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「夏の夜の夢」の劇中劇を問い直す
2 5 1 「夏の夜の夢」の劇中劇を問い直す 一一アカデミーコモンから発信する i シェイクスピア・アダブテーション一一 西尾洋子 ( 2 0 1 5年)も駿河台のアカデミーコモン大ホールでシェイクスピア 2 0 0 4年から開始 した本舞台は,学部間共通総合講肢を碁に企画され,今年度で 1 2聞の公演 今秋 劇の幕が聞いた。明治大学が文化プロジェクトと銘打って を数える。毎年 3千人以上の観客動員数を記録し,現在は通称 MSP (明治 大学シェイクスピア・プロジェクト)として,学生演劇の一大拠点を形成し ている。 シェイクスピアといえば,その発祥の地である英国のみならず,今では世 界中に流通し,世代を超えて広く受容され続けているグローパルな文化的ア 2 0 1 4年には生誕 4 5 0年を記念し,洋の東西を問わず,各地 で多彩なイベントが催されたばかりだが, 2 0 1 5年夏にはロンドン,パーピ イコンである。 カン・シアターでベネディクト・カンパーパッチ主演の「ハムレット」が, 一一公演の 1年前にしてオンライン発売分の 1 0万枚が全席即日完売という 記録的な人気を見せつけ一一閉幕した。この舞台はナショナル・シアター・ (NTL) により 2 5か国に及ぶ 1 , 4 0 0館もの映画館で上演され,それ までの NTLの記録を塗り替える 2 2万人を超える観客を動員した。東京の ライヴ 複数の映函館でもシアター・ビューの形でスクリーン上演容れ,平日ソワレ 深夜 1 1時半まで 3時間半に及ぶ字幕なしの英語上演であるにもかかわらず, 客席は早々に予約した老若男女で埋まって Uた。海外でも活躍する演出家の 蛾川幸雄は,彩の関さいたま芸術劇場でシぷイクスピア会作上演を目指した オール・メール・シリーズに加え, NINAGAWAと冠した輸出版「マクベ ス」も渋谷シアターコターンで新演出のもと再演した。他にも世田谷パブリッ ク・シアターに於ける鵜山仁演出の「トロイラスとクレシダ」など,圏内の 252 話題作だけでも枚挙にいとまがない。舞台は勿論のこと,映画作品も新たに プロデユースされ,秋にはジュリー・テイモア監督の撮り下ろし『夏の夜の 夢』が, 日本でも公開された。まさに百花綴乱の如し。生誕から 4世紀以上 を経てもなお,この劇作家・詩人は生命力の衰えを知らな L 。 、 明治大学文化プロジェクト(以下,現名称の MSPとする)は「シェイク スピア劇の現代的魅力」と Lサ講座から端を発し,そこで学んだ知を活かし く 2 1世紀のシェイクスピア〉を探求すべく,実際の上演舞台に繋げていく取 り組みだ。では学生の乎による「新しいシェイクスピア劇Jとは何か。プロ の商業演劇とは異なるアマチュアの舞台で,どのような可能性や意義が見い だせるのか。学生ならではの独自のアダプテーションは果たして有効なのか。 本稿では 2 0 1 0年に開催された第 7回公演『夏の夜の夢』を題材に,こうし た問いを巡る考察を展開してみることにしたい。 オリジナル翻訳 この公演を採りあげる主な理由は,作品の内包するメタシアター性にある。 すなわち,戯曲に対して自意識的な戯曲の構造をとっているため,芝居を巡 り演者と聴衆の関係を検討するうえで重要な論点を引き出す事が期待できる。 また, ~夏の夜の夢』はシェイクスピア喜劇の中でも,最も親しみやすく上 演回数も多い作品なので,他のプロダクショ『ンとの比較も容易である。原文 の英語も,例えば『ハムレット』を初めとする四大悲劇などと違い,台詞の うえでの難解さはほとんどない。展開はスピーディーで,登場人物の関係も 解りやすい滑稽な恋愛騒動である。コミカルな人物や場面が満載な上に,妖 精たちの織り成す幻想的な森のイメージが魅力の,観客を選ばないコメディ。 瑞々しい舞台となり得る要素がふんだんに盛り込まれている。ただし,人気 作なだけに既成パーゾョンも多く,新機軸を打ち出すのが難しい作品ともい える。 では明治の舞台のオリジナリティは,どこに在り得ただろうか。そのひと つの鍵が「言葉」の問題である。第 6回公演『ハムレット J( 2 0 0 9年)以来, 学生たちの翻訳チームによる「コラプターズ」が脚本を摂当している。この 名称は,喜劇「十二夜』に登場する道化フェステが,自らを称して「言葉の 軽業師:コラプター」と言及したセリフに由来する。学生たちは文字通り言 葉を「堕落させる Jのか,あるいはフェステに倣って原文の意味に新たな光 2 5 3 を当て,飛躍させるのか。チームのコンセプドとしては, r 言葉を一度壊し て新しく創造しよう」というもので,モットーは二つ。ひとつはく原文に忠 実〉であること。もうひとつはく学生に馴染みのある表現〉であること。こ の二点に基づき,まず言葉遊びを楽しむことを作業のよで第ーとしているよ うだ。ただし,原文から外れるようなことは断固としてしな L、。そうした正 統派の遊び心の横溢する場面として,アテネの職人達による劇中劇の一幕を 例に挙げよう。 可視化されるプロローグ アテネの公爵の婚礼を祝う余興のために集まったボトムら市井の職人達が, 即席稽古で素人芝居を上演する下り。『ロミオとジュリエット』張りの悲劇 的筋書だが,演出はまったくの喜劇仕立てという「ピラマスとシスビー」。 まずは口上役クインスが粗筋を述べる冒頭,言い間違えの連続というのは原 作通り。一度ヲ!っ込んで改めて口調も滑らかに出直すのであるが,その際に 口上役がプロットを解説する傍らで, MSPでは実際に他の役者達が早回し でパントマイムを演じる。これが妙に可笑しい。エリザベス朝当時の観客と 違い,現代のスペクタクルを見慣れた観客にとっては,ともすれば冗長に聞 こえがちの膨大な台調やモノローグが,シェイクスピア劇上演の際のひとつ のハードルとなる。そこを通常は口上役のひとり舞台であるはずの場面にピ ラマス達も登場させることで,視覚的な効果を上げる狙いだ。こうした工夫 により,単なる言葉だけのプロローグにヴィジュアルな躍動感が加わり,観 客の期待感を増す仕掛けとなっていた。 鐘舌な塀 劇中劇の本編が始まると,最初に登場するのは恋人たちを隔てる壁である。 原文では W allだが,本公演では「塀」と訳している。平仮名で「へ L、」と 書かれた黒シャツを着た塀役が四角い板を持って登場し,狂言役者のように 切れの良い台詞回しでひとしきり自分の役柄を述べると, r 塀のくせに実に 見事なしゃべり口だ」と公爵が評するのを合図に,塀付反〉ごとくるりと後 ろを向き,観劇中の宮話人らに向かつて「ありがとうございます」とー礼す る。と同時に英語で iHeyJ と書かれた背中の文字が,実際の観客の目に飛 び込んでくる。瞬間,客席にどっと笑いが起こる。日本語・英語の音と文字 表記を巧みに活かした言葉の遊戯を,学生ならではの軽快な乗りでタイミン 254 グ良くやってのける。劇中劇を観る公爵のコメントに塀が礼を述べるセリフ は本来原作には無 L、。だが,観客と演じ手の境円を見失い,芝居の枠から逸 脱してしまうボトムら職人一座の特質を的確にとらえ,具現化した巧妙な婦 人といえよう。 a l l " 次に劇中劇で主役を務めるピラマス役のボトムが登場。原文では“ ow はじめやたらと同じ母音を繰り返し,滑稽な韻文を発する彼なのだが, 日本 語ではどのような置換が可能だろうか。本舞台では, ピラマスが「愛しのシ スビーが約束を忘れたなんてことはないだろうね -lリと語尾をしり上がり に強調した後,塀に視線を向け「へ -l、」と言って歩み寄る。前の台詞と押 y J 韻しながら二重の意味を持たせる仕掛けに,ここでも一笑。 前座のlHe を踏まえた音遊びが発展し,そのかけ声に合わせて塀役までも一緒に「へー イ」と唱和する。これが枕詞の後に 3度繰り返され, リズミカルな可笑しみ を増幅させる。英語と日本語を融合して生まれる粋な合わせ技のひとつだ。 しかもこの塀はしゃべるだけでは事足りず,かなりダイナミックな動きを 見せる。恋人同士を隔てるために,彼らの動きに合わせ右へ左へ自在に移動 し,上へ下へとジャンプする。ここまでアクロパティックな W allは , ~夏 の夜の夢Jの数多い舞台の中でも観た記憶がない。かなり異色である。だが, 逸脱している訳ではなく,むしろ原作の意図を正しく捉えていると言える。 なぜなら本来動かぬはずの塀に口をきかせ人格を与えているのは,他ならぬ シェイクスピアの仕業だからだ。ボトムら職人達はことごとくく芝居〉の枠 組みを脱構築し,イリュージョンの無効化をはかる。いわば「芝居を作りな がら壊す」という原作に組み込まれたラディカルな実験を, MSPも学生流 にアレンジしてみせた訳である。 月と兎:文化的背景の移し替え 外国の「古典Jを上演するうえでは文化的背景の移植もまた,もうひとつ の課題となる。〈月> Moonは『夏の夜の夢』の作品を支配する重要なモチー フであり,象徴的背景である O 第 1幕で幕開き早々,公爵シーシアスの台調 において 1 4日の幸せな日々は新月を連れてくる。だが, この古い月の欠け F o u rhappydaysb r i n gi n/Another るのは何と遅く思われることか J( h i so l dmoonwanes!) と〈月〉 moon-but0,methinkshowslow/T への言及がなされ,婚礼を見守る守護神としての月の重要性が印象付けられ る。職人たちの劇中劇にも登場するく月〉は,いったいどのように演出すれ 2 5 5 ば良いのか,が原作の中でも議論となる。ボトムらは知恵を絞った結果,ラ ンタンを持った役者に「私は月に住む男です」と役説明させる。イギリス人 ならば, 1 < 月〉の中に束ねた枝を背につけた〈男〉が住んでいる」と古来信 じられてきたイメージを容易に連想できるのかも知れない。だが,日本人が 月奇見上げてその中に何を見るかと雷えば,十五夜の〈兎と餅〉であろう。 そんなわけで MSPでは見の格好をした〈月〉役が杵とランタンを手に登場 , し r 私は月に住む兎です」と語る。退場の際は「月よ,とんで行け J(Moon, takethyf 1 ight) というピラマスの台詞に領き,ウサギとびでぴょんぴょ ん跳ねながら出ていくという周到さだ。ここでも当然ながら笑いを誘う。原 文の言葉を活かしつつ,文化的トランスレーションによって観客の違和感を 解消しようという横出である。 見栄を切るライオン ライオンはシスピーに襲い掛かる猛獣という設定だが,ボトムー鹿では珍 妙な変更が加えられる。恐らくエリザベス朝当時の上演をめぐるトピカル・ アリュージョンであろうが, 1 客席のご婦人方を怖がらせてはいけな L、」と 過度に憂慮し,すっかり去勢されたライオン役に仕立てるのである。すなわ ち吠え声はあくまで大人しく穏やかに,そのよあろうことか「ライオンの喉 元から顔を半分のぞかせて, r 実のところ自分は人間で,指物屋のスナッグ です」と言えば良い」と,身もふたもないような〈安全策〉を提案する。こ れに倣い MSPのライオン役はちっとも怖くないどころか,まぶしい笑顔で 登場し,愛嬬たっぷり猫のようなか細い吠え声で失笑を買う。もともと台調 が多くない役柄なのだが,そのぷん身体的な動きで存在感を誇示しようと健 気な努力を見せるのが蘭白い。この辺りの解釈も,スナッグの性格安正確に 掘り下げたものだろう。印象的なのは,シスビーを襲ったあと,彼女のマン トを口にくわえ派手に振り回す動きである。舞台中央で正面を向き,ゆっく りと 2度 3度額を振るさまは,いかにも様式化された獅子舞を初御とさせる。 その連想を裏打ちするかのように,続けてひと声長く吠えた後,片足をあげ たポーズで歌舞伎役者よろしく見栄を切りながら退場する。日本の伝統芸能 の所作を用いて,瞬間的に見せ場を作る格好だ。ダッダッダというリズミカ ルな退場の足音に合わせ,自然と客席に拍手がわく。 スナッグは第 l幕の最初の配役時から「早く台本をくれないかな,俺は覚 えるのが遅いから Jと稽古への意欲を見せるも, 1 大丈夫,吠えるだけでい 2 5 6 いから」と一蹴されてしまう惨い脇役である。つまり,芝居への素朴な憧れ とコンプレックスを同時に合わせ持つ役柄なのだ。その辺りを MSPは丁寧 に掬い上げ,人物造形を施し適切に表象している O 奔放な受け狙いだけの趣 向では,決してない。 歌う女形とダイハードな主役 ふ L、ご直し職人フルートの演じるシスビーはピラマスの恋人役である。い わばロミオに対するジュリエットに相当するキャラクターなのだが, MSPで は一際背の高い「女装」したフルート役が,その名の通り,音楽的な魅力を 発揮する。原作にはない現代のポップ・バラードI" Timet oSayGoodbyeJ (サラ・ブライトマン)の曲をアカペラ・ソプラノで歌いながら現れ,持っ 1 上げに両手を大きく頭上に広げて「ラ・ラ・ ていたパラソルを放り上げ,イ: ラ~! Jと力強く歌い上げる。沸き起こる拍手を聞いてから台詞に入るとい う,けれん味たっぷりの登場だ。 一方,勘違いから絶望し自害するピラマスは,剣を刺した後でもなかなか 息絶えない。原作でも鏡舌で滑稽な死に際なのだが,明大版ピラマスは台詞 でもおおいに笑わせ,倒れては何度も起き上がり,ついには最前列の観客に 向かつて短剣を渡し,刺してくれるよう指示。大袈裟に叫んで倒れた後も, まだ舞台を右へ左へ駆け回り飛び回った挙句,名残惜しそうに笑顔をふりま きながらようやく動きを停止。一見,大仰な演技に見えるが,本来のボトム の目立ちたがり屋の性格を考えると,まんざら誇張ともいえな L、。むしろ劇 作家の狙いはまさにここ一一フィクションとしての〈死〉の嘘っぽさ, < 悲 劇の主人公にありがちな自己劇化〉をいかに滑稽に見せるかーーにあったの では,と思わせる的を射た演出なのだ。 続いてシスビーが再び歌うように登場。身長が明らかにピラマスよりも大 J と嘆きながら,倒れている恋人を 柄で上背の〈彼女〉は「目をさまして ! 押したり転がしたりよじったり叩 L、たり,随分手荒に扱う。相手が動かない とわかると,その恋人の後を追うため覚悟を決め「おいでなさい,忠実な剣!J とシスビーが叫ぶ。すると, 1"死体」であるはずのピラマスがさっと片手だ け動かし短剣を差し出す。演技としての「ヂU に関する芝居の約束事/コン ヴェンションを完全に茶化した演出に,客席はどっと沸く。 シスビーは自ら短剣を刺した後でも, 1"芝居がかった死に際」を演じるた め,もうひとつ見せ場/聞かせどころを作る。ピラマスほど大仰に長引かせ 257 はしないものの, r こうして シスビーは 死にます-0 A d i e u,a d i e u ,a d i e u -!Jと最期は特にフェルマータで海身の歌声を聞かせて果てる。フランス 語由来の英語“a d i e u (さらば)"をそのまま原文採用することでメロディー ラインに上手く乗せ,歌い上げるように最後の台詞を響かせる。ミュージカ ル的要素を採り入れた演出は,役者の特性を活かし,楽器名を持つフルート 役に好適であった。 反響するメタシアター シェイクスピアの原作からして,第 5幕のこの場面は自身の作「ロミオと ジュリエット J径一穣のパロディーとして描いた劇中劇であることは間違い ない。純然たる悲劇であるはずの恋愛ドラマも,視点を変えれば喜劇になり 得る。みずからの芝居をネタに, <芝居〉そのものを榔撤してみせる,いわ ばメタシアター的実験者をシェイクスピア自身が試みているのだ。そういった 観点からすると, MSPの演出はまことに原典の方向性に忠実と言える。な ぜならこの戯曲自体が,芝居に対していわば鏡をかかげたメタドラマの構造 をとっているからだ。前述の,死に際の主人公の〈自己劇化〉も悲劇にあり がちな場面として,風刺の対象になっているが,他にも「あまりご婦人方を 怖がらせて公爵様のご不興を買い, (明治)文化プロジェクトが出来なくなっ ては困るからな Jと,内輪ネタを差し挟み,観客との同胞意識を喚起する場 がある。舞台上の役者は,聴衆の学生たちと普段は岡じキャンパスにいる仲 間のひとりなのだ,という素顔の部分を覗かせることで,観客に笑いと異化 効果をもたらす仕掛けだ。 筆者が小学生の頃,初めて BBC制作の「夏の夜の夢Jを観劇した時,幻 想的な世界と美しい詩に魅了され「何と良く出来た作品だろう」と感じ入っ た一方で, r でもラストの余興(職人達の劇中劇)は要るのかな。その前 ( 4 幕〕で終わって良いのでは Jと首をかしげた記憶がある。だが,少なくとも MSP舞台ではそういった疑問や違和感は一切なかった。それは筆者が長じ ていくにつれ様々な言説を通しこの戯曲に対する知識的理解を深めていった せいも勿論あるが,その事を差し引いても,学生たちの作る夢の世界が,不 調和な諸々要素を巧みに調和させ,見事な有機的統一体を創り上げていた, 。 、 その手腕によるものであったことは疑いの余地がな b 2 5 8 観る側のリアクション 海外文学のしかも古典戯曲を現代日本の大学という舞台向けにローカライ ズする試みは,惜しみない拍手喝采のカーテンコールでその幕を閉じた。!演 劇・文化研究者の浜名恵美は「演劇の力は他者への想像力をもちながら,創 造力を発信し,その場にいあわせた観客とともに場を構築していくことにあ るJと連べている(棋名「文化と文化をつなぐ J2 0 1 2年〉。シェイクスピア 戯曲に代表される古典作品は過去の遺物ではない。地域や時代ごとに再解釈 され,新たな息吹を吹き込まれてこそ古典として生き永らえる。そこにシェ イクスピアが古典たり得るファクターがあり,いつの世にも,一一歴史的批 評家ヤン・コットがいみじくも名付けたように一一「シェイクスピアはわれ らの同時代人」となり得る普遍性がある限り,再演への熱い視線は今後も変 わらず注がれ続けることだろう。 実際にこの舞台を鑑賞した学生たちの反応は,悉くヴィヴィッドな言葉で 彩られており,そのリアクションからは,新しいアクションに繋がる道筋ま でもが示唆されている。鑑賞レポートの中から一部を引用しよう。いずれも 2 0 1 0年度に担当した原書で『ハムレット Jを読むクラス「英米文学演習J 履修者(文学部 2年生〕の声である。 「私が知っているシェイクスピア作品には決してない,コミカルさがあり, びっくりするとともに,おもしろく, しかし動きは素晴らしく,魅了されま した。そして,何よりも劇のクオリティの高さが本当に素晴らしかった。と ても同年代の同じ学校の人達が作り上げているとは思えませんでした。今ま で舞台などはつまらないという勝手な闘定観念を持っていましたが,今回み て,その固定観念が全くなくなりました」。さらに「昨年,文化プロジェク トを見なかったことをとても後悔しました。来年の文化プロジェクトはもち ろん,他にも舞台など毒見られる機会があったら,率先して見に行きたい J と結んでいる。普段からミュージカルやオペラを見るという学生も, I シェ イクスピアの喜劇を見るのは初めてで,今までは授業でもずっと悲劇しか見 てこなかったのでどうしでも悲劇のイメージが強かったのですが,今回の劇 でシェイクスピアの戯曲の印象ががらりと変わりました。喜劇と言っても, 本当にこらえられないくらい笑えるなんて思ってもみなかった」と意外性を 口にした。「原作で読んだ時点でボトムの頭がロパになってしまったことな 2 5 9 どちっともおもしろくないと思いましたが,公演で見たときには大笑いして いました」。これは,舞台美術を手掛けたスタッフのセンスと創作力の賜物 であろう。 「あれだけ現代版の翻訳がされていたのにもかかわらず,全くシェイクス ピアという枠から逸脱してしまっていな L、。笑の要素も時事ネタもふんだん に組み込まれているのに良いバランスを保っていることが素晴らし L、。そし てそれを同じ明大生がやっているのですから,二倍三倍にも素晴らしさを感 じてしまいました。役者は無理ですが,何らかの形で次回の文化プロジェク トに関われたら良いとまで思いました」と意欲を示すものもあった。 さらに他学部でも. r この舞台を観ることが,自分の学生生活を見つめ直 す契機となった Jと述べ,次年度には主体的に学内フリーペーパーを作成す る活動に参加し始めた学生もいた。演劇は生ものであり,一時の夢で消えて しまう舞台空間だが,その余韻は聴衆の心に働きかけ,次のアクションを起 動する力にもなる。 今年度担当した英文学演習 c r 夏の夜の夢』を読む)のクラスで,幾つか の映像パージョンを DVDで見較べると,第 5幕の劇中劇に関する限り,明 らかに学生の反応は MSPに対しての方が顕著であった。マイケル・ホフマ ン監督の豪華ハリウッド映画や英国ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー の伝説的舞台版よりも,である。それは何よりも明大生による生舞台の発す るライブ感が有力だったことに加え,戯曲を「読む」という行為から発展さ せ,総合芸術としてシェイクスピア作品を捉え直す契機として,共時性に訴 えるそのアダプテーションが功を奏した証と言えるだろう O このように,英 文学が単なる机上の座学だけにとどまらず,学生たちにとってひとつのリア ルなく体験〉となり得る格好の場を. MSPは提供してくれたことが窺える。 先に引用した浜名は,シェイクスピア作品が今日のインターカルチュラル・ パフォーマンスに適応しやすい理由として,この作家が「多義的で豊富な言 葉を駆使し,複雑な筋を厩開させ,あらゆる階層の興味深い性格の多数の登 場人物を描色無数の解釈に聞かれたテクストを書いた」事を挙げている。 まさに然り。多種多様な方法での上演を許す聞かれたテクストは,今後も学 生たちにとってく現代的な問~,>を投げかけてくれる事だろう。 今ではすっかり明治大学の文化発信の担い手となった MSP 。次年度 1 3回 目を迎える舞台演目は奇しくも「夏の夜の夢』と『ふたりの貴公子』二本立 てである。創作年代も作風もかなり隔たりのあるこの二作品が同時上演され 260 ること自体,摩詞不思議な取り合わせであり,冒険的な試みといえよう。年々 多彩な手法で我々の想像力を刺激しながら,新たな表現活動のフロンティア に向かつて進化を続ける明大生一座。作家の没後 400年という節目の年にあ たるその舞台で,今度はいったいどのような夢と創造性を展開して見せてく れるのだろうか。 注〕戯曲の原文引用は以下に拠る:W i l l i a mS h a k e s p e a r e, A MidsummerNigh内 Dream ,e d . tbyL indaB u c k l e,CambridgeUP,2 0 0 5 . 参考文献,資料 Shepherd,S i m o n .TheCambridgel n t r o d u c t i o nt oModemB r i t i s hT h e a t r e ,Cam0 0 9 . b r i d g eUP,2 第 7回明治大学文化プロジェクト「夏の夜の夢』公演パンフレットおよび上演記録 DVD,2 0 1 0年 1 1月 1 2日-14日. 西尾洋子「オールド・ヴィック劇場一一女性支阻人が育てたコミュニティみ芸術舞 台J英米文化学会編,藤岡阿由来殿修「ロンドンの劇場文化:英国近代演劇史」 0 1 5 . 朝日出版社, 2 浜名恵美『文化と文化をつなぐ一一シェイクスピアから現代アジア演劇まで」筑波 0 1 2 . 大学出版会, 2