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在テヘラン米国大使館占拠人質事件(1979 年) イラン[当時]において
在テヘラン米国大使館占拠人質事件(1979 年) イラン[当時]において、米国的社会改革を米国政府の後押しで進めてきたパーレビ国王 に対して、イラン革命(白色革命)が起こった。この革命の指導者は、パリに亡命中のホ メイニー師(法学者・宗教的指導者)であった。 パーレビ国王は米国に亡命し、革命の対象者を失った人々は、学生を中心とした一団を 結成し、首都テヘランにある米国大使館に強行侵入して、大使館員をはじめとする多数の 米国人を人質に取り、同大使館に立てこもった。人質にされた多くが、「外交関係に関す るウィーン条約」によって特権免除を与えられている人々であった。 同大使館が襲撃された時には、イラン人警備員は現場に居らず、襲撃に対する防止措置 は採られなかった。 米国政府はイラン革命政権に対して再三にわたり同大使館員の救助を要請したが、無益 であった。その後、タブリーズ及びシラーズの米国領事館も同様に占拠されたが、事態は 同じであった。 大使館等を占拠し、人質をとった一団の要求は、米国亡命中のパーレビ国王の引渡しで あったが、米国政府はそれに応なかった。 指導者ホメイニー師は、革命後イランに帰国し、革命政権の中心かつ指導者の位置に在 ったが、大使館等の占拠人質行為に対して、むしろ支持する声明を発したのである。ホメ イニー師は、「米国大使館は防諜と陰謀の本拠地であり、大使館占拠と人質の抑留は、米 国がシャー[パーレビ国王]を引き渡すまで継続する」という見解を表明したのである。 米国は国連において様々な決議を取り付け、米軍による強行救出の正当性を確保しなが ら、それを実行に移したが、途中の砂漠の環境に対応できず、失敗に終わった。 1979 年 11 月 29 日に米国政府は当該問題をICJに提訴し、ICJは 1980 年 5 月 24 日 にイランの義務違反及び国家責任を確定したのであった。そこで根拠とされたのは、次の ようなものであった。すなわち、イラン革命政権自体は、当該行為を指示もせず、参加も していなかったが、事件発生後に当該政権がホメイニー師の表明という形で当該行為を支 持・是認したため、当該行為はイランという国家の行為とみなされる。ゆえに、私人の行 為であっても国家の行為となり、当該国家が国際法以上の責任を有することになるのであ る。 この事件は、その後パーレビ国王が死去したため、米国政府とイラン革命政権との間で 話し合いが付き、人質は解放されたのであった。 ※同様の事件として「ニカラグァ事件判決」(ICJ・1986 年 6 月 27 日)を参照のこと。 (出典:齋藤洋『現代国際情報宣伝法の研究』新有堂、1990 年)