいので、高く売れます﹂
﹁そういう事を言っているのではない。
お前にとってその杖は、大切なものではないのか?
このペンダントと同じく﹂
ルイジェルドは、胸元からロキシーのペンダントを取り出した。
﹁はい、同じぐらい大切です﹂
﹁ならば、もし同じ事があれば、このペンダントも売るのか?﹂
﹁⋮⋮必要とあらば﹂
ルイジェルドは深く息を吸った。
997
叫ぶのだろうか。
子供以外の事ではあまり声を荒げない男だが⋮⋮。
﹁俺は、例え追い詰められても、槍は手放さん﹂
叫びはしなかった。
ただ、ため息のように言っただけだ。
﹁それは、息子さんの形見だからでしょう?﹂
﹁違う。戦士の魂だからだ﹂
戦士の魂か。
言うことは立派だが、それで海は渡れない。
ルイジェルドの目には、悲しみがあった。
﹁お前は前に、三つの選択肢を出した﹂
﹁出しましたね﹂
﹁その中には、杖を売るという選択肢はなかったはずだ﹂
﹁ありませんね﹂
嘘をついた事を咎められているのだろうか。
いや、嘘をついたつもりはない。
杖を売るのも正当法の一つだ。
﹁俺はまだ、お前の信頼を得ていないのか?﹂ ﹁信頼? していますよ﹂
﹁ならば、なぜ相談しない﹂
その問いに、俺は眼を逸らした。
998
反対されるとわかっていた。
だから相談しなかった。
つまりそれは、信頼していない事の証拠とも言える。
﹁俺とて、この一年で今の世の中の事は知ったつもりだ。
依頼を受けても、迷宮に潜っても、
緑鉱銭200枚などという大金は、到底溜まらん﹂
今日のルイジェルドは珍しく現実的な物言いをしているな。
何か変なものでも食べたかな?
﹁お前はそれをわかっている。
ゆえに、密輸人という選択肢を考えついた。
俺には思いつきもしなかった。
だが、俺がミリスに渡る方法は、それしかない。
それで正解だ。なぜ杖を売ろうとする﹂
俺が思いつくのは、いつだってベターな選択肢だけだ。
全てを完璧にこなせるベストな選択肢は難しすぎて失敗する。
だから、正解なんてものは、いつだってわからない。
密輸人が正解だなんて、思っていない。
﹁例え正解でも、パーティに亀裂が入ったら、何の意味もありませ
ん﹂
﹁つまりお前は、密輸人を頼ると、パーティに亀裂が入ると思って
いるわけだな﹂
﹁ええ。密輸人は、ルイジェルドさんの価値観で言う所の、悪党で
すからね﹂
密輸。
999
その運ぶ物のリストには、奴隷なんかも含まれるだろう。
そして、この世界の最もポピュラーな悪事と言えば、人攫い。
子供は攫いやすい。
つまり、密輸人は子供を攫って売る誘拐犯の片棒を担いでいる。
﹁ルーデウス﹂
﹁はい﹂
﹁今回は、俺のせいでこんな事になっている。
お前たちだけなら、緑鉱銭200枚などという大金で頭を悩ませ
ずにすんだ﹂
その代わり、ここにくる途中で何かハプニングに合ったかもしれ
ない。
ルイジェルドに助けられたことはいっぱいあるのだから。
﹁それを、お前が杖を売ることで解決するのは、俺の誇りが許さん﹂
誇りが許さんと言われてもな。
﹁杖を売る、金が手に入る。規定の料金で海を渡る。
誰も後悔しない。誰も何も我慢しなくて済む、
一番スマートなやり方じゃないですか﹂
﹁お前に杖を売らせてしまった俺の不甲斐ない気持ちが残る。
エリスとて、気にするだろう。
それがお前の言う、パーティの亀裂ではないのか?﹂
俺は押し黙る。
ルイジェルドは俺の眼を見た。
まっすぐな瞳だった。
1000
﹁密輸人を探せ。俺は全ての悪事に眼を瞑ろう﹂
真剣な顔だ。
恐らく、彼は今、途中で子供が捕まっていても見殺しにする覚悟
を決めている。
俺が杖を売らないために、だ。
俺のためにだ。
俺のために主義主張を曲げてくれているのだ。
そこまで強い覚悟があるのなら、俺も何も言うまい。
﹁もし、途中で我慢できないゲス野郎を見つけたら言ってください。
子供を助けるぐらいの余裕は、あるはずですから﹂
ルイジェルドがその気なら、スマートはやめだ。
密輸人を頼り、海を渡る。
けど、今回は迎合しない。
ルイジェルドが我慢できなくなったら、容赦なく裏切って助ける。
悪党なんて利用するだけして、ポイだ。
﹁じゃあ、密輸人を探す方向でいきましょう﹂
﹁ああ、それでいい﹂
﹁色々と不愉快な思いをさせることになると思いますが、よろしく
おねがいします﹂
﹁それはお互い様だ﹂
俺はルイジェルドと硬く握手をかわした。
1001
こうして、俺はエリスを出し抜き、恋の戦争に勝利したのであっ
た。
いや、冗談だけどな。
−−−
もちろん、翌日にはエリスにも説明しました。
すると、大層驚かれた。
﹁えっ? だって、路地裏にいったのも、そういう人と話を付ける
ためだったんでしょ?﹂
すでに彼女の中では、密輸人を探すと思っていたらしい。
というか、その事に関して、
特訓の最中、ルイジェルドを説得してくれていたらしい。
かなわないな。
さて、それじゃ。
パーティが一丸となった所で、密輸人を探すとしますか。
1002
間話﹁すれ違い・番外編﹂
ロキシー・ミグルディアは船旅を終え、魔大陸の港町ウェンポー
トへと降り立った。
ロキシーはその途端、足を止めた。
ウェンポートは、ミリス北端にあるザントポートとよく似た町並
みである。
初めて訪れた者でも、ある種の既視感を覚えるだろう。
だが、ロキシーが足を止めたのは、既視感からではない。
ミリス大陸とは明らかに違う空気。
それを感じとったのだ。
︵懐かしい⋮⋮︶
胸の奥より湧き上がるのは懐かしさだ。
ロキシーが以前にここに訪れたのは何年前だっただろうか。
十五年ぐらい前だったろうか。
思えば、人族にあこがれて里を飛び出して、かなりの時間が経っ
た。
ここから船に乗った時には、いつか戻ってくると考えていた。
けど、ミリス大陸に渡り、ミリシオンで人族の作ったお菓子を食
べた時は、こんなに美味しいものがこの世界にはあったのか、魔大
陸では絶対に食べられない、二度と戻るもんかと決意したものだ。
︵我ながら単純ですね⋮⋮︶
1003
事実、ロキシーはミリス大陸から中央大陸へと渡り、今日まで戻
っては来なかった。
戻ろうとも思っていなかった。
中央大陸にはいろんなものがあった。
見るもの全てが新鮮で、面白かった。
いつしか、魔大陸に住んでいたのと同じぐらいの時間を、中央大
陸で過ごしていた。
魔大陸の事など頭には無かった。
迷宮に潜り、死の恐怖を覚えるような瞬間でも、魔大陸に残した
両親の事など思い出さなかった。
それが、今、こうして戻ってきている。
人生何が起こるかわからないものだ、とロキシーはしみじみ思っ
た。
﹁ロキシー! 行きますわよ!﹂
ロキシーが立ち止まっていると、一人の女性がロキシーを呼んだ。
金色のフランスパンのような豪奢な髪の間から、長い耳が覗いて
いる。
スラリと高い背、キュっとしまったウエスト、そしてポンと大き
なお尻。
彼女を遠目に見る度に、ロキシーの心は嫉妬で埋め尽くされる。
種族的に仕方のない事だとしても、せめて自分もああいう体型に
なれば、と思ってしまう。
胸の大きさだけは同じ程度だが、バランスがとれて美しい彼女と、
貧相な自分。
﹁はぁ、今行きますよ﹂
1004
ため息が出た。
あの豪奢な女性の名前はエリナリーゼ。
エリナリーゼ・ドラゴンロード。
長耳族の戦士で、刺突を主とするエストックとバックラーで堅実
な前衛を務める。
その豪奢な見た目と同様の、華麗な技を持つ戦士だ。
ころしあい
本来ならエストックなど、冒険者の持つ武器ではない。
マジックアイテム
アスラ王国貴族が決闘で使ったり、北方大地の剣闘士が甲冑を着
て戦う時に用いるものである。
エリナリーゼの持つものは迷宮の奥で手に入れた魔力付与品であ
る。
そこらの雑多な剣よりよほど頑丈で、一振りするだけで、数メー
マジックアイテム
トル先の木を切り倒す真空波が発生する。
また、バックラーも魔力付与品で、受け止めた衝撃を緩和すると
いう能力がついている。
﹁お、おお⋮⋮大地、大地じゃ⋮⋮﹂
炭鉱族の老人が、ロキシーの後ろからヨロヨロと船を降りてくる。
ガシャガシャと重い鎧を鳴らし、厳ついヒゲを揺らし、青い顔で
杖に縋っている。
彼の名はタルハンド。
正式には﹃厳しき大峰のタルハンド﹄。
身長はロキシーと同じぐらいで、しかし横幅は2倍以上ある。
重い鎧に身を包み、厳ついヒゲを持ったこの人物は魔術師である。
魔術師がなぜ鎧を、と最初はロキシーも疑問に思ったものだ。
1005
彼は足が遅く、敏捷性は皆無に等しい。
魔物に攻撃されれば回避もままならない。
なので逆に、ああして頑丈な鎧を着こむ事で、前衛でも魔術を使
えるようにしているらしい。
﹁大丈夫ですか、タルハンドさん。ヒーリングを掛けましょうか?﹂
﹁いや、必要ない⋮⋮﹂
タルハンドは振りつつ、フラフラと頭を揺らしつつ、鈍重そうな
体を引きずってくる。
普段はもっと軽快なのだが、船酔いに掛かり、弱っているのだ。
﹁まったく、船ぐらいで情けないですわね﹂
﹁なんじゃと⋮⋮貴様⋮⋮﹂
エリナリーゼが腰に手をあて、フッと笑う。
タルハンドは顔を真っ赤にして怒る。
すぐに喧嘩を始めるこの二人を止めるのが、現在におけるロキシ
ーの役割である。
﹁喧嘩は後にしてください。エリナリーゼさんも、いちいちそんな
事は言わなくていいんです。船酔いは体質によるものですからね﹂
ロキシーと彼らは、王竜王国の港町イーストポートで出会った。
冒険者ギルドで喧嘩をしている二人を、ロキシーは最初、無視し
た。
だが、その喧嘩の内容がフィットア領で行方不明になった人物を
捜索しに、魔大陸まで移動するという話だったので、割り込んだ。
二人は、魔大陸の地理に明るくないということで、意見を違えて
いたらしい。
1006
土地勘のあるベガリット大陸か、中央大陸北部に移動すべきだと
いうタルハンド。
道なんかわからなくても人探しぐらい可能、なんなら現地で人を
雇えばいいというエリナリーゼ。
そして、一人では不安が残る、魔大陸出身のロキシー。
出会うべくして出会ったというべきだろう。
さらに話を聞いてみると、なんでもこの二人はかつて、パウロや
ゼニスと同じパーティだったと言う。
﹃黒狼の牙﹄。
ロキシーも聞いたことがある。
中央大陸において最も有名だったパーティの一つだ。
一癖も二癖もある人物ばかりが集まった凸凹パーティで、当時は
何かと話題になっていた。
結成から数年でSランクにあがり、そしてすぐに解散してしまっ
たのだが、ロキシーはよく覚えている。
それにしても、まさか、パウロとゼニスが﹃黒狼の牙﹄のメンバ
ーだったとは。
ロキシーは驚きが隠せなかった。
そして、驚いたのは二人も同様だった。
ロキシー・ミグルディアと言えば、巷で有名な﹃水王級魔術師﹄
だ。
魔大陸から渡ってきた青い髪の少女。
魔法大学に入学し、数年で﹃水聖級魔術師﹄の称号を手に入れ、
シーローン王国郊外にあった地下二十五階の迷宮を踏破。
その後、シーローン王国の宮廷魔術師の座に収まった人物である。
1007
彼女の冒険譚の序盤の出来事は吟遊詩人によって詩にされ、かな
り有名になってきている。
里から出てきた魔術師の少女が三人の駆け出し冒険者と出会い、
魔大陸を旅し、ミリスへと旅立っていくというストーリーだ。
その詩にロキシーという名前は出ていない。
だが、その魔術師の少女の名前がロキシーだというのは、詩が流
行りだした頃に冒険者だった者にとっては有名な話である。
三人は意気投合⋮⋮。
というほどでもなかったが、ルーデウスを探しに魔大陸に行くと
いうロキシーと、パウロの要請で家族を探そうという二人の目的は
一致していた。
その場でパーティを組み、魔大陸へと向かった。
まずは船に乗り、ミリス大陸へ。
ミリス大陸の港町ウェストポートで大金を出し、スレイプニル種
の馬と馬車を購入。
高い買物であったが、三人とも金は持っていたので問題はなかっ
た。
二人共、パウロとは仲が悪かったため、ミリス神聖国首都ミリシ
オンへは寄らず。
二人共、故郷では悪童として名を馳せていたため、青竜山脈の炭
鉱族の集落にも、大森林の長耳族の集落にも寄らず、まっすぐザン
トポートへと移動した。
二人の言い分としては、もうすぐ大森林に雨期が来るから、早く
移動した方がいいという事である。
雨期は長く、その間に大森林を移動することは出来ない。
だが、二人の口論と、ミリス大陸なんかに一秒でもいたくないと
言わんばかりに夜も馬車を走らせる様子から、単に帰りたくないだ
けなのだとロキシーは結論付けた。
1008
もっとも、結果として、通常より圧倒的に早いスピードで魔大陸
までやってくることができたのだから、ロキシーとしては文句は無
い。
﹁まずは冒険者ギルドに行きましょう﹂
ロキシーが提案し、三人は冒険者ギルドへと足を向ける。
まずは冒険者ギルド、それが冒険者としての基本である。
﹁いいオトコがいるといいですわね!﹂
エリナリーゼの言葉に、ロキシーはムッと顔をしかめた。
このエリナリーゼという長耳族は、貞淑そうな見た目と違い、男
好きである。
スラリとした体つきからは想像できない事であるが、すでに何人
もの子供を産んでいるのだとか。
本人曰く、そういう呪いに掛けられているのだそうだが、知らな
い男に体を許す悲壮感は無く、好きでやっているように見える。
ロキシーには信じられない事である。
﹁エリナリーゼさん。探すのは男ではなく⋮⋮﹂
﹁わかっていますわよ﹂
全然わかっていない、とロキシーは顔をしかめる。
当人は大丈夫だと言っているが、一緒に旅する仲間の身にもなっ
てほしい。
暇な時なら好きにすればいいが、今は緊急事態なのだ。
それに、もし彼女が妊娠すれば、それだけ旅が遅れるのだ。
ちょっとは控えてほしいと、ロキシーは思う。
1009
﹁ロキシーも男の一人や二人ぐらい⋮⋮﹂
﹁できません﹂
エリナリーゼほどの美貌があれば、とロキシーは思う。
だが残念なことに、ロキシーがこの人いいな、と思った人物がロ
キシーを女として見たことはない。
ロキシーは子供に大人気だが、男にはモテないのだ。
−−−
魔大陸の冒険者ギルド。
雑多な種族同士がパーティを組むそこは、中央大陸とくらべて異
色な感じがする。
ロキシーがギルド内に入ると、明らかに新米とわかる冒険者と目
が合った。
戦士風の格好をした三人の少年だ。
彼らはおずおずといった感じでロキシーに寄ってきた。
﹁あ、あの、もしよければ、パーティを組みませんか!﹂
少年たちの意に決したような一言。
ロキシーは苦笑した。
﹁いえ、見ての通り、すでにパーティを組んでいますので﹂
そう断ると、三人は苦笑しながら去っていった。
1010
こうしてパーティ勧誘を受けるのは初めてではない。
今までにも、何度か勧誘された。
どれも、少年三人だった。
かつて吟遊詩人が詩にするといっていたが、こんなに有名になる
とは思っていなかった。
﹁あらあら、ロキシーにもいい男のお誘いがあるじゃありませんの
!﹂
エリナリーゼがロキシーの頭をポンポンと叩いてからかう。
いつもの事である。
ロキシーもいちいち相手はしない。子供ではないのだ。
﹁どのみち、ランクが違ってパーティは組めないでしょう﹂
ロキシーの現在の冒険者ランクはAである。
吟遊詩人の詩に惑わされるようないたいけな少年たちの平均ラン
クはD。
少なくとも、Bランク以上だったのは見たことがない。
最初に勧誘を受けた時、あの詩の主人公は自分なのだと自慢気に
主張したのだが、ロキシーという名前の方は売れてなくて赤っ恥を
掻いたものだ。
ロキシーにとって思い出したくない思い出である。
まさか、吟遊詩人がミグルド族という種族を知らず、ロキシーが
12歳ぐらいから旅を始め、2年ぐらいでAランクまで上がったと
勘違いしているとは。
しかも、現在詩の内容はかなり脚色され、魔大陸を1年で踏破し
てAランクに上がったという事になっている。
1011
冗談じゃない、とロキシーは思う。
本当はAランクに上がるのには5年ぐらい掛かったのだ。
魔大陸で土台を作り、Bランクに上がるのに3年。
それから色んなパーティにお邪魔しつつ2年。
それでも、普通に比べればかなり早いはずだ。
今なら、運さえ良ければFランクから始めても1年ぐらいで上が
れるかもしれないが、何も知らない子供だけのパーティが1年でA
ランクになんて上がれるものか。
﹁育てば私好みになったかもしれないけれど、実に残念です﹂
育てば、と言ってロキシーは昔の事を思い出した。
かつて、自分に声をかけてきた三人の新米冒険者を思い出す。
﹃リカリス愚連隊﹄を名乗っていた三人。
ミグルドの里から出てきて、右も左もわからない田舎者だった自
分を助けてくれた三人の少年。
一人は、皮肉屋でその場かぎりの嘘ばかりついていた、でも面倒
見がよかった。
一人は、よく悪態をついて他人の悪口ばかり言っていた、でも一
本芯が通っていた。
一人は、とても賢くてパーティのまとめ役だった、でも旅の途中
で死んでしまった。
彼らとは、ウェンポートにたどり着いた時点で解散したのだが⋮
⋮。
ロキシーは思う。
残り二人はまだ生きているだろうか、と。
中央大陸で活動していたからわかるが、魔大陸の冒険者は過酷だ。
1012
死んでいる可能性の方が高い。
︵元気にしていればいいな⋮⋮ノコパラとブレイズ⋮⋮︶
と、そこまで考えて、ロキシーはふっと笑った。
あれから20年経っているのだ。
特に長寿でもない二人は、とっくに冒険者を引退しているかもし
れない。
変わらないのは自分だけだ。
︵郷愁はまた今度にしましょう︶
ロキシーは気持ちを切り替えた。
魔大陸に帰ってきたのは、決して里帰りするためではない。
ルーデウスか、その家族を見つけ出すためだ。
﹁では、情報を集めましょう﹂
ロキシーは二人に提案し、冒険者ギルド内を見回した。
−−−
情報を集めていると、﹃デッドエンド﹄という存在がこの町にい
るという事がわかった。
なんでも、ここ最近で急激に名前を売れだした新鋭らしい。
﹃デッドエンド﹄と言えば、魔大陸では知らぬ者のいない悪魔の
名前である。
1013
スペルド族の中でも、特に危険で、子供ばかり狙うとされている
怪物である。
ロキシーも小さい頃は、母親に何度も脅されたものだ。
悪い子は﹃デッドエンド﹄に攫われてしまうぞ、と。
宿に戻り、﹃デッドエンド﹄の情報をまとめてみて、ロキシーは
顔をしかめた。
﹁信じられない話ですね﹂
﹁なにがですの?﹂
﹁﹃デッドエンド﹄を騙るなんて、正気の沙汰とは思えません﹂
デッドエンドの何が恐ろしいか。
それは、実在する人物という点である。
中央大陸では知られていないが、デッドエンドは確かに存在する。
当然ながらロキシーは見たことはないが、耳に入る噂は、どれも
恐ろしいものだ。
魔大陸において、最も恐ろしい魔物だろう。
冒険者ギルドは報復を恐れて特に指名手配などはしていないよう
だが、もし討伐依頼が出るのなら、間違いなくSランクだろう。
しかも、成功すれば、Sの数が2倍になる依頼だ。
﹁わたくしにはわかりませんわね﹂
エリナリーゼの調べてきた情報によると、デッドエンドを名乗る
男は、長身で色白、禿頭で槍を持っている。
そして、美男子だという話だ。
﹁いい男という話ですので、わたくしがベッドで聞いてみましょう
1014
か?﹂
タルハンドが、ペッと不機嫌そうに唾を吐いた。
﹁どうでもいい情報じゃな﹂
マジックアイテム
タルハンドの得た情報によると、﹃デッドエンド﹄は三人組。
それぞれ、
﹃狂犬のエリス﹄
﹃番犬のルイジェルド﹄
﹃飼主のルージェルド﹄
を名乗っているらしい。
後者二人は兄弟という話だ。
狂犬は赤毛、番犬がのっぽ、飼主がチビ。
狂犬は剣を、番犬は槍を、飼主は杖のような魔力付与品を使うら
しい。
三人の評判はあまり良くない。
﹁狂犬はとにかく喧嘩っぱやく、飼主はとにかく悪いことしかしな
いそうじゃ。ただ、番犬はいい奴らしいのう。子供好きで、悪いこ
とを見逃せない正義漢という話じゃ﹂
随分とおかしな評価だな、とロキシーは考える。
どこかで情報が歪められたのかもしれない。
悪党が少しでもいい事をすると、やや過剰に伝えられるものだ。
きっと、番犬がいい奴というのも、そうした所からきているのだ
ろう。
あるいは、そういう情報を流すことで、誰かを騙そうとでもいう
のだろう。
1015
暴力だけでなく、知恵も回るらしい。
﹁危険な連中ですね。関わりあいにならないようにしましょう﹂
﹁そうじゃな。これから人探しをする時に、悪党に目をつけられて
は敵わん﹂
﹁では、本題に入りましょう﹂
ロキシーは、話題を変える。
冒険者ギルドに赴いたのは、そもそもデッドエンドの情報を探る
ためではない。
﹁フィットア領の人々の噂はありましたか?﹂
﹁ないな﹂
﹁全然ありませんわね﹂
遅すぎたかな、とロキシーは思う。
魔大陸はロクな装備もなく転移して生きていけるほど、楽な場所
ではない。
何もなしで一年間生き延びる。
それすらも困難な土地だ。
この一年間で、フィットア領から転移していた人々は、軒並み死
亡してしまったのかもしれない。
﹁もっとも、わたし達が探すのは、パウロさんの家族です﹂
﹁ゼニス、リーリャ、アイシャ、そしてルーデウスか﹂
それぞれの特徴はロキシーが知っており、二人に伝えてある。
アイシャだけはルーデウスの手紙でしか知らないため、やや曖昧
であるが。
1016
﹁まあ、ゼニスなら大丈夫ですわね﹂
﹁そうじゃな﹂
この二人はゼニスと知り合いである。
ゆえに、心配はないと言う。
ロキシーはゼニスがどれだけ﹃使える﹄のか知らないが、元﹃黒
狼の牙﹄である二人の実力は折り紙つきだ。
その二人が大丈夫というのだから、大丈夫なのだろう。
﹁ルーデウスも目立ちますから、すぐに見つかります﹂
ロキシーは、五歳にして圧倒的な才能を見せた弟子の事を思い出
す。
あの子なら、どこにいても目立ち、話題になるだろう。
ゼニスとルーデウス。
この二人は町に入って情報を探せば、すぐにでも見つかるだろう
と三人は考えていた。
そして人里さえ近ければ、魔大陸で生きていくだけの力もあるだ
ろう、と。
だから、探すべきはリーリャとアイシャだ。
二人の情報を集めていく、と最初に決めてある。
﹁期限を設けましょう。リーリャ、アイシャの情報を二日でできる
だけ集め、三日目には準備をして、周辺の集落を回る、というのは
どうでしょうか﹂
﹁二日や三日では短すぎるのではなくて?﹂
エリナリーゼの言葉に、ロキシーは首を振る。
1017
﹁死亡している可能性も高いですし、魔大陸は広大です。まずは魔
大陸の主要な町をひと通り回って、各冒険者ギルドに探し人の依頼
を出すのです﹂
アスラ王国からフィットア領民捜索への援助金は出る。
各町のギルドに依頼という形で仕事を頼めば、依頼の成功報酬は
アスラ王国持ちで、あとは冒険者が探してくれる。一応、依頼人と
しての署名が必要であるため、頼まなければ依頼としては出してく
れない。
逆に言えば、そうしなければアスラ王国はギルドに金を払わない。
あの大災害に対するアスラ王国の対応の悪さに、ロキシーは苛立
ちを感じている。
大国なのだから、もっと大々的に動けばいいじゃないか、と思う。
実際に人々を探すために動いているのは、パウロたちだけ⋮⋮災
害に遭った本人達だけなのだ。
︵アスラ王国の内部が腐っているというのは、噂だけではないらし
いですね︶
一番長い歴史を持つ国だから、伝統と権力が腐って糸を引いてい
るのだ。
﹁では、明日も情報収集に勤しむ事にしましょう﹂
﹁わかりましたわ﹂
﹁了解じゃ﹂
ロキシーは物事に時間を掛けないタイプである。
どこかに滞在するにしても無駄に時間を掛けず、最速に事を終わ
1018
らせ、出立する。
弟子であるルーデウスに奥義を伝授してすぐに出立した所にも、
その性格が出ている。
その即断即決は彼女の強みであるが、ルーデウスにドジと断じら
れる部分でもあった。
もっとも、それを指摘する者はなく、本人はこれこそが自分の強
みであると思い込んでいるが。
とはいえ、初日にギルドに依頼し、二日目に自分たちでざっと探
し、三日目には出立する。
無駄のないスケジューリングと言えよう。
もっとも、せめて滞在期間を一週間に設定すれば、もっと変わっ
た結果が待っていただろうが⋮⋮。
−−−
二日目。
ロキシーは好奇心から、﹃デッドエンド﹄の様子を見に行った。
彼らは目立つため、すぐに居場所を知ることが出来た。
砂浜で訓練に勤しむ男女の二人組。
情報にあった通り、禿頭ののっぽと赤髪の少女だ。
真剣と思わしき剣を両手で持ち、恐ろしい速度で禿頭に斬りかか
る少女と、それを軽くいなす禿頭。
確か﹃デッドエンド﹄は三人組で、大きいのが一人と、小さいの
が二人という話だ。
1019
︵飼主とかいうチビはいないようですね⋮⋮︶
番犬と狂犬は、極めて高度な攻防を繰り返した。
攻防といっても、狂犬の攻撃を番犬がいなすだけのものだが、そ
こにはロキシーの及びつかない技術があった。
ロキシーはその様子を遠く、岩の影から眺めていた。
まるでプロ野球界で魔球を武器に戦っていく投手の姉のように。
二人は強い。
長年冒険者として世界を旅してきたロキシーの眼から見ても。
少なくとも、小狡く立ち回ってきたのでは手に入らない強さに思
えた。
︵接触してみるのもいいかもしれない⋮⋮︶
そうロキシーが思った瞬間、番犬が振り返った。
︵⋮⋮!︶
ハッキリと目線があったのを感じる。
強烈な視線だった。
ロキシーは言い知れぬ恐怖を感じた。
自分が狩りの獲物になったかのような錯覚を受けた。
急いでその場を後にする。
−−−
1020
少女の気配を、ルイジェルドは最初から感じ取っていた。
何かようなのか、ただ見ているだけなのか。
ふとそちらを見ると、一人の少女が岩から顔を覗かせている。
︵いや⋮⋮少女ではない︶
あれはミグルド族の成人女性だ。
一見するとわかりにくいが、ルイジェルドの﹃眼﹄はごまかせな
い。
しかし、知っている気配ではない。
ミグルド族も集落が一つしかないわけではない。
ただ珍しくて見ているのだろうか、とルイジェルドが見ていると、
少女はぷいっと顔をそむけ、どこかへと行ってしまった。
︵む⋮⋮怖がらせてしまったか⋮⋮?︶
﹁隙あり!﹂
ふと気を緩めた瞬間、エリスが突っ込んできた。
気合の入った一撃であった。
﹁くっ!﹂
その日、ルイジェルドはエリスに対し、初めて不覚を取った。
﹁やった! 入った!?
入ったわよね!? やったぁぁ!﹂
エリスは両手を上げて喜んでいた。
最近、エリスの技は﹃乗って﹄いる。
1021
将来、さぞやいい剣士へと成長するだろう。
だがまだ若い。
ここで増長すれば、いずれ悪い結果を生む。
ルイジェルドは、そうした戦士を何度も見てきていた。
ゆえに、しばらくは一本をやるつもりでは無かったのだが、あの
ミグルドの女の事が気になり、少々油断してしまったようだ。
ルイジェルドは、エリスに聞こえないように、静かにため息を付
いた。
−−−
ロキシーは宿への道を急ぎながら、何度も後ろを振り返った。
追ってはこないか、襲撃を掛けられないか。
不安に思いつつ、宿に戻る。
あのレベルと戦うのであれば、魔力結晶の準備が必要であった。
魔法陣の描かれたスクロールも使う必要があるかもしれない。
まさか見ていただけで襲ってはこないだろうとロキシーも思うが、
﹃デッドエンド﹄を名乗るクレイジーな連中である、準備はしてお
きたかった。
﹁ああっ! イイ! イイですわ! もっと、もっと!﹂
エリナリーゼの部屋の前で嬌声が聞こえ、ロキシーは脱力した。
あの女は情報収集をせず、宿に男を連れ込み、自分だけ楽しんで
いたのだ。
﹁まったく⋮⋮﹂
1022
エリナリーゼはすぐに男を連れ込む、という話はタルハンドより
聞いていた。
どんな状況でも、男とみればすぐに惚れ込み、一晩だけの関係を
持つ。
ザントポートでもそうだったし、タルハンドの話によると、迷宮
の奥底でもそうだったらしい。
節操がなさすぎる。
しかし、ロキシーは同時に安心していた。
一人でいるのは心細いと思っていた所だ。
エリナリーゼが隣の部屋にいるのなら、自分は戦いの準備だけを
して、情事が終わるのを待っているとしよう。
そして、行為が終わった後、エリナリーゼの耳を引張り、二人で
情報収集を再開するのである。
エリナリーゼの監視もできて一石二鳥。
︵まあ、さすがに宿まではこないでしょうが⋮⋮︶
そう思い、ロキシーは自室で戦いの準備をする。
部屋の壁は薄いわけではないのに、エリナリーゼの嬌声は聞こえ
てくる。
それを聞いていると、ロキシーまで変な気分になってくる。
︵⋮⋮⋮⋮おっと︶
思わず下腹部に伸ばしかけた右手を、左手で掴んだ。
今はそんなことをしている暇はない。
︵それにしても、随分長い⋮⋮︶
1023
3時間。
ロキシーは静かに待ち続けた。
エリナリーゼの情事は一向に終わる気配は無かった。
そして、﹃デッドエンド﹄も襲撃を仕掛けてくる気配がなかった。
ロキシーは馬鹿馬鹿しくなった。
同時にやるべき事をやらず、ヤリたいことをやっているエリナリ
ーゼに言い得ぬ苛立ちを感じた。
今はそんな事をしている暇はない、と自分が我慢しているという
のに⋮⋮。
怒りが頂点に達したロキシーは、エリナリーゼの部屋を蹴り破っ
た。
﹁いつまでやってるんですか! 情報収集は⋮⋮﹂
﹁あらっ? ロキシー? 帰ってたんですの?﹂
﹁⋮⋮え、あ?﹂
部屋の中には五人の男がいた。
﹁あなたも混ざりますの?﹂
むわりと漂う男の匂い、下卑た笑顔を浮かべる男たち、そして、
・・・・・・
そんな男の上で恍惚の表情を浮かべるエリナリーゼ。
そういうことを複数人数で、しかも合意の上でやるなど、ロキシ
ーの常識には無かった。
﹁あ、わ⋮⋮﹂
業深き光景に、ロキシーの処理能力はいとも簡単に限界を超えた。
1024
﹁うわあああぁぁぁぁ!﹂
ロキシーは無様にも叫び声を上げてその場から逃げ出した。
隣室に飛び込み、フーフーと息を吐きながら杖を掴み。
﹁雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!
アイシクルブレイク
勇壮なる氷の剣を彼の者に叩き落せ!
﹃氷霜撃﹄﹂
宿が半壊した。
−−
そして三日目。
町を出立した。
あんな事があったので、いろんな事が有耶無耶になってしまった。
情報収集も半端だし、ギルドに依頼を出すのも忘れてしまった。
宿も壊し、修理費としてかなり痛い出費をしてしまった。
﹁全部、エリナリーゼさんが悪いんです﹂
﹁仕方ないですわ。路地裏で情報収集をしていたら、熱烈なお誘い
を受けたんですもの﹂
﹁だからって、あんな⋮⋮五人、五人ですよ!?﹂
﹁ロキシーもそのうち分かりますわ。わたくしのように美しく強い
冒険者が、あんなチンピラ五人に為す術もなくおもちゃにされる、
そう考えただけで子供が出来そうになる感じが﹂
﹁知りたくありません﹂
1025
魔法大学時代まではロキシーも子供であり、恋人や夫婦というも
のの良さがわかっていなかった。
本気で相手が欲しいと思ったのは、パウロとゼニスが仲睦まじく
暮らしている時だ。
自分にもあんな相手が欲しい。
しかしどうやって。と、考えた時、魔法大学時代の知り合いの話
を思い出した。
彼女は迷宮の奥底で今の旦那と出会い、困難を二人で乗り越えて
結婚に至ったのだそうだ。
ロキシーはコレだと思った。
私も迷宮にもぐれば、一人ぐらい捕まえられる、と。
妄想は頭のなかで膨らんだ。
男らしくて、キリッとしていて、背がスラッと高くて、でもまだ
子供っぽい表情をする人族の青年に迷宮の奥底で偶然助けられるの
だ、そのまま力を合わせて脱出していくうちに互いに恋が芽生えて、
迷宮を脱出した所で仲間の死を知った青年をロキシーが慰めるのだ。
そして始まる夜の時間⋮⋮。
実際に迷宮に潜ると、そんな幻想はいとも簡単に打ち砕かれた。
迷宮は過酷な場所で、冒険者はみんな厳つくて、子供っぽいのは
自分だけだった。
5層ぐらいでソロの冒険者はいなくなった。
その時点で出会いは捨てた。
10層ぐらいでさすがにキツイと思ってパーティを募集したが、
子供っぽいナリを馬鹿にされて、何度も笑われた。
そのまま意地のようにソロで潜り、結局は踏破してしまった。
若気の至りである。
何度も死にかけたし、運もよかった。二度とやりたくない。
1026
﹁まあ、ロキシーはまず最初の一人を見つけないといけませんわね。
どう、今度一緒に⋮⋮﹂
﹁絶対にやりません﹂
幻想は砕かれた。
だが、まだ理想は残っている。
迷宮の奥底でイケメンゲットというのは無理だろうが、人並みに
恋をして、人並みに結婚をするぐらいはできるはずなのだ。
エリナリーゼがそこらで引っ掛けてきた名も知らぬ男に体を許す
気は毛頭無い。
そして⋮⋮。
﹁今はそんな事にうつつを抜かしている暇はありません﹂
少なくとも、魔大陸を旅する間、自分は独り身でいい、とロキシ
ーは決めた。
こうして、ロキシーは最初の一歩に躓きつつも、魔大陸を旅し始
めた。
1027
第三十七話﹁船の中の賢者﹂
密輸人と話を付けるのに一ヶ月掛かった。
探すこと自体はそう難しくなかった。
まず情報屋に金を渡し、仲介人を紹介してもらう。
そして、仲介人を通して密輸人と連絡。
仲介人を通して、密輸人から返事が来る。
それを繰り返しただけだ。
情報屋に金を払い、
仲介人に金を払い、
そして密輸人にも金を払う。
あっという間に手持ち金の半分以上が消えた。
サイフが軽い。
海の向こうで宿に泊まるだけの金はあると思いたい。
正直、密輸人に直で話を持っていけば、もっと安くなるような気
がする。
けど、密輸人は組織的に動いているらしく、
仲介人を介さなければ接触できない。
摘発を回避するための知恵だそうだ。
詳しい仕組みはわからないが、うまく回っているのだろう。
1028
全ての打ち合わせを終えるのに、一ヶ月かかった。
この一ヶ月という期間が長いと見るか、短いとみるか。
どちらでもいいことだ。
−−−
指定の日。
深夜。
月は出ていない。
指定場所は港の端にある桟橋。
周囲は不気味なほどに静かで、波の音だけが響いていた。
そこには小舟と、怪しげなフードを目深に被った人物がいた。
打ち合わせでは、彼に密輸してほしい人物を渡すということだ。
俺たちはルイジェルドを密輸人に引き渡した。
指定された通り、ルイジェルドは後ろ手に手枷をつけている。
この手枷も指定されていて、道具屋で購入した。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
密輸人は人を運ぶ場合、全て奴隷として扱う。
奴隷を運ぶのに掛かる金は緑鉱銭5枚。一律である。
この金はすでに払ってある。
仲介人によるとこのタイミングで金を出し渋る奴もいるらしい。
嫌だね、守銭奴は。
1029
﹁それでは、よろしくおねがいします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
密輸人は一切喋ることもなかった。
ただ静かに頷いて、ルイジェルドを小舟に乗せると、ずだ袋を被
せた。
小舟には船頭が一人。
それと何人かのずだ袋が乗っていた。
大きさ的に子供はいない。
ルイジェルドが乗るのを確認すると、密輸人は小舟に合図。
小舟の先頭にすわる男が魔術を詠唱する。
小舟はすいっと音もなく、真っ黒な夜の海へと発進した。
詠唱はよく聞こえなかったが、水の魔術で水流を生み出して進む
らしい。
あれなら俺にも出来そうだな。
小舟は沖に停めてある大型の商船へと移動。
そこで奴隷たちを載せ替えて、早朝に出港するらしい。
ルイジェルドは小舟の中からも、ずっと俺の方を向いていた。
ずだ袋を被っていても、俺の方向がわかるのだ。
見送る俺。
ドナドナが流れる。
いや、流れない。
売ったわけじゃない。
ちょっとの間、お別れだ。
1030
−−−
翌日。
一年間お世話になったトカゲを売却した。
トカゲを船に乗せると税金がかかるし、ミリス大陸では馬が使え
る。
この世界の馬は足が速い。
もうトカゲに乗る必要は無いのだ。
エリスはトカゲの首に抱きつき、ポンポンとその身を叩いていた。
言葉は無かったが、寂しそうだった。
トカゲはエリスになついていた。
旅の途中でも、よく彼女の頭を舐め回し、唾液まみれにしていた。
エリスを粘液まみれにするなんて、なんてエロいトカゲなんだろ
うか。
俺だってエリスを舐め回したいのに。
そうやって、嫉妬したのは、記憶に新しい。
そうだ。
かのトカゲも俺たちの仲間だったのだ。
﹃デッドエンド﹄の仲間だったのだ。
いつまでもトカゲなどと言ってはいけない。
せめて名前をつけてやろう。
よし、お前の名前は今日からゲ○ハだ。
1031
人間の友達を多く欲しがる海の男だ。
﹁随分とおとなしいな。旅の途中もちゃんと躾けてたのか?﹂
と、トカゲを扱っている商人は関心していた。
﹁まあね﹂
躾けていたのはルイジェルドだ。
特になにをするでもなかったが、
ゲ○ハとルイジェルドの間には確かに主従関係があった。
きっと、トカゲにも、このパーティで誰が一番強いのかがわかっ
たのだろう。
ちなみに、俺にはあんまりなついてなくて、何度か噛み付かれた。
うん、思い出すとむかついてきたぞ。
﹁ハハッ、さすが﹃デッドエンド﹄の飼主だ。
これなら、ちょっとは色を付けられるよ。
最近は雑に扱う奴が多くてな。
再調整が大変なんだ﹂
そういう商人はルゴニア族。
トカゲ頭である。
魔大陸では、トカゲがトカゲを躾けるのだ。
﹁一緒に旅する仲間を大切に扱うのは当然のことですよ﹂
そんなやりとりの後、
ゲ○ハ︵トカゲ︶は本格的にドナドナされていった。
1032
俺の手元には、仲間を売って得た金。
そう考えると、すごく汚い金に見えてくる。不思議だ。
やっぱり名前はやめとこう。情が移ってしまう。
さらばだ、名も無きトカゲ。
お前の背中は忘れない。
﹁ぐすっ⋮⋮﹂
エリスが鼻をすする音が聞こえた。
−−−
トカゲを売った足でそのまま船へと乗る。
﹁ルーデウス! 船よ! すごく大きいわ!
わっ! 揺れてる! なにこれ!﹂
エリスは船に乗ると、すぐにはしゃぎだした。
トカゲと別れた事はすでに忘れたのか。
気持ちの切り替えが早いのもエリスのいい所だ。
船は木造の帆船だった。
一ヶ月前ぐらいに完成したばかりの最新型であるらしい。
今回は処女航海を兼ねて、テスト的にザントポートまで航海する
らしい。
﹁でも、前に見たのとちょっと形が違うわね?﹂
﹁エリスは以前にも船を見たことがあるんですか?﹂
1033
海を見るのも初めてだったのに。
﹁何言ってるのよ、ルーデウスの部屋にあったじゃない!﹂
そういえば、そういうものを作った記憶がある。
懐かしいな。
土の魔術を訓練しようと思って作り始めて、
これもしかしてフィギュアとか作れるんじゃね、
と1/10ロキシーを作り始めたのだ。
フィギュアも、もう随分作っていない。
いつ、どれだけ魔力を使うかもわからないから、魔力消費の訓練
もしていない。
精々、ルイジェルドやエリスと訓練して体を動かすぐらいだ。
最近、随分とサボってるな。
落ち着いたら鍛え直す必要があるかもしれない。
﹁僕も想像で作りましたからね、細部が違うのはしょうがないでし
ょう﹂
それに、この船は最新型って話だしな。
何がどう最新なのかは知らないが。
﹁凄いわね。こんな大きなもので海を渡るなんて﹂
エリスはしきりに関心していた。
−−−
1034
出港から3日後。
俺は船上にて考える。
船。
船と言えば、イベントの宝庫だ。
船にのってイベントが起こらないなんてありえない。
そう言える。
断言できる。
例えば、船の外をイルカが跳ねる。
ヒロインがそれを言う﹁みてっ! 凄いわ!﹂と、
俺が見て言う﹁俺の夜のテクのほうがすごいぜ﹂と。
ヒロインが言う﹁素敵! 抱いて!﹂と。
俺が言う﹁おいおい、こんな所でとは、いけない子猫ちゃんだ﹂
と。
うん。ちょっとなんか違うな。
また、船と言えば、襲撃だ。
タコかイカかサーペントか海賊か幽霊船か。
そのへんに襲われて、沈没。漂流。座礁。
たどり着いた先は孤島で、ヒロインと二人切りの共同生活が始ま
る。
最初は俺のことを嫌っていたヒロインも、幾つかのイベントを乗
り越える事で段々とデレてくる。
そして、孤島で男女が二人きりといったらヤルことは一つだ。
交差する視線。燃え上がる情熱。若き血潮。
1035
弾ける汗。響く潮騒。夜明けのコーヒー。
二人きりのパライソ。
また、タコに襲われると言えば、ヒロインの運命も決まったよう
なものだ。
とても八本には見えない足に襲われ、宙に釣られるヒロイン。
悶える肢体。浮き出る胸部。潜り込む触手。
手に汗握る一大スペクタクルだ。一時たりとも目を離せない。
しかし、現実は非情である。
エリスは現在、船室で桶を前に真っ青な顔をしている。
初めて乗る船で興奮していたと思ったら、途中で吐き気を訴え出
したのだ。
トカゲは平気なのに、どうして船はダメなのだろうか。
乗り物酔いをしたことのない俺にはわからない。
ただ一つ言えるのは、多少揺れが小さいからといって、
船酔いに掛かる奴にとってはあまり意味がない。
という事だろう。
−−−
4日目。
タコが出てきた。
多分タコだ。目がさめるような水色のタコで、超でかかった。
しかし、護衛のSランクパーティに呆気無く撃退された。
1036
船の護衛なんて依頼はなかったはずだが⋮⋮。
そう思って近くの商人に聞いてみると、
彼らは船の護衛を専門に行う者達であるらしい。
パーティ名は﹃アクアロード﹄。
造船所ギルドと専属契約を結んでいるらしい。
そして、そんな彼らだから、この航路に出る魔物はお手の物。
どきどきわくわく触手イベントは無かった。
残念。
もっとも、実入りはあった。
俺は万が一に備えてその戦いを脇で見ていた。
最初はそう、鼻で笑った。
前衛として戦っていた剣士は強かったが、ギレーヌほどではない。
敵の攻撃を受け止め、注意を引いていた戦士は強かったが、ルイ
ジェルドほどではない。
後衛でタコに止めをさした魔術師は、俺より下だろう。
最初はそう、ガッカリした。
Sランクといっても、こんなものなのだろうか、と。
この世界は強い者がたくさんいるのだと思っていたが、
案外大したことはないな、と。
しかし、ふと思い直した。
彼らはSランクの﹃パーティ﹄だ。
見るべきは個々の能力ではなく、チームワークではないだろうか。
個々の能力が低くても、あの大ダコを倒せるという事。
個々の能力が低くても、Sランクに上がれるということ。
1037
それが重要なのだ。
個々がしっかりと役割を果たし、集団として大きな力を発揮する。
それがチームワークだ。
俺たち﹃デッドエンド﹄に足りないものだ。
﹃デッドエンド﹄は個々の能力は高い。
だが、チームワークという点ではどうだろうか。
ルイジェルドはチームワークも抜群だ。
軍隊での経験が生きているのか、集団戦もうまい。
俺やエリスが何か失敗してもよくフォローしてくれる。
ヘイト管理も抜群にうまく、魔物の視線は彼に釘付けだ。
だが、強すぎる。
本当なら彼一人で倒せるような相手でも、無理やりチームで戦う
という形になっている。
悪いとまでは言わないが、歪であることに間違いはない。
俺は一応、チーム戦のなんたるかは知っているつもりだ。
かといって、知っているからといってうまく動けるわけではない。
自分の方に迫ってくる敵の対処に夢中になることもある。
敵の数が多い時は、ルイジェルドに頼る部分も大きい。
エリスはダメだ。
指示は素直に聞いてくれる。
だが、戦闘中に阿吽の呼吸で周囲に合わせることができない。
目の前の敵に必死で、突出しすぎてしまう。
のびのび戦えていると言えば聞こえはいいが、
ルイジェルドや俺のフォローに回ったことは一度も無い。
1038
もっとも、ルイジェルドや俺にフォローが必要ないのだが。
もし、このまま、何らかの理由でルイジェルドと別れたら。
俺はエリスを援護しきる自信がない。
魔眼は手に入れたが、俺の手は二本しか無いのだ。
自分を守る手とエリスを守る手。
片手で守れる範囲は限られる。
不安だ。
向こうについたら、真っ先にルイジェルドを迎えにいこう。
﹁ルーデウスゥ⋮⋮﹂
エリスが真っ青な顔で甲板に上がってきた。
そのままよろよろと船の縁へとよろめいていき、船の外へオエッ
と一息。
もう胃液しか吐くものが無いといった風情だ。
﹁ひ、人が苦しんでるのに、なんで⋮⋮こんなところに、いるのよ
⋮⋮﹂
﹁すいません。海が綺麗だったもので﹂
﹁⋮⋮酷い⋮⋮うっぷ⋮⋮﹂
エリスは片目に涙を浮かべて、俺に抱きついてきた。
彼女の船酔いは重度だ。
−−−
1039
五日目、エリスは相変わらず船室でダウン中だ。
そして、俺はそれにつきっきりになっている。
﹁う、うう⋮⋮頭いたい⋮⋮ヒーリングしてよ⋮⋮﹂
﹁はいはい﹂
船員に聞いて知ったのだが、
どうやら船酔いには少しだけヒーリングが効くらしい。
ためしてみると、ちょっとだけエリスの気分がよくなることが判
明した。
船酔いは自律神経の失調で起こる。
頭にヒーリングを掛ければ、一時は収まる。
つまり、そういう事だ。
とはいえ、持続するものではなく、気持ち悪さがスッと消えるわ
けではない。
﹁ねえ⋮⋮あたし⋮⋮死ぬのかな⋮⋮﹂
﹁船酔いで死んだら笑えますね﹂
﹁笑えないわよ⋮⋮﹂
船室には、誰もいない。
船自体が大きいのもあるが、魔大陸からミリス大陸に渡る者は少
ないらしい。
魔族の渡航費用が人族よりも高いせいか、それとも、魔族にとっ
て暮らしやすいのは魔大陸だからか。
そこら辺はわからない。
俺とエリス、二人きりだ。
1040
静かで薄暗い部屋のなか、抵抗する力を無くしているエリス。
そして、五日間、弱ったエリスを相手しつづけた俺だけだ。
最初はそれでも良かった。
だが、ヒーリングはよくない。
ヒーリングをするには、エリスの頭に触れる必要がある。
定期的に掛けるため、
彼女に膝枕をして、頭を抱きかかえるように使い続けている。
すると、変な気分になってくる。
変というのは語弊のある言い方だな。
ハッキリ言おう。
エロい気分になってくる。
考えてもみてくれ。
船室で、いつも強気のエリスが
目をうるませて、息を荒くして、弱々しい声で、
﹁お願い、お願いだから︵ヒーリング︶して﹂
と、懇願してくるのだ。
俺の中ではヒーリングの部分はボリュームを極限まで絞られた。
エリスが誘っているようにしか見えなかった。
もちろんそんな事はない。
エリスはただ弱っているだけだ。
船酔いというものには掛かった事はないが、
辛いことだけはわかる。
1041
相手に触れる。
それはエロい行為ではない。
だが。
年頃の女の子の頭を撫で、体温を感じ取る。
それは、刺激のある行為だ。
触るのがエロい場所でなくとも、刺激はあるのだ。
低刺激だが、長く続くとヤバイ。
触れるという事は触るという事だ。
触るということは、近いということだ。
近いということはつまり、冷や汗が浮かぶエリスの額や、首筋、
胸元⋮⋮。
全てが視界に入るということだ。
まして相手はぐったりとしている弱気なエリス。
いつもは迂闊に触れれば殴ってくる相手だ。
それが、今や、まな板の上の鯉。
もうこれ、自分のものなんじゃない?
好きにしちゃっても問題ないんじゃない?
そんな気持ちが芽生えてくる。
きっと、今すぐ衣類を剥ぎ取り、欲望を露わに覆いかぶさっても、
エリスは抵抗しないだろう。
いや、出来ないだろう。
弱々しい顔で、諦め顔で、一筋の涙を流しながら、俺を受け入れ
るしかないだろう。
そんな光景を思い浮かべるだけで、俺の股間のエクスカリバーは
アーサー寸前だ。
1042
そして、頭の中のアーサーが抗弁に叫んでいる。
今ならエリスは抵抗できないと叫んでいる。
こんなチャンスは二度と無いと叫んでいる。
今がアレを捨てるチャンスだ、と叫んでいる。
だが、俺の中のマーリンは我慢しろと言う。
決めただろうと。
15歳になるまでという約束を守ると決めただろうと。
この旅が終わるまでは我慢すると決めただろうと。
俺はマーリンを支持する。
だが、もう我慢は限界に近い。
例えば、試しに胸をもにゅっと触ってみたとするだろう。
きっと柔らかいに違いない。
そして柔らかいだけではない。
そう、胸というのは柔らかいだけではないのだ。
柔らかい中にも固い部分があるのだ。
聖杯だ。
ガウェイン
それこそが俺のアーサーが求める聖杯なのだ。
俺の手が聖杯を見つけてしまえば、どうなる。
カムランの戦いさ。
ああ、もちろん、聖杯だけじゃない。
エリスの体は日々成長している。
彼女は成長期なのだ。
特に一部分は、遺伝のせいか、急激に母親に近づいている。
きっとこのまま、妖艶さの際立つ美人に育つだろう。
1043
そして、周囲の男どもの視線を釘付けにするのだ。
中には、﹁ヘッ、もっと小さいぐらいでちょうどいいぜ﹂という
奴もいるだろう。
人の好みは様々だからな。
そんな奴に言ってやるのだ。
俺はその丁度いいぐらいの時を知っているぜ、と。
理解しているか。
俺は、今、この瞬間。
エリスの過去を手に入れる事ができる。
﹁フー⋮⋮フー⋮⋮﹂
鼻息が荒くなる。
﹁る、ルーデウス⋮⋮?﹂
エリスが不安そうな顔を向けてくる。
﹁だ、大丈夫なの?﹂
声が耳を叩く。
いつもは甲高くて、大きすぎてちょっと不快なぐらいの声。
それが、丁度いい高さで、俺の脳を痺れさせる。
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮大丈夫ですよ。
安心してください、約束ですから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮辛いなら無理しなくてもいいのよ?﹂
﹁!﹂
1044
無理しないでいいってのは、
我慢しないでいいってことか?
何してもオッケーって事なのか?
⋮⋮。
なんてな。
わかってるよ。
これはヒーリングをかけ続けて魔力はもつのかって意味だ。
わかっているとも。
彼女は俺を信頼している。
決してこの瞬間、手を出されないと信頼している。
そして、俺はそれを裏切らない。
ルーデウス・グレイラットは裏切らない。
それが信頼に応えるって奴だ。
よし、機械になろう。
俺はヒーリングをする機械になろう。
血も涙もないロボットになるのだ。
俺は何も見ない。
エリスの顔を見れば、暴走する。
そう思って目を瞑る。
俺は何も聞こえない。
エリスの声を聞けば、暴走する。
そう思って耳を塞いだ。
1045
俺は朴念仁だ。
欲望なんて持っていない、だから暴走しない。
そう思って、心を閉じた。
ただ、エリスの頭の温もりと匂い。
その二つで、一瞬で決意が霧散する。
頭がフットーしそうになる。
ああ、もうダメだ。
我慢の限界だ。
﹁エリス、ちょっとトイレに行ってきます﹂
﹁⋮⋮ああ、トイレを我慢してたのね⋮⋮いってらっしゃい⋮⋮﹂
簡単に信じたエリスを尻目に、俺は船室を出た。
素早く移動。
誰もいない所。すぐに見つかった。
そして、至福の一時。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
こうして俺は賢者になった。
さらに目を瞑って聖人になるまで変身スト○ンガー。
﹁ただいま戻りました﹂
﹁うん、おかえりなさい⋮⋮﹂
菩薩のような顔で船室に戻り、ヒーリングを掛ける機械になる。
1046
﹁⋮⋮あれ? ルーデウス、何か食べた?﹂
﹁え?﹂
﹁すんすん⋮⋮変な匂いがするわ⋮⋮﹂
手を洗うのを忘れていました。
てへぺろ。
−−−
船から降りると、エリスはすぐに元気になった。
﹁もう船には乗りたくないわね!﹂
﹁いえ、ミリス大陸から中央大陸まで、もう一度乗る必要がありま
す﹂
それを聞いたエリスは、あからさまにげんなりした。
そして、船での事を思い出し、不安そうな顔になった。
﹁ね、ねえ。その時は、またずっとヒーリングしてくれる?﹂
﹁いいけど、今度はエッチなことをするかもしれません﹂
真面目に言った。
本当に切実だ。
生殺しを耐え続けるのは拷問なのだ。
﹁う⋮⋮なんでそんなイジワル言うのよ!﹂
イジワルではない。
1047
これは本当に辛いのだ。
目の前に御馳走を用意され、待てを強要される犬の気持ちがわか
る。
腹の中はスッカラカンで、あたしを食べてと御馳走が言ってくる
のだ。
水を大量に飲んで一時的に空腹を満たしても、意味はない。
御馳走は無くならず、腹はまたすぐに空っぽになる。
﹁エリスが可愛いから、僕も我慢するので必死なんです﹂
﹁⋮⋮しょ、しょうがないわね。
次の時は、ちょっと触るぐらいなら、いいわよ?﹂
エリスの顔は真っ赤だった。
実に可愛いことだ。
だが、彼女の﹁ちょっと﹂と俺の欲望は大きさが違いすぎる。
﹁残念ながらちょっと触るぐらいじゃ済みません。
ぐっちゃぐっちゃにされる覚悟が出来てから言ってください﹂
エリスは絶句した。
あまり期待させるような事は言わないでほしい。
俺に約束を守らせてほしい。
約束を破って手なんか出したら、どうせ後でお互い嫌な気分にな
るんだからさ。
﹁とりあえず、行きましょうか﹂
﹁う、うん。わかったわ﹂
エリスの切り替えは早く、意気揚々と町の方に向かって歩き出し
た。
1048
目の前には、ウェンポートとよく似た町並みが広がっている。
ここがザントポート。
ミリス大陸北端の町。
ミリス大陸だ。
ようやくここまできた。
そして、まだまだ先は長い。
﹁ルーデウス、どうしたの?﹂
﹁いえ、なんでもありません﹂
先の長さは忘れよう。
とにかく大切なのは、次の町を目指す事だ。
﹁さてと﹂
密輸品の受け渡しは夜だ。
両替も魔大陸ですでに済ませてある。
冒険者ギルドに行く必要はない。
まずは宿を取ろう。
そこで、船旅で疲れた体を休ませるのだ。
それから、ゆっくりとルイジェルドを迎えにいくとしよう。
−−−
1049
こうして、俺達はミリス大陸へと移動した。
1050
第三十八話﹁倉庫の中の悪魔﹂
港町ザントポート。
そこはウェンポートとよくにた町並みをしている。
坂の多い町並みで、街中よりも港の方に活気がある。
冒険者ギルドが町の中心よりも港よりの場所にあるのもそっくり
だ。
だが、いくつか違う点もある。
まずウェンポートよりも木造建築の数が多い。
それらは潮風対策なのか、カラフルな塗料が塗られている。
町には街路樹も立ち並んでおり、町の外には遠くを見ればうっそ
うとした森が見える。
緑が多いのだ。
白、灰色、茶色ばかりだった魔大陸から見ると、目がチカチカし
そうなほどに。
海を一つ隔てるだけで、まるで別世界のようだった。
それにしても、さすがミリス大陸というべきか。
道行く人々の姿も、荒唐無稽で雑多な印象を受ける魔族では無く、
獣族と人族、長耳族や炭鉱族、小人族といった、
人に近しい見た目をした種族ばかりだ。
さて、宿を探すに関して、まずは現在の所持金を確認。
魔大陸での通貨では、
緑鉱銭2枚 鉄銭18枚 屑鉄銭5枚、石銭3枚。
1051
これだけ持っていた。
これを両替すると、
ミリス銀貨3枚、ミリス大銅貨7枚、ミリス銅貨2枚。
となった。
予想していたよりちょっと少ないが、手数料として取られたらし
い。
ギルドに加入していないモグリの両替商に厄介になると、もっと
取られるのだろう。
なら、これぐらいは許容範囲だ。
﹁宿は冒険者ギルドに近いところがいいですね﹂
﹁そうね、依頼も請けないといけないもんね﹂
明日からは、また一週間ほど滞在して、依頼と一緒にデッドエン
ドの名前売りだ。
話によると、ミリス大陸では﹃デッドエンド﹄という存在はあま
り知られていないらしい。
ネームバリューが使えなくなる日が近いかもしれない。
そう思いつつ、ギルド近辺の宿を探す。
しかし不思議なことに、手頃な値段の宿は満室ばかりだった。
こんなことは初めてだ。
満室は何度かあったが、まさかほとんどの宿が満室だとは。
まさか祭りか何かでもあるのだろうか。
そう思って宿屋の主人に聞いてみる。
1052
﹁もうすぐ雨季がくるからな。めぼしい宿はどこも満員だろうよ﹂
とのこと。
雨季というのはミリス大陸﹃大森林﹄特有の天候で、
三ヶ月ほど大雨が降り続く。
大森林は大洪水で、街道ももちろん通れない。
なので、この時期は長期で宿を取るお客さんが多いのだとか。
普通なら、雨季にこんな場所に足止めされるのは避けるはず。
と、思うところだが、
なんでも、雨季にしか出没しない魔物が町の方まで流れてくるら
しい。
そして、そいつの素材は高く売れる。
なので、この時期に町に滞在する冒険者は多いらしい。
俺たちにも恩恵のある話だ。
ここで三ヶ月みっちりと金稼ぎに勤しみ、
これからの旅費を稼ぎまくるのだ。
ついでにルイジェルドの名前も売る。
そうしてスタートダッシュを決めれば、ミリス大陸での旅も楽に
なるだろう。
と、それも獲らぬ狸のなんとやら。
現在は金もそれほど余裕は無く、宿も見つからない。
空き部屋がありそうなのは、
普段より高い宿か、あるいはずっとランクの低い宿。
無い袖は触れないので、前者はダメ。
1053
結果として、あまりよろしくない連中の住む場所。
ありていに言えば、スラム近辺の宿を取ることになった。
一泊、大銅貨3枚。
食事他、各種サービスは無し。
安いが、寝るだけの場所としては悪くない。
魔大陸では、これよりもっと酷い宿に何度も泊まった。
とはいえ、これから三ヶ月も生活すると考えるなら、
金がたまり次第、どこかに移ったほうがいいだろう。
﹁ふうん、まあまあの宿ね!﹂
エリスは一応貴族の令嬢のはずだが、建物の古さやサービスの悪
さは気にしない。
むしろ、俺が文句を言うぐらいだ。
﹁僕としては、もうちょっと良い所に泊まりたいです﹂
﹁ルーデウスはワガママね﹂
エリスに言われたくないよ。
と、言い返せない。
よくよく考えてみれば、このお嬢様はその昔、
羽虫だらけ、かつ馬糞臭い馬小屋の藁の上で熟睡していた。
胸を揉まれてもなお、熟睡していた。
転生してもなお温かいベッドでぬくぬくしていた俺とは違う。
なので、俺も我侭は言うまい。
俺にできるのは、ベッドに魔術で熱風を送り込んでダニを死滅さ
せることぐらいだ。
1054
その後、部屋の掃除もササッと済ませておく。
俺も綺麗好きというわけではない。
正直、散らかっている方が好きだ。
けれども、こういう宿には、たまに前に泊まった人の忘れ物があ
る。
ベッドの隙間にお金が一枚落ちていたり。
小さな指輪が落ちていたり。
金はそのまま拾得してしまえば問題ないが、
指輪などはたまに冒険者ギルドに依頼として出されているときが
ある。
もし見つけたら金を払う、というその依頼はランクに関係なく完
了できる。
基本的にははした金だが、たまに大金をもらえるらしい。
なので、俺はきっちり掃除をする。
忘れ物はどこですかー。見つけにくいものですかー。
なんちゃって。
その間、エリスは桶を借りてきて簡単な洗濯。
さらに装備の手入れをサッと済ませる。
全てが終わる頃には、日が落ち始めていた。
﹁エリス、そろそろルイジェルドを迎えに⋮⋮﹂
いきましょうか。
と言いかけて、ふと、この宿の場所を思い出した。
スラムが近い。
治安が悪い。
魔大陸でもスラム付近の宿には泊まったことがある。
1055
依頼で外に出ている間に、あっさりと泥棒に入られた。
その時はルイジェルドが痕跡を発見、
追跡してきついお仕置きをしてやったが、
盗まれた物はすでに他の人物の手に渡っており、戻ってこなかっ
た。
その時盗まれたのは大したものではない。
また、今回も貴重品をおいて出るつもりはない。
だが、防犯対策はきっちりしておくべきだろう。
﹁行ってきますので、留守番をお願いします﹂
﹁留守番? 私は行っちゃだめなの?﹂
﹁そういうわけではありませんが、ここらへんは治安が悪そうなん
で﹂
﹁別にいいじゃない、たいしたものは無いんだから﹂
なんてことだ。
エリスの防犯意識が低すぎる。
日用雑貨でも盗まれると困るのだ。
あんまりお金に余裕がないから。
ここはきっちりと、防犯に対しての意識をすり込んでおかなけれ
ば。
﹁いいんですか? 洗濯したてのパンツが盗まれるかもしれません
よ?﹂
﹁そんなの盗むのはルーデウスぐらいよ!﹂
ぐうの音も出なかった。
1056
⋮⋮だがなエリス。
俺は洗濯後のパンツを盗もうとした事は一度もないんだぜ?
−−−
俺は一人、夜の町を歩いていた。
エリスを説き伏せるのに時間が掛かってしまった。
防犯は本当に大事なんだがね。
さて、受け渡し時間は夜という事だが、正確な時間は指定されて
いない。
日没後ならいつでもいいし、数日ぐらいなら預かってもらえるら
しい。
もっとも、現在のルイジェルドは奴隷扱いである。
最低限、維持するだけの事はしてくれるだろうが、
この一週間、ルイジェルドもひどい扱いを受けたかもしれない。
ロクな飯だって出なかっただろう。
ということは、お腹もすいているだろう。
人はお腹が空くと怒りっぽくなるからな。
はやく迎えにいってやらないと。
俺はルイジェルドの槍を片手に、波止場へと移動した。
密輸品の受取り場所、保管場所は巧妙に隠されているらしい。
波止場の端。
木造の大きな倉庫が4つ並んでいる。
1057
﹃第三倉庫﹄と書かれたところへと、俺は入り込む。
モヒカン
中では、一人の男が黙々と倉庫内を掃除していた。
世紀末で最も一般的な髪型だ。
彼に、﹁よう、スティーブ。渚のジェーンは元気かい?﹂と尋ね
る。
そう言えと仲介人に言われたからだ。
モヒカンは俺を見て訝しげな顔をした。
﹁なんだ坊主、なにか用か?﹂
はて、合言葉を間違えただろうか。
違うな、俺が子供だから、信じていないのだ。
﹁主人の使いで、積荷を受け取りにきました﹂
そういうと、モヒカンは合点がいったらしい。
静かに頷くと、﹁ついてこい﹂と、倉庫の奥に足を向けた。
俺は無言でそれに付き従い、倉庫の奥へ。
倉庫の奥には、人が五人ぐらい入りそうな大きな木箱。
モヒカンはその中から松明を一本取り出し、箱を動かす。
箱の下から階段が現れた。
階段を降りると、じめじめした洞窟だった。
モヒカンは松明に火をともし、先へと進む。
俺は滑る足元に気をつけつつ、彼に続く。
一時間ほど洞窟が続く。
洞窟を抜けると、森の中に出た。
どうやら町の外であるらしい。
1058
そこからまたしばらく歩くと、木々に隠れるように、一軒の大き
な建物があった。
倉庫らしくない見た目で、金持ちの別荘という感じだ。
あれが保管場所か。
こんな森の中に家なんか建てて、魔物に襲われたりはしないのだ
ろうか。
﹁わかっていると思うが、ここの事は他言するな。
他言すれば⋮⋮﹂
﹁わかっていますよ﹂
俺はこくりと頷いた。
むこう
この場所を誰かに口外すれば、必ずや探しだして殺す。
そういう説明は、魔大陸の仲介人から受けている。
そんな事をわざわざ口約束で守らせるぐらいなら、血判状か何か
でも書かせた方がいいと思う。
どうしてやらないのだろうか。
⋮⋮指紋の無い種族がいるからか。
ま、お互い文章として残しておきたくないだろうしな。
証拠は作らないに限る。
モヒカンが入り口をノック。
トントントトン、トントトン。
このノックの仕方にもルールがあるのだろう。
しばらくして、中から執事服を着た白髪の男が顔を出した。
男はモヒカンと俺の顔を確認すると、﹁はいれ﹂と短く言った。
中に入る。
1059
真正面に二階への階段。その脇に二つの廊下。左右にも扉がある。
ありていに言えば、屋敷のロビーのような場所だ。
ロビーの端には丸テーブルがあり、
あまりガラのよくなさそうな男たちが、テーブルに肘をついてい
た。
なんだかピリピリしている。
と、白髪の執事が、俺を見下ろし、いぶかしげな視線を送ってく
る。
﹁誰の紹介だ?﹂
﹁ディッツです﹂
ディッツとは仲介人の名前である。
﹁ディッツか。それにしても、こんな子供を使いに出すとは、用心
深い奴だ﹂
﹁扱う品が品ですからね﹂
﹁そうだな、はやく持っていってくれ。怖くて敵わん﹂
白髪執事はそう言いつつ、懐からかぎ束を取り出し、そのうちの
一つをモヒカンに渡す。
﹁202の部屋だ﹂
モヒカンは静かに頷き、歩き出す。
俺もそれに付いていく。
キィキィと鳴る床の音と、どこからか聞こえるうめき声のような
1060
もの。
時折漂ってくる、獣の臭い。
ふと、鉄格子のはまった部屋があったので、中を覗いてみる。
ぼんやりと光る魔法陣の中に、でかい獣が鎖につながれて寝そべ
っていた。
暗くてよくわからないが、あんな獣は魔大陸では見たことがない
な。
ミリス大陸の生物だろうか。
﹁この建物には、ミリス大陸から魔大陸へと密輸する商品も置いて
あるんですか?﹂
﹁ああ﹂
ふと聞いてみると、モヒカンは答えてくれた。
隠す必要はないんだろうか。
モヒカンは奥にあった階段から下へと降りていく。
202なので2階かと思ったが、地下らしい。
﹁地下なんですね﹂
﹁上はダミーだ﹂
なんでも地上には、見つかっても困らないような品がおいてある
らしい。
そして、地下には関税ではかなり金を取られたり、
密輸すると重罪にあたる品が置いてあるのだとか。
﹁ここだ﹂
1061
モヒカンは202というプレートの掛かった扉に。
そこには後ろ手を縛られ、頭にやや緑の毛が生え始めたルイジェ
ルドが座っていた。
さすがに一週間ともなると、うっすらマリモヘッドだ。
﹁ご苦労さまです﹂
俺の言葉にモヒカンは頷くと、部屋の入り口に立った。
一応、見張り役なのだろうか。
﹁手錠はここでは外すなよ。
スペルド族に暴れられたらかなわんからな﹂
そう口にするモヒカンの顔は若干青ざめていた。
緑色の髪というのは、例え坊主頭でも効果的らしい。
ここであっさり手錠を外し、ルイジェルドに言う事を聞かせたら
もっとビビるだろうか。
いやいや、そんなジャイの威を借るスネみたいな真似はすまい。
さて、そういえば鍵はどこにしまったかな。
懐を探ってみると、どこにもない。
⋮⋮宿に忘れたかもしれん。
めんどくさいから魔術で開錠するか。
と、ルイジェルドに近づくと、彼は険しい表情をしていた。
やはり人はお腹がすくと怒りっぽくなるな。
まってろ、今すぐ腹いっぱい飯を⋮⋮。
﹁ルーデウス、耳を貸せ﹂
1062
ルイジェルドが、ぽつりと呟いた。
﹁なんですか?﹂
と、俺が言われるがまま顔を近づけると、モヒカンが慌てたよう
に言った。
﹁お、おい、やめとけ。食いちぎられるぞ﹂
大丈夫。
ルイジェルドならあま噛みで勘弁してくれるさ。
と、心の中で適当にコメントしつつ、俺はルイジェルドに耳を寄
せる。
﹃子供が捕らえられている﹄
ほう。
﹃獣族の子だ。無理やり攫われたようだ。
ここにいても泣いている声が聞こえる﹄
﹃⋮⋮ほう﹄
子供。奴隷だろうか。
この世界の奴隷制度については、正直よくわかっていない。
何がよくて何が悪いのか、判別がつかない。
ここで奴隷を助けるのが、彼らにとって本当に良いこととなるの
か⋮⋮。
生活に困って親に売られた子供なら、親元に送り返されても迷惑
になるだけだろう。
1063
﹃助けたい﹄
とはいえ。
ルイジェルドにとって、子供とは大切なものだ。
状況がどうこうは関係ないのだ。
残念だったな、密輸人。
まさかルイジェルドがいるときに子供を誘拐してしまうとは。
﹃建物の中には結構な数の用心棒がいます﹄
﹃わかっている﹄
﹃密輸人は組織で動いています﹄
﹃反対なのか⋮⋮?﹄
ルイジェルドが﹁信じられん﹂という顔をしている。
裏切られたような顔だ。
でも、今、裏切ろうとしてるのは俺たちだ。
﹃彼らはしっかりと仕事をしてくれました。これは裏切りに当たる
んじゃないんでしょうか﹄
﹃⋮⋮⋮⋮構わん。子供が助かるのなら、俺は裏切り者の汚名を受
けよう﹄
﹃汚名を受けるのはルイジェルドさんだけじゃなくて、スペルド族
ですよ?﹄
﹃む⋮⋮だが⋮⋮だがな⋮⋮﹄
そんな顔すんなよ。
助けないとは言ってないだろ?
俺も言っちゃったしな。
我慢できなくなったら言ってくれって。
1064
子供ぐらい助ける余裕はあるって。
その手前、聞かないわけにはいかないだろ。
﹃今すぐ助けたいのなら、
外に情報が漏れないようにしないといけませんね﹄
﹃ルーデウス⋮⋮!﹄
俺の言葉に、ルイジェルドは顔をほころばせた。
今回は、ルイジェルドの好きにやらせよう。
一週間も閉じ込められてたんだ。
鬱憤も溜まっているんだろう。
とはいえ、もし、一人でも逃せば、
スペルド族が暴れた、という情報が密輸組織に届くだろう。
スペルド族を密輸した俺たちの名前は、
密輸組織にきちんと覚えられているはずだ。
密輸組織は裏切った顧客には、子飼いの暗殺者を送り込む。
裏切り者には無残な死が待っている。
と、仲介人が言っていた。
ルイジェルドがいれば暗殺者程度は大したことは無い。
だが、枕を高くして眠れないのはよろしくない。
ルイジェルドが常にいるとも限らないしな。
さて、どうやって情報を漏らさずに事を収めるか⋮⋮。
﹃その事なら安心しろ﹄
﹃何か案がありますか?﹄
1065
﹃この建物にいる人数なら誰も逃さん。皆殺しだ﹄
ヒュー、さすがルイジェルドだ。
頼れる言葉だね。
確かに皆殺しにすれば解決だ。
でも、ちょっと短絡的じゃありませんかね。
﹃どうしても許せない相手なんですか﹄
﹃⋮⋮ああ、今にもハラワタが煮えくり返りそうだ﹄
ルイジェルドがすごい怒っている。
なんだ、何やったんだ密輸人。
﹃何が起こったのか、聞いても?﹄
﹃お前も、子供たちの様子を見ればわかる﹄
見ればわかると言われてもな。
﹃後で子供たちだけ助けにくる、という方法もありますが⋮⋮﹄
﹃奴らの話を聞いた。明日にでも子供たちを船に乗せ、魔大陸に運
ぶつもりだ﹄
明日じゃダメか。
しかし、皆殺しか。
皆殺しはちょっとな。
他に方法があるはずだ。
殺さずに済む、もっとスマートな方法が⋮⋮。
﹃安心しろ、お前は手を汚さなくともいい﹄
1066
その言葉で、俺は動きを止めた。
﹃いえ⋮⋮﹄
ルイジェルドの言葉は、俺の心に小さなトゲとなって刺さった。
﹃僕も⋮⋮やりますよ?﹄
確かに。
俺はこの一年間、人殺しを避けてきた。
魔物はいくらでも殺した。
人型をした魔物も殺した。
けれども、殺人はしなかった。
する理由がなかったというのもある。
しない理由が多かったのもある。
けれど、誰かに対して殺意を持った事がないのも事実だ。
この世界はシビアだ。
人と人との殺し合いも日常的に行われている世界だ。
俺も、いずれ、誰かを殺すこともあるだろう。
そういう状況はいつか訪れるはずだ。
覚悟はしている。
できている。
そのつもりだった。
けれども、俺がやった事と言えば、岩砲弾の威力調節だ。
高すぎる威力で人を殺してしまわないため、
殺さない程度に術の威力を下げたのだ。
1067
結局、俺は人を殺すことに抵抗があるのだ。
口ではなんと言っても、俺は殺人という禁忌を犯したくないのだ。
覚悟なんてできていないのだ。
そして、ルイジェルドはそのことを察してくれている。
だから、わざわざこんな事を言ってくれているのだ。
気を使ってくれているのだ。
﹃そんな顔をするな。
お前の両手は、エリスを守るためのものだろう﹄
⋮⋮まあ、いいか。
無理して誰かを殺す事なんてないよな。
今日は胸を借りるとしよう。
ルイジェルドが一人で出来るというのなら、まかせよう。
ヘタレで結構。
俺は俺に出来る事をする。
﹃わかりました。では、僕は子供たちを解放してきます。
どこにいるかわかりますか?﹄
﹃二つ隣の部屋だ。七人いる﹄
﹃わかりました。死体はどこかにまとめておいてください。
あとでまとめて燃やしましょう﹄
﹃わかった﹄
俺は無言でルイジェルドの手枷を外した。
肩を鳴らしつつ、ゆっくりと立ち上がるルイジェルド。
1068
﹁なっ、お前! どうやって手枷を!﹂
慌てるモヒカン。
﹁大丈夫ですよ。ちゃんと言うことは聞いてくれますから﹂
﹁ほ、ほんとうか?﹂
俺の言葉に、モヒカンはやや安堵の表情を見せる。
ルイジェルドに槍を手渡した。
﹁もっとも、暴れないわけじゃないんですがね﹂
﹁えっ?﹂
モヒカンが最初の餌食だった。
ルイジェルドは音もなくモヒカンにトドメを刺すと、音もなく階
段へと走っていった。
俺はそれと反対方向。
子どもたちが捕らえられているという部屋に向かう。
﹁ギャアアアァァァァァ!﹂
﹁ス、スペルド族だ! 手枷がはずれてるぞ!﹂
﹁くそっ! 槍までもってやがる!﹂
﹁悪魔だ! あぁぁ、悪魔あぁぁ!﹂
俺が扉にたどり着く頃、一階から悲鳴が聞こえはじめた。
今宵のルイジェルドは血に飢えておる。
なんちゃって。
1069
ていうか。
攫ったのは別の奴だろうし、密輸人は悪くないんだよね。
悪いのは運だけ。
1070
第三十九話﹁獣族の子供たち﹂
その部屋は暗かった。
暗闇の中で、全裸の少年少女が不安げな顔で身をよじっていた。
それぞれ違った獣耳をしている。
子供ばかりが七名。
少女が四名、少年が三名。
歳は俺と同じぐらいか。
全員が全裸+手錠+猿轡+獣耳orエルフ耳。
全員が後ろ手に手錠を掛けられ、身を縮こませている。
幼気な少女が全裸で手錠。
まさか、こんなものを本当に見る日が来るとは思わなかった。
眼福なんてもんじゃない、若き日の観音様じゃないか。
これが桃源郷。
いや、天国か。
俺はとうとう、天国に至ったのか。
緑の赤ん坊とか見つけてないんだけど!
と、喜びかけて、気付いた。
一人を除いた全員に泣いた跡があり、
また何人かの顔には青黒い痣があった。
1071
頭が冷えた。
泣いて、喚いて、うるさいと殴られたのだろう。
エリスが攫われた時もそんな感じだったしな。
この世界では、さらってきた子供に対する遠慮とかは無いのだ。
そして、その遠慮無しの拷問を、
ルイジェルドが二つ隣の部屋で聞いていたわけだ。
我慢できないわけだ。
とりあえず、パッとみた感じ、性的な暴行を受けた形跡はない。
まだ幼いせいか、それとも商品価値を落とさないせいか。
どっちでもいいことだが、不幸中の幸いといった所だろう。
いつもの俺なら、全裸の少女たちを見て、
おっぱいの一揉みぐらいは許される、とか思う所だ。
だが、現在の俺は、ちょっとばかし痴力が低い。
船から降りる前に賢者に転職したばかりだからな。
もっとも、知力の方は上がってないが。
不自由な少年少女たち。
少女のうち、三人は涙を流し、今もなおエグエグと泣いている。
少年のうち二人は俺を見て怯えた表情を見せ、一人は倒れて虫の
息だ。
とりあえず、まず倒れている少年にヒーリングを掛ける。
そして彼の手錠を外す。
猿轡はきつく結ばれていた。
1072
外せない。
仕方ないので焼ききった。
ちょっと火傷させてしまったが、仕方ない。
男の子だし、我慢してもらおう。
残り二人の少年にもヒーリングを掛け、手錠を外す。 ﹁あ、あの⋮⋮あなたは⋮⋮?﹂
獣神語だった。
唐突に別言語で話しかけられたので、ちょっと戸惑う。
しかし、獣神語はちゃんと習得している。
ギレーヌとの会話を思い出しつつ、話す。
﹁助けにきました。三人で部屋の入り口を見張っていてください。
誰かきたらすぐに教えてください﹂
三人は不安そうに顔を見合わせる。
﹁男の子なら、それぐらい出来るだろ?﹂
そう言うと、三人はキッと顔を引き締めて頷き、扉の方に走った。
この言葉に他意は無い。
別に視界に女子だけが入るようにしたいとかいう意味はない。
ルイジェルドが上で暴れている。
なので人は来ないはずだ。
けど、万が一はありうる。
俺は部屋にはいる前に魔眼を開眼。
1073
一秒先を見えるように設定してある。
が、後ろを向いていると見えないからな。
奇襲対策だ。
俺は少女たちの手錠を外していく。
おっきいのもあり、小さいのもある、そこに貴賎はない。
俺は平等に鑑賞し、そして手錠を外すのだ。
決して無意味に触ったりはしない。
今宵のルーデウスは紳士と思っていただきたい。
そして、殴られた跡のある子にヒーリングをしておく。
お楽しみのじか⋮⋮ごほん。
治療の時間だ。
ヒーリングは手を触れないといけない。
だから、他意は無い。
胸のあたりに痣がある子がいるけど、本当に他意は無い。
この子は肋骨が折れているじゃないか、大変だ。
っと、この子は大腿骨が折れてるじゃないか。
まったく酷いことをするぜ。
﹁⋮⋮⋮﹂
少女たちは手で自分たちの体を隠しながら立ち上がった。
猿轡は自分で外していた。
心なしか気の強そうな猫耳の子に睨まれてる気がする。
﹁助けてくれて⋮⋮ひっく⋮⋮ありがとう⋮⋮﹂
犬耳の子が、恥ずかしそうに身を隠しながらお礼を言う。
1074
もちろん、獣神語だった。
﹁一応聞いておきますけど、
言葉通じてますよね?﹂
獣神語で聞いてみる。
全員が頷くのを見て、ほっと一息。
ちゃんと喋ることが出来ているらしい。
さて、ルイジェルドの方はまだか。
殺戮現場に彼らを連れていくわけにも行かない。
変なトラウマを植えつけてしまいかねない。
なので、もう少しここでこの光景を見て⋮⋮。
じゃなくて、話を聞いておこう。
﹁どうしてここに連れてこられたか、聞いてもいいですか?﹂
﹁ニャ?﹂
この中で、最も気が強そうな猫耳の子にたずねてみる。
彼女は七人の中で、唯一泣いた跡が無い。
その代わり、体中に痣があった。
体中が打撲と骨折。
いつぞやのエリスほどではないが、一番重症だった。
二番目は最初に助けた少年だ。
ただ、少年と違い、少女はその眼から力を失っていなかった。
エリスより気が強いかもしれない。
いや、多分彼女は当時のエリスより年上だ。
同い年なら、ウチのエリスも負けてないはずだ。
1075
うん、何張り合ってんだ俺は。
ちなみに、この子のOPパワーはこの全員の中で二番目に高い。
かなり生意気な感じに育つと予想できる。
ちなみにOPパワーナンバーワンはさっきの犬耳だ。
この歳でこのレベルなら、将来はかなりだらしなくなるはずだ。
まったくけしからん。
﹁森で遊んでいたら、いきなり変な男に捕まったニャ!﹂
衝撃を受けた。
ニャ!
語尾にニャ!
本物のニャ!
エリスのモノマネとは違う。
この子は本物の獣族ニャンだ。
獣神語だからそう聞こえるわけじゃないぞ。
彼女は確かに、語尾にニャをつけている。
ベリーグッドだ。おっぱいを揉みたい。
じゃなくて。
﹁と言うことは、全員が無理矢理攫われてきたってことですね?﹂
感動を抑えて冷静に聞くと、一同こくりと頷いた。
よろしい。
生活が大変で親に売られたとか。
1076
生きていけないので自分を売ったとか。
彼らがそういう立場であったのなら、
俺たちのしたことはありがた迷惑になる。
よかった。
これは人助けだ。
本当によかった。
ちゃんと働いてくれた密輸人を裏切るだけの結果にならなくて、
本当によかった。
﹁終わったぞ﹂
ルイジェルドが戻ってきた。
いつしか、頭はマリモではなくなっており、額には鉢金が巻かれ
ていた。
服は綺麗なもんだった。
返り血は一切浴びていないらしい。
さすがだね。
﹁お疲れ様です。
ついでに、彼らの服を探しましょう。
このままだと風邪を引いてしまいます﹂
﹁わかった﹂
﹁みなさん、少し待っていてください﹂
俺たちは手分けして、彼らの服を探す。
しかし、子供服の類は無かった。
攫った時に服を剥いで捨てたのだろうか。
何のために?
1077
よくわからない。
子供を全裸にする理由も謎だ。
とりあえず、密輸品と思わしき服を見つけた。
サイズはデカすぎるが、これを着せるべきだろうか。
いや、こういう品から足がつくかもしれない。
やめておこう。
服がない。
切実だ。
服が無ければ服屋にも行けないからな。
ふと窓の外を見ると、死体が山積みにされていた。
全員、心臓と喉を一突きだ。
昔はこれを見て恐ろしいと思ったが、今はむしろ頼もしい。
しかし、意外に量が多いな。
血の匂いがすごい。
魔物が寄ってきそうだ。
早めに焼いとくか。
そう思い、建物の外に出た。
死体を前に、火弾を作り出す。
火弾。
大きさは、半径5メートルぐらいでいいか。
火の魔術は火力を大きくすると、なぜかサイズも大きくなる。
肉の焦げる匂いとか嗅ぎたくない。
一発で消し炭にするような感じで焼く。
1078
すると、火力が強すぎたせいで、ちょっと建物と周囲に火が移っ
た。
すぐに水魔術で鎮火。
危ない危ない、放火魔になるところだった。
﹁ルーデウス。終わったぞ﹂
死体を燃やしていると、ルイジェルドが建物から出てきた。
子供たちも一緒だ。
子供たちはと見ると、きちんと服を着ている。
服というか、羽衣みたいな感じだった。
﹁その服、どこで見つけたんです?﹂
﹁カーテンを斬った﹂
ほう。頭いいなお前。
おじいちゃんの知恵袋かね。
−−−
建物の入り口においてあった松明に火をつけ、
子供たちにそれぞれ持たせる。
町までのルートは、先程とは違う道を通る事にした。
他の密輸人に見つかったら困るのもあるが、
あの道は恐らく、魔物に襲われないためのものだ。
俺たちには関係ない。
1079
﹁ニャー!﹂
と、猫耳少女が、突然声を上げた。
にゃー、にゃー、にゃーと、暗がりに声が響いた。
﹁どうしました?﹂
あまり騒ぐなよ、と思いつつ聞いてみる。
﹁にゃあ! さっきの建物に、犬はいなかったかニャ!?﹂
猫耳少女はルイジェルドの足に縋りついた。
表情からは必死さが伺える。
﹁いたな﹂
﹁なんで助けてくれなかったのニャ!﹂
そういえば、いたな。
あれ、犬だったのか。
かなりでかかったが。
﹁お前たちが先だ﹂
ルイジェルドに非難の目が集まった。
おいおい。
自分たちが助けてもらったのに、その目はないだろう。
﹁言っておきますけど、
君たちを助けると言い出したのは彼ですからね﹂
﹁そ、それには感謝してるニャ。だけど⋮⋮﹂
1080
﹁感謝してるんなら、お礼の一つも言ってください﹂
俺がそう言うと、彼らはそれぞれ頭を下げた。
よろしい。
彼らはもっと感謝するべきだ。
﹁僕が今から引き返して助けてきます。
ルイジェルドは彼らを連れて町へ﹂
﹁わかった、どこへ連れていけばいい?﹂
﹁町に入る前ぐらいで待っていてください﹂
そう言って、俺は道を引き返す。
どこに連れて行く、か。
ふむ。
難問だな。
ルイジェルドが密入国したとバレずに、
そして密輸組織にルイジェルドが生きていると知られないで、
かつ子供を親元に送り届ける方法。
例えば、冒険者ギルドに﹁子供を保護したので、親を探している﹂
という依頼を出すのはどうだろうか。
子供は冒険者ギルドに預かってもらえばいい。
いや、いかんな。
そんな大々的に依頼を出したのでは、密輸組織にバレてしまう。
依頼を出すときは、必ず依頼人の名前が残るからな。
そこからたどれば、俺達が密輸組織を使ったとしられてしまう。
1081
子供たちを衛兵に預け、俺達はさっさと町をでるというのはどう
だろう。
いや、事情聴取でルイジェルドと俺のことがバレるな。
密輸組織に知られる。
それに、もうすぐ雨期が来るという話だ。
町を出ても、行く場所がない。
いっそ、毒をくらわば皿まで。
密輸組織を壊滅させてしまおうか。
いや、相手の組織の規模もわからないからな。
そもそも、それ以前に、
俺達が誘拐犯だと間違われる可能性もあるのか。
うーむ。
これは、ちょっと。
早まったかもしれんな。
いっそ、誰かになすりつけるか。
うん。
それがいいかもしれない。
壁に﹁魔界大帝キシリカ参上﹂とか書いておけば、
案外信じるんじゃないだろうか。
キシリカも何かあったら頼れと言っていたからな。
﹁っと﹂ 建物についた。
結局、考えはまとまらなかった。
1082
どうしたもんか⋮⋮。
−−−
先ほど、魔法陣を見た部屋へと移動する。
俺が入ると、そいつは胡乱げな眼で迎えてくれた。
尻尾を振ることもなく、吠えることもない。
ぐったりとしている。
﹁確かに犬だ﹂
魔法陣の中で鎖に繋がれていたのは子犬だ。
子犬と一目でわかるのに、サイズがやたらとでかい。
2メートルぐらいある。
なんでこの世界の犬猫はみんなでかいんだ。
一目みた時、毛並みは白だと思ったが、どうやら銀色であるらし
い。
光の加減だろうか、キラキラと光って見える。
銀色の豆柴、ラージサイズって感じだ。
なかなかお上品で賢そうな顔をしている。
﹁いま助けますので⋮⋮いでぇ!﹂
と、魔法陣の中に入ろうとして、弾かれた。
バチンという感じではない。
なんというか、痛覚をそのまま刺激された感じだ。
1083
どうやら、この魔法陣は結界になっているらしい。
結界といえば、治癒魔術の一種だ。
俺はまったく原理を知らない。
﹁ふむ﹂
とりあえず、魔法陣の周囲を回って、観察してみる。
魔法陣は青白い光を放っており、ボンヤリと部屋を照らしている。
光っているという事は、つまり魔力が通っているということだろ
う。
魔力の供給源を絶てば、魔法陣は消える。
それはロキシーに習った。
典型的な魔術的トラップの解除方法だ。
魔力供給源といえば、魔力結晶だ。
だが見たところ、魔力結晶のようなものは見当たらない。
いや、きっと見当たらないだけだろう。
どこかに隠してあるのだ。
多分、地中だな。
土魔術で地中から魔力結晶を引き抜くか。
こういった魔法陣は、無理矢理かき消すと、何が起こるかわから
ない。
なんとかして綺麗に抜き取らないと⋮⋮。
ん、まてよ。
まてまて。
もっと簡単に考えろ。
1084
そもそも、奴らはどうやってこの魔法陣から犬を出すつもりだっ
たんだ?
死体をみた感じ、魔術師風の男はいなかった。
初心者でも簡単に出来る解除方法があるはずだ。
それを考えよう。
まず、魔力結晶の場所。
俺は、地中にあると考えた。
しかし、地中にあったのでは、奴らは取り出せない。
取り出せる場所⋮⋮。
しかし魔力供給の出来る場所⋮⋮。
﹁ふむ、下でないなら上かな?﹂
俺は建物の二階に上がってみた。
魔法陣のちょうど真上の部屋。
そこには、小さな魔法陣と、木で出来たカンテラのような物がお
いてあった。
カンテラの真ん中には、魔力結晶と思わしきもの。
よろしい。
一発で見つけられるとは運がいい。
俺はカンテラを慎重に持ち上げてみる。
すると、地面の魔法陣がスッと消えた。
一階に降りてみる。
魔法陣がなくなっていた。
1085
よしよし。
﹁ウー⋮⋮!﹂
犬に近づくと、彼は威嚇の眼を俺に向けて、唸った。
俺は昔から動物には好かれない。
いつもの事だ。
子犬の様子をじっと観察する。
力を込めて唸ってはいるものの、
やはり体に力が入らないらしい。
ぐったりとした印象をうける。
空腹のせいだろうか。
いや、あの鎖が怪しいな。
近づいてみると、何やら文様が刻まれている。
とりあえず、外してやるか。
いや、危ないか?
この鎖が犬の力を抑制しているのなら、外した瞬間襲い掛かられ
るかもしれない。
多少なら噛まれてもヒーリングで治せばいいが⋮⋮。
﹁どうやったら噛まないでもらえますかね?﹂
なんとはなしに、聞いてみる。
すると、俺の言葉がわかるのか、子犬は﹁ウー?﹂と首をかしげ
た。
ふむ。
1086
﹁噛まないなら、その首輪外して主人の所に返してあげますけど、
どうします?﹂
獣神語でそう言うと、犬は唸るのをやめて、大人しく地面に寝そ
べった。
言葉がわかるらしい。
異世界ってのは便利だね。
とりあえず、魔術で鎖を断ち切る。
すると、犬の体に力が戻ったように感じた。
すぐに立ち上がって走りだそうとするのを、俺は止める。
﹁まてまて、首輪がまだです﹂
すると、犬は俺を見て、また素直に寝そべった。
首輪を外してやるべく頑張ってみる。
鍵穴が見当たらない。
鍵穴が無ければ、解錠が使えない。
おかしい、どうやって外すつもりだったんだ?
外すつもりがなかったのか?
と、悪戦苦闘。
なんとか繋ぎ目を発見した。
どうやら、パッチンってやるとハズレなくなるタイプらしい。 ﹁今外してやるから、動くなよ﹂
俺は慎重に、土の魔術で繋ぎ目の間に土を発生させ、押し開くよ
うに外した。
1087
バキンと音がして、首輪が外れた。
﹁よし﹂
子犬はブルブルと首を振った。
﹁ウォン!﹂
﹁うおう﹂
そして、俺の両肩に前足を掛けると、その重い体重で唐突に押し
倒してきた。
無様に転がる俺。
ベロベロと顔を舐められる。
﹁ウォン!﹂
ああん、だめよワンちゃん、あたしには妻と夫が⋮⋮!
銀色の毛玉を押しのけようとしてみるが、
なかなかに重く、そして柔らかくてふかふかだった。
ふわふわのふかふかだった。
それはいいんだが。
重い。
乗っかられた胸がミシミシと言っている。
どかすのは難しそうだ。
舐められるのはしょうがないと諦め、
犬が飽きるまで、毛の感触を楽しむことにした。
1088
うん。ふかふかだ。
ナウでヤングな言い方をすれば、モフモフだ。
柔らかい⋮⋮。
お前、これ柔軟剤使っただろ?
えぇ∼、使ってないっすよ∼。
−−−
﹁貴様、聖獣様に何をしているか!﹂
﹁え?﹂
毛玉を堪能していると、唐突に叫び声を掛けられた。
密輸人に生き残りがいたのか、と寝転んだままで上を見上げる。
チョコレート色の肌と、獣っぽい耳と、虎っぽい尻尾。
ギレーヌ⋮⋮?
いや、違う。
よく似ていたが、違う。
そして筋肉と毛深い所は一緒だが、ちょっと違う。
一番大きい部分が違う。
胸だ。
胸が無いのだ。
男だ。
1089
男は口元に手を当てている。
ウララー、なポーズ。
あ、やばい。
何かされる。
逃げないと。
しかし、動けない。
﹁ワンちゃんどいて、そいつから逃げられない!﹂
犬がどいた。
慌てて立ち上がる。
予見眼を開眼。
ビジョンが見える。
<男は口元に手を当てている>
何もしていないのか。
と、思った瞬間、男が咆哮した。
﹃ウオオオオォォォォォン!﹄
圧倒的な音量。
エリスの金切り声の数倍はありそうな音量。
それは質量を持っているようにも感じられた。
鼓膜がビーンと震えた。
脳が揺れた。
気付けば、俺は地面に倒れていた。
1090
立てない。
まずい。
ヒーリングを⋮⋮。
手も動かん。
なんだこれ、魔術の一種なのか?
やばい。
やばいやばいやばい。
殺される。
魔術は使えないのか。
魔力を集中して⋮⋮あかん。
男に胸ぐらを捕まれ、持ち上げられた。
俺の顔を見た男は、むっと眉根を寄せた。
﹁ふん⋮⋮まだ子供か。
殺すには忍びないな﹂
あ、助かるっぽい。
ほっとする。
子供の姿でよかった。
﹁ギュエス、どうした?﹂
そこに、もう一人、男が現れた。
やはりギレーヌによく似た、しかし白髪。
老人だ。
﹁父上。密輸人の一人を無力化しました﹂
﹁⋮⋮密輸人? 子供ではないか﹂
1091
﹁ですが、聖獣様に襲いかかっていました﹂
﹁ふむ﹂
﹁聖獣様を撫で回しながら、いやらしい笑みを浮かべていました。
もしやすると、見た目通りの年齢ではないのかもしれません﹂
ち、違うよ。僕は11歳だよ。
決して体感年齢45歳のオヤジじゃないよ!
﹁ウォン!﹂
犬が吠える。
すると、ギュエスと呼ばれた男は犬の前に膝をついた。
﹁申し訳ありません聖獣様。
本来ならばすぐに馳せ参じる所、少々救出が遅れてしまいました﹂
﹁ワン!﹂
﹁まさか、聖獣様の御身をこんな男の手で⋮⋮くっ⋮⋮﹂
﹁ワン!﹂
﹁え? 気にしていない? なんと寛大な⋮⋮﹂
話が通じているのだろうか。
ワンワン言ってるだけなんだが。
﹁ギュエス、階下の部屋にトーナたちの臭いがあった。
ここにいたことは間違いないはずだ﹂
と、老人が言った。
トーナとは誰だろうか。
話から察するに、獣族の子供だろうが。
1092
﹁⋮⋮この少年を村に連れ帰り、聞き出しましょう﹂
﹁そんな暇はない。明日には最後の船が出る﹂
ギュエスは﹁ぐっ﹂と歯噛みした。
﹁⋮⋮諦めるしかない。
聖獣様を助け出せただけでも僥倖と考えねば﹂
﹁⋮⋮こいつはどうします?﹂
﹁村に連れて帰る。何か知っているかもしれん﹂
ギュエスは頷くと、腰からロープを取り出し、俺の後ろ手を縛っ
た。
肩に担がれる。
ギュエスの後ろから、犬がちょこちょこと付いてくる。
心配そうに見上げてくる。
大丈夫。
心配するな。
こいつらは密輸人ではないらしい。
先ほどの子供たちを助けにきた存在だ。
だから、話せばわかる。
話せるようになるまで待つだけだ。
﹁む⋮⋮﹂
外にでた所で、老人の方が鼻をひくつかせた。
﹁臭いがあるな﹂
﹁臭い、ですか? 血の臭いが濃くて自分には⋮⋮﹂
1093
﹁かすかにある。トーナたちの臭いだ。
それと、もう一人、例の魔族の臭いだ﹂
例の臭い、と言うとギュエスが表情を険しくした。
﹁例の魔族が、ここにいたトーナたちを攫ったと?﹂
﹁さてな。案外、助けてくれたのかもしれんぞ﹂
﹁まさか、ありえません⋮⋮﹂
どうやら、彼らはルイジェルドの臭いを嗅ぎとったらしい。
﹁ギュエス。儂は臭いを追う。
お前はその小僧と聖獣様を連れ、一旦村にもどれ﹂
﹁いえ、自分も行きます﹂
﹁お前は短気すぎる。その小僧とて、密輸人ではないかもしれんで
はないか﹂
さすがご年配の方はいうことが違う。
そうです。
私は密輸人ではありません。
弁明をさせてください。
﹁だとしても、聖獣様に汚い手で触っていたのは間違いない事です。
この少年から、発情した人族の臭いがします。
聖獣様に性的な興奮を催していたのです、信じられないことに﹂
ピギャー!
違います。
犬になんて欲情してないです!
いたいけな少女たちの裸で⋮⋮。
1094
いや、それもヤバイのか!
﹁ならば、牢屋にでも入れておけ。
ただし、儂が帰るまでは手を出すなよ﹂
﹁ハッ!﹂
老人は一つ頷くと、暗い森へと走りだした。
ギュエスはそれを見おくると、俺に一言。
﹁ふん、命拾いしたな﹂ はい、本当に。
﹁では聖獣様。少々走ります、お疲れの所かと思いますが⋮⋮﹂
﹁ワン!﹂
﹁ですね!﹂
ルイジェルド視点
−−−
そして、俺はギュエスに担がれ、森の奥へと運ばれていった。
−−−
町の近くまできたが、ルーデウスが戻ってこない。
まさか、迷ったのか?
いや、それなら空に魔術の一つでも撃つはずだ。
なら、何かトラブルがあったか。
1095
あの建物の人間は全て排除した。
だが、新手が別の場所から移動してきて、鉢合わせたのかもしれ
ない。
今からでも戻って確かめるべきだろうか。
いや、ルーデウスは子供ではない。
例え敵が現れたとしても、なんとか対処出来るはずだ。
まだ若いせいか脇が甘い部分があるが、
敵地で油断するほど甘い男ではないはずだ。
今なら周囲にエリスもいない。
ルーデウスが本気で魔術を使えば、誰にも負けはすまい。
問題は、人を殺すのに抵抗があるところか。
ヘタに手加減をして、返り討ちに合う可能性が高い。
ルーデウスは心配いらないが⋮⋮。
しかし、困った。
このまま子供たちを連れて町に行っても、嫌な予感しかしない。
似たようなことは何度もあった。
奴隷商から子供を助け、町に連れて行ったら、俺が攫ったと勘違
いされたのだ。
今は髪は剃り、額の目も隠している。
だが、俺は口下手だ。
衛兵に呼び止められれば、うまく説明できる自信がない。
いつもの様に町に置き去りにすれば、町の人間がなんとかしてく
れるだろうか。
1096
いや、それではルーデウスに何と言われるか⋮⋮。
﹁ニャー、お兄さん、さっきはすまなかったニャ﹂
悩んでいると、少女の一人が、ぱしぱしと太ももを叩いてきた。
他の子供たちも、申し訳なさそうだ。
それを見ているだけで、救われた気分になる。
﹁構わん﹂
それにしても、獣神語を使うのも久しぶりだ。
以前に使ったのは、さて、いつだったか。
ラプラス戦役の頃に憶えてから、あまり使わなかったが⋮⋮。
﹁セイジュー様は一族の象徴ニャから。
あんな所に置き去りにしたらいかんのニャ﹂
﹁そうか。知らない事とはいえ、すまなかった﹂
そう言うと、少女はにこやかに笑った。
やはり、子供に怯えられないのはいい。
﹁む⋮⋮﹂
と、そのとき、俺の﹃眼﹄は急速に接近する何者かの気配を捉え
た。
かなり速く、力強い気配だ。
建物の方から来ている。
奴らの仲間か。
かなりの手練れだ。
1097
まさか、ルーデウスを倒したのか⋮⋮?
﹁下がっていろ﹂
俺は子供たちを下がらせ、槍を構えて前に出る。
先手必勝。
一撃で仕留める。
と、思ったが、奴は俺のリーチに入る前に足を止めた。
獣族の男だ。
鉈のような肉厚の剣を持っている。
俺を見て警戒心を顕にし、静かに構えた。
年老いてはいるが、どっしりと落ち着いた重厚な気配を感じる。
戦士だ。
だが、もし先ほどの連中の仲間というのなら、殺そう。
自分の種族の子供をこんな目に合わせるなど、戦士の風上にもお
けん。
﹁あ、じいちゃんだニャ!﹂
猫の少女が声を上げ、老戦士に駆け寄っていった。
﹁トーナ! 無事だったか!﹂
老戦士は飛び込んでくる彼女を受け止め、安堵の表情を作った。
それを見て、俺は槍を下ろした。
この戦士は、どうやら攫われた子供を助けにきたらしい。
戦士の風上にも置けないと疑って、悪かった。
1098
誇り高き男だ。
犬の少女も知り合いらしく、駆け寄っていく。
﹁テルセナも無事か。よかった⋮⋮﹂
﹁あっちの人が助けてくれたんです﹂
老戦士は剣を収めると、俺の前まできて頭を下げた。
しかし、まだ警戒はしているようだ。
当然だろう。
﹁孫娘を助けてもらったようだな﹂
﹁ああ﹂
﹁名はなんと?﹂
﹁ルイジェルド⋮⋮﹂
スペルディアだ。と答えようとして、躊躇した。
スペルド族と知られれば、相手は警戒する。
﹁ルイジェルドか。儂はギュスターブ・デドルディア。
この礼は必ず致そう。まずは子供たちを親元へ送り届けねば﹂
﹁そうだな﹂
﹁じゃが、子供たちに夜道をあるかせるのも危険だ。
詳しい話も聞かせてもらいたい﹂
老戦士はそう言うと、すぐに町に向かって歩き出そうとした。
﹁待て﹂
﹁どうした?﹂
﹁建物の中は見たのか?﹂
1099
﹁うむ。血の臭いばかりで気が滅入ったがな﹂
﹁誰もいなかったか?﹂
﹁一人残っていたぞ。子供のようなナリをした男がな。
いやらしい笑みで聖獣様を撫で回していたそうだ﹂
ルーデウスだ、と直感的に悟った。
あの男はたまにそういう笑みを浮かべる。
﹁あれは俺の仲間だ﹂
﹁なんと!﹂
﹁まさか、殺したのか?﹂
例え誤解でも。
ルーデウスを殺されたのなら、俺は復讐を果たす。
その前に、子供だけは親に送り届ける。
エリスもだ。
そうだ。今はエリスが一人か。
心配だ。
﹁他の仲間の居場所を吐かせるべく捕らえた。
すぐに身柄を解放させよう﹂
ルーデウスめ、油断したか。
あの男は、いつも脇が甘い。
心構えだけは一流だが⋮⋮。
いや、言うまい。
俺が言ってはいかん。
俺はその心構えすら三流だ。
1100
今回、全ての悪事に眼を瞑るつもりだったが、耐えられなかった。
子供が拷問を受けていて、我慢できなかった。
ルーデウスが捕らえられたのは俺の我儘のせいだ。
すぐに助けにいくべきか。
⋮⋮いや。
﹁ルーデウスは戦士だ。
死んでいないのであれば、急がずともいい。
まずは子供たちを優先しよう﹂
獣族には人族のような拷問はない。
せいぜい裸に剥いて牢屋に放り込む程度だ。
ルーデウスは裸を見られる事に抵抗のない男だ。
先日も、﹁エリスが僕の水浴びを覗こうとしても止めないでいい﹂
と、ワケのわからん事を言っていた。
耐えられるだろう。
それに、エリスの事もある。
ルーデウスは俺によくエリスの護衛を頼む。
自分の身より、エリスを案じているのだ。
ならば、俺もエリスを守るべきだろう。
もう少しだけ、ルーデウスに負担を掛けさせてもらおう。
﹁俺はゆえあって、正体を明かせん。
お前が主導で子供たちの親を探してほしい﹂
﹁ふむ⋮⋮了解した﹂
ギュスターヴは頷き、俺たちは町を目指した。
1101
第四十話﹁無料アパート﹂
こんにちは。元ヒキニートのルーデウスです。
私は本日、いま話題の無料アパートへときています。
敷金礼金ゼロ。
家賃ゼロ。
二食昼寝付きの1ルーム。
建材は温かみのある木材、ブナっぽい何か。
ちょっと日当たりが悪くて、ベッド︵藁製品︶に虫が湧いている
のが難点ですが、それでもこのお値段は安い。
なにせ、家賃ゼロ、ですからね。
トイレは最新のツボ式。
部屋の隅にあるツボに用を足し、ツボに排泄物が溜まったら、部
屋の隅の穴に捨てるセルフタイプ。
水道はなく、衛生面に少々難がありますが、魔術が使えれば問題
ありません。
特に、私のように熱湯を出せる魔術師であれば、衛生面の問題も
解決と言えるでしょう。
食事は二回。
現代人には少々物足りないかもしれません。
しかしながら、この食事はなかなかのもの。
緑の多い土地特有の、野菜や果物。そして肉。
味付けは薄く、素材の味を生かした料理は、魔大陸での生活に慣
れた者なら、誰もが舌鼓をうつことでしょう。
1102
さて、このアパートの目玉。
それはなんと言っても、安心のセキュリティ構造。
見てください、この堅牢な鉄格子。
コンと叩いてみても、グッと引っ張ってみても、ビクともしませ
ん。
魔術で解錠すると開いてしまうのは難点ですが。
この頼もしい鉄格子を見て、中に入りたいと思う泥棒はいないで
しょう。
でも、犯罪者は入ってくるんです。
牢屋ですもん。
−−−
俺はあの後、暗い森の中を運ばれた。
ギュエスの背中で身動きせず、ただただ運ばれた。
暗い森、凄まじいスピードで木々が流れていく。
視界の端には、銀色の毛玉がついてきている。
まだ子犬だというのに、随分と体力があるらしい。
移動時間は二、三時間といった所だろうか。
かなり長い時間、ギュエスと呼ばれた獣族の戦士は走っていた。
そして、どこかに到着し、その足を止めた。
﹁聖獣様は家に戻っていてください﹂
﹁わふん﹂
1103
銀色の毛玉は一声返事をすると、トコトコと闇へと消えていった。
目だけを動かし、周囲を探る。
木々の密集しているそこに人の気配は少ないように感じる。
ただ、木の上に、チラホラと明かりが見えた。
ギュエスはまたしばらく歩き、木の一つに近づいた。
俺を肩に担いだまま、どこかのハシゴに手を掛け、スルスルと登
っていった。
どうやら、木の上に運んでいるらしい。
建物の中に入る。
誰もいない、ガランとした木造の小屋。
そこで、俺はギュエスに衣類を全て剥ぎ取られた。
まさか、動けない俺にナニを⋮⋮。
と、一瞬だけ思ったが、
ギュエスは俺の首根っこを掴み、ポンとどこかに投げ入れた。
少し遅れて、ギィーと金属の軋む音が聞こえ、ガチャンと何かが
落ちた。
そして、ギュエスはいなくなった。
何の説明もなかった。
特に尋問もされなかった。
しばらくして体が動くようになり、指に火を灯して周囲を確認。
堅牢な鉄格子を見て、ここが牢屋であることがわかった。
俺は牢屋にぶちこまれたのだ。
それはいい。
それは話の流れから理解できていた。
1104
俺は密輸人と間違われたのだ。
だから、慌てることはない。
誤解はすぐにでも解けるだろう。
しかし、なぜ衣服を全て剥がされたのだろうか。
そういえば、あの小屋の子供たちも全裸だった。
そういう文化なのだろうか。
獣族は全裸にされると屈辱とかあるんだろうか。
⋮⋮いや、全裸にして恥ずかしいのは獣族に限らないか。
古来より、捕虜は裸にして心を折れと言われている。
ここはファンタジックな世界だが、
俺の愛読書でも、捕虜になった女騎士が全裸に剥かれていた。
どこの世界でも共通なのだ。
暗がりの中、俺は考える。
とりあえず、明日にでも話を聞いてもらおう。
もし、仮にそこで納得してもらえずとも、問題ない。
あの後、どうやら老戦士はルイジェルドを追っていったらしい。
となれば、子供たちと鉢合わせになるはずだ。
ルイジェルドは誤解されやすいが、
子供を助けにきた戦士と敵対するような事はないはずだ。
子供たちは無事に助かり、俺が密輸人だという誤解も解ける。
どちらにせよ、俺の身は安全だ。
老戦士も、自分が戻るまで尋問だか拷問はするなと言っていた。
だから安全だ。
多分、触手をけしかけられたりすることなんて無い⋮⋮よね?
1105
−−−
と、そんな事を考えて、丸一日が経過した。
時間が経つのは早いものだ。
牢屋にぶちこまれた日の朝、見張り番の人が現れた。
女性だった。
戦士風の格好をしていたが、
ギレーヌよりもスラッとしていた。
ただし胸はでかい。
俺は彼女に﹁冤罪です、僕は何もやっていない﹂と主張した。
密輸組織とは関係なく、偶然あの建物に子供たちが捕まってる事
を知り、
義憤にかられて子供たちを助けたのだと説明した。
しかし、見張り番の女は聞く耳を持ってくれなかった。
桶一杯の水を持ってくると、騒ぐ俺にぶっかけた。
冷水だった。
彼女は濡れネズミになった俺を、ゴミを見るような目で見下ろし
て、言った。
﹁変態が⋮⋮!﹂
ブルっときた。
すごい拷問だと思った。
1106
全裸に剥いて、こんな綺麗な獣耳のお姉さんに視姦させ、
あまつさえ冷水をぶっ掛けて、言葉攻めまで付いてくるとは。
これは心が折れる。
こいつらは老戦士の言いつけを守るつもりなんか無いのだ。
俺はどうなってしまうのだろうか⋮⋮。
ロキシー
おまえ
くっ、神よ、俺を守りたまえ⋮⋮。
⋮⋮いや、人神は引っ込んでいていいよ。
﹁ぶぇっくしょん!﹂
冗談はさておき。
フォーム
何か着るものが欲しい。
この格好はフリーダムすぎて人としての常識を忘れそうだ。
とりあえず、風邪を引く前に火魔術﹃バーニングプレイス﹄で体
を温めておいた。
−−−
2日目。
ルイジェルドが助けにきてくれない。
2日も全裸のままだと、不安が鎌首をもたげてくる。
ルイジェルドに何かあったのだろうか。
あの老戦士と戦いになってしまったのだろうか。
それとも、密輸人との事がこじれたのだろうか。
1107
あるいは、エリスの身になにかあって、それの対処に追われてい
るのか。
不安だ。
実に不安だ。
なので、脱走を検討してみる。
昼下がり、飯の後、俺は静かに魔術を使った。
風と火をミックスさせた、温風の魔術である。
これで部屋全体をポカポカと暖かくする。
見張りの人は、次第にうとうととし始め、クークーと眠りはじめ
た。
チョロい。
俺は鉄格子を解錠し、そろそろと外へと出てみる。
人がいないことを確認しつつ、建物から出る。
そこには、幻想的な風景が広がっていた。
木の上に町があった。
建物は全て木の上にあり、木々には足場が組まれている。
木と木は橋のようなもので繋がっており、
下に降りなくても村中を行き来できるようになっている。
地面には特に何もない。
簡素な小屋や畑の跡のようなものが見えているが、使われてはい
ないようだ。
地面では生活しないのだろうか。
1108
人はそれほど多くなかった。
木の上の足場を、チラホラと獣族っぽい人たちが歩いているのが
見える。
木の上の橋を通れば下から丸見えで、下を通れば上から丸見え。
そして俺は、あらゆる意味で丸見え。
見つからずに逃げる事は難しいだろう。
もっとも、見つかった所で、逃げる事は出来る。
後先を考えないのなら、どこか手頃な木に火でもつけ、
その混乱に乗じて、森へと飛び込めばいい。
しかし、森だ。
道がわからない。
ギュエスはかなりの速度を走っていた。
町まではかなりの距離がある。
俺が全力で走ったとしても、直線距離にして、6時間といった所
か。
迷うのがオチだ。
魔術で土の塔を作り出し、高い位置から位置を確認する、という
手もある。
だが、そんな目立つことをしていれば、すぐにギュエスが追って
くるだろう。
奴が使った魔術の正体もわからない。
対策も取らずに戦えば、また負けるかもしれない。
そして、次は逃げられないように足とか斬られるかもしれない。
もう少し、状況の変化を待った方がいいかもしれない。
まだ二日だ。
1109
老戦士も、まだ戻ってきていない。
ルイジェルドたちと、子供の親を探しているのかもしれない。
焦ることはない。
俺はそう判断し、牢屋の中へと戻った。
−−−
3日目。
門番さんの持ってくる飯がうまい。
さすが自然の多い所だと違うな。
魔大陸とは段違いだ。
基本的はよくわからない草のスープと、
クズ肉っぽい何かの固め焼きって感じだが、
どちらもうまい。
魔大陸での食事に慣れたせいだろうか。
牢屋にいる相手への食事でこれだ、
きっとここの集落の連中はよほどうまいものを食っているに違い
ない。
一応褒めてみると、門番さんはおかわりを持ってきてくれた。
反応を見るに、この人が作ってくれているのかもしれない。
もっとも、やはり口は聞いてくれない。
−−−
1110
4日目。
暇だ。
することがない。
魔術を使って何かをしてもいいが、
あまり目立つようにやると、猿轡とか手錠とか付けられそうだ。
付けられた所でどうってことは無いが、
わざわざ自分から不自由になることをすべきではない。
−−−
5日目。
ルームメイトが出来た。
外が騒がしいと思ったら、冒険者風の男が牢に叩きこまれたのだ。
獣族の屈強な男に両脇を抱えられて、蹴り転がされるようにして
入ってきた。
﹁ちくしょう! もっと丁寧に扱いやがれ!﹂
獣族は喚く男を無視し、外へと出ていった。
男は打ち付けた尻を﹁イテテ﹂と撫でながらゆっくりと振り返っ
た。
俺は涅槃仏のポーズで、彼を出迎えた。
﹁ようこそ。人生の終着点へ﹂
1111
もちろん全裸である。
男はギョっとした顔で俺を見ていた。
冒険者風の男。
全体的に黒っぽい服装で、関節各所だけ皮のプロテクターをつけ
ている。
当然ながら、武器の類は持っていない。
もみあげが長く、ル○ンみたいなサル顔だ。
もっとも、サル顔というのは比喩ではない。
彼は魔族なのだ。
﹁どうした? 新入り。何か不思議なことでもあるのか?﹂
﹁い、いや、なんていうか﹂
男は狼狽した顔で、俺を見ていた。
恥ずかしいじゃないか、そんなに見つめるなよ。
﹁⋮⋮裸なのに、随分偉そうなんだな?﹂
﹁おい新入り、口の聞き方に気をつけろよ。
俺はここにきてお前より長い。
つまり牢名主で、先輩だ。敬えよ﹂
﹁お、おう﹂
﹁返事はハイだろうが﹂
﹁はい﹂
なんで俺は初対面相手にこんなに偉そうにしているんだろうか。
暇だからだ。
﹁残念ながら座布団は無い、そこらへんに適当に座れ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
1112
﹁で、新入り。お前はなんでブチ込まれたんだ?﹂
ぞんざいな口調で聞いてみる。
新入りは年下に生意気な口を聞かれて怒るかとおもいきや、
唖然とした顔で、俺の問いに答えてくれた。
﹁や、イカサマがバレてよ﹂
﹁ほう、ギャンブルか。ジャンケンかね? 鉄骨渡りかね?﹂
﹁なんだそりゃ。サイコロだよ﹂
﹁サイコロか﹂
きっと、4・5・6しか出ないサイコロを使ったんだろう。
﹁つまらん罪で捕まったもんだな﹂
﹁そっちの罪は?﹂
﹁見てわかるだろ? 公然わいせつ罪だよ﹂
﹁なんだそりゃ﹂
﹁裸で銀色の子犬を抱きしめたら、ここにブチ込まれたのさ﹂
﹁あ、噂になってたぜ。
ドルディアの聖獣が性獣に襲われたって﹂
うまいことを言う奴がいるようだね。
もっとも、それは冤罪だ。
まあ、こいつに主張した所でしょうがないか。
﹁愛らしい生き物への獣性⋮⋮新入り、お前も男ならわかるだろ?﹂
﹁わかんねえよ﹂
男の俺を見る目が、得体のしれないものを見る目に変わった。
いや、変わってないか、最初からか。
1113
﹁で、新入り、名前は?﹂
﹁ギースだ﹂
﹁大佐か?﹂
﹁たいさ? いや、冒険者だ、一応な﹂
ギース。
はて、どこかで聞いた事があるような気がする。
どこだったか。
思い出せない。
まあ、似たような名前は多そうだが。
﹁俺はルーデウスだ。
お前より年下だが、ここでは先輩だ﹂
﹁へいへい﹂
ギースは肩をすくめながら、ごろんとその場に横になり、
ふと、顔を上げた。
﹁ん? ルーデウス。どっかで聞いたことあるな﹂
﹁どこにでもある名前だろうが﹂
﹁ハッ、ちげえねえ﹂
涅槃仏が向かいあわせになった。
もっとも、片方は全裸だ。
おかしな話だ。
この牢屋で最も偉い俺様が裸で、新入りが服をきているんだ?
おかしな話じゃないか。
﹁おい新入り﹂
1114
﹁なんだよ先輩﹂
﹁そのベスト、暖かそうだな。くれよ﹂
﹁はぁ⋮⋮?﹂
ギースは露骨に嫌そうな顔をしながら、
しかし、毛皮のベストを脱いで、俺に放ってくれた。
意外と面倒見のいい人なのかもしれない。
﹁あ、どうもありがとうございます﹂
﹁礼は言えるんだな﹂
﹁そりゃもう。何日もフリーダムスタイルでしたからね。久しぶり
に人として復活した気分ですよ﹂
﹁敬語はやめろよ、先輩﹂
かくして、俺は江戸時代の鼻たれ小僧のような格好になった。
見張り番の人がムッとした顔をしていたが、特に何も言われなか
った。
﹁このベストから、新入りのぬくもりを感じるなり⋮⋮﹂
﹁おい、お前もしかして、男もイケるとかいうんじゃねえだろうな﹂
﹁そんなまさか。女の子なら下は12、上は40までイケますけど。
男は女の子みたいな顔をしてないと無理ですよ﹂
﹁女みてえな顔してりゃいけるのか⋮⋮﹂
ギースは信じられないという顔をしていた。
でも、こいつだってきっと、好みの女がエクスカリバーを引き抜
いたアーサーだったらマーリンになるのさ。
性的な意味でな。
﹁ところで新入り。少し聞きたい事がある﹂
1115
﹁なんだよ﹂
﹁ここはどこ?﹂
﹁大森林、ドルディア族の村の牢屋だ﹂
﹁あたしはだれ?﹂
﹁ルーデウス、犬コロに手を出す全裸の変態だ﹂
もう全裸じゃないんだがね。
あと、冤罪だよ。
俺は変態じゃない。
﹁で、そのドルディア族の村で、魔族のお前がなんでギャンブルに
精をだしてたわけ?﹂
﹁ああん。昔の知り合いがドルディア族だったから、もしかすっと
いるかと思って尋ねたんだよ﹂
﹁いたのか?﹂
﹁いなかったよ﹂
﹁いなかったけど、ギャンブルしちゃう? イカサマやっちゃう?﹂
﹁バレねえと思ったんだがなあ﹂
ダメだこいつ。
でも、役に立つかもしれないな。
﹁新入り。おまえ、イカサマ以外に何が出来るんだ?﹂
﹁なんでも出来るさ﹂
﹁ほう、例えば、ドラゴンを素手でぶちのめすとか?﹂
﹁いや、そういうのは無理だ。俺は喧嘩は弱ぇんだ﹂
﹁例えば、百人の女を同時に相手取るとか?﹂
﹁一人だけで十分だな、多くても二人だ﹂
最後に、声を潜めて、見張り番の人に聞こえないように、ぽつり
1116
と言う。
﹁例えば、ここから逃げ出して町までたどり着けるとか?﹂
言うと、ギースは身体を起こし、ふと見張り番を見てから、頭を
ボリボリと掻いた。
そして、顔を寄せてくる。
ひそひそと。
﹁お前、逃げるつもりか?﹂
﹁仲間が来てくれないので﹂
﹁ああ⋮⋮そりゃなんつうか、残念だったな﹂
おいやめろ。
その言い方だと、まるで見捨てられたみたいじゃねえか。
ルイジェルドは俺を見捨てたりなんかしないやい。
きっと今頃、何か大変な事が起こってるんだい。
俺の助けを待ってるんだい。
﹁一人で逃げろよ。俺は関係ねえ﹂
﹁最寄りの町まで道がわからないんだよ﹂
﹁どうやってここまで来たんだよ﹂
﹁密輸人に捕まっていた子供を助けて﹂
﹁助けて?﹂
﹁ついでに繋がれていた子犬の首輪を外してたら、
いきなり獣族の男がやってきて叫び声を上げられて、
動けなくなった所を捕らえられました﹂
ギースは、よくわからんという顔をして頭を掻いた。
ちょっと説明不足だったかもしれない。
1117
﹁あー、ってーと、あれか、冤罪か?﹂
﹁冤罪だ﹂
﹁なるほど。そりゃ、逃げたいよなあ﹂
﹁ですとも、ぜひ、お力を﹂
﹁やなこった。なんでお前に力を貸さなきゃならんのよ。
俺はすぐ出られるんだよ、お前と違ってな﹂
なんで、と言われてもな。
さっき言ったじゃないか。
道がわからないからだ。
森の中で死ぬまでさまようとか勘弁だしね。
ほぼ全裸だし。
﹁ま、冤罪なら大丈夫だろ。わかってくれるさ﹂
﹁そうだといいけどね﹂
俺が思うに、あのギュエスってのは人の話を聞かないタイプだ。
けど、俺が子供を助けたのも事実。
子供が戻ってくれば、自ずと俺の冤罪も晴れる。
﹁じゃあ、もう少し待つか﹂
﹁そうしろそうしろ。逃げたってロクな事はねえよ﹂
ギースはそう言って、またゴロンと寝転がった。
こいつがそう言うなら、もう少し待つか。
幸い、俺の方にはまだ余裕がある。
いざとなれば、このへん一帯を火の海にすれば、逃げ切れない事
1118
もない。
ドルディア族には悪いが、冤罪で捕まえたのは向こうだ、お互い
さまだ。
子供の親を探すのに手間取っているだけだと思うがね⋮⋮。
−−−
6日目。
︵ただし人力︶だし、
このアパートは実に住み心地がいい。
飯は出てくるし、空調は完備
ちょっとすることが無いと思っていたが、話し相手も出来た。
寝床は虫だらけだったが、現在は温風の魔術で綺麗に殺虫済み。
トイレだけは相変わらずアレだが、
俺の排泄物を獣耳のお姉さんが処理してくれていると考えれば、
興奮の一つもする所だ。
しかし、やはり不安はある。
情報が入ってこないというのは、実に不安だ。
捕らえられて、もうすぐ一週間だ。
さすがに遅すぎるのではないだろうか。
何かトラブルがあったと考えるのが普通だろう。
ルイジェルドが解決できないようなトラブル。
俺が行って何の助けになるかわからない。
もう手遅れかもしれない。
1119
けど、行かないわけにもいかない。
明日。
いや、明後日だ。
明後日まで待とう。
明後日になったら、この村を焼け野原に⋮⋮。
するのは、ちょっと申し訳ないので、
見張りの人を人質にとって、逃げよう。
−−−
7日目。
今日で牢屋生活は最後だ。
俺は心の奥底であれこれと計画を練りつつ、
しかし表面上はのんべんだらりと食っちゃ寝している。
﹁そういや新入り﹂
俺はいつも通りの山賊スタイルで横になりつつ、ギースに尋ねた。
﹁なんだよ﹂
﹁この村の牢屋って、ここだけなのか?﹂
﹁なんでそんな事を聞く﹂
﹁いや、普通は牢屋に意味もなく二人もぶちこんだりしないだろ?﹂
﹁この牢屋は、普段は使われてねえのよ。
普通の犯罪者は、ザントポートに送られるからな﹂
1120
犯罪者はザントポートへ。
この牢屋に入れられるのは、ドルディア族にとって特殊な犯罪者
だけってことか。
俺は密輸人と間違えられ、しかも聖獣様を獣姦しようとしたとい
う冤罪までついている。
聖獣というぐらいだから、きっとこの村にとって特別な存在なの
だろう。
まさに特別な犯罪者だ。
でもまてよ。
﹁じゃあ、なんでお前はこの牢屋に入れられたんだ?
イカサマで捕まったんだろ?﹂
﹁知らねえよ。村内での小さな出来事だからだろ?﹂
﹁そういうもんか﹂
﹁そういうもんだ﹂
ちょっと違和感を覚えつつ。
俺はポリポリと脇を掻いた。
そして、ボリボリと腹を掻く。
ついでに背中もボリボリ。
なんか痒いな。
そう思って、地面を見ると、ピョンと。
一匹のノミが飛び跳ねていた。
﹁うおおぉぉ! このベスト、虫が湧いてんじゃねえか!﹂
﹁ん? おお、随分洗ってないからな﹂
﹁洗えよなぁ!﹂
俺はベストを脱ぎ捨てた。
1121
バサバサと振ると、ボロボロと虫が落ちてきた。
すぐに熱風で死滅させる。
ゴミムシどもが⋮⋮。
﹁おー、この間から見て思ったけど、それすげえな。どうやってん
だ﹂
﹁無詠唱で魔術使ってんだよ﹂
﹁⋮⋮へえ。無詠唱。そりゃすげえな﹂
ああ、虫に集られたと思うと、無性に全身が痒くなってきた。
とりあえず、刺された場所を一つずつヒーリング。
しかし、背中が。
地肌にそのまま着ていたせいでむっちゃ刺されてるっぽい背中が。
手が届かない。
うおお。
﹁おい新入り﹂
﹁なんだ﹂
﹁こっちにきて背中を掻け、痒くて敵わん﹂
﹁へいへい﹂
俺があぐらを掻いて座ると、ギースが後ろにきた。
ボリボリと掻いてくれる。
﹁ああ、そこ、そこだ。いいなお前、才能あるよ﹂
﹁言ったろ? なんだって出来るのよ。
なんだったら、肩でも揉んでやるよ﹂
そう言いながら、ギースは俺の肩に
1122
やばい、こいつ手馴れてる。
思わず、背筋がピンとなる。
﹁おお、うまいなお前、気持ちいいぜ、ああ、次はもっと下の方だ、
んふー、そこそこ⋮⋮ん?﹂
ふと。
ふと、視線を感じた。
横をみてみる。
鉄格子の外に、七人ほど、人が立っていた。
まず、ギレーヌにちょい似の獣族の老人。
ギレーヌに激似の獣族のお兄さん。
ずっと俺を見張っていた、見張り番のお姉さん。
俺の方を指さして笑っている猫耳の少女。
俺の方を見て顔を覆いつつ、指の隙間から見ている犬耳の少女。
そして、頭がツルピカリンのスペルド族のお兄さんと、
俺の服とローブ、そして杖を持った、ボレアス家のご令嬢。
﹁ルーデウス⋮⋮男同士で、何やってるの?﹂
エリスが、すっげぇ冷めた目で見ていた。
俺の今の格好。
ギースに後ろから肩を掴まれて、背筋をピンと。
そう、まるで尻を突き出すような格好をしていた。
尻の先には、ギースの股間がある。
﹁誤解です﹂
1123
−−−
二人の少女の証言により、俺は釈放された。
誤解と冤罪の方はすぐにとけました。
ちなみに、ギースはまだちょっと檻の中みたいです。
1124
第四十一話﹁ドルディアの村のスローライフ・前編﹂
牢屋から出ると、外は豪雨だった。
雨期がきたのだ。
これから三ヶ月、集中的な豪雨が続くらしい。
地面は洪水のようになり、まともに歩けなくなる。
ゆえに大森林に住む者たちは、木の上で暮らすのだ。
−−−
今回の誘拐事件は、かなり特殊なケースであったらしい。
密輸組織の企てた大規模な誘拐作戦。
彼らはドルディアの守り神たる聖獣を誘拐する計画を立てた。
どうしてそんなものを攫おうと思ったのかは、わからない。
だが、聖獣は特別な生き物だから、手に入れたいと思う者も多い
らしい。
さて、聖獣を普通に誘拐するのは難しい。
仮に拐えたとしても、鼻の効く戦士たちに猛追され、すぐに取り
返される。
そこで、密輸組織は雨期を狙った。
1125
雨期は三ヶ月続く。
そのため、どこの集落も準備で忙しくなる。
各村の戦士たちも手一杯である。
また、雨期の最中は船を出すことが出来ない。
つまり、雨期が来る直前に聖獣を誘拐し魔大陸へと運んでしまえ
ば、
戦士たちに追いかけられることなく、完璧に逃げ切ることが出来
る。
もちろん、獣族だって警戒はしている。
雨期の準備中、子供は外に出ないようにと言いつけ、大人も警戒
する。
言うまでもなく、聖獣だってきっちりと守られている。
なので、密輸組織はさらに一計を案じる。
まず、周辺の人攫いたちを全て雇い、時期を待つ。
そして、ある時期に各地を襲撃し、一斉に女子供を攫わせた。
戦士たちは慌てた。
今年は誘拐の被害が少ないと気が緩んでいた所、
いろんな集落の子供が一斉に攫われたのだ。
さらに、密輸組織は事前に用意しておいた武装集団を使い、各地
の集落を攻撃した。
この時、ドルディア族の村に被害はなかった。
ドルディア族の戦士たちにも救援要請が飛び、戦士たちは手分け
して各地の集落の防衛に手を貸した。
そして、ドルディア族の村の警備が手薄になった所、
密輸組織は精鋭を使って﹃ドルディア族の村﹄を襲撃。
1126
族長の孫娘たちと同時に、聖獣の誘拐に成功する。
各地で騒ぎを起こしてから本命を奪取する電撃作戦。
武装集団の攻撃。
子供たちの誘拐。
そして聖獣の誘拐。
こうなると、いくら獣族の戦士が優秀であっても、手が足りない。
ギュエスとギュスターヴは、まず子供を諦めた。
戦士団をまとめあげて、村の防衛に当たらせると、
自分たちは聖獣の捜索を開始した。
それだけ、聖獣というのは、村にとって特別な存在であるらしい。
聖獣を攫ってから船が出るまで、二日も無い。
密輸品の保管場所を発見できたのは、運がよかったのだそうだ。
むっとする血の臭いと、一瞬あがった火。
この二つが、あの建物を二人に発見させる鍵となったらしい。
俺たちのおかげだね。
しかし、なぜ聖獣と同じ場所にルイジェルドを運んだのだろうか。
まあ、大規模な作戦のようだし、色々と手違いがあったのかもし
れない。
もしくは、いざという時にルイジェルドの手枷を外して暴れさせ
るつもりだったのかもしれない。
さて、ここからは俺の知らない話だ。
この一週間、俺をほったらかしにして何をやっていたのか。
1127
上記の話を聞いたルイジェルドは、密輸人に対して怒りを露わに
したらしい。
彼は出港前の船を襲撃しようと提案。
どの船に子供が乗っているかわからない、奴らは獣族の鼻を隠蔽
する方法を知っている。
とギュスターヴが言えば、
額の眼でわかる、と胸を張って答えた。
エリスはというと、その作戦には参加せず、
子供たちの護衛を引き受けたらしい。
それはもう満面の笑みで。
これもグレイラット家の血かね。
さて、ルイジェルドたちは襲撃に成功。
あえなく密輸組織の船は発見され、密輸組織のメンバーは全員、
半殺しで捕らえられた。
船の中から、わらわらと捕まった子供が出てきた。
五十人ぐらいいたらしい。
さて、子供たちを助けてハッピーエンド。
とはならなかった。
雨期前の最後の便を襲撃したということで、ザントポートの役人
が出張ってきたのだ。
もちろん、ギュスターヴ、ギュエスはそれに抗弁。
獣族の誘拐・奴隷化はミリス神聖国と大森林の族長たちの間で禁
止されている。
それを水際で阻止しただけだ、咎められるのはおかしい、と。
1128
これを聞いてザントポートの役人もヒートアップ。
事前に一言ぐらい説明があってもいいはずだと主張。
だが、襲撃は出港ギリギリで行われた事である。
説明などする暇はなかった。
そして、五十人だ。
子供は五十人。
五人や十人ではない。
あらゆる集落から一人や二人は子供が攫われているのである。
ザントポートはそれを一切、捕まえていない。
それどころか、役人は賄賂を受け取り、見てみぬフリをしている。
これは条約違反である。
これを放置するなら、
獣族とミリス神聖国の間に大きな亀裂が入る。
最悪、戦争になる。
そういうレベルまで話が大きくなった。
最終的に、ザントポート側は引き下がった。
獣族に対し、多額の賠償金を支払う事となった。
その交渉と、さらわれた子供を親元に返したりで約一週間。
俺のことは後回しとなり、一週間も放置されたわけだ。
まあ、仕方ないかね。
むしろ、そんな大事をよく一週間で終わらせたと思うよ。
でもな。
ルイジェルドは獣族に感謝されてご満悦。
エリスは獣族の子供に囲まれて満面の笑み。
俺は牢屋でサル顔の男とフリーダムライフだ。
1129
納得できるもんじゃない。
ていうか、途中で牢屋から出すとかしてくれてもいいよな。
−−−
俺が不満を口にすると、ギュエスは謝った。
﹁本当にすまなかった﹂
それは、獣族版の土下座だった。
俺は仰向けになったギュエスに腹を見せつけられた。
最初はおちょくられているのかと思った。
腹を見られながら、けれど、ギュエスの声音は必死だった。
まさか娘を救ってくれたとは思わず、
まさか聖獣様の封印まで解いてくださったとは思わず、
そんな恩人を裸に剥いて冷水まで浴びせてしまうとは。
そして、それを途中で忘れて、外事に没頭してしまうとは、
これはもうどんな事をしても許されることではない。
もはやこの首を差し出して許しを請うしかない。
そう言われた。
けど、見張りの人は許してほしい。
彼女は自分の指示で仕事をしていただけだと。
彼女は雨期が終わったら結婚するらしいので、
罰を与えるにしても、女性に屈辱的でないものにしてほしいと。
そうでなければ禍根が残ると。
1130
そう言われた。
はっきり言って、ドン引きだった。
そんな、みんなが見ている前で逆土下座とかされても、困るだけ
だって。
なあ。
そんな引き締まったシックスパックを魅せつけられても嫉妬する
だけだって。
それより、見張りのお姉ちゃんの⋮⋮いや。なんでもないです。
﹁全ては誤解から生まれた事です。
何、私は気にしていません﹂
ここは菩薩・DE・ルーデウスだ。
俺は大人だからな。
貫禄ってやつを見せてやろう。
そうとも。
悪いのは、全部密輸組織さ。
その密輸組織が壊滅したんだ。
ハッピーエンドさ。
俺も苦労した、あんたらも苦労した。
それでいいじゃないか。
俺が何か言ってミソを付ける事もない。
牢屋の生活も楽しかったしな。
飯もうまかったし、ギースもいたし。
お世話係のお姉さんは綺麗だったし。
﹁寛大なお心、族長である儂からも、感謝いたします﹂
1131
と、俺の反応を見て、ギュスターヴと名乗る老戦士が偉そうに言
った。
⋮⋮ギュエスはいいけど、お前も謝っていいんじゃない?
一応、あの場にいて指示を出したの、あんただよね?
まあ、いいけどさ。
ジジイの土下座なんて見たくないし。
そんなものより見張りのお姉ちゃんの以下略。
ルイジェルドも眉根を寄せていた。
﹁俺も謝ったほうがいいか?﹂
﹁いえ、ルイジェルドさんは別にいいですよ﹂
﹁いいのか? だが、俺の⋮⋮﹂
﹁ルイジェルドさんも一週間、我慢したじゃないですか﹂
獣族もルイジェルドの事を認めてくれたしな。
すでにギュスターヴもギュエスも、ルイジェルドがスペルド族と
いう話は聞いたらしい。
スペルド族に対して彼らがどういう感情を持っているかはわから
ない。
けれど少なくとも、今のルイジェルドは子供を助けた英雄だ。
俺が我慢してルイジェルドが名声を得られた。
なら、結果オーライだ。
過程はどうあれ目的を達成してるのに、俺が不満をいう事はない。
﹁フンッ!﹂
﹁ごぉふ!﹂
1132
そう思っていると、エリスがツカツカと前に出てきて、
ギュエスのむき出しの腹を蹴り飛ばした。
そして、
﹁汝の求める所に大いなる水の加護あらん、
清涼なるせせらぎの流れを今ここに、ウォーターボール﹂
無防備なギュエスに、容赦なく水弾を叩きこんだ。
唖然とする周囲。
エリスは腕を組んだいつものポーズで、高らかに言った。
﹁これでおあいこね!﹂
さすがエリスだと思った。
−−−
さて、現在位置はギュスターヴの家である。
木の上にある家で、この村で一番大きな家だ。
木の上の三階建て木造建築。
地震とか来ても大丈夫なのだろうか、と思うが、
中で大人が走り回ってもビクともしないのだとか。
彼らはデドルディア族。
デドルディア族の族長ギュスターヴ。
その息子、戦士長のギュエス。
俺が密輸人から助けたのは、ギュエスの次女のミニトーナ。
1133
長女のリニアーナは、別の国に勉強に出しているらしい。
そして、助けた中にはアドルディア族の娘も混じっていた。
アドルディア族の族長の次女テルセナだ。
おっぱいの大きな犬っこだ。
アドルディアの里に戻る予定だったが、
途中で雨期が来てしまったので、三ヶ月ここに泊まるらしい。
ちなみに、獣族の中でも、ドルディアの血が入っている種族は、
ある国の貴族に高く売れるらしい。
特に、調教しやすい子供はよく狙われるのだとか。
ある国の貴族。
どっかで聞いた話だな!
﹁アスラ貴族の風上にも置けないわね!﹂
そこのエリス君!
何を他人ごとのように言っていますかね!
多分、最初にグが付くネズミっぽい家名の人たちが大いに関係し
ていますよ!
エリスの実家のメイドたちの出自は聞いたことが無いが、
もしかすると、そうやって攫われてきた人もいたかもしれない。
サウロスもいい人なんだけど、ちょっと見方が変わりそうだな。
うん、とりあえずこの事は黙っていよう。
言わなくてもいい事は、言わないほうがいいのだ。
と、俺が思っていると、
1134
エリスはふと思い出したらしく、自分の身に着けていた指輪を見
せた。
﹁そういえば、ギレーヌって知ってる?
これ、この指輪、ギレーヌのなんだけど⋮⋮﹂
彼女は獣神語が出来ない。
ゆえに人間語である。
この場で人間語が出来るのは、俺とルイジェルドを除けば、
ギュスターヴとギュエスだけである。
﹁ギレーヌ⋮⋮?﹂
と、ギュエスが渋い顔をした。
﹁あいつは⋮⋮まだ生きているのか?﹂
﹁え?﹂
その声は、嫌悪感にまみれていた。
吐き捨てるような声だった。
そして、最初の一言。
﹁あいつは一族の面汚しだ﹂
その言葉を皮切りに、ギュエスによる、
ギレーヌのバッシングが始まった。
人間語で、エリスに聴かせるように。
ギレーヌという人物がいかに不出来で、
いかに自分の妹として相応しくないか、
1135
という内容を、感情のこもった声で淡々と語り続けた。
ギレーヌに命を助けられた事もある俺としても、聞くに堪えない
内容だった。
彼女はこの村で、そうとうあくどい事をしてきたらしい。
だが、それは所詮、子供の時の話だ。
俺の知っているギレーヌは、不器用な頑張り屋だ。
改心し、心をいれかえている。
こんな言われ方をする人じゃない。
尊敬すべき剣の師匠であり、自慢すべき魔術の生徒だ。
だから、ちょっと、なんていうか。
やめてくれよ。
﹁その指輪も、あいつが無闇矢鱈と暴れないようにと母が上げたも
のだが、まったく意味はなかった。あいつは壊すことしか能のない
木偶の坊だ﹂
﹁あんた⋮⋮﹂
﹁うるさい! あなたにギレーヌの何がわかるのよ!﹂
俺の言葉を遮って、エリスが金切り声で叫んだ。
家が割れるかと思う大音声に、デドルディアの一家は顔をしかめ
た。
人間語のわかるのはギュスターブとギュエスだけである。
突然叫んだエリスに、他の数名は唖然としていた。
俺はエリスは暴力を振るうと思った。
けど、エリスはただ悔しそうな顔をして、目に涙を浮かべて、
1136
拳をブルブルと震わせながらも、殴りかかることはしなかった。
﹁ギレーヌは私の師匠よ!
一番尊敬してる人なんだから!﹂
俺は知っている。
エリスとギレーヌがどれだけ仲がよかったかを。
エリスが一番信頼していたのが誰なのかを。
俺なんかよりずっと。
﹁ギレーヌはすごいんだから!
すごく、すごいんだから!
助けてって言えば、すぐに来てくれるんだから!
すごく足が早くて!
すごく強いんだから!﹂
エリスは、自分でも意味のわかっていないであろう言葉を羅列し
始めた。
その悲痛な声は、内容がわからなくても、意味が通じるものだっ
た。
少なくとも、俺の気持ちは全て代弁してくれていた。
﹁ギレーヌは⋮⋮ひっく⋮⋮えぐっ⋮⋮。
そんなこと⋮⋮言われるような⋮⋮ひっく﹂
殴りかからずに涙を浮かべ、エリスは頑張った。
そうだ、ここでギュエスを殴ってはいけない。
ギレーヌは、この村において、暴力に生きてきた。
好き放題暴れてきた。
エリスが殴れば、ギュエスはそれ見たことかと言うだけだ。
1137
お前もあいつも、同じ穴のムジナだと。
ギュエスはと見ると、彼は混乱していた。
﹁いや、そんな⋮⋮まさか、ギレーヌが⋮⋮尊敬? そんな馬鹿な
⋮⋮﹂
それを見て、俺は怒りを鎮めることにした。
﹁この話題は、やめにしておきましょう﹂
俺はエリスの肩を抱きつつ、そう進言した。
進言した俺を、エリスは信じられないという顔で見た。
﹁なんでよ⋮⋮ルーデウス⋮⋮ギレーヌの事、嫌いなの?﹂
﹁僕だってギレーヌの事は好きですよ﹂
けど、
﹁僕らの知っているギレーヌと、
彼らの知っているギレーヌは、
同じ名前の別の人です﹂
そう言って、混乱しているギュエスを見る。
彼だって、今のギレーヌと会えば考えを改めるだろう。
年月は人を変えるのだ。
俺が言うんだから間違いない。
エリスは納得がいってないようだった。
けれど、一応の溜飲は下げたらしい。
1138
﹁いや、その、ギレーヌは本当に、
そんな立派な人間になっているのか?﹂
﹁少なくとも、僕は尊敬しています﹂
そう言うと、ギュエスは思いつめた顔になった。
まあ、今の話を聞いた所、
彼とギレーヌの間でも、色々あったのだろう。
それはもう、ハラワタの煮えくり返るような事が。
血のつながった関係ってのは、結構シビアなのだ。
肉親だからこそ。
何年経っても、許せないことはある。
﹁なので、謝ってもらえますか?﹂
﹁⋮⋮すまなかった﹂
なんとも微妙な空気になってしまった。
それにしても、ギレーヌか。
この一年ですっかり忘れていたが、
彼女もあの転移に巻き込まれたはずだ。
一体、どこで何をしているのか。
彼女のことだから、俺とエリスを探してはいると思うが⋮⋮。
ザントポートで情報収集をできなかったのが悔やまれる所だ。
−−−
1139
一週間が過ぎた。
ずっと雨が降り続いている。
俺たちは、村の空き家の一つをもらい、そこに暮らしている。
一応、大森林の英雄ということで、毎日何もしなくても飯が来る。
これはよくない生活だ。堕落する。
木の下は大洪水で、ある時、里の子供が落ちて大変な事になって
いた。
魔術で助けてやると、大層驚かれ、感謝された。
なら、いっそ魔術で雲を吹き飛ばしてやろうか、と思ったが、や
めておいた。
ロキシーも言っていたが、あまり天候を操作するのはよくない。
この雨を無理矢理止めれば、大森林にとって良くない事が起こる
かもしれない。
ぶっちゃけ、さっさと降り止んで先を急ぎたいんだが。
まあ、三ヶ月ぐらいで止むらしいから、それまで我慢だ。
−−−
雨の中、村を散策してみる。
やはり村だからか、武器屋防具屋宿屋の類はなかった。
基本的には民家と倉庫、そして兵士の詰所だ。
それらが全て、木の上にある。
村の構造は立体的で、実に面白い。
1140
歩いているだけでワクワクしてくる。
一箇所、コレ以上奥には入ってはいけないと言われる場所があっ
た。
その通路の奥に、この村にとって大事な場所があるらしい。
もちろん、俺だってそんな場所に土足で踏み入るつもりはない。
そんな時、上下で通路が交差した場所を見つけた。
そこで上に女性が通らないか期待して待っていると、ギースが歩
いてきた。
﹁よう新入り、もう出られたのか?﹂
呼びかけると、ギースは嬉しそうな顔をして手を振った。
﹁おう。もう二度とやるなよってさ。バカだよなあいつら。やるに
決まってるじゃねえか﹂
﹁犬のオマワリさーん! こいつ懲りてませーん!﹂
﹁まてこら。おいこら、やめろこら。
今は雨季で逃げられねえんだからやんねえよ﹂
今は雨期で。
ということは、またこいつはやるんだろう。
まったく、どうしようもない男だ。
﹁あ、ベスト返しますね﹂
﹁だからいきなり敬語はやめろって。
ベストはもらっとけ﹂
﹁いいんですか?﹂
1141
﹁この時期、まだ寒いだろうが﹂
でも、悪い人じゃなさそうだ。
この適当で温かい感じ、パウロを思い出すね。
パウロ。
元気してるかな。
−−−
二週間が経過した。
雨はやまない。
なんでも、ドルディア族には秘伝の魔術があるという事を知った。
遠吠えを利用して敵の位置を探ったり、
特殊な声で相手の平衡感覚を失わせたりする魔術だそうだ。
ギュエス相手に俺が麻痺したのも、その魔術の一種であるらしい。
聞いた感じ、﹃音﹄を利用した魔術らしい。
なのでぜひとも教えてくださいとギュスターヴに頼み込んだ。
快く承諾してくれた。
何度か実演してもらい、真似する。
が、中々うまくいかない。
ドルディア族の特殊な声帯がなければ使えるものではないらしい。
そんなこったろうとは思っていた。
恐らく、種族のオリジナル魔術は俺にはほとんど扱えないと言っ
ても過言ではなさそうだ。
1142
獣族とかは人族の魔術を使えるのに、ズルいよね。
声に魔力を乗せる、という基礎は分かったので何度か試してみた
が、
どうにもイマイチ効果が出ない。
俺にできるのは、相手を一瞬だけビクンとさせるぐらいだった。
ワ○ャンにはなれないらしい。
ちなみに、ギュスターヴに無詠唱の魔術を見せると、大層驚いて
いた。
﹁最近の魔術学校はそんなものも教えるのか﹂
﹁師匠の教えがよかったからですよ﹂
と、意味もなくロキシーをプッシュ。
﹁ほう、その師匠はどこの出身なのかね?﹂
﹁魔大陸のビエゴヤ地方のミグルド族ですね。
魔術は⋮⋮魔法大学で習ったんじゃないでしょうか﹂
俺もそのうち魔法大学に行くつもりだというと、
ギュスターヴは﹁ほう、それだけできてまだ向上心があるのか﹂
と感心していた。
ちょっといい気分になった。
−−−
1143
1ヶ月が経過した。
この村にも魔物は出る。
水の上を、あめんぼのような虫がスルスルと移動してきて、
唐突に飛び上がって攻撃してきたり、
海蛇のような奴が木を伝って登ってきたり。
どいつの素材が儲かるんだったか。
ちなみに、村は戦士団が守っている。
しかし、この雨では獣族自慢の鼻も、声を使ったソナーもあまり
役にはたたないらしい。
魔物は度々、監視の眼を抜けて町中に出没した。
村の中をエリスと散歩していると、
目の前で、獣族の子供が一人、カメレオンみたいな爬虫類に捕ま
りそうになった。
とっさに土砲弾でカメレオンを撃墜した。 危ないところだった。
子供は可愛らしく尻尾を振って、お礼を言ってくれた。
エリスがそれを見て、鼻息を荒くしていた。
慌ててエリスの尻を撫でて止めた。
子供は嬉しそうに駆けていった。
危ないところだった。
そして今、俺の命も危険である。
ルイジェルドにその事を話すと、彼は顔をしかめた。
子供に危険が及ぶような状態は見過ごせまい。
とはいえ、村の警備を手伝うのは反対のようだった。
﹁この村には、この村の戦士たちのプライドがある﹂
1144
そういうのがあるらしい。
村を守るのは、村の戦士の役目。
よその戦士が頼まれもしないのに出しゃばってはいけない。
それがルイジェルドの常識だそうだ。
俺にはさっぱりわからない。
﹁そんな事より子供の安全の方が大事なんじゃないでしょうか﹂
そう言うと、ルイジェルドは数秒ほど考えた後、
ギュエスに話を聞いてみる事になった。
﹁おお、ルイジェルド殿が手伝ってくださるのですか!﹂
ギュエスには大歓迎された。
彼のルイジェルドに対する評価はものすげー高かった。
そういえば、ギュエスも船を襲撃するイベントには参加したらし
い。
村の戦士団を代表して礼金も出す、と言ってくれた。
村で見かけた魔物は退治する事にした。
ルイジェルドが見つけ、俺が魔術で倒す。
そして死体を回収し、素材を剥ぎ取る。
ギュエスはそれを買い取ってくれる。
実にいいサイクルだ。
最初、ルイジェルドの予想通り、村の戦士たちはいい顔をしてい
なかった。
だが、俺たちが容赦なく村に入ってきた魔物を殲滅すると、
1145
今年の雨期は犠牲者無しで済みそうだ、と顔を綻ばせていた。
﹁獣族はもっと誇り高い種族だと思っていたが⋮⋮、
他の種族に村の守備を任せて安堵しているとは、まったく⋮⋮﹂
ルイジェルドだけが、そんな事をボヤいていた。
どうやら、数百年前の獣族と違うらしい。
−−−
1ヶ月半が経過した。
雨脚がちょっと弱まってきた気がする。
多分気のせいだが。
エリスとトーナ、テルセナが仲良くなっていた。
言葉は通じなくとも、あの年頃だと仲良くなれるのだろうか。
雨だというのにあちこちに移動しては、なにやら楽しそうにして
いる。
何をしているのかと思ったら、エリスが人間語を教えているらし
い。
あの、エリスが、人に、言語を、教えているのだ!
ここで教師面して割り込んで、エリスの顔を潰すこともあるまい。
俺は空気が読める男だからな。
こうやって近くに隠れて観察するだけだ。
エリスは同年代の友達がいなかった。
1146
なので、こうして同じぐらいの年齢の子と仲よくしているのを見
ると、俺もほっこりする。
赤毛と、猫耳と、犬耳。
それらが楽しげにじゃれあっているのを見ているだけで、俺は十
分だ。
でもなエリス。
あまり無闇矢鱈と抱きついたりしない方がいいと思うんだ。
俺みたいに誤解されるかもしれないからな。
ほら、あっちを見ろ。
ギュエスさんが見ているじゃないか。
そんな鼻の穴を大きくして娘に抱きついているのを見て、親はど
う思うかな?
﹁ふむ、エリス殿、娘と仲よくしていただいて、ありがとうござい
ます﹂
あ、あれぇ?
俺の時と反応が違うくないですか?
その娘、今間違いなく発情の臭いとかしているはずですよ?
やっぱり男と女だと違うのか。
そうか、そりゃそうか。当たり前か。
﹁時に、ギレーヌの件は申し訳ありませんでした。随分と会ってい
ないので誤解していましたが、あの妹も、外の世界を歩くことで、
少しは成長しているようですね﹂
ギュエスが頭を下げる。
ここ一ヶ月で、彼の中でもあれこれと整理がついたのかもしれな
1147
い。
いいことだ。
﹁そりゃそうよ。剣王ギレーヌだもの! あのね、今のギレーヌは
魔術だって使えるのよ﹂
﹁ははは、ギレーヌが魔術? エリス嬢は冗談がうまい﹂
﹁本当よ! ルーデウスがギレーヌに文字と計算と魔術を教えたん
だから﹂
﹁ルーデウス殿が⋮⋮?﹂
その後、エリスによる、俺とギレーヌの猛プッシュが始まった。
フィットア領における、俺の授業の話だ。
自分とギレーヌがいかに物覚えが悪かったかという事から始まり、
そんな自分とギレーヌは、最後まできちんと教えてくれたルーデウ
スを尊敬しているとか、そんな話だ。
聞いていて、照れ臭くなってしまった。
3年目で転移したから、最後までは教えられてないんだけどね。
ギュエスはしきりに関心していた。
そして、三人と別れると、俺の隠れている木箱の前へとやってく
る。
﹁それで、その尊敬されるべき師匠は、こんな所で何をやっておら
れるのか?﹂
﹁しゅ、趣味の人間観察です﹂
﹁ほう、それは高尚な趣味をお持ちのようだ。時に、ギレーヌには
どうやって文字を教えたのですか?﹂
﹁どうもこうも、普通にです﹂
﹁普通に⋮⋮? 想像もつきませんね﹂
﹁冒険者時代に、勉強不足で色々と苦労をしたみたいですしね。想
1148
像が付かないのも当然かと﹂
﹁そうですか。あの妹は、昔から気に食わない事があれば誰かを殴
らなければ気が済まない奴でしたが⋮⋮﹂
聞く所によると、ギレーヌは昔のエリスみたいな少女だったらし
い。
何かと言えば喧嘩をして、しかも強かったので中々止まらない。
ギュエスは何度も煮え湯を飲まされたのだとか。
妹に力で敵わないとは、ダメなお兄ちゃんだ。
お兄ちゃんと言えば、俺もお兄ちゃんだったな。
ノルンとアイシャは元気にしているだろうか。
そうだ。
手紙を書こうと思って、ずっと忘れていたんだ。
この雨がやんだらミリス神聖国の首都に行くし、ブエナ村に手紙
を出すとしよう。
魔大陸からでは届かない場合も多いが、ミリスからなら届くだろ
う。
﹁ところでルーデウス殿﹂
﹁はい﹂
﹁いつまで木箱の中に入っておられるのですか?﹂
もちろん、彼女らが着替えを始めるまでだ。
もうすぐ夜だからな。
彼女らはこれから水浴びをして寝間着に着替えるのだ。
﹁すんすん⋮⋮発情の臭いがするな﹂
﹁ええっ! いや、そんな馬鹿な。どこかで獣好きな少女が恍惚と
した表情を浮かべているのでは?﹂
1149
すっとぼけると、ギュエスの眉がピクリと動いた。
﹁ルーデウス殿。先の一件は感謝している。
勘違いであんな事になり、申し訳ないという気持ちは今でもある﹂
そう前置きして、ギュエスは豹変した。
﹁だが、娘に手を出すというなら話は別だ。
今すぐ出てこないと箱ごと水に叩き落とすぞ﹂
本気だった。
俺は迷わなかった。
1秒で箱を出た。
黒ひげも危機一髪なスピードだ。
﹁自分はこの村を守る者だ。
あまり言いたくないが⋮⋮ほどほどにしてくれ﹂
﹁はい﹂
うん。
まあ、ちょっと調子に乗りすぎてたな。
反省。
1150
第四十二話﹁ドルディアの村のスローライフ・後編﹂
2ヶ月が経過した。
ルイジェルドはギュスターヴと話が合うらしい。
ちょくちょくデドルディア家を訪れては、
酒を飲み交わしつつ、互いに過去の逸話を語り合っている。
血なまぐさい話であるが、それ自体は聞いていると結構面白い。
自称元暴走族の、昔はワルかった自慢とでも言うべきか。
しかし、恐らく実際にあった事なのだろう。
聞いているだけで、獣族の事について少しわかってきた。
獣族というのは、大森林に住む種族の総称である。
中には魔大陸に渡り、魔族と呼ばれるようになった種族も数多く
いる。
外見的な特徴としては、哺乳動物の姿を体の一部に残している事
だ。
また、各種族がそれぞれ特殊な五感を備えている。
広義で言えば、ノコパラやブレイズもかつては獣族だった、とい
うわけだ。
ドルディア族は、獣族の中でも特別な存在だ。
聖獣を守護し、森全体の平和を守護する一族。それがドルディア
だ。
猫っぽいデドルディア。
犬っぽいアドルディア。
1151
この二つが主家で、数十種類の支族にわかれているらしい。
いわば、大森林の王族。
だが、現在は特に王族っぽい事をしているわけではなく、
いざという時にリーダーとして音頭をとるだけらしい。
また、大森林には長耳族や小人族も住んでいる。
彼らは大森林でも南の方に分布しているらしく、
獣族との接点はあまり無いらしいが、年に一度の部族会議や、
大聖木の周辺で行われる祭りには参加するらしい。
ギュスターヴ曰く、種族は違えども大森林に住む仲間、という事
だ。
ちなみに、炭鉱族は大森林ではなく、そのさらに南、青竜山脈の
ブルードラゴン
麓に住んでいる。
青竜は、基本的には世界中の空を飛び回っていて、
産卵と子育ての時期にだけ、青竜山脈に巣を作るらしい。
渡り鳥のようなものだ。
もっとも、渡り鳥と違って、十年に一度といった頻度らしいが。
さて、
獣族は昔から、人族とは戦争をしたり仲良くしたりを繰り返して
きたらしい。
小競り合い程度の戦争というのは、つい50年前にもあったのだ
とか。
ギュスターヴはその戦争に参加しており、
獣族の屈強な戦士団が森に迷い込んできた人族の兵士をバッタバ
ッタとなぎ倒す。
1152
というストーリーを聞かせてくれた。
まあ、かなり脚色されていたが、
獣族視点で展開される話というのは、なかなか新鮮で楽しいもの
だ。
それに対抗して、ルイジェルドも伝家の宝刀。
ラプラス戦役のスペルド族の逸話、について話す。
二人は張り合うように話をして、
しかし、老人二人の会話であるゆえか、
次第に昔は良かった談義になっていく。
﹁最近の戦士はまったくなっていない﹂
﹁わかりますぞ、ルイジェルド殿。軟弱な者が増えましたな﹂
﹁そうだ。俺の若い頃は、立派な男しかいなかったものだ﹂
まさに意気投合だ。
どこの世界も一緒だね、こういう所は。
﹁まったくですな。ギュエスも戦士長になったというのに、分別が
足りん。
人をまとめるのはうまいが、奴がもう少し状況を見る事ができれ
ば、
ルーデウス殿はあのような事にはならなかったはずだ﹂
﹁いや、ルーデウスは戦士だ。
敵地で油断すれば、捕まり、捕虜になる事もわかっていたはずだ。
それなのに油断した。
本気を出せばギュエス程度、すぐに制圧出来るはずなのだ。
あれはルーデウス自身の失態だ﹂
1153
おお、耳が痛い。
ルイジェルドは俺を信頼して一人で行かせてくれたんだ。
なのに俺はあっさり捕まった。
ある意味、信頼を裏切った事にもなる。
﹁しかしルイジェルド殿、それは少々薄情ではないか?
仲間が酷い目に遭ったというのに⋮⋮﹂
﹁戦士なら、自分の戦いの結果は自分で持たねばならん。
大体、ルーデウスなら自力でいくらでも逃げられたはずだ!
仲間として信頼されるのは嬉しいが、子供ではないのだ!
戦士は自分が捕まって仲間を窮地に陥らせるような真似はしては
いかんのだ!﹂
ルイジェルドったら、随分と酔ってるな。
まあ、お前なら捕まっても自力で逃げてくるんだろうけど。
あんまり俺に期待しすぎるなよな。
俺にできることなんて、限られてるんだぜ?
−−−
ルイジェルドと一緒にいると耳が痛い。
エリス達に近づくとギュエスに睨まれる。
というわけで、昼下がりから夕方に掛けて、
俺は孤独になる。
することも思いつかないので、魔術の練習をすることにした。
外で地面を覆い尽くす水流をコントロールしたり、凍らせてみた
1154
り。
そんな時、ふと、風魔術を利用して空を飛ぶ方法について考えて
みた。
今回、捕まって逃げられなかったのは、道がわからなかったから
だ。
空を飛んで上から見ることが出来れば、二日目の時点で逃げおお
せる事が出来た。
ギュエスも土下座せずに済み、
誰が嫌な思いをすることもない、ハッピーエンドだったはずだ。
そう思い、俺は町の外へと出た。
流れる水を凍らせて足場を作りつつ、
ちょっと開けた場所を見つけ、そこの木をなぎ倒す。
土魔術を作って10メートル四方の石を設置。
セ○ゲームのリングのような練習場が出来上がった。
ちょっと滑るが、まあ走り回るわけでもなし、こんなもんでいい
だろう。
﹁さてと﹂
まず俺は、軽い気持ちで竜巻を起こしてみることにする。
人が飛ぶぐらいだと、どれぐらいがいいんだったか。
確か、毎秒100mぐらいがいいんだったか。
毎秒100mってどんなもんだったか。
とりあえず、一発やってみるか。
﹁ちんからほい! なんちゃっ⋮⋮ってぇ!﹂
俺は木の葉のように上空に巻き上げられた。
1155
ビビった。
気づいたら雲の近くにいた。
人の体はここまで軽いものなのか。
そして恐怖した。
ものすごいスピードで近づいてくる地面に、本能的に恐怖した。
反射的に予見眼を開眼した。
一秒先を見つつ、右手で上昇気流を作り出し、
左手で衝撃波を何発も発生させて落下速度を落とした。
しかし、間に合わない。
木々の枝をバキバキと叩き折りつつ、水のなかにドボン。
その時には、全身打撲+骨折。
鼻血をダラダラと流しつつ、ガボガボと水を飲みながら、水流を
操作。
痛む全身にクラクラしつつも、なんとかヒーリングを詠唱。
レインフォースリザード
すぐに俺の血の臭いを嗅ぎつけた魔物が寄ってきた。
どうやら、落ちた場所は、雨群蜥蜴の巣だったらしい。
俺はバクバクと鳴り響く心臓の音を聞きながら、
そいつらをバッタバッタカマキリと打ち倒した。
右手で周囲の水をひたすら凍らせて相手の動きを止めつつ、
土砲弾で相手の頭を撃ちぬいた。
雨群蜥蜴はCランクの魔物だ。
水の中を動くスピードは早いが、
凍らせてしまえば大したことはない。
全てを倒して死体を積み上げてみたものの、
1156
周囲はすでに暗く、道はわからない。
現在位置がわからない。
その事実は俺を不安にさせた。
どうにかしなければならない。
村はそう遠くではないはずだ。
俺はクールになれと自分に言い聞かせた。
頭はカッカと熱く、判断は鈍っていた。
傍目から見てもCOOLどころかKOOLだっただろう。
まず、俺は周囲の水を広範囲に渡って凍らせた。
ひたすら温度を下げ、ガクガクと震えながらも、
俺を中心に氷の範囲をひたすら広げた。
同時に、上空に火弾を作り出した。
火弾で暖を取りつつ、凍らせる。
光を見て魔物が寄ってくるだろうか。
いや、雨期の魔物は水を泳ぐ。
氷の上を走ってはくるまい。
ルイジェルドたちがやってきたのは、
時間にして一時間も経たなかっただろう。
ドルディア族の戦士たちと一緒に、氷を伝ってやってきた。
ほっとした。
やはり、知らない場所に放り出されるというのは、未だに緊張す
るようだ。
﹁ルーデウス、何があった?﹂
1157
﹁ちょ、ちょっと修行を﹂
死ぬ所だった、とはいわなかった。
見栄を張った。
﹁そうか⋮⋮お前が本気を出すところは初めて見たが、凄まじいな。
村が氷で覆われた時には何事かと思ったぞ﹂
﹁ま、まあね﹂
﹁魔物も全て氷漬けか﹂
﹁え、ええ、運ぶのを手伝ってもらいたくて。
周囲を凍らせるので手一杯でして﹂
﹁お安いご用だ。だが、次からは俺にも声を掛けろ﹂
﹁ルイジェルドさんがいると秘密の修行にならないじゃないですか﹂
そう言うと、ルイジェルドはフッと笑った。
獣族の戦士たちは、周囲で凍ったまま頭だけ潰れた雨群蜥蜴を、
戦慄した目で見ていた。
えっと⋮⋮どや?
雨群蜥蜴の肉は鶏肉に近かった。
−−−
その後、俺は懲りずに何度か風を使って空を飛ぶ魔術を練習した。
風魔術で俺の体を空に滞空させることは難しかった。
できるようになった事と言えば、
1158
アースランサー
先端を真っ平にした﹃土槍﹄を自分の足元に発生させ、自分の体
をぶっ飛ばす。
ぶっとんだ所、風魔術を駆使して加速・減速を行い着地点を修正。
風魔術で落下速度を落とし、同時に水魔術で着地点にプールを作
り、そこに着水。
それぐらいだ。
なんとも無様な魔術だ。
自分の才能の無さが恨めしい。
空を自由に飛びたいよ。
もっとも、俺はこの結果に満足した。
空を飛ぶことは出来なかったが、
空中を経由して高速で移動することは出来るようになったのだ。
当初の目的は達成出来なかったが、
何か一つ得る物があった。
今はそれでよしとしよう。
−−−
2ヶ月半が経過した。
ある日、聖獣様がのっそりと俺の部屋に入ってきた。
﹁これはこれは聖獣様。この性獣めに何か御用で?﹂
﹁ワンッ﹂
﹁トゥー﹂
﹁ワンッ﹂
1159
スリーとは言ってくれないらしい。
彼か彼女か、どっちかわからないが、
聖獣様は俺の隣に腰を落ちつけた。
現在、俺の手元には作りかけのフィギュアがある。
まだ雨が止むまで時間がありそうなので、
なんとなく作ってみることにしたのだ。
モデルはルイジェルドである。
なぜに彼?
と、思うかもしれない。
だが、考えても見てほしい。
スペルド族というのは正体不明の怪物だ。
その緑髪を見れば、人々は恐れおののく。
だが、俺の作るフィギュアに着色はない。
灰色一色の石人形だ。
そんな人形がかっこよく作れれば、
あるいは人々にもっと受け入れてもらえるかもしれない。
まずはシルエットから。
髪のことは最後だ。
﹁わふっ﹂
聖獣様は太ももにぴったりと身体を寄せて、頭を膝に乗せてくる。
動物にこんなに近寄られた事はないので、ちょっと戸惑う。
﹁うぉん?﹂
1160
聖獣様は、﹁何してるの?﹂という感じで俺の手元を見ている。
歳の割に落ち着いた子犬様だこと。
とりあえず首の辺りをなでなで。
﹁することもないので、創作活動でございます﹂
﹁ワフッ﹂
手を舐められた。
しっぽがパタパタと動いている。
嫌われてはいないらしい。
雨が続いているので、聖獣様も暇なんだろう。
この二ヶ月、どこにいたのか知らないが、
わざわざ俺のところに来るぐらいだ。
刺激に飢えているに違いない。
﹁遊びましょうか﹂
﹁ウォンッ!﹂
俺はそのまま、組んずほぐれつ、聖獣様とじゃれあって遊んだ。
俺はもふもふを楽しみ、聖獣様は適度な運動をする。
まさにwin−winの関係。
−−−
コンコン。
聖獣様と遊んでいると、俺の部屋がノックされた。
1161
﹁ん? どうぞ﹂
﹁失礼します。こちらに聖獣様の臭いが⋮⋮あ﹂
と、入ってきたのは、村の戦士の格好をした女性だった。
例の見張りの人だった。
﹁あ、どうも、お久しぶりです﹂
とりあえず、そう言って頭を下げてみる。
彼女は俺の姿を見ると、みるみる真っ青な顔になった。
﹁あ、はい、どうも、その、お久しぶりです﹂
俺に冷水をぶっ掛けて、キツイ言葉を放ってくれた人だ。
そういえば、彼女もこの2ヶ月見かけなかった。
どこにいたんだろうか。
﹁その節はどうも、申し訳ありませんでした﹂
彼女は深々と頭を下げた。
﹁いえいいんです。その話はついていますから﹂
﹁しかし、誤解とはいえあんな仕打ちをしてしまうとは⋮⋮﹂
﹁あんな仕打ちって、裸にして冷水を浴びせられただけじゃないで
すか﹂
すると、女戦士はさらに真っ青になった。
今にも倒れそうなぐらいだ。
﹁⋮⋮⋮⋮申し訳⋮⋮ありません﹂
1162
これはギュエスに聞いた事だが、獣族にとって、
全裸にして冷水を浴びせるというのは、すごい屈辱的な事らしい。
﹁⋮⋮その、当時はあなたが聖獣様に性的に酷いことをした人物だ
と聞いており⋮⋮﹂
﹁もちろん、それは冤罪だと、聞いていますよね?﹂
﹁あ、はい、それはもちろん﹂
と、彼女は聖獣様をチラチラと見る。
現在の俺は、聖獣様を枕にして、聖獣様は俺の手を舐めている。
何か文句でもあるのだろうか。
﹁当時のことは仕方ありません。僕も怒っていません。
けど、やはり謝罪の一つぐらいは欲しかったですね﹂
﹁それは、その、申し訳ありません。ギュエス様に、ルーデウス殿
とは極力会うなと言われておりまして﹂
ああ、やっぱりか。
やっぱ、実行犯が目の前にいると、復讐したくなっちゃうだろう
しね。
ギュエスの判断は正しい。
﹁それで、会うなと言われたのに、どうしてここに?﹂
﹁⋮⋮それは、その、聖獣様が行方不明でして、臭いを追うと、こ
こでして﹂
﹁ワフッ!﹂
女戦士は冷や汗を流していた。
そんなに怯えなくてもいいと思うんだ。
1163
ギュエスはキッチリと謝ってくれたし、俺もそれに納得している。
雨期が終わったら、慰謝料として金と馬車もくれるという。
俺は一週間牢屋に入っていただけなのに、ラッキーという感じだ。
俺としてももう全然気にしていない。
冷水を浴びせられて、変態と罵ってもらったのも、いい思い出さ。
きっと、将来何かに目覚めれば、興奮すること請け合いのね。
﹁そういえば、雨期が終わったら結婚するそうで。
おめでとうございます﹂
そう言うと、女戦士はビクリと身を震わせた。
なにかの嫌味にでも聞こえただろうか。
他意はなく、普通に祝福したつもりなんだが。
﹁⋮⋮その、どうすれば許していただけるでしょうか﹂
ふむ。
何か勘違いしているようだ。
なんかいいな、これ。
すごい優越感がある。
これがNTRってやつか?
んふふ。
やはり全裸になって四つん這いになってもらって⋮⋮。
いや、そういうのはよくないな。
ギュエスにもやめてくれって言われたし、
エリスとルイジェルドがいつ帰ってくるかもわからんし。
どれぐらいのバツがいいだろうか。
1164
獣族的に、全裸はダメだよな。
冷水もきっとダメなんだろう。
じゃあ、白いTシャツを1枚だけ着せて、
水魔術で水鉄砲みたいな感じにして、ぬるま湯を掛けるというの
はどうだろうか。
わお、俺って天才。
﹁ワンッ!﹂
と、聖獣様が女戦士をかばうように移動した。
俺を睨んでくる。
なんだよう。
冗談だよ、怒んなよう。
﹁ちゃんと謝罪はしてもらいました。なので僕からはこれ以上いう
ことはありません﹂
すると、女戦士はほっと胸をなでおろしていた。
﹁ありがとうございます﹂
そして、その話は終わったとばかりに、キッと俺を睨んできた。
﹁それより、ルーデウス殿、聖獣様を勝手に連れ出さないで頂きた
い﹂
﹁なんですかそれは、僕は連れだしていませんよ﹂
おう、また冤罪か。
お前、実は反省してねえだろ。
1165
言葉に気をつけないと、
今度はお前が全裸牢屋で、俺が水掛ける番だぞ。
﹁ですが、誰かが連れださなければ⋮⋮。
聖獣様は聖木から自力では出られないんです﹂
﹁⋮⋮ほう。詳しく聞かせてください﹂
なんでも。
聖獣様は数百年に一度だけ生まれる魔獣の一種である。
正式名称は無い。
古来より聖獣様が出現する時は世界の危機である。
聖獣様は大人になると英雄と共に旅立ち、その強大なる力で世界
を救う。
そう言い伝えられている。
なので、ドルディア族の村の奥地、聖木と呼ばれる樹木に張られ
た結界の中で、大切に大切に育てられるのだとか。
そりゃもう、箱入り娘という感じで。
まだ何もしらない聖獣様を、外の厳しい世界に出さないようにと。
ちなみに聖獣様が大人になるまでには、あと100年ぐらいかか
るらしい。
言い伝えが本当なら、100年後に世界の危機が訪れるって事か。
そして女戦士は現在、聖獣様を守る仕事を主としているらしい。
あの通行止めの通路の奥で。
なるほど、町中を歩いても会わないわけだ。
﹁ワフン!﹂
と、そこで聖獣様が一声吠えた。
1166
女戦士が驚いた顔をした。
﹁えっ! なんですって﹂
え?
なに?
﹁ウォン!﹂
﹁なるほど、しかし﹂
﹁ワンッ!﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
なんでお前、普通に犬と会話してるわけ?
聖獣様の言葉って獣神語じゃないよね。
どうやって聞き分けるんだ?
バウ○ンガルとか使ってるの?
﹁聖獣様は、あなたは関係ないとおっしゃっています﹂
﹁でしょう?﹂
もっと言ってやってくださいよ。
﹁聖獣様はルーデウス殿に感謝しているようです﹂
﹁ほう、牢屋に放置だったので、すっかり忘れられたかと思ってい
ました﹂
﹁ワンッ!﹂
﹁心外だ、ちゃんと美味しいごはんを出すように言いつけた、とお
っしゃっております。ルーデウス殿も、料理には舌鼓を打っていた
はずですが?﹂
1167
そうだ。
飯だけはうまかった。
そして、おかわりももらえた。
牢屋にしてはおかしいと思った。
あれは聖獣様の計らいだったか。
しかし、礼としてまずご飯の心配とは、所詮は犬コロか。
︵牢屋ってなに? だそうです︶﹂
﹁でも、そういう事なら、せめて牢屋から出してほしかったですね﹂
﹁ワンゥ!
﹁悪い奴を閉じ込めておく場所です﹂
﹁ワン! ︵自分も閉じ込められた、とおっしゃっています︶﹂
その後、しばらく女戦士に通訳してもらい、聖獣様と話してみた。
すると、どうにも聖獣様は、
今回の出来事の顛末がわかっていないらしい。
俺が発情の臭いを発していたとかもわかっていないようだし、
ギュエスが俺を捕まえた事の意味もわかっていないようだ。
自分が捕まったことも、怖いことがあったという事ぐらいにしか
理解していない。
つまり、まだ子供だってことだ。
子供にあれこれ要求するのはよくないな。
仕方がない。
﹁聖獣様のおかげで快適な生活を送ることができました。
ありがとうございます﹂
お礼を言うと、尻尾を振られ、顔を舐められた。
んふふ、可愛いやつよ。
ワシャワシャと首筋を撫でてやる。
すると、押し倒された。
1168
ああん、ダメよ、人が見ているわ⋮⋮。
﹁⋮⋮ルーデウス殿、聖獣様は尊い方です。
その、懸想されるのは控えてもらえませんか?﹂
﹁違います。この発情の臭いはあなたへのものです﹂
﹁えっ!﹂
﹁失礼、なんでもありません﹂
いかんいかん、ちょっと本音が。
おうち
﹁こほん。では聖獣様。聖木へと帰りましょう﹂
﹁ワンッ!﹂
聖獣様は、女戦士の言葉に素直にうなずき、帰っていった。
その後、
獣族の間で聖獣様が脱走したと問題になった。
結局、聖獣様を連れだした犯人はわからなかったらしい。
より一層の護衛の警戒を、と結論付けたようだが、
つい先日、誘拐事件があったばかりだ。
護衛たちはピリピリしだした。
−−−
その後、聖獣様は俺の元に何度も現れた。
そう、なぜか、俺のところにだ。
もちろん、二回目は俺が疑われた。
1169
が、運よくその日は、ルイジェルド・ギュスターヴの酒盛りに参
加していた。
酒は飲んでいないが、くるみっぽいナッツなツマミがうまいのだ。
つまりアリバイがあった。
森の一帯を凍りつかせるほどの魔術師なら、
離れていても何か方法があるのだろうとか言われたが、
ギュスターヴの一喝で俺の疑いはすぐに晴れた。
これ以上冤罪を被せられるのは面白くない。
なので、なるべくルイジェルドかエリス、
あるいはギュスターヴの傍にいる事にしようと思い、やめた。
あえて、ギュエスの傍にいる事にした。
彼は戦士長。警備の最高責任者である。
日々忙しくしているが、
彼にアリバイを証明してもらうのが最も有効であると考えたのだ。
﹁ルーデウス殿は、自分の事を嫌っているかと思っていたが?﹂
一日中張り付いていると、苦い顔をされた。
﹁別に気にしていないので、次に娘さんが生まれたら一人ください﹂
﹁⋮⋮それは、自分の娘と本気で婚姻の契りを結びたいという事か
?﹂
﹁いいえ、ただの冗談ですよ。
おっと、失礼、発情の臭いをさせてしまいましたかな?﹂
﹁すんすん⋮⋮していないな﹂
﹁ほう、これぐらいなら大丈夫ですか﹂
やはり、女性が近くにいなければ、俺のトムボーイもトムキャッ
1170
トしないようだな。
視界に入らなければ、どうってこたないって事だ。
﹁⋮⋮ここ一ヶ月ほどでわかったのだが。
ルーデウス殿は出来たお方だな。
まだ若いというのに、ルイジェルド殿が戦士と認めるだけの事は
ある﹂
﹁なんですか、いきなり褒めだして﹂
気持ち悪いな。
いきなり手のひらを返すなんて。
﹁最初は、ルイジェルド殿の威を借り、
好き放題しているだけのクソガキかと思っていたが﹂
ほう。
言うね。
まあ、あながち間違っちゃいないが。
﹁魔術の腕は⋮⋮自分の想像以上だ。
雨期の森を凍らせるなど、お伽話でしか聞いたことがない﹂
﹁フッ、僕の師匠はもっと凄いですがね﹂
と、意味もなくロキシープッシュ。
ロキシーはいくら褒めても褒め足りない。
﹁そしてなにより、そんな力を持ちながらも、
あんな仕打ちをした我等ドルディア族に、一切向けていない﹂
そういえばそうだな。
1171
けどほら、ルイジェルドも言ってたけど、
俺にも油断があったからね。
お互い反省するって事でいいじゃないか。
それに⋮⋮。
﹁ここは、ギレーヌの故郷ですしね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ギレーヌはこの村のことをなんと?﹂
﹁いえ、特に何も言ってませんでしたがね﹂
ギレーヌは、あまり大森林の事が好きじゃなかったみたいだしな。
獣神語を教えてくれる時も、苦い顔をしていたものだ。
﹁尊敬する師匠の一族とは、仲良くしたいじゃないですか﹂
﹁⋮⋮今一度、謝らせてもらってもよいか?﹂
﹁あの土下座は別にいりません。
そんな事より、ミニトーナちゃんに手を出す権利をください﹂
﹁ルーデウス殿がきちんと本気で娘の相手をしてくれるなら、自分
はかまいませんが﹂
﹁え!﹂
まじで?
クソニート
猫耳娘をニャンニャンする権利をやろうって!
いやいや。
今、いい話してるんだから、お前はひっこんどけ。
﹁もちろん冗談です。多分、エリスが怒りますしね﹂
﹁今、少し発情の臭いがしたが﹂
﹁そりゃ仕方ないでしょう。ギュエスさんの不用意な発言のせいじ
ゃないですか。察してくださいよ﹂
﹁そうか⋮⋮申し訳ない﹂
1172
まったく。
俺はエリスときちんと約束しているのだ。
15歳。
あと4年だ。
4年待てばパラダイスだ。
約束といえば、シルフィともしているが⋮⋮。
シルフィはどうしているだろうか。
元気だろうか。
髪の事でイジメられてなければいいが⋮⋮。
﹁っと、今日もきましたね﹂
などと考えていると、聖獣様がのっそりと現れた。
﹁くっ、警備は何をやっているのだ⋮⋮!﹂
ギュエスはそれを見て、ギリッと歯噛みした。
聖獣様は今日も俺に﹁ワンッ﹂と嬉しそうに一声。
俺はそれに応えて頭を撫でつつ。
﹁もしかすると、自力で出れるのではないでしょうか﹂
と聞いて見るが、
﹁いいえ、誰かの手引きで出ているのは、間違いないようだ﹂
と、ギュエスは聖獣様を困った目で見ながら言った。
誰かの手引き。
1173
間違いなく身内の犯行だろうが、全員にアリバイがある。
不気味な事だ。
﹁僕とルイジェルドで調べましょうか?
ルイジェルドの﹃眼﹄なら、すぐにわかると思いますが﹂
そう進言すると、
﹁いや、聖獣様の守護はドルディア族の誇りの問題だ。
部外者に手を煩わせるわけにはいかん﹂
と、断られた。
﹁村の防衛はいいのに?﹂
﹁それとこれでは、話が違う﹂
村の防衛はよくて、聖獣の脱走監視はダメ。
線引が難しいところだが、これも常識の違いかね。
まあ、彼らがそれならそれでもいいが⋮⋮。
﹁こう何度も脱走されるようだと、不安になりますね。
今は雨期だからいいですが、もし雨期が終わったら、また誘拐さ
れるかもしれません。
それに、村中にだって魔物は出没するんですから、万が一もあり
えます﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
ギュエスは難しい顔で悩んでいる。
1174
﹁聖獣様が出てくるのが僕に会いに来るのが目的というのなら、
逆に僕が毎日出向けば、問題ないのでは?﹂
﹁それは⋮⋮しかし⋮⋮ううむ⋮⋮﹂
悩んでいる。
やはり、聖木によそ者は近づけたくないか。
汲んでやろう。
﹁では、不届き者に連れ出される前に、あえて聖木の近くから出し、
僕と護衛の人で見守るというのはどうでしょう。
そうすれば、﹃誰かに連れ出される﹄心配はなくなります﹂
﹁⋮⋮⋮⋮本末転倒ではないか?﹂
﹁聖獣様の居所が一瞬でもわからなくなるより、マシだと思います
が?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ギュエスは悩んだ。
悩んだ末、そういう事になった。
−−−
それから、二週間弱。
俺は聖獣様と遊んで暮らした。
犯人は結局わからなかったが、
とりあえず聖獣様が姿を消すことはなくなった。
ちなみに、お手を仕込もうとしたら護衛の人にメッチャ怒られた
のはナイショだ。
1175
−−−
そんなこんなで三ヶ月が経過した。
雨はやんだ。
1176
第四十三話﹁聖剣街道﹂
ドルディアの村を出る前日。
エリスとミニトーナが喧嘩をした。
結果は言うまでもない事だが、エリスの圧勝。
当然だろう。
エリスはルイジェルドの鍛錬についていけるレベルだ。
特に訓練も受けていない年下の女の子が相手では、それこそ相手
にならない。
弱いものイジメだ。
これは一言、注意したほうがいいかもしれない。
エリスがそういう子だというのは知っているが、彼女ももうすぐ
14歳だ。
14歳といえば、まだまだ子供だが、
無差別に相手を殴っていい年齢じゃない。
しかしさて、なんと言うべきか。
今まで俺はエリスの喧嘩を止めたことがなかった。
冒険者ギルドでの諍いも、大体ルイジェルドにまかせてきた。
そんな俺が、今更何を言うべきだろうか。
冒険者と村の少女では違うのだ、とでも言うべきなのか。
﹁ち、違います、ミニトーナが悪いんです﹂
そう主張したのは、テルセナだ。
1177
彼女の話によると、雨期が終わったので旅立つと言うエリスを、
ミニトーナが引き止めたらしい。
エリスは引き止められた事を嬉しそうにしつつも、旅を続ける旨
を説明。
我儘をいうミニトーナを、エリスが言い含める展開だ。
いつもと逆だな。
しばらく、話し合いが続いた。
最初は落ち着いていた二人だったが、
やがて議論はヒートアップ。
ミニトーナが暴言を吐き始める。
その暴言には、ギレーヌや俺の事も混じっていた。
エリスは、それを、ムッとした顔をしつつも、ぐっとこらえたら
しい。
落ち着いた感じで言い返していたらしい。
結局、最初に手を出したのはミニトーナだった。
エリスに喧嘩を売る。
勇気ある行為だ。尊敬に値する。
俺にはとても真似できない。
とはいえ、エリスはその喧嘩を買ってしまった。
容赦なく、いつものようにボコボコにした。
﹁エリス﹂
﹁なによ!﹂
と、ここで俺は一旦、状況をよく見てみる。
まずミニトーナ。
負けたはずだというのにかなり興奮していて、フーフー言ってい
1178
る。
エリスにボコられてなお、心が折れていないのだ。 エリスは大の大人でも簡単に心を折る。
詰めの甘い女ではない。
ということはだ。
﹁ちゃんと手加減したんですね﹂
﹁⋮⋮当たり前よ﹂
エリスはそっぽを向いて、そう言った。
以前のエリスなら年下相手だろうと、自分に歯向かった相手には、
決して容赦しなかった。
俺が言うんだから間違いない。
﹁いつもなら、もっと酷いことをしてますよね?﹂
﹁⋮⋮友達だもん﹂
エリスの顔を覗きこむと、ツンと口を尖らせて、バツの悪そうな
顔をしていた。
ふむ。
殴ったことを、少々後悔しているらしい。
今までのエリスにはなかったことだ。
この三ヶ月でエリスは少しは大人になったのかもしれない。
俺の見ていないところで、彼女もちゃんと成長しているのだ。
なら、俺から言うことは一つだ。
﹁明日、別れる前に仲直りはしておいた方がいいですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮やだ﹂
まだ子供か。
1179
−−−
最終日、旅の準備で忙しい事もあり、聖獣様とは会わなかった。
また犯人が連れ出すかと思っていたが、
聖獣様はなぜか現れなかった。
その代わり、深夜に二人の侵入者があった。
﹁あっ!﹂
小さな叫び声と、ガタンという大きな音。
そんな二つの音で、さすがの俺も目が覚めた。
最近、どうにも緩んでいるなと思いつつ体を起こし、
脇においてあった杖を手に取る。
泥棒にしてはお粗末な気配だ。
ルイジェルドはとっくに気づいているだろう。
ふむ。
﹁テルセナ、もっと静かにするニャ﹂
俺は杖を手放した。
ルイジェルドが黙っているわけだ。
﹁ごめんトーナ、でも暗くて﹂
﹁よく目を凝らせば見えるニャ⋮⋮あっ!﹂
1180
また、ガヅンという音がした。
﹁トーナ、大丈夫﹂
﹁痛いにゃ⋮⋮﹂
しかし、本人はヒソヒソと話しているつもりなのかもしれないが、
声量が大きいせいで丸聞こえである。
彼女らの目的はなんだろうか。
金か、それとも名声か。
それともこの俺の体が目当てなんだろうか。
なんてな。
どうせエリスだろう。
﹁あ、ここかニャ?﹂
﹁くんくん⋮⋮ちょっと違うような﹂
﹁構うこたニャい。どうせ寝てるニャ﹂
彼女らは俺の扉の前で止まると、ガチャリと中に入ってきた。
恐る恐る、という感じで部屋の中を見渡し、
ベッドに腰掛ける俺と、バッチリ目があった。
﹁ニャ⋮⋮!﹂
﹁どうしたのトーナ⋮⋮あ﹂
ミニトーナ、テルセナがそこにいた。
薄手の皮のワンピース。
尻のあたりに穴があいており、ぴょこんと尻尾が顔を覗かせてい
る。
獣族特有の寝間着姿である。
1181
実に可愛らしい。
﹁こんな夜更けにどうしました?
エリスの部屋は隣ですよ﹂
出来る限り小声で言った。
﹁ご、ごめんニャさい⋮⋮﹂
そう言いつつ、彼女らは扉を閉めようとして、
ふと、止まった。
﹁そういえば、お礼、言ってニャかったニャ﹂
﹁あっ、と、トーナ?﹂
トーナは思い出したかのように言って、部屋の中に入ってきた。
テルセナもびくびくとその後ろに続く。
﹁助けてくれてありがとうニャ。
お前が治癒魔術を掛けてくれなければ、
死んでいたかもしれなかったって聞いたニャ﹂
そうだろうな。
あの怪我は結構危なかった。
俺ならとっくに心が折れている怪我だ。
よくもまぁ毅然とした態度を崩さずにいられたもんだと思うよ。
﹁お安い御用ですよ﹂
﹁おかげで傷跡も残らなかったニャ﹂
1182
トーナはそう言いつつ、ワンピースの裾をペロンとめくり上げて、
綺麗な生足を見せてくれた。
しかし、部屋が暗いせいか、その奥が見えない。
見えそうで、見えない。
キシリカ様、なぜあなたは暗視の魔眼を持っていなかったんです
か⋮⋮。
﹁トーナ、はしたないよ⋮⋮﹂
﹁どうせ一度は見られてるんニャから、いいニャ﹂
﹁でも、ギュエスおじさんが言ってたよ、人族の男は万年発情して
るから、不用意に近づいたら襲われるって﹂
万年発情。
失礼なことを言う。
でも間違ってはいない。
﹁それに、あたしの体を見て興奮するニャら、お礼としては好都合
⋮⋮ニャ!? 寒気が!﹂
﹁いつまでもスカートの裾を上げてるからだよ﹂
その時、俺はトーナの足なんて見ていなかった。
冷や汗を垂らしながら、脇に置いたはずの杖を握りしめていた。
隣の部屋から、鋭すぎる殺気のようなものがじわじわと漏れ出し
ている。
﹁こ、こほん。お礼は受け取りました。
エリスは隣の部屋にいるので、どうぞ﹂
子供でも、不用意に怪我の跡なんかを見せるもんじゃない。
お医者さんごっこが趣味の危ないおじさんに襲われたら大変だ。
1183
﹁そっか、でもほんと、ありがとうニャ﹂
﹁ありがとうございました﹂
二人はぴょこんと頭を下げて、部屋を出て行った。
ちょっとしてから、俺はこそこそと移動し、壁に耳を付ける。
隣室ではエリスが不機嫌そうな声で﹁なによ?﹂なんて言ってる
のが聞こえた。
腕を組んでいつものポーズを取っているのが目に浮かぶ。
トーナとテルセナの声はやや聞こえにくい。
いや、エリスの声が大きすぎるのか。 ハラハラしながら、聞いていたが、
エリスの声が次第に穏やかになっていった。
大丈夫そうだ。 俺は安心して、ベッドに戻った。
彼女らは一晩中、語り合ったようだ。
何を話していたのかはわからない。
トーナもテルセナも、まだまだ人間語は達者というわけではない。
エリスも多少なら獣神語を覚えたようだが、
しかし会話が出来るほどでもない。
ちゃんと話し合いは出来たのだろうか。
と、不安だったが、
翌日、別れ際、エリスはミニトーナの手を握り、涙を浮かべてハ
グをしていた。
仲直りはできたらしい。
1184
重畳重畳。
−−−
聖剣街道。
それは大森林を一直線に縦断する街道である。
かつて、聖ミリスが作り出したこの街道には魔力があふれている。
周囲が水浸しだというのに、街道だけはカラカラに乾いており、
また、この街道には、一切魔物が出ないらしい。
そこをドルディア族にもらった馬車を使い、移動する。
彼らは、旅に必要なものを何からなにまで用意してくれた。
馬車+馬。
旅費︵ミリス金貨5枚+ミリス銀貨5枚︶。
消耗品等。
これなら、ザントポートに戻らなくても、ミリスの首都まで移動
できるだろう。
よし出発。
という段階になって、なぜかサル顔の男がやってきた。
﹁いやー、そろそろミリスまで戻ろうかと思ってた所だ。ちょうど
良かったぜ。俺も乗せてってくれよ﹂
ギース
新入りは、そう言って、図々しくも荷台に乗り込んでくる。
﹁あらギースじゃないの﹂
1185
﹁お前も付いてくるのか?﹂
俺を除く二人から、文句の声は無い。
知り合いだったのか、と聞いてみると。
どうやら、ギースは俺の知らない間に二人への根回しをしっかり
と行なっていたらしい。
エリスとトーナ・テルセナの輪に入って面白い逸話を語ったり、
ルイジェルドとギュスターヴの話の輪に入って二人をヨイショし
たり。
お調子者の本領発揮という手管で、二人に取り入っていたらしい
のだ。
俺の見ていないところで。
ゆえに、二人に簡単に受け入れられた。
﹁よし、なら出発するぞ!﹂
ルイジェルドの掛け声と共に、馬車が走りだす。
獣族が見送ってくれるのに手を振りながら、
エリスが涙を浮かべてミニトーナたちを見ているのに、ちょっと
感動しながら。
しかし、俺の心の中には、ちょっとだけモヤッとしたものが残る。
ギースのせいだ。
ついてきたいのなら、最初からそう言っておけばいいのだ。
わざわざこんな、裏でこそこそ動くような真似をしなくても。
普通に頼めば、断る事なんてないのだ。
﹁おいおい、先輩。そんな睨むなよ﹂
1186
結構なスピードで走る馬車の中、俺は不満気な顔をしていたのだ
ろう。
ギースはニヤリと笑うと、俺の耳元に口を寄せた。
﹁先輩の恋の手引きをしてやったのは俺だぜ?﹂
と、何やら変なことを言い始めた。
恋の手引き。
はて、俺は結局、この三ヶ月、猫耳娘にも犬耳娘にも手を出すこ
となく終わった。
エリスとの仲も進展していない。
ギュエスとは最初より仲良くなれたが、それだけだ。
あれが恋?
馬鹿いっちゃいけないよ。
俺にそういう趣味はない。
﹁恋の手引きってなんだよ﹂
﹁聖獣に会わせてやったじゃねえか﹂
﹁聖獣⋮⋮﹂
意味を考える。
理解。
﹁あっ﹂
こ、こいつか!
こいつが犯人か!
何が恋の手引きだ!
冤罪だって言っただろうが。
いや、そんなことより。
1187
﹁ど、どうやって聖獣様を連れだしたんだ!﹂
﹁そいつぁ企業秘密よ。
まああいつら馬鹿だからな。
ちょっと絡め手を使ってやれば連れ出す事ぐらいはできるのよ﹂
事も無げに、自慢気に言った。
いや、そんな。
ヤバイだろ。
だって、獣族の人ら、むちゃくちゃ怒ってましたよ。
見つけたら八つ裂きにするとか、そんな感じでしたよ。
﹁な、なんでそんな危ないことしたんだよ﹂
﹁だって、お前、犬が好きなんだろ?﹂
﹁冤罪だって言っただろうが﹂
﹁そうだったか? まあ、いいじゃねえか﹂
ギースは軽い調子で、ヘラヘラと笑っていた。
途端に、不安になってくる。
こいつ、もしかして、かなりヤバイ奴なんじゃないだろうか。
一緒に旅をするのはマズイんじゃないだろうか。
﹁ルイジェルドさん。馬車を反転させてください﹂
﹁なぜだ?﹂
﹁聖獣様を連れだした犯人を突き出します﹂
﹁わー、まてまて!﹂
ギースが慌てて俺の口を塞ごうとする。
だが、こいつのせいで俺は疑われたのだ。
1188
ここは心を鬼にして、罰を受けてもらう必要があるだろう。
﹁大丈夫だ新入り、ちゃんと弁明はしてやる。
もしかすると全裸で牢屋に入って冷水とか浴びせかけられるだろ
うが、
それぐらいは我慢しろ﹂
﹁おい、まてよ! 本気かよ!
いいか、馬車を用意してやるように言ったのも俺だからな。
あいつらには、モノで謝罪するっていう文化はねえんだ。
だから、許してくれよ!﹂
サル顔も必死だった。
愛嬌のある顔だ。
こいつは悪い奴ではない。
それは牢屋に一緒に入っていた俺もよく知っている。
悪意を持って、聖獣様を連れだしたわけでもないはずだ。
しかし、うーむ。
﹁ルーデウス﹂
﹁なんですかルイジェルドさん﹂
﹁許してやれ﹂
﹁旦那! さすが旦那だ! いやあ、旦那の事は前々から男前だと
思っていたんだよ!﹂
ほんと、こいつは⋮⋮。
それにしても、
﹁ルイジェルドさん。いいんですか。こいつは、あなたの大嫌いな
悪党ですよ?﹂
1189
﹁お前のためを思ってやった事だろう﹂
ルイジェルドの判断基準は、よくわからない。
あれがよくてコレがダメ。
いや、これはもしかすると、ギースの根回しの結果かもしれない。
うまくやりやがったな、サル野郎。
﹁そう、そうなんだよ旦那! 先輩のためにやった事なんだよ! それが大事になるなんて思ってもみなかったんだ。それでつい調子
に乗っちまったけど、決して誰かを貶めようなんて思っちゃいねえ
んだ!﹂
正直な所、こいつには恩もある。
裸で寒かった所に、ベストをもらった恩だ。
恩というには小さな事だが、
冤罪だとわかってなお疑ってくれた獣族より、よっぽど好印象だ。
ま、いいか。
結局、誰も困ってないしな。
獣族の護衛も、今回のことを教訓にするだろう。
そうして、無理やり納得することにしよう。
﹁付いてくるのはいいけど、
新入り、お前、スペルド族は怖くないのか?﹂
と、ルイジェルドに聞こえるように話す。
こいつは、ルイジェルドがスペルド族だと知っているのか知らな
いのか。
酒盛りに参加したのなら、聞いていてもおかしくないが⋮⋮。
後になってから、﹁スペルド族マジコエー﹂とか言い出されても
1190
嫌だしな。
﹁まさか、怖ぇよ? 俺も魔族だからな。
スペルド族の怖さは子供ん時からよぉく聞いてるってもんよ﹂
﹁そうか。ちなみにルイジェルドはああ見えて、スペルド族だ﹂
そう聞くと、ギースは眼を細めた。
﹁旦那は別だ。命の恩人だからな﹂
何かあったのか、
と、ルイジェルドに目線を送ると、知らないとばかりに首を振っ
た。
少なくとも、この三ヶ月で彼を助けた、という事はないようだ。
﹁やっぱ憶えてねえか、もう30年も前だもんな﹂
そう言って、ギースは語り出した。
出会いあり、別れあり、山場あり、濡れ場ありの超絶ストーリー。
ハードボイルドな超絶イケメンが旅に出ると言えば、
百人の女から行かないでと懇願され、
後ろ髪を惹かれつつ故郷を旅立ち、旅先で謎の美女と⋮⋮。
長いので一言でまとめると、
彼が駆け出しの冒険者だった頃、
魔物に襲われて死にかけていた所を、
ルイジェルドに助けてもらったらしい。
﹁ま、30年前のことだし、ことさら恩を感じてるわけでもねーけ
どな﹂
1191
スペルド族はこえーけど、旦那は別だ。
サル顔の新入りは、そういって笑った。
ルイジェルドも心なしか表情が緩い。
俺は因果応報という言葉の意味を知った気がする。
よかったね。ルイジェルド。
﹁ま、しばらくは一緒に頼んまー。先・輩☆﹂
こうして、サル顔の新入りが﹃デッドエンド﹄に⋮⋮。
入ったわけではない。
彼はあくまで、次の町までだ、と念押しをした。
彼のジンクスでは、四人でパーティを組むとろくなことがないの
だとか。
そのジンクスを守って、一人で牢屋に入れられていれば、世話は
ないがな。
まあ、パーティに入らないなら、入らないでいい。
こうして、俺たちの旅に、一人の同行者が増えた。
−−−
俺たちは馬車のスピードに任せるまま、
ただひたすらに大森林を駆け抜ける。
1192
本当にまっすぐな道だ。
直線が地平線の彼方、ミリス神聖国の首都まで続いているのだ。
なんでこんな道があるのか。
魔物も一切出ない。
水はけもやけにいい。
疑問に思った所、ギースが説明してくれた。
この街道を作ったのは、世界の一大宗派である、ミリス教団の開
祖。
聖ミリスである。
ミリスが一太刀振るった結果。
山と森を両断し、魔大陸にいる魔王を一刀両断したのだとか。
その逸話からこの道は﹃聖剣街道﹄と呼ばれている。
さすがにねーよ、と思うところだが、
聖ミリスの魔力は未だに残っている。
それが証拠に、今のところ、魔物にも一切出会ってない。
馬車がぬかるみに足を取られる事もない。
順風満帆。
まさに奇跡だ。
ミリス教団が宗教として強い力を持っているのも頷ける。
だが、俺はむしろ、身体に悪影響がありそうで怖いと思っている。
魔力というものは便利だ。
だが、動物を魔物に変化させたり、
二人の子供を中央大陸から魔大陸まで転移させたり、
良くない事も起こしている。
1193
魔力が多いというのは、怖いことでもあるのだ。
まあ、魔物に襲われないというのは楽でいいが。
−−−
街道脇には、一定距離ごとに野宿するポイントのようなものがあ
る。
そこで野宿の準備をする。
食事はルイジェルドが適当に森で狩ってくるので、特に問題はな
い。
たまに、近くの集落から獣族が商売に来るが、特に買うものも無
い。
大森林は言うまでもない事だが、植物が豊富である。
街道脇には、香辛料として使える草花が数多く生えている。
俺はかつて読んだ植物辞典を元に、それらを採取した。
しかしながら、俺の料理スキルはそれほど高くない。
この一年間でそれなりに上達したとはいえ、
﹃まずい﹄が﹃ややまずい﹄に変化する程度だ。
大森林は食材が魔大陸よりも上質だ。
魔物だけでなく、普通の動物もいる。
うさぎやイノシシといった、普通の獣だ。
そうした生き物の肉は焼くだけで十分うまい⋮⋮のだが、
せっかくだから、よりうまい肉を食いたい。
1194
食への探求は、いつだって貪欲だ。
そこでギースが登場する。
彼は野宿料理の達人だった。
俺の取ってきた野草や木の実から魔法のように香辛料を作り出し、
肉を華麗に味付けてみせたのだ。
﹁言っただろ? 俺ぁなんでも出来るのよ﹂
自慢気に言うだけあって、その肉はマジでうまかった。
ステキ、抱いて!
と、思わず抱きしめてしまったぐらいだ。
かなり気持ち悪がられた。
俺も気持ち悪かった。
お互い様だね。
−−−
﹁暇ね﹂
今日も今日とて食事の準備をしていると、
エリスがぽつりとつぶやいた。
食材:ルイジェルド
火と水:俺
料理:ギース
この完璧な役割の前に、エリスのすることは無かった。
1195
せいぜい薪拾いであるが、ここは森の中。すぐ終わる。
よって、彼女は手持ち無沙汰である。
最初の頃は、一人で黙々と剣を振っていた。
俺とギレーヌに散々反復練習を強いられてきた彼女は、何時間で
も剣を振ることが出来る。
かといって、それが面白いかというと、そういうわけではないら
しい。
現在、ルイジェルドは狩りに、
ギースはスープを煮込み、
俺は作りかけのフィギュアに着手している。
この1/10ルイジェルドは完成まで時間が掛かる。
だが、売れるはずだ。
付加価値を付けるのだ。
こいつがあればスペルド族に絶対に襲われない、
むしろ仲良くなれる。とかなんとか言って。
それはさておき。
エリスは暇を持て余している。
﹁ねえ! ギース!﹂
﹁なんだお嬢、まだできてねえぜ?﹂
ギースはスープの味を確かめつつ振り返る。
そこには、いつものポーズで仁王立ちしているエリスがいた。
﹁私に料理を教えなさいよ!﹂
﹁いやだね﹂
1196
即答だった。
ギースは何事もなかったかのように、料理を続けた。
エリスは一瞬だけ呆けた顔になった。
しかし、すぐに気を取り直し、叫んだ。
﹁なんでよ!﹂
﹁教えたくねえからだよ﹂
﹁だから、なんでよ!﹂
ギースは大きくため息をついた。
﹁あのなお嬢。剣士は戦うことだけを考えてりゃいいんだよ。
料理なんざ無駄だ。食えりゃいいんだよ﹂
ちなみにこの男。
食えりゃいい、なんてレベルの料理はしていない。
店を開けるレベルだ。
なんとか皇が口から光を放ったりはしないが、
近所で評判の料理店、ぐらいにはなる。
﹁でも、料理が出来たら⋮⋮その⋮⋮ねえ、わかるでしょ?﹂
チラチラと俺の方を見ながら、エリスは言いよどむ。
なんだいエリス。
何が言いたいんだい。
ハッキリ言ってご覧よ。
﹁わからねえな﹂
1197
ギースはエリスに冷たい。
なぜかはわからないが、結構厳しい言い方をする。
俺やルイジェルドに対してはそうでもないが、
エリスにだけは結構突き放した言い方をする。
﹁お嬢は剣の才能があるじゃねえか。料理なんていらねえよ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁戦えるってのは幸せな事だぜ?
この世界で生きてくのに、それ以上の事は必要ねえよ。
せっかくの才能が濁るだけだ﹂
エリスはムッとした顔で、しかしギースに殴りかかる事はしなか
った。
ギースの言葉には、なぜか奇妙な説得力があった。
﹁てーのは建前だ﹂
ギースはよしと頷き、スープをかき混ぜる手を止めた。
そして、石の椀によそっていく。
ちなみに、器は俺が作ったものだ。
﹁俺はよ、料理は二度と教えねえって決めてんだよ﹂
ギースは、かつては迷宮に潜るようなパーティにいたらしい。
六人パーティで、自分以外は一つのことしかできない、不器用な
連中だったらしい。
当時のギースの口癖は﹁お前ら、ソレ以外に何も出来ねえのかよ﹂
というものだった。
そのパーティは、歪なりにもうまくやっていたらしい。
1198
だが、ある日、パーティの女がギースに対し、料理を覚えたい、
と言い出したらしい。
男を落としたければ胃袋を掴め、というのはこの世界でも有効ら
しい。
ギースはしょうがねえなあと言いつつ、女に料理を教えた。
料理のおかげか否か。
それはわからないが、
結果として、女はパーティの男とくっつき、そのまま結婚。
二人はパーティを脱退してどこかへと行った。
なんだかんだで重要人物だった二人が抜けたことで、パーティ内
は荒れた。
パーティ内は喧嘩と無関心が渦巻き、
まともに依頼も受けられなくなり、
すぐに解散となった。
とはいえ、ギースは何でも出来る男だ。
剣と魔術の才能は無いが、それ以外はなんでもできる。
だから、すぐに次のパーティを見つけられると思った。
結果は惨敗。
当時、ギースは多少なりとも名の売れた冒険者だった。
だというのに、彼を拾うパーティはいなかった。
ギースはなんでもできた。
冒険者に出来る事なら、大抵なんでも、だ。
つまるところそれは、
ギースの出来る事は、誰かが出来る事だという事だったのだ。
高ランクのパーティなら、全員で分担してやるような雑事だった
のだ。
1199
ギースは気付いた。
自分の居場所はあのパーティにしか無かったのだ、と。
不器用な奴らがいるから、自分という存在が生きたのだ、と。
それから、ギースは冒険者という職業を半ば廃業。
遊び人︵ギャンブラー︶として生きていくことにしたのだそうだ。
﹁だからな。女に料理はダメなんだ﹂
ジンクスだ。
と付け加えた。
俺に言わせてみれば、ギースのジンクスなんてどうでもいい。
料理ぐらい教えてやればいいと思う。
このスープだってうまい。
一口飲んだだけで口の中がシュビドゥバダッハーンという感じに
なる。
俺が教わりたいぐらいだ。
なので、助け舟を出してやることにする。
﹁新入りが不幸になったのはわかったけど、
料理を教わった女の方は幸せになったんだろ?﹂
なら教えてやれよ、と思って聞く。
すると、ギースは首を振った。
﹁女が幸せになったかどうかは知らねえよ。
会ってねえからな﹂
1200
でも、とギースは自嘲げに笑った。
﹁男の方は、幸せじゃあ、なかったな⋮⋮﹂
だから、ジンクスなのだろう。
落ち込んだ表情の彼を見ていると、俺は何も言えなくなってしま
った。
うまいはずのスープが、ちょっと味気なくなった。
ルイジェルド、早く帰ってこないかな⋮⋮。
−−−
ある日。
休憩地点の道端に、奇妙な石碑を見つけた。
膝ぐらいの大きさで、表面には変な文様が描かれている。
一つの文字の周りを、7つの文様が囲んでいる。
確か、真ん中の文字は、闘神語で﹃7﹄を現すのだったか。
他の文様は、どこかで見たような、見たことないような。
俺はギースに聞いてみる事にした。
﹁おい新入り、この石碑は何だ?﹂
七大列強
だよ﹂
ギースは石碑を見て、あー、と頷いた。
﹁こりゃあ、
1201
七大列強
、何だそりゃ?﹂
ほう、七大列強。
﹁
﹁この世界で最も強いとされる、七人の戦士のことさ﹂
なんでも、第二次人魔大戦が終わった頃、
技神と呼ばれる人物によって定められたものだそうだ。
技神は当時最強と呼ばれていた人物だ。
そんな人物が定めた、この世界における、最強の七名。
この石碑は、それを確認するためのものだという。
﹁確か、そういう話なら旦那が詳しいはずだぜ。旦那!﹂
ギースが呼ぶと、近くでエリス相手に鍛錬をしていたルイジェル
ドがやってきた。
か、懐かしいな﹂
エリスはその場で地面に大の字に倒れ、ゼーハーと息を整えてい
七大列強
る。
﹁
の一人に数えられるようにと
ルイジェルドは石碑を見つけると、眼を細めた。
七大列強
﹁知っているのかルイジェルド﹂
﹁俺も若い頃は、いずれ
鍛錬を積んだものだ﹂
ルイジェルドはそう言って、遠い眼をした。
ずいぶんと遠い眼だ。
遠い、遠い。
1202
⋮⋮どんだけ昔なんだ。
﹁あの文様はなんなんですか?﹂
﹁あれは、各人物の紋章だ。現在の七名を表している﹂
ルイジェルドは一つ一つ指差しながら、現在の七名を教えてくれ
た。
現在の七名は、
序列一位﹃技神﹄、
序列二位﹃龍神﹄、
序列三位﹃闘神﹄、
序列四位﹃魔神﹄、
序列五位﹃死神﹄、
序列六位﹃剣神﹄、
序列七位﹃北神﹄、
なんて聞いたこともないですが?﹂
の名が轟いていたのは、ラプラス戦役までだからな﹂
七大列強
と並んでいるらしい。
七大列強
﹁へえ。でも、
﹁
﹁なぜ廃れたんですか?﹂
七大列強
が全員参加し
﹁ラプラス戦役で大きな変動があり、その半数が行方不明者になっ
たからだ﹂
ラプラス戦役には、技神を除く当時の
ていたらしい。
しかし、そのうち3名は死亡。
1人は行方不明。
1人は封印という結果になった。
五体満足で生き残ったのは、当時では龍神だけらしい。
1203
一応、準最強と呼ばれる者たちが繰り上がりでランキング入りし、
それから数百年掛けて、下位列強の座を奪い合ったものの、﹃最強﹄
という単語からはほど遠いものとなった。
さらに現在。上位四名の居所がわからない。
技神・行方不明
龍神・行方不明
闘神・行方不明
魔神・封印中
は次第に廃れ、人々の記憶から忘れ去られて
確実に強いとされる上位がこれでは、ランキングとしての体をな
七大列強
していない。
なので
いった。
⋮⋮といった所か。
ちなみに魔神がランキングから消えていないのは、死亡ではなく
封印状態だからだろう。
﹁当時で生きてる人って、どれだけいるんですか?﹂
﹁さてな。400年前でも、技神は実在を怪しまれていた﹂
﹁そもそも、なんで技神はこんな順列を作ったんですか?﹂
﹁なんでも。自分を倒せる者を探すため、という話だったが、詳し
いことは知らん﹂
まるで深○ランキングだな。
﹁この石碑もかなり古いものですし、もしかすると、今では順列に
変化があったかもしれませんね﹂
とつぶやくと、ギースが首を振った。
1204
﹁いや、それは魔術で自動的に変わるらしいぜ﹂
﹁え? そうなんですか? どうやって?﹂
﹁知るかよ﹂
ということらしい。
石碑の文字が自動的に変わる。
どうやっているのだろうか。
この世界の魔術には、まだまだ俺の知らない事が多い。
七大列強
か。
魔法大学に行けば、そのへんも学べるのだろうか。
それにしても
この世界には妙にチート臭い奴が多いと思ったが、どうにも付い
ていける気がしないな。
まあ、世界最強を目指しているつもりはない。
あまり強さには拘らないようにしよう。
−−−
大森林を抜けるまでに1ヶ月かかった。
だが、一ヶ月だ。
たった一ヶ月で、大森林を走り抜けることが出来た。
道がひたすら直線で、魔物が一切出ない。
ゆえに移動に専念できた、というのも一つの理由だが、
馬の性能も良かった。
この世界の馬は疲れ知らずなのだ。
1日に10時間ほど休み無しで走り続け、しかも翌日にはケロっ
1205
としている。
何か魔力でも使っているのか。
実にスムーズに森を抜ける事ができた。
アクシデントと言えば、俺が途中で痔になったぐらいだ。
もちろん、誰にも言わず、コッソリと治癒魔術で治した。
エリスは修行と称して、馬車の上でずっと立っていた。
危ないからやめなさいと言ったのだが、何が危ないの、という感
じのバランス感覚だった。
俺も真似してみたら、翌日は足腰がガクガクになった。
エリスは凄いなあ。
青竜山脈を抜ける谷。
ドワーフ
その入口には、宿場町がある。
炭鉱族が経営する宿屋街だ。
冒険者ギルドは無い。
だが鍛冶場町としても有名らしく、武器屋防具屋が軒を連ねてい
る。
ここに売ってある剣は安い上に良い物だ、とギースが教えてくれ
た。
エリスが物欲しそうな顔をしていたが、金に余裕があるわけでは
ない。
どうせ、ミリスから中央大陸に渡るのに、スペルド族がどうので
金が掛かるのだ。
無駄遣いはするべきじゃない。
今のエリスの剣だって悪いものじゃないしな。
けれどやはり俺だって男だ。
1206
厳つい剣や鎧が並んでいるのを見ると、年甲斐もなくワクワクし
てくる。
とはいえ、やはり年格好と服装の問題なのか。
店番をする炭鉱族に、﹁坊主には合わねえんじゃねえのか?﹂と
笑われた。
これでも剣神流の中級だというと、ちょっと驚かれた。
まあ、金が無いから冷やかしなんだけどね。
ギースの話によると、
ここは街道の分岐点となっているらしい。
山伝いに東に進むと、炭鉱族の大きな町があるそうだ。
北東に進むと長耳族の、北西に進むと小人族の領域が広がってい
る。
この街に冒険者ギルドが無いのは、その立地に問題があるのかも
しれない。
また、山の方に入って行けば、温泉もあるらしい。
温泉。
非常に興味のある話だ。
﹁温泉ってなによ﹂
﹁山からお湯が湧いてるんですよ。そこで水浴びをすると、それは
もう気持ちいいんです﹂
﹁へぇ⋮⋮面白そうね。でも、ルーデウスもここに来るのは初めて
よね? なんで知っているの?﹂
﹁ほ、本で読んだんです﹂
﹃世界を歩く﹄というガイド本には、温泉の事は書いてあっただ
ろうか。
確か載っていなかった気がする。
1207
しかし、温泉か。
いいな。
この世界には浴衣はないだろうが。
濡れた髪、桜色に染まる肌、湯に浸かって呆けるエリス⋮⋮。
温泉という場所にはソレがある。
いや、別に混浴じゃないか。
違うよな?
でも、万が一混浴だったら、どうしたものか。
ぜひとも確かめなければいけない。
﹁雨期が終わったばっかりだから、山の方はいま大変なはずだぜ?﹂
迷っていると、ギースに反対された。
山歩きに慣れてない奴が行くと結構時間が掛かるらしい。
というわけで、温泉は諦めた。
残念。
−−−
聖剣街道は青竜山脈へと入っていく。
馬車二台がすれ違える程度の広さの道。
それが山を真っ二つに割っている。
谷底である。
しかし、ミリスの加護のおかげか、落石は滅多に起こらないらし
い。
もし、この道がなければ、北へは大きく遠回りしなければならな
1208
い所だ。
この山には滅多に青竜は出ないとはいえ、
魔物は多く、通過しようと思えば多大な危険を伴う。
そんな所に、魔物が一切出ないショートカットを作ったのだ。
聖ミリスが崇められる理由がよくわかる。
三日で谷を抜けた。
−−−
こうして、俺達は大森林を抜けた。
人族の領域へと入ったのだ。
1209
終
−
第四十三話﹁聖剣街道﹂︵後書き︶
第4章 少年期 渡航編 −
次章
第5章 少年期 再会編
1210
第四十四話﹁ミリス神聖国﹂
ミリス神聖国。
首都ミリシオン。
その町の全貌は聖剣街道から見る事が出来る。
まず、青竜山脈より流れ出るニコラウス川。
これは、青く輝くグラン湖へと流れこむ。
グラン湖の中央に浮かぶは偉大なる純白のホワイトパレス。
そこからさらに流れるニコラウス川。
川沿いには、金色に輝く大聖堂と、銀に光る冒険者ギルド本部が
存在している。
周囲には碁盤上に並んだ規則正しい町並みが広がる。
そして町を囲むように配置された勇ましき七つの塔と、外に大き
く広がる草原地帯⋮⋮。
尊厳と調和。
二つを併せ持つ、この世界で最も美しい都市である。
冒険家・ブラッディーカント著 ﹃世界を歩く﹄より抜粋。
−−−
確かに美しい。
ファンタジー世界ならではの緑と青の調和。
1211
それに加えて、江戸や札幌のような規則正しい町並み。
リカリスの町を見た時にはおぼえなかった感動がそこにある。
エリスは呆けたままで口を開けっ放しにしている。
ルイジェルドも眼を細めていた。
この二人は花より団子だと思っていたが、
美しいものに対する感動というものはきちんと覚えるらしい。
﹁すげえだろ?﹂
と、ギースがなぜか自慢気だった。
なんでお前が、と思う所だが、
こんな光景を知っているのであれば、わからないでもない。
俺だって、自慢する。
とはいえ、こいつを調子に乗らせるのは少しばかり癪だった。
﹁凄いけど、あんな大きな湖じゃあ、雨期は大変なんじゃないのか
?﹂
つい憎まれ口を叩いてしまう。
けれど、これは純粋な疑問でもある。
街のほぼ中央に巨大な湖があるのだ。
すぐ北にある大森林で三ヶ月も雨が続くのだ。
こちらにだって影響はあるだろう。
﹁そりゃ昔は大変だったらしいが、
今はあの七つの魔術塔が水を完璧にコントロールしてる。
だから安心して湖の真ん中に城が立つってわけだ。
城壁もねえだろ?
そりゃあ、あの塔が常に結界を張ってるからよ﹂
1212
﹁なるほど、つまりミリス神聖国を攻め落としたければ、
まずあの塔をなんとかする所からってことか﹂
﹁物騒な事言うなよ、冗談でも聖騎士連中に聞かれたら捕まるぜ?﹂
﹁⋮⋮気をつけましょう﹂
ギースの話によると、
あの七つの塔がある限り、
首都は決して災害に襲われないし、疫病が流行ることもないらし
い。
どういう原理かはわからないが、便利なものだ。
﹁はやく行きましょうよ!﹂
エリスのワクワクした一声で、俺達は馬車を進ませた。
−−−
ミリシオンの町は、四つの地区に分けられる。
北側にある﹃居住区﹄。
民家が立ち並ぶ区画。
貴族や騎士団の家族が住んでいる地区と、
一般市民の住む地区とで多少の違いはあるが、基本的には民家の
みだ。
東側にある﹃商業区﹄。
あらゆる業種が集まる区画。
小売店はあるものの、規模は小さい。
1213
大手の商会が幅をきかせている区画で、
この世界のビジネス街だ。
鍛冶場や競売場があるのもここである。
南側にある﹃冒険者区﹄。
冒険者たちが集まる場所だ。
冒険者ギルドの本部を中心に、冒険者向けの店や宿屋などが揃っ
ている。
冒険者崩れの住むスラム街や、賭博場もあるので注意が必要であ
る。
一応、奴隷市場も商業区ではなくこちらにあるのだとか。
西側にある﹃神聖区﹄。
聖ミリス教会の関係者が多く住む場所だ。
巨大な大聖堂と、墓地がある。
また、ミリス聖騎士団の本部もここにある。
という事を、ギースは一つ一つ、丁寧に教えてくれた。
−−−
俺たちはぐるりと回りこみ、冒険者区から町中へと入った。
ギース曰く、町の外の人間が冒険者区以外から出入りすると、
いらない疑いを掛けられ、時間が掛かるらしい。
面倒な町だ。
町に入った瞬間、雑多な空気が身を包む。
遠目には綺麗に見えたミリシオンだが、中に入ってしまえば他の
町と大差はない。
1214
町の入り口には宿屋と馬屋。
露天商たちが立ち並び、煩く客の呼び込みをしている。
大通りの少し奥まった所には、武具の商店が見える。
細い路地の奥には、普通よりちょっと値の張る宿屋なんかがある
のだろう。
ちなみに、銀色に輝く冒険者ギルドの本部とやらは、
入り口からでも見ることができた。
俺たちはとりあえず、馬車を馬屋に預ける。
聞いてみると、荷物を宿に届けてくれるサービスまでやってくれ
るらしい。
他の町にはなかったサービスだ。
やはり大きな町だと、そういうサービスを充実させなければ、
生き残ることができないのかもしれない。
﹁さてと、俺はアテがあるから、ここらで失礼するぜ!﹂
馬屋に荷馬車を預けるのを見届けると、ギースは唐突にそう言っ
た。
﹁え? もう別れるのか?﹂
俺は意外に思った。
宿までは一緒にいると思っていたのだ。
﹁なんだ先輩、寂しいのか?﹂
﹁そりゃ寂しいさ﹂
からかうような言葉に、俺は正直に応える。
ギースとは短い付き合いだったが、悪いやつじゃなかった。
1215
波長が合う相手というのは旅において貴重なものだ。
ギースのお陰で俺のストレスがどれだけ軽減されたか⋮⋮。
それに、彼がいなくなると、また食事が味気ないものになると思
うと、やるせない。
﹁寂しがんなよ先輩。
同じ町にいりゃあ、また会えるって﹂
ギースは肩をすくめて、俺の頭をぽんぽんと撫でた。
そして、そのまま手をヒラヒラさせながら歩み去ろうとする。
と、そこにエリスが立ちふさがった。
﹁ギース!﹂
腕を組んで顎を逸らして、いつもの仁王立ち。
﹁今度会った時は料理を教えなさいよ!﹂
﹁だから嫌だっつの。しつけえなあ﹂
ギースは後ろ頭をポリポリと掻きつつ、その脇を抜ける。
ついでとばかりに、ルイジェルドの肩をぽんと叩いた。
﹁じゃ、旦那も達者でな﹂
﹁お前もな。あまり悪さはするなよ﹂
﹁わかってるって﹂
ギースは今度こそひらひらと手を振りながら、雑踏へと消えてい
く。
あっさりしたものだった。
二ヶ月、一緒にいたとは思えない。
1216
本当にあっさりとした別れだった。
と、サル顔は雑踏に消えていきそうになり。
ふと、振り返った。
﹁あっ、そうだ先輩。冒険者ギルドには忘れず顔出せよ!﹂
﹁⋮⋮ん? おう!﹂
金は稼がないといけないだろうし、冒険者ギルドには行く。
しかし、なぜ今それを言うのだろうか。
わからないが、ギースは俺が返事をするのを聞くと、雑踏へと消
えていった。
−−−
まずは宿を探す。
宿を取るというのは、俺たちが町に来た時の基本行動だ。
ミリシオンでは、宿は大通りから離れた所に多い。
路地を抜けて少し歩くと、宿屋街のような場所に出た。
ひと通り見て回った後、一つの宿に決定。 ﹃夜明けの光亭﹄
この宿は、大通りからは少々外れた場所にある。
だが、スラム街よりは遠く、治安も悪くない。
各種サービスも充実しており、C∼Bランク冒険者の向けの宿と
言える。
1217
日当たりが少し悪いのが、欠点と言えば欠点か。
宿を取り、部屋で旅の整理をして、
時間があれば冒険者ギルドを含めた町の要所を見て回り、
さらに時間が余れば適当に自由時間を満喫した後、
宿に戻って作戦会議。
それが一連の流れである。
﹁もっと安い所に泊まればいいじゃない⋮⋮﹂
エリスは呆れ顔でそう言った。
彼女のいうことももっともだ。
金は節約すべき。
俺が常々言っている事だ。
だが、今は少しだけ余裕がある。
三ヶ月間、ドルディアの村を警備して得たお金。
そして、ギュエスからもらった金。
二つ会わせてミリス金貨七枚とちょっと。
稼がなければならないのは確かだが、今すぐ金欠に陥るというほ
どでもない。
だから、これぐらいの贅沢はいいだろう。
俺だって、たまには柔らかいベッドで眠りたいのだ。
﹁まあ、たまにはいいじゃないですか﹂
呆れるエリスを尻目に部屋へと入る。
なかなかに小奇麗ないい部屋だ。
部屋の隅にテーブルと椅子が用意されているのがいいね。
部屋には鍵も掛けられるし、窓には鎧戸が付いている。
生前の世界におけるビジネスホテルにすら遠く及ばないが、
1218
この世界の宿屋としては十分すぎるほどである。
さて、宿に入った後の行動は決まっている。
装備の手入れと、補充すべき消耗品をメモ。
ベッドを乾燥に掛け、シーツも洗濯、ついでに掃除。
この動作はルーチンワークと化しており、指示を出さずとも全員
が無言で動いた。
全てが終わる頃、日が落ちて周囲が暗くなった。
到着したのが昼下がりだったからか。
ギルドに行く時間がなくなってしまった。
まあ、一日や二日ギルドに行くのが遅れた所で、大した事はない。
宿の隣の酒場で食事を終え、部屋へと戻ってくる。
三人で車座に座り、顔を突き合わせる。
作戦会議の時間である。
﹁それでは、チーム﹃デッドエンド﹄の作戦会議を始めます。ミリ
ス首都について初めての会議です、盛り上げていきましょう﹂
俺が拍手、と口にして手を叩くと、
エリスとルイジェルドがおざなりな拍手を返してくれた。
ノリが悪いが。まあいいか。
﹁さて、ようやくここまでやってまいりました﹂
俺はまず、しみじみと、そんな言葉を口にした。
長い道のりだった。
魔大陸で一年とちょっと、大森林で四ヶ月。
1219
一年半。
一年半も掛けて、ようやく。
ようやく、人族の住む領域にたどり着いたのだ。
危険な場所は抜けた。
ここからは街道も整備されているし、道も平坦だ。
今までに比べれば、安全といっても過言ではないだろう。
もっとも、距離としてはまだまだ長い。
ミリスからアスラまで。
世界を半周するような距離だ。
いくら移動しやすい道のりといっても、距離が縮まるわけではな
い。
やはり一年ぐらいかかるだろう。
となると、一番の問題は⋮⋮。
金である。
﹁とりあえず、しばらくこの町で金を稼ぎたいとおもいます﹂
﹁なんで?﹂
エリスの疑問に、丁寧に答える。
﹁魔大陸、大森林と渡って来ましたが、人族の領域は物価が高いで
す﹂
と、俺は今までに調べた相場を思い出す。
ザントポートの相場を調べる事はできなかったが、
魔大陸の全体的な相場と、宿場町での物価は覚えている。
それに比べると、ミリス神聖国やアスラ王国の物価は高い。
この宿の金額も、魔大陸の宿の相場から見れば眼が飛び出るほど
1220
である。
人族は貨幣というものを他種族よりも重要視している。
意地汚いとは言うまいね。
﹁ミリスの貨幣価値は高いです。
アスラ王国の次に高く、世界では二番目。
物価も高いのですが、依頼料も高いそうです。
魔大陸のように町に行く都度、一週間滞在して金を稼ぐより、
この町で一ヶ月ほど金稼ぎに集中した方が効率がいいでしょう﹂
ミリスの貨幣価値は高い。
という事は、ミリスで今後に困らないぐらい金を稼いでおけば、
中央大陸南部を通る時も、金に困る事は無くなるはずだ。
﹁スペルド族が船に乗るのにいくら掛かるのかもわかりませんしね﹂
船というと、エリスは露骨に嫌そうな顔をした。
船酔いのことを思い出したのだろう。
彼女にとっては嫌な思い出だが、俺にとってはいい思い出だ。
何度もお世話になっています。
﹁ここで金を貯めて、一気にアスラまで移動します。
もしかするとスペルド族の宣伝はできないかもしれませんが、
ルイジェルドさん。それでもいいですか?﹂
ルイジェルドはこくりと頷いた。
まあ、スペルド族の宣伝は俺が好きでやってる事だしな。
俺としては、もっと腰を落ち着けてスペルド族の汚名返上に尽力
1221
したい所だ。
半年か、一年か。
大きな町なら、それだけ影響力も強いはずだ。
だが、ここに来るまでに一年半の歳月を費やしてしまった。
一年半。
短くは無い。
これ以上、時間は掛けたくない。
考えて見れば、一年半も消息不明なのだ。
俺の家族だって心配しているはずだ。
彼らはどうしているだろうか。
と、そこまで考え、手紙を出していなかった事に気づいた。
出そう出そうとは思っていたのだが、色々あって忘れてしまって
いた。
手紙か。
よし。
﹁明日は休日にしましょう﹂
休日、という概念は、今までもたまに使ってきた。
最初はエリスを気遣って作ったものだったが、
途中からは自分自身を休めるためだった。
エリスは疲れを見せないし、ルイジェルドもタフガイだ。
情けない軟弱者は俺だけ。
もちろん、俺だって生前に比べれば体力はついている。
二人には敵わないが、この世界における一般的な冒険者ぐらいの
1222
体力はある。
だから、肉体的に疲れるわけではない。
精神的なものだ。
俺は心が弱い。
魔物を一匹殺すたびに変なストレスが溜まるのだ。
もっとも、今回は疲れているわけではない。
情報収集、ギルドでの依頼確認、その他もろもろ。
とやっていれば、きっと手紙の事なんて忘れてしまう。
今までだってそうだったのだ。
だから、今回は忘れないように、明日一日を手紙を書くことに費
やす。
﹁ルーデウス、また身体の調子が悪いの?﹂
﹁いえ、今回は別件です。手紙を書こうと思いまして﹂
﹁手紙?﹂
エリスの問いに、俺はこくりと頷く。
﹁はい、無事を知らせる手紙です﹂
﹁ふぅん⋮⋮まあ、ルーデウスにまかせておけば大丈夫よね﹂
﹁ええ﹂
明日は、手紙を書く。
ブエナ村のことを思い出しつつ、パウロやシルフィに手紙を書こ
う。
手紙は出すなと言われていたが、
何、こんな状況だ、パウロも嫌とは言うまい。
出した手紙がたどり着く可能性はそれほど高くない。
アスラ・シーローン間でロキシーと文通していた時も、
1223
七通に一通は届かなかった。
なので、同じ内容の手紙を何通か別便で出したものだ。
今回もそうする事にしよう。
﹁二人はどうしますか?﹂
﹁私は、ゴブリン討伐をしてくるわ!﹂
俺の問いに対し、
エリスから、そんな返答が帰ってきた。
﹁ゴブリン?﹂
ゴブリンというと、あのゴブリンだろうか。
人の半分ぐらいのサイズで、棍棒等を装備し、
黄緑色の肌をしており、繁殖力旺盛で、
ファンタジー系のエロゲーには高確率で登場し、
AVの汁男優のごとき役割を果たすという。
﹁このあたりにはゴブリンが出るって、さっき町中で聞いたのよ。
冒険者ならゴブリンぐらい見ておかないと!﹂
エリスは元気よく言った。
ゴブリンとは、この世界におけるネズミのような存在だ。
繁殖力が強く、人に悪さをする。
一応は言葉が通じるので魔獣の類に属されるが、
言葉が通じるだけで本能のまま生きる個体が多数を占めるので、
増えてきたら駆除される。
﹁わかりました。ルイジェルド、護衛を⋮⋮﹂
﹁ゴブリンぐらい一人で大丈夫よ!﹂
1224
俺の言葉を遮って、エリスが大声を上げた。
心外だと言わんばかりの顔である。
俺は考える。
エリスは強い。
ゴブリンはランク的にはEランクで戦う魔物だったはずだ。
魔大陸にはいないので実際に見たことはないが、危険性は低い。
多少剣術をかじっただけの子供でも倒せる相手だ。
対し、エリスはBランクの魔物とも対等に戦える。
それにルイジェルドという護衛をつけるのは、
さすがに過保護すぎるだろうか⋮⋮。
いやでも、女冒険者がゴブリンに敗北すれば肉奴隷一直線だ。
この世界のゴブリンについてはよく知らないが、
俺の世界のゴブリンはだいたいそんな感じだった。
もし俺がゴブリンで、運よくエリスを気絶させることができたら。
それはもう充実したゴブリン毎日を送ってしまうだろう。
誰だってそうする。
俺だってそうする。
十中八九大丈夫だと思う。
けれど。
けれども、だ。
俺が目を離した隙にエリスがそんな事になったら、
ギレーヌやフィリップに合わせる顔がない。
﹁ルーデウス。大丈夫だ。やらせてみろ﹂
1225
考え込んでいると、ルイジェルドが助け舟を出した。
珍しい。
この一年半、ルイジェルドはエリスにあらゆる相手への戦い方を
レクチャーしていた。
教え方は俺には理解しにくいものであったが、エリスはきちんと
学んでいた。
なら⋮⋮大丈夫か。
﹁わかりました。エリス、相手が弱いからって決して油断しないよ
うに﹂
﹁もちろんよ!﹂
﹁準備はしっかりしていってください﹂
﹁わかってるわ!﹂
﹁危なくなったら、脱兎の如く逃げるんですよ﹂
﹁わかってるってば!﹂
﹁万が一の時には相手の手を掴み、大声で﹃この人痴漢です﹄と⋮
⋮﹂
﹁しつこいわね!
ルイジェルド
私にだってゴブリン討伐ぐらい出来るわよ!﹂
怒られてしまった。
まだ不安は残るが、ここは歴戦の戦士の言葉を信じることにしよ
う。
﹁でしたら、僕から言うことはありません。頑張ってください﹂
﹁ええ、頑張るわ!﹂
エリスは満足そうに頷いた。
﹁で、ルイジェルドさんはどうします?﹂
1226
﹁俺は知り合いと会ってくる﹂
ルイジェルドから知り合いなどという単語を聞くのは初めてだ。
﹁ほう、知り合いですか。ルイジェルドさんにも知り合いなんてい
たんですね﹂
﹁当たり前だ﹂
ずっとボッチかと思っていたが⋮⋮。
そりゃ五百年も生きていれば、知り合いの相手の一人や二人存在
するか。
なぜここ、ミリシオンに来て、と思わなくもないが、
逆にこれだけ広い町だからこそ、
ルイジェルドの知り合いが住んでいるのかもしれない。
﹁どういう方なんですか?﹂
﹁戦士だ﹂
また戦士か。
てことは、その昔、魔大陸で助けた系の人かな。
ま、余計な詮索はすまい。
親じゃあるまいし、
休日に誰と会うのかを詳しく聞くなんてなぁ、野暮ってもんだ。
−−−
翌日、エリスとルイジェルドはそれぞれ出かけていった。
俺もまた、紙とペン、インクを買いに町に繰り出す。
1227
ついでに、ミリス神聖国の物価についても調べておく。
食料品については、魔大陸よりもかなり安い。
品揃えも魔大陸のそれとは比べ物にならない。
肉や魚はさばきたての新鮮なモノが並んでいるし、
嬉しい事に生野菜も売られている。
何より驚いたのは卵だ。
鶏卵が極めて安い価格で売っているのだ。
新鮮な卵、今日採れたての卵が、である。
魔大陸でも時折、卵を売っている店はあった。
だが、鳥ではなく、魔獣の卵だった。
インプリンティングを利用して調教するのだ。
もちろん、食料品には適していない。
気安く目玉焼きにできるような値段ではない。
ちなみに、この世界にも養鶏はある。
ブエナ村にも、鶏を飼っている人がいた。
正確には、鶏によく似た鳥、だが。
ミリスでも養鶏が盛んに行われているらしい。
久しぶりにご飯に溶いた生卵をぶっ掛けて食ってみたいという衝
動にかられる。
TKG。
卵掛けご飯。
完全食である。
しかし、ご飯と醤油が無い。
市場を探してみたが、やはり売っていないらしい。
アスラ王国同様、ミリス神聖国の主食もパンであるらしい。
1228
もっとも、この世界には米があることは確認済みだ。
米を主食としているのは、中央大陸の北部から東部に掛けてであ
る。
シーローン王国でも米が出てくると、ロキシーの手紙に書いてあ
った。
肉、野菜、魚介類などを混ぜてチャーハンだかパエリアのように
して食べるのが主流だそうだ。
しかし、しかしだ。
あの辺りでは、養鶏が行われていないらしい。
気候が合わないのか、鶏がいないのか、
とにかく、鶏卵が滅多に手に入らないそうだ。
また、醤油というものも見たことがない。
植物辞典によると、大豆によく似た植物はあるようなのだが、
それを発酵させてソースにする、という試みは行われていないよ
うだ。
もっとも、探せばあるかもしれない。
卵と米は存在しているのだ。
いずれ手に入れてみせよう。
そして食べよう、卵かけごはんを。
卵の衛生状態なんか気にしない。
お腹を壊したら解毒で治せばいいんだからな。
−−− 1229
市場調査を終え、宿へと戻りながら、
手紙の文面はどうしようかと考える。
思えば、パウロやシルフィに手紙を送るのはこれが初めてだ。
ボレアス家での事から書くべきだろうか。
いや、それより生存報告が大事か。
魔大陸に転移されてからの事でいいだろう。
思えば、色々あったな。
スペルド族と旅をして、
魔界大帝に会って、
獣族の集落で三ヶ月過ごして⋮⋮。
信じてくれるだろうか。
少なくとも、魔界大帝に出会って魔眼をもらった話は信じてくれ
まい。
信じようが信じまいが、事実として書きはするが。
獣族の集落といえば、
ギレーヌは無事なのだろうか。
あの強さだし、よほど変な場所に転移しない限りは大丈夫だと思
うが⋮⋮。
ボレアス家の面々も心配だな。
フィリップ、サウロス、ヒルダ。
そして、執事のアルフォンスや、メイドの人々。
サウロス爺さんはどこにいっても元気よく大声出してそうだが。
などと考えながら、細い路地へと入る。
1230
ミリシオンには、こうした細い路地が多い。
遠目からみると綺麗な碁盤目だが、
長いこと建物を建てたり崩したりをしたせいで建物の大きさや位
置が少しずつズレ、
こうした細くてジメジメした路地が出来るのだ。
もっとも、碁盤目に並んでいるからか、迷う心配は無い。
なので、俺は帰り道は違う道を通るのだ。
もしかすると、恋人の小径とか見つかるかもしれない。
うちの赤毛はちょっと乱暴者だが、あれでいて綺麗なものをきち
んと愛でる感性はあったりするようだし、
一ヶ月も滞在するとなれば、デートをする機会もあるだろう。
その時にステキな場所に案内して好感度アップって作戦よ。
などと考えていると、細い路地の向こうから、五人ほどの男が急
ぎ足で向かってくるのが見えた。
冒険者風ではない。
どちらかというと町のチンピラか。
やや威嚇気味な服装だ。
一言で言えば、若いねぇ。
しかし、こんな狭い路地にそんな大人数で入ってくるのは関心で
きない。
道というのは譲り合いだ。
いくら俺が子供で、ナリが小さいとはいえ、
そんな道一杯に広がって歩いたら、お互いにぶつかってしまうだ
ろう。
ここは極悪不良高の番長︵笑︶に会った時のように、
一列縦隊で目線を斜め下方に向け、お互いに譲り合い⋮⋮。
1231
﹁どけ!﹂
俺は素直に壁に張り付いた。
いや、勘違いしないでほしい。
俺は余計な争いを避けただけだ。
彼らは急いでいるようだったし、
俺は急いでいないわけだし。
別に、DQNっぽかったから避けたわけではない。
ホントだよ?
嘘じゃないよ。
それにな、人を見かけで判断できない。
チンピラ風だけど、実は名のある剣豪でした、なんて事もある。
自分の強さを過信して相手の暴力を注意したら、
実は相手は狂乱の貴公子でした、デッドエンド。
なんてこともありうるのだ。
なにせ、道端で餓死寸前の幼女が魔界大帝だってことがありうる
世界だからな。
うん。
余計な争いは避けるに限る。
と、思ったのだが。
通り過ぎた瞬間、真ん中の二人が麻袋を持っているのが見えた。
二人がかりで、脇に抱えるように。
そして、その袋からは、小さな手がはみ出ていた。
恐らく、あの中には、子供が一人、入っているのだろう。
1232
︵⋮⋮また人攫いか︶
この世界は、本当に人攫いが多い。
犯罪者はスキを見ては子供を攫おうとしている。
アスラ王国でも、魔大陸でも、大森林でも、ミリス神聖国でも、
大体どこにでも人攫いがいる。
ギース曰く、人攫いは儲かるのだそうだ。
現在、世界は多少の紛争はあるものの概ね平和で、
奴隷といえば中央大陸の中部や北部から多少流れてくる程度。
しかし奴隷を欲する人は多い。
特にミリス神聖国やアスラ王国といった裕福な国では。
つまる所、需要に対して供給が足りないのだ。
攫えば高値で売れる。
ゆえに人攫いはいなくならない。
道理だね。
人攫いを撲滅するには、大規模な戦争が起こるしかないらしい。
さて、しかし子供か。
五人で運んでいるってことは、計画的な犯行なのだろうか。
麻袋に入っているのは、高名な人物のご子息あるいはご息女とか。
正直、あまり関わりあいになりたくない所だ。
子供を助けたら、一味と勘違いされて牢屋に入る。
そんな苦い思い出がつい何ヶ月か前にあったばかりだ。
じゃあ、見捨てるか?
いや、まさか。
1233
この世界から人攫いは無くならないのと、
俺がそれで苦い経験をしたのと、
子供をたすけないのは、全部別の話である。
﹃デッドエンド﹄の掟その一。
子供は見捨てるな。
﹃デッドエンド﹄の掟その二。
子供は絶対に見捨てるな。
﹃デッドエンド﹄は正義の味方。
悪者はすべからく撃破。
子供はおしなべて救出。
そうやって少しずつスペルド族の名を広めるのだ。
俺は五人の後を追った。
−−−
俺の隠密スキルはレベルアップしていたようだ。
ドルディアの村でエリスたちに近づくために鍛えたからだろうか。
五人は俺に尾行に気づく事無く、一軒の倉庫へと入っていった。
迂闊な奴らだ。
ま、俺を見つけたければ、鼻を鍛えるんだな。
発情の臭いを嗅ぎとれれば一発だぜ。
倉庫の場所は冒険者区の一画。
俺の泊まっている宿よりも、さらに奥まった場所にある。
1234
通りには面していなくて、細い路地からしか入れない。
馬車はもちろん入れないし、道が狭いので大きな荷物も入らない。
なんでこんな所に倉庫なんて作ったんだと、責任者を呼びたくな
る。
そんなデッドスペースに建っている。
恐らく、倉庫が先で、周囲の建物が後なのだろう。
俺は男たちが入っていったのを確認し、裏に回った。
土の魔術を使って自らの身体をエレベート。
明かり取り用の窓から中へと入った。
雑然とつまれた木箱の一つに身を隠し、様子を伺う。
五人はあれこれと話し合っている。
どうやら、隣の酒場に大勢の仲間がいるらしい。
仕事が終わったから誰かを呼んでこいと言っているのが聞こえる。
仲間を呼ばれる前に片付けるか、
それとも、仲間の顔を確認した上で、子供だけを助けるか。
俺はもちろん、後者を選ぶ。
なので、しばらくは、この木箱の中に待機だ。
しかし、暗かったのでよく確かめなかったが、この木箱には一体
何が入っているのだろうか。
どうやら布である。
というのはわかるが、服というには少々小さい。
しかし、包まれていると不思議と安らかな気分になる。
一つを手にとって見る。
この感触、形、覚えがある。
立体的に縫製された布には、三つの穴が開いている。
1235
一部分だけ布が二重になっており、
その部分からは、そこはかとないステキなサムシングを感じる。
﹁って、パンツじゃねえか!﹂
﹁誰だ!﹂
し、しまった!
見つかった。
くそう。こんな罠を用意しているとは。卑劣な。
﹁木箱の中か?﹂
﹁出てこい!﹂
﹁おい、団長たちを呼んでこい﹂
まずい。
もたもたしているうちに仲間を呼ばれてしまった。
計画変更だ。
子供だけサッと助けてサッと逃げよう。そうしよう。
しかし顔を見られてしまう。
いや、問題ない。仮面は手元にある。
フオォォゥ!
気分はエクスタシー!
なんちゃって。
正体を隠すためにローブもクロスアウトしようかと思ったが、
よくよく考えると、買い物のために出てきたので、
ローブも着用していないし、杖も持っていなかった。
﹁うおっ!﹂
﹁ぱ、パンツをかぶってやがる⋮⋮﹂
1236
﹁変態だ⋮⋮﹂
男たちの度肝を抜きつつ、登場、そして口上。
﹁力と力のぶつかり合う狭間に、
己が醜い欲望を満たさんとする者よ、
その行いを恥じと知れッ!
人、それを⋮⋮﹃外道﹄という!﹂
﹁だ、誰だお前は!﹂
﹁﹃デッドエンドのルイジェルド﹄だ!﹂
﹁なにぃデッドエンドだ?﹂
あー、いかん、しまった!
ついいつもの癖で名乗ってしまった。
ここは﹃お前たちに名乗る名前はない﹄だった。
ごめんなさいルイジェルドさん。
あなたは今日からパンツを被って人助けをする変態です!
でも、ちゃんと子供は助けますから!
﹁人攫いめ! お前たちのせいで、今一人の男が濡れ衣を着せられ
たぞ! 絶対に許しはしない!﹂
﹁おいガキ、正義の味方ごっこなら他所でやれよ。俺たちはな﹂
﹁問答無用! さんらいずあたーっく!﹂
﹁ぐげぇ!﹂
とりあえず、岩砲弾を撃ちこんだ。
やはり先手必勝はいい。
思えば、魔界大帝を変態ロリコンオヤジの魔の手から救った時も、
こうやって先手を打ったものだ。
1237
﹁そーらそら!﹂
﹁げぇ!﹂
﹁うごぉ!﹂
またたく間に四人気絶。
俺は少年の元へと駆け寄る。
﹁大丈夫か少年! と思ったら、気絶してる⋮⋮﹂
どこかで見たことのあるような少年だ。
ホント、見覚えがある。
あれ?
どこで見たっけな。
思い出せない。
まあいい。こんな事をしてる暇はない。
早くしないと敵の増援がきてしまう。
と、思ったら倉庫の入り口にゾロゾロと男たちが現れた。
﹁うおっ! みんなやられてるじゃねえか!﹂
﹁ガキだが手練れだぞ、はやく団長たちを呼んでこい!﹂
﹁団長、今日はそうとう飲んでるぞ!﹂
﹁飲んでても強いから!﹂
二人が抜け、外へと走っていく。
すでに十人以上いるのだが、まだ増援が来るらしい。
ヤバイな。
非常にヤバイ。
やっぱ見捨てた方が良かったかもしれない。
あるいは、明日にでもルイジェルドに相談するとか。
失敗した。
1238
もう、全員倒して突破するしかない。
﹁なんて奴だ、パンツなんてかぶりやがって﹂
﹁もしかして、パンツを盗みにきたんじゃないの!﹂
﹁女の敵ってこと!?﹂
よく見ると、数名ほど女性が混じっていた。
ごめんルイジェルド。
本当にごめん。
心の中で平謝りしつつ、戦闘を開始した。
幸いにして、彼らは強くはなかった。
のこのこと走って近づいてこようとするのを、岩砲弾で迎撃。
彼らはそれが回避できず、だいたい一発で気絶した。
武器も持っていなかったし、魔術師もいないようだ。
楽勝だな。
マジックアイテム
﹁ち、近づけねえ﹂
﹁なんだよあれ、魔力付与品でも使ってるのか!?﹂
﹁団長はまだか!﹂
半分ほど気絶させた所で、残りが浮き足立った。
これならいける、そう思った時。
﹁おう、待たせたな﹂
増援は現れた。
本当にお早い到着だ。
隣の酒場にいたらしいし、当然か。
1239
物腰の鋭い五人を引き連れて。
悠々と倉庫の入り口に立っていた。
どこかで見たことのあるような男だと思った。
懐かしい感じのする顔だ。
しかし、これまた思い出せない。
そんなことより、後ろにいる巨乳のねーちゃんの方が重要だ。
ビキニアーマー。
この世界では珍しくもないのだが、
肌の露出が極めて高い。
魔大陸でもこんな露出狂みたいな女はいなかった。
他の女はしっかりとローブを着込んでいたりするから、
彼女だけが異様に目だって見える。
﹁チッ、好き放題やってくれやがって。
ヒック⋮⋮てめえらは手を出すなよ。
ガキ一人に大勢で掛かるこたぁねえ、俺一人でやる﹂
男は腕に自信があるようだが、足はフラフラだ。
遠目にも、酒を飲んで顔が赤いのが分かる。
しかし、本当にどこかで見たような顔だ。
茶髪で、DQNっぽくて、若干、パウロに似てるか。
声もパウロそっくりだ。
けど、パウロとは似ても似つかない。
パウロを窶れさせて、顔から余裕をなくせばあんな感じになるか。
なんとなく、本気で攻撃するのを躊躇いたくなる顔だ。
1240
﹁てめえ、うちの団員相手に好き勝手やってくれやがって、
覚悟はできてんだろうなぁ!﹂
戦闘に立つ男が気炎を吐いて、二本の剣を抜いた。
二刀流か。
恐らく、達人系の剣士だろう。
岩砲弾でなんとかなるか?
いや、しかし、殺すのはちょっと⋮⋮。
迷う俺に、男は突っ込んでくる。
一手遅れた。
俺は反射的に岩砲弾を放った。
男の反応は早かった。
右手の剣を斜めに構えると、岩砲弾を受け流したのだ。
﹁水神流か!﹂
﹁それだけじゃねえぜ!﹂
男の踏み込み。
俺は反射的に衝撃波を放ちつつ、後ろへと飛んだ。
﹁ヘッ!﹂
﹁おっと!﹂
予見眼を使い、先を見つつ回避する。
男の剣速は早い。
だが、やや足元がおぼつかない。
酔っているせいだろうか。
これならなんとかなるか。
1241
﹁チッ、アイツみてぇな動きしやがる⋮⋮!
ヴェラ! シェラ! 手を貸せ!﹂
先ほどのビキニアーマーと、魔術師っぽい格好の女が前に出てく
る。
ビキニアーマーが俺の横へと回りこみ、
魔術師が詠唱を始める。
まずいな。
男の攻撃は苛烈。
俺は回避に精一杯だ。
が、まだ手はある。
﹁ワッ!﹂
﹁うっ!﹂
声の魔術を使い、男の動きを一瞬だけ停止。
同時に衝撃波で男をふっ飛ばし、岩砲弾を魔術師に飛ばす。
さらに、切り込んでくるビキニに対し、予見眼を使い、カウンタ
ーを打ち込む。
魔術師は詠唱に集中している所に岩砲弾を打ち込まれて気絶。
ビキニは殴られてたたらを踏んだが、まだ大丈夫らしく、らんら
んと眼を輝かせて俺を睨んでくる。
そして、男も迫る。
﹁シェラ! てめぇ、よくも!﹂
1242
男が踏み込んでくるのを、泥沼を発生させて妨害。
男は無様に泥沼に足を取られ、転んだ。
﹁団長!﹂
よそ見しちゃいかんよ。
と、口に出す事もなく、俺は無言で岩砲弾を射出。
ビキニも気絶。
﹁ヴェラ! ちくしょう!﹂
男が片方の剣を鞘に戻し、もう片方を口に加えた。
予見眼。
<四つん這いで走ってくる>
犬かこいつは。
俺は岩砲弾で迎撃しつつ、背後へと距離を取る。
しかしここは狭い倉庫。
接近を阻めるようなものはない。
﹁うおおらぁ!﹂
四つん這いから、身体にひねりを加えながらの跳躍。
獣じみた動きの中で、腰の剣を抜刀。
斬撃は鋭い。
奇妙な体勢から、身体を大きくひねるように斬撃が繰り出される。
<同時に、口に加えた剣を左手に持ち替え、逆手での一撃>
奇抜な攻撃。
俺の予想を上回る。
1243
予見眼が無ければ、これを回避することはできなかっただろう。
斬撃は俺の鼻先をかすめた。
鼻に、ジンとした痛み。
﹁⋮⋮﹂
心臓がバクバクと鳴り始める。
俺は男を殺そうとは考えていなかった。
だが、奴は俺を殺そうとしていた。
そんな当たり前の事実に、いま気づいた。
俺も本気を出さなければ、やられる。
そう思い、俺は腰を深く落とす。
ルイジェルドと、そしてエリスとの訓練を思い出す。
男の獣じみた動きは、
どちらかというと、本気を出した時のルイジェルドの動きに近い。
だが、この男の身のこなしはルイジェルドほどではない。
奇抜なだけだ。
やれるはずだ。
次に来たら、カウンターで⋮⋮。
と、思った所で、男の動きが止まっている事に気づいた。
ふと見ると、俺の顔を覆っていたパンツが地面に落ちている。
まずい、顔を見られ⋮⋮。
﹁お前、ルディか⋮⋮?﹂
ルディ。
1244
俺をその名前で呼ぶ男は、一人しかいない。
そして、その呆気に取られた声は、
怒声の混じった、酔っぱらいのダミ声ではなく、
ひどく聞き慣れたものだった。
﹁⋮⋮父様?﹂
−−−
久しぶりに会ったパウロ・グレイラットは、
頬はげっそりと窶れ、目の下には隈があり、
無精髭を生やして、髪はボサボサで、
息は酒臭く、全体的にやさぐれていた。
俺の記憶にあるパウロとは、似ても似つかなかった。
1245
パウロ視点
−−−
第四十五話﹁一年半のパウロ﹂
−−−
目が覚めた時、オレは草原にいた。
草原だ。
草原としか言いようが無い。
何の変哲もない草原だが、不思議な事に見覚えがあった。
どこかと考えること数分。
思い出した。
ここはアスラ王国の南部。
かつて滞在していた町の近くだ。
当時は、町で水神流を習っていた。
つまり、リーリャの故郷の近くである。
これは夢だ。
自然とそう考えた。
それにしても懐かしい場所だ。
ここで暮らしたのは何年だったか。
一年か、それとも二年か。
それほど長くいなかった事だけは覚えている。
記憶にあるのは道場でのことばかり。
思い出すのは兄弟子たち。
いけ好かない連中だった。
1246
口ばかりの連中だった。
才能あるオレの頭を押さえつけ、自分の上に行くなと厳命するよ
うな連中だった。
オレは上下関係というものが嫌いだ。
実家を飛び出したのも、父親に頭を抑えつけられたからだ。
それでも、まだ父親はマシだった。
なんだかんだ言って、力を持っていた。
だが、あの兄弟子らには力がなかった。
口と自尊心だけが発達した有象無象だった。
オレが中級の域に達した時、奴らは初級の出口あたりでウロウロ
していた。
程度の低い奴らだった。
道場主にしても、せいぜい水神流の上級剣士だ。
自分の力量の無さを棚にあげて精神論ばかり吐く老害だった。
オレはあいつらに、いつか自分の力を見せてやろうと思っていた。
もっとも、結局、俺がそいつらに自分の力を見せつけることはな
かった。
いろんなことに我慢できなくなり、
あてつけるようにリーリャを犯し、逃げた。
元より狙っていたのもあるが、あいつら全員が大切にしているも
のを踏みにじってやりたかった。
奴らはオレが逃げた翌日から、血眼でオレを探しまわった。
オレは奴らをあざ笑うように国外に逃亡した。
思えば、オレもガキだったな。
1247
兄弟子たちの事はどうでもいいが、
リーリャには、悪いことをしたと思っている。
﹁⋮⋮ん﹂
風が吹いた。
目にゴミが入り、顔をしかめる。
と、オレの裾を引っ張る者がいた。
﹁おとうさん⋮⋮ここ、どこ⋮⋮?﹂
﹁うん?﹂
気づけば、ノルンを胸に抱いていた。
彼女は不安げな顔でオレを見ている。
そこでようやく、
俺は部屋着のまま、草原に立っている事に気付いた。
足の裏には、ハッキリとした地面の感覚。
ノルンの温もり。
これは夢ではない。
﹁⋮⋮なんだこりゃ?﹂
自分がなぜ、ここにいるのかわからない。
一人なら、最後まで夢だと思っただろう。
だが、胸にはノルンがいる。
三年前に生まれたばかりのノルン。
小さなノルン。
オレの可愛い娘。
1248
オレは滅多に娘を抱かない。
厳格な父親を目指しているため、肉体的な接触を避けているのだ。
そんなオレが、なぜノルンを抱いているのか⋮⋮。
⋮⋮そうだ。
思い出した。
そう、先ほどまで、家でゼニス達と話をしていたのだ。
他愛のない話だった。
﹃娘は大きくなると父親との接触を嫌がるようになるから、今のう
ちに抱いておいた方がいいわよ﹄
﹃いやいや、オレは威厳のある父親を目指そうと思っている。
ルーデウスと違ってノルンは平凡なようだし、
ここは偉大な父親と認識してもらわなければ﹄
﹃それって、嫌いだった御義父さんと一緒なんじゃないの?﹄
﹃⋮⋮そうだな、じゃあやっぱり抱かせてくれ﹄
そんな会話だ。
その近くでは、リーリャがアイシャに何かを教えていた。
リーリャはアイシャに英才教育を施すつもりのようだった。
オレはもっと伸び伸びと自由に育てさせるべきだと反対したのだ
が、
リーリャに鬼気迫る様子で、押し切られたのだ。
アイシャは成長が早かった。
何かを教えればすぐに覚えたし、歩き出すのも早かった。
リーリャの教育がよかったのかもしれないが、
ノルンが知恵遅れなのかと不安になるぐらい、優秀だった。
1249
リーリャは﹁ルーデウス様ほどではありません。ノルンお嬢様ぐ
らいが普通です﹂と言っていた。
普通でも異常でもどちらでもいいのだが、
将来、優秀な兄と妹に挟まれるノルンを思うと、少しだけ不憫だ。
そう。
その時だ。
唐突に。
白い光に包まれたのだ。
ああ、覚えている。
記憶は連続している。
それが証拠に、ノルンが胸に抱かれている。
もうとっくに歩けるノルンを、胸に抱いている。
⋮⋮何かが起こったらしいと、瞬時に悟った。
﹁⋮⋮おとうさん?﹂
オレの顔を見て、ノルンが不安そうな声を上げた。
﹁大丈夫だ﹂
オレはノルンの頭を優しく撫でた。
そして、周囲を見渡す。
ゼニスとリーリャの姿がない。
近くにいるのか、それともオレだけが飛ばされたのか。
ノルンが一緒にいる。
1250
何故だ。
⋮⋮覚えがある。
テレポート
迷宮で一度だけ引っかかった事のある凶悪な罠。
転移の魔法陣に乗ってしまった時と似ている。
当時は運よく近くに転移したが、
つい裾を掴んでしまったエリナリーゼが本気で怒っていた。
運が悪ければ即死する罠だ。
引っかかったのは斥候のサルが発見できなかったのが全部悪いの
だが⋮⋮。
そんな話はどうでもいい。
つまる所、転移とは接触している相手だけを瞬時に移動させるの
だ。
だから、ノルンがオレについてきた。
しかし、どうして。
何故そんな事が起きたのか。
唐突すぎる。
誰の仕業か。
オレは各地に敵がいる。誰に何をされても不思議はない。
だが、転移。
転移となると話は別だ。
マジックアイテム
転移魔術をするための詠唱は無い。
マジックアイテム
ゆえに魔法陣か魔力付与品を使わなければならない。
転移の魔力付与品は世界的に見ても禁制品。
転移の魔法陣の技術は禁術として指定され、失われて久しい。
1251
オレ一人に復讐するのに、なぜそんな危険な橋を渡る必要がある
のか。
そして、なぜこんな、何もない場所に飛ばす必要がある。
まさか。
当時の門弟の一人が犯人か?
あの時の事を覚えていて、
リーリャを手に入れるために、オレを転移させた。
この場所なのは、あてつけだ。
家に帰ったら、ゼニスとリーリャが野卑な男どもに犯されている
のかもしれない。
くそっ、奴らの考えそうな事だ。
﹁ねぇ、おとうさん﹂
﹁ノルン。大丈夫だ、すぐに家に帰ろう﹂
オレはむしろ自分に言い聞かせるように言って、町に向かった。
幸いにして、何かあった時のために、
アスラ金貨を剣の鞘のホルダーに忍ばせてある。
冒険者時代の癖もあり、剣は常に身に着けている。
寝る時だって外しはしない。
外すのは女を抱く時だけだ。
鞘のホルダーには冒険者カードも付けている。
こんな時のために、だ。
オレは冒険者ギルドに赴いて両替。
銀貨9枚と大銅貨8枚。
いつのまにか手数料が上がっていた。
1252
だが、これだけあれば十分だ。
冒険者ギルドの依頼をサッと確認し、
緊急の配達依頼があったので、それを受諾する。
受付嬢は、更新が途絶えて文字の消えたカードに魔力を通し、
そこに書いてあるランクがSであることを確かめ、驚いていた。
そして、Sランク冒険者がなぜこんなクエストを、と驚いていた。
緊急依頼であるためランクに関係なく受けられるが、本来ならE
ランクの依頼だ。
別に隠す事もないのだが、説明するのも面倒なので適当に言葉を
濁しておく。
銀貨一枚で手早く準備を整える。
旅支度なんてしたのは何年ぶりか。
久しぶりだが、必要なものはわかっている。
すぐに終わった。
そして、冒険者ギルドより馬を借りる。
緊急の配達依頼があってよかった。
Sランクの特典により、馬を無償で借りる事ができる。
無論、依頼達成と同時に返さなければいけないが。
今回、配達依頼とは別方向に行く。
依頼人には悪いと思うが、オレも緊急だ。
連れられてきた馬は、かなりの名馬だった。
運がいい。それだけ緊急という事だろう。
これは、冒険者資格が剥奪される可能性もあるな。
だが、それならそれでいい。
もう冒険者として生きていくつもりもないからな。
1253
ノルンを馬に乗せ、オレも後ろに飛び乗る。
そして、すぐに町を発った。
−−−
途中でノルンが体調を崩した。
急ぎすぎたのだ。
乗馬の経験のないノルンは、
昼夜を問わず移動し続けるには、まだ子供すぎた。
その看病に時間を取られ、
フィットア領にたどり着いた時には、2ヶ月は掛かっていた。
最初から馬車を使っておけば、と思う日数だ。
配達依頼はとっくの昔に失敗になっている。
罰金は大した金額ではない。
だが、オレは絶望していた。
ブエナ村にたどり着く前に。
事の重大さが分かったからだ。
フィットア領が消滅していた。
オレは混乱の極地にあった。
何が起こったのか。
ブエナ村はどこにいったのか。
ゼニスは?
1254
リーリャは?
城塞都市ロアも消滅している。
となると、ルーデウスもいないのか?
馬鹿な⋮⋮。
オレは知らずに、地面に膝をついていた。
﹃転移の罠で全滅﹄
そんな単語が、オレの脳内に渦巻いた。
冒険者時代。
迷宮に潜るようになってから、何度も耳にした。
一番気をつけなければいけない罠は転移だと。
パーティはバラバラになり、現在位置もわからなくなる。
絶対に引っかかってはいけない罠の一つ。
当時、そんな罠で全滅したパーティの話は何度も聞いた。
パーティ全員で魔法陣に引っかかり、
なんとか一人と合流して入り口まで戻ってくる。
すると、自分たち以外のパーティが全滅していた。
そんな話を、呆然とした顔でつぶやく男は何度も見た。
だが、まさか、
こんな所で、
自分が⋮⋮。
﹁おとうさん⋮⋮おうち、まだなの?﹂
そんな言葉で、オレはハッと我に返った。
オレの服の裾を掴んだ、三才になる娘がいた。
1255
オレは無言で、ノルンを抱きしめた。
﹁おとうさん? どうしたの?﹂
そうだ。
オレはおとうさん。
父親だ。
娘は、まだ何が起こったのかわかっていない。
だが、オレがいるから、安心している。
オレは父親だ。
父親なのだ。
弱みを見せてはいけない。
毅然とした態度でいなければならない。
そうだとも。
転移は確かに恐ろしい罠だ。
なぜそんな事態になったのかはわからない。
だが、オレは生きていた。
ゼニスだって元冒険者だ。
リーリャだって、後遺症はあるものの、剣を使える。
アイシャは⋮⋮。
思い出せ、あの時、あの瞬間、
リーリャはアイシャと接触していたか?
⋮⋮思い出せん。
いや、諦めるな。
1256
あの時、リーリャはアイシャの手を握っていた。
今はとりあえず、そう考えよう。
−−−
最寄りの町で馬を返し、情報を集めてみる。
転移の災害はフィットア領全土で起こった。
フィリップもサウロスも行方不明。
現在はフィリップの兄弟が領主になっている。
だが、フィリップの兄弟は災害の責任を取らされ、今にも失脚し
そうである。
自分の保身に走るあまり、災害に対する手が打てていないらしい。
領民を守ることより、まず保身。
これだからアスラ貴族は気に食わない。
情報を集めている中、
アルフォンスという老人が接触してきた。
彼はフィリップに仕えていた執事の一人だという。
グレイラット家に忠誠を誓っていた彼は、
こんな状況になろうとも己の意志を変えなかった。
自分の財産を使い、難民キャンプの設営を開始していたのだ。
アルフォンスは、オレにその手伝いをしてほしいと接触してきた。
なぜオレを、と聞くと、フィリップからオレの話を聞いていたら
しい。
フィリップ曰く、
1257
﹃いざという時に力を発揮する人物だが、先を見通す力はないので、
自分のミスでいざという時を作り出す危うい人物だ﹄
という事らしい。
余計なお世話だ。
アルフォンスとしては、低評価なオレに接触するのは迷ったらし
い。
だが、ルーデウスの父親であることを加味し、協力を仰いだとい
う話だった。
手紙で近況を聞いていただけだが、息子があまり接触していない
であろうこの執事にも評価されていた事を嬉しく思う。
オレは快く承諾し、アルフォンスの指示に従った。
そうして一ヶ月。
アルフォンスは顔が広く、
各所に手を回して人材を集め、難民キャンプを立ち上げた。
見事な手腕だった。
オレは集まってきた若者を集め、﹁フィットア領捜索団﹂を組織
した。
各地に転移し、難民と化した人々を救うのだ。
もっとも、オレの目的は見ず知らずの他人を助けることではない。
家族を探すことだ。
その頃には、王都の方でも権力争いに決着がついたのか、
復興資金がアルフォンスに送られるようになっていた。
難民キャンプにメモを残し、
冒険者ギルドの本部があるミリス神聖国を目指す。
アスラとミリス、この二つを抑えておけば、どちらかには情報が
1258
はいるだろう。
そういう判断だ。
なに、全員すぐに見つかる。
と、その時は思っていた。
浅はかだった。
−−−
ミリスで活動し、半年の時間が流れた。
かなりの人間がミリス大陸へと転移していた。
オレはそれを全員、片っ端から救助した。
中には奴隷として売られた者もいた。
全員、救うことにした。
奴隷を無理やり解放するというのは、ミリスの法律に触れる所で
ある。
だが、ゼニスやリーリャがもし奴隷になっていたら。
そう考えると、犯罪だからと躊躇する理由にはならなかった。
全員救う。
その姿勢を保つのだ。
そうすれば、誰がどんな状況でも、大義名分が立つ。
助けないという前例は作らない。
そう考え、ゼニスの実家に頼った。
ゼニスの実家はミリスでは力ある貴族であり、
何人もの優秀な騎士を排出してきた名門である。
1259
彼らに頼り、奴隷を解放するための下地を作った。
難民救助は順調だった。
動きが早かったおかげか、難民として困窮している人々はすぐに
見つかった。
ミリスには大量の人々が転移していた。
彼らを助け、
自分の足で帰るという者には旅費を、
捜索を手伝うという者は捜索団に迎え入れ、
老人や子供には住む場所を提供した。
奴隷は金で片がつくなら金で、
片が付かないならゼニスの実家の権力で、
それでもダメなら、隙を見て攫って身柄を隠した。
もちろん、問題は起きた。
無理矢理に奴隷を奪うオレたちをミリス貴族たちは疎ましく思い、
私兵を引き連れてオレを強襲する貴族もいた。
そのせいで、死ぬ団員も出た。
だが、オレは止まらなかった。
オレには大義名分があった。
人々を救うという大義名分が。
だから団員たちも付いてきた。
オレはアスラの上級貴族グレイラット家の名前、
ゼニスの実家、かつての冒険者としての名声、
あらゆるものを使って問題を解決した。
しかし、一向に、まったく、全然、ゼニスとリーリャの情報は入
って来なかった。
それどころか、ルーデウスもだ。
あの、どこにいても目立ちそうな息子の情報すら、一切入ってこ
1260
ないのだ。
−−−
一年が経過してしまった。
あっという間に一年だ。
この頃になると、もう難民の発見報告もかなりナリを潜めた。
中央大陸南部とミリス大陸で見つけられる相手は、大体見つけた
と言えよう。
まだいくつか探していない村はあるし、
まだ何人か、奴隷を手放さない奴らがいる。
その程度だ。
奴隷の解放は計画的に進んでいる。
身柄を確保してしまえばこちらのものだ。
強引であることは承知している。
一部の貴族連中に唾棄され、眼をつけられている事も理解してい
る。
それで団員が襲われ、死亡したり大怪我をした事もあった。
団員達の中には、その事でオレを責める奴もいた。
あんたがもっとうまくやってりゃ、こんな事にはならなかったん
だ、と。
何を言われても、オレの行動は変わらない。
今更変えるわけにはいかないのだ。
最近、難民の発見報告より、死亡報告が多く上がってくる。
1261
いや、最近などというのは曖昧か。
最初から死亡報告は多かったのだ。
はっきり言って、生存者より死亡者の方が圧倒的に多い。
エト、クロエ、ロールズ、ボニー、レーン、マリオン、モンティ
⋮⋮。
知り合いの死亡報告を聞く度に、オレの背筋がヒヤリと冷えた。
報告を受けて泣き崩れる者もいた。
あと一歩間に合わず、死亡したというケースもあった。
オレに食って掛かる者もいた。
なんでもっと早くあの場所を探してくれなかったんだ、と。
その度に、やるせない気持ちになった。
そして、時が流れれば流れるほど、
死亡報告すらも曖昧になっていった。
死んだかもしれない。
そういう風体の奴が死体になっているのを見たかもしれない。
森の奥で、そいつの持っていた何かを見たかもしれない。
実際に赴いてみると、徒労である事も多かった。
そして、オレの家族に関する情報は、未だ一切入ってこない。
失敗したかもしれないと思った。
魔大陸や中央大陸の北部を先に探すべきだったのかもしれない。
奴隷になった所で、命まで奪われるわけではないのだ。
後回しにできるものは後回しにして、
まずは危険な場所を探すべきだったのではないか、と。
いや、無理だ。
捜索団のメンバーは戦いに優れているわけではない。
1262
大半が元は農民や町民だ。
冒険者もいるが、数は少ないし、アスラ王国で活動していたよう
な冒険者で、オレに言わせりゃ駆け出しもいい所だ。
そんなメンツでは、魔大陸や中央大陸北部、ベガリット大陸では、
戦闘に耐えられない。
自分たちが遭難しかねない。
だから間違ってなかったと思う。
おかげで、数千人単位で難民を救うことができた。
あるいは﹃黒狼の牙﹄の連中がいてくれれば、
魔大陸やベガリット大陸も捜索してくれるだろう。
だが、連絡を取ってきたのは一人だけだった。
その一人も、一度連絡を取ってから、フラリとどこかにいなくな
り、
今では何をやっているのかサッパリわからない。
薄情な連中だとは思わない。
もともと仲は悪かったし、別れ際にも大喧嘩をした。
最悪な別れだった。
全員がオレを恨んでいてもおかしくはない。
なぜ、昔のオレはあんな別れ方をしたのか。
知っている、ガキだったからだ。
とはいえ、後悔しても始まらない。
−−−
1263
一年半が経過した。
このごろ、酒を飲む量が増えた。
酒に頼らなければやってられなくなってきた。
朝から晩まで飲んでいる。
素面の時なんて無い。
こんな事ではいけない、と思いつつも、
酔いが覚めると、どうしてもダメだった。
家族が死んだと考えてしまう。
どんな死に様だったのか、死体はどうなったのか。
そんなことばかりを考えてしまう。
なにせ、あの優秀な息子ですら、音沙汰の一つもないのだ。
考えたくはない。
考えたくはないが、恐らく、
生きてはいまい。
きっと、みんな、この一年半の間に、
オレの助けを待ち、泣きながら死んでいったのだ。
そう考え、発狂しそうになった。
なぜオレはこんな所にいるのか。
他者のことなどかなぐり捨てて、最初から危険な場所を探してい
ればよかった。
最悪、オレ一人でもなんとかなったのだ。
選択ミスで、すぐそばにあったものが失われた。
一番大切なものが、無残にも奪われた。
それを信じたくなくて、オレは酒を飲む。
酔っ払っている時だけが、幸せだった。
1264
仕事はまったく手に付かなかった。
半年後、ミリス大陸で見つかった人々をフィットア領へと返す作
戦が始まる。
老人や女子供、あるいは病気で動けない人間ばかりだ。
金があっても長旅に耐えられるかわからない人々。
しかし故郷へと帰りたいと願う者達。
彼らを護衛しつつ、フィットア領へと戻るのだ。
その計画が進んでいる中、オレは責任者であるにもかかわらず、
会議にも参加せず、一日中飲んだくれていた。
オレを含めた主要メンバーはミリスに残るが、その作戦を最後に、
捜索活動は縮小される。
二年。
たった二年で捜索が打ち切りなのだ。
早すぎると思うが、こんなものだと納得している自分もいる。
これ以上捜索を続けても、無駄に資金を浪費していくだけだ。
結局、俺は家族の一人も見つけることが出来なかった。
ダメな男だ。
どうしてオレはこんなにダメなんだ。
いつまでたっても大人になれない。
酒浸りになるオレに、団員たちは一歩距離をおいている。
当然だ。
誰だって、こんな酒浸りのバカを相手にしたくない。
もっとも、例外は何人かいる。
そのうちの一人が、ノルンだ。
1265
﹁おとうさん! あのね、さっきね、道でね! おっきな人がね!﹂
オレがどれだけ酔っ払っていても、
ノルンは嬉しそうに話しかけてきてくれる。
ノルン。
ノルンはオレにとって、最後の家族だ。
一番大切なものだ。
オレには、もうノルンしかいない。
そうだ。
魔大陸やベガリット大陸に行かなかったのだって、
ノルンの存在があったからだ。
当時まだ4歳だった娘を、どうして放り出せよう。
どうして彼女を置き去りにし、自分が死ぬかもしれない危険な場
所へと赴けようか。
﹁おお? どうしたノルン。何か面白い事でもあったのか?﹂
﹁うん! さっき道で転びそうになったら、ハゲ頭の人が助けてく
れたの!
それでね、コレ! もらったの!﹂
ノルンはそう言って、嬉しそうに手の中のものを見せてくれた。
りんごだった。
真っ赤なりんごだ。
実に美味しそうな色をしている。
﹁そうか、それはよかったな。ちゃんとお礼は言ったか?﹂
﹁うん! ありがとうって言ったら、ハゲのおじさんは頭を撫でて
1266
くれたの!﹂
﹁そうかそうか。いい人だな。でも、ハゲって言っちゃダメだぞ、
気にしてるかもしれないからな﹂
娘との会話はいつも楽しい。
ノルンはオレの宝だ。
もしノルンに手を出すような輩がいたら、
それがミリス教団の法王でも喧嘩を売る覚悟がある。
と、そんな事を思っていた時だ。
﹁団長! 大変です!﹂
団員の一人が、オレの部屋に飛び込んできた。
娘との会話を中断され、俺は少し不機嫌になる。
いつもなら、怒鳴り散らして追い返す所だろう。
が、娘の手前、くだらないプライドが、俺を冷静にさせた。
﹁どうした?﹂
﹁仕事に行ってた奴らが襲われたんだ!﹂
﹁襲われただぁ?﹂
襲われた。 誰に?
決まってる、あのくだらない貴族連中だ。
アスラ王国の領民が災害によって奴隷に落ちたのだと説明しても、
決して身柄を離そうとしなかった、強欲な連中だ。
確か今日は、そのうちの一人を救出するという話だったか。
﹁よし、全員、装備つけろ! いくぞ!﹂
1267
取るもとりあえず、荒事用の団員に声を掛ける。
大して強い連中ではないが、相手だって迷宮に潜るような冒険者
ではない。
十分互角に戦える。
そして、そいつらを引き連れ、
問題が起きたとされる場所へと向かう。
すぐ近く、というか隣だった。
捜索団の倉庫の一つで、団員の衣料品などを保管している場所だ。
ここを嗅ぎつけられたのか。
まずいな。
拠点を変える必要があるかもしれない。
﹁パウロさん、敵が一人だが、強い。気をつけてくれ﹂
﹁⋮⋮剣を使うのか?﹂
﹁いや、魔術師だ。多分ガキだが、顔を隠している﹂
魔術師のガキ⋮⋮。
それも、素人とはいえ、大の大人を団員を何人も倒しうる相手。
恐らくは小人族だろう。
奴らは子供のような見た目で、平気で他人を騙す。
小人族の手練れ。
酔っていて、勝てるだろうか。
そこらのチンピラに負けない自信はあるが⋮⋮。
いや、問題ない。
やりようはいくらでもある。
1268
そう思い、俺は倉庫へと入った。
1269
第四十六話﹁親子喧嘩﹂
パウロの泊まっている宿屋、﹃門の夜明け亭﹄。
そこの隣にある、大きめの酒場。
木製の丸テーブルが10席ほど並び、
俺が座っているのはその一つ。
目の前には、パウロが座っている。
また、まだ昼間だというのに、全ての席に人が埋まっている。
先ほど気絶させた奴らも、パウロの仲間の治癒術師に治療しても
らい、座っている。
言うまでもないことだが、俺に対してはあまりいい目を向けてい
ない。
ここにいる全員、パウロの仲間だそうだ。
特に気になるのは、パウロの後ろ斜め後方。
そこに座っている女戦士だ。
髪は栗色でショート。外ハネ。
アヒル口で、チャーミングな印象を受ける。
特筆すべきはその体つきと格好だ。
バインとでかい胸と、キュっとくびれた腰、むっちりとした尻。
これらをいわゆるビキニアーマーに身を包んだ、10代後半の少
女。
そう、パウロにヴェラと呼ばれていた女戦士である。
それはもうパウロの好きそうな体をしており、
俺ですら見ただけで釘付けになりそうだった。
1270
ビキニアーマーというのは、この世界ではそれほど珍しくない。
多少の傷なら治癒魔術で簡単に治る世界だ。
攻撃を受けることを前提にして、より軽量を目指す。
鎖帷子など邪魔。
そんな剣士が大勢いる。
魔大陸でも結構見た。
恐らく、彼女もそんな一人なのだろう。
しかし、それにしても、あそこまで薄着なのは初めてだ。
普通は薄手の服の上につけるものだし、
肩や肘といった関節にはプロテクターをつける。
今は酒場だからはずしているにしても、
それなら普通は外套を羽織ったりする。
少なくとも、今まで魔大陸で見てきたお姉さま方はそうしていた。
あんな格好で寒くないのだろうか。
ミリスは7つの塔のおかげで気候がいつも安定していると聞いた。
なら、大丈夫なのか。
とりあえず拝んでおこう。
眼福。
と見ていると、ふと目があった。
バチッとウインクされた。
ウインクを返しておいた。
﹁おいルディ⋮⋮ルディ?﹂
と、パウロに呼ばれ、俺は女戦士から目線を剥がした。
1271
﹁父様、お久しぶりです﹂
﹁まあ、なんだ、ルディ⋮⋮よく生きていてくれたな﹂
パウロは、疲れた声で言った。
なんというか、随分と変わっていた。
頬はげっそりと窶れ、目の下には隈があり、
無精髭を生やして、髪はボサボサで、
息は酒臭く、全体的にやさぐれている。
俺の記憶にあるパウロとは似ても似つかない。
﹁ええ⋮⋮まあ⋮⋮﹂
どうにも、頭がついていかない。
なぜ、パウロがここにいるのだろうか。
ここはミリシオンだ。
アスラとはアフリカとモンゴルぐらい離れている。
俺を探しにきてくれたのだろうか?
いや、魔大陸に転移したなんてわからないはずだ。
なら、別件か。
ブエナ村を守るという仕事はどうなっているのだろうか。
﹁その、父様はどうしてここに?﹂
まずはそこだ、そう思って聞くと、
パウロは意外そうな顔をした。
﹁どうしてって、伝言を見ただろう?﹂
1272
﹁伝言⋮⋮ですか?﹂
伝言。
なんの話だろうか。
そうしたものを見かけた記憶はない。
疑問符を浮かべる俺の顔を見て、パウロはむっと顔を顰めた。
何か気に障るような事でも言っただろうか。
﹁なあルディ、お前、今までどうしてきた?﹂
﹁どうといわれても、大変でしたよ﹂
事情を聞きたいのはこっちなのだが。
そう思いつつも、俺は今までの道程を話した。
魔大陸に転移し、
ある魔族に助けられ、
冒険者となり、
エリスと共に一年間かけて魔大陸を抜けてきた事。
思い返すと、中々楽しい旅だった。
最初の出だしこそ悪かったものの、
半年経過したぐらいから冒険者としての生活にも慣れた。
それがゆえにか、俺の口調は次第に饒舌になり、これまでの旅に
おけるエピソードを語る口調に熱が入った。
語られるは完全ノンフィクションの一大スペクタクル。
旅の内容は三部によって分けられ、
第一部、心の友ルイジェルドとの出会い、そしてリカリス村での
大騒動。
1273
第二部、ルイジェルドを助け、大魔術師ルーデウスが世直しをす
る旅。
第三部、卑劣な獣族の罠に掛かり、とらわれの身となって絶体絶
命な俺。
一部誇張表現はあるものの、俺の口は滑らかに動き、
段々楽しくなってきて身振り手振りを交え、
大げさな擬音を発しての大演説へと発展した。
ちなみに、人神のことはボカした。
﹁そして、ウェンポートへとたどり着いた僕らが目にしたのは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
第二部﹃魔大陸ブラリ三人旅・人情編﹄が終わった所で、俺はふ
と言葉を止めた。
パウロが不機嫌になっていた。
顔をゆがませ、イラついた表情でテーブルをトントンと指でたた
いていた。
何が気に障ったのだろうか。
俺は理解できぬまま、続きを話そうとした。
﹁それで、その後大森林に赴いて﹂
﹁もういい﹂
パウロはイライラした声音で、俺の言葉を遮った。
﹁お前がこの一年ちょっとの間、遊び歩いてたって事は、よくわか
った﹂
パウロの言葉に、俺は少しばかりカチンときた。
1274
﹁僕も大変だったんですが﹂
﹁どこがだ?﹂
﹁えっ?﹂
聞き返されて、俺は変な声を出した。
﹁お前の口調からは、大変さなんて微塵も感じられねえ﹂
それは、そういうふうに話したからだ。
確かに、ちょっと調子には乗っていたかもしれないけど。
﹁なあ、ルディ、一つ聞きたいんだが﹂
﹁なんでしょう﹂
﹁お前、どうして魔大陸で、他に転移した奴らの情報を集めなかっ
たんだ?﹂
俺は黙った。
黙らざるをえなかった。
どうして、といわれても答えようがなかった。
そんなのはただ一つ。
理由はただひとつだ。
忘れていたからだ。
最初は自分たちの事で精一杯で、
しかし余裕が戻ってきた時には、
まさか自分たち以外の人物が魔大陸にいるとは思っていなかった。
﹁わ、忘れていました⋮⋮その、余裕がなくて﹂
﹁余裕がない?
見ず知らずの魔族を助ける余裕はあっても、
1275
他に転移されたであろう人達を気にかける余裕は無いってか﹂
俺は黙る。
優先順位を間違った。
そう言えば確かにそうかもしれない。
けど、後になってからそんな事を言われても困る。
あの時は、本当に忘れていたのだ。
仕方がないだろう。
﹁ハッ!
人も探さず、手紙の一つもよこさず、
可愛い可愛いお嬢様と二人で、遠足気分で冒険者暮らし。
しかも、強力な護衛まで付いているときた。
それで。ハッ、なんだ、ミリシオンに来て最初にやったことが、
人攫いの現場を見つけて、パンツかぶって正義の味方ごっこか?﹂
パウロはあざ笑うように息を吐くと、隣のテーブルにおいてあっ
た酒瓶を手にとる。
グッと一息で半分飲んだ。
そして俺を馬鹿にするように、ペッと唾を吐いた。
そのあからさまに馬鹿にした仕草にイラッとする。
酒を飲むなとは言わないが、
今は大事な話をしてるんじゃないのか?
﹁僕だって一杯一杯だったんですよ。
右も左もわからない状況で、でもエリスだけは守らなきゃって思
って⋮⋮。
多少抜けてる事があったって仕方ないでしょう?﹂
﹁別に悪くはねえよ﹂
1276
馬鹿にするような口調。
とうとう、俺は声を荒げた。
﹁じゃあ、なんで突っかかってくるんですか!﹂
我慢にも限界があった。
パウロがなんでこんなことを言うのかわからない。
﹁なんで?﹂
パウロは再度、ペッと唾を吐き捨てた。
﹁お前こそ、なんでだ?﹂
﹁なんでって、何が?﹂
理解できない。パウロは何を言いたいのか。
﹁エリスってのはフィリップの娘だったか?﹂
﹁え? ああ、もちろん、そうですよ﹂
﹁オレぁ見たことがねえが、さぞ可愛いお嬢さんなんだろうな。
手紙を出さなかったのは、お嬢様の護衛が増えると、
イチャイチャすんのを邪魔されるとでも思ったからか?﹂
﹁だから、それは、忘れていたからだって言っただろうが﹂
それ以上のことは考えていない。
確かに、エリスはいいところのお嬢さんだ。
グレイラット家はでかい。
あるいは、ザントポートの領主あたりに話をすれば、
護衛の一人や二人はつけてくれたかもしれない。
1277
けど、それは俺が獣族の村で捕まっていたから無理だったと、
ちゃんと説明⋮⋮は、してないか、そこまでは話していない。
だとしても、だ。
俺は俺なりに出来ることはやってきたつもりだ。
全てを最善手で行えてはいないが、
だからといってそれを責められる筋合いはない。
﹁団長。それぐらいにしてあげたらどうです?
まだ小さいんですから、あんまり言ったってしょうがないじゃな
いですか﹂
と、俺が黙っていると、先ほどのビキニが、後ろからパウロの肩
に手を置いた。
それを見て、俺は鼻で笑った。
結局こうだ。
この男は、偉そうな事を言ったって、
女に見境がない男なのだ。
それが、そんな男が。
どうして俺に何かを言えると言うのだ。
俺はエリスには一切手出ししていない。
確かに危ない瞬間はあった。
煩悩に支配されそうにもなった。
けど、決して、俺は、手を出していない。
﹁女の事で、父様にとやかく言われたくないですよ﹂
﹁⋮⋮あ?﹂
1278
パウロの目が座った。
そのことに、俺は気付かない。
﹁その女の人は、なんなんですか?﹂
﹁ヴェラがどうかしたのか?﹂
﹁近くにそんな綺麗な女の人がいるって、
母様やリーリャは知ってるんですか?﹂
﹁⋮⋮知らねえよ。知ってるわけねえだろ﹂
パウロの顔が悔しげにゆがむが、俺はそれを見ていない。
ただ口喧嘩に勝ちつつあると錯覚していた。
﹁じゃあ、浮気し放題ってわけだ。
ずいぶんとエロい格好させちゃってまあ。
こりゃ、新しい弟か妹が出来る日も近いですかね﹂
気付けば。
気付けば俺は殴られて、
地面に倒れていた。
パウロが憎々しげな顔をして、俺を見下ろしている。
﹁ふざけた事言ってんじゃねえぞルディ﹂
殴られた。
なんでだ。
ちくしょう。
﹁てめえ、ルディ。ここに来たってことは、
ザントポートにも足を運んだんだろうが﹂
﹁それがどうしたってんだよ﹂
1279
﹁なら知ってるだろうが!﹂
もうワケがわからない。
ただ、パウロが何かを隠匿し、
それを知らない俺を、
知っていて当然だと、糾弾している事だけはわかった。
ふざけるんじゃない、と思った。
俺にだって知らないことはある。
知らないことだらけだ。
﹁知らねぇつってんだろ!﹂
俺は拳を振り上げ、パウロに殴りかかった。
避けられる。
同時に予見眼を開眼する。
<足を掛けられて転ばされる>
俺は思い切りパウロの足を踏みつけた。
そして、振り向きざまにパウロの顎先を狙う。
<避けられ、カウンターで殴り返される>
酔っ払ってるのによく動く。
俺は右手に魔力を込める。
肉弾戦じゃまだパウロに及ばない。
だが、魔術を使えばいいのだ。
右手から竜巻を発生させ、パウロに叩きつける。
﹁うおお!?﹂
1280
パウロはキリモミしながらぶっ飛び、カウンターの奥へと突っ込
んだ。
ガシャンと酒瓶をばら撒きながら、床に落ちる。
﹁くそっ! やりやがったな!﹂
すぐに起き上がってくるが、足にきている。
飲み過ぎだ、バカが。
昔のパウロはもっと強かった。
恐らく、あんな体勢でも、俺の竜巻を受け流してみせた。
﹁てめえ、ルディ⋮⋮﹂
よろめくパウロに、別の女の人が駆け寄っていく。
ローブ姿の魔術師だ。
自分は女に囲まれてるってのに、
よくもまぁ俺の事をとやかく言えたもんだ。
﹁触んじゃねえ!﹂
パウロはその人を振り払い、俺の前まで歩いてくる。
﹁パウロ、お前。俺がいない間に、何人と浮気してんだ?﹂
﹁黙りやがれ!﹂
<右拳で殴りかかってくる>
なんとも無様なテレフォンパンチだ。
1281
これが本当にあのパウロだろうか。
予見眼無しでも回避できそうじゃないか。
俺はその腕を掴み、一本背負いの要領で投げ飛ばした。
もちろん、俺は柔道なんざ出来ない。
風魔術を使い、反動をつけて無理やり、力任せに地面にたたきつ
けた。
﹁ぐはぁ⋮⋮!﹂
受け身も満足に取れなかったらしい。
この世界に受け身があるのかは知らんが。
無様に倒れたパウロに馬乗りになる。
エリスがいつもやっているように、
膝で両腕を抑えこみ、抵抗できなくする。
﹁俺だって! 一生懸命やってきたんだ!﹂
殴った。
殴った。
殴った。
パウロは歯を食いしばり、憎々しげな顔を俺に向けてくる。
くそっ。
なんだよその眼は。
なんでそんな顔されなきゃいけないんだよ。
﹁仕方ないだろ!
何もしらない場所で!
誰も知っている人がいなくて!
それでなんとかここまできたんだ!
1282
なんで責められなきゃいけないんだよ!﹂
﹁⋮⋮てめぇなら、もっとうまく出来ただろうが!﹂
﹁できねぇよ!﹂
それから、俺は無言で何度もパウロを殴った。
パウロは何もいわない、ただ口の端から血を流し、
俺を見ているだけだ。
苛立たしそうに。
話の通じない奴を見るように。
なんでだ。
こんな顔する奴じゃなかったはずだろ⋮⋮。
くっそ⋮⋮。
くそ。
﹁やめてえええぇぇ!﹂
その時、横合いから何かが飛び込んできて、俺にぶつかった。
俺はその反動でパウロの上でよろめき、
次の瞬間には、パウロは俺を突き飛ばして起き上がっていた。
俺は追撃がくると即座に身構える。
しかし、パウロは動かなかった。
俺たちの間には、一人の少女が立ちはだかっていた。
﹁もうやめて!﹂
パウロによくにた鼻立ちと、ゼニスによくにた金色の髪。
一目みてわかった。
1283
ノルンだ。
妹だ。
俺の妹。
随分と大きくなった。
今、確か五歳だったか?
いや、もう六歳になったのか?
なんで、俺の方を向いて、両手を広げてるんだ?
﹁おとうさんをイジメないで!﹂
俺は呆然と、その言葉を受け止めた。
イジメ?
いや、だって。
え?
ノルンは泣きそうな目で俺を睨んできている。
ふと周囲を見ると、なぜだろうか。
俺に批難の目が集まっていた。
﹁⋮⋮なんだよ、それ﹂
すっと心が冷えた。
何十年も前のことを思い出す。
イジメられていた時の事だ。
あの時も、ちょっと俺が何か言い返せば、
教室中から批難の目が集まったものだ。
ああそうだろうとも。
俺は間違ったことを言ったんだろうさ。
1284
諦めた。
心が折れた。
もういい。
帰ろう。
何も見なかった。
俺は何もしなかった。
宿に戻って、エリスとルイジェルドを待とう。
そして、すぐに旅立とう。
明日か、明後日か。
なに、首都じゃなくても金は稼げる。
ウェストポートにだって冒険者ギルドはあるはずだ。
﹁ルディ。転移したのはお前だけじゃねえ、
フィットア領のブエナ村の奴らも全員、転移災害に巻き込まれた﹂
パウロが何かを言っているのを、
ボンヤリと聞いた。
⋮⋮。
え?
なに、今、なんつった?
﹁ザントポートにも、ウェストポートにも、伝言は残した。
冒険者ギルドだ。
お前、冒険者になったんだろ?
なんで見てねえんだよ⋮⋮﹂
1285
そんな事を言われたってザントポートにもそんなもの⋮⋮。
いや、そうだ。
ザントポートの冒険者ギルドには寄ってない。
ルイジェルドを迎えにいって、そのままドルディア族の村に行っ
たから。
﹁お前がのんきに旅してる間に、何人も死んだ﹂
何人も。
あの規模。
魔力災害。
転移災害。
どうして思い至らなかったんだ。
人神だって、﹃大規模な魔力災害﹄と言っていた。
俺は、どうして、ブエナ村が無事だって思ったんだ?
そうか。
みんな行方不明⋮⋮。
﹁って事は⋮⋮シルフィも?﹂
そう言うと、パウロはまた、苛立たしそうな顔をした。
﹁ルディ。おまえ、自分の母親より、女の心配か?﹂
うっ、と俺は息を飲んだ。
﹁か、母様も見つかってないんですか!?﹂
﹁ああ。まったく見つからねえよ! リーリャもな!﹂
1286
パウロの悲痛で、たたきつけるような言葉。
俺はぶん殴られたようによろめいた。
足がフラフラする。
倒れそうになる。
よろめいた先には、椅子があった。
なんとかすがりつく。
﹁オレたちは、転移した奴らを探すために、こうして捜索団を組織
している﹂
捜索団。
そうか、これは、
ここにいる人達は捜索団なのか。
﹁そ、捜索団が、なんで、人攫いを?﹂
﹁奴隷になった奴もいるんだよ﹂
奴隷。
転移されて、そこがどこだかわからない状態で、
騙されて、奴隷にされて⋮⋮。
そんな人が、大勢いたという。
パウロたちは、行方不明者のリストと照らし合わせ、
奴隷を一人ひとり訪ねては、その主人に対し、解放するように頼
み込んだらしい。
だが、中には、そうして手に入れた奴隷を手放したくない人も多
い。
ミリスの奴隷法によると、いかなる事情があれど、
1287
一度奴隷に落ちてしまえば、その者は主人の所有物だ。
なので、パウロは、無理やり奴隷を攫うという手を使ったのだと
いう。
奴隷を盗むのは当然犯罪だ。
だが、法には抜け道がある。
パウロはその法の穴を突いて、奴隷を何人も解放した。
もちろん、望むなら、そのまま奴隷でいることも許した。
けれど、ほとんどの奴隷は、故郷に帰りたいと涙ながらに懇願し
たという。
今回救出された少年も、そんな一人だ。
どこかで見たことがあると思ったら、
あの少年は、昔シルフィをいじめていた内の一人、ソマルだった。
彼はこの一年の間、男娼のような扱いを受けていたという。
奴隷となった者の悲痛な叫びを聞いて、
しかし中には助けられなかった者もいるという。
一部の貴族たちからは疎まれ、
団員たちにも、その強引なやり方についていけないという者も出
てきているという。
上からも、下からも、横からも責められて。
パウロは神経をすり減らすような毎日を送りながら、
しかし決してあきらめることなく、頑張ってきた。
ただ、魔力災害で転移した人を助けるために。
﹁ルディ。お前はとっくに事情を察して、
すでに動いてくれてると思ってたよ﹂
パウロの言葉に、俺は力なくうなだれた。
1288
無茶、言うなよ⋮⋮。
どうやって事情を知れっていうんだよ。
ああ、でも、そうか。
そうだな。
もしかすると、今まで旅してきた魔大陸の町にも、
フィットア領から転移した人がいたのかもしれない。
その人達から話を聞けば、
災害の規模がどれぐらいだったか、わかったかもしれないのだ。
俺は状況確認を怠った。
災害のことを知るよりもまず、
ルイジェルドの事を優先した。
失敗だ。
﹁それが、のんきに冒険とはな⋮⋮﹂
脳天気。
ああそうだ。
そうだな。
俺がエリスのパンツに興奮したり、
冒険者ギルドのお姉さんの体に興奮したり、
魔界大帝の太ももをなめたり、
猫耳少女の体をまさぐったりしている間、
パウロは懸命に家族を探していたのだ。
怒るわけだ。
﹁⋮⋮﹂
1289
ただ、俺も謝罪は出て来なかった。
だって、仕方ないじゃないか。
どうしろっていうんだ。
あのときは、あれが最善だと思っていたんだ。
﹁⋮⋮﹂
パウロは何も言わない。
ノルンも黙っている。
ただ、その視線からは、強い拒絶の感情を感じた。
この感覚は、俺をえぐる。
心をえぐる。
魂をえぐる。
周囲を見回すと、
パウロの仲間だという団員も、
俺を責めるような目で見ていた。
脳裏に昔のことがよぎる。
あれは、不良に全裸にされて貼り付けにされた次の日。
クラスに入った時の、全員の視線の⋮⋮。
頭の中が真っ白になった。
−−−
1290
気付けば、自分の宿に戻ってきていた。
俺はベッドに倒れこんだ。
よくわからない。
何がどうなっているのか、わからない。
何も考えられない。
服の中でガサリと音がした。
探ってみると、便箋が出てきた。
俺はそれをクシャリと握りつぶして捨てた。
足を抱えてベッドに座った。
何もしたくなかった。
思えば、俺は両親に冷たくされるのは初めてだった。
前世でも、今世でも。
なんだかんだ言いつつも、親は俺に甘かった。
さっきのパウロは完全に俺を突き放していた。
あの態度は、そうだ。
俺を家の外に放り出した時の兄貴の態度だ。
何がいけなかったのだろうか。
わからない。
うまくやったつもりだ。
思い返してみても、自分の判断に致命的なミスはない。
あえて言うなら、最初にルイジェルドを頼ったことぐらいだ。
1291
神を疑いつつも助言に従い、ルイジェルドを助けた。
旅の事も、なるべく楽しく話した。
調子に乗っていたのもあるが、
パウロを心配させる事はないと思ったし、自尊心もあった。
俺はやれるんだぜ、って言いたかった。
パウロにしてみれば、面白くなかったかもしれない。
パウロの仲間たちにしても、やはり面白くなかっただろう。
確かに失言はした。
母親よりもシルフィを優先したつもりはない。
だって、パウロとノルンがいたんだ。
ゼニスだって大丈夫だったと思うだろう?
いや、言い訳だな。
俺はあの瞬間、ゼニスの事は頭になかった。
女の事は、あいつから言い出した事だ。
俺はエリスに手なんか出していない。
だから、浮気症のパウロにどうこう言われる筋合いは⋮⋮。
ああ、そうなのか。
もしかすると、パウロも手を出していなかったのか。
なるほど。
それなら怒るわけだ。
オッケー、すこしまとまってきたような気がする。
よし。
1292
明日、もう一度話そう。
なに、パウロだってちょっと感情的になっただけだ。
前にもこういうことはあったじゃないか。
話せばわかるさ。
そう、大丈夫。
俺だって、家族のことを心配してないわけじゃない。
調べなかったのは、ちょっとした情報の行き違いだ。
確かに、一年半、魔大陸を捜索できた俺が何もしなかったのは痛
い。
だが、俺だって生きていたんだ。
なんとかなるさ。
そうとも。
じっくり探せば大丈夫だ。
パウロだってわかってるはずだ。
この広い世界で、すぐに探し人が見つかるわけがないと。
だからパウロを落ち着かせて、今後の計画を練るんだ。
まだ探していない所を重点的に。
俺も手伝おう。
エリスをアスラに届けたら、その足で北部か別の場所に行けばい
い。
そう、まずはパウロに会って⋮⋮。
あの、酒場に戻って、パウロに会って⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮うっぷ﹂
唐突に吐き気がして、俺はトイレに走った。
1293
そのまま、ゲーゲーと全てを吐き出す。
理屈でわかっていても、心は晴れない。
久しぶりに家族から向けられた拒絶に、心はすっかり折れていた。
−−−
昼下がり、ルイジェルドが帰ってきた。
ルイジェルドはいつもよりちょっと嬉しそうな顔で、
何かを手に入れたのか、封筒のようなものを見せようとしたが、
ベッドに座る俺を見て、顔をしかめた。
﹁何かあったのか?﹂
そう聞かれた。
﹁この町に、父様がいました﹂
と答えると、ルイジェルドの顔はさらに険しくなった。
﹁⋮⋮何か、嫌な事でも言われたのか?﹂
﹁ええ﹂
﹁久しぶりに会ったのだろう?﹂
﹁まあ﹂
﹁喧嘩したのか?﹂
﹁ええ﹂
﹁詳しく話せ﹂
1294
包み隠さず、何が起こったのかを話した。
ルイジェルドは﹁そうか﹂と一言。
そこで会話が途切れた。
彼はしばらくしていなくなった。
−−−
夕方頃、エリスが帰ってきた。
何があったのか、ずいぶんと興奮した様子だった。
服には葉っぱがついていて、頬には土埃がついている。
けど、嬉しそうだ。
あの調子だと、うまいことゴブリンは狩れたらしい。
よかった。
﹁おかえり﹂
﹁ただいまルーデウス、あのね! あ⋮⋮﹂
笑いかけると、エリスはギョッとした顔になった。
そして、そのまま駆け寄ってくると、
﹁誰よ、誰にやられたの!﹂
必死な表情で俺の肩を揺さぶった。
﹁なんでもないよ﹂
﹁そんなはずない!﹂
1295
何度か、そんな問答が続いた。
しつこかったので、パウロに会ったことを伝えた。
包み隠さず、淡々と。
どんな話をして、どんな反応が返って来て、
どんな事が起こったのかを伝えた。
﹁なんなのよ、それは!﹂
すると、エリスは大層ご立腹となった。
﹁そんな勝手な事を言うなんて、許せない!
ルーデウスがどれだけ頑張ったと思ってるの!
それを遊んでいたなんて⋮⋮!
絶対に許せない! 父親失格よ!
ぶっ殺してやるわ!﹂
物騒なことを言って、剣を片手に飛び出していった。
俺は止める気力もなくそれを見送った。
−−−
数分後、エリスが戻ってきた。
ルイジェルドに首根っこを捕まれ、猫のように。
﹁離しなさいよ!﹂
﹁親子喧嘩に口をだすな﹂
1296
ルイジェルドはそう言い放つと、エリスを床に下ろした。
エリスはすぐに振り返り、ルイジェルドを睨みつける。
﹁親子喧嘩でも言っていい事と悪い事があるわ!﹂
﹁ああ、だが、俺にはルーデウスの父親の気持ちも分かる﹂
﹁じゃあルーデウスの気持ちはどうなるの!
あのルーデウスが!
いつも飄々としてて、蹴っても殴っても平然としてるルーデウス
が!
こんなに弱ってるのよ!﹂
﹁弱っているなら、お前が慰めてやれ。
女なら、それぐらいできるだろう﹂
﹁なっ!﹂
エリスは絶句して、ルイジェルドは、下に降りていった。
部屋に残ったエリスは、
落ち着かなげにあっちにうろうろ、こっちにうろうろ。
チラチラと俺の方を見ては、たまに腕を組んで仁王立ちをして、
口を開きかけてはやめて、またうろうろ。
落ち着きがない。
動物園の熊みたいだ。
最終的には、エリスは俺の隣に座った。
大人しく。
何も言わず。
座った。
微妙に距離を開けて。
エリスはどんな顔をしていただろうか。
1297
よく見ていなかった。
人の顔を見る余裕がなかった。
しばらく時間が流れた。
ふと気づくと、エリスは隣にいなかった。
どこに行ったんだと思った時、後ろから抱きしめられた。
﹁大丈夫よ、私がついてるから⋮⋮﹂
エリスはそう言って、俺の頭を抱えた。
柔らかくて、熱くて、ちょっと汗臭くて。
その全てが、ここ一年で嗅ぎ慣れた、エリスの匂いだった。
安心感があった。
家族に突き放された不安感が、恐怖心が、
すべて払拭されていくような感じがした。
もう、エリスも俺の家族なのかもしれない。
もし前世にエリスがいれば、
俺はもっと早い段階で救われていたかもしれない。
そう思える抱擁だった。
﹁ありがとう、エリス﹂
﹁ごめんなさいルーデウス。
私、あんまり、こういうの得意じゃないから﹂
俺は前に回されたエリスの手を握った。
剣タコがあって、力強くて、貴族の令嬢とは思えない手。
努力の手。
1298
﹁いえ、助かりました﹂
﹁⋮⋮うん﹂
折れた心がつながり、
少しだけ、余裕が戻ってきた。
俺はその事を実感し、ほっとしつつ、エリスに体重を預けた。
少しだけ、寄り掛からせてもらおう。
1299
第四十七話﹁パウロとの再会﹂
−−− パウロ視点 −−−
オレは酒場で飲んでいる。
もうすぐ夜という事もあり、団員以外の客が増え始めている。
逆に、団員は減っている。
そんな中、俺はテーブルの一つに座り、延々と飲み続けていた。
不機嫌さが漂っているのだろう。
誰も近づいてこない。
﹁よう、探したぜ?﹂
と、思ったら声を掛けられた。
顔を上げると、サル顔の男が口の端をあげている。
この顔を見るのは一年ぶりだ。
﹁ギース⋮⋮てめえ⋮⋮どこ行ってやがった﹂
﹁おうおう、なんだなんだ、相変わらず不機嫌そうだな﹂
﹁当たり前だ﹂
チッと、舌打ちして、頬を触る。
まだ痛みが残っている。
ルーデウスに殴られた所だ。
見栄を張ったが、治癒術師にヒーリングを掛けてもらったほうが
よかったかもしれない。
1300
クソッ、ルーデウスめ。
何が﹁魔大陸とかいって、僕の魔術に掛かれば余裕でしたよ﹂だ。
そんだけ余裕なら、人探しぐらい出来るだろうが。
それどころか、大王陸亀の喰い方について延々と語りやがって。
何が﹁もし土魔術で土鍋を作ることを思いつかなければ、一年も
あの糞不味い焼肉を食い続けうることになりましたよ﹂だ。
食材なんか探す暇があったら、別の事が出来ただろうが。
くそ。
挙句、オレが浮気してるだと?
ふざけやがって。
転移してこの方、女の事なんざ一切考えたことなんてねえ。
自分が何もしなかったことを棚に上げてオレの事を責めるたぁ。
ふざけやがって。
何が知らなかっただ。
お前がきちんと魔大陸を調べてりゃ、
今頃ゼニスかリーリャのどっちかとは再会できたかもしれねえっ
てのによ。
ふざけやがって。
﹁ヘヘッ、その様子じゃあ、まだ会ってねえみてえだな﹂
ギースは何が嬉しいのか。
ヘラヘラと笑いながら、何かを注文していた。
ドワーフ
どうせ酒だろう。
この男は炭鉱族のタルハンド以上に酒好きだった。
﹁パウロ。おまえよ、明日冒険者ギルドに顔だせよ﹂
﹁なんでだよ﹂
﹁面白ぇ人物と会えるぜ﹂
1301
面白い人物。
オレの不機嫌が直る相手。
ギースが今日顔を出した理由。
そして、今日出会った人物。
三つを照らしあわせると、おのずと答えは出た。
﹁ルディか?﹂
聞くと、サル顔は口を尖らせ、ポリポリと頭を掻いた。
﹁なんでぇ、知ってたのか?﹂
﹁会ったんだよ﹂
﹁その割にゃあ、あんまり嬉しそうじゃねえな。
喧嘩でもしたのか?﹂
喧嘩。
まあ、喧嘩か。
喧嘩にもなってなかったが⋮⋮。
くそっ、思い出したらまた疼いてきやがった。
﹁何があったんだよパウロ、話してみろよ﹂
ギースは、その人のよさそうな顔で、椅子をオレの隣に移動させ
てきた。
こいつは昔から、他人の悩みを聞くのが上手な奴だった。
今回も、おせっかいを焼いてわざわざ聞いてくれるらしい。
﹁ああ、聞いてくれよ⋮⋮﹂
1302
と、オレは先程あったことをギースに話した。
出会えて嬉しかった事。
けれども、何か話が噛み合わず、ルーデウスに今までどうしてい
たのか聞いたこと。
すると、ルーデウスがあまりにも楽しそうに旅の話をし始めたこ
と。
くだらない自慢話を延々と聞かされたこと。
そんな自慢より、もっと別の事ができただろうと指摘したこと。
逆ギレされたこと。
女のことを指摘されてカチンときたこと。
喧嘩してボロ負けしたこと。
ギースは、各所で相槌を打ちながら、うんうんと頷き、
あー、と同意してくれたり、
なるほどなあ、と納得してくれたり。
そんな感じで聞いていたが、最後に言った。
﹁お前さ、息子に期待しすぎじゃねえのか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あ?﹂
オレは自分でもマヌケな声を上げたと認識していた。
期待しすぎた?
なにを?
誰に?
﹁オレが? ルディをか?﹂
﹁だってよ、よおっく、考えて見ろよ﹂
1303
戸惑うオレに、ギースはたたみかけるように言葉をつなげる。
﹁あいつは確かにすげえよ。無詠唱で魔術を使うヤツなんざ見たこ
とがねえ。
何十匹という魔物を一人で退治したって聞いた時にゃ、そりゃ背
筋が震えたさ。
ルーデウスは、それこそ、百年に一人の天才ってヤツなんだろう
よ﹂
そうだ。ルディは天才だ。
天才なのだ。
本当の天才だ。
小さい頃からなんだって出来る奴だった。
一時期はわりとダメな所もあるのかと思ったが、
あのフィリップが娘をやってもいいとさえ言ったんだ。
オレの事をあれだけこき下ろしたフィリップが、だ。
﹁おう、そうさ。あいつはスゲぇぜ。なんせ五歳の時には⋮⋮﹂
﹁けど、まだガキだ﹂
ぴしゃりと遮られて、オレは黙った。
﹁ルーデウスは、まだ11歳のガキだ﹂
ギースは噛み締めるように、もう一度言った。
﹁お前だって、家を出たのは12歳の時なんだろ?﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
﹁12歳未満はガキだって、お前、昔から言ってたもんな?﹂
﹁なんだよ、それがどうしたっていうんだよ﹂
1304
ルディはもうオレより強いんだぞ。
確かに今日は酒は飲んでたが、
それを差し引いたって、アイツは強くなっていた。
酔っていたとはいえ、オレは本気だったんだ。
本気で、使いたくもねえ北神流﹃四足の型﹄と、剣神流﹃無音の
太刀﹄まで使ったんだ。
それなのに、オレの剣はアイツのかぶっていたパンツのヒモを斬
っただけだ。
ルディは全然本気じゃなかった。
それが証拠に、団員は全員、軽傷で済んでいた。
手加減抜きで戦って、手加減されて負けたんだ。
会わなかった間にどれだけ強くなったかはわからねえ。
ただ、ルディは七歳の時にはもうオレよりずっと賢かった。
腕っ節がオレ以上に強くて。
頭もオレ以上にいい。
なら、オレ以上の事が出来たっておかしくねえだろ。
歳がなんだってんだ。
﹁パウロ、お前、11歳の頃は何してた?﹂
﹁何って⋮⋮﹂
確か、家で剣術を習っていた。
毎日、毎日、親父に叱られる毎日だった。
一挙手一投足、全てに文句を言われ、殴られた。
﹁その頃のお前に、魔大陸で生きていけつって、出来たか?﹂
﹁ハッ、ギース、そりゃ前提がおかしいぜ。
ルディはな、強い魔族に護衛についてもらったんだ。
人間語も魔神語も、獣神語も出来て、
1305
Aランクの魔物だって一人で倒しちまうっつー、
化け物みたいな奴に護衛についてもらったんだ。
オレじゃなくたって魔大陸縦断ぐらい出来るさ﹂
﹁できねえな。お前は出来ねえ、絶対に出来ねえ。もし、今のお前
で魔大陸に行っても一人じゃ帰ってこられねえ﹂
断言されて、オレは鼻白んだ。
ギースは相変わらず、ヘラヘラと笑ったままだ。
こいつの笑みは、相変わらず苛つく。
﹁ハッ! じゃあなおさらじゃねえか! オレにできねえ事をやっ
た。天才だ。ルディは天才だ! オレの息子は天才だ。もう立派に
一人前だ。オレが何を言うこともねえ。能力のある奴に、能力に見
合った仕事を期待するのは、間違っているか? ええギース、オレ
は間違っているか?﹂
﹁間違ってるね。お前はいつだって間違ってる﹂
ギースはヘラヘラと笑いながら、運ばれてきたビールを一気に飲
んだ。
﹁ぷはっ、うめえ。やっぱ大森林じゃこういうのは飲めねえからな﹂
﹁ギース!﹂
﹁わかってるよ、うるせえな﹂
ギースはドンと木のコップを置く。
そして、急に真面目な話になった。
﹁パウロ。お前、魔大陸には行ったことねえんだろ?﹂
﹁⋮⋮それがどうした﹂
1306
オレは魔大陸に行ったことはない。
そりゃ、もちろん、人から聞いたことはある。
危険な土地だって噂だ。
道を歩けば魔物が出て、魔物を食わなきゃ生きていけない。
だが、魔物が多いぐらいなら、どうにでもなる。
﹁知っての通り、俺は魔大陸の出身だ。
で、その俺に言わせりゃあ、魔大陸ってのはヤバイ﹂
﹁そういや、お前からそんな話を聞いたことはなかったな。どうヤ
ベぇんだ?﹂
﹁まず、街道がねえ。道はあるが、
ミリス大陸や中央大陸で言われてるような、
魔物の数が少ない安全な道ってのは存在しねえ。
どこを歩いていても、Cランク以上の魔物が襲い掛かってくる﹂
確かに魔物は多いと聞いていたが、Cランク?
中央大陸じゃ、森の奥にしか出てこないような相手だ。
群れるか、特殊な能力を持っている奴が多い。
﹁そりゃいくらなんでもフカしすぎだろ?﹂
﹁いや、本当の事だ。俺は今、一切嘘を言ってねえ。
魔大陸ってのはそういう大陸だ。とにかく、魔物が多いんだ﹂
ギースの目は本気だった。
だが、この男はこういう目をしながら、案外簡単に嘘をつく。
騙されるものか。
﹁そんな大陸で、優秀とはいえ実戦経験の無い子供が放り出される﹂
﹁⋮⋮おう﹂
1307
実戦経験が無いってのは、ルディの事か。
いわれてみりゃあ、あいつが誰かと戦ったって話は聞いたことが
ねえ。
ただ、人攫いはうまい事撃退したって聞いたし、
距離さえ開ければギレーヌでも勝てないかもしれないって話は聞
いた。
オレはギレーヌ以上の剣士を知らない。
アイツが近づけないってんなら、適切な距離を置いたルディに勝
てる奴は世界で1000人もいない。
だから実戦経験が無いなんてのは、関係ない話だ。
かの北神二世、アレックス=R=カールマンだって、
実戦経験無し、初めての実戦で剣帝を斬り殺したって話だ。
﹁で、そこに助けてくれるって大人が現れる。魔族、それも強いヤ
ツだ。スペルド族。知ってるよな。あのスペルド族だ﹂
﹁ああ﹂
スペルド族。
その事に関しては、正直、半信半疑だ。
魔大陸にだってスペルド族はもうほとんど残っちゃいねえって話
だしな。
﹁右も左もわからない状態で手を差し伸べてくれる存在。
弱っている所を助けてくれる存在。
けど、スペルド族は怖い。
なにせ断りゃあ何されるかわかんねえしな。
そりゃ、その手を握っちまうだろう﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだろうな﹂
﹁で、助けてもらっているうちに、賢いルーデウスはこう思うわけ
だ。
1308
こいつの狙いは一体なんなんだ、ってな﹂
確かに。
ルーデウスなら、思うだろう。
オレじゃあ気付かないが、そういうことには敏い奴だ。
かつて、リーリャを助けた時も、
子供とは思えないような敏さを見せた。
﹁でも、相手の目的なんざわかるわきゃねえ﹂
だろうな。
相手の狙いがわからないから、ギースみたいなヤツが生きていけ
る。
﹁今は助けてもらっているが、
いずれは切り捨てられるかもしれない。
と、そこでルーデウスは考える。
切り捨てられないように恩を売ろう、とな﹂
﹁なんだそりゃ? 恩? うまくいくのか?﹂
﹁茶化すなよ。恩って言い方があれなら、情に訴えるとか、
仲間意識を芽生えさせるとか、そんな感じでいい﹂
仲間意識を芽生えさせるか。
なるほどな。
そうすると、ルディの行動も頷ける。
守ってくれるという魔族にゴマすって、
いざという時のために自分の腕も磨いておく。
合理的だ。
ルーデウスは、最も安全な道を選んでいると言える。
1309
ふん、さすがだな、やるじゃないか。
﹁チッ、それだけ考えられるのに、なんでそれ以上の事ができねえ
んだ﹂
ポツリと漏らすと、ギースは指を広げた。
それを一つずつ折っておく。
﹁初めての土地、初めての冒険、
いくら賢いったって、知らねえことばかりだ。
騙されないために、自分も学んでいかなきゃならねえ。
その上で、いつ裏切るかわからねえ魔族相手に気を配り、
すぐ後ろには守らなきゃいけない妹分⋮⋮﹂
ギースは淡々とした口調でいいつつ、指を全て折った、
そして、最後にこう、締めくくった。
﹁これで転移した別の奴らまで探し出したってんなら、
七大列強
に数えられていてもおかしくねえ﹂
そりゃ超人だぜ、超人。
七大列強か。
懐かしい名前を聞いたな。
昔は、オレもそれだけ有名になりたいと思っていたっけか。
親の贔屓目抜きで見ても、ルディはそれになれる実力はあると思
うがな。
﹁明らかにオーバーワークだ。
ルーデウスがいくら天才といった所で、
人間にゃ、限界がある﹂
1310
﹁限界ギリギリの奴が、なんであんな楽しげに冒険の話を語るんだ
? ありゃ、どう見たって迷宮に遠足気分で入って浅い所で遊んで
帰るお貴族様だぜ?﹂
ルディが、もし本当にきつかったというのなら、あんな言い方は
しないはずだ。
旅の辛い所、苦しい所。
そういう所を語るはずだ。
けど、ルーデウスはそんな所は一切語らなかった。
﹁そりゃ、お前を心配させないためだろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
また間抜けな声が出た。
﹁なんでアイツが、オレの心配なんてしてんだ? ダメな親父だか
らか?﹂
﹁そうだ。お前がダメな親父だからだ﹂
﹁チッ、そうかよ。そうだろうな、オレはくっだらねえことで酒に
逃げちまうような弱い男さ、天才様の目には、さぞ哀れに映ったん
だろうな﹂
﹁別に天才じゃなくたって、今のお前は哀れに見えるぜ、パウロ﹂
ギースはため息をついた。
﹁自分の顔は自分じゃ見れねえだろうから言うけど、お前、今ひっ
でぇ顔してるぜ?﹂
﹁息子に同情されるような顔をか?﹂
﹁ああ。今のお前となら、喧嘩別れせずに済みそうだ﹂
1311
哀れすぎて何も言えなくなっちまうからな、とギースは付け加え
た。
オレは自分の顔に触れる。
何日も剃っていないひげがジャリっと音を立てた。
﹁なあパウロ、もう一度言わせてもらうぜ﹂
ギースは念を押すように、言った。
﹁お前は、息子に期待しすぎだ﹂
期待して、何がいけないんだと思う。
ルディは生まれた時からなんでもうまくやった。
オレは父親面しようとして、それを引っ掻き回しただけだ。
ルディには、オレは必要なかった。
﹁なあ、パウロよ。なんで素直に再会を喜ばねえんだ?
いいじゃねえか。ルーデウスがどんな旅してきたって。
脳天気にのんびり旅してきたって。
女とイチャコラ旅してたって。
お互い元気で会えたんだ。まずはそれを喜べよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうだ。
オレだって、最初は喜んだはずだ。
﹁それとも、体のどっかを失って、目もうつろな息子に会いたかっ
たのか?
死体になって再会って可能性も大いにあったんだぜ?
いや、魔大陸なら死体も残らねえな﹂
1312
ルディが、死ぬ?
あの元気なルディを見た後では、現実味のない話だ。
だが、ほんの数日前。
オレはその想像をして、陰鬱としていたのではなかったのか?
﹁あーあー、かわいそうになー。
すっげぇ苦労して旅してきて。
せぇっかく父親と再会したってのに。
その父親は酒浸りのクズなんだもんな。
こりゃ、オレだったら縁を切るな﹂
チッ、芝居掛かった口調で喋りやがって。
﹁わかったギース。お前のいうことはもっともだ。けど、一つ、不
思議な事がある﹂
﹁なんだ?﹂
﹁なんでルディは、ブエナ村の情報を知らなかったんだ?
ザントポートにだって伝言は残したはずだ﹂
ギースは、﹁そりゃあ﹂と言いかけて、苦い顔をした。
これは、コイツが何かを隠している時の顔だ。
﹁運悪く、みつけらんなかったって事だろ﹂
﹁⋮⋮ギース、お前はどこでルディを見つけたんだ?
ザントポートで見つけたんじゃないのか?﹂
ギースがこの一年間どこにいたのか、俺にはわからない。
だが、ルーデウスは北から来た。
北でギースが活動できるようなでかい町といえば、ザントポート
1313
ぐらいだ。
ザントポートには、きちんと伝言が残っている。
それにあそこには、団員が駐在しているはずだ。
魔大陸から誰かが渡ってきた時、その人物から情報を得るためだ。
冒険者なら、冒険者ギルドに寄らない理由はない。
﹁俺がルーデウスに会ったのは、ドルディア族の村だ。
ビックリしたぜ、何せ、聖獣に襲いかかったって嫌疑を掛けられ
て、
全裸で牢屋に入れられてたんだからな﹂
﹁獣族に全裸で牢屋って⋮⋮マジかよ﹂
ギレーヌから聞いた事がある。
ドルディア族にとって、
全裸にされる、檻に入れられる、鎖に繋がれる、冷水を掛けられ
る、
といった事は、この上ない屈辱なのだ。
他人に対しては滅多な事ではやらないし、やられたら死ぬまで覚
えている。
冗談でギレーヌに水を掛けた時、本気で睨まれた。
﹁そ、それで、どうなったんだ?﹂
﹁なんだ、ルーデウスから聞いてねえのか?﹂
﹁魔大陸を旅したって話しか聞いてねえんだよ﹂
そうだ、なんでザントポートで伝言を見なかったのか。
一番重要な部分は聞いていなかった。
なんでだ⋮⋮。
ああ、オレが聞かなかったんだ。
ちくしょう。
1314
なんでオレってやつはいつもこう、短気なんだ。
落ち着け。
ルディは優秀だ。
優秀なのに、情報を得ていなかった。
その事を、もっと冷静に考えるべきだ。
ザントポートまで行けば、嫌でも耳に入ったはずなんだ。
つまり、ザントポートで何らかの事件に巻き込まれたって事だ。
ドルディア族に捕まるような事件。
大事件じゃないのか。
もう二、三日もすれば団員の一人が情報を持って帰ってくるが、
何か事件が起きたんじゃないのか?
﹁いや、俺も詳しいことは知らないんだけどよ、
大森林のミルデット族ん所にいた時にな、
デドルディアの村に人族のガキが捕まったって噂を耳にしたのよ﹂
﹁ん? ちょっとまて、お前、今、どこにいたって?﹂
ミルデット族?
確か、獣族の一種だったはずだ。
ウサギみたいな耳を持つ種族だ。
﹁ミルデット族の村だ。族長がいる所だから、結構でかいんだが︱
︱﹂
ギースの説明は、長く、うっとおしかった。
正直、途中で﹁もういい﹂と言いたくなるような長さだ。
だが、今日もまた、ルディの話を最後まで聞かず、重要な部分を
知らずに終わったばかりだ。
同じ失敗ばかりしているオレでも、さすがに同じ日に二度も繰り
返さねえ。
1315
話が終わった。
整理してみると、
﹁ギース、つまりお前は、大森林の各種族に、人族の迷い人がいた
らミリシオンまで送ってくれって言って回ってたのか?﹂
﹁おう。ヘヘッ、感謝してもいいぜ﹂
﹁してもしきれねえよ⋮⋮﹂
たまに、大森林の方からオレを頼ってくる難民がいると思ったが、
そうか、そういうカラクリだったか⋮⋮。
﹁ま、んな話はいいんだよ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
後で詳しく聞かせてもらうが、今は置いておく。
﹁人族の子供ってことでピンときた俺は、
早速ドルディアの村へと移動した。
自慢じゃねえが、俺は顔が広い。
ドルディアの村にだって何人も知り合いがいる。
その知り合いの一人、懇意にしてる戦士の一人に頼んで、
同じ牢屋に入れてもらうように仕組んでもらったのよ﹂
﹁ちょっとまて、なんでお前が入る必要がある?﹂
﹁いざとなったら、逃げ出すためよ。
獣族の牢屋ってのは、外より中からの方が逃げ出しやすいからな﹂
ギースの脱獄の腕は俺も知っている。
イカサマで捕まっても、何気ない顔で出てくる男だ。
1316
﹁で、な。捕まった人族の子供が、哀れに泣き叫んで絶望してるか
と思ったら⋮⋮ぷくく﹂
﹁なんだ、どうなってたんだ?﹂
﹁全裸で余裕こいて寝転んで﹃ようこそ。人生の終着点へ﹄だぜ?
もう何を言い返していいのかわかんなかったっつーの!﹂
ギースはゲラゲラと笑った。
﹁笑い事じゃねえだろ﹂
﹁笑い事だね。
俺は一目みてわかったもんよ。
こいつはパウロの息子だってな﹂
それの何が面白いっていうんだ。
というより、それのどこに俺の息子と断定する部分があるんだ。
﹁昔のお前そっくりだぜ。
初対面でもふてぶてしい所とか、
無駄に偉っそうな所とか、
獣族の女を口説こうとして、
﹃発情の臭いがする﹄なんて見透かされてよ、
それでも懲りずにエロい目で見てる所とかよ!﹂
ギースは何がツボに入ったのか、またゲラゲラと笑った。
昔の事をほじくられると背筋が痒くなる。
﹁ま、確信を持つまでには、もう少し時間かかったけどよ﹂
ギースはそう言って、ビールを飲み干した。
1317
﹁ま、そういう事だからよ。
あいつが情報を知らねえのは、仕方ねえんだ。
ザントポートには寄らなかったって話だしな﹂
﹁ん? まてよギース、お前、同じ牢屋に入ってたんだよな、じゃ
あ﹂
こいつが説明すれば。
﹁親子の間でわだかまりはあるかもしれねえが、
ここは俺っちの顔を立てて、仲直りしといてくれや﹂
ギースは早口でそう言って、席を立った。
﹁おい、まてよ、まだ話は終わって⋮⋮﹂
﹁あそうだ。
言い忘れてたけどな、魔大陸にはエリナリーゼ達が向かったみた
いだぜ。
ザントポートで男を食いまくった長耳族の噂を聞いたから間違い
ねえ﹂
﹁エリナリーゼが?﹂
あいつは、一番俺のことを嫌っていると思っていたが⋮⋮。
﹁ヘヘッ、なんだかんだ言って、あいつらもお前の事、そんなには
嫌いじゃねえんだよ﹂
最後にそう言い残して、ギースは酒場を出て行った。
もちろん、金は払っていない。
あいつはそういう奴だ。
まあ、今日の所はいいだろう。
1318
奢ってやる。
これだけ飲んだら、
俺も今日は寝るとしよう。
そして、明日にでもルディと話し合うか⋮⋮。
﹁もう飲むんじゃねえぞ。明日、素面で﹃夜明けの光亭﹄にいけ、
いいな﹂
と、ギースが戻ってきた。
﹁わぁってるよ!﹂
釘を刺されて。
オレはため息をついて杯を置いた。
考えてみれば、最近のオレは飲み過ぎていた。
なんでこんなものに逃げていたんだか。
やるべきことは、まだまだ残ってるだろうに。
﹁あの⋮⋮パウロ団長、お話、終わりましたか?﹂
などと思っていると、一人の女が申し訳なさそうに縮こまってい
た。
誰だと思った。
酔った頭で彼女の顔をまじまじと見てみる。
すると、それが団員の一人、ヴェラであるとわかった。
﹁ヘッ、なんだよ、今日は随分とおとなしい格好じゃねえか﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
1319
ヴェラは曖昧に頷くと、先ほどまでギースの座っていた席につい
た。
今日の彼女は、いつものような攻撃的かつ刺激的な格好はしてい
ない。
どこにでもいるような、普通の地味な町娘の格好をしている。
﹁昼間の喧嘩、もしかして、私のせいなんじゃないかと思って﹂
﹁お前のせい? なんでよ﹂
﹁いや、その、私が、こんなだから⋮⋮その、
ご、ご子息が、勘違いされたんじゃないかな、って﹂
﹁関係ねえよ。どうせあいつは、お前のそのでっけぇ胸を見て、邪
推したんだ﹂
ヴェラが普段から薄着をしているのは、理由がある。
昔は普通の冒険者だった彼女だが、
あの転移で装備も無しにミリス大陸に飛ばされ、
盗賊に捕まって慰み者になった。
普通なら心を閉ざしてしまいそうな酷い目にあったが、
彼女は凄まじい精神力でそれを乗り切った。
しかし、乗りきれなかった女もいる。
ヴェラの妹であるシェラがそうだ。
あの子は、男の視線を受けると、未だに震えが止まらなくなる。
そんなのは、団員以外にも。何人かいる。
ヴェラはそんな子たちを男の視線から守るため、
男の視線が自分に行くように、いつもあんな格好をしている。
1320
また、似たような目にあって沈んでいる他の女のケア係としても
優秀だ。
レイプされた女の気持ちがわからない俺にとって、
無くてはならない部下の一人だ。
もちろん、肉体関係は無い。
あるわけがない。
﹁わかったら行け﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ヴェラはしょんぼりしながら、女が集まっている席へと戻ってい
った。
﹁ったく⋮⋮﹂
よくよく周りを見てみれば、
オレのことを心配そうに見てる目の多い事、多い事。
﹁変な顔で見てんじゃねえよお前ら!
明日には仲直りするよ!﹂
俺は最後にそう言って、席を立った。
−−−
部屋に戻ると、そこにはノルンが一人で寝ていた。
オレはテーブルにおいてある水差しから、水を一杯、コップへと
汲んだ。
ごくりと飲む。
1321
ぬるま湯は、オレのドロドロになった胃袋にすとんと落ちた。
ゆっくりと酔いが醒めていく。
昔から、オレは酔いにくい体質なのだ。
大量に飲めば泥酔できるが、長時間は残らない。
頭がゆっくりと醒めて来るのを自覚しつつ、
毛布を抱きしめるように眠るノルンの頭をさらりと撫でた。
ノルンはかわいそうな子だと思う。
こんな父親の近くで言いたいこともあるだろうに、
文句一ついわずに、健気に振舞っている。
もしノルンが死ねば、オレは生きていられない。
﹁んうぅ⋮⋮お父さん⋮⋮﹂
ノルンが身動ぎをした。
起きてはいない。寝言だろう。
彼女は平凡な子だ。
ルディとは違う。
オレが守ってやらないと⋮⋮。
﹁⋮⋮﹂
もしルディが平凡だったら。
ルディもまた、ここで寝ていたのではなかろうか。
家庭教師には行かず、ずっと実家で過ごして、
転移した時に、オレの裾でも掴んで、
僕にもノルンを抱かせてよ、なんて言っていたかもしれない。
平凡なルディだ。
平凡な11歳のルディ。
1322
俺はそれを、守るべき対象として、こうやって⋮⋮。
足が震えた。
ギースが﹁11歳のガキだ﹂といった理由がようやく理解できた。
そうだ。
平凡だろうが、天才だろうが。
何が違う。
同じじゃないか。
もし、ノルンが天才だったら、オレは同じことを言ったのか?
ノルンに、何も知らず、ただ呑気に旅をしてきたノルンに。
あんな事を、言ったのか。
お前にはもっと期待していたなんて、言ったのか?
想像して、眠れなくなった。
横になる気がしなかった。
宿の外に出て、火事用に貯めてある水瓶の水を、頭から被った。
酒場を出て行った時のルディの顔を思い出して、吐いた。
ルディにあんな顔をさせたのは誰だ。
桶に溜まった水。
そこには、馬鹿な男の顔が映っていた。
世界で一番、父親に似つかわしくない男の顔だった。
﹁ハッ、こりゃ、ダメかもしれねえな⋮⋮﹂
オレだったら、こんな男とは縁を切るね。
1323
−−−
ルーデウス視点
翌朝。
−−−
俺はいささかスッキリした気分で朝食を取っていた。
場所は宿屋の隣にある酒場。
ミリシオンの食事はなかなかうまい。
大森林からこっち、移動すればするほど食事がうまくなる。
今日の朝食は焼きたてのパンと、
スッキリした味わいの透明なスープ。
生野菜のサラダ。
そして分厚いベーコンだ。
昨晩はありつけなかったが、
夕飯にはなんとデザートが付いているらしい。
最近流行りの、幼い魔術師の冒険者譚の詩。
そこに出てくるデザートで、
若い冒険者に人気の甘いゼリーだそうだ。
楽しみにしておこう。
飯を食う。
それは幸せなことだ。
腹が減ると、イライラしてくるからな。
イライラすると食欲が無くなり、
食欲が無くなると、腹が減る。
見事な悪循環だ。
アンドロイドも不機嫌になろう。
1324
﹁⋮⋮いらっしゃい﹂
と、そんな事を考えて、食後にコーヒーのような飲み物を飲んで
いると、
酒場の店主がふと入り口に目を向けた。
ゲッソリと窶れた、青い顔をした男が立っていた。
俺はその顔を見た瞬間、
あからさまにビクついた。
男はきょろきょろと店内を見渡し、俺を見つけた。
俺の心中に昨日の感情が浮かび上がり、
何も言われていないのに、自然と目線を逸らした。
﹁⋮⋮﹂
そんな俺の様子を見て、同席の二人は、すぐにこの人物が誰か察
したらしい。
ルイジェルドが眉を潜め、エリスが椅子を蹴って立ち上がる。
﹁誰よあんた﹂
こちらへと歩いてくる男。
その眼前に、エリスは立ちふさがった。
両腕を組んで、足を肩幅に開いて、アゴをくっと上にあげて。
厳然とした態度で、頭二つは高い位置にある男の顔を睨みつけた。
1325
﹁パウロ・グレイラット⋮⋮そいつの父親だ﹂
﹁知ってるわ!﹂
俺がエリスの背中を見ていると、頭上から声が降ってきた。
苦笑するような声だった。
﹁なんだルディ、女の後ろなんかに隠れやがって、随分と色男じゃ
ねえか﹂
その声音、その口調。
俺はちょっとだけ、ほっとした。
そうそう。
昔のパウロは、こんな感じで俺をおちょくってきた。
懐かしい。
俺はこの態度を、パウロなりの歩み寄りだと考えることにした。
朝一でわざわざ酒場までやってきてくれたのだ。
俺にだって、話をする余裕ぐらいはある。
﹁ルーデウスが私に隠れてるんじゃないわ!
私がルーデウスを隠しているのよ!
ダメな父親からね!﹂
エリスはブルブルと拳を握りしめ、
今にもパウロの顎に向かって拳を振るいそうだった。
俺はルイジェルドに目線で合図をする。
すると、彼は察してくれたのか、
エリスの首根っこを掴んで持ち上げた。
﹁ちょっ! ルイジェルド! 離しなさいよ!﹂
﹁二人にさせてやれ﹂
1326
﹁あなたも昨日のルーデウスは見たでしょ!
あんなの父親じゃない!﹂
﹁そう言ってやるな。父親なんてあんなものだ﹂
なんて事を言いながら、この場から立ち去ろうとする。
と、ルイジェルドはパウロの横を通り過ぎる時、ぽつりと言った。
﹁お前にも言い分はあるだろうが、その言い分が通るのは、息子が
生きている時だけだ﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
ルイジェルドの言葉は重い。
彼は、自分の事を世界一ダメな父親だと考えていそうだしな。
同じくダメな父親に、シンパシーでも感じているのかもしれない。
﹁ルディ、年上をアゴで指図すんなよ﹂
﹁違いますよ。顎じゃないです。信頼のアイコンタクトです﹂
﹁似たようなもんだろうが﹂
パウロはそう言いつつ、俺の前へと座った。
﹁あれが、昨日言ってた魔族か⋮⋮?﹂
﹁はい、スペルド族のルイジェルドさんです﹂
﹁スペルド族ねぇ。随分と気の良さそうな奴じゃないか。
噂と実物は違うってことか﹂
﹁怖がったりしないんですか?﹂
﹁馬鹿言え、息子の恩人だぞ﹂
昨日の意見とは随分と違うようだが⋮⋮。
余計なことは言うまい。
1327
さて、と。
﹁それで、何をしにきたんですか?﹂
思った以上に、硬い声が出た。
すると、パウロはびくりと身を震わせた。
﹁いや⋮⋮その、謝ろうと、思ってな﹂
﹁何をですか?﹂
﹁昨日のことだよ﹂
﹁謝る必要はありませんよ﹂
謝ってもらえるのは好都合だが、
俺だって、エリスの胸枕で一晩ぐっすり寝て、きちんと反省した
のだ。
﹁ハッキリ言って、僕はこれまで、遊び気分でした﹂
最初はともかく、
旅は概ね順調で、
エロいことに気を取られるぐらいには余裕があった。
フィットア領についての情報収集をしなかったのは、間違いなく
俺の落ち度だ。
ザントポートでは無理だったが、
ウェンポートでは情報屋と接触していた。
そいつらに聞けば、何らかの情報は得られたはずだ。
聞いて、調べて当然の事を調べていなかった。
1328
俺のミスだ。
﹁ですので、父様が怒るのも仕方ありません。
この大変な時期に、僕のほうこそ、すいませんでした﹂
フィットア領が消滅して、一家がバラバラになった。
その時のパウロの心境を思えば、責める事はできない。
俺は知らなかったおかげで、脳天気でいられた。
悲劇を知らない、幸せな事なのだ。
﹁いや、そんな事はないだろう。
ルディだって一生懸命だったんだろ﹂
﹁いえいえ、全然。余裕でしたよ﹂
ルイジェルドがいてくれたからな。
リカリスの町を出た後は、比較的楽だった。
魔物に奇襲を受けることもないし、
黙っていてもご飯を捕まえてきてくれるし、
エリスの喧嘩は止めてくれるし。
俺としては楽な旅だった。
実にイージーなオペレーションだ。
﹁そっか、余裕か⋮⋮﹂
パウロが何を考えているのか、俺にはわからない。
ただ一つ言えるのは、
その声が少しばかり、震えているという事だ。
﹁伝言とやらを見つけられなかったのは、申し訳なかったと思って
います。
1329
何が書いてあったんですか?﹂
﹁⋮⋮オレの事はいいから、中央大陸の北部を探せって﹂
﹁そうですか。では、エリスをフィットア領まで送り届けたら、
北部を探す事にしましょう﹂
俺は機械的にそう答えた。
どうにも、自分の言葉が硬いように感じる。
なぜだろうか。
緊張しているのだろうか。
なぜだ。
俺はパウロを許したし、パウロだって俺を許した。
昔通りとはいかないが、今は緊急事態。
緊急事態だから緊張する。
当然か。
﹁それはそれとして、
フィットア領の現状について、
もう一度、詳しく聞かせてください﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ﹂
パウロの声音も硬く、震えたままだ。
彼も緊張しているのだろうか。
いや、ソレ以前に俺自身も、やっぱり何かがおかしい。
いつも通りに振る舞えない。
前は、パウロとどうやって話していたっけか。
軽口を叩き合うような間柄だったはずなんだが。
﹁まず何から話すか⋮⋮﹂
パウロは硬い声で、
1330
フィットア領で何が起こったのかを話してくれた。
建物がすべて消滅していたこと。
そこに暮らしていた人々がすべて転移したこと。
死者も大勢確認されているということ。
まだまだ行方不明者が多数だということ。
パウロは有志を募り、捜索隊を組織した事。
そのため、冒険者ギルドの本部があり、情報が集まりやすいミリ
シオンに拠点を置いたこと。
ちなみに、もう一つの拠点はアスラ王国の首都にあり、
そこは、あの執事アルフォンスさんが担当しているらしい。
アルフォンスさんはこの捜索団の総責任者であり、
現在もフィットア領で難民の救助をしているらしい。
そして、パウロは各地に伝言を残した。
俺に、手分けして家族を探すように指示を出していたのだ。
一人前に独り立ちしている、長男の義務として。
年齢的にはまだまだ子供であるはずだが、
俺も精神的には大人なつもりだ。
もしその伝言を見れば、奮起したことだろう。
ゼニスとリーリャ、アイシャは見つかっていない。
もしかすると、魔大陸のどこかで、すれ違ったかもしれない。
そう思えば、俺の行動は悔やまれる。
旅を急ぐあまり、一つの町への滞在を短くしすぎたのだ。
﹁ノルンは無事だったんですね?﹂
﹁ああ、運よく俺と接触していてな﹂
1331
パウロいわく、転移というのは、
体のどこかが接触していれば、一緒に飛ばされるらしい。
﹁ノルンは元気にしていますか?﹂
﹁ああ、最初は知らない土地でちょっと戸惑ってたみたいだけどな、
今じゃ団員のアイドルみたいになってるよ﹂
﹁そうですか、それはよかった﹂
そうか、ノルンは元気か。
うん、実にイイことだ。
まさに不幸中の幸い。
喜ばしいことといえる。
けど、なぜか、俺の心は晴れない。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
会話が途切れた。
妙に間が悪い。
俺とパウロの関係ってのは、こんなじゃなかったはずだ。
もっとこう、軽い感じの関係だったはずだ。
おかしいな。
−−−
それからしばらく。
パウロは何かを言っていたが、
俺はそれにうまく返すことができなかった。
1332
気のない、硬い返事を繰り返すばかりだった。
いつしか客は俺たち以外にいなくなっていた。
そろそろ、仕込みを始めるから出て行ってくれないかと言われそ
うだ。
パウロもその気配は察知したらしい。
﹁ルディ、お前はこれから、どうするんだ?﹂
最後に、そう聞かれた。
﹁⋮⋮とりあえず、エリスをフィットア領に送ります﹂
﹁だが、フィットア領には何もないぞ?﹂
﹁でも、帰ります﹂
帰らなければならない。
フィリップも、サウロスも、ギレーヌも、誰も見つかっていない
らしい。
帰っても、誰もいないだろう。
だが、戻らなければならない。
なぜか。
それが旅の目的だからだ。
初志貫徹。
まずはフィットア領にたどり着き、その現状をこの目で確認する
のだ。
そこから、中央大陸北部に移動して捜索するもよし。
ルイジェルドあたりに頼み込んで魔大陸に戻り、各地を捜索する
もよしだ。
一応言語がわかるからベガリット大陸に行くのもいいかもしれな
い。
1333
﹁その後、他の場所を探します﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
こうして会話はすぐに途切れた。
何を言うべきかわからない。
﹁ほれ﹂
と、その時、酒場のマスターが俺達の前にコップを置いた。
コトリと置かれた木のコップから湯気がたっている。
﹁サービスだ﹂
﹁ありがとうございます﹂
気付けば、喉がカラカラに乾いていた。
手はギュっと握られており、
手のひらには汗がベットリとついていた。
同時に、背中や脇下がやけに冷たい事に気付く。
前髪が額に張り付いている。
﹁なあ坊主。詳しい事はわかんねえが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁顔ぐらい見てやれよ﹂
言われて、初めて気づいた。
俺は、パウロの顔を、一度も見ていなかった。
最初に目をそらしてから、一度も、パウロの顔を見ることができ
なかったのだ。
1334
ごくりと唾を飲み、父親の顔を見る。
不安そうな顔だった。
今にも泣きそうだ。
ひどい顔だった。
﹁なんですか、その顔は﹂
﹁なんだって、なんだよ﹂
苦笑するパウロの顔には、元気がない。
表情も相まって、こけた頬のせいで別人に見える。
だが、同じような顔を、どこかで見たような顔だ。
どこだったか。
昔だな。
昔。
思い出した。
自宅の洗面所だ。
イジメられて引きこもってから、一年か二年。
まだ間に合うと思いつつも、
しかし、周囲とは決して埋まらない差が出来たと自覚しだした頃。
でも外に出るのは怖くて、焦りと不安ばかりが募った、
一番、情緒不安定だった頃だったはずだ。
なるほど。
そういうことか。
パウロは今、情緒不安定なのだ。
探し人が見つからなくて、
何時まで経っても音沙汰がなくて、
1335
心配して、心配して、
もしかして怪我をしてるんじゃないかとか。
もしかして病気になってるんじゃないかとか。
それともあるいは、もうとっくに⋮⋮と考えて、
心配して、心配して⋮⋮。
ようやく現れた俺が、あまりにも想像と違ってあっさりしていた
から、
ついイライラしてしまったのだ。
俺にだって覚えはある。
あれは引きこもり始めてすぐの頃だ。
中学時代の知り合いが訪ねてきて、
学校での事をいくつか話してくれた。
自分がこんなに落ち込んでいるのに、
こんなに荒れているのに、
相手があまりにも脳天気に学校生活の事を語って、
俺は胃が痛くなってそいつにキツイ言葉を吐いて、八つ当たりし
たのだ。
その翌日、もしあいつが次に来たら謝ろうと思った。
けれど、そいつは来なかった。
自分から出向くことはしなかった。
変なプライドがあった。
思い出した。
この顔は、あの時の顔だ。
﹁提案があります﹂
1336
﹁ルディ?﹂
﹁こんな状況です、僕らは大人にならなきゃいけません﹂
﹁ああ、まあ、確かにオレは大人気ないとは思うが⋮⋮何が言いた
いんだ?﹂
心の中がスッと晴れた。
ようやく、パウロの気持ちを理解できた。
そう思えば、あとは簡単だった。
昔を思い出す。
パウロに叱られて、強い口調で言い返した時の話だ。
当時は、仕方がない奴だと思った。
24歳、父親としては若いから、仕方がないと思った。
あれから6年。
パウロは30歳になった。
生前の俺より、まだまだ年下だ。
そして、生前の俺に比べれば、立派なもんだ。
俺はやることもやらず、相手を責めることばかり考えていたから
だ。
俺はあの頃とは違う。
そう誓ったはずだ。
最近は忘れていたが、同じ過ちを繰り返さないと。
この世界では本気で生きると、誓ったはずだ。
今回は、規模こそ大きくなったが、同じ事をしている。
6年前と、同じ事をしている。
俺たちは同じ失敗を繰り返している。
成長したつもりになって、前に進んだつもりになって、
ずっと同じ場所で足踏みしていたのだ。
それに関しては、素直に反省しよう。
1337
そして、反省した上で、
﹁昨日の事はなかった事にしましょう﹂
俺は、そう提案した。
今回、俺は、傷ついた。
心がポッキリと折れそうになった。
きっと、当時、俺を心配してくれた友人も、そんな気持ちだった
のだろう。
そして、そんな気持ちのまま、二度と会わなかったのだ。
今回はそうはならない。
俺はパウロとのつながりを、決して断ちはしない。
﹁昨日、僕らは喧嘩なんかしなかった。
今、この瞬間、数年ぶりに再会した父と子⋮⋮。
そういう事にしましょう﹂
﹁ルディ? 何言ってるんだ?﹂
﹁いいから、ほら、両手を広げて、さぁ﹂
﹁お、おう?﹂
言われるがまま両手を広げるパウロ。
俺はその胸に、飛び込んだ。
﹁父様! 会いたかった!﹂
むわりと酒臭さが漂う。
今は素面のようだが、二日酔いなのかもしれない。
ていうか、昔は酒なんて一滴も飲まなかったよな⋮⋮。
1338
﹁る、ルディ?﹂
パウロは戸惑っている。
俺はパウロの肩に顎を載せて、ゆっくりと言う。
﹁ほら、久々に再会した息子へ、一言あるでしょう﹂
とんだ茶番だと思いながら、もう一度パウロのゴツい体を力一杯
抱きしめた。
顔は痩け、身体も一回り小さくなったような気がする。
俺の身体が大きくなったのもあるだろうが、
パウロも苦労したのだ、俺以上に。
パウロは戸惑いつつも、ポツリと漏らした。
﹁お、オレも会いたかった⋮⋮﹂
一言いうと、何かが決壊したらしい。
﹁オレも会いたかった⋮⋮会いたかったんだよ、ルディ⋮⋮。ずっ
と、誰も、見つからなくて、死んでるんじゃないかって、思って⋮
⋮お前が、お前の姿、見て⋮⋮﹂
見上げると、パウロは涙を流していた。
顔をくしゃくしゃに歪めて。
大の男がみっともなく、しゃくりあげながら、泣いていた。
﹁ごめん、ごめんな、ルディ⋮⋮﹂
1339
なんだか俺も泣けてきた。
俺はパウロの頭をぽんぽんと叩き、しばらく、二人で泣いた。
こうして、俺は約五年ぶりに父親と再会することが出来たのだ。
1340
第四十八話﹁方針の再確認﹂
その日、丸一日パウロと話をした。
大した事を話したわけではない。
他愛ない話だ。
まず、ブエナ村での出来事だ。
俺が城塞都市ロアへと赴いてからの数年間。
パウロは二人の奥さんに囲まれながら、
しかし酒池肉林とは行かなかったらしい。
ゼニスとリーリャの間では何度も話し合いが行われ、
基本的にリーリャとの性的な接触は無し。
ただしゼニスが三人目を妊娠して、
どうしても我慢できなくなった場合は許可を求める事。
という流れになったらしい。
ゼニスにも葛藤があったようだが、
パウロにとっては都合のいい結末である。
羨ましいね。
﹁それで、三人目の妹は生まれそうなんですか?﹂
﹁いや、それがなかなかな⋮⋮。お前の時は一発だったんだが﹂
﹁一発でこんな優秀な息子が生まれるとは、父様も運がいい﹂
﹁言ってろよ﹂
11歳の息子と父親の会話じゃないな。
などと思いつつ、しかし心地良さを感じていた。
1341
ゼニスやリーリャの生死には触れない。
意図的に触れない。
お互いわかっているのだ。
生死の話題をしても、決して楽しい事にはならず、
やるせない気持ちだけが残るということが。
﹁シルフィは元気でやっていたんですか?﹂
﹁ああ、あの子はすごい。
お前の教師としての才能を感じたよ﹂
シルフィは元気でやっていたらしい。
午前は走りこみと魔力の鍛錬をして、
午後はゼニスの所で治癒魔術を習う。
アイシャがある程度大きくなってからは、
リーリャに行儀作法などを習っていたそうだ。
﹁ひたむきって言うんだろうな。
よくウチにきて、ルディの部屋で何かやってたよ﹂
﹁⋮⋮シルフィは、そこで何かを見つけたりとかしていませんよね
?﹂
﹁なんだ? 何か見られて困るもんでも隠してたのか?﹂
﹁いえ、まさか、そんなはずあるわけないじゃないですか﹂
やだなもう。
﹁ま、みんな消えちまったみたいだがな﹂
パウロの話によると、フィットア領にあった物体は、
そのほとんどが消滅してしまったらしい。
1342
羽ペンやインク壺といった小さなものから、
家や橋といった建築物に至るまで、
全てが消えてしまったらしい。
唯一、身に着けていたものだけ、一緒に転移した、と。
﹁そうですか﹂
それは残念だ。
何が残念なのかさっぱり思い出せないが、
心の中には言い得ぬ寂寥感がある。
﹁お前はどうしてたんだ?﹂
﹁ロアでの事ですか?﹂
聞かれ、俺も答える。
・・
初日にエリスにぶん殴られて心が折れそうになった事、
偶然人攫いに連れ去られて、なんとか脱出した事、
そのことをキッカケに、エリスと少し仲良くなれた事、
でも授業は聞いてくれなかった事、
ギレーヌに泣きついた事、
彼女のおかげでエリスが授業を聞いてくれるようになった事、
そこから少しずつ仲良くなった事。
一緒にダンスを習った事。
そして、10歳の誕生日の事。
﹁誕生日か、悪かったな⋮⋮﹂
﹁何がですか?﹂
﹁顔も見せてやれなかった﹂
1343
アスラ王国民にとって、節目歳である10歳は極めて重要な歳で
ある。
どうして重要なのかは未だわかっていないが、縁起物なのだろう。
盛大にお祝いをするし、プレゼントも渡す。
﹁それは構いません。エリスの家族にしっかりお祝いしてもらいま
したから﹂
アクアハーティア
﹁そうか、何をもらったんだ?﹂
﹁高価な杖です。﹃傲慢なる水竜王﹄なんていう、ちょっとこっ恥
ずかしい名前なんですが﹂
﹁そうか? カッコイイじゃないか﹂
カッコイイ?
なにを馬鹿な、背筋が痒くなるような名前じゃないか。
でも、この世界では凄い性能のものにほど、大仰な名前をつける
のかもしれない。
﹁それと、アルフォンスから聞いたぜ、ルディ。
もう一つ、いいものをもらったらしいじゃねえか﹂
﹁いいものですか?﹂
はて、何をもらったのだろうか。
知恵と勇気と無限のパワーだろうか。
どれもまだまだ足りないと思うが。
﹁ほら、フィリップん所のお嬢さんだよ。
さっき初めて見たが、健気で可愛らしい子じゃないか。
お前の事を必死に守ろうとしてよ⋮⋮﹂
⋮⋮もらった。
1344
と、言われると少し違う気がする。
いや、確かにフィリップから﹁よし﹂と許可されたが、
﹁頂きます﹂には至っていない。
彼女は大事にしたい。
昨日の事もある。
落ち込んでいる時に誰かに優しく抱きしめられ、
眠るまで頭を撫でてもらったのは初めてだ。
エリスの事は絶対に裏切れない。
15歳になったら、という約束もあるが、
例え15歳になったとしても、彼女が嫌がるうちは我慢できる。
とはいえ、性欲に関してはやや暴走しがちな俺だ。
4年後、恐らく今より強い性欲を保持した状態で耐え切れるかど
うかわからないが。
少なくとも、今はそう決意している。
﹁エリスは大切な存在だと思っています。
が、しかし、もらった、なんてモノみたいな言い方は好きになれ
ませんね﹂
﹁まあ入り婿だもんな。もらうってより、もらわれるって方が正し
いか﹂
﹁はえ?﹂
変な声が出た。
婿?
﹁お前、フィリップに後ろ盾についてもらって貴族になるんだろ?﹂
﹁なんですかそれは、いつそういう話になったんですか?﹂
1345
﹁いつも何も、転移の一年ぐらい前からだよ。
お前とエリスがいい仲で、
お前自身の気持ちも固まりつつあるから、
婿に迎えたいって手紙がきてたぞ。
オレはアスラ貴族なんて糞みたいなものだと思っているが、
お前が決めた事なら好きにしろと返しておいたんだが⋮⋮﹂
なるほど。
つまり、フィリップは10歳の時には、すでにパウロへの根回し
を終えていたのだ。
もし、あそこで断ったとしても、それから数年の間に、
あの手この手で俺とエリスをくっつけようとしたに違いない。
何が酒の席での話だ。
となれば、パウロが俺とエリスの仲を邪推したのも頷ける。
結婚の約束をした二人、不安でたまらない二人。
互いに好き同士となれば、旅の途中でイチャイチャしていたと思
われても仕方がない。
﹁その様子だと、フィリップにハメられたようだな﹂
﹁そのようですね﹂
二人してため息をついた。
今、俺とパウロの脳裏には、同じ男の顔が浮かんでいる事だろう。
フィリップ。アスラ王国の上級貴族。
ドロドロした社交界を乗りきれる力を持った男。
﹁で、お嬢様とはそこそこの仲として、シルフィの事は⋮⋮あ、い
や、なんでもない。忘れてくれ﹂
1346
パウロは失言だったと言わんばかりに言葉を濁した。
シルフィは、まだ見つかっていない。
少なくとも、パウロの知る範囲では、だ。
なんでもないと言われたが、考える。
シルフィは好きだ。
だが、エリスに感じている感情とは少し違う。
シルフィはどちらかというと、妹や娘のような感覚が強い。
イジメられて、可哀想で、俺が育ててやらなくちゃ、という感じ
だ。
それ以上の感情になる手前で別れてしまったというのもある。
エリスも似たような感じだが、彼女には助けられている部分も多
い。
どちらに軍配が上がるか、と言われればエリスに上がる。
もっとも、それは二人を総合的に見て判断しているわけではない。
年月の問題だ。
やはり、長いこと一緒にいるというのは大きい。
幼馴染という存在は様々な話に出てくるが、
長い時間を一緒に過ごした、というのはそれだけ強力なのだ。
シルフィよりも、エリスと2倍近く一緒に過ごしている。
内容も濃い。
とはいえ。
それと行方不明のシルフィの心配をしないというのは、別の話だ。
﹁シルフィ、生きているといいですが⋮⋮﹂
﹁お前ほどじゃないが、あの子も頑張っていた。
なに、無詠唱で治癒魔術まで使えるんだ。
1347
どこでだって生きていけるさ。
治癒術師ってのは、ミリス大陸以外じゃ結構貴重なんだ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
⋮⋮ん?
今ちょっと、聞き捨てならない話を聞いたような。
﹁ちょっと待ってください。シルフィは、無詠唱で治癒魔術を使え
るんですか?﹂
﹁ん? ああ、ゼニスが驚いていたな。
でも、ルディだって使えるだろ?﹂
﹁治癒魔術は使えませんよ﹂
俺は治癒魔術を詠唱無しでは使えない。
原理を理解していないからだ。
魔術で傷を治すメカニズムは、何度使っても解明できない。
﹁そうなのか?﹂
﹁ええ、詠唱すれば使えるんですが⋮⋮﹂
﹁まあ、オレも魔術に関してはそう詳しくないが、
魔術には相性があるっていうしな。
シルフィにはそっちの才能があったんじゃないのか?﹂
もしかすると、シルフィはしばらく見ない内に、
俺なんかよりもずっと強くなっているのではないだろうか。
会うのが少し怖いな。
﹁ルディ、全然成長してないね﹂なんて言われたらどうしよう⋮
⋮。
なんて話をしているうちに、俺とパウロの間にあった溝は完全に
1348
消えていた。
−−−
夕方頃、パウロに迎えがきた。
例のビキニアーマーのお姉さんと、治癒術師のお姉さんだ。
今日はビキニお姉さんはビキニではなかった。
地味な町娘のような格好をしていた。
昨日のアレは何だったんだろうか。
まあ、喧嘩の原因の一つでもあるから、自重してくれたのかもし
れない。
﹁父様﹂
﹁なんだ?﹂
﹁もちろん僕は父様を信じているのですが、昨日の一件もあり、一
応の事ながら改めて聞いておきます。浮気はしてないんですよね?﹂
﹁してねえよ﹂
そうか。
なら安心だ。
俺とパウロの昨日の口論は、邪推と邪推のぶつかり合い。
事実関係は無く、互いの女癖の悪さを指摘されただけの結果だ。
っと、なかった事にしたんだったか、失敗失敗。
まあ、パウロも女なんかに構っている暇はないという感じだ。
家庭崩壊の引き金に指が掛かることもない。
俺もそれを見習って、これからは少しエロを抑えていくとしよう。
1349
パウロは最後に、俺の意志を確かめるように聞いてきた。
﹁ルディ、お前はエリスを護衛して、フィットア領に行くんだった
な?﹂
﹁はい﹂
俺はその言葉に強く頷きつつ、聞き返す。
﹁それとも、僕も捜索団に参加したほうがいいですか?﹂
﹁いや、その必要はない。どの道、ボレアスの血縁はアスラ王国に
送り届けなきゃいけないからな﹂
﹁⋮⋮そう聞くと重要任務に聞こえますが、僕にまかせてもいいん
ですか?﹂
﹁お前以上の適任はいないだろう。信頼関係もあるしな﹂
随分と信頼されているらしい。
ふと思ったが、パウロは俺を過大評価しすぎではないだろうか。
いや、どんな評価をされようと、期待には応えたい。
﹁もっとも、別に、団員から何人か護衛を出して、
お前はミリシオンに残ってもいいんだぞ?﹂
パウロがニヤリと笑いつつ、何か甘いことを口走った。
損得だけで考えるなら、それでもいい。
もちろん、ミリシオンに残るのではなく、エリスと別れ、個別に
捜索をする、という意味だ。
今から魔大陸に戻って捜索するというのも、一つの手ではある。
が、あくまでそれは損得だけで考えた場合だ。
エリスを置き去りにして、自分を優先するわけにはいかない。
俺は彼女を守らなければいけない。
1350
それに、何かを放置して他の何かに着手するという事に、あまり
いい記憶はない。
生前、全てを中途半端に終わらせてきた俺だ。
両方が中途半端な結果に終わるに違いない。
今回の場合なら、エリスはフィットア領に辿りつけず、俺は魔大
陸で何の成果も上げられないまま終わる。
なら、片方ずつだ。
ルイジェルドの事もあるしな。
あの堅物が、捜索団の団員と仲良く出来るとは思えないし、
途中で抜けるなんて言ったら戦士としてあるまじき行いだと怒ら
れそうだ。
﹁いえ、やはり僕が送った方がいいでしょう﹂
﹁ま、うちの団にはお前より強い奴はいないし、お前としても任せ
られないだろうな﹂
そう言いつつ、パウロは複雑そうな顔をしている。
もしかすると、俺に喧嘩で負けた事を気にしているのかもしれな
い。
酒を飲んでいたし、ノーカンだと思うが、ここで変に慰めても立
場が無いだろう。
ここは触れないで置いてやるのが吉だ。
﹁ミリシオンからはどれぐらいで発つんだ?﹂
﹁そうですね、旅費を貯めたいので、一ヶ月ぐらいですかね﹂
﹁旅費なら出すぞ﹂
パウロは女二人へと振り返り、
ローブを着た治癒術師のお姉ちゃん。
ソバカスの残るおとなしめな感じの子に、声を掛ける。
1351
﹁あったよな?﹂
﹁ボレアス家の面々が見つかった時のためにと、
アルフォンス様から預かった資金がございます﹂
アルフォンスは、ミリスで誰かが見つかった時のため、
何不自由なく移動できるだけの金を、パウロにもたせていたらし
い。
﹁というわけだ﹂
﹁なるほど、そんな金が酒代に消えなくてよかった﹂
﹁資金はシェラが管理してるからな﹂
自慢げに言う我が父親の情けなさ。
言うまい。
﹁それで、いくらぐらいになるんですか?﹂
﹁王札20枚相当となります﹂
シェラに聞くと、即答が帰ってきた。
王札は、ミリスで一番高い貨幣だ。
石銭=1円として換算すると、一枚5万。
それが二十枚。
つまり、
﹁ひゃくまんえん!﹂
﹁⋮⋮どういうリアクションだそりゃ﹂
呆れ顔のパウロ。
1352
俺は金に目が眩んでいた。
なにせ、この一年半。
守銭奴のように金のことばかり考えてきた俺だ。
そんな俺に、いきなり百万円である。
﹁そんな大金⋮⋮一生遊んで暮らせるじゃないですか!﹂
﹁まあ、南部なら家ぐらいは建つと思うが、一生は遊んでは暮らせ
ねえよ﹂
えー、だって百万ですよ。ヒャックマンですよ。
緑鉱銭にして1000枚!
スペルド族だって船に乗れちまう!
と、喜んだ所で、
もう一つの問題を思い出す。
﹁あ、もう一つ問題がありました﹂
﹁まだあるのか?﹂
﹁はい。ウェンポートではスペルド族が海を渡るのに、莫大な渡航
費用が要求されました。ウェストポートではいくらかかるかわかり
ませんが、やはり大金を要求されそうです。王札20枚で足りるか
どうか⋮⋮﹂
﹁そのことか⋮⋮﹂
パウロは腕を組んだ。
まさか、ルイジェルドを置いていけ、なんて言うんじゃなかろう
な。
﹁シェラ。スペルド族が海を渡るのに必要な金はいくらだ?﹂
1353
唐突にパウロは尋ねた。
シェラは﹁はい﹂と頷き、
﹁王札100枚です﹂
と、答えた。
全て暗記しているのだろうか。
先ほどの事もそうだし、彼女は優秀そうだ。
見た目からして秘書って感じだしな。
﹁⋮⋮っ!﹂
と、目が合うと、彼女は小さく悲鳴を上げてうつむいてしまった。
元ビキニの人が、さりげない感じで俺の視線を遮るように立ち位
置を変えた。
ちょっとショック。
﹁ごめんなさい、この子、ちょっと視線が苦手なのよ。あまり見な
いで上げて﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
元ビキニの人にいわれ、俺は曖昧な言葉を返す。
パウロとの仲は元通りになったけど、
他の団員には嫌われたままだったか。
まあ、それはいいや。
しかし、王札100枚か。
約500万円といった所だ。
簡単に貯まる金額ではない。
ため息が出る。
1354
﹁なんでスペルド族だけ、そんなに高いんでしょうね﹂
﹁その法律が制定された頃は、
スペルド族の迫害が最も苛烈な時期だったからです﹂
と、元ビキニの後ろから、シェラが当然と言わんばかりに答えた。
ウェンポートの関所の人でも知らない事を、あっさりと。
おっぱいはちっぱいけど、脳みそはいっぱいか。
﹁しかも、あそこの税関の貴族は、魔族嫌いで有名だ。
金を積んでも、なんだかんだで通してくれないかもしれん﹂
﹁そうですか⋮⋮ええっと、母様の実家の力でも、どうにかなりま
せんか?﹂
﹁すまんが、今回の事であの家もギリギリの橋を渡っている。
これ以上は迷惑を掛けられん﹂
となると、また密航か。
密航には嫌な思い出があるからな。
なるべくなら頼りたくない。
大体、同じ大陸での出来事だ。
密輸組織同士のつながりで、俺たちがブラックリストに乗ってい
る可能性だってありうる。
スペルド族と渡航費用、考えれば考えるほど頭が痛くなりそうだ。
﹁わかりました。渡航費用については、自分で対策を練ります﹂
﹁すまんな﹂
そう言うと、パウロはニヤリと笑った。
そして、背後に控える女二人に、ドヤ顔で振り返った。
1355
﹁どうよ、オレの息子は?
頼もしいもんだろ?﹂
﹁はあ﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
女二人は苦笑して顔を見合わせた。
どうもこうも、その息子とみっともなく喧嘩してたのは誰だ。
﹁父様。淑女に息子の具合を聞くなんて下品なことはやめてくださ
い。
グレイラット家の品性が疑われます﹂
﹁お前の発言の方がよっぽど下品だよ﹂
そう言って、俺たちは笑いあった。
女二人はドン引きしていたが、構うことはない。
﹁さてと、ルディ、オレはそろそろ行くぜ﹂
﹁はい﹂
パウロは立ち上がり、コキコキと肩を鳴らした。
随分と長い時間、喋っていたようだ。
カウンターを見ると、マスターの苦笑する顔が見えた。
ランチタイムもずっと居座っていたからな。
ちょっと多めに支払っておこう。
﹁旅の予定が決まったら連絡をくれ。出発する前に、ノルンと一緒
に飯でも食おう﹂
﹁ええ、分かりました﹂
そう言って、俺はパウロを見送った。
1356
二人の女を引き連れて酒場を出て行こうとするパウロの背中を。
こうして見ると、本当に女好きのダメ親父だな、
なんて思いながら。
−−−
パウロがいなくなってしばらくして、
エリスとルイジェルドが戻ってきた。
エリスは目の辺りに大きな痣を作り、
ルイジェルドが難しそうな顔をしていた。
﹁どうしたんですか、二人共﹂
﹁なんでもないわ。それで、あの男とはどうなったの?﹂
エリスがさも不機嫌ですと言わんばかりに、腕を組んでフンと鼻
息。
﹁仲直りしました﹂
すると、エリスの眦がみるみるうちにつり上がった。
﹁なんでよ!﹂
握りしめた拳を、ドンとテーブルに叩きつける。
パガンとでかい音がしてテーブルが砕けた。
んまあ、パワフルだこと⋮⋮。
1357
﹁そうか。仲直りできたか﹂
対するルイジェルドが嬉しそうだ。
﹁ルーデウス!﹂
エリスは俺の両肩を掴んだ。
ギリギリと締め付ける。
凄まじい力である。
﹁なんでよっ!﹂
﹁なんでって、何がですか﹂
若干戸惑いつつも、俺はそう聞く。
﹁昨日、あんなに落ち込んでたじゃない!﹂
﹁ええ、昨日は助かりました。
エリスが抱きしめてくれたおかげで、
僕もかなり落ち着くことができました﹂
今日、パウロの顔を見ることができたのは、
紛れもなくエリスのおかげだ。
もし、あの抱擁がなければ、
俺はしばらく宿の一室に閉じこもっていたかもしれない。
﹁そうじゃない!
あの男は、ルーデウスの10歳の誕生日にも来なかったのよ!
それで、魔大陸で、あんなに大変な旅をして!
大森林では、牢屋になんか入って!
それで、やっと、やっと会えたのに!
1358
あんな風になるようなことをしたのよ!
突き放すような事を言ったのよ!?
なんで許せるのよ!﹂
一気にまくし立てるエリス。
彼女の言い分もわかる。
確かに。
そう言われると、パウロは最低だ。
俺の事を嫌っているのだと断言されても信じられる。
俺が普通の子供であれば、
パウロを決して許してはいけないだろう。
が、パウロが俺に対して失敗するのは仕方がない事だ。
俺は生前の記憶を引き継ぎ、うまいことやってきた。
そんな歪な息子に対して、普通の対応をしろってのが無理という
ものだ。
パウロは俺との距離を測りかねているし、
俺の扱いについて迷ってもいる。
それに、俺が言うのもなんだが、正しい父親っていうのがどうい
うものか、
イマイチわかっていない部分もある。
それが悪いこととは思わない。
俺としては、息子という立場を持って、
上から目線で見守ってやるだけだ。
パウロは俺でいくらでも失敗すればいいのだ。
俺の心はもう折れない。
もっとも、すぐに別れる事となるわけだが。
1359
﹁エリス﹂
﹁なによ⋮⋮﹂
なんというべきか、迷った。
エリスは俺のために怒っている。
しかし、俺としては、もう解決した事なのだ。
﹁父様も一人の人間です。失敗ぐらいしますよ﹂
俺はそう言って、エリスの目の痣にヒーリングを施した。
エリスはヒーリングを大人しく受け入れたが、
その表情を見ると、納得していないことがありありとわかった。
治療が終わると、むっとした顔のまま宿屋の自室へと戻っていっ
た。
それを目で追いつつ、俺はルイジェルドに問いかける。
﹁で、ルイジェルドさん﹂
﹁なんだ?﹂
﹁なんですか、あの痣は﹂
エリスの目の痣。
あんなものは、昨日はなかったはずだ。
﹁止めるのに苦労した﹂
平然と言ってのけた。
普段、子供を殴れば烈火のごとく怒る男だが、
さて、どういう心境の変化か。
1360
どうしてもパウロを許せないという事でエリスが暴れたのだろう
が、
エリスとルイジェルドは師弟関係にある。
その二人が訓練をしてエリスが怪我を負うのも初めてではない。
いや、よく見ろ。
ルイジェルドの顔。
平然としてはいない。
あまり表情豊かではないこの男だが、今はやや苦々しい。
不本意そうだ。
仕方ない、か。
何があったのか、どんな会話があったのか。
どういう経緯でこうなったのか。
俺にはさっぱり分からない。
ただ一つだけ言える事がある。
ルイジェルドとエリスが争ったのは、俺のせいだ。
俺はパウロと仲直りできた。
なら、俺が言うのはお礼だけだ。
﹁ありがとうございました。おかげで父様と仲直りすることが出来
ました﹂
﹁礼には及ばん﹂
しかし、今のエリスはルイジェルドが殴らないと止められないの
か。
知らない間にどんどん強くなるな。
−−−
1361
その後、しばらくしてから作戦会議。
﹁さて、ではミリシオンにおける、第二回の作戦会議を行います﹂
場所は酒場。
考えてみると、俺は本日、酒場から一歩も動いていない。
ここの酒場は居心地がいい。客も少ないし。
﹁一昨日したばっかりじゃないの﹂
エリスはもう怒っていない。
拗ねて部屋に閉じこもるかと思ったが、十分ぐらいで戻ってきた。
彼女の切り替えの速さは見習いたいものだ。
﹁状況が変わりました。
具体的にいうと、金を稼ぐ必要がなくなりました。
なので、近いうちにミリシオンを発とうと思います﹂
王札20枚がもらえるということで、金を稼ぐ必要がなくなった。
情報収集も、パウロから聞けることは聞いた。とりあえずは必要
無い。
スペルド族の名誉に関しては、とりあえず保留。
となれば、この町でできることは少なくなった。
という事を、かいつまんで話す。
フィットア領の現状について、エリスに話すのは迷った。
だが、あえて話す事にした。
1362
実際に現地に赴いて、絶望的な気分を味わうより、
今から覚悟しておいた方がいい。
﹁エリス、僕らの故郷は、もう存在して無いみたいです﹂
﹁そう﹂
﹁フィリップ様も、サウロス様も、まだ見つかっていないらしい﹂
﹁仕方ないわね﹂
﹁ギレーヌの居所もわからないというし、もしかすると⋮⋮﹂
﹁あのね、ルーデウス﹂
エリスは腕を組み、顎を上げて俺を見た。
﹁そのぐらい覚悟していたわ﹂
エリスの目に迷いはなかった。
いつも通り力強く、傲岸不遜で、自分の未来に一変の疑いも持た
ない目だった。
忘れていたわけではなく、覚悟していた。
そう言った。
﹁ギレーヌはどこかで生きていると思うけど、お父様やお祖父様は
死んでいてもおかしくないわね﹂
フンと鼻息一つで、そう言った。
つまり、自分が魔大陸に転移して大変だったから、
他の人が死んでいるかもしれない、とすでに予想していた。
そういう事だろうか。
いや、強がっているだけかもしれない。
エリスは強がっている時と、本当に自信がある時の見分けがつき
1363
にくい。
﹁ルーデウスが隠していたって、ちゃんと知ってるんだから﹂
何を知っているのかは知らないが、強がっている感じはしない。
エリスはエリスなりに、色々と考えているようだ。
つまり、当事者でフィットア領の事をスッポリと忘れていたのは、
俺だけ。
ちょっと恥ずかしいな。
﹁そうですか。わかりました﹂
エリスは流石だ。
そう思う事にして話を続ける。
﹁とりあえず、一週間ほどでこの町を出ようと思いますが⋮⋮﹂
﹁いいのか?﹂
と、聞いたのはルイジェルド。
﹁何がですか?﹂
﹁旅立てば、父親と二度と会えんかもしれんぞ﹂
﹁また随分と不吉な事を⋮⋮﹂
ルイジェルドが言うと、少々重みが違う。
だが、今は戦争中というわけではない。
むしろ、
﹁今は探さなければ二度と会えない家族がいるかもしれないので、
そちらを優先したいと思います﹂
1364
﹁そうか、そうだな﹂
ルイジェルドが納得した所で、本題に入る。
﹁これからの旅では、
情報収集を中心に行なっていきましょう﹂
一つの町に滞在する期間はやはり一週間前後。
しかし、その間は金稼ぎではなく、情報収集を主に行う。
探すのは、主に転移した人間だ。
ミリスからアスラまでの道のり。
それはこの世界で最も人通りが多く、
最も多くの商人が生息するとされる、この世界のシルクロード。
当然、捜索隊によって調べつくされているだろう。
だが、もしかすると、先達が見つけられなかった何かを発見でき
るかもしれない。
スペルド族の名誉回復は、その作業の中でもなんとかなる。
もっとも、ミリスや中央大陸では﹃デッドエンド﹄の名前はあま
り知られてない。
どうやって名前を売るか、また考えなければいけないかもしれな
い。
﹁問題は渡航費用ですね﹂
一番の問題だ。
この世界においては、海を渡るというのは、
それなりに特別な意味があるらしい。
陸路で他国へと入る時はいくらでもごまかせるそうだが、
1365
海だけは簡単には渡れない。
特に、スペルド族は。
﹁その事だが、ルーデウス、これを見てくれ﹂
と、ルイジェルドが取り出したのは、一枚の紙片。
昨日、俺に見せようとしてやめた、あの封筒だ。
受け取ってみる。
表には﹃バクシール公爵へ﹄と殴り書きされた文字。
裏は赤い蝋で封印がなされている。
模様は家紋だろうか。
実に無骨な感じだ。
﹁これは?﹂
﹁昨日、知り合いに書いてもらったものだ﹂
知り合い。
そういえば、ルイジェルドは知り合いに会ってくると言ったのだ。
﹁知り合いというのは、どういう人なんですか?﹂
﹁ガッシュ・ブラッシュという男だ﹂
﹁ご職業は?﹂
﹁知らん。偉そうにはしていたぞ﹂
なんでも、ガッシュとは40年前に出会ったらしい。
魔大陸での事だ。
ルイジェルドは魔物に襲われて全滅しかけている一団を助け、
その中にガッシュがいたそうだ。
1366
当時のガッシュはまだ子供であり、
ルイジェルドを見て恐怖と敵愾心のこもった目をしていたが、
別れ際にはわりとフレンドリーな感じになっていたそうだ。
町に送り届けた時、
もしミリシオンに来ることがあったら訪ねてくれと言われ、
機会が無いまま忘れていたが、
冒険者区の入り口にはいるべく外周を回っている時、
ふと﹃眼﹄に映り、思い出したそうだ。
なので、一応は訪ねてみる気になったものの、
もしかすると相手も忘れているかもしれない。
そんな不安を胸にルイジェルドが向かうと、
向こうは当然のように覚えていて、大層な歓迎を受けたらしい。
最初は挨拶程度で済ませるつもりだったが、意気投合。
ここまでの旅を話すと、ならウェストポートを渡る時にはこれを
見せろ、と一筆書いてくれたそうだ。
ルイジェルドと意気投合。
獣族のギュスターヴみたいな感じの人なのだろうか。
即座に一筆書くあたり、かなり偉い立場にありそうな感じだが⋮
⋮。
ふむ、中身を覗いて見てみたいが、
確かこういうのは封印を破ったら中身は無効になるんだったか。
﹁そのガッシュという人、貴族なんでしょうかね﹂
﹁配下はたくさんいたな﹂
配下。
ルイジェルドらしい言い方だ。
1367
召使いか何かだろう。
たくさんという言い方も曖昧。
とはいえ、なにせ、ルイジェルドの知り合いだ。
優しい王様を目指している魔王候補の一人だったとしてもおかし
くない。
﹁家まで行ったんですか?﹂
﹁ああ﹂
﹁大きかったんですか?﹂
﹁大きかったな﹂
﹁どれぐらいですか?﹂
﹁キシリス城ほどではないな﹂
キシリス城。
それより小さいというと、湖の中心にあるホワイトパレスではな
いな。
さすがに王族ではないらしい。
だが、それを比較対象に出すような大きさの建物か。
うーむ。
ルイジェルドの知り合いだ。
悪い奴ではないと思うが⋮⋮。
パウロいわく、税関の責任者である貴族は魔族嫌いだそうだ。
生半可な人物であれば、手紙を渡して問題が起きる可能性もあり
うる。
ガッシュとやらがどういう人物なのか、
調べたほうがいいだろうか。
いや、手紙を取り出した時のルイジェルドの嬉しそうな顔。
変に邪推して、また信用云々の話になったら嫌だな。
1368
まあ、いい。
何にせよ、他に方法も思いつかないのだ。
ここはルイジェルドの顔を立てよう。
そして、ガッシュという名前について、後でこっそりパウロあた
りに聞いておこう。
﹁わかりました、では、この手紙に頼ってみましょう﹂
俺の言葉に、ルイジェルドは頷いた。
出発は一週間後。
それまでに、ここでできることを済ませておこう。
﹁私は別に明日出発でもいいけどね!﹂
エリスの言葉に苦笑しつつ、作戦会議は終わった。
1369
第四十九話﹁ミリシオンでの一週間﹂
予定が決まったので、パウロの滞在する宿を訪れた。
が、留守であるらしい。
その場にいた人に捜索隊の本部らしき所を教えてもらい移動する。
何の変哲もない二階建ての建物。
そこの会議室のような場所で、パウロは実に真面目に働いていた。
十数人の男たちの中で、何やら話し合いをしている。
耳をそばだててみると、大きなプロジェクトが動いているらしい。
ミリシオンに来てからは酔っ払っているか二日酔いかの2パター
ンしか見ていなかったが、こうして仕事をしている所を見ると、我
が父上は中々逞しくカッコよく見える。
出会ったタイミングが悪かっただけで、
別に毎日飲んだくれてくだを巻いていたわけではなかったのだ。
と思ったが、話の内容を拾ってみると、
なんでもここ一ヶ月ほどは酒浸りで、
ロクに仕事をしていなかったらしい。
それが、昨日から急にやる気を出し、昔のように戻ったのだそう
だ。
きっと、俺にいいところを見せたいのだろう。
つまり、奴が働くのは俺のおかげだ。
はぁやれやれ、アテクシったら罪な男だワ。
とりあえず、パウロに暇な時間が来るまで待つことにする。
1370
じっとしているのも何なので、建物内を探索。
ある部屋で、遊んでいるノルンを見かけた。
周囲には、ノルンと同じぐらいの年恰好の子供たちもいる。
彼らは楽しそうに積み木のようなもので遊んでいた。
恐らく、ここは託児所か何かだ。
﹁やぁ﹂
ノルンと目が合ったので、気軽に手を上げて声を掛けてみる。
すると、彼女はびっくりした顔になったが、
すぐに俺をにらみつけて、手に持った積み木を投げつけてきた。
パシリとキャッチ。
﹁あっち行って!﹂
はっきりとした拒絶である。
はて。
俺は彼女に嫌われることをしただろうか。
心当たりといえば、パウロをぶん殴った事ぐらいである。
うん。まさにそれであろう。
﹁えっと、父様とはちゃんと仲直りしたんですよ?﹂
弁明をしてみたが、
﹁うそ!﹂
ノルンは大きな声でそう言って、スルリと逃げてしまった。
どうやら、かなり嫌われてしまっているらしい。
1371
ちとショックだ。
待合所のような場所に戻り、しばらくパウロを待つことにする。
隅の方に座っていると、チラチラと俺を見てくる視線がある。
中には、先日、人攫いをした連中も混ざっていた。
やはり、俺はここでは嫌われているのだろうか。
居心地の悪さを感じていると、やたら肌色の目立つ人物が入って
きた。
彼女は昨日の地味さはなんだったのかと思うビキニアーマーで、
周囲の目線を集めつつ、ふと俺に気づいた。
そして、俺の方へと歩いてくる。
﹁おはようございます﹂
﹁おはようございます、今日はどうしました?﹂
ビキニさんはにこやかな笑みを浮かべつつ、小首をかしげた。
﹁はい、父に会いにきました、ええと﹂
ええと、この人名前なんだっけか。
まだ聞いてなかったよな。
﹁失礼、自己紹介がまだでしたね。
ルーデウス・グレイラットと申します﹂
立ち上がり、胸に手を当てて、貴族流の挨拶。
すると、ヴェラは慌てた様子で手をわたわたさせて、
1372
﹁あっと、えっと⋮⋮わ、私はヴェラです。
パウロ団長の部下の一人です﹂
どもりながら答えた。
頭を下げると、必然的に深淵の奥底がかいま見える。
目の毒だ。そして毒は時に薬となり、薬は保養となる。
控えめと決めた手前、あまり見たくはないが、
目にはいるとどうしても追ってしまう。
どれだけ心の中で何かを決めていようと、
俺の目線は追い立てられた狐のように、
ある一点へと引きずりだされてしまう。
卑怯だ。
﹁先日は失礼しました。
父は女癖がやや悪いので、少々勘違いしてしまいました﹂
﹁い、いえいえ、いいんです。私もこういう格好をしていますので
仕方ありません﹂
取り繕いつつ答えると、ヴェラはぶんぶんと首を振った。
すると、ある部分もプルプルと揺れる。
ビキニアーマーとはいえ、一応は固定されているようだが、
しかし振動があると、それが伝わって波打つのだ。
大きいから。
いやいや⋮⋮。
⋮⋮なんとかして視線を引き剥がす。
﹁あまりそういう格好で男の前をうろつかない方がいいと思います。
他の方にとっても目の毒でしょう。せめて外套を羽織ってはどう
でしょうか﹂
1373
﹁⋮⋮理由あっての事ですから﹂
ヴェラは苦笑して、そう言った。
気のせいか、他の団員の目線が集まっている気がする。
何か悪いことを言っただろうか⋮⋮。
わからん。あとでパウロにでも聞いておこう。
﹁父様はいつごろ終わりますか?﹂
話を変えると、ヴェラは首を捻った。
﹁ええと、ここ一ヶ月ほどの仕事が溜まっているので、
しばらくは忙しいと思います﹂
﹁そうですか⋮⋮とりあえず、僕は7日後にミリシオンを発つつも
りだと、
そう伝えていただけますか?﹂
﹁7日ですか? 随分と急なんですね﹂
﹁僕らにとっては、普段通りです﹂
﹁そうですか⋮⋮わかりました、今シェラを呼んできます。
少し待っていてください﹂
そういうと、彼女はパタパタと建物の奥へと走っていった。
しばらくして、ローブ姿の治癒術師を連れて戻ってくる。
彼女は俺の視線を受けると、ウッと一声漏らして、ヴェラの後ろ
に隠れた。
﹁団長の予定は詰まっていますが、
四日後の夜に時間が取れます。お食事でしたら、その時にお願い
します﹂
﹁無理にとは言いませんが?﹂
1374
﹁あなたと話す時の団長はいきいきとしています。
なので、無理にでもお願いします﹂
シェラは後ろに隠れつつも、淡々とした口調で答えた。
随分と嫌われているな、いや、恐れられているのだろうか。
不本意だが⋮⋮まあいい。
﹁四日後の夜ですね、分かりました。
宿の方に行けばいいでしょうか?﹂
﹁普段から団が使うレストランを予約しておきますので、
そちらに直接お越しください、場所は︱︱﹂
と、シェラは淡々と場所と時間を伝えてくれた。
﹃レイジ・ミリス﹄という、商業区にあるレストランだそうだ。
一応聞いてみたが、ドレスコードは無いらしい。
しかし、なんだな、まるで大企業の社長との会食のセッティング
をしている気分だ。
秘書にスケジュールを管理させるとは、パウロも偉くなったもの
だよ。
﹁お連れ様はいますか?﹂
最後にそう聞かれ、ふとエリスの顔が浮かんだが、
同時に﹁ぶっ殺してやるわ﹂というセリフも思い出した。
﹁いえ、一人でいきます﹂
それで打ち合わせは終了、俺は建物を出た。
1375
−−−
さて、一週間は短い、有意義に使わなければいけない。
そう思い、ミリシオンの冒険者ギルドへとやってきた。
本部というだけあって、かなりの巨大建築物であった。
2階建てで、今まで見たギルドの中では一番大きい。
とはいえ、俺も巨大建築物はいくつか見てきているため、さほど
感動は覚えない。
まずは情報収集である。
さしあたっては、主にフィットア領の事について。
しかしながら、パウロから聞いた以上の情報は得られなかった。
このあたりで一番詳しいのは、やはりパウロ達捜索団という事だ
ろう。
次に調べたのは、ミリシオン周囲の魔物の情報。
魔大陸に比べると脅威度が大きく違うようだ。
ジャイアントローカスト。という名前のでかいだけのバッタ、
ミートカットラビット、という名の肉食のウサギ、
ロックワーム、という名の大きなミミズ。
等など。
極めて危険性の低い生き物が多い。
魔大陸に比べると、サイズも小さい。
かの試される大地では、魔物の大きさは人の背丈の数倍がざらで
ある。
俺たちが絶滅寸前に追い込んだ︵誇張︶あのパクスコヨーテです
ら、
1376
体長は2メートル以上。
アシッドウルフなど、3メートル以上の大きさだ。
大王陸亀ともなれば、平均で8メートル前後、最大で20メート
ル以上である。
大森林の雨期に見た魔物も、人と同じぐらいの大きさを持つ魔物
が多かった。
それに比べるとミリシオン周辺の魔物の大きさは、人の膝ぐらい
しか無いような生き物が多い。
大きければ強いというわけではないようだが、
大きさというのはそれだけで武器になる。
要するに、ミリシオン周辺の魔物は弱い。
安全なのはいいことだ。
次に、スペルド族の名誉回復について、考える。
だが、これに関しては難しい。
というのも、ミリシオンには魔族を排斥しようとする派閥がある
らしい。
それを先導しているのがミリス聖騎士団の一つ、神殿騎士団であ
る。
彼らはミリス大陸からの魔族の排斥を声高に主張している。
とはいえ、現在ミリシオンで最も強い勢力を持っているのはその
派閥ではない。
魔族との共存を主張する一派で。
1377
その長が現在の教皇であるゆえ、
神殿騎士団も表立って魔族を排斥する事はない。
が、魔族が町中で問題を起こせば、すぐにでも飛んできて難癖を
つけるらしい。
大義名分を得れば、立場が弱くとも強く出るというわけだ。
ルイジェルドが﹃スペルド族﹄だと主張し、堂々と活動すれば、
すぐに神殿騎士団に眼をつけられるだろう。
町中には、常に神殿騎士団の目が光っている。
ならば、町の外でならどうだろう。
そう思った俺は、ある依頼を受けてみた。
丁度貼りだされたばかりのBランク依頼。
近隣の村で一匹の魔物が暴れているらしい。
距離的には日帰りで行ける場所である。
リーフタイガー
討伐対象は、緑色をした虎。
緑葉虎。
本来なら大森林の南部に生息する魔物である。
なんらかの理由で大森林から南下してきて、この近くに住み着い
てしまったらしい。
斑模様の緑を下地に、茶色の模様が入っているため、
森の中に潜まれると風景に完全に隠れてしまう。
その隠密性の高さと、数匹の群れで行動することから、
Bランクに相当する魔物と言われている。
だが今回の対象は一匹であり、かつ平地にいるので、
アシッドウルフよりも危険性は低いといえる。
1378
危険度でランク付けするなら、せいぜいDランクといった所だろ
う。
魔大陸にいた頃は、こういう依頼を見つけると歓喜したものだ。
早速行ってみると、丁度緑色の虎が鶏を咥えて、悠々と村を出て
行く所だった。
こちらに気づくと、獲物を置いて唸り声を上げたが、
エリスが﹁任せて﹂と一言、タッと走りだし、あっという間に真
っ二つにした。
依頼完了、あっけないものである。
村の人々には、大層感謝された。
この虎は最近、このへんで暴れまわっており、
家畜や村人にも少なからぬ被害が出ていたそうだ。
いつもなら、この村の警護にはいずれかの聖騎士団が来てくれる
らしい。
だが、なんでも先日、この近隣で神子が襲撃を受けるという大事
件があったらしい。
神殿騎士団の護衛は部隊長を残して全滅。
神子はギリギリの所で助かったが、
部隊員を全滅させた部隊長は責任を取らされ、更迭されたそうだ。
元々、最近は奴隷の誘拐といったきな臭い事件も多く、
騎士団もピリピリしていた所に、そんな事件が勃発。
そのせいで、教団も騎士団も大わらわ。
ゆえに、Bランクという危険度の高い魔物が野放しになってしま
い、
仕方なく冒険者ギルドに依頼を出したそうだ。
1379
まあ、騎士団云々は俺達には関係のない話だろう。
さて、情報を得た所で実験開始だ。
彼らに対してスペルド族の宣伝をする。
実はルイジェルドはスペルド族であり、
スペルド族は世界中の人々と仲良くするために善行を積んで歩い
ている。
スペルド族は一見すると取っ付きにくい種族である。
そこで、この石像。
これを見せてルイジェルドの名前を出せば、
どんな恐ろしい外見をしたスペルド族であっても、
あっという間に態度が軟化、孫を見た頑固ジジイのように頬を緩
める。
数分後には百年来のソウルブラザーになるだろう。
そう説明した。
我ながら完璧なセールストークだったと思う。
だが、村長には微妙な顔をされた。
ルイジェルド個人には感謝はしているが、
この程度では魔族全体に対する偏見は消えないし、
ミリス教徒である自分達が魔族の像を持っている事には抵抗があ
る。
そう言われて像を突き返された。
実験はうまくいかなかった。
やはり、一足飛びにうまくいくものではないらしい。
1380
それとも、やはり美少女フィギュアでなければダメなのだろうか。
今からでもルイジェルドフィギュアの女体化を検討に入れてみる
か。
いや、それだと意味がないか。
﹁こんなものを作っていたのか⋮⋮﹂
ミリシオンに帰る途中、ルイジェルドがフィギュアをまじまじと
見てしきりに感心していた。
﹁そうよ、ルーデウスはこういうのを作るのがうまいんだから!﹂
そして、それを見てなぜかエリスが自慢気にしていた。
今回は突き返されたが、俺のフィギュアは結構な値段で売れるの
だ。
獣族の剣王様や、どこぞの国の王子の目にも止まる逸品だしな。
王室御用達と言っても過言ではない。
などと考えて鼻を高くしていたのだが、
﹁しかし、この構えは隙だらけだな﹂
﹁そうね、構えはよくないわね。もっと低くないと⋮⋮﹂
最後にはダメ出しされた。
にょ○ーん。
−−−
1381
3日後、会食の前日。
家族との会食であるが、着ていく服がない。
ドレスコードは無いらしいが、
魔大陸で購入した服はこの辺りでは少々みすぼらしく見える。
という事で、エリスを伴って服屋を見てまわった。
いわばデートである。
といっても、それほど色気のあるものではない。
エリスは服を買うという点においてはそれほど積極的ではなく、
どれでもいいじゃないか、という感じだ。
そんな彼女の分の服も購入しておく。
ここから先は人族の領域。
先入観は見た目から。
せめて、一目みて侮られない程度の格好はしておきたい。
この場に誰か、最近の服飾について詳しい人でもいれば、アドバ
イスを求めるのだが。
俺の知り合いでというと、サル顔の新入りかヴェラくらいだが、
サル顔の新入りはどこにいるかわからないし、ヴェラに何かを頼
める程親しくはない。
一着が高い店であるなら、店員があれこれとアドバイスしてくれ
るだろうが、
そうした店は冒険者向けの服飾は取り扱っていないだろう。
アドバイスだけ受けて何も買わずに出るというのも気が引ける。
そうした服を一着ぐらい持っていれば何かの役には立つかもしれ
ないが、
使わないかもしれない、と考えるとどうにも気が引ける。
パウロの援助のおかげで金は余っているが、
あまり無駄遣いしたくもない。
1382
なので、道行く人を見て、その格好で判断する事にした。
エリスと二人で道端に座り込み、趣味は人間観察ですと言わんば
かりに人を見る。
若干だが、青い色を着た人が多い。
その上に、上着を着たり着なかったり。
気候がいいため、上着も薄手である。
﹁最近の流行は青みたいですね﹂
﹁ルーデウスに青は似合わないわ﹂
エリスにはそう切って捨てられた。
まあ、流行の最先端を追う気はさらさら無いのだが。
﹁じゃあどういうのが似合うって言うんですか﹂
﹁ギースにもらったのがあるじゃない。あれでいいわよ﹂
あの毛皮のベストか。
ただ、あれはちょっとサイズがデカイのだ。
丈が余って、コートみたいになっている。
とはいえ、着心地は悪くないので、
ちょっと肌寒い日は着ているのだが⋮⋮。
﹁あれも悪くはないですけど、ちょっと丈が余ってますからね﹂
﹁そうね、確かにちょっと長いわよね。切ったら?﹂
﹁それはもったいないですよ。背も伸びてますし﹂
なんて会話をしつつ、買うものを決めた。
1383
さほど時間が掛からなかったのは、やはり俺とエリスの服飾に関
する関心の無さの現れであろう。
と、思ったが、エリスは最後に黒いワンピースを買っていた。
結構オシャレな感じのする品で、黒い生地に、白い薔薇の刺繍が
入っている。
﹁エリス、それ買うんですか?﹂
﹁⋮⋮なによ、悪いの?﹂
﹁いいえ。似合うとおもいますよ﹂
﹁ふん、別にお世辞なんていらないわ﹂
そんな会話で、その日の買い物は終了した。
−−−
会食の日。
今日の夜はパウロと家族でご飯を食べて来るというと、
エリスが自分も行くと言い出した。
先日の事が無ければ、どうぞどうぞと言う所だが、
エリスは未だ、パウロに敵意を抱いている。
殺意と言い換えてもいいぐらい、強いものだ。
気持ちを理解できなくはないが、俺はパウロと仲良くしようと決
めている。
それだけなら、エリスとパウロを仲良くさせるためにあれこれ動
くが、
今回は一応、数年ぶりの家族水入らず。
1384
俺とノルンの仲も改善されていない。
なので、エリスにはご遠慮してもらう事にした。
おろしたての服を来て、新しい俺、ニューデウスとなってレスト
ランへと赴く。
なるべく裏路地は通らない。
裏路地には人攫いが多く、所により血の雨が降るからだ。
血で服が汚れたら大変だ。
表通りも危険がいっぱいだ。
飯時という事もあって、露天で焼き鳥のようなものを買った連中
が歩いている。
ドンとぶつかればベチャリ。
自明の理である。
ゆえに、俺は魔眼の封印を解いた。
一秒先を見据えながら、人混みを華麗に回避する。
到着。
予約などというから身構えていたが、
ごくごく普通の店だった。
宿屋に併設されていない酒場で、
町人が多いらしく、客層に物騒な感じがしない。
店に入り、給仕係の人に名前を告げると、席に案内された。
そこには、苦笑したパウロと、ムスッとしたノルンが座っていた。
﹁すいません、少々遅れましたか?﹂
1385
﹁いいや⋮⋮悪かったな、シェラがなんか張り切っててよ。
別にいつもの酒場でいいって言ったんだがな⋮⋮﹂
﹁たまにはいいじゃないですか﹂
そう言いつつ、俺も席についた。
ノルンはそっぽを向いたままだ。
﹁ほら、ノルン、お兄ちゃんだぞ。挨拶しなさい﹂
﹁やだ。お父さんを殴る人とご飯なんて食べたくない﹂
﹁こら、そんな事言っちゃだめだろ。
お父さんだって悪いことをしたら殴られるんだ﹂
﹁お父さん、悪くないもん﹂
ノルンは頬をぷくりと膨れさせて、実に可愛らしく拗ねていた。
﹁お父さんとお兄ちゃんはもう仲直りしたんだ。なあルディ﹂
﹁もちろんですとも。なんならキスだってできますよ﹂
﹁えっ?﹂
﹁えっ?﹂
息子とのキスは嫌と申すか。
と思ったが、俺も親父とのキスは嫌だな。
失言である。
﹁お父さんとお兄ちゃんは仲良くするから。
ノルンもお兄ちゃんと仲良くしよう、なっ?﹂
﹁やだ﹂
パウロがノルンの頭をぽふぽふと撫でる。
ノルンの髪は綺麗な金髪。
1386
この髪を見ているとゼニスのことを思い出す。
ゼニスもまた、気に食わない事があると、こうやって拗ねてパウ
ロを困らせていた。
こういう所は親の血を継いでいるのかもしれない。
ノルンはしばらくパウロのなすがまま撫でられていたが、
キッと俺を睨んできた。
やや上目遣いで。
凄んでいるつもりなのかもしれないが、ただ可愛いだけである。
﹁お父さんは、すごくがんばってるんだもん﹂
﹁ええ、承知しています﹂
﹁女の人と遊んでなんかいないもん﹂
﹁聞き及びました。疑って申し訳ないと思っています﹂
﹁あたしにも、優しくしてくれるもん﹂
ノルンの目に、じわじわと涙が浮かんできている。
まずい。
何かひどいことを言っただろうか。
泣かれるのはちょっと。
﹁お父さん、いっつも泣きそうになってるんだもん!﹂
﹁⋮⋮そうなんですか?﹂
﹁いや、まぁ、最近はな⋮⋮﹂
泣きそうなノルンに、俺とパウロはしどろもどろと問答する。
﹁お父さんは、可哀想なんだもん!﹂
﹁⋮⋮﹂﹁⋮⋮﹂
﹁殴るなんて、酷いんだもん!﹂
1387
俺はそれを見て、心の中で深い溜息をついた。
パウロとノルンは一緒に転移した。
その経緯については聞いた。
途中で、ノルンが病気にもなったし、魔物にも襲われたそうだ。
それを守ってきたのは、パウロだ。
母と離れ、メイドと離れ、妹と離れ、
不安が胸を締め付ける中、
パウロはたった一人の味方であり、
そしてたった一人の頼れる家族だったのだ。
それを、いきなり現れた男が、馬乗りになってぶん殴る。
トラウマになりかねない状況だ。
﹁ノルン、あれは、父さんが⋮⋮﹂
﹁父様、仕方ありませんよ﹂
せめて、もう少し大きければ、話し合いでなんとかなったかもし
れない。
が、この年では難しいだろう。
互いに悪い部分があり、悪い部分を認め合って納得した。
という事を理解させるには、まだ幼すぎる。
﹁ノルンはまだ幼いですし、
それに、もし、僕が逆の立場だったら、
父親をぶん殴った奴を許したりはしませんから﹂
ここでノルンに嫌われるのは仕方がない。
もう何年かしてから、ゆっくりと話しあえばいいのだ。
1388
その時には、ノルンだってきっとわかってくれるはず。
時間は有限だが、物事を落ち着かせる力があるのだから。
だが、パウロはそうは思わなかったらしい。
﹁いや、もしかすると、もうたった二人の兄妹かもしれないんだ。
仲良くしないと﹂
たった二人の兄弟かもしれない。
その意味に思い至り、俺は眉をひそめた。
﹁父様がそんな不吉な事を言わないでください﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうだな、すまん﹂
おっといかん。
空気が重くなってしまった。
よし話題を変えよう。
﹁ところで父様、この店の名物はなんなんですか?
今日はお昼を抜いたので、もうお腹がペコペコで﹂
露骨な話題変更だったが、パウロも察してくれたようだ。
ぎこちない笑いを浮かべつつも、答えてくれた。
﹁ん、そうだな。南の海の方で取れる魚介類のシチューがうまい。
それから、牛だな。このへんでは牛を飼っている農家が多いんだ。
アスラの牛肉とはまた違った味わいで、煮込む事が多いんだが⋮
⋮﹂
﹁それは楽しみですね。魔大陸では肉がまずくてまずくて﹂
﹁大王陸亀だったか? 魔物の肉ってなぁ、大概まずいもんだ﹂
1389
そんな感じで、パウロとの会話は弾んだが、ノルンはそっぽを向
いたままだった。
パウロが声をかけると返事はするものの、俺の方は決して見ない。
仕方ない、仕方ないとは思っていても、
ちょっとクルものがあるな。
この間、俺がパウロ相手にやった事だ。
胸が痛む。
パウロには悪いことをした。
﹁そういえば父様、一つお尋ねしたい事があるのですが﹂
﹁なんだ?﹂
﹁ガッシュ・ブラッシュという人物を知っていますか?﹂
﹁⋮⋮いや、知らんな。どこで聞いた名前なんだ?﹂
と、俺はルイジェルドが持ってきた手紙について聞いてみる事に
した。
一応、紋章の写しもとってあるので、それも見せる。
﹁羊、鷹、剣か。守護騎士の家系だな。
だが、ガッシュ・ブラッシュという名前には聞き覚えがない。
オレもミリスの貴族に関してはそう詳しくないからな⋮⋮﹂
﹁そうですか⋮⋮シェラさんに聞けばわかりますかね﹂
﹁どうだろうな。後で聞いてみよう﹂
ルイジェルドの持ってきた手紙に、一抹の不安を覚えつつも、そ
の話はそこで終わる。
その後は、また他愛無い話だ。
1390
誕生日の事。
俺の10歳の誕生日の一ヶ月ほど前から、
森の魔物が活性化していたらしい。
パウロとゼニスはその対応に追われ、
誕生日プレゼントを送る暇がなかったそうだ。
魔物の活性化自体は誕生日の前日に収まったらしいが、
そろそろ品を送ろうかと思っていた頃、転移されたのだとか。
﹁ちなみに、何をくださるつもりだったんですか?﹂
マジックアイテム
﹁オレからは篭手だな。倉庫の奥で見つけたもので悪いと思ったが、
一応は迷宮の奥で見つけた魔力付与品だ。羽のように軽いやつで、
オレにはサイズが合わなかったが、ルディには合うかと思ってな﹂
﹁へぇ、そういうのもあるんですね﹂
﹁ああ。ゼニスの方はナイショだって話だったが、リーリャは、鍵
の掛かった小さな箱を満足そうに見ていたから、それだろうな﹂
﹁箱ですか﹂
何だったのだろうか、少々気になる話だ。
ま、手に入らなかったものをとやかく言っても仕方あるまい。
それから話はゼニスの実家の話題に及んだ。
ゼニスの実家は優秀な騎士を何人も輩出している名家だそうだ。
ゼニスは勘当同然で、俺の祖父母に当たる人物は捜索に乗り気で
はなかったらしい。
だが、ノルンを見て態度を一変させたらしい。
どこの世界でも、祖父母は孫に弱いのだ。
﹁僕が顔を出せば、もっと資金とか貰えたりしますかね﹂
﹁いや、お前だと逆効果だろうな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮でしょうね﹂
1391
孫の可愛らしさを演技する事はできるが、墓穴を掘りそうだ。
やめておこう。
なんて話をしながら、楽しく食事をし、パウロと別れた。
結局、ノルンには最後までそっぽを向かれたままだったが、
有意義な食事会だったといえよう。
−−−
あっという間に一週間が経過した。
旅立ちの日、場所は冒険者区の入り口。
馬車に乗って、さぁ出発しようと思っていたところ、パウロが見
送りにきた。
﹁ルディ。もう少しだけ滞在してもいいんだぞ?﹂
パウロが何やら甘いことを言い出したが、今更だ。
﹁もう少し、もう少し、そう言ってダラダラと一年ぐらい滞在して
しまいそうです﹂
﹁ノルンとだって仲直り出来てないんだし﹂
﹁ノルンとの仲については、あと三人を見つけてからでも遅くはあ
りません﹂
それに、と俺はエリスをチラ見する。
エリスはルイジェルドに首根っこを掴まれつつ、
1392
悪鬼のような顔でパウロをにらんでいた。
切り替えが早いと思ったが、そんな事はないらしい。
﹁家族に会いたいのは、僕だけじゃありませんしね﹂
﹁そうか、だがボレアス家はおそらく⋮⋮﹂
﹁やめてください﹂
難しそうな顔をするパウロの言葉を、俺は手でさえぎった。
﹁情報が届いていないだけで、僕らがフィットア領に付く頃には、
フィリップ様やサウロス様も帰り着いているかもしれません﹂
﹁⋮⋮そうか。そうだな。けどなルディ﹂
パウロは真剣な顔で言った。
﹁あまり、楽観視するなよ。
もしフィリップ達が無事に帰りついたって、
あの災害の規模じゃ、どうなるかわからない﹂
﹁どういう意味ですか?﹂
パウロは少しだけ声を潜めて、
﹁フィリップの兄貴が、保身のためにどっちかに全部の責任をおっ
かぶせる可能性が高いって話だよ﹂
と、言った。
言われてみると確かに起こりうる話だ。
領主のサウロスと、町長のフィリップ。
彼らは、領地の責任者だ。
無事に帰っても、領土・領民を失った責任はついて回る。
1393
アスラ王国の法における、貴族の責任の取り方がどうなっている
のかはわからない。
だが、少なくとも、二人が無事故郷に帰り着いた所で、そのまま
領主としての辣腕を振るう事はないだろう。
あるいは、フィリップの兄の逃げ場を塞ぎ、政治的に叩き潰すた
め、
混乱に乗じて謀殺される可能性だって多いにある。
ノブレスオブリージュ
﹁何かあるようなら、お嬢様はお前が守ってやれ。貴族の義務を持
ちだして来る奴もいるかもしれねえが、構うことなんてないからな﹂
﹁はい。肝に銘じておきます﹂
俺は顔を引き締め、頷いた。
パウロも誇らしげな顔になり、頷く。
﹁それから、あの手紙の主についてだが、シェラもわからんらしい﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁危険人物ではないだろう、とは言っていたがな﹂
﹁わかりました。お礼を言っておいてください﹂
パウロはこくりと頷いた。
そして、後ろを振り向くと、そこにいる少女に声を掛ける。
﹁ほら、ノルン、お兄ちゃんにお別れの挨拶をしろ﹂
﹁⋮⋮やだ﹂
ノルンはパウロの後ろに隠れていた。
半分だけ顔を覗かせているのが、実に可愛い。
将来はゼニスに似た美人になることだろう。
1394
﹁ノルン、何年後かわかりませんが、また会いましょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮やだ﹂
ノルンは最後まで、俺と顔を合わせてくれなかった。
俺は苦笑しつつ、馬車へと戻った。
パウロ視点
−−−
こうして、俺はミリシオンから旅立った。
−−−
ルーデウスが旅立った。
相変わらず優秀な奴だ。
次から次へとポンポン決めて、どんどん行動している。
エリナリーゼは俺を生き急いでいるなんて言ったが、
ルーデウスを見たらなんて思うだろうか。
会わせてみたい所だが⋮⋮。
いや、会わせない方がいいな。
オレはエリナリーゼのパパになんざなりたくねえ。
などと考えていると、ポンと肩を叩かれた。
みると、サル顔の男がニヤニヤと笑っていた。
﹁よぉパウロ。息子とのお別れは済んだのか?﹂
﹁ギース⋮⋮﹂
このサル顔の男には、感謝してもしきれない。
コイツがいなければ、オレはルーデウスと仲たがいしたままだっ
1395
ただろう。
﹁お前には世話になったな﹂
﹁いいってことよ﹂
と、そこでオレは、ギースが旅装している事に気づいた。
﹁なんだギース、どこにいくつもりなんだ?﹂
﹁決めてねえが、まだ探してねえ所は多いんだろ?﹂
その言葉で、オレはギースが捜索を続けてくれるという事に気づ
いた。
衝撃だった。
ギースはパーティ解散で一番苦労した男のはずだ。
戦う力はなく、何でもできるが何にもできない、
他のパーティにも入れてもらえず、単独で依頼もこなせず、
冒険者を断念せざるをえなかった奴だ。
オレのことを、一番恨んでいてもおかしくない、そんな奴だ。
﹁おまえ、なんで、そこまで親身になって探してくれんだ?﹂
そう聞くと、サル顔は口の端を歪め、いつものようにニヒルに笑
った。
﹁ジンクスだよ﹂
いつものように言って、サル顔は背を向けた。
オレは腰に手を当てて、苦笑する。
1396
あいつのジンクスは、多すぎてわからない。
だが、何か心地良いものを感じ、ギースの背中が見えなくなるま
で見送った。
﹁よし﹂
オレは一声気合を上げると、ノルンを肩車した。
やる気が満ち溢れていた。
まずは、難民の大移動を成功させる。
その後、必ず家族を見つけ出して見せる。
そう決意し、町へと戻ったのだ。
1397
間話﹁エリスのゴブリン討伐﹂
唐突だが、クリフ・グリモルという少年の話をしよう。
クリフは現在13歳。
エリスとルーデウスの丁度中間の年齢である。
彼は物心ついた時には孤児院にいた。
ミリシオンの孤児院である。
ミリス教団の威信や権威の象徴とも言える孤児院である。
経営的なもので悩む事はなく、子供も何不自由なく成長し、里親
へと引き取られていく。
そんな孤児院である。
クリフは五歳の時、現在の里親に引き取られた。
ハリー・グリモルと言う名の老人である。
彼はミリス教団内でも高い地位を持つ人物である。
クリフはハリーに引き取られた先で、英才教育を受けた。
彼は数年であっという間に治療・解毒・神撃を上級まで習得。
攻撃魔術も、全ての属性で中級まで扱う事ができた。
火魔術に至っては上級である。
クリフは天才であった。
周囲からは称賛の雨あられ。
将来はきっと凄い人物になるに違いないとあらゆる人に期待され
た。
ルーデウスとよく似た幼年期であると言えよう。
1398
が、転生前の記憶を持っていたルーデウスと違い、
クリフは増長した。
これ以上ないほど、テングになった。
何せ、教師陣の中にも、クリフほど多彩に魔術を使いこなせる者
はいないのだ。
治癒魔術を聖級まで扱える者はいる。
解毒魔術を聖級まで扱える者はいる。
けれども、全てを上級となると、クリフのみであった。
その多彩さがゆえ、賢者の卵などと言われるようになった。
クリフはさらに増長した。
教師の話を次第に聞かなくなった。
クリフの将来は、養父の職業を継ぐことになる。
クリフもそれは理解している。
のだが、彼は現在、冒険者に憧れていた。
なぜ冒険者か。
それは、孤児院に暮らしていた時期の出来事が影響している。
孤児院の出身者には冒険者が多い。
孤児院の子供は、10歳まで里親が見つからなければ、ミリス教
団の経営する学校へと入れられる。
そこで五年間、訓練を受ける。
剣術や魔術といった、戦うための授業である。
そうして、自分の才能にあった職業へと就いていく。
勉学も剣術も魔術も優秀であれば騎士になる事もできるが、
大抵の者は冒険者になった。
ゆえに孤児院の出身者には冒険者が多い。
1399
彼らは時折孤児院に来る。
かつての先生に挨拶すると同時に、
孤児たちに楽しい冒険のみやげ話を持ってきてくれる。
孤児たちはそれを聞き、冒険者に憧れるのだ。
例に漏れず、クリフも冒険者に憧れていた。
もちろん、クリフはその夢が叶うとは思っていない。
憧れてはいるが、自分の現状もよく理解していた。
孤児出身である以上、身勝手は許されない。
我慢できていた。
そう、最初の頃は。
しかし、窮屈な生活はクリフの鬱憤を溜め、
褒められ続ける毎日はクリフを増長させた。
クリフはある日、家を脱走し、冒険者登録をすることを思いつく。
ちょっとした力試しである。
教師たちの中にも、昔は冒険者としてブイブイ言わせていた者も
いるのだ。
自分だって若い頃にそうした経験はつんでおきたい。
と、自分を説得。
準備を開始。
10歳の誕生日に養父より貰った杖を手に、
神聖区から冒険者区へと入る。
魔術師っぽいローブを途中で購入。色は青にした。
冒険者ギルドへ。
治癒術師として登録すれば、すぐに教団に見つかるだろう。
1400
だが、魔術師なら大丈夫。
そんな浅はかな事を考えつつ、冒険者登録を済ませた。
これで自分も一端の冒険者。
まだ見ぬ世界への大冒険が控えている。
と、ワクワクしながら周囲を見回す。
誰もが屈強な男だ。
戦士や剣士ばかりなのは見て取れた。
クリフは孤児院の先輩から、
パーティに優秀な魔術師が喉から手が出るほど欲しい。
という話を聞いていた。
なので、自分は魔術師だと名乗れば、すぐにパーティに入れるだ
ろう、と考える。
クリフは冒険者ランクの話を聞き流していた。
彼はパーティというものは、ランクに関係なく組めるものだと考
えていた。
当然のように断られる。
すげなく断られる。
何度も断られる。
四度目でクリフの我慢は限界に達した。
﹁なんでだよ! なんで僕がパーティに入れないんだ!﹂
﹁だから、ランクが違うって言ってるだろ﹂
﹁ランクがなんだ!
本当は僕はAランクぐらいの強さがあるんだ!
けれど、しょうがないから君等で我慢してやろうって言ってるん
だ!﹂
1401
﹁なんだと⋮⋮ガキ、あんまり調子にのるなよ!
魔術師がこの距離で喧嘩売って勝てると思ってんのか⋮⋮﹂
﹁剣しか振れない能なしどものくせに、調子に乗るんじゃない!﹂
﹁このクソガキ⋮⋮﹂
クリフは胸ぐらを捕まれ、
しかしこいつをなんとか退けて見せれば、
自分の力を示す事になるんじゃないか、と考えた。
﹁やめなさいよ。大人気ないわよ﹂
そう言って割り込んできたのは、クリフと同じぐらいの年齢の赤
毛の少女であった。
−−−
話は巻き戻る。
エリス・ボレアス・グレイラットは、冒険者ギルドへと足を向け
た。
彼女は傍から見て微笑ましいぐらいニマニマしながら足早に大通
りを歩いていく。
服装はいつも通りの冒険者風の格好。
厚手の服に、皮のプロテクター。
皮のズボンに、靴底は薄いが丈夫な素材で出来たブーツ。
腰には剣を差し、一目で誰もが剣士とわかる。
1402
いつものフードは付けていない。
冒険者ギルドにあのフードをつけると魔術師と間違えられ、
変な男子が寄ってくるのは、この一年で何度も経験した。
エリスは冒険者ギルドの前にたどり着いた。
ミリシオンの冒険者ギルドは、大通りの奥にある。
本部というだけあって、冒険者区で最も大きな建物である。
威風堂々たる巨大な門構えに気圧される事なく、エリスは中へと
踏み込んだ。
そして、その広大なロビーを見て、思わず腕を組みそうになった。
なにせそこは、ロアにある館の大広間よりも広い。
無論、今まで見たどの冒険者ギルドよりも広い。
もし、初めて冒険者になるという少年少女であれば、
そんな広さを目の当たりにし、二の足を踏んでしまうだろう。
だが、そこはエリスである。
彼女はAランク。一端の冒険者。
すぐに目的の方向へと歩き出す。
依頼の掲示板である。
他よりもはるかに大きなその掲示板には、所狭しと依頼が貼り付
けてある。
エリスは腕を組んでそれを見る。
フリークエスト
普段見ているBランク依頼ではなく、今回はEランク付近。
フリークエスト
その中でも自由依頼に分類されるものを探す。
自由依頼とは、国が定期的に発行している依頼である。
1403
報酬は低めだが、緊急度が高いため、
どのランクの冒険者でも受ける事が出来る。
魔大陸で見かけないのは、国が無いからだ。
エリスはその中から、目当てのものを探しだした。
=========================
フリー
・仕事:ゴブリン討伐
・報酬:耳一つにつきミリス銅貨10枚
・仕事内容:ゴブリンの間引き
・場所:ミリシオン東
・期間:特になし
・期限:特になし
・依頼主の名前:ミリス神聖騎士団
・備考:新人は時折発生するホブゴブリンに注意。なお、この依頼
は剥がさず、収集したものをカウンターにそのままお持ちください。
=========================
ゴブリンは森と平原の境界あたりに住む魔物だ。
人の形をしており、簡素な武器を使うが、人語は解さない。
数匹なら放っておいてもいいが、放っておくとどんどん増殖し、
周辺の村々を襲い始める。
いわゆる害獣である。
とはいえ、森との境に生息するため、森に発生する魔物の防波堤
となる。
また、ゴブリンは弱く、ちょっと剣をかじった程度の少年でも十
分に相手する事が出来る。
1404
冒険者ギルドはそれを利用し、新人にとって割りのいい報酬を用
意し、
討伐系依頼の入門としてゴブリン討伐を斡旋している。
また、これはエリスの知らない事であるが、
ゴブリンというのは、敵国のスパイへの拷問道具としても使える。
これらの理由により、ミリスではゴブリンを絶滅させず、生かさ
ず殺さず、適度に調整している。
さて、もはや実力的にはルイジェルドのお墨付き、そこらのCラ
ンク冒険者程度なら素手で制圧出来るAランク冒険者のエリスが、
なぜ今更そんな依頼を受けるのか。
理由は二つ。
エリスは単純に、憧れていたのだ。
かつて、ほんの短い時間だけ学校に通っていた頃。
クラスメイトの男子が集まって、何やら話していた。
その話題とは、自分が冒険者になったらどうするか、というもの
である。
最初はゴブリン狩り、そこで力とお金を蓄えて、
ゆくゆくは中央大陸の南部に進出し、高ランクの依頼や迷宮へと
挑んでいく。
そんな夢物語である。
エリスはそれを傍で聞きながら、いずれは自分も、と妄想した。
妄想は膨らみ、楽しそうに話をする男子に、
自分も会話に混ぜなさいよと話しかけ、
1405
色々あって喧嘩して三人ともぶちのめした。
それから学校を退学となり、ギレーヌと出会い、
彼女から話を聞く度に、冒険者への思いを強くした。
ルーデウスと出会ってからは、彼と一緒に冒険に出ることばかり
夢見た。
剣士の私と、魔術師のルーデウス。
二人で迷宮に挑むのだ。
しかし、実際に旅に出てみると、夢とは違った。
特にルーデウスは想像以上に現実的で冷めていた。
危険だからと迷宮には一切近寄らなかった。
ゴブリン狩りなど提案すれば、﹁何のために?﹂と呆れ顔で聞い
てくるだろう。
エリスとて、魔大陸で冒険者としてやってきた女である。
現状でゴブリンを狩る事の意味は見いだせない。
が、意味はさておき。
ゴブリン狩りは、
エリスが﹃冒険者になってやりたいこと﹄の一番上にランクイン
していた。
例え意味がなくとも、やってみたい事なのだ。
それが理由の一つ。
もう一つ理由は⋮⋮ナイショである。
﹁日が沈む前に戻ってこれるかしらね⋮⋮?﹂
エリスは依頼を見つつ、行き帰りの時間を考える。
1406
今回は徒歩である。
時刻はまだ朝であるが、
余裕を持って行動した方がいいだろう。
﹁⋮⋮ん?﹂
ふとFランクの外、掲示板の欄外に、あるメモが貼り付けられて
いた。
﹃フィットア領出身の難民は下記まで連絡すること﹄
と、そこまで読んでエリスは目線を外した。
このメモはザントポートの冒険者ギルドでも見た。
ルーデウスはフィットア領の事は口に出さない。
きっと、自分を不安にさせないように、という配慮だとエリスは
考えていた。
本日別行動をしたのも、この一件で何かをしようと考えているの
だろう。
自分には難しい話は理解できないとエリスは考えている。
深く考えずとも、ルーデウスがしっかり考えてくれているだろう
し、
時がくれば、ルーデウスもきちんと話してくれる。
エリスはそう考えている。
まさかルーデウスがこうしたメモの存在を知らないなどとは、夢
にも思っていない。
﹁さてと!﹂
1407
依頼を確認した所で、エリスは意気揚々とギルドを出て行こうと
する。
後はただ東に行き、ゴブリンを狩るだけである。
今のエリスのやる気なら、巣の一つや二つは壊滅するであろう。
もはや彼女の足を止めるものは何もない。
哀れなるゴブリンにレクイエムを。
﹁なんでだよっ!﹂
と、思われたが、ふと聞こえた叫び声に、エリスの足は止まった。
少年の声である。
ふと、そちらを見てみる。
少年が自分の背丈の二倍はあろうかという男たちに囲まれていた。
﹁なんで僕がパーティに入れないんだよ!﹂
叫んだ少年は、青色のローブを身に着けていた。
背丈はルーデウスよりもやや小さく、髪の色はダークブラウン。
アクアハーティア
長い前髪で目が隠れている。
杖もルーデウスの﹃傲慢なる水竜王﹄ほど立派なものではない。
けれど、それなりに高い素材を使っている事は、魔石の大きさか
らも分かる。
私の家の方が格上ね、とエリスは自然に思った。
﹁本当は僕はAランクぐらいの強さがあるんだ!
けれど、しょうがないから君等で我慢してやろうって言ってるん
だ!﹂
そんな傲慢な物言いに、男たちも当然ながらカチンときている。
エリスだって、あんなことを言われれば、無言でぶん殴るであろ
1408
う。
﹁なんだと⋮⋮ガキ、あんまり調子にのるなよ!
魔術師がこの距離で喧嘩売って勝てると思ってんのか⋮⋮﹂
﹁剣しか振れない能なしのくせに調子に乗るんじゃない!﹂
﹁んだとクソガキィ⋮⋮﹂
男に胸ぐらを捕まれ、少年はまだ余裕そうな面を見せている。
だが、若干ながら足が震えているのを、エリスは見逃さなかった。
エリスはふと歩き出し、二人の間に割って入った。
﹁やめなさいよ。大人げないわよ﹂
もしここにルーデウスがいたら瞠目したであろう。
大人げない。
普段のエリスからは想像もつかないセリフである。
エリスは自分の行動に酔っていた。
自分はAランクの冒険者であり、怒れる男たちよりも格上。
男が新人にお痛する、それを諌める自分。カッコイイ。
そんな行動である。
普段ルイジェルドが自分に対してやっている事であるが、そんな
事は棚の上にポイである。
﹁⋮⋮チッ、そうだな。確かに大人気ねえ﹂
男はあっさりと少年から手を離した。
エリスの中では、すでに男と戦闘に入ることを想定していたため、
ちょっとだけ拍子抜け。
1409
﹁お前ら、行こうぜ﹂
男たちが立ち去り、そこには少年だけが残った。
エリスはすまし顔で、少年のお礼を待った。
助けてくれてありがとう、あなたは?
名乗るほどのものじゃないわ。
せめてお名前だけでも。
そうね、﹃デッドエンド﹄のルイジェルド、とでも名乗っておき
ましょうか。
なんてやり取りを考えていた。
ちなみに、ルーデウスがたまにやっている事である。
﹁誰が助けてくれなんて言ったんだよ!﹂
少年がそんな言葉を吐いて、エリスの自慢気な顔が凍りついた。
﹁あのぐらい僕の魔法ならなんとかなったんだ!
勝手に出てきて勝手に解決するなよ! ブス!﹂
彼は幸せだった。
なにせ、一撃で気絶できたのだから。
そして、先ほどの男が、まだ近くにいた。
男が激昂したエリスを必死で止めていなければ、
きっと少年は男として大切な二つの玉を失っていたであろう。
−−−
1410
エリスはやや不機嫌になりながらも、ミリシオンの入り口へと来
ていた。
切り替えの早い彼女であるが、まだ不機嫌である。
なぜか。
﹁まって! まってください!﹂
気絶から回復した少年が、走って追いついて来たからだ。
﹁先ほどはすいませんでした。ちょっと気が動転していて⋮⋮﹂
少年はそう言って、礼儀正しく頭を下げた。
そのおかげで、エリスの不機嫌は﹁やや﹂の範疇に収まった。
少年は九死に一生を得たのである。
もっとも、もし一撃で気絶していなければ、
エリスを追いかけようなどという蛮行には及ばなかっただろうが。
﹁僕はクリフです。クリフ・グリモル!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮エリスよ﹂
エリスは﹃デッドエンド﹄の名前を出そうかと思い、やめた。
我慢せずに殴ってしまった相手にルイジェルドの名前は出せない。
﹁エリスさん! すごいいい名前です!
その格好、剣士なんですよね!
ぜひとも僕とパーティを組んでください!﹂
1411
往来のどまんなかでまくし立てるクリフ。
エリスは反射的に殴り倒してしまおうかと考えた。
が、とりあえず我慢する。
﹁嫌よ﹂
エリスはぷいっとそっぽを向いて、歩き出した。
正直、こういう相手には慣れていない。
殴ってもまだ近づいてくるなんて、ルーデウスぐらいなものであ
る。
﹁そうですか、ならせめて、後ろから援護させてください!
僕も巷では賢者の卵と言われています、必ず役立ちます!﹂
もしこの場にルーデウスがいれば、エリスに猛烈なアタックを掛
ける彼に対し、
何が賢者の卵だ、どうせ無精卵なんだろ童貞野郎!
などと憎まれ口を叩いたであろう。心の中で。
エリスはそんな下品な憎まれ口は叩かない。
卵なら叩き割って目玉焼きにでもしてやろうか、と思っただけで
ある。
﹁エリスさんも、僕ほどの魔術師は見たことがないと思いますよ。
なにせ、そんじょそこらのAランク魔術師よりも上ですからね﹂
そんな事を言われて、エリスはカチンときた。
彼女の中で最高の魔術師といえば、それはすなわちルーデウスの
事である。
ルーデウスはあのルイジェルドですら一目置くほどの魔術師であ
1412
る。
たしかにAランクだが、そんじょそこらなんて一括りにされたく
はない。
﹁ぜひともその目で確かめてみてください!﹂
じゃあ見てやろうじゃないの、とエリスは思ってしまった。
﹁わかったわ。じゃあ付いてきなさい﹂
﹁はい!﹂
こうして、エリスとクリフはゴブリン狩りへと出発した。
−−−
七匹のゴブリンが一瞬で焼失した。
﹁どうですか! 凄いもんでしょう!
そこらの魔術師ではこうはいきませんよ!﹂
クリフはどうだと言わんばかりの顔で、全滅したゴブリンを見渡
した。
ゴブリン達は完全に炭化し、耳も取れない状態である。
﹁そう? 全然凄くないわ﹂
強がりではない。
エリスは、心の底からそう思っていた。
1413
エクゾダスフレイム
上級火炎魔術﹃獄炎火弾﹄。
これはルーデウスが使う所を見たことがある。
クリフのように長々と詠唱なんかしなかったし、威力もずっと上
だった。
けれど、ルーデウスなら、きっとゴブリン相手にそんな魔術は使
わない。
ルーデウスなら、きっと耳を取れなくするようなヘマはしない。
また、一応クリフの力を見るという事で、
詠唱が終わるまでエリスがゴブリンを引きつけていた。
詠唱を終えた時にクリフが何も言わなかったため、危うく巻き込
まれかけたのだ。
ルーデウスなら、そんな危険な真似は絶対にしない。
﹁エリスさんは魔術のことをよく知らないようですね。
いいですか、魔術というのはそもそも⋮⋮﹂
クリフは長々と、魔術には初級から上級それ以上があり、
今自分が使ったのは上級魔術で、そこらの大人でも使えない高度
な魔術であると語った。
もちろん、エリスは知っている。
ルーデウスの授業で習った事があるからだ。
そして、クリフの説明より、ルーデウスの授業の方が10倍はわ
かり易かった。
﹁わかりましたか、僕がどれだけ凄いかって事が﹂
殴ろうかな、とエリスは思った。
1414
せっかく憧れていたゴブリン狩りなのに、こいつのせいで台無し
であると感じていた。
ゆえにエリスは腕を組んだ仁王立ちのポーズのまま、クリフに冷
酷に言った。
﹁もう、いいわよ、役に立ちそうにないし、帰っても﹂
もしルーデウスであれば、ここは一時的な撤退を選択するだろう。
だがクリフは空気がまるで読めなかった。
﹁何を言ってるんですか!
ゴブリン数匹に苦戦するようなエリスさんを一人にはできません
よ!﹂
気付けば拳は振りぬかれていた。
クリフは鼻血をだらだらと流しながら、顔を抑えている。
彼はすぐにヒーリングを詠唱し、鼻血を止めた。
﹁なにするんですか!﹂
﹁チッ﹂
エリスは舌打ちした。
平原で気絶させたまま見捨てていくわけにもいかないと手加減し
たが、
調子に乗らせる結果になってしまったようである。
仕方がないのでもう一発、と拳を握り締めたところで、
クリフもようやく事態に気づいた。
1415
﹁ええ、もちろんわかっていますよ!
エリスさんが強いのはよーくわかっています。
じゃあ、今度は森の方に行ってみましょう。
ゴブリンでは僕の真価が発揮出来ませんからね﹂
クリフの言葉に裏表はない。
彼はエリスに凄い所を見せたいのである。
しかし、それは決して、好きな女の子にカッコイイ所を見せよう、
などというものではない。
単純に強い自分に酔いしれたいだけなのだ。
﹁森はダメよ﹂
エリスは短く言った。
森はダメ。
それはルーデウスが常々言っていることである。
また、ルイジェルドもそれに同意している。
なので、エリスは素直に従うだけだ。
﹁エリスさんともあろうお方が、怖いんですか?﹂
﹁怖くないわ!﹂
が、エリスもまた単純な娘である。
こんな言い方をされてしまえば、簡単に釣れてしまう。
ボレアス家は駆け出し冒険者如きになめられてはいけないのであ
る。
﹁森ね! いいわよ、行きましょう!﹂
こうして、二人は薄暗い森へと足を運んでいく。
1416
−−−
﹁森といっても、ミリスは大したことないわね﹂
エリスはそう言いながら、ウータンと呼ばれる猿の魔物を切り捨
てた。
Dランクの魔物であるが、エリスの敵ではない。
﹁そうですね、僕の敵でもないです!﹂
クリフもまた、中級の風魔術でウータンを倒しつつ、言う。
そうして、森の中へずんずん入っていく。
﹁あっ﹂
ふと、エリスが声を上げる。
﹁どうしましたエリスさん!﹂
クリフは嬉しそうにエリスに近づいてくる。
エリスは露骨に嫌そうな顔をする。
そして腕を組み、足を肩幅程度に開き、顎を上げてクリフを見下
ろした。
﹁あなた、帰り道はちゃんと把握してる?﹂
﹁把握してないです﹂
1417
当然、クリフはそんなものを把握してなどいない。
突発的な思いつきで行動したため、森に入る装備などというもの
は持ってきていないのだ。
﹁そう、じゃあ迷子ね﹂
エリスは平然と言い放った。
クリフは押し黙った。
そして、その顔がみるみる青くなっていく。
﹁ど、どうしましょう﹂
エリスは平然としていた。
ゆえにクリフは彼女に何か策があるのだと考えた。
しかし、エリスもまた内心ではまずいと思っていた。
森の中で迷子になったなんて知れたら、二人に呆れられる。
ゴブリン狩りでどうして森に入ったのだと、呆れられる。
もっとも、態度には決して出さない。
グレイラット家の淑女は常に泰然としていなければならないのだ。
﹁クリフ、ちょっと空を飛んで上から町の方向を確かめなさい﹂
﹁そんな事、出来るわけないじゃないですか﹂
﹁ルーデウスなら出来るわ﹂
﹁ルーデウス? 誰ですかそれは﹂
﹁私の先生よ﹂
﹁ええっ!?﹂
1418
エリスは一息、息をつく。
言い争いをしても意味がない。
こんな時はどうするか。
そして思いつく、
ギレーヌに、迷子になった時の事を教えてもらった。
確かそう、木の枝を集めて火をつけるのだ。
煙が空に上り、遠くからでも発見できる。
しかし、誰が。
ルイジェルドは用事があると言っていた。
ルーデウスもだ。
誰も気付かない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エリスは、知らず知らずのうちに腕を組み、口をへの字に曲げて
仁王立ちしていた。
そして、目を閉じて、よく考える。
ギレーヌは言っていた。
不安な時こそ、冷静になれ、と。
だから彼女はどんな時でも慌てない。
﹁え、エリスさん、どうしましょう﹂
﹁この森には、別の冒険者がいるはずよ﹂
﹁な、なるほど、彼らを頼れば⋮⋮探しましょう﹂
クリフは慌てて走りだそうとする。
1419
だが、エリスは動かない。
ルイジェルドに教わった。
こういう時は、動いてはいけない。
動かないで、気配を探るのだ、と。
気配の探り方も教わった。
第三眼がなくても、音と空気、そして魔力の流れは感じ取れる。
エリスは未熟だが、毎日練習はしている。
﹁エリスさん⋮⋮?﹂
﹁黙って!﹂
エリスは深呼吸をして、眼を閉じたまま、心を研ぎ澄ませる。
森の音。
葉のこすれあう音。
獣が動く音。
虫が飛ぶ音。
そして、かすかに聞こえる剣戟の音。
﹁見つけたわ。こっちよ﹂
即決即断。
エリスは迷うことなく歩き出した。
﹁なんですか、何が見つかったんですか!﹂
﹁人よ、向こうにいるわ﹂
﹁どうやって!?﹂
﹁気配を探ったのよ﹂
﹁それも先生に習ったんですか!?﹂
1420
聞かれ、エリスは少しだけ考える。
ルイジェルドは先生か。
先生だろう。
ギレーヌほどではないが、彼にも様々なことを教わっている。
先生、いや、師匠と呼んでも差し支えない人物である。
﹁そうよ﹂
﹁凄いんですね、そのルーデウスって人は⋮⋮﹂
﹁ん? ⋮⋮そうね、ルーデウスは凄いわね﹂
なぜ突然ルーデウスの名前が出てきたのかわからないまま、エリ
スは先を進む。
−−−
森を抜けた。
その瞬間、轍の真ん中で、馬車が横転しているのが見えた。
﹁伏せて!﹂
﹁ぐえっ!﹂
エリスはとっさにクリフの頭を掴み、地面にたたきつけた。
そして自らもしゃがみ、状況を確認する。
﹁⋮⋮﹂
立っている人物は六人。
一人は兜までつけた全身甲冑の騎士。
1421
騎士は木に背中を預けるように立ち、剣を構えている。
その周囲には、黒ずくめの男たち。五人。
黒ずくめは騎士を取り囲んでいる。
周囲には、三つの死体がある。
全員が甲冑をつけている。
囲まれている騎士と同じ鎧である。
黒ずくめはじりじりと騎士に対する包囲を縮めている。
もはや戦力差は歴然としている。
だというのに、なぜあの騎士は逃げないのか。
よく見ると、騎士の背後にある木。
その根本には、一人の少女がしゃがみ込んでいる。
不安と絶望にまみれた顔で、顔は涙に濡れている。
﹁エリスさん、あの鎧は神殿騎士団ですよ!﹂
クリフが小声で告げてくる。
エリスの心臓が高なった。
神殿騎士団。
聞いたことがある。
ミリスにある三つの騎士団の一つ。
ミリスの自国防衛を司るエリート集団、聖堂騎士団。
世界中にミリスの教えを広め、その威光を知らしめんと傭兵紛い
の働きをする、教導騎士団。
そして、異端審問官を抱え、異教徒を断罪する恐怖の代名詞、神
1422
殿騎士団。
それぞれ、
聖堂騎士団は白鎧。
教導騎士団は銀鎧。
神殿騎士団は蒼鎧を身に着けている。
遠方からでもそれとわかる蒼天色の鎧。
間違いない。
目下追い詰められているのは、神殿騎士である。
﹁貴様ら! この御方がどなたか、わかっているのだろうな!﹂
声を上げて初めて分かる。
追い詰められている騎士は女だった。
黒ずくめの男たちは、互いに顔を見合わせ、フッと笑った。
﹁無論だ﹂
﹁ならばなぜ!﹂
﹁言うまでもなかろう﹂
﹁貴様ら! 教皇派か!﹂
エリスには、彼らの話が飲み込めない。
だが、黒ずくめの悪そうな奴らが、あの少女を殺そうとしている
のはわかった。
エリスは腰の剣に手をかけた。
クリフがそれを見咎める。
﹁な、なにをする気ですかエリスさん。
どうみてもヤバイですよ。
1423
あの子は次期教皇候補と言われている神子です。
てことは、あの黒ずくめはきっと、ミリス教皇お抱えの暗殺集団
です。
手練れ揃いです、いくら僕でも勝ち目はありません⋮⋮﹂
クリフがなぜそこまで詳しいのか、
エリスは疑問にすら思わなかった。
彼女が気にしていたのは、
今自分が助けなければ、あの少女は殺されるという事だけである。
そして、エリスは﹃デッドエンド﹄の一員だ。
子供を見捨てたとあっては、ルイジェルドに申し訳が立たない。
ルーデウスも常々そう言って、人助けをしている。
﹁ここは気付かれないように、やり過ごしましょう⋮⋮﹂
﹁無駄よ。もう気付かれているわ﹂
エリスはわかっている。
あの黒ずくめの一人は、クリフを伏せさせた際に、こちらに気づ
いた。
黒ずくめがなにを考えているのかわからない。
だが、何を考えていようと、エリスは先手を取るつもりであった。
﹁クリフはそこで隠れているといいわ!﹂
﹁え、エリスさん!﹂
エリスは抜刀しつつ、飛び出した。
黒ずくめが一瞬で散開する。
が⋮⋮。
1424
﹁遅い!﹂
エリスの踏み込みは、黒ずくめの男の予想を軽く凌駕していた。
剣神流上級技﹃無音の太刀﹄。
光の太刀の下位に位置するこの技は、風切り音を一切残さない。
エリスの剣術の腕は、ギレーヌとルイジェルドにより、相当に伸
びている。
剣は黒ずくめの一人の肩から入り、肋骨をたやすく両断し、袈裟
懸けに真っ二つにした。
エリスは初めて人を斬った感触に戸惑う事なく、次の相手に剣を
向ける。
黒ずくめはエリスを囲むように動く。
だが、エリスの動きはそれ以上に速い。
彼女はルイジェルドから、複数に囲まれたときの動き方をよくレ
クチャーされている。
魔物には群れる奴も多い。
囲まれる前に倒しきるのがセオリーである。
﹁ハアァァァ!﹂
一人の黒ずくめが、瞬く間に切り捨てられた。
男たちの間に動揺が走る。
エリスのリズムは変則的で、意識の外から予備動作無しの斬撃が
飛んでくる。
回避に専念してもなお避けにくいものを、
別のことをしながらで回避できるわけもない。
だが、黒ずくめもプロである。
1425
一人を犠牲にし、包囲が完成する。
二人の黒ずくめが時間差でエリスに躍りかかる。
速い。
しかしルイジェルドほどではない。
魔大陸のパクスコヨーテのように上下の連携があるわけでもない。
温い。
﹁そいつらの短刀には毒が塗ってある! 気をつけろ!﹂
背中に少女を隠していた騎士は、そう叫びつつ動いていた。
包囲の外から、男の一人に斬りかかる。
エリスは彼女の動きから、その後の黒ずくめたちの動きを正確に
予測しつつ、包囲の綻びを見つける。
勝てる、と確信した。
それと同時に、一人を切り伏せた。
残りは二人。
﹁くっ、引くぞ!﹂
黒ずくめの一人がそう叫ぶと、
二人は一瞬で踵を返し、逃走にかかる。
しかし、エリスは詰めの甘い女ではなかった。
またたく間に片方に追いつくと、その背中に鋭い斬撃を放つ。
黒ずくめは上半身と下半身が離れ、臓物を撒き散らしながら倒れ
た。
もう一人は背後を見ることなく、平原の彼方へと消えていった。
1426
﹁フンッ!﹂
エリスは鼻息を一つ。
剣についた血糊を、一振りで飛ばす。
外面はいつも通り。
しかし、心臓はバクバクと動いていた。
考えてみれば、人を相手にした実戦は初めてであり、
人を殺したのも初めてである。
しかも、相手は毒塗りの短刀を持っていた。
一撃でも貰えば致命傷となる武器である。
ルーデウスやルイジェルドといった、背中を守ってくれる人もい
ない。
考えなしに飛び出したが、あの女騎士がいなければ、死んでいた
かもしれない。
が、エリスはそんなことをおくびにも出さない。
剣を鞘へと納刀し、女騎士へと振り返る。
﹁ごめんなさい。一人逃したわ﹂
その言葉に、女騎士はやや呆気に取られた。
まだ成人もしていないであろう少女が、
決死の鉄火場を大立ち回りでくぐり抜け、あまりにも平然として
いたからだ。
女騎士はオウムのような兜を脱ぐことなく、腹の当たりに拳を当
て、
ミリス騎士の正式な礼をする。
1427
﹁ご助力を感謝致します﹂
﹁子供が無事ならいいわ﹂
エリスは返礼せず、
ルイジェルドの言い方を思い返しつつ、ぶっきらぼうに言った。
﹁私は神殿騎士団のテレーズ・ラトレイアと申す者です。
冒険者とお見受けしますが、名前を伺っても?﹂
﹁私はエ⋮⋮﹂
エリスは本名を名乗ろうとして、はたと止まった。
そうじゃない。
ルーデウスはそうしていない。
﹁﹃デッドエンドのルイジェルド﹄。こう見えてもスペルド族よ﹂
スペルド族というと、テレーズは表情を険しくした。
エリスは知らない事であるが、神殿騎士団は魔族の排斥を唱って
いる。
無論、エリスにスペルド族の特徴はない。
なので、テレーズも表情を緩めた。
本名を名乗らず、神殿騎士が快く思わない種族を名乗るというこ
とは、
自分達と、ひいてはこの一件に関して、深く関わりあいになりた
くないのだと判断したのだ。
要人を助けても礼を要求しない。
その態度を、テレーズは好ましく思った。
﹁そうですか。わかりました⋮⋮﹂
1428
テレーズは腕を組んで睨んで来るエリスの顔をまじまじと見て、
覚えた。
それから、口笛を吹く。
すると、森の奥から馬が一匹、走ってきた。
馬車を引き倒された時に逃げ出した馬が、訓練通りに戻ってきた
のである。
彼女は少女を馬に乗せると、自身も飛び乗る。
﹁何か困った事があれば、神殿騎士テレーズの名を!﹂
テレーズはそう言い残し、馬に乗って走り去る。
エリスはそれを黙って見送る。
そして、物陰で腰を抜かしたままで立てない少年は、
走りゆく馬上の騎士と、それを見送る恐れ知らずの赤毛の剣士を、
まるでお伽話の一場面であるかのように、ただただ見ているだけ
だった。
−−−
ミリス教団のある司祭が、小人族の女性と恋に落ちた。
二人の間に生まれた子供が成長し、一人の女性と結婚。
そうして生まれたのがクリフである。
クリフが生まれた頃、その司祭は権力争いの真っ最中であった。
クリフの両親はそれに巻き込まれ、死亡する。
1429
司祭は孫であるクリフを権力争いから遠ざけるため、一旦孤児院
へと預けた。
そして、司祭は権力争いに勝利して教皇となり、クリフを迎え入
れた。
つまり、クリフ・グリモルは教皇の孫である。
もっとも、それを知る者は教団内でも、ごく僅かである。
そんなクリフは、今回襲撃を受けていたのが誰か、よくわかって
いる。
現在進行形で祖父と争っている大司教派の切り札であり、奇跡の
力を持つとされる神子だ。
面識もある。
そんな子がどうしてあんな所にいたのかは、クリフにもわからな
い。
だが、あの黒ずくめの集団はよく知っている。
クリフを教えていた教師たちだ。
彼らがそういう仕事を担当しているということを、クリフは知っ
ていた。
そして、彼らの強さも知っていた。
何度も稽古で相手をした事があるが、
少なくとも、自分は一度も勝てなかった。
そんな彼らを、エリスは物ともしなかった。
実際はギリギリの勝利であったのだが、
クリフの目には、自分が逆立ちしても勝てない相手を圧倒したと
映った。
1430
気付けば、クリフはエリスを憧れの目で見ていた。
町に向かって疲れた顔で歩く彼女。
この人はきっと、すごい人になる。
そう思うと、こんな言葉があふれていた。
﹁エリスさん、結婚してください!﹂
﹁えっ、絶対に嫌よ!﹂
エリスは即座に嫌そうな顔をつくり、即答した。
クリフは、この才能あふれる自分の求婚を断るなんてありえない
と思った。
なぜだろうと、考える。
彼女との本日の会話を鑑みる。
そう、先生という存在だ。
彼女は、先生が、先生がと言っていた。
名前は確か、ル⋮⋮ル⋮⋮。
﹁ルーデウス﹂
その単語を思い出し、口に出してみると、エリスが振り向いた。
﹁ルーデウスというのは、どういう人なんですか?﹂
クリフは数分後、質問をした自分を呪うこととなる。
エリスは無口な子だと思っていたが、そんな事はなかった。
ルーデウスという人物を語らせれば自分の右に出る者はいないと
ばかりに、自慢気に話しだした。
1431
平原から冒険者ギルドに戻るまで、ずっとである。
しかもその表情はまさに恋する乙女のそれであり、内容は褒め倒
しであった。
クリフを嫉妬させるに十分なものであった。
﹁⋮⋮僕、そろそろ帰りますね﹂
クリフは自分でも憮然とした顔をしているのを自覚しながら、エ
リスにそう言った。
エリスはまだまだ語り足りないという感じだったが、
クリフが帰るというと、﹁あっそ﹂という感じで手を振った。
﹁じゃあね﹂
そのそっけない態度は、先ほど熱烈に一人の人物を語っていたと
は思えないものであった。
クリフは、その背中が見えなくなるまで、無言で見送った。
この強くて美しくて完璧なエリスをここまで骨抜きにさせたルー
デウスという男。
クリフはまだ見ぬルーデウスのことを思い浮かべながら教団へと
戻り、探していた人々にお叱りを受ける。
そして、今回の一件により教団内の権力闘争が激化、
クリフがミリシオンにいることを危険と考えた教皇が孫を別の国
へと移すのだが、それはエリスとはまったく関係のない話である。
−−−
1432
ちなみに、エリスはというと、
宿に帰りついて落ち込んだルーデウスを見た瞬間、
今回の事を記憶の片隅へとやって忘れてしまうのだが、
それはまた、別の話である。
1433
第五十話﹁中央大陸へ﹂
二ヶ月経過した。
港町ウェストポートに到着した。
ザントポートにそっくりな町並みだ。
だが、町の規模は大きい。
当然だ。
ミリス神聖国首都からアスラ王国の首都までの道は、この世界に
おけるシルクロード。
各所に交易の拠点となりうる町がある。
ウェストポートもその内の一つ。
ミリシオンの商業地区ほどではないが、
いくつかの商会の本部があり、
その傘下にいる商人たちがひしめき合っている。
町の外からでも、港の端に巨大な倉庫が立ち並んでいるのが見え
る。
倉庫の付近では奴隷か丁稚のような者達があくせくと働いている。
彼らが巨大な魚を荷車に載せてゴロゴロと運び、
ローブ姿の人影がそれに水魔術を掛けて凍らせている。
そうして魚は倉庫へ。
あの後、魚は氷漬けか塩漬けか、
あるいは燻製にでもされて各地へと送られていくのだろう。
−−−
1434
さて、
馬車はここまでだ。
この世界は生前のフェリーと違い、
馬車を積載して運ぶようなことは出来ない。
なので、トカゲ同様売っぱらい、海を渡った後に買い直すのだ。
馬屋に馬車を売る。
トカゲの時と違ってあまり情も移っていないので、名前をつけて
やろう。
さようなら、ハル○ララ。
その後、俺たちは関所へと赴いた。
ウェンポートと違い、大きな建物である。
入り口には甲冑姿の衛兵が立っている。
甲冑姿の騎士はミリシオンの町中でもよく見かけた。
エリスやルイジェルドを見ていると、あんな鎧で身を守れるのか
と不安になる。
この世界の生物は攻撃力が高い。
甲冑なんか着ていた所で、一発攻撃を食らえばパカンと下着姿に
なってしまう事だってありうる。
攻撃を受けた反動で穴に落ちればジエンドである。
冗談はさておき。
関所に入ってみると、中は人でごった返していた。
冒険者風の人々、商人風の人々。
彼らを精力的な表情をした職員がテキパキと対応している。
閑散とし、職員のやる気もなかったウェンポートとは大違いであ
る。
1435
俺はとりあえず、カウンターの一つに向かい、係員に話しかける。
ここの受付の人も巨乳である。
この世界には、受付は巨乳でなければいけないという不文律でも
あるのだろうか。
あるのかもしれない。
と、そんなことを考えつつも、おくびにも出さない。
﹁あの、渡航の申請をしたいのですが﹂
﹁はい、それではこちらをお持ちになってお待ちください﹂
と、渡されたのは木製の番号札である。
34という数字が書かれている。
実にお役所仕事という感じだ。
待合所に戻り、椅子の一つに座る。
すぐにエリスが隣にちょこんと座った。
ルイジェルドは立っている。
周囲を見ると、俺達と同じように待っている人が多いようだ。
﹁しばらく掛かりそうですね﹂
﹁書状は渡さないのか?﹂
ルイジェルドの問いに、俺は首を振った。
﹁番号が呼ばれてからですよ﹂
﹁そういうものか⋮⋮﹂
エリスは、なにやらそわそわしている。
彼女は、あまり待つということに慣れていない。
1436
仕方がないのかもしれない。
﹁ルーデウス。なんか見られてるわ⋮⋮﹂
エリスにいわれ、彼女に視線を送る存在を探す。
彼女を見ていたのは、衛兵であった。
衛兵たちはエリスの方をチラチラと見ていた。
エリスはその視線を受けて、ムッとした顔で睨み返している。
﹁喧嘩しちゃダメですよ﹂
﹁しないわよ﹂
信用ならん。
が、さて、衛兵がエリスを見る理由はなんだろうか。
心当たりがない。
彼女の美しさに眼を奪われているのだろうか。
エリスは最近、結構美人になってきている。
けど、まだまだ子供の範疇だ。
騎士たちが全員ロリコンというわけでもなければ、ありえまい。
﹁34番の方、どうぞ﹂
呼ばれたので、立ち上がってカウンターへ。
受付嬢に書状を渡し、渡航したい旨を告げる。
受付嬢は笑顔で書状を受け取り、
裏面の宛先の名前を見た瞬間、怪訝そうな顔をした。
﹁少々お待ちください﹂
1437
そして、立ち上がると事務所の奥へと消えていった。
しばらくすると、事務所の奥で何か大きな音がした。
同時に、誰かの怒鳴り声。
事務所の奥から衛兵が走り出てきて、別の衛兵に何か耳打ちをす
る。
険しい面持ちのまま、耳打ちされた衛兵が外へと走っていく。
なにやらきな臭い雰囲気である。
ルイジェルドを信用して書状を出してはみたものの、
やはりガッシュ・ブラッシュという人物について、
もっとくわしく調べた方が良かったかもしれない。
先ほどの受付嬢が戻ってきた。
緊張の面持ちを隠せていない。
﹁申し訳ありません、おまたせしました。
バクシール公爵がお会いになるそうです﹂
嫌な予感しかしなかった。
−−−
﹁ミリス大陸税関所長、バクシール・フォン・ヴィーザー公爵であ
る﹂
その豚は豚にそっくりだった。
間違えた。
1438
その人物は豚にそっくりだった。
首周りは脂肪で覆われ、顎は完全に埋もれている。
ペタリと額に張り付いた淡い金髪。
目の下にはクマがあり、さながらたぬきのような印象も受ける。
豚でたぬきで、不機嫌そうな表情を隠さない。
昔、あんな感じの男を見たことがある。
鏡の前で。
﹁ふん、薄汚い魔族がこんな書状を持ってこようとはな﹂
バクシールは豪華そうな革張りの椅子に座っている。
立つことなく、手に持った紙を、パンと叩いた。
そして、椅子をギシギシと鳴らしながらこちらを睥睨する。
高級そうな執務机の上には、大量の書類と共に、封の破られた便
箋が見える。
となれば、あの紙が手紙の中身だろう。
﹁すごい名前を出したものだ。
封もまた本物によく似ておる。
だが、儂は騙されんぞ。
これは偽物だ﹂
バクシールはバッと紙を放り投げた。
反射的につかみとる。
==========
この者、スペルド族なれど、我が大恩を受けた者也。
言葉少ななれど、心意気や天晴。
渡航費用を無料にし、丁重に中央大陸へと送り届けるべし。
1439
教導騎士団団長・ガルガード・ナッシュ・ヴェニク
==========
俺はその名前を見て、めまいがしそうになった。
ガッシュ・ブラッシュという名前はどこにいったのか。
ガルガード・ナッシュ・ヴェニク。
あ、略してガッシュなのか。
あるいは気さくな人物なら、
﹁自分のことをガッシュと呼んでくれ﹂とでも言うかもしれない。
ルイジェルドがそれを真に受け、
ガッシュという名前だと思い込んだのかもしれない。
しかしブラッシュとはどこから出てきたのか。
しかも、その役職。
教導騎士団団長。
ミリス三騎士の一つ、その団長。
頭が痛くなる。
なんでそんなのがルイジェルドの知り合いなんだ⋮⋮。
いや、予想はできる。
例えばそう⋮⋮立場。
教導騎士団団長ともなれば、それなりに高い地位にいる人物であ
ろう。
それがスペルド族と仲良くしていると吹聴されるのはまずい。
だから偽名を使った、とか。
1440
もっと単純に考えてもいい。
ルイジェルドと出会ったのは40年前だというし、
その間に結婚やらで改名した、とか。
﹁大体、あの無口な男が手紙など書くわけがない。
儂はあの男をよく知っておる。
筆不精どころか、必要な書面すら書かない男だ。
それがお前のような魔族のために儂に書状?
冗談もほどほどにするがいい﹂
ルイジェルドはというと、難しい顔をしている。
自分の持ってきた手紙が偽物だと断じられた。
その理由は彼にしてみれば、自分がスペルド族だから。
そう思ってしまうかもしれない。
実際、パウロの話によると、
このバクシールという男は魔族嫌いで有名だそうだしな。
あながち間違ってもいないかもしれない。
しかし、有名だというのなら、
ガッシュだかガルガードだかわからないが、
彼もこのバクシールという男がどういう男か知っていたのだろう。
なら、もう少し説得するような文面にしてほしいものである。
あるいは、本当は偽物なのか?
いや。
ルイジェルドの話を思い出せ。
ガッシュがいたのは大きな建物だと言う話だ。
キシリス城と比べられる程に大きな建物。
個人の家にしてはかなり大きいと言えよう。
1441
だが、それが騎士団の本部か何かであったなら。
建物は大きく、中には騎士も大勢いただろう。
団長ともなれば、その場にいる騎士は全員が部下であるはずだ。
ルイジェルドの言う、﹁配下がたくさんいた﹂という言葉とも合
致する。
とはいえ、それがわかった所で意味はない。
バクシールはすでに書状を偽物だと断じている。
そしてここまで来れば、
偽物でしたか失礼しましたさようなら、とは行くまい。
俺は一歩前へと出た。
﹁つまり、公爵閣下はこの書類が偽物であると?﹂
﹁なんだ貴様は⋮⋮子供は引っ込んでいろ﹂
バクシール公爵は怪訝そうな顔をした。
子供扱いされるのは久しぶりな気がする。
新鮮な気分だ。
子供扱いされたいときには子供扱いされず、
大人扱いされたいときには子供扱いされる。
ままならん。
そう思いつつ、とりあえず俺は右手を胸に手を当て、
貴族風の挨拶をする。
﹁申し遅れました。私はルーデウス・グレイラットと申します﹂
そう言うと、バクシールはぴくりと眉を動かした。
1442
﹁グレイラット⋮⋮だと?﹂
﹁はい。恥ずかしながら、アスラの上級貴族、グレイラット家の末
席に名を連ねる者でございます﹂
﹁ふむ⋮⋮だが、グレイラットには太古の風神の名が付くはずだ﹂
﹁はい。私は分家ですので、その名を名乗る事は許されておりませ
ん﹂
分家。
そう聞いたバクシールの目が俺を見下すものへと変わりかける。
その瞬間、俺はエリスを手のひらで示す。
﹁ですが、こちらのエリスお嬢様は、正真正銘ボレアス・グレイラ
ットの名を持つ者でございます﹂
ぽんと背中を叩くと、エリスが一歩前にでた。
彼女はびっくりした顔で俺を見て、
しかしそれ以上は動じない。
腕を組んで足を肩幅に開き。
いやいや、そうじゃないと、腕を外し、
スカートの端をちょこっと摘んだ淑女挨拶をしようとして、
しかしスカートでないことを思い出し、
俺と同じような、胸に手を当てた挨拶をする。
﹁フィリップ・ボレアス・グレイラットが娘。
エリス・ボレアス・グレイラットと申しますワ﹂
なんか固い上、ちょっと間違っている気がする。
バクシールの顔色を伺う。
ちょっと判別しがたい。
まあいい。
1443
ここはエリスの家の威光に頼ろう。
﹁ふん、なぜアスラ貴族の娘がここにいる﹂
当然の疑問。
ここで嘘は必要ない。
﹁公爵閣下は、二年ほど前にフィットア領で起こった魔力災害をご
存知ですか?﹂
﹁知っておる。大量の人間が転移したそうだな﹂
﹁はい。我々もそれに巻き込まれました﹂
そこから、俺はお嬢様を守るため、
ルイジェルドを護衛にして魔大陸を縦断。
ミリス大陸への関税ではなんとか手持ちの財産を売ってなんとか
したが、
ミリスから中央大陸に渡るには資金が足りない。
特にルイジェルドの渡航費用は高すぎる。
なので、グレイラット家の知己であり、
ルイジェルドの親友でもあるガルガード卿を頼った。
ガルガード卿は快く書状を書いてくれた。
そういうストーリーをでっち上げた。
﹁お嬢様はこのように冒険者の格好をしていますが、
それは高貴の出だと気付かれて良からぬ輩に目を付けられぬため。
公爵閣下もお分かりでしょう﹂
﹁なるほど﹂
1444
バクシールの顔は渋いままである。
﹁つまり貴様らは、最近ミリシオンで暴れている、
奴隷を無理矢理にでも奪い取る﹃フィットア領捜索団﹄の一味で
あると、そういうわけか﹂
﹁ち⋮⋮違いますよ、何を言ってるんですか﹂
﹁儂はエリス・ボレアス・グレイラットなどという名は知らん﹂
ブタのように鼻を鳴らし、バクシールは﹁だが﹂と続ける。
﹁パウロ・グレイラットとかいう小悪党の名前は知っておる。
最近、奴隷を無理矢理に攫うという、噂のな﹂
パパの悪名が酷い。
﹁つまり、公爵はこう仰りたいわけですね。
ガルガード様の書状は偽物、エリス様もアスラ貴族などではない。
そして我々はそのパウロ・グレイラットとかいう、女にだらしな
く、足が臭く、酒ばかりのんで息子に当たり散らし、娘に苦労をさ
せているダメ人間の一味だと﹂
﹁うむ﹂
なんてひどい奴だろうか。
パウロはあいつなりに頑張っているんだ。
確かに至らない所もあるし、方法も間違っているかもしれない。
けど、それをダメ人間だなどと切って捨てるとは、まったく許せ
ない。
﹁なぜ書状にされていた封印も偽物だと?﹂
1445
そう言って俺は机の上、便箋を指さす。
バクシールは少しばかり眉を潜め、そして頷く。
﹁教導騎士団の印は偽造品が出回りやすいのだ﹂
そうなのか。
それは初耳だな。
﹁なぜ私の雇い主であるお嬢様が偽物であると?﹂
﹁アスラ貴族の令嬢がそんな山出しの剣士みたいであってたまるも
のか﹂
エリスを見ると、彼女は腕を組んでのいつものポーズ。
その腕は傷こそ無いものの、
令嬢とは思えないほど日焼けしており、
そこらの若手冒険者よりも、引き締まった筋肉が見える。
﹁なるほど。公爵閣下はサウロス様をご存知ないようだ﹂
俺はフッと笑う。
バクシールはすぐに食いついた。
﹁サウロス⋮⋮だと?
フィットア領の領主のか?﹂
エリスの名前は知らずとも、サウロス爺さんの名前は知っている
らしい。
﹁そして、エリス様の祖父の、です。
あのお方はエリス様に剣士としての英才教育を施したのです﹂
1446
﹁なぜそんな事を⋮⋮﹂
﹁これは内密な話となりますが⋮⋮。
エリス様はノトス家に嫁ぐことが決まっているのです。
そして、サウロス様はノトス家の当主様がお嫌いでして⋮⋮﹂
﹁なるほど﹂
要約すると、
エリスがこんな山猿みたいに育ってるのは、ノトス家の当主を寝
室でぶっ殺すために鍛えたからだよ、って意味である。
エリスは首を傾げている。
意味がわかったら俺の顔が陥没するだろう。
﹁ゆえに、お嬢様はアスラへと戻らねばなりません。
そんなお嬢様を偽物と断じるのであれば、
我々はミリシオンへと戻り、然るべき所に願い出るまでです﹂
そのしかるべき所がどこになるかはわからない。
調べてないからな。
﹁ふん、本物だというのであれば、ここで証明してみせよ﹂
﹁ガルガード様の書状が何よりの証拠﹂
﹁くだらん。水掛け論だ﹂
﹁水掛け論でも結構。あなたにアスラのグレイラットと対立する気
がおありか?﹂
やばい。
自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。
しかし、とりあえず通じているらしい。
バクシールはギロリとした目で俺を睨んでいる。
1447
﹁よかろう。ならば、お前とそのお嬢様、二人の通行を許そう﹂
﹁しかし、護衛は﹂
﹁バクシール公爵の名において、騎士を数名つけよう。
魔族などに頼るよりは、そちらの方が安全であろう?﹂
なるほど、魔族を通すぐらいなら、手すきの騎士を二人、つける
ということか。
とにかくバクシールはルイジェルドを渡航させるつもりは無いら
しい。
ここまで意固地とは。
目の当たりするのは初めてだが、
思った以上に魔族に対する差別意識が強い。
さて、どうしたものか。
ルイジェルドだけ、別で運ぶべきか。
それでまた密輸人と喧嘩か?
ありうる話だ。
どうする⋮⋮。
コンコン。
と、その時、不意に部屋がノックされた。
﹁なんだ、今は取り込み中だぞ?﹂
バクシールが怪訝そうな顔をするが、
扉は返事を待たずに開いていた。
そこには、青色の甲冑に身を包んだ、金髪の女性が立っていた。
﹁失礼、こちらに﹃デッドエンドのルイジェルド﹄がいると聞いた
1448
のだが﹂
﹁⋮⋮母様?﹂
ゼニスだった。
−−−
俺が母様とつぶやいた事で、
その場にいた全員の視線が女性へと向かった。
彼女はムッとした顔で俺を睨みつけた。
﹁私は独身だ。君のような大きな子供はいない﹂
ちょ、ゼニスさん?
俺の知らないうちに記憶をなくしたんですか?
それともパウロに愛想を尽かしたんですか?
そう、思いつつ、まじまじと見つめる。
すると、ゼニスと少しばかり違う部分が明らかになった。
数年別れていた事もあってゼニスの顔はあまり覚えていないのだ
が、
ほくろの位置も違うし、髪の色も少し違う。
別人だ。
﹁失礼。行方不明の母に似ていたもので﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
1449
憐憫の眼差しで見られた。
母親と生き別れた子供に見られたのかもしれない。
最近はあまり子供扱いされないが、
俺も見た目は子供だからな。
﹁これはこれは⋮⋮左遷されたばかりの神殿騎士殿が、いかなる用
だ?﹂
バクシールはフンと鼻息一つ、ゼニス似の騎士を睨みつけた。
﹁ミリス国内にスペルド族が現れたのだ。仕事熱心な私がここにく
るのは当然だろう?﹂
﹁お前の着任は10日後からだ。首を突っ込むな﹂
﹁首を突っ込むな?
おかしな話だ公爵。
確かに私はまだ正式には着任していない。
しかし、前任はすでにミリシオンへと発ち、この場にはいない。
税関にて問題が起きた時は神殿騎士が事を運ぶはず。
だというのに、この場には私以外の神殿騎士の姿が見当たらない。
一体これはどういうことか?﹂
ゼニス似の騎士がそうまくし立てる。
バクシールは﹁ウッ﹂と顔色を悪くした。
﹁税関の守護は二つの頭にて行われるべし。
それはミリス教団の定めた絶対の鉄則。
よもやバクシール卿。ミリス教団に弓引くつもりではあるまいな﹂
﹁まさか、そんな事はない。
ただ、そなたもまだこの町にきて間もない。
ゆっくりと羽を伸ばされてはどうかとだな⋮⋮?﹂
1450
﹁必要ない﹂
ブタ公爵の顔が屠殺される寸前みたいになっていた。
こりゃ次に豚肉を食べるときは美味しく食べられそうだ。
﹁それで、どんな話になっているのか?﹂
この騎士は、どうやら公爵と同じぐらい偉いらしい。
普通なら、公爵といえば貴族でも最上級であるはずだが⋮⋮。
ミリス神聖国は宗教色が強いから、そのへんが関係しているのだ
ろう。
﹁実は⋮⋮﹂
と、バクシールが説明する。
時折バクシールの思い込み発言があったので、
俺が適当に補足しつつ説明。
女騎士は、それを黙って最後まで聞くと、こちらを一瞥。
﹁ふむ⋮⋮確かに魔族だな⋮⋮﹂
特に、ルイジェルドには強い目を向ける。
だが、エリスを見た瞬間、その目線が緩んだ。
そして最後に、俺と目が合い、はたと考えるように顎に手を当て
た。
﹁⋮⋮君、先ほど私と母親を間違えたと言ったな。
母親の名前を聞いても?﹂
﹁ゼニスです。ゼニス・グレイラット﹂
﹁父親の名前は?﹂
1451
俺はチラリとバクシールの方を見る。
うーむ。
言いたくないなぁ⋮⋮。
﹁パウロ・グレイラットです﹂
一応、正直に言ってみた。
バクシールの眼が見開かれる。
俺の父親は例のクズ人間とは別人。
そう言い張ろう。
俺の父親は神様みたいな人だよ。
ちょっと叩けば金だってくれる。
﹁そうか﹂
女騎士はそう言うと、しゃがみこんで俺をギュっと抱きしめた。
﹁⋮⋮えっ!﹂
驚いた。
いきなりの抱擁であった。
﹁大変だったな⋮⋮﹂
そう言いながら、彼女は俺の頭を撫でた。
ごつい甲冑なのであまり感触的にはよろしくない。
だが、フワリと芳しい女の香りがした。
1452
自然と俺の下半身がおっき⋮⋮。
しない。
おかしい。
なぜだ、息子よ、どうしたというのだ。
お前の大好きな女の汗っぽいスメルだというのに。
この間だってエリスので⋮⋮。
と、エリスの方を見ると、眼を見開いて拳を握り締めていた。
怖い。
﹁えっと⋮⋮あの?﹂
女騎士はぽんぽんと俺の頭を撫でてから、すっくと立ち上がった。
そして、俺の方を見ず、バクシールに宣言した。
﹁彼らの身柄は私が保証しよう﹂
﹁なに! 魔族もいるのだぞ!﹂
慌てるバクシール。
女騎士は俺の手から書状を奪い取ると、サッと目を通す。
﹁書状も問題ない。ガルガード殿の筆跡だ﹂
﹁まさか、神殿騎士がミリス教団の教えに逆らうというのか⋮⋮﹂
そこで、エリスが﹁あっ﹂と声を上げた。
女騎士がエリスに向かい、ウインクする。
なんだ?
ミドルリーダー
﹁神殿騎士団﹃盾グループ﹄の中隊長であるこの私が言っているの
だ﹂
1453
﹁くっ、部下を失ってこんな所に左遷されてきた分際で﹂
﹁ふん。その言葉、そっくりそのままお返ししよう。
もっとも、任務を果たした私と、途中で断念したあなたとでは、
随分と立場が違うがな﹂
バクシールは、ぐぬぬと歯噛みをした。
どうやら、彼も左遷されてここにいるらしい。
そう考えると、公爵という地位でも矮小に思えてくるから不思議
だ。
バクシールの目が、憎悪に染まっていく。
﹁貴様、いくら高貴なる出自だといっても、あまり図に乗ると⋮⋮﹂
バクシールの文言は最後までは発せられなかった。
女騎士がぺこりと頭を下げたのだ。
﹁いや、すまん。言い過ぎたな。
こんな所にきた以上、私もお前と仲たがいするつもりは無いのだ。
今回は、私的な件も絡んでいるのだ。許してほしい﹂
うまいタイミングだと思った。
言いたい放題言ったのち、あっさりと謝る。
バクシールの怒気も、今の一言でスルリと抜けた。
今度誰かを怒らせた時に真似しよう。
﹁私的な件だと?﹂
﹁うむ﹂
バクシールの怪訝そうな顔に、女騎士はこくりと頷いた。
1454
そして、俺の肩にポンと手を置く。
﹁この子は私の甥なのだ﹂
なんだってぇ!?
−−−
テレーズ・ラトレイア。
彼女はミリス貴族であるラトレイア家の四女であり、
若くして神殿騎士団の中隊長に成った新進気鋭の騎士である。
実家はラトレイア伯爵家。
ゼニスの実家もラトレイア伯爵家。
俺が彼女の身内であると知ると、
バクシールは何かを諦めたような顔になり、
大きなため息をついて、俺達の渡航費用をタダにしてくれた。
−−−
現在、俺はウェストポートの宿屋で、テレーズに抱きかかえられ
ている。
部屋にいるのは、俺とテレーズとエリスだ。
ルイジェルドは空気でも読んだのか、この場にはいない。
1455
﹁ルーデウス君。君の事は姉様からの手紙で知っていた﹂
﹁そうですか。母はなんと?﹂
﹁すごく可愛いと
実物を見て、まさかと思ったが、確かにこれはすごい可愛い﹂
テレーズはそう言いながら、俺の首筋に顔を埋めてくる。
思えば、約12年間、生意気だの胡散臭いだの気持ち悪いだのと
は言われてきたが、可愛いと言ってくれたのはゼニスだけだったよ
うに思う。
しかし、巨乳美人な人に抱えられているというのに、
なぜか俺の股間のレールガンは超電磁な何かをコイントスしない。
そういえば、ゼニス相手にも俺のヴィクトリーはスタンダップし
なかった。
考えてみれば、ノルンとも必要以上に仲良くしようとは思わなか
った。
⋮⋮血がつながっているからだろうか。
﹁テレーズ。そろそろルーデウスを離しなさい﹂
エリスは頬杖を付いて、テーブルをトントンと叩く。
機嫌が悪そうだ。
嫉妬しているのかもしれない。
俺は罪な男だ。
﹁エリス様。お気持ちはわかりますが、
いつまたルーデウス君と会えるかわかりません。
そして、きっと次に会う時はこの可愛らしさは失われているでし
ょう。
ほんのひと時の思い出なのです。どうかご容赦を﹂
1456
テレーズは悪びれもせず、俺の身体を撫で回してくる。
﹁テレーズさん、なぜエリスに対しては敬語を?﹂
﹁命の恩人だからだ﹂
そこを掘り下げて聞いてみる。
エリスがゴブリン討伐に出かけて、
敵性勢力に襲われて絶体絶命だったテレーズを助けた。
テレーズはその時、ある要人の護衛中であり、
エリスがいなければ、要人も含めて命を奪われていた、という事
らしい。
まったく聞いていない話だ。
エリスを見ると、彼女はバツの悪そうな顔をした。
﹁ごめんなさいルーデウス。
言うの、忘れてたわ⋮⋮﹂
エリスいわく、俺が落ち込んでいるのを見て、
ゴブリン討伐の事はすっかり記憶の彼方に消え去ってしまったら
しい。
俺のせいか。
じゃあしょうがないな。
テレーズは、︵背後から抱きしめられているのでわからないが︶
恐らく恍惚とした表情で、俺の身体をまさぐっている。
気持ち悪いとまではいかないが、
なんだか居心地が悪い。
なにせ、背中におっぱいを押し付けられた状態で身体を弄られて
1457
も興奮しないのだ。
新感覚といえる。
﹁ああ、それにしてもルーデウス君は可愛いな。食べてしまいたい
くらいだ﹂
﹁食べるとは、性的な意味でですか?﹂
適当に軽口を叩いてみると、口を手で塞がれた。
﹁⋮⋮君は喋らないほうが可愛いな。
喋ると、あのパウロの顔を思い出す﹂
どうやら、テレーズはパウロの事があまり好きではないらしい。
﹁しかし、ガッシュ団長は相変わらずだな﹂
と、俺をなでなでしながら、テレーズは話題を変えた。
﹁バクシールにあんな手紙を出せば、ああなることはわかりきって
いただろうに﹂
テレーズの話によると。
ガルガード・ナッシュ・ヴェニクとは、教導騎士団の団長である。
教導騎士団とは、紛争地帯に若い騎士を送り込んで戦場を経験さ
せると同時に、
各地にミリス教団の教えを広めるという役割を持った、傭兵部隊
である。
現在は遠征と遠征の合間の募集期間であり、団員を募集するため
に国内に戻ってきているのだそうだ。
1458
ガッシュはその団長だ。
かつて魔大陸に遠征した際に戻ってきた生き残りで、
この数十年で教導騎士団を歴代最強といわれるまでに引き上げた
立役者。
無口で無骨な人物であり、滅多に笑わない。
どんな悪人に対してでも平等に接するできた人物と噂される。
ミリス騎士は、教導騎士団の遠征に参加することで騎士として一
人前になる。
ガッシュが団長になってから、教導騎士団の生還率は90%を超
えている。
故に、現在の教導騎士団は歴代最強の呼び名が高い。
ガッシュに命を救われた者も数多く存在しており、
現在の騎士で、ガッシュを尊敬していない者は存在しない。
﹁そして、筆不精かつ言葉足らずというのも有名なのだ﹂
戦場ではテキパキと指示をだすが、
普段は気が抜けていて、ロクすっぽ挨拶も返さないのだとか。
手紙を出すこともほとんど無く、
書類も基本的には印鑑のみ。
その筆跡を見たことのある人物はほとんど存在しない。
ルイジェルドの話では、饒舌で激情家という感じだった。
もっとも、ルイジェルドもあまり饒舌では無い方だからな。
基準が違うのだろう。
それとも、ルイジェルド相手だけは別なのだろうか。
﹁ねえ、いつまでくっついているのよ⋮⋮﹂
1459
エリスがだんだんとマジギレ五秒前な感じになってきたので、
俺はテレーズから離れた。
﹁あぁ⋮⋮ルーデウス君の温もりが⋮⋮﹂
テレーズが名残惜しそうな顔をするが、
俺は抱きまくらじゃない。
抱かれていても嬉しくないしな。
﹁ルーデウス、こっちにきなさい﹂
そう言われ、隣に座る。
すると、キュっと手を握られた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エリスの顔を見れば、耳まで真っ赤になっている。
その横顔を見ているだけで、俺の口元もゆるもうというものだ。
見れば、テレーズが枕をボスボスと殴っていた。
壁でも殴ればいいのに。
筋肉が足りなさそうだけど。
テレーズはため息を一つついて、
真面目な顔をした。
﹁そうだ、ルーデウス君。一つだけ忠告をさせてもらおう。
もうすぐミリスを発つ君には意味のない忠告になるかもしれない
が⋮⋮﹂
1460
と、前置きをしてから、テレーズは口を開いた。
﹁国内でスペルド族の名前は出さない方がいい﹂
﹁どうして?﹂
﹁ミリス教団の古い教えには、魔族は完全に排斥すべし、というも
のがある﹂
魔族は全てミリス大陸から叩きだすべし。
それがミリスの教えである。
現在は形骸化されているが、
神殿騎士団はそれを従順に守っている。
スペルド族のように有名な種族は、例え偽物であっても全力を持
って排除しなければならないらしい。
﹁ルーデウス君が世話になったとあっては私も見逃さざるをえない。
だが、本来なら絶対に見逃さないところだ﹂
﹁無理ね﹂
真面目な顔のテレーズに答えたのは、
冷めた顔をしたエリスである。
﹁あなた達では、何人で掛かってもルイジェルドには勝てないわ﹂
﹁そうですね。エリス様の言うとおりです﹂
当然と言わんばかりの口調に、テレーズが苦笑した。
﹁けれども、私も含め、神殿騎士団とは狂信者の集まりですから。
たとえ勝てないとわかっていても、戦わざるをえないのです﹂
ミリス騎士団には、そうした者達が何人もいる。
1461
だから、もし将来、ミリス大陸に戻ってくることがあったら気を
つけろ。
と、念をおされた。
今回の一件は魔族に対する差別の根深さを再認識する事となった。
これからの旅でスペルド族の名誉を回復していくのは難しいかも
しれない。
あと、もし俺がロキシーを神として信仰していると知られれば、
異端審問に掛けられて、ひどい目に会うかもしれない。
なので、俺の宗派は黙っておくとしよう。
−−−
船旅は順調に終わった。
テレーズは船旅に必要なものを全て用意してくれた。
旅の途中の食料から、船酔いの薬までだ。
この世界は薬学はあまり発達していないと思ったが、
治癒魔術だけがこの世界の医療というわけではないらしい。
船酔いの薬ぐらいはあるようだ。
もっとも、かなり高価であるらしい。
親戚のコネというのは素晴らしい。
テレーズはエリスに対しては最大限の便宜を図ってくれた。
ルイジェルドに対する目には厳しいものがあったが⋮⋮。
仕方あるまい。
1462
物事はなんでも割り切れるものではないのだ。
エリスは船酔いの薬のおかげで、やや不快そうではあるものの、
俺のヒーリングをねだらない程度には、元気であった。
本音をいうと、しおらしいエリスが見れなくて残念である。
もっとも、その御蔭で、俺のゲージは溜まらず、
バスターウルフは暴走せず、
エリスのサニーパンチをもらう事もない。
平常通りである。
しかし、エリスは前回の事で不安なのか、
船の中では常に俺にくっついていた。
しおらしくは無い。
が、海を見てはしゃいでいるエリスを見ることが出来て、俺も満
足である。
﹁ようお二人さん、お熱いねえ!
王竜王国で結婚式かい?﹂
二人で海を見ていると、船員がヒューヒューと冷やかしてきた。
﹁ええ、盛大なやつをね﹂
なので調子にのってエリスの肩を抱いたら、殴られた。
﹁け、結婚なんてまだ早いわよ!﹂
エリスは俺を殴りつつも、満更でもないらしく、ややもじもじし
ていた。
人に冷やかされるのは嫌いらしい。
1463
そういう事は二人っきりで、人気のない、ムードのある場所で。
という事だ。
剣を持てば阿修羅なエリスも、色恋沙汰に関しては乙女なのだ。
しかし、結婚か。
俺とエリスをくっつけようとしていたフィリップ達はどうなって
いるのだろうか。
パウロは、楽観視するなと言っていたが⋮⋮。
彼らだけじゃない。
ゼニスとリーリャは行方不明。
アイシャだってどこにいるのかわからない。
シルフィも情報がない。
ギレーヌだって生きているかわからない。
不安だらけだ。
いや、あまり悪い方へと考えるのはよそう。
案外、フィットア領に帰ってみると、皆元気で帰還しているかも
しれない。
楽観的な考えだ。
絶対にそんなはずがないとわかっている。
けど、少なくとも、今、不安に思いすぎる事はない。
そう思う事にしよう。
−−−
こうして、俺達はミリス大陸を後にしたのだった。
1464
終
−
第五十話﹁中央大陸へ﹂︵後書き︶
第5章 少年期 再会編 −
次章
第6章 少年期 帰郷編
1465
間話﹁ロキシーの帰還﹂
ロキシー・ミグルディアは故郷へと帰ってきた。
村の様子は変わっていなかった。
村の知り合いも、その顔ぶれもほとんど変わらない。
住人は増えていたが、
不気味な程に静かな所は昔のままだった。
かつては不気味などと思わなかったが、
世界中を見て回ったロキシーに言わせれば、この村は異常だ。
ただ静かで、ただ一言の会話もないのに、
村人の意思疎通はできているのだから。
彼らはロキシーを見ると、ただじっと見つめてきた。
ロキシーは知っている。
彼らはミグルド族の特殊能力、念話によって話しかけてきている
のだ。
しかし、ロキシーにはわからない。
僅かにノイズのようなものは聞こえるが、それだけである。
ロキシーが彼らの言葉に答える事は無い。
しばらくすると、両親が姿を表した。
久しぶりに会った両親もまた変わっていなかった。
彼らは帰ってきたロキシーを見て喜び、歓迎した。
今までどうしていたのか、
一人で来たのか、と心配そうな声で聞いてくれた。
エリナリーゼとタルハンドの二人は里の外で待っている。
1466
帰郷という事に、何か思う所があるらしい。
ロキシーは今までの旅を淡々と語った。
両親は話を聞いて驚き、ほっとした顔をしていた。
好きなだけいなさい、と言ってくれた。
だが、ロキシーは疎外感を感じていた。
心配する言葉も、歓迎する言葉も、彼らにとっては外国語だ。
彼らは、本当に大切な言葉は、決して口には出さないのだ。
特に、愛を囁く言葉は。
もしかすると、心の底から心配してくれているのかもしれない。
けれど、それはロキシーには伝わらない。
ミグルド族の能力が使えない自分には伝わらない。
その事を、ロキシーは寂しく思う。
これ以上ここにいても辛いだけ。
自分がミグルド族として出来損ないであると確認する事となる。
そう思ったロキシーは、長く滞在せず、すぐに発つ事を決めた。
すぐに旅支度をした。
﹁もう行ってしまうのか?﹂
﹁はい﹂
﹁せめて一晩ぐらい﹂
﹁いいえ、急ぐ旅の中、少し寄っただけなので﹂
心配そうな表情を作る父に、ロキシーは無表情で首を振る。
﹁次はいつ帰ってくる?﹂
﹁わかりません。もう帰ってこないかもしれません﹂
1467
ロキシーは正直に言った。
すると父の隣にいる母もまた、心配そうな表情を作っていた。
﹁ロキシー⋮⋮20年に一度ぐらいは帰ってきてね﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
生返事で答える。
﹁⋮⋮50年以内には、戻ってくるかもしれません﹂
﹁本当? 約束よ﹂
﹁はい﹂
ロキシーが曖昧に頷くと、母はポロリと涙を流した。
﹁あっ、お母さん⋮⋮?﹂
﹁あら、ごめんなさい。泣かないって決めていたのに、ごめんなさ
いね﹂
涙。
それを見て、ロキシーの中に動くものがあった。
知らずうちに、母を抱きしめていた。
すると、父がロキシーと母をまとめて抱き寄せた。
その時、ようやくロキシーは悟った。
言葉だけではないのだ、と。
結局、村には三日ほど滞在した。
久々にゆっくりとした日々を過ごしたのだ。
1468
−−−
﹃デッドエンドの飼主﹄。
その正体はルーデウス・グレイラットである。
その事を認めるのに、ロキシーは若干の時間を要した。
魔大陸に入り、ルーデウスの情報を求めて北へ北へと移動した。
北に行けば行くほど、ルーデウスという単語を聞くようになった。
近づいている。
そう思うと同時に、何かがおかしいと思うようになった。
﹃偽デッドエンド﹄の情報と、ルーデウスの目撃情報がやけに被
るのだ。
無詠唱で魔術を使う人族の少年と、偽デッドエンドの﹃飼主﹄。
もはや同一人物といっても過言ではないと、途中で何度もタルハ
ンドに言われた。
いや、最初から気づいていたのだ。
気づかずにすれ違っていたと認めたくなかったのだ。
だが、リカリスの町まできて、認めざるを得なくなった。
2年前に起こったという﹃デッドエンド﹄事件。
かつてのパーティメンバーだったノコパラの証言。
そして、故郷の両親の証言。
全てを統合して、ようやくロキシーは認めた。
﹃デッドエンドの飼主﹄はルーデウスであった、と。
1469
−−−
現在、ロキシーはノコパラと一緒に、酒場で食事を取っている。
ルーデウスの話を聞いた時、ノコパラは随分と言いにくそうにし
ていた。
どうやら、人に言えない類の職業に転向しているらしい。
ロキシーとしては、それを責めるつもりはない。
魔大陸では、それも仕方のない事だ。
﹁そうですか⋮⋮ブレイズは死にましたか⋮⋮﹂
﹁ああ、赤喰大蛇に丸呑みだそうだ﹂
魔大陸を離れて数年。
つもる話があるはずなのだが、出てくるのは昔のことばかりだっ
た。
ロキシーは目を閉じ、ブレイズの事を思い出す。
豚みたいな顔で、口が悪く、ロキシーが何か失敗する度に悪態を
ついてきた。
だが、嫌な奴ではなかった。
戦士として頼れる男だった。
死ぬ間際には、Bランク冒険者パーティをまとめるベテランに育
っていたという。
魔大陸におけるBランク冒険者パーティのリーダー。
あの皮肉屋が立派なものだ。
しかし、パーティ名はスーパーブレイズ。
ネーミングセンスは昔から変わっていなかったらしい。
1470
そんなベテランパーティを全滅させた相手を、
パーティを結成して間もないルーデウス達が倒したらしい。
冒険を始めてすぐにAランクの魔物を討伐する。
昔のロキシーには逆立ちをしてもできそうにない。
だが、それもまたルーデウスらしい、とロキシーは薄く笑った。
﹁ロキシーは、随分変わったな﹂
ノコパラは魔大陸特有の刺激の強い酒をチビチビと飲みながら、
ポツリと言った。
ロキシーは自分の手にある杯。
その水面に映る自分の顔を見て、そうだろうか、と考える。
﹁自分では分かりませんが⋮⋮﹂
﹁いや、随分と大人っぽくなった﹂
﹁なんですかそれは、馬鹿にしてるんですか?﹂
ノコパラたちと冒険をしていた頃、
ロキシーはすでにミグルド族として成人した姿だった。
それ以来、体型等も大きな変化はない。
自分では何も変わっていないとロキシーは自覚している。
﹁馬鹿にはしてねえよ。
なんつーか、雰囲気がな。
昔のお前は、もっと子供っぽかった﹂
﹁外見が変わらないだけで、ちゃんと生きていますからね﹂
ロキシーはそう言いつつ、ポリポリとツマミである炒り豆を食べ
る。
1471
この豆はストーントゥレントの種子である。
ロキシーの味覚では、さして美味しいとは思えない。
ただ、なんとなく口に運んでいる。
癖になる味である。
﹁そういう所だよ。
昔はお前、大人に見られようと必死だったじゃねえか。
昔のお前だったら、俺の言葉に舞い上がってたぜ?﹂
﹁そうですか?
⋮⋮そうですね、そういう時期もありました﹂
身の丈というものがわかっていなかった頃の話である。
昔は周囲に子供だと思われないように、ナメられないようにと頑
張ってきた。
自分は魔術師だ、苦手属性は無い、なんでも出来ると吹聴してい
た。
いつしか、その評価は逆転し、名前ばかりが一人歩きしている。
﹃水聖級魔術師﹄と呼ばれていた頃から、できもしない事を押し
付けられそうになることはしょっちゅうあった。
魔大陸においても、ルーデウスの師匠だというと、やけに驚かれ
た。
ルーデウスは、事ある毎に﹁師匠の教えの賜物です﹂と吹聴して
いるらしい。
おかげで、ロキシーまで無詠唱で魔術が使えるものと思われてい
た。
無詠唱魔術など、出来るはずもないのに。
かつて、自分のことを罵倒した師匠もこんな気持ちだったのだろ
うか、とロキシーは思う。
1472
そうであったのなら、悪いことをしたと反省する所である。
優秀すぎる弟子を持った師匠の苦悩。
実際にその立場に立ってみないとわからないものである。
誇らしいと思うと同時に、恥ずかしいのだ。
けれども不思議と現在、師匠と呼ばないでほしい、とは言いたく
ない。
ルーデウスが言いつけを守らず、ロキシーが師匠だと吹聴してい
るという事実が、単純に嬉しいのだ。
﹁ノコパラは変わりませんね﹂
﹁そうか?﹂
﹁ええ、見た目以外は﹂
金に意地汚く、弱者を狙う所は、昔のままである。
ロキシーはかつて、ノコパラだけは敵には回したくない、と何度
も思ったものだ。
﹁なんだそりゃ、遠回しに老けたって言いてえのか?﹂
﹁そうとも言いますね。ノコパラは老けました﹂
﹁言うようになったじゃねえか﹂
ノコパラはヒヒンとニヒルに笑った。
﹁懐かしいなぁ⋮⋮﹂
﹁そうですね﹂
当時、ここにはもう二人いた。
ノコパラが何か言う度に悪態をつく少年と、
喧嘩するたびにヤレヤレといいつつ諌めてくれる少年が。
1473
もはや二人はいなく、残ったのは中年二人である。
もっとも、片方は種族柄、それほど歳を食っているわけではない
が⋮⋮。
過ぎた日は戻ってこない。
その日、ノコパラが酔いつぶれるまで、二人は思い出話に花を咲
かせた。
両親と、古馴染。
この二つに会えただけでも、
ここに帰ってきた意味はあった。
そんな思いで、胸が一杯になった。
−−−
ルーデウスは今頃、ミリシオンにたどり着いただろう。
ウェンポートですれ違ったとして、そこから半年。
雨期と丁度重なったとはいえ、聖剣街道は何もない道である。
長耳族や炭鉱族の集落に寄り道しなければ、ミリシオンにはたど
り着いているはずだ。
やはり、探す必要などなかったのだ。
パウロが伝言で残した通り、彼は大丈夫だった。
一緒に転移したというエリスという女の子。
彼女と共に、楽々と魔大陸を抜けたのだ。
普通ならどこかでもたつく所を、いとも簡単に、あっさりと。
しかも、途中でロキシーの恐れてやまないスペルド族を仲間にま
1474
でして。
﹁ロキシーの弟子は優秀じゃな﹂
﹁本当に。パウロの息子とは思えませんわね﹂
エリナリーゼとタルハンドもそう言って褒めていた。
誰の弟子とか、誰の息子とかは関係ないのだ、とロキシーは思う。
ルーデウスは、自分と出会う前から天才だったのだ、と。
もし自分と出会わなくとも、これぐらいの事はできただろう、と。
それはさておき。
﹁これからどうしますの?﹂
エリナリーゼに聞かれ、ロキシーは考える。
一応の目標であるルーデウスとは会えなかった。
だが、恐らくすでにミリシオンに到着しているだろう。
彼に会いたいのは山々であるが、目的を履き違えてはいけない。
﹁魔大陸の北西部を探しましょう﹂
ルーデウスは見つかったが、残り三人はまだ見つかっていない。
今までの道中でも、フィットア領出身の難民は何人かいた。
なら北西部にもいるだろう。
﹁弟子に会わなくてもええのか?﹂
﹁構いません﹂
タルハンドにそう聞かれ、ロキシーは首を振る。
1475
第一、気づかずにすれ違ったなどと知られれば、合わせる顔もな
い。
ただでさえ師匠として情けない立場なのだ。
﹁魔大陸の町はまだまだあるんです。今まで通り、一つずつ回って
行きましょう﹂
二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。
ロキシー・ミグルディアの旅は続く。
1476
第五十一話﹁ルート選択﹂
気づけば12歳になっていた。
気づいたのは、ふと冒険者カードを見た時。
年齢の欄が12になっていたのだ。
いったいいつ誕生日が過ぎたのだろうか。
旅をしていると、日付の感覚が狂いがちだ。
それにしても、転移から2年か。
早いものだ。
だが逆に言えば2年も掛かっているといえる。
2年も掛けて、ようやく中央大陸へと戻ってくることが出来たの
だといえる。
ここまで来れば、アスラ王国は目前と言っても過言ではないだろ
う。
ミリス大陸での道中を考えるに、ここから先も苦労することは無
さそうだ。
金もある、移動手段もある。
懸念としては、家族の行方がわからない事だが⋮⋮。
パウロが組織だって動いているのに、誰も見つかっていない。
生きていると信じてはいる。
だが、今更俺がやる気になった所で、そうそう見つかるものでは
ないだろう。
−−−
1477
現在位置は王竜王国の最東端、港町イーストポート。
ウェストポートと同じく、水産業者や輸送業者が幅をきかせてい
る町である。
宿を取り、作戦会議を開いた。
いつも通り地図を囲んで、三人で顔を突き合わせる。
﹁では、これからのことについて話しましょう﹂
二人は真面目な顔で地図をのぞき込んでいる。
何度も繰り返している事で飽きがきそうなものだが、
難しい話の苦手なエリスでも、この時だけは真剣な顔で聞いてい
る。
﹁ここからアスラ王国へと向かうルートは3つあります﹂
と、俺は買ったばかりの地図を指差しつつ、説明する。
大まかな村の場所や森の位置が乗っているだけの簡易的な地図で
ある。
詳しい地図を作ったり販売したりするのは、この国の法律で固く
禁止されていた。
他国に渡るのを恐れているのだろう。
まあ、大体がわかればいい。
﹁まず一つは、通常の交易に使われる街道を使うルートです﹂
と、俺は地図を指でなぞる。
王竜山脈を東回りに迂回するルート。
1478
﹁最も安全なルートですね。
僕らの移動速度を考えると、到着まで10ヶ月程度でしょうか﹂
最も時間が掛かるが、整備された街道を通るため、最も安全であ
る。
﹁なんで遠回りしないといけないのよ﹂
と、エリスが当然の疑問を投げかけてくる。
彼女はいつだって当然の疑問を投げてくれる。
素直なので説明がしやすい。
﹁西回りのルートは、森が広がっているからです﹂
俺は王竜山脈の西側を指さし、その疑問に答える。
王竜山脈の西には、広大な密林地帯が広がっている。
基本的に馬車は通れない。
一応、道に詳しいのなら数ヶ月は移動時間を短縮できるそうだ。
前提条件に乗馬の腕も入ってくるが。
俺とエリスは乗馬が出来ない。
ルイジェルドは出来るだろう。
だが、いくら俺たちが小さいとはいえ、一つの馬に三人で乗るの
は無理だろう。
なので、このルートを通る場合は徒歩となる。
徒歩の場合どれだけ日数が掛かるのかを調べることは出来なかっ
た。
基本的に誰もが安全な東回りのルートを選ぶらしい。
それほど日数に差は無いか、あるいは東の方が早いのだろう。
1479
急がばまわれってやつだ。
という事をかいつまんで説明する。
﹁そう、じゃあ西はダメね﹂
エリスも納得してくれた。
﹁で、三つ目のルートなのですが﹂
俺はそう言いつつ、最後のルートを指で示す。
船に乗り、ベガリット大陸を渡り、捜索しつつアスラへと抜ける。
こちらは何日かかるかわからない。
﹁もっとも、こちらのルートは却下です﹂
﹁なんでよ﹂
﹁危険だからです﹂
ベガリット大陸は魔大陸以上に魔力が濃いとされている。
平均で見れば魔物の強さは魔大陸と同程度だが、
地下には大量の迷宮が存在しており、
地上では異常気象が巻き起こる。
その風土は、一言で説明できる。
砂漠だ。
あの大陸は砂で覆われているのだ。
そして、大王陸亀と同等の大きさを持つ巨大なサソリや、
そのサソリを主食とするような巨大なワームが跋扈する。
昼は灼熱、夜は極寒。
1480
オアシスの類はほとんど無く、休憩することは出来ない。
また、さらに中央に進むと砂が消失し、なぜか雪が降り積もる極
寒の地となる。
砂漠から、いきなり氷に閉ざされた土地になるのだ。
そこまで行くと、食える魔物はほとんど出てこなくなるとか。
そんな所を捜索しながら通り抜ける。
現実的ではない。
﹁というわけで、我々は東回りのルートを通ります﹂
﹁ルーデウスは相変わらず臆病ね﹂
﹁怖がり屋なもので﹂
﹁私たちなら大丈夫だと思うけど?﹂
エリスはベガリット大陸にちょっと行ってみたいようだ。
目がキラキラしている。
だが、ベガリット大陸との距離は、ミリス−中央大陸間とは比べ
物にならないほどある。
﹁長いこと船に乗りますけど、エリスは大丈夫なんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ベガリットは無しね﹂
という事で、俺たちは東ルートを通る事となった。
−−−
白い部屋にいた。
1481
身体の奥底から湧き上がる情動。
何度もなれないこの感覚を、一言で表そう。
くそが。
﹁いきなりクソなんて、相変わらず下品だね、君は﹂
モザイク。人神だ。
チッ、何が相変わらずだ。
ようやく忘れかけてた頃に現れやがって。
﹁一年ぶりだね﹂
ああ、一年ぶりだ。
ずいぶんと久しぶりだ。
もしかしてお前、一年に一度しか顔を出せないのか?
だとすりゃあ、俺としても心休まるんだがな。
﹁そんな事はないよ﹂
だろうな。
最初の時は一週間も経たずに顔出したもんな。
﹁それにしても、君は相変わらず僕に冷たいね。
僕のおかげで魔眼も手に入ったっていうのに﹂
頼んでねえんだよ。
こんなあってもなくても変わんないようなモノじゃなくて、
渡航するのに必要な人物と会わせてくれりゃよかったんだ。
そうすりゃ、牢屋に入る事もなかったし、
1482
情報のスレ違いでパウロと喧嘩することもなかったんだ。
さぞ面白かったんだろうな。
俺が情報を得られずにパウロと仲たがいして、
落ち込んで、慰めてもらって、
なんとか話し合って仲直りするのを見るのはよ!
﹁そりゃもう楽しかったさ。
でも、いいのかい?﹂
いい?
なにがだよ。
﹁全部、僕のせいにして、さ﹂
チッ⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮くそ。
この部屋にいると、昔に戻るな。
何でもかんでも他人になすりつけていたあの頃に。
俺は反省したんだ。
反省⋮⋮ああ、くそ、どんな反省したのか思い出せねえ⋮⋮。
なんでだよ、クソ⋮⋮ちくしょう⋮⋮。
﹁ま、それも君の味だよ。
ちょっと反省したぐらいじゃ、ちっとも前に進めないのさ﹂
チッ、いいさ。
今だけだ。
眼が覚めれば思い出せる。反省できる。
1483
だから開き直らせてもらおう。
開き直ってお前に聞くことにする。
﹁聞く? へえ、今回は珍しく助言を素直に聞くのかい?﹂
ああそうさ。
けどな、俺の知りたい助言は一つだ。
﹁何かな? 僕に知っている事なら、答えてあげてもいいよ﹂
家族の居場所を教えてくれ。
﹁君の家族は異世界にいるんじゃあ、ないのかい?﹂
茶化すなよ、ゼニス・リーリャ・アイシャの三人だ。
出来ればシルフィとギレーヌ、フィリップとサウロスも頼む。
﹁んー﹂
なんだよ。
人がこうやって頭下げて頼んでんだ。
さっさと教えろよ。
﹁どうしよっかなぁ∼﹂
なんでお前はそう上から目線なんだ?
人の人生を覗き見してるだけのデバガメ野郎の分際でよ。
お前はなにか?
自分に都合のいいことしか教えられないのか?
1484
魔界大帝には会わせても、
家族には会わせられないか?
﹁あーあー、ごめんごめん。調子に乗ってたよ﹂
わかりゃいいんだよ。
﹁けどいいのかい?
今回、僕は嘘をつくかもしれないよ?﹂
へえ、嘘!
ようやくお前からそういう話が聞けたよ。
そうだな、お前は嘘をつくタイプだよな。
﹁いや、僕が嘘をつくかどうかじゃなくて。
君は僕の言葉が信じられるのかって聞いているんだよ﹂
いや、信じねえよ。
今は非常事態だからその通りには動いてやるけど、
けど、もし一度でも嘘をついたら、二度と助言は聞かねえよ?
﹁じゃあ約束して欲しいんだ﹂
何をだよ。
﹁もし、次の助言で家族と再会する事ができたら、
今後は僕のことを信じて欲しいんだ﹂
⋮⋮⋮⋮。
1485
お前を信じて、操り人形みたいになれってか?
お前の言うことをハイハイ聞いて、下僕みたいに仕えろってか?
﹁いいや、ただ、毎回毎回こうやって喧嘩腰ってのも、
疲れるじゃないか﹂
別に喧嘩腰じゃなくたって疲れるんだよ。
お前にわかるか?
出来れば忘れたい、直したいと思っている過去の感覚を引きずり
だされて、
反省した、成長したと思ってる記憶を薄れさせられて、
朝起きた瞬間にすげぇ卑屈な気分になって凹む気持ちがよ。
﹁そりゃあ悪いことをしたね。
じゃあ、ルールでも決めるかい?
次はこの日に助言する、とか﹂
ああ、それは名案だな!
次に現れるのは百年後ってのはどうだ?
﹁それじゃ、君が死んでるじゃないか﹂
二度と出てくんなつってんだよ。
﹁はぁ⋮⋮まぁ、そういうと思ったよ。
で、いいのかい?
今回は、助言は無しで﹂
⋮⋮いや、ちょいまった。
悪かった。
1486
俺も妥協しよう。
もし、今回の助言でうまいこと家族の誰かと再会できたなら、
俺も喧嘩腰でお前と話をするのはやめにする。
﹁信用してくれるのかい?﹂
いや、そこまでは行かない、
だが、少なくとも、聞く聞かないの意味のない問答を繰り返すの
はやめにしよう。
﹁前向きだね﹂
だからお前も妥協しろ。
今回みたいに、いきなり顔を出すのはやめろ。
心の準備をさせろ。
もしくは別の奴の夢に出て、手紙をよこせ。
﹁それは難しいね。
夢に現れるのには、実は条件があるんだ﹂
ふむ?
条件?
つまり、いつでも顔を出せるってわけじゃないってことか?
﹁そういう事。
夢に出るにも波長が合う相手じゃないとダメだからね。
なかなかいないんだよ。僕の助言をタイミングよく受けられる人
物ってのは。
君は幸運だね﹂
1487
ああ、幸せすぎて涙が出そうだぜ。
この幸せをおすそ分けしてやりたいぐらいだ。
そこらのゴミムシあたりにでもよ。
でも、ふうん、そうなのか。
条件があるのか。
ちなみに、その条件ってのは?
﹁さぁ、僕もよくわかってないんだよ。
ただ、あ、こいつはイケるな、この日はイケるな、って思ったら
つながっているのさ﹂
へぇ。
つまり、お前にもコントロールしきれてないってことか。
じゃあ、ルールはそれは諦めよう。
別の事にするか。
そうだな⋮⋮。
もう少し、助言の内容を詳しくしてほしい。
あっちにいけ、こっちに行けじゃあ、何をすればいいのかわから
なくて混乱するんだ。
手のひらの上で遊ばれている感じもしてイラつくし。
﹁オッケー、詳細にね。わかった、それでいこう﹂
よし、じゃあ、頼む。
﹁ごほん。では、今回の助言を授けます﹂
1488
−−−
次の瞬間、俺の魔眼に、ビジョンが流れこんできた。
<そこは、どこかの国の裏路地で>
<一人の少女が乱暴に手を掴まれていた>
<手を掴んでいるのは兵士>
<兵士は二人>
<手を掴んでいない方は少女から取り上げた紙をビリビリに破い
ている>
<少女はそれを見て、何かを叫んでいた>
ビジョンはそこまでだった。
−−−
なっ、何だ今のは!
﹁ルーデウスよ。よくお聞きなさい。
彼女の名はアイシャ・グレイラット。
現在、シーローン王国にて抑留されています。
あなたは今の場面に出くわし、助ける事になるでしょう。
しかし、決して名前を名乗ってはいけません。
﹃デッドエンドの飼主﹄を名乗り、彼女に事情を聞いてください。
それから、シーローンの王宮にいる知り合いへと手紙を出すので
す。
さすれば、リーリャ、アイシャの二人を、
シーローン王宮から救い出す事ができるでしょう﹂
えっ、ちょ、なに。
いや、まった、なんで。
1489
知り合い? 手紙?
﹁ちょっと詳細すぎたかな?
あんまり詳しいと面白みに欠けるから、こんなもんかな。
さて、君はどっちと仲良くなるかなぁ⋮⋮﹂
え?
リーリャとアイシャは二人ともシーローン王国にいるの?
なんで?
そんな所にいるなら見つからないはずないじゃん。
仲良くなるってなんだ?
リーリャとアイシャのどっちかと仲たがいするってことか?
﹁それではルーデウスよ。頑張りなさい⋮⋮﹂
なさい⋮⋮なさい⋮⋮なさい⋮⋮。
エコーを聞きながら、俺の意識は沈んでいった。
−−−
バッと跳ね起きた。
ガンガンと頭が痛む。
圧倒的なめまい。
そして吐き気。
俺はベッドを降りて、小走りで部屋の出口へと向かった。
1490
部屋を出て、トイレに入る。
便器を覗き込み、即座にゲーゲーと吐いた。
頭が痛い。
凄まじい頭痛と吐き気だ。
足がフラフラする。
トイレから出る。
部屋が随分と遠く感じた。
壁に手を付くと、足から力が抜ける。
ズルズルと床にへたり込んだ。
暗い宿屋に、ヒューヒューという音がする。
何だと目だけで周囲を見渡す。
すぐに気づいた。
俺の呼吸音だ。
﹁どうした、大丈夫か⋮⋮?﹂
気づけば、真っ暗闇に白い顔が浮かんでいた。
ルイジェルドだ。
彼は俺の顔を心配そうに見ている。
﹁ええ⋮⋮大丈夫です﹂
﹁何を食った? 解毒は使えるか?﹂
ルイジェルドはポケットから布を取り出し、俺の口元を拭いてく
れた。
自分の出した吐瀉物の匂いで、さらに吐き気が強くなる。
が、吐くまでには至らず、胸にムカムカしたものが残った。
1491
﹁大丈夫です⋮⋮﹂
なんとか喉の奥から、そんな言葉を絞り出した。
﹁本当か?﹂
心配そうな声に、俺は頷く。
この頭痛には覚えがあった。
ウェンポートで味わったことがある。
﹁ええ、寝ぼけて予見眼の調整に失敗しただけですから﹂
予見眼を使い、10秒以上の未来を見た時、こんな頭痛がした。
あの時は、頭痛がした時点でそれ以上先の未来は見なかった。
だが、あれが悪化するとこうなるのだと、直感的に理解できた。
そして、なぜこんな事になっているのか。
それも予想できる。
あの夢、あの助言だ。
あそこで見せられたビジョン、あれのせいだ。
人神は俺に未来を見せた。
恐らく、予見眼を通して。
﹁このためか⋮⋮﹂
ぽつりとつぶやくと、ルイジェルドが怪訝そうな顔をする。
港町で魔界大帝に出会い、魔眼を手に入れた経緯を思い出す。
1492
唐突に出会い、何のためか魔眼を手に入れた。
渡航するにはまったく意味のない助言だった。
その後も、魔眼はあまり役に立たなかった。
いや、魔眼のおかげで何度か一命を取り留めた事も多いのだが、
それにしたって、無くても何とかなったかもという感じはする。
逆に魔眼のせいで油断した事も一度や二度ではない。
差し引きではゼロといえる。
俺にとっては意味がなかった。
だが、人神にとっては意味があったということだ。
ああやって俺に未来を見せるために、
俺を魔界大帝に会わせたのかもしれない。
何かの準備が着々と整っている気がする。
不安が鎌首をもたげた。
俺の中に、初めて人神への恐怖が生まれた。
奴が強大な力を持つ何かだと、初めて実感できた。
奴は、俺に何かをさせようとしている。
そんな予感に身震いした。
﹁ルーデウス、顔色が悪いぞ。本当に大丈夫なのか?﹂ ルイジェルドの心配そうな顔。
それに、俺はそのまま、自分の不安を吐露しそうになった。
実は俺はあなたと出会った頃から人神に監視されていて、
奴の言いなりになって物事を進めているのです、と。
1493
しかし、その瞬間、俺は一つの事実に気づいた。
﹃ルイジェルドと出会った頃から﹄。
そうだ。
人神が初めて俺に接触したのは、ルイジェルドと出会う直前だ。
そして、奴はルイジェルドの手伝いをするようにと助言してきた。
おかしな話だ。
なぜ、今まで接触してこなかったのか。
なぜ、魔力災害の直後に声をかけてきたのか。
なぜ、ルイジェルドを頼るだけでなく、﹁助けろ﹂と助言したの
か。
全てに繋がりがある気がしてくる。
奴が何かを企んでいるように思えてくる。
確証はなく、邪推の類である。
だが、そんな邪推の一つ。
こんな考えが浮かんだ。
﹃人神はルイジェルドに何かをさせるつもりなのではないか﹄。
人神は、夢に出るには条件があると言っていた。
その条件に引っかかり、直接ルイジェルドを操れない。
だから、条件に合う俺を魔力災害で転移させ、
ルイジェルドを助けるように誘導し、
中央大陸まで護衛させたのではないか⋮⋮。
⋮⋮いや、なら、俺に魔眼を与えたり、
アイシャを助けるように助言する意味がわからない。
1494
わからない。
奴が何を考えているのか⋮⋮。
奴にとっては全てが繋がっている事なのかもしれないが、俺には
そのつながりが見えない。
そして、人神のことをルイジェルドに言うべきか、否か。
迷った。
﹁⋮⋮﹂
この不安を誰かに話して解消したかった。
だが、この男にこれ以上負担をかけるべきではないとも思った。
俺が人神のことをルイジェルドに話したことで、
なんらかの条件が整い、人神がルイジェルドに接触できるように
なるかもしれない。
実直なこの男は、きっと、あっさりと人神に騙されるだろう。
俺自身、騙されていないとは到底思えない。
思えないが。
少なくとも、俺が喧嘩腰の態度をとることで、人神はやりにくそ
うにしている。
やりにくそうにしているうちは騙されていない⋮⋮と思いたい。
﹁ルイジェルドさん。もし辛い時、誰かから甘い言葉を囁かれても、
決して信用しないでください。辛い時こそ、騙そうとしてくる奴は
寄ってきますから﹂
⋮⋮結局、俺は言わなかった。
人神のことを口にはしなかった。
1495
﹁⋮⋮⋮⋮何の話かわからんが、了解した﹂
真面目な顔で頷くルイジェルドに、複雑な感情を抱いた。
彼は俺のことを信用してくれている。
なのに、俺は隠し事をしている。
隠しておいた方がいいと判断したのだが、それでも心は晴れない。
気づけば頭痛と吐き気は収まっていた
フラフラとする頭を振りながら、部屋へと戻った。
冴える眼、考えの渦巻く頭。
眼をつぶると、次々と思考が浮かんできた。
意味のある思考ではなかった。
理論的な考えでもなかった。
出口のない迷路のように、益体もない考えが浮かんでは消えた。
ベッドに横になっていても、眠れる気がしなかった。
﹁にゃによ⋮⋮﹂
ふと、そんな寝言が聞こえて、目線を横へと動かした。
隣のベッドでエリスが大の字になって寝ていた。
相変わらず寝相が悪い。
大きく足を広げて寝ている。
寝間着代わりにしている短パンから伸びる、健康的な足。
裾から奥が覗けそうな危うい隙間。
めくれた服と、覗く可愛らしいおへそ。
真上を向いていても起伏がわかるようになってきた胸。
1496
寝ている時はブラジャーをつけていないのか、目を凝らせば浮か
び上がるぽっち。
そして、よだれを垂らしながらニマニマと笑う顔。
﹁んふふ⋮⋮﹂
俺はそんな寝言に苦笑しつつ起き上がった。
彼女の服の裾を降ろし、毛布を掛けてやる。
﹁るーでうすはえっちね⋮⋮﹂
だらしのない顔だ。
人があれこれと悩んでいるというのに事もあろうにエッチとは。
言葉通り胸でも揉んでやろうか。
などと考えていると、眠気が戻ってきた。
俺はあくびをしつつ、ベッドに倒れこむ。
エリスは流石だ。
そう思いつつ、すとんと眠りに落ちた。
1497
第五十二話﹁米﹂
翌日。
酒場にて朝食を取りつつ、俺は二人に宣言した。
﹁道中での捜索を短めに終わらせて、シーローン王国に立ち寄りま
す﹂
二人は、首をかしげつつも、頷いた。
﹁わかったわ﹂
﹁了解した﹂
どうして、とか、なんで、などとは聞いてこない。
理由を聞かれないのは、俺としてもありがたい。
人神の事はなるべく喋らない方向でいく。
そう決めてはみたものの、
しかし、人神のことを喋らずどうやって説明したものか、頭を悩
ませていたのだ。
ルイジェルドは、昨晩の俺の様子を見て、何か思う所があるよう
だ。
恐らく、隠し事をしていることに気付いているだろう。
病気を隠しているとか見当違いの方向かもしれないが、
いや、人神は病魔のようなものだ、あながち間違ってはいない。
エリスはというと。
﹁シーローンってあそこよね、ルーデウスの師匠がいるっていう﹂
1498
エリスのそんな言葉で、俺は一人の少女の姿を思い浮かべた。
ロキシー・ミグルディア。
そう。
シーローンには彼女がいるはずだ。
人神も知り合いに手紙を出せと言っていた。
最初は誰かと思ったが、俺が手紙を出す相手と言えば、一人しか
いない。
彼女に助力を願え、ということだろう。
ロキシーは頼りになる人だ。
人神もたまには粋な提案をする。
﹁はい。僕の尊敬する⋮⋮先生です﹂
師匠です、と言おうとして、俺は言葉を変えた。
そういえば、師匠と呼ぶことは禁止されていたのだった。
最近は、師匠が凄い、師匠が凄いと色んな人に言っていたが⋮⋮。
まあいいか。
﹁そう、ルーデウスの尊敬する人なら、立ち寄って会っておくべき
よね。
何か力になってくれるかもしれないし﹂
エリスはそう言って、一人でうんうんと納得していた。
ロキシー。
優秀な彼女なら、強い力になってくれる。それは間違いない。
とはいえ、ロキシーも宮廷魔術師だ。
忙しいだろうから、あまり世話を掛けたくない。
ただでさえ、世話になりっぱなしだし、生徒として情けない所も
1499
見せたくない。
もっとも災害や捜索という建前を抜きにしても、
会いたいという気持ちは変わらない。
魔神語辞典のお礼も言いたい。
あれがなければ、俺はまだ魔大陸にいたかもしれない。
転移で失われてしまったのが悔やまれる。
あれは写本して全世界にて販売すべきものだった。
﹁ルーデウスの先生、会ってみたいわね﹂
﹁ふむ、俺も興味があるな﹂
エリスとルイジェルドも興味を示したらしい。
旅の最中でも、時折ロキシーの名前を出して絶賛していたからだ
ろうか。
ロキシーはどこに出しても恥ずかしくない自慢の先生だ。当然だ
ろう。
﹁では、シーローン王国に到着したら紹介しますよ﹂
そんな約束をしつつ、俺たちは旅だった。
−−−
まずは街道沿いに進み、王竜王国の首都ワイバーンを経由する。
この首都から、王竜山を東西2ルートへの道が伸びている。
まっすぐに北へと伸びていくルート。
そして、西へと伸びていくルート。
1500
当然ながら、俺たちは北へのルートを選択する。
首都ワイバーンには、期せずして一週間ほど滞在することになっ
た。
当初の予定では3日ほどで立つ予定だったのだが、
買ったばかりの馬車の調子が悪く、修理に時間を要したのだ。
やはり中古の安物はよくない。
石や鉄で作られたものなら俺でも多少はなんとかなるが、
木材を魔力でどうこうすることは出来ない。
修理工にはやや多めに金を渡し、早めになおしてもらうことにし
た。
焦りはない。
人神に見せられた光景では、アイシャが二人の男に絡まれていた。
心配はしているが、人神は、俺があの場に居合わせると言ってい
た。
なら、あるいは馬車が壊れたこの事件は、運命操作的な何かの結
果なのかもしれない。
恐らく、急ぎすぎても、あの場面には遭遇できないのだ。
心はなるべく平常心に。
そう思いつつ、ワイバーンを見て回った。
王竜王国は、この世界で三番目にでかい国だ。
中央大陸南部の雄で、4つの属国を従えている。
かつては、中央大陸南部に多数存在する国の一つだったらしいが、
北西にある王竜山の王者、王竜王カジャクトを倒し、
その縄張りにある膨大な鉱物資源を手に入れたことで、
1501
一気に強国へとのし上がった国だ。
世界に散らばる48魔剣の発祥の地であり、
北神英雄譚の一節にも語られる場所。
数々の逸話がありつつも、伝統をそれほど重要視している感じは
しない。
アメリカのような、雑多な感じのする国だ。
この町には、鍛冶場や剣術道場が多い。
道場はチラリと覗いてみたが、子供相手に教えている所が多かっ
た。
道場主ですら上級という場合が多いようだ。
エリスは一目みただけで大したことないわねと鼻で笑い、ルイジ
ェルドにたしなめられていた。
さて、そんな町にて行方不明者に関する情報収集をする。
冒険者ギルドにはパウロの手先がいて、この国に大した情報が無
いことを教えてくれた。
やはり、もうこの時期になると、そうそう行方不明者が見つかる
ものではないらしい。
その後、いつも通りの市場調査。
ワイバーンは、中央大陸の特産物とミリス大陸の特産物の両方が
売られている町だった。
食材の幅が広い。
そんな市場において。
俺は、ようやく発見した。
米が売っているのを目撃した。
米、米である。
1502
やや黄色がかっているが、確かに米である。
この国の店で出てくるのは、スプーンで食べやすいように作られ
たパエリアや粥のようなものだ。
俺の求めるものとは少々違う。
俺は白い飯が食いたい。
無いなら、自分で作ろう、そう思い、衝動買い。
俺に米を炊くスキルは無いが、そこは店の人に丁寧に聞いた。
購入した3合程度の米、土魔術で丁寧に作ったはんごう。
そして店の人に教わったレシピを元に、米を炊く。
脇には、塩と卵が用意してある。
真剣な顔ではんごうに火を掛けていると、
途中、エリスが寄ってきた。
﹁何をしているのよ?﹂
﹁実験です﹂
﹁ふうん?﹂
エリスは興味なさそうに言うと、俺のすぐ脇で素振りを始めた。
チラチラとこちらを見ている。
どうやら、興味があるらしい。
俺は酒場の主人に借りてきた砂時計をひっくり返し、火力を強め
る。
少しずつ火力を上げるのがコツだと、店の男は言っていた。
砂時計を三回ほどひっくり返し、最後には火を弱める。
そして、更に砂時計を2回。
1503
最後には火を止め、砂時計を2回。
﹁出来た﹂
﹁ほんと?﹂
ぽつりとつぶやくと、エリスが素振りをやめて、俺のすぐとなり
にしゃがみ込んだ。
ふわりのエリスの匂いが漂う。
いい匂いだ。
だが、今は性欲より食欲だ。
彼女はわくわくした表情ではんごうを見ている。
俺もわくわくしながら、はんごうの蓋を開けた。
むわりと香るゴハンの匂い。
﹁いい匂いね。さすがルーデウスね﹂
﹁味を見てみないと﹂
俺はそうつぶやき、米を指でつまんで口に入れた。
⋮⋮⋮⋮ふむ。
﹁45点﹂
記憶にあるコシ○カリやササ○シキには遠く及ばない。
現代日本でランク付けをしたとしても、Cランクにも及ぶまい。
やはりこの国では米が主食ではないからだろうか。
ボソボソとしていて、雑味が強い。
色もやや黄色っぽい。
俺の炊き方がヘタクソだったのもあるだろうが、素材も悪いのだ。
ギンシャリなどとはとても呼べない。
1504
本当なら30点で赤点だが、久しぶりに食べた米はまずくはなか
った。
懐かしさで胸が一杯になった。
それを加味して、15点プラスだ。甘いね俺も。
﹁これって、昨日の夜にも食べたわよね?
どういう実験なの?﹂
﹁ここからが本番です﹂
俺は土魔術で作ったどんぶりにご飯を盛る。
そして、念入りに解毒魔術をかけた卵を溶く、そしてご飯の真ん
中に穴を開け投入。
その上から塩をパラパラとまぶす。
土魔術で作った箸を構え、両手を合わせて。
﹁頂きます﹂
﹁え? ちょ、ルーデウス、その卵⋮⋮生⋮⋮﹂
大きく口を開けて、黄色く染まった米をバクリ。
うむ、生臭い。
一応塩を掛けてみたものの、あまり変化は無いようだ。
こうして食べてみると、卵自体も若干ながら味が違う。
日本で食える生食用の新鮮なものとは違うのだろう。
やはり醤油が必要だな。
俺はこの世界で醤油を見つける事ができるのだろうか。
あるいは代用品を見つけたい。
などと思いつつ、一心不乱に飯をかっこむ。
1505
﹁ハムッ、ハフハフ、ハフッ!!﹂
﹁⋮⋮おいしいの?﹂
エリスの問いに、俺は土魔術で2つ目の丼をつくりだした。
そこにご飯をよそい、塩をパラパラと掛けてエリスに突き出す。
ついでに、スプーンを作り、手渡す。
まずは初心者用だ。
﹁⋮⋮ねえ、これってこれだけなの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮こくり﹂
俺は静かに頷いた。
ご飯はご飯だけで食べる事ができる。だからこそ主食なのだ。
自慢ではないが、生前の俺の全盛期には、山盛りご飯が主食。
握り飯がオカズだった頃がある。
白米さえあれば、どれだけでも食べる事が出来た時代だ。
﹁んー⋮⋮﹂
エリスはもそもそと微妙そうな顔で食べていた。
彼女はまだまだ子供だな。
だが、卵を掛けると、
﹁うん、さっきよりはいいわね﹂
と、頬をもちゅもちゅさせながら、食べきってしまった。
やはり卵掛けご飯は最強だ。
完全食だからな。
俺たちはそう言いつつご飯を完食し、
1506
最後におこげをパリパリと食って食事を終了した。
一人、卵掛けご飯にありつけなかったルイジェルドは何の文句も
言わなかった。
ただ苦笑していた。
彼は大人だ思う。
だが、申し訳ない事をしたと思う。
次回は彼にも食べさせてやろう。
−−−
王竜王国から出立し、街道を北上する。
シーローン王国にたどり着くまでにまたがっている国は二つ。
サナキア王国とキッカ王国。
どちらも王竜王国の属国のような立場である。
サナキア王国では米の栽培が盛んだった。
そういう風土なのか、街道を移動していると、一面の水田があっ
た。
このあたりは川が多く、気候も日本や東アジアに近いのかもしれ
ない。
食べてみると、王竜王国で食べたものと同じだった。
どうやら、ここで作られたものが王竜王国の市場に輸出されてい
るらしい。
とりあえず、ここの米はサナキア米と呼ぶことにした。
宿の食事は魚介系の炊き込みご飯が多く出てきた。
この世界では節制を心がけている俺であったが、やはり米の魅力
1507
には逆らえない。
今日もお腹は一杯。
俺の一日はハッピーエンドである。
最近、食事時になると、エリスがたまにポカンとした眼で俺を見
ている。
いつも食事時でもそれなりに小うるさい俺が無口で食べ続けてい
るので、
何か思う所があるのかもしれない。
﹁どうしました?﹂
﹁ルーデウスって、あんまり食べない方だと思ってたわ﹂
エリスにそんな事を言われる。
生前では小食なんて言われた事はない。
あればあるだけ食べてお代わりを要求するスタイルだった。
この世界にきてから節制できていたのは、食生活が合わなかった
からだ。
魔大陸における硬い肉中心の食事はさておき、
アスラ王国におけるパン中心の食事も、少々もの足りないものだ
った。
ゼニスの料理が悪いわけではないが、
米の味というのは俺の求めてやまないものなのだ。
うむ。やはり米はいい。
−−−
1508
食の探求だけでなく、冒険者ギルドにも顔をだす。
さすが中央大陸というべきか。
デッドエンドという名前を出しても、誰も驚きやしなかった。
しいて言うなれば、
アメリカで有名だからって日本にまで名前が知れ渡っているわけ
ではないという感じだろうか。
スー○ーマンを知っていても、キャプテンア○リカを知らない子
供が多いようなものだ。
とはいえ、彼らも冒険者だ。
デッドエンドという単語を聞いたことぐらいはあるだろう。
ただ、アメリカの有名人がふと日本に着たところで、コアなファ
ン以外は誰も騒がないって事だ。
スペルド族と知っても、それほど騒ぐ気配は無い。
結局、大事なのは髪の色なのだろうか。
この世界の差別は、現代日本のオタクに通じる所がある。
スペルド族は緑髪じゃなきゃスペルド族じゃない、
陸上部女子は黒髪ポニテじゃなきゃ陸上部じゃない、ってなもん
だ。
しかし、Aランクとなると、そこそこ注目されるらしい。
﹁よう、おめえら、見ない顔だな、
Aランクたぁな。最近結成したのかい?﹂
1509
俺たちに話しかけてきたのは、
ノコパラによく似た雰囲気をもつ男だった。
経験上、こういう男とは仲良くしたくない。
けど、邪険にしたら絡まれて面倒だ。
適当にあしらうに限る。
﹁結成したのは2年前ですよ﹂
﹁へぇ、ここらじゃ聞かねえな。
﹃デッドエンド﹄。確か、魔大陸の悪魔の名前だっけか?﹂
﹁ええ、魔大陸から旅してきたもので﹂
﹁ヘヘッ、またまた。そっちの男がその悪魔かい?﹂
﹁そうですが、あまり彼のことを悪魔と言わないでくれませんか?﹂
﹁なんでだ? そういう触れ込みじゃねえのか?﹂
﹁騒ぎになるので髪は剃ってますけど、本物ですから﹂
またまた、と男は笑った。
俺は真顔だった。
エリスは若干キレそうだったし、ルイジェルドも不快そうだ。
それを見て、男も冷や汗をかいていた。
﹁おい、まじなのか?﹂
﹁なんだったら、額の宝石も見せましょうか?﹂
﹁いや、いや、いい。悪かった。本物だとは思わなかった。いると
こにはいるんだな、スペルド族ってのは⋮⋮﹂
魔大陸にいるうちにAランクに上がれたのは良かった。
ルイジェルドが本物のスペルド族だという信憑性に繋がっている。
中央大陸は魔族への風当たりが強いのに、
なぜか魔大陸よりスペルド族を恐れてはいない。
危険が身近にあるかどうかって事だ。
1510
羆を安全だなどと言う人は、実際に山で羆に遭遇したことのない
人なのだ。
ネームバリューは使えなくなったが、
しかし恐れられていないのであれば、人気回復の難易度も下がる
だろう。
先の見通しは明るい。
とはいえ、なかなかいい案が浮かばないのも確かだ。
ルイジェルドフィギュアも、ミリスの宗教圏にいるうちは受け取
ってもらえないしな。
などと考えていると、エリスが先ほどの男を睨みつけていた。
﹁エリス。喧嘩はやめてくださいね﹂
﹁わかってるわよ﹂
﹁ならいいです﹂
エリスは最近、あまり絡まれなくなった。
彼女はこの一年ぐらいで物腰がかなり鋭くなっている。
素人臭さが抜けてきたのだ。
パッと見ただけで危険だとわかる相手に、どうして絡む奴がいよ
うか。
また、冒険者流の冗談もなんとなくわかるようになってきたらし
い。
何かを言われても、それが前に聞いたことのあるようなフレーズ
と気づけば、
不機嫌な顔をしつつも、それに対応したフレーズで返すだけの余
裕が出てきた。
それで相手が笑えば、エリスもドヤ顔で応じる。
1511
冒険者らしくなってきた。
もっとも、売られた喧嘩を買わないというわけではない。
エリスが若いのにAランクと見て、わりと本気で絡んでくる奴も
いるのだ。
そういうのは、Cランク程度の若いやつが多い。
実力もないのに、ルイジェルドに引っ張ってもらったんだろ?
というような感じで絡んできて、ワンパンで沈む。
そういう奴は、大抵どこの冒険者ギルドにもいるらしい。
バカな奴らだ。
ちなみに、俺もよく絡まれるが、
そーなんすよー、うちのダンナのおかげでウハウハっすよー、
などと言って適当にあしらっている。
実際、Aランクまで上がれたのはルイジェルドに頼った部分も大
きいからな。
エリスは俺のそういう態度が気に食わないようだが、
一人ではAランクになどなれなかっただろう。
謙虚になろうぜ。
−−−
更に北へと移動する。
キッカ王国では、アブラナのような植物の栽培が盛んだった。
1512
街道からも、白っぽい花が一面に咲いている花畑が見える。
ちなみに、この国でも米が主食だ。
食べ比べてわかったが、どうやら北にいくほど米の質が上がって
いるようだ。
これは、俺が一目惚れする米と出会う日も近いかもしれない。
だが、残念ながら、現在中央大陸の北のほうでは、小国同士の小
競り合いが続いている。
そんな状態では、おいしい米を作ることなど出来ないだろう。
実に残念だ。
この国では、﹃ナナホシ焼き﹄と呼ばれる料理が流行していた。
肉に麦粉や米粉で衣をつけて、高温の油で揚げる、というものだ。
要するに唐揚げである。
最近になって、アスラ王国の方で開発されて大流行、
その煽りが流れてきたらしい。
食用油が大量に取れる国以外では作りにくいらしいが、
この国は油の生産量が多い。
この国にきて知ったことだが、
アブラナの栽培は王竜王国がキッカ王国相手に強制させている事
業だそうだ。
サナキア王国で水田が盛んなのも、王竜王国の指示だとか。
属国も大変だ。
ちなみにこの唐揚げも、少々味が悪い。
肉にしても羊や豚だったりすることが多いし、
油の温度が適切ではないのか、やや固かったりベチャっとしてい
1513
たりする。
下味もきちんとつけていない。
もちろん、岩塩や乾燥ハーブ、この土地に伝わるソース等で味に
変化を付けられてはいる。
ゆえに、まずくは無い。
むしろ、よくできていると褒めてもいい。
食べる専門の俺でも工夫の程がわかるのだ。
この国の料理人は頑張っている。
だが、俺も渇望する味とはやや違う。
やはり醤油が無いのがよくないのだ。
下味には醤油とにんにく、生姜などを使い、甘辛く仕上げねば⋮
⋮。
﹁ルーデウス、最近食事の時間に難しい顔してるわね﹂
﹁奴は味にうるさいからな。思う所があるんだろう﹂
﹁十分おいしいと思うんだけど⋮⋮﹂
テーブルを囲む二人はそう言いつつ、むしゃむしゃと食べている。
彼らは食に関してはうるさくない。
俺だって、こんな所に来てまで美食な倶楽部の主宰者みたいな事
は言わない。
けれど、あと少し、あと少し醤油味があればと思わざるをえない。
﹁でも不思議な食感よね、カリカリしてて、噛んだらジュワッって
溢れてきて﹂
﹁ああ、うまいな﹂
おかわりを頼んでバクバクと食べる二人。
彼らは幸せだ。
1514
はじめて食べた料理を、うまいと思って食べられるのだから。
俺はこれ以上の味を知っているがゆえ、素直に喜ぶ事ができない。
白米と醤油味の唐揚げ。
そこに豆腐とワカメの味噌汁があれば、と渇望せざるをえないの
だ。
−−−
飽くなき食への探求。
もちろんその合間にも当然のように行方不明者の捜索をし、
しかし当然のように何の情報も得られない日々が続いていた。
そんな旅を続けつつ、四ヶ月。
俺たちはシーローン王国へとたどり着いた。
1515
第五十三話﹁シーローン王国﹂
シーローン王国に到着した。
シーローン王国は小国だが、200年程度の歴史を持つ古い国だ。
1000年単位で歴史の動いているこの世界で200年というと、
それほど古くないようにも思える。
だが、400年前の戦争で人族の国はアスラ王国とミリス神聖国
以外は全滅している。
中央大陸の南部は300年前に王竜王国が最南端の一帯を支配す
るまで、激しい紛争地域だった。
今でも、北にいけば紛争地帯が広がっている。
シーローン王国は、そんな紛争地帯にやや近い場所にある国だ。
そんな場所で、シーローン王国がなぜ200年も国を保っていら
れたのか。
正直、興味はないが、一応は知識としては知っている。
王竜王国と早い段階で同盟を結んだからだ。
もっとも同盟とはいえ、国力の差は歴然としている。
シーローン王国は、途中で立ち寄った二国同様、王竜王国の属国
みたいなものだ。
俺が興味があるのは、この国にロキシーがいるということだ。
あの幼くも⋮⋮いや幼くはないのか。
可愛らしく、ちょいドジな師匠は、まだこの国で宮廷魔術師をし
ているのだろうか。
王子に手を焼いているということだったが、きっと何とか頑張っ
ている事だろう。
1516
久しぶりに会いたい。
会って無事を伝えたい。
ロキシーの故郷に行った事を話したい。
王級の魔術というのも見せてもらいたい。
そう思いつつ、首都への道を移動する。
−−−
ここも王竜王国の属国みたいなものなのだが、
途中で立ち寄った二国と違い、植民地のような印象は受けない。
位置的に離れているためか、それとも紛争地帯の防波堤として役
だっているためか。
そのへんはよくわからない。
街道沿いに続くのは、統一感のない田畑や、放し飼いにされてい
る家畜。
あるいは休耕しているのか、クローバーのような牧草の植えられ
た区画。
俺に農業に関する知識は無いが、
この世界の住人も、何も考えずに作物を作っているわけではない
らしい。
そんな風景を横目で見ながら移動すると、シーローン王国首都ラ
タキアへとたどり着いた。
町を囲む城壁をくぐる。
1517
この世界では、主要な都市は大抵城壁に囲まれている。
ロアもミリシオンもそうだった。
キッカ王国やサナキア王国でも、大きな町には城壁があった。
見るからにファンタジーといった感じの、頼もしい城壁である。
城壁の存在は魔大陸でも変わらない。
むしろ、魔物の強い魔大陸の方が徹底していたと言える。
リカリスの町ほど巨大な自然防壁を持つ町はなかったが、
それぞれの町では、近くに住む各種族の特殊能力を使い、
堅牢な壁を作って町を守っているものだ。
また小さな集落でも、村周辺の魔物駆除は日常的に行なっていた
ようだ。
それにくらべれば、中央大陸の城壁は、あくまで格好をつけるた
めのものに思えてくる。
−−−
首都ラタキアに到着した。
町中に入り、いつも通り馬車を馬屋へと預ける。
この国の周辺には迷宮がやや多く存在しているためか、物腰の鋭
い冒険者が多い。
迷宮探索を主とする冒険者は数多く存在している。
パウロやギレーヌもそうだったし、ロキシーも一時期は迷宮に潜
っていたようだ。
迷宮探索者には凄腕が多いのだとパウロが言っていたような気が
する。
1518
シーローン周辺には迷宮が多い。
その一つでも最初に踏破できれば、莫大な資金が手元に転がり込
んでくる。
今、そこらを歩いている冒険者の中にも、
一攫千金を狙うSランク冒険者が何人もいるのだろう。
−−−
宿をとった。
いつもと同じ、Dランク冒険者向けの宿。
この町ではランクの高い冒険者が多いからか、低ランクの宿でも
値段が少々割高だ。
とはいえ、中央大陸の宿はDランク向けでも、魔大陸のCランク
向けよりも部屋の質が上である。
ゆえに、さらに部屋のグレードを落としてもいいのだが、
値段を気にしなくていいぐらいの金は持っている。
逆に言えば、もっと高いグレードの部屋をとることもできた。
かつてはもう少しいい部屋に、と思っていたものだが、
実際に金に余裕があっても、それほど贅沢はしない。
案外、俺は貧乏性なのかもしれない。
もっとも、この数ヶ月、食費だけは少々増えたが。
﹁さて、では、シーローン王国に到着しましたので、作戦会議を行
います﹂
1519
部屋にて待機する二人を前に、俺はいつも通り宣言する。
パチパチとおざなりな拍手。
すっかり手馴れてきた。
﹁さて、では、何から決めましょうか⋮⋮﹂
﹁ルーデウスの先生に会うのよね?﹂
エリスの言葉に、俺は考える。
人神の言葉を思い出す。
﹃アイシャ・グレイラット。
彼女は現在、シーローン王国にて抑留されています。
あなたは今の場面に出くわし、助ける事になるでしょう。
しかし、決して名前を名乗ってはいけません。
﹃デッドエンドの飼主﹄を名乗り、彼女に事情を聞いてください。
それから、シーローンの王宮にいる知り合いへと手紙を出すので
す。
さすれば、リーリャ、アイシャの二人を、
シーローン王宮から救い出す事ができるでしょう﹄
そんな感じだったはずだ。
これを全面的に信用するのであれば⋮⋮。
つまり、俺としては、夢でみた路地を探して歩きまわればいい。
エリスとルイジェルドは一緒に連れて行くべきだろうか。
俺は一人になるとどうにも失敗する事が多い、
今回は一人で、とは指定されなかったから、三人で行くべきだろ
うか。
しかしながら、夢でみたあの光景。
1520
そこに出てきた兵士二人。
彼らの格好は、町中でも何度か見た。
この国の正規兵の格好だ。
少し考えてみよう。
人神の言葉にもあるように、リーリャとアイシャの二人はシーロ
ーン王宮にいるのだろう。
そして、王宮に抑留されているアイシャ。
彼女は、どうやってか王宮から逃げ出してきた。しかし王宮の兵
士に追いつかれる。
俺がそこにかち合うわけだ。
それを真正面から助けるとなると、王宮と真正面から事を構える
事になる。
ゆえに、決して名前を名乗ってはいけないと言った。
ここで偽名を名乗る。
顔も隠したほうがいいかもしれない。
騎士たちが偽名の俺を探している間に、
俺はシーローン王宮の知り合い︱︱ロキシーに手紙を送り、助け
を求める。
ロキシーも宮廷魔術師なら、それなりに発言力はあるだろう。
きっと助けになってくれるはずだ。
また世話になる事になる。
本当にロキシーには足を向けて寝られないな。
逆に足を向けて寝てもらえれば、寝ている間に綺麗に掃除してし
まうだろう。
うん、簡単に考えれば、この助言はそういう流れだろう。
1521
が、人神の事だ。
何か企んでいる可能性もある。
この助言の後に、﹁あまり詳しいと面白みに欠ける﹂と発言して
いた。
つまり、奴にとって面白い出来事が起こるというわけだ。
恐らく、それは避けられない事だろう。
とはいえ、奴は﹁次回は信用してほしい﹂と言っていた。
なら、多少きつい展開が待っていたとしても、
俺が大怪我を負ったり、身内の誰かが死んだりするような事態に
はならないと予想できる。
あくまで奴を信用するなら、だ。
今回、確実に騙すためにあんな嘘をついただけで、
次回など考えていないかもしれない。
しかし、だからといって、無駄に逆らって事態が悪化したら目も
当てられない。
手のひらで弄ばれている感じがしてイヤだが、言うことを聞くし
かあるまい。
何にせよ、
アイシャを探す、名前を隠す、ロキシーに手紙を出す。
この3つは鉄板だろう。
しかしさて、どうやって二人を説得するか。
手紙はいいとして。
路地裏を探す理由、
名前を隠す理由、
二つ同時に考えなきゃいけない。
1522
ミリシオンを出立してからというもの、
一日を休日に指定してもエリスかルイジェルドのどちらかが、
必ず俺に付いてまわるようになった。
パウロでの一件で俺が落ち込んでいたのが、よほど心に残ってい
るらしい。
それだけ心配を掛けたということだ。
申し訳ない。
とはいえ、今回は騎士と事を構える可能性が高いし、
演技のヘタな二人を連れていくと、藪から野生の蛇が飛び出して
きそうだ。
スネークはどこにだって潜伏しているのだ。
さて、どうしたものか。
﹁ルーデウス、何を悩んでいるの?﹂
長時間言葉を止めた俺に、エリスが小首をかしげて聞いてくる。
ふむ⋮⋮。
案ずるより産むが易しというし、言ってみるか。
﹁実は、この町では名前を隠したいと思いまして﹂
﹁また演技をするの? どうして?﹂
﹁⋮⋮えぇと﹂
人神のことは伏せておくにしても、
二人のことを伏せておく必要はないか。
﹁実は、ある筋からの情報なのですが、
この国のどこかに、僕の家族が囚われているそうなのです﹂
1523
﹁そうなの?﹂
﹁ほう﹂
どこで、誰から聞いたなどと、二人は聞かなかった。
そもそも、情報収集もこの二人のどちらかと行なっていたのだが。
突っ込んで聞かれないのは、俺としても都合がいい。
﹁なるほど、グレイラットって名乗ったら警戒されるもんね!﹂
﹁そういうことです﹂
﹁で、誰がいるの?﹂
﹁リーリャとアイシャ⋮⋮元メイドと妹ですね﹂
そういえば、俺から見て、リーリャは何と呼べばいいのだろうか。
継母ではないだろうし⋮⋮。
﹁ルーデウスの妹?
ミリシオンにもいたわよね?
生意気そうなのが﹂
﹁もう一人いるんです﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
エリスはつまらなさそうに口を尖らせた。
ノルンは生意気そうか。
俺はそう思わなかったが、
エリスにしてみれば、あの態度も生意気に見えるのだろうか。
妹が殴られたら、俺はどっちの味方をするんだろう⋮⋮。
﹁そういうことなら、文句はないわ!
さすがルーデウスね、よく考えてる﹂
1524
エリスはフフンと鼻を鳴らした。
考えているといっても、人神の甘言に乗っているだけなのだが。
うーむ。騙しているようで気が引ける。
﹁名前を隠すのよね。偽名を名乗るの?﹂
﹁よくある名前の方がいいだろうな﹂
﹁どうして?﹂
﹁偽名は憶えられない方がいいときく﹂
悩ましく思う俺を尻目に、二人はあれこれと偽名を考えだした。
﹁このへんで有名な名前ってどういうのがあったかしら﹂
﹁旅の最中では、シャイナやレイダルという名前をよく聞いたな﹂
死神騎士シャイナは北神英雄譚に出てくる女騎士。
北神三剣士の一人で、かつ北神の伴侶の一人。
どんな過酷な戦場からでも必ず帰還するという、異能○存体みた
いな人物だ。
もっとも、それは恐らくフィクションだろう。
とはいえ、ここいらの人々の間では、我が子が不慮の事故で死な
ないようにと、
シャイナという名前をつけることが多いと聞く。
レイダルは水神だ。
カウンターの天才で、海を凍らせながら足場を造り、海竜王を倒
した英雄である。
その偉大なる人物の名前をもらい、水神流の宗主は代々、男なら
レイダル、女ならレイダを名乗る。
こちらも、名前としては結構多い。
水神流を習うとなると改名する場合も多いが。
1525
名前を隠すと言っただけで、二人はちゃんと考えてくれている。
ありがたい話だ。
しかし、人神は﹃デッドエンドの飼主﹄を名乗れと言っていたよ
うな気がする。
いや、あれはアイシャに対してそう名乗ればいいという話だった
か。
ふむ、ならいいか。
よし、俺も真剣に考えよう。
﹁ルーデウス、どうするの?﹂
﹁そうですね、この場合は、いっそ完全に偽名だとわかった方がい
いかもしれません﹂
﹁どうして?﹂
﹁僕らは顔も名前も知られていませんし、あえて派手な名前を名乗
れば、目的がわからず、相手方も混乱するかもしれません﹂
と、昔どこかのアニメで見たような事を言ってみる。
ぶっちゃけ、偽名なんてなんでもいいのだが⋮⋮。
﹁じゃあ、カッコイイのがいいわね﹂
カッコイイのか。
シャドームーンナイト
﹁わかりましたよ、じゃあ僕は影月の騎士とでも名乗りますよ﹂
﹁シャドームーンナイト!?﹂
エリスが頬を染めて眼をキラキラしていた。
実物は給食当番みたいな格好してるんだがな。
1526
しかもキザったらしい川柳を吐く。
エリスだったら見た瞬間ぶん殴るんじゃなかろうか。
﹁私もそれにする! あ、でも同じだと困るわね、ええと⋮⋮﹂
そんなに気に入ったのか。
ソード
よし、じゃあナイツな名前を授けよう。
ンス
ラ
﹁では、エリスは影月の剣士と、それで、ルイジェルドが影月の槍
士にしておけばいいですね。そうすればお揃いです﹂
﹁いいわね、お揃い! それで行きましょう﹂
ルイジェルドはそんなので恥ずかしくないのかと思ったが、まん
アクアハーティア
ざらでもないようだ。
パウロも﹃傲慢なる水竜王﹄をかっこいいとか言っていた。
この世界には中二病とか無さそうだ。
﹁でもルーデウスが騎士って感じじゃないわよね﹂
オメガ
決まりかけてから、エリスがぽつりとつぶやいた。
エビル
騎士じゃないって。
じゃあ俺は魔術師か司令官とでも名乗るか?
⋮⋮まぁ実際に名乗るかどうかわからんし、なんでもいいんだが。
状況で判断して、ダメそうなら飼主と名乗ればいいわけだしな。
﹁では、偽名はそんな感じで﹂
﹁そうね、それからどうするの?﹂
﹁とりあえず、王宮にいるロキシーに手紙を出して⋮⋮返事が来る
までは情報収集ですかね﹂
1527
俺はそう宣言した。
自由時間に探し回れば、例の場面に遭遇するだろう。
うまく事が運ぶように頑張るとしよう。
−−−
翌日。
市場で便箋と封筒を購入し、手紙を書く。
まずは時節の挨拶などを書きつつ、転移しても無事だったという
旨を書く。
それから、元気にやっていたので心配ない。とりあえずシーロー
ン首都まできているので会いたいと書く。
ブエナ村での面々が行方不明であることにさりげなく触れ、
捜索中で誰も見つかっていなくて心配だと不安を煽り、
それから、メイドのリーリャのことにさりげなく触れ、
大事な事なのでもう一度家族が心配だと締めくくる。
それらの文面の頭文字に、﹁助けてください﹂と縦読みを配置。
これだけ書いておけばロキシーでも気づいてくれるだろう。
これを蝋で封印をして、ロキシーペンダントの模様を形どった印
鑑︵自作︶をペタリ。
差し出し名は迷ったが、ロアにいた頃には何度もルーデウスの名
前で出していた。
ここも偽名にしようと思ったが、名前を見て﹁知らん誰そいつ﹂
と捨てられたら困る。
ロキシーはそういうドジをたまにするのが玉に瑕だ。
1528
﹃貴方の生活を見守りたい愛弟子ルーデウス・グレイラットより﹄
と。
おそらく偽名で書いても、ロキシーなら俺の字を見ただけでピン
ときてくれるだろう。
とはいえ、肝心な所でおっちょこちょいっと失敗するのがロキシ
ーだ。
手紙の行方はロキシーの手にわたってみるまでわからない。
シュレディンガーのロキシーだ。
拾ってくださいという箱に入ったロキシーが脳裏に思い浮かぶ。
おお、神よ、ダンボールは逆さにして隠れるものですぞ。
ま、それはともかく、中身を読んでもらえる可能性を高めるに越
したことはない。
﹁では、手紙を出してきます﹂
﹁ああ﹂
﹁はい、いってらっしゃい﹂
エリス達は満面の笑みで俺を見送った。
てっきり付いてくるものかと思ったが、拍子抜けである。
﹁あれ? 二人はどうするんですか?﹂
﹁町でルーデウスの妹の情報を探ってみるつもりよ﹂
ああ、そういえば情報収集をするって言ったか。
まあ情報は力だ、集めておいて損はないだろう。
むしろ、情報を集めずに事に当たろうとしていた自分の迂闊さに
呆れる。
1529
﹁そうですか、よろしくお願いします。
僕も手紙を出したら、少し情報収集をしてみるつもりです﹂
そう言って、二人と別れた。
−−−
冒険者ギルドで手紙を出してから数分後。
俺は尾行されている事に気づいた。
最初はルイジェルドが俺を監視しているのかと思った。
俺は一人にすると何かしら問題を起こす。
なので、問題が起きた時のためにスタンバっているのかと。
しかし、この数ヶ月、ルイジェルドはわざわざ尾行などせず、俺
と行動を共にしていた。
そもそも、ルイジェルドの尾行能力は極めて優秀だ。
俺が気づけるわけもない。
今俺の後ろにいる奴の尾行はお粗末だ。
ルイジェルドではあるまい。
そして、恐らくエリスでもないだろう。
エリスは尾行がヘタだ。宿を出た時から気配がしていてもおかし
くない。
わざわざ冒険者ギルドからつけ回す理由も思いつかない。
では誰か。
1530
この国において俺に恨みを持つ者⋮⋮心当たりはない。
なにせ、この国には昨日きたばかりだ。
これから国と事を起こす可能性は高いが、今の所は誰にも迷惑を
かけていない。
それとも、魔大陸でやらかした事件の内の一つの関係だろうか。
魔大陸から、わざわざ俺たちを追ってきて、復讐しようというの
だろうか。
バカな。
ザントポートの密輸組織の生き残り、という可能性もある。
偶然見かけた俺を、この機会に始末しようという腹づもりかもし
れない。
もっとも、何の関係もない可能性も高い。
俺に見つかるなど、追跡術がお粗末な証拠だ。
曲がり角を曲がる際、チラリと後ろを見てみる。
小さな影がサッと物陰に隠れるのが見えた。
子供だ。
近所の子供が、なんとなく生意気そうな俺を悪人に見立てて尾行
ごっこしているのかもしれない。
何のために、などとは思わない。
突発的にそういう遊びをする子供もいるだろう。
どこかに隠れて、慌てて追っかけてきた所を﹁ワッ﹂と脅かして
やろうか⋮⋮。
いや、この世界には小人族なんていう背の低い種族もいる。
油断は禁物だ。
どこかで撒くことにしよう。
1531
そう考えて、2つほど十字路を右折し、やや狭い路地へと入って
いく。
﹁⋮⋮ん?﹂
ふと、何か違和感を覚えた。
が、俺はさして気にせず、土壁を作った。
俺の魔力によって3メートルほどの壁が唐突に地面からせり上が
り、路地を袋小路へと変えた。
壁の向こうから、タタッと慌てて走ってくる音が聞こえた。
そして、力なく壁を叩く音。
魔術や剣術を使い、壁を破ろうとする気配はない。
もしかするとエリスが追いかけてきたのかとも思っていたが、
彼女ならこのぐらいの壁は飛び越えられる。
やはり近所の子供のイタズラだったのだろうか。
俺はそれに満足すると、その場を後にする。
さて、子供を撒くために少々路地の奥まできてしまった。
大通りはどっちだったか。
やや迷子気味だ。
まあ、大きめの通りが見つかればすぐわかるだろう。
そう思いつつ、曲がりくねった路地を歩くのだが、
思った方向に行けず、四苦八苦する。
この町は大通りですら曲がりくねっている。
碁盤目のミリシオンとは大違いだ。
迷子属性のない俺ですら、今まさに迷子になろうとしている。
1532
いざとなれば魔術を使って屋根の上にでも登ればいいのだが。
そういえば、人神に見せられた光景も、こんな路地だったか。
﹁あっ!﹂
と、そこで俺は先ほどの違和感に思い至った。
デジャヴュ
あれは違和感ではない。
既視感だ。
すぐに踵を返した。
曲がりくねった路地を走る。
ト型になった三叉路で迷いつつも、背後を振り返りつつ、先ほど
の道を戻る。
﹁やだ、やめてぇ!﹂
少女の悲鳴が聞こえた。
俺の視界にも、自分で作り上げた土壁が見えた。
﹁返してよぉ!﹂
俺は土壁に手を当てると、魔力を集中した。
土魔術によって壁を操作して亀裂を入れる、
同時に風魔術を使い、壁の中心に衝撃波を発生させる。
ボゴンと大きな音がして、土壁は粉々に砕け散った。
俺の視界にその光景が入ってくる。
1533
一人の少女が乱暴に手を掴まれている。
手を掴んでいるのは兵士。
兵士は二人。
手を掴んでいない方は少女から取り上げた紙をビリビリに破いて
いる。
﹁お父さんに出す手紙を破らないで!﹂
二人の兵士は、唖然とした顔で俺の方を見ていた。
﹁な、何者だ⋮⋮?﹂
少女。
リーリャの面影を持ち、パウロによく似た茶髪をポニーテールに
まとめ、
ダボッとした小さなメイド服を着ている。
普段は飄々として活発そうな印象を受けるだろうその顔は、
クシャクシャに歪み、涙と鼻水で濡れていた。
それを見下ろす、下卑た顔をした⋮⋮⋮。
いや、兵士二人は下卑た顔はしていなかった。
どちらかというと、申し訳なさそうな顔だ。
あくまで仕事でやっているだけで、本意ではないのかもしれない。
﹁何者だ! 名を名乗れ!﹂
﹁僕はその子の⋮⋮﹂
おっと、名前を名乗ってはいけないんだったな。
えっと。
1534
シャドームーンナイト
ナイト
﹁我が名は影月の騎士!﹂
﹁なにが騎士だ、どうみても魔術師ではないか﹂
﹁うぐっ⋮⋮﹂
エビル
的確にツッコまれてしまった。
くそう。
次回があったら、魔術師と名乗る事にしよう。
まあいい。
﹁いいか坊主。正義の味方ごっこをするのはいいが、
おじさんたちはこれでも王宮の兵士なんだ。
彼女が迷子になってたから、迎えにきただけなんだよ﹂
挙句、ヤンチャな子供を見るような眼で、優しく諭された。
この言葉には少々の嘘が混じっているのだろうが、
脇の騎士も泣きじゃくるアイシャを見て、やや困った顔をしてい
る。
悪い奴らではないのだろう。
王宮に何かしら問題があってリーリャとアイシャが抑留されてい
るのだとしても、
末端の騎士まで悪いというわけではないのだろう。
もしかすると、この兵士たちとは敵対してはいけないのではない
だろうか。
戦うのではなく、話し合いで解決した方がいいのではないだろう
か。
﹁彼女の持っていた手紙を破いていたようですが?﹂
﹁あ∼⋮⋮あれは、まぁ、なんだ。いろいろあるんだよ、大人には﹂
そうだな、大人には色々あるよな⋮⋮。
1535
﹁あっ!﹂
と、その時アイシャが一瞬の隙を付き、兵士の手を振り払った。
﹁だっ、だずげでください!﹂
まっすぐに俺の元へと走り、俺の後ろに隠れ、涙と鼻水で顔をぐ
しゃぐしゃにしたまま、すがりついてくる。
その顔と必死さを見れば、王国と敵対とか、どうでもいい気分に
なった。
﹁あ、あのびどだりが、ぶりやりあだぢのでがびぼやぶびで⋮⋮﹂
何いってんだかわからないが、必死さだけは伝わってきた。
やめだやめだ。
俺のようなアダルトな中年にはヤングな正義の味方ごっこはでき
ん。
いつも通りやらせてもらおう。
﹁⋮⋮ふん!﹂
唐突に手を上げ、無詠唱からの岩砲弾。
﹁むっ!﹂
騎士は唐突に飛来した岩砲弾を、咄嗟に抜き放った剣で脇へと逸
らした。
うおお、反応はええ!
1536
水神流か。
やりにくいな。
でもまあ、俺が使えるのは岩砲弾だけじゃない。
この距離なら余裕だ。
ふふ、俺の岩砲弾を避けたのは、お前で4人目だぜ。
﹁無詠唱魔術だと!?﹂
﹁じゃあこいつ、もしやロキシー殿の!?﹂
﹁本当に来たのか!﹂
﹁応援を呼べ!﹂
﹁わかっ、うおおぉぉ!﹂
俺は駆け出そうとする騎士の足元に、落とし穴を設置した。
没シュート。
同時に岩砲弾を連発しながらもう片方の騎士を牽制しつつ、アイ
シャに問いかける。
﹁逃げますよ、大丈夫ですか?﹂
﹁えぐっ、ぐすっ、うん⋮⋮!﹂
アイシャは泣きじゃくりながらも、コクリと頷いた。
よしよし。
あとはもう一人を気絶させて離脱するだけだな。
そう思った時だ。
ピイィィィ︱︱︱︱!
と、唐突に鳥の鳴き声にも似た、甲高い音が響き渡った。
音は穴の底から響いていた。
1537
笛だ。
警笛を鳴らしたのだ。
そして、やや間を置いて、遠くから、あるいはすぐ近くの路地か
ら、
次々と笛の音が響いてきた。
ピィィピッピッピィィ︱︱︱︱!!
それぞれ、鳴らし方や響きが微妙に違う。
おそらく、音の響きで位置を伝え合っているのだ。
俺の岩砲弾の手が止まるのを見て、兵士が口を開いた。
﹁この辺りの道は全て封鎖した!
もうすぐここにも兵が来る。
無駄な抵抗はやめて、その娘を離せ!
悪いようにはしない!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
やばい。
仲間を呼ばれてしまった。
恐らく、すぐにでもここに兵士だか騎士だかが殺到するだろう。
が、俺にはまだ手がある。
﹁アイシャ、僕にしっかり捕まってください!﹂
﹁えっ!?﹂
﹁絶対に手を離してはいけませんよ!﹂
アイシャは戸惑いつつも、俺の腰の当たりに手を回し、ガシリと
掴んでくる。
1538
アースランサー
俺は左手で彼女の服を掴み、右手に魔力を集中させる。
足元に先端を平たくした土槍を発生。
その勢いで人間砲弾のように中空へとぶっとんだ。
﹁な、なにぃ!?﹂
﹁キャァァァァァァ!﹂
兵の狼狽する声とアイシャの悲鳴を聞きつつ、
俺はその場から華麗に脱出した。
わはは、さらばだ明痴くん!
ちなみに、調子にのって高めに射出したら、両足がボッキリ折れ
ました。
こういう危険な魔術は日頃から練習しておかんといかんね。
1539
第五十四話﹁神の不在﹂
魔術でカタパルト脱出した後、アイシャはしばらく泣いていた。
エグエグと泣きながらガタガタと震えて、おしっこまで漏らして
いた。
気持ちはわかる。
俺だって強面の男に腕を掴まれて恫喝されたら、
漏らしはしないまでも、足をガクガクと震わせてしまうだろう。
漏らしはしないまでもな。
あの騎士ふたりはどちらかというと紳士的な方だろうが、
5∼6歳の子供には、少々刺激が強いだろう。
年齢差というのは、小さい頃は顕著に現れる。
例えば、小中学生にとって、高校生は妙に大人に見えるものだし、
高校生が道端にでも溜まっていれば、彼らがとっぽい格好をして
いなくても、妙に怖いものだ。
まして相手は兵士二人。
さぞ恐ろしかっただろう。
決して、すぐ近くで両足が折れる音を聞いたせいじゃないと思い
たい。
すぐにヒーリングで治したが、あれは痛かった。
俺は彼女がおもらしした事には言及せず、
1540
粛々とパンツを洗濯している。
場所は宿屋である。
帰ってきた時には、エリスもルイジェルドもいなかった。
情報収集に赴くと言っていたので、帰るのは恐らく夜になるだろ
う。
さて、俺はここで、また不思議な体験をしている。
先ほど、アイシャのダボついた小さなメイド服を脱がせ、
ぐっしょりと脱がせたパンツを剥ぎ取り、
彼女の未発達な小文字のIとその周辺を、即席オシボリで拭いて
やり、
俺が普段着としているシャツをきせてやった。
手元には洗濯用の木桶と石鹸、そして女児用のパンツである。
生前の俺であれば、このシチュエーションとアイテムに興奮状態
に陥ったであろう。
考えても見てほしい。
すぐ近くのベッドに、おもらしをして泣きじゃくり、
一度全裸に剥かれてから、だぼだぼの俺の服をきせられた幼女が
いるのである。
もちろんノーパンだ。
紳士なら、誰しもこんな状況におちいれば興奮してしまうだろう。
エリスのパンツを履かせるわけにいかない。
彼女のパンツにはノータッチ。
それはこの﹃デッドエンド﹄における重要なルールの一つだ。
いくら非常事態だったとしても、彼女のいない間に荷物をあさり
パンツを取り出すなど⋮⋮。
1541
考えるだに恐ろしい。
ルールを破るとルイジェルドが助けてくれないし、
魔眼を使って逃げればエリスは3日ぐらいは不機嫌になる。
かといって無防備に殴られれば、3日ぐらい飯の味がわからなく
なるぐらい顔が変形する。
まぁ治癒魔術で治すんだが。
ビースト
ともあれ、心の野獣が遠吠えをしてもおかしくない状況だ。
しかし、そんな状況に置いて、
俺の心は穏やかな湖面の如く静かであった。
興奮どころか、波一つ立っていない。
明鏡止水。
不思議な事だ。
泣きじゃくるアイシャに﹁困った子だな﹂という感情は抱くとい
うのに、
それ以上の性的な興奮は覚えないのだ。
知らないうちに聖人男性にでもなってしまったのだろうか。
それとも、知らぬ間に俺はエリスの逆鱗に触れ、ポケットなモン
スターを戦闘不能にされてしまったのだろうか。
俺はその時の恐怖を忘れるため、記憶に封印を施したのだろうか。
いや、まさか。
そんな、大丈夫だよね、マイサン?
などと考えていると、あっという間に洗濯が終わった。
色気のない麻のパンツに、そこそこ高級そうな生地で出来た小さ
なメイド服。
1542
それらをアイシャに渡すと、
いつしか泣き止んでいた彼女は、いそいそと着替え始めた。
俺はじっとそれを見る。
やはり興奮しない。
この体は、家族には興奮しないのだろうか。
生前では老若男女お構いなしだったが⋮⋮。
生命とは不思議なものである。
−−−
﹁私はアイシャ・グレイラットといいます!
どうもありがとうございました!﹂
アイシャはだぼついたメイド服姿でペコリと頭を下げた。
それに合わせて、ポニーテールもピコンと揺れた。
やはりポニテはいいな。
エリスもたまにポニテにしているが、
彼女のポニテは運動部女子という感じだ。
それはそれでいいのだが、アイシャのとはまた少し趣が違う。
アイシャはお人形さんみたいで大変かわいらしい。
目が充血しているので呪いの人形みたいだが。
彼女は顔を上げると、ずいっと一歩近づいてきた。
近い。
﹁ナイトさまに助けてもらわなければ、連れ戻されている所でした
1543
!﹂
シャドームーンナイト
ナイトさまという単語を聞いて、
俺は彼女の前で﹃影月の騎士﹄と名乗ったことを思い出した。
背中に一筋の冷や汗が流れた。
エリスとの会話での事で、ちょっと調子に乗りすぎてしまったか
もしれない。
この歳で痒いものを感じて転げまわったりはしないが⋮⋮。
10年後ぐらいに、この事をネタに強請られたりするかもしれな
い。
そう考えると、ちょっと後悔。
﹁本当にありがとうございました﹂
再度、アイシャは深々と頭を下げた。
彼女、いま何歳だったっけか、6歳かな?
まだ幼いのに、礼儀正しい子じゃないか。
﹁助けてもらった上、一つ図々しいお願いをしたいのですが!﹂
﹁おう﹂
図々しい、なんて難しい言葉を知ってるんだな。
パウロの話でアイシャがリーリャから英才教育を受けていたのは
知っているが賢いなぁ。
﹁手紙を書く道具をください!
あと冒険者ギルドの場所を教えてください!
よろしくおねがいします!﹂
そう言って、ぺこりと頭を下げた。
1544
ぷりーず
人にものを頼むときはお願いします、ができている。
うん、いい子だ。
でも、ちょっと考えなしだな。
﹁その二つだけでいいんですか? お金はあるんですか?﹂
﹁⋮⋮お金は無いです!﹂
﹁手紙を書く道具も、手紙を届けてもらうのも、
お金が必要だって、お母さんに教わらなかったのかい?﹂
小さな頃からお金の大切さを学ばせるのは大事だ。
リーリャならそのへんも抜かりないかと思ったが、
物心ついてから数年では、教えられる事と教えられない事、
理解できる事と出来ない事があるんだろう。
﹁お母さんは、あたしみたいな子が上目遣いで﹁おとうさんのおて
がみおくりたいの﹂って言えば、
お金を払わなくても何とかしてくれるって教えてくれました﹂
あらやだリーリャさんたらお茶目さん。
自分の娘に何を教えてんだ。
女としての武器の使い方か?
そう思うと、この喋り方や仕草も演技っぽく見えてくる。
いや本当に、何を教えてるんだろうか。
﹁ずっとお父さんに連絡を取ろうとしてるんですけど、
お城の人がダメって言って、手紙を出させてくれないんです!﹂
リーリャは抑留されていると聞いている。
手紙も出させてもらえないらしい。
もしかして、割りと酷い事になっているんだろうか。
1545
人神も﹁助けだす﹂なんて単語を使っていたからな。
もしかすると、これはパウロにとって面白くないNTR展開かも
しれない。
﹁お父さん以外に⋮⋮その、他に頼れそうな人はいないんですか?﹂
﹁いません!﹂
﹁例えばそう、青い髪のお姉さんとか⋮⋮そう、どこかにいるはず
のお兄さんとか﹂
さりげなくそういうと、アイシャは眉根を寄せた。
不愉快そうな顔だ。
なんでだ。
﹁兄はいますけど⋮⋮﹂
﹁いますけど?﹂
﹁頼りにはなりません﹂
なんでや!
今さっきあんたのことを華麗に助けたやないか!
﹁り、理由を聞いてもいいでしょうか﹂
﹁理由! いいですよ!
お母さんは、兄のことを事細かに話してくれました﹂
﹁ほう﹂
﹁しかし、どれも信じられない事ばかりです!
三歳で中級魔術が使えただとか、五歳で水聖級魔術師になっただ
とか。
あげくの果てには、七歳で領主の娘の家庭教師ですよ?
とてもじゃないけど、信じられないです!
絶対に嘘です!﹂
1546
信じられないか。
そうか。
そうだろうな。
﹁でも、実際に会ってみると、いいお兄ちゃんかもしれませんよ?﹂
﹁ありえません!﹂
﹁な、なんで?﹂
﹁家には、お母さんが大事にしている小箱があるんです。
触るな、中身を見るなというので、なぜかと聞いたのです。
なんでも、兄の大切なものなのだからだそうです﹂
⋮⋮小箱?
さて、そういえばそんな話をパウロから聞いたような気もする。
﹁お母さんがいない時に、こっそり開けてみました。
すると、中に何が入っていたんだと思いますか!?﹂
﹁さ、さあ、なんだろう﹂
﹁パンツです。女物のパンツです。それも、サイズ的には結構小さ
い。
あたしの計算によると、14歳ぐらいの子のパンツです。
ありえませんですよ。そんな歳の人なんて、あの家にはいません
でした。
兄が姉という可能性も考えましたが、ちょっと大きい。
該当する人物はただ一人。兄の家庭教師だったという、ロキシー
という人物です。
兄は、4、5歳という年齢で、明らかに年上な女性のパンツを後
生大事にしていたのです﹂
計算て。
1547
ちょ、ちょっとこの子、賢すぎやしませんか?
え? まだ5歳か6歳ですよね?
なんか、こんな小さな子からこんな、すごいギャップが、あれぇ?
﹁でも、誤解という可能性もありますよね?﹂
﹁いいえ、さりげなく母に裏を取りました。
兄はそのロキシーという女性の水浴びを覗いたり、
父と奥方様の情事を覗いたりと、やりたい放題だったみたいです。
お母様は隠しているようですが、間違いありません。
兄は紛うことなき変態です!﹂
変態です!
変態です!
変態です!
紛うことなき変態です!
もひとつついでに変態です!
もうやめたげてよお、ルーデウスの精神力はゼロよお!
﹁そ、そうか、お兄さんは変態か、
そりゃ大変だね、ハハハ⋮⋮﹂
自業自得とはいえ、なんてこった⋮⋮。
まさか、こんな⋮⋮くそう。
なるほど。
こういうことか。
だから人神は名前を名乗るなと言ったのか。
今、心で理解できたよ。
さすが人神さんだぜぇ。
1548
﹁ところで、ナイトさん、本当のお名前はなんていうんですか?﹂
﹁ナイショです。巷では﹃デッドエンドの飼主﹄と呼ばれています
がね﹂
キリっとした顔で答える。
お兄ちゃんだと伝えるのは、もう少し後にしたほうがいいだろう。
変態扱いだしな。
﹁へぇ⋮⋮カイヌシさんですか。カッコイイですね!
やっぱり召喚術とか使えるんですか?﹂
﹁いいえ、二匹の凶暴な犬を使役できるだけですよ﹂
﹁そうなんですか、すごいですね!﹂
アイシャは目をキラキラさせて俺を見ていた。
子犬みたいだ。
しかも騙されている子犬だ。
ああ、ちょっと心が痛いぜ。
しかし、とりあえず結果オーライだ。
ここで俺が兄だと明かしていれば、アイシャは俺の言うことを聞
かなかったかもしれない。
だが、この調子なら、カイヌシの言うことなら素直に聞いてくれ
そうだ。
正体を隠したままリーリャをカッコよく助ける。
そうすれば、アイシャはカイヌシを尊敬の目で見てくるだろう。
そして、後で俺がお兄ちゃんだと知れた時に評価が鰻登りという
寸法だ。
1549
﹁よし。では僕が君のお母さんを助けだしてきます﹂
﹁えっ?﹂
そう宣言すると、アイシャはポカンとした目で俺をみていた。
﹁で、でも﹂
﹁任せてください﹂
こうして、俺はアイシャと出会った。
最悪な印象を持たれているようだが、目の前で父親をぶん殴った
ノルンほどではない。
ロキシーのパンツを持っていた事を変態などと言っていたが、
何、彼女にもいずれわかる日が来る。
人には縋るべき物が必要なときもあるんだってな。
しかし、この歳でパンツ=変態という認識があるのか。
性的な欲求と下着を結びつけるような年齢ではないし、
そもそも性欲というものを理解しているのかどうかも怪しい年齢
だというのに⋮⋮。
誰かに何かを吹きこまれたのかな?
うちの妹に変なことを教える奴にはキツイお仕置きをしてやらな
いといけないな。
﹁ところでカイヌシさん﹂
﹁なんですか?﹂
﹁なんで私の名前、知ってたんですか!?﹂
その後、俺の必死な言い訳が始まったが、それは割愛しよう。
1550
−−−
それから、しばらくアイシャと話をした。
ここ2年ほどの話だ。
アイシャからは、ここ2年の事を聞かせてもらった。
舌足らずで、説明不足だったが、大体の事は把握できた。
なんでも、彼女らはこの国の王宮に転移したらしい。
当然不審者として捕まったが、リーリャがあれこれと話をした結
果、
王宮に軟禁される下りとなったそうだ。
その前後関係については、アイシャは理解できていないようだっ
たが、
手紙すら出させて貰えないのには、何かしら理由があるらしい。
リーリャも酷い事はされていないようだ。
体が目当てというわけではないらしい。
もっとも、アイシャが知らないだけで、夜な夜な何かされている
可能性もある。
もっともリーリャはいい歳だし︵パウロより年上だそうだし三十
代中盤か︶、
王宮に住む人物がわざわざ監禁して手篭めにするような美貌とい
うわけでもない。
怪しい人物である事には変わりないから、抑留されているのか⋮
⋮。
1551
それにしては、少々おかしな部分もある。
転移から二年半。
ずっと誤解を解くことができず、抑留されっぱなしだったのだろ
うか。
俺の知らない何らかの事情が関与しているのかもしれない。
そういえば、ロキシーの名前は出て来なかった。
彼女はリーリャを助けてはくれなかったのだろうか。
⋮⋮いや、助けてくれたからこそ、今の状況に陥ってる可能性も
ある。
何はともあれ、今はロキシーの返信待ちだ。
彼女から事情を聞けば、パズルのピースがハマるように、全ての
疑問が氷解するだろう。
ちなみに、アイシャはそんな状況において、パウロに助けを求め
る手紙を出そうとしたそうだ。
しかし道に迷い、冒険者っぽい格好の人間を追いかければギルド
にいけると考えたんだと。
それが偶然にも俺だったと。
偶然って怖いね。
まぁ人神の思い通りなんだろうけど。
−−−
アイシャは俺の事を聞きたがった。
1552
﹁へぇー、カイヌシさんは魔大陸から旅してきたんですね﹂
﹁ああ、フィットア領の転移事件に巻き込まれましてね﹂
﹁その前は何をしていたんですか?﹂
﹁家庭教師ですよ。貴族のお嬢さんに魔術を教える﹂
﹁そうなんですか、どこで教えていたんですか?﹂
﹁ロアですよ﹂
﹁へぇ、じゃあうちの兄と一緒ですね!
もしかしたら町中でスレ違ったりしてたかもしれませんね!﹂
﹁そ、そうですね、その可能性も微粒子レベルで存在するかな⋮⋮﹂
話し方も歳相応とは思えない。
あえて大人っぽく振舞っているのかもしれないが。
それにしても、アイシャはリーリャから色んな事を学んでいるよ
うだ。
一般常識や礼儀作法、生活で役立つ知恵、メイドの極意、エトセ
トラ。
この幼さで理解できるのかと俺ですら不思議に思うのだが、
少なくとも、俺に理解できる程度には説明できるようだ。
賢いのだ、この子は。マジで。
小さなころから、教えられたことをスポンジのように吸収できる
力がある。
将来的にはどうなるだろうか。
俺には、兄としての威厳が保てるのだろうか。
﹁貴族のお嬢さんってことは、うちの兄の雇い主とも接点があった
かもしれませんし、
聞いた事はありませんか?﹂
1553
﹁い、いや、寡聞にして、そのような人物の事は⋮⋮﹂
﹁そうですかー。カイヌシさんから見た兄の印象を聞いておきたか
ったんですが﹂
﹁ええと、領主様の所のお嬢様が乱暴で手に負えないという噂しか
聞いたことはないですね﹂
ここで自分の情報を流したい気持ちが芽生えたが、グッと我慢。
どのみち後でバレるんだ。
その時に自作自演したなんて知られたら評価が下がるだろうから
な。
その後、魔大陸の事をあれこれと聞かれたので、詳しく話した。
この年齢の子と何を話せばいいかと思っていたのだが、
不思議と話題は付きなかった。
アイシャの会話能力が高いせいかもしれない。
そう思いつつ、
俺は純粋に、ほぼ初めての対面となる妹との会話を楽しんだ。
しばらくした後、アイシャは疲れたのか眠ってしまった。
エリスとルイジェルドは日が落ちきってから戻ってきた。
若干疲れた表情をした二人に事情を聞いてみると、
裏町の方まで情報収集に出かけたら、色々あって喧嘩になったら
しい。
また喧嘩だそうだ。
申し訳なさそうにする二人。
1554
まあ、いつものことだ。詳しくは聞くまい。
誰にだって失敗はする、俺だってする、何かあったら助け合えば
いい。
俺は町中でアイシャと出会ったことと、リーリャが城に捕らわれ
ている事を話した。
どうやら色々キナ臭いらしいと。
あとついでに、名前を伏せている事も話しておく。
特にアイシャには俺の正体がルーデウスだと知られないようにと
念を押す。
﹁どうしてそんな回りくどい事をするのよ?﹂
﹁どうやら、兄に対して間違った知識を教えこまれているようなの
で、
カッコいい所を見せて、その認識を正そうかと﹂
﹁ふーん、私はそのままでもカッコイイと思うけど?﹂
﹁エリス⋮⋮﹂
嬉しい事言ってくれるじゃないのと﹃いい男﹄な笑みを浮かべる。
するとエリスはたじろいで一歩後ろに下がった。
﹁うっ⋮⋮どうして褒めるとそういうニチャっとした顔するのよ!﹂
僕のキメ顔はニチャっとした顔らしい。
ちょっとショック。
誰か新しい顔をください。
﹁でも、そういう事なら今から襲撃ね!﹂
﹁城攻めは久しぶりだな⋮⋮﹂
1555
エリスがやる気満々でそんな事を言い出した。
ルイジェルドまで槍を持ち上げている。
俺は慌てて二人を止めた。
﹁いえ、とりあえずはロキシーの返事を待ちましょう﹂
と言うと、エリスはつまらなさそうな顔をした。
相変わらず、彼女は暴れるのがお好きなようだ。
難しく考えるより、城に襲撃してリーリャを攫った方が確かに簡
単だろうが、
それでロキシーに迷惑をかけたら目も当てられないからな。
まずは細かい状況を確認しなくては。
けっしてロキシーに会いたいからとかいう理由ではないですよ。
などと考えつつ、その日が終わった。
−−−
翌日。
そろそろ昼時という時刻。
宿に兵士がやってきた。
昨日アイシャを捕まえようとしていたのと同じ格好をした兵士だ。
念のためアイシャを部屋に残し、宿のロビーにて対応した。
ルイジェルドとエリスには念のため部屋にいてもらった。
1556
﹁ルーデウス殿でございますか?﹂
﹁はい﹂
﹁自分はシーローン第七皇子親衛隊に所属しているジンジャー・ヨ
ークと申します﹂
﹁これはどうもご丁寧に。ルーデウス・グレイラットです﹂
兵士は一人で、女だった。
彼女は俺の顔を見ても、顔色一つ変えず、騎士風の挨拶で一礼し
た。
俺も貴族風の挨拶にて返礼する。
どういった挨拶を返せばいいのかは実はわかってないのだが、
とにかく誠意が伝われば大丈夫だろう。
﹁ロキシー殿がお呼びです、王宮までご同行願えますか?﹂
どう見ても子供にしか見えないであろう俺に対し、随分と丁寧な
物腰だった。
特に顔を隠してはいなかったのだが、面は割れていないらしい。
しかし、王子の親衛隊か。
なぜ親衛隊が、と思わなくもないが、
ロキシーは王子の家庭教師をしているという話だ。
なら、別におかしくはないか。
﹁⋮⋮⋮﹂
同行しろと言われ、迷う。
アイシャをどうするべきか。
アイシャを連れて行けば、騎士に攻撃した事がバレるだろう。
1557
やはり、岩砲弾を放ったのは失敗だったかもしれない。
⋮⋮よし、ここは、アイシャには留守番をしていてもらおう。
ロキシーに緩衝材になってもらって話をつけた上で、きちんと謝
罪すればいいはずだ。
俺はそう決めると、アイシャに絶対に部屋から出るなと伝え、
エリスとルイジェルドに彼女の護衛を頼んでおいた。
そして、ロキシーに合うための身だしなみチェック。
髪の乱れはないか、服装はいつものローブでいいだろう。
あ、そうだ、菓子折りとかも必要だろうか。
この世界では、ご無沙汰していた師匠に会う時に何を持っていけ
ばいいのか。
と、そこで道具袋の端に、不人気ナンバーワンのルイジェルド人
形を発見。
そういえば、以前手紙でロキシー人形が本人の所に届いたって書
いてあった。
この人形を見せて、実は俺の作品でしたー、ってのも面白いかも
しれない。
﹁随分と念入りね﹂
﹁久しぶりに師匠と会いますからね﹂
﹁⋮⋮ちゃんと紹介してくれるのよね?﹂
﹁ええ、もちろん﹂
エリスとそんなやり取りをしつつ、準備完了。
﹁一人で大丈夫なのか?﹂
1558
ルイジェルドのやや心配そうな声。
俺も一人になると問題を起こす事が多いからな。
心配する気持ちはわかる。
﹁問題ありません。何かあったら飛んで逃げてきますので﹂
ばびゅーんとね。
﹁カイヌシさん⋮⋮﹂
﹁大丈夫です。任せておいてください﹂
不安そうなアイシャの頭をポンポンと撫でると、
彼女は口元をキュっと結んで、頷いた。
よし、いい子だ。
−−−
兵士ジンジャーに連れられ、王宮への道を歩く。
馬車の行き交う大通りの隅を二人で、やや足早に。
大通りは曲がりくねっていて、時折馬車がすれ違えないほど狭い
通路がある。
敵国に攻められた時の対策なのだろう。
生前の日本でも、美濃地方の町はこうして曲がりくねっていたと
聞き及んでいる。
﹁⋮⋮﹂
1559
ジンジャーは寡黙な人物のようで、余計な事は一切喋らなかった。
ただ、何かを聞けば口を開いてくれたし、物腰は常に丁寧だった。
﹁よーし、次はこいつだ!
こいつは元ワシャワ国の騎士! 戦闘用の奴隷だ!
ちとばかし生意気だが、腕は立つ! 金貨3枚からだ!﹂
ふと、そんな威勢のいい声が聞こえたので、そちらを見てみる。
大通りに面した場所に、奴隷市場があった。
お立ち台のような一際高い台の上に、奴隷が並んでいる。
人族が三人と、ウザギの耳をした獣族が一人。
男二人、女二人。
男も女も上半身は裸で、遠目からでも肌がテカっているのが見え
た。
見栄えを良くするため、油が塗られているのかもしれない。
あの獣族は、大森林から連れ去られてきたのだろうか。
助ける余裕も義理も無いとはいえ、少々眉根が寄ってしまう。
顔は眉根を寄せつつも、彼女の胸を見ていると股間の方が少々反
応してしまう。
アイシャに反応しなかったので不思議に思っていたが、
やはり俺もまだまだ現役のようだ。
奴隷の脇に立った商人があれこれと説明しているのが聞こえてく
る。
内容は聞き取れなかったが、おおかた奴隷の出自や能力といった
セールスポイントを上げているのだろう。
しばらくして、聴衆の方から声が上がり始める。
オークション方式なのだ。
1560
リーリャやアイシャも、運が悪ければあそこに並べられていたの
かもしれない。
そう考えれば、今の状況は決して悪いものではないと言えよう。
⋮⋮いや、結局のところ、リーリャが今どんな状況かわからない
ので、
なんとも言えないのだが。
ふと見ると、ジンジャーは奴隷市場を見て眉をひそめていた。
彼女はこの国の治安を守る者だ。
ああいう事を堂々とされるのは気に障るのかもしれない。
﹁奴隷市場というのは、もっと町の奥の方にあると思っていました﹂
そんな言葉を投げかける。
これも話題の一つだろうと思ってのことだ。
他の町では奴隷市場というのは、もっと奥まった所にあった。
この世界では別に奴隷自体は悪い事ではないそうだが、
大通りに面した所でやっているのを見たのはこれが初めてだ。
﹁そうですね、ああした競りも、いつもはもっと奥の方で行われて
います﹂
憎々しげに何かを言うかと思えばジンジャーは平坦な声音で返し
てきた。
﹁今日は何かイベントデーだったりするんですかね﹂
﹁いいえ。先日、元々奴隷市場があるあたりで冒険者同士の喧嘩が
あったそうです。
1561
それで市場が使用できなくなったので、一時的にこちらに奴隷市
場を移しました﹂
喧嘩か⋮⋮。
喧嘩、ね。
奴隷市場で喧嘩。
エリスとルイジェルドが起こしてきた喧嘩。
つながりがありそうな気がしてならない。
嫌な予感しかしないな。
そう思い、って奴隷市場の方を見ていると、
﹁どうぞ﹂
ジンジャーは俺の脇を掴み、よく見えるように持ち上げてくれた。
﹁あ、どうも﹂
よく気がつく人だ。
顔は平凡で、決して美女という感じではないが、
細かい所に気がつくなら、きっといいお婿さんを貰えるだろう。
﹁ロキシー殿も、人混みがあるとピョンピョンと飛び跳ねていまし
た﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁はい、しかしこうして持ち上げると複雑そうな顔をされました﹂
その光景が目に浮かぶ。
よく見えませんね、などといいつつピョンピョンと飛び跳ねるロ
キシー。
1562
それを見かねて善意で持ち上げる兵士。
憮然として下ろしてくださいと言うロキシー。
﹁ロキシー先生を持ち上げた事があるんですか?﹂
﹁はい、すぐに降ろせと怒られましたが﹂
やはりか。
﹁どこを掴んで、ですか?﹂
﹁どこと言われても、今のようにですが﹂
今の俺は、ちょうど脇の下辺りを持たれて、持ち上げられている。
﹁どんな感じでしたか?﹂
﹁ですから、複雑そうな顔をしてすぐに降ろせと﹂
俺が聞きたいのは、ロキシーの脇の下の感触についてなのだが⋮
⋮。
まあいい。
﹁下ろしてください﹂
ざっと見た所、特に面白いものもなかった。
これから売られるであろう奴隷が鉄格子の中にいるだけだ。
なのでさっさと下ろしてもらい、王宮へと足を向ける。
ふと思ったのだが、普通は王宮への迎えって馬車じゃないんだろ
うか。
まあいいか。
1563
﹁ロキシー先生は、王宮ではどんな事をしているんですか?﹂
共通の話題を見つけたと思った俺は、ジンジャーにそう訪ねてみ
る。
﹁普段は王子に勉強を教えていましたが、
暇なときは我々兵士の演習に参加していました﹂
そういえば、ロアにいた頃にロキシーから送られてきた手紙にも、
そんな事が書いて合った気がする。
﹁確か、魔術師との戦いを想定した演習を行なっていた、という話
でしたか?﹂
手紙によると、乱戦の最中にロキシーが魔術を放ち、それを受け
流すという訓練だ。
咄嗟に意識の外から放たれる魔術を受け流せるようになれば、
戦場で九死に一生を得ることも難しくないのだとか。
﹁そのとおりです。我々は皆、水神流の中級剣士なのですが、
ロキシー殿のおかげで咄嗟に魔術を掛けられても剣で受け流せる
までになりました﹂
なるほど、だから昨日の騎士は俺の岩砲弾を受け流せたのか。
木っ端な騎士にまで受け流されてちょっとショックだったが、ロ
キシーの教えの結果なら納得だ。
それから、しばらくジンジャーとロキシーについて話をした。
魔術の授業中にじゅうたんを焦がして真っ青になったロキシーを
見て兵士みんなでほっこりした事やら、
1564
食事に出てきたピーマンを、ロキシーが真っ青な顔でかまずに飲
み込んでいた事やら。
﹁ルーデウス殿の話も聞き及んでいます﹂
﹁ほう。な、なんて言ってました?﹂
﹁若くして無詠唱で魔術を操る天才だと﹂
﹁先生がそんなことを?﹂
﹁ロキシー殿はよく自慢していました。あの子は本当なら私が教え
られるような存在ではなかった、と﹂
﹁でへへ、それはいいすぎですよ﹂
そんな会話をしているうちに、城へとたどり着いた。
なかなかに大きな城だが、リカリスのキシリス城やミリシオンの
ホワイトパレスほどではない。
エリスの実家と同じぐらいの大きさである。
要するに、アスラの辺境領土とこの国は同じぐらいという事だ。
さすがアスラ王国はすごいね。
﹁⋮⋮﹂
﹁お勤めご苦労様です!﹂
ジンジャーが門番に軽く会釈すると、門番が直立不動になった。
そういえば、彼女は親衛隊とか言ってたか?
偉いのだろうか。
﹁こちらです﹂
そのまま真っすぐ進もうとすると、ジンジャーは横へとそれた。
城の回りをぐるりと回り、勝手口のような所から中へと入る。
1565
﹁申し訳ありません。正面門は兵士の出入りは出来ないのです﹂
﹁そうですか﹂
勝手口の中は、兵士の詰所のような場所だった。
部屋の隅に長机が二つ並び、数名の兵士が座って、カードのよう
なものに興じていた。
彼らはジンジャーを見るとすぐに立ち上がり、直立不動の姿勢を
とった。
﹁⋮⋮﹂
﹁お勤めご苦労様です!﹂
ジンジャーは会釈を一つして、部屋の奥へと入っていく。
俺は彼らを横目で見ながら、彼女に続く。
﹁ジンジャーさんは、偉い人なんですね﹂
﹁兵士の中では12番目です﹂
12番目、それが高いのか低いのか判別しにくいが⋮⋮。
この国の兵士とて、何百といるだろうし、そう考えると、それな
りに高い地位にいるのだろうか。
低くはないだろうな。
﹁こちらです﹂
ジンジャーはどんどん奥へと入っていく。
その足取りは、やや慎重になったように思う。
時折すれ違う人に対しては足を止め、騎士風の挨拶を送る。
俺もそれにならって貴族風挨拶でこんにちわ。
1566
弟子の教育がなってないとロキシーが言われたらたまらんからな。
貴族風の人たちは、人によって会釈を返したり、
眼中にありませんとばかりに無視して通り過ぎたりだ。
エリスの実家とは大きく違う。
あそこでは、基本的に廊下での挨拶はなかったからな。
ロキシーはこんな所で働いていて、息が詰まったりしないのだろ
うか。
こうした挨拶も慣れれば気にならないのだろうか。
一階には3箇所ほど階段があった。
構造がエリスの実家に似ている。
一気に攻め込まれないための工夫がされているのだろう。
だが、普段生活する分には不便に違いない。
ジンジャーは廊下の突き当りにて足を止めた。
ここがロキシーの部屋なのだろうか。
随分と閑散とした場所だ。
でも、ロキシーらしいと言える。
ジンジャーは立ち止まり。
ふと俺の格好を見て、手を出す。
﹁杖と荷物をお預かりします﹂
﹁あ、はい﹂
ドアボーイの真似までしてくれるとは、親切だな。
ジンジャーは俺の荷物を受け取ると、コンコンとノック。
1567
﹁ジンジャーです。ルーデウス殿をお連れしました﹂
﹁入れ﹂
返事は男の声だった。
︵ん?︶
何かを疑問に思いつつも、ジンジャーはすぐに扉を開け、
俺に中に入るように手で示す。
俺は示されたまま、部屋の中に入る。
﹁ほう⋮⋮こいつがルーデウスか﹂
﹁もごっ!?﹂
そこには、偉そうに座った男がいた。
小さい樽みたいな男だ。
その両脇には、二人のメイドの姿。
男は偉そうにふんぞり返っているが、背がやけに小さい。
背だけでなく、手足も短い。
小人族と炭鉱族を合わせたような感じがする。
だが、顔だけはやけにでかく、人族の成人男性のものだった。
その顔も、第一印象だけで言うなら、醜い。
俺にとっては親近感を覚える類の顔である。
見覚えのない方をメイドAとしよう。
二十代後半ぐらいで、胸のサイズは普通、筋肉は無い。普通の女
子だ。
1568
メイドBはリーリャにそっくりな顔をしている。
ていうか、リーリャだった。
五年も経つと少々老けたように見えるが、
お肌の曲がり角な時期が重なっていた事に加え、 転移などというものに巻き込まれたのだから、仕方ないだろう。
そして、彼女は椅子に座らされていた。
椅子ごとロープでぐるぐる巻きにされ、口には猿轡。
ロキシーの姿はどこにもない。
﹁これはどういう事で⋮⋮﹂
俺は、混乱しつつも、落ち着いて話を聞こうと思った。
ここにはロキシーがいるはずだと思っていた。
あ、そうか。罠か。
﹁落とせ﹂
男の言葉と同時に、俺は魔眼を開眼する。
一秒先の未来は、下にずれていた。
俺は落ちていた。
−−−
気づけば、俺は魔法陣の中にいた。
1569
合図と同時に足元の床が崩され、落とし穴のように落とされた。
そうわかるのに、数秒の時間を要した。
小さな部屋だ。
六畳間ぐらいだろうか。
地面には魔法陣が描かれており、ぼんやりと光を放っている。
だが、俺はすぐに土魔術を使った。
自分の身体をエレベーターの如く上へと持ち上げようとする。
﹁⋮⋮⋮⋮あれ?﹂
しかし、魔術が発動しない。
もう一度、少し強めに魔力を込めて、足元に土柱を発生させよう
とする。
おかしい。
魔力は確かに出ているはずなのに、土柱が発生しない。
いや、おかしくはない。
周囲を囲むこの魔法陣。
これのせいだろう。
なんらかの結界になっているのだ。
﹁結界⋮⋮か﹂
魔法陣の縁の方に向かって手を伸ばしてみると、壁のようなもの
に触った。
ドンと殴りつけてみるが、ビクともしない。
﹁ギャハハハハ! 無駄だ! 無駄だ!
1570
その魔法陣はロキシーを捕まえるために作らせた王級の結界だ!
お前ごときではどうしようもないわ!﹂
先ほどの丸っこい男が階段を降りてきた。
そして、俺の前で立ち止まると、ニヤニヤといやらしい笑みを浮
かべつつ、
勝ち誇った感じでふんぞり返っている。
﹁あなたは?﹂
﹁余の名はパックス。パックス・シーローンだ!﹂
パックス。
ああ、第七王子か。
それにしても、この男。
魔術の使えなくなる結界にロキシーを捕らえて、一体何をするつ
もりだったのだろうか。
いや、手紙には俺に似ていると書いてあった。
俺は紳士的な男だ。
なら、きっと紳士的な振る舞いをするに違いない。
くそっ。どんな紳士的な狼藉を働くつもりだったんだこいつは。
﹁くくく、いい顔だな。ルーデウス・グレイラット﹂
俺の悔しげな顔をみたのか、男はニヤニヤと笑う。
俺はポーカーフェイスを作りつつ、深呼吸する。
落ち着け。
こういう状況でこそ落ち着くんだ。
﹁僕は罠にハメられたわけですか。
1571
わかりました。昨日兵士さんを攻撃したことは正式に謝罪しまし
ょう。
そのまえに、まずはロキシーを呼んで下さい。
僕は彼女の元生徒です、身元の証明をしてもらいます。
それから、弁護士を呼んでもらい、正式な裁判の後︱︱﹂
﹁ロキシーはいない﹂
ロキシーがいない。
﹁なん⋮⋮だと⋮⋮﹂
その言葉に、俺は自分でも驚くほど衝撃を受けた。
ロキシーがいない。
それはつまり神の不在を意味する。
神はいないのか。
いや、そんな馬鹿な。
かの偉大なる数学者オイラーも神は存在すると言っていたではな
いか。
エカチェリーナ二世の命を受け、見事に神の存在を証明してみせ
たではないか。
神はいる。
俺もまた、神の存在は身を持って証明する事ができる。
﹁いや、神はいます﹂
﹁⋮⋮なに? 神?﹂
パックスはポカンとした顔になった。
1572
そうさ。
神はいる。
間違いなくな。
いないというなら宗教戦争だ。
ミリス教団だかなんだか知らんが、死にたい奴からかかってこい。
勝てそうな奴だけ相手になってやる。
﹁ふん、神に祈るか。正しい選択だな。
こんな状況ではもはや助かる事もないだろうからな﹂
﹁そうですね﹂
さて、落ち着いてきた事だし冗談はそろそろ終わりにしよう。
﹁それで、先ほどの発言はこの国にロキシーがいないということで
よろしいのですか?﹂
﹁そうだ! お前はロキシーをおびき寄せるための餌になるのだ!﹂
﹁ロキシーにパックリと咥えてもらうなら、それは本望ですが⋮⋮﹂
適当に返事をしつつ、考える。
つまりあれか。
ロキシーはこの国にいなくて。
この人はロキシーを捕らえようとしている。
なんでだ?
何かをやらかしてロキシーが出奔したってことか?
考える俺に、パックスは次の言葉を言い放った。
﹁手紙を見て驚いたぞ。まさか、ロキシーの恋人がこの国にきてい
ようとはな!﹂
1573
﹁えっ! ロキシーに恋人がいるんですか!﹂
まじで!
いつのまに。手紙にはそんなことは書いていなかったのに⋮⋮。
﹁む? 貴様は違うのか?﹂
あ、俺がロキシーの恋人に間違われていたのか。
﹁滅相もない! そんな恐れ多い! 至る所の一切無い不肖の弟子
でございます!﹂
俺はブンブンと首を振った。
本当は嬉しさの余り、クネクネしたい。
トナカイの珍獣のようにクネクネしたい。
メタルモンスターの中の人のようにクネクネしたい。
しかし、ぐっと我慢。
﹁ふん、恋人でなくとも、弟子ならばロキシーは来る﹂
﹁来るでしょうか﹂
﹁来るとも。リーリャでは餌として弱かったようだが、
あれだけ褒めちぎっていたお前なら、ロキシーは来る!
そして、来た時がロキシーの女としての最後だ。
余の性奴隷として一生飼ってやる。五人は世継ぎを産ませてやる﹂
性奴隷とは。
興奮することを言いやがって。
世継ぎってお前第七王子だろ、政権取れるのか?
しかし。
一つ疑問が。
1574
﹁あの。一ついいですか?﹂
﹁なんだ、おお、そうだ。最初の1回はお前の目の前で犯してやろ
う!
そして、お前の首をたたき落とした後、絶望の顔に染まるロキシ
ーと2回目だ!﹂
随分と妄想たくましいな。
﹁僕はここに来るまで、リーリャの情報を一切聞かなかったのです
が⋮⋮。
その、どうやってロキシーは僕が捕らわれている事を感知できる
のでしょうか﹂
パックスはピタリと止まった。
﹁ふん、優秀なロキシーならば、どこからか聞きつけてくる!﹂
なるほど、ロキシーは優秀だからな。
俺が見つけられなかった情報でも見つけられるかもしれない。
けど、その確率は低いだろう。
﹁その、せめて情報を流すとか、そういうことをした方がいいので
はないでしょうか﹂
ロキシーが犯されてほしいわけではない。
ないのだが、せめてそうしてくれれば、
あるいはパウロがもうちょっと早くリーリャの事を知れたかもし
れない。
そう思った。
1575
﹁ふん、その手には乗らんぞ!
貴様らはアスラの上級貴族の庇護下にあるのだろう!
リーリャやお前を捕らえた事を知られれば、ボレアスとかいうの
が敵に回るのだろう?﹂
﹁まわる⋮⋮のかな?﹂
んん?
なにかおかしいな。
まあ、俺が捕らえられたと知れれば、
あるいはサウロス爺さんなら助けてくれるかもしれないが⋮⋮。
でもなんでリーリャが関係してるんだ?
﹁リーリャも何度も手紙を出そうとしていたからな!
誰が助けなど呼ばせるものか!﹂
なぜ助けを呼ばせずにターゲットだけが釣れると思うのか。
ああそうか。
こいつ馬鹿なのか。
﹁いや、情報も流さない、助けも呼ばせないだと、誰もこないと思
うのですが﹂
﹁フン! 現にお前はノコノコと現れたではないか!﹂
確かに!
いやいや、その理屈はおかしい。
﹁大体、情報などロキシーに直接渡せばいいのだ!﹂
﹁渡せたんですか?﹂
﹁2年探し続けているが見つからん! だが、いずれ見つかるだろ
1576
う! あの女は目立つからな!﹂
目立つからって見つかるとは限らんと思うんだが⋮⋮。
おかしいな、手紙には俺に似て優秀だって書いてあった気がした
んだが⋮⋮。
それとも、もしかして、ロキシーの俺への評価ってこんなもんな
のか?
だとしたら凹む。
﹁ふふん、どうやら諦めたようだな。
無詠唱魔術だかなんだか知らんが、
所詮余の権力には勝てんということだ﹂
ふん、絶対に権力なんかに負けないんだから。キッ!
﹁おお、いい目だ。ゾクゾクするな。
最後までその目をしていてくれよ?
ああ、楽しみだ、楽しみだ。
ロキシー、早くこないかなぁ⋮⋮﹂
パックスはそう言いながら、階段を登っていった。
来るわけねえだろ⋮⋮。
−−−
﹁おい、誰がリーリャの猿轡をはずせと言った?﹂
﹁申し訳ありません、一言ぐらい話すかと思いまして﹂
﹁余計なことをするな!﹂
﹁お願いします殿下、私ならなんでもしますので、ルーデウス様だ
けは⋮⋮!﹂
1577
﹁うるさい、余は年増には用は無いのだ!﹂
﹁ああっ!﹂
−−−
階上からそんな声と共に、パンと乾いた音が響いた。
天井が開いているので丸聞こえなのか。
−−−
﹁それにしても、アイシャはまだ見つからんのか!﹂
﹁現在捜索中です、殿下!﹂
﹁くっ、攫った奴の特徴は!?﹂
−−−
パックスの苛立つ声が聞こえてくる。
どうやら、昨日の事を話しているようだ。
しかしさて、困ったな。
俺も顔は隠していなかったし、すぐにバレそうだ。
宿の場所は手紙に書いてあったし⋮⋮。
宿にはルイジェルドとエリスがいる。
ルイジェルドなら、ルイジェルドならなんとかしてくれるはずだ。
オフェンスに定評のあるエリスもいることだし。
−−−
﹁報告によると、シャドームーンナイトと名乗る、
筋骨隆々とした大男だそうです。
高笑いをしながら屋根を飛び回る変態だと﹂
﹁そんな目立つやつがなぜ捕まえられんのだ!
クソッ、どいつもこいつも役立たずめ!﹂
﹁ハッ、申し訳ありません﹂
−−−
1578
おおい!
兵士、兵士さん、ちゃんと報告しようぜ!
いや、でも実際の所、善意なのかもしれないな。
善意でアイシャを逃がそうとしてくれているのかもしれない。
ソルジャー
よさそうな人だったしな。
グッジョブ兵士。
−−−
﹁ですが、手紙はすでに破り捨てたと報告にございます﹂
﹁手紙など何度でも書けるだろうが!﹂
﹁子供の手紙では上級貴族も動きますまい、放って置かれては?﹂
﹁ダメだダメだ! 探せ、家族がどうなってもいいのか!﹂
﹁⋮⋮クッ! 直ちに捜索隊を出します﹂
−−−
バタバタと走る音。
ジンジャーは家族を人質に取られているのか。
−−−
﹁ふん、リーリャはいつもの所に放り込んでおけ!﹂
﹁ハッ!﹂
﹁ルーデウス様! 必ず助けに!﹂
﹁黙れ! 行かせるわけがなかろうが!﹂
﹁ああっ!﹂
﹁ふん、お前もロキシーを知っているのだったな。
あの小生意気な女魔術師の前で首を刎ねてやる!﹂
−−−
バシンと乾いた音。
1579
何かかがズルズルと引きずられる音が聞こえる。
−−−
﹁ふん、ルーデウス! 聞こえるか!
貴様は絶対に出してやらんからな!﹂
−−−
そんな声に上を見る。
パックスのいやらしい笑みが見えた。
彼は俺に一瞥をくれると、穴から見えない位置に移動する。
しばらくして、俺の落ちてきた穴に、バタンと何かが乗せられた。
蓋をされたのだ。
シンと静寂だけが残った。
周囲は魔法陣の明かりでボンヤリと光っている。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
なんか呆然としてしまったな。
リーリャが殴られ、怒るべき所なのだろうが、
不思議と怒りが湧いてこない。
今のやり取りが、あまりに喜劇じみていたからだろうか。
それとも、すでに人神にリーリャが助かることを聞かされている
からだろうか。
あるいは、歪んでいるとはいえ、彼がロキシーを求めているから
だろうか。
俺だってロキシーに見捨てられていれば、彼のようになっていた
かもしれない。
1580
いや、違うな。
少し似てるからだ、生前の俺に。
だから怒りというより、戸惑いの方が大きいのだろう。
まあ、事が終わったら落とし前はきっちり付けさせてもらおう。
﹁さて⋮⋮﹂
大まかな状況はわかった。
要するに、リーリャはパックスに捕まっていたわけだ。
拘留する名目はなんでもいいだろう。他国のスパイとか。
で、話を聞いているうちに、どうやらロキシーの関係者であると
考えた王子は、一計企む。
リーリャを餌に、ロキシーに連絡を取り、おびき出そうとした。
グレイラットという名前が怖いから、あくまで極秘裏に。
まあ、アスラ王国に見つかってもリーリャは所詮パウロのメイド
だし、いくらでももみ消せるだろう。
ロキシーは見つからず、リーリャは長いこと抑留するハメになる。
パウロに助けを求めるリーリャだが、当然ながら王子はそれを許
さない。
そんな状況で、アイシャは城を脱出、手紙を届けようとしたが失
敗。手紙は破かれてしまう。
不思議なのはその後、なぜか兵士は彼女の動きを助長する報告を
している事だ。
単に王子が嫌いなのか、それとも何か別の理由があるのか⋮⋮。
ジンジャーは人質を取られているようだし、他の兵士も似たよう
な感じになってるのかもしれない。
そんな状況の中、まんまと俺が蜘蛛の巣に掛かったわけだが、
人神はロキシーに手紙を出せと言ったわけだし、
1581
こうやって俺が捕まるのは、想定の範囲内という所か。
慌てることはない。
今の所は指示通りにやれている。
しかしさて、この後どうするか、だな。
おそらく、今この瞬間にも裏で何らかの事態が動いているのだろ
う。
なら、今回も何もしないでもいいのかもしれない。
ここでじっとしていれば、何らかの動きがあり、
それに応対して動けば、全てがうまくいくはずだ。
⋮⋮⋮⋮いや、まて。
俺は本当に指示通りやれていたのか?
シャドームーンナイト
例えば、兵士には影月の騎士と名乗った。
人神の助言はアイシャに﹃デッドエンドの飼主﹄と名乗ればいい
のだと思った。
だが、本当は兵士にも飼主と名乗らなければいけなかったのでは
ないか?
それだけじゃない。
手紙だってそうだ。
てっきり、本名を﹃名乗らなければいい﹄と思っていたが、
手紙の差出人にルーデウスと書かなければ、こうなる事はなかっ
たんじゃないのか?
ただのロキシーの知り合いとして王子と対面すれば、
もう少し穏便に話を進められたはずじゃないのか?
1582
まずい、なんか失敗した気がしてきた。
いや、まだ、まだ大丈夫だよな?
これぐらいは想定内だよな?
心配だ⋮⋮。
とりあえず、こっそりと脱出ルートだけ確保しておくことにする
か。
1583
第五十五話﹁第三王子﹂
こんにちは。元ヒキニートのルーデウスです。
本日はですね。
シーローン王国の無料アパートへときています。
敷金礼金ゼロ。
家賃ゼロ。
零食昼寝付きの1ルーム。
建材は堅牢なる石材、ガッチリと硬く組まれています。
ちょっと日当たりが悪くて、ベッドが無いのが難点ですが、それ
でもこのお値段は安い。
なにせ、家賃ゼロ、ですからね。
トイレは少々古めの垂れ流し型、長く暮らせば病気になること間
違いなしですが、それを差し引いても家賃が安い!
しかもなんと、安心のセキュリティ構造。
見てください、この堅牢な結界。
なんとこの中にいると魔術を無効化し、外に出ることができなく
なるんです!
Aランク冒険者である私が本気で殴ってもビクともしません。
いかに脱獄脱走の名人だったとしても、ここを出入りすることは
容易ではないでしょう。
1584
うん、まあそのネタは2回目だからいいとして。
出られない。
誰か助けて。
ルイジェルドはやく助けにきて、ルスケテ!
と、囚われの桃姫さまのような感じに陥っています。
−−−
あれから丸一日、俺は結界の解除を試みた。
結果はというと、ひどいものであった。
魔術が使えないという事は俺にできることはほとんど無い。
見えない壁を叩いてみたり、床の魔法陣を擦ってみたり。
4メートル近くある天井に届かないかピョンピョン跳んでみたり。
やれることはやったが、何も出来なかった。
せめて杖があれば天井を叩くぐらいはできたかもしれない。
だが、荷物は全てジンジャーにあずけてしまった。
荷物も大したものを持ってきているわけではないが。
魔術に関しては色々と試してみた。
だが、どれも不発に終わった。
魔力が吸収されているなら、出来る限り最大限の魔力で壊してや
るぜ。
などと少年漫画のように思い、試してみたかもしれないが、そん
1585
な感じではない。
魔力は出る、しかし、なぜか形にならない。
現象へと変化させることができない。
できそうだが、できない。
なんというか、ライターが強風で付かない時と似ているのかもし
れない。
火花は出るし、ガスも出るのだが、しかし火は付かない。
あるいは、火がついてもすぐに吹き消される。
そんな感じである。
王級の結界魔術と言っていたか。
凄いものだ。
そう認識した時点で、じわじわと焦燥感が湧いてきた。
いざというときに何もできない。
そんな状況に今、俺は置かれている。
例えば、運悪く、今ここにロキシーが来たとして、
俺は彼女を助けることが出来ない。
見捨ててくれと喚くだけだろう。
例えば、何かの拍子にエリスが捕まったとして、
俺は彼女を助ける事が出来ない。
その場合は、きっと俺を人質に取られての事だろうから、
ルイジェルドに何とかしてもらうしかない。
これまた、見捨ててくれと喚くだけだろう。
例えば、パックスの気が変わって、
1586
俺がいれば人質は十分だからと言って、
リーリャを殺そうとしたら。
やはり、喚くしかないだろう。
人神の助言は覚えている。
だが、それを確実になぞってはいない。
もしかすると、すでに助言から外れているのかもしれない。
人神のことだから、それも想定していそうだが。
しかし、あの助言は、アイシャとリーリャが助かるとしか言って
いない。
いや、俺の信用を得ようという助言だ。
裏の意味で何かをもたせるとは思いにくい。
イヤな考えがグルグルと回る。
くそっ。
はやく脱出しないとな⋮⋮。
−−−
あれこれと試している間にどれぐらいの時間が経過したのだろう
か。
疲れた。
久しぶりにこんなに魔力を使った気がする。
結界はびくともしない。
ロキシーを捕まえようという結界だもんな。
そう簡単に解除できるわけがないか⋮⋮。
1587
ふぅ⋮⋮。
少し、休もう。
時計もないし、太陽も見えない。
なので、時間の感覚が曖昧である。
腹が減った。
先ほどからグウグウと腹が鳴っている。
あの王子、もしかして飯のことを忘れてるんじゃないだろうな。
いや違うか。
食事の量を減らし、ガリガリにやせ細った華奢リンみたいな身体
にするつもりなのだ。
その方が、ロキシーを連れてきた時に興奮するだろう。
一日に一食か。
育ち盛りの身体をもつ身としては、少々辛いな。
どうしたもんか⋮⋮。
力任せでは脱出できない。
少しひねった方がいい。
生前、牢屋に捕まった人物はどうやって脱出していたっけか。
例えばそう、病気や死んだ振り。
医者か治癒術師を入れるために、一時的に結界を解除するかもし
れない。
いや、単に見殺しにされる可能性もあるな。人質は二人いるわけ
だし。
ハリウッドスターなら、門番が近寄ってきた所を鉄格子の間から
1588
手を伸ばし、一瞬で気絶させて鍵束を奪い取ったりするだろうが、
ここでは出来ない。
ふーむ⋮⋮。
あと、どんな方法があったかな。
ようは、ここから出てしまえばいいのだ。
魔術さえ使えれば、どうにでもなるからな。
いっそ、恭順するふりをするのもいいかもしれない。
﹃実はロキシーの事は前々から気に入らなかったんですぜ兄貴、グ
ヘヘ。
実はロキシーの家族の居場所をしっていやしてね。
父親と母親の目の前で、なーんてのはどうでゲスか?﹄
てな感じでいけば、引っかかるんじゃなかろうか。
あいつ馬鹿そうだし。
⋮⋮いや、やめとこう。
いくら俺でも、ロキシーを悪く言うことは出来ない。
プライドはいくらでも捨てるが、ロキシーを悪く言うことだけは
出来ない。
コツ⋮⋮コツ⋮⋮。
悩んでいる俺の耳に、ふと音が届いた。
足音である。
段々と近づいてくる。
パックスが様子を見に来たのだろうか。
1589
コツ⋮⋮。
足音が、ちょうど真上で止まった。
そして、すぐに部屋を横切り、階段から聞こえてくるようになる。
﹁ほう、ジンジャーの言うとおりだな﹂
階段を降りてきたのは⋮⋮⋮⋮見知らぬ男だった。
だが、恐らく王族であろうことは一目でわかった。
まず、服装が実に偉そうな感じである。
黒を基調にしていて、赤色のラインが入っている。
金色の刺繍がそこらに施され、一目で高いと解る。
年齢は二十歳ぐらいだろうか。
顔はというと、パックスにやや似ている。
だがパックスよりもヒョロっとした印象を受ける。
面長で、頬骨が浮かんでいて、メガネを付けている。
この世界ではメガネはあまり見ることがないが、つけている人は
つけているのか。
キューピッドの存在が科学的に証明された世界のニートがこんな
顔をしていただろう。
﹁シーローン王国第三王子、ザノバ・シーローンである﹂
1590
やたらと渋い声で、そいつは言った。
第三王子。
てことは、パックスの兄貴か。
﹁どうもご丁寧に。ルーデウス・グレイラットです﹂
﹁うむ﹂
﹁本日は、どのようなご用件で?﹂
﹁うむ﹂
ザノバは大仰に頷くと、手に持った袋を掲げた。
肩に掛けるタイプの道具袋だ。
どこかで見た袋だ。
ていうか、俺のだ。
ザノバは袋を地面に置くと、慎重な手付きで、その中から一つの
ものを取り出した。
ルイジェルド人形だ。
﹁この魔族の人形をどこで手に入れた?﹂
ザノバは人形を結界のすぐ外に置いた。
﹁言え。ジンジャーから、貴様が持ってきたと聞いておる﹂
詰問口調だった。
魔族の人形。
あまり難しく考えずに持ってきたが、
やはり魔族の人形はこのあたりでは邪神像になるのだろうか。
ロキシー人形は魔族の特徴が無い人形だが、
ルイジェルドのは一目で魔族だとわかる。
1591
額に宝石があるからな。
なんと答えるべきか。
少なくとも、俺が作ったとは、言わない方がいいだろう。
﹁⋮⋮魔大陸を旅している時に、偶然入手したものです﹂
﹁ほう! やはり魔族の手によって作られたか!
して、どこらあたりで手に入れた?
売っていた商人はどんなナリだった?
製作者は誰かわかるか!?﹂
あれ?
なんかすごい食いつきがいい。
目が輝いている。
﹁さ、さて、なにぶん、僕も一目見て気に入ったから購入しただけ
で詳しいことは⋮⋮﹂
﹁なにぃ?﹂
ザノバの眼鏡がギラリと光った。
すげぇ威圧感だった。
間違いない、あれは人を殺した事のあるやつの目だ。
﹁ああそうだ。その人形を売るときに、商人が言っていました。そ
の人形を持っていれば、スペルド族に襲われても大丈夫。人形を見
せてルイジェルドハコドモズキ、ルイジェルドハコドモズキという
呪文を唱えるだけで、たちまちスペルド族は十年来の旧友のように
フレンドリーになり、馴れ馴れしく肩に手を回してヘイブラザーと
言ってくるようになるとか﹂
﹁ほうほう! そんな事を! 他には!? 他には!?﹂
1592
﹁えっと、無病息災で子宝に恵まれて、あ、あと剣術がうまくなる
とか?﹂
﹁ええい、そういう事ではない!
要するに、スペルド族と関わり深い者が作ったという事なのだな
!?﹂
そういう事になるな。
俺はルイジェルド一人しかスペルド族を知らないが。
それでも、関わり深いといえば、深いだろう。
この世界では、スペルド族とはあまり関わりあいになりたくない
人が多いようだしな。
﹁ふーむ、やはりこれは同じ製作者の可能性が高くなってきたな⋮
⋮﹂
ザノバはふむふむと言いつつ、人形を手に持って、グリグリと回
して見ている。
それとトンと地面に置くと、また袋の中へと手を伸ばした。
はて、あれ以外にいれてるものといえば、緊急用の着替えとかだ
けだが⋮⋮。
﹁では、この人形には見覚えがあるか?﹂
ザノバが取り出したのは、その昔商人に売りつけた、1/10ロ
キシーフィギュアだった。
−−−
1593
ロキシーフィギュアが、床へと置かれた。
ザノバはその前にどっかりと座り込む。
綺麗なおべべが汚れたりとか考えないのだろうか。
自分で洗濯なんてしなさそうだが。
﹁この魔族の像は五年ほど前、市場にて発見されたものだ⋮⋮﹂
ザノバは顎に手をやり、慈しむ目で人形を見ている。
ルイジェルドフィギュアを布教させようとした時にわかったのだ
が、
ミリス教団の影響下では、魔族の人形はご法度である。
やはりその事を糾弾するのだろうか。
怒っている感じはしないが。
﹁我が弟が発見したものでな、当時宮廷魔術師だったロキシーによ
く似ていると、
手ずから市場で行商人から購入したものだという﹂
ふむ。
﹁﹃当時﹄宮廷魔術師﹃だった﹄、ですか?﹂
﹁うん? そうだ。お前は知らないようだが、ロキシー・ミグルデ
ィアはすでにこの国にはいない。我が弟の性的嫌がらせに耐えかね
て、出奔した﹂
いや、一応、パックスから聞いたんだがね。
そうか、セクハラで出奔したのか。
﹁具体的にはどんなセクハラを?﹂
1594
﹁セク⋮⋮? 下着を盗んだり、水浴びを覗いたりだな﹂
マジか。
許せんな。
そういう奴にはキツイお仕置きをすべきだ。
そうだな、例えばパソコンをバットで壊すとか。
事ある毎に命を刈り取る形をしたパンチを放つお嬢様と一つ屋根
の下で暮らさせるとか。
全裸にして牢屋にぶちこんで冷水を浴びせるとか。
そういうお仕置きをすべきだ。
アースランサー アス
なんだったら、俺が直々にぶっとい土槍を明日に向かって撃ちこ
んでやってもいい。
カラーコーン並のぶっといやつだ。
まったく。
ロキシーのパンツを盗むだとか、そんな事をしていいと思ってい
るのだろうか。
いや無い。
いいわけがない。
許されざる行為だ。
いくら王子といっても、やっていい事と悪い事がある。
ロキシーが出奔して当然だ。
⋮⋮あれ?
その論法で行くと、
もしかして、ロキシーが俺の家庭教師をやめた理由って、俺のせ
い?
﹁そんな事より、この人形の話だ﹂
1595
ザノバはそう言って、ロキシー人形の肩の辺りをツイっと撫でた。
そうだな、こういう鬱な話題は変えるべきだ。
そう思い、俺は真面目な顔で頷いた。
﹁余は人形には目が無くてな。
世界各地の人形を集めているのだが⋮⋮﹂
と、前置きを置いて、彼は語り出した。
そう、語り出したのだ。
﹁この人形だけは製作者も、どこで作られたのかもわからんのだ。
岩を削りだして作られている事はわかるが、ドワーフの使う石細
工の材質よりも硬く、重い。
この硬度の石をここまで精巧に削りだす技術は、今の世には存在
しない⋮⋮。
例えばだ⋮⋮見ろ、この杖の部分を。
器用なドワーフであっても、硬い石材をここまで細く削りだすの
は至難の業だろう﹂
ザノバはそう言って、人形の持つ杖を指さした。
杖などの細い部分は折れやすい。
その欠点を補うため、かなり試行錯誤した。
そのかいあって、高い剛性と靭性を得ている。
ルイジェルド人形の槍の柄の部分も同じ材質であるが、
しかしこの部分は作るのにかなりの魔力と集中力、そして時間を
要する。
具体的に言うと、1センチ作るのに丸一日かかる。
とはいえ、俺の製造技術の結晶ともいえよう。
折れず曲がらないものに仕上がった。
1596
工夫した部分の一つだ。
ほめられると嬉しいね。
﹁こんな素晴らしいものが、アスラ金貨にして5枚程度で売ってい
たというのだ。
余ならアスラ金貨100枚は出す所だ。
市井に住む者はまったく目利きのできん無骨ものばかりで困る。
もっとも、安いのは魔族の像であるという事を考慮しての値段だ
ろう。
こんな像を持っている所をミリス教団の神殿騎士団に知れれば、
シーローンの王子であっても異端審問に掛けられ、
魔神崇拝者の一人として殺されるであろうからな。
安値で投げ売りにすれば、いくらでも言い訳ができる﹂
ザノバは額を抑え、やれやれと肩をすくめた。
殺されるのか⋮⋮。
神殿騎士団は狂信者ばかりだそうだしな。
﹁だが、余はかねてよりこの像の製作者を探しておった。
魔神崇拝者とは関わりあいになりたくはないが、
しかし、この像を作ったものとは話をしてみたいとな。
そんな折り、リーリャがいきなり余の部屋に現れた。
ロキシーが出奔した翌日であった﹂
ふむ。
偶然すれ違いになってしまっていたのか。
﹁リーリャは兵に捕らわれ、色々あってパックスが管理することと
なったのだが、
リーリャの持ち物に、こんなものがあった﹂
1597
ザノバはそう言いつつ、袋より小さな箱を取り出した。
拳大の見覚えのない箱である。
﹁なぜこんなものを大事そうに持ち歩いていたのか不思議でならん
のだが、
まぁ、よく見るがいい﹂
ザノバは箱を開けると、俺によく見えるように箱を開けた。
柔らかそうな布に包まれたそれを取り出すと、ザノバは丁寧に布
を開いていく。
中に入っていたのは、木彫りのペンダントだった。
どこかで見たことのあるような木だ。
当然ながら手掘りで、作り手の不器用さが伝わってくる。
﹁そのペンダントが⋮⋮何か?﹂
﹁うむ、このペンダントはどうでもいい﹂
ザノバはそう言うと、ペンダントを摘んで、袋の上に置いた。
動作がいちいち丁寧である。
好感が持てる。
しかし、箱の中身がどうでもいいとはどういう事だろうか。
と、そこで俺も気づいた。
ペンダントを包んでいた布には、見覚えがあった。
﹁さて、このパンツだが﹂
ザノバはそう言って、布を摘んで広げた。
1598
間違いない。
あれは⋮⋮。
ロキシーの
御神体だ。
﹁リーリャは貴様の10歳の誕生日にこれを贈ろうとしていたそう
だ﹂
なるほど。
つまり、そういうことか。
ペンダントはカモフラージュ。
その包んだ布こそが、俺の大切なものだとハッキリわかっている
のだ。
もしかすると、当初はそのまま贈ろうとしたのかもしれないが、
誕生日にパンツを贈ることの異常性を考慮して、わざわざこんな
事をしてくれたのだ。
パンツ
しかし、残念でならない。
御神体は綺麗に洗濯をされていた。
ロキシーのエクストラバージンオリーブオイルは流れ落ち、神性
は失った。
すでに、このパンツに神は宿っていない。
代わりに、真心が詰まっているといえるだろうが⋮⋮。
﹁そ、それで、そのパンツがどうしたというのですか?﹂
震える声を隠しつつ、俺は尋ねる。
ザノバはうむと頷くと、
﹁パンツについて話す前に、この人形について説明してやろう﹂
1599
と、ザノバは四つん這いになった。
ロキシー人形をこわれものでも扱うように指で触れる。
そして、
語り出した。
そう、語り出したのだ。
﹁まずはこう正面から見てみろ。
一見すると、これは杖を構えた普通の魔術師だ。
しかし躍動感がある。
このローブの波打具合を見ろ。
片足をバッと前に出し、杖をグッと突き出す、その瞬間がありあ
りとわかる。
そして、ローブの袖と裾から覗く、手首と足首!
露出している肌はほんの少しだ。
ほんの少しだが、そこはかとないエロスがある。
このほんの少しの部分だけで、この魔術師の少女が痩せぎすで、
決して豊満ではない体がローブの中に隠されているとわかる。
こんなダブダブなのに、わかるのだ!
そして、今度はこうして⋮⋮後ろから見てみろ。
ダブダブなローブは本来、体の線が出ない。
しかし、足を前に出した事で布が引っ張られ、
ほんの少しだけ尻の線が浮かび上がっている。
小さな尻だ。恐らく実物を見ても、そうエロいとは思わないだろ
う。
だが、こうして、ダブついたローブに浮き出るからこそ、エロい
のだ!
ぜひ見たいと、脱がしてみたいと、そう思わせる尻なのだ。
そう思えば、なんと、このローブは脱がすことが出来る。
ローブをつなぎ止める部分を丁寧にはずしてやると、
1600
ブラジャー
あどけない少女の下着姿が露わになるのだ。
しかも、この少女は胸下着を付けてはいない。
ロキシーという人物の胸の大きさ的に、この選択は正解だ。
そうして表を向けてみると、なんと、左手が胸を隠している。
おかしい、先ほどまで左手は杖を持っていたはずなのに。
そう思い、ローブをみてみると、なんと左手がくっついたままだ。
そう。この像には腕が3つあるのだ。
ローブを着た姿と、下着姿。このギミックで二つの像が一体化し
ているのだ。
まさに天才だ。
ローブを脱がすことが出来るということは、すなわち体のポーズ
を固定化させてしまう。
しかし、こうして腕の位置を中と外で変えることで、ポーズの自
由度を上げているのだ。
それだけじゃないぞ、今度は横から見てみよう。
ローブを着ている時は背筋を張り、前足を突き出したようなポー
ズだった。
しかし、ローブを脱がすと、なぜか前かがみになっているのだ。
まるで、胸を、体を隠すように。
それを確認した上で、顔を見てみろ。
ローブをつけている時は凛々しかった顔が、
今は恥じらいを必死にこらえているようではないか。
至高
がここにはある。
これを作ったものはわかっているのだ。わかっていて、表情を同
じにしたのだ。
誰も真似しえない、
確かに、要所要所は炭鉱族の細やかな技術には遠く及ばない。
素人もいい所だ。
だが、粗野な炭鉱族などでは到底及びつかない領域に、この人形
はある!﹂
1601
俺はそれを一言一句、聞き逃さなかった。
普通ならポカンとする所かもしれない。
だが、俺はこの人形の製作者だ。
一言一句聞き逃すことなく、噛み締めるように聞いた。
そして満足気な気分になっていた。
だってそうだろう、自分が作ったものが、これほどまでに熱く語
られているのだ。
嬉しくないわけがない。
こんな状況であるにもかかわらず、俺の胸の内は暖かくなってい
た。
そうだ。
そうとも、その通りだ。
このロキシー人形には、当時俺の持てる全ての技術を注ぎ込んだ。
まだまだ素人の出来とはいえ、見る者が見ればわかるのだ。
嬉しいものだ。
細かい所に施した工夫まで気づいてもらえるなんて⋮⋮。
でもひとつ足りないな。
俺がなぜ手で胸を隠すようにしたのかを⋮⋮。
﹁あれ?﹂
と、そこで俺は気付いた。
﹁脇下のホクロが消えてるのですが﹂
﹁ん?﹂
ザノバはそう言うと、ロキシー人形を再度裏返した。
1602
﹁ああ、脇にあった黒い点のことか?
だが、それは像の美観を損ねると思って削った﹂
ザノバは、こともなげにいった。
俺はその言葉でフリーズした。
凍りついた。
目を見開いて、動きを止めた。
﹁け、削った⋮⋮?﹂
﹁ふむ、ここに点があったことを知っているということは、
やはり貴様はこの像のことを何か知っているのだな?﹂
﹁⋮⋮ちょっと、その像を回してみてください﹂
﹁その前に余の質問に答えよ﹂
﹁いいから回せよ﹂
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
ザノバは﹁うっ﹂とたじろぐと、俺に言われるがまま、像を回し
た。
﹁そこで止めて、その角度で見てみてください﹂
ほくろがあった位置がザノバにギリギリ見える位置で、止めさせ
る。
﹁手の位置を見てみてください﹂
﹁なんだというのだ﹂
﹁いいから、見てみてください﹂
俺のやや強い口調に、ザノバがムッとしているのがわかる。
しかし、律儀に人形を見ていた。
1603
﹁隠しきれていないのがわかりますか?﹂
﹁⋮⋮ふむ?﹂
﹁手が届いていないのがわかりますか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あっ﹂
ザノバが小さな声を上げる。
ようやく、彼にもわかったらしい。
そう、俺が手で胸をかくすようにした理由。
18禁などというものが存在しないこの世界において、
なぜロキシーの可愛らしく慎ましい胸を露出させなかったのか。
﹁胸は隠せているのに、ホクロが隠せていないことが、わかります
か?﹂
﹁⋮⋮そん⋮⋮な⋮⋮馬鹿な⋮⋮﹂
ザノバがわなわなと震えていた。
そうだ。
俺がホクロに目をつけたのは、まさにそこだ。
ホクロを第二の乳首に見立て、それを隠せていない事に対する恥
じらいを表現したのだ。
あのホクロは、この人形の中で一番エロい。
﹁よ、余は⋮⋮何も、わかっていない⋮⋮。
なのに、作品を⋮⋮汚して⋮⋮﹂
ザノバの目はうつろで、身体を痙攣させ始めた。
口から泡が吹き出ている。
ちょっと反応が過敏すぎやしないだろうか。
1604
﹁まぁ、ホクロなんてまた付け直せばいいんですが、
それで、パンツがどうしたんですか?﹂
﹁ぱ、パンツは⋮⋮それと⋮⋮同じで⋮⋮﹂
と、パンツと像を見比べてみると、
人形の履いているパンツと、元御神体は同じものだった。
なるほど。
俺は自分の最も見慣れたものを人形に装着させた。
このパンツをリーリャが俺に贈ろうとしているのなら、関係性が
あると考えるのが普通だろう。
ちなみにロキシーは、当時あと4枚のパンツを持っていたが、
細部が少しずつ違った。
ああ見えて、ロキシーはオシャレなのだ。 ﹁そういうことでしたか。それで、僕はこの人形の何を喋ればいい
んですか?﹂
まあ。いいだろう。
ザノバはこの人形を大切に扱ってくれているらしい。
いきなり神殿騎士団に突き出されたりはしないはずだ。
﹁ぬううおおおお!﹂
ザノバは、唐突に五体投地をした。
床にダンと己の全身を叩きつけたのだ。
びっくり。
﹁貴方様がこの像の製作者であらせられましたか!﹂
1605
これには流石の俺もポカンとした。
なぜこいつはいきなり這いつくばっているのだ。
俺にわかるのはロキシーが偉大だって事ぐらいだ。
﹁さすがは﹃水王級魔術師﹄ロキシーの弟子!
この人形は魔術にて作り上げたのですね!﹂
ロキシーの名前を呼び捨てにするなよ。
さんを付けろよ。
﹁あなた様の作品を毎日見ていました。
見る度に発見があり、尊敬の念を募らせていました。
ぜひ、師匠と。そう呼ばせてください﹂
そう言って、彼は四つん這いでカサカサと動き、俺の靴にキスを
しようとして、
しかし結界に阻まれて、﹁うおおぉ﹂と雄叫びを上げて結界を叩
いた。
その姿は、まるで夏の三日目に新刊に群がる亡者のようであった。
人としてのプライドや尊厳をかなぐりすて、欲望のままに生きる
者の姿がそこにあった。
﹁うおおお! なんだこの結界は!
誰がこんなものをぉ!
師匠! ぜひともその神手を拝ませてくださああああぐおおああ
ぁぁ!﹂
こうして、俺にちょっと気持ち悪い弟子が出来た。
こういう奴は生前にもいた。
1606
主にネット上での付き合いで、友人とも言えない関係だったが、
いた。
そうか、あいつ、こういう顔をしていたのか。
ここまで心酔されたのは初めてだが⋮⋮しかし好都合。
きっと、人神はこのことを予見していたのだ。
城で捕まることで、彼と仲良くなり、そして手を貸してもらって
脱出するのだ。
よし。エンディングが見えた!
俺は仏のような顔で、彼に言った。
﹁弟子よ。部屋のどこかにこの結界を維持する魔力結晶があるはず
です。
それを見つけ出し、叩き壊すのです!﹂
﹁わかりました師匠! それを実行したら、是非とも、是非とも人
形制作の極意を我が身にぃ!﹂
﹁見つけ出せなければ破門です。今後二度と僕を師匠と呼ぶことは
許しません﹂
﹁もちろんですとも!﹂
ザノバはその言葉に奮起した。
奮起して部屋の中を探し回し。
上の部屋も探しまわり、ガサガサとゴキブリのように周囲を這い
まわった。
そんなこんなで小一時間。
発見したものといえば、天井にA4サイズぐらいの四角い穴が開
けられるという事ぐらいだった。
1607
パックスはどうやら、そこから食事を投げ入れるつもりだったよ
うだ。
食事はそれでいいとして、排泄物とか病気とかはどうするつもり
だったのだろうか。
上から催眠ガスでも吹きつけて、俺を眠らせてからこっそり結界
を解除するのだろうか。
いや、どうせ考えてないだろう。
あのパックスという男は、ペットには餌さえ与えておけばいいと
思っていそうだ。
とりあえず、俺はザノバにいらない袋と瓶を持ってきてもらった。
それを使い、自分の排泄物を片付ける。
いや、結構もれそうだったもんで。
とりあえず、蓋さえどける事ができれば、脱出できるかとも思っ
た。
天井は高い。
4メートル近くある。
しかしロープでも垂らしてもらえば、なんとか登れるだろう。
しかし、重そうな石版が溶接されたマンホールのようにガッチリ
と固定されていて、外すことは難しいらしい。
蓋の上にも魔法陣が描かれているんだそうだ。
ワンセットなのかな。
壊す事も難しそうだ
﹁殿下の配下には、結界に詳しい人はいないんですか?﹂
﹁余に配下はおりませんゆえ!﹂
﹁そうなんですか? あのパックスですら親衛隊がいるのに⋮⋮﹂
﹁最後の一人はロキシーの人形とトレード致しました! いやあ、
1608
いい取引でした!﹂
こいつもバカか。
しかも、親衛隊をトレードって、この国はどうなってんだ。
ま、とにかく、一つ判明した事がある。
﹁よし⋮⋮わかりました﹂
﹁おお、わかりましたか、さすが師匠!﹂
﹁はい、このままだと、どうやら君は破門になりそうです﹂
﹁なんとぉ!?﹂
俺のちょっと気持ち悪い弟子は、異例のスピード破門⋮⋮。
とは、ならない。
せっかくの協力者を失うつもりはない。
﹁条件を変えましょう。ここから出るのを手伝ってくれれば、出ら
れた時に弟子としましょう﹂
﹁おお! そんな事でいいのですか! しばし、しばしお待ちを!!
今すぐ拳で天井をぶち破りますゆえ!﹂
﹁無茶はやめなさい﹂
拳を握りしめて天井を睨むザノバを、俺は慌てて止めた。
本気の顔だった。
手骨が砕け散ってもなお蓋を殴り続けそうな顔をしていた。
危ういやつだ。
ザノバはしばらくそわそわしていたが、
ふと、何かに気づいたように顔を上げた。
1609
﹁師匠、この結界を作り上げたのは誰ですか?﹂
﹁ええと、確か第七王子のパックス殿下という話です﹂
﹁ふむ、そういえばジンジャーがそんな事を言っていたな⋮⋮﹂
﹁詳しい事情は聞いてないんですか?﹂
﹁なにぶん、余の頭は人形で一杯ですゆえ﹂
﹁ああ、そう﹂
とりあえず、この王子はジンジャーにツテがあるらしい。
ジンジャーも裏で動いているのだろうか。
あの人もパックスには思う所があるようだし、その方面で手伝っ
てもらった方がいいかもしれない。
いや逆か、ザノバはジンジャーに言われてここに来たと言ってい
た。
という事は、ジンジャーは俺とザノバをあわせたかったというこ
とだ。
ルイジェルド人形を見て、趣味が一緒だとでも思われたのだろう
か。
しかし、ジンジャーはこの頼りない王子を仲間に引き入れて、ど
うするつもりなのだろうか。
イマイチ動きが見えない。
﹁つまり師匠、パックスをどうにかすればいいわけですね?﹂
﹁ん? ええ、そうなりますね﹂
ザノバはそこで少しだけ考えた後、
今まではしゃいでいたのが嘘のような静かな声で言った。
﹁わかりました、しばしのご辛抱を﹂
何かを思いついたらしい。
1610
けど、この王子もあんまり頭よくなさそうだしな。
変な動きをすると藪蛇になるんじゃないだろうか。
﹁ええと、行動を起こす前に誰かにきちんと相談してくださいよ。
そう、例えばジンジャーさんとか。僕でもいいですけど﹂
﹁ははは、師匠は心配性ですね。ご安心を、全て任せておいてくだ
さい﹂
﹁おい、ちょっとまて、どこにいく、話を聞け。何をするつもりだ
!﹂
ザノバは笑いながら、階段を登っていった。
﹁まじかよ⋮⋮﹂
俺はこの時、やっちまったという気持ちになっていた。
配下のいないダメ王子をその気にさせて、
蛇のいる藪をつついてしまったと、思っていた。
事態は非常に悪い方向に転がってしまうと思っていた。
イヤな予感がひしひしと伝わってきた。
ああ、こんな事なら、せめて飯を持ってきてもらう程度の頼み事
にしておけばよかった。
なんて考えていた。
だが、それは間違いだと、知ることになる。
ザノバ・シーローンという人物。
それを完全に見誤っていたのだ。
後になって考えてみれば、人形の製作者だとザノバに知られた時
1611
点で、全て終わっていたのかもしれない。
1612
第五十六話﹁スピード解決﹂
この世界には、生まれつき魔力に異常を持って生まれてくる子供
がいる。
異常というと奇形児のようなものを思い浮かべるかもしれないが、
見た目は普通である事が多い。
ただ、見た目が普通なだけである。
その子供は、生まれつき特殊な能力を持っている。
異常に足が速かったり、
怪力だったり、
耳が他人よりよく聞こえたり、
体重が羽のように軽かったり、
あるいは重かったり。
触ったものを全て凍らせる、
口から炎が吐ける、
指先から毒を出せる、
短い距離を瞬間移動できる、
目から光線を出せたり。
あらゆる毒を無効化したり
一日中眠らなくても疲れなかったり、
何百という女を同時に抱いていても萎えなかったり⋮⋮。
そうした超常的な能力を生まれつき持つ子供の事を、この世界で
は﹃神子﹄と呼ぶそうだ。
1613
あるいは役に立たない、あるいは生きていく上で不都合な能力を
持った子の事は﹃呪子﹄と呼ばれるらしいが、それは置いておこう。
さて、それを踏まえた上で、シーローン王宮の話をしよう。
現在、この王宮には、五人の王子がいる。
一番上が32歳で、一番下が⋮⋮。
まあ、年齢はどうでもいい。
この国においては、王子が生まれると、直属の親衛隊を与える。
幼い頃から自分の手足となるものを与える事で、
人を動かす事を学ばせようという魂胆である。
そうして育っていき、良い事をすれば親衛隊の数が増え、悪いこ
とをすれば数が減る。
王が崩御した時に最も親衛隊の数が多いものを次代の王にする。
というのがこの国の習わしである。
親衛隊の数が多ければ多いほど、権力を持つというわけだ。
問題は多いと思うが、
そんな中で最も親衛隊の数が多いのが第一王子。
長男であることに自覚を持ち、少々傲慢ではあるものの、王族と
して相応しい振る舞いをしている。
ゆえに30人近い親衛隊を持っている。
では、最も数が少ないのは誰か。
兵士たちに蔑まれている第七王子パックス・シーローンか。
たしかに彼の親衛隊の数は少ない。
現在の所、三名のみである。
一時期は一名まで減ったのだが、無法地帯であった奴隷市場にツ
1614
テを作った事で一人増えた。
もう一人は後述する。
3人。
たった3人。
彼の親衛隊は少ない。
だがさらに下がいる。
それが第三王子ザノバ・シーローンである。
親衛隊の数は0。
ゼロ。
零。
自身に動かせる兵はただの一人も存在しない。
ごく一年前までは、ジンジャーという、この国で12番目に腕の
立つ者が親衛隊だった。
だが、とうとうその最後の一人も、とある人形とトレードされ、
パックスの物となった。
ジンジャーはその時点で辞職を願い出ようとしたらしいが、
慌てたパックスに家族を人質に取られ、嫌々彼の親衛隊になった
そうな。
さて、この第三王子ザノバ・シーローン。
彼は神子であった。
生まれつきの怪力で、頑丈な身体を持っている。
ただそれだけの能力をもった、異能者であるのだ。
大した能力ではないが、国王は歓喜した。
1615
神子は将来、必ず国の役に立つ人物になる。
特に、紛争地帯が北に近いこの国では、
戦力になりうる存在の誕生は両手を上げて喜ぶべき事柄だった。
ザノバを生んだのは妾の女だったが、
彼女もこれで役割が果たせたと、ほっと胸をなでおろした。
国王の挙げられた両手が下がったのは、三年が経過した時だ。
ザノバが三才の時、第四王子が生まれた。
第四王子ではあるが、正妃にとって初めての子供だった。
玉のような子供だと周囲は喜び、
国をあげてのパーティを執り行った。
ザノバはそのパーティの中、とてとてと歩き、己の弟の居場所に
向かった。
そして、ベッドに横たわる弟に触りながら、可愛いね、お人形さ
んみたいだと言った。
誰もがその言葉を聞いて、にこやかに笑った。
ザノバは三才にして、人形が好きだったから。
自分の好きなものに準えて言うのは、微笑ましかった。
次の瞬間、ザノバは弟の首を引きちぎった。
人形のように。
パーティは阿鼻叫喚の地獄となった。
国王と正妃は発狂し、ザノバの母を国外追放に処した。
しかし、ザノバは国に残った。
まだ幼いという事もあったし、神子でもあったからだ。
この世界における神子とは、それほど重要な人物であるらしい。
1616
ザノバの親衛隊は、その事件で3人にまで減らされた。
8人だったのが、3人だ。
これ以上増やすことはない、と王に宣言された。
次に事件が起こったのは、彼が15歳の時だ。
この頃になると、ザノバは人形狂いとはいえ、分別もついていた。
なので嫁を迎え入れる事になった。
やや北に位置する豪族の娘だ。
国王としては、戦争となった時、ザノバを矢面に立たせるつもり
だったのだろう。
結婚式はつつがなく終了した。
初夜を終えた翌日。
ベッドの中で、花嫁が首なし死体となって発見された。
ザノバが引きちぎったのだ。
豪族は娘が殺された事で怒り狂い内乱を起こし、鎮圧された。
国王はザノバより、二人の親衛隊を取り上げ、
戦争が起こるまで城内に軟禁することを決めた。
その際、ザノバが偏愛していた人形を取り上げようとしたが、
その任に赴いた兵士は、全て首を引っこ抜かれて死んだ。
﹃首取り王子﹄ザノバ・シーローン。
この事件から、ザノバはそう呼ばれるようになった。
さすがにそこまですれば、国王も彼をどうにかしようと思っただ
ろう。
だが、彼には人形があればよかった。
人形さえ定期的に与えておけばザノバは害がなかった。
1617
ゆえに王も、あれは人の形をした危険な兵器だと、そう思う事に
したのだ。
それ以後、ザノバは腫れ物のように扱われ、現在に至る。
と、偉そうに事情を語ってみたが、
俺がこの話を聞いたのは、後になってからだ。
あの時、俺はザノバがシーローン王宮の最大戦力の一つだとは知
らなかった。
−−−
ザノバはやたらニコニコした顔で立っていた。
それを、俺は引きつった顔で見ていた。
俺の視線は彼のにこやかな笑顔ではない。
その手に持つ物に注がれていた。
﹁師匠、どうでしょう、これで弟子にしてくださいますね!﹂
﹁いだいいだいいだいいだい! やめろ! やめてくれ兄上!﹂
﹁うるさいぞパックス﹂
﹁あああぁぁぁがああああぁぁぁ!﹂
それは顔面を捕まれているパックス・シーローンだった。
掴まれている所からボタボタと血が垂れている。
パックスが血を流しているのではない。
ザノバの全身が血にまみれているのだ。
1618
﹁っ⋮⋮﹂
俺は言葉を失っていた。
意味がわからなかった。
弟子だのなんだのと軽い話をしていると思ったら、
いつのまにかスプラッタホラーになっていた。
いやほんと、ワケがわからないよ。
ザノバはニコニコしている。
無邪気な笑顔だ。怖い。
血塗れの笑顔というものは、美女がしてこそ艷のでるものだ。
こんなオタクっぽいヒョロい兄ちゃんがしても猟奇的なだけだ。
﹁やめろザノバ! 手を離せ!﹂
﹁そ、そうだぞザノバ、気を確かに⋮⋮!﹂
この狭い部屋には、今数名の人物がいる。
剣を抜いたジンジャーと、それと対峙する兵士三人。
兵士の後ろに隠れる、高価そうな服を着た二人の王子。
両方とも王子というには、片方は少々歳を食い過ぎているが。
この狭い部屋に俺を含めて9人では、ちと手狭だ。
﹁兄上。パックスは兵士の家族を人質に取り、己がままに操ってい
たことをご存知ですか?﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂
﹁親衛隊ではない、父上のものである国の兵士を、です﹂
ザノバはニコニコしていた。
ニコニコしながら語っていた。
1619
﹁そこなジンジャーも、家族を人質に取られていたようです﹂
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
﹁ハッ﹂
ジンジャーは剣を抜いたまま、王子に対し答える。
剣を抜いたままだが、いいのだろうか。
ザノバは変わらずニコヤカな表情のまま、
﹁兄上たちは、ロキシーを覚えていますか?﹂
﹁あ、ああ。パックスの家庭教師の⋮⋮﹂
﹁水王級魔術師にして、我がシーローンの兵に対魔術師戦の極意を
教えてくれた、大恩のあるお方です。
父上もロキシーを正式に王宮に招こうとおっしゃっていたではあ
りませんか。
このパックスの浅はかな行動でそれも灰燼に帰しましたが﹂
﹁う、うむ⋮⋮そうだな、確かにパックスは悪い、だがお前が⋮⋮﹂
﹁だというのに⋮⋮御覧ください。
その弟子である師しょ⋮⋮ルーデウス様がこのような辱めを受け
ている。
パックスの手によってです。
ロキシー師曰く、自分よりも才能のある弟子と豪語する。
素晴らしい人材であるはずのルーデウス様が、です﹂
ザノバはニコヤカな顔を崩さない。
ある意味、あれもポーカーフェイスといえるのだろうか。
﹁お、お前、議会の時はつまらなそうにしているが、聞いているの
だな。
兄として安心したぞ。てっきりお前は国のことなどどうでもいい
1620
と⋮⋮﹂
﹁兄上、余は人形にしか興味はありません。
ただ、パックスをこうする正当性を説いていただけです。
余がこうしている理由は、ただひとつ﹂
ザノバはハッキリとそう宣言し、
パックスを持ち上げた。
﹁イダダダ!﹂
﹁ルーデウス様は、この世界に二つとない素晴らしい人形を作るお
方。
そんなお方が、パックスの下らぬ復讐に利用されるなど、あって
はならぬ事!﹂
﹁アアアアァァァ! 割れる、割れる、割れるぅぅ!﹂
パックスの悲痛な悲鳴が部屋に響き渡る。
﹁兄上、パックスの肩を持つのでしたら、余は暴れます﹂
兵士三人と王子二人がざわめいた。
もうすでに暴れてるじゃねえかと俺は思うのだが。
場がそれでビクりと震えた。
生前、俺が実家で暴れた時もこうはならなかった。
﹁余は難しい事は言っておりません。
人形の製作者を助けたいが、パックスの悪事が邪魔だと申してお
るのです﹂
﹁しかし、パックスは奴隷市場を⋮⋮﹂
﹁兄上、何度も言わせないでください。
弟の首を引っこ抜きそうです﹂
1621
ザノバはもう笑っていなかった。
俺はワケがわからなかった。
引っこ抜くってどういう比喩表現なんだと戸惑っていただけだ。
ただ、ザノバがこの場の支配権を持っているのはわかっていた。
頑張れ我が弟子よ。
ちょい怖いけど。
﹁ィィィィ、イヤダ! やめろ! 離せ、ジンジャァァ! 助けろ!
家族が、家族がどうなってもいいのか!﹂
﹁自分の家族でしたら、昨晩ルイジェルド殿が助けてくださいまし
た﹂
﹁なにぃ!?﹂
パックスが暴れ、ジンジャーが冷徹に答える。
ルイジェルドが誰を助けたというのだろうか。
あいつはいつも誰かを助けている。
とはいえ、やはり俺の知らない所で何かが進行していたらしい。
﹁この通りです兄上、余は王子の中で最も権力が無いゆえ、
兄上に頼むという形になりましたが、断るというのならば、
余も力の限り暴れましょう。何、この距離ならば兄上のどちらか、
あるいは両方の首をねじ切ってさしあげることができるでしょう。
その後は、宮廷魔術師にでも焼かれて死ぬでしょうが⋮⋮﹂
﹁殿下、死ぬまでお供いたします﹂
お前みたいなヒョロい男が大した自信だな、と。
俺は本気で思っていた。
自分を強いと思い込むのは危険だぞ、とハラハラしながら見守っ
ていた。
1622
というのに、おそらく第一王子と第二王子とおもわれる二人は、
折れた。
﹁わ、わかった! お前の言うとおりにしよう!﹂
﹁兄上、きちんと調べてくださいよ?
それから、城のどこかに二年前に騒ぎを起こしたリーリャが囚わ
れているはずです。
その身柄も確保して頂きたい﹂
﹁無論だ。父上の耳にも入れよう⋮⋮﹂
なぜこの王子二人はパックスのようなクズを擁護しているのだろ
う。
結構真面目に、そんな疑問を持っていた。
しかし、違うのだ。
彼らはザノバを恐れていたのだ。
爆発寸前の爆弾をどうしようかと恐れていたのだ。
それがわからないまま、俺は結界から出された。
魔力結晶は天井に隠されていたそうだ。
パックスは捕らえられ、リーリャは解放され、
あれよあれよという間に事件は終了した。
−−−
ここからは後日談というか、事件の種明かしとなる。
リーリャが抑留する事になった流れだ。
1623
彼女は当初、他国のスパイだと疑われていたらしい。
尋問された時に、ロキシーやパウロの名前を出した事で、牢獄は
免れるが、監禁される。
転移事件の情報が流れてきた時に解放されそうになったらしいが、
パックスが横槍を入れ、情報規制を敷いて城の中に閉じ込めたそ
うだ。
パックスはロキシーが出奔した後、奴隷市場にツテを作ったそう
だ。
で、その奴隷市場のツテで私兵を雇い、兵士の家族を拉致監禁。
命が惜しければいうことを聞けと脅したのだそうだ。
兵士たちもなんとかしたいと思いつつ、裏町を探っていたりした
そうだ。
一応人質の場所はわかったものの、屈強な護衛も多く、救出は困
難。
そんな中、アイシャが脱走し、王子より追跡命令が下る。
嫌々ながら動いてアイシャを発見。
と、そこに俺が現れ、華麗にアイシャを攫う。
兵士たちはアイシャを助けるという行動に加え、
無詠唱魔術という高度な術を見た時点で、俺がロキシーの弟子だ
と気づいたのだそうだ。
そこで、兵士たちは一晩にて計画を練った。
まず、奴隷市場にて喧嘩を起こし、市場を使えなくする。
アイシャが謎の男に攫われた事にして、私兵を追跡に出してもら
う。
それから俺に事情を話し、人質救出に参加してもらう。
警備の手薄になった人質の保管場所に襲撃を掛け、助けてもらう。
そして、見返りにリーリャの身柄をなんとしてでも助けてくれる、
1624
とそういう流れだったそうだ。
ちなみに、その計画が実行される前に、俺はロキシーがいると思
い込んで王宮に手紙を出し、
それをみたパックス王子に監禁されていたわけだ。
せめて、あと1日手紙を出すのを遅らせれば、
俺は彼らから事情を聞き、パックスを逆に罠にハメる事もできた
だろう。
やっぱり、人神の助言は、アイシャを助けた後に手紙を書けとい
う意味だったのだろう。
で、救出計画だが、頓挫するかと思われたが、実行された。
俺のいる宿に行ったら、ルイジェルドがいたからだ。
彼は兵士から事情を聞き、奮起してあっという間に人質を助け出
したらしい。
一応その時、例の偽名を使ったらしいよ。
人質を無事家に送り返した後、ルイジェルドは城に突撃をかまそ
うとしたそうだが、
そこは兵士たちが自分たちでやると言って聞かなかったそうだ。
いわばプライドだね。
兵士たちの計画では、人質が帰ってきたという報告はせず、
のこのこと裏町にきた王子を、そのまま殺害する予定だったのだ
とか。
裏町での殺人なら、発見も遅れるし、死体も隠せるんだそうだ。
やや無謀な作戦に思えたが、勝算はあったらしい。
ルイジェルドは折れた。
ちなみに、これらの作戦、終了するまでジンジャーは知らなかっ
たらしい。
1625
ハブられてたっていうか、親衛隊だから危険と思われていたそう
だ。
かわいそうにね。
人質を解放した時、ジンジャーの家族も発見され、その流れでジ
ンジャーも自分たちと同じだとわかったそうだが。
一方、ジンジャーはジンジャーで今回の一件を好機と考え、ザノ
バに人形を渡したりとかしていたそうだ。
この王国で最強の戦闘力を持つザノバ。
彼に人形を渡せば、俺に興味を持つ。
俺がその人形の事を喋れば、ザノバが貴重な情報源として、自分
の側についてくれるかもしれない。
という打算もあったそうだが、
ジンジャーは単純にザノバに忠誠を誓っているのも理由の一つだ
そうだ。
この一件でパックスから解放され、ザノバの元に戻りたかったら
しい。
人形のカタに売られたというのに、なぜまだ忠誠を誓うのかと思
うが、
彼女にもお涙頂戴のエピソードがあるのだろう。
で。
翌日。
ザノバがパックスの親衛隊二人を殺害し、身柄を確保した。
この流れは、ジンジャー以外は誰も予想できていなかったそうだ。
−−−
1626
国王はさすがに疲れた顔をして、パックスを国外追放に処した。
奴隷市場のツテはもったいなかったらしいが、
兵士の家族を、あまつさえ親衛隊の家族を人質に取り、
本来なら懐柔して引き入れるべき魔術師である俺を捕らえ、
あまつさえロキシーをおびき出して犯し殺そうとした。
いくらなんでも示しが付かない。
体裁が悪いので、表向きは留学。
実際には殺されてもいい人質として、王竜王国あたりに送られる
ようだ。
ザノバもまた、国外追放となった。
こちらも表向きは留学という形である。
これを提案したのは第一と第二の王子だ。
やり方がスマートでなかっただの、
ザノバにも非はあるだのと第一、第二王子が言っていたそうだが、
実際には、どんな事で爆発するかわからない核弾頭が自分に被害
を与えるのが怖いようだ。
国王もザノバを手放すのは嫌なようだが、
操れる手綱が頼りない以上、城外に置いた方が安全だと思ったの
だろう。
で、リーリャの身柄は解放されたが、
この後に及んで、まだ他国のスパイ云々と言い出す者がいた。
リーリャはパックスに取りいって、裏ではシーローンの情報を盗
んでいたんだと。
監禁されながらそんな事までできるとは、うちのリーリャはすご
いな。
1627
で、そいつらを黙らせるために、
リーリャはパウロの所まで﹃護送﹄されることとなった。
アスラ王国ではなく。パウロの所に。
まあ、アスラ王国に送られても、彼女の身元を証明できる人はい
ないしな。
あ、一応アスラ王国に故郷があるんだったか。
仕送りしてるって言ってたもんな。
でも、夫妻という間柄なのでパウロの所に送るらしい。
今のパウロはどちらかというとミリス神聖国との繋がりの方が強
いようだし、
アスラ王国に変な勘ぐりをされるよりマシという所だろうか。
まあ、これも建前上の問題だろう。
俺としては、移動の最中に口封じに殺されたりするんじゃないか
と心配だったが、
護衛にはジンジャーが参加してくれるらしい。
師匠の家族を守れという、ザノバの命令だそうだ。
他にも、ルイジェルドに助けられた兵士も参加するのだとか。
なら安心だ。
で、俺に対しては、国王様が直々に、
宮廷魔術師の地位を用意するがこの地にとどまらぬか?
と聞いてきた。
声音からしてため息混じりという感じで、ダメ元という感じの聞
き方だった。
俺も当然のように断った。
すると王様はハッキリとため息を吐きつつ、ならば下がってよい
ぞと言った。
それだけだった。
1628
まあいいんだけどな。
最初からなんとかなるってわかってたし、
慰謝料を払えとか言わないよ、俺は。
−−−
俺が王宮を出ようとすると、ザノバが泣きついてきた。
﹁師匠ぉぉ! 行ってしまわれるのですか!
弟子を置いて行ってしまわれるのですか!﹂
﹁申し訳ありません。旅を急ぐ身なので⋮⋮﹂
﹁では人形は、人形は作ってはもらえぬのですか!﹂
﹁あれを作るのには結構時間が掛かるので、ちょっと⋮⋮﹂
﹁なんとぉぉ!﹂
ザノバは俺に人形を作ってもらえなかった事が悲しいらしく、
俺の手にすがりついてさめざめと泣いていた。
この時には、この人が神子ってことを聞いていた。
他人の手足をバラバラにして首を引っこ抜く殺戮の王子だと。
正直、かなり怖い。
いきなり頭を引っこ抜かれるんじゃないかとビクビクしてしまう。
キレるスイッチがわからない奴は怖いのだ。
いや、感謝はしているんだけどな。
怖いものは怖い。
1629
﹁もし、次回会えたら、僕の人形の作り方を一から教えますよ﹂
﹁ええ! そんな、でも、余は、その、いいんですか?
秘伝の極意ではないのですか?﹂
﹁弟子に作り方を教えなくてどうするんですか﹂
﹁うおおおぉぉ、師匠ぉぉぉ!﹂
ザノバは泣きながら俺の身体を胴上げした。
俺は天井に叩きつけられた。
﹁し、しまった!! ジンジャー! 治癒魔術を!﹂
﹁ハッ!﹂
ジンジャーが治癒魔術を詠唱し、すぐに俺の傷が塞がれる。
ザノバは危うく俺を殺しかけた事で真っ青になってわたわたして
いたが、
俺が無事に起き上がると、ほっとした顔をしていた。
こいつ、破門にしてやろうか⋮⋮。
いや、やめとこう首を引っこ抜かれるのは勘弁だ。
﹁では師匠、達者で!
余はどこに留学処分となるのかわかりませぬが、
なに、師匠とならいずれまた出会える気がします!﹂
﹁ゲホッ⋮⋮⋮⋮はい、達者で﹂
ザノバは泣きながらうんうんと頷いて、俺を見送った。
ジンジャーもそれを見て、ホロリと涙をこぼしていた。
−−−
1630
こうして、シーローンにおける事件は終了した。
リーリャとアイシャは救い出され、パウロの元へと送られる。
パックスは国外追放。
俺にはザノバとかいう弟子ができる、と。
俺としては人神の助言に従って動いただけだったつもりだ。
多少、至らない部分もあったのだが⋮⋮。
しかし結果は最上とも言える形に落ち着いた。
なんていうか手のひらの上で踊らされていた感じが抜けない。
俺がどんな動きをしようとも、大まかに助言に従えば、
似たような結果に収まっていたように思える。
茶番を見ていたような気分だ。
けど、確かに全てがいい方向に行った。
リーリャもアイシャも五体満足。
ザノバはよくわからんが、悪感情は持たれていない。
パックスには悪感情を持たれたままだろうが、完全に手駒のない
状態で国外に。
過程はともかく、少なくとも俺にとっては都合のいい結末だ。
今までの助言も、俺の都合の悪い方向には転がらなかったように
思う。
もしかすると、人神はもっと信じた方がいいのだろうか。
いや、詐欺師ってのは一度成功体験をさせてから搾取するからな。
もう少し慎重に見極めよう。
1631
まあ、約束は約束だ。
次に出てきたら、喧嘩腰はやめておこう。
1632
第五十七話﹁妹侍女の生まれた日﹂
ここはシーローン王国にある小さな町。
そこにある宿。
アスラに行くにしても、ミリスに行くにしても、この町までは一
緒。
ここで道が別れる。
ゆえに、ここでリーリャたちと別れる事となる。
俺はテーブルを挟んで、リーリャと向かい合っていた。
窓の外から、アイシャとエリスの話し声が聞こえる。
−−−
﹁そうよ! ルー⋮⋮カイヌシは凄いんだから!
本気だせば雨がザーザー降る森もカッチカチに凍らせたりできる
しね!﹂
﹁それは魔術なんですか! 凄いです!﹂
﹁もちろんよ! それよりもっと凄い話もあるんだから、聞く?﹂
﹁聞かせてください!﹂
−−−
エリスはカイヌシさんの偉業について自慢げに語っているようだ。
俺はそんな会話に苦笑しつつ、リーリャに意識を向けた。
彼女はテーブルを挟んだ向かい側に座っている。
彼女とは、昔からポツポツと話をした程度だ。
1633
さて、何を話すべきなのか。
迷っていると、リーリャの方から話しかけてきた。
﹁改めて、お礼を申し上げます、ルーデウス様。
一度ならず二度までも命をお救い頂き、感激の念にたえません﹂
﹁やめてください。今回、僕は何もしてません﹂
﹁いいえ、ルーデウス様がかすかな筋から情報を得て、
わざわざシーローンへと寄ってくれたと聞き及んでいます﹂
リーリャはそう言って、深々と頭を下げている。
俺は人神の言うとおりにしただけだ。
その後は、本当に何も出来なかった。
無様に罠に嵌り、助けだされただけだ。
これで感謝しろなんて言えたら、生前の俺はもっと大物になれた
はずだ。
﹁ルイジェルドとエリスに感謝してください。
彼らがうまい具合に動いてくれたから、スムーズに事が終わった
んです﹂
﹁彼らとも少し話をしましたが、全てはルーデウス様の策略だと⋮
⋮﹂
﹁そんなわけないでしょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ルーデウス様がそうおっしゃるのであれば﹂
不満そうだ。
俺は黒を白と言えなんて言ってないはずだ。
﹁時に、アイシャは何か失礼なことはしませんでしたか?﹂
リーリャは窓の外をチラリと見て、そんなポツリとそんな事を聞
1634
いてきた。
﹁全然。優秀な子ですね。六歳であそこまで考えて行動できるなん
て普通はできませんよ﹂
まあ、ちょっとツメが甘かったようだけど。
黙っておこう。
俺も人のことは言えないしな。
﹁ルーデウス様ほどではありません⋮⋮。
この数年で、できる限りのことは教えたつもりですが。
未だにルーデウス様の素晴らしさを分からない愚鈍な娘です﹂
﹁愚鈍は言い過ぎでしょう﹂
大体、俺は例外だ。
生前の記憶を持っているからな。
うちの妹もその可能性はあるのかと思ったが、
試しにテレビやら携帯やらの存在について聞いてみても、きょと
んとされるだけだった。
妹は単に天才なだけなのだ。
パウロの遺伝子ってのは案外凄いね。
﹁ルーデウス様。アイシャをどう思いますか?﹂
ふとリーリャが、思いついたように聞いてくる。
﹁え? だから、優秀ですと﹂
﹁そうではなく、見た目です﹂
﹁可愛いと思いますが﹂
﹁私の娘です、成長すれば胸も大きくなるでしょう﹂
1635
ほう、胸が⋮⋮?
いやいや。妹の胸になんざ興味はない。
というか、なんだ、なんの話をしているんだ。
﹁ルーデウス様。アスラへと旅を続けるのなら、
是非ともアイシャを連れていってください。
私は旦那様の所に行かなければなりませんが、
アイシャの方はそちらに付いて行っても大丈夫でしょう?﹂
﹁理由を聞いても?﹂
俺は反射的に聞き返した。
﹁ルーデウス様。アイシャには常日頃から、将来はルーデウス様に
仕えるのだ、と教えています﹂
﹁らしいですね﹂
﹁娘には、私の知る、ありとあらゆることを教えてきました。
今はまだ幼いですが、四年もすれば男好きのするいい体になるで
しょう﹂
男好きて。
﹁ちょっとまってください。彼女は妹ですよ?﹂
﹁ルーデウス様が女好きなのは、存じております﹂
存じておりますか、そうですか。
でもな。
どうやら、生前と違って、血のつながった相手にはあんまり欲情
しないみたいなんだ。
だから、アイシャが育ったよ、さぁ食べちゃってね、と言われて
1636
も困るのだ。
と、まあ、そういう理由も本音の一つだが。
本音はもう一つ。
﹁あの子は、まだ六歳でしょう? 親と一緒にいるべき年齢です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ルーデウス様がそうおっしゃるのであれば﹂
リーリャはガッカリしていた。
俺は間違ったことは言ってないはずだ。
アイシャは幼い。親と一緒にいた方がいいだろ?
あくまで日本人としての感覚だが、小さい頃は父と母、両方と一
緒にいるのが望ましい。
どちらかだけでもいいとは思うが、どちらもいないのはダメだろ
う。
﹁承知いたしました。確かに、まだアイシャは未熟。
未熟な者をルーデウス様の供にするわけにはいきませんね﹂
﹁あの、あんまり変なこと教えないでくださいよ?
その、変態がどうとか﹂
﹁私はルーデウス様が素晴らしいお方だとしか伝えておりません﹂
﹁そのせいで、やや反発しているようですが⋮⋮﹂
﹁そうですね。まあ、今だけですよ﹂
リーリャはふふっと笑い、顔を上げた。
晴れやかな顔だ。
アイシャは連れていけない。
だが、俺はもう大切なものをリーリャから受け取っている。
その片方は革紐を通して俺の首にぶら下がり、
もう片方は箱に入れて大切に保管されている。
1637
二度と手放したりはしない。
﹁このペンダント︵とパンツ︶、ありがとうございます﹂
﹁いいえ、ルーデウス様にとって大切なものだと聞き及んでおりま
したので﹂
口に出していない部分も汲んでくれた。
リーリャには本当に世話になる。
﹁⋮⋮あの、やっぱりパンツを持っていると変態とおもわれるでし
ょうか?﹂
﹁変態? それはアイシャに言われたのですか?﹂
リーリャがガタッと立ち上がった。
どうどう、ストップストップ。
座らせる。
リーリャは小さくため息をついた。
﹁あの子は比較的自由に城内を動けたので、
誰かに変なことを吹きこまれたのでしょう﹂
変なことか、うん。
そうだな、変なことだ。
﹁パンツぐらいで変態などと言っていては、アスラ王宮に勤めたら
どうなってしまうのか⋮⋮﹂
﹁アスラ王宮、ですか? そういえば、昔後宮に務めていたそうで
すね﹂
﹁はい。あそこに比べれば、旦那様やルーデウス様など変態の内に
1638
入りません﹂
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
俺は自分のことはそれなりにアレだと自覚しているが、
そうか⋮⋮それ以上か。
アスラ王宮ってのはそういう所なのか。
考えてみれば、辺境貴族ですらケモナーだったりするもんな。
いや、グレイラット家にかぎらず、
シーローン王家もひどいもんだった。
﹁中には女性のおりも﹂
﹁いえ、具体的な描写はいいです﹂
これ以上はいけない。
﹁とにかく、王侯貴族の方は倒錯した趣味を持つ方が多いのです。
それに比べれば、あこがれの方の下着に興味を持つことなど普通
です﹂
リーリャは遠い目をしていた。
きっと、嫌なことを思い出しているのだろう。
﹁父様には、よろしく言っておいてください﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁あ、路銀は渡しておきますが、足りなくなりそうなら冒険者ギル
ドで父様の部下を探してください﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁護衛の兵士は信用できると思いますが、
知らない相手なのでくれぐれも気をつけてください﹂
﹁問題ありません。皆顔見知りでした﹂
1639
﹁あ、そうですか、ええと⋮⋮﹂
﹁ルーデウス様﹂
あれこれ考えていると、リーリャがふと立ち上がり、こちらに歩
いてきた。
そして、俺の頭を胸に抱いた。
彼女の豊満な胸が俺の顔に押し付けられる。
思わず鼻息が荒くなった。
﹁あの、リーリャさん、当たってますよ?﹂
﹁ルーデウス様は、昔から変わりませんね﹂
リーリャはそう言って、くすりと笑った。
−−−
翌日。
出発直前。
俺はエリスやルイジェルドと、馬車に不備が無いかの最終点検を
していた。
道中で壊れたら困るしな。
リーリャたちは先に出るようだ。
あっちには馬車の修理ができる人もいるらしい。
俺も暇があったら習ったほうがいいのだろうか。
﹁カイヌシさん、カイヌシさん!﹂
アイシャが小走りでやってきた。
1640
﹁なんですか?﹂
﹁ちょっと﹂
と、俺の裾を引っ張って、どこかへと連れて行こうとする。
なんだろう。
とりあえず、ルイジェルドに目配せをして、付いて行くことにす
る。
連れて行かれたのは、道端の茂み。
アイシャはしゃがみ、俺にも座るようにとジェスチャ。
しゃがむ。
まるで内緒話だ。
いや、内緒話なのか。
﹁カイヌシさん、実は内密にお願いがあるのですが﹂
﹁お願いですか? 僕に出来ることなら﹂
可愛い妹の頼みなら、なるべく叶えてやりたい。
ノルンには嫌われたが、アイシャには嫌われたくないからな。
今の所は好感触だが、しかしそれは俺がカイヌシさんだからだ。
兄と打ち明ければゴミを見るような目で見てくるだろう。
﹁どうか、あたしを旅の仲間に加えてください⋮⋮!﹂
そんな事を言われ、俺は目が点になった。
⋮⋮⋮⋮リーリャか。
﹁それ、お母さんに言われたんですか?﹂
1641
自分が頼んでダメだと思えば、今度は娘の泣き落とし作戦にきた
か。
意外とやるね、あの人も。
﹁いいえ、お母様がいいって言うわけないです﹂
﹁ん?﹂
あれ。
先日の話だとリーリャは俺についていかせたいという話だが⋮⋮。
どういう事だ?
﹁お母様は、日頃から言っているんです。
あたしは将来、腹違いの兄に仕える事になるのだと﹂
﹁言ってましたね﹂
﹁ですが!﹂
アイシャは、ドンと拳を地面にたたきつけた。
﹁あたしはゴメンです!﹂
よほど俺の事がゴメンらしい。
パンツに興奮するからだろうか。
ゴメンなさい。
﹁先日も話しましたよね。
兄は変態なんです。
カイヌシさんの言うことはわかりますが、あたしはそんな人に仕
えるなんて絶対に嫌です﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
1642
そこまでいうことはないと思うんだがなぁ。
﹁是非とも、あたしを救ってください。
先日、救ってくれたように。
変態の魔の手から、颯爽と!﹂
﹁お断りします﹂
冗談じゃない。
一緒に旅なんかしたら、名前がバレるじゃないか。
バレた時に嘘をついてたなんて知れたら⋮⋮。
あれ?
でも家族だし、いつかはバレるよな?
﹁なんでですか! 変態なんですよ!﹂
﹁それは、君の想像であって、真実ではありません﹂
よし。ここで、少し誤解を解いておくことにしよう。
リーリャにまかせておいたら、きっといつまで経っても変態のま
まだからな。
王宮にはもっと凄いのがいたといっても、
実際に見なければわからんよ。
﹁実際に会ったことはないんでしょう?﹂
﹁でも、パンツは確かにあったんです!﹂
﹁何か、理由があったのかもしれません﹂
﹁パンツを大事にする理由ってなんですか!?﹂
なんで、なんでって言われてもな。
ほら、例えば某宗教だと、聖人の身に着けていたものは御神体と
して崇めるだろ?
1643
ましてパンツだぜ?
ロキシーがソロプレイに使った時のパンツだぜ?
一流のプレイヤーのアイテムだぜ?
シーンに注目するリスナーなら、どうする?
そりゃ後生大事にとっておくさ!
うちの宗派のモットーは、性欲も勉強も大事にしましょう。
エロスタディのダブルスタンダードだ。
ま、それはさておき。
﹁その、ロキシーという人は、お兄さんの家庭教師なんですよね?﹂
﹁はい﹂
﹁ということは、お兄さんに多大な影響を与えたはずです﹂
﹁そうでしょうか⋮⋮﹂
そうとも、俺が言うんだから間違いない。
20年近く出来なかった事を、出来るようにしてくれた人だもん。
俺がこうして生きているのは、彼女のおかげだもん。
﹁そんな人の身に着けていたものなら、
なるべく持っておきたい、と思うのではないでしょうか﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
納得行ってないようだな。
では、先程命を助けてくれたカイヌシさんの所持品を上げてみよ
う。
俺は懐から、一つのものを取り出す。
﹁この鉢金は、僕がずっと使っているものです﹂
1644
﹁なんですか、いきなり﹂
﹁これを差し上げましょう﹂
俺は荷物から鉢金を取り出し、彼女に手渡した。
昔、リカリスの町で購入したものだ。
洗濯はしているが、結構使っているため、俺の汗が染み込んでい
ると言えよう。
それを手にすると、彼女は少しハッとした顔になった。。
﹁あ! なんか、わかります﹂
﹁言葉ではなく、心で理解できましたか?﹂
﹁はい、出来ました! 兄は変態じゃなかったんですね!﹂
というわけで。
俺は古くなった鉢金を、手放す事にした。
この子、チョロイな。
﹁カイヌシさんは本当に良い人ですね!﹂
﹁それほどでもないですよ﹂
キラッと、ルーデウスマイル。
アイシャは俺をきらきらした目で見ていたが、
ふと気づいたように、﹁あ、そうだ﹂とつぶやいた。
﹁今、兄は行方不明なんですが。
もしどこかで死んでたら、カイヌシさんに仕えさせてくれません
か?﹂
﹁いや、それは、どうでしょう﹂
﹁ダメですか? お母様を見ればわかると思いますけど、
1645
あたし、結構育つと思いますよ! 男好きのする体に!﹂
﹁男好きって、意味わかって言ってます?﹂
﹁子作りをしたくなる体ってことですよね!﹂
﹁子供が子作りとか言っちゃいけません﹂
大きなお友だちに攫われて、お赤飯の日すら消滅させられますよ。
まったく、誰だそんなことを教えたのは。
﹁どうしてもダメですか⋮⋮?
私のこと、嫌いですか?﹂
目をうるませる妹。
うーむ、可愛い。
もちろん嫌いじゃない。
﹁わかりました、お兄さんが見つからなかったら、いいですよ﹂
﹁ほんとうですか?﹂
騙すようで心苦しい。
彼女が成長する頃には旅も終わり、また家族で仲良く暮らせるよ
うになっているだろう。
﹁じゃあ、変態って言ったことは怒ってないんですね?﹂
﹁ええ、もちろ⋮⋮⋮⋮え?﹂
なんつった、今。
﹁ありがとうお兄ちゃん!﹂
最後に、彼女はそう言って、バッと立ち上がった。
1646
そのまま三人の護衛の待つ馬車へと走っていく。
俺が呆然としていると、馬車が進みだす。
アイシャは手を振り、リーリャもぺこりと頭を下げる。
そして、最後に。
﹁じゃあね、お兄ちゃん! また会おうね! 約束だよ!﹂
馬車が行く。
それを見届けて、俺も自分の馬車に戻った。
まだ呆然としている。
エリスがしらけた顔で言った。
﹁なによ、やっぱりバレバレじゃないのよ﹂
﹁あ、あれぇ⋮⋮?﹂
ルイジェルドが馬の手綱を引いた。
馬車が動き出す。
そもそも、考えてみれば、気付かれる場面は多かった。
最初に名前を呼んでしまったし、
その後もエリスやルイジェルドと話している時、
彼らがふとルーデウスと洩らした時もあったはずだ。
すでにバレていたのだ。
では⋮⋮なぜ知らないフリを? 考え、考え。
すぐに答えが出た。
1647
おそらく彼女は、兄を信頼できる人物か、見極めようとしたのだ
ろう。
俺があそこでカイヌシと偽ったまま彼女を連れて行こうとすれば、
彼女は俺を見限っていたに違いない。
﹁ははっ﹂
それに気づいて、俺は笑った。
アイシャは本当に賢く、聡い子だ。
将来が楽しみである。
1648
第五十八話﹁一人前﹂
俺達はアスラ王国を目指す。
シーローン王国から西へ、西へと進んでいく。
平坦な道で、ついうつらうつらとしてしまいそうな陽気が周囲を
包んでいる。
街道の左右には見渡す限りの草原だ。
正面にうっすらと見えるのは赤竜山脈だ。
山脈の上を、三匹の影がゆっくりと旋回しているのが見える。
のどかだ。
たまに空気を読まない盗賊が金目のものを置いていきな、
などと言ってくることもあるが、
お望み通りエリスが鉄拳をくれてやると、這々の体で逃げ出して
いく。
最初はルイジェルドが皆殺しにしようとしたが、
事情を聞いてみると単に食うに困っての事だそうなので、
とりあえず見逃してやる。
一度はね。
中央大陸とはいえ、この辺りの街道はやや治安が悪いね。
魔大陸を見習ってほしいよ。
あそこは盗賊なんて出て来なかった。
もっとも、盗賊の10倍ぐらい魔物が出てきたんだけどな。
1649
人が好き勝手できるってのは、平和な証拠なのかね。
もうちょっと北の方にいくと、たくさんの小国が入り乱れて戦争
してるらしく、
盗賊もその戦争の煽りで増えてきているそうだが⋮⋮。
何にせよ、のどかなもんだ。
−−−
赤竜山脈とは中央大陸にある長大な山脈の事である。
中央大陸を三分割するように山が連なり、
その全土には赤竜が生息している。
赤竜とは、中央大陸で最強と言われている魔物だ。
絶対強者とでも言うべきか。
単体でSランクの強さを持ちながら、
数百匹という単位で群れを作る。
特筆すべきは、その探知能力である。
彼らは縄張りに入ってきた生物を絶対に見逃さない。
絶対にだ。
犬程度のサイズの生物すら逃す事はなく、
どれだけ強力な魔物であっても、赤竜の縄張りに入ってしまえば
赤竜に群がられ、
骨も残さずに食いつくされてしまう。
どうやって縄張りに入ってきたものを探知しているのかという点
についてはわかっていない。
縄張りに入れば死ぬ。
1650
それがこの世界の常識だ。
この世界には何種類もの竜がいる。
そのどれもが単体でAランク以上。
中でも最も危険で獰猛だと言われているのが赤竜だ。
単体ではせいぜいSランク下位と言われているものの、
なにせ群れの単位、縄張りの規模が大きすぎる。
赤竜という種が住み着いたがゆえに、山脈は赤竜山脈と名付けら
れたのだ。
通行不能の死の山脈。
それが赤竜山脈なのだ。
そんな危険な生物であるが、実は赤竜にはひとつの弱点が存在す
る。
彼らは戦闘能力は高いが飛行能力はお粗末であるがゆえ、
平地から飛び立つことができないのだ。
飛ぶためには高い崖から飛び降りるか、
もしくはある程度長い斜面を滑走する必要がある。
中央大陸は山こそ高いものの、
基本的にはなだらかな平野や森ばかりである。
ゆえに、平地に住む人々が赤竜に襲われる事は滅多にないそうだ。
もっとも、たまにマヌケな個体もいるらしい。
乱気流か何かに巻き込まれてきて平地に落ちるそうだ。
そうした竜ははぐれ竜と認定される。
天空の覇王は地に落ちても、健在のAランク上位。
圧倒的な力で暴れ回り、甚大な被害をだすらしい。
1651
人里の近くに落ちれば、国を上げての討伐騒動だ。
緊急依頼が発生し、蜂の巣をつついたような騒ぎになるそうだ。
もっとも、大抵は人里から離れた所に落ちる。
依頼のランクはSランクとはいえ、
安全を期して7、8パーティ程度が組んで罠に嵌め、案外簡単に
狩られてしまうそうだ。
ちなみに、竜の肉や骨は武具の素材として最上級に近い。
また竜の皮は芸術品としての価値も高い。
もちろん、皮だけじゃない、竜は全身余すことなく、何かに使え
る。
一匹を10人で討伐して報酬を山分けしたとしても、
1年は豪遊できる金が手に入るそうだ。
具体的にいうと、1匹でアスラ金貨100枚ぐらいになるらしい。
高額素材であるため、
依頼を受けられないCランクに上がりたてのペーペーが無謀にも
挑む事があるそうだ。
大抵は焼肉にされてペロリと平らげられてしまうらしいが。
そんな赤竜が大量に生息する赤竜山脈。
そこには二箇所だけ通行できる場所がある。
﹃赤竜の下顎﹄﹃赤竜の上顎﹄と呼ばれる断崖絶壁の渓谷だ。
これは第二次人魔大戦時から存在している渓谷で、
当時でも唯一軍が通行できる広さを持つ道だったそうだ。
ラプラスはそういうことも見越して、赤竜山脈に赤竜を放ったら
しい。
ルイジェルドが言うのだから、間違いあるまい。
1652
俺達は、中央大陸南部と西部をつなぐ﹃赤竜の下顎﹄へと馬車を
進めている。
そこを抜ければ、アスラ王国だ。
−−−
しかし、迂回するという事は、すなわち遠回りという事だ。
遠回りが嫌なお嬢様が、ここに一人。
﹁迂回なんてしなくても、ルイジェルドがいるなら赤竜山脈ぐらい
通過できるわよね!﹂
とは、赤竜山脈の上を小さく旋回する赤竜を見たエリスのムチャ
ぶりである。
﹁無茶を言うな﹂
ルイジェルドが苦笑しつつ、そう答えた。
俺ももしかするとルイジェルドなら、と思っていたが、
さすがの彼でも赤竜山脈を徒歩で通過するのは無理らしい。
なら、俺も無理だろう。
ルイジェルドには勝てないしな。
﹁でもルーデウスなら行けるわよね!﹂
﹁いや、無理ですよ、何言ってるんですか﹂
どうやらエリスは、竜退治というものを体験してみたいらしい。
1653
気持ちはわからなくもないが、ちょっと待てと言いたい。
さすがにできることとできない事がある。
﹁でも、ギレーヌは前にはぐれの赤竜を倒したって言ってたわ!﹂
﹁本当ですか?﹂
俺はその話は聞いていないな。
冒険者時代の話ではないのかもしれない。
もし冒険者時代の話であれば、パウロが一度ぐらい自慢気に話し
てきただろうしな。
﹁なんでも、剣聖になる前に赤竜と戦ったんですって!﹂
﹁へぇー、一人でですか?﹂
﹁えっと、同じぐらいの上級剣士5人ぐらいで、だって言ってたわ
ね﹂
﹁それ、何人死んだんですか?﹂
﹁2人だって﹂
馬鹿野郎。
40%も損失してるじゃねえか。
なんでそれで俺が赤竜に勝てると思うんだ。
﹁大体、はぐれ竜と山にいる竜じゃ強さが全然違いますよ。
だって、空飛んでるんですよ?﹂
空飛ぶってのは、人にとって大きなアドバンテージを得るという
ことだ。
飛行属性を持っていれば弓に弱いとかは無いのだ。
しかも、群れ。
この世界で群れを作っている魔物は、
1654
大抵は群れでの狩りの仕方も心得ている。
群れを作りつつも、せいぜい数匹でしか行動しない王竜や、
そもそも群れを作らない黒竜ならまだしも、
百匹単位で襲い掛かってくる赤竜をちぎって投げるなどできるは
ずもない。
﹁ですよね、ルイジェルドさん﹂
七大列強
の上位陣だけだ。
﹁ああ、赤竜の群れをどうにか出来るやつなどいない。
いるとすれば、
恐らく、北神や剣神であっても、道半ばにて引き返す事になるだ
ろうな﹂
七大列強
なら、ドラゴンぐらいは簡単に相手にできると思っ
﹁そうなんですか?﹂
たのだが⋮⋮。
﹁ああ、恐らく、途中で体力が尽きるだろう。
眠ることもできんだろうからな﹂
なるほど。
数百匹の竜が夜も寝ないで攻撃し続けるのか。
戦闘力云々以前に、物量で押しつぶされるのだろう。
であれば、七位でも赤竜の縄張りを
の上位なら、通過ぐらいはできるだろう。
七大列強
七大列強
﹁もっとも、ラプラスはそんな赤竜の王をも従えていた。
ゆえに、
もっとも、昔の
通過するぐらいはできただろうがな﹂
なるほどね。
1655
封印中の4位﹃魔神﹄と現在5位﹃死神﹄。
その間には越えられない壁ってやつがあるらしい。
﹁でも、いつか一匹ぐらい狩りたいわよね⋮⋮﹂
今日もエリスはいつも通り物騒だった。
そのいつかに、きっと俺も巻き込まれるんだろうな。
いずれくるであろう時のために、赤竜戦の予習ぐらいはしておき
たいものだ。
−−−
のどかな一日。
赤竜の下顎まであと数日で到着するという日。
俺は飯を作りながら、人神について考えていた。
先日のシーローン王国での事だ。
あの助言と、自分の行動を比べてみる。
そして、後から聞いた情報で筋道を立ててみる。
例えば、最初に土槍で逃げず、兵士に話を聞いていたら。
その時点で、ロキシーが城にいない事を知ることが出来た。
なら、パックスの罠から逃れる事も出来ただろう。
逆に罠にはめることも出来た。
手紙の内容も変わっただろうし、ジンジャーの協力も得られた。
その場合は、ザノバとはおそらく接触しなかっただろうが、
1656
やはりスムーズに事を運ぶ事も出来たはずだ。
ふーむ。
正直、ザノバに出会った後の事は、さすがにおかしいと俺も考え
ている。
俺に都合よく事が進みすぎた。
もしかすると人神は、未来予知以外にも、
未来を変える力も持っているのだろうか。
いや、どうにせよザノバはあの場にいた。
ザノバの性格が唐突に変わったわけでもない。
仮に人形を持っていかなくとも、
ジンジャーはなんらかの形で俺とザノバを引きあわせたような気
がする。
ザノバはロキシー人形を持ってくるし、語るだろうし。
俺はやっぱりホクロの事を指摘しただろう。
偽名はどうだろうか。
少なくとも本名を名乗らなかったおかげでアイシャとは仲良くな
れた。
だが、それ自体は事件には関係ないしな⋮⋮。
逆に、もしあそこで本名を名乗っていたら、どうなっていたのだ
ろうか。
アイシャは俺のことを変態だと思っていたようだ。
最終的に誤解は解けた。
だが、少なくとも宿についた時点では、まだ俺を兄だと確信はし
1657
ていなかったはずだ。
変態な兄と、宿に二人きり⋮⋮。
俺なら貞操の危機を憶えるな。
トイレに行ってる隙に逃げるかもしれない。
逃げた先、どこに行くだろうか。
彼女は手紙を出そうとしていたから、金を盗んで行くかもしれな
い。
金があれば、手紙を出すことができると俺は教えた。
賢い彼女なら、その金で便箋を買い、人に道を聞いて冒険者ギル
ドに行き、
そこで手紙を出そうとするだろう。
いや、兵士には一度見つかっている。
冒険者ギルドに行けば兵に見つかる。
別の人物に頼もうとするだろう。
しかし、彼女の知り合いはいない。
兵に見つからなかった危ない状況で、うろうろと町中を歩く。
俺は探すだろう。
どうやって探すだろうか。
ルイジェルドだな。
アイシャがいなくなったと知れば、きっと俺は取り乱し、
後先考えずに空に向かって爆裂魔法を使い、ルイジェルドに連絡
を取るだろう。
そして、妹を見つけたが逃げられたと言って、探してもらったは
ずだ。
そして、迷子のアイシャはルイジェルドに保護される。
ルイジェルドは子供にやさしい。
アイシャもきっと彼を信用するだろう。
1658
うん、やはり問題ない。
考えれば考える程、人神の助言には意味がある。
大まかに行動したとしても、一つの結果に向かうようにできてい
る。
今までも、おそらくそうだったのだろう。
ルイジェルドに助けてもらっても、助けなくてもらわなくても。
最終的にはルイジェルドと一緒に旅をすることになり。
キシリカに会って、どの魔眼をもらっても、
やはり俺は大森林でドルディア族に捕まっていたかもしれない。
奴は、色々と考えて助言をくれている。
しかし、相変わらず目的だけは見えないんだよなぁ。
そこさえきちんと語ってくれれば、
俺だってもう少し素直になれるんだがな。
素直に、なれるんだけどなぁ⋮⋮。
と、空をチラチラを見ながら、俺は思うのだった。
−−−
エリスとルイジェルドは、今日もかかさず訓練をしていた。
俺はそれを飯を作りつつ、眺める。
1659
最初は俺も混じっていたのだが、
基礎体力の差なのか、半分ぐらいでギブアップだ。
ここ最近、エリスの強さは目を見張るほどだ。
一年前は魔眼を使えば余裕で勝てた。
あの頃のエリスなら、戦闘中にパンツを引きずり下ろすこともで
きたかもしれない。
けど、今は無理だ。
魔眼と魔力を全開にすれば最後に立っているのは俺だろうが、
恐らく、ギリギリの勝負になるはずだ。
もちろん、距離をおいての戦いであれば、簡単に俺に軍配が上が
るだろう。
それはどさくさまぎれにおっぱいを触る可能性をも摘み取ってし
まう。
しかしまあ、才能ってやつなのかね。
俺だってそれなりに努力はしているつもりなのだが、
エリスはその上を行っている。
努力の質も量も俺より上だ。
俺も頑張らなければとは思うのだが、体はついていかない。
もしかして、この体はあまり体力がないのだろうか。
生前の基準で考えていたが、
この世界の基準では、平均を下回るのだろうか。
エリスぐらいしか同年代の子がいないのでわかりにくい。
などと考えていると、今日のお稽古は終了したようだ。
ここ最近、ルイジェルドはエリスに対し、﹁わかったか?﹂と聞
かない。
1660
言わなくてもわかるからだろう。
エリスはよく吸収している。
﹁エリス﹂
俺の傍まで戻ってきた時、ふとルイジェルドがエリスに声を掛け
る。
﹁なに?﹂
エリスは俺からよく絞った布を受け取り、
服の中に手を入れて汗を拭いている。
以前は上半身ブラジャーのみになって汗を拭いていたのだが、
俺が興奮するので今の形になった。
彼女も汗とか気持ちわるいだろうに。
すまないねえ。
﹁お前は、今日から戦士を名乗ってもいい﹂
ルイジェルドは地面にどっかりと腰を降ろしつつ、言った。
戦士か。
剣士ではなく戦士。
この世界における戦士は、単純に剣士ではないというだけで、
戦闘能力に大きな違いがあるわけではない。
だから⋮⋮ん?
と、そこで俺は、ルイジェルドの言葉の意味に気づいた。
エリスもまた、脇の下に手を差しこみつつ、動きを止めていた。
1661
﹁⋮⋮⋮⋮それって﹂
﹁一人前だ﹂
ルイジェルドは静かにそう言った。
エリスはぎくしゃくした動きで、布を俺の方へとほうってきた。
俺はそれを受け取り、水魔術で再度濡らしてから、ジャッと絞っ
てパンと叩く。
エリスが隣に座ってきた。
この表情は見覚えがある。
俺に杖を渡された時の顔だ。
嬉しくてニマニマしたいのだが、
神妙な顔をしなければならないと思っている時の顔だ。
﹁で、でもルイジェルド、まだ全然あなたに勝てないのだけど?﹂
﹁問題ない、お前はすでに戦士としては申し分ない力を持っている﹂
これはあれか。
言ってみれば、認可のようなものなのかもしれない。
ギレーヌに剣神流上級と名乗ってもいいと許可されたように、
ルイジェルドに戦士と名乗ってもいいと許可された。
これはお祝いをすべきだろう。
﹁エリス、おめでとうございます﹂
エリスは目を白黒させていた。
そんなつもりで稽古をしていたつもりはなかったのかもしれない。
﹁る、ルーデウス、夢じゃないかしら、ちょっとつねってみて?﹂
﹁つねっても殴りませんか?﹂
1662
﹁殴らないわよ﹂
言質を取ったので、彼女の乳首をきゅっとつねってみた。
もちろん、優しくだ。
おっと、この場合はやらしく、かな?
エリスの拳は優しくなかった。
﹁どこつまんでるのよ!﹂
﹁失礼⋮⋮でも夢じゃないですよ。夢ならこんなに痛くないはず﹂
真っ赤な顔をして胸元を抑えるエリスに、
真っ青な顔をして顎を抑える俺は告げる。
﹁そう、戦士⋮⋮﹂
エリスは何かを実感するように、自分の手のひらを見ていた。
﹁だが、自惚れるな。
もう子供扱いはしないという意味だ、わかったな﹂
まるで、子供に言い聞かせる親のような言い方だ。
﹁⋮⋮⋮⋮はい!﹂
エリスは神妙な顔を作りつつ、そう言った。
まあ、頬のあたりがニマニマしそうになってぴくぴくしていたが。
その日の飯は、なんだかいつもよりうまかった。
1663
−−−
その夜、エリスが寝静まった頃、ふと気になることがあって目が
覚めた。
半分寝ながら見張りをしているルイジェルドに、話しかける。
﹁なんで、エリスにあんなことを?﹂
ルイジェルドは薄目を開けて、俺を見る。
﹁お前が、何時まで経ってもあの子を子供扱いしているからだ﹂
⋮⋮はて。
エリスは子供かどうか。
まあ、子供だろう。
生前の俺とくらべても20年は年下だ。
まして、俺は彼女がもっと小さい頃から、
手とり足取り、殴られつつもいろいろと教えてきたのだ。
子供といえば、子供だろう。
しかし、確かにエリスは最近大人びてきた。
体つきの話だけじゃない。
少しずつ、分別というものをわきまえるようになったと思う。
昔のように、後先考えずに暴れる事も少なくなってきたように思
う。
まだまだ似たような事はしているが、
しかし、頻度は減ってきたように思う。
1664
言ってみればそうだな。
彼女は子供から大人になる過程なのだろう。
俺も立派な大人とはお世辞にも言えない。
だが⋮⋮。
﹁うーん⋮⋮﹂
俺が考えていると
ルイジェルドは、静かに目を閉じた。
﹁まあ、仕方がないか⋮⋮﹂
何が仕方ないのだろうか。
俺はその意味を深く考えることはなかった。
分からないが、何かイヤな予感を感じた。
﹁ルイジェルドさん﹂
﹁なんだ﹂
﹁胸ポケットに、この銀貨を一枚入れておいてください﹂
そう言って、懐から銀貨を一枚取り出し、ルイジェルドに投げ渡
す。
彼は戸惑っていた。
上着にポケットがなかったからだ。
それでも彼は、胸近くの縫い目に銀貨を挟み込む事に成功したら
しい。
﹁で、これはなんなんだ?﹂
﹁おまじないです﹂
1665
俺はそれに満足し、眠りについた。
−−−
数日後。
シーローン出発から4ヶ月。
俺たちは﹃赤竜の下顎﹄へとたどり着く。
アスラ王国へとたどり着く。
そして、思い知る事になる。
物事ってのは、唐突に起きるものだと。
悪いことは、予測も予防もできない時があるのだと。
唐突に親が死ぬ事もあるし、
唐突に兄弟がぶん殴ってくる事もある、
唐突にトラックが突っ込んでくることもある、
唐突に異世界に転生することもある、
唐突に父親に襲い掛かられてお嬢様の家庭教師をさせられること
もあれば、
別の大陸にいきなり飛ばされる事もある。
恐らく全ては偶然の産物である。
さらに、思い知る事となる。
この世界の厳しさを。
1666
人が簡単に死ぬという事を。
どんな人物であっても、いともあっさりと死ぬという事を。
例外など無いという事を。
自分だけ。
あるいは自分の周囲だけ都合よく生き延びる事は無いのだと。
今更になって、ようやく。
実感として、思い知ることとなる。
死という現象を原因にして、身近な人が唐突にいなくなってしま
う事もあるのだ、と⋮⋮。
そして、愚かな事に。
この時の俺は、それを真実と結びつける事が出来なかったのだ。
もしこの時、俺が事実をきちんと理解し、
何者にも負け得ぬ力というものを得ようと考えていれば。
そう後悔せずにはいられない。
もしここで、この出来事で、世界最強でも目指していれば。
そう後悔せずにはいられない。
あんな事があっても、俺は力に対する貪欲さを手に入れることが
できなかったのだ。
ただひとつだけ言える事がある。
エリスは、流石だった。
1667
第五十九話﹁ターニングポイント2﹂
赤竜の下顎。
ただ一本道が続く渓谷。
聖剣街道のようにまっすぐではない。
だが、分かれ道のない一本の道である事には変わらない。
国境と国境の間にある、どこの国のものでもない領域。
ここを抜ければ、アスラ王国である。
そいつは、普通に歩いてきた。
一本道の向こうから。
銀髪、金色の瞳、特に防具はなく、何かの皮で作られた無骨な白
いコートを身に着けていた。
馬に乗るでもなく、馬車に乗るでもなく、ただ歩いてきた。
男である。
俺の印象としては、せいぜい﹁目つきの悪い奴だな﹂という程度
だ。
酷い三白眼だったのだ、この男は。
それよりも、目に止まったのは。
彼の脇。
そこに、黒髪の少女が一人。
どこかで、会ったような気がするが、思い出せない。
この世界は純粋な黒髪が少ない。
1668
黒に見えても、よく見ると焦げ茶だったり、
やや灰色に近かったりする。
髪の色で他人を覚えているつもりは毛頭ないが、
黒髪なら覚えていてもおかしくは無い気がする。 だというのに、思い出せない。
この少女がことさら目に入ったのには理由がある。
その顔。
顔に、仮面が付けられていたのだ。
特徴があると言えばあるし、
特徴がないと言えば無い。
真っ白で、何も書いていないし、何の装飾もされていない仮面だ。
例えるならば、ダーティマスクのような仮面である。
ただ、目立っている。
この世界において、こんな仮面をつけているやつはいなかった。
ファッションではないだろう。
﹁⋮⋮!!﹂
少女に見とれていたから、というわけではないが、
この時の俺は、御者台に座るルイジェルドの顔が蒼白になってい
る事に気づかなかった。
エリスもそうだ。
男が一歩近づいてくるたびに、その表情を険しくし、
剣の柄を握る手が真っ白になるほど、力を込めていた。
男は俺たちの姿を認めると、おや、と首をかしげた。
1669
﹁うん⋮⋮? お前、もしかしてスペルド族か?﹂
男の三白眼が細められる。
それを見て、俺は疑問に思った。
今のルイジェルドは髪はなく、額の宝石も隠している。
どうしてわかったのだろうか。
俺にはわからない、にじみ出るスペルド臭でも発しているのだろ
うか。
などと思いつつ、ルイジェルドに振り返る。
﹁知り合いです⋮⋮か⋮⋮?﹂
俺の問いかけは、途中で途切れかけた。
ルイジェルドの顔が違った。
いつもと、あまりにも違った。
白い肌から一切の血の気が引いていた。
冷や汗をだらだらと流し、槍をつかむ手がブルブルと震えている。
これは⋮⋮この表情には見覚えがある。
恐怖だ。
﹁ルーデウス、絶対に動くな、エリスもだ﹂
ルイジェルドの声は震えていた。
俺はわけがわからないまま、無言で頷いた。
エリスは顔を真っ赤にして、今にも飛び出しそうだ。
手も足も、ブルブルと震えている。
怯えているのか?
それもあるが、それ以上に、エリスは彼に敵意を持っている。
1670
しかし、俺は知らない相手だ。
俺が知らない間に、二人はこの男に出会っているのだろうか。
俺はとりあえずなりゆきを見守る。
﹁ん? その声、ルイジェルド・スペルディアか。
髪が無いから一瞬わからなかったぞ。なぜこんな所にいる?﹂
男は無造作に近づいてくる。
ルイジェルドが槍を構えた。
俺にはわからない。
なぜルイジェルドがこの男をこれほどまでに警戒しているのか。
わからない。
とりあえず二人が恐れているので、魔眼を開眼する。
はっきり言って、軽い気持ちだった。
<男の姿が何重にもブレている>
ブレすぎて輪郭がハッキリしない。
なんだこりゃ。
﹁ん? そっちの赤毛はエリス・ボレアス・グレイラットか。
もう一人は⋮⋮誰だ? まあいいか。
なるほど、読めたぞルイジェルド・スペルディア。
子供好きの貴様は、例の転移によって魔大陸に飛ばされたこの二
人を、
ここまで送り届けたということだな﹂
訳知り顔で頷く男に、エリスがびっくりした声で叫ぶ。
1671
﹁な、なんで私の名前を知ってるのよ!﹂
エリスの言葉に、俺はさらに混乱した。
知らない相手なのか?
初対面なのか?
いや、エリスの事だ、忘れていてもおかしくはない。
とはいえ、この世界では銀髪はほとんど見かけない。
この特徴的な三白眼と、
エリスとルイジェルドだけが感じているらしい、何か異様な感覚。
一度会えば、さすがに覚えているはずだ。
﹁貴様は何者だ! なぜ俺の名前を知っている!﹂
ルイジェルドが男に槍を突きつけた。
ルイジェルドの知り合いでもないらしい。
エリスとルイジェルドは、男を知らないという。
俺も男を知らない。
男も俺を知らない。
だが、男はエリスとルイジェルドを知っている。
まあ、それならそれでもいい。
ルイジェルドは有名だ。
中央大陸ではそれほど名前が売れていないが、
魔大陸に行けば、彼の名前と顔を知っている人物は大勢いる。
エリスについてはわからないが、
赤毛の美少女剣士となれば、当てずっぽうで言って当たる事もあ
ろう。
1672
が、おかしいのはそこではない。
あからさまにおかしいのは、そんな所ではない。
態度だ。
温度差とでもいうべきか。
男と二人の態度が違いすぎるのだ。
男の態度は極めてフレンドリーだ。
声音も、どちらかというと、思わぬ所で旧友に出会ったかのよう
な嬉しさが滲み出ている。
対するルイジェルドは、今にも襲いかかりそうだ。
しかし、手を出していない。
明らかに敵としてみているのに、攻撃を仕掛けていない。
理由はわからない。
常に先手を取ろうとするエリスだって、動けないでいる。
ルイジェルドに動くなと言われたからというだけではあるまい。
﹁奇妙なところで会ったが⋮⋮元気そうだな。ならいい﹂
男は槍を突きつけるルイジェルドをまじまじと見ていたが、
やがて、自嘲気味に笑い、一歩後ろへと下がった。
それを見て、仮面の少女がぽつりと呟く。
﹁いいの?﹂
﹁今の時点では仕方がない﹂
俺には理解できない、主語の抜けた会話をした後、
1673
﹁邪魔したな﹂
男は、俺達のすぐ脇をゆっくりと歩いて去ろうとする。
黒髪の少女がその後を追う。
ルイジェルドは視線を外していない。
もちろん、エリスもだ。
﹁俺の事は⋮⋮そのうち分かる﹂
最後に、ぽつりとそう言った。
意味深だ。
この男は何かを知っている。
俺は直感的にそう思った。
この男からは、人神と同じような感じがする。
﹁待って下さい!﹂
気付けば、呼び止めていた。
男は振り返る。
意外そうな顔だ。
そして、ルイジェルドとエリスも、びっくりした顔で俺を見てい
る。
﹁どうした。なんだ、お前は?﹂
﹁あ、どうも。ルーデウス・グレイラットです﹂
﹁聞いたことが無いな﹂
初対面だしな。
1674
﹁いや、グレイラットか。親の名は?﹂
﹁それより、そっちは名乗らないんですか?﹂
﹁ふむ⋮⋮まあ、構わんか。
俺はオルステッドだ﹂
オルステッド。
聞き覚えのない名前だ。
死んであの世で詫び続ける人と同じという事しかわからない。
ルイジェルドを見ると、やはり知らないようだ。
﹁あの、二人とは知り合いなんですか?﹂
﹁いいや、まだ知り合ってはいない﹂
﹁まだ? どういう意味ですか?﹂
﹁お前は知らなくてもいい。で、親は?﹂
突き放したような言葉だった。
こちらの質問には答えてくれないくせに、質問には答えろという
のか。
まあいい。
俺はその程度の事で腹は立てないのだ。
﹁パウロ・グレイラットです﹂
﹁⋮⋮ふむ?
パウロに息子はいないはずだ。
娘が二人きりのはず﹂
なんと失礼な。
いるんですよ、父親によく似た息子が一人。
魔大陸まで出稼ぎに出てた馬鹿息子が。
1675
﹁⋮⋮うん?﹂
そこでオルステッドは何かに気づいたように首をかしげた。
ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。
﹁それ以上近づくな!﹂
﹁ああ、わかっている﹂
しかしルイジェルドに威嚇されて、距離を保つ。
やや距離を置きつつ、まじまじと俺の顔を見てきた。
俺はその視線を正面から受け止める。
﹁お前、目を逸らさないな﹂
﹁あなたの目つきは怖いので、今にも逸らしたい所です﹂
﹁ふむ、つまり、恐怖は覚えていないのか﹂
男の眉根が寄った。
﹁ふーむ。おかしいな。お前と出会った記憶が無い﹂
俺もない。
初対面だ。
オルステッドなんて名前も知らない。
容姿にも見覚えがない。
しかもワケのわからない事ばかり言う。
この次に、ようやく、俺の理解できる単語を吐いた。
ヒトガミ
﹁お前、もしかして、人神という単語に聞き覚えがあるんじゃない
のか?﹂
1676
これはそう、ようやくだ。
ようやくなのだ。
ようやく分かる単語が出てしまった。
ハッキリ言おう。
油断していた。
今まで誰にも言わないようにしていたのに。
ふと他人の口から、
しかもワケの分からない男の口から出てしまったせいで。
会話をつなげる共通言語になると思って、
あ、それなら俺でもわかる、と。
ただそんな軽い気持ちで。
言ってしまった。
﹁あります、夢にヒトガミってのが出てき⋮⋮﹂
唐突にビジョンが見えた。
<オルステッドの貫手が俺の胸を貫く>
まるで瞬間移動のようなスピードで、俺の胸を貫く。
回避できない。
一秒では、短すぎる。
﹁ルーデウス!﹂
貫くビジョンは一瞬にして消え、ルイジェルドが俺の目の前に割
り込んだ。
貫手はルイジェルドによって止められ、俺は仰け反って後ろに倒
れた。
1677
ルイジェルドの肩越しに、男が見下ろしてくる。
冷たい眼だった。
﹁そうか、人神の手先だったか﹂
冤罪だ。
−−−
ルイジェルドが叫んだ。
﹁逃げろ! ルーデウス!﹂
﹁邪魔だ、ルイジェルド﹂
ルイジェルドが槍を振るった。
俺は動けなかった。
そもそも、逃げる時間はなかった。
ルイジェルドがやられるまで数秒。
彼が赤子のようにひねられるのを、ただ黙って見ているしか無か
った。
ルイジェルドは強い。
強いはずなのだ。
エリスは結局、この旅の間、彼から一本も取れなかった。
五百年分の戦闘経験が、彼を無敵たらしめているはずなのだ。
王級以上の強さをもつ男のはずなのだ。
そのルイジェルドが負けるのは、俺の眼にもハッキリとわかった。
1678
魔眼で見ながら、その一部始終を見届けた。
時間にすれば、せいぜい10秒といった所だろうか。
オルステッドは決して、ルイジェルドより速いわけではなかった。
ただ、一手ルイジェルドが動く度に、ほんの少しだけ、ルイジェ
ルドが劣勢になった。
それが一秒間に三回から四回、繰り返された。
ルイジェルドは動く度に墓穴を掘った。
少し、また少しと追い詰められていく。
攻撃を受ける度に少しだけ体勢が崩れ、
攻撃を仕掛ける度に少しだけ後手に回った。
技量。
まさに技量としか言い様がない。
俺にでもハッキリとわかるように、オルステッドはルイジェルド
を切り崩した。
オルステッドが圧倒的に上回っているのだ。
俺の眼から見ても、ハッキリとわかるほど。
鮮やかな手管だった。
できうる限り最小限の動き、かつ最速でルイジェルドを無力化す
る。
それを実現できるとすれば、あんな動きになるだろう。
ルイジェルドの間合いを完全に見切り、
槍の有効射程内より常に内側に身を置いて。
得意な距離へと熟達の連携で押し出そうとするルイジェルド。
それをあざ笑うかのように崩し、よろめかせ、隙を作り出し、
決して食らってはいけない攻撃をガードさせた。
1679
おそらく、殺そうと思えば、出来ただろう。
しかし、奴はそれをしなかった。
気絶させたのだ。
あのルイジェルド相手に、手加減していたのだ。
そして。
ルイジェルドはどうしようもなくなった。
何の手立てもなくなった。
詰みだ。
ルイジェルドの鳩尾に深々と拳が刺さり、次いで二発目、顎先に
拳が掠めた。
三発、ルイジェルドの意識を刈り取る拳が、こめかみを撃ちぬい
た。
二回転して地面に落ちた。
ルイジェルドは動かない。
死んではいないが、動かない。
オルステッドは、一発だけならいつでも打ち込めた。
二発でも、恐らくは打ち込めた。
しかし、ルイジェルドの意識を刈り取るには三発必要だったのだ
ろう。
それがルイジェルドを無力化するのに、最速であると言わんばか
りの手際だった。
﹁さて﹂
﹁う、うあぁぁぁ!﹂
1680
叫んだのは俺ではない。
エリスだった。
彼女は俺の前に踊り出ると、抜刀からの一閃をオルステッドに向
け、放った。
ナガレ
﹁⋮⋮奥義﹃流﹄﹂
エリスに対して、オルステッドは手間を掛けなかった。
ただ、剣を手のひらで優しく受け止めただけだ。
少なくとも、俺にはそう見えた。
それだけで、エリスの体は竜巻のように回転し、吹っ飛んだ。
まるでセ○ントで必殺技をくらった時のような吹っ飛び方だった。
エリスは奴の視界の外にいた。
ルイジェルドがやられた瞬間、エリスが死角から放った斬撃。
それは俺の眼から見ても、申し分ない一撃だったと思う。
防御を考えない、思い切りのいい斬撃。
それに対し、奴は返し技を一つ。
具体的に何をしたのかは、わからない。
俺の眼には、ただエリスの剣の横腹に手を添えただけに見えた。
次の瞬間、エリスはキリモミしながら吹っ飛んでいった。
いや、似たようなものを見たことがある。
パウロが見せてくれたことがある。
水神流の技だ。
あれをもっと、研ぎ澄ませたような感じの動きだった。
エリスは全ての運動エネルギーを自分へと返されたのだ。
﹁がはっ⋮⋮!﹂
1681
エリスは岩壁へと激突する。
岩肌をパラパラと落としつつ、どさりと落ちる。
彼女も鍛えているし、死ぬことはないと思いたい。
だが、もしかすると骨折ぐらいはしたかもしれない。
﹁エリス・ボレアス・グレイラット。
随分と剣の腕が上達しているな。素質はあると思っていたが⋮⋮
まだ荒い﹂
﹁う⋮⋮うぅ⋮⋮⋮﹂
エリスはうめき声をあげながら、起き上がろうとしている。
いつもの俺なら、彼女に早く治癒魔術を、と思っただろうか。
しかし、俺はそれどころではなかった。
奴の目が俺に向いた。
−−−
あっという間であった。
あっという間に、二人がやられてしまった。
俺はずっと魔眼を開眼していた。
一秒先、そこに見えたのは絶望だ。
俺はどのタイミングで行動しても、返り討ちにあっていた。
1682
1秒先の俺は、あらゆる急所を潰されていた。
頭、喉、心臓、肺⋮⋮。
それぞれを潰すビジョンが見えつつも、
さらに奴はその場にいるというビジョンも見えた。
意味がわからなかった。
これが本当なら、1秒後、奴は5人いるという事になる。
動けなかった。
何をしても、無駄であるとわかってしまった。
何もできないまま、1秒が経過した。
奴は目の前にいた。
動けない俺の目の前に。
物理法則を完全に無視したのかと思えるようなスライド移動。
瞬間移動したかのように目の前にきていた。
中割りの足りないアニメのように、唐突に。
そして、目の前にきた時には、すでに攻撃の動作を終えていた。
こんな動きを、昔どこかの格ゲーで見たことがあった。
全てのキャラが永久コンボか即死コンボを持っている、世紀末な
ゲームだ。
気づいた時には、俺は奴の双掌打をモロに受けていた。
肋骨が8本ぐらい同時に折れた。
衝撃はあった。
だが、俺の身体は決して後ろに吹っ飛ぶ事はなかった。
背中からも同時に攻撃を受けたかのような圧迫感を覚えた。
ダメージは全て内部へと集約。
肺が潰れた。
1683
﹁ごはっ!﹂
一瞬にして血が喉を駆け上がり、血反吐を吐いた。
﹁魔術師は肺を潰すに限るな⋮⋮﹂
膝をついた俺に、奴は何事も無いように、そう言った。
俺は地面に広がる自分の血を見ながら、
心のどこかでなるほどと納得していた。
魔術師は肺を潰せばいい。
詠唱ができなくなる。
事実、俺はこの時点で治癒魔術を封じられていた。
もちろん、肺を潰されればできなくなるのは詠唱だけじゃない。
生命活動だって維持できなくなる。
つまり、致命傷だ。
﹁死んで人神に伝えるがいい。
第2位。
龍神オルステッドは、決してお前を生かしてはおかん、とな﹂
七大列強
龍神。
オルステッドは胸を押さえてうずくまる俺に一瞥。
踵を返した。
俺は、それを油断と見た。
すでに致命傷を受け、敗北どころか死亡も目前。
その状態でなぜまだ戦おうと考えたのか、分からない。
1684
視界の端でエリスが立ち上がろうとしていたからだろうか。
この男が、俺が死んだのを見届けた後、わざわざ二人に止めをさ
すと思ったからだろうか。
とにかく、俺は岩砲弾を奴に向かってぶちかました。
なぜもっと強い魔術を使わなかったのか。
俺には、もっと上級の魔術も使えたのだ。
後になってもそれはわからない。
ただ、おそらく一番使い慣れた魔術を使っただけなのだ。
出来る限り硬い岩を、出来る限り速い速度で、出来る限りの回転
を加えて。
自分でも驚くほど、その岩砲弾は高威力だったと思う。
男と俺との極めて短い距離を、岩砲弾は赤熱しながら飛んだ。
<オルステッドは振り返り、岩砲弾を拳で粉砕する>
そして、砕かれた。
パラパラと落ちる岩。
地面に落ちると、チリンチリンと金属音を立てた。
オルステッドは自分の拳を見ている。
﹁今のは岩砲弾か⋮⋮凄まじい威力だな。
こんな魔術で俺の体に傷をつけるとはな⋮⋮﹂
オルステッドの手の甲は皮がベロンと剥がれていた。
かすり傷だ。
だめだ、岩砲弾では意味がない。
この男にダメージを与えることはできない。
1685
﹁肺は潰したはずだが⋮⋮無詠唱魔術か?
それは人神から得た力か?
他には、どんな力を得た?﹂
オルステッドは俺を観察するように、見下ろしていた。
すぐに止めをさせばいいだろうに。
足をもぎ取ったバッタを見下ろすかのように、冷酷に見ていた。
苦しい⋮⋮。
﹁ゲハッ⋮⋮!﹂
俺は風魔術を作り、無理やり肺の中に空気を送り込む。
激しくむせる。
意味がない気がするが、無理やり送る。
そして、目一杯溜めて、息を止めた。
﹁ほう。面白い使い方をするな、今のはどんな意味がある?
なぜ肺を無詠唱魔術で治癒しない?﹂
オルステッドは顎に手をやり、俺が苦しむのを興味深そうに見て
いる。
俺は朦朧とした意識で、右手で火球を生成しようとした。
火魔術は、魔力を注げば注ぐほど温度が上がり、規模が大きくな
る。
速度と硬さの岩砲弾がダメなら、熱量と爆発力で⋮⋮。
ディスタブ・マジック
﹁それはもういい。﹃乱魔﹄!﹂
そんな浅はかな考えは、あっさりとかき消された。
1686
オルステッドが俺に右手を向けた瞬間、手の先からまとまりかけ
ていた魔力が掻き乱されたのだ。
手の先から魔力を出せども出せども、形にならず、散った。
俺は朦朧としつつも、理解していた。
手から出た魔力に干渉し、かき乱す事で魔術を無効化しているの
だと。
俺にも出来そうだな、とボンヤリと思った。
右手を封じられた。
だがまだ俺には左手があった。
俺はもう片方の手で魔術を構築、
オルステッドとの中間に、衝撃波を叩き込んだ。
ドンッと重い音がして、オルステッドが後ろに吹き飛ぶ。
同時に、俺もまた背後へと飛ぶ。
ディスタブ・マジック
﹁むっ、﹃乱魔﹄を無効化したのか?
いや、違うな⋮⋮多重詠唱の一種か。
無詠唱でやるとは器用な奴だな⋮⋮こんな感じか?﹂
男は左手で、パチンと指を鳴らした。
すると、男の足元から五十センチ四方の小さな窓がせり上がって
きた。
銀色で、華美な龍の装飾が施された、綺麗な窓だ。
﹁ほう、意外と難しいな﹂
俺はそれを気にせず、オルステッドに対しできうる限りでもっと
1687
も高火力の魔術を放つ。
イメージするのは、巨大な炎。キノコ雲。
核爆発。
力をためてぶん殴るように、俺は愚直に魔力を集中させた。
エリスやルイジェルドを巻き込んでしまうとかは考えなかった。
すでに俺には、考える力は失われていた。
﹁開け﹃前龍門﹄﹂
男がぽつりと呟くと、窓が開いた。
その瞬間、俺の左手から魔術になろうとしていた魔力が、吸い取
られた。
窓枠がバキンと音を立てて割れた。
同時に、オルステッドの近くで爆発が起こった。
想定していたものより圧倒的に小さい。
簡単に回避されていた。
﹁凄まじい魔力量だ。このサイズの﹃前龍門﹄では耐え切れんか。
まるでラプラス並だな⋮⋮人神の使徒なだけはある。
だが、なぜ先ほどから肺を治癒しない?
俺の油断を誘っているのか?﹂
この時、俺の意識は途切れる寸前だった。
判断力なんてなかった。
先ほどから満足に息ができていないのだ。
男はなおも観察するように俺を見ていた。
目が合う。 1688
﹁終わりか?﹂
ほんの刹那。
オルステッドは戸惑う俺に肉薄した。
すでに打つ手はなかった。
﹁魔術以外には、何もできないのか?﹂
魔術は封じられ、足はすくんで動かない。
圧倒的な殺意を前に、どうすることもできない。
視界の端で窓枠が消えていく。
だが、何もできることがない。
﹁ごばっ!﹂
とっさに出そうとしたのは、ドルディア族の村で習得した、なけ
なしの咆哮。
﹁むっ⋮⋮!﹂
俺の動作に、身構えるオルステッド。
しかし。
もちろん。
血反吐を吐いただけで、何の効果もない。
﹁⋮⋮魔力だけか。なんのつもりだ?﹂
もはや、俺には何もできない。
魔術は封じられ、体術では勝てる要素が見当たらない。
1689
あとできる事と言えば、土下座しかない。
﹁まあいい、死ね﹂
が、オルステッドは土下座すらもさせてくれなかった。
﹁がふっ⋮⋮﹂
超速で打ち出された貫手が、あっさりと俺の体を貫通した。
拳は確実に心臓を貫いた。
確実な致命傷。
俺の治癒魔術では治せないであろう傷。
﹁あっけないな。
人神め。闘気も纏えんものを手駒にしたのか。
どういうつもりだ⋮⋮﹂
引き抜かれる拳。
そこには、ベットリと俺の血が付いている。
俺は、立とうとする。
体が言うことを聞かない。
意に反し、崩れ落ちる俺の体。
視界の端で、顔を上げたエリスが、こちらを呆然と見ているのが
見えた。
目が会う。
﹁あ⋮⋮ああ、る、ルーデウ⋮⋮ルーデウス⋮⋮!﹂
1690
薄れゆく意識の中で、俺は冷静に考える。
ああ、まずいな。
死にたくない。
まだエリスとの約束を果たしていないんだ。
せめて、あと二年。二年待ってほしい。
そうすれば、俺は心置きなく逝けるのに⋮⋮。
ヒーリングだ。
ヒーリング⋮⋮。
魔力を集めろ、傷は一つだ。
詠唱は出来ない、肺にも穴が開いている。
だが、出来る、ゆっくりと、魔力を集めるんだ。
治る、治るさ。
まだ死ぬわけには行かない。
﹁うわあああああぁぁああ!﹂
エリスが叫ぶ。
悲痛な叫びを上げる。
﹁大事な者だったのか?
すまんなエリス・ボレアス・グレイラット。
だが、お前もいずれ、わかる日が来る。
いくぞ、ナナホシ﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
少女を連れて、オルステッドは悠々と歩み去る。
エリスは立ち上がれない。
ダメージか、恐怖か。
1691
それともショックか。
ただ叫び声を上げるだけで、
剣もなく、ただ泣き叫ぶだけ。
﹁ルイジェルド! ギレーヌ! お祖父様! お父様! お母様!
テレーズ! パウロ!
誰でもいいから、誰でもいいから助けて!
ルーデウスが死んじゃう!﹂
まずい、意識が薄れてきた。
まじかよ。
ここで終わりかよ。
死にたく⋮⋮。
な⋮⋮⋮い⋮。
−−−
﹁ねえオルステッド、一つ気になったのだけど⋮⋮。
こいつ、生かしておいた方がいいんじゃないかしら?﹂
意識が途切れる寸前。
そんな声がきこえたような気がした。
1692
第六十話﹁胸にぽっかり開いた穴﹂
気づけば、白い場所にいた。
真っ白い空間。
何もない空間。
いつもなら、ここは俺を嫌な気持ちにさせる。
体は34年間見慣れた醜いものへと戻り、
前世の記憶がよみがえる。
後悔、葛藤、卑しさ、甘えた考え。
12年間の記憶が夢のように薄らぎ、落胆がこみ上げる。
長い夢をみていたような気分に陥る。
かきむしるような焦燥感が俺の胸を満たす。
だが、今回に限っては、そうならなかった。
いつものような卑屈な気持ちは沸き上がってこなかった。
その代わり、ポッカリ胸に穴が開いたような喪失感があった。
みてみると、胸に風穴が開いていた。
ああ、やっぱり死んだのか⋮⋮。
﹁やあ﹂
ふと気づくと、人神が立っていた。
相変わらず苛つく笑みを浮かべている。
が、なぜか今日はそれに苛立ちを覚えない。
1693
なぜだろうか。
胸にポッカリ穴が開いているからだろうか。
それとも、前に喧嘩腰はやめておこうと決めたからだろうか。
⋮⋮まあ、いいか。
﹁まぁ、なんだ、残念だったね﹂
ああ、本当、残念だ。
﹁⋮⋮今日はいつもと調子が違うね。
大丈夫かい?
気分は悪くないかい?﹂
見ての通り、胸に穴が開いてるよ。
⋮⋮なあ、一つ聞きたいんだけど、いいか?
﹁なんだい?﹂
あいつ、あのオルステッドって奴なんだけどさ。
お前の名前を聞いた瞬間に襲いかかってきたんだけど。
どうなってんだ?
﹁奴は悪い龍神だからね、善良な僕を目の敵にしているのさ﹂
善良ね⋮⋮。
ま、お前は目の敵にされやすそうだしな。
でも、それなら事前に教えてくれてもよかったんじゃないか?
お前、いろいろと見えてるんだろ?
俺があそこでオルステッドと出会うって事も、わかったんだろ?
もし一言、オルステッドに聞かれても、自分の名前は出すなって
1694
言ってくれれば俺だって⋮⋮。
﹁いや、ごめん、実は﹃龍神﹄に関しては見えないんだ。
未来も現在も見えない。君が奴と出会うこともわからなかったん
だ﹂
そうなのか?
どうして?
﹁奴にはそういう呪いが掛かっているからさ﹂
呪い。
そういうのもあるのか。
﹁うん。君の世界にはなかったのかい?
生まれつき、魔力が異常を起こしていて、
何か変な能力を持ってる子ってのは﹂
俺の世界には魔力って概念がなかったからな。
霊感の強い奴って自称する奴はいたけど、
正直、信憑性には欠けてたよ。
﹁へえ、そうなんだ。
こっちでは、呪子って言ってね、
変なのがいるんだよ。
オルステッドもその一人さ。
まあ、彼は他にも3つぐらい呪いを持ってるけどね﹂
4つね。
そりゃすごいや。
1695
そういや、聞いたことがあるな。
神子と呪子だっけか。
﹁そうそう。同じものなんだけどね。
人間は分けて考えるのが好きなんだよ﹂
そっか。
で、あいつはどんな呪いを持ってるんだ?
﹁ほら、ルイジェルドやエリスが怯えていただろ?
あれが奴の呪いの一つだよ。この世界のあらゆる生物に嫌悪され
るか恐怖されるんだ﹂
皆に嫌われるのか、そりゃあなんていうか、嫌だな。
俺ならすぐに心が折れる。
嫌われ者の気持ちはわかるんだ。
﹁おっと、同情は必要ないよ。
彼は生まれつき、この世界を滅ぼそうとしている悪者だからね﹂
まあ、そう言うなよ。
周囲から悪感情ばっかり向けられれば、
誰だって世界の一つぐらい滅ぼしたくなるだろうさ。
俺だって前世では、そういう考えを持ったことがあるよ。
みんな死んじまえなんて、よくワールドワイドな網でぼやいてた
もんだ。
﹁ふうん、そういうものかい。
僕もあいつは嫌いだから、知ったこっちゃないんだけど﹂
1696
ん?
ああ、お前にも呪いの影響があるのか?
見えないってのも、その呪いのせいなんだよな?
嫌われる呪いと、見えなくなる呪いと⋮⋮。
あとは?
﹁さぁね、見えないからよく知らないんだよ﹂
そっか⋮⋮。
でも、そういう危険な奴ならなおさらだ。
この世界にはこういう奴もいるって、前もって教えてほしかった
な。
ああいうのはいきなり過ぎて困るんだ。
﹁僕だって、彼と君が出会うなんて思っていなかったんだ。
この広い世界を歩きまわって出会う確率なんて⋮⋮﹂
ま、そうだよな⋮⋮。
砂漠でゴマの一粒を見つけるようなものか。
そういえば、俺はあいつの事、嫌悪も恐怖もしなかったんだが。
どういうことなんだ?
﹁それは、君が異世界からきたからじゃないかな?﹂
異世界人は呪いの影響を受けないのか?
﹁そうみたいだね。ルイジェルドと出会った時もそうだったろ?﹂
⋮⋮え?
1697
ちょっとまて、どういうことだ?
ルイジェルドもその呪子ってやつなのか?
﹁いいや、あれはラプラスの槍の呪いさ。
ラプラスも﹃恐怖の呪い﹄を持っていたけれど、
それを槍に移して、それをスペルド族になすりつけたのさ。
緑色の髪をキーとするようにしてね﹂
呪い?
なすりつけた⋮⋮?
おい。
なんだよ、どういうことだ。
お前、それ、最初から知ってたのか?
わかってて手伝わせたのか?
無駄なことをさせたのか?
﹁いや、勘違いしないでくれよ。
スペルド族全体への呪いは時間経過でもう消えかけている。
ルイジェルド自身にはまだ少し呪いが残っているけど、
髪を切ったおかげで急速に薄れつつあるんだ﹂
髪か。
そういや、シルフィはイジメられてたけど、
恐れられているって感じじゃなかったもんな⋮⋮。
なんで髪なんだ?
魔力の源だからか?
﹁ラプラスの髪も緑だったからさ﹂
1698
ああ、なるほどね。
俺の世界でもそういう事はあったな。
共通項や語呂を利用して呪いをかけたり解いたりとか。
﹁何にせよ、君に関わったおかげで、呪いは消えつつある。
まだ根強く差別意識が残っているけど、
それは時間経過とルイジェルドの努力次第でどうにかなるものさ﹂
つまり、無駄じゃなかったってことか?
そりゃよかった⋮⋮。
お前も、ちゃんと考えて行動させてたんだな。
﹁ま、完全に解消するのは難しいだろうけどね﹂
まあ、難しい問題だもんな。
でも、そうか⋮⋮。
そりゃよかった。
﹁うん、よかったね。君をルイジェルドと引きあわせたかいがあっ
たというものだよ﹂
そんな理由で引きあわせたのか?
それならそうと言ってくれればよかったじゃないか。
﹁君、最初の頃は僕の言葉なんて聞く気なんてなかったでしょ?
余裕もなかったし﹂
⋮⋮まあ、それもそうか。
喧嘩腰で突っぱねてただろうな。確かに。
1699
それにしても、そのルイジェルドも、
オルステッドには簡単にやられちまったな⋮⋮。
あんなに簡単にやられるとは思わなかったよ。
﹁まあ、あいつはルイジェルドじゃ無理だろうね﹂
なにせ、七大列強だもんな。
どうやったら勝てたんだ?
﹁勝てないよ﹂
勝てないか。
やっぱり地力が違いすぎるからか?
﹁彼はね、この世界で最強なんだ。
いくつもの呪いで制約を受ける身でありながらね﹂
あれ?
でも、龍神って七大列強の2位だよな?
1位は?
﹁技神も強いよ。でも本気で戦えば、勝つのはオルステッドさ。
オリジナルマジック
オルステッドは、この世界に現存する全ての技と術を扱える。
それに加え、龍神特有の固有魔術まで使えるんだ﹂
全ての技と術か。
どっかの世紀末救世主みたいな奴だな。
﹁へえ、君の世界にもそういうのがいたのかい?﹂
1700
それまでに戦った相手の技を全てコピーするんだ。
もっとも、相手の技なんか使わなくても強いんだけどな。
指先一つで相手がボンッてなるぐらいに。
﹁指先一つか。すごいもんだね。
でも、オルステッドも凄いよ。
彼が本気になれば、この世界を滅ぼせる﹂
そんなに強いのか。
強いという表現が霞むな。
異常? 天災?
﹁呪いのせいで本気は出せないんだけどね﹂
そうなのか。
呪いってのも厄介だな。
ところで、一ついいか?
﹁なんだい?﹂
おまえさ。
さっき呪いの事は知らないって言ったよな。
嫌われる呪いと、見えなくなる呪い。
他には知らないって言ったのに、
なんで本気を出せないって知ってるんだ?
﹁⋮⋮⋮⋮ええと﹂
ああ、いいよ。
1701
最後なんだ、フレンドリーに行こう。
お前が何を隠していても、俺は気にしないよ。
ルイジェルドの事は好意だってわかったしな。
この間も、お前のおかげでリーリャとアイシャも助け出せた。
それを鑑みれば、多少嘘を付かれた所で、気にもならんよ。
これから先、お前が俺に何かをさせようとしていたとしても、全
ては水の泡となったわけだしな。
本当なら、もっと色々聞きたいことはあるんだけどな。
なんで魔界大帝と引きあわせたのか、とか。
他の行方不明者の居場所はどこか、とか。
そもそも、お前の本当の目的は何なのか、とか。
今更聞いてもしょうがないことばっかりだ。
ま、なんだ。
お互い失敗した者同士、フレンドリーに行こう。
無礼講で、パーっと騒ごう。
裸踊りもかくし芸もオッケー、もちろん腹芸だって気にしないさ。
﹁最後?﹂
ああ、最後。
だってそうだろ。
俺は死んだんだから。
﹁なるほど、それで自暴自棄になっているのか。
⋮⋮最初の時とは真逆だね?﹂
あの時は、何がなんだかわからないまま死んだからな。
今回は、まあ、しょうがない。
1702
それに、なんとなく、死ぬ間際にここに来るような気はしてたか
らな。
人が死ねばどこにいくのかはわからんが、死ぬ間際にお前が話し
かけてくるとは思ってたよ。
っと、意識が薄れてきた。
そろそろお別れらしいな。
最後にお前と穏やかな気分で話が出来てよかったよ。
﹁そうかい⋮⋮じゃあ、君に朗報だ﹂
ん?
﹁君、死んでないよ﹂
気づけば、胸の穴は消えていた。
−−−
ふと、目が覚めた。
エリスが近くにいた。
目の前だ。
俺はエリスを見上げるように、寝転んでいた。
膝枕だと、すぐに気づいた。
エリスは不安げな顔で見たくないものを見るような目で俺を見て
1703
いたが、
俺が目を覚ますと、ほっとした顔になった。
目が真っ赤だ。
﹁る、ルーデウス⋮⋮目が覚めたの!?﹂
﹁う⋮⋮げはっ!﹂
何かを喋ろうとして、血が吐き出された。
﹁ルーデウス!﹂
エリスに抱きかかえられる。
﹁ゲホッ⋮⋮ゲホッ⋮⋮!﹂
俺は血を吐き終え、激しくむせた。
エリスに背中をなでられる。
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
エリスの戸惑う表情を見て、俺も首をかしげた。
﹁なんで⋮⋮生きてる⋮⋮?﹂
胸の傷は、完全にふさがっていた。
完全というのは語弊があるか。
俺のローブの中央には大穴が空き、
その奥に見える地肌には、まるで溶接したような痕が残っている。
はて、おかしなことだ。
俺の右手は寄生獣ではなく、ただの恋人だというのに。
1704
﹁さっき、あの女が、何か言ったら、
あの、オルステッドとかいうのが、治療魔術でルーデウスを治療
して⋮⋮﹂
俺の純粋な疑問を、自分に対する質問と思ったのか、
エリスはしどろもどろになりながら応えてくれた。
﹁女?﹂
﹁ナナホシって言われてた﹂
ナナホシ。
あの少女か。
そういえば、そんな呼ばれ方をしていたな。
しかし、ナナホシ、どこかで聞いたことあるな。
それも、ここ一年ぐらいの間でだ。
どこだったか、思い出せない。
﹁殺した相手をわざわざ治療したのか⋮⋮﹂
何を考えているのか。
しかし、確実に心臓を貫いていたはずだ。
重要な臓器の破損は中級の治療魔術では、回復しきれない。
てことは上級か、それ以上。
オルステッドは致死レベルの傷でさえ一瞬で治癒する魔術をも使
えるのだ。
あながち、人神の言った、この世界の全ての技と術を使えるとい
うのも、嘘ではないのかもしれない。
﹁完敗だな⋮⋮﹂
1705
格が違うとは、ああいう事を言うのだろう。
七大列強2位。
人神の話では、世界最強か。
どちらにせよ、伊達ではない。
ルイジェルドも、エリスも、俺も、完封された。
余裕の完封だ。
しかも奴は本気など出しちゃいないらしい。
﹁ルイジェルドは?﹂
﹁まだ目が覚めてないわ﹂
見れば、道の端にルイジェルドが寝かされている。
馬車も道の端へと寄せられ、焚き火がたかれている。
全て、エリス一人でやったのか。
﹁ルイジェルドが横になってる所を見るのは、初めてですね﹂
﹁ルーデウス、まだしゃべらないで。さっき血を吐いて⋮⋮﹂
﹁もう大丈夫ですよ。喉に残っていた分だけですから﹂
そう言いつつも、俺はエリスの膝からどかない。
どきたくない。
ずっとここにいたい。
今から寝返りを打って反対を向いたらどうなるだろうか。
そんなことばかりが頭に浮かんでくる。
生存本能からくるものだろうか。
人は死にかけると子孫を残そうとするらしいし⋮⋮。
あまり実感がわかないのだが。
1706
ああ、もういいか。
難しいことは考えないことにしよう。
寝転がっちゃおう。
﹁生きてるって、素晴らしいな﹂
そう言いつつ、俺は身体を回転させ、
エリスの腰にすがりつくように抱きついた。
思い切り息を吸い込むと、なんともいえない甘酸っぱい匂いがし
たような気がした。
﹁ルーデウス⋮⋮随分と、元気ね﹂
﹁んー、なんかね、色んな物が有り余ってる感じがするんですよ﹂
普段よりもなお、だ。
あのオルステッドという男のせいだろうか。
それとも、人神の夢をみていたからだろうか。
重ねて言うが、生死の境をさまよったという感覚は俺にはあまり
無い。
だが、目がさめる前より元気なのは間違いなかった。
﹁じゃあ、叩いても大丈夫なの?﹂
エリスの震える声が降ってくる。
お怒りのようだ。
まあ、仕方ないね。
心配してたのに、いきなりセクハラだもんな。
俺だって怒るよ、そりゃあ。
1707
﹁いいですとも﹂
殴られた。
コツンと、軽く。
そして、引き寄せられ、頭を抱きしめられた。
エリスの柔らかい胸の感触が頬に伝わってくる。
その奥の心臓の鼓動と、
上から聞こえる、静かな嗚咽も。
﹁⋮⋮⋮⋮うっ⋮⋮ぐすっ⋮⋮﹂
エリスは泣いていた。
静かに泣いていた。
﹁よかった⋮⋮﹂
エリスはぽつりとつぶやいた。
俺は脱力し、ぽんぽんと彼女の背中を叩いた。
1708
第六十一話﹁旅の終わり﹂
あれから三日が経過した。
そして、俺達はアスラ王国へと入った。
目的地はすでに目前。
すでに到着したと言っても過言ではないだろう。
だというのに一行の表情が晴れない。
先日の出来事が尾を引いているからだろう。
街道ですれ違う人々の明るい顔とのギャップが激しい。
完敗だったからな。
あっけなく全滅させられて、俺は命まで奪われた。
なんの気まぐれか、わざわざ生き返らせてもらったようだが。
それがなければ、俺はこの世にいない。
俺としては、あまり実感がわかないが。
自分でも不思議な事だが、俺はあの時のことをあまり恐怖してい
ない。
トドメを刺される瞬間、確かに死にたくないと思った。
トラウマになってもおかしくないと思った。
だというのに、目覚めた時には、なぜかスッキリ爽やか⋮⋮。
というわけではなかったが、﹁ああ、夢か﹂という感覚があった。
悪夢を見た時と同じ感覚だ。
死ぬ寸前の感覚と夢が繋がっているためか、
1709
全てが夢だったという感じがしているのかもしれない。
そう考えると、人神はそれを想定して、俺の意識に割り込んでき
たのかもしれない。
正直、本能的に拒否したくてたまらない感じなのだが、
ルイジェルドの事も考えていてくれたようだし、
実は悪いやつではないのかもしれない。
−−−
俺が死にかけて以来、エリスの距離がどうにも近くなった。
以前は馬車に座っていると、斜め前ぐらいに突っ立って、
﹁バランスの訓練よ、ルーデウスもやったら?﹂
なんて言ってたのだが、最近は座るようになった。
俺の横に。
太ももが密着するような距離で、である。
そんな距離になると、いろいろと見えてしまうものもある。
例えばある日の事だ。
エリスの服とズボンの裾から地肌が覗いていた。
そうしたものが覗いていると、つい撫でたくなってしまうのが人
の心というものだ。
なので右手でついっと撫でてみたら、真っ赤な顔をして睨まれた。
ここで、流石の俺も少々戸惑った。
1710
そう、殴らないのだ。
エリスが俺を殴らない。
今までなら殴るような事をしても、殴らないのだ。
顔を真っ赤にして睨むだけ。
ただ、じっと見てくるだけなのだ。
しかも、エリスは変わらず、俺に密着して座っている。
今まではそうした行為をすると、一歩引いた距離を取られたもの
だ。
けれども、今は距離が近いまま。
真面目な話、今度はズボンの中に手を突っ込みたくなるから、そ
ろそろ離れてほしい。
笑って済ませる事と済ませられない事があるのは知っている。
そして俺は済ませられない事の方がしたいと自分でもわかってい
る。
我慢しているのだ。
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、エリスの距離は近い。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
手を自由にしているとエリスの方に伸ばしてしまう。
なので。
現在、俺は左手で魔術を作ろうとし、
右手でその魔力をかき乱すという作業をしていた。
ディスタブマジック
オルステッドが使っていた魔術だ。
確か﹃乱魔﹄とか言ったか。
手から出される魔力が形になる直前に、別の魔力で妨害し、散ら
1711
す。
単純で、消費魔力も少ないが、凄い技術だ。
思えば、王級の結界も似たような方法で魔術を無効化していたの
だろう。
口で言うのは簡単だが、実際にやろうとするとなかなか難しい。
左手で魔術を使おうとしているからだろうか。
魔術が不完全ながら形になってしまう事が多い。
オルステッドのように、完全に無効化するのはなかなか骨だ。
しかし、これだけでも牽制にはなるだろう。
いや、いい事を教えてもらった。
﹁ねえルーデウス、さっきから何してるの?﹂
﹁オルステッドが使っていた魔術を真似しようと思いまして﹂
そう言うと、エリスは俺の手を凝視しだした。
俺の左手に歪な形をした小さな石弾が出来て、コロリと落ちる。
また失敗だ。
まるで両手でじゃんけんをしているような気分だ。
どうしても左手を勝たせてしまう。
適当じゃダメなんだろう。
おそらく、何らかの法則に従って魔力を動かさないといけないの
だ。
うん?
適当じゃダメってことは、かき乱すときに法則があるってことか。
なら、法則を考慮した魔力の放出をすれば、逆に乱魔を無効化で
きるってことか?
夢が広がるな。
1712
﹁どういう魔術なの?﹂
﹁魔術を無効化する魔術です﹂
﹁そんな事、できるの?﹂
﹁今練習している所です﹂
﹁なんでそんな事してるの?﹂
﹁最近、魔術を封じられて何もできないケースが多かったので、研
究ですかね。
まぁ、またオルステッドに会って戦う事になったら、
逃げ切れるぐらいにはなっておきたいじゃないですか﹂
エリスはその言葉で絶句して、黙りこんでしまった。
しばらく、石弾がコロコロと落ちる音だけが続いた。
﹁ねえ、ルーデウスはなんでそんなに強いの?﹂
エリスはずっと黙っていたが、ふと、そんなことを聞いてきた。
俺は強いのだろうか。
いや、そんなことはあるまい。
自慢じゃないが、俺はここ数年、自分の強さを実感することはな
かった。
無力感だけが残る毎日だ。
﹁エリスの方が強いとおもいますけど?﹂
﹁そんなことないわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
そこで会話が途切れた。
エリスは何かを聞きたそうに、しかし言いにくそうに口をつぐん
でいる。
1713
なんだろうか。
わからない。
いや、わからないってことはないか。
﹁先日、簡単にやられてしまったことを気にしてるんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うん﹂
仕方ない所だろう。
奴は人神いわく、世界最強の龍神様という話だ。
あのルイジェルドですら軽くあしらわれた。
相手が悪い。
この世には、努力では到達できない領域が存在する。
生前、俺は色んなことをやり、あるいはそこそこ上位になった事
もあるが、
最上級に到達した事は一度もなかった。
やりこんだゲーム、これなら負けないと思ったものでも、上には
上がいた。
オルステッドは、いろんな制限を課せられているらしい。
それでも体術でルイジェルドを上回り、エリスを片手であしらい、
俺を完全に無力化した。
しかも、最大HPにダメージをぴったり合わせるような戦い方で
倒された。
まだまだ余力を残しているってことだ。
本気を出せばどれぐらい強いのか、さっぱりわからない。
呪いのせいで本気は出せないらしいが⋮⋮。
本気なんか出せなくても、あいつには、勝てない。
1714
おそらく、どれだけ努力しても勝てない。
﹁相手が悪かったんですよ、あれは仕方がありません﹂
﹁⋮⋮⋮⋮でも﹂
エリスが悩む気持ちもわかる。
なにせ、エリスは一発だったからな。
剣を受け止められて、そのままぶっ飛ばされた。
﹁エリスはまだ若いですし、努力しだいでは強くなれますよ﹂
﹁そうかしら⋮⋮?﹂
﹁ええ、ギレーヌだって、ルイジェルドだって、そう言ってるじゃ
ないですか﹂
エリスがふと顔を上げた。
まっすぐに俺を見てくる。
﹁ルーデウスは死ぬ所だったのよ?
どうして、そんな⋮⋮簡単に言えるの?﹂
そりゃあ、あまり感覚が残ってないからだ。
俺は戦おうなんて思ってない。
次にあいつの顔を見たら、俺はロケットのように逃げ出すだろう。
あるいはネズミのように物陰に隠れるか。
逃げ切れないなら、今度は命乞いをするかもしれない。
願わくば、その光景はエリスには見られたくないものだ。
しかし、その情けない本音を口にするのは恥ずかしい。
﹁次は、死にたくないですからね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうね、死にたくは、無いわよね﹂
1715
﹁安心してください。もしエリスが危ない目にあっても、なんとか
抱えて逃げられるぐらいにはなっておきますから﹂
エリスは難しい顔をして、俺の肩に頭を載せてきた。
今ここで頭でも撫でてやれば、ポッてなるかもしれないと思った
が、
右手は現在、乱魔の最中である。
﹁まあ、何にせよ、もう少し強くならないといけませんよ﹂
もう少し。
そう、もう少しだ。
さすがに、この世界で最強にはなれない。
この世界の天井は高すぎる。
前世でも俺は世界一になれなかった。
その才能の片鱗もなく、努力の仕方もヘタだった。
この世界における才能がどれぐらいあるのかわからないが、
俺は自分を信じて愚直に何かに打ち込む事はできそうもない。
でも唐突に変な奴に襲われても逃げ切れるくらいにはなっておき
たい。
俺はエリスの髪に顔を埋め、くんかくんかと匂いをかぎつつ、
そんなことを考えるのであった。
−−−
夜になり、エリスが寝静まると、俺はルイジェルドと会話をする。
1716
あの日以来、男の口数はいつにもまして減ってしまった。
普段からあまり饒舌な方ではないのだが、それがむっつりと押し
黙るようになってしまった。
あの時の事を気にしているのだろう。
彼は責任感の強い男だ。
無事に送り届けると約束したのに、それが守れなかったと思って
いるのかもしれない。
馬鹿な事だ。
運よくとはいえ、俺はこの通りビンビンだ。
七大列強
第2位の﹂
﹁あのオルステッドという男、龍神だそうですよ。
まずはジャブとして、そんな言葉から入った。
相手が強いのだから仕方がない。
そんなニュアンスを含ませつつ。
﹁そうか、どうりでな⋮⋮﹂
﹁強いですよね、あの後、僕も手も足も出ずやられましたよ﹂
﹁一目みた瞬間勝てる気がしないと思ったのはラプラス以来だ﹂
人神曰く、オルステッドはそのラプラスより強いらしい。
本気で戦えない制約がついているらしいが⋮⋮。
ルイジェルドはその事を知るまい。
手加減され、体術だけであしらわれた。
の上位に対抗できるとは思っていない。
その事実はルイジェルドにとってショックだったのかもしれない。
七大列強
と、思ったが、
﹁俺も
奴らは人知の及ばぬ本当の化け物だ。
1717
ああいった輩と一本道で遭遇するのは、運が悪いとしか言えん。
そして、生き残れた事は運がいいとしか言えん。
ルーデウス、もしまたああいう奴と出会う事があっても、決して
喧嘩は売るなよ。目も合わせるな。今回のような事になりたくなけ
ればな﹂
﹁え、ええ。まあ、多分次は目を逸らして通り過ぎます﹂
怒られてしまった。
まあ、俺が声を掛けなければただすれ違うだけだったはずだしな。
そこは反省しておこう。
でも、最初はそんな危なそうな奴には見えなかったんだけどな⋮
⋮。
いや、ルイジェルドとエリスがあれだけの反応を示していたんだ、
もっと警戒してしかるべきだった。
﹁では、何に悩んでいるんですか?﹂
聞くと、ルイジェルドはジロリと俺をねめつけた。
﹁ヒトガミとはなんだ?﹂
おう。そのことか。
﹁奴は最初、俺たちを見逃すつもりだった。
殺気を撒き散らしつつも、眼中にはなかった。
だが、ヒトガミの名前を口にした瞬間、殺気が完全にお前に向い
た﹂
俺は目を閉じた。
言うべきか、言わざるべきか。
1718
以前に答えを出したつもりだったが⋮⋮。
人神はああ見えて悪いやつではないらしいし、
あんな目に会ったというのに隠し事をしている。
そんな事実が嫌だったのもある。
なので、言うことにした。
﹁実は、人神というのは︱︱︱︱﹂
あれだけ悩んでいたというのに、決めてしまえばすぐだった。
そして、口もスラスラと動いた。
転移の時から、夢に時折人神と名乗る正体不明の人物が出てくる
事。
その人物がルイジェルドを助けるように助言したこと。
それ以外にもいくつもの助言を授けてくれたこと。
自分の不審な行動はその助言に従っていたからということ。
そして、どうやらその人神と龍神は敵対関係にあるということ。
人神との会話はおぼろげで、忘れている事も多かったと思う。
しかし、大まかなことは全て伝えたと思う。
﹁人神と龍神⋮⋮太古の七神か⋮⋮。
にわかには信じられん話だ﹂
﹁でしょうね﹂
﹁だが、納得のいく部分もある﹂
そう言うと、ルイジェルドは無言になった。
焚き火のパチパチと燃える音だけが、その場を支配する。
火の作り出す影がゆらゆらと揺れ、一人の老戦士の顔を描きだす。
ルイジェルドは種族柄若くみえるが、その表情には歴戦を思わせ
る何かがある。
1719
ふと、俺は最後の夢で、ルイジェルドの呪いについて触れたこと
を思い出す。
﹁そういえば、ルイジェルドさん。
スペルド族の汚名ですが、あれは呪いらしいですよ﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁正確に言えば、ラプラスが自分に掛かっていた呪いを槍に移して、
その槍を種族全体に及ぶようにした⋮⋮という感じだそうです﹂
﹁そうか⋮⋮呪いか⋮⋮﹂
朗報と思って話したのだが、
ルイジェルドは暗い顔をしてさらに考えこんでしまった。
﹁呪いを移すなど聞いたこともないが、ラプラスなら可能か。
奴は、なんでもできる男だったからな﹂
俺はそれほど詳しくないが、呪いというものに関してはルイジェ
ルドの方が詳しいだろう。
彼はしばらくあれこれと考えていたようだが、
最後に力なく笑った。
﹁呪いならば、解く方法は無いな﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ああ。呪いは解く方法がないから呪いなのだ﹂
呪いを解く方法ってのは無いのか。
﹁種族全体に掛かる呪いなど聞いたこともないが⋮⋮。
神の言うことならば、本当なのだろう﹂
1720
俺は無駄な事をしてきたのだ、と自嘲げに笑う。
光の加減だと思うが、目の端に涙が溜まっているようにすら見え
た。
﹁でも﹂
﹁なんだ?﹂
﹁人神は、槍での呪いは通常とは違うから、時間経過で消えかけて
いると言ってました﹂
﹁なに?﹂
﹁ルイジェルドさん本人に残された呪いも、髪を切ったことで急速
に薄れつつあると﹂
﹁本当か!﹂
ルイジェルドが唐突に大きな声を上げる。
エリスが﹁んぅ⋮⋮﹂と声を上げ、もぞりと動いた。
この話は彼女にも聞かせた方が良かったかもしれないが⋮⋮。
まあ、起きてからでいいか。
﹁ええ。今残っているのは呪いの残滓と、最初の呪いで出来た先入
観だけだそうです。ルイジェルドさんのこれからの努力次第で、ス
ペルド族の人気は少しずつ回復していくそうです﹂
﹁そうか⋮⋮なるほど、そうだったか⋮⋮﹂
﹁でも、人神のいうことです、多少は信用できるとはいえ、鵜呑み
にはしないほうがいいかもしれません。今まで通り慎重にやったほ
うがいいでしょう﹂
﹁わかっている。だが、それを聞けただけで俺には十分だ﹂
ルイジェルドは無言になった。
もう光の加減でそう見えているだけではなかった。
ルイジェルドは涙を流していた。
1721
﹁じゃあ、僕もそろそろ寝ますね﹂
﹁ああ﹂
俺はその涙を見なかったことにした。
俺たちの頼れる戦士ルイジェルドは、涙なんて流さない強い男な
のだ。
−−−
そして、それから一ヶ月。
俺たちはまっすぐに北を目指す。
王都を経由せず、細い道を北へ、北へ。
小さな農村を転々と経由し、一面の麦畑や水車小屋を横目に見つ
つ、北へ。
情報なんて集めなかった。
出来る限りのスピードで、俺達は北を目指した。
情報は難民キャンプにたどり着けば全てわかると思っていた。
だがそれ以上に、あと少しだから、はやく到着したいという考え
があった。
フィットア領にたどり着いた。
何もないことを知った。
いや、この事はすでに知っていた。
ただ、かつてそこに何かがあったであろう場所にも、何もなかっ
た。
1722
一面の麦畑も、バティルスの花畑も、水車小屋も、家畜小屋もな
かった。
ただ草原が広がっているだけだった。
広い広い草原だ。
その光景に寂寥感を持ちながら、現在唯一ともいえる、フィット
ア領の町。
難民キャンプへと到着する。
最終目的地。
その入口まで後一歩という所で、ルイジェルドは馬車を止めた。
﹁ん? どうしました?﹂
ルイジェルドは御者台を降りてしまう。
魔物でもいるのかと思い周囲を見渡すが、敵影は無い。
ルイジェルドは馬車の後ろまで歩いてくると、言った。
﹁俺はここで別れる﹂
﹁えっ!﹂
唐突に宣言された言葉。
俺は驚きの声をあげていた。
エリスも目を丸くしている。
﹁ちょ、ちょっと待って下さい﹂
俺たちは転げるように馬車から降りて、ルイジェルドと向かい合
う。
1723
早すぎやしないだろうか。
難民キャンプに来たばかりだ。
いや、後一歩という所で到着すらしていない。
﹁せめて1日ぐらい休んだら、いえ、街の中ぐらいまでは一緒に入
ったらどうですか?﹂
﹁そうよ、だって⋮⋮﹂
﹁必要ない﹂
そっけない言葉で、ルイジェルドは俺達を見る。
﹁ここには戦士しかいない。お守りは必要あるまい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その言葉に、エリスが押し黙った。
正直。
俺も少々忘れていたのかもしれない。
ルイジェルドが、あくまで俺たちを故郷に送り届けるためにここ
までついてきたということを。
その目的が達成した以上、別れはあるのだということを。
ずっと一緒にいるものだと思っていた。
﹁ルイジェルドさん⋮⋮﹂
口を開き、俺は迷う。
引き止めれば、留まってはくれるだろうか⋮⋮。
いや、思い返せば、俺はこの男に多大な苦労を掛けてきた。
確かに苦労を掛けられたこともあったが、情けない部分を見せた
のは俺の方が多い。
1724
だというのに、彼は俺を戦士と認めてくれている。
これ以上、頼るべきではないだろう。
﹁ルイジェルドさんがいなければ、3年でここまで来る事はできな
かったでしょう﹂
﹁いや、お前なら可能だったはずだ﹂
﹁そんな事はありません。僕は抜けている所があるので、どこかで
躓いたとおもいます﹂
﹁そう言えるうちは大丈夫だ﹂
為す術もない状況というのは結構あった。
例えば、シーローンで囚われた時など、ルイジェルドという存在
がいなければ、
俺はもっと慌て、取り乱していただろう。
﹁⋮⋮ルーデウス、前にも言ったが﹂
ルイジェルドはいつにも増して静かな顔で俺を見下ろす。
﹁お前は魔術師として、すでに完成の域にある。
それだけの才能を持ちながら増長もしていない。
その若さでそれだけの事ができるという事に自覚を持て﹂
その言葉を、俺は複雑な気持ちで受け止めた。
若さといっても、俺の体感年齢はすでに40歳を超えている。
増長していないのは、その時の記憶があるからだ。
だが、40歳といっても、ルイジェルドの年齢から見れば﹁若い﹂
の範疇に入るだろう。
﹁僕は⋮⋮﹂
1725
ここで自分のダメな部分を羅列することができた。
だが、それはあまりにも情けない気がした。
俺はこの男の前では、少々背伸びをしたい。
﹁いえ、わかりました。ルイジェルドさん、今まで本当にお世話に
なりました﹂
そう言って頭を下げようとすると、掴んで止められた。
﹁ルーデウス、俺に頭は下げるな﹂
﹁⋮⋮どうして?﹂
﹁お前は俺に世話になったと考えているかもしれんが、
俺はお前に世話になったと考えている。
お前のおかげで、一族の名誉回復にも希望の兆しが見えた気がす
るのだ﹂
﹁僕は、何もしてませんよ。ほとんど何も出来なかった﹂
魔大陸においては、デッドエンドの名前をいい物にしようとして、
しかし、それはあくまで冒険者という枠組みを出ることはなかっ
たように思う。
ミリス大陸ではネームバリューが使えなくなり、
別の方法を考えなければと思っている内に、どんどん後回しにな
った。
結局、中央大陸にきてからは、何もできなかった。
今までやってきたことも、少しは影響したと思う。
けれど、あくまでそれは、少しだ。
世界に大きく残った迫害の歴史を消すことはもちろん、
スペルド族に対する偏見をどうにかすることはできなかった。
1726
﹁いや、お前は色々とやってくれた。
俺のように、愚直に子供を助けるだけでなく、
いろんな方法があるのだと教えてくれた﹂
﹁でも、どれも効果は薄かった﹂
﹁だが、確かに変わった。
俺は全て覚えているぞ。
リカリスの町で、お前の策略で、
スペルド族を恐れないと言った老婆の言葉を。
デッドエンドと聞いて恐れる事なく、愉快そうに笑った冒険者の
顔を。
スペルド族と聞いても認めてくれたドルディア族の戦士の距離感
を。
家族との再会に涙しながら礼を言った、シーローンの兵士を﹂
最初の二つはともかく、後の二つはルイジェルドが自分で頑張っ
たことだ。
俺は何もやっていない。
﹁⋮⋮それはルイジェルドさん、あなた自身の力です﹂
﹁いや。俺は一人では何もできなかった。
戦争から400年、俺は一人で動き、一歩も前進できなかった。
その俺に﹃一歩﹄を与えてくれたのはお前だ、ルーデウス﹂
﹁⋮⋮でも、それはあくまで人神の助言で﹂
﹁見たこともない神などどうでもいい。
実際に助けてくれたのはお前だ。
お前がどう思おうと、俺はお前に恩義を感じている。
だから頭は下げるな、俺とお前は対等だ、礼を言うなら目を見ろ﹂
ルイジェルドはそう言って、俺に向かって手を差し伸べた。
1727
俺の目を見ながら。
俺はそこから目を逸らさず、手を握った。
﹁もう一度言う。ルーデウス、世話になったな﹂
﹁こちらこそ、お世話になりました﹂
手をぎゅっと握ると、ルイジェルドの力強さが伝わってきた。
目頭が熱くなってきた。
こんな情けない俺を、
失敗ばかりしてきた俺を、
ルイジェルドは認めてくれているのだ。
しばらくして、すっと手が離れる。
その手は横へと動き、エリスの頭へと乗せられた。
﹁エリス﹂
﹁⋮⋮なによ﹂
﹁最後に子供扱いをするが、いいか?﹂
﹁いいわよ、別に﹂
エリスはぶっきらぼうに答えた。
ルイジェルドは薄く微笑みながら、エリスの頭を撫でる。
﹁エリス、お前には才能がある。
俺なんかよりも遥かに強くなれる才能だ﹂
﹁嘘よ、だって⋮⋮あいつに⋮⋮﹂
エリスは口をへの字に結んで、ムッとした顔をしていた。
ルイジェルドはフッと笑い、いつも、訓練で口にする言葉を口に
1728
した。
﹁神の名を冠する者と戦い、その技を受けた。
その意味が⋮⋮﹂
わかるか? と。
エリスはルイジェルドをキッと睨み。
やがて、ハッと眼を見開いた。
﹁⋮⋮⋮⋮わかるわ﹂
﹁よし、いい子だ﹂
ルイジェルドはポンポンとエリスの頭を叩き、その手を外した。
エリスは口をへの字に結んで、拳を握り締めている。
泣きそうなのを、必死に我慢しているように見えた。
俺は彼女から目を逸らし、ルイジェルドに問いかける。
﹁ルイジェルドさんは、これからどうするんですか?﹂
﹁わからん、しばらくは中央大陸でスペルド族の生き残りを探して
みるつもりだ。
俺一人では、名誉の回復など夢のまた夢だからな﹂
﹁そうですか、頑張ってください。僕も暇があれば、何か手を打っ
てみることにします﹂
﹁⋮⋮フッ、なら俺も、暇があればお前の母親を捜してみるとしよ
う﹂
ルイジェルドはそう言って背を向ける。
彼には、旅の準備など必要ない。
着の身着のままで歩き出しても生きていけるのだ。
1729
だが、ふと立ち止まった。
﹁そういえば、これを返しておかなければな﹂
そう言って、ルイジェルドは首から下げたペンダントを外す。
ロキシーからもらったペンダントだ。
ミグルド族のペンダント。
俺とロキシーをつなぐ、たった一つのアイテム⋮⋮だったものだ。
﹁それは、ルイジェルドさんが持っていてください﹂
﹁いいのか? 大切なものなのだろう?﹂
﹁大切なものだからですよ﹂
そう言うと、ルイジェルドはコクリと頷いた。
受け取ってくれるようだ。
﹁ではな、ルーデウス、エリス⋮⋮⋮⋮また会おう﹂
ルイジェルドはそう言って、俺たちの元から去っていく。
付いてくると言った時はあれこれと話をしたのに、
去るときは一瞬だった。
言いたいことはたくさんあった。
魔大陸で出会い、アスラ王国に至るまで。
本当にいろんな事があった。
言葉に出来ないぐらい、たくさんの事、たくさんの気持ち⋮⋮。
別れたくない、仲間だという気持ち。
1730
﹃また会おう﹄
その気持ちを一言でまとめ、ルイジェルドの背中は遠ざかる。
そうだ、また会えばいいのだ。
きっと会える。
互いに生きていれば、必ず⋮⋮。
俺とエリスはルイジェルドの姿を、見えなくなるまで見送った。
ただ静かに、今までの感謝を込めて。
−−−
こうして、俺達の旅は終わりを告げた。
1731
第六十二話﹁災害の現実﹂
難民キャンプ。
そこは閑散としていた。
規模としては、村サイズ。
あるいは魔大陸ならギリギリ町といえるかもしれない。
だが、活気はなかった。
全体的にひっそりとした空気が漂っていた。
規模に対して、人も少ない。
急造で拵えたであろうログハウスの中には人の気配がある。
滞在している人間は少なからずいるようだが、活力は感じない。
空気が淀んでいた。
そんな難民キャンプの中央。
冒険者ギルドのような場所に、俺達は赴いた。
難民キャンプの本部と入り口に書かれている。
中に入る。
人はそれなりにいたが、やはりここも陰鬱としていた。
いやな予感しかしなかった。
﹁ルーデウス、あれ⋮⋮﹂
エリスの指差す先に、今回の件で行方不明になった者の名前が乗
1732
った紙があった。
細かい字で、ビッシリと名前が書き込まれている。
村や町毎に、五十音順に。
その一番上には、フィットア領領主。
ジェイムズ・ボレアス・グレイラットの名前で、
﹃行方不明者・死亡者の情報を求む﹄と書いてある。
﹁あとにしましょう﹂
﹁うん﹂
凄まじい量の死亡者数。
そして領主の名前がサウロスでない事。
その二つに不安を覚えつつ、俺達は建物の奥へと進んだ。
−−−
カウンターでエリスの名前を告げると、受付のおばさんは、すぐ
に奥へと引っ込んだ。
そして、凄い勢いで一組の男女を引き連れ、戻ってきた。
見覚えのある男女だった。
片方は、白髪に髭を蓄え、執事然とした顔をしつつも、
やや裕福そうな町人じみた服装をした、壮年の男。
アルフォンス。
もう一人は、チョコレート色の肌に剣士風の格好をした女。
1733
﹁ギレーヌ!﹂
エリスが喜色満面の笑みを浮かべ、彼女に向かって走った。
尻尾でもあるのかと思えるほど嬉しそうだった。
俺も嬉しい。
ギレーヌの情報はなかったが、彼女も元気そうだ。
パウロの所に情報がいってなかったのは、この一年ですれ違いに
なったからかもしれない。
ギレーヌもまた、エリスの顔を見て、顔をほころばせた。
﹁エリス、いや、エリス様、よく無事に⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もう、エリスでいいわよ﹂
ギレーヌはしばらく嬉しそうな顔をしていたが、すぐにその顔を
曇らせた。
アルフォンスもまた、エリスを気の毒そうに見ている。
まさか⋮⋮。
不安な気持ちが俺の心中を襲う。
﹁エリス⋮⋮奥で話そう﹂
ギレーヌの声が硬い。
尻尾もピンと立っている。
彼女が緊張している時の顔だ。
エリスの帰還をただ喜ぶ顔ではない。
﹁わかったわ﹂
エリスも、その顔を見て、何かを悟ったらしい。
1734
ギレーヌについて、建物の奥へと歩いて行く。
俺もそのまま付いて行こうとすると、
﹁ルーデウス殿は外にてお待ちください﹂
﹁え? あ、はい﹂
止められた。
アルフォンスの言葉に、俺は頷く。
そうか、俺も一応雇われ人という立場だから、重要な話は聞かせ
てもらえないのか。
﹁だめよ、ルーデウスも一緒﹂
エリスの口調は強かった。
有無を言わさぬものである。
﹁エリス様がそうおっしゃられるのであれば﹂
エリスの口元はいつにもましてギュっと引き締められ、
手も白くなるほど握られていた。
−−−
俺達は無言で短い廊下を抜け、執務室のような部屋に入る。
中央に置かれたソファ、部屋の端に置かれた花瓶にはバティルス
の花。
部屋の奥には余計な装飾のない、安っぽい執務机が置かれている。
1735
エリスはソファに、誰にも言われる事無く腰掛けた。
そして、俺の手を取り、隣に座らせる。
ギレーヌはいつもどおり、部屋の隅に立っていた。
アルフォンスはエリスの正面に立ち、執事然とした仕草で礼をす
る。
﹁おかえりなさいませ。エリスお嬢様。
お嬢様が帰還なされることはすでに連絡を受け、我ら一同首を長
くして⋮⋮﹂
﹁前置きはいいわ、言いなさい。誰が死んだの?﹂
エリスは執事の言葉を遮り、この場にいる誰よりも強い口調で問
いかけた。
誰が死んだの、と。
言葉をオブラートに包むことなく尋ねた。
その姿勢は正しく、目線は強い。
しかし、彼女の心中に不安が渦巻いている事を俺は知っている。
なぜなら、俺の手がギュッと握られているからだ。
﹁それは⋮⋮﹂
アルフォンスは言葉を濁した。
この反応だと、サウロスか。
エリスはおじいちゃん子だった。
なんでもかんでもサウロスの真似をしていた。
それが死んだとなれば、さすがのエリスも落ち込むだろう。
アルフォンスは絞りだすように、告げた。
1736
﹁サウロス様、フィリップ様、ヒルダ様⋮⋮お三方共に、お亡くな
りになりました﹂
その言葉を聞いた瞬間、俺の手が握りつぶされた。
走る激痛。
だが、痛みよりも、アルフォンスに告げられた事実に、脳が混乱
していた。
何かの間違いだろう。
まだ三年弱。
そう、まだ三年も経っていないのだ。 いや、もうすぐ三年も経つというべきか。
﹁間違い⋮⋮無いのね?﹂
エリスの震えた声での問いに、アルフォンスはこくりと頷いた。
﹁フィリップ様とヒルダ様は共に転移し、紛争地帯にて亡くなられ
ました。
これはギレーヌが確認しております﹂
ギレーヌがこくりと頷く。
﹁そう⋮⋮ギレーヌはどこに転移したの?﹂
﹁フィリップ様方と同じく、紛争地帯です﹂
ギレーヌは多くを語らなかった。
1737
紛争地帯を徒歩で突破する最中、フィリップとヒルダの遺体を発
見した。
ただ、そう語った。
遺体の状態や、見つけた時の状況を語らなかった。
ただ、その表情から、酷かったのがわかった。
何がひどいかはわからない。
死体の状態が酷かったのか。
死体の状況が酷かったのか。
それとも、もっと眼を背けたくなるような何かを見たのか。
耳を塞ぎたくなるような何かを聞いたのか。
エリスは、﹁フン﹂と鼻息を一つ。
俺を握る手がブルブルと震えている。
﹁それで、お祖父様は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮フィットア領転移事件の責任を取らされ、処刑されまし
た﹂
﹁馬鹿な﹂
俺は思わずつぶやいていた。
﹁なんでサウロス様が処刑される必要があるんですか?﹂
あんな天災の責任をとって処刑?
馬鹿言うな。
どうしようもないだろ。
それとも、未然に防げたっていうのか?
兆候だってなくて、いきなりだったじゃないか。
それを、責任?
1738
﹁ルーデウス、座って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺はエリスに手を引かれ、座らされる。
いつの間にか立ち上がっていたのだ。
頭の中では、言い表せない感情がグルグルと回っていた。
激痛のせいでうまくまとまらない。
手が痛い。
いや、俺だってわかっている。
兆候がなくても。
未然に防げなくても。
人は死んだし、領地にある畑や、そこから取れる作物は消滅した。
損失は計り知れない。
不満は大きく、糾弾もされよう。
誰かがその避雷針にならなければならなかった。
生前の日本でも、何か起きれば、すぐに責任をとって総理が辞任
していた。
当時は、責任を取るなら事態の収拾が付くまで面倒みろよと思っ
たものだが、
同時に、いい方法なのかもしれないとも思っていた。
死ぬことで、人々の不満を抱えていなくなる。
次の椅子には、期待できそうな人物を据える。
そうすれば、多少なりとも溜飲は下がる⋮⋮。
それだけじゃない。
きっと、貴族連中の間の権力争いも関係している。
1739
サウロス爺さんがどれだけの力を持っているのかは知らない。
だが、失脚すれば殺される程度には、力を持っていたのだ。
そう無理やり納得することもできる。
できるが⋮⋮。
しかし、それでこの現状なのだろうか。
閑散とした難民キャンプ。
人気のない本部。
国が本気でフィットア領を再建しようとしているように思えない。
サウロスが生きていれば、
あるいはもっと活動的に動いてくれただろう。
あの爺さんは、こういう時にこそ役立つ人物のはずだ。
いや。それは全部建前だ。
そんな事は俺にとっては些細なことだ。
エリスの気持ち。
それを考えると、どうしても、心が穏やかではいられない。
エリスの家族はもういないのだ。
フィリップとヒルダの死がいつ伝わったのかはわからない。
サウロスの死より先だったのか、後だったのか。
サウロスは生きていた。
最後の一人といえるだろう。
殺さなくてもいいだろう。
1740
あの災害で。
転移事件で。
どれだけの人間が死んだと思っているのか。
百や二百で効かない数が死んでいるのに。
どうしてわざわざ、生還した人を殺すのか。
せっかくエリスが帰ってきたのに。
ああ、くそう、考えがまとまらない。手が痛い。
﹁ルーデウス殿、お気持ちはわかりますが⋮⋮。
これが、今のアスラ王国です﹂
そんな言葉ひとつで片付けていい問題じゃないだろう。
アルフォンス。
あんたは自分の主君を殺されたんだぞ。
ギレーヌ。
お前は自分の命の恩人を殺されたんだぞ。
そう言ってやりたかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しかし、言葉は出ない。
エリスが何も言わないからだ。
この場で、俺が喚いても仕方がない。
世話になったとはいえ、親戚筋に当たるとはいえ、俺にとってサ
ウロスは他人だ。
家族が何も言わないのに、俺がとやかく言っても仕方がない。
1741
﹁⋮⋮それで、どうするの?﹂
エリスは、珍しく、叫びもせず、暴れもせず、静かに問いかける。
﹁ピレモン・ノトス・グレイラット様が、エリス様を妾として迎え
入れたいとおっしゃっております﹂
ギレーヌが殺気を発したのが俺にもわかった。
﹁アルフォンス! 貴様は、あんな話に乗るつもりか!?﹂
ギレーヌの怒号。
鼓膜が破れるのではないかと思う獣声。
﹁あの男がなんと言ったか覚えているだろう!﹂
激高するギレーヌに対し、あくまでアルフォンスは冷静だった。
﹁ですが。フィットア領の今後を考えるのであれば、多少の不自由
は⋮⋮﹂
﹁あんな男の元に嫁いで幸せになどなるものか!﹂
﹁クズでも名家でございます。望まぬ婚姻でも幸せになった例は数
多くあります﹂
﹁そんな前例など知らん! お前はエリスの事を考えているのか!
?﹂
﹁私が考えているのはボレアス家とフィットア領の事でございます﹂
﹁そのためにエリスを犠牲にするつもりか!﹂
﹁必要とあらば﹂
1742
唐突に言い争いを始める二人。
俺は呆然と二人を見上げていた。
気づけば、エリスが立っていた。
俺の手を離し、両腕を組み、足を開いて、顎をつきだし、立って
いた。
﹁うるさい!﹂
ギレーヌが耳を手で抑えるほどの大音声。
最近、ほとんど聞かなかった、エリスの本気の大声。
しかし、元気はそこまでだった。
﹁⋮⋮すこし、一人にさせて。考えるから﹂
しおれた声を聞いて、二人はハッとなったようだ。
まず、アルフォンスが真っ先に部屋から出た。
ギレーヌが名残惜しそうにエリスを見て、部屋から出る。
そして、俺が残った。
俺は、彼女になんと声をかければいいのか、迷っていた。
﹁エリス⋮⋮その⋮⋮﹂
﹁ルーデウス、聞こえなかったの? しばらく一人にさせて﹂
有無を言わさぬ口調だった。
俺は少しばかり、ショックを受けていた。
考えてみれば、ここ数年でエリスに拒絶されたのは、初めてだっ
たかもしれない。
1743
﹁⋮⋮わかり⋮⋮ました﹂
俺はぺこりと頭を下げると、背中を向けるエリスを見てから、部
屋の外へと出る。
そして扉を閉める寸前、グスッと鼻をすする音が聞こえた気がし
た。
−−−
アルフォンスは、俺達のために部屋を用意してくれた。
本部の近くにある家で、恐らく難民用なのだろう、狭い部屋が4
つ、連なっていた。
俺はそのうちの一つに、自分の荷物を運び入れ、エリスの荷物を
隣室に運び入れた。
旅装から町用の格好に着替える。
不恰好な縫い跡のあるローブをベッドに放り投げ、部屋を出る。
本部へと戻ってくる。
ギレーヌやアルフォンスと少しでも話そうかと思ったが、姿が見
えなかった。
探す気力もなかったので、掲示板をボンヤリと見つめる。
この数ヶ月で何度も見た、パウロの伝言があった。
中央大陸北部を探せ。
これが書かれたのは、俺が10歳の時か。
俺はもうすぐ13歳だ。
随分と時間が経ってしまっていた。
1744
死亡者・行方不明者のリストに目を通す。
ブエナ村の欄。
俺の知っている名前が、ずらりと行方不明者リストに並んでいた。
しかし、その半数以上に斜線が引いてある。
ちらりと死亡者欄を見ると、斜線を引いたのと同じ名前が書いて
あった。
どうやら、死亡が確定すると、斜線が引かれ、死亡者欄に乗るよ
うだ。
行方不明者の方が若干多いが、それでも死亡者の欄もビッシリと
埋まっている。
俺は、行方不明者欄にあるロールズの名前に斜線が引かれている
のを見て、眉根を寄せた。
ロールズが死んだことはパウロから聞いている。
その死因については詳しく聞き及んでいないが。
そして、そのすぐ下。
行方不明者欄にある、シルフィの文字。
そこには、斜線が引いてあった。
ドクンと、自分の心臓が脈打つ音が聞こえた。
まさか、と思い、死亡者欄を見る。
ロールズの名前の近くにはない。
上から順番に見る。
だが、無い。
シルフィエットの名前がなかった。
⋮⋮あれ?
1745
﹁あの、あれ、こっちに斜線が引いてあって、あっちに名前が無い
んですけど⋮⋮﹂
不思議に思い、職員に聞いてみた。
﹁はい、それは生存が確認された方です﹂
その言葉に、俺は胸の中の何かがストンと落ちた。
そのまま胸を突き抜けて腹に落ち、腹も突き抜けてウンコを漏ら
すかと思った。
シルフィが生きている。
その事実に、俺はほっとした。
﹁じゃあ、その、連絡先とかもわかりますか?﹂
﹁いえ、それは、実際に本部に来て頂いた方でないと⋮⋮﹂
﹁シルフィエットという名前なんです、調べていただけますか?﹂
﹁少々お待ちください﹂
職員に頼むこと数十分。
﹁申し訳ありません、連絡先は登録されていないようです﹂
﹁そう、ですか﹂
定住していないか、
もしくは発見した人物がリストを更新したので本人の連絡先が載
っていないか、どちらかだという。
あるいは、記入漏れという可能性もあるだろうが、考えまい。
高確率でシルフィは生き延びている。
1746
その事を、今は喜ぼう。
無論、心配もある。
例えば、彼女の髪の色だ。
スペルド族とは少々色合いが違うが、同じ緑。
人神曰く、呪いはスペルド族にしか適用しないようだし、
ブエナ村でも子供たち以外には積極的にイジメられていなかった
はずだ。
だが、心ない者は世の中に大勢いる。
どこかで髪のことを言われ、泣いているかもしれない。
いや、パウロ曰く、シルフィは無詠唱で治癒魔術も使えるという。
聞いただけの話だが、すでに一人で生きていけるだけの力は持っ
ているように感じた。
俺と同じように、どこかで冒険者でもしているのかもしれない。
リーリャに礼儀作法を習っていたともいうし、どこでもやってい
けるだろう。
あるいは、家族が死んだ事を知らず、探しているのかもしれない。
むしろ、あの転移で生き残ったのなら、その可能性の方が高いだ
ろう。
奴隷とかになっていない事を願おう。
とりあえず俺は、リーリャとアイシャの名前に斜線を引いた。
ルーデウスの名前にはすでに斜線が引いてあった。
エリスがこちらに向かっているという報告はあったようだし、
俺の情報もあったのだろう。
パウロ一家の中では、ゼニス・グレイラットの名前だけが残って
いる。
1747
やはり、まだ見つかっていないのか。
今度人神が夢に出てきたら、聞いてみるか。
−−−
エリスはまだ部屋から出てこない。
切り替えの早いエリスがこれだけ悩むのは初めての事ではなかろ
うか。
だが、長いこと旅をしてきて、ようやく帰ってきた故郷には、
迎えてくれる家族も温かい家もなかったのだ。
さすがのエリスも打ちのめされているのかもしれない。
やはり戻って慰めるべきだろうか⋮⋮。
いや、もう少し待とう。
そう考えつつ、荷物を運び入れた建物に戻ることにする。
戻ったらあれこれしようと思っていたが、することが思いつかな
かった。
少し、休むか。
−−−
本部を出て行こうとした時、アルフォンスに呼ばれた。
1748
難民キャンプ本部の一室にて、椅子に座らされる。
目の前にはアルフォンス、右手にはギレーヌが座っている。
二人が座っているのは、エリスがいないからだろう。
俺と違って、きちんと主従関係を理解しているのだ。
﹁さて、ルーデウス殿、簡潔でよろしいので、報告を﹂
﹁報告ですか?﹂
﹁はい、この三年間、何をしてらしたのかを﹂
﹁あ、そうですね﹂
俺はアルフォンスに聞かれるがまま、この三年の事を話した。
魔大陸に転移し、ルイジェルドと出会った事。
冒険者として登録し、日銭を稼ぎながら移動した事。
大森林で一騒動あったこと。
ミリシオンでパウロたちフィットア領捜索団と出会い、そこで初
めて状況を知ったこと。
情報を探しながら北上し、シーローン王国で一騒動あったこと。
赤竜の下顎でオルステッドと出会ったこと。
主にエリスに関わった事を中心に、極めて簡潔に話した。
アルフォンスは静かに聞いていたが、最後の下り。
ルイジェルドとの別れで、ふと声を上げた。
﹁⋮⋮その護衛の方はお帰りになられたのですか?﹂
﹁はい、彼にはお世話になりました﹂
﹁そうですか、落ち着いたら正式に謝礼をとエリス様に進言しよう
と思ったのですが﹂
﹁そうしたものを受け取る人物ではありません﹂
1749
﹁左様でございますか﹂
アルフォンスは頷くと、静かに俺に目線をあわせる。
疲れ果てた男の目だ。
﹁さて、ルーデウス殿⋮⋮。
サウロス様に仕えてきた者も、我々だけとなりました﹂
﹁⋮⋮他のメイドさんたちは?﹂
﹁戻ってこない所を見ると、死んだか、あるいは故郷に帰ったのか
もしれません﹂
﹁そうですか﹂
あの猫耳さんたちも、全滅か。
もしかすると何人かは大森林に帰っているかもしれないが⋮⋮。
﹁サウロス様に世話をしてもらいながら、嘆かわしい事です﹂
﹁所詮、金銭だけの繋がりでしかなかったのでしょう﹂
そう言うと、アルフォンスはポーカーフェイスをピクリと動かし
た。
きつい言い方かもしれないが、そういう事だろう。
﹁まだ若いルーデウス殿をここに加えるかは迷いましたが⋮⋮。
そうした受け答えができるのであれば問題ないでしょう。
あなたはエリス様を守り、無事に送り届けた。
その功績を認め、ボレアス・グレイラット家の家臣団への入団を
認めます﹂
家臣団。
これはそういう集まりであるらしい。
1750
﹁これより、家臣団の会議を始めようと思いますが、構いませんな
?﹂
会議か。
きっと、転移事件前にも、俺のいない所でやっていたんだろう。
多分、ギレーヌも以前は加わっていなかったに違いない。
今はたった三人しかいないようだが、
かつてはそりゃあもうたくさんの家臣が話し合いをしたのだろう。
﹁ありがとうございます。それで議題は?﹂
俺は無駄話をするつもり無く、そう聞いた。
なにせ、すでにサウロスもフィリップもいないのだ。
誰の話題になるのか、なんて決まりきっている。
﹁エリス様の事です﹂
ほらな。
﹁具体的には、エリス様の今後について話しあおうと思います﹂
﹁今後、ですか?﹂
考えてみる。
エリスは故郷に帰ってきた。
しかし、そこには何もなかった。
家族もいなければ、家も無い。
以前のような暮らしには戻れない。
﹁はい、エリス様の、今後です﹂
1751
﹁確かにサウロス様とフィリップ様はお亡くなりになりましたが、
ボレアス家自体は滅んではいないはずでしょう?
住む家ぐらいは用意してくれるのではないですか?﹂
﹁ジェイムズ様は、風聞を気にされるお方ですので、
エリス様をお引き取りになる事を拒絶なさるでしょう﹂
ジェイムズ、エリスの叔父か。
現在の領主だ。
確か、フィリップと権力争いして勝った奴だ。
風聞を気にするなら、確かに貴族っぽくないエリスを身内には加
えたくないか。
礼儀作法も曖昧だし、貴族の子女としては扱いにくい。
また、彼の元には一応エリスの兄弟がいるはずだ。
他にも何人か、従兄弟が。
エリスがそいつらと問題を起こすのは、想像に難くない。
問題が起こるとわかっていて引き取るほど、エリスに甘くはない
のだ。
﹁もし仮にお引き取りになられた所で、
果たして貴族として扱ってもらえるかどうかも怪しい⋮⋮。
エリス様が下女のまね事をされるなど考えられません。
ですので、これは却下とさせて頂きます﹂
その言葉に、俺はこくりと頷いた。
そうだな、やめておいたほうがいい。
エリスもだいぶ丸くなったとはいえ、
荒い気性はそのままだ。
1752
見下されて殴り返さないほど大人になったわけでもない。
﹁次に、ピレモン・ノトス・グレイラット様より、
エリス様が帰ってきた時に行き場が無いのなら、
是非自分の妾にしたいという旨を伝えられております﹂
ピレモン。俺の叔父か。パウロの弟。
現在のノトス家の当主だったか。
サウロス爺さんは彼を嫌っていたようだが⋮⋮。
先ほどの口喧嘩の元となった人物だ。
ギレーヌはと見ると、眉根を寄せて目を瞑っている。
﹁悪い話ではないのですが、ピレモン様には黒い噂もあります﹂
﹁黒い噂、ですか?﹂
﹁はい、最近急速に力をつけてきたダリウス・シルバ・ガニウス上
級大臣に取り入ろうという噂です﹂
それのどこが黒い噂なのだろうか。
貴族にも色々あるだろうし、権力者がより上の権力者に取り入る
など、普通ではないのだろうか。
﹁ダリウス卿は、この数年で力をつけてきた方で、
第一王子を擁立し、第二王女を国外へと追放させた立役者でござ
います﹂
ふむ。
わからん。いきなり第一だの第二だのと言われても、
俺が知ってるのはラジオ体操ぐらいだ。
1753
﹁ピレモン様は第二王女を擁立する派閥に属していたのですが⋮⋮﹂
﹁国外追放となった事で、その力を急速に落としている?﹂
﹁その通りです﹂
あっていたらしい。
要するに、自分ところのボスが負けちゃったので、勝った側に寝
返ろうって魂胆だろう。
﹁それならそれでいいじゃないですか。
何が問題なんですか?﹂
﹁ルーデウス殿、いつぞやの、誘拐事件を覚えておいでですか?﹂
﹁誘拐事件?﹂
﹁本物の誘拐犯にエリス様が攫われた、あの事件です﹂
俺が提案したやつか。
﹁あの誘拐犯の裏にいたのは、ダリウス卿です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ほう﹂
﹁ダリウス卿は、一度だけフィットア領においでなさりましたが、
その時、ひと目みた時から、エリス様の事を大層気に入っていた
そうです﹂
﹁それは、性的な意味で?﹂
﹁無論でございます﹂
で、気に入ったから、サウロスにくれるように言ったが、
あっけなく断られたので、さらおうとしたわけか。
数年越しに明かされる真実。
いや、実際には当時、すでに判明していたのだろう。
相手が大物だから騒ぎ立てなかっただけで。
1754
サウロスはなぜ断ったのだろうか。
⋮⋮ダリウスが嫌いだからか。
そういう感情で物事を決める事もある爺さんだった。
まあ、どういう基準で決めたのかは、この際どうでもいいな。
﹁ピレモン様は、恐らくエリス様を妾にした場合、
何らかの理由を付けて、ダリウス卿の所にさし出すでしょう。
ピレモン様はエリス様のことをモノとしてしか扱っておられない
ようでしたので﹂
ふむ、ダリウスは変態貴族ってやつか。
アスラ王国には多いらしいが。
求めているのがエリスなら、趣味は悪くないと思える。
悪くないのは趣味だけだが。
﹁では、却下ですね﹂
﹁いえ、ダリウス卿本人については、私としても顔をしかめざるを
えませんが、
しかし、ダリウス卿は、今王都で最も勢いのある方です。
エリス様も多少は苦労をされるでしょうが、身分と待遇は保証さ
れるでしょう﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁多少のわがままであれば、ダリウス卿も聞いてくださるはずです。
例えば、フィットア領の領民のために開拓村を作るだとか⋮⋮﹂
なるほど。
権力者の女になれば、多少ならその金も使えるということか。
とはいえ、エリスがそんな変態のものになるのは嫌だな。
1755
﹁他には?﹂
﹁他の貴族の方は、恐らくエリス様とは⋮⋮。
サウロス様やフィリップ様が死んだ以上、エリス様に貴族の子女
としての価値はほとんどございませんので﹂
価値、価値か⋮⋮。
そういうものなのだろうか。
俺に言わせれば、エリスは単体で十分に価値があるんだが⋮⋮。
﹁ルーデウス殿は、いかが為されるのがいいと思われますか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮僕の意見を言う前に、ギレーヌの意見を聞いてもいいで
すか?﹂
唐突の問いに、俺はやんわりとそう言って逃げた。
まだ考えがまとまっていなかった。
﹁私は、エリスお嬢様はルーデウスと一緒になればいいと思う﹂
﹁僕と、ですか?﹂
﹁お前はパウロの息子だ。ゼニスもミリシオンの有力な貴族。
身元も血筋もハッキリしているのなら、アスラ王国の貴族になれ
るはずだ﹂
いや、それはどうだろう。
なれないと思うが。
そう思ってアルフォンスを見る。
﹁不可能ではありません。
パウロ殿には今回の一件で功績もありますし、それを利用すれば、
ルーデウス殿を貴族にすることもできるでしょう。
しかし、フィットア領の管理者になれる程となると、難しいでし
1756
ょうな。
パウロ殿のご子息が権力を持つことをピレモン様が許すとは思え
ません。
また、エリス様が権力者に嫁ぐことに関し、
ダリウス卿とジェイムズ様がいい顔をするとは思えません﹂
だろうな⋮⋮。
まあ、でも、なんとなくわかった。
アルフォンスの考えは、あくまでこの領地の再生なのだ。
﹁ならば、ルーデウスがエリスお嬢様を連れて逃げればいい﹂
﹁フィットア領のことはどうなさると?﹂
﹁お前がどうにかしろ﹂
ギレーヌの言葉は突き放すようだった。
アルフォンスとは根本的に仲が悪いのかもしれない。
﹁サウロス様が愛したこの土地をエリス様が統治してこそ、
我々の悲願は為されるのではないのですか?﹂
﹁それはあくまでお前の悲願だ、一緒にするな。
私はエリスお嬢様が幸せになれれば、それでいい﹂
﹁ルーデウス殿と逃げれば幸せになれると?﹂
﹁少なくとも、ピレモンに嫁がせるよりはな﹂
﹁領民はどうします﹂
﹁知ったことではない。エリスお嬢様は元々、そうした分野には何
一つ期待されていなかった﹂
家臣団の半数は意見を違えている。
1757
まとめてみよう。
要するに、
アルフォンスは、エリスにサウロスやフィリップの跡を継いでも
らいたい。
そして、この土地を治めてもらいたい。
そのためなら、多少の変態貴族に変態な事をされるぐらいは我慢
しろという。
ギレーヌは、そんな事は関係ないから、エリスが幸せになってほ
しい。
そのためなら、権力や家名なんか捨てて、俺と逃避行しろという。
俺としては、ギレーヌ寄りの考えである。
感情的なものだ。
だって、ここまで守ってきた子が、ブタみたいな奴のモノになる
とかイヤだしね。
いや、ダリウスとやらがブタかどうかは知らんが。
それなら、まだエリスと逃避行した方がいい。
俺は権力なんかどうでもいいしな。
しかし、アルフォンスの言いたい事も多少はわかる。
サウロスがやっていた事をエリスが引き継ぐ。
その事に重きを置く考えも、とりあえずは理解できる。
納得はできないが。
まあ、どちらにしてもだ。
﹁埒が明きませんね﹂
俺はぽつりと呟いた。
1758
言い争っていた二人が、こちらを見る。
﹁どういう意味ですか?﹂
アルフォンスの問いかけに、答える。
﹁どちらにせよ、決めるのはエリスです。
僕らがこうして話をしていても、何の意味もない。
そんな事より、もっと建設的な話題を探しましょう。
他に何か無いんですか?﹂
アルフォンスは唖然とした顔で俺をみていた。
ギレーヌもまた、黙り込んでいる。
﹁無いのでしたら、僕は休ませてもらいます﹂
その日の会議は、それで終了となった。
1759
第六十三話﹁お嬢様の決意﹂︵前書き︶
※今回はややエロい描写があります。R15の範疇に収まるように
気をつけたつもりですが、ギリギリアウトかもしれませんので、苦
手な人はご注意ください。
1760
第六十三話﹁お嬢様の決意﹂
会議が終わる頃には、日がすっかりと落ちていた。
俺は部屋に戻った。
最低限の家具の置いてある部屋。
荷物の整理をすべきだと思いつつも、
しかし何もやる気が起きず、ベッドに座る。
身体が硬いベッドに沈み込むかと思った。
思った以上に疲れているらしい。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
今日はさして疲れる事はしていないはずなのに。
疲労がベットリと身体の内側にくっついている。
これはもしや気疲れというやつだろうか。
いや、違うな。
俺もまたショックを受けていたのだ。
サウロス、フィリップ、ヒルダ。
彼らとは、それほど親しく話したことがあるわけではない。
だが、目をつぶれば、今でも思い出せる。
遠乗りに出かけ、領地の農作物を確認しつつエリスの様子を聞い
てきたサウロス爺さん。
悪い笑みを浮かべながら、一緒にボレアス家を乗っ取ろうと提案
したフィリップ。
エリスと結婚してうちの子になれと言ってくれたヒルダ。
1761
彼らはもういない。
そもそも、家すら残っていない。
あの広く、時折大声の響き渡る館はもうない。
エリスとダンスを踊った大広間も、
サウロス爺さんが情事にふけっていた塔も、
領地の書類が大量に置かれていた書庫も。
何もなくなってしまった。
館だけじゃない。
ブエナ村もだ。
実際に見てはいないが。
ゼニスが大事にしていた庭木も、
ロキシーに水聖級魔術を習った時に雷が落ちて焼け焦げた木も、
シルフィと一緒に遊んでいた大木も、
全てなくなってしまったのだろう。
⋮⋮なんで、ブエナ村で思い出すのが木ばかりなんだろうか。
まあいい。
とにかく、全てがなくなってしまった。
パウロから聞いて頭では理解していたが、
こうして実際にみてみると、思いのほかショックが大きい。
あったものが無くなるというのは、いつだって辛いのだ。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
1762
二度目のため息をついた時。
⋮⋮コンコン。
と、扉がノックされた。
﹁⋮⋮どうぞ﹂
返事をするのも億劫だと思いつつ、入室を促す。
入ってきたのはエリスだった。
﹁こんばんわ、ルーデウス﹂
﹁エリス、もういいんですか?﹂
﹁大丈夫よ﹂
エリスはそう言うと、俺の前に立ち、いつものポーズを取った。
落ち込んでいる様子はない。
さすがエリスだな。
肉親が全滅したというのに。
俺よりずっと強いらしい。
いや、落ち込んでいるのかもしれない。
いつもならドアはノックなんかしない。
蹴り破っていたはずだ。
﹁まあ、こんな事になるんじゃないかとは思っていたわ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
エリスは事も無げに言った。
以前、彼女は覚悟を決めていると言っていたような気がする。
1763
家族が死ぬことを覚悟する。
俺にはできそうもない。
俺は今だって、見つかっていないゼニスはどこかで生きていると
考えている。
死んでいる可能性の方が高いと、頭では理解しているが。
﹁エリスは、これからどうするんですか?﹂
﹁どうって?﹂
﹁えっと、アルフォンスさんから、話は聞きましたか?﹂
﹁聞いたわ。でも、そんなのどうでもいいわ﹂
﹁どうでもいいって⋮⋮﹂
エリスは俺をまっすぐに見ていた。
ふと今さらになって気づいたが、格好がいつもと違った。
ミリシオンで購入してからこのかた、ついぞ着なかった、黒のワ
ンピースを着ている。
ワンピースは彼女の赤い髪によく似合っていて、まるでドレスの
ようだった。
やや薄手の服なせいか、胸のポッチが浮かび上がっているのがよ
くわかる。
うん?
ノーブラなのか。
よくみてみると、エリスの髪はしっとりと濡れているようだ。
風呂あがり特有の、石鹸臭もする。
それだけじゃない、普段のエリスからは香らない、やや甘い香り
もする。
なんだろう、どこかで嗅いだことがあるな。
香水だろうか。
1764
﹁ルーデウス。私、一人になっちゃったわ﹂
一人に。
そう。
彼女は、もう家族がいない。
血のつながった兄弟はいても、家族じゃない。
﹁それでね、私この間15歳になったのよ﹂
15歳になったと。
そう聞いて、俺は慌てた。
いつだ。
彼女の誕生日はいつだった?
俺の誕生日はもう1∼2ヶ月後だ。
てことは、1ヶ月以上前に過ぎたって事になる。
気づかなかった。
﹁えっと、すいません、全然気づいていませんでした﹂
いつだろうか。
全然、そんな素振りは見せていなかったと思う。
エリスなら、誕生日になったら騒ぐと思っていた。
何かなかったか。
エリスがそれらしい事を言っていた日は⋮⋮。
﹁ルーデウスは気づいてなかったけど、ルイジェルドに一人前って
言ってもらえた日よ﹂
﹁あ﹂
あれか、あの日か。
1765
覚えている。
道のどまんなかだ。
なるほど、だからか。
だからルイジェルドはエリスを一人前と言い出したのか。
まずいな、失敗したかもしれん。
本気で気づいてなかった⋮⋮。
﹁ええと、今から何か用意したほうがいいですかね?
欲しいものとか、ありますか?﹂
﹁そうね、欲しいものが一つあるわ﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁家族よ﹂
言われて絶句した。
それは。
俺には、ちょっと用意できない。
人を生き返らせる事はできないのだ。
﹁ルーデウス、私の家族になりなさい﹂
﹁え?﹂
ふとエリスの顔を見ると、彼女の顔は暗がりでもわかるほど真っ
赤だった。
それはあれか。
プロポーズか?
いやまさかな。
﹁それは、つまり、姉弟ということですか?﹂
﹁関係なんてなんでもいいわ﹂
1766
エリスは耳まで真っ赤にした顔で、しかし目線を逸らさない。
﹁つまり、その、い、一緒に寝ましょうってことよ﹂
どういうことだってばよ?
おちつけ、言葉の意味を考えよう。
⋮⋮寝ましょう。
なるほど。
つまり、なんだかんだ言って、エリスもショックを受けているの
だ。
その心の痛みを癒すために、俺に傍にいてもらいたいのだろう。
家族。
この場合は、家族ごっこか。
けど⋮⋮。
﹁今日は寂しい気持ちなので、エッチなことをしちゃうかもしれま
せんよ?﹂
いつかの夜と、同じことを言った。
正直、俺には自信がない。
エリスと一緒のベッドに入り、その体温を近くで感じ、我慢でき
る自信がない。
エリスだって、そのぐらいわかっているだろう。
だろうに⋮⋮。
﹁きょ、今日は、いいわよ﹂
﹁だから、前にも言ったでしょう、ちょっとぐらいじゃすまないっ
て﹂
1767
﹁覚えているわ。今日は、ぐっちゃぐっちゃにしてもいいって言っ
てるのよ﹂
そんな返事に、俺はまじまじとエリスの顔をみてしまった。
何を言ってるんだと思ってしまった。
え、だって。
そんな事言われたら、もうウチの息子はスタンディングオベーシ
ョン状態ですよ?
﹁な、なんで突然そんな事を言い出したんですか?﹂
﹁15歳になったらって、約束したじゃない?﹂
﹁あれは、僕が15歳になったらって話でしょう?﹂
﹁どっちでも構わないわ﹂
﹁構いますよ﹂
おかしい。
何かおかしい。
考えろ、何がおかしい?
そうだ。
つまり、エリスは寂しがっているのだ。
自暴自棄になっているのかもしれない。
エロゲーでもこういうシーンは何度か体験した。
誰かの死を癒すために、誰かと慰め合う。
肉体関係を結ぶ。
うん、理解できる。
けど、それに手を出す俺はなんだ。
まるで弱みにつけこんでいるみたいじゃないか。
そりゃヤリたいよ?
1768
俺のダメな子の部分は、童貞喪失だぜ!
って喜んでいる。
でも、それはもっと平常な状態でやるべきじゃないのだろうか。
こんな精神状態ではよくないと思う。
お互いに辛い状態で、なし崩し的にやってしまったら。
後で後悔するように思う。
ああ、でも、エリスがいいよって言うチャンスはもう無いかもし
れないし。
もし、エリスがピレモンの所に行くとか言い出したら、
きっと15歳の約束は反故って事になるだろう。
いや、そもそもエリスの初めてが他人に奪われるのは⋮⋮。
したい。やりたい。
けど、なんかダメな気がする。
俺は優柔不断なハーレム系物語の主人公をバカにしてきた。
いざというときに男として奮起しない腰抜けだと言ってきた。
けど、実際に自分の番になると、尻込みをしてしまう。
いい言葉も思い浮かばない。
どうすればいいんだ。
どっちを選んでも、俺は後になって後悔する気がする。
後悔しないのは、きっといまから約二年後。
俺の15歳の誕生日に、エリスが身体にリボンでも巻きつけて、
﹁誕生日プレゼントよ。思わず殴っちゃうかもしれないから手は縛
ってあるわ。好きにしてね﹂
なんて言ってベッドの上に転がっているパターンだけだろう。
1769
ああ、いやまて。
俺はこの間死にかけたばかりだ。
あの時は、死ぬ直前、スゲー後悔した。
まだやり残したことがあるって思った。
あと二年の間に似たような事が無いとも限らない。
何度も九死に一生を得られるわけではないんだ。
ここで後腐れなく捨てておいた方がいいんじゃないか?
いや、でも、しかしなぁ⋮⋮。
﹁⋮⋮もうっ!﹂
煮え切らない俺に何を思ったのか。
エリスはコホンと咳払いし、そっと、俺の膝の上に座った。
そして、横抱きになるような体勢で、俺の首に手を回す。
日に焼けた胸元と、エリスの綺麗な顔が視界いっぱいに広がる。
エリスは口を開きかけ、ふと自分の太ももに当たる感触に気づい
た。
そして、顔がさらに真っ赤になっていく。
﹁なによこれ⋮⋮﹂
﹁エリスが可愛いもので﹂
エリスはふうんと言いつつ、ふとももの裏でうちの息子の頭をぐ
りぐりと押さえつける。
その感触は柔らかく甘美。
息子は歓喜し、オヤジのほうの鼻息が荒くなる。
﹁これって興奮してるって事よね?﹂
﹁うん﹂
1770
﹁私がイヤってわけじゃないのよね?﹂
﹁うん﹂
﹁お父様とお祖父様の事を気にしてるの?﹂
﹁うん﹂
﹁ルーデウス、さっきから目線がエッチね﹂
﹁うん﹂
﹁でもダメっていうの?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
俺が最後に頷いた。
すでに視線は彼女の胸元や首筋に釘付けだった。
エリスの柔らかい太ももや、押し付けられる胸の感触、
吸い込めば胸いっぱいに広がるエリスの香り。
身体の方はすでに屈服し、尻尾を振っていた。
最後に残ったなけなしの理性を振り絞り、俺は口にだす。
﹁約束は、約束じゃないですか⋮⋮。
15歳になるまでって、言ったじゃないですか﹂
もちろん、そんなものは建前だ。
この瞬間、はっきり言ってどうでもいいとさえ思っていた。
自分がなぜ抵抗しているのかすら、曖昧だった。
そんな俺の言葉に、エリスはフッと一つ、息を吐く。
吐息が頬に当たる。
﹁ねえ、ルーデウス。お母様から習ったのだけれど、
禁止されてるし、恥ずかしいから一回しか言わないわ﹂
彼女は、そう言うと、深呼吸を一つ。
1771
俺の耳元に、そっと顔を近づけた。
そして、一言。
甘えるような声音で。
禁断の封を解いた。
﹁私、ルーデウスの子猫が欲しいニャん﹂
そいつは、俺の耳から素早く脳へと侵入した。
そして最後の抵抗を続ける理性をあっさりと食い殺した。
そいつは、巷で狂犬と呼ばれる犬にそっくりだった。
犬なのに、語尾はニャんだった。
俺は本能のみになった。
本能のみになった野獣は、エリスをベッドに押し倒した。
−−−
その晩。
俺はエリスと仲良く大人の階段を登った。
この時、俺は難しい事は全て忘れていた。
ただ、エリスと一緒になろうと思った。
口には出さなかったが、彼女が好きだと思った。
ずっと守っていこうと思った。
他の諸事情なんてどうでもいいと思った。
パウロも言ってたじゃないか。
貴族の義務なんてどうでもいいって。
1772
難しい事なんて考えなくていいんだ。
彼女を助けるため、なんでもすればいいんだ、そう思っていた。
子供は三人がいいけど、もっと作っちゃうんだろうなとかも思っ
ていた。
そう、言ってみれば⋮⋮。
浮かれていたのだった。
エリス視点
−−−
エリスが何を考えているかなんて、考えてもいなかった。
−−−
私、エリス・ボレアス・グレイラットは、その日、大人になった。
15歳の誕生日プレゼントに、ルーデウスをもらった。
約束とはちょっと違うけれど、ルーデウスと結ばれた。
私は彼を愛している。
はっきりと自覚したのはいつからだったか⋮⋮。
そう、確か最初に好きだと気づいたのは、
彼の10歳の誕生日の時。
寝ている所を母に叩き起こされて、
真っ赤な寝間着を着せられて、
真剣な顔で、﹁彼の部屋に行って、そして彼に身を委ねなさい﹂
と言われた時だ。
1773
嫌じゃなかった。
けれど、戸惑いもしていた。
そういう事は母やエドナから、何度も聞いていた。
いずれそうなるのだ、と言い含められていた。
けれど、その日はまだまだ覚悟がなかった。
もっと先のことだと思っていた。
私の戸惑いを知ってか知らずか、
ルーデウスは私の身体に触れた。
彼は父と、遅くまで話していたようだったし、
もしかすると、そういう話が通っているのかもしれない。
そう考えて、私の中である考えが浮かび上がった。
﹃彼は私が好きではないのかもしれない﹄
もしかすると、父に言われて仕方なく、私に手を出しているのか
もしれない。
ルーデウスは当時からすごい人だった。
なんでも知っているし、なんでも出来る。
なのに学ぼうとする意思を決して衰えさせること無く、
どんどん先に進んでいった。
そんな私と彼は釣り合っているのだろうか。
鼻息を荒くしたルーデウスは、私の気持ちなどどうでもいいよう
に思えた。
私は父から彼に与えられた報酬。
そう考えると、嫌になった。
私は彼を突き飛ばして、逃げ出した。
1774
部屋まで逃げようとして、今度は恐ろしくなった。
自分は今、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、
と。
もしかすると、今、私は最後のチャンスを失ったのではないか。
ルーデウス以外にもらってくれる人なんていない、と母は言った。
そのとおりだと思う。
貴族の子供たちには何度か会ったことがあるが、
ルーデウスほど気骨のあるのはいなかった。
ルーデウスは幼い頃から私の身体に興味津々だった。
すぐにスカートをめくってパンツを下ろそうとしてくるし、
事ある毎に胸を触ろうとしてくる。
その度に殴って追い払った。
学校にちょっとだけ通っていた頃、男の子にからかわれて殴った
ら、
その子は二度とナマイキな口を効かなくなった。
けど、ルーデウスは全然こたえなかった。
ルーデウスしかいない、という母の言葉の意味を強く実感した。
彼に嫌われたら、自分は一生一人だと思った。
報酬でもいいじゃないかと思った。
一緒にいられるなら。
私はルーデウスの部屋にとって返した。
私の姿を見ると、彼はカエルのように這いつくばった。
自分が悪いと謝ってくれた。
覚悟ができていないのは私の方だったのに⋮⋮。
1775
そんな彼に対し、私は上から目線で、あと五年待てと告げた。
当時は、それぐらいはいいだろうと思った。
大人なルーデウスなら、待っててくれるだろうと思った。
あの時には、私は彼の事が好きになっていた。
しかし、すぐに事態は急転した。
訳の分からない所に飛ばされて、目が覚めたら目の前にスペルド
族がいた。
罰があたったんだと思った。
今まで好き放題してきた罰があたったんだと。
お母様には、我儘ばかり言っていると、スペルド族がきて食べて
しまうと何度も言われていた。
だから私は、この悪魔に食べられるのだと思った。
せめて、あの時、ルーデウスに好きにさせて上げればよかった。
本格的なのは15歳になってからでもいいのだ。
ルーデウスの満足がいくまで、自分が我慢すればよかっただけな
のだ。
私は泣き叫んで、地面に蹲った。
助けてくれたのは、ギレーヌでもお祖父様でもなく、ルーデウス
だった。
彼は、あのスペルド族と話をつけたのだ。
自分だって不安でたまらないだろうに、
年上である私を慰め、宥めた。
1776
なんて勇気があるんだろうと思った。
また一つ好きになった。
それから、ルーデウスは頑張っていた。
青い顔をしながら魔族と渡り合っていた。
ご飯もほとんど喉を通ってなかった。
体調が悪いのを隠していた。
きっと私に心配させないため、見えない所で苦しんでいたのだ。
だから、私は我慢することにした。
叫びだしたいのをこらえて、ルーデウスに任せる事にした。
できる限り、いつもどおりに振舞おうとした。
でも、どうしても我慢出来ないことは何度もあった。
不安は止めどなく、私の奥底から湧いて出た。
辛い状況で、なんと我儘な事だったろうと思う。
ルーデウスは怒るでもなく、私の傍にいてくれた。
嫌味の一つも言わず、頭を撫でて、肩を抱いて、慰めてくれた。
そういう時、彼はエッチなことは一切しなかった。
普段はあれほどギラついているのに、そういう時だけは、私の身
体に必要以上に触れようとしなかった。
エッチなのは、彼なりの茶目っ気なのかもしれない、そう考えた。
普段通りに振る舞う事で、安心させようとしてくれているのかも
しれない。
そう考えた。
彼は自分の事だけでなく、私のことを考えてくれている。
私は強くなろうと思った。
せめてルーデウスの足手まといにならないように。
1777
私がルーデウスよりうまくできるのは、剣を振ることだけ。
戦うことだけだ。
それすらも、仲間になったルイジェルドに遠く及ばない。
剣だけならともかく、魔術を駆使したルーデウスにも勝てないだ
ろう。
ルーデウスは、そんな私に、経験をつませてくれた。
きっと、ルーデウスとルイジェルドだけだったら、
もっと簡単に魔物を倒して、もっと簡単に旅を続けたに違いない。
そう考えると泣きそうになった。
ルーデウスがそれに気づいたら、
旅の途中で嫌われたら、
置いて行かれるかもしれない。そう思った。
だから、必死に強くなった。
ルイジェルドに稽古を申し込み、何度も打ち倒された。
その度、ルイジェルドは﹁わかったか﹂と聞いてきた。
その度に、私はギレーヌの言葉を思い出した。
合理、そう、合理だ。
達人の動きには合理性がある。
自分より強い者を見たら、まずよく観察しろ、と。
ルイジェルドは強い、恐らくギレーヌよりも強い。
だから、私は見た。
ひたすらに彼の動きを見て、自分が出来ることは真似した。
ルイジェルドは、強くなろうとする私を手伝ってくれた。
夜中、ルーデウスが疲れて寝てしまった後、
嫌な顔一つせずに、稽古に付き合ってくれた事もある。
1778
特訓もした。
ルイジェルドは当然のように、私を打ちのめしてくれた。
子供が好きな彼にとって、私を打ちのめすのは辛いことだったか
もしれない。
私にとっては、ルイジェルドも師匠と呼べる存在である。
旅を開始して一年。
強くはなれたと思う。
ギレーヌに口をすっぱく合理合理といわれ、
わかった気分になっていた当時とは違う。
ルイジェルドとの稽古で、私は合理の真の意味を理解した。
今まで適当でいいと思っていた体の動きの隅々にまで意味が存在
した。
小ざかしいと思っていたフェイントや、今まで何気なくやってい
た先制攻撃の意味も理解した。
そんなある日、ルイジェルドから初めて一本をとれた。
今思えば、彼は何か他の事に気を取られていたように思う。
けど、私にとっては、そんな隙でも構わなかった。
初めて、一本とれたのだ。
これで足手まといにはならなくなった。
ルーデウスの隣で歩いていける。
そう、私は調子に乗っていた。
そんな増長を、ルーデウスは簡単に打ち砕いてくれた。
いきなり魔眼を手に入れてきて、いとも簡単に私を組み伏せた。
ルーデウスに、負けた。
1779
それも、魔術なしの真っ向勝負で。
ショックだった。
もう、何も彼に勝てるものが無い。
ずるいと思った。
あんなのは反則だと思った。
私が何年も掛けて歩んできた道を、一発で覆された。
同時に事実が突きつけられる。
私は変わらず足手まといだ。
人知れず泣いた。
翌日の早朝、海辺で剣を振りながら、泣いた。
ルイジェルドは気にするなと言ってくれた。
元々、魔眼はルーデウスと相性がいい。
お前は鍛えればより強くなれる。
才能はある、だから諦めるな、と言ってくれた。
何が才能だ。
ギレーヌもルイジェルドも嘘ばっかりだ。
そう思っていた。
この頃、ルーデウスが大きく見えた。
あまりに大きく、直視できないほどの輝きを持って見えた。
神格化というのだろうか。
完璧な人間は誰かと聞かれれば、
間違いなくルーデウスと答えただろう。
どうにか追いつきたいと思ったけど、無理だとどこかで諦めてい
た。
1780
それが変わりだしたのは、ミリス大陸に渡ってからだ。
ギースに会って、世の中には剣や魔術以外にも、
いろんな技術があることを知った。
覚えようと思ったが、断られた。
なんでだろう、とその時は思った。
納得なんてできなかった。
そして、ミリシオンでの出来事だ。
せめて、自分一人でも、なんとか出来るようにと、
最も簡単なゴブリン討伐に行ってきた。
私だって一人でやれるんだと、少しは思いたかった。
その時、私は初めて自分の才能の片鱗に気付いた。
変な暗殺者のような相手と戦い、圧倒できた。
いつの間にか、私も成長していたのだ。
そして、帰ってくると、ルーデウスが弱っていた。
なんとか事情を聞き出すと、この町にはパウロがいて、ルーデウ
スに辛く当たったらしい。
泣いてはいないものの、深く落ち込んでいるルーデウスを見て、
私は彼がまだ2歳年下の子供なのだと思いだした。
それなのに、こんなワガママな女の家庭教師になって、
10歳の誕生日を家族にも祝ってもらえなくて、
足手まといを引き連れて魔大陸を旅してきて。
そして父親に突き放されたのだ。
1781
到底許せるものではなかった。
アスラ貴族の末席に名を連ねる者として、
パウロ・グレイラットを斬ろうと心に決めた。
パウロという人物の強さは父よりよく聞いている。
なんでも剣神流・水神流・北神流の三流派を上級まで収めた、天
才剣士という話だ。
そして、あのルーデウスの父親。
でも、勝てないかもしれないとは思わなかった。
ルイジェルドに教えてもらった事は、私の中できちんと力になっ
ている。
ギレーヌに教わった剣術と、ルイジェルドに教わった戦闘術。
二つを足して打ち倒せないはずはない。
外道に負けてはいけないのだ。
しかし、ルイジェルドに止められた。
なぜと聞くと、これが親子喧嘩だからだと言う。
ルイジェルドが自分の子供のことで悔やんでいる事は聞いていた。
だから、今回はルイジェルドの言うとおりにすることにした。
今になって考えてみればルーデウスもなんだかんだ言って、パウ
ロのことを話す時は楽しそうだった。
仲の良い親子が、ちょっとした仲違いをしているだけ。
そう思えば、ストンと腑に落ちるものがある。
でも、あの頃の私には納得できなかった。
結局、ルーデウスとパウロは仲直りした。
ルイジェルドの言う通りだったのだ。
1782
もう一度言おう、納得できなかった。
どうしてルーデウスが父親を許すのかわからなかった。
そう、許したのだ。
彼は、あんな非道な父親を。
自分なら絶対に許さないであろう相手を。
ルーデウスはその事について、多くは語らなかった。
ルイジェルドも教えてはくれなかった。
彼らは大人なのだ。
それから、中央大陸に渡った。
この頃になると元気になってきたのか、ご飯をたくさん食べるよ
うになった。
そして、相変わらずルーデウスはすごかった。
シーローン王国では、1日で第三王子と仲良くなって、家族を救
出していた。
私といえば、ルイジェルドと一緒に暴れただけだ。
結果として、考えなしに暴れた事が、ルーデウスを助ける事にな
った。
彼は﹁僕は何もしていません﹂﹁助かりました﹂なんて言ってた
けど、あの調子なら一人で全て解決していたに違いない。
ルーデウスは大きかった。
大きすぎた。
その大きな彼は、
あの日、龍神と出会った日に、さらに大きくなる。
1783
龍神との対決。
私とルイジェルドが、あの恐怖の象徴みたいな奴におびえた時、
ルーデウスだけが平然としていた。
ルイジェルドが手も足も出なかった相手に、一撃入れたりもした。
あの時に出した魔術は、私の目には見えなかった。
ルーデウスは岩砲弾だと言っていたが、
今まであんな凄まじい岩砲弾は見たことがなかった。
凄いのだ。本気を出したルーデウスは。
世界最強とも言われている龍神と、ちゃんと戦えるのだ。
そう思った次の瞬間、ルーデウスは死んだ。
私はその瞬間まで、自分たちと死は無縁だと考えていた。
ルーデウスは強いし、絶対に死なない。
彼に守ってもらえる限り、私も死なない。
ルイジェルドもいるし、安全。
そう考えていた。
勘違いだった。
ルーデウスは死にかけた。
もし、あの龍神の連れの少女が気まぐれをおこしていなければ、
あるいは龍神が治癒魔術を使えなければ、
ルーデウスはいなくなっていただろう。
怖くなった。
私は足手まといで、彼の荷物になっている。
そう、改めて感じていた。
それでもなお、私はルーデウスを神格化していた。
なぜなら、彼は殺されかけてもケロっとしていたからだ。
1784
あまつさえ、またあの龍神と戦うことを想定して、訓練をつんで
いた。
死にかけた三日後に、である。
私はそれが理解できなかった。
理解できないけど、とにかく怖くて、彼の傍にいた。
傍にいなければいなくなってしまう気がした。
置いていかれてしまう気がした。
そして、ルイジェルドと別れた。
ルイジェルドは、あの龍神に勝つのは無理だと言った。
けど、最後の最後に、教えてくれた。
龍神の使った技を、思い出させてくれた。
目に焼き付いたあの光景、龍神の動き、私の斬撃を受け流した技。
その中から私は合理性を見出していた。
龍神は正体不明の怪物なんかじゃない。
人の技術を使う達人なのだ。
そして、最後に。
家に帰り着いて、何もないことを知った。
父と祖父、母の死を知った。
悲しかった。
あんなにつらい思いをして帰ってきたのに、私には何もなかった
のだ。
家も、家族もいなかった。
ギレーヌとアルフォンスはいたけど、なんだか別人のように余所
余所しかった。
もう、私にはルーデウスしかいなかった。
1785
だから私は、彼と家族になろうと思った。
焦っていた。
彼の仕事は、もう終わりかけている。
契約期間は五年で、もうとっくに過ぎている。
私を送り届けるという役目も終わった。
彼の家族はまだ全員見つかっていない。
すぐにでも、彼は旅立ってしまうだろう。
私を置いて。
そう思った。
引き止めるため、身体で迫った。
彼は最初渋っていた。
もらってくれないかな、と思った。
ルーデウスは私の下着には興味を示していたけど、
決して私の水浴びを覗いたりすることはなかった。
ミリス大陸に渡る船の中でも、その気になればいくらでも触った
り脱がせたりできたのに、しなかった。
だから、体には興味が無いのかも、と思っていた。
剣の修行ばかりしていたから、私は他の子よりも、ちょっと女ら
しさが足りないし。
いくらエッチなルーデウスでも、こんなのを実際に抱くにはイヤ
なのかな、って思っていた。
そんなことは無かった。
ルーデウスは、すごく興奮していた。
そんなルーデウスを見て、私も興奮した。
そして、初めて身体を重ねた。
1786
私は、最初こそ痛かったが、次第に気持よくなっていった。
対するルーデウスは、最初こそ気持ち良さげにしていたが、
途中からは弱くて、か細くて、折れてしまいそうになっていた。
そこで、気づいた。
また、気づいた。
ルーデウスは、私よりも小さいのだ。
もちろん、私を女にしたモノは逞しいものだったが、
背丈はもちろん、全体的に彼は小さいのだ。私よりも。
ルーデウスは、自分より年下なのだとその時、初めて理解した。
ルーデウスはこんなに幼いのに、私をずっと守ってくれた。
船に乗った時だって、ずっとヒーリングをかけ続けてくれた。
船を降りた時、彼は随分と疲れていた。
あんな気持ち悪い乗り物にのって、彼だって平気でいられたはず
はないのに。
そうだ。
ギュエス
もし、あのヒーリングがなければ、船から降りた後、ルーデウス
は獣族に遅れなんて取らなかったかもしれない。
それに比べて、私はどうだろうか。
力は強くなった。
剣術だって、それなりに上手になった。
けど、ルーデウスのことはあまり考えなかった。
彼の大きさばかりに目を取られ、小ささには目をそむけていた。
1787
最終的には、家族を失った不安を盾にルーデウスに迫り、
自分の欲望のまま、こんな仕打ちをしてしまった。
もう一度言おう。
私はルーデウスを愛している。
けれども、私はルーデウスに相応しくない。
私はルーデウスの負担にしかならない。
家族にはなったけど、それ以上の関係にはなれない。
夫婦にはなれない。
彼の言うとおり、兄妹ぐらいが丁度いいだろう。
私は彼に釣り合いがとれていない。
一緒になっても、彼の足を引っ張り続ける事になるだろう。
しばらく、ルーデウスとは距離を置いたほうがいい。
自然とそう思えた。
ルーデウスと一緒にいると、私は彼に甘えてしまうだろう。
あの甘美な感覚はまだお腹の奥に残っている。
ちょっと物足りないぐらいだ。 この浅ましさは、グレイラット家特有のものだ。
案外、ルーデウスはあまりそういう方向では強くないかもしれな
い。
がんばろうとするルーデウスを、こっちの方面でも惑わせてしま
うかもしれない。
それは、イケナイことだ。
とはいえ、私はやっぱり彼が好きだ。
1788
アルフォンスが言うように、他の男の所に嫁ぐつもりはない。
大体、いまさら貴族の子女らしく生きろというのも、無理な話だ。
大体、見知らぬ領民のために尽力しろと言われても、ピンと来な
い。
大体、なんで私がそんなことをしなければならないのか理解でき
ない。
お祖父様もお父様もお母様も、もういない。
フィットア領ももう無い。
なら、私も﹃ボレアス﹄の名を捨てよう。
けれども、サウロスお祖父様の孫として、
お父様とお母様の娘として。
鋼の意志で生きて行かなければ。
強くなろう。
改めてそう思った。
彼と別れて、もっともっと修行するのだ。
せめて、ルーデウスと肩を並べられると思えるまで。
彼に勝てなくてもいい。
でもせめて、ルーデウスと釣り合う女になるのだ。
くっついているだけだと後ろ指を指されたりしない女だ。
私には、ルーデウスのように賢く生きるのは無理だ。
だから、力を求めよう。
ギレーヌも、ルイジェルドも。ギースも言っていた。
私には、剣の才能がある。
ルーデウスと出会ってから今まで、一度たりとも自分が強いと思
えたことは無い。
1789
けど、私を成長させてくれた彼らの言葉を信じよう。
ギレーヌの勧めに従い、剣の聖地に赴く。
ルーデウス
そこで、強靭な剣士になるのだ。
わたし
剣士と魔術師。
男と女が逆。
でも、私達はそれでいい。
成長できて、強くなれて、もう一度会えたら。
その時こそ、家族の一歩上、夫婦になるのだ。
彼の子供を産んで、幸せに暮らすのだ。
うん。
そうしよう。
さて、しかし、なんと言って別れようか。
ルーデウスは口が達者だ。
なんだかんだと言って引き止められるかもしれない。
私だけでは心配だと、ついてきてくれようとするかもしれない。
自分のことは置いといて、ついてきてくれるかもしれない。
書き置きか⋮⋮。
でも、私では、書き置きでも、何かしら痕跡を残してしまうかも
しれない。
それを見て、ルーデウスが追いかけてきたら、大変だ。
彼は、私なんかにかかずらわっていてはいけない。
もっとどんどん先に行く人だ。
1790
私も足を引っ張りたくない。
こういう時、物語の剣士は黙って出ていく。
けれども、ルーデウスはそういうのは嫌いだろう。
旅の間も、何度も報告・連絡・相談と口を酸っぱくして言ってい
た。
彼に嫌われたいわけではない。
よし。
一言だけ、残していこう。
ルーデウス視点
−−−
それで、ルーデウスはきっとわかってくれる。
−−−
グッモーニン、エブリワン。
おはよう、いい朝だね童貞諸君!
童貞が許されるのは小学生までらしいけど、君たちは大丈夫かい?
おおっと、僕はダメだったよ。ハハッ、もうすぐ13歳だからね。
換算すれば中学生になってしまうよ。ハハッ!
そしてこんにちわ、非童貞の諸君!
今日から僕も君たちの仲間入りサ!
いわゆる、リア充、ってやつだね!
まさか僕もそっち側に入れるとは思っていなかったけど、
リア充初心者として暖かく迎え入れてくれたまえよ。
金持ち喧嘩せずって言うしね、仲良くしようじゃないか!
1791
女の身体よりオナ○ールの方が気持ちいいなんて噂を聞いたこと
があったけど、
ありゃ嘘だね。
なにせオナ○ールには、あれとかこれとか唇とか舌とかついてな
いからね。
身体全体で味わえるものでなければ意味がないね。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、全てを充足させるものがそこに
はあったよ。
いやなんていうのかな。
一度抱いたぐらいで彼氏面しないでよ、なんてセリフがあるよね。
言いたいことはわかるよ。
でもね。
もうなんていうか、ね。
彼女の腰の辺りに手を回して、ぎゅっと抱き寄せるだろ。
すると、彼女は俺の背中に手を回して、ぎゅっと抱き返してくれ
る。
耳元で聞こえる荒い息、顔を見ればガッチリと絡み合う視線。
口の辺りを舐めれば彼女も舌を出してきて、上の口も下の口も大
洪水。
もうね、互いが互いの物になってる感じがしてハッスルですよ。
精神的充足っていうの?
求め合い、与え合う。
そりゃあ、ヤリなれた人なら、それで勘違いするなって思っちゃ
うよね。
けど、俺みたいな初心者には無理さ。
彼氏面しちゃうもん。
そして、お互いに初心者なら、問題もないのさ。
1792
エリスだって彼女面したくなってるだろうさ。
おっととと。失礼。童貞諸君には少々刺激が強すぎる話題だった
かな。
失敬失敬。
私もね、もう少し落ち着いていようと思うんだがね。
体感時間にして47年。
渇望してやまなかったものがてにはいり、少々浮き足立っている
ようだ。
おっと、この場合は手から離れて、かな?
昔は、もし自分がそうなってもクールでいようと思っていたのだ
がね。
ハハハ、自分というものはなかなかコントロールできないものだ!
おや、もうこんな時間か。
失礼、カノジョとの朝のピロートークの予定があるのでね。
いやー、リア充というのは本当に忙しいね。
特に夜の予定が忙しいね!
今晩もビーストモードでバーニングタイムさ。
もしかすると、昼間から忙しくなってしまうかもしれない。
ほらエリス、朝だよ。
起きて、起きないとイタズラしちゃうぞう。
っと、いない。
ベッドの隣側は空だ。
彼女は起きるのが早いからな。
初めての朝はピロートークからのコーヒーブレイクと相場が決ま
っているのに。
まったく、恥ずかしがり屋さんなんだからもう。 1793
﹁よっと﹂
起き上がる。
腰のあたりが心地よいけだるさを返してくる。
このおかげで、昨晩の一件が夢ではなかったと思えてくる。
実に心地いい。
とりあえず脱ぎ散らかした服を着る。
ズボンが見つかったが、下着がない。
仕方がないのでノーパンでズボンを履き、
ベッドの脇にエリスのパンツがあったのでポケットにいれておく。
上着を羽織って、大きく伸びをする。
﹁んー、グッドだ﹂
これほどまでに清々しい朝は、そう無いだろう。
と、俺はそこで、床に散らばるものに気がついた。
赤いものが散乱していた。
﹁えっ⋮⋮﹂
髪だった。
真っ赤な毛が、床にバサリと落ちていたのだ。
﹁なんぞ⋮⋮これ⋮⋮﹂
俺はその毛を一房つかみ、臭いをかいでみる。
昨晩、たくさん嗅いだ、エリスの臭いがした。
1794
﹁ええ⋮⋮?﹂
混乱しつつ、視線を前へと送ってみる。
すると、そこには一枚の紙が置いてあった。
そのまま拾い上げ、そこに書いてある文字を読む。
﹃今の私とルーデウスでは釣り合いが取れません。旅に出ます﹄
その意味を、俺は、じっくりと噛み締める。
一秒。
二秒。
三秒。
部屋を飛び出した。
エリスの部屋を見る。
荷物が無い。
すぐに外に飛び出す。
本部に入る。
アルフォンスを見つける。
﹁あ、アルフォンスさん、エリスは!?﹂
﹁ギレーヌと共に旅立たれました﹂
﹁ど、どこに?﹂
聞くと、アルフォンスは、やや冷ややかな目で俺を見た。
そして、ゆっくりと口を開く。
1795
﹁ルーデウス様には口外するなと、申し伝わっております﹂
﹁あ⋮⋮そう、ですか﹂
あれ?
なんで⋮⋮?
わけがわからない。
あれ?
俺はなんで振られたんだ?
いや、捨てられた?
置いていかれた?
あれ?
家族⋮⋮?
あれ?
−−−
一週間ほど呆然として過ごした。
時折、アルフォンスが来て、俺に何ごとかと仕事を言いつけた。
フィットア領には何もないと思ったが、
小さな開拓村は少しずつ増えているらしい。
難民キャンプから少し移動した所では、麦の栽培を始めていた。
1796
俺はアルフォンスに言われるがまま、村の周囲に土魔術で防壁を
張り巡らせたり、
堤がなくなって氾濫しがちな川に堤防を作ったりしていた。 ゆっくりだが、復興は進んでいるのだ。
もっとも、本格的な開拓はミリシオンからの大規模移民が終わっ
てからだそうだ。
エリスは死亡した事にするらしい。
エリス・ボレアス・グレイラットはいなくなり、
ただのエリスが誕生したわけだ。
そのせいで色々と苦しい事になるそうなので、
正式に発表するのは数年後、とアルフォンスは言っていた。
ダリウスとやらに支援でも受けているのだろうか。
まあ、どうでもいいか。
エリスがいなくなっても、アルフォンスは何事もなかったような
顔をしていた。
エリスに逃げられて残念ですね、と冗談交じりに言ってみたら、
何にせよ、私はフィットア領を復興するだけです。
と、事もなげに言い返された。
本当はもっと色々と聞いて状況を知らなければいけないのかもし
れない。
だが、エリスがいない以上、わりとどうでもいい気分になってい
た。
もう、権力争いでもなんでも、勝手にやっていてくれという感じ
だ。
1797
で、俺が一週間、何を考えていたのかというと、だ。
エリスがいなくなった理由をずっと考えていた。
あの晩の自分の言動や行動を思い返していた。
しかし、思い返しても、ピンク色の場面しか思い浮かばない。
俺の記憶は全てあの瞬間に上書きされていた。
もしかすると、俺はヘタだったのだろうか。
欲望のままに襲いかかったから、幻滅されてしまったのだろうか。
いやそれはおかしい、襲ったのは俺だが、誘ったのはエリスだっ
たはずだ。
いや、言うまい。
俺は愛想をつかされたのだ。
思えば、この三年、旅の最中は失敗ばかりしてきた。
結果的にうまくいくことも多かったが、ルイジェルドに助けられ
ての事だ。
そんな相手に、あと二年も付きまとわれるのはエリスもイヤだっ
たんだろう。
だから、約束を先払いで済ませて、さようならしたのだ。
思わせぶりな態度を取っていた理由は分からないが⋮⋮。
とりあえず、そう結論付けた。
結局、俺は何も成長できていない。
愛想をつかされても仕方がないだろう。
そう諦めた時、
1798
ふと、思い至った。
﹁ああそうだ、ゼニスを探さないとな⋮⋮﹂
こうして、俺は中央大陸の北部へと旅立った。
1799
終
−
第六十三話﹁お嬢様の決意﹂︵後書き︶
第6章 少年期 帰郷編 −
次章
第7章 青少年期 入学編
1800
間話﹁出会ってしまった二人﹂
ロキシー・ミグルディアはクラスマの町にたどり着いた。
クラスマの町は魔大陸の北西の先端に位置する。
クラスマの町はリカリスの町ほどではないが、栄えた町である。
一見すると何の特徴もない、どこにでもある何もない町である。
だが、実はこの周辺一帯に君臨する魔王は海人族と懇意であり、
交易のやりとりがあった。
クラスマの町はその交易の拠点であり、海人族の物資と魔族の物
資が集まる場所である。
海人族からもたらされる海の幸と、魔大陸特有の刺激の強い香草。
クラスマの町では、この二つの合わさった非常に美味な料理を味
わう事ができる。
魔大陸の中では一、二を争う食事の美味しさを誇る町と言えよう。
ちなみに、争っているのはウェンポートである。
﹁ここの料理は酒に合うのう!﹂
この町にきてからというもの、タルハンドはご機嫌である。
クラスマの町では、魔大陸の辛い酒だけでなく、海人族の甘い酒
ドワーフ
も存在している。
炭鉱族のタルハンドは酒好きである。
楽しい酒であるなら、どれだけまずい酒でも大丈夫なようで、酒
場に行けば必ずその場にいる荒くれ者の男たちと意気投合し、浴び
るほどの酒を飲む。
酒場はどこにでもあり、気のいい男たちはどこにでもいる。
それにうまい料理が合わされば、タルハンドはごきげんになる。
1801
もっとも、いい歳をして子供舌であるロキシーには、この町の料
理は少々合わない。
元々魔大陸の料理や味付けは口に合わなかった。だから、それが
どう進化した所で、美味しいと思えるわけもない。
彼女は甘いものが好きなのだ。
しかし、海族特有の甘い酒。これはよかった。
基本的に酒は辛いものという認識のあったロキシーにとって、甘
い酒というのは衝撃であった。
匂いを嗅げばふんわりと磯の香りがして、口に含むとなんとも言
えない甘さが口いっぱいに広がる。後味に少しばかりしょっぱさが
残るが、そこでツマミを食べると食も進んだ。
﹁なんじゃなんじゃ、珍しいのう! ロキシーも飲んどるのか!﹂
﹁はい、頂いてます﹂
﹁今日はごきげんじゃな! 飲むぞ! 店主、樽を持って来い!
炭鉱族の飲み方を教えてやるわい!﹂
タルハンドは飲んでいるロキシーを見て、上機嫌で追加注文した。
こういう時、魔大陸の物価の安さはありがたいとロキシーは思う。
なにせ、どれだけ大量に飲み食いしても、アスラ銅貨が一枚もあ
れば賄えてしまうのだから。
﹁じいさん、いいのみっぷりじゃねえか!﹂
﹁イッキ! イッキ! イッキ! イッキ!﹂
﹁さすが炭鉱族だぜぇぇ!﹂
﹁っしゃあ、勝負だコラァ! 店主、俺も樽だ!﹂
1802
樽単位で飲み始めたタルハンドに触発され、他の客も飲み始める。
ちなみに、すでにエリナリーゼは意気投合した男と夜の町へと消
えていった。
ロキシーはいつもならやや疎外感を覚える所だが、
気づけば隣に座っていた少女と一緒に、騒ぐタルハンドをやんや
やんやと騒ぎ立てていた。
﹁ファーハハハ! 気持ちのいい炭鉱族じゃのう!
樽じゃぞ樽! 炭鉱族はいつの世も変わらんな!
なぁ、お前もそう思うじゃろ?﹂
﹁ええ、そうですね﹂
﹁おお、始まるぞ、ほれイッキ! イッキ! イッキ!﹂
﹁いっき、いっき!﹂
タルハンドは堂々とした態度で巨漢の魔族と樽を抱えて、ガボガ
ボと酒を飲む。
横幅の大きな体とはいえ、一体どこに入っていくのか。
一抱えもある樽を飲み干すと、ガフゥーと息を吐いた。
すぐさま、次の酒が運ばれてくる。
﹁おい酒追加おせえぞ!﹂
﹁うるせぇ! もう品切れだよ!﹂
﹁ねえなら隣の酒場から買ってこいや!﹂
﹁おおう、その手があったか!
よっしゃ、お前買ってこい!﹂
﹁まかせろや! てめえら、カンパしろカンパ!
今日はとことん飲むぞコラァ!﹂
﹁オオオォォォ!﹂
そんな調子でカンパ袋が回りだす。
1803
﹁ハハァ! お嬢様、哀れな酔っ払い目に施しを!﹂
﹁はい、今日は、わたしの、奢りです!﹂
とにかく今日は気分がよかった。
ロキシーは緑鉱銭を1枚投げ入れる。
それを見て、男はニヤついた笑みを張り付かせたまま、ヘヘェと
頭を下げる。
﹁さすがで御座いますお嬢様! よ、お金持ち!﹂
﹁ふふ、当たり前じゃあ、ないですか﹂
ふわふわと気持ちのいい気分でロキシーは大仰に頷く。
受け答えはいつも通りっぽく聞こえるが、彼女も酔っていた。
﹁ファーハハハ! 妾も今日は金を持っているのじゃ、ほれたーん
と受け取れ!
そしてどんどん騒ぐのじゃ! 今日は無礼講じゃ!﹂
となりの少女もまた、懐からくず鉄銭を取り出すと、カンパ袋に
投げ入れた。
普通なら、大口叩いてくず鉄銭かと軽口を叩かれるような所であ
るが、
カンパ袋を持っている奴もまた、酔っていた。
﹁ウエヘヘ! ありがとうごぜえますお姫様!
今日はこいつで吐くまで飲ませていただきやす!﹂
﹁よしよし、たくさん吐けよ!﹂
少女は偉そうに頷くと、カンパ男は周囲を巡り、金を集めていく。
1804
﹁ええのう、ええのう、この空気、昔を思い出すわ!﹂
少女がいつロキシーの隣に座ったのか、ロキシーにはわからない。
気づけば、少女は隣にいて、エリナリーゼが残したものをムシャ
ムシャと食べていた。
ロキシーは気にしない、酔っぱらいだから。
﹁まあ、どうぞ、一杯﹂
﹁おお、すまんのう。
いやそれにしても楽しそうな気配を感じてきてみてよかった。ぐ
びぐび。
ほれ、おぬしも飲まんか!﹂
﹁飲んでますよ﹂
﹁もっとじゃ!﹂
﹁もっとですか、仕方ありませんねぇ⋮⋮﹂
ロキシーも少女に言われ、クピクピと杯を空ける。
﹁ぷはっ﹂
﹁へいお嬢様に追加一丁!﹂
﹁あ、どうも﹂
ドンとテーブルに杯を置くと、どこからか陽気な男がやってきて、
酒を注いだ。
本当に、この甘い酒はいくらでも飲めた。
﹁お主もなかなかのうわばみのようじゃな! まだ若いのに素晴ら
しいことじゃ!﹂
﹁まだ若いなんて、あなたに言われたくはありません﹂
1805
ロキシーは少女をじろじろと見る。
膝まであるブーツ、レザーのホットパンツ、レザーのチューブト
ップ。
青白い肌に、鎖骨、寸胴、ヘソ、ふともも。
ボリュームのあるウェーブのかかった紫色の髪と、山羊のような
角。
どう見ても自分より年下だ。
﹁ふふ、世辞はよい。自分の歳はわきまえておるでな!﹂
こんな種族いただろうか、と普段のロキシーなら考えただろう。
だが、彼女は考えない。
酔っぱらいだから。
﹁わたしも自分の歳はわきまえてますよ。まあどうぞ一杯﹂
﹁おお、すまんのう。
しかし、ここ何百年かで酒も随分とうまくなった。
昔は魔大陸にこんな甘い酒などなかったものだが﹂
﹁海族のお酒らしいですよ。ここの魔王様が取引しているんだとか﹂
﹁なんと! バグラーハグラーめ、妾に隠しておったな! 許せん
!﹂
﹁いいじゃないですか、無礼講、無礼講﹂
﹁おお、そうじゃったな、今日は無礼講じゃった!﹂
魔王バグラーハグラーはこの辺一帯に君臨する魔王である。
でっぷりと太った豚顔の魔王で、食と酒に関しては魔大陸でも随
一の知識を持つと言われている。
穏健派であるが、ラプラス戦役においては急先鋒として参加。
1806
人族の領地からあらゆる食料や酒を軒並み奪い取ったことで、﹃
略奪魔王﹄の称号を得た。
﹁うぉお、潰れたぞ!﹂
﹁うぃぃぃっく、次は誰じゃい、誰でもよいぞ、なんなら二人纏め
てかかってこい﹂
﹁誰か、誰かいねえのか!﹂
タルハンドはいつしか上半身裸になり、テーブルの上にどっかり
と座り込み、樽に肘をかけて貫禄を見せつけていた。
名乗りを上げたのは、隣に座る少女だった。
﹁よっしゃ、妾にまかせい!﹂
﹁なんじゃい、お嬢ちゃん、儂に勝てるつもりか?
あと20年は経ってから出なおした方がよいのではないか?﹂
﹁ファーハハハ! 愚かな炭鉱族よ、見てわからぬか!
妾はこれでもすでに300年は生きておるのじゃ!﹂
﹁そうかいそうかい、そいつぁ悪かった。じゃあ掛かって来い!﹂
﹁おうとも⋮⋮と、その前に名前を聞いておいてやろう!
妾に挑んだ愚か者として覚えておいてやろう!﹂
﹁﹃巖しき峰のタルハンド﹄じゃ﹂
﹁そうか! 貴様を倒したのは﹃魔眼の魔帝キシリカ・キシリス﹄
じゃ!﹂
そうして、キシリカとタルハンドの戦いは始まった。
追加で購入した酒はあっという間に尽きて、二度、三度のカンパ
が募られた。
ロキシーは自分の責任とばかりに緑鉱銭を5枚ほどカンパし、丁
稚を走らせた。
1807
屈強な男どもによって大量に酒が運び込まれた。
それを全員で飲み回しながら、タルハンドとキリシカが空けてい
く。
ロキシーは審判だった。
なにをどう審判すればいいのかわからなかったが、
間に座って酒を飲みつつ、なんとなく飲んだ数をカウントする係
だった。
﹁40杯目です﹂
運命の時。
その瞬間まで、勝負は拮抗しているように思えた。
見た目通りの炭鉱族のタルハンドはともかく、
魔帝を名乗る見た目が少女のキシリカは、その体の一体どこに酒
が入っていくのか。
誰も気にしなかった。
酔っぱらいだからだ。
そして、決着がつく。
﹁むぐっ⋮⋮ケピュ⋮⋮﹂
タルハンドが、奇妙な音を立てた瞬間、口から噴水のように酒を
吐いた。
そして、その名の通り樽のようになった腹を抱え、倒れた。
テーブルの上から床までドウと音を立てて落ち、口から酒臭い液
体をゴボゴボと漏らしている。
﹁妾の勝ちじゃ!﹂
1808
﹁ウオオォォォ! すげぇ! 酒飲み勝負で炭鉱族を倒しちまった
!﹂
﹁妾の名はキシリカ、魔界大帝キシリカ・キシリスじゃ!
妾の名を言ってみろ!﹂
﹁キッシリカ! キッシリカ! キッシリカ!﹂
﹁この世で一番偉いのは誰じゃ!﹂
﹁キッシリカ! キッシリカ! キッシリカ!﹂
キシリカの勝ち名乗りと同時に、
シュプレヒコールが始まり、キシリカは大層気分を良くした。
﹁ファーハハハハハハ! ファーハハハハ!﹂
﹁いいぞーいいぞー!﹂
﹁脱げー! 脱げー!﹂
それからの事を、ロキシーはよく覚えていない。
ロキシーも飲み過ぎてフラフラだった。
仲間を打ち倒されたことで敵を討たなくてはと思いつつ、
しかしそれは叶うことなく、意識は沈んでいく。
最後に見たのは、カウンターの上に乗り、全裸で踊りまくるキシ
リカの姿だった。
−−−
翌日、ロキシーは目を覚ました。
﹁うっ⋮⋮﹂
1809
ガンガンと痛む頭、自分の吐く息の酒臭さに、顔をしかめた。
即座に酒用の解毒を使って身体の毒素を抜き、ヒーリングを頭に
施す。
周囲を見渡してみると、酒場だった。
乱闘でもあったのか、テーブルは壊れ、酒瓶は割れ、そして大量
の空樽が転がっていた。
﹁うう、飲み過ぎましたね⋮⋮﹂
記憶も曖昧だった。
飲み過ぎたという記憶はハッキリと残っている。
ドワーフ
ふと脇を見ると、上半身裸のタルハンドが白目をむいて転がって
いた。
一瞬死んでいるのかと思ったが、炭鉱族が酒を飲んで死ぬなどあ
りえない。
もしそれで死んだとしても、彼らは子供の頃には酒におぼれて死
にたいと一度は夢見るそうだし、本望だろう。
しかし、とロキシーは再度周囲を見る。
死屍累々である。
酒に強い種族も、酒に弱い種族も、みんな転がってうめき声を上
げている。
中には、あのカンパ男の姿もあった。
誰もが酔いつぶれ、二日酔いに苦しんでいた。
治癒魔術も使えないのに無茶な飲み方をするからだ、とロキシー
は思う。
そして、そんな中に二人、立っている者がいた。
1810
﹁だから、弁償だよ弁償。
さすがにこんなにめちゃくちゃにされたんじゃ、商売なんてでき
やしねえ﹂
﹁いや、あの、しかしな﹂
﹁なんだ、払えねえのか? あんた、自分の奢りだって言ってたじ
ゃないか﹂
﹁そうじゃが、最初に支払った分で足りるかと思ってな⋮⋮﹂
怒れる店主としょぼくれるキシリカの姿があった。
﹁金はねえんだな?﹂
﹁いやその、すいません、スッカラカンじゃ⋮⋮﹂
﹁じゃあ、奴隷市場に売るしかねえな﹂
﹁なんと! 妾を売るじゃと⋮⋮!
まてまて、今すぐハグラーに連絡を取るゆえ、しばしまて﹂
﹁待てねえよ。そういって逃げるつもりだろ﹂
ロキシーはため息をついて、自分の懐を探った。
そして、金貨袋を取り出して中を見て、顔をしかめた。
酔っぱらいつつ、かなりの量をカンパしてしまっていた。
︵いや、実際に飲んだのはタルハンドさんですから︶
ロキシーはそう言い訳しつつ、気絶したタルハンドの腰から、金
貨袋を外した。
中を見て、十分な量があることを確認し、ロキシーは立ち上がっ
た。
肩の辺りから酸っぱい匂いがして顔をしかめつつ、店主に近づい
た。
1811
﹁どうぞ、お代です﹂
﹁ん?﹂
ロキシーは金貨袋から緑鉱銭を6枚ほどとりだすと、店主に握ら
せた。
﹁ちと足りねえぞ﹂
﹁この店の酒を飲み尽くしてあげたんですから、売上もあるでしょ
う?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮まあ、いいか﹂
店主はそう言うと、踵を返し、厨房へと入っていった。
ロキシーはため息をつきつつ、金貨袋をタルハンドの腹の上に放
った。
﹁おお⋮⋮おおお⋮⋮すまん、すまんのう!﹂
キシリカがわなわなと震えつつ、ロキシーを見上げていた。
ロキシーはそれを見下ろしつつ、その昔村長から聞いた事のある、
魔界大帝のことを思い出していた。
少々イメージと違ったが、特徴は酷似している。
長寿の種族なら、見た目と年齢が一致していなくてもおかしくは
ない。
昨晩は酔っ払っていたので気にもとめなかったが、魔王とも懇意
なようだ。
﹁失礼、今一度お聞きしますが、
魔界大帝キシリカ・キシリス様ご本人で間違いありませんね?﹂
﹁ん? おお、そうじゃぞ。最近は信じてもらえんがな。お主の名
前は?﹂
1812
﹁申し遅れました。ビエゴヤ地方のミグルド族、ロキシーと申しま
す﹂
ロキシーが名乗ると、キシリカはおお、と頷いた。
﹁ロキシー? おー、知っておる知っておる。ルーデウスの師匠じ
ゃな!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ルディを知っているんですか?﹂
﹁ウェンポートで偶然にも出会った事があるのじゃ。
中々面白い男じゃったな!﹂
﹁そ、そうですか⋮⋮﹂
一体、彼は自分のことをなんと話したのだろうと疑問に思ったロ
キシーだったが、恐ろしくて聞けなかった。
実は、キシリカはここに来るまでの情報により、知ったかぶりを
しているだけなのだが、ロキシーにはわからない。
﹁ふむ、ルーデウスにも助けてもらったし、お主らは本当によい師
弟じゃな。
お主にも助けてもらった、どれ、褒美をやるとしよう﹂
褒美と聞いて、ロキシーは心を踊らせた。
魔界大帝から下賜される魔眼といえば有名だ。
その能力があったからこそ、魔界大帝は魔王ではなく魔帝と呼ば
れ、人魔大戦を引き起こせるほどの戦力を得たのだ。
と、そこまで考え、ロキシーはふとあることを思いついた。
﹁その、陛下の魔眼で、行方不明の者を探すことはできますか?﹂
﹁うん、できるぞ、この間は偶然にもバーディと出会えたからの、
この世で妾の見つけられぬ者はおらぬ﹂
1813
﹁そうですか⋮⋮では、ルーデウスとその家族の居場所を。彼らは
現在行方不明なのです﹂
ロキシーは、迷うことなく言った。
キシリカからもらえるであろう魔眼は惜しいと思ったが、キシリ
カのもつ上位魔眼の一つ﹃万里眼﹄であるなら、この世で見通せぬ
ものはないと聞く。
﹁ほう、たった一つの願いを他人のために使うとは、あっぱれな奴
じゃな!
世が世なら魔王の地位を与えてやってもよいぐらいじゃ﹂
﹁いえ、それはいりません﹂
﹁そうかそうか、謙虚な奴じゃ。どうれ⋮⋮﹂
ぐるりと。
キシリカの目の色が変わった。
それから彼女は、あちらこちらへと首をめぐらし、うむと頷いた。
﹁ルーデウスは現在、中央大陸の北部におる。
身軽な格好で走っておる。訓練でもしておるのかのう﹂
ロキシーはそれに、こくんと頷いた。
どうやら、彼はあの伝言の通り、中央大陸北部を探す事にしたよ
うだ。
ミリシオンからそのままベガリット大陸に行く可能性もあるかと
思ったが、やはり故郷の様子は見ておきたかったのだろう。
﹁父親はミリシオンにおるな。メイドと一緒じゃ。
⋮⋮ふむ、このメイドはリーリャというらしいの。
っと、娘二人も同じ建物で暮らしておるらしいな﹂
1814
ほう、とロキシーは息を漏らした。
リーリャとアイシャはまだ行方不明だと聞いていたが、無事見つ
かったらしい。
もしかすると、ルーデウスが魔大陸で発見し、送り届けたのかも
しれない。デッドエンドは三人だったが、パーティを組んでいなけ
れば他に二人いることなどわかるまい。
﹁母親は⋮⋮ちょいまて﹂
キシリカはむむむと顔をしかめ、目に力を込める。
そして、見た。
ゼニスの居場所を。
﹁ベガリット大陸、迷宮都市ラパンじゃな﹂
ロキシーは顔を輝かせた。
ここからは遠い位置だが、これで全員の生存が確認できた。
一人か二人は死んでいてもおかしくないと思ったが、さすがグレ
イラット家というべきか。
運が強いらしい。
﹁じゃが⋮⋮ちとおかしいのう﹂
キシリカは顔をしかめ、ぐりぐりと目を動かす。
﹁何か問題が?﹂
﹁いや、ふーむ、ちとよく見えん﹂
﹁よく見えない? 陛下の目を持ってしても、ですか?﹂
﹁妾もまだ本調子ではないからのう⋮⋮ま、行ってみればわかるじ
1815
ゃろ﹂
﹁それでは困ります。何か問題があるなら詳細を⋮⋮﹂
何事もなく言うキシリカだったが、
ロキシーはさらにつっこんで話を聞こうとする。
これまで旅をしてきた中で、難民が悲惨な目にあってきているの
は見てきた。
魔界大帝の魔眼を持ってしても見えない大変な事。
その内容によっては、今の喜びが、ぬか喜びになる可能性をある
のだ。
﹁なんじゃ⋮⋮そんな事言われても、見えんものは見えんのじゃ。
おお、そうじゃ。案外、迷宮の中におるのかもしれんぞ。
迷宮都市じゃし、妾は行ったことないけど﹂
﹁迷宮の中は見えないのですか?﹂
﹁うむ。ベガリットの迷宮は高濃度の魔力で満ちておるからのう﹂
ロキシーは考える。
ゼニスはかつて、パウロやエリナリーゼ、タルハンドと共に迷宮
探索をしていたと聞く。
エリナリーゼ、タルハンドの実力はこの旅の間で十分にわかって
いる。
彼らと旅をしていたのなら、迷宮にも潜れるだろう。
しかし、なぜ今まで連絡もせずにいたのか。
もう三年も経つというのに⋮⋮。
﹁とにかく、生きてはいるんですね?﹂
﹁うむ、それは間違いない﹂
ロキシーはその言葉を信じることにした。
1816
何らかの理由があって、迷宮に潜らなければいけない事になって
いるのだ。
そう考え、ロキシーは頭を下げた。
﹁わかりました。ありがとうございます﹂
﹁よいよい。助けてもらった礼じゃ﹂
キシリカは大仰に頷くと、ややフラフラとしながら、酒場を出て
行った。
−−−
その日の午後。
何事もなかったかのように起き上がって迎え酒を飲み始めたタル
ハンドと、
首筋に大量のキスマークをつけて帰ってきたエリナリーゼ。
二人と一緒に会議を行う。
﹁魔界大帝に出会えるなんて運がいいですわね﹂
キシリカについて話した時、エリナリーゼはそう静かに笑っただ
けだった。
ロキシーもあまり大事件とは思えない。
酒場で酔っ払っていた時に出会ったからだろうか。
それとも、あまりにも威厳がなかったからだろうか。
﹁じゃが、これで我らの旅も終わりじゃな﹂
1817
タルハンドが少々名残惜しそうに言った。
これからミリス大陸に戻るまで、急いでも一年ほど掛かる。
だが、旅の目的は達成した。
パウロの家族全員の生存を確認し、残った一人の居場所も特定し
た。
終わりだ。
﹁ロキシーはどうしますの?﹂
﹁わたしはミリシオンに戻って、パウロさんにこの事を話すつもり
です﹂
﹁そう、じゃあ途中でお別れになるわね﹂
エリナリーゼとタルハンドはパウロとは顔を合わせたくないらし
い。
別れ際の大げんかが理由だそうだが、何があったのかはついぞ話
してもらえなかった。
ロキシーもそれほど興味はないので、しつこく聞きはしなかった
が。
﹁ふうむ、しかし、ルーデウス一人だけ、遠いな﹂
タルハンドは顎に手をやり、ぽつりと言った。
それを聞いて、ロキシーもハッとなった。
これからロキシーはミリシオンに戻る。
恐らく、そのままパウロたちにくっついてベガリット大陸へと赴
くことになるだろう。
そうすると、ルーデウス一人だけが事情を知らないまま、中央大
陸北部を探すこととなる。
捜索中ということは所在地もわかっていないので、手紙も届くま
い。
1818
﹁どうにかして知らせてあげたいですわね⋮⋮﹂
エリナリーゼもそう言って悩む。
しかし、方法はない。
中央大陸北部は近いように見えて遠いのだ。
ロキシーもまた、考える。
ルーデウスは優秀だがまだ若い。
今の時期を徒労で過ごさせるのはさすがにかわいそうでもある。
家族と合流するにしても、そのまま一人立ちするにしても、
せめて一言、もう探さなくていいよ、と伝えてあげたい所だ。
−−−
﹁そこに妾がババババーン!﹂
﹁そして我輩もバンババン!﹂
唐突に。
唐突にその二人は現れた。
﹁話は聞かせてもらった!﹂
﹁盗み聞きでな!﹂
バンと扉を開けて入ってきたのは偉丈夫だった。
一目で魔族とわかる黒曜石のような肌に、六本の腕。
一番上は腕組みされ、中段は矢印を作ってビシっとロキシーを差
し、下段は腰に当てられている。
1819
腰まで伸びる長髪は紫。
そして、その肩の上でふんぞり返っているのは何を隠そう、魔界
大帝。
﹁よし! 妾はキシリカ・キシリス!
人呼んで、魔・界・大・帝!﹂
﹁そしてその婚約者、魔王バーディガーディ!﹂
唐突に現れた二人に、ポカンとした三人。
まず最初に反応したのは、エリナリーゼだった。
﹁えっと、今朝ぶりですわね、お兄さん﹂
﹁フハハハハ、最高の一晩だったぞお姉さん!﹂
グっと拳を握り、人差し指と中指の中に親指をいれ、バーディが
答える。
ロキシーが冷や汗をたらしつつ、聞く。
﹁し、知り合いなんですか?﹂
﹁ええと、一応、そうですわね⋮⋮?﹂
なんでも昨晩、男と一緒に酒場を出てから、エリナリーゼは別の
酒場に入ったそうだ。
男は下心たっぷりでエリナリーゼに飲ませまくり、エリナリーゼ
もまた下心たっぷりで飲みまくった。
ぐでんぐでんに酔っ払ったエリナリーゼはそのまま宿へと連れ込
まれ⋮⋮。
気づいたら、この真っ黒い男の腕の中で目覚めたそうだ。
そして、なんとなくそのまま突入して、午後までヤっていたそう
1820
だ。
﹁えっ? でもいま、婚約者って⋮⋮あれ? あ、挨拶が先でしょ
うか?﹂
ロキシーは目を白黒させつつ、とりあえず頭を下げた。
﹁うむ、ロキシーよ、面をあげい。
なぁに、バーディはモテるゆえ、こうした事など日常茶飯事じゃ﹂
﹁うむ、というよりキシリカにはまだ物理的に入らんから仕方がな
いのだ!﹂
そのフリーダムな発言に、ロキシーの脳の処理能力は追いつかな
い。
最近ではエリナリーゼのせいで相当な耳年増に育ちつつあるロキ
シーだが、魔界大帝の婚約者の魔王を名乗る二人が自分の仲間と不
倫、となれば、理解の範疇を超えていた。
﹁しかぁし! そんな事はよいのだ!﹂
﹁うむ、どうせ通り過ぎあっただけの関係だしな!﹂
テンションの高い二人に、正直ロキシーはついていける気がしな
かった。
魔王バーディガーディ。
知っている。
ビエゴヤ地方に君臨する魔王だ。
﹃不死身の魔王バーディガーディ﹄。
ラプラス戦役で暴れまわった﹃不死魔王アトーフェ﹄の弟。
ラプラス戦役においては穏健派に属し、キシリカ城にて魔神ラプ
1821
ラスと戦って敗れている。
現在行方不明だが、偉い人であるはずだ。
﹁ロキシーよ、妾もルーデウスには恩のある身。
ルーデウスが道に迷っているというのなら、余も力を貸そう!﹂
﹁といっても、我輩の権力を使うがゆえ、又貸しだがな!﹂
混乱するロキシーより先に、タルハンドが蘇った。
彼はたっぷりと蓄えたヒゲを撫でつつ、訝しげな視線をキシリカ
に送る。
﹁よろしいのですかな?﹂
﹁おお、そなたは昨日の炭鉱族!
よいともよいとも、なあバーディ?﹂
キシリカが頭をポンと叩くと、魔王はこくりと頷いた。
﹁うむ、我輩もキシリカが事あるごとに凄いというルーデウスとい
うクソガキのことは気になっていたのでな! 本当にすごいのかど
うかこの目で確かめてやるのだ!﹂
﹁なんじゃなんじゃ、嫉妬かダーリン?﹂
﹁おうとも嫉妬さハニー﹂
﹁まったく、バーディはまだまだ子供じゃのう。妾が愛しているの
はお主だけだというのに⋮⋮﹂
﹁ふっ、我輩は愛の上にあぐらをかかんのだ。恋敵は叩き潰すのみ﹂
叩き潰されると困るのだが、と思うロキシーだったが、この二人
は聞いてくれる気がしなかった。
﹁ふふふ﹂
1822
﹁フハハ﹂
﹁ファーハハハハ! ファーハハハ! ファーハぐげほげほ﹂
﹁フハハハハハ! フハハハハ! フハ⋮⋮大丈夫か?﹂
ロキシーの理解が追いつかないまま、話がグイグイと進んでいっ
た。
−−−
この世界の常識の一つだが、
世界中の海は海族に支配され、地上に住む人々はその通行を制限
されている。
これはラプラス戦役の戦後処理中に起きたゴタゴタが関係してい
るのだが、それはおいておこう。
魔王バグラーハグラーは海族の王と個人的な交友がある。
交友があった所で海族全体で決められた掟を破るわけにはいかな
いのだが、そこはそれ。
個人的な友人のみをこっそりと通すことは黙認されているらしい。
魔王バーディガーディと魔王バグラーハグラーは旧知の仲である。
そのツテを使えば、天大陸を経由せずとも、中央大陸へと渡るこ
とは造作もない、という事だ。
しかし、ここでロキシーを含め三人が海を渡ってしまうと、ミリ
シオンへの報告が遅れることとなる。
誰かはミリシオンへと向かわなければならない。
そして、魔大陸は一人では通過できない。
1823
安全な中央大陸ならまだしも、魔大陸は危険な魔物が多い。
例えば、ロキシーは優秀な魔術師だ。
判断も素早く、詠唱も速い。
戦闘だけならロキシー一人でも切り抜けられるかもしれない。
だが、夜は眠らなければならないし、集団で襲い掛かってくる敵
相手に、不覚を取る可能性はある。
最低でも二人は必要なのだ。
﹁私は嫌ですわ。パウロなんて顔も見たくない﹂
﹁儂もじゃ﹂
﹁わかりました。ではわたしが行きましょう﹂
二人にわがままを言われ、まずロキシーはミリシオンへと向かう
こととなった。
ロキシーとしては、ルーデウスの顔を見たかったのだが、仕方が
ない。
そして、もう一人。
二人は顔を見合わせ、すぐにタルハンドが折れた。
﹁ふむでは、儂かの。
実を言うと、船には乗りたくないしのう⋮⋮﹂
﹁悪いですわね、タルハンド﹂
肩を落とすタルハンド。
別にミリシオンまで赴いたら手紙でも出せばいいと思うロキシー
だったが、二人には二人の考えがあるので、深く考えないことにし
た。
自分には、パウロに会いたくない理由などないのだから。
1824
−−−
そうして、ロキシー一行は二手に別れることとなった。
ロキシーとタルハンドは来た道をもどり、ミリシオンへと。
そして、エリナリーゼは魔界大帝キシリカ・キシリス、魔王バー
ディガーディと共に中央大陸北部へ。
船が出るまでは少々時間があった。
だが、ロキシーは先に出立する事にした。
﹁エリナリーゼさん、今までありがとうございました﹂
﹁こちらこそですわ。ロキシー﹂
エリナリーゼと固く握手を交わすロキシー。
﹁ロキシー、いいオトコを見つけたら、逃がしてはいけませんわよ。
上の口と下の口の両方を使ってガッチリと捕まえておかないとい
けませんわ﹂
﹁またその話ですか?﹂
﹁いいからお聞きなさいな。
本当に好きな相手にはグイグイいきなさい。
愛なんてその後にゆっくりと育んでいけばいいんですから﹂
エリナリーゼの言葉に、タルハンドがため息をついた。
﹁おぬし、それ、ゼニスにも言っとったじゃろ?﹂
﹁そうですわ。それでゼニスはパウロを手に入れた。
わたくしの教えは完璧ですわ﹂
1825
そう言われ、ロキシーはなるほどと思った。
ロキシーにとって、パウロとゼニスは理想の夫婦だった。
エリナリーゼの助言でああいう風になったのであれば、聞く価値
はあるだろう。
﹁わかりましたエリナリーゼさん。グイグイいってみます﹂
手を離す。
ロキシーは背が低いため、エリナリーゼを見上げる形となる。
﹁ルディには私がよろしく言っていたと、伝えてください﹂
﹁もちろんですわ。ロキシーが夜中に切なくなってゴソゴソやって
いた事を教えてさしあげますの﹂
﹁ちょ、なんで知ってるんですか、やめてくださいそういう事をい
うのは。
別にルディを想ってやっていたわけじゃありませんし﹂
﹁はいはい﹂
そこでふとロキシーは思った。
もしかすると、ルーデウスとエリナリーゼが出会うと、そのまま
一緒の宿に泊まってしまうのではないだろうか、と。
今から北部を探せば、一年ぐらいでエリナリーゼはルーデウスを
見つけるだろう。
あれから10年近い年月が流れている。
ルーデウスはもう、13歳か14歳ぐらいのはずである。
それぐらいなら、エリナリーゼの目にとまってもおかしくはない。
それは、ちょっとだけ、嫌だった。
﹁なんですの、唐突に黙りこんで﹂
﹁いえ、その、やっぱりルディがいい男になっていたら、手を出す
1826
んですか?﹂
さり気なさを装って聞いてみると、エリナリーゼは﹁ハッ﹂と息
を吐いた。
﹁わたくし、パウロの娘になるつもりは毛頭ございませんことよ﹂
本気で嫌そうだった。
ロキシーはほっとしつつ、﹁そうですか﹂と答えた。
﹁では、そろそろ出立します﹂
﹁行ってらっしゃいロキシー。お元気で﹂
﹁はい、エリナリーゼさんも﹂
エリナリーゼはちらりとタルハンドを見る。
虫けらを見下ろすような目で、自分より背丈のちいさな炭鉱族を
見下ろした。
﹁タルハンドはどっかで野垂れ死になさいな﹂
タルハンドは心底不愉快な顔をして、ペッとつばを吐いた。
﹁その言葉、そっくりそのままお返しするわい﹂
ロキシーはそれを見て、この二人はそこそこ仲がよかったんだな、
と再認識した。
−−−
1827
そして、エリナリーゼは船に乗る。
大昔から存在する、海族の船。
海の魔獣によって牽かれる船は、人族のそれに比べるとややみす
ぼらしく見える。
だが、人族のそれよりも高速で、安全性の高いものであった。
エリナリーゼはバーディガーディと共にタラップを渡る。
すると、背後からキシリカの笑い声が響き渡った。
﹁ファーハハハハ! ではまた会おうバーディよ!
会いたくなったらすぐにでも魔大陸に戻ってくるがよい!﹂
﹁うむ、我が婚約者殿も達者でな! またいずれ会おう! フハハ
ハハ!﹂
﹁今度は何年後になるかわからんがのう! ファーハハハハ!﹂
魔界大帝キシリカ・キシリスは船には乗らなかった。
エリナリーゼはそのことに首をかしげた。
﹁あら? あのお方は乗らないんですの?﹂
﹁うむ、キシリカは魔大陸から出られんのだ!﹂
﹁そう、呪いですの?﹂
﹁似たようなものである﹂
魔界大帝キシリカは魔大陸からは出られない。
ゆえに、今日も今日とて、魔大陸を彷徨うこととなる。
ロキシーはそんな事とはつゆ知らず。
キシリカは一緒に船に乗り、ルーデウスに出会いに行ったのだろ
うと考えていた。
1828
エリナリーゼは、そんな事ならロキシーの方についててほしいと
思った。
魔大陸はあれでいて、危険が多い。
タルハンドが一緒なら万が一もないだろうが、もう一人ついてい
るだけで安全性が上がる。
それが魔界大帝ともなれば、安全は確保されたようなものだ。
が、直後にその考えを打ち消した。
あんなのにまとわりつかれたらロキシーがかわいそうだ。
−−−
ロキシー・ミグルディアの旅は続く。
1829
世界地図2︵前書き︶
備忘録的なものです。ざっくりと説明してあります。
特に興味が無いのであれば、読み飛ばしてください。
1830
世界地図2
<i71923|7712>
地図は極めてアバウトに作ってあります。
イメージの参考程度にお願いします。
−−−
﹁中央大陸﹂
赤竜山脈によって3つに分断されている。
貧しく戦争も多い北部、アスラ王国の統治する世界一豊かな西部、
いくつか大国はあるものの北方では争乱の続く南部。
人族が人口の大半を占める。
・アスラ王国
世界最大の国力を持つ国。
自然豊かで、飢える事のない肥沃の大地。土地が痩せない。
・フィットア領
アスラ王国内の東北地方。アスラン麦|︵小麦︶とバティルスの
花が名産。
・赤竜の下顎、上顎
赤竜山脈で唯一通行できる渓谷。
1831
・王竜王国
世界三位の国。
南部に広い版図を持っている。
・ウェストポート−イーストポート
中央大陸とミリス大陸を繋げる港町。
・シーローン王国
王竜王国の同盟国。紛争地帯の防波堤。
・サナキア王国
王竜王国の属国。名産は米。
・キッカ王国
王竜王国の属国。名産はアブラ菜。
・紛争地帯
小国同士がひたすらに小競り合いを続けている。
﹁魔大陸﹂
魔物が強く、貧しい。
各地に魔王が君臨している。
魔族が人口の大半を占める。
・リカリスの町
魔界大帝キシリカ・キシリスの元居城。巨大なクレーターの中に
作られている。
現在の統治者は魔王バーディガーディ。
1832
・クラスマの町
魔大陸で海人族との交流がある唯一の町。
現在の統治者は魔王バグラーハグラー。
・ウェンポート−ザントポート
ミリス大陸と魔大陸をつなげる港町。
﹁ミリス大陸﹂
北に大森林、南にミリス神聖国がある。
大森林・青竜山脈には、聖剣街道という、魔物の一切出ない一直
線の道が通っている。
人口は人族と獣族が半々。
・大森林
獣族が暮らす巨大な森。一年の内、三ヶ月ほど雨季がある。
・ミリス神聖国
世界二位の国。世界最大の宗教派閥﹃ミリス教団﹄の本部や、冒
険者ギルドの本部が存在している。
首都名はミリシオン。
﹁ベガリット大陸﹂
迷宮が多く、魔力的な意味で異常な土地が多い。
魔物の強さは魔大陸と同等。
様々な種族が住んでいる。ほとんど冒険者か元冒険者。
1833
﹁天大陸﹂
標高3000メートルぐらいに平地がある。
天族が住んでいる。
1834
第六十四話﹁泥沼の冒険者﹂
魔力災害。
通称﹃フィットア領転移事件﹄から五年が経過した。
領主サウロス・B・グレイラットは死亡。
その息子であり、城塞都市ロアの町長、フィリップ・B・グレイ
ラット及びその妻も死亡。
その報告のしばらく後。
フィリップの娘エリス・B・グレイラットも死亡したと報告され
た。
それにより、ダリウス・シルバ・ガニウス上級大臣は資金援助を
うちきった。
個人で捜索活動を続ける者はいたが、フィットア領捜索団は事実
上解散。
難民キャンプはその活動を捜索から開拓へと移行していった。
こうして、アスラ王国にとっての転移事件は終了した。
だが、当事者にとって、まだ何も終わってはいなかった。
−−−
甲龍歴422年。
ここは中央大陸北西部にある、バシェラント公国。
1835
バシェラント公国は魔法三大国と呼ばれる、北方大地でも指折り
の大国の一つである。
そんな国の第三都市ピピア。
その町に滞在しているのが、
今回密着する対象となる冒険者⋮⋮。
巷で﹃泥沼﹄と呼ばれている男である。
彼は転移事件により遠方に飛ばされた人物であり、
数年掛けてフィットア領に戻った時、絶望を味わった大勢のうち
の一人である。
彼は自分の家族を探すべく中央大陸北部︱︱通称﹃北方大地﹄へ
と移動し、
冒険者として各国を虱潰しに探している。
泥沼の朝は早い。
信仰深い彼は、日が登り切る前に起きだし、神への祈りを捧げる。
小さな箱に収められた神仏への、静かなる祈り。
ミリス教団のものではない。
それはミリス教団から見れば眉を顰めるものであろう。
しかし祈るその姿は真摯そのものだ。
朝の祈りを終えた泥沼が次に行うのは、トレーニングである。
動きやすい服装に着替え、町を一周するようにランニングをする。
冒険者である彼の屋台骨を支えるのは、体力だ。
泥沼は言う。
﹁僕は魔術師ですが、それ以前に冒険者です。
1836
いざという時に動けないと、やっていけませんよ﹂
一時間ほどのランニングの後、
彼は故郷に伝わる独特のトレーニングをする。
バシェラント公国では類を見ないものだ。
身体をうつ伏せに倒し、腕を使い、身体を持ち上げる。
彼はその動作を100回以上は繰り返す。
その後、仰向けになり、上体を起こす動作を、さらに100回。
彼は、これを毎日かかさず続けているという。
﹁筋肉は嫉妬しますからね。毎日かまってやらなければ、そっぽを
向かれてしまいます。女と一緒ですよ⋮⋮。でも、女と違って、突
然いなくなるような事はありません。筋肉は裏切らないんです﹂
泥沼はそう言って、寂しそうに笑った。
朝の運動を終えた頃、町が動き出す。
泥沼が向かうのは、宿の一階にある食堂。
朝食を取るのだ。
冒険者の平均食事量は、一般人の2倍とも3倍とも言われている。
もっとも、北方大地の食費は高く、中には食事を少量に抑える者
もいる。
だが、泥沼は違う。
彼は食べる。
大きく盛られた米と豆の料理を、通常の冒険者の約1.2倍は食
べる。
朝をしっかり食べる事が、彼の力の源なのだ。
1837
朝食を取った彼が向かうのは、冒険者ギルド。
街中の荒くれ者の集うスポットだ。
泥沼が中に入れば、その視線は彼に集まる。
泥沼は固定のパーティを持たない。
状況に応じて臨時でパーティを組み、大きめの依頼を受けるのが
彼のスタイルだ。
優秀な魔術師である泥沼の需要は大きい。
今日もまた、Sランク冒険者パーティのリーダーが、彼に声をか
けた。
﹁よう﹃泥沼﹄聞いたか?
北の方ではぐれの赤竜が出たらしいぜ!﹂
Sランク冒険者、ゾルダート・ヘッケラー。
北方大地の人間特有の彫りの深い顔立ちをした彼は、剣神流の上
級と水神流の中級を修める剣士である。
この辺りでは有名な冒険者の一人だ。
そんな彼が率いる冒険者パーティは﹃ステップトリーダー﹄。
バシェラント公国全土で活躍するクラン﹃サンダーボルト﹄の傘
下にあるパーティの一つ。
討伐依頼を主に受ける、武闘派パーティだ。
﹃ステップトリーダー﹄のパーティ構成は六人。
剣士2人。
戦士1人。
治癒魔術師が2人。
攻撃魔術師が1人。
かつては7人パーティであったが、
魔術師の一人が不慮の事故で死亡してからというもの、火力に欠
1838
けていた。
﹁なあ、﹃泥沼﹄。そろそろウチのパーティに入れよ。
お前だって、居心地が悪いとは思ってないんだろ?﹂
ゾルダートは毎日のように泥沼を勧誘している。
だが、泥沼が首を縦に振ることは、無い。
﹁いえ、有名になってしばらくしたら、また次の国に行きますので﹂
泥沼には目的があった。
家族、母親の捜索である。
しかし、泥沼は知っている。
転移事件から五年。
すでにそう簡単に発見できるわけがないと。
ゆえに、泥沼は己の名前を広めている。
そうしながら、一つの国を慎重に探している。
国の端々まで、見落としがないように、細かくだ。
そこには、有名になれば、家族の方が自分を見つけてくれるかも
しれないという、思惑があった。
﹁あ、でも、はぐれ竜退治には行きますよ﹂
泥沼は仕事の依頼を受けた。
竜退治に成功すれば、名声は跳ね上がる。
彼らはすぐさまカウンターに赴き、パーティ登録をした。
﹁でもまさか、僕らだけじゃないですよね?
他のパーティはどこが参加するんですか?﹂
1839
﹁これから募るが⋮⋮久しぶりの大仕事だ。皆やる気満々だろうぜ﹂
竜退治は複数のパーティによって行われる。
たった一つのパーティで行うのは⋮⋮自殺行為だ。
今回、赤竜退治には、5つのパーティが参加を表明した。
Sランクパーティ﹃ステップトリーダー﹄
Aランクパーティ﹃ロッドナイツ﹄
Aランクパーティ﹃鉄塊兵団﹄
Aランクパーティ﹃ケイブ・ア・モンド﹄
Aランクパーティ﹃泥酔者の戯言﹄
総勢25名。
竜退治は万全を期すなら、7以上のパーティで行われる。
この数は、やや少ない。
﹁おいおい、赤竜だぜ?
一攫千金だってのに、なんでこんな少ないんだ!?
みんなAランクじゃねえか! Sランクはどこいったんだよ!﹂
﹁この間、東の方に迷宮が発見されたって話だぞ。
みんなそっちを見に行ってるんじゃねえのか?﹂
焦るゾルダート。
そんな中、一人の男がため息混じりに声をあげた。
﹁⋮⋮俺たちは抜けさせてもらうぜ、これじゃさすがに無理だ﹂
﹃ケイブ・ア・モンド﹄が抜け、21名になった。
さすがに解散かと思われた。
1840
この人数では厳しい。
誰もがそう思った。
が、ゾルダートが鶴の一声を上げた。
﹁よし、21人でなら、報酬はたんまり入るな!﹂
誰もが不安に思った。
だが、リーダーの声に逆らう者はいなかった。
−−−
彼ら21人は北方大地の痩せた土地を歩く。
うっすらと雪の積もる道。
木々は葉を落とし、枝々には白い化粧が施されている。
もうすぐ、長い冬が来るのだ。
﹁泥沼、偵察を頼む﹂
泥沼はゾルダートの言葉に従い、魔術により、柱を生み出した。
その上に乗り、遠目に周囲を見回すのだ。
泥沼はその目を持って、周囲の状況を伝える。
赤竜は大きい。
定期的に偵察すれば、見落とすことはない。
おや?
泥沼が何かを見つけたようだ。
1841
﹁二時方向に、ラスターグリズリー。群れでいます。すごい雪ぼこ
りです!﹂
﹁何匹だ!﹂
﹁8⋮⋮いや、10匹はいますね! こっちに気づいてますよ! まっすぐ近づいてきます! 速い!﹂
ターゲットではなかった。
少人数で赤竜を目標とする彼らに、余計な魔物と戦う余力はない。
だが、振りかかる火の粉は、払わねばならない。
﹁散開しろ! 泥沼、降りてこい、援護頼む!﹂
﹁了解!﹂
ゾルダートの号令で、4つのパーティが散開した。
群れで突っ込んでくる熊の魔物を、囲うように待ち伏せるのだ。
﹁泥沼!﹂
﹁ほい﹂
ゾルダートの号令で、泥沼が動いた。
彼はその異名を持つ通り、泥の沼を発生させる術を得意としてい
た。
十数匹に及ぶラスターグリズリーの群れ。
彼らは唐突に目の前に出現した粘着性の高い泥に足を取られ、そ
の動きを鈍らせた。
﹁いまだ!﹂
同時に襲いかかる冒険者たち。
高ランクに属する彼らの攻撃は鋭く、次々と魔物を屠っていく。
1842
そこに容赦はない。
確実にトドメを刺さなければ、次は自分が死ぬ。
そんな常識を、彼らは持っていた。
ラスターグリズリーはあっという間に駆逐される。
だが、あと数匹という所で、誰かが気づいた。
﹁おい、赤竜だ! 来てるぞ!﹂
﹁グリズリーはこいつから逃げて、うおお!﹂
赤竜だ。
群れからはぐれ、地に落ちた中央大陸最強の生物。
彼の獲物は、ラスターグリズリーの群れだった。
﹁泥沼! どういうことだ!﹂
﹁雪ぼこりで見えなかったんですよ!﹂
赤竜に対し、冒険者は為す術もなく蹂躙された。
彼らは元々、遠方から見つけ、奇襲を掛けるつもりだったのだ。
それが準備もなく、逆に奇襲を掛けられた。
勝ち目はない。
﹁ちっくしょ、撤退だ撤退!﹂
赤竜は空を飛ぶ生物だ。
だが、その四肢は強靭で、見た目以上に軽快に動く。
ドラゴンとは地に落ちてなお、強力な生物なのだ。
混乱する現場。
泥沼が動く。
1843
﹁煙幕を掛けます! バラバラに逃げてください!﹂
泥沼は冷静だった。
手慣れた手つきで火魔術を使い、周囲の雪を溶かし、水蒸気の壁
を作り上げる。
自然を使った即席の煙幕。
熟練の魔術師は、こうして敵の目を欺くのだ。
しかし、はぐれ竜は賢く、めざとい。
泥沼が狙われた。
﹁⋮⋮くっ!﹂
泥沼は逃げる。
仲間たちとは逆の方向へと。
狙われたのなら、逃がすのが、彼の役目だった。
すばしこい泥沼。
毎朝のトレーニングが、生きていた。
動き続け、逃げ続けることが生きる秘訣だと、彼は知っている。
業を煮やした赤竜の口内に火が点った。
吐き出される火炎。
一瞬にして、周囲が火に染まった。
赤竜の必殺技。
ファイアブレスだ。
まともに食らえば、あらゆる生物が焼失する。
泥沼は死んでしまったのか。
いや。生きていた。
1844
泥沼は素早く振り返り、巨大な水の壁を作り出していたのだ。
もうもうと立ち上る水蒸気を切り裂いて泥沼が動く。
炎の残り火がローブの端を焦がす。
それを気に留めず、彼は岩の砲弾を作り出す。
高速で打ち出された弾丸は、赤竜の鱗を穿った。
﹁ギャアァァァァ!﹂
次々と放たれる弾丸。
赤竜はいくつかを回避する。
だが、高速で打ち込まれる弾丸を全てを回避することはできない。
赤竜はすぐさま身を翻し、逃走にかかった。
赤竜は賢い生き物だ。
ちっぽけな泥沼が高い攻撃力を秘めていると、即座に理解したの
だ。
泥沼は追わない。
格好の獲物を逃がすのか?
そう思われた、その時。
﹁グギャァァァアア!﹂
赤竜の咆哮が響き渡った。
かけ出した先に、泥の沼があった。
粘着質の高い泥に赤竜は沈み込んだのだ。
泥沼はさらに魔力を送る。
暴れ回り、泥から逃げようとする赤竜。
1845
その周囲の泥が、さらに強い粘着性を帯びる。
﹁おぉ、掛かった⋮⋮﹂
泥沼は小さく、意外そうに呟き、藻掻く赤竜に、巨大な岩の塊を
叩きつけた。
−−−
散り散りになった冒険者達が戻ってくる。
﹁いやぁ、泥沼、お前本当に強いよな⋮⋮﹂
﹁伊達に魔大陸を旅してきてねえな﹂
﹁強い強いとは思ってたけど、倒したのかよ﹂
仲間たちは口々に泥沼を褒め称えた。
泥沼は謙遜する。
彼は驕り高ぶらない。
驕りが軋轢を生むことを、知っているからだ。
﹁相手も死にかけでしたからね。
いや、それでもまさか僕も一人で倒せるとは思いませんでしたよ。
そんなことより、竜の死骸を運びましょう。持てるだけ﹂
気前よく、己の手柄を山分けする。
そうすることで、彼の名声は国中に響き渡るのだ。
﹁いいのかよ?﹂
1846
﹁どうせ一人じゃ持てませんし、置いといても魔物に食われるだけ
です。
持てるだけ持ったら、あとは全部焼きますから。ドラゴンゾンビ
になったら大変ですしね﹂
こうして、泥沼の一日は終わる。
実際には赤竜の居場所まで往復で7日ほど掛かっているが、一日
が終わる。
今日の収穫は、赤竜の素材。
一財産はできる素材を売り、泥沼は懐を暖かくして寝床へと戻っ
てくる。
朝食に比べ、やや控えめな食事を酒場で取り、自室へと戻る。
信心深い彼は一日を終わりに、無事過ごした事を神に感謝する。
一日の終わりを意味するその儀式は、知らぬものが見れば奇異に
映るだろう。
しかし、彼にとって、これは大切な事なのだ。
こうして泥沼の一日は終わり、また翌日から家族を探す生活が始
まるのだ⋮⋮。
−−− ルーデウス視点 −−−
それは、夜の出来事だ。
1847
俺は酒場でいつものように飯を食っていた。
もちろんお一人様だ。
飯は一人に限る。
孤独で豊かって奴だ。
別に寂しくなんかねえよ。
俺は群れるのが嫌いだからな。
﹃その時である! 赤竜が現れたのだ!﹄
酒場のお立ち台では、三人の吟遊詩人が楽器を持ち寄って演奏を
していた。
一人が前に立って玲瓏とした声で物語を紡ぎ、
他の二人がそれに合わせてバックミュージックを演奏したり、ジ
ャランとSEを入れたりしている。
吟遊詩人。
それは酒場のお立ち台なんかで歌ったり、弾き語りをしておひね
りをもらう職業だ。
大きな町だと、劇場なんかと専属契約を結ぶ事もあるらしい。
だが、それだけじゃない。
冒険者にも﹁吟遊詩人﹂という職業の者は結構いる。
他の冒険者と共に旅をしたことを詩にしてみたり、
面白い冒険をした者から話をきいて冒険譚にしてみたり。
冒険者と吟遊詩人の相性はいい。
また、著作権のないこの世界。
他人の詩を自分なりにアレンジする、なんてことも日常的に行わ
れている。
互いの持ち歌を持ち寄り、アイデアを出しあって進化させる、な
1848
んてこともあるのだ。
中には、違う楽器の弾き手が数人でパーティを組み、
バンドを形成して世界を旅して回っている奴らもいる。
もちろん、そんな奴らでも、多少なりとも魔物と戦える技能を持
っている。
歌って踊れて戦える冒険者。
それがこの世界の吟遊詩人だ。
今お立ち台にいる三人も冒険者ギルドでたまに見かけることがあ
る。
確かC級のパーティだったはずだ。
パーティ名は﹃ビッグボイス楽団﹄。
ビッグになろうという意志が見える素晴らしい名前である。
とはいえ、才能の方はイマイチらしく、自作の歌は人気が無い。
人気はなくとも創作活動は続けていくようで、
俺も先日に受けた討伐依頼について、あれこれとインタビューを
受けた。
今彼らが歌っているのは、俺から話をきいた話をまとめた冒険譚
だ。
歌ってみましたって奴だな。
違うか。
まあいい。
俺は生前から音楽がからっきしだった。
その昔、某カロイドで歌を作ろうとしてみた事があったが、一瞬
で挫折した。
それ以来、俺に出来る楽器はケツドラムぐらいだと言い続けてい
1849
る。
出来るといっても叩かれる方だがね。
俺から聞いた話だけで物語を作り、弾き語る。
彼らに才能はなくとも、その創作性は認めるべきだろう。
彼らの歌は、村に一人はいる語り部の爺さんのような口調で奏で
られる。
俺の感覚だと、ドキュメンタリー番組風だ。
なので、俺としては聞いていて面白い。
だが、淡々とした語り口調は、歌としてはやはり不評なようだ。
つまんねーから曲目を変えろと、すでにヤジが飛んでいる。
歌の主人公本人がいるってのに、酷い事だな、おい。
などと思っていた時だ。
バン!
と、突如として酒場の扉が開かれた。
吹き込んでくる冷たい空気。
集まる視線。
ぶるりと身震い。
﹁ようやく見つけましたわ、﹃泥沼﹄のルーデウス!﹂
フランスパンみたいな髪型をした長耳族が立っていた。
冒険者風の格好なのだが、どこかドレスっぽい服装。
1850
背にはバックパック、腰には剣と盾が吊り下げられている。
顔は一言で言うなれば、美人だ。
切れ長の目に、長い耳、輝く金髪。
そしてスレンダーな身体に平たい胸、長い耳。
まさにエルフって感じだ。
彼女が指差す先には、俺がいた。
視線が俺に集まる。
﹁げっ⋮⋮﹃泥沼﹄いるじゃねえか⋮⋮﹂
先ほどヤジを飛ばしていた男が、苦々しい顔をしていた。
が、無視。
俺は寛大だからな。
俺はエルフの方へと振り返る。
﹁とうとう見つかってしまいましたか⋮⋮﹂
適当にそう返事をしつつ。
しかし、彼女にはちょっと見覚えが無い。
俺はここ数年で、誰かに恨まれるような事はしていない。
名前が売れるようには動いた。
﹃泥沼﹄のルーデウスと、名前も売れてきた。
人助けをして、喧嘩を避け、悪名にはならないように気をつけて
きた。
こんな美人に話しかけられたのは初めてだが、
見知らぬ相手にお礼を言われる事は多々あった。
彼女もきっと、その類⋮⋮。
ではないだろうな、と直感的に思った。
1851
﹁聞いていた通り、目立つからすぐ見つかりましたわ﹂
﹁今さっき、﹃ようやく﹄って言ってませんでしたか?﹂
﹁もっと東にいると思っていたんですの﹂
女はそう言いつつ、綺麗な目でじっと俺を見てきた。
なぜかその口元から涎が垂れた。
彼女はそれをペロリとなめとる。
なんだ、一目惚れでもされたのか?
それとも、最近けっこうたくましくなってきた肉体に垂涎かな?
ふふ、最近はすこし鍛えているからね。
成長期でもあるし。肉がついてきたのだよ。肉が。
﹁どうしました?﹂
﹁いえいえ、なんでもありませんわ!﹂
エルフの女はコホンと咳払いしつつ、俺の隣に座った。
酒場が﹁おお!﹂とざわめいた。
端々から﹁泥沼に女がいたなんて﹂なんて声も聞こえる。
そいつは驚きだ。
まさか俺に女なんて大それたものがいたとは。
﹁ふぅ﹂
彼女はバックパックを降ろして足元に置き、
椅子をガタリと近づけてきた。
近い。
なんか距離が近い。
もし俺がDTだったら、﹁こいつ俺の事好きなんじゃ﹂って勘違
いする所だ。
1852
﹁わたくしの名前はエリナリーゼ。
エリナリーゼ・ドラゴンロード。
あなたの父、パウロの元パーティメンバーで⋮⋮﹂
﹁はぁ﹂
なるほど。
パウロの友人か。
なら、俺を探していたというのも頷ける。
何かメッセージでも運んできたのだろう。
﹁そして、ロキシーの友人ですわ﹂
﹁えっ! 先生のですか! 先生は今どこに?﹂
久しぶりに他人の口から聞いたロキシーの名前。
それに興奮し、俺は身を乗り出した。
エリナリーゼはその問いには答えなかった。
一番聞きたい事は教えてくれなかった。
そのまま身を乗り出した俺にキスでもするように、耳元に口を近
づける。
﹁聞きましたわよ、はぐれ竜をほぼ単独で撃破したそうではないで
すの﹂
﹁え⋮⋮ええ、まあ、相手も死にかけてましたがね﹂
﹁ロキシーが自慢するのもわかりますわね﹂
余裕というわけでもなかった。
だが、龍神オルステッドと相対した時に比べればプレッシャーは
少なかった。
人間﹁アレに比べれば﹂と思えるような何かがあれば、不思議と
1853
落ち着けるものらしい。
﹁先生に自慢されてるって聞くと、なんだかくすぐったいですね
⋮⋮なに触ってるんですか?﹂
﹁胸板ですわ。たくましいですわね﹂
見ると、エリナリーゼが俺の二の腕や胸元のあたりをまさぐって
いた。
くすぐったいわけだ。
そして俺もたくましいと言われ、悪い気はしない。
﹁あら?﹂
と、エリナリーゼの指があるものに触れた。
リーリャからもらったペンダントだ。
﹁あらあら、不恰好で可愛らしいですわね。どなたに頂いたの?﹂
﹁うちのメイドですよ﹂
﹁メイド? 長耳族の方ですの?﹂
﹁え? いえ、違いますけど⋮⋮なんでそんな事聞くんですの?﹂
おっとしまった、うつった。
﹁いえ、大したことではないのですけれど﹂
エリナリーゼは特に気にするでもなく、
自分の腰につけている剣。
その鞘に付いているものを見せてくる。
同じ形をしたペンダントだ。
しかし、俺のものよりも精巧に作られている。
1854
俺のを素人の作品だとすると、これはプロの作品だ。
﹁お揃い、ですわね﹂
エリナリーゼはそう言いつつ、俺にしなだれかかって来た。
なんなんだろう。
さっきから随分と接触が多いんだが。
﹁さっきからなんなんですか? もしかして僕の事が好きなんです
か?﹂
﹁ええ、いい男ですわね。予想以上に。びっくりしましたわ。
もっと子供だと思っていたんですけれど⋮⋮逞しくって、ス・テ・
キ⋮⋮﹂
からかわれているのだろうか。
ちょっとドキドキ。
﹁えっと⋮⋮ふふ、お姉さんもなかなか美しいですよ﹂
フフン。
だが、俺はからかわれて慌てるようなDTではないのだ。
そう思い、顎に指を這わせて持ち上げる。
﹁ん⋮⋮﹂
すると、エリナリーゼはそっと目を閉じた。
まるでキスでも待つような仕草だった。
なんの冗談だと思ったら、彼女の手が俺の頭の後ろへと回された。
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
1855
マジで?
なんか雰囲気出てるんだけど、え? いいの?
ズキュゥゥゥンってやっちゃっていいの?
と、思った瞬間、エリナリーゼの目がパチリと開いた。
﹁おっと、いけない。わたくしったら﹂
﹁あんまりからかわないでくださいよ﹂
﹁わたくし、男をからかったりなんかはしませんわ。でも、パウロ
の娘になるつもりはありませんし、ロキシーの友達でもあり続けた
いんですの﹂
⋮⋮どういうこっちゃ。
パウロは昔この人らと喧嘩別れしたらしいし、その息子とは付き
合えないという事だろうか。
まあ、どうでもいいか。
﹁で、エリナリーゼさんは僕になにか御用ですか?﹂
﹁ええ。貴方に朗報を届けに参りましたわ﹂
エリナリーゼはニコリと笑った。
その日。
俺はゼニスが見つかったことを知った。
1856
第六十五話﹁推薦状﹂
ゼニスが見つかったと聞いて、一週間が過ぎた。
俺は未だ、バシェラント公国の宿にとどまっている。
すぐにでもベガリット大陸に向かって旅立ちたい所であるが、
あいにくともうすぐ冬が来る。
そのため、しばらくこの国に滞在することにした。
中央大陸北部﹃北方大地﹄の冬は過酷だ。
大量の雪が振り続け、積雪は5メートルを超える。
国内なら街道もあり、国がある程度整備するため移動する事はで
きるが、国外となると難しくなる。
魔術で吹雪をやませ、雪を溶かして進む事もできる。
だが魔術を使った所で道が全てわかるわけではないし、野宿せず
に隣国までたどり着けるわけでもない。
遭難するのがオチだろう。
まあ、ゼニスは生きていて、迷宮探索をしているという話だ。
少々問題もあるらしいが、パウロやロキシーも向かったという。
あなたが急ぐ必要はありませんわ、とエリナリーゼも言っていた。
危険をおかさず、冬が終わってからゆっくり移動すればいい。
そう考え、俺は今日もまた日課のトレーニングを続けている。
朝起きてトレーニング。
生前は身体を鍛える事は長続きしなかったが、
1857
なぜか今の身体はよく動いてくれる。
やはり身体がかわると性質も変わるのだろうか。
今日は冒険者ギルドに赴かない日である。
一週間に一度の休日だ。
昼ごろまでトレーニングをしたら、市場でも見てくるとしよう。
冬が来るなら、防寒具も新調しておきたいしな。
などと考えつつ、鍛錬を始める。
今日は休日なので、ややハードなものだ。
杖を持ってのランニング、
町の外壁までたどり着いたら、魔術でアシストしつつ、そこを登
坂。
﹁うおおぉ!? って泥沼か、せいが出るな! 今日は休みか?﹂
﹁ええ、今日も訓練です﹂
﹁お前は働き者だもんな。あ、そうだ、こんどウチの壁をなおして
くれよ。飯おごるぜ﹂
﹁娘さんのおっぱいを揉む権利をくれれば家ごと立て直しますよ﹂
﹁お前⋮⋮﹂
﹁冗談ですよ﹂
外壁の上にいる兵士に挨拶をして、町の外側へと飛び降りる。
そしてぐるりと町を一周するようにランニング。
定期的に雪かきされている町中と違い、外は雪が積もっている。
火魔術で雪を溶かしつつ、自分だけの道をつくり、走る。
一周した後、持ってきた木刀を使って素振りを行う。
ギレーヌやパウロに教わった型を終えたら、
1858
次は仮想敵を思い浮かべつつシャドー。
今日の相手はルイジェルドにしておいた。
手も足も出ない。
もっと鍛えないと無理だな。
その後、同じルートで帰宅。
宿まで戻ってくると、二階の窓からエリナリーゼが顔を出してい
た。
﹁あっ⋮⋮あら、ルーデ、あっ、ウス、おかえりなさい﹂
俺の顔を見ると話しかけてきたが、どうにも様子がおかしい。
窓縁に手をかけて、顔を歪めつつ、タイミングよく頭が揺れてい
る。
声を抑えるように﹁んっ、んっ﹂とうめき声を上げている。
肩が素肌だ。
うん。バレバレだ。
﹁ただいまエリナリーゼさん。今日も朝からお盛んですね﹂
﹁え? お盛ん? な、なんのことかしら、わかりませ⋮⋮ああん
!﹂
きっと、あの窓の奥では男がいて、エリナリーゼを後ろからナニ
をアレしているのだろう。
外はこんなに寒いというのに、わざわざ窓を開けて高尚なプレイ
をしていらっしゃるのだ。
お盛んな事だ。
1859
俺は彼女から視線をはずし、宿の中へと入り、自室へと戻る。
エリナリーゼが大変なビッチであることは、この一週間でわかっ
ていた。
存在自体が性犯罪のような女である。
俺もその犯罪に巻き込まれたいと思う所だが⋮⋮。
実はここ二年ほど、俺はある病気を患っている。
心と身体の病だ。
詳しく言うのは難しい。
そうだな、球根を例に話をしてみよう。
その球根は山を見たり谷を見たりすれば、その芽を出す。
そして天に向ってムクムクと成長し、
雨風では倒せない立派な茎を持ちつつ、先には立派な花が咲く。
しかし、俺の球根は成長せず、花も咲かない。
⋮⋮要するに、EDだ。
カセットテープじゃないぞ。
そう。
俺はエリスとの別れを体験したことで、立たなくなった。
もちろん、治そうと努力はした。
見知らぬ土地において、色街というものに赴いた。
生前でも一度も赴かなかった場所である。
しかし、結果は惨敗。
我がチューリップは芽吹くこと無く、静かに茎を横たえたままだ
った。
1860
その後、冒険者として名前が売れてくると、
それなりにモテて、女冒険者に言い寄られることもあった。
俺は鼻の下を伸ばしつつも宿に彼女を連れ込んだ。
あるいは、プロが相手ではダメだったのかもしれないと考えた。
身構えちゃうからな。
だが、やはり役立たずは役立たずのままで、しまいには相手は怒
って帰ってしまった。
俺は諦めた。
女の裸を見れば興奮はする。
だが、脊髄を貫いて返ってくる反応はなく、下半身が沈黙。
その後に襲い掛かってくる無力感と寂寥感。
心が折れた。
俺も、もう誰かとどうにかなろうなんて思っちゃいない。
好きな相手はいない。
裏切られるぐらいなら、最初から見て触って愛でるだけでいい。
それ以上の事は望まなくていい。
昔からそうだったじゃないか。
一度はできたんだ、これ以上なにを望む事がある。
前に進まなくていいのさ。
俺はソロプレイを極めればいい。
仲間なんていらねえ。
俺は群れるのが嫌いだ。
いや、最近はそのソロプレイですら⋮⋮。
1861
な、泣いてなんかいねえよ!
﹁はぁ⋮⋮﹂
俺は自室に戻った。
魔術で室内を温めた後、熱湯を作り出し、汗だくの身体を拭いた。
そして着替えてから、飯でも食おうと部屋を出る。
﹁あっ﹂
﹁あっ﹂
すると丁度、事を終えて出てきたエリナリーゼたちと鉢合わせに
なった。
エリナリーゼの肩を抱いて出てきたのは、ここ最近一緒に依頼を
受ける事の多いゾルダートだった。
彼は俺の顔をみるなり、みるみる顔を青ざめさせた。
﹁いや、違うんだ泥沼⋮⋮お前の女に手を出すつもりはなかったん
だ﹂
﹁いや、違うんですゾルダート、エリナリーゼさんは決して俺の女
じゃありません。
大体、あんた僕が勃たないって知ってるじゃないですか﹂
﹁あ、ああ、そうだったな、す、すまん。心の傷をえぐるような事
言っちまった⋮⋮。
お前と喧嘩するつもりはないんだ、この間も、ほら、稼がせても
らったしな﹂
﹁いいんですよ⋮⋮ところで、よかったですか?﹂
﹁ああ、最高だったよ﹂
ゾルダートはそう言うと、顔をとろけさせた。
1862
﹁チッ﹂
自分で聞いといてなんだが、舌打ちが出た。
﹁ですって、エリナリーゼさん。よかったですね﹂
﹁ええ、当然ですわ。わたくしとした男はみんな幸せになりますの
よ﹂
﹁⋮⋮あ、そうすか﹂
俺は知っている。
ゾルダートのパーティメンバーの男、他数名はすでにエリナリー
ゼにくわれてしまっている。
それぞれがそれぞれ、俺に対して謝罪と惚気話のようなものをし
てきた。
別に謝罪はいらない。
だが、他のメンツは知っているのだろうか。
そのうちバレて修羅場になったりするんじゃなかろうか。
ま、知ったことではないか。
俺は参加してないしな。
ヘタに口出しして、巻き込まれでもするのはめんどくさい。
俺はこの二年間、そういう厄介事には巻き込まれないように立ち
回ってきたのだ。
誰からも恨まれるような事はせず、誰とも喧嘩せずやってきたの
だ。
つまりここで言うべきことは、彼女に対して苦言を呈することで
はない。
﹁エリナリーゼさん﹂
1863
﹁なんですの?﹂
﹁好き勝手食い散らかすのはいいですけど、自分で後始末してくだ
さいよ?﹂
自らの保守だ。
彼女は当然とばかりに頷いた。
﹁もちろんですわ﹂
﹁おいおい、なんの話だ?﹂
ゾルダートは何のことかわからないという顔をしていた。
エリナリーゼは彼の頬にチュっとキスをして、階下へと促した。
﹁なんでもありませんわ、さ、ご飯を食べますわよ﹂
ひどい女だ。
−−−
エリナリーゼ・ドラゴンロード。
パウロの元パーティメンバー。
なんでも、転移事件においてはロキシーと共に、パウロの家族を
捜してくれていたらしい。
ロキシーと共に魔大陸を縦断し、キシリカと出会って、中央大陸
まで渡ってきたのだとか。
ロキシーと共に。
ありがたい話だ。
1864
ロキシーは魔大陸の端で取って返し、ゼニス発見の報をパウロに
知らせにいったそうだ。
つまり、この女が我儘を言わなければ、ここに来たのはロキシー
だったということになる。
くそっ。
いや、状況を聞くに、そもそも全員でミリシオンに帰り、俺は放
置されても仕方のなかったようだ。
感謝しておくべきなのだろう。
まあいい。
ベガリット大陸に向かえば、ロキシーに会える。
焦ることはないのだ。
エリナリーゼの冒険者ランクはS。
職業は戦士。
一度だけ一緒に討伐依頼を受けてみたが、流石というべきか、弱
くはなかった。
攻撃力はやや低めだが、ヘイト管理は極めてうまい。
戦士としては一流だろう。
もっとも、一番ではない。
俺の中で一番強い﹃戦士﹄はルイジェルドだからな。
あれと比べるのは可哀想だろう。
エルフ
輝くような金髪を豪奢にロールさせ、お嬢様然とした美貌を持つ
長耳族。
物腰は柔らかで、男を立てる言動が目立つ。
視線は常に男の目を見ており、さりげないボディタッチや仕草の
一つ一つで相手を誘惑する。
1865
俺の時もそうだったが、あれ? もしかして惚れられてる?
と、勘違いしそうな事を自然とやってのける。
しかも腕が立つとくれば、この世界の男たちはメロメロである。
そしてどうやら、ベッドの上の戦闘力も極めて高いらしい。
かといって、女をないがしろにして見下しているかというと、そ
ういうわけでもない。
恋する乙女には助言を与え、男をゲットする手管を教えこむとい
う一面もある。
パーティでの戦いにおいては女を率先して守り、頼れる姉御然と
した振る舞いをする。
長耳族特有の特徴である胸が小さい事を除けば、非の打ち所のな
い完璧な女であると言えよう。
魔性な女とも言えるが。
欠点はフリーの男は周囲を気にせず食いまくる事か。
ゆえに、傍から見ていると火のついた導火線のような所がある。
もっとも、ヘイト管理はうまいので、よほどの事がないと刃傷沙
汰にまでは及ばないらしいが。
それでも、やはりというべきかなんというべきか。
問題はよく起きるらしい。
なので、一つのパーティに長くいたことはないそうだ。
中央大陸南部の男連中の間では、彼女の事はよく知られており、
滅多な事がなければパーティには入れないという、暗黙のルール
が敷かれているのだとか。
ちなみに、現在は俺とパーティを組んでいる。
保護者気取りらしく、﹁ベガリットまで行くならわたくしがきち
1866
んと送り届けてあげますわ﹂だそうだ。
まぁ、旅をするのに一人だと色々不便なのはこの二年間で分かっ
たので、ありがたいと言えばありがたい。
戦闘力も低く無い。
ソロの冒険者として出来るべきことは大体出来る。
ただ、飯を食っている最中にわざわざ隣に座り、
しなだれ掛かり身体をペタペタと触ってくるのは、少々うっとお
しい。
﹁ゾルダートさん。いけませんわ、ルーデウスが見てますわよ﹂
﹁そんな、いいだろ?﹂
﹁あらあら、いけない人⋮⋮﹂
そして現在、彼女は俺の前でゾルダートとイチャついている。
別々で食えばいいのに、なんで一緒のテーブルなのだろうか。
見せつけたいのだろうか。
くそっ。
全然うらやましくなんてないんだからねっ。
﹁⋮⋮﹂
ゾルダートはエリナリーゼにデレッデレだ。
彼のパーティメンバーも全員そうだった。
エリナリーゼはここからどうやって逆ハーレム状態を回避するの
だろうか。
俺に矛先が来ないようにしてくれればいいんだが、
どうあっても俺まで問題が回ってくる気がする。
その前になんとかして問題を解決したいが、
1867
俺はこういう状況での経験値が低い。
口出しをすると藪蛇な気がする。
と、思っていたら。
﹁じゃあ、これ、約束のお金ですわ﹂
﹁いやー、すまないな。あんな気持ちいいことしてもらって金まで
もらうとは⋮⋮﹂
﹁その代わり、わたくしに本気になっちゃいけませんわよ﹂
エリナリーゼはそう言って、ゾルダートに金を渡していた。
なるほどな。
逆売春だったわけだ。
それなら問題にならないか。
ならないか⋮⋮?
−−− そんな生活が一ヶ月ほど続いたある日の事。
俺の元に、一通の手紙が届いた。
厳重に封をされた手紙だ。
表面には﹃ラノア魔法大学﹄の文字が書かれていた。
なんだこれ。
とりあえず、封を破いて中を見てみる。
1868
﹃ルーデウス・グレイラット様。
はじめまして。
﹃ラノア魔法大学﹄で教頭をしておりますジーナスと申します。
このたび、ルーデウス様の雷名﹃泥沼のルーデウス﹄は、ラノア
王国にも響きわたっております。
無詠唱魔術を使いこなす凄腕の冒険者とお聞きいたしました。
調べてみると、なんとあの水王級魔術師ロキシーの弟子というで
はありませんか。
その素晴らしい魔法技術をさらに磨くおつもりはありませんか?
ラノア魔法大学は、あなたを特別生として招く用意があります。
特別生とは授業免除かつ学費免除。
本校の蔵書や設備を使い、好きに研究等をなさっていただく立場
の生徒です。
7年以内︵卒業まで︶に一つの研究を完成させ、
それを本校あるいは魔術ギルドに譲渡していただければ、
無条件で魔術ギルドのC級ギルド員への推薦も可能です。
もちろん、何の研究成果も出せずとも、他卒業生と同じくD級ギ
ルド員に登録いただけます。
ぜひ一度ご挨拶させて頂く機会をいただけませんでしょうか。
突然のご依頼で恐縮ですが、ご検討いただけたらと存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
ラノア魔法大学教頭 ジーナス・ハルファス﹄ 1869
と、書いてあった。
特別生⋮⋮。
要するに、これは奨学生への推薦状⋮⋮のようなものだろうか。
この世界に魔術ギルドが存在するということは知っている。
何をしているところかは知らない。
ちなみに盗賊ギルドなるものがあることは知っている。
彼らは盗品の横流しや奴隷の販売などを行なっている。
けど魔術ギルドは知らない。
恐らく、魔術に関する本を書いたり売ったり、また魔術を研究し
ているのだと予想はできるが。
まったく知らない。
何してるところなんだろうか。
しかし、なんで今更こんなものを俺に送ってくるのだろうか。
確かに、俺は魔術に関してはやや行き詰まりを感じている。
が、生活するに十分すぎる程度の力はあるらしいとこの二年でわ
かった。
先日、はぐれ竜も倒すことができた。
⋮⋮あれは相手も相当弱っていたが、まぁ倒した事には変わりな
い。
勝てば官軍だ。
なんにせよ、俺は進○ゼミを受講する必要性は感じていないとい
うことだ。
よくわからんところから、
よくわからん理由で推薦状が来て、
1870
よくわからんところへと推薦してくれるという。
つまりこれは、新手の詐欺か何かだろう。
ノコノコと出かけて行けば、強面のお兄さんに囲まれ、身体中に
金粉を塗られて見世物にされるのだ。
と、冗談はさておき。
こうした手紙が来る事は素直に嬉しいのも確かである。
魔法大学はロキシーの母校であるし、
そうした場所から推薦状が来たという事実。
その真意について少々調べたいと思う。
真意というか、手紙の真偽だが。
﹁エリナリーゼさん、ちょっと冒険者ギルドまで行ってきます﹂
﹁あら? 今日は休みじゃなかったんですの?﹂
珍しく男あさりをせず、豪奢な髪を手入れしていたエリナリーゼ
に声を掛ける。
﹁ちょっと調べたい事ができたので﹂
﹁待ちなさいな、わたくしも行きますわ﹂
エリナリーゼはブラシを置くと、立ち上がった。
まだ髪のセットは決まっていないようだが、大丈夫なのだろうか。
﹁別に依頼を受けるわけじゃありませんし、すぐ戻ってきますよ?﹂
﹁昔、パウロがそう言って出かけて、冒険者ギルドで女の子をナン
パしていましたの﹂
﹁そうなんですか、それはまた父様らしいですね。で、それがなに
1871
か?﹂
﹁ナンパするなら二人の方が成功率が高いですわ。
男女の二人組を狙いますわよ﹂
このビッチは唐突になんて事を言い出すんだろうか。
﹁やめてください。男女二人なんて。恋人同士だったら恨まれるじ
ゃないですか﹂
﹁大丈夫ですわ。そんなの見ればわかりますもの﹂
﹁ていうか、ナンパじゃないんで、ついてこないでいいですよ﹂
平時のエリナリーゼの頭には、基本的にそういう事しかない。
だが依頼を受けると一瞬で切り替わってキリッとした冒険者お姉
さんになる。
その辺のギャップも、男を惹きつける魅力の一つとなっているの
だろうか。
﹁そういわないで、貴方が相手をしてくれないから男を漁らなきゃ
いけないこっちの身にもなってくださいませ﹂
﹁いや、別に相手してもいいですよ? 息子を立ち直らせてくれる
なら﹂
﹁頑張ってみたいところですけど、パウロの息子とはできませんの。
それと、ロキシーとの約束もありますから。
わたくし、ロキシーには嫌われたくありませんの﹂
言っている事が支離滅裂だ。
どんだけ適当に生きてるんだこの人。
だが、﹃ロキシーに嫌われたくない﹄。
そんな言葉だけは理解できる。
1872
そして、そんな言葉だけで、俺はエリナリーゼを嫌いになれない
でいる。
﹃誰かに嫌われたくない﹄。
その気持ちはわかるからな。
しかし、このエリナリーゼを以ってしても嫌われたくないとは。
さすがだぜ。
おー、まい、ゴッド。
それはさておき。
﹁でも、それは僕のせいじゃないですよね? エリナリーゼさんの
個人的な事情ですよね?﹂
﹁そうですわね。でもいいじゃありませんの、ナンパぐらい、健全
な男の子なら誰しもやっている事ですわよ﹂
﹁健康不良少年なもので﹂
﹁あらうまい﹂
なんのかんので、結局エリナリーゼを連れて冒険者ギルドへと赴
く事になった。
ナンパはしないがね。
−−−
すでに時刻は昼過ぎ。
この時間だと、冒険者連中もややまばらだ。
今日はゾルダートたち﹃ステップトリーダー﹄の面々はいないら
しい。
1873
依頼に出ているのだろう。
冬の間でも、討伐依頼は結構多い。
魔物は年中無休だ。
ラスターグリズリーもクマのくせに冬眠なんてしないからな。
視線を巡らせると、Aランクパーティ﹃ケイブ・ア・モンド﹄の
連中がいた。
彼らは魔術師を中心としたパーティである。
メンツは4人と少数。
魔法戦士1人、魔術師3人。
全員が中級以上の魔術師で、リーダーが火魔術の上級魔術師であ
る。
﹁よう泥沼、今日はデートか?﹂
﹁ええ、麗しの彼女がナンパに連れて行けってうるさくて﹂
﹁はぁ?﹂
﹃ケイブ・ア・モンド﹄のリーダー、コンラートに話しかける。
彼は四十歳を回った熟練の冒険者で、口ひげを蓄えた渋い男だ。
前回の討伐依頼には参加しなかったが、俺は彼とはそこそこ仲が
いい。
彼には、何度もパーティに誘われている。
中級の治癒魔術も使える攻撃魔術師は貴重だそうだ。
﹁なんだ、とうとうウチのパーティに入る決心をしたのか?﹂
﹁フッ、僕は群れるのが嫌いな一匹狼。寄り合いの傘の下には入ら
んのさ﹂
﹁何カッコつけてんだよ。つってもパーティ組んだんだろ、あっち
の女と﹂
1874
あっちの、という言葉で振り返ると、エリナリーゼがDランク冒
険者のマロリーをナンパしていた。
ナンパというか誘惑だ。
遠目にも彼の顔が真っ赤に染まり、獣族で言うところの﹁発情の
臭い﹂を発しているのがわかる。
マロリーは16歳の少年で、職業は戦士だったか。
面識は無い。
見た感じ経験のなさそうな感じで、エリナリーゼの誘惑に対し、
興奮より戸惑いが強いようにも見える。
﹁そんなことよりコンラートさん。少々お聞きしたいことがあるん
ですよ﹂
﹁なんだ、変な事だったら金取るぞ? お前、この間はぐれ竜を倒
して金もってんだろ?
あー、俺達も行けばよかった。お前一人で倒せるってわかってり
ゃな⋮⋮﹂
﹁今度奢りますよ。で、話なんですが⋮⋮コンラートさんって、ラ
ノア魔法大学の出身でしたっけ?﹂
﹁おう、5年で退学したけどな﹂
この際、落ちこぼれだろうと何だろうと構わない。
俺はコンラートに、手紙について尋ねた。
まず、特別生とは何か。
﹁あー、特別生な。いたいた。
魔法大学ではな、お前みたいに変な魔術つかう魔術師とか、
冒険者で名前上げてるけど魔術ギルドに所属してない奴とか、
他国の王族貴族だけど、スゲー魔力持ってる奴に率先して声掛け
てんだよ。
授業受けなくてもいいから名前だけ在籍してくれた事にしてくれ、
1875
ってな。
ほら、そういう奴らが将来名を上げると、魔法大学の宣伝にもな
るだろ?﹂
という事らしい。
生前でも、そういう事はあったような気がする。
奨学生とは少々違うか。
なんだろう、名誉会員とか?
何にせよ、まるっきり詐欺というわけではなさそうだ。
﹁魔術ギルドというのは何をしているところなんですか?﹂
﹁スクロールの販売とか、魔道具製作の支援とかだな。
俺も詳しいことは知らねえ。一応所属はしてるが、F級だしな﹂
﹁あ、そういえば魔法大学を卒業するとD級の資格がもらえるんで
したっけ?﹂
﹁卒業すりゃあな﹂
魔術ギルドは、魔術に関する事全般の支援を行なっているそうだ。
ランクが上がると権限が増えて、様々な支援が受けられるらしい。
最低限、初級魔術が使えれば所属は可能。
通常の魔術学園だと、卒業するときにE級のギルド員になれるそ
うだ。
魔法大学のトップは魔術ギルドの幹部であり、
また魔法大学自体が魔術ギルド主体でやっている事なので、
魔法大学を卒業すれば、D級ギルド員になれる。
特別生が研究成果を渡せば、C級と。
無論、特別生でなくとも、優秀な魔術師にはC級の証を授けるら
しい。
1876
﹁C級って何してもらえるんでしょうね﹂
﹁さてな、ギルドで聞きゃあ一発だが、この町には魔術ギルドの支
部はねえからな⋮⋮﹂
ちなみに、F級は特に何の支援も受けられないそうだ。
魔術ギルドのランクは、ギルドからの依頼を成功させるか、もし
くは魔術ギルドに対する貢献度により上がっていくらしい。
冒険者ギルドと違い、こうすれば上がる、という明確なラインは
無い。
ギルドの幹部にコネのあるゴマすり上手な奴が、ランクだけどん
どん上げていく事もあるのだとか。
ありていに言えば、魔術ギルドのランクは金で買える。B級まで
は。
﹁ていうか泥沼。お前学校とか行ってなかったんだな﹂
﹁家庭教師ですよ﹂
﹁へぇ、結構裕福な出だったんだな﹂
﹁名前の通り、アスラの上級貴族の傍流ですよ﹂
﹁⋮⋮すまん、お前、下の名前なんだっけか﹂
﹁グレイラットです。ルーデウス・グレイラット﹂
泥沼のルーデウスの名前はそこそこ知られていても、下の名前ま
では広まっていないらしい。
そういうもんだ。
俺だってコンラートの家名は知らない。
最初に名乗られた時に家名がある事は聞いたのだが、覚えていな
い。
1877
﹁グレイラットって、アスラの地方領主だっけか。すげぇな、なん
でこんなところでソロで冒険者なんかやってるんだ?﹂
﹁そりゃあ⋮⋮﹂
と、言いかけたところで、エリスのことが脳裏に浮かんだ。
エリスの顔、一晩のぬくもり、そして翌日の喪失感。
あれ以来役に立たない息子⋮⋮。
気づけば、ポロリと涙が流れていた。
﹁あ、あれ⋮⋮?﹂
﹁すまん、人には色々あるよな、悪かった﹂
気を使われてしまった。
エリスの事は、そろそろ忘れた方がいいんだろう。
彼女は切り替えも早い、俺の事なんかきっと忘れているだろう。
未練たらしく想い続けたって意味はないんだ。
考えるな。
感じるんだ。
﹁でもま、せっかく向こうが優遇してくれてるって言うんだから、
行ってみたらいいんじゃねえのか?﹂
コンラートにそう言われ、俺はふと思い出す。
そういえば、エリスのところに家庭教師に行ったのも、魔法大学
への入学金を貯める必要があったからだ。
シルフィと一緒に魔法学園に行く。
それが最初の目標だった。
だが、今は行く必要をあまり感じていない。
あの頃とは状況も違いすぎるし。
1878
魔術ギルドに所属すれば、それなりに良い事もあるだろう。
だが、別にいますぐどうにかする必要もない。
それより、先にパウロと合流した方がいいだろう。
﹁そうですわ。パウロなんかと一緒にいるより、
学校にでも通ったほうが貴方のためですわよ。
もういい歳なんですから、自立なさってはいかが?﹂
ふと気づくと、エリナリーゼが隣にいた。
彼女はよほどパウロの事が嫌いらしい。
﹁それは、家族が一度顔をあわせてからでも遅くはありませんよ﹂
﹁ゼニスは無事だっていうし、生きているうちに会えればいいでは
ありませんの﹂
﹁いや、一家離散なんで、まずは集合でしょうよ﹂
﹁パウロたちだって、どうせアスラまで戻ってくるんですのよ? その時にちょっと旅に出て顔を合わせればいいじゃありませんの﹂
﹁ミリシオンで暮らすかもしれないじゃないですか﹂
﹁あそこは妻が二人いる男が心地よく暮らせる場所じゃありません
わ﹂
ミリス教団では、一夫一妻が常識だそうだ。
確かにパウロのような奴はちょっと住みにくいか。
﹁ていうか、エリナリーゼさんが父様に会いたくないだけでしょう
?﹂
﹁そうですわよ﹂
あっけらかんと言って、エリナリーゼは肩をすくめた。
1879
パウロには会いたくないが、俺を送り届けるという仕事をやめる
つもりはないらしい。
この人も、考えている事がよくわからないときがあるな。
﹁ところで泥沼よ﹂
﹁なんですか?﹂
﹁そろそろ、そっちのお姉さんを紹介してくれねえか?﹂
コンラートが、やや好色そうな目でエリナリーゼを見ていた。
この女、なんでこんなにモテるんだろうか。
ま、とにかくだ。
迷う事はない。
色々と魅力的な提案なのだろうが、
今回は魔法大学への入学は見送らせてもらおう。
−−−
と、決めた日の夜。
俺は白い場所にいた。
奴だ。
例のあいつだ。モザイクだ。
二年ぶりだ。
﹁うん、久しぶり﹂
1880
ああ、間違いない、人神だ。
﹁なんだい、その言い方﹂
なんでもない、気にするな。
﹁気にはしないさ。君が変なことを言うのにも慣れたしね﹂
そうかよ。
それにしても、この夢も久しぶりだが、
昔のような嫌な感じはしない。
慣れてきたのだろうか。
﹁君が順応してきたんじゃないかい?﹂
どうだろうな。
そんなことより、
ゼニスを探している最中、なんどか呼びかけたんだぜ?
一度ぐらい現れてくれてもよかったんじゃねえのか?
﹁僕にも色々あるのさ﹂
そうかよ。
ま、結果的に見つかったからいいけどな。
二年間まるまる損した気分だ。
﹁よかったね。お母さんが見つかって﹂
1881
ああ。
まさかロキシーが捜してくれてるとは思わなかったよ。
﹁彼女は働き者だからね﹂
ほんと、自慢の師匠だよ。
彼女もベガリット大陸に向かうみたいだし、早く会いたいね。
﹁いいのかい?
自慢の師匠に今の情けない君の姿を見せても﹂
⋮⋮え?
情けない?
今の俺が?
﹁だってそうじゃないか。
エリスには逃げられて、あっちも役立たずで、
魔術の腕も多少は上達したとはいえ、あの頃とほとんど変わらな
い。
剣術だって、毎日素振りするだけで、別に強くなったわけじゃな
い。
身体だけはたくましくなったけど、自信を持って言えるのかい?
自信を持って、あなたの弟子は立派に成長しましたって﹂
ぐぬぬ。
言いたい放題いってくれるじゃないか。
つまり、何が言いたいんだ?
﹁今こそ、自分を鍛えるべきじゃないか? 魔法大学に行けば、雑
1882
多な冒険者とは比べ物にならないぐらい、いろんな事を学べるはず
さ﹂
なんだそりゃ、どこの塾講師だ。
あ。
随分とサラッと言ったが、
それはあれか、いつもの助言なのか?
﹁うん、まあそんな感じかな﹂
相変わらず胡散臭いやつだなお前は。
﹁そうかい? でも、今回は僕のいうことを聞いておいた方がいい
よ。
ベガリット大陸に行くと、君は必ず後悔する事になるからね﹂
後悔?
なんでだ?
﹁それは言えない﹂
ああ、そう。
まあ、お前が必要な事を隠匿するのは今に始まったことじゃない
しな。
けどそれじゃ理由として弱いってのは、お前も自分で言っててわ
かるだろ。
一応家族が全員見つかったから、俺だって一度落ち着きたいんだ。
﹁うん。だから、本当の助言はこれからだ﹂
1883
よし、聞きましょう。
﹁コホン。ルーデウスよ、ラノア魔法大学に入学しなさい。
そこで、フィットア領の転移事件について調べなさい。
さすれば君は男としての能力と自信を取り戻すことができるでし
ょう﹂
え?
マジで?
俺のエレクティル・ディスファンクションは魔法大学で治るんで
すか人神様!
でしょう⋮⋮でしょう⋮⋮でしょう⋮⋮。
エコーを残し、意識が薄れていった。
−−−
目覚めると、エリナリーゼの顔がすぐ近くにあった。
ぎょっとして瞠目する。
昨晩の事を思い出す。
彼女は珍しくもボーイズハントに失敗。
夜になって﹁寒くて眠れませんわ﹂などと言い出し、俺のベッド
に潜り込んできたのだ。
確かに、北方大地の冬の夜は寒い。
宿には暖炉が備わっており、外よりは全然暖かいのだが、
エアコンやガスストーブが無い世界だ。
高級な宿なら各部屋に暖炉が備わっていたり、
1884
魔術的な暖炉で建物全体を温めたりしている。
だが、残念ながらここはC級冒険者向けの安宿。
せいぜい分厚い掛け布団ぐらいしか備え付けられてはいない。
俺は魔術で部屋全体を温めるので特に問題無い。
だが、脂肪の少なそうな身体をしているエリナリーゼは実に寒そ
うだった。
なので、これも役得と思って迎え入れてやった。
なので、決して昨晩お楽しみだったわけではない。
そう、お楽しみだったわけではないのだ。
こんな貞操観念皆無な美人のお姉さんと寝ているのに、
俺のオットセイはぐったりと横たわったまま、虚ろな沈黙を返し
てくるだけだ。
試しに寝ている彼女の身体をごそごそとまさぐってみても、やは
り沈黙のオットセイ。
生前に憧れていた女体というものを勝手に弄るという行為。
そのことで頭は大変興奮しているのに、脊髄を貫いて返ってくる
はずの反応がない。
﹁んん∼⋮⋮﹂
手を離すと、タコみたいに絡みつかれた。
全体的に肉付きが薄いものの、しかし女性特有の柔らかい身体が
俺を包み込む。
極めて煽情的な動きで俺にまとわりついてくるが、
しかし、やはり、反応が無い。
脳は確かに興奮しているのに⋮⋮。
1885
やがて、エリナリーゼの動きが止まり、また静かな寝息を立て始
める。
興奮は一瞬にして薄れていき、
虚無感と寂寥感、そして情けなさが残った。
涙が出る。
﹁そっか、これが治るのか⋮⋮﹂
俺は静かに魔法大学に行くことを決意した。
−−−
3ヶ月後。
冬が終わる頃。
俺はラノア王国へと旅立った。
1886
第六十六話﹁入試﹂
ラノア王国。
中央大陸北部の最大の国。
最大だが、国力はシーローン王国と同程度。
だがバシェラント公国、ネリス公国と同盟を結んでおり、魔術ギ
ルドとも懇意。
三国の力を総合すれば、貧しい北部にありながらも、世界で四番
目の力を秘めているとされる。
ゆえに、ラノア、バシェラント、ネリス。
この三国をひっくるめて﹃魔法三大国﹄と呼ぶ。
なぜ﹃魔法﹄三大国なのか。
魔術ギルドの本部があるからか。
それもある。
だが、その最たる理由としては三国が魔術に関する研究に力を入
れているからだ。
世界各国から優秀な人材を集め、出資を惜しまず、魔術に関する
研究を進めているのだ。
そのために作られたのが、
同盟主たるラノア王国の端。
国境線ギリギリの位置に存在する大都市。
魔法都市シャリーアである。
そこには、﹃ラノア魔法大学﹄﹃魔術ギルド本部﹄﹃ネリス魔道
具工房﹄といった、
1887
魔術に関するありとあらゆるものが凝縮されて詰め込まれている。
魔法三大国の中枢。
最も栄えている町、と言えるだろう。
魔法都市シャリーアを上からみてみると、
最新式の耐魔レンガで組まれた魔術ギルドを中心に、
東には魔法大学を中心とした学生街。
西には魔道具工房を中心とした工房街。
北には商業ギルドを中心とした商業街。
南には外から来る者や冒険者を迎え入れる、宿場街がある。
見るものが見れば、ミリシオンの構造を参考にしている事がわか
るだろう。
少なくとも、俺は地図をみた瞬間にピンときた。
ピンときたからなんだって話だけどな。
俺とエリナリーゼは宿場街にて宿を取った。
寒いとエリナリーゼがベッドに潜り込んでくる。
目の前で無防備に寝られると、どうしても触りたくなる。
触ると俺が凹む。
なので、暖房が完備されたA級冒険者用の宿を取った。
エリナリーゼも特に文句は言わなかった。
旅の間でわかった事であるが、
彼女は男とやらなければならない理由があるらしい。
道中、ちょっと道を間違え、次の街にたどり着くまで1週間以上
掛かった事があった。
その時の彼女の体調は最悪であり、俺を見る目がヤバい事になっ
ていた。
1888
どんだけヤバイ事になっていても、相手を出来ないものは出来な
いのでどうしようもないのだが。
詳しく聞いてみると、そういう呪いであるらしい。
定期的に男と交尾しなければ死亡する、という呪いだ。
字面にすると大変そうな感じだ。
だが、エリナリーゼはその事をまったく苦に思っていないらしい。
もともとエロい事は大好きらしいし。
呪いがなくてもやることは変わりませんわ、なんて言っていた。
持病と上手く付き合えている、と言えるだろう。
﹁では、例のジーナスさんという方のところに行ってきます。エリ
ナリーゼさんはどうします?﹂
﹁わたくしも行きますわ﹂
﹁⋮⋮なんで?﹂
てっきり、エリナリーゼは冒険者ギルドあたりで男漁りでもする
かと思ったが。
﹁せっかくですので、わたくしも入学してみますの。魔法学園に﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なんで? 魔術に興味あるんですか?﹂
﹁いいえ、ルーデウスぐらいの歳の子に興味が湧いて来ましたの﹂
﹁ああ、そう﹂
平常運転というわけだ。
しかし、大学とはいえ、学校なら子供も多いだろう。
この国の法律がどうなっているのかわからんが、未成年略取にな
ったりしないだろうか。
⋮⋮まあ、捕まるのは俺じゃないし、いいか。
どうせ止めてもやるだろうしな。
1889
俺が心配することはない。
﹁でも、多分、普通に入学金とか学費とか掛かりますよ?﹂
﹁問題ありませんわ。わたくし、これでもお金は結構持っています
のよ﹂
そう言って、彼女は金貨袋をポンと叩いた。
あの中には、ここいらで使われる硬貨の他に、5枚以上のアスラ
金貨が入っている。
また、旅用のバックパックの中に魔力結晶がいくつも入っている
事も。
一度だけ見せてもらったが、綺麗な球体をした魔力結晶で、大き
さはスーパーボールぐらい。
売ればアスラ金貨にして10枚以上の値段は付くらしい。
どこで手に入れたのかと思ったが、
もともと彼女は迷宮探索を主とする冒険者だ。
昔見つけた魔力結晶を小切手代わりにして持ち歩いているのだろ
うと、勝手に判断した。
入学には金が掛かる。
だが、彼女は金には困っていない。
入学理由が不純だが、俺も人のことは言えない。
止める理由もなかった。
﹁そですか、じゃあ、行きますか﹂
俺たちは魔法大学へと足を向けた。
−−−
1890
ラノア魔法大学は巨大な敷地を持っていた。
極めて広大な敷地に、何重にも連なるレンガ造りの棟が並び、中
央には城のような建物まで存在していた。
遠目にはそのまま要塞として使えそうにも見えた。
イメージとしては筑○大学が近いだろうか。
いや、筑○大学とか写真でしか見たことないけどな。
とりあえず、校門で守衛とおもわれる人に手紙を見せる。
﹁すいません、こういう手紙を頂いたのですが﹂
守衛さんは手紙を見ると、﹁ああ﹂と頷いた。
﹁教員棟の場所はわかるかい?﹂
﹁わかりません﹂
﹁ここをまっすぐ行って、初代学園長の像を右だ。青い屋根の建物
だ。
そこの受付に渡して、取り次いでもらうといい﹂
﹁ありがとうございます﹂
エリナリーゼが守衛さんに色目を使いそうだったので、耳を引っ
張って先に進む。
初代学園長の像までは直線の道だった。
道の両脇には枯れ木が立ち並んでいる。
春になれば、桜でも咲くんだろうか。
1891
いや、この世界に桜があるのかどうかはしらないが。
枯れ木のさらに外側には、高さ3メートルぐらいのレンガ造りの
壁がそびえ立っている。
大勢で攻め込めば、この両側から弓兵が顔を出して﹁掛かったな
!﹂とか言うんだろうか。
﹁みんな耐魔レンガで作られてますのね﹂
﹁ほう﹂
エリナリーゼの呟きに、俺は壁を注視した。
耐魔レンガとは、
名前の通り、魔力に対して耐性を持つレンガだ。
大規模な攻撃魔術による攻撃でも耐えることができるらしい。
一体どれぐらいの耐性があるのか。
実際に魔術を撃って確かめてみたい気分になる。
やらないが。
耐魔レンガは魔術ギルドが独占的に製造・販売をしていると聞く。
アスラ王国では、王都でしか使われていないほど高価なものだ。
ミリシオンでも王竜王国でも見なかった。
しかし、魔法三大国ではよく見かける。
製法は極秘だが、原材料はそれほど高くないのかもしれない。
レンガの通路を抜けると、やや大きめの広場に出た。
そこから三方に道がわかれている。
中央にあるのは、ローブを付けた一人の女性の像だ。
﹃初代学園長、第56代魔術ギルド総帥フラウ・クローディア﹄。
像にはそう書かれたプレートが張り付いていた。
1892
これが初代学園長の像だろう。
レンガの壁はここで途切れている。
正面の道には、要塞のような巨大な校舎群だ。
見える範囲だけでも6つ以上の建物がある。
ふと、校舎の脇にある運動場のような場所から、炎が吹き上がる
のが見えた。
授業中なのだろうか。
左手には、赤い屋根の建物がいくつか。
これもまたでかく、そして窓が多く、ベランダもついている。
ベランダに洗濯物が干されている所を見ると、学生寮だろうか。
さて。
右手には青い屋根のおうち、左手には赤い屋根のおうち。
俺はシル○ニアファミリーではないので右に向かう。
﹁なんかわくわくしてきますわね﹂
ふと、エリナリーゼがつぶやいた。
﹁そうですか?﹂
﹁だって、こんな大きな建物ばっかりですのよ﹂
このビッチはなにをブリっこぶってるんだろうか。
と、一瞬思ったが、
しかし、冒険者ってのは、あんまりでかい建物には用がない。
せいぜい、冒険者ギルドぐらいだ。
なので、巨大な建物を見る機会が少ないのだ。
1893
﹁エリナリーゼさんが今まで入った中で一番大きな建物ってどこで
す?﹂
﹁ミリシオンの冒険者ギルド本部ですわ﹂
﹁へぇ、そういえばあそこもでかいですもんね﹂
俺もミリシオンの冒険者ギルドには行ったことがある。
確かにあそこは結構な広さがあった。
もっとも、生前にもっと広い建物を見たことがあるから驚きはし
なかったが。
﹁面白みのない子ですわね。わたくしが初めてミリシオンの冒険者
ギルドを見た時は興奮で思わずパウロに抱きついてしまったという
のに⋮⋮チッ、思い出したくない過去でしたわ﹂
エリナリーゼは一人で呟き、一人で嫌な顔をしていた。
よほどパウロの事が嫌いらしい。
男なら誰でもいいと豪語する彼女にここまで言わせるとは⋮⋮。
何をやったんだか。
そういえば、パウロとエリナリーゼが別れたのは何年前だったっ
けか。
俺が今15歳だから、15年以上前だよな。
﹁つかぬことをお聞きしますが、エリナリーゼさんって何歳なんで
すか?﹂
﹁あらあら、女性に歳を聞くもんじゃありませんわよ﹂
﹁ちなみに僕はもうすぐ50歳です﹂
﹁嘘おっしゃい﹂
なんて話をしているうちに、青い屋根の建物にたどり着いた。
1894
−−−
受付に手紙を渡すと、応接室に通された。
﹁しばらくお待ち下さい﹂
という言葉を残し、受付のおばさんはいなくなる。
俺たちはソファにおとなしく座りつつ待機。
同時に、エリナリーゼがしなだれかかってきた。
彼女は男の隣に座ると必ずやる。悪い癖だ。
俺としても悪い気分じゃないので放っておく。
彼女は男の体を弄れて嬉しい、俺は美人の姉さんに密着されて嬉
しい。
誰も不幸になっていない。
不幸なのはこんな状況で反応を返さない俺の息子だけだ。
なんて思いつつ、周囲を見回す。
ここの応接室のランクは、Cって所だな。
ソファは硬いし、調度品も少ない。
もっとも、流れの冒険者を迎える場所としては相応だろう。
﹁おまたせしました、教頭のジーナスです﹂
ジーナス教頭は一時間ほどで現れた。
アポイントメント無しだというのに、迅速な事だ。
かなり生え際の後退している、壮年で神経質そうな男性だ。
深青色のローブを着ている。
1895
水魔術を使うのだろうか。
﹁はじめまして、ルーデウス・グレイラットです﹂
俺は貴族風の挨拶で、ぺこりとお辞儀をする。
チラリとエリナリーゼを見ると、彼女もそれっぽく頭を下げてい
た。
﹁そちらの方は?﹂
﹁わたくしはエリナリーゼ・ドラゴンロード。ルーデウスのパーテ
ィメンバーですわ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
誰? 何しにきたんだ?
という視線を向けられたが、エリナリーゼはどこ吹く風。
ジーナスも、まあいいかという感じで、俺達に椅子を薦めた。
﹁まさかこんなに早く来ていただけるとは思いませんでした﹂
﹁ある人の勧めでね﹂
﹁ある人? ああ、ロキシーですね﹂
さんをつけろよデコ助野郎。
と、心の中で叫ぶも声には出さない。
﹁もちろん先生にも勧められましたが、しかし、今回は別の方の後
押しもありましてね﹂
﹁ほう⋮⋮では、大学に在籍していただけると?﹂
﹁ええ、まあ﹂
ジーナスは身を乗り出している。
1896
俺はそれに、若干引き気味に頷く。
﹁っと、これは失礼、在野で活躍する魔術師の方はプライドの高い
方も多く、特にルーデウスさんのような若い方は魔法大学そのもの
を馬鹿にしているきらいがありまして⋮⋮﹂
﹁なるほど﹂
﹁ルーデウスさんも、先日はぐれ竜を倒したとお聞きしました。
そのような方なら、まさか大学に在籍などしないと思っておりま
したが⋮⋮﹂
俺もこの2年間で冒険者の傾向はわかってきた。
種族や国によっても違うが、この世界は15歳が成人である事が
多い。
冒険者もそれぐらいの歳にデビューする者が大半だ。
だが、成人前に冒険者になる者も結構多い。
特に年齢制限があるわけじゃないからな。
とはいえ、15歳になる前から才能を発揮し、高ランクまで上り
詰める者は少ない。
そして、上り詰めてしまう若者は、大抵がプライドの塊だ。
一人だけ、14歳でBランク冒険者という少年を見たことがある。
そりゃもう鼻っ柱のたかい奴で、やけに俺をライバル視していた。
当時は同い年だったから、Aランクにいる俺が気に食わなかった
のだろう。
まあ、最近見ないなと思ったら、討伐依頼に失敗して死んでたの
だが。
ジーナスはそうした例から、俺がそんなテング野郎に違いないと
思っていたのだろう。
残念ながらうちのテングは最近ちょっと元気がない。
1897
霊力不足かね。
﹁学びたい事、調べたい事、やりたい事、色々ありましてね。
ここを利用するのが一番だと思いまして。
あ、もちろん、卒業後は魔法大学の宣伝もさせてもらいますよ﹂
コンラートの話を思い出しつつそう言うと、ジーナスは苦笑した。
﹁そう正直におっしゃっていただけると、こちらとしてもありがた
いですね﹂
﹁さて、とはいえ、特別生というものがどういうものか、
僕もまだよく知りませんので、話はそれを聞いてから、ですかね﹂
ジーナスはそれに頷こうとして、しかしふと思い出したように苦
笑した。
﹁と、その前に、少々試験をさせていただいてもよろしいですか?﹂
﹁試験ですか?﹂
奨学生試験みたいなものだろうか。
言われてみると当然か。
まずいな。
ロキシーに魔術について習ったのは十年前だ。
どこまで覚えているだろうか。
ええと、確か混合魔術は⋮⋮。
くそう、そうとわかっていれば予習してきたものを⋮⋮。
﹁はい、ルーデウスさんが噂通りの方かどうかの、テストです﹂
1898
どうやら、筆記ではないらしい。
−−−
はぐれ竜をもう一度倒せと言われても正直やりたくない。
拙者はすくたれ者にござるゆえ。
正直にそれだけ伝えると、ジーナスは苦笑しつつ﹁まさか﹂と答
えた。
この人は苦笑が多い。
ジーナスに連れられ、建物から出る。
向かう先は校舎群。
修練棟の訓練室だそうだ。
魔術の実験や試験に用いられる場所らしい。
﹁それにしても、ずいぶんと建物の数が多いですよね。
そんなに生徒がいるんですか?﹂
そう聞くと、ジーナスは頷きながら
﹁ラノア魔法大学は通常の魔術学校とは違い、
通常の学校としての授業も行なっていますので、教室数も多くな
っています。
貴族の方を対象とした課や、商人向けの算術課などもございます。
もっとも、基本的にどの課でも魔術を習う事には変わりませんが
ね﹂
立場や目的の数だけ課やコースがあるらしい。
1899
ロキシーの言うとおり、どんな相手でも受け入れる、という事な
のだろう。
マンモス校になるわけだ。
﹁さすがに帝王学を教えられる人材はおりませんが、
魔術に関する教師陣はラノア王立学校を凌駕していると自負して
います﹂
﹁ほう﹂
﹁一応、軍学を教えている課もあります。もっとも、生徒数はほと
んどいませんがね﹂
﹁例えばその中には、精神的な病に対する医学を教えている課もあ
ったりするんですか?﹂
﹁精神的な病に対する医学? いえ、さすがにそれはありませんね。
治癒・解毒魔術に関してはいい教師が揃っていると自負しています
が⋮⋮それは魔術とは少々分野が違うのでは?﹂
﹁そうですね﹂
大学ではあるが、大学病院ではない、という所か。
まあ、人神の助言もある。
焦ることはない。
﹁どなたかお知り合いに、病気の方がおられるのですか?﹂
﹁病気というほどではありませんが⋮⋮まあ、呪いのようなもので
す﹂
﹁なるほど、呪いを治す研究をするためにこちらにおわした、とい
う事ですか、ご立派です﹂
﹁そこまで大した事をするつもりはありませんよ﹂
なんて話をしつつ、一つの建物に入っていく。
ここもまた、耐魔レンガ造りだ。
1900
中は体育館のようにガランとした作りだが、床には半径5メート
ルほどの魔法陣が横一列で4つ並んでいる。
端の魔法陣では、二十名ほどの男女がいた。
全員が似たようなローブを着ており、
魔法陣の中に入り、二人が攻撃魔術を使いあっていた。
ケガとかしないのだろうか。
﹁あれは今年4年生になる生徒達ですね、貴族が多いクラスだった
と思います。
我が校では実戦の事も考え、ああした模擬戦も行なっているので
す﹂
ジーナスの説明を流し聞きしつつ見ていると、
片方の生徒が放った火球がもう片方を直撃した。
生徒は火に包まれたが、すぐに足元の魔法陣が光り、鎮火。
炎の下からは焦げ跡一つない生徒が出てきた。
﹁この魔法陣は?﹂
﹁聖級治癒術の魔法陣です。攻撃を受けても瞬時に回復します﹂
﹁へぇ、そりゃすごい﹂
﹁さらに、外縁部には上級の結界も張ってありますので、
多少の魔術ではびくともしません﹂
なるほど。
魔法陣ってのは、昔魔術教本を見た時には気にもとめなかったが、
魔大陸から帰る最中には、何度も苦汁をなめさせられた。
自分でも使えるようになっておいた方がいいのかもしれない。
もっとも、今ならシーローンでくらった魔法陣に入ってもなんと
かなりそうだが。
1901
などと思いつつ、生徒たちから見て逆端にある魔法陣へと入る。
﹁それで、僕はなにをすればいいんですか?﹂
﹁ルーデウスさんは無詠唱魔術の使い手と聞いています。それを見
せてもらいましょう﹂
﹁使うだけでいいんですか? もし僕が偽物だったら、それぐらい
の準備はしてきますよ?﹂
﹁え? それもそうですね、我が校にも無詠唱魔術の教師は一人い
たのですが、去年老衰で亡くなりましたので⋮⋮﹂
と、悩みだしたジーナスだったが、ポンと手を打った。
﹁ああ、丁度いい、実はあのクラスにも、一人無詠唱を使える子が
いるんですよ。
ルーデウスさんには及ばないかもしれませんが、我が校きっての
天才です。
今年も生徒会に所属して⋮⋮いや、そんな事はいいか。
ゲータ先生! フィッツ君をお借りしてもよろしいですか!?﹂
ジーナスが向こうの魔法陣に駆け寄りつつ、教師に声を掛けた。
しばらくして、一人の少年を連れてきた。
白い短髪で、サングラスを掛けている。
耳が長い。長耳族なのだろうか。
体系は小柄。いや、単に幼いのか。13歳ぐらいか。
圧倒的に筋肉が足りない。
秀才タイプだな。
男ならもっと鍛えるべきだ。
年下。とはいえ、来年から先輩になる相手だ。
1902
挨拶ぐらいしておいた方がいいだろう。
﹁ルッ⋮⋮!﹂
彼は俺を見て、駆け寄ってこようとした。
俺はそれに先んじて、大きな声で挨拶をしつつ、頭を下げる。
﹁はじめまして、ルーデウス・グレイラットです。
何事もなければ、来期からあなたの後輩になります。
何か至らないところがあればご指導ご鞭撻の程お願いします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮え? あ、は、はい﹂
フィッツが何か言おうとしたが、その時にはすでに俺は挨拶を終
えていた。
自己紹介は先手必勝。
彼はパクパクと口を動かしていたが、
やがて、口をキュっとつぐむと、
﹁フィッツです。よろしく﹂
と、声音のやや硬い、高い声で答えた。
声変わりはまだきていないようだ。
やはり年下か。
でも、先輩は先輩だ。
陰湿なイジメをされるのは怖いから、へりくだっておこう。
﹁お手を煩わせる事になりますが、
試験の方、どうぞよろしくおねがいします﹂
﹁あ⋮⋮うん﹂
1903
彼が魔法陣に入ると、ジーナスが何やらブツブツとつぶやき、魔
法陣を発動させた。
魔法陣には嫌な思い出がある。
試しに外縁部をコンコンと叩いてみようとすると、すり抜けた。
﹁あれ? ジーナス先生、きちんと作動していませんよ?﹂
﹁ルーデウスさん。ここは魔術に対する抵抗だけですので﹂
﹁物理はすり抜けると﹂
ということらしい。
シーローンで見たのは王級だったっけか。
あれは物理も魔法も無効化していた。
まぁ、あのへんも暇があったら調べておくか。
せっかく学校に来たんだし、誰かに教わるのもいいかもしれない。
﹁では、ルーデウスさんは冒険者という事ですので、
フィッツとの模擬戦という形でいいですか?
基本的には無詠唱魔術を使っていただく形で﹂
﹁構いません﹂
頷いて、フィッツに向き直った。
あれ?
これ、もしかして負けたら普通に授業料払えとか言われるのだろ
うか。
それは嫌だな。
はぐれ竜を討伐して金は有り余っているが、
しかし俺も長いこと守銭奴生活を続けてきたせいか、
抑えられる出費は抑えたいと思ってしまう。
1904
本気でいくか。
魔法陣の中心点をはさみ、フィッツが構える。
彼が手に持つのは、一本の小さなワンドだ。
アクア・ハーティア
懐かしい、俺も昔はああいう杖を使っていたものだ。
俺も杖を構える。
アクア・ハーティア
こっちは10歳からはずっと使ってきている﹃傲慢なる水竜王﹄。
最近は﹃傲慢なる水竜王﹄にシャーリーンなんて名前をつけよう
かと思ってるぐらいだ。
ぶっちゃけ、使っても使わなくてもそんな変わらないんだけどな。
ジーナスが手を上げる。
﹁では、はじめ!﹂
ディスタブ・マジック
﹁﹃乱魔﹄!!﹂
ディスタブ・マジック
号令と同時に、杖を構えたフィッツに対し、俺は乱魔を使用した。
いつもの
出るはずの魔術が出ず、びっくりした顔で杖の先を見るフィッツ。
俺は左手で、岩砲弾を作り出す。
なんだかんだ言って、岩砲弾は一番使いやすい。
ピンポイントな場所を狙えて、高威力になる。
一時期フィギュアばかり作っていたせいか、威力の調節や、連射
もしやすい。
討伐依頼で使うのも、基本的には大体これと﹃泥沼﹄ばっかりだ。
状況に応じて色々使うことはあるがね。
ていうか、迂闊に火魔術とか使うと自分がやけどするんだよ。
1905
﹁⋮⋮なんで!﹂
﹁さて、なんででしょう﹂
大きさは小指の先ほど。
回転速度と射出速度は高め。
狙いはフィッツの額どまんなか⋮⋮と、思ったがやめた。
射出。
岩砲弾は﹁キュイン﹂なんて音を立てつつぶっ飛んでいき、
フィッツの顔端を通り過ぎると、﹁カァン﹂なんて快音を響かせ
て結界を突破。
そのまま耐魔レンガの壁に突き刺さり、瓦礫を飛び散らせて、そ
の運動を止めた。
﹁⋮⋮っ!﹂
フィッツの頬から、つうと血が流れ、そしてすぐに傷口がふさが
った。
フィッツは頬に流れる血を指ですくい取り、後ろを振り返って、
岩砲弾の行く先を確かめた。
そして、カクンとその場に尻餅をついた。
はずしておいてよかった。
治癒魔術は万能じゃない。
簡単な傷なら瞬時に治す聖級治癒魔術という事だが、
直撃したら即死してしまった可能性もあった。
聖級では即死は治せまい。
﹁⋮⋮﹂
1906
ふと。フィッツと目があった。
サングラスのせいでどこを見ているのかわからないのだが、
なんとなく、目があったのがわかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
俺たちはお互い、何も言わなかった。
フィッツの視線だけがどんどん強くなっていく。
なんとなく、
やっちゃったかな、という感じはしていた。
向こうの魔法陣から容赦なく視線が降り注いできている。
ジーナスも目を丸くして見ていた。
エリナリーゼはあくびをしている。
﹁い、今の⋮⋮どうやってやったの⋮⋮?﹂
フィッツの震えた声。
ジーナスもまた、何が起こったのか知りたそうな顔をしていた。
ディスタブマジック
﹁乱魔という魔術です。知りませんか?﹂
フィッツは首を振った。
乱魔の事は知らないらしい。
わりとマイナーなのだろうか。
魔術師との対人戦では極めて有効な魔術だと思うのだが⋮⋮。
そういえば、オルステッド以外は使ってる所みたことないな。
1907
フィッツがじっと俺を見てくる。
サングラスの奥からの視線が痛いほど伝わってくる。
﹁⋮⋮﹂
ジーナスの話では、フィッツは天才という話だ。
それが公衆の面前で尻餅をついてしまうとは⋮⋮。
彼のメンツを潰してしまった可能性が高い。
フィッツの視線が痛い。
俺は静かに目線を逸らした。
目をつけられてしまっただろうか。
食事の時になったら足を引っ掛けられたりとかするんだろうか。
引っ掛けられた上から牛乳と嘲笑を浴びせたりするんだろうか。
あれは実に惨めな気分になるんだ。
出来ればやられたくない。
よし。
﹁ありがとうございます先輩!
新入生である僕に花を持たせてくださったんですね!﹂
﹁えっ?﹂
俺はニコヤカに笑いながら、他の生徒にも聞こえるようにそう言
って、彼に近づいた。
そして、彼に手を差し伸べる。
フィッツがやや戸惑いつつも、俺の手をつかむ。
1908
フィッツの手は柔らかかった。
剣とか持ったことがないんだろうか。
﹁本日の御礼は、後日きっちりとさせていただきます﹂
﹁⋮⋮⋮っ!﹂
俺が助け起こすと同時に耳元でこそりとつぶやくと、フィッツは
ぶるりと身を震わせて、コクコクと頷いた。
入学したら菓子折りを持って挨拶に行こう。
そうしよう。
俺は静かに決意した。
ちなみに試験は合格した。
ジーナスは俺の事を褒め称えていた。
フィッツを完封なら、文句なしだそうだ。
−−−
というわけで、俺は一ヶ月後から、魔法大学の寮で暮らすことと
なった。
その後、特別生の事について詳しい説明を受けた。
基本的に特別生は学費免除。
場合によっては授業も免除。
希望する者は一般生徒に混じり、カリキュラムに沿った授業を受
1909
ける事は可能。
月に一度のホームルームにさえ出席すれば、基本的に校内で何を
するのも自由。
研究棟の一室を借りて研究に没頭するもよし。
修練棟の一室を借りて修行に明け暮れるもよし。
図書館に赴き、読書に明け暮れるもよし。
食堂でひたすら飯をかっこむのもよし。
大学の敷地から出て、冒険者として活動するもよし。
魔術ギルドに赴き、研究成果を発表してくるもよし。
色街に繰り出して、適当に遊んでくるもよし。
ただし敷地外での出来事に関しては自己責任で、だそうだ。
生徒と名はついているが、研究員に近いのかもしれない。
もっとも、特別生にも色んな形態があるようだ。
他の特別生は基本的に授業免除というわけではないらしい。
俺はかなり自由を認められているようだ。
もちろん、禁止されている事はある。
例えば、ラノア王国において犯罪とされる行為全般。
学校に対する破壊活動や、魔術ギルドに唾吐く行為等。
詳しいことは校則を読んでくれと、冊子サイズの薄い本を一冊渡
された。
その場でパラパラと読んでみたが、
基本的に、俺の知る常識に則った行動をしていれば問題はなさそ
うである。
ていうか、冒険者ギルドの規約と大体同じだった。
冒険者ギルドの方が締め付けがキツいぐらいだ。
1910
ちなみに、エリナリーゼも入学した。
普通に金を払って。
入学金と卒業までの学費を一括払いしてアスラ金貨にして3枚程
度だそうだ。
意外と安い。
物価が違うからこんなもんか。
ちなみに、きちんと試験を受け、優秀な成績を納めれば、
ある程度学費や入学金が免除となるらしい。
もしくは、金が無いなら卒業時に支払うとかでもいいのだとか。
優秀な人材を獲得するために、かなり融通をきかせているらしい。
ま、それは俺には関係ないな。
﹁ふむ﹂
俺は再度、校則を舐め回すように読んだ。
性的な事に関する罰則事項。
そこん所について、よく調べてみた。
﹁エリナリーゼさん。どうやら無理矢理でない限り、ある程度の自
由は認められているらしいですよ﹂
﹁素晴らしい学校ですわね。知ってます? ミリシオンの学校では
全面的に禁止ですのよ﹂
主語が抜けた会話だったが、的確な答えが帰ってきた。
さすが脳内ピンク色の人は違う。
生前の知識で行くと、
1911
在学中に子供とか出来たら風紀が著しく乱れてしまうのでは、と
思う所だ。
だが、そもそもこの学園には、10歳前後の幼い子から、
100歳を超える人物まで在籍している。
一応若者が多いようではあるが、
年齢も様々。
種族も様々。
常識も様々だ。
また、エリナリーゼのような呪い持ちも数多く存在している。
そんな状況で、あれもダメ、これもダメと定めていては、
かえって問題が起きやすくなってしまうのだろう。
特に、生殖は本能だしな。
まあ、自由な校風にも、理由があるってことだ。
理由があるって事は、俺が男としての生きがいを取り戻すために
努力してもいいってことだ。
うわぁ、がんばろう。
息子をビッグにしてやろう。
なんちゃって。
ま、人神の助言もあるし、治るのはもはや確定的に明らかだ。
気楽にいくとしよう。
1912
第六十七話﹁入学初日・前編﹂
ラノア魔法大学。
広大な敷地を持ち、3つの国と魔術ギルドをスポンサーに付ける、
世界最大級のマンモス校。
現在の校長は、魔術ギルド幹部﹃風王級魔術師ゲオルグ﹄。
生徒数は一万を超える。
﹃魔法﹄大学と銘打っているが、教師の層は厚く、この世に存在
するありとあらゆる事を学ぶことができる。
あらゆる種族、人種、身分を問わず入学する事ができる。
例えば、ミリス教団に忌避され、いまだ差別意識が強く残る魔族。
例えば、やや排他的で、一般的には気難しいとされる獣族。
例えば、権力争いで国外追放にされた人族の国の王族。
例えば、生まれつき呪いを持っていて、手に負えないとされた貴
族の子供。
さすがに天族や海族は在籍していないが、
魔力の高い者や、魔術に関わり深い者であるなら、多少問題のあ
る者でも入学する事ができる。
かつてはそれで問題も起こったそうだが、
世界でも有数の力を持つ同盟と、魔術ギルド。
この2つを併せ持つ国に対抗できるのはアスラ王国ぐらいしかな
い。
そのアスラ王国も、魔術ギルドには少なからぬ出資をしており、
関係を悪化させたく無いと考えている。
ちなみにミリス神聖国のある一派⋮⋮というか神殿騎士団はこの
1913
学校の在り方に真っ向から反対している。
が、世界の逆側にある学校である。
わざわざ戦争を起こしてまでどうこうという事はないらしい。
学生の在籍期間は通常七年。
最大で九年。
魔術ギルド所属の研究者として、そのまま在籍し続ける事も可能
だそうだ。
五階建ての巨大な寮はあるものの、利用は自由。
町中に家のある者はそこから登校することもある。
だが、基本的には寮を使用するようだ。
俺も寮に一室用意してもらうことにした。
寮の部屋は簡素なものだった。
場所は二階。
六畳ぐらいの部屋に二段ベッドが一つ。
椅子とテーブルが一つ。
通常、二人で一つの部屋を使うが、特別生は一人だ。
希望すれば二人部屋にしてもらえるらしい。
が、やめておく。
俺は友達を作りにきたわけじゃないしな。
金を払えば貴族用の、セキュリティ性が高く、面積の広い部屋に
も移動できるらしいが、
まぁ、必要ないだろう。
暗殺者に狙われるような生活はしてないしな。
トイレは廊下だ。
驚いた事に水洗式だった。
1914
もっとも、レバーひとつでジャーというわけではない。
トイレの端に水瓶があるので、そこから水を汲んできて手動で流
すのだ。
すると、パイプを伝って汚物が下水道まで流れる、という仕組み
らしい。
もちろん、俺のような奴はバケツを使わず、水魔術で流すんだそ
うだ。
ちなみに、水瓶に水を貯める当番は決まっているそうだ。
俺は特別生なので免除だそうだが。
制服も支給される。
男の方は学生服に、女の方はブレザーに似ている。
実直だが、結構可愛らしいデザインだ。
なんでも、去年まで制服は統一されていなかったそうだが、今年
から変わったらしい。
なら体操服はブルマ、と思う所だが、残念ながらこっちはローブ
だ。
支給も指定もされなかった。
無い奴は買え、という事だろう。
一応、金も無いやつには購買で売っている一番安いものが支給さ
れるらしい。
﹁どう、似合います?﹂
と、新しいおべべを着たエリナリーゼが俺の前でファッションシ
ョーをしている。
髪型が豪奢な肩下縦ロールなので、ローブ姿の方はコスプレにし
か見えなかった。
制服の方はそこそこ似合っている。
1915
だが、俺はエリナリーゼの本性を知っているため、こちらもやは
りコスプレに見えてしまう。
﹁スカートを短く改造すれば、男が釣りやすいかもしれませんよ。
ギリギリでパンツが見えないぐらいの﹂
とりあえずそうアドバイスしてみるとエリナリーゼは﹁天才か﹂
という顔で俺を見てきた。
﹁でも、それだと寒いんじゃありませんの?﹂
﹁太ももまである靴下を履けばいいじゃないですか﹂
﹁なるほど、さすがルーデウス。天才ですわね﹂
エリナリーゼは俺に言われるがまま、スカートを折って女子高生
みたいな感じにしていた。
それでくるりと回ると、彼女の飾り気のありすぎるパンツがチラ
チラと見える。
うーん。
やっぱり制服に煽情的なパンツは似合わんな。
−−−
そして、入学式へと赴く。
こんな学校でも、入学式というものは存在した。
今年の新入生が寒い校庭に集められる。
もちろん整列なんてしない。
一人でつまらなさそうにしている少女もいれば、
1916
校長の話を熱心にきいている少年もいる。
知り合い同士で適当に集まって雑談をしている者もいる。
もしこれが日本の学校であったなら、生活指導の教師が怒鳴る所
だろう。
そんな雑多な人々を前に、レンガ作りの壇上で校長が演説をぶっ
ている。
﹁諸君、魔術師というものが剣士に見下されて、もう長い年月が経
過する。
なるほど、かの剣神らが作り上げた剣術は至高であろう!
だが! 魔術もまた至高であるのだ!
剣術はしょせん人殺しの道具にしか過ぎない。
だが魔術は違う、魔術には未来がある!
失われた魔術体系を取り戻し、現在の詠唱術式と組み合わせ、
新たな進化を遂げることが人々の︱︱︱︱﹂
俺はエリナリーゼと共に、静かに立っていた。
どこの世界でも、校長の話というのは長い。
けれど、ここの校長の演説は聞いていて飽きない。
魔術に対するやる気に満ちあふれているからだろうか。
いや違う。
カツラが飛びそうになっているのを必死に抑える姿が面白いから
だ。
エリナリーゼは周囲を見渡しつつ、男を吟味しているようだ。
目移りしているように見える。
﹁以上だ。諸君らに、魔導の道があらんことを!﹂
1917
校長は、最後にどっかの自由と正義の守護者みたいな言葉で締め
くくった。
校歌斉唱などは無い。
そもそも校歌は無い。
国歌はあるのにな。歌えないけど。
﹁続いて、生徒会長より新入生への言葉﹂
教頭の言葉で、壇上に三人の少年少女が登ってくる。
先頭に立つのは綺麗な金髪を持つ少女。
編みこみの入ったサラサラのロングヘア。
服装は俺たちと同じ、新しい制服だが、
歩き方からすでに気品がにじみあふれている。
隣にいるなんちゃってお嬢様とは大違いだ。
もっとも、エリナリーゼの立ち振舞は﹃隙が少ない﹄と言うのだ
が。
﹁あら、あれってこの間ルーデウスが泣かせた子じゃありませんの
?﹂
言われて見ると、背後を歩く二人の少年。
その片方には、白髪にサングラスを付けた人物だ。
フィッツである。
彼は油断なく周囲を見渡しながら、壇上を上がってくる。
もう片方は見知らぬ少年だ。
俺より少し年上だろうか。
軽薄そうな茶髪をオールバックにまとめ、腰に剣を差している。
魔術師には見えない。
1918
あの身のこなしは剣士だろう、多分。
そして何よりイケメンだ。
俺の調べによると、中央大陸の国々では、俺が想像するイケメン
顔より、ちょいと濃い目の顔の方が持てる。
要するにパウロみたいな顔がモテる。
ていうか、あいつ。パウロに似てるな⋮⋮。
ちなみに俺も結構悪くないらしいが、笑うと残念だとよく言われ
る。
エリナリーゼにだけは、笑顔が男らしくてステキだと褒められた
けどな。
彼らが壇上に上がると、周囲の若い子たちがざわざわとし始める。
﹁あれ、アリエル様じゃないの⋮⋮﹂
﹁あっちのは﹃無言のフィッツ﹄じゃないか﹂
﹁キャー、ルーク様よ!﹂
彼らは何やら有名であるらしい。
女子生徒が黄色い声を上げている。
恐らく、あのパウロ似の男がルークなのだろう。
女にキャーキャーと声援を送られ、手を振り返している。
モテるのだ。
チッ、マネキンのAV男優みたいな名前しやがって⋮⋮。
﹁あら、いい男﹂
エリナリーゼのお眼鏡にもかなったらしい。
﹁静まれ! アリエル様がお話になる!﹂
1919
ルーク︵多分︶の号令で、周辺のざわめきが一瞬で静まる。
拡声器なんて使っていないのに、すげぇな。
場が静まるのを見計らって、少女が前に出てくる。
﹁私はアリエル・アネモイ・アスラ。
アスラ王国第二王女にして、魔法大学の生徒会を束ねる者です!﹂
その声は、シンとした場に染み渡った。
耳朶を撃つと、脳みそが震えた。
カリスマ性とでも言うのだろうか。
よく通る声、というだけではない。
聞いていて心地いいのだ。
﹁あなた方は世界中から集まりました。
中には私達の常識と大きな違いを持つ方もいるでしょう。
ですが、ここは魔法大学、故郷とは違う秩序に守られた場所です﹂
彼女の話す内容は、基本的に校則のことだ。
自分の常識とは違う事があっても、決まりは守りましょうと、た
だそれだけの事だ。
しかしその言葉は、まるで心の奥底に沈み込むように定着した。
そうだな、ルールは守らないとな。
と、そう思えたのは、俺が元日本人だからというわけではないだ
ろう。
彼女の言葉だからこそ、従おうと思えたのだ。
﹁︱︱︱︱では、良き学生生活を﹂
1920
アリエルは最後にそう締めくくり、壇上を降りていく。
その時、ふとフィッツの視線が俺を捉えた。
サングラスでわからないはずなのに、なぜか目があったと確信が
持てる。
彼の視線は強かった。
まずいな、はやく菓子折りを買いに行かなければ⋮⋮。
−−−
入学式が終わった後、エリナリーゼと別れて指定の教室へと向か
う。
月に一度のホームルームには参加しなければならない。
聞いた話によると、現在の特別生は俺を含め6名しかいないそう
だ。
どれも曲者ぞろいで、くれぐれも喧嘩しないようにと頼まれた。
言われなくても、俺は喧嘩などするつもりはない。
何を言われてもへりくだって受け流してやるさ。
そう思いつつ、3つ並ぶ校舎の端。
三階の一番奥にある教室へと向かう。
途中、地面に線が引いてあり、﹁ここより先、特別生の教室﹂と
書かれている。
まるで隔離されているようだ。
特別生は校内を自由に出歩けるはずだが。
逆か。
プライドが高く問題を起こすから、一般生徒の方が近寄らないよ
1921
うにとの配慮か。
特別なんて名前を付けられてしまえば、特別だと思い込んでしま
うだろうし。
などと考えていると、教室についた。
扉の上のプレートには﹃特別生徒室﹄と書かれている。
こういうかかれ方をすると、なんか嫌な気分だ。
ドアを静かに開けて、そっと教室にはいる。
教室はなんとなく見慣れた感じのするものだった。
真新しい黒板に、教壇と教卓のようなもの。
木製の机が教室中に並んでいる。
窓は締め切られているが、なぜか教室内は明るかった。
席に座るのは4名。
最前列の席に座り、本を読みながら書き物⋮⋮おそらく勉強をし
ている少年。
ダークブラウンの髪で目元が隠れているのが印象的だ。
彼はこちらをチラリと見ると、すぐに興味を失ったように視線を
戻した。
教室の奥、窓際一番奥の席に座るのは、二人の少女。
どちらも獣族だ。
片方は硬そうな骨付き肉をコリコリと食べつつ、胡乱げな目で俺
を見ている。犬系。
片方は机の上に足を載せ、両手を頭の後ろに組んでふんぞり返り
つつ、こちらを睨んでいる。猫系。
この二人を見ていると、ドルディア族の村で出会った二人の幼女
を思い出す。
1922
名前はなんだったかな。
二人ともいい子だった。
それに較べてこいつらは少々行儀が悪いな。
まるでコギャルだ。
そして最後の一人。
どこかで見た事のあるような男だった。
面長で、丸い眼鏡をつけていて。
学生時代に﹁スポック﹂というアダ名がついていたような男。
彼は俺をしばらくポカンと見ていた。
表情は変わらず、ポカンとした顔のまま、ガタンと立ち上がった。
俺は予見眼を開眼した。
﹁し⋮⋮師匠ォォォ!﹂
奴は邪魔だと言わんばかりに机をふっ飛ばした。
ラッセル車のように机をふっ飛ばしつつ突っ込んでくる。
並んだ机を次々とふっ飛ばしつつ突っ込んでくる。
そう、突っ込んでくる!
﹁岩砲弾!﹂
そこをガツンだ。
﹁師匠ォォォ!﹂
俺の岩砲弾を顔面にくらい、パガンとでかい音を立てつつも、よ
ろめきもしなかった。
1923
成人男性が正気に戻るには十分な威力だが、まったく効力が無い
のか。
バカな。これが神子のパワーか!?
奴は俺の腰のあたりを掴み、グンとそのまま上へと持ち上げよう
とする。
﹁どうどう、抑えて、抑えて、肩の力を抜け、リラァックスしろ、
落ち着け、やめろ!﹂
天井にたたきつけられる衝撃に備えた。
が、持ち上げられただけですんだ。
﹁師匠! 余のことをお忘れですか! ザノバでございます!﹂
ザノバはニコニコと笑いながら、丁寧な動作で俺に抱擁した。
どこの磯な一家の若奥様だって?
﹁ああ、覚えていますよ。我が弟子よ、怖いから離してください﹂
シーローンの第三王子ザノバが、そこにいた。
−−−
ザノバは留学という名目で、ここラノア魔法大学に送り込まれた
らしい。
本来なら、力を制御できない神子など呪子同然。
騒乱の種にしかならないと受け入れを拒否される所だ。
1924
だが、魔術ギルドには、呪いや祝福を研究する機関がある。
神子となれば貴重な存在であり、サンプルとしては上々。
というわけで、ザノバは特別生として魔法大学に迎え入れられた
らしい。
サンプルにする代わりに、授業を受ける権利をやろう、って感じ
か。
ザノバとしても、魔術に興味をもった所だったらしいので、渡り
に船だったのだとか。
﹁余も師匠を目指し、日々を土魔術の訓練に費やしております!﹂
と、ザノバ。
健気な弟子である。
﹁そうですか。殿下も元気そうで何よりです。
落ち着いたら、一緒に人形を作りましょう﹂
﹁はいっ!﹂
ザノバがニコやかな顔で頷いた。
いいな。
中学時代の後輩を思い出す。
パソコンを自作できると自慢したら、こんな感じになついてくれ
たっけか。
﹁あっと、この学校だと殿下が先輩になるんですね。いま何年生で
したっけ?﹂
﹁2年です。しかし、ハハ、殿下や先輩などとは呼ばないでくださ
い。どうかザノバと呼び捨てに。師匠は余の師匠ですゆえ﹂
﹁ザノバ﹂
﹁はい、師匠﹂
1925
ザノバとそんな感じで談笑していると。
ダンと、何かがたたきつけられるような音がした。
思わずそちらに顔を向ける。
獣族の少女が、机に載せていた足を片方だけ下ろした所だった。
片足は机の上に乗ったまま。
スカートでやっているので、例の部分が見えそうだ。
﹁気に食わないニャ﹂
ニャ!
ニャ⋮⋮。
ニャと言えばドルディア族。
そしてエリスの⋮⋮いや、思い出すまい。
エリスの事を思い出すと挫折状態になりそうだ。
﹁おいザノバ、オマエ、何そんニャ新入生とくちゃくちゃくっちゃ
べってんだ?﹂
﹁リニア殿、この御方は以前話していた余の師匠で⋮⋮﹂
﹁んニャ事聞いてんじゃネェよ﹂
猫耳少女は、苛立つように、テーブル上のカカトをガンと叩きつ
ける。
﹁ザノバよ、おいコラ、おまえ、おい。
わかってんのかニャ?
あちしの言ってることわかるか? あ?﹂
ザノバの顔が硬くなる。
1926
なんだ、もしかしてこいつ、イジメられてるのか?
ザノバってかなり強かったはずだよな⋮⋮。
いや、単なる体育会系な上下関係の場合もある。
﹁わかったらそいつ連れてこい﹂
くいくいと手を動かし、俺を呼びつける。
﹁すいません師匠⋮⋮﹂
﹁いえ、問題ありません﹂
俺は言われるがまま、猫耳少女に近づく。
猫耳と犬耳。
二人はギロリという感じで俺を睨んでくる。
かつての俺なら、足を震わせてしまったであろう眼光だ。
しかし、あまり怖くはない。
なんというか、もうちょっとこう。
ただ睨むだけじゃなくて、
ルイジェルド
殺気を込めたほうがいいんじゃなかろうか。
本物はそうしていた。
﹁どうも、はじめまして、ルーデウス・グレイラットです。
本日からお世話になります、でしゃばらないように気をつけます。
よろしくおねがいします﹂
俺は腰を深く曲げ、日本式のお辞儀をした。
何にせよ、こういう相手は下手に出るに限る。
そして、極力関わらないようにするのだ。
1927
すると、リニアはむふぅと笑った。
﹁おう、素直な奴は嫌いじゃニャい。
あちしはリニア・デドルディア。5年生だニャ。
こう見えても大森林ドルディアの里の戦士長ギュエスの娘だニャ。
そのうち族長にニャる。だから今から傅いておくんだニャ﹂
やっぱりドルディア族だったらしい。
しかも、ギュエスの娘。
そういえば、長女の方は別の国に勉強に行ってるって話だったっ
けか。
ここだったのか。
懐かしいなぁ。
﹁ああ、そうなんですか!
前にドルディアの里に行った時にギュエスさんにはお世話になり
ました!
いや、感激だな! こんな所で恩人の娘さんに会えるなんて!
あ、てことはギュスターヴさんのお孫さんって事ですよね?
ギュスターヴさんにもかなりお世話になったんですよ。
雨季の間に家を貸してもらったりして!﹂
﹁お、おう、そうか、じ、爺ちゃんの知り合いだったのか⋮⋮﹂
マシンガンのように喋ると、リニアはあっけに取られた顔で俺を
見ていた。
どうでもいいが、さっき机をけった衝撃で、例の部分が見えてい
る。
水色か。
隣で肉を食っていた子が、すんと鼻をひくつかせ、顔をしかめた。
1928
﹁臭い⋮⋮﹂
いきなり失礼だ。
俺が臭いとでも言うのだろうか。
しかし、それは顔に出さず。
俺は優雅に犬っ子にむかって礼をした。
﹁失礼。先輩のお名前を聞かせてもらってもよろしいですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮プルセナなの。リニアと大体同じなの﹂
﹁プルセナさん、いい名前ですね! よろしくお願いします!﹂
彼女は鼻を抑え、ぷいと顔を背けた。
﹁⋮⋮ファックなの﹂
最後の一言は、悪口だろうか。
彼女のような少女がいうと、おじさんはむしろ興奮してしまう。
ともあれ、先制攻撃は成功だろう。
今後、理不尽なことで絡まれることはない、と思いたい。
−−−
二人との接触を、ザノバは難しい顔をして聞いていた。
そして離れた後に小声で、
﹁師匠、なぜあんなにペコペコしているのですか?﹂
1929
などと聞いてきた。
﹁⋮⋮我が弟子よ、余計な喧嘩を回避することも重要な事です﹂
﹁そう、ですが⋮⋮師匠がそうおっしゃるのであれば、余が言うこ
とはありませんが﹂
ザノバは悔しそうに頷いた。
以前に何をされたのかしらんが、もし今度こいつがイジメられそ
うになってたら、
きちんと盾になってやろう。
イジメはダメだ。絶対にな。
﹁おい﹂
などと考えていると、後ろから声を掛けられる。
﹁はい、なんでしょうか﹂
と、振り返ると、最前列にいた少年が立っていた。
﹁お前、さっきルーデウスって言ったか?﹂
﹁はい、ルーデウス・グレイラットと申します。以後お見知りおき
を、先輩﹂
ぺこりと頭を下げると、少年は面食らっていた。
﹁クリフ・グリモル。天才魔術師だ﹂
天才魔術師なのか。
1930
すごいな。
自分で天才って言っちゃうのか。
恥ずかしくないのだろうか。
﹁二年だが、すでに攻撃魔術は全属性上級まで習得した。
治癒も解毒も神撃も上級だ。結界は初級だが、すぐ中級になる。
ロクな教師がいないんだ﹂
﹁そりゃ凄い﹂
俺は素直に称賛した。
天才と自称するのもうなずける。
二年でそれだけ七種類も上級を習得するなんて、一体どれだけ努
力すれば出来るんだろうか。
俺なんて治癒魔術が中級で、解毒なんて初級だ。
上には上がいるとは思っていたが、
やっぱ凄いやつがいるな。
これが特別教室か。
俺の自尊心が傷つかなかったのは、水魔術を聖級まで取得してい
るからだろうか。
﹁僕は攻撃魔術四種の上級を取得するのに2年掛かりました。
先輩は凄いですね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮チッ、調子に乗るなよ﹂
素直に褒めたつもりだったが、クリフは舌打ちし、不機嫌になっ
た。
俺の胸ぐらをつかまんばかり勢いで、睨んでくる。
俺の方が背が高いので、やや上目遣いだ。
1931
﹁お前は魔術だけじゃなく、剣術も使うんだろ?﹂
﹁ええ、まあ、嗜む程度ですがね⋮⋮﹂
一応、俺は剣神流中級の腕前だ。
水神流に至ってはすでにほとんど覚えていない。
筋力トレーニングの一環として木刀は振っているが、
実戦で剣術を用いた事はない。
嗜む程度だ。
はっきり言って、エリスやルイジェルド、他の剣士たちが呼吸す
るように使っている身体強化がいつまで経ってもできないので、剣
の道は半ばあきらめかけている。
それにしても⋮⋮。
﹁誰から聞いたんですか? 僕が剣術を使えるって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮エリスさんだ﹂
ドキリとした。
彼はこの二年の間で、エリスと会ったのだろうか。
魔法大学にはいないだろうと思っていたが⋮⋮。
﹁彼女もこの学校に?﹂
﹁は? いるわけないだろ?﹂
すげなく言い返された。
そりゃそうか。
あのエリスが今更学校なんて行くはずないもんな。
﹁えぇと⋮⋮彼女と、どこで会ったんですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
1932
答えてくれない。
睨まれる。
何か変なことを聞いただろうか⋮⋮。
ハッ、もしかしてこの子、昔エリスに殴られたとかだろうか。
すいませんすいません、うちのエリスが本当にすいません。
﹁えっっと⋮⋮僕に関して他になんか言ってました?﹂
クリフはギロリと擬音の出る目つきで俺を睨みつけ。
ジロジロと上から下まで見た後、
﹁ふん、︵背が︶小さいって言ってたけどな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そ、そうですか︵アレが︶小さいって言ってましたか﹂
泣きそうだった。
やはりあの一件で彼女は俺の前からいなくなったのか。
もっとビッグなら⋮⋮。
﹁ま、まあ、彼女と別れてから2年、それなりに成長しましたので﹂
﹁え? エリスさんと別れたのか?﹂
﹁ん?﹂
何か話が微妙に噛み合っていない感覚。
違和感。
その違和感を確かめる前に、
﹁ふん、まあいい。どのみち、お前なんかじゃエリスさんとは釣り
合わないからな!﹂
1933
そんな言葉に心を抉られた。
クリフは鼻息を一つ、自分の席へと戻っていった。
奴は要注意だ。
−−−
その後、教師がきて、俺の紹介と、簡単な連絡だけをして、ホー
ムルームは終わった。
一人足りない。
﹁あれ? 特別生はもう一人いると聞きましたが?﹂
ザノバに聞いてみると、彼は首を振った。
﹁サイレント殿は月一の朝礼も免除されております﹂
﹁理由は?﹂
﹁さて、余にはわかりかねます﹂
最後の一人はサイレントと言うらしい。
やっぱり陰術が使えなかったりするんだろうか。
﹁やっぱり凄い人なんでしょうかね﹂
﹁顔が広く、事あるごとにあれこれと学園に口出しをしているらし
いです。学食のメニューを増やしたり、魔道具を作ったり⋮⋮この
制服もサイレント殿の発案だとか。噂によると、七大列強の一人に
推薦を受けたがゆえ、特別扱いされているということです﹂
1934
俺の脳裏に浮かんだのは、マッドなサイエンティストな感じの男
だった。
白衣を着て瓶底メガネを掛けていて、緑色の液体の入ったフラス
コを持っている。
頭はよくて成果も出すが、人としてはダメな感じ。
﹁普段は自分の研究室に篭っているようですが、
用事があれば出てくるので、いずれ師匠も顔を見るときが来るで
しょう﹂
ザノバはそんな事を言っていた。
ちなみにサイレントは3年生だそうだ。
先輩だ。
見かけたらへりくだっておこう。
−−−
こうして、俺は特別生の中に溶け込む事に成功したのだった。
1935
第六十七話﹁入学初日・前編﹂︵後書き︶
一気にキャラが増えたので整理
1年:ルーデウス︵変態魔術師︶、エリナリーゼ︵ビッチエルフ︶
2年:ザノバ︵怪力フィギュアオタク︶、クリフ︵天才魔術師︶
3年:サイレント︵謎の人︶
4年:アリエル︵アスラ第二王女︶、フィッツ︵白髪グラサンフィ︶
、ルーク︵イケメン︶
5年:リニア︵猫︶、プルセナ︵犬︶
1936
第六十八話﹁入学初日・後編﹂
ホームルーム終了後、ザノバらは授業に行ってしまった。
彼らは授業免除ではないのだ。
クリフは真面目そうだから当然として、
リニア、プルセナは授業なんかボイコットしそうな感じに見えた
が、真面目に出席しているらしい。
ザノバによると、2時間ほどしたら昼休みになるらしい。
一緒に食事を取りましょうとにこやかに誘われた。
嬉しいことだ。
俺もそのうち授業を取ろう。
しかし、目的を履き違えてはいけない。
俺は決してこの学校に勉強しにきたわけではないのだ。
とはいえ、2時間もボケッとしているわけにはいかない。
遊びにきたわけでもないからな。
さしあたって。
まずは学校内の施設を見て回ることにした。
一応、各教室の場所は聞いたし、地図でも見た。
だが、実際に自分の足で見て回った方がいいだろう。
そう思い、俺は歩き出した。
まずは保健室。
1937
この学校の保健室は広い。
ベッドが8つほど並び、二人の治癒術師が常駐している。
それだけ、魔術による事故でケガをする人が多いのだろう。
今も、俺の2倍ぐらいの身長を持つ男が担架で運ばれてきている。
片腕を抑えており、足が変な方向に曲がっている。
治癒術師の片方が患部を抑えつつ、早口で詠唱する。
中級の治癒魔術だ。
男はすぐに苦悶の表情を和らげた。
邪魔になるといけないので、その場を立ち去る。
ていうか、入り口のプレートをみてみると﹁第一医務室﹂と書か
れていた。
保健室じゃなかったよ。
次に赴いたのは体育倉庫だ。
この部屋は、先日試験をした修練場に隣接した場所にある。
もちろん入り口には鍵が掛かっている。
教員棟から鍵をもってくるか、体育教師から借りるか。
もしくは無詠唱魔術でちょちょいと解錠しなければ開ける事は出
来ない。
俺は無詠唱魔術でちょちょいと解錠し、中に入り込んだ。
中はややかび臭く、埃っぽかった。
見た感じ、体育倉庫というより、普通の倉庫という感じだった。
棚には剣道の仮面のように、皮の兜や胸当てが並び、
隅には魔術杖が傘立てに突っ込まれた傘のように何本も置いてあ
る。
鉄で出来たカカシや、よくわからん白い粉の入ったツボが置いて
ある。
1938
だが、求めるものはなかった。
この学校では高飛びや床運動はしないらしい。
ていうか、名前も体育倉庫じゃなくて﹁修練用具室﹂だった。
次は屋上にしようかと思ったが、この学校に屋上は無い。
雪が多く降る地域だというのもあり、基本的に傾斜の深い屋根が
ついている。
屋根裏部屋もあるらしいが、とりあえず今回はやめておいた。
屋上がダメなようなので、図書館を目指す事にする。
この学校の図書館は独立した建物になっている。
校舎から出て十数分ほど歩くと、2階建ての建物にたどり着く。
中に入ろうとすると、玄関のような場所で守衛に止められた。
﹁止まれ!﹂
﹁え?﹂
﹁見ない顔だな、新入生か? 授業はどうした?﹂
﹁えっと、はい、新入生です。特別生で、授業は免除です﹂
﹁生徒証を見せろ﹂
俺は若干きょどりつつも、懐から先日もらったばかりの生徒証を
取りだして渡す。
守衛は俺の顔をジロジロと見つつ、よし、と確認。
入念なボディチェックをされる。
その後、図書館の利用についての注意事項について大雑把に話さ
れた。
図書館の中では魔術は禁止。
1939
本の持ち出しは基本的に厳禁だが、一部は貸出し可能。
その場合、内部にいる司書に許可を得て、名簿に記入する必要が
ある。
当然ながら、本を破いたり汚したりすると罰則がある。
どこにでもある図書館の決まり事だが、
本を激しく損壊させた場合、罰金や退学もありえるそうだ。
ちなみに基本的に図書館にある本は、全て写本だそうだ。
写本でも損壊させれば退学。
この世界では本は高価だから当然か。
﹁それにしても、ずいぶんと厳重ですね﹂
﹁以前、本のすり替えを行った不届き者がいたからな。あろうこと
か市場に売り払っていたのだ﹂
という事だそうだ。
図書館に入ると、ふわりと本のにおいがした。
カビ臭いとも、インクの臭いとも、紙の臭いとも取れる、あの独
特の香りだ。
ふと見ると、入り口のすぐそばにはトイレがあった。
青木まりこ現象への対策だろうか。
俺は司書に軽く挨拶をし、奥へと進む。
入口付近には机やテーブルが並び、その奥には背の高い本棚がず
らりと立ち並んでいた。
﹁おお﹂
1940
俺は思わず感嘆の声をあげていた。
この世界にきてから本は何冊も読んだが、
これほどまでに大量の書物が並んでいるのを見るのは初めてだ。
吹き抜けの構造になっており、二階はやはり本棚に占拠されてい
る。
各所に机と椅子があるのは、やはりここで勉強する者が少なから
ずいるからだろうか。
調べ物をするにも丁度いいだろうし。
﹁あ﹂
と、そこで俺は人神の助言を思い出した。
﹃ルーデウスよ、ラノア魔法大学に入学しなさい。
そこで、フィットア領の転移事件について調べなさい。
そうすれば君は男としての能力と自信を取り戻すことができるで
しょう﹄
今まで、最後の一文ばかり気にしていた。
だが、﹃転移事件について調べろ﹄とも言われていたのだ。
危ない所だった。
すっかり忘れていた。
丁度いい。
これだけ本があるなら、転移について詳しく調べる事もできるだ
ろう。
しかし、さて、これだけの本だ。
どこから手を付けていいのやら。
1941
﹁司書に聞くべきかな⋮⋮?﹂
いや、と俺は首を振った。
とりあえず、今からすぐに始める必要はないはずだ。
あの転移事件の真相については、アスラ王国でもまだ判明できて
いないようだし。
俺がちょっと調べてすぐに分かるというものでもなさそうだ。
とりあえず、どのジャンルの本がどこにあるかを把握しておくだ
けでいいだろう。
そう思い、俺は本棚の間を練り歩く。
実に色んな本があった。
人間語の本が大半だったが、中には魔神語や獣神語のものもある。
闘神語の本もあった。
見知らぬ文字は天神語だろうか、それとも海神語だろうか。
俺の読める文字に翻訳して欲しい所だ。
﹁あっ!﹂
背後から、小さな叫び声が上がった。
振り返る。
白髪にサングラスを付けた少年が俺の方を見ていた。
フィッツだ。
彼は数冊の本と巻物を抱えていた。
俺は慌てて直立不動の姿勢を取り、頭を下げた。
﹁先日は申し訳ありませんでした。
僕の浅はかな行動で先輩の顔を潰すような事になってしまいまし
た。
1942
いずれ菓子折りでも持って挨拶にでも出向こうと思っていました
が、
何分新入生ゆえ、あれこれと忙しく⋮⋮﹂
﹁うぇぁ!? ⋮⋮い、いいよ、頭を上げて﹂
生前、俺が尊敬していた人にマサという人物がいた。
彼は世間の荒波を土下座だけで乗り切っている社会人だ。
彼のテクニックの一つに﹃何かしでかした時、トイレ等で先に平
謝りしておく事で、重要な場で唐突に怒鳴られないようにする﹄と
いうものがある。
俺に対してよろしくない感情を持っていたフィッツは慌て、やや
許す方向へと感情が流れている。
成功だ。
﹁ルデ⋮⋮えっと、ルーデウス君? 君はここで何を?﹂
﹁少々調べ物を﹂
﹁何について?﹂
﹁転移事件です﹂
そう言うと、フィッツは眉根を寄せた。
何か変なことを言っただろうか。
﹁転移事件を? なんで?﹂
﹁僕もアスラ王国のフィットア領に住んでいましてね。例の転移事
件では魔大陸まで飛ばされました﹂
﹁魔大陸!?﹂
フィッツ先輩は、やや大げさに驚いていた。
﹁ええ、かえってくるのに三年も掛かりました。その間に家族は見
1943
つかったようですが、まだ知り合いの一人も見つかりませんし、い
い機会だから、詳しく調べて見ようと思いましてね﹂
﹁⋮⋮もしかして、それを調べるためにこの学校に?﹂
﹁そうです﹂
まさかエレクティル・ディスファンクションを治療するためとは
いえない。
もっとも、転移事件について調べたいというのも嘘ではない。
あの事件がどうして起きたのか、知っておきたい気持ちもあるの
だ。
﹁そっか、やっぱり⋮⋮すごいや﹂
フィッツはそう言って、ポリポリと耳の裏を掻いていた。
まだ何も発見していないうちにすごいとはどういう事だろうか。
というか、やっぱりってどういう事なんだろうか。
まあいい。
﹁先輩はここで何をしてるんですか?﹂
﹁あっと、そうだ。資料を運ぶ所だったんだ。ボクはもう行くよ。
ルーデウス君。またね﹂
﹁あ、はい、また﹂
フィッツは慌てた様子で言うと、踵を返して司書の方に行こうと
する。
﹁あ、そうだ。転移についてならアニマス著の﹃転移の迷宮探索記﹄
を読むといいよ。
物語形式だけど、分かりやすく書いてあるから﹂
1944
フィッツは最後にそう言い残し、去っていった。
あまり喋るのが得意そうではない感じだったが、
しかし悪い感じはしなかった。
試験の事も根に持っていないようだ。
目線が強いから誤解していたが、わりと良い人なのかもしれない。
−−−
俺は司書に﹃転移の迷宮探索記﹄の場所を聞き、
昼食までそれを読みふけって過ごした。
分厚い本ではなかった。
手帳ぐらいの厚さで、ページ数は100ページもない。
アニマス・マケドニアスという北方大地出身の冒険者が迷宮に挑
む、という話だ。
彼の挑んだ迷宮は﹃転移の迷宮﹄。
全ての罠が転移罠という珍しい迷宮だ。
そこに住む魔物は五種類。
全て知能が高い魔物で、迷宮の構造や、転移罠で飛ばされる場所
を理解している。
運悪く転移罠で一定の地点に足を踏み入れると、大量の魔物が待
ち構えていて、殺されてしまう。
戦闘中に転移罠を踏まないようにするのは困難だ。
少しでも乱戦になれば、すぐパーティがバラバラにされる。
極めて難易度の高い迷宮に分類される。
アニマスは仲間と共にその迷宮に挑みつつ、そこにある転移罠に
1945
ついて調べていく。
転移罠は主に3種類存在する。
一つは、一方通行の転移。必ず同じ場所に出るが、戻る方法が無
い。
一つは、相互通行の転移。転移した場所に、戻るための魔法陣が
ある。
一つは、ランダムの転移。どこに出るかわからない。
転移の迷宮では、基本的に魔法陣での転移を繰り返しつつ、奥地
を目指していく。
だが、その魔法陣の中にはランダム転移が混じっている。
間違ってそれを踏んでしまえば、パーティはバラバラになり、一
人で魔物の大群と戦うハメになる。
ランダム転移魔法陣の見分け方についての考察も載っていた。
アニマスは物語の中盤で発見されたその方法を使い、どんどん迷
宮の奥地へと進んでいく。
アニマスたちは次第に調子に乗る。もはやこの迷宮は攻略したも
同然だと。
だが、見分ける方法は確実ではなかった。
物語の終盤で見分けるのに失敗し、ランダム転移を踏んでしまう。
アニマスは大量の敵に囲まれ、片腕を失いつつも、なんとか生還。
しかし、一度に三人の仲間を失ってしまった。
アニマス自身もすでに戦えない体となり、冒険を断念。
物語はそこで終わり、これを読んだ者にあの迷宮の攻略を任す、
と書かれていた。
フィクションだかノンフィクションだかわからん話だ。
それにしてもパーティ分断でモンスターハウスとは、かなりエグ
1946
いな。
生前のRPGなんかでも、似たようなダンジョンはあった。
しかし、クリアできる事を前提としたゲームと違い、この世界の
迷宮はゴールに辿りつけないという可能性もある。
他の冒険者も言っていたが、迷宮は必ず最奥の魔力結晶までたど
り着けるようになっている。
だが、一つぐらいゴールのない詐欺ダンジョンがあったとしても、
俺は驚かんよ。
巻末には、ランダム転移についての考察が載っていた。
ランダム転移はランダムとは言われているが、魔法陣によって転
移する範囲はある程度決まっているらしい。
また、洞窟内であっても、土の中などに転移する事は滅多にない
そうだ。
アニマスの推察だと、これは転移先の魔力と転移物の魔力が反発
するからで、他人の体内に直接攻撃魔術を生成する事が出来ないの
と同じ原理だろう、と書かれていた。
他人の体内に直接攻撃魔術を生成することは出来ない。
ということに関しては、俺もなんとなく知っていた。
だが、治癒魔術は相手の体内で行う。
このへんは俺が治癒魔術を無詠唱で出来ない理由の一つだが⋮⋮
今は置いとこう。 転移に関しても、そうした例外理論的なものが働くのだろう。
攻撃魔術は土の中に発生させることができるが、転移は無理。
案外、理論としては単純で、人の身体を何かある空間に移動させ
るには、余計な魔力が必要とされる、という程度の事かもしれない。
1947
などと考えていると、正午の鐘が鳴った。
時間が経つのは早いものだ。
−−−
ザノバとの待ち合わせ場所に移動し、食堂に行く。
食堂も独立した建物だった。
三階建てで、階層によって生徒の住み分けが出来ているそうだ。
三階は人族の王族や貴族。
二階は人族の平民や獣族。
一階は冒険者や魔族。
これは差別というより、区別だろう。
人族の貴族が冒険者や魔族といった者と一緒に食事を取ると、余
計な諍いが起きる。
テーブルマナー一つ取っても大きな違いがあるしな。
俺は冒険者だから一階でいいだろうと思っていたのだが、
﹁ささ、どうぞこちらへ﹂
カウンターにてザノバのオススメとかいう定食を受け取った俺は、
彼に引きずられるように三階へと移動する。
﹁うっ⋮⋮﹂
俺が階段から姿を現すと、階上にいた人々の視線が一気に集まる
1948
のがわかった。
にじみ出る平民臭というのもあるだろうが、俺の今の格好も悪い。
外に出るのは寒いからと、制服の上からローブを着込んでいるの
だ。
五年前に購入した鼠色のローブは、裾の方はすでにボロボロで、
胸には大きな縫い跡が残っている。
最近背が伸びてきた事もあって、微妙に小さい。
ハッキリ言って、みすぼらしい。
寒さ対策にローブを着ている奴は1∼2階には何人かいた。
だが、3階には一人もいない。
暖かそうなマントやカーディガンを付けている者ばかりだ。
分かりやすく例えるなら、みんなスーツを着ている所に、ジャー
ジが俺一人。
服装に頓着しない俺でも、さすがにこの空気は読める。
﹁ザノバ、ちょっとここの空気は僕と合わないと思うので、せめて
2階で食べませんか?﹂
﹁2階はいけません、リニアとプルセナがおりますゆえ﹂
﹁じゃあ1階は?﹂
﹁1階はテーブルマナーも知らぬ粗野な者が多く、仮にも王族たる
余が混じるべきではありませんゆえ﹂
﹁じゃあもう別々に食いましょうよ﹂
﹁そんな殺生な。余がいままで師匠に会えず、どれだけ我慢してき
たと思っているのですか。せめて食事ぐらいは⋮⋮﹂
﹁師匠に我慢させないでくださいよ﹂
階段の端で押し問答。
階段は広めに作られているが、通りゆく生徒はやはり迷惑そうに
している。
1949
と、その時である。
﹁キャー、ルーク様よ!﹂
階下から何やらかしましい声が聞こえ始めた。
その黄色い声はだんだんと近づいてくる。
﹁ルーク様ー、次はあたしとー﹂
﹁いやん、ルーク様のいけず﹂
﹁ねえルーク様、今度のデート、あたしも行ってもいいですか?﹂
女に囲まれて登ってくるのは一人の色男だ。
﹁いやー、ごめんね。デートは一度に二人までって決めてるんだ。
ほら、腕は二本しか無いし、三人以上連れてあるいたらあぶれる子
が出ちゃうだろ?﹂
﹁えー、残念ですぅー﹂
﹁フフッ、悪いね、ほら俺って人気者だから。また次の機会にデー
トしよう。確か、来月なら左側が空いてるからさ﹂
階下からスゲーセリフを吐きつつ現れたのは、パウロ似の少年だ
った。
両脇には制服の胸元が窮屈そうな女の子。
彼女らの腰に手を回しつつ、ヘラヘラと笑いながら、階段を登っ
てくる。
確か、入学式で見た奴だ。
ルークとか言ったか。
苗字はなんだ、ス○イウォーカーか?
1950
などと考えていると、眼があった。
﹁お前⋮⋮﹂
ルークの目が細められた。
ヘラヘラとした顔が、だんだんと険しくなっていく。
﹁確か、フィッツの⋮⋮﹂
言われ、俺は即座に頭を下げた。
この人もフィッツと俺の試合を見ていたらしい。
フィッツはもう怒っていないようだが、彼は仲間をやられてご立
腹なのかもしれない。
こういう奴らはグループ全体のメンツを気にするからな。
﹁はじめまして、ルーデウス・グレイラットです。
本日からこの学校でお世話になります、よろしくお願いします先
輩﹂
﹁ああ、知ってるよ。フィッツから聞いた﹂
ルークは不機嫌そうに俺を見てくる。
﹁で、お前は俺の名前、知ってるのか?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
世紀末覇者の弟のような事を唐突に聞かれ、俺は首を振った。
ルークという名前は聞いたが、本名は知らない。
﹁そうか、眼中に無いか、そうだよな﹂
﹁す、すいません。よろしければお名前を聞かせてもらえますか?﹂
1951
ルークはしばらく、俺の顔を不機嫌そうに眺めた後、
フンと鼻息を一つ。
﹁ルーク・ノトス・グレイラットだ﹂
吐き捨てるように言って、俺の前を通り過ぎた。
﹁えー、なにあれ、ありえなくないですかー﹂
﹁てゆーか、あのローブ、ダサすぎー、端とかスリきれてるしー﹂
﹁破けたんなら新しいの買えばいいのにねー﹂
取り巻き系女子の批難する声が、聞こえるように降り注ぐ。
が、俺の耳にはそんな事は入っていなかった。
ルーク・ノトス・グレイラット。
俺の父親であるパウロの旧名は、パウロ・ノトス・グレイラット。
隠し子ですか?
いいやまさか。
パウロはもう、ノトスの名前を捨てている。
それを堂々と名乗っているってことは、恐らく⋮⋮従兄弟か何か
だ。
﹁師匠、厄介な奴に目を付けられましたな﹂
﹁やっぱり、今ので目を付けられてしまったことになりますか﹂
﹁奴はルーク、アスラ王国の上級貴族で、一応は生徒ですが、アリ
エル王女の護衛ですな﹂
﹁⋮⋮何にせよ、ここで食べるのはやめておきましょう﹂
﹁仕方ありませんな﹂
1952
その後、俺たちは妥協案として外で飯を食べる事にした。
天気もよかったし、土魔術でちょちょいと椅子とテーブルを作り
出し、即席のカフェテラスの出来上がりだ。
ザノバはそんな魔術一つに﹁うおお﹂と叫び声を上げて感動して
いた。
目の前でこれだけ感動してもらうなら、俺としても嬉しい。
食事中、彼からアリエル王女とその御一行様の事について聞いた。
アリエル・アネモイ・アスラ。17歳。
正真正銘のアスラ王族。
第二王女。
子宝に恵まれなかったアスラ正妃のたった一人の娘で、王位継承
権は若くして三位。
正妃は彼女を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、子供の産めない身
体になったそうだ。
アスラ正妃が生んだ、たった一人の正当なる血筋の子供。
アスラにはアリエルの他に、次期国王を目指す二人の王子が存在
している。
第一王子と、第二王子。
彼らの傘下にはアスラ王国でもトップクラスの有力者がひしめい
ている。
擁立する王子が国王になれば、その下で甘い汁を吸うことが出来
る。
だが、人数も多く、必ずしも甘い汁が吸えるというわけではない
らしい。
大臣グループにも序列があるから、当然だ。
1953
序列の低いものは、蔑ろにされる。
そこで、新たに生まれた第二王女に、甘い汁が吸えそうにない者
達が飛びついた。
第二王女派と呼ばれる派閥が出来上がった。
が、4年ほど前に、そのグループの最大権力者が失脚。
第二王女は留学という名目で、この学校へと流刑になった。
そんな王女には、二人の護衛が付いている。
片方が、フィッツ。
﹃無言のフィッツ﹄。
無詠唱で魔術を行使する人物。
失脚騒動で王女が暗殺されかけた時、凄まじい戦闘力で暗殺者を
返り討ちにしたのだとか。
長耳族なのはわかっているが、どこで生まれ、何をして生まれ育
った人物なのかまったくの謎。
無詠唱を教える事のできる人物など限られている。
なのに、師匠がわからないそうだ。
アリエル一行も彼の存在を隠そうとしている傾向があるらしい。
キラーマシーン
その事からフィッツは、アスラ王宮が秘密裏に育て上げた血も涙
もない戦闘機械か何かである、とか言われているそうだ。
護衛のもう片方はルーク。
ルーク・ノトス・グレイラット。
ノトス家の現在の当主である、ピレモン・ノトス・グレイラット
の次男。
彼は元々、アリエル王女の守護騎士として、生まれた時から英才
教育を受けていたらしい。
失脚してもなお守護騎士を続けているのは、万が一、王女が失脚
1954
から立ち直り、再び王位争いに戻ってきた時の保険だからだそうだ。
彼らは入学当初から脚光を浴び続け、羨望の的であると同時に、
畏れ敬われているそうだ。
﹁もっとも、この話には余の推測も含まれていますので、ご注意を﹂
ザノバはそう締めくくった。
﹁ああ。ありがとう⋮⋮ていうかザノバ、よく知ってるな﹂
﹁調べさせられましたので﹂
﹁誰に?﹂
﹁愚かな二人の獣族に、です﹂
リニアとプルセナか。
ザノバの表情は苦悶のそれだった。
パシリにでもされてるのだろうか。
﹁ザノバ⋮⋮君は、あの二人にイジメられてるんですか?﹂
﹁イジメ? いえ、ただ余は戦いに敗れ軍門に下った、それだけの
事ですゆえ﹂
﹁軍門にね﹂
ザノバはやや難しい顔をしている。
だが、声音は平坦だ。
彼が納得しているならいいんだが⋮⋮。
イジメってのは外に出ないように行われるからな。
もしこいつが悩んでいるのなら、助けてやりたい。
とはいえ、相手の力は未知数だ。
1955
ザノバと徒党を組めばあるいは、と思うが。
ドルディア族って獣族の中では特別な種族らしいから、他の獣族
も敵に回しそうで怖いんだよな。
あいつらすぐ偏見でモノを見るし。常識違いすぎて怖い。
いや、もちろんいい奴もいるんだけどな。
ギレーヌとか。
それに、俺はいじめられっこの味方だ。
﹁何か嫌なことをされそうになったら言って下さい、微力ながら力
になります﹂
﹁ハハハ、師匠にお手数は掛けませぬゆえ、ご安心を。
そんなことより人形の話をしましょう!﹂
ザノバはそう言って笑っていた。
ふーむ⋮⋮。
まあ、もう少し様子を見るか。
−−−
昼食後、俺は散策に戻った。
しかしながら、他に見ておくべき場所も思いつかなかったので、
ざっと校舎内を見て回った後、図書館へと戻ってきた。
転移についての文献を漁る。
が、そもそも俺は図書館というものを今まで利用した事がない。
文献を探すだけで、かなりの時間が掛かってしまった。
司書さんに蔵書リストを見せてもらい、
1956
そこから﹁転移﹂という単語をタイトルに含むものをピックアッ
プ。
さらにそれを本の海から探しだす、と。
それだけで数時間だ。
しかも、持ってきた本は転移についての詳しい文献ではなかった
り、
専門用語や難しい言葉で書かれているものであったり。
俺の知らない言語で書かれていたり⋮⋮。
知識を知らなければ読み解けない本が大半だった。
﹁とりあえず、本格的に調べるなら、せめてノートぐらい欲しいな﹂
読んで憶えるにも限界がある。
そう思い至った俺は、本をキープしといてもらい、外に出た。
外は夕暮れ時だった。
授業を終えた生徒達が、チラホラと寮へと戻り始めている。
図書館に入っていく者もいるようだ。
俺はその流れに逆らうように購買へと向かった。
購買は、本校舎の入り口付近にある。
購買というより、雑貨屋といった感じのする区画だ。
中に入ると、数人の生徒が和気あいあいとしながら買い物をして
いた。
ざっと見渡すと、魔術教本や魔石、ローブ、木剣、初心者用の杖
などが置いてある。
1957
他にも、カバンや靴、石鹸といった日用品も置いてあった。
また、干し肉や燻製肉といった食料や、飲料水・酒といった飲み
物の瓶も置いてある。
要するに、なんでも置いてある感じだ。
俺は適当に紙束とペン、インク、そして紙束をまとめるための紐
を購入し、その場を後にした。
そもそも、俺は学校にいくのにそんなものも買っていなかったの
だ。
まったく何をしにきたんだろうか。
もちろん、病気を治療しにきたのだ。
今のところ、取っ掛かりは無いが。
購買を出ると、周囲は暗くなっていた。
街灯のようなものはなかったが、道がぼんやり光っていたので、
そのまま歩く。
すでに冬は終わったとはいえ、まだ道には雪が残っている。
足元に気をつけつつ、寮への道を急いだ。
周囲には誰もいない。
遠くから喧騒が聞こえるが、ちょうど人のいない空間に迷い込ん
でしまった感覚を受けた。
本校舎からだと、女子寮、男子寮順に並んでいる。
女子寮の前を横切るように道は続いている。
俺は特に深く考えず、その道へと足をまっすぐに進んだ。
その時だ。
﹁ん?﹂
1958
ふと上から何かが落ちてきた。
白い。
だが、雪ではない。
反射的に掴みとった。
﹁おおう﹂
広げてみると、それは純白の布であった。
やや飾りのついた、しかし派手ではなく、清楚な印象を受ける布
だった。
具体的な名称を上げると、おパンティだった。
誰かが陰干しでもしようとしたのかもしれない。
そう思って見上げると、落とし主と目があった気がした。
が、暗くてその顔が判別できない。
でも、どこかで見たような⋮⋮。
﹁⋮⋮えっと、おとしまし﹂
﹁キャァァァァ! 下着泥棒!﹂
えっ?
女生徒の叫び声。
上からではない。
後方から聞こえた。
慌てて振り返ると、俺の方を指さし、叫んでいる人影。
誤解だ。
と、思った時にはもう遅い。
1959
叫び声と時間差で、ベランダの窓がバンバンと開く。
そして、一階からそのまま飛び出してくる影。影。影。
気づけば、俺はパンツを掲げ持った姿勢のまま、包囲されていた。
何がなんだかわからない。
﹁あ、えっと、あの⋮⋮﹂
﹁ふん!﹂
先頭に立っているのは、やたらとガタイのいい女子だった。
女子というか、女というか、山賊というか、ゴリラというか。
そんな感じの方だった。
肩幅が俺の2倍近くある。
獣族か⋮⋮? いや、魔族かもしれない。
﹁変態のクズが﹂
混乱する俺に、その女子はペッと唾を吐いた。
いきなりの罵倒。
森の賢者の所業とは思えない。
なんだ。
どうなってるんだ。
なぜいきなり下着泥棒扱いされてるんだ。
確かに俺は下着に興味津々な15歳の少年だが、
今回は盗もうとしたわけでも、嗅ごうとしたわけでもない。
上から落ちてきたものを落ちる前に拾い、持ち主に返そうとした
だけだ。
﹁ちょっと、待って下さい、僕は何もしていません﹂
1960
﹁何もしていない?﹂
ゴリラ系女子に腕を掴まれる。
でかい手だ。
﹁じゃあ、その手に持ってるのは、なんなんだい?﹂
俺の手には、確かにブツがある。
それが証拠品だと言わんばかりの顔だ。
周囲の目線が痛い。
これは間違いない、敵意の視線だ。
足が震え出す。
﹁それ、アリエル様の下着じゃないか。いくら姫様に憧れてるから
って、こんな時間に堂々と、恥を知りな!﹂
ゴリラさんの啖呵に、周囲の女子も﹁そうよ!﹂﹁変態!﹂﹁死
ね!﹂などの罵声を俺に浴びせてくる。
なんなの、すでに泣きそうなんだけど。
﹁ほら、こっちにきな、二度とこんなことが出来ないように後悔さ
せてやっから!﹂
腕と肩を捕まれ、引きずられる。
わずかに抵抗を試みるも、俺の靴の裏にズルズルと轍が残るだけ
だった。
パワーがダンチだ。
俺も鍛えているつもりだったが、筋肉量が違いすぎるのか。
俺はこのまま建物の中に引きずり込まれ、
1961
見るも無残なリンチを受けるハメになるのだろうか。
冤罪で。
逃げるか?
悪いことをしていないのに?
逃げたら、俺が悪いと喧伝することになるんじゃないのか?
どうしよう、電車で痴漢冤罪受けた時ってこんな感じなんだろう
か。
話してわかってもらえるのか?
すでに決めつけられているようだが⋮⋮。
いや、こういう時こそ強気で行くべきだ。
俺は何も悪いことをしていないんだから。
そう思って、土魔術を使い、足元を固定した。
引きずる動きが止まり、ゴリラが意外そうな顔をする。
それから、見透かしたように嘲笑した。
﹁へぇ、なんだい、開き直って暴れるつもりかい?
下着泥棒のくせに図々しいじゃないか。
この人数相手に勝てるとでも思っているのかい?﹂
どうだろう。
勝てない感じはしないが。
しかし、下着泥棒。
ここで暴れても、俺が下着泥棒のレッテルを張られる事には変わ
らない。
冤罪でだ。
それどころか、暴れれば婦女暴行の罪まで重なる。こっちは冤罪
じゃなくなる。
署名活動とかされて退学まで追い込まれる可能性すらありうる。
1962
参ったな。
どうすりゃいいんだ。
﹁待って! その連行、ちょっとまって!﹂
そこに、やや甲高い少年の声が響き渡った。
﹁フィッツ様!﹂
﹁えっ! フィッツ様!?﹂
﹁フィッツ様が喋った!?﹂
﹁どうしてここに!?﹂
人混みを割いて現れたのは、白髪頭にサングラスを付けた小柄な
少年だった。
フィッツだ。
﹁ごめん。その下着、ボクが干そうとして落としちゃったんだ。
彼は拾ってくれただけなんだよ﹂
フィッツは肩で息をしつつ、俺とゴリラの間にはいる。
そして弁明をしてくれた。
ゴリラはフンと鼻息を一つ。
﹁フィッツ⋮⋮様。あんたがアリエル様に下着の洗濯まで任されて
るのは知ってるよ﹂
でも、とゴリラが続ける。
﹁それとコレとは別の話だよ。こいつはこんな時間に、こんな所を
歩いていたんだ。
1963
日没後、この道は女子しか通っちゃいけないって決まってるのに
ね﹂
そうなのか?
通行止めの看板はなかったが。
戸惑う俺を尻目に、フィッツは首を振る。
﹁彼はまだ新入生なんだ。特別生だし、一人部屋だからルームメイ
トもいない。
寮の細かいルールをまだ知らないはずなんだ。
見逃して上げてほしい﹂
フィッツは必死だった。
聞いている俺にも必死さが伝わってくる声音だった。
なんだかしらんがありがてえ。
ゴリラの顔がこっちを向く。
本当かい? と言わんばかりだ。
俺はコクコクと首を縦に振った。
ゴリラはしばらく俺の手を掴みつつ、フィッツの顔を見ていたが。
﹁ふん、あの無口なフィッツ様がここまで弁護してるんだ。本当の
事なんだろうよ。けど、こいつが寮の協定を破ったのも本当だ。見
せしめとして、罰は受けてもら⋮⋮う!?﹂
そう言って彼女は俺を引きずろうとし、動きを止めた。
いつのまにか、フィッツが杖を抜いていた。
その先端をゴリラの顔面に突きつけている。
1964
﹁彼は悪くないと言ってるだろう。
いいから、その手を離せ⋮⋮﹂
﹁ふぃ、フィッツ⋮⋮様?﹂
怒気の混じった声。
周囲がざわめいた。
暗がりの中、ゴリラの顔が青ざめていくのがわかる。
﹁それとも、ここにいる全員、医務室送りになりたいのか?﹂
かっこいい。
俺もこんな啖呵切ってみたい。
﹁チッ⋮⋮わかったよ﹂
やや乱暴に手が離された。
羽交い絞めにしていた子も離れる。
手首がヒリヒリする。
だが、治癒魔術は必要なさそうだ。
﹁フィッツ様、今日の所はあんたの顔を立てといてやるよ。
けど、そっちのお前!
二度と今以降の時間帯に女子寮の近くをうろつくんじゃないよ!
今度見つけたら、次は容赦しないからね!﹂
ゴリラはそんな捨て台詞を残し、自分の飛び出てきた窓へと戻っ
ていった。
他の女子たちも、俺に強い視線を残しつつ、消えていく。
一瞬にして、その場から女子がいなくなった。
1965
﹁ふぅ⋮⋮まったく、ゴリアーデさんは人の話を聞かないんだから
⋮⋮﹂
フィッツはため息をついて、彼女らを見送っていた。
さっきのゴリラはゴリアーデというらしい。
力の強そうな名前だ。
まさにネームイズボディ。
フィッツは、俺に頭を下げた。
﹁ごめん。ボクが下着を落としたからこんな事になっちゃって﹂
なんで男子であるこいつが、女子寮で下着なんて洗濯しているん
だろうか。
と思う所だが、彼はアリエル王女からの信頼が厚い護衛という話
だし、特別に許可されているのだろう。
誠実そうな人だし。
全身から無害そうな感じが出てるし。
頼れるし。
若いし。
グラサン込みでイケメンだし。
イケメンってか、可愛い系男子という感じだけど。
やばい、上品にいうと恋しそう。
下品にいうと足を舐めてもいい。
﹁いいえ、フィッツ先輩は悪くありません⋮⋮助かりました﹂
﹁助かったなんて⋮⋮君が本気を出せば、彼女たちが怪我をしただ
ろうし﹂
と、そこで俺は彼が慌てて助けにきた理由がわかった。
1966
俺が暴れれば、女子が怪我をする。
そう考えたのだろう。
もっとも、それにしては、親身になってくれていたが。
﹁しかし、突然で驚きました。なんなんですか、今のは﹂
﹁あ、うん。ゴリアーデさんも言ってたけど、日が落ちてからは、
男子生徒は女子寮に近づいたらダメなんだよ﹂
﹁そうなんですか? でも、そんな事は校則には﹂
﹁寮に住む生徒同士の間で、そういう取り決めがあるんだよ。日が
落ちたら、この道は使わず、遠回りして男子寮に行くこと、ってい
うね﹂
ローカルルールというやつか。
知らなかったとはいえ、誰か教えてくれればいいのに。
ザノバとかがさ。
﹁知りませんでした﹂
﹁仕方ないよ。次からは気をつけてね﹂
﹁はい﹂
言われずともだ。
例え昼間であっても、俺はこの道を二度と通らないだろう。
未だ、大勢から敵意のある視線を向けられるのは怖いのだ。
囲んでいるのが魔物だったり、あるいは片手で数えられる程度の
人数なら大丈夫なんだが。
大勢の女子の視線。敵意。
思い出して、身震いした。
﹁とにかく、助かりました。フィッツ先輩が助けてくれなければど
1967
うなることかと⋮⋮﹂
﹁いいんだよ、当然の事をしたまでだから﹂
当然の事⋮⋮か。
思えば、俺はここ数年、誤解と冤罪ばかりを身に受けてきた記憶
がある。
獣族に始まり、パウロ、オルステッドと。
それほど、疑われやすい顔なのだろう。
しかし、フィッツ先輩は俺を悪いと決めつけなかった。
むしろ、俺の側に立って味方をしてくれた。
公平な立場で。
その根幹には自分のミスもあったのだろうが、
試験の事もあったのに⋮⋮。
嬉しい事だ。
フィッツ先輩。
サッパリした性格のようで、試験の事も根に持ってない。
図書館でもアドバイスをくれた。
学校内でも顔がきくし、それを鼻に掛けていない。
さっきも状況をよく見て助けてくれた。
見た目はショタっぽいが、人格者だ。
先輩。
そうだ、先輩と呼ばせてもらおう。
フィッツ先輩と、敬意を込めてそう呼ばせてもらおう。
﹁でもルーデウス君なら、自力でも切り抜けられたんじゃない?﹂
﹁そんな事はありません。先輩、本当にありがとうございました﹂
1968
頭を下げると、フィッツ先輩は恥ずかしそうにポリポリと頬を掻
いていた。
﹁あはは⋮⋮ルーデウス君にお礼を言われるなんて、おかしな感じ
だね﹂
﹁え? どうしてそう思うんですか?﹂
そう聞くと、フィッツ先輩ははにかんだ笑いを見せた。
﹁⋮⋮⋮⋮ないしょ﹂
不覚にも俺は、その笑顔にドキリとしてしまった。
−−−
こうして、俺の学校初日は終了した。
1969
第六十九話﹁フィッツ先輩﹂
一週間ほど経過した。
学校生活は単調である。
俺の一日は以下の通りだ。
まず、朝起きると、日課となっているトレーニングを始める。
生前に読んでいた漫画によると、ある男は腕立て背筋スクワット
100回に10キロのランニングに加えて髪の毛を代償にする事で
世界最強の力を手に入れたらしい。
俺は髪の毛を失いたくないのでもう少し頑張る。
具体的には、木刀による素振りやら何やらをする。
自室に戻ってきて、魔術の訓練を少々。
久しぶりにフィギュアの製作を開始する。
ザノバが教えてくれとうるさいので、リハビリもかねての事だ。
こちらはあまりはかどっていない。
少しすると、ザノバが呼びに来るので、朝飯に行く。
寮の食堂は学年や身分毎で食べる順番が決まっているらしい。
が、多少はアバウトでもいいようだ。
朝は忙しいからな。
飯が終わったら、ザノバと別れて図書館へと向かう。
転移の事について調べるのが、少し面白くなってきていた。
1970
正午の鐘がなる頃にザノバと待ち合わせ、昼食を取る。
彼も頑張っているらしく、
授業の中の分からない部分を、俺に聞いてきた。
一応、わかる範囲で答えておく。
ちなみにザノバは土魔術の授業しか取ってないらしい。
まあ、好きにすりゃいいと思うが。
ちなみに飯は大体外で食っている。
奇異な視線で見られる事もあるが、概ね問題ない。
たまにエリナリーゼが顔を出すが、彼女の目にはザノバはいい男
に見えないらしく、すぐにどこかに行ってしまう。
彼女は食堂の1階と2階をウロウロしているらしい。
女子寮に男子は連れ込めないので、アレの方はどうしているのだ
ろうと聞いてみると、夜に町の方でしっぽりやっているそうだ。
昼も夜も活動するとは、タフなやつだ。
ちなみにこの食堂、結構俺の舌に合う料理が多い。
例のカラアゲもどきことナナホシ焼きだとか、カレーによく似た
別物であるケリースープだとか。
好物にはあと一歩届かないが、しかし似たようなものが出てくる
ので、個人的には満足だ。
午後には本校舎の教室に向かう。
神撃魔術と結界魔術の基礎についての授業を受けてみる。
神撃魔術というのは、ゴースト系や、実体を持たないガス状の魔
ディスタブ・マジック
物に対し、特に効果を上げる魔術だ。
理論的には﹃乱魔﹄に近いだろうか。
魔力をそのまま叩きつけるようなイメージだ。
1971
もっとも、魔力をただ叩きつけるだけでは何のダメージも与えら
れないので、何か特殊な作用があるのだが、それについてはわから
ない。
もし俺が生前で退魔師であったなら、あるいはそこらへんも理解
できたのかもしれない。
今のところは、ただ理論を教わりつつ、詠唱を一つずつ暗記して
いくだけだ。
敵によって、術の種類を変える必要があるらしい。
優れた神撃術師になりたければ、相手を見極めるのが重要だそう
だ。
別にそんなのは神撃術師に限らんだろうが。
ちなみに、一流の剣士は幽霊も斬っちゃうらしいよ。
結界魔術というのは、文字通り結界を作る魔術だ。
マジックシールド
基本的には魔法陣を用いるのだが、初級なら詠唱も可能である。
初級では、目の前に魔力的な攻撃に対する壁を張る﹃魔力障壁﹄
マジックシールド
を習う。
﹃魔力障壁﹄は炎や冷気を遮断・軽減する力がある。
耐魔レンガや、宿の暖房に使われているのも、これの発展形だろ
う。
しかし魔力に対する障壁があるなら、物理に対する障壁もありそ
うなものだ。
実際、シーローンの結界は物理攻撃も弾いていたしな。
そのうち教わるのだろうか。
教師に聞いてみると、
神撃にしろ結界にしろ、ミリス教団がその権利を持っているらし
く、
フィジカルシールド
魔法大学では初級までしか教えていないらしい。
物理障壁は中級になるらしく、習得はできないそうだ。
1972
先生は使えるし、教えることも出来るそうだが、違反なんだと。
違反を犯してそれがバレれば、ミリス教団から追い回され、異端
審問に掛けられてしまうこともありうるのだとか。
ちなみに以前はどちらも初級すら教えることができなかったらし
いが、
二年ほど前に、ある条件を飲むことで教えることを許可されたそ
うだ。
そういう事情もあるので、
授業ではむしろ、結界をどう打ち破るか、という部分に焦点を置
いて教えていくそうだ。
結界には対物理型と対魔法型があり、聖級以上になれば両方の特
性を兼ね備えた結界を張れるらしい。
また、身を守るための結界や、何かを閉じ込めるための結界など、
用途は様々だ。
ロキシーも結界については多少話してくれていたが、俺も当時は、
結界という言葉尻でわかった気になって、多少聞き流していた部分
もある。
なので、復習も兼ねて最初から聞くというのは、やはり勉強にな
る。
授業が終わったら、図書館へと戻る。
暗くなるまでの間、転移について調べる。
一応文献を漁ってはいるものの、
転移術というもの自体が禁術として指定されているせいか、あま
り詳しい事は載っていない。
フィッツ先輩が教えてくれた﹃転移の迷宮冒険譚﹄が一番詳しく
1973
載っているかもしれない。
そして、寮に帰って晩飯を食った後、少しだけフィギュアを作っ
て就寝。
生活サイクルができ、余裕も出始めた。
が、夜の暴れん坊将軍は町火消しのめ組の居候なままである。
回復の兆しはない。
−−−
そんなある日の事だ。
夕方の図書館。
そこで転移について調べていると、フィッツ先輩がやってきた。
白髪にサングラス。
指定の学生服に、ちょっとおしゃれなマントと、頑丈そうなブー
ツ、ピッチリとした白い手袋。
フィッツ先輩には何度か会ったが、いつもこの格好をしている気
がする。
﹁ルーデウス君、隣、いいかな?﹂
﹁隣などと他人行儀な、ささ、温めておきました、冷めないうちに
お座り下さい﹂
﹁あはは、悪いねぇ﹂
俺が席を譲ると、フィッツ先輩ははにかみながら座ってくれる。
俺は隣に移動し、調べ物を続ける。
1974
﹁調べ物、進んでる?﹂
フィッツ先輩は俺の手元を覗きこんでくる。
あれから一週間。
俺は毎日転移についての文献を漁っている。
﹁過去にも何度か、フィットア領と似たような事件があったらしい
という事はわかりました﹂
俺は自分の調べたことを、フィッツ先輩に聞いてもらう。
﹁フィットア領ほど大規模ではありませんが、
ある日唐突に人が消え、ある日ひょっこり帰ってくる、という事
はあったみたいですね﹂
いわゆる神隠しである。
人が一人消え、別の所に出現したり、同じ場所に再出現したりす
る。
そんなことが、この世界ではわりと頻繁⋮⋮とまではいかないが、
たまに起きているようだ。
﹁それは、フィットア領の転移と同じものなのかな?﹂
﹁どうでしょうね⋮⋮ん?﹂
ふと、フィッツ先輩の手元を見ると、彼の手にあるのも転移に関
する本だった。
﹁もしかして、手伝っていただけるんですか?﹂
1975
そう聞くと、彼は首を振った。
﹁違うよ。ボクも例の転移事件について調べてるんだ﹂
﹁そうなんですか。どうしてわざわざ? アリエル王女に命令され
たんですか?﹂
﹁いいや⋮⋮﹂
フィッツ先輩は少しだけ考えるように、顎に手をやり、
ちょっとだけ口の端を歪めて、笑った。
自嘲げな笑いだ。
﹁実は、ボクの知り合いも、あの転移で行方不明になってね﹂
﹁それは、その、なんと言えばいいか⋮⋮﹂
俺は難民キャンプの死亡者リストの事を思い出していた。
おびただしい死者の数。
あれから5年。
すでに生存者は絶望視されている。
きっと、フィッツ先輩の知り合いとやらも、生きてはいまい。
家族全員が生きていた俺は、運がよかったのだ。
﹁いや、最近になって生きてる事は分かったんだ﹂
﹁え? あ、そうなんですか?﹂
﹁うん。でも、それまでは転移について調べれば⋮⋮例えば転移の
出現先の傾向とかがわかれば、見つけ出すのも簡単になるかなと思
ってね、調べてたんだよ﹂
転移の出現先の傾向か。
なるほど、そういう考え方はしたことがなかったな。
1976
﹁さすが先輩ですね。ご慧眼です﹂
﹁いや、そんな事はないよ⋮⋮それに、結局ボクは、探しに行けな
かったわけだしね﹂
フィッツ先輩はそう言って、やや俯き加減に顎を落とした。
聞いた話によると、第二王女が失脚したのは転移事件の約一年後
だ。
当然、その前から失脚への兆しは見えていただろうし、
護衛であるフィッツ先輩は、それはもう多忙だっただろう。
﹁それは仕方ないでしょう﹂
立場というものがあるのだ。
ほっぽりだして捜索に参加するわけにもいくまい。
むしろ、護衛という立場を利用し、この学校の図書館で別角度か
ら事件について調べていた。
見つかったということは、情報収集もしていたということだし。
それだけでも、十分といえる。
﹁過ぎた事より、これからの事を考えましょう、さしあたって、先
輩が調べた事について聞かせてもらえますか?﹂
﹁うん、いいよ、明日にでもまとめたのを持ってくる⋮⋮。けど、
あんまり期待しないで欲しいんだ。ボクは調べるのがあまり得意じ
ゃないから、ルーデウス君みたいにすぐに何かを見つけるって事は
できなくて﹂
フィッツ先輩は自信が無さそうだ。
彼は今、四年生と言ったか。
授業と護衛と、先日聞いた話だと、アリエル王女の雑務みたいな
事もやっているらしい。
1977
あと、生徒会にも所属していると言っていたか。
そんな中で、少しずつ調べていたのだ。
忙しいという事を理由にして逃げずに。
すごいものだ。
﹁僕は先輩より時間が取れるだけです﹂
なにせ、午前中を全て調査に当てられるのだ。
実際に現場を見てきたことや、生前の知識で、多少は予測できる
こともあるしな。
﹁えっと、その、ルーデウス君。ものは相談なんだけど﹂
唐突に耳の後ろを掻きつつ、俯き加減でごにょごにょと呟いたフ
ィッツ先輩。
俺は首をかしげる。
﹁なんでしょうか﹂
先日助けてもらったお礼もある。
なんでも言って貰いたいものだ。
﹁転移事件の調査を、ボクにも手伝わせて欲しいんだ﹂
そんな言葉に、俺は恐縮した。
﹁いえ、むしろ手伝うのはこちらでしょう。
僕の方は先日調査を始めたばかりで、情報量も少ないんですから﹂
﹁でも、ボクはそんなに時間が取れないんだ。
きっと、ほとんどの場合はルーデウス君が一人で調べる事になっ
1978
ちゃうと思う。
⋮⋮君は、嫌かな? たまにくるだけの相手に口出しされたりす
るのは﹂
基本的に一人で調べて、たまに来る奴が調べた事をダメ出しする。
そう聞くと、確かに嫌かもしれない。
かもしれないが、フィッツはただダメ出しをするタイプには見え
ない。
それに、俺一人より、別の視点から見てくれる人がいたほうがい
いだろう。
俺はあまり頭がよくないしな。
天才といわれるフィッツ先輩なら、俺が調べた事からでも、何か
を見出してくれるかもしれない。
﹁嫌じゃありません。よろしくお願いします﹂
﹁うん、よろしく﹂
そう言って握手をすると、フィッツははにかんで笑った。
その顔と、小さくて柔らかい手。
ドキドキしてしまう。
男相手に⋮⋮。
⋮⋮いや、まさかな。
気の迷いだろう。
−−−
1979
その後、俺はその日調べた分をまとめて、お開きとなった。
図書館から出ると、辺りはもう暗くなっていた。
フィッツと適当に雑談しながら帰路につく。
彼は毎日王女の護衛や雑務で忙しいらしいが、10日に1回はこ
うして夕方に暇な時間ができるそうだ。
﹁そういえば、ルーデウス君。昼に見たよ。すごいね﹂
昼と言われ、俺は首をかしげた。
何かしたっけか。
﹁あのザノバ・シーローンが子犬みたいになついていて、びっくり
したよ﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
昼というと、即席カフェテラスで衆目を浴びつつ飯を食っている
時の事か。
﹁君は知らないかもしれないけど、彼は入学当時から喧嘩ばかりし
ている乱暴者の問題児なんだ﹂
喧嘩ばかりしている問題児と聞いて、俺は苦笑した。
やはりというかなんというか。
イジメられっこではなかったらしい。
そうだよな、人の首を引っこ抜ける奴がそう簡単にイジメられた
りはしないよな。
﹁結局、リニアとプルセナっていう⋮⋮素行の悪い生徒の元締めみ
たいな奴らにやられてからおとなしくなったんだけどね﹂
1980
で、リニアとプルセナは番長らしい。
暴れまわっている新入生ザノバに戦いを挑み、わりとあっさり倒
してしまったのだとか。
二対一で。
卑怯とは言うまいね。
それから、ザノバは舎弟のような扱いを受けているそうだ。
あまりそういう場面は見ないが。
﹁もしかするとリニアとプルセナが絡んでくるかもしれないから、
気をつけて﹂
﹁大丈夫だと思いますが⋮⋮﹂
すでにこっちは恭順を示しているつもりだ。
今のところ、どこかで顔をあわせる事もない。
不良がどこに溜まっているのかは知らないが、食堂でも滅多に見
ない。
﹁えっと、その、ボクと会ってると、彼女らも気に食わないと思う
んだ﹂
﹁それは、どうして?﹂
﹁その、ボクらが一年生の時に、彼女らがアリエル様にちょっかい
を掛けてきたんだけど、その時にボクが決闘して倒したんだ﹂
﹁二対一で?﹂
﹁うん。だから、その、逆恨みされてるかもしれなくて⋮⋮﹂
なるほど。
しかし、その話だと、フィッツ先輩は相当強い事になる。
ザノバに︵二対一とはいえ︶圧勝したリニア・プルセナを倒した
フィッツ先輩。
1981
おや、となると、フィッツ先輩に勝った俺が最強という事になる
な。
いやまさか。
相性の問題もあるだろう。
俺は乱魔が使えるから無詠唱魔術を使う相手には相性がいい。
不意打ちでもあったからな。
﹁ルーデウス君は大丈夫だと思うけどね﹂
﹁さて、どうでしょう﹂
﹁この学校には、ボクに一対一で勝てる相手なんていないよ。
ボク、これでも今まで負けなしだったんだから﹂
そう言って俺を讃えてくれるが、しかし俺はむしろフィッツ先輩
の心根を称賛する。
今まで負けたことのない人が、初めて負けたという。
それなのに、根に持っていない。
悔しいとか思っていないのだろうか。
﹁あの魔術、乱魔だっけ? すごいよね、今度教えてよ﹂
﹁ええ、いいですよ﹂
俺は快く承諾した。
乱魔を習得すれば俺はフィッツに勝てなくなるかもしれない。
そう思いつつも、断ろうとは思わなかった。
﹁あ、でも、そういう事だから、気をつけてね。
特別生って変わり者が多いから⋮⋮。
クリフっていうのも喧嘩っ早いし、サイレントも入学当時はよく
問題を起こしていたらしいし。あと、今年の一年生にも冒険者上が
1982
りの変な長耳族がいるって聞くよ。男の子を襲うんだって﹂
最初の二人はよくわからんが、
最後の一人は襲うは襲うでも意味が違うだろう。
﹁僕としては、喧嘩にならないようにうまく立ちまわるだけですよ﹂
なんて話をしていると、分かれ道にきた。
まっすぐ行けば女子寮だ。
まだ明るいが、もう二度とこの道は歩かん。
﹁あ、ボクはアリエル様に用事があるから﹂
﹁はい。お疲れ様でした。また今度、よろしくおねがいします﹂
﹁明日は時間ないけど、図書館には寄るから﹂
フィッツはそう言って、女子寮の方へと歩いて行った。
女の園への自由入出⋮⋮あまり羨ましいと思わないのは、先日の
マッスルボマーさんが記憶に残っているからだろう。
⋮⋮それとも。
もしかすると。
フィッツ先輩をツテにして女の園に侵入することが、
俺のこの学園における最終目的達成のためのキーになってくるの
だろうか。
未だ、人神の助言の意図が見えない。
−−−
1983
そんなわけで、俺はフィッツ先輩と協力して調査を進める事にな
った。
彼とは仲良くはなっていったと思う。
向こうが思った以上にフレンドリーだったのもあるが、
良好な関係を築けていた。
もっとも、彼は謎が多かった。
﹁そういえば、先輩はどうしてサングラスを付けているんですか?﹂
﹁サングラス⋮⋮ああ、眼鏡のこと?﹂
フィッツ先輩はサングラスを外さなかった。
決して、一度も。どんな時でも。
﹁うーん、ちょっと理由があって、言えないんだ、ごめんね﹂
﹁いえ﹂
彼の素顔を見てみたいと思う部分はあった。
だが、本人が隠しているものを、無理に見ようとする気にはなれ
なかった。
﹁そういえば、先輩って、寮の何階に住んでるんですか?
食事の時は見たことありませんけど﹂
﹁えーと。一応、その、女子寮の方に寝泊まりしてるんだ。アリエ
ル様の護衛だし﹂
それは問題が起きないのだろうか。
と思う所だが、あの寮では許可を取れば﹃奴隷の持ち込み﹄が可
1984
能だ。
奴隷でなくとも、力のある王族・貴族なら、多少の融通は聞く。
男子寮にもメイドをつれている貴族がいるしな。
そのメイドやら従僕やらが問題を起こせば、当然主人の責任とな
る。
フィッツ先輩は生徒の扱いだが、アリエル王女のカリスマ性と、
アスラ王族の権力。
それに加え、フィッツ先輩個人が信頼されているという事もある
だろう。
あのゴリアーデさんだかビッグバンベイダーさんだかという名前
の女子も、フィッツ先輩やアリエルには様付けをして一目置いてい
た。
あと、エリナリーゼの話によると、フィッツ先輩の女子人気とい
うものはかなり高いらしい。
ルークにキャーキャー言ってるのは初心者のミーハーで、
玄人になると、フィッツの物憂げな横顔にキュンときちゃうのだ
とか。
実際に話してみると、あんまり物憂げな感じはしないのだが。
しかし言いたいことはわかる。
﹁そういえば、先輩って、僕とは普通に話していますよね﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁無口な方って聞いてましたけど﹂
﹁ボク、その⋮⋮結構人見知りするんだよ﹂
その割には、俺には自分から話しかけてきたように思ったが。
波長の合う、合わないもあると聞くし、そういうものなのだろう
か。
1985
とにかく、この学校の常識としては、フィッツは驚くほど言葉を
発しないそうだ。
無詠唱の魔術師という事も相まって、ついたアダ名が﹃無言﹄の
フィッツ。
あるいは﹃沈黙の魔術師﹄だそうだ。
﹁実はフィッツ先輩の家名ってライバックだったりしませんよね?﹂
﹁え? ライバック⋮⋮って北神二世がそんな名前だったっけ? まさか、違うよ。大体、ボクは家名なんて持ってないよ、貴族でも
ないし﹂
﹁またまた、実は料理とか得意だったりするんでしょう?﹂
﹁えっと、料理は出来るけど⋮⋮それ、どういう関係があるの?﹂
俺の冗談は通じない。
だけど、何かがおかしかったのか、フィッツ先輩はくすくすと笑
った。
そんな謎の多い男、フィッツ先輩。
彼が俺に協力的なのも、やっぱり謎だった。
だが、俺はその謎を、特に暴こうとは思っていなかった。
本人も意図して隠しているっぽいし、
意図しているなら、なんらかの事情があるのだろう。
助けてくれた相手が隠していることを、無理矢理暴くような、そ
んな恩知らずな真似をするつもりはない。
もちろん、気にならないといえば嘘になる。
が、人神に助言もある。
1986
人神の助言に従って動き、出会ったのがフィッツ先輩だ。
今までの経験上、人神の助言は俺が何かをしても、ある程度一つ
の結論へと結びついていく。
つまり、彼と接することで、いつか病の治療に関する何かの手が
かりがつかめる。
なら、焦ることはない。
そう考えたのだ。
1987
終
−
第六十九話﹁フィッツ先輩﹂︵後書き︶
第7章 青少年期 入学編 −
次章
第8章 青少年期 特別生掌握編
1988
第七十話﹁及ばぬ力 前編﹂
ザノバ・シーローン。
シーローン王国第三王子。
生まれつき怪力を持って生まれた神子。
彼は変態である。
紛うことなき変態である。
行き過ぎたフィギュアオタクとでも言うのだろうか。
気づけば毎日人形を眺めている。
そして、気が向けば、その人形を優しい手つきで撫で回している。
決して人形を乱暴には扱わない。
興奮すると怪力を制御できなくなるが、
人形に対しては絶対に力の制御を間違えない。
彼の人形に対する愛がそうさせているのかもしれない。
愛。
そう、彼は人形を愛している。
偏愛している。
例えば、彼の部屋には銅製の裸婦像がひとつ置いてある。
以前、市場で見かけて衝動買いしたものだそうだ。
ほっそりとしつつもやや艶やかな印象を受ける少女の裸婦像。
俺がザノバの部屋を初めて尋ねた時、彼はその裸婦像に全裸で抱
1989
きついていた。
驚かせようと思いノックもせずに入室した俺に非がある。
それは間違いない事だが、ザノバは俺の顔を見ると慌てて服を着
て、
見苦しい真似でしたと頭を下げた。
全裸で抱きついて何をしていたのかは、わざわざ説明せずともい
いだろう。
彼の愛は異常だ。
北方大地はまだ時折雪も降る。外に出れば寒く、金属製の像がど
れだけ冷たいのかなど、考えるまでもない。
そんな中、凍傷になりかけながらも自分の欲望を優先する。
高度すぎてとても真似できない。
だが、理解できないという程ではない。
ロキシーフィギュア
俺だって生前はフィギュアを﹃使用﹄したことがあるのだから。
もっとも、御神像にそんな真似をしたら、さすがに許さんがね。
⋮⋮そういえば、ザノバの部屋にロキシー人形を見かけなかった。
実家に置いてきたのだろうか。
−−−
そんな彼は、ある日。
唐突に土下座をした。
夜の事だった。俺の手元には、作りかけのフィギュアがあった。
1990
フィギュア
﹁師匠、余に人形の作り方を教えてください!﹂
この一ヶ月、俺はザノバに対し、もう少し待てと言い続けていた。
彼は従順な飼い犬のように、﹃待て﹄をしていたが、
とうとう我慢の限界がきたらしい。
﹁約束したではないですか!
なぜいまだに授業を始めてくださらないのですか!﹂
ザノバはややご立腹だった。
もちろん、俺も断る理由はない。
最初からそういう約束だったしな。
そのために自分でもリハビリを兼ねた復習をしていた。
教えなかったのは、生活が落ち着いていなかったのもあり、
本来の目的とはかけ離れていたのもあり、キッカケがつかめなか
ったのもある。
﹁⋮⋮ザノバよ、我が修行は厳しいぞ﹂
わざと芝居がかった口調で言うと、ザノバはハッとした顔で重々
しく頷いた。
﹁無論です。師匠、余をあまり見くびらないで頂きたい。
例え血反吐を吐いてでも、余は師匠の人形製作の極意を習得して
みせます﹂
﹁うむ、その意気やよし﹂
というわけで、俺はザノバに人形製作を教えることとなった。
就寝前の時間を使い、一日に約1∼2時間。
1991
俺にも下心があった。
彼の人形への愛は本物で。
ついでに言うと王族なので金持ちだ。
もしかすると、俺が断念した人形への着色や、
人形の量産といった事業に着手することもできるかもしれない。
まずはロキシー人形の量産だ。
前に作った時は一品物だったが、
この世界には銅像を作る技術や、西洋風の人形を作る技術は存在
している。
それを流用すれば、出来は悪くなるが、量産は可能であるはずだ。
それから、ルイジェルド人形だ。
史実を元に、スペルド族をひたすら美化した本を執筆するのだ。
この世界の読者に受け入れられやすいように、バトル描写多め、
認められない男と、この世界に認められた英雄との対比を描きつ
つ、
認められないなりにも努力する男の苦悩と葛藤。
それの付録にフィギュアを付けるのだ。
本とセットでフィギュアをプレゼント。
やはり主人公がビジュアル化されているのといないのとでは、大
違いだからな。
それが成功したら、次はロキシーの偉業を称える本を出すのもい
いかもしれない。
よし、いける。
俺一人では無理かもしれないが、ザノバはなんだかんだ言って王
1992
族だ。
金を持っている。
情熱もある。
仕事仲間としてはきっと最適だ。
取らぬ狸の皮算用という言葉がある。
その時の俺はまさにそんな感じだった。
﹁では、奥義を伝授しよう!﹂
﹁ハイッ! 師匠!﹂
俺たちの人形製作は始まったばかりだ。
−−−
結論から言おう。
できなかった。
ザノバは、無詠唱による土魔術でフィギュアを作る事が出来なか
った。
理由は二つ。
無詠唱による魔術の制御自体が出来なかった事。
そして、圧倒的に魔力総量が足りない事。
考えてみればこの世界では、無詠唱で魔術を使える人物はほとん
どいない。
俺が出会った中では、オルステッドとフィッツ、あとシルフィぐ
1993
らいか。
学校にはもう一人、無詠唱で風魔術を操る教師がいたというが、
去年死んだらしい。
幼い頃から出来た俺はあまり実感がなかったが、無詠唱とは高度
な技術なのだ。
思い返してみると、エリスやギレーヌも無詠唱での魔術は習得で
きなかった。
そんな状態で、魔術を覚え始めたばかりのザノバができるはずも
ない。
また、魔力総量の問題も重要だった。
俺がフィギュア製作をしていたのも、際限なく増え続ける魔力を、
効果的に使い切るためだ。
相当な量の魔力を使って作っている。
ここで俺も初めて理解した。
どうやら、俺の魔力総量は他人よりも相当多いらしい。
いや、薄々感づいてはいた。
多少は多いとは思っていた。
だが、それほど差があるとは思っていなかったのだ。
冒険者でも、すぐに魔力切れを起こす他の魔術師を見て﹁無駄な
所で魔力を使いすぎているのさ﹂なんて思っていたぐらいだ。
数値で現すなら、通常の魔術師が100ぐらいだとすると、せい
ぜい500程度かな、ぐらいに思っていた。
実際には、俺の魔力総量はもっともっと多いらしい。
まさか、ザノバがパーツ一つ作れないとは思ってもみなかった。
まあ、俺の事は置いておこう。
ザノバは努力した。
1994
朝起きて、気絶するまで魔力を使って気絶して、目覚めたらまた
魔力を使って気絶して。
そんな事を一日中繰り返した。
限界まで魔力を使い続けたせいか、頬はゲッソリと痩せ落ちてい
た。
ガイコツのような顔は、涙と鼻水でグシャグシャだった。
一番やりたいことの才能が無い。
そんな様子がまざまざと見て取れた。
俺は彼に、なんと悪いことをしてしまったのだろうか。
俺は反省した。
反省し、彼に謝った。
﹁すまん﹂
ザノバは首を振り、力なく答えた。
﹁いえ、余がもっと優秀であれば⋮⋮﹂
うちひしがれた男の背中。
哀愁ただよう負け犬の背中。
ここで諦めてはいけない。
俺は考える。
ザノバがフィギュア製作の第一歩すら踏み出せないのは流石に可
哀想だ。
とはいえ、無詠唱は無理。
魔力総量も足りないとなれば、俺と同じ方法でフィギュアを作り
1995
出すのは無理だろう。
﹁よし、方法を変えよう﹂
俺は自然とそういう結論を導き出した。
﹁別のやり方があるのですか!?﹂
うちひしがれたザノバは、すぐに立ち直り、身を乗り出す。
﹁ええ、極力、魔力を使わない方向でいきましょう﹂
俺はそう言って、土の塊を作り出す。
粘土である。
﹁今は魔術で作りましたが、恐らく自然界を探せば見つけられるは
ずです﹂
粘土ってのはどこで取れるんだったか。
有名な陶芸家が山に籠もるという話は聞いているが、
この世界の山や森は危険がいっぱいだ。
とはいえ、ゴーレムなんかには材質が粘土っぽい奴もいるだろう
し、
わざわざ地面を掘り返さなくても流用できるものは多いだろう。
﹁それをどうするのですか?﹂
﹁削りだします﹂
削りだし。
それは最も原初的で、最も確実な、しかし難しい方法だ。
1996
粘土の塊を、パーツ毎に削りだす。
それなら、魔力の無い者でも可能なはずだ。
マジックアイテム
問題は削りだすための道具が無い事だが、
そこはまた市場で魔力付与品でも探していけばいいだろう。
岩をバターのように切れるナイフ、なんてのを以前どこかで見か
けた事がある。
﹁なるほど、師匠、これなら余にもできそうですな!﹂
と、ザノバは明るい声を上げた。
その表情は希望で満ちていた。
−−−
希望は、いとも簡単に打ち砕かれた。
ザノバは手先が器用ではなかった。
これは生来の能力に起因している。
怪力。
そう、彼の怪力が邪魔をした。
物を壊さないようにという制御はできる。
だが、彼にできるのはそこまでだ。
パーツを精密に削りだすという、繊細な作業を行うのは難しかっ
た。
ザノバは目を真っ赤にしながら、毎日頑張った。
1997
彼の情熱は本物だった。
彼は一睡もすることなく、餓死寸前になるまで人形製作に没頭し
た。
思い通りにいかず、何度も作り直した。
そのたびに彼は泣き、叫び、奇声を上げた。
そして、完成したのだ。
彼がゼロから作り出した、人形が。
それは決して美しいものではなかった。
出来も悪く、前世であれば鼻で笑われるか、ネタ画像かコラージ
ュ素材として大量に出回った事だろう。
だが、俺は知っている。
これが彼の情熱だ。
決して笑うまい。
だが、俺が笑わなくとも、出来が悪い事はザノバ自身が理解して
いた。
﹁師匠、できません⋮⋮余には⋮⋮余には師匠のようにはでぎまぜ
ん!﹂
ザノバは、泣いていた。
自分の思う様にものを作れず、泣いていた。
打ちひしがれ、もはや立ち上がる気力もないと言わんばかりに。
教え始めてから完成まで2ヶ月。
ザノバのげっそりとやつれた顔。
それを見ても、俺には、どうすることも出来なかった。
1998
−−−
﹁という事があったのです﹂
俺はフィッツ先輩に相談してみる事にした。
弟子の不出来を他人に相談するなど、師匠としては実に情けない
話だ。
だが、誰かの知恵を借りたかった。
ザノバが可哀想だしな。
﹁人形を、作るの?﹂
フィッツ先輩は、やや理解できてない様子だった。
図書館の椅子に並んで座りつつ、俺の話を聞いて首を傾げている。
﹁はい、こんな感じです﹂
俺は土魔術を使い、ササッと簡単な形の人形を作って見る。
服を着ていないサ○ボボみたいな感じの、シンプルな人形だ。
﹁す、すごい⋮⋮﹂
フィッツ先輩は俺の手元をまじまじと見つめ、出来上がった人形
をしげしげと見ていた。
そして、自分でもできるかと指先に魔力を集中させ、グネグネと
不定形なスライムのような土くれを作り出す。
即座に真似をしようとするとは、この人も結構すごい。
1999
しかし、彼の望む形にはならなかったらしい。
最終的にフィッツ先輩は﹁ふぅ﹂と溜息をついて諦めた。
﹁できないや﹂
まあ、フィギュアを作るという事は、俺が昔からコツコツと研鑽
を積み重ねてきた技術だ。
見ただけで簡単にコピーされたら泣いてしまう。
とはいえ、見た感じ練習すればフィッツ先輩には出来そうな気が
する。
そもそも無詠唱魔術が使える人だし。
﹁これは普通の人には真似できないよ﹂
﹁そうですね、別の方法としては、土の塊から削りだすという方法
を取るのもいいかと思っていますが⋮⋮﹂
﹁手先が不器用だから出来ない、と﹂
フィッツ先輩は、うーんと唸り、顎に手をやって考える。
考える時は顎に手を当てるのが、彼の癖であるらしい。
サングラスのせいか、そのポーズはやけにキマって見える。
ちなみに照れたり困ったりすると頬とか耳の後ろを掻く。
その動作は歳相応っぽくて、なかなか親近感が湧く。
もっとも長耳族は長寿だそうだから、見た目通りの年齢とは限ら
ないのだが。
﹁うーん、そうだね。参考になるかどうかわからないけど、
アスラの王都にも、似たような人がいたよ﹂
﹁似たような人、ですか?﹂
﹁うん、自分でやりたいんだけど、能力も技能も無いって人がね﹂
﹁その人はどうしていたんですか?﹂
2000
聞くと、フィッツ先輩はやや答えにくそうに、耳の後ろをポリポ
リと描いた。
﹁えっと、その、奴隷にやらせていたんだ﹂
﹁ほう﹂
フィッツ先輩の話によると。
王都のその人物とやらは、知識はあったが技術はなかった。
なので奴隷を購入し、そいつに教え込んで、自分の望むものを作
らせていたそうだ。
﹁聞いた話によると、その、ザノバ君はルーデウス君の作る人形が
好きで、もっと欲しいから自分でも作りたいって言ってるんだよね
?﹂
﹁⋮⋮あれ? そういう話でしたっけ?﹂
﹁えっと、ボクにはそう聞こえたよ?﹂
そうなのだろうか。
でもまあ、普通のフィギュア好きは、塗装や改造ぐらいはしても、
自分で一から作ろうなんて考えないしな。
俺だって生前は、せいぜい魔改造を楽しんだ程度だ。
﹁ザノバ君は、きっとルーデウス君に専属の人形師になって欲しい
んだろうけど、無理だって分かってるから、そういう風に言ってる
んじゃないかな?﹂
﹁別に無理じゃないとは思いますがね﹂
シーローン王宮にて、ザノバに雇われて毎日フィギュアを作って
暮らす。
2001
最終的には、そういう生活も悪くないだろう。
王宮勤めなら、給金も安定してるだろうし。
そういえば、フィッツ先輩はアリエル王女に月どんなもんもらっ
ているのだろうか。
⋮⋮聞くのは失礼な気がするな。
﹁まあ、一度、そういう提案をザノバにもしてみますよ。ありがと
うございます﹂
﹁うん、どういたしまして﹂
俺が頭を下げると、フィッツ先輩ははにかんで笑った。
なんで、この笑顔を見ると、俺はドキリとしてしまうのだろうか。
謎だ。
謎の男フィッツ、謎だ。
−−−
奴隷を購入して技術を伝授し、作らせる。
そんな話をザノバにしてみた所、彼はノってきた。
我が意を得たりと、大喜びで奴隷購入の計画を立て始めた。
本当は自分でも作りたかったらしい。
だが、無理ならそういう方向に行くのはしょうがないと考えてい
たそうだ。
案外、フィッツ先輩の言った﹁奴隷にやらせる﹂という方法は、
この世界では一般的な事らしい。
とはいえ、師匠と弟子という関係にある以上、自分ではなく奴隷
2002
に教えてやってほしいと頼むのは、失礼に当たるそうだ。
ザノバは最初に血反吐を吐いてでも習得すると言っていたしな。
ゆえに切り出せなかったが、俺の方から提案した事でほっとした
んだと。
﹁という事で、次の月休みに奴隷市場に行く事になりました﹂
俺はフィッツ先輩に改めてお礼を言った。
困ったときにアドバイスを貰える存在というのは、本当にありが
たいものだ。
﹁そうなんだ。いい子が見つかるといいね﹂
それでその話題は終わった。
終わったのだが、フィッツ先輩は、その後、ややそわそわしてい
た。
なんていうか。
﹁そういえば、次の月休み、ボクも暇なんだよね﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁うん、それでね、えーと、することもないから町にでも行こうか
と思ってるんだけど、特に行きたい場所があるわけでもなくてね⋮
⋮友達もいないから一人だし⋮⋮﹂
言葉の端々から、チラチラと盗み見る感じ伝わってくるようで。
護衛はいいのだろうか。
何かあった時に王女の傍にいないといけないとかは無いのだろう
か。
⋮⋮まあ、それは俺が考える事じゃないか。
2003
きっとルークの方がなんとかするのだろう。
﹁えっと、次の月休み、先輩も一緒に行きますか?﹂
﹁いいの? 邪魔にならないかな?﹂
﹁ええ、アドバイスをもらったお礼に、食事でも驕りますよ﹂
﹁そう? じゃあ、ごちそうになります﹂
フィッツ先輩はそう言って、はにかみながら笑った。
−−−
こうして、男三人で奴隷市場に行くことになった。
2004
第七十話﹁及ばぬ力 前編﹂︵後書き︶
副題を
﹁ルーデウスvsザノバ﹂
﹁師匠の魔力総量は世界一ィィィ!﹂
﹁両手に花!? 怪力王子とはにかみ王子とドキドキショッピング
!﹂
の、どれかにしようかと思ったけどやめた。
2005
第七十一話﹁及ばぬ力 後編﹂︵前書き︶
−前回までのあらすじ−
ザノバがだらしねえので、彼の手足となる奴隷を買いに行く事に
なった。
男三人で。
2006
第七十一話﹁及ばぬ力 後編﹂
﹁はじめまして、フィッツ⋮⋮です﹂
ザノバと顔を合わせた時、フィッツ先輩は少々緊張していた。
先輩は先輩らしくもっと堂々としていればいいものを。
と、思うが、人見知りするというのは本当なのかもしれない。
ザノバがぐいっと前に出る。
﹁シーローン王国第三王子、ザノバ・シーローンでのあぁ!﹂
ふんぞり返るザノバに膝かっくん。中腰にさせた。
上下関係をとやかく言うつもりはない。
だが初対面の先輩相手にはもう少し頭を下げた方がいいだろう。
﹁ザノバ、今回の一件を提案してくださったのはフィッツ先輩だ。
相応の敬意を払え﹂
そう言うと、ザノバは腰を曲げて挨拶をした。
﹁わかりました師匠⋮⋮お初にお目にかかります、シーローン王国
第三王子、ザノバ・シーローンともうします、以後、お見知りおき
を﹂
﹁い、いや、いいんだよ、です。王族の方がそんな、やめてくださ
い﹂
フィッツ先輩は両手をわたわたさせつつ、俺の後ろを陣取ってし
まった。
2007
ザノバはそれを見て、目を丸くしている。
フィッツ先輩は見た目、噂、行動・言動のギャップが激しいから
な。
無言のフィッツなんて言われ、無詠唱魔術師として恐れられて。
グラサン付けてて見た目もちょっとアレだけど、話してみると歳
相応。
後輩の面倒も見てくれる、いい先輩だ。
﹁では、顔合わせも済んだ所で、行きましょうか﹂
俺の号令で、二人は歩き始める。
−−−
奴隷市場は商業街に存在している。
奴隷売買は、中央大陸南部やミリス大陸においては、ほそぼそと
しか行われていない。
だが、この北方大地では違う。
ここらでは、ほとんどの国で奴隷の売買が完全に合法化され、推
奨されている。
奴隷業は中央大陸北部における、重要な商業の一つなのだ。
それがなければ国が成り立たないほどの。
人が奴隷になる理由は様々だ。
戦争で孤児になった者。
2008
作物の不作により首が回らなくなり、子供を売る者。
自分の身を売り出し、家族を救おうとする者。
盗賊ギルドの暗部には、奴隷牧場のようなものが存在するという
噂もある。
ラノア王国を含む﹃魔法三大国﹄は奴隷が無くとも成り立つ国で
ある。
だが、もっと東の方に行けば、定期的に奴隷商人に村の子供を売
るような寒村がいくつも存在している。
そうした奴隷は、北方大地の戦士団や傭兵団、あるいは国が購入
し、
戦争用の奴隷として使い捨てられたりする事もある。
もっとも、奴隷商の中にはアスラ王国とツテのある者もいる。
一部の見目麗しかったり、高い能力を持った奴隷は、アスラ王国
へと売られていく場合もある。
アスラ王国は貧しさとは無縁の土地だ。
極貧であっても飢えに苦しむ事はない。
そんな土地にいける奴隷は勝ち組だ。
奴隷になった時点で負けだとは思うがな。
また、北方奴隷は身体が丈夫で優秀ということで、わざわざ他国
から買い付けに来る者もいる。
人間が売られていれば、それを買う者は多い。
﹁ここか﹂
実は、事前に冒険者ギルドで情報を収集しておいた。
2009
これだけ大きな街となると、奴隷市場はいくつか存在している。
この街では五つ。
その五つでもピンキリだ。
﹃ここは絶対やめておいた方がいい﹄と言われる場所が一つ。
信頼性の低い奴隷市場で、病気で死にかけている奴隷を平気で売
りつけてきたりするらしい。
まぁ、そんな所でもたまに掘り出し物はあるらしいが、
掘り出し物など、俺たちのような初心者が見てわかるようなもの
ではないだろう。
初心者向け、かつ金のある者向けの奴隷市場へと赴いた。
﹁ふむ、余の祖国のものとはだいぶ違うようであるな﹂
ザノバは関心したように頷いていた。
奴隷市場は一見すると普通の建物だった。
土と石材を組み合わせた、ここらではよく見る建築物。
この世界の建築物の基準で見ても、大きな方だ。
そんな建築物が、三つほど連なっている。
入り口となる扉の上には﹃リウム商会 奴隷販売所﹄と書かれて
いた。
入り口には篝火が焚かれ、防寒具の上から革鎧をきた男が立って
いる。
髭面だが、あまりガラの悪そうな感じはしない。
⋮⋮俺も2年ほど冒険者をやっていて、ああした格好を見慣れた
からだろうか。
昔だったら、もうちょっと違う感想を持っただろう。
2010
﹁外じゃないんだね⋮⋮﹂
フィッツ先輩の意外そうな声。
北方大地では、奴隷市場は建物の中で行われる事が多い。
理由は単純だ。
﹁中に入りましょう﹂
中に入ると、むわりとした熱気が身を包んだ。
建物の中では至る所で火が焚かれている。
そして、八ヶ所ほどあるお立ち台の上で、裸になった奴隷が並べ
られている。
外でやらないのは、ようするに寒いからだ。
奴隷が風邪を引くのだ。
もっとも、行くのはやめておいた方がいい、と言われた所は外で
やっているが。
﹁ふむ、売り場が多いですな。師匠、どうするのですか?﹂
﹁僕も買うのは初めてですので、まずは適当に見て回りましょう﹂
適当に歩き始める。
8つの売り場は、全てリウム商会の傘下にいる奴隷商人のものだ。
各地で集めてきた、あるいは購入してきた奴隷を並べ、売ってい
る。
商品が全て売れるか、あるいは指定の時間がすぎれば他の者と交
代するのだろう。
2011
なかなかに盛況で、どの売り場の付近にも人混みが出来ている。
服装は様々で、俺のような冒険者風の格好をしたものから、
ザノバやフィッツ先輩のように貴族風の格好をした者、
商人、町人、平民、学生の格好をした者もいる。
中には、転売を目的とする商人なんかもいるのだろう。
売り場から離れた場所には購入したばかりの奴隷を連れ、互いに
談笑している者もいる。
みすぼらしい格好をしているのはスリの類だろうか。
いや、警備のいるこの市場にそうした者が入り込めるとは思えな
い。
主人の命令で新たな奴隷を買い付けにきた、別の奴隷なのかもし
れない。
とは言え、俺はローブの下で、金貨袋の紐をキュっと握った。
今回、奴隷を購入するための資金は俺が預っている。
スられたらシャレにならん。
﹁う、うわっ、うわぁ⋮⋮ほんとにみんな裸になるんだ⋮⋮﹂
フィッツ先輩は売り場の方を見て、目を丸くして驚いている。
顔は真っ赤だ。
マントのせいでよくわからないが、内股になってもじもじとして
いるようだ。
﹁お、おっきいな⋮⋮あんな風になってるんだ⋮⋮﹂
視線の先を見れば、戦士風の奴隷が、目玉商品として紹介されて
いる所だった。
2012
男も女も、どいつもこいつも筋骨隆々としている。
特に真ん中にいる女戦士はいい。
おっきい。
背丈もさることながら、その胸の膨らみは垂涎モノだ。
ああしたでかいブツは戦いの邪魔になりそうなものだが、
この世界では別にでかくても問題ないらしいというのは、エリス
で理解している。
﹁先輩、奴隷市場は始めてですか?﹂
﹁えっ? あ、うん⋮⋮﹂
フィッツ先輩は耳の後ろをポリポリと描きつつ、もう片方の手で
恥ずかしそうにマントを前合わせにしている。
ポジションを気にしているのだろう。
実にDTらしい反応だ。
俺にもああいう頃があった。
今か?
今はほら、ちょっと別の理由さ。
﹁る、ルーデウス君は慣れてるね?﹂
フィッツ先輩は先輩だが、まだ経験は無いらしい。
そう考えると少々勝ち誇りたい気分になるが、
しかし俺も一回だけで、相手に逃げられている。
自慢できるようなもんじゃない。
しかし、あれを経験して、少し落ち着いたのも確かだ。
落ち着きすぎて困ってしまっているがね!
﹁先輩も経験を積めば、多少は慣れるかと思いますよ﹂
﹁そ、そうかな? ていうかルーデウス君、経験あるんだ⋮⋮﹂
2013
フィッツ先輩は若干しょんぼりしている様子だ。
若いね、実に若い。
﹁師匠、戦士には用はないでしょう、我々が探すのは魔術の使える
手先の器用な種族でしょう﹂
ザノバはというと、そんなものには興味が無いと言わんばかりに、
顎をしゃくった。
こいつは基本的に女には興味が無いらしい。
一応、バツイチだったらしいので、まったく性欲がないわけでは
ないようだが。
﹁手先の器用な種族というと、やっぱり炭鉱族ですかね?﹂
﹁そうですな。土魔術の使える炭鉱族が一番でしょう。もっとも、
種族にこだわる必要はないかと思いますが﹂
そう言いつつ、俺達は売り場を見て回る。
これだけ大規模な奴隷市場でも、炭鉱族の奴隷は少ない。
基本的には戦闘能力を有した奴隷が大半で、手先の器用な、とな
るとほとんどいないらしい。
﹁えっと、ルーデウス君が魔術を教えるなら、魔術の使えない幼い
子の方がいいと思うよ﹂
フィッツ先輩がアドバイスをくれる。
﹁なぜですか?﹂
﹁無詠唱魔術って、小さい頃の方が覚えやすいんだ﹂
﹁あ、そうなんですか?﹂
2014
﹁うん、10歳ぐらいになっちゃうと、ほとんど覚えられないと思
う﹂
そうなのか。
でも、思い返せばシルフィは出来たのにエリスは使えなかった。
年齢が関係していたのだろうか。
﹁年齢が関係しているんですか?﹂
﹁うん。ボクの実体験と、師匠と、学校の先生の言葉を総合して判
断した事だから間違ってるかもしれないけど⋮⋮。
あ、あと5歳ぐらいから魔術を使いはじめると、魔力総量が爆発
的に増えるんだ。
ルーデウス君の方法で人形を作るなら、魔力総量は多い方がいい
よね﹂
5歳ぐらいから魔術を使うと魔力総量が爆発的に増える。
昔似たような仮説を立てたこともあるが、
他人の口からは初めて聞く理論だな。
﹁この世界では、生まれつき魔力総量は決まっていると聞いていま
すが﹂
﹁それは間違いだよ。確かに教本にはそう書いてあるけど、10歳
を超えるとほとんど伸びなくなるから、勘違いしたんだと思う﹂
なるほど、小さい頃から魔術を使わせると爆発的に伸びる、か。
2∼3歳の頃から魔術を使ってきた俺の魔力総量が多いのもうな
ずける話だ。
そして、それを実体験と言っているフィッツ先輩も、恐らく相当
な魔力総量を秘めているのだろう。
2015
﹁フィッツ先輩も小さな頃から魔術を使ってるんですね﹂
﹁うん。その⋮⋮昔、師匠に助けてもらって、その時に頼んで、習
いだしたんだ﹂
﹁へぇ﹂
森で魔物か何かに襲われていたのだろうか。
いや、幼い頃なら人さらいの方が可能性が高いか。
この世界では人さらいがブームだしな。
先輩はグラサンはずせば美少年だろうし、人さらいに狙われるの
もわかる。
﹁その師匠も、無詠唱魔術を?﹂
﹁うん。凄い人だよ。今でも尊敬してるんだ﹂
﹁そうなんですか、それは、僕も会ってみたいものですね﹂
無詠唱魔術を教える事のできる人物。
それなら、俺ももう少し魔術の腕が上がるかもしれない。
何にせよ、何か得られるものはあるだろう。
と、思ったのだが、フィッツ先輩は苦笑した。
﹁えっと、それは無理じゃないかな⋮⋮﹂
﹁そうですか。やはり、偉い人だからですかね?﹂
フィッツは王女の護衛だし。
宮廷魔術師か何かなのかもしれない。
運良くどこかで宮廷魔術師に助けられ、そのツテで弟子入り。
そして成長し、王女の護衛になった。
そんな感じなのかもしれない。
アスラ王国の宮廷魔術師なら、無詠唱ぐらいできるだろう。
2016
﹁偉い人⋮⋮じゃないけど、えっとね、フィットア領の人なんだ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
転移に巻き込まれたのか。
それで、どこにいるかわからないと。
﹁それはなんというか⋮⋮生きているといいですね﹂
﹁生きてるよ。もう見つかったもん﹂
そういえば、知り合いを探すために転移の事について調べ始めた
という話だったか。
で、最近になって見つかったと⋮⋮。
﹁あれ? ならなんで僕は会えないんですか?﹂
﹁ふふ⋮⋮ないしょ﹂
フィッツ先輩ははにかんで笑った。
⋮⋮なぜこの笑顔を見ると胸が高鳴るのだろうか。
俺は二次元の男の娘には恋できるが、決してホモではないはずな
のだが⋮⋮。
もしかすると、そういう荒療治なのだろうか。
−−−
フィッツ先輩のアドバイスに従い、奴隷を探す。
ドワーフ
五歳前後︵それ以上幼いと言葉を理解できない可能性が高い︶で、
炭鉱族︵いざとなれば粘土から削りだす方法を用いるので手先が
2017
器用な方がいい︶で、
可愛らしい女の子︵俺の趣味︶。
﹁女ですか? 余はどちらでも構いませんが、師匠、目的を間違え
てはいませんか?﹂
﹁ルーデウス君⋮⋮﹂
条件を一つずつ挙げていくと、最後の一つで二人から批難の目が
集まった。
﹁あっれぇ?﹂
男ばかりだからむしろ賛同を得られると思ったのだが。
まぁ、そういう奴らでもないか。
エリナリーゼあたりなら賛同してくれるかもしれん。
彼女なら、むしろ可愛い男の子をと提案するかもしれない。
最近はショタ趣味に目覚めたっぽいからな。
﹁しかし五歳となると、教育は期待できませんな。言語がわからな
い場合もありますぞ。
獣神語しか喋れないとなると、魔術を教えるどころの話ではない
ですからな﹂
﹁僕は獣神語もできますので、その場合は僕が教育しますよ﹂
﹁なんと、師匠は獣神語も操れたのですか、さすがですな﹂
﹁ふっ、まあね﹂
ザノバの称賛に、俺は鼻を高くして胸を張る。
これでもマルチリンガルなのだ。
五歳児に勉強を教えた事もある。
2018
そういえば、シルフィは元気にしているんだろうか。
エリナリーゼやフィッツ先輩を見るまでもなく、
長耳族ってのは極めて俺好みというか、ファンタジー世代の日本
人好みの顔をしている。
線の細い美男美女揃いというかなんというか。
彼女は確か俺と同い年だから、今は15歳か。
相当美しくなっているだろう。
パウロの話ではかなり魔術を使えるようになっていたそうだし、
そのうえ髪が緑だ。
どこかで噂に聞くこともあるだろうし、見ればすぐに分かるだろ
う。
さっぱり噂を聞かないが⋮⋮。
彼女はいま、どこにいるのやら。
﹁とにかく、条件も決まった事ですし、商人の方に聞いてみましょ
う﹂
俺は﹃相談所﹄と書かれた場所に移動する。
受付の男性は、ツルリとしたスキンヘッドで、口ひげを蓄えたマ
ッチョな男だった。
俺とフィッツ先輩を見ると怪訝そうな顔をしたが、ザノバを見て
納得したように頷いた。
﹁あの、すみません、実は探してる⋮⋮﹂
マッチョは喋る俺を無視し、後ろにいるザノバに話しかけていた。
﹁よう、兄さんいらっしゃい。
お望みはなんだい?
2019
護衛用の戦士か? 今なら剣を教えられる奴もいるぜ。
魔術師もいるが、魔法大学に行ったほうがマシかもな。
それとも、コッチのほうか?
いやいや、言うない。あんた、モテなさそうな顔してるからな。
ムッチムチの二十代が一人いるぜ。娼婦上がりだからアッチの方
もバッチリだ。
もちろん病気も持っちゃいねえあがあぁぁぁ!﹂
そしてザノバにアイアンクローを食らい、持ち上げられていた。
﹁師匠を無視するな、そのベラベラとよく動く舌を引っこ抜き、顎
を引き裂くぞ﹂
﹁こ、こらっ! 何をしている!﹂
すぐさま脇にいた警備がザノバを取り押さえようとするが、ビク
ともしなかった。
逆に体を少し身震いさせただけで弾き飛ばされた。
んまぁ、ハイパワーだこと。
屈強な警備を、ヒョロ長いオタクっぽい男が振り回す。
シュールだ。
これが神子のパワーか。
力こそがパワーか。
おっと、見てる場合じゃねえな。
﹁ノウ! ザノバ、やめなさい、ハウス!﹂
﹁はい!﹂
俺の声で、ザノバは手を離した。
唐突に止まったザノバに、警備も止まる。
2020
俺は警備に向かい、頭を下げた。
﹁申し訳ありません、ちょっと興奮しただけです﹂
﹁いや、いいんだ⋮⋮けど、あまり暴れてくれるなよ? 次は剣を
抜くからな?﹂
彼らは快く許してくれた。
その目にやや怯えが含まれていたが、見ない事にする。
そんな所をつついてもいい事はない。
意外だったのは、ザノバが掴まれた瞬間、フィッツ先輩が俺の前
に出て杖を構えた事か。
極めて素早い動作だった。
さすが王女の護衛だな。
俺が腑抜けているだけとも言えるが。
つっても、そこまで警戒するような相手はこのへんにはいないし
なぁ⋮⋮。
ここの警備は、冒険者で言えばCランク、行ってもせいぜいBだ
ろうし。
まあいいか、話を続けよう。
﹁五歳ぐらいの炭鉱族を探しています﹂
改めてマッチョに話を聞く。
﹁五歳ぐらいの⋮⋮?﹂
マッチョはおどおどしつつ、手元にある目録のようなものに目を
走らせた。
ペラペラと紙をめくりつつ、目を細める。
2021
﹁炭鉱族自体このへんにゃ少ないからな、しかも五歳となると⋮⋮﹂
やはり条件的には厳しいか。
炭鉱族は基本的にミリス大陸の住人だからな。
それこそ人さらいにでもさらわれてこなければこの辺りには来な
い。
﹁手先が器用な種族なら、別に炭鉱族でなくても問題ありません。
いっそ若ければとやかくは言いませんが⋮⋮﹂
﹁お、いた、一人いたぞ﹂
マッチョは目録の一部をポンと指で叩いた。
﹁炭鉱族、六歳の女児だ。親の借金で一家揃って奴隷落ちだとさ。
健康状態はちと悪いな。栄養失調か、まぁ食わせりゃすぐ元通りに
なるだろ。人間語は喋れねえ、六歳じゃ当然だが、文字も読めねえ﹂
﹁なるほど、親の方はどうなってるんです?﹂
﹁親の方は両方とも売れちまってるな﹂
冒険者時代に酒場で聞いた話だが、炭鉱族の中には山さえあれば
暮らしていけると思っている層がいる。
ミリス大陸を出て、王竜山脈で働くならいいのだが、
たまに少々勘違いして北部まで来てしまい、山に入れずどうしよ
うもなくなる馬鹿な奴もいるのだとか。
家族まで巻き込むとは、ダメオヤジもここに極まれりだな。
﹁とりあえず、会ってみましょうか﹂
2022
−−−
マッチョの呼び出しで、しばらくした後、一人の商人が顔を出す。
浅黒い肌をした男だ。
日焼けだけではあるまい。
恐らく、ベガリット大陸の出身か、両親のどちらかがベガリット
出身者なのだろう。
やや太り気味で、びっしょりと汗をかいている。
肩に掛けた布で仕切りに汗を拭っているが、その布もびっしょり
だ。
汗臭いにおいが漂ってくるが、この市場は暑いから仕方あるまい。
俺も先ほどローブを脱ぎ、ザノバもマントを外している。
フィッツ先輩だけはいつもの格好で涼しい顔をしている。
顔は真っ赤なんだけどな。別の理由で。
﹁どうも、わたくしリウム商会傘下・ドメーニ商店の支店長、フェ
ブリートです﹂
商人はそう名乗り。
・
ザノバに向かって手を差し伸べる。
ザノバの手が商人の顔へと伸びたので、俺はフェブリートの手を
強引につかみ、握手した。
﹁どうも、泥沼のルーデウスです﹂
あえてそう名乗ると、フェブリート一瞬怪訝そうな顔をしたが、
すぐに顔をほころばせた。
2023
﹁おお、あなたが泥沼でしたか! 聞いておりますよ、冬に入る前
にはぐれ竜を仕留めたとか﹂
﹁運が良かっただけですよ、相手も弱ってましたしね﹂
A級冒険者、泥沼のルーデウスの名前はこのへんでもなんとか知
られているようだ。
伊達に名前を売ろうと頑張っていたわけではないのだ。
﹁本日は炭鉱族をお求めという事ですが⋮⋮?﹂
ちらりとフェブリートはザノバやフィッツ先輩を見る。
﹁はい、こちらの方々に出資してもらい事業を始めるのです。幼い
頃から技術を叩き込める子を捜していましてね﹂
と、適当に言ってみる。
嘘は言ってない。
﹁なるほど、そういう事ですか⋮⋮あまりオススメの商品というわ
けではないのですが⋮⋮。とにかく見てください。こちらです﹂
フェブリートに従い、俺たちは市場の裏側から、隣の建物に移動。
奴隷の倉庫へと移動する。
倉庫といっても、滑車のついた鉄格子が並び、その中に奴隷が入
れられているだけである。
鉄格子の大きさは畳一畳分ぐらいで、一つの箱につき一人か二人
だ。
市場に出す前には洗ったり、油を塗ったりして光沢を出すのだろ
うが、今はツンときつい臭いがする。
中には、めそめそと泣いている子や、ギラギラとした殺気を向け
2024
てくる者もいた。
倉庫には、俺たちのように直接店の者とやり取りをしている人が
何人か見受けられた。
フェブリートは鉄格子の箱の間をスルスルと歩いていく。
そして、道端に立っていた人物に一声掛ける。
部下だろうか。
さらに奥へ。
一つの箱の前で止まった。
箱の中には、うつろな目をした少女が、体育座りで座っていた。
﹁こいつですね。⋮⋮おい、出せ﹂
﹁うす﹂
フェブリートの部下はこくりと頷くと、鉄格子を開け、中にいる
子を引きずりだす。
鉄の首輪と足かせをはめられた子供。
ガリガリに痩せた身体を、申し分程度のボロキレで隠している。
髪は赤橙といった感じだろうか。
ボサボサで、白髪が混じっている。
顔色も悪い。
彼女は身体を抱くようにして、カタカタと震えていた。
このへんは倉庫でも奥の方であるせいか、やや寒いのだ。
俺たちを見る目は完全に虚ろだった。
さすがに痛々しく見える。
2025
フェブリートの部下はそんな事に頓着せず、少女のボロキレをあ
っさりと取っ払った。
欠食児童らしい、ガリガリに痩せた身体が完全にあらわになった。
それを見て、フィッツ先輩が顔をしかめた。
﹁ルーデウス君⋮⋮﹂
安心してほしい。
さすがの俺も、ピューリッツァー賞受賞作の写真に出てくるよう
なのには欲情しない。
早く購入し、飯を食わせて温かい風呂にでも入れてやりたい、そ
んな気持ちが沸く。
が、少女の目が少し気になった。
この虚ろな目。
どこかで見たことのある。
﹁見ての通りです、炭鉱族。子供です。六歳ですので、技能は特に
ありません。
両親共に炭鉱族です。父親は鍛冶師、母親は装飾品を作っていま
した。
手先の器用さについては、遺伝さえしていれば望めるとおもいま
す。
ただ、言語を獣神語しか解しません。
我々としても売れると思っていなかったので、健康状態もあまり
よくありません。
その分は値引き致しましょう﹂
フィッツ先輩が難しい顔をしつつ、少女に近寄り、その頬に触れ
た。
2026
数秒後、少女の顔色が幾分かよくなった気がした。
何かしたのだろうか。
﹁当然ながら処女です。
疫病等の心配はありませんが、見ての通り、少々病弱かもしれま
せん。
ご購入の際にはこちらで解毒を掛けさせて頂きますが、
あまりオススメの商品とはいえませんね﹂
フィッツ先輩が捨てられた子犬を拾ってきた子供みたいな目で見
ている。
どのみち条件には合致しているから買うつもりはあるんだが。
﹃こんにちわ、お嬢さん﹄
俺はしゃがみこんで、獣神語で話しかける。
まずは面接だ。
﹃僕はルーデウス。君は?﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃実はね、お兄さんたちは、君にやってもらいたい事があるんだ﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃えっと⋮⋮﹄
少女は俺の方を虚ろな目で見るだけで、何の言葉も返さない。
フェブリートの部下が、腰に付けた鞭を取ろうとするが、手で静
止。
﹁師匠、どうしました?﹂
﹁かなり絶望してますね。希望もなんにもなくて死にたい奴の顔で
2027
す﹂
﹁⋮⋮師匠は、そんな者を見たことがあると﹂
﹁昔、何度もね﹂
ザノバとフィッツ先輩が思いつめたような顔をする。
まあ、あんまり生前の事は言うべきではないか。
ネガティブな事しか出てこないからな。
俺は少女としばらく見つめ合った。
懐かしい目だ。
生前、俺もこういう目をしていた頃がある。
そうだな、確か二十歳を超えたぐらいだったろうか。
学はなく、将来性もなく、バイトの経験もなく、
自分はこれから、ただ飯を食い、クソを垂れて生きていくんだろ
うと、
そう思っていた頃の目だ。
今考えれば、あの頃の俺なら、まだ何かできた。
しかし、現状を絶望し、何もかもを投げ出していた。
数年後には、ニートである事に開き直り、もっと酷い顔をするよ
うになったのだが。
あの頃は、そうだな、何の希望も持ってなかった。
死にたいと思っていた。
﹃お前、もう死にたいか?﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃自分ではどうしようもないもんな。気持ちはわかるぜ﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
少女の目が、ゆっくりと俺を捉えた。
2028
﹃なんだったら、終わらせてやろうか?﹄
本気で言った。
口調は軽かったと思う。
俺は本気で死にたいと思ったことがある。
ただ、俺はそこでは死なず、その後の人生をなぁなぁで生き続け
た。
長い長い後悔の時間だ。
俺は彼女の人生を救ってやることは出来ない。
無論、ここで彼女を購入し、仕事を与えてやることはできる。
服を買ってやり、飯を食わせてやり、優しい言葉を掛けてやる事
はできる。
だが、それが救いではない事を、俺はよく知っているつもりだ。
やりたくないものを無理矢理やらされても、決して救いではない。
むしろそれなら、終わらせてやった方がいい。
もし俺みたいに。
死んだら別の人生を歩めるのであれば。
今の人生は捨て去って、新しい人生で頑張ったほうがいい。
そういう奴は間違いなくいる。
頑張れば頑張れるなんてのはおためごかしだ。
この少女がそういう奴かどうかはわからない。
俺の目から見て、彼女はまだまだ頑張れる。
まだ若いというか幼いし、これからのがんばり次第でどうにでも
なる。
2029
けど、そう言われ続けた俺はダメだった。
死ぬまで馬鹿が直らなかった。
当人のやる気次第だ。
決めるのも俺じゃない。
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹃なんか言えよ﹄
少女は、微動だにしなかった。
だが、ゆっくりとひび割れた唇を開いた。
﹃︱︱︱︱死にたくない﹄
少女はぽつりとつぶやいた。
か細い声だった。
消極的な返事だが、いいだろう。そんなもんだ。
俺だってそうだった。それでいい。
生きたい、じゃなくていい。
死にたくないで、とりあえずいい。
﹁買います﹂
俺は手に持っていたローブを彼女にズボッとかぶせた。
魔術で温風を作り、身体を温めてやり、解毒魔術を詠唱する。
治癒魔術では体力は回復しない、あとで飯を食わせてやろう。
﹁フェブリートさん、いくらですか?﹂
アスラ大銅貨1枚。
2030
それが彼女の値段だった。
−−−
購入後、俺達は奴隷市場の隅にある洗い場で少女を洗った。
その後、商業区で少女の服等、必要な物を購入。
適当な喫茶店に入った。
飯屋ではない。
雰囲気のいい喫茶店である。
俺一人であれば、確実に避けるであろう店だ。
選んだのはフィッツ先輩だ。
フィッツ先輩にはこうした喫茶店の方が似合ってるからいいんだ
が。
どうにも俺に場違いな感じがしてそわそわする。
ザノバはさすが王族とでも言うべきか、堂々としている。
購入したばかりの少女は、一心不乱に料理を口の中にかっこんで
いる。
居心地悪そうにしているのは俺だけだ。
フィッツ先輩は機嫌がよさそうだった。
よかったね、なんて言いながら少女の頭を撫でている。
﹁ところでルーデウス君、この子の名前はなんていうの?﹂
聞かれ、俺はまだ名前を聞いていない事に気づいた。
あのフェブリートも名前は教えてくれなかった。
2031
﹃お前、名前はなんて言うんだ?﹄
少女は不思議そうな顔で俺の顔を見ている。
﹃⋮⋮名前?﹄
あれ?
俺の獣神語、もしかしてあんまり通じてないのか?
確かに3年ぐらい使ってなかったけど、大森林では結構通じてた
んだが。
もしかして、ドルディア族の里では東京に来たばかりのマイケル
︵アメリカ人、自称日本語ペラペーラ︶を見るような目で見られて
いたのだろうか。
いや、そんな馬鹿な⋮⋮。
ルイジェルドとそんなに変わらなかったはずなのに。
﹃えっと、なんて呼ばれてたんだ?﹄
﹃⋮⋮聖鉄のバザルと美しき雪稜のリリテッラの子﹄
要領を得ないので、そのままをフィッツ先輩に伝えた。
すると、彼は﹁あ、そうか﹂と物知り顔で頷いた。
﹁炭鉱族は7歳になるまで正式な名前を付けてもらえないんだ﹂
﹁正式な名前?﹂
﹁うん、炭鉱族は七歳になるまでは名前をもらえなくて、七歳にな
った時に、好きな物とか憧れてる物、得意な物から名前をもらうん
だ﹂
という事らしい。
2032
さすがフィッツ先輩は物知りだな。
﹁なるほど、名前が無いと不便ですね﹂
﹁親はもういないんだし、ボクらで付けてあげるしかないよ﹂
なるほど。
﹃これからお前の名前決めるけど、何か希望はあるか?﹄
と、一応本人にも聞いてみるが、首をかしげられた。
こんなんで本当にフィギュアを作れるようになるんだろうか。
ちょっと不安になってきた。
﹁女の子だし、可愛い名前にしてあげよう﹂
フィッツ先輩はそんな乙女チックな事を言う。
そう言われると、逆に勇ましい名前を付けてしまいたくなる。
いかんいかん。
﹁ザノバ、君の意見を聞こう!﹂
そう言うと、ザノバが顔をこちらに向けた。
﹁うん? 余が決めてもよろしいのですか?﹂
﹁金を出したのは僕じゃありませんしね﹂
﹁では、ジュリアスと﹂
ザノバは静かにそう言った。
考える素振りはなかった。
2033
﹁それ、男の名前ですよね?﹂
﹁はい、かつて余が力加減を誤って殺してしまった、可哀想な弟の
名前です﹂
俺は変な顔をしていただろう。
フィッツ先輩は何のことかわからない顔をしている。
﹁その子は余の部屋に置くのでしょう?
ならば、余の親近感の湧く名前がいいでしょう﹂
確かに、この少女はザノバと共に暮らす事になっている。
王族用の部屋に住んでいるザノバの部屋は広いからだ。
俺も許可を貰えば部屋に住まわせる事もできるが、王族の方が許
可は通りやすい。
だから俺の部屋でもいいが、当初の予定では、金のあるザノバの
部屋においておくのが自然、という流れだったはずだ。
もっとも、言葉がわからないなら、俺の部屋においてもいいだろ
うが。
あるいは、俺がザノバの部屋に泊まりこむか。
﹁まぁ、こだわりがあるなら僕はそれでいいと思いますけど、
せめて女の子だし、ジュリエットぐらいにしときましょう﹂
﹁余はそれで構いません。ジュリエットにしましょう﹂
﹁ジュリ⋮⋮エット、ふふっ、いい名前だね﹂
フィッツ先輩は何がおかしいのか、嬉しそうに笑っていた。
この年頃は何もなくても笑うからなぁ⋮⋮。
意見がまとまった所で、その旨を少女に伝える。
2034
﹃お前の名前は、今日からジュリエットだ﹄
﹃ジュリ⋮⋮?﹄
﹃ジュリエットだ﹄
﹃ジュリ﹄
少女はそう言って、ぎこちなく笑った。
ジュリとしか覚えてもらえなかったが、問題ないだろう。
−−−
こうして、ザノバの元にジュリエット︵通称ジュリ︶がやってき
た。
彼女は周囲からあれこれと教えこまれつつ、
いろいろとだらしのないザノバの後をちょこちょこと付いて回り
サポート。
夜になると俺について人間語や無詠唱魔術についてのお勉強。
寝る前に、ザノバによる人形に関する講義をひたすら聴き続ける
事で、ブレインウォッ⋮⋮教育を施す。
そうした労働に従事する。
ちなみに、ザノバには引き続き、指先を慎重に動かす訓練を続け
させる事にした。
いつか、自分でも作りたいだろうしな。
−−−
2035
俺とザノバの人形計画は、ここから少しずつ前進していくことと
なる。
そして、俺の真の目的が達成する兆しは、まだ見えない。
2036
第七十二話﹁獣族令嬢拉致監禁事件 前編﹂
リニア・デドルディア。
大森林の守護者たるドルディア族がひとつデドルディア。
その族長たるギュスターブの孫。
戦士長にして次期族長たるギュエスが娘。
プルセナ・アドルディア。
大森林の守護者たるドルディア族がひとつアドルディア。
その族長たるブルドグの孫。
戦士長にして次期族長たるテルテリアが娘。
ドルディア族。
その種族は、獣族の中では特別な存在である。
彼らのルーツは約5500年前。
最初の人魔大戦の後まで遡る。
人族と魔族の総力戦。人魔大戦。
その戦争の勝者は人族であった。
人族は魔族を奴隷のように扱い、増長した。
次々と他の種族へ宣戦布告。
それは広大な木材資源を持つ大森林に住む、獣族も例外ではなか
った。
迫り来る大軍勢。
2037
それに対し、当時獣族のトップであった﹃獣神ギーガー﹄が立ち
上がった。
卑劣な人族に対し、獣神ギーガーは獣族をまとめあげ、自らも最
前線に立って戦った。
力を振るい、時には知恵を巡らせ、時には他の獣族に助けられな
がら、
最終的には大森林を守り通したとされている。
﹃獣神﹄とは獣族全ての頂点に君臨する男であり、英雄の名であ
る。
そして、その獣神ギーガーこそが、ドルディア族だったのだ。
ゆえにドルディア族は大森林に住む獣族のトップ。
それだけ聞くと大した事がないように思えるかもしれない。
しかし現在、獣族は大森林のみならず、
中央大陸やベガリット大陸といった地域への分布も見せている。
その総数は人族ほど多くはない。
だが、決して無視できる数でもない。
具体的に言えば、現在でもミリス神聖国と戦争できるだけの戦力
を持っていると推測されている。
それほどの武力を持った種族なのだ。
そして、リニアとプルセナはドルディア族族長の孫。
獣神の直系。
特別な意味を持つ子。
2038
将来は族長か、もしくは族長の妻となる存在である。
人族に例えるならば、王位継承権を持つ者⋮⋮王女となるか。
それも、人族の最強国家たるアスラ王国の王女に匹敵する。
ゆえに、彼女らは入学当初、最も偉い存在であった。
そんな彼女らがどうして故郷を離れて、遠く離れた地に勉強にき
ているのか。
ギュエス
ギレーヌ
それは、前世代の王子・王女があまりにも不出来であったからだ。
ギュスターヴ
次世代である彼女らもまた、前世代の王子・王女の如く頭が悪か
った。
ゆえに、族長はその事を憂い、
二人に遠い地にて学業をおさめ、知識を得てくる事を命じたので
ある。
権力の通じない場所であれば、あるいは分別を身につけて戻って
くるだろう、と。
が、さて。
1つ誤算があった。
二人は﹃獣族の族長の孫という立場が効かないであろう﹄という
理由で、魔法大学に送り込まれた。
獣族ということで、むしろ迫害を受ける事を覚悟していた二人。
その二人を待っていたのは、
自分たちを腫れ物扱いする教師や、
媚びへつらう他の生徒であった。
そう、効いてしまったのだ。
ドルディア族という立場が、権力が。
2039
二人は調子に乗った。
入学当初はややビクビクしていた彼女らだったが、
ドルディア族に伝わる声の魔術と、高い敏捷性、筋力、種族特性
による喧嘩の強さ。
これに授業で習った詠唱魔術を組み合わせることで、上級生を難
なく打ち倒せる事に気づいたあたりから、段々とガラが悪くなりは
じめる。
ボイコット、カツアゲ、タカリ、タムロ⋮⋮。
およそ不良生徒らしい事はだいたい行い、一年生にして群れのボ
スとなった。
しかし、その快進撃は、すぐに終わった。
二年にあがると同時に、アスラ王国からお姫様がやってきたのだ。
アリエル・アネモイ・アスラ。
アスラ王国第二王女。
つい最近まで派閥まで作って勢力争いをやっていた人物。
それが、護衛を二人もつれて、我が物顔でリニア・プルセナの縄
張りへと入ってきたのだ。
そして、気に食わない事に、今までリニアやプルセナに尻尾を振
っていた教師連中は、アリエルたちに尻尾を振り始めた。
それでも、半年は我慢した。
気に食わない、気に食わないと思いつつも、なんでかしらんが我
慢した。
だが、すぐに我慢は限界に達した。
アリエルは極めて優秀で、一年生にして生徒会に所属したのだ。
優等生として褒められるアリエルと、不良のレッテルを張られた
自分たち。
2040
リニアとプルセナには、まるでそれが当てつけのように感じられ
た。
不良のレッテルを張られたのは自業自得なので、完全に逆恨みで
ある。
リニアとプルセナは、アスラ王女御一行にちょっかいをかけ始め
た。
歩いている所、目の前の地面に唾を吐くという地味な嫌がらせか
ら始まり、
わざと肩をぶつけたり、水を引っ掛けたり、
下着を盗んで男子寮の前に捨てるなどとエスカレートしていき、
最終的には不良生徒を集めての襲撃事件にまで発展した。
そして、フィッツ先輩にボコボコにされた。
二十名近い襲撃者はフィッツ先輩ただ一人によって撃破されたの
だ。
二人もフィッツ先輩によって容赦なく打ちのめされた。
そして、事件が明るみに出た事で、
教師陣の間でも話し合いが行われた。
二十名近い襲撃者は軒並み退学となった。
しかし、リニア・プルセナの二人は退学にはならなかった。
さすがにドルディア族の令嬢を退学にするのはまずいという判断
であろう。
不良生徒は少なくなり、リニア・プルセナの株は暴落。
アスラ王女一行は生徒から英雄視されるようになった。
ちなみに彼女らも一応は特別生という位置づけであるが、アスラ
王女たっての願いにより、一般生徒と同等の扱いを受けている。
2041
もちろん、リニアとプルセナは面白くない。
面白くないが、戦力差は歴然としており、すでに手駒もない。
せいぜい、去年入学してきた特別生のザノバやクリフが暴れてい
たので、鬱憤晴らしに因縁を付けて倒してみた程度だ。
ザノバを使って王女らの情報を集めてはいるものの、復讐をする
つもりもない。
最近では多少素行の悪さを見せつつも、授業を真面目に受けてい
る。
更生した、と言えるだろう。
−−−
新入生たる俺にとっては、フィッツ先輩スゲェとなるだけのエピ
ソード。
終わった事件。
ザノバ視点
そのはずだった。
−−−
ザノバ・シーローンである。
事件の始まりはそう、ある日の夜だ。
師匠はジュリに、ひたすら土魔術を教えていた。
師匠が﹁実験です﹂と言って行った修行方法は奇異なものであっ
2042
た。
一日のはじめに一度だけ詠唱で魔術を行使させ、
以後は一切の詠唱を教えずにひたすら無詠唱で土弾を作らせるの
だ。
最初に見た時、そんな事で無詠唱魔術が使えるわけがないと、余
は思ったものだ。
しかし、一ヶ月。
そう、一ヶ月で、ジュリは土弾の生成に成功してみせた。
無詠唱でだ。
驚くべきことだ。
師匠曰く、ジュリの魔術はまだまだ望むものには程遠いという。
確かにジュリも無詠唱による土弾の生成は数度に一度しか成功し
ない。
魔力切れも速い。
丸一日、一度も成功しない事も多い。
しかし、才能のない余に比べれば⋮⋮。
よそう、余は別の方面から力を加えればよいのだ。
それにしても。
このような幼子であっても無詠唱で魔術を使うことが出来るとは。
師匠は﹁フィッツ先輩のアドバイスのお陰ですね﹂と言っていた
が、何をいわんや。
教えたのは師匠だ。
ここは、流石師匠というべきであろう。
師匠に弟子入りした余の目は間違っていなかった。
師匠はそれと平行し、ジュリに人間語も教えている。
2043
驚いた事に、彼女は片言でなら人間語を理解できていた。
思えば、親と一緒に中央大陸で何年か暮らしているのだから、当
然なのだろう。
そのせいか、教えるのは結構簡単そうに思えた。
あの商人めが嘘をついていたのだ。
いや、嘘をつく理由もないので、単にジュリが喋らなかっただけ
かもしれないが。
余にとってもジュリはいい買い物であった。
ジュリはよく気がつく子である。
アレを取れと言えばアレを取り。
コレを持っていけと言えば、コレを持っていく。
余の意を汲むのが上手いのである。
まるでジンジャーのようであるな。
本来なら奴隷には購入した者は逃げられぬよう焼印あるいは特殊
な魔術印などを施すのが普通である。
だが、師匠はそうしたものは好まぬようだ。
購入した時もそうした処理は施さなかった。
奴隷ではなく、あくまで弟子として扱うという事であろう。
ならばこそ、余もジュリを弟弟子として扱うと決めている。
奴隷ではなく弟弟子、そう考えれば、不思議と可愛く見えてくる
から不思議なものであるな。
さて。
あの日の事件は、授業の後に起こった。
師匠の授業が終わった後、余はジュリに人形の素晴らしさについ
て語る。
2044
重要な時間である。
情熱無くして大業は成せぬ。
師匠の壮大なる計画の骨子となるジュリは、人形の素晴らしさを
理解せねばならぬ。
あの日はそう。
今日は、﹃ルイジェルド人形﹄を例に、師匠の人形造形の素晴ら
しさについて語ろう。
そう思い、余は鍵付きの保管箱の中から、人形を取り出した。
師匠は帰り支度をしながらそれを見ていたが、ふと口を開いた。
﹁そういえば、ロキシー人形の方はどうしたんですか?﹂
冷や汗が流れるとは、まさにこの事であった。
今までずっと、聞かれまい、聞かれまいと思っていたことを聞か
れてしまった。
余は、思わず、シーローン王国に置いてきた、と言いそうになっ
てしまった。
だが、ぐっと唇を噛み、耐えた。
余は嘘はつかない。
師匠に対しては、決して、嘘をつかない。
﹁実は⋮⋮あるには、あるのですが⋮⋮﹂
口が上手く動かない。
手が震える。
この事実を知れば、師匠は余を破門するかもしれない。
そう思うと、身体が鉛のように重くなる。
2045
﹁あるんですか? 久しぶりに見たいので、出してもらってもいい
ですか?﹂
師匠のわくわくしたような声。
胸が痛い。
やっとの思いで、ベッドの下から鍵付きの箱の一つを取り出す。
震える手で鍵を開け、中身を取り出す。
それをみた瞬間。
師匠の目が座った。
﹁おい、なんだこれは⋮⋮﹂
師匠の声が震えている。
平坦で、抑揚のないのに、声が震えていた。
余は泣きそうだった。
こんなに怖いことはなかった。
師匠の一大傑作。
﹃1/10ロキシー人形﹄は、
⋮⋮無残にも五体バラバラにされていたのだから。
首は取れ、服をきせるためのパーツは砕け、
腕は肘から砕けて、足もあらん方向に曲がっている。
無残な死体だ。
杖だけは頑丈で、折れていなかったが。
﹁どういうことだザノバ、お前、俺が、おい、どうなってんだこり
ゃ、えぇ⋮⋮?﹂
2046
あの師匠が怒っていた。
普段は平坦な口調で、淡々と敬語を喋る師匠。
その呂律がまわっていない。
﹁俺がどれだけ先生に感謝し、尊敬してるか、お前に言ってなかっ
たっけか?
この像を作るときに、どれだけ先生への想いを込めてたのか、
お前、知ってたんじゃなかったっけか?﹂
師匠が本気で怒っているのがありありと分かった。
リニアとプルセナに馬鹿にされてもへりくだるだけで、
クリフにつっかかられてもションボリするだけで、
ルークに馬鹿にされても困った顔をするだけだった師匠が。
殺気を放っていた。
ジュリが怖がって余の後ろに隠れる。
余だって隠れたい。
﹁お前、もしかして、ロキシーの事、馬鹿にしてるの?
ねえ、お前、もしかして、俺の敵なの?﹂
﹁ちちち、違います!﹂
余は慌てて首を振った。
師匠より、ロキシーの事は常々聞いている。
素晴らしい人物だと、尊敬すべき人物だと、師匠は常々言ってい
る。
そこには憧憬だけではない、狂信的な何かを感じ取れたものだ。
そう、ミリス神殿騎士団から感じるのと、同じものだ。
2047
正直、余はロキシーなどどうでもいい。
だが、ここでそれを正直に言えば、師匠は魔術を使うだろう。
師匠が本気で使う魔術⋮⋮余は消し炭すら残るまい。
怪力の神子などと言われているが、この体は魔術にはそれほど強
くないのだ。
﹁違います! これはリニア、プルセナと決闘した時に賭けた、余
の最も大切なもの!
決闘に敗北した時に無残に壊され、踏みにじられはしたものの、
決して、決してロキシー殿を馬鹿にするような事はありません﹂
﹁決闘だぁ?﹂
余は弁明を続けた。
ひたすらに真実を話した。
一年生の時、リニア・プルセナに決闘を挑まれた事。
その際に、お互いの大切なものを賭けた事。
自分は﹁1/10ロキシー人形﹂を持ちだした事。
神子たる余はシーローンにおいては負けたことがない。
ゆえに勝利を疑わなかった。
﹁1/10ロキシー人形﹂が掛かっているのだ。
例え上級魔術を使われても、耐えて鉄拳を振るう覚悟があった。
だが、奴らは唐突に変な術を使った。
それにより、余の自由を奪われた。
そして、なぶりモノにした。
余は為す術もなく敗北し、泣く泣く人形を手放すこととなった。
仕方がない。負けたのだから。
あの素晴らしいものを奪われるのは仕方がない。
誰だって欲しいにきまっている。
そう考えれば、諦めもついた。
だが、事もあろうか、物の価値のわからんあの雌どもは。
2048
﹁なんなのこれ﹂﹁きっもちわるいニャ﹂などといって人形を落
とし、足蹴にして踏みつぶし、バラバラにして蹴り散らかしたのだ。
と。
師匠の殺気が収まっていた。
﹁そっか、お前も悔しかったんだな﹂
ポンと肩を叩かれた。
わかってもらえた。
そう思って顔を上げて、余は情けなくも﹁ヒッ﹂と声を上げた。
﹁そういう事があったんなら、最初から言ってくれよ。
もし知ってたら、あんなヘラヘラ笑ったりはしなかったんだ﹂
優しい言葉を発するその顔は、透き通ってみえた。
口調がいつもと違う。
怒りを通り越して、師匠はどうにかなってしまったのだ。
師匠は人形に対して、あまり多くを語らない。
あるいは、それほど人形を愛していないのかもしれないと、最近
はそう思っていた。
だが違った。
師匠の内に秘めた心は、誰よりも熱いのだ。
﹁彼女らに思い知らせてやりましょう﹂
今晩、二人は死ぬ。
余はそう確信した。
恐怖で震えそうになった。
2049
だが数秒後、その震えは歓喜の震えに変わった。
−−−
余は力強い味方を得る事で、人形の仇を討てると思い至ったのだ。
ルーデウス視点
﹁はい、師匠!﹂
−−−
まったく許せん話だ。
人の作ったものを奪った上でわざわざ踏み潰して壊すとは。
とんでもない暴挙だ。
パソコンをバットで破壊するも同様の所業だ。
人のものを簡単に壊すなんてのは!
ああ、くそ。
呆れた奴だ許しておけぬ。
何よりも許せないのはロキシーを足蹴にした事だ。
例え人形とはいえ、ロキシーを足蹴にした事だ。
俺はかつて、踏み絵というものを馬鹿にしていた。
あんなもので隠れキリ○タンを判別できるわけがないと思ってい
た。
だが、今はわかる。
キリ○タンの気持ちが。
目の前で信じるものを踏みにじられる者の屈辱が。
島原の乱の真実が。
カノッサの屈辱が。
無理をおしてまで進められた十字軍の遠征が。
2050
思い知らせねばならぬ。
あの愚かな二匹の雌がどんなことをしでかしたのかを。
思い知らさねばならぬ。
好き放題に生きれば報いがあるということを。
﹁よいですか、ザノバさん﹂
﹁は、はい﹂
﹁連中は生け捕りにします。殺しはしません。神に逆らった罰を与
えなければなりませんからね﹂
﹁罰ですか、なるほど﹂
﹁さしあたっては、一人ずつ捕縛できればと思っています﹂
﹁しかし、奴らは常に二人で動いています﹂
ツーマンセル。
群れる動物は実に賢い。
﹁そうですね。畜生とは思えないぐらい賢い事です。そして二対一
とはいえ、神子であるザノバさんを完封した戦闘力⋮⋮なかなか厳
しい戦いになりそうですね﹂
﹁いえ、師匠であれば余裕かと思いますが﹂
﹁過大評価はおよしなさい。勝利とは、常に謙虚なるものの手に渡
るものですよ﹂
俺は自身を冷静に保つ。
冷静に。
クールに。
2051
冒険者時代には、クールであることが生死を分けた。
常に、クールに、冷静にだ、畜生共をぶっ殺してやる。
﹁作戦を伝えます﹂
﹁ハッ!﹂
﹁奴らの戦闘力は未知数ですが、戦い方はすでに掴んでいます。
片方が高速で移動しつつ魔術等で撹乱し、もう片方がその間に声
の魔術にて敵を無力化する。
シンプルですが、同等の身体能力を備えた二人。
後衛を攻撃されても、すぐに役割を入れ替える事が可能です﹂
攻撃されている方が回避に専念し、
もう片方がひたすらに麻痺の術を使う。
フィッツ先輩は、この連携をどう打ち破ったのだろうか。
聞いておけばよかったな。
まあ、それはいいだろう。
﹁ですが、今回は二対二です。
地力の勝負となれば、ザノバ君、神子たる君が彼らに遅れを取る
とは思えない﹂
﹁⋮⋮いえ、二対二でなくとも、師匠であれば一人でも十分だと思
いますが﹂
﹁ザノバ。君は私を師匠と慕ってくれる。それは嬉しい。
ですが、私は白兵戦においては、二歳年上の幼馴染に、いつもボ
コボコにされてきました。
あれから自分でも少しは鍛えたつもりですが、ぶっちゃけ全然自
信ありません﹂
﹁えっ!? 師匠をボコボコに出来る人がいるのですか!?﹂
﹁いますとも、少なくとも私は三人知っています﹂
2052
エリスと、ルイジェルドと、オルステッドだ。
知っているだけで三人もいるのだ、きっと探せばもっといるだろ
う。
そして、リニアとプルセナがそうじゃないとは限らない。
エリスに対しては魔眼と魔術を使えば勝てる。
だが、実際に本気でやりあったことはない。
リニア・プルセナはエリスと同じくらいの歳だ。
それぐらいの強さを持っていると見た方がいいだろう。
﹁師匠はご謙遜が過ぎます﹂
﹁ザノバ君。勝利は確実なものでなければなりません。
もう二度と、ロキシー先生が踏みにじられるようなことがあって
はならないのです。
本当はフィッツ先輩やエリナリーゼにも手伝ってもらいたい所で
す。
生憎と二人とも忙しいようなので、今回は我々だけでやりますが
ね﹂
エリナリーゼは私的な喧嘩はあまり参加してくれない。
あいつもロキシーに世話になった身だろうに。
人形ぐらいいいじゃないですの、ロキシー本人がやられたわけじ
ゃあるまいし、ときた。
薄情な奴だ。
﹁ハッ、ではすぐに決闘のための手紙を送りつけましょう。
我が祖国では古来より、手紙にナイフと一輪の花を添えるのが作
法となっています。
ドルディア族の中では腐った果実を相手の頭部に叩きつけるのが
それに当たるそうです。
2053
もっとも、そんな作法は聞いたことがないので、嘘かもしれませ
んが、
余の時はそれが合図であったと聞きました。
師匠はいかがいたしますか?﹂
﹁奇襲を掛けます﹂
﹁え? それは卑怯なのでは⋮⋮?﹂
ふん、卑怯で結構だ。
これは決闘ではない。
これは聖戦だ。
聖戦だから卑怯でもいいのだ。
宗教の名の元なら何をやってもいいのだ。
勝てばよかろう、なのだァー。
−−−
けど、奇襲は諦めた。
ドルディア族の鼻をごまかす方法が思いつかなかったからだ。
結局、単に彼女らを待ちぶせする形になった。
真正面から、正々堂々だ。
本校舎からやや離れた位置にある別棟。
そこから寮へのルートを探り、やや人気のない場所を陣取る。
林に隣接している、やや見通しの悪い広場だ。
そこで、堂々と仁王立ちになって待つ。
時刻は夕暮れ。
2054
人通りは少ない。
決闘とはやはり夕方に行われるべきだとかいう、そういうポリシ
ーはない。
彼女らの授業が終わり、校舎から出てくるのがこの時間だからだ。
一日の終わり頃なら、彼女らの魔力も減っている、という目論見
もあった。
それにしても遅い。
奴らは不良の風上にも置けない事に、ちゃんと最後まで授業を受
けているのだ。
午後はフケて屋上にでもたむろしてりゃいいのに。
俺が腕を組み、ザノバを従えて仁王立ちで待ち構えている。
夕暮れが過ぎ、辺りが暗くなり始め、人影が完全に途絶えた頃。
奴らが現れた。
﹁ニャんだ?﹂
﹁なんなの?﹂
仁王立ちする俺たちを見て。
リニアの方が訝しげに俺を睨んできた。
﹁おい、お前ら、そんなところに突っ立ってると邪魔ニャ。
道を開けるニャ﹂
リニアが言うが、俺達はどかない。
プルセナがくんくんと臭いをかぐ。
プルセナはペロリと口の端を舐め、ニヤリと笑った。
﹁リニア、あいつらやる気みたいなの﹂
2055
リニアはそれを聞いて、俺の後ろに立つザノバをまじまじと見つ
めた。
そして、ため息一つ。
﹁ザノバ、お前、恥ずかしくニャいのか?
いつぞやの仕返しをするのに、一年坊主を連れてくるニャんてニ
ャあ⋮⋮﹂
﹁ふん﹂
鼻息1つでそっぽを向いたザノバ。
リニアは額に青筋を浮かべた。
﹁むか、気に食わニャい態度だ。もう片方の人形もバラバラにされ
てーみたいだニャ﹂
﹁むぅ⋮⋮師匠、ここは余が﹂
ザノバはムッとした顔をして前に出ようとするが、俺はそれを掴
んで止めた。
腹立たしいのは俺も同じだ。
もう片方の人形とはルイジェルド人形の事だろう。
俺の恩人にして友人の像をも壊そうというのだ。
﹁いいじゃないですか。何も恥ずかしい事はありません。
いつも二人でつるんでる彼女らの方がよっぽど恥ずかしい。
なにせ、群れないと何も出来ないと喧伝しているのですから﹂
﹁ニャんだと⋮⋮﹂
リニアとプルセナが中空に﹁!?﹂と出そうな顔で凄んでくる。
しかしながら、やはりあまり恐ろしくない。
2056
俺はもっと恐ろしい殺気を放つ人物を知っている。
その人物は、あんなことを言われれば口など開かず襲い掛かって
くる。
殴って、引きずり倒して、上に乗って拳を振り上げながら啖呵を
吐く。
こいつらは温い。
﹁てめぇ、新入り、あんま調子こいてるんじゃニャーぞ。
じーちゃんの知り合いみてーだから見逃してやってたが、
あんまりでかい口叩くとぶっ殺すぞ﹂
なんだそれは。
まるで、俺達が何の理由もなく喧嘩をふっかけているようではな
いか。
﹁ほれ、わかったら散るニャ。
あちしらはもうヤンチャを卒業した優等生だから忙しいニャ。
喧嘩は他所でやるニャ﹂
リニアはそう言って、手をヒラヒラと動かした。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
そんな言葉がある。
昔はこのニャーニャーいう言葉に大変興奮していたが、
こちらが割りとマジで怒っている現状、
馬鹿にされている気しかしない。
﹁ニャーニャーうるさいんだよ。
獣族はみんなそんなヘタクソな人間語しか喋れないのか?
俺の知り合いの獣族はきちんと喋ってたぞ。
赤ん坊じゃないんだからきちんと発音してみろよ!?﹂
2057
﹁ニャ!?﹂
!?
リニアの口がカッと開いた。瞳孔がスッとすぼまった。
フーッと怒りの息を吐き、尻尾がピンと立った。
﹁てめぇ⋮⋮裸に剥いて水ぶっかけてやるニャ!﹂
それはもうやられた事ある。
脅しとしては二流だな。
てか、こうして聞くとずいぶんと間抜けに聞こえるぜ。
﹁もう、リニアはすぐにキレる⋮⋮ファックなの﹂
プルセナはそうつぶやきつつ、牙をむき出しにしながら、口元に
手を当てた。
ギュエスにやられた時の事がよぎった。
声の魔術だ。
﹁フカァー!﹂
プルセナの動作が呼び水になったかのように。
リニアが地面を蹴った。
バンと音がして、リニアの身体が横っ飛びに消える。
<リニアは三歩ほど真横に移動してから、急転して襲い掛かってく
る>
そこそこ早い。
だが、俺もすでに予見眼を開眼している。
見えないほどじゃない。
2058
﹁ザノバ! プルセナだ!﹂
俺はリニアを目で追いつつ、ザノバに指示を出す。
言いながら、プルセナに対して腕を突き出す。
声の魔術は魔眼では判別しにくい。先に止めておいた方がいい。
だが声の魔術の魔力の流れはわかっていない。
ゆえに乱魔が通用するかはわかっていない。
なので、彼女の眼前に大量の砂煙を作り出す。
﹁⋮⋮っ! ゲホッ! ゲホッ!﹂
大きく息を吸い込んだプルセナは、土煙を吸い込み、大きく咳き
込む。
﹁シャー!﹂
同時にリニアが突っ込んでくる。
見えている。
遅く、拙く、力任せだ。
恐らく、予見眼を使わずとも、余裕で見える。
エリスの足元にも及ばない。
エリスはもっと速く、鋭く、獣族より獣っぽく、したたかで、そ
して強かった。
カウンターを合わせる。
掌底がコツンと顎先を撃ちぬく。
それだけで、リニアはガクンと足をもつれさせた。
俺はさらに追い打ちをかける。
こめかみを殴りつけて地面にたたきつける。
2059
胸を踏みつける。
見下ろしながら、岩砲弾を見舞う。
パガンと快音が響き渡る。
﹁ギニャン!?﹂
リニアはあっさりと意識を手放した。
俺は潰れたカエルみたいな格好になっているリニアから足をどけ
る。
戦いの衝撃でスカートがめくれ上がっている。
ふん、今日は白か。
プルセナとザノバの方へと眼を向ける。
作戦通り、ザノバは声の魔術を使う方、後衛へと向かっている。
プルセナは四つん這いになって、犬のようにザノバから距離を取
ろうとしていた。
ザノバは追いつけない。
四足になったプルセナは速い。
てか、ザノバの足もおせえ。投げキャラかよあいつ。
あるのは腕力だけか。走りこみが足りんな。
俺はプルセナの眼前に泥沼を発生させた。
彼女は唐突にぬかるんだ地面に足を取られ、顔面から泥の中に突
っ込んだ。
﹁わふっ!?﹂
それと同時に、俺はさらに土魔術を使い、泥を硬化させていく。
﹁なに!? なんなの!?﹂
2060
慌てつつも、硬化した土から身体を引き抜こうとするプルセナ。
俺は左手で岩砲弾を放った。
﹁ギャン!?﹂
パガンといい音を立てて、プルセナは昏倒した。
終わった。
﹁ふぅ⋮⋮よし、こい!﹂
合図を送ると、近くの茂みに隠れていたジュリが、大きな麻袋を
持って小走りにやってくる。
彼女はザノバと協力し、手早く二人を袋詰めにする。
それにしても、わりとあっけなかったな。
こんなものなのだろうか。
エリスだったら、わざわざ横から攻めようなんて考えないだろう。
彼女の拳は常に最短を走る。
また、最初のカウンターは決して貰わないだろう。
仮にもらったとしても、ポイントは外して、脳震盪は避けたはず
だ。
そうすれば、こめかみに攻撃を食らって、地面に倒される事もな
かったはずだ。
よしんば倒されたとしても、すぐに組み付いて攻撃を仕掛けたは
ずだ。
胸に足を乗せられるなんて事もないな。
2061
そんな事をした瞬間、膝か足首を掴まれて、砕かれていたかもし
れない。
砕かれても岩砲弾は止まらんが。
プルセナの方もそうだ。
エリスだったら、目の前の足元が沼になった所で、足を取られは
しない。
きちんとバランスを取るか、寸前で立ち止まって沼から抜け出た
だろう。
もちろん、エリスだって最初から出来たわけじゃない。
俺との対戦経験を積むことで、対処してきた。
だが、パウロは似たようなことをしても、きちんと初見で対処し
てきた。 実戦経験豊富な上級の剣士なら、泥沼ぐらい回避出来るのだ。
それに今日び、魔物だって泥沼に足を取られたりはしない。
はぐれ竜だって⋮⋮。
あれ。はぐれ竜って泥沼にハマってたよな。
⋮⋮あれ。
もしかして、パウロとかエリスって相当強いのか?
そりゃ才能はあるとは聞いていたけど⋮⋮。
﹁さすが師匠です、余の出番はありませんでしたな﹂
麻袋を担いだザノバが戻ってきた。
俺は思考を打ち切り、彼に向き直る。
2062
﹁いえ、自分でも驚いています﹂
﹁ご謙遜を、ささ、部屋に戻りましょう﹂
﹁ああ﹂
俺たちは、暗くなった道を行く。
誰にも見つからないように気をつけつつ。
﹁ジュリ、足元に気をつけてくださいよ﹂
﹁だ、だい、じょぶ﹂
心なしか、俺を見るジュリの眼に怯えが混じっているような気が
した。
2063
第七十二話﹁獣族令嬢拉致監禁事件 前編﹂︵後書き︶
副題を
﹁ルーデウスvsリニア&プルセナ﹂
﹁ろくでなしブルーデウス﹂
﹁二匹のペットがうちにくる!? ペット騒動で大波乱!﹂
のどれかにしようかと思ったけどやめた。
2064
第七十三話﹁獣族令嬢拉致監禁事件 後編﹂
自室に戻ってきて、しばしの時間が流れた。
制服姿の猫耳と犬耳。
後ろ手は土魔術による手錠で拘束され、猿轡がはめられている。
俺とザノバは椅子に座り、彼女らが目を覚ますのを待った。
寝ている相手になにもしないのかって?
馬鹿言っちゃいけない。
俺は紳士だからな。
﹁むぐっ!?﹂
﹁んうー! んうー!﹂
二人はすぐに目を覚ました。
自分の置かれている状況を見て、うーうーと唸る。
﹁おはようございます﹂
俺は静かに挨拶をしつつ立ち上がり、二人を見下ろした。
二人は身をよじりつつ、俺に視線を向ける。
やや不安の混じった目で、しかし睨み付けるような視線だ。
﹁んぅー!﹂
抗議のうめき声。
状況を理解していないらしい。
2065
﹁さて⋮⋮何から話しましょうか﹂
俺は顎に手をやりつつ、二人を見る。
二人は身をよじった事でスカートがめくれ、みずみずしいふとも
もが露わになっている。
実に淫靡な光景だ。
﹁ふむ﹂
﹁んぅ!?﹂
プルセナはすぐに視線に気づいた。
そして鼻をくんくんと動かし、不安げな表情になった。
俺が何をみてどう思っているのか、その鼻で理解したようだ。
対するリニアは理解してないらしく、俺を睨んでフーフー言って
いる。
どうやら、プルセナの方が鼻はいいらしい。
実際、病に犯された身である俺からは、その臭いもほとんどして
ないはずだが⋮⋮。
﹁ふむ﹂
そこで、ふと俺はあることを思いついた。
この獣耳女子高生が拘束され、服装も乱れ、身動き出来ない状況。
大変刺激的だ。
もしかすると、こういう方向でなら、治るのではないだろうか。
アスラ貴族はみんな倒錯した性癖を持っていると聞く。
2066
DTを喪失した事で、あるいは俺もそうした方向に目覚めてしま
った可能性がある。
生前ではこうしたものも嫌いではなかった。
大好物というほどではなかったが。
﹁ふむ﹂
思い立ったら即実行。
両手をワキワキさせながらプルセナに迫り、その大きな山脈にタ
ッチ。
彼女はギュっと目をつぶった。
なんて表情だ。
まるで俺がすごく酷いことをしているみたいじゃないか。
世の中には男の胸板を遠慮なく触ってくる女もいるんだぞ。
それにしても、とてもいい感触だ。
彼女のは大きいからな。
が、興奮は薄い。
帰ってくるはずの息子の歓喜の産声は聞こえない。
手を離せば、興奮は一瞬にして引いていき、行き場のない寂寥感
だけが残った。
⋮⋮やはりダメか。
手を離すと、プルセナは一瞬きょとんとした。
鼻をくんくんと動かし、すぐにほっとした顔になり、そしてちょ
っと複雑そうな表情を浮かべた。
﹁師匠? そのような方向で罰を与えるのですか?﹂
﹁いえ、ちょっとした実験です﹂
2067
ザノバの問いに、俺は静かに答え、リニアを見る。
目があった途端、怒りの視線を向けてくるリニア。
一応彼女の方にも触れてみる。
プルセナよりは小さいが、彼女も立派なものをお持ちだ。
ドルディア族ってのは、平均してでかいのが多い。
しかし、やはり俺のトムキャットは喜ばない。
変化があったとすれば、リニアの目線に屈辱と怒りの要素が増し
たぐらいか。
拘束趣味を持つ者は、こうした視線をさらに絶望にゆがませるこ
とが至高と言われる。
生前の俺もそのことは理解していた。
だが、どうやらモニターの中と現実では少々違うようだな。
何ら得られるものはない。
実験は終了だ。
﹁さて、あなた方、どうしてこうなっているのか分かりますか?﹂
まず、そう尋ねた。
二人は目線で合図しあい、互いに首を振った。
リニアはうるさそうなので、プルセナの方の猿轡を外してやる。
彼女は少し考えた後、ぽつりと言った。
﹁⋮⋮あなたには何もしてないはずなの﹂
﹁ほう、何もしていない!﹂
俺は彼女が言った言葉をわざとらしく復唱し、パチンと指を鳴ら
2068
した。
ザノバがおそるおそるといった感じで、箱を持ってくる。
そして、中を開けると、そこには無残になったロキシー人形があ
った。
﹁これをやったのは、あなた方ですね?﹂
﹁⋮⋮っ、その気持ち悪い人形がなんなの?﹂
﹁気持ち悪い!﹂
俺は再度、プルセナの言葉を復唱した。
ロキシーを気持ち悪いと申すか!
俺が丹精こめて作り、いい出来だからとつい売ってしまったロキ
シーを!
気持ち、悪い!
いや、落ち着け。
クールだぜ。
﹁これは、我が神をかたどった人形です﹂
﹁か、神?﹂
﹁そうです、僕は彼女に助けられたことで世界を知ることができま
した﹂
俺は、言いながら、部屋の隅に移動する。
そこには神棚があった。
この部屋にきてすぐに設置した神棚だ。
観音開きの小さな扉を開け、その中身を見せる。
﹁むー!﹂
﹁な、なんなの⋮⋮﹂
﹁し、師匠、これは⋮⋮﹂
2069
﹁⋮⋮﹂
御神体が鎮座ましましているその神々しさに、二人は心をうたれ
たらしい。
ザノバですらたじろぎ、ジュリはザノバの服の裾を掴んで泣きそ
うになっていた。
﹁あの像は、我が神です。
あなた方はそれを足蹴にし、踏みにじり、バラバラにしたのです﹂
リニアとプルセナは目を見開いて、
俺の顔と神棚を見比べた。
そして、ゆっくりとザノバと、泣きそうになっているジュリを見
て。
俺の所に視線が戻ってくる。
その一連の動作で顔色が青くなった。
顔面ブルーレイってやつだな。
どうやら、理解したらしい。
自分たちが何をしでかしたのかを。
﹁さて、申し開きはありますか?﹂
俺の問いにプルセナは、数秒考えた。
そして、言った。
﹁ち、違うの、踏んだのはリニアなの、私はやめようって言ったの﹂
﹁むー!?﹂
謝罪よりまず言い訳とは。
2070
ふん、よろしい。
面白そうなのでリニアの猿轡をはずしてやろう。
猿轡をはずすと、二人がキーキーと甲高い声で喚きだした。
﹁気持ち悪いから、いらニャいって言ったのはプルセナニャ!﹂
﹁でも踏んだのはリニアなの﹂
﹁あ、足が滑ったのニャ。それに、プルセナだって最後に蹴っ飛ば
してばらばらにしたニャ。
夜中遅くになるまで欠片を探してるザノバを見て、クスクス笑っ
てたニャ!﹂
小さな破片を夜中になるまで探していた、だと⋮⋮。
小指の先ほどの足首のパーツもあったというのに。
ザノバ君、君ってやつは⋮⋮。
今、俺のザノバへの好感度が3ぐらい増えた。
ルーデウスルート一直線だな、やったぜザノバ!
と、それはさておき。
﹁シャラップ! 二人とも同罪です﹂
まずはその見苦しいなすりつけ合いを黙らせる。
そして、
﹁罪には、罰を与えねばなりません﹂
俺は断罪を宣言する。
﹁とはいえ、僕の宗派はまだ出来たばかりで、こうした場合の罰に
2071
ついては決まっていません。
あなた方の村では、こうした場合はどんな罰が下るのですか?﹂
﹁あ、あちしらに変なことしたら、父ちゃんと爺ちゃんが黙ってい
ないニャ。
大森林でも一、二を争う戦士ニャんだから!
あ⋮⋮﹂
リニアは思い出したようだ。
俺がギュエス、ギュスターヴと知り合いだという事を。
そして俺も思い出した。
大森林での﹃罰﹄の事を。
﹁ギュエスさんですか? ああ、思い出しました。
彼には冤罪を掛けられましてね、聖獣様に不埒な真似を働いたと
いうことで、
裸に剥かれて冷水を浴びせられ、一週間も牢屋の中に入れられた
のです。
なるほど、ではあなた方もそうしてやりましょうか?﹂
ちなみに、俺はそのことについては全然恨んでたりはしていない。
だが、彼女らはそうとは受け取らなかった。
二人して絶句して、真っ青な顔になった。
やはり、この一族にとって、あの行為は凄まじい拷問に値するら
しい。
﹁い、いや、なんでもやるからそれだけはやめてくださいニャ﹂
﹁リニアの体をどうしてもいいの、だから私だけは助けるの!﹂
﹁そうニャ、あちしはどうなってもい⋮⋮うえぇ!?﹂
二人して懇願しつつも漫才をしてくる。
2072
反省の色が足りんな。
特に犬っころの方は。
﹁あなた方ドルディア族は、信望する聖獣様のこととなると、酷い
ものでしたよ?
何かあるたびに僕を疑って、冤罪をなすりつけようとしてくるの
です。
対するあなた達の罪は冤罪でもなんでもない﹂
﹁お願いします、許してなの⋮⋮大事な人形だって知らなかったの
⋮⋮!﹂
﹁ええ、そうでしょうね﹂
﹁もう二度としないの⋮⋮﹂
なにが二度とだ。
二度もあってたまるものか。
いいか、壊れた物ってのは二度と戻ってこないんだぞ。
目の前で大切なものを壊される奴の気持ちがこいつらにわかって
たまるものか。
俺は今でもあの瞬間の事を思い出せるぞ。
弟にバットでパソコンを破壊されたときのことをな。
今さらあの時のことを蒸し返すつもりはないが。
あの時の絶望感と感情だけは、今だって思い出せる。
唯一の心のよりどころを木っ端微塵にされた時の感情はな!
﹁謝るニャ、腹を見せてもいいニャ⋮⋮﹂
﹁そうなの、私も恥ずかしいけど我慢するの﹂
腹を見せる?
ああ、ギュエスがやってた獣族式の土下座か。
あんな誠意の足りない土下座を見ても、俺の気持ちは治まらん。
2073
﹁許して欲しいんだったらこの人形くっつけて元通りにしてくれよ
!﹂
ロ・キ・シー、ロ・キ・シー!
﹁そうだ、師匠でも修復できないのだぞ!﹂
ザノバも二人を糾弾する。
しかしなザノバよ、別に修復できんわけではないぞ。
パーツも揃ってるし、一番大変な杖の部分は無傷だ。
当時よりも俺のフィギュア製作の腕は上がっている。
つなぎ目もなく、綺麗に⋮⋮。
うん?
そうだ。
直せる。
直せるんだよな。
二度と戻ってこない、というわけではないんだよな。
そう考えると、スッと怒りが治まってきた。
謝罪ももらった。
二人も反省している。
許してもいいような気がしてきた。
ていうか、この状況って普通に犯罪だよな。
むしろ明るみに出ると、俺の方がヤバイんじゃないだろうか。
例えば、もしこの光景を、槍を持ったスキンヘッドの男に目撃さ
2074
れたら⋮⋮。
いや!
違う、問題はそこじゃない!
こいつらが他人の大切にしている物を平気で壊したことが問題な
のだ!
けど、ここで優しい顔をすれば、こいつらはきっとまた繰り返す!
その身に刻んで反省させねば!
ロキシー教徒の名に掛けて!
とはいえ、ちょっと頭が冷めたので、スカッとする外道な罰が思
い浮かばない。
﹁ザノバ、何か案はありますか?﹂
﹁人形と同じ目に合わせてやりましょう﹂
ザノバの目はとっても冷酷だった。
こいつはまだ怒り心頭らしい。
当然か、目の前で、だもんな。
そうしようか、といったら、彼女らは現在のロキシー人形と同じ
にされるだろう。
ザノバの手によって、ブチブチと生々しく。
暴君スプラティヌスだろう。
やる、この男はやる。
首取り王子は健在だ。
﹁いいえ、ザノバ。殺すのはやりすぎでしょう。
僕は殺人は好きじゃありません﹂
﹁では、奴隷商に売りましょう。
2075
ドルディア族の売買は禁止されていますが、
確か、アスラには獣族が好きで好きでたまらない一族がいたはず
です。
彼女らはドルディア族の族長筋の娘⋮⋮。
それを奴隷とできるのであれば、条約を破ってでも買い取ってく
れるはずです﹂
ザノバは過激だった。
とはいえ、奴隷もやりすぎだろう。
獣族と戦争になってしまう。
﹁そのアスラの一族は、今ちょっと滅びる寸前なので難しいでしょ
う﹂
ボレアス家、今どうなってんのかな。
北方大地にいると、あまり情報が伝わってこない。
ただ、かなりきつい状況らしいし、お家取り潰しも時間の問題な
のかもしれない。
﹁いいですかザノバ、仮にも彼女らはお姫様。
あまり問題にならないやり方にしておかないと、
後になってこっちにも跳ね返ってきます﹂
﹁さすが師匠、頭に血が登っていても自らの保身を考えていらっし
ゃるとは﹂
﹁だまらっしゃい﹂
うーん。
どうしたものか。
このまま釈放したのでは俺の気が晴れない。
いっそ、ずっとこのままにして目の保養にするのもいいかもしれ
2076
ない。
俺の趣味と合ってないとはいえ、彼女らも美少女に分類される。
いやいや、そもそも拉致の時点で問題になるかもしれない。
あまり長いこと置いておくわけにはいかない。
彼女らも、まぁ反省しているようだし。
人形も直せる。
スパッと一つ、スカッとすることをして手打ちにしたいが⋮⋮。
うーむ。
−−−
﹁ということがあったんです﹂
困ったらフィッツ先輩に相談する。
最近の俺のパターンになってきている。
フィッツ先輩は物知りだから、大体なんでも答えてくれるしな。
﹁ちょ、ちょっとまって、じゃあ今、二人はルーデウス君の部屋に
いるってこと⋮⋮?﹂
﹁いますね⋮⋮安心してください。二人が本日授業を休む事は、き
ちんと連絡として届けて置きましたので﹂
﹁えっと、その、捕まえてって、その、ザノバ君と一緒に、女の子
を監禁してる、ってこと?﹂
そうなるか。
獣耳美少女を監禁か。
2077
生前の﹁死ぬ前に一度はやってみたかった事リスト﹂に入ってた
ような気がする。
もっとも、当時やりたかったのはその先であり、
現在の俺にはその先を行う力はない。
﹁ルーデウス君は、その、えっと、二人を監禁して、その⋮⋮?﹂
フィッツ先輩の顔は真っ赤で、俺を見る眼がちょっと得体の知れ
ないものを見る目だった。
いかん、少し誤解させてしまったようだ。
﹁いや、エロい事はしてませんよ﹂
﹁そ、そうなの?﹂
﹁せいぜい胸を揉んだ程度です﹂
﹁む、胸は触ったんだ⋮⋮﹂
﹁ええ、少し確かめる事がありましたのでね﹂
﹁⋮⋮? えっと、そういう意味じゃなくて触ったの?﹂
そういう意味ってどういう意味だ。
いや、つまりエロい事の目的で触ったのかどうかという事だ。
広義で言えば、確かにそうとも取れる。
だが、俺の視点で言えば、あくまであれは医療行為の一環、実験
の一つである。
﹁そういう意味ではないですね﹂
フィッツ先輩は、ややほっとした表情をしていた。
﹁そ、そっか。でも問題になるよ。彼女らはあれでもドルディア族
の族長筋だし﹂
2078
﹁安心してください。族長・戦士長ともに面識がありますので﹂
﹁え!? そうなの?﹂
﹁はい。彼らには学校での生活がたるんでいたので性根を叩きなお
してやった、とでも言えば納得するでしょう﹂
﹁ど、どうやって知り合ったの!? ドルディア族って排他的だか
ら、族長なんて滅多に会えないんだよ﹂
俺はフィッツ先輩に、大森林での事を語って聞かせた。
自分で語ってみると、なかなか情けないエピソードだ。
子供を助けようとして捕まり、そのまま釈放されてからは犬と遊
んだりフィギュアを作ったりする毎日だもんな。
﹁はぁ、ルーデウス君はすごいね⋮⋮﹂
情けない話だったが、フィッツ先輩は感嘆の息をはいた。
どこらへんに凄い要素があったんだろうか。
﹁聖獣に懐かれるなんて﹂
そこか。
そういえば、聖獣様はなんで俺のところにきてたんだろうか。
ギースの仕業という事はわかったが⋮⋮。
まさか本当に俺のことが好きだったわけでもあるまい。
﹁犬畜生でも、誰が助けてくれたのかぐらいはわかるようですね﹂
﹁そんな言い方、獣族の前では絶対にしちゃダメだよ﹂
当然だ。
俺だって、目の前でロキシーを低俗な魔族とか馬鹿にされたら怒
るからな。
2079
超えちゃいけないラインはわきまえているつもりだ。
﹁ともあれ、フィッツ先輩にはまた知恵を貸していただきたい。
こちらの気が晴れ、かつ恨まれない程度で、
しかし復讐されない程度にはわからせるようなオシオキ。
何かありませんか?﹂
﹁難しい質問だね﹂
フィッツ先輩は、それでもうーんと考えてくれた。
むしろ、さっさと二人を解放しろとでも言うかと思ったが。
﹁ボクもね、数人掛かりで一人をやっつけて、あまつさえ持ち物を
奪い、壊すような奴は許せないんだ﹂
という事らしい。
それについては全面的に同意だ。
ちなみに、彼はザノバとは道ですれ違えば挨拶する程度の仲には
なったそうだ。
知り合いがやられたと聞いて、奮起する。
奴隷の時にも思ったが、フィッツ先輩は正義の人なのかもしれな
い。
﹁よし、ボクにいい考えがある﹂
﹁ほう﹂
そのセリフは失敗フラグだからあまり言わない方がいいと思うが。
まあいい。
というわけで、その日は調査を早々に切り上げ、フィッツ先輩と
2080
二人で部屋に戻った。
−−−
部屋に戻ってみると、ツンとする臭いが漂ってきた。
床が湿っていた。
全体的にくさかった。
リニアとプルセナは、ぐったりと脱力していた。
⋮⋮トイレぐらいは行かせてやるべきだったかもしれない。
流石に不快そうだったので、魔術で蒸発させ、窓を開けて空気を
入れ替え、
彼女らの汚れたスカートとパンツも脱がし、綺麗に拭いてやった。
服は洗濯へ。
一応全裸ではないから大丈夫だろう。
そう思って顔色を伺ったのだが、二人とも完全に諦めた顔をして
いた。
﹁せいぜい乱暴にするといいニャ⋮⋮
でも、部屋で飼うのでも、せめて手枷は外して欲しいニャ⋮⋮
動けニャいのは辛いニャ⋮⋮逃げニャいからお願いします⋮⋮﹂
猫系である彼女に、約24時間の拘束は辛かったらしい。
﹁いい子にするから、ご飯だけは食べさせてほしいの。
夜中に吠えたりはしないの⋮⋮
2081
噛み付いたりもしないの⋮⋮
お肉が食べたいの⋮⋮
お腹すいたの⋮⋮﹂
今までよくわからなかったが、こっちは食いしん坊キャラらしい。
考えてみると、初めて出会った時も肉を食っていたな。
それにしても、たった一日で諦めてしまうとは。
やはり飯が無かったせいだろうか。
腹が減ると、人は弱気になるからな。
枷を外してやる。
すると、二人は俺の前に跪いた。
下を履いていないので、むちゃくちゃエロい。
鼻の下が伸びてしまう。
ついでに股の下も伸びてくれれば言うことないんだが。
﹁ルーデウス君⋮⋮﹂
すぐ脇で二人のスカートとパンツを洗濯しているフィッツ先輩の
声。
﹁えっと⋮⋮。
二人も反省してるみたいだし、もう許してあげた方がいいんじゃ
ないかな?
君はスカっとしてないかもしれないけど、丸一日身動き取れない
って結構きついよ?
男子寮には飢えた男が一杯いるから、二人だって怖かっただろう
し﹂
﹁そうニャ﹂
2082
﹁足音が聞こえるたびにもうダメだって思ったの⋮⋮﹂
いや、俺の知る限り、飢えた男なんてそんなにいないはずだ。
別に外出は禁止されてないんだから、女に飢えたなら色街に行く
なり、
最近一年生に入ってきた、美人と噂の長耳族の所に行けばいいの
だ。
それとも、リニアとプルセナは各所で恨みを買っているから危な
い、という事だろうか。
あー、でもこのへんだと、縛られてる女の子を二人見つけたら、
そのまま奴隷商の所まで運ぶ奴も結構いるのか。
﹁これからは言う事聞くニャ、子分になって働くニャ﹂
﹁だから許してほしいの﹂
二人は十分に反省している。
少なくとも、見た目は。
﹁別に無理に言うことを聞く必要はありません。
⋮⋮でも、ロキシーを馬鹿にすることだけは許しません﹂
それだけ言うと、二人は真っ青な顔でコクコクと頷いていた。
﹁もちろんニャ、他の神様馬鹿にしたら殺されても文句言えないニ
ャ﹂
﹁うう、神殿騎士団に追い掛け回された恐怖を思い出すの⋮⋮﹂
俺は神殿騎士団にも身内がいる、と話すと、二人はよりいっそう
青くなった。
金とコネはあればあるほどいいって本当だな。
2083
しばらくして。
洗濯も終わり、二人はいそいそと衣類を身につける。
パンツを履く動作というのは、どうしてこう興奮するのだろうか。
個人的には脱ぐ動作よりよっぽど興奮する。
立場が決まり、衣類も身に付けた。
すると、二人もいつもの調子を取り戻した。
﹁いうことを聞くといっても、子供ができるようなことは禁止ニャ。
そういうのはきちんとお付き合いして結婚して、それからニャ﹂
﹁そうなの。でもたまにリニアのおっぱいを触るぐらいは許してあ
げるの﹂
﹁そうニャ、たまにならって⋮⋮なんであちし!?﹂
﹁私のは高いの。高いお肉をくれればなの﹂
二人は不良少女な割に貞操観念はしっかりしているようだ。
さすがお姫様。
それにしても、先ほどまでのしおらしい態度は半分ぐらい演技だ
ったのだろうか。
反省しているといいんだが⋮⋮。
﹁あ、そうだルーデウス君。闇討ちに気をつけてね﹂
フィッツ先輩の言葉で、二人はギョっとした顔になった。
﹁ニャ!? ちょっとフィッツ、変ニャこと言うニャよ!﹂
2084
﹁そうなの!﹂
﹁ボスは頭のおかしい鬼畜野郎ニャ、
次負けたら何されるかわかんニャいのに、
誰がそんな事するんだ!﹂
誰が鬼畜野郎だ。
ひでえ言いようだな。
だが、それぐらいに思ってもらえているなら、俺も枕を高くして
眠れる。
﹁⋮⋮ボス、そろそろ帰ってもいい?﹂
プルセナが、小首をかしげつつ聞いてくる。
てか、なんだボスって。
いいけど。
﹁お腹すいたの、部屋にある干し肉を食べに戻りたいの﹂
﹁そうニャ、昨日の夕方から飲まず食わずだからニャあ⋮⋮﹂
なんだその言い方は。
まるで俺が悪いみたいじゃねえか。
ちょっと反省が足りないんじゃないか?
﹁ちょっと反省が足りないね﹂
そう言ったのは、フィッツ先輩だった。
﹁フィッツ、お前は関係ないニャろ?﹂
﹁そうなの⋮⋮ファックなの⋮⋮﹂
2085
フィッツ先輩がちょっとショックを受けた顔をしていた。
俺は叫んだ。
﹁二人共、そこに正座!﹂
二人はしぶしぶ座り込む。
フィッツ先輩は、懐からある瓶を取り出した。
黒い塗料の入った瓶だ。
そして、筆。
いい考え、という奴だ。
−−−
事が終わった頃、俺の怒りはほぼ霧散していた。
﹁⋮⋮⋮⋮フィッツ、お前覚えておくニャよ⋮⋮﹂
﹁ファックなの⋮⋮﹂
悔しがる二人の顔。
二人の眉毛はつながり、まぶたの上には目が書いてある。
口の周りには泥棒のようなヒゲが書き込まれていた。
そして、頬には。
﹃私はルーデウスに負けた猫です﹄
﹃私はルーデウスに負けた犬です﹄
と書かれている。
2086
新手のボディペイントだ。
ちょっと興奮するな。
﹁ある部族が体に文様を残すときに使う塗料を使ったんだ。
特殊な詠唱をすれば、一生跡になって残るやつ﹂
そういう塗料があるらしい。
この世界のイレズミなんだろうか。
そういえば、冒険者時代に何度か見たことある気がする。
﹁水で洗ったぐらいじゃ消えないよ。もしルーデウス君に逆らった
ら、ボクが魔術を発動させて、その刺青を一生残すからね!﹂
﹁わ、わかったニャ、そんなどなるニャよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わかったの﹂
二人はガクガクと怯えながら、頷いた。
まぁ、ひでぇ顔だもんな。
一生残るって言ったら嫁の貰い手がなくなりそうだ。
フィッツ先輩もなかなかえぐいね。
﹁今日のところは帰ってもいいけど、明日は一日その顔で過ごすこ
と。
そしたら消してあげるよ。
けど、体の方は半年は消さないから、そのつもりで!﹂
﹁わかったって、ほんと勘弁ニャ﹂
﹁⋮⋮ぐすん﹂
プルセナが涙ぐんでいる。
ちなみに、彼女らの背中には、かなり卑猥な文言が書いてある。
一生残るとなったら、もう生きていくのも恥となるだろう。
2087
二人は、廊下を歩くと見咎められるので、窓から帰ることとなっ
た。
ここは2階だが、大丈夫なのだろうか。
大丈夫か、2階ぐらいなら。
去り際、リニアがふと思いついたように聞いてきた。
﹁ボス、魔術師のくせにあちしの動きを目で追えるとか、どういう
訓練してんだ?﹂
﹁特別な事はしてません。師匠の教えを守り、きちんと動いている
だけです﹂
エリスとの訓練が生きた、という形になるのだろうか。
俺は自分を弱い、弱いと思い続けてきた。
エリスが成長しているのに対し、自分はまるで成長していないと
思っていた。
だが、成長速度が違うだけで、俺もそれなりには強くなっていた
のかもしれない。
﹁師匠は誰ニャんだ?﹂
﹁えーと、ギレーヌですかね﹂
﹁ギレーヌって⋮⋮あちしの叔母さんか?﹂
﹁あ、そうですね。剣王ギレーヌです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ニャるほど﹂
そう言うと、彼女は何か納得のいった顔をしていた。
﹁じゃあニャ﹂
2088
﹁またねボス。人形は本当にごめんなさいなの﹂
二人はそう言って、帰っていった。
その後、フィッツ先輩はふぅと息を吐いた。
﹁ごめん、ルーデウス君。ボクは関係ないのに調子に乗っちゃって﹂
﹁いえ、怯える二人が見れたので良しとします﹂
それより。
﹁特殊な詠唱と言いましたが、もし知ってる人がいたら困るんじゃ
ないですか?﹂
二人は知らなかったようだが、道具である以上、フィッツ先輩だ
けが知っている詠唱ではあるまい。
誰かがイタズラ半分に二人に向かって唱えれば。
そう考えると、ちょっと気の毒になってしまう。
﹁え? あ、うん、あれ嘘だから﹂
フィッツ先輩はあっけらかんと言った。
﹁確かにそういう塗料もあるけど、
あれはただの魔法陣用の安い塗料だよ。
魔力流せば消える奴﹂
くすくすと笑いながら、フィッツ先輩は言った。
まるで、イタズラが成功した子供のようだった。
2089
和んだ。
−−−
フィッツ先輩は、しばらく俺の部屋にいた。
なにやらそわそわして、落ち着かない様子だった。
ウロウロと部屋の中を歩きまわり、珍しいものを見かける度に何
かと聞いてくる。
﹁あれは何? 何か入ってるの?﹂
お目が高いフィッツ先輩は、神棚を指さした。
﹁我が宗派の御神体が入っています﹂
﹁あれ? ルーデウス君ってミリス教徒じゃないんだ。ちょっとど
んなのか見てもいい?﹂
﹁ロキシー教とい⋮⋮開けないでください!﹂
神棚を開けようとしていたので慌てて止めた。
うちの宗派の御神体は神々しすぎて一般人には目の毒になる。
ていうか。
昨日の俺はどうにかしてたんだ。
パンツを見せたってドン引きされるだけだよ。
﹁あ、ごめん﹂
フィッツ先輩は慌てて手を引っ込めた。
その後も、あれこれとあちこちを見渡していたが、
2090
ふと、ベッドの上で視線が止まった。
枕を持ち上げる。
﹁この枕、ザラザラ音がするね﹂
﹁自作した枕です﹂
自作した枕だ。
北方大地の森にすむ魔物マスタードトゥレントが落とす種。
それを割るとクルミにも似たナッツが出てくるのだが、
その殻が蕎麦殻によく似ている。
なので、砕いて麻袋に詰め、外側を魔物の毛皮で覆ったのだ。
これが完成した日より、俺の安眠は約束された。
﹁へぇ⋮⋮ちょっと寝転んでみていい?﹂
﹁どうぞ﹂
フィッツ先輩は枕を置き、ベッドに横になった。
﹁いい枕だね﹂
﹁そう言ってくれたのは、フィッツ先輩だけですよ﹂
この枕に頭をおいた事があるのは、他にはエリナリーゼぐらいし
かいない。
奴は﹁枕は男の腕が最高﹂とかいってたが。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
彼は横になってもサングラスを外さない。
こだわりなのだろう。
そのうち素顔を見せてくれる日は来るのだろうか。
2091
いや、むしろグラサンがフィッツ先輩の本体かもしれない。
⋮⋮ここでふと手を伸ばし、はずしたら、どうなるだろうか。
いや、ただのこだわりではない、理由があってつけていると本人
も言っていた。
例えば目にコンプレックスがあるとか、かもしれない。
やめておこう。
嫌われたくない。
﹁⋮⋮﹂
しばらく、寝転ぶフィッツ先輩と俺の間で、沈黙が流れた。
フィッツ先輩は、俺に見られている事に気づいたのか、身体を起
こす。
﹁そろそろアリエル様の所にいかないと﹂
﹁はい、お疲れ様です﹂
﹁うん、じゃあね、ルーデウス君﹂
﹁ありがとうございました﹂
﹁どういたしまして﹂
フィッツ先輩も、窓から出て行った。
廊下から出ろよ、と思ったが、窓からの方が女子寮に近いのか。
まあいいだろう。
−−−
2092
そして、やや臭いの残る部屋が残った。
俺は冒険者が使う匂い消しの粉を撒き、ベッドに横になった。
枕からいつもと違う香りがする。
フィッツ先輩の臭いだろうか。
不快ではない。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
今回は女子を二人拉致して、かなりエロい状況になったのだが、
やはり治る気配は無い。
見ても揉んでもだめときた。
進展が無い。
−−−
後日談となるが、例の落書きは翌日、消す前にザノバに見せてや
った。
ザノバはこんなものでは余の怒りは収まらんという顔をしていた。
しかし﹁お前今回何もやってないだろ﹂とツッコミ、ついでに応
急処置ながらも修理したロキシー人形を見せてやると、すぐに相好
を崩し、二人を許したのであった。
また、二人を監禁した事で問題になりかけたが、
﹁大事ニャい! 何事もニャかった、ちょっと決闘に負けて部屋で
顔にいたずら書きされただけニャ!﹂
﹁そうなの⋮⋮何もなかったの⋮⋮本当に何もなかったの⋮⋮ブル
2093
ブル⋮⋮﹂
と、二人がそう言い張ったゆえ、大きな問題にはならなかった。
めでたしめでたし。
2094
第七十三話﹁獣族令嬢拉致監禁事件 後編﹂︵後書き︶
−おしらせ−
4/28、5/1、5/4は更新を休む予定です。
2095
第七十四話﹁天才少年の秘め事 前編﹂
クリフ・グリモル。
ミリス教団の教皇の孫。
若くして魔術に長けた、天才少年。
性格はやや喧嘩っ早い所があり、
自尊心が強く、自分を大きく見せようとするきらいがある。
ゆえに友人はいない。
才能はある。
しかし、才能にあぐらをかかない勤勉な姿勢を取っている。
発言は鼻持ちならないが、行動は伴っていないのだ。
そこに好感を覚える者も少数ながら存在する。
クリフは現在16歳。
一年前に成人を迎えたが、祝う者は誰もいなかった。
彼が魔法大学へと来た理由は簡単だ。
一言で表せば、権力争いである。
数年前にミリシオンで起きた、神子暗殺未遂事件。
その事件は教皇派の仕業とされ、ミリス教団内部での権力争いが
激化。
騒動の中、教皇は自らの孫であるクリフを、世界の反対側にある
ラノア王国へと避難させた。
2096
﹁クリフ、お前は大物になる器があります。慢心せず己を見続けな
さい﹂
教皇はそう行って、クリフを送り出した。
クリフは自らが期待されている事がわかっていた。
当然だ。
エリスには負けるが、自分は天才なのだから。
そう思っていた。
長い旅路の末にたどり着いたラノア王国は、過酷な土地だった。
食事は合わず、気候は厳しく、
考え方が大幅に違う者達でひしめいていた。
だが、それでも。
それでもクリフは自分の才能だけは信じていた。
特別生であり、教皇の孫であり、
将来はミリス教団を背負って立つ自分は、他とは違う。
そう思っていた。
一年目に二度、打ちのめされた。
一度目は、ザノバ・シーローンという人物だった。
彼は神子だった。
生まれつき、神に愛された人物だった。
頭はちょっとおかしかったが、能力は確かだった。
自分の三倍は体重があるような相手の顔を掴んで、持ち上げ、放
り投げるのを見たことがある。
そんな力があるのに、彼は魔法大学にいるのだ。
2097
魔術を学んでいるのだ。
土系統の魔術ばかりを重点的に。
その成長速度はクリフから見れば遅々たるものであった。
だが、そもそも神子が魔術を習う必要など無いのだ。
魔術とは太古の力無き人々が神の所業を真似ようとして創りださ
れたものだという説もある。
神子とは神の力を持った人間だ。
魔術など習う必要はない。
そう思い、クリフは彼に問うた。
﹁お前はどうして、魔術なんか習っているんだ?﹂
﹁うむ。やりたいことがあるのだ﹂
そう言って、ザノバはいつも持ち歩いている箱から、一体の人形
を取り出した。
そして、その人形について長々と語った。
クリフは、彼の言葉の意味が半分もわからなかった。
だが、その人形の出来が素晴らしいものであるという事だけは伝
わった。
﹁余は、この人形を作った方に弟子入りし、この方と共に世界に人
形を広めたいのだ!
そのため、余も人形を作れるようにならねばならん!
再会した時に基礎的な事はできるようになっておかなければ、師
匠に申し訳が立たん!
もっとも、自らの手でも作ってみたいというのもあるがな!﹂
それは﹃夢﹄であった。
2098
クリフが持っていないものであった。
否。
クリフが諦めたものだった。
神子であり、自国の期待を一身に背負っているだろうに。
故郷に戻れば、きっと自由なんてないだろうに。
彼は一縷の望みを捨てていないのだ。
ある日突然、自由になる可能性を。
そして、自由になった時、自分のやりたいことをやるつもりなの
だ。
ちなみに、クリフは、シーローン王国での事件やザノバの事情な
どは知らなかった。
自分の常識になぞらえて考え、そう結論付けたのだ。
勘違いである。
だが、クリフは感銘を受けた。
大したやつだと思ったのだ。
﹁その師匠というのは、どういう奴なんだ?﹂
﹁ルーデウス・グレイラットというお方である﹂
名前を聞いて、クリフは打ちのめされた。
ルーデウス・グレイラット。
エリスにフラれたあの日より、その名前は心に残っていた。
ここでまた、その名前を聞くとは思わなかった。
それも、自分が感銘を受けた人物の口から、である。
ショックは大きかった。
2099
二度目は、先輩によって。
当然の事ながら、クリフはこの学校では自分が一番強いと思い込
んでいた。
接近戦も含めるとなればエリスには到底かなわない。
だが、魔術師という枠組みでなら、自分に勝てる者はいない。
自分は天才だし、学校にいるのは、所詮学生レベル。
教師だって、自分より魔術が使えない奴が大勢いる。
故に、自分はこの学校で一番強い。
それが思い上がりだと知るのは、入学して約二ヶ月。
学生の中でもトップクラスだと噂される、二人の獣族の少女に負
けた時だ。
リニア、プルセナ。
きっかけはどちらからだったろうか。
クリフは口も悪く、鼻持ちならない発言ばかりをしていた。
当時のリニアとプルセナはすでにかなりおとなしくなっていたが、
やはり生意気な年下にでかい口を叩かれるのは気に障る。
クリフも、なんと言って二人を怒らせたのかは覚えていない。
ただ、戦いの内容だけは覚えている。
上級魔術を唱えようとしたクリフに対し、
プルセナが初級魔術で牽制しつつクリフの詠唱と足を止めた。
そして、リニアが接近してきて、クリフをぎったんぎったんにし
たのだ。
2100
公衆の面前でボコボコにされて、クリフは一人、泣いた。
2対1だし、しょうがない、自分は負けてないと言い聞かせた。
そして後日、フィッツという年下の先輩が、一人であの二人を倒
したと聞いて、二度目のショックを受けた。
上には上がいる。
この学校にきて、クリフはそんな当たり前の事を知った。
そして、上級魔術を使えた所で、決して強くはなっていないとい
う事を、ようやく理解した。
その日以来、クリフは努力した。
ただ、そのプライドは高く、誰にも教えを受けることはなかった。
自分で強くなるにはどうすればいいのかを考え、
しかしわからず、ひたすらに足りない部分を補おうとした。
そして、入学より二年目。
さらに二度の衝撃を受ける。
一つ目の衝撃。
ルーデウス・グレイラットの入学だ。
自信のなさそうな顔。
みすぼらしい鼠色のローブ。
初対面の相手にへりくだる言動。
卑屈とも言える態度、低い腰。
女性を見る、ねっとりとした目線。
男としての魅力が欠片も感じられない立ち姿⋮⋮。
2101
エリスやザノバから聞いて想像していた人物とは大きくかけ離れ
ていた。
こんな奴が、と疑問に思った。
同姓同名の別人だろう、と。
しかし、ザノバは彼を師匠と呼び、エリスの事も知っていた。
なら、こいつは嘘を付いているんだ、とクリフは結論づけた。
嘘を積み重ねてエリスとザノバを騙したのだ、と。
それが証拠に、リニアとプルセナに挑発されても、へこへこと頭
を下げるだけだ。
本当に強いのなら、あの二人を打ち破れるはずだ。
クリフはそう判断した。
だが、すぐに化けの皮が剥がれるとも考えていた。
ザノバは本当の神子で、勤勉な努力家だ。
リニアとプルセナも実力はピカイチ。
嘘やごまかしでやっていける場所ではないのだ。
フィッツがルーデウスに敗れたという噂も聞こえていたが、
何かの間違いか、彼が流した嘘か、卑怯な手を使ったのだろう。
そう考えていた。
が、ルーデウスは実力を示した。
彼は無詠唱魔術の使い手だった。
まず、ザノバを更に心酔させた。
リニアとプルセナも軍門に下った。
あのフィッツも認めており、数日に一度は、一緒に図書館で勉強
2102
をする仲だという。
それだけの実力がありながら、授業に出ているのも見た事がある。
神撃や結界魔術の﹃初級﹄の講座である。
いまさら必要ないだろうに、自分に足りないものを貪欲に学ぼう
としているのだ。
ルーデウス・グレイラットは自分よりも才能があり。
自分よりも勤勉であり。
自分と違って結果を出している。
それはクリフにとって、認めたくない事実であるはずだった。
しかし、ザノバと出会い、リニアとプルセナに敗北したという経
験のせいだろう。
思いの外、すんなりと受け止めることができた。
この少年は、自分の遥か上を行く存在なのだと。
だからといって好きになるわけもなかった。
事実を受け止めるのと、ルーデウスを好きになるのは、まったく
別の事であるからだ。
そして、最後の衝撃。
それは、ある日の事。
時刻は夕暮れ時のこと。
道を歩いていた時のこと。
ふと上を見上げた時のこと。
そこに女神がいた。
2103
金色の豪奢な髪を持っていた。
窓に寝そべるように物憂げな表情で外を見ていた。
夕暮れに赤く染まる顔は美しかった。
クリフの心臓は打ち抜かれた。
一目惚れであった。
もともと、クリフは面食いである。
冒険者にあこがれていた幼少の頃には、
将来のお嫁さんは綺麗な人がいい、なんて言っていた。
孤児院のOGである治癒術師が美しかったからだ。
﹁⋮⋮っ!﹂
その時、窓辺の女性がクリフに気づいた。
ふわりと微笑んで、手を振る。
その仕草、笑顔、シチュエーション、全てがクリフのド直球だっ
た。
クリフは思った。
僕はこの女性に会うために生まれてきたのだと。
彼女は僕に出会うために生まれてきたのだと。
ルーデウス視点
−−−
その瞬間、エリスの存在は初恋の相手から、ただの憧れに変わっ
た。
−−−
2104
月に一度のホームルーム。
現在は、俺の周囲にザノバ、リニア、プルセナが並んでいる。
友人と机を並べるというのは、やはりいいものだ。
ちなみにジュリもザノバの膝に座っている。
リニアはいつも通り、机の上に足を乗せ、健康的な太ももを惜し
げもなく俺の前にさらけ出している。
これが間近で見られる生活というのも、なかなか悪くはない。
﹁ボスはいつもあちしの足に釘付けだニャ、ボスも飢えた男ってこ
とか⋮⋮。
ほら、ピラッ⋮⋮ギャー、スカートの中に手を入れるニャ!﹂
リニアはたまに無駄に挑発してくるので、遠慮なく触らせてもら
う。
しかし、触れども触れども、虚しくなるだけだ。
行き場のないリビドーが悲しみとなって増幅されるのだ。
﹁ニャ!? 何ニャその目は、自分から触っておいて、なんでそん
な顔するニャ!?
あちしの何が気に食わニャいんだ!?﹂
ぶっちゃけ、最近では耳とか尻尾とか触らせてもらった方がいい。
猫耳と猫尻尾は癒されるのだ。
﹁リニアは馬鹿なの﹂
2105
プルセナは俺の手の届かないギリギリの位置で肉を食っている。
干し肉だったり、焼肉だったり、生肉だったり。
種類は様々だが、基本的に常に肉を食っている。
普段はクール系を気取り、迂闊なリニアを馬鹿にしているが、
肉で釣ると尻尾を扇風機みたいにしながら近づいてくる。
彼女の方が毛質は柔らかく、撫で心地がいい。
前々から気になっていたので見てみたが、獣族には人間耳はつい
ていなかった。
人間が耳の生えている場所を斜めに横断するように生え際がある。
もっとも、種族によってはもっと横寄りに耳がついている奴もい
る。
頭蓋骨の形が違うのだ。
恐らく、耳の内部構造も違うはずだ。
もし俺が生物学者だったらぜひとも解剖して調べてみた事だろう。
だが、俺は生物学者ではない。
してみたい解剖は違う意味での解剖だ。
もっとも、全ては病が治ってからだがね。
彼女はリニアと違い、肉をあげなければ撫でさせてくれない。
逆に言えば、肉さえ上げれば撫でさせてくれる。
貞操観念はそこそこ高いようだが、
少々心配である。
﹁師匠、以前より足首の角度が悪くなっていますな﹂
﹁ごしゅじんさま、あたしがなおします﹂
﹁ジュリ、余のことはマスターとよべ。そして師匠の事はグランド
マスターと呼ぶのだ﹂
﹁はい、ますた﹂
2106
ザノバは平常運転だ。
しかし、彼はこのグループ内のヒエラルキーは一番下となってい
る。
先日の決闘でリニア・プルセナに勝利したのはもっぱら俺であり、
ザノバはそれにくっついていた金魚の糞にすぎない。
虎の威を借る狐は気に食わない、というのがリニアの言い分だ。
対するザノバは、
余は師匠の一番弟子である、と主張した。
だが、俺の教えを受けているのはシルフィ、エリス、ギレーヌに
続いて四番目だ。
ギレーヌとは持ちつ持たれつの関係だったから除外するとしても
三番目。
そう言った時のザノバの情けない顔ときたら、ちょっと悪い事を
した気分になったぐらいだ。
フォローとして、人形の方では一番弟子だと教えておいた。
人形の二番弟子であるジュリは、ザノバのロキシー人形に関する
わかって
講義を真面目に聞いている。
彼女もだいぶ洗脳されてきたようだ。
人形製作に意欲的に取り組もうという意志を伺える。
とはいえ、俺やザノバと対等なレベルで人形について語れるのは
まだまだ先だろう。
そして、拙いながらも無詠唱魔術を使える。
やはり幼いと魔力総量が増え、無詠唱魔術も使える、というフィ
ッツ先輩の説は正解らしい。
﹁⋮⋮⋮⋮ぐらんどますた。できませんでした﹂
2107
﹁はい﹂
ただ、やはりまだ幼いせいか、失敗が多い。
今もまた、ロキシー人形の足が水ぶくれみたいにでかくなってし
まっている。
小さなサイズの土魔術を作り出すのは無理なのだろう。
もちろん、俺は怒らない。
何事もやってみろと教えている。
失敗に懲りず、何度でもやりなおせと教えている。
失敗は成功の母とも言うし、一度の失敗でやめてしまえば引きこ
もりまっしぐらだ。
﹁ロキシー人形を直すには、まだ早かったですね﹂
﹁ごめんなさい﹂
彼女が俺を見る目には、たまに恐怖の色がある。
なんでそんなに怖がるのか。
俺はお前を救ってやったじゃないか。
そう聞いてみると。
炭鉱族の寝物語に登場する﹃穴の怪物﹄というものを教えてくれ
た。
その怪物は穴の奥に住んでいて、たまに出てきて悪い子を攫う。
逃げようとしても、いつのまにか足元が泥沼になっていて逃げら
れず、
袋を被せられて穴の奥底に連れて行かれるのだ。
穴の奥に連れて行かれた悪い子はある日ひょっこり戻ってくるけ
ど、
2108
まるで別人みたいにいい子になっているんだと。
なるほど、言われてみると確かに。
俺は泥沼を使ってリニアとプルセナを倒し、袋を使って拉致監禁。
ザノバとジュリがいない所でフィッツ先輩に手伝ってもらってお
仕置き完了。
リニアとプルセナは俺にでかい口叩かなくなった。
ジュリの目から見れば、その通りかもしれない。
﹁ふぁー、眠いニャ﹂
﹁最近、暖かくなってきたの﹂
﹁ボス、今度あちしの昼寝スポットを教えてあげるニャ﹂
﹁え? 昼寝してるリニアさんにイタズラしていいんですか?﹂
﹁⋮⋮ボスはエロいことしか考えてないのかニャ?﹂
﹁師匠は人形のことを第一に考えておられる﹂
﹁お前は口開くとややこしくなるから黙ってるの﹂
﹁ですが﹂
﹁いいから肉でも買ってくるの﹂
﹁もうすぐ教師がくるニャ﹂
﹁ダッシュなの﹂
﹁ますたー、ここはわたしが﹂
﹁じゃあ、僕が﹂
﹁ボスがいくくらいならあちしが行くニャ﹂
﹁どうぞどうぞ﹂
﹁ニャ!?﹂
教師が来るまで、そうやって雑談をしていた俺たち。
まあ、うるさかっただろう。
間違いなく、うるさかっただろう。
2109
さて、この部屋にはもう一人いる。
教室の前の方。
ひとりポツンと勉強をしている少年。
真面目に勉強している少年。
クリフ。
彼は俺たちの雑談に、肩を怒らせて立ち上がった。
﹁うるさい! 集中できないだろ!
遊びに来てるんなら故郷に帰れ!﹂
俺は黙ったよ。
ザノバも雑談をやめて、ジュリへの講義に戻った。
しかし、元不良生徒二人は、それを喧嘩上等だと受け取った。
﹁誰に向かって口聞いてるニャ﹂
﹁お前のサイフの中身は、今日から私のお肉になるの﹂
﹁!?﹂が中空に浮かび出る。
普通、前回やられた奴というのは、次回では噛ませ犬となる。
が、この二人はクリフとはすでに喧嘩済みであるらしい。
クリフは入学早々に二人にやられ、
それ以来、ずっと真面目に勉学に励んでいるのだとか。
敗北を糧に成長する。
勤勉な少年だ。
邪魔するのはよくない。
﹁申し訳ありません。勉強に励んでる方の邪魔になりますね、静か
にします。
ほら、二人も座って、座って、座れって、おすわり﹂
2110
﹁⋮⋮ボスがそう言うならしょうがないニャ﹂
﹁ファックなの⋮⋮﹂
リニアとプルセナは不機嫌そうな顔でストンと座った。
﹁ふん、わかればいいんだ。まったく、ザノバまで一緒になって何
をやってるんだ、まったく⋮⋮!﹂
クリフはふんと鼻息を一つ。
リニアとプルセナはチッと舌打ちをしていた。
真面目に生きている奴の邪魔することはない。
俺も不真面目に生きているつもりはないがね。
どちらにしろ、彼とは接点を持たないだろう。
その時は、そう思っていた。
−−−
それから一週間後。
俺はいつも通り、フィッツ先輩と転移について調べていた。
最近わかり始めた事だが、
転移と召喚というのは、やや似ている部分がある。
魔法陣の形状も似ている。
魔法陣から発する魔力光の色も似ている。
しかし、決定的に違う部分がある。
それは﹃人間は召喚できない﹄という事だ。
2111
どんな召喚魔術でも、人間が召喚できたことはない。
魔獣、精霊、植物⋮⋮それらを召喚することはあっても、
人間は召喚出来ない。
過去の文献、資料、物語を見ても、人間を召喚するものはなかっ
た。
人族、魔族、獣族⋮⋮この世界にはあらゆる種族がいるが、
人間と称されている者達を召喚することは出来ないのだ。
もっとも。
俺もフィッツ先輩も召喚については専門外だし、
似ているからなんだという話に落ち着いた。
けれど、俺には引っかかる部分があった。
﹃生身の人間﹄は召喚することは出来ないとして。
じゃあ、﹃魂﹄だけなら?
﹁⋮⋮﹂
それを口にする事はない。
ただ、詳しい人に聞いてみたいと思った。
異世界をさまよう人間の魂。
そいつは召喚できるのか。
﹁フィッツ先輩、召喚魔術に詳しい先生にあたりを付けておいてく
れませんか?﹂
﹁え? うん、わかった。でも、この学校では召喚術って付与系し
か教えてないよ? 僕らの調べてることがわかる先生、いるかなぁ
2112
⋮⋮?﹂
そうなのか。
そういえば、授業のリストを見た時も召喚術の授業はなかったな。
あるものに関してはわかるが、無いものに関しては気づかないも
のだ。
しかし、付与って召喚術にカテゴライズされるのか。魔術教本に
は書いてあったっけか。
﹁とりあえず、探してみるしかないでしょう﹂
この時、
俺の内心には不安が芽生えていた。
それを表面に出すことはない。
杞憂だ。
関係ないはずだ。
あの災害は10歳の時に起こった。
俺が転生して、10年だ。
そう、10年も、何も、起こらなかったのだ。
関係ないはずだ。
−−−
寮への帰り道。
この世界にも季節による日の出と日の入りはあるのか、
2113
入学当初は夜になっていた時刻でも、まだ夕暮れという時刻。
すっかり周囲から雪は消え、北方大地特有の、赤茶けた地面。
そこに敷かれた石造りの道を歩いていると、ふと声が聞こえた。
﹁まてやコラァ!﹂
﹁詠唱できると思ってんじゃねえぞ!﹂
校舎の裏から、一人の少年がまろび出てきた。
それを追うように、六人の男が追いかけてくる。
少年は距離を取って魔術を詠唱しようとする。
最初は大規模な詠唱を行おうとして、しかし男たちに妨害され、
初級魔術で牽制するも、相手が六人いれば意味もなく。
少年は追い詰められ、殴られ、転がされた。
六人は亀のように耐える少年に追い打ちをかけた。
イジメだ。
イジメの現場だ。
胸が痛くなる光景だった。
俺は思わず声をかけていた。
﹁これこれ君たち、亀をいじめてはいけないよ﹂
思わず駆け寄ってそう言うと、六人は一斉にこちらを向いて、睨
みつけてきた。
俺よりちょいと背丈が高いのもあって、威圧される感じだ。
﹁んだてめぇは!﹂
2114
しかし、そのうち一人が気づいた。
﹁お、おい、こいつ、泥沼の⋮⋮﹂
﹁泥沼⋮⋮? る、ルーデウスか!?﹂
﹁リニアさん達を部屋に監禁して調教したっていう!? あのルー
デウスか!?﹂
調教はしてねえよ。
﹁いや、さすがにデマだろ!?﹂
﹁プルセナさんがボスって言って尻尾振ってるんだぜ⋮⋮!?﹂
﹁あのひとは肉くれる人にはだいたい尻尾振るだろうが!﹂
﹁だけどよ、あの二人が従ってるってのはマジなんだろ?﹂
﹁ああ、顔に落書きされてる所、授業中にみたもんよ﹂
﹁なんだっけ、﹃私はルーデウス様の性奴隷です﹄だっけか?﹂
﹁いや、内容はよく覚えてないんだが⋮⋮﹂
﹁決闘して倒してから、拉致って奴隷かよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮しかもドルディア族をだぜ?﹂
﹁後先考えてねえのかよ⋮⋮﹂
男たちは俺を尻目にあることないこと喋りだし。
最終的にはゴクリと唾を飲み、戦慄の視線を俺に送ってきた。
互いに目配せしあい、頷き合う。
そして、倒れている少年に目を落とす。
﹁おい、今日の所はこれで勘弁しといてやる﹂
今日の所は。
という言葉に、俺は敏感に反応した。
2115
﹁今日の所はってことは、また後日同じことするつもりですか?
六人がかりで、一人をイジメるんですか?﹂
きつい口調でいうと、六人はあからさまにめんどくさそうな顔を
した。
﹁チッ⋮⋮﹂
﹁なあ、ルーデウス⋮⋮さん、あんたには関係ねーだろ⋮⋮﹂
こいつらはいつもそうだ。
関係無い。関係無い。
俺だって関係ないことは承知で首つっこんでんだよ。
﹁事情は知りませんが、六対一は卑怯ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
六人は顔を見合わせ、そして首を振る。
目線で話すなよ。
﹁わかったよ。やらねえよ。けどな、そいつだって、別に何もして
ねーわけじゃねえんだからな﹂
男の一人はそう言うと、踵を返した。
ほか五人も付き従い、校舎裏へと戻っていった。
校舎裏に巣でもあるんだろうか。
﹁ふぅ﹂
俺は息を一つ吐いた。
2116
やはり、ああいう威圧してくる相手がたくさんいるとビビるな。
多人数との戦い方はある程度俺の中でもシミュレートされている
が、
しかし、それと心の問題は別だ。
1対1ならビビらんのだがなぁ⋮⋮。
﹁やあ、大丈夫ですか?﹂
俺は、立ち上がりつつある少年に近づいた。
彼は服の埃を払いつつ、小声でヒーリングを詠唱していた。
さすが魔法大学といった所か、イジメられっこでも治癒魔術を使
うとは。
そう思っていると、少年が振り返った。
クリフだった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
正直、クリフにはいい思い出が無い。
顔を見る度に突っかかってくるし、
今回もどうせ﹁お前に助けられる筋合いはない!﹂とか言うんだ
ろう。
そう思っていた。
﹁お前に助けられる筋合いは⋮⋮﹂
と、そこまで口にして、クリフは口をつぐんだ。
そして、むむっと考えるような表情を作り。
ふぅとため息を一つ。
2117
﹁⋮⋮⋮⋮いや、助かったよ。ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
クリフは頭を一つ下げると、足早に去っていった。
俺はその光景をあっけに取られてみていた。
確かに助けはした。
だが、こうも唐突に態度が変わるとなると。
何か企んでいるんじゃないかと思ってしまう所だ。
いや、ここは素直に受け取っておくべきなのだろうか。
今までクリフはやけに噛み付いてきたが、俺から噛み付き返す事
はなかった。
クリフもようやく、俺を敵ではないと認めてくれたのかもしれな
い。
そもそも、なんで嫌われてるのかもわかっていなかったのだが⋮
⋮。
﹁まあいいか﹂
俺は寮に向かって歩き出した。
−−−
翌日。
俺は昼食を食い終わる頃、クリフに呼び止められた、
そして、放課後に校舎裏へと呼び出される。
2118
クリフは怒っていた。
何を怒っているのかわからない。
だが、難しい顔だった。
喧嘩するのだろうか。
と、俺はボンヤリと考えていた。
すでに予見眼を開眼している。
周囲に気を配りつつ、右手に魔力を溜めていた。
恩を仇で返すとは、最近の亀は酷いな。
そんな風に考えていた。
﹁よし、このへんでいいか﹂
誰もいないことを確認して、クリフは振り返った。
顔が真っ赤だ。
すぐにわかった。
これは決闘ではない。
そういう目的で呼び出したのではない。
むしろ、これは告白だ。
このシチュエーションはそういうアレだ。
参ったな。
いくら女の子相手に役に立たないからって、
パンツレスラーになった覚えはないんだが。
フッ、もてる男は辛いぜ。
なんちゃって。
2119
﹁じ、実はな⋮⋮﹂
﹁おうよ﹂
答えは決まっている。
俺は堂々と、返事をしてやろう。
まずはお友達から、そして、そこで終わりだ、とな。
﹁好きな子がいるんだ﹂
﹁お、おうよ⋮⋮﹂
照れ照れと頬を描きつつ、顔を赤らめてクリフはうつむく。
俺はこれを断るのか?
胃が痛い。
これがもし女の子だったらと考えてしまう。
俺の剣は聖剣でも、その鞘でもないのだ。
しかし、クリフは顔を上げると、ある一点を指さした。
﹁あの子なんだ﹂
指さした先は、校舎。
やや遠目に、窓から顔を出した人物が見える。
ここからでも、長い金髪が風に揺れているのが見て取れる。
彼女は夕日に染まる学校風景を、物憂げな表情で見下ろしていた。
﹁昼間、見たんだ。話してる所。
知り合いなんだろ?
その、紹介、してくれないか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮おうよ﹂
2120
校舎から顔を出している人物。
それは、俺もよく知っている人物だった。
噂でよく聞く問題児。
サキュバスのように同級生を食いまくっている魔性の女。
エリナリーゼ・ドラゴンロードだった。
2121
第七十四話﹁天才少年の秘め事 前編﹂︵後書き︶
副題を
﹁クリフvsエリナリーゼ﹂
﹁騙されし童貞∼純真な恋心を叩いて砕く淫靡なる性欲∼﹂
﹁気になるあの子がくっついちゃう!? 生意気なあの子の恋心!﹂
の、どれかにしようかと思ったけどやめた。
2122
第七十五話﹁天才少年の秘め事 後編﹂
こんにちは、ルーデウスです。
えー、はい、とゆーわけで、ですね。
先日ね、クリフ君からのお便りでね。
エリナリーゼさんに恋をしているので、紹介してほしい。
というお言葉をいただきました。
はい。
確かにね。
俺はエリナリーゼとは知り合いです。
両親の元パーティメンバーという事ですね。はい。
この世界の恋愛についてはよく知りませんが、
クリフ君が恋をしているというのであれば。
そして、その気持ちを打ち明けて協力してほしいというのであれ
ば。
俺も応援したいとは思います。
思います。
思いますが。
さて、エリナリーゼという人物を思い出していただきたい。
エリナリーゼ・ドラゴンロード。
S級冒険者。前衛。戦士。
魔法大学の一年生。
年齢不詳。
2123
意外な事に授業に対しては勤勉で、成績は優秀らしい。
最近は初級の水魔術を己の戦術に組み込もうとしているとか。
長い付き合いのある冒険者からは、とにかく忌み嫌われているが、
腕が立ち、面倒見もよく、そして床上手。
そう、床上手。
彼女はある呪いに身を侵されている。
ゆえに、夜な夜な男の精をすすらなければならない。
ゆえに、特定の男は作らず、一晩だけの関係を何度も繰り返して
いる。
子供を産んだこともあるという。
子供がどこに行ったのかは、教えてくれなかった。
もしかしてそこら辺に捨てたり、奴隷として売っぱらったりして
るんじゃねえだろうなと疑ったものだ。
実際には、滅多に妊娠しないので、きちんと育てて自立させるら
しいが。
まあ、詳しい事はわからん。
こんな人物を恋愛対象として紹介するのは、はたして良いことな
のだろうか。
クリフはエリナリーゼがそういう人物だとは知らない。
彼のエリナリーゼの人物像を聞いて、俺は頭を抱えそうになった
ものだ。
エリナリーゼは汚れを知らない純白の天使。
そんな感じだ。
もちろん、彼もエリナリーゼについて調べはしたそうだ。
2124
﹃窓辺の君。
彼女はとっても有名。
名前はエリナリーゼ・ドラゴンロード。
彼女にふさわしい、美しくも勇ましい名前だ。
当然ながら勤勉で、成績もいいらしい。
ちょっと前まで冒険者だったから、実戦における魔術の知識も持
っている﹄
とりあえず、この時点でのツッコミ所は窓辺の君だけだ。
彼女にとって、窓辺ってのは尻を突き出す場所だろうしな。
もっとも、クリフは窓辺の君は性行為なんてしないと思っている。
﹃しかし、他の男子生徒と見境無く性交するという、良からぬ噂が
ついていた。
おそらく、彼女に嫉妬した誰かがそんな噂を流したんだろうな﹄
と、一番重要な部分を、クリフは都合よく解釈したのだ。
先日の喧嘩もそうだ。
六人の生徒が、エリナリーゼについて噂しているのを聞いた。
誰にでも股を開くビッチ扱いして、俺達も頼んでみようぜ、なん
て言っていた。
それを聞いて、クリフはムッとした。
噂で人を貶めるんじゃない、と注意を促した。
もちろん、相手は確かな真実を元に話しているだけだが。
六人は上級生で、体格もよく、そして不良崩れだった。
下級生であるクリフに上から目線で注意されて、ややイラつきな
がら言葉を返した。
﹁俺の後輩もこの間、三人一緒にお世話になった。
2125
現実の見えてないお前も筆おろししてもらえばいいんじゃねえか
?﹂
とか、ゲスい顔で言い放ったのだそうだ。
クリフは激怒した。
無謀にも体格のいい六人相手に、殴りかかった。
魔術ではなく。拳で。
クリフもそこそこ喧嘩はできるつもりだった。
だが六対一という状況。
体格の違い。
魔術戦ならまだしも、相手が手の届く位置から始まった戦いでは、
勝ち目もなかった。
で、そこに俺が現れたと。
情報収集・解析の大切さを認識できる素晴らしいお話だな。
しかし、さて。
どうしたものか。
俺はクリフに対しては何の義理もない。
エリナリーゼを紹介して、そのふざけた幻想を打ち砕かれたとし
ても、知ったこっちゃない。
だが、だからといって。
だからといってホイホイ紹介していいものだろうか。
エリナリーゼからは感謝されるかもしれない。
彼女は男を紹介すれば、大体喜ぶからな。
特に最近の彼女は、童貞を狩る事が楽しくてしょうがないらしい。
初々しくて申し訳なさそうにしていたり、初めてなのに強がる態
2126
度がいいんだと。
最初はそんなだった子が、回数をこなす毎に段々と変化していく
のがいいんだと。
俺も生前は調教系のエロゲーは何本もやったことある。
だからわからんでもない。
クリフは見た感じ童貞だろうし、エリナリーゼは喜んで食べてし
まうだろう。
しかし、クリフはどうだろうか。
彼はエリナリーゼという人物を勘違いしている。
実際に会い、付き合ってみると、正体を目の当たりにするだろう。
その時になって、怒るんじゃなかろうか。
お前のせいで大変な目にあったんだ、と。
俺に言わせれば自業自得なのだが、知ってて紹介した俺にも、確
かに少々の責任が発生する気がする。
かといって、紹介しなかったらどうなるだろうか。
変な勘ぐりをされるのではないだろうか。
実は俺もエリナリーゼを狙っているとか思われるのではなかろう
か。
俺も病が治れば、ああいう人と一晩のアバンチュールはしてみた
いと思う。
が、狙っているとか思われるのは心外だ。
どうしたものか。
−−−
2127
というわけで。
﹁フィッツ先輩、一つ相談したい事があるんですけど、いいですか
?﹂
俺は放課後の図書館にて、フィッツ先輩にそう問いかけるのだ。
﹁なに?﹂
﹁ちょっとした恋愛相談なんですが﹂
﹁恋愛相談!?﹂
フィッツ先輩が体ごとこちらを向いた。
身を乗り出し気味で、口元が微妙な感じに歪んでいる。
﹁ル、ルーデウス君、好きな人がいるの!?﹂
意外と食いつきがいい。
目が輝いて⋮⋮いるかどうかはサングラスのせいでわからんが。
フィッツ先輩もお年ごろという事だろう。
﹁いえ、知り合いの話なのですが﹂
﹁知り合い⋮⋮?﹂
﹁はい。知り合いです﹂
﹁う、うん。続けて﹂
﹁その知り合いは、ある人物に一目惚れをしたんです﹂
﹁一目惚れ⋮⋮で、ボクに相談⋮⋮も、もしかして、アリエル様?
だ、だとしたら駄目だよ。応援したいのは山々だけどさ⋮⋮﹂
フィッツ先輩の言葉尻が段々と下がっていく。
2128
あの王女様に一目惚れするって奴は多いんだろう。
護衛の立場としては、そんな悪い虫は全シャットアウトが当然だ
しな。
﹁いえ、違います。アリエル王女ではありません﹂
﹁そ、そっか、よかった﹂
﹁知り合いが一目惚れしたその人物。
僕の知っている人なのですが、
恋愛対象として紹介するには少々問題がありましてね。
紹介していいものかどうか、迷っているんですよ﹂
ふと見ると、フィッツ先輩が変な顔をしていた。
口元に手を当てて、グラサンの奥から強い視線を送っていた。
﹁知り合いは、その女性の﹃問題﹄を知っているの?﹂
﹁いえ、知らないはずですよ﹂
⋮⋮あれ?
俺、いま女性って言ったっけか?
いや、アリエル王女からの流れで女だと思い込んでるだけか。
まあ、実際にエリナリーゼは女だから、問題ないんだが。
それとも、俺の事だと思ってたんだろうか。
﹁重ねて言いますが、僕のことではないですよ? フィッツ先輩だ
から明かしますが、特別生のクリフ先輩の事です﹂
﹁あ、そうなんだ。ごめん、勘違いしてた﹂
フィッツ先輩は耳の裏をポリポリ。
俺の事だと思ってたんだろうか。
まあ、知り合いが∼、なんてのは自分の事を話す時の常套句だし
2129
な。
﹁こういう場合、どうするべきですかね﹂
﹁えっと、その﹃問題﹄を教えてあげるべき⋮⋮じゃ、ないか、な
? 教えられない理由があるんだったら、別だけど⋮⋮﹂
フィッツ先輩は少々自信なさげだ。
そういえば、先輩も童貞だったか。
恋愛経験はあまりないのかもしれない、
﹁教えるのは問題ありませんが、クリフ先輩は少々思い込みが激し
い人物なので、教えても信じてもらえない可能性が高いんですよ。
もしかすると、僕がその女性が好きだからそんな事を言うんだと勘
違いされるかも﹂
﹁あ、かもしれないね﹂
﹁はい。ですので、僕の口からは言わない方がいいかな、と思いま
して﹂
うん。
自分で言っていて少し整理ができてきた。
クリフの信頼している、別の女性あたりからそれとなく情報を流
すのがいいかもしれない。
⋮⋮いや、もういっそ本人の口から喋らせるのがベストか。
﹁えっと、ルーデウス君は、その女性の事、好きじゃないの?﹂
﹁嫌いではありません。恋愛対象としては見れませんが﹂
エリナリーゼはとってもお上手らしいので、一晩だけやらかして
みたいとは思うが。
真面目に付き合うのはちょっと嫌だな。
2130
すぐ浮気とかされそうだし。
﹁そうなんだ⋮⋮でも、ルーデウス君がそういう目で見れないだけ
で、クリフ君は別かもしれないよね﹂
どうだろうな。
けがれなき純白の天使に恋するやつが、エリナリーゼを別と見れ
るとは思えんが。
誰だって
﹁うーむ﹂
紹介すべきか、紹介しないべきか。
迷う所だ。
しばらくして。
フィッツ先輩がぽつりと呟いた。
﹁えっと、ボクも好きな人がいるから、その人の気持ちはわかるん
だ。普通なら恋愛対象に見られないような人らしいんだけど、それ
でもボクは好きなんだ﹂
フィッツ先輩に好きな人?
誰だろう。
⋮⋮無難に考えるとアリエル王女かね。
さっきも超反応だったし。
確かに、アリエル王女は恋愛対象には見難いかもしれない。
アスラ王国の王族だし、高嶺の花すぎる。
いや、まぁそれはいい。
﹁見てるだけで告白できないって、辛い事だと思うんだ﹂
2131
フィッツ先輩の顔が赤い。
耳まで真っ赤だ。
﹁だから、えっと、きちんと紹介して、告白するチャンスを与えて
上げるのがいいんじゃないかな?﹂
﹁でも、後になって問題が起きるかもしれません﹂
﹁それは仕方ないよ。だって、紹介してもらったら、後の事は本人
同士の問題でしょ?﹂
おお、あるほど。
紹介した後の事は本人同士の問題。
確かにその通りだ。
その事を、先に明示しておけば、なおいいだろう。
﹁わかりました、ではそういう方向で行ってみる事にします。
フィッツ先輩、ありがとうございました﹂
﹁う、うん⋮⋮お役に立てたなら、なにより、です⋮⋮﹂
フィッツ先輩はやや自信が無さそうだった。
恐らく、恋愛経験のない自分が何を偉そうに、と考えているのだ
ろう。
しかし、経験がなくとも言っている事がもっともなら、何の問題
もないのだ。
ともあれ、方針は決まった。
図書館から出るとき、フィッツ先輩が机に突っ伏していたのが気
になったが。
⋮⋮彼の年齢で、偉そうに上からアドバイスをするのは、少々恥
2132
ずかしい事なのだろう。
俺はただ、感謝するだけなのにな。
−−−
翌日、俺はクリフを呼び出した。
やや期待した眼差しを向けるクリフ。
﹁紹介するのは構いませんが、一つ言っておく事があります﹂
﹁なんだ?﹂
﹁クリフ先輩。僕はエリナリーゼさんと以前パーティを組んでいた
事もあり、
彼女の事は他の人より多少は知っているつもりです﹂
パーティを組んでいた、という部分で、クリフの眉がピクリと動
いた。
﹁彼女の人となりについて、僕はあえて何もいいません。
しかし、それは騙そうとしているわけではないんです。
実際に会って、話して、そして自分の目で確かめてみて欲しいん
です﹂
﹁どういう事だ?﹂
﹁ようするに、後になってから、
話が違うだとか、なんで言わなかったんだとか、
よくも騙してくれたなとか、
そんな感じで突っかかられるのは嫌だという事です﹂
一応の保身。
2133
そして、予防線。
彼女に問題があると臭わせておく事も忘れずに。
﹁当たり前だ、僕は敬虔なるミリス教徒だ!
仲人には相応の敬意を払う!﹂
仲人?
ミリス教徒にとっての仲人ってなんだ。
教徒じゃないからわからん。
おお、神よ、俺を導き給え。
﹁僕はミリス教徒ではないので、後になってから、あれが仲人のす
ることか、とか言わないでくださいよ?﹂
﹁言わないさ﹂
﹁どういう結果になっても、僕は関知しませんからね﹂
クリフはもちろんだと頷いた。
﹁振られるのは覚悟の上だ!﹂
振られるより、もっとおぞましい何かを体験する気がするが。
−−−
エリナリーゼは無人の空き教室にいた。
今日も窓枠に肘をついていたが、
上半身が2つあるケンタウロスみたいな事にはなっていなかった。
窓の外を見て、ボンヤリとしている。
2134
彼女の考えている事はわかる。
はやく夜にならないか、夜になれば町の酒場があくのに、
酒場が開けば、そこにはたっぷりと溜め込んだ男がいるのに。
そんな感じのピンク色だろう。
しかし、何もしらない目線で見れば、確かに天使のようかもしれ
ない。
﹁あら、ルーデウス⋮⋮珍しいですわね。あなたからこちらに来る
なんて﹂
エリナリーゼは俺に気付くと、特に笑うでもなく、意外そうに言
った。
確かに、この学校に入学してから、あまり彼女と会話をしていな
い。
たまにエリナリーゼが昼食時に様子を見に来るぐらいだ。
﹁あら? そちらの方は?﹂
俺の後ろから、クリフがぴょんと飛び出してくる。
そして、胸に手をあてて、足を揃えて立つ。
ミリシオン流の礼儀作法だろうか。
﹁エリナリーゼさん。こちらはクリフ・グリモル。特別生で、一つ
上の先輩です﹂
﹁ご紹介にあずかりました、クリフです﹂
クリフはそのまま頭を下げた。
﹁あらあら、これはどうもご丁寧に。エリナリーゼ・ドラゴンロー
ドですわ。
2135
それで、クリフさんはこのわたくしに、一体どんな御用ですの?﹂
﹁なんでも、エリナリーゼさんを紹介してほしいらしいので、連れ
てきました﹂
﹁はい、エリナリーゼさんのお美しいお顔は、いつも拝見していま
した!
ぜひとも個人的なお付合いをお願いしたいのです!﹂
沈黙が流れた。
エリナリーゼがぽかんとしている。
彼女はしばらくして、やおら椅子から立ち上がると、俺の腕を掴
んだ。
﹁ちょっと﹂
そう言って、俺を教室の端へと連行する。
そして、耳元に口を寄せる。
﹁なんですか?﹂
﹁いくら欲しいんですの?﹂
言葉の意味がわからず、数秒逡巡。
もしかして、いくら出せばこの男を自分のベッドに連れ込めるの
かって話か?
だとすりゃ最低だな。
﹁金はいりません﹂
﹁じゃあ、何? 何が目的ですの?﹂
﹁いや、なんか彼、エリナリーゼさんの事が好きなんだそうです﹂
﹁嘘おっしゃい⋮⋮ルーデウス、あなた私の事わかってるでしょう?
あんな騙しやすそうな子を連れてくるなんて⋮⋮恥を知りなさい﹂
2136
恥を知れとか、一番恥知らずな人に言われた気がする。
まあ、いいが。
﹁騙すもなにも、僕は紹介してくれと言われただけです﹂
﹁本当ですの?﹂
﹁裏はありません、なんだったらロキシー先生に誓ってもいいです
よ﹂
そう言うと、エリナリーゼは数秒考え、
そして、眉をハの字に寄せた。
﹁ルーデウスの言葉が本当だとしても、本気の子はちょっと困りま
すわ﹂
困るのか。
意外だな。
エリナリーゼなら、喜んで﹁実はそんな事もあろうかと、宿を取
ってありますの﹂なんて言うかと思った。
﹁わたくしの呪いは存じておりますでしょう?
一人とお付合いすることはできませんのよ﹂
一人とは付き合えない。
ゆえに決して本気にはならず、不特定多数と金か遊びの関係を続
けている。
そんな話は、俺もどこかで聞いたような気がする。
まあ、一応彼女も考えているのか。
となると、付き合うのは無理、か。
2137
﹁じゃあ仕方ありません、綺麗に振っちゃってください﹂
﹁いいんですの? ルーデウスの顔にドロを塗るんじゃなくて?﹂
﹁問題ありません﹂
もともと、大した名前じゃない。
所詮は泥沼だし、もう名前を売る必要もないしな。
﹁でも、なるべく真実を話してあげてください。僕をダシに使った
りしないように﹂
﹁わかってますわよ﹂
よし。
話し合いは終わり、エリナリーゼはクリフと向かい合った。
エリナリーゼの方が、背が高い。
クリフが小さいのだ。
見ればみるほど不釣り合いに見えてくる。
しかし、背丈が不釣り合いだからって、思いの丈は関係ないはず
だ。
そう思うと、なんだかやるせないものがあるな。
﹁ルーデウス、人の恋路を覗き見るもんじゃありませんわよ﹂
﹁あ、そうですね。では、僕はこれで失礼します﹂
エリナリーゼに言われ、俺は退室することとする。
少々クリフが不憫だ。
だが、これが一番いい結末だろう。
呪いの影響もあるが、エリナリーゼは元々好色な女だ。
対するクリフは真面目な優等生。
水と油なのだ。
2138
﹁ルーデウス⋮⋮その、ありがとう!﹂
クリフの最後の言葉。
胸が痛かった。
−−−
それから、約一週間が経過した。
月に一度のホームルーム。
そこには、公然といちゃつくカップルがいた。
背の高い女の方が男の膝の上に乗り、イチャイチャとしていた。
﹁混合魔術は起きうる事象さえ暗記しておけば簡単さ。二つの魔術
を使わなくても、自然の中のものを利用して再現できる﹂
﹁さすがはクリフ、物知りですわね!﹂
﹁大したことないさ﹂
どっちも知っている人だった。
クリフとエリナリーゼである。
俺はゆっくりと近づき、目の前で首をかしげた。
﹁ん? ルーデウス! この間はありがとう!﹂
クリフは立ち上がって礼を言おうとして、しかし膝の上に乗った
女のせいで、その場で頭を下げるにとどまった。
2139
﹁どういたしまして⋮⋮エリナリーゼさん、どういうことですか?﹂
膝の上のエリナリーゼは柔らかく微笑んだ。
﹁わたくしたち、付き合う事になりましたの﹂
アイエエエ?
ナンデ? ニンジャナンデ?
話、違くない?
﹁えっと、話が違いませんか?﹂
﹁ルーデウス、あんな男らしいプロポーズをされては、さすがのわ
たくしでもキュンと来てしまいましたのよ﹂
プロポーズ?
いくらなんでも気が早すぎないか?
﹁やめろよ、恥ずかしいだろ﹂
﹁﹃呪いはこの僕が必ず治してみせる! だから結婚してくれ!﹄﹂
﹁お、おい!﹂
﹁そして宿でのクリフの初々しい⋮⋮ああ! 思い出しただけでま
たイキそうですわ﹂
﹁や、やめろったら。人前で﹂
クリフの顔は真っ赤だった。
やめろという割には、まんざらでもなさそうだ。
とりあえず、卒業おめでとうございます。
あまり悔しいと感じないのは、俺がすでに棄却済みだからだろう
か。
それとも、エリナリーゼの本性を知っているからだろうか。
2140
しかし、さて。
呪いの事は話したらしい。
エリナリーゼは不特定多数とヤることをやめるつもりはないだろ
うし。
一人と付き合えない理由としても悪くないだろう。真実だし。
でも、なんで?
クリフはそれを聞いて、え?
プロポーズ?
﹁わたくし、これからはクリフのためになるべく我慢する事にしま
したのよ﹂
﹁べ、別にいいって言ってるだろ、呪いだからしょうがないし、こ、
心だけ僕の方を向いててくれれば、それで⋮⋮﹂
﹁クリフ⋮⋮もちろんですわ、他の方は体だけ⋮⋮でもあなたには
身も心も捧げますの﹂
うっとりするエリナリーゼの髪をクリフがそっと撫でる。
自然と目線が絡み合う。
膝の上に座っているため、顔も近い。
﹁エリナリーゼ⋮⋮﹂
﹁クリフ⋮⋮﹂
そして接吻へ。
その後、俺の存在など無いように、イチャつきはじめた。
人前で堂々とイチャイチャ、イチャイチャ。
それでいいのか、クリフ。
2141
本当にいいのか?
その女は殊勝なこと言ってるけど、キープ君にされているような
もんだぞ?
恋で盲目になってるんじゃないのか?
﹁⋮⋮﹂
そう言いかけて、ぐっと我慢する。
紹介して、どんな結果になっても文句は言わない約束だ。
俺の方から何かを言うのもおかしい気がする。
教室の後ろの方を見る。
三人は我関せずという感じだった。
プルセナは干し肉をかじっているし、
ザノバは先日市場で見つけてきた人形についてジュリに語ってい
る。
ジュリの眼は真剣で、近くのバカップルは眼中にない。
リニアだけがふてくされていた。
ケッて感じだ。
ゆえに、俺はリニアの所に赴いた。
﹁ボス、あの女は何ニャんだ?
皮肉を言ったら凄いキツイこと言い返されたニャ﹂
﹁僕もちょっと、よくわかりません﹂
おかしい。
そう考えつつ、話を整理する。
2142
先日別れた時は、スッパリ振るという話だったはずだ。
そして、エリナリーゼもそういう方向で話を進めたはずだ。
エリナリーゼの事だ、クリフが後腐れなく諦められるように、呪
いの事やら何やらもきっちりと話して、噂の事も事実だと話したの
だろう。
しかし、プロポーズされたらしい。
呪いを直すから結婚してくれ。
そんな感じの事を言われ、陥落したらしい。
クリフがどうしてそんな思考に至ったのか、まったくわからない。
少し、考えてみよう。
もし、俺がエリナリーゼの立場ならどうなるだろうか。
病気は必ず直すから、自分と結婚してください。
そんな事を真正面から言われたら⋮⋮。
落ちるだろうか。
恋に。
グラッとはくるかもしれない。
自分でも気にしてる事、悩んでる事を、直せるかどうかわからな
いけど、懸命に努力してくれるというのだ。
エリナリーゼがどれほど呪いの事で悩んでいたのかは知らない。
いくら好きモノだからと言っても、まったく悩んでいなかったわ
けではないだろう。
落ちる⋮⋮か。
いや、エリナリーゼの事ばかりを言うまい。
クリフは頑張ったのだ。
男気を見せて、エリナリーゼを骨抜きにしたのだ。
2143
﹁ボス、良い事思いついたニャ﹂
﹁なんですか?﹂
﹁あちしらも付き合ってあいつらを見返すニャ﹂
リニアがそんな提案をしてきた。
どうせ、刹那的な提案だろう。
しかし、ふと実験してみたくなった。
﹁リニア先輩。付き合うのは構いませんが、実は僕は不能なんです。
付き合ったら直すために努力とか、してくれます?﹂
﹁えっ?﹂
その言葉に、エリナリーゼ以外の全員が﹁えっ?﹂とつぶやいた。
視線が集まる。
何いってんだこいつ、という感じの空気。
なんだ、俺がリニアと付き合うのがそんなにおかしいのか?
と、リニアがおろおろしだした。
こにゃーいだ
﹁ボボ、ボス、も、もしかして、この間の事、聞いてたのか?﹂
﹁この間のこと?﹂
﹁ボスは魅力的すぎるあちしらを監禁しても、もんだり脱がしたり
はしたけど交尾はしなかったから不能野郎かもしれないって、お昼
ごはんの時にプルセナと話していた時の事ニャ﹂
何だとこのやろう、初耳だぞ。
と、プルセナをみると、さっと目をそらされた。
﹁ち、違うの。誹謗中傷じゃないの。前に、私たちを触った時、臭
2144
いが薄かったから、もしかしたらそうなのかもって思ってただけな
の⋮⋮﹂
プルセナの言葉に、俺を見る視線が、一斉に不憫そうなものに変
わった。
察した目線という奴だ。
しかし、付き合う云々じゃなくて、不能の方か。
隠していたとはいえ、そんなに不思議か?
﹁言いふらそうとかそういうつもりはなかったの。不能野郎なんて
言葉を使ったのはリニアだけなの。あいつマジファックなの﹂
﹁プルセナだって、触られても襲われたりはしないから無害なの、
とか言ってたニャ﹂
﹁褒め言葉なの﹂
﹁ニャ!?﹂
漫才を始めた二人を尻目に、俺は席についた。
﹁まあ、いいんですがね。知られて困る事でもありませんし﹂
﹁そ、そうニャ、別にボスが不能だからって、あちしらは偏見の目
で見たりはしないニャ﹂
﹁そうなの、不能なボスでも、普通なボスでも、ボスはボスなの﹂
不能、不能って連呼するんじゃねえよ。
地味に傷ついてきたぞ。
やっぱ隠しておいた方がよかったか?
﹁師匠、気にする事はありません、我々は人形に生きましょう﹂
2145
ザノバはそう言って、ポンと肩を叩いてくれた。
ジュリだけは首を傾げている。
﹁ますた、ふのうって何?﹂
﹁うむ、男の役割が果たせない⋮⋮とでも言うべきか⋮⋮。
何にせよ、人形作りにはまるで関係のない事である﹂
﹁ふぅん﹂
ザノバは慰めのつもりなのだろうか。
言葉を選んでいる感じがひしひしと伝わってくる。
﹁ボス、エロいエロいと思ってたけど、
治そうと必死だったんだニャ⋮⋮涙ぐましいニャ⋮⋮﹂
﹁できそうな事があったら協力するの。お肉くれたらだけど⋮⋮﹂
犬猫の取ってつけたような同情。
あれだな。
なんか違うな。
こんな言葉では、俺はこいつらに恋に落ちたりはしないな。
﹁ルーデウス。一応、僕はミリス神官として信徒の懺悔を聞く訓練
も受けた事があるんだ。そっち方面ではあまり才能は無いと言われ
たけど、一緒に考えてやることぐらいはできるからな。何かあった
ら相談に乗るぞ﹂
クリフさんの言葉は真摯で、暖かかった。
エリナリーゼの気持ちがちょっとわかった。
いや、俺はホモじゃないから落ちたりはしないがな。
2146
−−−
こうして、クリフとエリナリーゼは付き合う事となった。
正直、あのエリナリーゼが他の男を我慢し続けるなんて無理だと
思う。
クリフが他の男と寝るエリナリーゼに我慢しきれるとは到底思え
ない。
今はいいが、そのうち破局してしまうのでは⋮⋮。
と思うが、俺からは何も言うまい。
そして、俺の病は特別生に知れ渡ることとなった。
少々のダメージはあったが、一応みんな何かあったら協力はして
くれるという。
ここに来て、初めて一歩前進した⋮⋮のだろうか?
俺も早く病を治して、誰かとイチャイチャしたいものだ。
2147
第七十五話﹁天才少年の秘め事 後編﹂︵後書き︶
−補足−
クリフはエリナリーゼが呪いのせいで望まぬ性交を強いられており、
健気にもそれを悟られないようにビッチを演じている悲劇のヒロイ
ンだと﹃思い込んで﹄います。
2148
第七十六話﹁絶壁の婚約者 前編﹂
鬼ヶ島。
北方大地の最東端のビヘイリル王国。
そこより更に東。
海を越えた先に、その島はある。
鬼ヶ島。
そう呼ばれる、小さな島だ。
そこには、﹃鬼族﹄と呼ばれる特異な一族が暮らしている。
赤黒い頭髪と額に角を持ち、﹃鬼神﹄と呼ばれる強力な武人を首
領とする戦闘集団。
それが﹃鬼族﹄だ。
魔族の一種であるが、人魔大戦にもラプラス戦役にも参加しなか
った。
そのため、人々には魔族の一種とはみなされず、
長耳族や炭鉱族と同じような種族という認識を持たれている。
とはいえ、基本的に鬼ヶ島から出ないため、知名度は低い。
鬼ヶ島の存在を知らない者の方が多いだろう。
彼らは排他的な種族である。
交友関係にある人族はビヘイリル王国のみである。
彼らの領域内に入ったよそ者は、容赦なく攻撃を加えられ、撃滅
される。
だが、そんな種族も、自らの認めた客に対しては心を開く。
現在も、一人の客人がいる。
2149
彼は海人族の船に乗って旅をしていたが、
この島が近づいた時に興味本位で上陸。
すったもんだの末に﹃鬼神﹄に認められ、客として扱われるよう
になった人物である。
彼は居心地のいい鬼ヶ島に居着いた。
気さくな態度で鬼神と話し、酒を酌み交わし、
時には鬼族の若手に稽古を付ける。
そんな生活を続けて、約二年。
数千年の時を生きるその客人にとっては、刹那の如き時間であっ
た。
ある日、そんな客人の元に手紙が届いた。
緊急依頼として依頼され、旅慣れたS級冒険者によって極めて迅
速に届けられた手紙。
内容は短く、簡潔であった。
﹃魔法三大国にて探し人発見せり。数ヶ月後、ラノア王国の魔法大
学へと向かう﹄
そんな手紙を見て、客人は立ち上がった。
手紙の内容と、そして客人の顔を見て、鬼神が尋ねた。
﹁ゆくのか?﹂
客人は大仰に頷いて、これに答えた。
﹁うむ。そろそろ行かねばなるまい﹂
2150
それを聞いた鬼族たちは口々に言った。
寂しくなる。
行かないでほしい。
ここで暮らせばいいじゃないか。
口々にそう言われ、客人は﹁うむ﹂と頷いた。
﹁そうしたいのは山々である。しかし、人族の寿命は短い、ゆるゆ
ると過ごしていては、死んでしまうやもしれん。短い間であったが、
楽しめた。また会おうではないか﹂
ただ、鬼族のリーダーである﹃鬼神﹄は、引き止めなかった。
ただ一言﹁達者でな﹂と、言ったのみである。
鬼神の言葉、それが鬼族の決定である。
名残惜しさを感じつつも、他の鬼たちは決定に従う。
しかし、せめて。
せめて、最後に宴を。
そんな声により、鬼族の集落で、盛大な宴が開かれた。
鬼族の腕自慢による相撲のような競技や、飲み比べなどの催し物
が行われ、
鬼神も、客人も大いに楽しんだ。
そして、客人は気持ちよく送り出された。
ある日突然にやってきて、二年近くも村に居候しつづけた、気さ
くな男。
鬼神と戦い、敗北し、しかし翌日には蘇り、
何度も何度も打ち倒されて蘇り、
そしていつしか鬼族と仲良くなってしまった不死身の男。
2151
漆黒の肌を持ち、六本の腕を持つ偉丈夫。
﹁フハハハハ! 待っていろよ!﹂
彼は西へと突き進む。
ある国は、彼の唐突の襲来に驚き、上級魔術を浴びせかけ、
ある国は、彼の突然の襲来に驚き、貢物を用意した。
しかし、彼は全てを無視。
突き進むように西へと向かう。
森を抜け、山を越え、人族の情報伝達速度を凌駕しかねないスピ
ードで。
各国がそいつの目的を探ろうとする頃には、
彼はその国を通り過ぎ、次の国へと到達していた。
西へ、西へと。
圧倒的なスピードで。
−−−
そして、たどり着いた。
﹁ふむ、ここか﹂
ルーデウス視点
魔法大学へ。
−−−
2152
魔法大学に入学し、はや半年の月日が流れようとしている。
季節は秋、豊穣の秋。
この季節は、極めて短い。
しかし、辛い冬を乗り越えるための重要な収穫期であり、
珍しく街でお祭りなんかが行われる季節でもあり⋮⋮。
そして獣族にとって、特別な意味合いを持つ発情期となる。
この時期になると獣族は男も女もそわそわとしだす。
魔法大学には、それほど多くの獣族が在籍しているわけではない。
10000人の生徒数から見ても、せいぜい5%。
それでも500人である。
魔法大学の広さを考えれば、それほど多くはない。
ないのだが、この時期、その少ない種族が各所で決闘している姿
が見受けられるようになる。
決闘をしているのは男女だ。
獣族はこの時期、好き同士の異性で決闘するのだ。
決闘が終わった後、数ヶ月ほどイチャイチャして、後に結婚。
決闘に勝ったほうが﹃家族﹄という群れのボスとなるのだとか。
まあ、あくまで﹁昔から続く慣習﹂なだけだそうだが。
リニアとプルセナは獣族にとって高嶺の花である。
戦闘力はこの学校にいる獣族の中でもトップクラス。
そしてドルディア族の姫君ともなれば、そりゃあモテた。
人族の風習に習い、15歳になったら成人とみなし、数々の獣族
が彼女らに決闘を申し込んだ。
2153
中には、わざわざ遠方から旅をしてきた者もいる。
部外者が立ち入っているのだ。
本来ならば学校側で止めるべき事案である。
が、発情期とは、風習と生殖に関する極めてデリケートな問題だ。
全て禁止にしてしまえば、獣族の生徒が暴動を起こす可能性もあ
った。
ゆえに学校側は、きちんと許可を取れば﹁見学﹂という名目で、
生徒でない獣族の敷地内への侵入を許可している。
さて、リニアとプルセナ。
二人に求婚し、決闘をして勝利するということは、
すなわちドルディア族の族長の座を狙えるという事でもある。
すぐに族長になれはしないが、次期族長を選ぶ時、候補者にあげ
られる事は間違いあるまい。
もっとも、遠方まで勉強をしている身で、勝手に結婚相手を決め
るわけにはいかない。
15歳になった時、二人は全ての求婚を断った。
しかし、そうした態度を公表したにもかかわらず、翌年も二人に
求婚を申し込む獣族の戦士は減らなかった。
モテモテだ。
中には、無理矢理襲い掛かってくる者もいたという。
既成事実さえ作ってしまえばこっちのもんだと言わんばかりに。
そうした事もあり、二人はこの時期になると、寮に引きこもる事
になった。
断るのもめんどくさい。
断っても﹃飢えた男﹄は襲い掛かってくる事もある。
女子寮が安全とは言わないが、少なくとも内部に侵入されれば、
2154
女子全員で追い出す事もできる。
ゆえに、二人はこの時期、部屋から出てこない。
なので、ホームルームも休み。
これがいわゆる生理休暇というものなのだろう。
発情期ということは、二人はいま、そういう状態なわけで。
二人が部屋でニャンニャンワンワンしているのかと思うと、俺も
少々興奮するものがある。
もっとも、頭が興奮するだけなのだが。
俺の所には二人から﹁ボスには迷惑をかけるが、あとは頼む﹂と
いう趣旨の手紙がきた。
あとを頼むと言われても、俺は特に何もしていない。
代返でもしておけという事なのだろうか。
どの授業に出てるのかわからないので無理だが。
なお、秋という季節に発情するのは獣族だけではない。
そして、この時期、魔法大学ではレイプ紛いの事件が後を立たな
い。
種族が入り交じったことによる弊害というべきだろうか。
互いの寮への厳重な警備体勢も頷ける。
発情期の種族同士なら、自然の摂理と流せる所だが、
まったく関係ない一年生には何のことかわからずに襲われる子も
いるそうだ。
もちろん、レイプ行為に関しては学校の規則で禁止されている。
そのため、この時期の学校内は守衛が見回っている。
2155
レイプはダメだが、決闘を通しての﹁合意﹂ならオッケー。
決闘を断られた後に襲撃することは厳重に禁ずると。
そんな感じであるらしい。
ホームルームでも教師からも注意があった。
この時期、迂闊に決闘行為を受けないようにと、
戦闘力に自信の無い子は、常に数人で固まって移動するように、
と。
フィッツ先輩からも気をつけるようにと心配された。
君は強いから、単なる武者修行とか言って戦いを挑んでくる女の
子がいるかもしれないけど、それは嘘だから、一度断ったら、どん
だけ挑発されても受けないように、背中に気をつけつつ足早に去る
事、と。
発情期系女子。
昔の俺なら、片っ端から決闘をふっかけてハーレムを築いたかも
しれない。
だが、病に犯されたこの身では、そんなことをしてもただ辛いだ
けである。
発情期。
あっしには関わりのねぇこって。
関わりあるのは、ほれ、そこの若人二人。
晴れて恋人同士となった、長耳族と人族の少年でさぁ。
万年発情期の長耳族が少年の膝の上に乗って、一緒に勉強してる
んで。
いやはや、朝から晩までお暑いこって。
2156
﹃はぁとまぁく﹄がこっちまで漂ってくらぁ。
しかし、クリフはともかく、エリナリーゼの態度は他の男に対す
るものと同じに見えるな。
それをクリフに知らせるのは少々不憫なので、口には出さないが
⋮⋮。
はっきり言って、演技にしか見えない。
大丈夫なんだろうか、あの二人。
﹁師匠、そろそろ新作の方に取り掛かられた方がよろしいのでは?﹂
二人を見ていると、ザノバが話しかけてきた。
彼は平常運転だ。
発情期など知らぬ通じぬ、といった所か。
﹁新作ですか⋮⋮﹂
先日、リハビリがてら作成しはじめた﹃1/8エリス﹄だったが、
作ってるとなぜか知らんが涙が出てきたので途中でやめた。
それ以来、どうにも手が鈍い。
スランプなんだろうか。
﹁そうですね、誰を作りましょうか⋮⋮﹂
﹁いっそ、人から離れてみては﹂
﹁じゃあ、赤竜でも作ってみますか﹂
﹁おお、そういえば一匹仕留めたのでしたな﹂
﹁あれは大変でした、死ぬかと思いましたよ﹂
﹁ははは、ご謙遜を﹂
﹁⋮⋮? ますた、なんの話?﹂
2157
ジュリが首をかしげていたので、俺が冒険者時代に赤竜を倒した
事を聞かせてやった。
すると、彼女は頬を紅潮させ、目を輝かせて聞いていた。
やはり、この世界の子供はこういう話が好きらしい。
彼女はあまり子供らしい扱いをされていないが、それでもまだ六
歳だもんな。
﹁よし、じゃあジュリのために赤竜を作ってあげますか﹂
﹁む⋮⋮し、師匠、余には? 余には何も作ってはくださらないの
ですか?﹂
﹁お前も弟子なら手伝いますの一言ぐらい言えんのか﹂
﹁⋮⋮っ! ハッ、師匠、微力ながらお手伝い致します!﹂
ちょっと調子が悪い面があるものの、俺も平常運転だ。
神撃と結界の初級ももうすぐ授業過程が終わる。
次はさて、どの授業をとってみようかと悩む日々だ。
やはり解毒の中級か。
しかし、今の所、解毒関連で悩んだ事はない。
初級を覚えていれば大体なんとかなるので、中級以上は必要なの
だろうか。
あるいは、治癒の上級を取るべきか。
これもまた中級で大体なんとかなっているので、必要なのだろう
か。
あるいは、召喚系という事で付与の授業を取ってみるか。
付与は魔道具なんかの製造に関わってくる魔術だ。
なぜ製造なのに召喚系に分類されているのかは分からないが⋮⋮。
新たな分野への挑戦という事で習ってみるのも悪くないかもしれ
2158
ない。
いっそ、授業を取らずに図書館にいる時間を伸ばすのでもいい。
転移事件の方はやや行き詰まりを覚えているが、
他種族の言語を覚えてみるのも面白いかもしれない。
授業を取らないなら、クリフに神撃を教えてもらうというのはど
うだろうか。
いや、彼は最近エリナリーゼにベッタリだからな。
邪魔してると思われるのは嫌だし、しばらく放っておこう。
あるいは、もっと別の、魔術ではない分野をみてみるか。
馬術の授業なんて面白そうだし。
なんて考える日々が続いている。
平和な日々だ。
−−−
と、思っていたのだが。
﹁はぐれ竜を単騎にて仕留めたA級冒険者﹃泥沼﹄のルーデウス殿
とお見受けする!
我と尋常なる婚儀の決闘を!﹂
図書館に行く最中に決闘を申し込まれた。
2159
振り返って目に映ったのは、美少女だ。
浅黒い肌、流れるような濃紺色の髪を首の後ろでまとめた少女。
年の頃は17、8ぐらいか。
キュっと結んだ口元、顔立ちは凛々しいの一言。
あえていうなら、女武士といった感じだろうか。
服装は群青色が目立つ。青が好きなのだろうか。
胸はそこそこ。
筋肉も結構ついてるな。
腰には剣神流の剣士がよく使う、湾曲した太刀を帯いている。
服装は制服ではなく、剣士風だった。
そんな少女が俺の方を見ていた。
正確にいうと、驚いた顔で、俺の前にいる人物を見ていた。
俺に向かって決闘を申し込んだ、毛むくじゃらのむさい獣族を見
ていた。
そうだよ。
言ったのはむさい男だよ。
どう見ても魔術師には見えない、筋肉ムキムキの犬系の獣族。
少女は多分、通りすがりだな。
いきなりすぐ傍の大男がそんな事言ったから、びっくりしたんだ
と思う。
なにせ、今はそういう季節だから。
自分に言われたのかと思ったんだろう。
﹁えっと﹂
まあ、少女は置いとこう。
2160
問題は、男だ。
俺も男で、こいつも男。
男から決闘を申し込まれた、って事だ。
大問題だ。
﹁それはあれですか、この時期流行りの求婚の決闘って奴ですか?﹂
﹁左様!﹂
アッー!
﹁すいません、その、僕、こう見えてもわりとノーマルなんで、ホ
モホモしいのはちょっと勘弁です。お断りさせていただきます﹂
﹁少し勘違いしているようだが﹂
﹁すいません、ピアノのお稽古があるので、あっしはこれにてドロ
ンさせていただきやす⋮⋮﹂
一度断ったら、それ以上話を聞かず、その場を去る。
フィッツ先輩に言われた通りに行動する。
﹁まてぇい!﹂
と、思ったら、毛むくじゃらはダンと大きな音を立てて飛び上が
った。
そして、俺を飛び越え、目の前に降りてくる。
まるで逆関節のような跳躍力だ。
竜騎士になれる。
﹁貴様に拒否権はない!
我が名はブルク・アドルディア!
プルセナに求婚を挑み、アドルディアの長にならんとする者なり
2161
!﹂
﹁プルセナ先輩は今、寮の方で発情休暇中なので、そっちに言って
ください﹂
そう言うと、ブルク氏は首を振り、啖呵を切った。
﹁プルセナ様に文を出した所、貴様が群れのボスだと判明した!
ギュエス殿より聞き及んだその武名!
雨の森一帯を凍りつかせたその所業!
赤竜を単騎にて仕留めたというその手腕!
まさにこの学校の主にふさわしい実力、相手にとって不足なし!﹂
単騎、単騎ってさっきからいってるけど、俺は徒歩だったからな。
まあいいが。
﹁拒否するとどうなるんですか?﹂
﹁群れのボスたる貴様には決闘を受ける義務がある!﹂
少し整理しよう。
要するに。
先日、決闘にてリニア・プルセナを仕留めた俺は、
彼女らにボスと呼ばれるようになった。
ボスの下にいるメスが欲しければ、ボスを倒すのがスジ。
で、俺を倒せば、賞品としてプルセナが手に入る。
決闘を受けるのは群れのボスの責務だそうだ。
俺は望んで彼女らの群れのボスになったつもりはないんだが、
そんな事は関係ないんだそうだ。
アニマルルールだな。
2162
つまり、わざと負ければ、俺は群れのボスから解任され、
プルセナは晴れてこいつの花嫁。
今後、こいつみたいに決闘を挑んでくる奴もいなくなるわけだ。
﹁いざ尋常に⋮⋮勝負!﹂
俺の返事を待たず、ブルク氏は大きく遠吠えをし、踊りかかって
きた。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮。
まあ、なんだ。
口ほどにも無い奴だったよ。
まっすぐ突っ込んできて、泥沼に足を取られて、岩砲弾で気絶し
た。
3秒ってところか。
なんとなく反射的に倒してしまったが、
考えてみると、俺がわざと負ける必要なんかないのだ。
プルセナも今の所、誰とも結婚するつもりはないみたいだし。
要するに、手紙に書かれていた﹃迷惑を掛ける﹄ってのはそうい
う事なんだろう。
丸投げされた事はちょいと気に食わないが、
この程度の相手をあしらうぐらいならなんとかなるし、
まぁいいだろう。
2163
なんて軽く考えていたら、
図書館に行くまでに5回も襲撃された。
この日を待っていた、と言わんばかりだ。
リニアとプルセナ、モテモテである。
あんなののどこがいいんだろうか。
体か?
いや、中には顔も見たことないやつが多いはずだ。
てことは、地位か。
最初の奴も族長になりたいって言ってたしな。
そんなにリーダーになりたいか。
どこの航空参謀だ。
しかし、どうやら、決闘を仕掛ける順番が決まっているらしい。
途中で俺に喧嘩を売ろうとした奴が、順番抜かしとかで怒られて
いた。
それもこれも獣族のしきたりか。
獣族はなんでもしきたりだな。
まったく、この獣族め⋮⋮。
しかし不思議な事に、図書館の中までは踏み込んでこなかった。
学校側から建物内では暴れるなと言われているのだろうか。
それとも、獣族のしきたりだろうか。
わからんが、とにかく、しばらく避難だ。
−−−
夕方、フィッツ先輩が図書館に現れた。
2164
﹁ルーデウス君、外が凄い事になってるけど、何をしたんだい?﹂
やや咎めるような視線だ。
﹁何も、リニアとプルセナを嫁にするには、
僕を倒せばいいらしいです﹂
﹁なにそれ⋮⋮﹂
フィッツ先輩の眉根が寄ったので、詳しく説明する。
リニアとプルセナを倒した俺は、彼女らのボスと認識されている
らしい事。
ボスを倒せば娘が手に入るらしいということ。
説明し終えると、フィッツ先輩はムッとした顔になっていた。
﹁そんなはずはないよ。
君はドルディア族の族長じゃないんだ。
一時的に彼女らに勝ちはしたけど、
彼女らをどうこうする権利はないはずだよ﹂
ふむ⋮⋮やっぱそうか。
そりゃそうだよな。
それがまかり通るなら、俺はあの二人の体をもっと自由にしてい
いはず。
﹁とはいえ、どうやって諦めさせましょうか﹂
﹁え? うーん⋮⋮発情期の獣族は言っても止まらないからなぁ⋮
⋮﹂
フィッツ先輩は顎に手を当てて、うんうんと考える。
2165
﹁本当なら、相手をする必要はないけど、彼らだって、決闘で負け
れば諦めて帰るはずだよ﹂
﹁⋮⋮それは結局、決闘を受けろって事ですか?﹂
﹁そうなるね﹂
簡単に言ってくれた。
何人いるのかは分からないが、外で30人ぐらい順番待ちしてい
るらしい。
ほとんどは族長にならんとするむさい男。
そいつら全員を倒せとは⋮⋮。
﹁僕はそういうバイオレンスな日常は望んでいません﹂
﹁それは知ってるよ。でも、どうにかしないとここから出られない
よ。ずっと隠れてたら我慢できずに入ってくるかもしれないし、図
書館で暴れられたら困るよ﹂
﹁そうですね﹂
さて、困ったものだ。
﹁むさくるしい男だらけの決闘か⋮⋮﹂
誰得なんだ。
﹁えっと、男だらけってほどじゃないよ、一人だけ女の子もいたし﹂
﹁マジすか。可愛い子でした?﹂
﹁ルーデウス君⋮⋮その子から決闘、受けるの?﹂
﹁いえ、まさか﹂
咎めるような視線に、俺はなんとなく首を振った。
2166
しかし、顔ぐらいは知っておきたいものだ。
どこで俺のことを知ったんだろうか。
﹁でも、気になるじゃないですか﹂
好意を寄せられていると知れば、そりゃ俺だって気になるさ。
もちろん、その後どうこうするかどうかは、病が治ってからの話
だが。
﹁そう? 気になる? ふうん?﹂
⋮⋮なぜだか知らんがフィッツ先輩の機嫌も悪い。
軽々しく決闘は受けるなって言ってたからな。
あ、そうか。
きっと、ルークあたりがその昔やらかして、その始末に追われた
りしたんだろう。
だから、軽々しく考えている俺にイラついているんだ。
﹁しかし、こんな大事になってるのに、生徒会の方ではどうにかな
らないんですか?﹂
﹁発情期に関してはしょうがないよ。
禁止したら、もっと酷いことになるもの﹂
生徒会の方も、この時期は色々と忙しいらしい。
暴走する生徒も多く、学校の敷地の外で暴れる奴もいる。
決闘騒動に乗じて、誰かを闇討ちしたりだとかする奴もいる。
生徒会に所属する生徒は、そういう輩から、戦闘力の低い生徒を
守っているらしい。
数人単位で学校内を見回り、不埒な事件が起こっていたらその場
2167
で止めるのだと。
フィッツ先輩も、一応ここに顔は出したものの、すぐに見回りの
ローテーションに入るんだそうだ。
﹁生徒会がそういう事になってるなら、僕も助けてくださいよ﹂
﹁ルーデウス君は自分でなんとかしなよ、できるでしょ?﹂
今日のフィッツ先輩の声音はいつになく冷たい。
何か気に障ることを言っただろうか⋮⋮。
いや。
もしかするといつぞやの試験の事を思い出したのかもしれない。
俺が勝利した事を、フィッツ先輩は気にしないと言ってはくれた。
だが、ここで俺がこそこそと逃げ回ったら。
臆病者に負けたとして、フィッツ先輩の評判も落ちるだろう。
フィッツ先輩には色々とお世話になっている。
あまりやりたくはないが、ここはひとつ、頑張ってみるか。
﹁わかりました、フィッツ先輩の名誉のためにも、連中を皆殺しに
しましょう﹂
﹁こ、殺しちゃだめだよ!﹂
﹁わかってますよ、冗談ですよ﹂
決闘とはいえ、命までは取られない。
そんな不文律もある。
とはいえ、もしかすると強いのが混じっているかもしれない。
油断はすまい。
気を引き締めていこう。
2168
−−−
方針が決まった所で、外に出る。
そこには、意外な光景が広がっていた。
﹁⋮⋮なんだこりゃ﹂
大勢の獣族の男が転がっていた。
まさに死屍累々という表現がふさわしい光景である。
全て、獣族の男だ。
大きさは大小様々。
耳の形も様々。
獣族にも、色んな奴がいるもんだ。
制服を来ている奴もいるが、着ていない奴も多い。
あ、一人女の子がいた。
さっきの剣士風の子だ。
巻き込まれたのだろうか。
それとも、俺にほの字?
と、考える前に、一人の男の笑い声が響き渡った。
﹁フハハハハハ!!﹂
そして、そんな死屍累々とした荒野の中。
一人の男が立っていた。
そいつは最後の一人を掴みあげ、高らかに笑い声をあげていた
﹁我輩に挑むとは!!
身の程知らずであるが、魔法大学というのは気骨のある者が集っ
2169
ておるようだな!﹂
唖然とする俺とフィッツ先輩。
だって、外に出たらいきなりコレだぜ?
死屍累々で、すごいのが立ってるんだぜ?
﹁⋮⋮えっと﹂
そいつは最後の一人を放り投げると、こちらを向いた。
﹁おお、順番待ちが嫌なら俺たちを倒せというのでそうしてみたら、
本当にすぐに出てきたではないか!
重畳重畳! 約束を守る者は好ましく感じるぞ!﹂
一目で魔族とわかる黒曜石のような肌。六本の腕。
一番上は腕組みされ、中段は俺たちを差し、下段は腰に当てられ
ている。
腰まで伸びる長髪は紫。
﹁我が名は魔王バーディガーディ!﹂
魔王。
魔王というとあれか、近所の村から若い娘をさらってきて性的な
意味で食べてしまっても問題ないという。
たまに差し向けられる勇者という名の刺客をなんとかすれば好き
放題できるとかいう。
いや、それはいい。
問題はそう。
なんで魔王がここにいるかだ。
2170
﹁その予見眼! 貴様がルーデウス・グレイラットか!
我がフィアンセ、魔界大帝キシリカより話は聞いておる!﹂
奴は俺の前へとノシノシと歩いてきた。
そして、一言。
﹁貴様に決闘を申し込む!﹂
わかいむすめ
犬と猫を生贄に捧げるから見逃してくれないかな⋮⋮。
2171
第七十六話﹁絶壁の婚約者 前編﹂︵後書き︶
副題を
﹁ゴジラvsルーデウス﹂
﹁特攻魔王Bガーディ﹂
﹁ワンコに囲まれて困っちゃう!? 魔法大学のドキドキ発情期!﹂
にしよ︵以下略︶
2172
第七十七話﹁絶壁の婚約者 後編﹂
魔王襲来。
その報告は、魔法大学近辺の国に電撃的に知れ渡った。
襲来と情報。
本来なら情報のほうが先に来るはずである。
だが魔王の移動速度が凄まじく速かったゆえ、
各国に情報が届くのと、魔王が目的地に到着するのはほぼ同時だ
った。
各国は慌てに慌てた。
魔王というものは、基本的に魔大陸からは出てこない。
急戦派や武闘派の魔王は、ラプラス戦役にてほぼ死に絶えた。
ゆえに、すでに魔大陸には戦いに興味のない、穏健派や保守派の
魔王しか残っていない。
しかし、穏健派や保守派とはいえ、彼らも魔大陸で君臨できる力
を持つ王なのだ。
何かしらの理由によって暴れだせば、圧倒的な破壊を撒き散らす
だろう。
魔王バーディガーディの襲来を聞いて、
ラノア・ネリス・バシェラントの三国は、国内の騎士団を動かし
た。
それと同時に、冒険者に収集をかけた。
しかし、大学までは距離があった。
ラノア魔法大学のある魔法都市シャリーア。
2173
そこにある魔術ギルドと冒険者ギルド。
そして駐在している三国の合同騎士団。
彼らは少ない兵力をかき集め、魔法大学を包囲した。
いざとなれば、三国からの増援が来るまでの足止めをするのだ。
よう
しかし、魔王の目的は杳として知れない。
姿形はそこそこ有名だ。
漆黒の肌に六本の腕。
不死身の魔王バーディガーディ。
ラプラス戦役以前より生きる、古き魔王の一人だ。
その能力は名前の通り﹃不死身﹄。
穏健派であるがゆえ、その戦闘力を知るものは少ない。
一節によると、あのラプラスと戦った事もあるという。
それが本当であるなら、ラプラスですら滅ぼしきれなかった、と
いうことである。
そんな魔王が、なにゆえ魔法大学に現れたのか。
そして、なにゆえ罪のない一般生徒や、獣族を気絶させて回った
のか。
各国、そして魔法大学がその理由を知るのは、もう少し後の事と
なる。
−−− ルーデウス視点 −−−
現在、俺は魔法大学の上級魔術用演習場。
何もないだだっ広い校庭のどまんなかで、バーディガーディと対
2174
峙している。
腕を組んで両足を開き、顎をつきだして堂々と立っているが、
内心はビクビクだ。
当たり前だろう。
真っ黒な肌を持つ偉丈夫の魔王に睨まれて、
どうして平然としていられようか。
確かに、俺は最近﹁俺もしかしてちょっと強いんじゃね?﹂と思
っていた。
けど、魔王ともなれば、ちょっとどころではない。
調子に乗るなと釘を刺された気分だ。
ていうか、もうハッキリ言って逃げ出したい。
こんな日のために走りこみを続けてきたのだ。
体力と魔力が続く限り、逃げ続けたい。
﹁⋮⋮﹂
振り返れば、後方にはヤジ馬が大量に並んでいる。
男子も女子も先生も。
俺の方を見ている。
ここで脱兎の如く逃げれば、彼らはどう思うだろうか。
いや、もうどう思うとかぶっちゃけ知ったこっちゃないんだが、
逃げるタイミングを逸した感じがしてならない。
ふと、野次馬の一人が、やや足早に俺の傍へと走ってきた。
やや露骨なヘアアクセサリーがよく似合う男性だ。
⋮⋮この世界にもカツラはあるらしい。
2175
﹁ジーナスから事情を聞いた。すまんが、今しばらく時間を稼いで
くれんか。今戦力を集めている﹂
彼は手短にそう言い残し、戻っていった。
ていうか、誰だ今の奴。
どっかで見たことあるよな⋮⋮。
だが、言葉の意味は理解した。
ジーナスがどういう事情を知っていて、何がどうなっているのか
わからない。
けれど、時間を稼げば、なんとかしてくれるらしい。
やはりこういう時は権力のある人が強いのだ。
﹁ふむ、まだかね﹂
﹁もう少しだと思います﹂
アクア・ハーティア
バーディガーディは漆黒の腕を全て腕組みさせて待っている。
現在、フィッツ先輩に﹃傲慢なる水竜王﹄を取りに行ってもらっ
ている。
それまで待ってくれ、という俺の言葉に、彼は従ってくれている。
それにしても、遅い。
図書館から寮まで、それほど距離があるわけではない。
変な所にしまった覚えはない。
いつも通り、先端に布を巻いてベッドの脇に立てかけてある。
すぐ見つかると思うのだが。
﹁ふむ、人族はせっかちだと思ったので急いだが、
貴様はせっかちではないようだな。
2176
さすがは我がフィアンセに認められるだけある﹂
﹁フィアンセ⋮⋮えっと、キシリカ⋮⋮様、でしたっけ﹂
そう聞くと、バーディガーディは﹁うむ﹂と頷いた。
魔界大帝キシリカ・キシリス。
忘れたわけではない。
魔眼をくれた相手だ。
当時は本物だと思っていなかったし、
唐突にあらわれて唐突に去っていったので唖然とするだけだった
が。
しかし、なんだって今更そのフィアンセが現れるのだろうか。
まさか、獣族と同様、結婚を申し込みにきたわけでもあるまい。
﹁キシリカ様とは、本当に少し話しただけです。魔眼は頂きました
が﹂
﹁キシリカは、貴様の事をすごいすごいと評しておったぞ。
あれほど興奮して話す彼女を見るのは久しぶりでなあ。
寛大なる我輩もちょいとばかり嫉妬を覚えたというわけだ﹂
片方の眉を上げて、ニヤリを笑いつつ、バーディガーディは言う。
嫉妬かよ。
嫉妬されるような事は何一つしてないはずなのに。
なんだ、何が気に障ったんだ。
もしかして、冗談交じりに一発お願いしますと頼んだことか?
いや、あれは未遂だ。
婚約者がいるから無理だって⋮⋮。
ああ、くそ、あの時言ってた婚約者か、コイツは。
2177
﹁僕は小物ですよ。哀れなる一匹の鼠小僧にすぎません。
ま、魔王様のような方が嫉妬なさるようなことはありませんよ?
キシリカ様は少々物事を大げさに言ったのでしょう﹂
内心の動揺を隠しつつ、俺は極めて冷静に答えた。
すると、奴は笑うのだ。
さもおかしそうに、笑うのだ。
﹁フハハハハ、謙遜をするな。
聞いておるぞ、貴様の身に宿る、その膨大な魔力のことはな﹂
膨大な魔力。
そう言われてもな。
他人よりも圧倒的に多いと気付いたのは最近だ。
だが、いくらなんでも魔王に嫉妬されるほどではない⋮⋮だろ?
いや、でもそういえば、あの時、なんか言われてた気がする。
何を言われてたっけか。
大笑いされた記憶しかない。
﹁えっと、魔力は他人よりは、少しばかり、多いようで﹂
﹁フハハハハ! そうだな、少しであるな!﹂
バーディガーディはしばらく笑っていた。
だが、唐突に高笑いをやめ、ドスンと地面に腰を下ろした。
﹁座るがよい﹂
俺は言われるがまま、その場に腰を下ろす。
バーディガーディは座ってもなお、大きかった。
筋骨隆々というべきか。
2178
俺もこんな筋肉が欲しい。
﹁お前は、かの魔界大帝キシリカ・キシリスにすごいと言われた事
の意味をわかっておらぬようだな﹂
﹁⋮⋮そう言われましても﹂
﹁凄い魔力を持った奴がいる。ラプラスより凄い。
彼女がそんな事を言ったのは、貴様が初めてである﹂
ラプラス。魔神だったっけか。
魔神よりすごい魔力と言われても、ピンとこないな。
確かに一時期から魔力切れを起こすことは滅多になくなったが、
別段、身体能力が高いわけでもないし。
﹁魔神ラプラスの魔力総量は歴史上でもトップクラスである。
つまり、貴様は世界でもトップクラスの魔力総量を誇る、という
わけであるな﹂
﹁またまたご冗談を﹂
そう言いつつも、俺の胸は少々踊っていた。
なにせ、相手は魔王だ。
実績のある相手だ。
プロのプレイヤーから、実は君、才能あるんだよ、と言われた気
分だ。
﹁我輩に真偽はわからぬ。キシリカは適当であるからな。
案外、何かを見間違えたのやもしれぬ﹂
そう言って、バーディガーディは苦渋の表情をしていた。
心当たりでもあるのだろうか。
いやでも、しかしあの魔帝様なら、そういう事もありえそうだ。
2179
﹁確かに、昔から魔力を増やす訓練はしてきましたが、トップクラ
スは言い過ぎでしょう。
僕と同じ訓練をすれば、誰もが世界一になれる事になりますよ﹂
﹁うむ、普通ならありえんことだ﹂
普通ならありえない。
なら、俺のように異世界から転生してきた者ならありえるのだろ
うか。
それとも、俺は気付かないうちに、人神からチートをもらってい
たのだろうか。
聞いてみるか。
﹁そういえば、魔王様、一つお尋ねしたいことがあるのですが﹂
﹁なんだ、なんでも尋ねてみよ﹂
﹁その、決して僕は、今から口にする人物の手先とか、配下とか、
そういう感じではないので、唐突に襲いかかって来ないで欲しい
のですが﹂
﹁貴様が待てと言ったのであろう、魔王は約束を破らん﹂
インディアン嘘付かない。
本当だろうな。
押すなよ。絶対押すなよ。
﹁ヒトガミ、という名前に聞き覚えはありますか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮貴様、その名前をどこで聞いたのだ?﹂
﹁夢に出てくるんです﹂
バーディガーディは腕の上段の腕組みを解いて、顎を撫でた。
何か知っているのだろうか。
2180
﹁ふむ、そうか⋮⋮夢にか﹂
﹁何かご存知で?﹂
そう聞くと、バーディガーディはしばし、考えていた。
が、﹁うむ﹂と頷いて、首を振った。
﹁なるほど。わからん!
どこかで聞いた覚えがあるような気がするが、思い出せん!
少なくとも、ここ数百年では聞いておらんな!﹂
﹁そうですか、ありがとうございます﹂
数百年とは、またアバウトだな。
﹁うむ、思い出したら教えてやろう! フハハハハ!﹂
﹁お願いします﹂
﹁つまらんやつだな、貴様も笑え。フハハハハハ!﹂
バーディガーディは楽しそうに笑う人物だ。
先ほどから、特に面白い事を言ったつもりはないのに、笑いが絶
えない。
ふと、俺はルイジェルドに会った時の事を思い出した。
あの時も、彼と笑いあう事で、親交を深めた。
笑いは、この世界においても共通の言語だ。
向こうが笑って話しかけて来てくれているのだ。
笑顔を返さないのは失礼だろう。
よし、笑うか。
﹁フゥーハハハハハハ!﹂
2181
﹁良いぞ、良いぞ、キシリカも言っていた。
どんな時にもとにかく笑えとな!
思い出したぞ、前にキシリカが死んだ時も、
奴は大声を上げて笑っていたのだ、フハハハハ!﹂
バーディガーディはそう言って、笑った。
見た目は恐ろしいが、この男はそれほど悪い奴ではないらしい。
﹁ん?﹂
バーディガーディと笑いあった所で、後ろの野次馬がにわかに騒
がしくなった。
振り返ってみると、誰かが騒いでいる。
耳を澄ましてみると、会話を聞き取ることができた。
﹁離して! 杖を届けないと!﹂
﹁やめろ! その杖を届ければ決闘が始まってしまう!﹂
﹁杖なしで戦いが始まったらどうするんだよ! 見殺しにするの!
?﹂
﹁そ、それは﹂
﹁ここは余に任せろ!﹂
﹁あっ、ザノバ君!﹂
﹁ザノバ・シーローンか! ええい離せ、離⋮⋮いだだだだ!﹂
野次馬からフィッツ先輩が飛び出してきた。
そして、凄まじい速度でこちらに走ってくる。
むちゃくちゃ足はええ。
多分、俺の三倍ぐらい速い。
赤くて角とかついてたりしないだろうな。
2182
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮ごめん、ルデ⋮⋮ルーデウス君。
先生が邪魔してきたんだ﹂
フィッツ先輩は杖を抱えて、荒い息をついていた。
マジックアイテム
﹁せ、先輩、足、はやいっすね﹂
﹁え⋮⋮はぁ⋮⋮靴、魔力付与品だから⋮⋮﹂
マジックアイテム
マジックアイテム
言われて、先輩がいつも履いているブーツを見る。
そうなのか、魔力付与品なのか。
もしかすると、いつもつけているマントとかも魔力付与品なのか
もしれない。
この人、暖かくなってきてもマントはずさないし。
﹁もしかして、そのグラサンも?﹂
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮これも⋮⋮うん、いや⋮⋮これは、ないしょで
⋮⋮﹂
えへ、とフィッツ先輩は笑った。
なんでこの人は笑い顔がこんなに可愛いのだろうか。
ドキドキしてしまう。
﹁ふぅ⋮⋮はい、ルーデウス君、頑張って⋮⋮でも無理しないでね。
勝てないって思ったら、ごめんなさいして逃げても、誰も何も言
わない相手だから。
変なプライドとか考えずに、命だけは、ね﹂
アクア・ハーティア
俺はフィッツ先輩から﹃傲慢なる水竜王﹄を受け取る。
こいつを持って真面目に戦うのは久しぶりだ。
2183
シャーリーン
頑張ろうぜ、相棒。
冥土の土産に教えてやろう。
俺たちは、帰ったらパインサラダと結婚するんだってことを。
アクア・ハーティア
俺は﹃傲慢なる水竜王﹄を包む布を取っ払う。
フィッツ先輩が息を飲むのがわかった。
ちょっとイタズラ心が芽生える。
﹁⋮⋮フィッツ先輩、この先端の魔石を見てください、こいつをど
う思います?﹂
﹁す、すごい、大きい⋮⋮﹂
﹁!﹂
なんか、今ちょっと、腰の裏のあたりにビリッときた。
なんだろう。
いや、冗談はここまでだ。
バーディガーディが立ち上がり、肩を回している。
時間稼ぎは出来ただろうか。
兵力が集まりきるまで会話で持たせるのって無理じゃねえか?
フィッツ先輩は、名残惜しそうに戻っていった。
ここにいて援護してくれてもいいんだが。
ていうか助けて⋮⋮。
﹁よいのか?﹂
﹁出来ればこのまま笑いながら話をしていたい所ですが﹂
﹁フハハハハ! それはまた後でもできよう!﹂
命を取る気は無いってことか?
いや、なんかアバウトな感じがする人だ。
2184
魔力総量が多いから大丈夫だと思った、とか言って殺されるかも
しれない。
先に一言言っておいた方がいいかもしれないな。
命のやり取りはよしましょう、と。
バーディガーディは腰に手をあて、だらりと立っていた。
先に仕掛けて来るとかは無いらしい。
合図を待ってくれているのだろうか。
とりあえず、予見眼を開眼する。
﹁⋮⋮あれ?﹂
予見眼には、何も映らなかった。
バーディガーディが立っている場所に、何も立っていないのだ。
﹁なにを驚いた顔をしている⋮⋮お、そうか。
早速キシリカにもらった魔眼を使ったな。
しかし残念だったな。我輩に魔眼は効かぬ﹂
事も無げに言って、バーディガーディはフフンと鼻を鳴らした。
まじか。
魔眼、効かないのか。
さすが魔王。
しかし、となるとまずいな。
ギリギリの致命傷を回避できない確率が増える。
俺は身体能力に関してはそれほど高くないのだ。
当たりどころが悪い場合が増えてしまう。
2185
﹁魔王様﹂
﹁バーディで良いぞ。我輩が笑えといって、素直に笑った者にはそ
の名で呼ぶことを許しておるのだ﹂
﹁バーディ様。一つ提案があります﹂
﹁なんだ﹂
﹁もし僕が負けても、どうか命だけは助けてください﹂
そう言うと、バーディガーディはブハッと笑い出した。
﹁フハハハハハハ! 始める前から命乞いか! 面白いやつだ!﹂
﹁命は大切にすべきです﹂
﹁うむ、そうであるな。人族はすぐに死んでしまうからな! そう
した考えを持つ者が多いと聞く!﹂
バーディガーディはゲラゲラと笑う。
﹁しかしそれほど膨大な魔力を持っていながら、己の力に自信は無
いか!﹂
﹁二年ほど前に、龍神とかいう人に殺されかけたばっかりなんで﹂
そう言うと、バーディガーディの笑い声がぴたりとやんだ。
﹁龍神とは、龍神オルステッドか?
奴と戦って、生き残ったのか?﹂
﹁死にかけましたよ。気まぐれか何かで生かしてもらわなければ、
今頃僕は幽霊です﹂
バーディガーディの顔がマジになっている。
まずい。
人神の名前で大丈夫だったので安心していた。
2186
オルステッドの方がダメだったか。
﹁その戦いにおいて貴様は、龍神に少しでも傷を付けたか?﹂
﹁え? ええ、手の甲の皮がべろんと剥がれる程度ですが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
バーディガーディはぴたりと口を閉じた。
怖い顔だ。
わ、笑おうぜ。
﹁では、一つ我輩からも提案をしよう﹂
﹁な、なんでしょうか﹂
俺は神妙な顔つきで、バーディガーディの顔色を伺う。
﹁一発だけだ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁一発だけ、貴様の最高の奥義を我輩に向かって放て。
そうだな、龍神に傷を付けたものでよい。
それを我輩が受けて、我輩の闘気を貫いてダメージを与えれば、
貴様の勝ち。
ダメージがなければ、我輩の勝ち、でどうだ?﹂
おお。
願ったりかなったりの提案である。
素晴らしい。
かなり有利な条件だ。
しかも俺は殴られないで済む。
いいんだろうか。
2187
﹁でも、それでは僕が有利すぎないでしょうか﹂
﹁有利? 有利だと? ふむ、その通りだな!
ならば、もし貴様の攻撃がまるで通じなかったならば、
我輩も反撃を行う。一発だけな!﹂
墓穴を掘った気がする。
だって、その一発って心臓とか貫いたりするんでしょ?
もうやめよう、これ以上墓穴を掘ることはない。
胸に穴を開ける事もない。
﹁わかりました。では、それでいきましょう﹂
﹁うむ﹂
そう言って、俺は杖を構えた。
出来る限りの魔力を杖に込める。
作り出すのは岩砲弾。
しかし、オルステッドに放ったものより、固く作る。
あの時は素手で、片手で、咄嗟に作った。
今回は杖もある。
威力は数倍だ。
形成。
魔力を練り上げ、固く、硬くする。
基本はフィギュアを作るときと一緒だ。
ただ、靭性などは考えず、ただ硬くする。
可能な限りとがらせ、紡錘型に。
ドリルのような刻みもつける。
そして、そいつを回転させる。
2188
できうる限りの高速回転。
ただひたすらに回す。
秒間で何回転しているのか、俺にもわからない。
あとは射出速度。
ここにも魔力を練り込む。
出来る限り最速で打ち出すのだ。
岩砲弾にここまでの魔力をつぎ込んだ事はない。
魔力を込めるのに時間がかかるし、実戦ではほぼ使えないだろう。
使ったとしても、大抵の魔物はオーバーキルになるはずだ。
だが、魔王なら、耐えるかもしれない。
せめてダメージを与えたい。
殴られるのは嫌だ。
﹁では、行きますよ﹂
﹁うむ! こい!﹂
発射!
キュインと音がした。
反動は無い。
なぜか魔術に反作用は存在しない。
しかし、当然ながら作用は存在する。
岩砲弾をぶち当てられたバーディガーディは、
バァーンとでかい音を立てつつ、
上半身を粉々にふっ飛ばされ、
六本の腕をバラバラに分解され、
2189
下半身だけ数十メートルはぶっ飛んで、
ドサリと落ちた。
−−−
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
ぴくりとも動かない。
俺は恐る恐る、ゆっくりと、彼の下半身の所に向かって歩いた。
そして、内蔵の溢れる下半身に、目を落とした。
血は流れていない。
魔王だからだろうか。
笑ってばかりで涙の無さそうな奴だと思ったが。
もしかして血も涙もないやつだったのだろうか。
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
いや、まさか。
え?
嘘だろ⋮⋮?
死んだ?
何が起こったのかよくわからない。
後ろを振り返ってみると、辺りはシンと静まり返っていた。
誰もがこちらを見ている。
視線が痛い。
誰も動かない、微動だにしない。
2190
唾を飲み込む。
ごくりと喉から音がした。
こ、殺してしまったのか⋮⋮?
いや、だって、嘘だろ。
だって、いや、なんで。
あんなに自信満々だったのに。
え?
だって、不死身の魔王だって。
ええ?
自信たっぷりで、一発だけ撃ってこいって。
えええ?
ゆっくりと、恐る恐る、
もう一度、振り返る。
自分がしでかしたことを、確認するんだ。
﹁フハハハハ! 我輩大復活!﹂
あやうく岩砲弾を撃ち込みそうになった。
そこには、半分のサイズになったバーディガーディが立っていた。
俺と同じぐらいの背丈になったが、顔の大きさは変わらない。
なのでアンバランスな印象を受けた。
大きさの件はとりあえず脇において。
﹁あ、生きてた﹂
2191
ほっとした。
無自覚のうちに殺人をしてしまったのかと思った。
よかった、相手は人じゃなかった。
﹁フハハハハ、死ぬかと思ったぞ!
だがうむ、なるほど、よくわかった。
戦わなくて正解だったな!
本気で戦えば、ここら一体が荒野になる所であるからな!﹂
フハハハとバーディガーディは笑った。
その脇から、六本の腕がガサガサと這ってきて、バーディガーデ
ィに合体した。
バーディガーディの背丈が、むくむくと大きくなる。
が、元の大きさには戻らない。
﹁おお、随分遠くに飛んだな⋮⋮元に戻るのにちと時間が掛かりそ
うである!﹂
バーディガーディはやや興奮しているようだった。
﹁貴様の勝ちだ、ルーデウスよ! 勇者を名乗ってもよいぞ!﹂
﹁いえ、それはやめときます﹂
﹁ではせめて勝鬨を上げよ! フハハハハ!﹂
バーディガーディはそう言うと、俺の右手。
杖を持つ手を、掴み、上へと持ち上げる。
ボクシングのチャンピオンのように。
判定勝ちだったのだろうか。
よくわからない結末だ。
2192
﹁か⋮⋮﹂
しかし、勝ちだというなら、勝ちなのだろう。
﹁勝ったどぉぉぉおおおお!﹂
野次馬はシンと静まり返っていた。
よくわからないが、静まり返っていた。
それを確認した後、バーディガーディはうんうんと頷き。
﹁ノリの悪い連中であるな。
さて、では、一発殴らせてもらうぞ﹂
と、言い出した。
﹁えっ!?﹂
約束と違う!
と思った時には、彼の拳が俺の顔面を捉えていた。
片手だけだ。
ただし、彼は片手だけで三つの拳を持っていた。
腕を掴まれた状態では防御する事もできず。
三発殴られて気絶した。
嘘つき魔王め⋮⋮。
−−−
2193
その後、バーディガーディは、先ほどのヘアアクセサリーが露骨
なオッサンと、
鎧姿のイケメン系中年、そしてローブを着込んだ爺さんと一緒に、
どこかへと消えていったらしい。
偉いさん同士で何やら話し合うのだろう。
俺はフィッツ先輩の治癒魔術により気絶から復帰した。
その後、ジーナスに連れられ、教員棟の一室で歓待を受けた。
紅茶と茶菓子を出してもらい、一息ついた。
ジーナスは多くは語らなかった。
どうやら、彼も状況をよく飲み込めていないらしい。
魔王がいきなりきて、部外者を含む生徒たちを昏倒させた。
そして俺に決闘を挑み、俺が勝ち名乗りをあげたら殴って気絶さ
せた。
それだけで状況が飲み込めるわけもない。
あと、魔王に昏倒させられた生徒たちに、死人はいなかったらし
い。
そもそもバーディガーディは穏健派なので、わざわざ人を殺した
りはしないということか。
彼の目的については、これから偉い人が調べるらしい。
ヘアアクセのオッサンは、この学園の校長だったそうだ。
名前なんだったっけかな。そうそう、風王級魔術師ゲオルグ。
入学式の時に見たことがあったな。
2194
話し合いに参加するのは、この町を守る三国騎士団の団長。
あと、魔術ギルドの総帥。
四人が集まり、現在あれこれと話をしているのだとか。
﹁しかし、さすがルーデウスさんです⋮⋮魔王を先制で一撃とは!
そして、それで魔王に認められる⋮⋮! 校長は泥沼といえど一
人の冒険者、時間稼ぎが関の山だろうとおっしゃっていたが。まさ
か、まさかこうなるとは! この歳になって、あんなに興奮する場
面に立ち会えるとは思いませんでしたよ!﹂
ジーナスは興奮を隠しきれず、そんな事を言っていた。
どうやら、決闘前に話していた内容については知られてないらし
い。
バーディガーディがわざと魔術を食らったとか、
効かなくともそれで終わりだったとか。
しばらくジーナスに尊敬の目で見つめられた後、俺は解放された。
とりあえず、色々決まるまで寮の方で待機しているように言われ
て。
−−−
職員室を出ると、ザノバが走り寄ってきた。
﹁おお、師匠、見ていましたぞ。流石ですな。いや、当然というべ
きですか﹂
2195
ザノバはそう褒めたが、俺は首を振った。
﹁胸を貸してもらっただけですよ﹂
確かに攻撃は通じたが、相手は回避も防御もしなかったのだ。
そして、そこからのあの再生能力。
もし本気で戦えば、すんなり勝たせてもらえたとは思えない。
﹁ご謙遜を。魔王に胸を貸して貰えるというだけで凄い事ではない
ですか﹂
ザノバは笑いながら、そう言っていた。
ジュリは、さらに恐れた目で、俺を見ていた。
遠目にもスプラッタと分かったのだろう。
怖いものを見せてしまった。
−−−
寮に戻る途中、随分とツヤツヤしたエリナリーゼとクリフと出会
った。
﹁あらルーデウス、なんの騒ぎですの?﹂
﹁えっと、何してたんですか?﹂
﹁ナニをしてたんですのよ﹂
ほほほと笑うエリナリーゼに、クリフは真っ赤になって﹁余計な
事はいうなよ!﹂と怒っていた。
2196
魔王が襲来している間に、二人で大人の会合を開いていたらしい。
仲睦まじいようで。
﹁先ほど、バーディガーディ様に決闘を挑まれまして、なんとか勝
ちました﹂
﹁えっ! あいつ、もう来たんですの!?﹂
⋮⋮⋮⋮もう?
もうってなんだコラ。
﹁知ってたんですか? 来るってこと﹂
﹁ええ、でも、鬼族の所で引き止められて、しばらく滞在するから
先にいけと言ってましたのよ。
ほら、ああいう方って、年月にルーズでしょう?
ですから、あと10年は動かないものと思っていましたのよ。
実際、わたくしが別れたのも二年前でしたし⋮⋮﹂
千年単位で生きていれば、時間の感覚がズレるというのだろう。
俺も生前は、30を過ぎてからは時間の流れが早く感じたものだ
しな。
単位がちょいと大きいが。
﹁でも、いい奴だったでしょう?﹂
﹁悪い人ではなかったですね﹂
俺が出会った貴族、王族の中では、トップクラスにいい奴だ。
よく笑うしな。
約束は破ったが、一発殴って一発殴り返されたのだと思えば、そ
れはそれでいい。
2197
﹁おい、なんの話だ?﹂
﹁あらあら、クリフったら嫉妬ですの?
大丈夫ですわ、今、わたくしの心を好きにできるのは貴方だけで
すのよ﹂
﹁いや、そうじゃな、あ、くっつくな、ルーデウスが見てるだろ﹂
﹁見せているんですわ﹂
イチャイチャとし始めたので、俺はその場を退散した。
背後から﹁魔王がこんな所に来るわけないだろ!﹂なんて声が聞
こえてきた。
俺もさっきまではそう思っていたよ。
−−−
寮の入り口で、フィッツ先輩が待っていた。
彼は俺の顔を見ると、なんともいえない顔をしていた。
やはり、これも興奮だろう。
頬が赤くなり、ぐっと手を握っている。
凄いものを見たけど、感想が出てこない、そんな感じだ。
﹁ルーデウス君って、す、凄く、強いね!﹂
小並感。
そんな単語が思い浮かんだ。
﹁まさか一撃とは思わなかったよ!﹂
﹁一発当てて、その威力で勝ち負けを決めるというルールでしたの
で、
2198
持ちうる限り最強の魔術を使いました﹂
﹁最強の⋮⋮? あれ、試験の時に僕に使ったのと一緒だよね、そ
れの凄いのだよね?﹂
﹁ええ、岩砲弾ですよ。かなり﹃溜め﹄ましたけどね﹂
﹁ただの中級魔術でも、極めればあんな威力になるんだね⋮⋮﹂
フィッツ先輩は﹁へぇ∼﹂と感嘆の声を上げつつ、自分でも岩砲
弾を作り出し、回転させ、発射させた。
ヒュンと音がして、遠くの地面に突き刺さる。
一度や二度見ただけですぐに再現できるとは、うまいもんだ。
しかし、俺ほどの勢いではない。
﹁極めたというつもりはありませんがね﹂
﹁普段から土魔術ばっかり使ってるの?﹂
﹁そうですね、一時期は水ばっかりでしたが、ある時期から土ばか
りでしたね﹂
﹁やっぱり! 同じ系統のを使ってると、段々うまくなるんだよね﹂
そうだっただろうか。
いや、でもフィギュアを作るのはだんだんとうまくなってる気が
する。
﹁⋮⋮そう、ですね。精度が上がる、とでも言うのでしょうか﹂
﹁でも、消費魔力も増えるんだよね!﹂
﹁そうそう。人形作るときとか、結構たいへんで﹂
フィッツ先輩は嬉しそうだった。
そういえば、フィッツ先輩と無詠唱魔術を語る機会はそうなかっ
たな。
2199
﹁あっと、ごめんね、疲れてるよね。引き止めてごめん。今日はゆ
っくり休んで﹂
﹁あ、はい﹂
フィッツ先輩はそう言うと、校舎の方へと走っていった。
もう少し話をしていたかったが、まあいいか。
あんな事件の直後だ。
彼も生徒会という事で、忙しいだろうしな。
俺は自室へと戻る。
杖を壁に立てかける。
魔王の事やら何やら、今日は大変だった。
精神的にも肉体的にも疲労を覚えつつ、俺はベッドに横になった。
なんだか疲れた⋮⋮。
−−−
そんな事があってから、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
魔法三大国は、バーディガーディと話し合い、
彼を国賓として扱う事に決めたらしい。
対するバーディガーディは迷惑を掛けたお詫びとして、
不死性の研究用に腕の一本を魔術ギルドに提供。
さらに合同騎士団に臨時の武術顧問として参加する事となった。
そして⋮⋮。
2200
−−−
次のホームルーム。
二人の先輩が寮から出てきた。
バーディガーディが獣族を全て片付けたので、授業にも出られる
ようになったらしい。
﹁さすがボスだニャ、ありがとニャ。今度なんかあげるニャ﹂
﹁でもまさか、魔王まで来るとは思わなかったの。私たちは魔性の
女なの。
よくぞ守ってくれたの。お礼に胸を揉んでもいいの、リニアのを﹂
﹁ありがとうございます﹂
胸を揉む権利をもらったので、遠慮なく揉ませてもらった。
リニアのを。
﹁ギニャー!﹂
顔を引っかかれた。
いいと言ったのに。
なんかあげると言ったのに。
酷いニャす。
ケチなことだ。
ご婦人なら誰でも持っているんだから、ちょっとぐらいいいじゃ
ねえか。
2201
﹁師匠は女性に対しては随分とあけすけですが、
しかし、浮いた話はひとつも聞きませんな﹂
﹁おい、やめろザノバ、それ以上言っちゃダメだ! ほら、あのこ
と!﹂
﹁⋮⋮おお、そうでしたな、これは失敬﹂
最近は、クリフの席も近くなった。
エリナリーゼから俺の話を時折聞いているらしい。
何を話しているのか知らんが、わりといい噂を流してくれている
ようだ。
どうやら、同情するような話を、あることないこと。
俺がエリスに振られたのは、病気のせいって事にされてた。
まあ、いいけどな。
エリスのことはもう、吹っ切ったし⋮⋮!
この一ヶ月で、クリフとエリナリーゼは、公衆の面前でイチャイ
チャすることは次第にしなくなっていった。
かといって、まだ別れたわけではないらしい。
クリフは2日か3日に一度はゲッソリしている。
絞られているのだろう。
公衆の面前でイチャつかないのは、彼らがきちんと話し合ったか
らだろう。
ていうか、勉強に支障はないのだろうか。
まあ、二人の事は二人の事だ。
俺がとやかくいう問題じゃないか。
ちょっと羨ましい。
2202
﹁⋮⋮ぐらんどますた、ここの硬いの魔力たりない、やって﹂
ジュリは毎日勤勉に人形を作り続けている。
最近は平行して手掘りの方も教えている。
もっとも、そっちは本職ではないので、
ザノバの同学年にいる炭鉱族に手伝ってもらっている。
魔王バーディガーディについての情報は概要しか知らされていな
い。
バーディガーディは俺に嫉妬してここまでやってきたと言ってい
た。
てことは、俺にも責任問題がのしかかってくるのではないだろう
か。
いや、そのへんはジーナスがなんとかしてくれると思いたい。
俺をスカウトしたのは彼なんだし。
と、その時、ガラッと扉を開いた。
特別生は、サイレントを除いて全員が出席している。
教師がくるにはまだ早い。
まさか、サイレントがホームルームに顔を出したのか。
なんて思った瞬間。
﹁フハハハハハハ!﹂
高笑いが教室中に響き渡る。
そして、教室の中へと入ってくる。
堂々と、誰にはばかることなく。
そして、教壇に立ち、俺達を睥睨した。
2203
﹁不死身の魔王バーディガーディ、参上!﹂
ウソみたいだろ。
制服着てんだぜ⋮⋮そいつ。
−−−
そして、魔法大学には広告塔として入学した。
特に何を学ぶわけでも研究するわけでもないが、
たまに視察して、生徒に声掛けして通報される事案を発生させて
いるらしい。
もっとも、通報されなければ、魔王の叡智を授けられるらしいが
⋮⋮。
ともあれ、こうして、ラノア王国における魔王襲来事件は終了し
た。
2204
第七十八話﹁白い仮面 前編﹂
最近、俺は恐れられている。
魔法大学に通うほぼ全ての生徒からだ。
最初はそれがわからなかった。
単純に避けられているのだと思っていた。
例えば、ガラの悪そうな奴らが向こうから歩いてくる。
俺は奴らに対し﹁絡まれないように端でも歩こうか﹂と思う。
しかし、なぜか向こうの方が先に気づいて廊下の端にどくのだ。
たまに窓の外を見て﹁今日はいい天気だなー﹂とか言いだす奴も
いる。
雨なのにだ。
俺は﹁絡まれなくてラッキー﹂と思っていた。
まさか、向こうもそう思っていたとは⋮⋮。
自覚したのは、解毒魔術の授業の帰りだった。
最近、俺は4年生の過程にある中級の解毒魔術の授業を取ってい
る。
とりあえず、そのことについては、置いておくとして。
授業を終えて廊下に出ると、ゴリアーデを見かけた。
ゴリアーデ。
そう、入学初日にパンツ泥棒冤罪で俺を糾弾した肉弾系女子だ。
彼女は体がでかいので目立つ。
2205
同時に向こうも俺のことを見つけたらしく、目があった。
一応、会話したこともあるし、向こうは先輩だ。
挨拶の一つでもしておかなければ失礼だろう。
そう思った俺は、ついでに入学初日の事をあらためて謝ろうと思
い、近づいた。
すると彼女はビクリと身を震わせて、視線を逸らした。
その広い肩幅を狭めながら、おどおどとした態度でつま先の方を
見ていた。
﹁ゴリアーデ先輩。入学初日の件なんですけど﹂
俺がそう切り出すと、彼女はカタカタと体を震わせ始めた。
そして、か細い声で、言った。
﹁あ、あの時は、その、悪かった⋮⋮です、すいませんでした、勘
弁してください⋮⋮﹂
入学初日と明らかに違う態度。
俺も戸惑ってしまった。
なんか俺が恐喝か何かをしているみたいだ。
﹁えっと⋮⋮いえ、その、謝るのはこっちの方で、でしてね。
その、寮の規則については覚えたので、えっと、もうあんな事は
⋮⋮﹂
しどろもどろになっているうちに野次馬が集まりだした。
−−−
2206
﹁おい、見ろよ。ルーデウスだぜ﹂
﹁入学初日の件って、まだ根に持ってるのかよ⋮⋮﹂
﹁ゴリアーデさん、可哀想⋮⋮﹂
﹁規則破ったのは自分なのに、なんて奴だよ⋮⋮﹂
﹁馬鹿っ、聞こえたらどうすんだ﹂
−−−
周囲の声は、同情と批難が入り混じったものだった。
ゴリアーデが涙目になり始めた。
俺も涙目になりそうだった。
おかしい。なんだこれは。
視線が痛いんだが。
﹁ニャんだ、ニャんだ、喧嘩か?﹂
﹁昼間っから血気盛んなの﹂
丁度その時、リニアとプルセナが通り掛かった。
後から聞いた話によると、二人はゴリアーデと同学年だそうだ。
二人は俺の姿を見て、そして涙目のゴリアーデを見た。
そして、得心がいったように、ははんと頷いた。
そして、ドヤ顔をしつつ、割り込んできた。
﹁ボス、そのぐらいで勘弁してやるニャ。
ゴリアーデも悪気はなかったニャ。
同じ獣族として、ここはあちしらの顔を立てて欲しいニャ﹂
﹁ほら、さっさと行くの。これに懲りたら二度とボスの気に障る事
をしない事なの。お前は運がよかったの。ナンバーツーのこの私が
通りかからなければ、お前は八つ裂きだったの﹂
﹁あ、は、はい⋮⋮!﹂
2207
ゴリアーデは助かったとばかりに二人に頭を下げ、
その広い背中を小さく見せようと頑張りながら足早にその場を去
った。
﹁ほら、お前らも散るニャ!
見世物じゃニャーぞ!﹂
リニアの言葉で、野次馬は蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
俺もほっと一息。
﹁プルセナ、さっきのは何ニャ?﹂
﹁さっきのってなんなの?﹂
﹁ナンバーツーはこのあちしニャ﹂
﹁最近はボスの舎弟が増えてきたから、馬鹿なリニアには務まらな
いの﹂
﹁プルセナも成績は同じぐらいニャ﹂
事情を聞こうと思って向き直ると、
二人は恒例となっている漫才を始めていた。
﹁ほら、二人とも喧嘩しないで、ナンバーツーは二人いてもいいで
しょう﹂
﹁ボスはわかってニャいな。組織の序列はしっかりしておかニャい
と﹂
﹁そうなの、重要な事なの﹂
ふむ。獣族にとって、序列は大事な事であるらしい。
が、そもそも俺は組織を立ち上げたつもりはない。
どっちがナンバーツーでも構わない。
2208
それはさておき。
とりあえず、二人には感謝だな。
お礼に今度、何かプレゼントでもしてやろう。
魚か何かでいいだろうか。
﹁しかしボスの逆鱗に触れるとは、ゴリアーデも馬鹿だニャ。
ニャにされたんだ?﹂
﹁いえ、入学初日にパンツ泥棒とまちが⋮⋮﹂
﹁あっ! あれか! パンツ泥棒はボスだったのか!﹂
﹁⋮⋮ファックなの﹂
いきなり軽蔑の視線を送られた。
最後まで言わせろ。
冤罪だ。冤罪。
また絶望と屈辱をプレゼントしてやろうか。
﹁そういえば、前にゴリアーデが自慢気に話してたの。
腰抜けの一年坊がフィッツに庇ってもらってたって。
腰抜けはあいつなの。滑稽なの﹂
﹁自分を馬鹿にした相手を見逃すとは、ボスは寛大だニャあ⋮⋮。
でも示しがつかないから、今度あちしがきちんとシメといてやる
ニャ﹂
シメるとか。
お前ら不良をやめて優等生になったんじゃなかったのか。
﹁やめてくださいよ。余計な敵を増やしたらどうするんですか﹂
﹁はぁ、ボスは上昇志向が足りないニャ。今ならあちしらと組めば、
アリエルを倒して寮を掌握できるというのに﹂
2209
﹁そうなの、ボスはフィッツに勝てるから学校のトップになれるの﹂
どうにも、獣族って奴らはトップに立ちたがるな。
本格的なニューリーダー病患者なのかもしれない。
﹁寮を掌握して、学校のトップになって、それでどうするっていう
んですか﹂
俺はトップなどどうでもいい。
基本的に、喧嘩はしない主義で行こうと思っているしな。
人の上に立つって事は、恨みを買う可能性もあるって事だ。
この世界では、道を歩いていたら、いきなり心臓を貫かれるって
事もある。
だから、出会う相手全てにへりくだるぐらいがちょうどいいのだ。
﹁学校のトップにニャったら? そうニャあ⋮⋮年の初めに女子寮
全員から一枚ずつパンツを徴収するなんてどうニャ?﹂
﹁それがいいの。ボスは棚に飾るぐらいパンツが好きだから、きっ
と嬉しいの﹂
﹁嬉しく⋮⋮ねえよ?﹂
パンツは好きだけど。
べ、別に好きだから飾ってるわけじゃねえし。
顔も知らない女子のもらっても嬉しくは⋮⋮ねえよ?
例えば、顔知っててもゴリアーデさんのは嬉しくねえよ。
でも、たまに可愛い子いるからなぁ。
好みじゃなくても⋮⋮。
例えば、リニアやプルセナのだったらちょっと嬉しいかも。
2210
こいつらちょっと獣臭いけど、なんだかんだ言って結構美少女だ
し。
モフってると女の子の匂いするし。
いや、でもしかしな。
そう、そうだ。フィッツ先輩だ。
フィッツ先輩はそういう行為は嫌うだろう。
だからダメだ。
うん。
よし。
惑わされんぞ。
去れ、マーラよ。
危ない所だったな、まだ見ぬ女生徒たちよ。
俺が病に犯されていなければ危ない所だったぞ。
﹁有象無象のパンツになど興味はありません、やるならお二人でど
うぞ。もっともフィッツ先輩に迷惑を掛けるようなら、僕は敵にま
わりますがね﹂
﹁うぐ⋮⋮ま、まぁ、ボスが大人しくしてるってんニャら、それに
従うニャ﹂
﹁⋮⋮そうなの、言いなりなの﹂
と。
そんな出来事があって。
ようやく自覚できた。
どうやら、俺は恐れられているらしい。
フィッツ
自覚できてしまえば﹁何故だ﹂とは思わなかった。
学園一の実力者を倒した。
2211
とくべつせい
問題児を従えた。
そして、学校を恐怖に陥れた魔王を倒した。一撃で。
最後のが、特に効いたようだ。
そりゃあ、怖がられもするだろう。
バーディガーディに聞いた話になるが。
彼の闘気を纏った漆黒ボディに傷を入れられるのは、剣神流にし
て王級並の剣技を持たなければダメらしい。
王級。
すなわちギレーヌやルイジェルドクラスでようやく戦いになるレ
ベルという事だ。
そうした肉体任せの戦い方だから、バーディガーディはある一定
の攻撃力を持つ相手にはまるで相手にならんらしいが⋮⋮。
それはさておき。
その話を信用するなら、俺の岩砲弾は、すでに王級並の威力を持
っているという事になる。
知らない間に、俺の岩砲弾もずいぶん高い火力を持つようになっ
たものだ。
もっとも、威力だけだ。
俺はバーディガーディの言う所の闘気を纏えてはいない。
闘気とはやはり、世の剣士が何気なく纏っているモノであるらし
い。
しかし、どれだけ鍛えても、俺の肉体がエリスやルイジェルドの
ような速さや筋力になることはない。
筋肉は増えるが、それだけだ。
結局の所、俺が高いのは攻撃力だけなのだ。
2212
魔眼やら何やらで、そこらの相手には勝てる。
魔力総量もラプラス並に持っている︵らしい︶。
しかし、肉体は普通なのだ。
もっとも、一般生徒はそんな事がわかろうはずもない。
攻撃力が王級なら、肉体もそれに準じていると思われているかも
しれない。
魔王以上の存在。
俺が一般生徒の立場だったら、関わりあいになりたいとは思わな
い。
﹁ボスはもっと自信を持つニャ。きっと例のあれも自信を持てば解
決ニャ!﹂
﹁そうなの、でも解決しても襲うのはリニアだけにして欲しいの﹂
というのは、リニアとプルセナの言葉。
自信か。
息子の引きこもりは俺の自信の喪失からきているものなのだろう
か。
言われてみると、そんな気がする。
オルステッドに敗北し、エリスに振られ、
力を見せられないまま、失意に落ちた。
自信を取り戻せば、あるいは立ち上がるのかもしれない。
確かに、今は自信を取り戻すには絶好の機会かもしれない。
生徒は俺を恐れている。
試しにリニアとプルセナを引き連れて歩いてみると、生徒の海が
割れる。
生前はこんな立場に立った事がない。
2213
新鮮だ。
肩で風を切って歩く立場とでも言うのだろうか。
まるで院長先生の回診のようだ。
あるいはモーゼか。
実にいい気分だ。
どきな、俺の廊下に立つな⋮⋮。
と、調子に乗りかけた所で。
ふと、思った。
もしかすると。
生前に俺をイジメていた奴らも、こんな感じで調子に乗っていた
のだろうか、と。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮。
ちょっと嫌な事を思い出した⋮⋮。
あまり調子に乗らないようにしておこう。
ニートには戻らんぞ俺は。
−−−
そんな日々を送っていたある日。
俺はいつも通り、図書館で調べ物をしていた。
調べれば調べるほど、転移と召喚についての共通点は増えた。
呼び寄せるのと、送り出す。
2214
この違いはあるものの、魔法陣の形から、発せられる光まで。
あらゆるものが似通っていた。
これは本格的に召喚について学ぶ必要がある。
そう思ったのだが、この大学には、専門的に召喚魔術を教えてい
る教師はいない。
魔術ギルドまで行けば使える人物はいるようだが、せいぜい初級
か中級。
さしさわりのない使い魔や、ほとんど自我を持たない精霊を呼び
出す程度。
専門的な知識は聞けるわけがない。
付与系なら上級まで扱える人物がいるようだが、
付与と召喚はかなり違うものだし、転移について聞いても、答え
は返ってくるまい。
ジーナスはこの学校の教師陣について自慢していたが、口ばっか
りだ。
とはいえ、こうした世界では、仕方のない事なのかもしれない。
考えてみれば、冒険者時代にも召喚魔術師というものは見なかっ
た。
召喚魔術師は、絶対数も少ないのだろう。
あるいは結界や神撃同様、どこかの国が技術を独占しているのか
もしれない。
でも、なんか俺、一人、召喚術に詳しい人を知ってるような気が
するんだよな。
どこで聞いたんだっけか。
会ってれば思い出せると思うのだが。
まあ、思い出せないって事は、出会ってないって事だろう。
2215
さて、図書館にあった召喚に関するめぼしい文献は大体読破した。
これ以上、独学では学べる事もないだろう。
ゆえに、やや行き詰まりを感じていた。
そんな折、フィッツ先輩が見つけ出してくれた。
﹁ルーデウス君。ようやく見つけたよ、この学校にも一人、召喚魔
術を専門的に研究してる人がいたんだ!﹂
﹁おお!﹂
﹁ジーナス教頭と、ゲオルグ校長に聞いたんだ、誰だと思う?﹂
フィッツ先輩はイタズラでも思いついたように、ニヤニヤと聞い
てきた。
学校にも一人。
まず、教師では無いだろう。
生徒の中にも、召喚を学ぼうとする者はいたが、
上級、聖級以上となると皆無だったはずだ。
一体、どこにいるというのだろうか。
﹁⋮⋮魔術ギルドの方ですか?﹂
魔術ギルドなら、召喚術をメインで使う者もいるだろう。
その研究員が、この学校を根城にして研究しているのかもしれな
い。
﹁うーんと、魔術ギルドのA級ギルド員だって話は聞いたね﹂
﹁ほう﹂
俺の調べによると、魔術ギルドはA級で支部長クラス。
S級で幹部クラスという事になる。
2216
確か、ゲオルグ校長はSで、ジーナス教頭がBだ。
﹁A級って、魔術ギルドの支部長と同じランクじゃありませんでし
たっけ?﹂
﹁うん。驚きだよね﹂
B級であれば、魔術学校を作るためのノウハウや資金援助なんか
を受けられるとか聞いたような気がする。
﹁それで、誰なんですか?﹂
﹁ルーデウス君も名前だけは聞いたことあるはずだよ﹂
名前は聞いたことがある⋮⋮?
はて、俺の知り合いに魔術ギルドのA級ギルド員などいない。
しかし、フィッツ先輩の口にした名前は、俺も何度か聞いたこと
のある名前だった。
﹁特別生のサイレントさ﹂
−−−
特別生・サイレント。
彼がこの学校に残した功績は計り知れない。
まず、食堂のメニューの改善。
アスラ王国からの食材の輸送ルートを確立し、
本来なら北方大地で食べられない食材も使えるようになった。
2217
また、独自の料理として、ケリースープというものを作り出した。
じゃがいもや人参、玉葱といった食材を鍋で煮た後、十数種類の
香辛料を混ぜあわせたスパイスを投入。
とろみのついた茶色いスープにパンをひたして食べる、というも
のだ。
要するに、カレーである。
俺の舌が覚えているカレーの味とはだいぶかけ離れているが、し
かし、レシピはカレーによく似ている。
制服を考案したのもサイレントだ。
彼はアスラ王国のデザイナー、工房とツテを持っており、
そこに制服を作らせた。
制服を作る事で、雑多な種族の集まった野卑な学校というイメー
ジを払拭。
学校全体のイメージアップに成功した。
それから、黒板と呼ばれるものを考案したのもサイレントだ。
真っ黒に塗りつぶした板に、石灰で作ったチョークで文字を書く。
それだけの事であるが、授業がスムーズに進むようになったと好
評である。
他にも探せばまだまだある。
本当に些細な部分にサイレントの考案したものが使われていたり
するのだ。
その功績を認め、魔術ギルドは彼にA級ギルド員の称号を与えた。
さて。彼の作り出したもの。
全て覚えがある。
この世界の住人が知らず、そして俺が知っている物。
2218
いくら鈍い俺でも、なんとなくわかる。
サイレントがどういう存在なのか、予想がついていた。
が、その時はまだ、俺はその単語を口にだそうとはしなかった。
なぜか。
わからない。
自分という存在を、特別に見たかったのかもしれない。
この世界において特別な存在だと思いたかったのかもしれない。
別の世界の記憶を持つ唯一の存在だと。
だが、考えてみれば、俺一人であるはずがないのだ。
正直に言えば、俺はサイレントという存在にビビっていた。
出来れば接触したくないと思っていた。
同じ条件で、自分よりうまくやっている奴を見たくないと思って
いた。
あまつさえ、そんな奴に出会って﹁君はこんなに恵まれた環境で
何を遊んでいたんだい?﹂なんて聞かれでもしたら、いたたまれな
い気持ちになってしまっただろう。
しかし、フィッツ先輩から名前を聞いた時、俺は即座にサイレン
トの元に赴く決意をした。
調子に乗っていたのかもしれない。
そうだ。
俺はこの頃、調子に乗っていた。
神子に弟子入りされ、師匠と呼ばれ、
学校一の不良に勝利し、ボスと呼ばれ、
学校一の天才に哀れみの目を向けられ、
2219
魔大陸の魔王に勝利し、友と呼ばれ、
全校生徒に恐れられて。
調子に乗っていたのだ。
無論、調子に乗らないようにと心では思っていた。
だが、やはり知らず知らずのうちにテングになっていたのだろう。
これだけできていれば、上から目線で見下される事はない。
無意識中に、そう思ったのかもしれない。
−−−
居場所はジーナス教頭に聞いた。
研究棟の三階。
最奥。
サイレントはそこにある三つの部屋を借りきっている。
その三部屋をぶちぬいて研究室にし、ほとんどそこから出ずに生
活しているという。
俺は、あえて一人で、その研究室を訪れた。
理由はわからない。
本当なら、フィッツ先輩と一緒に行くべきだっただろう。
だが、なぜか一人で行かなければいけない気がした。
扉を前に、深呼吸を一つ。
覚悟は出来ていた。
サイレントが俺と同じ﹃転生者﹄であっても。
俺は決して、怯むことはない。
2220
軽くノックをする。
﹁⋮⋮どうぞ﹂
すると短く、やや苛ついた声による返事があった。
俺はドアに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
部屋の奥、大量の本や紙束が散乱し、各所に何に使うかわからな
い魔道具が放置され、
そして、大量に置かれた魔力結晶や、魔石が山と積んである研究
室。
その奥に座っている人物。
そいつが振り向いた瞬間、俺は絶句した。
﹁あら、また会ったわね﹂
そいつは、黒髪だった。
そいつは、女だった。
そして、忘れもしない。
絶対に忘れない。
のっぺりとした、白い仮面をつけていた。
﹁ギャアアァァァァァ!﹂
俺は叫び声を上げて逃げ出した。
2221
あの白い仮面の少女。
オルステッドと一緒にいた。
名前は思い出せない。
そう、オルステッド、オルステッドだ。
転生者と相対する覚悟は出来ていた。
だが、オルステッドと相対する覚悟は出来ていない。
死にかけた時の恐怖がまざまざと蘇る。
あの瞬間、ほとんど感じなかった恐怖心が、白い仮面を見た瞬間
に再生される。
肺を潰された時の苦しみ。
何をしても無力化される無力感。
心臓を貫かれた時の痛み。
そして、死を目前にした時の、恐怖。
全てが再生され、俺は逃げた。
逃げて、逃げて、逃げた。
どこを走っていたのかわからない。
後ろを振り返る。
なんと追いかけてきていた。
白い仮面が、追いかけてきていた。
俺はさらに逃げる。
転びつつ、まろびつつ、酔っぱらいのように頼りない足取りで逃
げる。
こんな時のために逃げ足だけは鍛えてきたはずなのに。
俺の足はいうことを聞いてくれない。
魔王と対峙した時でも震えなかったのに。
2222
﹁⋮⋮っ!﹂
ふと、階段の下にフィッツ先輩の姿を見つけた。
彼なら、彼なら助けてくれる。
そう思い、ふっと気を緩めた。
﹁ふぅ、人の顔をみていきなり悲鳴を上げて逃げるなんて、失礼じ
ゃない?﹂
ぽんと肩を叩かれた。
振り返ると奴がいた。
俺の体は驚愕と恐怖でビクンと痙攣し、
次の瞬間、足を滑らせて階段から転げ落ちて、無様に気絶した。
−−−
誰かに頭を撫でられる感触で目を覚ました。
優しい手だった。
その手からは何かが流れ込んできて、俺の血の巡りの悪い部分を
解消するような。
そんな感覚があった。
手の持ち主に視線を動かしてみると、フィッツ先輩がいた。
俺を撫でているのはフィッツ先輩だった。
フィッツ先輩の手は暖かかった。
そして男とは思えないほど細く、繊細だった。
2223
俺はなんとなしに、その手を掴んだ。
﹁あ、ルーデウス君、起きた?
心配したよ、いきなり上から転がり落ちてくるから﹂
﹁⋮⋮酷い夢を見ました。白い仮面をつけた女に殺されそうになる
夢です﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
フィッツ先輩が困ったような顔をした。
なんだ。
そもそも、ここはどこだ。
寮の自室じゃない。
そもそも、寮じゃない。
でも見たことがある。
フィッツ先輩の背後にはベッドが並んでいる。
そうだ、ここは医務室だ。
俺は体を起こしつつ、首を巡らせる。
医務室には誰もいない。
俺とフィッツ先輩だけだ。
いや、常駐している治癒術師がいた。
さらに首を巡らせ⋮⋮。
﹁うおぉっ⋮⋮!﹂
ベッドの反対側。
そこに座る人物を見た。
白い仮面をつけた女を。
2224
思わず、ベッドから転げ落ちた。
すると、奴はため息を一つついて、俺を睨みつけてきた。
﹁失礼ね⋮⋮なんでそんなに怯えているのよ。
前に助けてあげたでしょ? ああ、あなた死んでたから覚えてな
いのね﹂
前に、死んでたから。
やっぱり。間違いない、こいつはあの時のあいつだ。
オルステッドの脇にいたあいつだ。
﹁お、オルス、オルステッドは!?﹂
﹁ここにはいないわ。彼は忙しいもの﹂
仮面の女はこともなげに言った。
いない。
オルステッドがいない。
本当か?
いや、ウソをついてもしょうがない。
そうか、いないのか。
﹁安心しなさい。彼はもうしばらくはあなたを狙わないから﹂
﹁しばらくってことは、また時間が経ったら殺しにくるってことで
すか?﹂
﹁そんな予定はないと思うけど⋮⋮でも、その可能性はあるわね。
あなた次第よ﹂
今すぐどうにかはならない。
そうわかった瞬間、自分があからさまにほっとしたのを感じてい
2225
た。
俺も現金なものだ。
俺の様子に、フィッツ先輩が耳の裏をポリポリと掻きつつ、仮面
の女に問いかけた。
﹁えっと、話が見えないんだけど、説明してもらってもいいかな?
まず、君はルーデウス君とどういう関係なの?﹂
﹁どういう関係でもないわ﹂
仮面の女はフィッツ先輩に対し、ピシャリと言い返した。
フィッツ先輩があからさまにムッとしたのがわかった。
﹁でも、ルーデウス君がこんな慌てふためくなんて初めてみたよ。
君、何かしたんじゃないの?﹂
フィッツ先輩の口調は強い。
このダメな後輩を守ってくれようとしている。
ありがてぇ、ありがてぇ。
﹁前に会ったとき、龍神にこっぴどくやられたから、その事を覚え
てるんでしょ﹂
﹁龍神⋮⋮? 七大列強の?﹂
﹁そうよ﹂
﹁君が龍神なの?﹂
﹁まさか、前に一緒に旅していただけよ﹂
仮面の女はどうでもいいとばかりにそう言い放ち、髪をかきあげ
る。
今気づいたが、彼女が着ているのはこの学校の制服だ。
2226
﹁それにしても、ここで再会するとは思ってなかったわ﹂
仮面の下から覗く視線は強い。
ルート
﹁でも、﹃赤竜の下顎﹄で出会ってフラグを立てて、この学校で再
会する。
そういう因果なのでしょうね﹂
彼女は懐から、一枚の紙を取り出した。
﹁3つ、あなたに聞くわ。
正直に答えなさい﹂
有無を言わさぬその口調。
俺は唾を飲み込んで頷いた。
﹁一つ目。これに見覚えはあるかしら?﹂
手渡される紙を受け取る。
そこには、
﹃篠原秋人
黒木誠司﹄
と、書かれていた。
・・・
日本語で。
2227
人名だとすぐに気づいた。
と、同時に。
やはりという感情が芽生える。
やはり、彼女は。
﹃二つ目、この言葉はわかる?
三つ目、あなたはどっち?﹄
この問も日本語だった。
ここまでくれば確定的だろう。
彼女は、俺と同じ存在だ。
しかし、と俺は考える。
この紙。
この名前。
⋮⋮⋮⋮まったく見覚えがない。
だが、少々戸惑ったが、覚悟はしていた。
ゆっくりと答えた。
日本語で。
﹃どっちでもない。俺はこの名前を知らない﹄
﹃そう、言葉はわかるのね﹄
﹁え? 何語? ルーデウス君?﹂
フィッツ先輩は紙を覗きこみ、焦った声を出す。
﹁なんでもないわ、彼と私が同郷ってだけよ﹂
﹁同郷? そんなはずないよ!﹂
2228
フィッツ先輩が否定する。
なにをもって否定できるのかは知らないが。
今はそんなことよりも、だ。
﹃じゃあ、あんたもそうなのか?﹄
俺は恐る恐る、聞いた。
奴は頷く。
﹃そうよ、私も気づいたらいきなりこの世界に放り出されたのよ﹄
そう言いつつ、彼女は白い仮面を外した。
その瞬間、カチリと記憶がハマった。
生前の記憶。
最後の瞬間。
喧嘩した男女。
その片割れ。
女の方。
それとまったく同じ顔をした少女がそこにいた。
同時に、疑問が浮かぶ。
まったく同じ顔。
あれから15年も経過するのに、そこにはあの時と同じ顔の少女
がいた。
そして、少しだけ、ズレを感じた。
・・・・・・・・・
おかしい。
なぜ15年も経過しているのに、同じ顔をしているんだ。
2229
いや、そもそも、なぜ、同じ顔をしているんだ?
転生なら、顔は変わってしかるべきだ。
俺の疑問。
その答えは、すぐに彼女自身の口から出てきた。
﹃いわゆる、トリップね。
私はこのくだらない世界にトリップしたのよ﹄
トリップ。
この意味合いは、転生とは少々異なる。
俺は、いわゆる転生者だ。
肉体は別であり、記憶だけを持ってこの世界に生まれた。
トリップは違う。
トリップは、いわゆるワープだ。
年齢や肉体はそのまま、この世界にやってきた。
奴は⋮⋮俺とは違うのか?
﹃私の名前はナナホシ・シズカ。日本人よ。
最近はサイレント・セブンスターという偽名を名乗っているわ﹄
疑問と混乱。
俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
何も言えない俺に対し、彼女はさらに尋ねる。
﹃それにしてもあなた、生まれはどちらの方なの?
アメリカ? それともヨーロッパの方かしら。
白人よね⋮⋮でも日本語はわかるし。
もしかしてハーフの方? 在日の外国人とか﹄
2230
3つじゃなかったのか、という疑問は無い。
俺は答えなかった。
答えなかったが、彼女はさらに話を続ける。
﹃何にせよ、これで一歩、事態が進展したわね。
やっぱり生かしてもらっておいて正解だったわ。
オルステッドが知らないって言った時点で、
なんとなくそんな気がしたのよね⋮⋮﹄
ナナホシはやや興奮したように言葉を重ねている。
俺の混乱などお構いなしだ。
﹃これからよろしくね、えっと、名前教えて?﹄
﹃る、ルーデウス。ルーデウス・グレイラット﹄
﹃それはこっちでの偽名よね? 本名は?﹄
俺は生前の本名を口にしたくはなかった。
そのため、口をつぐむ。
すると、ナナホシはわかっていると言わんばかりに頷いた。
﹃ああ、わかるわ。警戒してるのね。
わかるわよ。その気持ちはね。
あんな事があったものね。
でも安心して。私は味方よ﹄
﹃⋮⋮﹄
﹃それにしても、私以外にも来てる人がいるなんてね⋮⋮。
私もこの世界にきて﹃地球人﹄に会ったのは初めてよ。
なんだか頼もしいわね﹄
2231
ナナホシは俺の手を握る。
フィッツ先輩の眉が寄った。
そして、ナナホシは言った。
嬉しそうな声音で。
﹃元の世界に帰るため、お互い協力しあいましょう﹄
元の世界に帰るため。
そんな単語に、俺のぐちゃぐちゃの思考がまとまりを持つ。
出てくる単語はただ一つ。
﹃嫌﹄だ。
俺は即座に手を振り払い、言った。
﹃俺は、元の世界になんて帰りたくない﹄
﹃えっ⋮⋮?﹄
絶句するナナホシ。
﹁ルーデウス君もサイレントも⋮⋮わかる言葉で喋ってよ⋮⋮﹂
そして、日本語のわからないフィッツ先輩。
医務室には、なんとも微妙な空気が流れていた。
2232
第七十九話﹁白い仮面 後編﹂
ナナホシ・シズカ。
漢字で書けば、七星静香。
彼女はトリッパーだ。
トリッパーとはすなわち、転移者。
死に、赤子としてこの世界に生まれ変わった俺が転生者だとする
なら、
彼女はそう、迷い人という感じだろうか。
それと合わせ、俺も自分が転生者であることを打ち明けた。
トリッパーではなく、転生者である、と。
死因については事故死。
しかし、その状況についてはボカした。
生前の姿は酷いものだ。
思い出されれば、きっと偏見の目で見られるだろう。
人の見た目ってのは大事だからな。
まあ、もしかしたらナナホシは俺のせいでトリップした可能性も
あるわけで。
そこん所を突かれるのも嫌だしな。
−−−
俺はナナホシと話をした。
2233
懐かしい日本語で。
お互い知らない間柄であるがゆえ、フィッツ先輩にも同席しても
らった。
だが、会話した言語は日本語。
フィッツ先輩には、つまらない時間を過ごしてもらったと思う。
申し訳ない事だ。
話をするにあたって、彼女は最初に、こう宣言した。
﹁私はこの世界に興味は無いわ。
くだらない召喚モノの漫画やラノベのように、
元の世界の知識を使ってこの世界に繁栄をもたらすつもりもない。
ただ自分のため。元の世界に戻るためだけに全力を尽くすつもり
よ﹂
その考えは、この世界で生きていこうとする俺とは、真っ向から
反するものだった。
くだらない、くだらないと連呼されるのは、さすがの俺も気に食
わない。
だが、わからないでもない。
彼女はきっと、﹃馴染めなかった﹄のだ。
自分の居場所がない所を、興味がないものを、くだらないと切っ
て捨てる気持ちは、わからないでもない。
ゆえに、その事について、彼女の考え方を正すつもりはない。
だが、ナナホシは俺を警戒していた。
最初に非協力的な言動をとったのがまずかったのだろう。
2234
恐らく知っているであろうことを、秘密にされた。
当然だろう。
敵か味方かわからない相手を全面的に信用してどうする。
俺だってナナホシを警戒しているのだ。
とはいえ、少々失敗したかな、とは思う。
もしあそこで顔を見て逃げ出さず、その後も﹁僕はこの世界に残
りますが、帰る方法を探すのは手伝います﹂とでも言っておけば、
彼女も警戒を緩めただろう。
まあ、過ぎた事を言っても仕方がない。
−−−
ナナホシは、気づいたらアスラ王国にいたらしい。
何もない草原で、アスラ王国とわかったのは後日だったそうだ。
何もなく、周囲には誰もおらず、どうすればいいかわからず困っ
ていた所、
オルステッドが現れて、保護してくれたらしい。
﹁なぜオルステッドが?﹂
﹁⋮⋮さぁ、ただ、彼が呼び出したわけではないみたいね﹂
彼女はアスラ王国で、この世界について学んだらしい。
言語に始まり、魔法の存在や、通貨、生活習慣などなど。
このへんは俺と一緒だ。
凄い事に、彼女は一年ほどで人間語をマスターしたそうだ。
2235
オルステッドが嫌われ者な呪い持ちなので、早急に憶える必要が
あったのだろう。
必要に駆られれば、誰だってモノを憶えるのは早くなる。
さらに一年、アスラ王国で過ごした。
その際、料理やら被服技術やらを伝授し、金を稼いだそうだ。
その利権を使って金が入ってくる仕組みを作り出した。
七大列強の龍神が後ろ盾に付いているという事を喧伝して信用を
掴み、自身の話術で持って、流通ルートを確立。
現在はすでに一生遊んで暮らせる資産があるらしい。
すごい事だな。
言語も覚え、金という基盤もできた。
それらは全て、元の世界に帰るという事への踏み台でしかない。
彼女はオルステッドに連れられ、元の世界に帰るための情報を集
めるべく、そして知り合い二人もこの世界にトリップしているかも
しれないとして、一年ほど世界を旅して回った。
オルステッドには敵が多く、あちこちで戦いになったのだとか。
オルステッドは強く、大抵の相手は一撃で打倒せしめた。
俺との戦いもそのうちの一つだが、
俺だけはどうにも様子が違ったようなので、進言して生き残らせ
てもらったらしい。
それについては、素直に礼を言っておいた。
原因や過程はどうあれ、ナナホシの一言が無ければ、俺は死んで
いたわけだからな。
﹁それにしても、どうしてオルステッドさんは人神と争っているん
2236
ですか?
いきなりだったんでびっくりしましたよ﹂
﹁私も詳しいことは知らないわ。けど、個人的な恨みだって言って
たわね。
あと、人神の使徒はほうっておくと強大になるから、早めに叩い
ておくものだ、って﹂
個人的な恨みでいきなり襲われるのは勘弁してほしい。
あと、俺は人神の使徒じゃない。
最近はいいなりだが、会うのは年に一度ぐらいだ。
使徒というほど密接な関わりもない。
ともあれ、彼女は世界中を回り、そこで色んな人に出会った。
オルステッドは嫌われ者だが、龍神の名前は利用価値があり、
彼の書いた手紙一つで、高名な魔術師や騎士団長、王などに会え
たらしい。
﹁一年で世界中を回った⋮⋮?﹂
その部分に引っかかりを覚えた。
俺は世界を一周するのに三年掛かったのだ。
﹁ええ、ある特殊な方法を使ってね﹂
﹁どういう方法なんですか?﹂
﹁そうね、分かりやすく言えば、ワープ装置よ﹂
旅の扉か。
﹁この世界では﹃転移魔法陣﹄と呼ばれていたわね。知ってる?﹂
﹁名前だけは聞いたことがあります﹂
2237
聞いたのはいつだったか。
確か、魔大陸から帰るときだったな。
ルイジェルドから聞いたのだ。懐かしい。
﹁転移魔法陣はすでに存在しないと聞きましたが?﹂
﹁人魔大戦の頃に作られた遺跡には残っているらしいわよ﹂
﹁へぇ、遺跡。どこにあるんですか?﹂
﹁それは口止めされているから言えないわ。この世界では、禁忌だ
そうだから、あまり人には言うべきじゃないって﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁もっとも、私はついて回っただけだから、あまり覚えてないしね﹂
という事らしい。
世界中を回ったといっても、転移魔法陣から別の転移魔法陣へと
歩きまわる旅。
覚えていないというのは嘘ではないだろう。
地図も持たずにあちこちワープで連れ回されては、正確な場所も
わかるまい。
出来れば、そういう便利そうなものは一つぐらい知っておきたい
ものだ。
またいつ、何が起こるとも限らんからな。
話を戻す。
ナナホシは探し人には会えなかった。
だが、数々の人物に出会った。
そのうち、ある人物から、こう言われたそうだ。
﹃お前は何者かの手によって、この世界に召喚されたのではないか﹄
2238
と。
﹁何者ですか、その人は﹂
﹁言えないわ。会ったことは誰にも言うなと言われたの﹂
﹁なぜ?﹂
﹁﹃自分と知り合いだとわかれば、面倒な奴らが寄ってくる。面倒
事を起こしたくなければ名前は伏せておけ﹄と言ってたわね﹂
名前を言えないあの人。
だが、その人物は召喚術の世界的な権威であるらしい。
しかし、その人物をもってしても、
異世界から人間を召喚する術はないそうだ。
そもそも、異世界からでなくとも、人間は召喚できないはずだし
な。
ともあれ、彼女は召喚魔術の事について調べるべく、魔法大学に
拠点を置く事にした。
稼いだ金で多額の寄付を行い、魔術ギルドのBランクと特別生の
地位を購入。
さらに、アスラ王国でのツテを使い、学生服などを導入。
教育制度の見直しや、教育に使う道具を一新。
あっという間に魔術ギルドのA級に上がった。
さらに持ちうる知識を提供するならS級の地位もという話もあっ
たそうだ。
だが、彼女はそれを辞退した。
﹁もう一度言うけど、
私はこの世界を良くしてやろうとか、
この世界で成り上がってやろうなんて、
これっぽっちも思っていないのよ﹂
2239
ゆえに、自分に必要な物しか作らないし、提供もしない。
彼女はそう宣言した。
俺としては少々不満だった。
世の中が便利になるのは、悪いことではないだろうに。
そんな俺の空気を感じ取ったのだろう。
ナナホシはため息を一つついて、こう述べた。
﹁あのね、私達はこの世界では異物なのよ。あまり歴史を大きく変
えるような事をすれば、世界に排除されるかもしれないわ﹂
﹁世界に排除? なんですかそれは﹂
﹁SFとか読んだことないの? 要するに、本来の自然な歴史に戻
そうとする力のことよ﹂
本来の自然な歴史に戻そうとする力。
そういえば、昔そんな漫画を読んだ記憶がある。
因果律とか言ってたか。
﹁⋮⋮そんなもの、本当にあるんですか?﹂
﹁わからないけど、注意はすべきだと思っているわ﹂
彼女はそう言った。
そういうものは、過去にタイムスリップした奴が気にするべきこ
とで、
俺たちのような異世界人はあまり気にしないでいいんじゃなかろ
うか。
⋮⋮まあいい。
誰がどう行動しようが自由だ。
2240
何も邪魔されない環境を作った彼女は、召喚についての研究を始
めた。
偽名を使ったのは、ナナホシの名前で寄ってくる奴らがいたから
だそうだ。
それにしても、サイレント・セブンスターとは。
もう少し捻ってもいいと思うが⋮⋮。
ああ、残り二人が聞いてわかるようにしてあるって事か⋮⋮。
てか、他にも二人いるのか?
ナナホシ以外の名前は聞いたこともないが⋮⋮。
−−−
召喚魔術の研究。
それには、まず魔法陣の基礎について習う必要があった。
この世界の召喚魔術は、基本的に魔法陣を利用して行われる。
攻撃や治癒といった動的な魔術を詠唱主体とするなら、
召喚や結界といった静的な魔術は魔法陣が主体なのだそうだ。
彼女は文献を読みあさり、魔法陣とはどういうものかを知った。
教師に聞くのではなく、本や過去の文献から、独力で知識を得た
らしい。
﹁この世界の人間は考え方が凝り固まっているわ。
生きる上では仕方がない事なのでしょうけれど、
今までにない事をやるのだから、人に教わってもできないもの﹂
そんな事をいうと、
人に教わってばかりいた俺はどうなるんだろうか。
2241
まあ、俺は今までに無い事をやろうとはしていないから、いいん
だが。
﹁それに、私達は魔力が無いでしょう?
だから、魔力があることを前提に話されても困るのよね﹂
﹁⋮⋮え?﹂
我ながら変な声が出た。
なに。
魔力が無い?
﹁どうしたの? 何かおかしいことを言った?﹂
﹁僕は魔力がありますよ。魔術だって使えますし。
先日も、この世界でトップクラスの魔力を持っているって言われ
ました﹂
俺がそう言うと、彼女は仮面を抑えた。
仮面のせいで表情がわからないが、感情に動きがあったのは見て
取れた。
﹁⋮⋮⋮⋮そう、転生だから、違うのかしらね。
私の魔力総量は⋮⋮ゼロだそうよ﹂
魔力総量ゼロ。
まったく魔術が使えないという事か。
﹁ちなみにこの世界では、ありとあらゆる物が魔力を持っているそ
うよ。そこらの死体でもね。私は魔法なんてない世界からきたから、
それも当然かと思っていたけど⋮⋮﹂
2242
そこらの死体でも、魔力を持っている。
そうなのか、初めて知ったな。
しかしそうなると、魔力が無いというのはかなりきつい事なので
はないだろうか。
﹁あと、そう、これもあなたに当てはまらないのかしら﹂
彼女はそう言うと、仮面を外す。
なつかしい、日本人の顔だ。
美少女、というほどではないが、平均よりすこしは上だろう。
とは思うが、俺もこの世界に来てから、綺麗な顔はたくさん見て
きた。
案外、ナナホシもクラスで一番とか二番とか、そういったレベル
の顔なのかもしれない。
﹁私ね、この世界にきて、5年になるんだけど、歳を取らないのよ﹂
不老。
五年。
彼女の年齢は16,7歳ぐらいか。
﹁それは羨ましいですね﹂
そう言うと、彼女は顔をしかめた。
ハッと笑い、仮面を戻す。
﹁⋮⋮⋮⋮まあ、知らない土地で老け衰えていくよりはマシでしょ
うね﹂
そういえば、人神の夢に出てくる俺も、老けていないな。
2243
生前のままだ。
異世界人ってのは、基本的に歳を取らないのだろうか。
﹁どういう原理かはわからないけど、ふざけたことよね﹂
﹁僕は普通に年をとってるんですが﹂
﹁⋮⋮そう。体の問題なのかしらね。また機会があったら調べまし
ょう。
何かの手がかりになるかもしれないわ﹂
ナナホシはそう言うと、手元の手帳に何かを書いていた。
気づいたことや、後で調べようと思った事を書いているのだろう
か。
思っただけで忘れてしまう事の多い俺も、真似するべきか。
﹁じゃあ、話を戻すわね﹂
彼女は魔法陣を習得した。
魔法陣というものは、魔力結晶を粉状にし、いくつかの決まった
材料を混ぜあわせて作った塗料で描くらしい。
塗料は付着すれば対象物に溶け込み、そう簡単には消えないのだ
とか。
塗料は魔力が流れるとその力を増幅させ、魔法陣の形に見合った
効力を発揮する。
基本的に、塗料は1回使っただけで蒸発してしまうらしい。
さらに、魔法によって使うべき塗料の材料も決まってくるそうだ。
一応、王級以上の大規模な魔術を使うためには特殊な塗料が必要
となるらしいが、
実際に用意するとなると国家予算並の金が必要なのだとか。
2244
﹁じゃあ、遺跡の転移魔法陣も1回で消えるってことですか?﹂
﹁あれはそういう塗料で書かれていないから、また別よ﹂
という事だそうだ。
塗料を使う魔法陣は、あくまで現在の基本。
魔法陣が全盛期だった時代には、もっと色んな形があったそうだ。
現在でもその方法は残っており、
例えば、石などに魔法陣を彫って直接魔力を流し込む、という方
法もあるらしい。
ナナホシは自分が使えないので、よく調べてはいないそうだが、
魔道具を作るときにはそうした技術を使うんだとか。
﹁ていうか、むしろ、そっちが基本なんじゃないんですか?﹂
﹁私には使えないんだから、どうでもいいわ﹂
なんと自分勝手な。
魔法陣は、形、塗料、魔力があれば、大抵の魔術を実現できる。
だが、一つ問題がある。
魔法陣の﹃形﹄は口伝で伝えられていたため、大半はすでに失わ
れてしまったそうだ。
今では魔法陣を新しく作り出せる者は存在しない。
遺跡の奥地にある壁画や、
古の王の宝物庫の奥深くにて忘れられたスクロール。
そういった物から書き写したりしなければ、新たな魔法陣は誕生
しない。
2245
が、ナナホシはそんな状況を覆した。
魔法陣の法則性について調べ。
大量の魔法陣を書き、実験を繰り返す事で、
いくつかの独自魔術の開発に成功したのだという。
凄い事だ。
ぜひとも、俺にも教えてもらいたい。
そう思った時、彼女は釘を刺すように言った。
﹁でも、私の調べたことは、おいそれとは話せないわね﹂
なんでや、と思ったが。
彼女はたたみかけるように言葉を続ける。
﹁取引をしましょう﹂
と。
ここからが本題であると言わんばかりに。
﹁私は魔力もないし、戦う術も持たない。多分、不老だけど不死じ
ゃないわ﹂
﹁ええ﹂
﹁私はこの世界が嫌いよ。現実味はないし、ご飯は美味しくないし。
倫理観はおかしいし、不便だし⋮⋮。
⋮⋮知ってると思うけど、この世界にはシャンプーもないのよ?
それに、元の世界には、残してきた人もいる。
だから帰りたい。
あなたはどう?﹂
2246
聞かれ、俺は即答する。
﹁僕はこの世界は好きです。こっちに知り合いも多いですし、帰り
たくありません﹂
﹁そう、元の世界に残してきた家族とかはいないの?﹂
﹁何の未練もありません﹂
生前のことは、思い出したくもない。
俺はこの世界でやっていくと決めた。
あれから十五年だ。
その間、色々な事があった。
良い事もあったし、嫌なこともあった。
けど、結構充実しているのだ。
いまさら帰れと言われても、全力で抵抗するだろう。
﹁そう、大往生だったのね﹂
ナナホシは勝手にそう納得した。
繰り返すが、彼女には俺があの時、割り込んだ人間だとは言って
いない。
死因は事故と言ったが、具体的な状況は伏せてある。
﹁私とあなたでは、目的が違う。
けど、互いに欲しいものを持っている。
だから、取引よ﹂
﹁俺が持っているものでナナホシさんが欲しいものがあるんですか
?﹂
﹁さっき、自分で言ったでしょ? トップクラスの魔力があるって﹂
魔力が欲しいのか。
2247
なるほど。
しかし、彼女の研究室には、大量の魔力結晶があったように見え
たが。
それでは足りないということなのだろうか。
﹁あなたには、私の実験を手伝ってもらう。
そして、あなたが知りたいことを、私が教える。
知らない事なら、調べるわ。
私は顔が広いし、調べ物には自信があるのよ。
他にも、何かあったら手伝うわ﹂
﹁ようするに、ギブアンドテイクの関係になりましょう、って事で
すか?﹂
﹁そうよ。理解が早くていいわね﹂
彼女は賢いようだし、俺が手伝わなくてもいいんじゃないか。
そう思う所だが。
しかし、やはり同じ世界の出身となると、思う所があるのかもし
れない。
同じ地球人は頼もしいとか言ってたしな。
﹁わかりました、では協力しましょう﹂
﹁そう、ありがとう。その言葉を聞けて助かるわ。
先に言っておくけど、後になってやっぱりヤメた、とかは無しよ﹂
﹁男に二言はありません﹂
﹁⋮⋮日本の言葉を聞くとなんだか感動するわね﹂
﹁こっちだと、誰もネタがわかりませんからね﹂
ナナホシは、さて、と言って、椅子に座り直した。
ポケットから指輪を取り出し、それを身につける。
3つもだ。
2248
何のまねだろうか。
コホンと一つ、咳払いをする。
﹁じゃあ、さしあたって、何か知りたい事はある?
転移事件について調べていると聞いたのだけど﹂
﹁えっと、誰から聞いたんですか?﹂
ちらりと目線を送ると、俺たちの会話に混じれず、ちょっとムッ
としているフィッツ先輩。
なるほど、俺が気絶している間に、彼と少し話をしたのか。
﹃えっと、何? どうしたの?﹄
いきなり視線を向けられて、彼は不安そうに首をかしげる。
﹃これから、例の事件について話を伺います。
ナナホシさん、ここからは人間語でお願いします﹄
﹃わかったわ﹄
フィッツ先輩が俺の隣に座る。
ナナホシに向き直る。
ここからは日本語ではなく、人間語だ。
﹁例の事件の仕組みについてはわからないわ。
けど、五年前、ちょうど私がこの世界に来た時と合致するわね﹂
ナナホシはやや言いにくそうにしていた。
五年前、アスラ王国。
この時点で、いくら鈍い俺でも、予想はついている。
そして彼女も、俺が別の場所に転移させられた事を、フィッツ先
2249
輩から聞いたのだろう。
﹁つまり?﹂
﹁おそらくあの事件は、私がこの世界にきた時の反動で起こったも
のね。つまり⋮⋮﹂
ナナホシはそこで一旦、言葉を切った。
そして、言った。
﹁つまり、私が原因という事になるのかしらね﹂
やはりか。
半ば予想していた答えだった。
召喚と転移がよく似ている事。
そして、ナナホシが召喚された事。
いくら俺がバカでも、これだけ条件が揃えば、わかる。
むしろ、俺が原因じゃなくてほっとしているぐらいだ。
が、フィッツ先輩はそうではなかった。
﹁おまえがあぁぁぁ!﹂
普段聞いたことのないような大声で叫ぶと、ナナホシに向かって
手を振り上げた。
﹁⋮⋮そっちっ!?﹂
ナナホシが指輪をつけた手を上げる。
指輪が光る。
フィッツ先輩の魔術が発動しない。
2250
なんだあの指輪。
﹁ボクが、ボクたちがどれだけあの災害で!
お父さんも、お母さんも⋮⋮!
お前のせいかぁ!﹂
魔術が出ないと分かった瞬間、フィッツ先輩はナナホシに飛びか
かった。
しかし、2つ目の指輪が光ると、その拳が中空でガツンと何かに
ぶち当たる。
あの指輪、魔道具か。
﹁ちょっと、ルーデウス・グレイラット、みてないで助けなさいよ
!﹂
ナナホシの焦る声。
フーフーと息をはき、なおも拳を叩きつけようとするフィッツ先
輩。
彼の手を掴む。
﹁フィッツ先輩、落ち着いてください﹂
﹁これが、落ち着いていられるか!
こいつが原因だって、今自分で言ったんだよ!
どうしてそんな冷静でいられるんだよ!
君だって、君だって大変だったじゃないか!﹂
フィッツ先輩は、普段見たことがないほど興奮していた。
普段は吹っ切ったような態度だが、
やはり転移事件において大切な人を失っていたのだ。
五年経ってある程度は割り切ったとはいえ、
2251
引き起こした張本人を目の前にして、冷静でいられるはずもない。
しかし、俺が聞いた話によると、
あの事件を引き起こしたのはナナホシではない。
俺は生前、彼女が転移したと思われる瞬間に居合わせている。
つまり、彼女もまた、巻き込まれただけと言える。
あ、そうか。
その辺の話をしたのは日本語だった。
つまり、フィッツ先輩は聞いていないのだ。
勘違いしてもおかしくない。
﹁すいません。説明が足りませんでしたね。
彼女も、自分できたくてきたわけじゃないそうです。
つまり、被害者なんです﹂
﹁被害者⋮⋮そ、そうなの?﹂
フィッツ先輩はまだ肩で息をしていた。
だが、俺の言葉を信じたのか、大きく息をはくと、椅子に座った。
﹁ごめんなさい。ちょっと配慮に欠ける言い方だったわね。謝罪す
るわ﹂
﹁いや、いいよ、ボクの方こそ、いきなりごめん﹂
ナナホシは、俺が逆上して襲い掛かってくる可能性もあると考え
て指輪をつけたのだろうか。
意外としたたかだな。
ていうか、便利そうな指輪だな。
自衛手段なんだろうか。
俺もひとつ欲しい。
2252
﹁とにかく、例の事件については、私もよくわかっていないわ。
あの事件によって私が召喚されたわけだけど、
誰が、どんな目的で、そしてどうしてあんな災害になったのか。
そのへんは、誰もわかっていないのよ﹂
﹁オルステッド⋮⋮さん、は何も言ってなかったんですか?﹂
﹁ええ、こんな事は初めてだ、としか言ってなかったわね﹂
そうか、わからないか。
まあ、神と名の付く連中がわからないのなら、そう簡単には解明
しないだろう。
人神は、オルステッドが引き起こした、とか言ってたような気も
するが⋮⋮。
まあ、オルステッドは嫌われる呪いが発動しているようだし、人
神もその呪いでオルステッドを嫌っている。
オルステッドも個人的な恨みがあるようだし、あの二人の仲は悪
いのだ。
案外、人神も先入観で言ったのかもしれない。
ナナホシの話を全面的に信用するなら、オルステッドが引き起こ
したとは到底思えないしな。
召喚したのに、帰ろうとするのを全面的に支援するとか、意味わ
からん。
﹁じゃあ、なんで自分が原因なんて言ったんですか?﹂
﹁後になってから、あーだこーだ言われたら嫌でしょう。
だから先に言っておいたのよ。恐らく私が原因だって﹂
﹁なるほど﹂
隠すより、先に言っておくか。
2253
そして、実は違うんだと訂正する。
後から知られるより怒りは収まりやすそうだな。
ちょっと耳が痛い。
もっとも、ナナホシかオルステッドが嘘を付いている可能性も考
慮には入れておくか。
﹁でも、そうですか、まったくわかりませんか﹂
﹁わからないわね。けど、研究の目処は立っているわ﹂
﹁研究が進めば、転移事件の真相もわかると?﹂
﹁少なくとも、理論的には説明が付けられるはずよ﹂
わかるとは断言しないか。
むしろ信用できるな。
﹁そのためには大量の魔力が必要なのよ﹂
﹁なるほど、僕の存在は渡りに船だったというわけですか﹂
﹁渡りに船⋮⋮ふふ、そうね、その通りだわ﹂
俺たちの会話に、フィッツ先輩が不機嫌そうにしていた。
彼はまだ、ナナホシを疑っているのだろうか。
まあ、あとでゆっくり説明しておくとしよう。
それにしても、まさかあの温厚なフィッツ先輩があそこまで取り
乱すとは。
知り合いの一人は見つかったと言っていたが⋮⋮そうか、父親も
母親も死んでしまっていたのか⋮⋮。
少し、落ち着いてから話した方がいいか。
﹁わかりました。ナナホシさん。
2254
今日の所は僕も整理しきれていないので、後日、また改めて伺い
ます。
具体的な手伝いの内容は、その時にでも﹂
﹁わかったわ。それじゃ﹂
最後に短く言葉を交わし、俺はフィッツ先輩を連れて、その場を
離れた。
−−−
フィッツ先輩に一からナナホシの事情を話してあげたら、少し落
ち着いていた。
無理矢理この世界に連れてこられて、帰ろうと必死になっている。
そう教えると、フィッツ先輩も怒りを収めたようだ。
しかし、最後に一言、こう聞いてきた。
﹁それで、ルーデウス君は、彼女のこと、どう思う?﹂
どう思うか。
これは、決して顔の事ではないだろう。
信用するのか、しないのかという話だ。
転生してきた俺にとっては、彼女の話はすんなり飲み込める。
だが、この世界で生まれ育ってきたフィッツ先輩には、にわかに
は信じられない話なのかもしれない。
しかし、ナナホシの口調からは、どうにもこの世界の事をどうで
もいいと考えている感じがした。
まるで、早く用事を終わらせて家に帰りたい、とでも言わんばか
2255
りの。
彼女は俺と違い、この世界に来てからも成功続きだったようだし。
色々と軽く考えているフシがあるのかもしれない。
苦労自慢をするわけではないが⋮⋮。
少々、気に食わないな。
﹁正直、気に食わない部分はありますが、一応は信用します﹂
﹁⋮⋮そう、気に食わないんだ⋮⋮うん、ならいいんだ﹂
フィッツ先輩は、苦笑していた。
もしここで、ナナホシを全面的に信用するように言えば﹁もっと
警戒すべきだよ﹂とでも忠告をくれたのだろうか。
こちらから押しかけて行って騙すも何もないと思うのだが⋮⋮。
まあ、それだけ突拍子もない話だしな。
あっさり信じた俺が心配になるのはわからないでもない。
﹁心配してくれたんですね先輩、ありがとうございます﹂
﹁えっ!? い、いや、し、心配ってわけじゃ、ないよ、うん⋮⋮
ど、どういたしまして﹂
しどろもどろになるフィッツ先輩。
ほっこりした。
−−−
ともあれ、こうして俺とナナホシは協力体制を結んだ。
聞きたいことはまだまだあるが、焦ることはない。
2256
少しずつ聞いていけばいいのだ。
2257
第八十話﹁魔法大学での一日﹂
魔法大学に入り、もうすぐ一年が経過する。
俺は16歳になっていた。
この世界には5歳、10歳、15歳以外で祝う習慣は無いので、
俺も自分の誕生日がいつだったか、さっぱり思い出せなくなって
いる。
冒険者カードを毎日見ていればわかるのだろうが、毎日眺めるよ
うなものでもないしな。
ま、年齢なんざどうでもいい。
−−−
ナナホシに会ってから、一日の流れに変化が起きた。
まず、朝起きてトレーニング。
ここは大体いつもと一緒だ。
だが、剣の素振りをしていると、たまにバーディガーディが現れ
る。
彼は、大抵は黙ってみているだけだ。
別に稽古を付けてくれるというわけでもなく、
アドバイスをくれるというわけでもなく、
2258
六本の腕を組んだり腰に当てたりしながら、うんうんと頷いてい
るだけだ。
何を納得しているのだろうか。
彼は特に何も言わない。
口を開けば早朝から大声で笑いだして近所迷惑なので、俺も聞か
ない。
彼とはどう接していいのかわからない。
気のいい人物ではあるが、何考えてるかもわからない。
一応は魔王だし、機嫌を損ねたらまずい気がする。
しかし、ある日、バーディガーディは口を開いた。
﹁ふむ、興味深い訓練だが、何か意味があるのか?﹂
何か意味があるのか、と。
少しばかり心にグサリと来る。
﹁無駄な事はないはずです﹂
と反論すれば。
﹁貴様は無駄に魔力が多い、ならば闘気をまとわず訓練した所で意
味はないだろう﹂
と、返ってくる。
闘気。
闘気だ。
思えば、この闘気という単語はちょくちょく聞いた。
2259
しかし、どうやって纏うか、という点に関しては曖昧だ。
いい機会だ。聞いてみるとしよう。
﹁闘気とはなんですか?﹂
﹁闘気とはすなわち魔力である!﹂
バーディガーディ曰く。
闘気とは、体内の魔力を使い、身体能力を爆発的に上昇させる技
術、だそうだ。
要するに身体強化。
このへんは俺の予想通り。
﹁どうやって纏うのですか?﹂
﹁体を作る肉片の一つ一つを魔力で覆い、押し固めよ!﹂
﹁おお﹂
素晴らしいアドバイスをもらった。
これが魔王の叡智というやつか。
これで俺も強くなれる。
一歩上の存在になれる。
というわけで、ドラゴ○ボールのように魔力を放出してみたり、
念○力のように体の周囲で揺らいでいる感じを意識してみたりと、
あれこれやってみたが、しかし俺の身体能力には差異はなかった。
強くなれる気がしただけだった。
﹁貴様はあれだな! 才能がないな!﹂
できない理由をズバッと解説。
普通、闘気というものは、体を鍛えれば自然とその纏い方がわか
ってくるのだそうだ。
2260
俺もそこそこトレーニングは積んでいるつもりだが、
しかし未だに闘気を纏えない。
ゆえに、才能がない。
たまにそういう奴もいるらしい。
どれだけ鍛えても闘気を纏えない奴が。
﹁フハハハハ! しかし貴様には必要なかろう!
かのラプラスも、闘気なんぞまとっておらなんだが、強かったぞ
!﹂
バーディガーディは俺を比較して、よくラプラスの名前を出す。
莫大な魔力持ち、という事で共通点があるからだろうか。
﹁バーディ様はラプラスと会ったことがあるのですか?﹂
﹁うむ、一撃で体のほとんどを消滅させられ、復活にかなりの時間
を要した!
あの時は死ぬかと思ったな! フハハハハ!﹂
自慢気に言うことなのだろうか。
まあ、凄い相手と戦って生きていた、というだけでも十分自慢に
なるのだろう。
バーディガーディ曰く。
ラプラスは謎が多い胡散臭い男だが、魔力の使い方だけはうまか
ったのだそうだ。
﹁僕もラプラスみたいな戦い方をすれば強くなれますかね﹂
﹁やめておけ、奴のような魔力の使い方をすれば、貴様の体は数瞬
で砕け散るであろう。
そもそも、人族の身でその魔力を持ち得ている事自体が異常なの
2261
だからな!﹂
強大な魔力は身を滅ぼす。
俺もその事についてはなんとなくわかる。
魔力を込めるという作業は、腕を限界まで伸ばす作業だ。
逆に曲がるまで伸ばせば、当然ながら腕が折れる。
ラプラスとやらは、膨大な魔力に見合った肉体と技術を持ってい
た。
俺は肉体も技術も持っていない。
人族の体では、いくら鍛えてもラプラスのようにはなれない。
ということだそうだ。
﹁第一、強くなってどうするというのだ﹂
﹁どう、と言われましても﹂
一度死にかければ、次を避けようと思うのは、当然の事だろうに。
﹁我輩は強さと名声を追い求めすぎた男を何人か知っておるが、ロ
クなものではなかったぞ。
我輩の甥など、鼻っ柱ばかり強くてな。
今は丸くなったが、死にかけるまで世界最強の英雄になりたいな
どと宣っておったぞ。
そんなものより、大切なものはいくらでもあるのになぁ﹂
﹁大切なもの? たとえば﹂
﹁例えば女であるな! 貴様も一人見つければわかろうものだ! フハハハ!﹂
と、バーディはしたり顔で言ったのである。
生前の漫画なんかでも、強さばかりを追い求める奴にはロクなの
2262
がいなかったな。
俺も別にそこまで強さを追い求めるつもりもない。
この世界でも強い奴はでかい顔を出来るが、力こそが正義という
わけではないしな。
強さを追い求めるより女を追い求める。
その享楽的な思考の方が理解できる。
しかし、病のせいで女に対してガツガツいけない俺はどうすりゃ
いいんだ。
﹁魔王さま﹂
﹁なんだ﹂
﹁不能の治し方って知りませんか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮知らぬ﹂
俺にとっては、魔王の叡智はあまり役に立たないようだ。
−−−
朝食を取り、授業へと赴く。
最近、午前中は解毒魔術について学んでいる。
中級の解毒魔術だ。
解毒魔術というのは、初級でほとんどの症状に対応している。
だが特定の病気や、ランクの高い魔物が使ってくる毒、病状が進
行した状態に関しては、ピンポイントの詠唱と膨大な魔力が必要に
なる。
中級以上の解毒魔術では、そうしたピンポイントの術を学んでい
2263
く。
その詠唱がまた長い。
中級の時点で攻撃魔術の数倍はある。
詠唱というものは、昔の偉い人が長かったのを短くしたという話
だそうだが、
中級以上の解毒魔術にはそれが適用されていないのだろう。
種類も多い。
中級で50以上の詠唱を覚えなければいけない。
中には、毒を作り出す魔術も存在している。
毒は薬にもなる、とはよく言ったものだ。
上級は100以上。
ここまでくると、わりと半端ない暗記力が必要となってくる。
聖級以上になると暗記する必要性もどんどん減っていくのだが、
代わりに消費魔力が上がる。
また、王級以上は各国で研究され、秘匿されていたりする。
治癒魔術の効かない毒を作って他国を脅かし、それを直す術式を
作る。
どこの世界もウィルスとワクチンはイタチごっこというわけだ。
ちなみに神級の解毒魔術は、ある奇病を直す魔術だそうだ。
確か、魔石病とか言ったか。
体内の魔力が次第に魔石と化していく病気だそうだ。
歴代では、ただ一人しか使えなかったと言う。
その詠唱呪文に関しては、ミリシオンの大聖堂に大切に保管され
ているらしい。
ちなみに、中級、上級、聖級と、ランクが上がるにつれて詠唱が
2264
長くなる。
王級ともなれば本を一冊読むレベルではないのだろうか。
いくらこの体の暗記力が高いとはいえ、さすがに全てを暗記しき
るのは時間が掛かりそうだ。
お経を暗記しなければならないとは、どこの世界も僧侶は大変だ。
まあ、俺だったら詠唱術を書いた本を持ち歩くがね。
もしかすると、解毒魔術を習得すれば、俺の病も直せるのかもし
れない。
そう考えて取った授業であったが、教師に聞いた所、少なくとも
上級までのレベルでEDを治す術は存在しないようだ。
当然か。
これも精神的なものだしな。
−−−
昼食。
今まで外で食べてきたが、そろそろ寒くなってきた。
なので建物を作ることにした。
土魔術を使って、テーブルを屋根と壁で囲む。
テーブルの真ん中に穴を開け、そこに火を燃やす。
天井に空気穴を開ければ、あっという間にカマクラの出来上がり
だ。
火で熱せられた石のテーブルはかなり暖かい。
と、そこまでやったら、ジーナス教頭がやってきて怒られた。
外に建物を作るぐらいなら中で食べろだと。
2265
仕方ないので1階で食べることにした。
ザノバが嫌がるかと思ったが、意外にも何も言わなかった。
﹁3階だとジュリが席につけませんからな﹂
3階だと、奴隷の身分の者に椅子は無いらしい。
もちろんローカルルールだ。
ザノバはジュリを奴隷扱いしていない。
あくまで、自分の弟弟子、生徒として扱っている。
とはいえ、立場は自分より下なようで、あれこれと顎で使ってい
る場面も見る。
奴隷の扱いは千差万別だ。
ザノバの扱い方がいいのか悪いのか、俺にはわからん。
だが、あからさまに奴隷扱いするよりは、気分は悪くない。
食堂内に入ると、なぜか人混みが割れた。
﹁お、おい、ルーデウスだぜ⋮⋮﹂
﹁すげぇよな、たった1年で特別生全員をシメちまうなんて﹂
﹁俺、魔王倒す所みてたんだぜ、一撃だよ一撃⋮⋮﹂
ゴニョゴニョと噂をされている。
全員をシメた覚えなど無いし、魔王は一撃当てて三発で殴り倒さ
れたのだが。
しかし気分は悪くない。
あまり調子に乗らないようにはしたい所だが⋮⋮。
2266
割れた人混みは、一番奥にあるテーブルへと続いている。
﹁フハハハハ! さすがの貴様も寒いのは苦手か﹂
なぜかそこにはバーディガーディが座り、学食のメニューにはな
いはずのアルコールをガバガバと飲んでいた。
肌が黒から赤黒い色へと変色している。
酔っているんだろうか。
奴の筋肉は謎肉だ。
周囲の学生たちは、はやく座れよという感じで遠巻きに見ている。
飯を食うときは常にここを使えという事なのだろうか。
まあ、それならそれで問題は無いが。
ちなみに、2階にはエリナリーゼとクリフがいる。
一度だけその光景を見てみたことがあるが、まさにバカップルだ。
あーんして食べさせあったり、人目を気にせずキスをしたり。
見てると虚しくなるので、なるべく近寄りたくない。
﹁ますた、まおー様の飲んでるの、とても美味しそう﹂
﹁フハハハハ! さすが炭鉱族であるな!
一目みただけでこの酒の良さがわかるとは!
そうとも、これは頭に毛玉を乗せた男が隠し持っていた逸品よ!﹂
ジュリはザノバの裾を引っ張りながら、そんな事を言い出した。
頭に毛玉とはゲオルグ校長の事だろうか。
ドワーフ
炭鉱族は酒好きだと聞くが、やはりジュリもそうなのだろうか。
しかし、いくらなんでも若すぎるだろう。
2267
と、思ったのは俺だけだったようだ。
﹁ふむ、魔王様、一つ頂いてもよろしいですか?﹂
﹁無論である。酒は一人で飲んでいてもつまらんからな! フハハ
ハハ!﹂
ザノバが聞き、ジュリはコップを受け取ると、クピクピと飲んで
いた。
大丈夫なんだろうか。
さすがに幼すぎやしないだろうか。
あとで解毒でなんとかすればいいといえばその通りだが。
まあ、俺もこの世界では七歳の時にちょびっと飲んでたし、人の
ことは言えないな。
﹁さて、では余も一杯﹂
﹁お前は授業あるからやめとけよ﹂
﹁師匠がそう言うのでしたら、バーディ様、申し訳ありませんが﹂
﹁フハハハハ! 自由に酒も飲めんとは、学生とは大変であるな!﹂
なんて会話をしつつ、その日の昼食を終えた。
俺? 飲んでないよ。
−−−
昼食を終えると、また授業だ。
治癒魔術の上級を習う。
五年の教室だ。
2268
意外な事に、ここでプルセナと同じ教室となった。
何が意外かというと、プルセナがピンなのだ。
リニアは別の授業を取っているのだ。
プルセナは主に治癒魔術方面を、リニアは攻撃魔術方面を取って
いるらしい。
普段から不真面目そうなプルセナ。
しかし、授業は干し肉をかじりながらだが、真面目に受けている。
もっとも、特別生かつ元不良ということで恐れられ、最近はボッ
チ気味。
実技の授業の時も二人組を作れなくて困っていたらしい。
なので、俺の存在を結構ありがたがっていた。
﹁ボスになら、私の大切なものを上げてもいいの﹂
と、食べかけの干し肉をくれたぐらいだ。
俺はありがたくそいつを頂戴し、ペロペロとよく舐めてから味わ
った。
プルセナは凄い嫌そうな顔していた。
自分で上げたくせに⋮⋮。
リニアはというと、最近、俺に攻撃魔術についてあれこれと聞い
てくる。
主に混合魔術のことがわからないんだそうだ。
攻撃魔術師が詰まるのは大抵の場合、混合魔術なのだそうだ。
シルフィはあまり詰まっていた印象は無いのだが、これも大人と
2269
子供の頭の柔らかさの違いかね。
今日は水と火の混合魔術について。
懐かしいことだ。
蒸発と凝固、融解といった相転移について﹃雨のメカニズム﹄で
説明する。
が、リニアは首をかしげていた。
海の水が蒸発して雲になり、雲の中で雨粒が成長し、やがて落ち
てくる。
という事を理解できれば、ある程度の応用は効くのだが、
﹁海がぜんぶ雨になったら海がなくなっちゃうじゃニャいか﹂と、
疑問を持たれる。
﹁雨になったら今度は海に流れ込むので総量は一緒です﹂そう教え
れば、
﹁嘘ニャ、だって大森林の水は地面に染みこむんだからニャ﹂と、
ドヤ顔で返される。
そこから﹁地面に染み込んだ水は木によって吸い上げられるか、
あるいは地下水になり⋮⋮﹂。
と、順番に説明していったが首をかしげていた。
とはいえ、ギレーヌほど理解力が無いわけではないので、そのう
ち理解するだろう。
サンドストーム
ダストストーム
攻撃魔術と言えば、土属性の聖級魔術を習得した。
﹃砂嵐﹄。
上級魔術﹃砂塵嵐﹄の上位互換だ。
字面にすると大した事がないが、実際に使ってみると、凄まじい
量の強風と砂が辺り一帯を覆う。
2270
視界は塞がれ、息をするのも困難となる。
キュムロニンバス
効果時間が終わっても、広範囲に渡って崩れやすい砂が残る。
サンドストーム
水聖級の﹃豪雷積層雲﹄が雨と暴風の魔術であるなら、
﹃砂嵐﹄は砂と暴風の魔術だ。
聖級は天候に作用するものが多いのだろう。
教えてくれた教師には、﹁作物などに被害が出るから町中では使
わないように﹂と言われた。
聖級を教えるときには、そう言っておくのがしきたりなのだろう
か。
ともあれ、これで俺も土聖級魔術師というわけだ。
どっせーい。
なんちゃって。
他の2つに関しても、暇があったら教師を見つけて習ってみると
しよう。
ちなみに、その土聖級の教師は﹁君が聖級を知らないとは思わな
かったよ﹂なんて言われた。
バーディガーディ曰く、俺の無詠唱魔術による攻撃はすでに王級
の域に達しているそうだし、すでに聖級ぐらいは覚えていて当然ぐ
らいに思っていたらしい。
かの魔王様は、自分に放った岩砲弾は帝級並の威力があると教え
てくれた。
ピンポイントであれだけの破壊力を持つ魔術は、
ラプラスが使う以外では他に見たことがないそうだ。
2271
じゃあ土帝級を名乗ってもいいのかと聞いたら、名乗るのは勝手
だと言われた。
何か含みがある言い方だったので、やめておくことにする。
理由もなく俺は凄いんだぜと喧伝してもロクなことはないだろう
しな。
−−−
昼下がりになる頃には、ナナホシの研究室へと向かう。
彼女の研究室は広い。
入ってすぐは、モノがごちゃごちゃとおいてある物置のような印
象を受ける。
物置のような部屋から隣の部屋へ。
そこは耐魔レンガで覆われた実験室となっている。
さらにそこから隣の教室に行けば、ナナホシの寝室だ。
寝室の一角が食料倉庫のようになっているらしい。
食べ物と一緒に寝ていてネズミとかゴキブリとか出ないんだろう
か。
ざっと部屋の状況を聞いて分かったが、彼女には引きこもりにな
る才能がある。
俺が言うんだから間違いない。
ちなみに、寝室への出入りは禁止された。
基本的に行うのは、召喚魔術に関する実験だ。
2272
実験室で、彼女が独自に描いた魔法陣に魔力を注ぐ。
それだけの作業だが、量が多い。
﹁恐らく失敗すると思われる魔法陣﹂へのアプローチも行なって
いるからだ。
いくら金が余っているとは言っても、魔力結晶が常に仕入れられ
るわけでもなく、
また、魔力結晶の市場の量にも限りがあり、買い占めを行えば各
所から恨みを買う。
という事で、二の足を踏んでいた実験だそうだ。
ただひたすら魔法陣に魔力を注ぐだけ。
大抵は何も出てこない。塗料が消え、下書きだけが残る。
が、たまに割りとハンパない量の魔力がギュンギュンと吸い取ら
れ、変なものがちょろっと出てくる。
汚れた黒い羽とか、虫の足とかな。
成功したのかと聞くと、もちろん失敗だと返される。
しかし、何をしているのかわからないとなると、少々ストレスが
溜まるな。
﹁ていうか、一体、何の実験をしているんですか?﹂
﹁私達の世界から人間を召喚するための⋮⋮前の前の前の前段階の
理論のための実験ね﹂
人間を召喚する魔法陣が完成すれば、逆に送り返す魔法陣も作れ
る⋮⋮かもしれないんだそうだ。
とはいえ、前の前の前の前か。
まだまだ先は長そうだな。
しかし、それはいいとして。
2273
﹁人間を召喚って、同じ事をしたら、またあの災害が起きるんじゃ
ないですか?﹂
﹁もちろん、災害を引き起こすつもりはないわ。けど、このあと二
つの理論が実証できれば、あの災害が起きた理由の仮説が立てられ
るわ﹂
という事だそうだ。
﹁実験に失敗はつきもの、なんて言葉もありますので、あまり軽く
考えないでくださいよ。あの災害では、結構な死人が出てるんです
から﹂
﹁それを言うなら﹃人生に﹄よ。言われなくてもわかってるわよ。
だから、こうして足場固めからやってるんでしょう﹂
足場固めなのか、これは。
よくわからんな。
これは、俺も召喚術を学んだ方がいいのかもしれない。
﹁僕も召喚魔術について学びたいのですが﹂
﹁召喚術は私の生命線よ。おいそれとは教えられないわ﹂
﹁なんでも教えてくれるって言ったじゃないですか﹂
そう言うと、ナナホシはチッと舌打ちした。
﹁今の実験が終わったら、一つ、質問に答えてあげるわ﹂
﹁一つ? 割に合わないんじゃないですかね﹂
﹁全ての実験が終わって私が帰る時には、実験成果とか情報とかコ
ネは全部まとめてあなたに上げるんだから、今は少し我慢しなさい
よ﹂
2274
ナナホシはイライラしていた。
まあ、まだ何も成果が出てないうちからのクレクレはみっともな
いか。
などと思っていたら、一冊の本を渡された。
﹃シグの召喚術﹄と書かれた本だ。
﹁そんなに知りたければ、自分で調べなさい﹂
どこかで見たことがあるが、読んだ記憶がない。
ありがたく読ませてもらうとしよう。
実験は、今のところ、そんな感じだ。
ナナホシは何千万通りもの魔法陣のパターンから、総当りで法則
性を見つけようとしているらしい。
気が長い作業だ。
−−−
図書館に行くことはなくなった。
だが、フィッツ先輩はたまに実験に付いてくる。
彼を見ていると、俺がやっている作業が過酷であることがわかる。
なにせ、彼はスクロールを20枚ぐらい励起させただけで魔力切
れを起こすのだから。
﹁ルーデウス君、これ、一枚で上級魔術と同じぐらい、消費するよ﹂
2275
とは、フィッツ先輩の言である。
フィッツ先輩は無詠唱魔術の使い手であるが、しかし魔力総量は
それほど多くはないらしい。
いや、一般的なレベルから見ればかなり多い方らしいが、やはり
俺が規格外という事か。
誰か数字で表してほしいものである。
しかし、実力者であるフィッツ先輩ですらこれだ。
ナナホシがどういう魔法陣を描いているのかわからないが、
召喚魔術というのは、それほど魔力をバカ食いするものなのだろ
うか。
攻撃魔術と違って戦闘中に何発も撃つものではないし、多少多く
てもおかしくはない。
しかし、明らかに失敗しているスクロールですら、フィッツ先輩
が魔力切れを起こすのだ。
いや、異世界からの召喚だからこそ、それほどまでに魔力を消費
する、という事なのかもしれない。
﹁ごめん、ボクは護衛の事もあるから、これを手伝うことはできな
いよ⋮⋮何かあった時に魔力を残しておかないと⋮⋮﹂
﹁仕方ありませんね﹂
フィッツ先輩は最近暗い。
ちょっと傷ついているらしい。
魔術に関しては、少々プライドがあったのだろう。
誰にだってプライドはある。
﹁⋮⋮﹂
ナナホシはフィッツ先輩に話しかける事はない。
2276
フィッツ先輩も、ナナホシを少々苦手に思っているらしい。
﹁ボク⋮⋮役立たずだよね﹂
寂しそうに言うフィッツ先輩だったが、俺は首を振った。
﹁そんな事はありません﹂
﹁そうかな?﹂
﹁ええ、フィッツ先輩がいてくれると、心強いので﹂
この一年間、俺はフィッツ先輩にはかなりお世話になった。
いまさら、役立たずだからさようならなんて言いたくはない。
フィッツ先輩がどうしても無理だというのなら、引き止めはしな
いが、
しかし、力不足で身を引く、というのなら﹁待った﹂をかけたい。
﹁時間がある時でいいので、来てください。今まで一緒に調べてき
た仲じゃないですか。一緒に真相に迫りましょう﹂
﹁⋮⋮そっか、ありがとう﹂
フィッツ先輩は、そうやってはにかんで笑う。
俺はどうにも、この笑顔に弱い。
フィッツ先輩、今は13歳ぐらいだと思うけど、
もうあと数年もすれば、女泣かせの美男子になるんだろうな。
いやまぁ、なんていうか。
正直最近、フィッツ先輩が女にしか見えないんだけど。
俺の目はおかしいんだろうか。
もしかして、俺はそっちの道に目覚めてしまったのだろうか。
2277
−−−
日が落ちたらフィッツ先輩と共に寮へと戻る。
女子寮の前でお別れだ。
﹁あ、そうだルーデウス君﹂
﹁なんですか?﹂
﹁君、もうこの道を通っても大丈夫だと思うよ?﹂
フィッツ先輩はそう言って、目の前にある道を示した。
この学校に入ってすぐ、下着ドロ冤罪をつきつけられたあの道だ。
俺はあの日以来、この道には近づいていない。
﹁またまたそんな事言って、ここ歩いたらキャーって叫ばれるんで
しょう?﹂
﹁んふふ、君、女子寮だと、結構人気になってるんだよ﹂
﹁え? マジすか。テニサーでモテモテの王子様すか?﹂
﹁テニ⋮⋮?﹂
フィッツ先輩はきょとんとした顔をしていた。
﹁えっとね、悪い奴は懲らしめるけど、普通の生徒には手を出さな
い紳士だって。
だって、獣族の戦士をみんなやっつけた魔王を一撃で倒せるぐら
い強いのに、
あんなに囲まれて恫喝されても、何もやり返さなかったって﹂
嘘つけぇ。
2278
この間、噂されてたんだぞ。
ちゃんと聞いてんだぞ。
人気とかねーわ。
マジねーわ。
﹁ふふ、最初は怖がられてたんだけど、
リニアとプルセナがね、そう言って回ってたんだよ。
ボスは寛大な紳士だから弱い者には手を出さないニャ、って﹂
フィッツ先輩はそう言って、耳の当たりにちょんと手を載せて、
リニアの真似をした。
なんていうか。
ああ。
可愛い。
腰の上あたりまで何かが降りてきそうだ。
﹁そしたら、皆もようやくルーデウス君の魅力に気付いたみたいで
ね。
ちょっと格好は貧乏臭いけど、よく見ると顔は悪くないし、
影のある部分もステキだし、強いのに自分勝手じゃないのもいい
よねって﹂
ほほう。
あの二人、中々いい事をしてくれるな。
話からすると不能については黙ってくれているようだし。
プルセナには高い肉でもおごってやろう。
リニアは何が好きなんだろうか。地位とか名誉とか現金だろうか。
﹁まだ怖がってる人もいるけどね、ゴリアーデさんとか﹂
﹁あー、彼女は仕方がないでしょう。先頭に立ってたわけですし。
2279
この間もちょっと絡んだみたいになってしまいましてね﹂
﹁そうなんだ。リニアとプルセナもね、ゴリアーデさんを見かける
度に、あの日の事で絡みに行くんだよ﹂
絡みに行く。
という言葉で、俺は先日の、怯えたゴリラの様子を思い出した。
イジメの現場だ。
﹁フィッツ先輩は止めないんですか?﹂
﹁止めないよ。だって、あれはゴリアーデさんが悪かったもん、一
方的にルーデウス君の事を悪いって決めつけてさ。いい薬だよ﹂
フィッツ先輩もなかなかえぐいな。
しかし、イジメはよくない。
﹁彼女も悪気があったわけじゃないから、あんまり追い込まないで
あげてください⋮⋮。リニアとプルセナにもそう伝えておいてくれ
ませんか﹂
少々声音が硬くなってしまった。
フィッツ先輩が慌てたように掌を向けてきた。
﹁あ、違うよ。別に追い込んでるわけじゃないんだ。なんていうか
和気あいあいというか、ゴリアーデさんも﹃もー、いい加減勘弁し
てくださいよー﹄みたいな感じというかね﹂
ゴリアーデさん、あんなナリして弄られキャラなのだろうか。
イジメと弄られは、紙一重だから、そこんとこ気をつけんと危な
い。
2280
﹁そうですか、じゃれ合いの範囲ならいいんですが⋮⋮とにかく僕
はもう気にしてませんので、あんまりやり過ぎないようにフィッツ
先輩の方で見ておいて上げてください﹂
﹁ルーデウス君は優しいね。うん。ゴリアーデさんにも伝えておく
よ﹂
ゴリアーデさんには別に伝えんでよろしい。
感謝の印にパンツとか送られてきても処分に困るしな。
﹁えへへ⋮⋮﹂
フィッツ先輩ははにかんで笑いつつ、道を行く。
俺はその場に残った。
三歩ほど歩いて、フィッツ先輩が振り返った。
﹁えっと、そういうわけだから、大丈夫、だよ?﹂
﹁いえ、せっかくいいイメージが付いているのですから、我が物顔
で歩くのはやめておきます﹂
俺はキメ顔でそう言った。
﹁そ、そう? ルーデウス君らしいね﹂
フィッツ先輩はどもりながら、口元を抑えていた。
笑っているんだろうか。
やはり俺はキメ顔なんぞしない方がいいか。
笑い顔、キモイといわれて、幾星霜。
字余り。
﹁うん。じゃあね、ルーデウス君、また今度﹂
2281
﹁はい、また会いましょう﹂
そうして、俺はフィッツ先輩と別れた。
−−−
夕食後、ザノバルームにてジュリに魔術の授業を行う。
ジュリは勤勉で、賢く、スポンジのように物事を吸収する。
手先も器用で、魔術でできないことは手で行える。
こういう言い方をするのはよくないのかもしれないが、いい買い
物だったと思う。
まさに彼女みたいなのが、掘り出し物の奴隷、なのだろう。
とはいえ、まだ一年目。
まだ絶対的に魔力総量が足りないし、精密性も全然だ。
手先は器用といっても、彫り物用の道具は使い始めたばかりでぎ
こちなさが残っている。
長い目で見ていく必要があるだろう。
俺は彼女に教えつつ、自分の人形を作る。
最近は、﹃1/8フィッツ先輩﹄を作り始めた。
とはいえ、フィッツ先輩はいつもダボついた服を来ているので、
体のラインがわからない。
長耳族は脂肪が殆ど無いので痩せているとは思うのだが⋮⋮。
問題は、付けるか、付けないかだ。
服を着脱式にしなければどっちでもいいのだが。
しかし、迷う。
俺の脳みそは付けたくないと言っているが、しかし本人に見られ
2282
たら怒られるかもしれない。
完成したら本人にも見せたいし、迷う⋮⋮。
﹁なんでしたら、余が不意をついて剥いできましょうか?﹂
﹁やめなさい﹂
迷う俺に対してザノバがそんな事を言ってきたが却下した。
ちなみにザノバはというと、俺の指揮の元、赤竜フィギュアの製
作を続けている。
赤竜は一つのパーツがでかいので、ザノバ向けだろう。
もっとも、ザノバは相変わらず手先が不器用なので、進行は遅い。
ゆっくりやればいい。
−−−
寝る前に﹃シグの召喚術﹄を読む。
シグという魔女が次々と魔獣を召喚する話だ。
そして、最終的には大量の供物から巨大な魔力を消費して自分よ
り強い魔獣を召喚し、食い殺されてしまう。
弟子はそれを嘆き悲しみ、自分の力量に見合わない魔獣は召喚し
ない、と心に誓う。
教訓があるあたり、童話に近いな。
俺のような魔力ばかり大きな素人が大量に魔力を消費して召喚獣
を呼び出せば、制御しきれないヤバイのが出てくる可能性もある、
という事は容易に想像できた。
学ぶなら、そこらへんのメリット・デメリットはきちんと押さえ
てからにした方がいいだろうな。
2283
しかし、本には召喚の具体的な方法や魔法陣については書かれて
いなかった。
これで何を調べろというのだろうか。
−−−
こうして、俺の一日は過ぎていく。
病を治す手立ては見つからない。
見つからないうちに、次のステップに来てしまった気がする。
あるいは、助言があったからと楽観的にならず、もっと色んな方
向から必死に模索していくべきだったのだろうか。
そんな事を思い初めていたある日。
俺の悩みは一気に解決へと向かい出す。
2284
終
第八十話﹁魔法大学での一日﹂︵後書き︶
第8章 青少年期 特別生掌握編 −
次章
第9章 青少年期 シルフィエット編
−
2285
間話﹁燃えよ狂犬﹂
剣の聖地。
ただそう呼ばれる土地がある。
年中ずっと雪に覆われた、過酷な大地。
初代剣神が流派を起こし、晩年には弟子たちに剣を教えた場所。
剣士たちにとって行き着く場所であり、そして出発の場所。
剣士であるなら、誰もが一度は訪れるべき場所。
それが剣の聖地だ。
そんな剣の聖地には、将来有望な剣士の卵が集められる。
齢十代にして剣の才能を見初められた者達。
若き天才たち。
現在の剣の聖地には、突出した才能を持つ三人の天才剣士がいた。
まず、剣神の長女。
ニナ・ファリオン
現在18歳であるが、16にしてすでに並ぶ者のない才を持つと
言われた剣聖。
20歳になる頃には剣王と呼ばれ、25歳になる前に剣帝になる
であろうことは間違いないと言われている。
一番の有望株だ。
ニナの従兄弟。
ジノ・ブリッツ。
剣神流の宗主たるファリオン家の分家であるブリッツ家の次男。
2286
現在14歳。
12歳にして剣聖の称号を受けた、最年少の剣聖。
未だニナには一歩及ばぬものの、将来はどうなるかわからぬと言
われる天才剣士。
そして、エリス・グレイラット。
現在17歳。
彼女は見る者全てを怯えさせ、
噛み付く者は容赦なくぶちのめす狂犬。
二年前、剣王ギレーヌの弟子としてやってきた彼女は、
己の所業に一切の妥協を許していなかった。
毎日決死の修行に挑み、体をイジメにイジメぬいている。
彼女の剣の聖地のデビューは鮮烈であった。
数年が経過した今でも、なお語り草になるほどに。
−−− 約二年前 −−−
剣の聖地・当座の間にて。
エリスはギレーヌに連れられ、剣神の前に姿を表した。
周囲を囲むのは、剣聖以上の称号を持つ、剣神流の高弟たち。
その中には、ニナとジノの姿もあった。
エリスは剣神を前にしても、
膝をつくことも、頭を下げる事もなかった。
﹁あなたのようなザコには用は無いわ!﹂
2287
こともあろうに、現代最強の剣士たる剣神ガル・ファリオンに向
かって、そう言い放ったのだ。
周囲の剣聖たちは、色めきだった。
﹁なっ! 貴様、師匠に向かって!﹂
﹁膝をつけ! 剣神流の作法を知らんのか!﹂
﹁ギレーヌ殿は何を教えたのか!﹂
﹁座れ﹂
剣神の一声で、剣聖たちは押し黙った。
この若くも傲慢な犬は剣神の手によって斬られる。
誰もがそう思っていた。
剣神ガル・ファリオンに傲慢な言葉を吐き、生きてここを出た者
などいない。
あの傲岸不遜なギレーヌですら、耳と尻尾をピンと立てるほどの
暴言。
しかし、剣神はニヤニヤと笑うだけであった。
笑いながら、問うた。
﹁いい目ぇしてやがんな。一体、誰を斬りてえんだ?﹂
誰を斬りたいのか。 そう聞かれ、エリスはハッキリと答えた。
﹁龍神よ、龍神オルステッド!﹂
2288
誰もが、龍神という名に聞き覚えはあった。
だが、オルステッドという名前を知りはしない。
この場でその名を知るものは、エリスと、そしてもう一人。
﹁ハァッハッハッハー! なるほど、確かにオルステッドに比べり
ゃあ、俺様はザコだ!
そうかそうか、あいつを斬りたいか!
俺様以外にも、あいつを斬りたいと思うやつがいたか!﹂
剣神はバシバシと膝を叩いて快活に笑った。
その場にいる誰もが、その不気味な光景に唾を飲んだ。
あの剣神が笑っている。
傲慢な言葉を受け、ザコと挑発され、なお笑っている。
ありえない事だ。
だが、剣神だけは知っている。
龍神オルステッドを斬る。
それはすなわち、最強を目指すという事だと。
﹁けどな﹂
ピタリと笑いが止まる。
当座の間にシンと静けさが戻る。
﹁口で言うだけなら、簡単だぜ。できんのか?﹂
﹁やるわ﹂
エリスは当然のように言い放った。
そこには、何の気負いもなく、何のためらいもない。
迷いの一切無い目であった。
2289
剣神は口の端を持ち上げた。
﹁よし。剣を見る。ジノ、相手をしてやれ﹂
﹁え!? は、はいっ!﹂
伯父に名を呼ばれ、ジノ・ブリッツは立ち上がる。
自分とそう歳の変わらない少女。
口先で伯父を笑わせた、いけ好かない少女。
そいつに一泡吹かせてやると意気込んで。
﹁そいつはウチの最年少だ。お前より年下で、まだまだ甘っちょれ
えが、結構やるぜ﹂
ジノとエリスは、他の剣聖から放り投げられた木刀を受け取る。
﹁では中央で﹂
﹁うらああぁぁぁぁ!﹂
木刀を受け取った瞬間、エリスはジノに打ちかかった。
ジノは咄嗟の応戦すらできなかった。
一打目で手首をしたたかに打ち据えられ、木刀を落とし、
参ったを言う間もなく、いや、何をされたのかもわかる事なく、
木刀にて切り伏せられた。
完璧な殺気。
ジノは真剣で斬られたと錯覚し、気絶した。
﹁なっ!?﹂
唖然とする、当座の間の面々。
こんな馬鹿な事があってたまるか。
2290
開始は、せめて中央で向い合ってからだろう。
第一、ジノはエリスの方を向いてもいなかったのだ。
卑怯者め。
剣聖たちはそう思った。
だまし打ちのような形で弟分を討ち取られたニナも当然。
そう思わなかったのは四人。
剣帝二人と剣王一人、そして剣神である。
﹁な、甘っちょろいだろ?﹂
﹁本当にそうね﹂
エリスは短く切りそろえた髪を振り、すでに全員の動きに気を配
っていた。
いつ、何時、誰が襲いかかってきてもいいように。
一切の無駄のない立ち姿で、周囲を睥睨していた。
剣神はエリスを咎めなかった。
ただ、打ちのめされ、気絶したジノを甘っちょろいと評価した。
互いに剣を持った状態で油断したほうが悪い。
唐突に襲い掛かってくる可能性を考慮しない奴は馬鹿だ。
剣神は言外にそう言っていた。
﹁よし、次はニナ。お前だ。
今度は中央にて向かい合ってからだ。
不意打ちもいいが、用意ドンでの剣も見せてくれよ﹂
その言葉で、剣聖の一人がニナに向け、木刀を放った。
それを受けとめた瞬間、ニナは剣聖の方を二度見した。
木刀はやや重かった。
2291
中に金属が詰まっている木刀である。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
木刀を放った剣聖はこくりと頷いた。
それを見て、ニナは身震いを一つして、頷き返した。
この無礼者を殺す。
ニナとて剣聖だ。人を斬り殺したことがないわけではない。
少々卑怯だが⋮⋮。
先に無礼を働いたのは向こうだ。
ジノの屈辱を思えば、万死を持って報いを受けるべきだ。
中央にて並び、二人は構える。
﹁はじめぃ!﹂
剣聖の合図で、ニナは木刀を振りかぶる。
何万と繰り返してきた剣神流の型に則り、この無礼な赤毛の女を
打ちのめす。
そんな気概のこもった一撃。
剣と剣が打ち合わされる。
その瞬間、乾いた音を立ててエリスの木刀が砕け散った。
ニナは勝利を確信した。
あとは呆然とするエリスの脳天に容赦無い一撃をぶち込むだけ。
そう思った。
瞬間、ニナは顔面を殴られていた。
次いで顎先を打ちぬかれる。
2292
たたらを踏んだ所を蹴り飛ばされ、馬乗りにされた。
気づけば、両腕は足によって抑えこまれていた。
見あげれば、本物の殺気をまとった悪魔が拳を振り上げていた。
﹁や、やめっ! やめ、やめろ!﹂
静止の言葉が掛けられた時、すでにニナは数発は殴られた後。
鼻血を垂らし、歯を折り、失神していた。
その股座からは、ちょろちょろと湯気の立つ液体が広がっている。
エリスはゆっくりと立ち上がると、ニナの持っていた金属芯の入
った木刀を拾い上げる。
そして、フンと鼻息を一つ。
ニナをジノの失神している所へと蹴り飛ばした。
﹁ここには甘っちょろいやつしかいないの?﹂
﹁き⋮⋮貴様ぁ!﹂
剣聖たちがいきり立つ。
卑怯者めと罵る声も聞こえる。
だが、剣王以上の称号を持つ者達は、むしろそうした剣聖を冷や
やかに見下していた。
彼らは、誰が正しいのかを、理解していた。
﹁悪い悪い。ちょっと見誤ってたな。俺様が相手してやるよ﹂
だが、剣神が立ち上がると、剣帝二人はやや驚いた顔をしていた。
﹁師匠が出るまでもありません﹂
2293
﹁こういう場合はギレーヌの⋮⋮弟子でしたな、なら私めが﹂
剣神はそんな言葉を無視し、己の剣を掴んだ。
真剣である。
エリスはそれを見て、床を強く蹴った。
後方へと飛び、自分の剣を置いた位置まで下がる。
そして、長い旅を共にしてきた相棒を手中に収め、即座に鞘から
抜き放った。
﹁慌てんなよ、ちゃんとハンデやるから⋮⋮。
って、お前、いい剣持ってんな。ユリアンのだろ、それ﹂
﹁知らないわ。ミグルド族にもらったものよ﹂
﹁あ、そう。⋮⋮こいつも、ユリアンの作品だぜ﹂
剣神はそう言いつつ、ゆっくりと剣を抜く。
刀身が金色に輝くその剣を。
剣神七本剣が一つ。
魔界の名工ユリアン・ハリスコが、王竜王カジャクトの骨より作
ノドブエ
り上げた48の魔剣の一つ。
魔剣﹃喉笛﹄。
剣神が魔剣を、だらりとぶら下げるように持った。
剣聖たちが息を飲む。
剣神が真剣を持つなど、剣帝との実戦稽古以外では滅多にない。
そして剣神は気軽につぶやいた。
﹁よし、行くぜ﹂
2294
瞬間。
エリスはふっ飛ばされていた。
当座の間の出入り口の扉をぶち破り、外へと叩きだされ、積もる
雪の中に叩きこまれた。
剣神は、いつしか剣を振り終えたポーズで静止していた。
誰も、そのモーションを見切ることはなかった。
﹁お見事!﹂
﹁お見事!﹂
﹁お見事にございます!﹂
周囲の剣聖たちが口々に、その剣筋を褒めた。
魔剣の力ではない。
剣神より発せられた闘気が、エリスを吹き飛ばしたのだ。
あの無礼者は死んだ。
誰もがそう思った。
しかし、エリスは死んでなどいなかった。
﹁うっ⋮⋮ぐうぅ⋮⋮!﹂
うめき声を上げて雪の中で弱々しくもがく。
剣神の斬撃をうけてなお存命?
否、剣神が手加減したのだ。
しかし、あのような野良犬に剣神が本気を出すまでもない。
あとは破門にでもして、雪のつもる外にでも放り出せば良い。
しかし、剣神は剣聖の予想とは真逆の言葉を口にした。
﹁ギレーヌ、エリスを治療しろ。今日からあいつは剣聖だ。明日か
ら俺様が剣を教える﹂
2295
顔をほころばせていた剣聖たちが凍りついた。
剣を教えるとは、すなわち剣神の直弟子を意味する。
ギレーヌ以来、誰もなれなかった、高弟中の高弟。
﹁馬鹿な! 剣聖は﹃光の太刀﹄を習得した者のみに与えられる称
号!
こんな山猿も同然なガキに⋮⋮!﹂
言いかけた男は、剣神に剣を向けられ、その言葉を途切れさせた。
﹁﹃光の太刀﹄を習得したガキを二人ものしてんだ、十分だろうが﹂
﹁し、しかし⋮⋮﹂
﹁﹃剣神﹄ってなぁ、何かを覚えりゃなれるってわけじゃあ、ねえ
んだぜ? 特別な俺様が特別扱いされてねえのに、なんで剣聖を特
別扱いする必要がある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮申し訳ありませんでした﹂
剣聖はそれ以上、何も言わなかった。
自分の感情が嫉妬であることに気付いたのだ。
嫉妬が剣を鈍らせることを、剣聖たちは理解していた。
そして誤解していた。
剣神の提唱する欲望のままの剣術。
それによれば、えてして嫉妬のような汚い感情が剣を鋭くさせる
ものである。
もっとも、剣神はそんな重要なことを一から十まで教えるつもり
など無い。
他人に言われてようやく気づくような奴は、言っても無駄だと思
2296
っているのだ。
こうして、エリスは鮮烈なる印象付けと同時に、剣聖の名を持つ
ようになった。
−−−
ニナはエリスのことが嫌いだった。
なにせ、大勢の前で気絶させられ、失禁までさせられたのだ。
恥。
そう、恥をかかされたのだ。
ポッと出の山猿。
剣がダメとあらば殴りかかってくる、駄々っ子のような態度。
剣聖の名はもちろん、剣神流にすらふさわしくない。
そう喧伝した。
二年近く、エリスとまともな口を効かなかった。
ジノと二人で、同年代の弟子たちとつるみ、彼女を徹底的に仲間
はずれにした。
もっとも、エリスは普段、剣神かギレーヌにひたすら鍛えられ続
けている。
寝るときもギレーヌと同室だ。
接点もなく、必要もなく、ニナ達と会話しようとすらしなかった。
会話といえば、せいぜい一ヶ月に一度ある内弟子の総稽古におい
て、二言三言、嫌味を言い合う程度だ。
2297
その稽古において、エリスとニナの実力は拮抗していた。
ニナは、自分の方が勝ち越しているとさえ考えていた。
剣を落としたり折られたりしたら敗北という、きちんとしたルー
ルでなら、そうそう遅れは取らない。
ニナはそう考えていた。
そうした部分が﹁甘い﹂のであるが、実戦経験不足の彼女がそれ
を悟るのは、もう少し後の事である。
ライバル関係。
周囲にはそう映っていたが、しかしエリスはニナの事など歯牙に
も掛けていなかったと明記しておく。
そんなある日。
ニナは同じくらいの女子と共に、話をしていた。
若い女子らしく、弟子の中の誰がカッコイイとか、
この間、付き合っている誰それと初体験迎えましたとか、
そうした話題である。
ニナは生まれてこのかた剣一筋に生きていたため、そうした話題
は苦手だった。
そして、これからも無縁な話だと思っていた。
身近な男と聞かれて思い浮かぶのは、四歳年下の従兄弟ジノの事
であるが、
兄弟同然に育ってきた相手とそうした関係になるとは思えなかっ
た。
ゆえに、自分は剣だけに生きていく。
そうでなければ、エリスに置いて行かれる。
あの女に負けるのは嫌だ、と考えていた。
2298
そこに通りかかったのがエリスだ。
彼女は全身から湯気を立ち上らせていた。
自分たちが雑談をしている間にも、修行をしていたのだ。
そう考えると、ニナは少々焦るものがあった。
ゆえに、言ってしまったのだ。
﹁ふん、こんな時にまで修行なんてね!
あなたには一生男なんてできないんでしょうね!
生娘のまま剣だけに生きていくといいわ!﹂
自分も未経験であるのに。
そんな事を言った。
しかし、自分が気にしている事であるがゆえ、自分が言われると
傷つく事であるがゆえ。
エリスも傷つくだろうと考えての事だ。
﹁ふっ⋮⋮!﹂
しかし、エリスは鼻で笑った。
勝ち誇ったその顔に、ニナはたじろぐ。
﹁な、なによ﹂
﹁悪いけど、私、生娘じゃないから﹂
ちょっと自慢気に、ちょっと顔を赤らめながら。
それは明らかに見栄などではない。
と、その場にいる誰もが思った。
﹁え⋮⋮!? うそでしょ? え? 誰? 誰となの?﹂
2299
ニナは内心の動揺をまったく隠せなかった。
無様にうろたえつつ、エリスからその話を聞き出す。
﹁小さい頃から一緒に育った人よ﹂
普段は無口なエリスであるが、
その男の話題となると、次から次へと出てきた。
小さい頃から一緒に育ったとか、
一緒に魔大陸から故郷まで旅をしたとか、
龍神と出会い、その男が一矢報いたとか。
そして、その男と初めてを迎えたとか。
その男のために強くなろうとしているとか。
恋する乙女の恋が成就するまでの恋物語だった。
ニナは完全に打ちのめされた。
負けたと思った。
完全敗北だった。
剣術で互角。
だが年齢で負け。
しかも、相手は男までいるという。
ニナにできることは、その男の存在を否定することぐらいであっ
た。
﹁う、ウソよ! お父さんは言ってたもの!
龍神は﹃龍聖闘気﹄を纏っているから、生半可な技じゃ傷ひとつ
付かないって!
2300
でまかせよ! そんな人、本当はいないんでしょ!?
嘘って言いなさい。今ならまだ間に合うわよ?﹂
﹁嘘じゃないわ。ルーデウスは生半可じゃないもの!
⋮⋮⋮⋮でも、ルーデウスと、今の私は釣り合わない。もっと強
くならなくちゃ﹂
エリスは最後にそう言って、ぎゅっと拳を握った。
決意の瞳に炎を宿し、
そして、ニナたちを無視して先ほど自分がいた修行場﹃錬気の間﹄
へと戻っていった。
ニナはその姿を唖然として見送った。
一番ありえないと思った相手が、すでに自分の先を行っていた。
その事実に、頭がクラクラしていた。
−−−
自分がまだで、あの山猿エリスに恋人がいる。
そんな事があってたまるか。
きっと嘘に決まっている。
ルーデウスとやらは架空の人物だ。
ニナはそう考えた。
休日に情報屋に赴いて、ルーデウスについての情報を集めさせた。
まぁ、簡単には集まるまい。
なにせ架空の人物だから。
そう思っていた。
2301
そんな願いとは裏腹に、情報はすぐに集まってしまった。
ルーデウス・グレイラット。
アスラ王国フィットア領ブエナ村出身。
三歳の時に、水王級魔術師ロキシー・ミグルディア︵当時は水聖
級︶に弟子入り。
五歳にして水聖級魔術師となる。
七歳の時にフィットア領城塞都市ロアの町長の娘、エリス・ボレ
アス・グレイラットの家庭教師となる。
その後、フィットア領転移事件にて行方不明となる。
が、最近になって中央大陸北部にて、冒険者﹃泥沼のルーデウス﹄
として名を上げる。
現在は魔法大学に特別生として招かれ、ラノア王国の魔法都市シ
ャリーアに滞在しているという。
一部の冒険者連中からは尊敬されており、はぐれ竜を単独で撃破
したという噂もある。
実在する人物であった。
エリスの妄想の王子様ではなかった。
ニナは凹むと同時に、大した事ないな、と思う。
確かに、七歳までの経歴は凄まじいが、所詮は冒険者だ。
水王級になるでもなく、泥沼などというダサい名前がついている
あたり、
所詮は幼い頃だけの才能だった、そうに違いない。
そう考えた。
そして、悪いことを思いついた。
そのルーデウスとやらを倒し、奴隷にでもしてここに連れてきた
ら、エリスはどんな顔をするだろうか、と。
2302
思い立ったが吉日。
ニナはその日の内に旅支度をして、ニナは父親譲りのせっかちさ
を発揮し、馬に飛び乗った。
そのまま、ラノア王国へと旅立ったのだ。
冬の間ならまだしも、ラノアは眼と鼻の先。
剣の聖地にて育てられた名馬を使えば、2ヶ月もかからず往復で
きる。
彼女はせっかちだったのだ。
一ヶ月の旅路をなんなく終え、魔法大学へとやってきた。
そして驚いた。
ニナは正直な所、魔術師というものを馬鹿にしていた。
ロクな修行もせず、適当にごにょごにょと詠唱とやらをするだけ
で強くなった気でいる連中と思っていた。
しかし、道を行くのは屈強な男たちだ。
なぜか獣族が多く、戦士風の格好をしている者が多い。
ローブを着ている者や可愛い制服を着ている者もいるが、屈強な
肉体を持っている者がやけに多いのだ。
ニナは自分の世間知らずさを恥じた。
18歳まで生きてきて、魔術師というものを偏見でみていたのだ
と。
ニナはとりあえず、近くにいた青年に声を掛けた。
筋骨隆々とした、まさに戦士という感じの獣族だ。
そいつにルーデウスの居場所を聞いてみる。
すると、彼もルーデウスの場所に行くのだと言う。
2303
これは丁度いいと、ニナはついていく事にした。
制服姿の少年の所についた。
彼がルーデウスだという。
ニナの想像通りの人物だった。
体はそれなりに鍛えているようだが、覇気のようなものは感じら
れない。
顔は悪くないが、自信もなさそうで、男としての魅力は無い。
エリスにはお似合いだ。
よし、こいつをぶちのめして⋮⋮と思った瞬間、獣族の青年が声
を張り上げた。
﹁はぐれ竜を単騎にて仕留めたA級冒険者﹃泥沼﹄のルーデウス殿
とお見受けする!
我と尋常なる婚儀の決闘を!﹂
ぎょっとした。
この男はルーデウスにいきなり決闘を申し込んだのだ。
﹁いえ、ピアノのお稽古があるので⋮⋮﹂
ルーデウスは男らしくない事に、即座にそれを断った。
しかし、青年はあーだこーだと理由をつけてルーデウスの前に回
りこみ、
問答無用とばかりに襲いかかった。
ニナは次の瞬間ルーデウスが引き裂かれると思った。
自分ほどではないにしても、獣族の青年はかなり強いと見たから
2304
だ。
そして、ルーデウスは魔術師。
魔術師は距離を詰めてしまえば弱いとは剣士にとって常識である。
あの距離では、魔術師にできることなど無い。
が、結果は逆だった。
ルーデウスはあっという間に青年を打ち倒した。
3秒といった所だろうか。
まさに一瞬だった。
そして、呆然とするニナに一瞥もくれることなく、さっさとどこ
かへと行ってしまった。
−−−
それから、なんとか立ち直ったニナは、再度ルーデウスの場所を
聞いて回った。
そして、図書館にいるという事が分かった。
図書館の場所を聞き出し、向かってみると、建物の前には大量の
獣族が並んでいた。
自分には関係ない、そう思って図書館に入ろうとすると、
﹁お前もルーデウスへの決闘を申し込む者か?﹂
獣族の青年にそう聞かれた。
﹁え、ええ。そうよ﹂
2305
思わずそう答えると。
﹁ならば一番後ろに並べ!
順番抜かしはするな!﹂
そう怒られた。
聞いた所によると、この列は、全てルーデウスへ決闘を申し込も
うという者たちだという。
30人はいた。
ニナはその事実に戦々恐々としつつも、おとなしく並んで待つこ
とにした。
すると、前にいた獣族の青年に﹁気の毒だな﹂と言われた。
何のことかわからなかった。
そうして待っていると、時刻は昼過ぎになった。
そして、奴が現れた。
真っ黒い肌をした、筋肉の塊のような魔族だ。
そいつは、随分と偉そうな態度で周囲を睥睨した。
﹁ほう、なんだこの列は何か催し物か!﹂
﹁ルーデウス・グレイラットへの決闘の順番列だ!﹂
﹁なんと! こんなにか! フハハハハ!
ルーデウスとはなんとも人気者よな!
我輩は待つのは構わんが、どうにかして先にやらせてもらう方法
はないか!﹂
堂々といいはなつ男に、周囲は沸き立った。
2306
並べ、順番を待て。
ニナも憤慨した。
遠路はるばるやってきた自分ですら待っているのだ。
偉そうな態度を取ってないで並べ、と。
そして、一人の馬鹿が言ってしまった。
言ってはいけないことを言ってしまった。
﹁どうしても先にやりてぇなら、先に並んでる奴を全員倒してから
にしな﹂
﹁フハハハハ! それがいい! 気に入った!
では、全員同時に掛かって参れ!
我輩に挑もうとする気概に免じて、先に一撃入れさせてやろう!﹂
あまりにも傲慢な態度に、その場にいる全員が怒り狂った。
﹁なんだとコラァ!﹂
﹁調子こいてんじゃねえぞオラァ!﹂
そして、この身の程知らずにわからせてやろうと、襲いかかった。
ニナも、よくわからないうちにその戦列に参加していた。
そして、負けた。
魔族はニナの斬撃を加えてもなお、平然と立っていた。
漆黒の肌には剣が通らないのだ。
殺す気で放った光の太刀でようやく傷がついたが、一瞬で再生さ
れた。
﹁我輩は不死身の魔王バーディガーディ!
フハハハハ! 我輩に勝てれば勇者の称号をやろうぞ!﹂
2307
ニナは善戦した方だったろう。
だが、攻撃力不足はいかんともしがたく、
何の手も打てないまま捕まり、叩き伏せられ、愛剣も叩き折られ
た。
そして恐怖し、混乱した。
なんで自分はこんな所で魔王となんて戦っているのだ、と。
そもそも、魔大陸の魔王が、なんでここにいるのだ、と。
その場にいた誰もが、そう思っていただろう。
ニナがやられてしばらくして、順番列は全滅した。
不思議な事に、怪我をした者はいても、死んでいる者はいなかっ
た。
手加減されたのだ。
そう気付くと、ニナの拳の上に涙が落ちた。
しかし、悔しくとも、すでに剣を失った自分には何もできなかっ
た。
﹁⋮⋮なんだこりゃ﹂
全滅とほぼ同時にルーデウスが図書館から出てきた。
彼らはあれこれと話をして、場所を移した。
ニナも、痛む体に顔をしかめつつ、それを追いかけた。
広い校庭。
ルーデウスと魔王はそこでにらみ合いを続けていた。
何か会話をしているようで、時折魔王の高笑いが聞こえてきた。
2308
だが、何を話しているかわからない。
決闘が始まったのは、やけに足の速い少年が杖を届けてからだ。
ルーデウスと魔王の決闘。
ニナはその決闘の一部始終を見た。
ルーデウスが杖を手に取り、その封印を解いて。
二言三言話してから、魔王に対して杖を向けた次の瞬間。
魔王の上半身が弾け飛んだ。
自分たちが手も足も出なかった相手が、一撃で倒された。
その事実に、ニナはただひたすら、呆然としていた。
その後の事はよく覚えていない。
−−−
ニナは剣の聖地に帰ってきた。
エリスはあのランクまで上がろうとしているのだと知って、愕然
としていた。
愕然としつつも、努力するエリスを見るニナの視線は、なんとな
しに柔らかくなっていた。
そして、その頃よりニナは心を入れ替えた。
今まで以上の努力を始め、剣を折られた時の対処として、二本の
剣を持つようになった。
エリスの拳による攻撃方法も馬鹿にしなくなり、軽い付き合いを
していた同年代の弟子たちとも疎遠になった。
2309
その後、ニナは名実ともにエリスのライバルとなっていくのだが
⋮⋮。
それはまた、別の話。
−−−
ちなみに。
魔王襲来の情報を受けてやる気満々の顔で剣を研いでいた剣神は、
ニナの話を聞いて、残念そうな顔で静かに剣を鞘へと収めたとい
う。
2310
第八十一話﹁シルフィの過去﹂
ある少女の話をしよう。
少女はアスラ王国の辺境にて、貧しい猟師の一人娘として誕生し
た。
長耳族の血が半分だけ混じる父。
そして、かつてアスラ貴族の奴隷だった獣族の血が少しだけ混ざ
る人族の母。
どちらも優しく、少女に愛を注いで育てていた。
一見すると、幸せな子供。
だが、彼女の髪は緑色だった。
髪が彼女の人生を狂わせていた。
緑色の髪。
一節によると、魔族は髪が緑に近ければ近いほど凶暴になるとい
う。
かつて、全ての種族を震撼させ恐怖させた、あのスペルド族の髪
の色も緑。
そして、そのスペルド族を率いていた魔神ラプラスの髪も緑と言
う説があった。
少女は魔族ではない。
だが、緑色の髪の毛は人を恐怖させる。
忌むべき色だ。
とはいえ、少女は少女。
2311
過去は過去。
豊かなアスラは魔大陸から遠く、過激な魔族排斥思想を持つ者も
少ない。
少女の髪は両親ともに魔族とはまったく関係のない、突然変異の
緑色。
最初は驚かれ、奇異な目で見られたものの、次第に受け入れられ
た。
が、受け入れたのはあくまで大人だけであった。
少女が一人で外を出歩くようになると、彼女は攻撃された。
緑色の髪を持つ悪い魔族ということで泥玉を投げつけられ、排斥
された。
少女は常にビクビクと怯えながら過ごし、時に泣いた。
どうして同年代の子が自分に辛くあたるのか、わからなかった。
不憫に思った母親は彼女の髪を短く切り、逃げやすいようにと動
きやすいズボンを縫った。
父親は子供たちの親と掛け合い、我が子を狙わないようにと懇願
した。
けれど、根本的な解決にはならなかった。
少女は外に出る度に狙われた。
子供たちにとってそれは遊びだった。
一人だけ髪の色の違う子供をやっつける。
力を合わせ悪魔を倒す。そういう遊びだった。
だが、少女にとってはそうではなかった。
悪意を持って迫り来る子供たち、泥玉を、時には石を投げられた。
逃げれば追いかけられ、追いつかれた。
抵抗すれば殴られ、蹴られ、痛い思いをすることになった。
2312
大人は注意した。
それで一時は攻撃はやんだが、すぐに大人の見ていない所で行わ
れるようになった。
少女は世界に絶望していた。
両親以外に自分の味方はいないのだと思っていた。
髪の色は変えられない。
どうしようもない。
うつむいて、目立たないように生きるしかない。
そんな彼女を、一人の少年が救った。
彼は少女と同じぐらいの歳だった。
泥玉を投げつけられている少女を見ると、
一目散に駆けてきて、自分の倍ぐらいの大きさを持つ相手に果敢
に挑み、退散させた。
そればかりか、少女に優しい声を掛けてくれた。
手から暖かな水を出し、少女を清めてくれた。
あれこれと世話を焼いてくれた。
少女にとって、それは奇跡にも似た出来事だった。
少女の日々は激変した。
少年は少女を悪意から守ってくれるようになった。
それで、イジメられる事はなくなった。
少年は少女に力を授けてくれた。
魔術という名の奇跡を教えてくれた。
2313
少年は少女と同じ歳なのになんでも知っていた。
なんでも教えてくれた。
文字、魔術、自然現象、数学⋮⋮。
少女にとって、少年は神のような存在だった。
少女は少年といつも一緒に行動した。
すぐに彼の事が大好きになった。
幼いながらも、結婚・お嫁さんという単語を知った、
少女は﹁あの子と将来結婚してお嫁さんになるのだ﹂と密かに決
意した。
その後、色々あって、少しギクシャクした。
けれど大好きだった。
ずっと守ってもらうのだ、と思っていた。
そして、別れた。
別れさせられた。
少年は少年の父によって叩きのめされ、遠い貴族に売られた。
取り返さないと、助けないと、と少女は思った。
だが、父に止められた。
その時、父がなんと言ったのか、少女はよく覚えていない。
確か、少年はもっとつよくなるために旅立ったとか。
お前も彼に負けないように頑張らないといけないとか。
そんな感じの事だったはずである。
2314
耳に残っているのは、最後の一言だけだ。
﹁シルフィは、ずっと彼に守ってもらうだけなのかい?﹂
その一言だけは覚えている。
そうじゃない、と思ったのも覚えている。
守ってもらうだけじゃダメなんだ、と思ったのを覚えている。
今日のような事があった時に、黙って見ていちゃダメなのだ、と。
﹁わかった。ルディを助けられるぐらい強くなる⋮⋮!﹂
その日から、少女は変わった。
少女は能動的に自分を鍛えるようになった。
少年が毎日やっていた事と同じことをした。
走って体力を付け、棒きれを振り回して体を鍛えた。
毎日のように魔術を使い、感覚を研ぎ澄ませた。
少年がいなくとも、少女は自分のすべきことを知っていた。
それと平行して、少年の行き先を考えた。
少女の知識や行動範囲では、少年の行き先は知れない。
予想すらできない。
こんな時、少年はどうしていたか。
なんと言っていたか。
わからなきゃ聞けばいい、と少年は言っていた。
少女はそれに従い、聞くことにした。
少年の居場所を、知っている者に。
2315
少女は村の診療所に赴いた。
少年の母が働いている場所だ。
そこで、少年の母に少年の居場所をきこうとした。
もちろん、少年の母はイタズラっぽく微笑みつつ、少女をごまか
した。
少女は、診療所の手伝いを始めた。
深く考えての行動ではなかった。
ただ、仲良くなれば教えてくれるかもしれない、とは心のどこか
で思っていた。
父に﹁あんな事があったけど、少年の家族とは仲良くしないとい
けないよ﹂と言い含められていたのも理由の一つであろう。
少年の母は、決して少年の居場所を口にはしなかった。
少女が考えられるあの手この手で聞き出そうとしたが、
そのたびににこりと笑い、﹁ルディに会いたいなら、もっと頑張
らないとね﹂なんてごまかされた。
埒があかない。
と、少女は考えた。
もちろん、少女は埒があかないなんて言葉は知らなかった。
とにかく、このまま続けても意味はない、と考えた。
なので、少年の家にいるメイドに近づいてみる事にした。
少年には父親もいたが、そちらは苦手だった。
少年を叩く場面を見ていたのだ。
知らない相手ではないし、嫌いでもないのだが、自分もぶたれる
かも、と考えると話すのを躊躇した。
2316
メイドは忠実だった。
少年に対して忠実だった。
﹁ルーデウス様はきっと将来、王室に招かれるような立場に置かれ
るでしょう。ルーデウス様の奥様になるのであれば、世間に出ても
おかしくないような立ち振舞いを覚えていただかなければ﹂
そう言われ、半ば無理矢理に、礼儀作法というものを教えこまれ
た。
とはいえ、これが少年のためになる、と言われれば、少女も嫌と
は言えなかった。
宮廷での歩き方やドレスの着付けの仕方、言葉遣い、挨拶の方法
など。
本当にこんなものが必要なのかという疑問はあった。
だが、少女は素直で、物覚えもよかった。
しかし、肝心の少年の居場所については、メイドは決して口を割
らなかった。
そうこうしているうちに十歳の誕生日になった。
十歳の誕生日を祝ってくれたのは母だけだった。
父は、最近森の魔物が活性化しているというので、警戒に赴いて
いるのだ。
狩人たる父は森に詳しいから、事あるごとに駆り出される。
﹁何も十歳の誕生日にまで⋮⋮﹂
と母は父に言っていた。
けど、少女は仕方ないと思って諦めていた。
2317
なにせ、五歳の誕生日の時もそうだったのだから。
母からの誕生日プレゼントは、白いワンピースだった。
この日のために、父がお金をためて買ってきた布で、母が縫って
くれたのだ。
さっそく来てみると、母は﹁似合うわ。綺麗よ﹂と褒めてくれた。
少女は﹁えへへ﹂と、はにかんで笑いながら、少年にも見せたい
と思った。
と同時に、少年はどうしているだろうかと不安になった。
知らない所で、不自由をしているんじゃないだろうか。
十歳の誕生日を祝ってもらえただろうか、と。
自分も、彼に何か送ろうかと思った。
だが、彼が欲しそうなものが何も思い浮かばなかった。
母に聞いてみると、﹁そういうのはなんでもいいのよ﹂と言って
くれた。
翌日になって帰ってきた父に聞くと﹁じゃあ我が家に伝わる幸運
のお守りを送ってあげるといい﹂と提案してくれた。
木を削って作るペンダントで、身に着けていると良い事があると
いう。
父も常に身に着けているものだった。
少女の祖母に当たる長耳族の女性が、父が独り立ちする時にもた
せてくれたのだそうだ。
そう聞くと、少女もなんだかそれがいいような気がしてきた。
少女は毎日、一生懸命木を彫った。
初めての木彫り。少女は決してうまくはなかった。
2318
けれども、一生懸命、毎日彫った。
そして完成した。
不恰好だけど、なんとか形になった。
と、そこで問題が浮上した。
作ったはいいけれど、渡す方法が無い。
悩んでいると、少年のメイドが提案してくれた。
﹁それでしたら、私が送る品に混ぜましょう﹂
そうする事にした。
少女はメイドに﹁大切なものだから絶対に届けてね﹂と何度も言
った。
メイドは承知しました、大切なものだとお伝えしておきます。
と、承知してくれた。
それからしばらくして。
転移が起こった。
−−−
少女は空中に転移していた。
﹁えっ!?﹂
凄まじい高さにいた。
一瞬、夢かと思った。
2319
どんどん落ちていく感覚。
風圧で息苦しくなる感覚。
突き抜ける雲。
そして恐怖。
全身の全てが夢ではないと語っていた。
﹁ヒッ﹂
少女は喉の奥の悲鳴を聞いた。
悲鳴が、これが現実だという感覚を助長した。
何故かわからない。
だが自分は空中にいて、落ちている。
なんとかしなければ。
なんとかしなければ。
死んでしまう。
死ぬ。
間違いなく死ぬ。
いくら少女が幼くとも、高い所から落ちれば死ぬという事ぐらい
はわかっていた。
魔力を全開にした。
地面がどんどん近づいてくるのがわかる。
少女は風を起こした。
真下から叩きつけるように自分に向かって。
少し速度が落ちたかもしれない。
2320
だが、すぐに元の速度に戻る。
風ではダメだ。
こういう時、どうすればいい。
少年はなんと言っていた。
思いだせ、思い出せ。
少年は何か言ってなかったか。
こんな時、高い所から落ちるもの。
その衝撃を和らげる。
柔らかいもの。
そうだ。柔らかいもので包むのだ。
しかし、柔らかいってどのぐらい。
どうやって作ればいい?
わからないわからないわからない!
少女は半狂乱になりながら、自分に出来る限りの事をした。
水を作り出し、風を作り出し、土を作り出し、火を作り出し。
とにかく落ちない事を、減速することを、地面から遠ざかること
を。
出来る限りの事をした。
しかし、落ちた。
墜落した。
だが、奇跡的にも、少女は生きていた。
どうやったのかはわからない。
無傷ではない。
2321
全身が水浸しで、打ち身だらけ、砂埃にまみれて、両足を骨折し
さんたん
ていた。
惨憺たる有様だったが、少女は生きていた。
何がよかったのかわからない。
だが、落下速度は落ちた。
骨折程度の怪我で、高所からの落下を生き延びた。
しかし、受難は続いている。
﹁ウゴォァアア!﹂
降りたすぐ目の前に、魔物がいた。
腕が四本ある、二足歩行の猪。
この魔物の事を、少女は知っていた。
父から、見かけたら絶対に近づくな、声を出さず通り過ぎるのを
待て。
気づかれたと思ったら、魔術を使いながら全速力で逃げろ。
そう言われている相手だった。
名を、ターミネートボアという。
少女は知らない事であるが、ターミネートボアは滅多に出てこな
い魔物である。
E級の魔物であるアサルトドッグを従え、
たまに森から出てきては、人を襲う。
アスラ王国内において、最も危険な魔物の一種。
アスラ王国では珍しく、C級に相当する魔物である。
危険度はアサルトドッグの数によってCからBまで変化する。
単体でもD級。
それがターミネートボア。
2322
﹁キャアアァァァ!﹂
少女は半狂乱になり、悲鳴を上げながらターミネートボアに対し
アイシクルブレイク
て魔術をぶっぱなした。
中級魔術﹃氷霜撃﹄
手加減一切なし。
初手において持ちうる限り、最大の魔術をぶちかました。
一撃だった。
ターミネートボアは氷付けになり、砕け散った。
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮あぐっ!﹂
肩で息をついて立ち上がろうとして、両足が折れている事に気づ
いた。
少女は治癒魔術を使い、すぐに治療した。
治療院で手伝いをしていたこともあり、治癒魔術は得意だった。
しかし、痛みに慣れているわけではない。
彼女は半べそをかきつつ、魔術を使った。
﹁⋮⋮はぁ⋮⋮はぁ﹂
立ち上がる。
ガンガンと頭痛がした。
意識は朦朧として、気絶しそうだった。
少女の精神状態が正常であったなら、それが魔力切れの症状だと
わかっただろう。
落下を抑え、魔物に攻撃魔術を打ち込む。
すべて、遠慮なしに最大でぶっぱなし続けた。
2323
ゆえに、少女の魔力は枯渇していた。
﹁た、助かったのですか⋮⋮?
そ、そなた、どこから現れたのですか?
名はなんと申します?﹂
後ろから声がした。
痛む頭、ボンヤリと霞む視界。
それらを抑えつつ、少女は背後を振り返る。
そこには少女がいた。
金髪で、透き通るような印象をうける綺麗な顔をもつ少女。
自分が誕生日にもらったものの千倍の値段はするであろう、細か
な刺繍の施された純白のワンピースをきた少女。
その脇には、腕を怪我した少年が壁にもたれかかっており、
少年の傍には、ローブ姿の男性が血まみれで事切れていた。
﹁シルフィエット⋮⋮﹂
少女は、そういって、気絶した。
−−−
これが、シルフィと、アスラ王国第二王女アリエル・アネモイ・
アスラとの出会いである。
2324
第八十二話﹁守護術師フィッツ登場﹂
﹃アスラ王国王都アルスの王城シルバーパレス。
白い花を咲かせる植物を集めた庭園。
通称、白百合の庭園。
そこに、突如として魔物が出現した。
白百合の庭園にて散歩をしていた第二王女アリエルの目前に、で
ある。
魔物、ターミネートボアは王女の護衛、守護術師デリック・レッ
ドバッドを瞬時にして殺害。
王女へとその凶牙を向けた。
魔物は王女の守護騎士ルークの手によって撃破され、王女は窮地
を脱した。
ルーク、体を張って王女を守ったこと天晴なり﹄
王城に魔物が現れるという前代未聞の大事件。
それは、このような形にて、王城の貴族達に伝えられた。
シルフィの存在は、第二王女派の貴族たちの手によって隠匿され
た。
第二王女派の一人、リストン卿は以下のように断言した。
﹁ターミネートボアは内々に王城内に運び込まれ、
王女が庭園を歩くタイミングを見計らって解き放たれた。
これは第二王女排斥派の陰謀に違いない。
それが可能だったのは、王城の警備を司っているオーガスト卿だ
けである。
2325
オーガスト卿は第一王子派の急先鋒。
この陰謀は第一王子派の仕業に違いない﹂
リストン卿のこの早まった主張により、第二王女派は追い込まれ
瓦解していくのだが、それはひとまず置いておこう。
−−−
シルフィは手厚く看護された。
天より飛来した彼女は、王女を救った者である。
ピンチを救った英雄を迎え入れるのは当然の事である。
という意見とは逆に、彼女を危険視する声もあった。
なにせ、いきなり現れて、ターミネートボアを一撃で屠ったのだ。
それも、魔法大学ですら一人しか使い手のいないとされる無詠唱
魔術で。
怪しい。
故に、貴族たちはまず彼女の存在を隠匿し、尋問を行うことにし
た。
中には、
﹁気絶しているうちに処分した方がいいのでは﹂
という意見も出たが、
第二王女アリエル・アネモイ・アスラはハッキリと言い放った。
﹁彼女の正体が何者であれ、私を助けてくれた恩人です。無礼な真
似は許しません﹂
2326
と。
この言葉に、守護騎士たるルークも同意した。
﹁自分もそう思います。もし第二王女に害なすものであるなら、わ
ざわざ魔物から助ける必要はなかったはずです﹂
シルフィがいなければ、ルークも王女も死亡していたのは明白で
ある。
もっとも、もし、シルフィが男であれば、ルークも少々意見を違
えていたかもしれない。
胸の大きさは趣味ではないものの、綺麗な顔の美少女であったが
ゆえ、女好きのルークの心証がよくなったのである。
﹁王女様がそうおっしゃるのであれば﹂
﹁ルークも言うようになった﹂
﹁仕方あるまい﹂
協議の結果、尋問はするが、もし敵だった場合でも見逃す。
そういう結論となった。
−−−
シルフィは目覚めた瞬間、夢だと考えた。
豪華すぎるベッド。
豪華すぎる服を着た人達。
豪華すぎる部屋。
自分がこんな豪華すぎる所にいる理由がわからなかった。
2327
﹁やあ、おはよう﹂
そのうちの一人。
騎士風の格好をした、シルフィより少々年上の子が口を開く。
彼は少しばかり、ルーデウスに似ていた。
﹁俺の名前はルーク。
ルーク・ノトス・グレイラット。
君は?﹂
見るものを安心させる柔らかな笑顔。
彼は幼くして、この笑顔で何人もの貴族の女子を落としてきた。
落とせなかった子もいるが、話せなかった子はいない。
そんな自負があった。
﹁⋮⋮っ!﹂
だが、シルフィは己の身を守るように、キュと身を縮こまらせた。
いくらルディに似ているとはいえ、同年代の子は苦手だった。
ブエナ村でも、未だに敵意を持った視線を送ってくる子もいるの
だ。
﹁お、おや? どうしたんだい?﹂
過剰に怯えるシルフィを見て、少年は動揺した。
初手から拒絶されたのは、彼にとって初めての経験であった。
それを見て、周囲の貴族たちが笑った。
﹁ははは、さすがの色男も型なしだな﹂
2328
﹁幼い女の扱いは得意だからと言うので任せてみれば⋮⋮﹂
﹁君はまだ若い、ひっこんでいなさい﹂
周囲の大人たちは、ルークに対し、口々に言って下がらせようと
する。
しかし、ルークは食い下がった。
﹁待ってください。これから、これからですから﹂
女に対しては一言持つ。
それが彼の矜持だった。
﹁すまない、怖がらせてしまったかな。
はくはつ
それでも、一言だけお礼を言わせて欲しいんだ。
美しい白髪の君に、命を助けてくれたお礼をね﹂
白髪とは一体何のことだ、とシルフィは思う。
君とは誰の事だと。
戸惑いつつ、ふとベッドの脇を見た。
そこには鏡台がおいてあった。
この世界では極めて高価とされる﹃鏡﹄が。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
シルフィは最初、それが自分だとはわからなかった。
何か変なものが置いてあり、そこに、ベッドで体を起こす、一人
の少女がいる。
目があう。
自分が手を動かすと、その子の手も動いた。
これは、水面に映っているのと同じだ、とすぐに気付いた。
2329
驚愕した。
﹁⋮⋮え?﹂
シルフィの髪は真っ白になっていた。
﹁し、白い?﹂
シルフィは混乱しつつ、優しく話しかけてくるルークに尋ねる。
ルークは頷き、よくわからない美辞麗句でシルフィの白髪を褒め
称えた。
﹁はい。貴女の髪はまるで晩秋に降る初雪のようだ﹂
そんな歯の浮くようなセリフは、シルフィの心には届かない。
シルフィはひたすらに混乱している。
自分の髪は緑だったはずだ。
鏡はなかったが、抜け毛を見たこともある。
なのに、どうして白くなってしまったのか。
嬉しいことであるはずなのに、意味がわからなくて。
﹁な、なんで⋮⋮?﹂
何がどうなったのか。
ここがどこなのか。
なぜ自分がここにいるのか。
そして自分がどうなってしまったのか。
まったく理解できず、シルフィは情けない声を出すだけだった。
2330
−−−
その後、尋問が始まった。
尋問を行ったのは、貴族たちだ。
ルークは相手にされなかったため、ショックを受けた顔で脇にど
いていた。
﹁どこからきた?﹂
﹁どこの手の者だ?﹂
﹁どこの誰に魔術を習った?﹂
シルフィはワケがわからなかった。
なぜ、自分はここにいて、怖い顔をした人達に囲まれているのか。
ただ、聞かれるがまま、正直に答えた。
自分はフィットア領の出身で、ブエナ村の猟師の娘で、友人のル
ディに魔術を習った。
そして気付いたら空中にいた。
なんとかして降りた所に魔物がいたので、魔術を使って倒した。
なんでこんな事になっているのかさっぱりわからない。
そう、正直に答えた。
それを聞いた貴族たちは首をかしげた。
村の子供が魔術。
気付いたら空中。
気付いたら魔物。
どれも信じられる話ではなかった。
2331
これならまだ、王女に取り入ろうとした流浪の魔術師で、力を見
せるためにターミネートボアを倒すパフォーマンスをした。
といった言い分の方がわかりやすい。
シルフィの言い分に、信じられる要素は何一つ無い。
第二王女の派閥の貴族達はあれこれと話し合った。
﹁そういえば、こんな話がありましたな﹂
そんな中、貴族の一人がある噂を思い出した。
﹁ロアのボレアスが雇った家庭教師。それが無詠唱魔術を使い、幼
くして聖級の魔術を使えるようになった天才だと聞き及んでいます。
その天才というのは、彼女の事ではないでしょうか﹂
ルーデウスの事である。
王都には、ルーデウスの噂がおぼろげにしか伝わっていない。
サウロスが情報に圧力を加えていたからだ。
とはいえ、そのサウロス自身も酒によった勢いでルーデウスを我
が子のように自慢していた。
曰く、上級大臣の手先を倒した、天才少年。
曰く、剣王ギレーヌが一目置く、天才少年。
曰く、ボレアスの暴力娘を見事に乗りこなす、趣味の悪い天才少
年。
ありえない噂ばかりである。
ゆえに貴族たちは与太話にすぎないと考えていた。
しかし、実際にシルフィは無詠唱魔術が使える。
2332
となると、噂が一気に真実味を帯び始めた。
﹁いやいや、あれは少年という話だ﹂
﹁大体、王都にいるのはおかしいじゃないか﹂
疑問に首をかしげる貴族たち。
彼らは再度シルフィに尋問をした。
カマを掛けるように。
﹁もしかして、君の本名はルーデウスという名前ではないかね?﹂
﹁ち、違います。ルーデウスというのは、ルディのことで⋮⋮えっ
と、私に魔術を教えた人、です﹂
シルフィは、ルーデウス・グレイラットという少年が、自分に魔
術を教えた経緯を細かく話した。
ルディはとても賢くて、色んな事を教えてくれたのだ、と。
その話は、貴族たちを大いに驚愕させた。
その話が本当であるなら、
かの天才少年が実在しており、
しかも村を出る前に弟子を残していた事になる。
ただの弟子ではない。
無詠唱魔術の使い手をだ。
末恐ろしいとは、まさにこの事である。
もっとも、それが本当なら、の話である。
サウロスの情報操作で、少年が少女と捻じ曲げられている場合も
ある。
しかし、彼女が無詠唱魔術の使い手である事は真実である。
2333
無詠唱魔術の使い手など、そうそういるものではない。
シルフィエットが例の天才少年でないのなら、その弟子である確
率は極めて高い。
天才の本名はルーデウス・グレイラット。
フルネームを聞いて、﹁ん?﹂と首をかしげる者がいた。
グレイラットとは、アスラ王国の四方を守護する上級貴族の名前
である。
グレイラットという名前自体は、この国ではそれほど珍しくない。
あの一族は女好きである。
そこらの下級貴族の娘や侍女を孕ませて妾にするなど、よくある
話である。
そうした妾は、グレイラットを名乗る事を許される。
四方守護の代名詞たるノトス・ボレアス・エウロス・ゼピュロス
の名は決して名乗れないが。
アスラ王国にグレイラットを名乗る人物は多い。
しかし、さて、ありふれた名前ではあるが、天才となれば話は違
う。
一部の特権階級にいる貴族たちの中には、天才ならグレイラット
の本筋に当たる血族に違いない、と思う者もいた。
ボレアスに雇われた事から、フィリップかサウロスの隠し子とい
う推測も出た。
少なくとも、誰かがボレアスのじゃじゃ馬娘と婚約し、苗字を名
乗るようになったという話は聞かない。
ルークも、自分の弟や親戚にそんな少年はいないと言う。
﹁詳しく調べてみる必要がある﹂
2334
と、権力争いが大好きな貴族たちは思った。
ルーデウスがノトス以外のグレイラットであれば、足を引っ張る
恰好の材料となる。
ノトスであれば、味方に引きこむ事も可能だろう。
と、彼らの話し合いは、シルフィの正体を探るという本来の目的
から逸れた。
彼らにとってはシルフィの正体より、権力争いの方が大事であっ
た。
−−−
一週間後。
フィットア領消滅の情報が上がってきた。
速報である。
転移当日、偶然にも転移範囲のギリギリ外にいた騎士が消滅を間
近で目撃。
最寄りの町で事態を報告。
それを別の騎士が受け継ぎ、一昼夜休まず馬を走らせ続け、大き
な町へと通達。
そこから、伝書鳩による手段等を経由し、王都へと伝わった。
国王はそれを受けアスラの魔術師団に調査を命じた。
王都へと情報が届くまで一週間。
その間にも、突如として人や魔物が出現した、という報告は出て
2335
いた。
報告はあれども、原因はわからずの不思議な事件として処理され
ていたが。
しかし、今回の報告によって、それが大規模な転移事件である事
が判明した。
大災害の情報はまたたくまに王都に蔓延した。
当然、その情報はシルフィの耳にも届いた。
父や母がどこにいるかわからない。
全員が行方不明になった。
﹁なに⋮⋮それ⋮⋮?﹂
そんな話を聞いて、彼女はただ、ひたすらに呆然とした。
どう反応していいのかわからなかった。
そして、自分がどうすればいいのかも。
どうなるのかも。
貴族たちもまた、シルフィの扱いに迷っていた。
大規模転移の報告により、シルフィや魔物が唐突に現れた事への
答えは出た。
他勢力のスパイである疑いは薄まり、
彼女の主張通り、しがない猟師の子である可能性が高くなった。
猟師。
いくら王女の身を助けたとはいえ、猟師は平民の中でも下層に位
置する存在だ。
いつまでも王宮においておくわけにもいかない。
かといって、家に帰すにしても、その家も無い。
2336
﹁さてさて、困りましたな﹂
﹁王宮においておくわけにもいかない、帰す家もないとなれば﹂
﹁どなたかが引き取りますかな?﹂
無詠唱魔術の使い手であれば、何かと有用ではある。
さらに言えば、白髪の長耳族となれば珍しく、成長すれば色々と
使い道もありそうだが⋮⋮。
と、好色な笑みを浮かべつつ、互いに牽制しあう貴族たち。
そんな中、第二王女が爆弾発言をした。
﹁シルフィエットのおうちが消えてしまったのでしたら、
この城で私と一緒に暮らせばいいのです。
お友達になりましょう﹂
第二王女はシルフィの事をいたく気に入っていた。
これはなにも、シルフィが彼女を助けたから、という理由だけで
はない。
王女にとって、他者が自分を助けるのは当然の事である。
シルフィの半端にかじった礼儀作法に問題があった。
普通ならやや無礼とおもわれる口調、やや無礼とおもわれる仕草。
貴族相手であればギリギリ許されるラインだが、
王族に対してであれば、ギリギリ許されないライン。
それを第二王女は﹁砕けた口調﹂﹁フレンドリー﹂と受け取った
のだ。
﹁えっと、王女様。私ではその、身分が違いすぎますので﹂
﹁そう? でしたらお友達はやめて⋮⋮そう、私の護衛。護衛を務
2337
めてはくださいませんか?
現在、私の護衛は守護騎士のルーク一人、守護術師の座が空いて
おります﹂
﹁えっ? でも、わたしは、そんなに強くもないし⋮⋮﹂
﹁強くないだなんて⋮⋮くすくす、ご謙遜を﹂
もちろん、貴族たちは反対した。
いくら事件と関係性があったとしても、
いくら無詠唱で魔術が使えたとしても、
いくら王女のピンチを救ったとしても、
シルフィは平民の子である、と。
それも、今となっては出自のハッキリとしない子。
猟師の子だと主張しているものの、証拠は一切無い。
それどころか、農村で生まれ育ったにしては礼儀作法も知ってお
り、
ハッキリ言って得体が知れない。
上辺だけの言葉である。
この有用な子供は、王女のおもちゃにするには惜しい、そう考え
ていたのだ。
対するアリエルはピシャリと言い放つ。
﹁シルフィは私の命を救ってくれた恩人。
そして友人です!
平民だからなんだというのですか!
無礼な言動は許しません!﹂
この言葉にルークが苦い顔をした。
守護騎士という役割には、アリエルに近づく悪い虫を排除するこ
とも含まれる。
2338
シルフィは益虫か害虫かはわからないが、そうした得体のしれな
い虫から守る事もルークの仕事である。
彼もまたシルフィに感謝していた。
命を救ってくれたのだ。
その感謝は、実際、あの場にいた者にしか、死に瀕した者にしか
わからないだろう。
同僚であった守護術師デリックの仇を討ってくれた、という感情
もプラスしている。
ルークは元々、守護術師デリックの事をいけ好かない奴だと思っ
ていた。
だが、今回の一件で少々考えを改めた。
デリックは魔術師でありながら、ターミネートボアの強襲を、体
を張って止めた。
誇り高き人物だ。
彼がいなければ、王女はシルフィの登場を待たずして死亡してい
ただろう。
そして、シルフィが現れなければ、ルーク自身も死んでいた。
なにせ、庭園には武器の持ち込みを禁じられているため、ルーク
も丸腰だったのだ。
剣があれば、勝てないまでもアリエルを逃がす事ぐらいは出来た
だろうが⋮⋮。
そうした事情もあり、ルークはシルフィに関しては好意的であっ
た。
とはいえ、本来なら、栄えある王女の守護術師は、代々上級貴族
が務めてきたもの。
2339
こんな田舎臭い娘を迎え入れるなどあってはならない。
上級貴族の子弟たる自分まで下に見られてしまう可能性もある。
﹁自分は、決定に従います﹂
ゆえにルークは、賛成はせずとも反対もしないという、どっちつ
かずな態度で目を瞑った。
この事に、貴族たちは少々焦った。
自分たちの欲望はさておき。
王女がシルフィを気に入ったのだとしても、
シルフィが王女にとって悪感情を抱かないとは限らない。
猟師の娘で、転移に巻き込まれた被害者。
それが真実だとしても、これから王女との軋轢が生まれないとは
限らない。
そこを他の、例えばそう、第一王子派の貴族につけこまれないと
も限らない。
そう考えると、とてもではないが、シルフィを王女の傍に置くな
ど、できようはずもない。
アスラ貴族は皆、腹黒いのだ。
もし、シルフィが何の力も持たない村娘であったなら。
あるいはそれも許可できたかもしれない。
だが、シルフィの存在は、ただの村娘の範疇を超えていた。
無詠唱で中級の攻撃魔術を使い、
村娘らしく粗野な部分があるかと思えば、多少は礼儀作法も心得
ていた。
得体の知れない存在である。
2340
﹁君は、一体どこで礼儀を習ったのだったかな?﹂
﹁えっと、村にリーリャさんっていう人がいて、その人に教えても
らいました﹂
リーリャ。
その名前が出てきた事が、アリエルの心象をさらに良くした。
﹁リーリャ! 覚えていますわ。私が小さい頃に、身を呈して命を
守ってくれた後宮付きの近衛侍女です!﹂
そして、貴族の心証はさらに悪くなった。
後宮付きの近衛侍女が、怪我で働けなくなり解雇されるという話
はよく聞く。
大抵はどこかで後宮に関する秘密に関して口を滑らせ、人知れず
始末される。
リーリャはフィットア領まで逃げきった。
﹁えっと、リーリャさんは、あ、ルディのお父さんがパウロって名
前なんですけど、その人に仕えていて⋮⋮﹂
﹁パウロ、だと?﹂
新しく出てきた名前。
パウロ・ノトス・グレイラット・
パウロといえば、ノトス家の悪童として有名な男だ。
前当主を恨んでいた、という噂もある。
後宮付きのメイドが、出奔した上級貴族の子弟に迎え入れられ、
無詠唱魔術の使い手に礼儀作法を教えこむ。
2341
偶然にしては出来過ぎている。
貴族たちは、これが何らかの陰謀、作り話に思えてならなかった。
調べようにも、フィットア領はすでに消滅した。
真偽の程を確かめることは難しい。
﹁いかがしましょうか⋮⋮﹂
﹁ふーむ﹂
貴族たちは悩んだ。
アリエルは滅多にわがままを言わない。
そして、守護術師の座が開いているのも事実。
シルフィの出身は平民であるものの、
魔術師としての腕はお墨付きで、礼儀作法も完璧ではないとはい
え知っている。
能力は悪くない。
悪くないがゆえに、警戒する。
グレイラットの一つ、ノトスは第二王女の派閥に属している。
守護騎士であるルークの存在がその象徴とも言えるだろう。
アリエルにとって、ノトスは味方。
しかし、パウロ・グレイラットは親との確執で家を捨てた男。
ノトスは敵であり、ひいてはアリエルの敵である可能性もある。
シルフィはそれを知ってか知らずか、パウロの名前を出した。
それは何を意味するのか。
もしアリエルに信用されたいのなら、パウロの名前は出さない方
がいいだろう。
2342
それぐらいはわかるはずだ。
つまり、名前を出した事で、敵ではないという意味をもたせてい
るのか。
しかし、だとして、この少女を裏で操る黒幕は一体誰なのか。
少なくとも、ノトスの敵なのは間違いあるまい。
とはいえ、かの大貴族グレイラットと敵対したいと思う者は少な
い。
できると言えば、同じグレイラットぐらいである。
と、そこで思い至る。
同じグレイラットで、現在の当主であるピレモンと仲の悪かった
人物が一人いた。
サウロス・ボレアス・グレイラットである。
サウロスは常日頃から、ピレモンではなくパウロが当主になって
いればよかった、と陰口を叩いていた。
とはいえ、彼は年端もいかない少女を政治に利用するような人物
ではない。
やるとするならばもう一人。
フィリップ・ボレアス・グレイラットだ。
彼ならばノトスを、そしてノトスが擁立する第二王女を潰すため、
このような絡め手を使う事もあるだろう。
サウロスもフィリップも、そしてルーデウスも、フィットア領消
滅により行方不明となっている。
もし、転移事件が彼らの引き起こしたものであるなら、これを隠
れ蓑に、何か影で動いている可能性もある。
その最初のアプローチが、シルフィエットという少女なのかもし
れない。
2343
あるいは、フィリップが首謀者で、サウロスが関与していないの
なら、
次期当主であるジェイムズを陥れるために、行動している可能性
がある。
ボレアスの次期当主の座を奪うため、
第二王女を擁立する立場にまわり、その後ろ盾となってもらおう
としている、とか。
その場合、送り込まれてきたシルフィは味方という事になる。
どちらにせよ。
もし黒幕がいるとすれば、それはサウロスかフィリップ。
貴族たちはそう結論つけた。
完全なる邪推である。
そこで、ある貴族が、電撃的な思いつきをした。
﹁そうだ、彼女を例の天才少年ルーデウスと詐称し、揺さぶりを掛
けるのはどうだろう﹂
サウロスらが動いているなら、ルーデウスも共にいるだろう。
ルーデウスの実力は、噂が本当であるなら、凄まじいものがある。
恐らく、サウロス達はルーデウスを奥の手として手元に置いてい
るはずだ。
存在をひた隠しにしているのは、衝撃的なデビューを飾るためだ
ろう。
彼らが姿を現す時、ルーデウスは、ノトスの正統なる血筋をもつ
2344
者として、誰にはばかる事ない状態で出てくる。
ボレアスの擁立する第一王子に与する、強力な駒として。
シルフィが彼らの送り込んだ人物であると仮定する。
彼女をルーデウスとして喧伝すれば、
あるいは彼らの動きの邪魔ができるかもしれない。
そうして揺さぶれば、あるいは尻尾を出すかもしれない、と。
これに対して、他貴族たちは懸念をぶつけた。
﹁すぐにバレるのではないか?﹂
﹁なに、男装させ、己が身分を隠させればよい。いくらでも言い逃
れは出来よう﹂
﹁しかし、本当はこちらを探りにきた間者かも﹂
﹁無詠唱魔術などという目立つ事をするものを間者になどするもの
か﹂
﹁逆に重宝されると考えたのやもしれん﹂
﹁どちらにせよ、引き込んでしまえば偽の情報を流すことはたやす
かろう﹂
懸念はひとつずつ潰されていった。
すると貴族たちも、このくだらない思いつきが、さも名案である
かのように思えてきた。
﹁なるほど、間者であれば偽の情報で敵方の動揺を誘える。何の関
係もないのであれば、強力な魔術師が労せずして王女の護衛となる、
というわけですな。もし我らに取り入ろうというのであれば、それ
に乗ると﹂
2345
﹁それだけではない。彼女は背格好が姫様と似ている。影武者とし
て仕立て上げることもできよう。確か、そうした魔道具もあったは
ず﹂
﹁ほう、確かに普段から男の格好をさせておけば、まさか曲者も普
段近くにいる術師が化けているとは思うまい。男が女に化けるとは
思いませんからな﹂
﹁さすが、卿は賢いな﹂
そして。
第二王女の守護術師﹃フィッツ﹄が誕生した。
無詠唱魔術を使う、謎の天才少年。
サングラスで顔を隠しているため、誰もその正体を窺い知れない。
フィットア領を連想させる名前に、ボレアス家に仕えていた天才
少年を匂わせる部分もあった。
だが、その正体や生い立ちは誰にもわからない。
口数も少なく、少し話した程度では、その性別をうかがい知るこ
とすら難しい。
そんな少年が、誕生した。
そこにシルフィの意志はなかった。
身柄の保証と、事件の情報を探ることを約束してもらったが、
シルフィに拒否権は無く、また選択肢もなかった。
彼女も行き場はなかったとはいえ、
半ば強引に﹃フィッツ﹄にされた。
政権争いの手駒に。
ともあれ、こうして。
2346
シルフィはアリエルの護衛﹃フィッツ﹄となった。
2347
第八十二話﹁守護術師フィッツ登場﹂︵後書き︶
:補足:
髪が白くなったのは転移の影響+魔力枯渇+恐怖。
2348
第八十三話﹁王女と騎士と術師﹂
シルフィの生活は激変した。
ただの村娘から、王族の護衛という生活へ。
まず、服装が一新された。
死んだ守護術師の使っていたマントと靴、手袋。
通常の数倍の速度で走れるようになる﹃疾風の靴﹄。
熱を通さず、使用者を一定の温度に保つ﹃煩熱のマント﹄。
マジックアイテム
掌に受ける衝撃を半減させる﹃圧倒の手袋﹄。
全て魔力付与品である。
そしてシルフィのために新たに誂えられた下着。
﹃鋼糸蚕のビスチェ﹄。
これは防刃繊維によって作られており、剣神流の剣を受け止める
事はできないが、投げナイフ程度なら傷もつかないという代物であ
る。
さらに、特定の人物に危機が迫った時に色を変える事で知らせ、
その人物の方向を示す魔道具。
﹃救難﹄のサングラス。
顔を隠すと同時に、王女の危機を瞬時に察知することができる。
これらの装備は逸品揃いである。
冒険者が見れば、喉から手が出るほど欲しがるだろう。
2349
さらに杖も持たせようという意見もあったが、シルフィはこれを
拒否した。
現在自分が使用している初心者用の杖は、ルーデウスにもらった
ものだ。
唯一の自分の財産であった。
ゆえに、これは手放したくなかった。
初心者用の杖でターミネートボアを一撃で倒した魔術師の言う言
葉だ。
誰も無理強いはしなかった。
食生活も大きく変わった。
ブエナ村においては、黒パンと野菜のスープが主食であった。
そこに父の取ってくるウサギや鳥がメインディッシュとして追加
される。
シルフィの知る食事とは、そうしたものだ。
シルフィの家は貧しいとはいえ、ブエナ村はアスラ王国の一部で
あり、飢えとは無縁であった。
それが、アスラ王国の宮廷の食事に変わった。
真っ白くて柔らかいパンに、深いコクのある具沢山のスープ。
香辛料をふんだんに使い、長時間掛けて調理した肉と魚。
それに生野菜のサラダや、デザートまでついてくる。
シルフィにとって贅沢すぎる食べ物だった。
もっとも、そんな贅沢な料理であっても、あくまで護衛の食べる
ものであり、上級貴族の食べているものから見れば数段下がる。
同じ護衛であるルークのそれよりも低い。
だが、ブエナ村での食事とは天と地ほどの差があった。
2350
シルフィにとっては、夢のような生活であった。
唯一不満があるとすれば、自由時間が少ないことぐらいか。
それでも、体を鍛えたり、魔術の練習をする時間はとれたが。
無論、ブエナ村やルーデウスの事は心配だった。
情報は集められているものの、領主となったジェイムス・ボレア
ス・グレイラットが保身に走り、捜索がほとんど進んでいないのだ。
ダリウス大臣が動き、かつて領主だったサウロスの執事であるア
ルフォンスという人物を手助けして難民キャンプを作ったようだが、
先行きは暗かった。
シルフィは自分の足でも探しに行きたいと主張したが、却下され
た。
お前は護衛の仕事を全うしながら、待っていればいいのだ、と。
シルフィは言われるがまま、護衛の仕事をした。
最初の頃は、失敗続きだった。
特に、人前に出る時は。
いくら礼儀作法が出来た所で、全てを完璧にこなせるわけではな
いのだ。
テーブルマナーで失敗し、廊下で挨拶する時に失敗し、式典の場
でも失敗した。
失敗は第二王女に敵対する貴族たちの嘲笑の的となった。
﹁天才少年といえど、作法まで完璧にこなせるわけではないのだな﹂
むき出しではないにしても、聞けばわかる悪意。
シルフィはイジメられていた頃を思い出した。
足がすくみそうになった。
だが、蹲りはしなかった。
2351
言われているのが自分への悪口ではなかったからだ。
ルーデウスへの悪口だったからだ。
シルフィにとって、それは我慢できないものであった。
ルーデウスなら、ルーデウスならこんな状況でも、きっとうまく
やるだろう。
自分はそのルーデウスと並び立てるようにならなきゃいけない。
そう考えると、シルフィの胸の内に熱いものが湧き出てきた。
以後、同じミスを二度としないように、細心の注意を払って動い
た。
一度わからなかった事は、すぐに聞いて、反復練習をした。
言葉遣いも一人称を﹃ボク﹄と改め、ルーデウスの真似をして、
男っぽく振る舞うようになった。
その行動を好意的に受け止めたのはルークであった。
彼は自他共に認める女好きである。
女を落とすためにはよく観察し、その嗜好を分析する、それが彼
のモットーである。
よく観察するがゆえ、人の持つ良い部分を見つける事ができる。
それが彼の特技だ。
もっとも、女に限定した話であるが。
ルークはシルフィの必死さを見ぬいた。
貴族の女にはない、ひたむきさを見ぬいた。
ある一点をひたすらに見続け、目指し続ける懸命さを見ぬいた。
ルークは、努力するシルフィを見て、自然と彼女のサポートに回
るようになった。
足りない部分はこっそり補い、分からない部分はこっそり教え、
何かあれば影ながらサポートをするようになった。
2352
影ながら、である。
ここらへんが、彼がモテる所以である。
シルフィはそれに気づいていた。
だが、シルフィはルークには惚れなかった。
彼女の心には、ルーデウス以外の人物の入る隙間はなかった。
ルークもまた、長耳族特有のまな板には興味はなかった。
代わりに、二人の間に芽生えたのは、奇妙な友情であった。
ルークは友人が少なかった。
ノトスという家に生まれ、父親の愚かな判断で第二王女を擁立す
る派閥に入り、
歳が近いという事で、半ば無理矢理、守護騎士に任命され、修行
の日々を送った。
対等といえる者はおらず、見下す者と見上げる者だけがいた。
シルフィの前任である守護術師デリックも、年齢差や経験を考慮
すれば、対等とは言いがたかった。
そんな中でシルフィは唯一、対等といえる存在になりえた。
彼にとって、唯一の友と言ってよかっただろう。
−−−
ルークと仲良くなる裏で、
シルフィはアリエルとも交友を深めていく。
しかし、その最初の一幕は、決して優しいものではなかった。
2353
当時、アリエルは極度のサディストだった。
痛めつけるということに興奮を覚える少女だった。
それは、幼少の頃に何度も暗殺されかけた事に起因しているのだ
が、それは置いておこう。
最初、アリエルは自分のお付きのメイドに全裸で掃除をするよう
申し付けたり、
乗馬用の鞭で、小間使いの少年を打ったりしていた。
言ってみれば、弱い者イジメが好きだったのだ。
もちろん、その性癖は極力隠すようになっていったが、すでに宮
廷内では周知の事実である。
最初は弱い者ばかりを狙っていたアリエルだったが、
次第にアリエルは弱い者に興味を失い、﹁強い者﹂に惹かれるよ
うになる。
﹁強い者﹂が、自分の権力や立場にひれ伏し、為すがままになる。
そんな事に興奮するようになった。
ルークはダメだった。
彼はアリエルに対して強い部分を見せようとはしなかった。
それはルークのアリエルに対する想いに起因するものであるが、
それは割愛しよう。
シルフィの前任、守護術師デリックもそうだ。
彼らは、主君たるアリエルに対し、決して強さを見せなかった。
ひたすらに従順であった。
精神的な強さ、反骨心、そうしたものを見せようとしない彼らは、
アリエルの﹁好み﹂ではなかった。
2354
もっとも、アリエルの﹁好み﹂ではないからこそ、彼らは護衛と
いう立場を全うできていたのだとも言えよう。
ではシルフィはどうか。
無詠唱魔術でターミネートボアを一撃で殺し、
見知らぬ場所、見知らぬ相手、見知らぬ作法に対してひたむきに
頑張っているシルフィはどうか。
好みだった。
魔術の腕前にしても、
歳若い年齢にしても、
真っ白い髪にしても、
長い耳にしても、
ひたむきさにしても、
そしてどうやら好きな男がいるらしいという事にしても。
全て、アリエルの好みであった。
好みだったが、アリエルも最初は我慢した。
なにせ、シルフィは自分を救ってくれたのだ。
命の恩人なのだ。
ターミネートボアを目の前にした時の恐怖は今でも覚えている。
守護術師に突き飛ばされなければ、アリエルの頭は脳漿をまき散
らして破裂していただろう。
ルークが庇ってくれなければ、自分の胸とお腹は離れていただろ
う。
そして、シルフィがいなければ、自分もルークも生きてはいなか
っただろう。
ターミネートボアは、ゴブリンとは違う。
2355
女と見て、犯すような事はしない。
ただ食い散らかすだけだ。
命を救われたのだ、誇り高きアスラ王族として、それに報いなけ
ればいけない。
しかし、そんな思いは、次第に霧散していった。
毎日ごはんを美味しそうに食べているシルフィ。
毎日一生懸命生きているシルフィ。
こんな美味しいものを食べたのは初めてです、とアリエルに感謝
の言葉を述べるシルフィ。
アリエルの目には、それが凄まじく幸せそうに見えた。
もちろん、シルフィはシルフィで、当然ながら、両親やルーデウ
ス、彼の家族の事を心配していた。
だが、同時にシルフィには、﹃アリエルに保護されている﹄とい
う認識もあった。
それが、態度に出ていた。
そんな態度を見て、アリエルも思った。
これはいいのかな、と。
我慢しなくてもいいのかな、と。
そんな勘違いは、アリエルを蛮行へと導いた。
ある晩、アリエルはアスラ王国御用達のロイヤルな張形を持って
シルフィの寝所へと特攻した。
めくるめくピンク色の夜。
王族相手に逆らえるものはいない。
シルフィの貞操は風前の灯火だった。
2356
と、思いきや、シルフィは反撃した。
血走った目をして襲い掛かってくるアリエルに反撃した。
半狂乱になって反撃した。
シルフィは礼儀作法を学んではいた。
しかし、王族を敬う気持ちというものは持ち合わせていない。
そして、リーリャより、夜の営みについては聞き齧っていた。
自分が強姦されているという認識があった。
もちろん、アリエルに感謝はしている。
だが、それとコレとは別の話である。
シルフィは魔術により、アリエルに半死半生の傷を負わせた。
もしシルフィ自身が治癒魔術を使えなければ、大問題になった所
である。
実際、問題になりかけた。
シルフィの悲鳴を聞いて駆けつけたルーク。
彼が見たのは、ボロボロになったアリエルと、それを治すシルフ
ィだった。
アリエルが、守るべき第二王女が、ズタボロにされているのであ
る。
ルークは、一瞬で状況を悟った、アリエルの悪い癖が出たのだ、
と。
同時に、これはまずい、と考えた。
いくら自分でもかばいきれない。
アリエルが一言命じれば、自分はシルフィの首を落とさなければ
いけない。
そう直感的に悟った。
2357
ルークは揺れた。
保身に走り友を殺すか、ダメ元で友をかばうか。
しかし、その葛藤は杞憂に終わった。
﹁いたぶられるのも、意外といいのですね⋮⋮﹂
アリエルは新たな性癖に目覚めていた。
アスラの王族・貴族は、誰もが奇妙な性癖を持っている。
マゾヒズムについても、例外ではなかった。
ゆえに、今回の一件は、プレイの一つという事で落ち着いた。
﹃被害者であるアリエル﹄が﹃加害者であるシルフィ﹄を庇った
のだから、当然であろう。
アリエルはそれ以降、シルフィに襲いかかるような真似はしなか
った。
とはいえ、普通なら気持ち悪いと忌避する所である。
しかし不思議な事に、シルフィはその日より、アリエルからの信
頼感を感じるようになった。
生まれつき同年代に忌避され、
唯一友人となったのもルーデウスという特殊な少年。
また、シルフィ自身の年齢も幼く、二次性徴もまだであったゆえ、
危機感がやや薄かったのも関係していよう。
あるいは、自分に向けられた無防備な好意に惑わされただけかも
しれない。
キッカケは歪だが、アリエルとシルフィの間にも友情の糸が結ば
れた。
2358
以後、友人として、少しずつアリエルとも仲良くなっていった。
−−−
事態が動いたのは、転移事件より一年の歳月が流れた頃である。
否、事態はすでに動いていた。
シルフィの知らぬ所で、転移の日よりずっと。
発端はリストン卿の妄言だ。
彼は偶然の出来事を、さも第一王子の仕業であるかのように喧伝
した。
少なくとも、誰かが手引きしなければ魔物が王宮に現れる事など
無いと思っていたからだ。
そして、なすりつける相手は誰でもよかった。
無実の相手を犯人扱いする方法はいくらでもあった。
しかしながら、人の手によるものではないとなれば、話は別であ
る。
忌むべき天災を利用して相手を貶めようとした、という事で、第
一王子派から猛攻撃を受けた。
忌むべき天災を利用して誰かを貶める。
貴族の大半がやっていた事である。
しかし、リストン卿は機を誤った。
天災と確定しないうちに、相手の派閥を攻撃したという事実が生
まれてしまった。
隙を見せてしまった。
2359
第一王子派の筆頭、ダリウス上級大臣はここぞとばかりにリスト
ン卿を攻撃した。
リストン卿は権威を失墜。
領地の大半を失い、中級貴族となった。
アリエル
彼の失墜により、ただでさえ力の弱かった第二王女派は、さらな
る攻撃を受けた。
ダリウス上級大臣が、苛烈に第二王女派の貴族を攻撃したのだ。
有力貴族は次々と力を失っていき、あるいは寝返り、第二王女派
は瓦解した。
有力な擁立者を失った事で、アリエルは事実上、王になる道を失
った。
だが、アリエルのカリスマ性は極めて高い。
民衆の人気も高く、生きていれば、必ず邪魔になることが予想さ
れた。
ダリウスは第一王子に進言し、トドメとしてアリエルに暗殺者を
差し向けた。
すでに有力貴族は抑えられ、彼女を守る兵はいない。
兄が、妹を暗殺。
アスラ王国の王座を手に入れるという事は、そうした権力闘争に
勝ち残るという事でもある。
現在の国王もまた、そうして王座についたのだ。
第二王女派を守る戦力は無い。
政治的な手段で暗殺を止める手立ても無い。
2360
アリエルの命は風前の灯に思えた。
しかし、暗殺は阻止された。
シルフィの手によって。
彼女は暗殺者を返り討ちにしたのだ。
死闘であった。
もし、彼女が、ルーデウスの弟子でなければ。
無詠唱による混合魔術や、衝撃波による高速移動を知らなければ。
彼のやっていた事を間近で見て、なんでそんな事をしているのと
聞いていなければ。
その理論と理屈を聞いて、真似しなければ。
そして、相手が子供だと侮っていなければ。
シルフィは命を落としていたであろう。
結果として、シルフィは生き残った。
暗殺者の用いた毒により、3日ほど生死の境をさまよったが、運
良く後遺症もなく、生き延びた。
これにより、シルフィこと﹃フィッツ﹄の名前は王宮内に広く知
られることとなる。
天才少年の噂は聞いていたが、しかし偽物か、あるいはハリボテ
であろうと思っていた者も多かった。
そもそも、守護騎士や守護術師というものは、古来より伝わる王
族のボディガードであるが、そのほとんどは、有力貴族の次男や三
男によるお飾りである。
暗殺者を差し向けられれば、王族を守って潔く死に、
親は我が息子は勇敢に戦って死んだのだ、と大げさに嘆き悲しむ。
王族はその貴族に対し褒章を送り、絆を深める。
2361
そうした存在である。
いわば捨て駒、見栄の道具である。
しかし、シルフィは違った。
彼女は実戦経験には乏しいものの、実力のある魔術師であった。
暗殺者撃退の報を聞いて、ダリウスが警戒を露わにするぐらいに。
放たれた暗殺者は、それだけの腕を持つ者だったのだ。
警戒する第一王子派。
対するアリエル達は恐怖した。
このまま王宮にいれば、いずれ殺されるだろう、と考えた。
すでに味方は少ない。
有力貴族を含め、数名しか手元に残っていない。
暗殺者が堂々と王族の部屋に現れ、それを誰も咎められない。
それどころか、問題視さえされない、そんな状況である。
アリエル派の筆頭貴族ピレモン・ノトス・グレイラットは、この
状況を詰みだと結論付けた。
﹁お逃げください、アリエル様。ここにいては死を待つばかりです﹂
﹁逃げてどうするというのですか﹂
﹁私はダリウスとは懇意です、第一王子派の内部に入り込み、その
力を削ぎます。アリエル様は異国の地にて力を蓄え、味方を揃え、
機を見て戻ってきてくだされば、立て直しも出来ましょう﹂
ピレモンは小賢しい男であった。
彼にとって、アリエルが王になる事こそ、最も利益のある結末で
ある。
2362
その道を残しつつ、しかしアリエルが死んでもノトスが滅びぬよ
うダリウスに取り入った振りをしておき、状況次第でどちらに転ん
でもいいように手をうった。
アリエルはそんな事は知らない。
だが、このままでは殺されるのは明白である。
その言葉に従い、遠い異国の地に避難することにした。
そこで力を蓄え、雌伏して時を待つのだ。
留学先の候補はいくつかあった。
王竜王国、ミリス神聖国といった大国もその候補に入っていた。
だが、アリエルは北を選んだ。
ラノア王国の魔法都市シャリーアを目指した。
魔法三大国の誇る魔法大学を。
他の国では、大国たるアスラの政権争いに負けたアリエルに力を
貸すものは少ないだろう。
誰も、潤沢な資金を持つ化け物国家を相手に喧嘩などしたくない。
だが、世界各国のあらゆる種族の集まるこの大学であるなら、
あるいはアスラ王国における復権の足がかりになるやもしれない。
アリエルはまだ諦めてはいなかった。
生きる事を。
そして、王になる道も。
貴族に言われるだけではない。
彼女はアスラ王族に生まれた自分の宿命を理解していた。
﹁シルフィ、ごめんなさい﹂
アリエルは、その旅路にシルフィが同行する理由が無いことを承
2363
知していた。
すでに、シルフィの疑いはほぼ晴れている。
フィットア領捜索団にパウロの名前があり、転移事件とは無関係
であると判明している。
サウロスは何も知らずにノコノコと王都に出てきた所を、ピレモ
ンや第二王子派の策略によって処刑された。
この時点ではフィリップ、ルーデウスの行方はしれていなかった。
だが、サウロスの言い分やアリエルに対する献身を見る限り、シ
ルフィは潔白であった。
彼女は、転移事件の被害者にすぎないのだ。
﹁⋮⋮こうなった以上、貴女を自由にすべきだとは思うのですが。
お願いします、私の身を守ってください。貴女しか頼れる人がいな
いのです﹂
﹁俺からも頼む、俺の剣は未熟だ。アリエル様を守り通せる自信が
ない﹂
アリエルとルークは、自分たちよりはるかに身分の低いシルフィ
に頭を下げた。
シルフィとしても、自分の足で家族やルーデウスを探しに行きた
かった。
だが、この一年間で、シルフィも彼らの事を友達だと思っていた。
少々変な所の目立つ友達で、ルーデウスとの関係とはちょっと違
う。
だが、しかし友達は友達である。
シルフィにとって、片手で数えられる程度の友達である。
﹁わかった。ボクがアリエル様を守るよ﹂
シルフィが本当の意味で王女の守護術師になったのは、この時だ
2364
ったかもしれない。
−−−
彼らは、留学という形でアスラ王国を後にした。
その姿は、暗殺を恐れ、全てを投げ捨てて国から逃げ出したよう
にしか見えなかった。
半分は事実であったが。
第一王子はというと、さらに追手を差し向けた。
彼はアリエルの危険性をわかっていた。
彼女のカリスマ性は、魔術ギルドを虜にする場合もある。
大学に通う生徒には、アスラ王国貴族の子弟もいる。
次代を担う事のない次男坊、三男坊が中心だが、彼らが当主にな
る方法など、いくらでも存在している。
また、他国・他種族の王族もいる。
極めて高いカリスマ性を兼ね備えたアリエルが、他国との深い繋
がりを得て戻ってきたら⋮⋮。
第一王子派はそう考え、過剰な攻撃を加えた。
追手は王女一行がアスラ王国から出るまで続いた。
残った貴族が付けてくれた従者は十五人いたが、
襲撃のたびに一人、また一人と命を落とした。
特に、国境である﹃赤竜の上顎﹄での襲撃は苛烈を極めた。
十名近い剣士と、それをサポートする魔術師、治癒術師が待ちぶ
せしていたのだ。
それまでの襲撃は、全てこの待ち伏せのための布石であった。
2365
必殺の布陣は、しかしシルフィの手によって打ち砕かれた。
ルーデウスの編み出した無詠唱による戦闘術は有効であった。
シルフィは護衛の仕事をしつつも、己の体を鍛えることは怠って
はいない。
時にはルークに教わりながら、剣を振った事もある。
この頃、彼女の体は、うっすらとだが闘気を纏い始めていた。
そして、﹃赤竜の上顎﹄を通り抜けると、襲撃はぴたりと止まっ
た。
その頃、シルフィとルークを除く従者は二人まで減っていた。
第一王子派は、目の届かない他国に襲撃者を送りつける程の度胸
は持っていなかった。
必殺の布陣を砕かれ、国内ですら仕留め切れない相手を、他国で
仕留めきる自信がなかった。
もっとも、これは第一王子派の失策である。
実際の所、あともう二、三度襲撃を繰り返せばアリエルは命を落
としていた可能性も高かったのだ。
従者が体を張って王女を守らなければ、シルフィ一人で王女を守
りきれるはずもなかった。
だが、第一王子の判断ミスを誘ったのは、間違いなくシルフィの
戦闘力のお陰であろう。
それから、彼らはラノア王国へと移動した。
他国での旅には慣れない五人。
残ったのは二人の従者。
2366
エルモア・ブルーウルフ。
クリーネ・エルロンド。
どちらも、歳若い少女であった。
旅のイロハを知る、中年の従者はすでに死んでしまった。
段取りは悪く、移動には時間がかかり、途中で冬になった。
追手を危険視していた彼らは、村人の静止を振りきって移動をは
じめ、危うく遭難しかけた。
危うい彼らは、野盗や魔物にとって美味しい鴨に見えたのだろう。
道中、何度も襲われた。
だが、全て撃退した。
それ以外にも、幾つもの困難が彼女らを待ち受けていた。
紆余曲折を得て魔法都市シャリーアについた時、彼らはそれまで
以上の強い絆を感じていた。
仲間であった。
−−−
シルフィたちは魔法大学に入学した。
魔法大学、並びに魔術ギルドはアスラ王族を歓迎し、特別生とし
ての扱いを約束した。
だが、アリエルはこれを拒否。
あくまで一般生徒に交じる事で、他生徒たちとの交流を得ていく
こととなる。
アリエルは緻密に計算した。
2367
この地で権力を得るにはどうするべきか。
ただアスラ王族という立場に甘んじては、大業は成せないだろう。
手駒は有効に使う。
まず、シルフィは護衛として、アリエルの﹃力﹄を見せる役とす
る。
ルークは同じ護衛であるが、力でなく、寛容さや緩さ、身近さを
見せる役だ。
アリエル自身は象徴として、憧れの的となる。
二人の従者、エルモアとクリーネには、影に徹してもらう事とし
た。
シルフィの変装はそのまま続けられた。
アリエルの護衛をするに当たっては、女の格好をしていた方が便
利である。
しかし、﹃謎﹄という部分を強調させる事は、﹃力﹄を見せる上
では有効である。
顔も見せない、声も出さない、少年なのか少女なのかもわからな
い。
無詠唱で魔術を使う、極めて強い護衛。
それが王女を守っているという、その事実こそが重要であった。
王女の存在をより大きく見せることが出来る。
また、相手のことがわからなければ、手を出すのを躊躇する者も
いるのだ。
二人の従者の主な任務は情報収集である。
普通の一般生徒にまじり、細かな噂などを収集したり、情報を操
作したりする。
隠密、諜報員としての仕事である。
彼女らは、時にはルークの取り巻きとしてさり気なく接触し、情
2368
報を持って来る。
フィットア領の捜索団の情報や、在校生徒の個人情報、アスラ王
国の現在状況、周辺の有力冒険者の情報、等など。
ルークはそれを自然と受け取るため、道化を演じる。
身近な存在として、気さくなポーズを取り続ける。
もっとも、彼は元々女好きであったため、ポーズではない行動も
多々行なっていたが。
知らない土地で、知らない、文化の違う人々を相手にして成り上
がる。
失敗は許されない。
−−−
アリエルは次第に憔悴していった。
失敗は許されないという状況の中、一切気を抜く事なく、象徴と
して振舞い続けたがゆえの事である。
心休まる時は無く、小さな出来事一つで大きく心を削られた。
それでも、最初の数ヶ月はなんとか持っていた。
シルフィがアリエルの話し相手となり、ストレスを発散させてい
たからだ。
しかし、ある情報が届いてしまう。
フィットア領の死亡者名簿の更新⋮⋮。
2369
すなわち、シルフィの両親の死の情報である。
これにより、流石のシルフィもふさぎ込んでしまった。
これまで必死にやってきたシルフィだが、両親の死は、こたえた。
一つの希望が砕かれた瞬間だった。
ふさぎ込み、一人になりたいと思ったが、状況がそれを許さなか
った。
アリエルは憔悴し、
シルフィはボロボロ。
従者二人も、なれない生活で、決して他人を気遣えるような状況
ではなかった。
元気なのはルークだけだった。
彼はグレイラット家特有の楽観的かつ豪胆な性格を持っていたが
ゆえ、どこにいても同じ状態でいられた。
アスラの上級貴族というだけで女が入れ食い状態な事も、彼の精
神の安定に一役買っていた。
ルークは、この状況をどうにかしなければならないと考える。
とはいえ、自分の知識の中には、女が落ち込んでいたら、抱いて
慰めるぐらいしかなかった。
従者二人はともかく、アリエルとシルフィを抱くつもりはなかっ
た。
ルークにとって、この二人は恋愛感情を飛び越した特別な存在で
あった。
彼は悩んだ。
どうすれば、と考えた。
そこで、ふと思い出した。
2370
かつて、ボレアスの凶暴な猿に勉強を教えたという例の天才少年
は、七日だか十日だかに一度、休日というものを作り猿の怒りを鎮
めた、と。
放蕩癖のある彼も、息抜きというものが重要であることには感づ
いていた。
十日に一度、ハメを外して遊ぶ。
それによってガス抜きをしようと提案した。
アリエルは効果があるのかと悩みつつも、それに同意した。
シルフィもまた、一人になれる時間というものを欲していたため、
同意した。
しかし、懸念がひとつあった。
アリエルは象徴となるべき存在である。
そんな存在が、数日に一度ハメを外して街で遊んでいたら、他の
者はどう思うだろうか。
アリエルは、象徴でなければならない。
そこらの娘と同じような部分を見せてはならない。
せっかく築きあげ始めたものを、今崩すわけにはいかない。
そんな懸念は、ある魔道具の存在によって解決した。
他人の姿に化ける魔道具である。
この魔道具は二つの指輪の形を取っている。
緑の指輪と赤の指輪。
緑の指輪を装着した方は、赤の指輪をした者と同じ顔形と髪色に
なる。
これはアスラ王国に代々伝わる秘伝の魔道具である。
アスラ王国の影武者は、この魔道具によって仕立てあげられてき
2371
た。
アリエルやシルフィも、国内を逃げまわる際、これを使う事でア
リエルの偽物を作り、襲撃者の目を欺いた。
もっとも、この魔道具では、背丈や体系、声、目の色などが変わ
らない。
よく観察されたり、会話をしてしまえばすぐにバレる。
とはいえ、それで十分であった。
これを使い、アリエルはシルフィに化けた。
シルフィは普段からサングラスをし、さらにほとんど声を出さな
い生活をしていた。
魔術はすべて無詠唱で行うのも、都合がよかった。
背丈もアリエルと変わらない。
好都合であった。
アリエルはこれを使い、﹃フィッツ﹄となった。
﹃フィッツ﹄として、街中を出歩く事が可能となったのだ。
その間、シルフィは人気のない場所にいる必要があった。
彼女は自分の居場所として、静かな図書館を選んだ。
丁度、両親が死んだ事で、あの事件について調べたいとも思って
いたのだ。
こうして、シルフィ達は魔法大学での生活を営んでいく。
2372
第八十四話﹁入学初日・番外編﹂
入学してから数年の間は、何事もなく過ぎた。
何事も無くと言っても、命の危険がない、という意味だ。
リニア・プルセナと決闘したり、
アリエル様がボクのふりをして街中を歩いていたらガラの悪いの
に囲まれたり。
そんな小さなイベントは目白押しだったけど、命の危険はなかっ
た。
概ねアリエル様の思惑通りに事が進んでいた。
この数年で、アリエル様の信奉者も増えた。
しかし、三年目に入って。
ボクらはある情報を得た。
﹃泥沼のルーデウス﹄と呼ばれる人物の情報である。
ルーデウス。
そう、ルディの情報を得たのだ。
若くしてA級冒険者で、数年であっという間に魔法三大国中に名
前を広めた魔術師。
得意技は土魔術。
強さのほどは定かではないが、無詠唱で巨大な泥沼を作り出すと
いう。
泥沼の魔術と聞いて、ボクはルディだと確信した。
思えば、最初に出会った時に彼が使ったのも泥だった。
ルディは水聖級魔術師だから水が得意だと思いがちだけど、
2373
泥沼による移動阻害だとか、衝撃波による高速移動だとか、そう
いう絡め手を好んで使っていた。
ボクはそのことをアリエル様に改めて話した。
﹃泥沼のルーデウス﹄はボクに魔術を教えてくれた人物であり、
そして、長い間行方不明になっていた人物だと。
﹁本物なら、ぜひとも力を貸して頂きたいですが⋮⋮﹂
アリエル様はルディに対して懐疑的であったと思う。
入ってきた﹃泥沼のルーデウス﹄の情報は、実に胡散臭いもので
あったからだ。
ルーデウス・グレイラット。
アスラ王国フィットア領ブエナ村出身。
三歳の時に、水王級魔術師ロキシー・ミグルディア︵当時は水聖
級︶に弟子入り。
五歳にして水聖級魔術師となる。
七歳の時にフィットア領城塞都市ロアの町長の娘、エリス・ボレ
アス・グレイラットの家庭教師となる。
話によると、手の付けられない暴れん坊だったエリスを、きちん
と教育して立派なレディにしたそうだ。
その後、フィットア領転移事件にて行方不明となる。
昔はこんな話を聞いても、別段凄いとは思わなかっただろう。
けど、アスラ王宮で暮らし、魔法大学で色々と勉強した今なら、
ハッキリといえる。
この経歴は、おかしい。
作り話だ。
2374
けど、ボクは知っている。
ルディは、ロキシーさんを師匠として、尊敬していた。
ボクはロキシーさんを見たことはない。
けど、ブエナ村にロキシーさんが居た事は知ってる。
それに、ボクの持っている杖も、ルディがロキシーさんより授か
ったものだ。
七歳で家庭教師になったのも、ボクと別れた後で、時期としては
一致する。
﹁情報に間違いはない、きっとルディだよ﹂
﹁シルフィがそう言うのでしたら、信じなくもありませんが⋮⋮﹂
﹁しかし、実際に噂を聞くと、どうにも胡散臭いな﹂
アリエル様とルークは半信半疑だった。
一応、信じてはくれたけど、仕方ない。
ルディの事を知っているボクだって、おかしいと思うもん。
﹁けれど、そんな凄い方が、私たちに手を貸してくれるでしょうか。
元々そのルーデウスというのは、ボレアスの人間でしょう?﹂
正直、ボクはアスラ王国の勢力図というものについて詳しくない。
一年では覚えきれなかったのだ。
ただ、グレイラットに関しては、一応ながら知っている。
ボレアスは第一王子派。
ゼピュロスとエウロスは第二王子派。
ノトスはボクらの味方だったけど、今は第一王子派に傾いている。
ボレアスはすなわち、敵だ。
そして、ボレアスの家庭教師をしていたルディも、敵の可能性が
高い。
2375
でも、ルディとボレアスはもうとっくに切れているはずだ。
じゃなきゃ、北部で冒険者なんてやっていないはずだ。
﹁ぼ、ボクが頼めば、きっと⋮⋮﹂
自分で言って、自信がない。
自信なげな言葉に、ハッと笑ったのはルークだ。
﹁お前の胸で、ノトスの男がなびくわけがないだろう﹂
その言葉に、ボクはよくルークに貧相だと言われる胸を押さえて、
ぷくっと膨れた。
ルークはいつもこうだ。
何かと胸のことばっかり言ってくる。
女は胸。
胸のない女は女じゃない。
お前に女としての魅力を感じない。
仕方ないじゃないか、長耳族の血が出てるんだから。
種族柄、大きくなるわけないんだよ。
でも、ルークも悪口だけじゃない。
最後には、必ずこう言う。
女じゃないから俺はお前の友達でいられる、って。
友達って言われるのは嬉しいけど、女としての魅力が無いといわ
れるのは複雑だ。
2376
そりゃ、アリエル様に比べたら、ボクなんてダメダメなんだろう
けど⋮⋮。
﹁頼むって、そういう意味じゃないよ﹂
﹁じゃあどういう意味だ? まさか、正体を明かすつもりじゃない
だろうな?﹂
﹁え? あ、そっか﹂
ボクはフィッツ、﹃無言のフィッツ﹄。
正体は明かせない。
どうしよう。
﹁⋮⋮⋮⋮良かったですねシルフィ。探していた人が見つかって﹂
ふと、アリエル様がそう言って微笑んでくれた。
アリエル様はいつでも優しい。
厳しい時もあるし、悪いことを企む事もあるけど、根は優しい人
だ。
そんなアリエル様は、驚くべきことを口にした。
﹁特別に、そのルーデウスさんには貴女の正体を明かしてもいいで
すよ﹂
﹁え?﹂
正体を明かす。
﹁でも⋮⋮それが原因で計画が失敗したら﹂
ボクは、自分の役割についてはよくわかっているつもりだ。
ボクは謎。
2377
正体不明の﹃力の象徴﹄だ。
ボクもこの数年で、そんじょそこらの相手には負けないってこと
がわかった。
ルディに鍛えてもらったお陰だ。
七大列強とか、なんとか王とか、なんとか帝とか、そういうレベ
ルじゃないけど。
でも多分、聖級ぐらいはあると教えてもらった。
他の王子様たちが抱えている王級の人達にはかなわない。
けど、でも今の第二王女派の最高戦力としての自覚は持たないと
いけない。
﹁シルフィには、今まで頑張ってもらいましたからね⋮⋮。感動の
再会ぐらいはさせてあげたいのです﹂
﹁でも﹂
﹁それで計画が失敗するなら、それまでの事です﹂
アリエル様は、ぴしゃりと音がしそうな声音で言った後、
﹁それに、籠絡するのなら、幼馴染だと話した方が簡単でしょう?﹂
﹁⋮⋮ありがとう、アリエル様﹂
ボクは素直にお礼を言った。
何か腹黒いものが見えたけど、いつものことだ。
成長したボクを見て、ルディはなんて言ってくれるだろうか。
今から楽しみだった。
−−−
2378
ルディを学校に招くという企みは順調に進んだ。
ジーナス教頭に情報を流し、それとなく勧誘を促せば、彼は簡単
に動いてくれた。
数カ月後、ボクの待ち望んだ日がやってきた。
修練場での実習授業中、ジーナス教頭が一人の人物をつれて入っ
てきた。
ボクは歓喜の声を上げそうになった。
ルディ。
ルディだ!
間違いない。
昔と違って、表情に影が差しているようにも見えるけど、間違い
ない。
ボクがルディを見間違えるはずがない。
︵どうしよう、すごくカッコ良くなってる!︶
記憶にある少年の面影を残しつつも、ルディはたくましくなって
いた。
物腰は鋭く、足取りからもよく鍛えてある事がわかる。
擦り切れたローブはワイルドで、歴戦のそれを思わせる。
杖も、遠目から見ても使い込まれたいいものだとわかる。
周囲を油断なく見回ししながら注意深く歩いているのも、昔のま
まだ。
2379
︵うわぁ⋮⋮ボク、あんな人と結婚しようとか思ってたんだ︶
そう考えると、なんだか体が熱くなる。
﹁ル⋮⋮っ!?﹂
なんとも言えない情動に突き動かされるように、ルディの名前を
呼びながら駆け寄ろうとした。
直後に、ボクは凍りついた。
ルディの後ろから、めちゃくちゃ綺麗な女の人が後ろからついて
きたからだ。
︵⋮⋮あれ⋮⋮もしかして、ルディの奥さん?︶
女の人は、長耳族だった。
どこか、お父さんに似た雰囲気を持つ人だった。
凛とした顔立ちで、高貴な印象を受ける。
そして、そんな人が、ルディとベタベタしていた。
ルディはうっとおしそうにしていたけど、決して嫌がってはいな
かった。
︵⋮⋮あれ? ⋮⋮あれ?︶
混乱している間に、ルディに駆け寄る機会は失われた。
その後、ルディの試験をするということで、ボクが呼ばれた。
ルディが本当に無詠唱魔術を使えるかどうかを見るらしい。
その頃には、ボクもなんとか気を取り直していた。
2380
あんなにかっこいいルディなら、すでにいい人がいてもおかしく
ない。
そう考えたのだ。
うん。
結婚しても関係ない。
自分と彼は友達だから。
何も問題ない。
祝福してあげよう。
いや、それよりまず、お互いの無事を喜ぼう。
そう自分に言い聞かせて、ルディに声をかけようとして
﹁はじめまして、ルーデウス・グレイラットです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
はじめ、まして?
え?
え⋮⋮。
あれ?
うそ。
ちょっと、まって⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮忘れられてる?
﹁何事もなければ、来期からあなたの後輩になります。
何か至らないところがあればご指導ご鞭撻の程お願いします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮え?﹂
口から疑問符があふれた時、
ボクは自分がサングラスをかけ、
緑の髪も白に変わっていて、
2381
ついでに男装していた事を思い出した。
そうでなくとも、別れてから8年は経つのだ。
成長によって、大きく変わっているんだから、一目でわからなく
ても仕方がない。
ボクは自分本位に考え過ぎていた。
自分が気付いたんだから、向こうも気付くだろうと考えていた。
気がはやっていたのだろう。
じゃあ、改めてサングラスを外して、名前を名乗ればいい。
アリエル王女からも許可は得ている。
こんな所ではまずいけど、
彼を物陰にでも呼び出して、そこで改めて名乗ればいい。
しかし、ボクは思ったのだ。
思ってしまったのだ。
︵もう、ルディは、ボクなんか、覚えてはいないんだ⋮⋮︶
一度でもそう思ってしまえば、もうサングラスを外す事はできな
かった。
サングラスを外して、名前を名乗って。
その上で、﹁ごめん、誰だっけ﹂などと言われたら⋮⋮。
そう考えると、もう、ダメだった。
﹁あ、は、はい﹂
ルディにあったらこう言おう、ああ言おうと思っていた事は霧散
した。
2382
もう、何を言っていいのかも、わからなくなった。
そして、あれよあれよという間に試験が開始され。
ボクは負けた。
完膚なきまでに、敗北した。
わけのわからない術で魔術を封じられ、
何も出来ないまま、見たこともないようなレベルの岩砲弾が頬を
かすめた。
当てようと思えば当てられたのに。
手加減されたのだ。
ボクの成長をどうこうなんて話じゃない。
ルディは、もっともっと先を行っていたのだ。
﹁い、今の⋮⋮どうやってやったの⋮⋮?﹂
やっとの思いで聞けたのは、それだけだった。
ディスタブマジック
﹁乱魔という魔術です。知りませんか?﹂
知らなかった。
聞いたこともなかった。
恐らく、どこかの種族の独自魔術か何かだろう。
魔法大学の誰に聞いても、そんな魔術を知っている人はいないは
ずだ。
︵ルディは凄い︶
改めて、そう思った。
2383
芽生えたのは尊敬の念だった。
彼は、やはり成長していた。
自分なんかとは、比べ物にならないぐらい。
そう思いながら見ていると、彼はやおら、頭を下げた。
﹁ありがとうございます先輩!
新入生である僕に花を持たせてくださったんですね!﹂
﹁えっ?﹂
ボクは困惑した。
意味がわからない。
ボクは何もできなかった。それはルディだってわかったはずだ。
なのに花をもたせる?
困惑しつつもボクは、ルディの伸ばした手を掴んだ。
魔術師の手ではなかった。
剣士の手だった。
掌にタコが出来て、それを潰したことのある者の手だった。
ルークよりもずっと長いこと剣を持っている者の手だった。
剣士でもないのに。
そして、困惑しつつも、ボクはその手を掴んで、ドキドキしてい
た。
ルディの温もりが、ボクの手を伝わってくるのが、なんだか無償
に嬉しかった。
しかし、ルディはさらにボクを困惑させてきた。
﹁本日の御礼は、後日きっちりとさせていただきます﹂
お礼、どういう事だろうか。
2384
わからない。
わからない。
わからないけど、後日また会えるという事に思い至った。
ちょっとだけ顔が熱くなるのを感じながら、ボクはコクコクと頷
いた。
そしてルディが去ってから、覚えられていなかった事を思い出し、
泣いた。
−−− アリエル視点 −−−
生徒会室に戻って一息ついたら、シルフィに泣きつかれました。
﹁はじめましてって言われた⋮⋮﹂
最初は、ルーデウスが女連れだった事を悩んでいるのかと思いま
した。
ちなみに、ルーデウスと一緒にいた女性は彼のパーティメンバー
のS級冒険者。
ルーデウスとは深い関係ではない、という事はすぐに分かりまし
た。
しかし、シルフィの心は晴れないようです。
それ以前の問題であったから。
﹁ルディは、もうボクのことなんて覚えてないんだ⋮⋮﹂
﹁シルフィ⋮⋮﹂
2385
私は困惑していました。
こんな事は初めてです。
シルフィエットという少女は、もっと強い子であったはずです。
気丈で、ひたむきで、真っ直ぐな子だったはずです。
それが、どうしてか、私の膝で泣いています。
転移事件から、自分の両親が死んだ時ぐらいしか泣かなかった子
が。
あのみすぼらしいローブをきた少年に覚えられていないというだ
けで、これです。
こんな彼女を見ていると、加虐的な心が芽生えてしまいます。
いけないことです。
私はシルフィエットには嫌われたくありません。
友達ですもの。
しかし、あの少年。
ルーデウス・グレイラット。
シルフィと同い年なら、ようやく成人したかどうか、という所で
しょうか。
正直、シルフィの話から想像していたのとは少々違いました。
私の第一印象は﹁みすぼらしい男﹂です。
買い換えればいいのに、擦り切れた安物のローブ。
不自然なまでにへりくだる態度、
キョロキョロと不審げに周囲を見回す姿、
自信のなさそうな顔⋮⋮。
そして、どうにもこう、男としての魅力というものが感じられま
せんでした。
私はあの男をいたぶっても、逆にいたぶられても、大して興奮し
2386
ないでしょう。
あれなら、ルークの方がマシですね。
ルークは浮気症でフラフラしている男ですが、性的な魅力に関し
てはピカイチです。
主従関係にある以上、互いに手出しはしませんが。
しかし、あの少年。
ルーデウス・グレイラット。
魅力のない男。
そんな男が﹃私のシルフィ﹄を泣かせている。
そのことが、私には、どうにも許せません。
﹁本当に忘れられたのか?
顔を見せて、名前を名乗ってから嘆いたらどうだ?﹂
そう口にしたのはルークです。
彼もルーデウスに関しては、少々思う所があるようです。
﹁もし、それで思い出されなかったらどうするのさ⋮⋮﹂
﹁その時は、仕方ないだろ﹂
﹁仕方ないで済ませないでよ!﹂
ルークの軽い言葉に、シルフィは情けない声で抗議しました。
ルークはやれやれとため息をついています。
ルークは、剣は一人前ですが、凡才の域を出ません。
護衛という仕事に関しては真面目に取り組んできましたが。
それ以外の事に関してはちゃらんぽらんです。
特に、女の事に関しては、やるだけやって金でモノを言わせてき
た事も、一度や二度ではありません。
2387
グレイラット家の男らしいですね。
そんな彼には、一つの特技があります。
それは、観察する事と、女性の本質を見抜く事です。
彼は様々な情報から、人となりを見るのです。
グレイラット家に伝わる﹃引っ掛けるとまずい性悪女を篩に掛け
る観察眼﹄だそうです。
あの一族はそんなのばかりですね。
そんな彼は、シルフィの事を尊敬しています。
女性としてではなく、同僚として、戦友として尊敬しているよう
です。
あの、ノトス・グレイラット家の放蕩息子が。
女と見れば、思う様に犯し捨ててもいいと思っているような男が。
シルフィという女性を、尊敬しているのです。
シルフィとはそれほどの女性です。
私もよくわかります。
暗殺者や追手との戦いで、危機をしのいできたシルフィを私も尊
敬しています。
一生懸命なんです。彼女は。
そんなルークのルーデウスに対する思う所については、先ほどこ
っそりと聞きました。
ルーデウスは信用できない、とルークは言います。
それは、ルーデウスの噂に起因しているようです。
ルーデウスという人物に関しては、シルフィの昔話以外では、噂
を聞く程度でした。
2388
その噂によると、強いのに決して怒らない、決して喧嘩をしない、
出来た人物という話です。
悪い噂がまったく無いのです。
話だけ聞くと、物語上の人物ですね。
ルークの持論によると、噂というものはいい噂より悪い噂の方が
伝わりやすいものだそうです。
ルークは意図的に情報が操作されている可能性を疑っていました。
例えば、先日入ってきた情報に、
﹃泥沼のルーデウスがはぐれ竜を一人で退治した﹄というものが
ありました。
はぐれ竜を、一人で、です。
できるわけがありません。
﹁噂になるぐらいだ、それに準じた事はしてきたのだろう﹂とル
ークは言いました。
恐らくは、少人数による竜退治。
それを自分ひとりでやったと喧伝しているのだと。
マジックアイテム
もちろん、強いといえば強いのでしょう。
曲がりなりにも、魔力付与品で武装したシルフィを倒したのです
から。
そこらの魔術師では相手にもならないぐらい強いのでしょう。
あるいは、もしかすると、はぐれ竜を一人で退治することが可能
なレベルかもしれません。
しかし、はぐれ竜を退治できたとしても、この噂はさすがにおか
しいとルークは言います。
そもそも、二年間という短い期間でいい噂だけを魔法三大国に轟
2389
かせるには、
意図的にやろうと思わなければ出来ないのだと言います。
意図的に、情報を操作して、いい噂だけを流した。
小狡い男。
ルークのルーデウスを実際に見て下した評価は、そうしたもので
した。
そうした男は、いざという時に裏切るから、信用できない。
ルークはそう断言しました。
﹁自分は奴を引き込む事には反対です。アリエル様﹂
﹁そうですね、私もそう思います。ですが、強いのは確か⋮⋮ひと
まず保留にしましょうか﹂
この決定に首をかしげたのは、シルフィです。
﹁え?﹂
彼女は抗弁します。
自分を覚えていないことと、ルーデウスの能力は関係ないはずだ
と。
ルーデウスはすごく強くなっていたのだと。
そして、あの乱魔という不思議な魔術。
あれはどこかの種族の特殊な魔術に違いない。
あれを使えば、魔術師はみんな役に立たなくなる。
仲間になってくれれば、これほど頼れる人はいない、と。
2390
しかし、そうではないのです。
私達は、すでに彼を胡散臭いと、そう思っているのです。
シルフィはどうやら、久しぶりに出会った幼馴染に盲目的になっ
ているようですが⋮⋮。
あと、私たちが感情的になっているのもあるでしょうね。
シルフィがこの数年で、心の支えにしていたのは誰だと思ってい
るのでしょうか。
間違いなく、あのルーデウスです。
それを忘れているとは何事でしょうか。
この数ヶ月、シルフィがどれだけウキウキしながら待っていたの
か、見せてやりたいぐらいです。
これでも私は、シルフィとルーデウスの感動的な再会に期待して
いたのです。
転移事件からこっち、悲報ばかり届く中、感動的なハッピーエン
ドを見たかったのです。
まったくもう。
確かにシルフィは男装をしていますが、
白い髪を短く切った長耳族なんて、滅多にいないでしょうに。
そして、シルフィに勝ったというのに、喜びもしないで、なおへ
りくだる態度。
・・・・
私のシルフィをそこらの木っ端魔術師と同じだとでも思っている
のでしょうか。
思っているのでしょうね。
シルフィもシルフィです。
あんな無様を晒しておいて、なぜあんなに嬉しそうなのでしょう
か。
2391
強い嫉妬を感じます。
﹁私は目下、ルーデウスという男に憤りを覚えています﹂
﹁自分もです。シルフィが忘れられているというのであれば、強く
とも裏切る可能性の高い相手を仲間に引きいれるわけにはいきませ
ん﹂
私の言葉にルークが便乗しました。
そして、シルフィはむくれてしまいました。
﹁⋮⋮なんなんだよ。皆してルディの事を悪く言ってさ﹂
シルフィは納得していないようでしたが、ルーデウスを仲間に引
き入れる作戦は一旦中止。
しばらく様子を見ることにしました。
彼に対する過剰な接触は禁止。
しかし、シルフィが個人的に接触する分には、良しとしました。
あんなに胡散臭い男でも、ようやく見つかったシルフィの知り合
いですし。
シルフィ、なんだかんだ言って嬉しそうですしね。
それに、もしかすると、私たちの第一印象が悪かっただけで、
彼は噂通りの傑物かもしれませんからね。
繋がりは作っておきましょう。
﹁もちろん、シルフィが正体を明かしたいと思ったら、その時は構
いませんよ﹂
2392
シルフィの正体を知られる事のリスクはあります。
でも、それでルーデウスの底と、噂の真偽が知れるのであれば、
安いものかもしれませんしね。
−−− シルフィ視点 −−−
それから一ヶ月後。
入学式にてボクはルディを見ていた。
制服を来たルディは入試の時に比べて、数段輝いて見えた。
目があって、すごくドキドキした。
とはいえ、彼は特別生。
いまさらルディがこの学校で習う事は少ないだろうから、
きっと会える機会も少ないだろう、とその時のボクは思っていた。
一ヶ月前の会議で、ルディには過剰な接触はしない方向で話がつ
いた。
あれこれといろいろ言ってたけど、
二人は打算を抜きにして、ルディの事が気に食わないみたいだ。
なんでだか、ちょっとよくわからない。
ボクがおかしいんだろうか。
でも、ボクが個人的に仲良くするのはいいと言ってくれた。
2393
過剰に接触するのはダメだけど、仲良くするのはいい。
どれぐらいがよくて、どれぐらいがダメなのか。
明言してくれないのは、アリエル様の優しさだろう。
それだけでも、十分だ。
ルディと話せるだけでも、ボクにとっては十分だ。
でも、どうやって話しかけようなぁ⋮⋮。
と、そんなことを思いながら、アリエル様と授業を受ける。
アリエル様はカリスマとして、成績を維持しないといけないから
大変だ。
混合魔術の授業はボクの知っているものとは全然ちがった。
ルディはロキシーさんから習ったらしいし、
この学校でも同じことを教えていると思ったんだけど、なんか小
難しい。
それでもボクはルディの教えがあったからすんなり理解できる。
けど、アリエル王女やルークは苦戦している。
ボクもなるべくサポートするべく、アリエル様にあれこれと教え
る。
けど、ルディに教わった教え方をしても、あまり理解してもらえ
ない。
﹁フィッツ、次の授業に関する資料をもってきてくださる?﹂
アリエル様の言いつけで、ボクは図書館に赴く。
図書館は本校舎の外にある。
次の授業までそれほど時間があるわけではない。
2394
急がないといけない。
図書館には3年間通いつめているから、どこにどんな本がおいて
あるのか、よく知っている。
今日の授業で必要な資料の場所も、ちょっと考えればすぐに頭に
浮かんだ。
それを一つずつ手に取って行く。
うん、これならすぐに戻れる。
と、その時だ。
﹁あっ!﹂
本棚の前にいた人物を見て、ボクは声を上げた。
ルディがいた。
不意打ちだった。
後日、機会を見て会いに行こうとは思っていたのだが
まさかここで会えるとは思っていなかったのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
︵な、何を話そう⋮⋮!?︶
慌てるボクにルディが気づいた。
次の瞬間、ルディは深々と頭を下げた。
﹁先日は申し訳ありませんでした。
僕の浅はかな行動で先輩の顔を潰すような事になってしまいまし
た。
いずれ菓子折りでも持って挨拶にでも出向こうと思っていました
2395
が、
何分新入生ゆえ、あれこれと忙しく⋮⋮﹂
﹁うぇぁ!? ⋮⋮い、いいよ、頭を上げて﹂
どうやら、ルディはボクが機嫌を損ねたと思っていたようである。
驚きだ。
入試の時の言葉は、そういったものだったのだ。
でも確かに。
言われてみると、ボクはメンツを潰された形になるのか。
うん。言われてみると。確かに。うん。
⋮⋮だからアリエル様とルークも不機嫌だったのだろうか。
ボクは最初からルディには勝てないと思っていた。
そりゃあ、あんな何もさせてもらえないとは思わなかったけど。
でも、二人にしてみれば、ボクが負けたのは面白くないはずだ。
いや、そんな事はいいんだ。とりあえず置いとこう。
﹁ルデ⋮⋮えっと、ルーデウス君? 君はここで何を?﹂
﹁少々調べ物を﹂
﹁何について?﹂
﹁転移事件です﹂
その言葉を聞いて、ボクは思った。
もしかして、と。
もしかして、ルディもボクと同じように考えたのかな、と。
﹁転移事件を? なんで?﹂
﹁僕もアスラ王国のフィットア領に住んでいましてね。例の転移事
2396
件では魔大陸まで飛ばされました﹂
﹁魔大陸!?﹂
さらに驚いた。
魔大陸の話は聞いた事がある。
D級以上の魔物しか存在しない、過酷な土地だという話だ。
剣士で武者修行に行く人もいるけど、ほとんど戻ってこない。
そして、転移事件でそこに飛ばされた人の生存が絶望視されてい
る。
ルディは、そこから帰ってきたというのだ。
﹁ええ、かえってくるのに三年も掛かりました。その間に家族は見
つかったようですが、まだ知り合いの一人も見つかりませんし、い
い機会だから、詳しく調べて見ようと思いましてね﹂
﹁⋮⋮もしかして、それを調べるためにこの学校に?﹂
﹁そうです﹂
その言葉を聞いて、ボクはルーデウスの凄さを再確認した。
﹁そっか、やっぱり⋮⋮すごいや﹂
魔大陸から三年も掛けて戻ってきても、決して安心する事なく、
他の人を探し続けた。
それだけでも凄いのに、魔法大学からのお誘いが来たら、これ幸
いにと、事件について調べようというのだ。
そんな人、他にはいないだろう。
もしボクなら、三年も掛けて戻ってきた所で力付きて、難民キャ
ンプに居着いてしまうだろう。
﹁先輩はここで何をしてるんですか?﹂
2397
そんな言葉で、ボクは我に帰った。
資料を運ぶ途中だったのだ。
アリエル様が待っている。
もっとルディと話していたいけど、アリエル様を放っておくわけ
にはいかない。
﹁あっと、そうだ。資料を運ぶ所だったんだ。ボクはもう行くよ。
ルーデウス君。またね﹂
﹁あ、はい、また﹂
踵を返し、資料の貸出の申請をしようとした所で、ふと思い出し
た。
この図書館は広大で、書物がたくさんあるが、転移事件に関して
必要なものは少ない。
いくらルディでも、転移事件について調べるのは時間が掛かって
しまうだろう。
﹁あ、そうだ。転移についてならアニマス著の﹃転移の迷宮探索記﹄
を読むといいよ。
物語形式だけど、分かりやすく書いてあるから﹂
まずボクが転移について理解するに至った書物を、勧めておく事
にした。
あれなら、子供でも転移がどういうものかわかるはずだ。
他の書物では破り取られた部分も乗ってるしね。
少しだけ良い事をした気分になって、ボクは図書館を出た。
2398
−−−
その日の夕方。
ボクは下着を洗っていた。
アリエル様の下着である。
アリエル様の衣類を洗うのは、ボクの役目だ。
というのには、理由がある。
アリエル様の下着は極めて高価な布地で作られている。
そのうえ、アスラ王族の下着という事で、付加価値も付く。
要するに、市場に持っていけば高値で売れてしまうのだ。
実際、入学した当初、洗濯に出した下着が盗まれ、売られた事が
あったのだ。
5枚の内4枚が盗まれ、内3枚が売られた。
残った一枚は、犯人の男子生徒が個人的な使用をしていたらしい。
そうした事に耐性のない女生徒は﹁信じられない!﹂と、過敏に
反応していた。
アスラ王国にて生まれ育ったアリエル様や、そのアリエルの下の
世話をしてきたボクにとっては、大して驚く事ではない。
アスラ王国には、もっと変な人がたくさんいたのだから。
でも、やっぱり不快なものは不快だ。
ということで、それ以来、アリエル様の衣類の洗濯はボクの仕事
となった。
アリエル様は、ボクにそんな事をやらせるのは、と少し戸惑って
2399
いたけど、
ボクも自分の分を一緒に洗濯できるし、都合がいい。
ちなみに、ボクは性別を隠すため、下着をアリエル様とお揃いの
ものを着用している。
色違いだけどね。
順調に洗濯を終え、下着だけは夜のうちに陰干ししておこうとベ
ランダに出る。
そして、紐のついた物干し竿に一つずつ吊るしていく最中。
﹁あれ⋮⋮?﹂
ふと、ベランダの下を見て、驚いた。
なんと、日が暮れた後だというのに、男子生徒が歩いているのだ。
寮生のルールでは、この時間は男子が歩いてはいけない事になっ
ている。
下着泥棒の事もあるし、今は時期じゃないが、発情期の事もある
からだ。
それなのに、なぜ男子が⋮⋮。
ただの近道でも、すぐにでも一階の自称自警団の子たちが、彼を
囲むだろう。
今のうちに警告しておいた方がいいんだろうか。
一番最初に発見した人は、他の人にしらせる義務がある。
いや、でもボクはあんまり声出しちゃダメって事になってるしな
⋮⋮。
︵あ、あれ、もしかして⋮⋮︶
2400
と、ボクはその人物が、ルディであることに気付いた。
︵な、なんで!?︶
思わず、手元を滑らせてしまった。
手から離れたパンツはひらひらと落ちていき、ルディの頭上へ。
ルディはそれを視界に収めた瞬間、凄まじい手の速度でパシンと
受け止めた。
︵は、速い⋮⋮!︶
常に周囲を警戒している、という事なのだろうか。
今の動きには、魔大陸を踏破したという凄みを感じる。
ルディは手元にあるものがパンツであることに気付いたらしい。
上を見上げ、こちらを見つけると、落としましたよと言わんばか
りにパンツを掲げてきた。
先ほどの手の動きとは違う、のんきな動作だった。
︵あっ、そっか、今日入学してきたばかりだから知らないんだ!︶
ルディは特別生で、特別生は一人部屋だ。
特別生は寮の色んな当番が免除されてるけど、
寮のルールを説明する会合みたいなのにも参加できないと聞く。
教えてあげないと。
あんな所でパンツを持ったまま立ってたら、絶対に誤解されちゃ
う。
﹁キャァァァァ!﹂
2401
その心配は、すぐに現実となった。
いきなり女生徒が叫び声をあげたのだ。
一階に住む、自称自警団の子達が飛び出してくる。
ルディはあっという間に囲まれた。
︵⋮⋮でも、ルディなら、なんとか切り抜けるかな?︶
ボクは、そう思って、ちょっとだけ楽観的に見ていた。
あのルディが、こういう時にどうするか、興味があった。
やっぱり、ブエナ村の時みたいに、やっつけちゃうんだろうか。
それとも、うまいこと口を使って切り抜けるんだろうか。
魔術を使って脅したり、逃げたりとか。
⋮⋮⋮⋮ルディはどれもしなかった。
ただ、ゴリアーデさんに腕を掴まれて、困っているように見えた。
その姿は、まるでブエナ村にいた頃の自分のようだった。
急速に自分の頭が冷えるのを感じた。
︵何やってるんだボクは!︶
ボクは慌ててベランダから飛び出した。
階下に降りて、人混みまで走った。
﹁へぇ、なんだい、開き直って暴れるつもりかい?
下着泥棒のくせに図々しいじゃないか。
この人数相手に勝てるとでも思っているのかい?﹂
暗くてみんな気づいていないようだったけど、
2402
ルディは土魔術で足を固定していた。
その理由については、ボクはわからなかった。
もしかしたら、意味なんて無いのかもしれない。
ルディに限って、足を震わせているなんてことはないだろうけど
⋮⋮。
そこまで思って、ふっと。
気付いた。
昔の事を思い出した。
そういえば、ルディはソマルたちを追い払った時。
足を震わせていた。
ルディに女の子と知られて、ちょっとギクシャクした時。
ルディは、﹁最近シルフィ冷たいよね﹂と言いながら、少し震え
ていた。
そうだ、ルディはボクに嫌われたと思って、少し怯えていたのか
もしれない。
⋮⋮普通の男の子みたいに。
︵あ⋮⋮︶
気づいた。
ボクはルディを特別視してきた。
ずっと年上の人を見るような感覚だった。
けど、ルディは、ボクと同い年なんだ。
︵シルフィは、ずっと彼に守ってもらうだけなのかい?︶
2403
最後に思い出すのは、おとうさんの言葉だ。
そして、おとうさんの言葉を受けて、自分が誓った事だ。
ルディを、助ける。
そう誓った。
もし何かあったとしても、ボクはルディを助ける。
そう誓った。
そうだ、そのために、ボクは頑張っていたんじゃないか。
まして、今回の原因はボクじゃないか。
﹁待って! その連行、ちょっとまって!﹂
ボクは彼らの間に割って入った。
そして、必死にルディを弁明した。
この学校に来てから、初めてアリエル様以外と会話したかもしれ
ない。
それぐらい、ボクは無口で通していた。
しかし、ルディの腕を掴んでいる女生徒、ゴリアーデは頑固だっ
た。
頑固に、ルディを断罪しようとしていた。
ルディは何の罪も犯していないのに。
﹁ふん、あの無口なフィッツ様がここまで弁護してるんだ。本当の
事なんだろうよ。けど、こいつが寮の協定を破ったのも本当だ。見
せしめとして、罰は受けてもら⋮⋮う!?﹂
見せしめ。
そんな言葉を聞いた瞬間、ボクの中で何かが切れた。
何もしらない相手を、ただ運が悪かったというだけで見せしめに
するなど。
2404
許せる話ではなかった。
気づけば杖を向けていた。
今にも魔術を使おうと魔力を込めていた。
﹁彼は悪くないと言ってるだろう。
いいから、その手を離せ⋮⋮﹂
﹁ふぃ、フィッツ⋮⋮様?﹂
﹁それとも、ここにいる全員、医務室送りになりたいのか?﹂
こうした啖呵は、アスラ王国にいた頃にルークから学んだものだ。
時にはハッタリをきかせる必要もあるだろうと言われて、一生懸
命練習したのだ。
アスラからラノアまでの道中においては、野盗なんか相手に何度
か使った。
ボクがいうと子供っぽいから逆効果、とルークにからかわれたも
のだが。
しかし、今回は効果があったらしい。
﹁チッ⋮⋮わかったよ﹂
ゴリアーデはルディの腕を離したのだ。
そして、捨て台詞を一つ残して、その場を去った。
実質的なリーダーである彼女がいなくなった事で、他の女子も姿
を消した。
ほっと一息。
﹁ふぅ⋮⋮まったく、ゴリアーデさんは人の話を聞かないんだから
⋮⋮﹂
ボクは普段の彼女の言動や行動を思い出した。
2405
悪い人ではなかったはずだ。
ただ、獣族というのは、決まり事を守るという事に対して忠実な
のだ。
融通は効かないけど。
っと、そんな事より、謝らないと。
元はといえば、ボクのせいとも言えるんだから。
﹁ごめん。ボクが下着を落としたからこんな事になっちゃって﹂
もしボクが手を滑らせなければ、大事にはならなかっただろう。
ゴリアーデだって、あんなに過剰な行動を取らなかったはずだ。
多分。
﹁いいえ、フィッツ先輩は悪くありません⋮⋮助かりました﹂
ルディの返事に、ボクは違和感を感じた。
なんか、ルディの声音から、固いものがとれていた。
顔を上げてみてみると、ルディの目つきが少しかわっていた。
今気づいた。
︵⋮⋮ボク、今までルディに警戒されてたんだ︶
思えば、最初から妙におかしいと思ってたんだ。
やたら頭を下げてくるし⋮⋮。
でも、そっか。
そうだよね。
よくよく考えてみれば、ボクは﹃無言のフィッツ﹄だもんね。
ルディなら警戒して当然か。
2406
そして、今、その警戒が解けた。
︵なんか⋮⋮嬉しいな︶
失敗から出た事だけど、ルディに一歩近づけた。
そう感じたのだ。
それから、寮の説明をした。
日が落ちたら、この道は通っちゃいけない決まりがある事。
ルディはやっぱり知らなかったようで、関心したように頷いてい
た。
﹁先輩、本当にありがとうございました﹂
ルディはそう言って、最後に頭を下げた。
ちょっと不思議な気分だった。
昔、ボクがイジメられていた時は、逆の立場だった。
あの時、ボクはお礼言ったっけかなぁ⋮⋮。
なんて考えてると、不思議と笑いがこみ上げてきた。
﹁あはは⋮⋮ルーデウス君にお礼を言われるなんて、おかしな感じ
だね﹂
﹁え? どうしてそう思うんですか?﹂
それはもちろん最初の時に⋮⋮。
と、自然に正体を明かしかけて、躊躇した。
また、不安がムクムクと大きくなった。
今、この雰囲気で、﹁ごめん、覚えてない﹂と言われてしまった
2407
ら⋮⋮。
ボクは自分に言い聞かせるように、思った。
別に思い出してもらわなくてもいいんじゃないか、と。
新しく出会ったつもりで、彼と新しい道を歩んでいけばいいんじ
ゃないか、と。
昔の事は置いて、今の彼と仲良くなればいいんじゃないか、と。
だから、言った。
﹁ないしょ﹂
と。
ルディはきょとんとした顔をしていた。
ボクは寮に戻った。
もちろん、下着は返してもらった。
途中でルディにキャッチされたから汚れてはいないだろうけど、
ルディは男性だ。
ボクはルディが汚いとか、そういう事は思わないけど、
アリエル様に、男性の手で触られた下着を履かせるというのはよ
くない気がする。
﹁やっぱり洗濯しなおしたほうがいいよ⋮⋮ね⋮⋮﹂
・・・
明かりの下で広げて見て、ボクは凍りついた。
ボクのパンツだった。
2408
これをルディが手に持っていた⋮⋮。
ボクはその場で悶絶した。
−−−
その一ヶ月後、
ボクはアリエル王女の﹁息抜き﹂の日に転移事件について調べ始
める事になった。
ルディと一緒にだ。
一ヶ月も掛かったのは、踏ん切りがつかなかったのだ。
もしルディに拒絶されたらと考えたら、
足手まといと考えられたら、辛いから。
けど、むしろルディは、歓迎してくれた。
あの一件で、ボクの警戒を解いてくれたのだろう。
ルディには悪いけど、下着を落としてよかったと思う、うん。
うん、恥ずかしかったけど。
なんて思いつつ、ボクは一歩目を踏み出した。
ボクにとっては、大きな一歩だ。
−−−
2409
そして、何度もあったチャンスを生かせず、
自分の正体を明かせないまま、
大きな二歩目を踏み出せないまま、
一年が過ぎようとしていた。
2410
第八十五話﹁察しのいい鈍感﹂
冬。
ここ、ラノア王国魔法都市シャリーアも例外なく雪に包まれた。
魔法大学の敷地内も除雪はされるものの、真っ白に染まる。
建物から建物への道はあるものの、校舎裏などは自力で除雪しな
ければ入れない。
そんな季節だ。
そんな折、俺に一通の手紙が届いた。
差出人は﹃ゾルダート・ヘッケラー﹄。
S級の冒険者で、パーティ﹃ステップトリーダー﹄のリーダー。
冒険者だった頃に、ちょくちょくパーティに混ぜてもらっていた。
腕利きの冒険者たちだ。
中身をみてみる。
﹁ふむ﹂
手紙によると、ゾルダートたちはこの町に来ているらしい。
なんでも、クランの集会があるらしい。
﹃ステップトリーダー﹄の所属するクラン﹃サンダーボルト﹄は、
数年に一度、この街に集結するそうだ。
集結して何をするかというと、クランの方向性についての会議だ
そうだ。
冬の間、2∼3ヶ月かけて入念に議論を交わす事で、これからの
2411
事を決める。
大型のクランともなると、そういう事をしなければならないらし
い。
ゾルダート達はS級であり、幹部の一人である。
ゆえに欠席するわけにもいかず、わざわざラノアまでやってきた。
ゾルダートはクランリーダーとの仲は悪く、ぶっちゃけラノアく
んだりまで来たくないと思っていた。
これはつまらない数ヶ月になる。
そう思っていた時、ふと俺の事を思い出した。
そういえば﹃泥沼﹄もこの町にいたな、と。
思い立ったが吉日。
ゾルダートはせっかくなので久しぶりに会って飯でも食おうと思
い立ち、手紙を出したのだそうだ。
確かにゾルダートとはそこそこ仲も良かった。
しかし、一度疎遠になったからと、わざわざ手紙を出してまで会
おうとするほど親密だったわけでもない。
俺は気前よくやってきたつもりはあるが、わざわざ会いたいと思
われるような人物ではなかろう。
となれば、ゾルダートの目当てはエリナリーゼだろう。
仕方ない、連れて行ってやるか。
そして、クリフとのラブラブっぷりを見せつけて、複雑な気分に
させてやろう。
そう考え、次の月休みはナナホシの実験の手伝いは休みと伝えた。
フィッツ先輩も一緒にどうかと誘ってみたが、彼は微妙な顔をし
て、その日は行けないと首を振った。
2412
﹁えっと、その日は、ちょっと午後から出かけるんだ⋮⋮アリエル
様の護衛でね﹂
護衛の仕事の一つ、という事だろう。
彼は世間が休みの日が全て休みになるわけではないのだ。
むしろ、世間が休みの時こそ忙しい。
そういった社畜様なのだ。
おっと、社畜はフィッツ先輩に失礼だったな。
仕事熱心、と言い換えておこう。
ともあれ、予定が合わないというのなら仕方がない。
俺はエリナリーゼとクリフを連れて、冒険者ギルドへと赴く事に
した。
−−−
冒険者ギルドへと歩く。
雪掻きはされていると言え、道は踏み固められた雪で真っ白だ。
夜中になると吹雪が強くなるから、どれだけ除雪しても追いつか
ないのだ。
現代知識を利用して地面の下から水が出る装置とか作ったら、大
儲けできるだろうか。
﹁おい、ルーデウス、聞いてるのか?﹂
﹁はいはい、聞いてますよ﹂
先ほどより、クリフが現状について自慢気に話している。
彼は最近、呪いに関する研究を行なっているらしい。
2413
エリナリーゼの呪いを解くために。
呪いは古代から存在しており、今まで研究が進んできたが、そう
簡単に解呪できるものではない。
実際、この半年での成果は何もないそうだ。
﹁成果が無いのはこたえませんか?﹂
﹁僕は天才だからな、いずれなんとかしてみせる!﹂
クリフは自信満々にそう言った。
凄い奴だ。
俺は努力しても到達できない領域があると知っているので、そこ
まで頑張れない。
今まで誰も到達していない領域に足を踏み入れるってのは、天才
の所業だ。
俺には、そんな才は無い。
﹁ルーデウス。呪いについて何か知っている事があったら、教えて
くれないか?﹂
﹁うん⋮⋮?﹂
そう聞かれ、俺は考える。
呪い。
そのキーワードは、魔大陸からここまで旅している間に、何度か
聞いた。
﹁そうですね﹂
さて、しかしどこで聞いただろうか。
呪い、呪い。
この単語を思い浮かべると、なぜか足がすくみそうになる。
2414
というのは、恐らくオルステッドが呪い持ちだったからだろう。
それを人神に聞いたのだ。
⋮⋮そういえば、ラプラスも呪い持ちだと言っていたな。
その呪いを槍に移して、スペルド族を迫害の歴史へと追いやった
とか。
﹁かつて、ラプラスは自分の呪いを道具に移し、別の種族になすり
つけたそうです﹂
﹁道具に?﹂
﹁ええ、スペルド族がラプラス戦役で持っていた槍がそれに当たる
そうです。
そのせいで、スペルド族の戦士たちは狂い、一族が迫害されるに
至ったとか⋮⋮﹂
そう言うと、クリフは目を見開いて俺を見てきた。
﹁スペルド族!? 本当なのかそれは!﹂
﹁さぁ、僕も人から聞いた話なので、真実かどうかに関しては⋮⋮﹂
誰から聞いたんだったか。
それも人神か。
一応、信用できる筋と言えなくもない。
そんな事で嘘ついてもしょうがないしな。
﹁でも、そうか⋮⋮呪いは道具に移すことができるのか﹂
俺の話を聞いて、クリフが考えるように顎に手をやっていた。
﹁やり方はわかりませんがね﹂
﹁いや、前例があるというだけで大きな進歩だ﹂
2415
今まで呪いを道具に移す、というのはラプラスしかやらなかった
のだろうか。
まあ、魔神だし、そういうあくどい事もやるだろうとは思ってい
たが。
禁術とかだったりしないんだろうか。
確か、神子と呪子は同じものだという話だ。
その力を道具に移すというのは、もっと誰かが考えてもいいので
はないだろうか。
﹁呪子ではなく、神子の能力を移そう、とかは誰も考えなかったん
ですかね⋮⋮﹂
﹁ん? なんでここで神子が出てくるんだ?﹂
クリフは首をかしげていた。
あれ?
何か齟齬があるのか。
﹁いや、神子と呪子は同じものなんでしょう?
生まれつき魔力が異常を起こしていて、変な能力を持っているっ
て。
それがプラス方向か、マイナス方向かというだけで﹂
﹁⋮⋮⋮⋮初耳だ﹂
エリナリーゼを見ると、彼女も驚いたような顔で俺を見ていた。
どうやら初耳らしい。
意外と、知られてないのか?
いや、でもなんか誰かからサラッと聞いたような⋮⋮。
ああ、これも人神か。
全部あいつじゃねえか。
2416
常識的に知られてない事をさも常識のように言いやがって。
﹁でも、そうか⋮⋮なるほど、道具か⋮⋮なるほど⋮⋮もしかして﹂
クリフは俺の言葉を聞いて、何かとっかかりが掴めたとでも言わ
んばかりにそわそわしていた。
人の話は鵜呑みにしないほうがいいと思うがな。
しかし、呪いという単語に﹃神﹄という単語が関連してるな。
人神、龍神、魔神。
そして神子。
関連性があるのやら、無いのやら。
﹁ありがとうルーデウス。君のお陰で何かわかったような気がする
よ﹂
クリフはそう言って、晴れやかな顔をしていた。
ついでに、俺に掛けられた呪われし病もどうにかしてほしいもん
ですね。
−−−
ゾルダート達は、俺を見るとみんな笑顔になっていた。
思った以上に歓迎されているな。
エリナリーゼが目的ではなかったのだろうか。
近くの店へと移動し、そこで卓を囲んだ。
2417
クリフとエリナリーゼの関係を知ったゾルダート達は、かなり驚
いていた。
お前みたいなビッチが結婚とか、何の冗談だという軽口を叩いて、
クリフを激怒させた。
ゾルダートたちはそんなクリフの態度も笑い飛ばし、クリフの怒
りは怒髪天を超えた有頂天。
この怒りはしばらく収まる事を知るまい。
と、思ったが、エリナリーゼがあっさりとクリフをなだめ、会話
を方向転換させた。
さすがエリナリーゼといった所か。
どんな時でも、ヘイトの管理はお手の物。
そういえば、俺は彼女が本気で怒ったり、泣いたりしている所を
見たことがない。
むっとしている所を見たことは何度かあるが、ハッキリと憤って
いるのを見た事はない。
嫌いだと明言しているのもパウロだけだ。
パウロは、一体なにをやったんだろうか。
話題は俺の服装の件へと移行した。
俺は本日、制服を着てきている。
﹁泥沼よ、お前がそんな格好してると、そこらのルーキーにしか見
えねえぜ?﹂
魔法大学の生徒には、冒険者として制服の上にローブを羽織って
ギルドに来る者もいるそうだ。
ほとんどがFからEなので、ゾルダートたちと関わり合いになる
事もないそうだが、
2418
たまにサンダーボルトに入れてくれ、と頼み込んでくる奴もいる
のだとか。
﹁じゃあ、ルーキーらしく、いつかみたいに﹃荷物持ち﹄でもして
あげましょうか﹂
﹁そんで、またお前に助けられるのか? カンベンしてくれよ﹂
ゾルダートたちとの出会いは、彼が俺をルーキーと間違い、
すげー見下した態度で荷物持ちに誘ってきた事から始まっている。
懐かしい話題である。
それから、話題は思い出話から、冒険譚へと移行していく。
クリフはしばらく怒っていたが、
ゾルダート達の冒険譚を聞いていると、次第に目を輝かせ始めた。
そういや、クリフは冒険者に憧れてたって話だったか。
普段は生意気だが、そのへんは歳相応だな。
食事が終わる。
さぁ、これからどうすんべ、となった時、
ゾルダートの所にクランの使いが来た。
﹁ゾルダートさん、もう一度、集合です﹂
﹁またかよ、午前中にやったじゃねえか!﹂
﹁仕方ありません、今回はリーダーも張り切ってますので﹂
どうやら、パーティリーダーを集めての緊急会議をするらしい。
﹁今日は一日、泥沼と遊ぼうと思ってたんだが⋮⋮仕方ねえ。泥沼、
悪かったな。また今度頼むわ﹂
2419
﹁ええ。また誘ってください﹂
ゾルダートは大仰にうなずきつつ去っていった。
さて、どうしたものか。
集会の主役がいないのでは、解散かね。
時刻は昼下がり少し前といった所。二時半ぐらいだ。
帰っても時間が余るな。
﹁どうします?﹂
﹁そうですわね⋮⋮わたくしは、クリフに冒険者のイロハを教えて
あげようと思いますの﹂
﹁ほう﹂
エリナリーゼは、今の話を聞いて、クリフに冒険者としてのいい
所を見せたくなったようだ。
﹁お、いいな、ルーキーの教育か﹂
﹁私たちも付いて行っていい?﹂
ステップトリーダーの他の面々もそれに賛同する。
場の空気は、クリフに冒険者としての真髄を教える、という流れ
になっていった。
A級の討伐依頼でも受けて、クリフに経験をつませよう、なんて
感じだ。
クリフは下に見られて少々ムッとしているようだったが、それ以
上にワクワクしてもいるようだった。
﹁ルーデウスはどう致しますの?﹂
﹁僕は⋮⋮⋮⋮遠慮させてもらいます﹂
2420
クリフにマルチプルな魔術師としての立ち回りってやつを教えて
もいいが、
クリフも、年下の俺に上から目線であれこれ言われるのはイヤだ
ろう。
こういうのは、周囲は年上だけ、という状況の方が素直になれる
もんだ。
ついでに言えば、俺は依頼で数日も空けるつもりはない。
せめて伝言の一つでも残しておかないと、ナナホシがへそを曲げ
そうだしな。
奴はあんな引きこもり生活をしているくせに人が恋しいらしく、
サボると機嫌を悪くするのだ。
引きこもりをするなら、孤独に誇りを持ってほしいものだ。
まあ、随分と日本を恋しがってるみたいだし、日本語の通じる相
手が欲しいってのは、わからないでもない。
この世界で生きていくと決めている側から見れば、もうちょっと
外に出てみろと言いたくもなるがな。
﹁そう、じゃあ、他の方にはよろしく言っといてくださいまし﹂
﹁エリナリーゼさんたちも⋮⋮初心者が一緒なら、あんまり厳しい
所には行かないよう、気をつけてください﹂
﹁あなたじゃありませんし、竜や魔王になんて挑みませんわよ﹂
別に好きで挑んだわけではないんだが。
まあいいさ。
−−−
2421
俺は彼らと別れ、一人、帰路についた。
冒険者区から、街の中央にある広場へと移動する。
すると串焼きの香ばしい匂いが漂ってきた。
見れば、広場は雪が積もっているというのに商人がいくつか露店
を出しているのが見えた。
このクソ寒いのに、大変だな。
しかし、時間があいてしまったな。
帰っても、勉強と修行とフィギュア製作ぐらいしかやることがな
い。
変な遠慮せずに、クリフたちに付いて行けばよかったかもしれな
い。
﹁せっかく街に出たのだし、ちょっとブラッと歩いてみるか﹂
独り言を呟き、俺はフラフラと商業区の方へと歩き出した。
買い物というほどではないが、何か面白いものが見つかるかもし
れない。
マジックアイテム
あと、クリフとの話で、魔力付与品や魔道具に関しても興味が湧
いてきた。
ラプラスの作った呪われた槍というのも、魔道具の一種だろうし
な。
マジックアイテム
今までは売ってる物も高額だし、あまり欲しいとも思っていなか
った。
でもフィッツ先輩も、魔力付与品を装備してる。
2422
ナナホシもなんか便利そうなのを持っていた。
魔術ギルドのお膝元であるこの街なら、何か面白いものが見つか
るかもしれない。
買う気はないが⋮⋮。
ウィンドウショッピングと洒落こんでみるか。
マジックアイテム
ちなみに、俺も最初はゴッチャになっていたのだが、
魔力付与品と魔道具。
この二つは違うものである。
二つの違いは以下の通りだ。
:魔道具:
どこかに魔法陣が刻んであり、使用者が魔法陣を励起するための
詠唱をする事で魔力が流れ、効果が発動する。使用者の魔力が続く
限り、何度でも使用出来る。人工物。
マジックアイテム
:魔力付与品:
物に魔力が注ぎ込まれて特殊能力を得たもの。ある一定の動作を
する事で効果が発動する。一日に数度しか使えないが、時間経過で
魔力が回復する。
ざっくり説明すると、
マジックアイテム
魔道具は回数制限無しだけど、魔力を使い。
魔力付与品は一日の回数制限があるけど、魔力を使わない。
ってところだ。
マジックアイテム
現状、一日に回数制限はあるものの、魔力を使わず、魔力を流す
という工程︵詠唱︶も無い魔力付与品の方が便利と言われている。
だが、迷宮などから発掘されるものが大半で、効果もランダム性
2423
が高い。
マジックアイテム
そのため、いい効果を持つ魔力付与品は極めて高額である。
マ
フィッツ先輩が履いていたブーツなんかは、恐らく俺の現在の全
財産でも買えないだろう。
ジックアイテム
ちなみに、一部の魔剣なんて呼ばれる物は人工物でありながら魔
力付与品の特性を持っている。
俺の場合、魔力は腐るほど余っているので、魔道具でも問題ない。
発動に魔力を使いすぎるような魔道具でも、俺なら大丈夫だろう。
そういった一見すると欠陥品な物も、魔術ギルドのお膝元である
この魔法都市シャリーアなら、見つかるかもしれない。
﹁ん?﹂
そこで、ふと、知った顔を見つけた。
ルークとフィッツ先輩だ。
二人は何やら楽しそうに話をしながら、服飾系の店の前で話をし
ていた。
フィッツ先輩は店先にある小物を見て、随分と嬉しそうな顔をし
ている。
ルークは苦笑だ。
彼の手には、大きな袋が下げられている。
まるでデート中みたいだな。
出かけるとは聞いていた。
けど、二人でここにいていいんだろうか。
王女様の護衛はどうしたんだ⋮⋮。
ま、挨拶だけはしておくとしようか。
2424
﹁おはようございます。奇遇ですね、こんな所で﹂
﹁お前⋮⋮!﹂
声をかけると、ルークの顔がこわばった。
相変わらず、俺の事は好きではないらしい。
彼らのメンツは守っているつもりだが⋮⋮。
まあ、最近は俺も有名になりすぎた。
彼にしてみれば、面白くないのかもしれない。
ま、俺はフィッツ先輩と仲良くできればそれでいいんだがな。
﹁⋮⋮おや?﹂
なんか今日のフィッツ先輩は雰囲気が違うな。
なんだろう。
服装が若干違うのだろうか。
いや、もっとこう、全体的に⋮⋮。
﹁フィッツ先輩、今日はちょっと、イメージ違いますね?﹂
そう言うと、フィッツ先輩は驚いたような顔をして、俺を見てき
た。
ふむ。
何が違うんだろうか。
なんというかこう、物腰?
と、見ていると、フィッツ先輩に顔をそらされた。
同時に、ルークがずいっと前に出てきた。
2425
﹁ルーデウスか。どうした。こんな所で、何の用だ?﹂
彼はフィッツ先輩を背中に隠すように立った。
口調は、穏やか。
目線もやや強いが、睨むというほどではない。
だが、声音は硬い。
何かまずい所に出くわしたのだろうか。
まさか、ルークとフィッツ先輩がデート中だとか?
ルークは実は男もイケる口で、フィッツ先輩とはナウい息子でレ
スリングな仲とか。
王女の護衛がそんなホモホモしいとバレたら一大事なので、隠れ
てこっそり密会しているのだ。
冗談なのに、なんか自分で考えてちょっとショックだな。
なんでだ。
﹁いえ、見かけたので声だけでも掛けておこうと思いまして⋮⋮え
えと、フィッツ先輩?﹂
先輩は先程から、俺の方を見ようとしていない。
⋮⋮あれ?
もしかして、避けられてる?
何でだろうか。
何かしたっけか。
﹁そうか、挨拶に感謝する。
フィッツは、王女の護衛中は一言も喋らない事になっている。
悪いが、察してくれないか?﹂
2426
ルークはぞんざいな感じで、俺を追い払おうとしている。
⋮⋮やはり、何かまずいタイミングで来てしまったのだろうか。
でも、一言も口聞いてもらえないってどうなのよ。
﹁⋮⋮﹂
フィッツ先輩は、俺の方を見ない。
いや、チラチラと見ているのだが、どうにも否定的な感じで、眉
をひそめている。
早く行ってくれないかなー、って感じだ。
あからさまだ。
こうまでされれば、俺だって気づく。
拒絶されているのだ。
﹁どうした?﹂
﹁いえ、なんでもありません。失礼します﹂
俺はその場を後にした。
外面だけでも平静は装えたと思う。
だが、内心は、何も考えられないぐらい、ガツンときていた。
買い物をする気は失せていた。
帰ろう。
目の前には、少し汚れた白い道が続いている。
雪が降り始めていた。
寒い。
2427
−−−
魔法大学に帰ってきた。
どうしてフィッツ先輩に避けられたのか。
わからない。
考えてもわからない。
嫌われるような事はした覚えが無い。
誰かに今の気持ちを相談⋮⋮いや、愚痴りたい気分だった。
ザノバは確か、神子の研究とやらで魔術ギルドの方に出向してい
るはずだ。ジュリも連れて行ってるはずだ。
リニアとプルセナは⋮⋮なんか真面目に聞いてくれなさそうだな。
変に揶揄とかされそうだ。
エリナリーゼはさっき別れたばっかりだ。
バーディガーディも今日は学校には来ていないようだ。
ナナホシ⋮⋮は、割りといっぱいいっぱいだから、俺の愚痴なん
て聞いてくれないかもしれない。
ザッと考えて思いつかない。
俺は友達が少ない。
なので、俺はそのまま図書館へと移動した。
こういう時は、どうでもいい本でも読んで静かに過ごすのが一番
だ。
そうだな、何かスカッとする本がいいだろう。
何かこう、英雄譚的な。
キシリカとかバーディガーディって本になってたりしないんだろ
2428
うか。
奴らの本なら、きっとスカッとする事が書いてあるはずだ。
そんな事を考えつつ、図書館の中に入る。
守衛に目で挨拶。
会話した事は無いが、すでに顔パスになる程度には覚えられてい
る。
入り口で雪を落とし、無詠唱魔術で服の表面をサッと乾かす。
ほっと一息ついて中に入り、いつもの席へと向かう。
今日も、図書館は人気がない。
この世界では、休日に図書館で過ごそうという生徒は少ないらし
い。
識字率も低いしな。
﹁⋮⋮⋮⋮あれ?﹂
フィッツ先輩がいた。
彼はつまらなさそうな顔で、本を読んでいた。
いつも俺と一緒にいた席で、頬杖を付いて暇そうに。
﹁あ、ルーデウス君﹂
そして、俺の姿を見かけると、いつものようにはにかんで笑いか
けてきた。
﹁お帰り。早かったね。もう友達とは会えたの?﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
2429
俺は彼の前に座り、まじまじとその顔をみた。
いつもどおりだ。
いつもどおりの格好と、雰囲気だ。
そして違和感だ。
先ほど出会ってから図書館まで。
俺はまっすぐやってきた。
恐らく、最短ルートだっただろう。
ここに彼がいる。
おかしい。
﹁ど、どうしたの? 顔に何かついてる?﹂
フィッツ先輩はそう言って、自分の頬をペタリと触った。
しかし、この雰囲気。
先ほど拒絶されたと感じたからだろうか。
今のフィッツ先輩は、俺を完全に受け入れてくれているような気
がする。
警戒心も何もない感じだ。
さっきと違う。
全然違う。
﹁さっきは、どうして無視したんですか?﹂
ふとそう聞くと、フィッツ先輩の笑顔が凍りついた。
その後、努めて真面目な表情を作る。
﹁実は、護衛中のボクは声を出しちゃいけないって事になっている
んだ。
﹃無言のフィッツ﹄だからね。ボクの声は子供っぽいからナメら
2430
れるし、
人前では⋮⋮特にアリエル様の護衛中は声を出さない事になって
るんだよ﹂
﹁そうですか、それにしては、アリエル王女の姿は見えませんでし
たが﹂
﹁近くのお店にいたんだよ。信用のできるお店さ。護衛は僕らだけ
じゃないからね。
彼女らがアリエル王女の傍を固めて、僕らはちょっと離れた位置
から見守る、そういうフォーメーションなんだよ。
あ、これは他の人には言っちゃダメだよ?﹂
よどみなくスラスラと答えていくフィッツ先輩。
まるで、そうした答えを事前に決めていたかのようだ。
いや、決めていたのだろう。
﹁そうですか、そんな時に話しかけてしまい、申し訳ありませんで
した﹂
﹁ううん。いいんだよ。ボクの方こそ、相手できなくてゴメンね﹂
少しばかり、察しがいってしまった。
恐らく。
恐らくだが。
なんらかの方法で、アリエル王女がフィッツ先輩に化けているの
だ。
魔力付与品か、魔道具か、どっちかで。
声を出さないのは、声は変えられないからだ。
もしかすると、目の色も変えられないのかもしれない。
フィッツ先輩いつも目を隠しているのは、万が一王女の変装が見
破られかけた可能性を考慮して⋮⋮。
うん、そう考えると辻褄があう。
2431
先ほど避けられたのは、俺が不用意に接触すると、それがバレる
からだ。
決して、俺がフィッツ先輩に嫌われたからではないはずだ。
そうだ、そうに違いない。
俺、嫌われるような事、何もしてないもんな。
そういう事にしよう。
﹁そうなんですか、フィッツ先輩に嫌われたかと思ってヒヤヒヤし
ましたよ﹂
﹁あはは⋮⋮ボクが君を嫌いになるわけないじゃないか⋮⋮﹂
フィッツ先輩は耳の裏をポリポリと掻いていた。
その動作は彼の特有のものだが、最近はそんな動作を見ていても、
ドキドキする。
こんなに可愛い人がなぜ男なのだろうか。
⋮⋮本当に男なのだろうか。
気になる。
フィッツ先輩の事が気になる。
2432
第八十六話﹁行き過ぎた配慮﹂
フィッツ先輩の事が気になる。
相変わらず、10日に1回程度しか会わないし、
特別、何か話をするわけではない。
けれど、どうにも気になる。
彼の何気ない仕草が気になる。
耳の裏をポリポリと描く動作とか、
一仕事終えた時の、ぐっと伸びをする動作とか。
ふと目の前を通った時に香ってくる匂いとか。
そう、あと笑顔だ。
あのはにかんだ笑顔が、どうにも頭に残る。
会えない日もそうだ。
人混みを見ると、ふとフィッツ先輩の姿を探している時がある。
実際、彼は人混みにいる事が多い。
アリエル王女とその御一行は学校でも有名だ。
生徒会の活動なんかでも、数名で塊になっている事がよくある。
フィッツ先輩はそうした人々の中でも、一目置かれている。
彼は無言のフィッツと呼ばれ、滅多に口を開かない。
王女の護衛として、魔法大学でもトップクラスの実力を持ってい
る。
一目置かれて当然だろう。
そんな彼を、俺は目で追っている。
2433
この症状に関しては、俺も知っている。
恋ってやつだ。
俺は、男に恋しているのだ。
いや、本当に彼は男なのだろうか。
そこだ。
これは命題だ。
フィッツ先輩が男か女か。
答え如何によっては、俺がホモかノンケかに別れる事となる。
ぶっちゃけ、病が治る気配もないので、どっちでもいいっちゃい
いのだが。
出来れば女であってほしい。
−−−
というわけで、
俺は情報収集に乗り出した。
本人に聞くのが一番手っ取り早い。
だが、それは最後の手段だ。
もしかすると、女顔である事を非常に気にしているかもしれない
からな。
まず、俺は職員室へと赴いた。
教員棟になら名簿もあるだろう。
2434
名簿には、きっと真実が書いてある。
生徒の個人情報は渡せないと言われても、性別ぐらいなら教えて
くれるかもしれない。
そう考え、俺は教員棟へと向かった。
大量にいる教師の中から、4年生の担当。
フィッツ先輩のクラスの担任を探し、聞いてみた。
﹁フィッツ先輩の性別について、少々お聞きしたいのですが﹂
﹁彼の事は、教えられません﹂
﹁そこをなんとかなりませんか﹂
教師は随分とおどおどしていた。
どうやら、俺が怖いらしい。
最近、生徒に怯えられていることは知っていたが、まさか教師に
も怯えられているとは。
いや、いい、好都合だ。
﹁なんとかならないと、僕の太くて逞しい岩砲弾があなたの尻に酷
い事をするかもしれませんよ﹂
﹁ヒッ⋮⋮! それは⋮⋮いや﹂
﹁それとも、水系のイタズラの方が好みですか?﹂
﹁⋮⋮も、申し訳ありませんが!﹂
教師は頑固なものだった。
脅しに屈しないとは、見上げた根性だな。
﹁冗談ですよ﹂
俺はそいつから聞き出すのを諦め、ジーナス教頭の所へと移動し
2435
た。
下でダメなら上に聞けばいい。
職員室の端。
ジーナスは書類の山と格闘していた。
これだけ巨大な学園だ。
教頭の仕事も多いだろう。
邪魔するのは悪いが、何、一言二言で済むことだ。
﹁ジーナス先生﹂
﹁これはルーデウスさん﹂
﹁忙しそうですね﹂
﹁いえいえ、ルーデウスさんが問題児を抑えてくれているので、か
なり仕事が減っています﹂
問題児。
誰の事だ?
バーディガーディか?
それともザノバか?
どっちも、どう見ても児童じゃないんだが。
﹁本日はどうしましたか?﹂
﹁はい、実はフィッツ先輩のことを聞きたくて﹂
そう言うと、ジーナスはぴくりとまゆを動かした。
﹁申し訳ありませんが、彼らの事に関しては、上から圧力が掛かっ
ていまして﹂
﹁そうなんですか﹂
2436
上の事なんざうっちゃって俺の質問に答えろよ。
と、言いたい所だが、疲れ果てたジーナスの顔を見るに、やめて
おいた。
学校も色々あるだろうしな。
第二王女を受け入れる代わりに資金援助を受ける、とかやってい
るかもしれない。
﹁せめて、性別だけでも教えてもらえませんか?﹂
﹁性別⋮⋮ですか⋮⋮うーむ﹂
ジーナスは苦笑した。
相変わらず苦笑の多い人だ。
彼が考えていたのは、一分ぐらいだろうか。
何もしないで待つ一分というのは、長い物だ。
﹁彼は⋮⋮⋮⋮男性です﹂
最終的にジーナスはそう答えた。
−−−
結局、フィッツ先輩が男か女か、わからなかった。
ジーナスは﹁男性﹂と答えた。
だが、圧力もかかっているみたいだし、色々考え込んでいて、嘘
か真かわからない。
ただ、その直前にジーナスはフィッツ先輩のことを﹁彼ら﹂と言
2437
っていた。
アリエル王女が主体であり、
女二人、男一人の集団を指すなら、
﹁彼女ら﹂というのが自然ではなかろうか。
いや、これも屁理屈だ。
言葉の揚げ足取りにすぎない。
理由には程遠い。
﹁ふぅ﹂
気づけば、俺は図書館にきていた。
いつもフィッツ先輩と一緒に調べ物をしていた席。
そこに座り、ため息をつく。
﹁はぁ⋮⋮﹂
俺は彼が男であるか、女であるかを知ってどうするのだろうか。
仮に女だったとして。
告白でもするのだろうか。
告白?
好きですというのか?
この俺が?
それはそれで大事だとは思うが⋮⋮。
しかし、何か違う気がするな。
そうじゃない気がする。
大体、告白した後はどうしようというのだ。
2438
後。
そう、後だ。
俺の今の体で、どうしようというのだ。
俺のクレーンは反応しないが、ガス欠というわけではない。
頭の方は煩悩で満タンだ。
いずれ我慢できなくなる。
できないのに我慢できなくなる。
自分が辛くなる。
そうだ。
俺は愛とか恋とか、そういう何にでも使える便利な言葉でごまか
したりはしない。
俺はフィッツ先輩としたい。
色々とだ。
あんな事やこんな事をしたいのだ。
いや、そこまで行かなくてもいい。
﹁せめて自家発電がしたい⋮⋮﹂
と、その時。
ポンと肩を叩かれた。
顔をあげる。
後ろを振り向く。
そこに、フィッツ先輩がいた。
﹁何をしたいって?﹂
フィッツ先輩が、小首をかしげて、俺をのぞき込んでいたのだ。
2439
﹁うおぉ!?﹂
驚いて、立ち上がる。
イスが、足に引っかかった。
﹁わっ、危ない!﹂
フィッツ先輩が手を伸ばす。
俺の手を掴む。
しかし、フィッツ先輩の力では、俺を支えきれなかった。
﹁うわあ!﹂
もつれるように、転んだ。
椅子を巻き込んで、机を大きく押し出しながら。
俺たちは倒れた。
気づけば。
俺の上に、フィッツ先輩がいた。
俺はフィッツ先輩を抱きかかえるように、転がっていた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
極めて近い距離に、フィッツ先輩の顔があった。
サングラスでその表情はわからないが。
しかし、その鼻梁や、薄い唇が目の前にあった。
軽い。
2440
が、しかししっかりとした人の重さ。
そして人のぬくもりを、俺に伝えてくる。
ふわりと、いい匂いが鼻を刺激する。
フィッツ先輩の匂いだ。
一日中嗅いでいたいと思う匂いだ。
俺の手はフィッツ先輩の腰と尻に回っている。
細い腰だ。
とても男とは思えない。
尻肉は女性にしては少々薄く感じたが、
しかし柔らかい。
とても男とは思えない。
これを触っているだけで、俺の悪い子ちゃんがムクムクと。
ムクムクと⋮⋮。
あ。
﹁あ、ご、ごめっ﹂
顔を真っ赤にして、慌てて謝り、立ち上がろうとするフィッツ先
輩。
﹁フィッツ先輩⋮⋮やっぱり女だったんですね⋮⋮﹂
フィッツ先輩が、ハッとしたように顔をした。
口をパクパクと動かし。
最後には、首を振った。
2441
﹁ち、違う⋮⋮ぼ、ボクは男の子だよ!﹂
フィッツ先輩は慌てて立ち上がり、そして、そのまま数歩後ずさ
り。
踵をかえし、走り去った。
あっという間だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
すぐ脇のテーブルには、数冊の本が置いてあった。
いつぞやのように授業の資料でも取りに来たのかもしれない。
フィッツ先輩は女だった。
重要な事だ。
とても重要だ。
しかし、そんな重要な事より。
そんなことより。
﹁立った⋮⋮﹂
この約三年間。
うんともすんともしなかった、不動なる者が、立っていた。
今の接触で、この数年、挫折し続けていた者が、立っていた。
右手で触ってみると、雄々しくも確かな感触を返してくる。
﹁⋮⋮⋮⋮そうか﹂
俺はこの時、初めて人神の言葉を理解した。
なるほど、確かに。そういう事なら、図書館で調べるべきだろう、
2442
と。
そして、
﹁でも、フィッツ先輩は隠しておきたいのか﹂
と、一人つぶやく。
フィッツ先輩が何かを隠していたのは、最初からわかっていた。
男装をして、王女の護衛で。
何かを隠していた。
事情はあるのだ。
確かに立った、大地に立った。
しかし、俺は、これ以上は踏み込めそうもない。
俺が踏み込めば、迷惑になる。
せっかく男装までして正体を隠しているのに、俺のせいで正体が
バレるかもしれない。
迷惑だ。
俺はフィッツ先輩が好きだ。
そんな好きな相手に事情があるとする。
その事情を、俺の事情で暴くべきなのだろうか。
この数年ぶりに煮え滾っている欲望を、ぶつけるべきなのだろう
か。
否だ。
俺がすべきなのは、フィッツ先輩の正体を暴く事ではない。
秘密を守る事だ。
事情を汲んでやる事だ。
2443
ていうか、そうでもしないと、
﹁黙っててやるから今晩俺の部屋に来いよ﹂とか言ってしまいそ
うだ。
今までお世話になったフィッツ先輩に、そんな事を⋮⋮。
ああ、でも言いなりになって、俺の前であの分厚い衣装を一枚ず
つ脱いでいくフィッツ先輩。
﹁そんな人だと思わなかったよ﹂なんて悔しそうに言いつつ、下
着姿になって⋮⋮。
どんなパンツ履いてんだろ。やっぱ白かな。
そして最後の一枚を⋮⋮。
いやいやいや。
いかんいかん。
それはいかん。
彼⋮⋮いや彼女には何度も助けられたじゃないか。
その恩を仇で返すなど、許されざることだ。
大体、﹁そんな人﹂だとは思われたくないしな。
俺は紳士だ。
よし、今まで通り、出来る限り男として扱おう。
そして、もしバレそうになったら、それとなく助けてやるのだ。
そう、入学初日に彼女が助けてくれたように。
きっと、あの時だって、危なかったはずだ。
寮の協定に口出しをして、自分の立場をふいにしそうになったは
ずだ。
でも、彼女は俺を助けてくれた。
2444
なぜかはわからないが、とにかく助けてくれた。
もし似たような状況になったら、次は俺の番だ。
俺がフィッツ先輩を、助けてあげるのだ。
﹁まてよ、女だとすると⋮⋮﹂
と、そこまで考えて。
ふと、思い出した。
今まで、ずっとフィッツ先輩を男だと思って言ってきた、シモネ
タの数々を。
例えば、奴隷市場でのセクハラ発言とか。
リニアとプルセナを捕まえた時のセクハラ発言とか。
杖を持たせてのセクハラ発言とか。
悶えた。
−−−
悶え終わる頃、息子はまた引きこもりに戻っていた。
揉んでもさすっても、出て来なかった。
床ドンをしてこないだけ俺の時よりマシだが⋮⋮。
せめて1回ぐらいは、1.21ジゴワットの電力で時空間を超越
するような快感を得ておきたかったのだが⋮⋮。
どうやら、まだ完治には程遠いらしい。
まあいい。
兆しは見えたのだ。
焦らずに行こうじゃないか。
2445
とりあえず、今から自室に帰ってさっきの感触を思い出す所から
始めよう。
−−− アリエル視点 −−−
またシルフィが泣きついてきました。
﹁うぅ、男って、男の子だって言っちゃったよぉ⋮⋮。
せっかくのチャンスだったのに、ルディから踏み込んできてくれ
たのにぃ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それは大変でしたね﹂
こうして泣きつかれるのはこれで何度目でしょうか。
シルフィは、事ある毎に一喜一憂し、私に泣きついてきます。
私には、それがタダの惚気にしか聞こえません。
時には、ルディとお出かけだといって奴隷市場に行って、
そこでルディの格好いい所を見ただの。
裸の男性をまじまじと見たのは初めてだっただのと惚けたり、
シーローンのザノバ王子とも少し仲良くなったとはにかみながら
笑ったり。
時には、ルディが本気で怒ってリニアとプルセナを監禁したと報
告し、
いくら決闘で勝ったからって他人のものを壊しちゃダメだよね、
と憤慨したり。
2446
時には、ルディって結構経験あるらしいんだよ。複雑な気分だけ
ど、ルディなら当然かなぁ、と溜息をついたり。
時には、ルディが恋愛相談してきた、どうしよう、もしかしてル
ディって好きな人いるのかなと不安がり。
その時に、自分の事を棚にあげて偉そうな事を言ってしまったと
凹んだり。
時には、ルディに杖を持たせてもらった、魔石がすっごく大きく
てびっくりした、あれ絶対に高いよね。
あんな凄い杖の運搬を任せてもらえたって事は、ボク結構信用し
てもらってるのかな、とウキウキしたり。
時には、バーディ様と戦ってる時のルディ、カッコ良かったな⋮
⋮見ててボク、ぽーってなっちゃったよ、と惚気たり。
時には、ルディはサイレントの研究に手を貸すから、もう二人っ
きりになれないんだ、と寂しそうに言ったり。
そして今日にいたっては、アレを押し付けられたのに嘘をついて、
逃げ出したと泣いて。
︵はぁ、もう、さっさと正体を明かせばいいのに⋮⋮︶
この頃になると、私のルーデウスに対する認識も改まっていまし
た。
当初は腰の低い卑屈な奴だと思っていましたが、
あくまでそれはポーズにすぎないとわかってきました。
2447
シーローンの神子ザノバを配下に置いて、
大森林の姫君、リニア・プルセナにボスとして慕われ、
ミリス教団教皇の孫クリフに一目置かれ、
不死身の魔王バーディガーディを打倒して懇意となり、
そして、私の協力願いを蹴ったあの気難しいサイレントにも協力
を取り付けた。
特別生は、私が仲間に引き入れようと思い、断念してきた者達も
多いです。
それらをすべてひっくるめて、ルーデウスが率いている。
卑屈なだけでは、こうはならないでしょう。
以前懸念にしていた﹁噂が綺麗すぎる﹂という点については、も
う疑ってはいません。
ルーデウスの魔術で、不死身の魔王バーディガーディは爆散しま
した。
爆散。
爆散です。
硬い闘気によって守られし魔王を、一撃で爆散させたのです。
私が恐れ、自分の手に余ると思い、何も出来ず、ただ見ているし
かなかった存在を。
一撃で爆散させたのです。
強すぎます。
でもあれならば、確かにはぐれ竜の一匹や二匹は倒せるでしょう。
そんな強さを持つというのに、彼は極めて温厚です。
下着泥棒の冤罪で女生徒に恫喝された時も、彼は決して怒らなか
った。
2448
彼がこの学校に来てから本気で怒ったのは、あのリニア・プルセ
ナに対してだけだといいます。
具体的に何をしたのかというと、監禁して顔に落書きをしただけ
と聞いております。
しかし、あのリニア、プルセナは異常なまでに怯え、従順になり
ました。
きっと、彼の怒りを間近で受けたのでしょう。
魔王を一撃で倒せる者の怒りを。
もちろん、彼女らはルーデウスの悪い噂など流してはいません。
というか、悪い噂など、怖くて流せないのでしょう。
ルーデウスは常に下手に出続け、隠れるように生活しています。
あれだけ強いのに。好き勝手出来るのに。
その理由は、わかりません。
正直、考えれば考えるほど、ルーデウスが何か悪い事を企んでい
るような気がしてなりません。
けれども、シルフィの話を聞く限り、彼は悪い人物ではありませ
ん。
先日初めて間近で顔を見た時も、﹃フィッツ﹄に対する暖かな親
しみのようなものを感じました。
外見は胡散臭いけれど、親しい相手には優しい人物なのでしょう。
一発で見破られたので、警戒して少々悪い態度を取ってしまいま
したが、
その後のシルフィへの態度はさほど変わらなかったと言います。
未だ不透明な部分はありますが、
彼と、そして特別生全員と丸々繋がりが出来るのは、大きすぎる
メリットになります。
今こそ、正々堂々真正面から頭を下げ、協力を願い出るべきなの
2449
かもしれません。
でも⋮⋮。
ハッキリ認めましょう。
私は彼が怖い。
怖いのです。
あれを怖がらないのは、シルフィが強いからでしょうか。
それとも、彼の本質を見抜いているからでしょうか
シルフィの嬉しそうな顔を見ていると、
ルーデウスを私の政権争いに引きこもうという気持ちは薄れてし
まいました。
私は、シルフィには幸せになってもらいたいです。
私は幸せなど掴めそうもありませんが、
彼女は私の王権争いに巻き込まれただけの子です。
貴族のように責任もなく、ルークのように私に忠誠を誓っている
わけでもない。
義理と友情で私にしたがってくれているに過ぎないのです。
力尽き、地に伏せる所まで付き合う必要はないのです。
どこかで離脱し、一人の女性として幸せな暮らしを送れるなら、
それが一番でしょう。
シルフィは、納得しないかもしれません。
彼女も私の仲間として、一生懸命やってきました。
けれど、ルーデウスとの恋は、いい機会だと思います。
私がこうして品評するのもあれですが、
ルーデウスは、非常にいい物件だと思います。
シルフィを、我が友を任せてもいいと思える相手です。
2450
シルフィを忘れていたのはマイナス点ですが、まぁ仕方ないとし
ましょう。
さて、問題はシルフィの恋の行方です。
非常にもどかしい、遅々として進まない、シルフィの恋の行方で
す。
一年も経つのに、仲良くはなれど進展はしない、そんな恋の行方
です。
鈍感なルーデウスに、ヘタレなシルフィ。
見ていて、ただただもどかしい、二人の行く末です。
私は、シルフィはもっとあせるべきだと思います。
シルフィは気づいていないようですが、ルーデウスはいつ誰とど
うなってもおかしくありません。
例えば、リニアやプルセナ。
彼女らも、今はまだルーデウスとそうした関係にはなりそうもあ
りませんが、
あと1年か2年もすれば、どうなるかわかりません。
そして、サイレント。
あの気むずかしい仮面女が、ルーデウスには協力している。
シルフィの話では、これもそうした関係ではないようですが。
長い事一緒にいれば、どうなるかわかりません。
シルフィがこうやってグズグズしている間に、
ルーデウスの気持ちが動いてしまうかもしれないのです。
いや、動くでしょう。
2451
少なくとも、ルーデウスには﹃フィッツ﹄に遠慮する理由は無い
のだから。
⋮⋮男装をしたシルフィに反応し、﹁女だったんだ﹂と聞いたと
いう事は、別に男色というわけでもないでしょうしね。
ふむ。
という事は、﹃フィッツ﹄が女だという事にも、どうやら気づい
ている様子⋮⋮。
鈍感だと思っていましたが、知っていて無視しているのでしょう
か。
いえ、もしかするとこちらの事情を察して遠慮してくれているの
かもしれません。
ん? だとすると⋮⋮今の状況は私のせいでしょうか。
私のせいで、こんなもどかしい状況が作られているのでしょうか。
︵なら、私が手伝うのが筋でしょうね⋮⋮よし︶
私はシルフィの恋のお手伝いをすることにしました。
2452
第八十七話﹁守られた秘密﹂
フィッツ先輩が女だと判明した翌日。
俺は寮の自室にあるベッドで、だるい体を起こした。
久しぶりに目覚めた相棒の事が気がかりで眠れなかったのだ。
相棒は何事もなかったかのように沈黙を続けている。
俺の脳内は、すでにフィッツ先輩の事で一杯だったが、相棒は知
らん顔だ。
この行き場のない昂ぶりを相棒と一緒に発散させたいと思ったの
だが、まだ相棒の機嫌は治りきっていないのか。
それとも、記憶だけではダメなのか。
匂いか、感触か、それとも声か。
フィッツ先輩の存在がED回復の鍵となるのは間違いないらしい。
人神の言葉は正解だったのだ。
俺が気づかなかっただけで、すでに治療薬は存在していたのだ。
とはいえ、これからどうやって治療に入るというのだろうか。
フィッツ先輩は正体を明かせない。
俺も、フィッツ先輩に嫌われたり警戒されるような事は出来る限
りしたくない。
EDの治療とフィッツ先輩の信頼。
せめてあと半年早く彼女が女性であると気付いていれば、
前者に重きを置いて彼女の事など何も考えずにED治療に邁進し
たであろう。
だが、今となっては恋慕の情の方が大きくなってしまった。
2453
こうなると、エリスの時のように、性欲に任せて行動し、振られ
るような事は避けたい。
と、自然に考えるようになってしまう。
﹁⋮⋮これも、なるようになるのかね﹂
男装した王女の護衛にED治療をねだる男、か。
その演目は、さぞ面白いんだろうな。
面白けりゃおひねりをくれたっていいんだぜ、人神さんよ。
と、俺はわざとらしくニヒルに笑い、下段しか使っていない二段
ベッドから出た。
ぐっと伸びをすると、あくびが出た。
寝不足だな。
﹁あふぁ⋮⋮﹂
部屋の隅に置かれた桶の前に移動し、中を温水で満たす。
そこに映るのは、そこそこ良い感じの少年だ。
前世界の標準で照らしあわせれば、決してブサイクとはいえない。
パウロのDQNっぽいちゃらけた顔に、ゼニスの優しい面影をプ
ラスした顔。
悪くないとは思うが、しかし、この世界の﹃美形﹄から少々外れ
る。
何度見ても、自分の顔だとは思えないが、それも慣れた。
前世より悪くないというだけで、十分満足できる。
しかし果たして、この顔はフィッツ先輩の好みに近いのだろうか。
2454
いや、よそう。考えてもしかたないことだ。
彼は男。俺は何もしない。
そういう事にするのだ。
ふと、そのまま顔を洗おうとして、自分の顎のあたりにうっすら
と何かがついているのを発見した。
指で触ってみる。
引っ張ってみると、肌が少しだけ引きつった。
ヒゲだ。
産毛のようなヤツが一本、ちょろりと生えているのだ。
﹁もうそんな歳か⋮⋮﹂
こっちの世界でも、人族の二次性徴はそれほど変わらない。
パウロがあまり毛深い方ではなかったせいかヒゲはちと遅かった
が、それ以外の毛は生えてきている。
他の種族となるとどうなっているのかは分からないが、フィッツ
先輩はどうなんだろうか。
長耳族ってのは成長が遅いんだったか⋮⋮。
あっちの方の毛は生えていたりするんだろうか。
長耳族の生態はエリナリーゼあたりに聞けばわかるだろうか。
ん⋮⋮あれ?
なんか引っかかるな。
引っかかるが、それが何か思いつかない。
﹁⋮⋮⋮⋮なんだっけか﹂
2455
何か、何か忘れてる。
しかし、思い出せない。
思い出せないまま、俺は産毛のようなヒゲを剃り落とした。
−−−
丸二日が経過した。
フィッツ先輩との接触は無い。
俺も、急にフィッツ先輩を探したりとか、不審な行動を取るつも
りはない。
いつも通り、いつも通りだ
三日目の朝。
男子寮の廊下に、ルークが待ち構えていた。
俺は慌てない。
何かしらのアクションはあると思っていた。
﹁おはようございますルーク先輩、珍しいですね、こんな時間に﹂
出来る限り快活に声を掛けたが、ルークの顔はうかない。
不機嫌そうな目で俺を見ている。
﹁フィッツの事で話がある﹂
やはりか。
だが、この件に関しては、俺も答えを統一させる。
2456
﹁僕は何も知りません﹂
﹁ほう、何を知らない?﹂
ルークの詰問口調の声。
この間のフィッツ先輩の事で、探りを入れているようだ。
⋮⋮となると、もしかすると性別を知ってしまったという事は不
確定と思われているのか?
密着して、あんな事を聞いたのだが、フィッツ先輩は女とは言っ
てない。
別に胸を揉んだわけでもなければ、どこぞの尻尾生えた少年のよ
うにパンパンしたわけでもない。
まだ隠し通せる、そう思っているのかもしれない。
そういう方向なら、俺も異論はない。
しかし、フィッツ先輩の秘密、よほど知られてはまずいのだろう
か。
いや、もしかすると、俺がグレイラット姓であることも関係して
いるのかもしれない。
だが、俺はすでに、ボレアスとの縁は切れている。
エリスにフラれた時にな。
いや、それともパウロの件か?
どちらにせよ、ここは、ハッキリと言っておかなければな。
﹁ルーク先輩。僕はあなた方と敵対するつもりはありません。
フィッツ先輩の正体も知らないフリをします﹂
﹁⋮⋮知らないフリだと?﹂
﹁ええ、僕はボレアスとも、ノトスとも縁は切れていますしね﹂
ルークの端正な顔が驚きに歪められた。
2457
何かマズイこと言っただろうか。
ボレアスやノトスなど知らぬ存ぜぬで通した方が良かっただろう
か。
﹁では、そういう事です﹂
﹁ああ、邪魔したな⋮⋮﹂
何も言わないルークにそう言って、俺はその場を後にした。
−−−
その日。
一日の授業を終え、
ナナホシの実験に赴いた。
﹁あ、ルーデウス君⋮⋮﹂
ナナホシの部屋の前に、なぜかフィッツ先輩がいた。
俺の記憶が正しければ、フィッツ先輩が手伝いに来る日はあと4
日ほど後だ。
今日は休みの日ではなかったはずだ。
だというのに、フィッツ先輩は来た。
王女の護衛ではなく。
実験の方に来た。
理由はやはり、先日の一件によるものだろう。
フィッツ先輩との肉体的な接触。
2458
そして、ルークとの対話。
もちろん、俺はフィッツ先輩と、そしてアリエル王女と敵対する
つもりはないと言った。
だが、向こうがそれを信用する理由はない。
むしろ、敵対を疑うであろう事は明白だ。
相手の秘密を知るってのは、そういう事だ。
なら、今日のフィッツ先輩の目的は、俺の監視か。
ルークとの対話が真実かを、確かめにきたのかもしれない。
ふっ、今日の俺は冴えてるぜ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なに? あなた達、喧嘩でもしたの?﹂
押し黙る俺と、緊張の面持ちのフィッツ先輩。
それを見たナナホシが、魔法陣を書きながらポツリと聞いてきた。
﹁べ、べ、別に喧嘩なんてしてないよ!﹂
対し、あからさまに挙動不審なフィッツ先輩。
慌てるフィッツ先輩は可愛いな。
でも、やはり、疑われている。
こういう時は、どうすれば信頼を得られるのだろう。
やはり、アリエル王女に貢物とかした方がいいのだろうか。
菓子折りぐらいしか思いつかんが。
かなり警戒されてるみたいだし、逆効果かもしれん。
﹁なんでもいいけど、私を巻き込まないでよね﹂
2459
ナナホシは舌打ちの一つでもしそうな声音で言った。
彼女はこの世界の厄介事は極力さけていく方針だ。
アスラ王国に関係深いフィッツ先輩と俺の喧嘩に巻き込まれたく
はないのだろう。
もっとも、こんな言い方をしていては、いつか誰かと問題を起こ
すだろうが。
⋮⋮言う相手が俺ぐらいしかいないようだし、それは問題ないか。
まあ、この世界とかかわり合いになりたくないというのなら、そ
れでもいいだろう。
俺がとやかく言う問題じゃない。
自分の目的を妨害されない程度に愛想よくして置いた方がいいと
は思わなくもない。
だが、毎日必死で魔法陣を書き続けている彼女に、コミュニケー
ションに労力を割け、とまではなかなか言えない。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ちっ⋮⋮﹂
いつもはフィッツ先輩やナナホシと他愛ない雑談をしながら行わ
れる実験。
今日はひたすらに無言で、時折ナナホシの舌打ちだけが響いた。
なんとも微妙な空気のまま、ナナホシの実験は終わった。
﹁⋮⋮⋮⋮お疲れ様﹂
2460
ナナホシは疲れた声で、終了を告げた。
彼女の実験は、今日も進展は無しだ。
−−−
実験の帰り。
やはり俺とフィッツ先輩の間に会話はない。
何かを喋らないと、今までと同じように振舞わねばと思うが、し
かし何を喋るべきか。
口を開けば、﹁おっぱい見せて﹂とか言いそうな気がしてしまう。
思いつかないまま、女子寮の分かれ道についてしまった。
﹁⋮⋮﹂
寮に近づくと、何やら入り口の方が騒がしかった。
遠くからでも入り口近くに人混みができているのが見えた。
﹁何かあったんでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮ん、ちょ、ちょっと聞いてくるよ﹂
フィッツ先輩が、焦ったような口調でそう言うと、サッとかけ出
した。
彼女も沈黙を苦痛に感じていたのかもしれない。
俺はその場で待機。
しばらくすると、フィッツ先輩が小走りで戻ってきた。
﹁どうでした?﹂
2461
﹁うん、なんかねー、寮の中で、喧嘩が、あったんだってー。
それでね、魔術を使った喧嘩で、廊下と天井に穴が開いたから、
最上階の部屋が使えないんだって﹂
やけに棒読みだった。
てことは、喧嘩したのはアリエルだろうか。
喧嘩するような人物には見えなかったが、何かやらかしたのかも
しれない。
﹁そうですか、それは大変ですね﹂
﹁うん、それでね、アリエル様の部屋も使えなくなっちゃったんだ。
今までボクはアリエル王女の部屋のすぐ傍の、護衛用の小部屋に
寝泊まりしてたんだけど、
そこも使えなくなっちゃってね﹂
﹁ほうほう﹂
ずいぶんと説明くさいな。
﹁アリエル様は、街中にいる知り合いの貴族に一晩だけ泊めてもら
う事になったんだけど、
その貴族っていうのが、大の長耳族嫌いな人なんだよ。
だから、ボクは家に入れられないっていうんだ﹂
﹁へぇー﹂
フィッツ先輩は演技がヘタだな。
いつぞやの、設定をそのまま読み上げているような感じの声音で
ある。
今度は、何を隠しているのやら。
いやいや、詮索はすまい。
2462
﹁それでね、明日には修理の人がきて直してくれるらしいんだけど、
ボクは今晩泊まる所がないんだ﹂
﹁ほう、それは大変ですね。なんでしたら、僕が修理に行きましょ
うか?
レンガ造りの家屋の修理でしたら経験がありますので、できると
思いますよ﹂
と、一応ながら提案してみる。
冒険者時代、土魔術の訓練の一環として、壁や屋根、街の壁の修
理をした事がある。
土魔術でレンガを作り、それを手作業+土魔術で組み上げる。
手順は知っているので、1時間も貰えれば、フィッツ先輩の部屋
ぐらいなら使用可能な状態に戻せるだろう。
決して、フィッツ先輩のお部屋を拝見したいという下心では無い。
﹁うえっ⋮⋮!?﹂
フィッツ先輩は顔を引き攣らせた。
﹁あう、あ、うんと、そ、そうだ。
三階に使われてるのは高級な耐魔レンガだから、えっと、材料が
無くてね、届くのが明日なんだ﹂
﹁そうですか﹂
そうだって⋮⋮今思いついたのか。
だろうな。
耐魔レンガなら、魔術によって破壊されるとかおかしいもんな。
でもツッコマンぞ。
むしろ、それを誰かに聞かれたら﹁耐魔レンガが雨漏りで劣化し
ていた﹂という言い訳も考えついた。
2463
フッ、今日の俺は鋭いぜ。
﹁それに、女子寮に男子が入れるわけがないじゃないか﹂
﹁ですね﹂
何をしているのかわからんが、向こうの事情は汲んでおこう。
とりあえず、俺に女子寮に入られるのはマズイ、ということだ。
﹁えっと、その、えっと、ルーデウス君、一人部屋だったよね?﹂
﹁ええ﹂
探るような視線。
これは、なんと答えるのが正解か。
﹁なんだったら泊まりにきますか?
二段ベッドの上はいつだって開いていますよ﹂
フィッツ先輩は男で通しており、俺は彼女を男として扱う。
だから、この提案は、当然の事だ。
後輩が、先輩を部屋に泊める。
ただそれだけの事だ。
決して下心はない。
寝込みを襲おうとか、そういう不埒な事は考えていない。
ただ、フィッツ先輩の寝ていた布団の匂いを嗅ごうと思っている
程度だ。
もっとも、フィッツ先輩はさすがに断るだろう。
男の部屋で同衾というのは、さすがにマズイだろうしな。
まあ、フィッツ先輩には俺の部屋を貸出し、
俺自身はザノバの部屋に泊めてもらうのがベストか。
2464
それでも匂いは嗅げるからな。
﹁ほんと!? いいの? じゃあ、一晩だけ、お言葉に甘えるね!﹂
予想に反して、フィッツ先輩は嬉しそうな顔をして頷いた。
あれ?
と、首をかしげ。
直後に、悟った。
監視だ。
フィッツ先輩は今日、俺を監視しているのだ。
先日の件だけでなく、もしかするとアリエル王女になにかトラブ
ルがあって、
容疑者として俺が疑われている可能性もある。
俺が何かをしないように、フィッツ先輩が俺を監視する。
そういう手はずになっているのかもしれない。
思えば、本来ならば来ない日にナナホシの所に来たのも、そうい
う事だったのかもしれない。
そういう事なら。
アリエル王女が何を警戒しているのかわからないが、一晩じっく
り護衛して、安全だと確かめればいいさ。
﹁じゃあ、枕と着替えだけ取ってくるね﹂
フィッツ先輩はそう言うと、タッと駆け出し、寮の中へと戻って
いった。
2465
⋮⋮⋮⋮部屋、散らかってなかったよな。
−−−
寮に戻り、フィッツ先輩を自室に招く。
フィッツ先輩は緊張の面持ちで、部屋に入ってくる。
﹁どうぞ、粗茶ですが﹂
﹁あ、うん。ありあが⋮⋮ありがとう﹂
どもって顔を赤くするフィッツ先輩。
﹁僕はこれから、ザノバとジュリに魔術を教えにいきますが⋮⋮一
緒に行きますか?﹂
﹁い、いや、ボクは待ってるよ。邪魔しちゃ悪いしね﹂
﹁そうですか、フィッツ先輩なら、ザノバも邪険にはしないと思い
ますがね﹂
俺の監視ではなかったのだろうか。
いや、もしかすると、家探しの一つでもする気なのかもしれない。
俺に探られて痛い腹はない。
ゆえに、見られて困るものもない。
ちょっと洗濯物がたまってるけど、別に困りはしない。
﹁では、行ってきます﹂
ザノバルームへと移動する。
2466
ジュリに土魔術と造形を教えつつ、
ザノバと赤竜フィギュアの制作をしつつ、
俺は少々考える。
考えるのは、フィッツ先輩の事だ。
現在俺は、好きな子が部屋にいるという事で、少々興奮している。
しかし、考えてみよう。
俺はフィッツ先輩の性別を知らない、という事になっている。
つまり、フィッツ先輩は男として泊まりにきているわけだ。
俺を監視するために。
警戒されているのだ。
ルークには敵対しないと言ったが、
所詮は口先だけの事、信用出来ないのだろう。
それに、俺はどうやらこの一年で学校のパワーバランスを大きく
変化させてしまった。
リニア、プルセナ、バーディガーディ、ナナホシと、強い権力を
持つ者に接触してきた。
傍から見れば、俺が従えているように見えるのかもしれない。
学校中の権力者を支配下に加え、
最後は生徒会長であるアリエル王女をと、そう思われている可能
性もある。
さすがにそれは邪推だが、
街中でアリエル王女⋮⋮と思わしきフィッツ先輩と接触し、
その後にフィッツ先輩の性別について探りを入れた。
怪しまれている可能性は高いだろう。
2467
もちろん、俺はこの学校の覇者になるつもりはないし、
アリエル王女をどうこうするつもりはない。
それを証明する方法は後々考えるとして、
フィッツ先輩に疑われるような事は一切しない方がいいだろう。
神経を尖らせていく。
今晩は、疑われるようなミスはしない。
例えば、うっかりハプニングで、フィッツ先輩の着替えを覗いて
しまう。
わざとではないのだが、わざとだと誤解される。
なんて事も有り得る。
恋愛コメディにありがちな展開だ。
しかし、わかっていれば回避は容易である。
例えば、トイレ、風呂。
この寮のトイレは個室だから鍵さえかければ問題ない。
風呂は、一応、ザノバの所に行っている間に済ませてもらうよう
に言っておいた。
お湯は1階にもらいにいくか、もしくは自分で沸かす。
フィッツ先輩は魔術に関しては問題ないだろう。
一応、他人の部屋で風呂に入るのに抵抗があるのならと、おしぼ
りも用意しておいた。
あ、もし帰ったら、偶然にも着替えに鉢合わせてしまう可能性が
あるな。
自室なのでノックもなしにガチャリと入り、白い肌を見せている
フィッツ先輩。
2468
きっと﹁キャッ﹂という短い悲鳴を上げて、胸を隠すだろう。
俺はもちろん気付かないフリをして、﹁背中を流しましょうか﹂
なんて言って近づいて。
﹁おっと手が滑ったなんて﹂言いつつ、慎ましい頂きにロックク
ライミング。
﹁先輩、ちょっと胸筋の鍛え方が足りないんじゃないですか﹂な
んてとぼけつつまさぐれば、
きっと、息子も大鐘音のエールを響かせながら旗を立てて⋮⋮。
いや。
だから、いかんて。
そういう事をやったらいかんのだって。
とはいえ、帰ってきた時に着替えに鉢合わせる可能性。
これも極めて高いと言えよう。
少なくとも、俺が生前に読んでいた恋愛コメディでは、確実に遭
遇していた。
ゆえに、扉を開ける時は必ずノックだ。
自室だが、関係ない。
そこに人がいるのだから、ノックは必須だ。
甲子園球児のシゴキぐらい必須だ。
百本ノックだ。
打つべし、扉、打つべし。
今晩、俺はミスはしない。
欲望に流されてフィッツ先輩の裸を見たり、
まして夜中に襲いかかったりはしない。絶対にだ。
性神的ミスは無い、と思っていただこう。
2469
フィッツ先輩は快適な夜を過ごす事だろう。
−−− シルフィ視点 −−−
ルディが部屋を出てから、結構な時間が経った。
確か、寝る直前までザノバ君とジュリに魔術を教えているらしい。
そう考えると、あの二人が羨ましい。
ボクも昔は、丸一日ルディにつきっきりで魔術を教えてもらって
いた。
懐かしい。
願わくば、あの頃に戻りたい。
なんて考えているボクは現在、下着姿である。
女性用のパンツに、ビスチェ。
いつもつけている色気のない防刃素材のビスチェではなく、アリ
エル様から借りたセクシーなやつだ。
少しだけ胸のあたりがダボついているけど、アリエル様は﹁それ
がいい﹂と言っていた。
よくわからない。
いつものようにサングラスもつけていない。
あれを付けていないと、アリエル様が襲われた時にわからないの
だが、
まあ、今はルークを信じよう。
今日は他の二人もついているし。
それに、学校で襲われることはほとんど
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