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3 戦時体制期の大和売薬

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3 戦時体制期の大和売薬
第5章恐慌から戦時下への大和売薬
3戦時体制期の大和売薬
売薬製造。営まず大和売薬の生産状況の推移を、表7に示すが、一九三四年は卸価額、一九三五年以降は定価額
業者の推移で表示されているように思われる。一九三四年の定価額は、一四五六万九七三六円らしい。一九三
六∼一九三八年はやや低落している。定価額は卸価額のほぼ四∼五倍であることを考慮すれば、大和売薬は相変らず
停滞気味といえよう。
前にも述§たが、売薬統計について注意する点がある。一九三一、三二、三三年︵昭和六、七、八︶の三年間にわた
り、奥村正信は県会で、売薬統計は﹁卸売価格﹂ではなく﹁小売価格﹂︵定価額︶で表示するべきである旨の主張をし
ている。一九三一年の議論を承ると、﹁殊二売薬価格ヲ算定致シマスル場合二卸売価格ト云う計算方法︿本県ノ生産
ヲ明示スル上二大ナル錯誤ヲ来タスモノデァリマス、何トナレ。︿其卸売価格︿、本県ノ生産売薬︿主トシテ本県二於
テハ卸売行為ヲ営ミマスヶレドモ他府県二於テハ小売デ出ルノデアリマス、故二本県ノ生産ノ基礎トスルモノハ先ヅ
以テ小売価格デ示サナヶレ露天ナル間違ヲ生ズルト私︿信ズルノデァリマス﹂繍雲蕊鱒霊謹という。翌年三
月の県会では、﹁昭和五年ノ生産トシテ⋮⋮四百六十一万円︵卸価額l引用者︶ト云う製造高ヲ発表セラレテ居りマス
⋮⋮富山県ガ富山県ト本県ノ産業状況ヲ比較スル場合、奈良県ノ場合ハ一千九百五十万一千円︵定価額I引用者︶ト発
表シテ居ルノデァリマス﹂︵銅融鱗斜鋳遜との例を引いて、前年の主張をくり返した。県側の回答は、こうである。
﹁昨日七番議員ノ御話ニ依りマスト、各府県ノ売薬統計ノ生産額︿何レモ定価ノ金額ヲ以テ表示サレテ居ルト以テ表
ノ御言葉デゴザイマシタ、即チ独り奈良県ダヶガ卸売価格デ以テ其金額ヲ現ハシテ居ルガ、他ノ府県デハ小売価格ヲ
173
寸卜門
表7 大 和 売 薬 の 生 産 状 況
年
│
瀞
’
次
職 工
(年末現在)
総数
脳病其他神経病薬
数
総
−
方数
女
男
(その1)
個
数
人
55
1,562
880
682
7
,
4
8
(
102,078,65
1935年("io;
1936年(〃11)
54
1,55C
868
682
7
,
5
3
(
8
7
,
7
4
5
,
0
7
:
538
1,462
817
645
7
,
6
9
(
1937年(〃12)
526
1,480
816
664
1938年(〃13)
53
1,465
792
673
1
12
18
659
297
3
!
140
57
298
205
36
24
(
3
10
56
’
60
38
14,781,75
28
1,822,620
383,825
77,801,611
1
3
,
3
4
9
,
8
7
(
34
2,180,053
406,375
7
,
5
4
4
9
0
,
4
0
4
,
1
2
(
13,336,26
33
2,321,739
430,872
7
,
0
2
1
91,381,44!
1
3
,
3
0
8
,
6
4
’
30
3,700,559
512,574
市
別
〔
1
49,850
154
5
‘
3,572
456
5,148,812
42,834
8
7
1
,
5
5
1
24,272
4,283
57,815,422
7,752,898
4,656,240
1
7
,
7
9
7
,
6
0
〔
1
,
4
5
:
一
107,97
259,91
405
4,60
699,751
1,520,925
1
6
3
,
3
5
1
391
3,805,176
550,911
2
5
2
1
−
−
2
‘
1
9
,
0
5
(
44,232
144
2
3
,
3
1
(
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47
1,298,820
205,694
1,163,470
5
2
,
6
9
4
551,11
126,462
1
5
,
8
1
(
2,372
359,29
68,480
:
1
一
50,33
2,370
2C
一
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7
2
’
282,40
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3,066,252
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7
20
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1
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7
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5
7
3
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6
1
P
2,000,954
2,963,405
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16
:
2
価稚
24
illll︲一
39
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5
42
49
22
16
矧淵剃判剃洲剃矧洲淵旅
城城
蔦葛
上駒辺城陀市智野良
源生山磯宇高北南宇吉奈
郡
11
数
’
円
1934年(昭和9〕
:
2
‘
│
数
総
4
方数
価 稚
975
3,250
=
一
一
一
一
−
−
(その2)
壷
−
次
’ 方数│個数1価 霜
心臓其他血行器病翼
方数│個数│価額
方数|個数|価額
450,2
2
7
,
6
9
9
,
5
7
《
802,142
4,563,687
24,607,221 3,812,778
29,926,60* 3,886,79§
2
9
,
5
7
1
,
0
7
( 3,982,489
1,176,703
1,232,865
1,55215,487,012 2,971,183
1,50419,147,620 2,572,040
1,53418,378,743 2,480,600
4■■■■■
1
3
6
1
2
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,
1
,
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(
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,
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,
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:
4
8374
80
12
p
51
4
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2
42
92
3
2
852
II︲︲111︲I
,
3 200
319
−
4281
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0
15
1
2
9
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,
1,453,596
690,776
1,47419,666》752 3,158,363
34008000
1
9
6
0
9
3
2
5
6
7
6
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1
10
10
90
16
9
7
4
1
9
8
1
1
9
,
999,818
円
1,56620,669,000
一卸一恥畑咽聴唖郵翠唖
,
1
円
1,053,310
別
−10−句色4m○Ⅷふバリ仙邸かLT山
52
32
60
89
42
04
83
47
94
20
0
1
2
3
2
3
5
3
23
97
2
029279
計
夢Ⅱ、r友L餌L︼伊画L胡OL銅ノ色︽仰山銅“﹄m〃。勺■品、Ⅲ︾
3
55
65
11
01
05
53
73
20
29
70
0
5
21
49
62
97
24
6
01
43
64
192
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1
9
8
2
55
16
1 1
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,
2
,
2
0
,
1
5
2
,
2誕型鯛58
4
0
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75
9
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3
,
2
一硬
一飛鋤穴Ⅸ託馴“師
1
1163787
l︲1.1414404■〃●
21
5
70
142
2
智野良
128359329
,
6
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郡
42,430,442
数
方数|個数|価額
38514
0
5
3
1
3
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9
1916
1
1
5
3
4
6
2
29
20
30
3
573,4
F
戸園凹︽u︾同″8P︻U利且
2,171,7
円
22
82
63
22
8
2
602,4
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淵謝矧澗謝謝剃淵謝謝市
城城
蔦葛
奈
上駒辺城陀市
糠生山磯宇高北南宇
1
2
,
4
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1
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,
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0
,
1
(
100
676
6,408
151,581
1,595
1,690,868
548,81
92,017
2,275,44
404,309
1
6
6
,
7
(
1,143,61
2
5
,
1
(
16,744
113,792
2,510
ぱいP
灘侭屡KQく牒塗鋒心灸遥南糾埠鎚
吉
肺其他呼吸器病薬|胃腸其他消化器病薬
総
31
00
50
53
8
6
1938年(〃
19
75
9
3
29
7
12
11
1111
即のD幻の
1934年(昭荊
1935年(〃
1936年(〃
1937年(〃
感 冒 薬
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(その3】
躯 F
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固数|価額│方数│個数|価額│方数|個数|価額|方数|個数|価額|方数│個数│価鞭
723,60&104,586 4173,363,498534,267
4
〔 110 09;
3
9
,
4
5
1
1,299
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2,40
51
453
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205,981
10,360,17
"
"
"
2
1
這
鰍
’
5,000
5,400
37,179
672,889
96
2,284
701
4,328,0551574,45〔 20360,933,900
85,945
3
18,391
1,168,940 203,955
260
20,000
2,000
69
112
78,726
17,064
2
695
2,600
260
177,760
1,917,501
302,500
257,265
48,500
3
,
0
0
1
3
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1
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7,014,88
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10
52
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194
,3,,
164
9
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, 862
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一一一袈穴
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612
1
6
1
:
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,2
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1
12
2
30
90
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,2
,
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8
郡
6
1
5,148,961 1,252,24
f
6,350,35
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5
5
,
1
5
旧 118,544 4773,563,657763,494
231,46c
円飢ⅨⅨⅨⅨ
233,537 60,465 4933,463,079703,271
6,123,931
夕伊L毎歩L戸障も〃隙L銅0、
11,691 4444,137,166157,809
数
P
46
46
16
05
65
1 5114539
6
円
247,40< 5
5,106 4864,490,318867,209
441777
郡郡郡郡市
士口
珂、
蔦城
省野良
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室
蔦城
1
7
6
,
8
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郡郡郡郡郡
上駒辺城陀
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高 市 郡
円
︲1
41
38︲8
548
76665市
1935年(〃10)
1936年(〃11)
1937年(〃12)
1938年(〃13)
9
72
270
0
92
113
11
1934年(昭和9)
総
一
(その4:
耳鼻咽喉眼科蕊
(外用)
年 次
47
621
702
3
8
,
1
3
0
,
1
2
4
,
1
1
6
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.
1
3
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653
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郡郡郡郡郡
上聯迩蜘院
,
7
867,825
円
5,237,425810,HE
4,822,331649,131
5,210,285807,301
5,307,584877,81S
市
95C
6
,
1 17C
15
2
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,
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2
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語津、『里Ej
0261鱗耀欝卿織
22
(注『奈良凧統計笛』昭和13年版,ただし,1934年度は当骸年銃計宙によ渚
トト︻
2
5
,
720
3
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2分2
,,
5
36
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354 564 6C
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2,038,
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2
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,
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灘脂侭KQく悟堆簿凸長鑑顛糾唖溌
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7
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1935年(〃10
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耐謂蕊蕊蓮
マィマニ●夫レカタ寅麺睡叶ュ似〃〃御郡プア,マゥクガ。之▲船●や伊〃一斉工唾鋤厘配〃竃一
句狩島晶舞か毎面伊・頁の町除艮〃圃宕ノア〃マゥ〃〃G則レマザ〃一・匹9堂レマヶ〃Q竃︽一
?且ヴタmyやケク窪〃屋■ァ画し〃腿戸画,プザプも︾鼻守狂極画永勾田■寺異、一
促奄率蕊窪ゴ 譜 翠 認 識 毛 潅 郡 翫 詐 誤 窪 津 鍍 霊 率 塞 ︾ 竺
難灘熱雛螺鱗鱈蝿輔蝿一
示シテ居ルト云ブャウナ意味ノ御意見ノヤウニ承ツタノデァリマス、⋮⋮
農事統計二致シマシテモ、又商工統計二致シマシテモ、価格︿総テ卸売平
均価格ヲ以テ調査スベキモノデアリマスル故二、売薬ノミ単リ其定価二依
ルコトハ県ノエ産物ナリ農産物ナリノ生産額ヲ集計シテ公表スル上二於テ
政府ノ方針二合致シナイト云フャウナ結果トナルノデアリマス、⋮⋮現二
本県カラ関係府県二照会今奴シマシテ調査致シマシタ結果、富山県、大阪
府、岡山県、佐賀県等ノ状況ヲ見マシテモ、卸売価格ヲ以テ調査致シタト
云う旨ノ回答ヲ得テ居ルャウナ次第デァリマス﹂鰯吐迂︶と。さらに翌年
も同様の論議がくり返されたが、この間県側も定価額を調べることになっ
ていると回答している.
当時の売薬統計には、このような問題点があるわけだが、組合データな
年の売薬法令施行細則、同取扱手続の改正が何か関係しているのかも知れない。
一○︶以降は県の売薬統計も定価額に戻ったようである。この変更は、さきの県会の議論をふまえたことのほか、同
交換もあり、さらに配置薬販売員の利益が上乗せされねばならぬという背景もあった。ともあれ、一九三五年︵昭和
る。確かに各売薬メーカーの利益は大きいといえるが、配置家庭薬だけに、代金回収までの期間が長く、売れ残りの
卸価額で発表されれば、利益がわかってしまうわけであり、この点を回避しようとした側面も無視できないようであ
どは定価額で示される場合が多い。県内重要産業としての補助を期待する面もあったと思われるが、より本質的には
売薬統計について議論された県会議事録 (1931年)
178
第 5章恐慌から戦時下への大和売薬
大和売薬の対全国比は、﹃奈良県薬業史﹄資料編所収データによると、一九三四年が三・五%霊価奉読沌一︶、一九三
五年は一六・六%、一九三六年は一四・二%、一九三七年は一二・五%、一九三八年は一○・三%である。表にはな
いが、一九三九年の生産高は二二六六万円、一九四○年は三二○一万円、一九四一年は二二六三万円であり、対言全国
"
難
│
蕊
獅
。 製造│請売│行一雨
1
0
)
18
583
1,000
1,092 54,754
1936(〃
1
1
)
20
795
992
1,630 16,545
1937(〃
1
2
)
20
776
986
1,666 19,084
1938(〃13)
17
787
994
1,686 20,609
1
4
)
17
799
341
1,306
3,930
425
326
1,112
4,061
比はそれぞれ二
一一
三・四
四%
%、
、二
二○
○・
・五
五%
%、
、二
一一
三・
・二
二%
%と
と推
推移
移し
して
てい
いる
る罰
命奉
奉職
職︶
︶。
。この間、製造場数は五○○台、職工数は
『奈良県統叶箇』各年版
一五○○人前後であり、また種類別の売薬生産高なども昭和初期の状況と比
薬
売
べてあまり変化が承られない。ただ方数は七○○○台で若干増加している。
一九三八年については郡市別の状況も表示してあるが、やはり高市郡、つい
で南葛城郡が群を抜いている。
大和売薬の営業者数などの推移は、表8のようである。とくに一九三五年
1935(〃
100
以降、請売業者の減少が目立つ。この年は前年の三分の一となり、一九三六
3,378 51,821
ケ
∼三八年はやや増加するが、その後再び減少する。売薬行商人も一九三六年
994
1
5
)
には前年の三分の一に激減した。売薬行商人はまた戦時体制への移行ととも
522
グ
に激減し、一九三九、四○年には四○○○人前後となった。ただし売薬行商
45
1940(〃
人についても、統計上問題点があることは、前に述べておいた。薬種商につ
)
1934(昭和 9
1939(〃
次 I
年
いては、こうである。すなわち、県統計から一九三八年を例にとると、総数
179
七八七人は別の箇所で薬業者として扱われており、内訳は﹁薬剤師ニシテ薬
局ヲ開設セスシテ薬品販売ヲ営ムモノ﹂一○人、薬種商七七七人となってい
表 8 大和売薬等の営業者数表
三十七条ノ四二依ル者三人、同上附則第二項二診当スル者
る︲薬種漬侭.一推定薬品ノ販売﹂匹一人︵蕊孫闘償斥七人蕊薬
御律
簾第二
三一人︶と﹁其他ノ者﹂七一三ハ人に細分化されている︵螺鵡毒識蝿﹄︶。
請売業者および売薬行商人の激減は売薬法改正とも関係があろう。一九三五年︵昭和一○︶八月売薬法令施行細則第
一条によると、﹁売薬営業又︿行商二関シ知事二提出スル書類︿直当庁二、売薬請売営業二関スル書類︿所轄警察署
ヲ経由スヘシ﹂と改正されたのである。つまり従来届出制となっていた売薬請売営業は願い出となり、知事の許可を
要することになったが、同年末まで届済証の交付を願い出なかった者が相当数に達したのではないかと思われる。そ
の背景には、届出が従来市町村経由であったのが、所轄警察署経由に改められたこととも関係があるかも知れない。
なお薬藻師で請涜営業を末こなう者はこの限りではなか︾︾たくまた売薬行滴人はその鐙札に写真斑り何けの必
要が生じた。この売薬法改正にあたっては、前年度の全国売薬業団体連合会大会および全国配置売薬業団体連合会総
会で大和売薬同業組合が提案者となり、﹁売薬行商届済証二方名ノミヲ省略シ而シテ本人ノ写真ヲ貼付セシムル様﹂と
しまた産業組合その他各種団体の売薬製造、請け売りおよび販売対策として、結局請売業者の資格制限に傾き、﹁現行
売薬行商届済証ヲ許可又ハ免許制度二改正方﹂を促進する動きを示していたのである零舗灘蝶蝋蝿能旭悪鯉︶。
もっとも、このたびも方名省略は認められなかった。これら一連の動きは、請売業者および売薬行商人らの減少につ
ながるものであったといえようが、他方原料の不足に加えて、なによりも働き手の配置員らを兵隊や徴用にとられた
のがこたえたといわねばならない。この点は、行商人交代の得意先挨拶状にも散見される。森本覚次郎は、﹁私のと
こも、例外でなかった。昭和十二年からの戦争で、戦死者が出だした。薬屋になる勉強のた興貫誠堂に住み込象で
働いていた人たちが、次禽に召集されて大陸へ渡った﹂︵瑠議鵠誤伽和︶と語っている。
18
第5章恐慌から戦時下への大和売薬
奈 良
1
製造│請売│ 行 商
111
121
7
26
1
32
都介野
郡 山
6
12
2
29
2
53
1
〔
14
12
12
4i
42
田原本
24
4
モ
松 山
2
§
1
[
69
榛 原
10
2*
58
龍 田
生 駒
桜 井
卑仏Lr〃画毎顕L
1
5
説馴 澗鞭
2
4
311
丹波市
52
64
柳 生
76
30!
95:
八 木
1
8
:
271
441
高 田
9
(
8
(
131
1,188
御 所
70
1
7
:
22
6,311
五 条
2
(
31
41
9
(
上 市
4
§
52
92
211
下 市
5
モ
68
ii:
十津川
1
§
10
51
'
7
1
計
787
994
甘
1
,
6
8
(
1
0
,
7
3
:
6
2
:
10
20,60S
『奈良県統計勘』昭和13年淵
表1C 奈良県内の重要工産品(1934年)
重要工産篭
(
1
傑
輸出品額
10
傑
10,551,208円(3工場)
8,911,281 (923)
綿 織 鋤
メリヤス製侭
5,632,744円
5,661,834
(140)
生 鮒
1,591,000
メ リ ヤ ズ
4,340,66;
ボタン貝劉
701,OOC
売 蕊
蚊 嫉
2,963,40J
(198)
(551)
同半製侭
1,731,000
1
,
9
0
8
,
6
2
〔
25)
水牛釘
325,OOC
蚕 糸 毒
1,339,851
70)
骨 劉
1
7
4
,
0
0
(
墨
1
,
1
2
2
,
4
7
(
45)
生 舟
1,450,000
綿糸紡繍
綿 織 物
酒 蕊
1,538,938
醤 柚
963,766
(139)
蚊 聯
6
2
5
,
3
6
‘
菓子及麺飽簿
872,244
(541)
売 罫
230,00(
注『奈良県統計醤』昭和9年版から作成,ただし輸出品額は,『奈良県政の八十年史』56喪
18
参考までに、一九三八年︵昭和一三︶段階の蕃察署別大和売薬等の営業
蕊
者数を、表9に掲げておく。八木、御所、ついで高田の各署管内が多数
製薬業|薬種商
2
1
を占めていることがわかる。
署
業況と業界一九三四年段階の県内の重要工産品および輸出額のべ
=
クE
の問・題点ストテンを示すと、表、のようになる。売薬は生産総
表 9警察署別の大和売薬等営業者数(1938年)
−
額︵卸価額︶二九六万三○○○円で第五位、輸出額では第一○位である。前述のように、この年定価額では一四五六
万九○○○円であるから、一躍トップに踊り出ることになる。前に述べた一九二五年の売薬生産高県内第一位も定価
額であったようである。売薬の場合、﹁薬九層倍﹂などといわれ、利益率が大きかったようであり、定価額と卸価額
−
の乗離が目立っている。統計表示のうえで一貫性を欠くわけであるが、売薬が県内を代表する重要産業であることに
3
.
1
は疑問の余地がない。
一
﹁不況に抗し得ず、売薬界振はず、だが一千四百万円の産額﹂という見出しで、
一九三三年屑和八︶二月一七日付の﹃奈良新聞﹄に面白いデータが載ってい
る。一九三二年︵昭和七︶度の製造状況を紹介したものである。当時製造場数五
七四、職工数一五一○人、製造方数六九五三、製造個数九五一五万四一七九、定
価額一四四二万七六六七円、卸価額三五七万七六九五円であった翻識卿表︶。県統
計書には売薬生産高として卸価額が示されていたが、郡市別の定価額との差はつ
ぎのとおりであるという。まず製造場数では、高市郡の二○五︵総数の三六%︶が
第一位、ついで南葛城郡の一三五︵総数の二四%︶が続き、添上郡の五が最少であ
った。生産高では、高市郡の定価額八○六万五二四三円︵卸価額一八○万七四○○円︶
が第一位、次いで南蔦城郡の定価額三八八万四八一五円︵卸価額二二万六二三九
円︶が第二位、以下磯城郡、北葛城郡、吉野郡の順で続き、やはり添上郡が最少
であった。これによると、高市郡の場合、定価額と卸価額との差は四・五倍、南
4
.
:
2
5
6
,
7
2
1
4'
2
7
3
,
5
4
1
1,119,087
剤
虫
駆
3
0
3
,
8
1
1
(外用)
皮潤病薬
1,100,773
清 涼 剤
3J
9
1
6
,
1
5
:
9
9
3
,
2
5
(
3,723,426
腸 薬
胃
4
.
{
939,595P
4,212,710F
薬
層
感
a/
額価卸価
定価額(。
凝
粗
売薬の種類別価額
表1
注『奈良新聞』昭和8年11月17日付肥邪から作成
182
第5章恐慌から戦時下への大和売薬
蔦城は三・五倍となる︲売薬の種類別格差は、表uのとおりである。皮層病薬︵外用︶、胃腸薬はそれぞれ三・C倍
三・八倍であるが、そのほか感冒薬、清涼剤、駆虫剤は四倍を超えている。とくに製造量の多い感冒薬は、定価額と
卸価額との差が四・五倍にも達しており、収益の多い薬であることが察せられよう。
大和売薬を取り巻く環境は誠に厳Lくまた改善する課題も多かったので同業組合ならびに涜薬行滴人の藷睦を臆
かり、斯業の弊害を除いて売薬発展に寄与しようとの目的で、一九三三年︵昭和八︶以降県内各地で薬業会が設置さ
れた。さらに、この年には売薬の窮状打開策を具体的に研究するため、大和売薬振興委員会の設立をみたのである。
すなわち、﹁売薬︿本県産業ノ大宗ニシテ直接間接県民経済二至大ノ影響ヲ及ホシッ、アリ、然ルー近時深刻ナル経
済界不況ノ影響卜共二営業上諸種ノ弊ヲ招起シ我歴史的産業ノ前途相当考慮ヲ要スベキ現況ニァリ﹂編噸蝋鰯誰資︶
との認識から、県当局および製薬関係者が相謀り、売薬業の更生振興を期そうとしたわけである。昭和八年七月二○
日付の﹃奈良新聞﹄は、製薬業者と奈良県知事ほか関係者の協議会のようすを報じ、つぎのような業界の問題点を浮
き彫りにしたc
窮状打開の基本方法としては製薬業者の製造方針を統制すると共に行商人の統制をも行ひ、その得たる結果によって価格を或る程
度まで引下げなければならぬといふ、⋮⋮現在の売薬定価は医師の投薬よりも高価になって居り、そのため定価通りの取引出来ず
定価に対する六掛或は七掛といふ買売現況であるので勘くとも大和売薬の信用からしても正価とせなければならず、又製薬業者と
︵ママ︶
売子との関係に於ても何らの統制なく、売子間にあってもそれぞれ競争激しきため割引等の悪風が盛んとなっているので此際売子
の統制もなす必要があるとされている、最後に出来得るならば製薬者一大トラストを敢行し、もって此窮状打解をなすべしとの意
見もあり
1
8
:
大和売薬業の更生振興策として、まず旧来の弊習打破および小資本群立の不利をある程度取り除く方向の自主統制
が課題とされたようである。﹁生産と販売の統制を図り、更に生産資金を得てその統制を意義づける﹂︵繰麗蝿詳解和︶
こととし、三部制がとられた。生産・販売・金融の各部にそれぞれ委員が任命されたが、大和売薬振興委員会の会長
は知事であった。生産委員会では、製薬方数の整理、原料および材料の大量共同購入など生産方針の統一を課題とし
たようである。販売委員会は、価格の統一はもとより売薬行商人の無軌道な競争を押さえることを課題としたとい
う。金融委員会は、製造資本についての各家の事務を分担するものであったらしい輪社厭韮醗也。そして、同年九月一
五日付の﹃奈良新聞﹄は、生産委員会で﹁売薬原料は従来大阪より製粉末を区盈に購入して居たが、今後県下に製紛
工場を設置し、更に製剤材料ともなるシャクヤク、牡丹、桔梗等の栽培を奨励してそれを買ひ入れる事となり、又薬
袋等の材料をも共同購入する事に決定した﹂と報じている。もっとも、一連の方針がどう具体化したかはよくわから
ない。さきに述べたとおり、県立工業試験場売薬部が、一九三四年四月奈良県立売薬試験場として独立したことが注
目されるていどであろう。
当時の掛場成績についてふれておくと、一九三四年︵昭和九︶八月二三日付の﹃奈良新聞﹄は、大和売薬の行商人
は半年の掛場の集金を終え、お盆に帰郷したものの、全国各地とも悪く、とくに繭安にに嵩られた地方は集金不良だ
︵は︶
ったという。さらに続けて﹁本年のびた一銭支払ってくれぬといふ惨めさである。殊に富山売薬との競争が激烈にな
った為、乱売値下げなどの影響を受けての四割乃至五割集金したものは成績のよい方で、二割三割の悪いものもあ
り、一方、配置薬の需要は昨年よりウント増加した結果、次の行商の製薬資金に困って所属の売薬会社へSOSを求
めるものが続出した﹂と報じている。
18
第5章恐慌から戦時下への大和売薬
奈良県薬学奈良県薬学校は、業界有志の手で私立として、一九三○年︵昭和五︶年四月に設立された。商業道
商業学校徳と薬学知識の教授を目的とした、いわゆる配置薬販売員の養成機関であった。大和売薬同業組合
は不正行商人の取り締り、逆に模範行商人の表彰など、配置をめぐる動きには常に重大な関心をもってきた。いうま
でもなく、配置販売員は、いつぽうで斯業の盛衰を担っているといっても過言ではないからである。
勺上
嘱托逸崎信
注中田薬品産業株式会社蔵
当初の修業年限は二年であった。﹁学籍簿﹂によると、学科目は修身・国語・数学︵算術・珠算︶・地理・物理・化
表12 奈良県薬学校の教授時間数など(1930年10月)
講師永峯岩
学・薬植・生薬・生理・英語・薬物・簿記・売薬商品・売薬販売.
奈良県薬学校の学籍簿
郎七男次二夫作義
聯師松島郁
介凸R︺︿。刈坐44ワニ
185
鱗蒔田鉄
局方,薬律
局方
体操科
識師森里晋
14
鰯後藤謹
瀦中島利
薬物学
校長中尾源治
修身,地理,和漢薬
生理衛生,売薬商品
学,薬用植物,生薬
(B組)実習
国語,英語,生薬
(A組)実習
数学,商業簿記
担当教師
時数
科
局方・薬鑑・実習・体操からなっている。一九三二年︵昭和七︶四
奈良県薬学校(昭和5年頃)
月からは、一年制の別科を設けている編恥岬錘鯉。開講初年度の主要科目および担当者は、表廻のとおりである。
開校二年目、すなわち一九三一年︵昭和六︶一二月の県会に、奥村正信・仲川房次郎・松原利左衛門らが提出者と
なって、早くも不況下で経営が困難であり、かつ実業教育振興の趣旨からも、﹁私立奈良県薬学校ヲ県二移管シ之ヲ
県立奈良県実業学校トナサレンコトヲ望ム﹂と建議している。提出者の一人、仲川房次郎は、﹁殊二今日我ガ奈良県
ノ売薬ノ販売状態ノ実状ヲ申上ゲルナラバ、此医薬補助品デアル、即チ人命ヲ保存スベキ所ノ此売薬ヲ販売スル方々
︿殆ド薬餌ノ素養ガナイノデアリマス、単二昨日マデ百姓ノ者ガ今日ノ行商二行クト云うヤウナ状態ニ在ルノデァリ
マス、之ヲ唇ヘテ申シマスナラバ、丁度電車運転手二、運転ノ技価ノナイ者ガ運転致ス如ク、実二危険千万二感ズル
ノデァリマス、ソコデ此売薬販売方法ノ講習二付キマシテハ、一シ売薬徒弟学校アルノミデァリマス、所ガ今日ノ売
薬界ノ実状ヲ考ヘマスナラバ、到底此不景気時代二於キマシテ此薬学校ノ維持経営︿完全二出来ナイノデァリマス、
故二私ハ之ヲ一日モ早ク県二移管サレテ充実教育ヲサレマシテ此奈良県ノ歴史アル光輝アル売薬学校ヲ県営ニサレル
コトハ、奈良県売薬ノ向上発展二資スルコト絶大デァラウト考へルノデァリマス﹂と提案理由を述べた。奥村正信
は、一︲宜シク御当局︿本県産業振興ノ大局カラ考ヘテ、之ヲ県二移管サレテ、以テ乙種実業薬学校ノ意義アル教育機
関タラシメンコトヲ切二翼フ次第デアリマス﹂と補足説明した。その建議は、採択となった繍蝋︷蜂麺湛頚趨謹。
奈良県薬学校の経営難云々については、この県会に別に大和売薬同業組合組長、私立奈良県薬学校校長、同校設立
代表者の三名連記で、補助金下付の請願書を提出しているが、それによると、﹁今本校ノ概況ヲ挙クルー、本年度ノ
予算ハ金六千五百七拾円ニシテ各講師︿何レモソノ専門家ヲ聡シ、現在生徒総数百弐拾弐名ニシテ之等生徒︿県下各
郡一二旦リ在学中ナリ、而シテ之力維持経営二当リテハ前記経費ノ殆ンド大部分ハ︵即チ四千弐百弐拾円ナリ︶一般斯業
186
第5章恐慌から戦時下への大和売薬
家或︿篤志家ノ寄附ニ侯チ、 因 テ 之 力 補 充 漸 ク 経 営 セ サ ル ヲ 得 ザ ル 実 情 ニ ァ リ 、 加 之 財 界 不 況 ノ 影 響 ︿ 一 層 之 力 補 充
誠二至難ナル状態ナリトス﹂ 銅珪配一︶とある。
同校は、一九三一年度に組合経由で三○○円の県費補雲助を得ていたが、翌年度の予算には組承込まれていなかった
ため陳情に及んだという。奥村・仲川・松原の三県議の努力によって、教育課実業補習学校補助費として六○○円の
予算編入が認められた露噸蝋織塞資︶。
翌年の県会でも、薬
つつ
いい
てて
同同
様様
のの
陳陳
︾情をし、続いて一九三三年一二月の県会には、つぎのように
薬学
学校
校の
の県
県立
立移
移管
管にに
整理した形で陳情をおこなっている︵蛎騨塞麺輪舞鵡蝉諺。
陳情醤
一、私立奈良県薬学校県移管二関スル件
私立奈良県薬学校二対シテハ恒二貴職ノ御指導卜御援助ヲ相賜り奉感謝候
本校ノ県移管方二関シテハ数年来一二旦リ陳情致居候儀二付左記二之ヵ要旨ヲ陳述仕候
一、大和売薬ノ盛衰ハ優秀ナル製剤ノ産出ト相侯テ優良ナル販売従業者ノ養成二係ル義卜思料仕候、即チ本県一大産業確立卜産業
教育化ノ徹底ヲ期セラルタメ本校ヲ権威アル教育機関卜致サレ度事
一、本件︿既一二昨年ノ通常県会二於テ幸二満場ノ御賛成ヲ得テ採択致サレタル義ニシテ、既二県民与望ノ証左二有之候事
大和売薬同業組合
翼クハ貴職県費多端ノ折柄一天御座候得共、本県一大産業ダル斯業将来ノタメ篤卜御明鑑相仰度、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ速二
本件ヲ実現ナシ下サル様御高配相賜度、此段連署ヲ以テ謹而及陳情候也
昭和八年十二月十三日
組長松原利左衛門
187
久匹
私立奈良県薬学校
尾源治郎
tf
全設立代表
紹介
二樫
捕孜創
正信
即
一九四一年︵昭和一六︶三月の生徒募集広告によると、県指定とあり、特典﹁卒業生ハ本県薬種商無試験資格ヲ有
学、薬学科は薬物学・和漢薬・薬局方、そのほかに作業科、体操があった。
算︶・理科︵物理学、化学・生理衛生学・病理学・植物学・薬用植物学︶・地理・国史、商業科は商事要項・商業簿記・商品
薬学科と体系化し、その内容を充実させたようである。普通学科は修身・公民科・国語・外国語・数学︵筆算・珠
修業年限は三年となり、校名も奈良県薬学商業学校と改称された。﹁学籍簿﹂によると、学科目も普通学科、商業科、
売薬同業組合の手で経営されることになる。いよいよ経営困難となり、﹁私立﹂から﹁組合立﹂に変ったのである。
結局、県側から前向きの回答は得られず数人の手で経営してきたこの薬学校は、一九三六年︵醍荊一こ匹月大和
グュメム或辛包印旧ク争八ぴ一て圭鍾︾な︲
と発言している。県立移管の建議以降の情況をふまえながら、同業者として﹁徒弟ノ養成﹂に大きな関心を寄せ、県
トモ一個ノ徒弟養成機関トシテ勧業方面デ御考慮願フコトモ亦一ツノ便法デァルト考ヘテ居リマ乙窺溌騨麺繋鵠︶
さらに、翌年一二月の県会でも、奥村正信は薬学校の問題について質問し、﹁私共ハ必ズシモ学校トシテ建テナク
差珂偉厩雲脹オムエ憩叫匡源掴側一両聖八手仁納押印1m躯
本置田
水
吉者牛
奥丘
1
8
1
ス﹂、特
特色
色一
一︲薬学
学二
二商
商業
業学学言ヲ加味ス﹂、入学資格︵三年制︶一年五○名︵尋卒以上︶、二年若干名︵高卒以上︶、校長陸軍薬
剤官森杯正
正五
五郎
郎、
、試
試験
験は人物考査となっている︵嬢峠揃窪罰剃嘩醒髄︶。なお組合経営になっても二年制を併設していたよう
である。薬種商資格取得が 一つの目玉だったらしい。
のくり句ダニ
96157
。−4−−,︵︾ワ﹄QJ
Q︾
兵リQ一︾q︾制L
注1.奈良県蕊学校,奈良県薬学商業学校「学熔簿」から作成
2.退学者数には死亡を含む,また本科節9回生の退学者散には翻級2人
ところで﹁組合立﹂と
となったものの、 開校初年度の奈良県会︵一九三六年一二月︶で、松原利左衛門はやはり県立移
862
別科第1回生(昭7.4∼8.3)
(昭8.4∼9.3)
(昭9.4∼10.3)
(昭10.4∼11.3)
管を要望する発言をしてい
○竺・二4二一ワ生
ハベ︺︽く︺
(昭17.4∼19.3)
る。当時大和売薬の更生振
(昭16.4∼18.3)
■ローエハ
1A“4︽bQ・︾R﹀︵U“4q︾R︾Q︾ワ0,﹀○雪︾⑥畠
(昭15.4∼18.3)
令■人句べ︾n﹃︾のべ︺﹃Ⅱ▲ハグ全勺0人ハベ︾
1
(昭15.4∼17.3)
n︺.E﹄QJ
(昭14.4∼16.3)
jn誼かく︾
(昭13.4∼16.3)
興策が論じられており、
22
25
95824381138211757122101
45
49
﹁薬屋ノ暖簾﹂﹁製法上ノ秘
24
26
伝﹂とかいうものは尊重さ
27
35
﹄ロロ||||毎一F七口|||||一夕■﹃■||||・一一、||■|ログ一己酉一一一一︾二一屯■||||・一戸巳■’’’’’一ケ
(昭13.4∼15,3)
薬れねばなら な い が 、 他 方 よ
45
50
︽四二四︾一m重函︾一m卓⑫一︽、三四︾一m壷里︶︽唖昂︶︽︾一望︶
生
(昭12.4∼15.3)
売
65人
74人
e8
●9
●0
●1
●G4
●
7
112
11
一一一一一一一
4
4
4
4
4
4
4
●6
●7
08
●9
●0
●1
●
5
1
昭く
昭く
昭く
昭く
昭く
昭1昭
く
く
(昭12.4∼14.3)
鋪り統制力を も っ た 同 業 者 の
や組織化が叫ばれていた。そ
軒の意味からも、薬学校の内
戦
必容の充実は 必 要 と 認 識 さ れ
力
蹄たが、つまる と こ ろ 経 費 の
回
を含む
(昭16.4∼19.3〕
12
(昭14.4∼17.3)
10
次
年
1234567
(昭11.4∼12.3)
入学者数退学者数卒業者数
第
科
本
189
章問題、財源難から県立移管
5
第は具体化しないのである。
表13 奈良県薬学商業学校生徒状況
一戸二郎奈良県知事は、
﹁.・・⋮必ズシモ県立ト云う
●5
●4
●4
●9
▲
9●6
⑨﹄ワ4兵︾“4雲一Q︾Q︾ワ〃
雪二4二一・。■且1■︽ら。’︽
一一■一一一一︾一一々一亜ユニ’二コ■■■||
●4
● 9●
●
5●
4●4
5●4
Q﹀・4口@J@Jq︾
1
jjJJうj
錘“詠い恥一
く
くくくくく
人
吉野郡
6.8
2(5.0)
1.4
宇智郡
8.1
北 蔦城郡
1
多 村
迄二行カナクテモ、或︿町
と答弁している。
この薬学校の入学者数、退学者数、卒業者数の推移は、表週のとおりであ
る。唯一残っている﹁学籍簿﹂を手がかりに得たデータであるが、年々入学者
数は減少している。本科第一二回生の入学者数は募集人員の半分にも満たな
い。前年の入学者数も三○人であり、この前後退学者数も多いのが目立つ。入
桜井町
村立或︿町村組合ト云フャ
ウナ方法がアルノデアリマ
シテ⋮⋮、唯併シ之ヲ公ケ
ノ機関二於テ経営スル方ガ
香久山村
宜シイト云う私ノ考ヘヲ、一此際申上ゲテ置キタイト思上マス﹂ ︵髄璽謹一鱗認毒謬
その他
学資格は、﹁私立﹂時代は尋常高等小学校尋常科卒業以上、﹁組合立﹂になって
も三年制は同様だったらしい。二年制は同高等科卒業以上である。
55
63
2
251
74
注奈良県薬学校「学籍節」から作成
は比率を示す
高市村
一
74
計
注同上0父兄職業には保証人の秘合を含む,()内
今井町
高取町
鴨公村
11
5(12.5)
不明・その他
阪合村
17.6
磯城郡
17.6
畝傍町
−
−
56.8%
42人
高市郡
人数|比率
地域 別
61
16(40.0)
農 業
商 業
(1930年4月)
表皿・晦に、それぞれ奈良県薬学校入学生の地域分布、父兄︵保証人含む︶の
農業兼売薬業
学生の地域分布
職業を表示しておく。一九二九年︵昭和四︶の同業組合発表の生産額データと
売薬業関係
40(100.0)
計
その他
3(7.5)
蔦 村
1
4
人
(
3
5
.
0
)
南蔦城郡
'
1
9
3
6
年
4
月
1930年4月
職 種
その他
表15奈良県薬学校入学生の父兄職業
表14奈良県薬学校入
190
第5章恐慌から戦時下への大和売薬
の関連で承ると、奈良県薬学校への入学生は、やはり生産額第一位の高市郡在住者子弟が五六・八%を占めて一番多
い。しかし、生産額第二位の南葛城郡在住者子弟の入学生は七人であり、逆に生産額第三位の磯城郡在住者子弟の方
は一三人の入学者があり、それぞれ順位が逆転している。この点は町村レヴェルで奈良県薬学校入学者数と生産額の
関係をみると、より顕著である。当時生産額第一位は高取町、第二位は蔦村愈諭輔︶、第三位は船倉︵唖輔町︶、第四
位は御所町、第五位は新沢村愈溺源市︶である。奈良県薬学校入学者数は畝傍町愈躯源市︶が他を大きく引き離して第一
位、第二位は阪合村寂鋤墨、第三位は今井町愈袈市︶、そして第四位に高取町・蔦村・香久山村愈蕊市︶の三つが
顔を揃えている。限られたデータであるが、以上は売薬製造地と配置員供給地とは若干ずれがあることを示唆してい
るといえよう。入学者の父兄職業は売薬業関係者︵売薬行商、売薬営業、売薬製造販売︶が圧倒的に多い。しかもこの薬
学校は配置薬販売員の養成を目的としていたわけであるが、一九三六年の場合、父兄職業は農業が増加している。昭
和初期の不況を体験して、子弟に薬種商資格をとらせようとしたのかも知れない。
一九三二年︵昭和七︶三月の卒業生は六五人であるが、卒業時に学籍簿に進路が明記されているのは、二五人︵三八.
五%︶である。売薬行商販売七人、家業・主家の業務︵売薬営業・売薬製造販売︶六人、畝傍製剤、上田薬天堂薬房、同
仁製薬など
どへ
へ九
九人
人、
、薬
薬学
学校
校雇
雇員
員二
二人
人、
、そ
その
の蛭
ほか一人となっている。不況からの回復とともに、残りの卒業生もやがて
売薬業務などに身を投じたことと思われる。
一九三九年︵昭和一四︶二月の奈良県会には、同業組合幹部の岡村一雄︵高市郡、民政党︶も席を得ており、大和売
薬業に対する県の助成策につき、H薬学校の県立移管、口売薬試験場の拡充、日売薬課の新設を希望する発言をして
いる。㈲については富山県の薬学校教育の充実を例にあげている。そして、﹁薬学商業学校ノ県移管トイフ問題ハ実
191
二我大和売薬業界ノ必死ノ重大問題デアリマス﹂としたが、このたびも三
島誠也奈良県知事は、﹁率直二申上ゲマスト、⋮⋮コレハ薬学二止マラズ
売薬行商人ヲ養成スルトイフャウナ特殊ナ目的ヲ有ツテ居リマシテ、一般
薬学ノ教育トイフコトョリモ一寸性質ヲ異二致シテ居りマスカラ、尚更県
立移管トイフコトース余程ヨクナッテ参リマセヌトイフト、困難デァラゥ
カト恩ヒマス、殊二県ノ今ノャウナ財政デハ之ヲ県立二移管致シマシテ充
実スルャウナ財政的余地モゴザイマセヌノデ、モウ少シーツ組合ノ方デ勉
強シテ貰ツテ、⋮⋮﹂ということに終始したのである︵鋪識語砿醗鍔霊魂幸
一
イ“一lすず
菅
年が四○○円、一九四一年は四四○円、一九四二年は三三○円であった
に選出された県会議員の力も預って余りある。補助金は、一九三九、四○
一︲私立﹂時代以来、毎年県から一定の補助金を得ていたが、業界を背景
頁五
十︽、月兵伊
十青織土画
r客月参、
・鯛仏端海岸
参月Nf−n
一Ⅱ咽一圃
ユ、脚垂q
唖.#脚玲イ定図
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奈良県薬学商業学校事業報告書の一部(1942年)
使命を終えたのである。一九四二年度の授業日数は一三六日であった翰癖砺諏悪蓉嘩癖識諏識灘認雷峰率譲躍嘩窪鍛謹。
の募集を停止し︵ただし、﹁第二学年編入志願者六名二対シ考査ノ上入学ヲ許可と、一九四四年三月の卒業生をもって、その
ある行商に従事する者が少なくなり、ついに廃校と決まった。経営難が最大の理由であった。一九四二年度の新入生
︵躍鐸灘鯉灘蕊︶。だが、一九四一年三月この学校は生徒募集意の如くならず、加えて卒業生の大部分もその目的で
茨,篭
192
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